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正史『三国志』 十七巻

1 :世界@名無史さん:2010/05/25(火) 22:44:17 0
前スレ
正史『三国志』 十六巻
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1265887671/

2 :世界@名無史さん:2010/05/25(火) 22:49:46 0
なんでたてたんや。こんなもん。

3 :世界@名無史さん:2010/05/25(火) 22:53:59 0
>>1

4 :世界@名無史さん:2010/05/25(火) 22:54:09 0
誰の許しをえてこないもん立てとんのや、おぅ?
ショバ代はらわんかい!

5 :世界@名無史さん:2010/05/25(火) 23:37:46 0
>>1
>>4 つ【董卓小銭】



6 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 02:14:41 0
諸葛亮の第一次北伐で南安・天水・安定の三郡が魏から離反したそうですが
涼州の豪族たちは蜀漢にどんな利を見出して北伐に呼応しようとしたのでしょうか?

7 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 13:47:18 0
司馬朗が12歳の頃になったという「童子郎」とはどのようなものなん
だろうか?教えてくれ。

8 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 15:50:35 0
>>1
よきかな、よきかな

9 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 16:17:50 P
>>7
十六歳未満の学問優秀な人材に与えられる官職。実務は特にない名誉職。
まあ、その後のエリートコースは保証される。

10 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 17:08:47 0
管仲・楽毅にたとえるなら
昭和から平成にかけての人誰だと言えるのでしょうか


11 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 17:24:34 0
>>6

あんまり魏に心服してなかったのでは?
元々は曹操の勢力圏ではなかったしね。

蜀で南方がしばしば反乱するのと同じでは?

12 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 18:49:17 P
>>11
魏はこの方面の守りが手薄だったから、
そこに数万の大軍が押し寄せてくれば、
そりゃ大抵の官吏や豪族は我が身かわいさに蜀に呼応する。
こんな援軍がいつ来るかわからない状況で、
数万の大軍相手に郡県の兵だけで抵抗しようと考えるのは、
よほど骨のある人間じゃないと無理。

魏に心服してるかどうかより、蜀の大軍が怖かっただけの話。

13 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 19:25:49 0
曹真軍は趙雲の囮軍に引っかかってたしな。
すぐに援軍が来そうもないという情勢だった。
馬謖が魏軍を阻止していれば、涼州は蜀が平定してた
かも。




14 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 19:37:08 0
街亭の敗北よりも、隴西で游楚に阻まれたことのほうが敗因として大きかったと聞きましたが
実際のところ、街亭の戦いの敗北は北伐にどのような影響があったのでしょうか?

15 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 19:40:25 P
>>13
涼州刺史の徐邈はまとまった兵力を持っていたようで、
軍を動かして南安の蜀軍を撃破したり、
蜀に呼応した異民族を撃破したりしてる。
馬謖が勝ってても、しばらくは涼州単独で抵抗できる戦力はあったと思われる。
その間に援軍が来るんじゃないかな?

16 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 20:13:25 0
諸葛亮は馬謖が魏軍を阻んでいる間に涼州を平定する
つもりだったのだろう。涼州が平定されたら、拠点を防御しながら
魏軍本隊の疲れを待つという感じでしょう。

17 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 20:34:23 0
泣いて馬謖を斬る
って馬謖に泣いてたんじゃなくて自分に泣いてたのね・・・

18 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 20:39:32 0
いや、出兵前にある程度の地下工作してたでしょ。
撤兵のときに住民をつれていってるし。

19 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 20:44:58 0
>>10
田中角栄でしょ。

20 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 20:48:32 0
>>13>>15
なんか混同しているようだが、隴西・南安・天水・広魏諸郡は雍州ね。
徐バクは涼州刺史・使持節護羌校尉で、北伐直前辺りに赴任した彼が、
長安以西で確認できるおそらく唯一の将帥。
その名の通り、涼州(金城・西平及び河西四郡が属する)に駐留していた。
曹真が東から到来したように、徐バクは北から雍州救援に軍を派遣して、
南安を奪回するなどしたわけ。
この時期が馬謖敗北の前か後かわからないが、
諸葛亮の本隊相手にまともに抗戦できる兵力だったとはまず考えられない。
やはり張コウの迅速な勝利が帰趨を決めたと言うべきだろう。

21 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 20:50:21 P
>>14
街亭は隴右と関中の境目の要衝。三郡降伏で隴右を抑えた諸葛亮が関中に進軍するにしても、
関中からやって来る魏の援軍を抑えて涼州平定に向かうにしても、
絶対に抑えなければならない重要な拠点だった。
街亭を失った時点で、諸葛亮は隴右の確保もこれ以上の進軍もできなくなった。

22 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 20:50:42 0
このスレに街亭の戦略的意義を説明できる人っています?
なんか諸説あってはっきりしないんですが。

23 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 20:53:13 0
つまり綿竹とか潼間みたいなもんすか??
なら、なぜ要塞化しておかないんだろう?
蜀も魏も。

24 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 20:56:24 0
街亭の守備が魏延か呉壱だったら成功したかな?

王平が司令官だったら無事成功していたかも・・・・・・

25 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 21:00:29 0
魏延は積極策の指揮官だから守備なんかしない。逆に押し出してゆくでしょ

26 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 21:02:37 0
なぜ街亭という『点』なのかははっきりしないが、
街亭というのは関中の西の境界である隴山の中ほどに位置した。
三郡を降服させて隴西を切断した諸葛亮は、当然、この隴山を盾に隴西を維持することを
企図したと考えられる。そのための防御地点が街亭となる。
陳倉と天水を結ぶ渭水沿いの街道に最大の要衝の隴関があったはずだが、
その攻防は史書では触れられていない。
或いは、街亭の戦いは、諸葛亮が防御に派遣した諸軍のうちの一つにしかすぎないのかもしれない。

ttp://maps.google.com/maps?f=d&source=s_d&saddr=&daddr=&geocode=&hl=ja&mra=mr&sll=35.047987,106.248779&sspn=2.576655,3.57605&ie=UTF8&ll=34.994004,106.644287&spn=2.578356,3.57605&t=h&z=8
真中を南北に走る山地が隴山。この西が隴西で、東が隴東。宝鶏が陳倉のあった場所。

27 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 21:14:55 P
>>25
魏延は劉備に漢中の守備を命じられてから、
8年間まったく北にちょっかい出さずに、
おとなしく漢中を守ってきた人物だぞ。
街亭をおとなしく守ってろって命令されたら、
命令通り守りに専念しただろ?
魏延ってのは性格には難があっても、命令には忠実だから。

28 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 21:16:21 0
>>26
なるほど。
これを見てわかった。
魏の反撃軍が天水へ入ろうとすれば街亭を通るのが近道だったということだね。
蜀にとっては最前線だったわけだ。
要塞化する時間がなかったのだろうな。



29 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 21:18:45 0
>>27
ということは魏延はもっと重要な任務をしてたってことだろう。
どっかもっと大事なところを守備していたか、住民の搬送とか彼の指揮力でないとできない任務を割り当てられてたんじゃないの?

30 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 21:19:08 0
けど馬謖が街亭でポカしないとして、それほど長期間守っていられるような
兵力も兵站もないような気がするんだけど。
蜀側からは比較的早く街亭に増援を送れるのかな?

31 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 21:20:43 0
街亭で負けてもだよ?
平野部で決戦するという手もあるよな。
まぁ、諸葛亮はいちばちの決戦はしたくなかっただろうけど。

32 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 21:23:40 0
街亭は衢地でもなく兵站の要でもなく。つまり子やぎ達にとってのオオカミが入ってくるのを防ぐ玄関のドアだったわけだね。。

33 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 21:30:53 0
>>30
諸葛亮の本隊は割かし近くにいるので先鋒がしっかり足止めしてくれていれば挟撃なりなんなりできると思う

34 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 21:33:59 0
挟撃できたの?

35 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 21:38:58 0
>>28
いや、よくわからんことに、街亭はその地図の華亭県と庄浪県の中間辺りにある。
隴山という線を守るなら必要な場所とは言えるだろうが、
決して天水までの最短ルートではないし、他の北伐中でもそんな北が係争地になったことはない。
馬謖軍対張コウ軍という単独では、街亭攻防の戦略的意義は説明し切れないと思う。

おそらくは史書に書かれていない部分で諸葛亮、曹真、趙雲らの機動が行われていて、
その中の一つである街亭の勝敗が全体のターニングポイントになった、ということなのだろう。

36 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 21:45:45 0
曹真、趙雲は斜谷で対峙してたじゃん

37 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 21:51:52 0
曹真が他の部隊を西へ派遣していないとは限らないし、
趙雲は「不戒」によって敗れたという。ただ箕谷を守っていたのではない含みがある。
諸葛亮、馬謖、趙雲、曹真、張コウの五点だけでは両軍が隙だらけで
意図が説明できない。
記録に残らない空白の軍事行動があった可能性はあるだろう。

38 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 21:58:48 0
結局、だれも説明できないのな。。

39 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 22:00:43 0
そんなもんだよ。
それ以上の想像はむしろ歴史ではタブーだ。

40 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 22:02:01 0
うん。

41 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 22:06:07 0
「迂回して西に出現し東進する蜀軍と、東から来援し西進する魏軍の
軍事的圧力が衝突する隴山の上に街亭はある」
とりあえずここまで判れば十分でないの。

42 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 22:46:12 0
魏軍に街亭を奪われると
蜀軍の隴西での拠点である天水やキ山が一気に窮地に陥ってしまう
という見解があるのですが、あってるのでしょうか?

43 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 22:54:39 0
ちょいと調べて幾つか補強できる材料は見つかった。
街亭は、右扶風、安定、広魏の三郡の郡境に近い。
街亭から隴山を越えて北東に広がるのが安定郡になる。
この安定郡の領域、二本の山地が作る細い回廊の北に、関中の北の関、蕭関があった
(地図の固原市の辺り)。
また、四次北伐の時期ではあるが、并州の軻比能が進出して北地郡(安定の東)まで
到達して蜀と連携を意図していた。
そして、安定郡は一次北伐で諸葛亮に呼応した三郡の一つに挙げられる。

隴西地域では、南安郡兵が蜀軍と共に隴西郡を襲撃するなどしたが、
隴山の東に位置する安定郡の動きは特に記されていないようだ。
この状況からすると、街亭は、隴西地域の蜀漢郡と安定の連結を維持する要地と看做すことができる。
馬謖・魏延・呉懿という指揮官候補が挙げられ、張コウが邀撃に進出した
理由を史書から見出すとすれば、こんなところになるだろう。

44 :世界@名無史さん:2010/05/27(木) 00:22:19 0
9に言う。そーいう名称(童子郎等その他諸々)の役割が書いてある本とか
あるの?

45 :世界@名無史さん:2010/05/27(木) 00:28:47 0
漢書 後漢書 晋書 漢漢六種 後漢書三国志補表三十種 通典 など。

46 :世界@名無史さん:2010/05/27(木) 15:25:17 P
兗州大反乱の時、兗州全体の留守を預かってた人は誰なんだろう?
荀ケか陳宮か張邈か。反乱後の三城防衛の責任者は荀ケで、
東郡太守の夏侯惇ですら指示に従わせてるが、荀ケが留守を預かってたと考えると、
荀ケは三城以外のすべての郡県が反乱を起こしたのを止められなかった無能ということになる。
陳宮が留守を預かってたと考えると、留守役が反乱の首謀者なのだから、
兗州をほぼ乗っ取れたのも分かるが、陳宮が将軍として本拠地の東郡の守備を委ねられていたことを、
本拠地の守備を任される=留守役と考えるか、単に東郡の守備を任されていただけか判断に迷う。
張邈は「もしものことがあったら張邈を頼るように」と言われてるように、
曹操の後事を委ねられていたが、身分は太守であり、権限は陳留郡以外には及ばない。

張邈を除外するなら、荀ケか陳宮しか考えられないが、
当時の曹操陣営内での地位はおそらく過去の功績からしても、
将軍陳宮>奮武将軍司馬荀ケ。陳宮は兵を帯びて東郡の守備を任されているというのも大きい。
荀ケは程cと同じく留守に残された曹操の部下の一人で、
兗州の留守の最高責任者は陳宮と考えた方が良いのだろうか?

47 :世界@名無史さん:2010/05/27(木) 20:57:27 0
そんなものいないっしょ。
太守の分割統治状態。
張バクなんかを従わせられる人間なんていない。
曹操本人でも怪しいのに。

48 :世界@名無史さん:2010/05/27(木) 21:23:20 0
実質的には荀ケかと。
ただ、叛乱を抑えられなかったから無能とは言い難い。
ゲームじゃないんだから、離れていてもアヤシゲなプログラム的繋がりによって能力により叛乱が抑えられるという物でもない。
野心やら、階層とか地方豪族とかの根本的部分の対立による叛乱だったり、個人の信念による謀反ならどうにもならん。

まぁ、張バクの場合はまず、張バク自身の社会的な格が曹操すら上回っているところに致命的なものがある。
曹操なんぞより張バクという人間は大勢いただろうからどうしようもない。
強いて言うなら信用して放置してた曹操に責任があるが、
そもそも家族すら預け合う親友であったはずなので曹操を責めるのもいかがなものかというものではある。
まぁ、張バクの不義がどうしようもないとしか言い難い。

49 :世界@名無史さん:2010/05/27(木) 22:17:44 0
張バクとの共同統治みたいな形でないとダメだったんじゃないかな
曹操だけだと非協力的な奴とかいそうだし

50 :世界@名無史さん:2010/05/27(木) 22:27:29 0
張バクが不義なのか、隣の州の罪無き人間を殺戮に出かけた曹操が人非人なのか

51 :世界@名無史さん:2010/05/27(木) 22:47:34 0
ちょっと疑問なのですが
曹嵩・(曹真)・孫河・劉封・呂布らは三国時代に養子になったことのある人物ですが
異姓の場合、ほとんど養父側の姓を名乗っています。というか呂布以外。なぜ、呂布は丁布や董布と名乗らなかったのでしょうか?
できたら教えてください。

52 :世界@名無史さん:2010/05/27(木) 23:25:08 0
記憶が正しければ正史には、呂布が丁原の元に養子に入ったという記述は無かったように思います。
董卓については確かに養子となりましたが、当人の理屈としては養子に入ったことが無かったことになったのでしょう。
誅殺でしたので社会的にもなかったことにすることが許されたと思います。

そもそも、中国で養子に入る場合は元の親とは金輪際縁を切ります。
そして養家のみの祖先祭祀を継ぎます。
例えば、曹家に養子に入った曹嵩などは、血縁的には夏侯氏の出自でも、曹一族の子孫であることを名乗り続ける義務が生じます。
何の理由もなく元の姓を名乗ったら不義呼ばわりでしょう。

53 :世界@名無史さん:2010/05/27(木) 23:28:42 0
>>51
「誓為父子」と史料上にも記録が残っている以上、
確かに養父子の関係にあったという前提で言ってみるのだけど、
王允の言、「君自姓呂、本非骨肉」のうち、
「自姓〜」というのは「本来の姓」「元々の姓」という意味合いになるわけで、
自立する以前は「董」姓を名乗ってたんじゃないでしょうか?
後、丁原の養子だったというのは多分、後世の脚色だと思います。

54 :世界@名無史さん:2010/05/27(木) 23:32:07 0
となると、董卓の養子してた頃はトウフって呼ばれてたのかーひややっこ

55 :世界@名無史さん:2010/05/27(木) 23:36:42 0
関寵さんとかの話はやめてあげて

56 :世界@名無史さん:2010/05/27(木) 23:37:05 0
親子と同等の礼や待遇を行うことと、実際に親子になることの間には超えられない壁がある
呂布は前者で、曹嵩などは後者

57 :世界@名無史さん:2010/05/27(木) 23:38:12 0
丁原の件はイメージだったかorz
>>52 なるほど。なかったことになるか。董布は呂布の黒歴史というわけですね。

58 :世界@名無史さん:2010/05/27(木) 23:38:23 0
養子というのは、正式な手続きによって戸籍を移動し、家の相続権を得ること。

董卓と呂布の「誓為父子」は、この時代によく見られた擬似的な血縁関係の交結ということになるだろう。
親密な師弟、君臣や侠客の保護・被護関係は、親子・兄弟の関係に擬えられた。
といって、その全てが養子になったわけではない。
創作された時代はかなり異なるが、桃園で義兄弟の契りを結んだからといって
戸籍が変わるわけでも劉羽・劉飛になるわけでもないのと同じ。といえばわかりやすいか。

59 :世界@名無史さん:2010/05/27(木) 23:59:51 0
>>58
つまり義兄弟ならぬ義親子という精神的な親子関係だったと。養子という単語にとらわれて視野が狭くしてしまったか。

ところで、岳父・娘婿の関係だと姓は変わりませんけど祖先祭祀は誰がやってくれるのでしょうか?

60 :世界@名無史さん:2010/05/28(金) 00:07:05 0
>岳父・娘婿の関係だと
どういう意味だかよくわからないけど、岳父さんの長男では駄目なの?

61 :世界@名無史さん:2010/05/28(金) 00:18:26 0
そでした・・・
なんで他の血族みんな死んでるって仮定したんだろうおれの頭・・・

ちょっと違う例ですけど蔡邕の宗門(?)を絶やさないために曹操が蔡琰を董祀に嫁がせたってことがありましたよね。
この場合はもしかして董祀は結婚後は蔡禧とか名乗っていたのでしょうか。

62 :世界@名無史さん:2010/05/28(金) 00:19:47 0
↑蔡禧じゃなくて董祀でした

63 :世界@名無史さん:2010/05/28(金) 00:20:47 0
二重ミス・・・死にたい・・・蔡祀と言いたかった

64 :世界@名無史さん:2010/05/28(金) 00:21:42 0
>>61
なんで「嫁がせた」のに旦那が蔡を名乗らねばならんのだ。

65 :世界@名無史さん:2010/05/28(金) 00:33:23 0
そ、それじゃ蔡家の祖先祭祀とかは・・・?

それとも、蔡を名乗らなくても蔡家の行事を董祀がやっているのだろうか?

66 :世界@名無史さん:2010/05/28(金) 00:50:59 0
孫(蔡琰の子)を蔡氏と名乗らせるんじゃない?
生まれたらの話だが
外孫、外甥を後継ぎに迎えることは当時はしばしば行われてたみたい
陳矯とか朱然とかそれだよね

67 :世界@名無史さん:2010/05/28(金) 01:02:07 0
それが一番しっくりくるね。


68 :世界@名無史さん:2010/05/28(金) 09:48:46 0
狐が馬に、篤が忠に

69 :世界@名無史さん:2010/05/28(金) 15:09:29 P
馬忠かこいつも謎の多い人物だな。なんで母の家で養われていた時、
孤篤で後に馬忠と改名したのかとか、
漢中の蔣琬に詔勅を伝えて帰った時になぜ鎮南将軍に昇進したのかとか、
費禕が魏の攻撃を防いでいる王平の援軍に向かった時、
なぜ尚書令董允じゃなくて、南中にいた馬忠がわざわざ成都に呼び戻されて、
尚書の仕事を取り仕切ったのかとか。

戦も事務も統治もできる万能選手で、国政を臨時とはいえ取り仕切る器量もあったのに、
鎮南将軍で終わったのが惜しい人物だ。もう少し長生きして費禕が死ぬまで生きてれば、
姜維の代わりに大将軍になる目もあったんだろうか?

70 :世界@名無史さん:2010/05/28(金) 19:58:25 0
漢代って地方の軍って徴兵制だったの募兵制だったの?

71 :世界@名無史さん:2010/05/28(金) 20:07:13 P
>>70
後漢は基本的に募兵制。郡県の兵は常募といって、
終身雇用の募集兵だった。

72 :世界@名無史さん:2010/05/28(金) 20:18:23 0
即レスサンクス。
記述としては何に書いてあるの?

73 :世界@名無史さん:2010/05/28(金) 20:37:27 P
>>72
後漢書のあちこち。徴兵制による郡県の兵を廃止して、
募兵で郡県を守るようになったというのは、
光武帝紀から始まり、さまざまな皇帝の本紀や人物の列伝を見ていって分かる、
後漢の兵制の変遷を追って行かないと分からない。

74 :世界@名無史さん:2010/05/28(金) 20:52:32 0
じゃあ、前漢=徴兵、後漢=募兵ということなの?

75 :世界@名無史さん:2010/05/28(金) 21:10:16 0
前漢は徴兵制の国民皆兵だね。
後漢は初期はおおよそ募兵のみ、それ以降は、募兵軍を基礎に、
手に負えなくなりそうな叛乱や侵攻の時だけ臨時徴兵との併用みたいな感じかな。

どちらも異民族騎兵等も併用している。
異民族騎兵は敗残した奴隷兵と傭兵と冊封軍みたいな例との混在で最後のが一番数的には多い感じ。
まぁ、遊牧騎兵の奴隷兵が数多かったら手に負えんわな。

76 :世界@名無史さん:2010/05/28(金) 21:11:01 P
>>74
前漢は当初は徴兵制、途中から徴兵制と募兵制の併用。
後漢はほぼ募兵制。

77 :世界@名無史さん:2010/05/28(金) 21:34:26 0
漢代兵制の研究者って誰がいますか?

78 :世界@名無史さん:2010/05/29(土) 03:47:54 0
>>37

「不戒」とな何?

79 :世界@名無史さん:2010/05/29(土) 07:06:26 0
>>69

馬忠は鎮南大将軍。
蜀では普通の鎮南将軍とは違う。
将軍位では上には大将軍・票騎将軍・車騎将軍・衛将軍くらいしかない。
輔国大将軍や鎮軍大将軍は位も下だし、兵権もないと思われる。

将軍位としては姜維・王平と同等。上には費禕とケ芝くらいしかいない。
かなりの重鎮だったことがわかる。それと、大将軍費禕が不在の尚書の
仕事代行は、単なる事務職ではなく、不測の事態に備えた首都防衛隊の
指揮と軍需物資を漢中に補給の統括という意味もあったのだろう。

80 :世界@名無史さん:2010/05/29(土) 15:12:30 P
>>79
馬忠伝読み直してみたら、確かに鎮南大将軍だった。
すまん。それにしても安南将軍から鎮南大将軍って、
凄い駆け足飛びの昇進だな。
軍功や年功じゃなくて、漢中の蔣琬に詔勅を伝えてきただけで、
ここまで昇進したのはなぜだろう?
これまでの功績のわりに官位が低かったから、
この際官位を功績にふさわしいものに上げようとしたのか、
それとも漢中の蔣琬に詔勅を伝えると言うのがよほど重要な意味を持つのか。
歴代の庲降都督で、庲降都督に在任しながら中央政界絡みの活動もしたのって
及ぼした人物って馬忠しかいないよね。
馬忠はあらゆる意味で歴代の庲降都督の中では、破格の高い人物だったんだろうな。

81 :世界@名無史さん:2010/05/29(土) 17:24:35 0
>>80

官位は年齢やその時の全体のバランスがあるので、同じ官位でも
実権が時代によって違う。馬忠が鎮南大将軍になった時期数年は
姜維が鎮西大将軍、ケ芝が車騎将軍、費禕が大将軍になって、実質
蔣琬から政権が費禕に移っている。董允も輔国将軍・侍中守尚書令
になっている。

蔣琬伝を読むと、遠征計画が群臣に反対されたのは確かだが、まだ
計画段階で蔣琬自身の病気も関係あるようだ。曹爽の蜀侵攻時も蔣琬
の動きは不明。おそらく政務に携われない程の重病だったと考えられる。
だから243年に費禕が大将軍に昇進した。

おそらく、馬忠の昇進は、病気で政務に支障が出てきた蔣琬に代わり、
費禕政権の発足の第一段階だったのではないだろうか。姜維等の昇進も
それに付随した動きだろう。費禕が全体の責任者で、董允が朝廷・内政、
王平が北方、馬忠が南方、ケ芝東方、姜維が中央軍という役割分担の発足
だったのではないだろうか?

82 :世界@名無史さん:2010/05/30(日) 12:51:58 0
呉壱・馬忠・王平・張嶷は蜀の名将なのに、
『三国志演義』では雑魚扱いだよね。まあ、魏や呉の名将の扱いは
もっと酷いものがあるけどね。

話は変わるけど、張嶷は見識・戦功とも凄いのに、雑号将軍にしか
なれなかったのは寒門出身だから?

計算すると、張嶷の没年齢は享年60数歳くらいなんだよね。
年齢が若いから官位が低かったという訳ではなさそう。もっとも宗預
あたりも後将軍になったのが60歳過ぎだから、そんなに出世してない
という訳でもないのかな?

83 :世界@名無史さん:2010/05/30(日) 15:08:40 P
>>82
20歳で県の功曹になってるから、そんな寒門の生まれでは無い。
そこそこの家柄。若い頃重病になって何年も療養していたのと、
越巂太守を十五年もやっていたのが、昇進の遅れた原因と思われる。
越巂太守は要職だけど、出世コースでは無いからね。
あと、諸葛亮から蔣琬・費禕に連なる政権中枢に人脈が無かったのも大きい。
蜀で高位に昇ったのは、大抵この人脈とつながりのある人間だから。

まあ、郡太守を長く勤めて最後は盪寇将軍という格式の高い将軍号を得て、
関内侯に封じられてるから、そこそこ出世した方かな?

地方勤務ばかりで諸葛亮・蔣琬・費禕の幕府や中央で仕事したことのない張嶷が、
劉備入蜀以前からの実力者で外戚の呉懿や、
政権中枢とつながりの深い馬忠・王平より官位が低くなるのは仕方ない。

84 :世界@名無史さん:2010/05/30(日) 15:53:40 0
盪寇将軍は格式高いの?
単なる雑号将軍だと思ってた。

85 :世界@名無史さん:2010/05/30(日) 17:02:54 0
ただの将軍でも序列なら太守と同等かより高い
諸葛亮死後なら、これだけでトップ10くらいには入る高官

86 :世界@名無史さん:2010/05/30(日) 20:07:59 P
>>85
上に鎮軍将軍や輔国将軍や輔漢将軍や安漢将軍などの特別な雑号将軍や、
四征四鎮将軍や四方将軍や諸大将軍がいるのに、
ただの将軍クラスでトップ10には入れないだろ。
蜀には立伝されてない高位の将軍が多くいるからな。
張嶷はせいぜい有力な将軍の一人といったところだろ。

87 :世界@名無史さん:2010/05/30(日) 21:03:09 0
張嶷伝を読むと、
中原で思いっきり働き、敵地で一身を捧げたいと
姜維の北伐に参加を願い出ている。
まあ、南方は張嶷より上位の将軍が常にいたし、
南方はメジャーでないという思いも感じられる記述だ。
最後に北伐で一花咲かせると言った感じかな?

88 :世界@名無史さん:2010/05/30(日) 21:18:46 0
呉懿の伝記が作れなかったのは不思議だよ。
戦功もあり、外戚でもあった高位の将軍が事跡が伝わってないとは
どういうことだろう?

89 :世界@名無史さん:2010/05/30(日) 21:34:53 P
>>87
越巂太守在任中もたびたび中央への召還を願い出てたから、
南方での仕事は自分のやりたい仕事ではないと思ってたのかも知れん。
北伐に従軍を願い出た時には、既に重病だったから、
最後は武人らしく戦場で死にたかったのかもね。

>>88
蜀には驃騎将軍や車騎将軍だったのに伝記が作られなかった人物すら何人もいるから、
徹底的に資料が少なかったんだろ?蜀の主要な将軍はほとんど事跡が伝わってないから。
立伝されてる魏延ですら、評価のわりに実は具体的な戦功の記録は少ない。

90 :世界@名無史さん:2010/05/30(日) 22:28:27 0
>>89

趙雲、魏延は具体的な戦功の記述は少ないよな。
趙雲に関しては別伝が主体だしね。黄忠は夏候淵を討ち取ったことが
解るのだが、それ以前の活躍や人物像がつかめない。魏側の資料に
よって伝記を作った感じがする。

馬忠、王平、張嶷、ケ芝は陳寿が物心ついた時にも存命であり、
その事跡を資料を集めなくても、自分が知っていたから比較的詳細だったの
だろう。

91 :世界@名無史さん:2010/05/31(月) 05:07:39 0
>>86
いない。将軍は本来常置職ではなく、諸葛亮死後は将軍号の数自体減少している。
諸鎮は大を加えながら三方を抑える要職となるが、諸征は征西以外姿を消す。
安漢は李恢までしか見られず、輔漢は姜維が、輔国は董允が数年間なっただけ。
驃騎・車騎はやっと最晩年に見られる。
蜀漢で、一貫して置かれ続けた将軍は大将軍、 諸鎮(大)将軍、鎮軍将軍くらい。

92 :世界@名無史さん:2010/05/31(月) 16:01:22 P
>>91
諸葛亮が李厳を弾劾する上奏文の中には、
そこでしか名前の出てこない高位の将軍が名を連ねていたし、
それ以降の時代も季漢輔臣賛や華陽国志にしか名前の出てこない武将が大勢いる。
その他、高位の将軍であったらしいことしか分からない名前だけ出てる人物が結構いる。
あと、安漢は王平が、輔漢は孟琰が就任してる。
四方将軍には輔匡が右将軍、劉邕が後将軍に就任。宗預が後将軍に就任。
向朗が左将軍に就任。句扶が右将軍に就任。郭循が左将軍に就任。
いずれも史書の時系列から考えて、諸葛亮死後の人事。
大将軍、諸大将軍。四鎮将軍、鎮軍将軍以外の将軍も、
諸葛亮死後も任命されていた。蜀は立伝されている諸葛亮期以降の
武官が少ないため、将軍が減ったように見えるだけ。

93 :世界@名無史さん:2010/05/31(月) 18:48:01 0
それ全部考えても、同時に就任している人数は一桁だよ。
諸葛亮死後は、大将軍、中央を守る四方や鎮軍、、方面司令格の鎮東・北・南将軍、それからその他少し(ここに張嶷が入る)で
軍部が構成されている。
方面司令の下位にいたのは皆牙門将や護軍、監軍で、彼らによって各拠点が運用されている形。
多数の最高幹部に将軍位という箔を与えていた漢中王劉備や丞相諸葛亮時代と違って、
劉禅の中央集権による官僚体制の正常化が進んでいる。

94 :世界@名無史さん:2010/05/31(月) 19:31:17 P
>>93
蜀における護軍・監軍・領軍と雑号将軍の上下がいまいちわからないんだよね。
護軍・監軍と将軍の両方を兼ねてる人間もいれば、
護軍だけやってる人間や監軍だけやってるにんげんや将軍だけやってる人間もいる。
史書を見る限りでは護軍も監軍も領軍も雑号将軍もそんなに格が違わないような気がする。

95 :世界@名無史さん:2010/05/31(月) 20:13:11 0
漢では護軍系の最高官(というか基本的にこれ一つだけど)の中護軍でさえ比二千。
護軍や監軍は、将軍のようなトップダウンの統帥系統を持つ者ではなく、
刺史や司隸校尉のように現場の多数の実務屋を督察する者だから、階級自体は高くない、というか高いと都合が悪い。
中華で監察の制度が発達したのは、現場の高官一人に集権して軍閥化することを防ぐためだから。
もっとも、後漢末の戦乱が激化すると各陣営そんなことを言ってはいられなくなるが、
一人の人間に地方や重要拠点での権限を集中させる場合には、三国とも主に督・都督を使っている(時々州牧など)。

96 :世界@名無史さん:2010/05/31(月) 20:19:05 0
中護軍が比二千石ってどこに書いてあるの?

97 :世界@名無史さん:2010/05/31(月) 20:22:01 P
でも、三国時代もだいぶ経ってくると、護軍や監軍が軍を直接指揮したり、
城を守ったりする例もあるから、監察官としての性格はだいぶ薄れてて、
護軍と監軍と将軍の違いが良く分からないんだ。
ぶっちゃけみんな実戦指揮官じゃないかと。
督や都督の下に護軍と監軍と将軍がいて、
みんなで軍を率いたり城を守ったりしてるイメージ。

98 :世界@名無史さん:2010/05/31(月) 20:28:42 0
後漢書輿服志の注に光武帝の主な官職を羅列して

大長秋、將作大匠、度遼諸將軍、郡太守、國傅相皆秩二千石,
校尉、中郎將、諸郡都尉、諸國行相、中尉、内史、中護軍、司直秩皆二千石,

ある。ここでは二千石とあるが、上の大長秋、將作大匠等はすべて二千石の官、
校尉、中郎將、諸郡都尉、丞相司直などは比二千石の官なので、
下段は「比」の脱字ということになる。

99 :世界@名無史さん:2010/05/31(月) 20:44:46 0
>>97
それは、漢代の刺史でもあったこと。
刺史は本任では太守の観察する六百石の官に過ぎないが、
叛乱が大規模化するような緊急事態では複数の太守を率いて討伐した。それでも席次は太守の下。
御史中丞や侍御史も同じように太守を統率したことがあるし、中郎将が将軍を束ねたこともある。
朝廷からの派遣という性格によって、地方の高官を制御するという席次の逆転が起きるのは珍しくない。
護軍がそういう性格のものだったことは、趙儼、郭淮、黄権などの人選や経歴から判断できる。

将軍・中郎将・校尉・牙門将などはある「部隊」の指揮権を持つ。
護軍は一定の地域の複数の指揮官を督察する権限を持つ。
都督は一定の地域の複数の指揮官を統帥する権限を持つ。

という棲み分け。断定はできないが、都督と護軍の管轄圏は基本的に重複しないはず。

100 :世界@名無史さん:2010/05/31(月) 20:56:02 0
劉備が臨終間際で、劉禅が無能なら諸葛亮が帝位に就け、みたいなこと言ったのって
正史で言ったことなの?本当ならこれヤバくね?漢王朝の復興を目的としてるのに、
劉性じゃない奴に帝位明け渡したら、魏と同じように見られちゃうんじゃないの?
しかも劉備が帝位について間もないのに。劉備は大敗して精神がイッちゃったんだろか。

孔明がこんな話に乗らなくて良かったよ。ホントに。

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