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【ジンギス】チンギス・ハン、ハーン【カン】

1 :哀れな羊:2009/03/09(月) 23:12:39 0
蒼い狼と白い女鹿の子孫であるチンギスハンについて語ろう!
史上世界最大の帝国、モンゴル帝国を彼はどのようにして築いたか
世界史板の諸君と語り合おう

2 :ν北米院 ◆UMScDfF8eM :2009/03/09(月) 23:21:59 0
>>2ならウンコ喰う

3 :世界@名無史さん:2009/03/09(月) 23:24:06 0
【草原の覇者】 ティムール 【ジンギスカンの再来】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1217088124/

4 :世界@名無史さん:2009/03/09(月) 23:33:22 0
日本には、源義経がチンギス・ハーンになったという伝説がある

他の国・地域にはジンギスカンの正体は○○だった!という伝説はあるのだろうか?

5 :世界@名無史さん:2009/03/09(月) 23:49:48 0
重複では?

【上天】モンゴル帝国史総合スレ【眷命】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1165431835/

6 :世界@名無史さん:2009/03/10(火) 00:03:50 0
>>4
ちょうせゲフンゲフン

7 :世界@名無史さん:2009/03/10(火) 00:07:30 0
>>4
興味ある話だ。
朝鮮は当然あるよ。キリストや天皇や始皇帝ですら韓国人と言ってるのだから。


8 :世界@名無史さん:2009/03/10(火) 00:17:25 0
世界征服者なのにチンギスのキャラクターはさっぱり分からん。
どんな逸話見ても、有能な騎馬民族の王のテンプレート以外の何者でもない。

9 :世界@名無史さん:2009/03/10(火) 00:23:20 0
>>8
確かにそうだ。
ジャムカやトオリル・ハンが仮にモンゴル高原を統一してたら世界帝国になれたのか
それともチンギスハンだけは稀有な才能を持っていて彼だからこそ
版図が限りなく広がったのかも興味が尽きない。

10 :世界@名無史さん:2009/03/10(火) 05:36:24 0
ヘーライター ホーライター ヘーライター イニャムニャ

11 :世界@名無史さん:2009/03/10(火) 18:47:06 0
ジン ジン ジンギスカン♪

12 :世界@名無史さん:2009/03/10(火) 18:51:24 0
ア〜ビバ〜アメリカ〜♪

13 :世界@名無史さん:2009/03/10(火) 22:38:33 O
ウ!ハッ!ウ!ハッ!

14 :世界@名無史さん:2009/03/11(水) 00:21:11 O
>>10-13
その歌、ガキん頃は「ジンギスカン鍋うめぇwwwww」
ってみんなでラム肉パーティーしてる歌だと思ってたw

15 :世界@名無史さん:2009/03/11(水) 02:19:57 0
>>2
>>2
>>2
>>2

16 :世界@名無史さん:2009/03/11(水) 02:26:32 0
>>10>>11>>12>>13
【林間学校】ジンギスカン【フォークダンス】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/natsumeloe/1076142689/
ジンギスカンの右端の人と苦難を乗り越えるスレ
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/natsumeloe/1139173795/


17 :世界@名無史さん:2009/03/11(水) 04:13:47 0
彡ミミミ、
(; ゚ д゚) ウッ
彡ミミミ、
(; ゚ Д゚) ハッ
彡ミミミ、
(; ゚ д゚) ウッ
彡ミミミ、
(; ゚ Д゚) ハッ


18 :世界@名無史さん:2009/03/11(水) 23:39:11 0
 ∧ ∧
(*‘ω‘ *)  ちんぽっぽハーン
 (   )
  v v    
        ぼいんっ
   川
 ( (  ) )


19 :世界@名無史さん:2009/03/12(木) 05:57:45 0
>>14
歌詞はドイツ語だから翻訳読まないと何を歌っているのかわからないんだよね。
発音も難しくて歌いにくい。オーウムラウトとか口が疲れる。

20 :世界@名無史さん:2009/03/12(木) 18:22:01 0
チンギスハンは世界一いいいぃぃぃぃぃぃ!

21 :世界@名無史さん:2009/03/12(木) 23:58:55 O
顔が朝青龍。

22 :世界@名無史さん:2009/03/13(金) 09:51:48 0
チンギスチャン

23 :世界@名無史さん:2009/03/13(金) 11:02:30 0
>>19
原詩見るとベリーズ工房のカバー歌詞がいかに
ゴミクソかってことがわかるんだよなw

24 :世界@名無史さん:2009/03/13(金) 23:38:04 0
>>2
食え

25 :世界@名無史さん:2009/03/13(金) 23:46:37 O
>>23
カバー歌詞についてkwsk

26 :世界@名無史さん:2009/03/14(土) 04:15:53 0
>>23
カバー歌詞最悪だった。
あんなのでよくレコード会社がOKしたものだ。

…ちょっと待て。ポップススレになってしまっていないか?

27 :世界@名無史さん:2009/03/14(土) 12:48:02 0
チンギス・ハンって人類で最も多くの遺伝子をバラマイタ人だと認定されてるそうだけど
よく考えたらアフリカの原人の方が確実に多くの遺伝子をばらまいてるはずなんだよね。
名前が知られてる人の中で最も子孫が多いという事だろうか?
日本だったら、多分、天皇陛下(継体天皇)あたりで
中国だったら劉邦とかになるのかね。

28 :世界@名無史さん:2009/03/14(土) 13:09:57 O
>>23
ググってみたw酷すぎるなんてレベルじゃねーw
何がヘイブラザーホイブラザーだよw

29 :世界@名無史さん:2009/03/16(月) 10:22:12 O
敵対相手をジェノサイドしたが、日本時代も騎馬隊で崖を下り背後から不意討ち

イベントで射的を誉め称えた敵兵を射殺させる


海戦では非戦闘員の船の漕ぎ手を射殺させる


結構、酷い事してるなw


兄に裏切られ狡さ残酷さに磨きがかかったか?


30 :おっぱい:2009/03/16(月) 10:48:42 0
おっぱいについてかたりましょうよーーーーーーーー!!!


乳りんのでかさっていりますよねwwwwwwwwwwww


乳首を吸うようになめてあげるとよろこびますよ


31 :世界@名無史さん:2009/03/16(月) 10:49:07 0
>>27
劉邦はそんなやってるヒマなかっただろ
司馬炎あたりじゃね

32 :おっぱい:2009/03/16(月) 10:50:28 0
劉邦は女のけつまんこをなめまわしたそうですよ


33 :おっぱい:2009/03/16(月) 10:51:05 0
あなた、、、、、、、、欲しがりますねw

34 :おっぱい:2009/03/16(月) 10:52:10 0
おぱーい星人でておーいでー


35 :オパーイ星人:2009/03/16(月) 10:53:39 0
おぱーーーい


36 :おっぱい:2009/03/16(月) 10:54:29 0
出たな!!!オパーイ星人!!www


早速だがおっぱいを見せてくれ

37 :オパーイ星人:2009/03/16(月) 10:55:31 0
あなた、、、、、、、、欲しがりますねw


38 :オパーイ星人:2009/03/16(月) 10:56:49 0
おっぱいわ足立 竜です(笑)「

39 :世界@名無史さん:2009/03/16(月) 21:33:58 0
>>27>>31
継体天皇ならチンギスハンにも匹敵しそうな感じがする。
司馬氏は五胡と劉裕に殆んど死滅せられたんじゃないかな。

40 :世界@名無史さん:2009/05/17(日) 20:57:26 0
【社会】「チンギス・ハン」はどの国出身の人? 韓国・中国・モンゴルで大論争  オンラインゲームめぐり、三つ巴の“国際問題”に発展★8

http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1242537226/

41 :世界@名無史さん:2009/06/20(土) 19:08:32 O
>>7
日本の有名人を韓国人に認定したがるのは植民地支配された悔しさの為です。

42 :世界@名無史さん:2009/06/20(土) 19:33:12 0
ヨーロッパをぶちのめし、ヨーロッパ文化をアジアに取り入れ、
そして子供を作りまくった絶倫モンゴル人というイメージがあります><

43 :世界@名無史さん:2009/06/21(日) 00:35:54 0
>ヨーロッパ文化をアジアに取り入れ、

はあ? 当時のヨーロッパに取り入れるほどの文化ありましたっけ

44 :世界@名無史さん:2009/06/21(日) 03:59:14 0
まあ、ともかく、モンゴルもう一度頑張って中国を征服してくれ。

45 :世界@名無史さん:2009/06/21(日) 04:40:15 0
>>42
ヨーロッパ文化というかイスラム文化が取り入れられたな
数学や天文学が中国に伝わった

46 :世界@名無史さん:2009/06/22(月) 16:08:20 0
>>44 無理だろ

47 :世界@名無史さん:2009/06/22(月) 16:20:10 O
>>40
モンゴルと、百歩譲って中国まではわかる。

…韓…国?
義経説みたいな、大昔ですら一瞬で否定されたトンデモ説をまさか国際問題が起こるレベルでやらかしたのか?

48 :世界@名無史さん:2009/06/25(木) 17:23:40 0
せめてフビライを韓国出身ぐらいにしとけば良かったの
属国だし一応朝鮮の君主にもなるよな?

49 :世界@名無史さん:2009/06/28(日) 14:30:15 0
史上最大の虐殺者と言ってもよいだろう。
だからと言って非難する気は毛頭ないが。
中央アジアのコーカソイド人口を大きく減らしたということはある。

50 :世界@名無史さん:2009/06/28(日) 20:37:28 0
>>49
もう既にその頃はコーカソイドなんて殆どいない
チンギスが倒したのはテュルク系国家ばかりだったろ、むしろフレグやバトゥだろ
まぁモンゴル帝国が一番殺したのは中国人だがw

51 :世界@名無史さん:2009/06/28(日) 21:02:28 0
モンゴルは寧ろコーカソイドのイラン系を優遇し、同じアジアである漢族は虐待していた。
儒教の教条主義が実際的なモンゴルの価値観に合わない一方で、
当時のイスラムの数学や天文学の高度に惹かれ、モンゴルの高官は
イスラム系の学者や商人が占めた。ユダヤ系も一部いた。


52 :世界@名無史さん:2009/06/29(月) 11:54:01 0
>>51
まあ、その当時はモンゴロイドだのコーカソイドだの、そんな概念なんてなくて、
ただ単にモンゴルにとって「使えるやつ」は重用して、「邪魔なやつ」は虐めた。
そんな感じじゃないの?

53 :世界@名無史さん:2009/06/30(火) 19:56:59 0
>>50
> もう既にその頃はコーカソイドなんて殆どいない

そうなの?
ていうか中央アジアのテュルク系って非コーカソイドなの?

54 :世界@名無史さん:2009/06/30(火) 21:28:18 0
>>53
もうすでに突厥やらセルジュークやらテュルク系の遊牧国家があの辺に進出して殆どの住人は混血化してるだろう
中東辺りはコーカソイド系だが中央アジアなんて殆ど雑種

55 :世界@名無史さん:2009/07/14(火) 05:51:34 0
誰かバラしてやれよ。
所詮自暴自棄の努力に精出してる変質者で
そんなに面白い奴じゃないって。

こんなありきたりな駄スレは廃棄して俺のスレに来てね(^^)↓
【鬼】怪 物 論
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/min/1246347094/

56 :世界@名無史さん:2009/07/14(火) 10:10:36 0
皆殺しになったのは金の華北の女真人か。

57 :世界@名無史さん:2009/07/15(水) 14:18:38 0
チンギス=ハンなんか、まともな国民とはまったく戦争しないで、逃げ回ってばかりじゃん。
さすが、遊牧民。

子孫たちが世界中にちらばり、ヨーロピアンに虐殺されまくり、人口が激減して現在にいたるわけだが、
そんなことも予想できなかったのかね。
さすが、遊牧民。
絶滅の種族。

58 :世界@名無史さん:2009/07/15(水) 21:29:39 0
取り敢えずドーソンくらい嫁

59 :世界@名無史さん:2009/08/11(火) 17:57:30 0
http://www.youtube.com/watch?v=lII9bTqxTk8
http://www.youtube.com/watch?v=NC-aURLPQW4
http://www.youtube.com/watch?v=oxOh0_JCt60

60 :世界@名無史さん:2009/08/11(火) 19:19:01 0
http://www.youtube.com/watch?v=VFD2iqnoOik
http://www.youtube.com/watch?v=BY_YM4JESyk
http://www.youtube.com/watch?v=vk97S7OEkNM

61 :世界@名無史さん:2009/08/29(土) 17:54:30 0
モンゴルよ、もう一度立て!
中国人を皆殺しにしろ!

62 :世界@名無史さん:2009/09/20(日) 00:32:22 0
カサル・ベルクタイ・カチウン・テムゲ
コーエーのゲームで覚えたw

63 :世界@名無史さん:2009/09/28(月) 19:38:40 0
チンギスハン墓は四川に? 末裔証言、中国も調査開始

 【北京共同】世界史上の大きな謎となっている、13世紀にモンゴル帝国を築いたチンギスハン
の陵墓の所在について、末裔とされる中国大連在住の女性が「陵墓が四川省カンゼ・チベット族
自治州にある」と民間の歴史研究者に証言、現地調査でも証言と一致する洞窟が確認された
ことが28日までに分かった。

 北京在住の研究者、テムチラさん(54)によると、証言したのはチンギスハンの34代末裔と
されるモンゴル族女性、ウユンチチガさん(80)。陵墓の場所は口頭で先祖代々伝承され、
4年に1度は身内だけでお参りを続けてきたという。
http://www.47news.jp/CN/200909/CN2009092801000492.html

64 :世界@名無史さん:2009/09/28(月) 20:13:23 0
単なる廟の一つじゃねえの?


65 :世界@名無史さん:2009/09/28(月) 20:19:54 0
結局のところ娼婦に関する記録って、金持ちが
「大枚はたいて有名な誰それを買ったぜ」的な自慢話か、
そういう華やかな話に憧れる庶民用のでっちあげかだからな
場末のソープ嬢の生活に関心をもつのは暇な現代人であればこそ


66 :世界@名無史さん:2009/09/28(月) 21:06:01 0
誤爆か!

67 :世界@名無史さん:2009/10/01(木) 21:05:04 0
チンギスハンとアレクサンドロス大王が戦ったらどっちが勝つだろ?
同じ兵力、それぞれ当時の武装で戦ったとして。

68 :世界@名無史さん:2009/10/01(木) 21:13:09 0
騎馬民族の戦闘力舐めんなよ

69 :世界@名無史さん:2009/10/01(木) 21:38:04 0

比較することに意味がない。
アレクサンドロスは、欧米人にとっては大英雄。
だからアレクサンドロスの名前も逸話も、永遠に語り継がれる。

だが、チンギス=ハーンだのキプチャクだのは、野良犬の大群でしかない。
だからハーンの帝国はヨーロピアンにメチャクチャに破壊され、モンゴル人は根絶された。
14世紀に原っぱで走り回っていた連中の記録など、仔細にはまったく残っていないし、発掘する意味もない。

70 :世界@名無史さん:2009/10/01(木) 22:16:59 0
>>69
アレクサンドロスの帝国もローマとパルティアに滅ぼされてるじゃん

71 :世界@名無史さん:2009/10/01(木) 22:34:14 0
>>69
> だからハーンの帝国はヨーロピアンにメチャクチャに破壊され、モンゴル人は根絶された。
> 14世紀に原っぱで走り回っていた連中の記録など、仔細にはまったく残っていないし、発掘する意味もない。
よくここまで事実と違う出鱈目が書けるもんだ。羞恥心ってある?

72 :世界@名無史さん:2009/10/02(金) 01:12:01 0
モンゴル帝国って本当にあったの?
全部でたらめだとしても頷ける

73 :ty270410:2009/10/02(金) 20:50:42 0
普通の日本人がいかにアジアやイスラム圏の歴史に疎いのかが端的にわかる.
最近のゲームのブームもこれに拍車をかけているかも知れない.

74 :世界@名無史さん:2009/10/02(金) 21:51:01 0
>>72
鎌倉時代に九州に攻めてきたのは高麗と、どこの国なんや〜?

75 :世界@名無史さん:2009/10/04(日) 23:26:27 0
チンギス・カンの孫の世代にもなると、アレクサンドロスの事蹟についても
モンゴル人の間でかなり知られるようになってたんだけどね。(勿論ムスリム経由で)
無論、北元以降だとモンゴル高原では文化的にはチベット仏教が優勢になるせいで
資料上の関係もあってモンゴル王侯の事蹟であまりアレクサンドロス云々については
文献に出て来なくなるけど。
(甘粛とか新彊あたりのムスリムのモンゴル王侯だったら知っていたかも知れないが)

>>73
歴史書もその手の概説書もちゃんと読んだ事のない連中が、ネットだけとかゲームの
解説書からだけの知識で作り上げた、貧弱なただ妄想程度で知った気になってしまうから
モンゴル帝国の基本的な知識も現在の研究動向も知らずに駄弁を振るうようになって
しまっているのだろう。
中英板が出来てあちらに人が流れた所為で、今の歴史板に東洋史関係のレスもスレも
めっきり減ってしまったのもあるんだろうけど。

>>69はモンゴル帝国の王侯はたいてい「建築物を作るのに熱心だった」とか記録されて
いたり、14世紀にはモンゴル王侯が関わって印刷や書写された書籍が現在もかなりの
数残っている、なんて話しも知らないのだろう。

とりあえず、煽り無しでチンギス・カンとかモンゴル帝国についてこのスレに書き込み
たければ、せめて岩村忍『モンゴル帝国と西洋』とか本田実信『イスラム世界の発展』とか
山田信夫『草原とオアシス』みたいな極々初歩的な概説書を読んでからにすべき。

一応、杉山せんせの著書があるけど、せめて↑この三著を読んでおかないとあの独特の
文体にやられて、内容の肝について読み落とす可能性が高い。
愛宕松男『モンゴルと大明帝国』もあるけど、「モンゴル至上主義」とか今はどの研究者も
問題にしていない「民族主義的観点」からのアプローチが鼻に付いて、モンゴル帝国の実像
からは大分乖離しているし、もはや現在の研究水準からは使えないレベル。
少なくとも、「色目人」などで現在では否定されている論説が展開しているので、1から
モンゴル帝国について知ろうとなると、やはり使えない。

76 :世界@名無史さん:2009/10/05(月) 02:22:45 0
>>63
【中国】チンギスハンの陵墓、末裔とされる中国在住の女性が「四川省にある」と証言、中国も調査開始[09/28]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1254134602/


【中国】 チンギスハンの墓は本当に四川省に?地元当局は「発見も調査もまったく聞いていない」 [10/04]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1254660907/

だが、同州を流れる大渡河一帯では昔からチンギスハンの末裔がいるとの噂はあったようだ。
付近の瀘定県冷磧鎮沈村に住む「余」姓の村民たちは、
自分たちは実はモンゴル族でチンギスハンの末裔であると公表している。
当時、明軍の迫害を恐れた末裔たちがこの地に流れ、
漢族を装うために「余」姓を名乗るようになったのだという。

77 :世界@名無史さん:2009/10/05(月) 03:49:55 0
陵墓云々は嘘情報としても、四川でチンギス・カンの子孫と言うと・・・
確か、元朝のいわゆる三大・二小王国のうちの二小王国の片方、クビライの六男、
雲南王フゲチの後裔とかか?

でもフゲチの息子營王エセン・テムルは泰定帝イェスン・テムル没後に起こった
天暦の内乱で左丞相ダウラト・シャー、イェスン・テムルの甥梁王・王禪と連座して
処刑されちゃって、『元史』宗室世系表にはエセン・テムル以外のフゲチ家の人物は
載っていないからこれは無さそう。
(『五族譜』にはエセンテムルの息子としてトゥス・ブカ、トゥグルク、プーラードの
 三名がいたことだけが出てはいるけど)

明代云々と言っているから、チュベイ家みたいに元朝に下ったチャガタイ系の子孫とか
の方が一番あり得るのかな?

78 :世界@名無史さん:2009/10/06(火) 13:37:37 0
>少なくとも、「色目人」などで現在では否定されている論説が展開しているので

蒙古>色目>漢>南とかそういう話?

79 :世界@名無史さん:2009/10/07(水) 23:56:48 0
>>78
そう。
漢文史料の元史などで叫ばれてるけど
今の歴史界では大半が否定的見解になっている。

80 :世界@名無史さん:2009/10/08(木) 13:02:11 0
中央アジアでの虐殺はやりすぎ。

81 :世界@名無史さん:2009/10/09(金) 01:33:59 0
>>79
元史つーたら慌てて編纂したから杜撰と評判が悪い一方で生資料がそのまま
入っててある意味史料価値が高いとか言われてるんだっけ。

とすると南人とかが差別されとるという声は同時代から多いが総合的に見れば
それほどでもないと言う分析ってことかの。

82 :世界@名無史さん:2009/10/09(金) 10:20:33 0
でも教科書なんかで元代の社会について
「蒙古人が漢人を殴っても漢人は殴り返せないという法律があった」
とか載ってるけど、ああいうのはどうなんでしょ

83 :世界@名無史さん:2009/10/09(金) 21:16:48 0
モンゴル帝国の常で、官位任免はモンゴル王侯との縁故がもの言っていたらしいけど、
華北とか漢土の支配は早くから道観などで漢学主体による官吏の育成が計られていた。
オゴデイ、モンケ、クビライも仏教寺院の保護も行ったが、さらには道観や孔子廟などへの
加封なども積極的に行っていて、在地の漢人世侯などがこういった道観や孔子廟を直接管理
していて、かれらの保護下にあった書院などで育成された官吏がモンゴル帝国の漢土支配に
下支えしていた。

勿論、モンゴル帝国はオゴデイの時代には、モンゴル高原本土を中心に華北から西アジア
東部まで広がる大帝国になったので、中国方面は支配地域の一地方に過ぎず、支配体制
そのものに科挙のような中国の官吏登用方式は当初採用され無かった。
ただ、科挙は施行されることは無かったものの、漢学の伝統そのものは官吏育成のためも
あって保護され続け、道観や孔子廟など漢学にまつわる宗教施設も皇帝の勅のもとで
保護され続けた。

こういったこともあって、華北でも江南でも、中央から派遣された地方の司令官クラスは
モンゴル人だったり、副司令官もモンゴル系やウイグル人、ムスリムだったが、副司令官
待遇の現地出身事務局のトップなど高級官吏や、中級以下の地方官吏たちはほとんど
現地採用グループ。(軍人も投降した現地司令官だった華北や江南や漢人が、権限も
あまり異同なくそのまま中央派遣のモンゴル王侯の直下に配属されたりしている)
なかには混乱に乗じて立身した出自のいかがわしい輩もいたものの、官吏の多くは正規に
漢学の素養を身に付けた人々。



84 :世界@名無史さん:2009/10/09(金) 21:18:43 0
>>83の続き。
さらにクビライの時代になると、モンゴル語訳『孝経』など、儒学の基本文献のモンゴル語訳
などもモンゴル皇帝や皇族の要請によって献呈されるようになり、これは元朝末期まで続く。
特に経済的に活況しはじめるクビライ時代以降、モンゴル皇帝や王侯の庇護のもと、校訂の
しっかりした儒学や道学関係の経典や研究書が大量に刊行されている。

なので、良く言われる「モンゴルが漢学の伝統を貶め、元朝時代も漢学の暗黒時代だった」
とかは、かなり事実無根。大抵は南宋時代や明朝時代のアンチ・モンゴルイデオロギーが
出所らしい。日本の鎌倉時代末期から室町時代前期の輸入漢籍の殆どは元朝治下の華南で
政府主体で大量に刊行されたものだったことが最近の研究で明らかになって来ている。

85 :世界@名無史さん:2009/11/13(金) 23:27:59 0
モンゴル国の国際関係
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%96%A2%E4%BF%82

南に隣接する中国とは、伝統的に関係が悪い。「娘が中国人と結婚したら一家の恥」との通念が今でも通用しているし、国政選挙でも中国との関係改善の是非が争点になる。
モンゴルが漢字文化を一切受容しなかったのも、モンゴル人が中国人を嫌ったためである。
モンゴル人にとって「中国人のようだ」というのは最大の悪口となり、選挙でも「あの候補は家系に中国の血が入っている」というのは最大のスキャンダルとなる。
日本人を含めた東洋系外国人が、街頭で「中国人か?」と聞かれることはまずない。中国人は蔑称であり、喧嘩を売っていることになるからである。
通常であれば、「中国生まれのモンゴル人(または韓国人)か?」と聞かれる場合が多い。ただし、日本とはまだ縁遠いため、日本人かと聞かれることは少ない。
モンゴル人と中国人との衝突事件、あるいは中華料理店に対する襲撃事件は、ニュースにもならないほど日常的に起きている。
学校教育で、中国人に敵意を煽る教育は行なわれていないが、家庭教育で敵意を植え付けている場合が多い。
モンゴル人の子どもが語る「学校の怪談」でも、中国人による殺人事件が頻繁に登場する。
現在、中国人が嫌いなモンゴル人は9割、好きなモンゴル人は1割と言われる。
衣料品や、家庭電化製品は、中国製がほとんどであるが、モンゴル人は、「中国の商品は構わないが、中国人の思想が気に食わない」と語る。


86 :世界@名無史さん:2009/11/13(金) 23:32:30 0
モンゴルは親日らしい。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/MONGOLIA/kankei.html
>2004年11月に在モンゴル日本国大使館が実施した世論調査では、「日本に親しみを感じる」と答えた回答が7割を超えたほか、
>「最も親しくすべき国」として第1位になるなど、現在のモンゴル国はきわめて良好な対日感情を有する国となっている。


モンゴルは中国を嫌っているらしい。

モンゴルの極右勢力が過激な「反中」運動を展開―中国紙
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0721&f=politics_0721_005.shtml


>歴史的に何度も中国からの侵攻を受けたモンゴル国は、中国に対する激しい敵対心を抱いており、
>中国人がモンゴルで襲われるほどである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E4%B8%AD


>歴史的に中国との関係は悪く、今でも一部の民衆には反中感情がある。
>例えば日本人観光客が中国人に間違えられるとトラブルに巻き込まれ、
>中国関連の施設に「看板等に使用している漢字を3日以内にモンゴル語に変えなければ、強制的に撤去するかペンキで塗り潰す」
>という過激な内容警告文を出され、さらに独立記念日に活動家に襲撃される事もあるくらいである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD



87 :世界@名無史さん:2009/11/28(土) 09:38:42 0
モンゴルなんぞに好かれても仕方ねえけどなw
相撲取りが増えるか

88 :世界@名無史さん:2010/01/05(火) 03:05:06 0
キプチャク・汗国をおこした
バツウはなぜあれほど強かったのしょうか?
当時12世紀の欧州国家は軍事や兵器に関してアジア諸国よりも
遅れをとっていたのでしょうか?
バツウの軍団の強さを教えてください

89 :世界@名無史さん:2010/01/06(水) 02:26:09 0
>>88
当時の欧州は騎士全盛の時代だった。ランスチャージしか能のない騎士じゃ弓騎兵と槍騎兵とを上手く組み合わせて
運用したモンゴル軍には歯が立たない。多分、長刀もった徒歩武者を従えた鎌倉武士にも適わないだろう。

90 :世界@名無史さん:2010/01/10(日) 18:14:08 0
つーか、鎌倉武士だってモンゴル軍には勝てないから

91 :世界@名無史さん:2010/01/10(日) 21:21:58 O
>>87
モンゴルでは日本の男性はもてるらしい
駐在員のほとんどが愛人を抱えているとか

92 :世界@名無史さん:2010/01/10(日) 21:34:40 0

モンゴルの悲劇性は、ヨーロッパに移住しようとしたばかりに、
結局はイヴァン3世に始まる「モンゴル人狩り」の好餌とされ、
コサックの青年や娘たちのライフルや、ロシア軍の大砲の前に根絶させられてしまったこと。
インディオやアボリジニと並ぶ凄まじい悲劇なのに、どうしてモンゴル人はロシア連邦相手に賠償請求を出来ないのだろう?


93 :世界@名無史さん:2010/01/10(日) 21:42:07 0
どうしてモンゴル帝国はヨーロッパやイスラーム世界やインド世界で完全否定されてしまったのか?


94 :世界@名無史さん:2010/01/11(月) 02:10:37 0
>>92

そのまえにモンゴル・タタールはルーシで何をやった?
当時の最大の都市キエフとか、目茶目茶に破壊されたし
当時、ポーランドの首都だったクラコフとか襲われているし
ハンガリーの首都、ブタペストにしてもモンゴルに襲われて
現在の場所に遷都した。

じゃあさ、元寇時に嵐で元艦船が損傷して、元へ引き上げていったけど
生き残りの元兵士が流れ着いたり、既に上陸して待機中だった兵士とか
日本軍が皆殺しにしてるけど、現在から言ったら国際法違反だけど?
これはモンゴル政府が日本に賠償請求できるレベルなのか?


95 :世界@名無史さん:2010/01/26(火) 02:37:04 0
「世界史上で最も多くの子孫を残した人間はチンギス・ハン」とか言う人がいるけど、
その文がどういう意味なのかさえ、自分には全くわからないのだが。
みんなどうよ?

どう考えたってチンギスの父親はチンギス以上の、祖父はさらにそれ以上の子孫を残しているはずなんだが?

96 :95:2010/01/26(火) 02:40:12 0
・・・と思ったらすでに>>27に同じこと書かれてたw

まあ、そんなこともわからずにいい加減なことを言い散らかすアホな学者も
世の中には存在する、ってことかね。

97 :世界@名無史さん:2010/01/26(火) 04:47:21 0
>>91
それ発展途上国なら普通じゃねえの

98 :世界@名無史さん:2010/01/26(火) 13:21:08 0
>>90
は?
鎌倉武士はモンゴル軍に圧勝したけど

99 :世界@名無史さん:2010/01/26(火) 17:17:24 0
>>96あれはその時代に急に突然変異した遺伝子のニックネームというだけだよ。
というかチンギスの遺体からDNAとったわけでもないのにそんなのありえるわけなかろう。

100 :世界@名無史さん:2010/01/27(水) 01:01:07 0
>>98
アホ?
馬に乗ってない蒙古騎兵など
モンゴル軍じゃない。

欧州に侵攻したバトゥ汗と同じ規模の蒙古騎兵を
装備してたら、鎌倉幕府に万に一も勝機はない。

日本刀も持たず、馬も持ってない鎌倉武士を
倒したようなもんだぞ。
比較にならない。


101 :世界@名無史さん:2010/01/27(水) 01:33:26 0
>>100
は?
元寇で日本に攻めて来た蒙古騎兵も馬に乗ってたけど。
元寇史料館に保存されてる遺品の中には、ヨーロッパ軍からの戦利品とされてる兜があるんよ。
欧州に侵攻した蒙古騎兵の子孫が、そのまま日本にやって来て鎌倉武士にボロ負けしたということ。

102 :世界@名無史さん:2010/01/27(水) 23:38:50 0
>>101
ここは世界史板
デマを流すには、分が悪いよ。チンギス=義経並みのデマを流すな。

文永の役はもともと、武力偵察の意味があった。
騎兵は存在せずに、全てが徒歩の兵士。
最初から偵察して撤収する予定だった。
兵力は非戦闘員や高麗軍を含んだ3万

弘安の役
1275年、1279年に元が送った使者が全て切り殺され
フビライが二度目の侵攻を行なう。
兵力は14万だが、内の大部分12万以上は高麗軍や南宋軍の
士気の低い兵士であった、
またその中に植民用の非戦闘員を含んでいた。
騎兵は居ない。
対元軍用の防塁に阻まれて、対峙する約4万の鎌倉武士に
上陸できず、暴風雨にやられて三分の二以上が死亡したとされる。


★結論、
欧州に侵攻したモンゴル軍は元寇に全く関係していない。
実際に欧州に侵攻したモンゴル軍はジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)
を創立しており、元寇には加わってない。
元寇の大半が非戦闘員や高麗、南宋軍で、士気、戦闘力は非常に低い。
元寇の蒙古軍に蒙古騎兵が居たという事実はない。
従って、欧州に侵攻したバトゥ汗と同じ規模の蒙古騎兵を
装備してたら、鎌倉幕府に万に一も勝機はない。 というのは歴史的事実

103 :世界@名無史さん:2010/01/28(木) 00:18:49 0
>>102
デマを流してるのはお前。
文永の役に武力偵察の意味などない。
ここは学術板なんだから、武力偵察だというのならそれを証明する史料を出してみろよ。

それから、文永の役でも弘安の役でも元軍の中核は騎兵。
モンゴルは1271年に高麗へ日本侵攻の部隊としてまず6000人を配備したが、その部隊は1人につき馬3頭、
計1万8000頭もの馬を擁する完全な騎兵部隊なんだよ。

高麗史27卷-世家27-元宗3-12-69-1271
「今計正軍六千人所帶馬率以一人三匹爲計則凡一萬八千匹一匹日支五升自十月至明年二月則當用上朝碩十三萬五千」

他にも元軍に騎兵がいたことを裏付ける史料なんて幾らでも出せるぞ。
あと、欧州に侵攻したモンゴル軍には、ジョチ・ウルスに留まった連中の他に、モンケやグイユみたいに
帰還した連中もいるんだよね。
で、結局欧州で騎士をフルボッコにした蒙古騎兵は、日本で逆に鎌倉武士にフルボッコにされたわけだ。
何しろ、元寇史料館に物的証拠が残ってるんだから。
鎌倉武士>>蒙古騎兵>>騎士ってこと。

104 :世界@名無史さん:2010/01/28(木) 00:22:39 0
中国人やモンゴル人のほぼ大多数が、敗者としてこれからも永遠に生きる理由:
平原でだらしない生活を続けたため、『山岳開発や海洋進出』という大人の文明を知らない。
だから武器も軍隊も自前創造や開発が出来なかった。

いい例がモンゴル軍で、一つか二つの攻撃パターンしかなく、
また武器や部隊編成は盗作ばかり、虫のように画一的だった。

だから開発型の『大人の文明』と出会うと、あらゆる武器や知性の前にモンゴル軍は一つの例外も負けまくった。
モンゴル人はロシア人によって人種根絶の危機に晒されるという、この大悲劇はインディアンと酷似。
最も不遇な場所で最も卑しい仕事を強制され、これで終わりだろう。


105 :世界@名無史さん:2010/01/28(木) 00:24:37 0
モンゴル軍は、白人に根絶されるためにわざわざ征西したわけで、バトゥなどはマゾとしかいいようがないわけ。


106 :世界@名無史さん:2010/01/28(木) 00:26:22 0
ま、武力偵察ならこんな大軍じゃないよな
特に弘安の役
日本に移住させる気満々な、、、

107 :世界@名無史さん:2010/01/28(木) 00:28:22 0
日本に移住したらモンゴル人なんか皆殺しだろ。
山でも海でも、生きていけないし、戦闘すら出来ないんだから。


108 :世界@名無史さん:2010/01/28(木) 00:31:20 0
だから移住しなかっただろうが。

109 :世界@名無史さん:2010/01/28(木) 00:33:46 0
捕虜になったモンゴル人は高麗人と一緒に全員処刑されたからな

110 :世界@名無史さん:2010/01/28(木) 00:36:46 0
大陸アジアの諸民族が日本で拒絶されたのは、土地を開墾型/開発型から堕落的な放牧型に変えようとしたから。
モンゴル人がヨーロッパで迫害され続け殺されまくったのも、同じ理由。


111 :世界@名無史さん:2010/01/28(木) 01:36:52 0
>>103
まさにお粗末すぎ。
ここは日本史板じゃない。世界史板だ。
一方的な資料である元寇史料館を基に語るとは、視野が狭すぎ。

文永の役が武力偵察だったのは
第一級の元側の資料で証明済み。

文永の役は侵攻というより、威力偵察ではないのかとの説がある。
根拠として、本来モンゴル帝国の軍事行動では、事前に兵力1万規模での
敵地への威力偵察を数度段階的に行った後、
本格的な侵攻を行う場合が多く、
また『元史』「日本伝」には元軍の矢がすぐに尽きたという記述が見られることと、
3万人程度(中には非戦闘員もいる)という少ない兵力からこの説も根強い。
『元史』「日本伝」は元側の記録であり、自分達で矢が尽きたと記録しているため
信憑性は高い。

弘安の役に6000人の騎兵が居たというのは事実でも
14万の元軍の内、わずかに6000だが?
それ以外の兵士や民間人はなんだ?
対する、鎌倉幕府軍は4万だけど?
元軍騎兵6000対武士40000では、武士が勝つのは当然。
妨害用の防塁もあるしな。
それと文永の役では、騎兵は居ないからな、デマを流すなよ。

バトゥ汗の欧州侵攻軍は蒙古騎兵を中核とする約14万前後の大軍
弘安の役と同じ兵力だけど、こっちはステップ騎兵とかが加わった騎兵軍団だから
鎌倉幕府に万に一も勝機はない。 というのは歴史的事実というのは変わりはない

112 :世界@名無史さん:2010/01/28(木) 02:08:14 0
>>111
だから、その文永の役が武力偵察だという第一級の元側の資料を出せよ。
そんなもの存在しないから。

それに、文永の役の兵力って中世の世界では決して少なくはないんだよ。
同じ13世紀にピザンツ帝国征服した第4回十字軍はその約3分の1だし、ベトナムは僅か3000騎の
モンゴル軍によって属国化されてる。
3万人ってのは、本来なら九州ぐらいは余裕で征服できなくちゃいけない兵力なんだよ。
こんな大軍つぎ込んで威力偵察なんてあり得ないわけ。
結局、モンゴル軍が鎌倉武士より弱かったから負けたのに過ぎない。
矢が尽きたのだって、自分たちで武器や鎧を投げ捨てて逃げ回っていたからだし。
それを裏付ける史料↓

『高麗史』巻29 世家29 忠烈王2 忠烈王6年
「又た、昔、東征の時に於いて、五千三百軍の齎去せる衣甲・弓箭は、多くを棄失するあり。
僅かに収拾するを得、府庫に頓えしも支用に堪えず。」

初歩的な間違いを指摘すると、文永の役の時に防塁はない。
バトゥ汗の欧州侵攻軍もスラブ人など直前に征服した民族の寄せ集めであることは元寇と一緒。
歴史的事実は欧州がボロ負けしたモンゴル軍に鎌倉武士は圧勝したってことだよ。

113 :世界@名無史さん:2010/01/28(木) 21:14:59 0
欧州に14万の大軍送るタルタロスすげ〜

114 :世界@名無史さん:2010/01/28(木) 22:27:50 0
>>102
> 騎兵は存在せずに、全てが徒歩の兵士。
> 最初から偵察して撤収する予定だった。
いやいやいやいや(汗

下の文は、まあモンゴル帝国の鎮守軍の軍事行動の通例から推測して言われているだろう説だから
まだ良いけど、「 騎兵は存在せずに、全てが徒歩の兵士。 」というのは明らかに間違い。

日本側の資料である『蒙古襲来絵詞』には、「蒙古軍」で歩兵を率いる騎馬の指揮官が描かれて
いるし、赤坂に陣取ったと思しき蒙古の軍勢には歩兵の後ろに並ぶ騎馬の一群が描かれている。
また、『八幡愚童訓』やその文永・弘安の役部分の元ネタになったらしい『八幡ノ蒙古記』には
「蒙古陸地に、おしあかり、馬にのり、旗をあけて攻めかゝる、」と出て来る。

さらにこの『八幡愚童訓』(および『八幡ノ蒙古記』)には少弐景資の一統が、左副元帥だった
劉復亨のことらしい「流将公」を射倒す件があるが、そこには、

「長七尺はかりの大男、ひけは臍邊まて、おひさかりたるか、あか(カ)鎧に、
 あし毛なる馬にのり、十四五騎うちつれ、徒人七八十人あひ具して」

とあって、「長七尺はかりの大男」である「流将公」は自らも鎧を帯びて騎馬し、
騎兵を14、5人、歩兵7、80人引き連れていたことが書かれている。
なので、文永の役の「蒙古」+高麗連合軍に騎兵が居たのはまず間違い無い。


115 :世界@名無史さん:2010/01/28(木) 22:50:57 0
>>114
あなたもモンゴル軍がボロ負けしたって認めないの?

116 :世界@名無史さん:2010/01/28(木) 23:04:40 0
>>114の続き。

ただし、「流将公」=左副元帥・劉復亨として『八幡愚童訓』の情報を信じるなら、
歩兵80人ほどに対して騎兵14、5人という割合に加え、元朝後期に編纂された政書
『経世大典』の高麗への軍事行動に関する部分からの抄録文である『元高麗紀事』の
耽羅島関連の記事に、耽羅島遠征について中書省とクビライのやり取りしている件で
中書省からの上奏に

「船中に馬を載せますと体力を費やしますので、蒙古軍は少なくすべきです。」
 (「船中載馬費力、蒙古軍可少。」)

と出て来る。文脈からしてクビライはこの上奏を受け入れている。文永の役での日本遠征は
耽羅遠征よりも人員も渡海しての日数も多くかかっており、これらの事から考えると
文永の役でも「蒙古軍」や「船中に載せる馬」も少なかった可能性が高い。

>>102
> 欧州に侵攻したモンゴル軍は元寇に全く関係していない。
これは同意。

>>112
> スラブ人など直前に征服した民族の寄せ集めであることは
というのは間違いで、その認識は基礎知識の不足から来る単純な事実誤認。

ロシア側やモンゴル側の資料ではバトゥのハンガリー王国やポーランド王国への遠征では
ルーシ諸侯の軍は加わっていないし、捕虜となったルーシ人たちが遠征軍に加わったとも
聞かれない。マシュー・パリスなど欧州の年代記でもルーシ人などがモンゴルの軍勢に
混じっていたような記述は見られない。
ハンガリー王国側の記録では「タルタル人とコマン人」が掠奪品を運搬していた報告が
見られるので、先年征服したキプチャク人(=コマン人)ないし、同じくバトゥの遠征で
ブルガール方面を追われハンガリーに亡命したコマン人たちの一部が、ハンガリー遠征の
軍に加わっていたらしいことは伺えるが、ルーシ人については記述はやはり無いようだ。


117 :世界@名無史さん:2010/01/28(木) 23:11:36 0
>>116
モンゴル軍は耽羅島遠征の後、モンゴル兵500人を耽羅島に駐屯させてそこに馬の牧場作ってるんだよ。
実際に耽羅島遠征してみたら、馬の輸送なんて何の問題もないとわかったってことでしょ。
当然、文永の役には思いっきり騎兵の大部隊投入したと考えられる。

118 :世界@名無史さん:2010/01/28(木) 23:15:14 0
>>112
> 自分たちで武器や鎧を投げ捨てて逃げ回っていた
『高麗史』にはそんな内容が書かれている箇所は無い。

「五千三百軍の齎去せる衣甲・弓箭は、多くを棄失するあり。」とは書かれているが、
どういう状況で「衣甲・弓箭は、多くを棄失」されたのかは明確な記述を欠いている。
これを「自分たちで武器や鎧を投げ捨てて逃げ回っていた」と解釈するのは、それを
裏付ける明確な根拠が無い限り、飽くまで>>112のただの「憶測」の域を出てないと
自覚すべき。

>>115
> 歴史的事実は欧州がボロ負けしたモンゴル軍に鎌倉武士は圧勝したってことだよ。
という>>114の心情については、自分の感知するところではない。

文永弘安の役の直後の記録では、もしろ幕府軍の敗退を示す記録の方が目立っている。
逃亡の類いや交戦の忌避が、むしろ鎌倉武士側の方で問題となっていたことは、
鎌倉幕府側の文書からも確認出来る。大友文書にある文永の役の翌々年の建治元年
七月十七日付けの幕府から大友頼泰に下された関東御教書に、

「異賊去年襲来の時、或いは戦場に臨み闘い進さず、或いは当境を守ると称し
 馳せ向かわざるの輩、多くその聞こえ有り、甚だ不忠の科を招くか。
 向後もし忠節を致さざれば、注し申さしむに随い、罪科に行わるべきなり。
 この旨を以て、普く御家人等に相触れしむべきの状、仰せに依って執達件の如し。」

とあって、大友頼泰(大友兵庫入道殿)に再発を防ぐよう御家人同士、お互いに触れ回る
ことを通達している。


119 :世界@名無史さん:2010/01/28(木) 23:22:09 0
>>118
は?
鎌倉年代記や蒙古襲来絵詞など文永弘安の役の直後の記録にはモンゴル軍がボロ負けしたことを
裏付けるものしかないけど?
気の毒だけど、その大友文書って偽書だから。

120 :世界@名無史さん:2010/01/28(木) 23:33:03 0
>>118の続き。
また、文永・弘安の役直後(後宇多天皇の時代(在位1274-1286)に成立)に編纂された
『一代要記』の後宇多天皇(「今上皇帝」)の文永十一年十月条に、
「同二十日始合戰、宰府軍等背北了」とあり、
「大宰府軍らは背北(敗北)してしまった」と明記されている。

博多周辺に展開していた幕府軍が敗北したとみなす同時代資料は他にもある。
日蓮が建治二年に身延山から与光日房に宛てた書簡、「種種御振舞御書」の終わり近い箇所に、

「同(文永十一年)十月に大蒙古国よせて壱岐対馬の二箇国を打ち取らるるのみならず、太宰府も
 やぶられて少弐入道大友等ききにげににげ其の外の兵者ども其の事ともなく大体打たれぬ、」

と書かれている。
勿論、文永の役で大宰府が陥落した訳ではないので「太宰府もやぶられて」というのは誇張か
誤報のたぐいだろうけども、壱岐や対馬が陥落したのは確かであるから、少なくとも幕府軍は
大宰府が陥落したという誤報が流れるようなレベルの敗退か、それに近い劣勢に陥ったことが
推測出来る。

>>117
その認識も誤っている。
耽羅島遠征は船団を組んで一度に侵攻したものだが、耽羅島が優良な牧場だったことは、高麗では
モンゴルが侵攻する前から知られていたことで、しかも牧場を新設して高麗や遼寧方面から馬を
移入するにしても、耽羅島を制圧して高麗から耽羅島までの航路が確保され、何日も輸送船が両者を
往復出来るような状態が維持されなければ、安全かつ大量の輸送は出来ない。
治世下での恒常的な船舶による荷下ろしと、前線で揚陸してそのまま戦闘に突入するのでは、
自ずと事情が異なる。
なので「文永の役には思いっきり騎兵の大部隊投入したと考えられる。 」 というのは根拠が不明確な
思い付き的な憶断と言わざるを得ない。

121 :世界@名無史さん:2010/01/28(木) 23:47:14 0
>>120
モンゴル軍は文永の役で大宰府どころか海岸にある博多の街すら攻略できてない。
目と鼻の先にある博多にすら到達ないで優勢って一体どういう状況?
その上、たった1日で逃げ帰ってるんだから、あきらかにボロ負け以外の何物でもないじゃん。

あと、高麗史27卷-世家27-元宗3-12-69-1271はどうなのさ?

「今計正軍六千人所帶馬率以一人三匹爲計則凡一萬八千匹一匹日支五升自十月至明年二月則當用上朝碩十三萬五千」

6000人が1人3頭で、合計1万8000頭の馬を所持してるのって騎兵部隊じゃないの?
クビライは騎兵部隊をわざわざ高麗に駐屯させておきながら文永の役には投入しなかったの?
じゃあ、日本遠征軍は一体どこから湧いて出たわけ?

122 :世界@名無史さん:2010/01/29(金) 00:01:29 0
>>119
『鎌倉年代記』の裏書 文永十一年十月五日条には確かに「於大宰府合戦、異賊敗北」と書かれているが、
そもそも『鎌倉年代記』は弘安の役から半世紀も経った元弘元年(1331年)頃成立したと考えられており、
文永の役当時の鎌倉幕府の認識そのものが反映されているとは言い難い。
鎌倉時代末期の幕府での文永の役についての認識を知るには重要な資料だが、ほぼ同時代資料と言える
大友文書や『八幡ノ蒙古記』、日蓮の書簡などよりも文永の役についての情報として格段に正確な資料と
言えるかは怪しい。

また、『蒙古襲来絵詞』は文永の役については赤坂での戦闘で竹崎季長が負傷した場面で終わっており、
その後の展開については現存部分では記録が無い。『八幡ノ蒙古記』や『八幡愚童訓』によれば、

「肥後國御家人、竹崎五郎兵衛尉季長、天草城主矢野種保兄弟、船にかゝりしほとは、
 よくふるまひたれと、此所にいたりて、得かゝらす、白石六郎通泰も、えすゝます、
 こゝに山田か若者五六人、蒙古に、おひたてられ、赤坂をくたりて、のけ兜になりて、
 にくる処に」

とあって、竹崎季長や『蒙古襲来絵詞』で季長を助けたことが出て来る白石六郎通泰らも奮戦したものの、
赤坂ではその後蒙古側を突き崩せず、彼らは撤退せざるを得なかったように書かれている。その後も

「されとも蒙古、次第につよく、かちに乗じて攻来、今津、佐原、百道、赤坂まで乱入して」
「蒙古ひたやふりに破て、佐原、筥崎、宇佐まてこそ乱れ入たりけれ、」
「あまたの軍勢、一日の戦に、たへかねて、博多、筥崎を、うちすてゝ、おち入けれは、」

とあって、博多周辺での各地の戦闘では最終的に幕府軍は劣勢に陥り、少弐景資の本陣を置いていた
博多や筥崎を放棄して水城へ撤退している。この記述が正しければ、竹崎季長が負傷した後は幕府軍は
竹崎季長らの奮戦にも関わらずほぼ敗退したことになる。

> 気の毒だけど、その大友文書って偽書だから。
一部後世に都合の良いように改竄があるとは聞くが、鎌倉時代関係の部分が全くの偽書だなどとは
聞かれないのだが。誰からの情報?

123 :世界@名無史さん:2010/01/29(金) 00:42:24 0
>>122
大友文書についてわかってるのは、南北朝時代に昔は九州全域に権限を持っていたかのように
思わせるため作られたってことだよ。
それを一部だけなんて言い張るのは悪質なインチキ。
で、偽書の大友文書以外は全部宗教がらみの文献だけじゃん。
「蒙古軍は武力ではなく、神様にボロ負けしました」って類の。
本気でモンゴル軍は神様にボロ負けしたと思ってるわけ?

124 :世界@名無史さん:2010/01/29(金) 00:57:06 0
>>123

日本どころか世界中の歴史学者で、
当時のモンゴル軍より
鎌倉武士が強かった。
なんて、主張してる歴史学者は一人も居ない。

お前の、主張はチンギス=義経だ
って妄想を延々と垂れ流しているのと一緒。

妄想と学問は違う。
歴史認識=一般的な学説に基づいた認識

お前一人が主張してるだけで、事実は変わらない。

そもそも、騎兵軍団同士の戦いで、唯一モンゴル騎兵を
打ち破ったのはマムルーク朝の騎馬軍団。
こいつは欧州の遠征十字軍も打ち破ってるし、鎌倉武士より確実に強い。


125 :世界@名無史さん:2010/01/29(金) 01:02:07 0
「強い者が勝つのではない、勝った者が強いのだ」 フランツ・アントン・ベッケンバウアー

126 :世界@名無史さん:2010/01/29(金) 01:21:36 0
>>121
博多が攻略されなかったというのは、飽くまでも個人的な憶測だろう。
博多にあった承天寺や聖福寺、近くにあった住吉神社の文永の役での記録が
さっぱり残っていないので、博多が罹災したか無事だったかは良く分からないが、
だからと言って根拠無しに「博多の街すら攻略できてない。」と断定するのはやり過ぎ。

> 今計正軍六千人所帶馬率以一人三匹爲計則凡一萬八千匹一匹日支五升
> 自十月至明年二月則當用上朝碩十三萬五千
これは『高麗史』巻二十七 元宗世家 元宗三 元宗十二年(1271年)九月条にある
クビライ側への金方慶の報告からの一文だが、

『高麗史』巻二十七 元宗世家 元宗三 元宗十二年九月条 
「金方慶報云:『界内百姓、皆食草實木葉、雖有徴索勢無可爲者。且見今官軍六千而、
 科施赤則不得細[言音]其數多少。外有官人扎撒赤首領官令史并官軍家屬及其兄弟遞番往來者、
 悉令給料至乃攻破珍島後驅掠人物亦令給糧。今計正軍六千人、所帶馬率以一人三匹爲計、
 則凡一萬八千匹。一匹日支五升、自十月至明年二月則當用上朝碩十三萬五千、而本國碩則
 二十七萬矣。加以四千農牛料、一首日支五升、自十月至明年三月以上朝碩計之三萬六千本國碩
 則七萬二千。然則小邦百姓飢困固不假恤官軍所須亦必匱。(後略)』」

(金方慶の報に云うに、「界内の百姓は、皆草實木葉を食ひ、徴索有りと雖も、勢爲すべき者無しと。
 且つ今を見るに官軍は六千、而して科施赤は則ち其の數の多少を細[言音]するを得ず。外に官人・扎撒赤・
 首領官・令史并びに官軍の家屬及び其の兄弟の遞番往來する者有り、悉く料を給しせしめ、乃ち珍島を
 攻破せる後ち、人物を驅掠するに至りて亦た糧を給せしむ。今正軍を計りて六千人とし、所帶の馬率ね
 一人三匹を以て計を爲せば、則ち凡そ一萬八千匹、一匹の日支五升、十月自り明年二月に至らば則ち當に
 上朝の碩にて十三萬五千、而して本國の碩は則ち二十七萬を用ふべし。加ふるに四千の農牛料を以て、
 一首の日支五升、十月自り明年三月に至るまでは、上朝の碩を以て之を計れば三萬六千、本國の碩は則ち
 七萬二千なり。然れば則ち小邦の百姓は飢困するも固より假恤せず。官軍の所須も亦た必匱せん。)云々


127 :世界@名無史さん:2010/01/29(金) 01:23:51 0
>>126の続き。
この報告の前の月、元宗十二年(1271年)八月は、鳳州等処経略使の忻都が金方慶らととも珍島の
三別抄を討伐した時期で、上の文は珍島制圧に関しての金方慶の報告にあたる。金方慶による
「正軍六千として軍馬はひとり三頭とすれば1万8000頭になり〜」という部分は、これらの糧食を
高麗国内で養うのは、ただでさえ困窮している民衆にとって過剰な負担であり到底応じ切れない、
という陳情に近いもので、文永の役まで高麗国内でこの軍馬の規模が維持出来ていたかを示すものでは無い。

この珍島遠征では戦闘に至らぬ内に軍船が転覆して数十人単位で部隊が溺死している。これらの珍島での
経験があって、>>116で触れた『元高麗紀事』にある翌年の至元九年(1272年)十一月十五日条での
クビライと中書省で協議された耽羅島遠征計画についての内容に繋がると見た方が自然だろう。



128 :世界@名無史さん:2010/01/29(金) 01:51:47 0
>>126
博多が被災したという史料が一切無ければ、被災しなかったと考えるのは当然。
承天寺には当時「聖一国師年譜」の著者の鉄牛円心がいたわけで、被災したら記録が一切残らないわけないだろ。
櫛田神社の近くに住んでいた謝国明関連の記録にも博多が被災した形跡が皆無。
1271年に高麗へ配置された部隊だって、その後人員を入れ替えた形跡が皆無なんだから、そのまま文永の役に
投入されたと考えるのが当然だろ。
博多が被災したとか、1271年に配備された騎兵部隊が文永の役に投入されなかったとか考える合理的理由がないじゃん。

129 :世界@名無史さん:2010/01/30(土) 00:50:37 0
>>116
ドーソンはモンゴル帝国史の中で、

「ペルグ市は、ルーシ人、コマン人、ハンガリー人捕虜と少数のモンゴル兵をもって組織した一軍団に
よって包囲された。このモンゴル兵はまずハンガリー人をしてこの都市を攻撃させ、彼らが戦死すると、
ルーシ人を駆り出し、最後にコマン人を駆り出して攻撃させた。」

って書いてるよ。

130 :世界@名無史さん:2010/01/30(土) 06:51:54 0
>>129
> 「ペルグ市は、ルーシ人、コマン人、ハンガリー人捕虜と少数のモンゴル兵をもって
>  組織した一軍団に よって包囲された。
"Perg fut investi par un corps d'armee compose de captifs russes, coumans
et hongrois, et d'un petit nombre de Mongols."
ああ、確かに『モンゴル帝国史』(東洋文庫版の第2巻186ページ)に書かれているね。
本文に書かれているペルグ Perg というのは、今のルーマニアの西端にあるペチュカPecica
という町のことらしいけど、自分はポーランドとハンガリー中部、トランシルバニア、
オーストリアのあたりの部分しか確認していなかったから見落として気付かなかった。申し訳ない。

本文で紹介されているペチュカ(ペルグ)市の陥落の部分は、これまた現在のルーマニア西北端の
都市オラデア(ヴァーラド)の教会参事会員だったアプーリアのロゲリウス(co.1206-1266)
という人物が書いた『悲嘆の歌』(Miserable Carmen)という記録に出て来るらしい。

ルーシ人云々がハンガリー方面でモンゴル軍に使役されたような話は見られぬようだが、
他に、カダアンが伯爵アリスカルドという人物と「ドイツ人の間から選んだ六百人」を引き連れて
ヴァーラドまでやってきたとか書かれている。この「伯爵アリスカルド」(le comte
Ariscalde)とはどういう人物だろうか? 『悲嘆の歌』原文を確認出来れば良いんだが。

まあ、これも案外デジタル化してるのかも知れないが、それにしても今はドーソンの原文とかも
ネットで全部見られるのか・・

131 :世界@名無史さん:2010/01/31(日) 21:07:18 0
モンゴルが歴史の完全な敗残者となった所以:

@ 火薬を知っていたのに、ライフルやマシンガンや大砲を考案出来なかった。
  そういう産業の分業化や専門化、製品化と市場競争を白人から全く学べなかった。

A 山岳や海洋部の強者に対しては驚くほど一方的に敗北し、生産技術も資源開発も全く学べなかった。
 
B 白人に対する正当性が何もなく、むしろ数百年にわたり白人によって大根絶され、
  わずかな生存者はロシア人に共産主義に洗脳され鎖でつながれて引きづり回された。

バトゥなんて、白人女のマゾペットだったとしか思えない、でなければこんなに陰惨な運命に出会うためわざわざ征西するはずがない。


132 :世界@名無史さん:2010/01/31(日) 21:54:09 0

モンゴル人なんて朝昇竜みたいなもんだろ。

酒飲んで、食って寝て女が居れば良い。みたいな。

バトゥについては逆だろ。

欧州では残忍な支配者だし、サドだろ

133 :世界@名無史さん:2010/01/31(日) 23:16:54 0
モンゴル軍が欧州でやったことは、せいぜいのところ、
トランプの最強の札を一時的にAから2に変えただけ。

ところが、ロシア人やポーランド人がモンゴル人にしでかした蛮行は、
モンゴルのトランプの絵札とAを全部消却してしまったことに等しい。
ちょうどアメリカ開拓民がインディアンやアボリジニに対してしでかしたことに匹敵する、
永遠に復旧しえない構造的な破壊。

とても同じ人類同士の所業とは思えない。
もっとも長期に亘り白人によって大量に殺され続けた黄色人種は、モンゴル人だと思う。
もしかしたら中南米のインディオよりも多いかも。
こんな蛮行を黙って風化させ、ソヴィエトに閉じ込められ続け、
未だに貧しいままのモンゴル人が、哀れでならない。

134 :世界@名無史さん:2010/02/01(月) 01:15:05 0
俺だったらそういうキチガイの行いは助長させるね。そうすれば同じキチガイ同士けんかして
滅ぶだろうから

135 :世界@名無史さん:2010/02/01(月) 02:00:19 0
>>133

そうかなあ。
モンゴル軍がルーシとか特にキエフ
中東とか特にバグダード
アフガンとか西アジアでやった事を
考えたら、モンゴル人がされた事は
マシだと思うけどね。
騎士道精神とかまったく無いし、今でも廃墟になってる地域がある。
女子供、非戦闘員も含めて、皆殺しにして
ピラミッド状に積み上げて、自分たちの恐ろしさを宣伝したのは
モンゴル軍ぐらいだろう。

それ以外の民族は、大抵は負けた相手を皆殺しにしない。
指導層粛清程度で留めている。

ロシア帝国のイヴァン4世時代、ロシア貴族のすくなくとも三分の一が
モンゴル系の貴族だった。
ロシア皇帝にチンギスハーンの子孫のシメオン・ベクブラトヴィチが
即位した事もあったし、ロシア人とモンゴル系のロシア人は区別できないだろうし
君が言うほどのモンゴル人迫害があったとは思えんな

136 :世界@名無史さん:2010/02/01(月) 02:28:46 0
モンゴル軍は完全な歴史の敗者。まあスキタイも匈奴もモンゴルも同じだけどね。

だってさ、本当にモンゴル人が世界の覇者となったのなら、常に最強の武器開発を率先しているはずだし、
経済的にも最大規模の製品開発や市場開発をしているはずだし、
学術や法律のような堆積的な知性などは、モンゴル式のものが現代まで主流となっているはずだが、
実際は現代まで続くものを何一つ残してないじゃん、モンゴル。

ライフルでも何でもいいけど、激しい殺傷力の武器を知ったらすぐに取り入れて大量に生産し、軍隊方式も変えるはずでしょ。
ところがモンゴル人が(欧米人や日本人のように)銃の殺傷力に着目して大量生産し、軍事的に欧州やイスラム世界を牛耳ったかといえば、
全然そんなことはなくて、そもそも軟弱バカの中国からさえ逃げ回っていったわけで、モンゴルは知力も腕力も弱者そのものだよ。
だから欧米人の射的として何百年にもわたって殺されまくったじゃん、モンゴル。

経済システムにしても、本当に(欧米人や日本人のように)強力な市場運用能力や商品開発力があったなら、
ソヴィエト共産主義に完全に屈して震えながら先兵を務めるわけがないよ、モンゴル。

アテネやスパルタや、ローマ帝国やビザンツ帝国、ゲルマン諸王朝やバイキング、絶対王政諸国家と日本、みんな現在そのものを作っているだろう。
これらの国々は人類の思想や生産能力や法や学術や軍事を、間断なくずっと発展させてきたよね。

でも、モンゴルはたたの過去で、まあ中国も同じだが、滅び去るための種族だったとしかいいようがないよ。
モンゴル帝国だの中国だのが無くてもね、世界史は現代とほぼ同じはずだよ、欧米と日本があったら。


137 :世界@名無史さん:2010/02/01(月) 02:33:21 0
>女子供、非戦闘員も含めて、皆殺しにして
>ピラミッド状に積み上げて、自分たちの恐ろしさを宣伝したのは
>モンゴル軍ぐらいだろう。

そんな子供みたいなこといってたら、笑われちゃうよ。
古代ローマでは、ゲルマン人を征伐する口実に、
ゲルマン人は何もかも焼き尽くし、ローマ人を至るところで皆殺しにしてきた、といってた。
だからゲルマン人を殺してもいいってこと。
十字軍だって同じで、トルコ人がキリスト教徒をいたるところで皆殺しにしてきた、といってたけど、
実際のところ、トルコ人やイスラム教徒を虐殺するための口実でしょ。

ロシアで本当にモンゴル人が尊重されていたのなら、どうして黄色人種系のロシア人や旧ソ連人は徹底的に迫害されて、
ものすごく地力や風土のひどいところに住まわされているの。
ロシア人によるホロコーストの結果としか思えないんだけど。


138 :世界@名無史さん:2010/02/01(月) 02:50:40 0
つうかその頃のモンゴル平原なんてトルコ人だのイラン人だのモンゴル人だの
支那人だのがあっちにいったりこっちにいったりしてたろ。モンゴル系のアヴァール人は東ローマ帝国に逃げたとかね。

139 :世界@名無史さん:2010/02/01(月) 11:57:59 O
>>136
おまえのカキコみてたらなぜか∀ガンダムのopが脳内に流れた

140 :世界@名無史さん:2010/02/01(月) 12:06:46 O
遊牧民は元来定住して知力や腕力を鍛えるという甲斐性がなかった

農耕民の典型がライフル駆使したカウボーイや大砲駆使した海賊だとすると、
遊牧民の典型はスリやカッパライ

141 :世界@名無史さん:2010/02/01(月) 23:56:30 0
> 経済的にも最大規模の製品開発や市場開発をしているはずだし、
> 学術や法律のような堆積的な知性などは、モンゴル式のものが現代まで主流となっているはずだが、
> 実際は現代まで続くものを何一つ残してないじゃん、モンゴル。
授時暦とか知らないのかね? あれはオゴデイ、モンケの時代に企画されて、フレグの命令でイランで
ナスィールッディーン・トゥースィーなどがマラーガの天文台で研究されたデータを、クビライの時代に
中国側の回回司天台なんかの観測記録とを情報交換・加味した上で成立したものだ。

絵入り本の古典漢籍なんかはクビライ以降の江南の中心に大量印刷されたもので、鎌倉・室町時代に
日本に入って来た古典刊本の多くは国家や高級官僚たちの主導で印刷されたものが大半だったことが、
現在分かっている。特に「絵入りの古典籍」の伝統は元朝やイルハン朝時代に確立されたもので、
中東の場合、絵入りの預言者伝や韻文典籍の伝統は、実質イルハン朝時代に出来上がり、その後
ティムール朝やオスマン朝、サファヴィー朝、ムガル朝その他に受継がれた。

コバルト釉による染め付け磁器が登場したのも元朝時代から。現在日本でも普通に見られる
絵付きの磁器の茶碗なんかがあるのも、遡れば元朝時代の遺産だ。

こんなのはモンゴル関係のちょっとした本を読めばいくらでも書いてあるだろうに。釣りにしたっていったい何を読んでればこんなな内容を書けるんだ。

142 :世界@名無史さん:2010/02/02(火) 01:03:06 0
なぜ遊牧民は歴史の敗者として消え去ったのか
ttp://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1248592598/
1 :無名武将@お腹せっぷく:2009/07/26(日) 16:16:38
なぜ遊牧民は歴史の敗者として消え去ったのか?
それはやつらが逃げるだけが能の雑魚馬鹿だからw

いつだか見た覚えがある論法だったからちょっと探してみたが、案の定…
この板で見た時はまんま↑そのままだったんで三秒で閉じてログ消してないから、そっちの方は行方不明
糞スレdat落ちおいしいです(^q^)

143 :世界@名無史さん:2010/02/02(火) 08:51:42 0
そいつ世界史板のいろんなスレで暴れまわってるよ
クルセーダーの成れの果てじゃないかと疑ってるが
何にせよこの手のキチガイの例に漏れず都合の悪いレスは一切無視だから反論するだけ無駄な気がする

144 :世界@名無史さん:2010/02/02(火) 10:02:31 0
>>141
>こんなのはモンゴル関係のちょっとした本を読めばいくらでも書いてあるだろうに。釣りにしたっていったい何を読んでればこんなな内容を書けるんだ。
少なくともモンゴル関係の史書は初めから読む気も無いし読む価値無しと思ってる人だろう
大方西洋主観主義かあるいは塩婆の感情的な受け売りを本物と思い込んでるかどっちかだろ

145 :世界@名無史さん:2010/02/09(火) 00:35:52 0
モンゴル帝国を評価しているのはアジアというより日本の学者だけ
モンゴル帝国から東西で同時代の世界史が始まったとか言っているが
植民地紛争など現代まで連続している歴史が始まったのは大航海時代から
現代の事象でモンゴル帝国が関係しているものはひとつもない

146 :世界@名無史さん:2010/02/09(火) 08:29:16 0
な、都合の悪いレスはガン無視だろw

147 :世界@名無史さん:2010/02/09(火) 14:23:11 0
白人えらい日本人は白人に近い
真中はこれだけ


148 :世界@名無史さん:2010/02/10(水) 02:03:25 0
モンゴル軍の戦術って遊牧生活で身に付けた技術がたまたま戦争でも応用可能だったというだけで、
純粋に戦争のための技術では無いんだよね。
それがあそこまで巨大帝国を築けたのは、周囲にまともな軍を持った国が無かったから。
言わばアマチュア・チャンピオンに過ぎないわけ。
本当の意味で戦争のプロフェッショナルである鎌倉武士やマムルークにモンゴル軍が全く勝てなかったのも、
当然の結果なんだよな。

149 :世界@名無史さん:2010/02/10(水) 02:59:17 0
平原部でヌクヌクとしていた幼児型の文明は、自分で運命を切り拓くということを知らないから、必ず山岳や海洋の強者に完全に征服され、改造されてしまっている。
ただ一つの例外もない。

たとえば、山があれば当然のこと森もあるわけで、そこで生き抜くにはどうしたらよいか、どういう道具を開発し、どういう軍隊を組織し、どういう法を定めるか、
常に不特定多数の民の意見を広く聞かないと皆が死んでしまったわけだ。
海洋部の民族も同じで、情報処理能力や組織力が物凄く発達し、しかも彼らの場合は極めて多くの山岳文明の智慧や学術を取り込みながら、強大化していった。

150 :世界@名無史さん:2010/02/10(水) 03:00:03 0
ところが平原の連中は、学習も発展も無いわけだな。
権力者にとり入って、分け前もらって、適当に逃げて、というわけで、はっきり言えばバカのまま、時間は永遠だったんだろう。

モンゴル軍は強かった、というが、実際には弱さの方が歴史的にはずっと際立っていて、彼らが法でも技術でも学術でも、ヨーロピアン文明に比べて絶望的に出遅れてしまったという点こそ世界史最大のテーマとして特筆すべき。
13世紀には彼らはヨーロッパやイスラムの棄民相手に子供のケンカで勝ったかもしれないが、そののちの大人の世界史が始まると、モンゴル人はとてつもなく負け続け、否定され続けた。
分業もプロ化も進まず、資源の人為的な転用も出来ず、法の前に怯えライフルやマシンガンに屠殺されまくっての数百年。
そして、ロシア人に完全に洗脳されて鎖でつながれ、自分の祖先の名前すら分からぬ状態におかれ、現代まで弱者のまま。

151 :世界@名無史さん:2010/02/10(水) 03:52:53 0
>>150
>大人の世界史が始まる

あははは、面白いなー。おい、おい。

152 :世界@名無史さん:2010/02/12(金) 01:08:30 0
> 必ず山岳や海洋の強者に完全に征服され、改造されてしまっている。ただ一つの例外もない。
何の事を言っているのかさっぱり分からん。
どこのファンタジー世界の話をしてるんだろうか。誰か翻訳を頼む。


153 :世界@名無史さん:2010/02/12(金) 01:10:26 0
>>149
> マムルークにモンゴル軍が全く勝てなかったのも、
アイン・ジャールートの戦いを言っているなら、あれは同じテュルク・モンゴル系の遊牧戦士の
軍団同士の戦いだったし、しかも他の場合でもそうだが、単純に相対したフレグやイルハン朝軍が
マムルーク朝軍よりも数で大分劣っていることが多かったから、必然的にマムルーク朝軍による
南部からの侵攻を撃退するのは難しく、イルハン朝側から侵攻しても(戦力的に)シリアを
奪い返せる可能性が低かったので、結局無理だっただけ。

14世紀くらいになるとマムルーク朝側も色々火薬兵器を工夫したりしていたようだけど、
イルハン朝のシリア奪還作戦は最大でも四万騎+α程度(ガザンの時代)で、フレグの時に最初に
シリアを征服した戦力(明確な数字は書かれてないけど、傍証を集めるとだいたい七万騎くらいは
最低でもいた)よりもかなり少ない。

また、ガザンの時などは、結局失敗はしているが一時はアレッポからエルサレム辺りまで奪い返している。
なので「全く勝てなかった」という認識ははっきり言えば、事実誤認。間違い。

マムルーク朝軍はシリア方面くらいしか強大な外敵がいなかったので「対モンゴル」で戦力を集中出来たが、
イルハン朝の場合、ジョチ・ウルスやカイドゥなどの中央アジアの諸王家との紛争とを平行しつつシリア方面の
対策をせねばならず、もとからイラン周辺はモンケ時代にはモンゴル帝国内部の財務体制としては整備途上の
段階のままモンケ没後の諸王家間の紛争に突入した上、王家内部の紛争や諸部族・諸将の領内での知行配分が
君主の治世中でも(政争や何かで)変動する事もよくあったため、アイユーブ朝時代からイクター制度に
基づいたアミールたちや兵士へ給料がかなり徹底できてたマムルーク朝と比べると、安定的な国力・軍事力の
維持という面では大分出遅れていた。

何と言うか、ネットで拾える半端な知識でファンタジックな夢を放言するのは良いが、もうちょっと
モンゴル帝国についてその他の遊牧政権についてちゃんとした基本的知識を身に付けてから書くべきだと思う。

154 :世界@名無史さん:2010/02/13(土) 23:28:17 0
>>153
マムルーク朝の動員力だって最大でも四万騎+α程度だよ。
負けたのは数のせいじゃないでしょ。

155 :世界@名無史さん:2010/02/14(日) 14:36:22 0
>>155
だから単純に数の問題だけを言っているんじゃない。

ガザンのシリア遠征は三回ほど行われているが、天候不純や補給などの難で
何度か中途で戦闘の継続が困難になっている。マムルーク朝側はそもそも
シリアにイクターなどの所領や城塞などの拠点を持っているため、迎撃や
防備の面で、侵攻する側のイルハン朝軍よりも有利だ。

シリア征服を完遂させるためには、相手の動員数と同程度、では論外で、
フレグのシリア征服時のようにアレッポや沿岸部などでも兵站をしっかりと
築きつつダマスクス、エルサレムなど南部の接収と会戦にも耐える戦力を
維持しなければならない。そうなると、損耗率を入れつつシリア全土への
侵攻+征服を考えれば四万騎+αだけでは足りない、ということ。

しかも、フレグの時はマムルーク朝はエジプトしか保有しておらず、シリアは
アイユーブ朝の王族たちがそれぞれの拠点を保持してフレグと相対していた。
石造の堅牢な城塞の多いシリア一帯ではなおさら多くの戦力を投入すべきで、
少なくともフレグの時の規模で遠征に臨むのがより良い。

しかし、フレグ以降のイルハン朝では、前線での戦闘が十全に行えるように、
補給や戦闘継続能力の維持が数の上でもできているかと言えば、どうにも怪しい。
ガザンのシリア遠征失敗は、その種の「余裕の無さ」が会戦などで響いて
敗退している面がどうしても強い。

156 :世界@名無史さん:2010/02/14(日) 16:05:19 0
だんだん何を言いたいのかわかんなくなってきたぞオラ

157 :世界@名無史さん:2010/02/15(月) 05:54:45 0
フレグ以降歴代君主が尽くマムルーク軍に負けてるのにモンゴル軍の方が弱かったと
認めないのは流石に説得力がない。
アバカの時代にはシリアどころか遠路はるばるルームまで遠征したマムルーク軍にも
負けてるし。
補給云々や侵攻する側の不利は言い訳にならないよ。

158 :世界@名無史さん:2010/02/16(火) 03:34:29 0
>>156
分からなければ仕方が無い。それも人生だ。

>>157
アバカの時のバイバルスによって二度ほど侵攻を受けているが、1277年の時は
ちょうどルーム・セルジューク朝では内紛に陥っており、イルハン朝に離叛して
バイバルスを宗主と仰いでマムルーク朝に臣従しようという動きが有った。
バイバルスはこの動きを受けてアレッポ経由でルーム方面へ侵攻した。

当時ルームとシリアの境界に当たるアブルスターンには三人の万戸長とキリキア・
アルメニア王国軍やグルジア王国軍の部隊からなる駐留軍がいた。

実はこの3つの万戸は「万戸」と言いながら実際には1万1000騎しかおらず、
バイバルスの侵攻にも頑強に抵抗して奮戦したが、最終的に三人の万戸長のうち
二人が戦死、旗下の軍団も半数が戦死し、グルジア王国軍なども壊滅している。
バイバルスがルームから撤退したあと、アバカはアブルスターンの戦場跡を
実見したらしいが、マムルーク朝軍はアバカらが率いていた3万より
多勢だったと分析している。



159 :世界@名無史さん:2010/02/16(火) 03:40:56 0
>>158の続き。

バイバルス軍も勝利してルームのカイセリアに入城しているが、カイセリアを
はじめとするルーム・セルジューク朝側は篭城するなり抵抗らしい抵抗は
まったくしておらず、バイバルスをスルターンとして推戴するような待遇で
迎えている。しかし、結局バイバルスはルームを永続支配するような措置を
行わず、ダマスクスへ撤退し、その年の内に亡くなっている。

バイバルスはダマスクスへ帰還する途中、アブルスターンに再度立ち寄って
イルハン朝側の損害を調べさせたそうだが、その時にアバカ軍が来た時に
マムルーク朝軍の被害が少ないように装おうため、自軍の死骸の多くを
埋めて隠したという。つまり、マムルーク朝軍はアブルスターンの駐留軍よりも
多かったが、勝利はしたもののかなりの損害も出していた、ということを
暗に示している。

アバカがやって来た後、当然、ルームでは関係者の処罰が行われ、以降の
ルームはイルハン朝の主要な州として以前に増してイルハン朝中央からの
強力な支配を受けるようになった。

>>157
マムルーク朝とイルハン朝との関係について、中身の吟味をよくよく見ずに
安直にただ強いだの弱いだの、そういう類いの結論だけ出したいというのは
良く分かった。学問板には不向きな人種だろうからゲーム板あたりでやると良い。

160 :世界@名無史さん:2010/02/16(火) 03:59:31 0
冗長

161 :世界@名無史さん:2010/02/16(火) 07:42:15 0
>>158-159
その辺の事情詳しいみたいだから聞くけど
バイバルスはルームに入場したあと何故永続支配権を行うような行動とらずにさっさと撤退したんだろう?
本拠地をおろそかに出来ないって事情は有ったにせよ自分の信頼出来る有能な部下を置いて
事実上ルームを自分の影響圏にするって言う事は無かったんだろうか?

162 :世界@名無史さん:2010/02/18(木) 22:59:16 0
>>161
あんまり良くは分からない。
これの100年ほど前にザンギー朝のヌールッディーンがダーネシュマンド朝の東半分を
奪った事件が有ったが、彼はスィヴァスなどに自分の側近を代官として現地に留めている。
同じような事をバイバルスがやってもおかしく無いと思うんだが、どうも似たような事を
やった形跡が無い。

当時、ルーム・セルジューク朝では宰相で「サーヒブ・パルワーナ」(勅許状発行を司る職なので、
「国璽尚書」と訳されているが)だったムイーヌッディーン・カーシー・スライマーンという人物が
専横を極めていたそうだが、シリアにいたバイバルスをルームに招き入れたのは、このムイヌッディーンの
息子をはじめとする使節団100人だったそうだ。このムイーヌッディーン・パルワーナは
バイバルスの軍がアブルスターンへ来た時、ルーム軍を指揮していたらしいが戦場からさっさと逃げて
会戦の翌々日にはカイセリアへ到着していたそうだ。さらにカイセリアの北、黒海沿岸にも近い
トカトまで逃れている。

バイバルス率いるマムルーク朝軍はカイセリア近辺に一週間ほど滞在したそうだが、この間にも
パルワーナからの連絡はなく、兵糧も底を尽き始めていたそうで、一部のキリスト教徒、
アルメニア人を殺害しただけで帰還したものの、道中彼らの軍馬が疫病に罹ってその兵の多くが
徒歩になったとも伝えられている。

バイバルスがシリアに戻った後、自ら軍を率いてルームに現地入りし、関係者の問責を行っている。
このムイーヌッディーン・パルワーナもアバカの宮廷に召還されてバイバルスのルーム侵攻について
敵前逃亡や侵攻の報告が遅れたことなどの罪で尋問を受けているんだが、実はアバカへバイバルスによる
侵攻についての第一報がもたらされたのは、パルワーナらルーム側からではなく、壊滅したモンゴル軍の
万戸長のひとりトダウン(戦死したうちの一方)の幕僚からだったそうだ。


163 :世界@名無史さん:2010/02/18(木) 23:01:21 0
>>162の続き。
イルハン朝側の資料である『集史』アバカ・ハン紀によると、ちょうどその尋問の最中にバイバルスへ
送った使者が帰還して、

「私はパルワーナの要請で来たのだ。というのも、私が来たらルームの地を私に委ねるという約束を
 していたからだ。そして私がそこに行くと、彼は逃げてしまった」

というバイバルスのメッセージを伝えた、という話を載せている。
(これがほぼ決定打になってムイーヌッディーン・パルワーナは処刑されている)

当時や後代の資料によると、バイバルスはルームを異教徒であるモンゴルの支配から解放するため、
ルームの住民や諸侯たちとの戦闘は極力避けて無傷でルームを接収する事を望んでいたらしい。
ところが実際に来てみると、ルームの諸侯たちは多くがバイバルスの要請にほとんど非協力的で、
しかも招き入れたはずのパルワーナ自身がルーム・セルジューク朝の当主スルターン・
ギヤースッディーン・カイホスロウ3世と自らの妻グルジ・ハトゥン(カイホスロウ2世の王女で
カイホスロウ3世の伯母)も連れて首都のカイセリアを放棄してトカトへ逃げる始末だった。

ルーム・セルジューク朝側の協力を見込んでのルーム侵攻だったが、現地の対応がひどく当てが
外れたことが撤退に大きく関わっていることはまず間違い無い。実際、オスマン朝時代に編纂された
『ミュネッジムル・バーシー』などではルーム諸侯からの支持が得られなかったことが退却の主要な
原因としている。

バイバルスはカイセリアに滞在中、『集史』によると、バイバルスはカイセリアで自らの名前で
貨幣を発行し、モスクで金曜礼拝の説教の時に現地の支配者であることを証明するフトバを
唱えさせたと書かれており、『集史』から数年後にルーム・セルジューク朝史を編纂した
アクサラーイーも、「バイバルスはスルターン位の玉座に即いた」と書いているので、当初の
予定では恐らく少なくともルーム・セルジューク朝をマムルーク朝の宗主下にすることを
目標としてルームに遠征して来たことが伺える。

164 :世界@名無史さん:2010/02/18(木) 23:04:34 0
>>163の続き。
遠征で現地に来たら大義名分を失ったことは大きかったろうけど、渋るルーム諸侯に軍事的に
揺さぶりをかけるなど、少しは無茶をしても良かったように思うんだが、それをあんまりやって
いないことを考えると、(ルーム側の戦力を当てにしていた分)やはりそれをやれるだけの戦力が
なかったことも考えられる。

ルームの諸侯たちはアバカからの報復を恐れてバイバルスへの協力に消極的だったそうだが、
アバカが迎撃に出た時ルームの諸侯たちがアバカ側に寝返ることは当然あり得たため、足下の
ルーム諸侯とアバカの両方に相対する事はさすがに不利と判断したのだろう。

ただ、ここまでなら政治的な駆け引きでは良く有る事なので良いのだが、ルームから帰還した直後、
バイバルスはダマスクスで亡くなっているのは、ちょっと気になる。(アブルスターンでの会戦が
1277年4月16日、カイセリア入城が同年4月23日、五日後の28日にはカイセリアを去っている。
五月中にはルームを離れたようで、6月8日にダマスクス入り、同月30日にそこで没している)

アブルスターンの戦闘はかなり激烈なもので、バイバルス自身もマムルーク朝軍の先頭に立って
軍勢を鼓舞して勝利したそうだから、あるいは戦闘中に負傷していたとかいう可能性もあるかも知れない。
あるいは遠征に出る前から体調が思わしく無く、無理を押しての遠征だったため、現地の協力が
ほとんど得られないと知ると、こちらも無理押しができる(体力的にも)余裕がなかったので
ルームの永続支配を目指した措置は行わなかったとかも考えられそうだ。

だが、自分はマムルーク朝側の資料はちゃんと読んでいないので、当時バイバルスが置かれていた
状態については暗く、バイバルスのルーム遠征については「請われて現地の協力を期待しての
ルーム遠征だったが、当てにしていたルームの首脳たちが逃亡するなど、遠征の成否に関わる
部分で当てが大外れしたのでやむなく退却した」以上の事は、個人的には良く分からない。

165 :世界@名無史さん:2010/02/18(木) 23:17:33 0
>>158-159のどこに中身の吟味なんてある?
モンゴル帝国史の内容をそのまま書いただけ。
毎回毎回、読んだ文献をそのまま書き写すだけのレスばかり。
だったら、せめてもっと簡潔にまとめればいいのにそれすらできない。
「学問板には不向きな人種」ってこういうのを指すんじゃないの?

166 :世界@名無史さん:2010/02/19(金) 07:06:05 0
>>162-164
詳しい情報を有難う
簡単にまとめるとルーム内ではバイバルスを求める存在が居たのにいざ行ってみたら話しが違う状況だったって事ね
なんかどうもルーム内での格地域の諸侯とかの存在が余りに流動的過ぎた事にバイバルスが危機感を感じたのかな
バイバルスとすればルームの宰相からの約束でやって来たのにどうなってるんだって感じだし
もしかしたら実は罠だったんじゃないかと思ったのかな
もし罠だったとバイバルスが思い込んだとしたら下手に部下を分散させるよりは損害なくさっさと引いた方が良いからね

敵側のアバカ自身が中央アジアのオゴタイ&チャガタイ連合侵攻軍のあの不利な状況から逆転勝利したくらいだし
向こうも有能な君主だって情報は勿論バイバルスの耳にも届いてただろうから
こう言う流動的な上に不確定要素の多すぎる状態では下手に意地を張って居続けるよりもって考えてもおかしくない

因みに氏が気にしてたバイバルスのダマスカスでの急死だけど、今しがたぼーっとネットサーフィンをしたらこんなのを見つけた
ttp://www6.tok2.com/home2/hyakuokunoyoru/mamuruku/baybars/baybars12.htm
ここの

>バイバルスは1277年の春、イル=ハン国との戦闘のためトルコの奥深くに進撃。イル=ハン国の君主・アバカーに対決を迫った。
>しかし、アバカーはバイバルスとの対決をさけて撤退。バイバルスは戦わずしてダマスカスへ凱旋した。
>そして、その戦勝祝賀会の場でモンゴル風の馬乳酒を飲みすぎ、体調を崩してしまい、二週間苦しんだ後、7月1日に息を引き取った。数え年で49歳であった。
>一説には馬乳酒には毒がもられていたともいわれている。

毒殺云々に関しては推測とかも有って本当かどうかハッキリしない部分も有るからともかくも
この記述が本当だとするとダマスカスに着いてから突如体調を悪化させてそのまま亡くなった様な状況らしい

果たしてアバカがバイバルス暗殺の為に放った工作員が居るのかどうかは分からないが何故モンゴル風の馬乳酒を呑んだのかその辺も謎

167 :世界@名無史さん:2010/02/23(火) 12:33:41 0
ううぅ

とりあえず文盲のおらのために三行に要約して書いてくんろ

168 :名無し募集中。。。:2010/02/28(日) 10:44:39 0
>>145
世界史が始まったのはアッバース朝からだろ
アッバース朝の時代にアラブ商人が世界をまわって交易していた
それをぶっこわしたのがモンゴル人


169 :世界@名無史さん:2010/02/28(日) 21:19:52 O
チンギスハーンの子孫は、ユーラシア大陸の大半を侵略したことについて未だ謝罪されてないね。

170 :世界@名無史さん:2010/03/01(月) 12:44:20 0
>>169
朝青龍ですらふてくされて日本相撲協会や日本に心からの謝罪をしないわけだし無理じゃね?

171 :世界@名無史さん:2010/03/03(水) 05:35:17 0
ロシア人にブチ殺されまくって、自分の祖先について語ることすら永遠に禁じられてしまった、
そんなモンゴル人たちに対し、どうしてロシアは謝罪しないのか?

ロシアによる数百年間のモンゴル人の大屠殺は、スペインによるインディオ虐殺に匹敵する世界史上の大蛮行。
というか、ロシア人やポーランド人に根絶させられるために、バトゥは征西したわけで、
まったくモンゴル人の子孫がこんなにとてつもない悲劇的な運命を背負うことになるとは、バカァなバトゥは微塵とも想像出来なかったんだろうな。


172 :世界@名無史さん:2010/03/03(水) 15:25:54 0
でもモンゴルってソビエトの存在が無ければ今頃、中共の自治区にされ
民族浄化をされる運命だったわけだから半ば感謝じゃねえの?

173 :世界@名無史さん:2010/03/03(水) 23:05:11 O
もともとモンゴルなどは人口不毛かつ産業不在の地で、取引の仲介手数料だけで存立してたわけ
だから、
ほとんどの領域は餓死と逃亡でわずか2世代で人間が消え去ったわけだ
総じてみればルーマニアよりも矮小な民族だからな
これじゃあ残留モンゴル人がロシア人に根絶やしにされたのも当たり前


174 :世界@名無史さん:2010/03/04(木) 17:52:44 O
アレクサンドロス大王とチンギスハン

<哲学と学術>
アレクサンドロス大王はヘレニズムから現代諸科学までの礎を固めた
チンギスハンのチームは何も残せなかった

<工業技術>
アレクサンドロス大王の帝国が哲学を工業技術にまで具現した
チンギスハンのチームは商業で既製品を売買するに止まった

<政治と軍事>
アレクサンドロス大王の帝国では民主的な正統性と民族意識、
さらに土地所有と自己武装と自己採算責任の意識をビザンツやイスラム、西欧にまで伝えた
チンギスハンのチームではごく一部の将兵が大多数の下請兵を金銭のみで雇用し、何の所有も認めず、
また取引先の諸民族とも金銭取引のみ、ゆえに気候変動と産品激変で諸民族との取引破綻、通貨インフレで滅亡



175 :世界@名無史さん:2010/03/06(土) 06:19:19 0
彼はモンゴル族の血をひいていないという説が有力でメルキトの血をひいているそうだ

176 :世界@名無史さん:2010/03/07(日) 11:13:27 0
>>175
え・・・・?
青い狼の血を引いてるんじゃないの?

177 :世界@名無史さん:2010/03/07(日) 13:46:49 0
>>175

あのさ。
何にも知らんようだが、モンゴル族ってのは
遊牧民族だから、厳密な民族定義は無い。
自分がモンゴル族に加わって、モンゴル族だと思えば、モンゴル族だから。

モンゴル国を始めて建設したのはチンギスだから
それまでは厳密な定義は無い

178 :世界@名無史さん:2010/03/07(日) 14:18:58 0
鮮卑や契丹がモンゴル系だとよく言われるが、
チンギスのモンゴル族とどうつながってるんだろう?

契丹の遼とモンゴル帝国は同族なのか?

179 :世界@名無史さん:2010/03/07(日) 14:23:20 0
言語的に近い、と言うだけ

180 :世界@名無史さん:2010/03/07(日) 14:38:42 0
チンギスは、金を征服した際、遼の皇族の子孫の耶律楚材を重用したが、
これは別に同族のよしみで親近感を感じたってわけではないのか?

181 :名無し募集中。。。:2010/03/07(日) 15:30:26 0
>>180
優秀だからとりたてただけでしょ

182 :(仮称)貧乏会社員:2010/03/23(火) 14:04:05 0
ジンギスカンといえば北海道は【M尾】。まったく汚くて喰う気zero♪
経営者ウタハ○は自らをロシア混血人と称している。モンゴルとは縁も由香利
もなくタダのアホ。M尾本家からもダニ扱いされているよーだ。所詮は食肉
偽装メーカーの一族だけはある。神仙なジンギスを汚すヤツは潰せって。

183 :(仮称)蛇苺:2010/03/27(土) 13:15:57 0
何で松尾ネタ?
そんなモン誰からも構われないでしょー!!!!!!
テキトーっぽい店みたいね。
買うヤツ居るん?

184 :世界@名無史さん:2010/04/08(木) 16:10:48 0
>>181
耶律楚材は口だけだって本を見た覚えがある
息子の耶律鋳も同様
どこまでホントかは分からないが過大評価されているのは間違いなさそう

185 :世界@名無史さん:2010/04/20(火) 15:23:11 0
能力が無いヤツをジンギスカンが重用するわきゃないだろ。
しかし耶律楚材を召抱えた理由は政治顧問としてではなく占星術師としてだったんだよな。
モンゴル人は祈祷師や占星術師を重用した。
耶律楚材がさらに政治顧問や外交官として優れてるというのは余禄にすぎなかったと思われる。

186 :世界@名無史さん:2010/04/20(火) 20:43:01 0
あれだろ、杉山の「耶律楚材なんぞ大した事はない、アレは口先の上手さだけで成り上がっただけのヤツ」とか
そんなのを真に受けすぎなだけだろ
確かに耶律楚材が今まで過剰評価されてたんじゃないかって部分は無いとも言えないけど
杉山の少々感情論的な文章で無為に貶めてるのも大人気ない
チンギスハンが自分の幕僚に人種言語を関係なく様々な人材を登用したって事は
裏を返せば能力も無いヤツが登用なんかされる訳も無いって訳だし

187 :世界@名無史さん:2010/04/21(水) 20:17:38 0
>>166
>何故モンゴル風の馬乳酒を呑んだのかその辺も謎

元々クマン族の出身だから馬乳酒ぐらい普通に飲むんでは?

188 :世界@名無史さん:2010/05/01(土) 04:18:08 0
占星術師の占断には兵士の命と軍団の指揮、ハンの威信がかかっていたから、もし誤れば死をもって償う覚悟が必要だったであろうことは想像に難くない。逆に軍が勝利したときに得られる信頼も非常に大きかっただろう。
命懸けの世界なのである。恋愛相談や血液型占いとは世界が違う。
また占いというものは、ある世界観やシステムが存在するという仮定の元、人や世界の諸般を古来から観察してきた膨大なデータでもあり、故事に通じ、政治、祭事、軍事を行おうとするならば、当然扱えるべき重要な物事と言える。
杉山はじめ敬意というものを知らん後世の人間の愚かな自慰的な評価など、当時の英傑の覚悟や精神性を想像すれば馬糞にも劣る。

189 :世界@名無史さん:2010/05/01(土) 16:08:35 0
ジンギスカンの偉大なところは
本人は極めて合理的精神の持ち主で少しも神仏など信じず畏れてもいなかったが
モンゴル人全体が敬謙で信心深いことを鑑み占星術師や祈祷師を最大限利用した。
逆に自分の判断が占いとバッティングした際には自分なりの解釈を皆に聞かせて自分の意思を尊重した。


190 :世界@名無史さん:2010/05/03(月) 20:05:39 0
>>187
馬乳酒自体を飲んでるのがおかしいってんじゃなくって
「モンゴル風」の馬乳酒をなんでその時期に飲んだんだろうって事なんじゃ
戦利品として頂いた可能性が高いんだろうけど実はその戦利品自体が罠だったとかってオチも有りえたんじゃないのかって言う

191 :世界@名無史さん:2010/05/04(火) 13:27:24 0
そだな

192 :トリッピー:2010/05/04(火) 20:35:47 0
ジンギスカン〜ティムール時代の簡易シミュレーションを
作成しました。 無料なので、もし興味があったらプレイしてみて
ください。 改善点・人物の能力値の指摘等があれば助かります。
m(_ _)m

以下サイトのゲーム ユーラシア・レジェンドです。
http://soresuta.com/soresuta_game_2.html

193 :世界@名無史さん:2010/05/18(火) 19:31:31 0
チンギスちゃんに通報しますた

194 :世界@名無史さん:2010/05/26(水) 14:20:57 0
http://www.youtube.com/watch?v=Rw4BWH9Pr00&feature=related

195 :世界@名無史さん:2010/05/28(金) 21:55:53 0
騎馬民族ごときに蹂躙される文明社会って情けないよね。
千年以上前の漢やローマの軍隊のがまだ強かったんじゃないかな?
モンゴル軍なんて匈奴の頃と大して装備も戦術も変わってなかった
だろうに。

196 :世界@名無史さん:2010/05/29(土) 17:39:20 0
>>195
西夏帝国遠征を繰り返し攻城兵器の発明、改良など繰り返し
匈奴の頃より精強だったと聞くよ。

197 :世界@名無史さん:2010/05/29(土) 21:00:02 0
ワールシュタットでモンゴルにボコられたヨーロッパ諸侯とか
全く成長してない感じ。

198 :世界@名無史さん:2010/06/06(日) 01:09:01 0
昨今は遺伝子鑑定技術が発展してきてるんだろ。
いい加減、ジョチが実子かどうか結論付けてくれ。

199 :世界@名無史さん:2010/06/14(月) 23:48:57 0
>>196
土木の変の時のモンゴル軍は明軍主力が壊滅状態なのに
北京まで来て攻略できずに帰っている。
しばらく草原に逼塞してたら攻城兵器とかの技術も衰退したんだろうか?

200 :世界@名無史さん:2010/07/31(土) 01:48:45 0
トルコ語wikipediaに乗ってたんだがバイバルスがベルケの娘婿で、バイバルスの息子のバラカは名前をベルケから貰った(ベルケ・カンが詰まってバラカ)ってのはマジか

201 :世界@名無史さん:2010/07/31(土) 02:05:59 0
それは初めて聞いた。トルコ語読めないんだけど出典はどうなってるの?

202 :世界@名無史さん:2010/07/31(土) 17:43:16 0
>>197
ワールシュタットの500年後には、ロシアにさんざんな目にあわされるんだよな…
この間にモンゴルの技術力は落ちまくったのか、西欧が伸びすぎたのか

203 :世界@名無史さん:2010/07/31(土) 18:05:27 0
特にその事柄に関しての出典は書いてなかったなあ
外部資料のところにはTürk Ansiklopedisiって書いてあるからこのトルコ百科とやらのバイバルスの項に載ってるのかもしらんけど
ちょっと自信の無い翻訳で申し訳ないんだが該当はこの部分で

Altın Ordu Hakanı ve Cengiz Han'ın torunu Berke Han'ın damadı idi.
Kendi yerine geçecek oğluna da Berke adını vermişti.
黄金のオルドのハン(多分ジュチのこと)とジンギスハンの子孫のベルケ・ハンの娘婿である。
後を継ぐ予定の当人である息子はベルケにちなんで名づけたそうだ。

ということらしい。

204 :世界@名無史さん:2010/07/31(土) 21:37:37 0
>>203
ありがとう。

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