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遺失された文化財について

1 :urawath:2008/10/18(土) 11:53:29 0
1937年4月初め、父の盛毓常(盛毓常は盛宣懐の長男の長男です)
は盛宣懐から受け継いた300件余りの非常に貴重な中国古代の文
化財を東京の展覧会に出展しました。出展品のうち、最も貴重なの
は雨過天晴ヒョウタンの瓶、宋、元、明清時代の有名人の真筆、書
画、碑文の拓本、母屋のバーチカル・シャフト、巻物と田黄、ニワ
トリの血の印鑑です(そのうち、田黄で作られた貴重な観音菩薩像
もありました)。
当時、同行したのは母親の王碧芙、姉の盛瑋(当時4歳)、二人の
スタッフの宋治鈞、顧静波及び乳母の阿珍などでした。
父の日本人友人である奥田愛三(歯医者)に彼らの渡日旅券、出入
国などの手続きをしてもらいました。(当時、上海の康脳脱路金司
徒庙弄に自宅があり、これらの文化財を日本へ持って行くまでは、
自宅の中で秘蔵していました。奥田さんは当時、上海虹口にある施
高脱路(現在の山陰路)の近くに住んでいまして、中国各業界、数
多くの有名人士を知っていました。かつて、父と一緒に魯迅先生に
会いに行ったことがあります。奥田さんは父が骨董品などの文化財
を持っていることを知ってから、よくほかの日本の方々(日本皇族
の方もいました)を連れて観賞しに来ました。)当時、奥田ご夫妻
と助手の陳光生氏(浙江寧波出身)も同行しました。
全員上海からの出発で、日本船の“長崎丸”に乗って日本神戸港に
到着した後、列車で東京まで行きました。これらの文化財はクスノキ
の木箱に入れられて、携帯して日本まで持ち込みました。
東京に到着後、父、母、姉は東京の“龍名館”、“山王飯店”に
宿泊していました。スタッフたちはずっと“龍名館”に泊まって
いました。

2 :urawath:2008/10/18(土) 11:56:47 0
その2

奥田さんのご紹介で、父は当時、とても声望のある藤山爱一郎さん
と知り合いました。(藤山爱一郎さんは当時の日本の参議員であり、
中国解放後、日中友好協会の会長にも務めていました)。藤山さん
のお手伝いのもと、父が主催した展覧会は1937年4月28、29日の2日間に
渡って、東京銀座工業クラブにて順調に開催されました。その間、
父は展示物の中いくつかの骨董品を藤山さんのお友達に売却したことも
ありましたが、その以外の文化財、骨董品を売り出すつもりは一切ないと
強調しました。
1ヶ月後、母は妊娠で、かつ生活に慣れないため、奥田夫人と一緒に、
姉、乳母を連れて先に帰国し、父はスタッフたちと一緒に日本に残って
いました。奥田夫人は上海にしばらく滞在した後、父に依頼され、上海
の自宅に残されたもう一部の文化財、骨董品を持って、再度日本に戻り
ました。
1937年6月10日、上海の弁護士の卓騰乾さんからの電話を受け、父は会社
の急用で、帰国せざるを得ない状態になりました。時間が急いだため、
父は文化財を“龍名館”の責任者に預かり、スタッフの宋治鈞を日本に
残して、文化財の面倒を見させ、スタッフの顧静波と一緒に中国へ戻り
ました。中国での用事を終わらせてから、また日本に文化財を取りに行く
予定でした。
1937年6月末、宋治鈞氏は言葉が通じないうえ、中国からの連絡もなかった
ため、奥田さんに会いに行きました(奥田さんは東京に住まれていたが、
当時、肺病のため、熱海で療養していた)。奥田さんから300円を借り、
一人で上海に戻りました。今後また父と一緒に日本へ行って、文化財を
取り戻すことつもりでした。
しかし、その後すぐ、1937年7月7日に盧溝橋事件、8月13日上海事変が
起きました。日中戦争が勃発した状況の中、父親は日本から、これらの
文化財を取り戻すことができませんでした。

3 :urawath:2008/10/18(土) 11:59:19 0
その3

1941年前後、奥田さんが再び上海に来ました。父は奥田さんと面会し、
奥田さんの話によると、文化財はまた日本東京の“龍名館”に保管
されていました。その後、父、母は何度もこれらの文化財を取り戻そう
と努力したが、戦争が長引いたため、実現できませんでした。
1945年戦争が終わってからも、中国国内の政治変動などの都合で、
父は、これらの文化財を取り戻すという願望はずっと実現できませんでした。
1949年から、長い間、日中の間は国交関係を結んでいなかったため、父は
再び日本へいくことなく、自らから文化財を取り戻す願望を実現できませんでした。
1966年2月、父は病気で亡くなりました。亡くなる前に、父は、母に文化財
を日本に保管している証拠をきちんと保管するように頼みました。将来、
子供の私たちがいつかそれらの文化財を中国に取り戻すことを願っていました。
しかし、その後、中国の文化大革命が起きました。母は自分が保存した日本での
写真や、証拠物(奥田夫人と日本で撮った写真も含み)などが災難に引き込まれる
ことを恐れ、ほとんどの写真、証拠物を焼却してしまいました。
前世紀80年代、私の2番目の姉、盛英は友人を通して、藤山さんと手紙を交わしたこと
がありました。90年代に、中国関連部門にもこれらの文化財を取り戻すように
お願いしたが、証拠が不十分のため、その願望を実現できませんでした。
前世紀90年代、上海作家寧露霞さんが台湾で“盛宣懐一族盛衰史”という本を
出版しました。本の中に父が日本に文化財を残したことを取り上げました。
その後、2002年の前後、台湾商人の方竜驤さんが香港から何回か私に電話を
掛けてきました。電話の中で、彼は一部の文化財を持っていると言いました。
もし、私がこれらの文化財は父が祖父の盛宣懐から受け継いたものである
と証明できれば、文化財がオークションで値上げた分の20%——50%を私に
渡してもよいと言っていました。
それと同時に、私も何度も親戚と友人から、前世紀40年代に日本東京の
“龍名館”の近くに大火災が起き、これらの文化財は焼き尽くされた
かもしれないという話を聞きました。

4 :urawath:2008/10/18(土) 12:02:12 0
以上は、わが家族の文化財について、過去70年間の経歴でした。
以下のことについては確実であると考えています。
1、1937年4月、私の父、母は確かに300件余りの文化財を日本へ
持ち込みました。そして、日本の“龍名館”に預かっていました。
我が家族は今まで、これらの文化財の行方について分からず、
取り戻すことができませんでした。
2、わが家族は、東京“龍名館”の支配人(1937年以降の各位)
は、これらの文化財の行方を知っているではないかと考えています。
3、奥田愛三さんのお子様たちは奥田ご夫妻と私の父母との写真を
見たことがあると考えています。さらに、文化財についての情報も
あるではないかと考えます。
4、私自分も、前世紀の90年代前後に、東京の“龍名館”に行った
ことがあり、そこに手紙を出したこともあったが、ご返事はもらえません
でした。

私は、日本の皆様が中国に対して、善意を持っていると深く信じております。
そのため、本文を書きました。これらの文化財に関する情報をお持ちでしたら、
ぜひ、私に連絡していただきたいと思います。我が家族の長年の願望を果たせる
ように、ご協力を心からお願い申し上げます。
もし、これらの文化財を取り戻せるなら、重要な情報をご提供していただける
方に謝礼をさせていただきます。

盛宣懐の曾孫:盛承懋 2008年10月


連絡用電話:86-130-6388-0382 (中国語)
      86-139-1555-2957 (日本語)
担当者:盛承懋・楊
E-mail: scslz@public1.sz.js.cn 
wsscm41@yahoo.com.cn
urawath@yahoo.co.jp


5 :世界@名無史さん:2008/10/18(土) 12:08:09 0
へーそりゃ困った話ですね。

6 :世界@名無史さん:2008/10/18(土) 12:33:40 O
港区芝の留園ビルのオーナーが盛宣懐の子孫
(今も盛家の所有物件かどうかは知らない)だから
そっちを当たった方が2chで聞くより早いんじゃないか?
もっとも華僑の人脈から言って既に聴き込み済みで
成果なしだったのかも知れないけど
しかし盛一族って日本軍のアヘン工作にも深く絡んでいて
(あの里見甫のパートナーだったという)
それで戦後共産国家になった中国から日本に来たらしいから
>>1はその辺なんか聞いてない?





7 :世界@名無史さん:2008/10/18(土) 13:36:22 0
ホントに中国人って心が汚れてる。

8 :世界@名無史さん:2008/10/18(土) 20:39:42 0
>>7
そんな事はないだろう。戦争のゴタゴタに巻き込まれて物がなくなるのは良くある事で、
それをこうやって探し続けるのは、悪い事じゃない。

9 :世界@名無史さん:2008/10/19(日) 00:59:53 0
新手の詐欺?

10 :世界@名無史さん:2008/10/19(日) 21:49:43 0
スレタイ見て昔あった失われた文化財を悼むスレみたいなのだと思った。
なんつうか、板違いのような希ガス。
もっと人のいる板でやったら?

11 :urawath:2008/10/22(水) 23:26:35 0
>>6
ご返事ありがとうございます。
日本の港区に住まれていました盛毓度、盛毓邮の二方は盛宣懐の4番目の
息子の子供であり、そして私の叔父でもあります。盛毓度は東京留園ビル
のオーナーで、1990年代になくなりました。盛毓邮は東京新雅飯店の
オーナーで、何年前にもなくなりました。東京に文化財を残した盛毓常
(本人の父)は盛宣懐の長男の長男であり、1937年4月以降、日本へ行った
ことがありません。
 1980年代に、叔父の盛毓度が中国に来た時、私の姉が彼に文化財について
聞いたこともありましたが、この件について、ご存じでない、そして、探す
のが大変だと言われましたので、姉はあきらめてしまいました。
 盛一族の中、日本軍のアヘン工作に絡んでいることは特に聞いてことがないですね。
中国から、日本へ行ったのも、家族の中の一部です。行く理由などは、特に
教えてくれなかったです。

>>8
本当にありがとうございます。
おっしゃったとおり、戦争に巻き込まれていたもので、今更と思われる
かもしれないが、やはり、親の最後の願いと自分もやっと探す余裕が
できましたので、詐欺などと思われるかもしれませんが、自分としては、
やっばり最後の最後まで頑張ってみたいと思っています。

>>10
ご意見ありがとうございます。
いろいろな掲示板にしてみようと思いましたが、全然関係ない掲示板に
書き込むと怒られるかなと。。。ヤフーの「歴史」とここの「歴史」関係に
書き込ませていただきました。

12 :山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/10/23(木) 00:45:56 0
所在が分かっても戻って来るものかどうか分かりません。
法的な権利が認められないかもしれませんし、現在の持ち主が手放さないか
もしれません。
旧江戸の文化財は関東大震災か東京大空襲であらかた焼かれたと言います
が、後者で失われた可能性も高いでしょう。
しかしともかく、雑談スレの方にもご相談になっては。

13 :6:2008/10/23(木) 14:59:51 O
レスどうもです
あと盛氏って満州族ですよね?
新疆の盛世才とは血のつながりがあるのかな?


14 :urawath:2008/10/28(火) 20:52:33 0
>>山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ
おっしゃったとおり、災害で、失われたことも可能ですし、見つかっても
戻って来ない可能性も大きいです。でも、自分にとっては、戻ってくる
よりも、今どこにあるか、また、どうしてそこまで辿りついたかを知り
たいです。
雑談スレの方々に相談してみます。ご意見ありがとうございます。

>>6
うち一族は、江蘇省常州府武進県(現在の常州市)人です。満州
ではありません。また、新疆の盛世才とは関係ないですね。
 6様は、歴史にお詳しいですね。


15 :山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/10/29(水) 01:50:12 0
>>14
お気持ちは人情として当然のことと存じます。
雑談スレはこちら。博学な方がご存知かもしれません。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1225211170/l50

16 :世界@名無史さん:2009/01/07(水) 03:25:25 0
>>1
>雨過天晴ヒョウタンの瓶

これは何?汝窯の瓢形瓶ってこと?

17 :世界@名無史さん:2009/02/04(水) 04:39:28 0
西洋で長年にわたり伝説と化している『契約の箱』などの
古代イスラエルの至宝の数々は日本に隠匿されえいる
現代日本人の始祖である古代イスラエル渡来民族が
日本に持ち込んだのである

詳しくはアカシャ美術館「日ユ同祖論の根拠」を参照
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=


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