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アルサケス朝パルティア・ササン朝ペルシア

1 :ありす:2008/09/13(土) 16:35:39 O
イスラームイヒ以前ですね、分かります。

2 :世界@名無史さん:2008/09/13(土) 16:37:59 0
パルティアは貴族連合というか、幕藩体制みたいなイメージ。

3 :ありす(ケータイ専門):2008/09/13(土) 16:41:55 O
中世ヨーロッパの封建制度にも似てると思います

4 :世界@名無史さん:2008/09/13(土) 17:02:04 0
鐙を発明したのはパルティア。
ところで同時代的には西はローマ帝国が、
東には漢があるんだけど、
パルティアって世界史における重要性って
薄いよね。

5 :ケータイありす:2008/09/13(土) 17:12:02 O
パルティアが鐙を発明したんですか!
初耳です。出来れは情報源を教えてください(フン人発明説を信じているので)

パルティアが世界史で重視されないのは、史料が乏しいから、あるいは研究が不十分だからでは。


6 :世界@名無史さん:2008/09/13(土) 17:44:34 0
退却時(あるいは偽装退却時)のパルティア騎兵の射撃は
「パルティアン・ショット」という議論の後の捨て台詞を意味する言葉になったって本当?

7 :ありす:2008/09/13(土) 17:51:20 0
転じて捨て台詞の意味になったのは本当らしい。ヤフー辞書とか↓
ttp://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=parthian++shot&stype=0&dtype=2

8 :世界@名無史さん:2008/09/13(土) 18:03:38 0
残念ながら重複スレなのです

【Parthia】中世ペルシア諸王朝史【Sasan】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1105356309/

9 :ありす:2008/09/13(土) 18:05:51 0
完全に私事になりますがそれは2年前から知っています。

10 :世界@名無史さん:2008/09/13(土) 18:20:12 0
>>5ウィキペディアに書いてあったよ。
間違いかもしれないけどね。
もし明らかな誤記であったら、君が
訂正するといい。

11 :ありす:2008/09/13(土) 18:23:14 0
明らかに偽とは言えませんが、
それなら何故同時代かつ隣国のローマに鐙が伝播しなかったのですか

12 :世界@名無史さん:2008/09/13(土) 18:36:03 0
戦争には地形というものが大事で、
当然地形にはそれに合った兵科が必要になる。
ローマは大体侵略されるとサザエみたいに
都市に閉じこもって動かなくなるでしょ?
それと歩兵で対応するのが多い。
騎馬重視のパルティアとはぜんぜん違う装備に
なっていても不思議ではない。

13 :ありす:2008/09/13(土) 18:41:57 0
ローマとパルティアは紀元前53年以来、メソポタミアおよびアルメニアの領有を巡って
恒常的戦闘状態にあった。あとローマは、四隅に突起のついた鞍を使っていた。
・・・ローマは騎兵を重視していたと思います。


14 :世界@名無史さん:2008/09/13(土) 19:03:35 0
そうなの?でも兵器といえば
支那の弩が広まらなかったのも不思議だ。
現代でいえば狙撃銃(ライフル)に
相当するのに西方にまったく広まっていない。

15 :ありす:2008/09/13(土) 19:05:20 0
弩は1回打つのに

16 :ありす:2008/09/13(土) 19:07:57 0

ミス↑
弩はたった1回打つのにも相当時間がかかった。
鐙とは有用性の次元が違う思います。

17 :ありす:2008/09/13(土) 19:08:51 0
・・・
違う思います→違う と 思います

18 :世界@名無史さん:2008/09/13(土) 19:12:52 0
>>14
使いにくいんだよアレ。しかも壊れやすいし。

19 :ありす:2008/09/13(土) 19:14:25 0
見るからに重そう

20 :世界@名無史さん:2008/09/13(土) 22:05:34 0
>>14
中国から西方への道→数の少ない遊牧民・山岳地帯
海周り→日本のような山や森の多い島

これでは弩が役に立たない、むしろ邪魔。


21 :ありす:2008/09/13(土) 22:47:36 0
先日何気なく本を手に取ったら、アルサケスがアルケサスになってた・・・

コスプレパレード? アケメネス朝とパルティア?
ttp://www.militaryphotos.net/forums/showthread.php?t=126850

22 :世界@名無史さん:2008/09/14(日) 20:03:59 0
>21

ハーレヴィー王朝の絶頂期に行われたイラン建国2500年祭の時の
歴代王朝の軍事パレードの映像ですね。

イスラム革命後、もはや見ることは不可能、思っておりました。


23 :ありす:2008/09/14(日) 21:43:42 0
そ、そんなレア物とは知りませんでした・・・!パフラヴィー朝主催ですか、どうりでイラン系国家ばかりのコスプレだったわけです!
あとパフラヴィー朝の Pahlavi って、ペルシアの勇者(英雄?)っていう意味でしたっけ?
さらに同王朝の国旗をみたのですが、中央のライオンのデザイン、パルティア時代の貴族の紋章に似てるって言うレベルじゃなく似てました。




24 :世界@名無史さん:2008/09/15(月) 01:42:13 0
ローマの騎兵はケルト人の発明した四方に突起のついた鞍を使っていたので
鐙がなくてもバランスを取れたとか・・・

25 :ケータイありす:2008/09/15(月) 09:13:23 O
でも鐙の方が遥かに使い勝手がいいような
(現在まで生き残った)

26 :世界@名無史さん:2008/09/15(月) 09:22:58 0
ローマ軍はカルラエの戦いで負けた後どういう戦術でパルティア人と戦ってたのやら。
結構勝ってたらしいけど。

27 :ケータイありす:2008/09/15(月) 09:34:41 O
ローマ対パルティアの戦いを長いスパンで見ると、ローマのあまりのしつこさにパルティアが疲弊しただけに見える

28 :世界@名無史さん:2008/09/15(月) 11:04:04 0
あと後期にはササン朝の勃興によパルティアる弱体化に、ローマが乗じただけの争いも多い。

29 :ケータイありす:2008/09/15(月) 11:31:55 O
パルティアは始めから地方分権的な性格が強かったけれど、後期になるにつれてそれらがより顕著になってくるんですよね
さらに滅亡直前には、ファールス地方はいわずもがな2百なんぼの領邦的なものに分裂していたそうです。
ウェストファリア条約後の神聖狼魔帝国みたい。
でもその状態で最後にローマ撃破したパルティアは凄いと思いました。


30 :世界@名無史さん:2008/09/16(火) 04:40:22 0
>>21
最後ササニアンとか言ってるからササン朝か。
その前はパルティアだね。

31 :ケータイありす:2008/09/16(火) 16:13:03 O
ササン朝の重装騎兵のヘルメットの形が独特で面白い(山みたいな)
本当にあんな形状だったんでしょうか…

32 :ケータイありす:2008/11/28(金) 14:27:30 O
なかなかテストにパルティア・アルサケス・クテシフォン・出ない。

33 :世界@名無史さん:2009/01/09(金) 21:34:41 0
去年は>>1大活躍だったなw

34 :ありす:2009/01/13(火) 21:54:24 O
私のことですか。

35 :世界@名無史さん:2009/01/15(木) 11:54:05 O
ローマの引き立て役

36 :ありす:2009/01/15(木) 17:52:35 O
いつもサムソンですね。
寒村と書いてサムソンと読む
この掲示板の事


37 :世界@名無史さん:2009/01/15(木) 23:40:57 0
>>1
史実ではなく物語の映画化だけど、「赤壁」では、曹操軍が、
織田信長が銃兵を3層にして、順番に射撃したのと同じように、
時間短縮を図っていた。史実はどうだったんでしょうね。
この方式なら弩も十分戦力になるかと。

38 :ケータイありす:2009/01/16(金) 14:07:37 O
弩を使わなくても、複合弓があれば十分だと思います。37 さんの上げている戦法では、弩よりも射程距離の長い弓を採用した方が、機動力・効率ともにupして、更なる時間短縮になるのではないでしょうか

39 :世界@名無史さん:2009/01/16(金) 18:47:53 0
>>37
銃スレでそんな話題が

15 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2009/01/14(水) 20:33:38 0
>>8
>まして、数万〜数十万の騎馬が一斉に向かってくる大陸の戦場では火縄銃の三段撃ちなども現実的ではない。

唐代の杜佑「通典」では弩は装填に時間がかかり、敵が迫ってくるまでに一回か二回しか発射できないので
弩兵を数列に分けて交代しながら装填と発射を繰り返すべし、と書かれてるよ。
火縄銃じゃないが基本的には同じ発想かと。

40 :世界@名無史さん:2009/01/16(金) 18:52:54 0
ところでこのササン朝騎兵が使ってる5発斉射の弩みたいのはいったい・・・
ttp://www.amazon.co.jp/gp/reader/1841767131/ref=sib_dp_pt#reader-link

41 :ケータイありす:2009/01/16(金) 19:20:09 O
サヴァランナイト専門の武器? (この本買ったらわかるんだろうか)…パルティアも軽装騎兵と重装騎兵では、もってた弓が違ってたらしいですが

42 :世界@名無史さん:2009/01/19(月) 19:44:33 O
>>40
その本持ってます

要約しますと
その五連装弩は“Panjagan”という名の武器で
ササン朝後期に対フン族、対トルコ人(突厥?)等の中央アジアからの遊牧民の騎乗弓兵対策用兵器として開発されたものだそうです
敵の騎乗弓兵はアウトレンジでこまめに機動しながら集中的な弓射してくるのに対し
その機動を止めるために“Panjagan”で集中射するという戦法を取り
Bahram Chobinが588年のBalkhの戦い、589年のHeratの戦いに
アルメニア人の将軍Smbat BagratuniがTusの戦いにそれぞれ勝利しました

ササン朝の騎兵Savaranは槍だけでなく弩の扱いにも熟練していたそうです

43 :世界@名無史さん:2009/01/19(月) 20:03:06 O
>>40
おまけですが

そのイラストの右側の人物はBanu(=lady) Paygospanan(=provincial military commander)と呼ばれる地方部隊の女性指揮官で
主に中央アジア出身のイラン系ないしはトルコ系の女性がなり管理業務に携わっていたそうです
中央の騎士もそうですが、騎兵がしているベルトが階級章、部隊章代わりで
そのイラストの女性指揮官はエリート部隊の指揮官です

ササン朝初期には直接戦闘に携わる女性のSardar(騎士)がいたようで
ローマ側にも記述があり、対ヴァレリアヌス帝戦にも従軍していたようです

44 :世界@名無史さん:2009/01/19(月) 20:24:43 0
>Panjagan

しかしイラスト見てもどういう仕組みで発射してるのかさっぱりだな

45 :世界@名無史さん:2009/01/19(月) 21:46:07 O
>>44
これはあくまで想像図です

46 :ケータイありす:2009/01/20(火) 16:24:00 O
45さん、詳しい解説ありがとうございます!ササン朝も新兵器開発したり必死ですね。
それからあの本の表紙、かっこいいですよね。同じ出版社で、パルティアも入ってる本があると思うんですけど、KKK団みたいなカタフラクトが載ってました。

47 :42:2009/01/20(火) 20:11:01 O
>>46
あると思いますが、まだ私は入手してません
スキタイなら持ってますが

OSPREYはなかなかマイナーものも充実しているのですが
マイナーテーマは洋書屋さんで見つけたら即買わないとなくなっても直ぐには入荷してくれないのが玉にキズ

パルティアもゆくゆくは入手したいのですが
パルティア本国まで攻め入り、あと一歩でパルティアを滅亡寸前に追いやった
アンティオコス7世のセレウコス朝シリアも私にとっては興味深いテーマの一つですね

48 :ケータイありす:2009/01/20(火) 21:06:32 O
パルティア内のギリシア集団は、一貫して癌細胞の様。それを発症させようとするセレウコス朝パルティアは嫌いです、(というより興味がありません。
セレウコス朝は、結局短命・単純な征服国家にしか見えませんでした。それに比べて独立以来数多の逆境・障壁がありながらも、500年存続したパルティアは面白いです。
と、両国について未曾有の主観的、総論的な駄文をよこしてしまいましたが、ご気分害されたのならすみません…

49 :42:2009/01/20(火) 21:21:45 O
まあ人それぞれですから
気にしていませんよ
私はただ単にマイナー好きな人間ですから、ササン朝には興味あるけどメジャーなアケメネス朝にはあんまり。。
中国史も五胡十六国だけ好きだし

50 :ケータイありす:2009/01/20(火) 22:10:55 O
良かったです〜ホッとしました、ちなみに私がパルティアに興味を持った元凶は、パルチアという発音を聞いたことです。変ですよね。(汗


51 :世界@名無史さん:2009/01/20(火) 23:53:05 O
自分的はササン朝においてイラン人農耕民の民族国家が成立したと思えるから好きなんですよ
ゾロアスター教もこの時代にイラン人の民族宗教として確立した時代ですし
アケメネス朝はあくまで世界帝国で非アーリア系のセム系に妥協した部分が多いように見える
パルティアというかパルチアの場合は初期とか遺物をみるとヘレニズム後継国という感じがしてしまう
その当時の彫像や建造物の柱なんか見ると特に

これも個人的な思い込みが大きいのでまた何か影響されたら考えが変わってしまう可能性が大ですがね

52 :ケータイありす:2009/01/21(水) 14:09:06 O
確かにパルティアの文化はヘレニズムの影響下にありますね。特にコインではそれが顕著だと思います(セレウコス朝のそれより、何故か出来が悪い、というのが気になります)
次第に現地文化が復活した、というような記述がよくありますが、その現地文化がどんなものか、私は分かりません、
特に東部では早くから現地文化が… という記述もあって、東部もウェブで調べたんですが、西部よりヘレニズム色が強い感じ…ガンダーラ美術とか、(これもパクトリアのしわざだと思いますけれども)
結局、純パルティア的文化は、生まれえなかったという感じです。

53 :世界@名無史さん:2009/01/21(水) 18:59:02 O
ゾロアスター教徒は今も弾圧されてるんですか?イラン革命って革命って言うよりイスラム基地外保守派の回帰運動だったから異教徒には阨災だと思う

54 :ケータイありす:2009/01/21(水) 19:37:38 O
ゾロ教徒が近現代でも弾圧されてるかどうかは知らないんですけど、イスラーム教徒のふりをしたゾロ教徒とかいそうな感がします(爆)
というよりこれから増えそうな気がします。特にインターネットの効用で。
イラン革命は異教迫害ではなく、石油資源の国有化などを目指したものには違いないんですが、ゾロ教徒は大変だったでしょうね。 アメリカ・イギリスの影響下から脱却するためには、民族意識の触発としてのイスラーム原理主義の利用が手っ取り早かったんでしょうけど!
あと、ゾロ教徒はパフレヴィー朝時代では、かなり元気だったと思います、パフレヴィー時代の国旗、政党名を見る限り。
(パフレヴィー朝、死んで欲しくなかった……


55 :世界@名無史さん:2009/01/21(水) 22:28:13 0
パルティアでも変なところでヘレニズムが生きていたな
カルラエの戦いの後殺されたクラッススの首が
宮廷で上演されてた「バッコスの信女」の小道具に使われたりとかw

56 :世界@名無史さん:2009/01/21(水) 22:38:31 O
小さい子供時代にその時点ではイスラム革命後十数年ぐらいは経っていたのですが
どっかのTV番組でかつて帝政時代にやった歴史的パレードを見たことあります
その時はアケメネスとかササンとか知識は勿論なく、子供時代のうる覚えなのですが
昔の軍装で大集団でパレードしていたのに驚嘆しましたね
何々時代の。。と言われる度に違った軍装の大集団は圧巻でした

イラン系遊牧民国家に興味あるのならクシャーナ朝を調べるのもなかなか面白いかもしれませんよ

57 :ケータイありす:2009/01/21(水) 23:33:25 O


私はYouTubeのボケた動画でしか、例のパレード見たことありません。パルティアのコスプレかっこよかった〜テレビで見たかった〜
クシャーナ朝については、ローマやギリシアと同じぐらいパルティアに迷惑かけるので、
私としてはアレルギーなのですが、パルティアに関連する限り調べ中です。52さん、私などに気を使っていだだき、恐縮です(ペコリ(お勧めなウェブページ、または情報がもしあれば、お暇なときに是非お知らせ願います

58 :42:2009/01/26(月) 00:07:20 O
>>57
仕事が忙しくてなかなか2ch見れませんでした

ご存知であったら申し訳ありませんが
歴史素人の私がパルチアやクシャーナ朝の情報を仕入れたのはだいたい下記の本です(たいしたことありませんが)
[パルチア]
『アイハヌム2003』東海大学出版会
T 「ヘレニズム的東方」としてのパルティア−初期パルティアの歴史・文化概説

『アイハヌム2004』同
V 中央アジアのギリシャ人とヘレニズム文化←パルチアに関する記述若干あり

[クシャーナ朝]
『大月氏』東方選書
←2章割いてクシャーナ朝に関する記述あり、但し遺跡遺物に関する記述中心

『アイハヌム2001』東海大学出版会
U ザール・テパ都城址←クシャーナ朝時代の遺跡

『アイハヌム2002』同
U バクトリアとガンダーラにおけるクシャン朝成立史によせて

『アイハヌム2003』同
U クシャン人と大乗仏教
V シルクロードのコイン←パルチアのコインの記述も若干あり

59 :ケータイありす:2009/01/26(月) 15:09:47 O
あ、ありがとうございます!お疲れのなか本当に恐れ入ります
全部知らない本ばかりでした、早速チェック人になります!


60 :世界@名無史さん:2009/01/26(月) 22:30:10 O
>>59
今日は早く帰れたのでふと思いある本を見たらパルチアに関する記述が僅かながら見つかりました

『ポンペイウス・トログス ユニアヌス・ユスティヌス抄録 地中海世界史』

第四十一、四十ニ巻はパルチア史として割かれていますね
第四十一巻はパルチアの建国前後の逸話、開祖アルサケス1世、アルサケス2世
プリアパティオス(アルサケス3世)、プラアテス1世、ミトリダテス1世(アルサケス6世?)の略史

第四十ニ巻はプラアテス2世、アルタバノス1世、ミトリダテス2世(アルサケス8世)、プラアテス4世の略史と
ローマ軍との戦い
王位簒奪者ティリダテスの逸話

第三十八巻にも少し記述ありますが、これはセレウコス朝のアンティオコス7世シデテスにパルチア本国まで攻め込まれる話なので
パルチアサイトの方は見ない方がいいかも知れませんね

とにかく上のニ巻でページ数は二十ページもいかないので四千円もする本を買うのはお勧めできませんから
図書館で見つけるか図書館に取り寄せ依頼した方がいいでしょうね

あくまで著者はローマ人なのでその辺は御考慮ください

61 :ケータイありす:2009/01/27(火) 14:21:07 O
パルティアが記録を残さなかったので、ローマ人の記述は本当に貴重だと思います。でも、474年間歴史の編纂を行わなかった国家なんて信じられないです。(個人的にはササン朝の時期に、年代の捏造とともに破棄されてしまったのではないかと考えていますが…
あと、20ページ分の記述あるとは、びっくりです(図書館を物色するに、シルクロード全史っていう本とか、せいぜい1パルティアページ位しか割かれてないのが殆どで…しかも内容おかしかったりしてました

62 :42:2009/01/29(木) 03:49:08 O
>>61
あとですね

ゾロアスター教スレではかなり叩かれている本なのですが
『ゾロアスター教史』刀水書房
もパルチアの概略史は載っています
しかし買うまでには値しないと思います
パルチアのゾロアスター教がゾロアスター教としては亜流であるためか
パルチア関連の記述がかなり少ないからです


話は別ですが
パルチア王族の子孫がローマ帝国で生きながらえていたのをご存知ですか?
とはいっても分家のアルメニア王家ですが
(AD53年にパルチアが王弟ティリダテスをアルメニア王位に就けた 〜428年)
つまり本家が滅んでも暫くはローマの支援で生き延びていましたが
ついにササン朝に制圧され王家はローマに亡命
王族の子孫は6世紀半ばのユスティニアヌス帝のゴート戦争で一時制圧したイタリア駐留軍の将帥の一人として
ギボンの書に登場してましたね
しかし運悪く蜂起し巻き返してきた東ゴートの新王トティラに討たれしまうのですが
まあトティラは他のイタリア駐留軍の将も次々破り、ついには常勝将軍ベリサリウスも破っているので相手が悪すぎましたね

63 :ケータイありす:2009/01/29(木) 15:13:19 O
初めて知りました!
死んだのは悲しいですが、6世紀まで見分けついたとか、重役についてるのとかはすごいです!
(王侯貴族の亡命系とか、その後〜っていうのが興味あるので、ありがとうごさいます)

64 :42:2009/01/31(土) 23:59:08 O
>>63
お久しぶりです

>>62のパルチア王族の生き残りの件で訂正です
ギボンの本(第6巻)を見直したのですが
王族と見られるのは2名いますね
うる覚えなので私ごっちゃにしてました
失礼しました

一人はアルタバズスといういかにもイラン系の名の人でベリサリウス召喚後のビザンツのイタリア駐留軍の将11人の内の一人
前述のようにヴェロナでペルシア兵を率い東ゴート軍に敗れ、一騎打ちで落命したとあります

もう一人はアルタバンでヴァンダル制圧後カルタゴのアフリカ総督の座を簒奪したゴンダリスを誅殺する功を上げ
後にゴート戦争末期にシチリア奪回したと書かれてますが
私の所有する東ゴート関連の洋書(下記)からシチリア奪回の年代を推察すると
552年以降の話と思われます
それ以前だとゴート軍にインドルスという有能な将がゴート海軍で逆にダルマチア、コルフ、エピロスを断続的に攻撃していたからです

『The Goths』
『History of the Goths』
『A HISTORY OF THE OSTROGOTHS』

65 :ケータイありす:2009/02/01(日) 00:24:44 O
42さん、ありがとうございます。
アルタバズスさん一騎打ちで死亡…なんか変な死に方しましたね。
(一騎打ちといえば、10世紀以降のヨーロッパの騎士しか思い付かなかったのです)個人戦なんてパルティア時代では無かったような気がします。(集団戦法で)
追いつめられてたんですね、うう!
あと、少し脱線しますが、アルタバンのペルシア語形はアルタバヌスなような感がします。

66 :42:2009/02/01(日) 00:47:48 O
>>65
名前はそうでしょうね

アルタバズスの一騎打ちの件は私も疑問で
前述の東ゴート史関連の洋書から推察すると
ファエンツァでイタリア駐留のビザンツ軍12000(ギボンの本では20000)と挙兵したトティラ率いる東ゴート5000の決戦が行われ
東ゴート軍が圧勝したのでその時戦死したのではないかと


あと図書館とかでデュラントの『世界の歴史』あったら見るとパルチアの章があると思いますよ
もううちの近くの図書館からなくなって久しいのですが、かなり巻数あったのでどの巻かわかりませんが
この人の歴史書は文化史中心ですが、面白い人物エピソード載せてくれるのでなかなか見応えあると思います
ただ戦前の人なのでそのへん考慮した方がいいと思います

67 :ケータイありす:2009/02/01(日) 11:19:45 O
情報ありがとうございます!今度県図書館で探してみます。ちなみに図書館といえば、パルティアの歴史っていう本探すのに本気苦労しました、もとの棚に戻されて無くて!あとカバーも紛失してて!あのカバーがカッコいいんじゃないか〜(愚痴すいません)


68 :梵阿弥:2009/02/19(木) 19:44:45 0
>>62
東ローマ皇帝ヘラクレイオスはアルサキド家の人ですが、アルメニア王家の裔
なんでしょうかね。アルメニア王家はアルシャクニと書く事が多いですが、
尚樹氏は自著の巻末でアルサキドと書いてます。
もし同じ家なら、パルティア王家の裔が東ローマ皇帝と成ったという事ですね

69 :ケータイありす:2009/02/19(木) 20:58:55 O
アルサケス朝→アルサキド dinasty
英語ウェブページではこの表記が多いですが、アルサキドという単語はおそらく、"アルサケスの〜"という意味で使われていると思います。
((すいません、アルサキドもローマ字表記にしようと思ったのですが、綴りarsacid?うろ覚えかつ近くにパソコンが無く〜))
でも、アルサケスという単語には、パルティア国王の称号になる以前に何か辞書的意味があったかもしれないので、東ローマ皇帝の出自に関しては、断定が難しいと思います。
たまたま同姓なだけだったり(名字が鈴木の人が沢山いるという具合に
それから、アルシャク(ニ?)は、アルサケスのパルティア現地での呼称だったみたいです(ウィキペディア)
((ヨコモジアルサケスは千変かもです。シャー=ナーメの日本語約では、アリシュになってました。

70 :世界@名無史さん:2009/02/20(金) 21:57:14 0
遅レスになるけど・・

>>23
「パフラヴィー」というのはペルシア語で「勇者」とかの意味で使われる場合が多いけど、
元々は「パルティア」そのものの事を指していて、パルティアを指す古代ペルシア語の
「パルタワ(parθava)」の -rθ- が -θr- という音転換(メタセシス)と、 θ〜h というを
音韻変化を起こして -hr- となった上、サーサーン朝の中期ペルシア語(いわゆるパフラヴィー語)の
書式では r音 も l音 もl の文字で統一して書くと言う習慣の影響で、pahlav-という読みになったらしい。

>>42
気になってタバリーの『諸使徒と諸王の歴史』(英訳)を調べたら、イェメンのヒムヤル王国が
エチオピアのアクスム王国に滅ぼされた後、ホスロー1世がアクスム朝と東ローマ帝国のアラビアへの
勢力浸透を警戒してこれを牽制するためアラビア半島へ軍を派遣しているんだけど、この時派遣された
ワフリズ Wahriz という将軍の軍隊がパンジャガーン(原文ではバンジャカーン banjakan )という
矢を発射する兵器を使用したことが書かれてあった。

イエメンの人々はこんな兵器は見たことが無かったらしく、駐留していたアクスム王国の将軍、
マスルーク(Masruq)の軍はつぎつぎに射殺され撃退されたんだとか。

71 :世界@名無史さん:2009/02/20(金) 22:45:29 0
>>69
イスラーム時代以降のペルシア語やアラビア語の伝統的な歴史学では、
イスカンダル・ズルカルナイン(アレクサンドロス3世)の没した後、アンティオコスの
ことらしいアンタフシュ Antakhsh の支配を挟んでイスカンダルの時代とサーサーン朝との
370年の間にアシュカーニー朝 Ashkaniyan という王朝があったことが書かれていて、
この初代君主アシュク Ashk b.Dara から21代程続いたことになっている。
(このアシュクという人物はイスカンダルに滅ぼされたダーラー王(一応ダレイオス3世に相当)
 の息子とされている)

ただ、タバリーの『諸使徒と諸王の歴史』や『シャー・ナーメ』などはサーサーン朝の記事が
割合豊富なのに比べ、このアシュカーニー朝の君主たちの事蹟は2、3行程度しか書かれない。
サーサーン朝がパルティアの事蹟をほぼ滅殺した影響で、イスラーム時代に入る頃にはイラン本土
ではパルティアの歴史はほとんど忘れ去られてしまったらしい。


『諸使徒と諸王の歴史』には勿論ヘラクレイオス帝 Hiraql も出て来るけど、出自については
特に書かれていないみたいなので、彼がアルメニア王家の出身だったとかはイラン方面には
伝わっていないのかも。

72 :世界@名無史さん:2009/02/24(火) 09:43:54 0
>「パフラヴィー」というのはペルシア語で「勇者」とかの意味で使われる場合が多いけど、
>元々は「パルティア」そのものの事を指していて

すると格闘士のパフラヴァーンは元をたどるとパルティア人か。面白い。

73 :世界@名無史さん:2009/02/25(水) 00:10:47 O
お久しぶりです
色々多忙でなかなかこちらにお邪魔できませんでした

>>68>>69
そうですか
新しい情報で勉強になります
ありがとうございます

私の浅い知識ではヘラクレイオスがアルシャク家と関係あるかどうかわかりません
アルシャク家とは関係ありませんが
ビザンツの中興の祖となったマケドニア朝は祖先がマケドニアに移住したアルメニア人貴族であることは知ってましたけど

あと「ゾロアスター教史」によると
BC1Cの歴史家イシドロスによればパルニ族の族長が即位式を行った場所が
アルシャクキルトという街だったということです
それがその族長の名になったかどうかはわかりませんが
その街には不滅の火が燃えていると言われ拝火信仰と関連したらしいですが

当初アルシャク朝は小規模の遊牧国家だったのでセレウコス朝も黙殺していたのですが
アルシャク朝が急成長しカスピ海岸南東ヘカンピュロスに進出
そこでギリシア風の文化に触れ気に入り遷都して「ギリシア文化の愛好家」を称するようになった
と書いてありますね

74 :世界@名無史さん:2009/02/25(水) 23:05:47 0
安息とサウロマタイ&アランは、アケメネス朝時代には同族だったのではないだろうか?
サウロマタイらの発祥の地は、ウラル山脈南麓とされ、パルティアの真北であったとされる。
安息らは、ウラル山脈南麓からパルティアへ、南下したのではないだろうか?

75 :梵阿弥:2009/03/19(木) 19:10:20 0
>>69
そういえばヘラクレイオス(イラクリオス)はアルメニア人説が有力です。書き忘れました。
尚樹 啓太郎氏の『ビザンツ帝国史』の巻末資料では「アルサキド朝」の歴代君主を載せます。
索引では、アルサキド朝 Αρσακιδαι 7,30,317頁と成っていて、
ギリシア文字で書くからにはギリシア語でもそう呼んでたんですかね。
そして、7,30頁に載るのはアルサキド朝アルメニア王国なんですが、
なんと317頁では、
 カルタゴ総督イラクリオスはカパドキア貴族の出で、
 アルメニアの名家アルサキド家の血を引く
と在ります。
「朝」「家」で違うのだから唯でさえ別項目にしても良いのに1つに纏めるからには、
同じ家と見ていると言えないでしょうか。
一方、同氏の『ビザンツ東方の旅』では、
 ヘラクレイオスの先祖はアルメニアの名家アルサケス家の出であるといわれる
とあります。
同じ人が書いてるからにはアルサキド家はアルサケス家と呼ぶことも在るという事でしょう

76 :梵阿弥:2009/03/19(木) 19:36:19 0
また、ゲオルグ・オストロゴルスキー『ビザンツ帝国史』では、
 アルメニア人のヴァレンティノス・アルサキドス(アルサクニ)は
 マルティナとヘラクロナスに対し小アジアで挙兵
と在り、ラテン文字ではValentinos Arsakidos です。CがKなのは著者がドイツで
活動した為でしょうか。これを見るとアルサキドとアルサクニは同じと判ります。
これが尚樹氏の『ビザンツ帝国史』では、Ουαλεντινοσ Αρσακιδοσ
です。彼も同族でしょうか。
アルシャクニというのはアルメニア風なんでしょうね。他にバグラトゥニ、アルツルニ、
アマトゥニ、ホルホルニといった家名が在ります。
鈴木氏の例えは不適切だと思います。何人居ようとも親を辿れば1つに成るからこその
同族意識な訳で。勿論建前ですけどね。

77 :梵阿弥:2009/03/19(木) 19:52:09 0
>>73
シリア朝でも最後のレオン5世はアルメニア人です。アモリア朝の皇后テオドラや、その兄弟で、
甥のミカエル3世のカエサル(副帝)と成ったバルダネスもアルメニア人。この頃は他にも何人も
アルメニア人貴顕が居ますがパルティアとの縁は判りません。その点アルサキド家の人とされる
ヘラクレイオスと異なります。
アルメニア王家アルシャクニがパルティア王家の分家だからと言って、アルメニア王国人が
皆パルティア人になった訳じゃ在りませんからね。
現時点ではヘラクレイオス帝がパルティア王家の裔かどうかの根拠はこの場では足りない様です。
学問の進化に期待しましょう。既に結論が出てるかも知れないので見逃さない様にしたいですね

78 :ケータイありす:2009/03/20(金) 16:21:30 O
遅いレス大変失礼します
>>74
ttp://heartland.geocities.jp/zae06141/iranhistory36_0.html のアルサケス1世の項を参照してみたのですが、少なくとも紀元前6世紀以降は混在していなかったと思います。
>>アルメニア
そういえば、アルサケス家以外のパルティア貴族も、パルティア滅亡後には沢山アルメニア方面に流出していたみたいです
結構人気のある人もいれば、ゾロアスター教を強制したせいで殺害される知事もいるとか。
また、こんなウェブページを見つけました。第4形式段落に、
アルメニアはササン家の攻撃を逃れたアルサケス家の………
とあります
ttp://www.h7.dion.ne.jp//~gankocat/roma1-6.htm

79 :梵阿弥:2009/04/16(木) 19:11:48 0
詳しいサイトですね。「通史7」の11段落にこんなの在りますね。
 "ビザンツ皇帝ヘラクリウス1世はカッパドキア出身であると言われるがアルメニアのアルサケス王家の
 血縁者であった。かつてのローマの宿敵であったアルサケス朝パルティアの末裔がローマ皇帝となるとは
 何とも皮肉な結果である(ビザンツではアルサケス家は名門であると考えられていたので、後の皇帝にも
 マケドニア朝バジレイオス1世などアルサケス家出身であると主張する者が現れる)"
残念ながら典拠が無いので、電脳網情報の常として鵜呑みに出来ませんが、
ともかく同じような事考えてた人が居たんですね


80 :世界@名無史さん:2009/04/17(金) 08:25:38 0
ギボンのローマ史でも言及されてたね。懐疑的ではあったけど。


81 :ケータイありす:2009/04/22(水) 19:59:25 0
>>79 さんが引かれているところと同じところなのですが、「通史7」の11段落の、
"かつてのローマの宿敵であったアルサケス朝パルティアの末裔がローマ皇帝となるとは
何とも皮肉な結果である(ビザンツではアルサケス家は名門であると考えられていたので、
後の皇帝にも マケドニア朝バジレイオス1世などアルサケス家出身である
と主張する者が現れる)"
のところ。このホームページの筆者の感想と言えばそうなのですが、"皮肉な結果"というのは
微妙だと思います。ササン朝に滅ぼされたパルティアの王家の末裔が皇帝ならば、
ビザンツ帝国にとってそれは同朝と戦う際のいい名目になったと思うので・・・
・・・(自分は無知で教えて君タイプなのに、細かい変なこと言ってしまって申し訳ないです)

82 :梵阿弥:2009/05/14(木) 18:52:44 0
ローマ皇帝がササン朝と戦うにあたり、ササン朝に滅ぼされたパルティアとの縁を表明するのは
確かに政治的に有効な選択肢に思えます。とはいえパルティといえばローマの仇敵の印象在りませんか。
だから、因果は巡る、といった意味で「皮肉」という語を使ったんじゃないでしょうか。
自然な語彙選択だと思いますよ。私もそう書こうと思ってた位なんで。
バシレイオスのときの敵はアラブ(イスラム)に変ってましたが、同じイスラムでもアラブ(メソポタミア)と
イランは文化的背景の異なる部分も多い。だからバシレイオスがイランとの縁を語った(騙った?)のも、
アラブの背中をくすぐろうとしたかも知れませんね

83 :梵阿弥:2009/06/05(金) 15:05:54 0
>>4
初めて佛典を漢訳したのは安 世高(清)です。
『東アジア佛教とは何か』 編:高崎 直道/木村 清孝 に拠れば、
彼は説一切有部の盛んだった安息国の太子として生まれ、後漢の桓帝の建和2(148)年に
洛陽に来て、20数年に亘り訳経、35部41巻ほどにのぼるかと見られます。
霊帝の建寧年間(168から172)迄活動しました。
アビダルマ/禅観/阿含経等の上座部のものが中心でしたが、釈道安が彼に注目して
継承者の様な役割を果した事もあり、天台の止観や禅宗の源流とも言えます。
そして慧遠は道安を継承したから浄土教の源流でもある。
『義決律』を訳したとされますが現存しません。
安姓であっても、自身や祖がブハラ出身なだけの場合も在ります。しかし彼の場合は、
「安息国の太子」とされています。ということはパルティアのアルシャク家の一員だった
という事でしょう。但し、「説一切有部が盛んだった」というのは気に成りますが。
パルティアで佛教が盛んだったとは聞かない。一応現トルクメニスタンのメルブには
僧院遺跡が在ります。そもそもブハラというのは「ヴィハーラ」から来ると言われる。
ともあれ時代は合っている。安 世高という名もアルシャク(安息)と音が似る。安 清でも良い。
何で読んだか忘れましたが、国が荒れてるので継承権を叔父に譲って佛門に入ったとか。
しかしシナで大きな仕事をしたものの建寧期に成ると戦乱に巻込まれ、江南に逃れるも
死んでしまったらしい。
と言う訳で、パルティア人が東アジア佛教に大きな影響を与えました

84 :世界@名無史さん:2009/08/09(日) 02:07:55 0
age

85 :世界@名無史さん:2009/11/15(日) 16:23:24 0
あげ

86 :世界@名無史さん:2010/02/14(日) 14:35:27 0
ヤフーでパルティア見聞録が出品されてるよ。

87 :世界@名無史さん:2010/02/14(日) 17:53:05 0
パルティアはギリシャ・マケドニアの殖民都市を残らずせん滅

88 :世界@名無史さん:2010/02/21(日) 00:58:50 0
ローマとの戦争で、ローマに味方してギリシャ人ポリスの自治権を剥奪。
バビロニア伊東でギリシャ系が同化・消滅したのはそれ以後か?

89 :世界@名無史さん:2010/06/17(木) 14:00:51 0
京都大学学術出版会から出版された「西洋古典学事典」を買ったら、
アルサケース朝パルティアーやサーサーン朝ペルシアに関する記述や系図が
あまりにも詳しく載っているので、しんそこ驚いた。

90 :世界@名無史さん:2010/06/17(木) 15:03:29 0
お金持ち!裏山シィー!!

91 :世界@名無史さん:2010/06/18(金) 12:58:00 0
東京都心部で「西洋古典学事典」を店頭においてある店があれば教えて。

92 :世界@名無史さん:2010/06/22(火) 15:07:28 0
でつまつ厨は、今頃何をしてるのかな?

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