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■ ウィトゲンシュタイン Wittgenstein 4 ■

1 :考える名無しさん:2007/02/08(木) 01:15:44
言語哲学、分析哲学の創始者。
カフェテリア・グループの一人。
ケンブリッジ大学・トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶ。

時代区分
前期(1889年 - 1921年)
(ほとんど不詳な)学生時代、『論考』のアイディアが纏められつつあった第一次世界大戦とそれに続く時代(「日記」)、『論考』の時代
中期前半(1922年 - 1933年)
哲学への復帰と現象主義や文法一元論、およびそこから推移してゆく『哲学的文法』、『哲学的考察』の時代
中期後半(1933年 - 1935年)
『考察』の考えからの変化を深めていく『黄色本』『青色本』『茶色本』
後期前半(1936年 - 1945年)
『哲学探究』、特にその第1部400節ころまで
後期後半(1946年 - 1949年)
『哲学探究』第1部の残余の執筆を経て、さらなる変化に到るとも想像されている第2部への時代
晩期(1949年 - 1951年)
死の直前の『確実性の問題』

主な著作
『ウィトゲンシュタイン全集』(全10巻)大修館書店
『論理哲学論考』岩波文庫(野矢茂樹・訳)
『反哲学的断章―文化と価値』青土社(丘沢静也・訳)


前スレ
ウィトゲンシュタイン3
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/philo/1101629404/

ウィトゲンシュタインに関係する主要な研究者のサイト、その他関連サイトは >>4-10 あたりにあるかも。

952 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 05:16:10 0
言語ゲームの正しい使い方の例ってあるんですか?


953 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 10:08:49 0
言語ゲームは認識上、一時的に客観視できるが、
現実においては客観視できていないのです。

954 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 11:18:51 0
>>953
そうでもないだろ。確かにウィトは言語ゲームを個別的・具体的に言語ゲームを詳細に論じることには
あまり興味がなかったようだが。数学や私的言語について、ルールの適用という観点では論及がある。
言語ゲームをルール系とその適用とみる視点があるなら、参考になる論究はウィト以外にも得られるはず。
一例を挙げればハートの「法の概念」とか。でも、哲学的に重要だと思うのは、ルールや私的言語の可能性を
通して考えることで、「自分の思い通りにならない世界」「自分とはまったく異なる感性・生活慣習・思考習慣
・価値観」を持つ他人・他者が目の前に居るという発見なんだと思うな。その他者とどう折り合いをつけるか。
言語ゲームはその他者との折り合いを具体的な生活、あるいは生きるという全活動を通して全力でなすべき何か。
つまり、「私が世界」的・論考的な独我論的世界観は言語ゲーム的な世界観で超えられる端緒に着いたのだと。
後期のウィトの思想や手記に癒しを感じるのはこの点を明瞭にしようとする意志が読み取れるからなんだけどな。

955 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 14:35:36 0
>>952
ない。
ルールが明確にできないから。

956 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 14:48:16 0
ない。というのは言い杉。
たとえば。「開廷・閉廷」の宣言でなされる法廷での言語ゲーム。
厳密なルール適用がなされてるだろ。言語の使用の正しさは、
数式理解ほどに、同一的な意味了解がなされないまでも、
反論されたり、異議が唱えられないかぎり、誤りではないと
推定される。もちろん、スルーも異議の内なら、異議の表明が
ないからといって、肯定的に受け入れられている。わけではないが。


957 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 15:13:02 0
>>952
> 言語ゲームの正しい使い方の例ってあるんですか?

「正しいかそうでないか」という捉え方に囚われてはそこでストップ。
重要なのは、
「言語ゲームの役に立つ使い方の例ってあるんですか?」
と思う。
これならば、『無い』と断言できる。

958 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 15:25:13 0
>>954
そのような細かい社会学的ルール分析は社会学や心理学の
実証科学的領域であって哲学たりうるのか。

959 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 15:42:27 0
何を断言したいのかよくわからないよ。

言語ゲームの理解に役立つ例ならあるだろ。
卑近な例なら、現在継続中の米国民主党の大統領候補の予備選。
厳正なルールに基づいて政策議論の応酬が公正(正しさ)に行われている
ように見えるけれど。そして結果は得票で明らかになる。

日本の国会での議論も同じ事。ルールは法律。ルールに基づいて
なされる言葉の応酬は正しい言語ゲームといえるのじゃなか?
もちろん、それは絶対的な正しさを意味しない。あくまで、政治的な
偏りのある相対的な正しさに過ぎないが。


960 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 15:58:06 0
>>958
実証科学と哲学の分野に線引きし切り分けるのも学究的ルールに基づく言語ゲーム。
実証科学の分野でも言語とルールとの関連を研究している例はある。といったまでで、
哲学者が様々な分野の実証研究をすべきだ。だなんて一言も云っていないけど。

それに、ウィト自身、論考については「当時、私は論理学者として物事を考えていた」
なんて語ってそれを哲学@論理学者の所行としてみてる。あまり分野縄張りにこだわる
必要ってないと思うけど。

961 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 15:59:39 0
そんなことなら、何も「言語ゲーム」って言わなくたっていいのでは。
「言語ゲーム」があっても無くても、大統領選や国会の議論は変わらんよ。

>>957は曖昧っだね。。次のように変更してください。
重要なのは、
「言語ゲームを使ってお金が儲かる方法ってあるんですか?」
と思う。
これならば、『無い』と断言できる。

この意味では物理(相対論や量子論)と比べると「月とスッポン」



962 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 16:02:26 0
>>961
>>「言語ゲームを使ってお金が儲かる方法ってあるんですか?」 と思う。
>>これならば、『無い』と断言できる。

がは。googleのやってることは何? 
googleの株式の時価総額はトヨタより高額。


963 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 16:13:54 0
>>962
なかなかうまく通じないんだが、
googleの社長さんがウィトの「言語ゲーム」を知らなくても、
googleの株式の時価総額はトヨタより高額になったと思うよ。
もうそろそろわかってくれたかな。

964 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 16:26:32 0
同一語「言語ゲーム」を用いても言語ゲームは可能だねえ。w

国語辞典編纂者の金田一京助が語義解説した「言語」とか「ゲーム」
とかを知らなくても人は言語を操るし、ゲームで遊ぶことができる。
googleの創業社長ががwitを知っているかどうかは問題にはならないだろ。
言語ゲームはウィトの専売特許、固有理論とかじゃない。哲学的に、
ことばの交わされる現場・現象を言葉の語彙やその持ち方、ルール
や文脈とを総合してみれば「言語ゲーム」として見える。というまでのもの。
じゃないのかね。 

965 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 16:27:33 0
×持ち方 ○用い方

966 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 16:34:02 0
しかしそれってただの社会学や行動主義心理学だし、
何でウィトゲンシュタインを出す必要あるのかと言えば、
権威付けにしか意味がないだろ。

967 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 16:40:52 0
社会学とか行動主義心理学?
そういう眼鏡は手持ちにないのでよくわらないな。
ウィトを権威付けのために持ち出した? そんなことないと思うけど。
言語ゲームの理解に役立つ例として、予備選や国会や法廷の話をしただけ。

このスレって、何のスレ? 

哲学的な視点でとしてことばを考えるというのは、重要なことだ思うし。
そういう点で、ウィトの著作は読み甲斐があるんだし。


968 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 16:45:21 0
大統領候補の予備選での応酬やgoogleや裁判の過程やメカニズムを
詳細に分析してルールを抜き出したり、機能構造を解明すのは、
法社会学や心理学や政治学で実証科学としてやればいいと思うのだが、
だから何だという感じだな。

969 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 16:47:36 0
ああ、なるほどね。
ウィトゲンシュタインの名前を出せば、
社会学の権威付けには役に立つよということか。

970 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 16:51:54 0
>>968
ことばの問題を考えるとき、ことばの使用現場を全く考慮しないでなされる哲学で何が可能だろう。
議論で、相手が自分の意見をなかなか受け入れないからといっても、ある意味、仕方がないことだろ。
他人は自分とは別のコンテキスト生きる者であるから、意味了解も当然のように差異が生じる。
だからこそ、議論が必要ななら、議論は尽くされなければならないのだと思うね。>>954で書いたとおり。

971 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 17:03:02 0
>>970
語用論的記号論ね。
やればいいんじゃないのw
誰も止めてない。

972 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 17:10:09 0
俺は記号論は好きくないw
哲学は記号論的なレッテル貼りではないからな。
むしろ実存的な行動主義だ。

もっとも、清貧を主義とすると生活は苦しくなるがw


973 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 17:37:17 0
>>970
あなたはプラグマティズムの思想史上の重要性を言っているのだろうけど、
俺もプラグマティズムは尊重しているよ。

974 :考える名無しさん:2008/06/03(火) 20:53:03 0
良く分からんけど"正しい"言語ゲーム、
正しくない"言語ゲーム"とかあるの?

米国大統領選とか日本の国会の審議の規則とかは
言葉を用いて行われるただの共同体の意思決定のルールであって、
言語ゲームとは何の特別な関わりも無いように思うけど。
こういう場所において、ただ二人で対話するときに比べて
より「言語ゲーム」としての性質が際立って理解しやすいということは無い。

975 :ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/06/03(火) 23:21:54 0
ん?日常会話を「言語ゲーム」と呼んだだけだろう。
社会学や行動主義心理学というよりも、いまなら認知科学でしょ。

976 :考える名無しさん:2008/06/04(水) 00:38:26 0
明文化された規則でなく、明文化されてない規則に注目したのが言語ゲームだろう?
ロールズの公共的理由のように「どのような単語を用いて正当化するか」につなげることも可能では?
>>975の「…言葉を用いて行われる…」のところのことばの使用規則となら言語ゲームは関係するだろう

977 :考える名無しさん:2008/06/04(水) 01:29:25 0
確実性の問題って、よくわからんのだけど。

978 :考える名無しさん:2008/06/04(水) 04:04:27 0
このスレもそろそろ尾張だけど、
ウィトゲンシュタインのどの解説書よりも価値があったと思う。
結局
「『言語ゲーム』について誰もわかっていない」
ことを証明したのだから。

誰か次スレ「ウィトゲンシュタインWittgenstein5」を立ててね。

979 :考える名無しさん:2008/06/04(水) 04:37:32 0
哲学は言語論的転回から → 認知論的転回へ

言語ゲームから → 記号ゲーム、情報ゲームへ

980 :考える名無しさん:2008/06/04(水) 09:24:29 0
尾張名古屋は城で持つ

981 :ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/06/04(水) 10:21:52 0
規則は明文化されてもされてなくてもでもよいが、
原理的にそれだけではコミュニケーションは成立しないということ。
これを言語ゲームとよぶ。
どれが言語ゲームでなく、すべてのコミュニケーションが言語ゲームということ。

だから「規則」ではなく、「(ただ)規則に従う」ことでコミュニケーションは成立している。
で、「規則に従う」ってなに?

ようするに「規則」という明文化以上のなにかがなければ、コミュニケーションは成立しない。
いまのところで回答になっているのは以下の2つかな
@超越論的・・・慣例があるとみなが信じることで成立する、という「大文字の他者」説
A運動認知的・・・行為には言語とは異なる知識がある、という「体が覚えている」説

982 :wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/06/04(水) 11:15:44 0
>981
<「規則」という明文化以上のなにかがなければ、コミュニケーションは成立しない。>

規則が機能するには、同時的なもの異時的なものを問わず、なにがしかの共同体の存在が前提となる。

983 :ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/06/04(水) 13:59:15 0
なにがしかの共同体だけでは、猿でもありますよ。

984 :wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/06/04(水) 16:58:08 0
>983
前レス読んでないで不遜ご容赦。
規則は言語ではないのですか?

985 :考える名無しさん:2008/06/05(木) 01:30:23 0
実際サルやイルカには鳴き声に原始的なコードがあって
それによって或る程度の情報を伝え合っています。

ヒトとそれ以外の動物で全くコミュニケーションの質が全く異なる、
というのはおそらく誤りなので、
そういう考えは改めないと将来的に科学によって明確に否定されるでしょう。
どんなに大きく違うように見ててもその差は連続的なものです。

人間の言語に関する能力のうち大きな部分は生得的なものでしょう。
実際、サルに生まれたときから付きっ切りで
人間の言語を覚えさせようとしても成功しませんから。

986 :ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/06/05(木) 10:49:22 0
>>985
人のコミュニケーションと動物のコミュニケーションの大きな違いは、
反省にあります。コード(規則)がなく、コンテクスト(状況)の関係のなかで
コミュニケーションが成立する。それが「言語ゲーム」です。

人はコード(規則)がなく、コンテクスト(状況)なる捕らえられないものの中で、
コミュニケーションが可能なのは、不思議だな、とウィトはいったのです。

987 :ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/06/05(木) 10:54:44 0
「コード(規則)がなく、」というのは表現として強すぎますね。

コンテクスト(状況)との関係で、コード(規則)が決定されず、

ということですね。

988 :サルデナイヨ:2008/06/05(木) 11:31:41 0
東南アジアの大津波の際、地震発生前にゾウの群れが山に駆け上って難を逃れました。
これは年老いたゾウが過去の地震を経験として記憶していて、
それの反省から起こった行動だといわれています。
過去の経験を記憶しており、それから近い未来を予測し、
悪い未来への対処法を仲間に伝えたと考えられます。
伝え方は人間と違えど、対処法を自らしめし、仲間を誘導して難を逃れた、
ということを考えると、コミュニケーションや反省というものの類を行っていた
のではないかと考えられます。
動物に対比して人間はこれこれの点で特別である、という話を聞いたとき、
人間の能力の分析の部分は素直に受け止めてよいが、
比較された動物の分析の部分は文字通り受け取ってはならない。
動物は未来を予測しないとか過去を反省しないとか、一言で断言はできないのである。

989 :阿修羅∞落とし:2008/06/05(木) 11:39:01 0
量子の真空に眠る記憶を皆読み取っているのだよ。
人間も動物も植物も鉱物も、みんなみんな反省して生きている。

990 :考える名無しさん:2008/06/05(木) 11:47:27 0
ゾウの話はよく分からないけど、
生物学はまだ新しい発見の可能性を残しているからね。
チンパンジーの脳も新しく開発可能な人間的な領域があると
専門家は考えているらしい。

991 :ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/06/05(木) 13:04:34 0
動物は機械ではありません。高度な知を持っています。
でなければ、きびしい自然環境の中で生き残って行くことなどできません。
しかし動物の知は、人間が考える知とは異なります。
動物の知は、環境との密接な関係の中の試行錯誤によって
培われる「体が覚えている」というような運動の知です。
だから動物には歴史と文化はあります。同じ種でも鳴き声、行動に地域差が
あることはよく言われています。

人間が考える知とは、運動の前に思考する知です。
自らがどのような状況にあるのか知り、自らを知り、変化を予期する。
このような反省思考の知は言語がなければ難しいでしょう。
言語の特徴の一つをとてもアバウトに言えば、世界を自らの中で
再現する道具です。その言語記号による内的な世界をシミュレーションする
ことで目標を設定し、実際に環境に働きかける。

これは独我論的な世界です。ウィトは独我論を否定しません。
そしてそれでも他者とコミュニケーションが成立する不思議を「言語ゲーム」と
呼びました。

992 :ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/06/05(木) 13:19:27 0
ウィトの言語ゲーム論のラディカルさは、数学が一つの恣意的な言語世界
であることを示しました。それはただ慣習によって支えられているあやふやなものです。

このような言語ゲームのラディカルさの前では、生物学、心理学、進化論は
思考停止に追いやられてしまいます。
たとえばQ「きりんの首はなぜ長い」、A「高い木の草を食べるため」は、
典型的な言語ゲームである。

再度言えば、言語ゲームはそこに規則があるように、短絡します。
原因と結果を密接に結びつけ、それが一つの解釈であることを
忘れることで、成立します。要するに客観的に確かであるように錯覚する
客観主義なのです。

地震発生前にゾウの群れが山に駆け上って難を逃れましたということが
事実であったとして、ゾウが過去の経験を思い起こして、
地震が起こったときにゾウの群れに起こる悲惨な惨事をイメージして、
山に駆け上がってゾウの群れが安堵する様子をイメージしたというような反省を
言語を持たないゾウが行ったとは考えにくいでしょう。

よく考えて、仮の予期が働いたとすれば、運動の知によって、ただ振る舞った
ということでしょう。 


さらに考えられるのが、この話が「言語ゲーム」的な客観主義であるということです。
ようするに、「地震発生前にゾウの群れが山に駆け上って難を逃れました」という結果を、
ゾウが人間のように高度に思考したという原因と短絡させ、解釈する。
人の思考は、ペットと親密な話が出来るほどにたくましいものですから。
それこそが独我論を乗り越える「言語ゲーム」のたくましさです。

993 :考える名無しさん:2008/06/05(木) 13:44:21 0
人形や文房具とも会話できるし、このスレッドも一人が書いているかも
しれないのに数人が書いていると思いこめるしね。
独我論的世界でのコミュニケーションて、
孤独な一人っ子の人形ごっこみたいだな。

994 :サルデナイヨ:2008/06/05(木) 13:58:05 0
>>動物の知は、環境との密接な関係の中の試行錯誤によって
>>培われる「体が覚えている」というような運動の知です。
>>だから動物には歴史と文化はあります。同じ種でも鳴き声、行動に地域差が
>>あることはよく言われています。

動物が行うのは運動の知?と言い切るのはよろしくないと私は考えます。
前の例でいいますと、その地域のお年寄りでさえ、ゾウがそのような行動を
するのは見たことも聞いたこともない、と言っていたらしいです。
つまり、そこのゾウはその大津波で初めてそのような回避行動を取った
可能性があるのです。
991の理論に対していいますと、運動の知、つまり試行錯誤で体が覚えている、
と言っても、覚える瞬間というものがあるでしょう?
先のゾウの例を991の理論に当てはめますと、
その対処を成し遂げた瞬間が覚えた瞬間といえるのではないでしょうか?

そこでは過去の経験を記憶しており、それから近い未来を予測し、
悪い未来への対処法を仲間に伝えたと考えられます。
伝え方は人間と違えど、対処法を自らしめし、仲間を誘導して難を逃れた、

>>人間が考える知とは、運動の前に思考する知です。
>>自らがどのような状況にあるのか知り、自らを知り、変化を予期する。
>>このような反省思考の知は言語がなければ難しいでしょう。
とウィトの本には書いていましたね。しかし私はそこのところで違和感を感じたのを今でも覚えています。
同様に、あなたの文章の該当部の断定形にも違和感を感じます。


995 :考える名無しさん:2008/06/05(木) 14:49:35 O
ヴィトゲンシュタイン
て表記したら間違いですか?
ワーグナー>ヴァーグナーみたいなもんかな
英米語圏ではどう?

996 :ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/06/05(木) 14:52:06 0
>>994
もうこれ以上は伝説の世界で「語り得ません」が、
ただ客観主義的に短絡させようとしすぎているように思います。
すなわちそこに「意味」を読み込もうしすぎているということです。

運動の知を動物がもつ下等な能力と思っているのではないでしょうか。
「言語ゲーム」は反省思考の知だけで、コミュニケーションであり、
数学などの学問であり、人間文化が成立しているという錯覚を
転倒します。すなわち人間においてもすべての基本は、運動の知です。

それがウィトが言語ゲームを可能にするために訓練・実践・行為が必要であると
繰り返しいう理由です。反省思考の知が高等、運動の知が下等という
形而上学を転倒します。

>>
規則の表現−たとえば、道しるべ−は、私の行為と如何に関わっているのか、
両者の間には如何なる結合が存在するのか?・・・私はこの記号に対して一定
の反応をするように訓練されている、そして、私は今そのように反応するのである。(198)

規則の或る把握があるが、それは、規則の解釈ではなく、規則のその都度の適用
において我々が「規則に従う」と言い「規則反する」と言う事の中に現れるものである。(201)
したがって、「規則に従う」という事は、解釈ではなく実践なのである。(202)

「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての
問いではないならば、この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、
[事前の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、
そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。
そのとき私は、こう言いたい:「私は当にそのように行為するのである」(217)

ヴィトゲンシュタイン
<<

997 :wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/06/05(木) 15:03:18 0
>996
ですから、ヒトもサルも、それぞれの共同体から切り離してしまうと、「形而上の概念の集積度」の相違しか残りませんね。

998 :考える名無しさん:2008/06/05(木) 15:10:35 0
英語圏ではもちろん、Wittgenstein。ウでもヴでもないだろw
ウは英語読み、ヴはドイツ語読みとかいう話を聞いたことが
ある。そこを意識すると、ハプスブルグ帝国時代のウィーン
生まれなウィトなのだから。ヴィトと発音したがる人も多いね。
ただ、大修館の全集がウである。ということから、日本での
慣習はウ読み。日本語しか話せないのならウ。英語がおkならウ
ドイツ語ペラペラならうヴでもok。じゃない?w ろくすっぽ独語も
できないのに、ヴ読みが妥当。なんて言い張るのだけはよそうね。w

999 :ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/06/05(木) 15:27:15 0
>>997
さらにえいば、ハイデガーはイデア論からつづく形而上学的な「真実」とは
現前性にあると言います。、「光の開けの中に存在する」ということです。
ここには反省思考の知が高等、運動の知が下等という形而上学があります。

反省思考の知とは、言語化によって自覚して、提示するということです。
だから理性という真理です。それに対して、運動の知は無自覚に行われ
ことで、現前化されません。だから動物の知で下等です。
このような表象主義、客観主義は現代の科学技術まで繋がっています。
言語化し、明らかにすることが真理である、ということです。

たとえば動物園の動物、あるいは美術館でも同様ですが、あれが形而上学的
イデア装置であるのは、まさに「表ー象=前に-置くこと」ことで真実を
開示するように設計されているからです。動物園の動物は生息の環境から
切り放されて、形而上学的なイデア性として現前化されます。
基本的に科学は百科事典的な分類によって同様な装置として、環境を
言語化し、真実を語ります。

ウィトはここまで語っていませんが、ウィトに近いデリダはまさにこのような
イデア性の批判によって、言語ゲーム論に近接します。

>>
イデア性としての存在の規定は、逆説的にも、現前性としての存在の規定
と一体になっている。表ー象=前に-置くことが、視線に対する近さとして
現前性の一般的形式であるので、純粋なイデア性とはつねに、正面に向かい
合って、反復作用の前に現ー前しているイデア的「対ー象」(面前にー投げられ
たもの)のイデア性だから

「声と現象」 ジャック デリダ
<<

1000 :考える名無しさん:2008/06/05(木) 15:29:35 0
ウィトゲンシュタインは業績ゼロとかいうゴミがいます

1001 :1001:Over 1000 Thread
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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