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日本の国語教育14

498 :おっさん:2007/07/03(火) 02:01:15 ID:wOdUShi9
>おっちゃんは、例えば、在日の子どもを念頭において教えることがありますか。
日本語を母語・第一言語とする一方、異なる文化コードを持つ可能性があります。

そういうことはないです。僕は北海道に住んでいます。
例えば、同和教育とか名前を知っている程度です。京都の本屋に行って驚いたことがあります。
在日の人たちの存在も僕の生活圏ではほとんど見えませんでした。
むしろ最近になって差別的な言説が目に付くようになりました。
僕が教師をしていて出会ったのは、アイヌの子供たちでした。
しかし、僕自身が出会った子供たちに関しては、
教室でそのことを意識しなければならないと思ったことは正直ありませんでした。
僕の担任したその子がアイヌの子であると知ったのも、
その父と偶然話す機会があり、たまたまのことでした。
観光「アイヌ」を生きる人々、それに反対する人々、そしてその父のように同化しようとしている人々。
その父自身は、言葉においても生活習慣においてももはやアイヌとしてほとんど何も持っていなかったのだと思います。
その子にアイヌであることを父が伝えなければ、その子は全く意識することなく回りと同じに生きる、
そのことへの迷いがその父にはあったのだと思います。
父の話を聞いて、それで僕の教室で何かをすることはできませんでした。
また、海外から留学生の子を担任したことがあります。
文化的な違いによる問題は日常的でした。そのひとつひとつに実際的なな対応をしてきました。
彼の国のことや文化のことも日常的な話題でした。
確かにその子は「引き裂かれた状況を生きる人間」であったのかもしれませんが、
日常的な問題解決以上の何かが必要であったのか、在日の子供たちの問題と同様に考えられるのか、よくわかりません。

いつもながら記憶があいまいですが、柄谷が「探求」で問題にしていたことを思い出してみます。
「話す−聞く」モデルに代えて「教える−学ぶ」モデルを提示しての思考があったような気がします。
(用語等ずいぶんあやしいのですが。ダンボールの中の本もどこにあるのか・・・)
「話す−聞く」モデルは、コードを共有したもの同士の理解。
それに対して「教える−学ぶ」は、コードそのもの、コードというそのことを
「教える−学ぶ」ことがなければ成立しない。
コードを持つ教える者とそのコードを持たない学ぶ者(他者)、
そうした非対称の関係こそがコミニケーションを成立させる基底的な場である。
そんなお話だったような気がします。
この意味で「他者」だと思うのは、入学してきた1年生です。
特にLDや自閉症の子たちは、教える場面では本当に「他者」だと思うことがあります。
例えば、どうしても平仮名が読めない子がいます。
そうした子に平仮名を教えるということは、試行錯誤の連続です。
自分にとって自明だと思ってきた単純なことを掘り起していかなければなりません。
そして、ある時、読めるようになる(こともある)。
しかし、それがどうして読めるようになったのか、
何かわかったような、何事かを指導したようなふりをするのですが、本当にはよくわからないのです。




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