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日本の国語教育14

494 :おっさん:2007/07/02(月) 00:57:16 ID:qs7iUEtA
たくさんご意見をいただきました。ありがとうございます。

しばらく思考停止状態にありましたので、
皆さんの投げてくれた球、とてもうまくは打ち返せないのですが、
のらりくらりと考えていきたいと思います。

「小林秀雄をこえて」というのは、そうした書名で柄谷と中上健次の二人で出した本があったんです。
僕がかつて衝撃を受けたのは、まず柄谷の『日本近代文学の起源』でした。
僕たちが文学として自明におもっていることが見事にひっくり返され、
いかに制度的なものであるかを知らされた記憶があります。
それから蓮實の大江論や夏目論。
石田さんの夏目論は全く知りませんが、当時は今以上に江藤的な言説が支配的でしたから、
夏目作品の身振りなんかで論じた蓮實の夏目論はまさに驚天動地でありました。
大江は、サルトルに心酔していたのがその頃はロシアフォルマリストなんかにやられながら、
それでも相変わらず深刻にリベラル(?)に思想してたんですが、
たぶんそうした作家のお勉強とか思想とかを蓮實は軽蔑してたんだと思います。
それをバカにする意味で大江作品に頻出する数字なんかで大江論を書いていたんだと思います。
(数字の「1」はイデオロギー?と書いたときもそのことがちょっと頭にありました。)
志賀や中上を含め蓮實が日本の作家を評価するのは、人間としてではなく獣としてなんだなと思います。
当時はとてつもなくおもしろかったのですが、やがてちょっと胡散臭く感じてきました。
東大の総長なんかになった時は、驚きとともにやっぱりなぁって感じてしまいましたね。
当時も理解したとは言えず、2,30年も経過して今記憶していることなので、
全然まとはずれなことを書いているのかもしれません。

僕は、学生時代は一応教育学をやっていたのですが、
現場に入って困ったのは毎日ある国語の指導でした。
その時、これは使えると思ったのが分析批評や文芸研だったのです。
一番おもしろかったのは西郷の『教師のための文芸学入門』でした。
(文芸研ではこれしか読んでいないのですが)
その中で僕が目から鱗だったのは、
「視点」とか「話者」とかいう概念の根底にある、
表現はある話題や対象について表現であるとともに表現主体の表現でもある、という考え方でした。
こうした考え方から、三浦や時枝に行ったのです。
西郷の理論はほとんど知らないのですが、
分析批評と通じるテキスト論的な方向と三浦や時枝に通じる方向があるのかもしれません。
分析批評は、法則化とともに流行し割合よく読んだと思います。
その後、教科研なども少し読みました。一読総合法とか読み研とかも。

「作者」とか「作品」とかについて考えたことは、
文芸研や分析批評に三浦や時枝を言語過程説的な考えを継ぎ足したのかな?
三浦は「日本語とは・・・」、「認識と言語の理論」、時枝は「国語学言論」を
一応読みました。(趣味の読書程度。そうした読み方しかできないのです。)
学生時代読んだもののベースになっていると思います。
歴史的・社会的存在というと広松の「関係性」とか「共同主観性」とかを思い浮かべます。
僕は、ぜんぜん厳密に学んではいないのです。
趣味程度の読書で、読んでいるときも全然理解していませんし、
そんないい加減な読みで残った記憶をもとに考えているだけです。

垣内の『国語の力』とか『形象と理会』は全くわかりません。一応読もうとしましたが。
「形象」という概念も謎です。垣内等の解釈学系統と教科研−文芸研−読み研系統とがあるように思いますが。
芦田も「冬景色」の授業について『国語の力』で読んだのと『綴り方教授』を読んだ程度です。
垣内と芦田とは理論家と実践家の関係で、倉沢と大村の関係のようなものなのでしょうか。
芦田の「自己を読む」はキャッチコピーのようなものとして知っているだけです。
かつての世代にとっての国語教育の常識的な知識みたいなものとして知っているだけなのです。
ただ『形象』という概念は、ちょっと考えなきゃとずうっと思っています。
また芦田の実践については、けっこうおもしろいんじゃないかな、いつか読みたいなと思っています。

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