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日本の国語教育14

437 :おっさん:2007/06/30(土) 14:47:42 ID:rxffoxB1
英語ダメです。全く日本語という制度内人間ですね。
ただ知覚レベルにおいても文化被拘束的であるというのは、
サピア−ウォーフ仮説(だった?)とか昔から言われてたことですよね。
そこで言われていたこと以上の内容があるのだろうとは思うのですが。
この手の話題で僕自身が最初におもしろいと思ったのは岸田秀でした。
それから蓮實や柄谷などを読みました。
その頃、例えばフーコーなんかが思想界のスターで、
彼によって「権力」という概念を大きく変わりました。
「外部」とか「他者」、「制度」とか「装置」とかが流行語でした。
ご紹介のあったニーチェとかデカルトのことも
そうした文脈でよく語られていたエピソードです。
その後、蓮實なんか気が付いたら東大の総長(?)なんかになってたりして
あんな快楽に浸りきってるやらしい人がと驚いたりしましたね。
「反=日本語論」は読みやすくそれなりにおもしろかったのですが、
僕がよりおもしろく感じたのは大江論や夏目論でした。
完全それまでの制度的な読みをバカにして楽しんでいる本だったと思います。
あれは修練というより快楽ですよ。
僕が楽しんでいた30年前の「現代思想」という場と
こことがどれだけ離れ、新たな地点にいたっているのか、ちょっとピンとこないんですよね。
僕自身は明らかに30年前の「現代思想」という遊び場より
前に戻ろうとしているような気がします。それは、堕落、退化かもしれません。
今でも気になるのは、時枝−三浦や吉本、広松渉です。
30年前の現代思想的な遊び場ではちょっと鈍重でおっさんに見えた人たちですね。
ここももうこれからもう少しロムっていくと
30年前からどれだけ深化した地点で議論されているのかがわかるかもしれません。

茂木さんの本、投げっぱなしにしているのですが、
僕がいつか少しつっこんでみたいなと思うのは「クオリア」という概念です。
文学を読んでの情的、質的な反応ということに関連させられるような気がします。

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