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江戸時代農民が苗字を名乗れなかったのは70年だけ

1 :天之御名無主:2007/03/31(土) 02:08:46
中央区郷土史同好会 第82回
徳川11代将軍家斉(いえなり)のとき享和元年(1801)7月、百姓町
人が苗字帯刀することを御触書で禁止した。ただし、(1)郷士など
由緒ある家柄 (2)役職(町年寄・庄屋・名主・用達商人) (3)学
問・道徳・治政の功労者は特例として苗字帯刀を許された。
http://homepage2.nifty.com/makibuchi-2/kyodoshi/82kai.html

名字 - Wikipedia
明治維新直後、明治3年(1870年)の平民苗字許可令、明治8年
(1875年)の平民苗字必称義務令により、国民はみな公的に名
字を持つことになった。なお平民苗字必称義務令公布の日にち
なんで、2月13日は「名字の日」となっている。同時に、明治以
前までは、 ...
ja.wikipedia.org/wiki/名字 - 30k - キャッシュ - 関連ページ

江戸時代の農民には苗字が無かったと思われがちだが、実は表向
きには許されていなかったのだが多くの農民がそれなりの苗字を
付けていた。
たとえば1830(文政13)年の松本藩に残されている33の村の名簿に
は2345人の名前が記されているが、その内2329人がちゃんと苗字
まで書かれている。ここが例外的なのではなく全国でちゃんと苗
字を持った農民がいたのです。

2 :天之御名無主:2007/03/31(土) 04:32:32
代々父系統で連綿して行く家名か?

3 :天之御名無主:2007/03/31(土) 09:23:44
[23] 箱柳永田さんからのコメント(2004年01月17日 02時10分53秒 ) パスワード
 暇潰しのギャンブラーさんへ
>「松平」のエリアは平氏系とお考えですか
 私は尾張 三河の武士団は7-8割は平氏または平家だと思っています。
 東国の平氏は基本的に農民ですが、駿河以西の平氏は商業(運送業)
と農業を一族で分業している、西は貨幣経済が発達しているからだと思っています。
 伊勢湾、三河湾とそれに注ぐ川は西国平氏の独壇場ではないか、運送業により
孤立している様で、連携ができている。
 鎌倉政権は農民の味方、南朝はそれ以外とすると、負け組み平氏と商
業的武士集団は皆、後醍醐天皇の本に集まると思います。
今の地域で見ると愛知、三重、岐阜南部は、たとへ源氏の流れという家
でも平氏の助力無しには自立がやっとではないかと思っています。例へば
、松平清康が守山で死んだ時、息子広忠(家康の親)は吉良の案内で幡豆
まで来て、長田の船で伊勢に逃げています。
 ついでに、吉良の塩田は長田の仕事ですので、松の廊下の原因は塩で
はないし、女では断じてないと本家が言っていました。 長田本家の推
測では 上杉をめぐる、政治上の源平の戦いらしいと いっていました。
 >水野家とも繋がりますか
 知立永田は江戸初期に水野と姻戚であったので、水野の正統の家系図
をみているらしい。私の所には源氏を騙る就職用の 家系図がありますし
、長田本家も世間に嘘を言いふらしたのか、屋敷の近くに源氏橋や源氏町
があります。
 
 >18松平のお話も面白いですね
 その当時の松平は岡崎北部の貧しいところが基盤ですので、やたら子
供ばかり作ってたら、家がつぶれる、又は家来が逃げていく。でも分家
してる。
  子供の頃からの疑問が解けました。(図書館では調べられなかった)
   本家は有難いものだと思った瞬間でした。

4 :天之御名無主:2007/04/02(月) 18:50:10
>>3
運送業とかやってるのが平氏なんてきいたことがないけどなあ
鎌倉末期悪党と呼ばれた連中で身を起こしたが多いってことじゃないの
武士もいろいろだってこった

5 :天之御名無主:2007/04/10(火) 20:40:48
11代将軍家斉、やることなすことダメダメだな


6 :天之御名無主:2007/04/11(水) 00:16:46
江戸時代を通じて、百姓でも苗字を名乗ることはできます。

7 :天之御名無主:2007/04/15(日) 00:22:08
[21] 箱柳永田さんからのコメント(2004年01月16日 )
箱柳永田  続編です 
松平との関係について
徳川の祖は世良田を名乗る、藤沢の遊行寺(大塔宮の次男尊明が他
阿上人として13代上人をしていた)の僧で(浪合記によれば世良田
は津嶋に送り届けた後 藤沢の遊行寺で修行をしている)そこから信
州を通り三河大浜 称名寺にきて後三河幡豆の酒井、松平(豊田市東
方地区)で入り婿になっている。高月院には親氏自作の襟掛した地蔵
菩薩が本尊としてある(3-400年前の作!?)  藤沢の地は平公
雅ゆかりの垂木御所と皇子神社があり、同宗派の称名寺に修行と称し
長阿弥、徳阿弥 親子は帰ってきたと思われる、又大浜熊野神社に寄
進している。松平由緒書によれば信重に二女あり姉を海女 末を水女
と名付け姉を酒井(幡豆郡吉良町)と申す田舎に縁あってこれに縁ず
きました。末に親氏を迎えて松平を継がせたり。とあり、私の考えで
は松平は立派な平氏であり、親氏自作の襟掛した地蔵菩薩は年代を考
えれば、酒井の娘が持参した方が本物で、高月院には偽物が安置して
あると推測します。
 長田10代賀茂次郎左衛門尉 致房1000−1050位以降 豊田中
心に開発をしており15代の弟忠致まで続いたと思います。11代は三
郎行致
 身内のひいきかも知れませんが、松平の当主が次郎三郎を名乗る
例が多いのはこの為だと思っています。
 長田の伝承では松平信光は多くの子供を分家しているが、実際に
は他所(愛知以外)で圧迫された平氏がヤクザみたいに親分子分の形
で俗に言われる18松平になったとしています。又知立永田では刈谷
水野氏(家康の母の実家)は長田平(たいら)三郎行致の弟 景貞(
大平太)を祖とするあり。
 東三河 牧野も三柏紋を使用していますので良兼流の平氏と思い
ますが、確証となる物が見つかっていません。
  書き忘れていました、長田は剣柏 丸に剣柏 枝付抱き柏 三
柏が主で
       永田は丸に木瓜 です                         永田の有名人は江戸初期の徳本と南極観測の武(豊田)です 

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