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♪邪馬台国 ドンと来い♪ 79

1 :まあ、このAAでも良いかwww:2010/07/25(日) 15:29:02
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!

出来るだけソースを出して後はお好きに!


卑弥呼さま〜〜!!
    ___
   / | \
  / / ̄ ̄\ 丶
  / /_  _丶丶
 |イ  ̄丶〃 ̄ | |
ミ||<◎>)(<◎>| |彡
ヾ ヒ(  ̄ ||  ̄ )ノ/
―⌒ヘ ノ丶ノ丶 /⌒ー
__∧ ( ̄ ̄) /ヒ__
(_) \`ニ"/ (_)


前スレ『♪邪馬台国 ドンと来い♪ 78』
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1278952027/l50


2 :日本@名無史さん:2010/07/25(日) 17:57:57
>>1
キモいAA貼るなボケ!

3 :日本@名無史さん:2010/07/25(日) 17:59:53
927 名前:次スレのご案内[] 投稿日:2010/07/25(日) 15:31:04
久々にスレたて成功したwwwwww

本スレ使い切ったら以下のスレへ

♪邪馬台国 ドンと来い♪ 79
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1280039342/l50

4 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 09:10:46
このスレは
縦目仮面(名無し、なりすまし常習者)
ジョーカー
による九州説叩き用のスレです。
初心者、通りすがり、九州説論者はその辺よ〜く考えてからレスしてね

5 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 13:38:55
スレ立て乙であります。

さて世間では夏休みに入ったということで、ここのところ学生さんらしき書き込みも見られ
また常連各氏も、猛暑に拍車をかけるが如くの無限ループに飽き飽きしているでしょうから
過去スレで使われていたテンプレを引っ張り出してきました。

特にご新規さんは、現代の邪馬台国論争がどのようなものなのかを踏まえたうえでの発言を頼みます。
ループの原因となっている煽り&罵倒専門荒らしを寄せ付けないためにも、皆様ご一読よろしく。

6 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 13:39:36
:日本@名無史さん :04/12/01 12:44:12
「吉備、山陰、東部四国、丹後、河内、奈良盆地、東海、琵琶湖周辺、越、南関東など
これらの公益圏が倭国大乱(2世紀末まで)終結後に連合化して、原ヤマト連合を形成した。
(但し連合化の順番や内部での力関係は諸説ある。)」

これを3世紀の列島情勢だとする通説を採用したい。それを踏まえて
@(畿内説)この連合が倭人伝に言う倭国であり、邪馬台国連合である。
また後の大和朝廷の基礎となったのであろう。
魏への朝貢は、北九州を併合又は合併した後に行われたと考えられる。
卑弥呼は畿内纏向に居たとの説が中心だが、それ以外の土地に居た可能性も十分にある。
A(九州説)倭人伝に言う邪馬台国は、本州連合とは別の九州連合であろう。
後の大和朝廷との関連については、継続説と断絶説がある。
魏への朝貢は、狗奴国(南九州説と本州連合説がある)との対立や貿易権確保が目的である。
卑弥呼擁立時には原ヤマト連合とは合併していないとの見方が多数。
少数ながら原ヤマト連合を支配下においていたとの見方もある。
なお、卑弥呼の居館及び邪馬台国の位置は諸説ある。

なお大和朝廷との繋がりにおいては
a)邪馬台国は原ヤマト連合に滅ぼされたか吸収された。
b)九州連合と本州連合合併後、イニシアチブを執ったのが九州連合。
c)連合に際して血縁関係を結び、同族として融合化したのち派閥化した。
d)あくまで合併を拒み7世紀頃まで自治独立化した(九州王朝説)。
などが主な説であるが、畿内説論者でも邪馬台国と大和朝廷の断絶を支持する
考え方をしている者も少なくない。
また後世の壬申の乱や大化の改新などによる大和朝廷内の派閥争いの結果
記紀編纂時に恣意的な編集が見られると指摘するする動きも、九州、畿内支持に関わらずやはり根強い。
(神武東征、欠史八代、倭人伝の神功紀注釈への挿入、各天皇の即位状況、継体天皇問題
 聖徳太子と蘇我氏、物部氏の役割、藤原氏の意図など、問題は山積である)

このため単純に畿内説や九州説といったカテゴリーでは括れないのが現状である。

7 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 13:43:55
個人的には、自分もこのテンプレには少々異論もありますが
具体的にそれがどこか、またその根拠はなにか、自分の意見はどうなのかを明記することで
暑さを凌げるような快適な議論の場としましょう。

「連合などあり得ない、なぜならば邪馬台国は九州だからだ、以上」
こんなのは単なる荒らしですから。

8 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 13:46:32
一大率に怯える諸国連合はあるでしょ。「ゆるやか連合」なんて妄想するのが間違い。

9 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 13:58:28
面的な支配の実態がないって言ってるだろ。



10 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/27(火) 14:42:32
>一大率に怯える諸国連合はあるでしょ。「ゆるやか連合」なんて妄想するのが間違い。

当てとフンドシは向こうから外れる。
「一大率に怯える諸国連合」ねえ、
軍(一大率)を維持する為には、諸国から税の徴収が出来ていなければ維持できない。
税の納入が滞れば、軍を派遣して正す。税を徴集出来なければ軍ひいてはその王は疲弊する。
王は諸国を纏められず、卑弥呼に位を譲る。
卑弥呼は軍を持たない「ゆるフン連合」の大王である。
軍(一大率)は伊都に在し、遠くまで派遣されることは無い(そんな時代になった)。
正始元年以降の「倭王」はこの範疇に入っていない。
つまり魏は倭国を纏め、冊封する意志を持つ。
その為には、乱で疲弊していない勢力を持ち出す。これが大和政権である。


11 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 15:17:17
木器しかない畿内の野蛮人に、そんなことはできません。

12 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/27(火) 15:44:19
>>11
その通り、正しい。
崇神世では、鉄器が不足しているから崇神世では無い。
鉄器の充足した、景行世の出来事である。


13 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 19:25:46
さて、サイキバ君を最底辺に置くここのゴミクズ九州説の与太に付き合ってばかりもなんなんで
前スレで出てきた『北部九州の近畿系土器の受容に』ついて少し話をふっておくwwwww

『邪馬台国時代のツクシトヤマト』より 久住武雄の言

>三世紀の前半のある時期から近畿系の土器がぽつぽつと九州のほうに出てくるようになります。
 …途中略…
>そこで、なぜ近畿系土器を受容したかと言うことも問題になるのですが、事実関係を述べると、
>先ず福岡平野の一部で受容して普及します。
>それが各地の拠点的な遺跡、全ての拠点的な遺跡ではないのですが、
>拠点的な遺跡に更にそれが伝播していくという形になります。
 …途中略…
>ここで重要なのは、どうも近畿の勢力が近畿の土器を各地に直接的に土器の伝播を働きかけたと言うよりは、
>福岡平野あたりでワンクッション置いているという事実であります。

上記の事も合わせて、俺個人としては畿内が北部九州を直接的に統治したと言うよりは
福岡平野=奴国を通して間接的統治のような物をイメージしている。

逆から見れば、福岡平野=奴国にすれば東の首長連合を上手く利用して
北部九州における自身の地位をまんまとせしめた…のかもしれんがwwwww

まあ邪馬台国・卑弥呼の時代、博多湾周辺地域が半島との交易において
何処まで主体性を保持しえたのかはかなり幅を持たせて考えておく必要があると思うが。
(主体性=ゼロなら → ♪北(半島)から来た物を東(本州・四国)に受け流す〜 …的な意味でw)

14 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 19:52:08
>>13

>ここで重要なのは、どうも近畿の勢力が近畿の土器を各地に直接的に土器の伝播を働きかけたと言うよりは、
>福岡平野あたりでワンクッション置いているという事実であります。

福岡平野=奴国の一部首長集団(○○国というのはそれ自体が決して一枚岩ではない)が
吉備からの受け口になって輸入を開始したとは考えられないだろうか。
これは久住武雄の言うように3世紀前半の傾向で、この時点で例えば吉備や畿内の西征を想定するのでなく
それまで本州はおろか韓式土器すらほとんど輸入しなかった北部九州の各クニのなかで、最初に積極的に事を起こしたyというように。

この実験的な導入がわずか半世紀で北部九州一帯に広まる理由については
また別の要因も考慮せねばならないと思うが、それは今は置いといて。

ここでいう畿内系土器というのは、庄内式を指すはずなのだけど
やはり煮炊きにおいて熱効率がそれまでのどんな土器よりも優秀であったというのが
導入と普及の大きな要因ではないかと考えているのだが。

つまり政治的要素よりも経済的というか消費者目線の話だね。
その福岡平野と瀬戸内の繋がりってのは、まあ政治的な話なのだが。

15 :13:2010/07/27(火) 19:55:32
ワリィ人名間違っている。
「久住武雄」じゃなくて「猛雄」だ


16 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 20:03:34
同時期に畿内では保存用と考えられる東海系パレース式土器の出土が急増するのね。
これは土器だけの輸入と考えるより、それに伴うj人的移動も考慮したほうがいいのだけど
福岡平野での初期の動きというのは、まず土器そのものが輸入品であったと見て良いんじゃないかと思う。
それからわずか半世紀であちこちに、畿内系からの移住を示す集落遺跡が定着するのは
要するに経済的要因ではないかと、征服とかそんなのではなく。

北部九州に限らない話だけど、この時期に集落の全国的な再編成が相次ぐのは
要するに経済的な勝ち組と負け組に分かれてしまったということ。
交易連合に参加したところが結果的に勝ち組となったという事だと思う。

これなど北部九州をサンプルにすると、前原周辺や玄界灘東地域それに宇佐東部などが
その初期段階での勝ち組になるのだろうけど。

17 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 20:14:48
>>15
そのままコピペしちゃったじゃんかw

まあこの畿内系土器の導入という話にしても
福岡平野と吉備を介した大和、河内というミクロの付き合いだけでなく
日向なんかの、太平洋ルートでの畿内との従来からの付き合いとか
半島ルートが大混乱に陥ったことによる北部九州の弥生バブル崩壊とか
東海地方で起こった集落再編によるコングロマリット的クニが、畿内各地に進出してきたとか
瀬戸内商社の吉備と日本海商社の出雲が、商売のチャンスに命運かけて勝負に挑んだとか

もういろんな要因があって、その流れのなかで起こった現象の一つだと思う。

18 :13:2010/07/27(火) 20:24:45
>>16
>交易連合に参加したところが結果的に勝ち組となったという事だと思う。

九州説も九州邪馬台国を、勝ち組のグループの中に置くか
負け組みのグループの中に置くか…の二択なんだよなwww

まあ交易窓口の北部九州・玄界灘周辺を押さえられているんで
普通ならその「勝ち組」の中に見るのが順当なんだろうなwwww

以下、毎度おなじみいつもの「邪馬台国の会」にある安本と柳田の会話wwwwww

http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

■ 伊都国と女王国の位置関係

安本: 『魏志倭人伝』には、女王国は伊都国の南にあることが、3回も書かれている。
伊都国が糸島半島の国だとすると、その南の筑後平野は女王国の有力な候補であり、甘木や朝倉地域を邪馬台国の有力候補と考えている。
ところが、柳田先生の資料に「佐賀平野・筑後平野・筑豊地域などは邪馬台国の候補地どころか卑弥呼を共立した国にも含まれない」と書かれているので、甘木や朝倉は候補地ではないのか?

柳田: 考古学の立場で考えているので、初期の前方後円墳が出現していて、三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡が出ているところは候補地になる。
大願寺方形周溝墓、神蔵(かんのくら)古墳のある甘木・朝倉地域は、初期の前方後円墳が出現しているし三角縁神獣鏡も出ているので、候補地に含まれる。
文献学者は安本先生のような見方をする九州説の人が多いが、朝倉以南の筑後平野では、前方後円墳から三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡を出すところがないので、この地域が女王国だということは考古学的には証明出来ない。


19 :13:2010/07/27(火) 20:34:38
>>18を分かりやすく言うとだ…

柳田自身は勿論、邪馬台国が九州にあったなんて考えていない。

しかし、それでもあえて九州に邪馬台国があったとするなら
初期の前方後円墳(=纏向型)が出現し、首長連合に参加していたと思われる地域がその対象になる。

…っちゅう話やねwwwwwww

20 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 20:35:36
アイヌと交易をはじめて、良質の毛皮が手に入ることを、そのうち畿内説では
「アイヌが江戸幕府を征服した」と言い出しそうで、いま監視中。

21 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 20:36:09
伊都国の南って、直感的には
三瀬峠通って佐賀大和か
北山ダム通って小城に着いちゃうんだよ。

実家糸島市、佐賀市大和町在住

22 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 20:41:43
>>18を分かりやすく言うと、
利権を守る柳田は畿内説を守るために、
魏志倭人伝には邪馬台国が多くの前方後円墳を造成し、
三角縁神獣鏡を魏から貰ったと載っているかのように
事実を捏造して語ったので、九州の比定地もおかしくなった、という意味。

23 :13:2010/07/27(火) 20:44:30
>>22
あ〜あ、柳田センセイもついにサイキバ君により
「悪の巨大組織キナイセツ」のメンバー入りかwwwwww

24 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 20:45:18
柳田あいかわらず厳しいなw

まあ交易連合とかいうと、なんか「我々はヤマト連合だ!」とか声明出してバッジつけてのりこんできたとか
そんな変なイメージ持つひともいるようだけど
そんなマンガじゃなく、要するに広い交易網と情報網を得たクニグニが持たなかったクニグニに勝ったという当たり前の話なんだよな。

邪馬台国ってのは倭国の盟主や支配国などではなく
その交易網と情報網の中継地が都会化したもので
卑弥呼にしてもそこに置かれた巫女という位置付けに過ぎないのが実情だったのではないかと。

逆に朝貢という対外的折衝のなかで、魏から下手に金印とか貰ってしまったので
ここで初めて倭国の代表国という概念と政治的メリットが生まれてしまい
例えばそれに反発する狗奴国なんかとの内部抗争が顕著化したり(俺は狗奴国=東海説で連合内派閥説)
彼女の死後にまた揉め事も起こり、結果どこかの巫女である台与にすることで一応落ち着いたとか、そんな話だと思う。

25 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 20:48:24
>>20
アイヌの文化が江戸城改築や江戸期の生活様式を一変させたとかはないからね。
だからそんなことは考えない。
九州がまるで変わっちゃったから、そう考えるわけよ。
ちなみにもし畿内が九州発祥のもので埋め尽くされていたのなら、当然東征や東遷を考えるよ。
ないから考えないだけで。

26 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 20:51:30
>>22
じゃあ柳田が主導して再評価された平原なんかも、あれ捏造なんだw
今後、陰謀論九州説は柳田の発掘成果を一切用いたらだめだよw
もちろん弥生時代に北九州が栄えていたというのも捏造なのだから、信じちゃダメよw

27 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 21:32:01
ウソとホントを混ぜてあるから、注意すればよいだけ。

28 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 21:33:57
>>25
前方後円墳と三角縁神獣鏡で、九州の生活様式が、どう一変したの?

29 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2010/07/27(火) 21:36:23
邪馬台国についての情報は倭人伝にしか無いのであるが、その倭人伝に記述されていない前方後円墳や三角縁神獣鏡を邪馬台国の比定地の
条件にするとはおかしな人だね〜。

首長連合というのも無理矢理こじつけた論だね〜。倭人伝によれば、倭国王卑弥呼(邪馬台国)は一大率を置いて諸国を検察している。決
して「ゆるやかな首長連合(交易連合)」とか形容されるような体制ではない。軍事力を背景として倭国内を統制している。

九州は大陸や半島の情報が入りやすく、戦乱に明け暮れる彼の地を見ていれば上記のような統制体制をとったであろうことが容易に考えら
れるのである。なかよしユルフン連合など有り得ない。

庄内式土器が近畿地方から九州に入って来たのが3世紀だという確証があるとは思えないが、仮にそうだとすれば(畿内説論者には思い及
ばぬことであろうが)それは近畿地方からの貢納だったかも知れない。弥生期の遺跡、出土物からも九州が文明先進地であり、近畿地方は
その先進地の仲間に入れて貰いたかったにちがいない というような見方もある。




30 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 21:42:54
>>28
なんでそのふたつなんだよww
それしか知らんのかw

31 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 21:51:34
>>29

>弥生期の遺跡、出土物からも九州が文明先進地であり、近畿地方は
>その先進地の仲間に入れて貰いたかったにちがいない というような見方もある。

思い及ばぬどころか、とっくの昔に検討されていますw
畿内や瀬戸内が目指したのは北九州ではなく、その先にある半島です。
半島との交易を主眼においていたからこそ、その地理的窓口として進出しただけで
別に九州の文化に興味があったわけではありません^^

ここでもよく例に出される西新町遺跡の地区別土器出土分類からも、3世紀後半には
畿内土器を使う集団、韓式土器を使う集団、九州在地系土器を使う集団とはっきり居住区が分かれており
もう2世紀までの九州ではないんですよ。ほとんどがよそ者。
そして伝統ある九州人は、どんどん隅のほうに追いやられていく。
これも武力侵攻によるものではなく、経済侵食の結果でしょう。

32 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 21:56:22
4世紀になると明らかに畿内土器と前方後円墳にチェンジする集落や
最初から畿内に影響された土器しか出ない新設集落がほとんどになるんだよな。
そのぶん中部九州が独自性を発揮し始め、南九州がさらに畿内寄りになって前方後円墳を造りまくると。

33 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/27(火) 21:57:40
九州邪馬台国説は、景行を無視せねば成り立たない。

この事実は縄文時代から変わらない!?


34 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:04:10
うーん畿内説の殆どは、景行を架空の人物だと考えているんだけど
唐松山はやっぱ、古い畿内説なんだなあ

35 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/27(火) 22:09:58
 沼津市教育委員会が発掘調査を進める前方後方墳「辻畑(つじばたけ)古墳」(同市東熊堂)が日本最古級の古墳となる可能性が浮上した。
出土した高坏(た かつき)の年代から、230年前後の築造で、纒向(まきむく)石塚古墳(奈良県桜井市)などと並ぶ古さとの指摘がある。
今秋に発掘を終える市教委は「副葬 品などの詳細が分かった段階で識者の意見を集約して判断したい」との考えだ。
JR香椎線宇美駅下車・駅前の緑道を北西方向に徒歩20分
西鉄宇美線 深町または下宇美口下車徒歩5分

光正寺古墳の概要

光正寺古墳の築造年代は、第1主体部から出土した古式の土師器で甕の制作年代が3世紀中頃から後半あり、県内の前期古墳の中でも最古期の
古墳に位置づけられます。また、光正寺古墳は糟屋郡内最大の前方後円墳であることから古墳の被葬者は、当時糟屋地域を支配した豪族
(王?)の墓と考えられます。

箸墓時代は、全国に古墳の作られる時代である。
これを景行以外では説明出来ない。


36 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:11:55
>>31
>畿内土器を使う集団、韓式土器を使う集団、九州在地系土器を使う集団とはっきり
>居住区が分かれており
畿内土器を使う集団って奴隷(生口)かもな。


37 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:13:46
>>29 蝿

…もうここのゴミクズ九州説の負け犬の遠吠えにも似たイチャモンは聞き飽きたから

だったら九州30カ国を強力に面的支配した軍事強国の存在を示す資料をもってこい
(無論、ゴミクズ九州説の脳内の「ぼく の かんがえた さいきょう やまたいこく」以外で)

…っちゅう話なんだよなwwwwwww

38 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:17:58
>>35
あれ?あんた>>12でこう書いているじゃん。

>崇神世では、鉄器が不足しているから崇神世では無い。
>鉄器の充足した、景行世の出来事である。

それと>>35の内容を合わせると、景行の実年代は230年前後という主張になるが
その頃に畿内に満足な鉄器はないよ。
それとも考古学者の考えよりさらに古く、鉄器が畿内に浸透していたとするわけ?
あちこちツギハギするだけじゃダメよw

39 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/27(火) 22:19:11
>>33
景行は卑弥呼の女王国とは関係ない。卑弥呼の時代は、日本の
は畿内と九州の2極に分かれていたのが真である。オマエは畿内兼九州説
というジョーカーもせせら笑う鳥とも蝙蝠ともハッキリ出来ないインチキ
であったのが、こっそり畿内説に鞍替えして益々それが露呈している。ww

40 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:19:56
>>36
奴隷のほうがいい暮らししてるとかないだろうな。
それとその後は奴隷に侵食されてご主人様たちが隅に追いやられることもないだろうね。
それとも北九州で人民革命でもあったのかな?

41 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:25:11
>>39
罵倒を書いてもダメ。私はバカですって自ら言っているようなものだから。
もっと具体的に、あなたのここがおかしいからそれは成立しませんよと書けばいい。
唐松山は単にあちこちツギハギで都合のいいところだけ持ってきているだけだし
思考回路そのものは、まず畿内にありきだろ。
まず九州にありきという君と本質的には同類なのだから、彼を見て他山の石とすればいい。

42 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/27(火) 22:27:10
同類じゃねぇよ。

43 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:47:37
要するに唐松山も「むてきのきないてっきぐんだん」というだけなんだなwww

44 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:58:39
>>24
>俺は狗奴国=東海説で連合内派閥説

良く東海と畿内の対立を前方後円墳と前方後方分と言う墳墓の形にも見る向きがあるが…

仮に象徴的に「狗奴国=東海説」を「前方後円墳 VS 前方後方墳」とすれば
俺が考えている「狗奴国=中・南部九州説」は「前方後円墳出現地域 VS 前方後円墳未出現地域」だなww

あと「連合内派閥闘争」に対して「連合加盟地域 VS 連合非加盟地域」とwwwwwww

それと
>ここで初めて倭国の代表国という概念と政治的メリットが生まれてしまい

…と言うのはどうだろう?

卑弥呼共立の前にもめていた時点で「対外的な代表者」と言うことは織り込み済みだったのではないかと…

倭国内の内政においては別に協議制でも良いが対外的な代表者となると一人に決めなければならない。
故にもめたとか?

45 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:59:44
畿内と九州勢力しか語れないのは、モノの見方が偏っている。
日本海側を中心に、日本の広い地域を支配していた出雲族の存在を忘れてはならない。
倭の五王、安東将軍は、九州でも畿内勢力でもないのだ。

46 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:03:22
よりにもよって、日本武尊の逸話並みに信憑性が低い景行記を元に考えるなんて、唐松山は終わったな。

47 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:10:20
景行はそれこそ
西都原と完全シンクロだろ
4〜5世紀だよ

48 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:23:07
そもそも「生目」の地名の由来って何?

垂仁の「活目」「伊久米」に関係ある?

49 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:25:24
日本の地名は、由来がわからないのが普通。

50 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:29:48
>>44
狗奴国をどこに比定するかというのは、そのまま当時の倭国の姿に直結するから、本当はその話をやりたいのだけどちょっとスレ違いっぽいので
もう少しあとでやりましょう。
それにしても

>「狗奴国=中・南部九州説」は「前方後円墳出現地域 VS 前方後円墳未出現地域」だな

この発想はなかったから驚いた。詰めて議論したいと思う。

ここではまず先にこっちを

>倭国内の内政においては別に協議制でも良いが対外的な代表者となると一人に決めなければならない。
>故にもめたとか?

まず各クニの首長に『倭国』という概念があったかどうかだと思うんだ。交易連合への参加動機はやはり我がクニの壕駅と発展だと。
だから朝貢するまではどこの首長も、俺のところが一番みたいな感じで、宗教やら墓制などを統一しようとか考えて買ったように思う。
それがどうやら半島経由で大陸(魏)と優先的に商売するには、どうやらクニではなく国じゃないと駄目らしいと判ってきた。
そのあたりがいわゆるオウではなくオオキミが必要となった理由で、当然誰がなるか揉めたとw
このあたりは想像なんだけど、俺には各クニのオウたちが、どこかの巫女を本気で崇めていたとは思えないんだ。
そこまでの宗教観の共有が果たして2世紀末あたりで、有力なクニに浸透していたのかどうか疑問でさ。

51 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:30:00
http://www.jiki.jp/blog/?p=4105
生目神社の由来だって
湧き水にホウ酸(今でも目薬に使われる)が含まれてる
他地区の地名とはまったく関係がなさそう

52 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:31:47
すまん>>50は誤字脱字だらけだ。
いちいち訂正しないが、意味を汲んで下さい。今夜はもう寝る^^;

53 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:37:10
「クニ→国」の概念の発生は邪馬台国時代のずっと前だと思うぞ
縄文の人びとが皆原日本語を使い
そうではない言語圏の人間たちと接して
「倭人」と呼ばれた
そこで「倭語」共通言語圏としての「国」みたいな概念が生まれたんだろ

54 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:46:48
「漢委奴国王印」の金印が1世紀
この頃すでに北九州は朝貢をし
この印を授かった自分らが「倭」という地域の「奴」のクニだとうことを認識していたわけで
「倭」という地域が「倭人の国」だという認識は
すでにこの頃からあっただろう

55 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 23:47:51
3世紀は、都市国家=首長国と、その上位概念、首長国連邦=倭国があったのだろう。
倭国や各首長国の構成員はもちろん、倭人。

56 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 00:08:31
>>53
のいう通りなのだけれど、ひとつだけおかしいところがある。

>そこで「倭語」共通言語圏としての「国」みたいな概念が生まれたんだろ

それもクニだよ。地方単位の中小のクニと
それらを民族や言語で大まかに分類したものもやはり大きなクニなんだ。

ヒエラルキーとか体制の有無だとか王制とかがそこにあると、国(国家)になるのだけど
クニの概念はかなり広いというか曖昧で、小集団でもムラではなくクニになり得る場合もあるしそうでない場合もある。

57 :44:2010/07/28(水) 00:47:06
>>50
狗奴国の比定と言うのはスレ違いじゃない、
と言うより邪馬台国スレ以外でやるのが不味いだろうと思うがwwwww

卑弥呼共立時に果たして対外的な代表者という概念があったか否か?
…と言う問題について言うと

先ず前提となる認識で、卑弥呼共立に至った所謂「倭国大乱」
その地域や時代、規模はイマイチはっきりとしないが
(佐原編年の年代観もこれで結構エライ目にあっているわけやん?www)

後漢の威光をバックにした北部九州がその後漢朝の衰退滅亡と共に
勢力を無くしその事に端を発したのは間違いないだろうと見ている。

その支配体制が崩れ去った後、騒乱に加わった勢力は当然
「次のキング・オブ・キングスは(大陸との)対外的な代表者になる」
と言う認識は持っていただろう。

無論「対外的代表者」と言っても外界と隔離された環境にあるような
ヒキコモリの不思議系ネエちゃんだかオバちゃんが外交をやったって話じゃなく
あくまで名義上の代表者(=傀儡)で実際の実力者はその背後にいたってシナリオなwwww

58 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 01:20:05
軍事的な覇権意欲満々の国々が「倭国大乱」を起こして、兵士を消耗し尽くしてどの国も疲弊し、
ついには、覇権意欲のまったくない女王国の卑弥呼を指名して、首長国連邦=倭国のトップに据えたというオチ。

59 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 08:16:44
北九州諸国は、後漢時代、倭国の中枢の国だという自負心をもっていただろう。
だから、中国地方の出雲、安芸などに勢力をのばし、また、中九州、南九州をも
うかがったのではないかな。ところが、中、南から反撃をくって、事実上、敗北
してしまった。それが倭国の乱だよ。
北は負けたから一大率の厳しい検察に服さざるを得なかったんだ。中国地方は本
家が倒れて基盤を失い、ふらついていたってことだろうな。

60 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 09:59:02
>>31
>半島との交易を主眼においていたからこそ、その地理的窓口として進出しただけで
別に九州の文化に興味があったわけではありません^^

無料で港が使用できるとでも思っているのかね。
また、港界隈の土地が無料で使えると思ってるのか ?

61 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 11:27:49
軍事面でもう少し考えてみよう
邪馬台国時代の軍事力
・銅剣、銅戈
・盾
・矢(銅)
移動⇒歩行(歩兵)
船 ⇒準構造船?または手こぎ船(丸太船)

大きな河川に橋はあったのか?その場合は軍はどうしたのか?
畿内説廚は、邪馬台国が弥生前期・中期は銅鐸分化であること
を忘れていないか?
準構造船は鉄文化でないと、作れないので、畿内の当時の河川
の移動は丸太船だろ

机上の空論でなく、現実的な議論をしないと何も始まらないよ

62 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 11:49:04
>>61
お前が現実と向き合えよwwww
>>59はお前の妄想だろ
>>60は文章すら読めないのかw

63 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 12:39:34
弥生時代の古墳から出土する鉄器は、北九州が圧倒的で
奈良盆地からは「0」です。

畿内廚は吉野ケ里が発見されるまでは、九州廚がどんなに
頑張っても、九州からは環濠集落跡はでていなので、環濠
集落のある畿内との認識(安心感)があった。

ところが、吉野ケ里が発見され、倭人伝さながらの環濠集落
だから、大慌てで、次の安心できるものを、未だに必死で
探している(なんでもいいからこじつけようとしている)

不比等が作為的につくった記紀を穴があくほど、勝手に解釈し
必死の状態が、現在の状況かな・・・

64 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 12:46:12
>>63

こういうレスを素人が真に受けて、6年もスレがループするんだな。

65 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 12:59:36
ていうか>>63が、核心を突いてしまったな。
話はここからだ。

66 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 14:04:42
サイキバの自作自演か

67 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 14:10:44
>>63
>弥生時代の古墳から出土する鉄器は、北九州が圧倒的で

「弥生時代の古墳」って、具体的にどこ?

68 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 14:25:48
弥生時代だと前方後円墳は少なそうだな

69 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 15:03:40
突っ込むところが違うだろ。
古墳から出たもの以外でも、九州の鉄器が圧倒してるんじゃないか?

70 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 15:07:53
少ないも何も、前方後円墳が造られたなら、そりゃ古墳時代だわなwww

71 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 15:10:50
>>67

鉄斧の破片も含む では以下のところ

福岡県前原市石崎曲り田遺跡    福岡県太宰府市吉ヶ浦遺跡

福岡県北九州市中伏遺跡    福岡県北九州市馬場山遺跡

福岡県行橋市下稗田遺跡    福岡県嘉麻市八王子遺跡

福岡県築上郡新吉富村中桑野遺跡   福岡県小郡市一ノ口遺跡T地点

福岡県小郡市三沢北中尾遺跡1地点  福岡県小郡市北松尾口遺跡

福岡 6 まだあったけどもういいや。
京都 3 大阪 3 山口 3 広島 1 もあったな。


72 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 15:13:10
やっぱり日本語を理解できないらしい

73 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 15:21:44
>>71
古墳じゃないぞwww

74 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 15:22:50
>>70 >>72
なんで前方後円墳にこだわっているのか知らんが
自分の考古学のレベルが低いのを、たかだか前方後円墳
の時代認識なんかで、人を笑うな

75 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 15:29:11
>>74
>弥生時代の古墳から出土する鉄器は、北九州が圧倒的で
奈良盆地からは「0」です。

逆ギレかよwww

76 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 15:45:50
うそだろ
>>75みたいなレベルの低いのが、畿内廚なのか?

77 :ローガン:2010/07/28(水) 15:49:41
>>74
>たかだか前方後円墳の時代認識なんかで、

でも、その発生の「時代認識」って結構ポイントなんじゃない?
ちなみに原田大六は平原一号を弥生古墳だと言ってましたね。

78 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 15:54:50
毎度おなじみ九州原理主義者による自爆テロでございます。

79 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 16:02:03
とりあえず、前方後円墳の出土物は
ほとんど古墳時代以降と判断して良いのかな。

あとは円墳、方墳か。

80 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 16:07:18
前原の平原遺跡は、方形周溝墓と、円形周溝墓だな。
弥生で問題ないだろう。

81 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 16:13:09
>>80
九州での方形周溝墓の開始は4世紀頃とみる説もあるけど

82 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 16:16:31
吉野ヶ里は文句なしに弥生時代で
鉄器も大量に出土している。

木製鍬先に取り付ける鉄刃アタッチメント式は
見てて面白い。

83 :ローガン:2010/07/28(水) 16:44:13
>>31
>もう2世紀までの九州ではないんですよ。ほとんどがよそ者。 そして伝統ある九州人は、どんどん隅のほうに追いやられていく。

九州没落の原因の一つに海退による港の機能の低下が有るのでは?
原の辻→糸島航路が実質、博多湾に取って変わられたと。

84 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 17:44:59
伝統ある九州人はとっくに畿内に入り込んで、銅鐸をぶち壊して
移住を完了しています。

尾張にも進出しており、のちの天武の旗揚げに協力しています。

85 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:01:28
まあ「弥生時代の九州の古墳」なんてのはサイキバレベルのご愛嬌だが…wwww

>>61
>準構造船は鉄文化でないと、作れないので、畿内の当時の河川
>の移動は丸太船だろ

河川なら丸太舟でいいとも思うが…
正直に言って畿内に準構造船が無かったと言うのは初めて聞いたw
(「我が国における準構造船も九州起源!」ってお話なのか?)

準構造船なんて基本的に刳船の延長上だと思うが?
…ひょっとして鉄製の釘や鎹(かすがい)の使用をそ考えているとか?

鉄と準構造船の登場の関連をもう少し詳しく説明してもらえないだろうか?



86 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:09:53
>>37
>九州説の負け犬の遠吠えにも似たイチャモンは聞き飽きたから
>だったら九州30カ国を強力に面的支配した軍事強国の存在を示す資料をもってこい

なんだこの下品なおっさんは!ひとをゴミクズ呼ばわりできるタマか?
聞き飽きたとはなんだ!!反論出来ないでタワゴトばかり言っているから何回でも問われるのだ。バカめ!

面的支配だと?面的という言葉もちんけだな。邪馬台国の支配体制とは政治的なものだ。その体制の一端は
「其犯法 輕者沒其妻子 重者滅其門戸 及宗族尊卑各有差序 足相臣服 收租賦 有邸閣 國國有市 交
易有無 使大倭監之 自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」と
いう倭人伝の記述にも見える。この資料で十分だろ。


87 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:28:35
>>86 ゴミ蝿

文献から自身が考えた支配体制を証明するに元の文献によるしかないと言う
アホ丸出しw

所詮ゴミはゴミwwwww

「九州は弥生時代、半島大陸からの文物を逸早く取り入れた先進地域」と考古資料をもって力説しても
肝心のてめえが妄想している混乱後の新体制秩序を構築したような形跡を示す考古資料は出せない。

結局「すなお読み」に逃げ帰るしかないwwww

「すなお読み」に始まり「すなお読み」に終わるのがこの板のゴミクズ九州説wwwwwww


88 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:41:39
畿内説は詐欺をベースにしてるから、話しこむだけ無意味。

89 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:42:32
>>63

吉野ヶ里ブームが巻き起こったのが80年代終わり頃だったか?
そして90年代に入って近畿でも池上曽根とかが出て来て
大型建物(東西両端に棟持柱を持つ高床式建築物)は吉野ヶ里をしのぎ

今、大型環濠集落を畿内や九州だけに求めるアホはいない
…ここのゴミクズ九州説のようにアタマの中が80年代でストップしているような連中は除いてwwwww

吉野ヶ里の所謂3点セット「宮室・楼観・城柵」なんて考古学的に定義された物でもなく
ぶっちゃけマスコミによって喧伝された「キャッチコピー」だw

とは言えやっぱり目に見える形で集落が再現されていると言うのは大きい
(邪馬台国ブーム様様だなw)

今でも多くの日本人にとって環濠集落と言えば吉野ヶ里で
そのイメージの延長上に邪馬台国九州説があるのは間違いと思うwww


90 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:43:52
畿内説詐欺師は、相手をコミクズとしか呼べないのか?

91 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:44:49
我が国から大陸へのルートはおそらく一つ切りしかない。北九州から韓国
を経て帯方郡に到るルートである。
これ以外のルートは、現在の所まだ確認されていない。このルートによる航海でも、
距離は数十キロと短いが、当時にあっては大航海だったのである。

弥生前期は、少なくとも畿内は銅鐸文化で、丸木舟かまたは丸木舟を
つないだ程度のものでしかない。

外洋船用の準構造船は、鉄文化の出現を待たなければならない。
邪馬台国当時、北九州は、既に鉄文化で韓半島との交流はある。
北九州の古墳から出土している(中国製鏡、絹等)。
畿内からの出土はない。
従って、畿内から、韓半島へ行くとはとても考えられない。

畿内廚の頭の中では可能でしょうが。


92 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:48:38
>>90
一応リアルでの九州説と、ここの九州説と言ってもその中身は「邪馬台国東遷説」や「九州王朝説」の類とを
峻別する為の方便だなw

ここのゴミクズとリアルの九州説を一緒にするというのは
いくらなんでも気が引けるww

言わば良心から来たものなんだよwww


93 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:50:31
>>91
机上の空論でなく、現実的な議論をしないと何も始まらないよ

94 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:55:27
宮殿・楼観・城柵、それに鉄と絹は九州だな。

畿内は宮殿だけか。


95 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:56:20
>>91
>丸木舟かまたは丸木舟をつないだ程度のものでしかない。

それが準構造船なわけだが?www
(一本の丸太をくりぬいた物では(横幅が)小さいから何本かの木を合わせる)

準構造船の出現と「鉄文化」とやらの関連については
何の説明も持たないアホレス。

頑張って長文にしているがサイキバ君かな?




96 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 18:57:42
吉野ヶ里や筑後地方の出土物では
弥生中期には、農具にまで鉄が使われている。

重要なものではあっただろうが、
権力者が独占するほど希少なものではないことが分かる

97 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:07:24
>>95
人間は、自分の理解の限度を超える存在が出てくると、それを
ひとくくりにしたり、変なネームをつけて自分を安心させようと
し、自分の存在や持論を安定させようとする。

あなたはその典型的な畿内廚ですな

98 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:09:47
ちなみに木工技術で言えば例えば木材に「貫穴」を施した例なんかは
纏向より更に昔、既に縄文時代の富山県桜町遺跡に見られると言うw

一体「鉄文化」の下でしか成しえない準構造船を作るための技術とは一体何なのか?

果たして>>91の脳内にはきちんとその答えがあるのだろうか?wwww



99 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:10:02
外洋船用の準構造船は鉄で細かく木材を細工しないと、建造できない。
それくらいは、わかって下さい。

100 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:16:58
>>99
これまた答えにもなっていない漠然とした能書きだなw

「細かい細工」? 

一体船のどの部分でそれがどのように外洋航行に利するのかな?

言っている事に具体性がまるで無い、やり直しなさいw

101 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:19:48
準構造船の話はこれくらいにしますが、とにかく、弥生前期・中期
後期に畿内勢力(銅鐸文化)が、北九州を制覇してT大卒をおいて
韓半島まで進出していた。

という妄想は捨てましょう。

102 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:23:17
ちょい横から

構造船は竜骨などの応力に耐える部材を用いて
それに板や骨を組み合わせて構成する方式。

準構造船は厚板、くりぬき丸太などを応力部材として
それに板を組み合わせていく方式。

準構造船も基本的には構造船と同じ。
様式構造船にほぼ近いという意味で準構造船と呼んでいる。

103 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:24:25
>>101
世界最強、無敵の九州鉄器軍団が東遷して大和朝廷を創という妄想は捨てましょう。

104 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:27:46
まあ分かりやすく映像で見てもらいませうw

久宝寺から出てきた準構造船、庄内土器と出ているらしい。
http://www.occh.or.jp/event_katsudou/dvd/2pure.htm

つまり>>91にとっては
近畿はすでに庄内には『鉄文化』だったと言う事でおk?www

それも九州からの東征勢力が持ち込んだとか言うお話なのかな?wwwwww

105 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:30:29
黒曜石とかの石器でも何とかなりそうな気はするがな

106 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:33:37
>>100
ありがとうございます。
良くわかります。でも畿内廚の方は、竜骨や応力部材と
「木材に「貫穴」を施した例」を同程度の理解ではないかと
思います。

畿内説は、鉄文化、絹、準構造船、その他で説明するのは
いくつものハードルがあるにもかかわらず、その証明に力
をいれず、とにかく九州説を否定するのに全力をかけて、
いるような気がしています。

このスレの人もそうですが、何とか準構造船そのものを否定
するところから始まっております。おかしくはありませんか。

107 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:35:31
>>101
まさか知ったかぶりで「準構造船」なんて話しちゃたのでトンズラと言う事かな?wwww

つうか一体何処の誰が弥生前期から畿内がダイレクトに半島に進出したなんて言っているんだ?

アタマ大丈夫か?wwwwwwww


108 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:37:17
>>106
>竜骨

それまんま構造船や、準構造船とちゃうぞアホw



109 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:37:31
すみません、>>100>>102の間違いでした。

110 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:37:42
http://pc.l-search.net/auto_auth.php?pp=ZWY3MzE5NTFjMjQ5YWAmJcOFU1BmBVN1U6BGQHY1Y5CzECZFAwB2c&paygo=1


111 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:40:43
>>87
このおっさんは頭の構造に問題があるのかな?政治体制がいったいどんな考古学的事象に残ると言うのだ?
我が国の戦国時代でさえ城郭などの遺物はあっても具体的な政治状況はそれらだけからは何も分からんだろが。
文献資料があればこそ分かるのだ。

この石頭のおっさんには遺跡、出土物で分かることと分からぬことの区別もつかぬ。小学生なみの思考力しか
ないと見える。

112 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:47:12
>>108
やっぱしその程度の理解でしかないのか

銅鐸文化と丸木船程度の文化で邪馬台国を主張する畿内廚は
どこかおかしいよ。

113 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:47:13
>>111
使用語彙その他の傾向からして、名無しで書いているが縄文人かな?w

別に「文献一本でやる!」と言うならそれはそれで尊重されるべき姿勢だとは俺は常々言っているw

今後ご都合主義の考古資料のつまみ食いはやめてくれよ?w


114 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:58:40
サイキバっぽいこの馬鹿は、そもそも構造船と準構造船の区別がついていない感じだなw



115 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 20:21:37
>>95
サイキバ君が消えて、何カ月経つんだよ。いまだにサイキバ君の亡霊に怯えてるのか?

116 :115:2010/07/28(水) 20:22:54
>>114
お前もだ。

117 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 20:27:06
>>116
ほう、「何処がどう区別がついていないのか」説明してくれ

悔し紛れのケチレスじゃないんだったらなwww

118 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 20:30:47
>>117
サイキバ君が消えて、何か月経つんだよ。馬鹿も休み休み言え。

119 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 20:42:17
>>118
え?俺 ”も” 「構造船と準構造船の区別がついていいない」って話じゃないのか?

会話の成立せんやっちゃなw
ニホンゴワカリマスカ?

ところでお前はサイキバの馬鹿がいつ頃消えたのか分かるのか?w

まあ「畿内説は詐欺」だとかの与太しかいえない基地外は分類上サイキバで上等wwww

120 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 20:43:20
>>119
サイキバ君は、最近だとどこに現れたんだ?言ってみろ。

121 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 20:48:23
まあついでになんで>>91のような馬鹿げたお話が出てきたのか…

その(ゴミクズ九州説の心理的)背景を考えてみるとw

先ず「鉄」と言う物に対する漠然とした万能感見たいなものがあり
そこに九州説のアドバンテージを過大に見ているから

「鉄=準構造船」なんて意味の無い短絡を起こしたんだろうw

構造船と準構造船の違い、そこに鉄製の工具等がどう関係したのか
…なんて考察は一切すっ飛ばしたとwwwwwww

122 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 20:48:46
狗奴=国ですから、狗奴国というのは、国国(くにこく)となってしまって、いささか滑稽ですね。


123 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 20:52:59
>>119
この馬鹿は「www」しか書けないんだな

124 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 20:58:01
>>119
どうしてこのおっさんこんなに荒れてるの?
サイキバ君とやらに痛い目にあわされたの?

125 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 21:00:41
気持ちとしては反論しているようだが
なんについて反論しているのか
ちっとも分からない。

126 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 21:02:45
畿内説で決着してるからな。
遊んでるだけ。


127 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 21:44:54
まあ準構造船のネタを振った奴はトンズラしたようだがw

>>106
>「木材に「貫穴」を施した例」を同程度の理解ではないかと

…と「同程度」と切って捨てられちゃったがw
貫(ぬき)の技術って昔は古墳時代より相当後と考えられていなかったか?

以下、適当にググッたモンだが、高島センセイも加わっているw

http://www2.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/002.htm
>ただ貫は東大寺南大門が最も古いとされ、平安末期以降にしか日本には入ってこないといわれていた。
>研究仲間からは非難を受け肩身が狭かったが、その後の発掘などで貫の存在が明らかになり、
>今や貫を使った形跡は縄文時代にもあることが分かった。

恐らく今日我々が同じ事をやろうとしたら鋼の「叩きノミ」と木槌・金槌を使うって事になるか?
(まあ今日日プロならイッパツで穴を穿つ電動工具とかもってそうだけどw)

纏向の大溝に使われていた貫も結構インパクトあったらしいがw

結局、木工技術の水準なんて物は鉄器の普及云々とはあまり関係の無い話だったのではないかとwww

128 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 21:51:00
古代の歴史は全て妄想の要素を持っている。文字の形で残された史料も主観を免れない。記録者が把握できた事柄
だけの歴史である。そのような記録に現れた人物や事件を基に組み立てられた歴史も編纂者の妄想が入りこんでい
ないという保証はない。

遺跡、出土物から見える歴史となるとこれはもう妄想が主な要素というべきであろう。遺跡や出土物がどのような
物であるかについては多くの研究者に共通の認識は得られるであろうが、それらの物から年代を正確に定めること
は未だ困難であり、まして社会の態様や政治の状況を語るにおいては論者の想像力次第であり、ほとんどが妄想で
あると言っても過言ではあるまい。

このようなことであるから、我々は妄想を戦わせているのである。いずれが魅力的な妄想であるかを競っているの
である。


129 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 21:55:02
>>119はサイバキ君に痛い目にあわされてトンズラしたウンコマンだろ?www
見苦しかったよな〜www

130 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 22:58:39
ここ面白いね。
邪馬台国なんてとっくに畿内説が正しい、で決着ついてるのかと思ってたけどそうでもないんだな。
畿内説がここまで必死になるほど不利だとは知らんかった。
しばらく見物させてもらうわ。


131 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 23:26:28
いや、畿内説でとっくに決定してるよ。
畿内説詐欺コンツェルンは微動だにしない。

132 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 23:28:07
>>131
「畿内説は詐欺だ」と叫びつつける馬鹿 = サイキバくん



133 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 23:35:33
もう、日本国民には九州だって分かっちゃってるのに、
「マキムク畿内教」というカルト教団が、学会を占領中。

134 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 23:45:52
真面目な話、畿内説を信じている学者なんていない。
信じているフリをしているだけ。
こんなのは常識以前の知識だろ。

135 :日本@名無史さん:2010/07/28(水) 23:49:33
>>120
>サイキバ君は、最近だとどこに現れたんだ?言ってみろ。

・・・>>134-134にいるみたいだぞw

136 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 00:01:30
てゆうかマキムク信者とか、異常すぎてドン引きだろ。
集落遺跡がひとつたりとも出土していない異常な都市遺跡。

そりゃ、頭がおかしい今にも暴れそうな人が向こうから歩いてきたら、みんなが
道を譲る。それを期待するのが、学者のやることとは思えない。

137 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 00:30:47
年輪年代にしても、グラフが一度たりとも開示されない状況でほかの学者が
これを引用してきたという異常なことが続いてきた。

学者がプライドをかなぐり捨てて、周りを威圧するようなことは止めて欲しいね。

138 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 00:39:04
>>135
それは普通に国語のできる人でしょ。
「邪馬台」を「やまと」と振り仮名を振るような、日本語が不自由な人じゃありません。

139 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 01:09:14
>>137
まあ、おかげで”結果的には”近畿関西の考古学もやっと九州に追いついたのかな?w

と言うか年輪年代の登場を待つまでも無く年代観の変更はされるべきだった。

そこはこの板のゴミクズ九州説とて批判していいぞwwww


140 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 03:20:05
三角縁神獣鏡舶載畿内説w
箸墓年代繰り上げ畿内説w
年輪年代グラフ隠ぺい畿内説w

141 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 04:01:01
で、九州のどこに卑弥呼の墓があるのか、だれも答えられない九州説wwww



142 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 08:18:03
日向にあるよ。どれか、分からんけど。
畿内説のいう箸墓は卑弥呼の墓には合わんぜ。
合わないのを主張したってだめだ。

143 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 08:56:33
>>143
老い先短い畿内厨の老人どもには
ちょっとくらい夢を見させてあげてもよいのではないですか?
後生大事に箸墓は卑弥呼の墓と思い込みたいのならばそうさせてあげましょう
若いのに畿内説を本気で信じている者など今どきほとんどいませんしね

144 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 09:14:58
>>142
>畿内説のいう箸墓は卑弥呼の墓には合わんぜ。
>合わないのを主張したってだめだ。

「合わない」・・・その理由は?
 

145 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 10:13:40
魏志倭人伝の情報量では、近いところまでは行けても
特定は出来ないんだから、分からないのが正しい。

というより、いったいどんな情報があって
箸墓とかマキムクになるのか教えて欲しいもんだ。

146 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 10:49:34
流石●の聖地だけあって関西人の妄想と粘着は凄いな()笑
この粘着は、サイキバ、サイキバって、何年吠えれば気が済むのだろうか?

147 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 10:53:25
>>144
>「合わない」・・・その理由は?
@ 卑弥呼の墓は、径百余歩、せいぜい150メートルまで。箸墓は倍はあるよ。 
A 倭人伝は「槨なし」と伝える。箸墓は槨があるだろう。
B 副葬品に銅鏡があったら書かないはずはないが、倭人伝は副葬品に触れていない。
 箸墓には銅鏡の副葬がありそうだ。

148 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 11:21:33
>>146
畿内説を支持する関西人は意外に少ない。
大きな古墳を小さい頃から見慣れている目には、
狗奴国にやられそうで魏に救援を求めるような邪馬台国などという弱小国が畿内にあったなどどいうのは
承服しがたいことなのだとか。

149 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/29(木) 11:39:49
 從帶方(郡)至倭、 循海岸水行、歴韓國、從乍南乍東、 到其北岸拘(狗)邪韓國、
収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之
自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

狗邪韓國は倭地である。
ここに出てくる「大倭」とは
倭国(日本)を統一した畿内ヤマト=大和=大倭以外に無い。
倭国統一は景行時代である、それは壹與の時代でもある。
ホ38300 フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ
イセノカミ まつるいわひは ツクシむけ ヒメコトシソヨ ヤマトヒメ コトシモモヤツ
よろこびて ヨハヒいたれば ワレたりぬ わがヤソモノべ ソフツカサ ヰオノにうつし
つかえしむ
景行20年庚寅 如月4日に 五百野姫 皇子内親王 伊勢の神 祀る祝いは 筑紫向け
姫今年14才 やまと媛 今年108歳 …
我が八十武者 12指揮官 五百野に移し 仕えしむ。
この武者は大彦の末裔、磐鹿六雁以下の面々、後の風早国に住す。
壹與が筑紫に下向するとき、軍隊も同行し、伊都に駐留する。
もちろん日本武尊の熊襲征伐の主力である。
魏志の壹與13歳とは、九州平定の終了した年の年齢である。
そして九州諸国が一大率を畏憚するのは、日本武尊以降になる。
魏使は伊都に滞在している。でなければこれだけの情報を集められない。


150 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 14:38:00

イヨタン・・・・・・・・・・
 

151 :ローガン:2010/07/29(木) 14:59:32
>>147横失礼。
>@ 卑弥呼の墓は、径百余歩、せいぜい150メートルまで。箸墓は倍はあるよ。 

「前方後円墳」とするのは現代の認識。
釈紀引用筑後國風土記、「有筑紫君磐井之墓墳高七丈周六十丈墓田南北各六十丈東西各四十丈」
磐井の墓は岩戸山古墳で確定。「高七丈周六十丈」は岩戸山古墳の後円部の大きさ。つまり「磐井之墓墳」とは前方部を含まない。これが古代の認識。
同様に考えれば良い。箸墓の後円部でピタリ。

>A 倭人伝は「槨なし」と伝える。

「有棺無槨」は徑百餘歩と特筆された王墓に関する記述部分ではない。

>箸墓は槨があるだろう。

開けてないので解らないが、おそらく「竪穴式石室」だろう。これを古代中国人が「有槨」と判断するとでも言うのか?
魏志董卓伝に「大風暴雨震卓墓水流入藏漂其棺槨」とある。竪穴式石室が槨なら、プカプカと水に浮くのか?

>B 副葬品に銅鏡があったら書かないはずはないが、倭人伝は副葬品に触れていない。

何故「はずがない」のか?意味がわからない。
 

152 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 15:17:06

■弥生時代の石棺に人物画、呪術師か 北九州・城野遺跡

朝日新聞 2010年7月22日
http://www.asahi.com/culture/update/0722/SEB201007210082.html

 北九州市小倉南区の城野(じょうの)遺跡で、弥生時代終末期(3世紀前半ごろ)の墓の石棺に、武器らしいものを持つ人物像が描かれていることがわかった。
弥生の石棺に描かれた人物画は極めて珍しく、弥生人の葬送儀礼を知る貴重な手がかりになりそうだ。

 城野遺跡は同市芸術文化振興財団の埋蔵文化財調査室が発掘してきた。
昨年、周りに溝を巡らせた方形周溝墓が発見され、子供用の石棺が見つかった。石棺の内側には赤い顔料が塗られ、頭側の板に、大きさ約20センチの人物の上半身が薄く彫り込まれていた。
右手に武器、左手に盾のようなものを持っている。武器とすれば、弥生遺跡で出土する戈(か)とみられる。胴体には格子模様、顔には複数の目のような表現があるという。

 弥生時代の土器などには、武器を持つ人物が描かれたものが見つかっているが、それらは、農耕儀礼を表しているとみられている。
だが、今回の人物像について、設楽博己・東京大教授(考古学)は「石棺にあったということは、墓の中で邪霊をはらうものと考える方が理解しやすい」とみる。

 さらに、古代中国の文献「周礼」に登場する呪術師「方相氏(ほうそうし)」ではないかとの指摘も出ている。
方相氏は四つ目の面をかぶって戈と盾を持ち、律令時代の日本では宮中の、鬼を払う追儺(ついな)の儀式にも採り入れられた。
ただ、石棺の絵は線が細く、細部もはっきりしないため、研究者のなかには慎重な見方もある。
同市教委は「これからさらに詳しく検討したい」としており、近く石棺の一部を現場から屋内に移し、調査を続ける予定だ。

城野遺跡の石棺の壁に描かれた人物
http://www.asahicom.jp/culture/update/0722/images/SEB201007210084.jpg
http://www.asahicom.jp/culture/update/0722/images/SEB201007210089.jpg

方形周溝墓から出土した石棺。朱色に塗られていた=2009年11月、北九州市の城野遺跡
http://www.asahicom.jp/culture/update/0722/images/SEB201007210088.jpg

古代中国の方相氏
http://www.asahicom.jp/culture/update/0722/images/SEB201007210083.jpg

153 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 15:35:15
>>147さんに付け加えると・・・

邪馬台=大和音読説だの
三角縁神獣鏡舶載説だのは
畿内説の幼稚さゆえに破綻した。

そこで畿内説は、箸墓年代を無理やり繰り上げて
箸墓卑弥呼墓説を強硬に主張。

論理が幼稚で非科学的であるだけでなく、
魏志倭人伝を自由自在に無視・改変するのも問題で、
足利事件DNA鑑定並みのねつ造を、あれこれ出してくるような
畿内説の謀略的展開が鼻を突く。

154 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/29(木) 16:01:38
>>149
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜

他人に偽書といわれる書物を持ち出したとか言い、威張りやがってテメエが持ち
出すんじゃぁ、2ちゃんの住民にソッポを向かれるで。信用ドカ落ちだぞ。><

155 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 16:24:30
九州には、卑弥呼の墓も、卑弥呼の都も存在しないしなあ。


156 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 17:48:25
偽書はいけませんね。まあそこまで追い詰められているということの証明でもありますが。

157 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 17:54:05
世にいう三種の神器というものがある。
・剣
・鏡
・玉(勾玉、壁)

弥生遺跡からの剣の出土状況
 銅剣、銅矛は北九州が圧倒的に多数
 鉄剣についても同様で畿内はほとんどない。奈良は「0」
弥生遺跡からの漢式鏡の出土状況
 北九州から多数出土している 畿内はほとんどない
弥生遺跡からの玉の出土状況
 これも北九州からの出土が圧倒的に多い
弥生遺跡からの絹の出土状況
 北九州が圧倒的に多い。漢製絹は福岡のみ

弥生遺跡からの三種の神器の出土は福岡県の3例のみ
あの吉野ケ里でさえも、剣のみの出土でしかない。
弥生末期に銅鐸が壊されて、捨てられた畿内の部族が
韓半島に出陣したという妄想は(日本書紀も捻じ曲げて)
辞めて、銅鐸の研究をされた方が良いのではないか?

158 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 18:23:53
さて昨日の
「準構造船は鉄文化の賜物」…なんていうゴミクズ九州説の戯言を総括しておくと

結局、その豊富な鉄器の量は造船技術を含む木工技術全般を大きく進展させた
…なんて事実は今のところ確認できないって話になるかな?

(尚、念の為断っておくが、当方あくまでゴミクズ九州説の与太を叩いているだけで
別に鉄器の量の豊富さに関して殊更過小評価しようとかそんな了見は持っていないのでw)

しかし豊富な鉄器量が九州にもたらした物はなんだったのか?
(一度できればその評価に対して実のある話を聞いてみたい、もっともここの九州説には微塵も期待できないがw)

そもそも人口が他地域より多いなんてことも無い以上
農耕収穫量を鉄器が引き上げた…なんてこともなさそうだし

無論、軍事面において「むてきのてっきぐんだん」なんてのはここのゴミクズ九州説の与太以外の何物でもないw

そこら辺の正しい評価と言うのは今後の学者らの課題なんだろうな。
今でも畿内説というより考古学者にも連合体の形成の主要因に「鉄資源の確保」を考えている人は多そうだ。

…でもどちらかと言うとそう言った「鉄重視」の立場をとるのは旧い人の方が多いんだろうか?
ぶっちゃけ、シナリオとしては分かりやすそうだしw




159 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 18:25:33
>152

しかし「四つの目を持つ方相氏」か…
中国ってこう言う一種の「奇形信仰」っポイのがあるよな?
(まあ意外に洋の東西を問わずあるのかもしれんが)

「特別な人間には特別な”相”が顕れている」みたいな?wwwwwww

確か漢楚の戦いの項羽も一つの目に二つの瞳で計四つの目を持っていた…なんて伝説がなかったっけ?ウロオボエだがw




160 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 18:41:31
>>158
ヒッタイト人でも研究するか、出雲たたら文化でもひも解いて
から、偉そうにほえなよ。
鉄の文化が人類にどんな影響を及ぼしたかわかるんでないか

それにしても、本当に知識が浅い割に偉そうですね。

161 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 18:47:56
>>160
>知識が浅い割に偉そう

畿内説患者特有の症状です

162 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 19:05:56
>>160
ヒッタイトねえ…

幾度と無く繰り返したエジプトとの抗争で
勿論エジプトを征服したなんて事は無く

それどころか何処の馬の骨とも分からない謎の民族に滅ばされたと言うアレか?w

こんな脊髄反射しか無いからゴミクズ九州説には期待できないと言っているわけだがwww

163 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 19:13:05
>>157
>世にいう三種の神器というものがある。

たしかにあるなw
だがそれがどうした?って話でコイツが何が言いたいのかサッパリ分からないwww

九州の事例を挙げ畿内にその例が無いというのなら
少なくともその両地域に「三種の神器」なる物の習慣が継続されたと言う痕跡は無いという話だよな?wwww

そもそも「三種の神器」は皇位継承の証であって
墓の中に入れちゃったらそれはもう意味をなさないw

精々「三種の神器と同じ組み合わせの副葬品」ってだけのお話w

もっとも記紀を読んだだけでも「三種の神器」が出てこなければならない場面で「二種の神器」だったりするわけでw

これももう万年ループネタ。

もっともサイキバレベルのアホは学習しないがwww

164 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 20:21:53
卑弥呼の墓が、箸墓の特徴と、どこも一致しない件について

165 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 20:27:44
纏向の建築が、邪馬台国の建築の特徴と、まったく一致しない件について

166 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 20:28:46
畿内の風土が、魏志倭人伝の記述と、まったく一致しない件について

167 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 20:30:45
まあ、たしかに三種の神器は
卑弥呼の補強材料にはならないな。
倭人伝他にそんな記述は全く無いから。

せいぜい大和朝廷のルーツ特定の材料になるだけだ。

168 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/29(木) 20:44:41
>>151
>徑百餘歩と特筆された王墓

箸墓の周りは濠であり、歩測出来ない。
濠の外から”円”の部分だけ測ることも出来ない、墳墓に登ることは御法度でしょう。


169 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/29(木) 21:14:43
>@ 卑弥呼の墓が、箸墓の特徴と、どこも一致しない件について
>A 纏向の建築が、邪馬台国の建築の特徴と、まったく一致しない件について
>B 畿内の風土が、魏志倭人伝の記述と、まったく一致しない件について

@ について
畿内に長い乱が確認出来ない以上、卑弥呼は大和に居ない。
A について
景行51年正月に「時皇子稚足彦尊。武内宿禰不參赴于宴庭。」時を忘れて不参加であった、
そのみそぎ?として「故侍門下備非常」門番をした。
この守衛の部分は記述と合う、纒向遺跡は発掘途中である、よって楼閣の出土も期待できる。
B について
魏志倭人伝の記述風土は、松浦周辺までと思われる。松浦に卑弥呼が居ない限り、記述に
違いがあっても問題では無い。

しかも不知正歳と書かれているが、女王への文書伝送に誤りが無いとも書かれている。
文書は読めるが暦は無い。と云うことはあり得ない。
これは書かれた風土と女王の間が離れている証拠である。


170 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 21:37:38
纒向遺跡には周囲に巡らせた柵、堀が確認されており
明らかに戦に備えた軍事施設に護られた集落。
邪馬台国の首都と考えても問題はなさそう。

邪馬台国が大和政権になったとは考えない。
その証拠に、日本書紀は生涯未婚の卑弥呼を
夫子供のいる神功皇后に当てるという相当な間違いをしている。
よって、日本書紀に大乱の記述がないから
畿内に大乱がなかったとは取れない。

171 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/29(木) 22:00:48
畿内が大きく乱れたのは、忍熊王等が殺された 神功紀から。
その証拠として、諱が伝わっていない。

>畿内に大乱がなかったとは取れない。
とはいえ、大倭(大和)が伊都国に一大率を置く。これが魏志の記事である。
乱は九州、よって卑弥呼も九州。しかし卑弥呼に位を譲った九州王家にこの乱を平定する力は残っていない。
代わって乱を収めたのが大倭であり、その九州に一大率を置く。


172 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 22:13:49
>>157
>世にいう三種の神器というものがある。

でも、九州の古墳から。三つセットで出てきたことは無いわな。

あったら教えてくれ。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww



173 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/29(木) 22:23:32
発掘調査現場から(241回)
http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/index.html
 調査区は南北に傾斜する微高地上に位置しており、その地形に合わせて整地土が厚く盛られ、
平坦な土地をつくっています。整地土内からは庄内式期古相(3 世紀前半)の土器が出土して
おり、下層遺構は主にこの時期に構築されます。また、これらは庄内3式期(3世紀中頃)の溝
によって壊されていることから、こ の時期に廃絶するものと考えられます。

3世紀前半から同一地点で宮を作り替える。
「整地土が厚く盛られ」ていたら日代かもしれない。
ヒ=干からびる、の干
代=田代、の代 平らにならした土地

3世紀中葉が景行の時代である。
伊都の庄内式は、軍隊の駐留を意味する。

古墳時代に九州王朝は無い、よって三セットが副葬されることもない。


174 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 22:36:56
>>151
>「磐井之墓墳」とは前方部を含まない。これが古代の認識。
筑後國風土記を書いたのは、8世紀の日本人だろう。3世紀の中国人ではない。
それに、風土記には、「墓田南北各六十丈東西各四十丈」とあり、墓全体の広さ
を示している。径百余歩を後円墳のみの大きさとしたら、墓の一部の長さを示し
たにすぎないこととなる。そんな表示の仕方はあるまい。

>「有棺無槨」は徑百餘歩と特筆された王墓に関する記述部分ではない。
王墓は例外だとはどこにもないぜ。

>槨なら、プカプカと水に浮くのか
君は槨とは水に浮くものだと思っているのかね?
石棺は棺ではないとか?

175 :ローガン:2010/07/30(金) 00:02:58
>>174
>筑後國風土記を書いたのは、8世紀の日本人だろう。3世紀の中国人ではない。

そう。現代日本の「前方後円墳」と云う括りが、されていない時代の認識だ。

>それに、風土記には、「墓田南北各六十丈東西各四十丈」とあり、墓全体の広さを示している。径百余歩を後円墳のみの大きさとしたら、墓の一部の長さを示したにすぎないこととなる。そんな表示の仕方はあるまい。

墓墳と墓田にちゃんと分けて書いてある。冢とはまさか墓域を指すとでも言うの?
冢の記述の必須事項は「高さ」。高七丈と記された磐井之墓墳が、冢。

>君は槨とは水に浮くものだと思っているのかね?

君はつまらないね。

176 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 00:18:56
メソポタミア平原のティグリス川の下流にラガシュという都市があって
その都市を支配していたウルナンシュ王ニンギリスの最高行政官はサンガと呼ばれていました。
更に、アッカド王朝4代目の王は、ナラム・シンは、そう奈良(=国)の王なのです。
しかも、下記の粘土板を見てください。牛の角を生やした兜をかぶった姿は、まさにツヌガアラシトそのものです。
シュメール語のルガルは「王」の意ですし、メソポタミアの古代文明と日本の古代文明に共通点があまりのも多いのです。
アレキサンダー大王の東方遠征によって滅ぼされたシュメールやアッカドの王の末裔が日本に渡来したことは間違いありません。

まだまだ勉強不足で、まとまりのある説明ができませんが、少しずつ整理して書きこんでいきます。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/67/Stele_Naram_Sim_Louvre_Sb4.jpg/300px-Stele_Naram_Sim_Louvre_Sb4.jpg

177 :ローガン:2010/07/30(金) 00:47:31
>>175の続き。
卑弥呼の冢には高さの記述が無い。倭人伝には「大作冢」とあり、大いに冢を作る…つまり工事の活況を述べたもの。
始まって間もない作冢の規模、わかる範囲で記述したものが「徑百餘歩」。
その段階では前方部の土盛りなど、無いと考えるのが穏当だろう。前方部の土盛りが後工程であるのは河内大塚山を見ればわかる。

又、槨についてであるが…槨とは外箱、言い換えれば、地山と棺を隔てるもの。
粘土床の上に棺を据え、その後から周囲の石を積む手順の竪穴式石室、これを指して「有槨」とする人の槨の定義を伺いたい。
又、明日。

178 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 00:51:01
>>170
その手のお話は珍しいなw意味新鮮だw

過去には邪馬台国は結局狗奴国に滅ぼされ
その狗奴国の後裔こそが今の大和朝廷に繋がる…と言う説もあったと思うがw

まあ滅ぼされた畿内邪馬台国が葛城王朝で
滅ぼした狗奴国が三輪朝という話もあったけ?wwww

しかしそのお話だと
「じゃあ、大和王朝は畿内邪馬台国と別にいつ何処に発生したのか?」と言うツッコミは当然出てくるだろうがwwwww

179 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 01:02:08
>冢の記述の必須事項は「高さ」。高七丈と記された磐井之墓墳が、冢。
前方部は冢に入らないとでも? まあ、岩戸山の前方部は山を利用したもの
かも知らんが。

>わかる範囲で記述したものが「徑百餘歩」。
ご都合主義解釈の典型だな。完成時の大きさが分からないまま書いたというなら
敷地の広さと解すべきだろうに。


180 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 01:22:04
>粘土床の上に棺を据え、その後から周囲の石を積む手順の竪穴式石室、
倭人伝には、「封土作冢」とあるな。石で封じてはいない。

181 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 09:10:50
>>159
>しかし「四つの目を持つ方相氏」か…
中国ってこう言う一種の「奇形信仰」っポイのがあるよな?

四つ目の仮面だよ。良く読もうね。

182 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 09:34:01
>>179
>その段階では前方部の土盛りなど、無いと考えるのが穏当だろう。前方部の土盛りが後工程であるのは河内大塚山を見ればわかる。

前方部と後円部は同時に作られた ことがわかったらしいので土盛り前の外形はあったんじゃないかな。

183 :ローガン:2010/07/30(金) 15:36:09
>>182
>土盛り前の外形はあったんじゃないかな。

土盛り以前の低い「前方部」は墳丘構築資材の仮置き場。
石や土を担いで、ここと円墳を大勢の作業員が忙しく往復する活況を使者が目の当たりにしたら、
「作ろうとしている冢とは、資材置き場の先にある丸い丘である」と認識して当然。


184 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 15:37:43
資材置き場なら、造成後に撤去するのが当たり前。

185 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 17:34:56
景行天皇(ウィキペディア)
(日本書記では71年8月24日〜130年在位)

「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、
時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)
の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものである
として、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇の実在性には
疑問が出されている。記紀の記事は多くが日本武尊(やまとたける)の物語で占め
られ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれるものの、実在を仮定
すれば、その年代は4世紀前半かと考えられている

景行天皇を邪馬台国時代に想定はやはり無理があるかな?


186 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 19:12:13
景行天皇が2〜3世紀ころの人物と想定すると、当時の畿内の生活様式
からして、遠征するには無理があると思われます。
(記紀の年代は信ぴょう性にかけるので無視するのですが)

3世紀(100-299)弥生後期の畿内
 ・鉄製農具はないので、木製の鍬・鋤、包丁は石包丁
 ・食料は熱帯性陸稲があったと仮定して、米・粟、干し肉だろうが十分ではない。
 ・銅剣、銅矛はないので武装は、木刀、木製やり、竹製弓(先端は黒曜石?)
 ・移動手段は、歩行、丸木船(大きな河川には橋がないので移動手段は船?)
 ・装備は革製の短甲、毛皮
 ・銅鐸文化(銅鐸は4世紀初頭に突然、破壊され、破棄されている)、海外交流痕跡
  ほとんどなし

 以上の点から、畿内の部族は外からの侵略者により征服されるのを
 待って、4世紀以降からその部族が台頭するのを期待しましょう。

187 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 19:29:47
>>186

景行が2〜3世紀どころか架空の人物だというのには同意だが
その前提というか根拠はかなり無茶だね。

・鉄製農具はあったと見られている。鉄板装着型(これは九州も同形式)の木製具が出土している。
 この状況は畿内だけでなく、東海、北陸、関東でも同様。
・まあ299年までつまり3世紀末まで弥生時代とするのはかなり昔の年代観だが
 その時代ともなれば、これも関東でも水田耕作は行われている。
 但し九州も含めて、米作の収穫量は十分ではない。当時の倭国全般の植物性の主食は、アワ、ヒエ、ドングリなど。
・悪いが九州でも橋があったとは考えられていない。丸木を倒した程度のものはどこでもあったろうが
 これまた九州でも準構造船が主流で、やはりこれも全国的なもの。
・装備(笑)についても、どこでも似たようなもの。鉄剣は当たり前の話だが当時の鉄の強度では武器になりえない。
・このスレでも繰り返し書かれているが、銅鐸の一斉廃棄というのは幻想。というか4世紀って何?
 ちなみに海外交流痕跡だが、これは北九州より少ないのは当たり前で、無関係。
 そのかわり本州各地の土器が終結している。纏向遺跡を参照の事。
 実情は地区ごとに少なくとも100年以上かけて徐々に消える。古墳時代に入ってから消えるものすらある。

東征とかもうホントに今の時代そんなこと考えている人は、アマでもあまりいないんだってことを知っておいてね^^

188 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/30(金) 19:37:14
>景行天皇の実在性には疑問が出されている。

書紀は太陰暦で書かれている、そして正朔の文字がある。
但し、暦は伸長されている。正しい暦にするためには、この伸長された空白年を
取り除けば良い。方法として、太陰暦と正朔をたがえてはならない。
太陰暦は19年7閏6940日の積み重ねである。各天皇紀から19年×n回の空白を差し引いても
太陰暦と正朔に変化は無い。

これが成務までの暦である。
景行を抜くと、正朔が得られなくなる。正朔の得られない太陰暦は存在出来ない。
思考に間違いがある。



189 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/30(金) 19:51:53
書記 より19*n回の空白年を差し引く、正朔である。19年=1章
天皇   西暦   増し 
神武天皇 42年〜63年 3章 手研耳による空白年を含む。X式土器の始まり
綏靖天皇 64年〜77年 1章
安寧天皇 78年〜88年
懿徳天皇 89年〜93年 3章 安寧天皇と同じ暦 安寧、懿徳は兄弟。
孝昭天皇 94年〜119年 3章
孝安天皇 120年〜145年 4章
孝霊天皇 146年〜164年 3章
孝元天皇 165年〜183年 2章
開化天皇 184年〜187年 3章 1年の異常?
崇神天皇 188年〜216年 2章 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。6年秋大物主の国譲りは 近江伊勢遺跡の衰退。古墳、庄内式の始まり。
209年 新羅本紀に伽耶の登場=任那建国
垂仁天皇 217年〜239年 4章 景初3年。纒向遺跡の巨大建築は珠城宮。
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵。鐙の登場。遠国をまとめる為屯倉導入
成務天皇 262年〜265年 3章 
仲哀天皇 266年〜274年 0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜344年 ここより盟神探湯による世継ぎの部分。
274年 2月幽州を分け平州を置く、この下に東夷校尉があり馬韓の登場。
323年 癸未年 四九年 千熊長彦 東晋が洛陽奪回を断念し半島は空白地帯となる。
326年 五二年七支刀  百済本紀の数字には狂いがあるとし、百済王家はこれに合わせる。
  応神天皇 345年〜387年
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。

新羅本紀に合わせた編年です。百済本紀に合わせると5、60年遅くなり、太陰暦もえられない。この事実は
韓国考古学の云う土器編年で5,60年狂うのと同一である。


190 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 19:55:07
>>187

>>61とほぼ同じような事を言っているな、特に「河川に橋」とかw

…トンズラこいた準構造船君だなw

まあ大遠征が不可能だったろうと言う見立てに関して文句は無いし
他の連中も大概そうだと思うが…

それは西から東に関しても同じ。
東征劇なんて現時点、空想・妄想としか言いようが無いwwww

じゃあ逆に言えば
3世紀までは不可能で4世紀以降にヤマト王権が勢力を伸ばしたのは
如何なる切欠があったのか?と言うお話で

東征勢力が製鉄技術を持ち込んで鉄器ザクザクの国になって準構造船を作って(w)
富国強兵に勤めそこから快進撃の征服劇が始まった
・・・なんて話は現実にはありえない与太だからなw

まあ長文だが中身はサイキバレベルだな  ウンザリ('A`)


191 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 20:08:13
しかし「箸墓=卑弥呼の墓」説の論争でいつも思うのだが…

墳墓の大きさや形、埋葬主体部の構造…そんな物曖昧模糊とした物より
「奴婢百余人の徇葬」を持ち出すのが一番手っ取り早いと思うのだが?w

無論箸墓は考古学者らが中に入っての調査がされたわけでも無いが
あの段築を見ても特別にそれが形に出ているとも思えないし

潰されたり削られたりした古墳から徇葬の跡が見つかった…なんて話も聞いたことは無い。
無論「卑弥呼の時だけの特異例」と言う可能性はあるだろうが

実際「箸墓=卑弥呼の墓 説」を言っているような学者でも
箸墓にそれがあると思っている人間ていないのでは?w

「すなお読み」を掲げるここのゴミクズ九州説なら
そここそがツッコミドコと思うのだが…

実際、九州説の連中もそんな物は無いとか思っているのかな?www

192 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 20:16:06
>>191
みんなそう思ってるだろ?

193 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 20:28:23
>>192
しかしその部分が「信をおけないもの」と言う事になったら

「径百余歩」だの、「棺アリ槨ナシ」(もっとも、そもそもこれは倭人一般の習俗として書かれているものだが)
…なんてお話も怪しくなるんじゃね?

九州説的にいいのかな?w

194 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/30(金) 21:18:18
箸墓には、初期埴輪がある。
当然垂仁以降でなければならない。


195 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 21:39:35
>「奴婢百余人の徇葬」
これはどこに埋葬されるのか、後世まで痕跡が残るような埋葬方法か、などといった
問題があるからね。それこそ、曖昧模糊とした部分が多いと思うよ。
形は客観的な問題だ。畿内説論者にとっては苦しいところだよ。

>「前方部」は墳丘構築資材の仮置き場。石や土を担いで、ここと円墳を大勢の作業
>員が忙しく往復する活況を使者が目の当たりにしたら、「作ろうとしている冢とは、
>資材置き場の先にある丸い丘である」と認識して当然。
ローガンは、箸墓が畿内で最初の前方後円墳だと思っているのかな? 使者は先に造
られた前方後円墳も目にしているはず。誤解などするはずないね。
こうゆう馬鹿な場当たり的説明しかできないところが畿内説論者の泣き所さ。


196 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 21:57:02
王の娘を宗女にするのは、メソポタミアのシュメール王朝、アッシリア王朝からの伝統です。
卑弥呼はメソポタミアから来たことは間違いないのです。
どうしてそれを認めようとしないのか?不思議でなりません。

197 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 22:01:42
>>195
>ローガンは、箸墓が畿内で最初の前方後円墳だと思っているのかな? 使者は先に造
>られた前方後円墳も目にしているはず。誤解などするはずないね。

俺、ローガンじゃないんだが、畿内の大型前方後円墳で最初のものは、恐らく箸墓古墳だと思っているよ。
そう考えている考古学者も、結構多いと思うよ。

198 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 22:19:44
>>190
都合が悪くなるといつもトンズラしているジョーカーさんが何か言っているぞww

199 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 22:31:55
>>197
>そう考えている考古学者も、結構多いと思うよ。

と言うか箸墓が定型化された最初の巨大古墳だと言うのは定説と言って良いと思うがw
段築(の数)とか埴輪の配置とかetc…

ただ個人的には果たして「纏向型」から一気にあんな巨大な物にジャンプしたのかどうか
疑問を持つ部分もあるwwww

まあ>>195が言っているのは恐らく「纏向型」の事で
当然、箸墓築造中なら既に出現している「纏向型」を見てるだろう…って指摘なんだろうがw


200 :199:2010/07/30(金) 22:37:58
ただ逆に言えば「(より円形に近い)纏向型」を見て築造中の箸墓の完成を推測したなら
円墳に近い物を想像したと言うのも成り立つ推論wwwwww

そもそも今日の考古学者とて「纏向型前方後円墳」じゃなくて「突起付円墳」みたいに呼ぶ人間もいたっけ?wwww



201 :日本@名無史さん:2010/07/30(金) 23:32:01
「方」と「円」が対等に存在している、なんて思うのは、前方後円墳という名称があるからだね。

そもそも「前方後円墳」と命名したのは、江戸の儒学者、蒲生君平だ。
古代中国の馬車の車両部分に見立てた命名らしい。

思い込みが無ければ、円墳にステージを付けただけ、というように見えるはず。

202 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 01:09:55
>>201

203 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 01:26:28
>>201

すまんミスったwww

>思い込みが無ければ、円墳にステージを付けただけ、というように見えるはず。

だから長突円墳と呼ぶ流れがあるのだが。
君平ちゃんの見立ては、一般用語として使っているわけですよ、じゃないとほとんどの人が用語で戸惑うでしょw
ただそのステージの変遷はある程度研究が進んでいる。
問題は主部である円(方)部の構造にあるのだわ。
前方部の変遷も重要だが、主体の工法が円と方ではまるで違うわけで
これはローガン老がいみじくも指摘したように
主体部をいかに造成したか、もしくは俯瞰図のみでは判別できない段階層の造りなどが
如実に違う文化に基づいた相似系であることを示している。

そういえばローガン老の一連のレスは、大林組の試算を基にしたもので近藤氏が提唱した工法によるものだと思うが
あれは五色塚の復元の際の試算的工法によるものだから、そのまま長突部が主体部造成のためのものとは言い難いのではと思う・。

最初の話に戻ると、なぜそのステージが必要となったかだろうね。
儀式用?はたまた追葬用?
これは宮内庁と合同での箸墓半解体を軸とする今後の調査で、ある程度判明すると思う。

204 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 01:47:41
>>203
>長突円墳

酷いネーミングだな。前方後円墳より1億倍以上酷い。
その酷いネーミングをなぜ広めようとするのか?
前方部と後円部の比率とか、そういう研究の妨げになるネーミングをしたいだけとしか思えないね。





205 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 02:06:16
石野は「突部」とか「円部」とか呼んでいるのかな?

206 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 08:56:20
前方後円墳は、だれが作ったかというのも謎ですね。
やはり、大林組や竹中工務店のようなネコンが古代にも存在し、
設計から施工管理まで請負って、地元の下請け業者に造らせたのでしょう。
では、そのようなゼネコンはどこからやってきたかといえば、
万里の長城を作っていた集団が、秦から渡ってきたと見るのだ妥当でしょう。
そしてその前はメソポタミアでバベルの塔を建て、エジプトでピラミッドを作ったのかもしれません。

現在、ドバイタワーや東京スカイツリーを建てているのも彼らの子孫かも知れません。


207 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/31(土) 09:32:23
前方後円墳を作ったのは、景行以後 各地の屯倉に派遣された人等である。
この人等はその地方を治める権利がある、その代わり兵役を負う。
つまりその地方の軍の隊長である。
まず宛がわれた土地に従わぬ者が居たら、その者等を武力で従わせる。そしてその地に農業を根付かせる。
それから要請による軍の出動、半島への進出はその証である。
古墳への副葬が軍人の様相を帯びるのは当然の帰結である。


208 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 09:36:59
>>206同意
四天王寺を建てるために渡来した技術者集団「金剛組」は1200年もの間、その組織が受け継がれているけれど、多くの組織は常に興亡を繰り返している。
前方後円墳を作ったのも、大陸から渡来した技術者集団だということは間違いなく、日本全国いたるところに大小さまざまな前方後円墳を作りまくって栄華を極めたけれど、そのブームが去ると組織は解体し消えていった。
しかし、その技術者の子孫は別な仕事で別な組織を作って生きながらえたはず。
白鳳時代や奈良時代の巨大建築物を作ることができたのも、結局は前方後円墳を作るために渡来し帰化した多くの技術者がいたからこそできたのであって、
その後の日本の土木・建築技術を継承してきたのも彼らだったと見るのことができます。


209 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/31(土) 14:51:26
>日本全国いたるところに大小さまざまな前方後円墳を作りまくって栄華を極めたけれど、

これを渡海集団とすると、その集団に仕事を頼んだ人間は誰だ?
しかも古墳時代という特定期間に無数の古墳を作る。
今ある寺院の数程度は数年で作らねば追いつかないぞ。


210 :ローガン:2010/07/31(土) 16:27:39
>>203
>長突部が主体部造成のためのものとは言い難いのではと思う・。

勿論、そもそもの突出部とは、西条52号等にみられる「主埋葬箇所に達するための『整えられた道』」(近藤義郎)でしょう。
それが「前方部に転じたとする考えに立つならば、前方部も又、『道』であります。『大仰に整えられた道』であります。」(同)
つまり、大型古墳の突出部も墓へ向かう為の道。本設である。が、その前方部の整地→土盛りの工程は一気に行われず、中断期間を設け、その間 円墳構築の資材置き場並びに、仮設通路として使用したものと考えます。
件の倭人伝の記述は、その際の一場面を表したものであろうと云うのが私の考えです。

211 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 16:32:54
>>209

>>208に釣られるなんて恥ずかしすぎる。


212 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 16:38:34
必死にコテハンで書き込んでいる、唐松山とローガンの
存在自体が恥ずかしすぎる。

213 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 17:24:31
もう邪馬台国は大和で決着したもんな。

214 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 17:43:22
>>210
>その間 円墳構築の資材置き場並びに、仮設通路として使用したものと考えます。

正直これには疑問を持つ。

…と言うのは「土橋(後円部に繋がる渡り場)」の存在。
もし「資材置き場」があったとしても、それはやはり墓の外なのではなかったのか?と

そこら辺の事は箸墓の調査が実際に進めば明らかになるんだろうが…
被葬者が卑弥呼の可能性に繋がるような副葬品の出土なんて物よりはよほど現実的に期待できると思うwwwwwwww

215 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/31(土) 17:43:45
恥は生きている内にかけ。


216 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 18:13:36
>>210
箸墓の頃には、前方後円墳は様式化されてたんじゃないの?

前方後円墳の初期では、円墳+道だったかもしれないが。


217 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 18:28:02
南は東だとか、陸行一月は1日だとか、前方後円墳は単なる円墳だとか、
いやぁ、涙ぐましい努力だね(笑)。

218 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/31(土) 18:44:15
「主埋葬箇所に達するための『整えられた道』」
仮設のもので有れば、工事終了と共に撤去される。
整えられた道を円墳より高く積み上げる事は無い。

例えば3段築成の古墳であれば、下部2段までは早くに築造し
2段目の大きな平面で葬儀が行われ、最上段の3段目が円墳として築成される。
最上段の円墳こそ本当の墳墓である。これを百余歩とは出来ない。
兆域なら周濠の外側の帯域まで含まれる。
この兆域が百余歩でも充分大きい。


219 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/31(土) 18:46:58
この兆域に殉葬が行われるのであるから、ここを掘らずには
殉葬を語れない。


220 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/31(土) 18:48:35
訂正
この外周兆域に殉葬は行われる。


221 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 22:00:38
前方後円墳は、その被葬者が在命中に作られたのか?
それとも、死んだあと王の後継者が造ったのか?それが問題です。


222 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 22:29:06
大きいのは、死んでから作ったのでは、間に合わないと思う。
(費用が無かったためか)天皇でも1年以上放置したケース(もがりともいうが)があるけどね。

223 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 23:22:35
いまNHKで明清の皇帝陵墓をやってたけど、
上空からの眺めは、まんま前方後円墳だったなあ。

224 :日本@名無史さん:2010/08/01(日) 00:17:01
>明清の皇帝陵墓

それ写真アップしてほしいわ

225 :日本@名無史さん:2010/08/01(日) 00:18:47
信じるなよ。

226 :ローガン:2010/08/01(日) 00:29:06
>>214
>正直これには疑問を持つ。 …と言うのは「土橋(後円部に繋がる渡り場)」の存在。

土橋の存在が、反論の根拠と。 論証してみて。『まいった!』ら 稚説を撤回するから。(笑)
酔っ払ったので、又 来ます。ホゥ〜

227 :日本@名無史さん:2010/08/01(日) 01:19:59
>>224
明の十三陵でググったけど、上空から全景を撮った写真って、なかなか無いね。
前の方に建物が三つ前後に並んでいて、その奥に円墳があって、
その敷地全体に木が生えているので、上空から見ると、
前方後円墳の前方部分に建物が三つ並んでいるように見えた。
多分、永楽帝の長陵だと思うけど、よく覚えてない。

228 :日本@名無史さん:2010/08/01(日) 02:37:16
>>223
>上空からの眺めは、まんま前方後円墳だったなあ。

Google Earth で見ました。「前方後円」形ですね。ただし前方部は土盛りしてないですね。

>>227
>建物が三つ前後に並んでいて

いちばん大きい陵墓ですね。ほかのものでは(たぶん壊れて)一つだけのものもありますね。
日本の前方後円墳にはあのような墓前建物(?)はあっただろうか?

229 :214:2010/08/01(日) 03:03:17
>>226 老眼翁
まあ槨を構成する部材の搬入とかはわざわざ勾配がきつい後円部の土橋側からじゃなくて
前方部分からゆるやかなスロープを利用して搬入したとも思うが

先に円墳部分を作って最後に前方部を”切り離す”と言う手順なら
そもそもあんな土橋は何の為にあるのか?って話で

前方部の端が切り離された後も後円部の築造は続けられていて
資材搬入の為の通路があの土橋ではなかったか?と言う推測ね。


230 :日本@名無史さん:2010/08/01(日) 05:40:56
>>223
「天円地方」という考え方は伝統的に中国にあるよな。

ttp://blogs.yahoo.co.jp/rontetu1945/27974160.html

>沖縄の風水書「象吉大通書」中に登場する「中国福建省汀州府永定県太平里黄龍寨」
という墓の図面が紹介されている。
それによればこの墳墓は前方を方形・後方を円形とすることで中国の天円地方説を
表象しており、それが沖縄では天円に納骨し、地方で定期的祭祀を行える亀甲墓に
なったとされ、この源流は風水思想と共に、17Cの福建省に求められるということ
が小川徹『近世沖縄の民俗史』で明らかにされている。

231 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/01(日) 11:21:45
>>221
>前方後円墳は、その被葬者が在命中に作られたのか?
それとも、死んだあと王の後継者が造ったのか?

景行は関東視察後、纒向に帰らずに近江で崩御する。(261年崩御)
この時、箸陵は作られる。


232 :日本@名無史さん:2010/08/02(月) 00:57:56
屋切り万歳

233 :日本@名無史さん:2010/08/02(月) 09:01:51
>>231
すごいね
脳内妄想癖

234 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/02(月) 10:36:57
255年 景行天皇四〇年◆是歳。日本武尊初至駿河。
257年 景行天皇五一年◆五十一年春正月壬午朔戊子。招群卿而。
257年 景行天皇五一年◆秋八月己酉朔壬子。立稚足彦尊爲皇太子。
258年 景行天皇五二年◆五十二年夏五月甲辰朔丁未。皇后播磨太郎姫薨。
258年 景行天皇五二年◆秋七月癸卯朔己酉。立八坂入媛命爲皇后。
258年 景行天皇五三年◆五十三年秋八月 丁卯朔。天皇詔群曰。冀欲巡狩小碓王所平之國。
258年 景行天皇五三年◆是月。乘輿幸伊勢。轉入東海。
258年 景行天皇五三年◆冬十月。至上總國。
258年 景行天皇五三年◆十二月。從東國還之居伊勢也。是謂綺宮。
259年 景行天皇五四年◆五十四年秋九月辛卯朔己酉。自伊勢還於倭居纒向宮。
260年 景行天皇五五年◆五十五年春二月戊子朔壬辰。以彦狹嶋王拜東山道十五國都督。
260年 景行天皇五六年◆五十六年秋八月。詔御諸別王曰。
260年 景行天皇五七年◆五十七年秋九月。造坂手池。即竹蒔其堤上。
260年 景行天皇五七年◆冬十月。令諸國興田部屯倉。
261年 景行天皇五八年◆五十八年春二月辛丑朔辛亥。幸近江國。居志賀三歳。是謂高穴穗宮。
261年 景行天皇六十年◆六十年冬十一月乙酉朔辛卯。天皇崩於高穴穗宮。

書紀の紀年は、空白日の差し込みにより紀年が長くなる。
御陵建設は258年冬より始まる?



235 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/02(月) 11:01:11
御陵建設は258年冬か259年冬より始まる? 箸陵築造。
ホ40297  ヰソミホホヅミ ミコトのり かえりをもえば やむヒなし コウスがむけし
クニめぐり
「帰り思えば止む日なし」 これは景行自身が、自身の死を遠くないと感じている。
そしてこの義務(コウスがむけしクニめぐり)は魏の意思である。
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

壹與の時代、大倭(大和)は伊都に一大率(軍)を置き、九州諸国ににらみをきかす。
この時代に入ったことをあらわす。


236 :日本@名無史さん:2010/08/02(月) 12:06:22

イヨタン・・・・・・・・・・
 

237 :日本@名無史さん:2010/08/02(月) 15:13:01
日本書記編年

110年 景行天皇四〇年◆是歳。日本武尊初至駿河。
121年 景行天皇五一年◆五十一年春正月壬午朔戊子。招群卿而。
121年 景行天皇五一年◆秋八月己酉朔壬子。立稚足彦尊爲皇太子。
122年 景行天皇五二年◆五十二年夏五月甲辰朔丁未。皇后播磨太郎姫薨。
122年 景行天皇五二年◆秋七月癸卯朔己酉。立八坂入媛命爲皇后。
123年 景行天皇五三年◆五十三年秋八月 丁卯朔。天皇詔群曰。冀欲巡狩小碓王所平之國。
123年 景行天皇五三年◆是月。乘輿幸伊勢。轉入東海。
123年 景行天皇五三年◆冬十月。至上總國。
123年 景行天皇五三年◆十二月。從東國還之居伊勢也。是謂綺宮。
124年 景行天皇五四年◆五十四年秋九月辛卯朔己酉。自伊勢還於倭居纒向宮。
125年 景行天皇五五年◆五十五年春二月戊子朔壬辰。以彦狹嶋王拜東山道十五國都督。
126年 景行天皇五六年◆五十六年秋八月。詔御諸別王曰。
127年 景行天皇五七年◆五十七年秋九月。造坂手池。即竹蒔其堤上。
127年 景行天皇五七年◆冬十月。令諸國興田部屯倉。
128年 景行天皇五八年◆五十八年春二月辛丑朔辛亥。幸近江國。居志賀三歳。是謂高穴穗宮。
130年 景行天皇六十年◆六十年冬十一月乙酉朔辛卯。天皇崩於高穴穗宮。

>書紀の紀年は、空白日の差し込みにより紀年が長くなる。

勝手に日本書記を改ざんするなよせっかく不比等が苦労してごまかしたのに
空白の差し込みに・・は勝手な妄想に過ぎない。

238 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/02(月) 15:38:09
書紀には「正朔」の文字がある。
太陰暦で読めなければならない。

>不比等が苦労してごまかしたのに
暦を後付けとすると、「朔」が時々狂う出来事を説明せねばならない。
これを説明すると、正しい太陰暦に空白の太陰暦を差し込んだ、となる。
景行元年(240年)生まれの日本武尊は、28年(255年)時点で16才である。
景行28年は同40年でもある。
九州から帰った日本武尊は時を置かずに関東遠征。と云うこと。


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