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【理想】私の日本書紀【妄想】

1 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 03:18:16
あなたの正しいと思う日本の歴史を語りましょう

2 :(@∀@) 【kobun:1123】 ◆ANOSADJXD6 @株主 ★:2010/06/03(木) 03:53:27 ?PLT(13333) 株主優待(zassi)

ここは例のスレの次スレですか?

3 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 06:32:47
もちろんいつもの妄想紀年論スレです
ふつうの話題も可としますが規制が厳しいのであんまりレスしないかも

4 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 17:13:10
マシと倍暦のスレだ。楽しみだ。


5 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/03(木) 21:01:02
皇暦 天皇即位元旦  暦日  元旦朔 治世日数 治世月数 
1年   神武天皇元年 8777日  庚辰  28852日  977.02月 
80年  綏靖天皇元年 37629日  壬申 12048日  407.98月
113年  安寧天皇元年 49677日  壬申
151年  懿徳天皇元年 63556日  庚申 26666日  903.00月
186年  孝昭天皇元年 76343日  己卯 30299日  1026.02月
269年  孝安天皇元年 106642日  丙戌 37267日 1261.98月
371年  孝霊天皇元年 143909日  乙酉 27759日  940.01月
447年  孝元天皇元年 171668日  壬辰 20819日  705.00月
504年  開化天皇元年 192487日  辛未 21912日  742.01月
564年  崇神天皇元年 214399日  庚午 24835日  840.99月
632年  垂仁天皇元年 239234日  壬午 36175日 1225.00月
731年  景行天皇元年 275409日  丁丑 21912日  742.01月
791年  成務天皇元年 297321日  壬申 22266日  754.00月
852年  仲哀天皇元年 319587日  庚寅  3307日  111.99月
861年  神功皇后摂政 322894日  甲申・・・・・・・・・・・・・・・・・・・合計  85097日 2881.66月  233年

暦日は、神武元年正月朔を8777として、不明な朔は計算で出してあります。

この太陰暦の日数を、×2や×3の倍数で縮めると、太陰暦を得られないばかりか、季節にまで
齟齬を生じる。
挙げ句の果ては、太国倍年の如く、各日々の数字まで失う。
こうなると『暦は後付け』と騒いでも、後付けの根拠も捨てねばならない。


6 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/03(木) 21:04:50
日々の干支を無くすと
太国:>帳簿、文書を偽造して架空の記載が周囲にあれば、政敵等から
垂れこまれ、身分の失脚が待っている。

つまり書紀に書かれた太陰暦にウソはつけない。
数字の無い太国倍年に、暦を後付けすれば、失脚するそうです。


7 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/03(木) 21:07:33
まあこの文言↑は、太国が他の論敵に使う言葉ではあるが、
自分の倍年に適用できる事に気がついていない。


8 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/03(木) 21:34:27
では、書紀のに数をどう読むか?これですよ。
唐松山:全ての朔、季節を正しいとし、年数のみを縮める。
方法は、太陰暦が19年7閏の積み重ねである。と理解する。
後は、各天皇紀から、空白の19年*n回を差し引く。これでも正しく太陰暦である。

サガミハラハラ
各天皇の治世を書紀から考察し、その長さを1~4倍とする。
長さは空白を主として差し引き、太陰暦は、ほぼ認める。

太国
各天皇紀の日付を朔から数えて10日、又は15日以内と認識し、
この時点で、日々の干支を否定する。
そして、全ての日が含まれるとし、3年の記事をもって真の1年間であるとする。
その為に、欠史8代に於ける、16日以降の日付は無視するか、間違い記事とする。
さすがにその後に於いては、そうも行かず、暦法を変更することとする。
しかし最初に日々の干支を後付けと拒否したため、
算木による数字(西暦の年度)のみを正しいとするが、日々の数字を表記出来ないため
『暦の後付け』が出来ない。←今後とも出来ないであろう。


9 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/03(木) 21:43:41
神武天皇二年春二月甲辰朔乙巳。
この様に書かれた記事から、2年2月2日を割り出し、
10日までの記事が無いから、欠史8代は、10日迄の暦を使って年数を引き延ばしている
と太国は、主張するが、『2年2月2日』の日付の入手先は黙して語らず。


10 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/03(木) 21:45:27
真の年代を確実に知れる天下の素敵な宝器 → 天津神算木

三輪神の神名に隠されたr=3の円の球化の体積、表面積の計算式を
天津神算木という。これは古代人が未来に伝える隠密に真の年代を教えて
くれる天下の宝物である。日本古代史研究に当って当時の年代が不明困惑
しでも、古代人が真の年代を未来に撹乱させる奴が今後多々出現する事
を予期し、残してくれた唐松山のような妖魔のデタラメ編年に騙され
させないための貴重な宝器である。天津神算木とは天津金木ともいい

 4πr**3/3=113.09733552923・・・ (**はベキ)

がこれである。大祓祝詞の要旨は現実の犯罪に加えて年代撹乱の罪を刑具
(金木)により真への直接強制を行うべき意味である。天津金木を分断
することにより、真の年代蘇生の刑具不要の自由を教示するものである。
                               (続く)

11 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/03(木) 22:02:45
>>10 続き 大祓祝詞に曰く
「大中臣 天津金木 を本打ち切り末う打ち断ちて」 とある。これから

>>10の天津金木(等式)の両辺を分断すれば

 3≠113.097335

ここで左辺の3は3倍年暦を示唆し、r=3とともに三輪神の神名を示唆
している。右辺は3倍年暦にちなんで三等分すれば 113 097 335
に分けられる。これから

113←崇神天皇即位の月日数 1/13→1月13日
097←崇神天皇即位年(見かけ)→B.C97年
335←崇神天皇即位の実年代を誘致する年数

となるのだ。そこで

 1/13 紀元前97年 崇神天皇 即位

となり、その実年代は

 -97+335=238年

を得る。ここで097の0は紀元0年を示唆しこれを詰めて無とするため除去
するため1年分詰まることから

 238−1=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年

を得る。



12 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 22:11:17
鉄剣や鏡にある「丙午」について調べてみた。下記以外の出土品に製造時で干支
のあるものがあれば、誰かご教示賜りたい。

七支刀===泰始四年五月十六日丙午正陽 造・・・
中平銘刀==中平□年五月丙午 造作・・・
景初四年鏡=景初四年五月丙午之日陳是作・・・
赤鳥元年鏡=赤鳥元年五月二十五日丙午造作・・・
赤鳥七年鏡=赤鳥七年大歳在丙午昭如日中造作・・・


七支刀
AD268とすれば5月16日は壬午、5月に丙午ない。
AD369とすれば5月16日は乙丑、5月に丙午ない。
AD468とすれば5月16日は庚申、丙午は5月2日である。

中平刀
年代不明だが、中平年間AD184〜189の5月に丙午があるのはAD184と188だけ。

景初四年鏡
AD240とすれば丙午は4月27日か6月28日で5月に丙午ない。

赤鳥元年鏡
AD238とすれば5月25日は乙卯、丙午は5月16日である。

赤鳥七年鏡
AD244とすれば丙午のあるのは2、4、6、閏7、9、11月。



13 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/04(金) 14:36:43
>5
こんな日数の数字はクソの役にも立たず、誰もそんなところは細かくて
面倒で読む奴なんかいな〜い。ww それに空白日がけっこうあるから、
無駄な労働で、ご苦労さんでござんす!ww
>>6
日数干支は空回りさせれえば通常暦と倍年暦は適合し、太陰暦であろうと
問題はな〜い。〜
>>8
〜従って日々の干支の否定にはならな〜い。暦法の変更をうんとやって
た事例が世界に調べればあるという。明治政府も太陰暦を廃止して現今の
暦法に変更している。なんら問題な〜い。暦の後付けは結局逆算であって
観測ではなく、もともと紀の編者らの後付けとなる。これも問題な〜い。
>>9
神武は欠史八代ではな〜い。神武がA暦だから八代がA暦だというのがオマエ
の言い分であって、こちらは別暦と観てるから、これもそんなことは全然
関係な〜い。

14 :日本@名無史さん:2010/06/04(金) 17:44:28
>5
ご苦労さまでした。敬意を表してお付き合いしました。

このようにすれば?
113年  安寧天皇元年 49677日  庚申 13880日  470.02月
151年  懿徳天皇元年 63557日  庚辰 12786日  432.97月

懿徳から成務までの干支が1代づつずれている。

仲哀、神功はこうなると思うのだが、神功は丁酉朔になるのか不明、要検討。

852年  仲哀天皇元年 319587日  庚寅  3278日  111.00月
861年  神功皇后摂政 322865日  戊辰

あと、合計の数字が何のことか不明。


15 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/04(金) 18:27:48
>景初四年鏡
正始元年なら、5月丙午は無いが、これよりひと月早い暦、つまり
景初が4年迄続けば、暦日となる。

七支刀
神功元年のあづないの罪が日食を指すのであれば、273年の日食がこれにあたる
ここから52年後+3年で、東晉明帝太寧4年5月16日丙午、326年になる。
現実には太寧は、5月までは無い、17日が丙午である。
ただし象眼が百済で彫られたであろうから、この時代では、情報が速やかに届かなかった可能性がある。
この数字は、肖古王から続く百済王朝を約50年遡上させるが、韓国考古学が編年出来ない理由はここにある
のでは無いか。

つまり百済本紀は400年頃の高句麗の南下を記していない。
この時百済が高句麗の属国となっていた為、倭国と通好を欠く時代となる。
履中から百済の記事が消えるのは、この時代である。
誉田、大仙両古墳を5世紀には築けない。




16 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/04(金) 18:35:42
神功元年≠274年

日食は数日間続かず。ハイ終わり。ww

17 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/04(金) 19:28:41
有史八代より
64年〜77年 綏靖 二十五年甲辰(きのえたつ)春正月壬子朔
 甲子(きのえねのひ・二十五日)天皇、群臣と相ひ議して皇子(ミコ)磯城津彦玉手看(ノ)尊を立て皇太子とす。

78年〜 安寧 三年己卯(つちのとう)春正月戊寅(つちのえとらの)朔壬午(みづのえうまのひ・五日)、妃(みめ)、
渟名底仲姫(ヌナソコナカツビメノ)尊を立てて皇 后とす。是より先き、三皇子(みたりのみこ)を生む。息石耳(イキシ
ミミノ)命、大日本彦耜友(オホヤマトヒコスキドモノ)尊、磯城津彦(シギツヒコノ) 命、是なり。
〜93年 懿徳 
ホ31300 スキトモノ アメスメラキと たゝえます アメのノリもて をがませて 
マカリヲコヨミ あらためて =間借りの暦 検めて
天皇、崩ず。聖寿七十七歳。位に在(ましま)すこと三十四年。
この聖寿七十七歳からも綏靖の子供と確認出来る。

94年〜119年 孝昭
天皇、天性至孝にして、専(もは)ら皇太后に事(つかへ)まつりて、政務を事(つ)かへたまはず。
然(しか)れども天下泰平、国土安穏(あんをん)、

綏靖は、安寧と懿徳を産む。
そして、安寧と懿徳は同じ暦を使用したため、正しい治世年数は得られない。
即位した考昭は幼い。


18 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/04(金) 21:15:18
プハハハwwwww→∞

記紀にお捻じ曲げの達人だな。綏靖は、安寧と懿徳を産むだとのデタラメを
推進している。いつ綏靖が婦人になったのか?当時男を女性に転換
する手術が行われていたのか? 電波星人の女にそういうのが多いのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

19 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 03:04:07
>>12
中国の五行思想で「五月の丙午の日」はもっとも火が盛んな日で
鍛冶をするのに縁起が良いと考えられていました
おそらく、その日付は実際のものではなく縁起を優先した架空の日付なのかもしれません

20 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/05(土) 17:51:55
日本書紀に引かれる百済三書のうち、武烈以前の「百済記」「百済新撰」では「倭」は有るが「日本」は無い。
ところが繼體・欽明紀の「百済本記」では「倭」は無く「日本」のみが出てくる。
隅田八幡鏡銘文に見える「日十大王」
梁書に見える「扶桑」国王の「乙祁」
神武東征の舞台となる河内の「日下」(日の下の草香)
すべて「日本」国号が意外に古い起源をもつことを示唆しているようで面白い。



21 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/05(土) 18:04:59
>日十大王
「十」と「大」を合成すると日本の『本』の字となる。

22 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 18:32:30
馬鹿げた妄想はいらん。

23 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/05(土) 18:53:19
>>21
その説も面白いが、十個の太陽が住むという東方の巨木・扶桑樹の伝説の反映だろうと思います。
「日いずるところ」にもつながりますね。


24 :日本@名無史さん:2010/06/05(土) 19:55:31
>>19
五月丙午について

木火土金水で知られる五行思想では
火は南、午、夏・夏至・五月、赤、丙(火の兄)・丁(火の弟)、羽・朱雀などが当てられています。
これからすると、最も火の盛んな日は、五月の丙午の日ですね。色は朱・赤、方位は南。

五月丙午はやはり吉祥句なのですね。


25 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/05(土) 20:27:28
五月丙午は吉祥句で良いんだが、
これに実在しない日付を入れたら、吉祥にならない。
つまり実際の吉祥を不在である、と宣言することになる。


26 :ローガン:2010/06/05(土) 20:52:12
>>12
>下記以外の出土品に製造時で干支のあるものがあれば、誰かご教示賜りたい。

えーと、丙午限定?こんなんならありますが。
〇建安廿二年十月辛卯朔四日甲午
〇黄龍二年七月丁未朔七日癸丑
〇黄初四年五月壬午朔十四日乙未
〇延康元年二月辛丑朔十二日壬子
〇黄武四年四月廿六日作氏竟


27 :ローガン:2010/06/05(土) 20:56:34
ありゃ、紹興の黄武四年鏡は干支なかった…。ごめんなさい。

28 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/05(土) 21:25:54
>>23
そのとおりにそれがしも想っていました。

29 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/05(土) 21:51:11
韓国 Radioさんの書き込み 翻訳なので文章はおかしいが

奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年, AD383年.
七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主
7 年(AD383年) 1月, 水羊(修養, 癸未, AD383年)祭(私の)を行った. 光臣(狂信)を 伊伐〓(イボルチ
ァン)で, 白花(百貨)を 稟主(稟奏)にした.

三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁 与阿□相通
多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗 休礼太后生長〓子勿〓 始立戸口典 禁民子母相婚
3 月, 夫余(付与)の 流民(流民) 30号がまた 来降(レハング)した. 夫余(付与)と 倭(なぜ)が 相通(上
通)したら, 毎年その民たちを受けて, 都邑と田舍に 散置(散置)させた. 倭(なぜ)の臣下 熊彦(ウン
グオン)はハンサムだ言葉がお上手で, 阿□(子供)と 相通(上通)したら, 彼の言葉にたくさん従った.
それで 国人(お吸物である)らは 異反(離反)して, あるいは私たちに, あるいは高句麗に帰属した.
休礼太后(ヒュリェテフ)は 長〓(ザングフン)の息子 勿〓(ムルフン)を生んだ. 戸口典(戸口前)を初
めて立てた. 民たちが息子とお母さんがお互いに婚姻することを禁止させた.

* 倭臣熊彦美而善弁 与阿□相通 多聴其言 = 倭(なぜ)の臣下 熊彦(ウングオン)はハンサムだ言葉がお上手で, 阿□(子供)と 相通(上通)したら, 彼の言葉にたくさん従った.

* 千熊長彦(チォンウングザングオン)はハンサムな人でした.

上義ネムルギでは 熊彦(ウングオン)で出ます. 383年に活躍した人物です.
この 383年だ時点が日本書紀紀年設定に基準店になります.

私の設定は、323年神功49年になる。丁度60年の誤差


30 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/05(土) 22:28:27
345年二月辛丑朔
348年五月壬午朔
328年七月丁未朔
346年十月辛卯朔

なんの意味もありません。


31 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/06(日) 00:59:19
西暦は+60年に注意
[1386] 基臨尼今紀 5年=AD368年 Name:radio2010/05/27(木) 21:06 五年 黄竜 二月 祀祖廟 5年 黄竜(黄竜, 戊辰, AD368年) 2月, 祖廟(祖廟)に祭祀を行った
.
西晉懷帝永嘉元年 ?次:丁卯 生肖:兔 西元307年2月19日(星期三)起 7月己酉朔
307年6月28日丁未
西晉懷帝永嘉2年 ?次:戊辰 生肖:龍 西元308年2月8日(星期日)起 7月癸卯朔
308年7月5日丁未
東晉廢帝太和2年 ?次:丁卯 生肖:兔 西元367年2月16日(星期五)起 7月丁酉朔
7月11日丁未
東晉廢帝太和3年 ?次:戊辰 生肖:龍 西元368年2月5日(星期二)起 7月辛酉朔
丁未なし
309年神功35年6月丁未朔
314年神功40年6月29日丁未


32 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/06(日) 09:07:31
三輪神の円(r=3)は、金兜山下の円の如し。よ〜く妖魔の編年から真を守る。
これの球化は天津神算木なり。

33 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/06(日) 10:03:23
「百済記」「百済新撰」「百済本記」から考えると、雄略までは「倭国」を称していた。
「百済新撰」では武烈でも「倭」が出てくるが、これは雄略世の事件についてである。
顯宗〜武烈では「扶桑」=「日十」、繼體以後は「日本」を称したと考えられる。
「日本」を認めたのは百済・伽耶諸国のみで、後には高句麗も認めたらしいが、いずれも新羅や唐に滅ぼされてしまう。
新羅は698年、唐は703年になって漸く「日本」を認めた。


34 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/06(日) 10:47:59
それで隅田八幡鏡の「日十大王」というのは、「十」と「大」とが合字で
『本』になることから「日本王」という意味で、八月十日を八月日十と
ひねくっていることは「日本王」=天皇の示唆なわけで、「日十」とは
ヒト(人)と読めることから、人を逆さづりにした残虐をやってのけ
た武烈天皇を暗示したものでしょう。まともにこれを書けば、鏡の製作者
はとっ捕まるから、かように謎賭けで未来に事実を伝えたかったんでは
ありませんか?

35 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/06(日) 11:45:09
>>34
ちょっと穿ち過ぎのように思いますが・・・
鏡の製作者「斯麻」は百済の武寧王と思われますが、書紀が引く「百済新撰」によると
先代の末多王が「無道暴虐」だったので国人が武寧王を共立したとのこと。
列島と半島の状況がシンクロしていたようです。

36 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/06(日) 12:14:25
隅田八幡鏡の「日十大王」
これは大和の大王が倭(やまと)から大倭(やまと)→日本(やまと)
と記載が代わる頃造られた。

「日十大王」は「やまと大王」と読まれる。


37 :日本@名無史さん:2010/06/06(日) 12:20:49
フトクニの妄想は失笑をさそう。

38 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/06(日) 14:15:45
>>36
>大倭(やまと)→日本(やまと)

不思議な読み方だが、日下(くさか)も不思議な読みである。
飛ぶ鳥の明日香(あすか)、長谷の泊瀬(はつせ)と同様、日の下の草香でしょう。
この「日下」が饒速日命が命名したという「虚空見日本國」と関係ありそうな気がする。
旧唐書倭国日本伝「或云、日本舊小国、併倭国之地」
新唐書日本伝「或云、日本乃小國、為倭所并、故冒其號」


39 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/06(日) 14:20:40
日下→草香→草加→wwwww→ジョーカー  w

魔矢(マヤ)−D---------------------------------------→矢的(大和)

40 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/06(日) 14:47:37
倭人伝の、倭王は足彦(帯彦)なんですよ。
だから景行が全国を統一して大倭(大和)が成立する。
しかし、倭国は北九州が本来である、
そこで大和は自分をどう表現するべきかを考える。
ホ23043 ヰヤマトとふる ヤマトクニ マトのオシエは のぼるヒの モトなるゆえに
ヒノモトや しかれとヤマト なすてそよ

大和はヒノモトである。
この思考から日本(やまと)が生まれる。



41 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/06(日) 14:48:44
月弓尊か〜。以前伊勢参宮の際月夜見宮等参拝した思い出が、秋風を感じ
るような想いで脳内によぎる。再三再四参宮をしたいものだ。

月の満ち欠けは 29.530589・・・日 であるそうな〜。29日余という
ことである。ここで天津御量を測ると、29.530589日とするとき

 29.530589/29=1.01829617241 37931 034

から逆読みで

 1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位

そして天津神算木(r=3の円の球化の体積V)

 V=1 13.0973 3552・・・

 1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位

42 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/06(日) 15:04:42
足彦が景行にはならない。景行は大足彦だ。「大」の字がつく。

これは若雀命(武烈、崇峻)が大雀命(仁徳)でないことを考えれば、上
が成立するとは云えない。似てて自説に都合がいいからだけでは同一人物
としてはならないのは、今日の朝刊にもあった某県警の犯人の誤認から
でも知るべきなのだ。

43 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/06(日) 15:08:48
ホ36024 フソマフユ うむミコヤマト オシロワケ イムナタリヒコ

太国 大誤算



44 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/06(日) 15:12:04
そういうんなら、それは景行にどうやら間違いない。だがそれが
倭人伝の倭王とは全然云えない。それともホツマに倭人伝が書かれ
てあるのか?ww

45 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/06(日) 15:13:43
逆に倭人伝のどこに大足彦とあるのか?
足彦=大足彦 だとどこにある?

46 :日本@名無史さん:2010/06/06(日) 15:17:02
唐松山さんは隋書倭国伝の「阿毎・多利思比孤」のことを言っていますか?
景行とは時代が合いませんが?
GRRR・・・


47 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/06(日) 15:30:02
日本の国王は、魏の時代以降隋まで「多利思比孤」で通用する。
だから何処が元になるかを考えれば、景行が最初となる。



48 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/06(日) 15:30:41
あいつの提出文はかなり出所を具体的にはっきり書かず、毎回こちらは
迷惑をこうむっている。これは他のスレ民も同様に感じて、理解がし難く
なる。オマエは今後具体的に文献の名称をしっかり略さず書きこめ。

まぁ今回はホツマなんだろう? だから景行がタリヒコと略称したのは
分かったので景行と認めるが、どこに 倭王=景行 とする根拠があるの
か? これだけでは駄目だな。 とにかくホツマはこのへんの有コテで
オマエが最も詳しいようだが、また文の書きこみは嘘ではなさそうだ。

49 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/06(日) 15:31:54
>>47
通用はしない。これでは全然駄目だな。

50 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/06(日) 16:02:53
あんなのは大誤算にならない。大誤算は通用するとか言ってる大ウソだ。

51 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/06(日) 22:56:54
古墳時代の天皇の本名や諱が記載されていない。
これは、朝廷内で殺戮や呪術が行われたことを意味する。
諱は呪術に欠かせない、欠かせないから隠す。
この時代に足彦が居ても、記録は無い。


52 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/06(日) 23:25:48
足彦なんていう言い方は確かのホツマにあるわけだが、これはホツマの
五七調のワクにはめるためのやむを得ぬ略名であって、これが朝廷で公式
に天皇名で使われてたとは到底言えない。この略称はホツマのみに限定
された言い回しだと観て、これが他の古文書にも広く使用されてはおらず、
全然重視できない景行の呼び名であるから、古代史研究で多方面にこの名
でどうのこうのというのはお門違いの無意味そのものであり、メリットは
何もないと観るべきものである。

zzzzzzzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・

53 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/07(月) 21:13:47
諱を調べました。
ホ04185 マコトナを ヰミナとたゝゑ アネにミツ われはヨツなり
… タマキネいわく ヰミナには タラにヨつぎに ナとノリと あわせヨツなり
アマツキミ ヒヨリトまでを つくすゆゑ ヒトにのります キネとヒコ ウシもノリなり
メはのらず
カンヤヰミミノミコをうむ イミナイホヒト=後のミシリツヒコ
綏靖、神沼河耳、神淳名川耳 カヌカワミミノ ミコうみて イミナヤスギネ
安寧、師木津日子玉手見、磯城津彦玉手看 イミナシギヒト タマデミコ
懿徳、大倭日子{金且}友、大日本彦耜友 ヨシヒトの ヲヲヤマトヒコスキトモ
ソフヲシエ カエシネミコをヨツギなる コトシソヤなり 懿徳12年 カエシネを太子とす、18歳
孝昭、御真津日子訶恵志泥、観松彦香植稲 ウチのうむミコ カヱシネの イミナミルヒト
孝安、大倭帯日子押人、日本足彦国押人 イムナヲシヒト ヤマトタリ ヒコクニノミコ
孝霊、大倭根子日子賦斗邇、大日本根子彦太瓊 イムナネコヒコ ヲヲヤマト フトニノミコ
孝元、大倭根子日子国玖琉、大日本根子彦国牽  ヤマトネコヒコクニクル イムナモトギネ
開化、若倭根子日子大毘毘、稚日本根子彦大日日 イミナフトヒヒ ワカヤマト ネコヒコノミコ
崇神、御真木入日子印惠、御間城入彦五十瓊植 ウチのうむミコミマキ イリヒコの イムナヰソニヱ
垂仁の兄 ミマキヒメ シギにうむミコ  トヨキヒコ イムナシギヒト
垂仁、伊玖米伊理毘古伊佐知、活目入彦五十狭茅 イクメ イリヒコの イムナヰソサチ
景行の兄 ニシキ イリヒコの イムナヰソキネ その前に生まれたホンヅ(譽津別)の皇子は?
景行、大帯日子淤斯呂和気、大足彦忍代別 ヤマト オシロワケ イムナタリヒコ
成務、若帯日子 稚足彦 ワカタリヒコ  諱ウヂヒトは ヨツギミコなり

☆ イミナを四つに分けるのは、自分でして下さい。


54 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/07(月) 21:37:58
こんなものは幼名とか愛称とかの略名で、ホツマ編纂当時後代のその者ら
の周辺であだ名がついてたとかのものであり、タリヒコが阿毎多利思比孤
とは全然関係な〜い。現代でこんな呼び名を使うのはオマエとホツマの
訳者くらいのほんの少しで、大して役立たずだな。

55 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/07(月) 22:03:38
孝安、イムナヲシヒト ヤマトタリ ヒコクニ

「帯」の付くのは孝安からだが、
諱に使用は景行が最初になる。


56 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/07(月) 22:57:24
孝安からだとぅ〜?
オマエ、ホツマの孝安に何とある。ww

 1月(ハツ)の7日(ナカ) 天津日嗣を承け継ぎて、
 日本足彦国(タリヒコクニ)の 天皇(アマツキミ)諱 押仁
 即位(クラヒ)なる

オマエのやり方だと、景行は孝安なのか〜? コレもタリヒコpupupu
ホツマでは孝安天皇は7日即位ではないかね。www
オマエは少し前27日即位だとかうるさく書きこんでいたようだが〜〜
この頃ホツマに逆らうようになった訳だな〜?www

57 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/07(月) 23:14:47
それを言い出したら
ワカタラシもタラシナカも区別が付かない。
だから諱を最重要とする。
日本’足’彦国’押仁 。


58 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/07(月) 23:16:22
>>57ウワッハッハ!wwwww
オマエは天皇と臣下の区別が付かない。bbb

59 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/07(月) 23:19:58
オマエは人間と猿の区別、天皇と臣下の区別が付かないから、猿の惑星
あたりからオマエの脳に何か着てないかと考える。??www

60 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/07(月) 23:28:41
ホツマで孝安天皇が7日即位ならば、オマエは27日と、デタラメにワルの
スリ替えをしたのが歴然だな。>< こうなると欠史八代は全部の記事が
月前半にあるということだ。オマエのスリ替えはホツマの記事を否定
することになる。それでもいいのか〜? 今後ホツマのここの7日は、
否定すると使えなくなるぞぅ〜。ww

61 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 23:55:05
記紀の天皇の諡号は古い時代のものは奈良時代の諡号に似てるから捏造という意見があるけれど
逆はないのかな?

62 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/09(水) 18:36:48
諡号のねつ造より
古墳時代の天皇の諱が伝わらなかった事実を考える方が大事でしょう。


63 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/09(水) 18:38:18
書紀に書かれた数字を支那の干支と同一とした場合
太陰暦のまま圧縮出来るか?
年号 西暦 元旦朔 増し 調整  暦日 朔干支 中国朔
神武元年42年庚辰 0日  0   0日  辛卯 辛卯
綏靖元年64年壬申 3章 1日 8033日 甲申 甲申
安寧元年78年庚申 1章 1日 13142日 癸巳 癸巳
懿徳元年90年己卯
孝昭元年94年丙戌 3章 0日 18988日 己未 己未
孝安元年120年乙酉 3章 0日 8467日 戊午 戊子
孝霊元年146年壬辰 4章2日 37976日 丁亥 丁亥
孝元元年165年辛未 3章1日 44916日 丁卯 丁卯
開化元年184年庚午 2章1日 51856日 丁未 丁未
崇神元年187年壬午 3章 0日 52948日 己未 己未
垂仁元年217年丁丑 2章1日 63904日 乙未 乙未
景行元年240年壬申 4章1日 72320日 辛亥 辛亥
成務元年262年甲申 2章0日 80352日 癸卯 癸卯
仲哀元年266年庚寅 3章1日 81799日 庚戌 庚辰
神功元年275年丁酉 0章0日 85106日 丁巳 戊午
神功39年313年 丁巳     98986日 丁丑 丁丑

仁徳元年313年丁丑      98986日 丁丑 丁丑
履中元年400年壬子      130761日 壬子 壬子

「増し」は、4章(6940日×4)に付き1日(調整)を減ずる。合計33章−9日の増し
神功39年太歳の年を、仁徳元年とする。
閏の廻しが違うので、調整場所も違うだろうが、中国の暦日と対応させることが出来るであろう。
「履中元年400年壬子」が西暦で400年壬子と表記出来る以上、これ以降の圧縮するのは、不可能だろう。



64 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/09(水) 19:00:38
崇神天皇十年 九月壬子《廿七》。大彦命到山背平坂。時道側有童女歌之曰。乃知其歌恠。言于天皇。是武埴安彦將謀反之表者也。吾聞。武埴安彦之妻吾田媛。密來之取倭香山土。 領巾頭。而祈曰。是倭國之物實。乃反之。〈物實。此云望能志呂。〉

この時代、人を呪詛するためには、本当の名前すなわち「諱」を必要としました。
だから諱の伝わらない時代とは、殺戮と呪詛の横行した時代である。



65 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/09(水) 21:29:15
マシは唐松山の脳内の妄想。景行28年〜景行40年の間は空白で、景行28年は
景行40年であるとかの日本史上最大級のインチキを懲りずに遠吠えして
いる。これがデタラメなのは

 景行36年8月 五十琴姫が五十功彦命を産む

の文でミエミエに分かる。奴は景行28年〜景行40年の間が本気で無いと思
っていたんだろう。だからマシという不正増加で景行28年から朝廷が景行
40年に飛ばしたと考えたんだろう。景行28年は景行40年だとかまともに考え
ていたが、かつその間の文証でも出すのが本筋旨の勇ましい注文をこちら
につけて来たもののあるものはしようがない。こういう文証が唐松山の
デタラメを蔓延をさせないための強い防壁になるのだ。自信満々だ
った本筋だとかの豪語も、文証が出たあとは大したことでないようなとぼけ
の口ぶりでくらましており、第三者は誰も信用などしてくれない。

それにマシの不正記載なぞやれば某党議員の帳簿不正記載の如く彼らは
当時の政敵に垂れこまれ、身の危険が切迫する。マシなどやる大した利害
もなくそんな獄門に行く危ないマネなどするべくもない。つまり奴の脳内
がいかれ始めたひどい盲象だということだ。世界中調べてみても、不正の
マシなんぞやった国など見当たらない。奴の妄想のクソ沼なのだ。ww

66 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/10(木) 17:55:55
>同経のほうは唐松山も読んでない書で、内容量は豊富。

そりゃそうだろうな、後からねつ造記事を大量に注入すれば、内容量は豊富になる。

先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんきたいせいきょう、先代舊事本紀大成經)は、『先代旧事本紀』を基に江戸時代に作られたと推測される偽書。この文献をめぐって「大成経事件」(先代旧事本紀大成経事件、伊雑宮事件)が起こった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E4%BB%A3%E6%97%A7%E4%BA%8B%E6%9C%AC%E7%B4%80%E5%A4%A7%E6%88%90%E7%B5%8C

自分が使う分には、文句は無い、ただ強要されても困る。



67 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/10(木) 17:58:30
大成経は、旧事記に後から記事を差し込んであると言われている。
私は大成経を持っていないから、その記事を使用しない。
だから差し込み記事を使用するのは勝手であるが、使用しないことを非難するのは、
お門違いである。

では、年数が伸長されていないと言われている古事記では、下記の様な記事である。
「天皇既所以思吾死乎、何撃遣西方之惡人等而、返參上來之間、未經幾時、不賜軍衆、今更平遣東方十二道之惡人等。因此思惟、猶所思看吾既死焉。」

九州から戻ってから、未だあまり時を経て居ない、と表記されている。
であるならば、ここに十数年もの時は必要ない。
それどころか間違いである。


68 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/10(木) 18:10:40
太国編年では、日本武尊は17才で死亡するそうだが、ここに6年も費やすと
8才程度で九州の熊襲平定に行くんだろ。ま太国はそれでも良いんだろうが
そんな数字を信用する輩は皆無であろう。
それより熊襲タケルが可愛そうになるな。

日本武尊は8才(倍年で16才)で九州へ熊襲征伐に出かけ、見事にその大役を果たして
帰国する。
それから(景行28年から同40年)6年ほど遊びほうけていたが、まだ遊び足りないのか
未經幾時(古事記)九州から帰ってからまだ幾らも時は過ぎていないと駄々をこねるが、
関東遠征を引き受け、その大役を見事に果たし、尾張へ帰着する。
それからは、彼女と子作りに励み、17才で死亡。


69 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/10(木) 21:16:34
>>67
古事記のどこの文か書いていな〜い。まぁ自信がないからだろう。神武
なのか景行なのか仲哀なのか全然分からな〜い。これでいちいちこちらが
調べる必要もないのは、オマエが使用しないとか言ってることの返し文句
として適切な言い訳だ。ww

>>68
日本武尊は20歳になる前に死んでるぜ。彼の別名を日本童男というのは
幼かったからだよ。だからオマエの言う8歳で活躍してもおかしくは
なかろう。彼の取り巻きが重々支えてたから、幼年で活躍したことになって
るわけさ。何らおかしくはな〜い。彼は童男なんだよ。

70 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/10(木) 21:49:35
景行天皇十二年八月己酉《十五》◆八月乙未朔己酉。幸筑紫。
景行天皇十二年九月戊辰《五》◆九月甲子朔戊辰。到周芳娑麼。

太国倍年、2倍の天皇は、ひと月を15日程度とする。
8月15日出発、9月5日到着。都合6日の日程である。
大和から周防サバまで直線距離で350Km程度とすると、
1日に60Km移動すれば、360Kmであるから、
この時代に1日60Km移動する、勿論旅籠も本陣も無い時代である。
当然陸路は、獣道程度か?時速4Kmで15時間移動した場合に得られる数字ではあるが、
直線距離は道のりでは無いから、24時間かけても60Kmは得られない可能性がある。
船の場合だと干満の潮流に乗って移動するとして、どうなんだろ。
1日6時間の船旅は、可能であろうが、これでは足りない、昼夜兼行で12時間、
時速5Kmとすれば、1日60Km移動できるが、これは全ての時間が潮流に乗れた場合の
仮説であるから、不足分は潮に逆らって船を漕がねばならないが、間違えれば、押し戻されてしまう。

やはりこの移動は太国お得意の「pipippi」で移動するんだろうな?


71 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/10(木) 22:05:21
オマエも単純で物事を考察する脳の巡りの悪い奴だな。ww

景行九州行幸だが、九州が倍年暦を使用していたかどうかは定かではない。
これは紀を読んでも確実には分からぬほど記載量が不足であるし、畿内での
2倍年暦に際して旅行中は他国の暦法での記載が含まれてる可能性を捨て
切れず、紀の中に旅行中のは別暦たる通常暦法での記載になっているかも
知れない。だから詮索効果なく、とりわけおかしいことにはならない。

72 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/10(木) 22:17:02
>旅籠も本陣も無い時代
こんなことが分かるなら、船の製造されてない崇神17年より以前の崇神6年
に千人もの多人数のメシもろくすっぽ喰えない農民が半島へ渡海なんぞ
出来っこないのが分からないのか? う〜ん、どうなんだよぅ〜?ww

73 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/11(金) 12:29:20
>>72
新羅本紀への文句はそちらにして下さい。

>景行九州行幸だが、九州が倍年暦を使用していたかどうかは定かではない。
周防サバは、九州ではありません。

>紀の中に旅行中のは別暦たる通常暦法での記載になっているかも知れない。
この「通常暦法」って、太陰暦ですか?太陽暦(西暦)ですか?又は、太国通常暦法があるんですか?

>旅籠も本陣も無い時代 こんなことが分かるなら、
考古学の発掘でもありました?
整備された官道は早く見ても、古墳時代の河内でしょう。
纒向遺跡に鉄がない、といわれる様な時代ですよね。


74 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/11(金) 12:31:26
つまり 10日、15日以後の日付が無くとも、その存在を比定出来ない。
ということですよね。


75 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/11(金) 13:08:29
>>73
周防とやらは倍暦をやってたというんですな?ww

出雲とか九州以外でさえ、当時はその地域がそんな暦法をしてたのか
オマエは感知できるのか? そういうオマエの秘密にしている出雲暦さえ
畿内と一緒にはできまいが。ww

>>74
意味不明? オマエは表現の欠落多く、他人が理解できにくい。

76 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/11(金) 13:48:37
>古事記のどこの文か書いていな〜い。まぁ自信がないからだろう。

 爾天皇、亦頻詔倭建命、「言向和平東方十二道之荒夫琉神、及摩都樓波奴人等」而、副吉備臣等之祖、名御[金且]友耳建日子而遣之時、
給比比羅木之八尋矛【比比羅三字以音】故、受命罷行之時、參入伊勢大御神宮、拜神朝廷、即白其姨倭比賣命者、「天皇既所以思吾死乎、
何撃遣西方之惡人等而、返參上來之間、未經幾時、不賜軍衆、今更平遣東方十二道之惡人等。因此思惟、猶所思看吾既死焉。」患泣罷時、
倭比賣命賜草那藝劍【那藝二字以音】亦賜御嚢而、詔若有急事、解茲嚢口。
 故、到尾張國、入坐尾張國造之祖、美夜受比賣之家、乃雖思將婚、亦思還上之時將婚、期定而幸于東國、

77 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/11(金) 17:32:00
こんなことを聞いてるんではないよ。古事記のどこらへんにある文なのか
を知りたいわけさ。それでどのへんの時代のことかが分かってくるから、
判断などが出来やすくなるのだ。今回の文でも天皇云々書かれてるが、
いつの天皇なのか分かりやしない。オマエは全く鈍感だな。多分倭比賣から
なんとか予想がつくが、疲れてしまうぜ〜。><

要するにオマエは、痒いところに手が届かない、気がきかないお脳だと
いう事だ。ww

78 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 01:00:48
書記 より19*n回の空白年を差し引く、正朔である。19年=1章
天皇   西暦   増し 
神武天皇 42年〜63年 3章 手研耳による空白年を含む。X式土器の始まり
綏靖天皇 64年〜77年 1章
安寧天皇 78年〜88年
懿徳天皇 89年〜93年 3章 安寧天皇と同じ暦 安寧、懿徳は兄弟。
孝昭天皇 94年〜119年 3章
孝安天皇 120年〜145年 4章
孝霊天皇 146年〜164年 3章
孝元天皇 165年〜183年 2章
開化天皇 184年〜187年 3章 1年の異常?
崇神天皇 188年〜216年 2章 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。6年秋大物主の国譲りは 近江伊勢遺跡の衰退。古墳、庄内式の始まり。
209年 新羅本紀に伽耶の登場=任那建国
垂仁天皇 217年〜239年 4章 景初3年。纒向遺跡の巨大建築は珠城宮。
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵。鐙の登場。遠国をまとめる為屯倉導入
成務天皇 262年〜265年 3章 
仲哀天皇 266年〜274年 0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜344年 ここより盟神探湯による世継ぎの部分。
274年 2月幽州を分け平州を置く、この下に東夷校尉があり馬韓の登場。
323年 癸未年 四九年 千熊長彦 東晋が洛陽奪回を断念し半島は空白地帯となる。
326年 五二年七支刀  百済本紀の数字には狂いがあるとし、百済王家はこれに合わせる。
  応神天皇 345年〜387年
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。
364年 仁徳五三年新羅へ派兵、新羅本記と合致。
履中天皇 400年〜405年 古墳が小さくなる、築造人足の不足か?百済と通好が無くなる。
允恭天皇 412〜453年 24年内乱は、倭五王のつなぎ目。百済と通好の無い時代が倭五王の時代。
雄略天皇 457年〜479年 武寧王誕生は動かない。 

神武〜成務はこれ以上圧縮出来ない、これ以上圧縮すると世継ぎが得られない数字です。


79 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 09:55:58
見よ! 神功〜仁徳が三重在位(二重在位が三つ)になっている。論外のインチキ
のデタラメである事が歴然と分かり、嘲笑wwされてよい。圧縮なんぞは、奴の
妄想語であって、なんらクソの役にも立たない。

80 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 10:46:19
http://kusegakunoto.progoo.com/bbs/kusegakunoto_topic_pr_218.html

馬韓百済建国と北方系渡来人
3月, 夫余の 流民30戸がまた 来降した. 夫余と 倭が 相通(上通)したら, 毎年その民たちを
受けて, 都邑と田舍に 散置させた.←注@、
倭の臣下 熊彦(千熊長彦)はハンサムだ言葉がお上手で, 阿□(子供)と 相通(上通)したら, 彼の言葉
にたくさん従った. それで 国人(平州住民)らは 異反(離反)して, あるいは私たちに, あるいは
高句麗に帰属した。

323年東晋は、洛陽奪回を断念する。平州方面は切り捨てと云うことだ。
この当時の東夷校尉は、遼東に居留地を構えていたから、そこに東夷軍は居たと思う。
東夷軍は任地を離れるにあたり住民に説明をする。
軍の居なくなった市街地は、盗賊の跋扈する処となることを。そこで住民は自分たちの
行く末を考え、残るか、どこへ行くかを決意する。
そして多くが千熊長彦に従い、倭国へ渡来する事となる。
百済に残る人々の為に、半島の小国家群を再編成し、その領土を百済に分与する。

注@、馬韓百済の始まりであろう。そして遼西にも進出か。
326年 七支刀がもたらされる。

日本に北方系の遺跡が多いのはこの為である。
当然これ以前の渡来を否定するものでは無い。



81 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 12:09:47
【理想】私の日本書紀【妄想】だろ
太国は、他人の思考を貶めるために下記の如く云う。
神功元年の記載
則日暉炳。=あづないの罪
日夜有別。=あづないの罪
これを
太国:日食が数日も続くわけが無い。とすると
太国:日を夜が別ける=あづないの罪 となる。
毎日の出来事を「あづないの罪」とするには無理がある。
つまり太国倍年の設定は間違いであると主張している様なもの。

泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■は、326年である。←この主張に対し
太国:ノギヘンである、と主張するが太国倍年は
861辛巳  353癸丑  神功摂政立皇太后(倍歴では皇紀863年と同年)
929己丑  375乙亥  神功崩御
この神功52年にノギヘンの泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■を差し込めない。
ここでも裏返せば、太国倍年は間違いである、と主張している事になる。



82 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/12(土) 13:38:09
雄略=オホハツセノワカタケル=倭王武は、タケル(猛る)の意訳で「武」
安康=アナホ=倭王興は実名が伝わらず不明。
允恭=ヲアサヅマワクゴノスクネ=倭王済は、スク(救う・助ける)の意訳で「済」
反正=タジヒノミヅハワケ=倭王珍は、ミズ(見ず・珍しい)の意訳で「珍」
應神=ホムタワケ=倭王讃は、ホム(誉める)の意訳で「讃」か。「珍」と間があきすぎる。分からない。
應神の埋葬記事が無いことと、仁徳の名が「大きな陵」であるのは関係あるのか?

83 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 13:44:10
そういうことは、七支刀のX線検査結果がウカンムリだったというなら、
そういうことを言ってくれよ。同刀の銘文者がノギヘンだと言って刻んで
いるのに、なぜこれがウカンムリになるのか? pubupubu・・・
 
先代旧事本紀大成経

 是時、昼暗く夜の如し。已に経日(ひさし)く復(もど)らず、人は
 常夜行く之と曰う

日蝕はせいぜい1〜2時間だ。久しくのところに『日』の字で書かれて
あるということは、時間単位でなく日数単位で書かれてあるということに
なる。だから数日かかって日が照ったということだぜ。「経日」を2日間
としても1〜2時間とはならない。特殊に夜の午後11時〜翌午前1時だと
しても、夜は日蝕は起こらず、1〜2時間の現象ではない。このことは
オマエの説が成り立たないということである。これは景行43年の山梨霖雨
で湖水が出来た因となる数日間の大黒雲であり、これは120×2年の干支の
倍数の年代差で神功紀に卑弥呼の年代の年代の断層の如く、書きこまれ
たものだということだ。

84 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 13:49:23
大きな御陵の築造は、
高句麗の侵攻した、405年以後では、不可能であろう。
そして百済に高句麗軍が駐留している時期は、百済と通好を結べない。
だから履中から、百済との通好が途絶える。
この通好の途絶えた時期に倭の五王による朝貢が始まり
通好の再開をもって、朝貢も終了する。

雄略=オホハツセノワカタケル ルは付かない。
ルを付けるのは、稲荷山鉄剣銘による詐欺行為である。


85 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 13:57:44
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月◆廿四年夏六月。

ここは五王のつなぎ目であるが、空白となっている。
允恭をここまで引き下げられれば、履中あたりから登場するかも知れないが
現時点では、私には不可能です。
考えてはいるんですけどねえ。


86 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 13:59:17
>>83 訂正
× 数日かかって日が照ったということ
○ 数日かかった後に日が照り出したということ

87 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 14:11:06
七支刀のX線検査結果は、刻印から浮き出た残渣の形がノギヘンであった
可能性がある。
だからノギヘンとも見えるが、断定されていない。

とは云え、ノギヘンを支持する限り、それが反映されていない太国倍年は
間違いと主張する事は、同一である。
だからノギヘンを反映していない、私の暦日を非難するんでしょ。

確定していないノギヘンより、癸未年千熊長彦の方を採用します。


88 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 14:14:42
ならばX線検査結果がインチキだとの根拠、資料を持ってこい。それから
ウカンムリだと言え。倍年暦が間違いと同一にはならな〜い。

89 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/12(土) 14:15:41
>>84
>雄略=オホハツセノワカタケル ルは付かない。

ヤマトタケルは普通に付けますが?
あ、ホツマでは「ヤマトタケ」でしたっけ。
ホツマは七五調に合わせるために名前を簡略化したものが多いのではないかと。
いま伝わる書紀の読みも、編纂当時から変化しているかもしれません。

90 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 14:18:14
愛知県民さん。
奴は日本史板での最高級の盲象男だぜ。奴は理解できないかも知れ
んです。

91 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 14:26:03
太国さんよ何時までもそんなだから
どんこい74
777 名前:日本@名無史さん :2010/06/12(土) 12:02:59
ちょうどいいところに、>>776という痛い馬鹿ウヨ史観が登場してくれたわ。

な、俺の言うところが判っただろ?こういうのが要らないんだ。

こんな事を書かれるんだ、
そろそろ分別の付くご老人になられたら如何ですか?


92 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 14:34:47
何をあいつに肩を持つ必要があるのか?

あいつは左党の 歯病みん糖(シャミン党)や 強酸糖 にしてやられて、
欠歯八代がフガフガなんで、その本音をいたく突かれたから、ぎゃぁすか
文句を並べてたまでよ。

93 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/12(土) 17:28:34
雄略5年の百済新撰の引用で、蓋鹵王が弟の昆支君を「大倭」に送り「天王」に仕えさせ、兄王との「好」を修めたとある。
これは「大倭」と百済が対等の関係で、原文がそのまま残った記事のようである。
雄略23年の本文でも「天王、以昆支王五子中第二末多王幼年聡明・・・」
百済では当時、倭王を「天王」と呼んでいた可能性が高い。
「天皇」に限りなく近い「天王」号は5世紀後半(461年)まで遡ると考えられる。
「天皇」号が確立した中世でも「天王」と書く例は多い。
考古学的には、三角縁神獣鏡にしばしば見られる「天王日月」「日月天王」が上限か。


94 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 18:13:07
蓋鹵王は、密かに高句麗軍を漢城から閉め出そうと画策する。
そこで倭軍の強力を得る為に、昆支君を倭に送り込む。
残念ではあるが、蓋鹵王は殺され、首都を奪われた百済は、南方のみを領土とする。

●義熙九年〔413〕高句麗 倭國及西南夷銅頭大師並獻方物
この時倭国は、高句麗と共に朝貢したかもしれない、ここに百済が登場しない異常。



95 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 18:16:34
>倭王を「天王」と呼んでいた可能性が高い。
大王と呼ばれた時代は、さらに古いであろう
雄略は天王ではあるが、大王ではない。

ただのつまらない思考です。


96 :日本@名無史さん:2010/06/12(土) 18:20:28

天皇制=笑っていいとも!! と考えればいいんだよ。

実際は(芸能人同士という広い意味での)「顔見知り」程度なのに、「友達」を装って自分のPRして、延々と(偽りの)友達の輪を繋げてく。

古墳時代の天皇(大王)制もそれと同じで、それぞれ各地の有力豪族で別系統だけど、(合議制の)大和朝廷内では顔見知り。
たとえば、応神大王は九州の大豪族紀氏だし、継体大王は近江の大豪族息長氏で、血は繋がっていない。そこで系図を弄くるわけ。

@古い大王家の男系が切れると、(合議で決まった)新しい大王(家)に、古い大王家の娘を嫁がせた上で、大王に即位させる。
 →古い大王家は后の実家として地位は安泰となり、新しい大王(家)は古い大王家と血筋が繋がることで正統化のメリット。

A日本書紀では、新・旧大王家があたかも男系で繋がっていたかのように系図を買収して操作、女系でも補強して、万世一系を捏造。
 (例:応神=仲哀の忘れ形見、継体=応神の5世孫、天武=天智の実弟)(例:神功=開化の5世孫、振姫=垂仁の7世孫)

先王朝(ニギハヤヒ→神武〜開化)×古王朝(祟神〜仲哀)×中王朝(応神〜武烈)×新王朝(継体〜弘文)×現王朝(天武〜平成)

B天武朝になって、大王を(それぞれの頭に一と白=百を足して)天皇と改称。
 持統が律令制の導入と共に、土地と民の国有化のシンボルとしての天皇制を確立。
 自分たちと藤原氏で血筋を独占→現在へ。

97 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 19:48:38
>>96
神武から仲哀までは、家系が続いている。
ここから先がメチャクチャな時代になる。
神功67年は長すぎる、しかし歴史を合わせると
273年の日食を275年の神功元年に差し込む。ここから歴史を見ると
323年 癸未年 千熊長彦、326年七支刀としなくては、
書紀の記事と半島の出来事が重ならない。
歴史上の出来事は、神功元年から応神末年までを短く出来ない。
そうすると世継ぎが支持されない。

相反する記述の複合品がこの時代である。


98 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/12(土) 20:08:49
>>95
おや・・ヤマトタケの息子ワカタケル大王ですか。
新しい漢風諡号を考えなければいけませんね。


99 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 20:40:53
>>81
>神功52年にノギヘンの・・・七支刀■を差し込めない

差し込めないからといって間違いだとはいえない。神功39年の卑弥呼の
記事が差し込められてても、卑弥呼は神功の時代ではな〜い。
あの検査結果でのノギヘンがケモノヘンあたりなら狂いも可能性として
はありえる範囲内だが、ノギヘンとウカンムリとではそこまで検査鑑定で
狂うはずがな〜い。従ってウカンムリの主張は絶望的であ〜る。

100 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/12(土) 20:59:02
>>96
>新王朝(継体〜弘文)×現王朝(天武〜平成)

これは誤り。
天武の出自は疑問もありますが、天武の血統は奈良時代に途絶えて天智に戻っています。


101 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 21:11:28
神功52年にノギヘンの・・・七支刀■を差し込んでも良いんですよ。
それで神功52年あたりの歴史が合えば。

神功49年に千熊長彦が半島の再編成をし、領土を割譲する。
そのお礼として神功52年に七支刀がもたらされる。

私は、上記の様に歴史を見て、323年とした。
こう考えれば、百済が340年代には大国として存在するから、それ以前でなくてはならない。
ラジオ氏のいう383年では千熊長彦は、遅すぎる。


102 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 21:23:29
差し込んでも良いということは、差し込まなくてもいいのと変りなし。

103 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 21:55:15
>>102
その通り、だからノギヘンでない、七支刀を差し込んだ。
でも主張する以上、それ相応の七支刀が神功52年に無ければならない。
ノギヘンの七支刀を主張するなら、その編年に神功52年ノギヘンの七支刀。

そして書紀の記事が本物と主張出来れば万全である。
記事がねつ造と主張するのは、編年の間違いが内包されている。


104 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 22:07:41
X線検査結果がノギヘンだぞぅ。「禾」を向かって左に寄せてタテ長の細身
とした陰影に近似だ。いくら誤認があったとしてもウカンムリの「宀」
の形とはほど遠いの。つまりオマエの主張は絶望的に近く、これを強行
しても失敗なのさ。ww 冒険以上の極めて危険な橋渡りで、インディ・
ジョーンズでもそんな危ない橋は渡らんのだよ。

105 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 22:10:20
つまり、万に一つの成功もないと言っよい。wwwwwwwwwww

106 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/12(土) 22:21:16
ではノギヘンの七支刀の近くに癸未年が設定できるかな?
そして書紀の記事は本物であると。

これが出来たら、検討しますよ。


107 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/12(土) 22:26:17
何が癸未年なのか? 

癸未年を設定出来たって、最初が間違ってるんなら、後の論で
癸未が合ってても、こりゃ駄目だ。

108 :日本@名無史さん:2010/06/13(日) 04:40:00
二ギハヤヒ≠火明命だと思うよ。

なぜなら、二ギハヤヒの正式名称は
天照国照彦天火明櫛玉二ギハヤヒ命だろう?

この「天火明」と「二ギハヤヒ」の間にある「櫛玉(くしたま)」ってのは
神道用語の「奇魂(くしたま)」のこととされ、
これは「形見」という意味にもなるそうだ、どうも。

つまり、神武東征戦争で、近畿側で応戦・降伏した
二ギハヤヒという人物は、自分のことを天火明命の遺児だというふうに自称していた。

だからこそ、近畿側には、天火明命の別の子孫(尾張氏、海部氏の先祖ら)が、
二ギハヤヒとは対立していて、神武軍を受け入れたことになる。

こんないった経緯から、後世、ヤマト王権では
二ギハヤヒの子孫の物部氏は、天神とされ、
天火明命の子孫の尾張氏、海部氏は、天孫というふうに
両者の出自が分けられた。
つまり、物部氏は自分達を天孫と自称していたが、ヤマト王権は認めなかったわけだ。

109 :日本@名無史さん:2010/06/13(日) 07:36:14
>>96>>100
今の天皇家って天智系と言われてるけど(天武系は長屋王で断絶?)、継体系と天智系って繋がってるわけ?

110 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/13(日) 07:47:27
倭隋=大草香皇子と考えられる。(反正の死後、後継候補であった)
「隋」の字義は「垂」に近く、だらりと垂れる意味。
草香は地名だが、古事記によると大日下王は波多毘能大郎子とも言い、
幡が垂れる様子から名付けたものだろう。

>>109
天武系は称徳天皇で断絶。


111 :日本@名無史さん:2010/06/13(日) 10:12:13
>>109
天武系も天智系も継体系。
津田の三王朝説なるものが流布した背景は、
第二次世界大戦の敗戦による皇国史観に対する反動もあるが、
もうひとつは、以外にも本居宣長の邪馬台国九州説も大きく影響している。

112 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/13(日) 11:33:23
倭王讃とは誰か?
日本書紀卷第十 譽田天皇 應神天皇
一云。初天皇爲太子。行于越國。拜祭角鹿笥飯大神。時大神與太子名相易。故號大神曰去來紗別神。太子名譽田別尊。
然則可謂大神本名譽田別神。太子元名去來紗別尊。然無所見也。未詳。
應神の敦賀行きは神功13年ですが、このとき気比大神と名前を交換したというのです。
神功3年に「磐余若櫻宮」に都したときは「去來紗別尊」だったことになります。
一方、履中天皇「去來穗別天皇」も「磐余稚櫻宮」に都しています。
名前が似ていて都が同じとは? どうも気になる。

>>111
>津田の三王朝説

水野祐さんじゃなかった?

113 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/13(日) 13:53:00
九州の王ですよ。

114 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/13(日) 14:41:20
>>113
卑彌呼の時代と異なり、書紀にも外交記事がありますから。
雄略天皇は呉の使節を迎え、根使主に大々的に接待をさせているわけで・・・
そこで大草香皇子から盗んだ立派な玉縵をつけ、昔の悪事がバレるのですが。
また呉から帰った使者が筑紫に着いたとき、水間君が呉から「献上」された鵞鳥を死なせてしまい
償って許された記事もあり、筑紫が独立していたとは書かれていません。


115 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/13(日) 15:04:23
太国氏の反論も楽しみですが、また来週。
GRRR・・・


116 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/13(日) 15:05:57
畿内の天皇なら、編年がほぼことごとく合致するはずですよ。いまだかつて
合わせられた納得できる論説はないようです。これは五王が九州の王達
だということなのです。

117 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/13(日) 16:04:15
癸未年千熊長彦は、
これまで編年に載っていなかった、北方民の渡来である。

我が国の遺跡に北方系の遺跡は多いが、今までの編年に北方民の渡来を載せられなかった。
4世紀の末に巨大古墳が作られても、この労働力をどの様に調達したかまで、
現実に起こった重要な出来事のトップに来るべきが渡来である。


118 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/13(日) 16:29:04
倭王武の上表文 井上光貞
「皇帝の冊封をうけたわが国は、中国からは遠く偏って、外臣としてその藩屏となっている国であ
ります。
昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東は毛人を征す
ること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国に
及び、強大な一国家を作りあげました。
王道はのびのびとゆきわたり、領土は広くひろがり、中国の威ははるか遠くにも及ぶようになりま
した。

倭王武が九州の王の一人なら、大和の天皇は毛人の一人ですか?


119 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/13(日) 16:43:05
@「皇帝の冊封をうけたわが国は、中国からは遠く偏って、外臣としてその藩屏となっている
国であります。
●わが国(倭国)は、皇帝の冊封をうけた。
だから、倭人伝にも倭王が登場する。ならば冊封は240年代であろう。
A昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東は毛人を
征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、
● 景行であろう
B北のかた海を渡って、平らげること九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。
● 神功49年に千熊長彦が、半島の小国家群を再編成している。

倭王武が九州なら、大和政権が、九州に落ちのびたのか?


120 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/13(日) 17:18:03
例えば神功渡海を鑑みるに、

晉書卷一百九   載記第九 慕容皝慕容翰 陽裕より
句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,
347年 慕容恪攻高句麗南蘇,克之,

323年以降、支那の大国の権力は半島に及ばない。
百済は340年代には大国として存在する。

353癸丑  神功摂政元年などとすると、
百済や新羅が小国家群を併呑した後となる、しかしこの時代には、馬韓や伽耶は小国家群として
存在する、何故小国家群が存在出来たかを考えれば、この時代には半島は倭国の権力が及んでいた。

352年渡海、 353年神功元年、 同49年半島の再編成、領土を百済に分与、北方民の渡来。
この年代では、神功紀をねつ造としなければならない。
だから書紀はデタラメなどといわれる。

大きな間違いが有る。それは、書紀の記事が正しければ何年になるかの検討が成されていない。


121 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/13(日) 21:50:33
三輪神の御名は3倍年暦を示唆しており、とりわけr=3の円をも示唆
している。この円の球化による体積と表面積の数式とは、日本古代の
実年代を測る天下宝器なのだ。これを天津神算木といい古神道の素敵な
宝物だと言ってよかろう。その天津神算木(天津金木)とは (**はベキ)

 4πr**3/3=113.0973355292・・・ --------------@
 4πr**2 = 113.0973355292・・・  --------------A

で、体積=表面積 という関係にある。これの左右辺は天津金木を本打ち
切り末打ち断ちて

 3≠113.0973355 ---------------@’
 2≠113.0973355 ---------------A’

となり、主項目は右辺の筆頭、先頭の

 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位

である。                           〜続く

122 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/13(日) 22:02:55
>>121 続き
分断の天津神算木の主項目はハツクニシラスの崇神天皇の>>121の年代で
あるが、既説のとおりその実年代はもう一つの分断の(末尾一桁少ない)

 3≠113.097335 --------------@”
 2≠113.097335 --------------A”

からの右辺の三分 113 097 335 の第二、第三項の差 −1 で求め
られる。(第一項は崇神即位の月日数)

 (335−97)−1=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年

っこで1を引くのは紀元0年を除去するため1年分削ることからである。

123 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/13(日) 22:29:20
>>122 続き
>>121 >>122のとおり、分断には右辺が9桁のと10桁のとがある。他にも
分断方法はまだまだあるのだ。天津神算木の副次項目として、各式からも

 1/3 皇紀973年 仁徳天皇即位

の年代が指示されている。この場合右辺先頭の1は直接仁徳即位にかぶって
はおらず、焦点はこれを見過ごして右辺第二桁からが本題となり替わる。
先述のA’は末尾に0をつけて

 2≠1 13.09733550

と右辺先頭の1を外すのだが、その前に左辺の2と、113の逆読み との和は

 311+2=313年=仁徳即位元年

を西暦で得る。さらに末尾550と1を外した次の数130の差は

 550−130=420年=履中天皇即位元年(実年代:倍暦逆算と一致)

を得て、外していた1数との差をとれば

 (550−130)−1=419年=仁徳没年(実年代:倍暦逆算と一致)

をも得られることになる。

124 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/13(日) 22:35:10
う〜んすばらしい
それで、北方の民が倭国に流入した時期が解れば万全かも。
20万人まで大丈夫ですよ。


125 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/13(日) 22:59:25
>>123 続き
分断の天津神算木の右辺の末桁に0を付加させたが、分断前ではここの右辺
第11桁目は2の数であった。これが分断にてなくなり0となってたもので
ある。右辺10桁式の場合は右辺先頭の1を無視したときは、一桁不足を0
でなく今の2で補填することは左辺の2の代用となり、いずれの2と右辺
先頭の1とで 2−1=1は、仁徳即位年の前年に同即位年と應神没年の双方
の実年代として、1年の空位年があることを示唆している。

混迷するだろうが、見方によっては 1 は実年代での1年の空年、2は見かけ
通説の年代にて2年の空年となることを示唆したものである。これのほうが
理解しやすいだろう。そこで新たな仁徳関係の分断は>>121の@を使い
 3≠1 13.09733552 9232・・・    の分断としてここの間の数列
を分断で削除すれば(右辺末尾も削除)

 3≠1 ・・・9232        これを逆読みで

 皇紀2329年 1月3日  荷田春満 生まる

126 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/14(月) 18:29:14
117 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06 /14(月) 11:01:34
>>116
覚えてないなら月日までも書くわけがなかろう。××天皇□□年あたりで
打ち切っているよ。月日まで記載があるということは精度が高いわけで、
そこまでの記述が多いということは、インチキではないと観るべきだ。

さてここから、月日をどうやって再現するか?


127 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/18(金) 23:17:09
昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東は毛人を征す
ること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国に
及び、強大な一国家を作りあげました。

東は毛人を征すること五十五国、
255年頃、日本武尊が関東、東北を征する。
西は衆夷を服すること六十六国、
240年代に、景行が九州を征する。
日本武尊が関東遠征の前に、九州、穴戸、難波を征する。
北のかた海を渡って、平らげること九十五国
323年 神功49年 以荒田別。鹿我別爲將軍。則與久■等共勒兵而度之。
荒田別。鹿我別爲將軍。及び千熊長彦等が勒兵(石勒の残兵?)を討ち半島の再編成をする。

神功49年には、勒兵が登場する。永嘉の乱で説明せねばならない。



128 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/19(土) 14:10:20
倭の五王ではなく、倭の七王説が面白い。
梁書の倭王賛=應神=イザサワケ→ホムタワケ、倭王彌=仁徳=オホサザキ、宋書の倭王讃=履中=イザホワケ、倭王珍=反正=ミヅハワケ
梁書の「賛」は晋の安帝の時の倭王であり、「彌」も晋代の倭王と思われる。「賛」は「ホム」、「彌」は「オホ」の意訳。
履中は應神の幼少時と名前が似ており、都も同じ磐余稚櫻宮だったので「賛」に似た「讃」を名乗った。
「讃」=「言」+「賛」=「イ(ザ)」+「ホ(ム)」とも見られる。
後に宋書と梁書を参照した南史では、東晋の安帝の時に「讃」がいたと書かれているが、
宋書は一次史料、梁書は二次史料、南史は三次史料であり、信頼度は異なる。
なお、「讃」が遣わした「司馬曹達」は、住吉仲皇子の乱で履中を馬に乗せて救出した阿知使主だろう。(古事記では阿知直)
「賛」=應神も37年に阿知使主らを「呉」に派遣したとあり、倭漢直の祖という。
漢の皇帝の子孫というなら「劉」姓だが、宋の皇帝も「劉」姓なので魏の「曹」姓を名乗ったか。
名前の「阿知」は「阿至」とも書ける。半島の人名で「〜至(ち)」というのが多い。
「至」と同意の「達」としたようだ。

129 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/19(土) 20:16:35
神功49年(249、実は369年)に倭の千熊長彦が百済を訪れ、軍事同盟が結ばれた。
この記念品が七支刀で、銘文では「百済王世子」「倭王」となっているので、どちらかといえば百済が上位にあると見られる。
これが逆転するのが「辛卯年(391年)」(広開土王碑文)
書紀では應神3年(272、実は392年)百済の辰斯王が無礼だったので紀角宿禰らを遣わし、阿花王に交代させたとある。
この頃から天下(日下・日本)を治める大王という観念が出てきたのではないか。

神功47年(247、実は367年)百済と新羅の使者が同時にやってきたという書紀の記事も興味深い。
新羅王はもと百済人であり、新羅は初め百済に附庸していたという隋書の記事の裏づけかもしれない。
隋書新羅伝
新羅國、在高麗東南、居漢時樂浪之地、或稱斯羅。魏將毋丘儉討高麗、破之、奔沃沮。其後復歸故國、留者遂為新羅焉。
(中略)其王本百濟人、自海逃入新羅、遂王其國。
内藤湖南は久度(くど)神に関する論考で、隋書などで百済(くだら)の始祖とされる「仇台」、三国史記・百済本紀の「仇首王」、
それに新羅本紀の「金仇道」は同一人ではないかと示唆している。
その子の味鄒尼師今は亡命百済人で、高句麗人とともに新羅を建てたか。

130 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/19(土) 21:13:05
神功49年 則與久■等共勒兵而度之。
南加羅。喙國。安羅。多羅。卓淳。加羅七國。仍移兵西廻至古爰津。屠南蠻。
神功49年 勒兵 永嘉の乱で説明すべき兵。
東夷の各国を再編成するのは、東夷軍として存在する時代には出来ない。
倭の臣下 熊彦(ウングオン)はハンサムだ言葉がお上手で, 阿□(庶民)と 相通したら, 彼の言葉にたくさん従った. それで 国人(平州人)らは 異反(離反)して, あるいは私たちに, あるいは高句麗に帰属した
千熊長彦 癸未年
国人(平州人)等が、百済、高句麗、倭 これらどの国へ向かっても良いと云う時代である。
そして倭国へ北方系の人々が流入する。

これらの記事を全て正しいとすれば、323年癸未である。
274年以降、倭は東夷軍の中核となる。240年代に最初に冊封される。
永嘉の乱(308〜323年頃)323年東夷軍を解散するにあたり、千熊長彦は、住民に説明する
「東夷軍を解散するに辺り、君らは何処に所属しようと自由である」これを受けた住民の多くが倭に従うことになる。
新たな兵を倭国から送り込み、新羅の勒兵を討つ、ついで小国家群を再編成する。
この時援軍となった、新羅に西海の地を分与する、もちろんこの地の安定の為である。
喜んだ百済王は、常稱西蕃。春秋朝貢。と云う。

百済は240年代には大国として存在するから

仁徳天皇五三年(乙丑三六五)五月◆夏五月。遣上毛野君祖竹葉瀬。
この時代では無い。記事の大部分を創作とせねば説明出来ない。
記事に齟齬があれば、齟齬のない時代を見つけるのが先決である。

好太王碑に新羅が臣下であったことが記される
多分高句麗が遼東を襲った時代、共に勒軍が裏にいる。


131 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/19(土) 21:17:27
日本に北方系の遺跡はたくさん有るが、渡来の記録は無い。
千熊長彦を充てれば、説明出来る。360年代では遅すぎる。


132 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/19(土) 21:39:52
思考の誤差は、好太王碑に書かれた事実をどの程度の影響であったか、と云う誤差につきる。

私は、高句麗の侵攻は南岸近くまで達し、これにより新羅、百済には高句麗軍が駐留し
倭国との通好が途絶えたと考えています。
この途絶えた時期が、履中以降の百済が登場しない時期であり、
この時期に倭の五王による朝貢、通好が再開されれば朝貢は停止する。


133 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/20(日) 09:28:07
唐松山さん
日本書紀巻三神武天皇即位前紀戊午年
夏四月丙申朔甲辰。皇師勒兵歩趣龍田。
冬十月癸巳朔。天皇嘗其嚴瓮之粮。勒兵而出。

日本書紀巻七景行天皇十二年
冬十月。到碩田國・・・便勒兵先撃八田於禰疑野而破。

これも石勒の残兵ですか?

134 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/20(日) 09:48:23
書紀では近仇首王でなく、貴須王。
仇首王=金仇道=仇台で隋書の通り百済の始祖であれば、肖古王も一人で問題は生じないと思われる。


135 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/20(日) 15:00:09
404年、高句麗が遼東半島を併合。
410年、東晋が山東半島を併合。
これで南朝への道が通じ、高句麗経由で使者が送られたか?


136 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/21(月) 22:26:35
書紀に於いて「勒兵」は、「敵兵」の意味で奈良時代まで使われる。
よって、「勒兵」を永嘉の乱で説明する必要は無い。
しかし勒兵=敵兵が奈良時代でも通用する事に注意。

好太王碑
407年 ■■■■相遇王要截刺倭寇潰敗斬殺無數十七年丁未ヘ遣歩騎五萬■■■■■■■■■城
倭は、帯方方面の奪回に失敗する。
そして、百済、新羅を失う。
4世紀末から5世紀初めは、高句麗との戦で、巨大古墳を作れない時代であり、この後も大仙陵
に匹敵する事は無い。と云うより、履中、反正は、自分の陵墓を作れなかった可能性がある。
ここから、独自外交、倭の五王の時代となる。


137 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/26(土) 13:45:17
410年、山東半島の南燕を滅ぼした東晋は、海についてはほぼ中国を統一した。
これを受けて413年、倭国は東晋に朝貢する。北燕を避けるなら、高句麗領の遼東半島から山東半島に渡るのが最短コース。
これは應神37年の阿知使主の記事に符合する。
その後も宋への朝貢は続くが、470年代に北魏が山東半島を奪ってからは途絶える。
後の遣唐使でも、東シナ海を横切る南路は死のコースであった。

應神の出生地については、宇美説と蚊田説があるが、ウミが単なる地名説話とすると、蚊田説が有力か。
蚊田がかつての怡土郡長野村蚊田ならば、應神は伊都生まれとなる。
神功が新羅出征前に出産を遅らせた石が伊覩県にあるという書紀の記事もある。
應神(改名前はイザサワケ)=五十迹手で、先祖は新羅系の可能性も出てくる。

138 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/26(土) 13:51:23
景行 ― 五百城(いほき)入彦 ― 品陀(ほむだ)真若王 ― 仲姫(應神の皇后)
景行 ― 日本武        ― 仲哀         ― 應神
五百城入彦(五百木之入日子)は古事記によると日本武(倭建)と同様、尾張氏の娘を娶っている。
日本武は宮簀媛(美夜受比売)で記紀ともに「月」(月経)の表現があるが、
五百木之入日子の志理都紀斗売(しりつきとめ)も「つき」を含む名前。
品陀真若王は名前が誉田別(品陀和気=應神)に似ているが、書紀では何故か記載が無い。
五百城入彦=伊吹(いぶき)入彦=日本武(尾張から日入る西方の伊吹山に入り遭難)
品陀真若王=仲姫の父     =仲彦(仲哀)
仲哀→應神を男系相続にするため、二重系図が作られたか。

139 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/26(土) 17:04:13
まあこの辺は歴史を合わせると世継ぎを大幅に書き換えないと
整合性がとれないから、前に進まないんですよね。

仲哀が殺されて、ワカタケルが引き継いだのでは無いか?
墓標では、ここも思考に入るが、
皇暦と中華暦の線引きが出来ていない。

これは、神功39年を景初3年としたために、それ以降の数字を全てそろえなくては
ならなくなった為か?


140 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/26(土) 20:11:50
五百城入彦は何の事跡もないのに、日本武・成務と同じ扱いなのが不思議。
古事記の僅かな情報からは、日本武と同一人の疑いが持たれる。

141 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/26(土) 20:50:30
五百城入彦,日本武,成務この3人は景行の太子と云うことになっている。
だから五百城入彦も殺された?

当然この陣営が応神を認める事は無い。


142 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/26(土) 21:22:20
>>141
太子が殺されたなら大事件だろうに、その痕跡すら無い。
なのに血統は女系でしっかり應神・仁徳につながっている。
これは怪しいと見る。

143 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/26(土) 21:52:27
墓標より
265年 戊午 皇852 壬申 仲哀天皇
274年 丁卯 皇861 辛巳 神功皇后
279年 壬申 皇866 丙戌 香坂王/仲哀子 丙戌年12月9日30  269生 10才
280年 癸酉 皇867 丁亥 忍熊王/仲哀子 丁亥年7月15日28 272生 8才
280年 癸酉 皇867 丁亥 押別王命/景行子 癸酉年4月19日40 240生 40才
285年 戊寅 皇872 壬辰 五百木入日子命/景行子 戊寅年6月3日46 239生 46才
293年 丙戌 皇899 己未 39年
305年 戊戌 皇911 辛未 建内宿禰 辛未年7月4日106 242生 63才
308年 辛丑 皇914 甲戌 品夜和氣命/仲哀子 甲戌年5月17日64 272生 36才
312年 乙巳 皇918 戊寅 若建王命/小碓子 戊寅年11月6日55 257生 55才

こんなものを持ち出したらお終いかも。


144 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/26(土) 21:55:43
香坂王、忍熊王の死亡日が書紀とは違う。
帰京後に対立があったかも知れない。


145 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/06/27(日) 14:25:01
>>143
確かにお終いです。

五百城入彦の系図には井上光貞氏も注目していたが、私は氏のように「架空説」は取りたくない。
たとえば水戸黄門について考えると、徳川光圀は諸国漫遊などしていないから漫遊記の水戸黄門は架空だともいえる。
だから「徳川光圀は架空の人物」ということにはならない。
ヤマトタケルについては、森浩一氏も「実在に近い人物」と考察されている。
神功皇后の新羅遠征については、皇后が大軍を率いて新羅を征服したとは考えにくいと思う。
当時は新羅が6世紀以降のように大国として存在していたわけでもない。
おそらく、長い時代に繰り返された半島との接触を一度のこととして語られた伝説と思われる。
だからといって神功皇后が架空の人物と断定はできない。

146 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/27(日) 19:07:44
>神功皇后の新羅遠征については、皇后が大軍を率いて新羅を征服したとは考えにくいと思う。

だから 274年幽州を分け平州を置く。ここに来るんですよ。
280〜90年代は東夷がしきりに洛陽を訪れる。

東夷校尉による、東夷軍の編成。最初に冊封を受けた倭国は東夷の頭となる。
そして小国連合のまま、323年を迎える。


147 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/27(日) 23:23:20
書紀編纂者は、年の干支と朔の干支が合う神功40年を景初3年と断定した。
これにより現実には存在しない75年間を埋める必要が生じた。

313年 神功39年丁卯太歳
もしワカタケルがこの直前まで生きていれば(若建王命/小碓子戊寅年11月6日55)
ここで大王が代わる、ここを仁徳元年とする。
343年 神功69年=仁徳31年 卅一年春正月癸丑朔丁卯 立大兄去來穂別尊 爲皇太子
344年 応神元年=仁徳32年
349年 仁徳 卅七年冬十一月甲戍朔乙酉 葬皇后於乃羅山 343年に崩御した神功かも?
364年 新羅 倭兵が大挙して侵入仁徳天皇五十三年 1年の違い。
371年 応神 二十八年秋九月,高麗王遣使朝貢,因以上表.其表曰:「高麗王教日本國也.」
同年   仁徳 五十八年冬十月 呉國 高麗國 並朝貢
374年 応神 三十一年秋一時貢上五百船
同年   仁徳 六十二年夏五月 遠江國司表上言 

まあこの様に同じものを二つに別けたともとれる。


148 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/28(月) 19:21:36
新羅312年 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
313年 神功39年太歳= 仁徳元年
343年 神功69年= 仁徳31年卅一年春正月癸丑朔丁卯 立大兄去來穂別尊 爲皇太子
新羅344年 倭国が花嫁を求めたが辞退


149 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/02(金) 21:44:55
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/nendai/nendai2.htm
その結論は、「箸墓古墳に代表される定型化した大型前方後円墳の出現年代は、おそらく卑弥呼の没
年より十年あまり遅れる」が、この成立が、「邪馬台国連合 の変質、すなわちヤマト政権成立とい
う大きな画期と対応するもの」と理解される、とのことである

箸墓は261年に崩御した景行が葬られる箸陵である。


150 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/07/03(土) 13:00:03
「箸墓」の被葬者は、磯城県主「大目」の娘で孝霊の皇后になり、孝元の母となった「細媛」ではないか。
細媛の古訓は「ホソヒメ」「クハシヒメ」の2種類がある。
ホソヒメと読めば、古語では「五百」を「イホ」と読むから「百襲姫(モモソヒメ)」と同じ読みになる。
クハシヒメと読めば、百襲姫の別名「倭迹速神浅茅原目妙姫(ヤマトトハヤカムアサチハラマクハシヒメ)」
の末尾と同じ(「目」も父の名「大目」を想わせる)だし、ハシ墓にも通じる。
仲哀のオキナガタラシヒメ(神功)をはじめ、垂仁のヒバスヒメ、仁徳のイハノヒメなど皇后の大きな墓は多い。
ハシ墓は孝霊の皇后クハシヒメの墓であり、同じ別名を持つ孝霊の皇女モモソヒメの物語に誤って結び付けられたものか。
箸墓以前の前方後円墳は「大目」「葉江」など、磯城県主家のものと思われる。

151 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/07/03(土) 17:42:23
欠史八代と言っても、孝霊天皇を境に大きく区別することができる。
綏靖〜孝安では后妃はただ一人で、しかも本文・一書あわせて三種類の史料が参照され、それぞれ名前が違う。
孝霊では后妃は三人に増えるが、皇后の名が三種類あるのは変わらない。
孝元・開化では后妃は三人で、皇后の名はただ一種類となる。
綏靖〜孝霊の皇后は磯城県主・十市県主・春日県主の出身が多いが、孝元・開化では物部・穂積氏となる。

152 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/03(土) 19:03:35
>ハシ墓は孝霊の皇后クハシヒメの墓であり、

さて纒向への最初の入植者は?
そして纒向は100年ほどで衰退する。


153 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/07/03(土) 20:30:57
唐古・鍵遺跡から纒向遺跡へ。
孝霊天皇の黒田廬戸宮は唐古・鍵遺跡と同じ田原本町にある。
この近くに十市御縣坐神社があり、崇神の瑞籬宮(磯城)に志貴御縣坐神社がある。
細媛の父・大目は書紀では磯城県主、古事記では十市県主とされる。

154 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/03(土) 20:45:38
箸墓に相前後して全国に古墳が作られる。
その前に
2世紀末ころ、
九州伊都国の衰退
近江伊勢遺跡の衰退
そして纒向遺跡の興隆、4世紀初めには衰退する。


155 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/03(土) 20:58:04
年号 西暦 元旦朔 増し 調整  暦日 朔干支 中国朔
神武元年42年庚辰 0日  0   0日  辛卯 辛卯
綏靖元年64年壬申 3章 1日 8033日 甲申 甲申
安寧元年78年庚申 1章 1日 13142日 癸巳 癸巳
懿徳元年90年己卯
孝昭元年94年丙戌 3章 0日 18988日 己未 己未
孝安元年120年乙酉 3章 0日 8467日 戊午 戊子
孝霊元年146年壬辰 4章2日 37976日 丁亥 丁亥
孝元元年165年辛未 3章1日 44916日 丁卯 丁卯
開化元年184年庚午 2章1日 51856日 丁未 丁未
崇神元年187年壬午 3章 0日 52948日 己未 己未
垂仁元年217年丁丑 2章1日 63904日 乙未 乙未
景行元年240年壬申 4章1日 72320日 辛亥 辛亥
成務元年262年甲申 2章0日 80352日 癸卯 癸卯
仲哀元年266年庚寅 3章1日 81799日 庚戌 庚辰
神功元年275年丁酉 0章0日 85106日 丁巳 戊午
神功39年313年 丁巳     98986日 丁丑 丁丑

仁徳元年313年丁丑      98986日 丁丑 丁丑
履中元年400年壬子      130761日 壬子 壬子

神功元年まででは、これ以上短く出来ない。世継ぎが出来ないと云う事です。
孝霊を充てると、ほぼ100年後ろへ動かす事になる。
そうすると神功渡海が370年頃となるが、この時代は、百済本紀よりさらに時代が下がる。
もし書紀の記事がおかしいとすると、孝霊を充てることも出来ない。


156 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/07/03(土) 21:09:37
物部・大伴氏と天皇家との比較
物部:饒速日六世孫・伊香色雄(崇神7年)― 七世孫・十千根(垂仁25年)― 八世孫・胆咋(仲哀9年)

大伴:武日(垂仁25年・景行40年)― 武以(仲哀9年)

仲哀は垂仁の曾孫なのに、物部氏・大伴氏ともに垂仁世の息子が活動しており、天皇家が二世多い。
この辺はどうでしょう?

157 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/03(土) 23:06:28
>天皇家が二世多い。この辺はどうでしょう?

天皇家は19年程度の長さで世継ぎをする。だからこれ以上短くしても正解は得られない。
伊香色雄は伊香色女の弟と見れば、孝霊〜崇神に仕える。
145年生まれとし50年の生涯なら195年没
大彦は169年生まれなら、孫の磐鹿は、169+38=207年生まれと見ると240年で34歳ベテランです。
260年頃死亡で54歳となる。
武内宿禰243年生まれであれば、275年神功元年で33歳まだ渡海できる元気がある。


158 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/04(日) 22:32:05
倭人伝による倭人は、
男子は皆露かいし、木綿を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、
これが古墳時代前期の風俗として、
古墳時代中期の埴輪では、確認出来ない。
同じく住居も、縦穴か高床式が、埴輪では北方系の住居となる。

古墳前期と中期には文化的断絶があるが、説明出来ていない。
何故か?古墳前期を崇神に充てると、神功がねつ造記事となる為である。
神功紀が歴史に取り入れられない限り、邪馬台国は解明しない。


159 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/07/10(土) 15:56:18
考古学者の寺沢薫氏は、幕末の「薩長土肥」ならぬ「筑備播讃」(主導は吉備)が新都・纏向を建設したと推定しているが、
「筑(筑紫)」を除外すれば、記紀や神社伝承に伝わる孝霊の子女たちの活躍場所と一致することは興味深い。
吉備津彦は播磨・吉備を平定したと伝えられるし、百襲姫は讃岐の一宮に祭られている。
また古事記では孝安の皇子、孝霊の兄として大吉備諸進命を挙げている。
「筑(筑紫)」の要素は、あるいは物部氏か。
箸墓の被葬者は書紀が伝える通り百襲姫かもしれないが、その母・ハヘイロネも古事記では壮大な名前を持つ。
その名前、意富夜麻登久邇阿礼比売命の墓である可能性もある。

ヤマトの覇権は磯城氏(孝霊以前)→物部氏(孝元・開化)→皇室(崇神以後)と変わったと考えられる。
崇神伝承の中核は三輪山祭祀。磯城には遷都しただけで、崇神は新都の建設者として描かれてはいない。


160 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/07/17(土) 13:29:39
>>159 追加
寺沢氏は講談社の「日本の歴史」シリーズで「王権誕生」を執筆しているが、巻末の年表を見ると
210頃 纏向遺跡の建設
280頃 箸墓古墳の築造
318頃 三輪山祭祀の確立
三輪山祭祀の確立が崇神世とすると、纏向遺跡の建設は孝安〜孝霊世で大吉備諸進命と大吉備津日子命、
箸墓古墳の築造は孝元〜開化世で百襲姫と関係するのだろう。
開化以前は実在の人物ではあるが、実在の王ではないと見る。
「筑備播讃」の読み方は寺沢氏も示していない。
チクビハリサンと読むのかな。

古事記では、景行が若建吉備津日子(孝霊とハヘイロドの子)の娘、針間之伊那毘能大郎女を娶って倭建(ヤマトタケル)を生んでいる。
父系でたどった場合と3世代の差がある。
また、景行がヤマトタケルの曾孫(即ち自分の玄孫)迦具漏比売を娶って大江王を生んだという不自然な記事が残されたのは、
ヤマトタケルの祖父「若建吉備津日子」を「若建」の名から、ヤマトタケルの息子と勘違いしたためではないか。
実際には兄の「大吉備津日子」(孝霊とハヘイロネの子)と対になる名前である。


161 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/07/17(土) 14:47:27
纏向遺跡への吉備の影響を重視する寺沢氏の説は、記紀の欠史八代〜崇神に新たな光を当てる説のように思われる。
現在の学界の主流は中国文献重視、日本文献軽視であるため、氏の論文も欠史八代を「疑わしい」と一言で切り捨て、
吉備津日子に注目もせず、怪しげな邪馬台国論が中心になっているのは残念であるが。
纏向に都した崇神・垂仁・景行の記事に言及しているだけでも、「よく言ってくれた」というべきか。


162 :日本@名無史さん:2010/07/17(土) 17:14:17
古事記と日本書紀の違いで壬申の乱の記述の多さがぜんぜん違うけど
古事記は大半が天武天皇が存命の時代にできてしまって元明天皇の意向はあまり反映されていないんじゃないか?
日本書紀は元明天皇の命令で「あの戦乱の悲劇は繰り返すな」という平和への願いで日本書紀のことが詳細に書かれている。
天武天皇(大海人皇子)にとっては甥の大友皇子との皇位継承争いなんて黒歴史で隠蔽するだろ。
古事記に記して突っ込まれたら、甥と皇位継承争いをしたことなんて天皇としての資質やリーダーシップを疑われるわけだしさ。

163 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/07/17(土) 19:20:07
>>162
皇位継承争いなんて、神武死後のタギシミミと綏靖の争いをはじめ、古事記にも山ほど書かれている。黒歴史だらけ。


164 :日本@名無史さん:2010/07/17(土) 20:10:10
>>162
?
古事記は推古天皇まで。
したがって、壬申の乱の記述などない。

165 :横槍:2010/07/19(月) 08:36:51
大まかな流れは、こんなところかな

57年 委奴国(甘木周辺)王、後漢より金印を賜う
107年 帥升(スサノヲ)等、後漢に貢献する
180年頃? 大和にて卑弥呼共立
247年 箸墓が造られる
289年 イワレヒコ
405年 ミマキイリ、大物主・天照・豪族を地方に左遷。実質帝王となる
 

166 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/20(火) 16:46:50
神武も崇神もそんな後ではないよ。

167 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/07/24(土) 13:00:21
太国さん復活!

纏向建設にあたり、中国・四国・近畿統合の象徴として淡路島の王女を担ぎ出すというのは、いかにもありそうな気がする。
和知都美命と意富夜麻登久邇阿礼比売命の失われた物語が、国生み(国あれ)や海神(わたつみ)神話のもとになったかもしれない。
和知都美命が安寧の子孫というのは事実でなく、師木津日子とは単に師木の首長(師木県主)の意味だろう。
意富夜麻登久邇阿礼比売命とその妹が孝霊の第二・第三夫人というのも不自然で、大吉備津日子や讃岐の百襲姫も孝霊の子とは思われない。

私は崇神以前に纏向に都したのは師木(磯城)・物部系の女王と吉備系の男王だったと考えている。
@意富夜麻登久邇阿礼比売命と大吉備諸進命
A夜麻登登母々曾毘売命と大吉備津日子命
B倭飛羽矢若屋比売と若日子建吉備津日子命
ただし、この三代の女王が魏志倭人伝の卑彌呼・壹與と結び付くのかどうかは分からない。
近畿に従わない九州(八女か山門か)の女首長が魏に朝貢した可能性も否定できないからだ。
14世紀の南北朝時代には大宰府にいた南朝の征西将軍・懐良親王が「日本国王良懐」として明から冊封された例がある。
この時代は日本文献も豊富なので事情が分かるが、中国文献と考古学だけに頼ると「良懐という名前の天皇が京都にいた」
というトンデモ説になる好例。


168 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/24(土) 18:09:13
文王生於東夷,
東夷校尉文俶父欽為繇外祖諸葛誕所殺,[五]文俶 見卷三校。 繇慮俶為舅家之患,是日亦以非罪誅俶。
以妻舅崔為東夷校尉。
文俶は惠帝(290〜306)に仕えるため、舅崔に校尉を譲る。
東夷馬韓、新彌諸國依山帶海,去州四千餘里,歷世未附者二十餘國,並遣使朝獻。於是遠夷賓服,四境無虞,頻歲豐稔,士馬強盛。
317年 ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通 不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之
323年 ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,  
七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦(千熊長彦)美而善弁
与阿□相通 多聴其言 故国人(平州)異反 或帰于我(百済) 亦帰于麗 (高句麗)

東夷の中で生まれた文俶は東夷校尉となり、278年には馬韓(倭国を含む)で軍を編成したと思われる。
もしこの中に倭国が含まれなければ、渡海の機会は失われる。


169 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/24(土) 18:11:30
266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
274年 二月,分幽州五郡置平州。仲哀9年 渡海。
275年 神功元年
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
279年 神功5年 新羅朝貢
280年 太康元年 6月 東夷十國歸化。7月 東夷二十國朝獻。
281年 太康2年 夏六月,東夷五國內附。冬十月,鮮卑慕容廆(歸か)寇昌黎。
282年 太康3年 九月,東夷二十九國歸化,獻其方物。
286年 太康7年 夏五月,郡國十三旱。鮮卑慕容廆寇遼東。八月,東夷十一國內附。是歲,扶南等二十一國、馬韓等十一國遣使來獻。
287年 神功13年 誉田即位か? 武内宿禰從太子令拜角鹿笥飯大神。
287年 太康8年 八月,東夷二國內附。
288年 太康9年 九月,東夷七國詣校尉內附。郡國二十四螟。
289年 太康10年 五月,鮮卑慕容廆來降,東夷十一國內附。この11月に 晋は、軍を再編する。
289年 是歲,東夷絕遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻。
290年 太熙元年 二月辛丑,東夷七國朝貢。琅邪王覲薨。
291年 永平元年 東夷校尉文淑庚戌,免東安王繇及東平王楙,繇徙帶方。
291年 東夷十七國、南夷二十四部並詣校尉內附。
295年 この頃大鷦鷯天皇誕生。譽田天皇之第四子也。母曰仲姫命。五百城入彦皇子之孫也。
300年 新羅 倭国と国使を交換
304年 建武元年六月 東夷校尉崔,鮮卑大都督慕容廆等一百八十人上書勸進,
308年 永嘉の乱始まる。
312年 新羅 (神功38年) 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
立菟道稚郎子爲嗣。
313年 神功39年太歳、大鷦鷯即位
316年 前趙の劉曜が西晋を滅ぼす。
317年 丁丑 倭は伽耶と共に朝廷に従わなかった。(東夷校尉崔から距離を置く?)
318年 司馬睿(元帝)が建康で即位し、東晋王朝を建てる。
319年 太興2年 鮮卑慕容廆襲遼東,東夷校尉、平州刺史崔高句驪。



170 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/24(土) 18:12:41
320年 神功46年 遣斯摩宿禰于卓淳國。
320年 太興3年 三月,慕容廆奉送玉璽三紐。
321年 太興4年7月 丹楊尹劉隗為鎮北將軍、都督青徐幽平四州諸軍事、青州刺史,鎮淮陰。
321年 同12月 十二月,慕容廆為持節、都督幽平二州東夷諸軍事、平州牧,封遼東郡公。
322年 永昌元年10月,以下邳內史王邃為征北將軍、都督青徐幽平四州諸軍事,鎮淮陰。
323年 癸未 神功49年3月 半島の占拠、再編成。千熊長彦に従う平州方面の人々の渡来。
323年 太寧元年 夏四月,巴東監軍柳純為敦所害。以尚書陳眕為都督幽平二州諸軍事、幽州刺史。 
326年 神功52年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
343年 仁徳天皇三一年正月丁卯《十五》立大兄去來穂別尊爲皇太子。
344年 ?即位か (書紀では応神紀に当たる、又は仁徳32年以降)
344年 新羅 倭国が花嫁を求めたが辞退
346年 新羅 倭軍が金城を攻撃
346年 応神3年 辰斯王立之失禮
352年 仁徳天皇四十年(壬子三五二)二月。納雌鳥皇女欲爲妃。
364年 新羅 倭兵が大挙して侵入
365年 仁徳天皇五三年(乙丑三六五)五月 新羅を攻める。即虜四邑之人民以歸焉。
370年 仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月◆冬十月。呉國。高麗國並朝貢。
371年 応神 二十八年秋九月,高麗王遣使朝貢,因以上表.其表曰:「高麗王教日本國也.」
372年 仁徳天皇六十年(壬申三七二)十月 差白鳥陵守等死役丁。時天皇臨于役所。爰陵守目杵忽化白鹿以走。
379年 仁徳天皇六七年十月丁酉《十八》◆丁酉始築陵。是日。有鹿忽起野中。走之入 民之中而仆死。時異其忽死。

372年 二年春正月辛丑,百濟、林邑王各遣使貢方物。


171 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/24(土) 18:33:15
空白の4世紀とは
書紀に書かれた仁徳は、西暦313年から399年となっている。
現実は、343年卅一年春正月癸丑朔丁卯 立大兄去來穂別尊 爲皇太子迄の大王であり
この後 河内に巨大古墳を築く。
この事業は民にとって苦難以外の何物でも無い。
だから苦難を強い、高句麗に負け、百済、新羅を奪われた大王が「仁徳」と呼ばれるわけが無い。
この悪逆非道の大王を、応神、仁徳で覆い隠してしまったのが、記紀ではないか?

神功渡海の後に、渡海派と残留組の戦いがある。
殺されたのは、忍熊王や五十狭茅、残留組と黙される人々である。
しかし政治的には、残留大和組が握る。
323年に半島を占拠し領土を百済に分与する。そして大量の平州人が渡来する。
この辺から、渡海、冊封東夷軍として活躍した河内方面が台頭する。



172 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/07/24(土) 20:13:27
太国氏、唐松山氏に共通するのは、纏向を崇神天皇が建設したという固定観念。
しかし記紀ともに、崇神は三輪山祭祀の創始者であっても、纏向の建設者ではない。
邪馬台国との関連は保留するが、纏向を築いたのは天皇家ではないと思われる。


173 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/24(土) 20:54:48
三輪山祭祀の創始者は考昭天皇。
そして三輪山の麓には、神武以前から人が住んでいる。
その北方の纒向には人が住んでいなかった。
ここに人が住み出すと同時に各地の土器が搬入される。
そして纒向の繁栄の陰で多くの遺跡が終末期を迎える。


174 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/24(土) 21:15:26
発掘調査現場から(241回)
http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/index.html
 調査区は南北に傾斜する微高地上に位置しており、その地形に合わせて整地土が厚く盛られ、
平坦な土地をつくっています。整地土内からは庄内式期古相(3 世紀前半)の土器が出土しており、
下層遺構は主にこの時期に構築されます。また、これらは庄内3式期(3世紀中頃)の溝によって壊
されていることから、こ の時期に廃絶するものと考えられます。

3世紀前半から同一地点で宮を作り替える。
「整地土が厚く盛られ」ていたら日代かもしれない。
いずれにせよ同一場所を時代を経ずに使用するからには、他人では無い。



175 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/24(土) 21:37:33
愛知県民さん
それがしは、崇神天皇が巻向を建設したとは言っていませんが? 記紀に
そんな文がありましたっけ? ならば無理に否定はしませんが?

176 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/24(土) 21:37:59
・箸墓古墳の外濠状遺構
 纒向遺跡の南端に位置する箸墓古墳は、3世紀中頃〜後半に築造された最古の定型化した
前方後円墳として、また日本列島における最初の大王墓として、全国 的にもよく知られている
古墳です。全長約280mの墳丘部分は、現在倭迹迹日百襲姫の大市墓として管理され、調査・
立ち入りができません。

最初の大王は、九州から関東東北までを手に入れた景行である。
景行は政治手法として魏から「屯倉経営」を学び、全国を治めることが出来る様にした。
この屯倉経営は、全国に古墳を作る勢力となる。
だから崇神時代では、早すぎる。崇神はまだ種貸し屋の域。
鉄の流入は任那(崇神末、垂仁始め)以降である。
鉄器の不足する崇神12年に箸中山古墳は、作れない。


177 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/24(土) 21:48:35
崇神が小国の王で、景行が全国制覇の王などと言うのは妄想もいいところ
だ。たった2代で、オマエの論だと百年足らずで日本制覇なんぞ出来っこ
な〜い。大言だけは十人前に言うが、す〜ぐインチキだと観て取れる。ww

178 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/24(土) 22:10:23
>>172 愛知県民さん
>崇神は三輪山祭祀の創始者であって

 同意。孝昭は関係ない。

神名の「三輪」とは 半径r=3 円のことを示唆したもので、古代人
が未来へインチキ編年を駆逐させるために残しておいた示唆による神名
ですね。この円の球化の体積、表面積の数式を天津神算木(天津金木)と
いい、これこそ古代人からの真の編年を教示してくれる年代の測りの宝器
です。

天津神算木は

 4πr**3/3=113.0973355292・・・

その全十数の分断は

 3≠113.097335=113.0973350

で、かように1個右辺の末に0を付けるのが要点です。中辺、右辺から

 1/13 B,C.97年 崇神天皇 即位(通説、見かけの年代)     から

真の年代は整数位113を年と観たとき末数350での差

 350−113=237年=崇神天皇即位元年=景初元年

の真の年代が求まります。35 ←→350 で紀元0年はあっても、無とします。

179 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/07/24(土) 22:13:01
>>173
>三輪山祭祀の創始者は考昭天皇。

根拠不明だが、崇神(ミマキイリヒコ)と孝昭(ミマツヒコ)の名前の類似が根拠ですか?
蛇足だが「考昭」は「孝昭」なのでは?
三輪山の祭祀遺跡は考古学的には4世紀前半より遡れないという。

>>174
>いずれにせよ同一場所を時代を経ずに使用するからには、他人では無い。

天皇家は師木県主・穂積・物部氏と婚姻を重ねており、他人ではありません。

>>175
>それがしは、崇神天皇が巻向を建設したとは言っていませんが?

太国さん、失礼しました。私の勘違いです。

180 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/24(土) 23:42:43
孝昭です失礼しました。
大物主大神を祀るのは、有史8代に出てくる孝昭より
モモソ媛は三輪に仕えていたから崇神の瑞垣宮にほど近く、登場できた。
ヌナキイリ媛は遠く、死亡後、腐乱死体で発見される。

>天皇家は師木県主・穂積・物部氏と婚姻を重ねており、他人ではありません。
崇神の母親は庶母です、この事実は消せない。
妃や朝廷を支える縁戚の反発がある。これがハニヤスヒコの乱となる。
だから人の住まない巻向へ移った。


181 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/07/25(日) 06:37:12
>>180
白河本旧事紀ですか。書紀も古事記も間違い?
崇神については、母だけでなく后にも何かあるようです。
大彦の娘となっていますが、古事記によると崇神の同母妹も同じ名前。
埴安媛と武埴安彦は母子、狹穗彦と狹穗姫は兄妹で、御間城姫と御間城入彦の関係は?


182 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/25(日) 10:36:33
>>172
崇神が三輪山祭祀の創始者であることは疑いなく、これを孝昭に鞍替えするのは
インチキの源です。孝昭だというなら、ただ孝昭だでは誰も納得などするわけも
なく暖簾に腕押しのゴリ押しのみであり、言ってる当人のみの妄想の自己満足程度
にすぎません。だからそうだというなら、ちゃんと古文献の具体的出所を豊富
に示して主張しなければいけません。

三輪とは先述の通り半径r=3の円な訳ですが、この円が日像鏡の一種の象徴に
なるならば、崇神手前の代(236年以前)において景初鏡より古き年代の青龍鏡
なんぞ出てるんでしょうから、三輪の前身的微兆候が欠史八代でもう出てきたと
いうことは無理に否定は出来えません。ですが、創始者としては崇神天皇と観て
当然であり、イタズラに年代を先行させて孝昭だと古文献等の根拠も無しに言い
張っても、具体性を示さねば、何ら〜説得力も評価も0だということです。

183 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/25(日) 11:02:14
>>178
天津神算木(天津金木)たる半径r=3の三輪の円の球化の数式は

4πr**3/3=113.09733552923255658465・・・

 (**はベキ) 〈右辺は Windows 7 の関数電卓による〉

基本的には右辺は先頭十桁が崇神以降仁徳に至る実年代の主要計測使用数であり、
次の11桁〜二十桁までが主に欠史八代の実年代を消極的表現で示唆する数列だと
いうことである。
右辺の主要的分断の一は全十桁であり、

 113.0973355

であるが次の11桁目の2を入れて

 113.09733552

とすることは、欠史八代から崇神世へ跨がらせる意味合いがあり、先頭数と末桁数
とを縫合の接着を行うとき、リング状数列の逆読み式にて通説年代

 1/1 B.C.255年 大日本根子彦国牽尊(孝元天皇) 立太子

が現出する。球化での表面積にての天津神算木の分断でも、別方式でこれが得ら
れる。

184 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/07/25(日) 12:27:18
>>182
太国さん、>>181 にも書きましたが白河本旧事紀にあるようです。
ttp://www.geocities.jp/identaisi22000/yuusihatidai.html
ただ、この文献の信頼性は疑問です。唐松山さんは信頼を置いているらしい?


185 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/25(日) 15:03:12
愛知県民さん
成る程、分かりました。それがしの持ってる旧事紀の孝昭元年の記事には、この
ような詳細の文はないですね。先代旧事本紀大成経も同様に、元年の記事は少し
であり、双方とも池心宮遷の簡単な記載で終っています。また大倉精神文化研の
「神典」には旧事紀が無く、これは以外でした。それで、旧事紀は版本によって
記載が大分違うんでしょうか? ここんところは盲点でしたが、唐松山は(これ
に関しては見事→)知ってたんでしょうな?

しかし唐松山は先代旧事本紀大成経は読んでないようで、同書を入手していな
いようで、また入手しようとする意志もないようです。

それに旧事紀は冒頭の神が異様な神名であり、これは編者の権威付けを狙っ
たことからのどこからかの挿入臭く、これが旧事紀の信用性を落としている根源
なんでしょうか? だから三輪のことが孝昭に載っていても直ちにとびつくのは
失敗に直結しますから、記紀を信用したほうが無難です。唐松山は如何物食いで
珍奇な説、記載にはす〜ぐとびつく習癖があり、そういう方面を軽く信用して
しまう短所があり、これに貴方もそれがしもこれに乗じて食べてはいけません。

186 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/25(日) 15:58:37
>>183
天津神算木は

4πr**3/3=113.09733552923255658465・・・

ここで11桁から二十桁までの十数の数列は

 2923255658

である。これの末桁からの四つの数と次の四つの数は逆読みで
8565 5232 だが、これの天津御量は

 5232/8565=6.108581 4360770577933×10**-1

から

 1/08 B.C.581年 綏靖天皇 即位(通説の年代)

を得る。ここで

 8565−5232=3333

でミミミミ、両耳の数字をも得る。このへんに神沼河耳尊の御名の由来が
あるのか?

187 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/25(日) 16:31:54
>>186
天津神算木の全二十桁のうち、先頭十桁は主に崇神以降仁徳年代の測りで
あり、後ろの全十桁は消極的に主に神武以降の欠史八代の年代を示唆
する数列である。天津神算木はこの二十桁で二十祝詞事(太祝詞事)と
為し、当時の古代から〜未来で送られた真の年代を防御、教示する役割と
なる天下の宝器である。

それで天津神算木とはこの全二十桁で終わるのかというと、実はそうでは
ない。以後の21桁から30桁(30は ミワ=三輪 の示唆)の数列も古代史を
語る上で欠かすことの出来ないものだということである。ではこの三番目
の全十数の数列は何を意味するのか? これは神武以前の太古の年代を
教示する測りであり、悠久の太古の年代のあり方を知る上で欠かすことは
出来ない重要なものなのだ。
天津神算木の長久なものは、r=3のとき(球化の表面積)

4πr**2=113.09733552923255658465516179806

 以下の少数点下は不明でここでは不要(Windows 7 関数電卓に拠る)

天津神算木を本打ち切り末打ち断ちて(右辺全30桁)

2≠113.097335529232556584655161798

千座の置座に置きたらはして→左辺2を右辺整数位の千位に位置させる

 2113.097335529232556584655161798

天津菅曾を本刈り断ち末刈り切りて→右辺にあった先頭二十桁を分断して

 2・・・4655161798
                                〜続く

188 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/25(日) 16:41:29
>>187 続き
天津菅曾の分断時では

 2・・・4655161798

4数の前数は二十桁目の8であり、この場合は(8を付加)

 2・・・84655161798

上の数列から、八針に取り裂きて → 両8数を除去する

2・・・465516179

ここで分断個所を縫合(八針個所を縫う意)して

 2465516179

から、また両端は縫合接着し

 1792465歳

を得る。これが天孫降臨紀元の基本の年数字となる。

189 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/25(日) 17:47:22
旧事紀には、安寧天皇、懿徳天皇は兄弟となっている。

文献は全てが信頼できる訳では無い。
書紀やホツマでは、安寧、懿徳は親子の様にも見えるが、聖寿で見れば親子にはならない。
これは曲学さんも他家の世継ぎから、この辺に異常が在る事を感知している。

であるならば、旧事記であろうと文献であるから使う。
これは私の読み替えでは無い。


190 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/25(日) 17:47:23
>>188 続き 大祓祝詞から
天津祝詞の太祝詞事を宣れ。かく宣らば天津神 天の磐門を押し披き、
天の八重雲を厳(イツ)の千別きに千別きて聞こし召さむ

太祝詞事とは二十(フト)祝詞事であって、天津菅曾(天津金木の右辺)
の全二十桁の数列の強調語であり強調のため祝詞と二重に言い及んでいる。

右辺(天津菅曾)二十桁分断での天津神算木(天津金木)は

 2≠113.09733552923255658

天の磐門とは末尾58のことであり、天のイハ戸(岩戸=58戸)であって、
これから後の数列十桁(全30桁)までが岩戸内だということなのだ。それで
21桁以降30桁まで拡張、調べることを押し披きと言っているのである。
先述から八針に取り裂く直前の数列は

 2・・・84655161798

であるが、・・・以後、両端の8が年代を雲隠れさせる年代を不明にさせて
る類のものであり、天の八重雲という。その両8を無とすることが岩戸開き
であって、これにより真の年代への開扉が可能となるのだ。そこから

 2・・・465516179

が押し出され、接着縫合により天孫降臨紀元1792465歳を得る。

191 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/25(日) 18:01:16
>>190 続き
先述の両端の8が左右に重なっているわけで、これを天の八重雲という。
これが無となれば天の岩戸内であり

 2・・・465516179

2465の千年桁までは、千別きに千別きてで二回分言い及んでいるわけで、
つまり千年が二回分の2千年分だといういみである。細かくは2465歳で
あり、この数字の次の数は5であって、これがイツ(5)の千別きに千別きて
の5数であり、日本書紀の神武の条の

 1792465+5=1792470歳

を得る。神武紀では1792470余歳とあるが、5の次の数は16であって

 天孫降臨紀元1792470歳=B.C.16年

を知る。ここれ神武天皇九州出発は

 天孫降臨紀元1792479歳=B.C.7年

で、余歳を知ることが出来た。

192 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/25(日) 18:10:50
基本年は、天孫降臨紀元1792465歳であるが、神武天皇誕生は倍暦と通常暦
の逆算から

 神武天皇誕生年=B.C.51年=1792435歳

となり、右辺の数字列には0以外では、8、6が無い。

先述のB.C.7年と倍暦、通常暦計算から

 神武天皇即位=西暦元年=天孫降臨紀元1792486歳

を得る。これの右辺二桁が86になっている。

193 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/27(火) 11:31:31
>>189
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜。

194 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/27(火) 13:33:31
太国:日にちはなくてもいいんだよ。こちらは年代を確定させることが目標であり、別に無くて
太国:いくら書きこんでも、各文献がどこでどの部分だか説明が無いんでは、これはダメだ。

では崇神4,5,6年を1年間とする太国倍年では文献が何月辺りか説明出来るか?
説明お願いします。


195 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/27(火) 14:15:45
A太国:年代の日数干支の接続と年数接続の合理的説明が出来てなければ、
月日月日月日とえらそうに言える立場じゃぁ〜ありませんぜ。

QA太国倍年の接続を説明が無ければ成らない。どこから年度が替わるか?
説明おねがいします。


196 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/27(火) 14:17:21
説明願うのはコチラだよ。オマエ何だか曲学の徒さんの板でどこかの
馬の骨とも知れぬ文を持ち出して、さあ考えろでは〜説明お願いしますの
答弁にはならない。丸投げしか出来ないのが、オマエの編年のインチキを
クソの如くに臭わせている。今回のオマエの言い回しでは、偽書といわれ
ている書物を支持するとか能書きを垂れてるが、これでは自語相違の矛盾
ではないか。

197 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/27(火) 14:20:23
オマエが彼の板で丸投げして考えろとデカい態度でふんぞり返えってるん
なら、こちらもオマエが考えればいいことではないか。オマエがそう言って
るんだから、オマエが率先してこちらの丸投げを考えればいいことだ。ww

198 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/27(火) 18:27:22
私が考えて良いのか?
>年代の日数干支の接続と年数接続の合理的説明が出来てなければ、
月日月日月日とえらそうに言える立場じゃぁ〜ありませんぜ。

「年」とは春夏秋冬の四季と12ヶ月+閏月で表される。
書紀に於いても然り、太陰暦を否定して倍数で月日を数える方法は存在しない。

よって倍年の類は妄想である。
妄想の倍年に強いて年度を付けようとしても、もはや歴史の年度とはかけ離れた代物になる。
だから
太国:天津金木は、オマエが死んでも永続的に古代の真の年代を確実に守り抜く鉄壁の
年代計測器なり。 神州不滅!

倍年とは、妄想のかたまりである。

追信
曲学の徒さんの板でどこかの馬の骨とも知れぬ文を持ち出して、
さあ考えろでは〜説明お願いしますの答弁にはならない。

その曲学さんの「倍暦…」に「暦日」が何処にあるか掲載してある。
つまり太国は読みもせずに、非難している。
こちらの主張するための書き込みを無視して、説明がなっていないと非難されても、対処法が無い。

倍年を主張しても書紀は倍年では書かれていない。



199 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/27(火) 22:08:01
>>198
えらそうに丸投げなんかするんじゃねぇ〜。世界各地の暦法を調べても、
マシなんかやってる国 やってた国なんぞないからねぇ。倍年暦はかなり
存在してるからねぇ。現今のバリ島でも倍暦法の行使(ウク暦=バウコン暦)
が確認されている。一方マシなんぞやってる国 やってた国なんぞどこにも
見当たらな〜い。それはそうだ。そんなことをすれば王の怒りに触れて、
そいつの命は風前の灯だからな。ww
雄略天皇(↓これは何で記が紀の2倍なのん?ww)
 古事記   124歳
 日本書紀 62歳

>春夏秋冬の四季
1年が365日ならそれでいいだろう。1年でなくても四季は可能だぜ。
これを見ろ。ww

先代旧事本紀大成経(宮東斎臣編) 雄略天皇の条

 4年、秋8月辛卯朔、甲午(4日)、葛城山に射猟(かりしたま)う。
 時、長大人見れ而  (註、紀は春2月とす)  、輦車に乗来り、
 儀式天皇の如く、谷を隔てて相見えたり。

日本書紀 雄略天皇の条

 4年の春2月、天皇、葛城山に射猟したまひ、忽に長き人の来るを見、
 丹谷に望みたまひき。

そこの註の春と、半年違う秋とは同じ季節なのかね?wwwwwwwww
どうしたね〜、これでもまだ言い訳するかね? オマエの負けだぜぃ〜。pp

200 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/28(水) 21:03:04
暦の後付けの出来ない太国倍年後付け説。

  (註、紀は春2月とす)  
そこの註の春と、半年違う秋とは同じ季節なのかね?wwwwwwwww

狩猟の季節は秋から冬が自然の流れである。
春の湖沼にはカモも居ない、鹿は痩せている。
その狩りを行うのは、冬眠から覚めた熊狩りだろ。
まあ東北へ出張して狩りをしてくれ。

だから大成経は偽書と言われる。
でも季節も解らない太国倍年、その季節の違いもわからないほどモウロクしたのか?


201 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/28(水) 21:42:41
ホツマも偽書と言われてるぜ。bbbbb

オマエ〜

 秋8月が春2月なのか? 大成経は春を秋だと言ってるんだよ。これで
 紀の春夏秋冬の後付けがますます堅くなったわけさ。www

日本書紀の四季はこれでも分かるように、後付けだったのさ。マシは
インチキで、オマエの論自体が偽書だということだ。ppp

202 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/28(水) 22:44:51
>雄略天皇(↓これは何で記が紀の2倍なのん?ww)
 古事記   124歳
 日本書紀 62歳

あ〜れ知らなかったの?
これは2倍に見えるが、古事記と書紀の間に関連性は無い。
雄略124歳は、古事記が中国の干支に切り替えるため、に使った数字である。
その数字とは、朔で数えられる日付が合致する年を選んだ。

この書き込みを数字と共に掲載したことが在りますよ。


203 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/28(水) 22:47:24
そうなら掲載してみろ。しなけりゃぁ、抽象的文言のその場しのぎだ。
具体的に言うんだな。日本国中みんな見てるぜ。

204 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/28(水) 22:50:45
まあ日々の干支を「関係無い」と否定しても
暦の後付け太国倍年は、日本書紀の日々の干支を貼り付けて完成。ですから
これが出来なくては、太国倍年はただの妄想暦の一つです。
あっゴメン太国倍年は、暦では無かった。
謹んで訂正します。


205 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/28(水) 22:58:14
マシがインチキだということは、もうバレバレだな。www

【復活】日本書紀総合スレ【しました】
>932 唐松山 2010/05/27

 景行28年から景行40年を1年とする。
 否定するなら、この間に起こった事を説明して否定するのが本筋〜、

>935 太国 2010/05/27

 先代旧事本紀大成経
 (景行)36年8月

  物部大臣 胆咋宿禰の子、五十琴姫を后と為し五十功彦命を生り

みんな見てるぜ。ww マシがオマエの妄想だということよ。zzz・・・

206 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/28(水) 22:58:28
雄略天皇四年春二月。天皇射獵於葛城山。
雄略天皇五年春二月。天皇狡獵于葛城山。靈鳥忽來。其大如雀。尾長曳地。

この猟は、春に渡ってくる鳥を取りに行ったのなら納得できる。



207 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/28(水) 23:53:43
太国:崇神17年に始めて船舶が製造されたのだから、その考えは棄却すべきであり、

193年 新羅 6月倭人が飢餓の為千人以上渡来。

いいですか 千人の渡来は比定出来ても、凶作と逃散は比定出来ていない。
凶作による餓死と逃散が否定出来なければ、何の意味も無い。
考古学も2世紀末に衰退した村落を確認している。

凶作による餓死、それに続く逃散は、年を越す。
この事実を無視しても、支持は得られない。


208 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/29(木) 09:30:09
凶作は否定していなぜ。紀に明確に書いてあるんだから問題はない。

それが物理的に出来ない船舶の無い時代に、これが半島千人渡海の可能性
は0と観るのが正常な脳の持ち主だ。オマエはそれが出来るとして引っこ
めないでいるわけだから、この物理的に不可能なことを平然と強行暴走
してるんだから、オマエの脳内は合理的判断の出来ないカルト・ホツマに
しやられたカルト麻痺毒のひどい頭だということだ。これを聞いてもまだ
引っこめる様子がないんなら、重症末期症状だから早く精神病院で診て
もらうんだな。行くのが早けりゃ早いほどオマエの脳の為によいだろう。ww

209 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/29(木) 09:44:44
凶作は否定してはいない。当然だな。そのとおり紀にあるんじゃぁ、ネジ
曲げは許されない。しかし崇神6年の凶作が新羅193年のその渡海に結びつく
のかと考察すれば、前者の年代には船舶が無いんだから千人もの渡海は
ありえっこなく、後者は崇神6年ではなく、別の時代か畿内でない別の国の
農民のことだということになる。だから崇神6年の紀の記事は新羅193年
とは全然別だと考えるのが合理的正常脳の判断であ〜る。

つまり  崇神6年≠新羅193年  は動かない。

紀に崇神17年に初めて船舶を造ったという紀の記事を2ちゃんのスレ民が
見れば、オマエの崇神6年が新羅193年だとか強行して言い張っても、彼ら
スレ民は誰も信じちゃぁくれないんだよ。早くマシの存在の成立しない
事とこれが間違いだとオマエの脳が目覚めれば、オマエのその脳は正常
に作動し始めたことなる。

だが、2〜3人とか3〜4人位迄ならば日本海の荒波の厳しさを乗り越えて、
脱北のように渡海できることは肯定できるが、これは命がけだぞ。千人
がメシも喰えずに渡海なんか船舶がない年代では不可能で、オマエの主張
は確実に退けられる。

210 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/29(木) 09:59:22
>>204
>これが出来なくては

これはオマエも出来たように見せかけてるだけで、例の編年表での日数計算
数字を載せてさ〜もやってるかのようなカモフラージュの出まかせであり、
こういう〜
抽象的数字の羅列だが、中身を開ければその具体的日数と干支が日々日々
いかように具体的に結びつくのかということになると、wwwハハッ、全然
説明したことがなく、その実出来ないんだなということが軽く見破れる。

つまりオマエこそ具体的に日々の干支を貼り付けることが出来てるように
みせかけたカマトトの王者であり、日々の干支など具体的にはえらそうに
他人を出来ないといいながら〜オマエこそそれが出来ない張本人だったと
いうことの狐の化かしのインチキのシッポがミエミエの見えっぱなしで
あ〜る。

211 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/29(木) 10:04:48
>>202
>掲載したことがあります
掲載したことがないのに大ウソを言うくらい追い詰められているなぁと
いうことが、こちらに触感として伝わってくるぜ。ppp wwwwwww

掲載したという大ウソは、もう引っこめたほうがオマエの為だろうだぜ。

212 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/29(木) 10:29:46
>別の国の農民のことだということになる。

渡海は畿内の民とは特定されていない、だから何処の民でも良い。
しかし餓死と逃散は畿内でも起こる。その記録が新羅にある、書紀にもある。
この時代に他にこの様な記事は他に無い、最大級の凶作であり多量の使者も出る。その6年ほど後に
鉄も不足する中で箸中山古墳は造れない。鉄器の充足するのは垂仁以降である。
さらに箸墓には埴輪が存在する、この埴輪を後付けとしても、この埴輪も250年頃を肯定している。
つまり箸墓の土盛りは、埴輪から250年±10年と見積もられる。
凶作から50年の歳月が流れる。

>具体的日数と干支が日々日々いかように具体的に結びつくのかということになると、

そんな思考だから太国倍年などという、愚にも付かない編年が出来上がるんだ。
朔とは、新月である、そして倭国の穂積は8月である。
この2点が合致するのは、新年が今の2月であり、立春の頃と決まる。


213 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/29(木) 11:13:46
太国倍年に暦の後付けは出来ない。

太国:超精密な朔計算で出来る。

こういう思考だからダメなんだ。
当時の暦法は平朔なんだ、平朔とは、朔の平均値である。
超精密な平均値と容認出来る範囲の平均値は日々の干支では誤差が確認出来ない。
書紀の朔はその誤差が確認出来る。
そしてこの誤差は、計算値から外れる。だからまだ誰も「後付け」を証明できていない。
計算値から外れる以上、後付けは支持されない。

だから何故計算値から外れるかを考えた時、現実の暦と空白の暦の差し込みの2重暦という思考が生まれる。
それを推定したのが、私の書き込んだ編年なんですよ。
「そんな暦法は存在しない」より「存在出来うる暦日」を優先する。


214 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/29(木) 15:54:31
>何処の民でもよい
2ちゃんの皆さん、奴はデンパ星人民でもいいそうだ。bbbbb

>愚にも付かない編年
そんなことだから、船が無いのに千人も航行出来るような愚論がどこからか出て
くるわけだぃ。ww

>空白の暦の差し込みの二重暦
二重暦は、これだけはオマエと論が合い、確かにそれは存在してただろうし、古代
マヤの暦法なんか二重以上の多重暦法であり、この点においては外国にも事例が
あり、ここまでは大いにうなずけるが、空白の差し込みが日数でない年代では
あるわけがない。ただし紀元0年は別だ。それ以外は日数の空白とは違い、不正
注入の空白年なんぞある訳がなく、これをすれば日と違い大きく年代が狂うから
こんな不正はやるわけがない。その文証は既出のとおり、以下がそれだ。

>景行28年から景行40年を1年とする。否定するなら、この間に起こった事を
 説明してい否定するのが本筋

この間に起こった事 ↓ は、ほらオマエの言う本筋で否定してるぜpupupu・・・

先代旧事本紀大成経 景行の条

(景行)36年8月 物部大臣 胆咋宿禰の子、五十琴姫を后と為し五十功彦命を生り

つまりマシはやってなかったんだよ。早く目を覚ましな! オマエの妄想だよ。

215 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/29(木) 20:36:31
>、船が無いのに千人も航行出来るような愚論がどこからか出てくるわけだぃ。

これは新羅本紀の記述である。
文句があるなら、新羅本紀にしてくれ。

>この間に起こった事を 説明してい否定するのが本筋

大成経の事は全く知らない、知らないものは、説明することも否定することも出来ない。

もしその記事が真実なら、それを使って歴史を語れば良い。
それは大成経を使う人がする事で、知らない他人を非難しても何も変わらない。

景行28年から40年の時空は、古事記に未経幾時と書かれているから
古事記を支持し、時が経っていないと私は理解する。
もしこの思考が間違っていても、太国倍年に影響することは無い。

だから太国は、(景行)36年8月 物部大臣 胆咋宿禰の子、五十琴姫を后と為し五十功彦命を生り
の記事を使って歴史を語れば良いのではないか。
何?歴史が語れない? それは太国自身の責任である。


216 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/30(金) 19:59:40
それから
>(景行)36年8月 物部大臣 胆咋宿禰の子、五十琴姫を后と為し五十功彦命を生り
この記事が本物なら、景行時代の主要人物の誕生日は当然書かれていますよね?

日本武尊の誕生は何年何月ですか?
武内宿禰の誕生は?
成務の誕生は?

もしこれらの人物の誕生日が書かれていなければ、その他80人の中の五十功彦命の記事は
何の為と思われますか?


217 :日本@名無史さん:2010/08/01(日) 09:09:14
精神科医は2chのトンデモ古代史をに読めと
先輩がいってた意味がわかたような気がする。

218 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/01(日) 11:15:09
あのお方も医者の世話になる資格がある。

250年代壹與の時代には倭国乱は平定され、
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

大倭(大和)は伊都に一大率(軍)を置き、九州諸国ににらみをきかす。
この時全国に配置された屯倉に古墳が作られる。



219 :日本@名無史さん:2010/08/01(日) 11:18:49

イヨタン・・・・・・・・・・
 

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