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『♪邪馬台国 ドンと来い♪ 69』

1 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 12:28:34
 九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
 出来るだけソースを出して後はお好きに!
 *良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。

前スレ

『♪邪馬台国 ドンと来い♪ 68』
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1270162409/

363 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 10:37:31
>>362
>畿内王権が九州を支配してたんだよ。
>九州全土じゃないかもしれんが、少なくとも大陸からの文物の通り道は。

仲哀が九州で暗殺されて以降、九州勢力は畿内を緩く支配したのだ。
即ち畿内における九州の勢力による傀儡政権の成立。
この時期は反正允恭の頃まで続いた。
この時期に九州の文物文化が畿内に流れ、平和な畿内で独自に発展した。


364 :図解:2010/04/28(水) 11:01:38
〜 〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/
〜 〜 〜 {ヽ_ /  {_/
〜 〜 _ヘ/      ★末盧国
,/ヘ/~

            _ |ヽ★伊都国
          /ヽ/ |/ |         伊吹山
         |      ヽ ★奴国  
          ヽ      ヽ-ヘ   ★不弥国
          |   水路↓ /      
        ┌−       ノ   
       /        /   
      丿 水路  / ̄
     |_    → / ̄ 
     /  _/ヘ/★投馬国
     | |      \
    /  >    野 \ 
   /  /       洲  \
   \ |         川 
     ∨            ☆呼邑国
               
               
                 ☆為吾国
               
               
              ☆巴利国
       ☆烏奴国
   ★邪馬台国

365 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/28(水) 11:08:39
>平和な畿内で独自に発展した。

古墳の副葬品は、武器類が大半を占める。
しかもこれらの品は畿内が九州にまさる。

北九州で王墓が作られなくなって、間を置いて畿内で古墳が造られる様に成る。
この王墓の作られない時代は、歴年主無しの時代である。
桓、霊間には収まらない。


366 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 11:52:59
>>365
>古墳の副葬品は、武器類が大半を占める。
>しかもこれらの品は畿内が九州にまさる。

古墳の副葬武器類は装飾品であって実用品ではない。
平和で暇で金はあるものだから次々と製作できたのだ。
半島との戦乱に明け暮れる九州では経済的に不可能。

>この王墓の作られない時代は、歴年主無しの時代である。
九州内の戦乱に明け暮れする状況の中、古墳も作れるはずがない。
畿内やその隣接西部地域では、九州と直接関係のない勢力
(畿内崇神王朝・阿波・播磨・吉備等)が独自に古墳を築造発展させていたのだ。

367 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 14:09:32
まだ、やってんのかよ。

伊都国の位置すら比定できない九州説の連中さんたちよ。

368 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 14:22:08
>>363
>仲哀が九州で暗殺されて以降、九州勢力は畿内を緩く支配したのだ。
>即ち畿内における九州の勢力による傀儡政権の成立。
>この時期は反正允恭の頃まで続いた。

じゃあその時期の九州王朝さんの王墓はどれよ?w

前方後円墳はあるよな、福岡にも佐賀にも熊本にも。
でも大きくても100メートル台。200メートル級は無い。

で一方で畿内の傀儡政権とやらに大仙、誉田山、石津ヶ丘みたいな300〜400メートル級の超巨大古墳の造営を許していいんかよ?ww

369 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 15:28:48
♪探し物はなんですか
 見つかりにくい物ですか
 福岡平野も筑紫平野も探したのに見つからないのに
 まだまだ探す気ですか
 それより僕と踊りませんか
 夢の中へ夢の中へ逝ってみたいと思いませんか
 Uhuhu〜 

370 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 15:51:42
七支刀、鋳造じゃないかっていう記事が
yahooに上がっていた。

確かに鍛造じゃ相当面倒だろう
ただし鋳造なら相当高温の湯を作る
技術が必要になる、

また、材質もはがねにするのはは難しい。

371 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 16:30:22
>>367
>伊都国の位置すら比定できない九州説の連中さんたちよ。

伊都國は佐賀平野西北部で、その城郭は惣座である。
怡土の遺跡は倭奴國系統勢力のものである。


>>368
>じゃあその時期の九州王朝さんの王墓はどれよ?w

その時期は倭王旨から倭五王の時代である。
現在推定可能な王墓は倭王武の江田船山古墳である。
他の王については情報不足につき推定できない。
それらの王墓は菊池川流域及び八女にあるものと思われる。
対半島戦争に明け暮れる彼等には巨大古墳を築く経済力はない。

畿内の政権は九州の一部勢力が畿内で成立したものである為、
彼等は彼等なりに古墳を築造したに過ぎない。
古墳の築造に敢えて九州の許可を必要とするような関係ではない。
彼等の政権は九州と緩い連合を構成する程度のものである。

彼等の古墳の特徴は横穴式石室である。
竪穴式石室を持つ古墳とはルーツが異なる。

372 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 16:34:42
九州説なんてお笑い説をいつまで言い続けるのかが焦点だよな
本気で言ってるなら病気


373 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 16:40:57
>彼等の古墳の特徴は横穴式石室である。
そのとおりだろうな。魏と通交していた邪馬台国では薄葬主義を知ってあまり
大きな古墳には興味を示さなかったんだろう。
畿内の連中はそんなことは関係ない、だからでかい古墳を造ってたんだな。


374 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 16:42:20

殆どの畿内厨は無知蒙昧

375 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 17:01:17
>>368
古墳が大きいから大きな権力をもっていたと考えるのがまちがいなんだよ。
だいたい、考えてもみろ。初期古墳をみれば、大和には大きな古墳があるが次の
大国投馬国はどこなんだ? 分からんだろ。権力の大きさに比例して大きな墓を
造ったんならば、2番目に大きな墓が続出するところが投馬国のはずだ。しかし、
それに見合う場所はない。ということは、墓の大きさは国の大きさには比例して
いないってことよ。
墓は九州勢力が東征して軍隊を駐留させていたところで暇つぶしに造ったんだろう。
そう考えれば、交通路の要所に大きな墓がある理由が納得できるはずだ。

376 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 17:13:05
>>375
大国投馬国?
人口が多いから大きな権力をもっていたと考えるのがまちがいなんだよ。

投馬国は大規模農園だよ
農民が米作りに専念できるパラダイスだったんだよ

377 :水銀厨:2010/04/28(水) 17:18:28
初期古墳の数でみるなら投馬国は九州中南部でしょう。
で、邪馬台国(女王国連合)は瀬戸内沿岸諸国連合でOK。

378 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 17:35:36
倭の五王の墳墓の大きさの参考になるのは、ほぼ同時期で、「寧東大将軍百済斯麻王」の称号を
認められていた、百済の武寧王陵の大きさが参考となる。これは直径20メートルほどの円墳だ。

379 :水銀厨:2010/04/28(水) 17:42:36
つまり倭の方が力が強大だったという事でしょう。

380 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 17:56:20
一里300歩、あるいは360歩

一里60mから80mなら、20m位なもんだな


381 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 17:58:38
>>370
かなり昔に鍛造と言う説があったが、最近は鋳造説が定説で
特段目新しいニュースとは思わなかったのだが・・・

382 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 18:27:29
中国南朝(劉宋、梁、斉、陳など)の墳墓を見学したことがあるけど、
大将軍号を持つ(皇族級)人物の墳墓は、直径20メートル程度の円墳だった。

383 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 18:28:46
>>376
冗談禁止!

384 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 18:36:47
これのことかな。

>4世紀に朝鮮半島の百済王が日本の王のために造ったことが金の文字で記された、石上(いそのかみ)神宮
(奈良県天理市)の「国宝・七支刀」について、製作技法がこれまで定説とされた鍛冶による「鍛造」ではなく、鉄を
鋳型に流し込んで作る「鋳造」との新説を、古代刀剣復元の第一人者で刀匠、河内國平さん(68)が復元をもとに
打ち出した。歴史学者による鍛造説を覆すもので、刀を知り尽くした「匠(たくみ)の目」が古代技術の神髄に迫る成
果となった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100428-00000544-san-soci

385 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 18:57:20
>>372
>九州説なんてお笑い説をいつまで言い続けるのかが焦点だよな

誤変換しているみたいだな。正しくは…

 九州説なんてお笑い説をいつまで言い続けるのかが 笑点 だよな

「おーい山田君、九州王朝説大好きの座布団全部とっちゃいなさい!」


ちなみにこの演芸番組、初代司会者の古田師匠がそろそろ(以下略

386 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 19:50:22
東南陸行五百里、この解釈を根本的に間違えてないか?
東南へ陸を五百里行った、とするのは文法的におかしい。
そういう意味にするなら、東南行陸五百里になるはず。
東南は陸にかかってる訳で、東南陸を五百里行ったとするのが正しい解釈。
東南陸とはどういう意味か、それは船で沿岸航するにあたって東南方向に陸地がある状態。
                /
              /
       水    /   
           /   陸
          /
こんな地形を行ったってこと。

387 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 20:35:38
で、結局どこが邪馬台国になるわけ?

388 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 20:38:24
さあ

389 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 20:48:13
南水行(not南行水)20日して、南水行(not南行水)10日して、陸行一月して行き着く先

390 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 20:57:14
伊都国からは1500里(倭国の単位で)

391 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 21:00:46
>>375
瀬戸内ルートなら吉備
日本海ルートなら出雲
何れも九州以東で巻き起こった大型首長墓による祭祀の双璧だな

もういい加減「九州王朝説」なんて与太はやめろアホども。

中身が与太で第一邪馬台国にどう繋がるのかも全然出て来ない。

巣に戻ってお仲までよろしくやっていろ、ゴミはゴミ箱に
『※ 九州王朝はなかったのか? ※ 16』
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1254667104/l50


392 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 21:08:47
>>364
日本海周り説ですね。
瀬戸内海には吉備という大きな国があったので、畿内勢力が吉備と友好関係になければ、瀬戸内海周りは不可能だった。
そう考えると畿内の長髄彦(登美彦)の勢力は日本海周りで魏と交渉する以外にありませんでした。
そのルートにある琵琶湖交通の要衝伊勢遺跡が栄えました。

393 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 21:22:38
>>391
>もういい加減「九州王朝説」なんて与太はやめろアホども。

九州王朝説を否定するのは構わないが、言葉が汚いね。それに、「・・・何れも九州以東で巻き起こった大型首長墓
による祭祀の双璧だな 」って尻切れ蜻蛉で何が言いたいのかわからない。

394 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 21:38:09
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/doutaku.htm
によると、銅鐸文化の瀬戸内海沿岸の東の端は福山あたりらしい。
福山のあたりには古くはアナ(安那郡)という地名があった。
魏志倭人伝には烏奴(アナ)国の次に奴国があってここが女王国の境界らしい。
これらはただの偶然の一致なのだろうか?


395 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 21:59:42
結局、九州邪馬台国と九州の倭の五王とが
王権として血統として連続するのかしないのか?
なんて話は全く出て来ない。

脳内の与太話は良いから、文献史料なり考古資料なりできちんと説明してもらいたいものだ。

そもそも4世紀5世紀の九州王朝は薄葬文化だったので
畿内みたいに巨大古墳を作らなかったと馬鹿丸出しの言い訳をしても
畿内のものに比べて巨大とまではいえなくとも
弥生時代の墳丘墓に比較すれば十分大きな前方後円墳を造っておいて
何を言ってるんだって話で。

九州邪馬台国が魏にならって薄葬文化だったと言うのなら径百歩の卑弥呼の墓や百人の殉葬はなんだって話で

薄葬の文化を後の九州王朝が引き継いだのであれば
九州の前方後円墳が現れた地域はその版図から除外しろって話し。

何処もかしこもご都合主義の出たとこ勝負。

詳細が分からず諸説出ているいわば”ニッチ”につけ込んでのみ存在しえて
自律的に説を組み立てるのが難しいと言うのは「トンデモ」の基本なんだろうがw


396 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 22:11:54
九州王朝というのは、真面目に高校教師をやるのにうんざりした古田氏の壮大なおとぎ話
なんだよ。まともな歴史学から見たら「曲水の宴」とか考えられないたわごと。

397 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 22:45:57
君も転向したらどうだ?ラクになれるぞ。

398 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 23:03:16
なぜ今九州説なのか??
今だからこそ九州説なのだ!
今がチャンスだ、九州説!

スローガンだけは浮かんで来ます。

399 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 23:07:42
>>374
宗教ですよ、アレは。
完璧に逝っているでしょう?

400 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 23:18:22
>>395
径百歩の卑弥呼の墓は直径23mの小さな墳丘だ。

「曲水の宴」の跡は3ヶ所で見つかっている。
久留米筑後国庁傍:九州王朝の都
多賀城政庁跡:日高見王朝の都
奈良平城宮跡:大和王朝の都


401 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 23:31:07
>>400 
墳丘を築く事自体、薄葬の思想から外れる。
まして百人の殉葬なんて論外。

そして4世紀5世紀に向かって九州でも前方後円墳は作られている。

九州王朝説じゃあ「薄葬」と「厚葬」の境界線は何処だ?

そんな与太の各論よりそもそも4世紀5世紀の九州王朝説が
3世紀の邪馬台国論争にどのような形で資するのか?
きちんと説明してくれ。

何処のスレでもお構いなしに九州王朝説をぶちまけりゃ満足の
基地外集団なのか?



402 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 23:37:04
作庭術による曲溝かもしれないものを「曲水の宴」と決め付けるのは詐術的。また、「曲水の宴」が王統でなくて
は実施できないとする律令もないだろう。後代には藤原氏が私人として行ってる。

403 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 23:48:22
卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人

大部分の畿内説論者も九州説論者もその他の論者も上記倭人伝の記事は嘘だとは思っていないようだ。
しかし、上記記事の解釈はいろいろと分かれており、いずれが正しいか結論がでていない。
卑彌呼以死からして難解である。以を已と同義とすれば「張政が来倭したとき(あるいは邪馬台国に到着
したとき)には既に死んでいた」という解釈となるが、以を理由や原因を表すものとすればこの記事の直
前に書かれた事が原因で卑彌呼が死んだとなる。何れを採るかでストーリーは一変する。

また、大作冢の大は「大いに」であろうが、徑は墓の直径と見る者が多いようだが異論もある。例えば
徑は「小さな道」で、この小径の両側に墓列があり、その小径の長さが百歩あまりであるとする解釈が
ある。吉野ヶ里の甕棺墓列がそういう形になっているという。はたしてどうであろうか。

404 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:01:23
>>401
邪馬台国と九州王朝の関係は、邪馬台国とヤマト王権の関係と同類。
したがって、このスレでヤマト王権の話題を扱う以上、九州王朝の話題を扱うのもスレ違いとは言えんだろ。

参考までに「九州王朝」という名前の王朝は存在しない。
いわゆる九州王朝説とは「倭国在九州」説の一つに過ぎないんだよ。

405 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:04:34
>>403
果たしてこの板で少数派であるか多数派であるかは知らないが
俺は否定的であると言わせてもらう
(理由等は>>346

それに
>以を理由や原因を表すものとすれば
については昔その前段部分に死の原因等の記述があったとか推測された時期もあったが
三国志中の他の記述等も参考にして特段そのような深読みをしなくて良いと言うのが大方の見解ではなかったのか?

406 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:08:28
邪馬台国が畿内にあってこれが大和王朝になったとは文献資料上からも考古学的資料上からも言えない
でしょう。誰か言える人が居ますか?

407 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:19:24
>>404
その理屈ならヤマト王権なんて今日まで続いており
それに対比される存在としての九州王朝説はどの時代までも語ってもOK。

まあ現実的には最大8世紀ごろまではよりどりみどり。
下らない。

かくして邪馬台国スレは九州王朝説の狂信者ども御用達の「古代史一般スレ」となる。

そもそも「ヤマト王権」の話にしても邪馬台国のその後と言う前ふり無しに
いきなりポンと5世紀ぐらいの話がでてくればスレ違い。



408 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:23:18
本邦での殉葬については、考古学的に否定的な見解が多いのは確か。中国でも秦代あたりまでには殺人殉葬や
生贄の風習は廃れている。とすれば、書紀の垂仁紀の記述はどのような意図で挿入されているのかは大きな疑問。
単に土師氏の起源譚とも思えないのは、ずっと後代の孝徳紀・大化二年の段にこのような記述があるから。

>凡そ人死亡(し)ぬる時に、若しは経(わな)きて自ら殉(したが)ひ、或いは人を絞(くび)りて殉はしめ、及、強(あな
  が)ちに亡人(しにたるひと)の馬を殉はしめ、或いは亡人の為に宝を墓に蔵め、或いは亡人の為に髪を断り股を刺
してしのびごとす。此の如き旧俗、一に皆悉くに断めよ.。

これは大化の薄葬令だが、この部分は中国の薄令には見られない部分。


409 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:28:38
>>401
ジュン葬のジュンは、[犬旬]or[恂]or「殉」? その意味は?

>>402
平城宮跡のそれも曲溝か?

>>401
邪馬台国の場所決めの補強に九州王朝説が必要
隋書の邪靡堆はどこ?
隋書の俀國はどこ?

それに、4世紀5世紀の九州王朝の都が7世紀初頭まで引き継がれるから。


410 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:33:36
>>408
考古学的にって言っても、要するにそれらしき人骨が出ていないということだから、
あんまりアテにならないと思うが。

棺の中に入れていても、人骨が出てくるとは限らないから、単純に土に埋めた
だけなら出てこないほうが普通だろうし。

411 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:49:18
>>408
まあ「馬を殉はしめ」については「犠牲馬」の跡として確認できるが…

そりゃ人骨より馬の骨が残りは良いかもしれんが
殉葬の明確な痕跡が見られないと言うのも不思議な話し。

412 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:54:07
>>410
そういう見解も多いのだが、まあ総合的に見ても、槨の内部構造や古墳全体の構造を考えても大量の殉葬者を想定
して作られているとは思えないんだな。ま、周濠の底などならわからない可能性は高いだろう。ただ、あるとすれば人
の殉葬よりは一般的ではないとも考えられる後代の馬の殉葬が数十例見つかってることを考えても、なさすぎなんだ
よな。

413 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 01:24:45
そもそも魏使が邪馬台国までに至る行程や
その道中に見聞きした風俗までも克明に記した報告書があった

…という如き前提自体が疑問。

もっともその前提が無ければ暗号解読ゴッコも成り立たないのだろうが

で倭人伝の殉葬の記事において益々疑惑は深まるとw

そう言えば松本清張はこの板の九州説のアホの一つ覚え
吉野ヶ里に見られるという例の「宮室・楼観・城柵」についても
陳寿の机上の創作としてたんだっけ?

案外それもありうるとも思うw

414 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 01:33:26
>>390
> 伊都国からは1500里(倭国の単位で)

倭国の単位ってなんだろうね?
で、なぜ中国の史書に倭国の単位が出てくるのかね?

結局この「倭国の単位」なんてものをデッチ上げなければならないのか? 九州説・・・。

415 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 01:33:29
しかし、持衰の記述なんかは創作では書けないだろう。

書かれていることは、一応、真実として読まないと、都合の悪いことは創作、
なんてことにならないとも限らない。

まあ、牛や馬に関しては、弥生時代に遺跡から骨が出てきているので、
たまたま見なかったということになるのだろうが。

416 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 01:35:43
>>409
徇と殉の違いはちゃんと認識しとかなきゃね


417 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 01:37:20
はっきり言えるのは、全文引用されている魏帝詔書は陳寿が倭人伝を書いた晋代になっても参照することが
できたということ。それに比して行程記事などはごった煮的といわれてもしかたのない感じがする。・・・それこそ
晋代の倭国情報を網羅的に取り入れて、かえってわからなくしているような。

418 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 01:43:23
持衰の記事にしても創作ではないと思うが、晋書武帝紀に「武帝泰初二年(266)十月、倭女王遣重訳貢献・・・」とあり、
このときの聞き取りかもしれない。倭国の地理観にしても、陳寿が倭人伝を書いた280年代頃の楽浪郡での認識かも
しれない。「魏使の報告書」の存在は確定的なものではない。

419 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 01:53:20
>>403
その区切りで正しいとすれば、
主語は卑弥呼、卑弥呼が作り、徇い、葬った。
以=because of
者=代名詞、大にかかっている。


420 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 02:07:54
倭人伝を読んでて疑問に思うのは、正始元年の梯儁等の倭国入りから壱与の張政を送りがてらの朝貢まで
は時系列に沿って書かれている歴史的記述だけど、それ以外の部分の時系列がよくわからないということ。

例えば「女王国より以北には特に一大率を置き〜常に伊都国に治す」・・・これって何年頃の話だろうかという
疑問。卑弥呼が女王となった2世紀末の話ではないという気がする。公孫氏滅亡以後のことじゃないのだろう
か。

421 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 07:05:13
卑弥呼が2世紀末に女王になったなんて書かれてないぜ。

422 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 08:57:19
『卑彌呼以死大作冢徑百餘歩jun[扁犬旁旬]葬者奴婢百餘人』魏志倭人伝

『 ジュン 葬 』

原文:犬旬 葬

正しいのはどれ?
候補
@ 徇 葬
A 殉 葬
B 絢 葬
C 恂 葬
D 洵 葬
E 詢 葬

423 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 09:59:34
>>422
>原文:犬旬 葬

どこの原文?

424 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 10:14:22
紹煕刊本では 徇 葬 だな。

425 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 10:14:23
徇葬を辞め埴輪で代替することを提案した野見宿禰は偉い人ですね

426 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 10:16:52
>>420
魏志だからな。基本的に魏時代のこととして読めばいいんだよ。

427 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 11:03:03
「葬られた王朝」梅原猛著(新潮社刊)
やはり邪馬台国は出雲だろおっしゃっています。

428 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 11:26:11
あほか

429 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 11:33:39
ここ一ヶ月くらい見てると、
邪馬台国関連スレの凋落が著しいな。

やはり、邪馬台国論争が畿内で終結して、
九州説東遷説が死亡し、九州王朝説が細々とネタを提供してるくらいか。
そのネタも低レベルすぎていちいち反論する気にもならんがな。

あとの課題は、邪馬台国に至るルートか。
これは、吉備と出雲がどちらが優位に畿内と関係してたかということになるが、
吉備と見るしかないだろうな。
では、吉備が投馬国かというと、たぶん違う。
邪馬台国までのルートに投馬国があるとは思えない。
投馬国が別ルートを記してるなら、投馬国は出雲ということになる。


430 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 11:33:48
成る程、つまり奈良県桜井の出雲だな。

431 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 11:40:47
または、投馬国を吉備とするなら、
邪馬台国までのルートは日本海沿いになる。

現代人の土地勘なら、吉備まで行ったら大和はすぐだが、
古代人の土地勘まら、日本海ルートで、丹後に上陸して大和に南下するのもアリなのかもしれない。
これなら、陸行1月の説明がつきやすい。

そもそも瀬戸内海は戦乱中だったとすれば、安全に使者が大和に行くためには、日本海ルートのほうが推奨されたのかもしれない。



432 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 11:44:56
出雲と吉備、吉備と畿内の関係をみると日本海ルートは無理なような気がする

433 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 11:53:31
丹波と山城、大和北部は関係深いと思うが。

434 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 12:00:44
やはり陸路1カ月というところが味噌で、九州なら陸路を1カ月も歩く必要がない。
難波津で上陸して奈良盆地に入るにも数日しかかからない。
やはり、敦賀で上陸して東山道を津軽まで行ったとしか考えられませんね。

435 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 12:04:16
津軽までなら普通に海岸沿いに水路で行くよw

436 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 12:06:08
水行十日陸行1月→丹後で上陸して、奈良まで歩く=邪馬台国

水行二十日→東北・秋田=投馬国

秋田は遺伝子的にも、大陸と交流があったろう。ヒスイの産地だし。


437 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 12:11:05
>>429
>ここ一ヶ月くらい見てると、 邪馬台国関連スレの凋落が著しいな。

同感だが、君の主張も幼稚だな。「邪馬台国までのルートに投馬国があるとは思えない。」だと?
誰も君のご託宣を伺い奉ってはおらんのだ。思えない理由を述べよ。理路整然とな。

438 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 12:14:52
東北はないな、倭人伝は3世紀末に書かれた
「倭人」に関する文献資料だから。
やはり西日本を中心とした事を書いているはず。

439 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 12:23:02
>>435やはり太平洋側と見るべきでしょうね。
朝鮮通信使一行は16日で大阪から品川についているけれど、
道路が整備されているわけでもないし、川が氾濫して渡れないなどの影響があると、
敦賀から東山道沿いに1カ月のきょりとなると、
稲荷山鉄剣で有名な獲加多支鹵大王の住む斯鬼宮が有力なのではないでしょうか?

卑弥呼こそ、関東の大王だった!これでどうでしょう?

440 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 12:44:33
古田氏も関東に大王ありと書いておきながら、どうして邪馬台国は関東にあったことまで言及しなかったのでしょうか?
やはり、邪馬台国は九州だったという誤った先入観をもっていたからではないでしょうか?

441 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 13:01:49
>>439
想像や推定の部分が多すぎて無理ですね。
関東まで行かなくてもそれまでに候補地が
有りすぎますから。

442 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 13:03:23
古田とか安本は商売で九州説を採ってるだけだからなあ。

九州説の本書く→売れる→儲かるからもっと九州説の本書く

関東に邪馬台国があったって、誰も関心もたないよ。

443 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 13:21:10
関東から邪馬台国の都や金印、卑弥呼の墓が発見されたら面白いだろうな。予想される反応としては、

九州説・・・憮然とした表情で大きく一つ屁をひってから、無言で酒を2升ほど飲み、女房を殴って寝る。その後の報道は一切無視。

畿内説・・・顔面蒼白になり指先や膝頭がぶるぶる震える。畿内説の本を読み返すが嘔吐が激しくなって夜半に入院する。

444 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 13:29:18
関東から邪馬台国‥

そうだな、きっと東京湾の下に眠ってるよw

445 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 13:36:23
関東の遺跡ってどこにあるんだ?
ほとんど、市街地なんだが。


446 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 13:41:55
群馬県の山中より、3世紀の大規模集落が発掘され、中心部に径100余歩の円墳。その中から高齢の女性人骨、金印
魏帝証書の木簡、魏帝の璽を捺した封泥。さらには 「張政」の署名がある墓誌が出土。

古田某・・・そうか・・・(長い沈黙)これで私の関東王朝論が証明されたわけだな。卑弥呼はおそらく関東の大王「ワカタケル」
       につながる系譜だろうな。がははは。

安本某・・・認められません!!遺物は移動するものですッ。何より数理的に文献に合わないでしょッ!!私が人生を賭けて
       説いたように邪馬台国は甘木なんですッッ。ききー。

白石某・・・やっぱりね。実は私もそう思っていたんですよ。この古墳の形態はペラペラペラペラ〜〜〜(饒舌)。

447 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 13:56:14
>>445
関東って田畑だらけだろ。外に出ろよ。

448 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 14:03:55
古代の関東といえば、栃木・群馬のことなんだが・・・

449 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 14:04:56
東京は海だったの?

450 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 14:05:18
×魏帝証書→○魏帝詔書

この関東邪馬台国(「張政」よる墓誌には、ここが邪馬台国の王都であり、その塚が卑弥呼の墓であることがはっきりと記されていた)の
発掘から1ヶ月間で、

自殺者・・・畿内説論者28名、九州説論者3名。  離職者・・・畿内説論者422名、九州説論者8名。

犯罪加害者・・・畿内説1名 、九州説46名(その大半がドメスティック・バイオレンスによる)

となった。

451 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 14:21:59
GWだなぁ‥

452 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 14:30:56
さらに祭祀場跡と考えられる広場からは、全長8mの巨大な木製仮面が出土した。その鼻はきわめて長く(6m程度)、後代
の天狗面との共通した特徴が見うけられる。発掘主体と鳴った群馬大学によれば、卑弥呼の鬼道とつながる遺物と推測さ
れている。



453 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 14:59:26

『卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人』魏志倭人伝

紹興刊本も紹煕刊本も『徇葬』であって『殉葬』ではない。
誰かが手前勝手に『徇』を『殉』に書き換えているようだ。
自説保守の為の操作か?
『徇』と『殉』では意味が異なるので。


454 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 14:59:45
古田先生も指摘しておられるように
稲荷山鉄剣銘文と関東最古の石碑である山ノ上碑の碑文はその表記方法において共通性が多く、同じ文化圏だったことがうかがえる。
その山ノ上碑の碑文に出てくる「放光寺」の跡が前橋市総社町総社の山王の地に所在し、その寺は法隆寺に匹敵する規模だったことがわかっている。
大和朝廷の支配が関東にまで及んでいたはずの白鳳時代ですら奈良の都に匹敵する力をもった国が関東にあったことがわかる。

そもそも、関東と大陸の交流の歴史は古く、信州善光寺の本尊である阿弥陀三尊は、欽明天皇の時代552年に百済の聖明王から献呈されたものとされ、
善光寺の名は百済最後の王の息子で日本に定着した百済王氏の始祖である「善光」の名前からつけられたとの説もある。

この点からも、関東の大王はもっと古い時代から大陸との交流があったと考えられ、魏に朝貢したのも関東の大王だった可能性が高い。
邪馬台国は関東にあった!声を大にしていえる日もそう遠くはなかろう。

455 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 15:47:04
>>454
同意。西国にはほとんど残っていない「石碑」が東国には数多く残っていますからね。
もし、邪馬台国、卑弥呼、張政、などの文字が刻まれた石碑が発見されれば・・ムフフ
九州は、畿内ははどんな顔をするか・・・

456 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 16:08:54
俺、畿内説だけど、関東が邪馬台国という証拠が出れば面白いと思うよ。

九州悦みたいな宗教じゃないから。

457 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 16:19:54
>>453

つうかだなグダグダ言わずに
『徇』と『殉』を峻別する必要性
両者を混同すると如何なる弊害等々を言えば良い。

それに同意した奴はそれに倣うだろうという話。

原典に忠実でなければならないのなら邪馬台国はNG
少なくとも「邪馬臺国」
正確には「邪馬壹国」と記すべきって話になる。

「俺様による漢字説明会」を主催したいのかもしれんが
話の振り方が下手、挙句

>自説保守の為の操作か?

と言う被害妄想的な陰謀論を言うに至ってはお前は病気かとw

458 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 16:24:14
>>443
>関東から邪馬台国の都や金印、卑弥呼の墓が発見されたら面白いだろうな。

そうなったら今まで自分の中で畿内説を前提にして考えていた事柄を再検討
成り立たなくなったものはバッサリ捨て去るだけ。

何の未練も無い。

むしろ、じゃあ関東邪馬台国と後の畿内王権との関係等、考えなければならない事は
幾らでもあり興味もそっちに移るだけの話。

無論「金印」だの「卑弥呼の墓」だの論争に一発でケリをつけられるようなネタが出てくればの話だがw

459 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 16:38:27
>>458
東国が大和朝廷に従った過程が記録に残っていないのが不思議です。
祟神の子の豊城入彦も景行の子のヤマトタケルも東国を平定したことになっているけれど、
関東の王と戦った形跡がなく、むしろ、関東出身の大王の子として元の支配地を巡幸したといった様相だった。
つまり、イリ王朝とは、関東の王の皇子が婿入りして作った王朝だったのではないかと思われます。

460 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/29(木) 16:43:21
>関東の王と戦った形跡がなく、

武力に圧倒的な差があれば、戦わずして決着はつく。


461 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 16:50:49
少なくてもあちこちの蝦夷とは戦っているね。

462 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 18:28:31
やはり、もともと東国の王だったとした方がすんなりいくと思う。

463 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 18:30:57

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=2010/04/28付 西日本新聞朝刊=
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