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『♪邪馬台国 ドンと来い♪ 69』

1 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 12:28:34
 九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
 出来るだけソースを出して後はお好きに!
 *良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。

前スレ

『♪邪馬台国 ドンと来い♪ 68』
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1270162409/

2 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 12:35:31
2げと

3 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 12:57:03
前スレの985へ
なんで一大率が伊都国におかれたんだよ
伊都国には長官だけじゃなく王までいたんだよな

4 :サガミハラハラ:2010/04/24(土) 13:43:35
邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。卑弥呼の墓は小城公園内桜ケ岡です。

5 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 13:49:17
>>3
魏志倭人伝の卑弥呼が任命したとある伊都国の一大率だけど、
埋葬された副葬品の多くが、勾玉や管玉ばかりの装飾品だから女性シャーマンと考えていいだろう。

伊都国の一大率の墓からは、八咫の鏡のような内行花文鏡まで出土しているよ。
副葬品の豪華さから考えて、伊都国の一大率は卑弥呼の一族であった可能性が非常に高いね。

あと、伊都国に王は置かれていないでしょ?魏志倭人伝にも記載されていないし・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1

6 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 13:52:07
>>4
そんな結論だけポツンと書かれても・・・
証拠や論証も書かないと、議論できないでしょ

7 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 14:57:46
余談だが、今朝の新聞に、日本で最も神社の多い県はどこか?というのがあった。
答えは、新潟県。

では、どうして新潟県に神社が多いのか。
いろいろ理由があるらしいがその一つに人口が多かったというのがあった。
なんと、明治20年頃まで、新潟は日本で最も人口の多い県だった。
ちなみに、二番目は兵庫県、三番目が愛知県、四番目が東京。

逆に神社の少ない県は、沖縄で、意外にも和歌山、大阪と続いた。

8 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 15:14:27
>>5
それはちょっと疑問がある。
被葬者が女性であるかどうかは、貝輪などの腕輪があるかどうかだと思う。

熊本県の向野田古墳は人骨が出ていて明らかに女性だが、装飾品と共に1mを
超える長刀など数多くの武器類が出ている。だから、武器類のないことが
女性という根拠にはならない。

平原の棺から武器が見つからないことは、また別の意味があるのだろう。
ほとんどの鏡が割られた状態で納められた形跡があることや、その中に
日本最大の国産鏡があることなど、平原は、非常に謎めいた遺跡だと思う。

9 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 15:32:17
>>5
書いてあるぞ


10 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 15:38:31
>>8
魏志倭人伝の伊都国は軍事目的としてではなく、
邪馬台国の祭祀を目的とした宗教都市であったと考えられないかな?

そして、国産鏡が割られた状態で納められたことには宗教的理由があったと・・

邪馬台国の女性に腕輪をする習慣があった記述は見つからないし、
卑弥呼が任命したとされる一大率は、王ではなく神官に近い存在でしょ?

11 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:02:36
一大率はのちの大宰帥(そち)のことだな。官人であり、軍指令官だろう。倭人伝に、 >国中において刺史の如きあり
とあるのは、中国なら皇帝直属、この場合は倭王直属官であることを強調しているのだと思う。

12 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:05:21
伊都国は女王国の副首都のようなもの

13 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:20:41
>>11

>一大率はのちの大宰帥(そち)のことだな

大宰帥は官職名だけど、一大率は官職名ではないでしょ
どう考えても一語句にしか過ぎないんだけど

14 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:22:33
>>8
ん〜、腕輪の有無で被葬者を断定するのは極端じゃない?

伊都国は祭祀的な意味合いが強いから一大率が置かれた訳で、
特に、ここの被葬者は卑弥呼に近い一大率だったと思うよ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1

15 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:24:41
一大率を日本語で表すと「(一)で(大)な(事)」という漢語。

16 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:27:59
>>14

>伊都国は祭祀的な意味合いが強いから一大率が置かれた訳で

伊都に一大率なんて置かれていない
伊都は一大率を常治する場所
結構皆さんいい加減な認識で議論されているんですね

17 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:28:18
>>15
ちゃうちゃう。これは「一支率」の誤記で、普段は伊都国にいるということ。地名+官名で太宰帥と同じだよ。

18 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:36:04
一大率=いとそつ

19 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:37:30
>>13
>大宰帥は官職名だけど、一大率は官職名ではないでしょ

一大率は、卑弥呼の王権によって任命された派遣官の官職名。
その官職名は、城郭の四方を守る将軍である大率に由来している。(道教の古典『墨子』「迎敵祠」条より)

魏志倭人伝には、次のように書かれている。

自女王國以北、特置一大率、検察諸國、諸國畏揮之。
常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都・帯方郡・諸韓國、及郡使倭國、皆臨津捜露、傳邊文書・賜遣之物詣女王、不得差錯。

原文のおよその意味は、

「女王国より北には、特別に一人の大率(たいすい、だいそつ)を置いて諸国を監察させており、諸国はこれを畏(おそ)れている。
大率はいつも伊都国で政務を執り、それぞれの国にとって中国の刺史(しし)のような役割をもっている。
王が帝都や帯方郡や諸韓国に使者を派遣したり、帯方郡が倭国へ使者を遣わすときは、いつも津(しん・水上交通上の関)で、
文書や賜与された物品を点検して、伝送して女王のもとへ到着する時に、間違いがないようにする」ということである。

この地域が伝統的に朝鮮・中国との交流の拠点として重要な意味を持っていた。
そのため一大率は、伊都国に常駐して北部九州を行政的・軍事的にも統括する任務や
女王の行う外交の実務を厳格に監督し実行する任務をもっており、女王の命を受けてすべての外交実務を伊都国で掌握していた。

20 :水銀厨:2010/04/24(土) 16:39:49
畿内説だと巻向が宗教都市で何の問題もないですね。


21 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:41:02
>>16

>伊都に一大率なんて置かれていない
>伊都は一大率を常治する場所
>結構皆さんいい加減な認識で議論されているんですね

初めから魏志倭人伝を読み直しましょう。
一大率を常治するするのは邪馬台国ですよ。


22 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:43:12
女王国より北の地域を統括する伊都国に一大率の権限の大きさは後漢における魏を彷彿するものがある
伊都国は奴国や投馬国といった大国も統率してるわけだ

23 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:49:34
もし邪馬台国が近畿だったとしたら伊都国は西日本を治めるという大きすぎる権力を持っていたことになる

24 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 16:58:46
伊都国(いとこく)は、魏志倭人伝にみえる倭国内の国の一つである。
魏志倭人伝によれば、末廬国から陸を東南に500里進んだ地に所在するとある。

東南陸行五百里 至伊都國。官曰爾支 副曰泄謨觚・柄渠觚。
有千余戸 丗有王 皆統属女王國。郡使往来常所駐(『魏志』倭人伝)

(末廬國から)東南へ陸を五百里行くと、伊都國に到る。そこの長官を爾支(にし、じき)。
副官は泄謨觚(せつもこ、せつぼこ)・柄渠觚(ひょうごこ、へいきょこ)。

千余戸の家があり、丗、王がいる、皆は女王國の統治に属してきた。
帯方郡(たいほうぐん)の使者が往来する時、常にここにとどまる。

倭人伝に書かれているとおり、弥生時代の終末(3世紀前半)まで王墓が存在し、
糸島市の平原遺跡(ひらばるいせき)付近を、伊都國に比定するのが通説。

魏志倭人伝で、王が居たと明記されている倭の国は女王國と狗奴國だけで、
他の国々には長官、副官等の役人名程度しか記されていない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%83%BD%E5%9B%BD

つまり、伊都国には王が存在しなかった。

25 :24:2010/04/24(土) 17:00:56
訂正)

つまり、伊都国には王が存在した?

26 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 17:02:24
>>21

>初めから魏志倭人伝を読み直しましょう。
一大率を常治するするのは邪馬台国ですよ。

どこにそういう事が書かれていますか?

27 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 17:02:50
>>24
丗有王を忘れてるよ

伊都国はヨーロッパで言うところのノルマンディー公国なのかもな

28 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 17:03:47
>>23
邪馬台国の近畿説なら、伊都国が別の場所に位置しないと辻褄が合わない。

29 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 17:04:59
>>25
>つまり、伊都国には王が存在した?

いいえ。存在したのではなく、「有」  日本語だと誤解を生じますよ

30 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 17:07:43
>>29
あなたはどう訳すのでしょうか

31 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 17:17:00
>>30

「有王」

王と言う職種が「有」

王というのは、人か王と言う位  それに対して「有」ですから
その「有」が表すのは 王という位(職種)が伊都に「有か無」かという対比
人の存在に「有」はありませんから



32 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 17:26:08
>>31
王という職種があったということは王がいたわけですな

33 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 17:27:11
>>26
自女王國以北、特置一大率、検察諸國、諸國畏揮之。
常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都・帯方郡・諸韓國、及郡使倭國、皆臨津捜露、傳邊文書・賜遣之物詣女王、不得差錯。

34 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 17:27:34
>>30

もう少し分かりやすく言えば

ここでの「有」は、日本語の(アル)ではなく、(タモツ)

伊都国という地は、王職によって保つ地ということです。


35 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 17:33:00
>>33

邪馬台国が常治なんてかいてありませんね

>>32

>王という職種があったということは王がいたわけですな

その「いた」は、一時的な質問ですか?それとも永住的なものですか?
「いた」という日本語は曖昧で、どのようにでも解釈出ます
しかし漢語の「有」は、「有か無」

36 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 17:38:57
「女王国より北には、特別に一人の大率(たいすい、だいそつ)を置いて諸国を監察させており、諸国はこれを畏(おそ)れている。
大率はいつも伊都国で政務を執り、それぞれの国にとって中国の刺史(しし)のような役割をもっている。
王が帝都や帯方郡や諸韓国に使者を派遣したり、帯方郡が倭国へ使者を遣わすときは、いつも津(しん・水上交通上の関)で、
文書や賜与された物品を点検して、伝送して女王のもとへ到着する時に、間違いがないようにする」。

女王国(邪馬台国)の北に位置する伊都国には、一人の大率を置いて諸国を監察させている。
魏志倭人伝の伊都国の所在がほぼ判明している点から、女王国(邪馬台国)の所在を熊本〜宮崎だと考えて良いだろう。

面白いことに倭の五王の時代を終え、ヤマト王権の時代に移り変わると、この地域は熊襲と呼ばれている。
その熊襲の地より「ワカタケルダイオウ」の鉄剣が発見された今日、熊襲をヤマト王権以前の古代王朝として考えるべきである。

37 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 17:44:35
>>35
ちくまの三国志だと丗有王を「代々王がいて」と訳してるな

38 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 18:03:57
>>27>>32>>35>>37

>「丗有王 皆統屬女王」は女王に統屬する。皆は、丗有王の代々の王の意味。
>「丗有王 皆統屬女王國」なら女王國に統屬する皆は国々と云う意味で、丗有王の王は魏の治世の王、卑彌呼、壹與のことを意味する。

伊都国の一大率は王ではなく、邪馬台国本国より派遣された女王直属(側近)の官職名です。


39 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 18:13:30
>>34 を訂正

王職によって保つ→  王を保つ に訂正


>>37

「有」に(いる)という日本語訳は存在しません。 

>>38

一大率が「王」だなんて言っていません。
「一大率」は官職ではなく、漢語文です。


>>

40 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 18:16:54
河童うざい。

41 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 18:24:57
>>39
一大率を漢語文として捉えるなら一人の大率。
邪馬台国の官職として捉えるなら一大率。

どちらにしても、女王国の派遣官で王ではなかったと考えてよいでしょう。

42 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 18:28:02
>>41 を訂正

一大率を邪馬台国の官職として捉えるなら「大率」。


43 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 18:31:05
大きく統率すると書いて大率と読む

44 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 18:33:45
大きく率いるだな
意味は同じだけど

45 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 18:45:37
(結論)

「丗有王」の王とは魏の治世の王である卑彌呼と壹與の事です。

伊都国の遺跡から出土している豪華な国産鏡や副葬品から推測して、
この(女性であろう)一大率は、女王国の卑彌呼、壹與に近い存在であったと思われます。

46 :【その1】:2010/04/24(土) 19:15:18
200m越えの巨大古墳が集中してる地域の時代変遷。(洪水マップで3メートル海面上昇した状態)
こうしてみると、邪馬台国自体も、頻繁に国家中枢機能が移動してたりしてな。

▼【奈良県:桜井市周辺】(3世紀中頃〜4世紀初頭)
・箸墓古墳(278m/奈良県桜井市/3世紀中頃) http://flood.firetree.net/?ll=34.5398,135.8438&z=3&m=3
・メスリ山古墳(245m/奈良県桜井市/4世紀初頭) http://flood.firetree.net/?ll=34.4988,135.8511&z=3&m=3
・桜井茶臼山古墳(207m/奈良県桜井市/4世紀初頭) http://flood.firetree.net/?ll=34.5129,135.8576&z=2&m=3

▼【奈良県:天理市周辺】(4世紀後半)
・西殿塚古墳(234m/奈良県天理市/3世紀後半〜4世紀初め) http://flood.firetree.net/?ll=34.5691,135.8529&z=3&m=3
・渋谷向山古墳(310m/奈良県天理市/4世紀後半) http://flood.firetree.net/?ll=34.5522,135.8487&z=3&m=3
・行燈山古墳(242m/奈良県天理市/4世紀前半) http://flood.firetree.net/?ll=34.5572,135.8528&z=3&m=3

▼【奈良県:奈良市周辺】(4世紀後半〜5世紀前半)
・五社神古墳(275m/奈良県奈良市/4世紀後半〜5世紀初頭) http://flood.firetree.net/?ll=34.7064,135.7862&z=3&m=3
・佐紀石塚山古墳(218m/奈良県奈良市/4世紀後半〜5世紀前半) http://flood.firetree.net/?ll=34.7018,135.7899&z=3&m=3
・狭木之寺間陵(206m/奈良県奈良市/4世紀後半〜5世紀前半) http://flood.firetree.net/?ll=34.7008,135.7906&z=3&m=3
・市庭古墳(253m/奈良県奈良市/5世紀前半) http://flood.firetree.net/?ll=34.6950,135.8014&z=3&m=3
・宝来山古墳(227m/奈良県奈良市/5世紀前半) http://flood.firetree.net/?ll=34.6824,135.7867&z=3&m=3
・コナベ古墳(204m/奈良県奈良市/5世紀前半) http://flood.firetree.net/?ll=34.6982,135.8068&z=2&m=3
・室大墓古墳(238m/奈良県御所市/5世紀前半) http://flood.firetree.net/?ll=34.4425,135.7352&z=2&m=3

47 :【その2】:2010/04/24(土) 19:17:10
▼【大阪府:羽曳野市周辺】(4世紀後半〜5世紀前半)
・津堂城山古墳(208m/大阪府藤井寺市/4世紀後半) http://flood.firetree.net/?ll=34.5821,135.5947&z=2&m=3
・誉田御廟山古墳(420m/大阪府羽曳野市/5世紀初頭) http://flood.firetree.net/?ll=34.5642,135.6119&z=4&m=3
・仲ツ山古墳(290m/大阪府藤井寺市/5世紀前半) http://flood.firetree.net/?ll=34.5698,135.6157&z=3&m=3
・墓山古墳(225m/大阪府羽曳野市/5世紀前半) http://flood.firetree.net/?ll=34.5533,135.6045&z=2&m=3

▼【大阪府:堺市周辺】(5世紀前半〜5世紀中期)
・上石津ミサンザイ古墳(360m/大阪府堺市/5世紀前半) http://flood.firetree.net/?ll=34.5544,135.4788&z=4&m=3
・大仙陵古墳(486m/大阪府堺市/5世紀前期〜中期) http://flood.firetree.net/?ll=34.5634,135.4904&z=4&m=3

▼【奈良県:奈良市周辺】(5世紀中頃〜後半)
・ウワナベ古墳(205m/奈良県奈良市/5世紀中頃) http://flood.firetree.net/?ll=34.6989,135.8123&z=4&m=3
・平城坂上陵古墳(219m/奈良県奈良市/5世紀中頃〜後半) http://flood.firetree.net/?ll=34.7020,135.8075&z=2&m=3

▼【奈良県:北葛城郡周辺】(4世紀末〜5世紀後半)
・巣山古墳(220m/奈良県北葛城郡/4世紀末〜5世紀初め) http://flood.firetree.net/?ll=34.5557,135.7474&z=3&m=3
・新木山古墳(約200m/奈良県北葛城郡/5世紀前半) http://flood.firetree.net/?ll=34.5508,135.7401&z=2&m=3
・川合大塚山古墳(195m/奈良県北葛城郡/5世紀中頃〜後半) http://flood.firetree.net/?ll=34.5897,135.7544&z=3&m=3

48 :【その3】:2010/04/24(土) 19:19:02
▼【大阪府:堺市周辺】(5世紀後半)
・土師ニサンザイ古墳(290m/大阪府堺市/5世紀後半) http://flood.firetree.net/?ll=34.5474,135.5008&z=3&m=3

▼【大阪府:藤井寺市周辺】(5世紀後半)
・岡ミサンザイ古墳(242m/大阪府藤井寺市/5世紀後半) http://flood.firetree.net/?ll=34.5662,135.5928&z=3&m=3
・市ノ山古墳(227m/大阪府藤井寺市/5世紀後半) http://flood.firetree.net/?ll=34.5739,135.6187&z=3&m=3

★【岡山県:岡山市周辺(吉備王国)】(※5世紀には、本当に岡山は大都市だった)
・造山古墳(350m/岡山県岡山市/5世紀) http://flood.firetree.net/?ll=34.6538,133.8207&z=5&m=3
・作山古墳(286m/ 岡山県総社市/5世紀中頃) http://flood.firetree.net/?ll=34.6499,133.7980&z=5&m=3

▼【大阪府:茨木市周辺】(6世紀前半) ←継体天皇は、場所が結構離れてるな。
・太田茶臼山古墳(226m/大阪府茨木市/531年:築造5世紀) http://flood.firetree.net/?ll=34.8363,135.5873&z=4&m=3

▼【大阪府:羽曳野市周辺】(6世紀後半)
・河内大塚山古墳(335m/大阪府羽曳野市/6世紀後半) http://flood.firetree.net/?ll=34.5723,135.5721&z=4&m=3

▼【奈良県橿原市】(6世紀後半〜)
・見瀬丸山古墳(318m/奈良県橿原市/6世紀後半) http://flood.firetree.net/?ll=34.4772,135.8016&z=3&m=3

結論:岡山は5世紀に大都市だった。

49 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 19:21:47
>>48
そういえば吉備の王が中国の歴史書に出てきたな
倭は一時的に岡山に遷都したのかもな

50 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 19:27:40
だけど注意しなくちゃいけないのは、
このマップは個別地域での隆起・沈降は考慮してないんでしょ?当然。

日本列島の場合、個別地域での土地の隆起とかザラにあるので。

51 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 19:31:07
前スレ>>983
>女性と思われる埋葬者の歯が検出された

ソースきぼん。

「出土した歯を分析した宮川徏によれば、残存の状況が悪く正確な判断を下すのに大きな制約があると断った上で、
 年齢は若年とするよりは熟年期を考えるのが妥当とし、
 性別は不明であるが、小ぶりな歯牙という感じがもてるとしている。」
(福本明 「楯築弥生墳丘墓」)

52 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 19:45:21
>>51
弥生墳丘墓としては日本最大で、棺の中からは30 キロあまりの水銀朱がでている。
薬師寺慎一先生によれば、被葬者の歯が比較的小さく女性である可能性があるようで、
その年代から卑弥呼のものではと示唆されている。またこのてっぺんから
吉備特殊器台が発見されるが、これはのちに箸墓古墳などの大和近畿において
発見され、吉備と大和の関係に多くの疑問を思いおこさせる。

http://kibiyamataikoku.blogspot.com/2008/02/blog-post_2517.html

53 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 19:49:07
楯築遺跡の石棺は九州の石で出来たもので中から歯が出てきたが女性の歯だったという 九州との交流をうかがわせる
庄パークヒルズの団地工事では楯築遺跡周辺から白骨が多数出てきたそうだが工事を急ぐため処分したという
それらの白骨が出てきた部分から測定するとちょうど大きさは百余歩になる

http://www.webtelevi.com/sokuho/yamatai/041006.htm

54 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 20:03:45
>>3
> なんで一大率が伊都国におかれたんだよ
>伊都国には長官だけじゃなく王までいたんだよな

横シツレイ

北部九州は倭国で最も早くから発展した当時の先進地域でした。
古くから大陸との通交拠点であった重要地点でもあります。
王がいたことも確実です。

邪馬台国(倭国中央政権)は伊都国王(世有王)の自治権を一定の枠内で認めつつ、
一大卒を派遣して、この重要拠点を掌握しておこうとしたのでしょう。

55 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 20:07:51
>>44

>大きく率いるだな
意味は同じだけど

漢語「一大率」は「一大事」という漢語と同じならびで解釈する
漢語「一大事」は、 仏が衆生救済のためによに出現する という意味で
仏というちっぽけな存在が、衆生救世という大事業をなすということからきている

>>45

>「丗有王」の王とは魏の治世の王である卑彌呼と壹與の事です。

それは違うでしょ
後文に、女王という時間を表す語句が存在するのだから、ここでの「世」を、魏の治世という
時間を限定する語句は登場しないし、存在できない
ここの「世」という漢語は
「世界」という漢語と同じように解釈し、「世」=社会という意味です。

世有王=伊都国という社会にて王を保つ   と、訳します。

56 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 20:19:39
>>5
>伊都国の一大率の墓

平原は魏志倭人伝に「世有王」と記された伊都国王の王墓ではないでしょうか。

>>8
>被葬者が女性であるかどうかは

平原の被葬者は女性だと推定されています。

「平原王墓から、楽浪郡などでも出土するガラス耳(じとう:ピアス)が出てくる。
 耳は女性の墓からしか出ないので、平原王墓の被葬者は女性であると判断できる。」
(柳田康雄)

57 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 20:26:41
伊都国は漢代から大陸の事情に通じていたからね。被葬者が女性なら、一大率ではない気がするね。

58 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 20:28:20
広開土王碑文や宋書を見ると、倭の五王時代の倭と高句麗は朝鮮半島で激戦を展開している訳だが、
大和盆地とかに存在する高句麗式積石塚って、ヤマト王権内に高句麗人の勢力が存在したって訳?

九州では全く見かけられない高句麗式積石塚だが、ヤマト王権と高句麗は関係が良好だったのかな?
倭の五王は、宋書に記載されている通りだとヤマト王権とは全く無関係の王朝になってしまう。

宋書には倭王武の上表文が、長文引用されている。

この中で、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」とある。
従来これを「近畿を中心とした倭国版の中華思想のあらわれ」と見なした。

だが、これはふさわしくない。倭王武の上表文にあらわれるとおり、
倭王は、中国(南朝)の臣下として、厳にその立場を主張している。
当然、自らを「東夷」の一角におき、東夷の王として中国の天子の威徳が及ぶ範囲を、広げてきた、と倭王武は語っている。

王道融泰にして、土を廓き畿を遥かにす。累葉朝宗して歳に愆らず。

この文言がすべてを物語っている。ここで語っている、東西+海北の範囲は以下のようだ。

http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/zu3.jpg

59 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 20:32:55
>>52
ありがとうございました。

60 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 20:34:02
>>57
それが困ったことに被葬者が女性なんだよ。
しかも副葬品の豪華さが半端じゃないから国宝にまで指定されてるわけよ。

61 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 20:47:19
>>60
ということは、卑弥呼の墓か。

62 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 20:49:14
>>53
>楯築遺跡の石棺は九州の石で出来たもので

せ、石棺って・・・どの部分の?

「(主体部は)掘り進んでいくと、棺底に敷かれた朱の存在を手がかりにして
 木棺部分については比較的容易に検出することができた。
 それによると、木棺は箱形と考えられ、・・・」
(福本明「楯築弥生墳丘墓」)

63 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 20:56:28
>>61
おい、伊都国の一大率は、河南省の曹操高陵より副葬品が豪華だぜ。

どうするよ?

64 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 21:06:39
伊都国の一大率(女)>>>>>>>>>>>>>曹操

65 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 21:14:37
>>58
九州から西ってどの地域?

66 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 21:15:50
畿内説だと伊都国は近江辺りかな?
末廬国から琵琶湖を渡って魏に使者を送ったとすれば
邪馬台国は奈良盆地にあっても可笑しくない。

67 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 21:21:18
わざわざ出先機関を置いているのだから伊都国から邪馬台国はかなり距離があるのだろう。
邪馬台国が甘木や山門なら直接にらみを利かせればいい。

68 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 21:32:53
>>63
こちらの記事は怪しいかもしれないっすね。
石槨か何かのことでしょうか。

造山古墳の上に転がっている石棺が阿蘇の石でできていることはよく知られていますが。

69 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 21:35:59
石棺って、阿蘇凝灰岩のことかしら

70 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 21:44:30
「山門vs甘木@邪馬台国」

()内は提唱者の著書・論文

@邪馬台国の所在を山門だとする提唱者

新井白石(外国之事調書)
星野悟(日本国号考)
津田左右吉(邪馬台国の位置について)
榎一雄(魏志倭人伝の里程記事について)
牧健二(邪馬台国問題の解決のために)
喜田貞吉
田中卓(海に書かれた邪馬台国)
村山健治(誰にも書けなかった邪馬台国)
黛弘道

@邪馬台国の所在を甘木だとする提唱者

木村俊夫(邪馬一国とその周辺)
安本美典(邪馬台国への道)
村山義男(邪馬台国と金印)
奥野正男(吉野ヶ里遺跡の謎)

提唱するのは勝手だけど糸島のように遺跡発掘に力入れるべき
これで邪馬台国の所在が京都郡とかだったら本当に驚くよ

71 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 21:50:04
>>58
九州王朝説にとって苦しいのは>>46-48にあるとおり、5世紀に畿内に巨大古墳がボコボコできているという事実。
これは大規模土木工事技術の存在、つまり治水工事と農業生産力の高さを示している。
また、いずれの古墳も千人規模で年単位の工期が必要。軍事行動の際にも大軍を動員できただろう。
このような近畿の勢力を前にして九州王朝なるものが東に拡張するとは考えられない。

72 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 22:07:16
>>71
その大阪だとか奈良の奴隷を朝鮮半島まで送り込んで高句麗と戦わしていたわけ?
奴隷の輸送コスト考えると食料の調達すら困難だよな(笑)

倭の五王が高句麗との消耗戦で畿内まで進出する余裕がなくなったから、
畿内の豪族は安心して古墳建設に専念できただけじゃねーの?
倭国と敵対関係にあった高句麗が畿内に現れるのも5世紀に入ってからだし胡散臭い。

73 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 22:17:38
>>72

> 倭の五王が高句麗との消耗戦で畿内まで進出する余裕がなくなったから、

畿内まで進出したそうですよ。>>58によると。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/zu3.jpg
畿内まで進出したのかしないのか、>>58と議論してください。


74 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 22:18:30
北部九州が最前線だっただけの事でしょう。
中枢が畿内の大和なだけで。

75 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 22:24:30
>>74
卑弥呼の時代なら最前線は九州、倭の五王の時代なら最前線は朝鮮半島

無理に畿内説唱えるにしても、どちらも最前線から離れ過ぎているわ〜

76 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 22:24:42
…で、倭の五王と邪馬台国がどう関係するんだ?

アタマに血を上らせて
「偉大なる九州王朝マンセー」宜しく語るのは結構だが

ここは邪馬台国スレであって「古代史一般スレ」でもなければ
まして「九州王朝説スレ」でもない。

邪馬台国との関係を説いた上で語れ。

それができないのなら九州王朝スレに帰れクズ

77 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 22:30:56
そもそも魏志に書かれてる邪馬壹国を邪馬台国と
読み替えてるのはヤマトと読みたいからであって
国家中枢が近畿にあったことが前提になるわけだ

九州にもヤマトがあるなんてのは本末転倒

78 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 22:32:11
帰れと言われても、まずはなるべく多くの人に話を聞いてもらう必要がある訳で、

79 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 22:34:01
>>76
これ>>46-48、5世紀以降の古墳だよね?

無理矢理、畿内説と邪馬台国を結び付けようとする政治的理由でもあるの?
九州王朝の存在なんかどーでもいいけど、畿内説は突っ込みどころ満載(藁)だから叩かれるだけ。

80 :水銀厨:2010/04/24(土) 22:38:47
>>75
最前線からはなれている方がいいと思うけどね。
外交は基本的に伊都なんだから。

それに卑弥呼は女王になってからは
殆ど姿をみせないのですよ。
神仙思想の影響を受けた卑弥呼なら、
山奥に宮を設けるとおもいますね。

81 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/24(土) 22:45:50
卑弥呼は奥九州の所在だと想う。

82 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 22:48:02
畿内説の人って、どうしても邪馬壹(邪馬台)をヤマトと呼びたいらしい。

ヤマト王権が畿内で誕生したから、邪馬台国も畿内じゃないと我慢できない困った人たちです。
しかも、九州には太古からヤマトと呼ばれる土地があるから、くやしい、くやしい九州説が憎い〜って感情的。

83 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/24(土) 22:51:45
>>82
本音をつついているね。w

84 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 22:54:30
やっぱり吉備が東遷したという説が有力なような気がします。
神武が九州から東征してきたとしても、やはり吉備の勢力の後押しなしには不可能だったわけだし、
吉備の勢力が倭大乱に勝って九州北部から瀬戸内海沿岸を支配し、畿内に入ったとするのが最も合理的な解釈だと思います。
邪馬台国は九州、臺與は吉備の女王だったのではないでしょうか?

85 :水銀厨:2010/04/24(土) 22:57:20
>>82
釣りだとは思うけど、別にどうしてもヤマトと
呼びたい訳ではないですよ。

3世紀末、卑弥呼が都するような祭祀都市で、
水銀朱の産出する山を持つような場所があるとすれば
畿内周辺が有力な場所だろうという程度です。

まあ私は水銀厨なので「その山に丹あり」という文言に
執着をもってますので。



86 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:00:19
奥九州は、阿蘇、日向?

どのあたりを想定してます?

阿蘇なら、九州王朝、あるいは筑後熊本文化圏
日向なら大和朝廷の始祖?
微妙に次の展開が変わってきそうです

87 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/24(土) 23:02:12
まぁ、阿蘇あたりだろうな。

88 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:03:04
>>83
畿内説と東遷説の人は突っ込みどころ満載なので仕方ありません。
特に畿内説の人は、自分の都合が(スレの流れが)悪くなると怒り出す傾向にあります(笑)。

89 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/24(土) 23:06:03
だから巨人、大鵬、卵焼き。畿内節だな。ww

90 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:10:21
>>89
むしろ畿内ホイホイ、東遷ホイホイとして邪馬台国スレを楽しむのが。ww

91 :水銀厨:2010/04/24(土) 23:14:55
あまり突っ込んでもらった覚えがないのが残念だけど。

まあ阿蘇周辺にになんらかのルーツがある可能性はあるが、
倭人伝のいう邪馬台国ではないでしょう。
元々私も南九州説でしたから。

3世紀末の時点の邪馬台国は瀬戸内東部を主にする国です。
特に淡路島から紀伊半島にかけての国。



92 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/24(土) 23:17:42
淡路だったら畿内に近いから記紀に卑弥呼の情報が載るだろう。そこには
卑弥呼の国はないな。

93 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:17:43
「3世紀の邪馬台国は九州にあった」までなら、「そうかもしれないな」、と思う。
倭人伝は、距離か方向かどちらかが間違いであり、考古学的に決定的な証拠もないので、畿内か九州かは正直よくわからない。
しかし倭の五王になると畿内の圧倒的な古墳群、稲荷山・江田船山の鉄剣から、関東から九州までを支配する王権が畿内にあった、と考えるのが妥当。
こうなると倭の五王時代=九州王朝説はデンパにしか聞こえない。

問題は邪馬台国と後の倭の五王の関係だが、支配者の変更を示す記録がない。
卑弥呼は「親魏倭王」だし、倭の五王もその通称のとおり「倭国王」だ。
朝貢国は皇帝の威徳の証明としてあつかわれており、その由来や出自は最重要事項。詐称や馬の骨じゃ困るのだ。
もしも王権の変更があったら、それが自称だろうが伝聞だろうが正史に必ず一言記載されると考えるのが普通だ。
ところが同じ倭を名乗っているし、変更の記録もない。
これらのことから邪馬台国と倭の五王は連続的につながっているのではないか?という推測につながる。(血統のつながりは不明)

ここからが邪馬台国九州説の苦悩の始まりで、東遷説や九州王朝説など、結論ありきの議論になってしまっている。
東遷説論者も九州王朝説論者も、邪馬台国と倭の五王の連続性を前提にしている。

94 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:20:47
漢委奴国王

95 :水銀厨:2010/04/24(土) 23:22:40
>>92
記紀には九州の話もいっぱい載ってますよ。

96 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:30:26
>>93
>>93
>「3世紀の邪馬台国は九州にあった」までなら、「そうかもしれないな」、と思う。

分かってるじゃん。それで終わりにすれば住人から叩かれずに済むんだよ。ww

ムキになって中途半端な皇国史観を根拠に貼りついてるアンタがキモいだけ。

97 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/24(土) 23:31:34
>>93
デンパにはならない。畿内に五王がいて各天皇だというなら、暦年が
ことごとく合うはずだが、いままで年代が天皇と一致できた奴はいない。
このことは五王が天皇ではないことを物語るのだ。つまり五王は九州王権
の王である。

>>95
それは北九州の話と、景行と日本武尊のむこうへ行ったから情報が紀に
載せられたということの特殊な場合ですよ。北九州の場合は半島からの
遣使とかの交易と半島との戦争とかで情報が入るわけですよ。奥九州じゃ
ぁ無いとは言わないが、滅多に情報は畿内に行かないぜ。

98 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:37:03
>>84
墳丘墓、弧帯紋、特殊壺、特殊器台などの吉備の祭祀文化が
巻向の大型前方後円墳で見つかっている限り
吉備の存在を無視して議論することはできないでしょうね。

邪馬台国とヤマト政権の関係はあいまいですが、
吉備とヤマト政権成立の間には密接な関係があると見れます。

ヤマト政権の成立に対して確実に影響を及ぼしている吉備と
関係があるのか不明な邪馬台国というのが現状ではないでしょうか。

その中で邪馬台国=吉備?という可能性
邪馬台国=吉備と敵対関係?という可能性
を考えていくと、邪馬台国の正体が見えてくるかもしれません。

99 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:37:59
>>97
明史日本伝を読めばわかるが、「暦年がことごとくあうはず」というのは期待しすぎ。
暦年どころか人物関係も混乱している。

100 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:42:03
実は明史のほうが正しかったりして

101 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:42:07
国士様のために倭の五王の実像を貼っておきます。はい

つ http://www31.tok2.com/home2/okunouso/new/setonai.gif

102 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:44:15
で、その偉大なる九州王朝の都って九州の何処にあったんだ?

3世紀の卑弥呼の邪馬台国から
4世紀、百済・新羅を臣民としてさぞかし隆盛を極めたんだろうがw

4世紀にはヤマトでは定型化された大型古墳がバンバン造られたわけだが

103 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:47:33
一つだけ確からしいことは伊都国が邪馬台国の北を統治し
伊都国の権力者の副葬品が弥生時代最高の豪華さだったこと

104 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/24(土) 23:48:39
>>99
期待がどうのでなくって、各天皇と五王の即位年代が一致しなければ
双方が同一人物にはならないよ。これを合わせられた奴は今のところ
いないはずだ。今まで一致出来なかったということは、双方が人だと
いうことを物語っているのだ。そろそろ寝るから、反論あれば書きこんで
おけ。明日答えよう。zzzzz・・・

105 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/24(土) 23:51:31
>>104 訂正
× 双方が人だということを物語っている
○ 双方が別人だということを物語っている

106 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:54:42
>>104
別に完全に一致しなくても、どちらかに(もしくは両方に)誤りがあるだけだろ。

107 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:56:13

■みやこ町呰見大塚古墳 石室に赤い彩色 太刀も出土、有力者埋葬か

=2010/04/24付 西日本新聞朝刊=
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/167515

 みやこ町呰見(あざみ)の呰見大塚古墳を調査している県教委文化財保護課は23日、古墳時代後期(6世紀後半)のものとみられる赤い文様が描かれた石室を発見したと発表した。
京築地域で2例目となる彩色の装飾古墳。権威の象徴とされる金銅製の単鳳環頭太刀(たんほうかんとうたち)も出土しており、京築地域の有力者が埋葬されたとみられる。

 同課によると、古墳は直径25メートルの円墳で、総面積は約2千平方メートル。
前室と後室がある横穴式石室(縦約7メートル、横約3メートル、高さ約1・8メートル)の内側の側壁など計14カ所に赤い彩色があった。
彩色は、太陽や竜のうろこなどを示すとされる円文や三角文など4種類あり、埋葬者を守る魔よけの役割を果たしているという。

 同課の坂本真一主任技師は
 「旧豊前地方は装飾古墳の空白地帯で価値ある発見。筑後や肥後の装飾古墳との共通性もみられる。国または県の史跡に指定される可能性も高い」
と話した。

 発掘調査は東九州道の建設に伴うもの。同地域では、約40年前に上毛町の百留横穴墓群から彩色の装飾古墳が見つかっている。

 一般向けの現地説明会が25日午前10時−正午に開かれる。場所は、同町呰見の祓郷(はらいごう)郵便局から町道を南西方向に約400メートルの地点。

【写真】赤色の彩色が施された呰見大塚古墳

108 :ローガン:2010/04/25(日) 00:05:19
一致、不一致を根拠にして論じたいのなら、一致する文献を提示すればいいだけの事。


109 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:07:39
>>103
>伊都国の権力者の副葬品が弥生時代最高の豪華さだったこと

でもさ、よく見たら、
一大卒に外交ルート掌握されちゃって、最新の漢鏡が手に入らなかったんだな〜って思っちゃう。

110 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:16:11

■但馬「茶すり山古墳」整備終了 公園と学習館開業 /朝来

神戸新聞 2010/04/24
http://www.kobe-np.co.jp/news/tajima/0002907540.shtml

 国史跡「茶すり山古墳」の整備・公園化事業が終了し23日、古墳公園と古墳学習館のオープニング式典が朝来市和田山町筒江であった。
地元関係者や市議ら約30人が参加し、歴史的遺産を活用した公園完成を祝った。

 同古墳は1984年の旧和田山町教委の調査で山城跡と埴輪片が見つかり、存在が確認された。
北近畿豊岡自動車道工事のため県教委が2000年から03年にかけて発掘調査などを行い、頂上に豊富な副葬品を伴った埋葬施設が2カ所見つかった。
墳丘の直径は約90メートルで近畿地方最大の円墳であることも判明。04年には国史跡の指定を受けた。

 地方に存在する古墳でありながら、中央政権と深い結びつきを示す副葬品が多数出土しているのが特徴。その一方で、山を削りだして造られた構築手法や埋葬方法に但馬地方の特色がみられた。
日本国家形成期の歴史を考える上で重要な遺跡として、朝来市教委が築造当時の姿に復元し、一般に公開できるよう05〜09年度の5カ年かけて整備してきた。

 古墳頂上部には第1埋葬施設と第2埋葬施設を出土時の復元模型で紹介。墳頂部と中段テラス部に埴輪のレプリカを設置している。その一部は市民が粘土で形を作り、野焼きして制作したものも含んでいる。
古墳の内容を説明するガイダンス施設「古墳学習館」には、解説パネルや約8分間のビデオを視聴できる設備を整えた。総事業費は3億2244万円。

 式典で多次勝昭市長は「墳頂からは町並みや竹田城跡も見渡すこともできる。地元住民にとって心豊かな生活の一助になる」と話し、完成を祝った。

【写真】茶すり山古墳公園と学習館の完成を祝うテープカット=朝来市和田山町筒江
http://www.kobe-np.co.jp/news/tajima/Images/02907541.jpg


参考:
・茶すり山古墳発掘調査成果について(兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所)
http://www.hyogo-c.ed.jp/~maibun-bo/report/14/tyasuri/tyasuri.htm

・続報茶すり山古墳(同)
http://www.hyogo-c.ed.jp/~maibun-bo/06event/15/tyasuriyama2/tyasuriyama2.htm

111 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:26:15
兎に角、九州王朝説で「倭の五王がどうたらこうたら」言っている奴は
その五王の時代の九州王朝の都の位置を具体的に言ってもらえないかな?

当然(場所は移動していても)権力は九州邪馬台国から連綿と続いているって話だろうから
その連続性を何によって担保するのか?

その辺を語ってもらわないと全体像が見えてこない。



112 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:28:57
>>93
ヤマト王権に倭の五王が存在して、歴代の天皇だと言い張るのは勝手だが、
暦、年代、天皇がまるで一致しない。まるで辻褄が合わない。

>>97
九州王権の倭の五王なら江田船山古墳の出土遺物を見れば歴然としている。

江田船山古墳のおびただしい副葬品が約200点。
獣帯鏡等の舶載鏡、金銅製の冠帽、沓、耳飾、環鈴、衝角付冑等々。

倭の五王の時代に、これだけ超豪華な副葬品を伴う墳墓は他に所在しない。

113 :水銀厨:2010/04/25(日) 00:35:26
>>97
>滅多に情報は畿内に行かないぜ。

それが卑弥呼が記紀に載らない事と
何の関係があるのかよく解らないけど。
載せたくない、都合が悪いから情報の取捨選択を
しただけの事でしょう。
記紀の編纂と言う事はそういう事です。

でも弥生末の時点で大陸人は畿内には頻繁に
来てたみたいだけどね。遺跡や出土品をみる限りは。

114 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:40:36
大臭の放屁者

115 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:41:12
>>112
>九州王権の倭の五王なら江田船山古墳の出土遺物を見れば歴然としている。(略)
>倭の五王の時代に、これだけ超豪華な副葬品を伴う墳墓は他に所在しない。

畿内の大型前方後円墳はことごとく宮内庁に押さえられ
発掘調査はおろか研究者の立ち入りさえもなかなか許可されないのです
どうかそんな点も考慮の上、比較していただきたいのですが・・・

116 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:43:37
>>112

で、獲(加多支)鹵大王ってのは九州の何処にいたんだ?

それこそ一点豪華主義的にそんな事言われても
「倭の五王は九州」と言う話しにどう結びつくのか見えてこない


117 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:43:55
>>112
河内の大規模古墳群、
前方後円墳はどうするの?

118 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:48:24
結局九州王朝説ってのは

「3世紀の邪馬台国は畿内じゃない九州」
「5世紀の五王は畿内じゃない九州」

と各時代において通説の歴史に異(イチャモン)を唱えているだけで
連続したその姿が殆ど見えてこない。

119 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 01:02:44
怪獣王子

120 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 01:03:50
・【57年】 倭奴国王が後漢に朝貢。 光武帝より、金印を受ける。
・【107年】 倭国王「帥升」らが後漢の「安帝」に生口160人を献じる。
・【2世紀後半】 倭国大乱。諸国は「卑弥呼」を共立し王とする。
・【239年】 邪馬台国の女王「卑弥呼」が「難升米(なしめ)」らを洛陽に遣わし、魏に朝貢。親魏倭王と金印紫綬、銅鏡100枚を授かる。
・【248年頃】 「卑弥呼」が死去。径百余歩の墓を作る。
---------------内乱の後、「卑弥呼」の宗女の13歳の「壱与」が王となる。
・【266年】 倭の女王が西晋に朝貢。 ←これが「壱与」である確証は無し。
---------------以後、約150年間、中国の史書に倭国の記載は無し。
・【369〜404年】 倭国軍が、朝鮮半島で交戦。
・【413年】 倭国が、東晋に遣いを出す。
・【421年〜502年】 倭の五王が、中国の南朝に遣使。

壱与から朝鮮半島進出までの空白期間が100年あるから、邪馬台国と4世紀の倭国軍が同じ王権かはなんともいえんな。
古墳群と倭の五王の活躍期からして、吉備国の王なのか、大和王権の王なのかも微妙。
大阪や奈良にあった王権が、岡山の吉備王国を無視して遣使してたというのもどうかな。
いずれにせよ、邪馬台国=大和王権=近畿説ってのは無理があるな。

121 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 01:08:27
九州王朝云々なんてのは最初から無理があるけどな

122 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 01:09:56
このスレに張り付いてる畿内虫。

よーするに、なーんでも畿内じゃないと気が治まらないと

邪馬台国とは無関係のソース貼っては住人にボコられww
心のよりどころ「ヤマト」の土地が太古より九州に存在しているのを知らされ、
熊襲の地からは、大量に豪華絢爛な倭王の副葬品が発見され、

くやしい、くやしい、

そ れ で も

九州説が憎い。ww って感じ(笑)

123 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 01:10:41
おとぎ話だよな。孤独な老人の。

124 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 01:14:00
>>122=123
情けない‥

125 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 01:16:44
>>120
西暦266年の倭女王は、台与だろう。
梁書に「復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命」とある。

卑弥呼が死んだあと、宗女の台与が王になり、その後また男王が立つ。
中国爵命を並び受く、と。

台与が王になり、その後男王が立ち、共に中国の爵命を受けたのはいつかと
いうことになると、西暦266年の「倭女王遣重訳貢献」のときしかないわけだから。

126 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 01:19:36
>>120
>大阪や奈良にあった王権が、岡山の吉備王国を無視して遣使してたというのもどうかな。

言ってる意味が良く分からない。

ヤマト王権が遣使してそれを吉備が阻害するような動きに 動きに出るとでも?

>>122

サイキバ君、精が出るなwww

127 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 01:25:24
>>126
弥生後期の吉備はどんな様子だったのかな。
大規模な集落跡とか出ている?
山陰地方ではけっこう出ているのだが。

128 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 01:33:45
弥生後期の吉備は遺跡も多いですよ。
特に楯築遺跡は有名でしょう。

吉備は国産み神話でも児島なんて小さな島まで含まれてる位だから
古くから重要な場所なのは間違いない。



129 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 01:48:08
>>128
吉備は神武東征と係わらせて考えることも出来るわけで。
例えば、日本書紀には、
徙入吉備国。起行宮以居之。是曰高嶋宮。積三年間。脩舟楫。蓄兵食
とある。

神武天皇は、吉備で高嶋宮を築き、そこで三年過ごした。舟を整え、武器や
食糧を蓄えた。その後、大和に入ることになる。
また、古事記では、高嶋宮で八年を過ごしたことになっている。

こういう経緯からすると、吉備の人間を連れて行った可能性も出てくる。
土器やいわゆる特殊器台などを作る人間も。

130 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 01:54:38
>>127 ヨコ失礼します。
> 弥生後期の吉備はどんな様子

あんまり知らないケド。

「楯築墳丘墓の北側には、岡山市足守川加茂A・B遺跡、
 倉敷市矢部南向遺跡、岡山市津寺遺跡などがある。
 これらは弥生時代から古墳時代にかけての大集落である。」

「特殊器台・特殊壷の分布を見ると、
 備中南部の25遺跡を中心に、備中北部5遺跡、備前8遺跡、
 美作7遺跡、備後3遺跡と、後に吉備と称される範囲に発見される。」
(以上、平井勝)

「吉備というと、楯築墳丘墓や造山・作山古墳の連想から、
 一枚岩で強力な中心をもつというイメージがあるかもしれない。
 (中略)しかし、頂点をすぎると、どの波も急激な静まりをみせる。
 波が静まったときに顔をみせるのは、求心力とは異なった、
 吉備の中のそれぞれの地域の個性だ。」
(新納 泉)

※出典は「古代を考える 吉備」

131 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 07:21:15
>>127
上東遺跡、南方遺跡、百間川遺跡
いずれも全体が発掘されたわけではないけれど、かなりの規模の遺跡なはず。

132 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 09:36:23
>>125

中国の歴史書と日本書紀の註記をいっしょに扱うなよ

133 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 09:52:06
私には副案があります。最低でも畿外です。5月末までには決めます。

134 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 10:43:32
>>93
矛盾点を簡潔にまとめてくれてますね。

>>97
では、九州王朝の天皇陵はどこにあるのですか?
倭は何世紀もの間中国に使者を送ってきた王朝であり、王墓ぐらいは存在してるはずですよね。

135 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 10:54:02
>106
誤りのある可能性は相当程度あるが、その誤りがどうして成ったのかその誤りの
修正からの年代がおおむね五王とも各天皇の年代に一致してくるのか、ここに
唐松山がお得意の恣意的誘導操作がないようにして論じられれば、一応耳を傾け
られる説だとなる。実際紀の神功39年の記事も年代の位置に誤りがあり120年
前後ばかりの修正が必要のように誤りの事例があるが、誤りだと主張してハイ
それで終わりではうまくない。謝りか否かの研究からの上段に言ったような、
具体的誤りの出来た事由が相当程度言えてから上程出来うる言い訳だということ
になる。それを持って来て欲しい。ただ誤りだでは、どんな抗弁、言い訳になり
えて評価には達しえない。

例えば梁書の記事では、僧慧深の日本で体験した話からは、彼の言う顯宗(乙祁)
が永元元年(=499年)ころに生きていなければならないが、通説では487年に
顯宗は崩御しており499年には生存していないが、2倍年暦の関係で14年の年代
の詰まりがあるもので、これから

 449−14=485年(通説の顯宗即位元年)

となってピタリと辻褄が合い、年代の修正が完成している。これをウラ付けるの
が、佛教伝来の552年説と538年説の二通りの存在で、2倍年暦の詰まりから

 552−14=538年

となって、合理的にこの二説が出来た意味がハッキリして来る。確かに古文書
同士での年代の誤りは存在する。しかし誤りがあるならば、その修正の合理性と
そこからの年代の具体的一致を言わねば、単なる言い逃れでオシマイで無評価だ。

136 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 10:54:24
法隆寺は偽物、飛鳥寺は九州にある、継体天皇は北陸から九州まで進軍した、
二上山も、天香具山も、畝傍山も、耳成山も、大神神社も、本物は全部九州にある。
一言でいえばオカルトです。


137 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 10:59:54
>>111
言えればなお可だが、九州まで言えれば、畿内に五王は無関係だということだ。
それは今後の研究によればいいことだ。

138 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 11:06:39
>>113
都合が悪いと言うならば、何故記紀に都合の悪い雄略、武烈の悪逆非道ぶりを
書いたのかね? ということは、そういうことにはなりませんぜ。

139 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 11:08:40
天武天皇は大友皇子に敗れ、中国・畿内地方を飛び越えて美濃まで逃げました。
そこで大軍を集め九州に向けて進軍。
なぜか畿内・中国地方をまたスンナリと素通りすることに成功し、
九州に入るとみごと大友皇子軍を敗り天皇に即位した。
また、帝は、なぜか遠く離れた伊勢神宮に関心が高く、斎宮を置くなど影響力も持っていたのです。

こんなことを言う人は狂ってるとしか思えません。


140 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 11:10:46
>>それは今後の研究によればいいことだ。
そらぁ畿内だろうが九州だろうが一緒

九州説は今後の研究で明らかにする!というのは許されて
畿内説は今後の研究で明らかにする!というのは許されない

と言ってるようにしか聞こえない

>>111じゃないが研究者ごとに説が異なる諸説を九州説と一括りするのが
おかしいのかもな

141 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 11:11:43
>>116
九州に確固たる勢力を張り出したのが雄略の代だから、九州に刀剣があったん
でしょうな。景行九州行幸は視察のためで、仲哀、神功の場合は半島征伐の関係
なわけで北九州には勢力が来てはいるが、仮的なことですよ。

ただし雄略でさえも、九州全制覇ではないですね。

142 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 11:19:14
>>138
太国さんは、日本書紀の雄略紀に記されている次のような外交記事を、一体どう考えているのですか?

(雄略6年) 呉国遣使貢献 
(雄略8年) 呉国に身狭村主青らを遣使 
(雄略8年) 高麗と新羅の怨みが始まる 
(雄略10年) 呉国から身狭村主青らが筑紫に到る 
(雄略12年) 呉国に身狭村主青らを遣使 
(雄略14年) 呉国から身狭村主青らが呉国の使いと共に帰る 

これらはウソですか?

143 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 11:21:00
>>134
九州王朝は畿内朝廷と違って勢力は大ではないですよ。畿内のほうだって、神武
から以後八代位の間は勢力は田舎の一豪族程度でしょうから陵と言ったって、
発見されたころは小山くらいのもでしょう。それに合葬式墓の天皇もいるで
しょうし、態様はさまざまですね。九州王朝の王の墓があったって、小勢力では、
墓といっても、たかが知れたもんですよ。同王朝は畿内朝廷が莫大な勢力をつけ
て行ったようなすごいものではなく、風前の灯火のような時期もけっこう
あったもので、幾多の危機に追いやられながら畿内の文武の代ころまで存続して
たようです。

144 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 11:27:20
>>142
ウソとは言ってないでしょう。雄略の代に畿内が大陸と交易はあったんだから、
それは確かでしょう。しかしそれが五王の一の所作活動にはなるとは言えないで
しょう。雄略前後の五天皇と五王の年代の一致を具体的に説明して下さいね。

一致しないんでは、いつまでも五王が当時の各天皇ではない論は消えませんよ。

DNA(禰名)が一致しないんでは、別人ですね。

145 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 11:31:49
>>135 訂正

× 449−14=485年(通説の顯宗即位元年)

○ 499−14=485年(通説の顯宗即位元年)

146 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 11:35:39
>>144
雄略が呉(南朝の宋ですね)に遣使していたのは史実だ、とお認めになるわけですね。

147 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 11:37:06
>>140
別におかしくはないでしょう。
九州だが分かったときは、畿内にないことだけは確かだということですよ。

九州のいずれかは今後の研究でもいいわけですよ。もっとも早く分かれば、それ
に越したことはないでしょうな。

148 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 11:41:13
>>146
紀がウソでない限りは肯定して論を張るしかないでしょうが。五王が天皇だと
するには、むこうとこちらの文献の年代が具体的に一致することが必要ですよ。
確かに誰かさんが言ってたとおり、文献の誤りはあるが、どのように誤を修正
出来えて、合理的説明が出来てれば、これは聞く耳を持たねばならんでしょうよ。

149 :神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/04/25(日) 11:46:40
「邪馬台国九州説です」「東遷説です」「九州王朝説です」「3つ合わせて日本古代史お邪魔3兄弟です」
「倍歴です」「倍干です」「2つ合わせて間抜けな珍説のルーピー兄弟です」

150 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 11:56:00

このように人を小馬鹿にして中傷するしか能が無いのが畿内厨。

151 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 11:56:22
結局九州王朝説なんてゲテモノは中国史書を元ネタに作られた
文字通りの『ネタ話』なんで

中国史書に4世紀頃の日本の事が出て来なければ=元ネタが無ければ
そのまま空白になってしまう「空白の4世紀九州王朝」ってところか?

畿内説なら奈良南東部に発生した初期ヤマト王権(邪馬台国)が
やがて盆地北部(佐紀)を経て河内に進出…という大まかな動向は掴める。

九州王朝説論者どもが「倭の五王」の時代を必死に語ったところで
3世紀の邪馬台国と繋げる材料も持っていないのだから
もとより話が繋がるはずも無い。

>>143 犬
>同王朝は畿内朝廷が莫大な勢力をつけて行ったようなすごいものではなく

はあ?
九州王朝説では南下する高句麗との戦いに敗れ
その行き詰まりを外交によって打開しようとした五王の時代より前
少なくとも4世紀の半島の利権は九州王朝が握っていたんじゃないのか?

4世紀に入って定型化された巨大古墳がバンバン奈良盆地に造られた時点では
ヤマトはその”おこぼれ”に預かっていたと言う話だったんじゃないのか?

都合によってその勢力の大きさを風船のように膨らませたり萎ませたり
ご都合主義としか言いようが無いなw



152 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 11:59:33
>>149
倍暦の干支はあるようだぜ。勘注系図の成務の代が二個ピタリだよ。曲学の徒さん
もあわてていたくらいだ。w
おまけに倍暦が先述の顯宗の年代の不都合を適正に14年の段差で説明が出来て
おり、おまけに佛伝の552年、538年の二説あることも説明が出来ている。

さらに世界各地で倍暦の行使は確認済みであり、たとえば古代南バビロニアでは
2倍年暦を行使していたものであり、古代エジプト、古代マヤ、アステカ、
サポテカもn倍年暦の行使があったわけで、オマエの論では説明ができない。ww

あとは昼食後だ。w

153 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 12:08:02
結局、この板の九州王朝説論者と言うのはスレ違いと言う事すら
理解できない低脳。

倭の五王と九州邪馬台国どうつなげるのか?
なんてもとより考えていないんだろう。

結局「邪馬台国」「倭の五王」とネタは何でも良くて
「とにかく九州に王朝がありました!」と吼えてりゃ満足するだけの連中。



154 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 12:18:17
畿内説に根拠が何もないんだからどうしようもないやな

155 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/25(日) 12:47:48
>>134 横レスですが
>九州王朝の天皇陵はどこにあるのですか?

九州王朝の天皇は7世紀中期まで「天皇」とは言いませんが
有名な判るものだけを書きます。

宮地嶽古墳:多利思北孤(上宮法皇)
岩戸山古墳:磐井
江田船山古墳:倭王武
祇園山古墳:卑彌呼

墓があるのはそれぞれの出身地です。
都の位置は多利思北孤までが久留米、
多利思北孤が遷都し、
多利思北孤以降の都は大宰府。

今のところ不明とする
壹與・倭王旨・倭王讃・倭王珍・倭王斎・倭王興・薩野馬

156 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 12:49:25
九州王朝説では九州邪馬台国が発展して倭の五王につながる。


157 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 12:51:37
>>155
聖徳太子や継体は?

158 :神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/04/25(日) 13:07:54
>>155
あらぁ〜まぁ〜熊襲の古墳が大王の古墳だって、ビックリ!土蜘蛛の遺跡が邪馬台国の都だって、タマゲタ!
やっぱり九州王朝説は残念な珍説でルーピーだった。

159 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 13:11:59
>>155
>江田船山古墳:倭王武

獲(加多支)鹵大王ってのは何者なんだ?

…とマジレスして突っ込んだら負けなんだろうなあw

160 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 13:19:09
九州王朝説って、歴史に興味持ちだした中学生がかぶれる一過性のものか、
九州の地元民の郷土史家や歴史マニアのお国自慢でしかないよな。

161 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 13:19:13
伊都国とは「伊つ国」です。
この「つ」は現代の「の」と同じ働き。cf.あまつかぜ
ですから、伊都国とは「伊の国」です。簡単ですね。

じゃあ「伊」とは何か。
ttp://mei2jikai.blog113.fc2.com/blog-entry-87.html
>部族の間においても力関係が生まれて小国家へと発展し、
>支配者のサポートを行う中間管理をする部署や専門的な部署が現れ、
>この集団が「伊」と呼ばれたものと考えられ、

うむ。分かりやす過ぎる。

162 :伊都国王卑弥呼:2010/04/25(日) 13:27:17
漢字の「伊」の字の意味は「霊力を持った聖職者」で
伊都とは「霊力を持った聖職者の都」のことになる
倭人伝で「霊力を持った聖職者」とは「事鬼道能惑衆」卑彌呼のこと
伊都国とは卑弥呼の都の国です。


163 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/25(日) 13:30:29
>>157
聖徳太子は多利思北孤をモデルにした架空の人物
継体は磐井と同時代の畿内の大王

>>156
/印で王の系列が切り替わっています。
卑彌呼−壹與/旨−讃−珍−斎−興−武/磐井−葛子/多利思北孤−薩野馬

164 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 13:59:29
単に史料のちがいで輪切りにしてるようにしか見えないが。
それに最後の二人をつなげるのは強引すぎるし。

165 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 14:22:00
>>151
オマエはジョーカーか〜? 今日は得意のシャッフルwwwwwがないようだな?
歴史をみれば、古今東西のできた国の領土はその勢力等により大きくなったり
小さくなったりしてるんだよ。古代の日本も例外ではあるまいが。wwwww

だから風船のようでいいわけだよ。古今の各国は領土が含んだり狭まったり
してるわけさ。由美かおるのバスト、ウエスト、ヒップのサイズのように
替わらないといったような寝言は言うな。wwwww

166 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 14:24:42
>>165 訂正
× 替わらない
○ 変わらない

167 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 14:26:06
倭王武は呉に朝貢し柵封を受けた属国になったということでしょうか?
だとしたら雄略は売国奴。
一度も他国の支配を受けたことのない神国日本の恥ですね。
記紀が雄略のことを悪く書くのはそのためでしょう。

168 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 14:27:22
五王の武≠雄略天皇

169 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 14:43:11
江田船山に眠る倭王武が語る真実の歴史

宋書には倭王武の上表文が、長文引用されている。

この中で、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」とある。
従来これを「近畿を中心とした倭国版の中華思想のあらわれ」と見なした。

だが、これはふさわしくない。倭王武の上表文にあらわれるとおり、
倭王は、中国(南朝)の臣下として、厳にその立場を主張している。
当然、自らを「東夷」の一角におき、東夷の王として中国の天子の威徳が及ぶ範囲を、広げてきた、と倭王武は語っている。

王道融泰にして、土を廓き畿を遥かにす。累葉朝宗して歳に愆らず。

この文言がすべてを物語っている。ここで語っている、東西+海北の範囲は以下のようだ。

http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/zu3.jpg

170 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 15:00:17
突然ですが、古代の和歌では
「近江」の枕詞は、「楽浪の」と書いて「さざなみの」です。
歴史通の方ならお分かりですね。
朝鮮半島北部にあった中国の殖民地「楽浪郡」と同じ字をあてています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%BD%E6%B5%AA%E9%83%A1

楽浪郡を治める漢人は、住民の言語も習得していたことでしょう。
倭人の言葉、扶余系民族の言葉も学んだかもしれません。
でも、中国の政権が変わったら反乱(独立運動?)とかもして、
いろいろ揉めてたらしい。

このバイリンガルな漢人(とは限りませんが)が近江に渡来し
「伊の国(伊都国)」の役人になったのではないでしょうか。
そして入国管理局の役割を果たしていた。
そう考えれば、
バラバラの言葉を持つ人達が同居できたことも
魏の使者と意思疎通が可能だったことも、説明がつきます。

171 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 15:00:57
>>169
>「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」
起点を変えて読んでみよう。九州北部だとしても何の違和感もない。

172 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 15:04:02
>>169
毛人と衆夷の間って伊予灘・豊後水道なんだけど。
倭王は水上にいたのか?

173 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 15:18:50
>>168
江田船山出土の倭王武の副葬品ですが、銅鏡6枚の他に以下、

(装身具類)

金銅製冠帯金具2、金銅製冠帽1、金銅製帯金具1、金銅製飾履(しょくり)1足、
金製垂飾付耳飾2対、金鐶1対、銅環鈴1、金銅斜交文飾金具残欠一括、金飾金具残欠8

(武器・武具類)

大刀、剣、鉾などの刀剣類23口(銀象嵌銘大刀含む)、銀製刀装具類一括、
鉄鏃一括、衝角付冑1、横矧板鋲留短甲1、横矧板革綴短甲1、革綴頸甲(あかべよろい)1

(馬具類)

金銅装鏡板付轡(くつわ)、鉄轡、鉄輪鐙

(玉類)

硬玉勾玉1、石製勾玉2、ガラス勾玉2、碧玉管玉24、銀製丸玉1箇、ガラス玉一括
陶質土器(蓋碗、提瓶残欠)

ヤマト王権では異民族扱いの熊襲の土地から、金色の装身具類等豪華絢爛な副葬品が発見され、
日本最古の本格的記録文書が発見されたことにより、『宋書』『梁書』に記される倭の五王の
実像が判明しつつありますが、考古学的に実在が実証される最古の天皇なのでしょうか?

174 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 15:24:12
瀬戸内海には今でも水上生活をする民がいますね。
倭王武が海族で海の上に住んでいたとすれば、
あるときhが博多湾にあるときは大阪湾に、そしてある時は琵琶湖の岸辺に、
そしてもともとは楽浪郡に居たということも考えられますね。

175 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 15:32:06
>>165 犬

相変わらず頭の悪さを露呈しての自爆芸だな。
時代と共に版図、その勢力の及ぶ範囲が大きくなったり小さくなったりするのは当たり前。
誰がそんな事を言っている?

>都合によってその勢力の大きさを風船のように膨らませたり萎ませたり

「時代によって」じゃなくて「都合によって」だ馬鹿者。

九州王朝説じゃあ通常4〜5世紀の鉄資源をはじめ半島の利権は九州王朝が独占。
故にそれを守る為に南下する高句麗とも派兵して戦った。

畿内ヤマトは蚊帳の外で、その分内政に専念できて国力を伸ばし
それが河内の巨大古墳…と言うのが筋書きじゃなかったのか?

半島との交易利権を独占し高句麗を敵に回し大暴れもした
…そんな勢力を九州の何処に見るのかって話だ。

まさかお前の考える九州王朝とは
「高句麗との戦いにもノータッチでした
 戦いの主体はヤマト王権下で編成された兵力で結構です」
…なんて事は言わないよな?

それじゃあそれこそ単なる地方の一勢力。

九州邪馬台国が何処にあったかも曖昧(考えてないのかもしれんがw)
その後の九州王朝の国家像も曖昧。

ただ単に九州に王朝があったと言いたいだけの、ただのボケ老人だ。

176 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 15:44:37
>>175
オマエの言うことは具体性に乏しい。どこが都合によるんだ? オマエの
紀無い説の都合に悪いからのいい加減な論評だ。それに相手を説得させる武器が
あまり無いから、悪口の言い放題で之を補強の材料にしているにすぎない。ww

九州王朝があって、古代の日本は大陸の諸葛亮の天下三分の計の名言の如く、
余が諸葛亮に代わっ天下二分の系だったことが真である。いわば畿内と九州との
二本立ての時代だったのだぜ。ニホン(日本)はニホン(二本)なり。日本だけ
一国だったとは、まぁオマエの脳内がインチキに固まってるということだ。半島
だって当時は一国ではないぞ。よ〜くオマエの脳内で想い巡らせろ。ww

177 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 15:54:16
※ここで吉備国と出雲国のみなさんが殴りこみ

178 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 15:57:00
倭は国のまほろば たたなづく青垣山隠れる倭しうるはし

倭は盆地以外に考えられない。

179 :水銀厨:2010/04/25(日) 16:11:46
>>138
>何故記紀に都合の悪い雄略、武烈の悪逆非道ぶりを
書いたのかね? ということは、そういうことにはなりませんぜ。

特定氏族の血統証明、天皇交代の理由付けの為でしょう。

180 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 16:15:18
>>177
東遷説だが、吉備にも出雲にも興味がある。
いろんな情報を書き込んで欲しい。
ついでに言えば、四国の様子も知りたいな。

181 :水銀厨:2010/04/25(日) 16:27:18
一部東遷らしき物はあるでしょう。
北部九州〜本州東部(日本海側)〜吉備というように。
特に丹生氏なんかは伊都から紀伊半島和歌山周辺まではきているはずです。

また九州王朝と呼べる可能性のある有力豪族も
間違いなく存在すると思います(伊都国王がその系統でしょう)

でも、3世紀末の倭人伝における邪馬台国の場所は、
瀬戸内東部周辺以外には考えられないですね。
倭人伝の記述を読む限りでは。

182 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 16:50:37
>>179
むしろ雄略、武裂の残虐記事を書かないほうが都合がいいだろうが?
どうだい?

183 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 16:55:36
記紀の編者が実証史学の徒と思いこんでるなら、相当のアフォだな。
時代性や時代背景を完全無視して、記紀の編纂が政治権力から独立して、
純粋に歴史の研究として行われたとでも思ってるのかね、フトクニは。

184 :水銀厨:2010/04/25(日) 17:05:54
>>182
逆にあえて書くのはそれなりの理由があったという事でしょう。
当然各豪族間の配慮等、様々な駆け引き等もある、
記紀等の情報取捨選択は。
各古文書に細かな相違点がある時点で当然の事。

卑弥呼が正式に記載されなくて注釈扱いなのも、
外交上の配慮、バランスをとっただけの事でしょう。

185 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 17:21:20
邪馬台国が畿内にあったにしろ九州にあったにしろ吉備の王権は日本古代史において大きな影響力を持っていたでしょうね
西から侵入して来た集団があったとすれば吉備の力無しでは畿内に入ることは不可能だったでしょう
阿波にも大きな勢力があったように感じられますが、これも吉備の影響下にあったように思われます


186 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 17:40:57
>>183
この前の某党議員の帳簿虚偽記載で彼らが逮捕されたように、紀にイカサマの
創作をすれば当時でさえタダではすまないんだぜ。しっかりしてくれよな。WW

そんなことをしでかせば、舎人親王らは公文書偽造同行使で彼らの政敵に垂れこ
まれて失脚、獄門だ。史実が分からなくなるから、当然朝廷の上部に睨まれて
身の危険が切迫する。大なる利害なんてあるわけないぜ。年代引きのばしを
したというなら、B.C.660年は随分中途半端な年代であり、当時の古代中国に負け
ないよう古くしたい気なら、三皇五帝の代よりも殷、夏の世よりも古くせねば
意味がない。だからこれはそういう動機で拡張をしたのではないということだね。

もっと他に原因があったと考察するのが真を知る。それで神武より古い神代は、
これは年月日が無いんだから史実なのか伝説物語なのかは判然としないから、
参考としか言えない。〜原因は他でもない。当時2倍年暦等を行使していたから
当時の天皇の寿命が見かけ上著しく大に見えるだけであって、実際は今の人間ら
と大差ない寿命だ。紀の年代は、オマエの盲象より存外に正確だぜ。WW

187 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 17:44:29
>>184
君の都合のいい解釈としか言えないね。都合が悪いほうを書かないんだよ。これ
が鉄則だよ。君の言うどこにこれを覆すほどの、雄略、武裂の悪事の都合のいい
として紀に載せるべき事由があるのかね? まぁ君の詭弁だよ。

188 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 17:45:40
卑弥呼の時代が古墳時代だとする考えによると、その後の大和朝廷まで一貫して
権力が続くのかな。
今の畿内説は、「万世一系」をより古くする皇国史観ってこと?


189 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 17:50:11
>>188
巨人、大鵬、卵焼き、畿内節です。古代史はなんでも畿内にしなければ
気が収まらない。野球は巨人贔屓でなければならぬ。相撲は大鵬でなけ
りゃならないとかの〜先に畿内だとの結論ありきです。

190 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 17:58:51
悪い天皇がいたことを書くことで今の天皇が善政をしていることを強調したかったのだろう。
誰でも思いつくことだが・・・

191 :水銀厨:2010/04/25(日) 18:56:00
>>187
>君の都合のいい解釈としか言えないね。

悪いけどそのままお返しします。

>>188
それは違いますね。
ヤマトを舞台に有力豪族間で争いが続いたというだけです。
私はそれを丹(水銀朱)の争奪戦だと思ってますが。
4〜5世紀は大陸で丹の需要が高まりますからね。

桜井での市の名前の由来が海柘榴市(柘榴石)、
椿市(赤い石=辰砂)という点でも推測できる事です。

192 :アク禁解除記念:2010/04/25(日) 20:18:30
呉からは、呉服や呉竹、呉楽、呉橋などが伝わり、今も日本語に残っているのに、
魏が付く日本語はほとんどないですよね?
いくつか原因は考えられますが、最大の理由は
邪馬台国とヤマト王権が繋がっていないからではないでしょうか?

他にも、
1.魏に鬼が使われているので嫌われた
2.呉人が大量に渡来した
3.後の時代にも呉国があった
などの理由が考えられますが、「親魏倭王」を授かったのですから、
もし連続しているのであれば、もう少し日本語に残っていても良いと思うのですが、
どうでしょうか?

だからといって、邪馬台国は九州だと結論付けるわけではありません。
畿内にあった邪馬台国がヤマト王権に滅ぼされた可能性も否定しませんし、
邪馬台国が狗奴国に滅ぼされた可能性も否定しません。
東征説も否定しません。あらゆる可能性があると思っていますが、
邪馬台国とヤマト王権は繋がっていないような気がします。

193 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 20:24:12
単に画数が多いからじゃねの?

194 :水銀厨:2010/04/25(日) 20:32:13
邪馬台国とヤマト王権は繋がってないかもしれません。
でも地理的に邪馬台国の場所は瀬戸内東部周辺だと思います。

今の所3世紀末に丹の採れた山があったのは
痕跡上この周囲でしかありません。
この先他に見つかる可能性は否定しません、
でも徳島や紀伊半島以上の痕跡が見つかるとは
思えません。

195 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 20:33:45
>>192
面白い視点だと思うね。
卑弥呼の時代→「魏」語は残存しないが、「呉」語が残存する
平安時代→「唐(から)」語が残存する

196 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 20:43:19
邪馬台国とヤマト王権がつながっていないのではないかという意見には同感ですね


197 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 20:52:14
楯築遺跡亀石の弧帯紋

亀石には、不思議な模様が描かれていた。
あまり注目されていなかったこの石の模様が、
後に纏向遺跡で発見された円盤の模様と一致する事がわかり、
吉備と纒向の関係が一躍注目されるようになった。

198 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 20:54:20
「こま」は高句麗だっけ

199 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 20:55:30
大和地方には前方後円墳に直接つながるような構造、
埋葬品を持つ墳丘墓が見当たらず、3世紀中頃から
突然前方後円墳が盛んに造られるようになったのは、
やはり吉備や出雲、九州などからの新勢力の移住が
あったと見るのが妥当である。

200 :アク禁解除記念2:2010/04/25(日) 21:00:55
>>192 続き
「倭」に連続性があるという反論もあるかと思いますが、
それは、阿曇氏(安曇氏)のおかげではないかと思います。
国は滅んでも海人族は絶えず、大陸・半島との渡航に支障がなく、
倭人としてのアイデンティティはあったのだと思います。

>>193
それもあるかもしれませんが、
それより、中国の王朝は頻繁に入れ替わっているのだから、
日本の王権も交代があったと考える方が自然ではないでしょうか?

ちなみに、私自身は皇室存続に大賛成ですが、
それと邪馬台国は別の話だと思っています。

>>194-196
ありがとうございます。

201 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 21:06:20
素人目には何となく前方後円墳というのは
柱を一本立ててそれを頂点とした二等辺三角形と
同じ柱を中心とした円とをロープなどで描いた形なのではないかという感じもします
柱にロープ、どことなく海洋民族の香りのする墳丘です
かの大仙陵古墳も海から見えるところにつくられたのでしたね


202 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 21:19:52
>>190
ものは言いようだな。そのへらず口は詭弁の見本だぜ。w

>>191
オマエの恣意的抗弁さ。

203 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 21:23:23
九州説の次は阿曇氏説ですか
次から次へとよく湧きますね

漢氏と書いて「あやうじ」なんて一族がありますね
「漢」と書いて「おとこ」って読んだりするし。
(古代の漢民族は「漢」だったんでしょうね〜)
中国で政権交代しようと、日本での漢民族の呼び方は変わりませんよ
漢が魏になったって知ったこっちゃないw
かつ、協定を結んだという程度のことであって、
技術や文化は、魏から輸入するほどでもなかったんじゃないですか?

「越」「呉」は日本にも縁の者が多く渡来していますね。
名前が残って当然です。

「唐」は鮮卑の国であり、支配民族が違う訳ですから。
鮮卑とのコネがある者は「唐」の後ろ盾をアピールしたがったでしょうね。

204 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 21:23:51
>>190
じゃぁもっと全部大悪天皇を造れば、なお今の天皇が善政を敷いて
いることになるぞ。なぜそうしないんだね?w

205 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 21:30:31
>>203
邪馬台国畿内説と邪馬台国滅亡説は矛盾しませんよね。
阿曇氏説は余計だったかもしれませんが、私は九州説ではありません。

206 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 21:32:06
>>204
それがバランスという奴ですw
君みたいな極端な奴には理解できないかもね。

207 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 21:32:21
>>205
邪馬台国滅亡説ってどんなのですか?
内容が分からないのに、矛盾も何も判断しようがありません

208 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 21:35:53
>>207
例えば畿内を舞台に「国譲り」的な事があったかも
しれないですよ。

209 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 21:36:43
>>206
だって、全部雄略武列のような大悪天皇として紀をこさえれば、なおさら
今の天皇が君の言う善政を敷いていることの印象が強固になるではないか。

これこそ今の天皇のさらなるバランスになるだろう?w 

210 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 21:39:11
>>208
かもしれないかもしれない、邪馬台国は九州かもしれない、
いやいやうちのご先祖様がアマテラスかもしれない。
ハイハイそうかもしれないですね。としか言いようがないですよ。

211 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 21:43:25
>>206
全部当時の天皇を大悪天皇として紀をこさえればこれは多大なマイナスに
なるわけだが、今の天皇の善政がそれに反比例してプラスになり、
オマエの言うさらに高度でのバランスが出来うることになる。この全部を
大悪天皇としての記述をすればなおさら今の天皇の善政が強調されるわけ
だから、オマエの言い分はなおさら通るはずだが、バランスもより高級の
+-となって来れるのに、何故そうしてないのかね? オマエの主張の
おかしな点がこれなんだよ。w

212 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 21:45:23
>>211
まず文章を整理してからどうぞw

213 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 21:45:38
>>207
>>192にも書きましたが、
1.畿内にあった邪馬台国が後から来たヤマト王権に滅ぼされた
2.畿内にあった邪馬台国が狗奴国に滅ぼされ、ヤマト王権は後の時代に成立した
などが考えられます。
もちろん、畿内以外の可能性も否定しません。

>>208
フォローありがとうございます。

214 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 21:46:53
>>210
〜説というのはそういう物です。

215 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 21:50:47
>>213
そんな曖昧な事柄を否定できるわけありませんね。
もっと具体的にどうぞ。
→1.そのヤマト王権はどこから来たんですか。
→2.そのクナ国はどこにあり、あとから成立したヤマト王権は
どういった人達が作ったものなんですか。

ねちねちと尤もらしい言葉で絡んで、気持ち悪い。

216 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 21:53:29
>>215
君の反応も性格が出てますよ、悪意で歪んでますw

217 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 21:55:35
>>201
前円後方墳か?方でなく三角だね。前三角後円墳か前方後三角墳。
変換が大変だったけれど面白いよね

218 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:21:04
北極生まれの大きな体 手足をひっこめ回転ジェット 

219 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:22:05
>>193
日本書紀にはさ、六朝の国をみんな「呉」って書いてあるんだよな。

だからじゃねーか?

220 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:42:28
「国譲り」って、なんだか都合よく使われますけど・・
例えば、出雲の国譲りというのは、
出雲国の統治権を譲るということであって、土地を譲ったわけではないですね?

記・紀には、高天原(大和国?)から出雲国へ何度も使者を送ったが
帰って来なかった、という話が書かれてます。
浦島太郎を彷彿とします、「龍宮城へ来てみれば、絵にも描けない美しさ」

大和国が出雲国から得たいものは、質の高い衣服と住まいだったはずで、
そのためには、出雲人を殺したらだめなわけです。
無理矢理攻め込んで征服しても、素敵な服と建築は手に入らない。
だから何度も何度も使者を送り、説得した結果が「国譲り」。

タダで譲ってもらったわけはないですよ。
私は、山城の地を開拓することが交換条件だったと考えてます。

221 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:43:18
呉は、軍事力は持たないから中国に王朝が新たな王朝が起こるたびにその属国となったけれど、
元々貿易で成り立っている商都だから、内陸の国より海を隔てた海外との繋がりのほうが強かった。
鏡でも銅鐸でも勾玉でも真珠でも売れるものなら何でもどこからか手に入れて売っていたのではないだろうか?
だから、倭国の取引相手は後漢でも魏でも晋でも唐でも随でもなく、いつも呉だったのだ。


222 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:49:27
>>221
呉の人たちは、工芸品の優秀な生産者だったんでしょうね〜

223 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 23:11:46
ヤマト王権は呉との交流があったとしたら邪馬台国とは別物の可能性は高くなるね

224 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 23:20:32
むしろヤマト王権は、倭の五王時代に敵国の高句麗と交流があったから、
高句麗と関係の深いの畿内王権として考えるべきでしょう。

当然、邪馬台国や倭の五王とは無関係ですね。

225 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 23:22:14
>>223
>ヤマト王権は呉との交流があったとしたら

なんかカン違いしてねーか? それともわざと言ってんのか?

226 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 00:06:14
ヤマト王権が連合政権だとしたら主導権を握る国が変われば外交方針も変わるんじゃないかな

227 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 00:27:24
俺は「公孫氏」滅亡が原因で、邪馬台国連合の版図を拡大させたと見てる。つまり、238年以前の畿内には纏向
を中心とし、瀬戸内と東海が結びついてできた(原)邪馬台国があり公孫氏とよしみを通じていた。そして北部九
州の勢力はそれとは独立していた。ところが公孫氏の滅亡に際し、伊都国あたりが仲介の労をとって魏への通行
を実現させた。・・・こう考えれば解ける疑問も多いんじゃないかと思うけど、ダメかな。


228 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/26(月) 01:01:29
>>192
>>221
以下の仮説ではいかかが?

最初に交流があったシナの国が呉であったから。

最初に呉と交流のあった国は狗奴國 
狗奴國と敵対する邪馬壹國は対抗上魏と繋がる。

邪馬壹國は衰退し、狗奴國が引き継ぐ。(AD400年前後)
邪馬壹國を引き継いだ狗奴國は、倭の5王の倭國となる。

呉は既に滅んでいたが、この時シナを呉とする習慣ができた。
呉地のシナ(南朝)からの文化的影響は6世紀末迄続いた。

その後も呉地との交易は20世紀まで続いた。
倭が日の本の方向であるなら、呉は日の暮れる方向。

229 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 01:01:45
公孫氏滅亡は邪馬台国だけでなく、東アジア情勢を覆す出来事だったと思う。
邪馬台国連合ほどではないにしても、畿内にはヤマト王権へと繋がる首長国が点在していた可能性がある?

230 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 01:03:46
ってゆーか弥生人は呉から来たと思ってた☆

231 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 01:05:02
>>226
当然変わると思います。

232 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 01:21:26
ほんで実際どういうふうに変わったのー?

233 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 01:21:36
>>230
中国では五王の時代まで倭は呉の末裔と考えられていたらしい。
ヤマト王権が畿内に成立してから呉の末裔じゃなくなった?

234 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/26(月) 01:22:37
>>230
弥生人の主力が呉地からやって来ていたからこそ、
倭は春秋の呉成立以来の交流があったのだ。

倭人は呉の太伯の子孫である。(シナの説)
つまり魏志倭人伝の3世紀より遥か以前に呉地と倭の
東シナ海を越えての直接交流があったのだ。

235 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 01:26:45
逃げてきたんでしょ。
危険な航海までして戻るか?

236 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 01:32:00
>>234
>東シナ海を越えての直接交流があったのだ。

意味を考えずにペーラペラしゃべってるだけって事が、よく分かる一文ですねw

237 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 01:55:07
中国には斉の徐福が神武天皇であるとする説もあるよね。

青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されているのは、
戦国〜秦の時代にかけて、中国の戦乱を逃れて日本各地に移り住んだ人々なんだろうか?

238 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/04/26(月) 02:58:14
>>235-236
九州西海岸と東シナ海のシナ沿岸部の往来は、
季節風と黒潮を利用すれば難しくはない。
簡単な帆掛け舟で十分。

春から夏は九州西海岸からシナ東海岸に渡り、
秋はシナ東海岸から九州西海岸に渡る。
ルートを南に取りすぎた場合は黒潮が自動的に九州西海岸に押し戻してくれる。

では遣唐使の帰還率が2割ほどしかなかったのはなぜか。
畿内朝廷の操船能力が低かったからではない。
難波から坊津までの外洋操船技術はあったのだ。
難波⇔坊津間と坊津⇔シナ東海岸間の洋上実質距離はそれほど変らない。

難波からシナまで、行きはよいよい帰りが怖い。
何故帰りだけが怖いのか?
シナ行きは坊津から風に乗り出航すれば邯鄲にシナに着く。
帰りのシナから坊津に目指すには風に乗り東南方向に舟を出す。
最後に黒潮(對馬海流)に乗り北へ方向修正をし薩摩大隅南岸に到着。
南に進路をとり過ぎると琉球に行ってしまい日本には戻れない。(その様なシナの坊主がいたね)
北寄りの進路を取ると、黒潮に北に流され、坊津沖を北に通過する。
到着するのは肥前肥後の西海岸(九州西海岸)となる。
そこには九州王朝の残党水軍(肥水軍残党)が待ち受けており、
遣唐使団は捕獲され罪人となり、全員が殺される。つまり死罪となる。
遣唐使団は、大和朝廷が九州王朝残党にしたのと同じことをされたのだ。
肥軍(肥人)は、九州王朝最後の天皇薩末比売に付き従い、
最後まで大和朝廷軍と戦った忠義の集団でもある。(続日本紀参照)



239 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 03:00:08
>>230
>弥生人は呉から来たと思ってた☆

呉じゃなくて越だそうです。

戦国時代、越王・勾践が呉王・夫差を滅ぼしたあと、山東半島の琅邪に都を定めました。
その後、越は楚に滅ぼされましたが、それまでの一世紀半の間に半島に渡った人もいたでしょう。
それから、故知の気候・風土に近い列島に渡ってきたんじゃないかというんですね。

240 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 06:50:07
>>229
>畿内にはヤマト王権へと繋がる首長国が点在していた可能性がある?

あったと思いますよ
そしてその規模はわずか30か国しかない邪馬台連合よりも大きなものであったかもしれません
それはきわめて平和的で縄文的とでもいいますか九州よりもはるかに高度な文化を持つ国々であったように思われます
出雲から丹波、越、畿内には中国東北部や朝鮮半島東部から日本海を越えてやって来た人たちがいたでしょう
いわゆる銅鐸文化はこれではないかという感じがします、今でも瀋陽近郊ではこれに似たものが軒先に吊るしてあるのを見ます
九州には呉、江南、朝鮮半島南部、あるいは南方の島々から入って来た人たち、いわゆる倭人がいたでしょう
このふたつの流れが融合して日本という国が誕生したもののように思います

241 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 08:54:16
>>240
しかし弥生中期の時点で漢人は北部九州、瀬戸内経由でも
畿内の河内には入ってたんだろ?

貨泉等が出土している加美遺跡周辺の状況を見る限りは。

242 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 10:57:26
>>187
亀かつ横レスで済まんが、だから編纂者にとっては雄略、武烈の悪事を書く方が都合が
よかったんじゃないの?今の基準と同じであるとは限らないし、そもそも当時の編纂者は
後年このような一般人が記紀を読むとは想像すらしてなかったのではないか?

現在の我々の感覚で決めつけるのはよくないと思うが、いかがなものでしょう。

なお、ではどのような意図か?と聞かれても、わたしは編者ではないのでわからん。

スレ汚し失礼。

243 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 12:34:23
何回か移民ブームがあったっぽいですね
適当に書きますが

縄文・えみし 南方から?

呉(華南) 越に負けて逃亡。逃げるが勝ち。西日本一帯に広がる
越(華南) 楚に(ry。呉人にブーイングされ北陸へ。

燕・斉・趙(華北)
秦に下るが、苦役から逃亡。九州北部の国はこの人達では?

その後、半島からの移民ブーム。

244 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/26(月) 14:07:09
>>242 インチキ抗弁ご苦労!
之は都合が悪いんだよ。都合いいなどと、オマエの詭弁だね。著しく都合が
悪いと利害甚大をなっていくために、記載を隠匿のため隠すことがあるわけさ。
それでもいいと言うなら、オマエこれから以後有コテで書きこめ。

245 :ローガン:2010/04/26(月) 14:15:44
紀では南朝が呉、北朝を唐と書き分け。

246 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 15:25:38
>>244
何言ってんの?187を読めよ。
都合が悪い方を書かないって言ってるのはお前だろ?逆説的に、書いてると言うことは
都合がいいことになるはずだが?

ただ、何故都合がいいのかまでは知らん。何らかの事実を隠すためなのかも知れないし、
それ以外の何かかも知れない。

それと、ちょっとしたことであんまり興奮しない方がいいぞ。過去ログを全部詳細に読んだ
わけじゃないが、前に日食の件でアホなこと書いてたしな。夜に日食が起きてもわからな
いってことぐらい知ってるだろ?

247 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 15:58:30
太国は興奮すると何言いたいのかさっぱりわからんからな。
ネット上では主旨を整理してから書くという
最低限の事を守らないから議論にはならない。

248 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 16:02:10
太国は木をきる ヘイヘイホー ヘイヘイホー

こだまは かえるよ ヘイヘイホー ヘイヘイホー

唐松山 はたを織る トントントン トントントン

気だてのいい娘だよ トントントン トントントン

太国 太国 もう日が暮れる

太国 太国 唐松山が呼んでいる ホーホー ホーホー

249 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 16:09:43
1 月が出た出た 月が出た(ヨイヨイ)

 九州王朝の 上に出た

  あんまり古田さんが 偉いので

  さぞや畿内説は けむたかろ(サノヨイヨイ)


2 あなたが畿内説を いうのなら(ヨイヨイ)

 思い切ります 別れます

 「邪馬壱国」を読む前に

 返してくれたら よいけれど(サノヨイヨイ)


3 一山 二山 三山 掘り(ヨイヨイ)

  纏向邪馬台国と いうけれど

  なんぼ色よく 捏造しても

古田さんが認めにゃ 仇の花(サノヨイヨイ)

250 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 16:25:49
また畿内説がファビョリ始めたか。

251 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 16:29:17
東遷を否定された この悔しさは忘れはしない

2chを旅して 目についた

このスレ必ず 支配する



252 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 17:12:40
畿内説は学問ではなく宗教

253 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 20:08:13
犬国の狂人ぶりは今に始まった事じゃないんだろうが

古代史の知識の多寡云々言う前にきちんと最低限の理屈を構築できる知能を持ってから
書き込むようにして欲しい物だ。

>> 犬国 ◆yVAs7uaYlY
>このことは五王が天皇ではないことを物語るのだ。つまり五王は九州王権の王である。

先ずこのスタートからして狂っている。

中国史書の五王を記紀の天皇に当てはめるのが困難で諸説ある
…と言う事が九州王朝にストレートに繋がらないのは子供が考えても分かる。

九州王朝の王統譜を伝える物があり
それに当てはめれば記紀よりすっきりすると言うのなら兎も角だ。

254 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 20:17:04
この板の邪馬台国スレの癌の双璧の一つ「九州王朝説」
まあ電波としか言いようが無いが

それでも登場した歴史的な意義を考えるなら

恐らくガチガチの「ヤマト中心主義」みたいなものに対しての
一種アンチ・テーゼとしては意義があったんだろうか?

少なくとも愉快さ痛快さみたいな物があったから大衆に支持もされたんだろうと思う。

が、今日聖徳太子は紙幣から消え去り大化の改新(乙巳の変)も
記紀が伝えるような勧善懲悪劇と見るような向きも疑問視され
初期ヤマト王権も「ゆるやかな連合体」とか言われる今

「九州王朝説」ももはや学術的には無論
大衆の興味を引く物ですらなくなって来ているんじゃないかと思う今日この頃w

255 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 20:22:08
大衆ではなく、暇をもてあました老人の興味を引くんだろな。逸年号とかw それらしいものを文献から拾い出せれば
サークル内で認められるし、九州王朝の根拠を示す(トンデモ)論文(内輪の雑誌にしか載らない)の一つでも書けば
仲間内では名士。・・・まるっきり新興宗教のような構図になってる。

256 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 20:25:35
山田いこく最高!

257 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 20:27:47
俳句とかも老人サークルでは盛り上がってるけど、これは作品そのものの力が問われるわけだし、仲間誉めは
あるにしてもよい趣味といえる。ただ、九州王朝のような意味のないものに最後までかかずらって死んでゆくのは
どうなんだろうね。w まあ、好きでやってることだからいいんだけど、できればお仲間内だけに留めておいてほしい
ところ。ww

258 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 20:40:40
いつも不思議なんだけど、
畿内説論者っていうのは、なんで情緒的なんだろ。
つまり理性的でないということね。

259 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 20:44:07
>>258
どこがどう「情緒的」なんか論理的に説明するべきだね。
「なんとなくそう思う」じゃなくてね

260 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 20:45:15
>>258
んじゃお前がコテになって論理的に九州説を書いてみろや、このボケカス。ww できないんだろう。ww

261 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 20:47:23
ところで
近江は「淡海(あわうみ)」の転だと言う。本当にそうでしょうか。
>>170のように、
伊都国が近江にあり、入国管理局などの行政を担当していたなら
相当の権限があり、当時の身分制度で高位を与えられたはず。
「近江」とは、臣(おみ)または大臣(おおおみ)、ごくシンプルなオチ。

さて、近江と対を成す土地名に「遠江」があります。
近江が臣だとすれば、遠江は「遠つ臣(とおつおみ)」、
ここもまた「伊」が置かれた土地ではないでしょうか。
徳川四天王・赤鬼こと“井伊”直政がここの出身でもある。

さて、ここでまた思いつくのが、忌部(いんべ)という姓。
「もののべ」が物作りの姓なら、「いんべ」は当然「伊」の姓。
この忌部氏、中臣氏と対立してた。それってどんな蘇我氏。。
蘇我氏が「伊都国」の長だったなら。

262 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 20:48:42
>>258

> つまり理性的でないということね。

ん?太国って畿内説だった?

263 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 20:49:09
もうそろそろ、畿内説のファビョリは済んだか?

264 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 20:50:08
>>258
近畿説の「ホンネ」。
情緒的で罵倒しかできないのは関西人の強烈な差別意識の露呈ですね。

265 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 20:53:20
畿内説は突っ込みどころ満載(笑)だけど、直ぐに暴れるから、適当に弄くって遊ぶのが楽しい。

266 :261畿内説:2010/04/26(月) 20:54:31
>>265
突っ込んでよ。

267 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 20:56:17
>>264
なんで 畿内説=関西人 なんだよ? 論理的じゃないのはお前だろボケカス。ちなみにわたくしは
畿内説で茨城県民でございまする。

268 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 20:58:24
264には「差別クン」というコテ名をつけてやろう。今度からこの名で書くんだぞ。w

269 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 21:00:58
とりあえずここで九州王朝説で「倭の五王」ネタ言ってる奴は

それが九州邪馬台国にどう繋がるのか?説明してみろ。

特に「邪馬台国論争」と言えば、殆どその位置が問題にされているわけだが

九州王朝五王のいた場所は何処なんだ?
それは九州邪馬台国と同じ場所なのか?
移動しているのか?していないのか?そう断ずる理由は?

単に九州王朝説を語りたいなら専用のスレでやれ

ゴミはゴミ箱に。

270 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 21:03:08
テレビで見て邪馬台国は畿内にあったと思ってたんだけどここ見てると何かちがうような気がしてきた。
畿内説のヒトって難癖つけたり人を馬鹿にしたりが多いよね。
自信がないのかな。関西人としては畿内にあったほうが嬉しいんだけど。


271 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 21:05:39
>>266
ん〜、情緒的でキモいし困ったな。w

>>267
どうでもいいけど邪馬台国が畿内に存在した根拠は?

272 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 21:11:03
騎馬民族征服説というのは、戦後日本人が持つ複雑なコンプレックスが追い風になったんだろうけど、
九州王朝というのはなんだろうな?精神病理学の題材としては興味深いが。

273 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 21:18:13
>>268
多分、サイキバ君だと思うがw

274 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 22:07:27
>>270
けど、ここをざっと読んで一番難癖つけたり、人を馬鹿にしてる印象あるのって
太国だから、畿内説のがまともに見えてるのだが・・・

オレも関西だから畿内にあって欲しいけど、今はみんなの議論を読んでる方が
楽しいかな?邪馬台国がどこにあったかより、その後どうなって大和朝廷が成立
していったかの方が興味あるかも知れん。


275 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 22:31:17
でも太国には愛嬌があるから、今のままでいい

276 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 22:42:39
むしろ畿内廚は太国に噛み付くだけのかませ犬かと。ww

277 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 22:45:13
>>272
九州王朝説というのは、ある意味、邪馬台国論の原型ともいえる。
元祖は本居宣長。その後は明治期まで主流だった。

しかし、基本的に年代観がおかしい。卑弥呼の時代が神功皇后の時代に重なる
とされる記紀の年代観を基にしている。

本居宣長は、倭人伝の行程の記述から邪馬台国は九州が妥当と思った。
しかし、九州に倭王がいてはおかしい。倭王なる存在は大和にいなくては
ならない。しかも、大和朝廷の人間が、魏に朝貢などするはずがない。

そういうことから、九州の女酋が神功皇后の名前を騙って魏と通行したと
考えた。

この考えが近年になって発展したのが九州王朝説だろう。
だから、九州王朝説は畿内説とはけっこう近い。東遷説とは遠い。

なのに、九州王朝説を感情的に批判するのは畿内説が多いのが面白い。

278 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 22:52:57
>>277
まったく同感です
畿内説の方々が九州王朝説を批判するのにはいつも違和感を感じます

279 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 22:54:56
>>264のような奴(サイキバっぽいが)は関西に対して
コンプレックス・差別意識・対抗意識でも持っているんだろうか?

ぶっちゃけ関西の人間にとって邪馬台国畿内説なんて
それはヤマト王権の始まりが早まっただけの話で

「おらが国の誉れ」と言う感覚は無いと思うが・・・
(無論関西人も色々だろうが)

まあ奈良は今は遷都1300年祭の最中だがw


280 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 22:56:32
本居宣長の頃は神代文字なるモノが作られたよな。
勿論、江戸時代の捏造だが、邪馬台国ブームの凄さを物語っている。

281 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 22:59:08
奈良遷都1300年ということは、平城京が出来たのは西暦710年か。
平安遷都は794年だから、平城京はわずか84年ということなのかな。
意外に短い。

282 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 23:02:58
>>280
うん。邪馬台国ブームは、昔から定期的に訪れるみたいだ。
なんか、時代の背景があるみたいだが。

283 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 23:03:29
このスレでは、感情ムキだしの畿内説をチクチク突付いて遊ぶのが醍醐味かと。

284 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 23:11:09

>九州王朝説は畿内説とはけっこう近い。東遷説とは遠い。

無知蒙昧のボケか

畿内説の天敵が九州王朝説なのを知らないのだな。

畿内説は九州王朝説に尻尾を巻いた犬状態なのを知らないらしい。

285 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 23:11:29
>282
邪馬台国ブームなんて60年代の松本清張が仕掛けたもの以前にあったのか?

一般大衆にどれくらい認知されていた物やら…

「内藤VS白鳥」とかの学者同士の論争なら誰でも知っているだろうが
じゃあ戦前に畿内説の学者と九州説の市井のマニアが激しく論争したなんて
あまり聞いたことも無いが・・・

286 :神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/04/26(月) 23:32:36
九州王朝説とは「小さいオジさん」の王国に過ぎないのです。いらないから事業仕分けしなさい。

287 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 23:36:07

■「弥生文化、もっと多様」高島忠平さん講演

朝日新聞 2010年04月26日
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000001004260002

 吉野ケ里遺跡発掘を指揮した研究者で、佐賀女子短期大学理事長の高島忠平さんが25日、西都市の県立西都原考古博物館で講演し、
 「弥生時代の文化はどこかに中心があって広まるのではなく、地域ごとに独自の文化があったと多極的に見ていくべきだ」
と、中央集権的な邪馬台国像の修正を訴えた。

  高島さんはまず、宮崎、鹿児島両県に多い弥生時代の住居跡(花弁形住居跡)が、南九州より早い時代の佐賀県の遺跡で見つかっていることを紹介。
また、稲作で使う石包丁が北部九州だけでなく宮崎でも多数出土していることを明かした。
稲作が九州の南と北に伝わったと考えられるとも述べ、中国や朝鮮半島との交流が地域ごとに盛んだったとの考えを示した。

  高島さんは
 「弥生時代の研究者の大部分は、近畿と九州に文化の二極があり、ほかの地域に波及したと考えるが、発掘の成果を見ると、地域、地域で独自の文化を持っていたと言わざるを得ない」
と述べた。

・高島忠平さん
http://mytown.asahi.com/miyazaki/k_img_render.php?k_id=46000001004260002&o_id=3752&type=kiji

288 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 23:44:56
>>287
そうそう。
邪馬台国には通訳がいた。
九州の国はシナ人の国だった。
だから中国史にも記録が残った。
それだけのことだ

289 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 23:45:54
>>287
>高島さんは
>「弥生時代の研究者の大部分は、近畿と九州に文化の二極があり、ほかの地域に波及したと考えるが

和辻の時代じゃあるまいし…

大丈夫かこの先生w

290 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 23:49:34

■田ノ浦遺跡の調査結果を解説

中国新聞 '10/4/26
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201004260017.html

 山口県埋蔵文化財センター(山口市)と上関町教委は25日、中国電力の原発建設予定地の海岸にある田ノ浦遺跡(同町長島)の発掘調査報告会を町内2カ所で開いた。
大分県姫島産の黒曜石を加工した縄文時代の石器など出土品も披露。瀬戸内海の海上交易が盛んな集落だった―との報告を解説した。

 同遺跡の調査は中電が委託し2回目。前回と異なるエリア約1100平方メートルで昨年1月から今年3月まで実施した。
縄文〜平安時代の生活跡を確認し、ドングリ貯蔵穴など遺構100カ所以上、土器片など遺物約13万点を見つけた。

 四代ひなの里よりあい館、町中央公民館の2カ所で計約90人が参加。センターの谷口哲一文化財専門員は、黒曜石製の石鏃(せきぞく)や香川県産の安山岩を加工したとみられる石匙(いしさじ)などをスライドで紹介し、
 「原石や製作時に出る石片も多数出土した。船で材料を取り寄せて加工し人の交流もあったとみられる」
と指摘した。

 縄文時代のドングリ貯蔵穴は13基確認し、発見は県内2例目と報告された。中電に調査を指示した県教委は、遺構の保存状態が悪いため記録保存が妥当と判断。遺跡は埋め戻されている。

【写真説明】田ノ浦遺跡から出土した縄文土器などを見る参加者
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn20100426001701.jpg


※参考: 「まいぶん山口」サイトから

・田ノ浦遺跡(上関町)
http://www.y-maibun.jp/kikakuten/2010/03/2009tanoura.html

291 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 23:54:04
>>284
それは感情的な対立だろうな。

九州王朝説も畿内説も、卑弥呼の時代に畿内に大きな勢力があったと考える
点では似ている。畿内説は当然、邪馬台国になるわけだが。
東遷説は、卑弥呼時代に畿内に見るべきものはなかったと考える。

292 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 23:55:05
>>279

> ぶっちゃけ関西の人間にとって邪馬台国畿内説なんて
> それはヤマト王権の始まりが早まっただけの話で

実際そんなのが結構いるかもね。オレもだし。
最終的に畿内に落ち着いたわけだから、つまりは日本を統治するのに
畿内がもっとも都合がよかったんだろうってことになるしね。


293 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 23:56:30
>>281
え・・・小学校で歴史を習わなかったのか?

294 :水銀厨:2010/04/27(火) 00:14:57
私も畿内説ですが九州王朝は否定しませんよ。
伊都国がその系譜だろうという事で。

295 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 00:22:05
畿内説なら琵琶湖周辺に伊都国が存在するはず。
琵琶湖を渡って魏に朝貢した可能性も捨てきれない。

296 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 00:28:55
魏志倭人伝だと、伊都国は邪馬台国の北に位置するから金沢が伊都国?
福岡だと遥か西になるから、畿内説そのものの辻褄が合わない。

297 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 00:39:22
>>295
滋賀県伊香郡だよ
福井から滋賀に入って、湖西と湖北に分岐する所。
ド田舎なのに、無茶な数の古墳と仏像がある
ttp://www.t-webcity.com/~pipedan/other/newpage69sigatakatuki-kannonnosato.htm

298 :水銀厨:2010/04/27(火) 00:42:47
>>295
色んな可能性を追求するのは結構ですが
〜説ならこうだという押し付けは辞めた方がいいですよ。
少なくとも出土品や遺跡での説明がつかないと。

この時代に正確な地図など存在しない以上、
投馬国や邪馬台国は単に南の方にある国という程度での
大まかな記述だと思いますが。

299 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 00:44:56
>>298
伊都国は何処に存在したの?

300 :水銀厨:2010/04/27(火) 00:54:21
>>299
北部九州の何処かだと思います。

301 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 00:56:15
>>300
伊都国の南に位置する邪馬台国は何処に存在したの?

302 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 01:00:34
せめて魏志倭人伝に、大阪国(ダイハンコク)とか大阪女王(ダイハンジョオウ)の記載があればよかったのに・・orz

303 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 01:04:32
>>298
投馬国は滋賀県野洲市です。
ちなみに数年前に全国高校サッカー選手権で優勝した、野洲高校があるとこ
小柄ですばしっこくて明るい子が多い。つまり倭人の里^^;

日本一大きい銅鐸が出土したり
ttp://homepage1.nifty.com/~sakuranamiki/room1aa1.htm
高倉床式倉庫の遺構、なんかも発見されてます
ttp://yasu.biwakokasen.go.jp/kurasi/iseki/index.html

304 :水銀厨:2010/04/27(火) 01:04:43
>>301
私は淡路島から阿波を含む紀伊半島にかけての国だと思ってます。

方角についてのズレは勿論認識していますが
南に水行10日、陸行1月では正確な位置が
特定出来ないというのが持論です。

また70000戸(推定40万)という人口を持つ
広さの国ならこれ位だろうとも思いますしね。

投馬国は九州中部以南の国だと想定しています。

305 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 01:07:27
>>297
ちょww伊都国の古代遺跡から仏像!?
これは邪馬台国が琵琶湖を渡って魏に朝貢した見返りでした。ww



306 :水銀厨:2010/04/27(火) 01:07:55
>>303
投馬国は50000戸(推定30万)ですよ?

307 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 01:09:39
>>306
こりゃまた古代人のハッタリを真に受けて〜

308 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 01:12:25
>>305
仏像は古墳から出たわけじゃないしw

魏の使者が来た後も、ここは交通の要衝であり続けたはずだから、
飛鳥時代くらいに作られたんじゃないの

309 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 01:16:30
>>308
話を纏めると、魏の使者も琵琶湖を渡って伊都国へ訪れていた?

310 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 01:20:06
>>309
いや伊都国を訪問してから琵琶湖を渡るんよ
AAの地図作ろかな

311 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 01:24:50
>>297の伊都国から、仏教大好き蘇我さんが出たのよ
だから仏像がアホほどある

蘇我さんは関所の番人だから、不法入国したい一派に消された。
そして伊都国は寒村になってしまいました>_<


312 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 01:28:56
伊都国は前原市周辺だろうけど、対馬海流を利用した日本海ルートで、若狭湾から上陸して荷を陸揚げし
琵琶湖を渡って京・大阪にいたる道は古代からあった。どこまで遡れるかはわからないけど。


313 :水銀厨:2010/04/27(火) 01:41:07
滋賀県野洲市周辺は勿論重要でしょう。
三上山は日本海からの水運ルートで
ランドマークとなるでしょうし。

傍国の一つ(鬼奴国辺り)だと思います。

314 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 01:54:15
一口に大和川水系というけど、やはり古代船で川を逆登るのは容易ではないんだよな。312で書いたルートは
琵琶湖から淀川を下るので、荷の陸揚げという点を考慮したとしてもそう困難なルートではないんだ。

315 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 02:02:47
>>314
何を言いたいのかよく分からんけど
瀬田川〜宇治川〜淀川を船で下るっていうのは聞いたことない

荷は宿場のある草津で陸揚げするのが定番と思われ
ttp://www.shochian.com/yabase.htm

316 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 10:18:22
>>291
九州王朝説だと畿内の勢力が大きくなったのは古墳時代の後期になってから。
邪馬台国の時代の畿内は国邑は在っても大きな存在ではない。


317 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 11:17:12
だから九州王朝説は妄想にすぎないという事です。

318 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 11:45:19
>瀬田川〜宇治川〜淀川を船で下るっていうのは聞いたことない

河内湖がある時代なら普通にあったと思うけど。
越方面から河内へ来るならその経路をとるだろう。



319 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 12:37:30
>>318
下ったからには上らなきゃ帰れんしwww
まあ好きにしたらいいけど

320 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 12:48:20
>>319
川を使う水運なんだから当然でしょw
聞いた事が無いと言うから無知を指摘しただけ。



321 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 13:09:20
>>320
え、聞いたことあるの?まじでまじで?
琵琶湖から淀川まで船で下るって?

322 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 13:24:40
え、無いの?まじでまじで?

323 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 13:30:56
琵琶湖の水運、淀川の水運は別個にあるけど
琵琶湖から淀川まで直通は知らん。

宇治にはダムがあるくらいだからね。
流れが荒れるポイントだったわけ。

こんなローカルな知識、他地域の人間は知らなくても恥ずかしくないけど
知ったかぶりは恥ずかしいよ。

324 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 13:45:19
>>323
河内湖の時代の事を言ってるわけですが、
詳細な記録が文献等には当然残らないでしょう。

急流といっても物流には使える事は飛鳥時代の木材供給が、
湖南地方から行われたりしているように、少なくとも
水運は行われてたとみていいと思いますよ。

325 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 13:47:14
丸太と人を一緒くたにすんな

326 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 13:57:39
>畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、
  若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在して
いた。この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から
対馬海流に乗って来る物流も接続していた。Wiki「北前船」より

ただこれは、琵琶湖ー淀川間がどうなってるかはわからないね。

327 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 14:07:11
>>326
もういいって。
琵琶湖の水運ルートの存在は、ほぼ常識でしょ。

でも川もさかのぼれるんだよね、いいとこ気が付いたよありがとう

328 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 14:53:21
横から。
瀬田川(宇治川)は、大津市大石の佐久奈度神社から宇治に出るまで急な渓谷続きなので
船での遡行はおそらく無理。丸木船で下れはしても、船を元の琵琶湖水面には戻せない。
まあ筏を組んで流し、木材を運ぶぐらいの利用は一応考えられるが。

最近佐久奈度神社のちょっと北の大津市関津浜で、関津遺跡が発掘されている。

関津遺跡。 滋賀埋文ニュース 第293号 第318号。
http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/buried_cultural/leaflet/293/
http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/buried_cultural/leaflet/318/
この付近が古代の流通拠点で、ここから田原道の陸路で→宇治田原町→城陽市へ行ける。
ここも参照。
http://www.gensetsu.com/061007sekinotsu/doc1.htm

田原道というのはおそら古代東山道で、このページ中程の地図でピンク●のルート。
http://www.tokensoft.co.jp/manpo2008/manp0064.html

329 :327:2010/04/27(火) 15:18:14
>>328
ふむ、でも魏志倭人伝のルートはそこじゃない。

投馬国がある河口から野洲川を上って、
甲賀、伊賀、名張、宇陀を経て、桜井。
ファイナルアンサー。

330 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 15:42:24
>>325
何言ってるの、この時代は人間も使い捨てですよ。

331 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 15:48:30
呼邑(こお)国=甲賀
為吾(いが)国=伊賀
巴利(はり)国=名張
烏奴(うな)国=宇陀

どうよ

332 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 15:54:24
>>330 天ヶ瀬ダムに捨てられてください

333 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 16:02:07
この時代人足なんて奴隷、丸太以下の扱いだからな〜

334 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 16:06:31
巴利は播磨だと思う

335 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 16:08:25
「レモンですか?」
「いいえ夏みかんですよ。」

336 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 16:12:14
>>335
kwsk

337 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 16:31:38
俺なら人足を機械のように扱えます。

338 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 16:40:51
奴隷100人余の殉葬というのはあったのだろうか?

339 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 16:59:25
>>338
あった可能性が高い。

日本書紀の垂仁天皇記に殉葬のことが出てくるので、古代の日本で殉葬が
あったことは確か。

また、当時の中国は、薄葬の時期で、曹操の墓もわからないようなところに
ある。殉葬も行われていなかったと考えられる。

当時の中国で行われていたことなら、やっていなくても倭王だからやったに
違いないと記録に残る可能性もある。しかし、中国にない習慣を思い込みで
書くようなことはないだろう。

340 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 18:07:21
河童が消え、ドツボが消え、縄文人が消え・・・ここもずいぶんカキコしやすくなった。
これで太国と九州王朝も消えればいいんだけど。

341 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 18:08:48
wwスレ違いでなければ書き込みはしかたないが、
自分が歓迎されていないという認識は大切だよな。

342 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 19:12:00
おまえのことだよ

343 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 19:56:39
魏使は邪馬台国まで来ていないという話は本当ですか?

344 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 20:14:33
魏使は邪馬台国まで来て女王卑弥呼に直接会っていますよ。


345 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 20:31:12
ではそうだとして、魏使は報告書を残しているのですか?また陳寿はそれを見て倭人伝を書いたのですか?

346 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 20:47:36
>>338
俺は現段階では無かった可能性が高いと思う。

今日まで明確に殉葬の跡と言うものが見つかったと言うのも聞いたことが無いし

そもそも古墳の陪冢も4世紀後半末5世紀近くにならないと
登場しなかったのではないか?

参考までにwiki『桜井茶臼山古墳』より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E4%BA%95%E8%8C%B6%E8%87%BC%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
>また、陪墳群がみられない。

もし事実誤認があれば正してもらいたいが…

この話で必ず出て来る日本書紀の垂仁天皇記の埴輪起源の話にしても
円筒形埴輪の前身、特殊器台とか垂仁陵以前の物にも出てきており
信憑性には大いに疑問。

あの描写が正しければ墳丘内からゾロゾロ
生き埋めにされたと思しき人骨が出ても良さそうであるw

むしろ倭人伝の殉葬記事が逆輸入された可能性が高いのでは?と思うが

で、倭人伝の殉葬記事も尾鰭がついた噂話を
そのまま書いたとw

まあ奴婢百人の殉葬跡なんて九州で出て来たら
それこそ9回裏二死満塁イッパツ逆転ホームランのネタだと思うがwwww

347 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 20:58:34
>>345
素直に考えればそうでしょう。
陳寿自身が、倭国の詳しい情報(里程とか)など知っているはずはありませんから。

348 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 21:04:51
古代遺跡は、最近では高速道路の工事や団地の造成といった大規模開発に伴って発見される例が多いようです。
ところが、九州のようなに開発の遅れた地域では、工事に伴う削掘で古代遺跡が発見される可能性が極めて低いのです。
都市化の進んだ地域では、民家の建て替え工事の際、廃寺の礎石が発見されたといったことさえあります。
もし、邪馬台国の遺跡を発見したいのなら、東国原知事を総理大臣に押し上げて首都を九州に遷都して大規模開発を行うことをお勧めします。

349 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 21:05:50
>>347
報告書はあったのかもしれませんが、陳寿は魏略を見て書いただけという話もあります。
どう思いますか?


350 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 21:08:16
>>348
邪馬台国の発掘なんて、事業仕分けで真っ先につぶされるんじゃないか。ww
このスレにいるとわからないが、世間一般の関心はあんまりないと思うぞ。

351 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 21:12:37
>>350
「博打」にすらならん話だろうな。

「徳川埋蔵金」より確率は低いか?w

352 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 21:13:01
>>350
そうすると、まず、民主党をたたきつぶすのが先だな。

353 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 21:48:09
>>349
さあ、詳細は不明ですが、
陳寿は魏略も、使者の報告書も、両方とも目にすることができる立場にあったのでは。
報告書がある(はずだが)とすれば、必ず目に通したでしょう。

「三国志」は時の皇帝に撰上したものですので、可能な限り資料を博覧したと思われます。


354 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 23:06:26
事業仕分けされたら自治体だけの予算でやりゃーいーだけの話だろ。
元々お国自慢・観光資源競争で位置論争やってるんだから。

355 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 23:08:11
中国は文書主義だから役人が出張して上司に口頭報告でけで出張報告書を出さないってことはない。
陳寿が「三国志」を書く少し前に倭に派遣された梯雋や張政の報告書は最新の情報としてあったはず。
永年、倭と国交のあった公孫氏は倭に付いて多くの情報を持っており、魏が公孫氏を滅ぼした時に押収した倭関係書類があっただろう。
漢代に書かれた倭に付いての記録文書も残っていた可能性もある。


356 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 23:12:14
>316
>九州王朝説だと畿内の勢力が大きくなったのは古墳時代の後期になってから。
>邪馬台国の時代の畿内は国邑は在っても大きな存在ではない。

これも良く分からない話だな。

「後期になってから」と言う事は奈良や大阪に全長200m時には400mを越える巨大古墳が
バンバン造られた前期・中期においても畿内の勢力は小さかったと言う事か…

「九州王朝説」による国力国勢の評価が良く分からないなw

357 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 23:42:14
>>356

そうそう。
それと畿内の中期古墳(4世紀末〜5世紀)で目立つ変化として

・須恵器の大量生産
・鉄製武具・馬具の増大

これなんか九州王朝説にしがみついたら説明不能だろ。

358 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 23:43:16
>>348
>九州のようなに開発の遅れた地域では、工事に伴う削掘で古代遺跡が発見される可能性が極めて低いのです。

奈良なんて新幹線どころか高速道路建設でも全国で最下位だぞw


359 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 00:03:50
>>357
特に馬具とか馬自体の繁殖とかについては

我が国の馬匹文化の導入は半島での高句麗との戦いの中から学んだとされる。
簡単に言えば軍事目的の色彩が濃いと言うか…

九州王朝説じゃあ畿内は半島での戦いでは蚊帳の外と言うシナリオなんだから
馬匹文化の空白地で良いはずw

また須恵器も九州を中心にした西高東低の分布になっていない…

まあ何でもかんでも言ったら良いと言うものでは無いとwww


360 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 00:12:57
>>357
で、その正しい説明は?

361 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 00:16:14
>>359

そうだね。

鉄や馬なんかや大陸の最新軍事技術などが畿内に入っていくとき、必ず九州を通っていったはず。
もし九州王朝が九州を支配してたんだったら、絶対に阻止しなきゃならなかった・・・でも・・・

362 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 00:20:18
>>360
そりゃ、畿内王権が九州を支配してたんだよ。
九州全土じゃないかもしれんが、少なくとも大陸からの文物の通り道は。

つまり九州王朝はなかった。あったら阻止するだろ。

363 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 10:37:31
>>362
>畿内王権が九州を支配してたんだよ。
>九州全土じゃないかもしれんが、少なくとも大陸からの文物の通り道は。

仲哀が九州で暗殺されて以降、九州勢力は畿内を緩く支配したのだ。
即ち畿内における九州の勢力による傀儡政権の成立。
この時期は反正允恭の頃まで続いた。
この時期に九州の文物文化が畿内に流れ、平和な畿内で独自に発展した。


364 :図解:2010/04/28(水) 11:01:38
〜 〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/
〜 〜 〜 {ヽ_ /  {_/
〜 〜 _ヘ/      ★末盧国
,/ヘ/~

            _ |ヽ★伊都国
          /ヽ/ |/ |         伊吹山
         |      ヽ ★奴国  
          ヽ      ヽ-ヘ   ★不弥国
          |   水路↓ /      
        ┌−       ノ   
       /        /   
      丿 水路  / ̄
     |_    → / ̄ 
     /  _/ヘ/★投馬国
     | |      \
    /  >    野 \ 
   /  /       洲  \
   \ |         川 
     ∨            ☆呼邑国
               
               
                 ☆為吾国
               
               
              ☆巴利国
       ☆烏奴国
   ★邪馬台国

365 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/28(水) 11:08:39
>平和な畿内で独自に発展した。

古墳の副葬品は、武器類が大半を占める。
しかもこれらの品は畿内が九州にまさる。

北九州で王墓が作られなくなって、間を置いて畿内で古墳が造られる様に成る。
この王墓の作られない時代は、歴年主無しの時代である。
桓、霊間には収まらない。


366 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 11:52:59
>>365
>古墳の副葬品は、武器類が大半を占める。
>しかもこれらの品は畿内が九州にまさる。

古墳の副葬武器類は装飾品であって実用品ではない。
平和で暇で金はあるものだから次々と製作できたのだ。
半島との戦乱に明け暮れる九州では経済的に不可能。

>この王墓の作られない時代は、歴年主無しの時代である。
九州内の戦乱に明け暮れする状況の中、古墳も作れるはずがない。
畿内やその隣接西部地域では、九州と直接関係のない勢力
(畿内崇神王朝・阿波・播磨・吉備等)が独自に古墳を築造発展させていたのだ。

367 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 14:09:32
まだ、やってんのかよ。

伊都国の位置すら比定できない九州説の連中さんたちよ。

368 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 14:22:08
>>363
>仲哀が九州で暗殺されて以降、九州勢力は畿内を緩く支配したのだ。
>即ち畿内における九州の勢力による傀儡政権の成立。
>この時期は反正允恭の頃まで続いた。

じゃあその時期の九州王朝さんの王墓はどれよ?w

前方後円墳はあるよな、福岡にも佐賀にも熊本にも。
でも大きくても100メートル台。200メートル級は無い。

で一方で畿内の傀儡政権とやらに大仙、誉田山、石津ヶ丘みたいな300〜400メートル級の超巨大古墳の造営を許していいんかよ?ww

369 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 15:28:48
♪探し物はなんですか
 見つかりにくい物ですか
 福岡平野も筑紫平野も探したのに見つからないのに
 まだまだ探す気ですか
 それより僕と踊りませんか
 夢の中へ夢の中へ逝ってみたいと思いませんか
 Uhuhu〜 

370 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 15:51:42
七支刀、鋳造じゃないかっていう記事が
yahooに上がっていた。

確かに鍛造じゃ相当面倒だろう
ただし鋳造なら相当高温の湯を作る
技術が必要になる、

また、材質もはがねにするのはは難しい。

371 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 16:30:22
>>367
>伊都国の位置すら比定できない九州説の連中さんたちよ。

伊都國は佐賀平野西北部で、その城郭は惣座である。
怡土の遺跡は倭奴國系統勢力のものである。


>>368
>じゃあその時期の九州王朝さんの王墓はどれよ?w

その時期は倭王旨から倭五王の時代である。
現在推定可能な王墓は倭王武の江田船山古墳である。
他の王については情報不足につき推定できない。
それらの王墓は菊池川流域及び八女にあるものと思われる。
対半島戦争に明け暮れる彼等には巨大古墳を築く経済力はない。

畿内の政権は九州の一部勢力が畿内で成立したものである為、
彼等は彼等なりに古墳を築造したに過ぎない。
古墳の築造に敢えて九州の許可を必要とするような関係ではない。
彼等の政権は九州と緩い連合を構成する程度のものである。

彼等の古墳の特徴は横穴式石室である。
竪穴式石室を持つ古墳とはルーツが異なる。

372 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 16:34:42
九州説なんてお笑い説をいつまで言い続けるのかが焦点だよな
本気で言ってるなら病気


373 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 16:40:57
>彼等の古墳の特徴は横穴式石室である。
そのとおりだろうな。魏と通交していた邪馬台国では薄葬主義を知ってあまり
大きな古墳には興味を示さなかったんだろう。
畿内の連中はそんなことは関係ない、だからでかい古墳を造ってたんだな。


374 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 16:42:20

殆どの畿内厨は無知蒙昧

375 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 17:01:17
>>368
古墳が大きいから大きな権力をもっていたと考えるのがまちがいなんだよ。
だいたい、考えてもみろ。初期古墳をみれば、大和には大きな古墳があるが次の
大国投馬国はどこなんだ? 分からんだろ。権力の大きさに比例して大きな墓を
造ったんならば、2番目に大きな墓が続出するところが投馬国のはずだ。しかし、
それに見合う場所はない。ということは、墓の大きさは国の大きさには比例して
いないってことよ。
墓は九州勢力が東征して軍隊を駐留させていたところで暇つぶしに造ったんだろう。
そう考えれば、交通路の要所に大きな墓がある理由が納得できるはずだ。

376 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 17:13:05
>>375
大国投馬国?
人口が多いから大きな権力をもっていたと考えるのがまちがいなんだよ。

投馬国は大規模農園だよ
農民が米作りに専念できるパラダイスだったんだよ

377 :水銀厨:2010/04/28(水) 17:18:28
初期古墳の数でみるなら投馬国は九州中南部でしょう。
で、邪馬台国(女王国連合)は瀬戸内沿岸諸国連合でOK。

378 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 17:35:36
倭の五王の墳墓の大きさの参考になるのは、ほぼ同時期で、「寧東大将軍百済斯麻王」の称号を
認められていた、百済の武寧王陵の大きさが参考となる。これは直径20メートルほどの円墳だ。

379 :水銀厨:2010/04/28(水) 17:42:36
つまり倭の方が力が強大だったという事でしょう。

380 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 17:56:20
一里300歩、あるいは360歩

一里60mから80mなら、20m位なもんだな


381 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 17:58:38
>>370
かなり昔に鍛造と言う説があったが、最近は鋳造説が定説で
特段目新しいニュースとは思わなかったのだが・・・

382 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 18:27:29
中国南朝(劉宋、梁、斉、陳など)の墳墓を見学したことがあるけど、
大将軍号を持つ(皇族級)人物の墳墓は、直径20メートル程度の円墳だった。

383 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 18:28:46
>>376
冗談禁止!

384 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 18:36:47
これのことかな。

>4世紀に朝鮮半島の百済王が日本の王のために造ったことが金の文字で記された、石上(いそのかみ)神宮
(奈良県天理市)の「国宝・七支刀」について、製作技法がこれまで定説とされた鍛冶による「鍛造」ではなく、鉄を
鋳型に流し込んで作る「鋳造」との新説を、古代刀剣復元の第一人者で刀匠、河内國平さん(68)が復元をもとに
打ち出した。歴史学者による鍛造説を覆すもので、刀を知り尽くした「匠(たくみ)の目」が古代技術の神髄に迫る成
果となった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100428-00000544-san-soci

385 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 18:57:20
>>372
>九州説なんてお笑い説をいつまで言い続けるのかが焦点だよな

誤変換しているみたいだな。正しくは…

 九州説なんてお笑い説をいつまで言い続けるのかが 笑点 だよな

「おーい山田君、九州王朝説大好きの座布団全部とっちゃいなさい!」


ちなみにこの演芸番組、初代司会者の古田師匠がそろそろ(以下略

386 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 19:50:22
東南陸行五百里、この解釈を根本的に間違えてないか?
東南へ陸を五百里行った、とするのは文法的におかしい。
そういう意味にするなら、東南行陸五百里になるはず。
東南は陸にかかってる訳で、東南陸を五百里行ったとするのが正しい解釈。
東南陸とはどういう意味か、それは船で沿岸航するにあたって東南方向に陸地がある状態。
                /
              /
       水    /   
           /   陸
          /
こんな地形を行ったってこと。

387 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 20:35:38
で、結局どこが邪馬台国になるわけ?

388 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 20:38:24
さあ

389 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 20:48:13
南水行(not南行水)20日して、南水行(not南行水)10日して、陸行一月して行き着く先

390 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 20:57:14
伊都国からは1500里(倭国の単位で)

391 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 21:00:46
>>375
瀬戸内ルートなら吉備
日本海ルートなら出雲
何れも九州以東で巻き起こった大型首長墓による祭祀の双璧だな

もういい加減「九州王朝説」なんて与太はやめろアホども。

中身が与太で第一邪馬台国にどう繋がるのかも全然出て来ない。

巣に戻ってお仲までよろしくやっていろ、ゴミはゴミ箱に
『※ 九州王朝はなかったのか? ※ 16』
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1254667104/l50


392 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 21:08:47
>>364
日本海周り説ですね。
瀬戸内海には吉備という大きな国があったので、畿内勢力が吉備と友好関係になければ、瀬戸内海周りは不可能だった。
そう考えると畿内の長髄彦(登美彦)の勢力は日本海周りで魏と交渉する以外にありませんでした。
そのルートにある琵琶湖交通の要衝伊勢遺跡が栄えました。

393 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 21:22:38
>>391
>もういい加減「九州王朝説」なんて与太はやめろアホども。

九州王朝説を否定するのは構わないが、言葉が汚いね。それに、「・・・何れも九州以東で巻き起こった大型首長墓
による祭祀の双璧だな 」って尻切れ蜻蛉で何が言いたいのかわからない。

394 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 21:38:09
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/doutaku.htm
によると、銅鐸文化の瀬戸内海沿岸の東の端は福山あたりらしい。
福山のあたりには古くはアナ(安那郡)という地名があった。
魏志倭人伝には烏奴(アナ)国の次に奴国があってここが女王国の境界らしい。
これらはただの偶然の一致なのだろうか?


395 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 21:59:42
結局、九州邪馬台国と九州の倭の五王とが
王権として血統として連続するのかしないのか?
なんて話は全く出て来ない。

脳内の与太話は良いから、文献史料なり考古資料なりできちんと説明してもらいたいものだ。

そもそも4世紀5世紀の九州王朝は薄葬文化だったので
畿内みたいに巨大古墳を作らなかったと馬鹿丸出しの言い訳をしても
畿内のものに比べて巨大とまではいえなくとも
弥生時代の墳丘墓に比較すれば十分大きな前方後円墳を造っておいて
何を言ってるんだって話で。

九州邪馬台国が魏にならって薄葬文化だったと言うのなら径百歩の卑弥呼の墓や百人の殉葬はなんだって話で

薄葬の文化を後の九州王朝が引き継いだのであれば
九州の前方後円墳が現れた地域はその版図から除外しろって話し。

何処もかしこもご都合主義の出たとこ勝負。

詳細が分からず諸説出ているいわば”ニッチ”につけ込んでのみ存在しえて
自律的に説を組み立てるのが難しいと言うのは「トンデモ」の基本なんだろうがw


396 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 22:11:54
九州王朝というのは、真面目に高校教師をやるのにうんざりした古田氏の壮大なおとぎ話
なんだよ。まともな歴史学から見たら「曲水の宴」とか考えられないたわごと。

397 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 22:45:57
君も転向したらどうだ?ラクになれるぞ。

398 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 23:03:16
なぜ今九州説なのか??
今だからこそ九州説なのだ!
今がチャンスだ、九州説!

スローガンだけは浮かんで来ます。

399 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 23:07:42
>>374
宗教ですよ、アレは。
完璧に逝っているでしょう?

400 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 23:18:22
>>395
径百歩の卑弥呼の墓は直径23mの小さな墳丘だ。

「曲水の宴」の跡は3ヶ所で見つかっている。
久留米筑後国庁傍:九州王朝の都
多賀城政庁跡:日高見王朝の都
奈良平城宮跡:大和王朝の都


401 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 23:31:07
>>400 
墳丘を築く事自体、薄葬の思想から外れる。
まして百人の殉葬なんて論外。

そして4世紀5世紀に向かって九州でも前方後円墳は作られている。

九州王朝説じゃあ「薄葬」と「厚葬」の境界線は何処だ?

そんな与太の各論よりそもそも4世紀5世紀の九州王朝説が
3世紀の邪馬台国論争にどのような形で資するのか?
きちんと説明してくれ。

何処のスレでもお構いなしに九州王朝説をぶちまけりゃ満足の
基地外集団なのか?



402 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 23:37:04
作庭術による曲溝かもしれないものを「曲水の宴」と決め付けるのは詐術的。また、「曲水の宴」が王統でなくて
は実施できないとする律令もないだろう。後代には藤原氏が私人として行ってる。

403 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 23:48:22
卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人

大部分の畿内説論者も九州説論者もその他の論者も上記倭人伝の記事は嘘だとは思っていないようだ。
しかし、上記記事の解釈はいろいろと分かれており、いずれが正しいか結論がでていない。
卑彌呼以死からして難解である。以を已と同義とすれば「張政が来倭したとき(あるいは邪馬台国に到着
したとき)には既に死んでいた」という解釈となるが、以を理由や原因を表すものとすればこの記事の直
前に書かれた事が原因で卑彌呼が死んだとなる。何れを採るかでストーリーは一変する。

また、大作冢の大は「大いに」であろうが、徑は墓の直径と見る者が多いようだが異論もある。例えば
徑は「小さな道」で、この小径の両側に墓列があり、その小径の長さが百歩あまりであるとする解釈が
ある。吉野ヶ里の甕棺墓列がそういう形になっているという。はたしてどうであろうか。

404 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:01:23
>>401
邪馬台国と九州王朝の関係は、邪馬台国とヤマト王権の関係と同類。
したがって、このスレでヤマト王権の話題を扱う以上、九州王朝の話題を扱うのもスレ違いとは言えんだろ。

参考までに「九州王朝」という名前の王朝は存在しない。
いわゆる九州王朝説とは「倭国在九州」説の一つに過ぎないんだよ。

405 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:04:34
>>403
果たしてこの板で少数派であるか多数派であるかは知らないが
俺は否定的であると言わせてもらう
(理由等は>>346

それに
>以を理由や原因を表すものとすれば
については昔その前段部分に死の原因等の記述があったとか推測された時期もあったが
三国志中の他の記述等も参考にして特段そのような深読みをしなくて良いと言うのが大方の見解ではなかったのか?

406 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:08:28
邪馬台国が畿内にあってこれが大和王朝になったとは文献資料上からも考古学的資料上からも言えない
でしょう。誰か言える人が居ますか?

407 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:19:24
>>404
その理屈ならヤマト王権なんて今日まで続いており
それに対比される存在としての九州王朝説はどの時代までも語ってもOK。

まあ現実的には最大8世紀ごろまではよりどりみどり。
下らない。

かくして邪馬台国スレは九州王朝説の狂信者ども御用達の「古代史一般スレ」となる。

そもそも「ヤマト王権」の話にしても邪馬台国のその後と言う前ふり無しに
いきなりポンと5世紀ぐらいの話がでてくればスレ違い。



408 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:23:18
本邦での殉葬については、考古学的に否定的な見解が多いのは確か。中国でも秦代あたりまでには殺人殉葬や
生贄の風習は廃れている。とすれば、書紀の垂仁紀の記述はどのような意図で挿入されているのかは大きな疑問。
単に土師氏の起源譚とも思えないのは、ずっと後代の孝徳紀・大化二年の段にこのような記述があるから。

>凡そ人死亡(し)ぬる時に、若しは経(わな)きて自ら殉(したが)ひ、或いは人を絞(くび)りて殉はしめ、及、強(あな
  が)ちに亡人(しにたるひと)の馬を殉はしめ、或いは亡人の為に宝を墓に蔵め、或いは亡人の為に髪を断り股を刺
してしのびごとす。此の如き旧俗、一に皆悉くに断めよ.。

これは大化の薄葬令だが、この部分は中国の薄令には見られない部分。


409 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:28:38
>>401
ジュン葬のジュンは、[犬旬]or[恂]or「殉」? その意味は?

>>402
平城宮跡のそれも曲溝か?

>>401
邪馬台国の場所決めの補強に九州王朝説が必要
隋書の邪靡堆はどこ?
隋書の俀國はどこ?

それに、4世紀5世紀の九州王朝の都が7世紀初頭まで引き継がれるから。


410 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:33:36
>>408
考古学的にって言っても、要するにそれらしき人骨が出ていないということだから、
あんまりアテにならないと思うが。

棺の中に入れていても、人骨が出てくるとは限らないから、単純に土に埋めた
だけなら出てこないほうが普通だろうし。

411 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:49:18
>>408
まあ「馬を殉はしめ」については「犠牲馬」の跡として確認できるが…

そりゃ人骨より馬の骨が残りは良いかもしれんが
殉葬の明確な痕跡が見られないと言うのも不思議な話し。

412 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 00:54:07
>>410
そういう見解も多いのだが、まあ総合的に見ても、槨の内部構造や古墳全体の構造を考えても大量の殉葬者を想定
して作られているとは思えないんだな。ま、周濠の底などならわからない可能性は高いだろう。ただ、あるとすれば人
の殉葬よりは一般的ではないとも考えられる後代の馬の殉葬が数十例見つかってることを考えても、なさすぎなんだ
よな。

413 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 01:24:45
そもそも魏使が邪馬台国までに至る行程や
その道中に見聞きした風俗までも克明に記した報告書があった

…という如き前提自体が疑問。

もっともその前提が無ければ暗号解読ゴッコも成り立たないのだろうが

で倭人伝の殉葬の記事において益々疑惑は深まるとw

そう言えば松本清張はこの板の九州説のアホの一つ覚え
吉野ヶ里に見られるという例の「宮室・楼観・城柵」についても
陳寿の机上の創作としてたんだっけ?

案外それもありうるとも思うw

414 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 01:33:26
>>390
> 伊都国からは1500里(倭国の単位で)

倭国の単位ってなんだろうね?
で、なぜ中国の史書に倭国の単位が出てくるのかね?

結局この「倭国の単位」なんてものをデッチ上げなければならないのか? 九州説・・・。

415 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 01:33:29
しかし、持衰の記述なんかは創作では書けないだろう。

書かれていることは、一応、真実として読まないと、都合の悪いことは創作、
なんてことにならないとも限らない。

まあ、牛や馬に関しては、弥生時代に遺跡から骨が出てきているので、
たまたま見なかったということになるのだろうが。

416 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 01:35:43
>>409
徇と殉の違いはちゃんと認識しとかなきゃね


417 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 01:37:20
はっきり言えるのは、全文引用されている魏帝詔書は陳寿が倭人伝を書いた晋代になっても参照することが
できたということ。それに比して行程記事などはごった煮的といわれてもしかたのない感じがする。・・・それこそ
晋代の倭国情報を網羅的に取り入れて、かえってわからなくしているような。

418 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 01:43:23
持衰の記事にしても創作ではないと思うが、晋書武帝紀に「武帝泰初二年(266)十月、倭女王遣重訳貢献・・・」とあり、
このときの聞き取りかもしれない。倭国の地理観にしても、陳寿が倭人伝を書いた280年代頃の楽浪郡での認識かも
しれない。「魏使の報告書」の存在は確定的なものではない。

419 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 01:53:20
>>403
その区切りで正しいとすれば、
主語は卑弥呼、卑弥呼が作り、徇い、葬った。
以=because of
者=代名詞、大にかかっている。


420 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 02:07:54
倭人伝を読んでて疑問に思うのは、正始元年の梯儁等の倭国入りから壱与の張政を送りがてらの朝貢まで
は時系列に沿って書かれている歴史的記述だけど、それ以外の部分の時系列がよくわからないということ。

例えば「女王国より以北には特に一大率を置き〜常に伊都国に治す」・・・これって何年頃の話だろうかという
疑問。卑弥呼が女王となった2世紀末の話ではないという気がする。公孫氏滅亡以後のことじゃないのだろう
か。

421 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 07:05:13
卑弥呼が2世紀末に女王になったなんて書かれてないぜ。

422 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 08:57:19
『卑彌呼以死大作冢徑百餘歩jun[扁犬旁旬]葬者奴婢百餘人』魏志倭人伝

『 ジュン 葬 』

原文:犬旬 葬

正しいのはどれ?
候補
@ 徇 葬
A 殉 葬
B 絢 葬
C 恂 葬
D 洵 葬
E 詢 葬

423 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 09:59:34
>>422
>原文:犬旬 葬

どこの原文?

424 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 10:14:22
紹煕刊本では 徇 葬 だな。

425 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 10:14:23
徇葬を辞め埴輪で代替することを提案した野見宿禰は偉い人ですね

426 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 10:16:52
>>420
魏志だからな。基本的に魏時代のこととして読めばいいんだよ。

427 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 11:03:03
「葬られた王朝」梅原猛著(新潮社刊)
やはり邪馬台国は出雲だろおっしゃっています。

428 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 11:26:11
あほか

429 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 11:33:39
ここ一ヶ月くらい見てると、
邪馬台国関連スレの凋落が著しいな。

やはり、邪馬台国論争が畿内で終結して、
九州説東遷説が死亡し、九州王朝説が細々とネタを提供してるくらいか。
そのネタも低レベルすぎていちいち反論する気にもならんがな。

あとの課題は、邪馬台国に至るルートか。
これは、吉備と出雲がどちらが優位に畿内と関係してたかということになるが、
吉備と見るしかないだろうな。
では、吉備が投馬国かというと、たぶん違う。
邪馬台国までのルートに投馬国があるとは思えない。
投馬国が別ルートを記してるなら、投馬国は出雲ということになる。


430 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 11:33:48
成る程、つまり奈良県桜井の出雲だな。

431 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 11:40:47
または、投馬国を吉備とするなら、
邪馬台国までのルートは日本海沿いになる。

現代人の土地勘なら、吉備まで行ったら大和はすぐだが、
古代人の土地勘まら、日本海ルートで、丹後に上陸して大和に南下するのもアリなのかもしれない。
これなら、陸行1月の説明がつきやすい。

そもそも瀬戸内海は戦乱中だったとすれば、安全に使者が大和に行くためには、日本海ルートのほうが推奨されたのかもしれない。



432 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 11:44:56
出雲と吉備、吉備と畿内の関係をみると日本海ルートは無理なような気がする

433 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 11:53:31
丹波と山城、大和北部は関係深いと思うが。

434 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 12:00:44
やはり陸路1カ月というところが味噌で、九州なら陸路を1カ月も歩く必要がない。
難波津で上陸して奈良盆地に入るにも数日しかかからない。
やはり、敦賀で上陸して東山道を津軽まで行ったとしか考えられませんね。

435 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 12:04:16
津軽までなら普通に海岸沿いに水路で行くよw

436 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 12:06:08
水行十日陸行1月→丹後で上陸して、奈良まで歩く=邪馬台国

水行二十日→東北・秋田=投馬国

秋田は遺伝子的にも、大陸と交流があったろう。ヒスイの産地だし。


437 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 12:11:05
>>429
>ここ一ヶ月くらい見てると、 邪馬台国関連スレの凋落が著しいな。

同感だが、君の主張も幼稚だな。「邪馬台国までのルートに投馬国があるとは思えない。」だと?
誰も君のご託宣を伺い奉ってはおらんのだ。思えない理由を述べよ。理路整然とな。

438 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 12:14:52
東北はないな、倭人伝は3世紀末に書かれた
「倭人」に関する文献資料だから。
やはり西日本を中心とした事を書いているはず。

439 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 12:23:02
>>435やはり太平洋側と見るべきでしょうね。
朝鮮通信使一行は16日で大阪から品川についているけれど、
道路が整備されているわけでもないし、川が氾濫して渡れないなどの影響があると、
敦賀から東山道沿いに1カ月のきょりとなると、
稲荷山鉄剣で有名な獲加多支鹵大王の住む斯鬼宮が有力なのではないでしょうか?

卑弥呼こそ、関東の大王だった!これでどうでしょう?

440 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 12:44:33
古田氏も関東に大王ありと書いておきながら、どうして邪馬台国は関東にあったことまで言及しなかったのでしょうか?
やはり、邪馬台国は九州だったという誤った先入観をもっていたからではないでしょうか?

441 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 13:01:49
>>439
想像や推定の部分が多すぎて無理ですね。
関東まで行かなくてもそれまでに候補地が
有りすぎますから。

442 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 13:03:23
古田とか安本は商売で九州説を採ってるだけだからなあ。

九州説の本書く→売れる→儲かるからもっと九州説の本書く

関東に邪馬台国があったって、誰も関心もたないよ。

443 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 13:21:10
関東から邪馬台国の都や金印、卑弥呼の墓が発見されたら面白いだろうな。予想される反応としては、

九州説・・・憮然とした表情で大きく一つ屁をひってから、無言で酒を2升ほど飲み、女房を殴って寝る。その後の報道は一切無視。

畿内説・・・顔面蒼白になり指先や膝頭がぶるぶる震える。畿内説の本を読み返すが嘔吐が激しくなって夜半に入院する。

444 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 13:29:18
関東から邪馬台国‥

そうだな、きっと東京湾の下に眠ってるよw

445 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 13:36:23
関東の遺跡ってどこにあるんだ?
ほとんど、市街地なんだが。


446 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 13:41:55
群馬県の山中より、3世紀の大規模集落が発掘され、中心部に径100余歩の円墳。その中から高齢の女性人骨、金印
魏帝証書の木簡、魏帝の璽を捺した封泥。さらには 「張政」の署名がある墓誌が出土。

古田某・・・そうか・・・(長い沈黙)これで私の関東王朝論が証明されたわけだな。卑弥呼はおそらく関東の大王「ワカタケル」
       につながる系譜だろうな。がははは。

安本某・・・認められません!!遺物は移動するものですッ。何より数理的に文献に合わないでしょッ!!私が人生を賭けて
       説いたように邪馬台国は甘木なんですッッ。ききー。

白石某・・・やっぱりね。実は私もそう思っていたんですよ。この古墳の形態はペラペラペラペラ〜〜〜(饒舌)。

447 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 13:56:14
>>445
関東って田畑だらけだろ。外に出ろよ。

448 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 14:03:55
古代の関東といえば、栃木・群馬のことなんだが・・・

449 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 14:04:56
東京は海だったの?

450 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 14:05:18
×魏帝証書→○魏帝詔書

この関東邪馬台国(「張政」よる墓誌には、ここが邪馬台国の王都であり、その塚が卑弥呼の墓であることがはっきりと記されていた)の
発掘から1ヶ月間で、

自殺者・・・畿内説論者28名、九州説論者3名。  離職者・・・畿内説論者422名、九州説論者8名。

犯罪加害者・・・畿内説1名 、九州説46名(その大半がドメスティック・バイオレンスによる)

となった。

451 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 14:21:59
GWだなぁ‥

452 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 14:30:56
さらに祭祀場跡と考えられる広場からは、全長8mの巨大な木製仮面が出土した。その鼻はきわめて長く(6m程度)、後代
の天狗面との共通した特徴が見うけられる。発掘主体と鳴った群馬大学によれば、卑弥呼の鬼道とつながる遺物と推測さ
れている。



453 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 14:59:26

『卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人』魏志倭人伝

紹興刊本も紹煕刊本も『徇葬』であって『殉葬』ではない。
誰かが手前勝手に『徇』を『殉』に書き換えているようだ。
自説保守の為の操作か?
『徇』と『殉』では意味が異なるので。


454 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 14:59:45
古田先生も指摘しておられるように
稲荷山鉄剣銘文と関東最古の石碑である山ノ上碑の碑文はその表記方法において共通性が多く、同じ文化圏だったことがうかがえる。
その山ノ上碑の碑文に出てくる「放光寺」の跡が前橋市総社町総社の山王の地に所在し、その寺は法隆寺に匹敵する規模だったことがわかっている。
大和朝廷の支配が関東にまで及んでいたはずの白鳳時代ですら奈良の都に匹敵する力をもった国が関東にあったことがわかる。

そもそも、関東と大陸の交流の歴史は古く、信州善光寺の本尊である阿弥陀三尊は、欽明天皇の時代552年に百済の聖明王から献呈されたものとされ、
善光寺の名は百済最後の王の息子で日本に定着した百済王氏の始祖である「善光」の名前からつけられたとの説もある。

この点からも、関東の大王はもっと古い時代から大陸との交流があったと考えられ、魏に朝貢したのも関東の大王だった可能性が高い。
邪馬台国は関東にあった!声を大にしていえる日もそう遠くはなかろう。

455 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 15:47:04
>>454
同意。西国にはほとんど残っていない「石碑」が東国には数多く残っていますからね。
もし、邪馬台国、卑弥呼、張政、などの文字が刻まれた石碑が発見されれば・・ムフフ
九州は、畿内ははどんな顔をするか・・・

456 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 16:08:54
俺、畿内説だけど、関東が邪馬台国という証拠が出れば面白いと思うよ。

九州悦みたいな宗教じゃないから。

457 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 16:19:54
>>453

つうかだなグダグダ言わずに
『徇』と『殉』を峻別する必要性
両者を混同すると如何なる弊害等々を言えば良い。

それに同意した奴はそれに倣うだろうという話。

原典に忠実でなければならないのなら邪馬台国はNG
少なくとも「邪馬臺国」
正確には「邪馬壹国」と記すべきって話になる。

「俺様による漢字説明会」を主催したいのかもしれんが
話の振り方が下手、挙句

>自説保守の為の操作か?

と言う被害妄想的な陰謀論を言うに至ってはお前は病気かとw

458 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 16:24:14
>>443
>関東から邪馬台国の都や金印、卑弥呼の墓が発見されたら面白いだろうな。

そうなったら今まで自分の中で畿内説を前提にして考えていた事柄を再検討
成り立たなくなったものはバッサリ捨て去るだけ。

何の未練も無い。

むしろ、じゃあ関東邪馬台国と後の畿内王権との関係等、考えなければならない事は
幾らでもあり興味もそっちに移るだけの話。

無論「金印」だの「卑弥呼の墓」だの論争に一発でケリをつけられるようなネタが出てくればの話だがw

459 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 16:38:27
>>458
東国が大和朝廷に従った過程が記録に残っていないのが不思議です。
祟神の子の豊城入彦も景行の子のヤマトタケルも東国を平定したことになっているけれど、
関東の王と戦った形跡がなく、むしろ、関東出身の大王の子として元の支配地を巡幸したといった様相だった。
つまり、イリ王朝とは、関東の王の皇子が婿入りして作った王朝だったのではないかと思われます。

460 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/29(木) 16:43:21
>関東の王と戦った形跡がなく、

武力に圧倒的な差があれば、戦わずして決着はつく。


461 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 16:50:49
少なくてもあちこちの蝦夷とは戦っているね。

462 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 18:28:31
やはり、もともと東国の王だったとした方がすんなりいくと思う。

463 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 18:30:57

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=2010/04/28付 西日本新聞朝刊=
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 本書は、在野の考古学者原田大六さん(1917―85)の生前の軌跡を記した本紙連載「面会謝絶だぁー」(2009年3月18日―4月3日付)に、森浩一・同志社大名誉教授などの寄稿文を収録、再構成したものです。

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学者たちに激しくかみつく一方で、伊都国の王墓とみられる平原遺跡などを発掘したほか、「磐井の叛乱」などの著作では大胆な新説を展開しました。
圧倒的な迫力、ふてぶてしいまでの自信。なぜ、こうまで先鋭的に生きなければならなかったのか。
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464 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 18:37:48
>>459
5世紀頃は関東の方が栄えてたらしいね

465 :水銀厨:2010/04/29(木) 18:43:34
女王国は山口辺りから信濃や群馬までの国々でしょう。
でも宮は桜井周辺。呪術で人を治めるには宇陀と都祁の
水銀が必需品だからね。

466 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 19:03:10
>>464

弥生時代から人口は多かったろう。

クナ国が関東の毛野国。


467 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 19:23:08
皆さん、ゴールデンウイークが始まったというのにどこにも出かけられないのですか?
独りぼっちなのですか?金がないのですか?なに?邪馬台国研究に打ち込んでいるから遊びには興味が
無い、ですか?ふ〜ん。それにしちゃ書き込んでいる内容が薄いですね。

邪馬台国関東接や東国説の皆さん!頑張って下さい!
皆さんのセツは漢字にすると拙なんでしょうね。邪馬台国を九州から外に出そうとすると厳しい壁を
乗り越えなければなりません。まず、方角と距離の壁がありますね。南を東の間違いとしなければな
りませんね。、一大国(壱岐)から千里の末盧国は何処にしますか?對海国(対馬)から一大国まで
千里(船で1日)ですからそれにほぼ近い距離のところに末盧国を置かねばなりませんね。

そして、その末盧国から2千里のところにある邪馬台国を関東などに持ってこれますか?
無理ですねエ。仕方ないから距離はデタラメだとしますか?でも何故デタラメと言えるかの証明ができ
ますか?

3世紀と言わず紀元前から倭の国は大陸や半島と交流がありました。東アジアの情勢が倭人の世界(全
ての地域ではありません)に影響を与えています。倭奴国が光武帝に朝見を行ったのも卑弥呼が魏に使
節を送ったのも大陸や半島の情勢が関係しています。そのような視点から見た関東拙は築けますか?

468 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 19:28:25
越中、越前、越後と分かれる前の越の国は、その名前からも容易に推測できるように、越からの移民の国だった。
越の国は、百越と呼ばれるように、長江流域からベトナムまでの広い地域を支配する海族だったから、
日本の日本海沿岸にもその拠点があった。
関東の大王が単独で遠く魏の国に使いを送れたはずがなく、彼らの助けがあったことは間違いない。
越やその後中国を支配した楚や呉、秦、漢や魏といった大国の先進文化をいち早く取りいえることができたのも、
日本海ルートでの交易があったからに他ならない。

469 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 19:55:57
>>467
つまらないことにこだわるのですね?さすが九州説の人。畿内説の人かな?
そんなささいなことはどうでもいいのです。
なにせ、関東で邪馬台国とか卑弥呼と書かれた石碑を見つけ出してしまうのですから。
これならもう何の説明も必要ありませんよね。

470 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 20:00:04
> 末盧国から2千里のところにある邪馬台国
そんなこと、どこにも書いてない。

いまだに、女王国と邪馬台国の区別すらつかないのでは、
すべての論が空虚なもの。

471 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 20:39:04
>>469
>なにせ、関東で邪馬台国とか卑弥呼と書かれた石碑を見つけ出してしまうのですから。
>これならもう何の説明も必要ありませんよね。

………いや、まあ、想像するのは誰しも自由なんだが

その石碑の碑文は当の邪馬台国の人間が刻んだのかい?

中国史書に邪馬台国と帰されたクニの人間が果たして
自国を「邪馬台国」なんて呼んだのか?
自国の女王を「卑弥呼」なんて呼んだのか?

・・・なんて事を突っ込んだら不味いかな?w

472 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 20:39:21
方角の問題は、>>386で解決できる。
距離の問題は、魏からの使者が実際に来たのは伊都国まででそこで集めた情報を報告したものだとすれば、伊都国までの行程は魏の一里=80m、それ以降は倭人に聞いた距離(それは一里=400m)で、関西圏までは充分圏内に入る。


473 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 21:10:13
普通に九州説はもう終わってると思う。

474 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 21:12:28
安東将軍倭国王の武とは、 獲加多支鹵 ( ワカタケル )、つまり雄略ではなく関東の大王のことではないだろうか?



475 :水銀厨:2010/04/29(木) 21:14:00
よく畿内説では方向の違いが問題になりますが、
何故邪馬台国を南と記す必要があったのか、
実はあえてそう記する必要性もあったと推測出来るのですよ。

当時の測量技術が完全では無い点も勿論有りますが
実はこれは思想的な物です。

476 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 22:10:00
古代にはカーナビなんてねえんだよ。w

477 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 22:14:13
タケルは元来、九州は熊襲建(タケル)兄弟の名。
ヤマトヲグナがタケル兄弟を殺し、ヤマトタケル(倭建)を名のった。
したがって、タケル名は九州豪族の可能性もある。

しかし、そもそも「多支鹵」は「タキル」または「タキロ」と読むんじゃないかな?
そう考えると、獲加多支鹵は関東豪族名の可能性も少なからずあるのかも…

478 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 22:23:04
>古代にはカーナビなんてねえんだよ。w

君はピエロか?太陽の動きや星の位置から方角を知ることができるのだ。君には無理だろうが、
訓練を積んだ人間には造作も無いことだよ。

479 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 22:25:43
九州大王だか関東大王だか知らんが
こうやって散発的に倭王武の話し出してきても
それがどうやって邪馬台国につながるのか?
アホどもは考えているのか?

480 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 22:33:12
>>429
>あとの課題は、邪馬台国に至るルートか。

正直、行程記事の読み解きを今後の課題にあげる必要も無いだろう。

まあ、その辻褄あわせこそ多くの邪馬台国ファンにとってキモの部分だろうが
無理なものは無理。
それが百年かけて辿り着いた答えw


481 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 22:34:30
>>472
>方角の問題は、>>386で解決できる。

解決できてないだろ。海岸に沿って水行するなら北東循海岸水行五百里と書くだろ。

482 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 22:43:08
>その俗、男子は皆、而(面)文(身)す。 その旧語を聞くに、自ら太伯のすえという。 昔、夏后小康の子、
会稽に封ぜられ断髪文身し、以って蛟龍の害を避く。 今、倭人また文身し以って水害を厭わす也。

これは魏略逸文だけど、倭人の文身について二つの関連事項からとらえている。
一つは、「呉の太伯」についてで、前12世紀頃の人物であり呉国の祖とされる。彼は父の意をく汲んで弟に跡を継がせるために
自ら家を出奔し、迎え来た家来に対して、髪を切り全身に刺青をして中華へ帰るに相応しくない人物と化してこれを断った。

もう一つはもっと古い夏王朝時代のエピソードで、文字どおり会稽に封ぜられた王族の断髪文身についての記述。
ここから、当時中国の認識として、倭人について貴種の末であること、倭地について南方のイメージがあること、の二つが読み取
れるのではないか。

「夏后小康の子」の記述は倭人伝にも見られ、 >その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。
の記述と対応関係にあると考えられる。

483 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 22:44:25
>>480
>無理なものは無理。
>それが百年かけて辿り着いた答えw

そう言いたい気持は分らんでもないが。九州説の中に正解があるんだな。これが。

484 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 22:56:50
九州説を信じてるアホがまだいるのか。

小学生か、爺さんか?

485 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 22:59:55
>>483
遠吠え、ハッタリの類はもううんざり聞き飽きた。

比定地のばらつきが角度や距離のとり方によるものなら兎も角
連続式読みあり、放射式読みあり
ある者はその膨大な日数を郡からのトータル所要時間だと言い
ある者は魏使は卑弥呼に会っていないと言う。

その他あるわあるわ「オレサマ読み」の発表会。

せめて大口たたく前に「読み方」を統一しろ。

それもできずに「素直に読んだら…」と言われてももはやお笑い話。




486 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 23:14:15
>>485
なんで統一しなければならんのだ?君の精神構造はどうなっとるのだ?九州説といっても人が違えば
内容が違っても構わんだろ。宗教じゃあるまいし。

487 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 23:14:48
次に、このスレでは当然のこととして語られる「魏使の報告書」について。これはずいぶんロマンを掻き立てる代物で、魏使の足跡を辿
って邪馬台国に行き着く・・・式の本がブームの頃にたくさん出ている。しかし、そのような方法論をとる前提として、以下に述べることをき
ちんと証明できているものは皆無といってよいと思う。。

@「魏使の報告書」なる公文書は実際に存在したのか? A陳寿あるいは、「魏略」の作者である魚豢は、「魏使の報告書」なるものを
参照して倭人伝を記述したのか?

倭人伝に記載される行程記事は、伊都国周辺はでは詳細であるが、邪馬台国に近ずくにつれて曖昧模糊とし、説明の字数が少なくな
ってゆく。また、後半の歴史的記述に関しても張政の帰国の年がわからないなどの不備もある。ありていに自説を述べれば、文書社会
である中国において「魏使の報告書」はあっただろうが、それを陳寿が目にしたかどうかについてはかなりハードルが高いと考える。倭人
伝の記述は、伊都国に常駐する郡使や、楽浪郡からの風聞で十分書くことのできる内容である。

陳寿は、これらの伝聞と「魏略」、そして当時中国の倭国に対するイメージを頭の中で整理統合して倭人伝を書いたと考える。その結果
記述はあちこちで齟齬をきたし、実際の地理と合わず、日本文献史学上に不毛な100年論争を引き起こした。

488 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 23:17:28
>>484

こんな下らない内容の書き込みをする人間が他人をアホ呼ばわりするとは!世も末だの〜。

489 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 23:18:41
>>486
少なくとも同じ史料を用いてそこから位置が特定できると言うのであれば
「これが正しい読み方だ」と言うものが無ければ無理。

無論、考古資料等を用い違ったアプローチするなら話は別だが。

「九州説の中に正解がある」と言うことを何を持って担保するんだ?


490 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 23:28:29
>>487
>倭人 伝の記述は、伊都国に常駐する郡使や、楽浪郡からの風聞で十分書くことのできる内容である。
>陳寿は、これらの伝聞と「魏略」、そして当時中国の倭国に対するイメージを頭の中で整理統合して倭人伝を書いたと考える。その結果
>記述はあちこちで齟齬をきたし、実際の地理と合わず、日本文献史学上に不毛な100年論争を引き起こした。

「実際の地理と合わない」ということがどうして分かるのだ。君の思い込みだろ。

491 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 23:32:26
九州説は「ボクはこう思った」だけの説だからなあ。

聞かされるほうはウンザリだ。

「で?」っていう。


492 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 23:32:42
>>488
「畿内厨」と呼ばれる所以です。
畿内説の人間的レベルを疑わせようという九州説側の工作員かもしれません。
真面目に畿内説を論じている方々にとっても敵なのですよ、こういう輩は。

493 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 23:33:48
次に、当時の中国における倭国の地理観であるが、>>482で 引いた >その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。の解釈が重要になって
くる。この「道理」なる文字が持ち入れれているのは、単に倭国までの距離を表すだけでなく、漢文の筆法として 

>夏后小康の子、会稽に封ぜられ断髪文身し

の文と係っていると考える。つまり断髪文身の風習は会稽あたりの南方習俗であり、これを有する倭国もまた南に長く伸びた国であるのは道理である
というような意味を内包しているのだと思う。陳寿は倭国の地理観を構築する際、「文身」の事例を重視するあまり正しい行程を見失って、当時の中国の
認識どおりに倭国を南方の国ととらえた。・・・ただ、この説には当然異論もあるだろうね。


494 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 23:34:08
>>489
畿内説その他九州以外に邪馬台国を比定する説が間違っていることが九州説の中に正解が
あるということを示しているんじゃがの。

495 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 23:34:31
>>472
>伊都国までの行程は魏の一里=80m、それ以降は倭人に聞いた距離(それは一里=400m)

あらら・・・根本的には無知からくるカン違いが正解を導き出す。
どう突っ込んだらいいのか困ってしまうが・・・

496 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 23:38:19
>>490 証拠のないものはすべて「思い込み」ということができるんだよクズが。実際の地理と合ってるならなぜ100年以上結論が出ないんだ?
お前は確証が出せるのか?おまえの読みをいってみろや?もっときちんと反論しろダボケ。


497 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 23:41:32
邪馬台国が九州にあったとすると、その後、消滅したのが説明できないでしょう。

だから邪馬台国は大和のことなんですよ。





498 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 23:44:34
>>493
>・・・当時の中国の 認識どおりに倭国を南方の国ととらえた。

魏の使者あるいは帯方郡の人間は九州の北岸から南に行けば邪馬台国に至ると報告したのだろうから、
倭国は南方にあり、倭国のある島は南北に長いとほぼ正しく認識していたのだろう。

499 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 23:47:35
そもそも東国は鎌倉幕府の時代まで中央には屈服していない。
だからどっちにしろ邪馬台国であるわけがない。

500 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 23:50:11
で、当時の中国の倭国地理観だが、これは室賀信夫氏の論文にある、列島を北部九州を最北として、南に長く延びたものととらえられていたという
考えに賛同する。現存する中国の古地図(といっても邪馬台国からはずいぶん後代のものであるが)は、「混一疆理歴代国都図」を持ち出すまでも
なく共通した認識を持っている。例えば唐あるいは明時代のいくつかの華夷図を見ても、倭国(日本)については、北から南にかけて 「倭(倭奴)→
毛人→蝦夷」の順になっている。これは、この種の地図が前代のものを引き写すことが多いことを考慮しても、遣唐使など幾多の国交を経ても、中国
が南に伸びた日本列島というイメージから抜け出せなかったことを物語っていると思う。


501 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 23:51:14
>>496
汚い言葉遣いをする人だな。君のような下品な人間の相手をすると汚れそうだが仕方が無い。

>実際の地理と合ってるならなぜ100年以上結論が出ないんだ?

君のようなのがいるからだよ。畿内に持ってきたいという欲望が強すぎて九州説を拒否するからだよ。

502 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 23:53:22
で、結局話は倭人伝における方角(主に南)が正しいのか否かの振り出しに戻るとw

本当に下らない。

「砂鬼四曼荼羅経」の信者は自分と同じアプローチしている者では無く
違ったアプローチをしている者に噛み付こうとしている。

同じ競技の中でチャンピオンになるのを目指さず
いきなり異種格闘技戦を仕掛けているようなものだw

ベースが同じものに自説の優位を説かず
ベースが異なるものにその優位を説こうとする。

馬鹿の所業としか言い様が無い。



503 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 23:54:41
>>501
相手もクソもお前は何か学術的な書き込みをしてるのか?感情論ばっかなのはお前のほうじゃないか。まともなことが書けず知識もないなら
来るなよな。ゴールデンウイーク限定クズ太郎。

504 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 23:57:38
>>503
下品だね〜チミは。

505 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 00:00:42
http://pub.ne.jp/luckfield/?entry_id=2501546

これは一例だが、この華夷図を見ても、「倭奴(おそらく奴国、博多近辺)→日本(奈良)→毛人(毛野国)→蝦夷」の順。これが必ずしも
魏代の認識を受け継いでいるという証拠は出せないが、古来からこのような認識であった蓋然性は高いといえるのではないか。

506 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 00:01:39
もし「砂鬼四曼荼羅教」同士でどの説が正しいのか徹底的な討論をすればどうなるのか?

結局最後 グダグダ になって結局、基本単一史料の倭人伝から邪馬台国の位置を求めるのは無理と言う結論になるんだろう。

いや、そこにいくまでに他説を批判すれば自説を成り立たせている自由度をも損ねるとして
共倒れになる前に”なあなあ”で手打ちになるかもwww

507 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 00:08:29
この板の九州説がもはや宗教と化していると実感するのは

よく九州説の連中が皮肉で言っているつもりであろう以下のごとき台詞

「畿内説は方角とかは信じないのに邪馬台国の存在は信じるんだね」

…とかw

もうねアホかと馬鹿かと。

倭人伝と言う史料を信じるのなら全部信じる。
否定するなら全否定。
オール・オア・ナッシングとでもいうのかって話。

史料の批判は許さないらしい。

むしろ文献を重視すると言うのならより厳しい史料批判があって然るべき。

信じるならすべて信じなさい…これはもう宗教ですよとwww



508 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 00:10:38
九州では、古くから大陸との交流があった。鉄器は、縄文時代と弥生時代の
変わり目あたりには登場する。少なくとも、この頃から交流があった。
鏡も前漢時代のものが出てくる。

他の地方では、このような大陸との交流の痕跡は認められない。

文献でも、建武中元二年(西暦57年)の倭奴国の後漢への朝貢。さらに、
安帝永初元年(西暦107年)の倭国王、帥升の朝貢などがあり、これは九州の
国であるのは確実とされる。

このような実績があるから、卑弥呼も公孫氏滅亡後、帯方郡に使者を送ること
ができた。朝鮮半島との関係などを見ても、倭国は九州にあったと考える
方が妥当性がある。

仮に、近畿地方に邪馬台国があったとすれば、バランス的に、関東、東北まで
支配していないとおかしい。西は、朝鮮半島まで勢力を伸ばしているが、
東は全く手付かずというのは考えられないからである。

大和朝廷の勢力拡大の必要は全くないほど広範囲に支配が及んでいる。

しかし、記紀よると、崇神天皇は四道将軍を派遣して周辺を固めようとする。
これは、非常に矛盾に満ちた記述になる。

やはり、邪馬台国は九州にないと説明が付かないことが多すぎる。

509 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 00:25:55
独占貿易権を握ってたのが伊都国で、監視してたのが一大卒だったんじゃないの?

510 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 00:28:15
>>505
蝦夷が琉球より南にあるw
11世紀でこれじゃ、3世紀の方角に関する記述はあてにならないな。
つか、距離だってどこまで信用できるかわからん。

511 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 00:29:13
>>507
>史料の批判は許さないらしい。

九州説論者を一緒くたに論じるのが好きなのかな。倭人伝に書いてあることを一言一句全て正しいと
して読むべきだなどと思っている論者は少ないだろう。倭人伝以外の文献も参照しながら読んでいる
者もいるし、考古学的知見も無視しない者が多いだろう。

畿内説では倭人伝の行程記事に誤りがあるとして修正しなければならないが、その修正が恣意的であ
るからいけないのである。南は東の誤りだとするのであれば、東は北に、北は西に、西は南に変えて
読まなければ一貫性がないが、そのようには読替えない。

考古学的知見は畿内説を支持するという主張をするが、邪馬台国が畿内にあったという考古学的知見
とは一体何なのだ?

512 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 00:35:15
>>508
> 近畿地方に邪馬台国があったとすれば、バランス的に、関東、東北まで
> 支配していないとおかしい。

東北までは支配してないが、関東近辺までは交流のあった土器が出てるよ。
ついでに山陰・北陸の土器も出てる。

壱岐や平原から出雲系の土器も出てるので、出雲経由で大陸に出れるよ。


513 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 00:48:34
>>511
>畿内説では倭人伝の行程記事に誤りがあるとして修正しなければならないが、その修正が恣意的であ
>るからいけないのである。

どこが恣意的なのかな?

南北が逆さまになった後代の古地図の存在や

また隋書において邪靡堆を魏志の邪馬臺としており
九州王朝説みたいな立場をとらなければさほどに方角に神経を砕いたとも思えない。
と言うかそれが通説と言っていいだろう。

逆に九州説が中国史書における方角の記述は絶対間違いないという

一種『ドグマ』を掲げなければ畿内説を否定できない。
少なくともそれが最大の材料であるのは間違いない。

で、とりあえず南と言う方角では合意できてら、あとは

連続式読みOK、放射式読みOK
日数の記述は郡からのトータル所要時間でもOK
魏使は卑弥呼に会ってもいなくてもOK

読み方は自由自在というもはやお笑いショウw

514 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 01:13:37
地図は北を上にしなきゃならないということはない。特に昔は。
今だって、時々北を上にするのを無視した地図を良く見かける。

混一疆理歴代国都之図の日本地図は行基図といわれる。行基図は北を上に
書かれているわけではない。
朝鮮の人間が日本のことを知っていたのは間違いないが、どういう地理かは
知らなかった。たまたま見かけた行基図をくっ付けただけなのだろう。

そういう地理感があったというよりは、地理感が全くなかったというべき
だろうな。

515 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 01:23:31
>>507
畿内説を本気で唱えている学者なんて居るのかな?
君だって本気じゃないよね。
本気だというなら、古墳時代を邪馬台国時代とする根拠を言ってみろ。

なんか進化論(九州説)と創造説(畿内説)という様相なんだよね。
畿内説は都合の悪いことは全部無視。この対応は創造説と同じ。
学問と似非学問の分岐点は、批判に答えるかどうか。

そこで、畿内説の年代論の根拠をぜひとも言って欲しいね。


516 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 01:27:12
畿内説の学者が都合の悪いことを無視する様は、創造説論者のようで嫌悪感しか感じない。

三角縁舶載説をみんなでスルー。
年輪年代の問題性もみんなでスルー。
C14への批判も歴博はスルー。
弥生時代の九州の優位性も最大限スルー。
その他色々・・・・・

こんなものに「学問」などと看板を掲げているのはちゃんちゃら可笑しいね。
似非学問と正直に白状するべき。


517 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 01:35:18
>>516

>弥生時代の九州の優位性も最大限スルー。

それで、どうして九州の邪馬台国は消滅したんですか?
全然説明できませんね?

九州に邪馬台国があったと言うのは簡単だけど、そのあとどうなったのさ?
きちんと説明できる人がいるのかな?


518 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 01:49:27
>>432
>出雲と吉備、吉備と畿内の関係をみると日本海ルートは無理なような気がする

もうちょっと説明してくれないと、無理な理由がわからない。
まあ、気がするだけなら、どうでもいいが。

519 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 01:52:44
>>517
畿内説の年代論の根拠をいえないのかな。

520 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 01:53:21
>>516
>三角縁舶載説をみんなでスルー

何回同じ事言ってんだよ、このバカは。
畿内説でも国産説論者が沢山いるだろw

弥生時代は九州が優位?
鉄の量か?
でも丹の優位性は断然畿内説だぞ。

521 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 01:54:57
>>471
>なんて事を突っ込んだら不味いかな?

無粋ですな。

522 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 02:00:29
>>486
>九州説といっても人が違えば内容が違っても構わんだろ。

まあ、畿内説もそのバリエーションのひとつ、と思えばいいわけなんだが。

523 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 02:01:59
>>515
そもそも2世紀後半から3世紀に登場した神獣鏡が
4世紀にならないと日本に流入してこないなんて考える合理性もないし

3世紀の年代を示している紀年鏡が、ことごとく4世紀以降に副葬されたと考えなければならない合理性も無い。
ちなみに縁の形状が三角のものなら後漢の車騎神獣画像鏡にも見える。

あ、これは舶載倣製に関係の無い話なw

では逆に聞く

古墳時代を4世紀以降とするような根拠があるのか?

断っておくが
「昔の相場は…」なんていつもの恨み節は無しだぞw

宗教と科学の違いは科学はとりあえず漸進するものだからなw
(宗教も「宗教改革」とかやはり世の中の変化に合わせて変わるものではあるが・・・)

まあそう言った年代論を抜きにしても卑弥呼の共立を纏向の勃興に重ねても無理が無いというのがあるな。

無論、九州に限定した邪馬台国連合とも言うべきものがあれば
その対抗馬になりうるだろうが今のところそれも見えてこない。
故に九州の中で比定地が乱立する羽目になるwww

と こ ろ で 恨み節の東遷厨たるお前の九州邪馬台国の比定地って聞いた記憶が無いんだが
甘木でおk?

524 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 02:03:34
倭国‥漢の時代に交流のある国。

この時代の遺跡から貨泉の出土している
北部九州、出雲、丹後、吉備や河内は
既に確定してるだろうな。

525 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 02:16:39
>>511
>南は東の誤りだとするのであれば、
>東は北に、北は西に、西は南に変えて読まなければ一貫性がないが、

倭人伝の記述に一貫性がある、と言う根拠はどこに?

複数の一次資料をもとに、継ぎ合わせて記述されたと考えるのが妥当だと思うが。

526 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 02:18:23
>>516
>畿内説の学者が都合の悪いことを無視する様は、創造説論者のようで嫌悪感しか感じない。

このカキコのテイストはいつもの恨み節の東遷厨だと思うが
一つ教えてほしいんだが…

お前、以前「まばら理論」で
纏向型前方後円墳(ホケノとか勝山とか)を王墓とみなすなら陪冢が無いのがおかしい
…って言ってたよな?

そもそも定型化された200m超級の大型古墳にしても初期のものには陪冢が無かったんじゃないか?
(桜井茶臼山とか…)





527 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 02:22:26
>>519
>畿内説の年代論

ってなに?

528 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 02:37:11
>>527 補足
ちなみに東遷厨の言う年代論は、昔の畿内説の年代論。
進化も創造もなく、ただただ取り残されていく・・・

529 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 02:50:24
>>528 補足
「九州説の年代論」と「畿内説の年代論」なんてものが別個にあるなんてことはなく、
年代に関して、両者は同じ土俵の上にある、と思う。

考古学上は、畿内の推定年代が九州の推定年代に合ってきたんだし。

530 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 02:56:22
>>529
と言うか庄内の始まりをAD200あたりに置く柳田康雄なんかは

畿内を中心に研究している学者より余程容赦ないわけだがwwww

531 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 02:56:24
>>528
畿内説の年代観は破綻するよ。

ところで、纏向の場合は、庄内期と関連付けるわけだろうが、布留期はどういう
出来事と関連付けられるんだろう。古墳はどうも庄内期にはなかったみたいだし。

532 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 03:16:27
>>531
>畿内説の年代観は破綻するよ。

ないものをデッチ上げて攻撃してみせて、それでどうなるの?
破綻したのは東遷説が寄り掛かっていた過去の年代観。

>布留期はどういう出来事と関連付けられるんだろう。

知らないんなら、年代観を語る資格も無し。

533 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 03:39:30
>>532
畿内説の年代観では、倭人伝の世界が見えてこない、ということ。

庄内期から布留期への移行についてはかなり大きな歴史的変化があったと
考えてもいいと思うのだが、畿内説的には何があるのだろうかということなのだが。

534 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 03:46:30
ちなみに、庄内期、布留期には東遷説的あるいは記紀的には一つの仮説が
成り立ちうる。
それは、庄内期を饒速日命の時代に。布留期を神武東征に関連付けること。

535 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 04:06:55
ちょっと前から「庄内から布留の画期云々…」のお話を引っ張ってきて
何が言いたいのかと思えば饒速日と神武か…

もう、うんざり・・・

536 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 06:33:17
うちはオヤジがアダルトビデオとか裏本ビニボンとか大好きだったんで、
小さい頃から周りにその手のグッズが溢れてる環境で育ったよ
小学5年生の頃から裏ビデオ見てたし、中学2年生の頃には股間を熱くすることもなくなり、
オヤジといっしょに裏ビデオ評論会みたいな感じで、鑑賞しながら議論してた
おふくろや姉ちゃんは、それを見ても我関せずというか何とも思わないような不思議な空気だった
一度熟女ばっかみてたときに、おふくろを犯そうとしてひっぱたかれたことがあるけど

いま思うとあまりにアブノーマルと言うか、過剰な刺激は子供の発育にも悪影響を与えると
若い頃に男遊びや女遊びばっかしてた人ほど、親になると仕付けに厳しくなるというが、
ある種の反動のせいか、いまのオレもその手のエロソースには反対の立場だ

537 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 08:03:51
>>534
むりやり神武東征に関連つけたとしてもね、
畿内にあった邪馬台国を征服したとも考えられる訳だがw

むしろ記紀的にはその方が記述にあう、
先に同族の天孫が降臨してるからね。

538 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 08:42:41
真の邪馬台国は東北にあるのだが、この時代、私以外の日本人でその事実を知る者は誰もいない。

539 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 09:47:08
>>525
複数の資料が混在している、これは正しいが、これは間違っている、とかってな
取捨選択をしないと畿内にたどり着けないってことだね。
しかし、倭人伝は統一的に読めるんだよ。全て正しいとみて何ら問題はない。


540 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 10:04:44
>>532
そうそう畿内説にあるのは結論だけ。
あれは宗教だから。

「だから年代の根拠を言え。」とか、聞いちゃダメだよ。


541 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 10:41:12
九州説は未だまとまった結論さえ見出せない訳だがw

現状では観光地誘致が最前提で論以前の問題だな。

542 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 10:59:08
>>539
> しかし、倭人伝は統一的に読めるんだよ。全て正しいとみて何ら問題はない。

それにしては、どこにあるのか統一できない九州説。
笑わせんなよ。

543 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 11:33:02
1年中GWなジョーカーさんがうらやましいよ(棒)

544 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 11:48:37
>>540
>畿内説にあるのは結論だけ。

だからこそ畿内説同士での議論なども存在せず、
エラい先生たちの言ったとおりにキナイ、キナイとわめいていればそれでよいわけです。
楽な商売ですね。

545 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 11:57:00
基本的に、それぞれの知識から推論していった
のが九州説なんだな。

なかにはおらの村こそが邪馬台国というのがいるかもしれんが、
基本的には倭人伝の記録や考古学、歴史の知識から推論しているのが
九州説群なのだ。だから人によって違いがあるし、状況によっては
修正撤回することもある。

他人の説を見ては、この部分は正しい、違うと分析はするが、
あくまでも自分の推論なので、バイブルのように絶対正しい
とまでは主張しない。だから統一九州説など今の段階では興味もない。
圧倒的な証拠でも出てくれば別だが。

でも、だいたい全員ほぼ一致するのは、

証拠もないのに
巻向箸墓畿内説はねえよ

なのである。

546 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 12:31:13
>>545
>バイブルのように絶対正しいとまでは主張しない。

「南と言う方角は絶対正しい」

…と言うドグマは共有しているわけだが

547 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 12:36:59
九州に邪馬台国があったというのは簡単。

しかし、その後、どうして畿内に大和王権が出来たのか説明できない。
九州の優位を語れば語るほど、その後の歴史が不整合になる。
これが九州説の致命的弱点。

3〜4世紀のどこかで、九州は畿内の支配下に入ったわけだが、
それが卑弥呼より前か、後かということ。

九州説の場合、卑弥呼が70年九州を統治してたのに、畿内を征服できずに、逆に畿内の支配下に入ってしまった。→大きな矛盾
畿内説の場合、九州から畿内を統一した卑弥呼が、後の大和王権に繋がる→歴史が整合する

このことからわかるように、歴史を総合的に語れるのが畿内説であり、
九州説は、邪馬台国前後の歴史を全く無視した自分勝手な説ということになる。


548 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 12:37:36
魏志倭人伝には南って書いてあるからな。

549 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 12:40:19
九州に邪馬台国があったというなら、
卑弥呼の治世に九州の国力は低下し、
畿内の大和王権に併合されてしまった、
第二次大戦の朝鮮みたいな位置づけということになる。

そのほうがリアリティあるというなら、それでもいいんじゃない?
朝鮮と九州は似たような民族だから。

550 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 12:41:04
>>547
そこは九州王朝説の中の、7世紀後半王朝交替説ですよ。

551 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 12:44:12
ここで、仮に九州の邪馬台国が東遷して大和王権になったニダ!
大和王権の起源は九州ニダ!

……と、言うようなら、それこそ、どこかの隣国と同じ民族性だってことを露呈するだけ。

邪馬台国は九州。
大和王権の起源は九州。
日本神話の起源は九州。
日本の文化は九州を通じて伝わった。だから日本文化の起源は全部九州。

ほら、朝鮮と同じ発想じゃん。



552 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 12:45:53
畿内勢力は大化以降大宝まで
年号を制定しているのにも関わらず
とぎれとぎれになっているからな。

まあ、なんとか九州王朝に対抗しようと努力してたんだが
まだ時期尚早だったんだろう。

名実ともに支配権を握ったのは8世紀からと思っていい。
聖徳太子は大和朝廷の一族かどうか
はっきりしないところがある。

553 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 12:48:42
九州王朝なんぞ語る前に秦氏の研究でもしなさい。

554 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 12:53:27
中国の史書は、前政権が倒れた跡で、
その後の政権が自己正当化を兼ねて
編纂するそうだが、

記紀が編纂されたのも、中国を見習って
前政権が倒れたため、編纂されたのではないだろうか。

中国に新政権をアピールする意味もあって。

555 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 12:57:41
かしこの板は「九州王朝説」と「邪馬台国東遷説」の2大トンデモのヘビー・ローテw


九州王朝説は邪馬台国を九州に見つけてから大口叩こうな?

3世紀の邪馬台国が見つからないのに
8世紀までの九州王朝も無かろう、馬鹿馬鹿しい

8世紀ごろまで連綿と王朝が続いていたと言うのなら
そりゃ考古資料もふんだんにあって
そこから3世紀の邪馬台国の位置も見えてきそうなもんだが

時代が下れば下るほどに畿内の王権が目に見えて巨大になるので
もうお笑いレベルのこじ付けでしかなくなる。

この板の九州説の連中を百年の論争の中で一方の雄であった
「邪馬台国九州説」と言うのは正直抵抗があるw

556 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 12:59:49
>>550
俺は、一応九州説と九州王朝説は別物だと思ってたんだが、
九州説もつきつめると結局九州王朝説に収斂されていくわけか。
それなら九州説もオカルトだな。

557 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 13:05:04
>>553
本当に、九州説では秦氏は九州のどこにいたことになってるのかねえ。
畿内には、秦氏の領地も、彼らの氏神を祀る神社や寺院も現存し、
現代まで伝承も残ってる。

558 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 13:09:50
九州説では世界遺産の法隆寺は偽物になるそうです。
本物は人目を避けるように九州のどこかにひっそりと佇んでいるのです。

559 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 13:14:47
>>530で柳田康雄の名を出したんで、毎度おなじみ「邪馬台国の会」から

”邪馬台国東遷説”の安本と”伊都国東遷説”の柳田の対話

http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

もう年代間に関してはこの板の九州説どもの神経逆なでしそうな話がいっぱいw

>ところが、柳田先生の資料に「佐賀平野・筑後平野・筑豊地域などは邪馬台国の候補地どころか
>卑弥呼を共立した国にも含まれない」と書かれているので、甘木や朝倉は候補地ではないのか?

…とかw

面白そうな話としては

>柳田
>九州の古墳では、那珂八幡古墳などから庄内式土器の新しい物は出てくるが、古いものは出ない。
>しかし、近畿と違って、庄内式土器の新しいものと三角縁神獣鏡がいっしょに出てくる。

共伴する土器で見る場合、三角は九州のほうが古いと言うことか?
もし三角が九州発祥なんて事になったら
九州説のイッパツ逆転ネタになるんじゃね?w

画文…公孫氏の燕よりもたらされた
三角…九州邪馬台国で造られた

って話でどうだろうか?

560 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 13:16:43
とりあえず大宰府政庁は菅原道真以降までずっと、九州の首都機能を持ってて
そこから紀元前の出土物まで出るんだな。だから都府楼という古名で呼ばれる都市が
そこにかなり長い間あったことは間違いない。

ただ、その都府楼が、首都になったかどうかは別の話だが。

平安時代になっても「遠の朝廷」と呼ばれており、
これが

距離の遠い大和朝廷出張所
距離の遠い別王朝の朝廷
昔の朝廷

のどの意味なのか不明である。

古地名に紫宸殿とか内裏が残っており、
天皇の座所を彷彿とさせるものがある。

菅原道真は名目上、太宰府のトップだが
罪をかぶせられて蟄居されていなくても、
そんなところに住まわせるはずはないだろう。

とすると、そこには誰がいたのだ?

561 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 13:21:05
>>559
伊都国東遷説ってどんなの?

2世紀に伊都国が東遷して、畿内に大和王権・卑弥呼が共立されたというのなら、面白いが?


562 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 13:34:26
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

>吉野ヶ里からは鏡のかけらは出てくるが鏡が出て来ない。
>吉野ヶ里は福岡に持ってくれば普通の遺跡。
>福岡では土地の値段が高いので吉野ヶ里のような大規模な発掘はできないのが残念。
>現在の吉野ヶ里は宣伝などで過大に評価されている。
>そのため考古学者はそっぽを向いている。

サガミハラハラ涙目

563 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 13:40:13
九州の山門(ヤマト)って邪馬台国?

以下、山門(ヤマト)邪馬台国説の提唱者

新井白石
星野悟
津田左右吉
榎一雄
牧健二
喜田貞吉
田中卓
村山健治
黛弘道

564 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 13:51:15
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

>柳田: 考古学の立場で考えているので、初期の前方後円墳が出現していて、
>三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡が出ているところは候補地になる。

>大願寺方形周溝墓、神蔵(かんのくら)古墳のある甘木・朝倉地域は、
>初期の前方後円墳が出現しているし三角縁神獣鏡も出ているので、候補地に含まれる。

>文献学者は安本先生のような見方をする九州説の人が多いが、朝倉以南の筑後平野では、前方後円墳から三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡を出すところがないので、
>この地域が女王国だということは考古学的には証明出来ない。

安本涙目


565 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 13:53:45
日向峠か
これが卑弥呼の出身地か

566 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 13:53:52
つまり、糸島、福岡、佐賀、熊本では
発掘が進んでいないか、削られただけで
吉野ケ里クラスの遺跡は多々あるということだな。

実際、そう思う。

567 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 13:57:11
九州説で説明がつかないものは
確かに丹と秦氏の問題だな。

568 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 13:59:56
環濠はそれぞれの国の王と幹部クラス以上を
住まわせるためのものだろう。

つまり、環濠が小国家の首都と考えて良い。

30カ国共立の少国家像にはかなり合っている。

569 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 14:01:02
魏志倭人伝だと伊都国は邪馬台国の北の統括を任せられていた超大国なんだよね
伊都国東遷説で決まりだな
これで丹の説明もつく

570 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 14:01:48
九州説プギャー


571 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 14:05:20
丹の出る所にある丹生神社の丹生氏
伊都国から始まったという伝承があるのね。

佐賀嬉野の丹生神社とか大分の丹生神社
そのまま、丹を追って北上していったらしい。

最後は畿内にたどり着く。

572 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 14:10:08
問題は丹を追っていたのが丹生氏だけではない点だな。
しかも大和ではなく和歌山に本拠地を置いていた事。

それに吉野で丹を精製していたのが縄文末期からなんだよ。

573 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 14:19:57
>>564
柳田は三角縁神獣鏡を舶載として、240年頃に日本に来たとしているんだよね。
だから、鏡の大量出土がありながら△が出なかった平原は240年以前になる。

△を4C半ばとすると、平原は4C前葉になる。

574 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 14:26:53
>>573
>△を4C半ばとすると
根拠はあるのか?

575 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 14:36:18
東遷説に根拠はありません。


576 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 14:52:32
3Cの日本に西日本の大部分を支配下に置く大国は存在しない。
北部九州に、半島内での衝突を避けるため魏に贈り物をした一勢力があった。

577 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 14:53:09
福岡市西区今宿の五郎江遺跡の環濠集落跡が発掘中ですが
これは近々埋めてしまうそうですね、住宅地になる予定だそうです

578 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 15:13:25
>>576

その九州の勢力があったとして、
4世紀に畿内勢力に征服されたんですね?

579 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 15:32:26
>>576
でたらめぬかすなボケ

580 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 15:33:16
 こんちは^^
 邪馬台国東国説が真面目に取り上げられている場を始めて見ました。
 それってありうる話なのかな?

 以前ここで邪馬台国東京説(江戸説)を見たことがある。
http://happytown.orahoo.com/619metro/html/H002200802142147b439e092273.html

 鎌倉時代以降の日本の東西対立の根幹には卑弥呼の出身地を巡る対立があるとか、
江戸があっという間に大都市になったのは都市のインフラが既にあったからだ、とか。
 皆さん見てみそ。

581 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 15:37:40
>>580
誰も真面目に取り上げてないですけどw

582 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 16:38:02
>>580
九州説がファビョってるだけ。

とはいえ、弥生時代の関東がどれくらい栄えてたかは興味ある。
意見交換したくとも、九州説の「弥生時代に一番繁栄してたのは九州だけ」という硬直した意見しか持たないアホが多くて困る。


583 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 16:56:14
>>582
紀元前後の畿内に栄えていた国の形跡があるんか?あるなら出してみんしゃい。

584 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 17:18:16
畿内説を本気で信じている学者なんて、もういないよ。

585 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 17:20:09
あのな も一回わかりやすく書くけどな
日本の西日本一帯を支配した勢力が中国側から朝貢と
受け取られるような贈り物をしたことはない。
魏書の倭人の条がどういう目的でどんな漢字を使って書かれているか
よく考えれな。

586 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 17:31:26
>>583

唐子・鍵は300年栄えてませんでしたか?


587 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 17:35:02
>>585

で?
公孫氏との関係については、どうお考えで?




588 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 17:45:21
>http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm
>吉野ヶ里からは鏡のかけらは出てくるが鏡が出て来ない。
>吉野ヶ里は福岡に持ってくれば普通の遺跡。

まあ柳田のずいぶんトゲのある発言だがw

実際のところもし倭人伝にあの行程記事が無ければ
単純に考古学的資料で考えれば福岡平野が九州説の最右翼になっていただろう。

が、行程記事に照らし合わせればそこは邪馬台国ではなく二万戸の国勢を誇る奴国と言うことになる。

ここら辺が九州説のジレンマなんだよなw

先に「九州説は考古も文献も総合的に判断している」と言う風な事を言っていた奴がいたが
考古学的には北部も北部、玄界灘周辺地域が有利で
文献的には南の方が距離が稼げるだけ有利。

で、どちらに比重を置くかでまた比定地が九州のあっちこっちになってしまう羽目になるとwww



589 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 18:24:44
>>586
300年栄えた?あの程度の出土物で栄えた国があったと言えるん?国と言うにはおこがましいクニじゃ
なかか〜。まあ、田舎でのんびり平和に暮らしていたんじゃろの〜。

590 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 18:29:07
九州説はもう末期だな。
がっかりだ。昔の影も無い。
九州説の本は、ゴミの日に出したよ。すっきりした。

591 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 18:29:46
>>583
河内にもありますけど。

592 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 18:30:57
>>589
おぬしは九州の弥生遺跡のことをあまり知らぬようじゃの。須玖岡本、三雲、吉野ヶ里だけじゃないぞ。
佐賀にも筑後にも熊本にも唐古・鍵など足下にも及ばぬ遺跡があるぞい。自分で勉強してみい。

593 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 18:33:56
>>591
ほんでどないな物がでましたん?

594 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 18:38:07
>>592
鉄器や銅鏡はどれだけ出たのかな

595 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 18:42:05
>>593
漢人との交流の形跡だな。

596 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 18:46:56
>>589
そうなんです、唐古・鍵はね。

そこで・・・纏向遺跡ですよ、
これはそれまでの弥生の環濠集落遺跡とはひと味もふた味も違う。

そして纏向は最近の調査ではどうも案外古くて、卑弥呼さんや台与さんが活躍した3世紀にかぶるらしい・・・
すごいのは箸墓古墳ですよね、こんなのは日本列島探しても、他にはどこにもなかった。

だから弥生の終わりか古墳時代の始まりの頃に、大和は急速に変わってくるわけです
すごい支配者・権威者が生まれている・・・、なぜそれが大和だったのか・・・・

ここが我が日本史の、とても大事な点ですよね。

>>592
九州の弥生遺跡はすごいですよ、認めますよ。
でも魏志倭人伝で邪馬台国は時代が明確ですから、弥生の前期〜中期は関係ないですよ、オミットしましょう

弥生後期後半〜古墳時代初期が、邪馬台国問題の大切な時期なんです


597 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 18:47:42

トヨタン・・・・・・・・・・
 

598 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 19:14:37
>>596
>九州の弥生遺跡はすごいですよ、認めますよ。

ヨコからだが…

弥生の九州の遺跡自体が凄いか?

環濠集落といえば吉野ヶ里が有名で
その印象で引っ張られていないか?

弥生時代の遺跡と言うのなら
近畿の唐古鍵や池上曽根や
山陰の妻木晩田、青谷上寺地
東海なら朝日、登呂、山木
関東なら大塚、宇津木、日高

…etc etc

遺跡個々の規模やあるいは数とか
他地域を圧倒するようなものがあったかな?

恐らく九州の遺跡をものすごい物に見せているのは
玄界灘周辺地域からの漢鏡の出土や鉄器類の出土ではないのか?




599 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 19:22:25
調べれば調べるほど、邪馬台国はどこにあってもおかしくないという結論に達してしまうんだよね。
邪馬台国論争は、比定することに意義があるんじゃなく、論争そのものに意義があるような気がする。

600 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 19:24:54
>>596 ネタ?

マキムクは未だに集落遺跡が未出土。無人都市。
そもそも4Cの遺跡。


601 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 19:31:08
>>600
>そもそも4Cの遺跡。

でその根拠は例の「まばら理論」なのかな?w

と言うか畿内説論者にとって「無人都市論」はむしろウェルカム大歓迎なわけだがw
古墳の造営や大溝と言った土木工事に要した労力を遺跡の外から集めてきたと言う事になる。
それは権力そのもの。

まあ、頭に血が上ってケチをつけるしか考えていない、この恨み節東遷厨には分からないんだろうなあwww


602 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/30(金) 19:38:33
2世紀末 纒向遺跡が勃興
その時北九州は凋落、そして九州全体に小国家がうまれる。

乱は九州にある、北九州の凋落は、倭王を立てられない時代をあらわす。
その中で女王卑弥呼が立てられたのであれば、それは九州だ。しかし
九州にその後の統一は無い。大和前方後円墳文化が九州を飲み込む。


603 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 19:44:51
>>601
その畿内説の年代の根拠は?

畿内説の学者はもう年代の根拠を言わなくなったんだよね。
年輪年代はさすがにやばいという雰囲気(なぜか変換できた)が支配的だし。
C14はホケノ山がC14で4C半ばというデータを無視する必要があるし。
三角縁舶載とかは、一般人の嘲笑の対象でしかないし。


んで、畿内説の年代の根拠を聞こうか?

604 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 19:56:11
畿内説の年代の根拠はほんとうに良く分からないね。

しかし結論をひたすら叫ぶだけというのは、ぼろが出ないから良い方法かも。




605 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 19:59:34
>>603

お前なあ…同じ質問少し前にやってるんだからそれ以後のレスぐらい読めよ。

>>523な。で

>C14はホケノ山がC14で4C半ばというデータを無視する必要があるし。

と言うのは桃核のお話しか?

その桃核が後世にポイ捨てされたものでないと言う保障は何によってなされるんだ?
都合の良い数字だけ拾うな。

一番確実なのは木棺からのサンプルによるものだろうが?違うか?


606 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 20:40:26
九州で鏡が一番いっぱいでてくる平原ですら、
卑弥呼のもらった鏡らしきものは無いからなあ。

九州説さんは、どう考えてるのかね?


607 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 20:42:20
近畿説でも伊都国が西日本の支配者なのは変わらない

608 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 20:44:21
>>605
つ『ホケノ山古墳の研究』


609 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/30(金) 20:47:20
>畿内説の年代の根拠を聞こうか?
かわりに私が
崇神5,6年の出来事は、新羅192,3年の出来事と同等である。

この数字を考古学が確認したという事でしょう。


610 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 20:57:00
平原なら方格規矩四神鏡は、卑弥呼のもらった鏡の
描写に合う。
伊都から大量に出土し、重要な鏡扱いで、
他の周辺地方墳墓から一枚づつ出土する。

伊都国で管理され、周辺諸国に一枚づつ
下賜されていたのだろう。

611 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 21:09:27
結局「考古学的知見を考慮して…」なんて事を言い出したら
通説の伊都国・奴国はガチガチの鉄板。

九州北岸を東へ東へと移動してるいなら
そこから引き返して有明に向かうなんてのはナンセンス
(まあ遠賀川を遡上して…なんて複雑なお話はあるがw)

結局、九州説は一山ナンボの十把一絡げとw

612 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 21:13:30
>>594
鉄器や鉄器製造跡などがあるな。下記のサイトは筑後山門と方保田東原(山鹿市)の遺跡紹介だ。

http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage1.htm
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kankoh/03-rekishi/03-11katoudahigasibaru.html

613 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 21:14:24
九州に平原以上の遺跡が無いんだから、
邪馬台国は九州じゃないってことだ罠。

平原を邪馬台国と言った方がまだ潔い。


614 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 21:14:46
>>611
>通説の伊都国・奴国はガチガチの鉄板。

それを認めたら、畿内説は成り立たないよ。
伊都国、奴国が栄えていたのは弥生時代で、弥生の王墓から鏡がざくざく出土。
同じ頃、畿内には王墓はない。というか鏡もほとんど出ない。

マキムクは古墳時代なので、伊都国、奴国が魏志のとおりとすると、邪馬台国と
マキムクがつながらなくなるのは、子供でも分かる理屈だよ。

615 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 21:18:59
>>611
>通説の伊都国・奴国はガチガチの鉄板

こういう時代遅れの人間が多いの〜。通説という名の無根拠説に踊らされているのも知らずに知ったふうな
口をきく。哀れよの〜。

616 :縄文人:2010/04/30(金) 21:21:14
げはははは。長のアク禁から再び帰ってきた。畿内説よ、くたばるがよい。

617 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 21:25:36
いよっ!にせ縄文人!

618 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 21:26:08
>>614

なんで平原は邪馬台国の時代に最盛期を迎えてないの?
むしろ衰退してるし。



619 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 21:31:02
>>614
…ったく。
じゃあ倭人伝に伊都国の戸数はどれほどと書いてあるのか言ってみろ。

何やら過去に王様がいたのか、それなりの「格」はあったんだろうがそれも過去の栄光。
奴国二万戸とは比べるべくもない。

もう一つ言えば奴国が二万戸とかなりの国勢を誇る様は
福岡平野の中心がより畿内と深い結びつきを見せる比恵那珂にシフトした頃とすれば
畿内説的には理解しやすい。

頼むからもう少しマシな突っ込みしろ。


620 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 21:31:35
>>614
>それを認めたら、畿内説は成り立たないよ。

意味不明、普通に成立しますけど。
王墓だって普通にあるし。高価な朱もたっぷり出てる。

621 :縄文人2世:2010/04/30(金) 21:33:57
>>618
平原は帥升系の墓じゃ。邪馬台国が台頭する前じゃからの〜。


622 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 21:34:20
>>613
でもこの板じゃあ

「卑弥呼は伊都国にいた!」

と言う説も結構しぶとく根付いているぞwww

623 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 21:39:18
伊都国・千余戸、奴国・二万余戸、不弥国・千余家、投馬国・五万余戸、邪馬台国・七万余戸
計14万2千戸、およそ70万人なんて、やっと900年頃の九州全島の人口だ
3世紀にそんなに人口がいたとは思えない

624 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/30(金) 21:52:57
>平原は帥升系の墓じゃ。邪馬台国が台頭する前じゃからの〜。

だからこの時代が、無主歴年。 大王が立てらくなって、年を経る。
どのくらい年を経たかといえば、恒、霊より7,80年間。
このくらい長い間大王を立てられないから倭国大乱とやゆされる。


625 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 21:54:29
伊都国は博多湾の入り口を掌握する位置にある。
伊都国と奴国は密接かつ友好的でなければ
存在できない関係にある。

ほぼ同盟国家だったのではないだろうか。
外国船は伊都国が管理しているかのような
記述があることから、そういう分野での
住み分けが行われていた可能性はある。

626 :縄文人2世:2010/04/30(金) 21:56:35
>>619
>もう一つ言えば奴国が二万戸とかなりの国勢を誇る様は
>福岡平野の中心がより畿内と深い結びつきを見せる比恵那珂にシフトした頃とすれば
>畿内説的には理解しやすい。

…ったく。何を考えとんじゃ。
「福岡平野の中心がより畿内と深い結びつきを見せる比恵那珂にシフトした頃とすれば」とはな〜んじゃ?
文章が滅茶苦茶だ。平野の中心がシフトするわけないだろが!「かなりの国勢を誇る様」が「頃」になるか?
それはさておいてもだ、
畿内と比恵那珂にどんな深い結びつきがあるんじゃ?

それにも増して認識不足なのが倭人伝の戸数2万余の奴国を福岡平野だと思っとるところだ。

627 :縄文人2世:2010/04/30(金) 22:02:51
>>626
>伊都国は博多湾の入り口を掌握する位置にある。

どうしてそんなことが言えるのかな。根拠のない通説に惑わされてはいけんぞい。

628 :縄文人畿内説派:2010/04/30(金) 22:02:58
「日本書紀」は伊覩(いと)県主の祖五十迹手が八尺瓊、白銅鏡、十握剣のいわゆる三種の神器を仲哀天皇に献上した説話を伝えている。
同書は卑弥呼を神功皇后に擬しており、その夫仲哀天皇の在位は西暦192〜200年。この記述は、卑弥呼共立直前の伊都国王の服属
を反映したものといえるのだよ。これはけして偶然の一致ではない。げははははああああああああああああああ。

629 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 22:07:52
>>627
地図を見てそれが理解できんなら、
議論に参加しない方が身のためだと思うぞ。


630 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 22:09:23
伊覩県主(いとのあがたぬし)の祖五十迹手(いとて)は、
「天皇から「伊蘇志(いそし)」と褒められた。
そこで、五十迹手の本土を名づけて伊蘇国といった。
いま、伊覩というのは、訛ったものである。

631 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 22:09:50
>>533
>庄内期から布留期への移行についてはかなり大きな歴史的変化

いやー、土器型式の変化なんだが。
そこから読み取れるのは、祭祀形態の変化かな。
倭人伝に絡めるなら「卑弥呼の鬼道」ってとこだろう。

632 :縄文人畿内説派:2010/04/30(金) 22:11:24
三雲南小路、井原鑓溝遺跡に副葬されていた鏡が舶載鏡であるのに対し、平原遺跡1号墓の鏡は、ほとんどが中国鏡を模した彷製鏡であることが
柳田康雄氏らの研究で明らかにされている。>「渡来工人が伊都国で一括して製造したものではないか。」
鏡が権威の象徴となりえたのは、それ自体が中国との関係を誇示することになる舶載鏡においての話。それを国産にしたのは入手が困難になった
ことを意味する。背景には黄巾の乱(184年)、遼東太守・公孫氏の独立(190年)など後漢の衰退があり、伊都国は独自に鏡を生産することによっ
て、その権威の維持に苦心したのだろうな。しかし失われた勢いを留めるすべもなく・・・。げはははああああああああああああ。

633 :縄文人3世:2010/04/30(金) 22:12:43
>>629
頓珍漢とはおぬしのことか?倭人伝の伊都国は末盧国から東南五百里のところだぞい。

634 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 22:21:28
>>619 意味不明です。

今はやりのルーピーとかいうやつですか?




635 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 22:25:22
仲哀紀8年
筑紫の伊覩県主(いとのあがたぬし)の祖五十迹手(いとて)、天皇の行を聞き、五百枝の賢木を抜き取り、船の舳艫(もとい)に立て、
上枝には八尺瓊を掛け、中枝には白銅鏡を掛け、下枝には十握剣を掛けて、穴門の引嶋に参り迎へて献る。
伊都国は大王の戴冠都市、伊都国の長官が三種の神器を捧げて新大王を向かえ、即位の礼を執り行う感じ?

636 :縄文人畿内説派:2010/04/30(金) 22:26:14
伊都国、潤地頭給遺跡の玉造工房跡からはは島根県玉湯町の花仙山の碧玉、メノウ、新潟県の佐渡島産の鉄石英が出土している。しかも種々の
遺物から、原石の輸入にとどまらず、工人たちが移住して生産していたことが確実視される。同時に出土した西新式土器から、時代は3世紀前半と
推定される。これは伊都国から日本海を通って北陸に至る交易路が存在したことを意味する。倭人伝の30国が九州島内に収まるものではないこと
の重要な証左といえような。げはは、げはははあああああああああああ。

637 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 22:26:56
弥生の絹(錦)がほとんど出ない畿内は、まず最初に邪馬台国の対象から除外する。
冬でも菜(野菜山菜)を普通に食べられる温暖さも条件。
これが学問的な態度というものだ。


638 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/30(金) 22:27:38
伊都国は使者の留まるところであり、末盧国から東南五百里の地にはそんなところは無い。


639 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 22:33:36

■吉野ヶ里遺跡 発掘調査を一般公開 (動画あり)

NHKニュース 4月30日
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20100430/k10014188261000.html

 弥生時代の墓地としては国内で最大規模の佐賀県の吉野ヶ里遺跡で、墓の発掘調査が一般に公開され、訪れた小学生などでにぎわいました。
通常、発掘調査は土日や祝日は行っていませんが、多くの観光客が訪れる大型連休は、発掘調査が来月2日まで、土器の復元作業は来月5日まで行われ、一般に公開されます。

 公開されているのは、吉野ヶ里遺跡の北部にある弥生時代の墓、甕棺(かめかん)墓地の発掘現場です。発掘現場にはおよそ2100年前に作られた、直径およそ60センチの土器の棺、甕棺4基が残されています。
 この甕棺墓地では、1500基余りの甕棺がおよそ600メートルにわたって列状に配置されているのが確認され、弥生時代の墓地としては国内で最大規模です。

 30日は社会科の授業の一環で小学生などが大勢訪れ、県の担当者から説明を聞いていました。
また吉野ヶ里歴史公園の「弥生くらし館」では、出土した土器の復元作業も公開され、担当者が破片の形を確認しながら、ていねいに組み合わせていました。

 通常、発掘調査は土日や祝日は行っていませんが、多くの観光客が訪れる大型連休は発掘調査が来月2日まで、土器の復元作業は来月5日まで行われ、一般に公開されます。


640 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 22:33:48
末盧国とはどこか?
それすら確定していないのだから、ましてその先は・・・

641 :縄文人畿内説派:2010/04/30(金) 22:34:20
>>638
松ちゃんも時にはよいことを言う。使者の留まるところというのは、常識的に考えれば行き来に利便性のよいところになるだろう。つまりけして
内陸部ではなく、大回りが必要な有明海でもない。玄界灘、糸島が伊都国であることは考古学的にも、記紀の記述からも自明。げははははっは
はっははっはああああああああああああああ。

642 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 22:37:03
縄文人は狂ったのか?

643 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 22:38:21
かまって君だからほっとけば。


644 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 22:38:38
>>539
>これは正しいが、これは間違っている、

それ、ふつう資料批判という。

>かってな取捨選択

をしていると認めたなら、個別に反論すればいいのでは?
十把ひとからげで畿内説を敵視するのは、自論の貧困さの反映でないの?

>全て正しいとみて何ら問題はない。

小人の国やお歯黒国なんて、山海経出拠のお話まで問題ないの?

645 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 22:42:49
ところで、伊都にとどまったという一大率というのは

中国から派遣された中国大使なのか
邪馬台国から派遣された
邪馬台国外務省伊都入出国管理センター所長
なのか

理解出来ない俺がいる。

646 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 22:42:58
>>639
>発掘現場にはおよそ2100年前に作られた、直径およそ60センチの土器の棺、甕棺4基が残されています。

卑弥呼の時代とは300年も離れてるからなあ。

最近は昔と違って吉野ヶ里遺跡に「邪馬台国の…」なんて付けなくなったね。
このニュースだって一言も「邪馬台国」や「卑弥呼」は出てない。

647 :縄文人畿内説派:2010/04/30(金) 22:45:43
「纏向を中心とした勢力を誰が主導して作ったのか」この命題に対する答えは自明である。むろん、彷製鏡を作らざるを得なかった平原王墓のでは
ない。それは、いち早く公孫氏と結んだ勢力である。こう言えば推察がつく向きもあるだろうが、確証はない。なぜなら公孫氏と倭国の通行は歴史か
ら完全に消されてしまっているからだ。しかしこのことは画文鏡に三角縁が付いたこととも符合するのだよ。下は母はああああああああああああああ。

648 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 22:46:44
狂ってる・・・。

649 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 22:50:18
>>645
女王国より北の地域には一大率の官が置かれて国々を監視し国々はそれを恐れている(『三国志』東夷伝より抜粋)

もし一大率が中国から派遣された中国大使なら女王国から北は中国の支配下にあったわけだな

650 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 22:51:09
>637
魏に献上されたのは倭錦と言っている
つまり、今のシルクよりも原始的なやつで、生糸をアルカリ処理しない絹で織った粗い質感の織物
中国ではアルカリ処理の技術があって、柔らかい練糸を使って織る唐錦だから、区別して倭錦と書いている
九州から出土するのは唐錦だろ、輸入品であって、倭人伝に書かれている倭錦とは違う
九州説の根拠にはならない遺物


651 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/30(金) 22:55:03
だからね、熊襲の中に卑弥呼の国をつくり、その熊襲を北九州倭人等が
崇めるのは、お日様が西から昇らなければ出来ない事なの。


652 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 23:00:30
>650
残念でした、弥生期の倭錦も弥生期の中国制錦も、圧倒的に福岡県のみから出る。

653 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 23:01:52
>>646
そんなのを恥ずかしげもなく付けるのは纏向だけだろう。

654 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 23:02:44
だからね、マキムクで海に沈没して海産物を捕ることは、富士山が海に沈没しないとできないの。

655 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 23:04:34

■出雲弥生の森博物館:開館 古代文化の実像を体感 土器や馬具など1000点 /島根

毎日新聞 2010年4月30日
http://mainichi.jp/area/shimane/news/20100430ddlk32040325000c.html

 ◇「西谷3号墓」10分の1模型も

 出雲の古代文化を紹介する「出雲弥生の森博物館」(出雲市大津町)が29日に開館し、多くの考古学ファンや家族連れでにぎわった。【目野創】

 同館は床面積2882平方メートル、鉄骨2階建て。展示室には弥生時代の人々の暮らしを表した模型や、同市内の遺跡で出土した土器、馬具など約1000点の資料が並ぶ。

 見どころの一つは、約1800年前に出雲地方を治めた王の墓とされる「西谷3号墓」の10分の1模型(縦6、横4・5メートル)。60体以上の人形も使い、当時の王の葬儀を再現している。
 また、割れた土器を復元するパズルや、弥生時代の衣装を試着できるコーナーがあり、小さな子どもでも飽きさせない工夫がされている。

 29日の開館式には長岡秀人出雲市長ら約160人が出席。渡辺貞幸館長が「古代出雲の実像を体感し、楽しんでほしい」とあいさつした。
マスコットキャラクターの「よすみちゃん」(愛称・よすみー)も紹介された。よすみちゃんの頭はガラスのまが玉の形、体は同館近くの西谷墳墓群で見られる四隅突出型墳丘墓をイメージしている。
同館は大型連休中、まが玉や古代鏡作りが楽しめる体験イベント「めざせ!弥生の森の出雲王」(参加費・500円)などのイベントを予定している。問い合わせは同館(0853・25・1841)へ。


参考@
■出雲弥生の森博物館(新設サイト)
http://www.city.izumo.shimane.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1244161923233&SiteID=0000000000000

参考A
■日本考古学協会 第5回公開講座 Webキャスト(動画配信)
   テーマ「西谷墳墓群をささえた人々−むかし、いま、そしてみらい−」
http://archaeology.jp/cast5/index.htm

656 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/30(金) 23:05:05
倭国の地理や距離が何故大きく狂っているか
これは、魏使が任那で仕入れた不確かな情報が記録された物なんですよ。
魏使は、伊都までしか来ていないの。
だから白水郎の記事が博物誌になっているの。白水郎=倭国中枢部ではあり得ないの。
白水郎が暦を知らずとも、倭国中枢部は暦を使っているから、楽浪へ時節をたがわず市に参加できるの。


657 :縄文人畿内説派:2010/04/30(金) 23:06:41
>>654
倭国全般の風俗記事と、邪馬台国に関する記述の区別もつかん素人が。げははははは。


658 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 23:07:31
>>603
>年輪年代、C14、三角縁

もう聞き飽きたうわ言を、繰り返しつぶやく東遷廚の末期症状。
反論され論破され粉みじんになっても残骸の中から聞こえてくる恨み節。

もはや自論を展開することもできず、
根拠を出せ〜 根拠を出せ〜と、
畿内説のあら捜しで細々と生計を立てるしかない。

659 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 23:08:45
>657
そんなようだから、畿内説は間違いだらけなんだよ。


660 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 23:09:14

m(-_-m)〜 ウラメシヤー
 

661 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 23:10:02
たまに来ても嫌気がさす永遠ループ。

662 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 23:10:28
弥生の倭錦も弥生の中国絹も、

 「纏向からわざわざ福岡県に埋めに来ました」

これが、畿内説です。

663 :万年ループうんざりさん:2010/04/30(金) 23:13:12
>>647
初見なのでレスするが、そりゃ「呉」ってことか?

233年に孫権が公孫淵に使者を送っているみたいだが・・・

じゃあ卑弥呼の魏への朝貢は「寝返り」ってわけか?wwww

664 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 23:15:58
>>611
>九州説は一山ナンボの十把一絡げ

あらら、おいおい・・・

665 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 23:20:32
>>653
>そんなのを恥ずかしげもなく付けるのは纏向だけだろう。

ノー。

・吉野ヶ里歴史公園GWイベント 「卑弥呼もビックリ!? 満喫!弥生体験」
http://www.yoshinogari.jp/

※卑弥呼のビックリ顔掲載!!!
 

666 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 23:24:02
>>622
>結構しぶとく根付いているぞ

しぶといヤツが約一名。

667 :縄文人畿内説派:2010/04/30(金) 23:26:12
>>663
そうではなく、倭国内でいち早く公孫氏と結んだ勢力ということだ。しかも、壱岐、対馬の正規ルートを通らずにだ。これについての
私見はおいおい述べていこうぞww。魏への朝貢は寝返りともいえるが、「機をみるに敏」ということだろう。つまり半島の状況を逐一
知りえた。げはははははははあああああああああああ。

668 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 23:33:12
584年に大和国へ「初めて仏教が伝来」した。
どこから伝来したかというと、近所の播磨国から。

6世紀末、播磨すら領有していない大和が、
金印をどうやって貰うんだろう?

6世紀末、播磨すら領有していない大和が、
4〜5世紀のの高句麗好太王とどうやって戦うんだろう?

これが畿内説です。

669 :もう既に飽きてきた:2010/04/30(金) 23:36:01
>>667
倭国内ねえ…
半島にルートを持ってるとすりゃ山陰・出雲かな?
が、そうすると三角の経緯がよく分からないな。

まあ何れにせよ謎かけにするほどの話しじゃないなw

精々面白く膨らませてくれwwww

670 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 23:38:25
>>668
いよっ、サイキバ君。
そのネタも久しぶりやねwww

で、6世紀の仏教伝来の話しが

なんで(邪馬台国)畿内説なんだ?

相変わらずの低脳ぶりwwww



671 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 23:40:51
>>637
>弥生の絹(錦)がほとんど出ない畿内は、まず最初に邪馬台国の対象から除外する。

卑弥呼が献上したのは「縑」(かとりぎぬ)。
弥生の絹とは系統・技術水準ともに異なる外来技術のシロモノ。

672 :縄文人畿内説派:2010/04/30(金) 23:51:47
>>669
わかっとらんようだな。2世紀末のこの時期、鉄器や航海術などの文明度に優れた北部九州を押さえるためには、半島勢力と結ぶしか
手がないのだ。上レスしたように卑弥呼の共立は、公孫氏の独立などの史実と完全にかさなっている。倭人伝にそのことが記されていな
いのは、陳寿による春秋の筆法。邪馬台国と公孫氏の通行は、魏側でも倭国側でも完全になかったことにされたのじゃ.。ぐえあははは。

673 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 00:10:49
>>637
>弥生の絹(錦)がほとんど出ない畿内は、まず最初に邪馬台国の対象から除外する。

纏向遺跡から絹製品が出てます。(巾着袋。布留0新相?)

卑弥呼や台与が魏と通交するのはは3世紀です。
また当該期と思われる未調査の遺跡はいくらでもあります。

あなたのような断定の仕方だと、歴史学の推論上、相当危なっかしいのでは?

674 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 00:12:23

トヨタン・・・・・・・・・・
 

675 :縄文人畿内説派:2010/05/01(土) 00:24:16
>>673
>卑弥呼や台与が魏と通交するのはは3世紀です。
その通りじゃが、それ以前の邪馬台国と公孫氏の通行がなかったと考える方がむしろ不自然だろう。魏側は公孫氏との通行を知らなかった
ことにし、倭国側もタイムリーな朝貢により公孫氏滅亡への連座をまぬがれたのであろう。初期纏向に九州製土器が見られないのはこのた
めであり、北部九州における交易拠点が西新方面にシフトしていったのもこのため。もっといえば、倭人伝の伊都国に常駐する郡使や一大卒
はこの名残なんじゃな。げははは。
さらに言えば、この一大率が後の太宰帥となった。九州支配の象徴である大宰府跡を王朝の都とする九州王朝説のなんとも憐れなことよ。史実
をこれほど曲解した説もあるまいて。ぐえげはははははっははああ

676 :九州王朝大好き:2010/05/01(土) 00:28:14
倭人伝の倭の地理や距離は正確そのもの。
末盧國は松浦川河口にあった白水郎のいる松浦湾(松浦湖)の南岸である。
そこから前行く人影も見失う草木茂る山道を東南に500里、
着いた所は佐賀平野伊都國である。
嘉瀬川の傍には伊都國惣座城郭があり、
郡使が往来し常に滞在するところであった。
通交の要衝として後世には肥前国庁も置かれた場所だ。
東南100里には奴國の城郭も見える。

惣座から東へ100里、郡よりちょうど12000餘里に不彌國吉野ヶ里城郭がある。
女王國の入り口に到着したのだ。
魏使は、吉野ヶ里城郭から南望すると、
西よりから、奴國が、有明海が、投馬國が、
そして東よりに邪馬壹國が見えた。

677 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 00:33:05
基地外が来たりて人は去ってゆく

678 :縄文人系無所属:2010/05/01(土) 00:33:33
http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage1.htm

上記サイトに弥生時代の福岡県南部の有明海沿岸部の地形図が載せてある。現在は平野部であるが、当時は
満潮時ともなるとこのような島の集合体になる。

この辺りは倭人伝にある投馬国の領域である。不彌国の南にあり、その領域は水行20日(の行程を要する
広さ)である。不彌国から投馬国を通り抜けて邪馬台国に到るには船で行くしかなかった。歩けば山沿いで
あるが、それでは投馬国の主要集落を通ることができない。つまり、魏使一行の食事や宿泊ができない。

豪族の館で食事をとり、宿泊をするには船で行くしかないのである。その船を動かせるのは満潮時のみである。
筑後川南岸一帯から有明海沿岸部を通って熊本に入るのに20日を要したとしても不思議ではない。

679 :九州王朝大好き:2010/05/01(土) 00:40:32
>>675
>この一大率が後の太宰帥となった。九州支配の象徴である大宰府跡を王朝の都とする九州王朝説

これは九州王朝説ではない。
出鱈目九州王朝説を垂れ流すな。

680 :縄文人(真):2010/05/01(土) 00:46:51
>>679
下がれクズ下郎。電波ごときに命令口調をされる覚えはない。うぬれなぞ南を向いて古田に屈従しておればよいのだ。

681 :縄文人(金):2010/05/01(土) 00:50:12
>>678
ばかだなあ。梯儁は小隊規模で電撃作戦を展開したんだよ。各地に逗留しながらなど悠長すぎる。wwww

682 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 00:50:39
>>678
>筑後川南岸一帯から有明海沿岸部を通って熊本に入るのに20日を要したとしても不思議ではない。

ばか。20日もかかるか!
頑張れば1日で行ける。長く見て1泊2日。

683 :九州王朝大好き:2010/05/01(土) 00:58:28
>>678
>この辺りは倭人伝にある投馬国の領域である。

変に見解が一致するな。
この辺りは投馬國の南部領域である。
この辺りは島の集合体と言えなくもない。
しかし、島以外の低地部は海岸湿地帯だ。

684 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 01:06:59
投馬国は大国。5万余戸もあるぞ。そんな所に比定できるわけがない。

685 :九州王朝大好き:2010/05/01(土) 01:33:18
>>684
投馬國の領域は、吉野ヶ里の南に接し、
佐賀平野東部から筑後平野ほぼ全域を含む、
大牟田に至る地域だ。
5万余戸を支える大水田地帯だ。
又長い海岸線は豊富な魚介類が得られるところでもある。
投馬國の漁民は有明海沿岸を制する水軍でもあったのだ。

686 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 01:47:04
投馬国50000戸だけで九州中南部はカバー出来る数だよ。

687 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 04:24:37
>>637
>冬でも菜(野菜山菜)を普通に食べられる温暖さも条件。

九州外れたな。

688 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 04:32:19
>>674
卑弥呼ちゃんで我慢しなさい。

つ 復刻版

689 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 04:57:13
後漢書の韓伝をみると、

「韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰という。
馬韓は西に在り、五十四カ国、その北に楽浪、南に倭と接する。
辰韓は東に在り、十有二国、その北に?貊と接する。
弁辰は辰韓の南に在り、また十有二国、その南はまた倭と接する。
およそ七十八国、伯済はその一国である。」

注目すべきは、倭は七十八国と非常に規模が大きいことがわかる。
そして、後の百済となる伯済がわざわざ倭の一部であると明言してある。

これは、当時の倭が日本列島のみの勢力ではないことの証明と云えよう。

そして、魏志倭人伝にみえる三十カ国からなる邪馬台国とは、
北部九州を拠点とした倭の一勢力に過ぎないと考えて間違いないであろう。

690 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 05:27:48
学説として既に破綻している畿内説の脆弱性について

畿内説の重要な根拠(心の拠り所)とされていた三角縁神獣鏡が、
中国社会科学院の考古学研究所長である王仲殊から「それは漢鏡ではない」と発表され、
九州説側から「三角縁神獣鏡は全て偽作」との反論を受けて沈黙。

邪馬台国長官の伊支馬と垂仁天皇の近似性を指摘するも、
ヤマト王権の史書である記紀には、卑弥呼の遣使のこと等具体的に書かれていない。
尚、畿内説では田道間守の常世への旅の伝説を遣使にあてる奇説もあるので注意。

魏志倭人伝の記述通り、帯方郡から女王國までの12,000里のうち、
福岡県内に比定される伊都国までで、既に10,500里使っていることから、
残り1,500里で畿内説を証明することは、物理学上不可能であり学説として既に破綻している。

691 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 05:33:00
54+12+12=78 78は韓の国数だろ。

692 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 05:38:08
>>690
畿内説が成立しないことはまちがいないが、帯方郡から女王國までが12,000里
だからというのはどうかな。それは女王国の始まりまでの距離にすぎない。
けして、邪馬台国までの距離を言っているわけではない。

693 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 06:20:15
>>690
>学説として既に破綻している。

なるほど。
論理がすぐ破綻するんで畿内説は人格攻撃や中傷を繰り返すしかないわけだ。


694 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 06:26:40
邪馬台国=畿内説をとる三角縁神獣鏡に関する脆弱性について

畿内説では、魏の皇帝が卑弥呼に銅鏡百枚を下賜したとする記述があることから、
畿内を中心に出土する三角縁神獣鏡がその鏡であるとする。

しかし、三角縁神獣鏡が出土するのは4世紀以降の古墳からのみで、
邪馬台国の時代である3世紀の墳墓からは1面も出土しておらず年代そのものが合わない。
この三角縁神獣鏡は中国国内では1面も出土しておらず、
中国社会科学院考古学研究所長からも漢鏡ではないと正式に発表されている。

※卑弥呼に下賜された銅鏡は100枚だが、それをはるかに超える数の三角縁神獣鏡が出土。

この鏡を作った者が、何らかの理由で魏の年号を使いたかったことには間違いがないが、
改元されて実在しない中国の年号の銘が鏡まで存在する始末だ・・・orz

695 :690=694:2010/05/01(土) 06:56:56
邪馬台国=畿内説をとる研究者からの三角縁神獣鏡に関する反論(珍説、奇説)について

>三角縁神獣鏡は邪馬台国向けに「特別」に作らせた鏡だから中国には残っていない。(珍説)
>景初3年は、景初4年正月となるべき月を後十二月とした年であり、その混乱を示すものである。(奇説)
>卑弥呼にはその後も何回か銅鏡が下賜された。(根拠不明)

696 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 07:08:24
3世紀、魏の時代の鏡とされるものは九州ではほとんど出土しない。なぜなら、後漢の衰退とともに九州は大陸との
通行権を失ったからだ。これは平原出土の鏡がほとんど国産であることからも自明である。多くの国産鏡を作っても
倭国の盟主の地位は伊都国から離れていった。平原1号墓の被葬者は、最後の九州王であるのだろう。そして、この
時点から、九州説は画文や三角にけちをつけるほかやることがなくなる。

697 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 07:11:27
そして、永遠ループが続いていく。>>695 ご苦労さんだなあ、いつも。wwwwwwwwwwwww


698 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 07:21:42
そうだよな。畿内説でも三角国産論者は多い。九州説は、方格でも内行花文でも、これが
卑弥呼の鏡です、って主張したほうが生産性が高いのに。

699 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 07:29:36
>>693
>>693
畿内説は学説的に破綻しているだけでは収まらないでしょ?
むしろ、彼らは人格攻撃や比喩中傷を繰り返しながら人格崩壊にまで発展しているのかと。w

ここは畿内説の脆弱性を論破しながら、彼らの病状を生温かく観察するスレです。

700 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 07:53:22
>>699
お前が一番学問と関係ないレスをしてるじゃないか。お前クズだろ。不幸な実生活を送ってるだろ。ww (見事な人格攻撃)

701 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 08:04:04
日本の三角縁神獣鏡の問題について(中国社会科学院)

考古学研究所長王仲殊「関干日本三角縁神獣鏡的問題」「考古」一九八一、第四期より抜粋

「三角縁神獣鏡は中国からは出土しない。すなわちこの鏡は中国製の鏡ではなく、日本製である。
従って卑弥呼が魏朝から贈られた魏鏡ではありえない。」

>>696
邪馬台国=畿内説の絶対的根拠とされる三角縁神獣鏡(自称魏鏡)とやらは、
改元されて実在しない年号(中国)の銘まで入った鏡まで出土する始末なんですけど、
この期に及んでも三角縁神獣鏡で反論(珍説、奇説、根拠不明)する訳ですか?

702 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 08:30:42
>>692
「自郡至女王國萬二千餘里」ですから
帯方郡の中心地の郡治から女王國の中心地までが12,000里です
女王国の始まりまでの距離ではありませんよ。
「郡至女王國萬二千餘里」なら
帯方郡の端から女王國の始まりまでが12,000里になります。


703 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 08:59:14
>>702
そんな使い分けが存在する証拠は、どこから得られたの?
畿内説にしろ九州説にしろ、御都合主義の語法の捏造が横行してるなあ。

704 :水銀厨:2010/05/01(土) 09:02:58
>>701
私は畿内説ですが△鏡国産説大歓迎ですよ。

>>702
そうですよね、奴国が女王国との境界線なのだから
大分、山口辺りからが女王国で数字的にはむしろピッタリ。

705 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 09:17:09
>>701

その王仲殊って、九州説なの?






706 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 09:25:04
最近は、中国社会科学院に痛いところ突かれた邪馬台国=畿内説論者から、
魏の王朝が卑弥呼や壱与に下賜するために、特別に鋳造したのが△鏡であるという珍説が提出されている。

△鏡が出土するのは四世紀以降の古墳からのみで、三世紀の墳墓からは出土してない点に注目。
(魏志倭人伝の邪馬台国の時代は三世紀で、ここでも邪馬台国=畿内説の辻褄が合わない。)

更に、(往生際の悪い)邪馬台国=畿内説論者からは、
謎の中国工人群が△鏡を製作して、その手法が魏の官営工房に繋がると云う奇説まで出ているので要注意。

正直に、△鏡が魏朝から贈られた魏鏡ではありえないと認めたくないのが邪馬台国=畿内説論者。

707 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 09:30:14
王仲殊氏の説をそのまま出されたら都合が悪くなるから、予防線をはりやがったなw

708 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 09:35:25
>>705
王仲殊氏だけじゃなくて、中国社会科学院は邪馬台国=畿内説に否定的。

邪馬台国=畿内説にとって、王仲殊氏は九州説と並ぶ天敵のような存在じゃないかな?


709 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 09:38:50
>>708
>王仲殊氏だけじゃなくて、中国社会科学院は邪馬台国=畿内説に否定的。
そうなんですか。
初めて聞きました。
で、そのソースはなんですか?


710 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 09:46:20
>>708
東遷厨には天敵のような存在の間違いじゃないの?w

711 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 10:01:21

邪馬台国問題は中国人研究者に解決してもらうわけ?

712 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 10:11:24
邪馬台国=畿内説の最大根拠とされる三角縁神獣鏡について

魏の元号が改正されて存在しない「景初四年」銘の三角縁神獣鏡2枚が発見されていること。
これは即ち、この三角縁獣鏡が魏年号の改元を知らなかった海外=日本で製作されたことを示しています。

考古学的にも、この三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏王朝より下賜された「銅鏡百枚」ではないです。はい

尚、熱狂的な邪馬台国=畿内説論者ら(名前を挙げるのが怖い)によると、
今後、魏王朝時代の墓が発見されて、そこから三角縁神獣鏡が発掘されるらしいです。

残念ながら、河南省安陽県の魏武王の陵墓からはそれらしきモノが発掘されませんでした。(笑)

713 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 10:29:07
>>703
それでは「自郡至女王國萬二千餘里」と「郡至女王國萬二千餘里」の違いは?


714 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 10:30:40
>>686
明治6年でも筑後の人口は393,656人ですよ。

715 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 10:39:22
>>713
「郡至女王國萬二千餘里」という文は、君が作った文だろう。
「自」の有無で中心だ端だっていう使い分けが存在したという根拠を、
君はどこから得たのかと質問してるの。

716 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 10:44:38
>>714現在の人口から過去の人口を推計するには、国の中心が変わらなかったという前提が必要。
どんなにち密な推計をしても、国の中心が畿内に移れば九州の人口は急減するものです。
といったことを古田先生も指摘していました。
菅原道真公の時代ですら大宰府は時の権力者によって左遷された辺境の地でしたからね。

717 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 10:55:24
>>712
今は畿内説論者の中にも三角縁神獣鏡魏鏡説を採らない学者が結構いるから
「最大根拠」なんて言い方はおかしいぞ。

718 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 10:57:02
>>712

で、王仲殊って、九州説なの?



719 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 11:14:00
>>718
横からだが王仲殊氏は近畿説。

720 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 11:23:00
>>689
>注目すべきは、倭は七十八国と非常に規模が大きいことがわかる。
>そして、後の百済となる伯済がわざわざ倭の一部であると明言してある。

セコいミスリードをするねえ。誰に向けて、なんの意図があって、やってんだ?

皆さんわかっちゃいるだろうけど、
『後漢書』馬韓伝 全文訳

韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰という。
馬韓は西に在り、五十四カ国、その北に楽浪、南に倭と接する。
辰韓は東に在り、十有二国、その北に濊貊と接する。
弁辰は辰韓の南に在り、また十有二国、その南はまた倭と接する。
およそ七十八国、伯済はその一国である。
大国は万余戸、小国は数千家、各々に山海の間に在り、土地は合計四千余里、
東西は海が限界で、いずれも昔の辰国である。
馬韓が最大、その苗裔を辰王として共立し、都は目支国、三韓の地の大王である。
そこの諸国王の先祖は皆、馬韓の血族である。

721 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 11:27:14
>>719

だったら、三角が国産なら、近畿説の証拠ってことでしょ?




722 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 11:27:20
ヒント)

キムチチェッカー

723 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 11:34:14
>>694
また始まった東遷廚のミスリード。しかし、

> 三角縁神獣鏡が出土するのは4世紀以降の古墳からのみで、
>3世紀の墳墓からは1面も出土しておらず年代そのものが合わない。

などと、依拠している年代観が過去のものなので、
完全にズレまくった主張になってしまっている。

724 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 11:49:17
>>714

弥生後期から明治初期までには北部九州の人口はそれほど増大していない。
北部九州の人口は弥生後期には既に飽和状態になっていたのだ。

壱岐の人口
弥生後期 1万5千人(3千許家)
明治初期 2万5千人

筑後の人口
弥生後期 25万人(5万戸)
明治初期 40万人

725 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 11:54:15
>>708
>王仲殊氏だけじゃなくて、中国社会科学院は邪馬台国=畿内説に否定的。

このミスリードはすでにネタバレで、上でも指摘があるが、
王仲殊氏は

「邪馬台国の所在地が九州か、はたまた畿内かは、当然、今後の継続的な研究をまつべきである。
 しかし、私は三角縁神獣鏡が東渡の中国職人の手で日本でつくられたものだといっても、
 このことによって「畿内説」が不利な立場にはならないと思っている。 」
(第一論文「日本の三角縁神獣鏡の問題について」1981)

と述べている。

726 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 12:05:17
>>725
「邪馬台国の所在地が九州か、はたまた畿内かは、当然、今後の継続的な研究をまつべきである。
 しかし、私は三角縁神獣鏡が東渡の中国職人の手で日本でつくられたものだといっても、
 このことによって「畿内説」が不利な立場にはならないと思っている。 」

手当たり次第に住人を東遷廚扱いする怪電波は、↑で無理矢理終わらせたいらしいが、

↓ 以下、王仲殊氏の本音

「三角縁神獣鏡は中国からは出土しない。すなわちこの鏡は中国製の鏡ではなく、日本製である。
従って卑弥呼が魏朝から贈られた魏鏡ではありえない。」

王仲殊氏が邪馬台国=畿内説に否定的か否かは氏の発言から明確。

727 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 12:17:22
珍説、奇説、そして根拠不明。
これが邪馬台国=畿内説の実態ですね。可哀相に・・

728 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 12:21:23
>>725
>王仲殊氏が邪馬台国=畿内説に否定的か否かは氏の発言から明確。

明確に
「私は三角縁神獣鏡が東渡の中国職人の手で日本でつくられたものだといっても、
 このことによって「畿内説」が不利な立場にはならないと思っている。」
ですね。

729 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 12:21:45
>>726
>「三角縁神獣鏡は中国からは出土しない。すなわちこの鏡は中国製の鏡ではなく、日本製である。
>従って卑弥呼が魏朝から贈られた魏鏡ではありえない。」
>王仲殊氏が邪馬台国=畿内説に否定的か否かは氏の発言から明確。

馬鹿じゃないの?というか馬鹿だね。

三角神獣鏡が日本製であることと邪馬台国畿内説なんて直接関係無いじゃん。

あたまおかしいの?

730 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 12:35:00
畿内説の重要な根拠である三角縁神獣鏡まで否定されていつもの人格崩壊ですね。わかります

731 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 12:35:09
>>724
>壱岐の人口
>弥生後期 1万5千人(3千許家)
>明治初期 2万5千人

壱岐は島で弥生後期から明治初期まで新たに干拓したり開墾できるような土地などなく
農業技術の発展に伴う反当たりの収量が増えて人口も増えたのだろうが
壱岐によに弥生後期から明治初期まで人口が二倍になっていないような場所は日本国内であまり例が無い

>筑後の人口
>弥生後期 25万人(5万戸)
>明治初期 40万人

筑後の弥生後期と明治初期では有明海の干拓で耕地面積が数倍になり
農業技術の発展に伴う反当たりの収量も増えているはずだから
明治初期の筑後の40万人なのだから筑後の弥生後期の人口を25万人とするのは不可能です。
筑後の弥生後期の人口は10万に満たないと推定されます。



732 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 12:43:59
「三角縁神獣鏡が舶載であることが、畿内説の要」というミスリードを誘ってるわけだな。

三角縁神獣鏡が舶載かどうかは、畿内説の一部の議論でしかない。
国産であっても問題ない話。

なぜ、問題ないか?
九州からは、卑弥呼の鏡に相当する鏡すら見つかってないから。



733 :水銀厨:2010/05/01(土) 12:48:28
>中国社会科学院は邪馬台国=畿内説に否定的。

これは酷いミスリードですね。あまりそういう書き込みは
止めた方がいいと思いますよ。

何度も言いますが、現在畿内説でも△鏡国産説が
むしろ多い方ですね。
神仙思想的な図柄と合わせると、丹の産出地を
関連つける私にとっては正に好都合な訳です。


734 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 12:53:31
>>732
畿内説の一部の議論と云うミスリードは初めて耳にするけど、
正直に、三角縁神獣鏡が魏朝から贈られた魏鏡ではありえないと認めたくないの?

それにミスリードの表現が曖昧ですね(笑)

735 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 12:54:52
ミスリード、ミスリードって水銀厨が一人で吠えてるの?

736 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 12:57:02
>>730
>三角縁神獣鏡まで否定されて

三角縁神獣鏡が舶載であれ国産であれ、畿内説に影響はありません。
畿内中心に分布していることが、そこに政権の存在を示しているということです。

737 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 12:59:51
>>731
>筑後の弥生後期と明治初期では有明海の干拓で耕地面積が数倍になり

嘘言っちゃいかんよ。
筑後平野の農地拡大期は江戸中期18世紀と明治中期以降。
江戸時代の農地拡大は、干拓によるものではなく、海岸低湿地の水田開発。

なお、17世紀の筑後国の人口は30万人。

738 :水銀厨:2010/05/01(土) 13:02:24
>>735
私はミスリードという単語は1回しか書き込んでませんけど。

△鏡は一部見本を元に田原本周辺で造られたのではないかと
推測してるんだけどね。
鏡神社に銅鐸製作地、研磨材料全て揃ってるし。

739 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 13:07:25
>>726
三角縁神獣鏡魏鏡説は、長年にわたって畿内説の考古学的根拠の柱だった。
その考古学的根拠を否定しておいて、畿内説を否定しないのは、ただ気を
使ったということだろう。

心の中では、何でこんな鏡を魏鏡に仕立て上げたんだろう、と思っているだろうな。

740 :縄文人系無所属:2010/05/01(土) 13:10:19
>>681
>ばかだなあ。梯儁は小隊規模で電撃作戦を展開したんだよ。各地に逗留しながらなど悠長すぎる。wwww

梯儁が何をしに来たのか知らんのか?倭人伝も読めない無学者が縄文人の名を騙るとは!

>>682
身体だけ丈夫なんだね、チミは。頭の使い方は習っとらんようじゃの。

741 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 13:12:08
>>737
有明海沿岸は干拓せずとも自然陸化してきているよ。



742 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 13:14:05
>>737筑後は弥生後期から17世紀まで社会が停滞していたのか?

743 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 13:18:34
>>739
>ただ気を使ったということだろう。

ふざけるなよ、このクソ野郎。お前のレスは悪意のこもった推測ばかりじゃないか。
お前が説く東遷説より、お前の人格の低さのほうが広まってるじゃないか。

744 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 13:19:53
>>740
縄文人は無学者以前の痴呆的人物。

745 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 13:20:32
>>736
>三角縁神獣鏡が舶載であれ国産であれ、畿内説に影響はありません。

今日まで畿内説の根拠とされてきた魏鏡=三角縁神獣鏡を否定することは、畿内説を否定することと同義語ですよ。
根拠不明の発言自体、己から畿内説が学説として既に破綻していると白旗を揚げているようなモノかと。

>畿内中心に分布していることが、そこに政権の存在を示しているということです。

三角縁神獣鏡が出土するのは四世紀以降の古墳からのみで、
魏志倭人伝「邪馬台国」の時代とは考古学的に辻褄が合いませんね。

そもそも「政権の存在」とは邪馬台国を意味しているのでしょうか?

746 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 13:20:41
>>741
阿蘇の大噴火によるものでしょうね

747 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 13:22:32
縄文人というのは、地方の工業高校あたりを出た、鉄工所勤務のおっさんだろ。ゴミクズのような老人。

748 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 13:28:21
>三角縁神獣鏡が出土するのは四世紀以降の古墳からのみで、
魏志倭人伝「邪馬台国」の時代とは考古学的に辻褄が合いませんね。

ほらほら、こんなこと言いつつ王仲殊氏の話の都合の良い部分を
持ち出してくるから・・・

749 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 13:30:08
>>745
アホウ。他説の否定のみでしか自説を語れないのか。そういう思考を続けてると、いずれ建設的なことは何もでき
なくなるぞ。それともすでに世の中の敗残者か?www 三角縁魏鏡説を説いているのはこのスレだとローガンだけ
だろ。自説を語ることもなく、スレの流れを読めず、ただけちをつけるだけの人生。なんとご立派なことか。wwww

750 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 13:31:44
>>743
だってそうだろう。わざわざ日本に招待してくれた。行ってみると、三角縁神獣鏡を
卑弥呼の鏡と言ってくれないかなと熱心に期待する畿内説の考古学者がたくさんいる。

しかし、自分の考えを変えるわけにはいかない。一応、魏鏡であることを否定して
みたものの、畿内説まで否定してしまうのはあまりにも酷と思うのが当然。
擁護するようなことも言ってみたくなるだろう。

まあ、鏡の専門家ではあっても、邪馬台国論争については素人という考えも
あっただろうが。

751 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 13:35:42
>>750
アホウ。鏡の産地と同様に、年代観も立派な学説の一部。そこは学者として曲げるわけにはいかないところ。
しかし、王氏は鏡の紀年を実際の年代と見ているわけだ。ww s

752 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 13:40:49
>>746
有明海は出口が狭く
筑後川、嘉瀬川、矢部川、菊池川、白川、緑川などの多くの河川が流れ込んでいる
古来より干拓せずとも沿岸は自然陸化し、それに伴い耕地も増えてきた。
干拓は陸化した土地に堤防の囲いを作るだけ。

>阿蘇の大噴火によるものでしょうね

阿蘇の噴火によって排出された土砂を河川が運び海を埋めてきた。

753 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 13:43:55
魏の元号が改正されて存在しない「景初四年」銘の三角縁神獣鏡2枚が発見されていること。
これは即ち、この三角縁獣鏡が魏年号の改元を知らなかった海外=日本で製作されたことを示しています。

考古学的にも、この三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏王朝より下賜された「銅鏡百枚」ではないです。はい

尚、熱狂的な邪馬台国=畿内(珍)説論者ら(こいつらが黒幕)によると、
今後、魏王朝時代の墓が発見されて、そこから三角縁神獣鏡が発掘されるらしいです。(むしろ今日の畿内(珍)説はオカルトかとw)

答え)

河南省安陽県の魏武王の陵墓からは三角縁神獣鏡が発見されませんでした。(笑)
河南省安陽県の魏武王の陵墓からは三角縁神獣鏡が発見されませんでした。(笑)
河南省安陽県の魏武王の陵墓からは三角縁神獣鏡が発見されませんでした。(笑)

754 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 13:47:24
>>745
>三角縁神獣鏡が出土するのは四世紀以降の古墳からのみで、
>魏志倭人伝「邪馬台国」の時代とは考古学的に辻褄が合いませんね。

邪馬台国が九州にあったとすると、4世紀に突如畿内王権が登場し、
九州を凌駕した説明ができませんね。




755 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 13:47:53
>>753
だから、ぼう製鏡の根拠にしかなってないじゃんw


756 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 13:52:00
>>741-742
筑後平野は沈降平野
弥生後期から江戸初期まで、その面積が減少はしても増大はしていない。

沈降による低湿地の増大で可耕農地は減少している。
現在の干拓地も弥生時代には陸地だったのである。

耕地面積減少平野では人口の増大は望めない。
弥生後期の人口は江戸初期の人口よりも多かったのかも知れない。

757 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 13:55:26
>>754
「4世紀に畿内王権が登場」、に確実な根拠があるの?

「九州を凌駕した説明」なんて必要ないだろ。
古い文明が新しい文明にとって代わられるのは、歴史のセオリー。

758 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 14:01:13
>>757

>「4世紀に畿内王権が登場」、に確実な根拠があるの?

4世紀に畿内王権が登場したことを否定するってことは、
どこから大和朝廷は沸いてきたんですか?



759 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 14:04:18
根拠になってない

760 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 14:04:32
>>757
九州の方が古い文明なのか(笑)?
それじゃあ、九州説の根幹が崩れるな(笑)

いいね、もっと説いてよ(笑)

761 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 14:10:42
関東には旧石器時代>縄文時代>弥生時代>古墳時代>奈良時代と集落跡が重なる遺跡は山ほどあります。
そのうちどれかが邪馬台国だったとしても何の不思議はありません。


762 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 14:22:40
>>745
>今日まで畿内説の根拠とされてきた魏鏡=三角縁神獣鏡を否定することは、畿内説を否定することと同義語ですよ。

どこが同義語? キミがそうしたいだけなのでしょうが、否定の理由にはならないのが現実。

>三角縁神獣鏡が出土するのは四世紀以降の古墳からのみ

辻褄が合わないのは、キミの(近年の研究成果から取り残された)年代観。

>そもそも「政権の存在」とは邪馬台国を意味しているのでしょうか?

それがなんであれ、キミの主張がトンチンカンなことを意味しているのです。

763 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 14:28:58
>>750
王氏は、文化大革命を経た世代だから政治的に微妙なものに深入りしないと
という考えで、「邪馬台国論争なら日本でやってくれ、とにかくあれを中国産と
主張するいう恥を後世に残したくない。」という考えなのだろう。

最近は、舶載説も沈黙するようになってきたね。
周りにあれだけ腫れ物扱いされて、遠巻きに観察されていては痛々しいところがある。

764 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 14:34:44
まあ、>>762>>736なら、畿内厨の脳内妄想の典型と云うべきか支離滅裂ですな。
いったい「政権の存在」とは魏志倭人伝の何処の国を指すのだろうね(笑) ムー大陸だったりしてw

以下、突っ込みどころ満載

>三角縁神獣鏡が舶載であれ国産であれ、畿内説に影響はありません。
>畿内中心に分布していることが、そこに政権の存在を示しているということです。

765 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 14:34:45
>>716
いくら何でもそれはないw
大和に政権が移ってから九州は時間は止まってた、
東北から中国地方まで人口が何十倍にもなってるのに九州だけは未開社会のままでしたとか。
古田っていうのはどういうオツムをしてるのかね。

766 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 14:38:45
>>756
んなアホなw

767 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 14:53:27
>>756
邪馬台国の中心地は諌早湾に沈んだと見るべきでしょうね。

768 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 14:58:10
まさに幻の九州説。
九州説にはロマンがある。

769 :縄文人系無所属:2010/05/01(土) 14:58:42
畿内について言えることは下記ぐらいじゃないかな。

三角縁神獣鏡が卑弥呼に贈られた銅鏡100枚に該当しないことは明白。したがって、これの出土の多い
ところを邪馬台国とするのも不可。

しかし、三角縁神獣鏡を多く所持できた、あるいは配布できたということは王権の存在を示唆する。
したがって、三角縁神獣鏡の出土の多い畿内に王権が存在したと思われる。

畿内には繁栄したと見られる弥生期の遺跡が少なく、同時代の九州の遺跡に見られる鉄器などの出土
が少なく、文明的後進性が認められる。

しかし、その弥生期の姿とは連続性が見られない形で前方後円墳が登場する。特に不連続性が感じら
れるのは墓の副葬品である。これを内発性の変化として説明することは容易でないので、外部勢力に
よる王権樹立が考えられる。


770 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 15:02:59
>>764
わざわざレスしてくれて、しかし、言ってることといったら

>脳内妄想、支離滅裂、ムー大陸、突っ込みどころ満載

もはや悲惨だな(突っ込めてないし)。

771 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 15:08:17
ははは、畿内厨の書き込みは突っ込みどころ満載ですな。

772 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 15:08:38
ということは、

どう考えても、邪馬台国は畿内ってことなんですね。
すっきりしました。

773 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 15:09:01
>>769
>三角縁神獣鏡が卑弥呼に贈られた銅鏡100枚に該当しないことは明白。

根拠を明示せずに明白と言ってもぜんぜん明白じゃないのは明白。

>外部勢力による王権樹立が考えられる。

それ畿内説。

774 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 15:13:34
>>770
で、「政権の存在」とは魏志倭人伝の何処の国を指すのですかね?

これだけは明確にしてくれないと、スレ自体の存在意義が成立しませんな(笑)

775 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 15:21:43
>>769
もはや畿内厨はキャンキャン吠えるだけのかませ犬かと(笑)

776 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 15:22:22
確かに最近は、三角縁を根拠に邪馬台国が畿内にあったとする学者はほとんどいなくなりました。
それで畿内説はあきらめたのかと思ったら今度はC-14による年代測定をもちだした。
しかし、この方法も年代測定法としては相当の誤差があり、決定的な証拠にはなりません。
第一、畿内では方向が全く違う。
それでは、卑弥呼と同じ時代に畿内にも大きな国があった証拠にしかなりませんね。
次は何を言い出してくるか楽しみです。w

777 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 15:25:05
>>774
>明確にしてくれないと、スレ自体の存在意義が成立しませんな

それを明確にするための議論の場として、このスレの存在意義があるんだよ。
>>769のように、問題を提示してみなよ。

ただしそれは、「三角縁神獣鏡が国産だから畿内説は否定される」という
トンチンカンな主張とは全く別のテーマだろ?
それを混同して、論議をごまかそうとするキミの(姑息な)意図がミエミエなのさ。

778 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 15:28:59
>>777
で、「政権の存在」とは魏志倭人伝の「何処の国」を指すのですかね?

いつになったら答えてくれるのでしょうか?さっさと答えて下さい。

779 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 15:32:05
>>776
>卑弥呼と同じ時代に畿内にも大きな国があった証拠

よくお分かりですね。では次に、
「畿内以外にも大きな国があった証拠」
を言い出さなければならないのはどなたでしょう?

780 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 15:32:59
>>776

九州説は考古学上の証拠は一つもありませんが、どういうことですか?



781 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 15:34:07
>>776
何としても邪馬台国を畿内にもってこようとあの手この手を尽くしてこれでも一応がんばっているつもりなのですよ。
微笑ましい姿です。


782 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 15:36:36
三角縁神獣鏡が卑弥呼のもらった鏡である、という証拠はいまだに見つかってないし、今まで出土した
全枚数が100枚以上有るし 大きささえもバラバラ。中には年号がおかしいのが混じっている。
だから三角縁神獣鏡が一杯出たから邪馬台国、と単純にはいかない。
魏志倭人伝の記載での卑弥呼の墓ってやつがポイントなんだろうな、記述から見ると円墳っぽいんだが。
箸墓が掘れればなあ、とつくづく思う。
前方部があとから付け加えられてたら.....と。
まあ謎だからおもしろいんだが

783 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 15:38:04
やっぱり、考古学上の証拠が多い畿内説と、
考古学上の証拠が何も無い九州とでは、九州説は劣ってるとしかいえないなあ。



784 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 15:52:56
魏志倭人伝の記述通り、帯方郡から女王國までの12,000里のうち、
福岡県内に比定される伊都国までに、既に10,500里使っていることから、残り1,500里で畿内説を証明することは完全に不可能。

しかも、畿内厨の心の拠り所(笑)とされる三角縁神獣鏡が出土するのは、
四世紀以降の古墳からのみで、邪馬台国時代の三世紀の墳墓からは出土してない点。

更に突っ込むと、魏の元号が改正されて存在しない「景初四年」銘の三角縁神獣鏡2枚が発見されている点。
(この三角縁獣鏡が魏年号の改元を知らなかった海外=日本で製作されたことを示している。)

以上、畿内厨がどう逆立ちしても、この三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏王朝より下賜された「銅鏡百枚」ではない点。

邪馬台国=畿内説は、学説として完全に破綻していますな(笑)

785 :縄文人系無所属:2010/05/01(土) 16:05:11
>>773
>根拠を明示せずに明白と言ってもぜんぜん明白じゃないのは明白。

三角縁神獣鏡が100枚の何倍も出土していることは公知の事実。根拠を明示するもなにも、
公知の事実を知らん方が悪い。

>>外部勢力による王権樹立が考えられる。
>それ畿内説。

外部勢力が樹立した王権が邪馬台国であるとは言えんだろ。...ったく。どういう思考回路を
埋め込まれているんじゃ?ロボット君。


786 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 16:06:50
>>784
長文のわりに頭の悪そうな解釈だな。

787 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 16:14:55
>>784

九州の3世紀の遺跡で、邪馬台国ってどこ?
卑弥呼の鏡はどれ?

九州説は、考古学上の証拠は本当に何もないんだな。

788 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 16:17:31
『 500対0 』

いつもの九州説のアホの一つ覚えだなw

まあ確かにワンフレーズで分かりやすいしそれに引っかかる人間も多いだろうから
言い続ける価値はあるかもしれない。
「継続は力なり」だw

そもそも小林とて出土する三角の全てが舶載なんて言っていない。
卑弥呼がもらった鏡が百枚だけなら1枚オリジナルがあれば上等か?

結局枚数なんか関係なく
舶載説を否定したいのなら卑弥呼がもらった鏡が何であるのか?を立証する。
もしくは大陸の銅鏡史に照らし合わせ3世紀の時点ではまだ三角は現れないことを示すか。

…あたりか?






789 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/01(土) 16:22:45
三角縁が流行するのは、たぶん4世紀初頭から中頃まで。
では何故流行したのか、
流行拠点は畿内大和だ、そして景初3年銘も鋳られる、呉鏡もはいる。
時代は西晋から東晋の時代になる。

神功渡海(273年)より倭軍は半島にある、そして永嘉の乱に東夷軍を送り出す。
半島、大陸での戦に実入りは期待できないから、軍人を鼓舞するため、軍体としては、活躍した軍人を叙勲しなければならない。
そこに登場するのが△縁だ。畿内王朝は景初3年を冊封の始まりと考えて、その年号を刻んだりもする。

△縁は、卑弥呼の鏡では無いが、その時冊封を受けた大和政権が、軍人に配ったもの。



790 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 16:23:17
>>785
自分の>>769を読み返して、自分がどれだけ頭が悪いか確認しろ。www

>同時代の九州の遺跡に見られる鉄器などの出土が少なく、文明的後進性が認められる。
>その弥生期の姿とは連続性が見られない形で前方後円墳が登場する。

纏向の早期前方後円墳を作った勢力は、鉄器に少ない勢力なんだよ。なに支離滅裂なことを
書いてんだ?wwwww 結論・・・縄文人はクソにたかるハエ。見つけたら叩こう。


791 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 16:24:02
>>787
九州に考古学的なものが何もないということはない。
何も知らないというだけだろう。

少なくとも、しばらく前からここにいる畿内説の連中はそんなことは
言わないはずだが。

792 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 16:28:15
しかし相変わらず恨み節の東遷厨の火病ぶりはひどいwwww

三角舶載が畿内説の根拠とはいったい何の話だ?

三角舶載を前提に組み立てられた小林説じゃあ
「卑弥呼の時代には前方後円墳なんかありませんでした」と言う話し。
(年代の変遷はあったが最終的には)

現在の畿内説とは相容れない。

まあ「昔ということが違う」と言う文句もあるかもしれんが
畿内説と言うのは宗教じゃないので漸進する事を避けられない。

悪く思うなw

無論、東遷厨や個々の九州説連中が畿内説の学者に対しリアルで
「謝罪と賠償を要求する!」
と訴訟なりなんなりするのは自由なので大いにやってくれwww



793 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 16:34:41
>>791

九州の、邪馬台国に相当する遺跡ってどれ?
卑弥呼の鏡も大量に出土してるんだよね?

隠さないで教えてくれ。本当にあるのならば。


794 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 16:36:40
しかしループだなあ。この原因は明らかに九州説にあるぞ。東遷厨はじめ多くの九州説はただ、三角やらC14
やら年輪にけちをつけるだけのアンチ畿内説フアン。けして卑弥呼の王都と墓所を指定して自らの九州説を堂々と
展開しようとはしない。それをやってるのは縄文人くらいなんだが、これが40年前に出てきたような痛々しい内容の
もの。叩きまくられて退散してたようだが、連休になってまた出てきたらしい。

795 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 16:46:16
で、こんな歴板の中でも素人スレと馬鹿にされてるところに常駐して、ただただ畿内説を叩き続けるという精神構造はいったい
どうなってるんだ?何かの病理的な症状の発現なのか?ww これだけのヒマとエネルギーがあったらサガミのように九州説の
本でも書けばいいじゃないか。売れないだろうが、精神衛生的には今よりずっといいだろう。www

796 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 16:49:18
俺は以前から
「もし倭人伝に行程記事が無ければ今頃福岡平野が九州説の最右翼だったろう」
と言っている。

無論、弥生時代の規模の大きさもあるが、それだけじゃあ
「卑弥呼の時代には既に過去のお話でした」
って可能性もある。

が那珂八幡の早期の前方後円墳が築造されたりと古墳時代に入っても
それなりの「大国」としての連続性が見えるのが大きいだろう。

「弥生時代に栄えてました」と言う理由だけでそこを邪馬台国だと主張しても
古墳時代に入って細々と土器が出てくくる程度の遺跡なら
じゃあ古墳時代になってそれほどに凋落したのは何故だ?と言う話になる。

そう言う蓋然性を考慮するなら九州説も本当はかなり絞られるはずだが
そんなお話しはここの九州説のアホどもから聞いたことが無いwww

797 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 16:50:03
火病って朝鮮民族だけのモノだと思ってたよ〜
ここの畿内厨の火病も相当凄いな〜

798 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 16:50:50
毎日がゴールデン・ウイークとはwwwが言われてる言葉だけど、実は東遷厨も同じ。朝も昼も邪馬台国関係スレに
棲みついて「恨めしや〜」の連続カキコ。まあ何をやるのも人の自由なんだが。気持ち悪いことおびただしいし、しだ
いに憐れにもなってくる。この人はこうやって死んでいくのかねえ?www

799 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 16:54:24
>>795

いくら世間的には「便所の落書き」と揶揄される2ちゃんねるとは言え
まがりなりにも「学問文系日本史板」の看板出しているんだから

ここの九州説の惨状はいったい何事なんだろうとw

たまにニュー速あたりに立つ邪馬台国関連のスレの方がまだマシってどういうことなのだよ?

800 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 16:56:33
>>798
恨み節って、畿内説の専売特許だろう。
ここ10スレくらい読んだだけでもそれがわかるはず。
だいたい>>798本人がそのまんまだし。

801 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 16:57:00
>787 遺跡としては、吉野ヶ里や平塚川添遺跡などが言われているが。
考古学的にも中国製品や、鉄器、絹などの数で九州が多いなど。

802 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/01(土) 16:58:09
三角縁が流行するのは、たぶん4世紀初頭から中頃まで。
では何故流行したのか、
流行拠点は畿内大和だ、そして景初3年銘も鋳られる、呉鏡もはいる。
時代は西晋から東晋の時代になる。

神功渡海(273年)より倭軍は半島にある、そして永嘉の乱に東夷軍を送り出す。
半島、大陸での戦に実入りは期待できないから、軍人を鼓舞するため、軍体としては、活躍した軍人を叙勲しなければならない。
そこに登場するのが△縁だ。畿内王朝は景初3年を冊封の始まりと考えて、その年号を刻んだりもする。

△縁は、卑弥呼の鏡では無いが、その時冊封を受けた大和政権が、軍人に配ったもの。



803 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 17:03:22
>>778
>いつになったら答えてくれるのでしょうか?

うふふ。
必死に話題をそらして、
「三角縁神獣鏡が国産だから畿内説は否定される」
というトンチンカンな発言をうやむやにしようとしているんですね。

804 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 17:10:25
>>785
>三角縁神獣鏡が100枚の何倍も出土していることは公知の事実。

だから、なんなんです? それが根拠になるとでも?

>外部勢力が樹立した王権が邪馬台国であるとは言えんだろ。

誰もが言ってることですが?
あなたの場合、思考回路もともかくそれ以前に、決定的に知識不足・勉強不足です。

805 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 17:12:20
程度の低い煽りが延々と続くのは、畿内説vs九州説でなく、畿内説vs畿内説アンチになってることが原因ですね。

806 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 17:21:09
www実際、そんなに畿内説に恨みがあるなら、白石でも福永のところにでも乗り込んで文句を言えばいい。
このスレでいくら畿内説否定を書いたところで、畿内説がみないなくなるわけでもないし、いなくなったらなっ
たで、東遷厨はやることがなくなるわけだ。ww まさに賽の河原で石を積むような行為。

>帰命頂礼地蔵尊、無仏世界の能化なり

  これはこの世のことならず、死出の山路の裾野なる

  さいの河原の物語、聞くにつけても哀れなり wwwww


807 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 17:23:54
鏡の問題については以前から疑問に思っていることがある。

東遷厨やその年代観に賛意を示している九州説の連中は
漢鏡とその出土数の推移について具体的なデータを持っているんだろうか?
少なくとも明確なイメージを持っているのかと…

恐らく後漢末期から三国にかけて枚数がどんどん減少して

卑弥呼の朝貢以降、増加に転じるようなモデルを考えているのか?

それとも減少傾向は続き、もしくは「底這い状態」で
やがて4世紀も中頃になって九州と以東が逆転するまで
そのままってモデルなのか?

前者の場合は是非『 漢鏡編年 東遷説モデル 』として出してもらいたいし
後者の場合は銅鏡の出土数を見るに卑弥呼の朝貢はなんら影響なかったって話だが・・

808 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 17:28:35
やっぱり、誰も答えられないんだな。

九州の、邪馬台国に相当する遺跡ってどれ?
卑弥呼の鏡も大量に出土してるんだよね?
でも、そんな遺跡は九州には無いと。

つまり、九州説には、考古学的な根拠が何も無いってこと。


809 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 17:32:54
それは、東遷厨のレスを見ても頭の中で整理はついてないんじゃないか。東遷以降、増加するのは当然程度の
考えじゃないのかな?ま、ムリにそんなことを求めると「まばら理論」のようなものが出てくると思うね。安本本の
受け売りなど以外、自分で考えることは苦手のようだから。wwww

ところであるところでは、東遷厨とwww同一人物説が出てるんだが、知ってるかな?wwww

810 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 17:51:40
>>809
つうか東遷厨以外の九州説連中も考えた事無いんじゃないのか?

「卑弥呼の鏡は内行花紋か方格規矩の可能性が高い!」
と言うのは良いとして

「じゃあその鏡が卑弥呼の時代九州で増加に転じているのか?」
と問えばどう答えるんだろう?

まあ魏代はともかく晋代には銅鏡製作の環境もかなり回復しているはず
もしそれの反映を見ることができなければどうなのよ?と・・・

これは九州説の根本的な弱点で
卑弥呼の共立や魏からの冊封等々の影響を何に見る事ができるのかと
(ここで畿内説に突っ込んで相対化を図ってもゼロはゼロw)

確かに考古的資料なんてのはあくまで状況証拠だが
その状況証拠すらないと・・・

>東遷厨とwww同一人物説

ああ、あったな。

しかしマジで勘弁してほしい。
この板で論者としてのレベルが低すぎるとか言う話しなら事実として甘受もしようが
恨み節と同一人物じゃあ人間として終わってる…orz

811 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 17:59:59
それこそ、三角の存在をどうとらえるかだろうな。三角が国産で自分たち好みの最新の流行であったなら、中国鏡は
必要なくなるんじゃないのか?東遷以降は自分たちで作るので、中国鏡はいらなくなりましたとさ、とっぴんぱらり。
ま、東遷のあるなしにかかわらず、そんな状況はあるけどね。


812 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 18:26:40
>>808
常識のない奴だなあ。
九州の墓で発掘されたのはほんの一部だ。また鏡は墓に入れたとは限らない。
僅か百枚の鏡なんぞ、大量に出てくるわけはないんだよ。

813 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 18:30:05
>>812
畿内の墓も発掘は一部だろw
しかも盗掘も多いし。

814 :縄文人系無所属:2010/05/01(土) 18:32:59
>>790
>纏向の早期前方後円墳を作った勢力は、鉄器に少ない勢力なんだよ。

「鉄器に少ない」て書き間違いだろうと思うけど、よく分からん言い分だな。
>>769に書いてあることの主旨を読み取れていないんだな。鉄器の出土が少ないと例を挙げて
文明的後進性を指摘したのだ。まあ、石器時代か縄文時代並みの出土物とはっきり指摘すれば
よかったかも知れんがの。

畿内の前方後円墳の登場は弥生期の遺跡状況から見れば唐突だと言う事だ。まさかチミは前方
後円墳からの鉄器出土数が少ないから弥生期の姿と連続していると言いたい訳ではないだろうな。

...ったく。も少し冷静に考えてから書き込みんしゃい。


815 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 18:35:57
所詮九州説の華は20年前で終了してるんだよ。
当時の色んな本見たらホントに笑えるから(マジ)

未だ当時の論調でしか吠えれない九州説の
老人達は、もはやそれ自体天然記念物モノだよ。

816 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 18:48:11
>>813
九州の墓に比べたら畿内の墓はだいぶ掘られているよ。
それに、これまで四、五百枚出ていると言うことは、△は少なくとも数千枚
はあるといるということだ。卑弥呼の百枚とは合わない。

817 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 18:50:31
>>815
まあ、くやしいだろうが、畿内説は行程記事に全く合わない。
九州説は、最近、行程記事どおりで何ら問題なしという読み方が呈示されている。

818 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 18:55:24
> 卑弥呼の百枚とは合わない。
いつまで執拗に言ってるんだ?心の病気か?

819 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 18:56:38
>>817
畿内説で行程記事は簡単に説明できますよ。
というより比定地すら定められない九州説は
それ以前の問題ですから。

820 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 18:59:34

ああ、そうか、九州説の人は20年前の本を読んでて思考停止した爺さんなんだな。



821 :縄文人系無所属:2010/05/01(土) 19:05:02
>>804
あのね。三角縁神獣鏡が卑弥呼が貰った銅鏡ではないという根拠はいろいろあり、出土枚数が多
すぎるというのはそのうちの一つだ。100枚の鏡が何百枚となって出土する筈はないからな。

仮に卑弥呼が貰った銅鏡が三角縁神獣鏡だったらとしての話だけど、
魏の皇帝からの下賜品であれば出土しているような粗末なものではないだろ。本物から型をとって
複製したから何百枚も出て来るという理屈だけど、本物と見られる鏡が一枚くらいあってもいいんじゃ
ないかい。それは無いんかい?

>>外部勢力が樹立した王権が邪馬台国であるとは言えんだろ。

>誰もが言ってることですが?
>あなたの場合、思考回路もともかくそれ以前に、決定的に知識不足・勉強不足です。

ん?邪馬台国の存在を示す文献なり出土物でもあったんか?それともおぬしは東遷説論者か?

822 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 19:05:08
>>820
実際九州の〜会とか講演会はそうだから。

823 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 19:20:49
で、今度は縄文人とか言う奴の東遷説か・・・
いい加減うんざりだ。
このトンデモのヘビーローテは何とかならないのか?

副葬品の体系なんて文化の伝播で片付く話。

少なくともプライオリティのトップに来る話じゃない。
大型の古墳を築くに至り国力も増大、交易範囲も広がる。
そうすりゃ黙っていても西から副葬品の文化は流れてくる。

あくまで副葬品=鏡にこだわるのなら
神武が持ち込んだ鏡は何だったんだ?それをどう証明する?
古墳時代の初期で九州と畿内に同笵同型の鏡が大量に見られて
そこから本格的に古墳時代が始まるのか?

前方後円墳なんて各地の埋葬文化のキメラ
副葬品体系は九州なら墳墓自体の形は吉備
やや時間差はあるだろうが器台や壷も吉備
葺石は出雲の四隅の影響とも言う。

また土器にしても吉備と河内の合作の庄内に
布留になると今度は山陰や北陸の影響が出てくる。

一つの要素を抜き出して鬼の首をとったかの如くはしゃいでも無駄

824 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 19:22:54
縄文人は畿内説のフリして乱入したものの、
身に染み付いた東遷厨がだんだん露呈してきたってところか?

キャラを演じ分けるのは辛いだろ?
東遷厨なら東遷厨らしく素直になれよ。


825 :823:2010/05/01(土) 19:29:21
それに鉄器の出土と『文明的後進性』とやらを絡める話しも良く分からない。

『文明的後進性』って、そりゃなんなんだ?

何処ぞのガキが
「九州は鉄がたくさん出るからすごいんだぞう」
と幼稚なお国自慢でもしているようにしか聞こえない。

古墳時代の初期には畿内の鉄なんて九州には及ばなかったのだから
古墳時代初期は畿内ヤマトは文明的後進地域という事になる。

おいおい文明的先進地域からやってきた九州の連中は退化でもしたのか?

鉄を先進性の指標に出すなら出すで
もっとその評価についてきちんと考えろ。

とにかく薄っぺらい。



826 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 19:43:26
今日も元気なジョーカーさん。




彼以外に畿内説を信じる人がいないので、GWなのに休むヒマもない。




827 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 19:58:15
>>821
>邪馬台国の存在を示す文献なり出土物でもあったんか?

これを言う人はもう終りです。自分自身も
「邪馬台国の存在を示す文献なり出土物」
が発見されるまで、何も言わないで下さいね。

828 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 19:58:21
結局、畿内説の根拠など、どこにも通用しないものばかり。

829 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 20:01:11
>>826
たったそれだけの事を言うのに何でそこまで行間を空ける?
俺も見易さ優先でよく空けるがそこまではやらない。

この芸風はサイキバ君だと推測するがwww

ちなみに俺は畿内説なんて”信じている”わけじゃないぞ宗教じゃないからなw

畿内説もこれから先姿を変えていくであろう事は予測しているし
場合によっては九州説にだって鞍替えするかも知れんしwww


830 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 20:01:56
サイキバってなんだよ?畿内説の基地外?

831 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 20:05:42
>>788
三角縁が全部国産というのはいまや一般人さえも常識のように考えているよ。

どっちにしても、原料の銅が輸入品であるとした場合、極度に銅が不足していた魏から
大量の銅を輸入できたはずもない。
呉を滅ぼして、呉の領域の銅山を接収して、銅の供給が回復してきた3C末葉以降に
魏の領域からの銅の大量輸入が可能となる。


なので、畿内説は、三角縁国産説に乗り換えた後は、国内原料説を唱え始めるのでは
ないかと予想している。
恥も外聞もない行動ではあるが、そうしないと三角縁が早くても4C初め頃以降となり、
年代遡上が根底から崩壊してしまう。

年代遡上をやりだした時点で恥も外聞も捨てたのだから、むしろこの方向は自然とも言える。


832 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 20:08:43
>>830
残念「九州説」もっと正確には「九州王朝説」

どうも長文は苦手らしく一言二言書き込んでのピンポンダッシュが得意技。

以前は「播磨」「金印」「装飾古墳」…等をローテでやってたが
最近じゃあすっかり野次将軍になったご様子w

833 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 21:05:44
徹夜で頑張ってきたジョーカーさんは寝落ちしたのかな?

834 :縄文人系無所属:2010/05/01(土) 21:10:40
>>823
おぬしは他人の書き込みを冷静に正確に読む能力を持っていないらしいな。縄文人がいつ東遷説を
唱えたんだ?

墓制や副葬品の変化を文化の伝搬ということで片付けたいようだが、畿内の弥生期のそれらとの連
続性がない突然とも思える変化が内発性であるとは考え難いから外部勢力による体制の変化が考え
られているのだろうが。

それにだ、
前方後円墳がどうして邪馬台国に結びつくのだ?邪馬台国の墓は前方後円墳だと分かっているのか?

>>825
>それに鉄器の出土と『文明的後進性』とやらを絡める話しも良く分からない。
>『文明的後進性』って、そりゃなんなんだ?

>>814に書いているだろ。鉄器の出土は一例だと。唐古・鍵の出土物を見てみんさい。石器時代か
縄文時代の遺物といってもいいほどの出土品でやんしょ。縄文時代だってヒスイの装飾品はあるし、
芸術性豊かな造形物(土器類)もある。近代化が良い悪いの話でなく、同時代の九州の出土物に比
べたら数百年遅れているということだ。そういうところを文明的後進性と述べたのだ。

835 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 21:18:50
畿内のもともとの遺物は時代に遅れたものばかり。
新しい物は東征軍が持ち込んだものだ。

836 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 21:20:43
>>834

>外部勢力による体制の変化が考えられているのだろうが。

東遷説とナニが違うんだ?

東遷説なら、堂々と東遷説だといいなよ?
後ろめたいことでもあるのか?恥ずかしいのか?

837 :縄文人系無所属:2010/05/01(土) 21:55:41
>>836
>東遷説とナニが違うんだ?

単純なお方だ。決めつけた物言いしかできんのかい。
東遷説とは九州の邪馬台国が東の畿内に遷都したという説だろ。
外部勢力は邪馬台国でなくても九州の別の勢力でもいいだろ。いろいろあるだろ。




838 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 21:57:54
畿内説論者は、東遷と東征の違いも分からんらしいな。

839 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 22:09:43
www野郎が、「東遷」という言葉に異常反応を示す件。
よほどの恐怖体験があったんだろうな。
おびえているとしか思えない。

840 :ブラック・マンバ:2010/05/01(土) 22:12:53
縄文人はアホが知れわたってるからもうカキこむなよな。それが身のためだ。いい歳してバカをさらすのは恥ずかしいだろうがww
縦目さんの後輩、若干二十歳のブラック・マンバです、以後よろしく。縦目先輩は中国語を生かして商社に就職が決まってからは
オカルトスレに入りびたりなんで、変わりに俺がコテにしました。剣道部員ですが先輩ほど上品ではないんでね。kakaka


841 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 22:17:40
>>839
www厨は「東遷」という言葉に脊髄反射しますからね。
西から東に文物が流れていったという考えはwww厨にとってよほど都合が悪いものなのでしょう。

842 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 22:18:38
>>837

すると、九州の邪馬台国は、九州の別の勢力に滅ぼされたわけか。
で、その勢力が東遷したと?

いわゆる「クナ国東遷説」かな?
それとも、クナ国とも違う別のクニかな?
それはどこにあったのかな?
邪馬台国を滅ぼすくらいだから、強大だったんだろうな。



843 :ブラック・マンバ:2010/05/01(土) 22:19:16
いずれ三角縁が流行の頃は、中国にはない径1尺程度の大きな鏡が葬具として必要だったんだろうな。今の畿内説にはそんな認識も
けっこうあるよ。俺は国産でなんの不満もない。あとは紀年が実年代かどうかが問題だろうね。ただ、景初4年銘鏡が国産なら、同時に
後世のメモリアル・イヤー説もなくなるだろうな。kakaka




844 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 22:22:25
>>841
1〜2世紀の東征、東遷なら別に否定はせんよ?
九州の勢力が畿内に移って邪馬台国を作り、畿内で卑弥呼が即位した。

実際は吉備の勢力が東征したんだけどね。
で、モモソヒメが卑弥呼と。
これで何もかも説明がつく。

845 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 22:22:31
>>842
邪馬台国が続いていたことは中国史書が書いているだろ。
邪馬台国が滅ぼされたのではない、先に東征した勢力がこけたんだよ。

846 :ブラック・マンバ:2010/05/01(土) 22:27:33
で、三角の紋様の解釈なんか、考古学者は苦手というか、宗教勉強してる人は少ないからね。石野なんかの道教影響説はどなん
だろね。俺はあんまり信用できない。むしろ三角の西王母・東王父なんかは、卑弥呼ー男王ー壱与の関係か、でなければ世俗軍政
を司る男王と巫女王の関係を語ってるという気がするんだけどね。

847 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 22:28:44
>>844
殆どそれで正解でしょう、
文献解釈も考古学的考察も破綻ないし。

848 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 22:29:02
なんだ、やっぱり畿内説のほうが正しかったんじゃないか。

九州説に騙されてたわ。

849 :ブラック・マンバ:2010/05/01(土) 22:33:34
>>847
近藤義郎先生の説に近いかな。ただまあ吉備の全体像というのが考古学的にはちょっと難しい。近藤先生は何度か尊顔を配した
けど、陵墓公開の問題で頑張っていただいたね。…合掌。

850 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 22:36:43

■邪馬台国論争大会:邪馬台国どこに アマ研究者集まれ−−30日、再び宇佐で /大分

毎日新聞 2010年5月1日
http://mainichi.jp/area/oita/news/20100501ddlk44040610000c.html

 日本古代史最大の謎に迫る「第6回全日本邪馬台国論争大会」(宇佐市観光協会など主催)が5月30日、宇佐市の宇佐神宮参集殿である。
大会は昨年、23年ぶりに復活し、好評で全国から約300人が集まり、熱い論争を戦わした。

 最近、奈良県桜井市の「桜井茶臼山古墳」から全国最多の銅鏡が見つかったり、同市の纒向(まきむく)遺跡から3世紀最大級の大型建物が発掘され、卑弥呼の宮殿の可能性も出てきて、邪馬台国・大和説研究者は活気づいている。
九州説の研究者は「纒向には、吉野ケ里のように宮室・楼閣・城柵の3点セットがまだそろっていない」と静観の構え。

 論者は、アマチュアの研究者に限定。2000字以内の論文を郵送か電子メールで提出。アマらしく専門過ぎず、面白いものが選考基準。選ばれた論者が自説を披露した後、会場の参加者から“挑戦”を受ける。

 論文締め切りは6日必着。一般参加料は2000円(昼食付き)。申し込み・問い合わせは同市南宇佐2179の3、宇佐市観光協会(0978・37・0202)。【大漉実知朗】


※参考サイト

宇佐市観光協会
http://www.usa-kanko.jp/news/1005-yamataikoku.html

(見出しのみ引用)

・第6回全日本邪馬台国論争大会開催要項
・論文募集
・一般参加
・論争大会参加歓迎レセプションと邪馬台国宇佐説の史跡ツアー
・論文応募先・参加の申込先・お問い合わせ先

851 :縄文人系無所属:2010/05/01(土) 22:48:29
ブラック・マンバ

小僧のくせに生意気な口を叩くな。このなりすまし野郎。

852 :ブラック・マンバ:2010/05/01(土) 22:51:38
宇佐説自体はともかく、鷲崎某はクソ。これで金もらってるのはどうかと思うよ。ww
>すなわち、卑弥呼=ヒメコ=日女子で、太陽の女の子=天照大神(日神)である。 これが史学で学説か??ww
以下大笑い。↓
http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=40


853 :ブラック・マンバ:2010/05/01(土) 22:52:50
>>851
小僧でけっこう、ボケ老人よりはどんだけましか。ww 無学のままで馬鹿にされて死んでいくのは悲しいなあ。ww

854 :縄文人系無所属:2010/05/01(土) 23:01:10
わかったわかった。坊やはもう寝なさい。

855 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 23:05:14
ブラック・マンバは縦目だろ。学生だとか言っとるが嘘だな。

856 :ブラック・マンバ:2010/05/01(土) 23:07:44
ただね、東遷厨の恨み節もある程度わからんわけではないんだよ。師や研究室の伝統的な学説に反対するのはきわめて難しい
のは事実で、まあ「俺は畿内説だからこの大学に行く」とかいうもんでもないし。あと歴博のC14については、俺らは反感持ってる
けど。

857 :ブラック・マンバ:2010/05/01(土) 23:09:30
>>855
??学生だし。先輩とは違うすよ。俺はやらないけど、先輩は武術版のオフ会によく出かけてる。

858 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 23:22:01
箸墓にすがって余命を永らえようとした畿内説も、最近はもう拠点がなくなったのか。
無理だとは思っていたが、残念だったな。

859 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 23:24:02
九州説も最後の悪あがきか。

860 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 23:43:09
ブラック・マンバは倭人伝を読めるのか?
他人の悪口は言えるようだが、邪馬台国についての自分の考えを持っているのか?
大きな口を叩く前に、先ず自分の説を述べてみることだな。

861 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/01(土) 23:44:03
>邪馬台国の存在を示す文献なり出土物でもあったんか?

魏志にイクメと読める仕官の名がある、
これを垂仁と断定すれば良いだけ、ただし卑弥呼は九州。


862 :俺様は崇神だ!:2010/05/02(日) 00:01:20
>魏志にイクメと読める仕官の名がある、
>これを垂仁と断定すれば良いだけ、ただし卑弥呼は九州。

なにをトボケたことを言うとんじゃ。イクメとは伊支馬のことか?伊支馬はどう読んでもイクメには
ならんだろ。それに垂仁は儂の次の大王だろ。なんで大王が官なんじゃ?

863 :ブラック・マンバ:2010/05/02(日) 00:13:16
イクメ=伊支馬とか、ミマキ=彌馬獲支とか言い出すときりがないのはそのとおり。ナカテ=中臣とか。
伊声耆=五十狭芹彦命(イサセリヒコ)・・・後の吉備津彦命、 掖邪狗=これを「ややこ」つまり赤子のような若々しい男子と
解釈して=稚武彦命(ワカタケヒコ)とか、この手のものはたくさんあって、どれも証明するすべはないから電波と同じ扱い。

吉備津彦命、稚武彦命の孝霊天皇の皇子兄弟は、桃太郎のモデルで鬼が島に行ってるというのは面白いがね。



864 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/02(日) 00:28:36
イクメより先に倭国の王は、卑弥呼と決定しています。
だから卑弥呼の難升米の下に都市牛利(たしうり事田道間守)が来る。
しかし魏使とてバカじゃない。正始元年には、倭王(景行)と記録される。
この使いは、殉死した田道間守にかわり、イセキイワカ(伊勢のベテラン磐鹿)となり
難升米と同じ位が与えられる。

もし卑弥呼の下に同じ位の人間が二人いたら、乱の元をつくるだけ。
そんなバカを魏はしない。卑弥呼と倭王をじょうずに制御する。

卑弥呼を崇神時代で100年も議論してきたが、正解を得られなかった。


865 :ブラック・マンバ:2010/05/02(日) 00:39:54
都市牛利=(たしうり)=田道間守 wwww ほんとに(タシウリ)って読めるのかよ。田道間守は垂仁天皇の命で、非時香菓
を探しに常世の国に渡ったとされるが、この実は橘ということになってるらしい。んで、橘の黄色い実は魏の黄幢を表すもの
だとか・・・しかしこれも電波だな。あくまで都市牛利は難升米の次使だろうが。

866 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 00:40:24
NGワードに「w」と「w」を追加するとすっきりしますよ。

867 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/02(日) 00:47:29
いいですか
伽耶から大和を尋ねるとき、松浦(呼子)を経由するのは、愚の骨頂という。
伽耶→対馬→壱岐→投馬を経て瀬戸内に入るのが常道。
帰りは投馬→難→松浦→壱岐→対馬→伽耶と往きとは別の道をとる。

魏使が任那で大和の情報を得る、この時往きと帰りの道が違うことにまで気が回っていない
さらに任那で得た情報は、不確かな情報でしかなかった。
だからこの情報から邪馬台国へ行き着くことは不可能である。


868 :ブラック・マンバ:2010/05/02(日) 00:48:06
これは違うかもしれないが、魏帝詔書の >難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし というのは陪臣(倭女王の
配下)では魏帝にお目見えができないから、まずは魏の直臣にしたということじゃないか。「率善」というのは蛮夷に与えられる位
で、将官と尉官。

869 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 00:59:35
>834 蝿
前が言うところの 文明的な先進・後進 に古墳文化というのは何処に位置づけられるのか?

九州と違う方向に伸びている、異なる線上にあるものを
まるで同一線上にあるかのごとく「後」「先」と言っても無意味。
そもそも比較自体ができるのかって話。「鉄」はその事の好例。

文化が急激に変わったから支配者の交代劇があったと言うのは騎馬民族ナンタラで既に通用しないロジックと知れ。

変化が急激だったら全て外部要因によるものと言うのが短絡に過ぎる。
畿内の主体的・能動的な変化を選択肢の中から最初から排除している。

じゃあ「東遷」でも「東征」でもどっち良いが、そのような事が無ければ畿内は
いつまでも銅鐸祭祀が続いていたとどうやって言える?

そもそも急激云々にしても全く問題ない。

例え話で言うなら、新たに航空機市場に参入した後発のメーカーは
先行するメーカが歩んでた道をそのままトレースする必要も無い。
現在において、わざわざライト兄弟の時代の複葉機から始める必要も無い。

畿内ヤマトにすれば既に巨大首長募の祭祀にシフトした吉備だの出雲だのの成功例がある。
身も蓋もないが、それをパクれば良いだけの話www

まあ理論的には外部勢力による征服劇のようなものによる変化も可能性としてはあるだろう。
が、あくまで理論上の可能性と言うだけの話しで
それに求めなければ説明がつかないと言うほどのものは今のところ無い。

故に現実的にも東遷説は「その可能性がある」と言うところに留まり続け
そこから先に進めないwww
(構造的な欠陥は東遷の時代を変えても東遷した勢力を何処に変えても同じ)

870 :ブラック・マンバ:2010/05/02(日) 01:06:28
縄文人はアホなんだよ。九州鉄勢力が東遷したなら当然鉄器も持ってくるだろ。なんでわざわざ初期前方後円墳を
木製鋤・鍬で作らなきゃなんないのかって話。ま、縄文人には答えがあるんだろうが。www

871 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 01:09:49
縄文人は老醜無残なの?

872 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 02:09:24
>>869
まあ、基本的なことだが、皇室の歴史書である記紀には、神武東征がある。
どうしてこのような出来事が記紀の重要なモチーフになっているのか。

銅鐸で言えば、古墳時代にはまず見られない。
記紀にも登場しない。九州文化を象徴する矛が頻繁に登場するのと対照的。
皇室の歴史は、矛の文化と連続性があり、銅鐸の文化を経ていないと考える
ことが出来る。

さらには、古墳時代になってからの畿内の急激な変化。

東遷説は、可能性があるではなく、最も可能性が高いというべきだろうな。

>>870
日本書紀を見ると、朝貢してきたもの、あるいは支配下に入ったものに対して
土木的な労働を課すのが良く見られる。
例えば、応神紀には、蝦夷が朝貢してきたので、その蝦夷を使って厩坂道
を造らせた、とある。仁徳紀にも似たようなものがある。

支配下に入ったものに対して、古墳築造の労働を課したということも十分に
考えられる。だから、あのような大きな古墳が作られるようになったのだろう。

873 :ブラック・マンバ:2010/05/02(日) 02:32:39
>>872
わからんなあ。纏向の古墳に限って言えば、>土木的な労働を課 せられたということがあるとすれば東海人じゃないのか?
纏向の外来土器、特に東海系のものは労働力移動説か供献説が主流だろう。wただまあ、纏向も早期古墳も4世紀以降と言
うんだろうが。www


874 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 09:30:07
>>862
崇神や垂仁が大王かどうかが問題だな。

875 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 10:07:10
>>872

東遷説は、銅鐸の消滅を、東征勢力が消滅させたからと言ってるが、
それならどうして大国主やスサノオの神話が残ってるのかね?

好き勝手に、アレは残してコレは消してなんて言ってたらなんでもアリなわけだが。

しかも、根拠が銅鐸消滅と神武東征だけって、そんなもの根拠になるかアホ。


876 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 10:11:28
4、5世紀にヤマトの主導権を握ったのが吉備、出雲だからじゃね

877 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 10:15:51
銅鐸は出雲〜近畿〜東海に広範囲に散らばってるが、
東征勢力は、すべてのクニやムラに監視の目を向けて、
銅鐸の記録が残らないように処分させたというのか?

どんな御伽噺だよ。

3世紀末から古墳時代直前までに、西日本に一気に勢力拡大して銅鐸消滅させるような権力が九州にあるなら、
どうして卑弥呼の治世70年間の間に、近畿を制服しなかったのか?

むしろ、1〜2世紀に東征があって、畿内〜九州を統一し、大和に卑弥呼が共立されたというなら、
そのほうが辻褄が合うわけだが。
なぜ、そう考えないのか?考えたくないのか?九州説はバカなのか?


878 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 10:18:41
このスレでも九州の東征や東遷は倭国大乱の2世紀末が主流だろw

879 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 10:35:54
2世紀末に東遷したら畿内説になってしまうぜ。

880 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 10:45:48
信長の時代じゃあるまいし、2世紀の大規模長距離軍事遠征なんて不可能だよ。兵站、補給、移動、戦術に
ついて考古学的に述べてみろよ。ww ヤマト王権だって4世紀の四道将軍の頃に、周囲を懐柔しながら少し
ずつ進攻していった程度。

881 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 10:47:11
九州の東征もムリムリ。

常識的に、ゆるやかな首長連合しかない罠。


882 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/02(日) 12:55:57
銅鐸の消滅は,大国主とその都近江伊瀬遺跡と運命を共にした。

192年 崇神5年の凶作で、翌年秋には、崇神に位を譲る。
崇神10年に譲位式を行い、12年に天皇家と大物主が共同してモモソ姫を祀る。

九州で大王を立てられなかった期間が7,80年である。だから歴年としか表現できない。
卑弥呼を畿内大和辺りに設定するために、卑弥呼の治世を7,80年とするが、それでも卑弥呼は畿内にいない。



883 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 14:08:38
日本書紀の架空の年代や記事で、よくもまあ、恥ずかしげもなく妄想できるな。
崇神5年だの崇神12年なんて数字になんの根拠もない。
すべて日本書紀編集段階で、書紀の編者たちによって創作された数字だろ。
ミマキイリヒコは実在の可能性のある大王にせよ、2世紀まではさかのぼらないし、
崇神紀の記事ももとになった伝承はあっても、細部は後世の潤色や創作によるもの。

そんなものをいくらいじくり回しても、捏造の上塗りになるだけ。

884 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 15:06:55
>>877
西暦107年に後漢に朝貢した帥升は強力な王だったと考えられる。
卓越した武力で、30カ国を支配してまとめた。後漢からは「倭国王」と
呼ばれた。

しかし、これは個人的な力が大きかった。帥升が死ぬと、それぞれの国が
争いを始める。帥升の時代にまとまった国々はバラバラになる。それが頂点に
達したのが、いわゆる「倭国の大乱」だろう。

その結果、卑弥呼が女王になった。卑弥呼の重要な役割は、国と国との争いの
調停をすること。王としての権威に加えて、巫女的な要素も加わり、争いは
未然に回避され、倭国は平和になった。

内向きな時代だったと思われる。そこに降って沸いたのが狗奴国の存在だった。
外圧に晒されるという、かつてない局面を迎える。

卑弥呼が死に、台与が王になる。しかし、巫女的な王だけでは成り立たないと
考えた人物がいた。梁書などに登場する「男王」である。
一度王になるが、反対が根強く、仕方なく台与が王になる。諸国は納得し、
平和が戻るが、「男王」は、再び王位に付く。台与との王の並立という
状態になる。

内政的な台与と、外向きな男王との並存が歴史を変える。
年代的には、三世紀後半になる。

885 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 15:22:11
>>872
>皇室の歴史は、矛の文化と連続性があり、銅鐸の文化を経ていないと考える
>ことが出来る。

さてさて、分かっていて恣意的なミスリードをしているのか
それとも、その実、深く考えないで「考える事ができる」と言ってしまっているのやら…

威信財としての矛と武器としての矛をゴッチャにしてる馬鹿馬鹿しさ。

九州の祭器としての銅矛はどんどん大型化しそのフォルムも先端が丸みを帯び
およそ武器とも見えない、俺なんかパッと見 「巨大な靴ベラ」 としか見えないものになるw

そんな『広形銅矛』が畿内の初期の前方後円墳にどれだけ出ていると言うのか?

むしろ、その銅矛こそ東遷説を否定的に扱う材料になりうる。

「広形銅矛」の分布を見れば瀬戸内を畿内まで東進したような分布は見えず
むしろ瀬戸内の「広形銅剣」に阻まれたかのように四国の南部・西部に分布を広げている。

そして九州内でも宮崎鹿児島にも殆ど伸びていない。

レアケースで出土するものはあるだろうが「広形銅矛」の分布域を瀬戸内東部畿内まで
あるいは九州南部鹿児島までも含めて図示したようなものを見たことが無い。
あればソースを出してもらいたい。
(昔の教科書に載っていたアレは別にしてねw)

そもそも青銅器の分布を支配勢力の範囲と見ること自体無理なんだろうし
仮にそう見るなら九州の「銅矛国w」は九州の南部も征服できず
瀬戸内の「広形銅剣国w」に阻まれ東征できなかった…って話にしかならないwww

886 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 15:41:42
そうだな。広形銅矛は銅剣文化圏を避けて、むしろ近畿に近い勢力に輸出されている。大分から高知といった具合。
この関係は畿内を中心として、古墳時代になっても続くんだな。

887 :ブラック・マンバ:2010/05/02(日) 16:19:44
おっと上レスでコテ名を忘れた。むしろ弥生後期初めのあたりから、広形銅矛や銅鐸など、青銅器による祭りを発達させた
地域と、それを排して墳墓を祀りの中心とする地域がはっきり分かれてくる。これが四隅突出型墳丘墓などで、青銅器の
祀りから個人崇拝のようなものにいち早く切り替わった。神庭荒神谷や加茂岩倉の状況は何かこのことと関係があるのか、
大国主の国譲りと合わせ考えても興味深いところだ。

888 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 16:54:00
>>885
>>皇室の歴史は、矛の文化と連続性があり、
>威信財としての矛と武器としての矛をゴッチャにしてる

<質問>
「弥生時代の北九州の矛」と、(記紀に出てくる)「古墳時代の畿内の矛」とは別物だってことだね?
どう違うんですか?

889 :ブラック・マンバ:2010/05/02(日) 17:41:33
横からだが、「記紀に出てくる」というのはよくわからんが、古墳時代なら実用の鉄矛だろ。古墳時代前期初頭とされる
メスリ山古墳の212本の茎式鉄矛の出土が有名。3世紀から4世紀にかけて畿内の鉄がどのように増えていったのかは
一つの焦点になってる。弥生時代の北九州の矛、というのは祭祀用、非実用の銅矛のことを言ってるんだろう。むろん
実用の鉄矛は弥生時代の九州にはあった。

「古事記」の冒頭には、伊邪那岐・伊邪那美と「天沼矛」が出てくるけど、記紀全体としては「布都御魂剣」「草薙剣」など
剣のイメージのほうが強いだろう。

890 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 18:15:03
>>889
>むろん実用の鉄矛は弥生時代の九州にはあった。

あらら。それ、いつの?

891 :ブラック・マンバ:2010/05/02(日) 18:57:31
そんなの自分で調べろ。ww

892 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 19:11:59
>>891
>そんなの自分で調べろ。ww

誤解を招くようなこと言ってるからだろ?

>皇室の歴史は、矛の文化と連続性があり

でいいのか?

893 :ブラック・マンバ:2010/05/02(日) 19:26:08
>>892
意味不明。あるものはあるんだよ、嘘いってもしょうがない。鉄矛は少なくて、北部九州がほとんどじゃないか。べつに
これが東遷に即つながるわけでもないし、畿内の古墳時代に矛が神聖視されてるとも思えん。三種の神器というならや
っぱり剣だろ。

894 :ブラック・マンバ:2010/05/02(日) 19:41:31
ま、少し補足すれば、北部九州が弥生時代の鉄で優位にあったことは間違いない。で、おおざっぱにいえば、これを九州勢力が
直接畿内に持ち込んだとするのが東遷説で、鉄輸入ルートをめぐる構造的な変化が起きたと考えるのが畿内説。このあたりは、
畿内の鉄がどのように増えていくのか、どこを中継してもたらされたのかを慎重に見ていかなければならないということ。別に論争
するために書いてるわけじゃない。



895 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 19:47:45
>>893
>意味不明。・・・鉄矛は少なくて、北部九州がほとんどじゃないか。

確かに「鉄矛」は北部九州からだけ15点出土している。しかし問題なのは、まずその時期。

「鉄矛は中期中葉にまず短茎のIa式が出現し(略)、後期初頭を最後に姿を消し、
 きわめて短期間に北部九州という限られた地域でのみ用いられた武器であった。
 この点は鉄戈と同じであるが、鉄戈が後期初頭以後姿を消すのに対して、
 鉄矛は古墳時代に近畿地方を中心に復活する。」
(川越哲志「弥生時代の鉄器文化」雄山閣)

次に、 古典に現れる「矛」と考古学的に言う「矛」が同じである保証が無いこと。

銅鐸が弥生終末に姿を消した、と言うのなら、銅矛も終末を迎えている。
そして、鉄矛も後の時代まで引き継がれてはいないんだよ。

896 :ブラック・マンバ:2010/05/02(日) 20:05:40
>>895
意味がわからんなあ。祭祀用銅矛が引き継がれていないというなら、それは自明だろ。銅鐸同様に祭祀形態の
変化ということで説明がつく。鉄矛は実用性が高いんで、鉄が増えた畿内で用いられたとしても何の不思議もない。
そこに宗教的なものはないだろうということだ。



897 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 20:12:04
>>896
>意味がわからんなあ。
>畿内で用いられたとしても何の不思議もない。

それが北九州の「矛の文化」と連続性がない、って話だよ。

898 :ブラック・マンバ:2010/05/02(日) 20:24:44
>>897
は?祭祀にかかわるものではなく実用品なら文化の連続とは言わないだろ。そんなことまでいちいち説明して
書かなきゃならんのか?

899 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 20:49:38
>>898
いちいち説明してあげないとわからないレベルなのでしょう。
いつもながら馬鹿の相手は疲れるものですね。

900 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 20:50:42
>>898
>そんなことまでいちいち説明して書かなきゃならんのか?

「誤解を招くようなこと」だと思ったから、できれば「いちいち説明して書」いてほしかったね。

901 :ブラック・マンバ:2010/05/02(日) 21:02:14
・・・ま、縦目先輩のような長レスはできないからな。ww それはそれとして、この東遷厨なる人物に皆は真面目に
反論してるのか?それとも駄々っ子をあやしてるレベルなのか?どうもそのあたりのスタンスがわからん。

902 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 21:07:44
>>901
>この東遷厨なる人物

なんかカン違いしてないか?

903 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 21:12:32
>>901
縦目で通せない理由でもあるのかな?
まあたまには借金とりとして参加してくれ

904 :ブラック・マンバ:2010/05/02(日) 21:18:49
>>902 895のことを言ってるのではない。上でwwwとやりあってる人だろ。
>>903 先輩ではない。www 先輩はここにいる。

http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/occult/1271672261/




905 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 21:24:20

■かめ棺に感嘆 吉野ケ里遺跡、発掘現場を公開 (動画あり)

佐賀新聞 2010年05月02日
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1626672.article.html

 5連休のスタートとなった1日、県内は好天に恵まれ、各地の行楽地は大勢の人出でにぎわった。吉野ケ里遺跡(神埼市郡)では発掘現場の特別公開があり、家族連れらが当時の墓であるかめ棺が掘り進められる様子を見学、弥生人の暮らしに思いをはせた。

 現場は同歴史公園北の丘陵部分で、約600メートルにわたるかめ棺墓列の一部。発掘作業で、大きなかめ棺と赤ん坊用という小さなかめ棺が姿を見せると、来場者から感嘆の声が上がった。

 広島市から来た小学6年生の女の子は「教科書で見たことはあったけど、やっぱり本物はすごい」と話していた。

【写真】かめ棺の発掘作業を間近で見学する来場者=国営吉野ケ里歴史公園
http://www.saga-s.co.jp/var/rev0/0113/7554/yoshinogari.jpg

906 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 22:16:47
>>904
>先輩ではない。www 先輩はここにいる。

だから先輩という役柄がそこにいて、その後輩の役柄がここにいるんだろ
だからそんなことどうでもいいんだ、縦目でなぜ登場できないかという問題だ
まあ縦目でも借金取りでもいいんだが、なぜ同一人物での登場が出来ないのか?

907 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 22:38:40
>ブラック・マンバ

リアル学生さんらしいが
だったら中学生で学んだ日本史は記憶にあるんだろうが・・・

ヤマト王権の誕生っていつって教わった?
昔は、4世紀半に大和朝廷が日本をほぼ統一って事で
年代をゴロ合わせで

「大和朝廷、日本をシュチュー(4C中)にする」

なんてモンで記憶したがw

あと昔だと日本列島に北部九州と畿内ヤマトをそれぞれ中心にした
二つの円を描いて「銅矛と銅鐸の二大文化圏」なんて説明があったが
そんなものも見た記憶がないのかな?w


908 :ブラック・マンバ:2010/05/02(日) 23:00:11
>>906
どうすれば違うとわかるんだ??? 借金取りってなんだ?マジで意味わからん。

>>907
www ゆとり世代だからね。中学校の教科書では、邪馬台国「畿内・九州」両論併記だったような。www

909 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 23:12:32
>>908
まあ昔の教科書は>>907みたいなモンだったんで
ジェネレーション・ギャップに戸惑わないでくれw

もっともこの板の邪馬台国スレ九州説じゃあ保守本流の感すらある
「九州王朝説」が本当だった!なんて事になったら

その超壮大な歴史の隠蔽改竄劇の前には
「ゆとり教育」なんてチンケ過ぎるようなお話しだがwww

910 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 23:50:38
銅鐸文化圏とか銅矛文化圏とか、この20年ですっかり迷信レベルの話になったのに、
まだ信じてる人いるの?



911 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 23:52:54
たとえば、小学生の時は、電気はプラスからマイナスに流れると教わったものだが。

中学では、電子は、原子の周りを惑星みたいにくるくる回ってると教わったものだ。

いずれも、社会に出れば違うと気がつくだろう?


912 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 23:53:06
いや、修正九州王朝説が一番正しいんじゃないの?

913 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 01:22:34
>>912
修正版と無修正版の違いってなに?w

914 :ブラック・マンバ:2010/05/03(月) 02:42:59
電子はマイナスからプラス、電子は原子核の周りを確率的な雲となって漂ってるってことかな。
今日はいろいろ誤解されたが、レスの言葉が足りないせいか?けっこうムズかしいもんだ。ww


915 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 02:47:40
>>913
生古田説が無修正版。
綻びありまくりの古田説を修正をしている、古賀達也とか斎藤忠などが修正版。

916 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 03:09:24

■考古学研究会 岡山例会のご案内
  「古墳出現期の地域と地域間関係」「山陰における前方後円墳の出現」

考古学研究会
http://www013.upp.so-net.ne.jp/kouken/okayamareikai.htm

 考古学研究者のみならず、大学生や一般の方々にも参加いただき、毎回活発な議論が交わされ、親しみやすい会に成長しています。
 岡山例会は誰でも参加できます。発表内容は毎回変わりますので、お聞き逃しのないように興味のある方はぜひお越しください。

     岡山5月例会

・開催日: 2010年5月8日(土)午後2時〜(約2時間)
・会場: 岡山大学文化科学系総合研究棟2階 共同研究室

[発表者・内容]

◆岩本 崇(島根大学法文学部)「古墳出現期の地域と地域間関係」

 揖保川流域の前期古墳を対象に、地域と地域間関係の具体像について、副葬品や埋葬施設、墳丘など古墳を構成する諸要素のあり方から考察する。

◆大川泰広(財団法人鳥取県教育文化財団)「山陰における前方後円墳の出現 −本高古墳群の調査から−」

 平成21年度に行った本高古墳群の発掘調査で,全長63mの前方後円墳(14号墳)のほか,6基の方墳を確認した。前方後円墳は前期中葉頃に築造され,山陰地方で最古級のものと考えられる。

・事前申込 不要
・参加費  資料代300円がかかります。

917 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 03:23:52
>>916

■本高古墳群の調査 (現地説明会資料、PDFファイル)

財団法人 鳥取県教育文化財団
http://business4.plala.or.jp/kyo-bun/moto11.28.pdf

(一部引用)
 本高 14 号墳は、古墳の形状や周辺の埋葬施設から出土した土器の特徴から、古墳時代前期(4世紀前半)につくられたことが判明しました。
確認されている限りでは、山陰地方で最古の前方後円墳となります。
 3世紀に前方後円墳が発生した近畿地方に対し、山陰地方では4世紀まで前方後方墳や方墳がつくられてきました。
そうした中での本高 14 号墳の発見は、山陰地方への前方後円墳の波及と、当地域の有力首長と近畿地方の関係性を考える上で重要なものとなります。
 また、一般的な前方後円墳の特徴として、墳丘にテラス状の段を築き、埴輪を立て並べ、葺石で表面が覆われていること、が挙げられます。
しかし、本高 14 号墳では後円部に段があるものの、埴輪や葺石はありません。こうした特徴は、広く日本海沿岸地域に点在する初期の前方後円墳とも共通するものです。

918 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 10:01:45
最近、邪馬台国がどこにあったのか?にすごく興味が沸いて色々調べている者です。
いろんな意見を読みたくてこのスレを覗いてみたけど正直失望しました。
九州説も畿内説もあくまで可能性があるというだけでまだどちらも確定したわけではないです。
それなのにお互いの説を拒否して激しく否定する意見ばかりが目立つ。
どちらにも邪馬台国があった可能性があるし、逆にどちらにも無かった可能性もあるわけで。

自分が正しいと信じることでムキになって逆に周りが見えなくなってませんか?
正直このスレを読んだことでどっちの説も確証がないことがよくわかりました。
こんなに夢の膨らむ歴史の謎はなかなか無いんですからもっと楽しみましょうよ!

919 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 10:07:04
>>918
そういう普通の感覚を持った人が、半年一年後には罵倒し合っている。
まともだった学者が、いつの間にかコジツケの変な学説を唱えだす。
邪馬台国問題に係わると、なぜか健全なバランス感覚がマヒしてしまうのです。

920 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 10:37:33
>>918
まともな人はROMってるか、このスレから卒業しちゃったんじゃないの

921 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 10:43:20
>>918きみきみ、まだまだ勉強が足りないね。
もっともっと勉強して客観的事実に基づいて考えれば、邪馬台国は関東にあったことに気がつくはずだ。


922 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 11:09:06
>>918
こんなスレ読んで判断するようじゃ、やめとけ。
もう、かかわりあいになるな。

923 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 11:12:52
昔から邪馬台国論争はキティばっかり。
原田大六なんて、著書「邪馬台国論争」で他の学者を2chなみに罵倒しまくり。

あと、まっとうな研究者は邪馬台国の位置論争に深入りはさけてる。
そういうのは、古田とか安本とか一般向けの著書で稼いでる連中や作家の方が多い。

924 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 11:29:31
最近の畿内説は、例の三角鏡を邪馬台国時代のモノだと捏造を始めているから始末に終えません。
このスレを見ても、畿内説のソレは捏造と妄想ばかりで恥ずかしい限りです。


925 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 11:43:30
邪馬台国=畿内説の三角鏡について

魏の元号が改正されて存在しない
「景初四年」銘の三角鏡2枚が発見されているのはどうしてですか?

これは魏年号の改元を知らなかった
海外=日本で製作された鏡であることを示していのではないでしょうか?

中国社会科学院の発表からは、
この三角鏡は、卑弥呼が魏朝より下賜された「銅鏡百枚」ではないとのことです。

それでも、

邪馬台国=畿内説を唱え続ける学者達からは、
今後、魏王朝の陵墓が発見されて、そこから三角鏡が発見されるとのことです。

しかし、

河南省安陽県の魏武王の陵墓から三角鏡は発見されませんでした。

926 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 11:46:19
>>925
布教活動ご苦労様ですwwww

927 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 12:38:34
>>925
>「景初四年」銘の三角鏡2枚

斜縁鏡だぞ。知らないのか。

それに神像は無いから盤龍鏡だ。径も三角縁神獣鏡より小さい。

928 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 13:03:38
>>924
炭素年代で畿内に確定したんだが

929 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 13:25:15
邪馬台国の場所を、鏡で確定できると言い出したのは畿内説。
弥生期の卑弥呼の鏡百枚など、今日発掘されたとしてもせいぜい1枚。

だから、鏡から論証しても邪馬台国の場所はわからない。
畿内説が誤っていた、というのがわかるだけ。

930 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 13:33:31
>>924
その捏造でのたうちまわる様を眺めるのが、歴史オタクの醍醐味だろ。


931 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 13:43:18
そもそも、畿内説の最大根拠と云うのは、
魏王朝より下賜された銅鏡百枚が出土する地域を邪馬台国としています。

畿内説は、散々騒いで、中国社会科学院まで巻き込んでおいて、
中国側の科学的調査の結果、三角鏡は魏鏡ではなかったと判断されている。

つまり、畿内説そのものが誤っていたのは周知の通りで、
これ以上、根拠不明な妄想を繰り返しても相手にされないと云うことです。

932 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 13:50:35
>>918
ちゃんとしたルールの下で議論すれば、必ず決着が付きます。
しかし、敗色が濃い方は、決着を付けたくないのです。
そこで、ルールのない議論が展開されるようになります。
これを場外乱闘と(私は)呼んでいます。
場外乱闘に持ち込むのはいつも畿内説です。

933 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 13:59:48
プッ。プロレスと勘違いしているバカ発見。

934 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 14:08:58
>>918

ハイ、さようなら。

邪馬台国論争と言うものが元々持っている特性
(と言ってもそれは60年代以降の邪馬台国ブームから顕著になるんだろうが)と

2ちゃんねると言うネット上の匿名の掲示板の特性が合わさるとこうなるって話しだなwww

>>932
>ちゃんとしたルールの下で議論すれば、必ず決着が付きます。

ほう。
じゃあ畿内説は除外して九州説だけでも良いので『決着』をつけて見せてくれw

「場外乱闘」と言えば古田と安本の論争をプロレスに例えた作家がいたなw

まあそもそも「ルール」とやらが作れるかが疑問だがwww

935 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 14:23:45
>>932
それは、水の中でもがき苦しむ人に、「冷静になりなさい」と云うようなものです。

我々、諸賢の2ちゃんねらーに出来ることは、
水の中でもがき苦しむ邪馬台国=畿内説の死を(生温かく)見守ることくらいでしょう。

936 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 14:44:39
>>925
>「景初四年」銘の三角鏡2枚が発見されているのはどうしてですか?
>これは魏年号の改元を知らなかった
>海外=日本で製作された鏡であることを示していのではないでしょうか?

はい。
改元と言うか明帝の死という情報がもたらされるのに
時間がかかる日本で造られたとするのに有利なネタですね(棒読み

が逆に言えば情報が伝わる時間的ギャップ内に造られた
=正始元年にごく近い時期に作られた可能性が高い。

畿内ヤマトはその時期に既に大量に三角を作って全国にばら撒いた
無論九州にもだ。

その事は畿内説の蓋然性を高める材料の一つにはなっても不利になるものではない。

「三角魏鏡説を否定すれば畿内説をやっつけられる」
「理化学的年代測定を否定すれば畿内説をやっつけられる」

…etc 勘違いする馬鹿が後を絶たず、また一回それに固執すると同じ事をいつまでも繰り返す。

かくして、果てしないうんざり、万年ループの出来上がりw

937 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 14:49:56
最初に、黒塚古墳の棺の写真を見せられたら、三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だ
なんて言わないだろうな。どうみても、画文帯のほうを重視してしまう。
椿井大塚山古墳も同じような状況だったのだろうが、棺の様子を隠して
三角縁神獣鏡がたくさん出たということだけが発表された。

考古学は、何を掘るか、出てきたものをどう解釈するか、何を公表するか、
どう公表するかなど考古学者のさじ加減というところがある。
一番困るのは、公表されない部分があるということだろうな。

938 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 17:03:05
理性や科学を無視して屁理屈捏造
「卑弥呼の魏鏡だと断定して、一気に畿内説を勝利に」
「箸墓=卑弥呼墓と断定して、一気に畿内説を勝利に」

・・・この詐欺理論が破綻して、畿内説は今、青息吐息


939 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 17:18:40
>>938
このスレは、邪馬台国=畿内説の詐欺理論が、
どうして破綻してしまったのかを多角的に見つめる邪馬台国=畿内説の葬儀会場です。

ご参列の皆様は、ご焼香もお忘れ無いようお願い致します。

※棺桶から這い上がろうとするゾンビ(畿内厨)が確認されてるので注意されたし。

940 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 17:34:25
>>938
>理性や科学を無視して屁理屈捏造

この言い方はひどい・・・。
あんまり本当のこと言うと畿内説の人たちがかわいそうだよ。



941 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 17:59:17
はーあ、とんび唐十郎は軍陀利ひょうすべ、ふんばっ、ふんばっ。
あ、からす勘十郎は下駄を履いて、くっぱか、くっぱ。

942 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 18:10:25
ぶっちゃけ、九州説なんてアマチュアや郷土史家のお国自慢や観光史学だったり、
神話と歴史の区別のつかない連中が言いたい放題言ってるような印象しかない。

943 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 18:12:46
あ、おりこのぬこはとろいのとそこり、このむくんなのいけに、ソークを盛ってしまうー。

944 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 18:45:26
>>940
畿内説よりも九州王朝説と東遷説だろw

945 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 19:06:19
今時九州説唱えてる奴は半島の人位ですよ。
実際彼らはそうした方が卑弥呼=韓国人説に
都合いいようだし。

946 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 19:06:47
いや、畿内説ほどひどい説は、他に見つからない。

947 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 19:11:55
>>946はまさに半島人そのもののようだ。

948 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 19:12:28
947の自己紹介は要らない

949 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 19:18:44
放屁きのこ、ぶぶぶぶぶ。

950 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 19:20:34
ぶびびびびびびびびび、ぷすすす、びーびびびびっぶうーーー。びちちっ。(おっとお)。

951 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 19:23:07
大型連休放屁きのこ、ぶーぶーぶー。

952 :吉三:2010/05/03(月) 19:41:26
ここは放屁スレのようでござんすね。ならばあっしのイナセな一発。ぷーーーーっ。失礼こきやした。

953 :王珍棒:2010/05/03(月) 20:22:36
ここ厠所アルか。ぶおっ。華人の放屁臭いアルよ。食い物違うアルね。

954 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 20:41:33
素朴な疑問なのだが、景初の銘の入った鏡が国産であろうと畿内で発見され、畿内で
製作されたのであれば、畿内で魏の年号を知ることが出来たってことだよな?
なんで畿内で魏の年号を知ってたんだ?

間接的であれ直接的であれ、それを知る手段はあったってことだろ?

邪馬台国が九州だろうとどこだろうと構わないが、それだけは説明出来ないとおかしい
んじゃないのか?

どこかに書いてるなら教えてくれぬか。

955 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 21:09:16
景初四年鏡が中国で作られたか、畿内、あるいは九州なのかは定かではない。

言えるのは、暦を決める政府と情報が途絶している、あるいは非常に遠い
地域で作られたということだけである。

956 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 21:17:27
某コテハンのように、都市牛利がタジマモリとか本気で言ってる奴は、
伝説やおとぎ話と現実の見分けがつかないんじゃないのか。
記紀に書いてある人物が全部実在とか思ってるのなら、救いがたいな。

957 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 21:32:24
邪馬台国=畿内説の三角鏡について

1.6世紀の墓にも埋められている。使われた様子が無い。(磨耗痕がない)青銅の中でも
三角縁に使用された銅は鈴の含有量が多くやわらかい銅なので磨耗がしやすい。
出来が悪い。墓からしか出てこない。(神社のご神体になっている2,3は除いて)
つまり葬具としての需要だったわけだ。
もちろん権威付けとして墓に埋めたことは間違いないが。
使わない物だし出来栄えなんかどうでも良かったのだろう。
ということは魏の鏡である必要はないと言う事だ。

2.魏や帯方郡では薄葬令の為、鏡を埋葬する事は少なく、鏡の需要は日本ほどなかった。
魏や帯方郡に日本の需要を満たす為に鏡職人がいたのだろうか。
畿内と洛陽を往復するのに二年以上、帯方と畿内でも一年以上、半島情勢の不安定さを
考えると来るかこないか判らない倭人が鏡を買い付けに来るのを鏡職人達は待っていたの
だろうか。(半島では高句麗などが度々反乱をしていた)

3.黒塚古墳の埋葬状況を見ると棺の外に立てかけてあったので画文帯が棺の内側の死者の胸の
あたりに置いてあったのに比べると粗末な扱いと言わざるを得ない。
黒塚古墳の一見大切に扱われた画文帯でさえどうも踏み返しのようだ。
踏み返しより粗末に扱われる三角縁は本当に魏鏡でありうるのだろうか?

4.魏鏡だと信じるのは勝手だが、中国の特注でも1〜3の状況からして無理。
要するに、オ●ムや法の華●法の教祖の言った事を信じる信者以外には通用しない話。

三角鏡は倭国のオリジナルではなく中国の劣化コピー。画文帯をアレンジして三角の縁を追加して大きくしただけ。
当然、これには中国人も関わっている。しかし、それは魏が晋に取って代わられた後だろう。
そうでなければ銘文など記入できなかっただろうからな。

958 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 21:36:16
>>957
長レスご苦労。で、年代は?

959 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 21:41:45
>>958
6世紀以降の劣化コピーと見てよい

960 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 21:48:16
古代ローマ周辺の蛮族も、ローマ帝国の貨幣を劣化コピーして使っていたからな。
景初なんて年号は、中国文化圏の諸民族ならだれでも知っているだろ。

961 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 21:49:11
>>957みたいなのはほっとけばいいんじゃないの?
畿内説が攻撃されたって、誰も困らんよ。

九州説は溜飲を下げてるつもりか知らんが、
世間では何の影響量力も無い。

これから古代史に興味持つ素人に啓蒙してるつもり?

962 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 21:53:55
怨念なんだよ。www 個人的な恨み。怨恨東遷説。

963 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 21:56:07
だいたい、卑弥呼の魏鏡が何百枚も出土するほうがおかしい。
箸墓の年代をどんどん古く年代判定するのも詐欺。

964 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 22:06:09
>>963
もしも自分たちの都合に合わせて年代を古く判定するなどということを行っているのならば
それは詐欺というよりもむしろ重大な犯罪行為なのではないですか?
日本国民の祖先や日本の歴史、そして皇室を侮蔑していなければできない行為です

965 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 22:09:39
やはり放屁スレだわ。wwwwww

966 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 22:14:55
藤村ゴッドハンドまで露骨じゃないだろうけど、
多かれ少なかれ、似たような事例はあるんじゃないかと思ってる。
>>937に同意

967 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 22:29:21
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/               ┃           /ヘ   /
〜 〜 {ヽ_ /  {_/               ┃    「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/      ★末盧国          ┃          ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~                        ┃             /
                            ┃ 「一大国」      / 
           _ |ヽ■伊都国       ┃      /▲フ   /
        /ヽ/ |/ |       伊吹山  ┃      | 「 /
       |      ヽ ★奴国       ┃      | |__/
        ヽ,  水路 ヽヘ  ★不弥国  ┃     /   トヤマ
        |      ↓ /           ┃ ↓  / カナザワ
      ┌ ' 卑弥呼  ノ           ┃ ↓ / 
     /        /           ┃ ↓|フクイ
    丿 水路  / ̄              ┗━━━━━━━━━━━
   |_    → / ̄                
   /  _/ヘ/●投馬国             
   | |      \                 
  /  >    天 \              
 /  /      安 \
 \ |         川 
   ∨            ☆呼邑国
             
             天
             岩   ☆為吾国
          戸 
             
            ☆巴利国
      ☆烏奴国
  ★邪馬台国

968 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 22:33:59
結局、王さんは、卑弥呼が魏から貰った鏡は、内行花文鏡か方格規矩四神鏡
だろうと言っていたな。
これはどの地域から多く出るのだったかな。

969 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 22:35:19
歴史や考古学に対して国民に関心を持ってもらうために、
邪馬台国の女王・卑弥呼は絶好のネタ。
専門家だけで馴れ合っていたら、仕分けされて予算がなくなるよ。

970 :967:2010/05/03(月) 22:35:16
あら、書き込めた
そういう訳で、卑弥呼とは「ぴやこ」すなわち琵琶湖だったのです。

ここからは、
なぜ架空の女王がでっちあげられたのか
という議論に移りましょう〜

971 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 22:39:57

■ヒマワリで鍛冶工房表現

読売新聞 2010年5月3日
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hyogo/news/20100503-OYT8T00079.htm

  五斗長垣内遺跡 淡路市教委と住民、種まき

 弥生後期(1世紀中頃〜3世紀初め)で国内最大の鍛冶(かじ)工房跡が見つかった、淡路市の「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」で、市教委と住民が2日、国の史跡指定を目指して埋め戻した遺構上に、ヒマワリの種をまいた。
花々で形状を再現する取り組みで、瀬戸内海を一望できる丘陵地だけに、市教委は「朝鮮半島から九州、瀬戸内を経て鉄器生産の技術が伝わった『鉄の道』を思い描いてほしい」としている。

 同地区は6年前の台風23号で、ため池が決壊。水稲栽培が出来なくなり、地元の五斗長まちづくり協議会が遊休農地などで観賞用ヒマワリを栽培し始め、毎夏、まつりを開いて大勢の人たちでにぎわっている。
 これに着目した市教委が、土中の〈遺跡の姿〉を知ってもらおうと、協議会に提案。円形工房(最大直径10・5メートル)など竪穴建物跡計6棟の形通りに、背丈約60センチのミニヒマワリの種をまくことにした。

 この日は、協議会メンバーや市教委職員ら約40人が午前8時頃から、周辺の畑を含めて作業を開始。
遺跡付近は50センチ〜1メートル埋め戻し、遺構上はさらに約40センチ盛り土をしていることから、トラクターで耕した後、約30センチ間隔に種をまいていった。直径10・5メートルの円形工房跡のみ作業を終え、残る5棟の種まきは近く実施する。
 地元の脇本万里子さんは「かわいい花を咲かせて」と話し、片山重文さん(51)は「夏まつりに、より多くの人が足を運ぶ機会に」と願っていた。

 県立考古博物館の石野博信館長(76)の話
 「非常にユニークな試みで、遺跡の配置などを知る助けになる」

     ◇

 同遺跡の名称が、従来の「垣内遺跡」から「五斗長垣内遺跡」に変更された。
市教委と県教委が協議し、全国に同名の垣内遺跡、淡路市浅野には同音の「開戸遺跡」があることなどから、混同を防ぐためという。

・円形の工房跡にミニヒマワリの種をまいていく住民ら(淡路市黒谷で)
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20100503-041409-1-N.jpg

972 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 22:40:09
倭人の習俗はどうみても北西部九州。
滋賀や奈良であの習俗は無理。

973 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 22:42:25
>>972
>あの習俗
見たんかい!?

974 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 22:43:18
>>972
四国東南部は?
丹の山もあるし。

975 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 22:44:38
四国東南部に三種の神器は出ない。

976 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 22:47:58
>>971
>五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡
>同遺跡の名称が、従来の「垣内遺跡」から「五斗長垣内遺跡」に変更された。

超難読の遺跡名だねww

977 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 22:48:57
100枚しかない動産を探すより、
数千、数万あったであろう不動産を当った方が早くない?

「屋室があり父母兄弟で寝所を別にしている。」
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1105856.article.html
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000220911110001

978 :花弁状人体:2010/05/03(月) 23:31:33
わしはひどい切れ痔で、満足に放屁もできない。アイテテテ。

979 :比定地の説明追加:2010/05/03(月) 23:33:37
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/              ┃           /ヘ   /
〜 〜 {ヽ_ /  {_/              ┃    「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/      ★末盧国         ┃          ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~                        ┃             /
                           ┃ 「一大国」      / 
         _ |ヽ■伊都国       ┃      /▲フ   /
       /ヽ/ |/ |       伊吹山  ┃      | 「 /
      |      ヽ ★奴国       ┃      | |__/
       ヽ,  水路 ヽヘ  ★不弥国  ┃     /   トヤマ
       |      ↓ /           ┃ ↓  / カナザワ
     ┌ ' 卑弥呼  ノ           ┃ ↓ / 
    /        /           ┃ ↓|フクイ
   丿 水路  / ̄              ┗━━━━━━━━━━━
  |_    → / ̄
  /  _/ヘ/●投馬国          伊都国・・・旧伊香郡
  | |      \                      (古保利古墳群)
 /  >    天 \            奴国  ・・・長浜市
/  /      安 \                 (国友鉄砲村)
\ |         川            不弥国・・・米原市
  ∨            ☆呼邑国          (息長稜)
                        投馬国・・・野洲市・近江盆地
            天                 (日本最大銅鐸、伊勢遺跡)
           岩   ☆為吾国    呼邑国・・・甲賀市(忍者・手裏剣=鉄?)
         戸             為吾国・・・伊賀市(同上)
                        巴利国・・・名張市(同上)
           ☆巴利国      烏奴国・・・宇陀市(辰砂・丹の産地)
     ☆烏奴国
 ★邪馬台国               邪馬台国・・・奈良盆地

980 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 00:39:01
滋賀県の冬は寒すぎるから邪馬台国じゃない

981 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 01:06:41
>>980
魏志倭人伝中の「倭人」の描写は、半島の「倭人」を見て書かれた。と思う

そもそも魏の使者、伊都国より向こうに行ってない。
奴(匈奴?)が山ほど住む国を通るとか、
船で20日とか(華北の住民は水を恐れる)
話を誇張して魏の使者を萎えさせ、伊都国より先に進ませなかった。
たぶん、そんな感じ

982 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 01:11:29
次スレ
♪邪馬台国 ドンと来い♪ 70
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1272903028/

983 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 01:12:41
>>982 乙!

984 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 01:18:34
>>981
ばか言うな、魏使は女王国まで行っている。

985 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 01:19:36
>>984
なんで分かるのー

986 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 01:22:20
行ったから書いた、が基本形。
行っていないのに書いた、と断定する奴が証明すべきだろ。

987 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 01:26:15
伊都国までしか行かなかったというのなら、むしろ里数で書かれた不弥国まで
行ったというべきだろうな。

不弥国の港で下賜の品物がちゃんと届くように祈りながら、船を見送ったと。
で、郡使は伊都国に戻り接待三昧。

988 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 01:39:27
>>986
魏使の視点で書かれたようなものはない。
伝聞程度のことしか書いてない。

証明終了。

989 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 02:01:39
>>975
倭人伝にそんな記述はない。

990 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 02:12:12
>>988
それが、半島の「倭人」しか書いていない証明になっていない。
→論理破綻でチョン。

991 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 02:19:15
「地球が太陽の周りを周ってる」なんて証明できない事は有り得ない
みたいな話ですか

つまり真相解明はタイムマシーンができるまで不可能だと>_<

992 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 02:53:41
>>989
記紀の虚偽性(漢籍の倭が畿内だと錯覚させる)を指摘したまで

993 :神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/05/04(火) 10:30:02
このスレのまとめ。
邪馬台国は奈良県桜井市の纏向遺跡にあった。卑弥呼の古墳は箸墓古墳で台与は西殿塚古墳である。
伊勢神宮に祀られている天照大神は卑弥呼のことで豊受大神は台与のことである。
親魏倭王の金印は西殿塚古墳に埋蔵されているか石上神宮の禁足地に埋蔵されているかである。
邪馬台国とは昔から日本で交易していた海人族の国家である。大陸への塩の密輸で暴利を上げていた。
崇神天皇は卑弥呼の男弟で磯城県主に過ぎない。つまり、天皇家は正統な王家を強奪したわけである。
邪馬台国九州説・東遷説・九州王朝説は昔から戯言だったし今も戯言に過ぎない。

994 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 10:32:04
>>990
半島の「倭人」
なんじゃそりゃ。

995 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 11:04:51
>>993の続き
すべての立論の根拠は、豊=台与のゴロが合っているからです。
ゥープス、原文には「壱与」とあるのを忘れてました・・・

996 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 11:08:55
「ゥープス」で一気にアホっぽくなった。

997 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 11:30:07
>>960

> 景初なんて年号は、中国文化圏の諸民族ならだれでも知っているだろ。

鏡が中国文化圏であることを示すとしても、魏の年号ってことは魏との
交流を示すんじゃないの?
後世の作であったとしたら、誰でも知ってるレベルであるならば景初が
3年で終わったことも知られてるんじゃないの?知らなかったとしても、
魏の年号を使ったことに意味はないのか?

だから邪馬台国はヤマトだ、とは言わないけど、実際ヤマトからこんな
鏡が出てるんだから、魏との関連を伺わせるようなものがヤマトから
出てくる理由を教えて欲しいだけなのだが。
説明出来なくても、ほら見ろと言いたいわけじゃないから。

998 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 11:37:58
邪馬台国は大和で決まったことだし、
おヒマな方は、次スレで九州説の断末魔をお楽しみください。


999 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 12:20:38
「邪馬台国畿内説」は、科学的方法によっているだろうか。
あまりにも事実を無視し、推論が恣意的である。

関係のない考古学的事実を、「畿内説」に結びつけ、マスコミ報道にもちこめば成功、
という方法をくりかえしている。「検証」がぬけている。

この方法は「旧石器捏造事件」で懲りたはずではなかったか。

事実を、冷厳に直視すれば、邪馬台国時代の畿内は、なお「扁平鈕式銅鐸」の時代である。
「邪馬台国畿内説」は「はじめに畿内説ありき」の思いこみにもとづく共同幻想である。

http://yamatai.cside.com/yasumoto/tyosyo97.htm

1000 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 12:20:48
私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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