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【復活】日本書紀総合考察スレ【しました】

1 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/31(日) 13:53:32
消えて久しいですが、立てることにしました。
私はぐうたら参加なので「スレ主」にはなれませんが
皆さんで盛り上げて下さい。


2 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/31(日) 14:02:02
崩御から埋葬までの年月数
神武 1年6月
綏靖 1年5月
安寧   8月
懿徳 1年1月
孝昭38年
孝安   8月
孝霊 6年7月
孝元 4年5月
開化   6月
崇神   8月
垂仁   5月 田道間守殉死
景行 2年
成務 1年3月
仲哀 2年9月
神功皇后 6月
應神 埋葬記事なし
・・・
天智 埋葬記事なし

孝昭天皇の38年後埋葬は目立っているが、立后の年も同様である。

3 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/31(日) 14:07:34
立后年と立太子時の年齢
神武 1年立后 76年崩御時、綏靖は48歳
綏靖 2年 25年、安寧は21歳で立太子
安寧 3年 11年、懿徳は16歳(立后前に誕生)
懿徳 2年 22年、孝昭は18歳
孝昭29年 68年、孝安は20歳
孝安26年 76年、孝霊は26歳
孝霊 2年 36年、孝元は19歳
孝元 7年 22年、開化は16歳
開化 6年 28年、崇神は19歳
崇神 1年 48年、垂仁は24歳(垂仁誕生は崇神紀では崇神1年以前、垂仁紀では崇神29年)
垂仁 2年 15年に日葉酢媛立后、37年に景行は21歳
景行 2年 4年に八坂入媛を妃、46年又は51年に成務は24歳
成務 なし 48年、甥の仲哀は31歳で立太子、父・日本武尊没後65年
仲哀 2年 立太子なし
神功皇后  3年、應神(年齢記事なし)
應神 2年 立太子の年齢記事なし
仁徳 2年 31年、履中は15歳
以後、立太子の年齢記事なし

立太子時の年齢では、立后年から数えて半分程度の数字が目立ち、倍暦の痕跡を疑わせる。
孝安(立太子した本人)以後の10例のうち、開化・崇神・景行を除く7例が該当する。

4 :日本@名無史さん:2010/01/31(日) 14:12:02
記紀で仲哀の没年が異なるとは良いとしても、あの注釈をつける理由は何なんだろう。

5 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/31(日) 14:27:24
立后時の年齢では孝昭・孝安世の特異さが際立っているが、在位期間もこの二代は欠史八代で一位と二位である。
おそらく、孝昭29年立后とは、孝昭が29歳で妃を迎えた意味ではないだろうか。
孝昭在位83年は、孝昭の享年83歳の意味となり、30年が加算されてしまっている。
同様に孝安世でも、35年が加算されており、見かけ上65年が加算されているようだ。
崇神没258年として、神武没年を求めると
258−{−30−(−585)−65}/2=13
一世平均は27〜28年となるのでかなり自然な数字?

>>4
「あの注釈」・・・魏志からの引用のこと?

6 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/31(日) 15:06:39
ではまた週末に。
GRRR・・・

7 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/31(日) 15:51:11
愛知県民さん 新スレ設置に感謝します。

08’の末、愛知県民さんの書きこみからそこでも120年の段差を知り、神功皇后
の半島遠征が352年であると確信しました。何と云っても、120年ピタリは例の
三国史記と日本書紀の120年段差の多発から、そう想うようになったよいうこと
です。しかも先代旧事本紀大成経のサソリ座の超新星☆の記事の年代もそれがし
が調べた結果、ピタリ120年の年代差であったことから、やはり352年が神功の
三韓征伐の年代だと観ます。

ところで縦目仮面氏のご興味となって来た天津神算木から〜〜天津神算木

 4×π×3**2=113.0973355292・・・ (**はべき)

                (見かけの年:1/13 A.D.97年 崇神天皇 即位)

を本打ち切り末打ち断ちて、千座(整数第四位の桁)の置座を設定するとき

 3**2≠0113.097335

から、金(左辺)と木(右辺)の分断の本末を接続するとき

 10/2 A.D.353年 神功皇后 摂政 皇太后

を得ます。その前年の352年が真の彼女の半島遠征ですね。

8 :日本@名無史さん:2010/01/31(日) 15:55:21
紀だと西暦192に仲哀即位。199没。
記だと実は仲哀即位の年西暦356。没年は実は362年。

ただ不思議で仕方なかったからカキコんでしまってすみません。しかし何故なんだろう。

9 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/31(日) 16:02:49
昨日でしたか、愛知県民さんは再び半島文献を書きこみ、その知力の多さには
敬服しています。県民さんの書きこみにて、半島文献

「3年夏四月 倭人猝至圍金城、王親出戦・・・」

で、これが見かけの232年であることから、

 232+120=352年

となり、この文はどうやら神功半島遠征のことであり、これが史実であったこと
の一つの文証になると考えます。これは >>7 に縦目仮面さん用としての書き
こみにて、これに合致します。

このことから、唐松山の言う274年が神功摂政皇太后元年にはなりえない間違い
だということが、なおも確信できています。

10 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/31(日) 16:08:25
>>8
記のほうはおそらく阿礼のいろいろな方面からの情報の寄せ集めの中の内容
のものですから、何故なのかは何とも?です。池田仁三氏の碑文が解明の鍵に
なるかも知れません?

紀のほうは、これは倍暦からの年代差が出来ての見かけと真の年代の段差から
のもので、当時に於いて二倍暦等の行使のためそういう段差が生じてしまったと
いうことです。

11 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/31(日) 16:24:21
唐松山は以前として年表の年代設定の具体的説明をいまだしないに終始して
いるが、後々に各20年の無説明変更を3人分平気でやって音無しの構えでいるが、
これは神功〜仁徳のあたりでそれの手前は2年位変更くらいだから、だいたいそこ
んところは今でも考えが同じなのだろう? そこで成務の代を見るに、奴は

 261〜264年(変更して 263年〜266年)

と2年ばかりの変更でまぁいいとして、この後のまたもや変更を1年だったか
しているようだが、この数字から考えるに、彼は成務の在位年をたかが4年で
オシマイにしている、ところが紀の年代からは在位年数が60年となっており、
奴の言うには在位年の後半は不正のマシの水増しで30年も増加になってるとの
説明なのであるが(奴は通常暦のみで倍暦否定である)、それを差し引いても

 60−30=30年

であるから、在位が4年の極めて狭小だというのは、一見して不自然過ぎで
あり、どうやら間違ってるなと客観的にミエミエである。だから説明30年マシと
年表とは全く合致してないと言ってよいのだ。             (続く)

12 :日本@名無史さん:2010/01/31(日) 16:29:25
倍歴。聞いた時あります…。わざわざ有難うございました。素人ながらこの時代近辺の謎がとても楽しく面白く感じます。

13 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/31(日) 16:41:00
>>12さん 参考にして下さい。

>>11 続き
日本書紀の成務の条を見るに、元年から5年までは毎年記述があり、その後の
在位年内では仲哀の立太子年と崩御年しか記述がない。このことから唐松山は
6年から崩御年までは何らかの事由で朝廷が水増しをしたのだろうと考察したの
だろう? これは一説としては考えられることで、このことは酷評にはならない
ものであるが、そのウラを彼が取っていたのかと考えれば、あの先行強行が
激しい論の組み立てからはアクセルのみで左右後部の確認などしないで作り上げ
たアマいものだと、こう考えてしまう。

成務紀の5年までの毎回ある記載とあとは48年の立太子の記事と崩御の記事の
二個しかないことで、彼はこの代を5年間だけで、あとは水マシだとのウラ取り
を怠った結論の先行で、ここんところを何らかの理由から5年のみを4年だろ
うと、前後の年代、特に神功日食年にこだわり、1年少なく見積もって編年と
したのであろうと想うのだ?                      〜続く                          〜続く

14 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/31(日) 16:53:52
>>13 続き このごろ規制が厳しく、すぐ連続投稿で閉められてしまう。大丈夫?
4年間在位では30年の水マシでは数字があわない。果たして本当に奴の言う
とおりなのか? ここを考えよう。雷音寺といえば西遊記を想い起こすがww

『雷音寺縁起』という書に、非公式佛伝として

成務48年聖賀上人(清賀上人)という僧が九州の雷山に来たという話で、そこの
千如寺(旧 雷音寺)で同上人が千手千眼観音像を彫ったという話であり、
上人は應神2年7/15入寂したという。

これを観ると、ちゃんと成務48年があり、簡単に朝廷のマシだとは言えないが?

15 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/31(日) 17:12:32
>>14 続き
唐松山で成務の年代をえらく狭小に4年間としたという話を先述したが、じゃぁ
成務5年はなかったのかと考えると、福島県郡山市に安積国造神社があるが、
ここのご由緒では 成務天皇5年に勅命により安積国造に任じられたとあるそう
で、成務5年を無視するわけには行くまいが? 奴は同5年を仲哀元年だと逃げ
の一手の抗弁をするのだと想うが?ww

ご由緒に成務5年の話は他の神社でもあるようだ。

その次に、島根県出雲市所在の 須佐大宮 に

須佐神社宮司を務める須佐家が国造を命じられのは

 成務30年

の益成宮司の時世だと伝えられている。これは成務6年以降の話であり、唐松山
のマシ(水増し)説は成立できない。奴の言う出雲暦でも説明できまい?ww

16 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/31(日) 17:30:55
皇暦 天皇即位元旦  暦日  元旦朔 治世日数 治世月数  増し  実際の日数 月数  治世
1年   神武天皇元年 8777日  庚辰  28852日  977.02月  3章  8032日 271.99月  22年
80年  綏靖天皇元年 37629日  壬申 12048日  407.98月  1章  5108日 172.97月  14年
113年  安寧天皇元年 49677日  壬申
151年  懿徳天皇元年 63556日  庚申 26666日  903.00月  3章  5846日  197.96月  16年
186年  孝昭天皇元年 76343日  己卯 30299日  1026.02月  3章  9479日 320.99月  26年
269年  孝安天皇元年 106642日  丙戌 37267日 1261.98月  4章  9507日 321.94月  26年
371年  孝霊天皇元年 143909日  乙酉 27759日  940.01月  3章  6939日 234.98月  19年
447年  孝元天皇元年 171668日  壬辰 20819日  705.00月  2章  6939日 234.98月  19年
504年  開化天皇元年 192487日  辛未 21912日  742.01月  3章  1092日 36.98月   3年
564年  崇神天皇元年 214399日  庚午 24835日  840.99月  2章 10955日 370.97月  30年
632年  垂仁天皇元年 239234日  壬午 36175日 1225.00月  4章  8415日 284.96月  23年
731年  景行天皇元年 275409日  丁丑 21912日  742.01月  2章  8032日 271.99月  22年
791年  成務天皇元年 297321日  壬申 22266日  754.00月  3章  1446日 48.97月   4年
852年  仲哀天皇元年 319587日  庚寅  3307日  111.99月  0章  3307日 111.99月  9年
861年  神功皇后摂政 322894日  甲申・・・・・・・・・・・・・・・・・・・合計  85097日 2881.66月  233年

暦日は、神武元年正月朔を8777として、不明な朔は計算で出してあります。
10日の誤差は、1章19年を6940日で数えているためです。
233年なら3日、33章から8日、併せて11日程ほしい。

左端の治世を合算したものが、実際に経過した年数。


17 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/31(日) 17:46:57
>>15 続き
それに兵庫県明石市明石港の岩屋神社のご由緒、社伝によると

 成務13年 6/15

に成務天皇の勅命により、淡路島の岩屋神社からご祭神を勧請したとの内容で
あり、ここでも唐松山がマシと主張する成務6年以後の 同13年 があるのだ。

これは唐松山の、マシを朝廷がしたという増量年の主張が通らないものだという
ことになり、マシ説は棄却されるのだ。

18 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/31(日) 17:51:53
>年表の年代設定の具体的説明をいまだしない

対外資料を >>16 に合わせる

新羅192,3年の記事は、崇神5,6年の記事に対応
垂仁末、景行元年の田道間守は、都市牛利である
神功元年の日食は、273年である。
七支刀は、326年
364年 新羅の記事は 仁徳53年の記事と同等である
応神二十八年秋九月,高麗王遣使朝貢,因以上表.其表曰:「高麗王教日本國也.」は
仁徳三十七年春二月爰阿知使主等渡高麗國と同等である。

これらの記事から先の治世に当てはめる。


19 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/31(日) 18:08:24
>年表の年代設定の具体的説明をいまだしない
太国編年は、暦の後付けを最初の決定事項とするが、
全ての日付を否定した太国編年では、実行不可能

書紀に「正朔」の文字は有るが、「倍年」の文字は無い。

>成務の年代をえらく狭小に4年間としたという
もし4年が間違いなら、それ以降の数字に「歴史の設定ヶ所」が得られない。

太国編年の様に「歴史の設定ヶ所」が皆無では、歴史を語れない。



20 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/31(日) 21:44:32
正朔の文字はマシとは解釈できない。おまけに空腹百姓が千人も日本海
の未経験の荒波を超えて渡れるわけがない。また日食が数日間も継続
するわけはなく、こういう論を非科学的で牽強付会っていうんだぜ。ww

全ての日付を否定したと主張したことは全くない。例えば欠史八代日数
統計表の題名には、ちゃんと日数とある。表と日数を否定してるのは
むしろオマエのほうだよ。干支は空白日も回転していたから、正朔と
なるのは逆算が正確に出来えたということだ。正朔はマシだという意味
には全然ならない。神功初年は353年、神功半島遠征はその前年の352年
だ。273,274年は大間違いだね。天津金木と倍暦計算と120年の段差から
の半島文献「夏四月倭人猝至圍金城王親出戦・・・」での323年は

 323+120=352年

で、352年が三韓征伐の年代は堅い。オマエのは間違いだな。w

21 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/31(日) 22:04:31
>>20 訂正

× 323+120=352年

○ 232+120=352年

22 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/31(日) 22:16:16
>正朔の文字はマシとは解釈できない。
正朔の文字は、倍年を否定する。
266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
273年 泰始9年 三月,立皇子祗為東海王。夏四月戊辰朔,日有蝕之。六月乙未,東海王祗薨。
鮮卑寇廣寧,殺略五千人。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
276年二月丙戌,東夷八國歸化。秋七月,東夷十七國內附。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
280年 太康元年 6月 東夷十國歸化。7月 東夷二十國朝獻。
281年 太康2年 三月東夷五國朝獻。夏六月,東夷五國內附。冬十月,鮮卑慕容廆(歸か)寇昌黎。
282年 太康3年 九月,東夷二十九國歸化,獻其方物。
286年 太康7年 夏五月,郡國十三旱。鮮卑慕容廆寇遼東。八月,東夷十一國內附。是歲,扶南等二十一國、馬韓等十一國遣使來獻。
287年 太康8年 八月,東夷二國內附。
288年 太康9年 九月,東夷七國詣校尉內附。
289年 太康10年 五月,鮮卑慕容廆來降,東夷十一國內附。是歲,東夷絕遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻。
この年11月に 晋は、軍を再編する。
290年 太熙元年 二月辛丑,東夷七國朝貢。琅邪王覲薨。
291年 永平元年三月東夷校尉文淑, 是歲,東夷十七國、南夷二十四部並詣校尉內附。


23 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/31(日) 22:17:21
続き
308年 永嘉二年 石勒寇常山,
317年 建武元年六月丙寅,東夷校尉崔,鮮卑大都督慕容廆等一百八十人上書勸進,
318年 太興元年十二月。鮮卑慕容廆襲遼東,東夷校尉、平州刺史崔高句驪。
320年 三年三月,慕容廆奉送玉璽三紐。
321年 四年十二月,以慕容廆為持節、都督幽平二州東夷諸軍事、平州牧,封遼東郡公。
333年 咸和八年五月,遼東公慕容廆卒,子皝嗣位。
337年 咸康三年 冬十月丁卯,慕容皝自立為燕王。
338年 咸康四年 夏四月,李壽弒李期,僭即偽位,國號漢。石季龍為慕容皝所敗,癸丑,加皝征北大將軍。
340年 咸康六年二月,慕容皝及石季龍將石成戰于遼西,敗之,
343年 建元元年六月石季龍帥眾伐慕容皝,皝大敗之。
343年 秋七月,石季龍將戴開帥眾來降。丁巳,詔曰:「慕容皝摧殄羯寇,乃云死沒八萬餘人,將是其天亡之始也。
347年 永和三年五月戊申,進慕容皝為安北將軍。
348年 永和四年九月丙申,慕容皝死,子儁嗣偽位。
349年 永和五年夏四月假慕容儁大將軍、幽平二州牧、大單于、燕王。
360年 升平四年春正月,仇池公楊俊卒,子世嗣。丙戌,慕容儁死,子暐嗣偽位。
370年 太和五年十一月,猛克鄴,獲慕容暐,盡有其地。 前燕滅亡。
376年 太元九月,東夷五國遣使來貢方物。


24 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/31(日) 22:21:09
308年 永嘉二年 石勒寇常山以降
東夷は、軍として編成され、従軍する。
350年代では、半島に隙間が無い。


25 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/31(日) 22:35:41
正朔の文字は倍暦の否定の根拠には全然ならない。紀の日数を見れば、
至るところに欠たる空白日があるのが察知できる。その典型が欠史八代の
個所であり、月後半の日がまるで無い。これは2倍年暦を行使していた事
を物語るものなのだ。2倍年暦はホツマの景行の条でも21ヶ月妊娠でこれ
を示し済みである。つまり

 十月十日×2=20月20日≒21ヶ月

これをスリ抜け解釈で作者はオマエの言い分を書いたのだとは、非常に
考えにくい。五七調では文字量が限定されて少ないから一見してこうだよ
と単的に表現するはずで、スリ抜けのようなハッタリ錯誤をしてしまう
オマエの解釈などするわけがない。ww

干支は空白での存在しない日々を、倍暦と並行に行使していた通常暦
にあわせるように回転させていれば、これで正朔になり、不合理はない。

このことはオマエと論議し始めたころにオマエに伝達していたぜ。w

また倍年暦固有の干支も片面的に存在使用していたもので、こちらは勘注
系図の成務の立太子等の干支を調べて、その存在をオマエに見せてオマエ
を窮地に追いやったことを(曲学の徒氏板)忘れてはいまいが。ww

26 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/31(日) 22:54:06
>紀の日数を見れば、至るところに欠たる空白日があるのが察知できる。

記事の無い日は有っても、干支の振られていない日は無い。

>十月十日×2=20月20日≒21ヶ月
以前、倍暦の説明で『日』の単位は変わらないと主張していたが、
ここでは『日』まで参加している。こうなると、説明はさらに複雑になる。
可能か?
>勘注
系図の成務の立太子等の干支を調べて、その存在をオマエに見せてオマエ
を窮地に追いやったことを(曲学の徒氏板)忘れてはいまいが。ww

すっかり忘れていますよ、それは皇暦ですか?又は古事記の干支ですか?
その干支は、太国編年に反映されていますか?


27 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/31(日) 23:00:18
pppp
 おとぼけか〜。wwwww

倍暦の干支を解説したのをわすれたというのかね?wwwww
このごろとぼけるようになったわけか〜? 
今一度解説しようかねぇ。wwwww

2ちゃんのみんなに読んでもらうのもいいからねぇ。曲学の徒さん
のスレ民だけでなく、こちらのみんなにもだな。まあそのうちに。

zzz・・・・・・・・

28 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/31(日) 23:13:19
>2ちゃんのみんなに読んでもらうのもいいからねぇ。

是非再掲載して下さい。

それから >十月十日×2=20月20日≒21ヶ月 の説明もよろしく。



29 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/01(月) 10:50:18
それから三重在位と各20年増加の説明もよろしく。

30 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/03(水) 14:29:54
先日まで規制をまたまたかけられて書きこみできなかったが、今日は書きこめ
るようだ。w さて、唐松山の編年での不合理を、ここと規制用特別編スレで
成務の件で論述したので参考にされたい。

以下は唐松山の曲学の徒氏掲示板でのNo.9662での編年表に、拙者のこうなのか
と奴が考えてるかの立太子年代を挿入したものである。ただし奴の表の一部分で
の在位年代による。

孝元即位  164年
開化立太子 170年ころ
孝元崩御  182年
開化即位  185年
崇神立太子 186年
開化崩御  187年
崇神即位  188年
垂仁立太子 195年ころ
崇神崩御  217年

と、ざっとこうなんだろう?wwwww
しかし何で、これで合ってるつもりなのか? 開化即位 崇神立太子 開化崩御
が各前後年での各1年差なのである。ブハハハwwwww オカしくないかね?
唐松山君よ。ppppp

31 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/03(水) 14:41:42
>>30 続き
どうしてこんなことが起きたんだろう?
唐松山は開化の在位を185〜187年と主張している。これだと次帝になる崇神の
立太子は186年しか考えにくい。つまり開化即位の翌年、開化崩御の前年だという
ことになる。あとは開化崩御の3ヶ月間余もありうることはありうるが・・・。

そうなると即位の翌年立太子、その翌年崩御、その翌年次帝の即位と毎年大きな
大きな動きが朝廷にあったことになるが、開化の在位がたった3年ならば(開化
は11月中旬即位で4月上旬崩御だから実質在位は3年まるまるは無く、
1年と4ヶ月余つまり正味1年と1/3年分の在位だというのが唐松山の主張なので
あ〜る。bbbbbbbwwwwww

この(1+1/3)年分の中で次帝の崇神の立太子が行われたことになる。そんな
○鹿なことがあってたまるものか?wwwwwwwwwwwwwww

32 :愛知県民:2010/02/04(木) 10:46:44
唐松山氏の年代はどうも・・・?
>>3 で立太子時の年齢が、立后年から数えて半分程度の数字が多いことを指摘しましたが
この辺りはどのような見解でしょうか。
孝昭・孝安世は埋葬年だけでなく、立后年も特異です。
ではまた・・・

33 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/05(金) 14:09:55
愛知県民さん
研究しておおりますね? ただそれがしの倍暦法ですと代によって変動が
ありますので、単調に一個の倍暦法ならばそういう傾向になりましょうが、
変動がある場合はまたそれに応じて観なければならず、何とも?です。

唐松山の編年表から無説明の立太子年を代入させると(曲学の徒氏板NO.9439)

第一考察

88年 安寧崩御
89年 懿徳即位
90年 孝昭立太子
92年 懿徳崩御
93年 孝昭即位

第二考察
88年 安寧崩御
89年 懿徳即位
91年 孝昭立太子
92年 懿徳崩御
93年 孝昭即位

で、これは成務の個所の編年と全く同一的で、一見しておかしいと皆が気付く。

34 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/05(金) 14:38:05
唐松山はマシ(不正水増し年数)を30年だと言っているが、あいつの編年表で
はピタリ30年差し引いての表でないことが軽く分かる。www

これは非常に論説がデタラメであって、奴の言う30年とやらが言行不一致だと
いうイカサマなのである。それに30年の水増しでは60年と違い干支が還暦的に
ならないから、奴の年表の干支の変遷にゴマカシがあるということになる。

60年なら朝廷がこれでマシを入れても誤魔化しが利き、マシ60年の充填において、
マシの前年の干支がマシ終了後の年にスムーズに移行できるから、これだと不正
の誤魔化しが出来うることになる。たとえば前者が「乙丑」年で、その翌年から
水増しの60年のマシを入れられ、60年完了の翌年の実年が「丙寅」年と出来えて
イカサマが行使できることとなるものの、30年じゃぁそれがかなわず、一見して
デタラメの発覚に至るから、こんな30年の説明では蜃気楼の盲増だということ
で、論説は軽く崩れてオシマイだ。唐松山の表はこれで滅茶苦茶の極だという
ことが発覚する。つまり奴の表はデタラメなのである。

35 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/05(金) 23:37:10
唐松山はこの30年のマシのことを規制用板のスレで知らぬ存ぜぬと言って
ない旨の返事をしてとぼけていたが、これでは唐松山自身の信用が下落
するので否認を翻し、実はこの30年マシは日本書紀のことではなく古事記
のほうのことだと〜日本書紀だと奴の編年表がデタラメ干支の羅列に
なるので奴の脳内に辻褄合わせををしようとの脳内判断が働き、目まぐる
しくどうすれば30年マシと説明した紀の不合理の発覚を誤魔化し回避出来
るかを奴は即興にクルクルと考え、日本書紀でなく、あのときの30年マシ
の説明は古事記の中身です旨の返答を出して辻褄を合わせ、奴は自説の
30年マシとは説明できない間違いだという危険の身に切迫痛感し、ここで
即興の繕いで、30年マシとは古事記のほうですとのうっちゃりを敢行して
発覚しそうになった奴の年表の不合理をつつかれるのを避けようと、
かような言い訳にて繕い誤魔化したイカサマの答弁野郎なのであ〜る。ww

36 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/06(土) 14:39:03
唐松山が最初に、さぁ〜?知らぬ存ぜぬと言い張ったのは、この30年マシに対す
るそれがしの反論に対して、著しく不利で説明出来ないもので身動きがとれなく
なったためであり、普通ならば不利でも即興の抗弁にて毎回繕うことが出来え
たものだが、今回は返答に困り、直ちにとぼけて、そんなことは言ってませ
んよ式の、30年マシなどと言った覚えがないというウソを書き連ねて、その場を
逃れたということである。

そこで一息入れたんだろうが、息をついて、何か言い逃れが利く返答がないか、
いろいろ短時間に考えたあげく、そうだ!紀ではなく記のほうにスリ替えて、
あのときの30年マシの話は古事記の干支のことですと言い訳しようと、奴の脳内
のめまぐるしく小ズルい回転の動きがこういう言い訳デマカセにて、奴の自説の
不合理を古事記にスリ替えてもみ消そうと思い立ち、知らぬ存ぜぬのとぼけを
しなくても古事記のせいにし、チャチャァーと特殊なうっちゃりを敢行してその
場をしのいだということなわけだ。bbbbbb!

37 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/06(土) 19:25:49
崇神以前について、次の三つを仮定して考えてみた。
@崇神没は258年である。
A崇神以前はすべて2倍年暦であるが、立太子時年齢には通常暦も混じっている。
B孝昭、孝安は立后・先帝埋葬時(=ほぼ即位時)の年齢が在位期間に加算された。

神武 BC52生、BC26〜AD12
綏靖 BC12生、AD13〜30
安寧 AD15生、30〜49
懿徳 28生、49〜66
孝昭 51生、66〜93
孝安 66生、93〜128
孝霊 91生、128〜166
孝元 128生、166〜194
開化 170生、194〜224
崇神 199生、224〜258

38 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/06(土) 20:01:09
暦年代     纒向編年    土器出土遺構       対応する土器型式
180年-210年  纒向1類   北溝北部下層灰粘土層    弥生X様式末
210年-250年  纒向2類   辻地区土坑2        庄内T式(庄内古式)
250年-270年  纒向3類   南溝南部黒粘土(1)下層    庄内U式(庄内新式)
270年-290年  纒向4類   辻地区土坑4下層 庄内V式  庄内新新式)布留0式
290年-350年  纒向5類   辻地区土坑4上層辻地区土坑7  布留T式

纒向遺跡における外来土器
纒向遺跡が都市的な遺跡と評される理由のひとつにヤマト以外の各地から搬入された土器がきわめて多く、また、広範囲におよんでいることが掲げられる。
外来系の土器は、纒向2類の庄内式土器出現の頃から増加しはじめ、多いのは纒向3類から纒向4類の時期、とくに西暦280年から290年ころにかけての時期がもっとも多いことがわかってきている。

崇神の子作りは、詰まった12年から、この12年は、圧縮出来ない。
それとも元年あたりの子供を自分の子としたのか?
そうなると、この12年間のブランクが説明出来ない。


39 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/06(土) 20:16:28
有史8代より 考昭
天皇、天性至孝にして、専(もは)ら皇太后に事(つかへ)まつりて、政務を事(つ)かへたまはず。

つまり幼いと表記されている。
そして、考昭の妃は、手研耳の落とし子の孫。

弥生時代の寿命は40才以下、孫の居る天皇は、孝元と景行であろう。


40 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/06(土) 20:21:47
>>38
>崇神の子作りは、詰まった12年から、この12年は、圧縮出来ない。

日本書紀卷第五 御間城入彦五十瓊殖天皇 崇神天皇
元年春正月壬午朔甲午皇太子即天皇位。尊皇后曰皇太后。
二月辛亥朔丙寅。立御間城姫爲皇后。先是。后生活目入彦五十狹茅天皇。
四十八年夏四月戊申朔丙寅。立活目尊爲皇太子。

日本書紀卷第六 活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇
天皇以御間城天皇廿九年歳次壬子春正月己亥朔。生於瑞籬宮。
廿四歳因夢祥以立爲皇太子。

垂仁天皇の誕生時期は、明らかに矛盾している。
四十八年に二十四歳で立太子か、それとも五十二年か?

41 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/06(土) 20:33:21
>>39
その史料に、三十二歳で即位したとあるのですが・・・?

>考昭の妃は、手研耳の落とし子の孫

それなら孝昭と同世代になり、不審はありません。


42 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/06(土) 20:43:13
倍年の究極は、サガミハラハラさんの説が私に近い。
これが倍年の究極でしょう。
そして暦には直せないから、数字の予測となる。
数字の予測なら、倍数にこだわる必要は無い。


43 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/06(土) 20:52:53
そう言えばサガミハラハラさん来ませんね・・・
また来てほしいものです。


44 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/06(土) 21:22:49
平安時代の翁の人形、年齢は45才
この頃の寿命は、弥生時代と同じかな?
いずれにせよ私の予測年齢は、これ以上縮めると世継ぎが出来ない数字です。

日本武尊は、16才で九州へ行き、17才から子作りにはいる。
倍数にこだわると、この年齢がでない。
景行2年日本武尊誕生、同27年16才で九州。
この間に流れた現実の時間が、日本武尊の年齢分。


45 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/06(土) 21:53:27
考昭
ホ31332      ツミヱハル ムツキツウエハ
ホ31333      コカキミエ アマツヒツギを
ホ31334      うけつぎて カヱシネアメの
ホ31335      スメラギミ カサリをがませ
ホ31336      ウツキヰカ ミウヱキサキと
ホ31337      ハハをあげ カタキワキカミ
ホ31338      ヰケココロ ミヤコうつして
ホ31339      ハツトシに イヅシココロを
ホ31340      ケクニトミ キミトシミソヒ
ホ31341      サカイヲカ ワカミヤのトキ
ホ31342      ワカハヱが ヌナギメはスケ
ホ31343      サダヒコが メのヲヲヰメは
ホ31344      ナガハシに オシテあつかふ
ホ31345      カリスケヨ ウチハベムタリ
ホ31346      シモヨタリ アヲメミソタリ
ホ31347      フソコトシ キシヱハツミカ
ホ31348      キサキたつ ヨソタリヒメの
ホ31349      トシソヰぞ ムカシヤヒコに

考昭33才即位、同29年に妃を迎える、妃の年齢15才
考昭より1,2才年下と考えています。


46 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/06(土) 21:59:00
唐松山の編年表では

開化即位の1年後が崇神の立太子でその1年後が開化崩御でそのまた
1年後が崇神の即位で、通常人の誰が見てもデタラメだと一見で直感
するほどのひどいもの。ww

安寧崩御の翌年が懿徳即位でこれはいいが、その後の2年間に孝昭立太子
でその1年後に懿徳崩御でその1年後に孝昭即位だそうだ。ww
景行崩御の翌年が成務即位でこれはいいが、その後の2年間に仲哀立太子
でその1年後に成務崩御でその1年後に仲哀即位だそうだ。

明智小五郎曰く、「小林君、いよいよ小年短帝団の出番だ。」ww

47 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/06(土) 22:08:36
>>37 愛知県民さん
神武天皇誕生は、それがしの計算ではB.C.51年を算出しています。貴殿
の神武誕生年は非常に正確と観ています。

48 :神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/02/06(土) 22:31:42
古事記・日本書紀は偽書でフィクションです。昔ぁ〜しからの戯言で今でも戯言です。

49 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/06(土) 22:44:31
半玉
妄想もいい加減にしろい。

50 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/06(土) 22:56:00
ヤマトタケルと仲哀の父子も日本書紀の年代ではつながらない。
住吉大社神代記では成務が仲哀の祖父? まだ謎は多いです。

>>47 太国さん
おや、そうですか。ありがとうございます。

>>48
>古事記・日本書紀は偽書

古事記偽書説は昔からありますが、日本書紀は序文が散逸してしまったので
偽書ということは有り得ませんが?

51 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/06(土) 23:12:09
愛知県民さん
ここが規制で書きこめないときは、規制用のドンと来い 特別編等に書き
こんでいますから、結構参考なことがありますので、そちらも読んでみて
下さい。とくにそこの>92の蟻通神社の件は、欠史八代末頃の倍年暦行使
の文証たる伝承で重要だと思いますが。読まれましたか?

52 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/07(日) 00:09:43
>>51
ttp://www.eonet.ne.jp/~hometown/ari.htm
上のサイトによると、蟻通神社由緒書を執筆されたのは芝野庄太郎氏という方らしい。
芝野氏は「紀元九十三年」をどこで見て書かれたのだろうか。
芝野氏は、後の文章から見て、明らかに「西暦93年」という意識で書かれているようだ。


53 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/07(日) 00:32:17
ttp://www.izumisano-kite.net/meisho/aritoshi.html
このサイトでは「社伝では、158年(孝元57)頃の創建」とされています。
孝元57年といえば紀元前158年、孝元天皇崩御の年で、次が開化天皇になります。

ttp://www12.plala.or.jp/HOUJI/jinja-1/newpage268.htm
ここでは「社伝では開化天皇(在位:前158〜前98年)の御世と伝わる」


54 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/07(日) 01:23:13
ttp://www.geocities.jp/kanwada35/aridoushi.htm
石碑の拡大写真を見ると、やはり芝野庄太郎氏の名前があります。
偉い人のようだから、何かの根拠はあると思うが・・・

55 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/07(日) 08:02:16
「弥生中期」「紀元」は明らかに近代的な表現ですので、
やはり芝野氏の何かの勘違いである可能性が高いように思います。
蟻通神社は各地にあり、開化天皇の世に始まったとする点は共通するようです。

56 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/07(日) 09:20:33
和歌山県伊都郡の蟻通神社
ttp://kamnavi.jp/ki/itonaga/aritoosi.htm
開化天皇の時代に勧請され、崇神天皇の時代に意富多々泥古神を神主として拝祭したと伝わる。
かっての祭神は意富多々泥古神であった。

日本書紀では崇神天皇七年(紀元前91年)に大田田根子を呼んで大物主大神を祭らせているが
その前(紀元前93年)に何かがあったのかもしれない。

57 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/07(日) 09:36:41
奈良県吉野郡の丹生川上神社の中社(主祭神・罔象女神)も昔は蟻通神社と呼ばれ、開化天皇を主祭神としていたという。
開化天皇を死後に祭神として祭ったとすれば、紀元前93年でもおかしくは無い。
調べると面白いですね。

58 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/07(日) 09:44:32
合わせるべき数字は、神社の古伝より、考古学。
今考古学は、纒向開発を2世紀末と主張。
崇神との誤差をどう処理すれば良いのか。
道は遠いですよ。


59 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/07(日) 10:33:38
>>58
今言っているのは日本書紀の見かけの年代のことです。
考古学は参考程度が良い。
また何十年か経ったら全然変わっているかもしれない。


60 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/07(日) 11:03:32
>また何十年か経ったら全然変わっているかもしれない。
これを防ぐ為に、考古学、書紀、他の書物等で場所を固定する。

成務は、近江志賀高穴穂宮
ところが朝廷が移動して長い時間此方に居たとは確認出来ない。
仲哀が白鳥を陵の池で飼う話から、仲哀即位時には、纒向付近に居たことが想定される。
これは、景行が「新宮」造営までを尾張で過ごした事と同じである。
成務は「新宮」完成を待たずに亡くなる。

もし太国3倍説の如く20年の時間があれば、近江志賀高穴穂宮にそれだけの遺跡が出なければ成らない。


61 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/07(日) 11:19:04
成務の続き
何故近江が仮宮と言えるかと言えば、景行迄は、王都の近在に御陵を築く
成務の陵墓: 狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)は大和の地である。


62 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/07(日) 11:33:44
だから景行は説明しやすい、
即位後 新宮建設のため、垂仁宮の取り壊しがあるから、その地を離れる。
最後は 自分の御陵建設を目にしたくないから、その地から離れている。
この池で仲哀は、白鳥を飼う。


63 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/07(日) 13:06:56
森浩一氏は景行天皇を「大旅行家」と表現したが、景行は九州・東国へも行っている。
そのたびに都を変えていたわけではない。
ただ、成務紀に都の記載が無いのは不思議ではある。

64 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/07(日) 14:07:46
愛知県民さん
ようお調べになりました。こちらも参考になります。ググるのがお上手ですね。
昭和64年は7日間で1年と数えてますから、紀元93年の端数字はそういう類の
ものと観てます。唐松山は昭和64年がマルマル365日あるとの主張です。そのころ
奴は外国でも行ってて、経験してないんでしょう?w

>>60
>それだけの遺跡が出なければならない
遺跡は地震噴火台風火事等の災害で焼失しやすいものであるから、出なければ
ならなくても不合理とは言えない。おまけに盗掘建築工事等でも散逸消失し
やすいものであ〜る。

65 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/07(日) 15:04:40
また週末です。
GRRR・・・

66 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/07(日) 15:44:31
>遺跡は地震噴火台風火事等の災害で焼失しやすいものであるから、

火事で、掘っ立て柱の穴やかわらけも全て消失しました、か。

ほんと太国論は笑える。


67 :日本@名無史さん:2010/02/07(日) 15:48:20
そうね。地面の様子はみな残るね。

68 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/07(日) 22:12:26
消失するね。柱の穴が残ることもあるが、全部埋めりゃぁもう全滅。
かわらけも持っていけばハイ亡くなる。

唐松山は立太子の年代を書きこむことが出来ない。それを出すと奴の編年
のボロが出るからねぇ。wwwww

69 :日本@名無史さん:2010/02/07(日) 22:17:59
そうかなあ。竪穴式住居が焼け落ちても、掘った穴に炭や枯葉が詰まるだけで、掘れば
土の層が違ってる。柱穴ももちろん普通に残る。大規模地殻変動とかでなければね。

70 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/07(日) 22:26:01
20年であろうと4年であろうと、この16年差で決められるものでは
あるまいが。4年だと出て来て20年だと出てこないなどと、ならば
4年では1/5だけ出て来るのか?ww

こんなことを言う奴の脳内は単純そのもの。

71 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/07(日) 22:37:22
>>69
だから、おおざっぱの話だよ。穴の周囲の土で埋めれば、別に
土の層は変わらないんでないの? それに日本は地震国だし、
4年だとかわらけが出て来て20年だと出てこないなどと、こんな
いいか加減なデ○パ野郎の肩と持つなよ。

72 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/07(日) 22:41:18
>>71 訂正
× 肩と
○ 肩を

唐松山は立太子の編年の表を作れない。奴がその表を作ろうと
すると、奴でも、おや?おかしい〜〜と感じるかな?ww

73 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/07(日) 22:45:42
フ〜ン?
4年だとかわらけが出なくていいという意味なのか?
そうだと20年だと出なけりゃぁならない意味らしい? その線引き
は何年だと考古で言うのか?ppp

74 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/07(日) 23:48:16
唐松山の ↓ 論

4歳は足跡がなくていい。20歳は足跡が必要である。ww
4歳人は、これは幽霊か? 唐松山よ。bbbbb

75 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/08(月) 14:36:26
>>60 >>66
マシという不正の水増しはオマエの妄想であり、断じてそんなことはない。
オマエは成務の在位がただの4年間だと主張してるが、各地の伝承等には
うんと成務5年以後のがある。この伝承等は、オマエの論が朝廷の連中が
したという ↓ 不正行為のマシ論では成立しない。唐松山論は笑える。ww

成務5年 安積国造神社 福島県 勅命により比止禰命が国造に任じられる。
成務 9年  林神社  明石市 社殿を建て少童海神を祀る。
成務11年 生石神社 兵庫県 山形県酒田市に分社をを作る。
成務12年 静原神社 京都府 この年にご鎮座。
成務13年 岩屋神社 淡路島 勅命によりご祭神を勧請する。
成務14年 与位神社 兵庫県 この年にご鎮座。
成務14年 伊和神社 兵庫県 大神からご託宣あり。
成務28年 伊曾野神社 愛媛県 天照大神を祀る。
成務30年 須佐大宮 島根県 須佐家が国造を命じられる。
成務38年 加富神社 四日市 火宮明神を奉斎する。
成務48年 大悲王院 福岡県 印度僧清賀上人千手観音を刻す。

76 :日本@名無史さん:2010/02/08(月) 18:53:33
そんな数字、後世の捏造、述作に決まってるだろうに。

77 :日本@名無史さん:2010/02/08(月) 19:21:49
述作 って何だ?

78 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/08(月) 21:53:20
>>76
利害がでかくないことで、そんな文書偽造的やばいことに手を染めて身を
危うくすることは滅多にやるわけがなかろうが。どんな利害があると
いうのか? やれば当時の役所にしょっぴかれて、獄門送りとかに
なるぞ。

79 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/10(水) 14:33:29
倉西裕子女史は2倍年暦を否定する根拠として、同暦でやって行くと、安寧天皇
が11歳のときに8歳の皇子がいたことになるから、2倍年暦は成立しない旨の
考えであったが、これは恒常的に同暦法を行使してればそのとおり不合理が
出るが、各天皇の代暦法に変動があった場合は、そういう不合理が起きない状況
が出るということを看過して他説に流れ、論説の失敗をしたということとなるの
だ。これはおおざっぱに言うと、綏の代に2倍年暦を行使してなかったと
観るのがそれがしの主張であり、神武が強行に3倍年暦を行使してたのが、次帝
の綏がおそらくは面倒不慣れだったのか、即位直前慣例要素の強い通常暦法に
戻した事情があって、年齢の計算に不合理が出なくなるのことが知れるのである。

唐松山のほうは欠史八代において紀の日数統計で、その記述の全部が1日〜14日
までに収まる内容をとことん観てはいたが、崇神以降の代の記事に少しでは
あるが15日以降の月後半の記事が観られることから、1ヶ月が月前半だけでなく
後半が存在してたと考え2倍年暦を否定したのであって、これも八代間も崇神
以後の代も全部が全部同一暦法でやっていたという前提で成立する主張なので
あり、暦法に変更があれば、ものの見事にその主張はくつがえされるという熟考
に欠けていたから、彼も暦年の編み方に失敗したということである。
八代の間は月後半がない一ヶ月が1日〜14日までの2週間の間隔で2倍年暦を
行使していたが、崇神の代以降はこの暦法を改め1ヶ月がまるまる30日ばかり
ある月後半の存在をさせながら空白月とか空白日とかを設定しての倍年暦を行う
ことが出来たということを唐松山は失念していたのである。もしくは失念では
なく、可能性は考えたろうが強行否定に方針を貫き、空白ありでの倍年暦の
可能性を無視したので失敗したという事である。それにはホツマに酔いすぎ
たカルト脳内も失敗の因に挙げられるのだ。

80 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/10(水) 20:58:39
懿徳天皇と諡(おくりな)す。安寧天皇の第二の皇子。母は、渟名底仲姫(ヌ ナソコナカツビメノ)尊、
事代主(ノ)神の孫、鴨玉(カモタマノ)命の女(むすめ)なり。綏靖天皇二十九年、戊申(つちのえさ
る)の歳にして、生(アレ) ましけり。安寧天皇十有一年癸亥(みづのとゐ)春正月壬戌(みづのえいぬの)
朔(ついたちのひ・一日)、立(たち)て皇太子となる。時き年し十六。

81 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/10(水) 21:05:07
皇太孫(スメミマゴ)、
磯城津彦玉手看尊(シギツヒコタマデミノミコト)、安寧天皇と諡(をくりな)す。
綏靖天皇の皇子(みこ)。

82 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/10(水) 21:17:02
安寧天皇の子供に
懿徳、綏靖がいる。

この読み方が、正解。


83 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/11(木) 10:13:03
書紀の解明には、二通りある。
暦が有ったか、暦は後付けかである。

暦が先に有れば、その解明と、事実を重ねる。これで歴史的事実が繋がれば、
一応その読み方は、支持される。
暦の後付けなら、600年ぐらいから、暦を逆算で被して行く必要がある、
最大のネックは、神功紀であり、ここをクリアーしないとその先の歴史に狂いが生じる。

今神功皇后は、架空の人との考えが主流と思われるが、それでは、書紀の記事と齟齬を生じる。
このまま遡上しては、正しい数字とは云えない。



84 :愛知県民:2010/02/11(木) 10:29:21
>>79
安寧天皇については、享年と立太子年齢が矛盾する。
立太子年齢で計算すれば、20歳で8歳の皇子となり、不合理は回避されると見ます。
また明後日にでも。

85 :日本@名無史さん:2010/02/11(木) 10:37:42
神功皇后の時代は、実は渡来人の王が5代ないし4代続いている。書紀編者はそれを
隠したかったようだ。

86 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/11(木) 11:32:41
>書紀編者はそれを隠したかったようだ。

違うな、允恭4年 天皇は、各豪族の系統を 盟神探湯で決めている。
これにより間違った記録も正しいとされる。このために齟齬が生じた。

ところがこの允恭にしても、23年木梨軽を太子とする、この翌年に内乱、
ここは、倭の5王のつなぎ目でもある。
允恭42年の長さは、この内乱による世継ぎを無視し、允恭一人で42年間とする。


87 :日本@名無史さん:2010/02/11(木) 11:43:28
允恭天皇は百済の武寧王と同時代の人だから五王ではない
推古天皇末年まで2倍暦として計算するとそうなる

88 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/11(木) 11:59:46
綏靖天皇 三十三年壬子(みづのえね)夏五月癸丑(みづのとうしの)朔壬申(みづのえ・二十日)、三更(さんかう)に至り、天皇、不豫(ミヤマヒ)したまふ。癸酉(みづのととりのひ・二十一日)、高丘(ノ)宮に崩す。聖寿八十四、位の在(ましま)すこと三十三年。
『三更(さんかう)に至り』この記事は、暦が無くては出来ない。

太国倍年は、この数字を無視している。
そして 綏靖、懿徳が安寧の子供であるにも拘わらず、親子とする。

たとえこの書を偽書とした処で、書紀と同じ長さで表記されている以上どちらでも
同じ長さで読めなければ成らない。
そして大成経を持ち出し、成務紀の全ての日月が埋まっていると主張、この主張は、61年を
そのまま使うか、倍年で読み替えるか?読み替えの場合、
空白日や空白月が無い事の主張と合わせると、暦日に変換できることを表す。
さて太国は、本当に成務紀を暦日で表せるか?


89 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/11(木) 13:30:00
天皇、太子、皇子共に薨ずるを考えるなら、允恭24年あたりでしょう。


90 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/11(木) 14:07:30
>>88
出所不明の文は、オマエがオマエ自身に自信がないことを物語っており、どこの
馬の骨の文かと第三者から告げ口をされても仕方ないものだ。出所の明文が
ない限り、そんな論は栄養のないクソの垂れ流しだ。

紀年は年代を決めるのが本筋であるから、月日もあったほうが論がスムーズに
行く利便さがあるのは確かだが、必ずしも月日までの暦法が必要というものでは
ない。極端な話、神武が当時の大陸のA皇帝と交流があった旨の信用おけ
る古文書が発見されたとすれば、オマエのいう暦がなくても、それで決まりだ。
暦なんかなくたって、こういう信用おける古文書が出れば、そんなものなくて
も、神武はA皇帝の時代だと判明して来る。つまり暦の月日は補助的性格のもの
であり、オマエはそっちのほうにあぐらをかいてニセ孫悟空のような手淫を盲象
の上で死ぬまでやめない素振りだから、失敗が当選確実なのだ。そういう古文書
が未発見だから、オマエは仮的にそんなつつきが言えるだけで、月日暦なんか
なくても年代の特定が出来ることはいくらでもあ〜る。

91 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/11(木) 14:18:30
どこから持って来た文かは知らないが、>積3年 とやらの文をマシの根拠と
してたようだが、そうならば干支はオマエの場合3回分なんだから、マシでない
その翌年は4回目の干支となるわけで、これではイカサマのマシだということが
分かってしまうから、政敵に公文書偽造をやったことが知れ、これをタレこまれ
れば、当然マシ挿入者は治安の役人に逮捕されるから、そんなドジ、身の上が
危うくなる行為はおいそれとはできない。できるのはマシが干支の倍数のとき
で、オマエのはそうなっていないから、干支がマシのため狂ってくるから、
オマエの主張はデタラメだということが一目超然である。オマエの言う30年にも
その文はケタが違うし、オマエの口が二枚舌であることを如実に露見させている。

電波聖人の宇宙の太陽系では日食が数日間も続くだろうが、この太陽系での地球
で観測される日食は数日間も継続はしないのだ。ww

92 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/11(木) 14:22:43
>>91 訂正
× 聖人
○ 星人

オマエは編年でのマシを言うが、マシの手前の年の干支から30年を経てあるいは
その3年とやらを経て、そのマシでない翌年はどういう干支になるのかね?ww

93 :日本@名無史さん:2010/02/11(木) 16:05:41
紀允恭の治世42年は倍暦だから、通常暦だと21年だね。記は允恭の治世18年までが通常暦、
反正以前が倍暦、紀は安康以前が倍暦、雄略以降が通常暦。
記允恭の不足3年(倍暦では6年)は記仁徳の治世93年に87+6として紛れ込んでいる。
紀仁徳の治世は87年だから、この辺りの治世年数は記紀ともに合致している。

94 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/11(木) 16:11:35
允恭の代は2倍暦を行使していたのですが、天皇の病気が悪く、新羅の良医に
観てもらってよくなったことから、新羅の通常暦をマジナイとしたのか、
いったん行使していたこの2倍暦を廃止して、允恭元年に遡って通常暦法に
してやり直ししたものと考えます。

95 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/11(木) 16:21:53
>>94 訂正
× 観て
○ 診て

允恭の時代に探湯を企てたのですが、こういう荒行を月末あたりの28日に執行
したということは28日を重視していたものであり、1ヶ月がその半分の14日間
(2週間)とかではなく1ヶ月まるまる存在したことを強調したかったための
業であると考えます。天皇が良医に治療してもらったので、允恭の在位が長い
のでしょう。

96 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/11(木) 16:55:41
>允恭天皇は百済の武寧王と同時代の人だから五王ではない

では雄略に書かれた武寧王の誕生はどうなる?


97 :日本@名無史さん:2010/02/11(木) 22:02:19
允恭天皇は武寧王誕生の直前に没している。

98 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/11(木) 22:23:44
>>97
それでは、書紀に書かれた武寧王の誕生は何故ここに記載されたか?
この思考が無くてはならない。
また 倍年の思考は、太陰暦を否定する。このへんですね。


99 :日本@名無史さん:2010/02/11(木) 22:46:55
長い歴史の中で数年前を直前と書いたが、この表現はまずかった。
ただ、允恭の崩御より武寧王の誕生の方が後であることを言いたかっただけ。
歴史の中では同時代と言えるのかも知れないが、重なっていないと言うことを。<97>


100 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/11(木) 22:52:50
マシの思考は干支の変動を妨げる。60年、120年とかのマシをやら
かすことが出来ない。つまりマシなんかやってはいない。

101 :日本@名無史さん:2010/02/11(木) 23:00:46
やらないほうがマシ?ww

102 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/11(木) 23:01:13
『日本書紀』の雄略紀によれば、高句麗に漢城を攻め落とされた時に百済は一度滅び(475年)、
その後(477年)に雄略天皇が百済王に熊津の地を賜って国を再興させたとある。

この雄略が、武寧王の誕生を間違える訳が無い。
また神功皇后より応神にかけて百済王朝が記録されている、ここを世継ぎ優先で圧縮すると
歴史が見えない。
神功元年 275年 ここなら渡海が出来る
神功52年 326年七支刀 西蕃は、遼西晋平県と考えられる。永嘉の乱の終了。
韓国の土器は、庄内式に比べ50年ほど新しい方にずれている。
肖古王は53年古い方に動かさないと、整合性がとれない。

倍暦でも良いが、歴史が見えて なんぼ ですから。
ただ倍暦は、太陰暦に変換できない。しかし太陰暦に変換せねば、書紀と齟齬をきたす。



103 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/11(木) 23:07:48
>倍暦は太陰暦に変換できない

これの ↑ 意味が抽象的であり、具体性まるでがない。

マシはその前年の干支とマシの終わった翌年の干支との適合ができない。
できるのはマシが60年とか120年とか干支の倍数でなくてはならない。

このため
マシは不可能であり、唐松山は説明を放棄せざるをえない。つまりマシは
存在せず、デタラメなのである。

104 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/11(木) 23:12:22
百済本記 肖古王
東漢桓帝延熹9年 :丙午年1月辛卯朔166年2月18日 この年肖古王即位 
東漢獻帝建安19年 :甲午年1月癸未朔214年1月29日 この年肖古王崩御
百済本記 近肖古王
東晉穆帝永和2年 :丙午年1月丙寅朔346年2月8日 この年近肖古王即位 
東晉孝武帝寧康2年 :甲戌年1月癸未朔374年1月29日 の年近肖古王崩御

書紀の肖古王
西暦273年日食、西暦275年神功元年として、
西暦301年?皇暦888年、神功28年戊申1月辛卯朔 この年肖古王即位か?
西暦329年◆皇暦915年、神功55年乙亥1月癸丑朔? この年、百濟肖古王薨。
30日の誤差で癸未朔が成立。(西暦と皇暦で1年の狂い有るかも?)

書紀に書かれた肖古王は、百済本紀の肖古王と年の干支は違うが、朔の干支は合う




105 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/11(木) 23:27:51
>マシが60年とか120年とか干支の倍数でなくてはならない。

増しは、日単位で年の数を増す。

現実の暦と『増し』の暦の2重暦が書紀の暦。
だから、一つの暦で読めても、暦の再現は一つの暦では、再現出来ない。

成務紀が全て埋まっていれば、空白は無いから、3倍暦を太陰暦に変換出来るはず。
本当に出来ますか?


106 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/11(木) 23:31:25
大きく欠ける日食は数年あたりで毎回起きているから、273年の特定には
不可能事である。奈良あたりで起きたのでもうんとある。以下は年数

154、156,158,167,168,181,210,222,247,248,273,274,302,305,316,328、
337,341,368

こんなに ↑ あるんだから、1個を取り出してこうだと言ったところで、
唐松山の恣意的選択での牽強付会の決めこみであり、電波星での太陽系
でも1個ではなかろう。wwwww つまりイカサマの主張である。

107 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/11(木) 23:40:05
>マシは日単位で年の数を増す

日が合ったって肝心の年の干支はマシの前年とマシの翌年とが離れてたん
ではイカサマはできない。日の干支は関係ない。誤魔化すなよ。

おまけに開化の即位が185年でその翌年の186年が崇神立太子でその翌年が
開化崩御だと言ってるが、本当にそうだと思うのか?wwwwwwww
えらくせばまり過ぎではないか? おかしいとは思わんのか?ppppp

108 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/11(木) 23:51:15
皇紀791年 成務天皇元年 書紀の治世 22266日 754.00月 
増し 3章で調整1日 (6940×3−1)=20819日
実際の治世1447日 49.00月 4年

対する3倍年は
22266日/3=7422日 7422 /365.25=20.32年
太陽年には変換出来ない。つまり太国倍年での表記の年数は、太陽暦では無い
7422/29.53=251.33月であり 太陰暦でも無い。





109 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/11(木) 23:59:57
そんな計算はアテにはならない。空白日空白月の存在がオマエの
計算の正確さを阻んでいるから、クソの役にも立つまいが。ww

だいたい以前オマエも認めてたではないか。それでもこんな計算を
止めないことがニセ孫悟空の盲象上でのオナニーな訳であり、いつ
まで経ってもニセ猿は止めようとしないね。ppp

美濃もん太氏もあきれて要領が悪いと酷評だ。ww

zzzzzz・・・・・

110 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/12(金) 00:00:33
>>106
日食を調べたら、それらの中で最大蝕を観測できるのは、273年の日食であり
247,248年の日食は観測も出来なかった可能性の方が大きい。

観測も出来ないような日食を集めても、記事にもならない。

記事に出来かつ完全日食に近いのは、273年である、この日食は、神功の出身地
方面では、完全日食が観測された可能性が大きい。


111 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/12(金) 00:16:21
>そんな計算はアテにはならない。空白日空白月の存在がオマエの
>計算の正確さを阻んでいるから、クソの役にも立つまいが。ww

成務紀に空白は無い、は大成経を読んだ 太国さんの主張ですよ。
3倍年で圧縮したが、まだ空白日空白月があるという主張でしたら、3倍年は間違いとなる。
いずれにせよ 倍年と太陰暦は相性が悪すぎる。

太陰暦は、倍年の類では圧縮出来ない。
また、太陰暦に倍増する数字の太陽暦も無い。


112 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/12(金) 09:41:13
>>110
詰めがひどく甘いね。重要部分がなおざりになっている。

完全欠けが10の場合、
273年のは9.46の欠けだが、168年は9.51だし247年は10.07である。しかも248年
は9.43でほぼ273年に匹敵する食分で0.03の少なさを古代人が望遠鏡もないの
に判別はできない。おまけに316年でも9.77だ。273年を上回ってるのがかよう
にある。所詮オマエの恣意的都合で273年だと言ってるだけで、観測できないなど
との詰めを抽象的言い回しとオマエの先行取捨で誤魔化してるだけのこと。
そんなものでは相手にされない。せいぜいムー民の中の低級脳所有者とカルトと
精神異常者等の想いこみが強い者らのお遊びものでしかなく、臥海では通用
しないデタラメ。ww
都合の悪い蝕は観測できないを無理にも糊塗して臭いものにはフタの言い訳で
誤魔化しているだけのこと。ww

ああそうそう158年もあった。この時は9.96だな。これも273年を上回って
いる。とりわけ273年が特筆されるべき状況はな〜い。おやおや328年は9.60で
これも273年より欠けが多い。

113 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/12(金) 09:43:32
>>111
>成務
何をぬかす?ww >>75を説明できてからモノを言え。

114 : ◆HANASJAECE :2010/02/12(金) 14:18:13
87です。
允恭天皇の時代に新羅から来た医者なんですが
古事記には「金波鎮漢紀武」という名前で登場します
「金」は姓、
「波鎮漢紀」は新羅の官位の波珍飡(微叱己知波珍干岐の波珍干岐と同じ)
「武」が名ということになります
さて問題は姓の「金」なんですが新羅の王族が実際に「金」を姓として使用し出したのは
中国の史料によると真興王(在位540-576)の時代と考えられています。
先代の法興王の姓は「募」、さらに先々代の王は金石文などでは姓を名乗っていない。
つまり、この金氏を名乗る医者が允恭天皇の治療をしたのなら真興王の時代では
ないのかという疑念が湧くわけです。
今回はこの想定で紀年の調整の手段として2倍暦を利用します。
基準年を推古天皇崩御の年628年としていますが允恭と真興王の時代を合わせる
のが目的なので持統11年697年くらいまででも問題ないでしょう

隅田八幡神社人物画像鏡は允恭天皇が即位する前に
忍坂宮にいた時、武寧王から贈られた物と解釈できるでしょう。

115 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/12(金) 14:30:24
隅田八幡鏡の「日十大王」とは、武列天皇のことだと考えます。
『日十』とは未来人への謎かけであり、ヒトと読め、「八月十日」の
文字の『十日』を逆さにして、人(ヒト)を逆さづりにした残虐性を
こっそり書きこんだものと思います。これがバレると、銘文作成者が
しょっぴかれて虐待されるから、こういうやり方で後世に伝えようと
したのだと考えています。

116 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/12(金) 15:15:12
>>111
この前訂正したように、大成経のそのことは成務ではなく崇神の勘違いだ。
こちらが間違えたから悪かったが、その後崇神のことと訂正したが、
忘れてしまったのだろう? こちらのせいだから悪いがもう一度同経の
崇神の条を読め。その書を持っていたのか?

いずれにしろ成務は経では紀と殆ど変わりがないが、>>75のように全国
に成務年代の情報がこのようにあるわけで、成務が4年で終わりには
なっていないぜ。

117 :日本@名無史さん:2010/02/12(金) 20:13:08
成務なんて架空の天皇だし、
その年代なんて後世の人間の捏造のデタラメな数字なのに、
なに言ってるのやら。

118 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/12(金) 21:22:23
成務の治世は4年間だ。
この間に屯倉経営を進める。これ以上の出来事は、起らなかった。

>>117
>年代なんて後世の人間の捏造のデタラメな数字なのに、

書記にかかれた暦には読み方が有る、この読み方を間違えたらすべてがデタラメと成る。
ここを初めから読めば、正しい読み方を掲示してある。


119 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/12(金) 21:30:59
>しかも248年は9.43でほぼ273年に匹敵する食分で

日の出前とか日の出後で248年の日食は、観測できていない。
観測できていない日食なぞ、屁の突っ張りにも為らん。

それから、日食は、神功元年のあたりに無ければ為らない、
この基本的事項を抜きに考えても何の役にも立たない。
これより数年前に完全日食が有ったと云うならそれは、思考に入るが。


120 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/12(金) 21:43:05
また その日食から約50年後に七支刀がこなければ為らない。
そしてここから、百済王朝がつながる。

神功元年が三五〇年頃では、渡海の出来る隙間が半島に存在できない。
この時代は、百済と高句麗が、領土争いを始めた頃だ。
弱小国家群では、存続できない時代に入っている。

神功にしてもここでの渡海では、軍事力が追いつかない。
勧告考古学が、百済を数字に直すと五〇年新しい方へ移動してしまう。
つまり、百済の歴史はほぼ五〇年前倒ししないと合わせられない。

これらの事実を無視した数字で歴史を考えても、書記の記事を正しく再現できない。


121 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/12(金) 22:02:03
>>117
架空なんか書けば、太安万侶、舎人親王らは今回の某議員のように、
虚偽記載の公文書偽造で当時の治安役人に逮捕される。大した利害も
当人らにないことで、そんな危ない橋を渡るわけもあるまい。オマエの
考察の先行脳の怠慢で、同罪の裏づけ捜査なんかオマエはしていまいが?
そういうことをやってそれを示してから、そういう大口をたたくんだな。

122 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/12(金) 22:07:04
>何をぬかす?ww >>75を説明できてからモノを言え。
成務治世四年目は、たぶん 書記の成務四年から61年までのすべてを含む年。

これで十分でしょ。
なにも1年から3年までを、まとめて1年と数える方が、難しい、
これでは2年ほど活躍して、残りの十ン年間何の活動もしない。

この十ン年間の方が、活動4年間よりかなり大きい、この間に神社造りだけで説明されても納得できない。

いくら怒鳴っても、太国倍年は数字を得られない。
数字を得られなければ、暦の後付も出来ない。
その元凶が、空白月や空白年なら、太国倍年には、まだ空白が存在する、との主張となり、
早く空白をすべて取除いて、それから再出発してください。

それまでは、倍年凍結がベストかと。


123 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/12(金) 22:11:53
>>118
起こってるじゃないか。>>75はオマエの妄想主張を跳ね飛ばす。
>>119
日食は数日間も観測できないんだよ。www
それが電波星、X線星のある太陽系だと、日食が数日間も続く某宇宙が
あるのだろう?www ここはその宇宙ではない。
1個の日食を否定したところで、他にまだま〜だ沢山あるんだがねぇ〜。

124 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/12(金) 22:14:36
>架空なんか書けば、太安万侶、舎人親王らは今回の某議員のように、
虚偽記載の公文書偽造で当時の治安役人に逮捕される。

では、太国は、逮捕打ち首でよろしいかな?

全員賛成したら、太国さんどうします?


125 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/12(金) 22:39:16
>>111
>太陰暦は、倍年の類では圧縮出来ない

天津金木は

 4π3**3/3=113.0973355

ここの末数355が

 29.5×12ヶ月=354日

で、355日の余り1日は閏日なのだろう?
1年365日は

 365日-354日=11日←これが右辺の先頭桁11だ。
 11日×3=33日←3年に1年閏月で左辺末の33だ。33日=30日+3日

 354日+30日=384日

で、閏月で384日のやり方だったんだろうが。
これは今年1/2に4chの「たけしの特番」で解説していたもので、天津金木
の数字とピタリだな。天津神算木こそ重要なのだ。

126 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/12(金) 22:52:35
太国3倍年説は、日本昔話も否定する。

まず、出雲神話。神無月には、全国の神々が出雲に集まる。
表記された、”月”が一定の位置に無ければ、神々の一斉集合が出来ない。
出雲が大和に取り込まれる、崇神以前の話ですから、欠史八代の時代である。

浦島太郎は、カメ(カヌー、サバニ舟)に乗り竜宮へ行く、そこで何ヶ月か過ごし、帰国
年月を訪ねると,ン十年も経過している。
これは、田道間守の常世国往復10年と表記された時空が、現実には1年未満で在った事と
同じ事象を表している。

この話は倍年と関係無いが、話だけ。因幡の白ウサギ。
白ウサギとは、シラウドこと新羅人がワニ(ワニ舟)氏をだまして、渡海した話である。
大国主は、これらの人を助ける、シラウドの住み着いたのが、吉備になる。
このウサギが丸裸になるのは、鍛冶屋やはじき製作からきている。
だから出雲と新羅の間にはかなり親密な関係がある。

太国倍年は、昔話にも否定される代物である。
そして暦は、その時代(欠史八代)には使われていた事を主張する。

倍年暦と普通暦の併用を主張しても、その変換方法さえ掲示出来ない。
計算しろ、とハッパを掛けたところで、空白月や空白日を解消出来なくて、泡プクプクぷーでお終い。
倍年では、空白月や空白日を解消出来ない。の主張は正しい。
この正しい主張の先に、太国倍年は存在しない。その倍年の存在を主張をするのは、支離滅裂で、
泡プクプクぷーが結論で、泡プクプクぷーは、太国さんの頭の中の出来事で〜…
ヤケになって赤玉放出はしたが、赤玉が歴史的事実を語る事は無くう〜…男の最後を宣言しただけ。

結論は簡単だ、今の日本書紀の干支が答えである以上、その答えが出せる計算方法が正しい。
その計算方法の正否は、歴史上の事実が被せられるか否か。二者択一。



127 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/12(金) 22:58:06
欠史八代の時代ではな〜い。その話は神武以前だな。
浦島と田道間守は関係な〜い。
オマエは電波星へUFOで旅行でもしてきたのか?ppp

128 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/13(土) 00:04:39
相変わらず主張してないことを主張したことにゴリ押ししてるようだが、
昔話を否定した覚えはなく、オマエの勝手な創作である。この野郎!

大年増の旗印を掲げるオマエは、反論が非常に抽象的で、具体的に
は言うことができない。上っ面の抗弁でこちらの信憑性を減殺させようと
やっきになっている。別にこちらはオマエの言うようなやけにはなって
いない。

マシがあるんなら一見して分かれば当時の政敵から糾弾されるので、こっ
そりとやらねばならないから、当然年の干支はマシの所において干支の
倍数、つまり60の倍数でなければならない。オマエも以前からこのことに
気づいていたんだろうが、あまりにも60年は長すぎるので半分の30年だと
か都合をつけたんだろう。それを余に30年ですと回答したが、勿論何故
なのかは具体的には説明しないでとぼけていたのだ。wwwww

またどこからか>積3年とやらの出所不明の文を持ち出して、マシの根拠
にしていたが、3年では1桁少なく、30年には遠く及ばない。30年だと
言っておいて、3年だと言ったことは非常に矛盾しており、オマエの回答
が自語相違だということを露呈している。つまりボロを出したのである。w

しかし結局30年では60年ではないから、マシ年の前年の干支とマシ年の
終わりの翌年の干支とは隣接してなければならない。さもなけりゃぁ
敵さんにも他の連中にも一発でおかしいと感づかれる。だから30年
でも3年でもマシの根拠には全くならない。つまりオマエの論は基本から
干支の倍数としない限り成立はしないのである。すなわちオマエの妄想、
デタラメなのである。www

129 :日本@名無史さん:2010/02/13(土) 09:47:22
天皇の在位グラフを見ると分かるが、アバウトだが神功元年は下限370年頃、上限420年頃、中心390年頃になる。
まず年代ありき、というのは非科学的だが、グラフを見る限り、自然な位置取りで説得力がある。これを外れると
いかなる根拠を挙げられても、手放しでは納得できない。挿入記事はどこにでも挿入できる。


130 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/13(土) 10:08:17
どんなグラフなんだろう?w

131 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/13(土) 13:53:12
>>130
歴代天皇の代数と西暦を縦横軸にとったグラフでしょう。安本美典氏がよく挙げています。
昔ほど在位が短いというが、中国の前漢・後漢代は長くなることには触れていない。

書紀では神功62(262)年に新羅が朝貢せず、葛城襲津彦に討たせたとあるが、これは書紀オリジナルの記事ではない。
百済記の「壬午(382?)年、沙至比跪(=襲津彦?)に新羅を討たせた」という記事から取ったもの。
ところが沙至比跪は美女二人を新羅から贈られて寝返り、却って加羅国を討った。
加羅は大倭に助けを求め、天皇は怒って木羅斤資を遣わし、加羅を再興したという。
これとよく似た記事が、應神14(283)年〜16(285)年にある。
新羅に妨害されて加羅に留まっている弓月の民を救うために葛城襲津彦を派遣したが、
三年経っても襲津彦が帰って来ないため、應神は木菟宿禰らを送り、弓月の民と襲津彦を連れ帰った。
これが同じ史実だとすると應神14年=382年となり、應神即位は375年頃、崩御は395年頃、
古事記の應神崩御394年にも近い。
書紀では仁徳67年から87年まで「二十余年無事」とあり、これが百済王暦との調整だとすると
古事記の仁徳崩御427年とも2倍で合うことになる。

132 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/13(土) 14:28:08
>>131
>神功62(262年)年
>壬午(382?)年

 382−262=120年

これまた120年ですな。

>應神即位は375年頃
ほぼ近いですね。倍暦計算にて376年を計上していますし、先代旧事本紀大成経
の應神4年の超新星☆の記述が120年段差で実は393年(仁徳3年)と把握して
ますから、仁徳元年(391年:倍暦計算)から一世代分の25年を引いた

 391−25=366年
           (375−366=9年差)

あたりに應神元年が来て然りですから、375年は大分真に近い年代と観て確実だと
考えます。それがしの場合は391年から15年差で376年を真と観ております。

133 :日本@名無史さん:2010/02/13(土) 15:12:59
  日本書紀
金正日総書記

134 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/13(土) 16:30:56
>>58
>合わせるべき数字は・・・考古学

オマエは、去年5月の千葉県の歴博班の箸墓鑑定基準値値から50年もガタガタに
外れて全然合わない。ww これなど余が出している神社の由緒等よりもえらく
大はずれだぞ。ppp

>>122
>成務時世・・・・・残りの十ン年間何の活動もしない
十ン年間は3倍暦では3年余〜6年間位と短いし、在位年代も末は天皇は老齢で
死期が間近だから無活動なのは当たり前で、別におかしくはな〜い。

135 :日本@名無史さん:2010/02/13(土) 16:52:11
グラフで見ると、応神元年はギリギリ下限あたり、仁徳元年は下限より少し
下だが、許せる範囲。


136 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/13(土) 16:56:18
箸墓は、景行の墓稜、
仲哀が白鳥を飼ったのが、この「稜域の池」
この20年ほど前に、ホケノ山古墳ガ造られる、こちらは垂仁稜で
巻向遺跡の大型建物跡は、垂仁珠城宮。




137 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/13(土) 17:16:53
書紀の神功皇后紀は、魏・晋・百済史書の引用を除くと@仲哀9年〜神功13年A神功46〜52年
この二つに分裂しています。
47年に新羅使が来たとき、神功・應神は「先王所望國人今來朝之」と喜んでいる。
微叱己知波珍干岐のことは忘れているのか?
微叱己知=未斯欣は神功と時代が合わず、記載場所の誤りと考えられる。
@Aは同じ時代で、神功3年に立太子した應神は13年に成人し、即位したのではないか。
通常暦なら神功摂政363〜375で古事記と合うが・・・


138 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/13(土) 19:29:41
日本書紀巻二九天武天皇十三年(六八四)十一月庚午廿三
庚午。日沒時。星隕東方。大如瓮。逮于戌。天文悉亂。以星隕如雨。
書紀では最も古い流星雨の記録だが、「水鏡」にはさらに古い記録がある。
「垂仁天皇十五年の八月に、星の雨の如く降りしをこそ見侍りしか、あさましかりし事に侍り」
晋書武帝紀(田中愛子氏訳)
ttp://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2004/040514.html
太康七年(286)春正月甲寅朔、日蝕があった。乙卯、詔して言った。「毎年、災難や変事がしばしば発生しており、日蝕が三日間あり、地震や山崩れが起きた。
国の災禍の原因は、まことに朕の身にある。公卿大臣は各々封事を奉り、その原因を存分に述べよ。憚ってはならない」。
太康九年(288)秋八月壬子、星が雨のように落ちた。詔して、郡や国の懲役五年以下の者について審判を下し、諸獄に残る者を無くした。

どうなんだろう・・・?

139 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/13(土) 21:10:19
ttp://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/s_butei.html
こちらの訳では
七年春正月甲寅朔,日有蝕之(日蝕が有った).乙卯,詔に曰く:「年に比して災異が屢發し,日蝕が三たび朝し,地震あって山崩れた.
邦之不臧なるは,実に朕が躬に在る.公卿大臣は各々封事を上げ,其の故を極言するように,諱む所を有すること勿れ.」
九年秋八月壬子,星の隕<ふ>ること雨の如くであった.詔を郡國にくだして五歳刑以下は決遣し,庶を獄に留めること無いようにとした.

140 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/13(土) 22:05:23
>神功3年に立太子した應神は13年に成人し、即位したのではないか。
可能性はある、しかし仁徳が生れたのは、応神が太子中でもある。

これらのことから、まだ世継の再現は出来ていないが、
百済と合わせるためには、圧縮は出来ない。
やはり、允恭4年の盟神探湯の影響は、大きい。


141 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/13(土) 22:07:46
>>138
垂仁の代の流星群の話は、斉藤国治先生も「星の古記録」で解説して
ましたね。いずれ役に立てばいいがと思っていましたが、例の超新星☆
ではこの書がえらく役立ちましたよ。

142 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/13(土) 22:31:23
>>138 >>139
288年は垂仁29年(紀の垂仁85〜87年)ですから、垂仁十五年のでは
ないようですが?

143 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/13(土) 22:41:34
崇神崩御(259年:倍暦計算)を垂仁元年の取り方でやりますと垂仁29年は
垂仁30年となりますから垂仁十五年の2倍の年数にはなりますが・・・。、

144 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/13(土) 22:55:19
>>135
安本さんの論のグラフからならば、要警戒ですね。あの先生は
唐松山ほど妄想はひどく多くはないが、ある程度の妄想家ですよ。

>>136
池田仁三氏の箸墓の埋葬者と合うのか? どうせウラはとって
いまいが? オマエはウラをとことん取らないで、こうだと結論を
いつも先行するから盲象ばかりの脳になるのだ。www
つまり結果をいつもうっちゃりばかり繰り返すに事を終始する。

145 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/13(土) 23:18:30
泰始四年(268)秋七月、太山で岩が崩れた。星が多数西に流れた。
こちらも考えられる?
しかし日本書紀には無い記録なので、深入りはやめておきます。
書紀では垂仁は15年8月に日葉酢媛を立后し、三人の妹を妃とし、竹野媛を追い返す。
竹野媛は自ら死にますが、流星雨は涙雨だったかもしれませんw

146 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/13(土) 23:24:02
268年ですと、それがしの倍暦計算では垂仁9年ですね。

147 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/13(土) 23:30:15
考古学で240年頃築造とされるホケノ山古墳には、半島式墳墓もある。
これは、タジマモリの殉葬と考えられる。
この次に造られた大型古墳が、箸墓になる。景行しか居ない。
そして、白鳥を飼える池なら、この2重壕の内側が最適。

太国さんは楽だよ、何しろ歴史に全く数字を合わせていないから、
太国編年の思考と数字は、すべてを否定する事が出来る。
ただし、全く歴史を考えられない思考でもある。
だから、否定はしても、その思考の歴史を語ったことが無い。


148 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/13(土) 23:44:18
歴史に合わせていないのはオマエだよ。
梁書の499年も乙祁(顯宗)即位と倍暦計算が合致するし、佛伝
が552年と538年の両説の年代差14年もこれで解決できる。オマエの
だと499年には乙祁(顯宗はこの世におらず、死んでいる。ww
倍暦での14年差が出来てるのを倍暦を否定してるから、オマエのは
歴史と数字が合わない。こういうふうに批判は具体的に指摘
するのが正規なんだよ。ww それを120年±凾年の段差が
あって揺れている武寧王古文献がどうのこうのなんぞ、薮蛇の軽率
半島行き行動で、妄想説を脳内で溜める浅薄さがオマエな
わけ。ww

最大食分の日食なんて、274年とかでなく他にあることも数字で
オマエに書きこんだわけで、オマエのは牽強付会で274年にゴリ押し
してるだけの強行先行の恣意的デタラメ。ww
マシも60年づつオマエはやってないので、これもデタラメの
イカサマなわけだ。

zzzzzzz・・・・・・・・

149 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/13(土) 23:56:53
今の箸墓がももそ姫の古墳なら、それに先行する石塚古墳等が存在するわけだが、
これらの古墳を開化以前としなければ、合わない。
で有るならば、開化の墳墓は、それを上回る規模でなくては成らない。
現実には、確認されていない。
開化天皇陵は、それ以前の旧態然である。

ここを切抜けられるか?


150 :日本@名無史さん:2010/02/14(日) 00:35:07
戦前って神武〜が正統な天皇の血筋だとしたら
邪馬台国ってただの地方政権であまり重要視されなかった?
時代的には3世紀で天皇とは敵対する勢力になってしまうわけだし

151 :日本@名無史さん:2010/02/14(日) 09:07:59
>>144

安本さんの都合のいい平均在位年数のグラフではないよ。
平均せず、加工もせず、一人づつ、生の数字をプロットして繋いでみて。
凸凹しているが、ズームアップして見ると、左下がりのラインが見えてくる。
履中・反正あたりまでは緩やかな傾斜でたどってくるが、それより前は、
断崖絶壁とは言いすぎだが、急傾斜になり、とても自然とは思えない。
要警戒かも知れないが、うんと外れると、外れた方も要警戒。<129>


152 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/14(日) 11:33:51
>履中・反正あたりまでは緩やかな傾斜でたどってくるが、

これは、世継ぎで歴史の長さを想定したことになる、もし世継ぎに異常があれば、
潰える説の一つでしか無い。
この説を、正しいとするためには、歴史に固定しなければ、浮き草同様。
50年前の考古学と、今の考古学は、数字が違う。しかし、倭人伝を考えるとき、大半が崇神で考えている。
浮き草と同じに崇神も流れなくては、考古学と合わない。


153 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/14(日) 12:06:34
成務天皇の后妃について、書紀は何も書かず、男の子はいないとだけ書かれている。
一方、古事記で成務天皇は「穗積臣等之祖、建忍山垂根之女、名弟財郎女」を娶り和訶奴氣王を生んだとある。
書紀では日本武尊が「穗積氏忍山宿禰之女」弟橘媛を娶り稚武彦王を生む。
古事記では弟橘媛の出自は書かれていない。
他にも明白な矛盾が多い。
書紀の年代・・・成務48年に仲哀が31歳で立太子したと書いている。
古事記の系譜・・・景行は倭建命の曾孫・訶具漏比賣を娶って大枝王を生む。
神功以後、書紀編者は百済・魏・晋との時代合わせに相当苦労した跡が分かるが、
ヤマトタケル周辺は古事記も含め、国内だけでも収拾がつかなかった。
完全な作為なら、こうはならないだろう。


154 :日本@名無史さん:2010/02/14(日) 12:32:09
崇神を倭人伝とすると、そこはグレーゾーンかレッドゾーン。
崇神はもっと後の時代だとうなずける。


155 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/14(日) 12:36:21
忍熊王知被欺。謂倉見別。五十狹茅宿禰曰。

忍熊王が、殺されたとき、後見人?である五十狭茅宿禰も欺かれた事を自覚した。
五十狭茅宿禰は、成務と同じ年代であり、忍熊王には、まだ子供は居ない。

成務時代を長く取ると、この辺で齟齬が生じる。


156 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/14(日) 12:44:06
>>154 >崇神はもっと後の時代だとうなずける。

今の考古学は、纒向の開発を2世紀末とする。
崇神をここに合わせない場合、開化の墳墓は、前方後円墳となる。確認出来ない。


157 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/14(日) 13:04:53
成務には男子もいたが、早死にしている、そこで娘婿を取って後を継がせる。
子供はこの2名しか確認出来ない。通常ならその他の妾にも子供が有ってしかるべきであろう。
成務に子種が無いわけでもない。こちらからも、早死にを想定出来る。


158 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/14(日) 13:38:37
編年で思考しなければならない項目に実子がある。
綏靖の子供として、安寧、懿徳を書紀では確認出来ない。
同様に、垂仁の子供として、ホムツワケがいる、これは、崇神の忘れ形見である。
この様な、見かけ上の子供が、崇神にも登場する。

だから、忍熊王等もこの思考の内にある。元年、2年生まれはには、この辺に注意を払わないと
圧縮不良となり、歴史が長くなりすぎる原因になる。


159 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/14(日) 13:46:25
単純に考えると、成務の在位は仲哀の享年を上回ることは無い。
仲哀の享年は書紀・古事記とも52歳。
「朕未逮于弱冠。而父王既崩之」という仲哀の言葉(弱冠は20歳)からは更に短そうである。
しかし書紀や各地の神社は成務の在位を長いとするのは何故か?


160 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/14(日) 14:03:23
>各地の神社は成務在位を長いとする
長いということはそのとおり、紀の言う通りの在位があったということですよ。
毎回言ってますが、紀の原書は多大にあったろう。そうなるとどれもこれも
殆どが成務紀の記述の在位の数字だったということです。重要なるひっくり返す
べき在位年数の原書があったんなら、ある文には在位年数はこうなってますとの
異説の掲げて後代に残すはずでしょう。そういう異説が真の可能性を有するなら
ば、その掲載を止めると、もう未来に渡り真の年代が隠没の危機にさらされ
るから、当然そういうのがあれば紀に書きこむはずです。

かように全国各地に成務の年代の伝承等があって、二桁年代も結構あるわけ
だから、成務が4年で終わりとする論は暴論であって、自説が正しいかの多角的
調査、ウラ取りを怠って結論を先行強行して急いだ者の大妄想ですな。

161 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/14(日) 14:23:55
>>160 続き
ところがそれだけ在位年代があって超長寿の寿命の記載ということは、どこかに
これを合理的に説明できうるモノ、説があるはずで、現代の大抵の連中はこれを
デタラメ、伝説の類で片付けるのが殆どでしょう? そこから進展して記紀を
偽書扱いにまで低落させて、それで終わりとしちゃうのが彼等の考えなわけ
です。しかし一部の者らはそこに何らかの真があると観て、論説を立てるわけ
で、唐松山の場合は後者の場合に含まれながら前者の連中の範疇にも入る論だと
観ています。マシとはでたらめ年を水増し、拡張させて出来てると彼は観てるん
だから、年代に関して紀は真を含みながら、年代の捏造を繰り返しているとの
考えに立脚した説をとってますので・・・。

そこで成務の代からの考察ではあるいは考察でも、全国各地の伝承、神社由緒が
二桁年を主張してますので、編纂当時にマシというでたらめ挿入を舎人親王らが
不正注入したのなら、これがかような神社等に多大に二桁年代で分散されて存在
するわけがなく、仮に編者らがやったと言い張るなら、当然そういう不正伝承を
全国各地の神社等にバラマキをやって、公文書偽造の教唆を朝廷の役人を全国
至る所に派遣して、それもバレないように口封じもしなくてはならず、それには
莫大な金額食糧多数の連れをひきつれて行脚を長年月やる行動をせねばならぬ
はずです。しかし朝廷は成務の年数の不正マシをやるために、こんな無駄な出費
と労力をかけてやるほどヒマではないでしょう。すなわち唐松山の論はとても
じゃないが朝廷がやるべきものではありえず、利害の動機もないでしょう・・・?

162 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/14(日) 14:43:34
今回の場合は成務の在位を事例として論を張ってますが、とにかく在位年数が
全国各地の伝承等から二桁年代が確認できるということは、成務の当時実際に
その二桁在位年代があったと観るべきで〜原書の多数あったと考えで、これ
を満たして成務天皇等の超長寿を合理的に説明できるものは何かと考えたとき、
倍年暦であれば在位年数が実際そのとおりあったことは現実には1/2,1/3の年数
なのだから不合理にはならず、超長寿の数字も同様にこれら分数に減少して
一般人と変わらぬ寿命の数字になるわけだから、合理性はマスマス高まります。

また外国に眼をやっても、古代アステカ、マヤ文明でも祭祀暦で各1.4倍暦を
行使しておりましたし南バビロニアでも2倍暦の行使があり、また熱帯ですか〜
パラオでも2倍暦をやっていたということで、古田先生も現地へ行き、証拠写真
まで撮って来てるということです。

163 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/14(日) 14:50:04
>>160
ただ、成務の在位が正しいとすると、仲哀の年齢と合わなくなる点がひっかかります。
仲哀はヤマトタケルの死から35年後に生まれたことになりますから。
この点はどうお考えでしょう?

164 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/14(日) 15:15:54
ではまた。GRRR・・・

165 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/14(日) 15:55:19
>>163
それは紀年では最も難しいものかも知れません? 勘注系図から克明に説明
する方法がありますが、えらく手間をとり説明が長くなりますので、なるべく
簡単に書きこみますが、仲哀当時は成務の3倍暦を廃して通常暦に戻して
いることで、仲哀在位を3倍暦で側面的計算をしたとすれば寿命が十数年段差が
出ます。まずこのことを念頭に置いて考えることです。

ところが成務の前の景行の代ではいずれの暦法(実は補助的側面的には各暦並行
使用)でもなく、2倍年暦を行使してたということを、その前提として把握して
ないとこの謎は解けません。景行の2倍暦の根拠として同妃が21ヶ月間妊娠して
いた記載がホツマにあり、2倍で

 十日十日×2≠20月20日≒21ヶ月

2倍年暦を行使していたという文証です。だいたい武内宿禰の生存の代は3倍暦
でないと不合理であり、その間例外なのが景行と仲哀の代なのです。景行は日本
武尊の寿命が3倍暦では10歳余位で尽きますからこれはありえず、在位の長さと
見計らって2倍暦だという判断が合理的なのです。説明が長くなりますので仲哀
は簡単にしますが在位が短いのでここは等倍暦でもそんなに武内大臣の寿命が
著しく長くならないから、不合理にはならないのです。

蟻通神社の伝説の通糸巻貝とは開化の代が巻向の景行に相当する謎で、双方とも
2倍年暦をやってたと言いたい伝説なのですよ。開化も景行も2倍暦であり、
その前後の代の孝元崇神と垂仁成務はともに3倍暦を行使していたということ
が、かの開化紀元93年から読み取れるということです。

言いたいことは仲哀は側面計算の暦が成務の3倍だけでなく、景行の代に生存
していた事で景行の2倍暦もあり、仲哀でもこういう側面2倍暦計算もあったと
いうことです。仲哀はほぼ全部の資料が52歳の寿命となってますね。  〜続く

166 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/14(日) 16:34:03
>>163 >>165 続き
そういうことで日本武尊の死から35年後(148年誕生)に生まれたという不合理
といことは、こういう等倍に並行して2倍、3倍の倍年暦行使のために動いて
しまったことからのものです。倍暦計算から日本武尊は298年(皇紀742年)誕生
であり、その死亡は314年(皇紀773年)を得ています。

そうしますと尊の寿命は 314−298+1=17歳 であって、彼には20歳代は
ありません。尊の九州とか蝦夷の遠征は彼の取り巻きが補助していたので
しょう。その力によってそういう手柄が出来たということです。それに彼の別名
は日本童男ですから、少年で終ったということに不合理はない御名です。

だから尊は若少のころに子供を作ったということです。そうなりますと死亡の
2〜3年手前で皇子の仲哀が出来たということになりますから、まず298〜314年
でも死亡年に近い312年(皇紀769〜770年)が仲哀の誕生年だということに
なります。こうなりまして仲哀崩御は倍暦計算で352年であり、その寿は

 352−312+1=41歳

を計算できます。
仲哀崩御(352年:倍暦計算)から仲哀即位(344年:同)のところを2倍暦の
ため2倍計算ですと

 352−344+1=9歳

 41+9=50歳

で、52歳に2年違いますね?2年は何らかの原因があるのでしょう?

167 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/14(日) 16:36:12
>>165 訂正
× 2倍暦のため2倍計算
○ 等倍暦のため2倍計算

168 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/14(日) 21:45:32
後漢書 3313
庶徵之恆寒。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。[一]袁山松書曰:「時帝流遷失政。」養奮對策曰:「當溫而寒,刑罰慘也。」

この記事は、新羅本紀192年の記事と同等と思われる。
1年の違いは、2年連続の冷夏の為か?




169 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/14(日) 21:57:41
>>166 >>167 から
それではこの2年は何なのか?
これは蟻通神社の3/2の紀元93年のことと同様であり、開化在位60年の手前
と崇神即位年の1/13前日まで(1/1〜1/12)とを1年づつ計2年文、開化の
在位年の両端年の2年分を追加したのと同方法であり、仲哀の在位年に
両端年の2年を追加して計算してた者がいたのだということですよ。

ここから

 50+2=52年

が得られますね。

170 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/14(日) 22:02:14
>>167での>>165は→>>166です。
また>>169の 計2年文 は 計2年分 の誤りです。謹んで訂正します。

171 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/15(月) 14:39:03
>>165
蟻通神社の 開化紀元193年 に関しての巻貝と糸通しの伝承は、大陸の皇帝に
日本が乗っ取られる防衛の難題ナゾ解きの工夫、良法として、蟻に糸を取り付け
て蜜を求めさせて、巻貝の中を底から天辺の穴へと通過させてその穴から蟻を
上部外方へ出させる方法で巻貝の中に糸を通すことができるという説話であり、
巻貝の底は孝元崩御年を示唆し、巻貝の天井の穴をば崇神の即位元年と為し、
巻貝をくぐる巻貝の中の通路は開化の年代の示唆だということです。

巻貝とは巻向(纏向)を遠回しに示唆しており、上述の巻貝の底は垂仁崩御年を
同天井は成務即位元年を、また巻貝の中の糸通しの通路は巻向景行の代を開化に
合わせて示唆したものであり、これは開化と景行が同倍暦(この場合は2倍暦)
だということを強調したかったために巻貝のたとえで開化で景行を示唆したもの
であって、同様に孝元と垂仁及び崇神と成務が同倍暦(この場合は全て3倍暦)
だということをも示唆したものと観ます。

そこで成務の宮名を「高穴穂宮」というのも、穴は巻貝の蟻を通す「穴」で、
「高」は巻貝の天井のことで「穂」は穂先で、蟻が底から天井へ歩む進路を
ベクトル的穂先の意味で教示していますから、蟻が巻貝を通過する天井の穴を
示唆した宮名だということです。

172 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/15(月) 18:17:03
>>165 訂正
× 十月十日×2≠20月20日≒21ヶ月
○ 十月十日×2=20月20日≒21ヶ月

173 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/15(月) 18:48:25
十月十日×2=20月20日≒21ヶ月 の説明

ホ38014 ハリマのイナヒ オイラツメ ウチメのときに コゾウヅキ はらみてうまず
フソヒツキ へてシハスモチ ウスはたに モチハナなして フタゴうむ ヱのナモチヒト
オウスミコ トのナハナヒコ ヲウスミコ 

コゾウヅキ(垂仁90年六月)、そこからフソヒツキ(21ヶ月)後の十二月に小碓兄弟が生まれる。

この21ヶ月を通常年では、十月十日であると説明したいようだ。そこで太国編年は、
731辛未  293癸丑  景行即位
742壬午  298戊午  日本武尊誕生
744甲申  299己未  成務誕生 武内宿禰誕生

この様に 西暦に当てはめると、景行11年になると申して居ります。


174 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/15(月) 18:53:24
訂正 
× 西暦に当てはめると、景行11年になると申して居ります。
○ 西暦に当てはめると、景行12年になると申して居ります。

175 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/15(月) 22:12:04
日食なんて、当時ザラにあった。それも274年とかの日食と同じ位のなんか
うんとあってそれ以上の食分のもけっこうあることから、そんな年を
大々的に誇張したって、それが神功紀に接着するおツムがアマいという
ことだ。ww おまけに日食が地球では数日間も続くわけがないのに、
ことさら日食に牽強付会しても、臥海では通らぬのが明確であり、皆に
嘲笑されるのが目に見えるようだぜ。pppwww

まぁ電波星とかX線星とかのある太陽系では、これはそういう日食が数日間
も続く所が、宇宙は広いからあるんだろう?www 電波星人ならば、
なるほどだと言ってくれる奴が出てくるのは言えることだな。www

176 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/15(月) 22:40:11
>それ以上の食分のもけっこうあることから、

食分が幾らあっても、現実に観測できなければ、無いも同然。

日本武尊の誕生を後ろにずらさないと、成務、仲哀に齟齬が生じる。
だから後ろにずらす。

本末転倒という。


177 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/15(月) 22:51:36
観測できなかった根拠なんかあるまいが。274年のも観測できない可能性
は、ほかの年の各日食といずれもどっこいだよ。www

つまり274年の日食が特筆されるものでは全くない。オマエが恣意的に
こうだと強引に決め付けただけの盲象だ。www

178 :日本@名無史さん:2010/02/16(火) 10:35:05
えーと、はたから見てて思ったんですが
天文現象、特に日食など太陽系の公転周期に関連する現象なら
「天文・気象板」あたりには詳しい人いると思うんですが。
いまどきこれだけコンピュータが発達した時代なら
時間毎の太陽系内天体の座標を計算するソフトも世間に出回ってるはずですし。

179 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/16(火) 11:45:06
>>178
だから詳しくはお互いに観てないだろうが、かいつまんではいずれもそういう
サイトは見てる。それを唐松山は特筆でない日食を、さも古代史しておおげさに
宣伝して誇張しているもので、よ〜く調べればあいつの言う事がデマカセだと
いう事が知れて来る。全部ではないがそれらを除いて、どの日食もだいたい
五十歩百歩のどんぐりの背比べで、なにも274年が突出しているものではない。

た〜だ、274年だと強行想いこんでるだけで、そこには奴に騙されないように
調べてみると、あいつの牽強付会の盲象だということが知れて来る。なんの根拠
もないと観てよく、それを扇ぎたてていかにも根拠がありそうな口ぶりで学術的
に見せかけてるだけのもので、そこには妄想の景行絶対のカルト脳の行動が
伺い見えるだけのこと。原田さんが景行ホツマ・カルトを去年の歴史読本8月号
で批判し、その強行盲動的確信行為を嘆いている。これは唐松山を言ったもの
だと思っている。

180 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/16(火) 12:02:28
それだけ唐松山は卑弥呼年代が景行でなけらばならないという絶対的確信を持っ
ており、ここから神功初年ころの紀の記載を日食とせねばならないとのこれも
絶対的確信を長いホツマ研究から醸成してる強行な信念であり、これが合えば
凄いだろうが、現実的しらべればいくらでも資料と奴の説が合致せず、ところ
どころに不合理のシッポを見せている妄想信念だということが発覚している。

奴は編年において記紀を研究してるわけだが、それ以上のホツマを長年の信奉
から絶対視の脳となり、それに上の確信から強固の景行ご本尊を信じ仰ぐものと
なったのであって、そこには編年において、神武とか卑弥呼がどの年代だろうか
との考察から編年調べをやって行ってはおらず、当初から卑弥呼年代は景行
だとの盲象を先行させたために、こういう論の凝り固まりになった哀れな研究人
だといことである。カルト・ホツマ超重視しているから、科学的検査結果をも
否定しカルト優先となり、それが妄想の脳内に占拠させてしまっているわけで、
もう治療は極めて超困難な人物だということなのである。

181 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/16(火) 18:17:22
>>178 さん及び
>唐松山は特筆でない日食を、さも古代史しておおげさに

特筆すべき日食の筆頭が、273年であり、北陸地方では、完全蝕が見られた事を
計算値も認めている。
この記事を撹乱させる為に、248年とか、観測されなかった日食まで持ち出して
いるんですよ。

>神武とか卑弥呼がどの年代だろうかとの考察から編年調べをやって行ってはおらず、

太国さんはえらい。我が身も犠牲にして”赤玉”で編年の正しさを証明するんだから。


182 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/16(火) 18:27:16
>>181
じゃぁ観測されなかったかされたかを具体的に各日食を表にして示してごらん?
いずれが攪乱してるか分かるだろうが。ww

183 :日本@名無史さん:2010/02/16(火) 20:54:35
341年の日食の芽はどうかなあ。書紀のとおり2月に起こってるし。
グラフからみると、フェアウェイキープではないが、何とか左ラフに入っている。
273年だと、左OBで不自然だけどなあ。


184 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/16(火) 21:37:05
>>183
書紀に日食の記事は推古(推古36年3/2)の世になるまでないよ。

185 :日本@名無史さん:2010/02/16(火) 21:39:08
「常夜行く」の記事が2月ってこと。

186 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/16(火) 21:41:09
ああそうかね? 「2月に常世行く」旨の記事があったのか? えらい
詳しいね。

187 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/16(火) 21:58:21
>>185
実際の日食記事はグレゴリウス暦とかの2月で、紀の2月と言っ
たって旧暦だから、合わないんでないの? 君は唐松山なのか?」


188 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/16(火) 22:06:55
341年の日食も思考の範囲内になるが、
この時代は、百済と高句麗が領土争いを始める頃になる。
そうすると、初めて渡海する隙間を作らねば成らないが、東夷は、永嘉の乱に従軍し
軍事力が付いているはず。半島に渡海の空白を作るのも容易では無い。

274年は、幽州を分けて平州を置いた年、ここなら、倭軍派兵を要請されたなら、渡海でき
百済、新羅もそれに従う、東夷校尉の下に倭軍は置かれ、伊都の1大率の如く、半島で警察行為に付く
323年、神功49年南朝は、王朝の交代をもって、洛陽帰還をあきらめる。
これにより北方に残された晋国の領地は空白と成る。ここを倭、百済混成軍は、領有、百済に賜る。
翌年半島南部の再編成、326年に七支刀と、神功が歴史の事実となる。


189 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/16(火) 22:16:39
>渡海でき
渡海できても、崇神5,6年の百姓千人は空腹で船舶操縦経験も
ないから、殆ど渡海できない。つまり妄想の果て。崇神17年始めて
畿内に船舶が出来る。崇神17年の前は、畿内人間は渡海不可能。

190 :日本@名無史さん:2010/02/16(火) 23:12:35
>187
グレゴリオ暦で341年3月4日、旧暦で2月朔日。


191 :日本@名無史さん:2010/02/16(火) 23:14:57
>190
グレゴリオ暦でなく、それまでのユリウス暦?のこと。

192 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/16(火) 23:30:10
341年といったら、成務崩御の前年(倍暦計算)だぞ。
夜も更けてきたから、明日以降に・・・。zzzzz・・・・・

193 :日本@名無史さん:2010/02/16(火) 23:37:48
確かに274+52=326と七支刀になるが、七支刀はやはり369年
であって欲しい。


194 :日本@名無史さん:2010/02/16(火) 23:46:12
>341年といったら、成務崩御の前年
フェアウェイぎりぎりかな、ラフかなってとこ。

195 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/17(水) 10:13:11
>>194
唐松山の編年表を細かく批評してやってくれ。w
表がわからなけりゃぁ、あいつが答えねばこちらが変わりに書きこんでもいい。

196 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/17(水) 19:12:47
7支刀 神功52年=326年
@ 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
A 泰和四年五月十六日丙午正陽、百練の鉄の七支刀を造る。
B 泰和四年は東晋の大和四年と解釈され、西暦369年のこととされる。
泰和四年五月十六日丙午は存在しないから、吉祥句として、説明される。
吉祥句からでは「16日」を彫り込んだ説明が出来ない。
東晉明帝太寧4年:丙戌 西元326年2月19日。1月壬辰朔
で5月庚寅朔が得られ、この数字は、現在の計算値で確認できる。
5月庚寅朔とすると、17日丙午となり、1日遅れる。
この1日の遅れ、晋書の確認は後で述べる。
307年 永嘉 (晋書) 1月朔  (資治通鑑) 1月癸丑( 2日) 
資治通鑑により、326年は307年より丁度19年(1章)後であり、計算値より1日の遅れを容認する。
太寧4年に5月が無い説明は、7支刀に象眼が彫られたのが百済であり、改元を認識出来
なかったとすれば、説明が付く。帯方群から洛陽往復が6ヶ月なら、
百済から南朝往復はさらに時間がかかる。まだ安定していない時代。

5月16日丙午
晉書卷五 帝紀第五   孝懷帝
...116...
永嘉元年春正月癸丑朔,[一]正月癸丑朔 正月壬子朔,非癸丑。大赦,改元,除三族刑。以太傅、東海王越輔政,殺御史中丞諸葛玟。
125
七年春正月,劉聰大會,使帝著青衣行酒。侍中庾a號哭,聰惡之。
丁未,帝遇弒,[二八]丁未帝遇弒 校文:御覽一九0(按當作一一九)引前趙錄作「二月丁未」,通鑑同。按:正月丁丑朔,丁未宜在二月。崩于平陽,時年三十。

もし永嘉元年春正月癸丑朔が許されるなら、永嘉七年春正月丙午朔30日丁未も成立する可能性がある。
乱の時代でもあり正しい朔が地方まで伝わらなかったのか?間違った計算書を使ったか?
都での記録でさえこの有様だから、地方に於いては…
まあ丁度19年後であり1日の誤差だけでは、完全否定出来ない。



197 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/17(水) 19:14:16
私が百済本記を編年に使わないわけ。
百済本記には、肖古王が2名登場する、そして数字を無視しても、書紀の肖古王とは記事が合わない。
そこで肖古王を調べたのが下記の数字です

百済本記 肖古王
東漢桓帝延熹9年 :丙午年1月辛卯朔166年2月18日 この年肖古王即位 
東漢獻帝建安19年 :甲午年1月癸未朔214年1月29日 この年肖古王崩御
百済本記 近肖古王
東晉穆帝永和2年 :丙午年1月丙寅朔346年2月8日 この年近肖古王即位 
東晉孝武帝寧康2年 :甲戌年1月癸未朔374年1月29日 の年近肖古王崩御

書紀の肖古王
西暦273年日食、西暦275年神功元年として、
西暦301年?皇暦888年、神功28年戊申1月辛卯朔 この年肖古王即位か?
西暦329年◆皇暦915年、神功55年乙亥1月癸丑朔? この年、百濟肖古王薨。
30日の誤差で癸未朔が成立

百済本記 肖古王即位年の1月朔と書紀肖古王即位年の1月朔は同じである。
百済本記肖古王崩御年の1月朔は、百済本記近肖古王崩御年の1月朔は同じである。
この事実から、書紀の干支で書かれた百済記があり、それが3国誌に使われた可能性を
否定出来ない。


198 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/17(水) 19:31:15
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/kouko24tyuukinendaikextutei.html#5

 須恵器とは、中期のある段階になって朝鮮半島から日本列島へ入ってきた土器です(註7)。なので、須恵器の源流である朝鮮半島の土器研究を行なうことが、日本列島での須恵器の初現年代を定めるポイントとされてきました。
 しかし白石氏によると、朝鮮半島の当時の年代観自体が諸説あって定説がない状況なので、朝鮮半島との比較からでは、日本列島の絶対年代を定めることは難しいと指摘しています。

何故、韓国は、時代設定が出来ないのか?
百済本紀が間違っているからです。だから、新羅、伽耶土器の編年は有るが、百済土器の編年を目にする事が無い。


199 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/17(水) 22:12:49
神武以前のウガヤの前の大昔、その神代に暦があったのかということで、
縦目仮面氏がいろいろ論説していた。月読命が日読みではないとか、
それがしに時量師神の質問を投げかけていたが、彼が古神道に興味を
持ち、図書館で専門用語を調べに行ったことは、勉強熱心で立派だなあと
思っている。

時量師神は一時代の終末の一寸手前の時代を計り、その時局を支配する神
ということで、天皇の代では関係あるのは天武天皇の世であろう。
大殿祭祝詞には

 以 天津御量 事問之磐根木根立知 草能可岐葉乎毛言止氐 天降利賜比志
 食国天下 登天津日嗣所知食須皇御孫之命御殿乎 ・・・・・

とあって、天津御量により誰かさんのああだこうだの能書きをストップ
させろとのお触書が書かれている。

タカマガハラ(高天原)の言霊は、五十音図最上段のア段に全部在り、
ア段の中でこれに抜けてる四音がワナサヤの言霊である。1年365日で

 366日−365.242日=0.758(ワナサヤ)

となり、天津御量の一端がかいま見える。            〜続く

200 :縦目仮面:2010/02/17(水) 22:32:14
>勉強熱心で立派だなあと思っている。

あ、どうも。いや照れますね。しかし天津金木などすごく面白いです。オカルト好きにはピンと来るもの
がありますね。うちの大学には 本田親徳全集とかもありますが、読むのはかなり骨が折れます。

201 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/17(水) 22:34:25
>>199 続き
円周が360度方式になっているのは、諸般の事情で利便性が高いことから
なのであろう? 1年の場合は365日余でこれより5日ばかり多くなって
いるのが天文学からの帰結である。365日余は先述のとおり365.242日なの
であるわけだが、円周360°と365.242日との比を考察したとき

 360:365.242=1:x

において

 x=365.242/360=1.01456111・・・

だが、

 1/x=9.85647871821970091062×10**-1 =365.242/360 (**はべき)

で、1とこれとの差(天津御量)は

 1−1/x=0. 0143521 281780299089370

左辺から逆読みで

 西紀1253年 4月10日 厩戸皇子 立太子


202 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/17(水) 22:38:28
>>199 訂正
× タカマガハラ
○ タカアマハラ

203 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/17(水) 22:41:44
>>201
どうもいけません。左辺から→右辺を に訂正します。

天津御量をもて、かの盲象者を制御したい。ww

204 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/17(水) 23:02:25
疲れてるせいかまだ間違ってましたか。
>>201の 1/x の右辺は 360/365.242 の誤りですので、謹んで訂正します。

天津金木は当時の天皇の代の時代の始点を教示、天津御量はその他の
時代時代の節目を教示します。厩戸皇子は即位できなかったことから、
彼の帰依する新仏教を外し、遠まわしに古神道を暗示して、その一時代の
終末の切迫を天津御量(天の数の計測)にて示しております。

205 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 00:22:36
25 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/31(日) 22:35:41
>月後半の日がまるで無い。これは2倍年暦を行使していた事
を物語るものなのだ。2倍年暦はホツマの景行の条でも21ヶ月妊娠でこれ
を示し済みである。つまり
  十月十日×2=20月20日≒21ヶ月

ホ38014 ハリマのイナヒ オイラツメ ウチメのときに コゾウヅキ はらみてうまず
フソヒツキ へてシハスモチ ウスはたに モチハナなして フタゴうむ ヱのナモチヒト
オウスミコ トのナハナヒコ ヲウスミコ 

コゾウヅキ(垂仁90年六月)、そこからフソヒツキ(21ヶ月)後の十二月に小碓兄弟が生まれる。

そこで太国編年は、
730庚午  292壬子  垂仁崩御 (垂仁は3倍年)
731辛未  293癸丑  景行即位 (景行は2倍年)
742壬午  298戊午  日本武尊誕生
744甲申  299己未  成務誕生 武内宿禰誕生
769己酉  312壬申  仲哀誕生 (父日本武尊は、これ以前に16才で九州)
この様に 垂仁90年6月から、21ヶ月後は、景行12年に成り。
ここまで3倍年の9年間プラス2倍年の10年間。この間は、倍暦の20月20日で
通常暦では、十月十日である、と主張しています。
この通常暦の十月十日は、西暦で6年の歳月が流れます。
十月十日の2倍年が20月20日なら、
365日の2倍年は、730日にもなる?
>また倍年暦固有の干支も片面的に存在使用していたもので、こちらは勘注
系図の成務の立太子等の干支を調べて、その存在をオマエに見せてオマエ
を窮地に追いやったことを忘れてはいまいが。ww

この暦法を支持する方は、是非使ってやって下さい。


206 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 00:47:23
日食      食率  かけ始め
247・ 3・24 1.008 17:36:48 夕方日没
248・ 9・ 5 0.944 4:53:02 朝が早すぎ
273・ 5・ 4 0.944 15:51:34 思考の内
316・12・31 0.981 16:35:20 夕方日没
328・ 5・26 0.956 4:59:01 思考の内

この日食から 50年ほど後に、七支刀が来る。その場所はあるか?
崇神から仲哀に設定位置はあるか?

これらから、歴史を設定できたのが、273年だけでした。


207 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/18(木) 14:07:47
>>206
これなど、また恣意的に自説に都合のいいのを選択して、いかにも正解のような
口ぶりさ。常夜っていうのは 即夜 の意味ではない。ズッと夜が継続すること
をいうんだから、日食なんてたかが2時間ばかりで終わりなわけで、しかも皆既
日食でも完全に欠けてる時間は10〜20分くらいだろう? これで常夜にはなり
えない。所詮ムー民の低級なるお脳の持ち主が喜ぶだけの、臥海で相手にされ
ないお笑いの主張なわけ。ppppp

日食が数日間も続くのは我が太陽系の地球では起こるわけもなく、こういうのは
電波星とかX線星とかどこか極超に遠い〜他の銀河系のそういう天体で数日間も
日食が続くのはありうる話であり、そこの天体の電波星人とかが主張したりその
電波による言語翻訳ができうる地球人ならば、そういう主張をするのもこれは
当然なのだろう??wwwwwwwwwww

208 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 18:02:04
>臥海で相手にされないお笑い

臥海で相手にされるのは、太国倍年です。是非そちらでご活躍下さい。

なんたって此所は、2chですから、あなた様のような高貴なお方の出入りする処ではございません。


209 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/18(木) 18:07:02
オマエはカルト板で頑張ったらどうだ?ww そこなら日食が数日間でも百年
続いてると言っても相手にしてくれるぜ。

210 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 18:24:06
私の方は、日食1日で大丈夫です。
これを数日間続くと読む、太国3倍年を臥海でぶち上げて戴きたい。


211 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 21:12:31
ほら、私なんか気が小さいから、全ての年数は、倍年で解決できると云いながら、
>開化在位60年の手前と崇神即位年の1/13前日まで(1/1〜1/12)とを1年づつ計2年分、開化の
在位年の両端年の2年分を追加したのと同方法であり、12日間を、1年とします。

なんて大胆な発想自体できていませんから、せいぜい
ホ38014 ハリマのイナヒ オイラツメ ウチメのときに コゾウヅキ はらみてうまず
フソヒツキ へてシハスモチ ウスはたに モチハナなして フタゴうむ ヱのナモチヒト
オウスミコ トのナハナヒコ ヲウスミコ 

コゾウヅキ(垂仁90年六月)、そこからフソヒツキ(21ヶ月)後の十二月に小碓兄弟が生まれる。景行元年になる。
ホ37191 コソホキサラギ ミコトのり カグをもとめに タジマモリ トコヨにゆけよ わがをもふ
ホ37202 あくるハル ヤヨヒにかえる タシマモリ トキシクカグツ フソヨカゴ カクのキヨサホ
カグヨサホ もちきたるマに キミまかる 
ホ37210 トコヨとは カミのかくれの をよびなき フリをなじむの トトセぶり あにをもひきや しのぎゑて さらかえるとは

オイラツメや タジマモリの話から、 垂仁90年=垂仁99年 その翌年は、景行元年です。
位をやっと発表する程度で、とても太国3倍年ほどのインパクトは有りません。

せいぜい19年単位で、空白年を差し引く、でチョン。


212 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 21:20:47
皇室陵墓令(大正15年皇室令第12号)

第一条 天皇太皇太后皇太后皇后ノ墳塋ヲ陵トス

第二条 皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃内親王王王妃女王ノ墳塋ヲ墓トス

第三条 陵墓ノ兆域内ノ土地ハ該陵墓ノ附属物トス
2 陵墓ノ兆域内ニ在ル物件ハ勅裁ヲ経テ其ノ陵墓ノ附属物ト為スコトヲ得兆域外ニ在ル土地物件ニシテ特別ノ由緒アルモノ亦同シ

墓とは、墓石(古墳)の大きさでなく、墓地(兆域)の大きさできまる。


213 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/18(木) 22:01:12
オマエは昭和年代に生きてたんだろう? 昭和の末の昭和64年は7日しか
なくても64年目としてて数えるんだよ。ちゃんとある事例なんだよ。
オマエはかぞえ年も出来ないのかね〜?ww

オマエの日食が1日とか神功紀のどこに記載があるんだね? 愛知県民氏
もオマエの解釈がうまくないと、いつぞやも示していたではないかね?

七支刀のX線検査でニンベンが確認されたのに、電波星X線星では重力波
とか何らかの物理的力が働いて、「イ」が「T]にでも屈折するとでもいう
通信でも同星から受信したのか? ニンベンでない漢字で論をしてるのが
オマエだから、質問するがね?ww ppp

214 :日本@名無史さん:2010/02/18(木) 22:11:25
マシvs2倍暦、どちらも参考になり勉強させてもらっているが、両方合わせられないの?
例えば、仁徳の後ろの方20年程は、マシとみてカット、残りを2倍暦で編年してみるとか。


215 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/18(木) 22:16:02
>>211
ふ〜ん? すると田道間守が非時香果を得ようとした次年頃に日本武尊が
誕生したといいたいんだね? えらい自信だな。bbb

216 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 22:24:00
>七支刀のX線検査でニンベンが確認されたのに、

16日丙午の説明が出来ない様な物をどう使うの?
太国倍年で説明出来るの?出来ないでしょ。
自分で説明出来ない物を、他人には求める。そんな暇があったら、自説を強化しなさいよ。


217 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/18(木) 22:29:34
>>214
マシっていうのは不正注入を某年〜某年の間にやったという論で、唐松山
が言い張ってるんですよ。およそ国家の暦年に年代を20年、30年とか
こっそり入れたとなれば、動機があるはずですが、その動機があいつは
言うことができないで、ただ「道臣命在世記」に褒賞を年数で付与し
たとかの説明をしてるが、部下の褒賞くらいじゃぁそんな真似をやる動機
としては不十分でしょうが? 古今外国の暦で、こっそり年代の誤魔化し
注入をやった国はないと思いますが?

ただ不都合が出たので、調整のために都合をつけたことはいくらでもあり
ます。これは不正目的の内密での不正注入ではないです。

古代マヤの暦法でも不正はないでしょう。そんなことをすれば、王の
怒りに触れて、チャックモールの上で心臓をえぐり取られることになり
ますよ。マヤでは暦は神聖なものだから、そんなマネをすれば、かよう
に命がありません。倍暦は不正ではなく、都合により半年を1年とカウント
するとかのもので、マルマル天皇××年の数字を使用してたとします。
マシは不正注入ですから、途中に年代がない個所を論とします。

218 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/18(木) 22:34:04
>>216
こちらはすでに説明済み。オマエも読んだろうが、忘れたでゴマ化すか?

電波星X線星からピピッと『ニンベン「イ」を「T]にしろ』とかの連絡が
電波で発信されたのを、受信したのか?ppp

219 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 22:51:35
七支刀には、それを献上した肖古王がいる。
この説明は、受けていない。

誤魔化すなよ。


220 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 22:56:56
暦が後付けなら、この時代が正しく無いと、それ以前の歴史は正しく無い。

この確認がしたくないんだろ。
どんなに気張っても、太国編年は、この時代を正しく読めない。


221 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/18(木) 23:02:39
>>214
倍暦の例は外国にもいくつかあります。古代アステカ、マヤでは各1.4倍暦
を行使してましたし、現今でもマヤ現地ではこの暦法を使っている者らが
おります。この1.4倍暦の起源はどうやら古代サポテカ文明で、石碑3号の
捕虜の刻みがメソアメリカ最古の文字であるそうであるとともに最古の
1.4倍暦の使用例であるとのことです。

さらに南バビロニアやパラオでは2倍暦の行使があり、後者のほうは古田
先生が証拠写真まで撮って来てるそうです。

222 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/18(木) 23:07:29
>>219
意味不明。
以前アサキチさん(ローガン氏)と論戦してるから、忘れたなどと
誤魔化すなよ。

223 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/18(木) 23:20:13
>>214
なお詳細情報は取れていませんが、南太平洋の島では1.8倍暦(1年
が200日暦法)が行われていたという話を古田学会関係の大下氏が
言っておるそうです。どんなのか、具体的にはそれ以上こちらは
把握できていませんが・・・?

224 :愛知県民:2010/02/19(金) 10:30:22
>>214
仁徳については、それも有りと思います。
古事記とも合うので・・・

>>215
太国さんのお考えも分かるが、謎は景行4年に大碓命を美濃に遣わした記事。
これが正しければ、大碓と小碓は同日生まれなので小碓=日本武尊も垂仁世生まれとなる?
ではまた・・・


225 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/19(金) 10:51:57
>>205
>(垂仁90年・・・)、そこから・・・(21ヵ月)後の十二月に小碓兄弟
 が生まれる
皇紀 西紀 倍暦
750  90
749  89 302 五百野皇女をして天照大神を祀る
・・・
744  84     成務天皇誕生 武内宿禰誕生
743  83 299
742  82     日本武尊誕生
741  81 298
・・・
731  71 293 景行天皇即位
730  70     垂仁天皇崩御
・・・
721  61
720  60
719  59 289
・・・
661  元
660 -1
659 -2 269
・・・
632 -29 260 垂仁天皇即位
631 -30     崇神天皇崩御

だいたい景行〜仲哀の代あたりは錯綜してるのに、よくそんな早計な結論
を言うオマエの脳の怠慢、無用心性をさらけだす。ww

226 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/19(金) 11:24:40
>>205>>225
垂仁90年というと、皇紀721年だ。(上表参照)
この90年というのは、蟻通神社の開化紀元93年説と通じるところがあり、
垂仁90年とホツマが言ってるんだろうが、それは(上表参照)(見かけ
の)西暦元年(皇紀661年)基点での90年ということの暗ましなのさ。

ホツマ成立において、そのころ倍暦の感触が当然あったということに
なる。同神社の言う開化紀元93年とは倍暦の関係示唆のためであって、
開化在位60年の別倍暦での年代数字だということになる。前者は両端年を
別物外しをして後者の3/2である。

それを前提として垂仁90年とは(見かけの)西暦元年からの(見かけの)
西暦90年を意味させたもので五百野皇女の日神祭祀年であるが、(同)
西暦60年が皇紀720年で90年のうちの60年完了経過であり、残り30年
(90-60=30年)の始年が(オマエの言う垂仁90年の)皇紀721年になる。

ところが垂仁の代は3倍年暦なるも、景行の代は2倍年暦だから後者の
年代を3倍で編年すれば30年間は西暦61年〜同90年計算だが、後者の2倍
計算ならば当然90年に届かず残30年の2/3の80年あたりに編年が行く。で、
(見かけの)西暦82年が日本武尊誕生年だから誤差は2年であり、おかし
くはなかろう。しかも2倍年暦から西暦81年も同82年も同年になるから、
誤差は80年からただの1年になり、なんの不合理はな〜い。

227 :日本@名無史さん:2010/02/19(金) 16:48:44
五月丙午は吉祥句?

七支刀===泰始四年五月十六日丙午
中平銘刀==中平□年五月丙午
景初四年鏡=景初四年五月丙午


228 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/19(金) 16:53:39
>>227
あいつは七支刀のX線検査での不明漢字にノギヘンがある検査結果を
踏み倒して平気でいますから、要注意されたい。

229 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/19(金) 20:41:01
おーす。 久しぶりに書き込めたあ



230 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/19(金) 20:47:17
つかまずさ
「記紀年代」って要は

■記紀に書かれてる暦(旧暦)は、今から何年前の出来事なのか?■

ってのを検討してみよう
て、事だよね?

231 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/19(金) 20:51:46
その為にはさ、まず
1、現在、自分達が使ってる新暦(ようは西暦)とは、どんな暦なのか?
2、記紀に使われてる暦は、どんな暦なのか?

まずこれらをキチンと認識する必要があるよ


232 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/19(金) 20:59:14
「記紀に書かれてる暦がどんな暦だったのか?」
ってのを理解しないままとか
その暦の認識が各自バラバラのまま話合ってもらちがあかないし
それら暦の説明も無いまま「神武○○年は、紀元前○○年だから、、」とか、いきなり自分の脳内で勝手に確定してる年代を持ち出して年代の根拠としようとしても、そんなのは何の根拠にもならないよ

233 :日本@名無史さん:2010/02/19(金) 21:04:03
ググってみたら326年は面白いよ。
太寧4年に5月はないよ。
326年の5月は咸和1年5月だよ。
太寧4年は1月で終り、2月から咸和に改元されているよ。
関係ないけど、太寧の太と咸和の和で太和になるね。


234 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/19(金) 21:10:48
そういう意味では、例えば太国さんの様に「記紀の暦は倍暦という暦が使われていて、、」とか言う主張の仕方は俺は理解は出来る

(ただし記紀に書かれてる暦が倍暦だとか言う暦だと言う根拠も無いし、俺は記紀の暦は倍暦なんて暦では無いって以前から主張してる倍暦否定派です)



あとこれも前から言ってるけど、
例えば世間一般的に言われてる「神武元年は前660年」とか「卑弥呼の朝貢の年は西暦223年」とか言う年代を
「確定してる事」と勝手に脳内で結論付けた上で、記紀の年代を検討するのも違うと思うよ


235 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/19(金) 21:20:49
例えば「神武元年は前660年」と言う事を前提に話をしたければ
まず「神武元年は前660年(今から2670年前)の事」と確定出来るだけの「根拠」をキチンと示すべきであって
それが出来ないのなら、まずは「神武元年は、いったい今から何年前の時代の事だろう?」って所からまず検討すべきだよ


「偉い学者が調べた事だから間違いない」とか「世間一般的に言われてる事だから」とか、こんなのを根拠に時代が確定出来た事にはならないし
こんなものを年代の根拠とするなら、誰か偉い学者さんにでも勝手に年代を推測してもらって、それを世間一般的に普及させりゃ良いって話になる

236 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/19(金) 21:46:24
あとやたら「記紀に書かれてる○○年は(西暦の)○○年の事で、、」
って話をしだす人がいるけどこれも本当はおかしいんだよ



1、現在の暦と記紀に書かれてる暦との違い
2、記紀に書かれてる年代は今から何年前の事なのか?
3、それを現在の暦に直したら西暦何年の出来事となるのか?


って言う段階があるわけだから、本来なら
×西暦○○年の事
○今から○○年前の事
って事が解って初めて「それを西暦に直すと西暦○○年」って事が言える訳だから


ちなみに記紀の年代を「今から○○年前の事」ってのを主張しようと思ったら
1、記紀に使われてる暦がどんな暦なのか?
2、今現在は記紀で使われてる暦上では、いつなのか?
(ちなみに記紀の暦は「干支、元号年、月、日、節季」などで書かれている)


例えば今現在ってのは、今俺らが使ってる暦の上では
『西暦2010年、平成20年、2月19日』


じゃあ問題
『「西暦2010年、平成20年、2月19日」を、記紀で使われてる暦で表して下さい』
(例:辛午、春、閏三月廿二日)




237 :日本@名無史さん:2010/02/19(金) 21:48:13
もん太君こんばんは

もん太君に質問してみよう。

今年は平成天皇の治世になって22年目で西暦2010年
前の昭和天皇の治世は64年間で、64年目は平成元年と同じ年
その前の大正天皇の治世は15年間で、15年目は昭和元年と同じ年
その前の明治天皇の治世は45年間で、45年目は大正元年と同じ年
では、明治元年は西暦何年ですか?


238 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/19(金) 21:51:55
この問題の答えは「記紀に使われてる暦をどんな暦だと認識してるのか?」によって、それぞれ答えが違って来る


ただしこの問題に答えられない様な人は、記紀で使われてる暦がどんな暦だったのかすらの理解も解釈も無い人だよ

■問題
『西暦2010年、平成20年、2月19日』は、記紀で使われてる暦上では、何年(干支)、何月、何日になるのか?


これに答えられない様な人には、そもそも記紀の暦が何年前の事なのかなんてのが解る訳ないんだよ



239 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/19(金) 22:00:08
>>237
おけ。これはまず
「明治1年は何年前の事で、西暦では何年の事となるのか?」
であって

1、まずこの「明治1年」って言う暦の仕組みを調べて正しく理解する(それを理解して初めて調べられる)
2、現在使ってる暦である西暦2010年を、その暦上では明治何年になるのか置き換えてみる

て、手順でまずやってみるよ

240 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/19(金) 22:01:15
>>233 正解
太寧4年は、1月まで、そして5月17日が丙午

それでも、七支刀の文字はつたない。百済で彫られたならば、
南朝から百済までの日数を考慮しないと、ならない。
洛陽から、楽浪郡までが、だいたい3ヶ月の距離とすれば、
南朝〜百済間は、もう少し時間がかかる。
彫る文字を決定してから彫り上がるまで、ひと月と見れば、この程度の違いは容認できる。
永嘉の乱が終息して、三年目、まだ世の中は、安定していない。
七支刀は、鍛造でなく、鋳鋼である。製作は、徐州が考えられる。
鋳鋼には、高温が必要である、百済にこの高温は無い。

1日遅れ。これも面白い。晋書永嘉元年、7年の記事に1日遅れがある。丁度19年前で、太陰暦は、19年を一つの単位とする、
であるならば、十九年後も1日遅れとなる。本国の記録がこの状態であれば、冊封国の暦なぞ。

5月丙午なら、吉祥句で通るが、5月16日丙午では、吉祥句として、落第だ。

>「記紀の暦は倍暦という暦が使われていて、、
太陰暦は、倍数では読めない。太陰暦の1月が、29,30日で有る限り、倍数では表せない。

ところでもん太君、少しは成長したか?
歴史は数字に直さない限り、昔話だよ。
太国倍年は、そこの処を追求していない。

卑弥呼の朝貢は、239年か240年で確定。
暦日を調べたければ、「台湾電子文献」に西暦1年以降の暦日がある。
太陰暦の朔は、全て月の運行で導き出せる、1日に一つの干支が振られている、倍年の様に干支が跳ぶことは無い。


241 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/19(金) 22:12:29
美濃もん太氏の言う暦そのものの認識が必要だということは、片面的には
大いにうなずける主張である。だが極端に言えば、A天皇が大陸のB皇帝に
天皇××年に遣使を派遣したとかいう非常に信用度の高い古文献が発見
されたとかなって来たら、そういう暦の認識が把握されなくても、これで
一目瞭然的であり決まりだということになる。だから必ずしも認識が
必要というものでもない。それは知ってたほうがいいことは確かだが。

とにかく美濃氏の主張である当時1年が24ヶ月あったという考え方は、
記紀には13月以降の月数記事がどこにもないことから、氏の主張が当時
あったとは言い難い。だが現今あたりでも印度では彼の言う24ヶ月(一ヶ
月が15日ばかり)の暦を使用している形跡が実際あることはある。これは
2倍年暦の前段階的暦法であり、
「アジアの暦」(岡田芳朗著)によれば、上述のとおり「印度暦には16日
〜29日までの日付がない」「1ヶ月は14日か15日しかない」と解説して
いる。

いずれにしろ印度暦を参考にしつつ毎回掲げている欠史八代の日数統計表
から、とりわけ天皇没日は8人が8人全員が月上旬であり、かつその他
の行事等の日付が全部月前半の1日〜14日までの2週間に収まっていると
いうことが、彼の言う1年24ヶ月制というより、印度暦の如く当時月後半
がなかったことを物語り、印度暦の場合は前半半月と後半半月の言い回し
で彼の主張の如く24ヶ月式であるのだが、八代においてはそういう明確
な半月的言い回しがなく、各天皇の異常な超長寿を考慮に入れた場合、
当時2倍年暦、3倍年暦を行使していたとしか他に合理的説は見当たら
ないのだ。

242 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/19(金) 22:26:08
>>239
まずその前に、現在使われてる暦の仕組みも理解しとく必要もあるかな?
例えば現在日本で一般的に使われてる暦には「西暦」って元号が付いた「2010年」と「平成」って元号が付いた元号の2つがある


まずは「西暦」の方
これは今から詳しく調べ直すの面倒だから、以前に調べた俺の中の曖昧な知識で語るけど
「西暦」元号てのは約400年前(600年だったかな?)に、欧州のキリスト教会の評議会の中で「イエスキリストが復活した年を紀元とし、現在はキリストが復活した年から数えて○○年と定める」として作られた年号


243 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/19(金) 22:29:42
唐松山の場合はこの八代の日数表をナメており、このことは奴の説が
いずれ破綻をきたすと前々からこちらは読んでいる。つまり同表を無視
したツケがいずれあいつに降りかかるのは当選確実だ。その一弾として
あいつの奉持するホツマにも2倍年暦の文証である21ヶ月妊娠の記事が
景行の条にあり、それがしの景行2倍年暦説を裏づけている。あいつは
ここでも苦しまぎれのうっちゃりを敢行しており(←これは余も読んで
いる)、これだけでもマシなどという不正注入年を朝廷がやってたのでは
ないことを確信している。例えば成務なら成務元年から成務60年まで確実
に当時カウントしていたものであり、このことは>>75によっても裏づけ
られる。おまけに七支刀の■がX線検査でニンベンなのに電波星人から彼に
ピピピッと電波が送信されて電波星X線星ではニンベン「イ」を「T」と
読むらのか?www、「T」字での同刀論を大々的に強行している。www

244 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/19(金) 22:39:17
>>242
このキリスト暦の西暦が世界中に広まった経緯は省きます
ちなみにアジアは、約100年前には欧州の植民地支配を逃れてた支那大陸の清王国と日本民族を統率する江戸幕府以外の王国は全て欧州勢力に滅ぼされ
清王国と江戸幕府以外の王を失ったアジアの地域の民族や土地の人達は全て欧州の植民地となってしまっていて、それらのアジアの植民地地域では全てキリスト暦が使われていました
ちなみに日本がこの西暦と言うキリスト暦へと改暦したのは欧州のグラバーの支援を受けて、江戸幕府を滅ぼし新たに作られた日本国家と言う国家において
それまでの日本の文化や風土や体制や朝廷まで滅ぼされた上で、西暦って暦が導入されてるね


245 :日本@名無史さん:2010/02/19(金) 22:46:28
もん太君、今から1300年前に奈良時代が始まりました。つまり西暦710年(庚戌)和同3年(元明4年)
奈良へ行って「せんとくん」に聞いてみて下さい。
そこから、少し遡れば、書紀の時代に入ります。


246 :日本@名無史さん:2010/02/19(金) 22:48:51
>>244
次は現在使われてる「平成22年」って元号が何の暦なのかだね

■平成
これは日本国家下において「象徴」と定められた「天皇」と言う地位に、明仁氏(父:昭和天皇(浩仁氏))が就任した年を紀元として定められた暦
つまり平成22年とは明仁氏が日本国家憲法下で国の象徴と定められた天皇と言う地位に就いた年から22年と言う暦


247 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/19(金) 23:04:37
>>246
現在使われてる「西暦」「平成」と言う元号が付けられた暦の説明はとりあえずこんな感じ

で、次は問題の「明治」だね


てかいちいち説明しなくても「明治は明治天皇が即位された時の元号だろ」って誰もが解ってる事かもしれないけど、
あえてわざと、明治に付いても一度きちんと調べるなり自分の認識をきちんと示しとくよ


■明治
睦仁氏が大日本帝国において、大日本帝国憲法に定められた国家元首である天皇の地位に就任した年を起元と定めた、大日本帝国政府が発令し定めた暦


ちなみに睦仁氏が大日本帝国政府により帝国憲法の定める国家元首に就任したのは158年前
つまり現在の暦(西暦2010年、平成22年)を明治元号の暦に直すと「明治158年」


逆に明治1年てのを現在の西暦元号に直すと、2010ー158で1852


つまり『明治1年を西暦に直すと西暦1852年』だね

248 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/19(金) 23:22:55
>唐松山の場合はこの八代の日数表をナメており、

アホを言っちゃあいかん。記事の全ては朔で日数を出している。朔は朔である。
対する太国編年は、朔を朔と認めない。認めない方法が正しく、認めるのは、書紀をナメてるってか。
少し訂正すると、太国は、八代の日数表を朔より割り出し、割り出したとたんに朔を否定する。
これこそ ナメた方法だ。




249 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/19(金) 23:31:58
>>237さん
『明治1年は西暦1852年』
答えは合ってますか?

ちなみに>>237さんの言ってるような「○○天皇の治世」とか、それは「明治」って元号にも現在使われてる「平成」って年号にも関係無いです
何故なら明治維新以降に建国された「大日本帝国」って国家も、太平洋戦争による敗戦により新たに建国された「日本」って国家も、民衆が主権を持つ共和国(民主主権国家)って奴で、この国家の治世は民衆が行ってます

ちなみに民衆を主権とし、民衆が治世を行うとして建国された大日本帝国以前は、「幕府」が治世を行ってました



てか、なぜわざわざこんな事を書くのかと言うと、
例えば殆どの人は記紀に書かれた「祟神12年」とか言う元号を見て「祟神天皇が天皇に即位されて12年目の事だ」って解釈してるでしょ?

それは元号ってのを「元号=天皇の治世」(中国の書物に出てくる元号で有れば「元号=中国皇帝の治世」)って決め付けてるからだと思うけど、
俺はそういう先入観を前提にして記紀の暦を解釈するのは間違いだって事を言いたいんだよ

例えば平成と明治にしても元号の意味合いも発令してる人も、そもそも憲法上での天皇称号の意味さえも違うんだよ

んで、例えば江戸時代の元禄とかの称号ってのは、天皇や大和朝廷とか全く関係なく、天下治世を行ってた幕府が定め幕府が発令してたんだよ


つまり大日本帝国が建国された明治時代になって初めて「国家元号は国家元首であり人間神である新たな天皇が即位された日(年じゃない)を元年として発令し、その国家元号は天皇の死を持ち終わりとし、新たな天皇の就任の際は新たな元号を発令する」
て定めたから、明治以降は天皇の就任年と就任年数(就任してから死んだまでの年数)とリンクしてるだけであって

それ以前に日本で使われてた元号に置いて、天皇がどうだのは関係無いんだよ

250 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/19(金) 23:35:10
数字を捨てた、太国編年では、最初の思考である「暦の後付け」が出来ない。
暦の後付けが出来ない以上 太国編年は、歴史を表さない。

書紀の暦は、「実際の暦」と「空白年」の二つの暦の複合体である。
ですから、一つの暦としては、再現出来ない。

暦が後付けなら、新しい時代ほど誤差が少なくなる。
処が、太国編年は、百済王朝を編年に載せられない。ここで狂いが出ている。
赤玉で崇神を数字に直しても、πを計算していない。


251 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/19(金) 23:45:39
>>240
>卑弥呼の朝貢は239年か240年で確定


別に唐松さんの脳内で勝手に確定してるだけの年代なんだし、そんな唐松さんの脳内年代は俺にはどうでも良いんだけど?
だいたい唐松さんはいくら聞いても「その根拠」や「説明」をしない訳なんだし

その年代とするのは、どんな根拠なのかとか、どうやって調べたのかとか、そう言う話であればスゲー興味はあるんだけど
唐松さんはいつも「○○は既に西暦○○年と確定しました」
なんて勝手に自分の脳内で確定した年代を言ってるだけなんだから、別にどうでもいいよ
唐松さんの中で239年だろうと、前5000年だろうと、俺にはどうでもいい
つか唐松さんの中ではもう年代は確定してるのならそれはそれで別にいいんじゃないの?

あとは皆に「確定しました!確定しました!」って言って回ってりゃ言いと思うよ
俺にはんな話、なんの参考にもならんけどさ

252 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/20(土) 00:10:21
>>241
太国さんは、わざと「美濃もん太は昔の暦では1年は24ヶ月あったと主張してるような奴だ」
見たいな事にしたいだけでしょ?w

俺んな事を言った事ねーし、1年が24ヶ月の訳ないだろw


旧暦で使われてた節句や節分など約15日で区切った24節期の話ならしたことあるけどね


ちなみに前から何度も言ってるように
「俺はまだ昔の事が全て解る程の知識も情報も資料も無いから、まだまだ沢山調べて、もっと沢山の情報を集めて見ない事には解らない
だから俺の話なんて現時点での複数考えられる解釈の中の1つであり単なる憶測だよ」
って自分でいつも言ってるでしょ?

だから逆に言えば、例えば俺は太国さんの言う倍暦てのには否定的だけど
それは太国さんの説明や根拠を聞いた上で自分でもそれを調べて見たり考えたりした上で「無いと思う」って言ってるだけだし
そう思う根拠や自分の考えとか調べた事とかもちゃんとグダグダ言うでしょ?

ただし倍暦に対して否定的ではあるけど「絶対に無かったとは言えない」って立場だよ
俺が調べたりした中では倍暦なんてのはなんとかいう学者が主張してた暦でしか無かっただけ
もっと調べればどこかにホントに「186日を1年」とした暦があるのかも知れないけど、現時点ではいまだに無いから否定的なだけだよ


253 :日本@名無史さん:2010/02/20(土) 00:32:12
もん太君>237です

22+64-1+15-1+45-1=143
2010-143+1=1868
正解は西暦1868年です。

治世というのはよくないかもしれない。それなら、その時代の天皇が称制や践祚時代も含め、天皇であった年間
(天皇時代)としておこう。
そうすると、明治天皇時代は46年間だから明治天皇時代元年とすると1867年です。
その前の孝明天皇時代は21年間。21年目は明治天皇時代元年の前年です。(越年称元法)
孝明天皇時代元年は
144+21=165
2010-165+1=1846 又は 1867-21=1846 西暦1846年です。
このように、仁孝天皇時代(30年間、当年称元法)、光格天皇時代(39年間、当年称元法)
・・・と、持統天皇時代まで遡ってみて、元年が何年前になるか調べてみて欲しい。
空位というか天皇が崩御したあと、次の天皇がまだ決まっていない年もあるから注意して。
何日かかってもいいから。
何年前というのなら、その時代の暦なんか関係ないから。


254 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/20(土) 00:37:15
>>250
>数字(明確な年数)を示さなければ歴史とは言えない
これは単に唐松さんの「歴史」に対する脳内解釈でしかないよ
唐松さんは「それが西暦何年なのかを示せなければ、そんなのは歴史と認められない」見たいな事とか必死で言うけど、そうは思ってない人もいる事を理解した方が良いよ


そもそも歴史を知るって事は「昔、どんな事があったのか?」って事をしる事が大事なんじゃないの?

例えば日本は過去に天照と呼ばれる人がいた
それが1815年前だろうが、2563年前だろうがどうでも良いじゃん
その歴史が詳しく1年単位で西暦で何年の事なのかを示せなければ、天照なんて人は居なかったって事にでもしたい訳?


俺が日本の歴史に興味を持ったのは、俺ら日本民族の歴史を伝える書物が日本には沢山、残されてて、そこには過去にあった出来事が詳しく伝えられて来てて、おれら日本人がどんな歴史を歩んで来てた民族なのかをちゃんと知りたいと思ったからだよ
稲場の素兎足の話にしろ、大和健の話にしろ、それが西暦何年何月何日の事なのかなんて別にどうでも良いし、そこの数字に拘る理由も一切無いし

いちいち数字に拘る方がおかしいよ。意味解らんし
それが西暦でいう何年何月何日の事なのかなんて解らなくても、日本の歴史は歴史だから

数字なんかに拘る暇があれば、どんな出来事を伝えてるのかって言う内容をちゃんとしるべきだよ
年代じゃなくそっちが歴史なんだから

255 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/20(土) 00:54:33
>>253
あれ?睦仁氏が天皇に就任した年を間違えたかな?
それとも明治って名前の元号の解釈が違ってる?
もしかして明治って元号は別に睦仁氏が天皇に就任した年を紀元年とした元号じゃ無いのかな? ちゃんと調べずに書いてたしw


あと悪いけど多分あなたが言ってるのは「天皇(テンノウ)」の事なんだろうけど
記紀の記述にあるのは「天皇(アマノスメラギ)」であって、あなたが理解してる「天皇(テンノウ)」とはまた別の意味だよ
少なくとも明治時代以前までは治世を行って来てたのは幕府であり、それぞれの國(地域)を納めてたのは「将軍(king)」だよ

歴代の天皇(テンノウ)も糞も「テンノウ」なんて称号で呼ばれてた人は明治時代以前には居ないんだから
例えば古事記の原文を見ても、どこにも「○○天皇(テンノウ)」なんて言う天皇を特定の人物の呼称として使ってる記述は無かったよ

江戸時代に天皇(アマノスメラギ)ご法度って言う法律を幕府が大和朝廷に定めてたけど
あの天皇(アマノスメラギ)も今ある個人への称号である「天皇(テンノウ)」の意味では無いでしょ?


256 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/20(土) 01:33:18
例えば「孝明天皇」て呼ばれてる人いるじゃん?
明治天皇の父とされてる人

あの人、本当は天皇(テンノウ)じゃなく関白だよ
天皇(アマノスメラギ)の天子(アマノミコ)である関白
関白は朝廷のトップであって、天皇(アマノスメラギ)の中でも近衛氏とか数家にしかなれなかったんだよ
(唯一過去には血外者で秀吉が近衛氏を継ぐ形で関白になった事はあるけどw)

そもそも「天皇」ってのは例えば今では「孝明天皇」なんて「天皇(テンノウ)」なんて名前付けられチャッテルけど、具体的に朝廷内にいた氏家の何家の誰の事を指してるの?
あと古事記や日本書記もちゃんと正しく読めば解るけど、イワレビコやワキタラシヒメやヤマサチヒコや、、とにかく沢山の人物の活躍や話を書いてはあるけど「○○天皇」なんて人物は出てこないよ

、、、なんて話をしだすと、年代以前に、もう根本的な日本の歴史の認識からくい違って来ちゃうでしょ?


けど俺は俺でちゃんと日本書記や古事記などに書かれてる記述を元に話したり考えてるだけなんだよ

だって例えば古事記にも日本書記にも「オオハツセワカタケルの命」って書かれてる人がいたなら、この人の名前も呼び名も記紀に書かれてる通りに「オオハツセワカタケルの命」って呼ぶべきでしょ?
そうやって正しく読むと、どこをどう読んでも、歴代の天皇だの天皇の系図だの言う話は出てこないんだよ

物部氏や大伴氏や藤原氏や阿蘇氏や、、そう言う話だよ。古事記や日本書記の話ってさ
あと三種の神器なんてのも出てこないよ
三種の神器が出てくるのは平家物語とか平氏の神器としての話だよ

先代旧事本紀や物部氏の風土記に書かれてるのは十種神宝の方であって、
物部氏に伝わって来てて江戸時代の大和朝廷が持ってたのもこの十種神宝って奴だし、それこそ天照やスサノオの代からの神宝なんだし


257 :日本@名無史さん:2010/02/20(土) 01:36:57
全開だな。

258 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/20(土) 02:08:22
>>257
つか俺が言ってる事ってさ、実際にマジでどう思われてるの?

その歴代の天皇とか天皇の治世とか言ってる意味を理解して無い訳じゃないんだよ
もともとは俺もそう思ったてた人な訳だし、買って読んでる記紀にもそう言う事が書いてあるしさ
九州から神武天皇が東征して日本を建国したとか、その後、○○天皇がどうだとか書いてあるし、俺も最初はまるまる「へー、そうなんだあ」って読んでた訳だしさ
けど、自分で調べたりするようになってから、なんかそれらに書いてある事って違うって思い始めてさあ


だって例えばさ、神武天皇が九州から日本列島に渡って来て日本を建国したと言うなら、スサノオや天照って、どこの国での話なの?
って話でしょ?
「神武以前は単なる作り話だ」とか言う事になってるけど、だとしたら天孫も日向三代も居なかっ
た事になるでしょ?
じゃあ神武ってそもそも誰なの?って話じゃん?

俺の言ってる事っておかしい?

259 :日本@名無史さん:2010/02/20(土) 02:11:05
>つか俺が言ってる事ってさ、実際にマジでどう思われてるの?

発達障害。

260 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/20(土) 02:36:08
例えば俺が持ってる古事記には「神武が因幡(現在の島根県)に差し掛かったとき、白い兎が、、」
って書いてあるけど、原文見たら「稲葉の素兎足」なんだよね
で、稲葉って何処か調べたら岐阜の旧名じゃん
西に伊吹山もあるし東にはヤマトタケルが東征の時に天照を参った恵那山もあるし、素兎足って調べたら、稲葉の太子の兎足(アリト)の話や神社とか三河に詳しく伝わってるしさ


原文に「稲葉の素兎足」って書いてあるんだから
「島根の因幡で白い兎が、鰐(ワニと書いてサメの事だとさ)の背中をぴょんぴょん、、」
なんて話じゃなくね?

稲葉の太子の兎足(アリト)の話はさ「稲葉の氏族である兎足が、鰐(ワニ、和仁氏が用いてた川を渡る為の細長い船)で川を渡る途中に和仁氏に騙されて
身ぐるみはがされて川流れにされてたのを、オオタラシヒコ(だったかな?)が助けた」って話


翌々考えたらさ「白い兎がサメの背中をぴょんぴょん、、」なんて話、意味解んなくない?
実際にそんな事があった訳無いし、何が言いたいのか解んなくない?
これ普通に三河の地域に伝わる兎足神社とかの稲葉の素兎足の話でしょ?

http://tsuinosumika.blog113.fc2.com/blog-entry-58.html
http://www.google.co.jp/m?q=%E8%B6%B3%E5%8A%A9+%E5%85%8E%E8%B6%B3&start=30&sa=N
ちなみにその地域は兎足を助けた事から足助って呼ばれてて、猿田彦が投げ入れられた伊勢の川もあり、この周辺はいまだに猿田彦信仰があるし、オオアシタラシヒコ由来の土地でもあるよ


261 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/20(土) 02:48:25
>>259
じゃあさ、ちょい一緒にちょい考えて見てよ

例えば>>260の話とかどう思う?
「因幡の白兎」

まず古事記や記紀の原文みると「稲葉素兎足(兎の漢字は正確には草冠に兎って字)」ってあるんだよ

でさ
http://www.google.co.jp/m/search?ie=Shift_JIS&sa=2&q=%93e%91%ab%90_%8e%d0&site=universal
どう思う?


そもそも初め神武は伊吹山からナガスネヒコの元に向かってったけど負けたんでしょ?
伊吹山って何処? 本当に京都?
稲葉の関ヶ原の西にある山も伊吹山だし、飛鳥時代に戦争があった場所もここだぞ?

神武が見た湖にいた血だらけのイルカって、蘇我入鹿が自殺した入鹿池の事じゃないの?


262 :日本@名無史さん:2010/02/20(土) 02:51:55
ここは、神武は紀元前600年頃の人らしい。いや、紀元前後の人らしい。いや、2世紀半ばの人らしい。
というような事を言って楽しんでいるレベルの小学生のスレです。
そんなこと、ちゃんちゃらおかしい、と思っているレベルの方の部屋ではありません。
卒業された方は他の部屋へ行ってください。ここへ来られるときは、小学生の話にも
付き合って下さい。そうでなければ、スルーしますよ。


263 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/20(土) 03:13:56
>>262
日本書記の話でしょ?
まず「神武(ジンブ)」なんて人は日本書記には出てこないから

つかイワレビコの東征の年代が知りたいの?
イワレビコの東征ってちゃんと旧暦で暦は書いてあるでしょ?

それを「西暦ではいつの事か?」を知りたいって事?
これってすげー簡単な事だって気付かないかな?

記紀に書いてある暦ってんな難しく考えなくても旧暦で書いてあるだけでしょ?
旧暦を西暦に換算する方法とか解らないの?


264 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/20(土) 03:21:33
あと日本初記についてなんだから
神武天皇とか景行天皇とか言う日本初記に出てこない名前で呼ぶの辞めた方が良いよ

http://tsuinosumika.blog113.fc2.com/blog-entry-58.html
http://www.google.co.jp/m?q=%E8%B6%B3%E5%8A%A9+%E5%85%8E%E8%B6%B3&start=30&sa=N
http://www.google.co.jp/gwt/x?site=universal&q=%E5%85%8E%E8%B6%B3%E7%A5%9E%E7%A4%BE&resnum=1&ei=OM1-S
4DQD4mI7AOi0u7CAQ&sa=X&oi=blended&ct=res&cd=1&ved=0CP___________wEQ____________ATAB&hl=ja&source=m&rd=1&u=http%3A%2F%2Fwww.genbu.net%2Fdata%2Fmikawa%2Futari_title.htm
http://www.google.co.jp/m/search?ie=Shift_JIS&sa=2&q=%93e%91%ab%90_%8e%d0&site=universal
http://www.google.co.jp/m/search?ie=Shift_JIS&sa=2&q=%83z%83z%83f%83~%20%88%ee%97t&site=universal
http://members3.jcom.home.ne.jp/shinoy/sinwa.html
http://www.google.co.jp/m/search?ie=Shift_JIS&sa=2&q=%88%c9%94g%97%e7%20%89%c8%96%ec&site=universal
http://www.google.co.jp/m/search?ie=Shift_JIS&sa=2&q=%88%c9%94g%97%e7%20%89%c8%96%ec&site=universal
イワレビコ、山幸彦、ホホデミ、オオアシタラシヒコ、、

日本初

265 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/20(土) 03:37:02
「神倭伊波礼彦」

まずカムヤマトのヤマトは「大和」じゃなく「倭(ヤマト)」の事だよ


イワレビコの東征のルート
豊国の宇佐、岡田宮→岐国、多祁理宮→吉備、高嶋宮→浪速を船で渡り白肩津に船を着けたら→ナガスネヒコが待ち構えていた

んで負けて逃げる

で「太陽に向かって攻めたのがだめだった、今度は太陽を背にして戦おう」

つまり
■負けた
イワレビコ →攻める→ ナガスネヒコ [太陽]
■こうしよう
ナガスネヒコ← イワレビコ [太陽]



266 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/20(土) 03:49:16
で、とりあえず南へ向かう→紀国(竈山)→熊野村→鵜飼いをしてる川、阿陀氏→険しい山中、久米部、八十健を倒す→登美彦、兄師、弟師を倒す

んで白橿原の宮へ


267 :日本@名無史さん:2010/02/20(土) 03:50:14
豊國 尾張

268 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/20(土) 03:57:25
まず豊國の宇佐って今の尾張だよ
今の春日井市に宇佐宮や弥勒寺もあったんだよ
http://www.google.co.jp/m?ie=Shift_JIS&q=%96L%9a%a0%20%94%f6%92%a3
http://www.google.co.jp/m/search?site=universal&q=%E5%B0%BE%E5%BC%B5+%E5%AE%87%E4%BD%90&start=10&sa=N

そもそも倭の伊渡礼彦の出発点は九州じゃないよ

269 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2010/02/20(土) 05:15:47
記紀に出てくる鵜飼いの吉野川もやっぱ長良川の河口にあるし


ちなみに倭のイワレビコがいた「筑紫」って地名調べたら、平城京の置かれた奈良の旧名じゃんかよ

だいたい九州なんて筑前も阿蘇も、奈良や尾張の氏族が納めてる地域じゃん

270 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/20(土) 09:17:16
>まずカムヤマトのヤマトは「大和」じゃなく「倭(ヤマト)」の事だよ

倭(わ)国は元来、北九州であった。それが 倭国大乱の終息をもって
「やまと」が倭国と呼ばれるようになる。
これ以降、「ヤマト」は「倭」の字を用い、「倭」を「ヤマト」と呼ぶ様になる。

>豊國の宇佐って今の尾張だよ
ここで、宇佐津彦を舟師として、何処へ向かうの?


271 :日本@名無史さん:2010/02/20(土) 10:47:00
太寧4年5月はみごとクリアー、タイムラグはその通りだと思う。景初4年もあるしね。
「泰■」の泰(奉?秦?)はどうして太寧や太和のように「太」なの?■にノ木扁が見えるそうだが、寧でいいの?
どう、クリアーしようか?
五月十六日は五月中と書くところを後半の初日という意味の十六日ではないかな。五月全体なら五月一日と
書いたかも知れない。もし、そうであれば吉祥句ののり?


272 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/20(土) 10:54:02
>>248
ハハ〜ン! じゃぁその八代の間はオマエも日が1日〜14日までの暦法を認め
たということだな? そうだろうが〜。www
となれは美濃氏の主張の1年が24ヶ月あったのか倍暦で1年が12ヶ月での
インド暦法の様式での1ヶ月が15日まででの暦法、つまり2倍年暦の行使を認め
る二つの選択になるが、オマエはもん太氏のほうを主張するのか?
しかと答えろ。ww

273 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/20(土) 10:59:36
>>250
オマエのは成務の5年以降60年までの暦の後付けが出来ない。空白年は西暦元年
と前年の間の1年だけだよ。成務の代は>>75のとおり60年までまるまるあったの
のが確認でき、オマエの言う成務が4年までしかないなどというのはデタラメ
なのを確認できる。さらにオマエの主張は抽象的に終始し、πがどうのこうの
なんぞこれの典型批判で意味をなさない。

274 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/20(土) 14:07:26
>>252
>現時点ではいまだに無い
ウソを言わないで下さいよ。現時点でもマヤの現地ではいまだに1.4倍暦をやって
ますよ。これは6chの「世界不思議発見」でも過去に放送されてるよ。TV局側が
ウソだとでも言うのかね?w 君の見識が行き届いていないだけのことだよ。

すでに古代南バビロニアでは2倍年暦を行使していたし、その事由っていうのが、
当時バビロニア南部は春分を元旦として北のアッカドの地域は秋分を元旦として
いたが、これを統一的に暦を行うに当たって元旦が2つある弊害が出てしま
った関係上、双方の新年を否定できないためここに1年で2回の元旦を行うこと
となり、このため半年を1年として2倍年暦を行使したのだ。ちゃんとこれ
外国に事例がある。他にも古代サポテカ、アステカでも1.4倍暦が行使されて
いた。古代マヤはその倍暦法を継承的に行使して来た文明だということになる。

いまだに無いなどといい加減な結論を言わないでほしいね。

>1年が24ヶ月の訳ない
これも君の見識の浅薄さを露呈している。先述のとおり印度暦は24ヶ月で行使
していたわけで、暦の専門家が調べて来て解説してるんだから、君なら通っても
少し暦の知識を得た者らには通らぬ回答だぜ。まぁどうせ君は専門家の確実性の
高い学説も否定するんだろうが? 唐松山のようにデ○パになるなよ。w

275 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/20(土) 14:23:03
>>271
珍しい例だけど、年号の字の「太」は当時「泰」でも書く慣例があったんだそう
です。あいつは分かってるはずなのにX線撮影でのノギヘンを無視してそういう
漢字での論を曲げないでいるんだから、さらに彼の話からどうやらどこか広い
宇宙の彼方に日食が数日間も継続してるすごい天体があって、それがおそらくは
電波星X線星なんだろう? そういう電波星人等から強力な電波が発せられて
これが地球にでも来てるんだろう? そういう強力電波を唐松山はピピピッと
受信できる能力があるのか、とにかくX線撮影検査結果を踏み倒して向こうの
天体では重力波とかの何らかの物理効果が働いて、ノギヘン「イ」を「丁」の字
にでもねじ曲げる結果が常連で得られるとの電波星人からの指令を受けてると、
かような「寧」字を公認するんではないだろうか?wwwwwww

276 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/20(土) 14:42:00
>>271
>■にノ木扁が見えるそうだが、寧でいいの?

象眼とは、溝に金属を埋めた物。
金は、柔らかい、錆から浮き出した金が、歪んでくっついているだけ。
金箔を切るとき、金物を使わないのは、金が癒着しやすい為。

暦とは、日、月、年、や天体の運行を、数字で確認出来るようにした物。
だから一定の周期がある。
対する太国倍年は、何の周期も表せない。


277 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/20(土) 14:50:00
太国さん解った?
「太国倍年」は、周期を持たない、だから「暦」とは呼べない。
つまり マヤ暦等は周期があるから、暦、の文字をかぶせて、その様に呼ばれる。

全く数字に変換も出来ない「太国倍年」は、暦では無い。


278 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/20(土) 14:59:12
数字には変換してるよ。すでに去年まででも欽明即位から年数の逆算にて
神武まで確実に年表を提示している。オマエのは各天皇の誕生年も立太子
の年代も到底特定できない代物であり、くやしかったらこういう誕生と
立太子の年数の具体的表を出したらどうだ? それをしないと、唐松山は
誕生と立太子の年代数字に変換も出来ない男だと言われるぜィ。www

279 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/20(土) 16:01:42
地球上で使う暦なら、天皇の交代した年の、元年正月朔程度は、
数字に直さねば、そしてそれが、周期を持つ日付か検討しなくては、後から暦をかぶせられない。

かぶせられる状態で無いから、このかぶせる事を拒否しているんでしょ。
大まかな状態で、暦が被せられないものを、細かく分析しても、さらに複雑になるだけ。


280 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/20(土) 18:04:42
そんなことが出来ても正確な年代が特定できない代物ならば、大した役にも立つ
まい。むしろそれに溺れてデタラメ編年に直行するのが関の山。オマエがその
モデルではないか。ppp

まるでフィギュアにおいてオマエの言い草は太国が10回転アクセル・ジャンプを
出来てないと言うの同然であり、オマエも当然出来てるようで出来てないわけ
ではないか。www どこに10回転アクセルをやれる選手がいるか?ww

4回転ジャンプが出来なくたって、それ以下でちゃーんと金メダルをとって
る選手がいる。それができても金メダルがとれなりれば、労して功なしで、
オマエが文句100回垂れても、取れないものは取れない。www

281 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/20(土) 18:14:08
>>280 訂正
× とれなりれば
○ 取れなければ

オマエは今回のバンクーバー・オリンピックのフィギュアの某国選手のように、
4回転が出来ないからダメだとか不平を言ってたのと同然であり、そんな技は
簡単には行くまいて。オマエも某スレで出来ませんを本音をつぶやいていたこと
を忘れてはいまい。それともまたとぼけるのか〜?www

4回転が出来なくてもそれ以下で不利がなければ、ちゃ〜んを金メダルを手に
できたのは今回の試合で明らかだ。オマエの文句はこれを地に行ったもので
あり、いまだに糞の役にも立ちそうもないのに、盲象の上で六耳の猿公(ニセ
孫悟空)の手淫を行じている。誠に滑稽至極なり。bbb

282 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/21(日) 09:32:53
もん太君お久しぶりです。
やっぱり、外国と対照できない時代は難しいかな?
田道間守は西晋末と推測しますが。

283 :ローガン:2010/02/21(日) 11:38:47
>>276
七支刀。
「泰和四年十一月十六日」が正解では?年と月の間、スペースが二文字分あり上が「ト」下が「一」。
それから、「泰和」ですが、和と読まれている部分、「イ」としか見えない。ただ後に出てくる「供」「作」のにんべんとはあきらかに違う。
又、中心より左側にあり、禾が正解でしょう。泰については太国さんいう通り。
晋陽秋「泰和六年閏十月」
晋起居注「泰和六年三月庚午」
隋書経籍志「晋泰和起居注」 とあるそうです。

284 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/22(月) 00:58:27
規制で遅くなりました。

七支刀が368年でも良いが、そこで 神功が読めるか? 読めないですよね。
274年 晋は幽州を割き平州を置く。 この年に神功渡海。
326年なら、直前に永嘉の乱が終息して、北方に残された晋の領土は空白地帯と成る。

神功をデタラメ記事とするなら、何処でも良い。
それから、隔離スレのテストに 百済の土器編年に対する縦目さんの回答がある、
それによると、50年くらい新しい方にずれている、とのこと 

百済本紀に数字を合わせても 正解は得られない。


285 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/23(火) 18:44:39
幽州を分けて平州を置く
晉書卷三十六 列傳第六 より
對曰:「明コ至親,莫如齊王攸。」既非上意所在,微為忤旨,間言遂行。乃出華為持節、都督幽州諸軍事、領護烏桓校尉、安北將軍。撫納新舊,戎夏懷
1071
之。東夷馬韓、新彌諸國依山帶海,去州四千餘里,歷世未附者二十餘國,並遣使朝獻。於是遠夷賓服,四境無虞,頻歲豐稔,士馬強盛。
この辺を読んで下さい。これ以降東夷の代表は馬韓になる。

274年 二月,分幽州五郡置平州。
276年二月丙戌,東夷八國歸化。秋七月,東夷十七國內附。
これ以降 東夷は毎年の様に 朝貢


286 :日本@名無史さん:2010/02/24(水) 07:08:59
神功元年を大雑把に計算してみた。
まず、高城修三氏の説を参考に継体から仁徳までの各天皇の治世年数をみてみた。結果、記紀の
治世年数は次の年数で一致した。
継体(25)、武烈(8)、仁賢(11)、顕宗(3)、清寧(5)、雄略(23)
安康(3)、允恭(42)、反正(6、6年目は空位)、履中(6)、仁徳(87)
*記の顕宗8年は顕宗と清寧を単純加算したもの。記の雄略34年は雄略と仁賢を単純加算したもの。
記の仁徳93年の内6年は允恭の一部(反正・履中と玉突きかも知れない)。記の允恭18年は通常暦、2倍暦だと36年、
仁徳の中の6年を允恭に戻せば42年となる。安康以前は2倍暦の可能性大。
これを記は当年称元法で繋ぎ、紀は越年称元法で繋いでいる。
どう編年するかだが、継体終年を西暦531年とし、当年称元法を基本に繋いでみると(継体・武烈間は越年法)
仁徳初年は西暦410年頃となる。応神+神功の治世は記92年紀110年、通常年だと46年と55年。
仁徳前の空位を入れると、神功初年は記360年頃、紀350年頃となる。
(記の応神没年令130歳と92年の矛盾がある。130年とすれば、65年となり340年頃となる。)
いずれにしても4世紀半ばではないだろうか。


287 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/24(水) 19:16:18
>応神+神功の治世は記92年紀110年

紀には、百済王朝が登場する、これを圧縮出来ない。
ただし 韓国考古学は、百済本紀を数字に直せない、百済本紀の数字とずれても仕方ない。

>2倍暦の可能性大。
太陰暦との相性は最悪。
神功渡海は、冊封体勢に組み込まれた事を意味する。暦をどう扱うか?


288 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/24(水) 22:07:41
>神功初年は記360年頃、紀350年頃となる。

ここで渡海が説明出来ないから、この時代は間違いとなる。


289 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/24(水) 22:11:46
百姓千人など渡海も出来まい。wwwww

290 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/24(水) 22:26:19
新羅本紀
 232年 夏四月倭人が金城包囲

 232+120=352年

倍暦計算で  352年 三韓征伐  を得る。
さらに翌年

 353年 神功皇后 摂政皇太后

天津金木からもこれを得る。

291 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/24(水) 22:45:42
新羅本紀 の書き換えは、新羅土器の編年まで書き換えねば成らないが、
土器の編年に異常は見られない。
それに対し、百済土器は、思考誤差が大きく、編年出来ていない。
これは、日本との誤差で無く、中国の歴史との誤差を埋められないためである。

>353年 神功皇后 摂政皇太后
この数字から、七支刀が説明出来るか?そして百済王家。



292 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/24(水) 22:53:30
ノギヘンのところ「寧」にしたのは、何?X線星電波星人の通信を
ピピピピッとキャッチしたからか〜?wwwww

293 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/24(水) 23:09:47
古代南バビロニアでは2倍暦を行使していた。先述のとおり、南部は
春分を元旦とし北部アッカドは秋分を元旦としていたが、統一的
カレンダーとするには結局2倍暦の行使ということになり、1年に
2回元旦を置き、半年を1年としてカウントしたこととなり、通常暦
の1年が2年のカウントとなった。

同様に昔のロシア暦もこんな感じであったもので、3月1日を年始日
とする3月暦と9月1日を年始日とする9月暦とがあったが、
1492年になって9月1日を年始日とした。そして1700年1月1日に
おいて西暦が採用行使されるようになった。これなども2倍暦同然で
あり、古代昔は2倍暦等の行使が行われてきたのであり、唐松山の
言うマシなんぞロシアでさえやってないだろうが。www

マシなんかウラも取ってないいい加減なデタラメなのであ〜る。

294 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/25(木) 19:08:42
太国3倍年で ノギヘンが正しく表記されてるの?
無理でしょ、では、3倍年とノギヘンのどちらを優先するか?

ノギヘンですか?


295 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/25(木) 19:41:48
>3月1日を年始日とする3月暦と9月1日を年始日とする9月暦とがあった

この暦は、数字に直せるからね。
太国3倍年は、季節も数字も捨てた、絞りかす。
数字に直せない暦は、存在しない。


296 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/25(木) 21:47:26
オマエはノギヘンと「寧」とどちらを優先するんだ?

いままでの説明、書きこみだと「寧」だが、もしまだそうだと言うなら、
オマエは電波星人X星人からピピピピピッっとオマエの脳が受信をキャッチ
していると観てよい。pppppppppppppppppppppppppppppppppppppppp

297 :日本@名無史さん:2010/02/26(金) 09:51:52
微叱己知の人質と奪還の話は4世紀の話と思うが。


298 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 10:07:54
今朝12CHで池上本門寺の散策を放送していた。仏滅が紀元前949年他異説が
多いのも、当時印度では2倍年暦の行使があったのかとの疑念が浮かぶ。

印度暦では1ヶ月が月半分しかなく、美濃もん太説のごとくに1年24ヶ月に
して前半半月、後半半月での言い回しでの暦があったとする。古代日本の
欠史八代においても紀の日数記事はその全てがこの印度暦と似ており、
ただ印度とは違い前半半月、後半半月での判別がないし、かつ紀の記述
では閏月はいいとして13月以後の月数は見られないことから、当時の1年
は現今の半年での1年カウントの1年180余日での2倍年暦を行使して
いたと観るのが、当時の天皇の著しい長寿からも合理的考察であると思う。
今のところ世界の各暦法を調べてにたが、マシなんぞやってる所は無い。

仏滅が紀元前949年ならば日蓮上人の生存時期が1222年〜1282年で
あるから、通常暦ならば、仏滅後 五五百歳 の後五百歳(闘諍言訟 白法
隠没)の末法の始まり期間が上人の生きた時代ということになる。しかし
仏滅年代は異説が多く、やはり倍年暦での交錯が定まらなくなった原因が
あるのではあるまいか? なお、西遊記でも五百歳という期間を重視して
いるようで、孫悟空が釈迦如来に五指山に幽閉されたもの五百年である。

西遊記の烏鶏国の話でも先の五百年と今の五百年と後の五百年の区分での
少童の説明話が同国太子に行われているのが想起される。また西遊記には
天上の1日が下界の1年とする365倍暦的発想になっている。

299 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 11:20:41
大集経に如来が月蔵菩薩に対して未来の区間たる五五百歳の法説を語って
いるわけで、この菩薩名に「月」の字があることから、なんとなく暦法の
月を想起するが、古事記に

 日子穂穂手見命は高千穂宮に坐すこと五百八十歳

をも連想する。神武手前の世たる神代では、1年が現今の1ヶ月ではなか
ったのか? と、かように考えたくなって来る。

 580/12ヶ月=48歳余

の計算結果から、日子穂穂出見命の580歳とは、48歳余のことつまり、
神代の当時は12倍年暦でもやってたのではないのか? との考察に
至るのだ。聖書の創世記あたりの登場人物の寿命も、こんな倍年暦法で
カウントしてたんではなかろうかとの思いになる?

300 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 11:37:39
神武東征に、積3年がある。
東征の途中で無駄飯3年は、1年の出来事。

12倍年暦から1倍年暦まで 全てに於いて、同一の単位にしないと、暦にならないのだ。


301 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 11:57:01
やっと文献の根拠を挙げたか。ww もっと早く示すべきだろう。
積3年じゃぁオマエの主張する30年にならないではないか。ww
30年じゃぁマシがバレて、すーぐ削除され、サラに逮捕される。

60年、120年だとかだとバレない可能性があるが、オマエの論では全然
ダメ。ww

302 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 12:16:54
太陰暦は月齢にウソはつけない。

倍年は、合わせるべき、数字を得られない。
まあ、神武前紀を書き換えてみて下さい。移動時間も得られない可能性大。


303 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 12:27:24
積3年の中身が 実1年と空白2年で有ったとしても、
倍暦の3年では、日々の干支が得られない。

この様にどうしたら数字が得られるかの思考が欠けているのが倍年である。


304 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 13:16:56
そうなら、オマエこれからは日々単位でなく、全て秒数単位でハッキリ
させたらどうだ〜?www

305 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 13:37:19
>>303
神武の即位前は倍年暦なんぞやってないよ。通常の暦法だよ。

306 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 13:38:55
>全て秒数単位
この『秒』の日本語を教えて下さい。


307 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 13:41:51
オマエ英国人あたりか〜? まさか電波星人、X線星人では・・・?www

308 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 18:40:37
ホ28019 アクルトシなる ミタのアヱ なればフタヱト
キアヱより ヱとホとかぞえ ヒトヱムソ 
甲子より ヱとホとかぞえ ヒトヱ60

ホツマにはこの様に書かれている。
これが神武元年=あすす57年であるから、神武元年が57年である元の甲子年を考察すると、
42年−19=23年,42年−38年=4年 この様な数字が得られる。

西漢平帝元始4年 :甲子 

この57年間は、実38年、増し19年の合計57年間となる。
ここが、神武以降の暦の出発点です。


309 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 19:42:58
いくらそんな説明をしたところで、成務の年代が二桁でいくつも存在
するんでは、また499年の乙祁でオマエのは14年も狂ってるんでは、そんな
大甘な編年で、編年の金メダルは取れっこがない。総崩れしてるでは
ないか。www

310 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 20:25:33
総崩れは太国倍年でしょう
十月十日がそれを表している。

311 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 20:32:54
十月十日×2≒21ヶ月  つまり景行の代が2倍年暦をしていた文証だ。
マシなんかやってはいないよ。オマエのメチャクチャな妄想の極だ。ww
オマエのほうがおかしいわけだよ。早く目を覚まして一から出直したほう
が大恥をかかないで済むんだぜ。

312 :日本@名無史さん:2010/02/26(金) 20:54:02
う〜ん。神武元年は西暦4年か。左OBだな。
フェアウェイど真ん中は、安本氏と同じようで悔しいけど、3世紀後半かな。
左OBラインぎりぎりで、2世紀半ば。
これより、左では、台風の進路予想図に例えれば、台風は来ないゾーン。
迷走台風なら来るかも知れないが。


313 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 20:55:03
>十月十日×2≒21ヶ月  つまり景行の代が2倍年暦をしていた文証だ。

つまり
垂仁90年卯月から通常の十月十日後は、景行元年師走に日本武尊誕生
だと言いたいのね。
太国倍年の思考では、
垂仁90年〜99年までは、3倍年
景行元年より 2倍年
つごう10年の時間が流れると

太国倍年では
730庚午  292壬子  垂仁崩御
731辛未  293癸丑  景行即位
742壬午  298戊午  日本武尊誕生

垂仁9年間は、現実の何日?
景行1年間は、現実の何日?
併せて十月十日ですよね?


314 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 20:59:35
少し解ったぞ
292壬子
293癸丑
298戊午
この数字は西暦ではあるが、1年365日でなく、1年あたり四十日位を西暦で表す。

そうですか?


315 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/26(金) 21:53:18
神武元年を3世紀に持っていっては、
纒向遺跡と重なり、崇神と同じになってしまう。

橿原から纒向迄の時間が、欠史八代である。
これは、第X様式で説明出来る時空である。


316 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/26(金) 21:57:59
オマエの脳内は考察のブレーキ・ペダルが完全にイカれてるんだよ。
いまのうちに精神科で真剣に脳内の精密検査を受けて、診療医の診察を
受けたほうがいいよ。唐松山君よ。いままで自説がおかしい、変だと考え
たことが毛頭ないようだな? ただ前進のみでは、向こうは妄想失敗の
檻があるのみ。

317 :日本@名無史さん:2010/02/26(金) 23:37:50
纒向は欠史八代の後半には既に、何らかの集団が入っていた。その後半世紀以上
遅れて崇神が入ってきた。ってことはないのかなあ。


318 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/27(土) 01:58:15
>>317
崇神5,6年は、新羅192,3年で説明出来る。
そうで有るならば
庄内式、各地の土器、古墳築造の始まり、近江伊勢遺跡の衰退。
これらが全て崇神で説明出来る。

半世紀の空白は作れない。
昨年出土した大型建物祉は、場所から垂仁の珠城宮と推定できる。
箸墓250年築造を崇神にもって行くためには、新羅192,3年以外の設定が必要となる。

>オマエの脳内は考察のブレーキ・ペダルが完全にイカれてるんだよ。
>>313 を訂正してから云え。それまでは、上記の言葉は、「太国へんねん」そのままだ。


319 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/27(土) 10:31:53
そんなスリ抜けが毎回利くと思ったら大間違い。ww
ホツマの歌は五七調だから、一見して読む者が分かる記載をするはずだ。
それにこんなことはスリ抜けまでしてうっちゃり式の記載なんかする動悸
もあるまい。ストレートに読む者が分かる混迷しないですむ明快な記述
で歌をつくる。それだけに歌だから字数の制限があるから、利害の動機も
あるまいし、オマエの大得意なスリ抜け解釈を作者は選定しない。その
まま読解すれば、景行の時代は2倍年暦であったから当時の1ヶ月が現今
での半月分であることを語ったものが21ヶ月つまり十月十日のほぼ2倍の
表現記載だということだ。もともとオマエが21ヶ月じゃぁ3倍年暦では
不足だとか言い出したわけだよ。つまりオマエから率先してストレート
解釈をしてた訳さ。ww それが脳の正常な通常人なら考察するべき思考
なわけであり、3倍ではなく2倍年暦に置き換えれば、そのままオマエの
考察どおりだったということさ。つまり2倍年暦を数字の2倍3倍の取り
違えにて遠回しのあのときオマエは承認していたことになる。それを
>>313がどうのこうのと言うことは、これも遠回しにオマエのこの歌を
出したときのストレート解釈主張とタダ倍数を間違えただけあり、結局
は、オマエはこの件での自語相違をしてるということになる。ww

もともとオマエが言い出したことなわけだよ。ppp

新羅193年が崇神5,6年には全然なりえない。これはまだ船舶が建造されて
ない崇神17年の手前であることから、空腹の千人の農民が漁師でもないの
に半島に渡海なんぞ不可能である。しかしオマエはどうやら電波星人X線
星人からの通信をピピピッと受信出来うるような能力を持ち合わせて
いるのではないかとの推測から、その星に電送人間として即時に遠方に
人間を送り届ける電送人間機とかのすごい機械があるとの電波星人らの
教えをオマエがピピピッと受信してるならば、オマエの言う崇神5,6年が
新羅193年になる可能性が出て来る。bbbbb

320 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/27(土) 10:40:02
つまりオマエの新羅193年が崇神5,6年だとするには、オマエが受信して
るのか? 電波星X線星からの伝言により、電送人間マシーンとかがその星
に存在して、即時に畿内の百姓を千人でも独り独りでも強力な電波の介在
により半島で電送できるお教えを電波星人らから受けてピピピピッと連絡
が来てるんなら、これはオマエのその主張の可能性が出てくるわけだ。ww

321 :日本@名無史さん:2010/02/27(土) 13:01:30
崇神は百襲姫没直前後に生まれている。書紀は百襲姫と倭迹迹姫とを混乱している。
箸墓が百襲姫の墓であるならば、箸墓伝説は孝元記か開化記に書く記事。
崇神記に登場するのは倭迹迹姫。崇神は箸墓築造より後の人。


322 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/27(土) 16:05:12
モモソ媛は三つ子なんだよ。
一人は大物主へ嫁ぎ、別の一人が崇神6年頃登場。


323 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/27(土) 16:24:01
太国さんが、「泰和」を主張する限り、編年に載せなければ成らない。
しかし太国倍暦を見る限り、その数字を支持する編年と成っていない。
この事は、太国倍年を否定しないと「泰和」の支持は出来ない事を表す、倍年の否定か?


324 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/27(土) 16:31:46
もし倍年を肯定して「泰和」を取り込んでも、其処で書紀の記事を容認しなければ成らない。
対外情勢が取り込まれなくては成らないが、百済王家の存在を否定したままでは、取り込み不可能。


325 :日本@名無史さん:2010/02/28(日) 01:13:48
スレ違いかも知れませんが
注連縄を年2回張り替える行事は倍暦と関係あるのでしょうか?

326 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/28(日) 10:20:25
断定は出来ないでしょうが、可能性はあるでしょう。大祓いも6月末
あたりの半年経過の時でしょうし・・・。

327 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/28(日) 15:05:04
昔は地球の裏側の地震は分からないから、突然津波が来たら驚いたでしょう。
潮みつ珠、潮ひる珠の神話は通常の干満ではないかもしれない。

328 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/28(日) 16:54:01
秋田県男鹿半島に赤神神社という社がある。景行年代天降りしたとかいう
大陸の孝武帝が祭神の赤神だとかいう伝説である。同帝の生存年代の
紀元前を紀元後として年代数字を観ると、見かけ(実年代ではない)の
西暦年数がおおむね合うことから、昔の何者かがこういう伝説の大元の
話を考えたのではないだろうか? 孝武帝(前漢)は倍暦計算でも景行の
時代ではないことは確かである。

329 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/28(日) 17:17:57
先だって大阪府泉佐野市にある蟻通神社の由緒書きにある奇怪な年数字で
ある「開化天皇の紀元93年」が2倍年暦行使の開化年代60年(前後年を
2年追加で62年)を3倍年暦で計算した場合で、開化93年になる事を説明
し、開化世の2倍年暦の時代に3倍年暦で計算した者が昔いたことを
具体的に明かしておいた。

これは同神社の巻貝の糸通し伝説によりて、巻貝が巻向の景行年代を示唆
したもので、中をくぐる蟻ん子の巻貝の天上の穴の時代が成務の高穴穂宮
の年代になることをも解説した。つまり景行の代も開化と同様2倍年暦を
行使していたとの示唆が同社のこの伝説であり、当時倍暦を行使して
いたことをうかがわせる。景行の代が2倍年暦を行使していたことは、
かのホツマの21ヶ月妊娠記事でもウラが取れていた。

さて、岐阜県郡上市に白山仲居神社がある。ここにも開化93年と対象的
雰囲気のある奇怪な文面が同社社誌にあり、境内のいくつかの掲示板にも
このことが記されているのだ。一枚の掲示板には同社の創立が景行十二年
(83年)とあり、83年は見かけの西暦83年のことだが、同十二年は82年の
勘定になるも、1年のズレは即位前年からの計算の手法で、当時よくやっ
ておったのであろう。                      〜続く

330 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/28(日) 17:45:12
>>329 続き
この白山仲居神社の別の掲示板に伊邪那岐命の武比古なる者への神託
らしいが、宮造りの創立の由緒が

「景行十二年(西紀前三十九年)」

との奇怪な文が載っている。

この「西紀前39年」が蟻通神社の「開化紀元93年」に一脈相通じるのが、
数字をいずれか逆転させたときに同数字となることでの考察からこう思う。

西紀前39年とは見かけの西暦では崇神の代の末期であり、景行の代には
当たらない。実年代の倍暦計算では神武即位前になり、これも全く当たっ
てない。が、しかしこの「西紀前39年」とやらを「西紀93年」と西紀前
を西紀後として逆数字93年の『西紀93年』と転換させて蟻通神社の「紀元
93年」と同一的とすると、二社の伝説由緒の正体が見えてくる。

「(見かけの)西紀93年」なら皇紀753年でありそれがしの倍暦計算から
同年の実年代は304年になるが、この年は(1年を現今式の通常暦計算で
の)景行12年になるのである。掲示板の景行十二年は紀の記載の方式
での12年の意味であって、倍暦とカウントが異なる。

331 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/28(日) 17:58:19
愛知県民さん

景行の代、2倍年暦での計算が

(紀の記述でない通常暦計算)景行12年=304年=(見かけの)西暦93年

となったということは、二社の伝説由緒が開化も景行の代とも2倍年暦を
南バビロニア等の如く確実に二年代の当時、行使していたと
いうことのさらなる確信を抱いている。マシでは説明できないだろう。ww

332 :日本@名無史さん:2010/02/28(日) 22:10:20
仮にである。マシのカットや倍暦を入れ、仮の編年をしてみた。
2年を1年に圧縮するのは、やっかいである。一つの記事だけや、時系列がうまくいけば、
そのままでもいいかも知れないが、新368年はマエ年4月17日神功没、アト年1月1日
応神即位となり、月が逆転する。故、マエ年を1〜6月、アト年を7〜12月に圧縮。
すると、マエ年12月やアト年1月が夏になり季節がずれる。
マシのカットもどの年をカットすればいいかを考える。
月日まで割り振るのは骨が折れる。ご参考に。

342(壬寅) 仲哀7 12月癸未朔の丙申 応神誕生
343(癸卯) 神功1 10月己卯朔の庚辰 神功皇后、皇太后となる
346(丙午) 神功4 近尚古王即位
〃 (〃 ) 〃 倭兵風島に至り、金城を包囲
364(甲子) 神功22 7月 百済王、倭との国交を望む
365(乙丑) 神功23 3月甲辰朔に 斯摩宿禰を卓淳国に遣わす
368(戊辰) 神功26 2月丁亥朔の庚戌 神功没
〃 (〃 ) 応神1 7月乙卯朔に 応神即位
369(己巳) 応神2 3月 七国平定、済州島を百済につける
〃 (〃 ) 〃 世子(仇首)、倭王のため七支刀を造る(倭王は応神)
372(壬申) 応神5 9月辛卯朔の庚子 百済、倭王へ七枝刀を献上
375(乙亥) 応神8 近尚古王没、近仇首王即位
384(甲申) 応神17 近仇首王没、枕流王即位
385(乙酉) 応神18 枕流王没、 辰斯王即位
392(壬辰) 応神25 辰斯王没、 阿華王即位
397(丁酉) 応神30 百済王子直支を倭へ人質に送る
405(乙巳) 応神38 阿華王没、 腆支王即位
414(甲寅) 仁徳5 腆支王没、 久爾辛王即位


333 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/28(日) 22:49:49
>>329 >>330 >>331

皇紀 西暦 倍暦
728 68 292
729 69
730 70     垂仁天皇 崩御
731 71 293 景行天皇 即位
・・・・・・
741 81 298 
742 82     紀の景行十二年 日本武尊 誕生
・・・・・・     ↓
753 93 304 景行12年


334 :日本@名無史さん:2010/03/03(水) 11:29:01
サイバーテロから抜けました。

335 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/03(水) 14:41:28
28日は白山仲居神社と先述した蟻通神社の39と93数の相応について説明した。
同説明と上表とホツマの21ヶ月妊娠の記述から、景行の時代には2倍年暦を行使
していたことは古代南バビロニア等の2倍年暦行使のことを考慮に入れて合理的
な考察なのである。

古代の真の実年代を測る天下の宝器が天津金木であり、大石凝真素美翁は抽象的
にもこの実体を感覚でおぼろげながら察知していたのであろう。同翁はこの宝器
を天津神算木という呼び名で一面的たる把握でその運用を手がけている。

天津神算木は三輪の神の伝授なのであろうか、三輪の呼び名からも分かるよう
に、三輪とは半径3の円をいい、とりわけその球化での表面積S、体積Vの値の
数式がその実体である。前者の場合、天津神算木は

 4×π×r**2=113.09733552923・・・・・ (**はベキ)

であり、右辺から先ず見かけの年代たる 113.097 と 13.0973 から

 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位
 1/3 皇紀973年  仁徳天皇 即位

を得る。なお崇神即位年はあっても景行即位年は無く、景行没年が西暦130年
と逆読みで皇紀790年(双方通説年)が存在する。

336 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/03(水) 18:34:16
>>332
343(癸卯) 神功1
神功渡海を343年まで遅らせて、渡海する透き間と倭軍の軍事力を考えねばならない。

この時代は、半島からの渡来人が非常に多い時代です。
誰が、どんな民族が渡来したか?
半島南部の馬韓は、土器編年から継続して次の時代を迎えている、馬韓や新羅、百済人では無い。
最大の渡来人は、高句麗や北方系です。 5世紀になると、高句麗の強大化がある。これ以降に大量の渡来人は望めない。

一説によると、二〇万人の渡来があったと計算される。この人数は多すぎると思うが、二万人では少なすぎる、

渡来は4世紀を中心に考えると、この人たちが、応神、仁徳陵を築く。
5世紀に入ると渡来人が減少、いきおい造陵の規模も小さくなる。


337 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/03(水) 18:50:33
>4×π×r**2=113.09733552923・・・・・ (**はベキ)
パイの計算が先。出来るかな?


338 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/03(水) 21:28:17
>>335 続き
天津神算木の分断には種々あるのですが、とりあえず右辺全十桁での
分断を主眼として天津神算木を分断しましょう。大祓祝詞に

 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

とありますが、本(左辺)の4を分断し末の11桁目以降の2923・・・
を分断しますが、10桁目が5で11,12桁目の29分断は月の満ち欠けの日数の
29.5日を少数点での区切りを分断で示唆することからのことです。

これによりて、分断した天津金木は(rは文字とする。またrもついでに
分断したとしてもいい)不等式にて


 2≠113.0973355

左右両辺から一時的に本末接続して

1/1 B.C.255年 孝元天皇 立太子

分断であるから、これは消極的指示年代であり、雲散消霧の状態を表し、
欠史八代を外しているもので、天津金木の算木の年代計測は崇神天皇を
積極的に始点(ハツクニシラス)として強調している。

339 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/03(水) 21:50:20
>>338 続き
欠史八代の天皇の一人、孝元天皇の(通説的)年代を分断して消極化して
いることは、先述のとおり天津神算木を崇神始点とさせる示唆からのもの
であり、これは崇神以後を三輪皇朝とするに対して開化以前を先皇朝と
させる皇朝の時代区分を強調させることからのものです。

大祓祝詞 には欠史八代の先皇朝のことを

 天の八重雲を厳の千別きに千別きて聞こしめさむ

という記述でこれを教示しています。天の八重雲とは崇神世の手前の年代
計測が不明確である欠史八代という上代のことを表現する語で、「厳」
(イツ)とは五つのことで千座の置座(整数第四位の千位の桁)とを仮
にも接着させる数字で、上式(不等式)には千の桁はないが、不等号を過
ぎて2数が千位の代用となり、不明確な八代の年代が見かけなるも発現
させることになります。イツ(5)と仮千位2とを接着させて孝元天皇の
立太子(通説、見かけの)年代が出るわけです。

340 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/03(水) 22:25:41
>>339 続き
崇神即位と仁徳即位の実年代を天津神算木から求めてみましょう。
天津金木の右辺は全十桁で分断しましたが、ここでは全九桁での分断を
行います。分断の天津金木は

 2≠113.097335

となりますが、右辺は113と097と335の各三数に分けるときに、
113は即位の月日数で1/13を示し、097は即位の見かけの年代、335は実年代
を与えるための差をとる年数字です。

 335−097=335−97=238年

これから1引くと実年代が求まります。1引くのは西暦0年を除去
するためで、097の先頭の0が西暦0年を示唆し、また97数に詰まり

 238−1=237年=崇神即位元年=景初元年

から  1/13 237年 崇神天皇 即位(実年代)

341 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/03(水) 22:47:42
>>240 続き
先述の分断された天津金木は

 2≠113.097335

別の意味で天津金木の「金木」とは、『金』が数字の7を『木』が数字の
9を表現するもので、五行はそれぞれ数字が対応しており、「火」は1、
「水」は3、「土」は5を表現して五つの奇数が対応するのです。

それで「金木」とは79のことであり、天津金木の右辺に崇神即位と仁徳
即位の双方の年月日数に重なって97数があるのが注視出来ます。仁徳
即位年(見かけの通説)皇紀973年は(同)西暦313年であり、ここで313と
79の和をとり

 313+79=392年

が計算され、79数の脇には例の0があって1年差し引きの詰まりで、

 392−1=391年

この右辺が仁徳即位の実年代です。よって

 1/3 A.D.391年 仁徳天皇 即位(実年代)

同年、広開土王即位です。また三輪の球化での体積からの天津金木は
左辺が4×π×r**3/3 ですから、分断はこれでは不等式

 3≠113.097335

ですが、1(年)をとれば両辺から西暦313年(仁徳即位)が出て、やはり
391年が得られます。

342 :日本@名無史さん:2010/03/04(木) 07:12:55
編年を古い方へ移動すると、下のように仁徳まで緩やかなカーブが
急にきつくなる。1600年間続く勾配が先の方400年で曲がってしまう。
漏れた天皇がいるか、古い天皇の記事が新しい天皇のところに書かれているか、
それとも歴史の読み間違い?そうでなければ説明がつかない。

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343 :日本@名無史さん:2010/03/04(木) 07:20:38
どうも図がうまく書けない、もう一度書いてみる。
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;/
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;;;;;;;;;;;;;;;;;;/;;;;;;
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;;;/;;;;;;;;;;;;;;
/;;;;;;;;;;;;;;;


344 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/04(木) 11:41:53
他に説明はつきますよ。当時2倍年暦等を行使していたから不合理
はありません。他国でも2倍年暦等の事例があります。なおマシを
やってる事例はないようです。

345 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/04(木) 14:58:04
>>341 続き
先述の分断された天津金木は>>338から

 2≠113.0973355

>>338>>339から孝元天皇の立太子年は 1/1 B.C.255年 で、ここでその
実年代の求めるには、右辺1/1の月日数の隣の数の(各々逆読み→)3と
79により、その和を使用して求まります。すなわち

 255−(3+79)=255−82=173年(実年代)

により A.D.173年が孝元の立太子年の実年代です。

346 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/04(木) 19:14:49
>>342
>それとも歴史の読み間違い?そうでなければ説明がつかない。

400年迄辿らなくても、不審はある。
允恭廿三年春三月甲午朔庚子。立木梨輕皇子爲太子。
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月 天皇異之卜其所由。卜者曰。有内亂
允恭天皇42年崩御

允恭24年といえば、倭の五王のつなぎ目でもある。

神功、応神には、百済王朝が列記されている。よって無闇に圧縮しても正解は得られない。
百済の歴史(百済本紀)は、韓国考古学が数字に直せない。間違いがある証拠。
神功の渡海が、冊封を意味するなら、なおさら圧縮には注意が肝要。

崇神紀には、正朔の文字がある、太陰暦で読める様 圧縮する必要がある。


347 :日本@名無史さん:2010/03/04(木) 19:28:24
>>344
すでにマシのカットや2倍暦編年、欠史八代などは殆ど4分の一位になっており、
神武は2世紀半ば、神功は4世紀半ばのグラフです。手元のグラフはほぼ
>343の角度とよく似ており、これが限界。これより古くすると、断崖絶壁の方へ
向かう。全く非科学的だが、気になる一面でもあります。


348 :日本@名無史さん:2010/03/04(木) 21:52:25
>>347
欠史八代が大王の系譜ではなく、稲荷山鉄剣のような直系系譜だったら
兄弟相続のある大王の系譜とは違って角度が変わってくる

応神〜武烈 直径の系譜  6代

上祖、名は応神
其の児、仁徳
其の児、名は履中
其の児、名は市辺押磐
其の児、名は仁賢
其の児、名は武烈

応神〜武烈 大王の系譜 11代

応神
仁徳
履中
反正
允恭
安康
雄略
清寧
顕宗
仁賢
武烈

349 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/05(金) 11:19:48
>>347
>神武は2世紀半ば.
これを正当化する為には、 考古学や文献の記録と合わせなければ成らない。
例えば、弥生第5様式は、1世紀半ばの神武東征にあたる。
崇神五,六年の記事は、新羅192,3年の記事と同等。
神功元年の日食は、273年。神功52年七支刀は、326年。ここから百済王朝が書かれているから、無闇に動かせない。
370年 応神二十八年秋九月,高麗王遣使朝貢 高句麗にとって、目の上のコブ前燕が滅ぶ。
この辺りまでが、高麗人の渡来?
仁徳を応神に繋げると時空が狂う、仁徳紀は、神功、応神と重なる。合わせ目は、神功39年太歳より399年迄。

これと同じように、歴史的事実を繋げなくては成らない。
この数字は、稲荷山鉄剣銘が雄略に当たらないことを主張、せいぜい日本武尊の子ワカタケルである。

数字あわせは、机上の計算だけでは、歴史にならない。
歴史的事実が、計算で出せる方法を考える。

雄略には、武寧王の誕生がある、この事実は、動かせない。雄略を動かしても、この事実は動かない。


350 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/05(金) 13:50:08
唐松山は日本から半島に人間を電送させる電送人間機の効能でも、遥か極超遠方
の電波星人X線星人からの電信をピピピピッと受信しているらしい??www

351 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/05(金) 14:33:32
大祓祝詞の〜高天原から天の八重雲などという形容はファンタジックで非現実的
神話要素を孕んでいる、現実世界に生きる民衆の手の届かない雲の上の物語式
説明であって、実際の真はどういう意味、現実を持っているのかということに
離間して雲を掴むような文章なわけであるが、「天の磐門を押し披き・・・」の
あとの「国津神は高山の末短山の末に上りまして・・・」からがその現実的意味
の具体的内容に言及して来る。これが雲上の天津神に対して現実世界の高程度の
人物たる国津神をいう呼び名で表現している。

高山とは神武即位の見かけが紀元前660年の上代であることを意味し、短山とは
神武即位がそんな数字の古い年代ではなく、身近な現今の時代に少しでも接近
した真の神武即位年代のことをいう。ここで本来は高山の先短山の先とか高山の
本短山の本とかの文になるべきだが、二つの山の頂点(の年代)を逆算すること
から「高山の末短山の末」という言い回しになっているのである。

「高山の五百理短山の五百理をかきわけて」

とは倍暦の終末である現実の五百年代を意味してその見かけと真との年代との
区分け、線引きを行っての意味である。

352 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/05(金) 15:02:46
>>16 の続き
皇暦            暦日  元旦朔 治世日数 治世月数
852年 仲哀天皇元年 319587日 庚寅  3307日  111.99月
861年 神功皇后摂政 322894日 甲申 25190日  853.01月
930年 応神天皇元年 348084日 庚寅 15710日  531.99月
973年 仁徳天皇元年 363794日 丁酉 31775日 1076.00月
1060年 履中天皇元年 395569日 丁亥  2185日  73.99月
1066年 反正天皇元年 397754日 丁丑  2185日  73.99月
1072年 允恭天皇元年 399939日 丁丑 15357日  520.04月
1114年 安康天皇元年 415296日 壬子  1092日   36.98月
1117年 雄略天皇元年 416388日 丁丑  8387日  284.01月
1140年 清寧天皇元年 424775日 壬寅  1831日   62.00月
1145年 顕宗天皇元年 426606日 己亥  1092日   36.98月
1148年 仁賢天皇元年 427698日 辛亥  4017日  136.03月
1159年 武烈天皇元年 431715日 戊戌  2923日   98.98月
1167年 継体天皇元年 434638日 己巳  9863日  333.99月
1194年 安閑天皇元年 444501日 辛巳   738日   24.99月
1196年 宣化天皇元年 445239日 戊寅  1448日   49.03月
1200年 欽明天皇元年 446687日 辛酉 11693日  395.96月
1232年 敏達天皇元年 458380日 癸卯  5109日  173.01月
1246年 用明天皇元年 463489日 甲申   738日   24.99月
1248年 崇峻天皇元年 464227日 壬寅  1832日   62.04月

最終的には、この様な書紀に書かれた数字にならなければ成らない。
この数字を拒否すると >>350 の様にみじめな状態となる。


353 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/05(金) 17:44:26
船舶が出来たのは、それが出来てない崇神5,6年より後の崇神17年であるから、
当然天皇も乗船出来ずそれ以下の身分の空腹百姓が千人も大船に乗って半島に
渡海など出来るわけがなく、離散途中で殆どが野垂れ死にが関の山であ〜る。ww

これが崇神17年以後になると天皇がまず試し乗りをした後、その次が大臣百官
の乗る番であり、そのおこぼれが運良く頂戴出来れば、百姓もそれは乗れること
はあるだろうが、崇神17年より手前ではまだ船舶などなく、その時は電波星人
X星人とかから電送人間機を貸与等があって、始めてその強力な電波によって
畿内から半島の電送人間として電送は出来るだろう。その連絡が電波星等から
ピピピピッと受信出来る能力があるのなら、これは半島渡海は空腹でも大量人数
でも容易に可能であ〜る。wwwww

354 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/05(金) 17:50:36
崇神17年以後ならば半島への渡海が可能となり、崇神16年以前では当然渡海など
強力な電波を発する電送人間機とかがない限り、これは大船が無いんだから到底
渡海は無理なこったということである。www

この戒めを大祓祝詞に

「大津辺に居る大船を舳解き放ち艫解き放ちて大海原に押し放つ如く」

と警告している。www

355 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 19:10:02
神武から今上まで125代(神功を入れて126)の天皇の皇位継承形態を並べてみました。
古代は父子継承が続くので、グラフの角度は変わるでしょう。

★●●●● ●●●●● ●●●■○● ●●○○● 
○●◎○● ◎●○○● ○○○◎○ ○○●●◎
○◎◎◎■ ●◎◎◎● ●○○■● ●●◎●●
●○●○■ @@◎○● ○●●●● ○○●●◎
●○●○● ◎●◎●○ ●@●◎◎ ◎●●○◎
●◎●●● ●●●●○ ○○●●● ●○■◎●
●●●●●

●=親→子
○=→兄弟姉妹、→配偶者
■=叔父・叔母→甥・姪
@=→従兄弟・従姉妹
◎=その他


356 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 19:22:42
奈良の史官の机上で造作された虚構の年代いじくっても数字遊びにしかならない。

357 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 19:32:37
書紀の元旦朔は次の通り。

930年 応神天皇元年 丁亥
973年 仁徳天皇元年 丁丑
1060年 履中天皇元年 壬子
1066年 反正天皇元年 丁丑
1072年 允恭天皇元年 癸卯
1114年 安康天皇元年 己亥
1117年 雄略天皇元年 辛亥
1140年 清寧天皇元年 戊戌
1145年 顕宗天皇元年 己巳
1148年 仁賢天皇元年 辛巳
1159年 武烈天皇元年 戊寅
1167年 継体天皇元年 辛酉
1194年 安閑天皇元年 甲申
1196年 宣化天皇元年 癸卯
1200年 欽明天皇元年 庚戌
1232年 敏達天皇元年 甲辰
1246年 用明天皇元年 壬子
1248年 崇峻天皇元年 辛未


358 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/05(金) 20:36:36
>>357 さん訂正ありがとうございます。


数字の入らない元旦朔は、表記間違い、下記は数字自体も変更する必要がある。
1072年 允恭天皇元年 399938 癸卯
1232年 敏達天皇元年 458381 甲辰
1248年 崇峻天皇元年 46228 辛未

その検証のための式です。
=CHOOSE(MOD((B2526+59),10)+2,"","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")&CHOOSE(MOD((B2526+59),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")

359 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/05(金) 20:47:26
訂正
下記の数字に変更
允恭天皇元年 399940日 癸卯
宣化天皇元年 445240日 癸卯
敏達天皇元年 458381日 甲辰
崇峻天皇元年 464228日 辛未


360 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/05(金) 20:54:46
訂正 元旦朔を下記に変更 暦日に変更なし。
皇暦      暦日 元旦朔
1 神武天皇元年 8777日 庚辰
80 綏靖天皇元年 37629日 壬申
113 安寧天皇元年 49677日 庚申
151 懿徳天皇元年 63556日 己卯
186 孝昭天皇元年 76343日 丙戌
269年 孝安天皇元年 106642日 乙酉
371年 孝霊天皇元年 143909日 壬辰
447年 孝元天皇元年 171668日 辛未
504年 開化天皇元年 192487日 庚午
564年 崇神天皇元年 214399日 壬午
632年 垂仁天皇元年 239234日 丁丑
731年 景行天皇元年 275409日 壬申
791年 成務天皇元年 297321日 甲申
852年 仲哀天皇元年 319587日 庚寅
861年 神功皇后摂政 322894日 丁酉


361 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 21:34:25
>雄略には、武寧王の誕生がある

そう、武寧王の誕生は462年でなく、書紀にあるように461年。死亡時年齢は
62歳でなく、63歳である。出生時のいきさつは書紀のみぞ知る、蓋鹵王の子である。


362 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/05(金) 21:35:46
>>356
そういうことは、当時の公文書偽造のウラ付け捜査をして、容疑が固め
ることが出来てからモノを言え。

363 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/05(金) 22:14:28
>>351
大祓祝詞に
「高山の末短山の末より佐久那太理に落ちたぎつ」

大祓祝詞の始まりのほうは高天原からのいささか神秘的非現実的雲の上の
手の届かない出来事を語っているところ、国津神の出番から、今までの
そういうファンタジック的雲を掴むような説明が、現実的にはこういう
意味ですよということを文学的絶妙な形容で地についた話として、これを
水流を主体として語ったものだということです。

神武即位が紀元前660年という設定(高山の末)と同即位の実年代がもっと
後代の某年(短山の末)という別時点からの年代移行(後代への時間の
流れ、経過)の欠史八代の一時点(これも通説と実年代の二時点)を
示す語が「佐久那太理」で、地理的に言えば両山の末の点からの川の流れ
の両岸分け隔ての谷間のような意味合いで、二代綏靖が神沼川耳尊の御名
であることはここんところから来ているように思えます。

>>341のとおり、金木とは79数のことですが、天津金木の分断と混線し
ないように「佐久那太理」とも云うもので、サクとは裂くで水流が両岸を
分断することと天津金木の分断とは別にこの79の分断を示唆し、『久』
は9、『那』は7のことで「那太」はナタ即ち分断工具にして、個々に
一個的に断って片方を除去しろということを示唆しています。

364 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/05(金) 22:29:10
>>363 続き
そこで天津金木は、不等式

 3≠113.0973355

ここで「佐久那太理」から9数を削除すると右辺は

 113.0 73355=113.0 733550

ここから

 皇紀113年 07/3 安寧天皇即位

が出ます。「佐久那太理」とは結局、安寧の代を時点設定とすることを
言い表す語であるわけです。

365 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 23:04:47
1719年に、長州潘の毛利吉元が設立した潘校ってどこだっけ?

366 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/06(土) 08:46:58
>>363>>364
このように「金木」とは79のことであり、佐久那太理の分断 7/9 から
9を除去して先皇朝の安寧即位年代を指し示します。

この分断ではなく、もとの天津神算木の分断において、分断前は

 4×π×r**3/3=113.09733552923・・・  (r=3;**はベキ)

であったが、その分断により

 3≠113.0973355

の右辺全十桁となるが、これは前値よりも右辺の値は少し小さくなる訳で
1に対してどのくらい少なくなったのかと考えれば

 113.0973355/(4×π×r**3/3)=9.9999999 974152 7451・・・<1

逆読みで

 皇紀2514年 7/9 日章旗 成る

これの7/9を注視されたい。

367 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 08:55:17
オタの数字遊びだな。
造作された虚構の年代をいくらいいじくっても砂上の楼閣と同じで無意味。

368 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/06(土) 09:02:53
>>366 訂正 (**はベキ)
×
113.0973355/(4×π×r**3/3)=9.9999999 974152 7451・・・<1


113.0973355/(4×π×r**3/3)=9.9999999 974152 7451・・・**-1<1

369 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/06(土) 09:06:44
>>367
じゃぁどのように虚構の公文書偽造を舎人親王らがやったのか、
そのウラ付け捜査の結果を出すんだな。出来まいが。

どうせオマエはウラ付けなどやってまい? 足利事件をよく考えろ。

370 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/06(土) 10:22:53
>ウラ付け捜査の結果を出すんだな。出来まいが。

パイの計算式のことですか?

日本武尊の誕生なら、垂仁90年卯月から21ヶ月後の景行元年ですし
田道間守の渡海も 垂仁90年から10ヶ月後の弥生帰着は、景行元年です。

この時空10年を倍暦(3倍と2倍の複合)で10月10日にする神業。さすが太国倍年は出来が違う。
敬服しっぱなしですよ。


371 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/06(土) 10:40:27
皇暦1年 神武元年正月8777日 庚辰朔から 皇暦861年 神功皇后摂政 322894日丁酉朔まで
増しを33章とすると、33/4=8.25日 繰り上げて9日を実数に加えると
実数 85106日 2881.96月 233年が得られる。 1日の不足がある?
神功皇后摂政 322894日丁酉朔より神功39年 336774日 470.02月 丁巳朔では、1日多すぎるか、
丁巳朔は、景初三年正月丁亥朔と30日の違いがある。
神功39年 336774日 丁巳朔を仁徳元年正月辛巳朔とすると履中天皇元年 395569日 壬子朔で
31775日 1076.00月が得られる。

神功皇后摂政 322894日丁酉朔は1日早すぎる日付かも。
神武元年から仁徳末までを 130761日 1076.00月 358.0041年で説明出来る。(1年365.25日)
400年−358年=西暦42年が神武元年となる。

『増し』は、最初に1日差し引いてから4章を運用する。
実際の暦は4章の終わりに1日差し引く。
この2重の暦は、一つの暦法では計算できないが、この二つの暦なら計算できるのではないか。

これで1日の狂いもなく太陰暦になる。

372 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/06(土) 10:45:52
>>370
な〜んだ? オマエがまた無コテで書きこんでだのかね?ww

オマエは2ちゃん特別編でも撹乱を企図するために無コテで書きこんで、
古代マヤ元年のB.C.3113年をデタラメの情報たる2千年前とかでイカサマ
を垂れこんだワルをやってたろう。トンデモない野郎だ。

373 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/06(土) 10:52:29
マシなんかやってはいない。世界各地のどこの暦でもマシなんかやって
た所は見当たらない。所詮オマエの脳内の空想デタラメだよ。倍暦法は
古代マヤ、アステカ等。けっこうやってる地域がある。当時の1年が365日
でない暦法がかなりあったということだ。オマエのマシなんか当時のマヤ
でやりゃぁ、王の激怒を買い、チャックモールの上で心臓をえぐら
れる刑罰が待っている。誰がそんな危ないマネやろうか? やるわけも
あるまいが。ww

374 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/06(土) 11:19:13
じゃあ パイの計算式は、お願いします。


375 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/06(土) 11:30:17
そんなことより、オマエの立太子の編年表が先だ。できねぇのか?
そーだろう。出すとデタラメのシッポが見えるからな。ww

376 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 11:57:35
数字遊びはほどほどに。

377 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/06(土) 12:13:17
立太子なんか死の少し前で良いでしょう、たまには、景行の様に数年前に立てる場合もあるが、
この時代、人間の寿命なんか40才まで生きるのは少数である。
それを現在と同じくらい長生きにせねば成らない理由が無い。
誕生と世継ぎが説明出来れば、良いんじゃないですか。

太国3倍年の如く 垂仁90年卯月から景行元年日本武尊誕生までが 10月10日の300日程度とし
西暦に直すと 
731辛未  293癸丑  景行即位
742壬午  298戊午  日本武尊誕生
この暦法こそ 誰も使えない。だから幾ら書き込んでも 誰も使えない。
この暦法で歴史を語らない以上、太国さん自身がこの暦法を使えない。
数字の説明は用を足していない。誰も使えないから仕方ないが、数字の説明は何の為ですか?


378 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/06(土) 12:16:06
誕生年の説明

フソヨトシ キミヨツギなし
二五年天押男、神八井耳の誕生年。
AD、42年 神武即位 
ここまでに、現実に流れた時間は、10年とすると、AD、42年崇神元年として、AD、52年
52年天押男誕生 ここから分かり易く20年で世継ぎをする。72年 押男の子供
92年ヨソタリ姫の誕生 
94年 考昭即位、まだ幼い。
ミソヒトシ ウチミヤのアニ ヲキツヨソ ナルケクニトミ
ヨソヰトシ サツキソヰカに キサキうむ イムナヲシギネ アマタラシ ヒコクニノミコ
ヨソコトシ キミヱハツヒに キサキうむ イムナヲシヒト ヤマトタリ ヒコクニノミコ
考昭治世 公称83年間 実26年間
考昭49年で 実15年が経過とすると、AD108年孝安誕生
AD120年 孝安即位 公称102年間 治世26年間
フソムトシハル キサラソヨ カスガオキミの ヲシヒメを いれてウチミヤ コトシソミ
ヰソヒトシ ナガツキハツヒ キサキうむ イムナネコヒコ ヲヲヤマト フトニノミコぞ
フソムトシハル AD124年
ヰソヒトシ AD130年 孝霊誕生
AD146年 孝霊即位 公称76年間 実19年間
フトシキサラギ ソヒにたつ シギのヲヲメが ホソヒメを キサキぞカスガ チチハヤが ヤマカヒメなる
ミトシハル ヲヲミナクチと ヲヲヤクチ ともにスクネと ナツウチメ ヤマトクニカが
ミツコうむ ナはみなヤマトモモソヒメ
ソヤホハル ハツモチキサキ うむミコは ヤマトネコヒコ クニクルの イムナモトギネ
ソヤホハル AD150年 孝元誕生
AD165年 孝元即位 公称57年間 実19年間
ヰオヨホムツキ アマツヒツギを うけつぎて ヤマトクニクル アマツキミ アメノミマゴの
タメシなり カサリをタミに をがませて ミウエキサキと ハハをあげ ソフのツボネに
キサキたつ


379 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 12:18:34
神功39年元旦朔は丁亥のようです。
この辺り各月朔の干支は次のようになっています。節季と朔望月の境が接近する微妙な時期で、
計算の精度によってはカッコのように閏月が一月ずれる可能性もあります。

神功元年
仲哀9年閏12月 戊辰 (1月)
1年1月 丁酉  (閏1月) 
1年2月 丁卯

神功39年
38年12月 戊午
39年1月 丁亥 (閏12月)
39年閏1月 丁巳 (1月)


380 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/06(土) 13:08:04
>>377
そんなのは立太子の編年の回答には全然ならない。紀とホツマから確定出来
ないわけだ。だからこんないい加減な言動で誤魔化している。ww

そうだろう、出せばオマエのデタラメが歴然となるからな。pp

381 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/06(土) 13:18:06
当時の朝廷には全国からうまいものがゴマンと集まってくる。だから末端の貧乏
な人民と違い長生きは充分ありうる。現に半島にも長寿王がいるし、ラメシス
2世も90余歳マデ生きて長寿王に近い年数生存している。

少数でも朝廷のほうはうまいものがゴッソリあるから、けっこう長生きしてるぜ。

382 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 13:21:20
あなたも今日から個人放送局デビューしましょう!
http://yy59.kakiko.com/test/read.cgi/laneed21/1236215817/

383 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/06(土) 13:46:47
誕生の説明とかぬかして、神武から孝昭までの誕生年の説明ができない。
それに天の押男など、そんなものはどうだっていい。神武唐の誕生、立太子が
重要なのだ。奴はボロが出るから弱点を出さないよう、そこを
テレ隠している。ww

384 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/06(土) 13:53:54
>>383 訂正
× 神武唐
○ 神武ら

385 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/06(土) 14:45:41
逆も真なりで逆算
西暦42年は、東漢光武帝建武18年 壬寅年正月辛卯朔 です。42年2月9日(星期五)起

この数字は、先の計算値から確認出来るか? 式は先日掲載。

総合計 130761日に調整値28を加えると 履中元年正月=壬子朔が得られる。
神武元年正月庚辰を西暦42年正月辛卯朔にする 調整値28=辛卯です。

これで中国の数字とも齟齬は無い。
閏の差し込み場所は違ったとしても、同じ時空を過ごした事が証明された。

>>383
神八井の誕生日は掲載した、この二年後を綏靖誕生とする、その18,9年後が安寧でその2年後が懿徳
またそこから18,9年後に考昭が産まれる。

では日本武尊の誕生が西暦表記で21月後の説明との齟齬を説明して貰いましょう。


386 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/06(土) 15:08:20
何が何だか意味不明だ?ww
キチンと誕生、立太子、即位、没年を表にして書きこんでみろ。横逃げ
したようないい加減な説明ではないか?? 

21ヶ月っていうのはもともとオマエの言い出したことなわけさ。それを
こちらはキチンとオマエの言い分どおり答えたまでよ。ただオマエが3倍
だとかいうから、そうでないと〜景行は2倍年暦だよと答えたわけだよ。
それでオマエが一本とられたから、オマエがまたもや毎回やってる得意の
うっちゃりを敢行してさらにこの書き込みのようにホツマの作者の
言いたかったことをネジ曲げてオマエはチャチャーッと撹乱させて
いるだけのことさ。ww どれだけ作者がオマエのネジ曲げで嘆くか、
チッとは考えろ!

387 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/06(土) 15:16:12
オマエの論は全部が全部に近くデタラメだから、今後も出された結果と
毎回違背するだろうから、今後もうっちゃりうっちゃりの連続技となるわけ
さ。ww 10回のうち4回以上もうっちゃりをやらねばならない状態は、
もうその論説が99%デタラメだということさ。wwwww

うっちゃりが正解というのは確かにあるが、せいぜい10回のうち1〜2回
くらいが限度さ。そんなにうっちゃりがオマエのように7回も八戒も利く
わけがないんだよ。出てる結果がそんなに毎回狂うわけがないのさ。www

388 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 17:21:20
西暦42年元旦朔=辛卯で正解ですが、42年2月7日(星期五)です。
ここから履中元年元旦までの日数130761日は正解です。


389 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/06(土) 17:50:26
古代の当時、空白月空白日が不規則に存在しており、そういう日数は全然
アテにはならない。英国でもこういうことがあり、1752年9月は3日〜13日
が無い。こういうことが多数古代日本でもあったものであり、現今存在
する古文献の記事の量ではとても精度が上がらないので、その方法では
要領が悪く大したメリットはない。

390 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 19:07:26
デタラメなのは日本書紀の紀年だよ。
あんな机上の創作をどういじくっても本当のことなんかわからない。

そもそも、最初の方の天皇は応神以前はあらかた架空の人物だしな。

391 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/06(土) 19:40:53
架空を作れば、太安万侶、舎人親王らは公文書偽造で逮捕される。そういう
ことは、よくウラを取れてから言え。

392 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 20:09:24
で、結局、日本書紀は何を隠蔽したんですか。
消された石上神宮と大神神社の記録とは、何だったんでしょうね。

393 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/06(土) 20:19:49
見方によっては隠蔽とも言えないわけではない個所もあろう? 欠史八代
とか成務の代に著しく記事が少ないのは、大陸、半島と日本側の暦年が
極度に合わないため、記載できなかったということです。あちらは通常の
暦法を編んでましたが、日本側は2倍年暦等を行使していたため、神功の
代前後は120年位の年代差が生じてしまってたので、その不具合の個所
が八代とか成務の代に頭打ち的に津波の如く押し寄せて来てしまい、
記載をためらい、紀に載せられなかったということです。

394 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/06(土) 20:29:52
>日本書紀は何を隠蔽したんですか。

日本書紀が語らない事実

@神功渡海で、渡海派と残留組のあつれき。忍熊王などが殺された処までは
書かれているが、その後の40年は、だんまり。
Aそして、神功から仁徳末までの、125年間を三人で繋ぐ。
B允恭24年の内乱による政権交代を認めない。

これが3大隠蔽。


395 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 20:42:26
語らないっていうより、無理やり年代を引き延ばした結果だろ。
ネタもないのに、年代だけ不自然に引き延ばしたから、書くこともないというだけ。
細かい年月日なんて、机上の創作だしね。

396 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/06(土) 21:00:39
いやいや 引き延ばしでは、この時代の出来事と整合性がとれない。

神武即位は西暦42年 ここまでの数字に整合性があることを確認した。
神武即位42年は、弥生式土器X様式のはじまり。
神功元年は、273年の日食の2年後。


397 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/06(土) 21:08:53
馬具、須恵器

http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/kouko24tyuukinendaikextutei.html#zu
白石氏によると、朝鮮半島の当時の年代観自体が諸説あって定説がない状況なので、
朝鮮半島との比較からでは、日本列島の絶対年代を定めることは難しいと指摘しています。

これは、百済本紀の数字に間違いがあることを語る、よって、百済本紀に数字を合わせても
正解が得られない。と云っているのだ。

この誤差を、縦目さんは、百済土器は、庄内式に比べ50年ほど新しい方へずれている、と云っている。
七支刀は326年、この数字に百済王朝をあわせる。この変更が50年ほどになる。


398 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/06(土) 21:24:10
神功渡海を274年とし、神功52年七支刀は326年。この時代を調べてくれ
そうすれば、倭王武の上奏文が真になる。もちろん神功も存在しなければ成らない。

この時代を50年後ろにずらせば、もちろんウソの積み重ねとしなければ成らない。


399 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/06(土) 21:53:31
>>395
否、創作ではないでね。そうならば、紀の編者らは公文書偽造罪で身の
危険が切迫します。なにしろ国家の文書ですから、イカサマは記述でき
ません。今回の某政党の議員のように、不正な記述を帳簿につけたんで
しょうが、発覚すれば当然逮捕されますよ。だから不正のマシ注入なん
て、当時政敵は多いのは今と変わらぬ世の常ですから、これを垂れこまれ
れば、失脚が待ってますから、おいそれと弱味となるマシなどやろうわけ
がないですよ。

年月日があるということは伝説の類ではないというべきで、そういう
カレンダーで、彼らは日々を送ってたということになり、殆どが事実
だということですよ。それなのに当時の各天皇が異常なほど超長寿だとの
記述になっているということは、他に何らかの特段の事情があったと
観るのが相当です。

400 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/06(土) 22:20:36
>>199>>201
聖徳太子の時代は天津御量からは流れる砂時計をひっくり返す時代の一寸
手前の時代であり、崇神の代が砂時計を操作する始点のハツクニシラス
時代なわけであるが、この二つの時代の中間点が履中の御世であって、
仁徳はその手前の時代、應神はさらに手前の時代だということになる。

月の満ち欠けは29.5日であるが、もっと精度をつければ29.530589日という
ことになる。とにかく29日より半日あまり残余があるわけだ。時量師神の
働きの把握は重要であろう。

ここに天津御量をもて

 29.530589/29=1.01829617241 37931 03448・・・

逆読みで

 1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位

を得る。

401 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/06(土) 22:46:38
1年は365.242日である。しかしより精度をあげれば365.242194日となるが
365.242日で打ち切っているのは366日との差が

 366−365.242=0.758(ワナサヤ)

の、五十音図ア段の言霊タカアマハラ(高天原)の余り四音がワナサヤで
あるからなのだ。古代マヤ文明の天文学での精度もこれと同様365.242日
の使用であった。

ここで天津御量をもて

 365.242/365=1.00066301369 863013 69・・・

から

 皇紀863年 01月3日 譽田別尊(應神天皇) 立太子

402 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/03/07(日) 14:58:22
雄略即位に際して、近江狭狭城山君韓[代巾]は市邊押磐皇子の殺害に加担したが、
顕宗の世になって罪を問われて「陵戸」に落とされ、倭[代巾]が本姓狹狹城山君氏を賜ったとある。
古事記でも概ね同じ筋だが、韓[代巾]のみで「倭[代巾]」が登場しなかったり、老婆置目が狭狭城山君とは無縁とされるなど
相違点もあり、研究を要する。
韓[代巾]は半島と関係する人物であることは確かだろう。

403 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/07(日) 16:35:18
この時代まで 神功帰着後の内乱の影響があると思います。

允恭24年内乱 その後の空白。ここが倭の五王の接点でもある。


404 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 20:27:23
当時の感覚はよくわかりませんが
なんで天使降臨の地が奈良から遠く離れた高千穂なんですか?

基本的にこの話は何の根拠もない作り話ってわかっていたと思いますが
だったらもっと近いところ、それこそ伊勢や奈良でもいいのに
高千穂と言う地が当時からしても極めて意味のある土地なんでしょうか?

405 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/07(日) 20:46:07
ですからそのことは雲の上の話なので、国津神としての現実的説明に
落としての解説が大祓祝詞にあります。このスレでいささか先述して
ますので、若い番号のを見てください。

406 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 21:09:13
日本書紀を真に受けるなんてどこかの宗教の信者?

407 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/07(日) 21:47:27
オマエは外国人か〜?

408 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 21:52:42
>>406
たぶん、神道だろ

409 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 22:23:41
神道の狂信者なんだろうなあ

410 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/07(日) 22:25:21
>>409
オマエは津田病患者だろう。ww

411 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 22:30:47
いまさら日本書紀だなんて笑っちゃう

412 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 22:34:26
日本書紀なんて偽書じゃん

413 :愛知県民:2010/03/07(日) 23:13:59
書紀は序文が散逸したので偽書はありえません。
古事記偽書説はありますが。

414 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 10:30:23
TBS「サンジャポ」で「やらせ」

TBSが日曜午前に放送しているバラエティー番組「サンデー・ジャポン」で、街頭インタビューに同一の男性が度々登場、
この人物にスタッフが事前に出演依頼をしていたことが6日、分かった。

 TBSによると、この男性は昨年12月から今月までに4回登場。1、2回目は偶然に街頭インタビューをしたが、
その後は番組ディレクターが事前に取材日時を伝えていた。

 このうち3回目(2月放送)では、柳沢伯夫厚生労働相の発言をめぐり、「街行く人」として男性のコメントを紹介。
TBSは「誤解を与えかねないものだった」としたが、発言内容の誘導や金品の授受はなかったという。

 同社広報部は「バラエティー番組の演出の許容範囲内であると考えているが、
今後はテーマとインタビュー内容をより精査するよう配慮する」と話している。

ttp://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20070406-OHT1T00215.htm

画像
ttp://image.blog.livedoor.jp/news4vip2/imgs/c/c/ccd5ff5b.jpg

415 :日本@名無史さん:2010/03/10(水) 18:56:30
中国南北朝時代の梁の職工図見てみろよ
倭人の「外交官」が裸足で布きれ一枚体に巻いただけのみすぼらしい姿で描かれてるンだけどねw
あれが「外交官」なら平民は半裸かwww
他の高句麗や百済などの「外交官」はちゃんとした正装なのにねwww

どっかのうすら馬鹿が中国に差別的に描かれているだけと苦しい弁解してたが
そのホームレス風の服装は脛裳(はぎも)というれっきとした倭の服装としてあったんですな、これがw
朝廷は何度もこのみすぼらしい服装を禁止しようとしたが
もともと蛮人癖が抜けない倭人はホームレス風服装が大好きらしくやめず
ついには686年に朝廷側が折れてホームレス風服装を公認したんですなw

こんな体たらくなのに、5世紀以前の日本書紀の記述なんか信用できるわけがない。

416 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/10(水) 20:06:26
>5世紀以前の日本書紀の記述なんか信用できるわけがない。
これとは別だが。

騎馬民族説を否定するには、現実の出来事である高麗人の大量渡来を説明しなければ
ならない。この説明を省いて「騎馬民族説」を否定しても、これだけでは、不足です。
だから否定に“切れ”があっても、「騎馬民族説」は生き残ってしまう。

高麗人の大量渡来を説明できますか? これをしないと空しいだけ。
私が「高麗人の大量渡来」を説明するなら、274年~功渡海と326年七支刀で
書記の記事は正しい。で説明しますが、どう説明します?

書記の時空に切り込まないと、説明困難となる。だから書記の編年を考えているんです。

「高麗人の大量渡来」とは、アメリカ大陸で見れば説明できる。
インディアン=蝦夷
白人=弥生人
高麗人=黒人
ほぼこの設定で大丈夫でしょう。
高麗人の渡来は、326年から4世紀いっぱい、この後は、高句麗の強大化で百済人の
高句麗への入植。
これが今の日本人と韓国人の血液の違いになる。
応神、仁徳陵の築造は4世紀中でないと、説明できない。
5世紀に入ると、流入が細る、または止まる=履中陵が小さくなる。


417 :日本@名無史さん:2010/03/10(水) 20:26:08
インディアン嘘つかない

418 :日本@名無史さん:2010/03/10(水) 20:36:53
仁徳陵だなんて何書いてんだか

419 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/10(水) 20:55:25
ニントク陵が4世紀末でナットク出来なければ、何処にする?
5世紀には、築造を担う人足が居ない。


420 :日本@名無史さん:2010/03/10(水) 21:33:21
大体、仁徳大王=倭王讃と仮定したら、寿陵築造工事は5世紀前半だろうが。

まあ、いまの大山古墳(大仙陵古墳)が仁徳の墓って証拠はないけどな。

421 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/10(水) 21:48:27
倭の5王とは、
なにもしなくても、百済を通して高麗人その他が入ってきたが、
高句麗に負けてから、百済が高句麗に対抗する力は無い。
この時代を切り開くため、倭独自で朝貢を始めるんだ。それが、倭の5王。
仁徳(大仙陵古墳)の時代は、のほほんと生きていられた最後の時代。


422 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/10(水) 21:57:48
神功、応神は圧縮せずに275年神功元年で読む。
すると高句麗が遣使したのが370年前燕の滅んだ年でウジノワキイラッコが高麗使をしかる。
その翌年に高句麗に戦を仕掛ける。
この頃には百済単独では、高句麗に攻め込むことが難しい時代となる。

この後ろに仁徳紀を繋げても、時代を読めない。仁徳元年は神功39年から平行する。


423 :日本@名無史さん:2010/03/10(水) 22:06:49
ばからしい。
神功なんて実在しない女王だけど、仮にいたとしても4世紀後半。
応神、仁徳は讃に比定されてるから4世紀末〜5世紀前半だろ。

神功紀の年代なんて、百済史料引用記事以外は全くの造作、虚構の数字。

424 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/10(水) 22:11:40
書紀は仁徳末を4世紀末にしている。
これを勝手に書き換えて、書紀はデタラメと云うなら、その証拠を掲示して下さい。


425 :日本@名無史さん:2010/03/10(水) 22:25:04
ばからしい

426 :日本@名無史さん:2010/03/10(水) 22:32:13
日本書紀の紀年は、継体末期から欽明初期にかけても混乱している。
百済から暦(元嘉暦)や暦博士が伝来した時期だというのに。

それを考えれば、正式に暦学や暦の専門家がやってくる以前の紀年など、
信ずるに足りないと考えるのが妥当。
雄略紀の年代は細かい部分はともかく、雄略の在位期間は倭王武の年代や、
稲荷山鉄剣の辛亥年などとも符号するので信頼できるが、
允恭紀など不自然な紀年引き延ばしが見られ、一世代前の仁徳紀も同様。

427 :愛知県民:2010/03/11(木) 10:23:18
>>131 で示したように、百済記の「壬午(382?)年の「沙至比跪」の記事は
應神14年〜16年の葛城襲津彦の記事に当たると思われる。
古事記の應神段にも百済の「照古王」(近肖古王?)が登場することから、
古事記の應神没394年、仲哀没362年は大きく違うとは思われない。
三国史記に出てくる「于道朱君」「葛那古」も武内宿祢・葛城襲津彦親子と考えられる。
雄略以前も検討してみて下さい。
ではまた・・・

428 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/11(木) 21:30:15
>允恭紀など不自然な紀年引き延ばしが見られ

引き延ばしと見るか、無視された大王が居たと見るかで違いが出る。

古事記の干支が西暦と同等とするためには、崇神時代に西暦表記が入っていた、としなければ成らないが
雄略の崩御年齢で、この時代に合わせたとも考えられる。


429 :日本@名無史さん:2010/03/11(木) 22:23:11
書紀は安康以前が倍暦。故、允恭42年は通常暦で21年。
古事記は允恭までが通常暦。古事記の允恭18年は通常年で倍暦だと36年。
反正、履中が6年(通常暦3年)づつ。仁徳が93年。
この93年の中に允恭の年数であるはずの6年が紛れ込んでいる。(玉突き状態?)
93=6+87年となる。これを允恭に戻せば、18+3=21(倍暦では36+6=42)年
で書紀と一致する。残りの仁徳87年も書紀の87年と一致する。
反正、履中の各6年も書紀と一致する。(書紀の反正は5年+空位1年だが)
ただし、書紀は越年法、古事記は当年法で繋いでいる。



430 :日本@名無史さん:2010/03/11(木) 22:35:05
古事記の雄略治世34年は11+23年で、11年は仁賢であり23年が雄略。
顕宗8年も5+3年で、5年は清寧であり3年が顕宗。
この辺りも書紀と一致する。


431 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/11(木) 23:16:11
允恭42年のうち24年の内戦から記事が無い。
この位置は、5王のつなぎ目でもある。

雄略は武寧王の誕生記事から、動かすには、慎重にせねばならない。

倍暦は太陰暦と相性が悪い。
倍暦が妥当なら、魏志倭人伝の時代には、暦も文字も持たない土人の国に金印や
黄旛を下す。
ありえない。

古事記の雄略崩御は、西暦に対応するが、雄略の崩御年齢が大きすぎる。
これ以前の崩年干支を支持しない理由としています。
ただし崩御干支に伸長はみられないとする。

432 :日本@名無史さん:2010/03/11(木) 23:19:02
倍暦とか言って数字遊びをすることは児戯に等しい。

433 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/11(木) 23:19:41
天皇   治世  西暦  古事記干支(出雲干支)
孝昭天皇 93年〜118年 93 丙寅  書紀の即位年より伸長されることなく使われる
孝安天皇119年〜144年 145 (戊午) ()内は墓標に付き使用する必要なし
孝霊天皇145年〜163年 163 (丙子)
孝元天皇164年〜182年 180 (癸巳)
開化天皇183年〜187年 190 (癸卯)
崇神天皇188年〜215年 225 戊寅
垂仁天皇216年〜238年
景行天皇239年〜260年 265 (戊午)
成務天皇261年〜264年 262 乙卯
仲哀天皇265年〜273年 269 壬戌
神功皇后274年〜323年
応神天皇324年〜366年 361 甲午
仁徳天皇313年〜399年 394 丁卯
履中天皇400年〜405年 399 壬申
反正天皇406年〜411年 404 丁丑
允恭天皇 412年〜453年 421 甲午
安康天皇454年〜456年 451 (甲子)
雄略天皇457年〜479年 456 己巳 ここより489年己巳とすると年齢の説明が楽になる
そして崇神崩御年より数えると書紀と古事記は同じ長さになる。


434 :日本@名無史さん:2010/03/12(金) 00:27:48
古事記と日本書紀のインチキ同士が一致したといっても
所詮はインチキ

435 :日本@名無史さん:2010/03/12(金) 07:13:54
仁徳 87年間
履中 6年間
反正 6年間(空位1年間含む)
允恭 42年間
安康 3年間
雄略 23年間
清寧 5年間
顕宗 3年間
仁賢 11年間
武烈 8年間
継体 25年間

これは治世年数だが記紀ともに同じ原資料を元にしたと思われる。
いかに編年するかは編者の考えによる。古事記は当年称元法を基本として繋ぎ
書紀は越年称元法を基本とした。称元法の違いは一代変われば1年差がでる。
五代変われば5年差がでる。
そして、暦に当て嵌め、そこに巡ってくる干支を設定した。注入記事は暦をみて
相応のところに入れた。従って干支は長さを測る目盛りにはなるが、それ以上に
こだわるのはどうか。編年によって干支は変わる。
原資料が存在したのだから、記紀はこの辺りインチキでもなんでもない。
安康以前は倍暦だから実年は上の半分。
上の数字をどう扱うか。


436 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/12(金) 10:08:29
記紀は故意にインチキをしてるものではない。古事記の没年が日本書紀と
合わなため一見してそう観るのは分からないわけではないが、結論が
早計である。当時は古代マヤ文明の暦法の如く数重の異なる暦の並行行使
があったもので、そのため交錯して記紀の記述が合わなくなってしま
ったものである。

記の没年干支は崇神においては非常に正確であり、交錯がこれにおいては
少なかったようで、崇神没年が258年の戊寅であることはそれがしの倍暦
逆算の259年とほぼ一致し、橋本増吉、巻政友の258念説がほぼ正解で
あることは間違いなく、これから崇神即位が257年になることは天津神算木
の運用結果と一致して来る。

当時は古代マヤ文明(1.4倍暦)、古代南バビロニア(2倍暦)、古代
エジプト(1.38倍暦)等、々かなりの国で倍年暦が行使されていた訳で、
古代日本もこれを行使していたことは確実であ〜る。古代エジプトの場合
はB.C.2772年以後に1年が265日の倍暦法を行使していた。不正注入の
マシなるものは古今東西各国の暦法を観てみてもそれをやっている所は
全然無く、唐松山の脳内のひどい妄想だということなのであ〜る。ww

437 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/12(金) 11:27:36
>>431 唐松山
>倍暦が妥当なら、魏志倭人伝の時代には、暦も文字も持たない土人の国
 に金印や黄旛を下す。ありえない。
        ↓
<日本書紀の年代を考える>(過去スレ)
>441 唐松山 2009/2/17
ホ24029 ムカシ ヒヨミのヲモイカネ コヨミつくりて こゝにあり のち
      ムラクモに ゆつりをく

 暦は神代の昔からありました←唐松山の当時の書きこみppp
         ↑
上文は唐松山の自語相違デタラメぶりを際立たせている。bbbbbwww

438 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/12(金) 11:34:03
>>436 訂正
× 崇神即位が257年になる
○ 崇神即位が237年になる

439 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/12(金) 15:17:35
成務紀を見ると、成務5年〜成務48年を挟んで成務6年〜成務47年までの
記事がない。唐松山はこれをマシた(←不正に誰かが水増しの注入を
した)との論をいまだに言い張っているわけだが、全国の神社等を調べ
ると、この間の由緒伝承等が結構あるのだ。→>>75

であるから、マシなどとは考えにくく、そんなことをこっそりやればこの
前の某政党の議員のように、虚偽記載のかどでやった奴は逮捕されるわけ
で、大した利害もあろうわけもないのに暦の混乱を企てて失脚するような
危ない橋を渡るわけがあるまい。某政党の議員は大金の記載ミスとのこと
で弁解してるらしいが、結局政党離脱とかあいなるらしい?

成務6年〜成務47年の伝承等を調べると>>75に書きこんだとおりだが、
重複個所があるが、成務30年以降でも以下のとおりである。

成務30年 須佐大宮 島根県 須佐家が国造を命じられる
成務38年 加富神社 四日市 火宮明神を奉斎する
成務45年 宝秀寺  神奈川県 日本武尊歓待の大友久応の墳碑(同年1/14)
成務48年 大悲王院 福岡県 印度僧清賀上人 千手観音を刻す

このように間に年があるわけで、当時キチンと年を全部カウントしてたの
である。マシなんかやっちゃぁいないぜ。唐松山の妄想以外の何物でも
なく、マシはデタラメなのである。

マシは唐松山の編年表と相性が悪く60年のマシでなければバレるわけ
で、干支の倍数年のマシでなければマシ両端の年の干支が接着でき
ないから、イカサマ編年だと軽く見破られる。奴は30年マシの説明をして
いたが、出した文証はたかが3年間であり、30年にも60年にもならない。

つまり唐松山の年表はイカサマそのもののデタラメである。

440 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/12(金) 15:22:24
>>439 訂正
× 大友久応
○ 大伴久応

441 :日本@名無史さん:2010/03/12(金) 18:21:08
>仁徳 87年間
>允恭 42年間

これは宋書倭国伝にある倭の五王の年代から、
絶対にありえないな。
仁徳の87年なんて、誰が見ても虚構の数字だろう。

442 :日本@名無史さん:2010/03/12(金) 18:23:25
成務天皇なんて架空の人物の年代を論じるのは、
いかに精緻な理論で詳細に考証したところで、
もとが虚構の存在なんだから、砂上の楼閣を築くようなもので、
児戯に等しい行為としか言いようがない。

443 :日本@名無史さん:2010/03/12(金) 20:18:26
>>441
倍暦だから実年は仁徳43.5年間、允恭21年間だよ。継体から追っていけば
五王の頃に来るよ。

444 :日本@名無史さん:2010/03/12(金) 20:58:44
倍暦論者が力説するような詳細な年代の記録が
5世紀以前の倭国にあったとはとうてい信じられない。

445 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/12(金) 21:25:44
倍暦は太陰暦に変換出来ない、書紀が太陰暦で有る以上「倍暦」は無い。

>>444
考古学は纒向の開発を2世紀末とする。
書紀の記事では、崇神5,6年が、新羅192,3年の記事に相当する。
ここから神功元年を見ると、日食が273年となるが、圧縮した太陰暦は、神功元年を275年と表示する
そうなれば、神功52年 七支刀は326年を支持する。
渡海は274年で七支刀は326年 ピンポイントで支持出来る数字だ、晋の歴史と合わせられる場所はここしかない。
大仙陵古墳は4世紀末より時代が下がると築造できない。


446 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/12(金) 21:42:07
>>442
架空の年代だと結論を言ったところで、オマエはそのウラ付けもしてい
まい。せいぜい調べないで、先行決め付けを強行してるだけのこと。
果たしてそうなのか? そう思うが架空だったらどうなるか、架空でなけ
ればこうなるだろうとの研究が全くない。架空だったら、舎人親王らは
当時の政敵に公文書偽造罪を垂れこまれて、現今の某議員の虚偽記載の
如く逮捕されるんだぜ。その事実もなさそうだし、たかが成務独りを創作
せねばならない動機も見えてこない。つまりオマエの主張は成立し難く。
オマエの先行妄想だということが確実に見えてくる。

>>445
オマエの主張のマシは干支と全然接着が出来ない。また太陰暦と変換でき
ないなどとの抽象的言い回しで誤魔化しており、常に具体性に触れずに
終始している。つまり批判が上っ面しかできないいい加減なものであ〜る。

447 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/12(金) 21:55:29
なお日本書紀の記述の崇神5,6年は新羅192,3年の記事には相当しない。

これは空腹百姓が船舶の無い時代に操船技量も無く半島渡海などできる訳
がない。せいぜい畿内周辺で野垂れ死にだ。船舶の出来たのは崇神17年
と紀にあるわけで、それ以前に百様が渡海出来たというならば、これは
大宇宙の遥か彼方の極超遠方に電波星X線星とかが存在して、その天体で
電送人間機があった場合に、その強力な電波により一瞬にして電送人間と
して畿内から半島に直接到達させうることが出来えたときに、この強力
な電波の受信をピピピピッと受ける脳内であるならば、こういう説が成立
するということとなる。wwwwwwwwwww

448 :日本@名無史さん:2010/03/12(金) 22:05:10
太国 ◆yVAs7uaYlY
いつも偉そうだな
一体何様だ

449 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/12(金) 22:08:21
>>447 訂正
× 百様
○ 百姓

>>444
詳細にはなさそうであることは、いまのところそのとおりだが、紀の各代
の天皇の日数月数等の統計をとると、また天皇の異常なまでの超長寿を
考えるに、当時2倍年暦等の行使があったことは十分言える。さらに古代
の外国の暦法を調べるにかなりに渡って倍暦の行使をやっており、事例
はけっこう存在する。古代マヤ文明と古代アステカ、サポテカ及び古代
エジプトでも1.4倍暦とか1.38倍暦を行使していたわけで、古代日本の
倍暦の存在を匂わせる。しかしマシなどをやってる国、地域などどこにも
見当たらず、これはどうやら唐松山という男の脳内妄想であったことが
歴然としてくる。

450 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/12(金) 22:21:46
>>448
まぁそう憤慨するな。他意はない。唐松山と同じ扱いの話しっぷりで
スマン。とにかく、先に結論ありきで済ますのはやめよ。

451 :日本@名無史さん:2010/03/12(金) 23:20:50
皇国史観なんて捨ててしまえば見えてくる物があるよ

452 :日本@名無史さん:2010/03/13(土) 11:55:52
数字合わせその3
古事記で垂仁・景行・成務三代の治世年数は干支から乙卯〜戊寅で通説だと235-138+1=98、98年間である。
書紀では99+60+60=219、空位1年あるので、併せて220年間、古事記のように当年称元法で繋ぎかえると218年間。
古事記との差は218-98=120、ジャスト120年でよく言われる干支2運の差と同じ。
書紀の99・60・60年を単細胞脳みそで眺めると39・30・30に見えてくる。これは単純すぎるか。


453 :日本@名無史さん:2010/03/13(土) 12:07:13
コテハン連中の記紀信者ぶりには呆れ果てる。
戦前の皇国史観の平泉一派や国定教科書とまるでかわらん。

454 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/13(土) 12:15:48
オマエが津田病原菌に脳内を明け渡しているのさ。w

455 :日本@名無史さん:2010/03/13(土) 14:10:24
いや、いや、このスレを見るということは、心のどこかで記紀を気にしているからだ。
そうでなければ、このスレを見るはずがない。
かわいそうな奴だ。


456 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/03/13(土) 18:35:17
日本書紀の年代は、神功・應神紀が重要。
百済の肖古王(在位346〜375)と神功・應神は同時代と考えられるが、
書紀では卑彌呼(確定在位239〜247)=神功皇后と見なしたために
肖古王の年代を干支二巡繰上げ、226?〜255年とした。
神功・應神の実年代は4世紀後半で確かと思われるが、それ以前は外国と対照できないので
架空説を含め、いろいろな立場があるでしょう。唐松山説はかなり特異。
神功皇后の新羅遠征については、新羅王の名も「波沙寐錦」「宇流助富利智干」と一定せず
人質の名も「微叱己知波珍干岐」新羅本紀の未斯欣なら王名も対応しません。
違う時代の話が混じっているようですが、中核は新羅本紀の助賁尼師今・于老の時代らしい。
新羅本紀については、梁書・隋書の新羅伝と全く合わないという別の問題もあります。
訖解尼師今の時代に倭王が二回新羅に請婚したのは伊都国と見るべきか?

457 :日本@名無史さん:2010/03/14(日) 12:15:01
記紀の虚構の数字や人名でお遊びするよりも先に、
マトモな研究者の書いた最新の本をしっかり読むことを勧める>ALL

458 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/14(日) 12:21:19
オマエの決め付けの脳内の虚構だな。オマエの主張は何のウラえも
取っていまい〜いい加減な先行デタラメの妄想。

459 :日本@名無史さん:2010/03/14(日) 16:00:19
今の歴史学界の学者達は記紀を歴史の対象に入れてはいけないようだ。
論文をかけば、学界から締め出されるらしい。
各方面へ圧力をかけるからか、古代を舞台にした歴史ドラマも放送されない。
紙幣からも聖徳太子が外された。大蔵省という名前ももうない。
我々の先祖のことが知りたくても、研究することが禁止されているようだ。
マトモな研究者(歴史学者とすれば)の書いた最新の本などない。
誠に悲しいことだ。
学界の本流にいない周辺のエライ先生方に頑張って研究して欲しいものだ。
だから、我々も我々なりに色々情報交換しているのだ。


460 :日本@名無史さん:2010/03/14(日) 16:07:39
え?やってたじゃん聖徳太子のドラマ、何年か前に

461 :日本@名無史さん:2010/03/14(日) 16:28:37
どう考えても、2chの隔離スレのコテハンの妄想よりは、
ちゃんとした研究者の書いた本の方が信用できるわな。

記紀の記述の扱い方ひとつで一目瞭然。
作り話や神話と現実の区別もできない、皇国史観丸出しのコテハンは、
恣意的に数字いじくって「ぼくの考えた古代史」をでっちあげてるだけ。

462 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/14(日) 18:21:44
オマエが左党をたらふく舐めてるから、オマエはそんな歯垢(思考)を
醸成するわけだ。オマエの脳内は紀見なシソー(歯層)の状態にあり、
左糖を好む象牙の塔の介入ばかり脳内にやってると、餌舐める質や
象牙質、そのうち神敬質まで左党にしてやられるぞ。

歯科医糖や強酸糖でオマエの脳内は思想脳労に蹂躙されてる。ww
オマエの脳内へのリトマス史見視検査は赤化の状態にあるらしい。ww

463 :日本@名無史さん:2010/03/14(日) 19:21:54
聖徳太子のドラマ? しまった、見逃してた〜。NHK? 大河ドラマ? 民放?

464 :日本@名無史さん:2010/03/14(日) 19:30:19
ちゃんとした研究者の書いた本って、誰が書いた何ていうタイトルの本?
教えてくれ〜。


465 :日本@名無史さん:2010/03/14(日) 20:57:37
数字遊び
書紀では、応神・神功の治世41年+69年=110年=応神崩御年齢110歳(神功三年立太子時3歳)としているが、
応神は神功元年の前年に生まれているので、実際は111歳(4歳)である。

古事記では、この2代治世は甲午(応神崩御年)−壬戌(仲哀崩御年)=92年で、応神崩御年齢は130歳
としている。この差38年(130-92=38)は空白の38年である。書紀の崩御年齢より20年多い。

そこで、書紀の2代治世にこの20年を加えて130年にし、何故か太歳記事のある神功三九年を真の神功元年とみたて、
それ以前を空白の38年とする。130−38=92、つまり、2代治世を92年(応神41年、神功51年)とする説もある。
何故か神功六九年にも太歳記事がある。

さらに、仁徳治世から38年を差引いて応神治世に加えるという説もある。
2代治世年数は記紀だけでも92年、110年、130年と3通りある。
(古い]年の記事は新しい]年のところへ移し替える。)

分けが分からなくなったが、単なる数字遊びとして聞き流してほしい。



466 :日本@名無史さん:2010/03/14(日) 21:45:17
神功は架空の人物で終了

467 :日本@名無史さん:2010/03/14(日) 21:53:09
神功は架空なら架空でも構わないが、納得できる理論を展開して言ってくれ!


468 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/14(日) 22:02:20
架空とか創作とか言ってる奴は、全部が全部資料、根拠等を示して論説
したためしは今まで皆無に近い。妄想の先行が強固に脳内にあるわけで、
単なる決め付けの強引の押しばかりで、うすっぺらなだけさ。果たして
架空なのか創作なのかのしっかりした調べ、研究など奴らにはないのさ。

要するに、奴らの「先に結論あり」の盲象なわけ。

469 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/14(日) 23:00:48
「熊野年代紀」には

 神功四年、三韓が征された

旨の記述があるという。

470 :日本@名無史さん:2010/03/14(日) 23:01:06
俺は、日本書紀は好きだけど、皇国史観など、全然持ってないぞ!
邪馬台国とか五王とか謎解きの一つとして楽しんでいる。
たまたま登場する人物が天皇なだけ。謎解きだから、出来るだけ問題は忠実に受け止めたい。
一つづつ潰していき、架空だとはっきるすれば、架空として扱えばいい。
年齢、実年代、外国資料に登場する人物で日本に相当する人物がいるのかいないのか、
発掘される資料は文献と結び付くのかなど、意欲の湧く謎解きである。
こんな奴もいることを覚えておいて欲しい!


471 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/15(月) 22:06:43
今日の新聞を観ていたが、某大教授が文書虚偽記載で処分されたとの記事
があった。このように先だっての某党議員の虚偽記載も検事にパクられて
問題となっていた。暦法に虚偽年代の注入という唐松山の言うマシなんか
やれば、発覚にて失脚の運命となる。そして不正のマシはその時点で旧に
戻されて正され、虚偽分を除去されてしまう。今回の後者虚偽記載は確か
4億円だったと思ったが、例えば400万円のところ4億円とマシの虚偽記載
をすれば発覚後に捜査されて、容疑の固まり次第逮捕されることになり、
身の上は奈落に至る。

かような虚偽を大なる利害も浮かばないのに、マシの不正年代注入なんぞ
をしでかす動機もあろうわけもなさそうだ。だから唐松山の年代のマシと
いうのは、現実を遊離した軽率な考えであって成立しないものであり、
はっきり言ってデタラメであ〜る。2倍年暦等は古今世界各地でけっこう
行使しているのが調べれば判明するわけで、紀の欠史八代の日数統計表の
日数がすべて1日〜14日間(2週間)に収まっているのは、当時2倍年暦を
行使していた時代があったことを物語っており、ホツマの景行の代の
21ヶ月の妊娠の記述も十月十日のほぼ2倍の計算になり、当時2倍年暦を
古代南バビロニアと同様に行使していたことは文字通り歴然として来る。

472 :日本@名無史さん:2010/03/15(月) 23:46:27
百済本紀は年代に疑義があるそうなので、少し調べてみました。
AD13年から592年まで日食の記事が25件あり、内16件が実際に発生してます。
念のため新羅本紀ではBC54年からAD256年まで19件あり、内17件実際に発生しています。
これを見ると案外正しいように思えますが、伝承記事の時代は信用できないのでしょうか。


473 :日本@名無史さん:2010/03/16(火) 00:45:38
フトクニが狂信者で、これまでの批判を意図的にミスリードして、
我田引水的な妄言を吐いてることがよくわかるな。

474 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/16(火) 09:13:38
オマエの批判はまるで内容が抽象的で、言ってることが支離滅裂であって、
なんら具体性を示すことが出来ないいい加減な言い草に終始しており、
上っ面のみで説得力が0に等しい。

〜そういうことは、オマエが当時の天皇の超長寿を合理的具体的に
説明できてからモノを言え。

475 :愛知県民:2010/03/16(火) 10:54:44
>>472
三国史記の天文記事は中国文献から写した可能性もあります。
ただ高句麗本紀は、たとえば次大王・遂成のところで
惑星集合記事が王の行動と結びついて語られており、
高句麗では独自の天体観測があったと思われる。
魏志高句麗伝で「霊星を祀る」とあるのも裏付けになります。
ではまた・・・

476 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/16(火) 18:04:53
年号 西暦 元旦朔 増し 調整  暦日 朔干支 中国朔
神武元年42年庚辰 0日  0   0日  辛卯 辛卯
綏靖元年64年壬申 3章 1日 8033日 甲申 甲申
安寧元年78年庚申 1章 1日 13142日 癸巳 癸巳
懿徳元年90年己卯
孝昭元年94年丙戌 3章 0日 18988日 己未 己未
孝安元年120年乙酉 3章 0日 8467日 戊午 戊子
孝霊元年146年壬辰 4章2日 37976日 丁亥 丁亥
孝元元年165年辛未 3章1日 44916日 丁卯 丁卯
開化元年184年庚午 2章1日 51856日 丁未 丁未
崇神元年187年壬午 3章 0日 52948日 己未 己未
垂仁元年217年丁丑 2章1日 63904日 乙未 乙未
景行元年240年壬申 4章1日 72320日 辛亥 辛亥
成務元年262年甲申 2章0日 80352日 癸卯 癸卯
仲哀元年266年庚寅 3章1日 81799日 庚戌 庚辰
神功元年275年丁酉 0章0日 85106日 丁巳 戊午
神功39年313年 丁巳     98986日 丁丑 丁丑

仁徳元年313年丁丑      98986日 丁丑 丁丑
履中元年400年壬子      130761日 壬子 壬子

「増し」は、4章(6940日×4)に付き1日を減ずる。合計33章−9日の増し
神功39年太歳の年を、仁徳元年とする。
閏の廻しが違うので、調整場所も違うだろうが、中国の暦日と対応させることが出来るであろう。
「履中元年400年壬子」が西暦で400年壬子と表記出来る以上、これ以降の圧縮するのは、不可能だろう。


477 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/16(火) 18:12:32
終止符にも掲載したが、神功から仁徳を正しく理解しないとそれ以前にたどれない。

晉書卷七十三 列傳第四十三 庾亮子彬 羲 龢 弟懌 冰 條 翼
1932 から
 石季龍汝南太守戴開率數千人詣翼降。又遣使東至遼東,西到涼州,要給二方,欲同大舉。慕容皝、
 諸夷因此知造兵器。翼表陳東境國家所資,侵擾不已,逃逸漸多,夷人常伺隙,若知造鑄之利,將不可禁。
342年康帝即位,翼欲率眾北伐,上疏曰:「賊季龍年已六十,奢淫理盡,醜類怨叛,又欲決死遼東。皝雖驍果,未必能固。 前燕建国。

(諸夷因此知造兵器)323年永嘉の乱終息。この乱の為従軍していた、東夷は、この間に武器の作り方を知る。
(若知造鑄之利)また七支刀の鋳造技術も得た可能性がある。
(夷人常伺隙)遼西郡晋平県百済による領有か。高句麗の事か。

晉書卷一百九 載記第九 慕容皝慕容翰 陽裕 より
咸康(342年)七年,皝遷都龍城。
2824
句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
(347年?)慕容恪攻高句麗南蘇,克之,置戍而還。三年

342年過ぎに「百済」の文字がある。この頃には、東夷でなく百済が存在しなければ成らない。
よって、神功49年は323年が妥当である。七支刀は326年。
七支刀369年とすると、神功紀の記述はウソの塊になってしまう。

韓国考古学もこの数字を編年に出来ていない。土器編年は、ほぼ50年新しい方にずれている。
323年頃までに、倭国は、鎧や馬具の製造方法を知る。
ただし箸墓の鐙は、魏より下された可能性が大きい。



478 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/16(火) 21:49:29
マシなんていうのは存在しせず、唐松山のデタラメである。例えば成務の
代を調べても、全国にけっこう成務5年以後の由緒伝承等がかなり存在して
おり、>>75>>439のとおりいくらでもある。それにマシをやれば先日の
某大教授の虚偽記載で処分されたように、国会某議員の増しらしい4億円
だったかの虚偽記載で処分、逮捕されたように、厳しい罰則が課せられ
ることは確実で、暦年には利害の動機もなさそうだし、そういう状況下
ではかような失脚するヤバい真似なんぞに紀の編者らが手を染めるわけが
ない。つまり唐松山の主張、編年はインチキであり、否それ以上の
メチャクチャ論だということである。当時成務ならば、成務60年(61年)
までキチンとカウントされてたものであり、途中マシなどの不正増量年
などやってはいないのである。悉くが唐松山の脳内虚構の妄想である。

479 :日本@名無史さん:2010/03/16(火) 23:28:46
つーか、ここは脳内妄想垂れ流しスレだろ。

480 :日本@名無史さん:2010/03/17(水) 00:27:58
キチガイスレということだな

481 :日本@名無史さん:2010/03/17(水) 07:50:25
太国は狂信者だな。頑固な記紀信者としかいいようがない。

482 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/17(水) 10:03:03
太国さんよ 
二十一月の主張で、倍年の無い事がよく解ったでしょう。金木算木での主張も歴史と関係無い主張ですし…
最悪なのは、太国倍年では、全く歴史を語れないこと、可能なのは、垂仁90年の翌年は、景行元年。

>太国は狂信者だな。頑固な記紀信者としかいいようがない。
違うぞ 太国さんは、太国自身が信じていない倍年信者である。倍年は歴史の流れより重要である。
まあ上げれば切りが無い。


483 :日本@名無史さん:2010/03/17(水) 10:49:23
高句麗本紀の日食記事を調べてみました。
114年から554年まで11件有りましたが、内実際に日食の発生したのは7件でした。
7件の内2件同じ日食が新羅本紀の中にもありました。他は全部別の日食です。

似たようなものですね。



484 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/17(水) 11:03:03
唐松山よ
21ヶ月はもともとオマエの主張に従った解釈だよ。ただオマエは3倍だと言う
から、そうじゃないよ〜前々から2倍だとそこだけ違うぜ言ったまでよ。オマエ
も2倍と3倍の違いだけで、オマエもそういうホツマの解釈をしてたんだから、
オマエこそ自語相違ではないか。www オマエから大持ち駒をくれたわけさ。
それをオマエがまたまたうっちゃりの勇み足でオマエの盲象をオマエ自身で防衛
しただけのことさ。スリ抜けやったって、ホツマの作者がオマエに対して怒るに
違いないだろうぜ?www

マシなんかやっちゃぁいないぜ。世界各地でn倍年暦は行使されていたし、いま
も一部でやってる地域がある。マシはオマエの脳内のデタラメなんだよ。ww


485 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/17(水) 11:06:52
マシはもう歴史とは関係ないオマエの盲象さ。ww

天津金木は真の年代を教える天下の宝器さ。これに逆らうやつは蛇輪の偽三輪
のインチキ編年。ww

486 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/17(水) 11:41:37
>21ヶ月はもともとオマエの主張に従った解釈だよ。

垂仁90年から景行元年末まで、10年間
この間を倍年で 十月十日の出産を主張したつもりでしょ。

つまり この10年間は、十月十日プラス余であるとの主張でしょ?
余が9年では多すぎる、せいぜい30日か60日程度でしょ。

倍年とは、10年間を1年とすることも可能である。
そして西暦で表記すれば、
293癸丑  景行即位
298戊午  日本武尊誕生
5年間となる。

これら全てが太国倍年では、正しい。

>>476 で表記した様に 正朔の文字のある書物は正朔で読まなくてはならない。

対する太国倍年は、倍数にさえウソを付かないと西暦?に直せない?

はやく天津金木でパイの計算してね、この計算式が無いと、球体の計算が出来ない。


487 :日本@名無史さん:2010/03/17(水) 12:25:44
正朔にこだわる必要はない。たまたまそこにあった干支を正朔にしているだけ。
動かせば年干支も崩れる。崩れても構わない。着地点の年月干支に従えばいい。

488 :日本@名無史さん:2010/03/17(水) 12:42:37
http://www.youtube.com/watch?v=5xnTXqFvwdc
http://www.youtube.com/watch?v=gkXSa8ogZZc
http://www.youtube.com/watch?v=Pg9O1NuH7_A
http://www.youtube.com/watch?v=b6ilvX0zPBU
http://www.youtube.com/watch?v=WcgOlVg4BGA
http://www.youtube.com/watch?v=8lyVuj4h1aE
http://www.youtube.com/watch?v=6DoK-eS1Klk
http://www.youtube.com/watch?v=UmLg0PLuoJg

489 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/17(水) 14:17:18
>>486
主張したのはオマエからだよ。自分の言ったことを責任持てよ。オマエの言い分
からこちらはこうだと言っただけのことよ。こちらのせいに糊塗するなよ。この
野郎! 景行の代は妊娠期間が21ヶ月かかるんだよ。これは2倍年暦をやって
たということなのさ。それをスリ替えネジ曲げのうっちゃりをやるのが、オマエ
の毎回毎回の得意技ではないか?www

オマエの場合はその殆どが結果とウラはらになり、毎回毎回うっちゃりを敢行
してばかりいる。そんなに結果はいい加減ではないんだよ。うっちゃりという
のは確かにあるが、まぁせいぜい多くて2,3回だな。それ以上にうっちゃりを
やらねばならんということは、その説が間違いだと観ていいぜ。

マシとかをやってた国は調べてみたが、世界広しといえどもただの1個も見かけ
ない。n倍年暦を行使していた国はけっこうあるわけで、やはり当時の古代日本
でも古代南バビロニア等のようにこれを行使していたのが真である。>>75>>439
の成務の代のように、年数はまるまるカウントされてたのだ。マシなんぞやりゃ
ぁとたんに失脚の運命で、大した利害もなさそうなのになにもやばいこと、虚偽
の記述なんかするわけもあるまい。マシはオマエのひどい滅茶苦茶な妄想だな。

三輪(r=3)神の支持ある天津金木は、オマエとかの強固な妄想論者の古代から
の真を護持する鉄壁の年代尺なのさ。オマエは三輪神の言いつけたる天津神算木
に逆らい、ホツマの敵となりたいらしい?ww

490 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/17(水) 14:25:25
仮にオマエのマシがあったんなら、干支は60年一巡だから、当然マシも60年とか
120年とかでなくてはインチキだとバレるから、当然そのような論理展開でなく
てはならないのに、オマエのはどこかの古文献のたかが3年だとか、30年だとか
説明してるが、毎回フニャフニャの変更に終始してるオマエの年表では、そう
いう60年、120年の展開になってはいない。つまり説明と実際がチグハグであり、
不信ばかり増幅するだけで、なんの説得力もない取り繕ったいい加減なインチキ
年表である。マシなんぞはやってはいない。おまけに欠史八代の日数統計表を
説明できてるような口ぶりでいたが、どこにもその説明がなく、いい加減の
デマカセではないかと想ってしまう? どうやら即興の虚構の言い訳だった
ようだな?ww

491 :日本@名無史さん:2010/03/17(水) 14:29:26
今コテハンの書き込み時間だけ全部チェックしてみた。
そこで分かったことだが、こいつらニートと無職だw

492 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/17(水) 15:14:55
>主張したのはオマエからだよ。

垂仁90年から21月後の景行元年12月に日本武尊が生まれる。240年
16歳で熊襲征伐だから、255年
直ぐに関東平定、伊勢に帰って死亡。

これが私の主張です。
この21月を十月十日と主張するのが、太国倍年。

>干支は60年一巡だから、当然マシも60年とか120年とかでなくてはインチキ

これこそインチキの最たる物。
書紀には、日々の干支が振られている、そして正朔の文字がある。
日々の干支は、正朔に変換するために必要です。


493 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/17(水) 15:34:14
ノギヘンの漢字と寧の字の優先がいずれなのかが誰でも分かるイロハであるが、
世の中広いもので逆を平気で言う奴もいるわけだ。wwwww

さて大宇宙のどこかにある電波星X線星だと、そこの重力波とかの物理効果?で
優先が逆だと屈強に主張できるのか、その天体の強力な電波ピピを受信しそこの
電波星人X線星人からの強固な脳支配関係があると、まぁそういう論も地球のX線
検査を強引に踏み倒してその論が成立することもあるんだろう。ppppipipi・・・

494 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/17(水) 16:30:10
ホ28018 ムソトシに ミタのふヱトの ヒトメグリ アクルトシなる ミタのアヱ なればフタヱト
キアヱより ヱとホとかぞえ ヒトヱムソ トヱはムモトセ モヱはムチ チヱにムヨロを
アマモリの ヒトメグりづつ コヨミなる

ホ29266 カンヤマト イワワレヒコの アマキミと あまねくふれて トシサナト カシハラミヤの
ハツトシと ミヨカンタケの をゝいなるかな

年の干支をどうしても合わせるなら、神武即位(サナト)より57年前の甲子年を特定する。
キアヱ=甲子、サナト=辛酉。1年を甲子とすれば、辛酉は58年。

西暦4年甲子から58年後とは(58−19=39、4+39−1=42) 西暦42年になる。

西暦4年に導入された暦が、書紀の暦で 西暦42年が神武元年。
全て1章×n回の誤差
神功渡海とは、冊封国の海外進出であり、この様な暦法は使えない。
神功に平行するかたちで、仁徳の暦(中国の暦)が使われる。

>ノギヘンの漢字と寧の字の優先がいずれなのかが誰でも分かるイロハであるが、
369年などでは、書紀に書かれた七支刀と齟齬をきたす。
まあそれでも太国倍年ほどでは無いが、支持出来ない。
いいかい太国さんよ、自分の編年で使えない数字で私を非難することと、自分の数字を否定することは、ほぼ同一の事。
自分で使う数字と出来事と違うところは受けてやれるが、自分でさえ使わない数字と出来事で非難するなよ。

七支刀を太国倍年に合わせると、百済王朝は、犬猫の世継ぎを支持する。


495 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/17(水) 18:19:43
どうだ〜? 電波星からピピピピッと送信が来てるか〜?www

496 :日本@名無史さん:2010/03/17(水) 18:46:15
おまえらの数字遊びと馴れ合いには呆れ果てる。
古代史をダシに妄想してるだけだろ。

497 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/17(水) 19:18:44
>>496
私の数字を否定するのは歓迎しますよ。
ただし太国倍年の如く七支刀は369年で百済王朝の世継ぎは、犬猫なみでは困る。


498 :日本@名無史さん:2010/03/17(水) 20:41:10
七支刀は応神天皇に贈られたもので皇太后に贈られたものではないよ。
だから369年だよ。


499 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/17(水) 20:59:51
>>498
書紀に書かれた七支刀の位置は、百済が大国となる初めに位置している。
そのお礼の一つとして七支刀がある。
一番大事なのは、この年代に大量の帰化人を考えなければ成らない。
ある先生は、現在の日本人になるためには、20万人の渡来が必要とはじき出す。
これは、蝦夷、弥生人、渡来人がこの時点で混血したことを前提にしているが、
それを差し引いても、数万人の渡来が無くては、現在の我々の血液にならない。

時間は大きいほど渡来の思考が楽になる。
369年を考えると、前燕の滅亡が370年、これ以降高句麗が強大化、渡来人を大量に考えられない。

326年で考えれば、百済が高句麗に攻め入り、捕虜を倭国へ朝貢。
この50年は、大きい。

百済本紀を数字に直せないのが韓国考古学。これは数字に誤りのあることを容認する。


500 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/17(水) 21:56:51
日本古代の真の暦年を知る天下の宝器が、天津神算木(天津金木)である。
その実体は大三輪神からの贈り物といいたくなる半径r=3の球であり、
円では三輪というのである。この円の球化の表面積Sと体積Vは双方合い
等しく S=V の関係にあり、Sは

 4×π×r**2=113.0973355292・・・

となる。ここで天津金木を本打ち切り末打ち断つわけだが、末打ち断ち
(右辺の分断)のとき、

 S≒113.0973355 と S≒113.097335

の二つが通常の分断となる。                   〜続く

501 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/17(水) 22:07:00
お〜お〜
まだパイの計算が出来ていません。


502 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/17(水) 22:12:20
>>500
後者の右辺は三分され三輪の三数を強調し、3倍年暦の崇神の代を指し
示す。三分は 113 097 335 の三数となるが、ここの113が崇神即位の
月日数を意味し、次の097はB.C.97年を指示する。そこから

 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(以下の事由で97の前の0を除去する)

を得る。これは実年代ではなく見かけの年代であり、最後の335は実年代を
誘引する数字なのである。そこで

 335−97=238年

の準実年代が差で求まる。ところで97数の手前の0は西暦0年を意味し、
西暦0年をなくせば(B.C.1年の次年はA.D.1年=西暦元年とさせる)−1で
1年詰まるわけで、これから

 238−1=237年=景初元年=崇神即位元年(実年代)を得る。   〜続く

503 :日本@名無史さん:2010/03/17(水) 22:14:13
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■


@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)

Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)

Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。

Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。

504 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/17(水) 22:28:18
>>502
>>500での(最下段)の前者の天津金木の末分断は、右辺整数位の113と
同末数三桁355との割合が重要であり、

 355/113=3.14159292・・・≒π

となる擬似円周率を顕現する。また113の次数三桁(0を除く)は973だが、
これと355との割合は

 973/355=2.740845070422 535211 26・・・

から、逆読み←で

 1/1 皇紀2535年 朝倉尚絅 生まる

505 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/18(木) 08:47:28
>半径r=3の球であり
半径が3なら 直径6が使われないパイなどただの逆算。
これを同道巡りと云う。


506 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/18(木) 09:01:45
>>465
>何故か太歳記事のある神功三九年を真の神功元年とみたて

ここを仁徳元年とすると、神功69年の太歳は、仁徳が太子履中を立てた時空と重なる。
つまり応神=履中となる。


507 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/18(木) 09:32:03
応神≠仁徳

これをイコールなどと言う奴は、唐松山=倉西裕子 などと主張して
いるようなもので、探偵小説の読みすぎの妄想の極。ww

508 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/18(木) 09:35:05
訂正
応神≠履中

509 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/18(木) 09:58:51
半径r=3のとき、直径をRとすれば

 R=2×r=6

であるから(**をべきとして)

 S=4×π×r**2=4×π×r×r=(2×r)×π×(2×r)=π×R**2

であって、直径Rは使われたことになる。
つまりオマエの言い分はここでもデタラメであり、オマエこそ道々巡り
の張本人。

510 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/18(木) 21:54:39
π=… で表せていないじゃん。
> 355/113=3.14159292・・・≒π この113って ≒113.0973355292・・・ だよね。


511 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/18(木) 22:06:22
>>504では 973/355 について解説しましたが、天津神算木

 S≒113.0973355

において 309/355 の天津御量を調べれば

 309/355=8.70422 535211 2676・・・×10**-1 (**はべき)

から逆読み←で

 1/1 皇紀2535年 朝倉尚絅 生まる

512 :日本@名無史さん:2010/03/18(木) 22:08:14
おまえらの数字遊びなんて、まともな学者は誰も相手にしてないし、
一般世間の人間も見向きもしてないから。

513 :日本@名無史さん:2010/03/18(木) 22:08:51
太国氏は数学の歴史も勉強したほうが良さそう。

514 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/18(木) 22:16:37
>>511 続き
天津神算木の分断の前は

 S=113.09733552923・・・

ですが、後続桁の292をとって手前桁355との天津御量は

 292/355=0.822 535211 267・・・

から同様に

 1/1 皇紀2535年 朝倉尚絅 生まる

515 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/18(木) 22:39:05
>>401 続き
通常暦の 1年=365.242日 は古代マヤ文明同様である。これと365日との
天津御量は先述のとおり

 365.242/365=1.00066301369 863013 69・・・

から

 皇紀863年 01月3日 誉田別尊(應神天皇) 立太子

さらに、分断前の天津神算木

 S=113.0973355292・・・

での整数桁113と後続桁292との天津御量は

 113/292=0.3869 863013 69 863013 69・・・

から同じ二つの値で

 皇紀863年 01月3日 誉田別尊(應神天皇) 立太子

1年=365.242日 と 天津神算木S との値に接点が出来ている。

516 :日本@名無史さん:2010/03/18(木) 22:51:02
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった

517 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/18(木) 23:25:30
>>516
韓国で田植えが行われたのは,秀吉による渡海以後です。
まあ身分差別が大きすぎて、農業をおろそかにした結果ですな。

自国の歴史書を読んでごらん、出ているから。


518 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 19:33:20
フトクニって数字をもてあそんで、空しくないのかね。
記紀のおとぎ話と自己流の計算とバカの一つ覚えの倍暦とやらで妄想を語る前に、
中国史料と金石文と考古学の遺跡・遺物に立脚した確かな歴史から勉強し直せよ。

519 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 19:35:28
付ける薬が無いからなぁ

520 :日本@名無史さん:2010/03/19(金) 19:38:01
つーか、一日中書いてないで働けよ。

521 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/19(金) 21:39:05
あの数字は歴史と合わせてないことを,自慢している数字だから
倍年が存在しないことを、みんなに知らせたいんだろ。

「正朔」の文字のある数字で出来ている日本書紀は、太陰暦で読めなくてはならない。


522 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/19(金) 21:43:58
>>518>>519
倍暦は古代マヤ、アステカ、サポテカとか古代エジプト、古代南バビロニア
でもそれぞれやってますから、古代の日本でもやっていてもおかしくは
ありませんね。つまりオマエの「結論が先にありき」の典型的妄想だね。

523 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/19(金) 21:51:18
マヤ分明はマシ分明じゃぁないんだよ。マシなんてどこの国でもやっちゃ
いない。唐松山の脳内の虚構。すなわちインチキだな。

524 :水無月花梨:2010/03/19(金) 21:54:35
>>521
唐松山さま・・・陰ながら応援申し上げております。憎き太国を存分に打ちのめして
くださいまし。

525 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/19(金) 22:08:18
>>515 続き
時量師神の所管なのか? 上述の天津御量は天津神算木の金城を鉄壁にさせ
る古代からの宝器である。天津神算木に違う古代日本の編年はイカサマ
である。天津神算木を操作すれば、唐松山の編年がめちゃくちゃ物だと
いうことが軽く明確になる。ww

その強めの宝器〜天津御量は分断の天津神算木の

 S≒113.0973355

の末桁を2個増加させて

 S≒113.097335529

から

 529/335= 1.5791 04477611940298・・・

 1/5 皇紀791年 成務天皇 即位

526 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/19(金) 22:36:50
>倍暦をやってもおかしくない。

これには一定の数字が必要だが、太国倍年には、一定の数字が無い。
これでは、暦、歴にならない。
数字に直せない倍歴は、暦の後付けが出来ない。
数字を捨てた時点で、「月の前半しか記事が無い」も意味を失う。

まあ自分でも歴史と関係無い数字と認識しているから、そこまでは各自の自由だ。
しかしその使えない数字を武器にされてはたまらない。


527 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/19(金) 22:39:38
正朔を言うなら〜〜
欠史八代の日数を全てオマエの正朔で具体的に説明してみろや。

528 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/19(金) 22:51:37
>>525
かように時量師神の宝器たる天津御量は天津神算木の金城をさらに鉄壁に
護持する。妄想の唐松山の編年はインチキであることが、これよりバレ
る。分断の天津神算木は

 S=113.0973355

だが、これに1個末桁を加えると

 S=113.09733552

となる。天津御量にて右辺の733と552を調べると

 733/552=1.3278985 50724 63768・・・

 西紀507年 2月4日 繼體天皇 即位

529 :日本@名無史さん:2010/03/20(土) 04:07:25
神がかりの狂信者の妄想や数字遊びか。

530 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/20(土) 09:39:21
>>529
オマエ、来年から神社に初詣に来なくていいよ。

531 :日本@名無史さん:2010/03/20(土) 09:45:04
伊賀市、昨年度までの「在日」の減免認める 市県民税を半額に

三重県伊賀市が数十年前から市内の一部の在日韓国人や在日朝鮮人を対象に市県民税を減額していた措置について市は12日、
「昨年度まで市県民税を半額にしていた」と認めた。同県内では桑名市で本年度も同様の減免措置を講じていることが判明。
四日市市に合併前の旧楠町でも減免していたことが分かった。
伊賀市の減額措置は、昭和30年代から40年代にかけ、当時の上野市(現伊賀市)が、地元の在日本大韓民国民団(民団)や
在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)との交渉を経て開始。市長が特例で認めたという。当時は納付しない人も多く、半額でも徴収したい、と始めたらしい。
35年ほど前は算定額を低くしていたり減額率が細分化していたりと方式は一定ではなかったが、最近10年は納付額を一律に半減。
市は2004年11月の合併前まで市市税条例にある減免条件「(市長が)特別な理由があると認める」場合に相当するとして
慣例として単年度の市長決裁を受けずに適用していた。
昨年度に半減措置を受けたのは市内の定住韓国・朝鮮人約400人のうち個人事業主を中心に在日韓国人35人と在日朝鮮人18人。
市が該当者分の納付書を民団と総連にまとめて送付。それぞれの団体が取りまとめて納税していた。
他町村との合併協議の中で「減免措置があるのはおかしい」との指摘を受け、民団、総連と協議。05年11月に翌06年度で全廃することで合意した。
民団三重県伊賀支部の申載三・支団長は「3年前に支団長になって措置を知った。参政権などを求めるのに日本人と違うのは不公平だと改善に応じた」と話す。
総連伊賀支部の金栄泰委員長は「過去の経緯は話せない」と語った。
伊賀市は市民税と合わせて徴収する県民税も半額にしていたが、伊賀県税事務所は「減額は市の裁量だが、半減措置は知らなかった」という。
県市町行財政室は「地方税上、条例の定めのない減免はできず、条例がないなら問題」、総務省市町村税課は「減免は各市町村が判断し条例で定めるが、
このような例は初耳」としている。

(中日新聞 )
ttp://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2007111302063852.html

532 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/20(土) 10:25:28
>マシなんてどこの国でもやっちゃいない。

日本人が輸入した物を自分の使いよい様に改良、変形させるのは、ここから始まっている。

書紀の数字と現実は、私の数字の如く、行き来が出来なければ、後付けも先付けも出来ない。
何処か解らないところへ跳んで云ってしまった太国倍年は、この時点で頓挫してしまった。
小細工では、修正できない。それを算木の計算値で正しいと言い張っても、頓挫した数字を扱えるのは太国のみ。

だから主張したければ、その数字で歴史を読み、それを掲載する以外に方法は無い。
まあ季節を書き換えることも出来ないのが、現状では有るが。


533 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/20(土) 10:34:43
季節は倍暦をしらない者の官僚式記述の後つけであるから、それは倍暦
否定の根拠になりえぬ浅薄な即断であって、その主張は棄却される。

マヤ文明はマシ文明ではない。マシなんぞやってた国、地域は世界のどこ
にもない唐松山の脳内のみの架空のインチキ語である。いくらがんばって
も、宝器天津金木にさからえばその編年は盲象の暴走以外の何物でもない。

534 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/20(土) 10:44:43
三輪の神の天下の宝器天津金木にたがえる唐松山の編年は逸脱した盲象の
暴走そのものであり、一個人的記載のホツマにアヘンの吸引の如く
酔いつぶれて適正思考をメチャクチャにした心酔の果てであって、脳内の
清算が出来なくなった取り返しのつきにくい妄想の吐露であり、その
害毒は計り知れずクソの役にも立たないマイナス説であるから、早急に
ひっこめたほうが不幸中の幸いである。

535 :日本@名無史さん:2010/03/20(土) 13:44:18
太国⇒カルト教信者

536 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/20(土) 16:24:44
>季節は倍暦をしらない者の官僚式記述の後つけであるから、

官僚がウソを後付けですか。本当に倍年は クソの役にも立たないマイナス説ですね。


537 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/20(土) 17:15:14
故意のウソにはならんでしょうが。ww やむを得ぬことでしょうが。
ならば三重在位とか書いてない紀は大ウソでいいんですかね?pp

538 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/20(土) 17:44:54
>故意のウソにはならんでしょうが。ww やむを得ぬことでしょうが。

何処にもやむを得ぬ事情が無い。得ぬ事情を欲しているのは、
インチキ倍年を擁護する太国さんだけ。

やむを得ぬ事情を欲している記事は無い。
それとも誰か季節の後付けで首を落とした舎人でも居ました?


539 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/20(土) 18:52:55
当時は誤記かどうか誰も感づかないでしょうがねぇ。
感づいたのはこのごろでしょうが。ww
感づけば、そんな危ない誤記はしないでしょう? 11の次が16では5年
少ないと感づきますぜ。だからマシなんか一発で感づかれて矯正され
ますぜ。ww

540 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/20(土) 20:04:59
>当時は誤記かどうか誰も感づかないでしょうがねぇ。

季節が狂えば、軍体の派遣等に支障が出るが、
支障の出るのは、倍年で季節を違えた場合です。
だから崇神4,5,6年を1年とすると、記事がはみでる。


541 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/03/20(土) 20:52:16
應神世に百済から渡来し、『論語』『千字文』すなわち儒教と漢字を伝え、菟道稚郎子を教えたという王仁(わに)。
313年の楽浪郡滅亡後に百済に逃れた王氏だったのか?
日本書紀、古事記、続日本紀に出てくる人物(古事記では「和邇吉師(わにきし)」)で、
三国史記など朝鮮文献には登場しない。
古今和歌集の仮名序で王仁の作とされる歌「なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな」
大阪府枚方市には大阪府史跡の伝王仁墓があるが真偽は不明。

542 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/20(土) 21:25:33
359年 百濟阿花王薨 十六年春二月 王仁來之 則太子菟道稚郎子師之
晉書卷七十六 列傳第四十六 王舒子允之
乃赦庾亮諸弟,以ス東軍。舒率眾次郡之西江,
允之聞之驚愕,以為恬丞相子,應被優遇,不可出為遠郡,乃求自解州,欲與庾冰言之。

慕容皝字元真,廆第三子也。
冰見表及書甚懼,以其絕遠,非所能制,遂與何充等奏聽皝稱燕王。

王舒子允と冰は関係がありそうだ。




543 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/20(土) 21:58:01
>>540
wwwww 軍体? 何ですかこの意味は? 軍隊の誤記ですな?www
〜感づいてれば、紀の記載が変わってますぜぃ。
編纂当時の人間は過去の倍暦に気づいてないようですからな。

マシなんか世界各国の暦法を見ても見当たらんのですよ。n倍年暦は
結構やってるようですねぇ。だから、マシはどうやらあんたの妄想です。
早く引っこめたほうが小恥で済みまずぜ。ww

544 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/20(土) 22:29:20
>n倍年暦は結構やってるようですねぇ。

n倍年暦は太国での話。毎日が日曜日だからカレンダー不要。
マヤを出しても、キッチリした太陽暦がある。
それ以外も使い方が解らない、解らない物は無いに等しい。
「ふとまに」を暦と呼ぶのと同等。
だから3倍年を使った歴史での反論が出来ない。
使い物にならない以上、早く引っこめたほうが小恥で済みまずぜ。ww



545 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/20(土) 22:43:37
21ヶ月の景行の代の記事で、まだ妄想だとの疑念を想い浮かばないん
だねぇ〜?www いま一度オマエの脳に問い合わせて、オヤ??
新羅193=崇神5,6 はおかしくないかと自己をふりかえりたまえ。それ
ともどっかの天体からピピッと送信が来るのか?www

21ヶ月なんぞオマエの言い出したことなんだぜ。ww いくらがんばって
も、天津神算木の金城は揺るぎなし。未来に大恥をかきたいわけか〜?ww
まぁそれもいいだろう?〜〜余ではないからなぁ。bbb

546 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/20(土) 22:49:39
使い方が分からないのか〜?ふ〜ん。じゃぁマヤ文明の参考書でも学べ。
ツォルキン暦が 1年=260日 の1.4倍暦法だ。1年が365日の暦法も
オマエのいうとおりあるが、ツォルキン暦は1年が365日の暦法ではないぞ。

547 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 10:44:01
ツォルキン暦は1年365日のうち、260日 の農事暦法だ。

>21ヶ月なんぞオマエの言い出したことなんだぜ。ww 
垂仁90年=99年 翌年は景行元年 これで整合性がとれる。
対する太国倍年では、倍数も日数も年度まで狂う。

「正朔」の文字のある書の季節を無視する事は出来ない。
だからまず季節を違えない読み方をし、且つ書紀の長さを表記出来る方法でなければ成らない。

倍年は、季節を違え、書紀の長さを表記出来ない。


548 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 11:00:34
オマエ、マヤの参考書を読んでないのか? 参考書の著者連はマヤ研究の
権威だぞ。ツォルキン暦は農事暦ではないぜ。素人論だとマヤ臥海から
オマエは嘲笑されるぜ。農事暦はハアブ暦だ。1年=260日のツォルキン暦
は祭事暦だとマヤ学者らの解説だ。
デタラメを言うなよ。一般のマヤ学初心者に誤解をもたらすデタラメ害毒
をスレに流すな。この野郎!

549 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 11:02:31
それが古代日本に何の関係があるのやら。
自説に凝り固まった妄想狂のコジツケは見苦しいよ。

550 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 11:08:42
真矢 −D------------−−−→◎ 矢的

551 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 11:10:04
史学科の古代史専攻の院生がここ見たら、冷笑か失笑で終わりだろうな。
まあ、そういう連中はこんなスレ、はじめからスルーしてるんだろうけど。

552 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 11:21:23
>>548

であるならばツォルキン暦は、書紀の年数を読む参考にならない。
書紀は祭事暦では無く、太陰暦の変形でしか無い。
もし祭事暦とするならば、太陰暦の変形として読むしか方法は無い。
書紀の正朔、その元となる朔を無視しては、成り立たない。

朔を無視して、書紀は読めない。
その証拠に、太国自身が書き換えて読んだ事が無い。
書き換えの掲載が出来るか?
出来ないだろ。倍年はあり得ないのだ。


553 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 11:23:48
>>551
そうだろう。オマエと同様象牙の塔連は左党を舐めすぎてるんだぜ。
だからオマエと同様に紀見なシソー(歯層)の状態にあり、オマエらの
餌舐メル質象牙質神敬質は歯科医糖と強酸糖に蹂躙されてフガフガの
欠歯八代の代歯脱多の情けない思想脳労の記紀に直面してるのだ。

最後に泣くのはオマエの津田妄想病に冒された哀れなオマエの脳内だ。ww
オマエの脳内へのリトマス史見視は円旗政でも忠政でもなく参政のうち
強酸政の赤化のペーハー検査結果らしいが〜?ww

554 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 11:30:10
>>552
どこでもn倍年暦はやっている。日本古代だけがそうでないということ
にはならない。所詮マシなんぞマヤでもやってない。朝廷はそれは農業も
大事だが、やることは当初は古神道だよ。祭事暦は当然執行されて当たり
前だ。開化も成務の60年(61年)とかで全部カウントされてたのさ。

その文証が神社の伝承、由緒等であり、これからすれば、オマエのマシは
インチキのゴミたるイカサマ論であ〜る。不敬をしたくなけりゃあ、
オマエのマシは引っこめたほうがいい。ww

555 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 11:42:35
太国倍年の崇神
211辛卯  崇神誕生
237丁巳  崇神即位 【景初元年】
246丙寅  垂仁誕生
259己卯  崇神崩御

これを容認する考古学は無い。
垂仁誕生が36歳ねえ、妃の出産年齢はいったい幾つなの?
江戸時代の大奥でさえ出産は30歳までなんだよ。
田田根子は何歳で崇神に仕えたの?死亡は、景行と同じだろうから、
この時代に何年生きたの?

全く使えない代物です。




556 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 11:51:35
考古学はまだ発展途上の不完全なものだよ。これで卑弥呼の女王国が
いまだ論が割れていることからもおんぶはやめたほうがいい。

それに30すぎても出産はできる。そんなことしかつつけないオマエのマシ
はもう崖っぷちさ。ww
こちらがどこで30とか言ったかね? 抽象的批判しかしないのがオマエの
いつもの具体性のないいい加減なやり口だな。ww

557 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 12:08:29
ミワのトミ オオタタネコか ささけんと フモミソヨトシ つつしみておす
オオカシマ フモヨソナトシ ささぐハナオシ
ときアスス ヤホヨソミホの アキアメカ これたてまつる
ミワのトミ スヱトシをそれ つゝしみてそむ
アスス843年は景行55年 秋アメカ(天代わる=景行崩御)
田田根子は234歳でホツマを著す。それを
大鹿島が247歳で清書する。
田田根子が237丁巳  崇神即位生まれでは、この後の祀りに影響するので
崇神元年で5歳と見積もると、322壬午  景行崩御では 90歳になる。
さらに13歳年上の大鹿島は、いったい何歳?


558 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 12:34:33
太国倍年の崇神紀
211辛卯  崇神誕生
237丁巳  崇神即位
246丙寅  垂仁誕生
259己卯  崇神崩御
フソコトシ ハツヒオウトに キサキまた うむミコイクメ イリヒコの イムナヰソサチ
崇神29年垂仁誕生まで 太国倍年では、246−211=35
35年が経過しないと、垂仁朝の記載に齟齬が生じる、その為、
崇神29年は、現実の35年後になる。妃の年齢は30歳をとうに過ぎ、45歳か?
それでも3年を1年として数えなければ3倍年に成らない。

これじゃあ自分でも編年出来ないわなあ。


559 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 12:38:47
太国の我田引水、牽強付会の強弁ぶりは、はたから見ていて見苦しい。

560 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 12:52:10
この様な結果となる原因を考えると、
各天皇の後ろほど伸長されているのに平均圧縮を試みると、
世継ぎに齟齬が生じる。そこで世継ぎの誕生を後ろにずらさなければ成らなくなった。

思考の基本が間違っている。と云うことですね。



561 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 13:37:17
しんら

562 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 14:20:31
>>557
それはオマエが最後まで説明するがスジだろうが。ww
オマエはいつも記紀より一個人的記述のホツマを優先してるのが失敗の
始まりなわけよ。そんなに一個人のものに脳内まで隷従するのがカルト
妄想の始まりさ。オマエの説明はその殆どが抽象的批判に終始し、それを
突かれると若干具体性を帯びてはくるが、やはり途中で具体性が消失し、
不完全な反論で誤魔化しをする。だいたい30歳なら2倍年暦では15歳と
いうことになり、不合理はオマエの見せかけの小ズルい批判なのさ。

>>559
オマエはいつから唐松山の味方をするようになたのか? それともオマエ
は唐松山本人かな? よくこいつは無コテで他人が批判してるように
見せかけるのもやる、なかなかこすい男だからな。ww

563 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 14:23:50
カルトコテハン乙

564 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 14:31:30
>各天皇の後ろほど伸長されているのに

何を持ってそんなことが言える?

565 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 14:34:50
>>564
だから神武のほうを後ろとあいつは言ってるんではないでしょう
か? となると、違いはあるが那珂博士説に近いB.C.660年まで伸張
されてるような意味あいでしょうかね?

566 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 14:45:49
何をどう言おうが太国のいうことは信用できない

567 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 15:21:24
>>564
>何を持ってそんなことが言える?
垂仁の誕生は崇神29年です。これを含めて推察すると
崇神12年迄は記事が満載で圧縮は、難しい。
この後に垂仁は誕生するが、12年から29年誕生までは空白年があり圧縮出来る。
崇神5歳即位と見て12年後崇神12年過ぎが、世継ぎ製造期間にはいる。
崇神治世68年は、正朔の30年と同等の長さと考えることが出来る。68年−2章(38年)=30年
垂仁の子作りは、垂仁9年以後、ここで20歳程度でなければならない。
崇神29年から垂仁9年までが20年であるならば、各天皇の後ろほど圧縮せねば数字を得られない。


568 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 15:24:30
奴の言うマシとか圧縮っていうのは、唐松山の架空の妄想ね。艮神社
のがいい例で、当時きちんとカウントされていた。

569 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 15:28:40
当時って9世紀かよ

570 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 15:34:54
分かった、在位の中での崩御年に近い方のことか。崇神より神武の方を
後の方ととってた。それなら分かるような気がする。
じゃあ允恭も圧縮できるのだ。

571 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 15:45:46
続き
ソヤトシサツキ ソカキサキ うむミコニシキ イリヒコの イムナヰソキネ
フソマフユ うむミコヤマト オシロワケ イムナタリヒコ
垂仁9年から18年迄はそれ相応に圧縮出来るが、
18年ニシキイリヒコ、20年オシロワケ イムナタリヒコ。この2年は女性の側から見れば
必要な2年間と考えられる。
そして景行元年には、景行は子作り年齢に達している。
垂仁治世23年間。垂仁20年は、治世5年程度と成る。




572 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 15:56:45



韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ。
趙現鐘・国立済州博物館長と佐藤洋一郎・静岡大学助教授が
大阪府和泉市のシンポジウムで発表。[共同通信]
http://www.tt.rim.or.jp/~shr/nl/2001xc.html
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ




573 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 18:53:45
太国も唐松もどっちもどっちだ。
日本書紀の編纂段階で机上で設定された、架空の年代をいくらいじくっても、
それは単なる数字遊びにしかならない。

継体大王以前の年代記事なんて、はっきり言って創作された年代。
允恭晩年から安康、雄略がおおまかに五王年代に重なるのが参考になる程度。

574 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 19:37:18
>>573
否定してくれるか、うれしいね。
>>476 に数字がある、これを否定してみてくれ。歓迎するぞ。


575 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 21:13:28
年代は架空であるかも知れないが、無理もない話だ。
資料を精査し、古い順に並べ、年代を当て嵌めたものである。
架空年代というより、仮年代である。
記事は編纂時にあった資料に基づくもので、事実や、事実が脚色された
もので、全くの作り話はどうかな。途方もない脚色はあるかもしれないが。


576 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 21:17:25
>>573
>継体大王以前の年代記事なんて、はっきり言って創作

この天皇の代は2倍年暦を行使しており、さらに先帝の武列以前允恭の代
まで通常の暦法だったのだ。この大王が2倍年暦を行使していたことは、
紀の同大王(同天皇)の日数統計表を眺めれば容易に分かる。このことで
継体手前の武列以前では倍暦の原因で14年年代が詰まることになるのだ。

ところが梁書には永元元年(499年)に慧深という僧が日本から大陸に
渡り、日本の顯宗天皇(乙祁=袁祁)の消息を伝えている。顯宗の即位
は通説で485年(皇紀1145年)だから

 485+14=499年=永元元年

となって、ピタリと合理的に一致する。このことは紀の継体以前の記述が
創作ではないことを物語っている。

それに創作ならば、舎人親王らは公文書偽造罪で、昨今の某党議員の帳簿
虚偽記載で逮捕されたのと同様に逮捕される。たかが紀の作成で利害も
あろうはずのないのに、そんな身の危険を冒す必要があるまい。B.C.660年
まで年代を広げて虚偽をしたと想っても、大陸の三皇五帝の世にも及ば
ず、イカサマならば殷、夏の世よりも古くしなければ大陸には打ち勝て
ない。だから大陸に負けなく古くしようとしたんではなく、当時倍年暦を
行使していたことを知らなかったために、そこまで年代を拡張せねば
合わない状況があったために、B.C.660年に至ったということである。

577 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 21:37:43
>>575
残念ながら外れだな。
神武即位の時点で太陰暦は使われていた。
使用方法が変わっている。
それは、暦を配布する代わりに、穀物を納入する。これがその当時の治世だ。
暦の構造が解れば、従う者が減る。これが「倭乱」の中身だ。
暦の構造を解らなくするため、朝廷は、空白の数字を注入して、計算しにくくする。
この為に、暦日の元となる「朔」に誤差がでては「正朔」にならない。
正朔を得る為には、19年である1章の倍数を各天皇が注入する。

これが正しい思考か考える為に、>>476 の記載をした。
正朔である。


578 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 21:42:43
NHKラジオで、記紀あるいは帝記の編纂時点で
最も近かった辛酉の年である推古9年(601年)から
1260年(暦が一巡りする60年を21回)前を
神武即位の年にしたと言ってたぞ。
中国の辛酉革命の考え方に従ったんだって。

579 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 21:59:52
また、バカの一つ覚えの「公文書偽造」かw

天武天皇以来の修史事業自体が、天皇中心史観による歴史の「創作」なのに、
公文書偽造もヘッタクレもあるかよ。
太国のいう「偽造」とやらは、そもそも国家ぐるみでやってることなんだぞ。
それなのに処罰もクソもないだろ。

ありもしない人物や出来事を創作し、ありもしない細かい年月日まででっちあげ、
もっともらしく体裁を整えて、天皇家の正統性を主張する政治的プロパガンダだろ。

580 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 22:12:05
律令国家の支配者は、ランケ以降の実証的な歴史学者でもなんでもない。
自分たちの正統性を主張するために、政治的宣伝の書として記紀を編纂した。
編纂を命じた天武天皇はじめ、朝廷の上層部は自分たちの都合のいい歴史を捏造させたのだ。
史官たちは、そうした上の意向に沿って各種の伝承や系譜を改変したりツギハギしたりして、
編纂当時はもはや不明であった時代の大王の物語を創作したのだ。
暦だって百済から暦博士がやってくる以前の時代など、正確な記録があるはずもなく、
辛酉革命の思想で初代天皇の年代を設定して、それに合わせて虚構の年代が創作されたのだ。

日本書紀で「実録」として読めるのは天武朝以降のみで、それ以前は程度の差こそあれ、
捏造や文飾に満ちている。

581 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 22:32:17
↑正解だな
太国はオカルトだからな

582 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 22:37:33
>>578
それでは日々の干支が数えられない。
また正朔も得られない。

書紀は崇神を纒向初めの天皇としている、2世紀末だ。
崇神6年の大物主は、近江伊勢遺跡の衰退をあらわす。
そしてこの前年が凶作で、この年には、離農者が出たことが記録されている。
この記事は、新羅本紀193年の記事と同等だ。

まずこの年代をどうするか?記録が無ければ出来ない記述だ。


583 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 22:42:35
凶作なんて頻繁に起きるだろ。
新羅自体建国は4世紀だしさ。

584 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 22:46:41
>>579
へったくりもあるんだよ。国家ぐるみで何の利害があるのかね? そんな
ものを創作するなら、何で三皇五帝の世よりも古く、さらに殷、夏よりも
古くしなかったのかね? B.C660年くらいじゃ中国の歴史よりも古くは
ならない。創作したにしては中途半端で要領が悪いし、むしろもっと
もっと古く見せかけをやらにゃぁ大した創作の効果は上がるまい?

オマエはこういう不審点についてなんら回答らしい回答をしていまい。
それに創作するならば、ついでに雄略、武列の大悪ぶりを創作するん
では、これも具合が悪いではないか? それなのにかような記事が存在
するということは、断じてオマエおの言う創作では自ら朝廷の不利益を
バカ同然に上程しておりそいつらは稚拙な連中だということになり、
とうてい天下を握れる知能指数ではないこととなる。WW

ということはオマエの「最初に結論ありき」というオマエの妄想がもたら
した抗弁だと考察するのが妥当だということになろう。WW

585 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 22:50:24
>>583
それでは、新羅を抜いて、その他は?


586 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 22:55:32
193年と崇神6年とは不等式で結ばれるのが正解であって、同等には
全然ならない。とにかく当時は畿内に船舶の製造ができていない。
初めてできたのは崇神17年であるから、これは唐松山の編年判断に
誤があることは自明的である。

587 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 22:57:35
そろそろ崇神6=193を考え直せば?
思考の一つではあるが、書紀に書いてない飢饉なんか一杯あるはずだよ。


588 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/21(日) 22:58:07
42年 神武即位
ホ30036 ヲヲモノヌシは アワウミの ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも
サホコみな タミをおさめて しつかなり いまアマキミの クラヒなる

ホ33051 フタミヤを さらにつくらせ ムトセアキ ヲヲクニタマノ カミうつし ナツキソムカヨ
アスのヨハ アマテルカミの ミヤうつし

近江伊勢遺跡を大物主の都になったのは、神武即位と同じ頃。
第X様式の始まりで表せる。


589 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/21(日) 23:07:13
>>580
>自分達の都合のいい歴史を捏造

これも「最初に結論ありき」の脳内からの考察であり、いい加減な論で
ある。紀に記載の雄略、武烈の悪事が都合がいいことには全然ならな〜い。

さらに紀には皇族の殺人、浮気とかが結構記載されている。これは自分達
に都合の悪い歴史事実なのである。ということは都合のいい歴史を捏造
したことには程遠い。詰まりオマエの先に結論を置いた〜あたかも足利
事件の先に犯人が決まりだとの捜査と同然の妄想であり、いい加減な先行
思想に基づいた誤認捜査ならぬ誤認創作そのものであ〜る。

590 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 23:12:42
邪馬台国には太陰暦のような暦はなかったようだが。


591 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 23:12:49
皇族で殺人、浮気とかした連中の末路は良くないもので、
よくある勧善懲悪の話だけどな。

592 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 23:45:36
>>586
半島から移住して住みついていた集団なら渡れるよ。

593 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 00:07:16
久々のヒットか?

満州族の鳥居。

8Cに登場した鳥居は時代背景から遣隋使・唐使使たちが唐の華表を持ち込んで
アレンジしたものと考えていたのだが、満州のものは鳥居そのものであり、
そうなると、8Cという時代背景から渤海使が伝えたという線も濃厚になる。

渤海使は727年、聖武天皇に初謁見している。


満州族の鳥居
http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/090718/Manchukuo00C.html

594 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 00:49:41
鳥居は朝鮮半島ではないか

595 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 02:44:08
久々のヒットか?

満州族の鳥居。

8Cに登場した鳥居は時代背景から遣隋使・唐使使たちが唐の華表を持ち込んで
アレンジしたものと考えていたのだが、満州のものは鳥居そのものであり、
そうなると、8Cという時代背景から渤海使が伝えたという線も濃厚になる。

渤海使は727年、聖武天皇に初謁見している。


満州族の鳥居
http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/090718/Manchukuo00C.html

596 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/22(月) 09:37:49
>>592
空腹の百姓が操船技術もなく千人も半島へ渡れない。君のとは条件が違う。
せいぜい畿内外周で野垂れ死にさ。おまけに崇神6年には畿内に船舶の
建造が出来ていない。百姓は漁師でない。船舶建造は後の崇神17年だ。

597 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 11:14:23
半島に移住して住みついていた集団とは、大乱の前に
北九州に住みついた半島人のこと。北九州豪族のご先祖様。
大乱中畿内へ逃れた集団とは別もの。


598 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/22(月) 11:26:48
>>597
ほぼそのとおり。崇神6年とやらの紀の百姓飢饉らしい遊離とは、貴殿の
言う北九州の百姓等ではなく、畿内の農民らである。崇神の代は朝廷の国
は畿内周辺あたりまでだから、紀の同年の記事は北九州の人民とは殆ど
無関係で、畿内朝廷からすれば北九州は外国であり、紀に北九州と
いう外国の民の記事まであまり情報も来ないことからその記載をしたもの
ではない。北九州の沿岸とか対馬等の住民なら半島に渡れる可能性は相当
程度あり、新羅の唐松山のいう半島古文献の千人空腹のための渡海という
野は畿内の民ではなく、紀に載せるものでもない北九州沿岸、対馬等の
避難民が半島へ渡海した記事である。

だから崇神6年=新羅193年の説は成立しない

599 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 11:36:35
「崇神17年」なんて捏造年代、実在するわけねーだろ。

600 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 11:42:41
唐松も太国も、記紀の年代や記事を信用して数字遊びしてる点で同じアナのムジナ。
史学科の学生だったら落第点もらうような、自己流の古代史(というか記紀神話)オタク。

まあ、せいぜいトムジェリみたいに仲良くケンカしてろ。

601 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/22(月) 11:49:52
>>595
北方民族の渡来はもっと古い。渡来は3世紀で大量だ。

西暦42年 神武元年 弥生X様式の始まり。22章(418年)の空白を差し引いた
西暦187年が 崇神元年 この年代に庄内式は始まる、纒向開発。
西暦240年 景行元年 布留式の始まり。崇神から成務末までで 11章の空白。
274年 幽州を分け平州を置く、ここが神功渡海。
323年 永嘉の乱終息 百済の大国化。大量の渡来人や鉄がもたらされる。
370年 前燕滅亡 高句麗の台頭。
400年頃 百済と高句麗が覇を争う、そして百済が負けることにより、渡来はほぼ止まる。
もはや巨大古墳の築造は出来ない。
百済まかせの外交を、倭国独自で始める。




602 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/22(月) 11:54:57
>>599
捏造なら、昨今の某党議員の捏造虚偽の不実記載で逮捕されたように、
舎人親王らも公文書偽造罪でパクられて身の危機が切迫するが、そんな
罪名とかで彼らが当時の治安役人に逮捕された古文献、資料等はいまの
ところ存在しない。ということは、オマエの主張のウラつけが全然できて
いないことを物語っており、オマエの「最初に結論ありき」の調べも
してないいい加減なイカサマの負の効能書きにすぎない。

但し神武より古い神代では年月日での記述でないことから、これが史実か
否かの判断が出来ず、史実とちがっていてもこれは伝説の類の関係上、
神代が架空の物語であってもこれは刑責を問われない。

603 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/22(月) 12:02:53
訂正 
×渡来は3世紀で大量だ。
○渡来は、4世紀で大量だ。

この渡来人を差し込めなかったのがこれまでの思考、渡来は4世紀後半
にしか差し込めない。
なぜなら、百済が北方に攻め入り、捕虜を倭国に献上する、と言うかたちで可能になるから
高句麗が強国となれば、もはや望めない。
5世紀に倭国が、新羅に攻め入って得た捕虜は、たかが知れてる。


604 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 13:00:27
またフトクニがバカの一つ覚えの「公文書偽造」をわめいてるw

おまえの主張は、他の人間と根本から発想がズレてるんだよ。
それ全然、反論になってないからw
他人の言ってることをよく読んでから書き込めよ。

605 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 13:08:06
>舎人親王らも公文書偽造罪でパクられて身の危機が切迫するが

朝廷ぐるみ、国家ぐるみの偽史編纂ですが、何か。
天皇はじめ権力中枢がみんな承知の上での歴史の創作ですが、何か。

言い方は悪いけど、要するに記紀編纂事業ってのは、
はじめっから、みんなでグルになってウソの歴史をでっち上げてるんだよ。

5世紀以前の詳細な系譜やら年代やら事件やらの記録があるわけねーだろ。
まして、政治から独立した実証的な歴史研究なんて、この時代にあるわけねーだろ。

朝廷上層部が善意の実証的な歴史編纂をめざしてて(これがまずありえない)、
現場の史官が勝手に捏造したとかそういうレベルの問題じゃないんだよ。
当時の時代性ってものをちゃんと考えろよ。

606 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/22(月) 13:41:53
太国さんの主張は、
自分の編年は、仕方が無かったから、公文書偽造罪に成らないが、
それ以外の、思考は全て公文書偽造罪にあたるとの主張だ。
つらつら考えるに、季節を書き換えた太国編年以外公文書偽造罪に当たるとは思えない。


607 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 14:00:33
つらつら考える 唐松は関西人か

608 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/22(月) 14:08:58
公文書偽造罪で書紀を考えると。
書紀は不当に長い=年を圧縮しても罪にならない。
では方法は?
記事のある複数年を圧縮するには?
記事に整合性がとれない場合、たとえば、
記事に関係無く複数年を1年とする。罪にあたる。
1年1月、2年3月、4年6月、の様に並んでいれば、改元を繰り返したと同じなので、当たらない。

書紀は太陰暦で書かれ、正朔の文字がある。
太陰暦であるが、暦法は解明されていない。リントク暦の場合も複数の間違いを認めれば支持出来る、
この程度ですから、太陰暦で読めれば、罪にあたらない。
正朔。これを得るのが難しい、私の数字は正朔で読める方法の一つである。罪にあたらない。
正朔を得られない場合は、執行猶予。

こんな処かな。


609 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/22(月) 14:16:23
>>604
馬鹿とか言う奴は自説をモノに出来る根拠、資料等がないから、そういう
罵詈でもって弱体の当人の説を補充する持ち駒とせざるを得ないわけだ。w
そうでなければ、キチンと根拠、資料、古文献を出して論説を行使でき
るわけだが、奴にはその持ち合わせが皆無だから、罵詈でもって当人の
弱体主張をカバー、補ってるわけさ。ww

>>605
でっち上げはオマエのほうだぜ。朝廷ぐるみでイカサマをやるんなら、
なにも雄略武烈の数々の悪事を削除するはずだが、それが隠匿せずちゃん
と紀に掲載されている。従ってオマエの朝廷ぐるみという説は成立しない。

それに朝廷に都合の悪い浮気、殺人なんか結構載っている。こうしたこと
を考察したときに朝廷ぐるみなんかやってるとは言えない。つまり
オマエの「最初に結論あり」の構図から左右バックの確認もしていない〜
いい加減な主張であってインチキそのものである。

仮にオマエの家族に殺人犯人が出てケーサツ以外に知られなければ、
オマエや他の家族は人生の不利になろうからこれを必死に隠匿するはず
だし、醜聞はだれでも消したいものである。仮にも殺人犯人がオマエの
家族に出れば、社会から白い目で見られ、通常なら夜逃げだぞ。

いい加減ななんとかぐるみなど先行妄想を垂れ流すな。

610 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/03/22(月) 14:18:44
日本書紀編纂にあたっては、亡命百済人の提出した年干支表記の百済史料が使われた。
肖古王と應神が同時代人だった記述は古事記にもあり、ほぼ確かである。
ところが魏志の卑彌呼を神功に結びつけたために干支2巡、120年の遡上が生じた。
これ以前は外国との対比が難しいが、垂仁末のタジマモリ派遣失敗・放浪は
西晋末、五胡十六国の乱と重なるように思われる。
住吉大社神代記の垂仁没辛未311年?もこれを裏書きするかと。
そうすると崇神没戊寅は318年でなく258年が濃厚となる。
三国史記の新羅本紀も、古い伝承はあるかもしれないが、梁書や隋書との不一致が甚だしい。


611 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 14:20:11
一番の妄想垂れ流しは、ほかならぬ倍暦厨の太国だがなw
いくら2ちゃんとはいえ、脳内妄想とガキの数字遊びを延々垂れ流すのは失笑モノだ。

612 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/22(月) 14:21:43
>>604>>605
仮にオマエの家族に殺人犯人が出てケーサツが外部にその情報を出して
ないなら、オマエらの家族は家族ぐるみでこの厳しい現実を隠匿あるいは
否定するだろう。こういうことを考察したとき親族たる皇族らの醜聞、
殺人、闘争などが

613 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/22(月) 14:25:01
>>612 続き
〜殺人、闘争などの記事が結構載っている記事が紀にあることは、
朝廷ぐるみででっち上げたことには全然ならない。オマエらの
デッチ上げだったということが当然歴然としてくる。

614 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/22(月) 14:32:17
>>610
愛知県民氏の主張の258年説濃厚浮上はほぼ正解であり、それがしの倍暦
計算からの259年説と殆ど一致し、倍暦計算が確実に合っていることを
物語っている。ということは、258年説であった橋本増吉と菅政友の主張
がほぼ正しかったことを意味しているし、天津神算木の算木計算とこれ
また一致してくることになる。唐松山の言うマシは妄説であって、世界
の地域でもこれをやってた所は全然ない。

615 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/22(月) 14:32:48
>百済史料が使われた。
これは確かでしょうが、それを百済本紀と同等とすると問題がおきる。
それは、韓国考古学が、百済本紀の数字と出土物との年代を合わせる事が出来ない。
縦目さん曰く 庄内式と比べた場合ほぼ50年新しい方へずれている。この様な見解です。
庄内式のみでなく、中国の出土物とも合わない。だから新羅、伽耶の編年は有っても百済の編年は無い。

七支刀369年以降では、応神、仁徳陵の築造に支障がでる。


616 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 14:32:59
ケーサツが外部にその情報を出している状態だったんだろ。
アホか。

617 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/03/22(月) 14:39:21
>>615
日本書紀の百済王暦が神功・應神と雄略以降に分断されているのは不自然と思われませんか?
(仁徳紀に百済王が出てくるが、王名は何故か書いてない)
書紀引用の百済記は干支表記ですので、2巡遡上は有り得ます。


618 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/22(月) 14:41:01
>>616
ならば家族ぐるみでオマエも通常夜逃げだぞ。
オマエが言い出したたんだろうが、仮にオマエの家族にそれこそ殺人犯人
がいたことが発覚すれば、家族ぐるみでまぁ夜逃げだな。朝廷ぐるみ論
なんてオマエの紀のお遊びだ。つまりいい加減な先行妄想のなれの果てで
あり、オマエがケーサツ、検察の人間だったら足利事件のように先行妄想
捜査の丁稚上げをやらかす可能性が出手来る紀見な状況にある。

619 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 14:45:20
>>618
で、天皇家は夜逃げしたのか?

620 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/22(月) 14:48:47
古墳時代の遺跡には北方系の遺物がたくさん有る。
これを説明するのに、これまでは、半島南部の人々が来朝し、その後半島南部の人々が入れ替わった。
で説明してきた。しかしこの思考には、大きな欠陥がある、それは半島南部の人々を、今の韓国人
に置き換えなければ成らないが、人々が入れ替わった証拠は無い。
であるならば、北方の人々が渡来した、と考えるほか方法は無い。
そうなれば、どのように渡来したか?
七支刀を326年とし、これ以降、百済が高句麗へ攻め入り、捕虜を日本に渡す。
高句麗が強国となった時点で終了。
これなら、百済と高句麗がいがみ合う事も理解出来かつ倭国が百済を支援する理由になる。


621 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/22(月) 15:13:51
>>619 フフ〜ン!
揚げ足取りは上手だな.朝廷は絶大なる国家権力を握ってるんだよ。それ
だから力関係で夜逃げまでに至らんだけだ。今の小沢さんの弟子議員
の醜聞で、失脚しないで身分が保てているのは、あの人の世界第3位とか
いうものすごい実力が夜逃げ的失脚をしないで免れていられるわけで、
一般人ではそうはいかんぞ。厳しい処分が来て一発で懲戒更迭だ。

そこが皇族とかあの人とかと一般人との相違だよ。

オマエは皇族なのか? だから夜逃げをしないですむという論理
の強行か〜?ww

622 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/03/22(月) 15:21:18
>>620
半島北部の人が半島南部を経て渡来した、ではまずいですか?
313年の楽浪滅亡後、王氏が南部に逃げ、百済から王仁として渡来?
またです。GRRR・・・

623 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 15:37:31
太国は頭を冷やせ。

624 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/22(月) 15:41:00
>>622
半島南部に北部の人が経由した、なら遺物が残る。
渡来人の数は、20万人とも計算されている。
この人数は、自主渡海では得られない。

又、百済、伽耶は、倭国の友好国で継続する以上、ここからの大量渡来
はその地方の、衰亡につながる。
高句麗の後方には広大な土地がある、人々を連れ去られても、補充が利くが
百済が高句麗に負け、その人民を連れ去られると、補充がきかない。
後は、じり貧。


625 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 18:06:54
20万人も渡来してきたんですか?
いつ頃何年程の間に?
そのような記事記紀のどこかに出てくるんですか?


626 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 18:18:25
唐松もけっこう電波だからなあ。

627 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 18:58:18
唐松電波塔

628 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/22(月) 19:32:16
>>625
20万という数字は、有る学者が 現在の日本人の血液を肯定するためには、
蝦夷、弥生人、渡来人から導き出すと、20万人が必要とはじき出した数字
その本が今手元に無いから、見つけ出したら掲載します。


629 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 19:39:52
20万人とは、毎年2,000人×100年間の数字ですね。

630 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 19:53:16
>埴原和郎氏は、遺跡から計算した人口が縄文末期から弥生時代(さらには奈良時代まで)に移行するとき
 の増加率があまりにも高いことに注目し、新しい見解を提出した。遺跡数からの計算で使った0.427%という増
 加率は、近代以前の社会でもあまり例のない高さであることは、増加は内在的なものではなく、日本列島外 
 からの移住によっておこったと考えたのである。

 そこで弥生時代のはじまりをBC300 年とし、それから奈良時代までの1000 年間についてシミュレーションを
 おこない、最大で300 万、少なく見積もっても 100 万という大量の人びとが大陸からやってきたという結果を
 だした。
 (「縄文からみた弥生の人口」 国立民族学博物館 小山 修三 講演記録)

631 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 19:55:15
>また、日本人の形質変化についてのシミュレーションをおこない、その検証とした。その結果、
 縄文的な形質をもつ「古モンゴロイド」のなかに、大陸からきた「新モンゴロイド」が割り込み、拠
 点となった近畿地方から列島の南北にむかって混血がすすんでいったという日本人二重構造説
 を出したのである。
 (  同 上  )

632 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 20:30:38
ということは、毎年3,000人×1000年間の規模ですね。


633 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 21:54:52
そんなものよりも確実で重要なのは秀吉軍が三十万人ほど朝鮮南部に上陸して、
朝鮮人をちぎっては投げ、ちぎっては投げ、殺しまくったということだ。

634 ::2010/03/22(月) 21:58:32
100万人以上を輸送する船は誰が作ったんだ?
それほどの大移動があったとして、中国の歴史書とかに記載はないのか?
そもそもそんな人口大国がどこにあったんだ?

とまあド素人ですら疑問が湧きまくりの珍説だな。

635 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 22:52:00
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■


@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)

Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)

Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。

Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。

636 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/24(水) 19:08:10
渡来人を何処から調達するか?
現在の日本人の血液は、バイカル湖方面と云われている。
韓国人とは、少し違う。当然弥生時代は、南方系等バイカル湖では、説明出来ない。

そこで、現在の血液を容認するためには、高麗人の大量渡来で説明するしか方法が無い。
高麗人の大量渡来は、古墳時代の遺跡から容認出来る。
半島南部の人々をかき分け、日本にやって来る、半島南部には、殆ど足跡を残さずにだ。

容認出来る方法はただ一つ、百済が高麗人を捕虜とし、それらを日本にもたらす。
他に思考できるか?


637 :日本@名無史さん:2010/03/24(水) 19:39:37
>>636
>現在の日本人の血液は、バイカル湖方面と云われている。
またまた妄想か

638 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/24(水) 20:16:51
日本人=ブリヤート
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/min/1035028519/l50

>>637
この辺を読んで頭をひやせ。



639 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/24(水) 20:30:58
http://www.kajika.net/wp/archives/390
「ロシアについて」は1986年の作品である。佐賀医科大学がDNA鑑定によって「日本人はバイカル湖畔のブリヤート人との共通点が非常に多く、
朝鮮人、 南中国人、台湾人などと共通する特徴を持ったのが各1体だったのに対して、ブリヤート人とは17体近くが共通していた」と発表したのは
2001年。


640 :日本@名無史さん:2010/03/24(水) 21:07:12
百済が20万人の高麗人捕虜を列島へ送る。それで日本人の血が変わる。
ふ〜ん。

641 :日本@名無史さん:2010/03/24(水) 21:38:47
「 同四世紀後半、長江河口域での最後の「南アジア人」の国・越が楚に滅ぼされる。
おそらくこれを契機に、再び半島に流民が押し寄せる。これが「倭人」である。
倭人は弁韓南部と対馬と九州北端を強奪する。黥面文身(入れ墨)した最も海人的要素を残した民として、
黄海、山東半島、日韓海峡、それに東シナ海を故地・長江河口まで自由に行き来しただろう。
遅れてきた韓人こそが倭人に他ならない。そしてこれが『後漢書』や『魏志』に描かれた「楽浪海中の倭人」であり
「馬韓や弁韓の南にいた倭人」である。」

http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-52.html

642 :日本@名無史さん:2010/03/24(水) 22:54:52
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり

643 :日本@名無史さん:2010/03/25(木) 18:53:41
唐松の移民がどうたらこうたらの説は、フトクニの倍暦(笑)同様、思いこみが激しすぎる。

644 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/25(木) 20:17:10
古墳時代前期に大量の移民を考えないと、巨大古墳が作れない。
民を古墳築造に使っては、米も作れない。
もし食料が無くなれば、崇神5,6年の如く民は逃げ出す。

645 ::2010/03/25(木) 20:26:32
昭和時代前期に大量の移民を考えないと、巨大戦艦が作れない。
民を戦艦建造に使っては、米も作れない。
もし食料が無くなれば、崇神5,6年の如く民は逃げ出す。

とか?

646 :日本@名無史さん:2010/03/25(木) 21:41:36
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif

647 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/25(木) 22:08:12
>>645
いいか、文字のある時代と、文字の無い時代。
文字を使わず文明を伝えるには、技術者集団が移住するか、
一所に集めて、技術者を作らねばならない、
全国で古墳の作られる時代は、殆ど一緒だ。となれば、その技術をどの様に
全国へ分散させるか? 受け皿は? まだ暦は無いの?

全てに於いて整合性を持たさねば成らない。
それが古墳時代だ。


648 :日本@名無史さん:2010/03/25(木) 22:17:34
唐松山、か、かっちょええ!

649 :日本@名無史さん:2010/03/25(木) 23:49:34
>>647

縄文時代と弥生時代の集落はどこにあった?
古墳時代の渡来人はどこに住んでいた?
韓系土器の意味は?

古墳の作り方はどうやったと考えられてる?


根拠示して応えてね。

650 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/26(金) 17:52:03
@縄文時代と弥生時代の集落はどこにあった?
意味がわからん。

A古墳時代の渡来人はどこに住んでいた?
全国各地だろうが、まず河内。
松岳山古墳って知っていますか?前期中葉か後葉、この隣に方形段積みの高句麗形墳墓がある。
また長野県松本市にも、ほぼ同じ形の古墳がある、だから高麗人の渡来以外考えられない。

B韓系土器の意味は?
韓国考古学が、百済本紀の数字を追認出来ていない。新羅、伽耶の編年はあるから、新羅本紀は正しい。


古墳の作り方はどうやったと考えられてる?

651 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/26(金) 17:55:28
追信
百済編年の誤差について、隔離スレの「テスト」に縦目さんの見解が出ている。
それによると、庄内式に比べ新しい方へ50年ほどずれている。との回答がある。


652 :日本@名無史さん:2010/03/26(金) 22:13:24



韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ。
趙現鐘・国立済州博物館長と佐藤洋一郎・静岡大学助教授が
大阪府和泉市のシンポジウムで発表。[共同通信]
http://www.tt.rim.or.jp/~shr/nl/2001xc.html
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ




653 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 12:18:07
ピカレスクロマンを知らんのか

654 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/27(土) 23:54:15
西野凡夫氏という方は、唐松山と似開化年代を4年としている。まだ
よく氏の論を読んでないので、なぜかは分からないが、唐松山でもその
説明が出来ないらしく見聞したことはこれまでただの一度もない。w

西野氏の提示の「八幡大菩薩示現記」(宇佐神宮史所収)には

「仲哀天皇治天下十六年」

とあるそうだ。紀によれば仲哀は在位九年だが、この代は通常暦法の時代
であり、先帝の代は3倍年暦でその前の代は2倍年暦であったのだが、
九年は正味計算だと8年と少しであるから、

 8×2=16年

で、同記は通常暦法の仲哀の代を2倍年暦で計算表記したものと言える。

655 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 00:24:18
>>654
2倍暦は認めるが、この間は通常暦、ここは3倍暦、ここは2倍暦という判断は、
何を根拠にする?まさか恣意的なものではないだろうな。


656 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 09:47:12
TBS 「日本のメディアの中には朝鮮学校卒者が多数いるんです」 ★2
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1269720396/

657 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/28(日) 10:08:04
>>655
ご貴殿はそれがしの長論を読んでなさそうなんで、おっしゃることはお察し
します。以前に鷲崎さんの旧邪馬台国掲示板で50回以上に渡って解説してきま
した。今は新板に変わりその旧スレをPC上に呼び出せないかも知れませんから、
再度解説のし直しをしなければ納得してもらえないでしょうし、これを再びここ
のスレで解説し直すのは多数回になりますし、数回の書きこみでは解説が非常に
欠にて不充分となることとそれがしも疲労しますから、詳細の解説はなかなか
出来にくいです。それで一部分一部分の質問でお回答しますから、その積み上げ
で理解してもらい、逐一質問をしてみて下さい。

それで今回は一つ説明しておきますが、3倍年暦は武内宿禰の超長寿が2倍では
不合理が残るわけで、2倍を超えた某n倍年暦を行使してたんではないのかと
いう考察から、n=3 が浮かんできたものでして、これですとなかなか合理的
に超長寿の疑問が払拭されると想えたからのことです。2倍年暦では武内宿禰の
寿命は 284/2=142歳 でして、これでも長寿すぎるから倍暦が n>2 としか
考えられないと考察したものです。ところが神武紀(但し神武即位〜同崩御まで
で、即位前と崩御直後は含まない)ではカッコの条件の間、記載は1月〜4月
までしかないわけで、5月〜12月の記事は全然ありません。

ということから、神武即位〜崩御の間はカレンダーを1月から4月までとし、
5月以降の月を悉く切り捨てて無と為し、その当時1年を現今の4ヶ月間で行使
してたんだろうとの考えに至ったということです。実際古代ローマの暦法でも
確か1年が1月〜10月までしかなく切り捨てがあったように、当時の日本もこう
いう切り捨て暦法が行使されてたんだろうとの考えに傾きました。そうすると
日本一の超長寿者の武内は5代に仕えて百歳余で収まりますし、神武のほうも
現今の人間の通常の寿命の範囲に入りますから、不合理が消えて行きます。

仏伝以前の古代では幾回も暦法の変更があったと観ており、これは古代ローマの
暦法でも幾回も改められておりますし、恒久的同一暦法をこの間継続してたん
ではないものと観てます。

658 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 10:11:26
神武やら開化やら仲哀やら武内を実在なんて言ってる時点で、学問的価値はない。
アマチュアの単なるお遊び、学界では通用しない。

659 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/28(日) 10:17:16
>>658
臥海とか象牙の糖は左糖を舐めてるんだよ。だから欠歯八代がオマエのように
フガフガ(不牙不牙)となり、たらふく舐めた分だけ抜歯不在の紀見な歯層
(シソー)の状態になのだ。だから餌舐める質も象牙質も神敬質もしてやられ、
オマエのようにフガフガの欠歯八代の代歯脱多のひどい盲象に至るわけだ。w

660 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 12:53:07
まあ、倍暦倍暦って数字遊びにはまったり、記紀の説話を丸ごと信じてるやつよりは、
学界の連中の方が真っ当なこと言ってるけどな。

661 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 13:50:15
戦後の学界の連中は真っ当とは言えないな。

662 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 13:51:56
だが自己流の電波飛ばしてるアマチュアよりは、ずっとマシだろう。

663 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/28(日) 14:01:30
>アマチュアの単なるお遊び、学界では通用しない。

学会なる物が、信用成らないから、みんなが考えているんだろ。

>学界の連中の方が真っ当なこと言ってるけどな。

それでも全てを通じた紀年は提示出来ていない。
時代を細かくちぎって、それ相応の考えを述べるのみ。


664 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/28(日) 14:08:49
>>660
だからオマエは若いころ学校に行っていたころから、左糖大舐めの先生
などから毎回津田病原菌群の伝染を受けて、それらが脳内に固着するほどの
先脳(妄想の先行洗礼)水(左糖水)を飲まされて臥海カルトの歴歯ロボ
となるよう騙されて来たんだよ。そいつらのマインド・コントロールを
解かせたいから、こうしてオマエに話かけているわけさ。w そうしないと
オマエの歴歯は欠歯八代のフガフガの状態となり、思想脳労の危険な歯層
(シソー)に至って、完全に代歯脱多の虫欠く歯(チューカクハ)同然の
〜アルカード的リトマス史見視の赤化の歴歯脳に変貌する。

こうなってはもうオシマイだぞ。オマエは脳内がそういう記紀の切迫に
あり、円旗政でも忠政でもない強度の参政たる強酸政に支配されて行く。

だからこうやってオマエを警告してるわけだ。いわば遠回しでオマエの
良友が余ではないか?ww 数字とやらは唐松山の当面唯一の遅効性の盲象
治療薬であり、妄想といってもオマエとは異なる。オマエは左糖の呪縛が
解ければかなり正常に脳内ブレーキ、左右後方適正確認が出来うるが、
あいつはそれくらいでは治療できない別の盲象狂の重病患者であって、
オマエのは軽症だから警鐘が効くわけだ。ww だから数字とやらは
オマエとは関係ない。それは余計なお世話だぞ。

665 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 14:54:37
>>657

あい、分かった。だが、あまり小刻みに複雑にすると、まず結論ありき、
そこへ持っていくためにってことになるから、気をつけるよう。


666 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 15:13:53
>学界の連中の方が真っ当なこと言ってるけどな。

学界の連中とは専門の歴史学者と解する。
多分誰も何も言ってないと思う。
言ってるのは、専門は他の分野だが歴史も研究している作家や学者。
彼らは何を言ってもいいが、専門の学者(考古学は除く)は記紀の古代について
何かいえば、居場所がなくなる。戦後の学界はそんなふうになっている。


667 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/03/28(日) 15:16:23
私は政治的には中立でありたいと思っているが、
現代史から完全に離れた古代史が有り得ないのもまた事実だろう。
ソ連崩壊後、モンゴルでチンギスハンの評価が180度変わったのもそうである。
現代も時代の転換期にあり、戦後という大きな時代が終わろうとしているが、
次の時代はまだはっきりと見えていない。
夫婦別姓に保守派が反対しているようだが、江戸時代まで日本は夫婦別姓だった事実を考えると
保守派が反対するのは奇妙な構図である。
事実の誤認だけは、なるべく排除するようにしたいものである。
GRRR・・・

668 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 20:25:12
>>666
「真っ当なことを言ってる」っていうのは、記紀の明らかな創作を真に受けたりせず、
金石文や中国史料や考古学の成果などを元に語っているという意味だろう。

それに学界の研究者だって記紀を完全無視はしていないぞ。
少なくとも5世紀の倭の五王やワカタケル大王は記紀の天皇と関連づけて語っている。
4世紀の王権にしても、慎重かつ抑制的にだが、崇神以降の王統譜や伝承を参照している。

神武やヤマトタケルや神功皇后は問題外だが、あくまで作られた伝承、説話としてなら、
いろいろ言及されているだろう。

そんなの通史レベルの本でも書いてあることだ。

669 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 21:02:54
6世紀以前で、外国史料や発掘史料にからまないものは
記紀の内容に言及しない。任那だって軽々と放棄しなくてもいいのに。
学界本流の現状だ。


670 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 21:11:37
そりゃ、記紀の内容が「おとぎ話」じみた説話レベルなんだから仕方なかんべ。

671 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 21:14:52
ただ、これは何々の起源を説明する伝承である、とか、
これは何氏が先祖の由来を語る伝承として創作したのであろう、とか、
そういう感じで断片的、間接的な形での言及はけっこうあるけどね。

672 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/28(日) 21:30:05
>>665
小刻みにやってる時代と若干長期に変わらない暦法の時代の両者があっ
たと観てます。必ずしもまず結論ありきではないものです。

【繼體紀の日数統計表】

1日 3  15日 0  29日 0
2日 0  16日 0  30日 0
3日 2  17日 0
4日 2  18日 0
5日 3  19日 0
6日 1  20日 0
7日 2  21日 0
8日 1  22日 0
9日 2  23日 0
10日 1  24日 1←繼體天皇即位直前楠葉宮へ出向 1/24
11日 1  25日 0
12日 0  26日 1←百済の太子淳陀死亡 8/26
13日 1  27日 0
14日 2  28日 0

上表は2件以外は皆1日〜14日の月前半の2週間に記事が収まって
います。繼體の代が2倍年暦を行使していたから、当時は1ヶ月が月前半
の2週間しかなかったという文証です。月後半の24日の記事は2倍年暦で
なかった百済の暦法のため月後半にあるわけであり、畿内朝廷の暦法の
記事ではありません。26日のは即位前、先帝武烈の代にて通常暦であっ
た為に月後半の記事が残っているものです。

673 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 21:40:11
そう、この太国が出した資料からは古代の日本が、1年=24ヶ月であったことがわかる。
もちろん1月は、1〜15日。

674 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 21:45:30
インチキくさいなあ、そんなの。

675 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 21:48:54
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった

676 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/28(日) 22:36:23
>>973
閏月はいいとして、繼體紀には13月〜24月までの記事は全然ありません。
ですから、これは当時2倍年暦を行使してたということになります。
あんたの内容は美濃もん太氏がすでに主張済みです。

これは印度でも1ヶ月が月前半しかない事例がありますが、印度はこの
暦法では2倍年暦をやっておらないようで、1ヶ月を前半半月、後半半月
と呼称して、16日〜29日までの日はないそうです。
                       〜アジアの暦 岡田芳朗著

677 :日本@名無史さん:2010/03/29(月) 11:55:21
神日本盤余彦尊だの大日本根子日子大毘毘尊だの
生前に呼ばれた天皇が実在していたと考える時点で
頭は完全に狂っているな。
神武も開化も非実在が学会のデフォ。


678 :日本@名無史さん:2010/03/29(月) 13:41:46
開化が実在でなければ、崇神の父Aとしておこう、Aなら認めるだろ。
崇神が地の底から湧いて出てきたのなら別だが。
Aの父はB、Bの父はC。こうやって8代遡ろうよ。そしたら、非実在などと
いう奴はいなくなる。


679 :日本@名無史さん:2010/03/29(月) 13:54:44
崇神(というかミマキイリヒコだな)の父Aが実在するのはあたりまえだ。
ただし、そのAが記紀に書いてある開化天皇であるとはかぎらない。
名前も経歴も不明なAと記紀編者によって創作された開化天皇を混同してはならない。

崇神に8代前の先祖がいるのはあたりまえだが、それが記紀の書いてあるとおりの
「欠史8代」であることにはならない。
名前も経歴も不明な先祖と、後世の創作された王たちは全くの別物だ。

680 :日本@名無史さん:2010/03/29(月) 14:04:10
崇神以後も創作だろう

681 :日本@名無史さん:2010/03/29(月) 14:10:25
成務、仲哀、神功は創作
応神は仁徳と同一人物の可能性がある

崇神(ミマキイリヒコ)、垂仁(イクメイリヒコ)、景行(オシロワケ)
この3人は実在の可能性がある。
ただ、この3人が実在だとしても、伝承の内容や系譜上の続柄が正しいとか
史実というわけではない。

682 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/29(月) 14:19:33
>>677
オマエが左糖好きの津田病原菌の洗礼を若い頃、学校とか教育現場で
たらふく架空だとか創作だとかの話をオマエの脳内に叩きこまれたから、
オマエはその教育カルトにオマエの脳内を明け渡せざるをえなかったと
いうことさ。だいたい架空とする合理的動機もあるまいが。それに紀は
公文書相当だから、創作の虚偽をやれば、舎人親王らは公文書偽造同行使
で、当時の政敵からタレこまれて逮捕され、当然失脚するから、大した
利害もあるまいにそんな身の危険にさらされることをやるわけがない。

所詮オマエの教育カルトにしてやられた妄想なのさ。早く彼らに騙され
たとオマエ自ら目覚めたほうがいい。あいつらに騙されてたんだよ。

683 :日本@名無史さん:2010/03/29(月) 14:27:28
また、時代錯誤の公文書偽造か。つけるクスリがないな。

684 :日本@名無史さん:2010/03/29(月) 14:48:14
熱心な馬鹿ほど始末におえないものはない

685 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/29(月) 14:56:03
>>683
オマエも足利事件の二の舞をやる候補生だな。オマエはケーサツ、検察の
仕事はまかせられない。オマエがやりゃぁ、また17年とか無関係者を監獄
に閉じ込める紀見性がある。とにかく先にあいつが犯人だって決めこみは
ダ〜メ。でっち上げだな。オマエもつけるクスリがないねぇ。ww

686 :日本@名無史さん:2010/03/29(月) 15:34:39
崇神の父Aは後世になってから開化と名付けられました。
A(開化)の父Bは孝元と名づけられました。
こちらは、実在の方です。

687 :日本@名無史さん:2010/03/29(月) 15:46:46
ただしAさんやBさんの奥さんの名前は記紀の系図に書いてあるものとは、
全然ちがいます。

いまとなっては、AさんやBさんの本名や経歴や奥さんを知ることは不可能です。

688 :日本@名無史さん:2010/03/29(月) 16:04:23
奥さんの名前も付けよう。少なくてもこの範囲での系図はできる。
こちらは実在。


689 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/29(月) 22:51:44
実在するのは、古墳である。消えた古墳は今からでは確認出来ない。

1期の箸墓古墳(大和東南部)
2期の西殿塚古墳(大和東南部)
3期の渋谷向山古墳(大和東南部)と五社神古墳(大和北 部)
4期の宝来山古墳(大和北部)
5期の佐紀石塚山古墳(大和北部)
6期の仲津山古墳(河内東南部)と百舌鳥陵山古墳(和泉北部)
7期の誉田御廟山古墳(河内東南部)
8期の大仙古墳(和泉北部)と土師ニサンザイ古墳(和泉北部)
9期の岡ミサンザイ古墳(河内東南部)
10期の河内大塚山古墳 (河内西南部)
10期の今城塚古墳(摂津北部)
11期の見瀬丸山古墳(大和南部)
11期の平田梅山古墳(大 和南部)

大和北部 (五社神→宝来山→佐紀陵山→佐紀石塚山)
古市(津堂城山 →仲津山)
百舌鳥(百舌鳥陵山)
古市(誉田御廟山)
百舌鳥(大仙→土師ニサンザイ)
古市(岡ミサンザイ)
大和 (鳥屋ミサンザイ)
摂津北部(今城塚)
百舌鳥と古市の中間地(河内大塚山)
大和南部(平田梅山→ 見瀬丸山)


690 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/29(月) 22:54:07
石棺と思われるのは、佐紀陵山古墳からだろう。
石は讃岐産と推定される。


691 :日本@名無史さん:2010/03/30(火) 03:56:06
最近の歴史学や考古学者の発言を聞いていると
この分野は、プロと素人との境界線が曖昧やなと思う。

692 :日本@名無史さん:2010/03/30(火) 17:24:30
>>691
だから、捏造発見とかあったわけで

693 :日本@名無史さん:2010/03/31(水) 08:50:09
崇神天皇

神を崇める?神に祟られる?

694 :日本@名無史さん:2010/03/31(水) 11:54:16
>>693
崇≠祟

眼科へ行け

695 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/31(水) 14:42:58
太国さんそんなに、開化治世3年が知りたいの?
太国さんの為を思って、説明しなかったんだぜ。太国倍年の恥の上塗り。
太国倍年は、
513癸巳  211辛卯  崇神誕生
592壬子  246丙寅  垂仁誕生
631辛卯  259己卯  崇神崩御
731辛未  293癸丑  景行即位
790庚午  322壬午  景行崩御

崇神が垂仁を産む年齢が、246−211=35才
これでは、ミマキ媛の出産が30才を超えてしまうからあり得ない。
太国の答えは、倍年ならば半分だからおかしくない。
つまり、211の縦ラインは、エセ西暦であり、半分にしなければならない、と言うのね。

私はこの余分な15年余を差し引いて、正しい西暦として書き込んでいます。
だから、開化治世3年となる。

上の数字ではまだ納得のいかない数字がある、それは、大彦の孫 磐鹿六雁と対比した場合だ。
景行53年の関東下向に同行して貰わねば成らない。垂仁と同年齢としてみた場合、
322−246=76これから4を引いても72才で徒歩による旅行となる。
この時代では、あまりにも高齢すぎる、不可能だろう。

70過ぎの祖父さんを畿内から関東まで歩かせる様じゃ歴史は語れないワナ。
私の場合は、50才位だ。これ以上圧縮すると正朔と世継ぎに支障をきたす。
50歳という年齢は、平城京の木簡から、その頃の定年と思われる。

まあエセ西暦でまだ圧縮の余地ありか?だれも信じない太国倍年だから、被害無しか。


696 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/31(水) 14:43:38
太国3倍年は無い。
崇神五,六,七年の記事を圧縮すると、七年冬の五穀既成は、春の出来事となり齟齬を来す。
ミマキ媛の出産年齢が高すぎる。そして出産そのものは、
フソムトシ ネツキハツヒニ ミマキヒメ シギにうむミコ トヨキヒコ イムナシギヒト
フソコトシ ハツヒオウトに キサキまた うむミコイクメ イリヒコの イムナヰソサチ
二六年11月1日  トヨキヒコ誕生
二九年1月1日 イクメ誕生。オウト=己亥。
この間閏月を入れても、27ヶ月になる。3倍年の1年は36ヶ月とするが、この出産を圧縮
出来ない。
崇神紀から、太国3倍年があり得ない思考で在る事を3ヶ所提示した。もっと提示出来るぞ。
太国3倍年は歴史の整合性も考えず、ひたすら天皇の世継ぎを考えたが、
垂仁の誕生でミソをつけた。
また歴史の答えに、数学の教科書を開くか。そして切り刻んで、言い訳を付ける。
それしか能がない。

書紀でもそうだが、言い訳をしているところは、読み違いの可能性大。


697 :日本@名無史さん:2010/03/31(水) 15:15:48
太国が顔真っ赤にして、頭から湯気立てながらくる前に書いておく。

開化天皇なんて実在しない架空の存在の年代など、いくら論じても意味はない。
欠史8代にモデルはある。
それはミマツヒコとかシキツヒコとか名前だけ断片的に伝えられた葛城の族長や、
オオヒヒみたいな神霊の名前であって、それと磯城県主の祖先伝承をミックスして、
もっともらしい王統譜が仕上げられた。

当然、それは4世紀の三輪の王者であるミマキイリヒコ大王やオシロワケ大王とは、
本来何の関係もない。

欠史8代は葛城の族長(部族の長)の伝承で、断片的に伝えられてた王の名前やら、
神霊の名前やら、磯城県主家の祖先伝承やらのツギハギで捏造された王統譜にすぎない。

698 :日本@名無史さん:2010/03/31(水) 15:28:08
仮に記紀の父子関係どおりだったとして、
4世紀前半 ミマキイリヒコ大王
4世紀中頃 イクメイリヒコ大王
4世紀後半 オシロワケ大王
となる。
この間、のちの王統譜から排除されて一王族扱いになったのが、
崇神紀〜景行紀にやたらと多いイリヒコやワケを名乗る王子だろう。

成務、仲哀、神功のタラシ系は後世の創作なので除外。
ホムタワケが三輪王権に入り婿するかして、
5世紀末頃 ホムタワケ大王
5世紀前半 オホササギ大王(讃?)、イザホワケ大王(讃?)、ミヅハワケ大王(珍)
5世紀中頃 ワクゴノスクネ大王(済)、アナホ大王(興)
5世紀後半 ワカタケル大王(武)
5世紀末頃 事実上の空位時代
と続き、オホト大王の登場となる。

699 :日本@名無史さん:2010/03/31(水) 15:34:34
4世紀に相当する崇神〜景行紀の記述は、基本的に伝承をもとにした説話。
書いてあるまんまに史実とはうけとれない。
もとになる史実があったにせよ、詳細がほとんど忘れられてしまったのちに、
人名やら年代やら捏造して、話の細部を脚色して説話化されたもの。

それは5世紀の応神〜雄略あたりにも言える。
雄略即位前の兄殺しの説話など、黒彦と白彦なんてペアの名前が出てくる時点で、
後世の脚色による説話=おとぎばなしにすぎないことは一目瞭然。
吉備の反乱伝承も、吉備勢力との敵対という史実をもとに大幅に脚色された説話で、
史実を参考にしたフィクションとでもいうべきもの。

700 :日本@名無史さん:2010/03/31(水) 15:37:13
オホト大王=継体天皇の時代になってすら、具体的な内政記事はほとんどなく、
磐井の乱も大部分が漢籍の文章を引用して修飾されたものにすぎない。

推古朝以前は説話として見た方が無難である。

701 :日本@名無史さん:2010/03/31(水) 20:29:27
>>696
唐松山も怪しげな数え歌か呪文みたいなもの書くから、
インチキくさいというか妄想にしか見えないんだよな。

三輪王朝の細かい年代を知ることなんて不可能だっつーの。

702 :日本@名無史さん:2010/03/31(水) 20:38:09
唐松山と太国は、寿老人と大黒様。

703 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/01(木) 17:03:44
>4世紀前半 ミマキイリヒコ大王

残念ながら、4世紀後半に崇神を意味する物は何もない。
前方後円墳の発生は、大物主と天皇家が統一された象徴である。
当然纒向遺跡の繁栄と期を一にする。

>インチキくさいというか妄想にしか見えないんだよな。
これまで云われてきた数字の上では、各所において、歴史に齟齬を生じさせる。
箸墓=モモソ媛がその代表。
現箸墓(250年)を崇神紀のモモソ媛とするならば、それ以前の纒向遺跡を説明せねば齟齬を生じる。
この時空を68年間とした場合、書紀の世継ぎは架空と成る。

世継ぎと時代に齟齬を来さない数字が私の数字だ。


704 :日本@名無史さん:2010/04/01(木) 20:05:18
崇神陵に否定されている行燈山古墳は4世紀前半のものだけどな。
西殿塚古墳が崇神陵という説もあるらしいが、西殿塚は壱与世代の王墓だろう。

705 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/01(木) 20:28:36
古墳に天皇名を被せて時代を読もうとすると、
書紀の記載内容と齟齬をきたす。

明治時代の比定が正しければ問題ないが、なかなか旨くはいかない。

その最たる物が 箸墓である。
5,6年の凶作から立ち直った12年には其処で祭りを行う。
箸墓以前50年間に作られた前方後円墳は何を意味する。


706 :日本@名無史さん:2010/04/01(木) 21:23:53
その5,6年とか12年とかいう年代は後世の創作だから参考にならん。
ミマキイリヒコは実在の可能性が高いが、崇神紀の年代は全て机上の創作。
崇神紀の記事も史実の反映はあっても、基本的には脚色と潤色だらけで、
いわば「事実をもとに大幅に脚色、アレンジしたフィクション」だ。

707 :日本@名無史さん:2010/04/02(金) 07:27:54
なんにせよ、記紀の記述に過大な期待は持たない方がいい。
歴史として見られるのは推古朝以降の内容。
実録として使えるのは天武・持統紀のみ。

708 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/02(金) 09:19:03
>>707
梁書には永元元年(499年)に日本から大陸へ行った慧深という僧の日本
の説明があり、その中に顯宗天皇(乙祁=袁祁)の内容がある。

通説では、顯宗即位=485年 であるが、繼體の代からの2倍年暦の行使の
ため14年年代が詰まるから、

 485+14=499年

で、梁書と日本書紀の記事とが一致する。このことは、歴史として見られ
るのが推古朝以降ということにはならず、紀がいい加減な架空記事で
ないことを意味している。

709 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/02(金) 09:33:00
>>695
>崇神が垂仁を産む←wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww→∞

崇神天皇は男性だから子宮がないわけで、崇神が垂仁を生むというなら、
精神科へ行ってオマエの脳内を診てもらえ。だいぶオマエの脳内がイカレ
て来たということだ。bbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbb→∞

ミマキ媛は誕生年が不明であり、いい加減なデタラメを糊塗して、余の論
の信用を下落させようと陰謀しても無駄だ。どうだ? 二日前は電波星
X線星から送信を受けたか?ww

710 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/02(金) 09:42:31
>>699
現今の東京山手線には「目白駅」と「目黒駅」があり。このペアは
おとぎばなしではなく、現実に存在する駅であ〜る。
従っておとぎばなというには論拠が全然不足であり、君の浅薄な考察から
の主張だと言われてもしようがあるまい。

711 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/02(金) 09:54:34
>>710 訂正
× おとぎばな
○ おとぎばなし

かように14年の詰まりで日本書紀と梁書が一致したということは、
余の2倍年暦の説を裏付けるものであり、佛伝が552年と538年の
両説において、

 552−538=14年

となって、やはり14年代差が出るということは、余の繼體の代以後
にて2倍年暦の行使の存在があったことと、さらにホツマツタエの
景行の条の21ヶ月(十月十日×2≒21ヶ月)の妊娠記事からも2倍
年暦が存在していたことを裏付けるものである。

かように軽く一致することはなかなか出来うるものではなく、これ
が双方一致してるということは、余の説が正しいことを示すもの
である。唐松山のマシはインチキそのものであり、そんなことを
すれば、当時政敵から弱点を握られ失脚する危機に陥るから、そん
なことは紀の編者らが大した利害もないのに、やるわけがない。

712 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/04/03(土) 21:51:35
記紀の應神世には百済の照古王(肖古王)日本書紀の欽明世には聖明王(聖王)が記され、
日本に儒教や漢字、仏教を伝えたのは百済だとされている。
これは記紀より前の隋書倭国伝でも同じ「於百濟求得佛經、始有文字」
邪馬台国がヤマト王権につながるならば、卑彌呼や魏の皇帝の記憶は
もっと明確に残ると思われる。
邪馬台国は西晋・楽浪・帯方と相前後して滅びた別の勢力であろう。

713 :日本@名無史さん:2010/04/03(土) 23:44:41
たぶんね、ヤマト政権以後に途切れたの。
大化の改新、壬申の乱、平安京遷都。
ここにカラクリがある。

アマテラスは何者か。
大海人皇子はどこから来たか。伊勢神宮はなぜ作られたか。
藤原氏は百済系ならモンゴル系で毛深かろうに、
なぜ平安時代はマロ眉ブームだったのか。

714 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/04/04(日) 13:10:17
>>713
ん? 隋書倭国伝は大化改新より前だが?

大海人皇子の登場は不自然さはあるが、かといって高句麗の淵蓋蘇文だというのは・・?

715 :日本@名無史さん:2010/04/04(日) 23:21:58
あるお方が、高句麗の宝蔵王が日本にきて宝皇女となったとおしゃられました。


716 :日本@名無史さん:2010/04/04(日) 23:28:13
えーとね。まずこれ。Y遺伝子ハプロタイプ。
日本見てみてください。
ttp://www.scs.uiuc.edu/~mcdonald/WorldHaplogroupsMaps.pdf
日本・チベット特有のD、中国周辺のO、北東アジア・ポリネシアのC

で、Nって何者でしょう。
シベリアとかラップランドなどの極寒地、フィンランド、バルト三国。
となれば、N=フン族≒匈奴、じゃないでしょうか。
↓ちなみにNが3/4を占めるヤクート人の歌手
ttp://www.elen-music.com/images/art096_profile.jpg
※ヤクートは今日でも、シャーマニズムの習慣を残している。

というわけで、卑弥呼は匈奴だった!と思うわけです。
早い時期に列島に移った一派が、邪馬台国を作った(先住D・Oと共存)。
大陸で「後趙」を作った一派が、漢字を伝えた(東漢氏)。
更に百済を経由した一派が、諸々の土産を携えて渡来。
アマテラスはこの一族の先祖だと思います。

そしてその後、異民族と馴染み、文化伝達を惜しまないNの遺伝子は、
後から来た一派に欺かれ、少数派となっていく。
そして、歴史の記録は連中が廃棄&改ざんっと。そういうわけ。

717 :日本@名無史さん:2010/04/05(月) 00:08:59
Y染色体の系譜
      ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━ A 
      ┃
━━━┫    ┏━━━━━━━━━━━━━━ B 
      ┃    ┃
      ┗━━┫    ┏━━━━━━━━━━━ C 
            ┃    ┃
            ┃    ┃            ┏━━━━ D 
            ┗━━╋━━━━━━┫
                  ┃            ┗━━━━ E 
                  ┃      F
                  ┃      ┏━━━━━━━ G 
                  ┃      ┣━━━━━━━ H 
                  ┃      ┣━━━━━━━ I 
                  ┃      ┣━━━━━━━ J 
                  ┃      ┃    K
                  ┗━━━┫    ┏━━━━ L 
                          ┃    ┣━━━━ M 
                          ┃    ┣━━┳━ N 
                          ┗━━┫    ┗━ O 
                                ┃  ┏━━ Q 
                                ┗━┻━━ R 
                                    P
      ・    ・     ・       ・    ・   ・  
      ・     ・     ・       ・    ・   ・  
      ・     ・     ・       ・    ・   ・  
   90420 82000 68500  53000 35600 29900 (年)

DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?
http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/4812207533/

http://freepages.genealogy.rootsweb.ancestry.com/~robert/Y-Haplogroups-1500AD-World-Map.png

718 :日本@名無史さん:2010/04/06(火) 19:51:33
辛格浩ロッテ会長、文学徒から半世紀で40兆ウォンのグループに育成(2)
ttp://japanese.joins.com/article/article.php?aid=115109&servcode=300§code=320

>67年に辛会長は韓国にロッテ製菓を設立し、母国への投資を始めた。
>ロッテグループの関係者は「この時から日本で稼いだ金を韓国に投資し始めたが、
>韓国で稼いだ金を日本に持って行くことは一度もなかった」と述べた。
>辛会長は韓国に進出する際、食品会社ではなく重化学会社の設立を希望していたという。

719 :日本@名無史さん:2010/04/07(水) 01:09:55
しつこくアマテラス匈奴説ですが
フィン・ウラル族?の共通点として「口承口伝の英雄叙事詩」の伝統、がある模様。
フィンランドのカレワラ、ヤクートのオロンホ。

「オロンホ」の例(あらすじ)
邪心の怪物サラハナは、下界から地上(中界)に移り住み、天界・中界・下界から
三人の子どもを誘拐し、中界の人々への憎悪を植え付け、悪事を挑発、実行させる。
中界の擁護者チュグダンは、心を痛め、三人の子どもたちを何とか治めようと諭すが
適わず、天界から中界に追放・派遣された女傑キース・デビリエに助けを求める。
そして英雄たちの戦いが・・・。しかし天界の神々も加勢・仲裁することで平和が訪れる。
キース・デビリエは、地下世界の怪物に悪事を仕込まれた息子たちを受け入れ、
穢れを払い、息子たちは太陽神の一族の子どもたちに生まれ変わり、
元の平和で豊かなシベリアに戻る―。

という、ちょっと深イイおとぎ話。
たぶん「記・紀」も、元は史実を伝えるとか権威付けのためのものではなかったはず

720 :サガミハラハラ:2010/04/07(水) 06:51:48
太国様、唐松山様。
日本書紀に出てくる太暦について、皇国史観に基づいた正しい古代史のスレに
私見をのせておきました。ご一読、ご意見とうよろしくお願いいたします。

721 :日本@名無史さん:2010/04/09(金) 07:30:34
>>715
金ユ信の姉が宝姫なんだけど

722 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/04/10(土) 19:14:05
>>719
大林太良氏が、ブリヤート・モンゴル神話と天孫降臨神話の類似を指摘している。

@天神の子が天下ることをことわり、孫がその代りに天下る。
A天下る神が幼児である。
B日本の三種の神器にあたるものに蒙古の六種がある。
C日本では荒ぶる神のいる葦原中国を平らげるために神集いにつどい、その結果国譲りがおこなわれたが、
蒙古神話でも、荒ぶる神を平らげるために天神の子をくだそうとして神々の大評定がおこなわれた。
ttp://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa23.htm

723 :日本@名無史さん:2010/04/10(土) 19:38:31
>>722
あちこちにあるんですね〜

>天に神がいますという信仰は、北方狩猟採集民族の脱魂型にもとづきます。
>他方、その神々が地上に降臨して人間にまじわるという信仰は農耕社会に優勢な憑霊型です。
>この二つが融合しなければ、天孫降臨神話は成立しません。
神の権威を地上の人間に適用する考え方は、
別の民族との関わりによって生まれた、とされてますね。
それは日本書紀においては、民族同士のじかな関わりではなく、
著述の中で混ざったものかもしれません。
いえ、はっきり言って、日本書紀は建て増しされてると思います。

724 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/04/11(日) 08:59:49
>>723
>建て増し

日本書紀は多くの書物を引用しており、魏志や百済三書のように書名を明らかにしたものもあるが
「一書」としか書いてない場合もある。
また本文と引用文が混ざっていたり、判断に苦しんだことを告白したりもしている。
まさに謎の書物である。

725 :日本@名無史さん:2010/04/11(日) 09:31:18
普通偉い神は天上にいて地界には降りてくるというのは、別にどこからかの影響がなくとも考えつくわな。
対外おりてくるのは一番偉い神じゃないのもね。

726 :日本@名無史さん:2010/04/12(月) 00:56:47
なんにせよ、記紀の記述に過大な期待は持たない方がいい。
歴史として見られるのは推古朝以降の内容。
実録として使えるのは天武・持統紀のみ。

神話や説話はどこまでいっても神話や説話にすぎない。

727 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/12(月) 14:49:33
日本書紀は多数の原書を根底としており、紀の以前の多数の記録著者からの最も
安全で妥当な記録を載せてって出来上がったものだから、そのへんの独り
個人的記録書等とはわけが違う。それに原書同士で記録の違いがあって落とせない
と見られる異説も一書に曰く的で記載されており、可能性のあろう異説の主張も
相容れいている。それに神代の記事は当時でも遥か遠い昔であって伝説の域を
越えない内容であるからこれは事実か否かは判定がまだまだ必要だが、神武以後
の記事にはきちんと年月日が殆ど記載されてるから、これは伝説ではない。但し
神武以後の記事の中にでも伝説的内容のものはあることは確かであるも、年月日
のしっかりしてるものは原書群の多数意見が肯定してるものであるから、伝説と
してはかたずけることは出来ない。

紀から 顯宗天皇即位元年=485年 が通説だが、梁書において日本にいた僧の
慧深という者が大陸に渡って顯宗(乙祁=袁祁)の消息を語ってるのが
永元元年=499年 であり、これなどは後代の繼體の代以降の2倍年暦の関係で
14年年代が詰っているのであり、これから

 485+14=499年(永元元年)

が倍暦逆算で得られ、梁書と紀の年代が整合するのが判明する。このことから
推古朝以降、天武・持統紀という君の主張は退けられ、紀の信用性がウラ付け
られる。

728 :日本@名無史さん:2010/04/12(月) 17:26:06
年月日がついてるから史実というのは安易すぎる。
その年月日が正しいという保証はどこにもない。
書紀の編者や編纂を命じた権力者を信頼しすぎなんじゃないのか?

正史の体裁を整えるため、造作された年代という通説的解釈が正しい。
ただ、これは悪意の捏造というよりは、編纂時点で不明になっていた年代を、
いろいろ勘案してそれらしく構成したというべきものだろう。
もちろん、これは現代の実証史学から見れば創作以外の何物でもないが、
当時の人々の感覚では、正史を対外的に誇れる立派なものに整えるための作業で、
本文を漢籍の美辞麗句を利用して修飾したのと同じ感覚だったんだろう。

ちなみにオケという王は倭国伝ではなく、倭国とは別の扶桑国の部分に登場しており、
顕宗天皇と同一視するのは即断にすぎる。
その扶桑国に関する記述は、荒唐無稽な記述だらけの空想的なものであって、
倭国とは別のものと解釈すべきだろう。

729 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/12(月) 18:21:10
顯宗天皇(袁祁)は梁書の慧深の説明した乙祁に間違いはないね。まず倍暦で
14年のズレは堅い。従って先述の計算から慧深が大陸へ行った永元元年=499年
が実年代の顯宗即位年に一致する。これは繼體の代以降の2倍年暦による詰り
なのだ。それに顯宗が即位したのは乙丑年で「乙」が梁書の乙祁の『乙』と一致
する。このことは「乙祁」が顯宗天皇であることの確実性を増幅させている。

それに14年の2倍年暦による詰まりは繼體の代を過ぎた佛伝が552年と
538年の二説に別れていることも

 538+14=552年

でよく説明が出来る。これだけ合えば、君の反論は棄却される。君の論では
佛伝の552年説と538年説の二通りに分かれてることを説明出来まいがね。

それに創作をすれば、当時でさえも現今の某党議員の帳簿不実創作記載の如く
発覚されて政敵にタレこまれ、逮捕される。大した利害もないのに、そんな
己れを公文書偽造の創作をして身を危険においやるほど彼らはマヌケではないぜ。
朝廷ぐるみだろうと勘ぐっても、もしそうならば、雄略武烈の悪逆非道ぶりも
隠匿するだろうが。しかしこういうことが記載されており、皇族の殺人だとか
浮気だとかの醜聞もちゃんと書かれてあるところから、朝廷ぐるみという主張こそ
創作そのもであり、インチキである。従って君の主張は退けられる。

730 :日本@名無史さん:2010/04/12(月) 18:41:37
オケ王が顕宗天皇ならば、わざわざ倭国とは別の扶桑国の部分に記す必要はない。
単なる偶然の一致にすぎない。
しかも、この扶桑国は諸説あるが、素直に読む限り荒唐無稽すぎて倭国と同一視できない。

731 :日本@名無史さん:2010/04/12(月) 20:20:09
梁という国がどういう情勢下に存在したか知らないから
扶桑国の記事を信じてしまうのかな

732 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/12(月) 21:37:06
>>730
その必要はあ〜る。当時はおおまかには九州王朝と畿内朝廷の国の二極
支配であり、おまけに各小国も倭人伝記載の如くあったに違いない。
従ってオマエの主張は、とく調べもしないいい加減なデタラメであ〜る。

偶然の一致ではなく、当の顯宗天皇(袁祁)が梁書の乙祁だよ。年代が
一致するんだから、いい加減ではないんだぜ。年代が一致するということ
は、紀の記載が正確だったということを意味するのだ。

733 :日本@名無史さん:2010/04/12(月) 21:40:18
我田引水のフトクニ理論か。

734 :日本@名無史さん:2010/04/13(火) 00:16:34
フトクニの主張は、いい加減なデタラメであ〜る。

735 :日本@名無史さん:2010/04/13(火) 17:57:53
記紀を歴史史料として活用するときは、思い切り慎重かつ禁欲的になる必要があるな。
その辺の自制心を失うと、皇国史観か妄想ファンタジーに一直線だ。

736 :横槍:2010/04/13(火) 20:37:02
ttp://www.youtube.com/watch?v=Dm8zldpBVDU&feature=related

737 :日本@名無史さん:2010/04/15(木) 04:54:22
だいたい日本書紀は天智以前がファンタジー

738 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/15(木) 10:45:40
>>737
これは>>708>>711>>727>>729で解説したように、倍暦の計算は大海で隔絶され
た大陸の梁書と日本の日本書紀の記載が具体的に一致していることで、紀の顯宗
の年代に確実に整合性が見られることから、これはファンタジーではない。

ファンタジーなのは、オマエの脳内思考の内容がそれ。

739 :日本@名無史さん:2010/04/15(木) 15:10:28

ただいまニュース速報+板で激論中!

【歴史】 「日本神話のスサノオは韓国出身。韓国は古代日本の恩人だ。新しい日韓関係を見せてくれる」…哲学者・梅原猛氏★3
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1271300536/

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
■前スレ
【歴史】 「日本神話のスサノオは韓国出身。韓国は古代日本の恩人だ。新しい日韓関係を見せてくれる」…哲学者・梅原猛氏★2
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1271294406/

■元スレ
【歴史】「日本神話のスサノオは韓国出身」 哲学者・梅原猛さん
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1271264125/

740 :日本@名無史さん:2010/04/15(木) 17:36:49
>>739

4スレ目、タッタヨー! ニュース速報+板へドゾ。

【歴史】 「日本神話のスサノオは韓国出身。韓国は古代日本の恩人だ。新しい日韓関係を見せてくれる」…哲学者・梅原猛氏★4
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1271316477/

741 :日本@名無史さん:2010/04/15(木) 20:50:56
フトクニの思いこみの強さと我田引水ぶりは失笑を誘う。

742 :日本@名無史さん:2010/04/15(木) 23:09:50
(*´∀`*)またタッタヨー
ニュー速+板ダヨー
5スレ目ダヨー

【歴史】 「日本神話のスサノオは韓国出身。韓国は古代日本の恩人だ。新しい日韓関係を見せてくれる」…哲学者・梅原猛氏★5
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1271340070/

743 :日本@名無史さん:2010/04/16(金) 07:41:10
倍歴が好きなのはわかった次スレからスレタイに【倍歴】つけたスレと
倍歴なし、または古い年代ほど紀年は捏造派のスレに分けてほしいよね

744 :日本@名無史さん:2010/04/16(金) 12:06:17
哲学者の梅原って、昔から同じことを言っているよ。
今更の感がある。
こいつの古事記の解説本なんて、でたらめもいいところだから。

745 :日本@名無史さん:2010/04/16(金) 13:28:34
【歴史】 「日本神話のスサノオは韓国出身。韓国は古代日本の恩人だ。新しい日韓関係を見せてくれる」…哲学者・梅原猛氏★6
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1271373389/

6スレ目議論中。ニュー速+板。

746 :日本@名無史さん:2010/04/17(土) 02:22:27
今、宇治谷孟の「全現代語訳日本書紀(上)」の
巻第三 神武天皇神日本磐余(イワレ)彦天皇の所を読んでいるんだが、
一行目で「神日本磐余(イワレ)彦天皇の本名は彦火火出見である。」と書いてあるんだけど、
その前の巻第二 神代(下)ではニニギとサクヤヒメから彦火火出見が生まれ、
彦火火出見と豊玉姫からヒコナギサタケウガヤフキアエズが生まれ、
ヒコナギサタケウガヤフキアエズと玉依姫から神日本磐余(イワレ)彦天皇が生まれたと書いてあるんだよね。

これをそのまま読むと孫と祖父が同一人物になってしまうんだがどういう事なんだろう?
一応「一書では」の下りは全部無視して本筋だけで読んでいるんだけど。

747 :日本@名無史さん:2010/04/17(土) 05:10:54
森博達によると日本書紀の著述者はまず雄略天皇紀から崇峻紀の4年までと
皇極紀から天智紀までを書き、持統紀以外のほかの巻はそれらの著述者が死んだり引退した後
別の人物が執筆したらしい。

この例から見たら分かる通り日本書紀とは神代紀上から順番に書いていったわけではないという思われる
神武紀も神代紀下より先に書かれて、後に出来た神代紀下が複数の異伝など載せたことで
より詳しい内容になり神武紀と整合性を欠いてしまったのは
最終校正を担当した舎人親王たちのいい加減な仕事と要領の悪さが災いしたのではないか?

748 :日本@名無史さん:2010/04/17(土) 10:13:06
成る程、時系列に書いたわけでも執筆者に連続性がある訳でもなかったのか。
だから本筋も参考文献(口伝?)が異なる場合があるのか。
確かに巻第二の「一書による」を読み進めると書が第3第4と進むにつれて
「磐余彦尊」は「磐余彦火火出見尊」に名が変わっていくんだよね。

749 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/04/17(土) 19:08:08
初代天皇でありながら、神武天皇の誕生について記紀には特別な記事が無い。
父の天津日高日子波限建鵜草葺不合命も、祖父の火遠理命も誕生の状況が詳しく書かれ、
その状況が名前の元とされているのとは大違いである。
また書紀では、垂仁天皇が崇神天皇29年の1月1日に瑞籬宮で生まれたとされ、
誕生日と場所が書かれていることも注目される。

750 :日本@名無史さん:2010/04/18(日) 00:40:51
初代天皇だから云々であらなければならないと思う根拠は何なのかな?
歴史書ってのは単なる事実の列挙ではないんだけど
神武についてはフキアエズの四男で15歳の時立太子し、神の末裔であり正統な後継者であることが書かいてある
その誕生の状況は母が祖母と同じ龍神なので父と同様の生まれ方をしたとみて間違いないが
神武紀は神武が大和で日本を統治する由来や正統性を説明する文章なので
まだ未完成だった神的な生誕記事が書かれていないのは問題ないと思います

751 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/04/18(日) 11:06:14
いえ、特に根拠は無いです。
ただ應神天皇の出生伝説、八幡信仰の広がりに比べ、神武は明治まで忘れられた地味な存在でした。
天皇も存在しない時代に「立太子」は明らかなエラーかと思われます。

752 :日本@名無史さん:2010/04/18(日) 21:34:06
やはり有力な後継氏族の存在が神の普及に一役買っているのではないでしょうか?
応神天皇は稚野毛二派皇子から分かれる皇族の祖で、大和政権の新興豪族の祖である武内宿禰はその寵臣。
一方の神武天皇は大伴氏・物部氏や多氏など壬申の乱で活躍した豪族たちに関係深いように思われます。
双方ともに武神的性格が見えますが応神の方にはさらに八幡神として農耕神・航海神など生活に密着した
信仰の対象となっています。神武は壬申の時に天武たちに協力しただけ…
神武の御利益で乱に勝っても自分達の生活が上向かないと祭る気起きませんね。

753 :日本@名無史さん:2010/04/18(日) 22:03:07
この神武の立太子とは何のことなのか色々考えてみましたが
やはり天皇に即位するには建前上立太子する必要性があるからではないでしょうか?
たしかに日本書紀に載る天皇の中にも数名立太子せずに皇位に上る天皇はいますが
基本的に中継ぎ役か正統性に問題があるので立太子していないように思われます。

754 :日本@名無史さん:2010/04/19(月) 14:59:38
           ,-― ー  、
         /ヽ     ヾヽ
        /    人( ヽ\、ヽゝ
          .|   ノ ⌒,,  ⌒,,`l     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
         |   /   (o)  (o) |   / 
        /ヽ |   ー   ー |  <   信成と同じ、高槻やでぇ  
          | 6`l `    ,   、 |    \ 
          ヽ_ヽ   、_(、 _,)_/     \_______
          \   ヽJJJJJJ
            )\_  `―'/
          ノ二ニ.'ー、`ゞ
         Y´⌒` r‐-‐-‐/`ヽ
         |; ⌒ :; |_,|_,|_,hに丿ヽ
         .|: ; : : : .| `~`".`´ ´“⌒⌒)
         |; ; ; ; 人  入_ノ´~ ̄
          l ; ;/   // /''



織田信成が織田信長の子孫って本当?【2代目】
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1271421161


755 :日本@名無史さん:2010/04/19(月) 15:00:24


〜 織田信長の子孫に関する小ネタ 〜

●金スマ出演時に用意した家系図は某家系図業者共通の装丁で、
安住アナの指摘どおり「昨日作ったばかりのよう」な代物。
代々受け継いだものでないことは明らかで、歴史学的な検証には耐え得ない。
歴史ヲタにはおなじみの業者で、日本史板では落胆と失笑の声が上がった。

●織田母がTV番組出演時に語ったエピソード
「嫁に来て間もない頃に桔梗の花を飾ったところ姑に叱られた。」
「桔梗は明智の家紋だから、織田家では桔梗をいけるのはご法度ご法度なのです」
⇒旧丹波柏原藩織田家(元大名家)の当主である
織田孝一氏(本名は織田信孝、フリージャーナリスト)によるコメント抜粋。
「家には(桔梗ご法度の)習慣はないです」 「彼は誰なのでしょうね」


織田信成が織田信長の子孫って本当?【2代目】
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1271421161



756 :日本@名無史さん:2010/04/19(月) 15:02:11


織田信長
- 2代織田信高(七男)
- 3代織田高重
- 4代織田一之
- 5代織田信門
- 6代織田信倉(養子)
- 7代織田信直(養子)←←← 大和宇陀松山藩主織田高長の孫(信雄の系統)
- 8代織田長孺
- 9代織田長裕
- 10代織田信真(1842〜?) ←←←明治維新後、写真師になって、その後消息不明

- (11代から14代は不明)←←← 親戚に迷惑をかけるから、16代信義氏が製作配布した家系図では4代不明となる(週刊新潮の記事より)

- 15代織田重治(1917〜1995?)←←←70年間に5代も!!
- 16代織田信義
- 17代信成(次男)


織田信成が織田信長の子孫って本当?【2代目】
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1271421161



757 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/19(月) 22:43:33
垂仁の誕生は元日生まれだから覚えやすく、それで記録に残っていたんで
しょうし、または誤記録の可能性も薄いから紀に載せたんでしょう。
神武の立太子は即位前であるから不審はないと想います。即位後に立太子
ということはありえませんから・・・。

758 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/20(火) 09:39:52
唐松山という男の主張では紀の神功初年の条の記事が日食だとしアマ的低級ムー民
(←ただし高級ムー民もいる)式論を毎回毎回各スレに書きこんで説明して
いるが、その条には数日間継続して天が暗い旨の状況を具体的に記載してること
で、日食は1〜2時間程度で終ることから、この紀の記載は日食ではない。

唐松山は天候自然現象でそういう状況が起こりうることをくらまして否定に回って
るようだが、今回のアイスランドのエイヤフィヤトラヨークトル氷河の所の火山で
超大噴煙が西欧一帯に及んでいったことから、自然の脅威たる火山噴火の噴煙が
数日間も天を暗黒にさせることがあるのはこれを考えても納得できる。

神功元年ころに日本でそんな火山噴火などないと唐松山が主張するかも知れ
ないが、否そういう主張を奴は強行するだろうが、日本でない外国での火山噴煙
でもそれが超特大ならば、今回のアイスランドの噴煙のすごさ級ならば当然日本
列島へも天が暗くなるくらいの超大噴煙団が日本を閉ざすくらいは永い年月の間
にたまにはありうることである。従って神功紀のこの記事はこういう自然現象から
の天の数日間継続の暗黒現象だと観るのが相当であり、紀のこの記事は断じて
日食ではない。

1783年のアイスランドのラキ火山の噴火が西欧のものでも、これが江戸時代の
天明大飢饉の原因だったと、今朝の某TV番組でも解説していた。さらに1815年の
インドネシアのタンボラ火山噴火によりて、米北東部での6月降雪の原因に
なったとも放送していた。こういう事から、神功初年ころの数日間も天が真っ暗
になった状況は、こういう天然現象からのものであり、日食ではない。唐松山の
主張は大インチキそのものである。

759 :サガミハラハラ:2010/04/20(火) 11:07:46
遠い異国の火山の噴煙が日本を暗くすることはありません。近い異国でも日本が暗くなるほどの影響をあたえるような火山はありません。
遠い古代、半島の白頭山が噴火した際、その火山倍が青森県に降り注ぎ30cmいじょうもの積灰があり、
民家をおしつぶしたことはあったようですが、時代が異なるとともに西日本には全く影響がありませんでした。
近い場合、江戸時代の富士の宝永噴火の時に風下の江戸にも降灰があり、昼でも行燈を使用したとの記録があるようです。
書紀では神功皇后の摂政元年は201年ですが、この年に和歌山県御坊市小竹で皆既日食があったことはわかっています。
ただし、本当の神功皇后元年は356年ですので、本来は皇后と日食は関係ありません。
小竹の日食事件と皇后の和歌山滞在とが組み合わさってこの話ができたわけです。

760 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/20(火) 14:07:26
>>759 サガミハラハラさんよ
貴殿はどうしてありませんとの主張が言えるのかね? まるで経験者みたいな
口ぶりだが、逆で貴殿がそれに未経験だからそんな言い草をしてるわけだよ。
ない事例だけで具体的説明がないね。

貴殿の事例ではそうかも知れないが、それが全てではなかろうがね。今の噴火でも
西欧中に影響が出てるんだ。当時もっと凄い噴火等いくらでも考えられる。
27、8年前だったか、それがしの仕事場にも浅間山の噴煙の粉が降り積もって、
遠距離でもこれくらい相当な威力がある。あれなんか今回の噴火と比較すれば
ヒヨコだろう?

こちらは風土記の貴殿の言い分を否定してるんでないの。あれはまだ薄弱だが
もっと克明な記録ではないとハッキリしない。しかし神功紀のは日食では
ないですぜ。w これは確実だな。

761 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/20(火) 14:17:26
サガミハラハラ氏の主張は、日本の永久的にマグニチュード10の大地震が起きえ
ませんと否定してるのと同様であり、こんな言い草は信用が置けない。

762 :日本@名無史さん:2010/04/20(火) 18:25:02
日本書紀の数字なんて、古い時期は全部、机上の創作だから、
そんなものいくらいじくりまわしても無意味だ。

763 :日本@名無史さん:2010/04/21(水) 23:24:14
創作ではない! 原資料の整理だ! 間違えるな!

764 :日本@名無史さん:2010/04/22(木) 00:32:43
>>763
>創作ではない!
捏造だ

765 :サガミハラハラ:2010/04/22(木) 06:32:10
>>762 763確かに年代の操作はおこなわれていますが、デタラメな操作ではなく一定の法則がみられます。
でたらめなら、歴史書編纂の意味がありませんからね。

766 :日本@名無史さん:2010/04/22(木) 08:01:31
徳川家康、太閤記、坂本竜馬、宮本武蔵、赤穂浪士、次郎長伝、、、、
これら小説は、細部は創作であろうが、全体の流れはある程度史実に基づき
書かれている。日本書紀もそうであろう。東海道中膝栗毛のような
全くの創作ではない。


767 :日本@名無史さん:2010/04/23(金) 18:52:20
いや、里見八犬伝や椿説弓張月くらいには、大幅な創作や史実の歪曲があると思う。

768 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/23(金) 21:31:37
創作すれば、舎人親王らは架空記載の公文書偽造で、この前の某党議員の
帳簿虚偽記載で逮捕されたように彼らも逮捕される。大して利害もあろう
はずもないのに、そんな身の危険を犯して創作なんぞするわけがあるまい。
創作だという主張の連中の脳内の創作だね。

769 :日本@名無史さん:2010/04/23(金) 22:38:12
この際、創作だ捏造だという人にも参加してもらって、
歴史小説「平成日本書紀」を作ろうではないか。
勿論日本書紀をたたき台にして。


770 :日本@名無史さん:2010/04/23(金) 23:39:38
>>769
芥川龍之介の「藪の中」を参考にするといいねw

771 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/24(土) 10:42:11
唐松山の言う年代のマシというのは、説としては一応上程出来うるものでは
あるが、これが真か否かはいろいろ検討してみて客観的に不合理がなく矛盾も
ない非恣意的な説ならば有力説になって行くべきものであろうが、調べれば調べ
るほど認容出来難い説として遺棄せざるを得ない考えだということだ。

だいたいマシをすべき動機が奴でさえ客観的に納得させる説明が出来ず、ただ
古代の勲章の代わりとして年齢を増やしたなどとの道臣命在世記のどこかに書か
れている文を根拠として言っているものだが、これでは動機が薄弱であり、天皇
とか国王は勲章を贈与する立場の方であろうから、どうも朕自身に勲章付けると
かいう動機は滑稽であり、これが年代のマシの動機の事由にするには何かしら
うなずける根拠には程遠い。動機が薄弱では古代においてマシをやるべき必要
など考えにくいし、マシ説は成立するには説得力がまるでダメ夫である。ww

それにマシという年代不正操作をすれば当時でさえもパクられるし、こんな危険
なマネを舎人親王らが命がけでやるとは利害も大とは言えないことから、やると
はとてもとても言えない。今日の新聞の朝刊でも実際これとは逆的の温度マシの
記事があり、いつぞや某刑務所で囚人が言う事を聞かないことか、監獄あたりの
温度を10度だったか高温にして囚人を虐待した件で帳簿を10度下げて苛めを隠匿
したらしいことからの検察への書類送検となったとかの記事があった。某警察で
1時間のマシの逆だったかをやって書類を虚偽記載したのだろうか、結局関係者
は処分された記事もあったし、こういうことから当時でさえも滅多やたらに紀の
虚偽たる創作記載など、政敵にタレこまれれば身の危険が切迫するわけで、おい
それとマシとかいう虚偽水増しなどは手を染めるわけもなく、それをしたとなれ
ば、どこかの古文書に舎人親王らが公文書偽造で処刑された具体的信用おける記述
が残っているはずだが、そんなものはなく、年代のマシという唐松山の主張は
間違いで棄却されるべきものである。

772 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/24(土) 11:20:08
唐松山は年代のマシ説を肯定して今まで編年をやって来たわけであり、一方それ
がしとサガミハラハラ氏は2倍年暦等説を肯定して論を立ち上げて来た。

前者の場合は世界各地でこういうマシ暦をやっていた国柄があったのかと克明に
調べてみたが、そういう所はいまのところ全く無く、さらに>>75のとおり全国の
神社で彼の主張が肯定され難い紀の隔絶している年と年との間の具体的年代記事
が多々存在し、これは彼の主張たるマシが成立しないことを物語っている。彼は
こういう神社の由緒伝承をゴミだと抜かして不敬甚だしい野郎であるが、ゴミだ
という書きこみは全然論述にはならず、神社へ悪口以外の何物でもない。

ところが2倍年暦、n倍年暦は世界各地を調べてみたところ、けっこうこれを
やっていた所はあるわけで、その2倍年暦の例は古代南バビロニアにあり、n倍
のほうは古代マヤ、アステカ、サポテカあるいは古代エジプトでも行使して
いたことが専門家の解説で動かし難く確かであり、こう倍年暦の事例がわりと
あるわけであり、これを改めも否定をしていたが唐松山も否定中ではあるが、こう
いうわりかし存在する1年が365日とかでない2倍、n倍年暦が古代に行使され
ていたことは、古代の当時の各天皇の超長寿を合理的根拠として説明でき
うる説だということになる。それにホツマの景行の条の21ヶ月妊娠の記述は、
景行の代に2倍年暦を行使していた動かし難い文証だということにある。これを
動かないのにまだ基点をムリにもズラし、うっちゃりスリ抜けを敢行し続け
る唐松山の焦りは、いよいよ2ちゃん等の板で最後のあがきを繰り替えしている。
wwwww

773 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 11:34:54
もう倍歴がどうのこうのといった独りよがりの珍説はいいよ。
もっとマトモな歴史を語れよ。

数字遊びの妄想は、ウンザリだ。

774 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/24(土) 11:45:01
これは神武の年代を固める説の一つで、各位がいろいろと説を立ち上げて
る訳で、単なる数字遊びではない。古代南バビロニア他は2倍年暦等を行使して
いたわけであって、珍説は最初のころの話であり、調べてみれば世界各地でやって
いた事実だということだ。南バビロニアの場合は2倍年暦であり1年が182日余
での暦であることになり、現今の1年が当時の南バビロニアでは2年経過した事
になる。その行使の因の一つはサロス周期の経験で半年周期での食の起こる蓋然性
が多いことからの事と、南では春分を元旦としていたがアッカドでは秋分を元旦と
していたために、統一暦ということで現今の1年に2回元旦が出来ることから、
半年を1年として暦を編むこととなり2倍年暦を行使したということなのである。

775 :ローガン:2010/04/24(土) 15:35:53
神功紀は百済関連記事から、東晋大興3年〜太元14年になるでしょう。神功は三国時代ではない。
神功39.40.43.66年の分注は 魏志、晋書を読まないと書けない。なので当然、66年の倭女王が別人であることを記述者は知っている。
にもかかわらず、神功治世に混在させているのは 単に年次の定点として利用したかっただけであろう。
この魏志晋書引用の分注部分の本文は「是歳太歳己未」です。太歳は、紀で僅かな例外を除き、即位等に際して記されるもの。
何の記事も無く書かれたのはここだけ。ここから見える書き手の意図は、「39年己未が景初三年にあたる」と云いたいだけでしょう。


776 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/04/25(日) 10:57:12
>>757
>神武の立太子は即位前であるから不審はないと想います。即位後に立太子
>ということはありえませんから・・・。

いや、私が言っているのはそういうことではなく、
「天皇」が存在しない時代に「立太子」が有り得るの?ということです。
徳川2代将軍秀忠は、初代家康の時代に「太子」のような立場でしたが、
家康は豊臣秀吉の死後、その「太子」だった秀頼から天下を奪ったわけで
自分が「太子」だった時期は無いわけです。
やはり >>753 が言われるように、建前上そうしたように思われます。

777 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 11:03:13
九州にいたとき、他の地域へ行って国を作ろうと志したんでしょうから、事前に
九州で立太子をしてもおかしくはないでしょう。立太子年代はB.C.37年になり
ます。

778 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 12:01:59
そんな細かい具体的な年代なんかわかるわけがない。
年月日の記録なんかなかったんだから。
というより神武自体架空の人物だし。

779 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/04/25(日) 12:33:57
>>777
なるほど・・・源義経が自分で烏帽子を作って元服したと言われるような話ですかねえ。

>>778
15歳で立太子したとあるので、年代だけは計算できます。

780 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 12:51:16
その15歳とかいう年齢は創作でしょ。
そもそも神武自体が架空だし、モデルがいたとしてもその正確な年代や生涯は不明。
記紀の記述をベースにして、架空の年代いじくっても妄想に妄想を重ねるだけ。

781 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 12:54:55
記紀の作中人物としての神武の年齢は計算できても、それは史実ではない。
記紀の説話は物語とみて、あくまで作品中の人物の設定としてみるのならいいけど。

782 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 14:13:55
架空の創作をすればこの前の某党議員の帳簿虚偽記載で逮捕されたように、
舎人親王らはしょっぴかれて身の上は風前の灯火となるから、大なる利害もないの
にそういう公文書偽造に手を染めるほど馬鹿ではな〜い。所詮>>778>>780の創作
した架空の考察であ〜る。そういう虚偽創作という公文書偽造同行使をやったの
なら、これを読んだ親王らの政敵に垂れこまれて、失脚は確実となる。であるから
して、そんな余計な創作などやるわけがな〜い。

昨日も某刑務所で囚坊の温度を10度上げて囚人苛めをして帳簿に不実記載を
した看守が発覚し、書類送検となった。その動機は囚人が生意気だったのか、
言う事をきかないので、温度を上げて暑い思いをさせ苦しめようとしたという
ことなのだ。まだ同日某警察でも、書類に1時間のゴマ化しをやったことで処分
された。かように架空の創作事を史実を無視して捏造すればわるけりゃぁ死罪、
島流し、よくて蟄居だぞ。それでもしたというなら、古代史捜査をして証拠まで
は言わないが根拠、資料、動機を出してウラヅケが出来てからそういうことを
言え。

783 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 14:21:51
記紀原理主義者キモイ

784 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 17:29:49
なぜ街宣右翼は日の丸切り裂き民主党に積極的な抗議活動をしないの?

785 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 19:07:48
各伝承の順序や流れ、展開など組み立てるにはたとえ架空であっても数字は必要。
最終的に数字はほどくにしても、数字がなければ前後関係が著せない。
伝承でも何でも、わが国黎明期のきちっとしたストーリーがなければ、
日本のアイデンティティー が失われる。


786 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 19:27:07
つまり、大王家や各豪族に伝わってきた断片的な伝承やら、百済系史料やら、
その他もろもろの雑多な寄せ集めを無理やりひとつにまとめあげ配列した際に、
書紀の時系列と年月日の数字は創作されたと。

787 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 21:16:13
>>785
それにしては、紀の神武以後は年月日が必要以上にうんと書かれて過ぎて
いるではないか?w 架空の創作ならそんなに必要はあるまいがね?w

君が創作だと創作してるんだよ。創作ならば、何も下表のように日の実数
を左半分 ↓ に全部寄せ集める必要などないだろう。ランダムにする筈
だぜ。

【紀の欠史八代の日数統計表】

1日 4  15日 0  29日 0
2日 2  16日 0  30日 0
3日 3  17日 0
4日 3  18日 0
5日 6  19日 0
6日 3  20日 0
7日 2  21日 0
8日 3  22日 0
9日 3  23日 0
10日 1  24日 0
11日 4  25日 0
12日 3  26日 0
13日 3  27日 0
14日 7  28日 0

上表の左寄りをどう説明するんだね? 創作ならば、バラバラにまんべん
なく数字を配置するはずだ。

788 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 21:43:30
俺は創作したと言っているのではない。架空の年代いじくっても妄想に妄想を重ねるだけ
と言っているご人に、数字は必要だと言っているのだ。編者の努力を認めてやらなければ
と思っている。

789 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 21:50:19
>>788
架空は創作に基づくものではないか。架空ならば、何故>>787のように数字
を左へ全部寄せる必要があるのか。そんな必要はないはずだ。ということ
は、これは創作架空で片付けるものではない。これは当時の1ヶ月が
1日〜14日までの2週間しかなかったことを物語っているのだ。つまり
当時の朝廷は2倍年暦を行使していたということになるのだ。

ただこれは狭小的に朝廷あたりで使用されていたもので、他の周囲での
通常暦法を使用していたことも事実であり、二重に暦法を編んでいたと
いうことを意味している。左寄りの日数は、断じて架空を意味していない。

790 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 22:58:36
俺は、書紀の記述は信じたい。倍暦を考えると年数や年齢は納得できる。
しかし、ピンポイントである月日は、8世紀の編纂時につくられた、年月朔干支
一覧表に基づき後付けされた月日と想像する。
日記をつけていても、1週間滞っておれば、はっきりした日にちが思い出せない。
1年前の出来事など月さえも怪しくなる。
書紀においても、暦のなかった古代の伝承の月日をどうやって後世に伝えたか疑問である。
故に、編纂時、彼らなりに前後を考え朔一覧表に基づきはめ込んだものと想像する。
月前半に偏っているのは、暦法を勘案したか、他に理由があるのかは知らない。


791 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/25(日) 23:11:26
はみ出しなしにピタリ(→>>787)と1日〜14日以内に収まっており月後半
にはみ出しがないから、後付けは正確だと観てよい。

とにかく世界各地の暦法を調べてみると、n倍年暦の行使の国々が多い
ことが見て取れ、古代日本の場合もこれを行使していたと観て間違いは
ない。>>787の表の場合の八代では、2倍年暦が行使されていたことを
物語っている。古代南バビロニアでも2倍年暦の行使が見受けられる。

zzzzz・・・

792 :日本@名無史さん:2010/04/25(日) 23:24:51
2倍暦といっても1カ月15日×12ヶ月を1年とするのか
1か月30日×6ヶ月で1年とするのかいろいろあると思う。
もっと後の時代になると16日以降に設定されている日もある。
8月や10月で16日以降の日もある。


793 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 06:00:24
太国さん、質問です。
日付けの件が創作だとするとバラバラにまんべんなく数字を
配置しなければいけない理由は何だと考えているんですか?

794 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/26(月) 10:58:25
適当にランダムに配置すればいいだけのことだろうが。なぜインチキ創作で表の
左半分寄りに配置せねばならんのか? 逆に>>793に質問するぜ。その理由は何
だと考えるのかい?

795 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 12:38:09
>>794
1年は15日×24ヶ月だったから。www

796 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/26(月) 13:55:54
>>795
それは美濃もん太氏も同じことを言って何回もやりとりしてますよ。

紀には閏月はいいとして十三月〜二十四月の記事はありません。当時も月は十二月
までということですね。ですから現今の半年が当時の1年となります。つまり
2倍年暦の行使をしていたということです。これですと天皇の超長寿の不可解な
事由が解けてきます。

797 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/26(月) 14:28:22
>>792
そのとおり。当時の朝廷はいろいろやり方を替えながら2倍年暦等を行使して
いたということです。欠史八代のころは1ヶ月が1日〜14日間の現今月前半分の
数字にて行使していたわけで、それが崇神の代に、朝廷は通常暦を気にしたのか、
1日〜30日の数字を使用して、これを1ヶ月として虚無の空白月を設定したか
その30日間に同様の空白日を間隙に入れて1年が現今の半年になるような
考え方を設定し、これだと2倍年暦ですが実際は1年が4ヶ月式での3倍年暦の
行使法としたのだということです、崇神紀にある三輪神という名も1年の循環の
一巡りが3分での3年として現今の1年相当と為し、3倍年暦を行使していたとの
暗示の名ですよ。

798 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 15:22:24
>>796
しかし、前1月、後1月などという書き方もしてないよな。どうやって区別したんだ?ww

799 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 10:37:27
>>794
だから適当にランダムに配置する理由を聞いているんですよ
特に理由がないということでいいですか?
何か質問してますが意味が良く分かりません
理由を聞いてるのは私なんですけど?

800 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 10:58:16
例えば欠史八代紀は儀鳳暦で書かれていますが
元嘉暦や顓頊暦なら月の上旬に片寄りませんよね?
これはどうゆうことだと思いますか?太国さん

801 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 19:56:45
ここのコテハンがやってるような俺流の数字遊びって空しいだけだよな。
もっときちんとした歴史を学べよ。

802 :日本@名無史さん:2010/04/27(火) 22:01:59
きちんとした歴史をきちんとした学者がやらないから、
興味あるものがやっているのだ。
学ぼうにもきちんとした歴史がない。これが現実。


803 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/28(水) 10:13:51
太国:唐松山という男の主張では紀の神功初年の条の記事が日食だとしアマ的低級ムー民
式論を毎回毎回各スレに書きこんで説明して

この神功初年の日食を、正しく比定出来ない人間(太国)がいう事か?
太国:数日も続く『日のカゲがきらめく』。こんな日食は無い。←これが否定の言葉しかし
太国:このような事象は自然界にない、と続ける。ということは、否定を否定したことになる。
だから神功の日食は生き返る。193年の新羅、倭人の渡海も畿内の人間に置き換えての否定だ。
文字を勝手に置き換えて否定しても、その根本が間違いであるいじょう否定にならない。
「日夜別」を「日々を夜が別ける」ととらえるのが間違い。「日を夜が別ける」とは「日を闇が別ける」
と同義語ととらえれば、立派に日食となる。



804 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/28(水) 10:24:39
太国さんよ
>天の数日間継続の暗黒現象だと観るのが相当であり、紀のこの記事は断じて
日食ではない。

ではこの現象を説明して貰いましょう。
もちろん火山噴火による暗黒なら世界的に大凶作が襲う。しかしこんな事実は確認出来ない。


805 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/28(水) 10:34:21
太国:適当にランダムに配置すればいいだけのことだろうが。なぜインチキ創作で表の
左半分寄りに配置せねばならんのか?
太国:当時の朝廷はいろいろやり方を替えながら2倍年暦等を行使して いたということです。
太国:はみ出しなしにピタリ(→>>787)と1日〜14日以内に収まっており月後半
にはみ出しがないから、後付けは正確だと観てよい。

こんな面倒な作業を当時の朝廷が行使する理由が無い。
だから太国はインチキ創作の表で撹乱する。
その証拠
巻四孝安天皇元年(己丑前三九二)正月辛卯《廿七》◆元年春正月乙酉朔辛卯。皇太子即天皇位。
27日の記事があるが、無視をしている。


806 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/28(水) 10:48:51
オマエのは誤訳のほうだよ。まだインチキ誤訳を誇張したいのか? 昨日も
別スレで言ったように、国史大系のほうは正確で 1/7 だよ。オマエの訳本は
底本が狂ってるのさ。インチキ訳のほうを広めるな。

807 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/28(水) 10:54:46
太国:はみ出しなしにピタリ(→>>787)と1日〜14日以内に収まっており月後半
にはみ出しがないから、後付けは正確だと観てよい。
太国:適当にランダムに配置すればいいだけのことだろうが。

この二つを一つにすれば
適当にランダムに後付けは正確、となる。

ランダムは日本語で「いいかげん」
いい加減に配置すれば、正確な太陰暦になる。と仰っています。
本当ですか太国さん。


808 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/28(水) 10:56:32
>>806
>オマエのは誤訳のほうだよ。

では正しい事象を教えて下さい。できないでしょう


809 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/28(水) 11:14:31
ではオマエの編年表をどうやって作ったのか、詳細に教えて下さい。
できないでしょう。>>75を見てごらん。成務4年までだとオマエは言うが、これ
>>75のとおり二桁年がいくらでもあるではないか。ww

これから外出だ。また後でな。よく表を説明しろ。

810 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/28(水) 11:19:43
>はみ出しなしにピタリ(→>>787)と1日〜14日以内に収まっており

14日まであれば、3倍年は不可能。
しかも欠史八代の思考をそのまま欽明あたりまで行使する理由が無い。
後付けの最初の思考である、暦の後付けが出来ない。


811 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/28(水) 11:33:13
>>809
その二桁の年度は、伸長されている数字でしょ。
伸長された二桁はあり得るが、一桁ではあり得ない。

私の編年は太陰暦で読め、かつ歴史的出来事を編年に組み入れる。
歴史的出来事を全く含まない倍年とは出来が違う。

早く >>808 の解答をお願いします。
この解答に納得しない限り 神功の日食は生き続ける。


812 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/28(水) 14:03:12
>>810>>811
相変わらず、オマエは考察が浅薄だな。天皇八代全員が月上旬に死んでるんだよ。

他の記事が1日〜14日に収まってるのに対して、その中の天皇の全員の崩御が
1日〜10日の上旬に収まってるわけで、1日〜14日間の2週間でやる2倍年暦に
並行して1日〜10日でやる3倍年暦を行使していたということだね。だいたい
オマエも2重暦とかの新語で暦法の2重行使を肯定し始めていたではないか。

いくらオマエが朝廷の経営で八代が月前半に行事をやるから月後半がないんだと
言い張っても、そういうやり方もある程度やってる時期があることは確かなよう
だが、こと天皇の死亡が暗殺自殺等特別な事情がない限り、全員が月上旬に
死ぬということは、死というものが突然やってくる人為的に決まるものでは
ない自然現象であるからして、月上旬に八人が八人死ぬことはありえないわけ
で、このことは当時3倍年暦を行使していたことを物語るものである。

なお日食は数日間も継続するわけがなく、日食なら「日が欠けり」とか「日が蝕
せり」とかの具体的記載となるはずで、神功紀のこの記事は低級ムー民(但し
高級な賢察民もいる)の考えやすい空想好きのエンタメ、小説等と混同視して
いる浅薄な古代史アマの陥りやすい盲象説の典型であり、そのような映画演劇と
交錯する脳には、プロ的研究家はそういう虜にはならな〜い。但し電波星x線星
とかにはそういう日食が数日間も続く天体構造の所も広い大宇宙にはあるんで
あろうから、向こうの天体では数日間も日食が続くぞという強力な電波を受信
しておれば、まぁそういう主張を頑強に言い張る野郎の言い分は否定出来ない。
ppppp wwwww

813 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 14:03:24

「晝暗如夜已經多日時人曰常夜行之也」

これをどう解釈されますか。また、

「則日睴炳[火榮]日夜有別」

までに、祖豊耳にわけを聞いたり、埋葬のしなおしなど
何日か日数を要するように思えます。とても1時間ほどの
間に行えるものとも思えません。

これは日食ではなく、厚い雲が天を覆い尽くすような
気象現象が数日続いたのではないでしょうか。



814 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/28(水) 14:05:56
>>813
ご賢察!

815 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/28(水) 14:09:44
>>811
早く>>809の回答を願いたい。そうでないと、オマエの編年、マシの主張は
棄却することになる。

816 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/28(水) 19:37:53
「則日睴炳」すなわち日のカゲがきらめく、と読む。
こんな曇り空は無い。


817 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/28(水) 19:41:00
ホ38282      アサヒカゲ キシマネにあり
ホ38283      ユフヒカケ アソヤマをゝふ
暉隱杵嶋山、夕○日]暉覆阿蘇山


818 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/28(水) 21:03:29
>>815
人の解答より、自分の解答を先にしたら、こちらが先に質問しているんだから。


819 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/28(水) 22:28:29
>ではオマエの編年表をどうやって作ったのか、詳細に教えて下さい。

人にものを尋ねるときオマエ呼ばわりか。いい歳こいた老人だな。

まず七支刀を考える。
書紀によれば、倭軍が領土を割譲したことにより、百済は大国となる。
百済は340年代には大国としての存在が晋書から見て取れる。
300年頃では、東夷でしかない。この間に正解がある。
この割譲のお礼に七支刀が存在するから、刻まれた年代は、割譲後である。
326年東晉明帝太寧4年が候補にあがる。
321年東晉元帝太興4年 まだ永嘉の乱は終息していない、すこし無理がある。
369年東晉廢帝太和4年 遅すぎる、百済が大国として存在する。
この年度では、書紀の記事と齟齬を生じる。領土割譲後すぐもたらされる七支刀が
この年度では、すこし間を開けねばならない。
いくつか候補はあるが、5月16日丙午に近く百済が大国となる場所で選ぶなら
326年 神功52年 七支刀。しかない。であるならば、神功元年は275年より
遅くしなければならないとして考える。
神功元年が275年であれば、ここに書かれた記事は、273年の日食と捉えることが
出来る。空白ではあるが、圧縮出来ない事情がここにある。そして応神世までは、百済王朝が
あるから、簡単には圧縮出来ない。
ここで百済本紀と私の設定にほぼ50年の誤差が出る。
書紀のこの部分は、あきらかに百済が大国となる場所であるが、百済本紀の近肖古王は、大国の
中に存在する。そして金石文である好太王碑の出来事が反映されていない。
そこで百済土器の編年を調べると、誤差が大きすぎて、編年出来ていないのが実情だ。
庄内式と比べるとほぼ50年新しい方へずれている。


820 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/28(水) 22:52:34
著書 シンポジウム「日本の考古学」3 弥生時代の考古学
網野善彦+大塚初重+森浩一 1998年

最近、下田という遺跡が和泉の堺市で発掘されています。あそこは丹後半島の土器や東海の
廻間V式の土器がはいっていたりして、やや異常な動きをします。おそらく庄内式から布留式
の交わりのころにそういう動きがあったのだと思います。
 ちょっと時期は下がりますが、西新町遺跡などは、けっこう朝鮮半島の土器がでています。
あとは山陰系とか近畿系の土器がはいっています。
西新町ですね。庄内式の新しい時期ぐらいです。

箸墓(250年±10年)が布留式直前なら、西新町遺跡の朝鮮土器は、神功渡海ころとなる。
それとも景行の九州遠征のころか。



821 :日本@名無史さん:2010/04/28(水) 23:08:03
西新式土器は庄内並行でしょう。つまり箸墓以前からの集落。西新遺跡の三韓土器などは、原の辻から
貿易の拠点が移ってきたのでは?いずれ年代観が変だと思います。

822 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 08:08:06
架空の捏造数字など、いくらいじくりまわしたところで無意味。

823 :日本@名無史さん:2010/04/29(木) 11:55:39
日本書紀総合スレなのに、まともな議論がほとんどなく、
いつもコテハンの妄想てんこもりの「ぼくの考えた古代史」でスレが進行していくのは、
所詮2chの古代史スレなんて「俺流」の妄想垂れ流しの場でしかないってことか。

よくもまあ、いつも飽きずにバイ暦だの神武だの、妄想で数字遊びできるわ。
そういうアマチュアの陥りやすい唯我独尊、我田引水の妄想歴史にはまりこまず、
実証的でオーソドックスな普通の古代史を勉強しろよ。

824 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/29(木) 16:02:14
庄内式土器は、纒向遺跡遺跡と共にある。
もし箸中山古墳がモモソ姫なら、それ以前の小型前方後円墳はそれ以前に作られている。
それと時を同じくして、各地からの土器が集まり出す、また近江伊瀬遺跡の衰退もこの時期である。

2世紀末から3世紀初めをどの天皇に設定するか?ここです。
崇神五,六年の記事が、新羅192,3年と同等なら、崇神を当てはめられるが、現箸墓=モモソ姫=250年頃
となりあてはめられない。

>架空の捏造数字など、いくらいじくりまわしたところで無意味。
七支刀が380年頃もたらされたのなら、神功50年前後の記事はねつ造になるが、
326年であれば、百済が大国となる位置を明示した現実の可能性が出てくる。



825 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/29(木) 16:09:40
266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
271年 泰始7年 八月丙戌,以征東大將軍衞瓘為征北大將軍、
273年 泰始9年 三月,立皇子祗為東海王。夏四月戊辰朔,日有蝕之。六月乙未,東海王祗薨。
鮮卑寇廣寧,殺略五千人。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
新羅 278 百済侵入
280年 太康元年 6月 東夷十國歸化。7月 東夷二十國朝獻。
281年 太康2年 夏六月,東夷五國內附。冬十月,鮮卑慕容廆(歸か)寇昌黎。
282年 太康3年 九月,東夷二十九國歸化,獻其方物。
283年 太康4年 五月己亥,大將軍、琅邪王伷薨。徙遼東王蕤為東萊王。
新羅  283 百済侵入
286年 太康7年 夏五月,郡國十三旱。鮮卑慕容廆寇遼東。八月,東夷十一國內附。是歲,扶南等二十一國、馬韓等十一國遣使來獻。
新羅 286 百済が講和を求める
287年 太康8年 八月,東夷二國內附。
新羅 287 倭人が侵入
288年 太康9年 九月,東夷七國詣校尉內附。郡國二十四螟。
289年 太康10年 五月,鮮卑慕容廆來降,東夷十一國內附。
この11月に 晋は、軍を再編する。
是歲,東夷絕遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻。
290年 太熙元年 二月辛丑,東夷七國朝貢。琅邪王覲薨。
新羅 292 倭人が侵入
新羅  294 倭人が侵入
新羅  295 倭人討伐を議するも水上戦闘不慣れにより中止
新羅  300 倭国と国使を交換


826 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/29(木) 22:43:49
三角縁鏡の副葬の盛行は、4世紀になってから。
こうなると、卑弥呼が死んでから、50年の時を経る。
そこに景初3年辺りの年代を鋳込む、呉鏡も供出する。
西晋から東晋の時代になる。
この時代に、50年前の景初3年が流行したとするならば、
この時代倭軍は、半島にあり、東夷軍の中核を成していたのではないか。
倭国は、東夷の中で(高句麗を除く)最初に冊封され、その事実から、馬韓などの上に立つ。
しかし、323年頃、永嘉の乱が終息すると、前燕や東夷諸国は、東晋の冊封の外となる。
鏡の副葬から、武器や馬具の副葬に変化する。倭国への鉄器の流入はそれ以前より増大する。

280年代までは、弁辰の鉄をめぐり百済と新羅が争う。その後をうけ倭国と新羅が争う。
300年には、弁辰の鉄の利権を倭国が握る、倭国へ鉄器の流入は途絶えない。
そして墳墓への副葬から推察すれば、半分以上が倭国へ流入している。
こう考えると、神功渡海が遅くなるとあり得ない事になる。


827 :朝床勃神(あさのとこたちのかみ):2010/04/30(金) 20:51:19
mannko

828 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/05/03(月) 15:57:42
日本書紀で最初に出現するのは國常立尊(くにのとこたちのみこと)
その前の記事は「淮南子」や「三五歴紀」に基づくとされる。
「古天地未剖。陰陽不分。渾沌如鶏子。溟[シ幸]而含牙。及其清陽者薄靡而爲天。重濁者淹滯而爲地。精妙之合搏易。重濁之凝場難。故天先成而地後定」
淮南子は前漢武帝の頃、淮南王劉安が大勢の学者に命じて編纂させた書物というが、
この時代の書物から書紀の冒頭の記事が書かれたのは興味深い。
武帝はBC108年に古朝鮮を征服し、倭人を東洋史に引きずり出した人物だからである。

829 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/05/03(月) 16:17:24
淮南子は「宇宙」について説明した最古の書だったと思う。
「宇」は「天地四方上下」、「宙」は「往古来今」、合わせて時空を意味することになり、現代物理学にも通じそうな考え方だ。
「宇宙」は日本書紀には3回登場し、最初は素戔鳴尊にイザナギ・イザナミが「汝甚無道不可以君臨宇宙」と告げて根の国に追放した。
あと2回は繼體・安閑天皇の詔で「宇宙不可無君」「仁風暢乎宇宙」と出てくる。

830 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/05/03(月) 16:36:32
>>829 補足
繼體の詔「宇宙不可無君」は前の「神祗不可乏主」と対であり、安閑の詔「仁風暢乎宇宙」は「美聲塞乎乾坤」と対になる。
乾坤は天地で、愛知県東浦町には宇宙山乾坤院があり、宇宙稲荷大明神がある。
残念ながら1475年開山で比較的新しい寺院である。
ttp://www4.ocn.ne.jp/~kenkonin/

831 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/05/08(土) 19:33:51
日本書紀本文では神功皇后の神憑りのとき、武内宿禰が琴を弾き、一書では皇后が琴を弾いている。
この「琴」は神楽で使われる和琴(六弦)に似た五弦琴と考えられる。
五弦琴は登呂遺跡から出土し、隋書倭国伝でも「樂有五弦琴笛」とある。
奈良時代には唐から七弦の「琴」、十三弦で柱(じ)を持つ「筝」、二十五弦の「瑟」が渡来したが
「琴」と「瑟」は忘れられていった。
半島では、伽耶国の嘉実王のもとで楽師于勒により開発された十二弦の「伽耶琴」が新羅に継承され、
日本にも奈良時代に新羅から伝わり「新羅琴」と呼ばれた。

832 :日本@名無史さん:2010/05/10(月) 04:28:35
良スレmage

833 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/05/15(土) 15:36:59
記紀の時代の音楽は楽譜も残さず消えてしまったので、復元はなかなか難しい。
太国氏であれば、ウラゴトで神功皇后の琴の音を聴けるかもしれませんが。

834 :日本@名無史さん:2010/05/16(日) 14:30:24
音楽については、中国正史では史記の「楽書」、漢書の「礼楽志」があり、後漢書・三国志・梁書には関係志がなく、
晋書・宋書には「楽志」、隋書には「音楽志」がある。
日本書紀はもちろん音楽志などなく、古事記・万葉集と合わせて膨大な歌謡が残るのみである。

835 :日本@名無史さん:2010/05/16(日) 14:36:25
半島の三国史記にも「楽志」があり、「祭祀志」と合わせて一巻を成している。
>>834 も愛知県民でした。

836 :日本@名無史さん:2010/05/17(月) 17:51:29
子作りができる年齢は下限が15歳ぐらい(現在の平均的な精通・初経年齢は11歳〜13歳程度であるが)
16〜18歳と見ておいたほうがいいかもしれない。
上限(女性の閉経)は40歳ぐらい(現在は50歳程度)だろう、男性は上限はないが精力次第
今の10歳ちょっと〜50歳ぐらいまで月経があるのとはぜんぜん違う。

当時は栄養水準が低く(医療水準も低く寿命も短い)、成長が遅いはずだから
現代の生殖能力を基準にしたらおかしいのではないか?

魏志倭人伝で日本が2倍年暦を行使していたことを伝えるぐらいなら
魏王朝側から邪馬台国の卑弥呼に「暦を1倍年暦に直せ」として暦博士を派遣したり
漢字はまだでも文字として甲骨文字が伝わって、それが日本で神代文字になっていたとしてもおかしくはないのではないか?
なんで弥生時代末期から交易していたのに、暦も文字も中国から伝わらないんだ?

837 :サガミハラハラ:2010/05/18(火) 20:26:41
清寧天皇のスレたてました。是非お立ち寄りください。

838 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/20(木) 09:44:48
丁度10日間も規制されて書きこみ不能だった。まことに迷惑至極にて候。

かように、不能という出来ないことを出来るようにしてしまう論というのは、
そいつのお脳の程度を疑ってよい。そいつは軽率な浅薄な脳内だということだ。

崇神6年には船舶が製造されてないから、当然百姓が千人という大容量を渡海
など出来るわけがない。崇神17年に始めて船舶を製造したのであるから、物理的
に崇神6年に千人も渡海など出来っこない。

その論はインチキだということだ。従って

 崇神6年≠193年

である。毎回書きこんでいるが、紀の崇神6年は

 崇神6年=238年=景初2年=崇神天皇が模擬【鏡】を殿内へ奉安の年

である。この年、天照大神宮が成っていることから、日に象った【鏡】が重視
された年だということなのだ。その翌年

 紀の崇神7年〜9年=239年=景初3年

の銘文の景初3年【鏡】が畿内で多数出るのも当然である。景行元年に鏡の重要
事象は記紀を観ても無いことから 景行元年≠景初3年 であることが確認できる。

839 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/20(木) 10:14:28
景行元年=景初3年 では景初3年【鏡】の記事が記紀に無く崇神の代の
天照大神宮が成る時世での模擬【鏡】奉安の記事と合致することから、唐松山と
いう妄想男は、また基点ズラしをいて来るだろう。ww やったところで騙しの
インチキは変わらない。

この前の景行の代の2倍年暦の文証のホツマの21ヶ月の妊娠文面でも、合わない
から必死に基点ズラしを敢行して、妄想防衛にやっきとなっていた。ww

こちらは合ってるから基点ズラしなどする必要などなく、うっちゃりもこちらは
殆どしないで論が通る。基点のズラしは、結局うっちゃり、スリ抜けだからな。
インチキはうっちゃり、スリ抜けが大多用することで、判断出来るものだ。

>>836
>当時は栄養が低く
これもおかしいぞ。記紀を見れば、仁徳天皇は武内宿禰を日本最高の長寿者と
詠っており、5代に仕えてたんだから短命ではない。目安でも90〜125歳の間
だとおおむねで分かる。それに朝廷は全国からうまいものが集まって祝宴を
開けるわけであり、巷、末端の民なら短命も当然だろうが、上級者はおいしい
料理が毎回食えるだろうから、大半が短命だとは必ずしも言えない。

おまけに当時は工場、車等からの廃氣ガスも殆ど無く、今より空気は清浄で
あり、化学物資の材料を混入させての食材もないことから、現代病は考えにく
く、一見考えてもろく弱いようだが、こういう長寿にメリットとなる条件も
あることから、当時の朝廷の民が短命だと決めこむのは即断に過ぎる。

840 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/20(木) 10:22:52
>>836
卑弥呼の女王国が2倍年暦を行使してたか否かは、まだ判明していない。ただ
それを行使していた可能性はあるにはある。とにかく畿内朝廷が2倍年暦等を
行使してたから、九州の卑弥呼の国もそれを使っていたということにはならない。

とにかく畿内朝廷の暦法と九州卑弥呼の女王国の暦法とを混同しないことだ。

以下は参考だが、
「熊野年代記」

 孝霊13年 癸未 天竺から文字が渡る

とあるそうだ。

841 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/20(木) 11:28:28
>>804 威勢はいいが ↓ 例のやつを出せば、皆を騙せなくなるんだぜ。

  「山梨県気象災害史」

 景行43年=113年 霖雨により低地一帯湖水となる

日本書紀と三国史記の間にはほぼ120年の年代差があるのは、少し研究
した者なら気がつくことだ。それが

 日本書紀      三国史記
255年 肖古王没  375年 近肖古王没 255−375=-120年
264年 貴須王没  384年 近仇首王没 264−384=-120年
265年 沈流王没  385年 沈流王没   265−385=-120年
272年 辰斯王没  392年 辰斯王没   272−392=-120年
285年 阿花王没  405年 阿華王没   285−405=-120年

上の文献の内容が富士山の噴煙でなくても、湖水となる位の超大雨ならば、
その前に超デカい暗黒雲団が停滞していたからで、それがこの文献でいう
超長大雨なのである。景行当時は2倍年暦はホツマの21ヶ月妊娠から判明
するもので、2倍から

 113+120×2=353年(神功元年:倍暦計算)→神功元年≠274年頃

紀の神功元年頃の天空数日間暗黒だったのは、長期停滞の大黒雲団である。

842 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/20(木) 11:34:32
>>813
813氏の批評は妥当、合理的であり、紀の神功元年頃の天空暗黒が数日間も
継続した記事は断じて唐松山の言う日食ではなく、上述の長期停滞の
大黒雲団の仕業である。それは少々黒雲の切れ目から日がさしたことが
あったろう。それが日のきらめきであるから、きらめきは日食でなくても
現今でも結構起こっているぞ。

843 :日本@名無史さん:2010/05/20(木) 17:12:40
孝昭天皇の死後38年(二倍年暦だとしても19年)埋葬の事例を考えれば
死後50年とか100年で埋葬した例も山ほどあると考えられるのではないか?
3世紀半ばに死亡した卑弥呼を4世紀半ばに埋葬などしていてもおかしくはないと思う。

墓なんて故人(被葬者)の意向もあるだろうが、(子孫など)後世の人の意向でどうにでもなるんだし。
死後約1000年の江戸時代に本格的に整備した神武天皇稜の事例などもあるんだしさ。

必ずしも死後すぐに墓を作って埋葬とは限らないと思う。

持統天皇が夫の天武天皇と同墓に被葬されているように、女帝や皇后は夫や息子などと同じ古墳が多いのではないか?

あと崩年干支も、二倍年暦を行使したなら60年周期が30年周期で
上半期がネズミで下半期がウシといったように一倍年暦の春半期と秋半期で年が違うんだから干支が違うだろ。
だから中国の魏と干支がずれる。

844 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/20(木) 17:35:58
>>843
下から三段目以降
ちょっと、意味不明です? いま少し具体的詳細に願いたい。
ただ言えることは、倍暦の干支が通常の暦法とのとは別に、存在するよう
です。

845 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/20(木) 21:11:57
霖雨 D 河西秀夫:山梨県の過去の大規模地震被害の研究(河西研究室ホームページ)
低地一帯湖水となる(日本武尊入国これを治めんのため国成の玉を埋めて退水を祈らせ

この景行43年を神功元年の記事とすると、日本武尊も付いてくる。


846 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/20(木) 21:15:26
 日本書紀と 三国史記の記述が同じ長さであれば、その部分を圧縮すると、
そこに欠かれた記事も圧縮される。
百済王家の世継ぎは、犬猫並みになる。


847 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/20(木) 21:16:58
必ずしもつくものとは言えない。それがオマエのウッチャリ。
寄り切られたから、ついでに相手の力士も一緒に土俵に割らせてやろうと
しただけで、双方土俵外でも、勝負あり。毎回ウッチャリは効きは
しない。

848 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/20(木) 22:15:05
>倍暦の干支が通常の暦法とのとは別に、存在するようです。

当時の暦法なら太陰暦。
太陰暦は、29.5日を1ヶ月とする。倍暦との相性は最悪である。

>必ずしもつくものとは言えない。
景行43年の記事は、日本武尊で説明されている。
これと同等の事が、神功元年に起きたのなら、神功元年に「霖雨」と書けば良い。
日夜有別。=あづないの罪
則日暉炳。=あづないの罪
何死之無同穴乎。則伏屍側而自死。仍合葬焉。蓋是之乎。乃開墓視之實也。故更改棺■。各異處以埋之。=あづないの罪

霖雨≠あづないの罪
だから日本武尊は国成の玉を埋めて退水を祈らせた。



849 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/20(木) 22:44:55
オマエこそ天津金木に違う天津罪を犯してるぞ。神社の伝承をゴミだとか、
クソへの罪だ。畦放ちとはr=3の円を蛇行させるメチャクチャ論だ。

西遊記の金兜山の話にこれがある。

三蔵とはこの場合r=3を示唆する。金兜山前にて三蔵は空腹を訴え、
孫悟空にメシを要求したことから、悟空は食事を探しに飛んだが、この直前
妖魔にやられぬよう円を地に金箍棒にて画き、三蔵一行を円内に入れさせ、
円外へ出ると妖魔にしてやられるから絶対出るなと言った。しかし三蔵ら
はこの掟、禁を破り、青牛怪に捕まる大難となった。

これは天津金木のr=3の円の天津金木以外の編年は妖魔のインチキだと
いう示唆の説話だ。オマエの論は妖魔にやられたデタラメ論だ。><

伊支馬=イクメ(垂仁)だともインチキだ。まるでユンケル黄帝液が
口蹄疫だとか主張してるようなもので、これでは悪魔の牛に同化する。
オマエのこの主張は奇奇怪怪もののデタラメ論だ。ww

850 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/20(木) 23:00:19
書く必要はな〜い。畿内の記事ならば、そこで超大黒雲団の状態であり、
これが山梨県に移動して極超大雨に変じたもので、まだ降らない状況を記載
したというだけのことだ。

851 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/21(金) 15:11:31
>まだ降らない状況を記載したというだけのことだ。

普通の曇り=あづないの罪


852 :日本@名無史さん:2010/05/21(金) 15:28:19
古事記・日本書紀研究
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/kobun/985528678/

日本書紀はどこからが史実なんでしょう?
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/988620461/


日本書紀紀年法がついに解明されました[part5]
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1177904768/

【倍歴】記紀時代の編年考察スレ【七支刀】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1188330074/
【漢籍潤色】日本書紀総合考察スレ【古伝妄信】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1196549436/

日本書紀の年代を考える
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1229002826/

853 :日本@名無史さん:2010/05/21(金) 15:29:03
【元祖】神武天皇【天下り】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1146131268/
聖徳太子 総合スレッド
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1204090344/

854 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/21(金) 18:05:53
曇天は自然現象であるからして、罪には問えない。電波星では雲人間が
いるのか〜?wwwww

855 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/21(金) 18:34:26
つまり、神功元年に起きた、あづないの罪に景行43年の霖雨は、該当しないと。

237年 崇神元年
この数字が正しければ、2世紀末に纒向を開発した人物を特定せねばならない。
考古学の数字を否定して纒向開発を崇神にすると、箸墓は、4世紀初めとなってしまう。

数字を正しいとすれば、2世紀末に卑弥呼が纒向遺跡を開発し、箸墓に葬ると同時に崇神が倭王と成ることも可能である。

他人の数字を否定しても、太国倍年で歴史を語らない限り、賛同は得られない。

あづないの罪=日食、自然現象ではあるが、罪となる。
自然現象では、ア(天=太陽)とッ(月)が重なる。
これは、二人が一つの棺桶へ葬られたために起こったと認識され、二人を別々の棺桶に葬ることにより、
再びあづないの罪が起きないことを願う。


856 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/21(金) 21:00:56
卑弥呼の国が畿内か九州かの特定が出来ない考古の言うことが総て信用
出来ると思ったら、大間違い。どうやって考古はオマエのオナニーの日数
全計算を出したというのかね?ww

日食が罪になると言うなら、さぞかしオマエの脳内は熱帯ジャングルとか
古代の未開の地域の原住民の脳内そのものだな。ブブブ・・・ www

857 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/21(金) 22:07:21
考古学を否定した太国編年は、正しい年代を合わせられない。
だから金木算木に頼るしかない。

出た数字は金木算木の数字であり、歴史の数字では無い。


858 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/21(金) 22:39:38
考古なんか、オマエの日数計算もない超アナログ推定年代だよ。

オマエはそういうのはだめだ〜全日数計算を細かくせねば駄目だと抜かして
いたではないか。ww 考古なんか記紀以下の精度しかない〜まだまだ考古
は幼年期だぜ。そういう全日数計算からほど遠い考古がどうのこうの言って
いるオマエは自語相違ではないか? そういう全日数計算の出来ない考古
は駄目にならないのか? 自語相違のインチキ恣意的考古抱きではないか。

天津神算木こそ真の年代尺だ。オマエのはこれに外れた妖魔の業なり。

859 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/21(金) 23:13:34
>天津神算木こそ真の年代尺だ。

その算木で明治以降に使われる西暦を算出する。
でも西暦が使われるのは戦後である、それまでは皇紀が日本の通年である。
西暦を奈良時代に持ち込んでも、朝廷は関与しない。
であれば、景行43年の記事を神功元年に持ってきても罪にならないってか。


860 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/21(金) 23:18:46
>>859
年数の場合は誤差は心配はな〜い。
美濃もん太氏の言っていたとおり、オマエのやってる全日数計算が要領の
悪い労して功なしのクソの役にも立たないに近い業だということだぜ。ww

861 :縦目仮面:2010/05/21(金) 23:31:30
考古学を援用するのはよいことです。

862 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/22(土) 12:41:52
>全日数計算が要領の悪い労して功なしのクソの役にも立たないに近い業だということだぜ。ww

ああそうですか。
だから「暦の後付け」で証明される太国倍年を「暦の後付け」を証明する必要は無い。
に置き換えたいんですね。

いまだに「暦の後付け」が証明できないと云うことは、「暦は後付けでない」を証明したことになり
暦は、真の太陰暦と、架空の太陰暦の複合品であり、その運用は当時の朝廷が行使した。という
私の主張が正しいと認めるわけですね。

考古学が主張する数字と、私が主張する太陰暦が合致するのは、思考が正しいことの証明である。

だれも太国倍年と「年数の場合の誤差」を心配していませんから、ご自由にお使い下さい。


863 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/05/22(土) 14:24:03
地理や暦法についても、中国正史では詳しく説明されている。
日本では中国の「地理志」に近い「風土記」が作られた程度・・・書紀は編年体の史書であるのに暦の解説も付いていない。
中国では漢書から隋書まで「律暦志」を編纂し、暦と音律を結びつけていたが、
日本でもこうした考えがあったか否か、興味深いところである。
中国では王朝ごとに一尺の長さが変わり、それに伴って尺八の音程も変わった。
1オクターブの音階についても、三分損益法で求めた十二律の不正確さは知られていた。
前漢の京房は六十律まで求め、劉宋の銭楽之は三百六十律まで計算しても解決できず、
明の朱載堉が十二平均律を考え出すに至った。
日本人はこういう計算をあまり徹底してやらないが、江戸時代の元禄期に十二平均律を考え出した中根元圭は例外的な人か。


864 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/22(土) 14:33:00
>>862
心配してないなら、オマエの言う〜全日数計算とやらをこちらにやれと
言う強要は不要であり、オマエもそんな労して功なしの全日数計算など、
美濃もん太氏の忠告どおり不要物だから、遺棄すればいいことだ。

>認めるわけですね
そんなものは認めてないよ。こちらは真の年代を把握することだから、
そんなことにこだわることもな〜い。認めてないのを認めたなどと勝手に
先行するな。

865 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/22(土) 14:56:42
>書紀は編年体の史書であるのに暦の解説も付いていない。

ホツマには、暦の説明がある。
書紀の編纂された頃の認識としては、暦は空気の如く昔から存在するから
新しい暦法にしか興味が無い。

>全日数計算など、美濃もん太氏の忠告どおり不要物だから、遺棄すればいいことだ。
つまり太国倍年は美濃もん太君のレベルの代物である、という認識で宜しいと言う事ね。


866 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/22(土) 15:17:59
三角縁神獣鏡

この神象を見ていると、仏像の成立過程を見ている様でもある。
まず仏像以前の神象があり、次第に仏像に近づき、最後は仏像そのものになる。

これを勘案すると、4世紀に仏教の入ってきた支那の年代と重なる。
石勒は仏教僧を抱えている。その石勒が劉隗(前燕)を攻めるとき、槽が諫める。
その言葉を聞かず、石勒は劉隗を攻め破れる。
この事から劉隗にも仏僧が居たであろう。

その三角縁神獣鏡に、景初3年、正始元年の銘が掘られる。
この事は大和政権は、景初3年、正始元年が何時であるか認識していた証拠であり
それに対応する太陰暦を使用していた事を表す。

景初3年は、垂仁末であり、正始元年は、景行元年となる。
この出来事以降、大和政権は魏の冊封を受ける。
274年神功渡海は、晋国の要請に応えたもの。
これ以降、永嘉の乱が終息するまで東夷軍の中枢として半島に存在する。
この時代に造られたのが、三角縁神獣鏡であり、仏像の影響を見ることが出来る。



867 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/22(土) 15:29:35
もん太氏はオマエよりずっと論がマシだ。ww

垂仁末ころは【鏡】の重大出来事は無〜い、。あるのは崇神の伊勢神宮の
成った崇神6年の条だ。これは畿内にうんと出土する景初3年【鏡】の
年代だから、崇神が模擬鏡の殿内奉安を行ったわけだ。オマエの垂仁末ころ
には【鏡】の奉安記事は無〜い。

であるから、景初3年【鏡】の銘文の年号から、景初の代がこの日神の
【鏡】に関わる伊勢神宮の成った崇神6年ころだと断定できる。垂仁末には
【鏡】は奉安された記述はなく、伊勢神宮はこの時代に成ったのではない。

ここから

 景初元年=237年=崇神元年

が判明し、天津神算木の計測は正確であることが確認できる。つまり
オマエの編年論は妖魔のなせる業の如くインチキであ〜る。

868 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/22(土) 15:53:53
>あるのは崇神の伊勢神宮の成った崇神6年の条だ。

いくら主張しても、崇神6年に「鏡」の文字は無い。
伊勢神宮で説明したければ、伊勢の地を得た垂仁時代だろう。

三角縁神獣鏡は、伝製品ではない。4世紀の古墳時代の製作であることが
仏像から推察される。

もん太君=ムー民との書き込みを見たことがある
ムー誌愛読の太国もムー民である。

もん太君の主張は面白いが、太国の主張はそれ以下なのは何故?


869 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/22(土) 17:58:34
崇神は天照大神宮の成立の関係で、神宮に祭祀の八咫鏡の模擬として同床
共殿と為し、模擬鏡を殿内に奉安したのだ。伊勢神宮の祭祀の最重要物は
三種の神器の中の日神の象徴たる八咫鏡だ。大神宮成立が崇神6年だから、
当然畿内からこの模擬鏡の二次的祭祀物たる景初3年鏡がうんと出るわけさ。

ということは、景初3年が崇神6年のあたりということは自明だ。
天津神算木もこれを支持しており、測定どおり

 景初元年=237年=崇神元年

は動かない。

日神が男神だとか、日神を舐めるのは止めたらどうだ。

870 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/22(土) 21:28:23
>>869
たまには思考することもあるんですね。
では何故239年を古墳時代に紀年したかの考察としては、内容が乏しすぎる。

昔は大物主と同床と云っていたが、さすがに男二人の同床はまずいと云うことで
鏡に鞍替えしただけでしょう。

八咫鏡の模擬として内向花紋鏡がある。
なぜ内向花紋鏡に景初3年銘を刻まなかったか?

この事実から「同床共殿と為し、模擬鏡を殿内に奉安した」などという作り話は
潰える。


871 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/22(土) 21:44:49
ちっとも作り話とはいえないね。

皇紀569年の崇神6年に天照大神宮が出来て、御霊代の鏡を祭祀せず空宮での
鏡のない空蝉でほおっとくわけがないでしょうがねぇ。ww

しっかり考えてくださいな。三社祭とかで神輿も出さずに祭をやって、
100年も経ってから神輿を出す町会がどこにあるんだね?ww

この崇神6年を三大神勅の2

 此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るごとくすべし

と紀にあるほど、鏡は重要なのだ。4年後伊勢神宮が成って、鏡を
祭祀せず、もぬけの空蝉でそのまま神時を次の20年後まで放置してるわけ
がないんだぜ。ならば

 崇神6年=景初3年の前年=238年

は自明になって来るぜ。ww 景行は直接無関係だな。

872 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/22(土) 21:50:32
>>871 訂正
× 崇神6年を三大神勅の2
○ 崇神6年に対して、三大神勅の2

× 神時
○ 神事

873 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/22(土) 22:04:33
崇神6年の伊勢と大物主は「生きた神」つまり人間なんだな。
凶作により、近江から崇神の元へ身を寄せた。

考古学は、近江伊勢遺跡の衰退と纒向遺跡の興隆を
同時代の出来事とする。


874 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/22(土) 22:10:26
>>873
考古はどうやって、オマエの全日数計算をしたのかね? 全日数計算を
してないのは、オマエは納得しないんではなかったかね。考古でそれが
可能となったのか?ww

875 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/22(土) 22:17:26
ホ33051 フタミヤを さらにつくらせ ムトセアキ ヲヲクニタマノ カミうつし 
ナツキソムカヨ アスのヨハ アマテルカミの ミヤうつし トヨノアカリの
イロもよし いざトモカミは くだります

だから崇神は二宮(神の住居)を新に造ってそちらに住んで戴く。
鏡なぞ何処にも登場しない。

この凶作と流離を1年以内の出来事としか認識出来ないから間違えるんだ。





876 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/22(土) 22:32:17
登場はしている。
皇室、朝廷で最重要事は即位等は別として、三種の神器だ。その中で
第一に重要なのが鏡だ。伊勢神宮が成立した崇神6年に、もぬけの空宮だけ
をこさえて、ノホホ〜ンと鏡も祭祀せず、ハイおしまいとはならない。

この年、確実に【鏡】が神宮の本殿に祭祀したことは疑う余地など
まるでないね。だからこの祭事で畿内人民が三社祭のような目出度い
大きな騒ぎとなったことは当然目に見えるようだ。

ということは 崇神6年 にて二次、三次的【鏡】がうんと祭祀されたと
観るべきである。だから 景初3年鏡の銘文のこの年号から、崇神6年が
景初年間に相当するのだと考えるのが、当然合理的行き着く先なのだ。
すなわち

 紀の崇神6年=景初2年=238年

となり、翌年が景初3年で【鏡】を祭祀した大神宮成立の翌年に相当し、
年代の一致が裏づけられている。景行にはそんな鏡の大々的祭事は見受け
られない。景初3年鏡はそういう類でこさえたものだ。

877 :ローガン:2010/05/22(土) 23:23:22
>>869
>伊勢神宮の祭祀の最重要物は 三種の神器の中の日神の象徴たる八咫鏡だ。大神宮成立が崇神6年だから、
> 当然畿内からこの模擬鏡の二次的祭祀物たる景初3年鏡がうんと出るわけさ。
あ〜もう、みんなスルーしているから、代わって書くけど、景初三年が二次的祭祀に纏わる年号と自覚して銘に入れられたなら、当時使っていたのは中国暦やん。
中国暦まで2倍とか3倍とか…もう滅茶苦茶やね。

878 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/23(日) 09:30:46
中国暦もいささか使ってたということは、それで言えますね。現今でも使う
所は西暦以外に皇紀を使用してるものがあるということですね。即ち今は西暦と
平成年号が使われてても、少し皇暦の使用もあるわけで、当時も鏡では大陸式で
銘文を入れてたということでしょう。当時は平成のような年号がなかったこと
からすると、利便のため景初年号等がそれに使われたということですね。

しかしだからと言って、n倍年暦が否定されるということにはならんでしょう。
貴方はメチャクチャとか言ってますが、それは言いすぎですよ。
もう貴方もそれがしの書きこみを見てるでしょうが、例えば紀での欠史八代の表
を眺めれば、どこも日数は1日〜14日までしかありません。これは当時に
2倍年暦を行使していたという文証ですよ。3倍のことは、神武の月数表を
取って下さい。ただし神武即位から崩御までの間です。この間は月が1月〜4月
までしか存在しません。このことは当時、1年が現今の4ヶ月だったということ
です。ということは、神武即位から崩御までの在位中は、神武と朝廷は3倍年暦
を行使していたのだということなんですよ。

879 :日本@名無史さん:2010/05/23(日) 10:01:55
記紀で一致する在位年数を年代にあえて当て嵌めてみると次のようになります。
伸長された日本書紀の年代を元に戻すには、いろいろあるのでしょうが、倍暦と
いう仮説はその一つの方法です。圧縮するのではなく、薄められたものを元に
戻すのです。どんな方法であれ、当然年干支は変わります。日干支が変わるのは
言うまでもありません。干支にこだわる必要はありません。干支はあとから付いてきます。
一様に倍暦という網をかぶせれば、古代天皇の長寿や長い在位年数は、そうではなくなってきます。
しかし、倍暦だけでは解決できません。天皇によっては、個別の上げ底年が
あるからです。
まず、年の枠組みを考えるのが先で、細かい部分はそれから検討すればいいと思います。

まあ、これも一つの仮説ですが。

仁徳元年、辛卯(391)年、正月朔-乙巳、2月朔-甲戌・・・
履中元年、甲戌(434)年、正月朔-乙未、2月朔-甲子・・・
反正元年、丁丑(437)年、正月朔-戊申、2月朔-丁丑・・・
允恭元年、己卯(439)年、正月朔-丙寅、2月朔-乙未・・・
安康元年、庚子(460)年、正月朔-甲子、2月朔-癸巳・・・
雄略元年、辛丑(461)年、正月朔-戊午、2月朔-戊子・・・
清寧元年、癸亥(483)年、正月朔-庚戌、2月朔-庚辰・・・
顕宗元年、丁卯(487)年、正月朔-丁亥、2月朔-丁巳・・・
仁賢元年、己巳(489)年、正月朔-乙巳、2月朔-乙亥・・・
武烈元年、己卯(499)年、正月朔-戊寅、2月朔-丁未・・・
継体元年、丁亥(507)年、正月朔-辛酉、2月朔-辛卯・・・


880 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/23(日) 10:25:16
>>879
上げ底などやりますと、発覚次第で当時の糾察官吏に逮捕されますから、
できませんね。しかし真摯にやむをえない過失的に、こうなんではないのか
という当時の文献をかき集めて伸張せざるを得なかったとかいうならば、
これは故意に史実を曲げてやろうとかの行為ではないですから、とりわけ
捕縛されるなどということはないでしょう。紀はそういう真にやむを得ず
ということから、神武即位をB.C.660年にしたということですな。

上表では顕宗在位が487〜488あるいは487〜489あたりの意味でしょうから、
これですと 永元元年=499年 に顕宗がこの世の人間になってない死後の
人物ですから、梁書の永元元年の日本から大陸へ渡った慧深という僧侶の
顕宗(乙祁=袁祁)の活動を話した内容と合わないので、不合理です。

499年ころ顕宗は生存してなければなりません。

881 :日本@名無史さん:2010/05/23(日) 11:01:57
499年は仁賢の終り頃ですね、扶桑国の乙祁は顕宗でしょうから、
僧の話はタイムラグを含んだ過去物語だったのでしょうか?
顕宗が亡くなった後仁賢が継いだが3年間なにもしなかった。
その後、僧は日本を離れた。大陸へ行くまでには相当の日数がかかるでしょう。
それにしても仏教伝来前に僧が来ていたのですね。


882 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/23(日) 11:23:31
何で通説499年に生存の武烈を差し置いて、二代前の顯宗の話しをせねば
ならないんですか? むしろ前年に武烈が即位してこの年を武烈元年
としたんだから、武烈即位の話しのほうを二代前の過去の先帝よりもっと
彼は言うでしょうがね。あなたの言い訳はかすかに成立するだろうが、
在位中の武烈をさしおいての顯宗の話では、甘い甘い考えだと思いますね。

883 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/23(日) 11:32:24
@ 慧深は10数年前の過去物語の顯宗の話をした
A 慧深の大陸へ行った時点では年代の整合がない

のいずれを採るべきか? 在位中の武烈の話をしないで、二代前の顯宗を
彼は説明していた。←おかしいと感じませんか? Aと観るべきですよ。
つまり貴方は、貴方の編年が合ってないと直視するのが安全ですがね。

884 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/23(日) 11:38:11
>中国暦もいささか使ってた ならば
朔にウソを付く n倍年暦が否定される 事は明白である。
だから、「崇神世は3倍年」などと云う狂った思考は否定される。
例えば、季節を無視しても、崇神5,6,7年を365日程度に圧縮出来ない。
この3年間は、正しく3年が必要な時空だ。


885 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/23(日) 11:45:44
>>884
別におかしくはな〜い。オマエと話出したころに、オマエに解説済み
だよ。日の干支は空転なのさ。何故そうなのか? これは倍暦の他
に並行して通常暦法での日数があったから、これに交錯しないため
に空転させたわけだ。何もおかしくはな〜い。オマエも二重暦とか
の言い方で、こういうのを肯定してるではないのか。ww

それよりオマエのこのごろ世話になりだした考古の日数干支を早く
説明しろ。オマエは日数の干支にこだわるんだから、考古と矛盾
がなく考古の朔を説明せねばならない。そっちのが先だろうが〜。

886 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/23(日) 11:50:26
>倍暦という仮説はその一つの方法です。

この方法は朔にウソを付かねば成立しない。
そして 暦の後付けと云うが、間違い7ヶ所を認めればリントク暦の平朔で
読める、とか云うのが精一杯である。

書紀の暦は、正しい太陰暦(4分暦の類)と空白の暦の2重になっている。
だからどんなにがんばっても一つの暦としては再現出来ない。
この時点で、倍年などの「暦の後付け」説は潰える。


887 :日本@名無史さん:2010/05/23(日) 12:40:41
在位年数を繋いでみたらこうなっただけです。

しかし、慧深が荊州で供述した499年は表では、仁賢崩御と武烈即位(称制)が
同じ年です。古事記にならって殆ど当年称言法をとってます。

489年に顕宗から仁賢になり、慧深はその後3年+α年扶桑国にいました。
493〜494年頃扶桑国出立です。
494〜495年頃大陸へ到着
4〜5年経過した499年に荊州で供述となります。
供述していた時点で、仁賢はまだ存命だったか既に武烈になっていたか不明です。
慧深にとってはなおさらで、まだ仁賢の世と思っていたかも知れません。



888 :日本@名無史さん:2010/05/23(日) 12:47:05
上げ底って天皇自らの命令で編纂者が書いているんじゃないの?
少なくとも崇神天皇が初代なのに神武天皇と欠史八代を捏造しているのではないか?とかさ
先祖が長いほうが皇室が王朝として中国に負けないぐらい長い伝統があることを自慢して外交カードにしたとかじゃないの?
一倍年暦のまま干支を追求するだけだと紀元前660年にもなりんだしさ

架空人物の聖徳太子を作り上げるとか、ほらふきの自慢の部分も多いじゃん。
編纂者が勝手に書いたのではなく、天皇自らの「少しほらふきで構わないから自慢しろ」という命令があったあんじゃないの?

889 :日本@名無史さん:2010/05/23(日) 13:19:10
倍暦がだめとおっしゃるなら、通常暦で繋いでみます。允恭は書紀の42年をとります。

仁徳元年、癸未(323)年、正月朔-己酉、2月朔-己卯・・・
履中元年、己酉(409)年、正月朔-庚寅、2月朔-庚申・・・
反正元年、甲寅(414)年、正月朔-辛酉、2月朔-庚寅・・・
允恭元年、己未(419)年、正月朔-壬辰、2月朔-辛酉・・・
安康元年、庚子(460)年、正月朔-甲子、2月朔-癸巳・・・
雄略元年、辛丑(461)年、正月朔-戊午、2月朔-戊子・・・
清寧元年、癸亥(483)年、正月朔-庚戌、2月朔-庚辰・・・
顕宗元年、丁卯(487)年、正月朔-丁亥、2月朔-丁巳・・・
仁賢元年、己巳(489)年、正月朔-乙巳、2月朔-乙亥・・・
武烈元年、己卯(499)年、正月朔-戊寅、2月朔-丁未・・・
継体元年、丁亥(507)年、正月朔-辛酉、2月朔-辛卯・・・

何しろ、古事記、日本書紀双方の主張ですから、これがだめなら、それは
別のアプローチになります。


890 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/23(日) 13:36:56
>>886
マシのほうが消えるんだよ。成務なんか4年どころか、二桁年代がいくら
でもある。オマエの編年はインチキだね。編年表を掲げるだけで、その
具体的説明なんぞいまだかつていたためしはない。なぜ応神元年が324年
なのかというこういう説明がただの一度も出来たことがない。出すと
インチキと分かり、目論んでいたホツマの権威が薄れてオマエの自説の
説明できないと〜内心オマエが抱いている本音が突かれるからな。www

紀の朔は後付けの計算だから、特殊の朔たる月食の記事が佛伝以前に
無いんだよ。観測ならば、当然うんと当時の月食記事が載る。つまり
後付けでないという論はこれで崩れるのだ。

891 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/23(日) 13:45:53
>>887
そういう小編年は合ってないとは否定はできない面はあるが、即興での
貴殿の考察だろうから、まだ確実性の足りない推論の域にあるわけで、
その推論の正であるべきウラを採らねばならない。

それにそういう先帝を言っていたというんなら、せいぜい仁賢くらいが
関の山と観たほうが安全だ。もう一代前まで遡った話とするには危険性が
高いと観る。4どうしてもそう思うなら、今後ウラ取りをされたい。即興
の場合はその場の繕いであって、一時しのぎの仮的論にしかならない。

ま〜ず失敗だと思いますよ。

892 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/23(日) 13:56:34
>>888
それは考えすぎだよ。もし古代中国に負けないくらい古くしたけりゃぁ、
神武即位を大陸の三皇五帝の世よりも古く、夏、殷よりも古くしなければ
むこうに勝てっこはない。これは、おかしい。それで君の主張は成立
できない。だから神武と欠史八代が捏造だという論は崩れてる。ということ
は、天皇が命令をしたなどとはとても言えない。それでもそういうことを
やったというなら、神武陵までも秦の始皇帝陵よりも2周くらいはドでかく
造陵してないのがおかしいことになる。つまり君の妄想だよ。
聖徳太子が架空の人物だという説が真であるならありうる可能性が出ること
は言えてくるが、これもそのとおりかどうか決めこめないだろう?


893 :日本@名無史さん:2010/05/23(日) 14:02:23
>>886
>間違い7ヶ所を認めれば

興味があります。どんなところでしょうか。


894 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/23(日) 14:31:57
>>890
だからね、私の数字は歴史を合わせる事を第1とする。
崇神6年=新羅193年
垂仁99年=景初3年=イクメ、都市牛利=田道間守
神功元年=275年 273年の日食を注入
神功52年=七支刀

これらの数字を太陰暦で得られるの、太陰暦で数字を得られれば、季節を違える必要が無い。
だから歴史の数字として議論するの。

対する太国倍年は、最初に使った書紀の干支を数字に直したとたんに否定する。
思考の最初に来る、暦の後付けを否定する。
出来上がったものは、金木算木で出した答えだけ。こんな代物は歴史に整合性を持たせられない。
ほしい記事がその数字上に無ければ、他から引っ張ってくる。
記事に霖雨と書かれていても噴火とする。
他人の読み方は厳しく非難するが、自身はそれ以上の読み替え書き換えをしても許す。

だから歴史の整合性が得られない事を自慢する。

その数字を使って歴史を考える事は否定しませんよ。

895 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/05/23(日) 14:42:43
>>893
横ですが、3か所じゃなかったかな?

小川は『日本書紀』の暦法を450年頃を境に以前を儀鳳暦、以後を元嘉暦と考えれば、3箇所の平月を閏月に直すだけで、
『日本書紀』の暦日が全て解明できることに気付き、1938年頃に論文「日本書紀の暦日について」の大略を書く。
だが、元嘉暦より儀鳳暦の方が後の暦法であり、これを明らかにすれば『日本書紀』に記された暦日が後世になって付けられたことが明確になることから、
当時の皇国史観と抵触する可能性があった為に天文台の平山教授などにより発表を断念させられた。
(ウィキ「小川清彦」)

内田正男氏の「日本暦日原典」は小川氏説を採用しています。

896 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/23(日) 15:36:52
>>894
合わせることは結構だが、合ってなければ虚構のインチキである。上程の
等式は殆どがインチキであり、合ってるように見せかけたくらましの
デタラメである。合ってるなら崇神6年の前に紀は船舶を始めて造ると
なるはずだがそれは崇神17年であり、全然合ってはいない。これではダメ
である。景初3年は年号であり、イクメという人間ではなく、また垂仁99年
が景初3年だというなら、オマエの論では確か翌年あたりの景行元年で
あるから、成務60年を61年として文句を言ってたオマエにしては自己
たるオマエに大甘であり、人のことを言う前にオマエこそ自分を正すべき
だろう。

また日食は数日間も継続することは現今と当時の地球上では起こりえず、
日のちらつきは日食でなくとも毎回起こっている現象であって、これでは
全然合ってるとは言えず。これらは不等式が正解である。

897 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/23(日) 15:47:13
>>895
私の復元結果は、どうしても暦日に揺らぎが出てしまう、ですかね。
ただし閏の間違いは無い。

圧縮の結果は、支那の暦と同じ暦とした場合、圧縮した700年を
19年7閏(6940日ただし4章で1日減ずる)に照らし合わせて、納得の行く数字になりました。
だから書紀の朔=支那の朔と同じ日を表す、として歴史あわせをしています。

倍数で書紀を圧縮すると、全ての朔を否定せねばならない。
一旦否定すると、全ての数字に根拠を失う。
根拠を失った数字は、再現出来ない。その良い例が太国倍年である。

だから太陰暦の19年7閏にこだわる。


898 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/23(日) 15:55:07
朔にて日数の空転があるため、おかしい所はない。むしろマシで60年とか
の干支の倍数になってないことがおかしい。これはマシがインチキだと
言うことを意味している。そうしないと、不正注入のマシをしたことが
バレるのだ。だからマシは存在せず、圧縮とかいう〜奴の盲造語である。

それに19年7閏を計算しても空白日がどこかにえらくあるから、途中にて
もう年数の計算は不正になり、労して功なしのクソの役のも立たない。

899 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/23(日) 16:21:54
>合わせることは結構だが、合ってなければ虚構のインチキである。
違うな
合っていなければ間違いである。とするべきである。

例えば、歴史と整合性のとれない太国倍年は、思考そのものが間違いである。とするだけですよ。

>日のちらつきは日食でなくとも毎回起こっている現象であって、
この思考が、あづないの罪でなければ、思考そのものが間違っている。

>崇神6年の前に紀は船舶を始めて造るとなるはずだがそれは崇神17年であり、全然合ってはいない。

これだけでは、新羅193年に書かれた、倭国大餓、流離。を否定できていない。
なにしろこの時の大王は近江に住む大物主であるからだ。
大物主が船を持っていなかった証拠が有ればまた考え直すこともやぶさかでない。

ところで「倍年」の記事は有りましたか?
文献がなければただの妄想でしょうね。


900 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/23(日) 16:51:26
流離は否定しなくいよ。
即ちオマエの論では 崇神17年 以後の193年を設定すれば、不合理
ではないんだぜぇ。ただしオマエの論のそこの部分に関しておかしくなく
なるわけで、総合、全体からはこの限りではない?

ところで「マシ」の記事が有りましたか?
文献がなければただの妄想でしょうね。

901 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/23(日) 17:11:30
>むしろマシで60年とかの干支の倍数になってないことがおかしい。

年の干支を60倍しても、日々の干支を60倍しても、
正しい季節と月は得られない。
これらが得られなければ、暦として成立しない。
いいか「正朔」と書かれた書物は、正朔を始めに考える。
正朔を捨てたら書紀の数字が得られない。この数字が得られなければ、思考に間違いが有る。
これ基本ね。

増しは浦島太郎の物語でウラがとれてる。


902 :日本@名無史さん:2010/05/23(日) 17:13:09
倭人伝にある「其俗不知正歳四節但計春耕秋收為年紀」は
どういう意味でしょうか。


903 :日本@名無史さん:2010/05/23(日) 17:20:50
>>888
天武朝が聖徳太子の存在を捏造して何の自慢になるの?

904 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/23(日) 17:47:52
60年≠60倍   www

早く考古の朔を説明しろ。

905 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/23(日) 17:56:26
>>902
これは、唐津辺りの海人の風俗描写の一部である。
漁師は今でも太陰暦(月齢)に合わせて漁をする。
間違っても正歳(24節季)で漁をする漁師はいない、ということです。

だから続きの文章に郡で開かれる市には、日にちを間違えずに登場する。
そして卑弥呼に図書、文書を送っても誤りが無い。
簡単に言えば、手紙を出したら、その返事が届く。これで誤りのないことが確認出来る。


906 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/23(日) 18:04:12
>日のちらつきは日食でなくとも毎回起こっている現象であって、
太国編年でその考えを使うことは容認出来るが、
この事象の起きたとき、近くの村の老人を呼んでこの事象を尋ねたところ
帰ってきた返事が「あづないの罪」だ。
つまり太国編年に登場する、神功ご一行様は、それすら知らなかったと。
脳天気も程ほどに。


907 :ローガン:2010/05/23(日) 18:28:17
>>895横の横失礼。
>小川は『日本書紀』の暦法を450年頃を境に以前を儀鳳暦、以後を元嘉暦と考えれば、3箇所の平月を閏月に直すだけで、 『日本書紀』の暦日が全て解明できる
これ、ウィキの書き方が拙いですね。儀鳳暦部分で7箇所あるんですよ。(元嘉暦部分でも7箇所あります)
考元4年3月 、崇神7年11月 、12年9月、垂仁23年10月、99年7月、応神2年3月、履中5年9月の7箇所が唐松山さん云う所の儀鳳暦と朔が合わない。
この中で 垂仁23年10月と履中5年9月に閏の字を補うと儀鳳暦に整合。
又、欽明31年4月に閏を補うと元嘉暦の朔と合う。以上3箇所が暦の間違いではなく、閏字の脱落だろうとされています。ウィキが書こうとしたのはこの事でしょう。
因みに儀鳳暦元嘉暦の境目を5世紀半ばとしてトータルで朔の誤りは14箇所有るようです。
そして、小川氏を支持した内田氏は「日本書紀には元嘉儀鳳両暦以外の暦法の名は見えず、又書紀編纂当時までに他の中国暦が日本人に修得された記録は皆無であり、可能性は極めて乏しい。」と。(日本書紀暦日原典)

908 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/23(日) 19:00:04
>トータルで朔の誤りは14箇所有るようです。
私も間違いの無い数を数えたわけでは無いので幾つとは云えないが、
一つの暦として読んだとき、月齢に揺らぎがあることはたしかです。

その時 暦を後付けとできるか?と問われれば、「無理だろう」としか答えられない。
そして全体としては伸長されているが、崇神五,六,七年はつごう3年の歳月が必要、など
後付けとしては、複雑すぎる。
だから当時の朝廷が自分の都合にあわせランダムに空白年を注入する。
方法としては、各天皇が十九年の倍数の加増を行う。大きく見れば太陰暦に狂いはない。
この時、古事記の干支と重ならない配慮もする。

暦と言っても十九年7閏6940日を運用するだけだから、日食も知らない状態です。


909 :日本@名無史さん:2010/05/23(日) 21:02:45
>この時、古事記の干支と重ならない配慮もする。

古事記の干支と重なると都合が悪いのでしょうか。


910 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/23(日) 21:46:25
書紀の干支は伸長されている。
対する古事記の干支は伸長されていない。

無秩序に使うと、重なる可能性がある。
そうなれば年数を数えるときに混濁してしまう。


911 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/23(日) 21:46:49
>>909
だから奴→>>908の言ってるそのこと自体おかしいわけさ。つまり奴は
恣意的に取捨してるいい加減なもののわけだよ。

どうして「朝廷が都合にあわせる」のかの動機なんぞ言えないわけ。それが
見つけられないから、いい加減なもの。動機なんぞないわけで、インチキ
だと信用してはいけないよ。

朝廷が都合にあわせるんではなく、「奴が都合にあわせたい」から、こんな
デタラメをさも真のように言ってるだけで、イカサマだよ。

912 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/23(日) 22:26:01
>>906
この地球上で日食は数日間も継続はしない。それを強行してるということ
はだ、まぁ大宇宙はバカ広いから電波星だとか猿の惑星とかがあって、
そういう天体では数日間も日食が続く所があるんだろう?wwwww

そういう電波星等からpipipi・・・と超強力な大電波の受信出来る奴が
その電波星等からのあちらの天文現象で日食が数日間も続くんですとかの
電信を受けているならば、まぁまぁ〜そういう論も可能やのなるんで
なかろうか。wwwww

913 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/24(月) 18:05:07
お〜い 太じい
毎回毎回同じ事しか書けないのか?

良いんだよ 太国編年では「日々を夜が別ける」を「あづないの罪」と云う。
しかも神功ご一行様は、その出来事にぶつかり、近くの村の老人に聞きただしたら
「あづないの罪」と教えてくれた。

太じいもこの老人くらい賢くなりな。

それから神功時代は120年の誤差である、とか言っていましたね。
この思考は、正しいですよ。
つまり、太国編年の如く圧縮したら間違いである。と認めた発言と受け止めましょう。


914 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/24(月) 18:15:17
圧縮なんぞは、オマエの盲象語ではないか。言ってない論を言ったように
言うな。><

ところで、オマエが大物主とかいう大物主神のニセものらしい者の宇宙船が
崇神6年に来たというオマエの脳内記録が〜電波の受信か?〜あるそうだが、それ
は本当か〜?ppp wwwwwww

915 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/24(月) 18:20:55
それとも、オマエの言うニセらしい大物主の宇宙船は「猿の惑星」から
でも、当時の崇神6年に畿内から半島へ千人も乗船させて腹が減ったと
でも連中は半島で主客店転倒の支配する猿とともにわめいてでも
いたのか〜?ww

大物主だとか言うから、このニセ悟空らしい猿王は、さぞかしレスラー
よりもデカイ体躯のキング・コング級だな〜?bbb

916 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/24(月) 18:36:42
而問大田田根子曰。汝其誰子。對曰。父曰大物主大神。

田田根子を朝廷に出仕させるためには、大物主の了解を得る。
近くに大物主は居る。

だから〜 鏡と同床した崇神の続きをお願いしますよ。


917 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/24(月) 18:39:49
どこに大物主の宇宙船の半島航行記録がるのか〜?
はやく説明しろよ。これもインチキか〜?

918 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/24(月) 19:25:51
やっぱ入院だわ。


919 :日本@名無史さん:2010/05/24(月) 20:27:46
>>903
日本書紀って天武天皇の時代に古事記と一緒に作られたのか?
ほとんどは元明天皇の時代だろ。

天武天皇(大海人皇子)にとっては壬申の乱は黒歴史で隠蔽するんじゃないの?
(甥の大友皇子と相続争いなんて黒歴史だろ)

せいぜい、大友皇子をわがままで天皇にふさわしくないと悪く書くかな、それを退治した自分が正義
秀次事件の秀吉が秀次を乱暴者(盲人を殺したとか)みたいにして、正当な切腹命令に仕立て上げたみたいにさ。

味方になった兵士は税金の租庸調を1年免除とかほうびを与え、大友皇子に味方して敵になった兵士は裏では処刑か増税などで処分してそう。

元明天皇の時代になってから、「こんな悲劇は繰り返してはならない」として壬申の乱を詳細に書いていそう。
だから最終の編纂命令を出して、初代の実物(古事記と日本書紀)を受け取っている元明天皇目線で考えないといけないと思う。

920 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/24(月) 21:13:42
>>918
オマエのことを、無コテの誰かさんが

 唐松山さん あんたは電○性が強いねえ

とか言われたのを忘れたのか? それだけひどいということだな。

921 :日本@名無史さん:2010/05/24(月) 21:50:40
>>919
そんなんじゃ説明つかないくらいたくさん殺してるからでしょ
そして当然、大海人は天智の弟なんかじゃない。
クーデターの挙句の捏造工作だよ、あれ以上の美化は無理

922 :日本@名無史さん:2010/05/25(火) 19:57:54
>>919
天武にしろ持統にしろ元明にしろ敏達ー押坂彦人大兄の系統であって、
>>888の言うように用明の息子の聖徳太子をでっちあげたところで、
何の自慢になるかわからんのだが。

923 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/25(火) 20:52:53
[1376] RE:古事記は歴史書ではない、歴史物語だ! Name:太国  NEW! 2010/05/25(火) 09:51
紀の日本武尊の条には年月日があるから、これは創作
ではない。

物事の本質として
日時があれば、歴史であるが、
日時がなければ、ただの昔話となる。

つまり 数字を持たない、太国編年は、ただの昔話のレベルであるから
日にちの代わりに、数字を連呼する。

まあこの数字を私が使えば、使った私は「そんなこと言った覚えはないぞ」と非難される。
数字の連呼はあるが、歴史話として使うことは禁止されている。


924 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/25(火) 21:49:39
オマエの話は意味不明で支離滅裂だ。何で別板のを2ちゃんで書かね
ばなたんのか? おかしな野郎がまたおかしくなるぞ??ppp

925 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/25(火) 22:27:48
>>924 訂正
× なたんのか?
○ ならんのか?

数字は天津金木で使用されている。これに違うオマエの編年は妖魔の業。

926 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/26(水) 19:13:35
太国:紀の日本武尊の条には年月日があるから、これは創作ではない。
>>925
太国:数字は天津金木で使用されている。これに違うオマエの編年は妖魔の業。

双方の言い分を比較すると
前者は、年月日があるから創作では無い。となれば
後者の使う編年に月日が無いから創作である。と主張している。


927 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/26(水) 21:12:55
相変わらず支離滅裂だな。意味不明の言葉をまたもや連発している。ww
一見何を言ってるのか見回すと分かると思って眺めてみると、おや?
なんだか訳がわからんぜ。オマエ精神科でオマエのお脳の診察が重大事の
様相だな。

だいたい大物主に譲位してもらってかつ開化からも天皇位をもらってると
なるとPuPuPu・・・人間独りに二つの皇位(王位)だと言いたいわけだ。

こんな大珍説はオマエの神功〜仁徳の三重在位と同様、もうオマエの脳内
に猿の惑星あたりからの電波の指令が駆け巡ってどこかで短絡ショートして
おかしくなっているようだな。wwwwwwwwwww

928 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/26(水) 22:33:26
>相変わらず支離滅裂だな。意味不明の言葉をまたもや連発している。ww
とは
>>9233>>925 の主張の違いのことか?


929 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/27(木) 21:31:07
日本武尊は景行28年春に九州から帰り、40年秋から関東へ出発

ホ39017 ときヤマトタケ をたけびて ニシむけマなく またヒガシ

28年春と40年秋の間が「マなく(間無く)」と書かれていれば
景行28年は景行40年である。
当然、年月日があるから、実在した人物である。



930 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/27(木) 21:53:46
方位のことを詠ってるのに、これまた恣意的に時間に鞍替え
するインチキ論だな。www 強いて言えば、間もなくということ
で、当日くらいの活動でそんなに時間がかからずにということで
あり、現今でも間もなくで28年が40年に行くか〜。www

現今でも間もなくと言っても、ちゃんとその間時間は経過している。
たとえば 間もなくが1分間のとき、途中の60秒がなくなるわけが
ない。ちゃんとその間、時間の数字は充填されてるわけで、28秒から
40秒にはとんでいないぞ。

こういうインチキ論を造る奴の脳内は、論理の組み立てに重大な
欠陥、過失があるんだな。みなに嘲笑されるのがオチ。pp

931 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/27(木) 22:00:36
それでも、崇神5,6,7年は、3年の歳月が必要である。
必要な時空は、削れないが、「間がない」と説明される部分は「間がない」時空にする。



932 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/27(木) 22:03:29
景行28年から景行40年を1年とする。

否定するなら、この間に起こった事を説明して否定するのが本筋だろうな。


933 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/27(木) 23:06:52
>>932>>75
オマエの言うことはインチキそのものだ。28年〜40年の間にもキチンと
年号がある。しかも前者は大きな宮だ。由緒正しい。
オマエのは言う諸正しくな〜い。ww

成務30年 須佐大宮 島根県 須佐家が国造を命じられる
成務38年 加富神社 四日市 火宮明神を奉斎する

934 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/27(木) 23:17:35
あ〜そうか〜? 景行だな。しかし

 40-28=12年

では60年とかになっていな〜い。干支の倍数でないからこれもインチキ。

景行は2倍年暦だから、正味6年じゃないか。これくらいはなくても問題
な〜い。

935 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/27(木) 23:30:18
本筋本筋だぜ。
インチキご苦労! ザマ〜見ろwwwwwwwwwwwwwwwwwww

先代旧事本紀大成経

(景行)36年8月

  物部大臣胆咋宿禰の子、五十琴姫を后と為し五十功彦命を生り

936 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/27(木) 23:33:57
これでマシなんぞデタラメなのがハッキリした。
マシはインチキなり。pp

937 :日本@名無史さん:2010/05/27(木) 23:48:43
狂信者が暴れてるな。
いい加減、神話を歴史と混同するのはやめろよ。

938 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/28(金) 14:14:59
>本筋だろうな←ppp
どうやら奴はホツマ研究で10数年なんだろうが、その間これと記紀以外を
調べず、自説のウラをとってなかったな。だからブレーキ無しの盲象に驀進
したわけよ。しいて言えば旧事紀は見てるか? まあこれくらいであとは
半島文献なのだろう?ww 28年〜40年の間の文があるんだから、奴の論
はまたもや崩れている。デタラメだということはよ〜く確認できたな。

マシはあるべからずあるべからず! つまりインチキだ。

939 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/28(金) 22:09:39
ホ38105 アフミヅキ クマソそむきて ミツギせず ヲシテさゝけて ミカリこふ
ハヅキモチより ミユキなる ナのヰカいたる スハウサバ

普通の読み方なら
7月に九州遠征を決定、8月の稲刈りを早めに済ませ
同15日に大和を立ち、9月5日に周芳娑麼に到着。
だから大和〜サバ間は、20日程で移動、となる。

もし月の後半が無ければ、5日程度で移動したことになる
であるならば、30日あれば、北九州から津軽まで移動できるであろう。
いや北海道が正解かも知れない。

この景行12年というのは
ホ38100 オウスミコ ミノにいたりて スガタみて ひそかにめしつ
とゝまりて カエコトなさす コトシソヒ タケはヤタなり キミとがめ ミヤコにいれず
景行元年生まれの大碓が「おいた」をした年でもある、6才では無いだろう。



940 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/28(金) 22:20:55
資料の一部が抜けたので掲載。
景行天皇十二年(壬午八二)七月◆十二年秋七月。熊襲反之不朝貢。
景行天皇十二年(壬午八二)八月己酉《十五》◆八月乙未朔己酉。幸筑紫。
景行天皇十二年(壬午八二)九月戊辰《五》◆九月甲子朔戊辰。到周芳娑麼。


941 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/28(金) 22:22:10
この間に起こったことがあるじゃぁないかねぇ。オマエの言うとおりの
ホ〜ラ ・・・本紀・・・という本筋だよ。

942 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/28(金) 22:34:58
大碓命が景行元年生まれなどと〜オマエ得意のデタラメだろうが。
お目出度くメチャクチャだな。pp

943 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/28(金) 22:48:27
どこかの誰かさんが良いことを言っていた。
年月日が書かれているから歴史だと。

その資料には月日がありますか?無ければ2級資料でしょ。

大碓が景行12年で11才は、私の創作資料ではありません、あしからず。


944 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/28(金) 22:50:35
本筋があったとなると、そろそろオマエもオマエの説に疑念を浮かべても
いいんでないのかねぇ〜。どうだい?wwwww

オマエの今夜は物静かでいつもの威勢が見られない意気消沈のようで旗色が
悪いのが、こちらにも感知できるがねぇ〜。wwwww

945 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/28(金) 22:56:53
大和から周防サバまで5日で移動出来る時代じゃあ無いだろ。

2級資料の大量使用は、自分の首をしめるぞ。
ちなみに大成経って見たことも無いから、批評できないんだ。



946 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/28(金) 22:57:35
>>943
よく分かりやすく、出所を書けよ。どうして景行元年生まれになるんだね
え? 他のスレ人にも具体的、容易に説明したらどうだい? じゃないと
デタラメのレッテルをつけられるってもんだぜ。www

逃げ口上を即興で公開して一時しのぎをやっても、まっ 本筋があるんじゃ
言い訳にもなるまいがねぇ〜。wwwww

947 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/28(金) 23:00:06
だから今度買ってでも読んでみなよ。分厚いから、関係年代だけでも
調べれば、妄想のブレーキになるんだぜ。

948 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/28(金) 23:02:54
ホツマなんぞ3級資料だ。首が絞まるのはオマエのほうなんだぜ。
景行36年という文が経に載ってるんだから、オマエの言い分は崩れるのさ。

949 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/28(金) 23:08:42
>本筋があったとなると
本筋って何ですか?
太陰暦で書かれ正朔の文字がある書物を、
太陰暦で読め、且つ歴史的出来事とも符合し、考古学とも相性が良い。

これが私の数字ですよ。

対する太国倍年は、年月日を特定できない、歴史的出来事とは符合しない、考古学との相性も悪い。
まあ「暦の後付け」を証明したら、検討しましょ。
それまでは、書紀以下の物語ですから、
訂正 太国倍年で歴史の話を聞いたことがないから、算木の練習問題ですかね。


950 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/28(金) 23:18:12
じゃぁ考古で年月日を特定しろよ。考古で年月日が特定できなけ
れば、オマエの言い分は自語相違だ。

いいかい、2〜3日前も、島根の遺跡でのブツが12万年前だとか
学者が抜かしていて今度は、7万年前の間違いだとか抜かしやがる。
これじゃぁ前面的に信頼を置くオマエのような奴は、用心が足り
ん。今日のヨミウリ夕刊でも、小6に10年前まで教えなかっ
た縄文時代を復活、挿入するなどと、クルクル変るのが考古という
クセモノだよ。それは重要な場合もあって参考になることもまま
あるが、インチキもオマエのように多いんだぞ。いい加減にしろい。

951 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/28(金) 23:27:56
天津金木でも年月日の重要個所は特定だよ。1/13 B.C.97年は実年代が
1/13 237年だとはっきり示されたいる。特定がインチキなのはオマエの
得意技だ。ww 今回のその典型が景行元年がどうのこうのとイカサマを
丸出しにしている。

景行28年〜40年間に起こったことの説明を本筋でしてるではないか。
先代旧事本紀大成経の景行36年8月に五十功彦命の誕生が記録されている。

これはオマエのマシが成立にないことを意味してるのだ。さらに>>75から
でも、成務4年で終わるわけがない。マシはイカサマの妄想だ。ww

952 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/28(金) 23:36:21
>>949
>本筋って何ですか?→>>932で本筋と言い始めた野郎がいるから、そいつ
              に聞け。bbb
>>951 訂正
× 成立にない
○ 成立しない

953 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/29(土) 00:06:36
考古などを自信ありそうに大きく出てるが、去年の千葉の博班の鑑定でも
オマエのは基準値がら50年も外れており、スレ人の中で最も的があさって
のほうであり、これで考古の威を借るキツネさながらの醜態をさらけ出し
ており、金印の常根津日子命の文字でも57年に整合せず、考古的にも
オマエの論は相性が悪い以上の考古と不仲であ〜る。であるから、インチキ
うっちゃりをここでも2回も繰り返し、やることはうっちゃりうっちゃり
の連続で、その場しのぎの即興を工作するほど考古と全然一致しない。ww

今夜も景行元年が誕生のオオウスだとオオウソppを連発しており、全く
年月日が合わず、3級以下のホツマの誤読をエベレストとよりも高く積み
上げている。さらには景行28年〜40年間に文証がないようなことを自信
満々言い放っていたが、景行36年の記事が経に存在してるのが確認でき、
これも今夜は旗色がわるく左前であり、えらくしょぼ〜んとしていて
インチキを平然とマルチしている。

こういうのおそらく、オマエの脳内が電波星人からの強力な大電波を
bibibiNNNNNNNNNNNNN・・・と受信しているらしいと想える。wwwww

zzzzzzzzzzz・・・・・・・・

954 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/29(土) 00:12:51
大体証明証明を言い出した奴はもう土俵一杯であとがなく、必死の唐松山の
血迷った形相が感ぜられるような場合で、持ち駒がないから証拠証拠の
文言でカアカアとわめき繕うゴミツツキの烏の大群のようなときであ〜る。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

955 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/29(土) 10:18:57
>>929 唐松山
>景行28年は景行40年である
>>932 唐松山
景行28年から景行40年を1年とする。否定するなら、この間に起こった事を
説明して、否定するのが本筋だろう

景行28年〜40年の間が先代旧事本紀大成経に 景行36年8月 五十功彦命の誕生
の記述があり、奴の言う本筋どおりに景行28年は景行40年にはならぬことを
ハッキリと確認できて、唐松山の論は全くのデタラメであることが了解される。

ここで奴は同経を偽書だとか言い出して葬ろうとする書きこみをやるかそれに準
じる抗弁で言い訳するだろうと予想していたが、案の定、後者のやり方で2級
だとか抜かして同経の信用度を落とそうとやっきになっているのが確認できる。

前者だとホツマも偽書だと言われるのがいやだから2級だとか言い出したわけ
だろうが、同経の整然と詳細記述とはうらはらに、ホツマのほうは五七調か、
歌なので文字制限が厳しく非常に同経に比べ少ないわけで、同経が2級だと言う
ならホツマは3級資料だと言われても当然だ。なお証拠証拠の語句を連発
し出せば、これは奴が追い詰められていて手負いの盲象獅子の必死にあることの
証拠であると言うべきであろう。www

956 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/29(土) 10:26:02
>だから今度買ってでも読んでみなよ。
何を買ってよっむんでスか?

>じゃぁ考古で年月日を特定しろよ。
考古学は、日にちを特定する学問ではないだろ、ただ文献の出来事を容認することは出来る。

今の考古学が、纒向遺跡は2世紀後半よりと云っている、
書紀の記事で纒向を見れば、崇神からとなる。
この二つを合わせる事はできる。

しかし文献で崇神が237年からとすれば、纒向の開発を他に求めねばならない、
となれば、文献は無い。

>大体証明証明を言い出した奴はもう土俵一杯であとがなく、
裏返せば、太国倍年に歴史の整合性は皆無と言いたいのね、認めますよ。
だって算木の練習問題ですもんね。


957 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/29(土) 10:44:12
>>956
だから先代旧事本紀大成経だよ。近くの図書館にこれがあるんなら、それはそれ
でもいいわけだよ。こんな質問とか言うオマエはかなりまいっていて、オマエの
脳内が鈍感になって来たようだな? プハハハッ wwwww

>日にちを特定する学問ではないだろ
紀年編年は年代を特定する学問化するべきものであり、日にちはオマエの猿の
オナニー同然の労して功なしの糞の役にも立たぬ糞以下のものだな。ww

考古がどうのこうの言ったって、3日くらい前の報道でも、島根遺跡で12万年を
インチキだと認めて7万年にスリ変えたり、先年冥王星を惑星から外したり、
昨日の報道だと小6に10年前教えることを止めていた縄文時代を復活教育するなど
と、考古のいい加減さは厳しく用心すべきものであって、こういうものを臥海の
威を借るキツネとするのがオマエのくさい狐臭のやり方であって、その恣意的
取捨はオマエのこすい手段の典型的手法だとして、厳しく牽制する。

整合性はこちらの顯宗499年即位での14年差の説明でもよ〜く出来ており、勘注
系図での成務の干支でも確実に合致しており、景行の代の21ヶ月妊娠でも2倍
年暦が合理的に説明できえている。マシは景行36年の記事からもオマエの妄想の
果てなるものであることが露呈しており、オマエのこの論は崩れる。www

958 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/29(土) 10:51:25
>天津金木でも年月日の重要個所は特定だよ。1/13 B.C.97年は実年代が
1/13 237年

崇神元年正月元旦 が西暦237年1月13日と読んで宜しいですか?
なにしろこれまでの主張は237年である、迄でしたから検証のしようがない。


959 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/29(土) 11:04:41
もう何回も言ってるよ。但し月日は年と較べて参考のほうだ。こちらは
 倉西さん もオマエに言ったことがあるように真の編年を目的とする。

年代の確定をするのが目的であって、月日はそれと同等あるいは上回
るものではない。勿論月日だけを研究してもわるくはないが、紀年編年を
研究してる者らは年の確定を主眼としてるのが当たり前だ。月日の研究
はそれに付随して看過できない面も一部にはあるが、古文献で年代が
正確に確認できれば、あったほうがなお可なるもとりわけ月日は不明でも
紀年の大勢は崩れないから、月日の特定は二次的今後の研究に待たれる事
で今は間に合うんだよ。即位が元旦とは限らんだろうが。

960 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/29(土) 11:09:18
検証だと〜?pppppwwwww
大きく出たな。オマエ検証検証などとえらそうなことを言ってはいるが、
自己の論の検証などしたことがないだろう? いつもアクサルを噴かすだけで、
ブレーキ、バック操作なととんとしたことがないのがオマエの論ではないか。ww

961 :日本@名無史さん:2010/05/29(土) 11:10:20
>>960 訂正
× アクサル
○ アクセル

962 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/29(土) 16:47:24
>こちらは 倉西さん もオマエに言ったことがあるように真の編年を目的とする。

太国さんが「真の編年を目的とする」んですか?
では教授しましょう、まず「倍年」の類はありません。
崇神5,6,7年を圧縮出来ない。
月の後半が無い太陰暦は存在しない。
景行が周防サバまで移動するのに要した時間は、20日ほど、決して5日では無い。


963 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/29(土) 17:04:12
圧縮とはオマエのインチキ語だ。そんあゴマ化し語で来たんでは、こちら
はオマエの得意のスリぬけだ〜。ww まだ目が覚めないのかねぇ?ww
景行36年8月があるんじゃぁ、オマエのマシなどの論は成立しない。おまけ
>>75からも、成務は4年間などとの主張はデタラメの極だということが
軽くうかがえる。今でもま〜だ遅くはない。マシ、圧縮などのインチキ
はとっとと遺棄して、振り出しから研究したほうがいいぞと忠告以上の
警告をする。もうデタラメをバラ撒くのはオマエの名誉と他人への迷惑の
ため、止めたほうがオマエと他人の身のためだぜ。

移動がどうのこうの言うなら、千人ものメシも満足に食えない農民がはる
ばる半島なんかに行きつけないのが分かるはずだ。それを強く強く強く
思い知んだな。wwwww

964 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/29(土) 17:56:12
妄想教授はそれがしに噛み付いて来て、手負いのキツネであ〜る。

>月の後半が無い太陰暦は存在しない
後半は日数干支の空転で、無であっても太陰暦に支障など無い。だから
通常暦と2倍年暦とは並行して存立できる。オマエもこのごろ二重暦など
と抜かし始めて、暦法の重複を認容している。ww

よって日の干支におかしい個所はないと観てよい。紀の朔などは後付けで
あり、また紀の神武以後の記事には冒頭に殆ど四季語がついているのは、
天皇が紀を見ることから、礼儀を重視させるため全部に近く四季をふっ
たのだと言える。紀にはそれの原書群が多数あったわけで、それらも
全部四季語がついてるわけがないから後付けだということだ。その証拠に
独り免許的文献のホツマには全部が全部に近く四季語はついていないはず
だ。原書群もホツマのようについてない部分が結構あることが、軽く
ホツマの四季語記載状況から読み取れる。つまり四季語は後付けであり、
朔も同様であってさらに紀の特殊な朔たる月食の記事が佛伝以前まるで
無いことから朔が後付けの計算からのものであり、観測ではないことが
読み取れる。つまり後付けだということだ。

965 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/29(土) 18:02:03
>景行36年8月があるんじゃぁ、
残念ながら私の使用している日本書紀には記載されていない。

>移動がどうのこうの言うなら、
大和〜サバ間を5日で移動するより、新羅本紀に書かれた千余人の移動の方が信じられる。
ところで『農民がはるばる半島なんかに』この農民の出所は何処ですか?


966 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/29(土) 18:11:41
だからオマエは古代史の研究にあたってアクセルばかりふかしての前進
ばかりして、危険回避のブレーキ、バック操作など殆ど無視しており、
さらには左右障害物確認(先代旧事本紀大成経、神皇紀、ウエツフミ等の
古史古伝、他の諸資料、神社仏閣の由緒伝承など)をも履行せず、ホツマの
直進くらいで前方しか見ないで危険だとの警告、信号、標識を無視して
ばかりいる暴走の「古代史論的交通違反」の暴走常習者ではないか。ww

だからインチキの果てに至るのだ。

967 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/29(土) 18:16:22
出所はオマエだよ。オマエの脳内ではないか。ppppp
よく本筋は何ですかなどと、オマエの言動をこちらが言ってること
にスゲかえており、このごろオマエの得意技となって来たな。

968 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/29(土) 18:47:00
農民が渡海したとは言っていない。

正しくは、百姓流離。と新羅の千余人の渡来は関係がある。ここまでだな
つまり日本国で凶作がおき、大和では百姓流離が起き、
日本海側では、漁師や百姓等が渡海した。
だから渡海の主体が大和の百姓である必要は無い。

大和の百姓流離と新羅千余人の渡来は同等の記事である。←崇神6年
前年は、大和で凶作が記録され、新羅では季節外れの大雪が観測される。←崇神5年
翌年にやっと実りが得られる。←崇神7年

3年を1年の出来事としては整合性が得られない。
1年を120日程度によじ曲げて読む太国は他人の記事もよじ曲げて理解するということね。





969 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/29(土) 19:09:19
もし凶作で流離した民の流入先が都会であるならば、
流入先は、近江、河内や北九州であろう。しかしそこにも食料は無い。
この時(新羅193年)発生したのが、近江伊勢の衰退の始まりである。
九州の情勢が不安定になったのもこの時期ではないか?
いずれにせよ支那の情勢はこれ以前から不安定になっている。


970 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/29(土) 21:36:16
>>968
畿内の渡海でないという百姓流離と日本海側の百姓が渡海したということ
が同年だという根拠はない。前者が渡海でないとして流離だと頑張って
みても、前者の渡海を否定した流離のみとするなら、紀の崇神6年に渡海と
は無いのだから日本海側の百姓の渡海は流離のみの紀の崇神6年の記事には
オマエが否定の渡海は含まれるとは言えない。オマエ自ら渡海は含まれない
と認めてるんだから、そこの記事に「渡海」と無い以上後者のは崇神6年
とは言えない。両者は全然別ものの、別時代の事件だということだ。

これを強引にくっつけるのが電波星あたりと日本との交信くっつけを
してるのと似たようなもので、そんな☆からの交信は、こちらは受付け
な〜い。ww 古今世界各地でn倍年暦は行使されており、とりわけ古代
マヤはm重暦的並行暦法の宝庫であって、当時の日本でも2倍年暦等の
行使は、紀の欠史八代の1日〜14日間の範囲内にしか記述が見当たらない事
からして、さらに景行の21ヶ月妊娠のホツマ記事から文字通りに歴然と
している。マシは世界各地を見回しても行われた形跡はなく、成務の代
など>>75からも4年で終わりでないことが明確であり、今回の極めつけは
景行28年が景行40年であるとかいうインチキが、経の 景行36年8月 の
五十功彦命の誕生記事からも完全に否定される。つまりオマエの論が
全滅に近いデタラメの妄想だということであ〜る。

971 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/30(日) 19:39:39
根拠は、新羅の季節外れの大雪がもたらす影響だ。
冷夏による凶作は、台風被害と違いさらに大きな地域に被害をもたらす。

いいんだよ何処で倍暦が使われていようと、日本の歴史に年月日をつければ。
処が、太国編年には、この月日が欠けている。
だから昔話「大晦日を三日後に控えた雪の降る寒い晩じゃった…」こんな昔話も語れないのが
太国倍年なんだ。
だから自分でもその数字(237崇神元年など)を使った思考が出来ていない。

太国編年上でなら、大和から周防サバまで5日で移動できる、と主張してもいいんですよ。


972 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/30(日) 21:19:09
237年(=崇神元年=景初元年)を使った思考はできている。当時の皇室
での(即位等以外の)最重要事は 伊勢神宮成立=崇神6年=238年)で
あ〜る。ここでの日神の象徴の鏡を最重視したことから、天皇以下朝廷と
その取り巻きに鏡が二次的に重視され、ここから畿内に翌年=239年の銘文
の景初3年鏡がうんと出土するのであ〜る。ピタリだな。これは天津神算木
の測定と合致し、崇神元年=237年 を神算木は示している。天津神算木に
違えた編年はイカサマなんだよ。ww

オマエのは船舶のない時代に千人も半島にメシも食えずに渡海したなどと、
崇神17年の船舶初めて製造した年より前のインチキたる崇神6年だとか
デタラメを撒き散らしている。これでは日神の怒りに触れるかも知れんぞ。

それに景初28年が景初40年だとか大妄想を言い放ち、この間の記録が全然
ないようなえらそうな自信過剰の本筋だとかと言って大きく出ていたが、

 景行36年8月 五十功彦命 誕生

の先代旧事本紀大成経の明文は、オマエのひどい大妄想と嘲笑させるべき
文言であり、同経の編者のこの文言を残した功績は大きく、デタラメ マシ
とかいうインチキから堅牢に真を防御する大盾たる文証となる。

973 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/30(日) 21:37:53
有史八代

 『白河本旧事紀』の「天皇本紀」のうち綏靖天皇から開化天皇までの八代の読み下し文
より考昭の段 抜粋
是(これ)に於て、天皇、三輪(ノ)大社(おほやしろ) を建立(こんりう)し、又た内殿に於て、天照大神(あまてらすおほんがみ)と同く大物主(ノ)大神を祭りたまふ。

なにが、伊勢神宮成立=崇神6年=238年)であ〜る。だ


974 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/30(日) 21:46:26
だから崇神紀には同床共殿があるのだ。三輪の社より伊勢神宮のが重要
なんだよ。伊勢神宮は倭の笠縫の地のほうなんだぜ。ww

975 :日本@名無史さん:2010/05/30(日) 21:57:18
コテハン二人の妄想でスレが埋め尽くされて、
他の人間が誰も寄りつかないという惨状を呈してるな。

976 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/30(日) 22:33:05
>>975
妄想だと言うならオマエが根拠、資料等を詳細に示して編年してから
そういう口をたたくんだな。

977 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/30(日) 22:52:34
>>973
船舶がない時代にしたいオマエのでは、大物主のUFO宇宙船が空腹百姓を
千人も、とたんい半島へ飛ばしたと言いたいわけなんだな。ppppp

978 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 21:31:09
神話、説話と史実の区別もつかないタワケ者が、
デタラメな数字をならべて、俺流の編年を作って悦に入ってるのは、
端から見ていて滑稽千万。

虚構の数字を自己流にいじくりまわしても、それは砂上の楼閣にすぎない。

979 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/31(月) 22:31:22
ほお〜
崇神6年頃、倭国にはまだ舟が無い時代だと。
その6年後には、大きな箸墓を筑る。

980 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/31(月) 22:41:31
船はないさ。紀に崇神6年より後の 崇神17年に始めて船舶を造る と
記述がある。このようにはこちらいつも歴史は語っている。

981 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/31(月) 23:03:49
それは崇神の持ち船だろ。
崇神の名を使わずとも
纒向が開発された頃、凶作で新羅に渡る。
なら許されるのか?
崇神を箸墓(モモソ媛)に設定したら、纒向遺跡の開発者は誰になる?
卑弥呼でも良いんだろ。

まあ噛み付くなら新羅本紀に噛み付いてくれ。


982 :日本@名無史さん:2010/05/31(月) 23:17:15



韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ。
趙現鐘・国立済州博物館長と佐藤洋一郎・静岡大学助教授が
大阪府和泉市のシンポジウムで発表。[共同通信]
http://www.tt.rim.or.jp/~shr/nl/2001xc.html
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ




983 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/05/31(月) 23:20:38
天皇が乗れない時代に、百姓が千人も航海経験のないのに、日本海
の荒波をこんなに多人数が渡海なんかできっこな〜い。百姓が
金もないのに船など持ってることこそ奇跡だぞ。

倭人と言っても、新羅本紀のその千人というのは、当時畿内の外国
たる北九州か対馬等の農民でかつ漁師と仲がよかったから半島に
渡れたんだよ。だから外国たる北九州は船があったことは確かだ。

神武だって畿内へ来るに船を使ったはずだ。しかしこういう北九州
とか対馬等の百姓の記事は畿内から遠方にして当時外国だったから、
そんなことを紀に記載などしない。ただ例外として外国と重要な遣使
とか戦争等のことか天皇の九州行幸などは、これは載せるぜ。

オマエがそれにもかかわらず千人の農民の記事を紀は落とさず書く
と年代とともに言い張るなら、当然船があったんだから〜崇神5,6年
にすでに船舶はあったから、崇神17年の記述を始めてとは紀に
載せないはずだ。

984 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 07:35:06
崇神17年とか、虚構の数字の記事を論拠に何を言ってるのやら。

アホか。

985 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/01(火) 09:45:02
オマエも脳内が津田にやられているらしいな。崇神の代にはキチンと月日まで
書かれている記事が多い。これは虚構ではない。虚構ならば、舎人親王らは
公文書偽造同行使で某党議員が帳簿虚偽記載でパクられたように、身分が失脚に
至る。大した利害もないのに当時も政敵はいたわけで、そいつらに垂れこまれて
身の上の危機は目前となる。オマエはおそらく、果たしてこれは真か虚偽かのか
の検証など全然していまい。これはオマエの若年時、オマエを教育した側から
左党をたらふく舐めさせられて津田のインチキ古代史の延長をオマエの脳内に
入れられたから、とたんに虚偽だと軽率な断定を先入観からやってしまう脳内と
成り下がっている。ちっとはオマエの脳内検査をしたほうがいい。それは当時は
迷信が多かったから、崇神紀には伝説神話的内容もあるにはあるが、だからと
いって、全部が架空の創作だとは言えない。オマエの脳内は象牙の塔直下から
伝播した教育機関の連中が臥海(=学会)洗脳されて、その臥海カルトの脳に
されたのが、他でもない〜オマエなわけさ。ww

そろそろオマエは塔直下からのインチキ教育で騙されたんだと気付いたほうが
いい。虚偽教育こそあいつらの仕業なんだよ。

それでも紀が架空の虚偽だというなら、その論拠を具体的に掲げてどこに舎人親王
とその取り巻きがこれで獄門等になったのか、その古文書でも持って来るん
だな。

986 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 20:43:32
書紀に年月日が書いてあるからって、そらが事実だった保証はどこにもない。
それを無批判に信用するなんて、カルトとしか言いようがない。

ミマキイリヒコは実在性の高い三輪の王者(大王とすら言えない)ではあるが、
日本書紀に書いてある年代は後世の述作による虚構の数字にすぎない。

987 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/01(火) 20:58:42
保証がないと大きく出ても虚構という証拠もな〜い。こんな年月日を
捏造する動機がまずない。虚構の数字にすぎないならば、キチンと資料、
根拠を具体的に示してから言うんだな。オマエのやり方なら、崇神が
実在性の高いと頑張っても、オマエ自身の言い回しで否定できることに
なるから、オマエの口ぶりは自語相違的であることになる。つまりオマエ
自身の都合により実在性が高いか虚構だとかを恣意的選択して言ってるに
すぎない。虚構ならば、某党議員の帳簿虚構記載のごとく、舎人親王らは
当時の政敵に弱点を掴まれて当時の糾察官憲に垂れこまれ、身の上は風前
の灯となるから、年月日くらいでそんな危ない橋を渡る必要などあるまい。

988 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/01(火) 21:11:09
書紀の暦が後付けなら、
不在の天皇が注入されても見分けが付かない。←暦後付け論
暦が最初から有れば、不在の天皇のぶんだけ、空白か他の天皇で埋められる。

現実は、後者であり、前者では無い。


989 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/01(火) 21:19:53
オマエのホツマのどこに記紀にない天皇の記事があるのか?

こんなのは論理にもならない。こんなことを言わないと、オマエの
論が息をつなげないというわけだ。pp オマエもこのごろ意味不明
の反論が多くなっており、支離滅裂だからこんなクソ同然の文句を
言っている。まるでミソが発明された以前からクソが存在して
おり、後付けのミソはクソと見分けがつかないなどと言ってるよう
なもので、これこそミソとクソとを一緒にしようという尻滅裂の
論調であ〜る。唐松山の脳ミソが脳クソと見分けがつかないとこやつ
が言い張っているぞゥ。BuBuBu・・・クククク・・・wwwww

990 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/01(火) 21:51:16
ホツマは261年景行崩御までしかない。
その後の天皇の話だ。
神功〜仁徳や允恭に不審がある。

単純に治世を短くするしか能のない太国編年には登場しないから安心しな。


991 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/01(火) 21:57:17
例えば
履中から雄略までの間に百済王朝が登場しない。
これは、百済が(400年頃)高句麗に大敗し、高句麗の属国であった時代である。
この時代は、百済と倭国の間に通好は無い。
この時代が「倭の5王」の時代であり、百済と通好が再開されれば、倭は、支那に朝貢しない時代になる。


992 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/01(火) 21:57:43
ホツマのどこに261年と記載があるのか?ww
そんなことは書かれておるまいが。土台インチキだからな。何が景行28年
が景行40年だ〜。景行36年8月があって、オマエのマシがデタラメだとは
明解だぜ。

993 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/01(火) 22:23:43
>ホツマのどこに261年と記載があるのか?ww
これはかんたんだろ。
太陰暦のまま年数を圧縮するだけだから
崇神5年=新羅192年、これを容認すれば↓が得られる。
垂仁99年=239年=景初3年を容認すれば↑が得られる。
これを正とすれば、
景行末年=261年であり
神功元年=275年が、太陰暦の数字として得られる。

一つを潰しても太陰暦は生き残る。
だから、人気のない太国3倍年を容認させるためには、3年が1年間の出来事で読めるところを
大いに書き込み、太陰暦より整合性が得られると、宣伝する必要がある。


994 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/06/01(火) 22:30:30
容認は出来な〜い。崇神5年には船がないのに百姓は千人もメシも
喰えずに渡海は出来な〜い。強いて容認するののは電波星人だ。ww
そいつの天体にある電送人間機でその強力な大電波により半島へ
人間を直送電送できるという大電波の受信を受けられる能力
ある人物ならば、そういうことはかんたんだと平気で言ってのける。
ppppppwwwwwwww

995 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 22:40:21
次スレ

義務教育で『古事記』『日本書紀』を学ぶべきだ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1207340005/


996 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/01(火) 22:40:26
ほんと太国はバカだ
崇神5年が192年なら、景行末が261年を得ることが出来る。

崇神元年が237年でも、崇神末年が「259己卯  崇神崩御」を得ることは出来ない
崇神治世68年・3≠259−237

だから歴史は算木に頼っても得るものは、何もない。


997 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 22:41:23
996

998 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 22:42:18
次スレ

義務教育で『古事記』『日本書紀』を学ぶべきだ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1207340005/


999 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 22:43:59
999

1000 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/01(火) 22:45:48
崇神6年に、崇神が鏡と同床した。
これでは太国3倍年を説明したことにならない。
普通崇神6年とあれば。春夏秋冬のある1年を想像する。
しかし太国3倍年は、3年分の記事で1年とする。
当然5年前後の記事と整合性がとれなければならない。

鏡と同床だけなら、通常年でも主張は通用する。
崇神天皇四年十月壬午《廿三》何當聿遵皇祖之跡。永保無窮之祚。其羣卿百僚。竭爾忠貞。共安天下。不亦可乎。
崇神天皇五年 國内多疾疫。民有死亡者。且大半矣。
崇神天皇六年 百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之

崇神4、5、6年で1年間であるならば、鏡と同床する前の出来事を説明せねば、片手落ちである。
4年10月23日から、6年前半の出来事が、6年秋の鏡と同床となる。
23日という日にちを含んだ3倍年の説明が出来なければならない。

解るだろ、崇神6年の出来事を分析しても、それが太国3倍年の上で主張しなければ
太国3倍年が容認されたことにならないのだ〜。

ここが1年の長さは1年でよい、とする私との大きな違いなんだ。


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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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