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スレ立る前、レス付る前に質問を for 邪馬台国版

1 :初心者必須:2009/12/30(水) 18:20:44

自分の好みに合ったスレッドが無い・・・・
こんなこと書いたら笑われるかも・・・・

初心者の方はここでまず質問してください。
ベテランユーザの皆様は親切丁寧に答えてあげてください。

乱立する邪馬台国関連スレッドに戸惑う初心者皆さまが
快適に古代史議論にかかわれるようベテランユーザーがサポートします。

講師陣の紹介

改め先生 (神社仏閣に詳しい、「メ」、「神奈川県民」、愛称「ドツボ」等もこの先生の別称です)
ローガン先生 (畿内説の重鎮、老眼鏡使用者、文献、考古ともに守備範囲)
河童虫◆EY2wfgakAQ先生 (邪馬台系スレの人気bP、「言意学」の研究から魏志倭人伝を解釈する)
太国 ◆yVAs7uaYlY先生 (倍暦、古神道学の権威、邪馬台国関係は意外と詳しくないw)
唐松山先生 (秀真伝.の研究者、ここでは太国先生との激論が有名)
サガミハラハラ先生 (元教師、邪馬台国小城甘木説の論者、自費出版した著書多数)
縦目仮面先生 (考古学専攻の現役学生、名無しで登場することも多い)
美濃もん太先生 (月に一度くらい降臨する、出現すると強烈なオーラを発揮しますので初心者はちょっと注意を)

その他講師多数が初心者の皆さまをお待ちしています。

2 :関連スレッド:2009/12/30(水) 18:28:27
♪邪馬台国 ドンと来い♪ 63 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1260587493/

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!43 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1261187832/

邪馬台国の特徴は? http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1214363992/

魏志倭人伝等を読む『New2』 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1249819708/


邪馬台国はどこだ・小城甘木説 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1207913538/

【卑弥呼】倭迹迹日百襲媛命【邪馬台国女王】 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1239621756/

【魏志倭人伝】狗奴国を比定してみよう【邪馬台国】 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1258394496/

♪九州説 ドンと来い♪1 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1258876085/

「投馬国」や「邪馬台国」見つけたかもしれない! http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1251901850/

魏志倭人を読む  ???その2 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1191324251/

美濃もん太の、歴史を大いに語る http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1254389691/

3 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 18:30:55
筆頭講師はドツボかw

4 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 18:40:08
>>2

こんなにヤマタイスレってあんのかwwww

5 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 18:47:22
講師の方々に質問です。

邪馬台国の所在地には畿内説とか九州説とかがあるそうですね。
畿内とは大和のことだと思いますが、九州説の場合、九州全体が邪馬台国のことだと解釈しているのですか?
それとも大宰府みたいなところが「九州」を代表しているのでしょうか?

6 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 18:55:32
>>5

簡単な質問だけど俺は講師に指名されてないので答えられないな。



7 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 19:21:26
オレが答えてやる。
倭人伝で女王国と記される邪馬台国は北部九州にあった、
大きさは福岡県、佐賀県は含む、周辺の県も含むかもしれん。
卑弥呼の居た邪馬台国の都は伊都国が
邪馬台国の中心都市は奴国だ。

8 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 19:21:48
>>6

>簡単な質問だけど俺は講師に指名されてないので答えられないな。

そんなことありません。

「その他講師多数が初心者の皆さまをお待ちしています。」
と書いてありますよ

9 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 19:30:38
質問です。
@講師の「改め」さんと「河童虫」さんでは、どちらが人気があるのですか?
A古代史関連の知識が豊富なのはどちらですか?

10 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 19:44:50
>>5
>名前:美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI [] 投稿日:2009/12/01(火) 22:58:46

>ちなみにさ、単に倭(ヤマト)の邪馬壹地域を治めてた女王が、倭(ヤマト)の中国(なかつくに)である京都の朝廷に丹(水銀、昔は金は丹から作ってた)を献上したってだけの話なんだよ?
  もっと具体的に言えば倭(ヤマト)の中国(なかつくに)を治めてた倭の朝廷は、初めは古志(今の北陸地方)国の王から丹を献上させる予定だったけど、古志国の王が「やっぱ嫌だ」って
なったから、新羅を治めてたナガタラシ姫がわざわざ京都まで献上たんだよ
  卑弥呼の呼び名てか記述の仕方は書物や地域によっても色々だけど、ナガタラシ姫、新羅の善光女王、持統天皇、神功皇后、、それぞれの話を比べてみ?
  てか日本書記とか読んで無いでしょ?
  ナガタラシ姫の話の所に「魏書では卑弥呼の名で書かれ」って書いてある事とか知らないの?

11 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/12/30(水) 19:52:50
>>1
乙、おれの名前が一番、上にあるのでおk(単純w)

>>5
>邪馬台国の所在地には畿内説とか九州説とかがあるそうですね。
>畿内とは大和のことだと思いますが、九州説の場合、九州全体が邪馬台国のことだと解釈しているのですか?
>それとも大宰府みたいなところが「九州」を代表しているのでしょうか?

「狗邪韓國」は半島の一部、「對馬國」は対馬、「一大國」は壱岐、「末盧國」は唐津、
ここで九州へ上陸し、「伊都國」は前原市、そして「奴國」は博多、(問題はここからですけど...)
ここまでは畿内・九州説のどちらも一致しています。
学者さんの本をみても、ほとんど「確定」という見方です。

ですから、九州全体が邪馬台国というのは考えられません。
まあ、九州説で大宰府を邪馬台国と考えてる人は多いけどね。
こんな感じでいいかな?おれはおしまい〜続きは他の人で・・・

12 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 20:02:28
>>9
>質問です。
@講師の「改め」さんと「河童虫」さんでは、どちらが人気があるのですか?
A古代史関連の知識が豊富なのはどちらですか?

マジレスすれば
古代史と括りを設ければ改めドツボに軍配だろうが、歴史全般となれば河童に軍配と俺は思う。

13 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/30(水) 20:06:24
はい 此方ですよ。
倭人伝登場人物
倭女王=大乱の国に立てられた女王 神橿日姫か?
難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫 倭女王の部下
都市牛利=タジマモリ =田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁
倭王←タリヒコ =景行
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
狗奴國=狗古智卑狗?
イヨ=五百野姫←伊勢神宮より筑紫へ下向
ついでに書紀より
倭女王卑弥呼=巾3尺の石
男王=筑紫の大木
官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、
伊支馬=イクメ=垂仁
彌馬升=ヤマシロ=タタネコ
 ホ37048 ミワのタタネコ ヤマシロが 
彌馬獲支 不明


14 :5:2009/12/30(水) 20:15:51
>>7

> 倭人伝で女王国と記される邪馬台国は北部九州にあった、
> 大きさは福岡県、佐賀県は含む、周辺の県も含むかもしれん。
> 卑弥呼の居た邪馬台国の都は伊都国が
> 邪馬台国の中心都市は奴国だ。

早速の御指導ありがとうございます。
先生の邪馬台国は北部九州であって九州全体では無いのですね。
良くわかりました。

ただ、私の質問に副ってお答えいただくなら「なぜ北九州説とは呼ばれないか」と言うコメントが欲しかったです。
あと、回答に自信があるなら仮コテを付けてくれるとよかった。

15 :5:2009/12/30(水) 20:30:00
>>11

> 「狗邪韓國」は半島の一部、「對馬國」は対馬、「一大國」は壱岐、「末盧國」は唐津、
> ここで九州へ上陸し、「伊都國」は前原市、そして「奴國」は博多、(問題はここからですけど...)
> ここまでは畿内・九州説のどちらも一致しています。
> 学者さんの本をみても、ほとんど「確定」という見方です。
>
> ですから、九州全体が邪馬台国というのは考えられません。
> まあ、九州説で大宰府を邪馬台国と考えてる人は多いけどね。
> こんな感じでいいかな?おれはおしまい〜続きは他の人で・・・

御説明ありがとうございます。
じゃ何で「九州説」って言うのかという疑問はそのままです。
もしかして、「九州説」と言うのは畿内説の立場から見た呼称なんですかね。

16 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/30(水) 20:34:25
 239年 景初3年 卑弥呼は魏に遣使 この一団に垂仁の使者田島守が次使として参加。
タジマモリが帰国した翌年には、天皇イクメは、墓の中
 失望したタジマモリは、殉職 持ち帰った土産(カグ四棹、カコ四棹)此の土産の入った
壺一つと共に半島式の造りの墓に祀られる(垂仁墓?の一郭)=ホケノ山古墳。
田道間守は、5月に出発、翌3月帰着、約10ヶ月の旅。
 この時 魏の使者も大和を訪れていました、使者の帰国と共に、天皇の交代を伝えるための使者と共に
又洛陽へ行くが、此方でも代替わりがあり、朝遣する事は適わず帰国。
 243 正始四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人
倭王タラシヒコは、世代交代の上奏に伊聲耆掖邪狗=イワカを送る。
 この朝貢で景行は、「倭王」の称号を与えられ、大倭国統一を約束させられる、その為に魏国より
治世方法や戦を学ぶ。
245 正始六年 難升米は郡まで出張、黄幢假授を受ける。
247? 景行12年8月景行は九州遠征に出発、大和より周防サバまで20日で移動。
248 正始八年郡の使いが卑弥呼に合いに来たがすでに卑弥呼は、塚に埋葬されていた、合掌。
筑紫で男王が立つが、此方も間もなく死亡。景行18年の死亡。
景行20年 伊勢に居た五百野姫を卑弥呼の宗女として、筑紫に軍隊付きで送り出す。
 景行25年 武内を関東、東北の巡察に出す。
 景行27年には、関東平定を決定、その時九州でも熊襲が翻ったので、コウスの派遣を決定。
景行27年は景行治世16年目か?。天皇家の「しのぎ」を種貸しから屯倉経営に改める。
名前で「イクメ」は、通称。対する「イワカ、タリヒコ」は諱。中華の皇帝より叙勲を受けるのに
さすが通称ではまずいと思った天皇は、諱で上奏する。

景行=大帯日子淤斯呂和気=大足彦忍代別=ヤマト オシロワケ イムナタリヒコ
倭国大王タラシヒコの初め。


17 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 20:36:00
>>15
九州説は比定地が乱立しているので、正式には「九州山門説」「九州甘木説」などと言うのでしょう。
http://inoues.net/waj.html

18 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 20:38:28
>>15

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1214363992/l50

このスレの780-785 が参考になるかもしれない。
これは河童と名無しの会話だ




19 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 20:39:25
>>16
唐松山先生、ご乱心めされるなw

20 :5:2009/12/30(水) 20:43:06
>>17

先生 私もその御意見がもっともかと思いますが、九州説と言う言葉の方がメジャーなのが不思議ですね。

21 :5:2009/12/30(水) 20:46:27
>>18

こう言うことですかw
まさか差別用語だとは・・・

783 名前:河童虫 ◆EY2wfgakAQ [sage] 投稿日:2009/12/26(土) 22:01:53
>そんなに九州説に区分されるのが嫌なのかい。
べつに。
ただ、何故区別する必要があるのかな〜って
区別すっていうのは、区別しないと自分の立ち位置を見失うからだろ?
自分の立ち位置がしっかりしているなら、区別する必要性なんてないじゃん。
天と地ほどの差があるのなら、尚更区別なんてひつようない

784 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 23:18:20
そうかもね。
ただ、この板で「九州説」と書かれるときは「区別」では無く「差別」だよ。
「馬○」「○呆」「キ○ガイ」とかと同義だから、「最底辺=九州説、自分=少し上」と言う感じ。

785 名前:河童虫 ◆EY2wfgakAQ [sage] 投稿日:2009/12/26(土) 23:56:52
その差別という感覚は理解できますよ
こういう掲示板形式の対話では、この差別するという事が重要なカギを握りますからね
犯罪にならない程度に何処まで相手をこき下ろすか
ま〜ここは学問板だから
学問という前提のもとに差別するのでしょうが、


22 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/12/30(水) 20:49:10
>>15
>じゃ何で「九州説」って言うのかという疑問はそのままです。

畿内説では、マキムク一本、九州説は複雑で、「北部九州」、「南部九州」に分かれ
阿蘇などは九州中部とかいう人も居ます。
さら細かくして、筑紫説の久留米説、筑後川周辺説、朝倉説、それから佐賀平野の吉野ヶ里説、
伊都国=邪馬台国説、博多説、宇佐説、行橋都郡説、熊本説、高千穂説、玉名説、島原説、
西都原説、阿蘇説、別府湾岸説、これらをひっくるめて、「九州説」といってるのです。

>もしかして、「九州説」と言うのは畿内説の立場から見た呼称なんですかね。

現在、大まかに分けて、畿内説、九州説とに分かれるんですが、
学者、素人、含めて畿内説のが多くの人に支持されており、又、物的証拠により、
呼ぶ際も畿内説、九州説が一般的な気がします。
古代史と言えば考古学が主なんですが、そういう関連する本や雑誌をみても
畿内説中心で語られることの方が多い気がします。 おしまい

23 :5:2009/12/30(水) 21:46:53
>>22

追加説明ありがとうございます。
うーん、つまり「The九州説」みたいなものは無くて、
通常言われる「九州説」ってのは、
畿内説や第三者からの観点で付けられたネーミングなんですね。

だから「俺は九州説だ」とか言う人がいたら、その時点で眉に唾着ける必要ある。
ホントは博多説だったり、宇佐説だったりしたらそれぞれの比定地を冠した説を名乗るはず。
単純に「九州説」って言うような人は、所在地も分からないのに
邪馬台国は九州にあるとか思っちゃう危ない人なんでしょう。




24 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 22:12:46
つうかマジレスすると
この板の九州説は殆どが単なる「アンチ畿内説」

そう思ってまず間違いないwwwwwwwwww

25 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/12/30(水) 22:15:57
>>23 最後です〜
>うーん、つまり「The九州説」みたいなものは無くて、通常言われる「九州説」ってのは、
>畿内説や第三者からの観点で付けられたネーミングなんですね。

邪馬台国100年論争とかよく聞きますが、
この論争は江戸時代の「新井白石」、それから「本居宣長」に始まり、
京都大学の「内藤湖南(畿内説)」と東京大学の「白鳥庫吉(九州説)」の時代に
激しくやりあったという過去があり、現在に至ってるのです。

こういう流れで来てますので、どうしても「畿内説VS九州説」という流れが一つあるようで、
畿内説や第三者によってというのではない気がします。

>だから「俺は九州説だ」とか言う人がいたら、その時点で眉に唾着ける必要ある。
>ホントは博多説だったり、宇佐説だったりしたらそれぞれの比定地を冠した説を名乗るはず。
>単純に「九州説」って言うような人は、所在地も分からないのに
>邪馬台国は九州にあるとか思っちゃう危ない人なんでしょう。

いえ、それは違うと思います。
邪馬台国の所在地を考えるのに「方角を信じるか」、「距離を信じるか」、
或いは、「文献の記述を信じ」、「考古資料を信じない」という観方があり、

「俺は九州説だ」という人は、前者を信じて、後者を信じないという事かもしれません。
その根元にある問題によって、分かれるところでしょうね。

26 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/12/30(水) 22:25:00
こんな感じの説明でよかったかな?
私の名前が上にあったので、上機嫌でいろいろレスしてしまいましたが、
他の先生方wも居ますので、後はそちらで〜!では、別スレに戻ります。

あと、ヨロシク・・・

27 :5:2009/12/30(水) 22:29:47
>>26

ありがとうございました。
主任講師としてこれからもよろしくお願いします。

28 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 22:44:35
>>1

2ch初心者にして古代史初心者の私です。
個性豊かな講師の方々がいらして頼もしいです。
邪馬台国というのは、魏志倭人伝と言う書物に出てくるものと承知していますが、
この書物に一番詳しい先生はどなたでしょうか?

倭人伝には侏儒國と言う伸長三四尺の民族が登場するようですが、
これは今で言うと何センチくらいのことでしょうか?

29 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/30(水) 23:05:56
八咫カラスの伸長は、八咫鏡の円周と同じ、
当時の下民の伸長も八咫。


30 :神武の子孫:2009/12/30(水) 23:17:19
畿内説:倭人伝の方角記事を信用できないとする。その最初が末盧国から伊都国への方角、距離である。ここで
    東南を東北東野間違いだとする。しかし、東はそのまま東とする。そして、倭人伝より考古学的資料が
    重要だと主張する。巻向を邪馬台国の都とする者が多いが、この地の遺跡、出土物の年代的根拠はない。
    年輪年代法とそれに依拠したC14年代測定法に頼っているが、それらの年代測定法には疑問が出されてお
    り、およそ100年繰り上げられて(古くされて)いる年代が間違いであることが認識される日が来るであ
    ろう。すなわち、畿内説は虚構なのであるから、初心者の人々は騙されないよう留意されたい。

九州説:邪馬台国の所在地や版図について複数の説に分かれている。畿内説同様、古い説では伊都国を前原市、奴
    国を博多湾沿岸部に比定する。中には前原市の伊都国を女王の都の所在地とするものや、博多湾岸部に邪
    馬台国(邪馬壹国と称している)を比定するものもある。末盧国から近すぎるので行程について複雑な工
    作を行っている。これらの比定地よりやや離れた朝倉市甘木や大分県宇佐市に卑弥呼の都を持って行く人
    達もいる。
    一方、倭人伝の記述の正しさを信じて伊都国を佐賀市近辺とし邪馬台国の卑弥呼の都を熊本県内に求める
    人達もいる。また、伊都国を佐賀県の有明海に面した地域に比定し佐賀県内に卑弥呼の都を持ってくる人
    もいる。
    同じ九州説でも違いがあることに留意されたい。

31 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 23:31:20
>>30 

>同じ九州説でも違いがあることに留意されたい。

いやさ、だから「同じ」じゃないのに一つの呼称にくくってしまうのか?
それが変じゃないかつーのが疑問なんですぅ。

つまり「変じゃない」つーのが回答なんですか?


32 :縦目仮面:2009/12/30(水) 23:48:10
いつの間にこんなスレが、しかも講師になってる。・・・学生なんで先生をつけるのは止めてください。w
>>28
倭人伝は、河童さんや メさんが何度かスレ上で訳したりしてるんで詳しいんでないかな。サガミ先生なんかも
暗唱できるくらい読んでると思います。

侏儒国は・・・しかし初心者といってる人に唐松山さんのレスはちょっと。三国時代の一尺が24cmくらいなんで
×3、×4すればいいかと。ただ、さすがにそれだと低すぎて人間の身長ではないので「山海経」などから引いた
不確かな記事なんだと思います。また侏儒は、東南アジアの少数民族ネグリトのことだという説もあります。
唐松山さんの言ってる「八咫」というのは、150cm未満程度ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%AB

33 :崇神の末裔:2009/12/30(水) 23:50:21
>>31
細かい事を問題にするなら九州説の中の宇佐説だとか、朝倉甘木説だとか、久留米説だとか、熊本説だとか
と細分して論じればよい。大まかな議論をするときは九州内に邪馬台国を比定するということで纏めて九州
説と言っていいだろう。議論の内容によって取捨選択すればよいだけだよ。

34 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/30(水) 23:54:46
縄文人は熊襲では無い

卑弥呼を熊襲の女酋としたいだろうが、そうは烏賊の金珠。

まず熊襲だ これは
筑紫の日向のソの高千穂のくじふる岳 この「ソ」の周辺「隈」に住んでいる
白水郎のことだ。

景行紀を読め、 熊襲反之不朝貢。 熊襲が背いたんだよ。 だがこれは只の言いがかり
この言いがかりを旗印に九州に派兵。連戦連勝で男王(景行の味方)の死後まで戦を続ける
最後の仕上げに熊襲への挑戦。
筑紫を発ち、鄙守を先導に向かった先は、諸津、山の上から見下ろせる場所、そこは
今の玄海町諸浦だ。
狗奴国が滅びた今、諸津の泉媛に反抗する力は無い、
その後直ぐに「ひこ模糊」なる熊襲が背くが、日本武尊により斬り殺される、
場所は、甘木辺りに住んでいたんだ。

疲れたから此処まで。


35 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:07:02
>>33

> 大まかな議論をするときは九州内に邪馬台国を比定するということで纏めて九州
> 説と言っていいだろう。議論の内容によって取捨選択すればよいだけだよ。

「大まかな」議論をしなければならない、ってどういうとき?


36 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:10:27
>>32

もう少し聞いても良いかな。
侏儒国というのは山海経と言う本にも出てくるのですか?

37 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:10:38
>>35
自分の説なのに、墳墓や都城の候補地もはっきりしてないとき。

38 :縦目仮面:2009/12/31(木) 00:16:17
>>36
小人国、黒歯国は出てきたはず。
http://homepage3.nifty.com/kyousen/china/sengai/k_all.html
また、今は残ってない「山海経」類似の書物もあったかも。中華思想の一つとして、中国の中心から離れるほど
蛮夷の国となり、人外の魔物が住むというような考え方もあるようです。あと、前代の書物を引くのも一つの伝統
なんでしょうね。

39 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/31(木) 00:36:00
神武前紀 又高尾張邑有土蜘蛛。其爲人也身短而手足長。與侏儒相類。

ここに何故こんな文が在るか?
これは、隋国へ朝貢した時、今の台湾について質問された為である。
時空は超えても、真実は残る?


40 :縦目仮面:2009/12/31(木) 00:48:02
>>39
全部嘘とはいってませんよ。ただ4尺でも現代の4歳児以下の身長ですから、この数字はないだろうと。

41 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:53:08
>>35
横レスだが、畿内説というのは他の説とは違っていて、邪馬台国は大和にあり
それがそのまま大和朝廷になったとする説ということになる。

九州説の場合は、東遷説と九州王朝説系統の説がある。

東遷説は、九州の邪馬台国が大和に都を移したとする説。
九州王朝説の系統は、邪馬台国は九州にあったが、大和朝廷とは関係ないとする説。

所在地論と共に、邪馬台国と大和朝廷との関係から入っていくというのもある。

42 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:06:02
>>41
>九州説の場合は、東遷説と九州王朝説系統の説がある。

ワラタw

まあこの板においてはそれでほぼ間違いないんだがwwwwwwwwwwwwwwwww

43 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:42:45
>>40

>全部嘘とはいってませんよ。ただ4尺でも現代の4歳児以下の身長ですから、この数字はないだろうと。

そんなこと書いた本人が一番よ〜くわかってることでしょう?
でも、それを承知で書いた     何故か?


44 :縦目仮面:2009/12/31(木) 01:46:31
>>43
さあ、そこまではねえ。資料からの引用であっても信じてたかもね?

45 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:56:59
>>44

人長が人の身長と訳されるには、身長と訳されるべき文章環境のもとで身長と訳されます。
その環境がそこには存在しますか?
存在しなければ人の身長とは訳せません。

脊髄反応してはいけません。

46 :縦目仮面:2009/12/31(木) 02:01:28
>>45
河童さんですか?w この手の議論は俺には不向きなんで勘弁してください。w

47 :1:2009/12/31(木) 09:53:14
>>45
>>講師の皆さま

新人さん達が混乱しないよう指定講師の方はコテを、その他の講師の方も仮コテを必ず使用してください。
また、このスレッドでは、特定の講師間での議論、意見交換を禁止するところではありませんが、
あくまでも複数の意見があることを新人さんに知ってもらうためとして、平易で簡明な表現、内容を意識してください。



48 :縦目仮面:2009/12/31(木) 11:06:22
そういえば前に「人長」と「身長」の違いという議論もやってましたね。山海経の、海外南経の註に、
>其人長三尺、穴居、能爲機巧、有五穀也 とあって、ここでも「人長」ですね。

49 :歴史は夜造られる:2009/12/31(木) 12:12:15
教えてください。
もしかしたら、素人なのに生意気なことを言っているのかもしれませんが御容赦ください。

この板のそこかしこで畿内説による陰謀、捏造等々およそ学問とは関係の無い用語が飛び交っています。
歴史を変造することで、現在の政治的、思想的正統性を築こうと言うことは一つの考えだと思いますが、
畿内説の人たちは、どういう思想的欲求から、そういう捏造をするのでしょうか?
別に邪馬台国がどこに在ろうか、現在の私たちには影響の無い話だと思います。


50 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/12/31(木) 12:32:50
>>48 縦目さん  いよいよ年末ですね。

>其人長三尺、穴居、能爲機巧、有五穀也

「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」


上の文と下の文は、同じ「人長」でも全く文章の環境設定が違うと思いませんか?
山海経の、海外南経の註に掲載された「人長」は後文に「穴居、能爲機巧、有五穀也」という人の生活風景を伴った文の構成となっているので
ここでの「其人長三尺」は、人体の特徴を表した意味解釈と捉える事が容易に考えられ、それに則した意味が割り当てられることになりますが、
倭人伝は山海経のような文章の内容には程遠い構成で書かれています。
そうなると、山海経のように人体の特徴という意味解釈を安易に割り当てることにはいかないのではないでしょうか。

簡単に考えても、山海経の註の「人長」を(身長)と捉えるなら、倭人伝の「人長」は山海経の註の意味解釈(身長)とは捉える事が出来ないと考えるべきではないでしょうか。


51 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 12:42:06
結論が書かれていないので意味がわからない

52 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/12/31(木) 12:43:03
>>49

ここは2チャンネルです。

53 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 12:44:21
>>41

東遷説と九州王朝説についてもう少し説明してください。

54 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/12/31(木) 12:53:34
>>48 縦目さん。

「人長」

http://www.youtube.com/watch?v=C42_KcR9Hk4


55 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/31(木) 12:57:53
>畿内説による陰謀、捏造等々… 畿内説の人たちは、どういう思想的欲求から、そういう捏造をするのでしょうか?

これは大きな間違いだ。
此までは、書紀では日本の歴史が、解らないため、主として百済本記を『真』として、だいたい
此に合わせた年代感で、歴史を見てきたが、年輪法で正しい数字に訂正されつつある。
これに異を唱えるのが、此までの年代感を支持する勢力?

ところが 百済本記の記述を、韓国考古学は、年代の相違を指摘している。
早い話 百済本記に合わせた年代感は、正しい歴史を表現できない。
どうしても新しく成ってしまう。百済本記は、250〜400年 の記事を約50年遡らせないと
歴史的事実と合わない。

それでは、歴史の読める数字の日本書紀にしよう。
次回



56 :縦目仮面:2009/12/31(木) 13:02:45
>>54
勘弁してくださいよ。言意学は、俺ではなくギャラリーに対してやってください。w
・・・山海経の場合は、「民長、人長、(其)長」とかいろいろ出てきますね。編者がこの(でたらめ)博物誌の内容
を実際に信じて書いてるかはわかりません。

57 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 13:03:02
>>54

それは「列長」ですね。
人気ナンバーワンの名を穢すような駄レスですよ。
このままではメさんにその地位を奪われるのも時間問題w

58 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/31(木) 13:16:00
韓国の考古学は、百済本記と合わない。

夢村土城は自然丘陵を版築城壁で繋いだ南北最大730m,東西最大540m,最大比高25mの楕円状をなし,
丘陵が切れるところは北門址,南門址等と呼ばれている。

『三国史記』にいう「百済前期」都城である「河南慰禮城」・「漢城」の異同・変遷・比定について諸説を列挙することは省くが,
夢村土城も候補に挙がっている〔崔夢龍・權五榮1985:表1〕。しかし,1983年以前の夢村土城には,成周鐸の踏査〔1983〕等を除くと,
ほとんど考古学的調査の手が及ばず,文献上の百済都城との対応が考古学的に証明されたことはなかった。(以下,各年度の調査・報告書・
遺構名を,調査年度を冠して「84年報告」・「88-1号住居址」等とする)。

実年代(表1) 85年報告は同年出土「西晋銭文陶器」によって夢村土城の上限を3世紀末〜4世紀初とし〔85年報告:162-163頁〕,
88年報告でこれを「夢村I 期」の上限年代に当てている〔88年報告:199-200頁〕。しかし,銭紋陶の年代と「夢村I類」上限と
を関連づける根拠はなく,「初期百済の重要な土城のひとつ」としての夢村土城の築造・使用との関連も証明されていない。
銭紋陶片から夢村土城の上限年代を西晋並行期に求めうる可能性は否定できない〔亀田1987:48-51頁〕が,
遺構や土器と結びつかないことは留意すべきであろう(後述)。

書紀の記事を読むときには、
百済本記を使用しない。
新羅本記は正しい数字を主張している、新羅本記に合わせる。
允恭天皇四年(乙卯四一五)九月戊申《廿八》◆戊申。詔曰。羣卿百寮及諸國造等皆各言。或帝皇之裔。
或異之天降。然三才顯分以來。多歴萬歳。是以一氏蕃息。更爲萬姓。難知其實。故諸氏姓人等。沐浴齋戒各爲盟神探湯。
則於味橿丘之辭禍戸 。坐探湯瓮而引諸人令赴曰。得實則全。僞者必害。〈盟神探湯。此云區訶陀智。或泥納釜煮沸攘手探湯泥。或燒斧火色置于掌。〉
於是諸人各著木綿手繦而赴釜探湯。則得實者自全。不得實者皆傷。是以故詐者愕然之。豫退無進。自是之後。氏姓自定。更無詐人。

この様に書紀にも錯誤の部分が在るから、この部分は、天皇の世継ぎを信じないこと。


59 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/31(木) 13:16:40
書記 より19*n回の空白年を差し引く、正朔である。
天皇   西暦  
神武天皇 41年〜62年 手研耳による空白年を含む。X式土器
綏靖天皇 63年〜76年
安寧天皇 77年〜87年
懿徳天皇 88年〜92年 安寧天皇と同じ暦
孝昭天皇 93年〜118年
孝安天皇 119年〜144年
孝霊天皇 145年〜163年
孝元天皇 164年〜182年
開化天皇 183年〜187年 崇神と共に少し動かしてある。
崇神天皇 188年〜215年 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。たたねこの陶邑が庄内式?
垂仁天皇 216年〜238年 景初2年で編年してあります。書紀と一年違い。
野見宿禰が布留式? 纒向遺跡は珠城宮、ホケノ山は垂仁稜。
景行天皇 239年〜260年 箸中 山古墳は景行陵。
成務天皇 261年〜264年
仲哀天皇 265年〜273年 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 274年〜343年 ここより盟神探湯による世継ぎの部分。
300年新羅は四七年 19年の加増か?
326年 五二年七支刀  百済の数字はこれに合わせる。
   応神天皇 34年〜386年
仁徳天皇 312年〜398年年 神功三九年大歳を元年とする。末で1年の不足。
364年 五三年新羅へ派兵、新羅本記と合致。新羅、高句麗、呉は仁徳に合わせる。
履中天皇 400年〜405年

この数字を元に倭の五王を探す。数字はスライドか?別人か?



60 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 13:18:10
>>55
つまり百済本紀を否定するために捏造年代を持ちだしたということですか?
ここの畿内説と韓国考古界がグルだと!

61 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 13:19:37
唐松山先生、それ初心者向けじゃないでしょうw

62 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/12/31(木) 13:20:01
>>57

> それは「列長」ですね。

見たものそのままの感想ですね    もう少し考えて欲しかった。
このCMから何を感じるかは視聴者の感性だけです。
私が何故このCMを「人長」の解釈に提示したかを 


>人気ナンバーワンの名を穢すような駄レスですよ。
このままではメさんにその地位を奪われるのも時間問題w

駄レスと受け取るのは第三者ですので、私にはどうすることも出来ません。


63 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 13:29:37
>>62

だって「又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」の人長の説明になってないじゃないですか?
「人」に長さを求めるとして、もっともポピュラーなのは、ビジュアル的に縦方向の「身長」でしょう。
倭人伝の人長がそうじゃないとしたら何なんでしょうか?
山海経の例についての説明はあっても、では倭人伝では何の長さが示されているのか、その説明がされていませんね。

64 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 13:43:21
>>53
九州王朝説というのは、江戸時代の本居宣長に端を発している。

当時の年代観からすると、卑弥呼の時代には、すでに大和朝廷は存在していた。
そういうわけで、日本書紀は卑弥呼を神功皇后に比定していると思われる。

本居宣長は、卑弥呼を九州の首長と考え、神功皇后の名前を騙って、魏に
朝貢したと考えた。仮にも、皇室の人物が魏に朝貢などするはずがないと
いう考えがあったともいわれる。

卑弥呼が九州にいたということから、邪馬台国も九州ではという考えが出て、
その後、邪馬台国論の主流になる。
九州王朝説は、近年、古田武彦によって提唱されたもので、九州には
大和朝廷とは別の王朝があり、大宰府に首都があり、7世紀末まで存続して
いたという説である。邪馬壱国はその前身ということらしい。

要するに、邪馬台国は、大和朝廷と全く別物ということで、個人的に
これを九州王朝説の系統と呼んでいるのだが、逆に言えば、こういう考えの
一つが九州王朝説とも言える。

65 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/12/31(木) 13:44:24
>>63

>山海経の例についての説明はあっても、では倭人伝では何の長さが示されているのか、その説明がされていませんね。

四千餘里ではありませんか。
私が提示した損保ジャパンのCM、それを見た>>57さんは「列長」(たけを並べる)と表現した。
ならばここでの「人長」は人が手を繋いだ幅
この四千という数値は、人が手を繋いだ(三尺〜四尺幅)で測量された数値であること考えることが出来ませんか?
一般的には歩幅をもって測量されますが、ここは歩幅を用いることが無かったので
測量方法を掲示したのではないでしょうか?


66 :縦目仮面:2009/12/31(木) 13:48:56
畿内説と捏造の問題ですか・・・・・・これは俺は関東の大学で、しかも日本古代が専攻ではないのでなんとも
いいにくいんですが、ただ畿内説であっても歴博のc14や年輪年代に批判的な人は大勢います。
>>30 で縄文人が、
>(畿内説は)年輪年代法とそれに依拠したC14年代測定法に頼っているが・・・
と書いてるけど、これは認識不足というか固定観念でしょう。特に歴博のマスコミの使い方には大きな危惧が
あります。あとは纏向の発掘が邪馬台国とからめてマスコミ報道されるのも、しかたのない面もあるんですが、
よいことではないでしょうね。

67 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 13:58:18
>>64
続き。
東遷説は、邪馬台国は九州にあり、その勢力が東征し、大和朝廷になったと
する説。明治時代の終わりくらいからはこの考えが歴史学者の間に広く普及した。

根拠としては、皇室の歴史書である記紀に、神武東征として、祖先が九州から
やってきたとの記述があること。
また、古墳時代の墓制も九州の強い影響が見られること。銅鐸の消滅など
近畿地方の変貌もそれを物語る。
皇祖とされる天照大神と卑弥呼の類似説もその根拠とされる。

九州では、古い時代の甕棺からも鏡、剣、玉類の副葬が見られるが、
これらが大和朝廷でも重要視され、皇室の三種の神器として現在でも
残っている。

このことから、やはり東遷説は、邪馬台国論の主流と思われる。

68 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 14:05:47
>>65
それは想定外!
でもエラク不経済な測量法だなw

69 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 14:11:20
>>64

つまり、どちらも「先ずは大和朝廷在りき」な説なんですね。
分類すれば皇朝史観の分派で同類、科学とは無縁の歴史なわけ。

70 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 14:14:15
>>65

それじゃ、自分で言い出した文章環境の設定が為されていない。
数レス引っ張るようなネタじゃないので一発で決めてほしかった。

71 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 14:17:27
>>66

30の人は縄文人と呼べばいいのですか?
ここの板は複コテの人が多くて不思議です。

72 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/12/31(木) 14:24:20
初心者向けかどうか分かりませんが、畿内説という言い方には私は違和感があります。
畿内とは@都の周辺の地域を指す呼称
A山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の令制5か国のこと。
畿内説の「畿内」とはどちらの意味か?
@の意味なら、関西だろうと九州だろうと女王の都は畿内にあるのでナンセンスです。
従ってAの意味と考えられますが、邪馬台国論に律令制の名称を用いるのは変です。
九州説を「西海道説」と言う人は誰もいませんから。
「畿内」という言葉が書紀で普通に使われるのは天智天皇以後であり、それ以前には
崇神、欽明、孝徳紀にしか出てきません。
しかも欽明紀では仏教を伝える聖明王の言葉の中で、孝徳紀では大化の改新直後に使われるだけ。
崇神紀の「畿内無事」は孤立した表現なのです。
九州説に対して、奈良県説あるいは関西説と言うほうが良いのではないでしょうか。


73 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/12/31(木) 14:29:11
>>68

>でもエラク不経済な測量法だなw

不経済かどうかはその時代の人に聞いてみないとわからないけど、それだけ人を奴隷のように使用することが出来た事もわかる。


>>70

>それじゃ、自分で言い出した文章環境の設定が為されていない。

どのように為されていないのか?

>数レス引っ張るようなネタじゃないので一発で決めてほしかった。

だったら自分が気に入るような流れを設定して、自分が主導でスレを引っ張っていけばいい。 数レス引っ張り、一発で決められない私は降ります。  

長居しました。


74 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 14:44:39
>>72
畿内説という言葉は、先入観を持たせるためのものという人もいるね。
ここが都なのですよ、みたいな。
九州説に対しては、近畿説がいいのかも。

75 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/31(木) 14:47:17
>日本書紀は卑弥呼を神功皇后に比定していると思われる。
違います。
日本書紀は、その数字の表記するところに、魏誌を注入した。
例えば
神功皇后摂政四六年(丙寅二四六)三月乙亥朔◆四十六年春三月乙亥朔。 この数字は、
魏少帝正始7年 ?次:丙寅 生肖:虎 西元246年2月3日(星期二)起 3月乙亥朔

この様に年の干支も朔も同じ数字を表示。
よって書紀編纂者には、この時代の暦の伸長なる意識は在りません。
その証拠が、百済記と同じ長さで表記されている。
依って、この時代を「思考による神功」の長さで圧縮出来ない。
神功、応神は このままの長さで読む。仁徳も圧縮出来ない。
これでは長く成りすぎる。そこで
「神功、応神」に「仁徳」を重ねるしか方法は無い。
幸い神功紀にはその合わせ場所が、表記されている、それが神功39年太歳である。
神功、応神紀には、百済の歴史が、仁徳紀には、高句麗や呉の記録と分けて書かれている。
この二つを重ねても、異常な部分は最小限に抑えられる。異常な部分は、神功47年に書かれた新羅の記事だ。
この記事は、本来新羅300年の記事と合わなければならない部分だ。


76 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/12/31(木) 14:51:48
>>74
近畿と言っても、圧倒的に奈良県説でしょう。バラバラの九州と違って。
さらに奈良県でも圧倒的に纏向説。
崇神紀の「畿内無事」が前提にあるような気がします。

77 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 14:52:01
>>69
言っている意味が良くわからないが、皇国史観などというのは、相手を批判する
時に使う言葉で、いわゆるレッテル貼りのようなものだろう。
ちゃんとした議論をせずに、皇国史観と批判して済まそうとするのは考え物。

78 :縦目仮面:2009/12/31(木) 14:52:03
いちおう考古学会の片隅にかかわるものとしては、「全体をこういう方向に持って行かなくてはならない。」という
ような恣意的な流れというのはないと信じたいですね。ただ、学説というのはどうしても派閥やら、師との関係な
どの影響を受けてしまうものです。これは何も歴史学に限ったことではなく、自然科学でも同じようなことはあり
ます。俺はこの世界に就職するつもりはない(そんな優秀ではない)んで、自由に書いてますけど。

自説に都合のよい事実だけを取り上げ、矛盾や反証には目をつむっている。・・・畿内説はよくこうした批判を
受けますが、これは畿内説だけのことでしょうか。上で、九州王朝説や東遷説が出てきましたが、これらの代
表的論客である古田氏や安本氏の論でも、客観的に見て無理があると思われる部分はあります。ただ、畿内
説考古学者は多数いるので、よけいその印象は強いのだと思います。

ただね、アマチュアが他の説を批判して何か得るものがあるのかという気がします。この板でも依怙地に凝り
固まってるよなあという人を見かけますが、あれで趣味として楽しいんでしょうかね。(趣味ではないのかもしれ
ませんが。)邪馬台国問題は、物理学などに比べれば単純です。理論的に検証不能というようなことはありま
せんし、高度な数学も必要ありません。ただ見つければいいんだと思いますよ、自分の邪馬台国を。

79 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 15:05:17
>>78
文献はみんなに平等だと思う。よっぽど珍しいものを除けば、素人でも
学者でも同じものを目にすることが出来る。

でも、考古学は違う。発掘調査できる人は限られているし、その成果も
発掘した人の解釈としてしか公にされない。
悪意に満ちた言い方をすれば、都合の良いものだけを公表し、都合の悪い
隠す事だってできる。
神の手なんてのもあるらしいし。

一番、厄介なのは、そういう立場の人が最初から畿内説なんて看板を掲げている
ところじゃないだろうか。

80 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/12/31(木) 15:09:58
いくら何でも、日本の考古学界が「檀君の墓」北朝鮮と同じということはあるまいと思う。
「曹操の墓」も最初は驚いたが、落ち着くにつれて異論も出てきたようである。
中国も共産党独裁の国ではあるが、学問的にはわりと自由なのだろうか。
この辺は縦目さんが詳しいかもしれません。


81 :縦目仮面:2009/12/31(木) 15:25:33
>>80
考古学の、特に古代はわりと自由な分野だと思いますよ。ただ・・・中国全般にいえることは、お金にならない
ものは評価しないという姿勢、これは俺の偏見かもしれませんが。・・・実際、どこもかしこも遺跡だらけなのに、
考古学はあまり進展しているとはいえないでしょう。兵馬俑は一大観光資源になりましたけどね。どうなんでしょ
うね、自由経済導入以来、儲けたやつが偉いというようなあの風潮は。海賊版の著作権などの問題もその一つ
の表れでしょうが、これで儒教の国かよと思うようなことは多々あります。

82 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/31(木) 15:33:53
>これで儒教の国かよと思うようなことは多々あります。

かような国であるから、儒教が必要になる。

倭人伝に書かれた倭国なら儒教が無くとも魏国に信頼される。


83 :うましか:2009/12/31(木) 15:59:30
>>81-82

スレ違いですが・・・

中国って「儒教の国」ですかね?
国家の政治理念として採用されていたのは、王莽期とか南北朝時代のいくつかの国くらいで、
隋唐以降は「学問のための学問」、実践されることのない「空知識」に過ぎないような気がします。
例えるなら現代日本における「数学」みたいな扱い、試験のために学習はするが、
微分、積分なんて理解して生活している日本人はいないはず。

「儒教が必要」、理想社会が必要と言うことですよね。
理想の実現のためには、先ずできることを実践する、それが理想とはほど遠くても。
浅学の理解では、これが「中庸」と言う方便。

84 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/31(木) 16:14:30
>微分、積分なんて理解して生活している日本人はいないはず。

水蒸気圧=EXP(-5797.138/(C1+273.15)+1.38181+(C1+273.15)*(-0.0486226+(C1+273.15)*
(0.0000417411-0.00000001436*(C1+273.15)))+6.54469225*LN(C1+273.15))/1000

上記の式は仕事で必要なため造りました。 100℃を計算すると爆発しますので注意

でも微分、積分なんて理解出来ない私です。


85 :fhaircut:2009/12/31(木) 16:21:35
はじめまして,いろいろなモデリング,モデルタイプとユニ-クなヘマスタイルがあリます,
元日と成人の日を祝い ,贈り物を贈りますよ!
かわいい人がたくさん,方法がかんだんですよ~!
ようこそwww.fhaircut.com へ
どうぞよろしくお願いします.

86 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/12/31(木) 16:21:47
>>83
何やら、社会主義なのに市場経済という、今の中国に似ているような?
昔でも表の儒教、裏の道教、とよく言いますね。
道教と道家思想も別物なわけで・・・

87 :縦目仮面:2009/12/31(木) 16:37:34
>>83
うーん、中国には「儒商」という言葉があって、これはむろん商業と儒学を混ぜたものです。現代の儒商はおおか
たは高学歴で、先端技術に取り組む経営者や独自の経営倫理を持つ人などもそう呼ばれます。
これらの人は、国の経済振興や地域への貢献、社員の福利厚生などにも心を砕いていて、まさに、
「君子愛財、取之有道」(君子は社会の公理に従って材を築く というような意味、論語の言葉とは少し違う)
をモットーとするような人たち。

ただそうではなく、信用を必要とせず、手っ取り早く金を稼ぎたいというような人も多くて、これは社会構造にもその
原因の一端があるんでしょうね。

88 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 17:57:00
>>69
>つまり、どちらも「先ずは大和朝廷在りき」な説なんですね。

ないよ。
江戸時代から今日まで、畿内説を唱えている学者でも、「しかし大和とは違う」という
言い訳が必ずつき、またそれが非常に不自然でもあると思う。

「邪馬台」は、現代北京語ではYe ma tai(イェマタイ)と発音し、また広東語では、
ヤマトィと発音するようだ。
古代の発音では、ますますヤマトになるらしい。
また、7万戸という規模からして、ヤマトなんだろう、という単純な想像を俺はした。

はっきり言って、最終的には好みの問題です。
ちなみに、俺は元関西在住だから。

89 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 18:21:19
>>88

キミは講師じゃなくて生徒さんに専念しなさいw

90 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/12/31(木) 18:24:47
>>88
>「邪馬台」

魏志倭人伝では「邪馬壹」
後漢書倭伝では「邪馬臺」
梁書倭伝では「祁馬臺」
広志逸文では「邪馬嘉」
少し深くなると、この辺りも論争の材料になります。

91 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/31(木) 18:53:41
ホ34093 ユハズタズエの ミツギとめ 
ユハズタズエ とは 弓張り月 とうかん夜 10月末
ミツギとめ  貢ぎとは 当時の「税」にあたる。
書紀に朝貢と書かれていれば、 それは「税」である。

少しは書紀の読み方に影響するか?



92 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/31(木) 18:59:03
百済や新羅からの「朝貢」は納税であり、怠ると兵を差し向ける。
高句麗や呉の朝貢は、お土産程度の意味である。


93 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 19:01:37
初心者向けといいながら、結局単なる雑談スレ。

94 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 19:18:47
>>93

そうですね。
講師に先生方には、もう少し平易な内容を心がけていただければと思います。
初心者の皆さまが、近寄りがたい雰囲気になるのは避けましょう。
また、質問者の方は、答えてほしい先生を指名してもいいんじゃないですかね?
タイムリーな回答が欲しければ、講師の得意分野を考えてみてね。

95 :よいこ:2009/12/31(木) 19:52:13
唐松山先生に質問です。

@記紀の編年(というのかな)はいつ頃完成するのですか?
Aこれをやることによって人生に得たものはなんですか?
B太国先生とその倍暦・3倍暦をどう思いますか?

よろしくお願いします。

96 :礫女:2009/12/31(木) 20:18:26
全ての先生方(名無し先生も)に質問です。

@ 皆さんが邪馬台国に興味をもったきっかけは何ですか?
A 邪馬台国フリーク歴は2010年で何年目に突入ですか?
B 性別は?
C 出生地、生育地、現住地はどこですか?

別に真面目に答えてくれなくてもかまいません。

最後に念のための出題

D 邪馬台国の所在地はどこですか?

97 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/12/31(木) 20:28:18
アンサー
@たぶん完成しないだろう 五王にたどり着ければよいが…
A時間つぶしかな? 脳みその新陳代謝には役立つかも?
B自分でも計算できないしろもの。「神の声」を発してる。
書き換えの量が莫大で、自分でも書き換えきれないんだぞ。
干支の後付けを証明しろ←まだだれも成功していない。
倍年と言いながら、半分近く倍数でない。
3年の記事を1年で読める程度の脳みそ(通常の脳みそでは対応理解出来ない)でないと理解出来ない。
神武3倍歴 76年間は、3の倍数では無い。
懿徳2倍暦 35年間は、2の倍数では無い。
崇神3倍暦 68年間は、3の倍数では無い。
応神3倍暦 41年間は、3の倍数では無い。
継体2倍暦 27年間は、2の倍数では無い。
君もこの矛盾を解消する読み方を、教えて上げてくれ。



98 :よいこ:2009/12/31(木) 23:00:48
>>97
ていねいにありがとうございました。

99 :悪い子:2009/12/31(木) 23:39:23
唐松山先生にお伺いします。
唐にはガクの無い花をつける木があるのを見て、日本からの留学生が帰国して唐には変な木があると得意げに
話したところ皆に笑われた。蕚を欠く花や花弁のない花(無花果)などを知る者から見ればこの留学生は学の
無い木だということで唐変木と渾名された という話をご存知ですか?

箸墓は3世紀中葉の築造だと信じておられるようですが、自分でも愚かだとは思われませんか?

失礼な質問だと思わないでもないのですが、どうしても気になるものですからお尋ねする次第です。

100 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/01(金) 00:10:30
箸中山古墳は景行
この池で白鳥に餌をあげている仲哀を見たことがある。


101 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 01:23:10
邪馬台国厨だけ年末年始必死だなw

102 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 01:47:07
明けましておめでとうございます。今年もよい年でありますように。
http://www.youtube.com/watch?v=f2lSakixuQg&feature=player_embedded

103 :卑雌呼 ♯縄文人は馬鹿:2010/01/01(金) 17:12:07
>>96 > 全ての先生方(名無し先生も)に質問です。

@ 皆さんが邪馬台国に興味をもったきっかけは何ですか?  → 2chで。
A 邪馬台国フリーク歴は2010年で何年目に突入ですか?  → 2か月くらい
B 性別は?                               → 多分♀
C 出生地、生育地、現住地はどこですか?      →  東京生まれ、東京育ち、東京住まい
D 邪馬台国の所在地はどこですか?          →  日本のどこか、朝鮮半島には無い


104 :壹與:2010/01/01(金) 17:54:52
皆さんあけましておめでとうございます。

>>103
縄文人にコンプレックスを感じておられるようですね。彼について私が知っていることをお伝えしましょう。
@縄文人は昨年彗星の如く現れた畿内説派の天敵です。恐らく馬鹿なレスを見てからかってみたくなったのでしょう。
A古代史に興味を持っているが、邪馬台国フリークではないようです。
B雄
C福岡県生まれ、福岡県育ち、住所はいろいろあるが本拠地は福岡県のようです。
D熊本県の大部分と宮崎県の大部分だと言っています。

105 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/01(金) 18:02:36
>>96
先生では無いが
@特に無し。小学生の時から知っていた。卑弥呼は小学生に大人気。
Aこの掲示板で言えば4年目。
B♂(本来は火星の記号)
Cハンドルネームの通り。
D筑後国八女(上妻・下妻)郡・三潴郡

106 :縦目仮面:2010/01/01(金) 19:01:06
明けましておめでとうございます。

@ 中学生の時、雑誌「ムー」でアララット山上にあるノアの方の残骸といわれる写真を見たとき、このあたりから
   古代史と考古学に対する興味が芽生えたと思います。つまり、謎や不思議なことが好きなんですね。邪馬台
国もそ の一つです。
B このHNを用いて大学の後輩が書いている時もありますが、女子はいません。
D おそらく畿内でしょうが、それほどこだわってるわけではないです。

107 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2010/01/01(金) 19:51:16
あけまして おめでとうございます

>>96 
> 全ての先生方(名無し先生も)に質問です。

@ 皆さんが邪馬台国に興味をもったきっかけは何ですか?
  → 古田武彦著「邪馬台国はなかった」が出版された時。40年前
A 邪馬台国フリーク歴は2010年で何年目に突入ですか?
  → 30年くらい
B 性別は?
  →  爺
C 出生地、生育地、現住地はどこですか?
  →  鹿児島生まれ、奈良育ち、兵庫住まい
D 邪馬台国の所在地はどこですか?
  →  都は久留米


108 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/01(金) 20:55:09
いつの間にか新年に

では自己紹介と言う形で。

@  皆さんが邪馬台国に興味をもったきっかけは何ですか?
  → いまだに興味はありません。
A  邪馬台国フリーク歴は2010年で何年目に突入ですか?
  → マニアではない。関わり合うようになって足掛け6年になるかな〜
B 性別は?
  →  プラムは雌犬  河童には性別あったかな?
C 出生地、生育地、現住地はどこですか?
  →  東京都生まれの 茨城育ち 先祖代々茨城県人。
D 邪馬台国の所在地はどこですか?
  →  3世紀当時、對馬・壱岐を含む九州島と淡路を含む四国島


おじゃましました。

109 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 21:40:27
皆様あけましておめでとうございます。
そして縄文人さん、また遊んでくださいね。

@ 皆さんが邪馬台国に興味をもったきっかけは何ですか?
  10年位前に考古学系の冊子の手伝いをしていた時。
A 邪馬台国フリーク歴は2010年で何年目に突入ですか?
  特にフリークという訳ではないです。
B 性別は?
  男
C 出生地、生育地、現住地はどこですか?
  大阪から和歌山、現在は奈良の某天皇陵の近所。
D 邪馬台国の所在地はどこですか?
  北部九州、吉備、阿波、河内南部の勢力が
  奈良盆地に都を設けた状態。

110 :分類学者A:2010/01/01(金) 22:06:39
邪馬台国関連スレに書き込みをする人々の分類(案)
グループ A:プロ野球やサッカーのフアンタイプ 例えば虎キチと呼ばれる人々のように理屈抜きにタイガース
      を応援するように、畿内説なり九州説を熱烈に擁護する人々。自分の愛する説に有利と思える事に
      は分別を弁えず飛びつき、不利な材料は徹底的に排除する。良く言えば信念の人、悪く言えば頑迷
      固陋、冷静に見れば・・・馬鹿かも。
グループ B:学問派。文献や考古学資料を基に邪馬台国の所在地を捜し求める求道者。ただし、学問に対する考
      え方や方法論において異なる派閥がある。良く言えば常識派、悪く言えば論語読みの論語知らず。
グループ C:オタク、フリークなどオカルトや奇説珍説をもてあそぶ人達。良く言ってもゴミとしか・・・。
グループ D:改革派。従来の常識や学説の不合理を正すことに努める人達。

あなたはどのグループに入るだろうか。

111 :ひよこ:2010/01/01(金) 22:34:54
質問です。

邪馬台国の所在地発見のためには、文献と考古学のどちらに比重をおけば

よいのですか?むろん両方が一番いいというのはわかるのですが、素人なの

でそんなに手がまわりません。

112 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 23:04:12
>>111
文献の方が良いと思う。倭人伝を暗記するくらい読んで、そのほかの中国の
主だった歴史書の倭国関連の項目に目を通す。記紀も筋くらいは知って
おいたほうがいいかな。
基本だし、文献は裏切らないから。

考古学も話しに加われるくらいの知識があったほうがいいけど、考古学は
変わるというのを心得ておいたほうがいいかも。特に最近その傾向が強い。

考古学は、学者の解釈でも変わるし、新しい発見でも変わる。

113 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/02(土) 00:08:59
>>112
おおむね賛成。
考古学は素人が入るのは大変だろうと思う。
発掘とは破壊であるわけで、その破壊の状況は当事者にしか分からないことが多い。
やれ年輪年代法だ、C14だ、と最先端の年代測定を検証するわけにもいかない。
私は趣味の範囲だし、なるべく文献にとどめたいと思っている。
記紀だけでも生きている間は遊べそうですから。

114 :縦目仮面:2010/01/02(土) 00:32:17
うん。文献から入ったほうがおそらくやってて楽しい。で、調べていて、古代日本の海岸線は?などの疑問が起き
たら地質学を、邪馬台国時代の気候が知りたければ気象学を、というように少しずつ学問分野の範囲を広げてい
けばいいと思う。俺らアマチュアは、まずやってて楽しいことが大切で、さらにいろいろな知識が身につけば、趣味
としては上等なんじゃないかな?

115 :たまご:2010/01/02(土) 00:35:22
>>111-112
素人と言うのなら>>111より更に素人かもしれん俺が言うのも口幅ったいが

文献一本でやると言うのは別に取り組み方として間違ってもいないし
併用する時は色々弊害があるのでむしろ望ましいとも思うが
その場合きちんと文献史学とやらの常道を歩んで欲しいねw

書いてある事をそのまま信じると言うのなら、それはもはや宗教だし
当然、文献の場合なら他文献との検証比較により”ウラ”をとる。

基本単一史料である倭人伝はそれができない。
早い話、位置論争にそれだけで決着を付けられるようなもので無いと言う認識を外すとトンデモになる。

この板の九州説だとその文献の成立年代も無視して
改編コピペと元ネタを並べて論じるなんて事を平気でやって
自分達が文献に基づいて立論しているように考えているのだから馬鹿丸出し。

要は「暗号解読ゴッコ」だとwwwwwwww





116 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:00:12
>>115

>書いてある事をそのまま信じると言うのなら、それはもはや宗教だし
当然、文献の場合なら他文献との検証比較により”ウラ”をとる。


そりゃ当然宗教だ。お前さんは「文献を信じると」という自分で設定した中でしゃべっているので、それは当然「宗教」と言う答えしか導き出せない設定だわな。
今を生きる我々は、過去と言う見ることのできない世界の事は、文字や言葉で伝えられた
事しか知るすべがないのだよ。
信じるとか信じないという世界の話ではないのだよ。
伝えられた書に「黒」と書かれていれば、たとえタイムマシーンにて誰かが「白」を確認しても
その歴史は「黒」なのよ。
検証比較で「ウラ」をとる?どうやって? 過去には裏も表もないのよ。書かれて伝えられたものが「ウラ」なんて存在しない「書かれ伝えられた歴史なのよ」
他文献との検証比較?その他文献の「ウラ」もとるのか?
だったら結局じゃんけんと同じ三すくみじゃないのか?
他の文献のウラを取ろうとしている文献は、いまウラをとろうとしている文献じゃいのか?

書かれていることが、我々が知り得る過去の歴史なのよ。歴史には真実も糞もない。


117 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:04:03
>>114
確かに、興味が広がっていくのは楽しい。

118 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/02(土) 01:06:29
>>115

なんだよ結局お主も、九州説を利用して差別を楽しもうとする輩の一人かよ。

ちっちゃいの〜




119 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:13:57
>>116
白とか黒とか、河童虫と言うコテが同じような理屈言っていた記憶があるが
本人が名無しで登場なのかな?w

同時代で同じ事を書いてある文献があるのならその信用性が増すのは当然。
勿論その裏取りに使われる史料もまたそれに耐えうるものかどうか検討されるのは当たり前
あえて書かなかったが考古資料も使われるだろう。

お前がどう言おうと現実にはそうやって歴史と言われるものが形成されている。

まあこれが河童虫なら倭人伝に対し考古資料は勿論
他の文献史料すらも用いる事を廃し
自分の「言意学」が成り立つ前提を作る為…なんだろうなあwwwwww

本当河童じゃないのか?w



120 :116:2010/01/02(土) 01:18:00
…と思ったら >>118 でご本人の登場かwww

>>118
勘違いするなよ。

『この板の九州説』と書いてあるだろう?

(リアル)九州説一般の話では無いぞw



121 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/02(土) 01:30:03
>>120

>…と思ったら >>118 でご本人の登場かwww

116はコテが抜けてたね

>『この板の九州説』と書いてあるだろう?
(リアル)九州説一般の話では無いぞw

そんな区別いや差別までして楽しんでいたのかね?




122 :縦目仮面:2010/01/02(土) 01:33:28
また初心者相手の話ではなくなってるな。ここは2chだからどうしても性急な結論を求めてしまいがちだが、実際
は検証に継ぐ検証で、歴史の定説化はどの時代でも遅々として進まない。自分の業績として、この時代のこの分
野のここだけわかればよい、と範囲を限定して研究している学者は多い。それでも、文献やら考古資料で自説に
対する反証が出てきてしまう場合も多い。大きな流れから語ることができるのは、本来功なり名を遂げた大家だけ
かな。

その意味で言えば、公平に見てまだまだ材料不足であるのに、大げさな仮説を組み立てている考古学者が古代
史分野には多いとはいえそう。しかし大切なのは、わからないことはわからないということだと思うけどね。

123 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/02(土) 01:40:56
>>119

>お前がどう言おうと現実にはそうやって歴史と言われるものが形成されている。

そのように歴史が形成されているのであれば、なぜここで書き込む?
俺が何を言おうと、何も変わることがないのだから、書き込む必要性も無いことだろう?ん?
それを一々書き込まなければならないという事は、自分の中でどこか引っかかっているのではないかな?

自分では気づかない深層で、無意識のうちに・・・


124 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 01:43:24
>>122
>わからないことはわからないということだと思うけどね。

そうだから考古学が示せるのはあくまで「状況証拠」にすぎない。
その限界は畿内説論者も肝に銘じておくべきだと思う。

が文献では倭人伝一本で何処まで検証できるのか?
その限界をこの板の九州説の連中は知るべきだなwwwwwww

125 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/02(土) 01:57:35
>>124

>が文献では倭人伝一本で何処まで検証できるのか?
その限界をこの板の九州説の連中は知るべきだなwwwwwww

つまり、検証できるのか?という疑問に対し、次の文章では「限界」という言葉を使っているので
貴方はつまりは早い話、文献では限界があると述べたいわけだろ?

でもね〜それは貴方の意見であって、貴方の文献に対する認識と位置付けで相当変化するものではないかな?貴方の知るべき認識が貴方の判断を全て左右するわけだから
つまり、貴方が限界と認識するものも
他人からしたら限界ではないのかも知れないよ
しかしそう言われても、貴方には限界があるという認識のもとに発せられた言葉だから、限界としか映らないんだけどね


126 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/02(土) 02:06:28
>>122

>しかし大切なのは、わからないことはわからないということだと思うけどね。


そうかな〜?
たぶんそんな世界があったら、たぶんつまらない世界だろうね
騙す人がいて騙される人がいる。だから世の中面白いんじゃないの?


127 :縦目仮面:2010/01/02(土) 02:22:02
>>126
俺は名無史で人をおちょくることはあるけど、自分でもわからないことをはっきり正しいとして書いたことはない
つもりですよ。・・・これはよい悪いではなく、2chに向かうスタンスの問題。

128 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/02(土) 09:08:24
日本書紀でいえば、7世紀の遣隋使以後は、中国文献とおおよそ一致する記事がある。
その前、5世紀の「倭の五王」時代は、應神・仁徳・雄略紀に「呉」との交流記事がある。
古事記にも雄略世に呉人が渡来したとある。
細かい年代は合わないが、この「呉」は中国の南朝を指すと見てよいでしょう。
さすがに日本が朝貢したとは書かず、仁徳紀などは逆に「呉」が朝貢したと書いているが。
それ以前は中国関係の記事は無い。モモソヒメが出てくる崇神紀にも無い。
古事記ではモモソヒメは名前以外、具体的記事は無い。
ここは基本として抑えておくべき。


129 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 09:51:09
>そうかな〜?
たぶんそんな世界があったら、たぶんつまらない世界だろうね
騙す人がいて騙される人がいる。だから世の中面白いんじゃないの?

何れはここも河童の独壇場と化してしまう予感。
スケールが違うって感じ。
ただ今邪馬台国関連スレ人気NO.1。向かう所敵なし
他講師陣、もの足りねー。

130 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 09:57:28
その前にここで議論するなってはなし
初心者くんに悪いだろ


131 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 10:04:12
初心者に自分をアピールしたいwww


132 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/02(土) 10:15:42
>>130

>初心者くんに悪いだろ

誰が初心者なの? それに、相手が特定出来ない掲示板で
初心者なんて区別が必要なのか? 参加した時点で誰もが平等の位置なんじゃないのか?


133 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 10:18:23
それじゃこのスレの存在意味も無いって話でしょ。

134 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 10:22:47
>>132
タイトル&サブタイトルよく嫁ょ
暗号解析ごっことかヤマタイ国先生ごっこだとか
最近のコテ連中の間ではママゴトが流行してるのか?ww




135 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 10:27:15
これから、
来るよ、来るよ、河童節。
バズーカ砲!

136 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 10:47:11
こいつら普段の実生活でもこのように常識知らずなんだろうね
神経を疑ってしまう

あ 俺の名前が無いからって僻んで投稿してるんじゃないよ >1に載ってる者ですけど


137 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/02(土) 10:57:57
>>134

>タイトル&サブタイトルよく嫁ょ

「タイトル」がもちもち感の白タイ焼きに、「サブタイトル」が鳩サブレに読めてきたので
雑煮でも食ってくるわ


138 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 10:59:29
これから、
来るよ、来るよ、河童節。
ミサイル級!

139 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 11:00:44
やっぱ河童は他コテとは全然違うね。2chを知り尽くしてるし、スマート。他コテは引き立て役だな。

140 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 11:02:10
河童様万歳!! 河童様万歳!! 河童様万歳!! 他の雑魚コテ連を蹴散らしてくれ!!

141 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 11:03:56
冷静に見ても、金が取れるのは河童だけだな。

142 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 11:04:30
ほら、いつの間にか河童が主役だろ。

143 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 11:05:12
河童さんに一生ついて行きます。2chの王として君臨してください。

144 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 11:07:22
客を呼び込んで金を稼げるのは河童だけ。
他講師陣は凡人領域。使えない。

145 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 11:07:37
>>138-143
ジサクジエンはやめましょう。

146 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 11:34:22
>>138-143
ジサクジエンはやめましょう。


あのー、142は別人ですけど。

147 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 11:48:31
河童最高!!自作じゃないよ。

148 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 11:53:20
142だけど、
河童の文体、本当におもしれーよ。

149 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 12:24:51
秘技「ほめ殺し」か、やるなあ。

150 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 12:30:53
秘技「ほめ殺し」とは・・・・相手の不用意な自演を指摘せずに利用し、相手の臭さを際だたせる
2ch特有のレス技の一つ。相手が自演を常用する腐った心根の持ち主であればあるほどよく
決まる。

151 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 12:40:15
太国 ◆yVAs7uaYlY先生 (倍暦、古神道学の権威、邪馬台国関係は意外と詳しくないw)

WHO???
ひょっとして、河童と対抗する爆発キャラ?

152 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/02(土) 14:01:26
さ〜てその「褒め殺し」がどこまで通用するかな?
あそこまで連発されると「嫌味」にしか見えないけどね

>>150

>秘技「ほめ殺し」とは・・・・相手の不用意な自演を指摘せずに利用し、相手の臭さを際だたせる
2ch特有のレス技の一つ。相手が自演を常用する腐った心根の持ち主であればあるほどよく
決まる。

それは貴方の勝手な思い込みじゃないの?
「相手が自演を常用する腐った心根の持ち主」という貴方は自分の世界を描いたのちに結論に結び付けている。つまり、貴方の心の中には、「自演常用=腐った心根」という図式が既に出来上がった状況で、そういう認識の下だけでしか判断を下せない状況だわな
そりゃあ世の中いろんなパターンの人間がいるから、貴方が思い描いた構図にピッタリ当て嵌まってくれる御仁もいるだろうけど


153 :あかご:2010/01/02(土) 15:52:21
質問します。

@ 講師の先生方の中で、最も人気がある人は誰ですか?
A 講師の先生方の中で最も嫌われている人は誰ですか?
B 講師の先生方で、邪馬台国の(まじめな)議論で、最も知識のある人は誰ですか?

154 :邪馬台スレ1フアン:2010/01/02(土) 16:29:07
>>153
先生方は答えにくいだろうから。

@一般的には「河童先生」と考えられています。ですが、上で出てきたような印象操作も
多少はあるのかもしれません。また「河童節」は、真面目に邪馬台国問題を考えたいとい
う人にはスルーされます。しかしやはり2ch歴から言ってもこれは妥当かと思いますよ。

A「改め先生」はよく集中攻撃を受けるため、憎まれていると見るむきもありますが、アン
チもフアンと考えれば人気者であるともいえます。ただし「河童先生」に対する嫉妬の言
葉はやはり見苦しいものです。
「太国先生」も粘着と罵倒には定評がありますが(現在は長期のアクセス禁止中のよう
です。)「倍暦」を否定しないかぎりは気のいいおっさんという感じです。
「美濃もん太先生」は、登場すると、圧倒的なレス量とその破天荒な内容のため、他の議
論がまったくできなくなるので隔離スレに入っていただいている状況ですが、嫌われている
のともまた違うようです。

B「ローガン先生」か、コテハンではないのですが「www先生」ではないでしょうか。「www
先生」は九州説相手に一人で闘っている場面をよく見かけます。「縦目仮面先生」は学問
全般に広汎な知識があります。「愛知県民先生」は記紀に大変詳しいです。

155 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 17:19:20
>>154
アホな事言うたらアカンでジブン〜wwwwwww

>>153のBの質問はあくまで『最も知識のある人』だぞ?
wwwなんて知識の総量で言えばこの板の畿内説論者の中では最低ランクなのは間違いないw
本来なら「向こう十年ROMっとけ」と言われるレベル。
「ローガン」だの「縦目」だの「愛知県民」だのと比べるべくも無い。

それでも、俺如きがこの板で九州説を景気良く叩けるのは、連中があまりにも
 
  『 ト 』 で あ っ て

何のことは無い、既に自己矛盾を起こしていて、そこを突くだけで済むからなんだなwwwwwww

156 :別の邪馬台スレフアン:2010/01/02(土) 18:25:54
考えたんだけど、纏向発掘でちょうど盛り上が
ってるんで、ここのコテ連で邪馬台国本出せないかな。
畿内説と九州説に分かれて、HNでバトルをする
という内容で、ドツボが司会。畿内説の大将がローガンで、
九州説は年の功を買ってサガミ。それとは別に、
一人一人に3Pくらいで邪馬台国論を書いてもらったのを
つける。新書や文庫は無理だろうから、関裕二のコンビニ本か、
B5版のムックで。どっかの出版社でやらねえかな。

157 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 18:50:13
>>156
そんなもの金を出して買う馬鹿がいるとは思えないわけだがwwwww

158 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 19:04:53
質問します。

折角だから、

@ 講師の先生方の中で、最も人気がある人は誰ですか?
ダントツで河童虫

A 講師の先生方の中で最も嫌われている人は誰ですか?
ノーコメント

B 講師の先生方で、邪馬台国の(まじめな)議論で、最も知識のある人は誰ですか?
ローガン先生。
改め先生もあるかも知れない。この方は名前をたくさん持つのが趣味のようで、本心を明かさない所があるので要注意。
昔、なんと九州説の振りをしていた。実は畿内派の大先生だ、気付いている人は気付いている。


159 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 19:39:11
>>158
wwwドツボだけはないよwww過去ログ読んだことあるの?

160 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 20:53:14
河童が一番だよ。

161 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 20:55:40
河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!

さあみんな、手を叩いて河童コールだ!河童!河童!僕ら河童!スーパースターのお出ましだ!

162 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 20:58:00
あそれ、河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!
河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!
河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!
河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!
河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!
河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!
河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!
河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!河童!
河童!河童!河童!河童!河童!河童! 僕らは河童を待っている。

163 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 20:58:59
河童は2chの王、歴板の主さ。すごいんだぜ。

164 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/02(土) 21:57:32
>>162

いま携帯の docomo とauが年末からアク禁中なんだから、そんなことして今度はPCアク禁でもなったら
暫く書き込み出来なくなるよ


165 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 22:51:11
>>164
誉めてんだよ。

166 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/02(土) 23:00:49
>>165

それを判断するのは運営だよ

167 :こども:2010/01/03(日) 04:27:00
質問します。

@魏志倭人伝の数字、万二千余里や七万余戸というのは信用してよいものなのですか?
A郡使は邪馬台国まで来ていないという説は本当ですか?
B司馬氏の功を大きくするため、大国に書かれているという説は本当ですか?

168 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/03(日) 09:37:51
>>167
@万二千余里は魏代の「里」だと明らかに大き過ぎます。
東夷伝のみ、周代の短い「里」が使われているとする説もあります。
七万余戸は、一都市の人口としては洛陽に迫る巨大都市になってしまいます。
もっと広い領域の合計戸数とする説もあります。
Aは間違いでしょう。倭人伝の記述では、梯儁も張政も女王に会っておりますので。
Bは@と関連しますが、少し穿ち過ぎではないでしょうか。
西の大月氏国より大きくしたという説でしょうが、魏志には西域伝が無いので
比較する必要がありませんから。

169 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/03(日) 09:42:55
>>168 訂正
A郡使は伊都国どまりでしょう。梯儁や張政は皇帝の使いだから都まで行っています。

170 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/03(日) 09:51:39
>>169 訂正
「皇帝の使い」という表現は違いますね。郡の太守が派遣したが、皇帝の詔書を届けたということ。


171 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 10:22:28
梯儁や張政が都まで行ったのなら
倭への行程文が途中で距離(里)から時間(日)に変わるのは何故?

172 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/03(日) 11:11:51
>>171
それはどんな事情があったかは分かりません。
梯儁は「奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王」とあり、都まで行ったと明記はされていないので
女王が伊都国まで出向いたと考えられなくもない。
その場合は邪馬台国までは行っていないことになる。
行程論は泥沼に入るのは分かっていますが、一度泥沼にはまってみるのも必要かもしれませんね。

173 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 11:27:35
行ってたら行程を詳しく書くでしょう。

近くに来て端折る事は考えられないので、
伊都国までと思うけどね。

174 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/03(日) 11:52:54
>>173
>近くに来て端折る事は考えられない

端折ったというより、表記方法が変わっただけでしょう。
対馬・一大・末盧の記事が風土など詳しいことは確かですが、これは海を渡って別の島に来たからで、
その後は同じ島内という認識じゃないの?
あ、ここは論争スレじゃなかったですね、失礼。


175 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/03(日) 12:11:30
>梯儁は「奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王」とあり、

この時梯儁は大和まで来て、そこで垂仁の『塚』を見た。


176 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 12:11:32
>>174
>その後は同じ島内という認識じゃないの?

伊都国までは、国名 官名 国情、というテンプレにそって記述してあります。
奴国以降は国柄の記述がありません。そこが違います。
国情のことですから、同じ島内とか関係ないんじゃないですかね。

どうしてここで書き方が変わるんでしょうか?


177 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 12:16:46
>>175唐松山先生
梯儁は女王に会いに都まで行ったんですね。
倭への行程文は梯儁の記録がもとになってるんでしょうかね。

途中で距離(里)から時間(日)に変わるのは何故でしょうか?

178 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/03(日) 12:23:50
>>176
>伊都国までは、国名 官名 国情、というテンプレにそって記述してあります。
>奴国以降は国柄の記述がありません。そこが違います。

「国情」「国柄」という曖昧な言い方はやめましょう。
対馬・一大・末盧の三国は「風土」と「産業」が記されています。
伊都国にはこれがありません。政治的な記事のみです。
奴国から投馬国までは政治的に重要な国が無いので説明が無い。
邪馬台国は政治的な記事が有ります。

179 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/03(日) 12:38:30
>どうしてここで書き方が変わるんでしょうか?

ここで書き方が変わるのは、
初回景初元年(2年かも)に最初の調査団が来倭、伊都に留まり倭王を探す。
当然半島を通ってやって来たわけですから、任那を知っている。
九州で倭王、倭国倭王(男王)は,女王卑弥呼に位を禅譲後であったため女王に朝貢を勧める。
卑弥呼は、各王達に通達、大将難升米(難斗米)次将都市牛利(田道間守)として朝貢団を編成
奴国を6月初めに出立その月の末には郡に到着、そこで皇帝と連絡を取り、謁見後梯儁を伴い帰国、田道間守が帰国したのは3月の事であった。
そこで田道間守が目にしたのは、垂仁の墓(ホケノ山古墳)。
景行は、あわてて代替わりの知らせを梯儁に付けて洛陽へ行かせると
そこにも皇帝崩御、交代があり早々に引き返す。

書き方の違いは、行った時期と人間に違いがあるから。


180 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 13:10:17
>>178愛知県民先生
対馬・一大・末盧はそれぞれの地域(島)の「風土」と「産業」(その後は同じ島内なので省略)。
伊都・邪馬台は政治的に重要なので「政治的な記事」(奴国から投馬国までは重要では無いので省略)。

ということですか。ありがとうございました。

181 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 13:16:51
>>179唐松山先生
伊都国付近までは最初の調査団によるもの。
投馬国以降は梯儁によるもの。

ありがとうございました。

182 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/03(日) 14:22:43
>投馬国以降は梯儁によるもの。

言葉足らずであった。

投馬国以降は田道間守が洛陽で語った数字
田道間守は、大和を出てから但馬に寄り、吉備を経て筑紫に着く
もしかしたら出雲経由ではないか?


183 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 14:35:21
>>158
wwwドツボだけはないよwww過去ログ読んだことあるの?

このネット世界では知る人ぞ知るあの畿内説大先生の事だろ。


184 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 14:37:24
陳寿は倭人伝を書くときに単位(距離の里、時間の日)を何故統一しなかったのだ?

185 :縦目仮面:2010/01/03(日) 14:40:00
どうしても水掛け論になるので、普段はなるべく倭人伝には触れないようにしてるんですが・・・。
まず陳寿により三国志が書かれたのは280年代、魚豢の魏略が260年頃でしょうか。陳寿は魏略を下敷きに
さらにそれ以外の資料を加えて倭人伝を書いたと思われます。

@万二千余里は はるか遠い国を表す常套句という説もあるけど、陳寿が倭人伝を書いた頃の倭国についての
中国知識人の共通認識といったものでは?魏使が実測したとは思いません。地域的短里については中国での
研究というのは読んだことがないです。

戸数七万余というのは、これも実際に調査し数えたとは思いません。邪馬台国は、 >租賦を収む邸閣あり 
と収税していたような記述がありますが、後代の班田制のようなものがあったはずもなく、邪馬台国がゆるや
かな諸国連合であったとすれば、すべてのクニの人口を一カ所で把握するのは困難だったと思われます。
だから七万戸というのは、ごくおおざっぱな概数、程度の認識です。小山修三氏の「弥生末人口100万超」と
いう研究を信じるなら、七万戸なら現在の地方二つ分くらいの、相当に広い範囲を表すでしょう。

186 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 14:44:01
>>182唐松山先生
帰国してから語った数字には違いないでしょうね。

>但馬に寄り、吉備を経て
>もしかしたら出雲経由

不彌國から邪馬台国までの間には、投馬国しか書いてないですよ?

>洛陽で語った

梯儁を遣わしたのは、帯方郡大守ですが?

187 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 14:48:34
>>185縦目仮面先生
>触れないようにしてるんですが・・・。

たまにはいいでしょう。

>三国志が書かれたのは280年代、魚豢の魏略が260年頃

根拠は?

188 :縦目仮面:2010/01/03(日) 14:56:30
Aこの郡使というのが梯儁や張政のことを表すなら、職責から考えて卑弥呼には会ったと思います。また、
>王となりしより以来見るある者少なく という記述から、卑弥呼の神秘性を保つためにも伊都国まで自ら出
ばって来たとは俺的には考えにくいです。ただし、これら張政らの報告書があり、しかも陳寿がそれを見たと
いうのは、あたり前のように論じられていますが、俺的には結構ハードルが高いのではないかと思います。

伊都国までの記述は、常駐していたとされる郡使からの報告を基に書けるし、それ以後の日数表示の部分は
陳寿が三国志を書いた当時の共通認識といったものかなと思うこともあります。

189 :縦目仮面:2010/01/03(日) 15:06:19
>>187
三国志の完成が280年代というのはほぼ定説ではないでしょうか。魏略については諸説あるんですが、時間的
に最後の記事が、三国志に引かれた甘露2年(257)のもの見られることから、それ以降の完成でしょう。ただし、
もっと新しいものであることを否定する根拠はありません。

190 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 15:13:23
>>188縦目仮面先生
>郡使というのが梯儁や張政のことを表すなら、職責から考えて

職責から考えて、梯儁や張政のことを表すなら、勅使になるのではないですか?
郡使往來常所駐、の郡使とは区別してよいのではないでしょうか?

191 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/03(日) 15:17:41
>租賦を収む邸閣ありと収税していたような記述がありますが、

崇神12年3月 宜當此時。更校人民。令知長幼之次第。及課 之先後焉。
崇神12年 秋九月甲辰朔己丑。始校人民。更科調役。此謂男之弭調。女之手末調也。…
詔曰。船者天下之要用也。今海邊之民。由無船以甚苦歩運。其令諸國俾造船舶。

崇神12年迄は、種貸しのみであったが、国が広くなると米を集めるだけでは税として
調整が大変になるので、人足や機織りも税とする、
遠方からの米の運搬を考えて船を造る。



192 :縦目仮面:2010/01/03(日) 15:25:32
>>167 の「郡使」というのが張政や梯儁のことではなく、常駐しているただの郡使のことなら卑弥呼に会った
かどうかはわかりません。重要な用件なら会ったかも?

Bは難しいですね。岡田英弘氏の説に完全に与するものではありませんが、陳寿はある程度「春秋の筆法」
も用いていたとは思います。

193 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/03(日) 15:31:54
この頃から九州では、
ホ38129 ミドリノの カワサカたのみ かすめとる みなカナメヂに
あつまリて ヲサとナのるを うちたまえ

この調である米の運搬中、河や坂の休憩中を狙いそれをかすめ取る。
軍を派遣しても山中に逃げ隠れ、成果が上がらない。
この状態が長く続くと、疲弊するのは、軍を派遣する方である。
ここに「乱」がある。



194 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 15:49:51
>>189>>192縦目仮面先生
ありがとうございました。横から失礼しましたね。

岡田説はおもしろいでしょう?

195 :縦目仮面:2010/01/03(日) 15:50:25
税の問題は、おそらく唐松山さんとは邪馬台国の規模に関する認識が異なるため、どうしても解釈に齟齬が
あるようです。俺は畿内説で、しかも大規模諸国連合説をとっているので、税は各クニごとに集めて卑弥呼の
元に持ってきたのではないでしょうか。また後代の「庸」のようなこともあって、各クニから人を出して、初期の
前方後円墳を造っていたのかもしれない。

196 :縦目仮面:2010/01/03(日) 15:59:56
>>194
先生はつけないでください。まだ学徒ですので。w 岡田氏の漢文についての論説はたいへん面白く、一面
言意学にも通じるものがあるような気がしますね。いつか河童さんが「漢文は目で見て全体像を掴む」という
ようなことを言っていた(違ったかな?)と思ったけど、実際、書き下しすれば微妙に意味は変質するような。

197 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/03(日) 16:23:48
>大規模諸国連合説
>税は各クニごとに集めて卑弥呼の元に持ってきたのではないでしょうか。

この状態は景行が「屯倉」を始めてから成り立つ。
崇神が大きく国をまとめた時点では、まだ各国の独立の度合いは強い。
九州は崇神の手の届かない地方であるし、「国内安寧」とか「畿内無事」と書かれた地方に
歴年の「乱」は無い。
ここに無理矢理「卑弥呼」を注入するからややこしくなる。



198 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/03(日) 16:34:43
崇神7年 亦有海外之國自當歸伏。
崇神7年には、かなりの国が崇神の元へ集まっている
これを確固たる物にするため、四道将軍の派遣がある。

なぜ7年に崇神の元へ集まったか?
それは6年秋に大国主が大王の座を崇神に譲ったからなんですよ。
ここに「乱」は想定出来ない。


199 :縦目仮面:2010/01/03(日) 16:56:27
>>197
>ここに無理矢理「卑弥呼」を注入するからややこしくなる。
そうですね。記紀と倭人伝は混ぜて読むとわからなくなっていくばかりという感はあります。

>>198
>それは6年秋に大国主が大王の座を崇神に譲ったからなんですよ。
これについての論評は俺にはできません。

俺は、実は倭人伝については、この板ではかなり異端とされる考えを持っていて、上で少し書いたように「魏
使(張政ら)の報告書」なるものがあったのかどうか疑問です。
晋書倭人伝に、>泰始初、遣使重譯入貢 とありますが、これはおそらく266年のことで、これを邪馬台国
女王である台与の朝貢と見るなら、まずこの時の情報を参考にしたのではないでしょうか。この後倭からの
朝貢があったかはわかりませんが、魏史倭人伝においては、歴史的記述は魏末までで筆を止めるとしても、
地理的記述については、陳寿が三国志を完成させた280年代までの情報を基にしていても不都合はないの
ではないかと思います。

200 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/03(日) 16:59:18
畿内 邪馬台国論の最大の弱点は、そこに卑弥呼を想定出来ない事。
九州 邪馬台国論の最大の弱点は、卑弥呼の後の倭国を説明出来ない事。

そこで私の様な 邪馬台国は、畿内だが、卑弥呼は九州と云う
不埒な輩が登場するわけだ。


201 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 17:11:07
>>200
>卑弥呼の後の倭国を説明出来ない事。

九州王朝説があるじゃない。

202 :縦目仮面:2010/01/03(日) 17:49:08
>>200
日本書紀にある景行天皇の九州平定のようなことはあったのではないですかね。例えば大分県日田市の小迫
辻原遺跡古などは、日本最古とも言われる古墳時代初めの豪族の居館跡が出土していますが、ここをヤマト
王権の拠点と考えると、奴国から南下して筑後川流域方面を制圧していったのかもしれません。

203 :こひつじ:2010/01/03(日) 18:02:30
質問させてください。
@テレビで見たのですが、卑弥呼は日食によって殺されたのでしょうか?
A卑弥呼の後、また台与の前の男王の治世はどれくらいでしょうか?また、この男王は
 文献では誰にあたるのですか?
B卑弥呼の鬼道とはどのようなものですか?

これは、唐松山先生や愛知県民先生がお詳しいのでしょうか?

204 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/03(日) 18:33:22
>>196

Yes,  

日本語は聞いて楽しみ、古代漢文は芸術作品、見て楽しむものです。


205 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 19:31:35
畿内説だとか九州説だとかぬかしとるんじゃね〜バキャロー。群馬を忘れるでね〜コケヤロー!!
んだ。茨城も忘れんでね〜このデレスケ!!
タワケ!長野も忘れるなこのダボ!!
クソダーケ!尾張は日本一の穀倉地帯だがやオタンチン!!
アホンダラ!畿内言うたら奈良やドアホウ!!
アホッタレ!大阪も畿内やで〜ボケ!!
ダラジモン!出雲はどぜう掬いだけじゃにゃーぞダラズ!!
ダアホウ!キビダンゴを知らんとはおえんの〜アンゴウ!!
アホタレ!やっぱ博多たいこのアンポンタン!!
フーケ!佐賀んもんをバカにすんなフーケタレ!!
バギャ!熊本ん馬刺しば食うてから言えこのズンダレ!!
ゲドー!神武は日向から出たとじゃけんねこのバカタン!!
ハナタレ!桜島がおわす。卑弥呼の墓は溶岩の下になりもしたドンタ!!
フラー!帯方郡から南に万二千里は沖縄でハイサイトットロー!!

206 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/03(日) 20:21:02
>九州王朝説があるじゃない。

前方後円墳を除けば、その時代の「大王」が特定できない。
ここが九州説の行き詰まり。


207 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 22:02:19
唐松大先生閣下

<九州 邪馬台国論の最大の弱点は、卑弥呼の後の倭国を説明出来ない事。

とおっしゃいますが、倭人伝には卑弥呼の後男王が立ったが国中服せず結局また卑弥呼の宗女の壹與を立てて定まった
とあります。しばらくは倭国の盟主は邪馬台国であったということで問題がありますか?

その後邪馬台国がどうなったかは文献に見えませんので、誰が何と言おうと推測になってしまいます。
邪馬台国(邪馬壹国)という言葉が登場するのは三国志魏志東夷伝倭人条だけです。隋書には倭国について
都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也 とありますが、倭人伝を見て(?)書かれたものかも知れませんが、字
も違いますし、約4世紀前の事ですから隋書の編著者もよく分っていなかったのではないでしょうか?

208 :縦目仮面:2010/01/03(日) 23:12:10
@有名な、>卑弥呼以死 の部分ですが、卑弥呼殺害説は俺はとりません。殺されたのであればもう少し
そのことがはっきりとわかるように書くのではないでしょうか。比較しにくい文脈ではありますが、東夷伝不
余伝には王殺しについて >或言當殺 と出てきます。中国側で卑弥呼の死のいきさつについて何か隠匿
すべき事情があったとも思えません。老齢によるものと考えてよいのでは。あと死亡年については、247年
説と248年説がありますね。

日食と死の関係については専門ではなくよくはわかりませんが、wikiにはこのようにありますね。

>現在の正確な計算では、いずれの日食も、邪馬台国の主要な比定地である九州本島や畿内の全域で(欠
 ける率は大きいが)部分日食であり、部分日食は必ずしも希な現象ではないことから、日食と卑弥呼の死の
 関連性は疑問視されている。

209 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/03(日) 23:12:59
卑弥呼→男王→壹與
と続く王朝が九州にあればその後の動向が把握できない。
この頃から九州にも大型古墳の時代が来る、その古墳の形は畿内形、前方後円墳だ。
この辺の数字は、佐賀の高島教授あたりが握っているから、まだ遡上していないが
まもなく遡上するであろう。

それらを勘案しても「九州王朝」を表現する墳墓が出てこない。
出て来ない以上、それ(九州王朝)は無かったと考えるしか無い。

神功渡海時までの、書紀の記録はハッキリしている。

隋書が書かれたときには遣隋使が存在する。
倭人伝の事を聴かれた、遣隋使は、その事実を把握していない。
だから、数字の合う神功時代に記事を注入したが、百済の歴史は注入では無い。
百済本記は正しい百済の歴史を語っていない。
409年を頂点とする倭軍の侵攻は、百済の為である。この時百済は非常に大きな痛手を負う。
この辺の約50年分の記録が抜け落ちたのが、百済本記であり、正しく伝えて居るのが新羅本記である。




210 :縦目仮面:2010/01/03(日) 23:18:12
A短かっただろう、程度しか言えませんね。卑弥呼と台与にはさまれた男王については、畿内説なら崇神天皇
や、大田田根子にあてる説がありますが、無理に記紀と摺り合わせる必要もないかと。・・・すんません、答えに
なってませんね。

211 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/03(日) 23:20:26
倭人伝の注入は 年の干支も朔の干支も合致するところにあるが、
百済王朝の数字は年の干支が違う、しかし朔の干支が合う
私が百済本記を編年に使わないわけ。
百済本記には、肖古王が2名登場する、そして数字を無視しても、書紀の肖古王とは記事が合わない。
そこで肖古王を調べたのが下記の数字です

百済本記 肖古王
東漢桓帝延熹9年 :丙午年1月辛卯朔166年2月18日 この年肖古王即位 
東漢獻帝建安19年 :甲午年1月癸未朔214年1月29日 この年肖古王崩御
百済本記 近肖古王
東晉穆帝永和2年 :丙午年1月丙寅朔346年2月8日 この年近肖古王即位 
東晉孝武帝寧康2年 :甲戌年1月癸未朔374年1月29日 の年近肖古王崩御

書紀の肖古王
西暦273年日食、西暦274年神功元年として、
西暦301年?皇暦888年、神功28年戊申1月辛卯朔 この年肖古王即位か?
西暦328年◆皇暦915年、神功55年乙亥1月癸丑朔? この年、百濟肖古王薨。
30日の誤差で癸未朔が成立

百済本記 肖古王即位年の1月朔と書紀肖古王即位年の1月朔は同じである。
百済本記肖古王崩御年の1月朔は、百済本記近肖古王崩御年の1月朔は同じである。
この事実から、書紀の干支で書かれた百済記があり、それが3国誌に使われた可能性を
否定出来ない。



212 :縦目仮面:2010/01/03(日) 23:38:09
>>211
やはり三国史記は、編纂姿勢そのものが新羅偏重であると意識して読むべきなんでしょうかね?

B卑弥呼の鬼道は、俺はあちこちに書いているように、首長霊信仰、前方後円墳の祀り。
卑弥呼=アマテラス=太陽信仰という図式は疑問。

213 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 23:47:22
縦目くんはマダマダだな・・・



214 :日本@名無史さん:2010/01/04(月) 00:28:42
>>>>208>>210>>212 終止符スレ>691にて
>あなたは少しは勉強して断片的知識は増えたでしょうが、それをつなぎ合わせるための基盤がない。
>もん太師と基本大差ないと思いますよ。もん太師ほどの爽快さもない。

縦目くん笑わせるなってwwwwww


215 :日本@名無史さん:2010/01/04(月) 00:31:33
>>214
ドツボ本人かな?www

何れにせよツッコミどころでもなんでもないと思うが?w



216 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/04(月) 00:33:11
>>212

「鬼道」を探るのに、このような方法もありますよ。

「鬼道」は「鬼(おに)」と「道(みち)」という二つの異なる文字が組み合わさったもの
「道」という名詞を「鬼」で修飾しているという形になりませんか?

つまり
「鬼」=形容詞(ずるい、あやしい)
「道」=名詞 (方法)
卑弥呼は「ずるい方法(あやしい方法)」で、民を惑わした。

じゃあ、その方法はどんな方法かは、文中にて見つければいいということで


217 :縦目仮面:2010/01/04(月) 00:46:44
>>214
上に出てくるような倭人伝に関連した質問は本来俺向きではないし、初心者に語るというのも苦手なんで。
いずれにしても畿内説は九州説と比べればばつまらないと思われ。
>>216
「鬼」が形容詞なら確かにそんな意味ですが、「鬼道」を熟語と考えて、祖先や精霊を祀る道・・・というような解釈
はだめでしょうか?(すでに河童流にはまっているw)

218 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/04(月) 01:07:03
>>217

>、「鬼道」を熟語と考えて、祖先や精霊を祀る道・・・というような解釈
はだめでしょうか?(すでに河童流にはまっているw)

この場合、「祀る」を何処から引っ張ってきますか?


219 :日本@名無史さん:2010/01/04(月) 01:07:48
>>216
>じゃあ、その方法はどんな方法かは、文中にて見つければいいということで

文中にそのアンサーが出ているという確証は何によって得られるのかな?
「鬼道」の内容について確定したような話は聞いたことが無い。

てかその答えをズバリ書いてみんかね?www

「つづきはWEBで…じゃなく河童の”言意学講座”で!」

なんて思わせぶりのごまかしならレスは良いからなw



220 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/04(月) 01:19:10
>>219

>「鬼道」の内容について確定したような話は聞いたことが無い。

>「鬼道」の内容について確定したような話は聞いたことが無い。

そりゃそうだよ。今日私が初めて公開したんだから
でも、興味なければ確定させることもないんじゃないの?

それ以上知りたい人は自分で調べればいいだけの話だし。
「鬼道」=ずるい(あやしい)方法
という意味を提示したんだから。


221 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/04(月) 01:25:23
>>219

>なんて思わせぶりのごまかしならレスは良いからなw

思わせぶりも何も
正直「鬼道」の意味解釈には興味はあっても、それが実際どういう方法かなんて全然興味ないし   一つの方法として縦目さんに提示したまでの事。


222 :縦目仮面:2010/01/04(月) 01:27:10
明日から寒稽古が始まるww 正月はオカルト板での論争が多く、歴板では脱力して書いてましたが、向こうは
美濃もん太師級の人がたくさんいて、この板は2chでもかなりまともと思われ。wwwwwww

223 :日本@名無史さん:2010/01/04(月) 01:34:10
>>222
なるほどねぇ・・・
それと寒稽古頑張ってねw


224 :日本@名無史さん:2010/01/04(月) 01:41:44
最近の河童って、スタイル変えてないか?

225 :縦目仮面:2010/01/04(月) 01:41:59
>>223
ありがとうございます。ま、素足は慣れてるんで。ちなみに議論テーマは、霊界ラジオ、英国心霊主義、ファテ
ィマの奇跡、ジャンヌ・ダルクとジル・ド・レイ etc。 ww

226 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/04(月) 01:55:56
>>224

そ〜うか〜?

>>225

>明日から寒稽古

私の初稽古は出張後の15日から。絶対初日は息が上がること間違いなし。
寒中は、上半身汗かいても足先は感覚がなくなる〜
16日は寒い体育館で、一日中子供達の試合の審判だし

>美濃もん太師級

オカルト板ってそんなにすごいんだ(怖)
私は最近、旅行板や鉄ヲタ板で遊ぶようになりました(笑)


寒稽古頑張ってください。そして四段も(私は後二年受験資格がない)


227 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/04(月) 10:26:36
神功時代とは
275年 神功元年として
325年 五十一年春三月 百濟王亦遣久氐朝貢…永爲西蕃 終 無貳心
326年 五十二年秋九月丁卯朔丙子 久氐等從千熊長彦詣之 則獻七枝刀一口
便取是山鐵 以永奉聖朝
336年 六十二年 新羅不朝 即年 遣襲津彦撃新羅 【百濟記云 壬午年…
天皇遣沙至比跪 以討新羅

『通典』邊防 東夷上 百濟 新羅 倭國より
晉武帝咸寧(275年-280年)中、馬韓王來朝、自是無聞。三韓蓋爲百濟、新羅所呑并。
『晋書』馬韓伝より
 武帝太康元年、二年、其主頻遣使入貢方物、七年、八年、十年、又頻至。
太熙元年(290年)、詣東夷校尉何龕上獻。咸寧三年(277年)復來、明年又請内附。
『南斉書』加羅國伝より
 加羅國、三韓種也。建元元年(315年)、國王荷知使來獻。

『梁書』高句麗伝の和訳
 孝武帝の太元十年(324年)、高句麗が遼東と玄菟郡を攻める。後燕の慕容垂は弟の農を派遣して高句麗を成敗し、二郡を復旧した。
 康帝の建元元年(315年)、慕容廆の子の晃が兵を率いてこれを討伐。サは戦うも大敗し、単騎で奔走。晃は勝ちに乗じて丸都まで追走し、その王宮を焼き、男子五万余人を掠め取って連れ帰る。
「この記事は咸康八年(342年)の誤記と思われる」

『通典』より、魏が滅ぶと百済、新羅が強大と成るも、倭軍の侵攻により弁辰の地は独立を保つ
事が出来た事が察せられる。
軍事力は倭が担当、見返りに鉄の供給。
324年頃になると高句麗の強大化が始まる、この脅威に対応すべく、百済は倭国に近づく。
弁辰や馬韓の再編成、これにより百済は、その東方。倭は、馬韓を手にする。
この同盟により、倭は、鉄の見返りとして、晋国の文物の供給を受ける。

なお百済記により神功62年には、天皇の在位が伺われる。
神功時代をそのまま読むとこの様に歴史が見える。
そのかわり世継ぎが見えない。


228 :みどりご:2010/01/04(月) 21:04:38
質問します。愛知県民先生お願いします。
@ 九州説で、卑弥呼を記紀の登場人物にあてるとしたら誰になりますか。
A 上で唐松山先生が書いているように、九州にあった邪馬台国はその後どうなったのですか。
B 邪馬台国は大和朝廷との関係はなかったのですか。

229 :日本@名無史さん:2010/01/04(月) 21:48:48
>>228
(みどりご)さんに一言いいます。

質問する前に     ググれ


230 :日本@名無史さん:2010/01/04(月) 23:21:31
>>227
唐松大先生閣下改めほら吹き先生様

神功皇后の事績が作られた話(神話に類する話)であることは歴史を学ぶ者のほとんどが認めることでは
ありませんか?
日本書紀が編纂されたのは白村江の敗戦からまだ半世紀余しか経っておらず、新羅と国交を回復したものの
かの敗戦を意識せざるを得ない立場を回避するために神功皇后の新羅征伐の記事を創作したものと考えられ
るでしょう。その元となったのが古い時代の半島(三韓)への侵攻の記憶で、これは広開土王碑文にも記さ
れている4世紀末から5世紀初にかけてのことでしょう。

この神功皇后を応神天皇の母としていることから、応神天皇は5世紀初、その5代前の崇神天皇は4世紀以
降と見るのが自然でしょう。当然景行天皇は(実在したとすれば)4世紀中葉となるでしょう。

以上の点について、太国大明神ともご相談の上ご回答頂ければ幸甚に存じますです はい。

231 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/05(火) 10:11:14
稀代の盲象男と相談なんか御免だぜ。w

232 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/05(火) 10:36:45
ただあいつの脳が正常に作動してくれば、相談もけっこうなことで拒否すべき
ことではなかろうが・・・、あいつは神功紀の記事を日食だとか非科学的ムー
民(ムー民全部がこうだtいうのではなく、ムー民にも賢明な脳の者はいる)的
及びオカルト的主張をいまのいままで強行しており、こういうんでは非学術的妄想
から離脱不能な脳の持ち主だと想うほかはない。

さらにX線検査の結果がノギヘンとなってるのにそうでない文字を主張し、同検査
結果をナメていると認められるからこれもホツマ・カルト教に汚染された脳内で
あるものと観て、カルト脳が科学的結果を蹂躙して妄想布教を優先し蔓延させて
いるもので、こういうんではここのスレの住民としてはふさわしくない男だと
いうことになる。ということから、あいつの編年表は殆ど説明の空っぽな妄想の
羅列のものであり、何ら根拠もなく真相を不明にするあいつの妄想のガス同然
のものだと認定できるのだ。

233 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/05(火) 10:49:18
こういうことは唐松山の脳内のCPUのブレーキ操作ハンドル操作の判断に欠陥が
あるからであり、妄想の暴走を起こす下地が存在していると言える。とりわけ
神功紀の記事が日食などとの先述のオカルト的強行主張はあやつの脳内の経験
未熟さがミエミエのものであり、さらに月が地球の衛星とせず木製の衛星群で
あると取り替えてるような三重在位(奴は説明したことがない)とかの盲説は、
盲象であるから決して容認はできないデタラメのものである。

234 :日本@名無史さん:2010/01/05(火) 11:09:07
>>231-233
人の批判はいいから
初心者の質問にこたエロってw


235 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/05(火) 11:22:00
妄想はしてはならないがある程度はやむを得ないことであろう? であるから
いつも自己の論説が間違いではないのかというブレーキ的思考を絶対遺棄しては
ならない。畿内説と九州説は卑弥呼の国が双方にまたがっているとかいう特殊な
事情がない限りいずれかが妄想なのであり、こういう妄想は一生懸命各々が合理
的と想って主張しての結果であろうから、間違ってた妄想であっても一応許容
せざるを得ない〜やむを得ない妄想であるが、唐松山のは平気で将棋の角をヨコ
に動かすような指し手での論の展開に終始しており、こういうのはまともな脳内
の人間とは一線を画して然るべきである。

>>230
>神功皇后の事績が作られた話・・・歴史を学ぶ者のほとんどが認める

昔は天動説を地動説よりも、そのほとんどの人間が認めてたんではないのかね?
そういう数で決するのはやはりまずいと思う。

それがしの研究の主体は仏伝前であるから白村江のは詳しくはないが、この敗北
で神功の話を創作したのだろうとの説は、動機は一応あるということになるも、
そうならば日本は太平洋戦争で敗北したのだが、それでアメリカあたりを過去に
戦いで下して勝利を得た創作の文、資料があるのかということになるが?

だからそれは津田病の蔓延がそういう妄想の連中を増加させたものであり、創作
なら北九州に神功の由来由緒がかなりあるそうだが、創作をしたと分からせない
ように朝廷人の口封じをせねばならず、おまけにそれらの創作を北九州の神社
などに官を派遣して神社ごとに創作だということを漏らすなと強要して、各神社
の連中にも創作の由緒等をばら撒き、ここでも各人の口封じを生存させながら
やらねばなるまい。それには金が莫大にかかるし、創作の神功の陵造営でも莫大
な金がかかることになり北九州までの各神社へ行き創作を根付かせる宿泊費食費
人件費等もこれもものすごく必要になるが、そんなヒマが朝廷にあるのか?w

だから創作だというのはこういうことが軽く可能で金をかけることができて、
架空の人物の陵をあくせく大金をかけて造る説明ができて、初めて創作だと
言えるのだよ。それが言えるのかね?

236 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/05(火) 11:58:25
この2ヶ月ばかり長期の断続的規制で書きこみがあまりできなかったが、今日は
規制が終ったようで有難い。まったくもって、迷惑至極だ。

>>230
先代旧事本紀大成経には、應神4年の条に393年のさそり座の超新星☆発現の記事
が見てとれる。がしかし、この記事は真は應神4年に起こったものではなく
仁徳年間のものであり、そこには年代の断層があるのは三国史記と日本書紀の間
の120年等の年代差の散見から確実に予想できる。これは唐松山が否定してるが、
当人の編年表でも393年は仁徳年間なのである。この天変を武内宿禰が天皇に
解説してるので、仁徳以後の允恭からの後代ではない。なぜなら仁徳の代に武内
大臣は死亡してるからである。

ところが仁徳3年前後、仁徳天皇は天文台たる高臺に登り周囲の煙雲が無い言い
回しで天体観測をしていたようで、どう見ても年差とこのことから同経の
應神4年とは仁徳4年あたりだと観るのが正解なのである。それがしは干支の
関係で説明が長くなるのでこれは略するが、仁徳3年が☆の393年と観ている。

すると仁徳元年は391年であり、應神元年は376年ころの25年前あたり
だということになる。こういうことから神功元年は353年を得て

 崇神即位=237年=景初元年

を把握して崇神が卑弥呼の活躍年代と結論しているから、崇神が4世紀以降と
いうのは間違いである。このことは 崇神没年=259年 の計算結果となり、
記からの258年説の橋本増吉、菅政友の主張がこの点においては正しかったという
ことになるのだ。

237 :日本@名無史さん:2010/01/05(火) 13:51:37
太国大明神猊下
神功皇后さんのモデルは斉明天皇や持統天皇だという説についてはどう思われますか?
仁徳さんは4世紀にはまだ生まれていないでしょう。

238 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/05(火) 14:01:42
>>237
モデルではないでしょう。まぁ言えることは、記の編者らが卑弥呼と神功皇后を
同一人物だと思ったフシがあることからか、神功39年等に関連付けていたという
ことですね。

仁徳天皇の誕生は257年(皇紀917年)とされてるのでしょうが、これは見かけの
年代であり、真は倍暦計算で371年を得ていますから、4世紀後半の誕生です。

239 :日本@名無史さん:2010/01/05(火) 15:09:09
未来の文豪、国民的英雄候補縦目大先生

先生は大学生だそうですが、2ちゃんなどに多くの書き込みをしておられてよく学業ができておいでですか?
たぶん、留年なども重ねられているのでは?あるいは勉強しなくても卒業できる大学におられるのでしょうか?

240 :縦目仮面:2010/01/05(火) 17:40:58
留年はしていません。学業は・・・授業はなんとかこなす程度で優秀ではないです。普段は中国の考古論文
を読むのが日課で、苦行です。記紀や新書などを読むとほっとします。大学は・・・剣道部のある関東の学校。

241 :日本@名無史さん:2010/01/05(火) 19:11:13
太国大明神猊下

<昔は天動説を地動説よりも、そのほとんどの人間が認めてたんではないのかね?
<そういう数で決するのはやはりまずいと思う。
学問的事柄を多数決で決めるのは間違いですが、>>230は神功皇后伝説が意図的に作られたと見る根拠を
述べています。日本書記は新羅を意識して編纂されたであろうことは当時の東アジア情勢を見れば分ります。
白村江では倭国は唐・新羅連合軍に敗れましたが、その後、新羅は唐を半島から撤退させるほどの勢いを見せ、
倭国としても警戒すべき国であり侮られてはならぬ相手だったのです。新羅の使節に「 新羅よりは遥かに古い
歴史を持ち、かっては半島を支配下に置いたこともある大国の歴史書」を見せる必要があったのです。

<それがしの研究の主体は仏伝前であるから白村江のは詳しくはないが、この敗北
<で神功の話を創作したのだろうとの説は、動機は一応あるということになるも、
<そうならば日本は太平洋戦争で敗北したのだが、それでアメリカあたりを過去に
<戦いで下して勝利を得た創作の文、資料があるのかということになるが?
時代が違うと言いますか、古代と現代では外交が様変わりしてるでしょう。そんな例え話は通用しませんです。はい。

唐松大ボラふき先生も太国大明神先生ももっと真面目に答えて下さい!!

242 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/05(火) 20:02:44
君には通用しても、説明がないんではこちらには通用しない。大体半島より
遥かに時代を古くするのには、たかが神功皇后の代だけの追加では半島に
追いつかない。
ということは、古くするという君の主張は考えにくい。はい。

243 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/05(火) 20:18:19
現代だって、ある国が絶対性制を敷いていれば、そういう創作での
歴史捏造というのは確かにありうる。しかしだからといって神功の
代が太安万侶、舎人親王らによって創作されたということにも
ならぬ。だいたいそんなことをすれば、彼らは公文書偽造で死罪とか
島流しとか蟄居等の厳罰が舞っているのに、たやすくそんなことに
手を染めるはずがない。それは少し前、死刑になりたいから殺人を
無差別多数に行ったという犯人がいたにはいたが、こんなのは例外中
の例外だ。

君が記紀の神功を彼らが公文書偽造罪を犯したというなら、古代史的
捜査とそのウラを取る行動をしてたのか?

244 :日本@名無史さん:2010/01/05(火) 20:42:17
プイ、プイ、プイ、プイ、プイ〜 ((-.-.) (.-.-)) ((-.-.) (.-.-))



245 :日本@名無史さん:2010/01/05(火) 20:52:37
>>243
太国大明神猊下

神功皇后の新羅征伐の記事は日本書紀編纂時の政権にとって好ましい記事であって、うまく挿入してくれた
とお褒めに与ることではありませんか?偽造も捏造も大歓迎であって、罰せられるなんて考えられませんよ。
それに、神功記の時代が3世紀であればまだ新羅という国は成立していなかったんですよ。4世紀半ばに成立
した国ですからね。存在しなかった新羅を征伐したとは面妖な話ではないですか。


246 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/05(火) 20:52:51
訂正
× 絶対性制
○ 絶対制の政治

× 厳罰が舞っているのに
○ 厳罰が待っているのに

それに創作の口封じをするにしても彼らの朝廷の取り巻きと北九州へ行く
官吏とその付き人ら、それに北九州の多くの神社の関係者等、及び神功の
架空のデカいご陵を建造するために十年二十年という長期雇用する労働者連
の各々の口封じに極めて神経をとがらして、また莫大な建造費と給料を
必要となるが、だいたい少なくともこんなに多人数が関与するならば、あと
でどこからか創作ですwwとの口漏らしが噴出して、創作の隠匿はできっこ
ない。ということはこんな一人の神功創作に朝廷が労力を費やすとは全く
考えにくい。必ずどこからか創作の秘密がもれ、あちらこちらの伝承に
それが出て、ばれることは必至となる。こんなことだから、朝廷が創作
にするため神功を記紀に挿入したとは全然考えにくい。w

247 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/05(火) 21:08:27
発覚すれば、一発で逮捕されるよ。この前9chで三国志をやっていたので
見ていたが、諸葛亮が弓ひいたとかとの創作を皇帝に流して、後で一発で
逮捕された。当時でもイカサマはご法度だよ。w

大体架空のご陵を十年二十年とあくせく創作だという神功のために、朝廷が
こんな面倒に大変な万の人数の労働者を雇ってくる日もくる日も創作皇后
のために日夜汗を流させる朝廷首脳陣が企画するということはアリえること
ではなく、そんな無駄金を莫大に消費すれば、お倉金庫はものけのカラに
なり、朝廷の命運は風前の灯だぜ。

248 :日本@名無史さん:2010/01/05(火) 21:08:35
>>246
神功皇后に関係のある神社などははるか後世(記紀成立後)の創建です。記紀によって創りだされた神社であり
縁起なのです。陵も架空のものでしょうから神功皇后の墓の造営に関わった者の子孫なども存在しないでしょう。
神功皇后が九州に出向いたのも架空の話ですから従った官吏や軍人などもいません。架空の関係者の口封じなど
する必要もないことです。
創作の秘密と言っても、日本書紀を読む読者にとっては大昔の話ですから創作だか史実だか判断できる材料を持って
いないでしょう。日本書紀編纂のための資料は体制側が独占していたし、体制側の人間は秘密を知っていたとしても
それを外に漏らすようなことはしなかったでしょう。



249 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/05(火) 21:15:50
そんなのは死ぬ直前等にでも多数の朝廷のある者らが「実はあれは
創作なんだよ。後代にそれを伝えてきれ。詳細はこうだ。」として
必ず創作が漏れるさ。一人から漏れればもうバーっと朝廷外に
創作偽装がもれる。漏らすなことはしないなどは君の甘い考えさ。w

250 :((-.-.) <ホワイトクリスマス:2010/01/05(火) 21:24:31
ジャッジ 減点1

>>248
あんた「でしょう」言い過ぎw
架空は「あ」「な」「た」ーw


251 :日本@名無史さん:2010/01/05(火) 21:25:35
太国大明神猊下

相変わらず「梃子でも動かぬぞ」の構えですね。だけど旗色悪いですね。説得力が・・・・

252 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/05(火) 21:26:35
それに彼ら舎人親王、太安万侶らが神功を創作の公文書偽造罪を
やったならば、彼らにも朝廷内に敵がいるだろうから、そいつらに
これを掴まれると、遅滞なくバラされて、もう朝廷から失脚の運命
が待ち受けている。こんなことに神功一人捏造する危険を犯すほど
彼らは無用心ではないぜ。

253 :黒い雪:2010/01/05(火) 21:30:48
>>250
ジャッジできるのあんた?

254 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/05(火) 21:31:31
要するに君の脳内は唐松山ほどひどくはないが、やはり津田の妄想病に
に支配されており、いまのうちその妄想を排除しないと、もうあいつのよう
に妄想から抜け出せなくなる。早々に脳内の妄想病原菌を祓いに祓って
脳の危機を脱するべきだ。w

255 :((-.-.) <ホワイトクリスマス:2010/01/05(火) 21:34:36
ジャッジンの私に語って欲しいと思った人へ、そしてみなさんの期待に応じて
((-.-.) <ホワイトクリスマス 大いに語る !

>>251
太国殿(でんw)は「物理的証拠」として神功皇后陵、「記録的証拠」として記紀を用いた。
それに比べて、君は何も示せない。

以上、中間報告でした。

>>253


256 :黒い雪:2010/01/05(火) 21:38:05
>>252
舎人親王、太安万侶らが神功を創作の公文書偽造をやっても罪にはならないって。太平洋戦争で
日本軍が苦戦していたとき大本営発表では連戦連勝になってたよ。あれは時の政府に処罰された
かね?

257 :黒い雪:2010/01/05(火) 21:40:32
>>255
なんだそれ。

258 :笑う虎:2010/01/05(火) 21:45:00
>>255
物理的証拠とは何だ?もしかして物的証拠のことか?国語力は大丈夫か?
記紀が証拠とはどういうことだ?論争の対象となっているものを証拠にするつもりか?

259 :1:2010/01/05(火) 21:48:42
太国先生

ここは初心者のための質問スレです。
私が勝手に指名してはいますが、先生はここでは講師です。

いきなりポンポンいかれてはついて行けない参加者がでてしまします。
お留守の間にいらした新人さんたちも多く、先生のことをよく御存じない方々もいるようです。
先ずは、アクセス規制明けで有り余っているパワーは、自己紹介代わりに自説の概要の説明からお願いします。
それと、どなたへのレスなのか明確に分かるようにアンカー「>>」を御使用ください。
以上、よろしくお願いします。





260 :日本@名無史さん:2010/01/05(火) 22:07:34
講師?太国にそんな器用な真似は出来ないよw

261 :1:2010/01/05(火) 22:31:48
>>260

いや、質問に答えて頂くだけでよいのです。
太国先生の御人柄がわかれば、それはそれでよいことではないですか。

貴方もベテランさんのようですから、仮コテでよいので講師をお願いできませんか?


262 :1:2010/01/05(火) 22:52:40
現在までに御登場頂いた先生方

改め先生
河童虫先生
唐松山先生
愛知県民先生
九州王朝大好き先生
縦目仮面先生
www先生
太国先生
元「縄文人」先生
その他複数の仮コテ、名無し先生

ほぼコテの方は出そろいましたが、
未だ、ローガン先生、サガミハラハラ先生、二先生、美濃もん太先生、老教授先生は降臨されていません。



263 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/05(火) 23:01:56
>記紀が証拠とはどういうことだ?論争の対象となっているものを証拠にするつもりか?

知らないな、書紀編纂者が正しい年代を表示しようとして如何に苦労したか、
書紀には、その後が、くっきりと残されている。

その事実を知って私は、唖然とした。
今日は、まだ詳しく分析してないので、書き込めないが近々書き込むから、期待してくれ。

今云えることは、書紀編纂者は、暦の”増し”を知っていたが、正しい数字に直せなかった。
この事実が、隠されている。
この数字は、倭人伝の記録を正しい数字に直そうとした「跡」がくっきりと見えるものだ。


264 :日本@名無史さん:2010/01/05(火) 23:17:57
上段の二番目と
下段の四番目は先生では無く、
一等兵として頭丸め(坊主)、ここで一から諸先生方に教えを請うたほうが良いんじゃないか?


265 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/05(火) 23:24:36
マシっていうのは一種の公文書偽造だから、やると逮捕されてるはずだ。
それは1〜2年とかならなんとか言いくるめが効こうが、30年のマシでは
逮捕されるよ。ケタが違う。いま入浴してたから、まもなくやめて明日
だな。だから記紀の数字には異説はしかたがないが、明確に大量に数字の
増しをやると身が危うくなるから、唐松山の主張は通らないぜ。

そういうことは、記紀の天皇の超長寿は原書群の内容だから、数字の増量
を故意にやったものではないね。

266 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/05(火) 23:31:45
>マシっていうのは一種の公文書偽造だから、やると逮捕されてるはずだ。

はいはい、3倍年は、公文書偽造以前の問題ですから、相手にもされないと言う事ね。


267 :縦目仮面:2010/01/05(火) 23:40:00
神功皇后非実在説というのは、太国、唐松山両氏には厳しい質問で、両氏のライフワークが記紀の西暦への読み替え
である以上、非実在説のような天皇代数を疑うことは、研究の根幹にかかわるだろうからね。ww

昨日纏向スレで、名無史で蘇我馬子天皇説をやって遊んでたけど、俺の記紀に対するスタンスは、尊重すべきだが、疑
ってかからねばならないとするもので、おおかたの人はそうだろう。

神功皇后に関していえば、。直木孝次郎氏の斉明天皇、持統天皇モデル説というのは十分考えられることではないかな。
また、さらに敷衍して、持統天皇=神功皇后=天照大神、聖武天皇=応神天皇=瓊々杵尊、藤原不比等=建内宿禰=
高皇産霊神 とまで説かれたりもしている。ただし単なるモデル説ということだけでなく、皇后の69年という長すぎる摂政
期間は、万世一系を危うくする何らかの史実を隠匿しているという考え方もあるね。

268 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/05(火) 23:40:05
>>256
これこそ敗戦の危機が切迫してるから、勝てるに役立つことなら何でも
するだろうがね。これと一緒にできないよ。w

いいかい朝廷、天皇に都合がいいと表面上見えて神功を挿入創作の偽装で
記紀をこさえると、後世未来にその創作が判明すれば神武から欠史八代とか
以後の天皇の代までああこれも偽装だと未来人に断を下されて、たとえ存在
だとはいっても、信用性の極度の低下は免れず、記紀の文は死語と化す。

だからそんなことをするはずがない。竹内文献も内容は神武以前の皇統を
多大にのせており、萬世一系の権威がマシ、日本が世界の中心で釈迦や
イエスが日本へ留学に来て古神道の権威がマシて行くので一見好都合のよう
だが、これだと記紀より竹内文書のほうが権威を持ち、伊勢神宮よりその
関係教の権威がマシて行くので、官憲の逆鱗に触れることとなったという
ことなのである。だから弾圧されたのだ。

こんなことだから神功が架空の創作なら、舎人親王らは逮捕されるぞ。

269 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/05(火) 23:44:09
倍暦は偽装性はない。そうなら古代マヤ、アステカの1.4倍暦、南バビロニア
の2倍暦なぞをやった神官は生贄とか縛り首だとかの失脚は免れない。

それで生贄とかになった話は聞いたことがないぜ。ww

270 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/05(火) 23:50:53
>>263
正しい年代っを表示しようとして、なぜマシ(増量)30年のイカサマを
したのか? 矛盾ではないか?

271 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/05(火) 23:51:01
神功の補足
百済旧東夷馬韓之属晋末駒麗畧有遼東楽浪亦有遼西晋平県自晋已来常修蕃貢(以下略)
百済らは旧東夷の馬韓の地にある、晋末に(高)句麗が遼東と楽浪の地を統治すると、(百済も)
また遼西の晋平県を治めた。晋以来、(百済は)常に藩臣として貢ものを(中国王朝に)
おさめてきた。

遼西の晋平県
これが、七支刀直前に、倭軍と百済軍で収めた部分です。
書紀に書かれた、323年神功49年、325年同51年の「西蕃」です。


272 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/05(火) 23:53:56
講師をやってくれとおっしゃってた方
今夜は遅いのでいずれに・・・。zzzzz・・・

273 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/05(火) 23:54:43
>倍暦は偽装性はない。

そのとおり
倍暦が、在ったと証明することも出来ない。
偽装以前の品物です。


274 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 00:14:43
ローガン先生様にお尋ねいたします。

先生様はかって何処かで「魏使(張正?)は築造途中の箸墓を見て徑百餘歩の墓とした」みたいなことを
仰っておられたように思いますが(間違っていたらご免下さい)、本当にそんなことがあり得たのでしょ
うか?
また、張政は出兵要請のために来倭したとも仰られていたように思いますが、本当にそんなことがあり得
たのでしょうか?

大変失礼な質問かとも思いますが、私のような初心者のためにご説明をお願いする次第です。



275 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 00:19:40
WWW大先生に質問です

先生は横柄な語り口に特徴があると聞きました。私のみるところ、確かに人を見下したような言葉遣い
が目につきますが、実際は真面目で謙虚な方ではないかとも思うときがあります。どちらが本当の先生
でしょうか?

276 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 00:35:44
先生と生徒の二役でスレを盛り上げるという事は、さぞかし大変なことでしょう。

277 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 01:54:09
>>275
>実際は真面目で謙虚な方ではないかとも思うときがあります。

今ひどい自演を見た。。。。

278 :縦目仮面:2010/01/06(水) 02:13:29
ww 自演かどうかは知らないが、「www」は少なくとも根拠のないことは言ってないと思う。

上で少し書いたが、万世一系という概念はやはり記紀成立以後のものだろう。それまでどのような史実があり、当時
の人々が自国の系譜についてどう認識していたかは定かではないが、継体紀など危ういところで記紀は皇統を繋げ
た。

確か大嘗祭が新嘗祭から独立したのは天武紀だったと思うが、今上天皇が祖先神(天照大神等)と同一化するため
には、どうしても万世一系で皇統を受け継いでいる必要があったろう。天皇がこの国を治めるための根拠は、記紀の
記述にある 「天照大神が、葦原中国を治めよという神勅を瓊瓊杵尊とその子孫に下した」ことなのだから。ただ、これ
には異論があるだろうね。

279 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 12:39:23
>>267
>>278
縦目は本格的に古代史を始めて2年ぐらいかな?

280 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 12:44:33
>>276
ここに慧眼の士がおられるようだ。
唐松山氏と太国氏に神功皇后架空説でからかっているのは縄文人(卑狗摸古)であろう。縦目仮面氏も彼に
おだてられているようだ。ローガン氏とWWW氏は反応していないが、このスレの存在に気がついていないの
かも知れない。

281 :縦目仮面:2010/01/06(水) 13:36:01
>>279
受験勉強の日本史を入れなければ、まあそんなもんですね。

>>280
縄文人なら神功皇后についての自説をまず述べるべきだね、架空というだけなら誰でもできる。太国、唐松山
両氏は趣味としてこれに打ち込んでるようだから、過去には論戦もあったけれど、俺はちょっかい出さないこと
にしている。

記紀以前の日本史の黎明期、皇統が数百年絶えることなく続いたというのは、俺の常識ではちょっと信じがた
い。ただ、重要なことは、記紀編者が万世一系という国のありかたを選択したということだな。中国史に学んで、
易姓革命による王朝交替があったようにも書けたはずだと思う。これは8世紀という時代がそれを望んだのだと
思うし、数々の危機はあったが、天皇家は驚くべきことに現在までも続いている。記紀の呪縛といってよいので
はないだろうか。

282 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/06(水) 14:22:02
>>273
倍暦の証拠はいくらでもあ〜る。忘れたのか。www
            ↓
【欠史八代の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】

1日 4 15日 0 29日 0
2日 2 16日 0 30日 0
3日 3 17日 0
4日 3 18日 0
5日 6 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 3 23日 0
10日 1 24日 0
11日 4 25日 0
12日 3 26日 0
13日 3 27日 0
14日 7 28日 0


このとおり明確に当時の一ヶ月が1日〜14日までの2週間だったことが一目瞭然
であ〜る。いくら朝廷の経営だとかスリ抜けても、天皇に死亡は暗殺自殺等特別
の事情がない限り全部月上旬になるわけがなく、11日以降〜30日までで
の崩御が少なくとも2回はあって然るべきである。当時1ヶ月が2週間という
ことは13月〜24月の記述が皆無であることから、当時倍暦行使があったことは
ハッキリしている。オマエはここの天皇が全員上旬死亡とのうっっちゃりをやろ
うとしてたろうが音無しの構えであり〜オマエの言い訳が即興にて脳内で巡らし
ても反論できないのが、オマエの音無しの構えにてそれが分かる。ww

オマエは倍暦を否定しながらこっそり成務の在位で2倍暦表示をしており、非常
に自語相違がはなはだしい。ww

283 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 15:45:10
>>278
インカ帝国は、たった200人くらいのスペイン人に滅ぼされてしまった。
相当に貧弱な武力しか持たなかったことがわかる。
こんな状態でどうして王が君臨できたのか不思議だったが、神の子孫とされた
ことがその根源だったらしい。

日本の場合も皇室の特殊性は、万世一系にあったのだろう。遡れば神に
通じるというのが、皇室の権力の大きな支えだったと思う。

では、いつ頃からこういう考えが生まれたのか。これは相当に古いのでは
ないだろうか。継体天皇の系譜がおかしなことがその理由に上げられる。
横から入ってきた人物が、それまでの皇室の系譜に乗っかっているような
印象を受けるのである。

天智・天武も継体天皇まで確実に遡れることは明らかで、もっと継体天皇を
際立たせるような系譜を作ることも可能だったにもかかわらず、このような
系譜が出来たのは、それ以前から神格化された系譜があったからだと
思う。

少なくとも、西暦400年より前からそんな系譜があったと思う。

284 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 17:15:39
欠史八代って架空の天皇だろ。その記事をつくるとき、出来事を月の前半に集中させた
だけの話だろう。架空だってことを知らせたかったのかも知れんな。

285 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 17:22:43
>>280

つうかだな、そもそもこの板に、このスレを回せるほどのニューカマーがいるのか?って話で
生徒より教師の数が多い教室なんてないw

Q&Aの形式はとっているものの、何の事は無い、従来のスレと内容も同じ、恐らくメンツもほぼ同じ。
ところどころ初心者を装って質問しているのも案外>>1の自演かもしれんし
それで無くとも、固定や常駐名無しが面白がってやっているだけが見え見えのが多いw

まあ例えて言うなら
どんぶり飯に飽きたからおにぎりに、玉子焼きが飽きたから目玉焼きに、スパゲティが飽きたからマカロニに・・・
と、見た目や食感を変えているだけで中身は同じ・・・

これで講師陣が直接、意見を交わし始めたら他の邪馬台国スレと全く同じだなwwwwwwwwwwww



286 :縄文人:2010/01/06(水) 17:32:38
>>281
ん?私の名前が出ているな。長期に亘って書き込み規制を受けていたので何も書き込めなかったのだが。
私の考えを知っている者が居るのだろう。だが、少し違うので訂正の意味で少々。

神功皇后については私も架空の存在ではないかと思っているが、事績に書かれた事柄については何らかの史実を
反映しているのではないかと思う。例えば神功皇后が百済の使者から献上された七枝刀は石上神宮に伝わる七支
刀がそれに該当すると考えられ、この七支刀はBC372に百済から倭国に献上されたものと考えられる。

また、神功皇后の新羅征伐の事績は、新羅の建国が4世紀中葉(斯盧国が辰韓十二国を統合)であることや広開
土王碑文にあるBC391,399,400,404の倭の半島侵略の記事から4世紀末〜5世紀初の史実の反映であろうと考え
られる。

要するに、日本書紀の神功皇后時代は4世紀末〜5世紀初と見るのが自然で、もちろん邪馬台国の卑弥呼とは無
関係であり、神功皇后の夫である仲哀天皇より4代前の崇神天皇も4世紀以降と考えるのが自然であるから、箸
墓に葬られたとされる倭迹迹日百襲姫命も卑弥呼や壹與とは無関係であるということになる。



287 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/06(水) 17:42:11
>>284
架空をやりゃぁ、太安万侶、舎人親王らは公文書偽造罪でただではすまない。
君の脳が津田病原菌に冒されているから、そんな君の空想が滲み出るわけだ。

288 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 17:48:35
>>285

>ところどころ初心者を装って質問しているのも案外>>1の自演かもしれんし

かもしれんではなく、そのものです。
野暮なことは言わずに暖かく見守ってあげましょう。


289 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/06(水) 17:53:15
記載が全部月前半のことと架空とは結びつくとは言えない。月前半の記述
しかないということは、当時2倍暦を行使してたことを物語る。

290 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/06(水) 17:56:34
記紀の記述の八代間が月前半の記述に終始してることと架空ということとは
無関係であり、そういう関係あるとかの考察は風が吹けば桶屋が儲かる式の思い
こみであり、双方は結びつかない。

291 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/06(水) 18:50:18
>【欠史八代の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】

これらは、全て太陰暦の日にち これを太陽暦の日付と考えるのが、3倍年

上記の数字が「朔」から数えられていることは、証明されています。
そして
>月前半の記述しかないということは、当時2倍暦を行使してたことを物語る。
2倍暦を行使してたことを物語る。などは寝物語の世界の話。

月後半の記述が有っても、倍暦を行使していたと主張するのは何故ですか?



292 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/06(水) 21:07:18
神功39年
仁徳紀の設定ヶ所は、313年、神功39年の太歳 ここから87年で
400年履中元年につなぐ。

神功39の繋ぎ方は、もう一通りある。
それは、神功元年から、仁徳末年までを160年とする見方である。
倭人伝の注入記事が此方の読み方になる。
400−160=240年 景初3年に繋ぐ読み方である。
では書紀の何処にその証拠が有るか?それは矢張り不審な「太歳」で繋ぐ方法である。
何処にその「繋ぎ」があるか?
景行40年◎是歳也、
普通「是歳也」と来れば、太歳と繋ぐのが書紀。
何を言っているのか疑問であったが、ここに神功39年「倭人伝 景初3年」を
繋ぐ標識ではないか?
私の考える(書紀が表記する)景行40年は西暦255年頃
400−255=145年、160年より15年足りない。
現実に流れた時間が145年なら、その時空を160年で表す場合15年の空白が出来る。
この空白が仁徳末の20年の空白となって現れる。
数字的には少し足りないが、これでおおむね仁徳の空白を説明できる。


293 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/06(水) 21:31:17
そんなものは証明されていない。

それは空白があるから、30日まであってもいくらでも可能だ。この前事例を示し
たとおりだ。オマエは全部あったと思っている妄想を抱いていたから、そんな
デマカセ反論を繰り返しえいるだけのこと。だいたい以前オマエは空白で神武
即位年がオマエのやり方じゃぁできないことを自認してたではないか? それが
正解だよ。こういう糞詰まりの30日までどの月もあったなどという考えは、尻
拭いして早く捨てたほうがいい。太陽暦だと主張してないのに、主張したなどと
デマカセを言うな。

294 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 21:42:41
この二人なんとかせえやあ


荒らしと何ら変わらへんで


295 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/06(水) 21:43:42
成務の編年では、オマエは2倍暦を行使してるではないか。それで2倍暦が
ないとは、自語相違であってお粗末君そのものだ。w

296 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 21:47:14
>これで講師陣が直接、意見を交わし始めたら他の邪馬台国スレと全く同じだなwwwwwwwwwwww


297 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 22:07:55
太国氏、唐松山氏
両氏のために設けた新しいスレが誕生しました。至急そちらに移動願います。

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1262782787/1-100


298 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/06(水) 22:08:04
神功から仁徳までのもう一つの読み方を掲載しましたが
現実に流れた時間が145年なら、その時空を160年で表す場合15年の空白が出来る。
5年の齟齬を生じている、この原因が書紀編纂時の間違いを内包している数字と捉えて、この時代を
解読します。

晉武帝咸寧中、馬韓王來朝、自是無聞。三韓蓋爲百濟、新羅所呑并。
この情報を得た晋国では、半島を我が領土として維持するため、楽浪に一つの命令を出す。
それは、百済、新羅の台頭を許さず、維持する為の方策である。

楽浪の武官は、倭国に対し軍の渡海を要請する。
その要請を受けた倭国では、仲哀を大将として、九州に赴く。
ここで仲哀は、渡海を躊躇するが、晋国の要請は、絶対である。武内宿禰は仲哀を亡き者にしても
晋国の命令に従わなければ成らない。
渡海に必要な、熊襲(白水郎)を力で従わせる。そして渡海。渡海先の任那には、楽浪の武官が
待ち構えている。
倭軍は武官と共に、新羅や百済へ遠征。晋国の思わく通り半島南部を平定。
この渡海により、新羅がほぼ占領した弁辰の地は、ほぼこれまで通りの小国連合として存在することになり、
その頂点に倭国を据える。倭国は、半島へ軍を派遣する代わり、伽耶(弁辰)の鉄をおさえる。
その鉄は、主として百済を通り楽浪方面で販売される。この対価が倭国軍による半島維持にあてられる。
これで神功渡海で新羅、百済を臣下とした謎が解けた。
新羅は、鉄の輸入をしても、販売先が限られ、利益を上げられない。自国消費だけでは、自国の
消耗になる、伽耶方面を奪おうと派兵するが、その度に倭国に破れる。280年代の出来事です。
新羅本記には、倭国に攻められた記録しかないが、その内実は、自国の軍を伽耶地方に派兵した
事に起因する。
派兵の記録が無ければ、かすめとった土地でも、裁判で以前から自分の領土で有ったと主張出来る。
倭軍が領土を侵せば、記録から自分の領土であった事が証明される。
320年代に入ると、高句麗の台頭がある。
324年、高句麗は帯方、楽浪方面を一時的にせよ領土とする。

続く


299 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/06(水) 22:11:31
続き
孝武帝の太元十年(324年)、高句麗が遼東と玄菟郡を攻める。後燕の慕容垂は弟の農を派遣して高句麗を成敗し、二郡を復旧した。
百済らは旧東夷の馬韓の地にある、晋末に(高)句麗が遼東と楽浪の地を統治すると、(百済も)
また遼西の晋平県を治めた。晋以来、(百済は)常に藩臣として貢ものを(中国王朝に)
おさめてきた。
神功49〜51年にあたります。
倭軍は、楽浪の要請を受け、百済軍を率いてこの方面に派兵。
高句麗軍の背中にあたる東側からこの方面に入る、東西両面を相手に出来ない
高句麗軍は撤退、倭国にとって遼西の晋平県は遠い、そこで晋国の了解の元、百済がこの地を
収める。
そのお礼として、326年に七支刀が献上される。
この成果により、百済は、伽耶の鉄を晋国で売りさばき、晋国の文物を仕入れ、鉄の対価として
倭国にもたらす(朝貢と記録される)。

409年を頂点とする高句麗の部分はそのうち。


300 :日本@名無史さん:2010/01/08(金) 00:54:12
質問です。ローガン先生にお願いします。

?このたび、桜井茶臼山古墳で大量の鏡片が発見され、そのうちの多くが三角縁神獣鏡であった
 ようですが、これは魏の鏡ですか。それとも国産ですか。

301 :日本@名無史さん:2010/01/08(金) 12:59:06
太国、ローガン、縦目仮面は規制だってよ

規制発生時用のスレにおる
http://www1.atchs.jp/most/

302 :日本@名無史さん:2010/01/08(金) 14:38:15
縦目はアク禁ではないだろ。宗教板とかで議論してるのを見かけるから、
そっちにはまってるんじゃねの。

303 :日本@名無史さん:2010/01/08(金) 21:54:50
質問いいですか?
河童さんの姿を全然見かけないのですが、今何処で遊んでいるのかご存じありませんか?


304 :日本@名無史さん:2010/01/08(金) 21:59:30
>>303
仕事で中国に行ってるよ
15日には帰ってくると思う。


305 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/08(金) 22:20:12
それがしは書きこめるようになった。1日規制か?

306 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/08(金) 22:39:24
>>303-304

書き込みはしていないけど、まだ日本に居ますよ出張は来週。しかも一泊二日の強行出張(始発・最終)

307 :日本@名無史さん:2010/01/08(金) 23:46:05
>>306
おい、老教授に人気を奪われてるぞw


308 :1:2010/01/09(土) 00:23:19
太国先生、河童虫先生、負けないように頑張ってください。

309 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/09(土) 00:39:40
>>307

>おい、老教授に人気を奪われてるぞw

彼は私がデビューする以前からの住人ですので、別にかまわないですよ

でも、懐かし〜


310 :唐松山:2010/01/09(土) 01:29:05
>おい、老教授に人気を奪われてるぞw

老教授に叱責されても、思考が切替えられない 倍年さんは今も現役でここに登場して
息巻いていますョ。
誰だろう?


311 :縦目仮面:2010/01/09(土) 01:39:25
ローガン先生からのお答えです。

ローガン 2010/01/09(土) 00:03:39 ID:kLgC7Rmg
>>24
答えていただけるなら、転載します。

稚説ですが、よければいくらでも。長くなるのでとりあえず、論証すっ飛ばして結論だけ。

>かって何処かで「魏使(張正?)は築造途中の箸墓を見て徑百餘歩の墓とした」みたいなことを
仰っておられたように思いますが

はい。墓の規模に言及する際、高さは必須だと考えるので、高さの記述がない卑弥呼の冢は、高さが認識出来ない段階での情報である。
大作冢 とは造営時の活況を表現したもの。その活況とは墳丘工事用通路の前方部を大勢の人夫が昇降する様子。
つまり、150m位の円い冢を作っている様を述べたもの。

>張政は出兵要請のために来倭したとも仰られていたように思いますが、本当にそんなことがあり得 たのでしょうか?

はい。6年と、8年以降に書かれた黄幢は同じもの。王キへの訴え以前に詔が出ている。よって、詔は狗奴国云々に起因したものではない。
旗を下賜するという行為、また檄の意味から、これは出兵要請であると考えます。

>桜井茶臼山古墳で大量の鏡片が発見され、そのうちの多くが三角縁神獣鏡であったようですが、これは魏の鏡ですか。それとも国産ですか。

そんなの知りませんよ(笑)。ただ、三角縁の神獣鏡は中国でも出土しているので、当然オリジナル自体は魏鏡でしょうが
1ロット百枚届いたものが多数コピーされた。 黒塚の印象から、大半は花輪鏡としての生産かなあと考えてましたが。
茶臼山は全て鏡片てところが興味深いですね。

312 :日本@名無史さん:2010/01/09(土) 01:48:02
>>311 老眼
>三角縁の神獣鏡

これまたビミョーな言い回しw
個人的にチョー受けたwwwwwwwwwww

313 :日本@名無史さん:2010/01/09(土) 01:56:33
>>312
>ビミョーな言い回し

けっこう耳にする言い回しだと思うぞ。
言われてみりゃ、もっともらしいだろ。

314 :東海の小島の磯の(:2010/01/09(土) 01:58:15
>>313
東海の小島の磯の

315 :東海の小島の磯の…(ry) Noと言える日本人wwww:2010/01/09(土) 02:01:42
>>313

まあ「の」一字入れるだけで
(三角の)定義の云々の問題から離れられるメリットはあるよなwwwwwww

>>314は誤爆った スマヌ。

316 :日本@名無史さん:2010/01/09(土) 02:14:28
>>315www先生

白砂に、われ泣きぬれて、

画文帯神獣鏡は中国のものと日本のものとでの違いはないのでしょうか?

317 :日本@名無史さん:2010/01/09(土) 11:13:13
>>309
いいえ、貴方の方が古参です。

318 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/09(土) 13:26:20
>>228
亀ですが、みどりごさんに回答。
>@ 九州説で、卑弥呼を記紀の登場人物にあてるとしたら誰になりますか。

景行天皇の九州遠征に登場する女神・八女津媛と考えています。

>A 上で唐松山先生が書いているように、九州にあった邪馬台国はその後どうなったのですか。

女王国はその後、豊前国京都郡(行橋市付近)に遷都して存続したが、4世紀初め、神夏磯媛の時代に
景行天皇によって征服された。

>B 邪馬台国は大和朝廷との関係はなかったのですか。

八咫鏡は邪馬台国から大和朝廷に受け継がれたと考えています。
景行天皇は九州遠征後、五百野皇女に天照大神を祭らせていますが、神夏磯媛から献上された八咫鏡を
伊勢に届けたのではないか。

319 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/09(土) 13:33:48
書紀の数字 もう一つの読み方

書紀編纂者は、景行40年◎是歳也。を西暦240年の景初3年と設定していた。
私の数字は、西暦257年が景行40年である。
ここから160年後が仁徳崩御となる。

応神と仁徳は2重暦になっている。
仁徳崩御より16年前 応神41年は仁徳72年になる。
西暦401年 応神崩御
西暦417年 (257+160=417)仁徳崩御

西暦401年 応神崩御 この辺りが若沼毛二股王命の誕生として、
継体は、応神5世孫が語られる。

仁徳67年から仁徳87年は、西暦397年から西暦417年でもある。
丁度 高句麗に攻め入った時期でもある。


320 :日本@名無史さん:2010/01/09(土) 13:57:44
>>303
>質問いいですか?
>河童さんの姿を全然見かけないのですが、今何処で遊んでいるのかご存じありませんか?

ここに射ます
ベストアンサー賞おめでとうww
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1035065620




321 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/09(土) 15:18:20
ブハハハッハ! wwwwwwwwwww

確かに二重どころか多重暦をいうのがあって、古代マヤ暦はそののやり方だった。
だが二重とか三重即位っていうのはその時代にはな〜い。皇極斉明とか後代に
少しはあるが、あるんなら、ちゃんと古文献にその明示があるはずだ。

322 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/09(土) 15:27:55
>西暦401年 応神崩御

な〜んだ?www また変えたのか〜? たよりない編年だなぁ。pp

少し前は確か366年から20年も説明なしに年代を取替えた崩御396年だとぬかして
たんではないか? ハハ〜ァ、ソノときのはまたもデタラメだったんだ??ww

323 :日本@名無史さん:2010/01/09(土) 15:36:52
太国先生に質問です。

>>320のレスの意味がわかりません。
どこら辺を笑えばいいのか教えてください。

324 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/09(土) 15:42:33
>>320はそれがしの書きこみではないですから、>>321のことでしょう?

だから唐松山は神功と応神、仁徳が三重在位で三つ巴で仲良く天下を経営して
たんだとさ。奴のひどい盲象だからフキ出すわけさ。ところが今度は変えたばかり
の年代で、応神崩御が366→386→401年と3回も動き回っているわけさ。www

325 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/09(土) 15:46:22
>>322 訂正 唐松山の主張
× 396年
○ 386年

326 :日本@名無史さん:2010/01/09(土) 16:17:28
講師の方々に質問です。

高木彬光の宇佐説の中に、伊都国=北九州市到津説がチラッと出てきますが、
この「到津」という地名はそんなに古くからあるものなのでしょうか?

お答えいただければ幸いです。よろしくお願いします。

327 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/09(土) 17:42:56
唐松山は 應神崩御を401年としたということは、先代旧事本紀大成経の
應神四年の記事がいままで仁徳在位後期と位置付けていたことが豹変して
同経の應神四年のさそり座の超新星☆爆発記事の実年代393年がそのまま
應神年間に居座ったということを遠まわしに自認したことになり、こういう
ように豹変ばかりしてその事由の説明がなされないならば、唐松山の編年
はいい加減なクルクル変わる二枚舌的デタラメであるとの印象を強固に
する。

328 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/09(土) 18:26:09
太国さんよ 他人の説には厳しいが
自説の百済王家の方はどうすんの?

「到津」
弥生時代の丸木船で早鞆の瀬戸を往来する事は非常に危険を伴う事であった。
荷物が少なければ、荷物を担いで陸路を取る。
外洋の到津(投馬国)と瀬戸内側の往復は陸路。

到津の近くにカゴ島は、風土記に記載されている。


329 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/09(土) 18:35:02
>>326
「到津」は、かなり古い地名のようです。
ttp://homepage2.nifty.com/kitaqare/tenk06.htm

330 :縦目仮面:2010/01/09(土) 18:46:01
>>326
到津八幡神社社伝によれば、神功皇后が朝鮮出兵より帰還し宇美で応神天皇を出産された後、長門の豊浦宮に戻
られる時、この地の津に到ったことから到津(いとうづ)及び板櫃(いたびつ)の地名ができた、とありますね。
古い地名なのは間違いないでしょうが、このあたりは愛知県民さんが詳しいと思います。

ただ皇后の伝承にある、筑紫の宇美で応神天皇を出産し、志免でお紙目を代えた、などの地名譚は、俺的にはことさ
ら神功皇后の実在性を印象付けるために取り入れられてるのでは、という疑念をどうしても感じざるをえません。

331 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/09(土) 19:00:27
>>330
地名説話については、あまり真に受けないほうが良いと思われます。
たとえば神功皇后でも、珍しい魚がいたから「梅豆羅(メヅラ)国」で訛って松浦とありますが
魏志倭人伝で「末盧国」が存在していますから。
ただ、神功皇后伝説が「白村江の腹いせの創作」とは考えられません。
三国史記の新羅本紀では、大昔から倭人が新羅を襲ったという記事が数多くあり、
勝った新羅がこうした記事を大量に創作したとは思えません。

332 :縦目仮面:2010/01/09(土) 19:02:41
>>311 のローガン先輩の説についての私見。

確かに中国の墳墓は高さが重要視されますので、これが記載されていないのは奇妙な気もします。ただ、魏使
らが、築造途中の墳墓を見た・・・というのはどうなんでしょうね。箸墓だとすれば、おそらく作図し、周濠を掘って
盛り土を確保し・・・という形だと思いますので、どの段階で見たのか?魏使はどれくらいの高さになるのか質問
しなかったのか?完成後の情報が魏に伝わらなかったのか?等々いろいろ疑問がわいてきますね。

333 :縦目仮面:2010/01/09(土) 19:45:44
>>331
むろん有名な好太王碑や、その他の倭寇についての記事からも4世紀末半島への出兵があったのは事実で
しょうが、神功皇后の事績はやはりあまりに超人的すぎるという気がします。特に 鎮懐石伝承で出産を引き延
ばし、15ヶ月で応神天皇が産まれた・・・これは、生まれてくるのが神の子であることを暗示しているとする解釈
もあります。また、神功皇后そのものについても、そのベースには九州地方に広がっていた土俗的な母子神信
仰があるという説は、俺的には納得できるものがありますね。いずれ皇后については、どこまでが創作・脚色な
のか、その境目はとてもわかりません。

334 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/09(土) 20:40:09
>>333
私も全てが史実とは思いません。
日本書紀の新羅王・波沙寐錦 = 三国史記の婆娑尼師今(在位80年〜112年)
日本書紀の新羅の人質・微叱己知波珍干岐 = 三国史記の未斯欣(402年、外交で人質となる)
日本書紀・一書の新羅王・宇流助富利智干 = 三国史記の舒弗邯(新羅の官位)の于老(250年ころ死去)
このように時代がバラバラなのです。
宝賀寿男氏が指摘されていますが、三国史記に登場し、倭王の命を受けて新羅を攻め、于老を火あぶりにした倭の将軍
「于道朱君」は「内宿祢」=武内宿祢(たけうちすくね)ではないかと見られる。
身重の神功皇后が海を渡ったというのは流石にフィクションであり、実際は武内宿祢が指揮したのかもしれない。
神功皇后は特に戦後はタブー視されていますが、初心者の皆さんにも興味を持ってほしいところ。

335 :日本@名無史さん:2010/01/09(土) 21:08:33
>>334
宝賀寿男が内宿祢を武内宿祢とするのには、賛成ですね。
ほぼ同時期の「さちひこ」は葛城ソツヒコであろうことから、時期的にも合います。

最近話題の桜井茶臼山の被葬者も、武内宿祢がまず考えられる。
あの古墳の大きさや、王杖や鏡の多さからは、天皇の近親者であることは確実で、
鏡の種類が豊富で各時期の鏡を収集するほどの長生きとなると、武内宿祢がよく合う。

それより少し古いとすると、大彦も候補に挙がる。

336 :縦目仮面:2010/01/09(土) 21:19:31
>>334
ところで、文献は素人でまったく的外れなことを言ってるのかもしれませんが、八幡神信仰というのは、上記し
た九州土着の母子神信仰、これにおそらく5世紀以降、新羅系の辛嶋氏が香春岳に祀った辛国息長大姫大
目命、さらに後代の神仏習合が混然となったものではないかという気がします。その過程で神功皇后(息長帯
比売命)伝承が産まれたのかもしれません。もちろん4世紀末の半島出兵時に、戦闘にかかわった巫女的存
在がいて、それもモデルになってるのかもしれません。

337 :日本@名無史さん:2010/01/09(土) 21:45:58
ここで議論してたらまた怒られっぞ


338 :縦目仮面:2010/01/09(土) 21:48:36
>>335
うーん、まあ、武内宿禰が実在として、墓は故地の葛城にあるとする説が多いようですね。伝承があるのは、
御所市の室宮山古墳。ただし、これは中期前半と見られるので、子の葛城襲津彦の墓とも考えられている
ようです。

339 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/09(土) 22:03:33
当時弥生時代だとかいう語があったのかね?
丸木舟で千人も空腹で畿内から半島に渡れるのか〜? 千人のうち残るのは
多くて数人だぜ。あとは海の藻屑と消える。ww それには危険だと
あるではないか?www 出来っこないということだよ。

弥生っていうのは東京都文京区弥生町からブツが出て、そういう言い方を
するようになったのだろう? 弥生時代に弥生町という語があったと
唐松山は考えてるらしい?

だいたい投馬なんぞ九州だろうが? 崇神当時九州に朝廷の支配など
及んではいない。オマエも近日そのようなことを言ってたではないか?

ということは九州は朝廷からは外国だ。卑弥呼の記事も載せてないのに、
他国の空腹農民の暴動なんか朝廷には無関係だ。

340 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/09(土) 22:10:18
半島のことなんか静観してればいいんだよ。オマエは薮蛇に手を染めて、
こちらを誘導させることばかりを企んでるが、こちらはオマエのように
ネヅミ捕りのエサに即食らいつく無警戒には乗じないぜ。

オマエは懸命に半島と日本との年代一致を強引にも強行してるが、合わせ
たところで、真の年代の一致にはならない。ww

341 :326:2010/01/09(土) 22:16:16
おおぅ、早速レスがついている!

唐松山先生、愛知県民先生、縦目仮面先生、ご教授ありがとうございます。
「到津」という地名は、少なくとも飛鳥時代、
ことによると4世紀以前まで遡れそうだということですね。

神功皇后の事績については、私も以前から興味がありました。
まあ少なくとも記紀の編纂時点では、伝承としては確立したものだったとは思いますが、
元の史実をどれだけ含んでいるかは、異論のあるところでしょうね。
とはいえ、実際に女性の摂政(相当?)の御代に外征があったのだとしたら、
伝承としては残りやすいトピックではあると思いますけどね。

342 :縦目仮面:2010/01/09(土) 22:22:59
>>341
うんまあ、事績もそうなんだけど、愛知県民さんが言ってるように、年代がまず疑問なんだよね。皇后の長すぎる
摂政期間、そして武内宿禰の異様な長寿。単に神武即位を古く取りすぎたための引き延ばしなのかもしれないけ
ど、そうでない場合も考えられると思う。このあたりは唐松山さんが詳しいかな。

343 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/09(土) 22:36:44
>>328
今度はオマエがこれの見解を述べろ。
オマエが出して、他人に丸投げするんじゃねぇ。

マシというのは当時の公文書変造であり、あたかも預金通帳に入金、おろし
とかの日付をゴマ化す行為であり、国家を司る天下の暦に変造などすれば、
一発でしょっぴかれて、身の危険が切迫する。こんな国家予算にかかわる
日本銀行とか大蔵省関係者が公文書変造をやりゃぁ懲戒解雇、懲戒免職の
憂き目に会う。そんなやばいことを当時でさえも軽々しくは出来ない。

唐松山の盲象なのさ。世界の暦法で30年も恣意的に水増しをやった国が
どこにある? たとえば千円のものを500円で売るよといっったって、これ
は数字のゴマ化しではなく、取引きの安売りだが、千円で売る値のものを
こっそり500円しか払わずこの金は千円ですと言ったってこれは通らない。
売るほうは500円だと言って払わなければ不正で追いかけてくるぞ。前者は
倍暦、後者はマシのたとえだ。

344 :日本@名無史さん:2010/01/09(土) 22:55:53
日本は、英語でJapanと言いますが、
Japanの頭文字は日本の国土を表していて、
半島南部が日本の支配地域であったことを暗に認めているんですか?

今の韓国朝鮮人は、日系人が入植していた朝鮮半島南部を侵略し、
自分たちのものにした、
侵略民ジョクということでしょうか?

345 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/09(土) 23:02:24
一寸間違えたか? 私人の通帳の日付を2009年とあるを2039年と書けば、
私文書変造のほうかな? 失礼、そうならばここは訂正。

縦目仮面さん
15ヶ月とおっしゃいましたが、13ヶ月だと思ってました。15ヶ月記載の
ほうが正解で確かですか?

346 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/09(土) 23:38:09
確かに「適當皇后之開胎。皇后則取石挿腰。而祈之曰。事竟還日。産於茲土。」とありますが、
仲哀天皇が九年二月に崩御、十二月に出産ですから特に不審は無いように見えます。

それより、新羅に「冬十月」に遠征しているほうが不思議です。
半島を攻めるには最悪の季節。三国史記では倭の新羅侵攻はすべて夏の季節です。


347 :日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:47:21
>>335
天皇の近親者、長生き。そんなのは幾らでもいるだろう。

348 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:06:37
東大寺山→魏年号和製純金象嵌の存在?

349 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:07:58
>>342
その辺は釈迦に説法でしょうけど、書紀の年紀にこだわらず、
(誤差は含んでるんでしょうが)古事記の年紀を採用するといいんじゃないでしょうかね。
古事記の年紀だと、倭の五王の記事や三国史記等半島の記事とも年代の整合性はいいようですし、
武内宿禰の長寿にしても、日本一の長寿と讃えられるに現実的な長さになるようです。

書紀は各種の文献、伝承を突き合わせて、出来るだけ多量の記事になるように膨らませた形跡があるので、
太国氏の指摘する倍歴のような、宗教的なバイアスのかかったローカルカレンダーに基づく記事まで
含んでしまっているのでは?
書紀の編纂時にはそういったローカルカレンダーの存在が忘れ去られてしまったため、
年紀の混乱が生じている可能性もあると考えられます。

>>346で愛知県民氏が指摘している、新羅への冬十月の遠征記事や、
確か夏場の記事で汁物が凍ったなどの記事も、ローカルカレンダーの記事の影響が
出ている可能性も考えられます。

350 :縦目仮面:2010/01/10(日) 02:03:43
ローカルカレンダーか・・・日本書紀の、欽明天皇14年(553年)に百済に対し暦博士の来朝を要請し、翌年2月に
来たとの記事が確かならば、それ以前に朔望による期日の記録があったとしても、記紀編纂時それを中国暦に
読み替えるのは困難を極めたと思うけどね。

351 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/10(日) 08:02:49
>>350
>記紀編纂時それを中国暦に読み替えるのは困難を極めたと思うけどね。

そうでしょうね。應神・仁徳・雄略紀にある「呉」との交流記事が宋書と細かく一致しないのもその為でしょう。
應神記には百済の照古王(肖古王)の記事もあり、古事記は神功摂政を認めていないので、
應神は375年以前に産まれたとすると、362年仲哀没と矛盾はしません。

352 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/10(日) 09:37:01
>太国氏の指摘する倍歴のような、宗教的なバイアスのかかったローカルカレンダーに基づく記事まで
含んでしまっているのでは?

書紀は太陰暦で書かれ、正朔の文字もある。

太陰暦で読める様圧縮する。これが本来基本的思考である。

>應神記には百済の照古王(肖古王)の記事もあり、
神功から応神には、百済の王家の歴史も書かれている。だからここを圧縮する為には、百済王家を何とかしないと正しく無い。
だが整合性のある記事は、武寧王しか無い。
しかしここで問題となるのは、書紀に書かれた肖古王と百済本記に書かれた肖古王や近肖古王とは、時代にズレが生じる。

新羅本記と百済本記の間にも狂いがある、この事は韓国でも認められ「曲学の徒氏の邪馬台国掲示板」において
raidoさんは、百済本記を正しいとし、その数字に新羅本記や高句麗の数字を合わせようとしている。
韓国の考古学は、百済本記の数字を認める事が出来ない。

これらを勘案すると、百済本記に異常がある。
百済本記を使わずに、書紀の記事を正しいとして、編年したのが、私の数字です。
新羅本記の数字は正しい。これが私の結論。

>欽明天皇14年(553年)に百済に対し暦博士の来朝を要請し、
これまで太陰暦が無かったとすると
甲=きのえ、乙=きのと、等古来の暦の読み方の出所が解らなくなる。
この読み方は、「漢字、干支」導入前にならざるを得ない。

>古事記は神功摂政を認めていないので、
書紀も神功62年あたりの百済の記事の差し込みで天皇の在位をほのめかす。

なにより 允恭4年の盟神探湯で決められた事を容認する。


353 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/10(日) 09:49:59
唐松山が應神の年代を366年→386年→401年とクルクルクルクル年代をコマネヅミ
のように説明も無しに取替えてるのは、当人が半島と日本側との年代をゴリ押し
で合わせる業を毎回毎回繰り返して毎度失敗していたことを物語っており、こん
なんでよくこちらに半島の記事云々と提出して双方を合わせろと強要するのか
とww〜あやつの心情の中身がミエミエにこちらに伝わって来る。あせってでも
いるんだろう?ww

あれほどむこうとこちらの古文献の差が 120年±Δx もあり、
これで 120年±Δx=0 の唐松山の脳内判断がこういう牽強付会の年代一致を
真だと信じ、途中で失敗だと考えたようで、またもや別の年代一致の強行を
余儀なくしてまたこれを繰り返したが、やっぱりおかしいところがあったわけ
で、そこで只今は401年だとか抜かしてたわけである。ww

もともとこんな百年以上も年代差があるのにこれを無視して双方が軽く合う
だろうと強行するのが大間違いだということだ。ww

354 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/10(日) 09:54:24
>>311 ローガン:旗を下賜するという行為、また檄の意味から、これは出兵要請であると考えます。
>>331 愛知県民:勝った新羅がこうした記事を大量に創作したとは思えません。

275年に神功が出兵要請で渡海したとすれば、百済、新羅は、楽浪郡の云う事を聞く。
新羅は、攻められた記事を書くが、攻めた記事は載せない。
もし裁判がこの時代有ったとすると、「攻め取った」記事が無ければ、古来からの領土と主張できる。
「攻められた」記事では、「本来は私どもの土地」を主張出来る。



355 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/10(日) 09:58:14
唐松山はそれがしに手厳しいとかぬかしていたが、奴は記紀等の古文献の量が
不足で誰でも不可能な日々の出来事迄もああだこうだ決めろとかの尻叩きを強要
しており、これのほうが千手観音の各手で記紀等の内容を一字一字指摘して
行っても、菩薩も誰もそんな精細な出来事の特定なんぞ出来っこはない。こちら
のほうが手厳しい。出来ない状況を逆手に取ってツツくなんぞは、負傷してる
体の個所を攻めこむような卑怯な手段であり、あいつはこういう手をたまに使う
から要注意をせねばならない。

356 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/10(日) 10:13:19
>太国:あれほどむこうとこちらの古文献の差が 120年±Δx もあり、

太国倍年でその120年差を証明できない。
120年差が正しければ、太国倍年は間違い。
120年差を主張するためには、長さが×1倍で無ければ合わせられない。
倍年の主張と齟齬をきたす。又は倍年を自ら否定。



357 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/10(日) 10:20:42
>唐松山はそれがしに手厳しい…菩薩も誰もそんな精細な出来事の特定なんぞ出来っこはない。

はいはい 太国倍年の数字は、おぼろげな物で宜しいですよ、
ただ その数字で攻撃される身になると、そうはいかない。
攻撃されれば、反撃するのは常道。

汚い言葉は慎んで、戴きたい。


358 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/10(日) 10:38:20
汚いこととか言うなら、オマエはこちらの書きこみミスをマルチするな。>|<
こちらは目が悪いんだから順序の食い違い等ミスの入力がたまに起こるのだ。

>>351
應神即位は倍暦計算により376年ですから、その最下段の考察はかなり合って
います。なお先代旧事本紀大成経の應神四年にある393年のさそり座の超新星☆
の記事はまたも120年の段差があるわけで、しかも紀と同経の編者は別人で
すから紀の120年の段差は不正に紀の編者連が挿入マシをしたものではなく、何
かの重要共通の原因が伏在したことによることから、双方が入れざるを得な
い年差だったということで、同経の120年段差は仁徳4年前後の史実だと観るの
が真だということです。これからだと應神即位は25年前と考えたとき、だいだい
375年が即位となりますから、應神誕生はそれ以前になることになりますね。

359 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/10(日) 10:48:07
唐松山さん、初心者スレですので百済本紀・新羅本紀の誤字は改めて頂きたい。
これらは高句麗本紀とともに、三国史記の本紀の部分の呼び名であり、独立の史書ではない。
百済本記は百済記・百済新撰とともに、日本書紀に引用されている現存しない史書です。
それとも、唐松山さんの言う「百済本記」はそちらの百済本記を指すのですか?
唐松山さんは現存しないと言われる百済本記を隠し持っているのですか? それなら公開すべきです。

百済本紀の120年の延長を認めないとすると、書紀の百済王の記事の不自然な空白
(神功・應神と雄略以降しかない)はどう説明されるのでしょうか。

360 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/10(日) 11:02:26
允恭年間の探湯は月末(第四週末)の28日に行われているわけで、このことは
この年代に入って先帝までの2倍暦行使を廃し、半島への良医を見つけて、医者
との会話等のことから、半島で当時行使してたのだろう〜通常暦法を朝廷の
メイン暦法に採用したということなのだ。だから後代の繼體の代からの再度の
2倍暦行使までの間、武烈までは通常暦法の行使で年代を送ったのである。

允恭の代で通常暦法に戻したということは、その病気の因が何やら2倍暦行使の
継続にあったとかのことをも考えた結果からのものだろう。それで通常暦だから
28日まで日数がありますよとのお誓いが探湯の荒行のわけなのだ。勿論28日まで
あっても、倍暦を行使していた時代があったことは確かで、この典型が崇神の
代であり、開化までの倍暦が14日まで(あるいは閏日で15日まで)のことから、
倍暦でも空白月空白日等で28日まで設定してのやり方を採用していたようで
ある。一種の通常暦を見合う倍暦行使としたかったのだろう? これは古代マヤ
のツォルキン暦(農耕暦での通常暦)とハアブ暦(祭祀暦での倍暦)の並行行使
と似た面がある。後者は52年で双方が合うようになっている。マヤ暦にマシなど
はない。允恭は探湯前後の年代で先帝の2倍を廃止して、允恭元年に遡って通常
暦のやり直しを行い、2倍暦を廃止したが、後遺症は雄略の記紀の宝算の2倍
数字であり、2倍暦の名残りが雄略にも残っていたことを物語っている。、

361 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/10(日) 11:12:01
>>358
>應神即位は倍暦計算により376年ですから
>だいだい375年が即位となりますから

古事記では應神は14歳ということになりますが、日本書紀では應神は仲哀9年に生まれ、
神功摂政13年に角鹿に行っています。(成人式?)
ふつう摂政は帝が成人すれば退くものですから、ここで即位した可能性もありそうです。

362 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/10(日) 11:27:16
>>360
以上のことから、允恭の代から新羅と見合ったかそれに準じた通常暦奉を採用
して行ったものと思えるが、繼體の代からの2倍暦の再開は紀の同代の日数
統計表から伺えるわけで、百済の王子死亡と武烈世の即位直前の繼體の動向の
二つの記事のみ月の後半の記事であり、それ以外の記事は全部月前半にあること
から、繼體の2倍暦再開と武烈世の通常暦行使が見てとれるのだ。

先述の雄略での通常暦と倍暦の断層は記が124歳、紀が62歳と、丁度前者が後者
の2倍であるわけで、これは雄略当時、すでに允恭の代でメインで廃止され
た2倍暦の名残りが見え隠れしており、反正の代の2倍暦法の計算が副次的に
通常暦外として行われていたことを意味している。

そこで繼體の2倍暦の関係で武烈以前允恭までの逆算では、この間14年の年差が
皇紀(見かけの通説の西暦)の年数と違いが出る。だから允恭〜武烈までは
通説との間に14年差を見ておけば真の年代が確保できる。これだと梁書の永元
元年(=499年)にから乙祁(=顯宗天皇)は当時生存していたことが判明し、
干支の乙年たる485年に即位した 乙祁=顯宗 の通説年代485年は

 485+14=499年

でピタリと一致する。

363 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/10(日) 11:29:52
>>362 訂正
× 通常暦奉
○ 通常暦法

364 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/10(日) 12:40:05
>允恭年間の探湯は月末(第四週末)の28日に行われているわけで、このことは
この年代に入って先帝までの2倍暦行使を廃し、
それでは
仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)三月丙申《廿五》◆丙申。轉至山門縣。
皇后摂政十三年(癸巳二一三)二月己酉《十七》◆癸酉。太子至自角鹿。
神功皇后摂政六九年(己丑二六九)四月丁丑《十七》◆六十九年夏四月辛酉朔丁丑。皇太后崩於稚櫻宮。
この様に15日過ぎの日付の在る「紀」は通常暦で宜しいんでしょうか?
特に皇太后崩於稚櫻宮。の17日は太国さんのこだわりのある数字。

百済本紀、新羅本紀に改めます。


365 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/10(日) 14:09:58
仁徳天皇八七年(己亥三九九)正月癸卯《十六》◆八十七年春正月戊子朔癸卯。天皇崩。
履中天皇六年(乙巳四〇五)三月丙申《十五》◆三月壬午朔丙申。天皇玉體不■。
反正天皇五年(庚戌四一〇)正月丙午《廿三》◆五年春正月甲申朔丙午。天皇崩干正寢。
安康天皇二年(乙未四五五)正月己酉《十七》◆二年春正月癸巳朔己酉。立中蒂姫命爲皇后。
清寧天皇五年(甲子四八四)正月己丑《十六》◆五年春正月甲戌朔己丑。天皇崩于宮。
顕宗天皇三年(丁卯四八七)四月庚申《廿五》◆庚辰。天皇崩干八釣宮。
安閑天皇二年(乙卯五三五)冬十二月己丑《十七》◆冬十二月癸酉朔己丑。天皇崩于勾金橋宮。

太国さんの倍暦論には、錯誤が満載。


366 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/10(日) 14:40:09
だいたい質問が意味不明だ。もっと具体的に書け〜オマエの三重在位とかは
どうなんだよ? オマエのマシは錯誤が満載。ww
なにがそれではだ。さっき28日まであったって倍暦の行使をやってる代がある。
何とか通常暦に近くしたかったのか、そのへんだろう。

367 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/10(日) 14:59:05
顯宗(=乙祁)の即位 499年=永元元年 が特定できたことに於いて、まだこれ
のウラが取れている。佛教伝来の552年説と538年説の双方の説が存在して
るのも、結局古文献の中に14年の段差があるからで、繼體世から佛伝直前までの
最後の2倍暦行使がこの年差を生んだということなのだ。

 552−14=538年

となってピタリ14年差が出て、倍暦の採用がこんな二説を生むことになった
のだ。公式での真の佛伝は538年だということになる。顯宗と佛伝の14年差は、
唐松山のマシでは解明できない。こんなことから半島古文献を持って一致させ
ろという要求をしても、やはり14年差とか120年差の断層が背後にあるわけで
あり、これが合わないからといって、ここの14年差を不合理とすることは早計極
りない。現に唐松山も應神崩御を366年→386年→401年とクルクルクルクルクル
クルと替え続けて手を焼いており、当たり前だよ。こんな断層があり、年代の
即一致の強行を図ることが、編年では如何に冒険であるか思い知るべきなのだ。

368 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/10(日) 15:21:19
とにかく半島古文献の年代には日本側との不一致が散見されることから、無理に
合わせようとすると、デタラメ編年に直行する危険を孕んでいるといえるから、
半島古文献を尊重しながらもいったん手を引くとかの間を置いての用心をするに
越した事はない。両者が合わないこと即いずれかがデタラメ古文献だとの結論は
早計の間違いであり、真の年代を遺棄する失敗に至ってしまう。

こういう倍暦の逆算を下から積み上げていと、武烈〜允恭即位年までの逆算は14年
段差と観て間違いはない。そこの前の反正手前あたりは 14+Δx年 の段差と
なり、古い代に行くに従い通説との年代差が広がる。さらなる積み重ねを地道に
やって行けば、卑弥呼活躍の237年は崇神即位年だということが把握できるのだ。

マシは公文書偽造の大罪であり、そんな身の危険を及ぼす行為を朝廷の連中が
犯す状況は見当たらない。つまりマシはありえない。

369 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 15:27:23
講師同士の論戦どころか講師の一人語りのスレになってしまっているわけだがwwwwwwww

370 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 16:34:39
「号外! 号外!」

   河童虫引退か?・・・・・・・・・・河童こと河童虫に俄かに引退説浮上


371 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 18:41:48
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった

372 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/10(日) 19:34:31
>そんな身の危険を及ぼす行為を朝廷の連中が犯す状況は見当たらない。

つまり倍暦の実行跡は見つからないと言いたいんですね?
残るは
暦の後付けで証明するんですか?
履中より跡の時代は、暦計算が出来て居るので後付けも可能ですが
それ以前の暦に於いては、まだ計算方法が解っていない。

以後に於いても
武寧王の誕生は、書紀の云う場所で正しいことが証明されている。
書紀編纂者は武寧王墓誌を参考にしてはいない。

武寧王墓誌より強力な証拠でもあるんですか?
神の声 552−14=538年 が証拠品ですか?


373 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/10(日) 21:27:39
>倍暦の実行跡は見つからないと
そんなことは全然言ってないですよ。>>368にそんなことは書きこんで
おりません。撹乱はやめてくださいよ。倍暦はマシではありませんから。

>正しいことが証明されている
そんなことは今後ひっくり返ることは十分言えますよ。強力だよ。ピタリ
と寸分違わず合ってるじゃぁありませんか。マシでは説明できないで
しょう? 出来るならやって下さいよ。ww

374 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 21:48:28
太国は、先程話題になった卑弥呼に送った時の年代のものとされる鏡が畿内の古墳から出ている事を何と説明するんだろうか?
もう、死んでるんじゃないのか。

いずれ九州論者が激減していくだろう中で、河童も太国も、恥ずかしがらずによく頑張っていると思う。たいしたものよ。

375 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/10(日) 22:00:59
何を言ってるのかねぇ〜? 倍暦計算で

 正始元年=240年=紀の崇神十年〜十二年=崇神4年

だよ。だからこの2年前は天照大神宮が成って

 紀の崇神六年=皇紀569年=崇神2年=238年=景初2年

だから、この年崇神天皇は同床共殿の策により模擬の鏡を殿内に祭祀
したことからの官以下一般への右へならへの下命で、畿内人民が鏡を祭祀
する慣習となったもので、葬儀にもそういう慣わしとなったものだな。

だから桜井茶臼山古墳からそういう鏡が出土するわけだよ。マシでは説明
できないだろうな?w 卑弥呼の鏡ではないよ。

376 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 22:07:27
昔居た
月光仮面とか
横槍とか
中卒ヒッキーとか
倉西裕子とか

何所を発掘すると会えるのだろう


377 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/10(日) 22:10:39
倉西さんのサイトを探せばいいんでないの?
確か「倉西裕子の御学問所」と言ったと思ったな?

378 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 23:22:59
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ。
趙現鐘・国立済州博物館長と佐藤洋一郎・静岡大学助教授が
大阪府和泉市のシンポジウムで発表。[共同通信]
http://www.tt.rim.or.jp/~shr/nl/2001xc.html
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ。
趙現鐘・国立済州博物館長と佐藤洋一郎・静岡大学助教授が
大阪府和泉市のシンポジウムで発表。[共同通信]
http://www.tt.rim.or.jp/~shr/nl/2001xc.html
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ。
趙現鐘・国立済州博物館長と佐藤洋一郎・静岡大学助教授が
大阪府和泉市のシンポジウムで発表。[共同通信]
http://www.tt.rim.or.jp/~shr/nl/2001xc.html
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ。
趙現鐘・国立済州博物館長と佐藤洋一郎・静岡大学助教授が
大阪府和泉市のシンポジウムで発表。[共同通信]
http://www.tt.rim.or.jp/~shr/nl/2001xc.html

379 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/11(月) 08:44:59
>崇神天皇は同床共殿

こんなハレンチな思考はしませんから。
大物主神は、生きている神であり、息子が大田田根子なんだから。



380 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/11(月) 10:43:49
>>375
>崇神天皇は同床共殿の策により

崇神天皇は同床共殿を廃止したわけですけどね。
事業仕分けじゃないがw

381 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/11(月) 10:55:36
どうもそこは間違えます。失礼! この前も間違えました。
目が悪くて、記を読んでて誤解がでます。すみません。がちゃ目なんです。
ジッと読んでられないんです。

382 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/11(月) 10:59:14
訂正
愛知県民さんの指摘により、そこは「廃止」の字を入れて下さい。
片方が視力が悪く、ジッと読むのがつらい男です。だから略読みになり
がちで、誤解があったようです。

383 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 12:29:21
>>374
同じく、正始元年の銘の入った三角縁神獣鏡は、山口県、群馬県、兵庫県の
古墳からも出ている。これはどう説明できる?

菅谷文則・橿原考古学研究所長は「魏では年号の入った鏡はほとんど見つかって
おらず、正始元年鏡は日本で作られた」と三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡とする説に
否定的な考えらしい。

384 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/11(月) 13:19:57
>>383
>魏では年号の入った鏡はほとんど見つかっておらず

横ですが
そうですか。前から気になってはいましたが、調べていませんでした。
わざわざ魏の年号を入れるあたり、ニセモノっぽい感じはありますね。
しかし「ほとんど」ということは、ほんの少しは例外もあるんですかね。

385 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 20:22:11
http://www1.atchs.jp/most/

たまには 2ちゃん規制時用のスレも読んでね



386 :日本@名無史さん:2010/01/12(火) 21:19:14
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif

387 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/16(土) 16:23:09
>>384 追加
終止符スレにも書きましたが、崇神・垂仁紀には出雲・但馬から神宝を差し出させた記事があります。
但馬に近い丹波を含め、山陰では何枚かの魏の年号鏡が出土しています。
ヤマトはこれらの魏鏡を集め、国産の三角縁神獣鏡を多く作り、各地に配布したと考えられます。

388 :神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/01/16(土) 21:26:59
>>387
「海部氏勘注系図」の7世孫・武諸隅命が出雲を奇襲攻撃して強奪したのは鏡ではありません。
勾玉を強奪したのです。強奪した勾玉は京都府亀岡市にある出雲大神宮に納められました。
これは「日本書紀」の垂仁紀に書かれている丹波国の桑田村で発見された勾玉のことです。
その後この勾玉は石上神宮に納められ三種の神器である八坂瓊勾玉となりました。
三角縁神獣鏡が大和で鋳造されたなら島根県の神原神社古墳から出土した景初3年の三角縁神獣鏡は
大和から出雲に逆輸入された鏡でしょうか?実に奇妙な話ですね。

389 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/01/16(土) 22:54:19
>>388
古代の勾玉は出雲が本場ですね。
草薙剣も出雲らしいし・・・
三角縁神獣鏡はもとは魏鏡(呉から公孫氏に贈られた工人たちが楽浪に残って作った?)で
出雲は独自に入手したのではないか。

390 :神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/01/17(日) 00:33:39
>>389
水晶の勾玉は京都府京丹後市にある奈具岡遺跡が生産の中心地です。もし三種の神器の八坂瓊勾玉が水晶だったら
奈具岡遺跡製となります。台与が魏に贈った「白珠五千」は奈具岡遺跡製の水晶でした。
草薙剣と言われている天村雲太刀は「海部氏勘注系図」の十種神寶に書いてあるので丹波国から出たのでしょう。
八咫鏡も「海部氏勘注系図」の十種神寶の天御蔭之鏡だと思われます。これも丹波国から出たのでしょう。
神獣鏡を呉の職人が作ったら三角縁ではなく平縁になるので呉の職人が三角縁神獣鏡を作ったのは間違いです。
なぜ魏鏡の特徴である斜縁にならず三角縁になったか不明です。やはり三角縁神獣鏡は特注品ですね。

391 :日本@名無史さん:2010/01/18(月) 09:27:20
>>390
>なぜ魏鏡の特徴である斜縁にならず三角縁になったか不明です
だから、魏鏡じゃないんじゃね。

>やはり三角縁神獣鏡は特注品ですね
この時期の魏では神獣鏡はあまり流行しておらず、おもに敵国の呉で作られていた神獣鏡を
特注するなんて考えられないね。
それに、黒塚古墳からでた鏡は鋳バリだらけのものもあったし、そんなものを下賜するのは
皇帝のメンツにかかわるので、ありえん。

392 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 00:11:26
講師の方々に質問です。

魏略は原本が散逸したため、現在は各種文献に記載の引用文しか残っていませんが、
 a) 伊都国以降の旅程記事
 b) 「邪馬臺国」もしくはそれに類する国名
が魏略の原本に記載されていたと推察するに足る、確実な証拠はあるでしょうか。
不勉強で、翰苑ぐらいしかひもといたことがないので、
他の文献からそれが推察できるかどうか、知りません。

お答えいただければ幸いです。よろしくお願いします。

393 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 00:29:57
>>392

>魏略の原本に記載されていたと推察するに足る、確実な証拠はあるでしょうか。

そもそも原本が存在したのかすらも分からないのが実情だよ
魏略はすべて曰文で書かれているから、原文をそのまま写したという保証もないし

394 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 00:33:03
>>393
お主には無理

コテハンさ〜〜ん >392は誰が対応する?

395 :神奈川県民:2010/01/22(金) 01:23:03
仕方ないな・・・私が答えてあげましょう(笑)

>>392
>a) 伊都国以降の旅程記事
>b) 「邪馬臺国」もしくはそれに類する国名

晋の時代、『翰苑』の注に引用された郭義恭氏の『広志』というのがあり、
『広志』の逸文は、『魏略』の原文を引用したのでは、と言われてます。

『広志』逸文
...到伊都國、又南至邪馬□国...

ですから、貴方の言うa、bは魏略の原文に記載されてたでしょうね。


396 :神奈川県民:2010/01/22(金) 01:27:20
ヒマ潰しにここで遊ぶかな(笑)

あっ、新しい『謎の女王卑弥呼〜スレ』は今日中に立てます。
あまり焦らさないで下さいね。


397 :神奈川県民:2010/01/22(金) 01:37:13
そもそも『後漢書』は『魏志』を
『魏志』は『魏略』を引用した言われてるんですね。

で、『魏志』には伊都國以降の『奴國』『不彌國』『投馬國』『邪馬壹國』が載り
この『奴國』〜『邪馬壹國』まで全て記載があったのかどうかは誰にもわかりません。
『奴國』『不彌國』『投馬國』の三国は『魏略』ではなく『魏志』から
と考えてる人がほとんどかもしれませんね。

では、さよならです。

398 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 02:06:35
>>392
あまり良くわからないので、参考までに。

国名については、後漢書は邪馬臺国。梁書は祁馬臺國。
隋書には、則魏志所謂邪馬臺者也の記述があり、通典には、邪馬臺國の
文字がある。
晋書、宋書の書物には特に記述はない。

多数決でいえば、国名は邪馬臺國が正しいということになるのかな。

行程の記述があるのは、倭人伝と梁書、北史。
梁書と北史の記述は非常に良く似ている。

歴史書の出来た順番としては、三国志(280年頃)、後漢書(432年)、梁書(629年)
北史(659年)。
どうも、北史は、梁書の記述を少し修正してそのまま書いたように思える。

では、倭人伝と梁書はどうか。梁書には、狗邪韓国の国名が見えず、対馬国を
省略している。書き方もちょっと違う。しかし、邪馬台国までの行程は
倭人伝と同じ。

又、倭国の風俗などの記述も、倭人伝と梁書では同じところもあるが、かなり
違う異なるところが見受けられる。
梁書は、倭人伝を参考にしてそのまま書いたわけではないらしい。

となると、どちらも魏略を基にして書いたのだが、抜粋の仕方が異なったと
いうことが考えられるのかもしれない。
逆に言えば、かなり異なる倭人伝と梁書の、邪馬台国までの行程記述が同じ
なのは、もともとそうだったからと言えるのかも。

399 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 16:48:02
質問です。
しきりに「阿蘇山」「阿蘇山」と騒いでいるようですが
一体何のことですか? 邪馬台国とは関係ないと思うのですが

くだらない質問ですみません。

400 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 19:08:02
>>399
気にしなくていいです。

恐らく「日本史板邪馬台国スレの一言主」と言われているサイキバ君の仕業でしょうw

そのうち「金印」「装飾古墳」とかが出てくるかもしれませんが
同様に無視しちゃってかまいませんwwwwwwwwwww

401 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 20:02:32
>>399
隋書に倭国には阿蘇山があったと書いてあるためでしょう。


402 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 21:59:30
>>401

及葬、置屍船上、陸地牽之、或以小輿。有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以爲異、因行祷祭

ここですね。
確かに阿蘇山というならびが見えるけど、ここは阿蘇山では遊べないですよ

403 ::2010/01/22(金) 23:54:30

>>398さんは、コテ付けて良いんじゃないかな?

>>392の質問はそんな簡単な質問じゃないけど、答えてるし、
君の勇気を称えて言うが・・・
まあ、コテ付けるかどうかは個人の判断なので。深くは言いませんが。


404 :日本@名無史さん:2010/01/23(土) 17:12:14
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif

405 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/23(土) 20:54:46
弥生時代の朝鮮半島には、絹が無い。
同様に水田稲作も半島を通り越して倭国に伝わる。


406 :日本@名無史さん:2010/01/27(水) 17:03:11
>>398
拘邪韓国に関する記述について「魏略」(270〜280頃)「魏志」(280年代)と 「後漢書」(5世紀)を比較すると、 「その北岸」→「その西北岸」(「その」とは「倭」のこと) と記述が変わっています。何等かの理由があるのでしょうか。

407 :日本@名無史さん:2010/01/27(水) 17:18:43
>>406

「その北岸」・・・・・其=大海

 「その西北岸」・・・其=大倭王居つまり(都)



408 :日本@名無史さん:2010/01/27(水) 17:47:13
同じ国について、一方では「倭の北岸」、もう一方では「倭の西北岸」と書いているので、南と東を間違えていたか、倭の中心が東に移ったか、いずれかの可能性?

409 :日本@名無史さん:2010/01/27(水) 18:13:18
>>408
倭の北岸じゃねぇって言ってるだろう。

410 :日本@名無史さん:2010/01/27(水) 18:35:10
すみません。「倭の北岸」と解説している本があったので、そのように思い込んでいました。

411 :日本@名無史さん:2010/01/27(水) 19:05:52
>>410
本なんかに頼らず、自分の目と頭を使う事だ。

412 :日本@名無史さん:2010/01/27(水) 21:17:54
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■


@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)

Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)

Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。

Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。

413 :ローガン:2010/01/28(木) 00:42:08
テスト

414 :日本@名無史さん:2010/01/28(木) 01:01:14
>>413 老眼
気をつけなはれや
「書き込みができる!」と思っても直ぐにできない様になるから…
油断大敵www




415 :日本@名無史さん:2010/01/28(木) 01:23:13
浅学なので、「倭の北岸」とは読めない理由を教えて下さい。

416 :日本@名無史さん:2010/01/28(木) 07:19:12
>>415

北岸と言うのは陸地の北は海で、海に接する陸地の北側を言うんだよ。
だから、倭の北岸だったら倭地の北側海岸と言う事になる。
仮に九州だったら、玄海灘沿岸の海岸を北岸と言う。

これでわかったかな?

417 :日本@名無史さん:2010/01/28(木) 07:55:07
>>415

そして「北岸」を日本語にすると
・北の岸(其北の岸)
・北に岸(其北に岸)
の、どちらかの助詞を補い表す。
この場合、
@其北の岸の北には「海」となり、其は「陸」と言う関係

A其北に岸の北には「陸」となり、其は「海」と言う関係

で、其北岸の後には狗邪韓国とあり、狗邪韓国は当然陸地だから
Aの「其北に岸」と言う日本語になることがわかる。

418 :日本@名無史さん:2010/01/28(木) 11:52:56
丁寧な説明、ありがとうございました。

419 :日本@名無史さん:2010/01/28(木) 12:08:47
この解答者、もしかしたらあの方か?

420 :ローガン:2010/01/28(木) 15:37:24
>>406
長い規制であった。>>417氏の見解で間違いないと思います。ただちょっと気になったのは…

>「 魏略」(270〜280頃)

これなんですが、どうでしょう。 呉志張昭伝なんですが…
「典略にいう。私が昔、劉荊州どのから聞いたのであるが」(ちくま学芸文庫正史三国志6 p358)
私とは当然、魚豢です。ちくま本ではこの「劉荊州」を劉備とします。wikiでは劉表だとして、ちくま本は間違いであるとしています。
劉備だと、荊州どのといわれるとすれば、212年以前でしょう。成都攻め以降は関羽に荊州を任せています。
劉表であれば、208年没です。 いずれにせよこの「劉荊州」から魚豢は直接話を聞いた…。
仮に、その時彼が二十歳の青年だとすれば、生まれは192年又は188年になります。特別長寿でないかぎり、魏略成立270〜280年は考えにくいのではないでしょうか?
それに、明帝後の記述が見当たらないのも併せて考えると、もう少し早い時期に書かれたものであろうと思います。
そこで、三国志等に詳しい方に質問ですが…
仮に265年以前に書き始められたとしたら、魚豢の「魏滅亡」に対する認識は陳寿と異なるもので、明帝を魏最期の皇帝とし、明帝没をもって魏の終わりとしたのではないでしょうか?
ご教示よろしく。

421 :日本@名無史さん:2010/01/28(木) 16:21:02
>>420

魚豢が239年をもって筆を止めたのなら、有り得る話しです。


詳しくはありませんが

422 :ローガン:2010/01/28(木) 20:52:21
>>421
レスをどうも。
とすれば、先行史書が明帝迄としたにもかかわらず、三国志は司馬炎以前に晋朝皇帝を認めていませんね。
陳寿の歴史観? では司馬懿を皇帝としなかった。 ここら辺から見ても東夷伝における司馬懿顕彰を否定出来るようにも思うんですが…。

423 :日本@名無史さん:2010/01/28(木) 21:14:35
>>422

その前に、司馬懿顕彰なんて一体誰が言い出したことなのですか?
そんなの最初から存在しないと思いますよ

424 :日本@名無史さん:2010/01/28(木) 21:26:07
明帝紀にて書が終了しているかに見えるが、実際はその後の出来事も確かあったはず
魏王朝が明帝をもって終了しているなら、魏略に書かれていた明帝崩御以降の記事は
未来予言と言うことになる。

425 :縦目仮面:2010/01/28(木) 21:53:53
ぐええ、長いアク禁であった。 

>>423 俺は岡田英弘氏の本で読んだけどね。司馬氏一族にとって、蜀の脅威を取り除き、公孫氏を討って
東夷を中華文化圏に組み入れたという偉業は、創業伝説として語り継がねばならない。中でも、先史にある
伝説の倭人の遣使をこの功績の象徴として記録せねばならなかった、うんぬんという話。
ただしこれ、俺もそんなに信じてはいない。


426 :日本@名無史さん:2010/01/28(木) 22:23:28
>>425
公孫氏を討ったのは司馬ではなく明帝だから、司馬懿顕彰なんて入り込む余地もないんだよね〜
家臣は皇帝の命で動くものだし
家臣は飽くまで皇帝の手足にすぎない。

427 :ローガン:2010/01/29(金) 00:19:30
>>424
> 明帝紀にて書が終了しているかに見えるが、実際はその後の出来事も確かあったはず

そうですね。あります。呉の新城包囲の話(253年)、張特について魏略が引かれています。
又、斉王を廃し、高貴郷擁立も魏略引用ですね。
まあ、司馬懿顕彰云々は余計でした。

428 :日本@名無史さん:2010/01/29(金) 00:44:21
>>410 >>411
倭の北岸でいいんだよ。変なこじつけに惑わされないことだ。
倭の北岸といっても、倭の領域内の北岸ではない。倭の北の方角にある
岸ということだよ。つまり、倭は方角の基点を示しているだけで、岸が
属する国を書いているわけではない。

429 :日本@名無史さん:2010/01/29(金) 01:13:29
>>425
おや、縦目仮面(先生)。

岡田史観のユニークなところは、国家形成への原動力が、
生産力の発達に伴う、自然な社会発展によるのではなく、
外部からの経済的刺激による、体制形成の促進とするところだと思います。

そこで、スレの趣旨に則って質問ですが、
現在の考古学では、弥生時代中期と後期を区別する基準は何なんですか?
言い換えると、中期の社会と後期社会の違いは何だってことになってるんですか。

430 :日本@名無史さん:2010/01/29(金) 01:41:49
>>427
魏略の成立がいつかについては以前から疑問でした。
ローガンさんの考えをぜひお聞きしたいのですが。

魏略は司馬昭を文王と記している(らしいですね)。
これは咸煕二年(=晋の泰始元年)に送られた諡号だとのこと。

・・・すいません。以前調べたのだけど、詳しくは忘れてしまいました。
上記についてはどのように思われますか?

431 :日本@名無史さん:2010/01/29(金) 02:10:39
>>428
そうすると、後漢書では「倭の西北岸」と記述されていますが、基点が東に移り変わったという理解になるのでしょうか。

432 :日本@名無史さん:2010/01/29(金) 07:00:56
>>428
くだらねぇ
パブロフの犬みたいな反応してないで
>>416-417を、細かく否定してみ!

無理だと思うが。

とことん付き合ってやるぜ

433 :日本@名無史さん:2010/01/29(金) 07:33:36
>>432
>>416はそれ自体では別にまちがっていないよ。九州の北岸などというなら
あなたの言うとおりだ。しかし、そのような使い方だけではないってことだ。

>>417の「北に岸」なんてのはどうかな? 私がいう方角の基点という解釈と
同じようなことを言いたいのかも知れないが、それならば南にあるのは海に
限らずもっと南の陸(倭)でもいいだろ。

434 :日本@名無史さん:2010/01/29(金) 07:37:30
議論が始まったが
ヨソでやれってかんじ


435 :日本@名無史さん:2010/01/29(金) 08:51:05
>>433

>それならば南にあるのは海に
限らずもっと南の陸(倭)でもいいだろ。


いや、それは無理というもの。無理を通せば当然道理は引っ込む
南の倭地に視点を置けば、その表現も「北に岸」ではなく「北の対岸に」となる。

436 :日本@名無史さん:2010/01/29(金) 08:57:48
>>434
ここで議論が始まってもあんたには何も迷惑はかからんだろう。
つい先日までは、閑古鳥が鳴いてたスレだぜ

437 :ローガン:2010/01/29(金) 16:42:54
>>430
>・・・すいません。以前調べたのだけど、詳しくは忘れてしまいました。
> 上記についてはどのように思われますか?

あわわ 本件質問者は私なのに…
たしか、佐伯先生が魏志倭人伝を読む で書かれてましたね。生憎忘れました。よろしければご教示を…

438 :縦目仮面:2010/01/29(金) 20:19:16
>>429
基本的には土器編年で区分するしかないかと。水稲耕作や戦争など社会的な事象で分けるの
はおそらく難しいでしょう。あと、実年代は慎重に扱うべきでしょうね。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/5-1doki.htm

439 :縦目仮面:2010/01/29(金) 20:49:59
アク禁中、暇のあまり隔離スレに書き込んだものをコピペ。

暇なんで、邪馬台国関係のコテをRPGのキャラクターに当てはめてみまふ。ただし
俺はゲームはやらないんで、用語等おかしかったらスマソ。

俺ーーーーーーいちおオカルト好きで、剣道やってるんで「弱っちい魔法戦士」HP少なし。
愛知県民さんーやはり記紀等に関する知識はすごいんで、「セージ(賢者)」かな。
ローガンさんー俺のイメージとしては「エルフ」。弓の名手として、九州説を射すくめる。
河童さんーーー剣道家としては先輩なんで「剣士」というところかな。宝剣「言意丸」を携える。w
太国さんーーー敵のボスキャラといった感じなんだけど、古神道の大家ということで「神官戦士」。
唐松山さんーーこれは難しいが、魔道書「ホツマ」を操る「魔法使い」というところかな?
メさんーーーー「武器商人」ですかね。あちこちのスレに出現して、論争を煽って回る。
w w w ーーーーこれは神出鬼没のトリック・スターということで「怪盗」。
縄文人ーーーーこの人のイメージは穴居する「ドワーフ」だな。そのレスは戦斧のように力強い。w

ま、こんなところで。話の筋はもちろん金印のクエスト。


440 :改め ◆PWTcGEfp1s :2010/01/29(金) 22:12:26
縦目くん
RPGキャラクターって発想がお子様だなーw

古代史マニアって40〜70才ぐらいの人が多いから、
たぶん行っても分からないよww

441 :改め ◆PWTcGEfp1s :2010/01/29(金) 22:13:46
【訂正】
たぶん行っても分からないよww

【訂正後】
たぶん言っても誰も分からないよww

442 :日本@名無史さん:2010/01/29(金) 23:18:50
>>435
榎の「邪馬台国」に次のように書かれているな。

日野開三郎博士は、元和郡県志(巻一三)や太平寰宇記(巻三十)登州の条に、
都里鎮すなわち旅順が登州の北岸と書かれていることなどを引いて、漢文では
Bが海を隔ててAの北方にあった場合、「BはAの北岸にある」と記す例のあ
ることを明らかにせられた。・・この疑点の解明に対する最も重要な寄与であ
ろう。

443 :ローガン:2010/01/30(土) 00:46:36
>>430
> 魏略の成立がいつかについては以前から疑問でした。
> ローガンさんの考えをぜひお聞きしたいのですが。

>>437では愛想ないので少し調べてみました。まあ想像で書きますが…
魚豢でググると、こんなのがヒットしました。
「通典卷 第四十二禮二 郊天上」に
「魚豢議曰:「昔后稷以功配天。漢出自堯 不以堯配天,明不紹也。且舜已越數代,武皇肇創洪業,宜以配天。」自正始以後,終魏代不復郊祀 。と。
明帝の郊祭についての魚豢の議文ですね。皇帝の郊祭についての奏議なので、当時の彼のポストは、朝廷の中で、かなり高かったんじゃないかなあと。
明帝時の要職とすれば、上で書いた年齢云々の話の傍証になると思うんですが…。
「文王」についてはよくわからないですね。ただ、翰苑引用逸文に「魏略曰高麗俗好哥舞」と。高麗なので、後世の改称?
文王も同様かなあと。違うかな?

444 :日本@名無史さん:2010/01/31(日) 04:55:43
ヒバリちゃんかわいくね?
http://www.youtube.com/watch?v=8m64kvF7oIw

445 :日本@名無史さん:2010/01/31(日) 07:39:28
それより、幼稚な嘘に騙されて「てんと、金返せ」と繰り返しているところが、
「畿内説は正しい」と繰り返している畿内説論者の姿とダブルね。

446 :nebbia_18 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/31(日) 12:26:20
>>442

>漢文では
Bが海を隔ててAの北方にあった場合、「BはAの北岸にある」と記す例のあ
ることを明らかにせられた。


間違ったことを明らかにされても周りが迷惑するだけ
「BはAの北岸にある」なんてマンガの世界じゃあるまいし

「BはAの北に位置する海を挟んだ岸にある」と言いたいのだろうけど
これではまるで Bは「岸」だけに存在するという、奇妙な文章となる。






447 :日本@名無史さん:2010/01/31(日) 12:32:49
>>446
>これではまるで Bは「岸」だけに存在するという、奇妙な文章となる。
いや、そのとおり。岸だけに存在するんだよ。
狗邪韓国は朝鮮半島の岸に存在する国だって言ってるんだ。
大きな地図を眺めているような話なんだよ。けして狗邪韓国の岸なんてミ
クロなことを考えているわけではない。

448 :nebbia_18 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/31(日) 13:07:11
>>447
>そのとおり。岸だけに存在するんだよ。
狗邪韓国は朝鮮半島の岸に存在する国だって言ってるんだ。


それは言葉で存在しているだけで、
矛盾した話しだよ。
国と言いながら岸と言う。

449 :日本@名無史さん:2010/01/31(日) 13:38:55
矛盾という言葉の意味を勉強した方がよさそうだな。

450 :nebbia_18 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/31(日) 13:50:43
>>449
矛盾という言葉を指摘する以前に、目の前の北岸に対する認識を正した方がいい。
話しはそれからだ

451 :日本@名無史さん:2010/01/31(日) 13:59:21
あなたが北岸の意味も矛盾の意味も知らないだけだよ。

452 :nebbia_18 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/31(日) 14:05:10
>>451
貴方が私をそのように位置付けしなければ
貴方の意見は通らないものとなるから、必死なのはわかりますよ。
でもね。ならぬものはならぬ


我が儘言わないで下さい。

453 :日本@名無史さん:2010/01/31(日) 14:16:59
別に私の意見を理解できない人がいたからといって、私の意見が通らないもの
になるわけではないよ。分かる人には分かる、それが世の常だ。
あなたの方こそ必死だねえ。勉強してから言えばいいものを。

454 :nebbia_18 ◆EY2wfgakAQ :2010/01/31(日) 14:21:52
>>453
あらあらやれやれ

455 :日本@名無史さん:2010/01/31(日) 14:41:23
五十歩百歩

456 :日本@名無史さん:2010/02/05(金) 03:35:49
西暦1910年に日本が韓国を併合しました。

それまで日本では、

日本人→一等国民
琉球人(沖縄人)→二等国民
台湾人→三等国民

として扱われていました。

そこで、普通は、

日本人→一等国民
琉球人(沖縄人)→二等国民
台湾人→三等国民
韓国人→四等国民

こうなるはずです。

しかし何故、

日本人→一等国民
韓国人→一等国民
琉球人(沖縄人)→二等国民
台湾人→三等国民

となったんですか?

457 :日本@名無史さん:2010/02/13(土) 18:18:06
しんら

458 :縦目仮面:2010/02/13(土) 23:08:31
謎の女王スレで忍者の話が出てきたが、本筋に関係ないのでこちらにレス。。飛鳥時代に聖徳太子が、大伴
細人を「志能備(しのび)」として用いたというのはあちこちのサイトに出てくるけど、これがよくわからない人物
なんだよなあ。誰か詳しいこと知ってる人いるかな?聖徳太子は大伴細人以外にも服部氏などの忍びを使っ
ていて、服部氏族が伊賀忍者、大伴細人が甲賀忍者の源流になったという話もあるけど、これは俗説のよう
だ。聖徳太子のブレーンといわれる秦河勝も、忍者との関連をとりざたされる人物だな。

459 :日本@名無史さん:2010/02/13(土) 23:25:25
天武天皇が「天文・遁甲」を能くしたという記述は、書紀の天武紀の始めに出てくるけど、この遁甲というのは
忍者小説に出てくる逃走術(木の葉隠れとか)のことではなく、占いの類のようだ。天武天皇は日本で初めての
占星をつくったり、陰陽寮を制度として整備したりしてるから、呪術好きなのは間違いないだろう。

書紀の記述には、「横川に着こうとするころ、黒雲が現れ、広がって天を覆った。天皇はこれを怪しんで、式(ちょく)
をとり、これは天下が二分されるという天象だが、最後には私が天下をとるであろう。と占った」とあり、この式は式
盤のことで、周りに方位を書いた円盤の上に回転するドーム状の北斗七星を描いたものらしい。このあたりは太国
さんが詳しそうだが・・・。


460 :縦目仮面:2010/02/13(土) 23:59:00
いずれ天武天皇は皇位継承を期に、宗教的に日本を統合しようとした節があるんだよな。まずは、壬申の乱
で敗勢の時、高市の県主の許梅が神懸りになり、「神武天皇陵に、馬および種々の兵器を奉れ」と述べたの
で、ただちに、許梅をつかわして御陵をまつり、馬・兵器を奉った、との記述がある。またこのお告げをした一
柱の牟佐の神は孝元天皇と関わりがある。

この記述をもってして、壬申の乱の頃には神武陵の存在が周知されていたと見るむきが多いが、俺的には
疑問もある。まあここでは、皇統の開祖とされる神武帝と自らの関係を強調することで、正統を継ぐ者という
印象を与えようとする意図があるのだろう。

461 :縦目仮面:2010/02/14(日) 00:12:24
天武天皇と伊勢神宮の関係はググればいろいろと出てくる。例えば、
壬申の乱において伊勢神宮は大海人皇子(天武天皇)に加勢したため、天武天皇は恩義にむくい、以後伊勢
神宮を正式に天皇家の守護社とした。また長らく途絶えていた齊宮も復活し、20年毎に社殿を建て替えるとい
う式年遷宮の制度も定めた。また、広瀬・竜田祭が国家事業として行われた。この頃から新嘗祭と大嘗祭の区
別などがされ現在にまで継承されている。彼は宗教を巧みに利用して天皇の権威を高めるとともに、宗教を人
民支配の手段にしたのである。


462 :縦目仮面:2010/02/14(日) 00:24:54
天武帝が、今でいう国家神道のみを捧持したのでないことは、仏教に対しても大官大寺等の造営が進められ
るとともに僧尼の統制を強化している。また、上レスした陰陽寮などは、、陰陽五行説を起源とする中国的な
ものだし、主祭する泰山府君は道教的な神だし、方違、物忌、反閇などの呪術は道教の方術に由来する。つま
り一つの宗教に特化することなく、それぞれ手厚く遇している。これは、宗教により壬申の乱後の壬申を収攬
するための方便であったと考えることができる。

463 :縦目仮面:2010/02/14(日) 00:55:46
あんじゃ? 壬申の乱後の壬申→壬申の乱後の人心

伊勢神宮に道教の強い影響が見られることは様々に論じられている。
道教には星の宗教という側面があり、これに天照大神という太陽神を取込んだものと見ることもできる。御神
体は鏡であり、鏡は道教では「抱朴子」に書かれたように除厄の力を持つ呪物である。伊雑宮の御田植神事
や伊勢神宮の式年遷宮の運搬に「太一」の文字がたなびく。これは道教の北極星という主神の呼び名である。
この他、、天照大神の「大神」という言葉の使用、神宮を内宮と外宮に分かち、斎宮、斎官、斎王、采女等々を
置くことなども、それらの用語と共に道教をその代表とする中国古代の思想ないし制度と密接な関連性を持つ。

太国さん、唐松山さんなどがいう古代暦(少なくとも5世紀以前)の存在に俺は疑念を持っているが、その論拠
の一つとして、日本に星辰の神話がほとんど見られないことをあげている。それ以外にも、占星術の類もほとん
ど発達していない。これは、夜空を見て天文計算をする習慣がなかったことと関連があると見たい。つまり星辰の
信仰は「能天文」であった、天武天皇が持ち込んだもの。また、書紀には、持統天皇4年(690年)の条に「勅を奉
りて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行う」という記事がある。また、天照大神信仰も天武紀から大々的に広められたも
のである疑いももっている。


464 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2010/02/14(日) 15:03:52
改革者・天武天皇の重要性はいうまでもない。
日本書紀では天智天皇の埋葬記事さえ無いし、天武天皇は壬申の乱後、外国からの
「弔問」を受けつけず、「祝賀」だけを受けたとされている。
ただ、後の歴史を見ると天武の血統は称徳天皇で途絶え、光仁からは天智系に戻ってしまう。
都も天智の大津宮に近い平安京に移る。
書紀は天智天皇の改革を詳しく書かず、大化の改新に繰り上げて書いたという説もある。
真の改革者は天智だったかもしれない。

465 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/14(日) 15:25:01
>古代暦(少なくとも5世紀以前)の存在に俺は疑念を持っているが

これでは、神無月に全国の神々が出雲に集まった事が説明出来ない。
集まった証拠に銅鐸、銅剣は、出土している。

暦は、運用だけで、製作はしていない。
運用には、19年7閏6940日、これだけ押さえていれば、何とかなる。


466 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/14(日) 16:08:36
忍者が活躍した時代は、戦国時代を見れば解る。
各武将は、良く誓詞を書かされた。ここには、たくさんの神々により約束させられる。
そこには、スサノオ以下地方の神々の名が書かれている。
唯一の例外として、天照皇太神は、登場しない。
なぜか?答えは簡単
だれも天照皇太神に誓うことはしなかった。誓う価値が無かったのか?
この時代も御師は全国を飛び回っていた。それだけの神徳はある。


467 :日本@名無史さん:2010/02/15(月) 00:03:35
しんら

468 :日本@名無史さん:2010/02/15(月) 22:39:02
シラー

469 :日本@名無史さん:2010/03/13(土) 14:47:57
保守

470 :日本@名無史さん:2010/03/25(木) 01:19:40
点検

471 :ローガン:2010/04/08(木) 16:12:27
テスト

472 :ローガン:2010/04/08(木) 16:24:37
長い規制であった。
規制中覗いてた所で伊作氏が面白い事を書いていたので 以下コピー
[『魏略』と『紹興本』倭人伝は「対馬」と書き、『隋書』はこれを「都斯麻」と書いた。『倭人伝』の都を「と」と読むとすれば、それでは都支国、好古都国、都市牛利 、これらをどう読むのか。
私は、都を「と」と読むことそれ自体を懐疑する。中国人が「都」と書いた場合は、「と」ではなく「つ」ではなかったのか。
現実に中国人が『隋書』で都斯麻と書いて都を「つ」と読ませている。さらに、百済からの亡命帰化漢人の手になる『日本書紀』も、たとえば都怒我阿羅斯等、丹生都姫のように「都」を「つ」と読ませている。
漢人文筆家だけではなく倭人の読みをみても、地名や姓には都はほとんど「つ」に当てている。都介(つげ)、都努(つぬ)、都於(つお)、都祁(つげ)、都保(つほ)、都留(つる)、都野(つの)、都路(つじ)、都築(つづき)、都濃(つの)、都万(つま)……。]
伊都を「いつ」であるという。サガミ氏の言では「いた」(長田説?) 通説は「いと」
辞書によれば、都の音変化はtag-to-tu 3世紀頃の都の発音や如何に? 詳しい方 御教授頂ければ幸いです。続く。

473 :ローガン:2010/04/08(木) 16:50:58
魏略西戎伝に「浮屠」が見えますが、サンスクリット語のブッダなのかパーリ語のブッドなのか?屠dag-do-tu …
魏略西戎伝「昔漢哀帝元壽元年,博士弟子景盧受大月氏王使伊存口受浮屠經曰復立者其人也。」
この復立者、ちくま本は復豆の誤りとします。根拠は調べてませんが確かに復立では文意不明です。
復豆をブッダとすれば、豆はdug-deu-teu(逆のe) 大きく開口するaの発音でないのでサンスクリット語のブッダではなくパーリ語のブッドではないかなあと思うのですがいかがでしょう?
であれば、屠はdoであり同様に都はtoつまり 「いと」でよろしいかと…?

474 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/08(木) 17:37:21
書きこめるか? テスト。

475 :◆.L.MXSPOgc :2010/04/09(金) 09:44:21
昔の漢字の発音は、まだまだよく分かっていない発展分野ですから、
調べると新発見なども沢山ありそうですね♪

476 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/09(金) 10:07:22
>>463
この書きこみがないようですが、試験等の関係で暇がないんでしょうね?

先代旧事本紀大成経の應神四年の条にはさそり座の超新星☆の記事があり、
天皇が武内宿禰に質問してこれに答えている記事があります。これは倍年暦
の関係と120年の年代のズレから、仁徳初期に真の年代が移りますから、
393年の☆のことから(倍暦計算で 仁徳元年=391年=広開土王即位年)、
記紀にはなくても4世紀後半の天文記事はあることになります。

この記事のことから應神元年は370年前後であることが推定でき、倍暦逆算
の結果は 應神元=376年 であり、これが真だということです。

477 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/09(金) 10:14:01
>>476 訂正
× この書きこみがないようで
○ このごろ書きこみがないようで

× 應神元=376年
○ 應神元年=376年

この天体記事のことから、唐松山のいう神功初年頃の記事を273年とかに
するのはデタラメだということです。

478 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/09(金) 10:48:10
こういう天体観測的記事が紀に載っておらず同経には存在してるという
ことは、客観的に不審を抱くべきものでありましょうが、どうやら紀の
編者団は年代策定がうまく行かなかったことから、欠史八代の殆ど史実
無記載のと同様に、記載から外さざるを得なかったということです。

原因は年代の整合しないことで記載をすれば後世紀の不信が増幅して権威
が地に落ちることを警戒し、もって腫れ物に触るのを敬遠したという
ことです。年代の不適合なのは卑弥呼の時代を神功年間にもっていっての
記載をしていることからもこれが伺われ、本来ならこれも当たらず触らず
の敬遠で行くべきだったのでしょうが、倭人伝に名高くなろう卑弥呼の
記事があることから、神功が卑弥呼なのかという疑念性を抱きがら後世に
判断を求めるためのことからのことで、これのことだけは記述を残して
おいたということになりましょうがあとの全部と言っていいくらいの原書
の観測記事は、年代の合わせられない困惑から記載をあきらめたという
ことなんでしょう。こういう年代のえらく合わない時代たる佛伝以前では、
このことで天体観測記事は原書にあっても、不整合が厳しいため掲載は
断念したということです。したがって神功初年頃の記事が日食にはなり
えないわけで、紀に蟻の大群の如くある朔の記述は後つけの逆算からの
もので、観測ではないのだということが分かってきます。

479 :日本@名無史さん:2010/04/09(金) 21:08:35
あげ

480 :縦目仮面:2010/04/10(土) 00:21:05
>>477
おお、アク禁が解除になってる。ww 全OCNの多重禁だったので、ずっと長いのかと思ってたけどこれは重畳。
いや、試験というか就職活動で・・・ww.。
まあ、本来のホームであるオカルト板でずっと書いてました。太国さんも来てくださいよ。古神道の大家なら歓迎
されるでしょう。ww

481 :縦目仮面:2010/04/10(土) 00:36:08
普段はこのスレで「DoW」というコテ名で書いてます。皆さんも遊びに来てください。面白いですよ。
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/occult/1268836552/

482 :◆.L.MXSPOgc :2010/04/11(日) 03:12:42
■□■幽霊は本当にいるのか90(いないのか)■□■
ですか、流れ早そうなので私は無理かな。

483 :日本@名無史さん:2010/04/14(水) 00:14:39
瀚海ってどこのことなんですか?
エキサイト翻訳だと、
瀚→広いです
瀚海→ゴビ砂漠(w)
って出たんですけど。

484 :日本@名無史さん:2010/04/15(木) 00:28:01
>>483
バイカル湖のことです。

あるいは対馬と壱岐の間の海が流れが速いので瀚海と記したという説を聞いたことがあります。

485 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 19:02:07
「サイキバ」

よく聞くことばですが意味がわかりません。

486 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 10:47:16
魏志倭人伝を素直に読むならば、

@ 邪馬壹国の北
 末廬国 → 松浦市近辺
 伊都国 → 糸島市近辺
 奴国 → 福岡市近辺(那の津、那珂川)
※不弥国 → 宇美町近辺?

A 邪馬壹国の南
 狗奴國 → 球磨郡近辺(後の熊襲:球磨郡・曽於市)

 であり、邪馬壹国(邪馬台国)は北部〜中部九州以外考えられないと思われるのですが…
 なぜ、この説が不当なのか、反論を聞かせてください。

487 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 11:10:39
>>486

位置関係だけを「素直」に読めばその説は有力です。
それ以外の記載事項についても「素直」に読むと九州島内には収まりません。
詳しくは、図書館に行って内藤湖南と言う人の関係図書を参照してください。

ついで、何をもって「素直な読み方」と考えるかは人それぞれですが、
岩波新書から「邪馬台国論争」(佐伯有清)と言う手ごろな価格の良書でているのでお奨めします。


488 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 11:34:18
>>487
 487さんがおっしゃっているのは、いわゆる内藤湖南先生の「連続説」のことですか?
 私は、不弥国までの道程の表記方法と、投馬国へと至る道程への表記方法が違う点(水行20日、陸行1月など)から、連続説には否定的なのですが、どうなのでしょうか?
 素人考えで申し訳ありません。

489 :ヨコから:2010/07/11(日) 11:39:24
>>488
>いわゆる内藤湖南先生の「連続説」のことですか?

…何か違和感のある言い方だなw

別に連続で読み解くのは湖南が最初でもないし
むしろ後世、放射説が喧伝されるまで連続式で読むのが当たり前だったわけだがwwww

490 :ヨコから:2010/07/11(日) 11:46:05
>>487
>岩波新書から「邪馬台国論争」(佐伯有清)

まあ内容は殆ど「湖南伝」とも言うべきもので
当然、論争を畿内説視点で描いているからここの九州説どもにはウケが悪かろうw

しかしここの九州説の連中って60・70年代以降の邪馬台国ブームみたいに
「市井の研究家・マニア VS プロ・アカデミズム」と言う構図が
それこそ明治から続いているような勘違いをしている奴も多いからなw

一度、論争史をきちんと俯瞰してみるのはオススメだなwwwwww

491 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 12:05:24
>>489
では、なぜ、不弥国までは詳細な道程の表記がなされているのに、投馬国への道程は、水行10日などとあいまいな表記になっているのですか?
連続の行程であるならば、表現方法を変える必要はないのでは?
表現の違いが放射説の妥当性を表しているのでは?

492 :ヨコから:2010/07/11(日) 12:12:28
>>491
「終止符スレ」にも同じ事を書いているよな?w
重複マルチになるから、こっちの内容はここで切っておくww
(スレ趣旨も議論スレではないし)

とりあえずここでは連続式読み解きは湖南がその嚆矢ではないと言う事を指摘しておくwwww


493 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 12:20:26
>>491

貴方は、質問をする前にまずは自分の基本的な考えを説明しておいた方が善いと思います。

「表現方法を変える必要はないのでは?」
表示方法を変えるって「里」から「日」へと言う意味ですか?

例えば榎流の読み方(私はこの読み方に蓋然性を認めますが)では、不彌以降が放射読みなので、
貴方が何を疑問としているのか分からない。

494 :◆.L.MXSPOgc :2010/07/12(月) 01:43:19
>>491
放射説論者なのですか・・

一応、私の説(2つのルート説)も紹介しておきます。
http://yamat-2007.blogspot.com/

行程が日数に変わるのは、
1、里程行程が終わるのはそこで邪馬台国に着いたため
2、そこにテキトーに距離っぽいものを持ってきたため<これが水行20日と水行10日陸行1月
という説明になるんだけど、詳しくは上のサイトでも読んでください。
2009年11月の「少し違った2つのルート説のまとめ」が分かりやすいのかな。


495 :日本@名無史さん:2010/07/12(月) 04:07:54
>>494
末盧國を出雲(松江)とすれば
丹波(伊都) − 難波(奴國) − 伊勢(不彌國)
と自然に導かれるよ。

496 :日本@名無史さん:2010/07/16(金) 19:42:17
てす

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