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新田と足利 その6

1 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 00:44:45
過去スレ

足利と新田
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1006670909/
足利と新田 その2
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1046780432/
新田と足利 その3
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1078331105/
新田と足利 その4
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/history/1111024859/
新田と足利 その5
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1169357226/

2 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 00:53:43
前スレ埋め立て完了

3 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 01:43:28
スレ立て乙

4 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 13:11:13
で、平秀時問題は解決した?

しかし平秀時が北条一族ではないとすると、五男の基氏が新田宗家を嗣げた理由はどう考える?

5 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 13:55:45
>>4
所詮系図だから、何とでも解釈できるわ。
五男じゃないかもしれないし、
秀時も誤記かもしれないし。
平姓御家人の誰か、という考えも出来るし。

6 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 15:15:47
高義は尊氏・直義と同母?

7 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 16:14:49
高義の生母は北条顕時の娘で、尊氏・直義とは異母兄弟。
尊氏・直義の生母は上杉頼重の娘。

8 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 21:15:18
T.高義母を上杉頼重(経高?)女とする系図。
@尊経閣文庫所蔵本「皇帝・女院・藤氏・平氏・源氏系図」所収の足利系図に「高義。母上椙経高女。左馬助。従五位下。早世廿一」
A群書類従系図部集2巻(続群書類従完成会)283頁の足利系図に「高義。左馬助。早世。母上杉大膳大夫頼重女。尊氏直氏同。高義号円福寺殿。」
U.顕時女を貞氏室とする系図。
@群書類従系図部集4巻90頁の北条系図(浅羽氏家蔵本)に「顕時―女子 足利讃岐守源貞氏妻(以下略)」
A群書類従系図部集2巻301頁の足利系図(浅羽氏家蔵本)に「貞氏―高義。左馬頭。早世。号延福寺殿。按貞氏妻。
金沢越後守顕時女也云々。説見于北条金澤系図。可合考」
@Aは共に浅羽氏家蔵本で系図編纂者は「北条金澤系図」なるものを参考にしたらしい。
(浅羽家蔵本とは江戸幕府御書奉行の浅羽氏が収集した系図らしく、後世の書き込みが多い)。
で、編纂者が参考にした「北条金澤系図」とは御書物奉行の近藤守重著の右文故事付録3巻(金澤文庫考19頁)の
「金澤略系」のことらしく「顕時―女子 足利讃岐守源貞氏妻」とある。
この系図は金沢一族の末裔を称する金沢大蔵少輔千秋家蔵本を写本したもので、多分後世に書かれた系図と思われるので信憑性は落ちる。
V.顕時娘は貞氏室ではなく実は家時室。
入来院本北条系図に「顕時―女 足利伊予守室伊予」及び「時茂―女 足利伊予守家時後室」とあり顕時女離別(死別?)後に時茂女が家時室なったと思われる。
入来院北条系図は信憑性の高い系図であることは、長崎大学教育学部社会科学論叢61号山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について」を参照。
で、結論は足利高義の母は尊氏・直義と同じ上杉頼重(経高は改名前?)で、顕時女は足利貞氏室ではなく足利家時室が正解ということ。

9 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 21:19:57
おまけ
蠧簡集残編の源氏系図に「貞氏―高義。嫡子。号円福寺殿。文保元年六月廿四日卒」とある。
高義の死が、史料から正和4年11月14日(鶴岡供僧の足利左馬助殿安堵)以降、文保2年9月17日(長季連譲状の貞氏裏書)
以前と考えられるから死没の日付が正しい可能性がある。
「前田家本足利系図」の21歳没を考え合わせると永仁5年生れで父貞氏25歳のときの子、弟の尊氏より8歳上になる。

10 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 21:46:49
>>8
とすると貞氏の正室は?

上杉頼重女だとすると、これは足利氏がよっぽど衰弱していたのか、それとも北条氏からの独立路線を歩み始めていたのか。

泰氏の時に名越を追い出して、得宗から嫁を迎えた最盛期と比較すると落差がすごいな。

11 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 21:51:17
後世のものなんで信頼は置けないが、『系図纂要』なんかも高義を
尊氏・直義と同母にしているな。

>>9
そういえば足利家時の没年を文保元年にしている系図が散見されるが、
これは高義の没年との混同が起こっていると解すべきなのかな?

12 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 23:43:08
三宝院賢俊置文に、足利貞氏内房に、
金沢顕時と安達泰盛女(無着)の娘釈迦堂殿がいるとあるので、
貞氏に顕時娘が嫁いでいたのは間違いないよ。
それが高義母である確証はないけど。

ただ、高義母が上杉清子だったら、
貞氏が高義にはすぐに家督を譲ったのに、
尊氏には譲らなかった理由が分からなくなるな。

13 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 23:55:47
では何故、「金澤略系」を書いた人物は強引に「顕時−女子 足利讃岐守源貞氏妻」と書き入れたのか?
それは次の史料を知っていたからだろう。

「資寿院置文」(相国寺蔵)
資寿院本願無着比丘尼 城奥州禅門息女 金沢越州禅門恵日後室(中略)
釈迦堂殿者無着息女  浄妙寺殿 足利讃岐入道殿内房(以下略)
貞和五年六月十一日 夢窓(花押)

この史料では安達泰盛の娘である「無着」が金沢顕時に嫁ぎ、その娘の「釈迦堂」が
足利貞氏に嫁いだということになる。だからこの史料を見て系図に書き込んだのだろう。
しかし、顕時女が足利貞氏室になったというのは「金澤略系」以外の北条系図にはない。
もちろん浅羽本以外の足利系図にもない。ということはこの置文が偽造かもしれない。
実は「釈迦堂殿」は家時室だったのに貞氏室だと嘘を語っていた可能性があるかも・・・。
自害した家時の室より室町幕府将軍である尊氏の義理の母としたほうが聞こえが良い・・・。と考えたのかもしれない。
ちょっとしたミステリーです。
委しくは山家浩樹氏の「無外如大と無着」金沢文庫研究301号を読んでください。
(なお山家氏はこの置文を正しいと考えて論考しています)
ネットで「無外如大と無着」で検索すると論文の要旨が出ているみたいです。

14 :日本@名無史さん:2009/12/28(月) 00:35:35
そういや家時の偏諱ってのは誰からのもの?
北条氏所生でもないし、意外と斯波家氏からの偏諱だったりするのかな。

15 :日本@名無史さん:2009/12/28(月) 02:11:31
>>13
前田本の系図は、
北条氏系図以外は翻刻されてないはずだけど、
それを見られるアナタはどなた?

資寿院置文は、写真を見る限り正文だし、
夢窓疎石の直筆で良いと思う。
文書の内容も、
資寿院の開基が金沢顕時室であることと、
伝来の文書の目録だけだから、
何ら偽造する必要性はない。

16 :日本@名無史さん:2009/12/28(月) 05:42:09
>>13
釈迦堂殿を家時の室と考えるのは、父金沢顕時や外祖父安達泰盛の年齢から
考えて厳しくないか?
それに家時の正室には常盤時茂の娘がいるし、北条一族から2人も
配偶者を迎える意味が分からない。
足利泰氏のように後室が得宗家の娘とかなら話は別だが。

>>14
家時の「時」は北条時宗からの偏諱でいいんじゃないか?
「家」は斯波家氏の可能性はあるが。

17 :日本@名無史さん:2009/12/28(月) 05:46:50
ところで、よく家時の自害を佐介時国の事件と結びつける議論があるが、
足利家時と佐介時国って血縁関係あるの?

18 :日本@名無史さん:2009/12/28(月) 07:53:42
>>13
それでは貞氏の正室は誰ですか?

上杉清子は正室ではないはずですし。
常識的に当時の足利の正室は、北条一族出身でないとマズいですよね?

19 :日本@名無史さん:2009/12/29(火) 17:47:12
で、新田義重と足利義康はどちらが兄なの?

20 :日本@名無史さん:2009/12/29(火) 21:41:48
えっ?

21 :日本@名無史さん:2009/12/29(火) 22:33:39
義家の嫡孫義重
吾妻鏡公認

22 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 03:50:42
新田と足利、義貞と尊氏がライバルと見られてるけども、
尊氏に対しては義貞よりも足利尾張高経のほうがライバル心を燃やしてそうな気がする。
泰時、朝時兄弟に端を発する我が家こそ嫡流意識に加えて、
同い年で、高義が早世しなければ庶子であり、鎌倉幕府が続いていれば自分よりも格下であった高氏に対する気持ちは複雑だったんじゃないかな。高義の母親が上杉氏でなく、顕時女ならばなおさら。

実話でないにせよ、刀焼けちゃいました、執事なんかやりませんってエピソードが出てくるのもすごく納得できる。
まぁ、もし高経が戦上手なんかだった場合は斯波武衛家は義満、義教あたりに跡形も無く滅ぼされてそうだけど。

23 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 11:11:53
上杉の系図も頼重娘を高義母としている。

群書系図部5巻58頁上杉系図 頼重―女子 足利大方殿。従二位。字清子。贈正二位。高義尊氏直義母。果證院雪庭貞公。
  同上  83頁上杉系図 頼重―女子 高義。尊氏。直義母。嫡女。号果證院。
系図綜覧下巻109頁 関東管領庶流伝 頼重―女子 足利大方殿、高義尊氏直義御母堂(以下略)

24 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 22:27:14
そもそも貞氏は家督を高義に譲ってないと思う。
貞氏が応長元年に貞時死去と同時に幕府を致仕して、高義に譲ったのは御家人等の公的な活動の権限で、
家督の権限は貞氏が保持したままだった。つまり貞氏は足利家の得宗のような存在になった。
「足利左馬助殿安堵」も高義の公的な活動の一つに過ぎない。
息子に職を継承させた後も、父親が家督を継続して持つのは、天皇家や北条氏や足利将軍を見てもわかる。
つまり「家職」と「家督」の分離。

25 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:16:26
足利将軍家の場合、将軍を譲ったあとも大御所となった父親がそのまま
守護・奉公衆なんかへの所領所職の宛行や安堵を行っているけどね。
新将軍の名前では行われていない。

26 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:46:22
高義の「鶴岡供僧への足利左馬助殿安堵」→足利氏の公的文書→家職の文書
貞氏の足利氏家政機関の文書→足利氏の私的文書→家督の文書
ということでいいんじゃないか?

27 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:53:18
意味不明

28 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 00:54:15
>>25
御免、院政や室町の例を持ち出すと分かりにくくなるかもね。
ただ父親が家督を継続して持つという事が言いたかっただけなの。

29 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:36:31
>>27 御免、言葉が足りなかったかな。
高義は正和4.11.14に「鶴岡供僧への足利左馬助殿安堵」を発給しただけだが
父の貞氏はその前後に足利氏家政機関等の文書を発給し続けている。具体的に書くと
貞氏が致仕した応長1年以降では応長2.1.1。応長3.閏3.7。正和3.7.10。(ここに高義文書が入る)。元応2.1.2。元応2.2.13・・・
で、この安堵を高義が家督を貞氏から譲られて家督として出したか?家督は貞氏のままで高義は公的文書として出したか?
という問題。自分は後者。

30 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 10:24:39
貞氏の経歴を整理すると・・・
1.弘安7.6.25父家時自害で貞氏家督を継ぐ。(12歳)
2.正安3.8.23貞時と同時に出家か→出家のみで家督(家政機関)と御家人の両方とも継続。(29歳)       
3.嘉元3.5.2 足利讃岐入道(嘉元乱の御内人受取り。鎌倉年代記)→出家しても御家人として活動(33歳)
4. 応長1.10.25の貞時死去に伴って11.27致仕(尊卑分脈は出家とするが嘉元に既に入道だから、致仕と考えてみた。39歳)→御家人を辞任し嫡男高義に譲るが
貞氏は家督(家政機関)を続け、高義は幕府等の公的活動のみ行う。(貞氏は足利家の得宗的存在になる)
5.正和4.11.14鶴岡供僧への高義の安堵状→足利家の公的な活動なので高義が行う。(貞氏43歳)
6.高義死去後は次男高氏が御家人として活動したと思われるが、貞氏が家督を継続。(45歳?)
7.元弘1.9.5貞氏死去(59歳)で高氏が家督継承→尊氏は初めて家督と御家人の両方を兼ねることができる。(幕府の公的活動と足利家の私的活動の一元化。)


31 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 10:44:21
鶴岡八幡宮供僧次第 蓮華坊の記事から考えてみると・・・
1.建久5.11.13足利殿御教書(足利義兼)→家督
2.承久3.10.23足利殿安堵御判(足利義氏)→家督
3.永仁2.12.20足利殿御判(足利貞氏)→家督
4.正和4.11.14足利左馬助殿安堵(足利高義)→?
高義のみが「足利左馬助殿」で、他は全て「足利殿」と呼ばれ足利の家督である。
この記事では「足利殿」という呼称は足利家の家督を呼ぶときに使うようなので、高義は家督ではない可能性がある。

以上色々考えてきたが、足利高義の母は高氏や直義と同母の上杉頼重娘の清子で、
高義は父貞氏から家督を譲られていなかったという結論でいいだろう。

32 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 14:01:05
「家督(家政機関)と御家人の両方とも継続」
って意味不明。
御家人は辞めるものじゃない。
出家したからって、御家人でなくなる訳ではない。
また、出家した人間が、幕府に出仕出来る訳もない。
『吾妻鏡』を見たことがあるか?
幕府の公的行事の供奉人に入道がいた例があるか?

また、「足利殿」の呼称も、
貞氏が遁世してもいないのに高義がそう呼ばれる訳がない。

33 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 17:18:36
佐々木って入道じゃなかったっけ?

34 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 18:50:40
>出家したからって、御家人でなくなる訳ではない。
賛成。それが「出家のみで家督(家政機関)と御家人の両方とも継続」の意味。
>また、「足利殿」の呼称も、貞氏が遁世してもいないのに高義がそう呼ばれる訳がない。
賛成。だから高義は家督になっていない。

つまりあなたも「高義は家督につかなかった」という説に賛成なんだね

35 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 19:01:23
>>34 追加 
「出家のみで家督(家政機関)と御家人の両方とも継続」とわざわざそう書いたのは
尊卑分脈の応長1.11.27貞氏出家を根拠に、その事実を以て高義に家督を渡したと主張する説が流布しているから。
出家イコール家職や家督を手放すわけではないことを明示するために書いたわけ。
だから、基本的に>>32の言ってることと僕の言ってることは同じわけ。
僕の書き方は初心者向けだから、あなたのような専門家から見れば「なにを今更、こいつ馬鹿じゃね?」と思ったかも。

36 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 22:04:28
いや、そういう意味じゃない。
御家人の意味を理解していない人間の言うことなんか

 信 用 で き な い

ってこと。
因みに、応長元年出家説なんて、
とうの昔に崩壊してるんだから、
今更そんなこといってる人間なんていないよ。





37 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 22:57:48
>>11
足利家時の死没年月日及び年齢は諸説分かれているようです。
1・尊卑分脈 「早世。二十五。」(卒年月日書かず)
2・群書類従足利系図 「文保元年六月二十五日切腹三十五才」(例の浅羽家本)
3・新田足利両家系図 「延慶二年二月二十一日卒」(鑁名寺位牌も同)
4・白井信義氏説 正応2年6月25日
5・小谷俊彦氏説 弘安7年7月26日以降弘安9年3月2日以前
6・愛知県岡崎市の瀧山寺縁起 「弘安七年六月二五日。二十五歳。」
現在は6が有力視されているようですが、この蠧簡集残編は瀧山寺縁起と同じで家時死去も弘安7年26日27歳(月抜け。享年は違う)、
頼氏卒も弘長2年4月24日卒とします。もしかしたら縁起を参考にして“系図書き”が書いた可能性もあり浅羽本同様注意が必要かもしれません。
(書体や書き方も近世様)。ですから高義の死の「文保元年六月廿四日卒」も要注意かもしれません。ちなみに、この系図は今川氏の重臣朝比奈
氏が今川氏の文書や今川系図などと一緒に所蔵していたものです。(逆に足利一族である今川氏の系図とともに伝わったから信憑性があるという
考もあるかもしれないが。)また高義が家督についていないとなると卒年を正和4.11.14以降は確実だが、元応2.1.2以前とは明言できなくなります。
高義の卒年は振り出しに戻った感じですね。

38 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 23:08:52
>>36
では、あなたが理解している「御家人の意味」を説明してください。

   ↓

39 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 23:48:59
「御家人を継続」
なんて書いてるということが
既に御家人制を理解していないということ。
御家人の意味?
幕府法を読め。

40 ::2009/12/31(木) 23:57:31
逃げるなよ。さっさと自分で説明しろよ。ほれ、ほれ、ほれwww
お前いつも反論されると逃げるのなwwww
喧嘩売って人から知識を引き出す手法はもう古いぜ。坊や。
あしたパパやママからお年玉貰って日本史の参考書でも買って良く読むんだな。w

41 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 00:22:37
ほれ、ほれ、さっさと説明しろよ。Wikipediaなんか見てないでさ。www

42 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 00:54:12
なんで早く説明しねえんだよ。一時間待ってるんだぜ。理解してるんならすぐに書けるだろうが。
あんたがどの程度「御家人の意味を理解してい」るかたっぷり見せて貰おうじゃねえか。

43 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 01:04:39
Wikipediaや「日本の歴史」や「日本史辞典」とかの丸写は勘弁な。
それから中学校とか高校の教科書の丸写しもなwwww
自分なりに最適と思われる史料を提示して具体的に説明な。
これ最低限の礼儀な。オレずっと待ってるし。
それともパパとママに連れられて初詣にいっちゃったかな。w

44 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 02:00:50
え?まだ説明できないんですか?さっきから中世法制史料集1巻を片手に待ってるんですがね。w
いくら厨房でもまさか「御成敗式目に書いてある」なんて言わないでしょうね。w
それとも沙汰未練書にかいてある「御家人トハ往昔以来、為開発領主、賜武家御下文人事也」ですか?wwwwwww
さっきも書いたけど必ず典拠史料を提示して具体的に説明しろよ。抽象的な話は許さないぜ。
適当に抽象的なこと書き散らして、後は他人を批判してお茶を濁すのは止めてな。みっともないから。
じゃあ、朝まで書いておけよ。起きたら年賀状がわりに読ませてもらうし。オレもう寝るし。
まあ、せいぜい時間をかけていい論文を書きな。www―

45 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 10:12:22
>>39
おい、なんで書かねえんだよ
朝までに書いとけって命令しただろが
このまま逃げたら承知しねえぞ

46 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 15:12:37
>>32>>36>>39
教養の無いヘタクソな文章 小学生からやり直せ

47 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 15:13:56
晒し上げ

48 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 15:34:59
ギスギスしてるスレだな。
現実の「いま」を生きろよ。

49 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 19:10:35
意味不明

50 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 20:37:49
坊やは凧揚げ出来るようになったか? wwwwww

51 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 03:59:20
足利義満をキングオブジャパンなんていってる奴がいるが、
義満が明から大量の中国人を日本に入れたのが日本国崩壊の原因だろ。
下克上の戦国大名も中国人が多いんだろ。

52 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 17:31:14
昨夜NHKで、元寇の直前に高麗にいた三別抄の残党が沖縄に逃れて
琉球王国を作ったって言ってたんですが、本当ですか?

53 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 17:47:05
>>37
そういえば『史料綜覧』は、足利頼氏を弘安三年没にしているね。
『大日本史料』編纂の際にどうするのかは分からないが。

54 :日本@名無史さん:2010/01/03(日) 17:49:40
足利頼氏の没年に関しては、弘安が弘長の誤記の可能性もあるかも。

55 :日本@名無史さん:2010/01/04(月) 22:28:28
足利庄って八条院領なんだよね。

56 :日本@名無史さん:2010/01/05(火) 14:50:35
新田庄は?

57 :日本@名無史さん:2010/01/05(火) 15:15:30
足利は評定衆になれないから実際は大した御家人じゃないみたいなことをいう奴いるけど、そもそも鎌倉幕府の評定衆に清和源氏の者が就任した例ってあるの?

58 :日本@名無史さん:2010/01/05(火) 19:24:34
幕府の要職に就くということは、将軍家の隷属的家臣であること。
特に、将軍家一門がなることはありえない。
なぜなら、幕府は将軍家の家政機関だから。


59 ::2010/01/05(火) 20:47:46
幕府は将軍家の家政機関wwwwwwwww

60 :日本@名無史さん:2010/01/05(火) 21:33:06
幕府=家政機関説って2chでよく目にするけど、実際のところどうなの?

61 :日本@名無史さん:2010/01/05(火) 21:52:08
佐々木は源氏だけど評定衆なれるよw

62 :日本@名無史さん:2010/01/05(火) 22:10:12
足利義氏が政所別当になっているのはどう解釈するの?

63 :日本@名無史さん:2010/01/05(火) 22:50:40
政所は三位以上の公卿がおけた家政機関だというのは人間としての常識だろ。

佐々木氏は源氏累代の家人だ。

義氏は別当になってるのか?幕政に参与していたらしいが、政所別当は北条氏だろ。義氏はちょっと特異だよな。足利一族で幕政にかかわったことがあるのは義氏だけ。

64 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 01:39:00
実朝時代の源惟信や頼茂が政所下文で「政所別当」として出てくるが。
あと鏡の建長4.4.30に出てくる引付奉行人の山名中務丞俊行とかはどうかな。
新田の山名に比定する人がおおいけど、もしかすると大江かもな。
鏡の文暦1.7.6に中務丞大江俊行とでてくるから。
でも文暦と建長だし時期が少し離れてるから別人かな?

65 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 19:35:18
>>62
足利義氏の地位は連署の代行みたいなものではないの?

>>63
佐々木氏って4兄弟の父秀義が源為義の娘を娶る以前から、河内源氏との主従関係あったの?

66 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 19:50:46
山名俊行、>>64の言うとおり大江かもね。
新田系の山名俊行は、
正安3年に誅されてるから
時代的に合わないな。

67 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 19:59:51
>>65
義氏が政所別当となっている仁治2〜3年は
別当が増員されて
安達義景や長井泰秀、中原師員がいる時期なので、
代行というのとはちょっと違うんじゃないかな。

68 :日本@名無史さん:2010/01/07(木) 00:07:07
あの時期に連署がずっと空席なのは何故?

69 :日本@名無史さん:2010/01/07(木) 00:38:25
>>57
そういえば鎌倉時代って、清和源氏が守護職になるケースも、皆無ではないものの少ないな。

鎌倉時代に守護職を持っていた清和源氏って、三河・上総の足利と甲斐・安芸の武田くらい?

70 :日本@名無史さん:2010/01/07(木) 01:50:17
仁治2.5.1〜寛元1.9.21までの将軍政所下文10通に別当とし出ている人物および花押の据えてある率。
別当名前  登場回数   花押有    花押のある率
北条泰時   5      5      100%     途中で死去
北条経時   5      5       100%     途中から執権
中原師員   10      9       90%
安達義景   10      8      80%
藤原親実   10      5      50%
長井泰秀   10       5      50%
北条朝直   10      5      50%
足利義氏   5      2       40%     途中で出家

花押率から見ると、執権が全てに花押しているのに対し、他の人は署名のみで花押が無いのが多い。
これって政所別当の職務と関係するかな?
まあ、貴族の政所下文も花押が無いのあるけどな。花押なんか関係ないかな?

71 :日本@名無史さん:2010/01/07(木) 23:58:41
つうか幕府以外の貴人の政所においては、執権というのは別当の別名ではないの?

72 :日本@名無史さん:2010/01/08(金) 23:04:54
足利直義も執権

73 :日本@名無史さん:2010/01/09(土) 15:21:12
【真田広之】 太平記 part.08 【片岡孝夫】
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1258246961/

74 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:17:07
二階堂って北条一族?

75 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 14:58:09
>>69
鎌倉初期の頃の、平賀とか大内は守護職を持ってなかったっけ?

76 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 20:30:24
大内は、源氏じゃなくて多々良氏

77 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 21:40:09
>>76
「鎌倉初期の頃」

よく嫁

78 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 22:01:44
>>76
戦国時代の大内と間違えてやんのw

79 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 01:43:50
>>78
>戦国時代の大内

じゃあ南北朝・室町時代の大内は源氏?

80 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 02:27:57
南北朝〜戦国の大内氏は多々良姓の同一の家系。
まあ戦国期には滅びるので、羽振りがいいのは南北朝・室町だが。

81 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 03:01:46
>>69>>75
鎌倉時代における清和源氏の守護
摂津 1185−? 大内惟義
伊賀 1184−1186 大内惟義
伊賀 1204−1205 平賀朝雅
伊賀 1205−1221 大内惟信
伊勢 1204−1205 平賀朝雅
伊勢 1205−1221 大内惟信
三河 1221−1333 足利氏の世襲
遠江 1180−1193 安田義定
駿河 1180−1184 武田信義
甲斐 1180−1333 武田氏の世襲
武蔵 1184−1195 平賀義信
上総 1247−1333 足利氏の世襲
美濃 1187−1221 大内惟義・惟信
越前 1213−1221 大内惟義・惟信
越前 1275−1285 足利(吉良)満氏
安芸 1189−? 武田信光
安芸 1221−1235 武田信光
安芸 1270−1276 武田信時
阿波 1221−1333 小笠原氏の世襲


82 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 15:21:33
>>76も、>>78も、どっちも日本史わかってなさそうなのが笑えるw

83 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 15:31:56
>>79はもっと笑えるな


84 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 15:45:21
>>79は確信犯的に聞いている感じがするが

85 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 16:05:50
>>82
大内氏は室町時代からだけど、七カ国の守護職を兼務し将軍後見になって大内氏の全盛時代を築いた大内義興(1477〜1528)って戦国時代の人だけど、
「戦国時代の大内氏」でなにか問題ある?
お前の方が何も知らんくせに。無理して知ったかぶりすんなよ。見苦しいからwwww

86 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 16:25:32
>>85への反論どうぞ↓

87 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 18:14:23
>>85
戦国時代って何年から?

88 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 18:16:57
1550年から

89 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 18:26:26
結論、どっちも日本史をわかってない




                    ということで、この話題終了!

90 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 18:39:44
>>88
どこからそういう嘘が出てくるのか???いくらなんでもふざけすぎだろw
戦国時代の始まりと終わりの時期は・・・
「戦国時代の始まり」は1467年(応仁1)説が一般的だが1493年(明応2)説もある。
「戦国時代の終わり」は1568年(永禄11)説が一般的だが1573年(天正1)・76年・90年説がある。

以上岩波日本史辞典より

91 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 18:55:01
>>87 戦国時代って何年から? >>88 1550年から

通りすがりだが・・・レベル低い

92 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 18:59:03
応仁の乱から戦国時代が始まるって常識じゃん

93 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 19:02:24
このスレ絶望的だな

94 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 19:12:40
目安として1467年の応仁の乱から1568年の信長が義昭を奉じて入京したまでの約100年間と考えればいい

95 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 20:41:58
>>89

そういうお前が一番わかってない

96 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 21:34:24
戦国時代は明応の政変からだろ
お前らは小学生か?

97 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 22:02:08
>>96
ホントおっしゃる通りですよね。>>82>>87>>88>>89は小学生みたいですね。w
明応から戦国時代が始またんだから大内義興が戦国時代の武将ということで正しいわけだ。
ざまあ見ろ。wwww


98 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 22:08:35
>>89>>88の1550年というのを信じているけど小学生以下かwwww

99 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 22:53:18
>>90>>94
戦国時代の終わりが1568年っていうのも、ちょっとどうかと思うぞ。

畿内周辺限定なら、義昭追放と浅井・朝倉滅亡で信長が畿内をほぼ掌握した
1573年でもいいかも知れないが、四国では1585年、
九州では1587年、関東・東北では1590年が一般的だよな。

これは当該地域の自治体史が中世と近世の境界をどこにおいているのかを
考えてもよく分かる。

100 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:04:37
吉川弘文館の国史大辞典の「戦国時代」の項目でも戦国時代の終わりは1568年(永禄11)説が一般的だと書いてあるが
全国的にみれば1590年が無難かな

101 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:08:28
煽り口調のレスを書くからスレが荒れる。
今回の場合、諸悪の根源は>>78だろう。
>>78>>76に対してもう少し大人の対応で優しく諭すようなレスをしていれば、ここまで大事にはならなかった。
スレ住人全員が研究者レベルの歴史ヲタってわけじゃないのだから。

102 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:16:41
>>90
戦国時代の開始点に関しては、永正の政変からって説もあるな。
東大史料編纂所の公式見解ではここから。
そのため『大日本史料』の第9編(戦国時代編)は
永正の政変から信長入京までという範囲になっている。

103 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:21:12
>>85
>大内氏は室町時代からだけど

大内氏は、周防の在庁官人としては平安期から存在している。
また守護としての大内氏という点でも、建武政権期からなので、大内氏を
室町時代からとするのは、適切ではない。


>大内氏の全盛時代を築いた大内義興

大内氏の全盛期は、南北朝後半期から応永の乱までの時期だろう。


104 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:26:08
>>101
自分自身で「諸悪の根源は>>78」とか煽るようなこと書いておきながら良く言うよな。
自分こそがスレを荒しているということに全く気付かないところが笑えるよな。
きっと知能が低いんだろうな。w

105 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:30:24
>>103
なんだWikipediaを見てきたのか?w

106 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:36:16
>>103
>大内氏の全盛期は、南北朝後半期から応永の乱まで

じゃあ、それ以降はどうなったんですか?
説明してください。

107 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:42:16
>>104

だよな >>103みたいなのが一番悪質。正義面した悪人。
読んだ人間はすぐ気がつくから騙されないけど。

108 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 23:46:02
また、スレが荒れだしたな。

煽り口調のレスを書くからスレが荒れる。
今回の場合、諸悪の根源は>>101だろう。

109 :日本@名無史さん:2010/01/12(火) 00:36:01
74 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:17:07
二階堂って北条一族?

↑だれか懇切丁寧に教えてやってください

110 :日本@名無史さん:2010/01/12(火) 00:45:05
「大人の対応で優しく」教えてやってください↓

111 :日本@名無史さん:2010/01/12(火) 00:57:14
バカは去れ
残念ながら、バカは社会の生産性を落とす迷惑な存在なのだよ。
これをきちっと理解して頂きたい。

112 ::2010/01/12(火) 00:59:49
誰か鏡に向かって叫んでる人がいますが

113 :日本@名無史さん:2010/01/12(火) 01:25:34
>>103
>周防の在庁官人としては平安期から存在している。

そりゃあ、存在しているだろうwwwwwww
室町時代になってから外国から移民してきた訳じゃあるまいし。wwww
馬鹿かこいつ。

114 :日本@名無史さん:2010/01/12(火) 01:53:52
>>103
>周防の在庁官人としては平安期から存在している。

誰かが「大内氏は平安時代からだけど」と書いたら
「大内氏は、平安時代に在庁官人となる前から周防に存在している。
平安時代からとするのは、適切ではない。」
とか言い出しそう。ほとんど小学生の上げ足取りだよな。
レベルが分かるよ。

115 :日本@名無史さん:2010/01/12(火) 02:02:55
>>114
ですよね。
鎌倉時代の大内氏を「源氏じゃなくて多々良氏」なんて言っている馬鹿は相手にするの止めましょうよ。


116 :日本@名無史さん:2010/01/12(火) 20:56:01
>>97が必死すぎて笑えるw

117 :日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:17:01
パソコンの画面見ながら一人笑っているお前って キモ

118 :日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:35:40
>>99>>102
戦国時代の開始は、関東に限れば享徳の乱(1454〜)という説も有力だな。

結局のところ
開始・・・1454説、1467説、1493説、1508説
終了・・・1573説、1576説、1582説、1585説、1587説、1590説
があるわけだ。

119 :日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:42:48
>>81
承久の乱以降の安芸守護は武田氏の世襲じゃないの?

120 :日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:54:45
安芸守護は遅くとも正応2年には武田氏から北条(名越)宗長に変わっている

121 :日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:14:48
そういえば鎌倉初期に安芸守護として名前が出てくる宗孝親って人物は、
後の時代の対馬の宗氏とは関係ないんだよね?

122 :日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:28:42
>>120 修正
御免。北条氏の安芸国守護就任は弘安七年三月十日以前までさかのぼるみたい。

123 :日本@名無史さん:2010/01/13(水) 01:44:52
>>121
吾妻鏡人名総覧では宗孝親を惟宗としているが対馬の宗氏も惟宗とい説があるけど
どう繋がるのかわからない。系図纂要なんかの惟宗の系図で探してみたら?

124 :日本@名無史さん:2010/01/13(水) 22:42:12
あへ

125 :日本@名無史さん:2010/01/13(水) 22:52:05
惟宗→宗というのは、高階→高とか菅原→菅なんかと一緒で、本姓のうちの
1文字が名字化したものだろうから、惟宗姓なのは事実なんだろうが、
対馬宗氏との血縁的な親疎がどの程度かは分からない。

126 :日本@名無史さん:2010/01/13(水) 22:56:44
中世の宗氏って、鎌倉時代には少弐氏配下の対馬守護代なのに、室町になると守護に昇格するんだよな。
ただ守護に昇格後も少弐氏との主従関係は続いているみたいだし、一族には筑前か肥前あたりで少弐氏の守護代をやっている奴がいたりと、わけわからんな。

127 :日本@名無史さん:2010/01/14(木) 19:34:29
>>122
根拠は?

128 :日本@名無史さん:2010/01/14(木) 23:21:49
佐藤進一の鎌倉幕府守護制度の研究では正応6年2月11日の関東御教書が
安芸守護名越宗長の初出だが

129 :日本@名無史さん:2010/01/15(金) 14:33:51
じゃあ六波羅組で負けた武田信武はどこから来たの?

130 :日本@名無史さん:2010/01/15(金) 21:22:01
>>129
金玉袋

131 :日本@名無史さん:2010/01/15(金) 23:45:46
海驢が元気
轢死にしたい新田義貞

132 :日本@名無史さん:2010/01/16(土) 00:18:43
>>129
守護職を解任されても家がなくなるわけじゃないし。

ただ室町以降の武田氏に繋がる家系が鎌倉時代に甲斐と安芸のどちらを
本拠地にしていたのかは、説が分かれるところらしい。
甲斐については、武田信武とは別系統の武田政義なる人物が、
建武政権期には守護だったようだし。

まあ結局、妻が足利氏出身の信武が室町幕府成立以降、甲斐・安芸両国の
守護職を接収するが。

>>81
鎌倉末期の甲斐の守護が武田氏だったのかどうかも議論が分かれるらしい。
ただ史料が少なすぎて、よくわからんとか。

133 :日本@名無史さん:2010/01/16(土) 00:35:00
でも結局武田って南北朝後半期には安芸の守護職を失ってしまうんだよな。
もっとも当初は、安芸を九州の南朝勢力掃討の前線基地とするために、今川了俊が一時的に守護に任命された感じもあるけど。
ただ了俊の失脚後も、安芸守護職が武田に戻ることはなく、その後何故か安芸の守護は戦国期まで山名になるw

134 :日本@名無史さん:2010/01/16(土) 01:16:12
「鎌倉期の武田氏」という論文に元徳3年4月26日安芸国宣に出てくる
安芸国守護代の福嶋新左衛門尉信綱は武田氏の家臣と思われるから
元徳3年には武田氏が安芸国守護に還補されていたと推測している。(河村昭一氏「安芸武田氏」の引用)
つまり安芸国守護は鎌倉初期〜南北朝にかけて次のように変わっていったらしい。
1.武田信光
2.宗孝親
3.藤原親実
4.武田信時
5.北条宗長
6.武田信宗
7.武田信武
なお六波羅の負け組に多くの武田一族がいるけど
時頼の時代から多くの武田一族が北条氏の御内人になっているようだ。

135 :日本@名無史さん:2010/01/16(土) 03:55:08
藤原親実については本当に守護としての活動なのか疑問視する意見もあるんだよな。

136 :日本@名無史さん:2010/01/17(日) 19:25:56
>>133
しかし九州への前線基地にするなら、どうして安芸なんだろう?
周防は大内の本拠地だからダメにしても、長門あたりのが良くないか?

137 :日本@名無史さん:2010/01/17(日) 22:21:51
武田信武の妻が足利高義の娘というのは本当なの?
信武やその子供(信成・氏信)の年齢からすると厳しくないか?

138 :日本@名無史さん:2010/01/17(日) 23:27:12
武田信武が幕府側って記録あるの?
石和政義が六波羅討幕軍って記録はあるらしいけど

139 :日本@名無史さん:2010/01/18(月) 02:41:45
つうか政義と信武とどっちが武田本家だったの?

140 :日本@名無史さん:2010/01/18(月) 23:59:55
>>122北条氏の安芸国守護就任は弘安七年三月十日以前までさかのぼるみたい

弘安七年三月十日安芸新勅旨雑掌請文に出てくる守護家人兵衛五郎って北条宗長の
安芸国守護代である長尾兵衛五郎のことだろ。

141 :日本@名無史さん:2010/01/20(水) 02:22:36
てことは元寇に対応するための一時的な守護職交代とかかな?

142 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 21:16:41
北条宗長って名越流だよね?
名越の勢力って北陸がメインのようなイメージがあるけど、なんで安芸守護になったんだろう?

143 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 22:19:47
武田の場合、信光が北条氏と組むことで甲斐源氏嫡流手に入れたようなものだな

144 :日本@名無史さん:2010/01/22(金) 23:04:42
しかし信光の後は、甲斐も安芸も北条一族に守護職接収された

145 :日本@名無史さん:2010/01/23(土) 19:31:03
細川晴元政権が崩壊するのが1549年。
畿内においては、細川晴元政権の崩壊までは、まがいなりにも室町的秩序が残っていたと考えるのなら、>>88のいう1550年から戦国時代というのも、いい線いってるのかもw

まあそこまで考えてのレスという保証はないけどね。

146 :日本@名無史さん:2010/01/25(月) 00:12:27
岩松氏がよくわからん。
南北朝時代の系図はどうなっている

147 :日本@名無史さん:2010/01/31(日) 23:58:22
武田信政の子の信時・政綱の鎌倉時代の史料を集めてみた。         
    ■A1.信時(伊豆守)―2.時綱(伊豆守.六郎)―4.信宗(伊豆守.孫六)―5.信武(彦六)
               ―3.貞頼(弥五郎。時綱弟)
    ■B1.政綱(五郎三郎)―2.信家(伊豆守.三郎)―3.貞信(建武武者所)―4.政義  
■A信時流
1.信時
・武田五郎次郎信時 嘉禎3.6.23〜仁治1.8.2 吾妻鏡に3回登場
・武田五郎次郎 文永8.7.27〜建治2.8.24 安芸国守護 (関東御教書10通)
2.時綱
・不明
3.貞頼(時綱の弟)
・武田弥五郎 徳治2.5.故北条時宗忌日結番( 円覚寺大斉番文)
・武田弥五郎 元亨3.10.27貞時十三回忌に進物や御使などを勤める(北条貞時十三年忌供養記)
4.信宗
・武田伊豆守 元弘1. 赤阪城攻撃軍に参加(光明寺残編)
5.信武
・武田彦六 鎌倉末期(正中3年以降)金沢貞顕を訪問(金沢文庫古文書)
■B政綱流
1.政綱
・武田五郎三郎 仁治2.1.23〜弘長3.11.20 吾妻鏡に29回登場(御内人長崎安東等と時頼を看病)
・武田三郎入道妙意 文永8.4.27甲斐国甘利庄南方地頭代となる。(北条時宗袖花押下文)別人?
2.信家
・武田三郎 乾元1.北条貞時に供奉(最勝園寺殿供養御所出御供奉人)
・武田三郎 嘉元3.5.2嘉元騒動の時に使者を勤める(鎌倉年代記)
・武田伊豆守 徳治2.5. 故北条時宗忌日結番(円覚寺大斉番文)
・武田伊豆入道 元亨3.10.27貞時十三回忌に進物(北条貞時十三年忌供養記)
・武田伊豆入道 正中3.7.5死去(常楽記)
3.貞信
・不明
4.政義
・武田三郎 元弘1. 幕府軍の甲斐守護として一族並甲斐国御家人を率いて上洛(光明寺残編)
・武田石禾三郎政義 建武1.10.14(建武年間記)

148 :日本@名無史さん:2010/02/01(月) 01:52:44
新田上西の鎌倉での地位って源家の最長老的な立場?

149 :日本@名無史さん:2010/02/01(月) 02:05:14
>>139
光明寺残編の「武田三郎(政義)一族並甲斐国」という記事を見ると
政綱流の政義が甲斐守護及び武田総領かと思われるが、この「一族」の中に信時流も含まれるのかどうか?
同じ史料に信時流の信宗は政義とは別に楠木攻撃軍に所属しているようだし・・・。

150 :日本@名無史さん:2010/02/01(月) 22:06:14
信武は足利と親戚なの?

151 :日本@名無史さん:2010/02/05(金) 12:15:34
武田信長って誰ですか?

152 :日本@名無史さん:2010/02/07(日) 18:30:09
藤原信長って誰ですか?

153 :日本@名無史さん:2010/02/12(金) 11:16:15
>>150
清和源氏の同族。

>>151
甲斐源氏武田氏の人。武田信玄の同族の人。

>>152
織田信長のこと。藤原信長、平信長ともいう。

154 :日本@名無史さん:2010/02/17(水) 01:09:03
>>150
武田信武の正室が足利高義(尊氏異母兄)の娘といわれる。甲斐と安芸の
両武田氏の共通の祖先。

>>151
上総武田氏(室町中期に甲斐武田氏から別れた庶流)の初代。父信満は
上杉禅秀の乱に連座しては自害・改易。永享の乱・結城合戦では幕府側に
ついたが、その後は鎌倉公方(のち古河公方)成氏に仕え、享徳の乱の際に
成氏の命で上総国を接収した。

>>152
平安期の公卿。藤原教通の子。従兄弟(父教通の兄頼通の子)の師実と
摂関の地位を争ったが、白河天皇が師実を支持したため、信長は摂関には
なれなかった。

155 :日本@名無史さん:2010/02/17(水) 02:14:14
源義国一門の家格って鎌倉期は
足利本家》斯波・吉良》渋川・畠山・新田早期分家》今川・(新田本家)》》
》》細川・仁木・一式その他》新田庶流
て感じか

156 :日本@名無史さん:2010/02/17(水) 23:00:16
吉良は霜月騒動以降は低迷するはず

157 :日本@名無史さん:2010/02/18(木) 01:54:19
斯波分家や東西吉良家のように上級一門は更に分裂してるからんな

158 :日本@名無史さん:2010/02/18(木) 11:54:30
藤原信長つったら平安時代の太政大臣のことだっぺ

159 :日本@名無史さん:2010/02/18(木) 20:33:02
あと新田も政義の自由出家の前と後で状況が違う

160 :日本@名無史さん:2010/02/18(木) 21:53:14
名越に巻き込まれた斯波と世良田

161 :日本@名無史さん:2010/02/19(金) 22:35:02
佐介に巻き込まれた吉良

162 :日本@名無史さん:2010/02/20(土) 02:18:42
安達に巻き込まれた金沢

163 :日本@名無史さん:2010/02/20(土) 09:08:08
包皮に巻き込まれた陰毛

164 :日本@名無史さん:2010/02/20(土) 19:12:48
新田義貞こそ漢(おとこ)の中の漢(おとこ)だよな 足利尊氏(笑) 室町幕府(爆笑) 
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1266588182/l50


165 :日本@名無史さん:2010/02/21(日) 12:18:57
とりあえず未だに根強くはびこる南朝正統史観を払拭せねばならぬな

166 :日本@名無史さん:2010/02/21(日) 18:41:07
http://mainichi.jp/area/yamagata/news/20100220ddlk06040101000c.html

やっぱり足利は犯罪者ばかり

167 :日本@名無史さん:2010/02/26(金) 17:25:25
そういえば数年前に等持院から盗まれた歴代足利将軍の木像の手足は見つかったのかな?

168 :日本@名無史さん:2010/02/27(土) 19:08:21
足利尊氏の「異常な血統」について
1.義兼
頼朝右大将には殊更近付給ひしかば、猶世に憚りて空物狂になり給ひて、その代は無為に過給ひしかば、
「我子孫にはしばらく霊と成りて物くるはしき事おはしますべし」と仰せけると申し伝へたり。(難太平記)
2.義氏 史料なし
3.泰氏 史料なし
4.頼氏
古老の言として頼氏の葬られた足利の吉祥寺の堂前を騎馬で通行すると、必ず馬がおびえて暴れだし、
落馬するという、頼氏の死が尋常のものでなかったことを思わせるような伝えがある。(近代足利市史)
5.家時
さればまた義家の御置文に云ふ「我七代の孫に吾生替りて天下を取るべし」と仰せられしは家時の御代に当たり、
猶も時来らざる事をしろしめしければにや、八幡大菩薩に祈申給ひて、「我命をつゞめて、三代の中にて天下を
とらしめ給へ」とて御腹を切り給ひしなり。(難太平記)
6.貞氏
正安4年2月9日 足利讃岐守物狂所労経年之間、物付云。
大師堂大僧正御房被修冥道供者、所労可得減云々。(門葉記巻70冥道供7)
7.尊氏
尊氏は、性格学でいう躁鬱質、それも躁状態を主に示す躁鬱質の人間ではなかったかと思われる。
かれの父貞氏に発狂の病歴があり、祖父家時は・・・(中略)。尊氏の性格は、このような
異常な血統と無関係ではないだろう。(佐藤進一「南北朝の動乱」)

169 :日本@名無史さん:2010/02/27(土) 20:17:50
>>162
それ、足利の一族ちゃう

170 :日本@名無史さん:2010/02/27(土) 21:23:31
>>168 訂正 3.泰氏 史料なし→異常行動の史料あり。
3.泰氏 
建長三年(1251)十二月大七日壬戌。宮内少輔泰氏自申出家之過。
依之所領下総國埴生庄被召離之。當庄者。泰氏朝臣始拝領之地。
始而入部之刻。於此處者遂素懷。不思議不謂之乎。

171 :日本@名無史さん:2010/02/27(土) 21:28:46
鎌倉時代の足利宗家で異常な行動が見られないのは義氏ただ一人ということになる。

172 :日本@名無史さん:2010/03/02(火) 20:56:58
>>168
義兼から頼氏まで4代続けて三男が家督を継いでいる

173 :日本@名無史さん:2010/03/04(木) 03:41:32
>>171
義氏は鎌倉段階における足利氏の栄光の時代だからな

174 :日本@名無史さん:2010/03/04(木) 03:44:02
>>170
「泰氏朝臣」と書かれているってことは、泰氏って四位に上っているの?

そういえば義氏も従四位下だし・・・

鎌倉期における足利宗家の最高位が従五位下になるのは、頼氏以降?

175 :日本@名無史さん:2010/03/04(木) 18:57:24
>>174
五位でも名+朝臣だよ。
ついでに、義氏は正四位下ね。
鎌倉後期でも、高氏は従五位上になってる。


176 :日本@名無史さん:2010/03/04(木) 22:55:54
一般的に古記録では、
「○○朝臣」と書いてあったら四位、
呼び捨てだったら五位、
但し『吾妻鏡』においては知らない、

177 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 19:55:44
『吾妻鏡』だと、
五位でも名+朝臣。
安達義景とか、新田義重とか、
幾らでも例がある。

178 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 02:06:10
名+朝臣の件だが、吾妻鏡も基本的には四位に朝臣を付けるみたいだ。
でも五位で付ける場合も多い。逆に四位でも朝臣を付けない場合もある。
統一性がないのは吾妻鏡の編纂が粗雑だからだろう。

179 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 07:07:52
そりゃ、原史料によるんだろうね。

180 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 13:11:10
>>179
そう思う。
粗雑ということは、逆に言えば統一性を持たせるために
恣意的に原史料を修正したりしなかったということになる。
原史料に忠実な編纂方法だった・・・というより、やはり未完成だったんだろう。
で、吾妻鏡の原史料はなにか?
四位のみしか朝臣をつけない原史料と、五位にも朝臣を付けるという原史料と
四位さえ朝臣をつけない原史料があったわけだが・・・。そういえば「朝臣」に注目して
吾妻鏡の原史料を分析した研究ってあったかなあ?

181 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 01:19:15
>>180
>「朝臣」に注目して吾妻鏡の原史料を分析した研究

あるわけねえだろ そんな馬鹿げた研究がw
これだから「ド」素人は・・・
そんな簡単な方法で吾妻鏡の原本を突き止められるかよ まったく

182 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 02:03:42
鎌倉期の公家の日記で、「朝臣」を付ける付けないとかがいい加減な
ものっていうと、定家の『明月記』なんかはそうだって聞くね。
これも『吾妻鏡』編纂の際に参照されてはいるみたいだが。

183 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 14:57:02
吾妻鏡は朝臣どころか名前さえ間違えてるよな。w

184 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 01:07:20
イメージキャラは、イケメン楠木正成 大阪・千早赤阪村
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/game/100308/gam1003081158000-n1.htm


185 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 01:15:39
『吾妻鏡』って、例えば『平家物語』が元ネタの義経の越状みたいな、
明らかな虚構も平気で取り入れちゃっているから、編纂は粗雑だと思うよ

186 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 01:16:20
>>185訂正
× 越状
○ 腰越状

187 :日本@名無史さん:2010/03/11(木) 00:22:22
<鶴岡八幡宮>大銀杏倒れる…樹齢千年、実朝暗殺の舞台
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100310-00000021-mai-soci

188 :日本@名無史さん:2010/03/12(金) 12:24:16
>>185
平教経や、佐藤庄司みたく記事の場所や他の史料によっては
生死の記述が違ってたりとかもあるしな。

189 :日本@名無史さん:2010/03/13(土) 16:29:33
小松家の資盛は、壇ノ浦で死んだということでいいのだっけ?

190 :日本@名無史さん:2010/03/21(日) 00:54:29
岩松 経国(いわまつ つねくに、生没年不詳)は、鎌倉時代の武将。

清和源氏足利氏流の岩松氏初代の岩松時兼の七男。田島経国ともいう。
兄弟は五男の岩松経兼、田部井経氏、村田頼兼、寺井氏兼(系図にないものもある)、
金井長義、藪塚朝兼。岩松本家は五兄の経兼が継ぎ、兄の経氏と頼兼と同様、末弟の経国も分家した。
上野国新田庄田島郷に住んだことに由来して、田島又太郎または又六郎を称し田島氏の祖となった。


191 :日本@名無史さん:2010/03/29(月) 01:59:33
三淵氏って結局出自どこ?
足利支流?細川傍系?
また板倉氏の渋川支流の信憑性どのくらいだ?

192 :日本@名無史さん:2010/04/23(金) 12:51:16
斯波
吉良
蒔田
畠山
渋川

泰氏流非北条腹
義清流

193 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 02:59:57
>>168
>4.頼氏
>古老の言として頼氏の葬られた足利の吉祥寺の堂前を騎馬で通行すると、必ず馬がおびえて暴れだし、
>落馬するという、頼氏の死が尋常のものでなかったことを思わせるような伝えがある。(近代足利市史)

これってどういうこと?
大河『北条時宗』で描かれてたような高師氏による毒殺が史実ってこと?

194 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 03:01:08
>>192
桃井が抜けてる

195 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 16:45:46
荒川も

196 :日本@名無史さん:2010/05/05(水) 00:41:36
>>191
三淵晴員は細川元有の子で元常の弟

197 :日本@名無史さん:2010/05/05(水) 01:00:59
晴員以前のことを言ってるんじゃねえの?

198 :日本@名無史さん:2010/05/05(水) 03:30:26
だから晴員の父は元有

199 :日本@名無史さん:2010/05/05(水) 13:46:00
三淵は足利義満の御落胤の子孫と読んだことがある。
真偽は不明。

200 :日本@名無史さん:2010/05/05(水) 15:08:43
三淵って佐々木の末流で将軍の側衆だったのが細川名跡をもらったんじゃなかった?

201 :日本@名無史さん:2010/05/05(水) 16:59:45
奉公衆では?

202 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 03:46:46
尊氏落胤説もあるらしい。

203 :日本@名無史さん:2010/06/01(火) 22:19:33
てゆうか、三淵晴員は将軍の偏諱を貰っているのに、その実兄である細川元常が貰っていないのが不思議。

204 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 05:19:40
>>200
家の母親は、佐々木源氏の血筋で
親父が嵯峨源氏の子の光源氏(源融)の曾孫の源綱で、その孫の松浦久の松浦党の婿養子に入った安倍氏の子、松浦高俊が率いた、松浦党の末裔。
だから、顔立ちは、縄文人系。

205 :日本@名無史さん:2010/06/06(日) 22:23:00
なんじゃそりゃ?

206 :日本@名無史さん:2010/07/02(金) 13:13:50
>>193
そういえば泰氏は、大河「北条時宗」に描かれてたみたいに二月騒動に関わってたのかなぁ?

207 :日本@名無史さん:2010/07/08(木) 16:43:00
新田の庶流詳しく説明しているサイトか本て無い?

208 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 12:28:06
>>206
あのような妄想脚本を信じるでない。

209 :日本@名無史さん:2010/07/19(月) 22:58:30
佐渡に流された新田家とかいないのかな
ただ単に、俺の親が佐渡出身で新田って苗字なだけだが

家紋も○に二というやる気なさそうな感じだから、先祖は100%ただの農民だろうけど

210 :日本@名無史さん:2010/07/22(木) 08:38:51
>>207
http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/sub1-3.htm

211 :日本@名無史さん:2010/07/25(日) 14:20:08
世良田頼氏が名越の娘婿であったことから二月騒動に連座して佐渡に流されている

212 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 21:47:35
幕末、日本(幕府)船籍の船が掲げていた中黒がそのまま日本の国旗になっていたかもしれない。

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