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【源平も】甲斐武田氏総合史スレ【戦国も】

1 :日本@名無史さん:2009/12/24(木) 18:48:54
源平争覇以前から古い歴史を持ち、戦国時代に興隆し
江戸時代にも高家や旗本として受け継がれ
現代まで存続している甲斐武田氏
そんな武田氏の長い歴史について総合的に語ろうというスレです
平安時代から鎌倉時代、南北朝、戦国時代、江戸時代、それ以降、
あらゆる時代OKです
武田の一族だけでなく好きな配下武将に領国統治、
総合的にいろいろ語り合いましょう

2 :日本@名無史さん:2009/12/24(木) 18:50:24
2get

3 :日本@名無史さん:2009/12/24(木) 18:53:09
即死回避

4 :日本@名無史さん:2009/12/24(木) 19:56:27
新羅三郎義光から武田勝頼までは男系で繋がっていたの?
確か信玄の男系で残ったのは米沢藩家老の信清の家系だけだよね?

5 :日本@名無史さん:2009/12/24(木) 20:03:58
>>4
信玄の二男竜宝の家系が江戸時代に高家武田として継続したよ

6 :日本@名無史さん:2009/12/24(木) 23:01:36
>>5 途中で柳沢吉保の血筋から養子もらったろ

7 :日本@名無史さん:2009/12/24(木) 23:17:41
信玄の弟の武田信実の系譜は将軍旗本として
川窪氏と名乗って旗本として4系統に分かれて存続
途中で川窪から武田に復姓してる
この家系は養子とか入らないで続いてったと思う

8 :日本@名無史さん:2009/12/24(木) 23:26:45
御旗楯無ご照覧あれ

9 :日本@名無史さん:2009/12/24(木) 23:41:33
信玄の祖父の信縄の弟信恵の子孫で信玄に仕えた武田信次の家系も
徳川の旗本として仕えて油川氏を名乗り、後に武田に復姓している
この家系も特に養子入ってなかったんじゃないか

10 :日本@名無史さん:2009/12/24(木) 23:56:08
こんなところに本スレかいw

11 :日本@名無史さん:2009/12/24(木) 23:59:57
もともと柳沢氏自体、武田氏の支流の末裔
戦国時代には無論武田家に仕えてた
高家武田家に柳沢の養子が入ったこともそれほど変なことじゃない

12 :日本@名無史さん:2009/12/25(金) 00:13:33
甲斐武田氏は戦国時代にいたるまで甲斐を追放されて京都に逃げたり
室町幕府の応援で復帰したはいいけど泥沼の権力争いになったりと
甲斐一国内すらまともに領域として確立できないでいた時代も長いからね
戦国時代に信玄が出てきたら権力も強化され、統治も変わり
領域も甲斐一国から120万石にまで拡大
長い甲斐武田氏の歴史の中でもやっぱ信玄の時代は異色だわ

13 :日本@名無史さん:2009/12/25(金) 00:25:40
軍鑑オモロー

14 :日本@名無史さん:2009/12/25(金) 00:30:45
また酷い自演肩ロースレが現れたなw

15 :日本@名無史さん:2009/12/25(金) 00:35:56
>>13
最近じゃ軍鑑は資料としても見直されてる

16 :日本@名無史さん:2009/12/25(金) 12:52:16
甲斐武田氏は源平時代の富士川の合戦でも平氏を退却させるきっかけになったよね

17 :日本@名無史さん:2009/12/25(金) 14:42:06
この人たち鎌倉と戦国が有名だけど南北朝時代は何してたの

18 :日本@名無史さん:2009/12/25(金) 15:02:53
甲斐にいた

19 :日本@名無史さん:2009/12/25(金) 21:55:21
>>17
南北朝時代の甲斐武田氏は後醍醐天皇が幕府を倒すまでは幕府方として戦ってた
北条時行の鎌倉幕府再興運動の時も旧幕府方として戦って敗れてる
その後建武政権に属したものの当主が死亡したことから
足利氏の信任厚い安芸武田氏から当主を迎えたりしてる

20 :日本@名無史さん:2009/12/25(金) 22:00:52
ちなみにこの安芸武田氏も甲斐武田氏から分家した家
嫡流は甲斐武田氏

21 :日本@名無史さん:2009/12/25(金) 22:09:00
上で言われていた江戸時代に存続した武田の家系としては他に
信玄の5男仁科盛信の子供二人が徳川家旗本としてそれぞれ仕え
二系とも現在まで存続してる

22 :日本@名無史さん:2009/12/25(金) 23:09:57
御旗楯無はなんであんなに崇拝されてるの?

23 :日本@名無史さん:2009/12/26(土) 03:31:35
言うことを聞かせる為に利用されていただけだろ

24 :日本@名無史さん:2009/12/26(土) 10:17:12
答えてみるか
御旗楯無は武田氏というより源氏の祖といえる源頼義が
天皇より得た日章旗と楯無鎧のセットで
その三男にして甲斐源氏の祖である新羅三郎に継承された
これをは源氏としてみても大層な家宝であり
武田氏としてみれば甲斐源氏嫡流たる証
祖先崇拝の強い源氏一門においてその象徴として崇拝されたようで
後に国家統合における象徴となったようだ
この御旗楯無は武田家においては神と等しい崇拝対象だったようで
戦国時代において武田氏の家臣達が信玄に忠誠を誓った書状などでは
この御旗楯無は神々と並んで誓約の対象となっている
いうなればこの御旗楯無を崇拝することは源氏の名流たる武田氏の血統及び
偉大なる源氏の先祖達を崇拝することでもあったんだろう

25 :日本@名無史さん:2009/12/26(土) 10:30:14
どどーん

26 :日本@名無史さん:2009/12/26(土) 10:30:39
どん!

27 :日本@名無史さん:2009/12/26(土) 11:34:26
血統の話ばかりする奴は競馬評論家と同じだな

28 :日本@名無史さん:2009/12/26(土) 11:58:21
家臣あて信玄の手紙見つかる 実像知る手掛かりに

戦国武将武田信玄が、家臣の山本勘助にあてた手紙2通が群馬県安中市の民家から見つかった。
勘助の記述は1969年に北海道釧路市の民家で発見された「市河文書」以来で、実像を知る手掛かりとなりそうだ。

山梨県立博物館の海老沼真治学芸員(31)が確認した。いずれも手紙のあて名は「菅助」。
書式や字体は信玄の時代のもので、花押と呼ばれる信玄のサインもある。

1通目は1548年に書かれたもので「忠信無比類次第候」と、勘助の長野県の戦いでの活躍をたたえ、
山梨の関所で徴収した金を褒美として与えるという内容。

2通目には「小山田種物相煩既ニ極難義候」とあった。「種」は「腫」とみられ、重い病気を患っていた小山田という
信玄の家臣について見舞いに行くように勘助に依頼したもので、1551年に書かれたと推定される。

海老沼さんによると、以前には勘助は軍書「甲陽軍鑑」など江戸時代以降の文書でしか名前を確認できず、
存在を疑問視する声もあったが、市河文書が発見され実在に疑いはなくなったという

http://www.47news.jp/CN/200912/CN2009122601000051.html



どう思います?手紙の筆跡鑑定や年代測定はしたのでしょうか?
本物なら市河文書以来の大発見ですよね?

29 :日本@名無史さん:2009/12/26(土) 12:21:16
>>28
すごい!
これが本物なら山本勘助が軍鑑にあるように
信玄の信任厚く、立場もそれなりのものであったことの証明になる
戦功を賞されている事を考えると軍鑑にあるように足軽大将として
戦っていた可能性も高いんじゃないか

30 :日本@名無史さん:2009/12/26(土) 12:33:18
>>27
ここは甲斐武田氏総合史スレなんで血統や繋がりも要素の一つ

31 :日本@名無史さん:2009/12/26(土) 12:36:58
やはり競馬評論家なんだなw

32 :日本@名無史さん:2009/12/26(土) 12:40:37
競馬とか言ってるのはスルーでヨロ

33 :日本@名無史さん:2009/12/26(土) 12:59:23
>>28
主君の代理として小山田程の家臣のお見舞いに行くとなると
勘助は信玄とよほどの信頼関係にあったようだね

34 :日本@名無史さん:2009/12/26(土) 18:53:33
甲斐武田一族のお隣の諏訪氏とか
武田氏歴代でみると結構長いおつきあいなんだよね
信虎の時代には諏訪は甲斐の内乱を煽動したり攻め込んできたりしてる
信玄時代だけみるとあっさり潰されただけに見えるけどさ

35 :日本@名無史さん:2009/12/26(土) 21:41:31
武田の将でこのスレの人達は誰が一番好き?

36 :日本@名無史さん:2009/12/26(土) 23:12:48
どの馬がってこと?

37 :日本@名無史さん:2009/12/26(土) 23:21:36
>>35
山県三郎兵衛

38 :日本@名無史さん:2009/12/26(土) 23:47:59
>>35
原昌胤
地味だけどこういう人必要だよね

39 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 00:49:24
陣馬奉行の原さんとか
小説の重要人物にしにくいよね
まして主人公なんて
役割としては大切な人だと思うんだけどなあ

40 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 11:34:53
原は書状とかでみると信玄側近の政治官僚って感じだな
山県とともに武田家最高の政治役職である両職の片割れを担当したとされているしな

41 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 12:36:04
ここは競馬評論以外はスレチだ
家臣などという雑種はどうでもいい

42 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 12:43:03
るせーよ#

43 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 12:43:20
>>40
原昌胤さんは一次資料でも活躍が顕著だけど
お父さんとされる原昌俊は今のところ軍鑑でしか確認できないんだそうだね
山本勘助の例を見れば将来に存在の裏付けがみつかるかもね

44 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 13:26:28
石田の小山田こと小山田備中が好きです
郡内小山田とは別系統で旧名は上原伊賀守なのであしからず

45 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 13:34:29
同じ名前で二人いることが判明した
郡内小山田の小山田信有さんの父親のほうが好きです
まぎらわしいっすよね

46 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 20:04:58
よき采配の、其のもとは、よき法度なり

軍鑑の中で好きな言葉
強い軍隊をつくるには良い法令が大切なんだね

47 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 20:28:01
三国志の諸葛亮孔明が良い法令を用いたのと通じるところがある言葉だ

48 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 20:40:13
武田スレならこれを忘れてはいかんのう

其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山

49 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 22:14:13
甲斐武田氏で最大の軍事力を持っていた家臣は誰?

50 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 23:02:09
おそらく香坂弾正こと春日虎綱
軍鑑によれば直卒450騎
相備衆合わせれば1000騎を超えたそうだ
さすがに謙信相手とあって大層な軍事力を任されている

51 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 23:37:53
信長公記・長篠の合戦記述

家康、滝川陣取りの前に馬防ぎの為、柵を付けさせられ、
 (中略)
三番に、西上野の小幡一党、赤武者にて、入れ替へ懸かり来たる。
関東衆、馬上の巧者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たる。

52 :日本@名無史さん:2009/12/28(月) 10:30:11
武田勝頼が織田軍に敗北しなければ、韮崎が新府と成っていた訳だから
恐らくは韮崎が「甲府」として県庁が置かれていただろうな。

53 :日本@名無史さん:2009/12/28(月) 17:11:16
小幡の率いたとされる軍事力は軍鑑によれば500騎
香坂の率いた総計1027騎には及ばずとも相当な大部隊だね
武田のいう「騎」というのは一騎につき最大で4人の歩従者がつく事を換算してるから
香坂の軍事力は最大で5千以上、小幡の軍事力はおよそ最大で2500程って事だね
もっとも小幡は騎兵主体の土地だから他より歩兵がついた割合が低かったんじゃないかとの説もあるけどね

54 :日本@名無史さん:2009/12/28(月) 17:17:19
韮崎新府も結局はそのあと武田が
どれくらいの大きさの大名として存続するかという問題な気がするね
韮崎に移ろうとしたのは勝頼時代末期に北条との戦いを有利に進めた結果、
上野と武蔵方面に領地が拡大して偏ったことから
その上で領国全体の中心を占めうる場所を探した事が原因
甲斐一国で言うなら甲府のが中心で問題ないからね
江戸時代とかもずっと甲府が甲斐統治の中心だった

55 :日本@名無史さん:2009/12/28(月) 22:59:52
信長公記の長篠の記述は武田の部隊が攻めてきた順番は書いてあるけど
それに対して織田徳川方のどこの部隊が応対したかは書いてないね
ここら辺は軍鑑とてらしあわせてみると全体の流れが鏡合わせみたいで面白い

56 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 01:20:45
晴信継承時の武田の譜代衆っていう面子は
甲斐武田氏歴代として
それまでの経緯をみると結構違和感があるのが入ってると思う

57 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 01:42:45
信長公記によると武田軍の部隊で押し寄せてきた順番は
一番山県、二番武田信廉、三番小幡、四番武田信豊、五番馬場美濃
これを軍鑑で見てみると
山県、小幡、武田信豊は竹広で家康と対決、武田信廉は柳田で滝川と対決、馬場美濃が大宮前で佐久間勢と対決、
公記と軍鑑を照らし合わせてみると
@山県が竹広で家康と対決して戦闘の後退く→A柳田で武田信廉が滝川と対決して戦闘の後退く→
B小幡が竹広で家康と対決して戦闘の後退く→C武田信豊が竹広で家康と対決して戦闘の後退く→
D馬場美濃が大宮前で佐久間と対決して戦闘の後退く、
という流れになるんだろうか
でも軍鑑だと第一戦において悉く武田の部隊が勝利し柵の中まで追い込んだとある
長篠日記とかでもそうなってたはず
というか信長公記を除く他のすべての2次資料が戦闘序盤における武田の奮戦と織田徳川の苦戦を描いている
ここら辺は信長公記はこの大勝利を顕彰する意味で手心が入っているんだろうか
信長公記ではやたらと長い時間戦ってる事が書いてあるけど、公記の描写だと武田勢が鉄砲で一方的にやられたような書き方だから
もっと早く終わってるはずだし

58 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 01:53:39
>>56
どういう事?
>>57
長篠日記だと武田勢馬場隊は佐久間勢に対して静かに前進し
(これは竹束などを構えて防御態勢をとりながら慎重に前進したと解釈する人もいる)
機を見て二手に分けた部隊のうち一手を突撃させて佐久間勢を撃破し、
織田勢の陣内に入ろうとしたところを一斉射撃を受け、その後も攻撃をしかけたけど信長がこれに危機感を抱き
他の部隊に横槍を入れさせたことからついに崩れたとされてるね
武田勢の竹束活用は有名だし防御行動をとらずに闇雲に突撃ばかりをしたとは考えにくいかもね

59 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 01:55:36
>>58
要するに穴山・小山田・飯富といった面子は信虎時代に敵だったんだから
「譜代」じゃないだろうと

60 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 01:58:29
>>59
ああ、なるほど

61 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 04:50:02

このスレの連中は、信玄と坂東太郎との義光流の嫡流論争を
聞いていると思うが。

オレは理解できなかった。話が複雑すぎて、家系図見てるのが
途中から面倒くさくなったからだ。

62 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 20:48:37
武田も佐竹も同じ源氏の名族で
同盟を組んで一緒に戦った仲なんだから固いこといいっこなし

63 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 22:28:50
ガンバル武田 がんばる清和 平成時代も頑張って

64 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 15:37:05
新年明けましておめでとう
御旗楯無もご照覧あれ!

65 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 23:26:09
うわあ続く源氏(清和)
せいわ天皇→ようぜい→六孫王経基ろくそんおうつねもと→満仲まんちゅう→河内頼信→頼義→常陸武田郷主義光→
甲斐市川郷主義清→逸見義光→信義→石和信光→信政→信時→時綱→信宗→信武→信成→信春→信満→信重→信昌→信縄→信虎→信玄→なぜか勝頼さま→信勝…以降不詳

66 :日本@名無史さん:2010/01/02(土) 02:07:31
>>45
悪いんだが、三代にわたって同じ信有って諱なんだよ。
越中守信有

出羽守信有(越中守の息)

弥三郎信有(越中守の息。討ち死にし、家督は弟・信茂へ)


67 :日本@名無史さん:2010/01/07(木) 00:47:46
紛らわしいよね、小山田三代
従来は出羽守と弥三郎は同一人物と思われてたんだっけ

68 :日本@名無史さん:2010/01/07(木) 01:04:49
>>44であげられている石田の小山田備中の存在がややこしさに拍車をかける
元の名前は上原伊賀で郡内小山田とは別系統なのがなんとも

69 :日本@名無史さん:2010/01/07(木) 13:21:27
たしかに

70 :日本@名無史さん:2010/01/09(土) 12:11:35
武田信長が好きです
でも名前だけみると厨が考えた
「ぼくのかんがえたさいきょうぶしょう」みたいですよね

71 :日本@名無史さん:2010/01/09(土) 12:51:09
武田信長の名跡の継承者が
確か晴信時代に武田宗家に次ぐ力を誇った勝沼一門だっけ
勝沼一門は上杉と組んで武田宗家を倒そうとして成敗されるけど
その行動原理には祖先である武田信長とかに対する誇りとかあったんだろうか

72 :日本@名無史さん:2010/01/09(土) 13:07:55
勝沼五朗直卒280騎
甲斐衆としてみれば穴山・小山田の200騎を越える戦力の持ち主ですな

73 :日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:26:32
岡部正綱は
「この度の武田崩れにて、四郎殿は武運つたなくお破れになるでしょう。
而して新羅三郎義光公以来の名族武田氏が滅びること、わがお館様にはことの外
残念至極なこととお嘆きでございます。さすれば、穴山の御家を残されては如何。
入道様には先祖への御供養となりましょう」
「そうもあるか」
穴山入道は満足げにうなづいた。
裏切りこそ正義であり、先祖への供養だというのである。


74 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 00:23:53
その岡部も元は今川

75 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 04:16:22
>>73
司馬遼太郎さんの「覇王の家」じゃん
小説引用するのはどうなのよ

76 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 12:41:59
お〜や〜ま〜だ〜
武田のいぶし銀よ!

これは漫画か

77 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 13:15:43
信玄に謀反して成敗されたのは勝沼五郎こと、勝沼信元だけど
その父親で信虎の弟である勝沼信友の頃から郡内小山田と供に行動し
常にその上位に置かれていることから
勝沼氏は郡内小山田氏とその衆の統括という役割を担っていたとされているね
この役割と権限は武田信長とも共通するとか

78 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 13:23:24
そうなると郡内小山田氏は武田宗家の分家の指示を受ける立場と。
武田と郡内小山田氏はとても一時期いわれたような同盟関係なんてものじゃないですね。
武田氏の他の家臣達と同様に、郡内小山田領も武田家からの上級裁判権が存在してますし。

79 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 14:29:53
>>77
どうして青梅街道(西東京)に勝沼という地名あるのか教えてたも

80 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 15:49:17
>>79
とりあえず答えてみると
青梅には勝沼城という城があり
これは戦国時代よりはるか前から、多摩川上流域を支配していた三田氏の居城であって
甲斐の勝沼氏とは直接の関係はないと思う
もともと甲斐勝沼氏自体が信虎の弟信友が立てた家だしね

81 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 15:33:37
勝沼氏はその兵力を生かして、武田軍出陣の時には後詰めとか後方支援とか留守居役とかを担当していたらしいね
信虎時代には信虎が出陣してる間に北条が甲斐に攻めてきた時、
当時の勝沼当主である信友がそれを郡内小山田氏を従えて迎え撃ったのもこうした役割からなんだろう
勝沼信友はその戦いで負けて死んじゃったけどさ

82 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 21:08:52
勝沼信友は一本武田系図の裏書で自らを道存とし
武田信長の名跡を継ぐものとして、これを先祖と呼び
甲斐で反逆者と徹底的に戦った武田信長こそ
武田宗家の正統というにふさわしいと述べている
(つまり自分達の勝沼一族こそが武田正統たるべきと述べているも同じ)とされるね
一見、信虎に協力して甲斐国統一に尽力したように見える信友も
内面は結構複雑だったんだねえ
さすがは戦国乱世

83 :日本@名無史さん:2010/01/11(月) 21:25:57
そうした勝沼信友の内面に秘めた野心は息子の信元に引き継がれ
関東管領になった謙信の勢威が大膨張して武田領国が動揺した1560年に
上杉家臣藤田氏(当時藤田氏は当主不在の為、その有力家臣が代行していたとされる)の調略を受け、
謀反による甲斐乗っ取り計画として発現するわけだ
大した執念だわな

84 :日本@名無史さん:2010/01/12(火) 20:49:41
勝沼信元の謀反計画は信玄が出陣してる間に
留守居役としての権限を生かして上杉方を招き入れ、甲斐を乗っ取るという
自分の役割をフルに生かした計画だったね
それを事前に探知した信玄の調査機関である目付け・横目達は有能だね
義信事件でも彼らが真っ先に探知した

85 :日本@名無史さん:2010/01/12(火) 21:28:20
さすがは信玄
足長坊主といわれるだけある

86 :日本@名無史さん:2010/01/12(火) 23:03:25
信玄は情報収集に熱心だったことが有名だよね。

87 :日本@名無史さん:2010/01/12(火) 23:45:13
甲斐リニア上げ

88 :日本@名無史さん:2010/01/13(水) 00:02:22
>>79
ホームページみると 「青梅師岡の勝沼城は、三田氏の居城だったが信玄に攻め落とされた」と書いてた人いたけど
そのあと平氏三田氏の女系が武田勝沼家に入って来たのかな

89 :日本@名無史さん:2010/01/13(水) 18:55:52
勝沼城を拠点とした三田氏は北条氏によって1563年に滅ぼされたとされてるね。
武田勝沼家は信虎の時代に信虎の弟である信友が立て、
信友の後を継いだ勝沼信元が1560年に謀反を企てて成敗され断絶してるね
つまり1563年に三田氏が滅ぼされた時にはもう勝沼氏は存在しない事になる
青梅の勝沼城を信玄が攻め落とした事が事実であるとすれば、
それは信玄が北条氏と敵対した1568年から1571年までの間の事なんじゃないかな
その間に信玄、もしくは武田の一部隊が勝沼城を攻め落とした事があったのかもしれない

90 :日本@名無史さん:2010/01/14(木) 00:16:55
青梅:かつみ(植物名)沼→築城時に武威をかついで勝沼に改名

甲州:無名の山村→勝沼氏にあやかって勝沼
地名説は根拠なし 信友さんは父信虎が駿州で生んだ11男だから 青梅三田氏と何らかのゆかりがあったのだろう。

91 :日本@名無史さん:2010/01/14(木) 00:36:34
>>90
勝沼信友は信虎の11男じゃなくて
信虎の父信縄の息子で信虎の弟。
信玄にとっては叔父にあたる人だよ。
勝沼信友は晴信が家督を継承する6年前の1535年に北条氏との戦いで死んでる。
あなたの言っている信友は信虎追放後の1541年以降に駿河で生まれた上野介信友(係図における正式名では信基と表記される)の事で
勝沼氏とは直接の関係はないよ。

92 :日本@名無史さん:2010/01/14(木) 00:47:26
一応わかりやすくする為に二人の信友の違いをここに記しておこうか

@勝沼信友→勝沼五郎信友、武田氏係図では次郎五郎、とあり、官職は左衛門太夫とある
信虎の弟して勝沼氏を立て、1535年に北条氏との戦いで戦死。これが勝沼氏の勝沼信友の事。

一方で>>90さんのいっている信虎の11男は

A武田信友→武田六郎信友、武田氏係図では信基を正式名とする。左京亮・上野介の官職を持っていたとある。
1582年3月7日に織田軍に殺されて没。

93 :90:2010/01/14(木) 02:59:44
それでWIKIPEDIAに二人載っていたのですね 二人とも側室は不明なのでしょうか

94 :日本@名無史さん:2010/01/14(木) 20:25:20
武田氏系図を見る限りじゃ二人とも正室については書いてありますが
側室については書いてありませんね
二人とも高位の武士ですから側室くらいいても不思議はないですが

95 :日本@名無史さん:2010/01/14(木) 20:43:08
>>93
こっちも武田氏系図を見てみたけど>>94にあるように
二人とも正室については書いてあるけど側室の記述はないね
黒田基樹氏作成の戦国期武田氏系図については
信虎や晴信といった当主は側室についてもいろいろ書いてあるけど
この二人については特に側室が書いてないから不明なんじゃないかな

96 :日本@名無史さん:2010/01/14(木) 23:27:27
では勝沼信友さんの側室は三田氏で 信玄が青梅街道で逃げた時の避難場所にした?

97 :日本@名無史さん:2010/01/15(金) 00:18:09
>>96
いや、ですからね
何度も述べているけど
勝沼信友は1535年にとっくに死んでいるので
信玄が青梅に侵攻して勝沼城を攻略したことが仮にあったとしても
直接の関係はないはずなんですけど
その三田氏自体が1563年には北条氏によって滅ぼされているんですから
青梅街道から逃げる、というのがどういう事態を想定されているのかわかりませんし、
勝沼信友の側室が三田氏、とか青梅街道で逃げた時の避難場所にした、というのも正直聞いたこともない話です
何か小説か何かを基にされているんですか?

98 :日本@名無史さん:2010/01/15(金) 00:34:12
勝沼氏館跡を中心に勝沼氏にあやかって後から地名が付いたと思います。 甲斐勝沼の地名は 甲陽軍艦など 近世以降できたので(中古文献無し?)。武蔵勝沼は古文献あるので。 勝沼という名は 偶然に出来るネーミングでは無いと思います

99 :日本@名無史さん:2010/01/15(金) 00:47:27
>>98
そうですかね?
軍鑑はその内容が室町後期の言葉で書かれている事から
同時代を生きた人間の口述筆記を基にしているといわれますね
軍鑑にあるならある程度考慮する価値はあると思いますよ
あなたの言うとおりだと仮定してみますと
勝沼信友は三田氏から側室をもらった縁で勝沼の名を名乗った事になるんですが
正室ならまだしも側室からの縁で自分の氏族の名前をつくるなんていう例はちょっと知らないですね
第一、仮に三田氏から室をもらっていたのなら、三田氏の家格からみても
正室であっておかしくないのですが、そこら辺は資料では確認できませんしね
三田氏から室をもらったのならそこら辺の裏付けや根拠がほしいところです

100 :日本@名無史さん:2010/01/15(金) 01:08:19
ちょっと>>96の人は話が飛躍しすぎてる気がする
地元の伝説とか小説を基にしているんだろうか?

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