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♪邪馬台国 ドンと来い♪56

1 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 15:25:58
             ∧..∧ 
            (´・ω・`)
           cく_>ycく__)
           (___,,_,,___,,_)  ∬
         彡※※※※ミ  旦
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   \   ドッ!!     /   \ ワハハ! /
     \          /      \    ∞
   l|||||||||||||| ∩,,∩ ∩,,∩  ∩,,∩ ミ∩ハ∩彡
   (,    )(,,    )    ,,)(    )(    )

九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。 煽り、粘着禁止。荒しはスルー

■前スレ
♪邪馬台国 ドンと来い♪55

2 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 15:27:03
■前スレ
♪邪馬台国 ドンと来い♪55

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1253945166/

忘れてた

3 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 18:12:28
>>1 乙

今だ!3番ゲットォォォォ!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄       (´´
                  ∧∧       (´⌒(´
            ⊂(゚Д゚ )≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
        ⊆⊂´ ̄ ⊂ソ  (´⌒(´⌒;;
           ̄ ̄ ̄   ズザーーーーーッ


4 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 19:29:06
>>1 乙です。

前スレ946へ
>これ、幽州から馬韓まで四千余里という話じゃないです。

>東夷馬韓、新彌諸國依山帶海,去州四千餘里,?世未附者二十餘國,並遣使朝獻.
>於是遠夷賓服,四境無虞,頻?豐稔,士馬強盛.

>馬韓や新彌などの東夷の諸国を漠然と指して、
>幽州から四千余里も離れていて遠くて、昔から中国になつかない国が二十余国あった。
>それが張華が幽州に着任すると、そういう国も朝獻するようになり、平和で栄えた。
>張華は凄いぜと、そういう話だから、

確かにあなたの言うとおりだ。
しかし、まあ、そう言わずに聞いてくれ。

5 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 19:29:59

後漢書郡国志には、幽州九郡の洛陽からの距離がそれぞれ記されている。次の通りだ。

?郡。洛陽東北千八百里。
廣陽郡,(記載なし)
代郡。洛陽東北二千五百里。
上谷郡。洛陽東北三千二百里。
漁陽郡。洛陽東北二千里。
右北平郡。洛陽東北二千三百里。
遼西郡。洛陽東北三千三百里。
遼東郡。洛陽東北三千六百里。
玄菟郡。洛陽東北四千里。
樂浪郡。洛陽東北五千里。
遼東屬國,洛陽東北三千二百六十裏。

これによると、?郡から楽浪郡までは3200里。
つまり、楽浪郡の位置を考えると、馬韓までの里数に整合性が出てくるじゃないか。

郡国志を書いたのは実は范曄ではなくて、
司馬懿の弟司馬進の子高陽王司馬睦の長男司馬彪だ。

その司馬彪は恵帝の末年(306年頃)に没したというから、ほぼ陳寿と同時代の人。
さらに、晋書は唐代の編纂だが、「張華列伝」のこの部分はその内容から、
当時幽州に左遷され、冷や飯食らっていた張華自身がアピールするため、
自ら送った報告書によるものだと考えられる。

そんなわけで、「幽州から馬韓まで四千余里」の幽州は、
劉備玄徳の故郷で有名な幽州?郡だと思うのだが。

長文、失レイ。

6 ::2009/10/06(火) 19:35:40
>>4-5
ネタ出し乙w

7 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 20:04:01
えーッ、また里数問題やるの?

新スレになったことだし、ちょっくら話題変えようや。

8 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 20:20:12
>>5
州の役所から四千余里なのか、州境から四千余里なのかわからないですね。
タク郡に州の役所があったのですかね。
いずれにせよ、短里だったら3200里は230kmくらいで、
タク郡からだったら、遼東郡までも届きません。
とても楽浪郡までは届きませんね。
通常里だったら1400km弱で、ちょっと多すぎるかなという感じ。

>>7
じゃ、なにか話題よろしく。

9 :日本@名無史さん :2009/10/06(火) 20:30:07
>>5
後漢書郡国志にはそういう記述はいっさい無いよ。
郡の名前だけ。
後漢書ではなく晋書か何かの誤りでは?

10 :日本@名無史さん :2009/10/06(火) 20:42:42
>>5
これは集注後漢といって後の時代に劉昭が後漢書に註釈を入れたものだ。
劉昭は南朝梁の人。
後漢書の原典には書かれていない。
後の時代に註釈したものの記述だから比較対象にはならない。


11 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 20:58:12
>>10
確認しました。

>『後漢書』の注釈書として最も古いのは、南朝梁の劉昭の『集注後漢』です。
>彼は『後漢書』の志を補うために、范曄自身が祖本として使おうとした
>司馬彪『続漢書』八志 を『後漢書』に附載し、それに注釈を付けています。

ということらしいですね。比較対象でいいでしょう。

12 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 21:20:45
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった

13 :日本@名無史さん :2009/10/06(火) 21:36:04
>>11
『後漢書』の注釈書として最も古いもので南朝梁の劉昭ってことは、
梁(りょう、502年 - 557年)時代の注釈だから、全然比較対照にはならない。


14 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 21:49:56
>>13
なんで?
南北朝になっても、?陽もタク県の位置は変わらんよ。
なんで全然比較対象にならないの?

15 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 21:58:11
>>13
「郡国志」は誰が書いたのか、もういちど確認してみようね。

16 :日本@名無史さん :2009/10/06(火) 22:22:37
普通に考えて全然比較対象にはならない。
註釈だから。
後漢書は東夷伝は短里で書かれているってわかってる。
それなのに原典には書かれていなかった記述を比較することは、
普通思考で考えられないことだ。
そんな当たり前なことさえもわからないような人がいるんだね。

>>15
だからなんなの。

17 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 22:48:45
>>16
都合の悪いことは認めない、という立場なら、
わかってることになってしまうでしょうね。
ちなみに、後漢書が短里で書かれてることがわかってしまった根拠はなんですか。
もしかして、烏弋山離が玉門関の南にあるとかいう、あれ。

18 :日本@名無史さん :2009/10/06(火) 22:59:56
>>17
後漢書東夷伝、魏書東夷伝は短里で書かれていることは、畿内説も九州説もほぼ認めていること。
烏弋山離が玉門関の南は西域伝ですよ。
これはまだまだ場所を特定しないとはっきりとはいえない。
あなたは後漢書や魏書の東夷伝は長里で書かれていると?
じゃ、倭人伝を上手に説明してくれる?1000里は何キロかわかっているよね?

19 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 23:12:54
>>18
>畿内説も九州説もほぼ認めていること

嘘は信用無くすよ。

20 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 23:15:30
>>16
だからなにかと言うと、
南朝梁の劉昭が『集注後漢』の中で、『後漢書』の(不足している)“志”を補うために、
司馬彪が書いた『続漢書』八志 (この中に郡国志がある)を『後漢書』に附載し注釈を付けた、
だから、郡国志は晋代に司馬彪によって書かれた、ということ。

21 :日本@名無史さん :2009/10/06(火) 23:27:56
>>20
郡国志は晋代に司馬彪によって書かれたのを
范曄が参考にして書いたってころですか?晋代だから。
でも郡国志には一切里数の記述がないのだから、
なんとも言えませんよ。
註釈は100年後位に劉昭が長里で説明しているってはっきりわかったじゃないですか。
范曄が編纂した後漢書に長里で書かれている箇所があるならともかく、
范曄以外の者が後から付け足した記述と比べるのは普通に考えて×だよ。
其の位理解できないの?

22 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 23:30:18
>>8
幽州の役所(刺史治)は廣陽郡の薊(北京)にありました。
洛陽から廣陽郡までの距離だけ、なぜか記載がありません。

23 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 23:36:58
>>21
郡国志は晋代に司馬彪によって書かれ「続漢書」の中にある。
それを南朝梁の劉昭が『後漢書』に附載したってこと。
郡国志には里数の記述がちゃんとあります。

24 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 23:42:14
何をごちゃごちゃ言ってるのかな。魏志の東夷伝が短い里で書かれていることは
まちがいないんだろ。それとも、東夷伝のこの部分は長里にまちがいないってと
ころはあるの? あるならそれを指摘してみてよ。

25 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 23:42:54
>>23
「これは集注後漢といって後の時代に劉昭が後漢書に註釈を入れたものだ。
劉昭は南朝梁の人。
後漢書の原典には書かれていない。 」
あなたのいう郡国志は集注後漢のほうです。
ちゃんと上のほうから順番に読んでくださいね。



26 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 23:49:39
>>25
wiki後漢書より
>南朝梁の劉昭は、范曄の『後漢書』に、西晋の司馬彪が著した『続漢書』の志の部分を合わせ
>注を付けた。このため現在伝わるのは、後述の李賢注と劉昭注の『続漢書』の志を合刻した
>北宋時代の版本に元づくものである。

ということだが。

27 :日本@名無史さん :2009/10/07(水) 00:02:25
>>26
そうはいっても范曄の後漢書には書かれいないのに、
他のものから持ってきて、比較はできないですよ。

もともと比較する意味は、中国国内は長里で表記するのかということ。
だから同じ史書の中からその証拠となるものを見つけるべき。

28 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 00:04:00
>>24
確かにバタバタになってしまったが、
ここで問題にしているのは東夷伝ではなく、
幽州タク郡から馬韓までの里数が4000里だということです。
お騒がせして申し訳ない。

29 :日本@名無史さん :2009/10/07(水) 00:05:40
それをまるで范曄の後漢書郡国志にあったように最初は書かれていたから、
それは違うんじゃないという話になったわけ。ごく当然のこと。

30 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 00:08:28
>>27
別に范曄は関係ない。
晋代の同時代人の二人(司馬彪と張華)の記述から、
幽州から馬韓までの里数を検討しているのであって。

31 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 00:11:07
>>27
>だから同じ史書の中からその証拠となるものを見つけるべき。

読み下し文なんですが
曹公は精鋭五千騎を率いて猛追し、一日一夜で三百里余りも進み、当陽の長阪にて追い付いた

300里余は長里で135kmくらいですかね。これはちと無理っぽくないですか。

32 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 00:11:08
>>29
5のレスを全部読んで下さい。
一応書いておいたんですが。
長文だったのは申し訳なかったですけど。

33 :日本@名無史さん :2009/10/07(水) 00:15:06
>>30
話がかみ合ってない。
私は郡国志の註釈の件を言っているのであって。

34 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 00:20:23
>>33
どうもそのようですね。
郡国志の註釈の件、とはどういうことでしょうか?
郡国志の里数は司馬彪が書いたのではない、ということですか?

35 :日本@名無史さん :2009/10/07(水) 00:25:28
>>34
後漢書郡国志には里数は書かれていないのですよ。
だから比較する史書が違うでしょという話。
長里で書かれたものなど、いくらでもありますよ。
そんなものを見つけてきてもだめ。
当たり前にあるんだから。
要は同じ史書の中に、長里、短里がごちゃまぜに書かれているのかってこと。
その基本がわかってないんじゃない?

36 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 00:27:32
http://www.youtube.com/watch?v=6d7BFzLzKJI
http://video.google.com/videoplay?docid=2172429313954008035
ポッポは世界的な闇カルトのエージェント。人類奴隷化を目論む
国際金融資本支配下のアジア共同体をゴリ押ししてるのでも
丸分かりである。あいつは日本人のみならず、人類を奴隷にするための工作員。

37 :日本@名無史さん :2009/10/07(水) 00:31:53
>>31
それはどの史書からの抜粋ですか?

38 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 00:36:51
>>35
まず、後漢書の郡国志には里数は書かれているので確認して下さい。
この郡国志は晋代の司馬彪が書いた続漢書にあり、あとから付け加えられたものです。

次に、検討しているのは、幽州から馬韓までの里数です。
それを同時代の二つの資料(郡国志と張華列伝)から確認しているのです。

39 :日本@名無史さん :2009/10/07(水) 00:38:40
>>38
かかれてありません。確認しました。
郡の名前だけです。

40 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 00:43:14
>>39
こちらのサイトへどうぞ。
ttp://www.hoolulu.com/zh/
中華典蔵>後漢書>郡国志第二十三、です。

41 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 00:45:56
>>37
>それはどの史書からの抜粋ですか?

>31はわからないのでにた例を書きます
先主(劉備)がすでに襄陽を通過したと聞いた曹公は、精鋭の騎兵五千を引き連れて急いで追撃し、
一日一夜に三百余里の行程を馳けて、当陽の長阪〔橋〕で追いついた
『三国志』蜀志先主伝第二



42 :日本@名無史さん :2009/10/07(水) 00:53:26
>>38
范曄の後漢書郡国志には里数はないのですよ。
確認しましたか?
司馬彪の続漢書郡国志には里数があるんでしょ。
それはわかりますよ。
司馬彪の続漢書郡国志には里数は長里で書かれていますよ。
見たところ。
長里を見つけるのだったら、范曄の後漢書から見つけないと意味ないでしょう?
范曄の後漢書の東夷伝は短里で書かれているのだから。
後漢や魏の時代は里数表示は短里だったのか?ということ。
それによって卑弥呼の墓の大きさだのが推測できるわけだから。
短里があるなら、短歩もあっていいはずだし。



43 :日本@名無史さん :2009/10/07(水) 00:55:06
>>41
ありがとうございます。
後で検討させていただきます。

44 :日本@名無史さん :2009/10/07(水) 01:01:30
>>40
レス11で確認しましたと書いてあります。
>確認しました。

>『後漢書』の注釈書として最も古いのは、南朝梁の劉昭の『集注後漢』です。
>彼は『後漢書』の志を補うために、范曄自身が祖本として使おうとした
>司馬彪『続漢書』八志 を『後漢書』に附載し、それに注釈を付けています

45 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 01:06:17
>>44
南朝梁の劉昭が司馬彪『続漢書』八志 を『後漢書』に附載した
ということが確認できたのですよ。

46 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 01:06:21
>>38
交通整理

後漢書の志の部分は、梁の劉昭が、司馬彪の續漢書から取って、范曄が書いた本紀・列傳にくっつけた。
これについては、異論は無い。

その司馬彪が書いた郡國志の部分は以下のようなもの。

タク郡 【高帝置、?陽東北千八百里】 七城、戸十萬二千二百一十八、口六十三萬三千七百五十四。

この【】で括られた部分は、司馬彪の志ではなく、劉昭が付けた注だということ。
だから、郡國志には里数は書いてないというのですね。

47 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 01:09:16
>>46
それなら話はわかります。
劉昭が付けた注だというのを確認したいのですが。

48 :日本@名無史さん :2009/10/07(水) 01:20:56
>>46
横からですが、
原典の范曄のものには【】の部分は書かれていません。
司馬彪の郡国志にも最初は里数は書かれていなかったのですね。


49 :45:2009/10/07(水) 01:21:35
>>47
僕はわかりません。
議論を横から見ていて、そこが食い違っていると思ったので、交通整理したまでです。
中華書局標點本や台湾中央研究院のサイトでは、
【】で括られた部分だけ、文字が小さくはなっているのですが、
注記は注記で別にあるので、【】の部分が司馬彪のものか、劉昭のものかわかりません。
どなたか、御存知の方に教えていただきたいと思います。

50 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 01:26:50
>>42
いや、つまりですね。
幽州から馬韓までの里数が(長里で)4000里だったら、それが張華の認識だったら、
半島の大きさをわかっていた、ってことなんですよ。

51 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 01:31:51
>>48
それを確認したいのですが、どうすればいいですか。
出典があれば教えて下さい。

52 :日本@名無史さん :2009/10/07(水) 01:35:01
>>50
半島の大きさをわかっていたらどうなの?
何を証明したいの?

53 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 01:41:52
>>52
馬韓まで四千里というのはおかしいでしょう。
陳寿は方四千里と書いているのだから。
それはなぜ?

54 :日本@名無史さん :2009/10/07(水) 01:44:21
要するに私等、短里派は後漢書や三国志魏書が全部短里表記ならば、
その東夷だけを誇張したという論もなくなるわけだし、卑弥呼の墓の
大きさも短里基準で計算できるし、倭人伝を解く上で役立つわけです。
だから他の史書から長里の証明をされても意味ないのです。
時代によって里数表示基準が変わったのかどうか調べたいという好奇心からなのですから。


55 :日本@名無史さん :2009/10/07(水) 01:49:00
>>53
時代や王朝によって、里数表示基準が変わったかもしれないでしょう?
だから同じ時代、同じ王朝で比較しないとだめってこと。
それと同じ時代、王朝に書かれていても、
その原資料を編纂者が長里や短里に直したかどうか、それとも原資料のまま
を記載したかってことも大事。
だから、同じ史書の中で比べることが最低限の基準。

56 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 01:54:16
>>54
別に長里の証明をしたいわけではなく、
東夷だけを誇張したのはなぜかということを疑っているのです。
東夷が短里で書かれた理由がわかれば、それはそれですっきりするのです。

57 :日本@名無史さん :2009/10/07(水) 01:59:58
>>56
東夷が短里で書かれた理由を知りたいですよね。
だからこそ、同じ史書で調べることが基準でしょう?
後漢書や、三国志は列伝など他にも膨大な量があるのだから。
中国本国はどっちの表記なんだろうかって。

58 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 02:00:58
>>55
張華と陳寿は知り合いで、張華は三国志を読んで陳寿のことを褒めている。
張華が半島の大きさを知っているなら、陳寿もわかっているだろう。
ではなぜ方四千里なのか? または、なぜ東夷が短里なのか?

59 :日本@名無史さん :2009/10/07(水) 02:05:38
>>58
陳寿が元資料をそのまま利用したってことでしょ。
後漢時代の資料を。
だから後漢時代の書を調べればいいわけですよ。
班固の漢書地理志とか。

60 :日本@名無史さん :2009/10/07(水) 02:13:39
59の補足
後漢書には萬二千里の表記があるわけだから。
本当ならば魏時代の書があればいいけど。

61 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 02:24:43
>>48
ソースはどうなったんだよ〜。寝ちゃったかな?

まあ洛陽〜北京間は鉄道路線の実距離で505.7マイル。約1800里らしいから、
あの里数は信用できるだろう。

寝よっ。

62 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 04:10:20
しかし世間では、そもそも短里自体が古田氏の創作に過ぎないとされてるのでは?

63 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 08:14:46
東夷で短里が使われた理由が分かればすっきりするけど、理由が分からなくても
短里が使われているとなれば、女王国までの千五百里や周旋五千里の実数が分か
るよな。とりあえずは、その確認からでいいだろう。

64 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 08:17:01
あ、それから、短里が使われているからといって、百余歩の実数は直ちには分からないよ。
短里が何歩を1里としているのかは、また一つの問題だから。

65 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 10:19:57
>>57
東夷伝で短里が使われているのは、朝鮮半島で実際に短里が使用されていたからだろう。
朝鮮半島では、箕子朝鮮の伝説が、史実か否かとは別に、貴族や知識人によって熱烈に
支持され、箕子は朝鮮族の始祖として崇められていた。この箕子は周の出身であるから、
当然のこととして、周の制度を尊重し伝えてきていたんだな。
いわゆる長里は、中国の北の王朝が使用していた里、南の周でどのような里が使用され
ていたのかははっきりしない。それが短里だったということだろう。
朝鮮半島の人々が短里を使用していたとなれば、中国の知識人は朝鮮半島の里は長里で
はないということを常識として知っていた、東夷伝の書くところをみれば、すぐにその
朝鮮の里だと理解できて長里になおす必要はなかったんだろう。

66 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 11:05:33
>>64
>あ、それから、短里が使われているからといって、百余歩の実数は直ちには分からないよ。
>短里が何歩を1里としているのかは、また一つの問題だから。

前スレに周髀算経のレスがあったけど、あらためて書きます
周髀算経(漢末にはすでにできていたようです)によれば
夏至の日の正午に洛陽で8尺の棒を垂直に立てると一尺6寸の影が出来る。
千里南にいくと一尺5寸の影になる。
この割合で一万六千里南にいけば棒の影がゼロになる北回帰線に到達するはずである。
それを計算すると実際、一里76,6mとして洛陽から南へ一万六千里行くと北回帰線に
極めて近いところに着くということ。
300歩=1里


67 :日本@名無史さん :2009/10/07(水) 11:40:34
>>66
ということは一歩が25センチ位。
そうすると一歩が六尺を当てると一尺が4センチ余りになってしまうので、
一歩=一尺と考えたほうがよさそう。
↓は私のひとりごと。
ちなみに周代の一尺は19.91センチ。
歩は足の裏の長さ、尺は下腕の長さ?手のひらを広げた長さ?から来た
長さなので、成り立ちが違う。
いつから歩を六尺と決めたのか、ずっと後の時代に決めたのかもしれない。
おそらく長里が採用されてから。古い度量衡はもともと短里だったのではないだろうか。
後漢書も三国志も東夷伝は短里で書かれているが、
中国本国も短里で書かれている可能性もある。
まだ調べ尽くされてないから、今のところなんともいえない。
つまり、まるごと、古い資料を写していて、誇張した表記をしようとは
全然思ってないかもしれない。へんな解釈をされて編者も困っているに違いない。

68 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 18:04:48
結局、短里も誇張も同じことを言ってるんだよ。

そもそも短里なんて、最初からどこにもありはしない。
そうではなくて、倭人伝の里数は、晋室の祖である司馬懿の功績を大きく見せるため、
親魏倭王の女王の国を、はるか遠くの大国に仕立てようと、
約四倍に誇張された数字なんだ。

そうだとすればすっきりするし、実際の距離だって今までどおり割り出せる。
短里を大真面目に論じているもの以外は、誰にもなんにも問題ないじゃないか?

69 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 21:17:49
>>68
また、誇張説か。そんなくだらない説を恥ずかし気もなく良く言うよ。

70 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 21:21:52
>>66
直木孝次郎氏は、60歩=1里という特別な里制を考えてるね。
300歩=1里の証拠は何かな?


71 :日本@名無史さん :2009/10/07(水) 21:28:13
周髀算経で求めた一里が足の裏の長さで計ると300歩分と同じだということだ。
つまり短里を使っていた時代は尺の長さとは関係なかったので、
一里の長さは76.6センチ位で変動はなかったのだろう。
つまり、歩の長さは25センチ位で変化はなかった。
それに比べ尺は変動があるので、魏尺、後漢尺、前漢尺などに合わせて
短里計算するのは誤りで一歩≒25センチで短里は計算するべき。
つまり一歩=一尺ではなく、一歩=一歩だということ。
短里
    1里     76.6メートル
   10里    766メートル
  100里   7.66キロ
 1000里  76.6キロ
 1500里 114.9キロ
10000里 766キロ
12000里 919.2キロ



72 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 21:57:53
>>71
周髀算経で短里が証明できたという、その論文。
どこかのサイトとかで見られないかな。
反論するにしろ納得するにしろ、見てみないことには、どうにもならんので。

73 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 22:13:32
http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page010.html

周髀算経の一寸千里の法。計算自体は合ってると思うが、この1里=76〜77mが普遍的に用いられ
ていたという論拠はあやふやだな。本の中の単なる数学的単位かもしれない。

74 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 22:16:17
>>71
300で割ってみたら25センチで1尺とは違うから、あなたが一歩=25センチを
発明したってことかな。足裏の長さを歩というという記述でもみつけない限り、合理
的な解釈とは言えないだろうな。


75 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 22:19:24
>>73
ありがとう。

76 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 22:41:56
>>73
短里の存在の根拠として、最も可能性があるのが周髀算経だろうね。
ただ、実際に影の長さを測っていたとしたら、大陸全土の里数表示が短里でなければ
おかしいとは思う。それが引っ掛かるんだが。
参考にさせてもらいます。

77 :日本@名無史さん :2009/10/07(水) 23:17:57
>>74
発明ってそんなものが発明とはいえないでしょ。皮肉らないでくださいね。
だいたい歩っていえば、足を連ねて数える方法だろうって感でわかるし、
長さからいっても、成人男性の足裏の長さにだいたい符合する。
尺は手のひらで測ったもの。普段、長さを手で測る時しますよね。
尺取虫って知ってるかな。
まるで手で長さを測るように歩く虫。木の枝のような姿をしていて、尺を取るように歩くから
尺取虫という名が付いたのだろう。
だ足裏で測る場合は、足のつま先に別の足のかかとをくっ付けて
次々と測る方法。そうすれば一歩≒25センチになる。

78 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 23:22:21
歩くから「歩」なんだよ。
足の裏じゃ、立ち止まってるだけだ。

79 :日本@名無史さん :2009/10/07(水) 23:26:12
>>78
長さを測る場合はそういう方法だよ。これが一番合理的。
普通に歩いて数えれば、其のときどきで少しづつズレが出る。

80 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 23:49:45
>>79
司馬法の、
凡人一挙足曰【足+圭】、【足+圭】三尺也、両挙足曰歩、歩六尺也
を真っ向から否定することになるわけだけど、どう考えてるの。

81 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 23:55:59
>>79

足の裏の長さなら「歩」なんて文字を宛がうことは無い。

82 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 00:36:47
足の裏には「跖」とか「蹠」とか「足炙」とかいう字があるよ。
それを使わずに、足の裏の意味がない「歩」を使う事はないと、ぼくも思うよ。

83 :◆.L.MXSPOgc :2009/10/08(木) 08:07:06
話題の周髀算経を見てみようと、ネットで探してみました。
http://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=59428&if=gb

一寸千里は、なぜか見つかりませんでしたが、似たような記述がありました。
巻上の11
陳子曰:“古時天子治周,此數望之從周,故曰周髀。髀者,表也。日夏至南萬六千里,日冬至南十三萬五千里,日中無影。
以此觀之,從南至夏至之日中十一萬九千里。(以下略)

簡単に訳すと「夏至には南16,000里、冬至には南136,000里で、日中に影が無くなる。」ってことが書かれていて、
この差119,000里からその後いろいろ計算しているようですが、どういう論なのかよく分かりませんでしたw
それはともかく、北回帰線が南16,000里、北回帰線が南136,000里の所なので、回帰線どうしの距離が119,000里。
回帰線どうしの距離が何kmか詳しく分かりませんでしたが、おおよそ5300kmとして
5300*1000/119000〜44.54m/里
となり、短里よりかなり小さな値になってしまうようです。

ところでこの周髀算経の成立は戦国時代末期〜前漢(紀元前2世紀前後)と考えられているようですが、
その頃にすでに南回帰線までの距離を測っていたというのは、ちょっとした驚きでした。
翻って、不彌國より先が”遠すぎるので”日数で表した、とするのは日本人的な”遠さ”の感覚なのではないだろうかと
思えてしまいます。

84 :日本@名無史さん :2009/10/08(木) 11:00:41
>>83
まだ周台は地球は丸いという認識はなく、天が丸く、地は平らという
認識だったようだ。
だから、周髀の計算は太陽の高度が一定の場合での机上の計算なので、
南回帰線に太陽が行った時も北回帰線の太陽の高度と同じとみなしたので、
実際は太陽が低い位置から照らせば、影は長くなるのに、夏至の日の太陽高度と同じに計算した為、
結局距離が長くなったのだと思う。
冬至の太陽は夏の太陽より地球が丸い為高度が低くなるので、影は長くなるから。
だから、北回帰線までは北半球側なので、あまり誤差が出ないが、南回帰線までになると
誤差が出てしまうのだと思う。太陽の高さが違うから。
だから、一里76.6メートルというのは北回帰線までの距離から割り出した長さ。


85 :日本@名無史さん :2009/10/08(木) 11:17:04
で、北回帰線が北緯23度位、洛陽が北緯35度なので、地球が丸い為、その太陽高度の誤差を考えると
北回帰線までの長さもやや長く計算されたと思うので、
一里は約70メートル位になると思う。

86 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 11:44:51
“大海”でも「六尺一歩」

大海に位置する東夷を編纂した学者が「一尺一歩」を知らん

本記の地理誌に記載されている里と大海に位置する里の比率は同じ


歴代の倭傳には全て、帶方郡から女王国まで「萬二千里」と記載した

本土の寸法はマトモで倭傳の寸法はマトモじゃ無ぁ〜

歴代の編纂者は皆、アンポンタン


馬鹿クサ・・・

「一尺一歩」が存在したとか、クダラン事言わんと、


大海でも「六尺一歩」何が悪い!

解釈・発見(いわゆる妄想)は棄てて、公式の基準で測れ!






87 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 11:48:53
>>83
ご紹介のページに行ってきました。次の記述について。
8 卷上:
周髀長八尺,夏至之日?一尺六寸。髀者,股也。正?者,句也。
正南千里,句一尺五寸。正北千里,句一尺七寸。

南に行って影が一寸短くなる地点までを千里、
北に行って影が一寸長くなる地点までを千里、
ということではないでしょうか。漢文はよくわからないのですが。

88 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 11:56:34
>>86
>本土の寸法はマトモで倭傳の寸法はマトモじゃ無ぁ〜

そうですよね。だから、それがなぜなのか考えているんです。
「本記の地理誌」とはどれを指しているのですか? よろしければ教えて下さい。

89 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/08(木) 12:10:19
>>84-85
同意
地球は平面、太陽は一定の高さにあり、夏至と冬至で南北に119000里移動する。
周髀寸千里に従い尺24cm位とすると、一里は69m位になる。

90 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 12:11:18
>>83
>87とほぼ同じものですが
周髀算経 の昔栄方問於陳子の条に、
周髀長八尺 夏至之日 一尺六寸 髀者股也 正者句也 正南千里 句一尺五寸
正北千里 句一尺七寸・・・

髀の長さが八尺で、夏至のときに、日の影が一尺六寸あり、南北に千里行く毎に、
 一寸づつ増減する。・・・




91 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 12:41:07
六尺一歩は、車輪を転がして初めて得られる値、車輪を転がす事の出来ない海の上では
六尺一歩は使えない事は、しごく当たり前の事です。
六尺一歩として車輪を作ったのではなく、車輪の円周が十八尺だったのです。

92 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 12:53:36
車輪の回転を人の歩く姿に見立てた場合、車輪は三分割されたようになる
(車輪に人文字を描く)
だから車輪一周は三歩と言われる所謂。
たまたま始皇帝の輿の車輪の一周が十八尺だったので、車輪を用いる時の基準を六尺一歩としたのです。

★車輪を用いる時の人の一歩は六尺
★人が歩いて歩測する時の一歩は従来通り一尺です。

93 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 12:54:09
>>80
司馬法のその記述が、六尺一寸の起源ということですか?
上の二 ◆.L.MXSPOgcさんご紹介のサイトで司馬法の中を探しましたが、見当たりませんでした。
探し方が悪かったかな。
以前、このスレか多スレか忘れましたが、司馬法が大量にコピペされていました。
wikiには司馬法は戦国時代の兵法書とありました。
どういうことなのか、よかったら解説お願いできませんか。

94 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 13:07:59
>>92
六尺一歩の由来はわかりました。
>★人が歩いて歩測する時の一歩は従来通り一尺です。
従来通り、とは?
周代の度量衡どおり、周髀算経にもとづき、一尺一歩、ということですか。

95 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 13:22:04
>>94
いいえ。
道具を用いる事なく、身体が作り出す長さや幅です。
長さは身体の部位を使用し、幅は身体を使用した間隔です。

96 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 13:43:22
>>93
司馬法の逸文のようです。
康煕字典が、(足圭)の項目に類篇の記述として
「司馬法凡人一擧足曰(足圭)、(足圭)三尺也、両擧足曰歩、歩六尺也」
と引用しています。

http://202.101.244.103/guoxue/%E5%AD%90%E9%83%A8/zhibi1/004.htm
このサイトは《集韻》(足圭)字としています。
そこにも引用されているのでしょう。

97 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/08(木) 14:44:06
>>83-85
同意
大地は平面、太陽は80000里の高さにあり、夏至と冬至で太陽は南北に119000里移動する。
周髀寸千里ならば、尺24cmとすると、里69mになり、歩23cmとなる。

歩と尺は別単位体系
歩は成人男子の踵から爪先までの長さ、土地の大きさを示す時に使う。
尺は成人男子の下腕の長さ、身の回りの物の大きさを示す時に使う。

周髀算経は全くの別単位である歩と尺の関係を宇宙をもって説明している。

98 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 14:50:51
95が全くわかんねー。俺だけか。
こいつ何者?

99 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 14:52:36
>>70
>300歩=1里の証拠は何かな?

周代の「里」に関する資料では

 
 古者三百歩、里と為す。         (穀梁伝、宣、十五)


 周制三百歩、里と為す。         (孔子家語、王言解)


100 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/08(木) 14:57:57

歩と尺の関係を説明する為に、周髀長を8尺としたとも考えられる。

101 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 14:58:38
>★車輪を用いる時の人の一歩は六尺

測定方法なんて時と場所によって様々に生まれるんだよ。
一歩は六尺を、車輪だけに拘ってどうするんだ。
馬鹿か。


102 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 15:01:41
絶対に車輪を回さなければ駄目なの?
日本では車輪なんて回さないだろうに。
車輪を回さないで、歩を定めて事例については、どう落とし前をつけるんだ?

103 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 15:06:11
>>101例えば?

104 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 15:08:03
>>102
六尺一歩を用いるには、車輪です。

105 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 16:21:00
>>99
周の時代は長いよ。 周制三百歩、里と為す。三百歩を1里と決める前は、周では
何歩を1里としていたのかな?

106 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 17:35:18
勿論五十歩です。五十歩百歩の諺があるでしょ。
このことわざがいつ頃できたものか知れませんが、孔子が言った時代よりずっと前、殷かそれに近い時代でしょ。

107 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 17:48:59
三国志全体としてはどうであれ、倭人伝においては約430mを1里とする距離の単位が用いられていなかったこ
とは否定し難い。帯方郡から半島南岸の狗邪韓国までが七千餘里、狗邪韓国から九州北岸の末盧国までが三千餘
里、合わせて1万餘里である。帯方郡から邪馬壹国までは万二千餘里であるから、九州北岸の末盧国からほぼ南
へ二千里のところに邪馬壹国がある。半島南岸から九州北岸までは約200kmでこれが三千里とすれば二千里は約
130kmである。直線距離としても熊本県八代市より南には行かない。実際の行路距離とすれば熊本県北部という
ことになろうか。こんなまともな話は敬遠されるのだろうな。

108 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 18:06:14
6尺=1歩ものの代用品なんて腐るほどある。
竹、木、ものさし資源は豊富だ。
だいたいにして6尺は規定値だ、写し取った基準ものがあれば世界各国で転用可能だろ。
車輪がない時は融通を利かせろよ。
頭使えよ。

109 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 18:07:55
そうですね。それではつまんないですからね。もっと深く謎解きをしたいのですよ。
それで解決なら面白くない。

110 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 18:11:23
>六尺一歩を用いるには、車輪です。

じゃあ、なんで、定規というものが古来から存在して来たんだ。
車輪だけでは不便だろう。
それと、測定には日かげの長さとかも利用出来るし。
6尺を測るのに、車輪だけに拘る理由がわからない。融通きかねえ。

111 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 18:11:45
>>107
それをマトモな話だと思えるアナタは幸せ者。

対馬と韓国の釜山の間は約93km
壱岐と対馬の間は73km
魏の使者が仮に壱岐勝本港から船出したとすれば、唐津迄の距離は約50キロであり、
石田港から唐津までの距離は約40キロとなり、
壱岐島の最南端から東松浦半島北端の呼子を結んだら約30キロとなる。

これらを千里と一言で片付けられれば、万二千里もまともには受け取れない。
そんなやつはバカ者でけっこうだよ。

112 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 18:19:56
古田武彦バカにして読んでなかったけど読んだら否定できなくなって
近畿説の俺涙目

113 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 18:35:45
>>105
>周の時代は長いよ。 周制三百歩、里と為す。三百歩を1里と決める前は、周では
>何歩を1里としていたのかな?

周〜隋  300歩を1里
 唐〜 360歩を1里

114 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 18:43:49
質問!

どうして1歩=1尺なんですか?
証明できる史料の引用元をお示し下さい。
初めて聞く人には分からない事ですのでね。
1歩=1尺?これをいう場合はいちいち説明してください。
礼儀です。

115 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 18:49:08
河童うぜー


116 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 18:53:24
>>114
法に定める事を必要としない当然の概念だからです。六尺一歩は、法に定めなければければならない特殊なもの

その違いです。

違反は法にて定めるが、善意を法に定める事はありません。法に記載しなければならない特殊性を知って下さい。

117 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 18:55:13
>>114

六尺一歩は、車輪を転がすから六尺一歩であることを知っていましたか?

118 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 19:08:36
法になければ、公には正式な基準値として使えません。
私は正式な答えを要求している。
トンデモなんて興味がない。
どうして1歩=1尺なんですか?
証明できる史料の引用元をお示し下さい。
初めて聞く人には分からない事ですのでね。
1歩=1尺?これをいう場合はいちいち説明してください。
礼儀です。


119 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 19:13:08
>>118

では、六尺一歩の法を記して下さい

120 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 19:15:58
>>115

河童が登場すると都合の悪い人は皆そういいます。
ウザい時には本人に直接言いましょう

121 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 19:23:40
数は六を以て紀となす。符、法、冠、皆六寸。而して
   
     輿は六尺。六尺、歩と為す。(史記、秦始皇本紀)

さあ、今度は君が1尺=1歩を示す史料引用元を示す番だ。

122 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 19:46:54
>>121
それは法ではありません。

123 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 19:53:13
>>120
だから車輪を使用する六尺の法ですね。

124 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 19:54:37
いじれにせよ、公式の記録です。
今度は貴方が、1尺=1歩を示す史料引用元を示せば良いのです。


125 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 19:56:50
横から失礼。
輿って車輪の事なんですか?

126 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 20:05:21
だから、六尺、歩と為す。だろう。
何処から1尺=1歩が出て来るんだ?
普通はそう疑問に思うだろう。

君の頭に思い描く概念を聞いてもしょうがない。
証拠を出せ!

127 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 20:10:44
>>124

足輪各徑六尺圍一丈八尺足輪一周而行地三歩以古法六尺為歩三百歩為里

はい、出しましたよ

128 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 20:14:56
>>108

>竹、木、ものさし資源は豊富だ。

ものさしは度量衡に聞いて下さい

129 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 20:16:17
>>116
仮に一尺一歩が当然の概念だったとしても、後に六尺一歩と定められ、一尺一歩は忘れ去られています。
忘れられていなければ、現在まで、その存在が伝承されているはずだから。
忘れられてしまえば、当然の概念ではなくなる。
つまり、文献に整合性が失われるので、一尺は一歩であるという注釈が存在しなければなりません。
その注釈を示して下さいということです。

>>127
横からだけど、これのどこが一尺=一歩?

130 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 20:19:59
足輪各徑六尺圍一丈八尺機械が進むと六尺一歩
それは始皇帝以来変えられていない法です。

だから機械歩=六尺  人の歩とは別物です。

131 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 20:23:32
>>129

>仮に一尺一歩が当然の概念だったとしても、後に六尺一歩と定められ、一尺一歩は忘れ去られています。
忘れられていなければ、現在まで、その存在が伝承されているはずだから。
忘れられてしまえば、当然の概念ではなくなる。


いいえ、忘れられてはいません。
全て陸地の大陸では必要ないだけです。

132 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 20:25:11
>>131
大陸で必要ないなら、大陸の人には当然の概念ではないですね。
なら、大陸の人に対して、一尺は一歩であるという注釈が必要です。
それを示しましょう。

133 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 20:31:41
>>132
車輪の及ばない地域である事は、東夷伝の最初に書いてある筈ですよ。

134 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 20:31:51
>いいえ、忘れられてはいません。
全て陸地の大陸では必要ないだけです。

必要ないなら使われないだろうよ。馬鹿。


135 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 20:35:29
>人の歩とは別物です。

だからその人の歩って何だよ?
俺達は魏・晋代では6尺=1歩の基準しか知らないんだよ。


136 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 20:36:19
>>133
車輪が一周した長さは一丈八尺。車輪に関する長さは、これ。
それが三歩に相当する。
つまり、歩とは車輪で定義される長さではない。
車輪で定義される長さは一丈八尺の方で、
それが歩という単位でいうと三歩にあたる。
解った?

137 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 20:37:02
注釈は必要ないでしょ
度量衡が定められているのだから

138 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 20:40:57
>>134

簡単に人を馬鹿呼ばわりとは、

お里が知れますよ(笑)

139 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 20:43:40
>>136

車輪で定義されているのは一周が三歩だけです。

140 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 20:46:00
>>137
度量衡は、法で定められたの?それとも、当然の概念として定められているの?

法なら条文が残ってるだろう。
当然の概念なら、時代と共に、あるいは地域によって、当然ではない人にとっては注釈が必要だろう。

141 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 20:52:50
度量衡は法です。漢書に記されいます。
歩は法で記す必要のない概念です。

142 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 21:28:55
>>121

>数は六を以て紀となす。

数は六で固定するのではなく、六を紀(極限)とするわけですね
整数で言うと 1,2,3,4,5,6

だから符、法、冠、皆六寸まで  輿は六尺。六尺を極限とし、歩となす。


文章は正確に読もう。 六尺と固定するではありません。六尺を極限とするのです。




143 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 21:39:36
始皇帝が定めた歩の値とは、六尺に固定することではなく
六尺を極限の値として、これを超えないように統一された
だから本紀で

數以六為紀,符﹑法冠皆六寸,而輿六尺,六尺為步,乘六馬

と記された




144 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 21:40:29
>>96
わかりました。ありがとうございました。

ご紹介のサイトへ行ったら真っ白で・・・
ソースを開くでようやく読めました。

145 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 21:45:16
♪ 聞こえてくる。地獄の叫び。聞こえてくる。恐怖の悲鳴。悪魔の、悪魔の、悪魔の男がやってくる。
   その人の名は、河童、河童、河童、河童虫。

  聞こえてくる。言意の響き。聞こえてくる。言意の谺。   神秘の、神秘の、神秘の男がやってくる。
  その人の名は、河童、河童、河童、河童虫。
 

 

146 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 21:50:06
>>95
スレの流れが速いですね。
wikiには尺は殷代からあり、元々は身体尺だった、とあります。
もう少し調べてみようと思います。
ありがとうございました。

147 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 21:56:41
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな

全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう
全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう
全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう
全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう

協力しない奴は河童虫と同類だ。河童虫を全員で追い払おう
協力しない奴は河童虫と同類だ。河童虫を全員で追い払おう
協力しない奴は河童虫と同類だ。河童虫を全員で追い払おう
協力しない奴は河童虫と同類だ。河童虫を全員で追い払おう
協力しない奴は河童虫と同類だ。河童虫を全員で追い払おう
協力しない奴は河童虫と同類だ。河童虫を全員で追い払おう


148 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 22:01:11
もうやることが小学生レベルだな

149 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 22:41:10
>>142が「河童の屁」理屈であることは間違いない。
>>147も、あまり褒められたものじゃないが。

150 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 22:47:29
きりきりと カッパ揉みこむ ゆふべかな                       季語 カッパ(胡瓜)

151 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 22:52:30
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif

152 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 22:59:23
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな
河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな 河童虫は出て行け二度と来るな

全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう
全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう
全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう
全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう 全員で河童虫を追い払おう

協力しない奴は河童虫と同類だ。河童虫を全員で追い払おう
協力しない奴は河童虫と同類だ。河童虫を全員で追い払おう
協力しない奴は河童虫と同類だ。河童虫を全員で追い払おう
協力しない奴は河童虫と同類だ。河童虫を全員で追い払おう
協力しない奴は河童虫と同類だ。河童虫を全員で追い払おう
協力しない奴は河童虫と同類だ。河童虫を全員で追い払おう



153 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 23:06:42
お前ら河童を追い出したいのだろう? 追い出したい者は手を挙げろ。 
挙げたら一緒に追い出しコールだ

お前ら河童を追い出したいのだろう? 追い出したい者は手を挙げろ。 
挙げたら一緒に追い出しコールだ

お前ら河童を追い出したいのだろう? 追い出したい者は手を挙げろ。 
挙げたら一緒に追い出しコールだ

154 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 23:08:48
別に

155 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 23:20:54
>>107
>九州北岸の末盧国からほぼ南へ二千里のところに邪馬壹国がある。
一見、まともな考え方にみえるけど、まちがいがあるよ。
万二千里にあるのは女王国だ。けして邪馬壹国ではない。

156 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/08(木) 23:25:48
>>147>>152-153

よっ 久しぶりの登場だな。ファンクラブの民  

157 :日本@名無史さん:2009/10/08(木) 23:28:56
>>155

>万二千里にあるのは女王国だ。けして邪馬壹国ではない。

万二千里の起点が郡の郡庁なら、着点は女王国ではなく女王の都

158 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 00:00:52
河童虫が現れたぞ  河童虫が現れたぞ  
河童帰れの三唱しよう。 

お前ら河童を追い出したいのだろう? 追い出したい者は手を挙げろ。 
挙げたら一緒に追い出しコールだ

お前ら河童を追い出したいのだろう? 追い出したい者は手を挙げろ。 
挙げたら一緒に追い出しコールだ

お前ら河童を追い出したいのだろう? 追い出したい者は手を挙げろ。 
挙げたら一緒に追い出しコールだ


159 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/09(金) 00:05:44
>>158

アンタも飽きないね〜。感心するよ。
インフルエンザには気をつけろよ

寝込んでしまったら、俺を追い出すことも出来なくなっちゃうからな。

160 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 00:24:59
>>157
>着点は女王国ではなく女王の都
女王国と明記してあるだろう。それは都(邪馬台国)ではないからだ。
都ならば邪馬台国と書くさ。
だいたい、都(邪馬台国)までは水行十月陸行一月かかるんだ。末盧国から
二千里では近すぎる。

161 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 06:01:21
>足輪各徑六尺圍一丈八尺足輪一周而行地三歩以古法六尺為歩三百歩為里
はい、出しましたよ


あのう……、
どうしてこれから1歩=1尺が導かれるのでしょうか?
どう見ても、以古法六尺為歩三百歩為里
と書いてありますよね……。
誰が読まれても、1歩=1尺という結論に至らないと思いますが。

162 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 09:19:30
>>157
>着点は女王国ではなく女王の都

・・・其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國萬二千餘里

       ・・・・・郡より12000余里で女王国に至る。

>>160
>だいたい、都(邪馬台国)までは水行十月陸行一月かかるんだ。末盧国から 二千里では近すぎる。

郡から女王国の12000余里に水行十日陸行一月かかるということ。  


163 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 09:55:33
>>162
>郡から女王国の12000余里に水行十日陸行一月かかるということ。
万二千余里の方には 自郡とあるが、水行十日陸行一月の方にはそれがない。
水行十日陸行一月を郡からと読むことはできないね。

164 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 10:02:29
不弥国から水行20日+水行10日+陸行1月で邪馬台国に到着ですよ。理解されてますか?

165 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 10:30:42
九州説の人々に何を言っても無駄ですよ。
自分の都合の良いように倭人伝を曲解する人達だから。
彼らの相手をしてる人は愚か者です。

166 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 10:53:23
要するに、九州説は結論が先になっていて、どうしてそうなるのかを後付で導き出しているんですよ。

だけど、1歩=1尺という結論を導き出すには無理があります。

どだい、方法論が間違っている。
先入観を棄てて、先ずは公式通り、1歩=6尺で倭人伝を読んでみるべきなのに。


167 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 11:00:17
>>164
>不弥国から水行20日+水行10日+陸行1月で邪馬台国に到着ですよ。理解されてますか?

・・・ 東行至不彌國百里・・・南至投馬國 水行二十日・・・
南至邪馬壹國 女王之所 都水行十日陸行一月・・・

東に百里行くとで不彌国です。・・・南に水行二十日で投馬国があります(説明のみで
実際には行ってません)・・・南に邪馬壹國に至ります。女王のところです。全部で
水行十日、陸行一月です。・・・









168 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 11:06:53
>だけど、1歩=1尺という結論を導き出すには無理があります。

ないものをつくりだすんだから、九州説は骨がおれるよなあ。
そりぁあ、九州説同士で意見が食い違うよ。そもそもないものなんだから。

169 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 11:30:49
>>166

つまり、帯方郡から約5000キロの所に女王国があったと言いたいわけだな?
女王国はミッドウェーか?

170 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 11:56:55
>>166
>先入観を棄てて、先ずは公式通り、1歩=6尺で倭人伝を読んでみるべきなのに。

1歩=1尺というより、短里だと1歩の値が1尺とほぼ同じ位になるということ。
そこで1歩=6尺(長里で1里435m位)で倭人伝にでてくる韓地(ここは大きさがはっきりしている)
を読むと、方4000里ですから一辺1740kmにもなってしまう。これはどう考えてもおかしいでしょ。
そこで短里(周髀算経でもとめられた1里76.6mを使う >84参照)だと306km位となり実距離に近くなる。
よって、倭人伝では短里が使われとるのではないかと思うわけです。









171 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 12:02:53
百歩譲って、九州南海上のどこかでもいいけどさあ
何をどう解釈すると、北東の近畿に行かねばならんのか。
それはいくらなんでもありえんだろ

方角わからんで、記録に南とか書くか?

距離はここで議論されているように、いろいろな解釈があるが
方向を曲解するのはどうかな。

172 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 12:17:56
まあ、六尺一歩の公式里とか言うやつを使ったとする。すると
帯方郡から約3000q強の道程で對海国と言う場所に着くわな。
六尺一歩と言う公式里を使用している以上、この3000qは絶対に譲れない数値。
どうしても3000qを変更したければ、変更するに値する証拠出せよ。

173 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 12:18:46


「倭」の始まりは「弁韓」「馬韓」の小国の集まりが九州に移民をしたのが始まり。
その後、「馬韓」は「百済」となり、家族付き合いを続けており、
最終的に「百済」消滅後、「倭」と統合し、現在の「日本」となる。

大和王朝 … 扶余系高句麗人の騎馬軍団が日本に来て倭国に王朝を建てたのが始まり




174 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 12:27:29
>何をどう解釈すると、北東の近畿に行かねばならんのか。
それはいくらなんでもありえんだろ

だから、近畿にも行かないって畿内説はいっているよ。
公式通り読む分には、倭人伝は間違っている、といっているんだよ。だから畿内になんて行けないだろうよ。
これ普通。

>方角わからんで、記録に南とか書くか?

書くよ。古代の奥地だよ。

>距離はここで議論されているように、いろいろな解釈があるが
方向を曲解するのはどうかな。

それは頻繁だよ。伝聞だし古代の奥地だよ。


175 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 13:03:43
>>171
南は南。そうじゃないと、会稽東冶の東には行きつけない。
東冶は今の福州市近辺で、台北に近いところだから、
短里5000里だったら、とても行きつけない。

会稽東冶の東に行くには、短里はダメで方角も南。
ところが、そこは沖縄・宮古島・石垣島。
一里434mでも、全然実態に合わない。

結局、倭人伝の記述を正しいと信じ込んで、
むりやり辻褄合わせで短里を考えるのは無意味。


176 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 13:56:34
そう、あくまでも南に進む。
倭人伝に忠実に。
海に落ちようが、落ちまいが。
それが畿内説の真髄。

南だよ南!

177 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/09(金) 14:01:15
>>111
狗邪韓国は巨済島(狗邪韓国は倭の北岸であるから半島内にはあり得ない)である。ここは古来対馬との
交通の要所であった(元寇のときの半島からの出兵(出航)基地はここに置かれた)。
巨済島南岸から南に向けて舟を出すと、対馬暖流の影響により東に流されつつ対馬南島に着く。この間約
70kmである。対馬南島の西岸を回り込んで南へ向かい約65kmで壱岐に着く。壱岐から松浦半島を目指し
て進み、唐津湾に入り、当時内陸まで入りこんでいた入り江の奥にある港(現在の海岸線から、松浦川に
沿って約6kmほど内陸部に入ったところ)に入る。壱岐からここまでは約60kmである。ここに挙げた距
離は何れも直線距離である。実際の航行にあっては、巨済島ー対馬間の大部分はほぼ直線的、対馬を離れ
るときおよび壱岐に着くときは暗礁等を避けるためにかなりの距離が蛇行、松浦半島を回り込んで唐津湾
奥の港に入る航路では最も多くの蛇行がある。これらの航行の実際を考えれば、千里、千里、千里と記述
されているのも当然である。111のような考えは素人のものであり、万二千餘里という数字をいい加減な
ものにしたいがための詭弁に過ぎない。

178 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 14:26:40
>>171

畿内説の人達が倭人伝の方角には信を置けないとする理由は幾つか有るが、
大きな点は末廬国から伊都国への方角を倭人伝が「東南」としている点だろう。

地名考証と遺跡の集中度から、末廬国は唐津市付近に、
そして伊都国は前原市付近に比定するのが通説になっているが、
そうすると倭人伝記述の「東南」と合わない。

それゆえ当時の中国人は倭の地に関し、実際よりもはなはだしくズレた方位感を
持っていたのではないかと、強く疑わざるを得ないからである。

179 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 14:33:34
>>178
何で伊都国=前原市付近というのが通説になっているのか? それは近畿説や北九州説をとる
場合、伊都国を玄界灘沿岸に比定しないと具合が悪いからだ。
しかし、末盧国から前原市付近は東北になる。それに、前原ならばなんで末盧国で上陸するの
か説明がつかない。これまでの通説が間違っているんだね。
伊都国は佐賀市付近。これで決まりだよ。

180 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/09(金) 14:37:10
>>175
>東冶は今の福州市近辺で、台北に近いところだから、

上記は間違い。
「会稽東冶」は今の宇波市近辺で、多島海をその東の沿岸にかかえる。
会稽東冶の東は屋久島付近になる。
「乍南乍東」を考慮しないで、帯方郡の真南12000餘里(短里)に女王國があると見るとよい。

181 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/09(金) 14:50:34
>>178
前原市には平原や三雲など王墓級の遺跡が多い。どうも多数の人間が居住する地域ではなく墓地(墓域)
であったようだ。3世紀の伊都国はこの前原市を墓域として領有していたのではないか。

182 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 14:53:01
>>180
三国志の時代に、宇波市近辺に東冶があったという証拠は何だい。

183 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/09(金) 15:48:45
>>182
>三国志の時代に、宇波市近辺に東冶があったという証拠は何だい。

地名は「東冶」ではない。「会稽東冶」である。

夏后少康の庶子が会稽の東部で開墾(新しく土地を冶めた)をしたので、其の地が「会稽東冶」である。

会稽東冶では倭と同じ風習を持った海洋民が住む地に相応しい多島海(倭と同じ)がある。


水を「おさめる」と「治める」。 治水・政治
水以外のものを「おさめる」と「冶める」。 冶金

184 :ローガン:2009/10/09(金) 15:52:59
>>183横、失礼。
>>182氏は
> 三国志の時代に、と訊いている。
私も、その返答を訊いてみたいですね。

185 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 15:55:52
>>177
>狗邪韓国は巨済島(狗邪韓国は倭の北岸であるから半島内にはあり得ない)である。

韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」(『魏志』韓伝)

韓は帯方の南に在り、東西は海をもって限りとなし、南は倭と接する・・・

南岸も韓なら 南も海をもって限りとなすはずですし、南は倭と接す ですから陸続きと
考えるほうがしっくりします。

到其北岸狗邪韓國
その北岸とは 倭の北限という意味だと思いますね。

186 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 15:56:44
前原は千戸とあるように(伊都じゃないかもしれないが)
それほど人口が多い土地ではない。
今の人口密集地域は202号線沿いだが
この辺りは当時湿地帯か海だ。

この部分に人がいないとすると
平原や三雲付近の集落と周辺山沿いしかなく
いまでもそれほど人口は多くない。

当時もそんなものじゃないかね

一応それなりの国はあったと考えているが
雷山に神籠石があったことを考えると
佐賀方面に向かう道を封鎖する砦という考え方も出来ないこともない。

187 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 16:02:25
>>179
>何で伊都国=前原市付近というのが通説になっているのか? それは近畿説や北九州説をとる
>場合、伊都国を玄界灘沿岸に比定しないと具合が悪いからだ。

邪馬台国比定の候補地は江戸期から百家争鳴であるし、今ここで邪馬台国所在地に深入りするつもりはないが、
伊都国について上記の如き学説史的な認識は明確な誤りであり、事実に反する。

江戸徳川期には邪馬台国の南九州説を唱える学者文人が輩出しているが
それらの中に伊都国を佐賀市(鍋島藩佐賀城城下付近)の有明海側と考えた論考は見当たらない。
南九州説であっても、やはり伊都国については旧筑前国怡土郡とするものが多かったのである。

学説史をまとめた三品氏、佐伯氏の労作がそれぞれあるので、一読され、誤認を改めていただきたい。

188 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 16:31:58
>>183
ローガンさんのいうように、三国志の時代のことを伺いたい。

>水以外のものを「おさめる」と「冶める」。 冶金

なぜ、冶が水以外のものを「おさめる」ことになるんだ。
もしかして「さんずい」は水で「にすい」は水以外なんていう理屈?
だったら「凍」や「冰」はどうなるんだ。
「にすい」も「東」も水とは関係ないが「こおる」だぞ。
「冰」は水以外にかかわるはずの「にすい」が「水」と結びついているぞ。

波は水の表面にあるから水の皮なんだと言ったら、
じゃあ滑は水の骨かと切り返されて返答に困ったという
笑い話そのままの漢字解釈だね。

189 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 17:41:15
>>185
倭の北岸なら其と書かずに倭北岸と書くだろ

190 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 18:04:01
>>189
同じ言葉を繰り返すよりは、なるべく其ですませようとするのが漢文じゃないのか。
まあ、それは良いとして、其北岸は、乍南乍東して進んだ航路の北岸の意味だろう。

  ↓|        |
  ↓|  韓半島  |
  ↓|        |
  ↓|        |
  ↓|        |
  ↓|        |
  ↓|        |
  ↓|     ○  |
  ↓|――――――    
   →→→→→→

こんな感じかな。
これでないと、拘邪韓國が船から見てどの方向にあるのか、
始度一海はどの方角に渡るのかがわからないよ。

191 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/09(金) 18:28:57
>>185
巨済島は半島陸地とは極めて近い(橋で結べるくらい)。極めて近いし、間にあるのは狭くて浅い海
(それも干潮のときには歩いて渡れるくらい)だから韓と接していると言ってもおかしくない。島だ
から北側にも海岸がある。倭地の北限であり文字通り北岸である。狗邪韓国を半島内陸続きの場所に
もってきたい意図は何なのだ。

192 :ローガン:2009/10/09(金) 18:45:14
>>191
>狗邪韓国を半島内陸続きの場所にもってきたい意図は何なのだ。

大海の北岸だから。

193 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/09(金) 18:50:58
>>192
其北岸狗邪韓国の其は大海だとでも?

194 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 19:03:29
>>192
渤海や黄海のほうが対馬海峡よりは大海の感じがあるだろう。対馬海峡を大海と呼んでいたならまだしも
大海は一般的に大きな海のことであるから「大海の北岸だから」は何処を指すか分らない無意味な意見だ
ね。ローガン氏はもうろうとしているのではないか?

195 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/09(金) 19:23:21
>>187
江戸期はもとより近年に至るまで単に地名合わせ、あるいは遺跡情報の読み違いで(前原市の遺跡を都の
所在の証拠と看做すなど)伊都国や奴国を比定してしまい、十分な検証を行わない論が横行してきた。こ
れら過去の論説に囚われることなく、より合理的な視点からの見直しが今行われつつあるのだ。伊都国を
佐賀市辺りに比定するのもその新しい方向からの見方なのだ。

196 :あかご:2009/10/09(金) 20:14:12
ぷくらっちょ、うににに。

197 :ローガン:2009/10/09(金) 21:02:19
>>194
> 渤海や黄海のほうが対馬海峡よりは大海の感じがあるだろう。

「感じ」とか言われても…

>「大海の北岸だから」は何処を指すか分らない無意味な意見だね。

書いてありますよ。帯方東南大海之中って。大海の中なら陸続きじゃないでしょう。
間にある海の北側の岸ですよ。

>ローガン氏はもうろうとしているのではないか?

そうだろうかw

198 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 21:04:15
老眼。

199 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 21:05:36
>>197
がははは。耄碌したな。

200 :ローガン:2009/10/09(金) 21:11:15
>>197読み返したら、分かりにくいのでちょっと訂正。
大海の中だから陸続きの地は倭じゃないでしょう。故に北岸とは間にある海の北側の岸ですよ。




201 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 21:12:22
>>197
其が大海を指すという説明にはなっていないね。

202 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 21:12:38
弄玩。

203 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 21:19:13
朦朧酔眼、略して朧眼。

204 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 21:22:16
3世紀に半島には倭人が住んでいただろう。だが、倭人の国があるとは東夷伝には書いてない。倭国に
属する狗邪韓国は半島南岸に接した島にあったのだ。だから、韓は南に倭と接するとあり、倭人条では
其(倭の)北岸狗邪韓国と記されているのだ。

205 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 21:26:00
>>185
>その北岸とは 倭の北限という意味だと思いますね。
かなり苦しそうだね。北限という意味で、北岸という言葉を使った事例でもみせて
もらおうか?


206 :うましか:2009/10/09(金) 21:30:04
>>201

> 其が大海を指すという説明にはなっていないね。

横から失礼。

「岸(=海と陸の境)」と言うものを持てるのは、海(内水面も含みますが)か陸(島か大陸)かでしょう。
倭人伝の冒頭部の説明で明確に岸を持てると言えるのは、「大海」しかないと思いますけどね。
「倭」を「依山島爲國邑」を根拠として島扱いにするのであれば、これも次善の候補ではありますが。


207 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 21:44:48
其のが何を指すか? 無理をしないで読んでみることだ。大海を指すなどというのは
直前の倭を飛ばして前の文章の中から恣意的に拾ってみたというだけ。文章的に到底
無理な読み方だ。
其のは倭を指す。これが当然のこと。岸というのは何の岸か? 倭の岸というならば
北岸という以上、岸の北側に海がなければならない。しかし、海はないね。
岸は朝鮮半島の岸という意味だ。となれば、倭は方角の起点を示しただけの言葉。倭
の北方の岸(朝鮮半島の岸)、それが北岸の意味だよ。


208 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 21:46:42
>>200
韓伝読んでみろ。陸続きとしか訳せんだろうが!

209 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 21:48:42
>>208
あなたが漢文の読み方を知らんだけだよ。

210 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 21:48:44
>>190
乍南乍東は航路ではなく、当時の沿岸航法を指したのだと思う。
南に行くとすぐ東に行く、つまり、海路を南に進んで、東側の陸地に上陸する
という繰り返しを表現したものと考えたい。

211 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 21:50:41
また、変なのが出てきたな。

212 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/09(金) 22:47:32
其=大海

其北岸=大海の北に岸

乍南乍東=南しながら東しながら


以上。

213 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 22:50:52
>>177
いい加減なものにしたいがための詭弁とは、おかしなもの言いです。
万二千里を裏付けるものはありません。
詭弁を弄するまでもなく、曖昧なのです。
だからこそ、倭人伝を鵜呑みにせず検証するのです。
あなた自身が提出された周髀算経、や短里説などを。
その最中に空気の読めないレスをするなど・・・

倭人伝を既定のものとして論を組み立てようとするのが
まともな話だとは思えません。

また、狗耶韓国を巨済島に比定したり、
壱岐、唐津間を60kmと若干誇張したり、
熊本説を主張したいがための詭弁を弄しているように見えますよ。
せめてもう少しまともな根拠をつけて下さい。

214 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 23:08:47
>>207
>岸は朝鮮半島の岸という意味だ。となれば、倭は方角の起点を示しただけの言葉。倭
>の北方の岸(朝鮮半島の岸)、それが北岸の意味だよ。

韓地に南岸はありません。
岸 という字には「きわ」という意味もあるので 倭の北の きわ 、
つまり 倭の北岸とは 韓との国境を意味する。


215 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 23:09:29
戸数の五万、七万とか、里数の千、とか五百というきりのいい数字は、だいたいこんなもんだろうが、あまり信用
しないでね、という意味を言外に含んでいると見るね。

216 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 23:12:54
>>210
半島西海岸沖を南下する航路は、暗礁が多く、しかも潮汐の干満の差が大きい
極めて危険なルート、だそうです。
座礁するぞ。

217 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 23:15:41
>>207
>其のは倭を指す。これが当然のこと。岸というのは何の岸か? 倭の岸というならば
>北岸という以上、岸の北側に海がなければならない。

韓地に南岸はありません。
「岸」には「きわ」という意味もあります。つまり倭の北岸は、倭の北のきわ を
意味するものです。


218 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 23:26:49
>>213
>倭人伝を既定のものとして論を組み立てようとするのがまともな話だとは思えません。
倭人伝は、実際に倭国に渡ってきた使者らの資料をもとに書かれたものだ。考古資料なんぞとは
比べようもない貴重な内容をもっているのに、あなたは最初から素直に読むつもりがないからそ
の価値を認識できないんだね。お気の毒に・・・あなたは古代史には向いてないな。

219 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 23:26:54
>>216海賊もいそうですよ。

220 :ローガン:2009/10/09(金) 23:31:13
>>208
> 韓伝読んでみろ。陸続きとしか訳せんだろうが!

読みました…「南與倭接」ですかね? 別に陸続きだとは書いてないでしょう。
海を隔てて接していると云う意味ですよ。
倭は大海之中。海を渡らないと行けない。よって「始度一海」以降が倭の領域です。


221 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 23:33:56
>>217
>韓地に南岸はありません。
何を言いたいのかな? 狗邪韓国は朝鮮半島の南岸に位置していたはずだが。

>「岸」には「きわ」という意味もあります。
其北岸の岸は水とは無関係な言葉だというのかな?

222 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 23:39:06
>>221
>狗邪韓国は朝鮮半島の南岸に位置していたはずだが。

 狗邪韓国は倭地です。

>其北岸の岸は水とは無関係な言葉だというのかな?

そうは言っておりません。「きわ」という意味もあるということです。

223 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 23:40:11
>>216
そう、だから潮が満ちるときを狙って徐々に南下していったのではないかと。
こう解釈したほうが、乍の意味が通じると思うのだが。

224 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 23:44:57
>>220
>南與倭接」ですかね? 別に陸続きだとは書いてないでしょう。

南は海があるとも書いてないでしょう。ただ倭と接すると。


225 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/09(金) 23:49:18
岸は陸地、その場合の「きわ」は水辺
倭の北の「きわ」は、倭の北の水辺の「きわ」となり、
北の水辺は大海です。

岸の説文が、そう申しています。

226 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 23:50:44
>>222
>狗邪韓国は倭地です。
倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依って国邑をなす。
狗邪韓国は大海の中でもないし、山島でもないね。しかも、倭の国ならば、
女王国以北の国として、道里戸数が書かれているはずだが、戸数の記事も
ない。名前も狗邪韓国とあり、韓の国であると明示されている。
どこからみても、倭の地というのは無理な話だと思うがね。

227 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/09(金) 23:51:29
>>224

書いてあるだろう


「大海之中」と

228 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 23:54:14
>>224
海がないとも書いてないでしょう。

229 :ローガン:2009/10/09(金) 23:55:19
>>224
> 南は海があるとも書いてないでしょう。ただ倭と接すると。

だから、海を隔てて接しているんですよ。

230 :日本@名無史さん:2009/10/09(金) 23:56:21
>>227
河童も時にはまともなことを言うんだ。

231 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/10(土) 00:01:53
>>230

以前から言い続けているが、誰ひとりとしてそう捉えなかった。
半島の南部は倭地の一点張りばかりで

232 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 00:03:43
>>222
> >其北岸の岸は水とは無関係な言葉だというのかな?
> そうは言っておりません。「きわ」という意味もあるということです。
ならば、岸と海の関係を考えてみな。北岸というとき、岸よりも海は北にある
はずだよ。岸よりも南に海があったら、普通は南岸というだろ。

233 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 00:10:31
単に朝鮮海峡を、倭の海とみて、其の北岸といってるだけだろ。ちなみに狗邪韓国に倭人はいるが、倭地
ではない。

234 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 00:13:14
こういうのを見つけたんだが
『三国史記』は「新羅本紀」より、読み下し文で悪いが、
伐休尼師今
  (第9代) 
10年(193) 6月、倭人が飢饉に見舞われ、千人余りが食料を求めにきた。

わざわざ、海を渡ってまで異国にはいかないでしょう。つまり、陸続きのところにも倭人が住んでいたということ。


235 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 00:15:12
自分なりのまとめです。

通常里は、
1里=300歩。歩は左右の足を一回ずつ前に出して進む距離。
1歩=6尺。魏・晋の尺は24.12cm(wiki)
よって1里=434.16m

>古者三百歩、里と為す(穀梁伝、宣、十五)
>周制三百歩、里と為す(孔子家語、王言解)
>凡人一擧足曰(足圭)、(足圭)三尺也、両擧足曰歩、歩六尺也(司馬法)
>数は六を以て紀となす。符、法、冠、皆六寸。而して
>輿は六尺。六尺、歩と為す。(史記、秦始皇本紀)
>足輪各徑六尺圍一丈八尺足輪一周而行地三歩以古法六尺為歩三百歩為里

236 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 00:15:55
短里(周髀算経より)
>周髀長八尺 夏至之日 一尺六寸 髀者股也 正者句也
>正南千里 句一尺五寸 正北千里 句一尺七寸・・・ (周髀算経 昔栄方問於陳子の条)

>夏至に8尺の棒の影が16寸となる地点は北緯34度46分付近
>地軸の傾きを23.452度として、
>夏至に北緯34度46分から南に影が1寸短くなる地点までの1里の長さは約76.8メートル
>北緯40°から南に影が1寸短くなる地点までの1里の長さは約73.5メートル
>北緯30°から北に影が1寸長くなる地点までの1里の長さは約78.6メートル
>「周髀算経」の1里の長さは緯度による変化があるために、南北に移動すると
>伸縮する里をメートルに換算して検証することは適当ではありません。
(以上他サイトからのパクリ)
1里=約75mとすれば、1歩=25cm。だいたい魏・晋尺と同じだし、
これを6で割ると4.17cmになって変だから、一尺一歩、一歩=25cm、で、足の裏サイズ。
これでいいかな? 空気読まずにいまさらスミマセン。

237 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 00:34:21
>>218
方法論の違いをいまさら確認されてもしょうがありません。

>お気の毒に・・・あなたは古代史には向いてないな。

あなたのおっしゃっていることはすべて、この論拠のない捨て台詞のようなものなのですか?
縄文時代の名無しさん。

238 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 00:35:47
>>226
狗邪韓国
韓という字がついているから倭の国でないなどとは言えぬだろう。現在の名前だが韓国岳など韓の字のついた
ものが日本にもあるぞ。其北岸狗邪韓国の其は倭を指すことは文章上明らかだ。倭の北岸である狗邪韓国であ
るならば狗邪韓国は倭国に属する倭人の国だ。

239 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/10(土) 00:47:27
>>184 ローガン:2009/10/09(金) 15:52:59

>>182氏は
> 三国志の時代に、と訊いている。
>私も、その返答を訊いてみたいですね。

>>183で回答済み
@地名は「東冶」ではない。「会稽東冶」である。
A夏后少康の庶子が会稽の東部で開墾(新しく土地を冶めた)をしたので、其の地が「会稽東冶」である。
B会稽東冶では倭と同じ風習を持った海洋民が住む地に相応しい多島海(倭と同じ)がある。

あの少康の子が夏代に開墾した地は越地にあり、今(3世紀末)会稽東冶と呼ばれている。

又、その越地の海岸部には倭人と同様に水没しそれに伴う風俗を持つ人々いる。

彼等が持つ風俗は、彼等が倭人と同様に多島海に住んでいることを示している。

@越地でかつA多島海でありB新開墾平野があるところが会稽東冶なのだ。

上記3条件を満たすところは、現代の宇波市周辺の海陸部しか存在しない。


蛇足
狭い範囲の会稽は現代の紹興市付近のことでは?

少康の子が開墾した土地そのものは現代の慈渓市付近か宇波市付近か?
紹興市(会稽)の東の開墾地(冶えた土地)の位置に慈渓市と宇波市がある。



240 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 00:48:28
>>218
追記
文献資料も考古学的成果も同等に視て、その妥当性を検討しながら、
歴史を組み立てていくのが楽しいのですよ。
私に向けられた追求も大変厳しいものでしたよ。

241 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 01:05:24
『三国史記』は「新羅本紀」より、読み下し文で悪いが、
奈解尼師今
  (第10代)
14年(209)7月浦上八国、謀りて加羅を侵す。加羅の王子、来りて救いを請う。・・・八国の将軍を撃ち殺し、奪うところの虜6000人、之を還す。

浦上八国という魏志にはのっていない国名が登場している。この八国を称して
狗邪韓國であったと(私見ですが)考えます。
ここに倭人とよばれるものが住んでいた。(倭人とよばれているが、民族的
には韓民族であったろう。八国のうちわかっている二国のなまえは骨浦、古史浦である。)


242 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 01:12:16
>>223
そうですか。航海方についてはよくわかりませんので、疑問だったから。
レスありがとう。

243 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/10(土) 01:40:19
>>241
基本的には合意

しかし、
>倭人とよばれているが、民族的には韓民族であったろう
3世紀には未だ韓民族は存在していない。
3世紀の韓地の言葉は朝鮮語系の言語系統ではないからである。
彼等は韓地に住む倭人と韓人である。

倭には3種類ある。
韓地に住む倭人、倭地に住む倭人、女王國から渡海東千餘里の倭種。

244 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 01:48:37
女王國から渡海東千餘里の国名は
山海経に登場するもので、信頼に値しないと思うけれど。

245 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 02:13:22
>>238
>>226が書くほかの理由についても、きちんと答えたらどうかな。

246 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/10(土) 04:29:40
加羅にしろ任那にしろ百済にしろ、そもそも記紀にさえ、日本民族が納める様子が書いてあるじゃん

韓南部ってのは倭人がいた地だよ

247 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/10(土) 05:53:02
「日本や天皇は朝鮮系」なんて言う人がいるけど、これ全くの逆だから

百済新羅などの朝鮮半島南部までが大和の勢力圏内にあったってだけだよ


248 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 06:54:56
>>247
つべこべ言ってないで、それを証明しろよ

249 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 07:44:49
>>238
狗邪韓国は魏志韓伝に出てくる弁辰狗邪国のことだということを知らないのかな。
韓国と書いているのは、弁辰の国だということを言い換えただけのものだ。正に
韓の国という意味なんだよ。
その弁辰の国の中でどこが一番倭に近いのか? 韓伝に「涜盧国は倭と界を接す」
とあるから涜盧国であることが分かる。
弁辰の中でどの国が倭に一番近いかを書いているのだから、弁辰狗邪国=狗邪韓
国が倭ならば、そのことが書かれないはずはないね。



250 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 08:45:03
>>238
魏書弁辰伝に「弁、辰韓合二十四國」とあり、そこに弁辰狗邪國が見える。
弁辰と辰韓の各国はごちゃまぜに記載されているが、
柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、のように区別して書いてある。
同様に、倭人の条に記載するので、狗邪“韓”国と区別して書いたのではないだろうか?

251 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/10(土) 09:15:06
>>249
『瀆廬國與倭接界』は「瀆廬國は倭と界を接す」ではなく、
「瀆廬國は倭と界で接す」だ。
即ち、「瀆廬國では倭人と弁辰人が混住している」の意味だ。
だから瀆廬國が倭に一番近いのだ。

弁辰狗邪國=狗邪韓國と云うことは、韓地の弁辰にある倭人の国ということだ。
倭人伝においても(倭國伝でないことに注意)、『到其北岸狗邪韓國』とある様に、
「到」は倭人の国(倭國ではない)に着いたことを示している。
原文『從郡至倭・・・・・到其北岸狗邪韓國』
「至倭國」ではなく「至倭」であることに注視せよ。

倭人の国である狗邪韓國について官名戸数風土が記載されていないのは、
狗邪韓國が倭地ではなく韓地の国であるからである。


252 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 09:33:54
>>251却下だな。
どんなに一生懸命説明しても、倭人は大海の中だ

253 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 09:41:21
>>251

「界」に混在と言う意味はないよ。

254 :うましか:2009/10/10(土) 09:42:53
>>232

> ならば、岸と海の関係を考えてみな。北岸というとき、岸よりも海は北にある
> はずだよ。岸よりも南に海があったら、普通は南岸というだろ。

違います。
「岸」と「海」だけで考えてはダメでしょう。
「陸」と「海」とその境である「岸」との関係で考えてみなくては。
陸から見て「岸より南に海があったら、普通は南岸という」かもしれませんが、
海から見て「岸より北に陸があったら、普通は北岸と言います。

例えば、アフリカ大陸の北岸は地中海ですが、地中海の南岸はアフリカ大陸と言えます。
「其」が「大海」のことであれば、韓の南岸も「其北岸」の一部にあたります。
ちなみに「大海」は対馬海峡のことじゃないですよ、倭地が存在するもっと広域の海ですから。

255 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 10:03:20
>>251
合理的な解釈だと思います。
弁辰狗邪國=狗邪韓國。狗邪韓國は倭人の国。倭人の国だけど韓の地にある。
確かに、倭人の国だから倭国に属する、というのは
近代的な国民国家の観念に基づく思い込みでしかなく、
「狗邪國」の人は倭人であったとしても、弁辰連合に連なっていた方が、
いろいろと都合が良かったに違いない、と思います。

256 :うましか:2009/10/10(土) 10:07:22
>>251

韓伝の記事は、単にトク廬国は倭と接している、と書かれているだけです。
「接」っしているのは「人」じゃなくて「国」でしょう。
そこに倭人が居ようが、漢人が居ようが関係はないのでは?
接している結果として、「混住」と言う事象が生じるかもしれませんが、
そこまで「接」と言う文字に意味を持たせる必要はないのではありませんか?

257 :うましか:2009/10/10(土) 10:24:20
>>251 >>255

>弁辰狗邪國=狗邪韓國。狗邪韓國は倭人の国。倭人の国だけど韓の地にある。
>確かに、倭人の国だから倭国に属する、というのは
>近代的な国民国家の観念に基づく思い込みでしかなく、

韓伝では風俗の説明がなされています。
弁辰と辰韓は「衣服居處與辰韓同。言語法俗相似、祠祭鬼神有異、」とされているように
一部の祭祀儀礼や辰王との関係を除き同じとされています。
しかし、「今辰韓人皆褊頭。男女近倭、亦文身。」と言う表現からは、
倭人とは「近い」だけで、言い換えれば「全く同じではない」と区分されています。
狗邪だけが倭人主体の国であれば、その旨特記されても善いように思えますが。

258 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/10(土) 10:24:30
>>253
>「界」に混在と言う意味はないよ。

其の通り。混在の意味はない。意訳したのだ。
「接界」は界を接いでいるの意味だ。「接」は「接木」の接と同じ意味だ。
即ち、倭人界と弁辰人界を接いでいるのだ。
倭人社会と弁辰社会を接ぐことは、
具体的には倭人弁辰人の2つの社会がモザイク状に混在していたことを意味する。

259 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 10:35:29
>>251
>狗邪韓國が倭地ではなく韓地の国であるからである。
倭の国のあるところが倭地、韓の国があるところが韓地だ。
韓の地に倭の国があるなんて、それ自体矛盾だよ。


260 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 10:38:59
>>258
弁辰は辰韓と雑居すとあるだろう。混在していたのならば、倭人伝はちゃんと
そう書くよ。「界」に混在の意味はない。意味がないことを付け加えて意訳と
はいえない。

261 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/10(土) 10:39:27
>>258の追加

「接界」と「接境」「接堺」の違い。

韓伝「南與倭接」は「南與倭接境」の意味で「境」が省略されているものと思う。

262 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 10:42:22
>>257
>狗邪だけが倭人主体の国であれば、その旨特記されても善いように思えますが。

確かに、特記されても善いように、思えます。
「狗邪韓國は倭人の国」は王朝さんの仮定、仮説でしょう。
それが合理的な考えの結果だと思ったのです。そうであってもおかしくはない。

私的には、倭人との混在あるいは倭人の居留地の存在の可能性はあると思ってます。

263 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/10(土) 10:48:29
>>260
>弁辰は辰韓と雑居すとあるだろう。混在していたのならば、倭人伝はちゃんと
>そう書くよ。「界」に混在の意味はない。

ちゃんと書いているから「雑居」ではなく「接界」になるのだ。
「接界=異社会のモザイク状混在」と「雑居=異人の混住」は意味が異なる。

264 :うましか:2009/10/10(土) 10:55:10
>>262
狗邪韓国の地が現在の金海だとすると、出土する土器様式などの違いから見て、
倭人そのものが主体の国であったとは、とても思えませんね。
まあ、土器は他所の韓人職人が作っていたとか言われればそれまでですが。

265 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/10(土) 10:58:50
>>257
>狗邪だけが倭人主体の国であれば、その旨特記されても善いように思えますが。

韓伝に倭人のことを書き過ぎても、倭人伝に韓地のことを書き過ぎても、
文全体としては饒舌になるので、陳寿は省略したのではないかと思います。

266 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 11:00:02
>>261が個人的にそう考えてるだけで、今まで「境」が省略されていた事例などありましたか?

267 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 11:02:41
>>263

モザイクも何も、混在などの曖昧な意味などありません。

268 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 11:02:59
>>254
岸の意味が分かってないんじゃないか。岸というのは、あくまでも陸地の一部だよ。

>海から見て「岸より北に陸があったら、普通は北岸と言います。
日本海の北岸とか太平洋の東岸などというかね? 私はそんな言い方はないと思うが。
それに、今、問題になっているのは倭の北岸だ。岸が倭国だという以上、北岸という
のは北に向いた岸だ。狗邪韓国が倭の国ならば、その北側に海がなければ北岸とは言
えん。対馬海峡は狗邪韓国の南だから、強いていうなら倭国の南岸だ。


269 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 11:03:51
>262追加
乗船南北市糴(對馬國)。亦南北市糴(一大國)。魏志倭人伝より。
そうであれば港町に居留地ができるのはごく当たり前に考えられます。

270 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 11:06:28
>>264
了解しました。
ありがとうございます。

271 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/10(土) 11:10:06
>>264
>出土する土器様式などの違いから見て、
>倭人そのものが主体の国であったとは、とても思えませんね。

什器備品は隣接地と同じでも問題はないのでは?
住居構造、風俗、言語が同じであれば異人とはいえませんが。

272 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 11:10:21
>>269
居留地ができたとか倭人がいるということと倭の国があるということはまったく
別の話だよ。

273 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/10(土) 11:12:23
>>268

岸は、海からの視点で見るから岸であって、陸地から見た視点では「岸」とは言わないんだ
だから説文にて、水ぎわにある崖と言われている。
陸の途絶える所の意味ではないんだよ

274 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 11:16:30
>>272
わかってますよ。

275 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/10(土) 11:17:07
>>268
>岸の意味が分かってないんじゃないか。岸というのは、あくまでも陸地の一部だよ。

川には右岸左岸の表現方法があります。

276 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 11:18:34
>>273
海からの視点とか陸地からの視点という意味がよくわからんな。
海(水)がなければ岸もないという意味かな?
とにかく、崖というのは陸地の一部だ。海の中の話ではない。

277 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 11:20:18
>>273
ちなみに、陸地から見た視点ではなんと言うんですか?

278 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 11:22:05
>>275
川の両側には陸地があるだろ。だから右岸、左岸があるんだよ。
岸に上がるという言い方もあるだろ。

279 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/10(土) 11:29:41
>>277

地が絶えるとか、蓋。
調べればそのほかにもあるかもね

陸地からの視点なんだから、その先の水域は関係ない。
その先の水域まで入れて表現したいときには、岸の他に
海を加え海岸
川を加え川岸
湖を加え湖岸


岸は、水域と区別するための水域視点の文字だよ

280 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 11:36:32
>>279
話がおかしいぞ。
海からの視点で見るから岸だと言ってたな。
陸地からの視点なんだから、その先の水域は関係ないというなら、
海からの視点のときはその先の陸は関係ないんだな。
ということは、河童のいう岸は海の中にあるのか?


281 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/10(土) 11:39:37
>>276

崖は陸地の一部ですが、それは陸地から見た様子であり、水ぎわの崖と言われる岸とは関係ない話しです。

282 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 11:39:41
湖岸の散歩、海岸の散歩。水の中を歩くのは大変だな。

283 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 11:40:10
>>277
蓋、ですか。
おおう、かぶせる、ふたをする。
・・・また考えてみます。
どうもありがとうございました。

284 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/10(土) 11:43:38
>>280

関係ありません。
岸はあくまでも水ぎわの崖という意味ですから
岸を歩きたいなら、表現を陸に移し、
海岸、湖岸、川岸を歩くと表現してください。

285 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 11:45:04
水際の崖も陸地の一部なんだよ。

286 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/10(土) 11:49:32
「岸」と同じような文字に「島」があります。

どちらも水域からの様子です。

287 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 11:51:06
>>282
“岸”が水の中を指す、ということではなくて、
海からの視点、というのは
海の中にいて陸地のことを「岸に着いた」とか「岸が見えた」と言う、ってことだろう。
陸地を歩いて来て海に出たら、なんて言うかな普通?
「岸に着いた」「岸が見えた」・・・うーん、どうだろ?

288 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 11:52:54
>>273
>岸は、海からの視点で見るから岸であって、陸地から見た視点では「岸」とは言わないんだ
>>284
>岸を歩きたいなら、表現を陸に移し、海岸、湖岸、川岸を歩くと表現してください。

矛盾してるぞ。
陸地からみたら岸といわないんだろ。海岸、湖岸を歩くといえないじゃないか。



289 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/10(土) 11:53:06
>>285

いいえ
それは陸地視点での話しであって、水域視点の場合はあくまで水域を邪魔し立ちはだかるものです。

290 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 11:56:25
>水域を邪魔し立ちはだかるものです。
それが陸地にほかならないね。

291 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/10(土) 11:58:35
>>288

岸は陸地から見た様子では無いから
陸地から見た場合には海や川や湖という水域を付加し海岸、川岸、湖岸なんて表すんだろ

岸とは言わない。

292 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/10(土) 12:00:17
>>290

陸地から見ればね

293 :うましか:2009/10/10(土) 12:02:45
海岸を「歩く」なら陸地じゃないと。
水域を行くなら「水行」ですね。
倭人伝でも「海岸」を水行してますよね。

294 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 12:04:26
岸 1、みぎわ ,なぎさ、がけ   などの意がおもにつかわれていますが(ほとんどこれですが)、
  2、かぎり、きわ 、極処  の意もありますよ ということ。
    彼岸とかはあの世とこの世のきわですよね。 

  3、たかい 4、きわだってすぐれている「雄岸」5、ろうごく、ひとや
  6、額をむきだしにすること  などの意がつづいてました

 

295 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/10(土) 12:12:46
>>293

いいえ、海岸を水行しているのではなく
海岸に沿って水行しているのです。
だから「循海岸水行」

296 :うましか:2009/10/10(土) 12:17:39
>>268

話題になっていたのは「その北岸」です。
倭の北岸ではありません。

水域の東端を東岸と言う言い方を知りたかったら、
太平洋東岸、琵琶湖東岸とかでぐぐって見られたらいかがか?

297 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/10(土) 12:20:22
>>296

同意

298 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 12:23:17
このスレはどうしようもない方向へ行ってしまったのです。

299 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 12:24:48
読み下し文だけど許してね
韓伝には「韓は、東西は海をもって限りとし、南は倭と接す。」と有ります。
これを皆様どうお考えになりますでしょうか。
私は、南は陸で直接陸で接している。つまり陸続きで倭と韓は接していたと考えます。

300 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 12:28:37
>>299

釣乙。

301 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 12:48:09
俺規制されたのか?

302 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 14:07:27
>>296
ぐぐってみた。いっぱいあるね。びっくりした。
ちなみに、琵琶湖北岸も普通に出て来た。
太平洋北岸になるとあまりなく、地中海南アフリカ北岸とかニューギニア島北岸とか出て来た。

303 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 14:35:03
あの辺りは地震の巣だし、マグニチュード8どころか9クラスの巨大地震が起きている。
邪馬台国はマリアナ海溝沿いにあって、一夜にして太平洋に沈んだとしても何の不思議はない。


304 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 14:40:07
邪馬台国は日向にあったが、阿蘇山の噴火で火山灰の下に埋もれた、なら解るよ
奈良・平安の農耕生産力では、九州北部>>南部 だが、もっと昔、火山灰に埋もれる前はそうじゃなかった
九州南部はシラス台地ではなく、肥沃な耕作適地が広がっていたと妄想するならね
そうか、邪馬台国はポンペイの悲劇なんだなwww

305 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 14:47:07
狗邪韓国は半島の南に近接している島(巨済島がその中心地)だったのだ。郡から半島西岸沖を南下し
(4〜5日の航行)済州島の北を抜けて東に(2〜3日の航行)向かって巨済島南岸に着く。これが最
も安全で、海流を利用した航行だ。巨済島をはじめとする島々は半島に接しており、倭人の国の北の岸
と言える。皆の者よ、これで納得せよ。

306 :ローガン:2009/10/10(土) 14:55:06
>>299
>私は、南は陸で直接陸で接している。つまり陸続きで倭と韓は接していたと考えます。

理由は? 接しているといったって別に間に海があっても問題無いでしょう?
だいいち、大海之中と限定しているんだから。

307 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 15:23:12
>>306
おおあり。海を挟んで接するとは言わない。
倭の大部分が列島なんだから、
倭がどこにあるかと問われれば、大海の中と答えて当たり前。
だからといって、半島に倭の領域が無い証左にはならない。

308 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 15:34:34
ここでいう倭とは、大伴金村が百済に割譲した上多利・下多利、牟婁、裟陀の4県。
牟婁の人は、熊野の牟婁郡にも移住していますが、もとはと言えば、山東半島の諸城県郡あたりに住んでいました。
高千穂近くの諸縣、ここも倭人の居住地だったと考えられます。
倭人は黄海沿岸に広く拠点を持っていた海族だったことがわかります。


309 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 15:40:52
>>307

海を挟んでも「接」と用いるが、「せっし」や「せっする」とは言わない。
漢語を日本語で解釈しても迷いを生じるだけ
適切な日本語を用いよう。

310 ::2009/10/10(土) 15:42:56
>>307-308
うましかさんは琵琶湖東岸だもんねw 久々に笑ろうたwww

彼等(コテハン)に「接」という字を教えてやってよw


311 :ローガン:2009/10/10(土) 15:44:16
>>307
> おおあり。海を挟んで接するとは言わない。

頑なですねえ…。
三国志じゃないけど「又南行至師子石自是島嶼連接…」隋書南蛮伝
島は陸続きじゃないでしょう。

312 ::2009/10/10(土) 15:44:53
>>299
>陸続きで倭と韓は接していたと考えます。

同意

313 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 15:46:17
>>307

「接」を(接する)と和訳するならば、接の後に目的語が欲しいよな。
でも目的語は存在しない。だったら動詞としての「接する」は………。

314 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 15:50:32
倭人が一か所にしか住んでいなかったというのが間違いなのです。
倭人の拠点は、山東半島、朝鮮半島、大隅半島、紀伊半島の4か所はあったはず。
半島が好きなんですね。(笑う)

 わかりますか?

315 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 15:50:43
>>310
お前が勝手にやれよ。

コテ煽るなボケ。チャンネル違反だぞ

316 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 15:54:26
コテさん 助けて〜〜〜〜〜〜〜〜



317 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 16:01:19
>>314さらに言えば、倭は海族ですから、広い地域に拠点を持っていたと考えられます。
すなわち、倭は朝鮮半島であり、九州であり、畿内でもあり、台湾であり、フィリピンでもあったのです。

これで邪馬台国に関するすべての謎が解けた!

318 :ローガン:2009/10/10(土) 16:06:01
>>239見逃してました。
>>183で回答済み

って、それ回答じゃないでしょ?

> @地名は「東冶」ではない。「会稽東冶」である。

会稽に東冶県があったの前漢ですよ。前漢代では会稽郡は広がっており、福州の東冶も会稽郡です。
三国代には、会稽東冶なんて無いんですよ。まあ、例えて言えば島根県の事を出雲と云うようなものです。

319 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 16:06:37
遠くブラジルに渡ってアマゾンの奥地に住んでいたと、今NHKでやってます。
矢野真美族・・・名前まで倭風ですね。刺青もしているし。

320 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 16:35:12
>>311
>島は陸続きじゃないでしょう。

島嶼と書いてあるでしょう。コジェ島と半島なら「接」と書いても良いけど、
對馬と半島は「接」とは書けないよ。

321 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 16:55:50
>>319
縄文的な生活には、あれほど自然の恵みが濃い森が必要なんだと思いましたね
一人が食べていくには何ヘクタールの森が必要なんだろう?

322 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 17:11:09
無理矢理始まったよ。農業生産と人口の関係談義が

323 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 17:17:43
>>305
>狗邪韓国は半島の南に近接している島(巨済島がその中心地)だったのだ。

韓在帶方之南,東西以海爲限,南與倭接,(中略)其涜盧國與倭接界。(魏志韓伝)
対馬から直線距離で最も近いのは巨済島。よって巨済島=涜盧國。

324 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 17:21:51
>>239
>A夏后少康の庶子が会稽の東部で開墾(新しく土地を冶めた)をしたので、其の地が「会稽東冶」である。

夏后少康の子が封じられたのは会稽であって、会稽東冶とは書かれていない。
夏后少康の子が会稽 〔東冶〕 に封じられたという文献はどこにあるの。

史記 東越列傳
漢五年,復立無諸為?越王,王ビン中故地,都東冶.

秦の時代、ビン中は会稽郡とは別。そのビン中の故地で王となり、東冶に都した。
わかるでしょう。

325 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 17:45:15
>>324

「會稽東冶」とは、會稽の東を練り上げる(つくりあげる)。
會稽の東側を開墾したと言ういみです。

326 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 18:04:14
>>314
倭人の起源(のひとつ)が戦国時代の越だという説がありますね。
越は山東半島に遷都し、滅亡後の亡命者が半島に渡り、さらに列島に移住した、と。

327 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/10(土) 18:07:27
岸とは(海や川や湖の)水と陸地が接しているところを言う。水が北にあり陸地が南にある場合、水の側
から岸を見れば南岸、陸地から見れば北岸である。琵琶湖の西岸という言い方は水の側から見た表現、淡
路島の西岸という言い方は淡路島の陸地から見た表現である。其北岸狗邪韓国 は倭(の陸地から見た)
北岸の狗邪韓国ということである。この文から狗邪韓国は半島陸地上にはなく半島南岸に接する(近接の)
島にあることになる。接するというのは「くっついている」又は「手の届くほど近くにある」ことを示す
言葉で、半島と対馬の距離関係では離れ過ぎていて不適切である。渡一海は近接には当たらない。
また、狗邪韓国も島であるから帯方東南の大海中にあると表現された倭の国々に含まれる。何の問題もない。

328 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 18:09:35
>>320
何でかな? 半島とコジェ島も海が間にあるよ。

329 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 18:17:09
>>327
狗邪韓国を倭国の中に入れて解決しようというのは間違いだよ。
狗邪韓国は半島の岸にある国なんだ。島ではない。

330 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/10(土) 18:26:00
>>328
半島と巨済島の間には海があるが、半島と巨済島の間には極めて近接した場所がある。現在は数本の橋
が架けられてつながっているところだ。現在は吃水の深い船舶の航行が可能なように浚渫されていると
思われるが、昔は干潮時には(陸地とはならなかったかも知れないが)歩いて渡れたかも知れない。少
なくとも泳いで渡れるくらいに近いのだ。接していると表現してもおかしくないだろう。

331 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 18:29:15
>>327
其北岸狗邪韓国の「其」が、倭の陸地、を指すということが確定ではない。
循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、
している者、もしくはその位置を指している、と受け取ってもおかしくない。


332 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/10(土) 18:29:44
>>329
倭人伝に書かれているところ(其北岸狗邪韓国)によれば倭国の一員だ。


333 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/10(土) 18:35:02
>>324
>夏后少康の子が封じられたのは会稽であって、会稽東冶とは書かれていない。

夏后少康の子が封じられたのは越地(会稽)。
夏后少康の子が開墾したのは、会稽の東の土地。

夏后少康の子が封じられたのが紹興ならば、
夏后少康の子が開墾したのは宇波。
会稽東冶は会稽の東にある。

倭人伝の会稽東冶は、倭と同様の海辺であるから、
会稽東冶は宇波周辺及び東シナ海沿岸の多島海地域となる。

会稽東冶の意味は>>325が書いているとおり。

334 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 18:37:46
>>333
んなわけねえだろうが、このどアホウ。

335 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/10(土) 18:43:03
>>326

>問題ない

問題山積みです。

倭地の北の岸なら 倭の北部の海岸ですよ、北岸ではありません。
岸は 何度も言ってるように
説文で解説されているように、水ぎわの崖の意味
陸地が途絶える地ではありません。 倭地からの表現ならなおさら陸地が途絶えるで「岸」ではありません。




336 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/10(土) 18:47:26
>>331
從郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千餘里
帯方郡から倭に至るまでの経路と距離を記述している文の始まりのところである。狗邪韓国が
倭地でなく韓の地であれば距離を書く必要はない。韓伝ではないからだ。初めて倭の地(国)
に到ったからここまで七千餘里と距離を記載したのだ。狗邪韓国を倭の国とすれば其北岸とあ
る以上狗邪韓国は半島陸地ではなく島ということになる。

337 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/10(土) 18:55:34
>>318
倭人伝で会稽東冶と書かれている時代は3世紀末です。
前漢のことを言っているなら会稽郡の東冶県と読めますが、
少康が封ぜられた夏時代のことか、倭人伝の書かれた3世紀末のことを言っているのですから、
前漢時代の様な会稽郡東冶県はありません。
「会稽東冶」は会稽の東の開墾地と読むしかありません。


338 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 18:57:05
>>336
>狗邪韓国が 倭地でなく韓の地であれば距離を書く必要はない。

おっしゃるとおり
>帯方郡から倭に至るまでの経路と距離を記述している文
なのです。七千餘里という距離は
從郡至倭、までの行程を説明する以上、当然書く必要があるでしょう。

339 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 19:09:33
>>338
じゃあ、仮に狗邪韓国が倭ではないとすれば、対馬までどう説明するんだ?
半島側の経由地はどう記せば良い?

俺は経由地である狗邪韓国が倭ではない事を念押しするために
特に韓国と付けたという説に賛成だな。

340 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 19:12:32
>>337
恥ずかしくねえのかこのタコ野郎。九州王朝など、ホースシットだ。

341 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/10(土) 19:23:36
>>337
夏時代の事だから、會稽東冶です。

荒れ地だった會稽の東を開墾したから「會稽東冶」
その後、開墾された地に人が営むようになれば「會稽東治(東を治)」

342 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 19:30:31
>>339
すいませんが、言ってることがよくわかりません。
狗邪韓国は倭ではない、と言ってるつもりですし、
後半で言われていることについては、>>250のように考えています。

対馬までの説明、とは? 半島側の経由地はどうするか、とは?
詳しく聞いてもらえれば、考えて答えますよ。


343 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 19:30:57
>>337
「にすい」は篆書では「冰」の本字。音は「ヒョウ」で訓は「こおり」。
水以外どころか水そのもの。
氷を溶かすように金属を溶かすから冶金なんじゃないの。
氷は水じゃないと言い張るんなら、それでも良いけど。
冶に開墾地なんて意味ないから、会稽の東の開墾地なんて読みようがない。

344 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 19:32:35
なんだ、九州王朝は河童にたぶらかされてんのか。
なら、東冶なんかで議論する必要ないな。

345 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 19:43:00
>>342
ああ、「おっしゃるとおり」を縄文人の意見に全面的に
賛同したと勘違いしてたんだな。
こりゃ失礼。

346 :日本@名無史さん :2009/10/10(土) 20:24:53
狗邪韓国の狗邪は呉音で「クジャ」、
巨済島は「コジェ」
クジャを後に、巨済の漢字に当てたと。
クジャはコジェにもともと良く似た音だったのだろう。
大海の山島に拠る、其の北岸、其の西北界などの表現から
巨済島は倭の国に含まれるが、倭国連合(女王国に属する国々)には入らないかもしれない。
官の名前と戸数、地勢などが書かれてないので。
狗奴国も倭種ではあるが女王国には属さないとあるように(後漢書)、
倭の国だが、倭国連合には属していないということ。

347 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 20:33:02
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif

348 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 20:42:56
>>345
こちらこそ失礼しました。同意見の人に反論受けるのは、書き方が悪いんですね。

あんたの言うように
>帯方郡から倭に至るまでの経路と距離を記述している文
なんだから。なら七千餘里という距離は
從郡至倭、までの行程を説明すんのに、書くのってアッタリマエだろ。

ということです。


349 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/10(土) 21:14:33
>>348
郡から狗邪韓国に到るまで海路ではあるが補給等で寄港した国はあるだろう。それらは国名も距離も書かれて
いない。何故か? 七千餘里の舟旅で一度も補給なり休息なりがなかったとでも言うのか。倭の国でないから
省略されたのだ。半島の韓に接した倭の狗邪韓国に到ったからそれまでの距離が七千餘里だと記述したのだ。

350 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/10(土) 21:29:44
>>349
狗邪韓国(カヤカンコク)が倭国で任那と呼ばれた時代ですか?


351 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 21:40:59
>>348
そこまで言うと、それこそへ理屈、詭弁ですよ。
あなたは以前、倭国内での行程で、邪馬台国まで水行10日陸行1月を
あちこち寄り道して行進した、と主張されたではないですか。
それが記載されてないのはなぜ?
魏志倭人伝を金科玉条のように言いながら、恣意的な都合のいいとこ取りですね。
狗邪韓国から先は界を越えて倭国に入るんです。
区切りとした、また始点だから記載したのでしょう。

352 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 21:42:17
>>349
狗邪韓国入れたら31国になるじゃん

353 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 21:42:52
アンカーミス
>351は>>349へのレス

354 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/10(土) 21:47:27
>>343
冶金は金属をきたえるです。
冶金の冶に溶かすの意味はありません。
冶金工程において金属を水の様に溶かすことはほんの一部で、殆どの工程において塊の状態です。

東冶(土地)は、東方(の土地)を、きたえる、なおす、おさめるです。
即ち土地を改良開墾する意となります。

355 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 21:54:44
そういえば狗邪韓国の狗は金属(金銅鉄・・・)の意味
弁韓の南にあった金官伽耶と重なると思います

356 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/10(土) 21:55:04
>>351 <あなたは以前、倭国内での行程で、邪馬台国まで水行10日陸行1月を あちこち寄り道して行進した、
と主張されたではないですか。 それが記載されてないのはなぜ?>
投馬国への水行20日、邪馬台国への水行10日陸行1月のことかな。国名が書いてあるし、戸数も書いてある。行程中
寄った豪族の館は極めて多数であるから(いちいち書いていたら煩雑だ)代表として官の名を挙げている。


357 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 22:03:49
狗邪韓国にゃ戸数も官名も風土の記述も無い。
倭国伝ではなく、倭人伝なのに。

358 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/10(土) 22:07:55
>>352
狗邪韓国から女王の境界が尽きる所までに記された国名は合わせて30国。
韓伝に狗邪韓国はあるの?

359 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 22:10:00
>>354
大漢和「冶」
1、とかす。 とける。金属をとかす。
  〔説文〕冶、銷(とける)也、从ヒョウ(人が縦に二つ重なる字)台聲。
  〔説文解字注箋〕(訓読しときます。)
   戴氏?曰く、冶は冰の釋くるなり、之を引伸して則ち金を鎔かすを冶と曰う。
  〔一切経音義〕冶、消鑠なり。熱に遭いては即ち流れ、冷に遇いては即ち合す。
   冰と意を同じうす。故に字は冰に从う。

360 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 22:14:35
>>356
>(いちいち書いていたら煩雑だ)
陳寿の記述は極めて簡素です。必要ないことは書かないのですよ。
狗邪韓国を記載したのはその理由があったからです。
しかし、戸数も官も国情もない。倭国ではないからでしょう。

361 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/10(土) 22:17:53
>>357 <狗邪韓国にゃ戸数も官名も風土の記述も無い。>
末盧国の官の名もないね。特に取り立てて書くことがなかったのではないかな。


362 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 22:23:35
>>361
それは不思議なのです。以前から疑問なのですが。
里数、戸数、国情などはありますので、素直に受け取れば、いなかったのですかね?

363 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 22:26:46
>>361
朝鮮にある倭の拠点で、半島側から倭に渡るのに至便の地が
特筆すべきものが無いなんてあり得ると?

倭では無いから書く必要が無かったと考えるのが普通。

364 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 23:05:56
>>362
いなかったはずはない。国である以上当然いるんだ。
書かなかったのは、末盧国の王や官に会っていないか、会ってもろくに話を
聞かなかったということだろう。おそらく、上陸した唐津は末盧国の首都で
はなかった、そして、伊都国からの迎えがきていたので、末盧国の幹部より
も伊都国の連中との接触が多かったということだろう。



365 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/10(土) 23:11:26
>>354

「冶」文字には 

通“野”。田野,郊原(郊外の野原)  

という意味も用意されてます
ちなみにここでいう「野」とは 英語でいうwild=荒野

夏后少康の庶子「無餘」の事象を考えれば、全然荒れ地を開墾でOKです。

366 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 23:14:06
>>358
狗邪韓国を入れたら狗奴国までで31国になる。
狗邪韓国は韓伝にいう弁辰狗邪国と同じだ。

367 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 23:24:43
「歌語り風土記」にはこう書かれている。
『景行天皇の御代に、豊城入彦(とよきいりひこ)命の曽孫の御諸別(みもろわけ)王が、東山道の十五か国を拝領したとき、陸奥で蝦夷の騒動があった。
王は即座にこれを平定し、以来東国に浪風は無い。
当時の武蔵国入間郡は、国民も少く田畑も荒廃し、これを歎いた御諸別王は、天皇に奏上して、大和、山城、河内、伊賀、伊勢の五国の多里人・八百九十七人を武蔵国入間郡に移住させ、多里郡(たり=大里郡)を置いた。
御諸別王は、郡の鎮守として新宮を造って天照大御神をまつり、その末子を神官とした。
御神体は、天照大御神が高天原で機を織るのに使ってゐた御筬(みもろき)を、天穂日命が賜り、子の建比奈鳥命へ伝へ、これを東国守護の形見として、豊城入彦命、彦挟島(ひこさしま)王、御諸別王と受け継ぎ、ここにまつられたものである。
(大里郡神社誌)

この大里郡は、多利(たり)郡と読まれていました。御諸別とは、牟婁(むろ)の王、武蔵は、牟刺と書かれていたらしい。
つまり、「継体紀」六年条にあるように、継体六年に、任那国の上多利・下多利・娑陀・牟婁の四県の民は、関東に入植したのです。

368 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 23:25:12
>>364
レスありがと。会わなかったから書かなかった。そういうふうに考えられるし、
実際、そんなもんだろ、と思ってたんだが。
最近ちょっとマジになりはじめたら、やっぱそれじゃ落ち着かないんだよね。
日記じゃなくて、報告書なんだと思うよ。勤めてる役所に出す。
陳寿が調べて書いたとしたら、その資料はもともと。だから、会えなくてってのはちょっと。
でも、いたはずなんだとやはり思う。

369 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 23:31:46
>狗邪韓国は韓伝にいう弁辰狗邪国と同じだ。

おそらく同じで、本来は狗邪国なんでしょう。韓伝の中では地域を明らかにすべく弁辰をつけた。また、
倭人伝では倭地と区別すべく、韓の字を加えた。おそらく現在の金海市付近。で、巨済島は勒島なども
含めて弁辰トク盧国なんでしょうね。

370 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 23:33:38
韓はハンで、単に国とか王朝という意味ですよ
フビライハンのハンは王だし

371 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 23:41:48
>>365
野が冶に通じて用いられる場合、その意味は「なまめかしい」の意味で、荒野の意味にはならないよ。

それに、冶は治めるの意味じゃなかったのかい。
wildなら治めてない。治めてるんだったらwildじゃない。
アナグラムどころか、一字を同時に二つ別の意味で読んでるよ。

372 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/11(日) 00:05:22
>>371

>野が冶に通じて用いられる場合、その意味は「なまめかしい」の意味で

いいえ「なまめかしい]ではなく 名詞としての「野」=(荒野)が通じているのです。

>それに、冶は治めるの意味じゃなかったのかい。

いいえ
「治]は夏の時代を1000年以上下った後漢の時代に、千年前には「冶」だった地が栄え「治]に変化したことを
范曄が夏后少康の子を用いず 會稽東治之東と表現したの
つまり、「冶」から「治」への時間の経過

だから貴方の「wildなら治めてない]なんてとんでもない見当違い

>アナグラムどころか、一字を同時に二つ別の意味で読んでるよ。

貴方の間違った受け止め方からこんな表現が飛び出すわけね


373 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/11(日) 00:13:52
一見語写に思えてしまう「冶」と「治」の関係も
誤写なんてとんでもない話でして

編纂者の技量をもってしてのテクニック。陳寿は夏后少康の子を持ち出し
會稽の東側の荒れ地を無余による「冶」と説明し
范曄は會稽の東側が後漢時代には、無余の功績により「治」へと変化したことを
表現しましたとさ

374 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 00:16:42
「冶」と「治」、逆じゃないのか?

375 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/11(日) 00:30:30
>>374

>「冶」と「治」、逆じゃないのか?

私が間違っていたのか? 逆だったら>>372-373は取り消すわ


でも、>>365は辞書からの引用なので取り消しはしないよ



先ずは>>374 には礼を言います。  教えてくれてありがとう。
でも、

376 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 00:39:51
>>372
>貴方の間違った受け止め方からこんな表現が飛び出すわけね

君の説を理解していなかったのなら、そりゃ失礼。
しかし、君の説を正しく理解した結果、君の説はやはり間違ってる。
なぜ冶と野が通じているか。
易繋辞伝の「冶容誨淫」(なまめかしい容子は、淫乱をそそのかす)という文が、
「野容誨淫」となっているテキストがある。
だから、冶と野は同一の意味で使用されることがあると言える。
そして、この繋辞伝の文は、「なまめかしい」の意味でしようされており、
「荒野」では意味が通らない。

さらに、>>359で示したのように、説文は冶を「とける」と解している。
氷が溶けることと、金属が溶けること。
熱すれば溶け、冷やせば固まる。物質の三態としては同じ。
冶の文字は、そういう理解がある。
開墾とは無関係。

377 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 00:48:28
河童虫も、相変わらず暗号解読、ごくろうさん。
しかし、言語虫って、ある種の天才じゃなかろうか。
単なる誤写の東冶と東治に、荒地から開墾なんていうストーリーを作ってしまうなんて、
ちょっと凡人にはできんなあ。
真面目に学説として出してくると吹き出してしまうが、エンタメ小説としては売れるんじゃなかろうか。
信長の棺なんていう歴史物エンタメが売れたらしいし、
邪馬台国なんかやらずに、小説家になってればよかったんじゃないか。


378 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/11(日) 00:53:18
>>377

>しかし、言語虫って、ある種の天才じゃなかろうか。
単なる誤写の東冶と東治に、荒地から開墾なんていうストーリーを作ってしまうなんて、
ちょっと凡人にはできんなあ。

それは名誉毀損だぞ
あれは私のオリジナルストーリー  最近の奴はほとんどがオリジナルだから虫さんとは関係ない

379 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 00:54:41
>真面目に学説として出してくると吹き出してしまうが、エンタメ小説としては売れるんじゃなかろうか。
>信長の棺なんていう歴史物エンタメが売れたらしいし、
>邪馬台国なんかやらずに、小説家になってればよかったんじゃないか。

同意、面白いのはたしかだー

380 :ローガン:2009/10/11(日) 00:56:45
>>362
> それは不思議なのです。以前から疑問なのですが。

使者が訪れてないからでしょう。地誌としての記述であって、経由したんじゃあ無いと思います。
使者は壱岐から伊都(糸島)へ行ったのでしょう。

381 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 00:59:55
帯方郡から倭の地に至るには、韓国を経て狗邪韓国に至るという。
そして海を渡って対馬国につく。冷静に考えてみればすぐにわかるように、
狗邪韓国は半島南部に位置しているはずである。なぜ、狗邪韓国は、北岸になっているのだろうか。
考える必要もないだろう。狗邪韓国から倭の地だからである。
これは「使訳通ずる所三十国」と一致する。

もともと魏志倭人伝は倭人や倭国について扱ったものであり、韓国について記述されたものではない。

382 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/11(日) 01:02:18
>>377

では、貴方の意見を尊重すれば、漢漢辞典に書かれている


 通“野”。田野[,(2) 通“野”。田野[open country]郊原 [the open;suburb]

 通“野” [wild]。

は 誤解釈となりますね?


ちなみに(なまめかしい)などに表現される「艳丽]= 鮮やかで美しい[gorgeous]
は 野には通じていないよ







383 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/11(日) 01:05:57
>>378

>荒地から開墾なんていうストーリーを作ってしまうなんて

無余のストーリーを知っていれば、誰でも考える単純なことに
そんなに価値があるのか?桃太郎がきび団子持参しているようなお決まりの話だけど

384 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 01:12:32
>>381
>狗邪韓国は半島南部に位置しているはずである。なぜ、狗邪韓国は、北岸になっているのだろうか。
>考える必要もないだろう。狗邪韓国から倭の地だからである。
狗邪韓国が倭の地だったら「其北岸」と書くかな? 狗邪韓国が倭国だとしてもおかしな表現だという
ことになるだろう。倭人が治める狗邪韓国とでも書けば誰も迷わない。


385 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 01:16:43
倭国なら狗邪倭国にするよな

386 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 01:18:34
狗邪韓国が「其北岸」なら、南岸は倭国という事だろ
北の対岸という意味だろ、何がこんがらがってんの?



387 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 01:19:39
>385
韓人の住む土地だから韓国ですよ
支配階層が倭人だったというだけで

388 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 01:32:13
>>387
想像はいいから、根拠を頼む。
彼の地に当時の倭人系の王墓が出てきたら信じる。

389 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 01:36:45
夜中は総じて夢追い人の天国だ。自由に語らしてやれよ。

390 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 01:53:51
狗邪韓国が韓国なら魏志韓伝に書くわな

391 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 02:43:39
韓国を経て狗邪韓国とあるから、韓国でもないんじゃないの?
倭国の属領だから韓人の王国ではないし韓伝に書かない

392 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 03:31:16
経るじゃなくて、歴るだからなあ。

393 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 06:01:18
狗邪韓国を倭人伝に書く理由は何かな?
倭人というのは列島に住んでる民族だとはっきり区別されてたのに

394 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 07:11:25
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091002-00000266-mailo-l29

水田跡:御所・玉手地区で県内最古級 弥生前期、人の足跡も−−市教委調査 /奈良
10月2日16時2分配信 毎日新聞

御所市教委は1日、京奈和自動車道建設に伴う同市玉手地区の発掘調査で、県内最古級の弥生時代前期(約2500年前)の水田跡が見つかったと発表した。
農作業をした弥生人の足跡も確認。同市教委は「稲作が奈良盆地に伝わって間もない時期の、水田の実態を知る貴重な資料になる」としている。
JR玉手駅北側の約6800平方メートルを4月から調査。
縄文時代晩期(約2800年前)〜古墳時代前期(約1700年前)の遺構が7層にわたって確認された。
弥生時代前期の水田跡は、高さ最大15センチのあぜで、縦3・5〜5・5メートル、横1・5メートル程度に細長く区画されていた。
緩い斜面になっており、棚田のように斜面に作られたとみられる。
水田内を巡る用水路や川から水を引く際の堰(せき)のほか、水田に深く足を沈めてできた弥生人の足跡も無数に見つかった。
北約2キロの萩之本遺跡(橿原市川西町)でも同時期の水田跡が見つかっており、同市教委は「一帯が大規模な稲作地帯だった可能性がある」としている。
このほか、縄文時代晩期の土器の棺おけ「土器棺墓」1基、古墳時代前期の建物跡2棟も見つかった。
現地説明会は4日午後1時から。駐車場はなく、玉手駅から徒歩3分。
小雨決行。【高島博之】

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おいおい奈良盆地は4世紀になるまで無人の野じゃなかったのかよwwwwwwwwwwww




395 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 07:26:36
>>387
支配階級が韓人だから韓国なんだよ。住民の中には倭人だって少しはいたかも
知れない。

396 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 07:41:20
>>394
やはり葛城山麓一体は高天原の可能性が高いという事だな。

397 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 07:43:48
>>390
狗邪韓国は、魏志韓伝には弁辰狗邪国として書いてあるよ。
そして、弁辰の人の形はみな大〜長髪などと倭人には書かれていない
特徴が書かれている。

>>391
>韓国を経て狗邪韓国とあるから、
「歴るに」と読むんだよ。歴てしまったと読んだら、「乍南乍東」まで韓国
ではないことになってしまう。そして、狗邪韓国が韓国の最後だから、「到」
の字で締められているんだ。

398 :ローガン:2009/10/11(日) 08:33:30
>>199
>>340
ん?ひょっとして伊作さんかい?

399 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 08:39:15
狗邪韓国を倭人伝に書く理由は何かな?
倭人というのは列島に住んでる民族だとはっきり区別されてたのに

400 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 08:45:38
>>399
帯方郡も書いてあるよ。倭国への行程を書く上で適当と判断したから書いた
だけだろう。狗邪韓国の大きさとか戸数までは書いてないよな。

401 :日本@名無史さん :2009/10/11(日) 09:20:31
南韓に倭人がいたのは史書にも書いてあることで確か。
南韓の島は倭人の国があったので、馬韓、弁韓の南は倭と接すると書いた。
倭人は江南から戦乱を逃れて渡ってきた人々。
だから、狗邪韓国は南韓の数多くある倭の島のうちの一つ。
後漢書には其西北界とあるから、巨済島が一致。
倭の国々は他にも狗奴国、朱儒国(人種が違う)も黒歯国も裸国も含まれる。
黒歯国も裸国は九州の南の海の島。
倭の地には数沢山の国があるが、漢に訳使を通わせるのは三十許国あると言う意味。
三十許国(後漢書より)は許はそれ位という意味で少し足りない意味だから、
女王国に属するの29カ国のことだ。だから、倭人伝には漢に通じている
女王国とその属国の29ヶ国の様子が書かれている
傍国も女王国に属する国々だが、遠絶であるので、詳しくは調べられないと、
名前だけ列記している。



402 :日本@名無史さん :2009/10/11(日) 09:32:55
だから、日本列島には倭人たちが先住民の地域の中に入り開墾していっただろう。
史書に書かれた倭はあくまで九州の倭の国であり、近畿地方にも倭の国は
あったと思うけど、史書に書かれた倭の国々とは別物だと
いうことを早く気づいてほしい。

403 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 10:28:14
>>380
確かに、直行すればいいようなものですからね。また、末廬から船ではなく、
「倭国の北岸」を陸行するのも不思議でした。
ただ、そう考えることは、結構目からウロコでしたね。
やっぱり倭人伝の記述にとらわれていたってことかな。
また新しい視点で読んでみようと思います。ありがとうございました。

しかし、同じスレの中で、昼と夜中では別世界だな。同じ話題がループしている。
しかもまるで参照なしに。
>夜中は総じて夢追い人の天国だ。
って、修辞的な美しい表現だな。

404 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 10:39:06
全日制と夜間部が同じ教室で学んでいるのです。
お互い会ったこともないし興味もない。

405 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 10:41:51
学んでる? 修辞的な美しい表現だな。




406 :日本@名無史さん :2009/10/11(日) 10:44:03
倭人伝にははっきり書いてある、末廬から東南に陸行500里と。
「陸行きだ。」東南の方角に。
それを方角も無視、末廬も音の一致だけで松浦としてしまったことに
誤りがある。
倭人伝の記述には忠実であるべき。
末廬国は博多湾の西、糸島の南東。

407 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 11:14:25
>>406
末盧国を博多湾までもっていくのは倭人伝の記述に忠実とは言えないな。
一支国からの方角がないというのかも知れないが、それは南、南ときたのと同じ
だからだ。博多湾へ向かうならば、その方角を書かないはずはない。
末盧国は唐津、そうみるのが素直な見方だ。
そして、末廬から東南に陸行500里、陸行だ。そうすれば、佐賀市付近となる。
何で上陸したかも理解できるだろう。有明海へ移動するためには、五百里を陸行す
るのがもっとも安全、しかも簡単にすむからだ。

408 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 11:22:35
末廬国とは舞鶴のことだから、
そこから東南に陸行500里となると、静岡方面ではないだろうか?
と思って調べてみたら驚くべき事実が判明しました。
登呂遺跡のあたりの地名は大里(タリ)というのです。
多利思北孤、つまり、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國」で記述される倭国王の治めた土地なのです。

409 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 11:28:52
一支国は、壱岐ではなく隠岐のことだとすれば、すべてが解決するのに・・・

410 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 11:31:10
一支国=壱岐で、全て解決しますからご心配なく・・・

411 :ローガン:2009/10/11(日) 11:38:13
>>354
> 東冶(土地)は、東方(の土地)を、きたえる、なおす、おさめるです。
> 即ち土地を改良開墾する意となります。

だから、会稽の東の開墾地が東冶だって?
あのねえ、孫策に追われた会稽太守王朗は海路、東冶に逃れてるんですよ。どうやって会稽からすぐ東の開墾地に海路で逃れるの?
言っときますけど小島に渡ったとは書いてないからね。

412 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 11:39:52
一支国は隠岐、末廬国とは舞鶴・・こっちのほうが断然現実的だと思うが・・

413 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 11:53:24
何で舞鶴? 舞鶴って地名は明治以降だということは分かってんだろうな。

414 :日本@名無史さん :2009/10/11(日) 12:02:36
>>407
方角は書いてないし、博多湾西へは東南だから特に記さなかった。
其処から東南に500里で太宰府の辺りになる。
佐賀だと50キロ近く歩かなくてはならないし、
壱岐から唐津湾だと、千里に少し足らない。
佐賀市では一大率を置く場所として不便なところ。
九州北岸に面していないから。 

415 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 12:14:39
秦氏と並び大和朝廷で活躍した田辺氏の本拠地が舞鶴。
卑弥呼の時代から百済と舞鶴を結ぶ航路があったことは間違いありません。
大阪の地名を見ても田辺と百済は深い関係があることが分かると思います。

416 :うましか:2009/10/11(日) 12:17:25
>>406-407

倭人伝では末盧について、「四千餘戸」と言う戸数を有すとしながらも、
伊都等の場合と異なり、官名の記述を欠きます。
これは単なる脱落によるものなのかもしれませんが、
私は「末盧には工房や市場機能などを制し、『官』と記されるような政治勢力が存在しなかった、と考えてみました。

「候補」される唐津近辺には宇木汲田、桜馬場等王墓級と言われる遺跡が在りますが、
倭人伝の末盧は、四千餘戸が「濱山海居」する「草木茂盛」な土地です。
ここからは海浜に点在する漁村だけで構成されているような「国」のように思えます。
そのような国情ながら「四千餘戸」と言う戸数を有するのですから、その領域はかなり広大なものであったはずです。
私には、その姿は「濱大海而居」とされる「沃沮」と重なるところであります。
そして、その沃沮も東夷伝では「無大君王、世世邑落、各有長帥。」とされているのです。


417 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 12:21:30
確かに朝鮮半島と九州博多は近いのですが、対馬海峡は潮流が速いので危険なのです。


418 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 12:27:10
>>416となると、松浦半島ではないということでしょうね。

419 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 12:35:38
あの辺りは、伊万里や唐津くらいしか平地はありません。とても4000人は無理です。

420 :日本@名無史さん :2009/10/11(日) 12:42:00
>>417
博多湾は昔から、半島と九州の通路として重要な港でしたよ。
太宰府、春日辺りの水城跡が物語っている。


421 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 12:51:35
>>420
しかし、それは任那や済州島との航路であって、
帯方郡の使者は外洋航海のできる大型船で
北朝鮮の港湾都市興南あたりから舞鶴へ直接渡って来たのです。
朝鮮半島を陸路で釜山まで来たわけではないと思われます。

422 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 13:12:41
もしかしたら、帯方郡とは楽浪郡の東、日本海側にあったのではないでしょうか?
大阪河内の金剛山との関係を考えれば、帯方郡が金剛山を望むこの地に置かれていたとするほうが都合がいいのです。

423 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 13:17:06
実は、帯方郡の位置に定説がないことを九州説の人はごまかしていませんか?
出発地が違えば、到着地も違う。
日本海側から日本海ルートを使って舞鶴についた。
これだ!

424 :日本@名無史さん :2009/10/11(日) 13:18:00
>>421
朝鮮半島を陸路でなどとは一言も言っていません。
史書には郡から海岸にそって水行すると書いてあります。
ですから郡から船で出発したということです。
それに釜山ではなく巨済と思っています。
なぜ舞鶴なのかさっぱりわかりません。
距離は千里です。
郡から南韓の倭の北岸まで7千里。
郡がソウル辺りだとすると半島沿岸に沿って
南韓の北岸(巨済あたり)に7千里だからその航路を7で分けた位の
距離が千キロになるわけです。
壱岐から舞鶴までは相当の距離があり、突然壱岐から千里が非常に長くなるのは
考えられません。
どうしても邪馬台国を畿内に持っていきたいという気持ちなのかな。



425 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 13:21:45
半島の西海岸は海賊が出るので危険です。
ここはやはり、日本海ルートを使ったほうが安全。

426 :日本@名無史さん :2009/10/11(日) 13:26:12
>>425
郡から倭の北岸まで水行で7千里が説明できない。

427 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 13:31:21
7千里というのは遠いってことです。

428 :日本@名無史さん :2009/10/11(日) 13:32:14
>>427
いい加減だねえw

429 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 13:41:24
しかし、そもそも魏志倭人伝の記述がいい加減なのだから、
倭人伝の記述にぴったりなところなんてあり得ないのです。
しかし、状況証拠を重ねると、九州ルートより、日本海ルートのほうが合理的だと言えます。
細かい相違などは気にする必要はないのです。

430 :日本@名無史さん :2009/10/11(日) 13:49:56
>>429
そういういい加減な姿勢で取り組んでいたら、いつまでたっても
倭人伝は解けない。
なんでもかんでも都合の悪いところは切り捨て、
自分勝手に解釈してこじつける。
倭人伝がいい加減なのではなく、自分がいい加減だということに気づくべき。

431 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 13:59:03
九州説の人だって、7千里を7等分したのが千里とかいい加減なことを言っているし、
九州説の人に言われたくはないですね。

432 :うましか:2009/10/11(日) 14:02:14
>>418
> >>416となると、松浦半島ではないということでしょうね。

いいえ、唐津湾では無いと思いますが、壱岐との関係から松浦半島以外には考えられないですね。

433 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 14:05:59
だから壱岐ではなくて隠岐だと言っているのに・・

434 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 14:17:39
壱岐ではなく隠岐だと仮定すれば、
末盧は松江だという説も成り立つ。
邪馬台国とは出雲だった。


435 :日本@名無史さん :2009/10/11(日) 14:38:41
今月もムーでマクモニーグルが透視してるよ。
卑弥呼は現在の山口県に居て、父が九州北西部を支配し、
父の兄弟が九州西部南部を支配し、母の兄弟が山口東部から
愛媛県を支配し、卑弥呼の大伯父にあたる者が島根あたりを
支配していたらしい。これら卑弥呼の一族に敵対する勢力が
近畿にあり、卑弥呼の大伯父のことを恐れていた様だ。卑弥呼が
小さい時から大伯父を助け、偉大なシャーマンに育ったことから、
近畿勢力に卑弥呼を宗教的指導者として受け入れ卑弥呼の一族へ
従えという案を提示したらしい。大伯父は卑弥呼を通じて支配力を
増せるし近畿側も卑弥呼を人質として大伯父の威嚇を排除できる
と考えたことからこの案を了承した。そして、卑弥呼は奈良県宇陀市
榛原の鳥見山の南斜面に夏の居城を構えた。基本的には秋の収穫祭が
終われば故郷の山口に移動していたようだ。のちに邪馬台国の女王に
なった後も大伯父のもとに通っていたようだが、大伯父も巨大になった
邪馬台国に国を譲ったようだ。この大伯父が大国主命なのではないかと
透視してます。前回の透視から卑弥呼の一族は中国の昆明からベトナム
のハノイ、そして台湾、沖縄を数百年かけて移動してきた一族であること
が分かっている。





436 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 15:00:41
>>435
もうこの際だから何でも来いよ。

437 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 15:23:22
俺は末盧国は、倭に接すという弁辰涜盧国と何か関係があると思ってるんだけど。この国は華奴蘇奴国
のように一字一音の倭語の音写になってない漢語的表記の国で、官の記述もないのはそのあたりが怪し
いという気がする。

438 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 16:44:08
>千里を7等分したのが千里とかいい加減なことを言っているし
どこがいいかげん? そのとおりだろ。

439 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 16:45:13
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった

440 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 16:46:48
>>438
いや、それは間違ってるだろ。
プラナリアかよ。

441 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 16:48:32
>>422 >>423
そう、その考えがいいね。それならば、畿内説も息を吹き返すかも。

442 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 16:51:25
>>440
スマン。コピーのときに先頭文字が消えてしまった。千里→7千里ね。

443 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 16:56:05
>>435
マクモニーグルは透視の能力者であって、過去視・未来視の能力者
ではないよ。

現在に生きる誰かの脳の情報か、創作を読み取っただけだろうね。

444 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 16:58:43
>>414
一大率は対朝鮮の警備ばかりしていたわけではない。
それより、北九州の諸国を検察していたんだ。稲作中心の弥生後期にあっては
諸国の関心は水田地帯だ。筑後川流域だね。それに南の邪馬台国との連絡など
もある。一大率を置く所としては佐賀市周辺が一番なんだよ。

445 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 18:15:42
>>382
僕が持ってる辞典類には、その解釈は載ってなかったな。
ちなみに、その漢漢辞典の名称と、田野であるとする場合の例文を紹介してくれないか。

446 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 18:30:45
>>444
考え方はひとつではない。
一大率はたしかに北九州の諸国を検察していた。しかし
この時代、諸国の関心は半島・中国交易だ。
一大率を置く所としては玄界灘沿岸が一番なんだよ。

447 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 20:32:58
>>437
末盧と涜盧? 唐津と巨済島?
海峡両岸の港を魏が監理していたと?

448 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 20:38:37
>>447
そこまではいいませんが、涜盧はおそらく古代朝鮮語の漢語表記でないですかね。で、末盧は倭語。
当時の両言語にどこまで共通点があるかわかりませんが、故地として頻繁な行き来くらいはあったか
もしれない・・・くらいですかね。勒島や原の辻などの島嶼部は、半島と倭の貿易拠点化していたよう
ですし。


449 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 21:12:59
>>448
とても魅力的な仮説だと思います。
海峡を越える交易に、中国商人が関わっているのは当然だろうし、
半島各国にも中継貿易の利権がからんでいるだろうし、
調整役の存在が必要とされてもおかしくありませんね。

450 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 21:26:29
>>449
ありがとうございます。しかし、あまり自信はないんですよ。時間があれば少し調べてみます。楽浪土器や
三韓土器の移動から(あるいは半島で出土する弥生土器から)何かわかるかもしれません。

451 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 21:33:05
>>450
こちらこそ、ありがとうございました。
また、するどい示唆を提供して下さい。

452 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 21:47:52
九州勢力に対抗して畿内勢力が若狭湾から魏に使いを送ったという説は魅力がありますね。


453 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/11(日) 22:07:45
>>445

遅くなって申し訳ありません。

中国語字典(汉语字典)ではいかがでしょう?

そして「田野」用例として北史の中から
http://dbo.sinica.edu.tw/~tdbproj/handy1/index.html?

ここに書かれている「冶葛」の冶を 田野と

「郊原」の意味では

子夜四时歌の春の歌に掲載されている「冶游步春露」=春、野に男女が遊びに出かける

http://zhidao.baidu.com/question/45005284.html




454 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 22:13:11
>>446
>この時代、諸国の関心は半島・中国交易だ。
一大率が女王国以北の諸国を検察していたことは倭人伝に明記されている。しかし、
諸国の関心が半島・中国交易だなんてことはまったく書かれていない。あなたのか
ってな思い込みに過ぎないな。



455 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 22:19:40
だいたい、伊都国が玄界灘沿岸の地にあったのであれば、魏使一行が末盧国で
下船する理由は何もない。船で伊都国まで直行すればよいことだ。
彼らが上陸して五百里もの道を陸行したのは、伊都国が船で行けない所だった
からにほかならない。しかも、彼らの目的地である邪馬台国は、倭人伝の記載
するところによれば、北九州から南、南と進んだところであることは明白だ。
それなのに、末盧国で上陸して北東に進むというのでは、目的地たる邪馬台国
から遠ざかることになる。そんな無駄なことをするはずはない。
伊都国は、末盧国から東南五百里、すなわち四十キロ程度のところであり、そ
れは佐賀市付近のほかにはありえない。


456 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 22:22:18
>>454
確かに勝手な思い込みですよ。そんなこと倭人伝に書いてあるわけないでしょ。

諸国の関心は水田地帯だって書いてあんの?

457 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/10/11(日) 22:25:20
>>453

リンク先に不備があったので今一度

>>445

遅くなって申し訳ありません。

中国語字典(汉语字典)ではいかがでしょう?

そして「田野」用例として北史の中から

/新校本北史/列傳/卷八十三 列傳第七十一/文苑/諸葛潁 - 2810 -

【・・・・是以時人謂之「冶葛」】

ここに書かれている「冶葛」の冶を 田野と

「郊原」の意味では

子夜四时歌の春の歌に掲載されている「冶游步春露」=春、野に男女が遊びに出かける

http://zhidao.baidu.com/question/45005284.html






458 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 22:27:39
倭人伝行程におけるポイントの一つは、北九州から南へ水行するということである。
玄界灘沿岸でいきなり南水行なんて言ったところで、それは不可能である。まず、
しばらくは東北に向かうか、西に向かうか、いずれしかない。
朝鮮半島について、乍南乍東と具体的に書いているのに、肝心の倭国につき東北に
向かうべきか、西に向かうべきかを書かないで、南というはずはない。玄界灘沿岸
では南への水行という記事を絶対に理解することはできない。
佐賀市付近であれば、その疑問は氷解する。有明海を南へ進めばよいことは誰の目
にも明らかだ。一点の疑問の余地もない。

459 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 22:33:45
>>456
>諸国の関心は水田地帯だって書いてあんの?
対馬国について無良田、一支国について有田地などとあるだろう。当時、田が注目されて
いたことが明らかだ。しかも、弥生時代が米に頼りだした時代であることは常識。それら
からの合理的な判断だよ。あなたの勝手な思い込みとはちがう。


460 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 22:49:09
>>455>>458
確かに倭人伝によると、そうなんですよね。
特に唐津に行って、陸路前原だってのは意味不明。
だから、これからあなたが提示すべきことは、佐賀ではなくて、
前原、博多の遺跡は何なんだってことだよ。

461 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 22:57:17
>>459
対馬、壱岐については南北市糴も記載されてますよ。
当時、交易が注目されていたことが明らかだ。
弥生時代に交易していたことは常識。
それらからの合理的な判断だよ。

462 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 23:09:47
>>460
>前原、博多の遺跡は何なんだってことだよ。
それらの遺跡には国の名前が書いてあったかな? そんなものは全くない。
倭国には、弥生中期ころ、百余国があった。前原、博多の遺跡がどこの国のものか
簡単に決められることではない。それに、もし前原が伊都国、福岡が奴国の遺跡だと
しても、伊都国、奴国の面積をどのように考えるかでその意味はまったく違ってくる。
佐賀からの南水行が投馬国や邪馬台国への道だとなれば、北九州の大部分を伊都国、
奴国の領域とみるということになる。となれば、二つの国の王墓はいったいいくつあ
ったのか? 二つの国が三百年の歴史を有していたとしたら、両国合わせて百人、ある
いはそれ以上の王がいたかも知れないんだ。そのうちの二つや三つが玄界灘沿岸でみつ
かったからといってそれぞれの都がどこにあったかを確定できるか? できるはずはな
い。筑後川沿岸にほかの多数の王墓があった、洪水でその多くが失われた、あるいは再
開発で失われた、そんな可能性はいくらでもある。たまたま見つかった2、3の遺跡に
振り回されてはいけない。

463 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 23:16:11
>>461
文章は一部分だけ読んではいけない。南北に市糴すというのは、食料が自給するには乏しい
ということからのつながりだ。いわば、必要最小限の行為だよ。けして、諸国の関心に結び
つくことではないし、そのために一大率が置かれるような問題でもない。

464 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 23:17:22
>>462
考古学者に聞かせてやりたい意見ですね。彼らの積み上げて来たものをいとも簡単に否定できる。

そうする気はおありかな? こんなところでホザいてないで。

465 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 23:23:37
>>463
>文章は一部分だけ読んではいけない。
あんたに言いたいことはそれだよ。

>必要最小限の行為だよ。
なんでも自分に都合良く考えるんじゃないよ。
稲作じゃ食えないんだから、関心大アリだろ。
威信材として求められたのは舶来品なんだから、関心大アリだろ。

466 :日本@名無史さん :2009/10/11(日) 23:29:59
>>458
>玄界灘沿岸 では南への水行という記事を絶対に理解することはできない。
ところが出来るんですよ。
今まで何度も書いて来ましたが読んだことないですか?
太宰府の近くに宝満川があるんですよ、これが、南へ流れているんです。
そして久留米で筑後川に合流します。
そして筑後川も南に流れているんですよ。
それが倭人伝いうところの水行になります。
この説も一つの候補として頭に入れておいてください。
なにも唐津から東南500里で佐賀市、そして有明海というルートだけではありません、
同じ九州説にも、
博多湾西から東南500里で太宰府、太宰府の近くの宝満川を南へ、
筑後川を南下、そして陸行き1ヶ月で邪馬台国=女王国=万二千里というルートも
あるということを。
1300里(約91キロ)を2ヶ月費やしているので、信じられないでしょうが、
水行、陸行を問題にしなければ、これほどすんなり文献通り解けた説は他にありません。
中継国の音も現在の地名に一致しています。例えば投馬国、は妻(つま)地方(久留米市付近)、
邪馬台国は旧山門(やまと)郡など。


467 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 23:31:31
>>464

>そうする気はおありかな?

貴方は考古学者の代弁者?または弁護人ですか?

468 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 23:31:37
>>463
追記
だいたい倭人伝読んでて、倭人が田んぼのことばっか考えてるように思うか?

469 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 23:33:11
>>467
はっ? そんなわけないでしょ。

470 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 23:45:53
>>469

だったら「そうする気はおありかな?]という台詞は貴方の台詞ではありませんよね?
そうする気があろうが、あるまいが、貴方には関係のないことですから
関係あるのは、今まで積み上げてきた考古学者達です。

471 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 23:49:12
考古学者は2chのレスなんか気にしないと思うよ。

472 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 23:59:02
>>466
そのような考え方を目にしたことはあるが、いくつか問題があると思う。
まず、伊都国を怡土に比定することの不自然さ。これは相変わらず、説明できていない。
次に、川を遡り、豊満川へというが、倭人伝はそのようなことを水行という一言ですま
せるかという疑問。川を遡るならばその旨記載されたはずだと思う。
次に、コースに無理があるということ。結局、有明海に出るならば、末盧国から佐賀
に向かうのがもっとも楽なコース。無駄な遠回りはしないはず。
それほか、放射式の問題とかもありますね。
結局、あなたの説も最初に伊都国の比定を誤ったために無理を重ねたものかと。

473 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 00:01:49
>>470
そんな意見では考古学の提示している論を否定できませんよ、ということですよ。
当然、誰にも納得してもらえませんよ、という意味の台詞です。

474 :日本@名無史さん :2009/10/12(月) 00:04:29
>>472
ちゃんとレスを読んでいますか?
伊都国は太宰府付近です。
川は南へ流れているので、遡るのではありません。
放射式でもありません。連続しています。
誤りだらけです。もっとよく人のレスを読んでください。

475 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 00:09:49
>>473
否定しなければいいだけだよ
否定すれば何かが変わるというわけじゃないだろう。
否定しても何も変わらないのであるのなら、否定する必要すらないでしょう。

476 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 00:20:35
>>475
何言ってるのかわからなくなってるけど、
前原と福岡の遺跡については都合が悪いから無視するってことですね。
それなら伊都国も邪馬台国もどこにあってもいいですよ。

477 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 00:26:00
>>476
都合の悪い事なんてない

478 :銀河 秋彩:2009/10/12(月) 00:27:05
  【倭国・九州筑紫王朝・物部系<夏>】側
【▲矛圏】……『魏志倭人伝(通称)』に記載は、明帝と司馬懿(→晋・中国南朝)が支持した、
(★傍流)太伯後の、共立された女王・卑弥呼(物部系)の「邪馬壹(連合国)」
=《筑紫平野・久留米高良山(神籠石あり)》
西暦247年崩壊【西暦247年3月24日の日の入り時の日蝕(卑弥呼=壹与の死を揶揄)】
「伊都国(いづら)」=《佐賀県小城市牛津町》、東行百里の「不彌国」=【魏の城塞都市(木柵)・吉野ヶ里】
「其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。」=『魏志倭人伝(通称)』
 「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩jun葬者奴婢百餘人」
=【ガラス管と剣が副葬の「1002号墳」が卑弥呼(難升米)の墓・径百歩】
卑弥呼の都【魏使が来るに及んで、久留米から遷都、隼人町が記載されている】・「★倭国は極南界」
  ▲卑弥呼の都・直接統治国「壹国(薩摩)」=「周旋可五千餘里」=「55m/倭人里」
http://photos.yahoo.co.jp/ph/zan23647/vwp?.dir=/761d&.dnm=ac0e.jpg&.src=ph&.view=t&.hires=t
【▲矛(→▲剣)圏・倭国(九州筑紫王朝)・物部氏】、「白村江(はくすきのえ)の戦い」で、一旦滅亡。
「「日出處天子(南朝の後継を名乗った、泉蓋蘇文=天武)致書日没處天子(北朝・隋の煬帝)無恙〜」
倭王・多利思比孤・【『万葉集』の「軍王」、のちに、天武天皇】は、こちら側。
天武は、(復活)倭国王。

479 :銀河 秋彩:2009/10/12(月) 00:27:46
  【大倭(臺倭)国・九州近江(&)豊国王朝・蘇我系〔秋〕=(臺倭→大倭→)大和朝廷】側
【●鏡圏】……『万葉集』に記載は、斉王 芳(魏の少帝・中国北朝)が支持した、
(★本流)季歴後の、臺与(台与・蘇我系)の「邪馬臺(連合国)」=【台与(→豊)国・大分県】
西暦248年成立【西暦248年9月5日の、日の出時の日蝕(天照大神=台与→豊の出現を揶揄)】
  ●当時の臺与の都は、京都(みやこ)郡香春=現京都郡みやこ町御所ケ谷(神籠石あり)
http://www.yado.co.jp/tiiki/tikuhou/gosyogatani/gosyogatani.htm
【鏡圏・イ妥国(九州台与(→豊)国&九州近江王朝)→大倭(臺倭)国・蘇我系】
『隋書』「イ妥国(臺国)伝」の、「小野妹子」=「蘇我卑弥呼」。
「小野妹子」は「蘇因高」=【蘇(我)の卑弥呼(「ピぃもこ」のピ音が欠落して「ぃもこ」)】
「東の天皇敬みて西の皇帝に白す、〜」・推古天皇(額田王・太田皇女=小野妹子)
こちらが、皇祖神が天照大(御)神=(天照近江神)の【大和朝廷】側。
九州近江王朝、斉明太上天皇の都は、不知火海(近江)の「御所ケ浦島」。
  大后(おほきさき)=【斉明太上天皇(安見児・鏡王女・吹黄刀自)】の御歌一首
鯨魚(いさな)取り 近江の海を 沖放(さ)けて 漕ぎ来る船 〜(巻2・153)

  『万葉集』より
☆ 大君の和魂あへや豊国の鏡の山を宮と定むる (巻3・420)
☆ 豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず (巻3・421)
☆ 岩戸破らむ手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく (巻3・422)
☆ 豊国の香春(かわら)は我家【(わぎへ)わが皇統家】
  紐【皇緒】児(ひものこ)にいつがり居れば香春は我家 (巻9・1771)
なお、『万葉集』の巻五には、【斉王 芳(魏の少帝・中国北朝)】の、
☆「芳命を奉(うけたま)はらむ」、☆芳音(ほういん)、☆芳旨(ほうし)、☆芳藻(ほうそう)、
☆芳席(ほうせき)等々が記載されている。
これらの「芳〜」は、【(斉王)芳・魏の少帝】を下に曳いている。

480 :銀河 秋彩:2009/10/12(月) 00:29:05
  「燕・公孫氏】側
【■銅鐸圏】……東[魚是]人=【畿内(〜山陰)】の、銅鐸族・燕・公孫氏
朝鮮半島の帯方郡まで勢力を伸ばすも卑弥呼の裏切りに依り、司馬懿に滅亡さされた。


481 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 00:32:18
>>474
失礼しました。前に読んだ説と混同してしまいました。末盧国=博多湾岸、伊都国
=大宰府ですね。しかし、それも有明海へでるならば、唐津から東南陸行の方が自
然ですね。それと、放射式といったのは、あなたが連続式をとっているのが問題だ
ということです。放射式で読まないとね。

482 :銀河 秋彩:2009/10/12(月) 00:42:58
違う!
「末盧(国)まつら」=唐津湾界隈〜松浦川
東南陸行に転じて五百里(多久の道)・「55m/倭人里」
「伊都国(いづら)」=《佐賀県小城市牛津町》、

483 :日本@名無史さん :2009/10/12(月) 00:49:16
>>481
私がいう説は有明海には出る必要はありません。
筑後川の途中で陸に上がり、南へ陸行きです。
現在でいうみやま市瀬高町の女山が卑弥呼の居するところ。
また放射説を取って読んではならないと思います。
連続して読みます。

484 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 01:01:10
>>477
>(無視しても)都合の悪い事なんてない。
ですか?

唐津から前原へ陸行するのは確かに不思議。また、伊都国=佐賀は魅力あります。
しかし、あなたの説明には説得力がないので、前原じゃなくて佐賀だ、ということを
納得できない、というんですよ。

485 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/12(月) 01:39:44
>>484
横レスだが、>>477の伊都國が佐賀平野である説については、正しく合理的だ。
魏志倭人傳 [隋書俀國傳] 地図
〜〜一大國┃◎┃↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵┃〜〜〜[十餘國]:伊都國〜投馬國・近隣餘旁國の後継国
〜 [一支國]┗━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵┃〜〜〜[秦王國]:唐津市浜玉
〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜〜┏━┓〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜▲印:観音峠
〜〜〜〜〜┏┯┓↓〜〜┏┛∵┗━━┛∵∵倭28ヶ国∵∵┗┓〜倭in倭地:今譯所通28國(狗邪韓國・對馬國・狗奴國を除く)
〜〜〜〜〜┃│┃↓〜┏┛(餘旁國) ◇博多∵∵∵∵∵∵∵∵┗━奴國:須玖岡本遺跡〈倭奴國〉其餘旁國の一国
〜〜〜〜〜┃│┗↓━[秦王國] ∵∵◎奴國〈倭奴國〉∵∵∵∵∵∵郡⇔不彌國(女王國):12000餘里
〜〜┏━━┛│∵◎→◇→▲┐∵∵∵∵◇倭京大宰府∵∵∵∵∵郡⇔邪馬壹國:水行10日と陸行1月(倭地韓地陸行)
〜〜┗┓∵∵│末盧國∵∵∵↓[十餘國] ∵∵∵∵(餘旁國) ∵∵∵郡⇔投馬國:水行20日(天草灘・五島・済州島経由)
〜〜〜┃倭∵│[竹斯國] ∵∵↓∵不彌國〈倭面土國〉∵∵∵∵∵●印:女王國メンバー国 範囲(浮羽-白石-大牟田-筑紫野)
〜〜〜┃∵非└┐∵∵伊都國◎→→●┐∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵末盧國:唐津鏡中原遺跡
〜〜〜┗┓∵28└┐∵∵∵∵└┐┏┓├●邪馬壹國[邪靡堆] ∵∵伊都國:惣座遺跡(肥前國庁跡)
〜〜┏┓┗━┓ ヶ└┐∵∵奴國●┃┃│∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵奴  國:佐賀城
〜┏┛┗┓〜┃∵國└┐┏━━━┛●┘投馬國∵∵∵∵∵∵∵∵不彌國:吉野ヶ里遺跡〈倭面土國城郭〉
〜┃∵∵┃〜┗┓∵地└┨〜〜〜〜┃∵∵┌─────────投馬國:大川市郷原
〜┃∵∵┃〜〜┃∵∵域┃有明海〜┃┌─┘∵∵∵∵∵∵∵∵∵邪馬壹國:久留米南部
〜┗┓∵┗┓〜┃┏━━┛〜〜〜〜┠┘∵∵◎狗奴國∵∵∵∵∵狗奴國:保田東原遺跡

486 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 06:29:52
>>485
合理的というよりも、まず常識的に考えてもらいたいと思います。
前原の遺跡は伊都国じゃないのかと聞かれて、
名前が書いてない、などと小学生以下レベルの言い訳が返ってくる。
じゃあ、実際に佐賀から遺物が出て来たらなんと言うのでしょうか。
九州説がまちがっているとは言いません。
しかし、思考回路が逝かれている連中が目につくのです。
彼らにとって邪馬台国は紙の上にしかないのでしょうか。
本当の邪馬台国の遺跡が発掘されても、名前が書いてなければ認めないのでしょう。

487 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 08:50:46
>>486

福岡県が、九州地方の一部である事を証明するブツを何か出してごらん?

488 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 08:54:23
>>486現状ではそうですね。
シュリーマンのトロイの遺跡だって認めない人がいるくらいですから。

489 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 09:20:52
何で伊都国=怡土が通説になっているのか? それはイトという音が似ていることと近畿説や
北九州説をとる場合、伊都国を玄界灘沿岸に比定しないと具合が悪いからだ。
しかし、イトという地名は、古事記に神功皇后の物語の中に伊斗村とでてくることから明らか
なように単なる村名であって、3世紀当時の伊都国と結びつくか否かは大きな問題だ。
邪馬台国がどこか、長い間、論争されてきたにかかわらず、近畿説、北九州説、まったく説得
力ある説明ができない。ここで、両説が当然のこととしてきた伊都国=怡土を見直してみるべ
きだと思うよ。改めて見てみると、怡土説にはさしたる根拠はないんだ。王墓といったところ
で年代に議論のある平原以外は、いずれも3世紀よりもかなり古いものだ。

490 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 09:40:48
>>489
>〜に比定しないと具合が悪いからだ。

やれやれ自身がやっていることは他人も疑いたくなるんだよね。
結論先にありきで議論する人は扱いに困るぜ。

491 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 09:42:54
> 九州説がまちがっているとは言いません。
> しかし、思考回路が逝かれている連中が目につくのです。

それは皆が思っていることですが、本人たちは気がついていません。

492 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 10:05:00
ネット上ではなく現実につるし上げするような連中だからね。

マジで逝ってるとしか思えない‥一部の九州説連中w

493 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/12(月) 10:06:56
>>486
>しかし、思考回路が逝かれている連中が目につくのです。

ところで、僕の思考回路は逝かれている様に見えますか?

@末盧國は東唐津(中原遺跡)
A伊都國は佐賀市大和町惣座(惣座遺跡・肥前国庁跡付近)
B奴國以下は解説がないと判断できないでしょう。

494 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 10:11:11
>>492みたいに、見てきたような嘘を平気で言うのも、ネットの特性かな。

495 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 10:15:48
>>491
さも、自分はまともだと言いたげだな!
そんな奴に限って一番危ないのも世間の常識

496 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/12(月) 10:17:38
>>489
>何で伊都国=怡土が通説になっているのか?

それ以外に、大陸、楽浪方面の土器の出土がある。
この土器の出土は何を意味するか?


497 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 10:21:09
>>496
たんなるゴミ棄て場

498 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/12(月) 10:27:56
>>496
>それ以外に、大陸、楽浪方面の土器の出土がある。
>この土器の出土は何を意味するか?

倭奴國及びその後継勢力が福岡平野にいた事を示していると思います。

499 :うましか:2009/10/12(月) 10:28:40
ゴミ棄て場って大事ですね。
ゴミは貴重な生活痕跡、威信財のように流転する可能性が無いのでマーカーとしては有益です。

500 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/12(月) 10:35:19
>>496の追加説明
倭奴國の後継勢力とは倭人伝の餘旁國の奴國等です。

501 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 10:37:10
ゴミ捨て場という見方は、あたっているかも知れないね。
半島からの物資は、魏の使者とちがい、怡土や博多に多く入ったのかもね。
荷揚げして整理し、運搬中に壊れたものなどは、その近くに捨てられただろう。
それが出ているのかも知れない。

502 :日本@名無史さん :2009/10/12(月) 10:42:33
楽浪方面の土器が出土するのは近畿に多いみたいですね。
楽浪ということは高句麗方面のこと。
ということは、近畿王朝の縁者が支配していた時期が福岡平野にあったということで、
これは魏志倭人伝の時代ではなく、もっと二百数十年後以降位の時代の遺物だと思う。
数詞など高句麗語の影響があるのは、近畿王朝が楽浪方面から渡ってきた渡来人だから。
倭人とは違う。ということで、伊都国の遺物として楽浪土器などを挙げるのは
不適当だ。

503 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 10:52:20
ゴミがあり墓があるとなれば当然そこは庶民の生活環境空間とは無縁の地と判断しても
何も不思議なことではないでしょう。
せいぜい行政関係の施設とそれに関連するような人の生活はあったでしょうが
一般的な庶民の生活空間とはかけ離れた空間であったのでは

504 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 10:58:46
魏志倭人伝を素直に読めば、邪馬台国は筑紫平野ってことで間違いなさそうですね。


505 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/12(月) 11:08:28

福岡平野は楽浪土器畿内への中継地でしょうね。
近畿王朝の縁者が支配していた時期が福岡平野にあったということではなく、
福岡平野出身者が近内勢力にいたのでは?
土器は彼等と共に畿内へ移動したとも考えられます。

506 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 11:10:46
通説の伊都国=怡土説がおかしいのは、次のような点からだ。
@ 末盧国からの方角と距離。末盧国が唐津ということはほぼ問題ないだろう。
 怡土はそこから東南五百里。ところが怡土は東北、どうみても方角が合わない。
 距離も五百里(40キロ程度)よりもかなり短い。
A 末盧国で上陸したのは船ではいけない所とみるべきだ。怡土ならば船で直行
 したはずである。
B 玄界灘沿岸からいきなり南水行というのは不自然だ。乍東とか乍西を言わず、
 いきなり南というはずはない。伊都国は南水行ができるところでなければね。
以上は、誰もが疑問に思うところだと思うが、異論はあるかな?

507 :うましか:2009/10/12(月) 11:12:49
>>503
> ゴミがあり墓があるとなれば当然そこは庶民の生活環境空間とは無縁の地と判断しても
> 何も不思議なことではないでしょう。
> せいぜい行政関係の施設とそれに関連するような人の生活はあったでしょうが
> 一般的な庶民の生活空間とはかけ離れた空間であったのでは

ゴミも墓も行政関係の施設もそれに関するような人々の生活も一般的な庶民の生活空間とかけ離れるものではないでしょう。
何でそう思うのですか?
前原に一般庶民の生活空間があったら、何か都合が悪いのですか?

508 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 11:22:35
>>455
>魏使一行が末盧国で下船する理由は何もない。

魏と倭の外交記録は、倭人伝の最後の方に編年形式でまとめて出てくるが
そこには使者の通ったルートは記載がなく、分からない。

それで恐らく、倭人伝の最初にある各クニグニの地理記載を、使者のルートと
リンクさせて考えているのだろうが、実は、そうしてもよい根拠は、何もない。

たとえばだが、倭が魏(や晋)に献じた生口たちからでも、倭のクニグニの地理は
かなり聴き取れたはず。
或いは難升米や都市牛利のような倭側の使者も、魏の官吏に対し、何ほどかの
情報提供をやった可能性さえある。
それと商人たちからもたらされた情報もあった筈。

結局、魏使のルートは倭人伝で何も明確には示されてないと、肝に銘じておくべきだろう。

509 :日本@名無史さん :2009/10/12(月) 11:23:18
>>505
近畿王朝の縁者が支配していた時期が福岡平野にあったどうかは、
自分で言ったものの、確かではありませんが、
でも近畿王朝はどちらかというと、出雲経由だったり、若狭湾経由だったり
すると思う。時代が下ったので、船も遠出できるようになった。
だから楽浪土器は福岡平野経由ではないと思う。

510 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 11:27:25
末盧(国)=松浦半島まではいいとして、
伊都国は、南東の方向だから佐賀平野。
「その南に狗奴国(くなこく)がある。男子を王としている。その官に狗古智卑狗(菊池彦か)がある。女王に属していない。」とあるから、
狗奴国が熊本県菊池市付近だったことは外せない。
となると、邪馬台国はそれより北、やはり八女市付近だったとするのが合理的です。

511 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 11:31:35
>>510
狗古智卑狗(菊池彦か)ということから、狗奴国が熊本県菊池市付近だったことは外せない
というのは飛躍しすぎているのでは?
伊都国が佐賀ならば、そこから南へ水行陸行したところが邪馬台国、狗奴国はそれよりも
さらに南のはずですよ。

512 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 11:34:28
>>510
>狗奴国が熊本県菊池市付近だったことは外せない。

それは単なる憶測。
狗古智卑狗=菊池彦とするのも、何も根拠はなく、憶測・妄想のたぐい。


513 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 11:36:37
>>493
そのようには思えませんから>486を書かせてもらいました。
失礼しました。

514 :日本@名無史さん :2009/10/12(月) 11:41:45
>>510
>末盧(国)=松浦半島
これが違っているから、その後の行程が合わない。方角など。
佐賀から八女は正東だ。倭人伝では邪馬台国は伊都国の南に位置しているはず。
そういう細かな所が一致しないのを気が付かないはずはないと思うのだけど。
また水行陸行2ヶ月では佐賀から八女までは多く見積もって30キロくらいだから、
考えづらいし、佐賀付近からどうやって水行1ヶ月と陸行1ヶ月をどういうルートでいくのかも
全く不明。そもそも方角が違うのだから、伊都国が佐賀は考えられない。
>狗奴国が熊本県菊池市付近だったことは外せない。
となると、邪馬台国はそれより北、やはり八女市付近
これには同意。
八女市付近を含めた瀬高方面までの広い地域。



515 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 11:43:35
>>508
使者のルートとは限らないという考えですか?
使者のルートに限らないとしても、いろいろな情報で確認した邪馬台国へのルート
となれば、何で末盧国で上陸して伊都国へ陸行するのか、なぜ下船するのか、同じ
問題になりますね。


516 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 11:45:52
>>507

ゴミの上で生活しますか?
住む土地がなくなり墓の上で生活しますか?
たとえば、青山墓地や夢の島に人は生活を求めているでしょうか?

517 :銀河 秋彩:2009/10/12(月) 11:49:53
卑弥呼の直接統治国「壹国(薩摩)」=「周旋可五千餘里」=「55m/倭人里」
http://photos.yahoo.co.jp/ph/zan23647/vwp?.dir=/761d&.dnm=ac0e.jpg&.src=ph&.view=t&.hires=t

以下・卑弥呼の直接統治国「壹国(薩摩)」の都は、現鹿児島県姶良郡隼人町姫城。
  《加治木 義博説》を支持。
「55m/倭人里」を使用。卑弥呼の「邪馬壹(やまい)(連合国)」は、【筑紫平野】。

  七〇〇〇里 帯方郡治〜狗邪韓国
  一〇〇〇里 狗邪韓国〜対海国《対馬》
  一〇〇〇里 対海国〜一大国【壱岐・魏の直接支配地】
  一〇〇〇里 一大国〜末盧国《唐津湾界隈》
   五〇〇里 末盧国《唐津湾》(東南陸行)〜★伊都国(いづら)《佐賀県小城市牛津町・港でもある・魏使常駐》
《不彌国、奴国、投馬(国)、卑弥呼の都などは、伊都国(牛津)からの★放射状説を採る》
  一五〇〇里 伊都国(牛津)〜水行十日《有明海を倭人が小舟で南下・「接女王国(女王国の国境)」の現八代市まで
《計・万二千里》……【八代市以北(「奴国・なら」の南・玉名市か熊本市以南)は、……
…… …… …… ……通行不可の、不仲の卑弥弓呼の狗奴国(旧奴国→百済)ゆえの「水行十日」】
   「余(国内)」……「接女王国(国境)」の八代市から球磨川沿いを遡り、山越えして南下、
        卑弥呼の直接統治国「壹国(薩摩)」の都、隼人町姫城までが「余=陸行一ヶ月」=倭人の歩み。

水行二十日・投馬(国)……伊都国(いづら)から、有明海を水行二十日南下し、「トカラ列島の宝島」に。
この「トカラ列島の宝島」の生まれ……「宝皇女=斉明太上天皇」。
「イザナキ」&「イザナミ」は、《伊是名島》から。
http://www.ocvb.or.jp/card/ja/0600001514.html

518 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 11:50:05
>そもそも方角が違うのだから、伊都国が佐賀は考えられない。
邪馬台国が八女ならば、伊都国=佐賀はないということですね。それは、その
とおりでしょう。
しかし、邪馬台国を八女とみることに問題がありますね。
邪馬台国の場所を決めずに考えたら、伊都国=佐賀も視野に入るのでは?


519 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 11:52:11
>>515
情報源が一つとは限らない。
複数の断片的な情報をつなぎ合わせて倭人伝を記述した、ってことも、
可能性としてはあり得る。

520 :うましか:2009/10/12(月) 11:53:51
>>516

何でゴミの上で生活しないといけないのですか?
訊いているのは、墓やゴミ捨て場は庶民の生活空間と「掛け離れているはずだ」と思われる理由です。
ところで、その青山墓地というのは、庶民の生活空間と「掛け離れた」場所にあるのですか?

521 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 11:58:20
>>520
墓地という使用目的を除けば、生活空間ではありません。

522 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 12:00:12
>>519
ありえません。
可能性は未来に求めるもので、過去に求めるものではないからです。

523 :日本@名無史さん :2009/10/12(月) 12:00:34
>>518
貴方は伊都国佐賀説で邪馬台国はもっと南を比定しているのですね。
私は邪馬台国は瀬高方面八女も含めだと思っているので、
福岡平野から筑紫野を川下りして筑紫平野にでるルート説です。
これだと伊都国から邪馬台国は方角的にも南だし、距離も
道のりで約70キロはあるでしょう。筑後川が非常に蛇行していたりするので。
倭人伝は1300里(約91キロ)です。
この1300里を水行陸行2ヶ月はやや考えづらいとは思いますが、
結局、女王国まで万二千里とあるのですから、日数と同時に距離も示していることに
気が付きます。女王国は邪馬台国のことです。

524 :うましか:2009/10/12(月) 12:02:57
>>521

> 墓地という使用目的を除けば、生活空間ではありません。

青山墓地の土地利用状況をお尋ねしているのではありません。
青山墓地というところは、庶民の生活空間と掛け離れた場所にあるのですか、と訊いているのですが?

525 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 12:04:42
>>522
じゃあ「可能性」ではなく、「蓋然性」としておく。

倭人伝が、断片的な複数の情報をつなぎ合わせて記述された蓋然性は
想定できるのではないかな?

526 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 12:05:06
>>523
川下りは休日に趣味で楽しんで下さい。

527 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 12:10:32
>>517
加治木 義博説ですか。御紹介ありがとう。
伊都国=佐賀県小城市牛津町というのは、佐賀市付近とする説と同じ発想だね。
伊都国から放射状説を採るというのも同意できる。連続説は誤り。
八代以北は通行不能のゆえの水行十日というのは、賛同しかねるね。水行した
ところで何日も陸に上がらず進むわけではない。狗奴国を熊本に比定してその
狗奴国沖を水行というのは不自然。そんな危険なことをするわけがない。
女王の都を隼人町姫城とする点は、そこならば、川内まで水行した方が陸行距
離が短くなり楽でしょう。投馬国をトカラ列島というのは、5万戸の面からも
無理な考え方。
有明海沿岸に着目した点と放射説で説明しようとした点は良いと思います。
問題は狗奴国と投馬国の比定。そんな感想ですね。




528 :日本@名無史さん :2009/10/12(月) 12:17:49
>>527
女王の都が隼人町姫城では、女王国は何処に比定していますか?
女王国まで万二千里ですが。
また放射説をとるのは誤りだと思う。
伊都(10500里)ー奴ー不彌ー投馬ー邪馬台国(12000里)と繋がっています。


529 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 12:27:43
>>517をみる限り、女王国は八代から始まるということだろう。
女王国の範囲が広いから万二千余里と「余」をつけたということ。
放射説を誤りと言われるが、私は明確に放射式と考える。
その点を論じたければ御説からどうぞ。ただ、もうすぐ外出するけど。


530 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 12:28:32
>>504
お前の浅はかな世界観はそれで御仕舞なのかよ。低脳ちゃん。

531 :日本@名無史さん :2009/10/12(月) 12:36:10
>>528のつづき
で、伊都ー奴ー不彌とどうして伊都から東南、東に進んだかというと、
地図を見るとわかると思うけど、太宰府辺りからというより
大野城の辺りから、東南ー東に進むと宝満川に着くからです。
川へ行く為の行程です。奴ー不彌の行程は。ですから連続しています。


532 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/12(月) 12:40:48
>>517
  七〇〇〇里 帯方郡治〜狗邪韓国
  一〇〇〇里 狗邪韓国〜対海国《対馬》
   八〇〇里 対海国 循海岸水行
  一〇〇〇里 対海国〜一大国【壱岐】
   六〇〇里 一大国 循海岸水行
  一〇〇〇里 一大国〜末盧国《唐津湾界隈》
   五〇〇里 末盧国《唐津湾》(東南陸行)〜伊都国《惣座遺跡》
   一〇〇里 伊都國《惣座遺跡》〜奴國《佐賀城》 到女王國12000餘里
   一〇〇里 伊都國《惣座遺跡》〜不彌國《吉野ヶ里遺跡》 到女王國12000餘里
     〇里 投馬國南接不彌國《大川市中心部》 女王國
     〇里 邪馬壹國南接不彌國《久留米市南部》 女王國

533 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 12:40:49
「その南に狗奴国(くなこく)がある。男子を王としている。その官に狗古智卑狗がある。女王に属していない。」
この狗古智卑狗なのですが、串木野ではないでしょうか?
そうすると伊都国は出水国。

534 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 12:44:51
>>530
自分は池沼でない事をアピールしたいのか?
人を先に低脳馬鹿扱いする事で、自分の優越性を確保したいとする
普段から低脳扱いされている、自己防衛反応なんだろう。

535 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/12(月) 12:53:58
>>517
  七〇〇〇里 帯方郡治〜狗邪韓国
  一〇〇〇里 狗邪韓国〜対海国《対馬》
   八〇〇里 対海国 循海岸水行
  一〇〇〇里 対海国〜一大国【壱岐】
    六〇〇里 一大国 循海岸水行
  一〇〇〇里 一大国〜末盧国《唐津湾界隈》
    五〇〇里 末盧国《唐津湾》(東南陸行)〜伊都国《惣座遺跡》
   一〇〇里 伊都國《惣座遺跡》〜奴國《佐賀城》 到女王國12000餘里
   一〇〇里 伊都國《惣座遺跡》〜不彌國《吉野ヶ里遺跡》 到女王國12000餘里
      〇里 投馬國南接不彌國《大川市中心部》 女王國
      〇里 邪馬壹國南接不彌國《久留米市南部》 女王國
      〇里 狗奴國南接邪馬壹國《保田東原遺跡》 三十國に含まれず

536 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 12:54:07
>>533
狗古智卑狗は官名ですからね。地名として残っている可能性は少ないのでは?
あまりこだわらない方が良いと思いますが。

537 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 12:57:20
狗古智まで官名だとする根拠はありません。卑狗は元は官名だったかもしれませんが。

538 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/12(月) 13:00:58
>>536
狗古智卑狗は、「菊池の官」の意味と考えられる。

539 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 13:02:40
少なくとも、人名ですよね。地名ではない。

540 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 13:03:20
松浦と菊池が決まれば後は詰めの作業が残るだけですね。

541 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 13:08:39
>>534
釣られるなよキティちゃん。

542 :日本@名無史さん :2009/10/12(月) 13:24:32
末盧を松浦というのは同意できない。
唐津から東南500里(約35キロ)ならば、多久という所位まで。
佐賀までは遠すぎて500里では行けない。
末盧は博多湾の西だよ。
菊地は狗奴国の名残りだと思うので同意。
倭人伝には「其奴国此女王境界所尽」とある。
これは女王に属する国の境界という意味で女王国の境界と訳すのは誤り。
あくまで女王国は邪馬台国だから。
そしてその境界所の奴国(ナ)とは熊本の玉名郡の名(ナ)にその名残りがある。
その南は狗奴国(クナ)と狗古智卑狗の(クコチ)にな残りがあるのが、
熊本と菊地だと思う。

543 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 13:26:44
> あくまで女王国は邪馬台国だから。

失格、倭人伝について語る資格なし。消えろ!

544 :日本@名無史さん :2009/10/12(月) 13:30:34
>>543
畿内説にとっては消えて欲しいほど邪魔ですよね。
それにしても畿内説論者って凶暴な性格の人が多い気がしますけど。

545 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 13:34:15
>>544
残念でした。僕は畿内説論者じゃないですし。
反論があれば畿内説論者ですか?

546 :日本@名無史さん :2009/10/12(月) 13:36:50
>>545
何説論者かどうか位名乗ってもいいんじゃない?

547 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 13:37:29
出雲マラソンを見ながらわしも考えた。
伊都国とは出雲の国のことではなかろうか?
そういえば、末盧国と音の近い松江という良港があるではないか。


548 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/12(月) 14:24:39
>>542
>末盧を松浦というのは同意できない。

末盧國は松浦川河口だ。
魏使は、狗邪韓國から末盧國まで海峡の市糴ルートで進んだのだ。
だから魏使の行程に市糴が書かれているのだ。
市糴ルートは、狗邪韓國から末盧國まで真っ直ぐ南に進んでいる。
狗邪韓國から千里で對馬國、又千里で一大國、又千里経由で真っ直ぐ南は唐津湾になる。
末盧國が松浦川河口になるのは必然だ。


549 :日本@名無史さん :2009/10/12(月) 14:35:02
>>548
>又千里経由で真っ直ぐ南は唐津湾
これは千里にしては短い。
ほとんど唐津から佐賀までの距離に近い。それなのに唐津から佐賀を500里とするのは
なぜだろう。
それに壱岐の面積で表した方300里を周の長さとして二倍して半周分を
循海岸水行している。壱岐の九州北岸まで一層近いところに来たはずだ。
でも方300里の2倍が半周という考え方は悪いけど、トンでもだよ。
数学が出来れば、小学生でもわかること。

550 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/12(月) 14:44:26
>>542
>唐津から東南500里(約35キロ)ならば、多久という所位まで。
>佐賀までは遠すぎて500里では行けない。

唐津から東南500里(約35キロ)は、観音峠越えなら佐賀大和(惣座遺跡)になる。
佐賀大和から東へ100里(約7キロ)で吉野ヶ里遺跡に着く。
吉野ヶ里が不彌國だ。
不彌國の南には東西に流れる筑後川を挟んで投馬國と邪馬壹國がある。
西に有明海に面しているのが投馬國、東の内陸部が邪馬壹國だ。
魏志倭人伝だけで読めるのはここまで。

551 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/12(月) 14:58:06
>>549
>又千里経由で真っ直ぐ南は唐津湾
>これは千里にしては短い。

壱岐の南端から末盧國中原遺跡までは約40km600里ほどで確かに少し短い。


552 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 15:39:49
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり

553 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 15:46:22
前原が末盧です。

554 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 15:57:34
邪馬台国とはどんな国だったのか?
倭人の男子は、身分の高い低いに関係なく皆体や顔に入れ墨をしている。
男子は冠を被らず、木綿の布で頭を巻いている。衣服は広い布を体に巻いているだけで縫っていない。
女性は髪を下げたり髷を結ったりしている。単衣のような服の真ん中に穴をあけ頭を通して着ている。
つまり、鳥越のいうところの貫頭衣を着た倭族ということです。


555 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 16:11:11
突然ですが、

肥前と肥後は、もとは一つの国で肥(火)の国といわれていたらしいが、
どうして離れているんだろう。どうして間に、筑後が入っているのだろう。

556 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 16:39:21
ズバリ、邪馬台国は大村にあった。
大村とは大牟婁だった。
紀伊半島の牟婁と同じように徐福伝説と牟婁の地名は密接な関係がある。
さらに、大伴金村によって百済に割譲された任那4県の一つが牟婁である。
つまり、山東省からの倭族の移民が作った国の一つが邪馬台国だったのだ。

557 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 16:56:48
>>520

なぜ「かけ離れている」が「かけ離れた場所」に変化してしまうのでしょうか?

558 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 16:59:33
「銀河 秋彩のテーマ」

♪惑星から 追放された この悔しさは 忘れはしない

 宇宙を 旅して 目についた 地球をかならず 支配する

559 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 17:38:33
>>551
>壱岐の南端から末盧國中原遺跡までは約40km600里ほどで確かに少し短い。
やはり王朝さんの思考は、柔軟で現実的・常識的ですね。
再度、けさがたは失礼しました。

>魏使は、狗邪韓國から末盧國まで海峡の市糴ルートで進んだのだ。
同意です。

560 :うましか:2009/10/12(月) 17:50:31
>>557

> なぜ「かけ離れている」が「かけ離れた場所」に変化してしまうのでしょうか?

もともとの論点は何でしたっけw
人がゴミの上で生活できるか、とかの話ではなかったですよね?
ゴミは生活痕跡か否かです。
縄文時代以来の貝塚、話題の発端である楽浪土器が遺棄されたピット、環濠跡等々、
集落の内部や周辺に形成されるものです。
それを貴方は「かけ離れた空間」と呼ぶわけですか?

> ゴミがあり墓があるとなれば当然そこは庶民の生活環境空間とは無縁の地と判断しても
> 何も不思議なことではないでしょう。
> せいぜい行政関係の施設とそれに関連するような人の生活はあったでしょうが
> 一般的な庶民の生活空間とはかけ離れた空間であったのでは

では、問い直しましょう。
ゴミや墓があると「せいぜい行政関係の施設やその関連者の生活」はあっても
「一般的な庶民のの生活空間とはかけ離れた空間」とは、どう言う意味ですか?






561 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 18:16:00
>>560
墓やゴミを棄てるような場所なんじゃない。
人が住む場所じゃないと

562 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 18:22:08
邪馬台国大和説は、天皇家より先に大和入りして国造りをしていたニギハヤヒを祖とする大和朝廷の主宰者・物部大王家の功績を抹消するため。
古代史(卑弥呼)ブームを利用してなw 邪馬台国大和説や邪馬台国論争なんか最初から存在していないんだよw

563 :縦目仮面:2009/10/12(月) 18:38:05
うましか さんも丁寧に議論に付き合う人ですね。もともとは唐松山さんが出した糸島の楽浪土器の出
土についてなんでしょう。

弥生時代後期後半の福岡県糸島郡の曲り田遺跡や深江井牟田遺跡、御床松原遺跡等に楽浪土器の
出土が見られますが、港としての性格が想定される御床松原遺跡に対し、曲り田遺跡や深江井牟田遺
跡はいくぶん広い平地を持っており、楽浪人と倭人の直接の交渉に利便性のある場所といえるでしょう。
やはり交易の拠点と見るべきであって、ゴミ捨て場ということはないですよ。

564 ::2009/10/12(月) 18:42:35
>うましか さんも丁寧に議論に付き合う人ですね。

おれも同じこと思ってたw

あっちでは美濃、こっちでは河童君
レベル高すぎて話についていけませんわw


565 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 18:47:04
ニギハヤヒ=銅鐸勢力、ヤマト=非銅鐸勢力

こういう図式はなりたつだろうかね。

566 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 18:59:33
>>564 モンチッチは分かるが、屁のカッパはまだ欠勤じゃねえの?

567 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 19:13:11

「倭」の始まりは「弁韓」「馬韓」の小国の集まりが九州に移民をしたのが始まり。
その後、「馬韓」は「百済」となり、家族付き合いを続けており、
最終的に「百済」消滅後、「倭」と統合し、現在の「日本」となる。
「朱蒙(チュモン)」は日本の歴史番組でもある。
卑弥呼はプヨから派遣された巫女。

大和王朝 … 扶余系高句麗人の騎馬軍団が日本に来て倭国に王朝を建てたのが始まり

「白村江の戦い」以降の武蔵(東京)での朝鮮半島からの移民の歴史
●666年(天智5年)……「百済人男女約2000人東国移住」
●684年(天武13年)……「百済人僧尼以下23人を武蔵國へ移す」
●687年(持統元年)……「高麗人56人を常陸國、新羅人14人を下野國へ移住」「高麗の僧侶を含む22人を武蔵國へ移住」
●716年(霊亀2年)……高麗郡の設置(駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七カ国の高麗人1779人を武蔵國に移す)
●733年(天平5年)……「埼玉郡の新羅人徳師ら53人に金姓を与える」
●758年(天平宝字2年)……新羅郡の設置(日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵國に移住)
●760年(天平宝字4年)……「新羅人131人を武蔵の地へ移り住む」



568 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 19:37:19
>>531
連続説か放射説かの問題は、倭人伝の文章を正しい読み方を探求することが必要だろう。
自分の想定した結果からみて、連続説の方が都合がよいというだけではいけない。
それに、あなたの読み方では、不弥国から邪馬台国まで、水行三十日陸行一月はどうみて
もかかりすぎだ。なかなか賛同は得がたいと思うよ。


569 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 19:58:28
>>566
いま意外な美濃もん太部屋に出勤したみたいです。

570 :日本@名無史さん :2009/10/12(月) 20:03:44
>>568
放射説の方が都合のいい考え方だと思いますね。
結局水行三十日陸行一月にひっかかって、放射説になったわけですから。
なぜ奴国、不彌国に南ではなく東南ー東に行ったかといえば、地図を見れば分りますが、
宝満川に行く為にまず東南に山を回って、東に行くと宝満川に着くからです。
山がじゃまをして直線でいけないので、東南ー東と回りこむ形に移動したわけです。
何も検証しないで、ただ都合がいいからといって放射説をとるほうが安易な考えだと思う。


571 :山椒大夫:2009/10/12(月) 21:45:03



572 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 21:51:35
アンジュ恋しや、ホーヤレホ。ズシオ恋しや、ホーヤレホ。

573 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 22:34:13
>>570
放射説をとる学者は数多くいますが、単に都合がいいからといって放射説を
とる学者はいません。もう少し、基礎的な研究をされたらいかがでしょうか?

574 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 22:47:32
>>573
みんな連続式に読んでいた。それで見つからなかったから放射式に読んでみた。
いろいろ理屈をつけても、放射式が漢文そのものの要請ではないことは、
このことが証明しているのじゃないかな。

575 :うましか:2009/10/12(月) 22:53:35
>>563
長々と失礼しました。

ところで>>496で唐松山氏が振った楽浪土器と言うのは、三雲番上遺跡の土器捨て場のことですよね。
この楽浪土器って、結局、布留以降になっても北部九州から先には進出して来ないのですよね。
楽浪郡自体が消滅してしまったことも有るのでしょうが、その後を継いだと思われる高句麗との交流による
瀬戸内以東への影響は、この種の土器に限ってですが、思いのほか少ないのですね。

576 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 22:54:30
>>574
ちょっと違ってるんじゃないかな。

みんな連続式に読んでいた、それであれこれ研究して放射式に気がついた。
放射式に読んでも、やっぱり見つからなかった。
それでも、漢文そのものは放射式で読むべきだということがかなり浸透してきた。



577 :日本@名無史さん :2009/10/12(月) 23:14:24
>>573
基礎的な研究をされたらという言葉はそっくりそちらにお返ししたいですね。
漢文では放射式だったら去○○何里とかはっきり書きます。
伊都から放射式ならば、去伊都国百里と。
東南至奴国去伊都国百里、東至不彌国去伊都国百里、
南至投馬国去伊都国水行二十日とか。

578 :縦目仮面:2009/10/12(月) 23:14:26
>>575
まあ、楽浪郡の消滅が大きいでしょうが、楽浪土器が減少し始める古墳時代初頭以降、全羅・忠清道
系の土器などが増えてくるようですね。


579 :日本@名無史さん :2009/10/12(月) 23:31:35
577のつづき
又は奴国在伊都国東南百里、不彌国在伊都国東百里とか書きます。

580 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/12(月) 23:52:31
邪馬壹国の場所が解らないって人はさ、邪馬壹国以前に、倭の範囲が解って無いんだよ
帯方や楽浪の場所が特定出来てるのに、なんで倭が解らないのかな?


581 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 23:56:20
>>577
ほう、学者も気づかなかった見分け方ということですかね。
ぜひ、その事例を示して下さい。

582 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 00:27:56
>>576
あれこれ研究しなければ読めないというのがおかしいですよ。
仮に放射式が正しかったとしましょう。
邪馬台国が見つからないということを体験できた日本人が、はじめて放射式に読みだした。
邪馬台国の場所がわからないという体験ができない中国人は、
連続式では到達できないということを知らないから、放射式に読むことにずっと気付かなかった。
つまり、陳寿の倭人伝は、読者である同国人に理解できない欠陥文章ということになります。
そんなはずはないので、漢文そのものに放射式に読むべき必要性は備わっていないことになりませんか。

583 :日本@名無史さん :2009/10/13(火) 00:28:55
>>580

事例は、何々国去長安何里、何々国去長安何里とか箇条書きに書かれているのは
知っています。
倭人伝も放射説を採るならばどこを基点にしているかはっきりわかるように
書くと思う。


584 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 00:54:32
>>582
現代の人たちが漢文の読み方を知らないんだよ。日本人だけではなく、中国人だって
3世紀に書かれた文章を正しく読みこなすのは大変なことなのだ。
当時だったら、正しく読む人が多かったんじゃないかな。もちろん、正しく読めない
人もいただろうとは思うがね。


585 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/13(火) 01:43:19
>>584
漢文をただしく読む?
漢文って日本見たいに訓読みを付けなければ、発音した所でどの民族の言葉にもならないよ
漢文って携帯の絵文字や象形文字と一緒で、意味を表すだけの字で表意文字って奴だもん
中国人に漢字で北京語を読み書きしろって言っても出来ないよ
「字」ではあるけど「文字」かどうかって言われたら文字では無いよ
漢字を読みには、まず字の意味を覚えて、んであとはその漢文から掛かれてる意味を読み取るだけだよ


携帯の絵文字や顔文字って意味は伝わるけど日本語を読み書きする為の文字じゃないじゃん?
それと同じだよ

586 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 03:09:51
>>584
少し倭人伝から離れて考えてみたら?
他の漢籍がそんな書き方をしているのかな?

587 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/13(火) 03:44:33
「楽浪接南倭地」
とりあえず書いてある通りに楽浪より南部の昔の地名や伝承やら色々探してみってば
邪馬台国も倭人の女王もすぐ見つかるよ
だいたい邪馬台国や卑弥呼の何処が謎なの?
ちゃんと楽浪の南と界を接してるて書いてあるのに、そこを探さないから見つからないだけでしょ?


588 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 06:59:18
>>587

>「楽浪接南倭地」

どの文献に書かれている文なのか教えて下さい。
私には見つける事が出来ません。

589 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 07:30:51
>>577 >>583
漢書大宛国には次のようにあります。
 大宛国王治貴山城。去長安万二千五百五十里。・・東至都護治所四千三十一里。北至康居卑闐城千五百一十里。西南至大月氏六百九十里。北与康居、南与大月氏接。

倭人伝を放射式に読むことに反対している学者も、上の記事が貴山城を中心として大宛国の周囲のことを書いたもの、すなわち放射式に読むべきこと
は認めているよ。これをみれば、577のようなことは言えないことが明らかだろ。

590 :日本@名無史さん :2009/10/13(火) 08:17:22
>>589
でもこれはすぐ放射式ってわかる。
それにこの文と同じ書き方が、ずっと箇条書きのように続くのだし。
この文だけがあるのではない。
倭人伝の書き方とは明らかに違う。

591 :日本@名無史さん :2009/10/13(火) 08:23:12
放射式が突然伊都国で始まったわけもわからないし、
主語が伊都国なのかもわからない。
それに放射式ならなぜ東南と東と南だけなのかもわからないし。
伊都が主語ならば伊都の北と西も書いてもいいはずだ。

592 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 09:46:49
>>590
放射式ってことに異論がないならいいんだよ。577のような決めつけはできないってことだ。

>>591
伊都国で始まったことは、伊都国に至ではなく到が使われていること、伊都国から語順が変
わっていることが指摘されていることは知ってるだろ。伊都国までは、東南陸行五百里到伊
都国と進んだ趣旨がでている。そのあとは、東南至奴国百里(東南、奴国に至るには百里)
と距離が表示されているだけで、進んだということまでは書いてない。そこの違いだ。
そのほかにもいろいろあるけどね。
なぜ東南と東と南だけなのか、それは使者がそこにしか行ってないからだよ。
使者は伝聞では書いていない。実際に行ったところを書いただけなんだ。

593 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 10:16:39
>>592

至ではなく到が使われると、今までとは何がどう違うんだ?

594 :日本@名無史さん :2009/10/13(火) 11:49:33
>>590
伊都国はまだ途中だよ。万500里の地点。
女王国まで万二千里だからあと1500里残っている。
女王国までの道程途中でそれまでは連続式に書いていたのに
なんのことわりもなく伊都国から放射式になるのはおかしい。
もし放射式になるなら、途中から放射式だとわかるように去をいれたり
在をいれたりして伊都国を基点にしている文に書き換える必要があるでしょうということを577で言った。
微妙な語順の変化だけで放射式というのは物凄く無理がある。
同じ意味でもいろんな言い回しがあるのに。
漢書のは一つ一つの国の説明を箇条書きにしてあるので、
その段落中で放射説だということが良くわかる。
>使者は伝聞では書いていない。実際に行ったところを書いただけなんだ。
なぜ伝聞を書かないの。放射式ならば伝聞で十分。
せめて北くらいはどこと接するとか書かないと。
それと放射式の人はどこが女王国になるの。
女王国まで万二千里だけど。


595 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 12:49:50
>なんのことわりもなく伊都国から放射式になるのはおかしい。
断りがあるのに、従来は気づかなかっただけだよ。
世有王、皆統属女王国、郡使往来常所駐がその断りだという解釈が「邪馬台国の暗号」(安田哲也著)
に示されている。興味があったら読んでみるといい。

>なぜ伝聞を書かないの。放射式ならば伝聞で十分。
伝聞で書くかどうかは、連続説か放射説かには関係ない。どちらの説でも書くこともできる、書か
ないこともできる。使者は旁国については、一つも道里戸数を書いていない。伝聞で書くならば、
一つも書けないなんてことはないだろう。それを書いていないということは、使者は伝聞では行程
を書かなかったということだよ。自ら訪れた国のことを書いたんだ。
女王国と邪馬台国は別だ。これを同じと思い込むと、まちがえる。




596 :日本@名無史さん :2009/10/13(火) 12:54:48
>>595
世有王、皆統属女王国、郡使往来常所駐これがなぜ断りに?
都合よい解釈そのもの。安田何某とか知りませんけど、そんなもの、
読みたくもない。
一大率を置く場所だったら、四方の伝聞くらい簡単に記せたはず。
それはいいとして、
女王国はどこだと考えているの?女王国まで万二千里だよ。

597 :日本@名無史さん :2009/10/13(火) 13:15:33
>女王国と邪馬台国は別だ。これを同じと思い込むと、まちがえる。
邪馬台国は女王の都だから女王国だよ。普通に考えて。


598 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 13:16:53
>都合よい解釈そのもの。・・読みたくもない。
あ、そうですか。どんな解釈か調べもせず、どうして都合の良い解釈と断定するのか理解できないが、
仕方ないね。

>女王国はどこだと考えているの?
万二千里のところから女王国が始まるんだよ。伊都国の南、千五百里だから熊本付近だろうね。
女王国の終わりは邪馬台国よりももっと南だね。旁国奴国が境界のつきる所とある。


599 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 13:21:13
>>597
邪馬台国が女王国だったら邪馬台国すなわち女王国って書くよ。普通に考えて。


600 :日本@名無史さん :2009/10/13(火) 13:28:21
>>598
>あ、そうですか。どんな解釈か調べもせず、どうして都合の良い解釈と断定するのか理解できないが、
仕方ないね。
いえ、貴方の説明で十分わかったよ。

じゃあ、伊都国や、対馬、投馬は女王国ではないってこと?
旁国がなぜ、女王国になるの?
女王国以北は略載できるけど、その余りの旁国は書けないとあるのに。
以北だよ。旁国が女王国に含まれるなら、略載できるはず。
それとも以はそれを含めないの?
じゃ、邪馬台国だけ別扱いなわけ。


601 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 13:28:33
女王国は女王を共立した国々の総称でしょ。

その中で都が邪馬台国なだけで。
共立した国々が吉備や讃岐や播磨といった、
西日本を中心とした、瀬戸内海に面した国々ですよ。
傍国でも説明されてますから。

602 :日本@名無史さん :2009/10/13(火) 13:36:08
>>601
女王国はどこ?
伊都国は女王国に統属しているけど、女王を共立した国に含まれるよね。
だったら、伊都国も女王国だよね。じゃなぜ女王国まで万二千里?
つじつまがあわない。


603 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 13:38:06
>>600
>じゃあ、伊都国や、対馬、投馬は女王国ではないってこと?
あなた自身、伊都国は万五百里、女王国は万二千里だって言ってるんだろ。
対馬や伊都国は、当然、女王国ではないんだよ。
投馬国は万二千里よりも遠方だから女王国に入るね。
旁国も入るんだよ。女王国以北っていうのは、女王国よりも北だ。女王国は
入れないんだよ。以北って言葉から女王国および北と勘違いしている奴が多
いけどそれは間違い。


604 :日本@名無史さん :2009/10/13(火) 13:42:07
普通に考えて邪馬台国=女王国だよ。
これで全部説明できる。
水行30日と陸行1ヶ月はそれだけかかったと思う他ない。
重要なのは距離と方角。
投馬国以降は距離が書かれていないと思われているけど、
一番最後に女王国まで万二千里と書かれている。
女王国は伊都国ではないし、不彌でも奴国でもない。
邪馬台国そのもの。

605 :日本@名無史さん :2009/10/13(火) 13:44:14
>>603
支離滅裂だよ。あなたの考えは。

606 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 17:37:28
>>605
どこが? 理解力が足りないだけだろう。

607 :日本@名無史さん :2009/10/13(火) 18:09:42
>>606
倭人伝の100回以上読んだほうが言いよ。
そして、自分の説の矛盾点を探しなさいね。
例えば投馬国とか。
放射説も改めたほうがいい、ついでに。


608 :日本@名無史さん :2009/10/13(火) 18:53:00
倭人というのは現在雲南地方中心にいる少数民族で、
人数は少数民族の中では多い方の「イ族」だと思われる。
イ語 
マン 村の意味
んばー馬
いえ(家)−いえ(家)
名前は4文字。阿蘇という名字が多い。
阿詩瑪(あしめ)ある娘の名 ー 邪馬台国の伊支馬(いしめ)に良く似た名
宗教者をビモという。ー卑彌呼の卑彌(びみ)に良く似る。
<社会>
奴隷社会である。
火を崇め祭りがある。


609 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 19:09:46
>>604
邪馬台国=女王国ではうまく説明できないよ。
@ 何で表記を変えたのか? 異なる表記は別概念のはず。
A 邪馬台国までの行程を日数で表したのは里数が良く分からないからだ。
 それなのに邪馬台国までの里数を万二千里と書くはずはない。
B 女王の境界は旁国の一つ、奴国の先だ。奴国は女王国に入ることが明白。
C 女王国以北は戸数道里が書かれているはず。女王国=邪馬台国ならば、旁国は
 全て邪馬台国よりも南にあったことになる。これは不自然だ。
D 周旋五千余里。伊都国から千五百里しか行ってなければ、周旋五千余里などと
 わかるはずはない。
要するに、万二千里のところから女王国が始まるが、女王国の終わりは邪馬台国よりももっと南だ。
その女王国には、邪馬台国のほかに投馬国も旁国も入るんだ。

610 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 19:12:37
>>607
何だ、たった100回ぐらいしか読んでないのか?
我々は、千回ぐらいは読んでるよ。はい、あなたは勉強し直し。

611 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 19:40:28
女王国属領伊都国までの万五百里と女王国までの万二千里はまったく別物なんだよ

612 :◆.L.MXSPOgc :2009/10/13(火) 19:42:48
>>592
放射説ってのなら、まず狗邪韓国の南水行1000里に對馬国、一大国、末盧国があり、
さらに狗邪韓国の南東陸行500里に伊都国がある。つまり狗邪韓国と伊都国は陸続き。
さらに伊都国から南東陸行100里に奴国、東陸行100里に不彌国、南水行20日に投馬国、南水行十日陸行一月に邪馬台国がある。

これが正しい放射説の読み方。
あなたのは自分の都合の良いところだけ放射説のまねをしている似非放射説。

613 :日本@名無史さん :2009/10/13(火) 19:47:36
>>610
千回も読んでそんなに理解力がないんだ。
すごいな〜。在る意味感心。

614 :銀河 秋彩:2009/10/13(火) 19:48:56
卑弥呼の直接統治国「壹国(薩摩)」=「周旋可五千餘里」=「55m/倭人里」
http://photos.yahoo.co.jp/ph/zan23647/vwp?.dir=/761d&.dnm=ac0e.jpg&.src=ph&.view=t&.hires=t

以下・卑弥呼の直接統治国「壹国(薩摩)」の都は、現鹿児島県姶良郡隼人町姫城。
  《加治木 義博説》を支持。
「55m/倭人里」を使用。卑弥呼の「邪馬壹(やまい)(連合国)」は、【筑紫平野】。

  七〇〇〇里 帯方郡治〜狗邪韓国
  一〇〇〇里 狗邪韓国〜対海国《対馬》
  一〇〇〇里 対海国〜一大国【壱岐・魏の直接支配地】
  一〇〇〇里 一大国〜末盧国《唐津湾界隈》
   五〇〇里 末盧国《唐津湾》(東南陸行)〜★伊都国(いづら)《佐賀県小城市牛津町・港でもある・魏使常駐》
《不彌国、奴国、投馬(国)、卑弥呼の都などは、伊都国(牛津)からの★放射状説を採る》
  一五〇〇里 伊都国(牛津)〜水行十日《有明海を倭人が小舟で南下・「接女王国(女王国の国境)」の現八代市まで
《計・万二千里》……【八代市以北(「奴国・なら」の南・玉名市か熊本市以南)は、……
…… …… …… ……通行不可の、不仲の卑弥弓呼の狗奴国(旧奴国→百済)ゆえの「水行十日」】
   「余(国内)」……「接女王国(国境)」の八代市から球磨川沿いを遡り、山越えして南下、
        卑弥呼の直接統治国「壹国(薩摩)」の都、隼人町姫城までが「余=陸行一ヶ月」=倭人の歩み。

水行二十日・投馬(国)……伊都国(いづら)から、有明海を水行二十日南下し、「トカラ列島の宝島」に。

615 :銀河 秋彩:2009/10/13(火) 19:53:43
でも、台与の「邪馬台国」の都は、【京都郡香春】だ。

  【大倭(臺倭)国・九州近江(&)豊国王朝・蘇我系〔秋〕=(臺倭→大倭→)大和朝廷】側
【●鏡圏】……『万葉集』に記載は、斉王 芳(魏の少帝・中国北朝)が支持した、
(★本流)季歴後の、臺与(台与・蘇我系)の「邪馬臺(連合国)」=【台与(→豊)国・大分県】
西暦248年成立【西暦248年9月5日の、日の出時の日蝕(天照大神=台与→豊の出現を揶揄)】
  ●当時の臺与の都は、京都(みやこ)郡香春=現京都郡みやこ町御所ケ谷(神籠石あり)
http://www.yado.co.jp/tiiki/tikuhou/gosyogatani/gosyogatani.htm
【鏡圏・イ妥国(九州台与(→豊)国&九州近江王朝)→大倭(臺倭)国・蘇我系】
『隋書』「イ妥国(臺国)伝」の、「小野妹子」=「蘇我卑弥呼」。
「小野妹子」は「蘇因高」=【蘇(我)の卑弥呼(「ピぃもこ」のピ音が欠落して「ぃもこ」)】
「東の天皇敬みて西の皇帝に白す、〜」・推古天皇(額田王・太田皇女=小野妹子)
こちらが、皇祖神が天照大(御)神=(天照近江神)の【大和朝廷】側。
九州近江王朝、斉明太上天皇の都は、不知火海(近江)の「御所ケ浦島」。
  大后(おほきさき)=【斉明太上天皇(安見児・鏡王女・吹黄刀自)】の御歌一首
鯨魚(いさな)取り 近江の海を 沖放(さ)けて 漕ぎ来る船 〜(巻2・153)

  『万葉集』より
☆ 大君の和魂あへや豊国の鏡の山を宮と定むる (巻3・420)
☆ 豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず (巻3・421)
☆ 岩戸破らむ手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく (巻3・422)
☆ 豊国の香春(かわら)は我家【(わぎへ)わが皇統家】
  紐【皇緒】児(ひものこ)にいつがり居れば香春は我家 (巻9・1771)
なお、『万葉集』の巻五には、【斉王 芳(魏の少帝・中国北朝)】の、
☆「芳命を奉(うけたま)はらむ」、☆芳音(ほういん)、☆芳旨(ほうし)、☆芳藻(ほうそう)、
☆芳席(ほうせき)等々が記載されている。
これらの「芳〜」は、【(斉王)芳・魏の少帝】を下に曳いている。

616 :◆.L.MXSPOgc :2009/10/13(火) 19:55:30
>>84 >>87 >>90 >>97
周髀算経のレスありがとうございます。なるほど巻上8に、一寸千里と同等の記述がありますね。

しかしこれを書いたときは、影が一寸短く(長く)なる距離1000里は実測だろうと思っていましたが、
よそスレでの話を読む限り、どうもあやしいようですね。

他に周代あるいは以前に、短里を使用していたらしい何かの話などありましたっけ?
# 赤壁の船の距離の話以外でw


617 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 20:03:26
銀河 秋彩のテーマ

♪惑星から 追放された この悔しさは 忘れはしない。
 
  宇宙を 旅して 目についた 地球を必ず 支配する。

618 :日本@名無史さん :2009/10/13(火) 20:03:57
>>609
>4旁国は全て邪馬台国よりも南にあったことになる
そうだよ、北半分があるなら南半分。
傍国は南半分にある。
3、女王の境界とは女王国の境界と訳せば、傍国も邪馬台国含め女王国の一つ。
私は女王に属する国の境界と訳したけど。それならば、伊都なども女王国に属する国なので、
漢に通じた30カ国を数える場合、説明しやすいかなと思ったんだけど。
傍国を女王国に入れても別にそれでもいいよ。でも伊都や不彌、奴、対馬、壱岐、投馬は女王国ではないよね。
5.周旋五千里は南の黒歯島と裸国の周りの長さだよ。
倭の国の周りだったら、極小さいものになってしまう。
倭の地は広い。


619 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 20:20:36
もう話題が終わってしまいましたが、狗邪韓国は韓半島南端部の国で、倭の領域でしょう。
從郡至倭を受けての到其北岸狗邪韓國、しかも歴韓國なので韓の領域ではありませんね。
韓伝の東西以海為限南與倭接も、南も海であるなら東西南以海為限と書かれていたことでしょう。

其北岸が少し話題になっていましたが、北岸と続けてよまずに(分かりやすいように其を倭に書き換えて)
「倭の北の岸」と読めば、”倭の北”の岸(倭の領域の北のほうに位置する岸)と読めると思いますがどうでしょうか。


620 :◆.L.MXSPOgc :2009/10/13(火) 20:21:49
>>619
名無しになってしまいました、私です。

621 :日本@名無史さん :2009/10/13(火) 20:25:58
>>610
勿論、漢文で千回読んでいるんだよね。初めから終まで通して。
他人の訳文などを何千回読んでも進歩しないよ。
誤りがそのまま刷り込まれてしまうから。

622 :◆.L.MXSPOgc :2009/10/13(火) 20:33:42
>>614
はじめまして♪
私も末盧国から佐賀平野に抜ける説の者といえるのですが、それはさておき、
末盧国から佐賀平野に抜ける説としては、博多の委奴国の金印はどのように考えられているのでしょうか?

今まで聞いた説では、
・奴国は有明海から博多湾までの超大国であった
・金印を持った奴国が北に追われ最後に島に隠した
・奴国と金印の委奴国は別の国
の3つくらいでしょうか。
どれもファンタジーレベルで、奴国=博多(那の津)の比定を覆せるものではないように感じています。

銀河さんはどうなのでしょうか。
他の佐賀平野抜けルート説の方も、よければ回答してください♪


623 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/13(火) 20:55:52
>>616
周代あるいは以前に短里を使用していた記事は知らないが、倭人伝では郡(現ソウル辺り)から九州
北岸まで1万餘里となるから1里を430mだとすれば約4300kmである。実際の距離の約5倍である。
したがって、ここで使われている里は約80mとみることができよう。周髀算経からの計算値にほぼ合っ
ていると言えるだろう。千里を実測していないだろうという議論が終止符スレでなされていたようだが、
文献に見出せないだけかも知れないな。実測があったかなかったかは(現時点では)分らないというこ
とだろう。だが、倭人伝では短い里が使われていることは確かだね。

624 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 21:08:50
そろそろ、機内説、九州説に分かれたスレットに戻るべきだと思う


625 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/13(火) 21:20:28
>>622
横からだが、
金印を貰った奴国は2世紀に内紛により分裂したのではないか。私の推測では帥升(生口160人を
後漢に献じた倭王)が乗っ取ったのであろう。この内紛で金印を持って逃走した王族の一派が志賀
島で金印を落としたのではないか。帥升は金印を受け継ぐことが出来ず、金印紛失の詫びと倭王と
しての認知を求めて朝見を求めたのではないだろうか。結果、記録はないが、帥升は佐賀県東南部
に新しく奴国を建て、旧奴国は存続したが盟主的地位を失った。

626 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 21:25:08
>金印を持って逃走した王族の一派が志賀島で金印を落としたのではないか。帥升は金印を受け継ぐことが出来
金印紛失の詫びと倭王としての認知を求めて朝見を求めたのではないだろうか。

おめーは、マクモニーグルか?なんでそんなことがわかるんだよ。

627 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/13(火) 21:30:05
つか九州なら九州、畿内なら畿内でいいからさ、倭人伝の記述から「ここだ」と思う場所があったなら、
次は、検討した地域の歴史や地名や伝承などをとにかく片っ端から探してみ?

んで、倭人伝にあるような人物や出来事などがそこにかつてあるのか無いのかだよ


倭人伝なんて好きに解釈したら良いんだし、どんな解釈した所でそれが正しいか違うのかなんて解らないでしょ?
それが正しければ、その地域に同じ歴史などが残ってるよ

推測をしたなら次は答合わせをしなきゃでしょ?
つかそういう事とかやってないでしょ?

628 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 21:31:57
檻に戻れ!

629 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 21:33:33
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif

630 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 21:36:57
金印やりましょうか。

1、「漢の倭(委)の奴(な)の国王」説  2、「漢の委奴(いと・ゐど)の国王」  3、偽印説  4、その他

倭 - 上古音 uar 中古音 ua 近古音 uo 現代音 u?

奴 - 上古音 nag 中古音 no(ndo) 近古音 nu 現代音 nu


631 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 21:37:17
佐賀越えルートは魅力的だが
伊都国、奴国の出土状況からかなり有力な国家であることは確実だと思う
これらの国を無視するとは考えにくい。そのため、それ以上思考が進まない。

あと、糸島、早良、佐賀、吉野ヶ里は三ツ瀬峠で繋がっている。
これらの背振山地周辺は結構つながりが深い。
この関係が何かを示唆していないかを考えている。


632 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/13(火) 21:42:25
>>626
頭の硬い人間には分らんだろうが、世の中には想像力を持つ人間もいるのだ。漢委奴国王印が志賀島という
辺鄙な場所の農地に埋まっていたのだ。容易ならぬ騒動があったことが窺えるだろ。その金印は57年に光
武帝から貰ったもの。それから半世紀の後に帥升が朝見を求めている。それも生口160人という貢物をもって。
そこからの推理だよ。

633 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/13(火) 21:44:43
>>630
漢字の字音てのはその音には何も意味ないよw
表意文字なんだから調べるなら漢字の意味の方だよ
ちなみに「印」の漢字の意味を調べてみ?
つかほとんどの人が「印」を「ハンコ」の意味って思い込んでるでしょ?
ちなみに確かハンコを表す漢字は「判」て字だったよ


「金印=金で作られたハンコ」
本当にこんな解釈してて良いの?
ちゃんと漢字の意味ぐらい調べてみた?

634 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 21:46:09
アホが。>結果、記録はないが、帥升は佐賀県東南部に新しく奴国を建て、旧奴国は存続したが盟主的地位を失った。
デタラメ以外の何物でもねーじゃねーか。おい、じいさん。こんなわけわからんでまかせ書いて何になる???
暇だったら、夜警でもやって孫におもちゃでもかってやれや。wwwwwww


635 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 21:48:11
>>621
言語は他人に教わらなければ習得できない。
生まれた赤ちゃんが、誰にも習わずに読み書きできるようにはならない。
自分ひとりで漢文千回読んでも、自分の間違いを抜けられない。

636 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 21:48:24
>>634
そのコテは根拠がなく、しかも考古資料が嫌いで有名なんだよ。寝言だと思ってスルーすればいいよ。


637 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/13(火) 21:49:18
「金印」
この漢字って「金で作られたハンコ」って意味の漢字なの?
あと「紫なんとか」ってのもあったでしょ?


まあどんな解釈をしようが勝手だとは思うけど、印て字の意味ぐらい調べてみて解釈すべきでしょ?
ちなみに印は日本語では「しるし・しるべ」だよ

638 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 21:51:31
檻に戻れ!!!

639 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 21:52:13
>>633

>「金印=金で作られたハンコ」
本当にこんな解釈してて良いの?
ちゃんと漢字の意味ぐらい調べてみた?


「印」とは、作り出される影という意味だよ

640 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 21:59:45
ざわざわざわ。河童来たんじゃない。やーね。

641 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/13(火) 22:00:10
634の小僧
アホはおまえだ。おまえに何がわかるのだ?おまえはなぜ志賀島から金印がでたのかわかるか?2世紀の
日本がどのような状況だったか分るか?推理するしかないだろが。人に罵声を浴びせるだけでなくおまえ
自身の考えを披露してみろ。

642 :日本@名無史さん :2009/10/13(火) 22:02:06
>>635
なんだ、日本語の訳文を読んでたんだね。
悪いことは言わない。それじゃ進歩がない。漢文は
難しいだろうけど、一つ一つ漢字を辞書で調べて
意味をつなげてご覧よ。
訳文を読むよりずっと有意義だよ。
そんな弱気じゃいけません。

643 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/13(火) 22:02:15
>>639
あとうら覚えだけど、印の同意語は「位」とかじゃなかったっけ?
あと「授」
日本では「さずかる」って読む
子供を授かる
命を授かる
ありがたいお言葉を授かる


644 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 22:05:39
うら覚え って何だ?胡乱なやつだな。

645 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/13(火) 22:07:10
>>641
その島で見つかったのは「黄金で作られたハンコ」でしょ?
で、漢倭奴国王だっけ?


つか「印」の漢字の意味ぐらい調べた方がいいよ

646 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/13(火) 22:15:10
>>645 <「印」の漢字の意味ぐらい調べた方がいいよ >
ん、儂に言ってるのか?印は名詞としては『印章(はんこ)』と『しるし、跡」だよ。金印とは金で作られた
はんこのことだ。


647 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 22:15:40
金印について、
1、「隠匿説」− 倭国大乱のあおりで、金印は隠されたと言う説。
2、「遺棄説」− 同様に、何らかの原因で棄てられたとする説。
3,「墳墓説」− 奴国王の墳墓ではないかとの説。
4、「王宮説」− 奴国王の王宮が近くにあったのではないかとする説。
5、「金印偽作説」 − 金印そのものが、後世の偽物であるとする説。

 

648 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/13(火) 22:16:55
ちなみに印の後にある「授」も調べてみ?
2つ合わせて「印授」でしょ?
でその次が「受」だっけ?
確か印授を退官した時は「印授退」だったかな?


つか漢字の意味をちゃんと調べてみ?
「金印授受」って書いてあるんでしょ?

「印授」の意味とか知らないの?

649 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 22:21:17
>>645

君の場合、鑑と印を区別しているだけでも立派だよ

>>643

>あとうら覚えだけど、印の同意語は「位」とかじゃなかったっけ?

それは初耳


650 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/13(火) 22:22:21
>>646
別にそう解釈しても構わないさ
ただ他に違う意味でも解釈出来るって事は知っておいた方がいいと思うよ

「印授受」とか「印授退」とかってのは、ハンコをどうだなんて時なんかより、もっと違う場合によく使われる文なんだし


651 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 22:27:47
>>630
まず、「漢委奴国王」は、漢の倭(委)の奴(な)の国王。
後漢書、「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀」より。
魏志韓伝の弁辰○○國と同じ。

652 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/13(火) 22:29:08
コテ・ハンか〜。w

もん太どの 位山とか日輪神社へ行ったことがあるの?

653 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 22:34:21
>>642
635は横からのレス。
白文でも、自分で句読を切って読めるよ。
それでも、他人の翻訳は虚心坦懐に読むようにしてる。
自分ひとりで読めた気になってるのはいただけない。

654 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 22:35:16
>>646

>金印とは金で作られた はんこのことだ。

今はそれで通じているけど、本当は 「金の鑑とそれより発生した影」という意味だよ


655 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 22:35:43
>>630
奴国王は、
建武二十年、韓人廉斯人蘇馬?等詣樂浪貢獻。
光武封蘇馬?為漢廉斯邑君、使屬樂浪郡、四時朝謁。(後漢書弁辰伝)
の、漢廉斯邑君、と同様、北九州の倭人社会の代表者として後漢に承認された。

656 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 22:38:23
だけど、奴国王に金印をあげちゃったら、倭国王の立場はどうなるの?
やっぱり倭奴国と読むべきじゃないか

657 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 22:44:19
>>630
「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」(後漢書)
に受け継がれ、
「桓霊間倭國大亂、更相攻伐、暦年無主」(後漢書)
のとき没落した。
(その後、卑弥呼共立)
「到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國」(魏志倭人伝)
の世有王として、名目だけ存続。

658 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/13(火) 22:45:36
まあ調べない人もいると思うから書くけど
漢字の意味ってより国語辞典の方になるのかな?
「印授」てのは高官に授けられる帯紐の事で、「印授帯」とかとも呼ぶ
色が付いてて、その色は地位を表すもので、金や紫や赤や緑などがあるんだよ
ただし基本的には中国には熟語は無いよ
だから印授受を高官の地位に就いたと日本と同じ意味で書いてるかどうかは俺は知らない
ただどのみち、この話が卑弥呼が中国に従えたって話であれば、邪馬壹国ってのは倭国ではなく中国の皇帝の支配下の1つって解釈をすべきだとも思うし

「魏時」って所から中国の皇帝に従えた話と解釈されてるんだけど、別にこの話は倭人伝なんだから倭の話として解釈しても良いと思うんだけどね


659 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 22:47:47
>>618
旁国は邪馬台国や投馬国の傍らにあった国々だ。当然、邪馬台国の北にもあるんだよ。
南ばかりなんて奇妙な形になるわけがない。

>伊都や不彌、奴、対馬、壱岐、投馬は女王国ではないよね。
伊都や不彌、奴、対馬、壱岐は女王国ではない。以北の国々だ。しかし、投馬国は女王
国に入るよ。以北の国だったら一大率の検察下だ。北九州にいた一大率が水行二十日も
かかるところにある大国投馬国を検察するわけがない。

>周旋五千里は南の黒歯島と裸国の周りの長さだよ。
倭人伝の読み方が足らんよ。黒歯島や裸国は船で一年もかかる遠方だ。そんなところ
の大きさが分かる訳がない。倭国ではない国の大きさを書くはずもない。
周旋五千里は「倭の地」の大きさを表した数字だ。海の距離ではない。末盧国からぐ
るりと廻って九州南端までの距離だ。約400キロ。ぴったりだろうが。

660 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/13(火) 22:54:45
>>652
無いよ
それに位山が信仰の対象とされてたのは昔の話でしょ?
今の位山は磐座なんかも壊されたりしてるらしいじゃん

なんか両面スクナの旗を掲げて飛騨の群衆が誰かしらに戦いを挑んで破れたなんて話もあったしさ


まあ現地まで行って現地の史跡や現地の奴等がまとめたりしてる歴史書なんか読めばもっと沢山詳しくいろんな伝承をしる事は出来るだろうね
けどネットでくまなく探せばある程度そういう伝承とかは見付けられるよ
俺一応、位山って言ってるけど、乗鞍岳や御嶽の方なのかも知れないし

661 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 22:56:11
>>630
金印の喪失時期は、
1.奴国王から伊都国王への政権交代時か? 伊都国=佐賀の場合。
2.倭国大乱時か? 奴国王から伊都国王へは発展的継承、伊都国=前原の場合。
3.邪馬台国滅亡時か? 邪馬台国=九州説の場合。

662 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/13(火) 22:58:08
>>657
「安帝」てさ誰の事って解釈されてます?
安東制大将軍(だったかな?)とか言う倭人がいた事とか知ってますか?

663 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/13(火) 22:59:10
それがしは日輪神社へは行ったよ。いい所だぞ。来年あたり行くのをお勧めだ。
例の黄金を盗まれた飛騨の洞窟の近くに両面宿禰の磐があったとと思った。そこ
も見て、後日宿禰だと気がついた。

664 :日本@名無史さん :2009/10/13(火) 23:03:16
>>653
>それでも、他人の翻訳は虚心坦懐に読むようにしてる。
自分ひとりで読めた気になってるのはいただけない。
それはいろいろ他人のものを参考にするよ。
そういうことを言っているのではない。
他人の訳文(日本語)を何度読んでも進歩がないよと。
読むなら漢文で読んだ方がいいよということ。
其の方が新しい発見があるし他人にはない自分の考えも浮かぶよ。

>自分ひとりで読めた気になってるのはいただけない。
そういうことはないと思うよ。何度も読んでくると
おのずと読めるようになるって良く言うでしょ。漢字は表意語だから、
外国人が学ぶには便利な言葉。
中国語を知らなくても辞書を引けば意味は伝わる。
何かネガティブ思考だよね。



665 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/13(火) 23:08:51
「金印授受」

「黄金で作られたハンコを授かり受け取った」
って解釈も出来るだろうけど

「金の印授を受けた」
つまり高い地位に着いたって言う解釈も出来るって事も理解して読んだ方が良いよ

なんか聞いてるとハンコに拘りすぎの人いるから
「昔の中国てはハンコを与えて国と認め、、、」とかスゲー話を飛躍させる人もいるし
そこまで話を飛躍させちゃうと、それはもう解釈じゃなく単なる妄想だよ
「金印授受」て漢文に対して、そこまで想像を膨らませる必要無いよ


666 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 23:11:40
漢文で読むことも必要、他人の訳文を読むことも必要なんだよ。
我流でまともに読めるほど簡単なものではない。

667 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 23:11:45
>>664
漢文読むのも、他人の訳を参考にするのも当たり前。
別に漢文を読めとか、他人の訳は役に立たないとか力説するようなことじゃない。
それで良いんじゃない。

668 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 23:13:34
>>665
金印紫綬だ。印綬だ。

授受ではない。紫の綬。手偏ではなくて糸偏だ。

授ではない。綬だ。

669 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/13(火) 23:22:10
>>663
両面スクナて言葉は多分、後に付けられた名前だし、両面スクナの旗の元に集い争いに破れた人達も両面スクナと呼ばれてたんだと思うよ

両面スクナって容姿を表してるだけの言葉で名前じゃないし

ただ位山は昔になんかいたんだろうね
義経が鞍馬天狗の元に主義してたクラマ山てのも、あれ位山の事だよ。周辺には義経や弁慶の縁や由来の話も沢山あったよ(付近の乗鞍の方かもだけど)
クラマ天狗(クラマ仙人)の容姿も両面スクナのようなバケモノ扱いされてるしね

艮の神、日玉の国、日輪の神、国の常立命、サナトラクラーマ、クラーマ天狗、、、
あの周辺にまつわる伝承はなんか凄い伝承ばかりだよ
シリウス星やら惑星の移動やら、大地変やら、詳しい伝承が沢山残されてるし


670 :日本@名無史さん :2009/10/13(火) 23:25:48
>>659
>投馬国は女王 国に入るよ。
略載出来る国に投馬国は含まれているのだから、女王国より北で
女王国ではないはず。何度も読んでる割には理解力ないですね。そういう矛盾に気が付かないとは。
>黒歯島や裸国は船で一年もかかる遠方だ。そんなところ
の大きさが分かる訳がない。倭国ではない国の大きさを書くはずもない
黒歯島や裸国も倭の地ですよ。
周囲は倭人が計った長さだ。
そこまでが伝聞で聞いた限界なの。文の流れから言って、黒歯島や裸国のことを言っているのがわかりませんか?
そこで、いきなり倭の国の周囲の長さがでるはずもなく、しかも五千里ではとても
収まらない。
何か、文を細切れにブツブツ切って読んで、都合よい解釈しますよね。
放射説の特徴?


671 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/13(火) 23:27:17
>>668
つか「糸」の方が都合いいんだけど?
印授て帯紐の事なんだし
つかやっぱその印を表す紫とかの色も書いてあるんだね


金印紫授
黄金で作られたバンコをムラサキヒモ?


やっぱ変だよな
別にどんな解釈しようが勝手だけど

672 :日本@名無史さん :2009/10/13(火) 23:28:20
>>666
>>667
どうせ読むなら漢文で読んだほうがいいでしょうよ。
何度も読むならね。
そのうち判ってくるよ。
なんでそう最初からあきらめるんだろ。

673 :縦目仮面:2009/10/13(火) 23:44:19
両面宿儺は実に興味深いので一言。和歌山市の千塚古墳群の大日山35号墳(6世紀初)から、
両面の人物埴輪が出土してますが、一方の目はつり上がり、一方の目は垂れ下がり、イレズミ
の意匠も違ってて興味深いとしか言いようがない。このリンクにあるように一人の人物の二面性
を表すとするのが妥当な解釈かもしれないが、とすると、これは大魔神だね。

必見↓
http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?storyid=115989

674 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 23:48:30
>>670
>略載出来る国に投馬国は含まれているのだから、女王国より北で女王国ではないはず。
単純だねえ。読む回数が足りないとそんな読みをするんだよ。投馬国が一大率の検察を受
けるってのがおかしいと思わないのか? 略載できるのは邪馬台国だってそうだ。一大率
を派遣した本国が一大率の検察を受けるのか? 以北でない国は略載できないって書いて
あるか? 略載できないのは、旁国だけなんだよ。以北でなくても大国は略載できるんだ。

>黒歯島や裸国も倭の地ですよ。
そんな馬鹿なことを行ってる奴がどれだけいるか、調べてみな。いったいどこまで倭国の
領土を広げる気だ。船で一年もかかるところが倭国のはずはあるまい。
侏儒国だって倭人の国ではないんだ。


675 :日本@名無史さん :2009/10/13(火) 23:57:32
>>674
だからあなたの説は間違っているんですよ。
倭人伝の記載どおりに説明できないから。
だから邪馬台国も略載できるから以北なんだよ。あなたは以北の以は
含まれないと言った。あなたの説では説明不能だよ。全部自分の頭の中で
都合よく考えている。
少しは貴方の説に付き合ってあげてるってこと気が付いてよ。
一年もかかるというけど、貴方が昔のこと知っているんですか?
朱儒国だって倭の地ですよ。人種は違うけど。去女王国4千里ですよ。
280キロ南です。これは島ではありません。九州の陸地内です。
島とは一言も書いてないから。
その点、黒歯国と裸国は海中洲と書いてあるので、島だとわかる。


676 :縦目仮面:2009/10/14(水) 00:03:26
あとは位山か。これは両面宿儺ゆかりの地で、宿儺が神武天皇に位を授けたからという伝承も
あるようだけど、宿儺自体が書紀の仁徳紀に出てくる人物(妖怪?)だから完全に時代が混乱し
ている。

位山は、まあWikiに、「朝廷に位山のイチイを笏の材料として献上した際、この木が一位の官位
を賜ったことから木はイチイ、山は位山と呼ばれるようになったという説があり、現在でも天皇即
位に際して位山のイチイの笏が献上されている。」と書かれてて、ありそうな話ではあるけど・・・。

実は各地にある位牌山の一つかもしれない。何か多くの死があったのかもね。
位牌山ー地境の形が位牌に似た山。これを所有し伐木する家は死人を出すなどといって忌み
嫌われた。




677 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 00:06:05
>>675
あなたは本気で一大率は邪馬台国や投馬国を検察していたと思っているのかな?
あきれた話だ。
私の説はちゃんと辻褄が合ってるだろ。女王国は万二千里から始まる。それより
南は大国(邪馬台国と投馬国)について略載できるだけで、旁国(傍らにある小
さい国だ)は略載できない。それで、すっきりとしているじゃないか?
以北という言葉は、今は基準点を含むと解されることが多いけど、もともとはけ
してそうと限った言葉ではないんだよ。女王国以北は女王国を含まないんだ。

678 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/14(水) 00:11:40
>>676
位山って書いて「クラマやま」だよ
艮の神のサナトラ・クラーマ伝承の地でシャンバラへの入り口があるとされる山
日玉の国、日丸の国
近くになんとか神社があると思うけど、その神社とかにもいろんな話があるよ
つかその地域一帯の町や村の伝承とかさ

679 :日本@名無史さん :2009/10/14(水) 00:17:39
>南は大国(邪馬台国と投馬国)について略載できるだけで
そんなことどこにも書かれていない。
>あなたは本気で一大率は邪馬台国や投馬国を検察していたと思っているのかな?
いつそういう話題を出しましたっけ?

一大率は邪馬台国の出張機関みたいなもので伊都にいる、そして諸国を監視。
投馬国は検察していたよ。以北だから邪馬台国も入る。
安全面の監視じゃないの、邪馬台国の場合は。


680 :縦目仮面:2009/10/14(水) 00:17:43
>>678
www俺もたまにムーは読むんで、言ってることはだいたいわかりますよ。しかし両面宿儺自体は
史実としても、地方の叛乱の一つとかではないですかね。両面四手というのは、武に優れ二面性
を持った人物がキャラクター化されたとか。


681 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 00:28:54
>>679
旁国について略載できないとあったら、大国については略載できると分かるじゃないか。
そんな読み方も知らんのかね。それは、反対解釈というんだよ。
以北だといったら、それは一大率の記事との関係で、検察を受ける国だということになる
んだ。そこの関連は意識して読まないといけないな。一大率は北九州にいるんだ。
それが投馬国や邪馬台国を検察するなどありえんよ。あなたの論法では検察すると言わざ
るを得ないかもしれんが、その辺でおかしいと思わなければな。

>朱儒国だって倭の地ですよ。人種は違うけど。去女王国4千里ですよ。〜九州の陸地内です。
女王国の大きさを考えないのかな。倭国は30国、侏儒国が入る余地はないよ。
学者の本を少しは読んでみな。だいたい侏儒国は南方の島とか書いている。



682 :縦目仮面:2009/10/14(水) 00:34:21
金印は発見の口上書に書かれてる石の遺構があるのかどうかで全然解釈が違ってくるでしょうね。
「二人で持つほどの石これあり」が真実かどうか。「金印考文」にあるような三方を囲む石があったと
したら、箱式石棺の一方が破れたものかもしれない。この場合ははっきりと埋納されたものだろうが、
いつまでもその遺構が発見されないので、遺棄説なども出てくる。ただ実際の出土地は金印公園
付近ではなく、浸食を受けて今は海の中かもしれないですね。

683 :日本@名無史さん :2009/10/14(水) 00:36:29
>>679
>旁国について略載できないとあったら、大国については略載できると分かるじゃないか。
なんでそうなるの。
だって略載出来た国が北だって書いてあるじゃない。
女王国以北の国はその戸数道里が略載できるって。
投馬国は略載できてるから、北でしょうが。
順番からいっても邪馬台国の前に紹介されているし。
だから連続説だよって言っているの私は。放射説じゃブツブツの細切れだから説明不能なの、
こじつけないと。
>倭国は30国、侏儒国が入る余地はないよ
もうなんという読み方してるの。
30カ国は魏に通じている国の数。
そのほかにも倭の地にはいくらも国が在るってことわからない?


684 :寝る前:2009/10/14(水) 00:38:33
>ただ実際の出土地は金印公園付近ではなく、浸食を受けて今は海の中かもしれないですね。

おい、おい、田んぼだてw しかも箱式石棺の一方が破れたものでもないww
じゃ〜ねるw

685 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 00:44:19
>>683
>だって略載出来た国が北だって書いてあるじゃない。
そんなことは、書いてないよ。以北は略載できる、それだけだ。以北でないところ
は? 全部が略載できないとは書いてない。旁国のみできないとあるんだ。

686 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 00:55:52
>>683
>30カ国は魏に通じている国の数。
>そのほかにも倭の地にはいくらも国が在るってことわからない?
畿内説なんぞをとると、そんな解釈をしないと辻褄が合わなくなるが、文章的にそう
解釈すべきものではないよ。旧百余国・・・今30国。これが対応しているんだ。
倭国は元は百余国だったが、今は30国でそれらは使訳を通じている、そう読むべきだよ。


687 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 01:38:54
>>672
倭人伝千回も読んだらあかんて。
たとえば、同じひらがなを千回も書いてたら、
なんか妙な感じになって、もう字に見えんようになるやろ。
それと同じで、そればっか読んでたら、
おかしゅうなって、まともな漢文の感覚が狂うわ。

688 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 07:40:58
三国志全体を読み砕いて、三国志のほかの地域についての記述がどの程度信頼性があるのか、
特に倭人伝などの辺境についての記述が、どれくらい正確に書かれているのか研究した人はいないのですか?
そうすれば、倭人伝がどの程度の信頼性を持って読み解くべきか見当がつくというものです。


689 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 08:03:26
>688
おそらく横断的に読んでる人はいないと思う
みんな邪馬台国をネタにしてディベートを楽しんでる感じだし
本来に邪馬台国について知りたいなら、もっと外堀から埋める議論をするわな
当時の生産力からみた人口分布から、可能性のある地域を絞って行くとか、行きなり場所論争なんかしない
でも学者も場所ありきで発表してしまっているんだが、受け狙いとしか思えない

690 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/14(水) 11:52:43
>>688-689

おりますよ。

三国志だけでなく隋書までの漢籍の東夷部分を比較精査しています。
従来説とは様子の異なる半島列島地図が出来つつあります。

卑彌呼の都は217年頃久留米南部に置かれたようです。
それ以来大宰府に遷都するまで続いたようです。

参考までに隋代の半島南部九州地図を載せますね。



691 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/14(水) 11:54:58
〜〜〜〜┗━┓高麗∵∵┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
→→→→→┐┗━┬──┴━┓∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜隋使進路↓〜〜┃∵∵∵∵│∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓〜〜┃∵∵∵∵│∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┏━┻━━━┫∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┗┓◎居抜城┃∵┃新羅◎┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┳───↓〜┃百濟∵┏┻━┛∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜↑〜〜〜↓┏┻━━━┛∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜三〜〜〜↓┗┓∵∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━
〜月〜〜〜↓┏╋━━━━┛〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵
〜行〜〜〜↓┗┛竹島〜〜〜〜〜〜┃┃都斯麻國〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵
〜│〜〜〜└→→→→→→→→→┐┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵
〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜隋使進路〜└→→→→┐〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┏┓
〜┻───┏━┓ タンラ國 〜〜〜〜〜〜┏┓↓〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃┗
〜〜〜〜〜┗━┛(済州島) 〜〜〜一支國┗┛↓〜┏━━╋━━━┯━┛〜
東西方向千里×南北方向数百里〜〜〜〜〜┏○━┛∵∵┗━┓〜↑〜〜┏
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛竹斯國∵∵∵∵┃〜│〜┏┛
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┏┓◎邪靡堆∵┗┓│〜┗┓
タンラ國 :[身冉]羅國 :俀國伝 〜〜〜〜〜┗┓┃┗┓∵∵∵∵∵┃│〜〜┗
〜〜〜〜:[身冉]牟羅國:百濟伝 〜〜〜〜│┗┛┏┛∵俀國∵┏┛五〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│┏┓┃∵∵∵∵┏┛│月〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│┗╋┛∵∵∵∵┃〜│行〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜┃∵∵∵∵∵┃〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜┗┓┏┓∵┏┛〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜┗┛┃┏┛〜〜│↓〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜〜┗┛───┼┷〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┠←──三月行──→┨〜〜〜〜


692 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/14(水) 14:30:23
>>673
東京上野の国立科学博物館でのシカン展の展示品に四面のがあっ
たよ。

693 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/14(水) 15:08:27
∵∵∵∵┏━┓∵∵遼東∵┌───┬┬∵∵       『 随書の半島世界 』
∵∵∵┏┛〜┗┓∵∵∵┌┘∵∵∵│↑∵∵
∵∵┏┛〜〜┏┛∵∵┌┘∵∵∵∵││∵∵∵∵∵┏━┛〜〜〜〜〜〜〜〜 
∵┏┛〜〜┏┛∵∵┌┘○好太王碑││∵∵∵┏━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┏┛〜〜┏┛∵∵┏┻┓∵∵∵∵∵││∵∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜┏┛∵┏━┛〜┗┓高麗∵∵│2000里┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜┗━━┛〜〜〜〜┃∵∵∵∵││∵┃〜〜其國東西二千里南北千餘里
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵◎平壌││∵┗┓〜都於平壌城〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛←1000里→┤↓∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┠──────┴─┐∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━┓∵∵∵∵│∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『 随書の半島世界 』 〜〜〜〜┃楽浪郡∵│∵∵∵┃楽浪郡=高麗新羅紛争地
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛(旧百濟)│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜┬─────┠────┐∵│∵∵┃〜其國東西四百五十里〜
〜〜〜〜 450里〜〜〜百濟┃∵◎居抜│∵│∵∵┃〜南北九百餘里〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜┼─────┠────┼─┘新羅┃〜南接新羅北拒高麗〜〜
其南海行三月↑〜〜〜〜〜┠─900里 ┤∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
有[身冉]牟 〜│〜〜〜〜┏┛∵∵新羅∵∵∵∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
羅國〜〜〜三月行〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜貊國●〜│〜〜〜┗┓∴┏━━━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜●〜〜│〜竹島●┗━┛〜〜〜〜〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
貊國●〜〜〜│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃┃都斯麻國〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜↓〜〜├1000里┤〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜┼──┏━━━┓〜[身冉]牟羅國南北千餘里東西數百里〜〜〜
〜〜〜数百里┴──┗━━━┛〜[身冉]牟羅國=耽牟羅国(発音同一)〜〜〜


694 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 17:06:42
九州王朝はトンデモ読みをするから、いくら研究したといっても役に立たない。

695 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 18:27:44
>>691
・・・行至竹島 南望タン羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國・・・

原文からは壱岐国、竹斯國、秦王國には寄らずに、これらの国の西を南下しているとおもわれますが
どうですか。



696 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 18:40:10
>>695

なぜ、何処も寄らずに南下しているように書かれたかわかるかな?

697 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 21:20:52
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった

698 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 22:04:35
>>696
>なぜ、何処も寄らずに南下しているように書かれたかわかるかな?
先行動詞の 行 がないから。かな、それとも
大倭国の都が魏志の頃にくらべて南下していた。阿蘇の記述もあることだし。


699 :日本@名無史さん :2009/10/14(水) 22:10:24
辺境といえば、
朱儒国は女王国から南に4千里だから、
女王国=邪馬台国だから、私は邪馬台国福岡瀬高町説なので、そこから南に
短里で280キロ。
直線距離で200キロ超の薩摩半島辺りが適当かと思う。
フィリピンにいるネグリト系(小人族)の人々がいた国だと思われる。
フィリピンー(台湾)←無い場合もあるー琉球諸島ー薩南諸島ー薩摩半島へと
島を渡ってたどりつける。
朱儒国は倭人からの伝聞で魏使はそこへは行っていない。なにしろ傍国へも行っていないので。

700 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 22:10:38
>>690
三国志、隋書って、同系列ではないでしょうか
原典が同じというか、後に書かれた書物が前書を引用してるでしょ
向こうは、そうやって引き継いでいく訳です
横断的とは言えない様な・・・・

701 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 22:12:11
古代の道は菟道といって、目的地まで一直線でした。
目当ての山を見失ったら、もう、生きて戻れなくなります。
山賊も出たし、寄り道は厳禁です。

702 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 22:17:24
>>700
>原典が同じというか、後に書かれた書物が前書を引用してるでしょ
>向こうは、そうやって引き継いでいく訳です
>横断的とは言えない様な・・・・

基本的にはそうだと思います。でも隋書のときには  裴清 が使として実際きているので、
都の場所が変わっていれば、それを基に変更されたとは考えられませんか。


703 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 22:19:37
>>702
すみません。このレス取り消しです。

704 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 22:22:12
>>702
なんで邪馬台国と飛鳥朝廷が関係あるんですか?
魏と隋も関係ありませんよね

705 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 22:27:11
>>699
戸数7万戸の邪馬台国の広さはどのように考えるのかな?
去女王というときは、王女がいた王宮からではなく、女王国の境界からの距離
だと思うが、その点はどう考えてるのかな?

女王国東渡海千里はどのように考えるのかな?

706 :日本@名無史さん :2009/10/14(水) 22:40:48
>>705
すみませんが、あなたとは説が違うので説明しても反論されるだけですから
答えません。
わかる人がわかればいいのです。
女王国東渡海千里は説明不能です。
畿内も日向説にとっても不能なので同じ立場です。
東千里は短里で70キロですから。




707 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 22:51:35
>>706
日向説からは簡単に説明できるよ。女王国の領域を広く考えるだけだ。
大分まで女王国とみる。そうすれば、大分から四国は渡海千里だ。

708 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 22:55:14
邪馬台国は有明海沿岸です

709 :日本@名無史さん :2009/10/14(水) 22:55:50
>>707
あ、そうですか。それは良かったですねw

710 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 23:04:51
畿内説でも容易に説明できるよ。
女王の国を九州まで広げるんだ。
そうすれば松浦も糸島も女王国。

711 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 23:14:59
>>707
「東渡海千餘里」とは女王国の東の伊勢湾を渡ると千里であると言うことだ。

712 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 23:18:33
戸数7万戸は何に基づく数字なの?
魏使が数えたの?
戸数調査があったの?
それとも推定?

なにかの論拠にできるものなの?

713 :日本@名無史さん :2009/10/14(水) 23:20:32
それなら、福岡瀬高町の正東の大分県佐賀関から海を千里わたると四国だw。

714 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 23:26:21
>>712
倭人から説明を受けたんだろうな。当時だって、税の徴収や徴兵のためには、必ず戸数を把握する
必要がある。10戸を束ねる組長、組長10人を束ねる大組長、大組長10人を束ねる大大組長と
いったピラミッドを作っておけば、大大組長が何人いるかで全体の戸数は把握できる。


715 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/14(水) 23:39:19
>>695
>原文からは壱岐国、竹斯國、秦王國には寄らずに、これらの国の西を南下しているとおもわれますがどうですか。

『度百濟 行至竹島 南望[身冉]羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國・・・・又經十餘國 達於海岸』
これらの国の西を南下しているようには読めませんが。

度百濟:東に向かって黄海を渡った
行至竹島:百濟の西を南下。地形的に南下以外の他のルートはありません。
南望[身冉]羅國:南下したのは竹島の西側か東側かわかりません。[身冉]羅國の北側を東進しています。
經都斯麻國 迥在大海中:都斯麻國へ東進して来て、都斯麻國の南側に回りこんだ。
又東至一支國:[身冉]羅國の北側から東進していることが確認できます。
又至竹斯國:一支國で進行方向を元の南下に戻した。
又東至秦王國:上陸したかどうか書いていないが、東に向かった。


これらの国の西を上陸しないで南下していると解釈する場合。
別解

又至竹斯國:一支國の西側を南下後、九州の西海岸(竹斯國)を南下。
又東至秦王國:長崎野母崎を曲がって天草灘を東進、秦王國は島原か天草となる。
又經十餘國:島原湾から有明海と進行、両岸に十餘國在り。
達於海岸:有明海の東海岸に到着。別記事から東海岸と判別できる。
この解釈の場合、邪靡堆の都は久留米市からみやま市の山裾に存在することになる。


716 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 00:18:02
>>714
そうかもしれない。アリガト。

717 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 00:33:23
>>714
それは貴方の想像でしょ?
邪馬台国でそのようなシステムがあったとはどこにも書かれていない
戸籍の最古は庚午年籍だし、現存する資料としては延喜式くらい

718 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 00:43:23
>>717
想像と言えば想像だが。隋書倭国伝に倭国のピラミッド組織のことが載ってるのは
知ってるんだろうな。そのような組織が3世紀当時もあったのかも知れない、そう
考えたまでだよ。使者が7万戸を数えるはずはないからね。


719 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 00:47:54
>>718
>>隋書倭国伝に倭国のピラミッド組織のことが載ってる
どこに何と書かれていますか?

720 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 01:04:31
>>719
軍尼120人あり、なお中国の牧宰の如し。80戸に1伊尼翼を置く、今の里長
の如きなり。10伊尼翼は1軍尼に属す。

721 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 01:32:01
>>720
それは多利思比の時代でしょ


722 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/15(木) 01:33:03
>>719
隋書俀國傳 第三段落目
『王妻號雞彌・・・・・・・戸可十萬』

『有軍尼一百二十人 猶中國牧宰 八十戸置一伊尼翼 如今里長也 十伊尼翼屬一軍尼』
80戸×10伊尼翼×120軍尼=96,000戸

『戸可十萬』
総戸数 100,000戸

723 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 01:47:46
1戸=30人 として (養老令)
300万人か、そんなもんだろう、奈良時代で500万人という話だから

724 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/15(木) 02:02:59
>>723
九州島だけで300万人になるね。

下地図参照

725 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/15(木) 02:06:33
〜〜〜〜┗━┓高麗∵∵┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
→→→→→┐┗━┬──┴━┓∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜隋使進路↓〜〜┃∵∵∵∵│∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓〜〜┃∵∵∵∵│∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┏━┻━━━┫∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┗┓◎居抜城┃∵┃新羅◎┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┳───↓〜┃百濟∵┏┻━┛∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜↑〜〜〜↓┏┻━━━┛∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜三〜〜〜↓┗┓∵∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━
〜月〜〜〜↓┏╋━━━━┛〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵
〜行〜〜〜↓┗┛竹島〜〜〜〜〜〜┃┃都斯麻國〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵
〜│〜〜〜└→→→→→→→→→┐┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵
〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜隋使進路〜└→→→→┐〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┏┓
〜┻───┏━┓ タンラ國 〜〜〜〜〜〜┏┓↓〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃┗
〜〜〜〜〜┗━┛(済州島) 〜〜〜一支國┗┛↓〜┏━━╋━━━┯━┛〜
東西方向千里×南北方向数百里〜〜〜〜〜┏○━┛∵∵┗━┓〜↑〜〜┏
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛竹斯國∵∵∵∵┃〜│〜┏┛
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┏┓◎邪靡堆∵┗┓│〜┗┓
タンラ國 :[身冉]羅國 :俀國伝 〜〜〜〜〜┗┓┃┗┓∵∵∵∵∵┃│〜〜┗
〜〜〜〜:[身冉]牟羅國:百濟伝 〜〜〜〜│┗┛┏┛∵俀國∵┏┛五〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│┏┓┃∵∵∵∵┏┛│月〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│┗╋┛∵∵∵∵┃〜│行〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜┃∵∵∵∵∵┃〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜┗┓┏┓∵┏┛〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜┗┛┃┏┛〜〜│↓〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜〜┗┛───┼┷〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┠←──三月行──→┨〜〜〜〜

726 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 02:09:09
>>724
奈良時代の九州の人口は13%ですよ
500万人×0.13=65万人ですね

727 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/15(木) 02:16:15
>>726
隋書俀國傳百濟傳の記述に従うと俀國の範囲は九州島のみ。
俀國が300万人なら、九州の人口は300万人

728 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 02:25:56
江戸中期以降でも、九州は200万人くらいじゃないかな
明治になって、やっと300万人くらいだから

729 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 02:36:29
>>721
確かにそうだよな。
ここの記述は官位十二階の制度と共に記載されている。

邪馬台国の時代にこのような整えられた制度が
あったと想定するのは短絡的過ぎるだろうな。

730 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 07:11:03
>>729
 時代が違ったところで、戸数を把握するために作る組織なんて似たようなものさ。
 →>>718

>>723
 養老令なんぞ持ち出して1戸の人数を決めるのは間違いのもとだ。
 隋使が来たころと、養老令の時代とでは我が国の状況はまったくちがう。


731 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 07:57:46
養老令の頃でさえ、人口はそのくらいだと線引きしてるのさ
弥生時代ならそれ以下と言うこと
弥生時代の資料がなくても、現存するその資料から上限は導き出せる
当たり前のことをやってるだけだよ
自分はエンジニアだから、まず既知のデータをもとに拘束条件を固めて設計していく
平安中期の生産力がそうである以上、弥生時代はもっとスペックが低いと考えるのがエンジニアの考え方

732 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 11:33:39
隋書倭国伝は九州にあった倭国の話だ。
列島全体の人口だと思い込んでるのがまちがいだって言ってるんだよ。


733 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 12:26:49
倭の大乱の遺跡的をさっさと出せよ!九州説論者さんよ!

734 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 12:27:44
倭の大乱の遺跡的根拠をさっさと出せよ!九州説論者さんよ!

735 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 12:37:43
私の祖父は福岡県と大分県と熊本県の県境の山中の小さな村に住んでいたが、その村の田畑は全部合わせて
40町歩で人口は千人に達していたそうだ。明治、大正の時代に農地1町歩当たり25人の人口だ。化学肥料も
農薬も使っていない。稲も昔の種で、反当収量は6〜7俵だったそうだ。各家には鶏と牛が飼われていた。
養蚕もやっていたし、織物も作っていた。昔の人間は働き者だったようだ。弥生時代だって、米の収量は低か
ったかも知れんが、相当な数の人間が生存できただろう。邪馬壹国の7万余戸(30万人)や投馬国の5万余戸
(20万余人)だってちっとも不思議じゃないぞ。


736 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/15(木) 13:02:59
>>735
同意します。

九州王朝はなかったスレから引用します。

119 :のんびりひまじん:2009/10/15(木) 09:24:24
前半省略
なお、3世紀三国志について
蜀が魏に降伏したとき、戸数28万男女94万、
(呉が晋に降伏したとき、戸数52万男女老幼230万)を
参考にすると、邪馬壱国だけで蜀(四川盆地)の4分の一見当として参考意見です。

邪馬台国と同時代で気候も似た呉のケースを参考にすると、
邪馬台国の総人口(男女老幼)は30万人です。

蜀のケースを参考にすると、
邪馬台国の人口(成人男女)は23万人です。

総人口(男女老幼)30万人≒人口(成人男女)23万人ですね。

倭の15.5万戸は総人口70万人となります。
有明海沿岸の全筑紫平野に70万人は十分に収容可能です。

737 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 13:03:06
1世紀から3世紀にかけて、大陸も半島も列島も戦乱の多かった時代だ。稲が列島に齎されて
以来人口が急激に増加したが、時々天候不順による凶作も起ったため食料の奪い合いの戦争が
発生した。このため各地に環濠や柵を巡らした防御的集落が作られる。また瀬戸内や近畿には
避難地も兼ねたと思われる高地性集落も作られた。列島に強大な権力を持つ王権が成立するま
では常に戦争の危険があった。そのような時代に天下を治めることの出来た者は食料生産技術
(農地の開発や灌漑施設の整備や栽培法の開発)に優れ、産物の保存や分配のシステムを持ち、
人心を掌握出来た人物(集団)であったろう。

738 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/15(木) 13:29:37
民族の定義を「話す言葉の違い」って意味で言うけど

まずちゃんと王朝にしろ国にしろ地域にしろ、当時はどこがどの民族なのかってのをちゃんと特定した方がいいよ
三國志とかはちゃんと倭人とかフヨ人とか民族の分布などを記す事から書いてる訳だから
邪馬台国や倭人てのは今の日本人の事でしょ?

で、したら魏って何よ?

魏てのは地名?朝廷名? 何なの?
ちなみに卑弥呼が貢いで従ったのは、どの民族って書いてあるの?


真女?秦?韓?
つか倭人の卑弥呼が従う先は普通に考えて倭朝廷でしょ?


739 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/15(木) 13:32:46
例えば新羅ってのが何民族の王なのかってのはここのスレでやってるよ
http://same.ula.cc/test/r.so/academy6.2ch.net/history/1255217841/l10?guid=ON

つか魏に関しては地域名なのか朝廷名なのかすら解らん
魏人なんて民族もいやしないし


740 :日本@名無史さん :2009/10/15(木) 13:59:26
倭国は江南地方の人が移り住んでいる地域という認識だよ、陳寿などは。
だから、海南島の朱崖などと同じだといったり、会稽の少康を例に出したりして
比較している。わかっていたんだよ。
その後日本人を構成する一民族になったことは間違いないけど。
邪馬台国の繁栄ぶりなどを見れば。


741 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 14:01:35
>>737
>また瀬戸内や近畿には

倭国大乱は本州・四国も巻き込む乱だったわけだね。同意。

とすると乱収拾で倭王となった卑弥呼は、九州だけでなく
本州・四国の勢力からしても、その上に立つ存在だったわけだ。

742 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/15(木) 14:04:55
>>740
て事は、当時江南地域にいた民族が倭人て事でいいの?

江南地域には日本語を話す倭人がいたんだ?
んで、日本に移りすんだはいいけど、江南に残った同じ民族の倭人達は何処に行った訳?

743 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/15(木) 14:09:33
楽浪人、韓国人、鮮卑人、フヨ人、女真人、倭人、、、

倭国や邪馬台国は倭人ってのはわかったてば
で、その他は?
ちなみに清は女真人でしょ?


漢は韓国人?

744 :日本@名無史さん :2009/10/15(木) 14:13:57
倭族は雲南、タイ、マレーシアなどに多い。
風俗が日本とよく似ているよ。


745 :日本@名無史さん :2009/10/15(木) 14:21:41
支配者と被支配者の民族が違うのはよくあること。
中原の漢が地方を支配する時、当然地方の民族は異民族。
一概に何国人は何民族とはいえない。
だんだん融合していき混血人になるわけで。
男系では支配者の遺伝子にだんだん纏められていくよ。


746 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/15(木) 14:33:03
>>744
>>745
だから初めに「民族の定義を同じ語源の集団」としてるでしょ?

融合だの関係なく、例えば「漢王朝」て言うなら、その皇帝は何語を話す民族だったのか? って事だよ

言葉が消滅してれば民族は消滅してるとして、そもそも「漢」てのは古代漢人の事で良いの?
フヨは真女人?




747 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/15(木) 14:48:25
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/sou-teiki.html
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-hongi.html
つか帝紀にある○○帝がどの民族なのか?って所からでも良いんだよ

武帝、安帝、明帝、順帝、文帝、

ある程度特定出来る人とかいるでしょ?
例えば文帝てのは「楽浪人王」であれば楽浪人だよ。祖がフヨ人とか後の高句羅だとか書いてある

んで安帝てのは倭人でしょ?


そうやって特定出来るものは特定してこうよ

748 :日本@名無史さん :2009/10/15(木) 14:48:49
フヨの支配者も移り住んだ人だ。韓伝にある。
元は、狛人がいて、狩猟漁労採集民だ。
沿海州辺りにいた沃ソという国人がその特徴を残しているよ。
満州地方の支配者はその風俗から、ウチモンゴル人だよ。
弁髪やら、刺繍の豪華な絹衣などがその例。
女真人とはいうけど、もとはウチモンゴル系だよ。

749 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/15(木) 14:56:33
>>748
つか女真人はマンチュリ民族でしょ?
モンゴルはモンゴル民族だし
つか
日本民族、朝鮮民族、韓(漢)民族、モンゴル民族、マンチュリ民族

魏志に書かれてる帯方や倭などの地域で現存してる民族(語源)はこの五つぐらいだよ
百済や新羅や高句里とかもこうした民族の誰かでしょ?


あのさ魏志などの24史って満州国の正史なんだから、例えば上海民族とかは出て来ないでしょ?



750 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/15(木) 15:08:15
http://www.google.co.jp/gwt/n?u=http%3A%2F%2Fwww.ceres.dti.ne.jp%2F%7Ealex-x%2Fkanseki%2Fgi-syou1.html&_gwt_noimg=1&hl=ja&source=m

これ見る限りじゃ「魏氏」とか「漢晋」とか、要は暦を表す年号見たいなもんじゃないの?
もしくは書物の名前だとか

魏国やら晋なんてのは全く出て来ないんだけど、どこを見れば魏だの漢だの晋だのが中国の皇帝なんて書いてあるの?



751 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 15:10:18
>>742
>て事は、当時江南地域にいた民族が倭人て事でいいの?

逆でしょ。江南にいた人等も倭国へ渡ったってことでしょ。

752 :日本@名無史さん :2009/10/15(木) 15:11:07
倭族は東南アジアに多いけど、
言語は日本語と同じSOV型が多い、チベット地方もSOV型。
北方のアルタイ語もSOV型だけど、
もともと倭族もSOV型だったんだよ。
日本語はSOV型が基礎になり、いろいろな言葉が混じって出来た。
奈良以降は唐の影響が強かったので中国語も日本語の重要な要素になったようだけど、
語順までは影響しなかったようだ。

753 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/15(木) 15:24:48
「魏」てさ、これ「晋の韓ら三族の魏氏族」の事じゃないの?

魏が中国を統治した皇帝?
24を色々探してるけど何処にもそんな事書いて無いんだけど?



754 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/15(木) 15:34:26
>>747
つか24史ても多分やっぱ帝紀が解りやすいと思う

>>747が魏志などの帝紀だけど、これってそれぞれ何人なのか解りやすくない?
文帝→フヨ人、楽浪王、高句麗

安帝→倭人、倭国王
武帝→倭人、新羅王

あってるかな?
とにかくこうやって帝紀に書かれてる王をうめてけば民族や地域などのある程度の特定は出来るよ

もしここに魏とか呉とか漢とかが出てこなければ、んな皇帝は元々居ないよ

755 :美濃もん太 ◆RoY2GHF3nI :2009/10/15(木) 15:44:16
http://poke.ula.cc/pcview.cgi/www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/teireki1.html
中国って「帝暦」なんて言って、帝紀の皇帝を順に並べちゃってるけど、これらの皇帝ってマンチュリ人や日本人もいるのに良いのかな?

まあ別に日本の安帝や高句麗の文帝が、中国の皇帝に付いたって時期があったとしても別におかしくわないか
中国の皇帝なんて別に何民族でもなれる地位なんだろうし

756 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 17:49:35
>>755
では平成の世は平成族が統治するの?

757 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 18:36:14
魏とは3世紀に現在の中国の北は北京辺りから東は山東省、西は陝西省、南は徐州辺りまでを版図として
曹操から数代に亘って曹氏が支配していた国だ。もん太よこれで納得してもううるさい書き込みは止めて
くれ。

758 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 19:35:53
鉄器も、労働力としての牛馬もないのに豊かな農地が容易にできると
考えている人は多いようだなあ。
そんなに生産力があるなら不味いドングリがあんなに出土するかよ。
弥生遺跡ではドングリやトチノミ、クリなんかの堅果類は
コメよりはるかに多く発見されてるんだぜ。

759 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 20:38:01
>>735それではちょっとした天候不順だけであすのコメにも困る事態が起きたろうし、
天保、天明の飢饉ではたぶん村ごと全滅して、そのあと移り住んだ人が祖先だと思う。
江戸時代だけではなく、鎌倉時代にも平安時代にも飢饉の記録は数多く残る。
古墳時代から同じ場所に住み続けた住民は存在しないと考えたほうがいい。


760 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 21:32:16
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり

761 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 23:51:25
>>759
天候不順による凶作はあったろうよ。またそれによる食料の奪い合いもあったろうよ。だが、村人全部
が飢え死にする事態はごく稀だったろう。飢饉が起こり得ることは知っていた筈だし、それに備えて豊
作の時は備蓄したり、非常用食料(木の実など)も備えていたと考えた方がいい。なにしろ食料で苦労
して生きていた時代だ。それくらいの智慧はあっただろう。

762 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 00:09:53
>>735
>>明治、大正の時代に・・・・反当収量は6〜7俵だったそうだ

そうすると1町歩あたり60〜70俵という事ですよね。
それはたいそう立派な美田をお持ちだったのだと思います。

私は次のようなデータを使ってます
@現代 73.9俵/町歩(全国平均)
A大正 39.6俵/町歩(全国平均)
B太閤検地の頃
 上田 反あたり一石五斗=38.5俵/町歩
 中田 反あたり一石三斗=33.3俵/町歩
 下田 反あたり一石一斗=28.2俵/町歩
C大宝令の田令 
 上田(稲 500束/町)=25.7俵/町歩
 中田(稲 400束/町)=20.5俵/町歩
 下田(稲 300束/町)=15.4俵/町歩
 下下田(稲 150束/町)=7.7俵/町歩
(すべて現代の1俵=玄米4斗=60Kg に換算した値)


763 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 00:10:13
(つづき)
仰るように、1町歩あたり60〜70俵の場合で、農地1町歩当たり25人としますと、
大宝令の頃では、20.5÷60×25人=8.54人/町歩 となります。

『延喜式』(延喜5年 - 延長5年)によると、九州の水田は 117,448町歩 ですから、
117,448×8.54=1,003,005.9人 という数字が出ます。
九州一島では、およそ100万人が食えるという計算です。

奴国(二万余戸)、投馬国(五万余戸)、邪馬台国(七万余戸)合わせて14万戸ですが、
もし“弥生時代に平安中期ほどの生産力があれば”ですが、九州内に包括可能でしょう。

でも、九州は北高南低という格差がありまして、
日向 7,400町歩、薩摩 4,800町歩、大隅 4,800町歩 なんですよね、
だから、邪馬台国を九州南部に否定する事は難しいでしょう。
日向なんて、7,400×8.54=63,196人 くらいですよ養える人口は。
そこに邪馬台国(七万余戸=30万人くらい?)を持って来るのはナンセンスでしょう。

764 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 00:18:36
>>448
「♪邪馬台国 ドンと来い♪56」のほうで、やってます
農業生産力の面から、九州南部(日向とか)に邪馬台国(七万余戸=30万人くらい?)は無理という意見です
そのデータから、邪馬台国の所在地論争をやるなら、私は九州からは外します


765 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/16(金) 00:18:46
邪馬壹国は熊本県、宮崎県および大分県東部に跨がる大国だったんだよ。

766 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 00:18:55
誤爆しました

767 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 00:21:04
>>765
旧国制でいうと、どこに跨りますか?

768 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/16(金) 00:29:02
>>767
旧国制ていつのものかな。江戸時代に呼ばれていた国の名で言えば、肥後、日向、豊後に跨がっていたね。


769 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 00:40:31
>>768
豊後 17,500町歩、肥後 23,500町歩、日向 7,400町歩だから、
48,400×8.54=413,336人 ですね、邪馬台国(七万余戸=30万人くらい?)は比定可能でしょう
あくまで平安中期(AD900頃)の生産力ベースの話ですが

770 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 01:03:36
ドンと来い♪

771 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 03:03:45
数字に振り回されて馬鹿な計算をやっているものだ。
南九州に我が国の中心が置かれていたのは遅くとも7世紀までだ。8世紀以降は、近畿が
中心だからな。和名抄の数字を持ち出してあれこれ言ってるが、和名抄が成立したのは1
0世紀半ばの話、南九州が放棄されてから数百年たってできたものだ。
南九州が放棄された後は、当然のことながら、南九州の人口は激減したんだよ。人がいな
くなれば農地だってなくなる。時代の進展とともに少しずつでも増えるだろうなんてのは
通常の発展過程をたどる場合で、放棄したような場合にはまったく当てはまらない話だ。

772 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 03:11:49
>>771
ぜひ証拠を

773 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 07:18:04
>>772
10世紀の資料ではなく、3世紀又はそれに続く数百年をみようとなれば、当然、古墳の
状況だよ。これはそこに人が住んでいたという証拠だ。
九州全体のどの程度の人間が日向に住んでいたのか?日向には前方後円墳200基をはじ
め円墳その他で数千基の古墳があるという。
北九州はどうか? 有名な八女古墳群でも前方後円墳10基など百基程度の古墳にすぎな
い。佐賀や大分を含めた北九州全体でみても日向一国にはるかに及ばない。熊本はまあ、
まあ、薩摩は特別の葬制で古墳の数で人口をみるのは適当でない。
ということは、九州の人口のかなりの部分が日向に集中していたってことだよ。日向の古
墳は出現期のものからある。邪馬台国時代だって日向に人口が集中していたんだ。

それに、中国の史書、宋書や隋書の倭国伝だな。それと記紀だ。倭の五王に対応する天皇
はいない。いろいろこじつけても、いいかげんな話ばかり。魏から親魏倭王の称号を受け
た、宋から称号をもらったなどという話はまったくない。隋使が訪ねた先も九州であるこ
とは明らか。倭の地は東高西低の島一つだけで、阿蘇山がありだ。当時、大和は推古天皇、
女帝のはずだね。隋使が訪ねたのは男王だ。

以上をみれば、隋使がきたのは南九州。したがって、その後に南九州が放棄されたのは明
らかなはずだ。

774 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 07:31:08
古墳や出土品状況ではやっぱり畿内だな。
南九州は狗奴国でしょ。

775 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 07:47:09
テレビを見ていてふと気がついた。
投馬国とは鞆の浦、そう、ポニョの里だったのだ。
これでまた謎が解けた!

776 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 07:59:41
東西五月南北三月で九州のみではないことは明白だがな〜

777 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 08:48:09
>>776
対象となる時間軸が違うだろ

778 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 10:25:35
>>773
>3世紀又はそれに続く数百年をみようとなれば、当然、古墳の状況だよ。

墓を比べれば、
3世紀以前=北九州>日向
4世紀以降=畿内>日向
だな。

779 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 10:55:08
> 3世紀以前=北九州>日向
どうかな。確かに弥生時代の副葬品は北九州の方が豪華なようだが、それが国力を反映
しているかどうかは何ともいえないね。副葬品を派手にいるれるかどうかは習慣の相違
ということも多分にある。
それと、北九州が栄えていたとしても、倭国の乱を契機に南九州との立場が逆転したと
いうことだな。古墳時代にはいってからの北九州はぱっとしない。

> 4世紀以降=畿内>日向
東征軍の活躍を反映したものだろう。


780 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 11:02:15
>邪馬壹国は熊本県、宮崎県および大分県東部に跨がる大国だったんだよ。

常識がないね。
7万戸の方が怪しい。

781 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 11:07:06
>>779
>それが国力を反映しているかどうかは何ともいえないね。
言ってることが真逆。

>東征軍の活躍
裏付けなし。妄想。

782 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/16(金) 11:17:03
>>780
おまえさんの常識とはなんだ?過去から延々と積み上げられてきた誤謬の集積か?おまえさんは天動説
の時代に生きているのではないか?おまえさんの考え得る範囲のものだけが常識だと思っているだろ。
新しいものを生み出す能力はおまえさんのような思考回路しか持たぬ人間には無縁だね。

783 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 11:42:31
>>776
東西五月南北三月は、九州以外にはないだろ。四国説かね?
どこからどこが5月、どこからどこが3月?

784 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 11:48:05
>>783

九州の西から関東の東まで五月
関東の南から支配北限まで三月

785 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 11:54:07
支配北限て稚内か?

786 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/16(金) 12:06:18
>>776,>>783,>>784
〜〜〜〜┗━┓高麗∵∵┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
→→→→→┐┗━┬──┴━┓∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜隋使進路↓〜〜┃∵∵∵∵│∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓〜〜┃∵∵∵∵│∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┏━┻━━━┫∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┗┓◎居抜城┃∵┃新羅◎┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┳───↓〜┃百濟∵┏┻━┛∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜↑〜〜〜↓┏┻━━━┛∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜三〜〜〜↓┗┓∵∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━
〜月〜〜〜↓┏╋━━━━┛〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵
〜行〜〜〜↓┗┛竹島〜〜〜〜〜〜┃┃都斯麻國〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵
〜│〜〜〜└→→→→→→→→→┐┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵
〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜隋使進路〜└→→→→┐〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┏┓
〜┻───┏━┓ タンラ國 〜〜〜〜〜〜┏┓↓〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃┗
〜〜〜〜〜┗━┛(済州島) 〜〜〜一支國┗┛↓〜┏━━╋━━━┯━┛〜
東西方向千里×南北方向数百里〜〜〜〜〜┏○━┛∵∵┗━┓〜↑〜〜┏
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛竹斯國∵∵∵∵┃〜│〜┏┛
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┏┓◎邪靡堆∵┗┓│〜┗┓
タンラ國 :[身冉]羅國 :俀國伝 〜〜〜〜〜┗┓┃┗┓∵∵∵∵∵┃│〜〜┗
〜〜〜〜:[身冉]牟羅國:百濟伝 〜〜〜〜│┗┛┏┛∵俀國∵┏┛五〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│┏┓┃∵∵∵∵┏┛│月〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│┗╋┛∵∵∵∵┃〜│行〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜┃∵∵∵∵∵┃〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜┗┓┏┓∵┏┛〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜┗┛┃┏┛〜〜│↓〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜〜┗┛───┼┷〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┠←──三月行──→┨〜〜〜〜


787 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/16(金) 12:09:42
>>776,>>783,>>784
上記地図の根拠

半島記事
@『其南海行三月、有[身冉]牟羅國、南北千餘里、東西數百里』隋書百濟伝
A『俀國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居』隋書俀国伝
B『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海』隋書俀国伝
C『度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國』隋書俀國伝
九州記事
D『其地勢東高西下、都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也』隋書俀国伝
E『又東至秦王國・・・・又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於俀』隋書俀國伝
F『倭王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎。後十日又遣大禮哥多毘従二百余騎郊勞既至彼都』隋書俀國伝
G『從郡至倭・・・・・・・自郡至女王國萬二千餘里』魏志倭人伝
H『魏志倭人伝』と『隋書俀國伝』の地理的整合性
I『此地帝都近気於今在一百餘歳一百年竟遷京北方在三百年之後』「聖徳太子伝暦」推古二五年条(617年)

備考
済州島の国名と読み方
耽羅::タムラ・タンラ・タムナ
耽牟羅::タムラ・タンラ・タムモラ
[身冉]羅::タムラ・タンラ
[身冉]牟羅::タムラ・タンラ・タムモラ


788 :日本@名無史さん :2009/10/16(金) 12:12:25
延喜式はみたところ、社寺の私有地である荘園の全国のデータだよ。
荘園はごく一部のものだから、一般の農民の水田は入ってないよ。
データをみれば、おかしいってピンとくる。筑前のほうが筑後より多いし、
一郷あたり50戸とみんな一律だし。そんなものを持ってきて、
人口、戸数を論じようったってそれは無理というもの。


789 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 13:01:18
>>788
延喜式で不輸租田とか墾田としてあがっている数字が、いわゆる荘園だよ
国内総じて何町歩、うち不輸租田が何町歩、口分田が何町歩、荒廃して作付け不能の田が何町歩という具合にちゃんと書いてある
国府の役人が荘園だけ数え上げて報告して何になる?

790 :日本@名無史さん :2009/10/16(金) 13:12:55
荘園は莫大な広さを持っていたんだよ。
不輸租田とか墾田としてあがっている数字がどれ位かしらないけど、
公地と同じくらいの広さを所有していただろう。
いわゆる貴族、(領主)と社寺の荘園は莫大なものだったんだよ。
いかにも荘園らしいではないですか、一郷に付き50戸は。
それは荘園民で荘園であがる収益からいくらかを貰って生計を立てていた人々だよ。


791 :日本@名無史さん :2009/10/16(金) 13:23:14
>国内総じて何町歩、うち不輸租田が何町歩、口分田が何町歩、荒廃して作付け不能の田が何町歩という具合にちゃんと書いてある
こんなのが荘園のわけないw。


792 :日本@名無史さん :2009/10/16(金) 13:24:51
ほんとに勉強不足っていうか、歴史を学ぶセンスの無い人が多いよね。

793 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 15:56:06
↑オメエ様が一番センスなかんべ。

794 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 18:02:58
□□□□□□□□□□□□■明日開催です■□□□□□□□□□□□□
 【10/17(土)】日本解体阻止!! 守るぞ日本! 国民総決起集会&デモ
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【外国人地方参政権付与】【人権擁護法】國神社に代わる「国立追悼施設」の建設、
皇室典範改悪、日教組教育の推進、国防・安全保障の軽視、友愛精神に基づく
「東アジア共同体」 ――― ”戦後最大の危機”を迎えた中、日本を守るために何が出来るのか?
今こそ、草莽ひとりひとりが立ち上がるときです! 多くの皆様のご参集をお待ちしております!

            平成21年10月17日(土) ※ 雨天決行!
            大シンポジウム  13時00分〜15時30分

           デモ行進 (国会付近)  16時00分〜17時00分
      ※ 国会や各党前でのデモは不可。あくまで近隣のデモ行進です。

             http://www.ch-sakura.jp/topix/1290.html

■場所 : 砂防会館別館 「シェーンバッハサボー」 大会議室(東京メトロ「永田町」駅 徒歩1分)
  地図はこちら http://www.sabo.or.jp/map.htm
■登壇予定 [敬称略・順不同]
  城内 実、平沼赳夫、山谷えり子、稲田朋美、西田昌司、中山成彬、
  西村眞悟、赤池誠章、馬渡龍治、渡部昇一、日下公人、大高未貴、
  田母神俊雄、百地 章、花岡信昭、伊藤哲夫、三輪和雄、平田文昭、
  西尾幹二、藤井厳喜、西村幸祐、井上和彦、水間政憲、村田春樹、
  増元照明、永山英樹、松浦芳子、土屋たかゆき、三宅 博ほか ※ 10/13 追記
■VTR 登壇 : 【安倍晋三】 ※ 10/9 追記
■司会 : 水島 総、高清水有子  ※ 10/9 追記

  ※ チラシは こちら からダウンロード出来ます! ※ 10/10 更新
  http://www.ch-sakura.jp/sakura/savenippon-meeting1017_flyer.pdf
□□□□□□□□□□□□■明日開催です■□□□□□□□□□□□□

795 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 18:30:20
>>791
そうだよ、荘園ばかりあげているのではない
課税対象の田んぼを把握するため、田んぼの種類を仕分けしているのだよ
墾田永年私財法以来、私有地が認められたが、まだこの時期は少ないよ
荘園を認定するには、国司が認めて中央の民部省の許可がいったんだよ
この頃は荘園が乱立した摂関時代や院政期とはちがうよ

796 :日本@名無史さん :2009/10/16(金) 19:11:43
>>795

もう初期荘園期にはもうかなりの荘園があったよ。
そのころの農業就業者はかなり高かったはずなのに、
あれしか戸数がないのは可笑しいでしょう。
そういう常識感覚が外れた人は歴史など学ぶな。



797 :日本@名無史さん :2009/10/16(金) 19:19:02
それと国司が調べはじめたということは、中期荘園期の免田寄人型荘園や、
雑役免型荘園の時期だと思う。
国司は荘園領主の貴族や社寺と癒着していたんだよ。
墾田永年私財法のおかげで急速に田地が増えたことは容易に想像できる。
早い者勝ちの世界だよ。力の在るものが、財を蓄えていった。

798 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 19:31:39
>>796
数字には数字で反論してよ
一級資料の延喜式データを否定しようとするなら、それなりにしなよ

799 :日本@名無史さん :2009/10/16(金) 19:35:56
>>798
バーカ

800 :日本@名無史さん :2009/10/16(金) 20:02:10
ウィキより
「延暦17年(798年)、それまで通り神祇官から幣帛を受ける官幣社と、
その国の国司から幣帛を受ける国幣社とに分けられた。
式内社では、官幣社が573社737座、国幣社が2288社2395座である。」


やっぱり国司が関係してる。
平安時代だからもっと荘園は発達してるよ。

801 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 20:25:34
まともに延喜式データに挑む人はいないの?
私は邪馬台国がどこにあっても良いんだよ
どこだろうと自分なりに調べていて、七万戸といったら大国だから、どれだけの面積を必要とするかとか、まず大枠を固めようとした
そしたら延喜式にデータがあったんだよ
みんなはそんな風に外堀を埋めて行こうとはしないの?

802 :日本@名無史さん :2009/10/16(金) 20:38:02
800のは神社の数だけ。
寺も官営だから、神社と合わしたら、かなりの数に上るはず。
それを国司が管理したデータだよ。
時代も違うし、データの内容も違うのに、
何も知らずに飛び付いてそんなものを持ってきて3世紀の邪馬台国と比べようなんて
センスなさすぎ!

803 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 20:59:10
>>802
寺も官営が多いよ
だから寺の費用にあてられてる田んぼも、国司の計上する数字に入ってるよ
だから延喜式にあがってるのは、その国内の耕地面積の全てだよ
九州や日向には、現実にそれだけの田んぼしか無かったんだよ
邪馬台国みたいな大国は九州になかったって事だよ

804 :日本@名無史さん :2009/10/16(金) 21:05:59
>>803
まだ意地張ってるんだ。
もうやめなよ。いくら言っても無理なものは無理。
あなたは最初にこのデータを持ってきた人だよね。
最初は九州のデータしか持ってこなかった。
近畿のデータが欲しいと言われたら、他の人が出して来てくれたよ。
そういう誤魔化しみたいなことして、平気なの?

805 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 21:26:53
>>803
目のつけどころがまちがっているんだよ。古墳をみれば、日向には大変な人口があった
んだよ。そのことは明白。そして、日向にもし田んぼが少なかったら、その人々はどう
して食べていけたのかを考えるべきだ。そうすれば、他の地域から食物を運んできてい
たという答しかないだろ。それが常識。

806 :日本@名無史さん :2009/10/16(金) 21:42:52
>>805
違うんだよ。
延喜式のは一般の農民の土地は計上されてないよ。
だから日向にはもっと沢山耕作地はあったよ。
例えば、日向の耕地面積は7400町歩になってる。
これはだいたい8.5キロ平方メートル位だよ。
一町歩は100.83町だから。
九州の日向をみて、平野が結構多い。そのうちの一辺が8.5キロの正方形が耕地面積なんだって、延喜式では。
そんな少ないはずないじゃない。
それに平安時代なかばに日向全体で農家が1400戸しかないというのは
おかしい。
それも農家が一村に50戸だよ。それが皆一律同じ。
全国がそんな村ばかりだったら恐いよ。
これから、管理された荘園だというのがわかるし、近畿五県に戸数が極端に少ないのも
わかる。
和泉には3村しかないんだよ。大和には15村。
そんなのありえない。

807 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 21:43:58
>>786
東西五月行、南北三月が明らかに逆になっているのは何故だろうな。
形状に合わせて誤魔化してるのならば人格を疑うぜ。

「夷人不里数、但計以日、其國境東西五月行、南北三月行、各至於海」
は日本全体でないと説明が出来ないだろ。
さすがに九州内での移動にそんな日数を要するはずがない。

808 :日本@名無史さん :2009/10/16(金) 21:50:12
なんで近畿五県が極端に少ないかわかった。
官幣社が多かったからだよ、朝廷のお膝元だから。
だから国司のは国幣社のデータだよ。
寺も国有の寺だよ。

809 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 22:55:35
>>806
ちょっと聞いていい?
なんで和妙抄(延喜式じゃなかった)が荘園のデータだと思うの?
そもそも公田を管理するために国府の役人は計帳を作るわけだろ
この頃は不輸不入権で武装した、完全独立の私有地(いわゆる荘園)はまだ無かったから、国府が関知しない田んぼはない
7400町歩が少なかろうが、それが全てなんだよ

810 :日本@名無史さん :2009/10/16(金) 23:05:44
>>809
平安中期のデータだよ。摂関政治の真っ只中じゃないの?
荘園も公地(墾田永年私財法のため私有地化)と同じ位の広さがあったよ。
国府は平安初めから国幣社のは関知してるって上の方に書いたけど。
社寺に寄進する荘園が多かったんだから国府が管理するのは当たり前。
不輸不入権ってのは税金がかからないってことでしょ。完全な私有地だ。
だからその前の荘園は税金がかかっていたんでしょ、
なおさら、国府が管理しなきゃ。
なにいってるのかさっぱりわからない。なんて意地っ張りなんだろ。




811 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 23:39:28
>>810
延喜、延長年間は醍醐天皇で摂関政治は中断してるな。

812 :日本@名無史さん :2009/10/16(金) 23:45:21
>>811
そのへんはいいの。
論点そらしはやめようね。
いつも思うんだけど、なんでそんなに粘着なの。
ノルマでも在るみたいにシンガリレスをこなすよね。
いつもそれが不思議。どうせこの後レスがあるよ、君の。
では、もうねる!

813 :日本@名無史さん:2009/10/16(金) 23:47:17
だから、不輸租の土地(初期荘園)は課税対象から除外しなくちゃいけないから、内訳に不輸租田は何町歩と計上されていると言ってるだろ
中央には不輸租田が何町歩だから、その分は収納から差し引きますと報告する訳だから
国司が知らないでは済まないんだよ、計上から漏れる田んぼなんか無いんだよ


814 :日本@名無史さん :2009/10/16(金) 23:51:38
>>813
荘園も入れてそんなに戸数と耕地面積がすないはずないでしょうが。
近畿五国など説明できないだろうに。近畿五国は荘園だらけだったはず。
貴族が多いし、社寺も多いのだから。もう少し冷静に判断しなよ。


815 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 00:06:21
>>812
お望みどおりレスしてあげよう。
ただ、あんたの議論の相手とは別の人間だよ。

しかし、事実と違うという事を指摘したら逆ギレされるとはね。
不輸不入の権は10世紀頃から徐々に認められたものだし、
延喜式の話なのに、延喜年間が関係ないって訳がわからん。

816 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 00:19:48
政府が行う調査は税の徴収が目的だ。そしていつの世でも税金逃れは横行するのだ。全国の田畑を役人
が実地に測量調査するのは不可能だ。聞き取り調査になるのが普通だ。申告する方は少なめに少なめに
申告し、役人も袖の下を貰ったり、日常生活での便宜を図ってもらったりと、住民と仲良くやるのが利
口な生き方だ。特に中央から離れた地方ではいい加減というかよろしくやっていたのだ。それが人生よ。
延喜式に出て来る数値を鵜呑みにしたらあきまへんで。

817 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 00:40:59
延喜式には何てあるのかな? 7400とかは和名抄の数字を修正したやつだったのでは?

818 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 00:45:09
>「夷人不里数、但計以日、其國境東西五月行、南北三月行、各至於海」
>は日本全体でないと説明が出来ないだろ。
これは九州だよ。旧唐書に倭国、日本国の対比があるから、良く読んでみな。
日本全体とすると、どこを言ってるのか、訳が分からないことになる。


819 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 00:54:48
荘園荘園って、寄進地系荘園のことを持ち出してるんだろうけど
京の権門に集めらて、その力によって不輸不入権を獲得し、国司が介入できない完全独立の荘園が成立したのはもっと後
和名抄や延喜式のころは、田堵と呼ばれる在地の富裕層が自力で開墾した私有地に限られる
そんな富裕層が国司の被官として協力的に働くばあい、国司は褒美として非課税(不輸租田)にしてやった、それが荘園の走りだ
国司はそうした行為をする場合、まず民部省に伺いをたてて認可をとり、その上で計帳には非課税の田んぼを不輸租田として計上した
そんな手続きを必要とした程だから、国司が介入できず、面積も解らない様な完全独立の荘園なんてまだ無いんだよ
逆に、AD900年頃において後世のイメージの荘園があった例があるなら、具体的に挙げてみてよ
日向の何荘という土地が、日向国司の計帳にも載らない隠れた耕地なの? 言ってみて

820 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 01:13:29
荘園なんて大和朝廷の権力が衰えた、もっと後の時代の話。
邪馬台国とはほとんど関係がないので、よそに書いていただけますか?

821 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 07:40:03
いや
和名抄のデータを見ると、AD900頃でさえ日向は7400町歩しかないし、九州全体でも11万町歩くらいだと言う事なんだ
その時代より遥か前、弥生時代の開拓レベルでは到底、14万戸(70万人くらい?)という住民を養う食料生産は不可能だろと言ってるんだ
つまり邪馬台国が九州島にあることは物理的に不可能なんだよ

822 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 07:40:30
>>819
だから不輸不入権になれば国司が関与できないって上でいったじゃない。
それ以前だから、税金をかけるため、関与しているんだよ。
何度いったらわかるんだろ。
だけど、延喜式の戸数が全国の農家の戸数だと思っているって、
どういう感覚してるのかな。
九州全体で25200戸しかないんだよ。
それを疑問に思わないのようじゃ、自分の常識感覚疑ったほうがいい。
近畿五国が全部で2650戸だし。
だから国府のは一般の農地の記帳もあれば貴族の荘園のもあったよ、多分。
でもその延喜式というのは社寺関係の資料なんだよ。



823 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 07:48:18
>>821
そもそも近畿説など、頭が○○してるとしか思えないような説を平気で
述べていること事態、ちょっと・・・・・な感じ。
そもそも近畿説のいう伊都国ってどこなんだろ。
今まで聴いたこと無いし。



824 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 08:19:06
1戸=約30人 の大家族なんだよ
戸籍もまず戸主の名前があって、その家族と奴稗まで名前が書いてある
奴稗も口分田を支給されたからね、奴稗も戸籍にのってて人口に入ってる
それで25200戸なら、事実そうだったんだよ
貴族、僧も治部省の戸籍があった
古代を過大に見すぎているんじゃないかな

825 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 08:22:52
>>821
九州に邪馬台国があった時代となくなった時代とでは九州の人口は変わるんだよ。
人口が多いときに耕作されていた田畑は人口の減少で放棄されるんだ。そんな
かんたんなことも分からないのかな? >>771
それに和名抄の数字が不自然だってのは常識だろ。7400町歩って数字すらない。

826 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 08:24:59
>>824
1戸30人も納めますかよ。
掘っ立て小屋なのに。それよか幾つも小さいあばら家を作って住まわせるよ。
お金ないんだから。
どこまで都合よく考えるの。
ほんとに大丈夫?

827 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 08:53:15
>>825
日向は水利がわるくて水田が作りにくい土地だ、それは近世になっても改善してない
邪馬台国みたいな力のある国がそんな土地に発生したのたら、なにも開拓しにくい土地を無理に開拓しないで、余所の開拓しやすい土地に範図を広げたと思うよ
外部に移民とか植民をして
記紀きもそんな話は載ってるよね、東にうまし土地あり、行きて獲るらむと
戸数七万とかの邪馬台国は九州をでた後の姿だよ

828 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 08:59:10
>>827
延喜式のデータは全部の耕地面積のデータじゃないんだよ。
耕地面積は別にしてそれは村数と戸数が示している。
少なすぎるでしょう。
だから、実際は耕地面積もそれよりもっと多かったんだよ。
こんなデータを持ってくること自体間違っているんだから、もう意地張るのやめて
違うデータを持ってきなさい。

829 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 09:13:23
邪馬台国の家はどんな家だったのでしょうか?
縄文の竪穴式住居?それとも倭人が好んだ高床式の家?

830 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 09:19:03
>>827
>開拓しにくい土地を無理に開拓しないで、余所の開拓しやすい土地に範図を広げたと思うよ
そのとおり、広げているんだよ。北九州、そして本州へとね。
そこから収奪していたわけだから、日向の田が少ないなんてことは邪馬台国の所在を考える資
料にはならないってことだよ。

831 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 09:33:38
>>違うデータを持ってきなさい
それはこっちの言う台詞だよw
和名抄や延喜式という一級資料を疑うなら、それを覆す別のデータを持っておいでよ
大きな古墳があるから人口が多かったとか、大きな国があったとか、そんな断定をする人の方がオカシイよ
大きな古墳も、少人数で長い期間を掛ければ作れる話だし
そもそも古墳なんて土を盛っただけの物だ、寺建築とかの専門技術集団など要らない
人夫さえ調達できれば、誰だって何時だって作れるものだよ

832 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 09:37:46
>>830
北九州から水行10日陸行1ヵ月もかかる難路を、どうやって年貢を運んだというだね?
それよりも、王族と人民が集団で移住した方が早くない? 移民開拓団みたいな感じに
それはもう植民地と言うべきものだよ
イギリスの植民地だった北米大陸が、本国から離れて独立したよね
小国が巨大な植民地を持つと、裏切られて独立されちゃうんだよ

833 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 09:40:22
>>829
倭人は南方の倭族だけど、日本の家に良く似ている。
土間があって煮炊きする囲炉裏があって。
掘っ立て小屋みたいなもの。穀物倉庫が高床式。
環濠遺構が弥生人のものであることの確かなものなら、
真ん中に柱の跡のある住居跡あれば、登呂遺跡にみられるような家だと
いうことが想像できる。縄文人も少しは土地を耕していたようだから、
環濠的な住居空間を持ってたかもしれないからね。登呂遺跡のは縄文人の遺構だったりしてw。
でも縄文人は国を持たないと書いてあった、紀には。
高床式に住んだのは大夫クラス以上の者。
他の高床式はだいたい倉庫関係。




834 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 09:48:15
>>832
水行10日陸行1ヵ月もかかる難路というが、それは魏使を案内するときの日程だ。
ゆったりと旅した場合のね。年貢はもっとスピーディにやるさ。それに産地により
いろいろな運送手段、コースがあったはずだ。


835 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 09:50:43
スマトラ、ジャワ、ボルネオなどの熱帯地方は高床式住居に住む。

836 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 10:15:54
>>826

> 1戸30人も納めますかよ。
> 掘っ立て小屋なのに。それよか幾つも小さいあばら家を作って住まわせるよ。
> お金ないんだから。
> どこまで都合よく考えるの。

「戸」とは、建物のことではない。
戸籍を作るときの最小単位のこと。

> ほんとに大丈夫?

ほんとにw


837 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 10:19:07
>>836
戸籍を作るときの最小単位のことなら、もっと多くて当然いいはず。
少なすぎるでしょうよ。
平安中期だよ。
なに考えてるの?

838 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 10:23:49
>>831

> そもそも古墳なんて土を盛っただけの物だ、寺建築とかの専門技術集団など要らない
> 人夫さえ調達できれば、誰だって何時だって作れるものだよ

じゃ、キミに造れるの?
どういう構造になってるか知ってるの?
千年以上経ってもそれなりに原型を保っていられるのは、ただの土盛じゃないからだよ。
木工建造物に専門技術が必要なように、土工建造物もそれ相当の専門技術に立脚している。


839 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 10:30:46
>>831
確かに、ピラミッドなんかと比較するとしょぼいよな。
技術的には低い水準にあることは一目瞭然だ。
仁徳天皇陵が世界最大とか言っても
観光客も来ないし。

840 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 10:32:44
>>832

> 北九州から水行10日陸行1ヵ月もかかる難路を、どうやって年貢を運んだというだね?

倭人伝に、税が有ったとは書かれている。
しかし、それが各国が女王に年貢を納める制度なのかどうか判るようには書かれていない。
もし、そう言う事実が有ったとしてだが、ずっと後世でもそれ位掛けて諸国の物資は京に運ばれている。
生鮮食材以外であれば日数は関係ないと思うけどね。


841 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 10:46:23
>>831
10世紀の一級資料が、3世紀の一級資料ではないってことに気づかないんだな。

842 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 10:53:37
これが元祖、日本のピラミッドだ!
エジプトのピラミッドは幻の九州王朝のピラミッドの縮小コピーにすぎない。
↓香春町一ノ岳

http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/011/001/26/N000/000/000/118938599855316418376.jpg


843 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 10:56:07
>>837

> 戸籍を作るときの最小単位のことなら、もっと多くて当然いいはず。

ハァ?
レス番を追ってごらん。
「戸30人」とは、「戸籍」とか「計帳」に基づく数値の話なんだよ。
それをキミが一つの建物に何人住めるかと言う話と勘違いしてるだけだろw
ところで、キミって何歳児?



844 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 11:07:57
>>843
はあ?延喜式の戸籍は少ないっているんだよ。
だって、1戸に30人詰め込むつもりだったでしょ。
だからこっちはそうはできないといったら、今度は奴婢の戸籍も入れるといいだした。
ならば30人の一家族に何戸籍もあるわけだから、
戸数は当然おおくなるでしょうが。
バカなんじゃないの?

845 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 11:15:24
だんだん低レベルの罵り合いになってきてるな

846 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 11:21:26
だいたい1戸に30人など特別な家だけだからね。
そんなのばかりだったら、延喜式の戸籍データはみんな大地主のものだけかって話。
>>843
君は小学生だろ。

847 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 11:25:53
>>844

実はオレ、キミの論争相手とは別人なんだけどさ、
キミの認識不足が原因なんだけど、二人の話が全くかみ合っていないようなので横槍入れてるだけでね。
マァ、よく考えてくれ。
例えば、

> はあ?延喜式の戸籍は少ないっているんだよ。
> だって、1戸に30人詰め込むつもりだったでしょ。

と言う発言。
これ、キミは当時の戸籍を見たことないで言ってるでしょう。
実は、当時の戸籍には現実にその位の人数が記載されているんだ。
事実だからしょうがないだろう。

それにキミは
> 1戸30人も納めますかよ。
> 掘っ立て小屋なのに。それよか幾つも小さいあばら家を作って住まわせるよ。
とか言って「反論」の根拠にしているようだが、これはキミが「戸籍」と「住居」の話を混同している証左でもある。
物事はちゃんと整理して考えよう。

> 今度は奴婢の戸籍も入れるといいだした。
> ならば30人の一家族に何戸籍もあるわけだから、

違うよ。
一つの戸籍に戸主の家族もその奴婢も一緒に入ってるんだよ。
それが一つの「戸」、戸籍には一人の戸主が管理している人間は全て記載することとされているようだ。

> バカなんじゃないの?

うん、キミがね。

848 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 11:41:22
中国福建省に住む倭人の家「客家土楼」は一戸で数百人が暮らす。
平均して一戸に30人はありうると思う。

http://www.guilintravel.jp/zl_manage/uppic/20096251627.jpg


849 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 11:56:18
だから、「戸」とは「建物」のことでは無いと言ってるのに・・・・

850 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 11:56:50
【社会】奥の山に未盗掘石室 レーダー探査で影二つ 行田・埼玉古墳群
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1255607433/l50

国指定史跡の埼玉古墳群(行田市)の南端に位置する奥の山古墳に未盗掘とみられる石室が
存在することが12日、明らかになった。6世紀前半に造築されたとされる同古墳。各地の古墳の
大半が盗掘で荒らされているケースが多い中、同古墳の石室は墳丘表面の状態から掘り
起こされていない可能性が高い。発掘調査を行った県立さきたま史跡の博物館によると、
同古墳群で石室が正式に確認されたのは1968(昭和43)年に国宝・金錯銘鉄剣が見つかった
稲荷山古墳以来。

同博物館によると、石室が見つかったのは全長約70メートルの前方後円墳のうち直径43メートル、
高さ約7メートルの後円部分の墳丘。東北大学と共同でレーダー探査を行ったところ、
墳丘地表面から深さ3メートルほどの位置に二つの影があることが分かり、2メートル×4メートル
ほどの部屋があると確認された。通常、石室には鏡や馬具、武具などが埋葬されており、
金錯銘鉄剣も稲荷山古墳の二つの石室のうち、未盗掘だった一方の石室から出土している。

石室が二つ存在するとの見方があるほか、「地中に長さ1メートルほどの棒状の影が映った」との
情報もあり、関係者の間では鉄剣など副葬品への期待も高まっている。文化庁は調査する場合、
空調などが整った状態で行うようにと指導。未盗掘であれば石室に何が眠っているか、
古代への夢は膨らむ。

同古墳で11月から行われる古墳復原整備は、主に外観整備が中心。石室を掘り起こすには、
資金面や、地権者との調整などの準備にかなりの時間が必要なことから、現時点で石室を
調査する予定はなく、現状のまま保存する方針。


851 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 11:59:45
登呂遺跡のデータ。
総面積70、182.59u
水田跡24、690.70u
森林跡579.96u
住居跡39、700.39u

つまり総面積は一辺は270メートル四方の土地で水田は150メートル四方の土地だ。
一辺が270メートルの村は今でいうと隣組位の大きさ。
100.83町歩が1万平方メートルくらいだから、水田は2.4町歩くらい。
隣組の大きさで2.4町歩の水田が弥生時代にはあったってこと。
土地の総面積にたいして水田が3分の一くらいだから、
30キロ四方の土地では900平方キロで
900×100.83=90747町歩、それの3分の一だから、
水田は3万町歩だ。

あくまでも登呂を基準にしたので、普通は山地もあるので、
だいたい30キロ四方で3分の一の1万町歩くらいになると思う。
これが弥生時代。
だから平安に時代にはもっとずっと多かったはずなのに、
延喜式のは少なすぎる。

852 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 12:03:16
>>851

訂正
>100.83町歩が1万平方メートルくらいだから
一平方キロメートルの誤り

853 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 12:04:09
NHKで話題になったアマゾンの深い森の中に住む原住民、「ヤノマミ」
この村が中国の客家土楼とそっくりです。
「ヤノマミ」とは「人」の意。
刺青の風習も残っていますね。
邪馬台国もこんな部落だったはずです。
この部落でも一戸は30人といったところでした。

http://www.flickr.com/photos/7342184@N07/3878365274/


854 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 12:05:51
なんで1戸に30人も詰め込むの。一般の家がそんなはずないでしょうが。
だから延喜式のは一般の農地のデータじゃないよといっているのがわからないのかな。

855 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 12:08:14
>>850
現在人の手によって盗掘されてしまうのですね?
もっと未来になれば、CTスキャナのようなもので
掘らなくても仔細を確認できる時代が来るのに
もったいない。


856 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 12:11:32
荘園民の家だよ。一郷に付き50戸だから。
管理されてるでしょ。普通の村はそうじゃないよ。
大きな村もあれば小さな村もある。
それになんで丹波や近江は全然他とは違うわけ、村数が少ないのに。
不自然だよ。他は全部一率50戸で丹波他2国は全く違う。
これって不自然すぎる。

857 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 12:21:23
>>846

> そんなのばかりだったら、延喜式の戸籍データはみんな大地主のものだけかって話。

公地公民制下の土地利用の話をしてるのに「大地主」なんて用語が出てくるのが理解できない。
明治時代くらいの社会制度をイメージして古代を想像してると道に迷いますよ。


858 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 12:23:58
>>荘園民の家だよ。一郷に付き50戸だから
それどこから出た話ですか?
1郷(1里)=50戸 というのが養老令の定めだよ
里を統率するのに里長を設置するとある
後世の荘園にそんな制度めいたものある訳無いじゃないか、私有地なんだから
延喜式の納税データや和名抄は、AD900頃について書いてあるの
その頃はまだ国府の機能が維持されてて、計帳が作られていたの


859 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 12:26:42
九州全体がたて300キロ×よこ200キロとして60000平方キロだから、
30平方キロの60倍くらい。
ということは全部で60万町歩になる。
ここですでに山地を考慮した数ではあるが、更に山地を考慮すると
20〜30万町歩。弥生時代がこれ。
延喜式のは11万町歩。ということは、荘園の地が水田の約半分もあった
平安時代のデータということ。管理されているという面からみても
一般の農地ではない。貴族、或いは社寺の荘園だよ。延喜式だから社寺の荘園だと思う。

860 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 12:28:34
>>857
たとえばの話だってこと。
そんな細かなことまで指摘するようじゃもう終わってるね、君は。

861 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 12:53:11
>>860

> たとえばの話だってこと。

全然「たとえ」になってないだろう。
「仮令」の意味を理解できないのかw

> そんな細かなことまで指摘するようじゃもう終わってるね、君は。

細かなことか?
指摘されてるのはキミが「無知」だという事実なんだよ。
キミのこれからの人生にとっては重大なことだよ。



862 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 12:54:55
>>859

> 延喜式だから社寺の荘園だと思う。

何でそう思うのw
「式」ってなんのことか知ってる?


863 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 13:11:25
>>859
ずいぶん大雑把な計算だな

平成20年度の統計では、
田 326,300ha(271,917町歩)
畑 237,500ha(197,917町歩)
計 563,800ha(469,833町歩) だよ
九州の面積に対する耕作率は 13.4% になるらしい
最盛期の昭和40年度で、田 424,000ha(353,333町歩)だったらしいから、
最盛期の耕作率でも17.4% ほどだな

宮崎県、耕作率9.0%と九州でワーストワンの難耕作地域です

そんな場所に古代人が大きな国を作れるかな?

864 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 13:20:36
>>862
式のことなどいいの、要はデータの内容だから。
国府が荘園に税金をかけるため調べあげたデータだよ。なにしろ墾田永年私財法依頼、
墾田地が大拡大したからね。まだ不輸不入法は出来てなかったし。

登呂遺跡は住居12棟、倉庫2棟。
水田が2.5町歩だから、1戸平均0.2町歩だ。
そうすると弥生時代は1戸に付き0.2町歩で間に合ったってこと。
邪馬台国の家が70000×2÷12として42000戸で、
そのほかに工房や市場、もろもろの戸以外のものを差し引いて35000戸位とすると
35000×0.2町歩は7000町歩。
これで十分だということ。

865 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 13:21:00
戸主であるじいさんと妻であるばあさん。
長男とその妻、子供、次男とその妻、子供、三男とその妻、子供、一族に附庸する奴婢。
一戸が30人で構成されていて、何ら不自然ではないのだが。
要は、当時の戸籍は、班田したり、徭役を課したりするための台帳なんだから、
今の一夫婦単位の戸籍制度と一緒に考えてはいけない。

866 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 13:22:58
>>864

> 式のことなどいいの、要はデータの内容だから。

知らないんだね。
じゃ、データの内容も分析しようが無いと思うが。


867 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 13:30:42
>>864

だから「戸」は建物の(ry

868 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 13:36:25
登呂遺跡って何民族の遺跡なんだよ?
民族が違えば食習慣も異なる、米が主食じゃなかったかもしれない
ドングリとか猪とか魚介類好きな民族なら、水田はそんなに要らないだろう
1戸平均0.2町歩というデータも頷ける

869 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 13:39:18
>>867
何万という家を魏志が数えたととでも思ってるの?どういう感覚してるの、
日本は3世紀は原始時代そのものだよ。はだしで歩き、馬もいない、
腰巻一つで、刺青をして、文字もない。
日本がどれだけ文化が遅れていたか。

口分田は男2段(24アール)、女16アールの支給。
一軒に付き1町歩の支給として、
延喜式のデータに入れると25200戸だから25200町歩位。
それと庶民の墾田地を含めても3倍くらいの8万町歩
位で十分。
ということは、延喜式のデータは庶民の水田よりも多い。
もしも庶民の水田だとしても、それでは、他の豪族、貴族、社寺の荘園分が入っていないとうことになる。
だからこのデータは使い物にはならない。

870 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 13:45:20
近畿五国に当てはめると
55298町歩に対し、2650戸だから、一軒あたり20.8町歩。
大土地持ちばかり。それは考えられませんね。
やはり特権階級の土地のデータだよ。

871 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 13:52:31
>>869
「戸」が一軒の建物のことだと言う認識から離れなさい。

872 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 13:53:47
>>868
縄文人は水田耕作はしない。
3世紀では芋や陸稲を撒く位。あとは狩猟漁撈採集。
夏は木の上に寝て冬は地に穴を掘って寝る。紀に書いてある。


873 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 13:54:20
もう>869は、混乱しきって自分でも何を言ってるのか判らなくなってるんだろうな。

874 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 13:56:52
>>871
何が離れなさいだよ。
古代の様子を思い浮かべられないような
人は古代史勉強には不向き。
ペーパーテストだけして来た人間の特徴だね。

875 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 14:00:19
>>874
戸を建物のこととしないとキミの計算は成り立たないのか?

876 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 14:04:44
>>875
成り立たなくはない。
一軒につき0,2町歩だからね、弥生時代は。
ただ七万戸は多すぎるよ。
何万と家族のいる家を数えられないよ。それこそ、
水行1ヶ月陸行1ヶ月じゃとても間に合わない。
最低半年はかかる。歩いて国の隅から隅まで調べなきゃならないのだから。
だから当然正確性はないよ。
それなのに、七万戸きっちり世帯数と考えていること事態、
考えられないことだ、こちらにしてみれば。

877 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 14:05:23
>>874

> 何が離れなさいだよ。
> 古代の様子を思い浮かべられないような
> 人は古代史勉強には不向き。
> ペーパーテストだけして来た人間の特徴だね。

勉強には向いてないのは、全て「思う」「思う」で想像だけを膨らませていくキミのこtだろうw
一応、言うべきことは言ったのでこれで失礼する。
後は、一人で遊んでいたまえ。



878 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 14:08:01
>>876
追伸) だれも邪馬台国の7万戸が実数だなんて言ってなかったと思うぞw
論点は平安期の耕地面積の話だけだよ。

879 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 14:10:08
>>877
たまえだってwww


880 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 14:12:06
>>878
なんで論点をどんどん変えるの。
じゃ、聞かなきゃいいのに。
支離滅裂なんだから。
付き合ってるんだから、ありがたく思ってよ。
普通ならスルーされてるよ、君みたいな性格は。

881 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 14:13:44
>>870
1戸=30人 くらいの大所帯だから妥当だよ

882 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 14:21:21
結論:延喜式のは邪馬台国の人口問題を解くデータとして箸にも棒にも掛からないものだ、
ということ。誤魔化しの道具として持ってきただけ。


883 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 14:24:03
延喜式によらなくても、現代でも宮崎県が耕作不適地というのは定説
近年でも九州でいちばん水田が少なかったのは事実なんだよ
あれだけ大きい領域面積を持っているのに関わらずだ

884 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 15:36:34
登呂遺跡に参考にすると、12棟で2.5町歩の水田だから一棟当たり0.2町歩だ、
女王国連合の戸数に誇張があったとしても、全体で15万戸と数字通り計算して、
3万町歩で間に合うってことだ。
つまり十分北部九州の耕地だけで間に合い過ぎるほど間に合うw



885 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 17:09:00
登呂遺跡ってのは遺跡だよな、まだ発掘されてない水田跡がきっとあるんだよ
未発見の水田をついかすれば、12棟で5町歩にも10町歩にもなる
15万戸なら、6〜12万町歩も必要という計算になるよ、どうするんだい?www

886 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 17:13:01
延喜式とは
巻1〜10の神祇官関係の式、
巻11〜40の太政官八省関係の式、
巻41〜49のその他の官司関係の式、
巻50の雑式の順となっている。
 
このスレにあがった延喜式データが上の巻の何処からのものかで大体推測できる。
神祇官関係なら神社系。
太政官、官司関係なら貴族の荘園、或いは一般民の耕地面積データ。
ところで、このデータは何巻から引用したものですか?
検索しても見つからないのでお聞きします。

887 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 17:21:49
>886
和名抄 国郡
延喜式 28巻 主税上 です

888 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 17:27:26
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif

889 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 17:29:29
1棟あたり0.2町ということは2反か。
江戸時代並みに1反1石とれたとしても、
1戸が1年間暮らすにはつらいな。

890 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 17:36:45
>>887
ありがとう。
じゃあ、もう一つお願いしていい?
>>789
の不輸祖田とか墾田とかのデータが載っているのを
全部丸ごとここに示してもらえるかな。

891 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 17:38:42
>>890
図書館に行けば置いてあります
ネットでは探しても無かったです

892 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 17:44:07
>>891
ありがとう、お手数かけました。
>>789
の方は知っていますよね。今見ているかな。

では、残念ですが今直ぐには検討できませんので、また後で。

893 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 17:54:58
>>876
国の戸数を数える方法ぐらいちょっと考えれば分かるだろうが。

894 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 18:29:23
>>893
「倭人伝記載の戸数は過大だ、いい加減だ」としたい連中には考える能力もないようですな。税の制度や
身分制度もある国をまるで未開社会のように看做して戸数も分らないなどと言う。

895 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 18:32:09
和名抄の数字が不自然だってことは学者が前から指摘してんのに
何でそんなものを振り回すんだろうな。

896 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 18:41:19
>>894
では方法を提示して下さい。

上にあった隋書のことを想定してるんですか?
倭人伝にある税制と身分制の記事もわかってますが、
戸数の正確性は、いまひとつ呑み込めない。

897 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 20:22:21
まあ延喜式や和名抄の数値は参考にならないと思うんで論点を整理すると、

@ 倭人伝の戸数7万戸などは、真か偽か。 偽と思うならここで終了。

A 7万戸が信じられるものとして、調査値か概算値か。(あるいは倭人からの伝聞か)

B 弥生時代の7万戸の範囲は面積にしてどの程度か。

898 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 20:26:53
魏志倭人伝そのものを「参考にならない」としたらどうですか?
文面の通り読んだら海の上に出ちゃうような文書より、
延喜式や和名抄のほうがよっぽどマトモですよ

899 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 20:28:03
魏志倭人伝を、偽と思うならここで終了。

900 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 20:35:44
>>898
>延喜式や和名抄のほうがよっぽどマトモですよ

そういう意味ではなくて、弥生時代を類推するにはあまり参考にはならないという意味。

>魏志倭人伝そのものを「参考にならない」としたらどうですか?

文献である以上、錯誤や誤謬、作為は必ずあるだろう。しかし、これがないと邪馬台国も歴史上
から消えてしまう。

901 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 20:40:24
>>900
どうも極論だね。
○か×しか許さない感じ。

902 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 20:54:31
いや、「倭人伝はすべて正しい、陳寿を信じる」とかいうのこそ極論ですよ。しかし、邪馬台国は
もともと文献史学のテーマであることは間違いない。

903 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 21:05:21
>>897
B登呂遺跡の例をとると、総面積70182.59uの内、
住居跡は39700.39u。そこに12棟なので。
3.97町歩に12棟ということ。
邪馬台国七万戸÷12棟×3.97町歩=23158.3町歩。
2万3158.3町歩に七万戸が収まります。
これは一辺が15.218キロ四方の面積に相当。
従って七万戸の住宅面積は約15キロ四方の土地が必要です。
そのほか水田、森林地等も必要なので、登呂遺跡を参考にすると、
一辺が20.2キロ四方の土地があれば邪馬台国全体の領域は間に合います。


904 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 21:11:49
うん、登呂遺跡の復元水田で古代農法による稲栽培実験の結果では、推定反収約200kg。

905 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 21:23:56
>>904
ということは>>903では飢え死にしてしまう。

906 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 21:27:55
ただ、雑穀や狩猟・採集による食料のウエートもやはり大きいでしょうね。

907 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 21:29:52
903のつづき
約4町歩に12棟と倉庫2棟ですから、およそ一辺が50m四方の土地に
一棟が建ちます。そうすると建物以外の土地が結構余るので畑に出来ます。

908 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 21:33:21
現在九州の面積は4万平方kmである。弥生時代はこれより狭くて約3万5千平方kmであったろう。
このうち人が住めるのはおよそ半分として1万7千平方km。ここに百万人が居たとすれば人口密度
は59人/(平方km)となる。1km四方(100町歩)に10家族程度だ。土地の1割程度の水田があれ
ば余裕で食ってゆける。邪馬台国の7万余戸など誇張とは言えないだろう。

909 :日本@名無史さん :2009/10/17(土) 21:38:37
50m四方の土地はおよそ758坪なので、家の前に十分な畑が作れます。

910 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 22:49:41
>>908
森林面積が大幅に減少した現代ですら九州の可住面積は1万5千ku程度に過ぎない。

911 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 22:56:09
>>897
@ 真実だよ。
A 調査値か概算値か? 意味が分からないな。
 調査して概数を出したんだよ。調査の方法は、倭人からいろいろ聞いたんだろう。
 前に云ったピラミッド組織の仕組みとか、兵の数(10戸から1人とか出させて
 いるかもね)とか、税収とかね。
B 県の一つか二つか、そんなもんだろう。 

912 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 23:01:47
>>898
>文面の通り読んだら海の上に出ちゃうような文書
読み方が悪いんだよ。正しく読めば何も問題はない。九州の中だ。

913 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/17(土) 23:30:40
>>910 <森林面積が大幅に減少した現代ですら九州の可住面積は1万5千ku程度に過ぎない。>
現在の森林の半分以上はスギやヒノキなどの針葉樹人工林であるが、これは第二次世界大戦後に雑木林
などが人工林に変えられたためである。そして九州では陸地の約70%が森林であり、その55%ほどが人
工林である。このスギなどの針葉樹林には人は住めない。昔は雑木林の中に村落があったが、現在は非可
住域となった。その意味で可住面積が昔より減少しているのだ。昔は山には獣や鳥や木の実など現在より
多くの食料があったのだ。


914 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 23:49:54
和名抄の数字に関して、古い学者の本に次のようなことが書かれているね。

日向のように山地に冨み平野が少ない地方にあっては、狩猟を生業とする山人、漁労で
生活する海人がいたるところにいたはずで、彼らが浮浪性を脱して一つの地に定住する
ようになっても、往々郷の外におかれ、帳外の民として、国郡司の所管の外にあったも
のが少なくない。

915 :日本@名無史さん:2009/10/17(土) 23:55:28
じゃあ、59人/kuは無理だな。
樹木被覆率と人口は比例関係には無いし。

916 :縦目仮面:2009/10/18(日) 00:00:50
>>913
そうですね。杉山はつまらない、虫捕りもできない。


917 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 00:01:40
>>904
なにか200kgですか?
稲? 籾? 脱穀玄米?

918 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 00:06:23
>>907
12棟あるという建物は、1棟に何人くらい住んでたんですか?
それと、登呂遺跡は環濠集落? どういう形式の集落?
約4町歩に12棟と倉庫2棟がすべて? 或いはそのセットのが延々と続いてるの?

919 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 00:08:41
>>917
そこまで書いてないんですが、比較するなら脱穀玄米でないですかね。稲の品種もちょっとわからない。

http://www.nouminren.ne.jp/dat/200207/2002070120.htm


920 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 00:12:37
>>913
あなたの様な縄文人なら切実な話として、お解かりでしょう
水田が不足分を、狩猟や採集で食料を得る場合、一人当たりどのくらいの森林資源が必要なのでしょう?
同じカロリーを得るのに、水田より遥かに広大な面積がいるんでしょうね、きっと

921 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 00:34:12
また計算? しかし、海もあるよ。

922 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 00:47:09
>>919
「登呂の水田跡の総面積を約二万坪(六町六反六畝余)として、
 坪あたりの収量を一升と仮定、全体では二万升(二百石)の収量が想定できるとしました。」
とあるんだが、町あたりにすると、
1町=10反(段)=100畝=3000坪 だから
200石÷(20000坪÷3000)=30石/町歩 となる
これは幾らなんでも生産効率がよすぎる
江戸時代の上田ですら、15石/町歩 なんだからね
登呂遺跡の発掘を指導した杉原壮介氏(元明治大学教授)は何か間違っていないかな

923 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 00:55:30
多すぎると思います。何か勘違いがあるのか・・・

924 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 01:00:37
間違ってはいないよ。坪あたりの収量を一升と仮定したら、2万坪では二万升だ。


925 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 01:01:09
延喜式の頃は、
上田=10.3石/町歩
中田=8.2石/町歩
下田=6.2石/町歩
です

926 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 01:02:00
>>924
「坪あたりの収量を一升と仮定」、これが間違っている、過大すぎるという話です

927 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 01:09:46
一桁違っているとかいうならともかく、計算しやすい数字ってこともあるからね。
仮定と言ってんだろ。そんなことでケチをつける話ではない。

928 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 01:12:22
倍以上も違ったら、えらい違いだろ。
当時の食生活が全然異なったものになる。

929 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 01:18:36
だが、正しい数字は誰も分からない。

930 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 01:30:07
延喜式に国ごとの収穫高があがっているが
それなんか正しい数字じゃないか、実験値でも推測値でもない、公式の記録なんだから

931 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 01:32:44
ほう、で、何で925のように数字がちがったりするの?

932 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 01:37:47
>>931
何が違うって?

933 :日本@名無史さん :2009/10/18(日) 11:10:22
水田の不足分はイモ類だよ。木の実類、魚貝類、獣類等を山や海から収穫する。
登呂は4町歩に12棟と倉庫だから、一つ当たりの面積は850坪位ある。
一棟当たり、800坪の畑でイモ類や野菜を作れる。鶏、豚の家畜もかえる。
だから12棟全体で2.5町歩の水田は村人全員共同で栽培して収穫し、祭事などに食し、
た。

934 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 11:15:29
つまり、日向の古墳群のちかくに広大なイモ畑が発見されなければ立証できないわけだな

935 :日本@名無史さん :2009/10/18(日) 11:20:06
>>934
畑は遺構はなかなか見つからないし、残らないよ。

936 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 11:22:57
>>934
日向の人々の食料は、日向だけで生産する必要はないんだよ。
それに、日向の前には海がある、山もある、獲物は無限と考えていいんだ。

937 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 11:27:12
>>934
そんなもの無くても大丈夫。
3世紀に遡れそうな古墳は2〜3個だけだから何万人分の食料なんて確保する必要が無いw

938 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 11:31:42
>>937
それがあなたの認識か? 古墳についての知識がまったくないんだね。
日向には初期古墳がぞろぞろあるんだよ。日向は弥生時代から人口が多い。
それが古墳時代になってもずっと続いているってことを理解しないとな。

939 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 12:06:50
>>933
イモ?種類は?
ジャガイモは16世紀末、サツマイモは17世紀に
渡来したものだぜ。

940 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 12:11:53
農林水産省のホムペでも宮城県のホムペでも覗い見ればいい、農業の苦難の歴史がわかるよ
農民は何も好き好んでイモ畑とか雑穀を作るのではない
エネルギー効率がよくて美味しい米を作りたくても、水田が増やせない事情があるから雑穀に逃げるのだ
事情とは、土地が水田に適さないとか、田にかかる税が重いとか、江戸時代の様にあらかた開墾し尽くして新田が増やせない、など色々あるだろう

941 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 12:15:05
>>939
サツマイモが伝わったお陰で、薩摩藩は幕末まで兵力を維持し続けられて、倒幕に成功したわけだし

942 :日本@名無史さん :2009/10/18(日) 12:15:38
>>939
アホだなあ、イモなんぞ縄文時代からあるよ。
ジャガイモだのサツマイモだのいう前に。

943 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 12:19:53
>>940
そうだね。
このスレ、特に九州説の人は農業を舐めすぎてるきらいがある。
まるで北朝鮮の将軍さまみたいな発想だ。

944 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/10/18(日) 12:21:11
>>939
>イモ?種類は?

里芋。
芋ではないが、蓮根もある。

西日本平野部では栽培山芋は少ない。

945 :日本@名無史さん :2009/10/18(日) 12:28:44
>>943
舐めすぎててるのは近畿説だよ。
米が無ければ生きていけませ〜〜ん;へ;なんて。
そもそも飢饉が起こるようになったのは米作りを盛んにし始めて森林を開墾していったからだよ。
それに伴って人口が多くなり、一端不作になると米以外の作物が少ないためと、森林が少ない為、人口を養えず、
食糧不足が起こるんだよ。論じてる時代が違うよ、弥生時代と平安時代じゃ。

946 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 12:33:09
>>944
里芋かあ。連作障害の起こりやすい芋だな。

947 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 12:45:41
>>945
あれっ?九州は水田が広がってて、人口が多かったのだよね?
矛盾してないか?

948 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 12:59:54
>>938

三世紀前半に遡る古墳を幾つか挙げてみ。
検証してみましょう。

949 :日本@名無史さん :2009/10/18(日) 13:08:37
>>947
登呂遺跡で検証済み。米はそれほどウエート置いてないよ。
12棟で20石位収穫。2000升÷12=166.7升が一軒当たりの米量。
米は特別な日とか大事に食べているから、これで充分。
近畿説ってスレを通して読まないからね。ブツ切りだから、いちいち説明しないと。


950 :日本@名無史さん :2009/10/18(日) 13:29:00
>>949つづき
そうすると、166.7升は1667合だから、
一日5合くらいは平均して食べられる。
2升も3升も一回に一遍に炊けば、3升なら56食事分。
それに昔は朝昼晩と3食の習慣だったかわからない。二食だったかもしれないし。

951 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 13:31:18
九州の中でも南九州は後進地域で、人口は少なく、農地も少ない。大陸からのろくな遺物もない。だから、早くに
ヤマト政権に帰属し、早期古墳をいくつか造らせてもらった。

952 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 13:41:36
>>950
>>922でその前提の不自然さは指摘されているが・・・
1町当たり30石の生産量は現在の日本のものと変わらない。

953 :日本@名無史さん :2009/10/18(日) 13:48:04
登呂遺跡を参考に、邪馬台国が二十余km四方の土地で間に合って、七万戸収容できるということがわかった。
郡使の戸数計算は正確とは言わないまでもあながち誇張でもないみたいだ。
意外とゆったり七万戸が収容できる。
頭の中で丼勘定してはだめってことだね。

954 :日本@名無史さん :2009/10/18(日) 13:50:55
>>952
一町当たり約10石弱で計算してますよw
その辺はちゃんとね。
登呂の水田は2.5町歩だから、20石位の収穫高でいいんじゃないの?

955 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 13:51:46
わかります。
東京の人口密度は1万人/ku以上あるので
日本には40億人以上居住できます。

956 :日本@名無史さん :2009/10/18(日) 13:56:39
>>953
邪馬台国が特別豊かな土地だからだよ。
山の中ではそうはいかない。

957 :日本@名無史さん :2009/10/18(日) 13:57:38
>>956
アンカーミス
>>955

958 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 13:58:20
人間は平地にしかすまないんだよ。
ところが、最近はピラミッド山でも古墳でも平気で削るし、
石室なんか見つけなかったことにしてこっそり運びだしてしまう。
遺跡発見で工事が止まれば大損害だからね。

959 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 14:38:08
>>954
失礼、前のスレを引きずっていた。

しかしながら、水田の面積当たり生産力は圧倒的だから
不足分を補うには相当の面積が必要となる。

960 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/18(日) 14:48:00
>>958
ちょっとだけ誤解を招く発言<人間は平地にしかすまないんだよ。>があるから一言。
家は土地の平らな部分に建てる。水田も平らなところに作る、あるいは地ならしして(平にして)作る。
だが、それは平野部には限らないよ。山間部の村落を見るがよい。山の斜面(あまり傾斜がきつくないと
ころ)に張り付くようにして家を建て、段々になった田畑を耕して生活してるよ。

961 :日本@名無史さん :2009/10/18(日) 14:58:02
>>959
イモなどはズルズルイモづる式に収穫できるから1アール(10メートル四方)の土地だけでも
結構沢山収穫できそう。一棟は800坪位持てるから、畑は24アール位作れる。
イモ畑を5〜6アール位作ればかなりの収穫量になるし。
自給自足する気になればいくらでも出来るよ。まだ自然は豊かだったろうし。

962 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 15:05:22
登呂遺跡は稲作にウエイトを置いてない様な、まだ縄文的な生活スタイルを多分に残した集落だったと言う事だろ
田んぼ作業の合間に、ドングリ採集と漁に出なくちゃいけない生活なら、徴用して古墳なんて造らせられないよな
わかる?

963 :日本@名無史さん :2009/10/18(日) 15:06:24
倭人伝には冬でも生野菜を食べてるってあるから、冬の野菜作りも出来たらしい。
思ったより豊かだ。

964 :日本@名無史さん :2009/10/18(日) 15:09:33
>>962
だから箸墓のは違うのw墓穴を掘るってそういうことをいうんだねw


965 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 15:16:20
米はカロリーが高いし、だいいち保存がきく
だから兵糧に使えるし天候不順にも備えられる、事実上貨幣の代わりにも使えるお宝の生産物だよ
労働量あたりの食料としてのカロリーも高いしね
だから、水田が発達してるって事が国力のバロメーターなんだよ
イモじゃ芽が出てきて保存きかないしね

966 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 15:18:15
そうだよな。そんな状況で戦争なんかやってられないし
一大率を置いて諸国を脅す事もできない。
やはり大規模古墳を造れるような国力がなければ。

967 :日本@名無史さん :2009/10/18(日) 15:21:02
>>965
だからお米などは古古米位まで大事に保存していたよ。
保存のきく加工品だって沢山あったろうし。
乾物類や、塩引きのものなども。
何かの時には保存食は助けになるからね。


968 :日本@名無史さん :2009/10/18(日) 15:27:00
大規模古墳じゃないよ、邪馬台国の時は。


969 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 15:31:44
>>967
その辺は願望や推測ではなくて、発掘物で示してほしいな。
保存食なのだから残ってるだろうし。

970 :日本@名無史さん :2009/10/18(日) 15:32:32
イモ類で秋、冬、春先まで間に合うよ。意外と保存が可能。
蒸かして乾燥し保存食にもなるし。

971 :日本@名無史さん :2009/10/18(日) 15:40:22
>>969
魚の塩干しなど中国じゃあ周や殷の昔からあったろうに。
紀元前の史書にもあるよ。
倭人は江南から来て漁が得意なんだから、魚の加工なども得意中の得意じゃないの。
なにも発掘物で見つけなくてもいいよ。

972 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/18(日) 15:44:25
>>969
出土物で示せるなら示すだろう。だが、食品はよっぽど特殊な条件(例えば凍土の中とか)の下でなければ
残らないよ。温暖な九州の地ではそんな古代の保存食が出土する条件はないよ。何でも遺跡、遺物として残
るものだと考えるのは間違いだよ。

973 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 16:47:52
>>972
何でも自分の想像で言ってよいと考えるのは間違いだよ。ハゲジッチャ。

974 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 16:51:55
>>973
御意、こいつのレスは愚かしいよなあ。


975 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 17:08:33
そんな虫以下の生き物はほっぽっとけばいいよ。

976 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 17:38:31
暫くここに張り付いてレスしてた野次ども、もうお帰えりかい?
楽しかったよ、普段の主が遠ざかってる間、私も書きたいと思ってた事を書けた
ではお気をつけて

977 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/10/18(日) 18:01:24
973,974,975の虫けらども。
内容のある書き込みをしろ。喧嘩に負けた弱虫の捨て台詞か負け犬の遠吠えしか書く事はないのか?
おまえら見苦しいぞ。

978 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 18:06:46
そんな虫以下の生き物はほっとけばいい

979 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 18:07:16
自分が普段やってる事をやり返されると腹が立つよね

980 :終止符っ子:2009/10/18(日) 18:09:16
こいつら縄文人◆cM49xEAzX6 という人物を見下し杉
いわば商品価値の分からない奴らだw


981 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 18:14:45
ただの、世間ずれはしてるものの、学問のない爺さまだよ。

982 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 18:18:14
あんさんには学問があるみたいだね。

983 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 18:20:34
学問のある人間が下らない悪口を言うか?

984 :終止符っ子:2009/10/18(日) 18:23:33
>>981
坊やは、マダマダだね。

まあ、勉強不足は多少感じる。
しかし、古代史が好きなんだろう、あのレスの長文は素晴らしいと思うゾ。


985 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 18:38:13
あほくさい。本人以外にあのレスを素晴らしいなどという椰子はいないな。wwwwwwwwwww

986 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 18:47:39
まあ、口の悪さは人後に落ちない御仁ではある

987 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 18:52:46
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった

988 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 20:18:11
>>948
あなたに検証する能力があるとは思えないけどな。
あなたが3世紀と思う古墳はどれ? 4世紀と思う古墳はどれ?

989 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 20:56:13
会社の先輩に言われただろう。
質問に質問で返すな、と。

990 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 21:26:07
うちの先輩は、分からんことをごまかすなって言ってたよ。

991 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 22:23:39
>>990

つまり、3世紀前半の古墳は、一つも挙げられないと言うことだね。

992 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 22:46:44
延喜式を出したのは俺だが
米の食率は50%くらいだったかも知れんし、となると水田面積の倍は人口あったかも
ただ、九州内に置いては北高南低というバランスは近世まで変わらない様だ
もう一つは翡翠の副葬品
硬玉は唯一糸魚川からしか出ないのだが、九州北部の副葬品からはざくざく出るのに南部からは小数だ
魏への貢物にも希少な大玉の翡翠はあるし、どうも南部は縁遠い気がしてならない
あとは鉄の分布を見ていくくらいかなぁ、鉄蹄という形で半島より輸入した鉄がどっちが多いかだ
米の生産力では外堀を埋め切れなかったが、また色々考えてみるよ
では

993 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 23:52:35
>>992
北高南低というバランスは基本的に間違いじゃないよ。問題はその中で、何で
南九州が発展できたのかだ。北九州と比べ大きく発展したってことは、膨大な
古墳で裏づけられる。北は古墳時代に入ってからはさっぱりだ。
南が発展したのは、倭国の乱の勝者だからだよ。そのことは一大率に検察され
諸国それを畏憚すとあることで分かる。そして、3世紀後半ぐらいにその南九
州は本州に勢力を延ばした。銅鐸勢力が消滅した後の、無人の野を行くが如き
鏡勢力の伸展、それらがすべて理解できる。

994 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 00:48:01
倭国の乱の勝者たらしめるには、強力な軍隊が必要
その胃の腑をまかなう食料生産力が無いと言うのが、日向説の懐疑点
日向説の根拠としては、古墳しか聞いた事がない

995 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 01:04:16
そりゃ勉強不足だね。

996 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 03:04:16
>>993
>北は古墳時代に入ってからはさっぱりだ。

何がさっぱりなのか?
4世紀は菊池が筑後平野に進出した時だが。
その菊池が倭の五王につながる。

997 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 06:00:23
北もさっぱりだが、南もさっぱりだろう。
西都に古墳が多いと言っても、それには七世紀の群集墳化した時代のものまで含まれる話。
三世紀、四世紀、五世紀と、どの時代に築かれたものが、それぞれ幾つあるのか、
そう言った数値も挙げずに騒いでいるのが南九州厨。

998 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 07:08:53
>>972縄文人
>温暖な九州の地ではそんな古代の保存食が出土する条件はないよ。

事実に反する。
九州でも米、どんぐり等の炭化種子は出土している。
温暖な南九州の弥生遺跡からも、だ。。

999 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 07:13:28
古墳の年代はそう簡単に決められる問題ではない。出現期、前期、中期、後期などと相対的に分け
るのが相当だ。大した根拠もなく、三世紀、四世紀、五世紀といいかげん年代をつけたがるのは古
墳に無知な証拠だね。

1000 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 07:21:09
日向の出現期古墳は大和よりも多いぜ、福岡でもかなりみつかっている。
冷静に考えれば、前方後円墳は九州→本州の流れがみえてくる。


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