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【一豊から】土佐山内氏と土佐藩【廃藩まで】

1 :【^▽^】山宗我部土佐守豊親 ◆4FfyOtW0fiF5 :2009/09/13(日) 17:22:42
について語りませふ。

2 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 20:37:07
ええと奥さんが有名

3 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 22:21:10
2get

4 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 22:29:26
維新後は藩主が脱藩した

5 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 22:38:59
なお寒し、自愛せよ

6 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 23:26:11
土佐鶴でも飲め

7 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 06:17:39
長宗我部氏を滅亡に追いやった尾張の鬼畜
その家来は大坂・遠州・近江のヤクザども
よそ者が270年間もふんぞり返っていたなんて高知県かわいそう

8 :【^▽^】山宗我部土佐守豊親 ◆4FfyOtW0fiF5 :2009/09/14(月) 07:08:49
>>7
鬼畜てーのは一条氏を滅ぼした上に血族を殺しまくった
長宗我部元親・盛親のこったぜっ!

9 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 17:04:30
良スレ復活記念age

10 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 18:16:59
長宗我部が鬼畜って?
戦国時代なんだから切り取りは当たり前だろ
山内なんて「一条ノ笠ニ繋グ八行ノ字」で土佐一国だもんね(勿論それだけじゃないけど)


11 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 18:31:11
「何事であるか、二、三の公卿が、御幼帝を擁し奉り、権威を盗まんとしているのではあるまいか!」


12 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 19:37:22
幼沖の帝w

13 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 21:20:07
幼沖の天子な

14 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 22:14:50
長宗我部の滅亡は自業自得だろ
山内のせいにするなよ

15 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 23:34:34
奥さんの密書で土佐一国

16 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 05:34:27
長宗我部滅亡と山内は直接関係ないな。
盛親と宿老たちの判断ミス、不運、家康の冷酷さが原因。
盛親も米(カネ)と住まいを支給されて京で隠居していた
のだから(他家に仕官した旧臣からの仕送りもあり)、
大坂冬の陣になんて出ないでおとなしくしていれば良かったのに。
叔母さん(お福さん)に取り持ってもらって奥羽あたりに
1万5千石ぐらいは捨て扶持を貰えたかもよ、息子がね。

それとも、どうせ負けなら夏の陣で逃げ出さずに自刃だよ。
落ち武者狩りが半端じゃないこともわかっていたはず。
捕まって、「出家するから助けてくれ」・・・
ズレているというか変わった人だよね。

17 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 06:53:41
長宗我部厨は山内より仙石や盛親怨め

18 :日本@名無史さん:2009/09/26(土) 13:36:47
盛親曝しage

19 :日本@名無史さん:2009/09/29(火) 02:26:55
山内は、江戸期にお取り潰しの危機にあったことはないの?
郷士の家のものとしては、コイツら疎ましいんだよね。

20 :土佐水呑み末裔@土佐無産党:2009/09/30(水) 02:45:48
郷士としてアグラかいてた奴らも吊し上げ!

21 :山内豊乳・山内興産副理事長:2009/10/02(金) 21:46:22
山内容堂は塩谷俊が似ていると思った。横山裕ももう10年くらいして貫禄が
ついたらありかもしれない。

22 :日本@名無史さん:2009/10/10(土) 04:28:27
不逞の輩>>20を磔にして下さい!>山内様

23 :日本@名無史さん:2009/10/13(火) 08:22:37
山内まだ生きてるよね
お城の近くにでっかい家あるから
羨ましい

24 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 17:34:06
【長宗我部厨対策テンプレ】

≪土佐山内氏と長宗我部氏の母系≫

【長宗我部厨の千代への嫉妬の理由】
山内一豊の妻、千代は桓武平家の千葉常胤の曾孫の東胤行と
藤原定家の子の為家の娘の末裔である。
千代の父の遠藤盛数がきしくも母方の叔父・東常尭を討ち取ることになり東家の男系は断絶した。
千代の母の友順尼は、東家に伝わった国宝・最古の写本『古今和歌集巻第二十[高野切]』を渡したという。
友順尼の父は東常慶である。
これは藤原定家由来の国宝・[高野切]を土佐山内氏が所蔵していたことで発覚した。
一豊の母は松千代といい、羽黒城主・梶原源左衛門の娘である。

【長宗我部元親の母と妻】
長宗我部元親の母は成り上がり美濃斎藤氏の娘で、
妻は無名の石谷光政という者の娘である。

≪土佐山内氏と長宗我部氏の出自≫

【名門岩倉織田家家老・黒田城主の土佐山内氏】
一豊の父、山内盛豊は織田信長で有名な清洲織田家の本家筋である岩倉織田家の家老で黒田城主であり、
清洲三奉行と呼ばれた清洲織田家よりも家格が上であった。
また、当時は一代のみの家老というのは有り得ない。
歴史学者・小和田哲男氏は一豊の曽祖父の山内敏直が、当時の岩倉織田家当主の織田敏広の偏諱を受け、
さらに偏諱は通例では、下の字が与えられるが稀に上の字が与えられる方が高待遇であり、
織田敏広の重臣であったとし、丹波から阿波を経由した久豊がその養子に入ったという説を唱えている。
また、明応年の万里九集の漢詩文集の「梅花無尽蔵」に山内豊前守敏直の寿像賛が収められている。
それなので山内敏直が実在の人物である確固たる証拠がある。

【恩人一条氏を殺害し主権を簒奪した土豪、長宗我部氏】
長宗我部氏は初め土豪であり、中国人で自称始皇帝の子孫の秦氏を先祖とする。
自らを助けてくれた一条氏を殺害し、主家を乗っ取って家を再興した。

25 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 17:36:00
≪長宗我部厨の山内一豊に対する批判と長宗我部氏の極悪非道な振る舞い≫

【浦戸一揆の鎮圧】
浦戸一揆の鎮圧は徳川方の井伊直政の指揮の下行われており、一豊公の指示ではない。
また長宗我部厨が主張する相撲の一件も戦国時代にしてはそれ程卑劣といえるものではないが、
強引にこの論点でゴリ押しをしてくる。

【三代に渡った長宗我部氏の極悪非道な振る舞い。忘恩の徒・親族粛清・兄殺し、繰り返される悲劇】

長宗我部兼序が周辺の豪族の連合軍によって殺害された際、
一子千雄丸を憐れんで一条房家は縁も所縁もなかったが庇護して養育し、
さらに失地の岡豊城までも与えてあげた。
しかし、元服した千雄丸は国親を名乗り、相次ぐ一条氏の当主夭逝に乗じて、
こともあろうに一条氏の支援で岡豊城に復帰した長宗我部国親が、
一条氏の属城である大津城を攻略した。房基は激怒したものの後の祭りであった。
後に土佐一条氏は長宗我部氏の目の敵とされ、
一条兼定の時代には、元親が一条家老臣を籠絡し、
土居宗珊宗珊を謀殺し、表面上重臣の合議で追放処分とし、
幼少の一条内政に家督を継がせ、元親を後見役にしたが、
さらには結託した老臣らを殺害し、実弟吉良親貞を中村城主として一条領を分捕る。
その後を継いだ、一条内政も成長すると波川玄蕃の謀叛に連座したとしてこれを伊予に追放し、
そのショックがもとで一条内政も病死する。

元親は溺愛していた信親の娘を娶らせるために長幼の序を無視して
家臣の大反対を背に強引に四男で幼少の盛親を後継者にする。
これを期に盛親を後継者に押した奸臣・久武親直を元親が重用するようになる
久武親直は実の兄の久武親信にすら「彦七は腹黒き男ゆえ、お取立てめされるな」と言われるほど狡猾であった。

26 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 17:36:42
盛親を後継者にする為に後継者候補に目された吉良親実と比江山親興を無実の罪で切腹させる。
親実の父、吉良親貞は元親の弟であり四万十川の戦いで元親の命を救った命の恩人であった。
吉良親実は智勇兼備の将で人望があり、多くの民の失望を買い七人の家臣が殉死した。
吉良親実の死後墓地で怪異な現象が多発し、「親実のたたり」といわれた。
これは怪談「七人ミサキ」として四国で語り継がれている。
同じくそれにショックを受けた後継者候補だった香川親和は憤死している(自害説、元親の毒殺説がある)
慶長4年(1599年)に、同じく元親は後継者候補の津野親忠を無実の罪で幽閉する。

長宗我部盛親は西軍につき敗走した後、徳川家康に謝罪して所領安堵を図るも
久武親直の讒言を聞き入れて、兄の津野親忠を殺害した為、不忠者として徳川家康に拒絶される。
また、兄殺しを隠蔽して緘口令を敷き、自殺扱いとした。

大阪の陣に豊臣方で参陣して八尾の戦いで藤堂高虎を潰走させるも井伊信孝に打ち破られ、
豊臣滅亡後、あちこちを逃げ回るもついに捕縛され、「出家するから」と言って命乞いをしたが
徳川家康によって死罪に処された。

掛川から山内一豊が土佐国に入国後、一豊は領内の安堵を図るため巡視を行った。
この時一豊は、「津野親忠自殺の始末を知る者はないか」と問うたため、
須崎代官を勤めていた柏原新之丞が「中平清兵衛が津野氏一族なのでこの者を召されれば事実が
明らかになるでしょう。」と答えた。そこで、中平清兵衛が召しだされて、
そこで初めて津野氏断絶の一部始終が一豊に伝えられたという。

27 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 17:37:24
前スレの七人みさきの部分ももってる人いたら貼って下さい。

28 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 17:47:04
高知県民は銅像もある山内一豊公、もとい土佐山内氏を心から信奉しております。
270年間も安穏な御治世で統治して下さり、善政を敷いて郷士にも学業の機会を与え、
官軍のお膝元にして下さってありがとうございます。こんな何もない県ですが誇り高いです。

それに比べ長宗我部氏は暴君続きで戦乱に明け暮れ、
血族殺しや恩人殺しなど傍若無人な振る舞いで人心を失い、
一領具足の末裔でも山内公にお仕えしたものは皆土佐山内氏を慕っております
攻めどころもないのに苛烈に攻め立てるのは一部の人だけです。
「七人みさき」の怪談もありますが、長宗我部氏時代の悪政を懐かしむ者など
もはやおりません。どうぞご気分を害されませんように。

29 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 00:27:31
パシリのカス豊なんかに、こき使われるくらいなら、土地捨てて、
隣国の阿波とか伊予にでも集団逃亡すれば良かったのに

土地なんかに執着してるから不幸になるんだ
それは現代の百姓にも言えるがな


30 :山内公よありがとう ◆0VYOn2QZfV4Z :2009/10/18(日) 13:06:36
まーたアンチ山内厨か。一豊のどこがパシリなんだよ
一領具足は土佐山内氏に受けた恩恵を忘れたのか。
今の坂本龍馬らが活躍できたのも藩政改革と善政のおかげだ。
百姓が安穏に暮らせたのも。徳島藩に逃亡してたら飢え死んでるか、
明治の志士でもうだつがあがらずに一生が終わるか。
伊予藩に逃亡してたら浪人になってるか殺されてるかだよ。

土佐藩は名君続きで忠義の代に徳川家康の養女(家康の弟の娘)を正室にもらい、
松平賜姓大名、外様初の若年寄等を輩出する一方、二代忠義が野中兼山を用いて
藩政改革、九代豊雍が天明の改革で天明の大飢饉から持ち直し、
十三豊熈が馬淵嘉平を用いて藩政改革をし、
十五代豊信の代には吉田東洋が藩政改革をし、新田をあわせると50万石に及び、
土佐開成館を創設するなど殖産興業を奨励して財政は潤沢だった。
豊敷が宝暦9年に藩校・教授館を創設し、
豊策が規模を拡大し、塙保己一の『群書類従』編纂を奨励する。
豊資もさらに拡大して文治政治に務めたため、学問が身近になり、
吉田松陰の私営塾等をもつ長州藩よりも早く
優秀な志士を輩出することになる。
上士側に板垣退助・後藤象二郎・福岡孝弟、
郷士側に坂本龍馬・中岡慎太郎・武市瑞山らを輩出し、
薩長同盟の締結や薩長土・薩土芸の軍事協定の締結に奔走し、
明治維新の原動力になったことはいうまでもない。

31 :山内公よありがとう ◆0VYOn2QZfV4Z :2009/10/18(日) 13:07:41
徳島藩は夜盗出身で稲田殺しや明治天皇のたばこを盗むなど後世の悪名が高い。
安土桃山時代から49件の一揆が起き、名東郡・勝浦郡以外の全郡で発生
伝聞では60件に及ぶといわれている。
蜂須賀重喜の代には豪奢な振る舞いが顕著で、
幕府に藩政圧迫で蟄居されそうになり、
斉昌の代になると水野忠邦から4000両の賄賂で官位を買い、
その埋め合わせに「煙草御口銀」の名目で重税を課す。
この頃600人近くが今治藩に逃亡した上、
大規模一揆が起きて首謀者すら処罰できずに許さざるを得なかった。
斉裕の代には徳川家の養子であった為、陸軍総裁職を買って出て、
徳島藩の財政が破綻寸前になる。また軍事的に有能であったが、
政治的手腕に欠け藩論を統一できず、藩内が混乱に陥る。
江戸期最後の茂韶が、稲田殺し(庚午事変)を起こし、
17名を殺害、重軽傷者20人、300人余りを投獄し、25棟の屋敷を焼き討つ。
これが幕府の耳に届き改易の危機になるが、
茂韶は嘘をついて家臣に責任をなすりつけ、徳島藩士10人が斬首、流刑27人、
禁固刑81人もの犠牲者をだす。茂韶は将軍の実孫(斉裕は徳川斉昭の子)で
あることを利用し謹慎処分になるようにとりなしたが、
茂韶の悪名は百姓から家臣まで天下に轟いたという。
明治維新では、西洋新式の軍備をもちながら、
財政破綻と藩内派閥闘争を抑えきれず、新政府側に与したが
少数の兵しかだせなかったため冷遇される。
また将軍の孫であるのに新政府側に与したことで悪名に拍車がかかる。
明治政府側に与したことを知る者も少ない。
また明治天皇の机上のたばこを盗んだのはこの人。
喜田貞吉を金で懐柔し、夜盗の系図を改竄させようとしたことでも知られる。

32 :山内公よありがとう ◆0VYOn2QZfV4Z :2009/10/18(日) 13:09:32
伊予藩は当初、加藤嘉明の領地で彼も軍事と人格に優れ良く治めていた。
大阪の陣の功績もあって会津藩40万石に加増移封されることになる。
だが嫡男の加藤明成が暗君であり、暗愚な振る舞いをした上に
それに諫言する家臣団との激突を繰り返し、
堀主水を主とする反明成派の家臣達が出奔すると、
こともあろうにその家臣らを全員追跡し殺害させた。
この事件が大騒動となり幕府によって会津加藤家は改易処分にされる。
しかし、加藤明友が祖父の功で石見吉永藩1万石を与えられる。
最終的には近江水口藩2万石。

33 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 14:07:36
山内一豊とか衣冠束帯の官服の上から袈裟かけてるやつってなんなの?


34 :山内公よありがとう ◆0VYOn2QZfV4Z :2009/10/18(日) 15:39:12
【山内容堂公(豊信)1/2】

山内の名君でも特に豊信(容堂)は優秀で「幕末の四賢侯」と称され、
当初は容堂も藩士に動かされる藩主だったが、これではいけないと思い立ち、
学問に励み詩文に長じて、鯨海酔侯, 九十九洋外史,
酔擁美人楼など多数の雅号をもつ。
政治では吉田東洋を起用し藩政改革を断行、
軍事では東洋を暗殺し専横を極めた武市瑞山を処断し、
最小限の処断ですませ、藩政を回復。
外交では勤皇党の坂本龍馬・中岡慎太郎らの脱藩を黙認。
藩兵に上京を命じながら攻撃禁止を厳命し、板垣退助にこれを無視させる形で、
戊辰戦争に参加。これによって東軍大名として徳川家・阿倍正弘の恩に報い、
時代の趨勢にも応じた。
その際、藩兵には寒いので自愛するよう言葉を与えている。
坂本龍馬思案・後藤象二郎提案の「船中八策」を妙案と考えて、
徳川慶喜を説き伏せ、大政奉還をさせている
(これで後に慶喜は大政奉還の功として勲一等を受勲、自身の復帰の礎となる)
小御所会議では大政奉還の功労者の徳川慶喜が会議に参加できないこと
を不当とし、列侯会議の開催を要求したが、「今日の件は、すべて宸断
(天皇の決断)によって行なわれたものであるぞ」等と岩倉具視が発言した
ことで、三条・岩倉ら公卿が討幕強行派に取り込まれ、
当時弱冠15歳の天皇が既に操られていることを悟り、
その後発言することはなかった。
また藩営で土佐商会本社・長崎出張所を築かせるが、
これが後の海援隊・亀山社中・三菱財閥の発展に繋がる。
維新後は、内国事務総裁・制度寮総裁・集議院上局議長などを歴任するなど
他大名を圧倒しており、明治2年には佐幕派でありながら正二位に昇叙されており、
この当時は長州藩主・毛利元徳ですら従三位、
薩摩藩主・島津久光では従四位上であった。
(年齢差はあるが他の大名はさらに下位のため敢えて挙げる)

35 :山内公よありがとう ◆0VYOn2QZfV4Z :2009/10/18(日) 15:40:28
【山内容堂公(豊信)2/2】

隠居後の堺事件では、無断で上陸し神社仏閣人家に不法侵入したり、
女子をからかったため、土佐藩士が捕らえようとしたら、
町家の戸口にかけていた隊旗を奪って逃走したため、
追撃し十三人を射殺した。この厳しい対応に列強諸国は震撼した。
(清はアヘン戦争前には商船を焼却しただけで命までとってはいない。)
容堂は「天皇が開化に踏み切る今、部下が外交を妨げるのは心痛であり、
土佐のみの責任を問われることを願う」とし、藩士20名に切腹を命じ、
あくまで土佐藩内だけの問題に留めようと尽力した。
この一件は容堂の支持かどうかわからないが、
藩士が切腹中に臓腑をフランス水兵に投げつけたため、
軍艦長が帰途での怨讐と藩士への同情と英雄視を恐れたため
中断を申し入れる。この事件の責任をとるとしてで、全ての職を辞し、
慶応4年4月大阪の御堂で療養。
この際に明治天皇より刑法官知事の職を打診されているが固辞している。
6月3日には王政復古の功で権中納言に任じられ再び議定職に復職するも、
新政府の方針や坂本龍馬・中岡慎太郎ら暗殺後に政敵が台頭したことに
不満を募らせ、全ての職を辞して隠居し、「昔から大名が倒産した例しがない。
俺が先鞭をつけてやろう」と豪語し、連日酒宴や作詩にふけり、
静かに息を引き取った。

36 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 17:03:26
>>34
久光がいつ薩摩藩主になったんだ?

37 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 20:44:34
カス吐夜って、女房のヘソクリふんだくったり、
他人のアイデア盗んで成り上がったDQNでしょ

ちがうんかい?


38 :山内公よありがとう ◆0VYOn2QZfV4Z :2009/10/18(日) 23:06:58
島津久光のところは薩摩藩父の間違いですね。或いは国父でもいい。

39 :山内公よありがとう ◆0VYOn2QZfV4Z :2009/10/18(日) 23:08:35
>>37
貴方は世界史を知らない人でしょう。
そんなことした人で名将・名宰相と称された人は山ほどいますよ。
兄嫁と密会し役人から賄賂を受け取った陳平、
韓非子を殺害しその思想を乗っ取った李斯、
玉璽を井戸で見つけ諸侯を騙して盗み帰った孫堅、
ぱっと思いついただけでもこれだけ枚挙できます。

40 :山内公よありがとう ◆0VYOn2QZfV4Z :2009/10/18(日) 23:10:59
それに堀尾忠氏の意見を奪ったとされるアンチ山内厨の唯一の根拠、
新井白石が書いた「藩翰譜」は、元々江戸時代に主観で伝聞を書き記したもので
現在では学術的にも信憑性の薄い資料であることも知らないのかな。
千代の逸話もこれまた新井白石の『藩瀚譜』が出典だよね。

それに千代の場合は、質素倹約に努め、学問を学びながら人格者でもあり
夫に献身する行動をとったとされたため、明治政府によって「良き母の模範」と
され教育に利用されたから有名になったに相違ない。
また男では、天皇の軍旗が逆賊に奪われたことに苦心し、無謀に戦を仕掛け、
自害しようと度々試みて、明治天皇崩御後に妻を殺して自分も殉死した乃木希典が
勤皇忠義の模範として利用されることになる。
勿論乃木は確かに勇将であったが、戦功でいうと更に上の戦功をあげてる将軍や、
日露戦争での乃木司令部の無能さ等も鑑みると、元から高かった名声に
明治政府が意図的に拍車をかけたといえる。

41 :山内公よありがとう ◆0VYOn2QZfV4Z :2009/10/18(日) 23:32:11
【山内一豊公】

一豊は裸一貫で秀吉に仕え、刀禰坂の戦いでの活躍などで
浅野長政・堀尾吉晴・中村一氏らが100石時代に400石の高禄を得ている。
これは豊臣秀吉が一豊の能力を買っていたからに相違ない。
伊勢亀山城攻略でも一番乗りの功績をあげ、羽柴秀次付の宿老に取り立てられ、
若狭国高浜城主、近江長浜2万石、遠江国掛川に5万1000石に転身、
城を修復、城下町を整備し、大井川に堤防の建設と流路の変更を隣国の中村一氏に
打診し、それを行って大井川の氾濫を未然に予防した。
その後、秀次謀反の廉で重臣らが処罰される中、8000石の加増も受ける。

関ヶ原への一連の流れでは、、堀尾忠氏や池田輝政らと度々協議し、
東軍支持の流れを取り付けたのは策謀に長じていたといえる。
秀吉が死ぬ前や関ヶ原では前線で戦えなかったため戦功はなかったが、
元々軍事面ではなく政治・謀略面で優れた武将であったからだ。
そして長宗我部氏が四国を統一し得た土佐の大地を一豊に託したに相違ない。
これは秀吉の側近中の側近でありながら東軍に加担しようと当初から画策した
蜂須賀家政のいる徳島藩。(本人は秀頼に知行を返還し出家して、至鎮の妻が小笠原秀政娘で
徳川家康の養女であった頃から参戦させる)
これまた秀吉の重臣で、さらに父の加藤教明が三河一向一揆で家康に背反した実績がある
加藤嘉明が伊予藩、豊臣氏三中老であり十河氏の遺領二万石を横領するため甥の大塚采女に命じて
遺児を毒殺させたり、自身は西軍に与しながら息子に東軍に参戦させた生駒親正が控える高松藩等に
対する牽制が必要であったからに他ならない。

42 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 23:48:19
山内忠義は昵懇の毛利勝永を大阪にいかせてあげたり
長宗我部の遺臣が大阪に出向するのを咎めないであげたみたいだね
一豊じゃなくて盛豊が生きてた方が大大名になれたかも

43 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 00:46:20
忠義は慶長郷士制度・百人衆郷士・百人衆並郷士制度で
反抗的な態度だった一領具足も召抱えてあげたり
早い段階から二つの藩政改革をしたかなりの名君だよ

全国的にも一番早い時期で実績上げてるんじゃないか?

44 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 17:03:42
山内忠義は大坂夏の陣で盛親に従っていた長宗我部遺臣の
浪人−一度他家に仕官していた者たちも多くいた−に土佐へ
帰って仕官するように呼びかけ、長宗我部氏が滅びたからか
それに応えて分相応に仕官した者たちが
大勢いたようだね。吉田東洋の先祖もその一人。

これは郷士制度とは別で、旧上士を分相応に召し抱えたもの。
本人は他家に仕官していたり、既に高齢で辞退したものの、
息子(前者の場合は次三男)や弟を仕官させた者も多くいた。

45 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 18:19:05
土着民を宴会に誘い出して、虐殺した鬼畜
今頃、地獄で虐められていることだろう

46 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 18:36:36
日本人一般の認識

山内一豊 :山内一豊の妻の夫

以上

47 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 23:29:23
>>45
だからさ、アンチ山内厨対策のテンプレに書いてるじゃん
それぐらいなら戦国時代でもごく当たり前のこと。
死ぬか生きるかの戦いなんだから。話題にもならないよ。
じゃあ妊婦の胎を切り裂いて雄か雌か確かめさせた武田信虎、
微罪の者を牛裂きの刑や釜茹の刑を頻発した斉藤道三、
比叡山で無実の女子供ら3000人を囲い込んで皆殺しにした織田信長、
毛利との国境で600人を処刑した羽柴秀吉なんかはどうなるのさ?
返答してみてよ

48 :日本@名無史さん:2009/10/19(月) 23:47:59
土佐山内家にアンチもファンもいないよ
ムキになる対象でもないから


49 :日本@名無史さん:2009/10/20(火) 00:11:07
御幼帝を擁し奉り、権威を恣にするのは・・・

大不敬であるぞ!


50 :日本@名無史さん:2009/10/20(火) 01:52:32
幼沖の天子

51 :日本@名無史さん:2009/10/20(火) 02:40:20
カスが虐殺を行ったのは戦国時代じゃないぞ
媚大成功で土佐に入った江戸時代初期

幕府は、この虐殺を口実にして、カスを取り潰して
はりつけ獄門にするべきだった

52 :日本@名無史さん:2009/10/20(火) 10:16:22
土着民とはいっても浦戸一揆参加者だからね。
山内氏は一揆鎮圧にあたった長宗我部旧臣から
一揆の重要参加者の生き残りリストを手渡されていた。
そこで一豊国入り3ヶ月後に参加者たちを相撲大会に招いて
処刑したわけ。警戒して来ない者も当然いたから
山内家来がその人がいる村に行って斬殺した。

弟の康豊(だったっけ?)は一豊より前に浦戸一揆の際には
国入りしていたから彼が長宗我部旧臣から
浦戸一揆主要参加者生き残りリストを手渡され、
康豊から一豊に渡ったのだったかな?
記憶が曖昧だが、司馬遼の小説と違って早くに実行に移した。

ちなみに水戸藩などといった半士半農でもない
完全な農民を虐殺して村ごと移転させているよ。
大坂の陣の後だったかな?
何故か水戸藩のことはあまり言われないけどね。

53 :52:2009/10/20(火) 10:21:38
補足:長宗我部旧臣(重臣)から手渡された

54 :日本@名無史さん:2009/10/20(火) 14:27:29
幼冲の天皇って至極全うな言葉じゃないの?
酔ってても的を射ている言葉だと思うよ
だって孝明天皇は大の健康体でご聡明
吉田松陰が聡明な天皇を慶ぶ詩すら残ってる
それに有名な攘夷鎖国論者でもし天皇がご存命ならば
維新も大義名分もなかったろう
それに周りには孝明天皇によって追放された尊攘派の三条実美や
廷臣二十二卿列参事件を企てた悪しき岩倉具視や大原重徳がとりまく
毒殺しといて天然痘なんて嘘は作れる状況だろうに

かわいそうな御帝

55 :日本@名無史さん:2009/10/20(火) 20:30:22
カス本人ではないが、カスの後継者が、領民を心配して生魚の食用を禁止したらしいじゃね
そしたら、知恵を働かせた地元民が、ちょっとだけ生魚炙って食いだした。
それが、高知名物カツオのたたきの誕生なんだとさ

56 :日本@名無史さん:2009/10/20(火) 20:47:48
全部六平太のせい

57 :日本@名無史さん:2009/10/20(火) 20:58:58
いや、全部徳川家康が悪い
こんな腑抜けDQNを土佐一国の主にしたのは家康

腑抜けDQNには、せいぜい米子5万石くらいが相応

58 :日本@名無史さん:2009/10/20(火) 21:40:48
>>57
だから何を持って腑抜けDQNとするんだい
論拠は?徳島藩に逃げても伊予藩に逃げてもダメなことはわかったよね
お前の発言のおかげでいかに土佐が善政だったかが逆に証明されたけど><
ソース
>>30
>>31
>>32

59 :日本@名無史さん:2009/10/20(火) 21:44:48
一両愚息はしつこくて武士道のかけらもないクズ

60 :日本@名無史さん:2009/10/20(火) 21:58:59
容堂公は文武両道に通じて身長5尺6寸の好男子。
木戸と非常に仲良しで日々互いの邸宅を行き来しては、
酒を飲み交わして政治談議にふけった人。
木戸の版籍奉還・廃藩置県は大名の権利を奪うものだったが、
積極的に後押ししてあげたり、龍馬の脱藩では勝海舟に酒を飲んだら許すと
粋な計らいで許してあげたりと男気のある温厚な人で、
龍馬も容堂の身を案じる言葉を残してる。この人はすごいいい人。

61 :日本@名無史さん:2009/10/20(火) 22:03:26
土佐の英雄= 坂本龍馬

山内一豊は高知で、どういう扱いをされているか
教えれ

62 :日本@名無史さん:2009/10/20(火) 22:13:24
容堂はまぐれで大名になった人だね

63 :日本@名無史さん:2009/10/20(火) 22:49:58
江戸時代から政治は土佐といわれてたし
山内家の政治能力は高い

64 :日本@名無史さん:2009/10/21(水) 00:13:49
>>61
山内神社は容堂公からを祭る神社だし、そこに大政奉還を慶ぶ山内容堂公の銅像もある
吉田東洋を起用した藩政改革で藩財政が潤ったから土民の評価もいい
それに武市は東洋を暗殺するなど強行過ぎて破滅したけど、龍馬とは仲いいからね
同じく穏健派の木戸とも大の仲良し

65 :日本@名無史さん:2009/10/21(水) 00:24:47
城山公園の「山内一豊と妻と名馬の銅像」は三千万円全てが民間人の寄付でできてるし、
(町は土地代すら出さず不足分の土地を補ってくれとの要請にも拒否)
そこの芳名碑には三万円以上の寄付者約300人の名前が刻まれている。
高知城にも「山内一豊公」「板垣退助」の銅像があるように、
アンチには残念ながら龍馬も一豊公も高知県では信奉されてるよ。


66 :日本@名無史さん:2009/10/21(水) 01:56:37
一応いっとくけど現代の子孫の方々は一豊の弟の康豊の子孫だからね
だから一豊に罪があろうがなかろうが当て馬にするのだけはやめておきなさい

67 :日本@名無史さん:2009/10/21(水) 04:49:40
一豊は、一豊の妻のオマケでFA

68 :良いねえ:2009/10/21(水) 13:00:12
「二州酒楼に飲す」
昨日は橋南に酔ひ
今日は橋北に酔ふ
酒在り飲む可し吾酔ふ可し
層楼 傑閣 橋側に在り
家郷万里 南洋に面す
眦を決すれば 空濶碧茫々
唯見る怒濤の巌腹に触るるを
壮観却って此の風光無し
顧みて酒を呼べば杯己に至る
快なる哉 痛飲放恣を極む
誰か言ふ君子は徳を修むと
世上解せず 酔人の意
還らんと欲すれば欄干の灯なほ明らかに
橋北橋南ことごとく絃声

69 :日本@名無史さん:2009/10/21(水) 13:14:04
読み下すなよ

70 :日本@名無史さん:2009/10/21(水) 20:19:15
そもそも、長曽我部が名族を滅ぼしたり、乗っ取ったりしたから
四国にはゴミしか残らなかったんじゃね
そこに、家康の犬が乗り込んできた訳だ

71 :日本@名無史さん:2009/10/21(水) 21:00:54
てゆうかアンチ山内厨って一豊よりも家康を非難してるんじゃね?
浦戸城接収も井伊直政が家臣の鈴木平兵衛と松井武太夫に命令してるし
浦戸一揆の237人の耳は塩漬けにされて大坂の井伊直政のところに送られてるし、
相撲の件もこの人が命令してやったとしか思えないんだが・・・

井伊直政って小田原攻めの際に秀吉暗殺するように家康に進言してるし、
関ヶ原の開戦だって福島正則に確約しときながら物見に行くといって詐欺と軍法破り
でも直政は家康一番のお気に入りのオホモダチだから福島正則は訴え出られなかった
この人が家康の犬で諸悪の根源なんじゃない?

72 :日本@名無史さん:2009/10/21(水) 22:59:23
直政は徳川家から見たら忠臣だよ

73 :日本@名無史さん:2009/10/21(水) 23:43:27
別に徳川家から見た立場は聞いてない

74 :日本@名無史さん:2009/10/22(木) 06:30:01
カス犬の飼い主w

織田信長

羽柴秀吉

豊臣秀次

豊臣秀吉

徳川家康



75 :日本@名無史さん:2009/10/22(木) 08:22:22
すごいメンツだな。やっぱり一豊公のお人柄に惹かれる方が多かったのだろう
特に太閤殿下のご信頼が厚かったように思われる

76 :日本@名無史さん:2009/10/22(木) 12:15:23
細川は清正の霊位を先頭にかざして入向して、
細川忠利が熊本城本丸に登って清正の祀る廟所がある本妙寺へ拝み、
かしずいて「あなたのお城を預からせていただきます」と言ったなww
証文踏み倒しまくって「肥後の殿は貧乏殿」と蔑まれたしww

77 :日本@名無史さん:2009/10/22(木) 23:11:38
途中から家康に尻尾を振っても、譜代扱いされるでもないが
土佐一国をもらったのは出来すぎ


78 :日本@名無史さん:2009/10/23(金) 07:33:20
同じ維新の中でも土佐を挙げたら芸州と徳島の影の薄さが浮き彫りになるな
薩長土官軍とかもう全く仲間にすら入れられてないし
土佐は名君が多いのは確かだからな
それも皆一豊公じゃなくて康豊公の血筋だね

79 :谷岡 山内公よありがとう ◆0VYOn2QZfV4Z :2009/10/24(土) 17:46:08
山内一豊公がご出世なさる切っ掛けは、千代が貯めていた黄金十枚で馬を買い与えた
ことだが、本当はそうではないんだよ。
実は信長が盛豊公のことを物凄く買っていたから、
あの人の息子ならばどんな者か仕えさせてお手並みを見てみたいということだ。

山内盛豊公は織田家本家の岩倉織田家家老で、黒田城主であった。
妻は法秀院といい、尾張梶原氏と呼ばれ桓武平家の血縁を継ぎ代々岩倉織田家に
仕えて来た重臣、羽黒城主・梶原源左衛門の娘である。
羽黒城は織田信長に仕えた梶原景義が天正10年、
本能寺の変で信長とともに討死し廃城となる。尾張梶原氏の系図は一人も
欠くことなく、他の史料などから存在の確認が取れ、正統性のある系図とされ、
代々羽黒城に鎮座す。
また、梶原氏は岩倉織田氏重臣の前野家との血縁関係も持つ。
(盛豊妻の法秀院の大叔母(父の叔母)が前野時正妻で梶原景綱娘。
前野長康の伯父で松倉城主の忠勝妻は山内盛豊公の妹君。
その為、信長に仕える前の時期に忠勝や長康を頼っており。
懇意の中と思われる。)

山内盛豊公は岩倉織田家の家老になったことのみならず、
名門の梶原氏から妻を迎え入れていること、妹が松倉城主に嫁いでいることから、
かなりの実力者であったことがうかがい知れる。

80 :谷岡 山内公よありがとう ◆0VYOn2QZfV4Z :2009/10/24(土) 17:48:49
しかし、今回紹介するのはあくまで史料的に確証のある部分だけである。
史料によると、山内盛豊は織田信長の陽動作戦を見切り、
出撃せぬように指示した上で、しかし他の者がなおも籠城をし続ける中、
陽動作戦失敗の間隙ができたうちに、
少数で大数に歯向かうには籠城ではなく迎撃する他に手段がないとみて
自らの手の者を城外に出撃させ戦闘に備えさせた。
これを見た信長は「古い家だけあって能き家老達が残っている」と評し、
「神妙に下知す」という言葉を使って指令を高評価している。
これは盛豊公と信長公両方の戦略性の高さを現す貴重な資料である。

後に、山内盛豊は「岩倉城開渡事」にあるように、家老他三人と共に相談し、
最早大勢は決しているから城中の者の一命だけはお助けください。
そうすれば城を明け渡しますと信長に直訴し、信長公も同じ心だと同意して
人質を取り交わして全員を解放させた。
他の三人の家老の消息もわからないことから、
盛豊らは家老として覚悟を決めてこの頃に自刃したのだと思われる。
織田信長公は能力もあって義理堅く、余り人を褒めることのない自分が感心した。
あの人を家臣にしたかったのだと思ったに相違ない。
そしてその姿を一豊に投影したのかもしれない。
また、盛豊公は神明生田神社も造営している。

81 :谷岡 山内公よありがとう ◆0VYOn2QZfV4Z :2009/10/24(土) 17:51:32
【尾州浮野表両度合戦事 出典】

浮野表に陣を取つて城の體を御覧じ、所々を放火、早り雄の若侍百騎計りを進ませ、
足軽を掛させて、敵兵の働き様を静かに窺ひ見さしめ給ふ、
岩倉の城の者ども此様を見て、扨は信長此城を取らんためにわざと味方を誘い出して、
付入りせんとすると見えたり、敵の手立てにのせられて城を乗取らるゝなよとて、
諸勢かつて出で向はず、各城中を堅め籠り居て、只追手の門外へ織田七郎左衛門、
山ノ内猪之助両人の下知を受くる者僅三百余騎を出して備へたり、信長公御覧じて、
さればこそ古き家にて能き家老ども残り神妙に下知すと見えてあり、
軍の手合いを見るべしとして、若侍百四五十騎を出さる

【大意】

信長公浮野表に陣取って、あちらこちらに放火し、血気盛んな若侍100騎を出陣させ、
足軽をも掛させて敵兵がどのように動くか静かに御覧になられたが、
山内盛豊公・織田七郎左衛門ら家老衆が、信長がこの城を取らんがために
城中の者をわざと誘い出して、そこに付け入らんとする罠である。
敵の策謀にのせられて城を乗取られるんじゃないぞと言い放ち、
ついに城からは誰も出てこなかった。他の者が城中の守りを固めて籠っている中で、
ただ織田七郎左衛門と山内盛豊の二人の家老の家臣らが
わずか三百余騎であったが敵襲に備えた。信長公これを御覧になって曰く、
「さすがは岩倉織田家は古くから続く家だけあって素晴らしい家老達が残っている。
陽動作戦にも乗らず、多勢に無勢だと籠城は不利だとも知っている。
それに陽動作戦を終了させたと見るやすぐさま兵を出してきた。
神懸り的な命令を下すとみた。どれぐらいの軍であるか矛を交えて確かめようと、
若侍450騎に出陣されるように命じた。

82 :日本@名無史さん:2009/10/24(土) 19:30:08
なるほどな、谷岡
つまりは山内盛豊ら家老は自刃すると決めていたのか
今までずっと信長が無血開城を許したのはなぜかとおもってたが
おそらく家老らが欲しかったからだろうな
だが律儀だから切腹して果てたと
かー、正直者はばかをみるねー

83 :日本@名無史さん:2009/10/26(月) 05:46:18
元親は自分が送り込んで戸主の座につけた身内を
含めて土佐・四国の豪族を粛清し過ぎた。
また、津野親忠は実弟の盛親に殺されたが、
その前に元親によって軟禁されていて、問題が元親没後に
持ち越され、関ヶ原敗退(ほとんど戦っていないが)後に
藤堂高虎との関係から盛親に疑われて殺された。
後に山内氏に仕えた高島氏はこれを久武の讒言だけの責任に
しているが、盛親の意思も大きかったはず。
何せ自分は土佐から追い出されて土佐半国は親父が嫌っていた
兄貴のものになる(噂か憶測だろうが)のはたまらんだろう。

しかし、いくら戦国の世とはいえ、実兄殺しは大罪で、
家康に改易の恰好の口実を与えてしまった。
しかも「本来ならば死罪だが情けをもって許す」などと。
俺の見方では晩年に土佐で大粛清を行い、
それでいて他家とあまり交際しなくなっていた
元親の責任は重大。いくら昔とはいえまだ20代半ばだった
盛親では対処しきれなかったはず(大坂夏の陣後の態度も?だが)。

香宗我部氏が関ヶ原合戦で長宗我部氏と行動を共にせず、
高虎から家康への説明でも香宗我部は長宗我部とは姿勢が
が異なると説明したそうだが、香宗我部氏は
高虎と連絡を持っていたの?

84 :日本@名無史さん:2009/10/26(月) 23:18:06
長宗我部の没落は自業自得だよな
なぜ山内が目の敵にされるか分からん

85 :日本@名無史さん:2009/10/27(火) 23:44:29
無能な成り上がり者が、威張ってるから叩かれる

OK

86 :板部@国立大准教授 ◆LzNvo0ub1dmq :2009/10/28(水) 00:52:46
土佐山内氏が叩かれるのは嫉妬なんじゃないですかね
ただそれだけのような感じがします。
兄殺しで改易の流れは家康が仕組んだことですし、土佐の接収も山内じゃなく
井伊の仕事ですしね。

それに長宗我部氏は確かに細川の下士から一条を利用して成り上がったのも事実
土佐山内氏は岩倉織田家で代々世襲の慣習がある家老職から息子の代でも上士扱いのまま
信長の下でも優遇されていたことが気に入らないだけでしょう
それに谷岡氏のいうように、盛豊の信長評が「古き家ならではの能き家老」に対して、
元親の信長評は「あれは鳥無き島の蝙蝠」です。斉藤道三や松永久秀ですら評価されてるのに
この酷評ぶりも影響があるんだと思いますよ

87 :日本@名無史さん:2009/10/28(水) 02:44:26
>>85
山内は無能じゃない罠

88 :日本@名無史さん:2009/11/02(月) 04:47:13
山内氏が無能だったら改易の嵐が吹き荒れていた
江戸時代初期・中期に潰されていた罠。
いくら徳川将軍家に「信頼」されていたとはいっても、所詮は
外様だし、譜代とてどんどん取り潰されていた状況だった。

忠義の正室が松平氏の娘(養女?)だった以外に徳川・松平との
婚姻はもう一件あるかないかだったし、婚姻関係にあろうが
なかろうが容赦なく取り潰されていた時代。
「信頼」とやらもあてにならない時代でもあった。

俺は百姓の末裔の高知県出身者だけど、山内氏はなかなかだと思う。

89 :日本@名無史さん:2009/11/02(月) 10:35:47
お前は黙って土下座してろwバーカ

90 :日本@名無史さん:2009/11/16(月) 16:23:55
斗賀野城ってとこに俺の先祖らしき人が居城してて「土佐物語」によると長曽我部氏の侵攻で討死してんだけど、この氏って高知ではあまり見られず鹿児島に多く分布してんだよね…
なんで(´・ω・ `)?

91 :日本@名無史さん:2009/11/16(月) 17:26:36
米森氏?

92 :日本@名無史さん:2009/11/16(月) 19:55:51
>>91
YES

93 :日本@名無史さん:2009/11/23(月) 15:53:04
>>91
米村氏の中には四国が平定されたせいで嫌々長宗我部に従っていた人がいて、
秀吉の四国の役の際に、秀吉側に寝返って九州征伐まで従軍した人がいたから。
同じような土豪は四国に沢山いるよ。長宗我部はむごいからね。

94 :【^▽^】山宗我部土佐守豊親 ◆4FfyOtW0fiF5 :2009/12/16(水) 03:19:53
山内氏は徳川家康から土佐を与えると命じられたのであって、
長宗我部家臣団の討伐、鎮撫は命じられていないんだよ。
一豊の国入り後の仕置きは見事だがな。

ちなみに福島正則も芸備の領有が決まったからって、毛利氏が残された防長へ
撤収するまでは尾張清洲から安芸広島まで移動する構えはみせていない。

95 :日本@名無史さん:2009/12/16(水) 03:29:48
>>1 「語りませふ」って何だよ・・・
日本史板で仮名遣い間違えるなよ、恥ずかしい

96 :日本@名無史さん:2010/01/04(月) 15:55:15
>土佐山内氏(やまうちし)は日本の氏族。
>本家は「やまうち」で、各分家は「やまのうち」を称する。

各分家ってどの家のこと?

97 :日本@名無史さん:2010/01/04(月) 19:39:14
鎌倉の山内と関係ある?

98 :日本@名無史さん:2010/01/04(月) 23:20:30
西郷隆盛にしろ、坂本龍馬にしろ、本来の主君(藩主)よりも崇め奉られる事を
どう考えているのだろうか?

それにしても、山内、島津、毛利は戊辰戦争で敗北したらそれこそ全責任を
背負わされて領地没収・お家取り潰しは確実だった。

ところがどっこい、薩長土連合の官軍が戊辰戦争で勝利した途端
かつての主君を完全無視する藩士達。
自らの賛同も確認せずに勝手に国政に堂々と参加して勝手に決めている。

藩主はさぞかし悔しかっただろうな。

99 :日本@名無史さん:2010/01/07(木) 09:30:24
土佐で幕末に活躍した志士は全員郷士(旧長曾我部の一領具足)の現実。

100 :谷岡 山内公よありがとう ◆0VYOn2QZfV4Z :2010/01/07(木) 10:57:00
【維新時に活躍した土佐藩上士或いは高級武士】

山内容堂(藩主 集議院上院議長)、板垣退助(上士 自由党総理)、
後藤象二郎(上士 農商務大臣)、吉田東洋(上士 藩政改革に着手)、
福岡孝悌(上士 文部卿)土方久元(上士 宮内大臣)、
佐々木高之(上士 工部卿)、細川潤次郎(上士 貴族院副議長)
中岡慎太郎(大庄屋 陸援隊長)、坂本竜馬(豪商才谷屋 海援隊長)
武市半平太(豪農 上士格白札)

数は多かったのかもしれませんが、殆ど「一領具足」は見受けられませんね。
「上士と郷士は郷士でも郷士株を買った富裕層の平民」に維新活動家が多かっただけで
大多数の「一領具足」には活動すら見られませんね。何が現実ですか。

101 :谷岡 山内公よありがとう ◆0VYOn2QZfV4Z :2010/01/07(木) 10:58:58
追記ですが、

坂本・武市・中岡・岩崎ら全員「一領具足」の末裔ではありませんよ。

102 :谷岡 土佐郷士の子孫 ◆0VYOn2QZfV4Z :2010/01/07(木) 12:04:37
【上士の優しさにまみれた平等主義者・武市半平太の叔父
 上士の真実】

鹿持雅澄(妻が武市の叔母)は、学問が好きであったが、
下級武士の一番下位に当たる白札であった。
この職は薄給ながら多忙であり、雅澄は学問好きや偏屈な性格から
世間では「偏屈者」「腰抜け侍」と呼ばれていたが、
上士の福岡孝則だけは違った。

彼は雅澄のことを考え、閑かな職で学問と身近に親しめる教授方下役・
写本校正係に任命し、中士にまで格式をあげてやった。
「雅澄、この殿中の書の数々、閲してよいぞ。また、我が邸の書物も使って
よいぞ。さらに、要あらば、京大阪からも取り寄せてやろうぞ」と
藩校の講義聴講、藩庫の蔵書閲覧、自宅の書物の閲覧まで許してやり、
足らない本は自分の給与で買い与えてあげた。
その中には『古事記』『日本書紀』『万葉集』等の和歌の書や、
契沖・真淵・宣長のものまで何でも与えられた。
これは雅澄の集大成である『万葉集古義』の作成に大きく奇与することになる。
彼もかつての恩人福岡のように、身分を差別することがなかったといわれている。
門下生には、佐々木高行(上士筆頭 侯爵・工部卿・宮内大臣)が出たという。

103 :谷岡 土佐郷士の子孫 ◆0VYOn2QZfV4Z :2010/01/07(木) 12:06:27
【山内容堂公への死人に鞭打つ差別の濡れ衣】

容堂が藩主に就く前に、既に「おこぜ組」と郷士の対立の構図が既成事実として
できあがっており、上士達が考える思想は殆どの国では「佐幕」であり、
逆に郷士達・下級武士は「討幕」を考える傾向が強い。
その上士層に囲まれて成長した容堂と、既に形成されていた
討幕派の郷士層との間で対立が起きただけのことである。

現に容堂公が郷士を差別したという記述も
歴史上の史料には一切残らない事実無根なものなのである。

容堂自身は武市をどんどん重役に抜擢して出世させていることや
武市と直接話し合う機会が多かったし、
容堂が親しかった木戸孝允・勝海舟・久坂玄瑞などは
下級武士の際たるものである。
また、容堂が用いた吉田東洋も差別を問わない画期的な塾を開いたり、
漁民のジョン万次郎を藩士に取り立ててあげた人である(武市半平太が殺害)

104 :日本@名無史さん:2010/01/07(木) 16:45:45
竜馬伝の影響で上士の末裔と名乗ったら批判と罵声が飛ぶ構成だったなw

105 :日本@名無史さん:2010/01/08(金) 19:44:28
一領具足は虫けらしか残ってないな
勇猛な人は四国征伐で全て討ち死んだからね
残ったのは逃げ帰って高知を安堵された一領具足と
老害と兄殺しと基地外家老だけ
維新に入ると郷士の大部分を占めるにもかかわらず誰一人活躍せず
そして朝鮮・会津並みの恨み文化が根付いて
容堂公の郷士差別の捏造や歴史自体の捏造に走る

106 :日本@名無史さん:2010/01/09(土) 00:05:33
>>105
とりあえず長宗我部家臣=一領具足じゃないからね

吉田東洋の先祖も長宗我部の重臣だし

107 :日本@名無史さん:2010/01/16(土) 22:54:28
で、どうなんだ
鎌倉の山内と関係ある?

108 :日本@名無史さん:2010/01/17(日) 11:23:15
>>107
苗字の由来はそこじゃなかったかな?

109 :日本@名無史さん:2010/02/07(日) 21:30:23
竜馬伝見てると山内の殿様も土佐藩上士も皆土佐弁をしゃべっているが
連中の先祖は三河・遠江・尾張あたり出身なんだろうが、山内の殿様などは
いつから土佐弁をしゃべるようになったのですか。

110 :日本@名無史さん:2010/02/07(日) 21:34:43
殿様や上士の多くは参勤交代で江戸と高知を往復していたから
完全な土佐弁にはなりきらなかったような気がするのです。

111 :日本@名無史さん:2010/02/08(月) 17:26:10
高知から江戸まで順調にいって1ヶ月強
初期の頃は大阪まで海路だったので、紀貫之の土佐日記のように京まで55日、
江戸まで更に10数日かかったかもしれない。
4月に江戸で暇乞いして5月に高知、翌年2月に高知を出て4月に江戸城に登城
江戸に12ヶ月、高知に9ヶ月、旅に3ヶ月
殿様が本気で会話する相手は江戸城中で接する諸侯や幕閣、将軍。
自分の家来には丁寧な口をきく必要はないし、領民は豪商・豪農といえども
殿と直接会話する機会があったかどうか。
すなわち山内の殿様は日常江戸の言葉を話していたのではなかろうか。

112 :日本@名無史さん:2010/02/09(火) 00:05:49
山内家について調べているのですが、歴代や本家・分家・庶流などにいたる詳しい家系図がのっている書籍はありませんでしょうか?よろしくお願いします。

113 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 15:31:53
山内

114 :日本@名無史さん:2010/04/02(金) 23:07:51
age

115 :日本@名無史さん:2010/04/04(日) 18:40:11
会津系作家に舐められてる土佐の高知

116 :美人は氷高皇女:2010/04/23(金) 04:22:22
幕末盛り上がりでスマンが,一豊と千代は地震で女子失い後,子が出来ずの所,捨て子を授かった
後継者の器迄,育てあげたが,お家騒動や国の反乱を招くと出家させたと,言う話だが.
実は一豊は浮気で子を宿してしまい,苦し間際で捨て子にして千代を騙したんだ
しかし,千代は知っていたんだ騙されたフリをしたんだ
そして,出家と言う形で追い出した
千代はなんと,したたかな姫なんだ女秀吉ばりだな

117 :美人は氷高皇女:2010/04/24(土) 14:17:48
隠し子の一人や二人キリシタン大名じゃ無いんだから
一豊は戦場で,たいして兜・首をあげて無い,頭での勲章
それも千代のお陰.それもウサン臭い
一豊は人間がデカクて「言う奴に言わせておけ」って感じ(幕末迄言われるだから)なぜなら下からのしあがり,織田・秀吉・徳川と乗り切るのは並外れた才
戦国末期にヒットした人物じゃ無いか?
今,日本は経済成長では無い
建設屋から金ムシリ取る大物政治家は時代錯誤でマ-ジンだけの商社建設屋はご退場願いたい
空港1つ造るのに請け負い転がしでどんだけ無駄が多いか!
大手から小建設屋に直に流せっちゅうの
金ムシリ取るなら頭使って儲かってる所から

118 :日本@名無史さん:2010/05/04(火) 16:04:44
この前のドラマ見て。花札はその後、子孫が発売したのでしょうか?

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