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♪邪馬台国 ドンと来い♪ 53

1 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 16:30:34
                ,===,====、
               _.||___|_____||_       
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.         ./(^(^ .//||...||   |口| |c  )
.....     ∧_∧ / //. :||...||   |口| ||し
.......    (・ω・`) //....  ||...||   |口| ||
     /(^(^ //  ....  .||...||   |口| ||
"" :::'' |/   |/ '' "  :::  ⌒  :: ⌒⌒⌒ :: ""`
::,,:::::,, ; ̄ ̄ ̄  "、 :::: " ,, , :::   " :: "


九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。 煽り、粘着禁止。荒しはスルー

邪馬台国ドンと来い! 52
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1251547443/l50

2 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 17:00:00
>>1


3 :ローガン:2009/09/07(月) 19:10:46
1乙! 前スレの統屬について
@蜀志李厳伝「留護軍陳到駐永安皆統属厳」
諸葛亮は漢中に出陣しようと 永安を李厳に託し、軍は江州に移るが、護軍の陳到は永安に留まり李厳に統属した。
A魏志張恭伝「衡弟為京兆虎牙都尉秩比二千石而統属郡」
中常侍唐衡の弟が二千石で郡に統属した。
B蜀志黄忠伝「及曹公克荊州假行裨将軍仍就任統属長沙守韓玄」
黄忠は曹操に裨将軍に任ぜられたが同じ任のまま、長沙太守韓玄に統属した。
続く。

4 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 19:22:35
>>1 乙!

>>3
しかし前々から思っているんだが…

李厳伝、張恭伝、黄忠伝…とスラスラ出てくるローガンはひょっとして三国志ファンなのかな?www



5 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 19:23:16
盗賊

6 :ローガン:2009/09/07(月) 19:30:54
上の用例からみると
@皆は諸葛亮の軍でありながら李厳の管轄下に…
A大権力者唐衡の弟と云う身分でありながら、軍の構成員に…
B劉表配下の中郎将都云う身分でありながら、郡太守の配下に…
いずれの場合もX統属Yとする場合、単純な服属関係ではなく、XはY以外の所属先Zがある事により統属と記されるのではないかと考えます。
統属とは「XはZの配下でありながらYに所属する」あくまでこれを前提に読むと、
倭人伝の皆統属女王国の場合、「複数の王達はみんな」と訳すと、Zの対象がなくなります。
皆は「世有王」以外のそれまでの登場人物もしくは組織と考えるのがよいのではないでしょうか?

7 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/07(月) 19:48:44
「…皆統屬女王國」

屬=(皆)女王國に従い

統=(皆)で治める。


王達は、女王國の命によって治める(政治を任される)

8 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 20:06:52
前の985で>ありもしない公孫の記録まで引っ張り出して、自分の論を通したいのか?
と有ったが、公孫氏は40〜50年間も独立状態にあったのだから自家の記録ぐらい当然残していた。
司馬懿仲達が238年に公孫氏を滅ぼした際に戦利品として記録の類は魏に持ちされれ
魏略の参考資料となったと考えるのがおかしいかい?
魏略の内容は卑弥呼が親魏倭王になる以前で倭の王達が女王に属していた時代
つまり、公孫氏の時代の倭の姿が書かれている。
公孫氏の倭の記録を参考に魏略の倭の記事はかかれているでんです。

9 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 20:22:49
「統屬」で検索すれば、三国志だけで9件HITする。

10 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 20:30:01
>>8

>公孫氏は40〜50年間も独立状態にあったのだから自家の記録ぐらい当然残していた。

残していたのなら、どんな記録が現在まで残っていますか?

>司馬懿仲達が238年に公孫氏を滅ぼした際に戦利品として記録の類は魏に持ちされれ
魏略の参考資料となったと考えるのがおかしいかい?

考えるのは結構だが、その考えを元に論を構成するのであれば
論の根拠となるべき資料は当然出さなければならないだろう?
事は資料が論のもとなんだから

>魏略の内容は卑弥呼が親魏倭王になる以前で倭の王達が女王に属していた時代


それも貴方が個人的に考えたことだよね?

>公孫氏の倭の記録を参考に魏略の倭の記事はかかれているでんです。

違うだろう。「書かれていると想像します」だろう。

11 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/07(月) 20:32:21
>>6
ローガン氏の考え方に従えば
王は皆伊都国の王でありながら女王国に従う でよいでしょう。

12 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 20:36:06
>>11

王が皆伊都国の王なら「有」なんて使わないだろう?

13 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/07(月) 20:59:28
想像だけなら

公孫氏を滅ぼし、記録は焼亡。
普通は此方だろうな。


14 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 21:00:29
中国人はどう解釈してるのだろう。

15 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 21:03:58
日本近代史が消えた

16 :ローガン:2009/09/07(月) 21:04:40
>>11
> ローガン氏の考え方に従えば

全然従ってないやん。「XはZの配下でありながらYに所属する」
Yが女王国、Zが世有王、Xが皆。
「皆」はそれ以外の登場人物。

17 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 21:11:53
>>14
中国人も嫁ません。

18 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 21:14:47
>>8は今度は何処に現れるだろうか?

19 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 21:27:39
伊都国についての記述で、「世有王皆統屬女王國」の解釈ということかな。

単純に、「伊都国には代々王がいて、皆女王国に統属する」でいいのでは?

つまり、伊都国にはずっと前から王がいて今もいる。その王は皆、邪馬台国に
属している。というわけだろう。

薩摩藩には領主(王)がいる。その王は江戸幕府に統属している、というのと
同じようなものだろう。
薩摩藩の領民を支配しているのは島津の殿様。江戸幕府ではない。
しかし、その殿様は江戸幕府に従属している。

20 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 21:28:38
中秋や 猫の糞しの よかりけり 

21 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 21:33:32
>>19
普通にだめだろ

22 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/07(月) 21:37:40
>>19
同意同意。

23 :邪馬台国殺人事件:2009/09/07(月) 21:45:14
ここは携帯圏外にある、山中の洋館。時は真冬。窓の外には雪が降り積もり、暖炉の火が
あかあかと燃えていた。カルバドスのグラスを片手に談笑する男達・・・このときはまだ、この
洋館が怖ろしい惨劇の舞台になるとは誰も想像してはいなかった。

しかし、そのとき、この洋館に通ずる唯一の道は雪崩に埋まり、同時に電話のケーブルも
切断されてしまったのだった。

テーブルを囲む男達の顔ぶれは、「倍暦太国」「ホツマ唐松山」「言意学河童」「大和湖縄文人」
「無学改め」そして「名もなく笑い崩れる男www」

今、鮮血の舞台の幕があがる。地獄の時を告げる鐘がなる、ボオン、ボオン、ボオン・・・・。



24 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/07(月) 21:48:47
>>12
有はこの場合 ある(存在)を示すあるよ。おかしいことないあるよ。

25 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/07(月) 22:09:17
>>23
これはオカルト版縦目仮面かな。続きを聞かせてくれ。

26 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/07(月) 22:09:21
>>24

存在だけでは時間的な曖昧が発生します。

27 :邪馬台国殺人事件:2009/09/07(月) 22:10:02
この男達の間には、次のような憎しみの相関関係がある。

・太国⇔唐松山・・・記記年代観とその解読論に関する意見の相違。

・太国、唐松山⇔縄文人・・・記紀年代に対する信・不信。

・太国、唐松山、河童、縄文人⇔改め、www・・・九州説対畿内説。

・改め⇔河童・・・ウエブ上での人気に対する嫉妬??

・www⇔他のすべての登場人物・・・・悪罵

おっと、実はもう一人の登場人物が存在していた。吹雪の中、スキーで山側からこの山荘
に向かいつつある 「二」氏である。

28 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/07(月) 22:20:33
>>27
臨時ニュース
二氏は吹雪に巻かれて遭難した模様。詳細不明。

29 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 22:24:06
俺は借金取りの縦目がいい。

30 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 22:36:57
他の登場人物

縦目軍団・・・悪ふざけしかしない刑事部長とその使えない部下達。

・ローガン・・・元新聞記者、かって太国の悪事を暴いたことがある。

・九州王朝・・・事件は畿内説論者の陰謀かと疑う地元のご隠居。

・サガミハラハラ・・・ただの変質者。

31 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 22:37:30
>>19
>つまり、伊都国にはずっと前から王がいて今もいる。その王は皆、邪馬台国に
属している。というわけだろう。

伊都国にはずっと前から王がいて今もいるならは「世世有王」
「世有王」だから伊都国には2〜3代続く王がいた。
「世有王」は魏志倭人伝で挿入された文だからその王は皆とはならず
皆は倭の国々のことです。
つまり「伊都国には2〜3代続く王がいた、倭の国々は皆、女王国(伊都国)に統属していた」となります。


32 :サガミハラハラ:2009/09/07(月) 22:43:06
>>30よかった、私の名前もでて。
のけものにされたのかと心配していました。

33 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/07(月) 22:43:16
>>31
伊都國に、二〜三代続く王が居たら
「有」じゃなくて「在」だろ

それに女王國と、女王在任時間の設定があるので
王に時間を持たせる事はしない。

34 :邪馬台国殺人事件:2009/09/07(月) 22:43:36
実は、この山荘は、最近新しくコテになったdoontakuka氏の所有になる。新年のお祝いを
かねて、じっくりと古代史を語ろうとの主旨で、上記メンバーによる初めてのオフ会が開かれ
たのだった。しかし、山荘に来てみると主人の姿はなく、入り口の扉に次のようなメモが貼り
つけてあった。

「所用で少し遅れます。電気は自家発電。薪も食料もたっぷりあります。皆さんで楽しんでい
てください。夜半には戻ります。」

山荘は3階建てで、天文学の館と呼ばれ、屋上には天体観測用のドームがあった。そして
廊下や階段の踊り場には、何とも知れぬ異国の骨董品が飾り付けられ、そこには緯度・経度
らしい数字が、マジックで記されてあった。

35 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 22:47:42
>>31
伊都国を女王国とする根拠がわからない。
倭人伝による限り、女王として登場するのは卑弥呼だけ。
その卑弥呼が居するところは邪馬台国なのだから。

36 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/07(月) 22:47:55
>>31

>「世有王」は魏志倭人伝で挿入された文だからその王は皆とはならず

勝手に挿入するなよ、無理やり挿入すれば強姦だぞ
そして怪我をさせれば強姦致傷だ

37 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 22:51:24
>>23 邪馬台国人事件
>しかし、そのとき、この洋館に通ずる唯一の道は雪崩に埋まり、同時に電話のケーブルも
>切断されてしまったのだった。

嵐等で外界から隔離されてしまった孤島や山荘…
所謂ミステリー小説で言う「クローズド・サークル」と言うシチュエーションだなw

しかしそれはもっぱら九州説のお家芸。

舞台は九州限定、その設定で推理小説はスタート
そこに自分がアームチェア・デテクティブ(安楽椅子探偵)として登場すると…

38 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 22:55:22
最初に殺されるのは縄文人、次いで、太国と唐松山が同時に。
更には河童とwwwが姿を消し、縦目軍団は二人の行方を捜すが、
翌朝、河童は血まみれの惨たらしい姿で発見される。

39 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 22:55:27
>>31
伊都国には代々王がいた。倭の国々は皆・・・では文章の主題が途中で変わってしまうな。
代々王がいたのは、単に伊都国だけではなく、国々にはということだろう。
国々には王がいて代々続いてきた、国々は皆、女王国に統属している。そうゆうこと
だと思うな。

40 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/07(月) 22:57:57
今宵TVで放送していた斉王〜浅見光彦の見過ぎか〜?p

41 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:00:18
少なくとも、伊都国=邪馬台国=女王国 …なんてのは意味が分からない。

伊都国は千余戸、邪馬台国は七万余戸。

仮に伊都国を女王の居する王都とし隣の奴国も合わせて邪馬台国としても
半分にも満たない。

意味が分からないwww

42 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/07(月) 23:02:03
>>31 「世有王」は魏志倭人伝で挿入された文だからその王は皆とはならず 皆は倭の国々のことです。
魏志倭人伝には正しい元本があって、そこには無い記述が魏志倭人伝に挿入されているとお考えですか。

對海国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国、邪馬壹国とちょうど列伝のように続く各国の
記述の中で、伊都国に関する記述の 有千餘戸と郡使往来常所駐 に挟まれた記述ですよ。なんでこんな
ところで倭の国々の話を書く必要がありますか。

また、倭の国々と言うと、女王国に属していた国々と属さない国々がありましたから、
倭の国々は皆、女王国(伊都国)に統属していた というのはおかしいでしょう。

43 :邪馬台国殺人事件:2009/09/07(月) 23:04:07
おっと、雪まみれになりながら今やっと「二」氏が山荘の裏手にたどり着いたようだ。しかし
彼は玄関にはまわらず、スキーを外すと裏手の窓ガラスを、ダウンのポケットから取り出し
たガラス切りで擦りだした。何をする気なんだろう・・・?

結局12持を過ぎても、主のdoontakuka氏は戻らず、みなそれぞれが部屋に別れて寝るこ
とになった。太国・河童・改め氏らは2階へ、唐松山・縄文人・www氏は1階の部屋へ、そして
「二」氏は??

また、doontakuka氏は本当に外出しているのだろうか。この山荘には十いくつの部屋がある。
そのすべてを覗いて見たわけではない・・・。

44 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/07(月) 23:04:29
>>39

>国々には王がいて代々続いてきた

それじゃなにかい? ここでわざわざ「代々続いてきた」事を書かなければならないほど珍しく
王は単発王が目まぐるしく入れ替わっていたのか?

45 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:04:55
>>33
「在」では「伊都國は、二〜三代続く王が在った」で
「有」なので正しくは「伊都國は、二〜三代続く王を有した」かな。

>それに女王國と、女王在任時間の設定があるので
>王に時間を持たせる事はしない。

また、何が言いたいのか分からないが
二〜三代続く王とは卑弥呼〜壹與のことです。


46 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:05:23
>>31
前後の文章の流れから(その部分が)浮いてしまうね。

47 :ローガン:2009/09/07(月) 23:09:05
>>39

はい、概ね同意。国々の官 副官と考えたいのですが…

それより、殺人事件が… サガミ先生がどんな惨たらしい殺され方をするのか?



48 :日本@名無史さん :2009/09/07(月) 23:12:04
やはり統属に一番ふさわしいのは伊都国だと思います。
統は統治するという意味ではなく、「すべて」という意味では。

統括の統の用法。
まるっきり隷従、隷属していると言う意味です。


49 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:12:22
>>36
魏略には無く魏志倭人伝で付け加えられています。

>>44
「世有王」と「伊都國の説明に加えたのは
卑弥呼〜壹與と倭王が続いたから
魏略の時代は、卑弥呼だけの時代で代々でなかった。

50 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:15:32
いろんな説があるようだが、伊都国には代々王がいて、皆、邪馬台国に統属して
来たということを前提に話を進めると、いつ、どういうきっかけで統属する
ようになったのかというのが問題。

一般的に、ある国が他の国に従属するというのは、武力による争いの結果と
いうことになるわけだが。

51 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:15:35
>>39
それでもやっぱり浮いてしまう。
42に賛成。


52 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/07(月) 23:16:24
>>38
気に食わぬ筋書きだ。
縄文人を殺したと早合点して喜んだのはドジな畿内説派であった。彼らに忍び寄る縦目仮面の手に・・・

53 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:17:13
>>42
>倭の国々と言うと、女王国に属していた国々と属さない国々がありましたから、
>倭の国々は皆、女王国(伊都国)に統属していた というのはおかしいでしょう。
そのとおりだな。だが、皆が女王国に統属するとなると、やはり「国々は皆」なん
だね。となると、倭の国々は皆ではなく、これまでに書いた国々は皆なんだよ。


54 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/07(月) 23:18:25
「世有王皆統屬女王國」

伊都国の限られた場所にて王達は、女王国の命に従い政治を行っていた。

55 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:19:13
>>35
この部分魏略では「其国王皆屬王女也」
伊都國の説明に「皆屬王女也」だからこの王女は伊都國の王女。
魏志倭人伝では王女が女王國に書き改められている
故に女王國=伊都國。

56 :日本@名無史さん :2009/09/07(月) 23:20:02

不彌国、奴国、投馬国その他諸々の国は?は属さないの?

57 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:22:03
属すか否かは書いてないね。属さないとも言えない。

58 :日本@名無史さん :2009/09/07(月) 23:24:34
>>55
それは違うでしょ。
其の国の中に伊都国が含まれているのだから。(其の国は私は伊都国だけを指すと思う)
伊都国の国王は皆伊都国に属すなりになってしまう。

59 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:26:19
>>56
卑弥呼は倭王だから、当時の考え方からすると日本の王というような意味に
なる。
従って、特に明記されていない限り他の国も統属していると考えられる。

従属していないことが明記されている国というのは狗奴国、それと東に海を
渡った倭種の国ということになるわけだが。

60 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/07(月) 23:27:13
>>49

>魏略には無く魏志倭人伝で付け加えられています。

魏略は魏志倭人伝とは違うの
魏略には魏略の編纂意図がある。しかも魏略は「曰文」としてだけこの世に存在し
その内容は、唐の張先生が参考書として編集しているので「魏略曰」となっている。

だから、魏志倭人伝と魏略の内容を比較するならまだしも
文の構成を比較するのはナンセンスな行為です。



61 :日本@名無史さん :2009/09/07(月) 23:30:08
>>59
ではなぜ、特に伊都国の条で書かれているの?

62 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:32:52
那珂通世は、「皆の字は伊都国の王を指したる辞なるべし。若しくは王を指したる
にはあらで、対馬、一支、末盧、伊都の4国を指したる辞かとも聞こゆれども、云々」
と結論は伊都国の王としたが、4か国と読めることをも指摘している。これが重要な
ところだな。4か国の方が正解だったってことよ。

63 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:33:28
>>47
世有王(しかし国々の官 副官は)皆統屬女王國
ということですか?

・・・国々の、というより、伊都国の、と解したほうが流れ的にイイかも。

64 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:35:35
>>60
魏略も魏志倭人伝も基ネタは同じでしょうから
違いを比較することは重要です。
魏略と魏志倭人伝の違う原因は書かれた時期です。
『文の構成を比較するのはナンセンスな行為です。』等と言っているようでは
貴方には魏志倭人伝を理解することは永遠に不可能ですよ。

65 :邪馬台国殺人事件:2009/09/07(月) 23:35:50
男は慣れないベットでなかなか寝付くことができなかった。その部屋に暖炉はないが、自家
発電による空調が効きすぎて暑いくらいだ。3階に確か図書室があったはず、そこから本でも
借りてこよう。体のほてりも少しはとれるだろう・・・・男はガウンを引っかけて廊下へと出て、
3階に通じる階段を上っていった。

図書室は、ガラス張りに近い部屋で、廊下から中の様子が見て取れる。個人の蔵書とは思え
ぬ本の数だ。doontakukaの博識がうなずける。この山荘の部屋はどこも鍵はかかっていない。
男は照明をつけると、書棚から一冊の本を手に取った。「神州纐纈城」。

そのとき書棚の後ろから、前身黒ずくめの影がいきなり飛び出した。その手には斧が握られて
いる。そして、それがこの世で男が見た最期の映像だった。頭頂部からまっぷたつに頭を割られ
て、倒れながら男は叫んだ。「まさか、お前が・・・オシデにかなわぬ・・・。」断末魔だった。

明日に続く

66 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:37:54
>>61
多分、伊都国の王のことだけを知っていたということだろう。
郡使は、伊都国に常駐していたらしいから。
つまり、他の国の王については良く知らなかった。

67 :日本@名無史さん :2009/09/07(月) 23:37:56
書かなくても皆統属していることが常識ならば、
そこで特に4カ国だけ統属しているなどと書く必要性はないです。

68 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/07(月) 23:38:34
>>55
魏略の「其国王皆屬王女也」という文章が変てこだ。なんで也が付いてるのだ。


69 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:38:49
>>62
魏略と比較すると4か国の方が正解ですが
魏志倭人伝では4か国だけでなく対象の国が増えている。

70 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:40:05
>>67
四カ国ではなく、伊都国のことだけ書いたのだと思うが。

71 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:40:56
>>69
どうしてそう思うのかな? 別に増えていないと思うが。

72 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:48:09
>>71
魏志倭人伝では卑弥呼が倭王となったので皆は倭の国々全て。

73 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:48:25
と言うかこのドン来いスレと終止符スレ、ほぼ同じ内容で進んでいるんだが…

もう少し内容に付いて使い分け・住み分けをしようとか思わないのか?

74 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:52:19
>>72
倭の国の全てだったら、行程記事の途中で書くのはおかしいだろう。
行程記事の前に書くか、総括として後ろに書くか、いずれかのはずだ。
それに縄文人が指摘したように、倭の国の中には女王に属さない国もある。
皆=倭の国すべてという考え方は無理だ。

75 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:53:38
まぁ、定説でいいだろ
伊都国は卑弥呼の系統即ち邪馬台国の王統と特別な関係にあったってことを言いたかっただけだろ

76 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:55:58
>>75
おかしいところを徹底的に考えないと、堂々巡りだよ。

77 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:57:40
僕は九州王朝はあったと思う
だけど、畿内の大和王権と非常に近い関係にあって、しかも一部分は畿内に移住していった
そう思ってる

78 :日本@名無史さん:2009/09/07(月) 23:57:41
「世王有」というのは、「180年代?に卑弥呼が共立されて以来もずっと代々の王がいるんだけど」
くらいの意味では?

79 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/07(月) 23:57:44
>>64

>魏略も魏志倭人伝も基ネタは同じでしょうから
違いを比較することは重要です。

内容のね

>魏略と魏志倭人伝の違う原因は書かれた時期です

いいえ、編纂者の違いです。
書かれた時間は関係ありません。

>『文の構成を比較するのはナンセンスな行為です。』等と言っているようでは
貴方には魏志倭人伝を理解することは永遠に不可能ですよ。

そういう総合的な判断ができるほどお偉い方なのでしょうか?


80 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/07(月) 23:59:27
74と75に同意。殺されぬうちに身を隠すよ。縄文人は夜目が利くので秘密の隠れ家に水行陸行。

81 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 00:03:23
>>73
それは絶対に無理だ。伊都国=女王国を認めて貰うまでは、頑として動かない人が自演を織り交ぜて揺さ振りかけて
くるから。

82 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 00:04:45
>>81
伊都国=女王国なんてトンデモはスルーすればいいんだよ。

83 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 00:09:43
>>82

人をトンデモ呼ばわり出来るほど、君は偉いんだ。
ここにはそんな奴ばっかか?

84 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 00:11:43
考えてみれば、畿内から発生した邪馬台国が急激に北部九州をあんなにコントロール出来ない
逆もまたしかり
二元的に王権というか権力体が倭国に存在し且つそれら二つのグループが密接に結ばれていたという認識をしなければいけないんだろう
それが倭人伝にある伊都国の紹介部分で示唆されているんじゃないかな

85 :◆.L.MXSPOgc :2009/09/08(火) 00:14:13
>>27
その例えはよく分からないのですが、www氏(私とレスしあっているのはこれですよね?)との対話において、
比喩的に”遭難しかかっている”のは彼のほうですよ?


話は全く変わりますが、
簡単なテストとして次の2つの文章について、どう捕らえるかというものがあります。
A:キリンは首が長くなるように進化した。
B:キリンは進化の結果首が長くなった。

この2つの文章を、同じ、あるいは同じような事を言っている、という風に捕らえる人は、科学的な思考のできていない人です。
この2つの文章が、まったく逆のことといえるほど違うことを言っていると分かる人は、科学的な思考の人です。

まぁこれは、知っているかどうかというところも関係してくるのですが、それでも同じと思うような人は、
少なくとも「科学的」な思考を自分はしていない可能性があると思ってくださいね♪


86 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 00:18:22
>>84
自分でも何言ってんだかわからねえだろう?
酔っ払ってんのか?

87 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 00:19:54
突然変異により首が長くなったものが、結果的に生き残った=進化 じゃねの?

88 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 00:21:28
>>85

キリンは実は進化していない。

89 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 00:27:53
ようするにだ。科学的な判断の出来る奴だけが、
壮大な妄想を描き、夢見る乙女のロマンチック街道を驀進出来るわけだ

納得したよ。

90 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 00:34:31
>>85はいったい何が言いたいのだ?
アブリの後か?

91 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 00:34:35
邪馬台国連合の起源は帥升だよ。

西暦107年、帥升は、後漢に160人もの生口を献上した。
これほどの生口(奴隷)が発生し、しかも他国に献上できるほど余剰な人間が
発生するのは戦争以外にない。

帥升は、武力で周囲の国々を従えた。
伊都国が邪馬台国に従属するようになったのも帥升のときだろう。

92 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 00:54:54
>>91
倭國乱相攻伐歴年 乃共立一女子為王
というのが邪馬台国連合の起源ですね。
「伊都国が邪馬台国に従属(統属)するようになったの」はそれからでしょう。

93 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 00:55:23
「吉野ヶ里考古学講座(9月)」を開催します
(財)佐賀県芸術文化育成基金では、吉野ヶ里遺跡の発掘調査の成果、弥生時代の生活・技術・交流、
『魏志』倭人伝の国々など様々なテーマで、毎月、原則第2土曜日に吉野ヶ里考古学講座を開催していますが、
9月は下記の内容で開催します。



1 開催日時  平成21年9月12日(土曜日)(受付)13時00分〜 (講演)13時30分〜15時00分
2 開催場所  吉野ヶ里歴史公園内 弥生くらし館
3 講演テーマ  邪馬台国―朝倉・甘木説の現場から
4 主な内容  
   今回の講座は、朝倉・甘木地域の北部九州における地域的特徴を、その歴史的過程の中で考察することで、
邪馬台国「朝倉・甘木説」の可能性を検討します。
5 講 師   朝倉市教育委員会文化課   川端(かわばた)正夫(まさお)さん 
6 定 員   50名程度(事前申込みは不要です)
7 聴講料   無料 (ただし、別途、吉野ヶ里歴史公園の入園料・駐車料が必要です)
入園料    一般大人400円  一般小人80円
駐車料    普通車300円  二輪車100円
8 お問い合せ  佐賀県教育庁社会教育・文化財課  吉野ヶ里遺跡担当  TEL 0952-25-7233
※当日のお問い合せ 吉野ヶ里遺跡展示室 TEL 0952-52-4130
9 主 催   (財)佐賀県芸術文化育成基金 (吉野ヶ里遺跡保存整備特別会計)

94 :ローガン:2009/09/08(火) 01:08:03
>>63
> 世有王(しかし国々の官 副官は)皆統屬女王國 ということですか?
> ・・・国々の、というより、伊都国の、と解したほうが流れ的にイイかも。

そうかも。以前はそう考えてました。ただ後漢書の「国皆称王」のソースを三国志と考えたので…
時代の近い同国文人の解釈を尊重しました。
さておき、王は居るが名はわからない、しかし官副官の名は知っている。官副官達は自国と女王国に「統屬」していたんでしょう。

95 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 01:46:51
>>92
それだったら、卑弥呼以前に倭王あるいは倭国王がいたのではおかしい。
しかし、後漢書では、帥升のことを「倭国王」と記述している。

倭人伝の記述からもおかしい。
「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂…」とあり、大乱の7〜80年前に
男子の王がいたことが説明できない。

卑弥呼共立の意味も不明になる。
各国が戦乱状態のとき、巫女的な女子を王にして、皆が納得し、収まると
言うのがわからない。
さらに、その状態が長年にわたって続くというのも納得いかない。

しかし、帥升体制の後継者として卑弥呼が共立されたとすれば納得がいく。
台与のときに同じことが起きているからである。
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與
年十三爲王 國中遂定

96 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 02:07:53
>>94
>「国皆称王」のソースを三国志と考えたので…
後漢書のその記述は初めて気づきました。
とすれば、官副官しか書かれていない各国にも王がいた、と。
>時代の近い同国文人
陳寿のほうですね。

…(各国に王がいたなら)なんで伊都国の部分に、世有王皆統屬女王國、
といれたのでしょうかね。そこは、腑に落ちない…。

97 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 02:23:21
>>95
意味がわかりました。
帥升は邪馬台国の王、だということですね。

私は、帥升は別の国の王で、その当時の倭国連合の盟主、だと思ってました。
その連合が倭國亂で一旦崩壊し、新たな盟主(巫女的な女子だけど)を共立した、
で納得してました。

98 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 03:43:27
>>90
>アブリの後か?

クスリを炙ってストローで吸引ってやつか?w


99 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 06:37:00
>>96
後漢書を書いた范曄は、世有王=国々には王がいて代々伝えていたとあるのをみて
「国皆称王」と書いたわけだ。  しかし、倭人伝の方は、実は倭の国々は全部と
いう意味ではなかった。→>>74 それまでに書いた対馬から伊都までの国々はとい
う趣旨だったんだな。伊都国の部分に書かれたのではなく、伊都国の個別記事が終
わったところで、4か国に共通する事項を書いたのが世有王以下の記事なんだよ。
すね

100 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 06:56:02
>>99の続き  99の最後の「すね」は削る
世有王、皆統属女王国は、単に4か国が女王国に従属しているということを言おうとしたの
ではない。それを言うことによって、女王を訪ねる際、4か国が全面的に協力してくれると
いうことを言いたかったんだな。当時、国々が分かれているときに、女王を訪ねる使者だと
言ったところで、魏や女王と特別の関係がない国々で協力を得ることは難しい。金品を与え
て何とか物資を手にいれて進むといったことが必要だったんだろう。
それで、この4か国は大丈夫だ、協力してくれる、それを言ったんだね。そして、次にその
国々は郡使が女王のもとへ往来する際に必ず駒をとどめる国(経由国)だと明示した。
つまり、伊都国までは必ず経由する国だ(奴国以降の国々は経由国ではない)と言ってるわけだ。

101 :日本@名無史さん :2009/09/08(火) 07:52:20
帥升の時代に伊都国があったと考えて、百数十年経っている割には戸数の少ない
国です。
ということは、伊都国は邪馬台国が作った要塞の国だったからだと思います。
田畑や奴隷を多く以って統治する諸国とは少し違う性格の国です。
土地は小高い台地の上で郡使などが駐在できる立派な建物があったことでしょう。
そうでなければ、全くの外様の王が一大率を置いたり、役人を地方に派遣したり、
できたら、いつ謀反を起こされるか心配ですから出来ないと思います。

世有王皆は伊都国王のことで、
代々王がいたということを特記したかったからだと思います。




102 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 07:59:37
>>99
そこでそんな事書いたら、後に登場する国は皆協力しないと言ってるようなものだ。
冊封国が協力しないでどうする?
協力するのは当たり前の事だよ。

103 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 09:12:26
>>79
偉い方ではない。
河童虫の最初から無視する態度は思考停止の状態だ。
何の進歩もない。



104 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 09:44:03
>>102
冊封国? まだ、最初の段階では30国が名前を連ねて魏に使者を送っただけの
ことだろう。対馬国や一大国が女王国と無関係ならば、自国に関係のない使者一行の
世話を本気でするか? 敵対はしないだろうが、大したことは期待できないだろう。
後に登場する国は、協力をするか否かよりも、経由国ではないんだよ。大切なのは
そこだ。


105 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 10:22:44
>>104
最初もなにもないよ。
魏に使者を派遣し、こうして記事になってると言う事は
既に魏の歴史の一部に倭は組み込まれている。
仮に対馬や壱岐が協力国でなかったら、記事になっても末端に餘國で登場出来るか、記事にもならない。
第一、協力は半ば当たり前の事。

106 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 10:23:21
>>101
糸島はそのままで結構要塞に近いんだな。
東は長垂海岸、高祖山、北は海、南は雷山を含む山脈、、西は二丈岳

ちょっと北側で海越えて志摩(ちょっとは陸続きだったかもしれない)

もしここが外国船の検査機関だとすると、検査されたあとは日向峠
越えて福岡へ、
もし佐賀が首都なら、三瀬峠通って佐賀へ

また、検査を受けずに博多湾に侵入する輩がいようものなら
今宿、能古島、志賀島の監視船でフルボッコだ。

>土地は小高い台地の上で郡使などが駐在できる立派な建物があったことでしょう。
あるとしたら今宿、周船寺間の山裾の辺りかな。たしかあのあたりはいろいろ出てきてたはず。

107 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 10:26:22
魏と交易のある倭人は大海の中に住んでいると紹介され、対馬や壱岐は大海の中に浮かぶ島だと紹介
されているんだ。協力するもしないもない。
漢人の使なら出入り自由だよ

108 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 10:35:12
そうは簡単にいくか。
海賊とまちがえて討伐されかねないぞ。

109 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 10:50:12
>>108
海賊と間違えられて討伐された記録があれば
それもありだけど、そんな記録何処にもない。
現代人の取り越し苦労に過ぎないよ。

110 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 12:22:22
えらく進んでしまって、遅レスだけど、前スレの質問に。

>992 名前:日本@名無史さん [] 投稿日:2009/09/07(月) 13:23:29
>>983
>その場合、主語が「王たち」で目的語が「女王国」でも
>成り立つ熟語なんですか?

成り立ちます。
例えば、漢書・陳勝傳
「秦嘉 自立して大司馬となり、人に属すことを悪む」
の師古注は
「不欲統屬於人」(人に統屬するを欲せず)
です。

大漢和では「所属の官司をすべ治める」となってますが、
これは明らかに「他人に所属する」方向の用例です。
だから、「王たちが女王国に所属する」と訳して問題ありません。

111 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 12:32:52
>>110さん。でもそれは間違っていると思います。
「王達が女王国に所属する」なんて、以前から河童虫さんが言ってる事で
河童虫さんが言ってる以上絶対に間違いですし、
彼は出鱈目な事しか言いません。

112 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 12:34:14
>>111
>河童虫さんが言ってる以上絶対に間違いですし

100%間違えられるのは、ある意味凄い才能w

113 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 12:48:52
>>111
河童虫さんが言ってるのは、30人の王が伊都国にいて云々でしょう。
僕が言ってるのはそうではありません。
伊都国の歴代の王です。
歴代の王は、女王ではなく女王国に統屬しているのです。
つまり、倭人伝の時点では女王が位にあるから女王国と書いているだけで、
卑彌呼が共立される以前、男王がいたころから、
伊都国は邪馬壹國に統屬していたということです。

114 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 12:50:56
縦目氏と思われる>>23「邪馬台国殺人事件」紙芝居はお茶メというか、
オモシロみあって宜しいんだが、

32 :サガミハラハラ:2009/09/07(月) 22:43:06
>>30よかった、私の名前もでて。
のけものにされたのかと心配していました。

サガミハラハラさん・・・
あんたガキが作った紙芝居の中で、
自分の名前が入ってなかったからって嘆くなってww
もっと〜器をデカクだな、学生に教えてやるぐらいないのかぃww


115 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 12:54:29
女王は王達が選んだタレントです。タレントならば王達に所属するのが
一般的な考えだと思います。

116 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/08(火) 13:03:22
>>113
ほぼ同意。代々の伊都国王は邪馬壹国の王族の出身であったかも知れない(断っておくが、裏付ける文献などない。一連の記述から
受ける印象である)。

邪馬台国殺人事件では未だ私は生き残っているようだ。作者も手詰まりか?


117 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 13:14:16
アメノヒボコは伊都国王の祖であるという、風土記の伝承はどう解釈する?

118 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 13:20:43
>>113さん。
それでも王は所属しているわけで、やはり河童虫さんと同じではないでしょうか?
だとすると間違ってる可能性がかなり高いと思います。

119 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 13:53:04
>>117
そのまま解釈する。
アメノヒボコの子孫が、世有王、の伊都国王だ。

120 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 14:05:43
アメノヒボコは新羅の王子だが、新羅には倭人の脱解王がいる。

その脱解王は倭国東北千里、多婆那国から来たという。
この多婆那国は丹波と解釈出来るので、アメノヒボコが
最終的に丹波の但馬に戻るのは、やはり意味のある事でしょう。

121 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 14:22:56
新羅は4世紀以降の話だろ

122 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/08(火) 14:38:05
アメノヒボコの弟が初代任那王
崇神末の朝貢により、垂仁3年アメノヒボコの孫が垂仁より叙勲を受ける。
アメノヒボコの5世孫「田道間守」は「都市牛利」である。
アメノヒボコの7世孫が気長足媛(神功)
この時代も任那は、健在で任那が新羅に併呑されるのを防ぐため、神功は渡海した。



123 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 14:42:39
>>121
国名を定めるのが4世紀以降という事でしょう。


124 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 14:43:30
言ってる事無茶苦茶
一々突っ込むのもメンド臭い

125 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 14:47:55
>>124
遠慮せずにどうぞ。
スサノウに卑弥呼、神宮皇后に関連のある
1〜3世紀新羅の話は避けられませんから。


126 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 15:01:10
>>123
辰韓十二国内の一国の王と新羅の王ではスケールが全然違う
記紀はそういう記述がいい加減すぎるんだ

127 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 15:01:27
>>113
>伊都国の歴代の王は
卑彌呼が共立される以前(から)、
男王がいた邪馬壹國に統屬していた

でいいかな? ということは、倭國亂以前から邪馬壹國連合があった、と?


128 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 15:07:52
建国前後の新羅に倭人が絡む事や、脱解王の話なんて
他でもない新羅本記に書かれてる話だしな。
韓国は認めたくない話かも知れないがw

129 :ローガン:2009/09/08(火) 15:17:08
>>96
>>時代の近い同国文人
> 陳寿のほうですね。

いえ、現代の我々よりも、三国志と時代の近い同国文人と云う意味です。後漢書の編者を言ったつもりでした。
まあ、概ね考えは99氏に近いのですが
「丗有王皆統屬女王國」…世に王は居るが皆は女王国に統属している。と解釈しています。
そこまでの記事で皆に該当するのは官副官達でしょう。

130 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/08(火) 15:21:38
>>125
横からだが遠慮せずに言わせてもらおう。
1〜3世紀には新羅という国はなかった。3世紀頃だと辰韓十二国内に斯蘆国があり、これが新羅の前身だとされる。
新羅が勢いをつけてくるのは4世紀すぎてからだ。それも4世紀中〜後半には倭に蹂躙されたりしている。
アメノヒボコの話は4世紀の半島と列島の間での人の行き来の中の一挿話で、記紀の年代が約100年前にずらされてい
ることを示すものとも言える。


131 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/08(火) 15:35:18
>>127
なんでそのような考え方になるのかな。
伊都国の王が男王時代の邪馬壹国に属していたとしても邪馬壹國連合があったということにはならない筈だが。
まあ、2国でも連合と言えば言えるけど、127の論者が邪馬壹國連合という意味は卑弥呼共立後のそれに近いも
ののことだろう。それだったら無い。それまでは奴国が盟主をつとめた倭国(連合)であった。

132 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 15:40:03
この前NHKで渤海国と日本の関係をやってたぞ。
大和朝廷と新羅はベッタリであり、新羅と唐の脅威にさらされた渤海国は日本海側の諸国と手を結び、
独自の交流があった、てな内容。
日本海側諸国には但馬付近も当然含まれる。
その頃、日本書紀は編纂される。何ら恣意的な記述はなされなかった、とは言い切れまい。

133 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 15:44:09
「世有王」が伊都国王なら官の前に書かれます。
それを見ないふりで通りすぎますか?しかも「有」であって「在」ではない
伊都国王は「有」ではありません。

134 :日本@名無史さん :2009/09/08(火) 15:45:57
帥升の時代は邪馬台国連合の成立時だと思います。
卑弥呼共立時のそれに近いものです。
卑弥呼は帥升のひ孫位に当たると思います。
西暦100年頃以前は奴国の倭国連合ですね。




135 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 15:51:03
>>130
倭人が関与しいてる脱解王の国が、新羅国の前身でなんの問題もないけど。
実際新羅本記にもそう書いてあるし。

重要なのはその年代でしょ?この年代の半島南部に、
倭人の勢力地盤があった事が半島の文献に記されている事が重要なんですよ。
だからアメノヒボコが伊都国王の祖先であるという風土記の文章も、
これはアメノヒボコ(族とも解釈出来る)が4世紀の話ではないと判断できます。

136 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 15:56:33
>>133。あなた河童虫さんでしょう?私には分かりますよ
あなたが「有」じゃないと言ってるのだから、「有」が正解です。
河童虫さん以外の住人さん全員が、河童虫は出鱈目だと言ってます。

137 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 16:08:49
>>135
脱解王は西暦57〜80年。
アメノヒボコとゴッチャにしていいわけ?

138 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/08(火) 16:10:10
>>130
三世紀半ば、魏国の衰退と共に、新羅、百済は独立

『通典』邊防 東夷上 百濟 新羅 倭國 唐 杜佑 撰 より
晉武帝咸寧中、馬韓王來朝、自是無聞。三韓蓋爲百濟、新羅所呑并。

272年頃 任那救援のため神功が渡海。
その後も新羅の圧力が掛かるので、280年代より倭国と新羅の間で戦争。
300年にはいったん友好条約を結ぶ、辰韓(カヤ)は倭国の領土となる。
辰韓の「鉄」は、百済を通じ楽浪方面で販売、楽浪で仕入れた「剣や文物」が
対価として、倭国に流入する。

古墳を考えると、250年頃から大型化、鏡と共に剣も埋納される、それは途切れることなく続く。

360年頃神功渡海では、ここに出来た100年の空白を埋められない。




139 :九州王朝大好き:2009/09/08(火) 16:13:24
>>113
>伊都国の歴代の王です。
>歴代の王は、女王ではなく女王国に統屬しているのです。
>つまり、倭人伝の時点では女王が位にあるから女王国と書いているだけで、
>卑彌呼が共立される以前、男王がいたころから、伊都国は邪馬壹國に統屬していたということです。

ほぼ同意だか、最後の部分は異なる。
卑彌呼が共立される以前、男王がいたころには、「世有王」はまだ倭国王であった。
しかし、倭国の乱の真っ只中からその倭王としての権威は失墜していた。

「世有王」の祖は誰か、倭國王(倭面土國王)帥升だ。
魏にとって、伊都國の「世有王」は、後漢代の倭王の成れの果てと認識し特記したのである。
伊都(イト)の語源は倭都(イト)なのである。

参照事項
倭面土國=倭米多國=倭目達國   (イメタ)
倭面土國(倭國王帥升)の城郭は吉野ヶ里遺跡
2世紀倭面土國衰退期に、その城郭は邪馬壹國の圧迫により吉野ヶ里から惣座遺跡に移転。
吉野ヶ里(米多・目達)の地域は邪馬壹國傘下の不彌國となる。


140 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 16:18:27
>>127
「二国でも連合と言えばいえるけど・・・」と縄文人さんが言うのに賛成。
ここは、連合があったというより、邪馬壹國にとって、
伊都國が他の28国にくらべて特別だったということでしょう。
譜代大名のような感じで。

>>133
>「世有王」が伊都国王なら官の前に書かれます。

そんなことはないでしょう。
国名 官名 国柄
というテンプレにそって記述してあるので、
官名の後に「世有王」があるのは自然な記述でしょう。
「世有王皆統屬女王國」というのは、他国とは異なる国柄ということですね。

>しかも「有」であって「在」ではない

「有」と「在」の使い方を、きちんと調べた方がいいですよ。

141 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 16:27:54
>>137
別にゴッチャにはしてませんよ。
しかし>>120の理由でアメノヒボコが脱解王もしくは
当時の新羅建国に関連する一族縁の王子の可能性はあるでしょ。


142 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/08(火) 16:37:24
卑弥呼が共立により、倭女王隣った時点で、
共立した小国王たちは、「倭女王の官」として掲載される。

官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、
伊支馬=イクメ=垂仁
彌馬升=ヤマシロ=タタネコ
 ホ37048 ミワのタタネコ ヤマシロが 


143 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/08(火) 16:44:12
訂正
×卑弥呼が共立により、倭女王隣った時点で、
○卑弥呼が共立により、倭女王と成った時点で、

アネノヒボコの本名は、ツノガアラシト 垂仁3年の叙勲により天日槍を賜る。
出身地は、辰韓と思われる。


144 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 16:45:13
>>140
「世有王」が伊都国王なら官の前に書かれるはずというのは、当然のことだよ。
狗奴国に関する記事をみてみな。国名、王のこと、官のことという順序で書いて
いるだろう。

145 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/08(火) 16:46:55
垂仁≠伊支馬

伊支馬は臣の身分だから垂仁にはなりえぬ明確な間違い。ppp ww



146 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 16:48:49
垂仁も女王からみたら臣下じゃないかな。

147 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 16:52:21
狗奴国は魏志では邪馬壹国の南と書かれているが、5世紀に書かれた後漢書では東で海の向うと書いてある。
狗奴国が東遷したな。

148 :日本@名無史さん :2009/09/08(火) 16:53:38
彌馬升というのは
其の名の通り、帥升の縁者だと思います。

江南の倭族のショウの意味は「王」という意味です。
倭族による六つの部族国家はすべて紹(ショウ)の字が付いています。


149 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 16:56:15
>>141
新羅本紀には、脱解王(西暦57〜80年)は多婆那国から流れ着いた倭人らしい、脱解は王に気に入られ辰韓の王になった、
という神話が載っている。
アメノヒボコと結びつけたいなら、この新羅の神話を元にした創作と考えるのが妥当。

150 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 16:56:43
>>143
姉のヒボコに天日槍をやったので弟のヒボコがむくれた。

151 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/08(火) 16:58:18
女王は当時ころ記紀に無帝籍である。つまり畿内の女天皇では
ないことを物語っている。

垂仁天皇は当時ストレートに天皇とは呼ばずおそらくはオオキミとか
だったろうが、臣ではない。臣なら身分はその後の大臣武内宿禰より
したの身分だ。武内は棟梁之臣だったが昇格して大臣となったはず。

垂仁天皇はイクメイリヒコであり、イリヒコが抜けていることからも
伊支馬にはなり難い。日本史のアマチュアの中でも即断性の強い傾向
の持ち主が、裏もとらず検討吟味を欠けて主張しやすい稚拙な考え。

152 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/08(火) 16:59:14
太国さんも秩序という物が解っていないね。

例えば モモソ姫を女王として男弟を崇神とする考えがありましたが、
ただ単に崇神は、天皇だからあり得ない、などと考えたらこんな説は、出てこなかったでしょう。


153 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/08(火) 17:00:39
>>136
>>133は私じゃないよ。
君は小学生か?


>>140
ついでだから「有と在」の使い分け

ぶっちゃけて言えば、使い分ける必要性などない別な文字。
「有」は月から構成され
「在」は土から構成される別字。だから始めから使い分けの対象にもならない。
この文字が使い分けされるのは日本語「あ‐ラ行」での話で、漢語では使い分けされる以前の別字問題だ。

154 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 17:04:58
>>153
>「有」は月から構成され

「にくづき」と「つき」の区別は無しなのか?




155 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/08(火) 17:07:17
伝で男弟たる天皇が女王より閑古鳥の書き方をしていることは考え
にくい。記紀では当時女天皇(女王)は伝からの借り物以外、閑古鳥
以下の無たる無弟籍。天皇は下っ端の臣にはならない。遣使はボス
の天皇に金印を渡すはずだ。女王が金印をもらってるということは、
畿内でない日本の他地域に女王の統治する女王国があったことを
意味するものである。それは当然九州だ。

男弟が天皇なら女王と天皇と当時畿内並立してた事になり、歓喜天
盲象の論理だ。wwwww 記紀から当時女天皇はない。

156 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/08(火) 17:09:55
当時畿内に天皇(男王)と卑弥呼女王が並立してたのなら、金印は
二人分の二個もって来るはずだ。ww

女王しかもらってないんだから、並立なんぞありっこない。ww

157 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/08(火) 17:10:42
>>154

それはここでは必要のない話。
在と有が対象なんだから

158 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/08(火) 17:12:28
>>152
臣が天皇に昇格なんぞありっこない。当時の朝廷に下克上がないん
だから、そんなことは絶対ない。

君の息子は君の父親なのか?ppp

159 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/08(火) 17:21:06
太国ちゃん
夏バテはしてないようだね。よかった。あんたは貴重なエンタテイナーだから頑張ってもらわんといかん。
国民栄誉賞に推薦したいと思うが、唐松山さんが反対するだろうな。

ところでおふたりさん、伊支馬=イクメ=垂仁 の当否なんて馬鹿な議論をするもんではありません。時代が合わない
でしょ。崇神だって4世紀の人間ですよ。早く目を覚ましなさい。

160 :日本@名無史さん :2009/09/08(火) 17:22:18

江南の倭人はいったん海を大陸沿岸沿いに北上し朝鮮半島の沿岸地帯、島々に住み着き、
その後、日本列島に対馬を通って渡ってきたものと思います。
ですから、日本書紀の最初のころのヒボコたちは、倭族系だと思います。
卑弥呼の時代も倭族系です。
三国志魏志の辰韓、弁韓は倭に近く刺青の人がいると書いています。
馬韓にも多くいたようです。


魏略には倭人が自らを太白の末裔だと称しています。


161 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/08(火) 17:24:11
縄文人さん
3世紀だよ。4世紀と八代天皇らを無としてるのは君のは間違い。
「日野郡誌」でも調べて検討しなよ。当時のフトニ尊の記述が
重要だ。

162 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/08(火) 17:28:15
例えばだ
初め大和を治めていたのは「大物主」ですよね。
崇神8年
このみきは わがみきならず やまとなす おほものぬしの
 かみしみき いくひさ いくひさ

この歌以前に於いては、崇神とて大物主の部下になるんですよ。
だから モモソ媛は、大物主の妻だから崇神の上に立つ事もありうる。
ここから始まっているんですよ。
それを単純に天皇が女王を戴くことは無い、では読み方が浅い。


163 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/08(火) 17:34:26
>>159 縄文人さんよ
崇神が四世紀の人間である、この証拠を掲載して下さい。

崇神は2世紀末から三世紀初めの証拠は私が掲載しました。


164 :日本@名無史さん :2009/09/08(火) 17:37:58
日本書紀は数度焚書されて、都合のよいように書き直されています。

数回トップの民族が入れ替わっていますので、
現在の日本書紀はその最終の形です。


165 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 17:47:27
>>153
>ついでだから「有と在」の使い分け
>ぶっちゃけて言えば、使い分ける必要性などない別な文字。

アナグラムで漢文を読んでては、鉄砲水も水鉄砲も区別がつかない。
それでは、「有」と「在」の使い分けは無理だわな。

166 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/08(火) 17:52:51
>都合のよいように書き直されています。
自分の都合に書紀を併せようとする輩の主張だな。

縄文人さんの主張は、
崇神12年の異族多帰は、二世紀末の「巻向に各地の土器」に併せて
土器編年を100年新しくする。
こんなところだろう。では、新しくしなくては成らない証拠は?


167 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 17:59:21
165だけど、
>アナグラムで漢文を読んでては、鉄砲水も水鉄砲も区別がつかない。
>それでは、「有」と「在」の使い分けは無理だわな。

これは、河童虫氏に対して言いがかりに近いかもしれん。
確かに別字だわな。

168 :日本@名無史さん :2009/09/08(火) 17:59:40
日本書紀の編纂は
中国史書、韓史(三国史書)等、ありとあらゆる史書と、
地方の昔話、神話、他国の神話等々と入れ、
なんとかあれだけの長い歴史を埋め込んだもので、
其の作業は大したものだと思う。

169 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/08(火) 18:13:44
予想どおり太国ちゃんも唐松山さんも沸騰してきたね。二人とも人間はいいんだけど頑固だからなあ。
3世紀に畿内に邪馬台国(あえて壹を台と書く)があったら、そして畿内に大和王権があったなら、二つは同じものか
あるいは併立していたかになる。

邪馬台国と大和王権が同じものなら、大和王権の流れを汲むとする天皇家の歴史書である日本書紀に邪馬台国なり女王
卑弥呼なり、親儀倭王の金印などの記事がないのはおかしい。日本書紀が事実を書いたものだとすればおかしい。

邪馬台国と大和王権が併立していたとした場合も、日本書紀に邪馬台国の記載がないのはおかしい。日本書紀が事実を
書いたものだとしたらおかしい。

おかしくないかい?


170 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/08(火) 18:23:50
>>168
>其の作業は大したものだと思う。
はっきり言って不可能だわな。

神功渡海が272年頃なら、書紀の記事は、新羅本記と対応させることが出来る。
七支刀は、326年の暦日になる。これを
369年に合わせるから「吉祥句」となる吉祥句なら何処でも良いだろうが、
ここで神功渡海を考えると、大幅な書き換えをしないと不可能、でも高句麗の石碑から
渡海を何処かに置かなくてはならない。
だれもシミュレーションが出来ない。だから書紀は、いい加減なことしか書かれていない、と捉えられる。

確かに私の数字では、神功〜仁徳の世継ぎは不可能だけれども、
崇神から神功初めまでは、書紀と外国書物と考古学が合致する。
合致するところを否定して、書紀全体の記事でも否定する。
これで書紀は、完全な作り話になる。それでも天皇の名前は使いたい。
作り話に花が咲く。


171 :日本@名無史さん :2009/09/08(火) 18:42:24
>書紀と外国書物と考古学が合致する。
「唐会要」には遣使が来朝して713年、あらゆる史籍を買い求めて帰ったとあります。
他国の史書を参考に僅かに残る自国の口伝を骨格にして組み立てたので、
合致する部分があるのはあります。
でも長い歴史を埋め込むには少なすぎるので、創作部分が非常に多いです。
なんとかそれらしくなったのは西暦600年以降の記述だと思いますが、それさえも
真実を隠した部分はあると思います。

172 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/08(火) 18:46:52
>>169
縄文人さん、あんた書紀も倭人伝も全く読めていない。
卑弥呼=景行時代以外では読めない事を認識するのが先。
歴史(4次元の世界)は、繰り返さないから
設定がずれたら其処には何もないのが常識。

だから設定の証拠を掲載してくださいと書き込んだの。解る?


173 :日本@名無史さん :2009/09/08(火) 18:52:42
まず日本書紀の大きな嘘は、大和王権が畿内に以西を一つにまとめ時期が神武の時に設定していることです。
これは57年の倭国王に対応したものだと思います。
57年の倭国王は九州の奴国ですから。

174 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 18:53:40
>>149
そのアメノヒボコは各地に伝承を残して丹波の但馬に落ちついた訳だが。
どの部分が創作なんでしょうかね。

175 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 19:06:49
>>173
57年の九州に奴国はない、奴国が登場するのは3世紀を記した魏志倭人伝。
後漢書の57年の記事では倭奴国とある。
倭奴国が柵封を受け倭国王となった。
後漢書の倭奴国が魏志倭人伝の伊都国である。

176 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/08(火) 19:14:21
>>173
日本書紀は天皇家の私家記録であり、日本全体の記録では有りません。
書紀を太陰暦で圧縮すると、神武元年は、西暦41年となり、土器分類X紀初めになります。

>57年の倭国王は九州の奴国、天皇家の関知しない出来事。
孝霊時代まで天皇家は、極狭い範囲の記録しかない。
孝霊時代に富士山の話が出てくるが、この時期に、関東に少量の移住が認められる(考古学で)

書紀の大きな空白年は、「増し」差し引く必要がある。
これを圧縮して実年代に組み込んでも歴史は、読めない。


177 :日本@名無史さん :2009/09/08(火) 19:14:47
>>175
倭奴国は奴国です。
倭の奴国でしょう。
伊都国は倭奴国ではありません。

178 :日本@名無史さん :2009/09/08(火) 19:20:24
畿内にも少量人がいたと思います。
毛人といわれた人や南方の渡来人など。
倭人が入ってきたか来ないかの時期だと思います。
日本書紀には蝦夷は国を持たなかったとあります。
国という概念がなかったからです。

179 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/08(火) 19:25:22
>>162
神は天皇以上の扱いだろうが。当時どこからともなく孫悟空とか神仙が雲に乗って
来臨すればのそういう現実があれば〜そりゃぁ国王、天皇だって神人とか驚いて
頭を下げますよ。孫悟空だって各西国で妖怪退治で国王から平伏あるいはそれに
準じる礼でもってうやうやしく感謝されている。ppp

オマエはムー誌的人物だな。www

垂仁が臣になんかなりえないよ。当時下克上なんかないんだし、そのへんの話で
倭人伝はウソは書くまい。まぁ畿内論者はネジまげが得意だから、彼らの主張
なら平気で天皇が臣民に早代わりはやりかねないがね? 君は小ズルい畿内兼
九州説で言い逃れの穴倉をちゃんと用意しているが、君もその口かね?www

180 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/08(火) 19:27:44
>>163
どんな証拠なのかね?ww どうせ伊支馬が垂仁だとか馬く合わせる不合理ゴリ
押し証拠の羅列だろうが?www 日食も数日間も続くと言うし・・・。www

181 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/08(火) 19:30:03
>>169
その点に関してほぼ同意。

182 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/08(火) 19:47:54
>>181
そのおかしい書紀をキッチリ読み解いた太国さんは、天才
さらにその中に西暦が隠されていたことまであぶり出すんだから、神がかり
としか言いようがない。


183 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/08(火) 19:51:09
>>170
どうせ運転技術渡航経験もなく空腹の百姓が千人も日本海の危険な荒波を乗り越え
て半島に渡ったでも言うのが新羅本紀とやらとの対応なんだろう?ww
そんなことは数人なら辛うじて九死に一生でありうるが、とても不可能に近いこと
だ。そんなデタラメを対応させるんじゃないよ。おまけにその年では畿内に船も
ないし、金もないだろう農民が行けっこないぜ。やれば大海の藻屑と消える。

あんなたの主張では、七支刀は銘文がノギヘンだというのに検問突破の暴走を
平気でしている。君の盲象だぜ。

>>172
卑弥呼=崇神の時代  これは三輪の五十瓊玉V

V=113.097335 (皇紀790年=130年=景行没年)790は右辺逆読み、即位無し

にて確定している。すなわち113と097から

 1/13 B.C.97年 崇神天皇即位

335は実年代誘致の数字であり、−1により

−97+335=238年    238−1=237年=崇神即位年(実年代)=景初元年

が金剛不壊で確定する。橋本増吉と菅政友の崇神没年258年説はほぼ真であり、
実年代は−1での259年が定まる。

184 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/08(火) 20:00:27
>>181
>書紀をキッチリ読み解いた

大祓祝詞の要(核心)を読み解いたと言うべきだろう。

185 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/08(火) 20:02:30
>>184>>181 は → >>182 です。以上訂正します。

186 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 20:07:53
>>183
スサノオが新羅に降りた事すら知らなかったくせにw

187 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/08(火) 20:12:35
>>186
オマエ若いんだろう? こっちは老化で脳の記憶は簡単には出て
来ない。かなり忘れて着ている。

オマエもいずれ年増になるから忘れて思い知る。>|<

188 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 20:22:17
>>139
ということは、「世有王」の王は、
今使訳所通三十國、の各国の王ではなくて(各国には王はいなかった)、
卑彌呼が共立される以前の三十国連合の王
(の成れの果て…)。

189 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/08(火) 20:30:21
魏代に洛陽を訪れた王の数29人。
たった一人だけ
洛陽に行かなかった王がいた。

190 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 20:32:27
>>131
>127の論者が邪馬壹國連合という意味は
(帥升以来の)「倭国(連合)」ということです。
その帥升が、邪馬台国の王、ならば「邪馬壹國連合」といえる。

191 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/08(火) 20:39:56
赤玉を放出してしまった、太国さんに質問

五十瓊玉の 50はどう使うんですか?


192 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 20:59:40
>>174
だからさ、アメノヒボコは垂仁3年3月に新羅から来たってんでしょ
脱解王とどういう関係があるの?
関係あるって言ってるのは君だよ?

193 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 21:18:22
アメノヒボコまだやってたんだw
名前の頭に天ついてるだろ?
これは元々海神の物語を渡来人伝説と結び合わせたからだよ
日本書紀と違い歴史を物語として語ることに重点を置いた古事記には
このアメノヒボコ以外にも複数の物語を組み合わせた形跡が沢山ある
もちろん、日本書紀では名前も変わり途中で新羅に帰ったとされている
また、個人というより集団だろう

194 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/08(火) 21:24:08
>>175
志賀島から出土した金印はどう説明するのかな。漢委奴国が伊都国だったとしても金印が志賀島(九州)から出土しているからね。
誰かがあそこに捨てに行ったのか?

195 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 21:33:19
>>193
ああ、君は>>141,135とは違う人なのね
何だか勝手な推論ぶち上げてる人がいるから、ハッキリさせたかったわけ

196 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 21:44:22
>>194
金印をもらったのが奴国王じゃなくて委奴(イト)国王だということでしょ。
志賀島でも変じゃない。

197 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/08(火) 21:53:06
>>191
この前曲学の徒さんの板で説明したろうが。忘れたのか? それがしと一緒
だな。w 年をくえば忘れが出てくる。この前某駅で昔の友人と会って居酒屋へ
飲みに行ったが、その時の過去の話で奴がそれがしの家へ泊まって行ったことが
あったが、彼に言われても全然覚えておらず忘れていた。あ〜そんなことが
あったっけ? う〜ん?それほど亡失するんだな。

天津菅曾を末刈り切りて10桁目の5→0の無とする事だ。これにて全9桁となる。

198 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/08(火) 21:55:14
>>191
ハハァ〜? あんたは小笠原孝次さんの言霊学をかじっているのかい?
赤玉音図というのを同氏は解説していたが?

199 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 21:58:04
>>192
>だからさ、アメノヒボコは垂仁3年3月に新羅から来たってんでしょ
脱解王とどういう関係があるの?
関係あるって言ってるのは君だよ?

だから脱解王は倭人だが新羅の王で、
アメノヒボコは新羅の王子だから、何らかの由縁はあるのでは?
と言ってるだけですよ。
何も断定なんかしてませんが。
関連でもあったらまずいのですかね?

>>195
だから何もハッキリしてないと思うけどw
推測は出来るけど否定できる材料もないのです。



200 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 22:05:01
>>177
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也」とある。
「建武中元二年 奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也」ではない。
奴國が国名なら、後に倭國とあるから奴國に倭はいらない。
倭奴國で国名です。

201 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 22:26:54
>>199
可能性で語りだすなら、どんな物語でも作れるのだ。

202 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/08(火) 22:37:01
>>196
どうも話の行き違いがあったようだ。
175で 57年の九州に奴国はない と書いてあることに対しては 「57年に朝貢したのが倭奴国でこれは奴国ではない
としても、九州に奴国が無かったことにはならない。朝貢の記録がないだけかも知れない」と答えるべきだった。

>>200 奴國が国名なら、後に倭國とあるから奴國に倭はいらない。
奴国が国名でも 倭があってもおかしくないでしょ。



203 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 22:56:34
>>169
記紀というのは、大きく三つくらいの範疇に分けることができると思う。

一つは、年代的に、全く記憶に残っておらず、単なる思想的な記述に
終始している部分。イザナギ・イザナミの頃までがそれに該当すると思う。

次は、文字による記録がなく伝承として残っている部分。かなり脚色されて
伝わっているようなところがある。
これは、天照大神と素戔鳴尊の争いあたりからだと思う。
現実的な出来事の記述でありながら、場所や年代的に不自然な印象が残る。

最後はもちろん、文字による記録の残っている部分ということになる。

結局、伝承として残っていると思われる天照大神がいつの時代の出来事
なのだろうか。これをすり合わせることが重要だと思われる。

204 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/08(火) 23:02:47
>>203
ほぼ同意。しかし、難しそうですね。

205 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 23:02:54
>>202
>奴国が国名でも 倭があってもおかしくないでしょ。

奴国が国名なら「倭国」とあるから「倭国の奴国」となるのでは?
文章として無くてもよい倭を付けるのも変?
やはり倭奴国でしょう。

206 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/08(火) 23:13:22
>>205
いや、倭の奴国でしょう。当時、倭には百余国があったでしょう。そのように多くの国がある倭から奴国が朝貢したのです。


207 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 23:20:23
>>203
「天照大神と素戔鳴尊の争いあたり」の何が、
「邪馬台国なり女王卑弥呼なり、親儀倭王の金印など」の
「伝承として残っている部分」なのでしょう?

208 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 23:42:34
>>203
脚色と言えば古事記
読み物としては面白いしネタも充実してるんだけど逆に明らかな創作だという嘘っぽさが漂ってる
平たく言えば、嘘の上塗りみたいなね

209 :九州王朝大好き:2009/09/08(火) 23:43:37
>>205
>>206
倭奴國は、倭の国の中の奴國の意。魏志韓伝の弁辰○○(瀆廬)國と同じ表現方法。
倭奴國を滅ぼして漢に朝貢したのが倭國王帥升。
倭面土國(倭の米多國)王帥升が倭を統一したので最初の倭國王となった。



210 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 23:46:53
帥升=スサノヲ

211 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 23:46:55
>>207
ここでは、一応、卑弥呼を考えていないわけで、記紀がどの時代からの伝承を
残しているかということ。

イザナギ・イザナミの場合は、国生み、なんてのがある。この二柱の神様が
日本列島を生んだ。これなどはとうてい現実味があるとは認められない。
さまざまな神様を生んだというのも同じ。

しかし、天照大神と素戔鳴尊の争いになると、何かの戦争の反映のように
思えなくもない。特に、天照大神が素戔鳴尊に怯えていることやその結果
岩戸に隠れてしまう(死んでしまう)などというのは、皇祖を美化している
事から程遠い。
そこに現実的な雰囲気があると思われる。

皇祖とされる天照大神はいったいいつ頃の人物なのか。
どういう人物だったのかは、けっこう重要だと思う。

212 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 23:50:50
天照大神=平原1号墓の数代前の北九州の女王

213 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 00:02:41
そう、天照の故郷は伊豆天城峠付近。後に麓の伊東に降り立つ
伊東はいにしえの伊都国

214 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 00:11:34
>>211
じゃあ簡単に、
「天照大神と素戔鳴尊の争い」は、卑弥呼と卑弥弓呼の争いの反映で
「皇祖とされる天照大神」は3世紀前半頃の人物。

215 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 00:11:48
>>213 ゲラゲラゲラwwwwwは。

216 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/09(水) 00:12:08
天照大神と言えば宮崎県高千穂町に天岩戸神社と天安河原があり、アメノウズメの踊りから発生したという岩戸神楽
が伝えられている。

217 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 00:15:37
>>216
それは平安時代以降のものだな。

218 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 00:23:31
>>208
使用されている地名等を分析すると古事記の方が
古い言葉が使用されているが多いらしい。
その意味ではむしろ古事記のほうが
オリジナルの伝承に近いと言えるかもしれない。

219 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/09(水) 00:29:58
>>217
多くの神社や伝承や行事がいつ始まったのか、神社縁起などの多くは8〜9世紀以降に作られた(書かれた)ものと思われるので
起源がよく分らない。天照大神関連の伝承は各地にあるが、どれが本物かの決め手があるのだろうか。

220 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 00:34:10
まあ神話に憑かれた奴に何度言っても無駄なんだろうが…w

岩戸隠れタイプの神話は海外に類似したものがあるなんてのは何度も書いてきたし
俺如きが言わずともチョッと神話を知っている人間ならもう一般常識の範囲www

そもそも「天照・月讀・素戔鳴」の3柱でセットであって
太陽と月がいて、その下に蝕を引き起こす言わば”トリックスター”的存在がある…と言うのも海外に見られるパターン。

天照から史実の反映と言うのなら、神話構造に満ち満ちた日向三代はどうするんだ?って話wwwwww

まあ祟神からやっとこ伝承の要素が入るんだろうが(現在の考古学的成果もそれを裏付ける格好になっている)
それでも実際には倭迹迹日百襲姫の神婚譚とかもろに神話と言うものもある。

古事記におけるヤマトタケルもはっきり言って出てくる時代を間違えているようなスーパーマンぶりだw

で、応神からとなるとややマシになるがやはり100歳を越える長寿とか現実味の薄い内容が見られる。
まあそこら辺だと神話とゴッチャになったと言うより意図的な改竄を疑うべきか?w

結局は完全に神話的要素が抜け切るとなるとやはり継体からと言う話に落ち着くのだろうwwwwwwww

221 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 01:09:32
>>218
代表的なのがヤマトタケル
これは読み物としては圧倒的に古事記が面白い
物語として成立してる
熊襲征伐でも元ネタはあったと思うが、ヤマトタケル自身が女装するってのは、やはり物語としての脚色を重視してたんだと思う
原作があって、二人の映画監督により別の作品が出来上がったっていう感じ
歴史資料としては何だか古事記は外れている感じがする

222 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 01:21:54
アメノヒボコもアマテラスもどうでもいいんだけど、
世有王はどうなった?

帥升以来の(倭国乱で失墜した)倭国王の名残り、なのか?
卑弥呼を共立した三十国の王たち、なのか?

オレは前者。

223 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 01:33:13
>>220
神話は大事ですよ、勿論脚色、創造が入り乱れてるのは
当然だが、すべて虚構と考えてもダメです。
やはりベースになる物は必ずありますから。

224 :九州王朝大好き:2009/09/09(水) 01:36:54
>>222
>帥升以来の(倭国乱で失墜した)倭国王の名残り

同意
倭都→伊都だから
漢から禅譲した魏にとっては、世有王は漢以来の正統倭國王
魏の立場からでは、卑彌呼は倭の女王國王であって、倭國王ではないのだ

225 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 01:46:23
>>221
「オリジナルの伝承に近い」としたのは「史実である」という意味ではなかったが。
本当の事が書かれていないから歴史資料にならないって事はないと思っている。
伝承をもとに日本書紀がどのような意図で改変されたかの手掛かりになるから。
相対的に古事記の重要度が落ちるのは認める。

226 :九州王朝大好き:2009/09/09(水) 01:48:39
>>224の続き
倭國王(正統)は世有王・・・実権喪失、名ばかりの王
女王國王は卑彌呼と壹與・・・倭の北部で共立され弱い権力しかない
狗奴國王は卑彌弓呼・・・倭の南部で強い実権を持つ


227 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 01:49:25
>>220
記紀というか、天照大神あたりの史実性を否定するために、よその国の神話を
探した人がいるということだろうな。どこかに似たようなのがあって、ほら
神話とはそんなものだ、というわけだろう。

しかし、神話にしてしまいたい人がいるということは、神話じゃなきゃあ
困るとも言えるわけだ。
昔から言われている高天原の天照大神と倭人伝の卑弥呼の状況の類似性は
誰も否定することが出来ないということだろうな。

228 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 01:54:54
>ヤマトタケル自身が女装するってのは

童女の格好をしたオウスが熊襲タケルを殺害してタケルの名を送られる

…これを成人男子となるための一種の通過儀礼・メタファーと解するなんて意見もあったりするwwwwwww

229 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 01:55:34
>>226
誰だったか、狗奴国東遷説なんていうのを説いた人もいたなあ。

230 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 02:02:52
なんだかシュリーマン幻想に囚われている人間って結構多いものだなあ。

231 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 02:06:52
>>227
下らない。

じゃあ三貴神の月讀のモデルは誰だ?
高天原を邪馬台国にするなら何故そこに馬が出てくる?

その部分だけは「神話だから」と逃げるのか?w

元々神話なんてのは人の営みの原型・アーキタイプと言う側面があって
時代を超えて色々適応できる。

故に天照のモデルも持統とか言う説も出来ちゃうわけだwww

類似点だけ摘み食いしても埒はあかない・・・っちゅう話だなwwwww



232 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 02:09:23
>>230
>シュリーマン幻想

Wikiででも見れば直ぐ分かるけど
シュリーマンは何も神話からインスピレーションを受けて
私財を投げ打って発掘調査に乗り出したわけじゃないんだよなw

当時遺跡が眠っているであろう事は既に言われていた事であってwww

233 :231:2009/09/09(水) 02:22:54
>>231
>元々神話なんてのは人の営みの原型・アーキタイプと言う側面があって
>時代を超えて色々適応できる。

上記に対する自己レスw

考えてみればこう言った神話の持つ原型・アーキタイプとしての性質なんて
心理学者の領分だよな?w(ユング?)

安本先生は本職は心理学者だったと思うが
どうしてああ言う方向に逝ってしまったんだろう?wwwwww

234 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 06:57:25
>>218
どのように地名の分析を行ったのか、詳しくキボン

235 :◆.L.MXSPOgc :2009/09/09(水) 11:23:23
>>177
”私たち”を「ワ」、”私”を「ア」といっていたのだが、昔はワ行とア行の音が入れ替わっていた。
漢を訪れた者が”私の国”=亜の国=「ワの国」といったので、彼の国のことを「倭奴国」と名付けた。
ところが当の彼らは「倭」の「奴国」という名をもらったと思い込んだ。

しかし奴国以外の者達も、自分たちのことを倭というようになったので、三国の時代にはその地域全般を倭と呼ぶようになった。


# という話をつくってみました♪

236 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 11:44:54
>>235

>という話を作ってみました。

一々断り書きなんていれなくても、皆作り話だとわかっているから。

237 :◆.L.MXSPOgc :2009/09/09(水) 11:51:56
>>227
比較神話学というものがありますし、神話に限らず話というのは結構な範囲に口伝で伝わっていると考えるのが今の考え方でしょうね。

イザナギが黄泉の国から引き返すのはギリシャ神話に似た話が見られる。振り返るといけないというのは「ソドムとゴモラ」の話に見られる、など。
あとはシンデレラの原話は中国で、最近までてん足という風習が残っていた地域とか、アイススケートでメダルをとった時の「トーランドット」は
アジアに伝わる話が元になっていて、姫が求婚者に難題を出すという話があるのですが、これが日本のかぐや姫と類似がみられるとか。

そんな感じで似たような話があちらこちらにあるんだよ、というのは間違いないでしょう。
それにイザナギ・イザナミより前の神々は中華思想による創造ではないでしょうか。

238 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 13:56:29
>>231
高天原の出来事が、全て完璧に事実だと思っている人は誰もいない。
物語の筋が事実に基づいているかどうかという問題。
事実だとしても、伝承、つまり言い伝えだと思われるから伝わっているうちに
多少の脚色が混じるのが自然だろう。

天照大神を見てみると、記紀としても珍しいことだが女性となっている。
皇祖を女性とする発想がどこから出てきたのか。
さらに、独身でもある。独身を皇祖とするのは、皇室の発生の物語としては
非常におかしな筋だと思われる。

翻って卑弥呼を見てみると、やはり独身の女性である。
天照大神のモデルが卑弥呼であるのは十分に考えられる。

もっと書いてもいいが類似点はこれだけではない。
狗奴国との争い、台与の登場、高皇産霊尊の存在なども説明できる。

239 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 16:13:02
独身の女性? そんなのいくらでもいただろう。

240 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 16:22:57
都合の悪い、説明の出来ない事は神話ゆえに各種伝承の混入とし
自説に都合の良い部分だけ摘み食いしてそれは史実の反映とする・・・

まあご都合主義の典型w

はっきり言って今のところ誰もが一度は思いつく辻褄併せのお話の域を出ていない。

それを史実と裏付けるような何らかの史料(資料)が出てこない限り
とてもじゃないが学問の俎上に乗るようなレベルの話ではない。




241 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 16:25:42
新装開店 アマテラス
本日特別出演 天のウズメ
20:00, 22:00 ホト踊りコンテスト 優勝賞品:赤玉

242 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/09(水) 17:23:42
>>241
赤玉は、ブービー賞にしてくれ。
男性が一生分の精液を出してしまった後に「おしまい」ってしるしに赤い玉がチ○チンの先から出るんだそうだ…

243 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 17:32:02
老舗 アマテラス
本日リニューアルオープン 特別サービス:ホト踊り優勝者には赤い矢を進呈。


244 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/09(水) 17:47:41
>>243
大物主本舗から、横やりが入らなければ良いが…


245 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 17:58:47
御休處 アマテラス 改装のため一時休業致します。
白鳥庫吉先生と和辻哲郎先生の御推薦を頂き卑弥呼が女将を勤めて参りましたが老齢のため本日引退させて頂きます。
跡を壹與にと思っておりますが、どなたかスポンサーをお引き受け頂きたくお願い申し上げます。

246 :俺様が崇神だ!:2009/09/09(水) 18:08:22
天照姉ちゃんをオモチャにする奴は誰だ!許さん。

247 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 18:15:07
つまらんイベントはスサノオが乱入して終了です。

248 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/09(水) 18:19:42
縄文人さんは、318年崇神戊寅を使用しているのか? この数字には、重大な
間違いが有る。それは、雄略124才が計算に入っていない事。
この数字は、暦日の変更を意味しています。其れまでの出雲暦から西暦への変更
があった為ズバぬけた年齢になっている。

古事記(出雲暦)のよみ方
出雲暦は、西暦93年に当たる皇暦186年丙寅より伸長される事無く使われました。

孝昭天皇元年 93年丙寅 より使用される

崇神天皇 225年 戊寅

成務天皇 262年 乙卯
仲哀天皇 269年 壬戌
神功皇后
応神天皇 361年 甲午
仁徳天皇 394年 丁卯
履中天皇 399年 壬申
反正天皇 404年 丁丑
允恭天皇 421年 甲午

雄略天皇 489年 己巳

継体天皇 527年 丁未
安閑天皇 535年 乙卯


249 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/09(水) 18:25:39
唐松山は古事記の没年干支を1個の情報から採ったような言い草
だが、これは多数の情報からの稗田阿礼の寄せ集めっを披露したもの。

その証拠に住吉大社神代記は古事記級に後代まで崇神からの没年
干支の記事はない。すぐ途中で途切れていることから、唐松山の主張
がデタラメであることがうかがえる。

250 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/09(水) 18:40:42
赤玉が出たらお終いなんだって。


251 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/09(水) 19:10:53
>>248 其れまでの出雲暦から西暦への変更 があった為ズバぬけた年齢になっている。
雄略の前までは出雲暦で雄略からは西暦ですか?
はて?日本に西暦が入って来て使われるようになったのはいつでしたかね?
4世紀末の半島への倭の侵攻の記憶が神功の事績。それから四代前の天皇が崇神ですから318年崇神戊寅は
いいところじゃないですか。

252 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/09(水) 19:24:23
318年崇神戊寅と書紀の数字の合わせようが無い。

私の書き込んだ数字は、書紀と古事記がほぼ同じになる数字です。

>4世紀末の半島への倭の侵攻の記憶が神功の事績。
これでは、250年以降古墳を作り続けられない。
又、半島に攻め込む「実力」を推定できない、縄文人さんに半島へ攻め込む
シミュレーションでもしていただきましょうか?


253 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/09(水) 20:19:07
何の資料から出雲暦というものをもって来たのか?
そういうことをちゃんと具体的に先に説明しろ。
いつも中途半端じゃぁ肯定してはくれっこな〜い。

254 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/09(水) 21:04:48
>>253
大丈夫、終わった人間は相手にしていないから。

それじゃあ可愛そうだから、日本に西暦が何時入ってきたか、
書き込んで戴ければ掲載しますよ。


255 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/09(水) 21:16:46
>>252 これでは、250年以降古墳を作り続けられない。
心配ご無用です。古墳は神武と崇神の部下の慰霊のために崇神が作り始めました。4世紀になってからです。
箸墓築造の年代は考古学的にはいずれ明らかにされるでしょう。


256 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 21:19:23
>>240
完璧なものがどこにある?
倭人伝の記述と記紀の記述が一字一句間違いなく一致するものがどこにある?

ないだろう?だったらより類似性の高いものを求めるのが普通。

もっと類似性の高いものを提示してみるかい?
天照大神がなにを根拠に、あるいは何をモデルに記紀に記述されているのか
自分の説を述べてみるかい?

倭迹迹日百襲姫でもいいから、その厳しい目で評価してみたらいい。

257 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 21:24:54
>>224
>卑彌呼は倭の女王國王であって、倭國王ではないのだ

邪馬台国までの行程のあとに、自女王國以北、其戸数道里可得略載、とあり、
これは邪馬台国のことを指すと思いますが。
また、制詔親魏倭王、の後、卑弥呼は「倭王」と言われています。

「女王國」は邪馬台国を指し、卑弥呼は倭王(連合の王)ではないでしょうか。

258 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 21:25:08
>>255 縄文人
>古墳は神武と崇神の部下の慰霊のために崇神が作り始めました。
>4世紀になってからです。

その実年代算出の根拠は?
それに全国にある前方後円墳はどう言う位置づけにする?

所謂「纏向型」を慰霊碑的なものにするなら
やはり全国のものも同様の位置づけにするのか?

祟神の代にほぼ全国を平定
各地で没した功臣の為の現地での慰霊碑にでもするか?




259 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/09(水) 21:28:21
現在 箸墓築造の年代は考古学的に250年の数字が出ています。

私を初め殆どの人は、此より後だと考えていますが、せいぜい2,30年
後にするのが精いっぱいでしょう。

神武と崇神を同時代の人間としても、歴史が見えなくなるだけ。
考昭が93年の位置にいるから、古事記と書紀の長さが同じになる。

神功の渡海は、読めないでしょう。設定が間違っているからですよ。


260 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/09(水) 21:35:38
>>257
そのとおりです。あなたの見方は道理に適っていると思います。
女王国=邪馬壹国、卑弥呼=親魏倭王=連合国盟主

261 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/09(水) 21:42:12
女王国≠邪馬壹国、
こうしないと倭人伝の、倭女王と倭王の区別が出来ない。


262 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 21:44:58
神武と崇神が同時代?
いくら何でも有り得ないだろ。

263 :◆.L.MXSPOgc :2009/09/09(水) 21:54:44
>>259
>>現在 箸墓築造の年代は考古学的に250年の数字が出ています。
あれは非科学的ですよ。
先ず卑弥呼の墓との思い込みがあっての年代でしょう。


264 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/09(水) 21:59:31
>>258, >>259
箸墓の築造時期は確定していないというのが私の立場です。
巻向地域の古墳は築造の時期が近いのではないですか。短い期間に多数の古墳を作るのは特別な事情によるものでしょう。
崇神が各地に軍を派遣して平定したときに多数の奴隷を獲得した。戦死した将軍や功臣の慰霊のために古墳を作った。奴隷
を労働力として。土は水田開発の際に出た残土を利用した。このあたりの事情は奈良湖の排水事業と関わりがあるが、資料
が残されていないので、畿内説派には納得して貰えない。しかし、崇神が支配権を獲得したということはその背景に食料の
確保ができたということがあった筈である。その崇神が4世紀の人間であるとする一つの根拠は>>251
他の地域の古墳については箸墓の祖型になったものもあるかも知れないし、箸墓を模したものもあるかも知れない。しかし、
それらの評価は築造年代が確定してからの話だろう。


265 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 22:03:12
>>263
そんな思い込みがあるならとっくに断定してるよw

266 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 22:03:37
>>261
区別できなくて当然でしょ。
どっちも卑弥呼のこと。

267 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/09(水) 22:10:29
4世紀には崇神天皇はすでにこの世にいないよ。

268 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 22:11:37
女王国は卑弥呼を共立した国々の総称でしょう。
吉備や播磨、その他瀬戸内海周辺の国々です。
その中で邪馬壹国は女王が都する国です。

269 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 22:18:10
箸墓は、土器の年代的には布留0となっている。
この布留0の実年代については諸説がある。
畿内説の寺澤編年では西暦290年かそのあたりらしい。
しかし、この人の説はちょいちょい変わるらしい。
4世紀中頃という人もいるし、4世紀後半という人もいる。

270 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/09(水) 22:22:53
倭女王の対には倭男王の存在があるから
倭女王と明記することによって差別化がはかれる。

名前とは区別するためのものです。
倭に王が一人しか存在しなければ、王の一文字で十分ですが、区別しなければならない状況のときには
「王」の他に区別の為の飾りが必要になってくる。

「倭女王」などのように

271 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 22:26:18
>>268
>女王国は卑弥呼を共立した国々の総称でしょう。

そう仮定すると、
自女王國以北、其戸数道里可得略載、
のところがわからなくなる。
女王国より以北には7カ国あるのだから。

272 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 22:29:51
女王国は伊都国の南千五百里のところから始まるんだよ。
以北の国々は女王国ではない。

273 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 22:35:47
>>270
確かに倭に王は二人いますね。
伊都国にいる王と、卑弥呼と。
しかし倭人伝に出てくる「倭王」は明らかに卑弥呼を指している
と思われますが。

274 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 22:46:11
>>272
確認するけど、
「伊都国の南千五百里のところ」ってどこ?
その文、書いてはないよね。

でもそれおもしろい。女王国ではないから一大卒を置いたのかな?

275 :日本@名無史さん :2009/09/09(水) 22:47:40
地方の前方後円墳から出土する、埴輪の男子にみずらという髪型がありますね。
あれとそっくりなのが高句麗の壁画にあるんです。知っていました?
また衣服もそっくり。ウチモンゴルの胡服にも良く似ています。
武人と馬の埴輪も出てきます。ということは騎馬民族です。
顔は扁平なしょうゆ顔。埴輪の顔付きもウチモンゴルに良く似ています。
高句麗の壁画は5世紀のもの。
地方の前方後円墳は6世紀のものが多いです。
倭人伝に出てくる、3世紀の邪馬台国の人種とはまるっきり違う雰囲気が漂っていますね。

倭人が日本に紀元前後に渡ってきて300年位で、東北方面まで倭人が領地を増やした可能性があります。
村落という形で。
なんといっても米を作りますから。300年もあれば全国に広がるのは自然だと思います。
その後、畿内に出雲経由で騎馬民族が入ってきて畿内に王朝を作ったと考えます。
下戸は畿内中心に広がり、酒飲みは九州、東北だそうです。倭人は酒のみですから。
モンゴルは下戸の遺伝子の発生地だそうですよ。
ですから、畿内の前方後円墳は4世紀末〜5世紀初頭頃から発生したと思います
一応倭人が全国制覇してからですね。

276 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 22:55:46
>>260
>女王国=邪馬壹国

であるならば、世有王皆統属女王国、はどう解すればいいのでしょうか。
私はこの「王」を「帥升以来の(倭国乱で失墜した)倭国王の名残り」
だと思ってますけど。

277 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 22:58:29
>>276
伊都国代々の王が女王国に統屬していた。

278 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 22:59:15
卑弥呼は長寿だったので、邪馬台国の卑弥呼の治世の間に伊都国の王が数代変わってる
という意味ではダメなんですかね?

279 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 23:00:28
>>271
後年の隋書倭国伝の時代だと、筑紫国から東が倭国となってるでしょ?

倭人伝の時代には北部九州は女王国には従属するが、
伊都国が王を立てる独自の存在だったと考えられる。

280 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 23:01:11
>>278
無きにしも非ず。

281 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 23:06:01
>275
明治になって洋服が入って来たからと言って、民族が西洋人になった訳ではあるまい
倭人伝では布をほとんど縫わず貫頭衣だと言っている、これは埴輪の巫女の服装に似ている
伝統的で古風な服装が、宗教装束にだけ残ったのでは

282 :日本@名無史さん :2009/09/09(水) 23:07:12
弥生人には二種類あるってことを、「考古学者」は知らないのか、
或いは知っていても無視しているのかわかりませんが、
弥生人を半島からの北方渡来人と一種類だけしか言いません。
あれは文献を知らないからです。所謂専門○かというヤツですね。

283 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 23:10:33
すれ違いなんだろうけど
何で箸墓ってあんなに大きいんだろ?
倭人伝抜きにしてもスーパー大王格だろ

284 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 23:16:01
クーデターを予見しただけであんなに大きな墓にはならんだろ

285 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 23:19:57
設計ミスで予定より大きくなっちまっただけなんじゃねーの?

286 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 23:24:40
確かに箸墓は特別だな。
俺なんて最初に訪れた後、何気なく宝くじのロトを買ったら
3等80万当たったよ。それ以来箸墓は卑弥呼の墓と確信したから。

まあ異論は認めるよw

287 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 23:36:02
>>279
なるほど、納得ですね。
帥升連合とは別の女王国連合が
両者を合わせて新たな倭国連合体制になったと。
>>278
で、卑弥呼は長生きだから代々…、
ということでいいんじゃないかと。

288 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 23:39:47
>>274
郡から万二千余里で女王国に至るって書いてあるだろ。
伊都国までで万五百里なんだから、伊都国から千五百里で女王国だ。

289 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 23:46:36
>>283
国(連合)が急に大きくなったせいだろ。
卑弥呼の墓であろうがなかろうが。

290 :九州王朝大好き:2009/09/09(水) 23:47:02
倭人の国々=@+A+B+C+D+E+F
@狗邪韓國
A對馬國+一大國 「自女王國以北其戸數道里可得略載」
B末盧國+伊都國 「自女王國以北其戸數道里可得略載」
C女王國(奴國+不彌國+投馬國+邪馬壹國) 「自郡至女王國萬二千餘里」
D其餘旁國の21ヶ国(斯馬國〜奴國)「其餘旁國遠絶不可得詳」
E狗奴國
F皆倭種 「女王國東渡海千餘里 復有國」

「假金印紫綬」後、卑彌呼は女王國王から倭王に変わった。
倭王の統治範囲=@+A+B+C+D

291 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 23:53:08
>>290
狗奴国は倭人の国ではないのか?

292 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 00:05:29
>>287
そう仮定すると、本州以西(大分辺りかも)が女王国の範囲になるが、
万ニ千という距離や、那国が女王国との境界線という記述にも整合するでしょ。
更に狗奴国が九州半島南部と解釈できます。

293 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 00:06:17
>>264 縄文人

まあ祟神の崩年干支から4世紀と言うのは昔からあるとしてもだ・・・

他の古墳が同時に(功臣の慰霊のため)造られたと言う事に関しては
一切合切、何の根拠も無し。

ただただ脳内ストーリーだけ。

>畿内説派には納得して貰えない。

何の根拠も無いのにそれが理解されない事に畿内説も九州説も関係ない。

勘違いするな。





294 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 00:11:18
>>288
なるほど〜、すばらしい。
ということは、話はそれるが
伊都国から千五百里もどれば一支国だから、
邪馬台国はそんなに遠くないな。


295 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 00:12:01
>>283
墓の大きさはそれを造った国の権力の強さに比例する、そんな話があったな。
しかし、なんかおかしくないかな。倭王の墓ならば、連合国みんなで造るだろう。
だが、2番手、3番手の国の場合、連合国みんなで造るか?
倭国の連合国だからといって、他国の墓造りに人を送ったりするはずはない。
2番手、3番手の国は、自国の人々だけで造るはずだ。
倭王の墓と2番手、3番手の国の王墓とでは格段にちがうはずだ。ところがそうで
はない。いや〜、妙な話だ。

296 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 00:13:26
世有王皆統属女王国は、
世(shi)有(you)王(wang)  皆(jie)統(tong)属(shu)  女(no)王(wang)国(guo) と音的に三節に分かれる
シィ・ユゥ・ワン  ジェトンシュ  ヌゥワンゴ と三音づつ三節に
王(ワン)と王国(ワン・ゴ)は韻を踏んでいるし、三音×三節=九語 となり耳障りが良い

ただそれだけ
皆が何を指そうが、統や属がどんな修飾を意味しようが、あまり深い意味はない

前の 有(you)千戸 ともリンクしている、世(shi)有(you)王(wang) の有(you)つながりで
後の 郡使往来(wang)常所駐 ともリンクしている、女(no)王(wang)国(guo)の王(wang)つながりで

297 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 00:14:01
>>294
何を考えているんだか。俺は女王国が始まるって書いただけだ。邪馬台国の
ことは言っていない。

298 :九州王朝大好き:2009/09/10(木) 00:14:07
帥升を倭國王とした倭國は倭國乱の頃衰退し続ける。
帥升の倭國の本拠地米多(吉野ヶ里)は新興女王國に占拠され、
西方の新倭都(伊都國・惣座)に移転。
米多(吉野ヶ里)は不彌國(女王國を構成する国)となる。
又、奴國(伊都國東南の)も女王國を構成する国となる。

卑彌呼共立により、女王國が成立し、伊都國の旧体制倭王は女王國に統属。


299 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/10(木) 00:20:30
ー陳寿は倭に関する文書の中で張政の報告を最も重視したー

陳寿は張政の報告書(任務遂行の記録)を見て書いたものだろう。魏の時代の最後の使節であり、卑弥呼の死亡から壹與が立てられ
まで(卑弥呼死亡後の混乱を鎮め、壹與に檄(木へんでなく手へん)を以て告喩したのち壹與に掖邪狗等二十人をもって魏の都まで
送られている)の経過を知る者である。張政の滞在期間は書かれていないが、極く短期間でないことは確かであろう。夏に来たとし
ても冬に帰還するのは考え難い(冬の海で時化にあったら命が危ない)ので、夏に帰ったであろう。ということで少なくとも1年は
滞在したのではないか。郡使などとは違い、魏の皇帝の使節であるから、倭国の多くの要人とも会い、倭国の情勢を最もよく把握で
きたのが張政と見られるのである。陳寿はその張政の報告を最も重く見たであろう。

300 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 00:23:34
まあ畿内説に立てば箸墓はヤマトが魏の冊封を受け
それを画期に急激に権力を拡大した結果の巨大化
・・・とするのが一番手っ取り早いんだろうが

それでも違和感があるのは狗奴国との争いの最中に
良くそんな余裕があったなとwwwwwwww



301 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 00:23:51
>>297
そうか、女王之所都、は
もっと遠くなのか。

302 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 00:24:18
吉野ヶ里は、あの環濠内の人口だけで5000人以下という説がある
周辺を入れても10000人くらいの規模の国? どう見ても村くらいだろう
あれは、開墾集落とでもいうか、
あの環濠を拠り所として周辺の田畑を耕して暮らすだけの、最小単位なんだよ
帥升の倭國の本拠地???  とんでもない
生口160人を削り出す国力は無いだろうし、そもそも160人もの余剰人口を抱える余裕も無い

303 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 00:26:27
>>302
環濠内の人口が5000人?
主に甕棺の数等から1000〜1200人と言うのが良く言われているところだと思うが

『周辺集落の人口を合わせた数』と勘違いしていないか?




304 :九州王朝大好き:2009/09/10(木) 00:27:18
帯方郡より1200餘里の国は二つある。
奴國と不彌國だ。
投馬國の領域と邪馬壹國の領域は、不彌國の領域の南に接している。
その境界は東から西に流れる筑後川であろう。

305 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 00:30:30
>>301
当たり前だろう。邪馬台国までは北九州から少なくとも水行十日陸行一月だ。
僅か千五百里のはずはない。

306 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 00:32:31
奴國→投馬國 k水行20日が説明できるかな?
私は薩摩と思うのだが

307 :九州王朝大好き:2009/09/10(木) 00:36:41
吉野ヶ里は帥升系統の王が都する城郭のひとつ。
惣座遺跡も同様の城郭。
卑彌呼の都する城郭も同程度の規模だと思うが。

308 :◆.L.MXSPOgc :2009/09/10(木) 00:37:40
>>299
>>張政の滞在期間は書かれていないが、極く短期間でないことは確かであろう。
夏に来て、来た年の夏のうちに帰っていますよ。

309 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 00:39:45
>>308
>夏に来て、来た年の夏のうちに帰っていますよ。

根拠は?

310 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/10(木) 00:44:59
>>293
だから言っておるではないか。巻向地域の古墳の築造時期が確定したら(発掘調査されて何が出て来るか分ればなお
よいが)はっきりする話だ。俺のは仮説だ。おまえだって全く仮説なしで論じているか?3世紀の畿内に戸数7万余
の人口を養える生産力があった証拠はないだろ。前方後円墳の存在を畿内の王権の証拠としてもそれが3世紀の築造
だという証拠があるか?東南は東北東の間違いだという証拠があるか?少しは考えてものを言ったらどうだ。

311 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 00:45:09
>>308
張政は卑弥呼の要請を受けてやってきた。
檄を以って告喩する、ということで狗奴国との調停をしたと考えるのが
一般的。その後、卑弥呼が死に、後継者をめぐる争いが起きる。
その張政の帰還を送ったのは次に王になった台与なので、かなりの滞在期間が
あると思う。

312 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 00:45:44
>>307
国という体をなすには、そう言った小単位を力強く束ねる原理が必要なんですよ
血統的な王の権威、宗教的権威、あるいは中国に王と認められただけでは纏まりません
その証拠に、環濠内にある墓も極めて小さい
外部から労働力を集めて何かしたという形跡がありません

313 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 00:58:47
>>310 縄文人

お前が言っている説の大概アクロバチックなところはだ・・・

その築造の実年代の数字はさておき
祟神陵とそれ以前の古墳がほぼ同時期に作られたと言うお話になる。
(精々20〜30年ぐらいの間か?)

どれだけ自分が奇々怪々な事を言っているか分かっているのか?

それこそ「少しは考えてものを言ったらどうだ」と言う話だなwww


314 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 01:00:04
>>312
九州全体の遺跡に共通して言える事だな
大きな権力で何か大きな事をした、という痕跡が無い
そんな国とも言えない群落の集まりを、中国が倭王と認証するかな

315 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 01:12:24
>>305
それは、ものすごくそう思う。
で、話はかわるけど、伊都国から千五百里で女王国が始まって、
邪馬台国に至るまでには、投馬国しかないってのはどうなの?
この二国は(当時としては)ものすごく大きな領土をもっていた、
ということか?

316 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 01:25:55
>大きな権力で何か大きな事をした、という痕跡が無い
近畿には大きな古墳があるってことかな? 九州にも何カ所か大きな出現期古墳が
あるよ。

317 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 01:29:28
>>312
>国とも言えない群落

当時の中国でいう「国」とは、奴国とか伊都国とか
「九州全体の遺跡」レベルのものでしょ。実際に。

318 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 01:30:15
>>315
2国が大きかったからだとも考えられる。また、旁国のいくつかを通過しているが、
旁国の端を通っただけで、首都を通らなかったために記載されていないということ
も考えられる。


319 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 01:32:30
>>314
まあたまに
「何故、九州に大型首長墓=古墳による祭祀と言う文化が発生しなかったのか?」
と言うのを考える事はあるw

広形銅矛あたりまで遡れば共通の祭祀形態を見ることは出来るだろうが
魏に鏡を100枚もらった卑弥呼を銅矛祭祀の巫女と見るのは
流石にこの板ですら聞かないwwww

320 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 01:33:10
大和にいくつもある巨大古墳、
それと、巻向から出土する多方面から持ち込まれた土器
こう言うのが目にも疑えない権力の大きさ、と思うのだが


321 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 01:44:08
>>319
九州に無かったのは、「九州に大型首長墓=古墳による祭祀と言う文化」ではなくて、
権力の集中と王統の固定・継続じゃないかな
例えば、帥升と卑弥呼を同じ王統とは見ないし、卑弥呼も共立の王と中国側は見抜いている
ギリシャ文明が独立したポリスの連合体の形を崩さず、、ローマの様に大きくならなかったのと似ている
だからと言って、ギリシャが当時のヨーロッパで弱かった訳でもなく、あれだけの文明遺産を残すほどの基礎力はあった訳だ
九州はそういう感じ、後の大和朝廷には繋がらないイメージ


322 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 01:44:45
>>320
それで大和が邪馬台国にちがいないってか? じゃ投馬国はどこなんだ?
2番目の大古墳があるところでなけりゃ辻褄が合わんのじゃないかな?

323 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 02:01:14
>>321
うーん、「権力の集中と王統の固定・継続」はヤマトにおいても
もう少し後の時代だろうと言う気はする。

「パクス・ロマーナ」ならぬ「パクス・ヤマト」wが最初にありきじゃなくて
自らの権力に目覚めた首長層の横の繋がりと言うか
「ネットワークの形成」が最初にあったのではないかと・・・

まあそっちの方が「緩やかな連合体」のモデルにより合致するかな?www

324 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 02:03:24
>>322
佐賀平野の奴国から南に水行20日なら、投馬国=鹿児島(サヅマ) じゃないかな
邪馬台国は、水行10日+陸行1ヶ月 なら大和くらいだが
方向が南となっていてつじつまが合わせられない
南に水行10日+陸行1ヶ月なら、熊本あたりで船を下りて内陸に入れば、宮崎に出たとしても数日の距離だろう
四国経由のルートがあったのなら、説明できない事もないが・・・

325 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 02:03:36
>>318
ありがとうございました。

しかし、六十日旅をして二国しかないとなると、
どこ通ってたんだ、って話ですよね。

326 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 02:27:15
ファーストレディの情報がないんだけど。中国や北朝鮮なみですねw

鳩山幸さんはサイエントロジーというカルトと関係があるという噂があります。
http://an★tikimchi.see★saa.net/art★icle/127578850.html
↑ 日本アンチキムチ団

鳩山幸さんの旧姓が不明だそうですよ。

764 名前:可愛い奥様[] 投稿日:2009/09/06(日) 01:04:07 ID:/WrcABwtO
北海道苫小牧在住の者ですが、老人ホームで暮らす朝鮮人のお婆ちゃんから聞いた話です。
幸夫人のごお父様は中国人ではなく、キム・ジョンウォン(漢字不明)という朝鮮北部出身の貿易商だったようです。
戦後は日本に渡り、幸さんが渡米するまでは神戸の商社に勤めていたようです。
キムさんは幸さんが渡米した直後、北海道室蘭に引っ越し、貿易商を営みながら総連支部の設立に尽力されたと話しておりました。
中国語・英語・ロシア語がお上手だったようですね。

【ファーストレディー】鳩山幸をウォッチするスレ 2
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1252279762/

327 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 07:03:18
>>324
倭人伝は、投馬国への水行と邪馬台国への水行に何ら区別をしていない(同じ書き方だ)。
ということは、二つの水行は同じコースだと考えられる。投馬国は有明海を南下して二十日
薩摩だろう。邪馬台国へは同じく有明海を南下し、八代で上陸、球磨川沿いに登って行き都
城へ抜ける。直線で百キロ、実際の道なら百五十から二百だろう。山道だから十分に一か月
の行程だよ。

>>325
実際の比定は上記のとおり。問題は熊本だが、邪馬台国又は投馬国の領域に入っていたとも
考えられる(南九州の勢力は、熊本を勢力下においたから北九州を攻撃できた、これが
倭国の乱だ)。しかし、熊本には旁国があったかも知れない。どちらもあり得るだろう。



328 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 07:12:41
八代から都城なら、10日だ
山でろくな道が無いのなら、軍の移動にも難渋して、他国を支配する事は、そもそも出来ない

329 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 08:19:35
投馬は出雲か丹波でしょう。

投馬国と邪馬台国は伝聞情報で
南とは帯方郡からの行程です。
場所を示すだけなら何も伊都を経由する必要もないのですよ。

330 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 08:21:14
そのころ水行1ヶ月程度で、九州から畿内までいくとしたら、
帆もなく手漕ぎだから、みんな疲れて死んでしまうね。
荒波時も有るだろうし。向かい風時もあるだろうし。

331 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 08:28:01
>>330
九州から畿内だと瀬戸内海航海すれば楽ですよw

半島からだと海流に乗れば出雲へは容易に着くからね。


332 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 08:33:53
>>331
そこが現代人の感覚の鈍ったところ。

333 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 08:37:01
天候もあるし、食事もあるし、寝る為に陸にも上がるだろうし、休み休み行程
を進むでしょうよ。でなければ、疲労して倒れます。

334 :◆.L.MXSPOgc :2009/09/10(木) 09:00:47
>>309
伝の記述を読めば、冬の記述は野菜に関しての「冬」の1文字だけですし、
邪馬台国への行き帰りの国々の略細しかなく、周辺の国々の様子が皆無です。

これらから3ヶ月を越す長期滞在をしていないのは明らかでしょう。


>>311
張政が来たときには、すでに臺與が王となっていたのです。
卑弥呼の墓は見たのでしょうが、張政は臺與に告喩して直ぐに引き上げています。
100人の殉葬や1000人の殺し合いは、張政の倭人からの伝聞情報です。

・・張政の伝聞情報って、かなり精度が低いような気がしてきた。


335 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 09:34:03
まあ現に弥生後期には吉備、特に丹波が急に発展してるので、
直接交流があったのは間違いないのですから。
丹波の人間が新羅に渡って倭人王になったとまで記録されてるしな。

336 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 10:16:42
>>328
確かに1日に17〜20キロ進めば、10日で到達する計算だね。しかし、これは机上の計算。
使者の案内係は、そんな日程は組まないだろう。2日進んで1日休み、1月といっても実際に
歩くのは20日程度じゃないかな。そして、1日の距離はせいぜい10キロ、山道の10キロは
平地の15キロ、20キロに相当するからね。
八代から都城、陸行一月は何も不自然はない。ぴったりと言うべきものだ。

337 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/10(木) 11:02:02
>>254
じゃぁ〜オマエのほうにはオマエがこちらへ書きこんでも説明はしてやらねぇ!

338 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 11:37:31
>>331
>半島からだと海流に乗れば出雲へは容易に着くからね。
そうだな。銅鐸の材料なんぞはそんなルートで輸入していたのかな。
しかし、それなら使者は直接出雲、敦賀あたりへ行けばよかったんだよな。
何で末盧国に上陸するなんて遠回りしたんだろう。

やっぱり畿内説はだめだってことだな。



339 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 11:50:48
>>325
国と国との距離、つまり日数にとらわれると、妙な感じになる。
思い切って無視すれば、隣り合った国と考えても不思議ではないなあ。
投馬国=三潴(みづま)郡、邪馬台国=山門郡も十分にありうると思う。

里程・日程になるべく忠実にというのであれば、上にあるように宮崎も
有力な候補地になる。

折衷案として、熊本の阿蘇あるいは菊池付近を選べば、考古学的な遺跡・遺物も
豊富で、里程・日程的にもまあまあということになる。

この三つの中から考えるのがいいのじゃないかと思うのだが。

340 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 12:05:50
>>338
意味不明、使者は伊都に滞在するとあるでしょ。
交易は直接出雲等へ向かう奴が出てきたから、
弥生後期には丹波が発展したんだろう。

341 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 12:17:50
地理もわからん内は、見える陸地を目指すのが当然
また戻る意志があるなら尚更

342 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 12:30:05
京都には丹波と鳥羽という地名が隣接してる訳だが、
これは同じ語源から別れた同一語と捉えていい。
ここは水運の要所、つまり泊まり場のトバから由来している言葉だな。
伊勢にも鳥羽という地名はあるが、こちらも泊まり場の意味で
(タウパ)からの転化だとされているのは、
丹波と鳥羽は同一言語からという説を裏付けるものでしょう。

で、何が言えるのかというと、投馬はタバ、丹波国の事だと言えます。


343 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 12:52:36
>>341
案内人もなしに来ていると思ってるのかね。狗耶韓国で倭国に詳しい案内人
を雇ってきているはずだろ。卑弥呼が魏へ送った使者が魏の使者を案内して
戻ったことも十分に考えられる。

344 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 12:54:18
>何が言えるのかというと、投馬はタバ、丹波国の事だと言えます。
違うとも言えるよ。簡単に・・・


345 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 12:57:53
>>343
案内人は丹波人なの?

346 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 13:06:39
>>345
いろいろ考えられるだろ。畿内といえども、弥生時代から半島と交流があったことは
確かだ。半島から畿内に赴くのにどのルートが適当か、知ってる船乗りはいくらでも
いただろう。

347 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 13:12:30
>>339
同意します。
投は呉音でヅ、
馬は呉音でメ
投馬はヅメ。
久留米地方も昔は妻(つま)地方といいました。
久留米の北の端間(はたま)もづまの名残りがあります。
投馬国は久留米市を中心に三潴(みづま)郡から北は端間位までの一帯。
邪馬台国は筑後、八女から山門郡一帯。

348 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 13:14:36
正規のルートは伊都国経由なんだろな
そうでない商人なんかは直で行ってもいいわけだ
正式な使者なら、伊都国に立ち寄ってそこから瀬戸内海や日本海を行く
つまり伊都国は福岡

349 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 13:17:04
>>344
そりゃ言うのは簡単ですなw
しかし文献記録や言語学、発掘出土品等の資料で
現在一番可能性があるのは丹波だと思うけどね。
個人的には次点が薩摩といったところで。
新羅本記にも脱解王は倭国東北の多婆那国=タバの国から来たとあるからな。
卑弥呼の時代に有力な国があったと考えるのは当然でしょう。

350 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 13:26:00
>>347
水行20日の場所とは言えないでしょ。

351 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 13:34:02
>>350
そんなことないです。日程は距離じゃないので。
昔の事情など知る人いないし、水行20日でどれ位などと現代人が推し量ってみたところで、
それは推量でしかない。ならば、方角と名前と遺跡や、風土などを見て考えるしかない。
20日要したよといわれれば、そうなんですかと思うより他ないです。

352 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 13:43:01
>>350
伊都国(佐賀)から南へ水行20日といえば、薩摩川内で決まりだろ。
後の薩摩国府の所在地だし、端陵古墳もあるところだしね。

353 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 13:48:21
薩摩じゃその先の南がないです。
狗奴国は海中ですか?


354 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 14:00:00
薩摩を投馬国とするなら日向を狗奴国に
丹波・但馬あたりを投馬国にするなら邪馬台国を出雲、狗奴国を吉備に
当てはめた方が自然なような。

355 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 14:04:40
>>353
狗奴国は投馬国の南にあるわけではない。志布志湾沿岸でいいんだよ。

356 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 14:21:58
やっと正解に近くなったところで、
一ヶ月もするとまた議論が元に戻ると。
その堂々巡りってことはわかっているけど。
みんな頭頑固だよね。
久留米の朝妻のヅマも、八女(ヤメ)も山門郡の(ヤマト)も
狗奴国の(クナ)熊本、狗古智の菊地(キクチ)も
音が3拍子も4拍子もそろっているのに、
ここがそうだと思わないのは頑固で相当感が悪い人たちですね。

357 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/10(木) 14:23:50
>>334
倭人伝の記述順序は次のようになっている。正始八年に戴斯烏越等が郡に(女王と狗奴国王卑弥弓呼が)相攻撃する状況を説明し、それに応じて張政等が派遣
される。卑弥呼以死大作冢。更立男王国中不服。復立卑弥呼宗女壹與。張政等以檄告喩壹與。壹與遣倭大夫・・・・送政等還因詣臺・・・。

この記述のどこから「張政が来たときには、すでに臺與が王となっていたのです。」と言えるか。張政らが短期間しか滞在しなかったことにしたいがための勝手
な作り話でしかない。

358 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 14:32:14
狗奴国は旧安房国。
狗奴国の末裔は、あの八犬伝で有名な八犬士がそれにあたる。

359 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/10(木) 14:42:01
妄想ばっかりが横行してるな。ww

360 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/10(木) 14:54:26
>>357
>この記述のどこから「張政が来たときには、すでに臺與が王となっていたのです。」と言えるか。張政らが短期間しか滞在しなかったことにしたいがための勝手
>な作り話でしかない。

縄文人さんは原文をもっとよく読みなよ。
張政らが短期間しか滞在しなかったと記載されてるではないかww

361 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/10(木) 14:58:47
張政が来たときには、
すでに臺與が君臨(王というか正確にいうと最上位)していました。

めずらしく私と二 ◆氏の意見が一致しとるwww

362 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 15:17:45
で、二人とも共倒れか・・・

363 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/10(木) 15:29:32
投馬国は5万戸の大国で不彌国に接して南に位置します。不彌国は筑後小郡市の辺りで、昔は有明海の入り江が
この辺りまで伸びていました。筑後川もこの入り江につながっていました。不彌国からは舟で投馬国の有明海沿
岸に沿いながら、内陸に入りこんだ入り江や川を上ったり下ったりしながら現筑後市船小屋にあった港に入りま
す。この間20日です。投馬国の版図は筑後川以南(久留米市、うきは市、八女市、筑後市、大牟田市)の福岡県
です。なお、大川市や柳川市などはまだ海でした。この広い地域の各地にいる豪族の館を食事や宿泊や会議の場
所として訪問しながら行ったのです。次は邪馬壹国ですが船小屋の港を出て有明海沿岸を南下します。相変わら
ず要所の豪族達の館に立ち寄りながらです。そして玉名市の辺りで上陸します。邪馬壹国は戸数7万余の超大国
です。熊本県中北部と宮崎県中北部に跨がる版図を有していたと思われます。張政等儀の使節団と伊都国(ある
いは末盧国)から出迎えて案内して来た邪馬壹国の官僚と武官は邪馬壹国領内を練り歩いて卑弥呼の宮殿へと向
かいます。黄幢を掲げ、楽隊も付いたかも知れません。威風堂々の行進、魏の威光を示し連合国の結束が固まっ
たことを知らせるための示威行事です。1月かけました。


364 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 15:29:36
「冬夏食生菜」なんて書かれているので、冬を過ごした可能性はある。

365 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 15:43:48
張政らが到着したとき、卑弥呼は病に伏していたんだろう。だから、難升米に拝仮
させるなどした。張政らが卑弥呼に会ったかどうかは定かでない。
それから卑弥呼が死亡した。その後、男王を立てたが第二次倭国乱になり、張政ら
は帰国することすらできなかった。台与が立てられ、国が治まり、張政らはようや
く帰国できた。まあ、張政らは数年滞在していた可能性が高いと言うべきだろう。


366 :ローガン:2009/09/10(木) 15:46:38
>>357
> この記述のどこから「張政が来たときには、すでに臺與が王となっていたのです。」と言えるか。

八年以降の張政等来倭は六年の詔に基づいた行為。黄幢下賜は出兵の要請。
自国の中郎将と倭王に檄告諭しようにも、「卑弥呼以死」倭王はすでに死んでいた。
「檄告諭壹與」間の男王も檄告諭の対象になっていないので張政等来倭は壹與が王になる頃、もしくはなってから。
六年詔に基づいた任務(出兵要請)を完了すれば、逗留の必要なし。ゆえ、短期間の滞在。
違う書ですが、隋書倭国伝にも「朝命既達即戒塗」とありますね。用が済んだらすぐ帰るのです。

367 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 16:04:52
使者が何年も帰って来なかったら、人質に取られた又は殺されたと思われるだろ

368 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/10(木) 16:08:01
>>366 隋書倭国伝にも「朝命既達即戒塗」とありますね。用が済んだらすぐ帰るのです。
それは隋の裴世清が来たときのことでしょ。張政の来倭とは無関係な話です。

張政は正始八年の卑弥呼の訴えに応じて派遣されたものと考える方が筋がいいでしょ。
卑弥呼以死大作冢  「以」は「既に」ではありません。


369 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 16:09:16
>>366
張政等が到着したときすでに卑弥呼が死亡していたならば、「卑弥呼以死」は
難升米に拝仮云々の記事よりも前に置かれていただろう。


370 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 16:11:51
「既に」という日本語訳を載せてるとんでもないサイトはあるけどねw

371 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/10(木) 16:22:34
>>367
音信不通であればそうだろう。だが、その間郡使は伊都国に来なかった、あるいは倭から郡に人は行かなかった
ということはなかっただろう。あったのか?
魏は狗奴国との争いなど倭国の状況を知った上で張政等を派遣している。短時日で終る仕事でない事ぐらい分って
いた筈だ。卑弥呼の死亡やその後の混乱など不測の事態が起きたが、張政等がその事情を本国に知らせることは出
来た筈だ。使者に手紙を持たせて送れば良いのだから。

372 :ローガン:2009/09/10(木) 16:38:22
>>368
> それは隋の裴世清が来たときのことでしょ。張政の来倭とは無関係な話です。

いやいや、使者本人の言であり、使者と云うものの行動の一端が読みとれる部分。 それに、敢えてレスに「違う書」とことわりを入れてるのだから、文意を汲みましょう。

>卑弥呼以死大作冢  「以」は「既に」ではありません。

では、あなたの解釈は抜きにして、「以」は「既に」とは読めない理由を教えてもらえますか?



373 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 16:52:54
>>371
それは推測が過ぎるというもの
もし別の使者に手紙を持たせて送ったのなら、それも記録されている、と考えるのが筋

>>372
以てに既にという意味はないと思うが

374 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 16:56:10
以が既だったら、以ではなく「既」と書けば良いだけの話し。

375 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/10(木) 17:09:23
「以」に日本語の意味を持たせるから変になる。

単なる“区切る”という記号。
だから文字の構成も「レ」と「人」の間に「、」を置いた。
敢えて意味を求めるなら

「レ」=卑弥呼
「人」=死

卑弥呼と死の間に時間を設定する。「、」


前語句と後語句の間に句切を設け、何かを設定する。

376 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/10(木) 17:17:48
>>372
使節というものは使命を果たしたらすぐ帰国するのは当たり前でしょう。そんなことを言う為に張政とは無関係な
裴世清の話を出さなくても と思ったのです。私が「ローガンさんはいろんな文献を読んで知っているんだぞと知
識をひけらかしたいのかな」と邪推したからいけなかったんでしょうね。
あ、それから「以」の件ですが、373,374に言われているとおりだと思います。まして、この文章から「張政等が来
た時には既に卑弥呼は死んでいた」という解釈は出来ないと思いますね。

377 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/10(木) 17:39:31
>>376
直ぐに帰る事が隋書で記事になるほど、すぐに帰らなかった。

378 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/10(木) 17:48:54
「……難升米爲檄告喩之卑彌呼」
ここまでは卑弥呼は生きていた。
そして「以(〇〇年)」
「死大作冢……」
ここは故人卑弥呼

379 :ローガン:2009/09/10(木) 18:25:20
>>373 >>374 >>376
なんで? 割と小さい辞書にも出てるのに。
「已」 …既に。音が同じところから以と同じに用いられる。
それに、「今権以死」と「今権已死」とが同義であるって ここで2.3年前にどくだみさんとやりましたよ。
彼もそれでいいと…

380 :ローガン:2009/09/10(木) 18:45:19
>>378
> 「……難升米爲檄告喩之卑彌呼」

日本語に訳してください。

381 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/10(木) 18:51:20
縄文人さん 下記へ雄略124歳を書き込んでおきました。

【1:764】日本書紀の年代を考える


382 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 19:30:12
>>380
難升米に拝仮せしめ、檄をつくりて之を告喩す。卑彌呼、以て死す。
「以て」は「以上のようなことがあって」という意味だろう。すなわち、
「告喩す」までは卑弥呼の生きている間の出来事。


383 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/10(木) 19:39:27
>>380
漢語を日本語に訳せるの?

384 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/10(木) 19:43:14
>日本語に訳してください。

無理です。
彼は虫流トンデモ読みしたことないので・・・
次有奴國 「次」と「有奴國」で離すとか言い出しますww

>>382
コピペ貼り付けてどうするwwww
こんなやつばっかかよw

385 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/10(木) 19:47:33
>>383
>漢語を日本語に訳せるの?

>>380でローガンさんから怒られてるじゃんw
昔は、河童氏がローガンさんに言ってたんだけど、立場が逆転したよねw



386 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 19:48:43
>>379
卑弥呼以死大作冢
・死を以て冢を作る
・既に死んだ 冢を作る
どちらが美しい文章か考えてみよう

387 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 19:53:04
>>383河童虫
>漢語を日本語に訳せるの?

先にきみ自身の回答を書いたら?
訳せる、訳せない、どっち?

388 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/10(木) 19:56:21
>>387
だから〜
訳せない て言ってるだろ
俺が代弁してやってるんだよ

389 :◆.L.MXSPOgc :2009/09/10(木) 19:58:18
>>357
檄告喩壹與ですよ。もし男王が倭王の時に張政が来たのなら、張政は檄告喩男王でしょう?
男王が失脚するのを待って壹與が倭王になって告喩した、というのはおかしいでしょう。
いつ男王が失脚するのかなど分かりませんからね、20年も50年も待ったりはしませんよ。

>>361
私は比定地も北九州説(筑紫九州説)では王道ですし、他も多くの人と意見を同じくする説ですよ。
一致するのは不思議なことではありません。


390 :◆.L.MXSPOgc :2009/09/10(木) 20:01:34
>>364
>>「冬夏食生菜」なんて書かれているので、冬を過ごした可能性はある。

冬に関する記述は、この「冬」の1文字のみしかありません。
そしてこの冬の文字は伝聞情報で十分に書ける程度のものです。
むしろ1年以上倭国で過ごしたというなら、冬に関する記述の無さをどう説明するのでしょう。


391 :サガミハラハラ:2009/09/10(木) 20:13:53
夏に生もの食って大丈夫なら冬は完璧に大丈夫と推測できます。
よって魏使は冬にいなくとも推測できるわけです。

392 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/10(木) 20:35:17
>>389
張政が来たとき卑弥呼は老齢であり弱っていたのでしょう。そのため、これまで魏との外交の担当者であった
難升米に黄幢を拝假し檄を為し告喩したのでしょう。ところが卑弥呼が死去し、男王が立ったために騒動が起
った。これでは張政は帰れません。倭国の体制を魏の役に立つようにするのが目的ですから。壹與が立てられ
て連合国内が治まり、狗奴国との紛争も収まったので帰国したのです。そのように読み取れます。

393 :ローガン:2009/09/10(木) 20:48:15
>>386
> 卑弥呼以死大作冢
> ・死を以て冢を作る
> ・既に死んだ 冢を作る
> どちらが美しい文章か考えてみよう

「死を以て」と読んだら、美しいと云うより 怖くない?
「卑弥呼は死を以て冢を作る」w

さておき、「もって」と読む際は下の語の意を受けんでしょう?
「もって」とした場合、用と同義ですよね。「怨是用希」論語 怨み是をもって稀なり。
上の語を受けています。

394 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/10(木) 20:54:54
>>380

馬鹿がいなくなったので


@「難升米は檄を作り、卑弥呼に告喩す。」
A「正始〇年卑弥呼死す」
B「卑弥呼の死後…」


こんな感じで無理矢理日本語の形にしてみました。

395 :どくだみ:2009/09/10(木) 20:57:25
>>379
ローガンさん、どうも。なんだか、久しぶりに昔の名前で出てみます。

「今権以死」と「今権已死」とは同義であるのですが、
むしろ、これは「以」を「すでに」と解する用例ではなく、
「已」を「もって」と解する用例ではないかと思います。

本文を読んでみると、
まず夫差や斉の閔公のように、軍事的成功をおさめた後に滅んだ例を挙げています。
そして、孫権も関羽を破ったあと慢心して、それを見た司馬懿が宏図大挙の策を建てた。
そして、「今権以死」です。司馬懿の策によって死んだと解したいところです。

「以」の本字は「已」と形がよく似ていて、本来は同じ字だったという説もあるようです。
だから「卑彌呼以死」が、本来は「卑彌呼已死」の書き誤りであった可能性はあり、
その場合「卑彌呼すでに死す」と読めるのですが、
「卑彌呼以死」を「すでに」と読むのは、躊躇を覚えます。
調べ尽くした訳ではないので、こうだと断言する自信はないですが、
「もって」と読みたいですね。


396 :ローガン:2009/09/10(木) 21:01:31
>>394
>日本語の形

では、「之」はその日本語の形の中ではなんと、読めば良いのでしょう?
又、後で来ます。

397 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 21:07:12
>>393 かなあ?前置詞としての「以」(用)なら、下の語をバンバン受けるよ。

陳子 以 時子之言 告 孟子(陳子、時子の言を以て孟子に告ぐ)

大医 以 王命 聚 之(大医、王命を以て之を聚む)

398 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/10(木) 21:10:47
あの馬鹿は、こう言う内容になると絶対に参加してこないと言う法則。

399 ::2009/09/10(木) 21:13:17
どくだみさん
お久しぶりです

あの人は貴方だったのかな...まあいいとして

>>394はわたしに言ってるのかな?
魏志倭人伝(紹熙本のほうね)というのは
数えたら1995文字あるんですよ。
「其俗不知正歳四節但計春耕秋收為年」記事をあわせると
2012文字。
これをすべて一字一字、訳したことがあるのはこの中では
私だけだろう。

まずは、私と同じラインに立ってから
そのような「ノーガキ」は言いましょう!

400 ::2009/09/10(木) 21:16:56
>>398
貴方、ご自分で言ってるじゃないですか。
中国語と日本語は違う。
だから、そのように〜中国語的に文字を並べ替えても意味がない。
一字、一字、なんと書かれてるのかを調べ、
その意味を理解し、日本語に変えていくわけですよ。

文字を並べ替えても意味なし ww

401 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 21:18:09
あと、「爲檄告喩之。卑彌呼(以)死。」とあるのは、告喩と卑弥呼の死は無関係と取りたいところ。
もし、告喩のせいで死んだのなら、「爲檄告喩之。以卑彌呼死。」

402 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/10(木) 21:19:01
>>396

>では、「之」はその日本語の形の中ではなんと、読めば良いのでしょう?
又、後で来ます。

指示代名詞だったら読む必要はないと思います。(これ)と読むなとは言ってませんよ

403 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 21:20:27
>>390
その文章の前に、「倭地温暖」というのも書かれている。
温暖という言葉は、夏に使うものか、それとも冬に使うものかと考えれば
やはり冬ではないかと思う。

洛陽にしろ、帯方郡にしろ冬はかなり冷え込むと思われるので、倭の地の
冬は温暖という言葉が出てきたのだろう。

404 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 21:23:55
238年に難升米が郡に着き、劉夏に付き添われて洛陽に12月に着いています。
(推測:帯方郡ー遼東半島ー三東半島に船で
三東半島から洛陽までは馬で。)直線距離+αで1500キロで6ヶ月要しています。
福岡から近畿までは500キロ。しかも船行。これを一月の行程は到底無理です。
(中略)

245年に難升米に黄幢を与えるため、郡に付託する詔を出します。
その6ヵ月後帯方郡に詔と黄幢が届きます。

247年、帯方郡は張政を派遣して難升米に詔、黄幢を与え、檄を告諭。(伊都国にいた可能性あり)
その二ヵ月後邪馬台国に到着。その時、卑弥呼は既に死去していた。
そこで、王の壹與に檄を告諭。

そういう流れだと思います。

405 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 21:24:18
>>401
>「爲檄告喩之。以卑彌呼死。」

これだったら、「檄を爲りて之を告喩す。卑彌呼の死を以て〜」
あるいは「卑彌呼死するを以て〜」になりますよ。
告喩のせいで死んだのなら、「卑彌呼以死」の語順でないと変です。

406 ::2009/09/10(木) 21:25:51
>指示代名詞だったら読む必要はないと思います。(これ)と読むなとは言ってませんよ

魏志倭人伝を訳したことが無いから
そんなトンチンカンなレスするんだよ


407 ::2009/09/10(木) 21:30:24
お前ら、頼むから〜もう少しレベルを上げてくれw

わたしが感じ悪く映ってるけど〜そうじゃなく
どいつも、マトモなことを言わないからだろ。

こうゆう場合、

>では、「之」はその日本語の形の中ではなんと、読めば良いのでしょう?
>又、後で来ます。

「ゆく」でいいと思います。 ローガンさん


408 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/10(木) 21:30:28
>>401

>告喩のせいで死んだのなら

告喩されても告喩が死の原因じゃなければそうはならないよ

409 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 21:34:56
>>405
そうかなあ?前文を受ける接続詞として見ることができるんでは?

410 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 21:38:18
>「ゆく」でいいと思います。

これ、絶対ないから。

411 ::2009/09/10(木) 21:42:40
うーん ゆくをつけるか?つけないでそんなかんじに聞こえる分にするか。

わたしは、「ゆく」を消して魏志倭人伝→日本語訳にした一人ですわw
たしかに・・・・w

412 ::2009/09/10(木) 21:45:56
でもね
ローガンさんの質問の場合は、
「(これ)と読むなとは言ってませんよ」よりも、 407のがいいか思います。」より

どくだみさん〜如何でしょう?


413 :どくだみ:2009/09/10(木) 21:53:04
>>412
改めさん、どうも。
> 「……難升米爲檄告喩之卑彌呼」
この句読の切り方が変ですから、「之」の読みようがないですね。
ローガンさんも、それが言いたくて、あえて質問してるんだと思います。

414 ::2009/09/10(木) 21:57:21
>>413
では、どくだみさんが日本語訳をしたらどうなるんでしょうか?

……難升米爲檄告喩之卑彌呼

どうぞw

415 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 21:59:52
「爲檄告喩之」
檄を為し、これを告喩する。

これは、その前の卑弥呼と卑弥弓呼の不和、そして使者が互いに攻撃し合って
いる状態を説明したというのを受けたもので、攻撃を止めるように仲裁したと
解釈するのが普通では?

416 ::2009/09/10(木) 22:01:42
>>413 どくだみ くん

わたしから先手いきましょうか?W


417 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 22:06:45
横からだけど、普通に読めばダメですかね。

「遣塞曹エン史張政等因齎詔書黄幢拝仮難升米爲檄告喩之」

塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくり
て(これ)を告喩す。

「之」は普通に考えれば、卑弥呼では?

418 :どくだみ:2009/09/10(木) 22:10:18
>>415
むしろ詔書・黄幢をやって、後ろ盾になってやるから平定しろとけしかけたのではないかな。
それで戦いが激しくなって卑彌呼は死んだと。

>>414
難升米に拜假し、檄を爲り、これを告喩した。卑彌呼は、それで死んだ。

>>417
之は難升米ではないですかね。

419 ::2009/09/10(木) 22:13:52
>>418
>難升米に拜假し、檄を爲り、これを告喩した。卑彌呼は、それで死んだ。

意味分かりません。
もしかして、河童さんみたいに、
お笑い系を目指すようになったのでしょうか?W





420 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 22:16:21
>>393
>「卑弥呼は死を以て冢を作る」w
あなたは思ってたより賢くないですな
卑弥呼の死を以て冢を作る
日本語訳も美しさを心がけましょう

ところで、
難升米爲檄告喩之
卑弥呼以死大作冢
この2行の間には大分余白が空いてるんだが、繋げて読む必要があるんだろうか
所謂写し間違いってヤツなんだろうか

421 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 22:18:41
檄をつくりて(之)を告喩す。
「之」は単純に日本語だけで考えれば難升米みたいに思えるけど、人間を指すのに「之」
はないだろう。ということで、415氏の解釈が正しいと思うね。

422 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 22:20:18
檄:人をよびよせる文章 敵を攻撃したり自分の主張を述べたりして宣伝する文章
ふれぶみ 敵の悪い点を書き自分の正しさをおおぜいの人に知らせる文書

仲裁は全く逆です。

423 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 22:25:27
>>422
「争ってはならぬ」という文書。これも張政の主張を述べて宣伝する文書だよ。
戦いを煽る文書ばかりが檄ではない。

424 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 22:26:29
>>423
檄が仲裁とは・・・・。あきれる。

425 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 22:27:31
>>422
単純に辞書を引くと、「檄」の意味は、

1 古代中国で、召集または説諭の文書。木札を用いたという。
めしぶみ。さとしぶみ。

2 自分の考えや主張を述べて大衆に行動を促す文書。檄文。ふれぶみ。

励ますような意味で用いるのは、後世の誤用となっている。

426 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 22:29:33
なんの為の黄幢かわからない。
戦いをするための黄幢じゃないですか。

最終的には黄幢を以って敵をひるませ、勝利して戦争は終結するかもしれませんが。

427 ::2009/09/10(木) 22:33:29
>>418 どくだみくん〜

もういちど、ご自分の書いたレスを読みなおしてみな。
まるで、小学生の感想文を聞いてるようだから〜WWWWWW

河童くん〜どうやら、仲間が増えたようだね、よかった、よかったW


428 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 22:35:40
黄幢の故事=錦の御旗だよ。正統はこちらにありという。皮肉な例えだが、この時代は中国
の正式な冊封が正統とされたのかね。

429 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 22:35:51
>>426
天子の支持があることを示しているんだよ。戦えといっているわけではない。

430 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 22:37:33
>>426
卑弥呼は援軍を求めたともいわれる。王頎は洛陽におもむいて伺いを立てた。
でも、援軍は来ず、代わりに黄幢がやってきたということらしい。
つじつまが合うような合わないような…。

431 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 22:38:04
>>426
もう戦いは始まっているじゃないですか。
ここで仲裁するってどういうこと?
邪馬台国が勝たなきゃだめでしょ。

432 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 22:39:04
援軍を求めたなんてのは、間違った解釈だ。卑弥呼はそんなものを求めては
いない。

433 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 22:39:40
>>431
訂正>>429
それに檄には人を集めるという意味もあるんですよ。
兵を集めるってこと。

434 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 22:41:24
>>431
狗奴国との小競り合いと、第二次倭国の乱をごっちゃにしないこと。
倭国の乱は狗奴国との問題ではない。

435 :どくだみ:2009/09/10(木) 22:42:31
>>427
何が解らないのかが解らないw
改めさんの訳を書いてくれたら、わかるかもしれません。
彼の人と同じに扱われるのは、心外でありますw

>>421
「之」は人間も指しますよ。
論語・公冶長
「老者安之、朋友信之」

436 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 22:43:03
中国が、それほど辺境の蛮夷の事情に詳しいわけではないと思う。黄幢、詔書、檄文はいわ
ゆる、冊封国内の乱に対する形式的な手当だと思う。張政は困っただろが、うまくやったんで
ないかな。



437 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 22:43:29
>>433
そうゆう文章を書くこともあるだろう。しかし、この場合、そんなことを煽って
どうする? 戦ってはならぬといった文章のはずだ。

438 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 22:44:10
援軍を求めたんですよ。戦況報告に行ってますから。
それがなんで味方だけにもう戦いはやめなさいになるの?
仲裁するんだったら狗奴国と会って中に立たなきゃ。

439 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 22:46:38
>>434
第二次倭国乱はもう終わってます。

440 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 22:56:05
邪馬台国に戦いをやめなさいといったところで、
狗奴国は少しも通じない。
狗奴国は相変わらず戦いを挑んでくるはず。
それを仲裁文だけでやめさせられたら邪馬台国はどうしますか。
負けるしかないでしょう。
もっと普通に考えましょうよ。

441 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/10(木) 23:00:10
>>435

>彼の人と同じに扱われるのは、心外でありますw

それは宣戦布告でしょうか? 


442 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:09:42
>>438 >>440
戦況報告をしたからといって、直ちに援軍を求めたってことにはならんよ。
檄は邪馬台国に対するだけではない。それを狗奴国側にも知らせるんだよ。
邪馬台国側も狗奴国も魏に対する朝貢国だ。だから、魏の檄(仲裁)によって
戦いが静まるんだ。狗奴国に知らせなければ、魏の使者がきたって何の役にも
たたんよ。

443 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:13:09
>>441
>それは宣戦布告でしょうか? 

違います。単なる所感です。論戦しても無駄でしょう。

444 :どくだみ:2009/09/10(木) 23:14:08
>>443は、どくだみでした。

445 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:15:08
>>439
乱が終わったところで、「汝が中心となって国を平和に治めるように」てな
檄を与えるんだよ。それで臺与に権威がつき、国々が従う。

446 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/10(木) 23:15:14
ここは難升米が魏の名において卑弥呼に申し渡したの。「卑弥弓呼に手を引かせろ」と
卑弥呼は自分の監督責任の責めを・・・・
「天子を裏切るような形になって申し訳ないと」


447 :ローガン:2009/09/10(木) 23:15:34
>>395
うわあ。どくだみさん!おられたんですか。 お久しぶりです。
というか…先日、「方言」をご教授戴いたのも どくだみさん?

448 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/10(木) 23:16:54
>>443

私も昔からまどろっこしい論戦は嫌いですから

449 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 23:17:05
>>442
狗奴国が魏の朝貢くにとは初耳です。
あなたは、檄の意味がわかっていませんね。
励ますの意は後世の誤用だと言ったりしていますが、
檄は味方に檄を飛ばすから励ますので励ますの意になったんですよ。
もとはふれぶみで回状を回して敵の悪いところを書いて回る味方用の文です。


450 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:19:55
檄は確かに人集めの文章だと思うが、中国国内のように名を挙げるチャンスと考えて、無頼漢
(ある意味では蜀の劉備などもそう、中山靖王の末裔は自称)が集まるといったような体制が
当時の倭国にあるとは考えにくいな。だから、檄というのも冊封国に対する形式的な援助の一つ
だと思うけどね。実際は張政が軍事顧問のようなことをしたんでないのかな。

451 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:20:06
>>449
魏からすれば、邪馬台国も狗奴国も敵ではないんだよ。

452 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:21:30
>>447
どうも、お久しぶりです。方言は、私ではないですよ。
せっかく久しぶりなのですが、眼精疲労がやばくなったのでオチます。では。

改めさんは、自分の訳を書かないまま居なくなりましたね。
そのうち気が向いたら書いてみてください。

453 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 23:26:21
>>451
 狗奴国が朝貢しているなどとよくそんなでたらめが言えますね。
邪馬台国連合だけです。
邪馬台国が困っているのだから、助けるのは義理でしょう。
魏からすれば、敵国がどう戦っていようが自国の兵がなくなるわけではないのだから
どうでもいいんです。
だから戦え!味方になるからと檄を飛ばしているんですよ。
戦国の世にそんな生易しいこと言って仲裁だなどと考えるのはアホ。


454 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 23:28:48
>>450
史の意味わかっていますか?
文官で、武官ではありませんよ。


455 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:29:13
>>453
倭人伝は通交国は30国だと最初に書いているだろ。対馬国から狗奴国までで
30国だ。狗奴国を除くと、狗邪韓国を入れるとか、トンデモを主張するしか
なくなるんだよ。

456 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 23:34:14
>>455
もう貴方の相手しても無駄ということがわかりました。
最初から勉強しなおしましょうね。

457 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:35:27
>>454
あのねえ、史ではなく「エン史」で、もちろん文官だと思うよ。「エン史」は〜の長官というほど
の意味。塞はとりで、曹は役所で、その「エン史」だから、総務担当のような感じだと俺は考え
てる。しかし、参謀・軍師のような役割をしても不都合はないだろ。張政にとっては人生の非常
事態なんだからな。

エン史= 郡国に置かれた各部曲の長官。通常部曲名を冠して―掾と呼ばれる

458 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:37:31
>>456
その言葉はそのまま返すよ。

459 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 23:38:26
>>457
>参謀・軍師のような役割をしても不都合はないだろ

いえ、さっさと用をすませて帰ります。



460 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 23:40:15
>>458
貴方からいわれたくは無いですね。


461 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:41:01
>>459
「張政等」が何人か知らないけど、檄を読んで終わりということはないよ。なんとしても事態を
収めなくてはね。

462 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:43:04
>>460
辻褄が合わなくなったから逃げ出すんだろ。説明できる理屈を考えたら
また来なさい。

463 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 23:43:17
>>461
いえ、そんな義務はありません。
だれが命を倭国のためにかけますか。
用だけ済ませてさっさと帰ります。

464 :ローガン:2009/09/10(木) 23:48:23
>>452
どくだみさん。お大事に。私も老眼が少し進みました。(笑)
又、勝手に声掛けますが気が向けば色々教えて下さい。 「呉音氏」は詳しい方でしたのでてっきりあなたかと…
お二方に失礼しました。

465 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:49:52
>>463
だから、倭国のために賭けるんじゃないよ。黄幢、詔書を与えた以上、負け戦は魏の権威を
落とすことになる。まあ、張政で収拾できないような事態なら援軍を呼んだだろうが(そうなれば
倭国に他国軍隊が入るという史上例のない事態になってた。米進駐軍とか言うなよ。ww)しかし
そうは書いてないんで、張政が立ち回って邪馬台国が勝利したんだろ。


466 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:55:00
お前ら喧嘩はよせ
こうなったのもすべて河童虫がここで書き込みしていることが原因だ。
ここが平和になるには河童虫を追い出す以外方法はない。
立ち上がろう。立ち上がろう。河童虫を追い出すのだ。河童虫を追い出すのだ。
あいつは邪馬台国の疫病神だ。あいつは邪馬台国の疫病神だ

河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。

スレ住人全員の総意だ。二度とここに投稿するな。

河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
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スレ住人全員の総意だ。二度とここに投稿するな。

お前は隔離スレで一人さびしくオナレスしてろ
ここには二度と来るんじゃない。

河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
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河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。

スレ住人全員の総意だ。二度とここに投稿するな。スレ住人全員の総意だ出て行け



467 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 23:57:09
立ち上がろう。立ち上がろう。河童虫を追い出すのだ。河童虫を追い出すのだ。
あいつは邪馬台国の疫病神だ。あいつは邪馬台国の疫病神だ

河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
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お前は隔離スレで一人さびしくオナレスしてろ
ここには二度と来るんじゃない。

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468 :日本@名無史さん :2009/09/10(木) 23:58:03
>>465
魏の権威を落とすことにはならないですよ。考えすぎ。
倭国は未開の国だし、絶縁の国で大陸では殆ど眼中にないというか知らないでしょ。
ではおやすみ。


469 :ローガン:2009/09/10(木) 23:59:47
黄色い旗をやるから お前らガンバレ… ってそんな事 変じゃない?


470 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 00:00:02
立ち上がろう。立ち上がろう。河童虫を追い出すのだ。河童虫を追い出すのだ。
あいつは邪馬台国の疫病神だ。あいつは邪馬台国の疫病神だ

河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
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河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
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スレ住人全員の総意だ。二度とここに投稿するな。

お前は隔離スレで一人さびしくオナレスしてろ
ここには二度と来るんじゃない。

河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
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471 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 00:05:32
>>311
卑弥呼の死が、張政の来る前(すでに死す)だろうが、後(もって死す)だろうが、張政は
「齎詔書、黄幢,拜假難升米為檄告喩之」して、
「更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與」のあと、
「以檄告喩壹與」してから帰ったのだから、
結局、滞在期間が長かったのに同意です。

472 :縦目仮面:2009/09/11(金) 00:09:49
>>468
しかしこいつも負けず嫌いなやつだね。張政には郡内の立場もあるし、簡単に、ダメでした
ですむもんではないと思うがね。公孫氏討伐ー卑弥呼朝貢はある意味セットで司馬懿の
功績になってると思うし、それがすぐ内乱で負けてなくなりましたというわけにもいくまいと思
うんだが・・・ま、そこまでもいえんかな。

それにしても、「河童出て行け攻撃」は何かの冗談でないとしたら凄いな。

473 ::2009/09/11(金) 00:16:02
うわっ 荒れてるWWW

>>496
>黄色い旗をやるから お前らガンバレ… ってそんな事 変じゃない?

それが事実スよ WW

>>471
卑彌呼が亡くなったのはかなり昔です(張政が来た時にはすでに・・・)
そして、壹與もお年寄りの可能性あり。


474 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 00:16:42
>>455
「今使訳所通三十國」だから、
狗奴国も朝貢していた、としてもおかしくないですね。
また初めて気付いたな。

475 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 00:27:41
メははしゃぎ過ぎ。なんか吸ってんじゃないか?

476 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 00:28:03
>>474
案外、誰が倭王として冊封されるかで確執があったのかもしれんよ。


477 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 00:28:31
黄色い旗は河童虫に向けろ。文を回し人を集めろ。河童虫が現れたら石投げろ

立ち上がろう。立ち上がろう。河童虫を追い出すのだ。河童虫を追い出すのだ。
あいつは邪馬台国の疫病神だ。あいつは邪馬台国の疫病神だ

河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。

スレ住人全員の総意だ。二度とここに投稿するな。

河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。

スレ住人全員の総意だ。二度とここに投稿するな。

お前は隔離スレで一人さびしくオナレスしてろ
ここには二度と来るんじゃない。

河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。

スレ住人全員の総意だ。二度とここに投稿するな。スレ住人全員の総意だ出て行け
皆の願いだ河童虫は出て行け。黄色い旗が見えないのか?

478 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/11(金) 00:32:46
>>477
流石にここまで人気があるとは思わなかった  くわばらくわばら
寝よう。

479 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 00:36:52
>>472
縦目さんはどうして最近名無史で書いてるの?

480 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 00:36:57
河童虫が現れたぞー
河童虫が現れたぞー
河童虫が現れたぞー
皆で石ぶつけてやれ
皆で石ぶつけてやれ
出て行け出て行けそして二度と来るな
住人全員の声が聞こえないのか?

481 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/11(金) 00:43:30
>>476  そんなこともあったかも。
邪馬壹国の指導力低下が狗奴国との争いを生み出したのではないか。倭国の結束が乱れてきたので狗奴国が刃向かうように
なった。このような状況下では、各国のボス達のうち権力欲の強い者なら邪馬壹国に取って代わって冊封を受けて倭国の中
心的地位を得たいと思うだろう。実際にあったかどうかはわからんけど。

482 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 00:50:58
>>404
目のつけどころがスゴイですね。

この時代の一月の行程が250キロ。
不弥国から邪馬台国まで、水行二十日と十日、陸行一月
と一致しますね。


483 :縦目仮面:2009/09/11(金) 00:51:08
>>479
あらら、まあ倭人伝についての議論は、考古学関係と違って根拠は出せないし・・・コテだと
つっかかってくる人が少ないから。

484 ::2009/09/11(金) 00:54:15
>>482
>目のつけどころがスゴイですね。

>>404が言ってるようなことは,
邪馬台国関連の本読んでたらたまに見かける。

ちゃんと本読めよ としかいえんW


485 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/11(金) 01:00:48
張政が漢の劉邦の軍師だった張良の縁戚者だったら面白いな。張政が文官でも軍師的な働きが出来たかも知れないし、
それより、やっぱ、政略的な仕事が任務だったと思うな。ローガン氏も寝たし、こっちも寝るとするか。

486 ::2009/09/11(金) 01:03:01
縦目仮面さん 剣道部なんで
みな、怖がってるんじゃねーの?W

487 :九州王朝大好き:2009/09/11(金) 01:10:09
>>471
張政の在倭期間は248年から265年の18年間
張政の来倭は248年(正始元年)、その時卑彌呼は病床にありその直後死す。
張政の帰朝は265年(泰始初)、それは魏朝が晉朝に変わった為。
張政の身を按じた壹與は、張政を既に滅亡した本国魏に送る。
その20人の一行が晉書に書かれている朝貢団。


488 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 01:20:17
>>485
関係ないから心配すんな

489 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 01:21:00
>>487
それも一つの考え。しかし、張政の帰朝を265年(泰始初)とする確証はない。
張政は壹與の就任後まもなく帰国、壹與は265にまた朝貢したとも考えられる。

490 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 01:36:18
>>348
当時は中国貿易が国家経営の支柱だったと思う。
正規のルートを維持するのは最重要政策だったろう。

伊都国は戸数が少ないんだよな。
正規ルートが福岡なら確かにすんなりするのに。

491 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 01:42:11
梁書には、
復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命

台与の後に、男王が立ち、中国の爵命を並び受く。と書かれている。

仮に、張政が西暦265年まで倭にいたとすれば、男王がすでに立っているはず。
しかし、倭人伝にはそのようなことは書かれていない。
張政が倭を離れる時までに、男王の存在は示されていない。

したがって、張政が西暦265年あたりまでいたとは考えられない。

492 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 01:48:21
>>338
畿内説なら出雲から山越えて行くより
瀬戸内海通るほうが楽なんだろ。

493 :九州王朝大好き:2009/09/11(金) 01:56:10
>>489
献上が男女生口三十人と
貢が白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹であるのは、
衰退し滅亡直前の魏朝に対するものとしては大きすぎる。
新興晉朝に対してのものと考えるべき。
上記が265年(泰始初)とする確証である。

494 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 02:10:50
>>327
正直言って、薩摩、都城、というのは
まったく想定したことがありませんでした。
というのは、其余傍国が次有、次有ですから。
熊本だと北になりますね…。

495 :九州王朝大好き:2009/09/11(金) 02:38:47
>>491

臺與(壹與)の後に、又(複)男が立つと書いてあります。

魏書の男王→卑彌呼→更に男王→臺與(壹與)→又(復)の男王→倭王賛(413年)

晉書と合わせ読むと、壹與は266年以降に退位したと読めます。

496 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 02:50:22
>>493
>衰退し滅亡直前の魏朝に対するものとしては大きすぎる

確かにそのように考えられます。しかし、
倭王の後援者は魏朝ではなく、司馬氏政権だったのではないでしょうか。
であれば「白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹」の貢でも
おかしくはないように思います。

というのは、分不相応な親魏倭王が授けられたのは
公孫氏を滅ぼし、皇帝の威光を東夷にまで広めた司馬懿を
持ち上げるためだった、という論に説得力を覚えるからです。

497 :九州王朝大好き:2009/09/11(金) 03:03:16
修正
×倭王賛(413年)
○倭王賛(東晉安帝時497年〜408年)

498 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 06:13:43
●邪馬台国時代の倭の習俗と社会

男はみな入れ墨する。もぐって魚・貝をとるときに大魚や海獣の害をさけるためだったが、のちに飾りになった。
この国は、会稽郡東冶県の東にあたるらしい。男子は中国のように冠をつけず、みずらを結い、布をかぶっている。
体には横長の布をまきつけている。女子は髪をたばねて、単衣の布の中央に穴をあけ、そこから頭をだして着ている。

稲・麻を植え、カイコをやしない、絹糸をつむいでいる。ここには牛、馬、トラ、ヒョウ、ヒツジ、カササギがいない。
矛(ほこ)・楯・木弓を武器とし、竹の矢は鉄か骨の鏃(やじり)である。  
気候は温暖で、年中生野菜を食べ、裸足(はだし)で生活している。まるでおしろいのように、朱を体にぬっている。
飲食には高坏(たかつき)をつかい、手づかみで食べる。棺はつくるが外箱はなく、地面にうめて上に塚をきずく。

人が死ぬと10余日は喪に服して肉を食べず、喪主は号泣し、ほかの人は歌舞・飲酒する。
埋葬がおわると家族みんなで水浴びにいく。

倭人が中国などにわたるときは、持衰という男が髪もとかさずシラミもとらず、衣服もあらわず、肉を食べず、女も
近づけないで、ひたすら謹慎している。
もし航海がうまくいけば褒美をあたえられるが、一行が病気や損害をうければ殺された。

物事の初めや往来には、焼いた骨にはいったひびをみて吉凶を占う。
人はみな酒好きで、100歳や80〜90歳くらいまで長生きする人が多い。
支配層はみな4〜5人、一般人でも2〜3人の妻をもつが、女子はみだらでなく、嫉妬(しっと)しないし、盗みなどもしないので訴えごとが少ない。

支配層の者にあうと一般人は道をゆずって草むらにはいり、命令をつたえるときは一般人はひざまずいて両手を
つき、承知したら「あい」という。

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/himiko.html


499 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 09:46:15
>>494
次有とあっても、最初の斯馬国の次有は女王国以北の次にあるということでしょう。
そして、次有が続くのは、北から南へとか使者が諸国名を聞き取った場所(邪馬台国)
からみて近くから遠くとか何か順序を考えて書いているのかとは思いますが、旁国が
すべて邪馬台国よりも南だという趣旨ではないと思います。だいたい、旁国というのは
旁らにある国、すなわち投馬国、邪馬台国の周辺の国という意味です。
その旁国のすべてが南に偏在するというのは不自然。使者は旁国は訪ねていないわけで
その道里すら記載できないのですから、旁国は邪馬台国等の北にもあったと考えます。

500 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/11(金) 10:15:34
>>499

「旁」に周辺と言う意味はや表現はありません。

この文字は、文字に「方」が組み込まれ構成されているように、
旁と表現するところから一方向と言う内容が含まれ、決して周りを表すわけではありません。


★「旁」=旁と表現する所を基とし、一方向に隣の隣

501 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/11(金) 10:40:41
「其餘旁國遠絶」の「旁」は、
この場合「旁」と表現する基は、「自女王國以北」と書いてあるので
女王國の基である女王の都となり、女王の都から北(一方向)に、隣の地域の更に北にある隣の地域となります。

これが「旁國」

502 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 10:55:48
>>500
河童語はどうか知らんが、私の辞書には、「かたわら、わき、そば」と
載ってるよ。一方向なんて意味は載ってないな。

>>501
人間に分かるように書いてくれ。

503 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/11(金) 10:59:40
>>502

「かたわら、かた、わき」などは、日本語の表現であって意味ではない。


どんな教育うけてきたんだよ?まったく。

504 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/11(金) 11:13:05
>>502
>人間にわかるように書いてくれ。


その必要性なし。
自分でわかるまで努力あれ、努力が嫌なら逝ってよし。
国家負担がその分無くなるから。

505 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 11:53:03
>>502
河童は人間じゃないから無理です。

506 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 11:55:04
>>503
ほう、日本語で何を表現するんだい?

507 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/11(金) 12:02:48
今日は二百二十日なのに天気良好
大分稲もかわいたので
残りの田んぼでも片付けるか

508 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/11(金) 12:10:42
>>503
内なる感情

509 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 12:54:42
>>508
自分のレスにアンカーつけて「内なる感情」とは全くの引きこもりだな。
安定剤でも飲んで寝な。

510 :ローガン:2009/09/11(金) 14:53:23
見落としてました。
>>397
>前置詞としての「以」(用)なら、下の語をバンバン受けるよ。
> 陳子 以 時子之言 告 孟子(陳子、時子の言を以て孟子に告ぐ)
> 大医 以 王命 聚 之(大医、王命を以て之を聚む)

その用例では、以の後の語を名詞だから「陳子は〜告ぐ」
「大医は〜聚む」になるのではないですか?
その用例の以と「卑弥呼以死大作冢」の以が同じなら、「卑弥呼は〜作る」になるでしょ?


511 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 15:15:38
まだ言ってるよ…

512 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/11(金) 16:05:28
(時子→陳子)「以」(陳子→孟子)


(時子の言葉)「以」(時子の言葉を借りた陳子の言葉)

「以」は区切り

513 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/11(金) 16:23:36
陳子以時子之言=用いる


卑弥呼以死=これより、ここから

514 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 16:53:47
>>510
基本的に同じだと思いますがね。「卑弥呼以死大作冢」の場合、「卑弥呼以死。」と句点で
くくるという考え方は漢文では意味がないと思います。どうしても後の文との関連が出てくる
んでは?だから「卑弥呼の死を以て、大いに冢を作る」というニュアンスなんですよ。

「以」の前置詞用法というのは、一般的に、
「以 徳 報 怨」・・・徳を以て、怨みに報いる。
「報 怨 以 徳」・・・怨みに報いるに、徳を以てす。のどちらの形でも述語構造が必要です。
つまり、後の部分にかかるということです。


515 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/11(金) 17:01:02
難升米檄を作り卑弥呼に告喩し、奴婢百餘人を死に追いやる。
卑弥呼は責任をとり死して、奴婢とともに冢をつくる。

516 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/11(金) 17:10:21
>>510  
張政は伊都国(あるいは末盧国)においてとりあえず難升米に魏帝の詔書と黄幢を授け、檄(魏の意向や魏の
使節が来た目的や人々はどうすべきか等を板に記した回文)を作成しその内容、意義を教え諭した。難升米は
黄をかざし檄を見せながら奴国、不彌国、投馬国、邪馬壹国の要人や人民に説明し、呼びかけながら張政等を
導く。かくするうちに卑弥呼が没した。大きな墓を作った。張政等が卑弥呼に会ったかどうかは分らないが、
面会の記述がないので会っていないのだろう。

517 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/11(金) 17:37:27
>>516

それじゃ卑弥呼の死に至る経緯がわからない。

518 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/11(金) 17:40:07
今年はやっぱり八俵だわ
天気悪かったからな〜

519 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/11(金) 17:47:24
>「卑弥呼以死大作冢」
卑弥呼の死を以て大きな塚を作る

卑弥呼の死亡後に塚を作り始めるから、何年もかかる大きな塚ではない。


520 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 17:47:49
檄文って、張政のような下っ端役人が作成できるのですか?

521 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/11(金) 17:52:09
>>517
卑弥呼の死は老衰と心労によるものでしょう。
今年はたしかに作物にとっては悪い天気だった。もう要らないというのに降って、欲しいのに降らない。
八俵もとれれば私だと10年は食いつなげる。

522 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/11(金) 17:57:41
>>520
できますよ。皇帝の詔書だって役人が書きます。皇帝の命を受けた使節ですからその命に沿うものであれば
檄でも作れます。

523 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/11(金) 18:05:46
>>519
同意。
しかも、男王が立って争乱が起るような倭国内の状況である。直径150mもある墓が作れるわけがない。

524 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 18:51:54
で、九州説は独自に卑弥呼の墓を示せないので(サガミ以外)、話はいつもここで止まる。
縄文人は過去ログ読んだほうがよくね?

525 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 18:55:43
「大」も「大いに」と「大きな」と二通り説があるが、
具体的に寸法を書いてあるのだから、大きなという形容詞では不自然かな。
しかし、倭人伝原理主義者と思っていた縄文人が倭人伝の記述を否定するとは。

526 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/11(金) 19:09:21
>>524
畿内説でも 卑弥呼の墓は示せていない。

>具体的に寸法を書いてあるのだから、
この寸法は、陵の大きさでなく、その周りに埋めた奴卑より外側を歩測したんだろう。


527 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 20:18:18
>>519
死後に作られたとは誰も思ってないよ
しかも、箸墓=卑弥呼であるならば
それは墳墓以外の目的で当初に作られた可能性も指摘されている
であるならば、その大きさがモモソヒメの権力を示すものではなかった可能性も出てくる

528 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/11(金) 20:30:21
モモソ媛の箸墓は、おおさか山の山石で葺かれていなければ成らないが
現在の箸墓は、河原石で葺かれている。



529 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 21:04:58
>>528
おおさか山=芝山は大和川のすぐ横だよ、別に河原石でも矛盾しないから。

530 :縦目仮面:2009/09/11(金) 21:24:30
箸墓古墳の周濠から出土した板状の石には朱が付着することから、石室の石とも推測される。
この石は大阪府柏原市、芝山の石であると確認されており、確かに崇神紀の二上山の石では
ないが、芝山は奈良から大坂に通ずる「おおさか」とよばれた地域の近くであり、芝山が古くに大
坂山と呼ばれていたとしても不思議はないと考えられるけどね。

531 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 21:28:27
今日も懲りずにうろちょろしているな

河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。

スレ住人全員の総意だ。二度とここに投稿するな。

河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。

スレ住人全員の総意だ。二度とここに投稿するな。

お前は隔離スレで一人さびしくオナレスしてろ
ここには二度と来るんじゃない。

河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。

スレ住人全員の総意だ。二度とここに投稿するな。スレ住人全員の総意だ出て行け



532 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/11(金) 21:38:37
>>524
大は副詞。ゆえに大いに。516には径百余歩以下も含めて簡略化して書いたのであ〜る。

533 :縦目仮面:2009/09/11(金) 21:42:09
あと、526の >その周りに埋めた奴卑より外側を歩測したんだろう。
についても、明確な徇葬例は日本では考古学的には確認されてはいない。ま、疑わしい例
がないわけではないが。にしても、卑弥呼の墓の周りを囲むように奴卑を埋めたなどとどう
して言えるもんですかね。

例えば中国殷代の徇葬例を見ても、その方法は当時の宗教思想と抜きがたく結びついてい
る。仮に倭人伝の時代に日本に徇葬例があったとしても、卑弥呼の鬼道の実態を理解しない
まま、軽々に述べることなどできませんよ。






534 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/11(金) 21:43:56
>>527 死後に作られたとは誰も思ってないよ
私は思っているよ。ここでは唐松山さんと私の、少なくとも2人はいるよ。


535 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/11(金) 21:48:55
新羅の徇葬禁止令は、500年頃だされる。


536 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/11(金) 21:54:22
>>533
殉葬でなくて徇葬となっていることについても一応検討すべきであろう。

537 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/11(金) 21:57:54
>墓の周りを囲むように奴卑を埋めたなどとどうして言えるもんですかね。

古墳の発掘は、その山しか調べていない、だから徇葬が確認出来ない。
まあ 周りの確認が出来ていないというか…


538 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/11(金) 22:06:28
「徇」の字を使ったのは、筍(たけのこ)のような状態?
殉職では無い。


539 :縦目仮面:2009/09/11(金) 22:08:44
殷代の徇葬例でも、他民族あるいは奴隷を後ろ手に縛って首を切り落とし、無造作に坑に
投げ込んだものもあれば、麗々しく着飾って馬車を御した状態で埋められた、本人にとって
は名誉?の徇葬とも考えられるもの。また、建築物を築く際の段階に従って(基壇ができたら
犬と人を埋めるなど)極めて儀式的に行われているものもあり、とても一筋縄でいくものでは
ありませんね。

540 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/11(金) 22:14:09
>>533
>卑弥呼の墓の周りを囲むように奴卑を埋めたなどとどう
>して言えるもんですかね。

自分で「ま、疑わしい例がないわけではないが。」て言ってるジャン
そのまぎらさしい例では、そうなってるんだよ。

>卑弥呼の鬼道の実態を理解しない まま、軽々に述べることなどできませんよ。

日本の昔の巫女さんていうのはシャーマンだろう言われてるんだよね。
そのシャーマンという実態はよく知らないんだが、吉野ヶ里遺跡で検索してみなよ。

>>537-538
殉葬です。
「殉」、「徇」と字が違うといって、他にどんな埋葬方法が何が考えられる?

541 :縦目仮面:2009/09/11(金) 22:19:42
あと、徇は、「めぐる」という意味も確かにありますが、「目的のために身を捨てる」という意味
もあり、・・・「たけのこ」は違う気がしますが・・・これは河童さんの領域かな。

>>540 シャーマンについてこの間教えたじゃないですか。改めさんが泡を吹いて「俺にマイ
ケル・ジャクソンの霊が降りた。死の真相を語りたい。」とかいえば、もうそれでシャーマニズ
ムですよ。だから、何の霊(神)が憑依するかが重要だと思いますけどね。


542 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/11(金) 22:22:29
んー
それってシャーマニズムじゃん
シャーマンだよシャーマン 吉野ヶ里で検索してください

543 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/11(金) 22:28:48
>>540
それは、垂仁が徇死を禁止した条項を読めば推察できる。
泣いて叫いて死んでいった死体を犬鶏がはむ。


544 :縦目仮面:2009/09/11(金) 22:39:05
野見宿禰が埴輪の制を提言したところですね。ここから、宿禰は土師氏の祖とされる。面白い
説があって、葬送儀礼の一環としての古墳の築営に際して、様々な条件を吟味した上での適当
な地の選定ということが考えられ、「野」の中から墳丘を築くべき地を「見」定めることから「野見」
という称が考案されたのではないか、というものです。

考古学的には、墳丘上に多数坑のあいた跡でも見つかればいいんでしょうけど・・・。

545 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/11(金) 22:52:49
>墳丘上に多数坑のあいた跡でも見つかればいいんでしょうけど・・・。

これはあり得ない。
これだと墳墓に主人を埋めた後に行う作業となってしまう
古墳は主人を墳墓に埋め穴を埋める。この段階を最終章としないと、
殉葬の後で石を葺くはめになる。
腐乱死体の面前で祭祀を行いたいか?


546 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 22:58:22
殉死に代わるものとして埴輪が生まれたということなのだが、実際問題として
埴輪のある古墳には殉葬がないと考えてもいいものなのかな。
逆に言えば、埴輪のない古墳には殉死があるということなのかな。

547 :縦目仮面:2009/09/11(金) 23:03:47
>>545
??>死体を犬鶏がはむ というのは極めて浅く埋められたということではないんですか?

それに、俺は基本的に殉葬は一般的には行われなかったと思ってますがね。

548 :縦目仮面:2009/09/11(金) 23:11:24
中国では、「史記」秦本紀に「従(殉)死を止む」の記事があり、これが前4世紀頃かな。この
あたりから殉葬の制度は廃止されたようで、土で作った人や動物の人形が副葬されるように
なる。これを陶俑と呼ぶんですが、埴輪はこれの影響があったかもしれません。いずれ、発掘
調査された古墳も多いんで、殉葬が一般的な風習なら、とうに解明が進んでるはずですけどね。

549 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 23:17:59
しかし縦目も、真面目な時とふざけてる時の落差が大きいな。

550 :縦目仮面:2009/09/11(金) 23:22:56
すいませんね。ふざけてるときは大概オカルト板に並行して書いてるときです。ww


551 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 23:30:19
殉葬が風習としてあったかどうかは議論の余地が無い
瓶にも入れずにそのまんま土に埋めたんだろ
だったら骨も残らない

552 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/11(金) 23:36:54
>>551
骨も残ってないが同じ時期の縦穴が発見されています。

そして、弥生の骨が残ってるのは甕棺墓ばかり。

553 :ローガン:2009/09/11(金) 23:38:48
>>514
>どうしても後の文との関連が出てくる んでは?だから「卑弥呼の死を以て、大いに冢を作る」というニュアンスなんですよ。

ニュアンスと云う事なら、わかる気がします。しかし、貴方の提示された用例が「卑弥呼以死大作冢」と同じ用法だとすると、
「卑弥呼は死を以て大いに冢を作る(作った)」になるでしょ? 陳子も大医も主語ですね。「卑弥呼の死を以て」にはならないのでは?



554 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 23:44:19
>>552
なんで俺にレスしたの?
意味がわからん

555 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/11(金) 23:48:22
>>554
骨が出てないからといって
それは殉葬ではないという安易な考えはするな と忠告したんだよ。


556 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/11(金) 23:53:19
>>541
「徇」の解釈はこの用例を参考にされてはいかがでしょう。

「遂斬莊賈以徇三軍」=ついに莊賈の首を斬り、全軍に見せてまわった。

・・・・・司馬法 司馬穣苴列伝第四・・・・・

ここの「徇」は(となふ)

557 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 23:53:45
>>555
はぁ?
垂仁天皇が殉葬禁止してんだから、風習としてあったにきまってるだろ
そんなもん、100%確定事項なんだよ、大昔から

忠告?はぁ?
仮に殉葬が無かったという主張を俺がしたとしても何だよお前の高圧的な態度
死ねや

558 :縦目仮面:2009/09/12(土) 00:01:37
>>556
>ここの「徇」は(となふ)・・・見せしめにする、というような意味になるんですかね。

559 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 00:11:47
倭人伝の「ジュン」はケモノヘンでは無かったかな?

560 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/12(土) 00:13:06
>>558

>見せしめにする、というような意味になるんですかね。

はい。
「徇葬者」=みせしめに葬られる奴婢百餘人

難升米が檄を作りこれを告喩し、みせしめに奴婢百餘人が葬られる。

561 :ローガン:2009/09/12(土) 00:13:24
殉葬があったとしても、築造に長くかかる古墳にはないでしょう。
殯宮の周辺とすれば、遺構の発見は期待薄… それに埴輪誕生譚といっても、円筒埴輪では無いので前期古墳との関連を考える必要はないでしょう。

562 :どくだみ:2009/09/12(土) 00:13:50
ローガンさん
昨夜、春秋繁露の訳本を読んでいたら、「以」を「すでに」と訓じている例に出会いました。

「成者、本末質文皆以具矣」
「成るとは、本末質文、皆以(すで)に具(そな)はるなり」

()内の読みは、ルビとしてふられています。
書誌情報は、日原利国 著 中国古典新書 昭和52年

563 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/12(土) 00:16:53
>>561
日本書紀の殉葬記事は前方後円墳じゃないの?


564 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 00:26:48
倭人伝の場合は、他の書物と比べて異なる文字がけっこう多い。
邪馬壹国(邪馬臺国)もそうだし、一大国(一支国)や壹與(臺與)もそう。
狗奴国も後漢書では拘奴国となっている。
殉葬も狥葬となっている。

565 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/12(土) 00:27:58
>>553
卑弥呼が既に死んでいたなら既や已を使うのではないでしょうか。
卑弥呼以て死す。この場合、死の理由(経緯)は前に示された筈ですが、それは何か?気になります。

566 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 00:39:03
>>495
復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命

ここに書かれている「男王」は、台与と同じ時期に王であったと考えられる。
つまり、倭国には王が二人いた。それを「並受中國爵命」と表現していると
考えられる。

567 :ローガン:2009/09/12(土) 00:40:49
>>562
> 昨夜、春秋繁露の訳本を読んでいたら、「以」を「すでに」と訓じている例に出会いました。

良い情報ありがとうございます。しかし唐突に春秋繁露って… 嗅覚ですか?「ここにあるはず!」みたいな。
それともこの頃雨が降らないので何とかしようと…?

568 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/12(土) 00:41:06
>>559

>倭人伝の「ジュン」はケモノヘンでは無かったかな?

紹煕本、紹興本ともに影印は「徇」です。

569 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/12(土) 00:43:08
しかし、ここひと多いな
みなさん一緒に住んでるの?


570 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/12(土) 00:43:51
>>568
君もここの住人?w

571 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 00:46:41
『卑弥呼以死』

これを「卑弥呼以(も)って死す」としその前段部分に死に至った原因が書かれていたのでは?
・・・と言う意見も昔はあったらしく

松本清張あたりは狗奴国との争いが終結しないのは卑弥呼の霊力が落ちたからだとして
言わば詰め腹を切らされる形で”殺された”と言う説をとなえていたと思うが・・・

現在そのような見方は一般的にはされていないんじゃなかったかな?

前段部分のロストしてしまった文章を受けるでもなく
直後の「大作冢」との因果関係を説明するでもない。
(単に語調を整えるのは文法的に何詞になるのかな?)


・・・と解しているんだがそれじゃあこのスレ的には不味いのかな?wwwwwwwwwwwwwww

572 :どくだみ:2009/09/12(土) 00:47:42
徇の用例は(みせしめ)ばかりではないです。
魏書十九/陳思王植
?覽史籍,觀古忠臣義士,出一朝之命,以徇國家之難,身雖屠裂,而功銘著於鼎鍾,
名稱垂於竹帛,未嘗不拊心而歎息也.

命を差し出して、国家の難に「徇」。
身は屠られ裂かれても、功は鼎や鐘に銘記される。
この場合、見せしめではなく、国家の難に殉死することですね。

史記
「貪夫徇財,烈士徇名」(貪夫は財に徇い、烈士は名に徇う。)

「以身從物曰徇.」(身を以て物に従うを徇と曰う)


>>567
いやあ、雨乞いではないです。w
気が向いて手に取ったら、たまたま見つかりました。

573 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 00:50:25
河童の馬鹿がまた出鱈目言ってるぞ。絶対に信用するな。
>>556>>560>>569は全部出鱈目
皆で呪文を唱えよう

河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。

スレ住人全員の総意だ。二度とここに投稿するな。

河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。

スレ住人全員の総意だ。二度とここに投稿するな。

お前は隔離スレで一人さびしくオナレスしてろ
ここには二度と来るんじゃない。

河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。
河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。河童虫は出て行け。

スレ住人全員の総意だ。二度とここに投稿するな。スレ住人全員の総意だ出て行け



574 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/12(土) 00:51:28
河童くん お友達が来たようだよw

では、寝ょっとwww



575 :縦目仮面:2009/09/12(土) 00:53:14
>>567

今度は漢文ですか。以 というのは前置詞として用いる用法が多いんでしょうが、副詞として
もありますね。例えば、固以怪之・・・固よりすでに之を怪しむ とか。しかし特殊な場合です
よね。


576 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 00:54:12
>>573
隔離スレで「プラムは腹筋なし」って書いたのは君か?
「腹筋なし」ってどういう意味?気になるなあ。

577 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/12(土) 01:00:11
>>572
それだけではありません。

「王乃徇師而誓」=(めぐる) 王は軍を見回ってから誓った(書経)

「幼而徇斉」=(はやい) 幼い時から思慮がはやかった(史記)


578 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/12(土) 01:02:40
>>576

まだ三段に割れてるよ(学生時代から変化なし)

579 :縦目仮面:2009/09/12(土) 01:03:56
>>577
「見せしめ」というか、「衆目にさらす」というような意味と考えれば面白いかもしれませんね。
そう解釈できるかどうか、漢和辞典は持ってないのでわかりませんが。


580 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/12(土) 01:04:29
>>570

>君もここの住人?w

初期のころのスレ主です。

581 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 01:07:03
ここのスレ主は河童だったのか・・・




582 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 01:09:29
卑彌呼以死大作冢は、「卑弥呼の死を以って大いに冢を作る」が良いのかもね。
ただ、それでは、いつ死んだのかどうして死んだのかなどが全く書かれていないので
ちょっと不自然な印象を受けることは確か。

「卑弥呼以って死す、大いに冢を作る」という訳も多いが。
これなら、死んだ時期について推測可能となる。

583 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/12(土) 01:10:23
>>580

プラム時代。

584 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 01:11:51
アンカーミス
580は>>581

585 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 01:13:18
>>573
河童虫は出て行け

貴方が出て行って下さい



586 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 01:19:42
>>582
「以卑彌呼死」でないと「卑弥呼の死を以って大いに冢を作る」とは読めないから、
それはないですね。

「卑彌呼以て死す」なら、前の檄を作って云々と関連していると考えられます。

「卑彌呼すでに死す」なら、場面転換の意味じゃないかな。
映画とかだったら、「それから数年後」とかテロップが入る感じ。
檄云々の場面から時間が飛んで、
卑彌呼が死んだ後のことに話題が移ることを示す「すでに」。

どちらとも決めがたい。

587 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 01:23:00
>>481
>邪馬壹国に取って代わって冊封を受けて

狗奴国の目的がそうであれば、
そんなことは認めない、これまで通りにしなさいという、
魏の外交通達があれば争う意味がなくなりますね。
張政の仕事はそんなとこだと思います。

588 :ローガン:2009/09/12(土) 01:24:19
>>565
> 卑弥呼以て死す。この場合、死の理由(経緯)は前に示された筈ですが、それは何か?気になります。

だから、それは>>395でどくだみさんが書いた事。「以」(もって)と読めば、そこまでの内容を受けたものであると。
そう読んだとして卑弥呼が死に至る原因に該当しそうなのは当然、狗奴国との戦いですね。
戦いでの王の死は敗北でしょう。仮に、記述者の意図が「狗奴国との戦争により卑弥呼は死んだ。」とすると、
魏志を引いた後世史書にその旨の解釈…というか言及があっても良いように思いますが。
梁書がこの記事から正始年間の死とのみ捉えていると云う事は、「すでに」と読んだのではないかなあと思います。


589 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 01:28:56
>>586
すでに、という訳はないと思うけど。

「卑彌呼以死大作冢」については、「以死大作冢」だけ取り上げたほうが
わかりやすい。たとえば、「以心伝心」みたいな。
だから、「卑彌呼、以死大作冢」という区切りの方がいいのじゃないかと
思ったわけで。


590 :どくだみ:2009/09/12(土) 01:38:21
>>589
586は、私です。コテ入れ忘れてた。

>「卑彌呼、以死大作冢」

これだと、「卑彌呼が、誰かの死を以て大いに冢を作った」ということになります。
卑彌呼の後ろで句読を切ると、卑彌呼は前の文にも付けられないし、浮いてしまいます。

>すでに、という訳はないと思うけど。

私としては、「もって」の方に読みたいけれど、「すでに」は無いとも断言しがたいですね。
ただ、「すでに」であっても、「張政が来た時、すでに死んでいた」ではなくて、
586で書いたように、場面転換ではないかと考えています。

591 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 01:41:33
>>588
いつまでそんな箇所に拘泥してるのかね?
どうしても自分の説が正しいと認めさせたいのかね?
このスレで認められようが、それが正しいと決まるわけでもないのに

592 :縦目仮面:2009/09/12(土) 01:47:11
しかし、対狗奴国戦争の帰結について、倭人伝で全く触れられていないのは不自然と言え
ば不自然な気もしますが、その後の記述で邪馬台国が勝ったのは自明だということなんで
すかね。

593 :ローガン:2009/09/12(土) 01:47:57
>>591
それもそうですな。では この辺で。 寝るとしましょう。

594 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 01:57:51
>>592
>その後の記述で邪馬台国が勝ったのは自明だということなんですかね。

確かその昔、三朝交替説の一つに、結局、邪馬台国は狗奴国に滅ぼされ
その狗奴國の末裔が大和王朝であると言う説がなかったっけ?w

あとこの板の九州説には、つとに人気の無い(ストーリーテーラーとしての近親憎悪かな?w)
関裕二だと狗奴国=ヤマトでそこの壱与が邪馬台国の卑弥呼を殺したと…
で、冊封を受けた邪馬台国を滅ぼしたとは言えず壱与を卑弥呼の宗女と言う事で誤魔化したとかwww

まあ明確に書いて無いんだから、言った者勝ちだなwwwwwwwwwww


595 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 01:59:59
>>590
紛らわしい書き方をした陳寿が悪いんだろうけど…。

「以」には、大きく分けて二つの意味があると思う。
一つは「以上」とか「以後」とかいう場合。
これは「それより上」とか「それより後」とかいう意味になる。
では「以死」はどうなるかというと、「それより死」というのはありえない。

もう一つは、「以って」という訳し方。
「以心伝心」の場合は、「心を以って心を伝える」となる。
「以死大作冢」もそういう風に訳すとうまくいくので、この使い方の方が
正しいと思う。

確かに、「卑彌呼、以死大作冢」と区切れば、卑弥呼が浮いてしまうけど。

596 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 02:08:14
>>592
卑弥呼が死んだ後、台与が王になる。西暦266年だったか、晋に使者を送った
女王は台与だろうとされるから、その後も邪馬台国はちゃんと成立している。
ということは、狗奴国のその後の方が重要かも。

まあ、異論はあろうが、素戔鳴尊は、高天原を追放されて出雲に行ったことに
なっている。

597 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 02:13:06
箸墓=卑弥呼という前提だけど
死後に内乱が起きてるんだから死後に作られたとは考えにくいね
倭人伝にあるような規模の塚ならそうとは限らないけど
箸墓を念頭に考えるなら恐らく生前に出来ていたとするほうが自然
不思議なのは、同じくトヨも内乱を鎮めたのだから卑弥呼と同様の大きさの墓があって当然
はやく箸墓の全面的な発掘調査をしてもらいたい

598 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 02:30:22
>>592
>対狗奴国戦争の帰結

「齎詔書、黄幢,拜假難升米為檄告喩之」
して収まったのだと思います。

狗奴国も交易国家なのだから、魏が現体制を認めれば、
それにさからっては食っていけないでしょう。

599 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 06:59:21
>>597
大仙陵(伝仁徳)は大林組の2002年に公表した試算では、古代工法では
「15年8ヶ月」の歳月と延べ680万7000人、ピーク時1日2000人という
要員を要し、さらに、埴輪の製作や燃料の薪の採取、鍛冶、工具の製作な
ども他に必要であったとされている。
箸墓は300年±50年であり、仁徳陵(大仙陵)は450年前後のもの。規模は
大仙陵>箸墓であるが、約100年以上も前の工事であり、鉄鍬も豊富にあっ
たわけではない。それらを考慮すれば箸墓を造るのに相当な人員の動員が
あったのは事実であり、それができた権力者がすでにマキムク周辺に存在し
ていたのも事実である。三輪山麓西域のマキムクが単なる土地ではなかった
のも明らかです。九州に邪馬台国があっても、それはそれでもういいじゃない
ですか? 九州にあった邪馬台国は4世紀半ばには事実上の終焉を向かえて
いるんだから。(九州王朝説派の方には不満でしょうが・・)

600 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/12(土) 07:41:07
「治天下何々大王の世」

大阪大学の東野治之先生の言葉。
「治天下何々大王の世」という表現は、大王の在世中でなくて、
大王の世が終わったあとの表現ではないか?

船王後墓誌でも
「乎沙陁宮に天が下治めたまひし天皇の世に生まれ」の「天皇の世」というのは、
敏達天皇の世が終わってからの事です。

この読み方を可とすると、ワカタケル大王に使えたムリテが作らせたものですから‥

埼玉稲荷山鉄剣銘はいつ彫られたか?
この鉄剣銘の為、関東の古墳年代は、その他各地の古墳より、100年遅れて築造となっています。

601 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 07:57:55
結局のところ女王国連合とは北部の九州に限定された国々であって
3世紀後半に勢力が衰えた邪馬台国は畿内ヤマト大王家連合に粉砕さ
れたってことでしょ。畿内ヤマトも大陸との交易を望んでいたけど、
玄関口に位置していた邪馬台国やその一派が目障りで、遂に吉備国や
尾張国との支援を受けて、北部九州の30ケ国を配下にいれた。
その出来事は記紀では景行天皇や神宮皇后の巡幸で比喩的に表現され
ている。

602 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 08:05:29

>>599
>それができた権力者がすでにマキムク周辺に存在していたのも事実である。
なるほど。しかし、その権力者が九州にあった邪馬台国の傘下に入っていなかった
といえるかな? 邪馬台国が近畿へ派遣した東征軍の大将に対しては特に大きな墓
を造る許可を与えていたかも知れないよ。


603 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 08:18:11
>>601
>3世紀後半に勢力が衰えた邪馬台国は畿内ヤマト大王家連合に粉砕されたってことでしょ。
魏志倭人伝は、3世紀後半に書かれているんだよ。そのとき、邪馬台国が滅亡しているなら
魏代より後のこととはいえ、何らかの記述があるはずじゃないかな。

604 :縦目仮面:2009/09/12(土) 08:21:37
箸墓についても、大林組の試算がありますね。造営の作業のために動員された人数を、古
代工法で一日8時間、月25日作業したとすると、毎日五百人働いた場合は12年、毎日千人
働くとその半分の6年かかり、のべ170万人が必要、としている。

まあ、長いと考えるか短いと考えるかはなかなか微妙ですが、書紀の「昼は人が作り、夜は
神が作る」の記述からすれば、意外にトントンできていくという実感があったのかも。造築に
かかる人員は首長連合内から「庸」的に集めたと考えたい。纏向に多い各地からの搬入土器
の説明にもなるんでないかな。



605 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 09:04:15
30カ国というのは29カ国でも30カ国と普通にいいます。
もし、一国をいれるとすれば、帯方郡に近い狗邪韓国の方です。
倭の領域の北岸ですから。
朝鮮半島の南にも倭人が住んでいて、九州の北岸の倭人はここから渡ってきたので、
こっちが元です。
江南を逃れた倭人が海を沿岸伝いにたどり、遼東半島から楽浪湾、半島南部へと
たどり、九州北部沿岸にたどり着いたのです。
沿岸伝いの移動のほうが、安全な選択だからです。また尤も自然です。

606 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 09:13:16
>「庸」的に集めたと考えたい。
そのほかに、徴兵制度があったと考えるかな? それは余りにも過酷すぎるだろう。
となると、徴兵制度で集めた人たちに、墓造りをさせたと考えられないかな?

607 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 09:14:00
倭人の渡来ルートはまだあります。
台湾、沖縄を通って南九州から、四国、近畿、太平洋側への移動です。

608 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/12(土) 09:28:48
「時子因陳子而“以”告孟子」


時子は孟子に伝える→陳子を通し(どのように?)


「陳子“以”時子之言告孟子」

陳子は孟子に言う→時子の言葉を(誰の言葉を?)


★「難升米爲檄告喩之卑彌呼“以”死…徇葬者奴婢百餘人」

難升米は告喩し、みせしめに奴婢百餘人を葬る。→卑弥呼の死にて(何時?)

609 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/12(土) 10:38:33
「其始太医“以”王命聚之歳賦其二」


宮廷の侍医は王命によって蛇を集め、年二回献上した。

侍医は蛇を集めた→王命だから(何故?)

610 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 10:42:37
>>605
>狗邪韓国の方です。倭の領域の北岸ですから。
漢文では、都里鎮(旅順)は登州(山東半島)の北岸と書かれたりする。
倭の北岸狗邪韓国というのは、倭の北方の半島の岸に狗邪韓国があったというだけで、
倭の領域だということではない。

611 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 10:50:00
>>610
>漢文では、都里鎮(旅順)は登州(山東半島)の北岸と書かれたりする。

これの元の漢文を出してきてください。
前文も必ず付けてくださいね。抜粋だけですと意味が変わりますから。


其北岸と倭人伝にはありますし、其のは倭を指しますから、倭の領域です。
それに南韓に倭人がいたのは定説です。


612 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 10:58:06
ハワイにも、ロスにも、ニューヨークにも日本人はいる。
だからそれらは日本だといいの?

洛陽にも倭の人はいる
だから洛陽は倭だ!とでもいうのか?

613 :うましか:2009/09/12(土) 11:00:49
>>595

横から失礼します。

> 確かに、「卑彌呼、以死大作冢」と区切れば、卑弥呼が浮いてしまうけど。

ですよね。
なので、区切りは「卑彌呼以死、大作冢徑百餘歩、」でよろしいのでは?
「以」を「既に」と訓ずることに違和感が御ありなら、ここは単に「卑彌呼死せり」とかでも善いのではないでしょうか?
私などは漢文訓読に疎いので、それで納得してしまいます。

614 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 11:01:12
>>612
そういう話のレベルではありませんし。

615 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/12(土) 11:02:17
ヤフーの奴等はおれのレスはスルー?
腹立つな〜

>>612
んで、君はなにがいいたいんだい?

616 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/12(土) 11:04:27
>>613
見っけw

>>614
レベル低いこというな て言ってやれw


617 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 11:08:22
>>614
横からだが、そういったレベルじゃん。
対馬以降の詳細な記述と明らかに異なるし。

618 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/12(土) 11:11:07
口が悪くてスンマソーンwwwwwwwww

ていうか、
狗邪韓国というの「北岸」と記載されてるので和の領域です。
はい〜おしまいw



619 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 11:11:07
>>617
韓伝に「南は倭と接す」と書いてあるだろう。
ハワイに日本人が居ても、アメリカは日本と接すとは言わんだろう。

620 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 11:14:08
>>617
ですから、狗邪韓国は倭の領域ではあるけれども、「女王国連合」には
属していなかった可能性がありますと、と。
ただ30カ国きっちりにこだわるならば、一国加えるのは同じく倭の国の狗奴国ではなく狗邪韓国のほうだと
思います。

倭の領域と「女王国連合」は別物だと考えます。



621 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/12(土) 11:16:44
ほら、ほら、言われてんぞ〜

次は617さんの番かな?w
言われたら言い返せww

622 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/12(土) 11:19:31
次は、おまえさんの番だよ

やられたら、やり返せ!!!!!!!!!!!!!!!!!
ガハハハハハハハッ

623 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 11:32:40
>>619
>韓伝に「南は倭と接す」と書いてあるだろう。
接と言う字は、近いというだけで、必ずしも接触ということではないんだよ。
接近ということばもあるだろ。
「邪馬台国」榎一雄には、次のようにある。

これは韓と倭とが接壌しているというのではなく、海を隔てて接している意に
解すべきである。

624 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 11:33:21
倭の領域の北岸なら、対馬の北部海岸か、九州の北部海岸です。
日本語が不自由な方が沢山いるようですね。

625 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 11:36:30
>>620
倭の領域だったら、女王国以北ということで戸数が表示されてるはずだな。
しかし、狗邪韓国にその表示はないぜ。

626 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 11:36:57
倭領域の北岸なら、其北岸などとは書かず
「倭之北岸」と書けば済む

627 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 11:39:17
古田厨は直ぐに全滅するから面白い。

628 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 11:45:30
狗奴韓国には倭人が住んでいたんです。島です。大海中に山島に拠って邑国を
為していると、書いてありますね。
狗奴韓国は南韓の島で倭の領域の一部です。

郡使は狗奴韓国を通過して来るのですから、狗奴韓国とは友好関係がなければ通行できないでしょう。

狗奴国の場合は、郡使は邪馬台国までは詳しいことは記載できるけれど、それ以外の国は
遠いので書けないと書いてあります。
そして女王国連合の境界の南が狗奴国ですから、この場合、30カ国に一国を加えるとしたら、
狗邪韓国のほうが自然だと申したまで。

629 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/12(土) 11:49:58
すげーバトルだなw

君ら、ハンドルネームつければよいのに〜!

狗奴韓国には倭人さん と 北岸は対馬、九州の北部の海岸さん
とよばせてもらおうww

630 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 11:52:26
>>628
島だというのは新説だね。しかし、島だといっても、それで倭になるわけではない。
狗邪韓国の韓国は韓の国だという趣旨であることは明らかだ。戸数も書いていない。
対馬以降の国々と記載の具合もまったく違う。
狗奴韓国とは友好関係がなければ云々はそのとおりかも知れないが、だからといって
狗邪韓国が倭国の一部だとは言えない。それまでだって、韓国の沿岸を水行してきて
いるんだ。沿岸を水行してきているということは、何度も港に入って補給を繰り返し
ているということだよ。そこもずっと友好関係があったところなのだ。


631 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 11:59:06

狗邪韓国は倭人の国だというのは確かだと思います。
韓国の沿岸を通過する場所は友好関係にあったと思います。
帯方郡に貢献していたのですから。

632 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:03:26
思うのはかってだが、何の根拠もないね。

633 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 12:06:22
倭国が任那という場所にこだわり、戦争をしたのも、
南韓に倭の領域があったせいだろうかとか、
女王国連合には属さないものの、倭族として
友好関係であったとも推測できます。

634 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:11:13

邪馬台国が何処にあろうとどうでもいいやんけwwww

635 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:11:23
一人馬鹿な太鼓持ちがいるな

636 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:11:50
任那の時代になったら、そこが半島での足がかりにはなっていただろう。
しかし、3世紀当時に任那があったわけではないし、倭国が半島に根拠をもっていたか
となれば、あったとみるべき証拠は何もない。倭国だったら狗邪倭国と書いたはずだ。

637 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:13:25
>>633
関係ない話し引っ張り出すなよ

638 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:15:20
狗邪は韓だと書いてあるのに、それすら読めない古田厨

639 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:16:41
>>623
榎一雄の「邪馬台国」は1960年出版みたいだね。
戦後の左傾化の強い時代、朝鮮半島の植民地化のあとで、
半島に倭の領域があったなんて言えなかったんじゃないの。
「度一海千餘里」で接するとは言わんよ。

640 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:18:03
お前らは無理矢理半島内に日本の領土つくってまでして、半島内を陸行したいのか?

641 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 12:19:35
後の任那と呼ばれたのであって、
倭人は南韓から渡ってきたのですから、あちらが元なのです。
ですから、南韓の島々に倭人がいたことは確かです。
漢書地理志燕地には燕ですから、遼東のほうです。
楽浪湾、今でいう西朝鮮湾というところにも、山島に拠って倭人の邑国があったと書かれています。


642 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:20:46
>>640
半島に倭の領域があっても、郡使は陸行していない。

643 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:22:48
世界中の何処を探しても、国と国が接する場所なんてねえよ。
接するは離れる事が出来るから接するだ。

少しは日本語覚えてから書き込め。

644 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 12:23:29
みんな勘違いしてもらうと困るけど、倭の領域というのは国の領域ではないです。
「倭人の住んでいる領域」という意味です。
ですから、倭の領域の国が韓国側に属していることも当然あると思います。

645 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/12(土) 12:23:45
>>642
>半島に倭の領域があっても、「郡使」は陸行していない。

勉強になったでしょ?
わたしが「郡使」と言い出してから凄い流ってるみたいだねw

646 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:25:42
>>643
領土ってのは変化するんだ。国境線は移動するんだ。
島国の感覚で、大陸の記述を判断したら間違うよ。

647 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:27:02
半島内に日本の領土があったと主張するなら、韓国大使館の前で
領土主張してこい。

648 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:28:38
>>647
その当時、今の韓国は存在していないだろう。
現代の国民感情と、3世紀の歴史とを混同しないように。

649 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:29:13
>>646
領土が変化した記述は何処にある?

650 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:31:36
>>644

倭人の住む領域なら洛陽にもある。

651 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/12(土) 12:32:54
卑弥呼=景行時代で考えれば、答えはある。

卑弥呼=崇神時代をまだ誰も証明できていない。


652 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 12:33:46
>>647
倭人自体がもともと日本国にいた人々ではないのですよ。
江南地方からの渡来人ですから。
日本の領土がどうのこうのいうのは間違った主張です。

653 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/12(土) 12:34:35
わたしは終止符スレで、二◆さんに「郡使」教えてやったんだけど
何故か、ここのドンコイスレで人気爆発してるっぽい(笑)
まあ、勉強して覚えていくことは大切なのでいいんですが。


654 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:36:16
>>652
だったら何処と何処に居たのだ?
倭人は帯方の東南大海の中の島に住んでいると書いてある。

655 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/12(土) 12:37:10
みんな、必死で張政記事をむさぼりだしたのには笑えたw
ちなみに、おれは昔から知ってたことなんですが・・・・・

656 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:37:11
>>651
空気読めよ

657 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:39:05
>>649
韓伝読んだら、半島の中での勢力の消長がわかるよ。

658 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 12:40:15
中国の史書には連合国の大きな国女王国連合がありながら、
其の中に小さな国を記していますよね。
ですから、狗邪韓国は倭人の住む国ではあるけれども女王国連合には属していなかったかもしれません。
ですから、女王国連合は29カ国と友好国の狗邪韓国1国で30カ国になりますね。

659 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:46:06
>>657

国が接したり離れたりしている様子を抜粋してみなよ

>>658
あなたの感想なんてどうでもいいんだ。

660 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:57:08
これで
狗邪韓国倭領域説と、倭領域北岸説は沈没。

めでたしめでたし。

661 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 13:01:20
>>659
>国が接したり離れたりしている様子を抜粋してみなよ

いちいち探すのはめんどくさいが、匈奴と漢は、接したり離れたりしてるな。
匈奴と西域の国もそうだろう。漢書西域伝を読んでみるといい。
まあ、そんな例をあげるまでもなく、近代以前、
ヨーロッパでも国や民族の勢力範囲が変動するのは常識だろう。
歴史の授業は受けなかったのかな。

662 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 13:18:39
>>661
それは離れたではなく、間に別の勢力が入るというんだよ。
ちゃんと学校行ったのかな?

663 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 13:25:17
韓と半島南部の倭が接すると言うのなら、離れた状態を説明して丁髷と言ってるんだよ。

664 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 13:25:38
狗邪韓国というのは中国からみたら倭人の国で倭領域ですよ。
「倭人の住む領域」というのは撤回して
「倭人の邑長がいる国」に訂正します。

狗邪韓国というのは「クジャ韓国」と読めます。
音から推測すると「巨済島(コジェ)」に非常に似ています。
巨済島から対馬の韓崎までは短里でちょうど千里です。
文献に合致します。



665 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 13:33:37
>>664
だから、個人的な考えなんかいらないから
中国の誰がそんな事言ったの?

666 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 13:34:52
三世紀に「倭の領土とか領域」なんて観念はないでしょ。
仮に狗邪韓国が倭人の集落だったとしても、
住人にすれば、弁辰連合に連なっていたほうが都合がよかっただろう。

667 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/12(土) 13:40:57
新羅本記
208 倭人が侵入
209 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る
212 伽耶から人質が送られる

この辺が「任那建国」この鉄が大和に流入 大和が強大になる下地。



668 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 13:41:28
>>665
中国の誰が言ったかがなぜ問題?
答えられなかったから貴方の勝ちで一方的な
終了宣言かな。

大海の山島に拠る
其の北岸
倭に接する
などからの推測に決まってるじゃないですか。

669 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 13:43:02
>>662
漢と匈奴の間に別の勢力は入ってないが?

>>663
1、離れないモノは、接するとは言えない。
2、国ははなれないから接とは言わない。というのが、643の主張。

国の勢力範囲は固定しているものではないので、2は成り立たない。
国に接を使ってはいけないという主張は成り立たない。
倭が離れてたかどうか以前の問題。

これだけで十分なんだけど、1も無理矢理な論だね。
軒を接するというけれど、軒は離れていったりしない。
ついでにいえば、遠く離れた家同志で軒を接するとは言わない。
度一海千餘里で接は無いわ。

670 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 13:56:50
>>669

意味理解しているか?
誰が何時、接を論じた?
俺が言ってるのは接するだ。
接を論じたわけではない。

671 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 14:00:45
素直な人は狗邪韓国=弁韓狗邪国だろうな。

672 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 14:00:59
すべては>>668が自ら蒔いた種だよ。
自分の推測発言がそうさせている。 いわゆる墓穴というやつだ

673 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 14:06:57
軒を接すると、地の接するを一色反で扱ってどうするんだ?
家は人の力でなんとでも出来るが、地は人の力ではどうする事も出来ない。

国と国が接するには、大陸移動しかないんだよ

674 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 14:23:56
>>668
半島南部に北岸は存在しません。
あるのは南岸、東岸、西岸です。

しかし九州には、東西南北に岸はあります。

675 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 14:25:06
>>671
後漢書韓伝には
「韓有三種:一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁辰。馬韓在西,
有五十四國,其北與樂浪,南與倭接。辰韓在東,十有二國,
其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南,亦十有二國,其南亦與倭接。
凡七十八國,伯濟是其一國焉。大者萬餘戶,小者數千家,
各在山海閨C地合方四千餘里,東西以海為限,皆古之辰國也。
馬韓最大,共立其種為辰王,都目支國,盡王三韓之地。
其諸國王先皆是馬韓種人焉。」
 
倭は「馬韓」と「弁韓」の南に接するとあります。

そして諸国の王は皆馬韓種人です。

また南韓の島々に倭人がいなかったというほうが、無理があります。

676 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 14:31:29
一字一句に拘って解釈しようとする奴が増えたな

677 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 14:35:59
>>675

書いてない。
馬韓と弁韓が南で倭と接するのなら、接する前、離れていた時には
間に何があったのかな?

678 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/12(土) 14:38:29
狗邪韓国のことで言い争っているが、悪いけどこんなところは邪馬壹国の比定には関係ないな。
水行20日、水行10日陸行1月が1番の問題だ。
これが何を記述したものか。使節一行が実際に要した日数か、倭人の日常的な行き来の所要日数か。
ここんところを集中的に議論したらいいんじゃないか。昔やられたのかも知れんが、結論は出てない
んだろう。出てたら終ってるからね。 

679 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 14:44:14
>>675
朝鮮半島南部に、任那の前身のようなものがあったのだろう。
考古学的に見ても、倭国と朝鮮半島南部とは文化的な共通点が見られる。
狗邪韓国を倭の一部とみなせば、「倭と接する」の意味も理解できる。

しかし、そのように考えるとますます畿内は遠いな。遠すぎる。

680 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 14:45:59
>>676
一字一句を疎かにする奴に限って、必ずその台詞を言う。

そして必ず「木を見て森を見ず」なんて痒い台詞を言う。

681 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 14:55:41
>>677

質問の要点が良くわかりません。

山島に拠るという表現から、九州のような大きな島は大州と普通は表現する。
まだ九州島の大きさがはっきりわからないとしても。
それに九州北岸より、南韓の方が島が圧倒的に多い。

いつまでも粘着していると時間が無いので、ここで落ちます。

682 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 14:56:46
>>679
そんな解釈出来ないから問題になってる事を理解してください。
あなたのように推測だけで満足する人ばかりではないのです。

683 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 14:58:20
木さえ見えてないし

684 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 15:02:41
後漢書には
其の北岸ではなく、其の西北界狗邪韓国と書いてあるよ。

狗邪韓国は倭の内に入るね。

685 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 15:05:27
狗邪韓国入れたら31国になっちゃう

686 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 15:08:42
>>685
狗奴国は朝貢国ではありませんでした。
終了。

687 :don`ntakuka:2009/09/12(土) 15:22:08
>>683
木さえ見えてないし

当たり!



688 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 15:25:44
>>684
ひどい誤読だね。

其西北に狗邪韓国と別ける界があると書いています。
つまり、
其と狗邪韓国の間には、其の北西に界がある。

689 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 15:29:35
>>682
でも、倭人伝の記述でも、
從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國
となっている。

郡より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を歴て、南あるいは東に
進みながら、その北岸である狗邪韓国にいたる。

というような意味となっており、狗邪韓国はどうも韓国ではなさそうだし、
その北岸というのは、倭の北岸と解するのがよさそう。

三国志韓伝でも、
 韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接
となっていて、東西には海があるが、南は倭と接するとなっている。
現代のような地理感覚では、南も海としなくてはならないはずだが。

690 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 15:29:35
>>688
間違いを認めようとせず、曲解をし続けるってよほど負けず嫌いなんだね。

691 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 15:31:45
>>688
は、河童虫さんですね。

thanks1

界は、盖伊耶國の台湾ですね。

692 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 15:33:14
>>690
単純にあなたが間違っているだけだから
と、いうよりも
文字をしらなすぎるだけだけど。

知らないと言う事は、あるいみ幸せなのかも

693 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 15:35:20
>>692
たいてい、おかしな人はこういうセリフをはきますw。
きまり文句みたいなもの。
相手にしないほうがいい。

694 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 15:37:42
>>689
だから、海に北岸なんて無いって。
北岸は陸地内の表現。
それに、到っているのは其であって、狗邪韓国ではない。

695 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 15:41:29
>>694
狗邪韓国が倭の一部だった場合、それをどのように表現するかは難しいね。
倭の北岸という言い方は、厳密に言えば正しくなくても、仕方のない表現方法
なのだろうと考えることも出来る。

696 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 15:43:08
後漢書・魏志倭人伝・廣志を眺めると、
樂浪郡→西北界(台湾=盖伊耶國)→拘邪韓國=与那国島と成るようだ。

盖伊耶國は伊邪国の分國である。因みに伊邪国とは西表島である。


697 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 15:46:38
>>695

だいたい、北岸じゃないって。
「その北に岸」
到った所の北には岸がある

698 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 15:46:52
>>670
>俺が言ってるのは接するだ。

意味が解らん。南與倭接はどうでもいいのか。
接と接するを区別する意図もわからん。
南與倭接を訳したら、「南は倭と接する」じゃないのか。

>>673
>国と国が接するには、大陸移動しかないんだよ

国と地面は全然違うな。
北朝鮮と韓国は、大地と共に悠久のむかしから、ああだったのか。
違うだろう。38度線を国境として、人為的に決めたんだ。
アフリカ諸国の国境線も、人為的に決めたから、あんなに直線なんだ。

699 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 15:53:35
>>688
>其西北に狗邪韓国と別ける界があると書いています。

其大倭王居邪馬臺國、楽浪郡徼、去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里

この文の構造は、

楽浪郡徼 去 其國          萬二千里
       去 其西北界拘邪韓國 七千餘里

これで、どうやって拘邪韓國と別ける界なんていう読み方が出てくるの。笑うよ。

>>697
>「その北に岸」
>到った所の北には岸がある

「岸がある」んなら、「在」なり「有」なりなきゃあね。
「其北岸」で「ある」なんていってはいけない。
河童だろうけど。

700 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 16:08:44
>>699
読めもしないのに笑うのだけは一人前か?

其西北界

と書いてあるだろう。
読めないのかい?



「ある」が気に入らないなら訂正してやるから
有り難く拝見しろ。

「その北に岸」

701 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/12(土) 16:15:18
其北岸狗邪韓国の其は倭を指す。したがって、狗邪韓国は半島内の陸地ではなく島である。倭人の国が半島
の南岸に近い島にあったということである。

702 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 16:20:47
>>701
んなわけねえだろうが、アホウ。


703 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 16:20:57
>>700
其西北界というのは、倭の西北の境界である狗邪韓国という意味だろう。

704 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/12(土) 16:23:17
>>702
アホはおまえだ。んなわけねえだろう じゃなく理由を示せ。馬鹿者。

705 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 16:25:03
>>699
>これで、どうやって拘邪韓國と別ける界なんていう読み方が出てくるの。笑うよ。
笑えないよ。
界と表記しなければならないお家の事情があるのです。
本国と分国を同レベルで表記はできないでしょうから。
↓を読めばそれが良くわかるよ。
邪届伊都、傍連斯馬。
【廣志曰:「[イ妾](倭)國東南陸行五百里、到伊都國、又南至邪馬嘉(臺)國、百(自)女〔闕「王」〕国以北、其戸數道里、可得略載、次斯馬國、次巴百支國、次伊邪國、安(案)[イ妾](倭)西南海行一日、有伊邪分國、無布帛、以革爲衣、盖(蓋)伊耶國也。」

界とは伊邪國の分国の盖伊耶國なのです。
此れは、18カ国あるのだ。魏志倭人伝に有るよ。


706 :九州王朝大好き:2009/09/12(土) 16:30:44
「循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國」
「其」は「循海岸水行」の「海」を指す。
「循海岸水行乍東」で「乍東」すると、海岸は水行している船の北側になる。

「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接」
韓の南は倭と接堺しているのである。境で繋がっている。

「其瀆廬國與倭接界」
しかし、瀆廬國は倭と界で接している。
すなわち、弁辰人の社会と倭人の社会がモザイク状に混在していることを意味する。

707 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 16:42:16
>>705
今度は翰苑か。

708 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 16:46:18
>>703

其=大倭王の居する所

大倭王の居する所の界と狗邪韓国の界は別な界。
そのサカイが、其の北西に
其と狗邪韓国が同じ界なら、狗邪韓国は其に内包されるので、狗邪韓国などと別表記はしない。

709 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 16:52:14
>>698

三世紀の話しがいきなり現代の話しですか?

710 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 16:52:44
>>708
其は、倭とすべき。

倭の大倭王の居する邪馬台国までは万二千里、倭の西北の境界である
狗邪韓国までは七千里ということだろう。

これで倭人伝の記述とも一致する。

711 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 16:56:30
>>705
>界とは伊邪國の分国の盖伊耶國なのです。
全く説明になってない上、正気ですか?

712 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 17:00:14
>>710
いいえ
12000里と表記出来るのは、そこに点と点が存在するからです。
倭は地域だから点ではなく面。
よって面である倭に12000と言う数値を当て嵌める事はできません。

713 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/12(土) 17:02:17
>>706
そのような解釈もできるかも知れないが、其が海を指すとはちと強引ではないか?
「接す」とは「すぐ側にある」でよいであろう。半島南岸の島は沢山あるが、殆ど接していると言える
島があるではないか。倭人が半島内に住んでいたのは確かであろうが、国を作っていたのは島に住む倭
人だったかも知れないではないか。ただ、狗邪韓国には官の名も記されていない。しかし、末盧国につ
いても官の名前はない。狗邪韓国が倭国(連合国)の一員であったかどうかは議論の分かれるところで
あるが、行路に名前が記載されるのであるから、倭国から郡へ(あるいは郡から倭国へ)行くには常に
経由する国であったと思われる。

714 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 17:05:13
30カ国に入ってないし、行程にも官名書かれてないから
女王国には含まれないんだろ
でも、倭国の勢力下に入ってた可能性はある
倭人が半島に上陸するには安全の確保が必要だからな

715 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/12(土) 17:05:24
こんな場面で翰苑を出すのは一人しかいない。
>>705

その掲載文を説明して味噌。

弄ってあげるから

716 :九州王朝大好き:2009/09/12(土) 17:09:26
>>708
「其」は、その文の直前の名詞を指すの通常の用法。
「循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國」においては、
故に「其」は「海」を指す。
「大倭王の居する所」とは何処にも書いていない。
何処にも書いていないものを指示できる代名詞なんて無いよ。

717 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/12(土) 17:29:03
>>716

>「大倭王の居する所」とは何処にも書いていない。
何処にも書いていないものを指示できる代名詞なんて無いよ。


後漢書の「其西北界」の其ですよ

「・・其大倭王居邪馬臺國樂浪郡徼去其國萬二千里去其西北界拘邪韓國七千餘里」
ちゃんと書いてありますよ

718 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/12(土) 17:38:35
>>713

>そのような解釈もできるかも知れないが、其が海を指すとはちと強引ではないか?

いいえ普通の読みかたです。

>「接す」とは「すぐ側にある」でよいであろう

いいえ
「接する」とは、対語である「離れる」が存在するからこそ
「接する」と表現されれば、接する以前は離れていたとするものが存在し、離れていたものが接するまでの経緯と、経緯に対する原因も存在します。

そして、「接」と「接する」では全くの別世界で
「接する」には対語「離れる」が存在するが、「接」の対は「離」ではありません。

719 :縦目仮面:2009/09/12(土) 17:39:04
この話題も難しいなあ。狗邪韓国→金官伽耶(金海市付近)と考えるのが一般的だと思うが。
倭系の遺物、弥生土器や甕棺、翡翠製品、黒曜石などが多いのは洛東江河口部あたりだね。
ただ、縄文人のいうように、狗邪韓国を島嶼部、巨済島あたりに比定する説もある。現在は
「コジェ」と読むのかな。確か秀吉の朝鮮出兵時の記録には「風島」とあった。歴史はようわか
らん。


720 :九州王朝大好き:2009/09/12(土) 17:51:53
>>719
狗邪韓國の位置は確定できませんが、
「狗邪」は後世の「伽耶」である可能性が最も高いと思われます。
「伽耶」の場所は「金官伽耶」と同一だとも断定できません。


721 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/12(土) 17:57:44
>>719

>狗邪韓国→金官伽耶(金海市付近)と考えるのが一般的だと思うが

いいえ
そういう余分な知識が結局邪魔になるのです。
倭人伝には金官伽耶なんて登場しないのだから

722 :縦目仮面:2009/09/12(土) 18:00:07
>>720
>「伽耶」の場所は「金官伽耶」と同一だとも断定できません。

まあね、出土品から見ても勢力の中心の移動があるようです。政治情勢も複雑だったようだし。
巨済島は地図を見ても、明らかに倭ー韓の交通の要害だと思うが、資料が少ないんだよね。

723 :縦目仮面:2009/09/12(土) 18:02:07
>>721
俺は話題に反応しただけで、倭人伝読みをやってるわけではないです。

724 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 18:12:00
>>720

地図を見ればわかるけど、対馬に行くのには巨済島から渡ったほうが
金官伽耶から渡るより近い。
海流から考えれても、多少流されても対馬に行きそうだ。
金官伽耶からだと海流にやや逆らわないと対馬に付けない。
風が強いと流されて、出雲に着くよ。

725 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 18:26:32
>>縦目仮面さんはもう借金取りにならないのでしょうか?
さしつかいなければ債権額を教えて下さい。
その債権が本物なら、額の一割で買い取りましょうか?

726 :縦目仮面:2009/09/12(土) 18:42:31
>>725
過去には、数え切れないくらいいろんなものになってるんで、また何かやると思いますよ。

727 :九州王朝大好き:2009/09/12(土) 18:44:15
>>724
僕もその様に思う。
対馬に渡る時の狗邪韓國は巨済島より西とも考えられる。
朝鮮水道の流れは最も速いから、巨済島より西から対馬に渡ったほうが合理的。
狗邪韓國に官も戸数も書かれていないのは、狗邪韓國の西の外れから対馬に渡ったからだと思う。
すなわち、魏使は狗邪韓國の中心部の城郭には立ち寄っていないと考えられる。
対馬に渡るのに、西から来て東へ行き過ぎて、西に戻るかたちなるのは不合理。
隋書では済州島の北の海上から真っ直ぐ東に、対馬と壱岐の間の海を進む形になっている。

728 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 18:48:27
河童&九州王朝のトンデモは縦目くんに任せるわw


729 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/12(土) 18:53:03
倭人似の人間は、馬韓より伽耶地域に住んでいる。


730 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 18:54:38
河童は腹筋なし

なんか、ユーモラスな語感だなあ。

731 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 19:35:39
海流なんて考えたら、逆に日本から半島行くときはどうするのさ。
生きはよいよい帰りはこわいって事か?

732 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 20:26:02
>>698
>南與倭接を訳したら、「南は倭と接する」じゃないのか。
間に第三の国がない場合には、「接」というんだよ。
接触している必要はない。近接も接だ。


733 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 20:27:36
>>695
簡単だろう。倭の狗邪国に至ると書けばいいんだ。

734 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 20:35:38
>>732
密着している必要はないが、近接とうい言葉が表わしているように、
近くなければならない。
あっちの方で、話題に出てるけど、
倭が中国に詣るには、持衰なんて役割が必要だった程の困難な船旅だったんだ。
度一海千餘里は、近接ではなくて遠隔だね。
「接」なわけないだろう。
戦後の大学はマルクス主義全盛だったんだ。
そんな左傾化した影響がなければ、
誰もこれを海を挟んで接するなんて読まなかっただろうね。

735 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 20:44:04
>>699 >>708
其西北界拘邪韓國
范曄がまちがえたのかと思っていたがそうではないみたいだな。
辞書をみると「界」は「さかいを接する、隣り合う」という意味だそうだ。
倭の西北と境を接し隣り合う国が狗邪韓国だと読めるね。つまり、後漢書は
狗邪韓国を倭の外にある国だと書いているわけだ。>>708氏が言うのはそうゆう
趣旨だろ?


736 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 20:51:53
>>734
狗邪韓国を半島の岸にある国だと書いていることを忘れてはいかんな。
船で1日、2日で渡れるところなんて、「近い」んだよ。
漢書西域伝では、タクラマカン砂漠の南道にある国と砂漠を隔てた北道の国とを
「接」と称しているそうだ。→榎「邪馬台国」

737 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 21:02:33
>>735

OKです。

もうひとつ加えれば、その「サカイ」は「境」ではなく「界」であることが味噌なのよ


738 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 21:05:36
>>734

>「接」なわけないだろう。

では、接ってどんな文字?  どうして 「接.近也」と書かれたかわかりますか?

739 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 21:06:21
>>735
方角+界の使い方は、「さかいを接する、隣り合う」という意味ではないはずだが。
調べてみたかい。

>>736
漢書西域伝のどの国のことを言ってるんだ。
具体的に示してくれないと、検証が大変だ。

740 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 21:07:12
>>738
河童は腹筋なし

741 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 21:08:12
狗邪韓国≠倭で決定か。

742 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 21:13:48
>>741

始めから韓って書いてあるんだから、後寝ることはない
ここでごねなければならないのは古田氏だけ

743 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/12(土) 21:14:14
狗邪韓国の議論が約12時間に亘った。張政も毎日こんな議論をやりながらでは2ヶ月は十分かかったな。

744 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 21:36:20
随分漢字を曲解して解釈する人がいるんですね。
狗邪韓国と倭が接するのだったら、西北與狗邪韓国接と書きます。
或いは狗邪韓国が弁韓だったら、西北與弁韓接と書きます。


其西北界拘邪韓國は倭の西北の境界は狗邪韓国と訳します。
其のは主語の倭を指します。其は全部で5回出ています。最初から故其法俗多同までに。
すべてが「倭」を指します。
倭は「女王国」あるいは「邪馬台国」という意味ではありません。
あくまでも倭人の邑長のいる領域という意味です。




745 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 21:38:25
>>741
いや、狗邪韓国は倭の一部である可能性の方が高い。
倭人伝や韓伝、あるいは後漢書の記述はそれを前提にした書き方だと思う。

たとえば、後漢書の記述で

馬韓在西有五十四國其北與樂浪南與倭接
馬韓は西にあり、54カ国ある。その北は楽浪と南は倭と接す。

十分に議論されてきたところだが、楽浪の接し方と倭の接し方は同じと
考えられているのだろう。
対馬海峡や玄界灘を挟んでいるのにこういう書き方はしないだろうな。

746 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 21:48:11
>>744

>其西北界拘邪韓國は倭の西北の境界は狗邪韓国と訳します

なして「界」が「境界」に化けちゃうんだよ

>其のは主語の倭を指します

指すわけない。 萬二千里や七千里という具体的な数値が提示されているんだから
倭という面が起点になるわけねーべ


>>745

>対馬海峡や玄界灘を挟んでいるのにこういう書き方はしないだろうな。

挟んでいるから「境」ではなく「界」と書いたんだけど

747 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 21:52:27
>>744

>狗邪韓国と倭が接するのだったら、西北與狗邪韓国接と書きます。
或いは狗邪韓国が弁韓だったら、西北與弁韓接と書きます。

書かないよ。具体的に数値が提示されているから

748 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 21:58:31
>>746
>萬二千里や七千里という具体的な数値が提示されているんだから
倭という面が起点になるわけねーべ

よく読んでご覧。
其大倭王って書いてありますから。

失礼、一つだけ違うのがありました。←万二千里のところ






749 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 22:07:51
>>748

ごめんなさい。
最後の二行に書いてありました。 謹んでお詫び申し上げます

750 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 22:07:57
>>746
この場合、「接」するという言葉の方を言っているわけなのだが。
古代のあちらの人にとって、海を挟んで接するという感覚はなかったと思うな。
海は隔てるものだったと思う。

だから、韓伝でも「東西以海爲限」という言葉を使っている。
海を以って限りと為す。もし、海を挟んで接するなんて言葉を使うなら
西は、遼東と接するなんて言い方をしていただろう。

751 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/12(土) 22:13:46
>>727
対馬海峡には対馬暖流が流れているので潮は常に北東方向へ流れていると思っている人が多いのではないかと思う。
しかし、潮の流れは干潮や満潮によって変わる。東シナ海(太平洋)と日本海の干潮と満潮の時刻に差があるため
対馬海峡の潮の流れは時間帯によって変化する。その潮の流れはだいたいにおいて朝は西から東へ、午後2時前後
は東から西へと変化します。半島南岸から対馬に向かう場合、常に東へ流されるわけではありません。


752 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 22:15:20
そもそも「接」を日本語で「接する」なんて読むから間違った考えが広がるの
どうしても日本語読みしたければ「せつ(せふ)」で十分なの
どうせ「セツやセフ」に接の意味はないんだから

接の文字にに多少の意味が関係するのは「セツ」ではなく「ツグ」の方

753 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 22:16:40
>>750
そんなことを言ったら、砂漠だって隔てるものだろう。

遼東? 山東半島と言いたいのかも知れないが、ちょっと離れすぎだな。


754 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 22:20:18
>常に東へ流されるわけではありません。

実験船野生号は、潮に阻まれ断念した

755 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/12(土) 22:33:13
>>754
潮目を読めなかったからでしょう。

756 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 22:40:06
対馬海峡あたりの潮の流れは複雑らしい。
湾から出られないようなこともあるらしい。
古代船で航行するには相当熟練した船頭が必要だっただろうな。

757 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 22:40:57
>>751
行きの半島南岸から対馬へは朝、帰りは午後2時前後に対馬から半島南岸に渡れば、
潮に乗れて楽なのですね。
巨済島がやはり一番良いってことですね。
これで、帰りの心配をしなくて済みました。

758 :九州王朝大好き:2009/09/12(土) 22:57:21
>>757
>行きの半島南岸から対馬へは朝、帰りは午後2時前後に対馬から半島南岸に渡れば、潮に乗れて楽なのですね。

それは新月と満月の時でしょ。
太陽より月の方が大きく影響するから、適切な時間帯は毎日50分づつ遅れる。

759 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/12(土) 23:09:11
>>757
潮に乗るのは部分的にはあったでしょうが、全体としては潮の流れを突き切る状態でしょう。なお、日本海の
潮位が東シナ海より若干高いときに潮の流れが停止した状態になると考えられます。なお、舟で海を渡るとき
に重要なのは潮の流れだけでなく風と天候(晴雨)もです。風は高気圧と低気圧の配置によっていろいろと変
化します。そのような条件を読めなければ渡海は危険です。

760 :日本@名無史さん :2009/09/12(土) 23:13:39
>>758>>759
なるほど〜。そんな単純な訳にはいかないのですね。
勉強になりました。

761 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 23:42:18
>風は高気圧と低気圧の配置によっていろいろと

当時どのように高気圧と低気圧の配置を知るの? NET?

762 :うましか:2009/09/13(日) 00:03:16
>>757

慶尚南道泗川市沖の勒島と言うところからも北部九州の弥生土器がたくさん出るそうです。
逆にそこで作られた土器と似た様式のものが、壱岐、対馬や糸島から出たりします。
この辺りを魏志韓伝に出てくるトク盧國では無いかと考える人も居るそうです。
日韓間の渡航ルートと言うのは、多分、倭人伝のルート以外にも複数あったことと思います。

763 :縦目仮面:2009/09/13(日) 00:20:37
>>762
倭人伝の頃には、貿易の拠点は勒島から原の辻に移っていると思います。まあ、複数ルート
はもちろんそうでしょう。

764 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 00:32:19
潮待ちというより月待ち
天気のいい日を狙って、船出
夜もそのまま航行を続け、月が出たら月を目印に方向を掴む
呉の水軍はそれで東シナ海を渡れた
魏の使節が朝鮮半島の内陸を行かず、西岸に沿う水路を取っているのは、
南浦(ナンポ)で作らせたであろう外洋船を廻航して来て対馬海峡を渡る必要があったため

765 :九州王朝大好き:2009/09/13(日) 00:57:15
>>759
対馬海峡の黒潮本流は潮の干満とは関係なく一定の速度で流れています。
複雑な潮の動きをするのは黒潮本流の両サイドの海域です。

766 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 01:36:11
>>753
砂漠は隔てるものではなくて、領有するもの。
冒頓単于伝を読んでごらん。

767 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 01:59:33
>>766
砂漠に交易ルートが通っている場合などに、「領有すべきもの」になるんだろうな

768 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 09:04:16
>>766
領有されることがあったからといって、常に領有するものとは言えんよ。
海も領有されることはある。だが、常に領有するものではない。
これまでの議論は、領有されない海、領有されない砂漠を問題にしてるんだよ。

769 :うましか:2009/09/13(日) 11:25:50
>>763

複数ルートと云っても壱岐・対馬は外せないところ。
ただ、日→韓でも韓→日でもと起点と着点は複数有って然るべきかと思っています。

> 倭人伝の頃には、貿易の拠点は勒島から原の辻に

「倭人伝」のころと云うのであれば、私はと原の辻より那珂川河口部の方が隆盛なのかと見ます。
一大率が壱支に近い伊都に置かれていたと云う記述とは、やや矛盾するところですが。



770 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 12:06:40
>>769

>一大率が壱支に近い伊都に置かれていたと云う記述とは、やや矛盾するところですが。

矛盾しているのは「一大率が壱支に近い伊都に置かれていたと云う記述とは、やや矛盾するところですが。
」の解釈でしょう。

特置されたのは「自女王國以北」
常治されたのが「伊都國」
役所は伊都国にあったが現場は自女王国以北であって、一大率が機能するのは現場。
役所はただの命令機関と事務処理ではありませんか?

771 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/13(日) 13:08:41
>>761
高気圧、低気圧の話は風が起る原理に関するもので、当時の人間が知っていたと言っているのではありません。
舟乗りは経験で東の風が吹くだろうとか北風が吹くだろうと予想したのでしょう。

>>765
水は高いところから低いところへ流れます。黒潮は水深の深いところではほぼ一定の速度で東へ流れていますが
表層では潮位の影響と風の影響を受けます。



772 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 13:16:28
倭国が朝鮮半島南部に権益を持っていたとすれば、公孫氏が滅んだとき
間髪を入れず卑弥呼が帯方郡に使者を送ったのも理解できる。
さらに、それ以前に、公孫氏と交流があったというのも納得できる。

773 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 13:45:02
>>772
その権益というものが鉄の採掘権のようなものなら同意
領土を持っていたと言うのは言い過ぎかも
まあ当時は厳密な線で以って、国の領域を規定できるものではないと思うが

774 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 13:54:58
>>772
当時、「主権と領土を持った倭国」なんてものは存在しなかった。
朝鮮半島南部に倭人はいただろうけど
韓と倭の国境なんて意識は持ってなかった。

775 :うましか:2009/09/13(日) 14:05:48
>>770

> 役所は伊都国にあったが現場は自女王国以北であって、一大率が機能するのは現場。
> 役所はただの命令機関と事務処理ではありませんか?

中国人から見て「刺史」のような権能を持っていたと云うことですが、
実際に「一大率」の権能が及ぶ地域が「自女王國以北」だったかどうかは別にして、
その当時の倭に事務処理のための「役所」と云えるような組織が機能しえたでしょうか。
伊都は前原だと云う前提で話ますが、そこを「役所」にして「検察」出来るのは、
壱岐、唐津と云った「倭人伝」ルートかと思います。

「一大率」の所管域が、自女王国以北と云うような広域なものであれば、
それは共立体制化の「女王」からの派遣官などでは無く、体制下にありながらもある程度自立し、
その縄張りを他の傘下の国々の権力と齟齬をきたさない程度に重複して有した勢力かと。

面倒くさい書き方をしておりますが・・・
別の言い方をすると倭人伝の各国を陸上勢力とし、そのシンボルを女王とすると
一大率は海上勢力のシンボルで、各地の海人集団の頭領のようなもの。
そのようにイメージしています。

弥生期にあっては、日韓交易の権能は伊都に所属して然るべきでしょうが、
伊都が女王國傘下の一国に為り下がった(言い過ぎですが)と云うことであれば、
海人集団の中心勢力も別の繁栄地に移動していくのが道理かなと思います。
ただ、一大率は伊都が拠点と書かれているわけで、それ故、愚痴めいたことを書き連ねている次第です。


776 :九州王朝大好き:2009/09/13(日) 14:28:27
>>771
>黒潮は水深の深いところではほぼ一定の速度で東へ流れていますが、
>表層では潮位の影響と風の影響を受けます。

細かく説明すれば、勿論あなたの言われる通り。
細かくは、東ではなく北東方向ね。

777 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 14:39:30
半島を支配する魏から倭国王に封ぜられた邪馬台国が、半島貿易の主導権を握ったのは自明
公孫氏のあと間髪を入れずに帯方郡治へ赴いたのも、その貿易にヒビを入れないため
その海上交易ルートを検察するのが「一大率」では

778 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 14:41:01
>>775
伊都には王がありました。それが、

>体制下にありながらもある程度自立し、
その縄張りを他の傘下の国々の権力と齟齬をきたさない程度に重複して有した勢力

でしょう。かつての帥升体制のなごりです。
一大率はその検察のために置かれた。

779 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/13(日) 14:43:47
>>775 うましかさん

質問
「うましか」さんと「にんとく」さんは同一人物ですか?
それとも別人ですか?

780 :うましか:2009/09/13(日) 14:55:39
>>778

> 伊都には王がありました。かつての帥升体制のなごりです。
> 一大率はその検察のために置かれた。

「女王」が 「一大率」をして「伊都国王」等を検察しているわけですよね。
倭人伝からは、そのようにも読めますが・・・です。



781 :うましか:2009/09/13(日) 15:04:37
>>779

私は「にんとく」さんではありません。
特定テーマに拘るときは、仮コテを使いますが基本的には名無しです。
邪馬台国関連では九州王朝さんの次くらいに古手かもしれません。
過去に何度も御手合せ頂いておりますので、思い当たるレスも有るかと思いますが。


782 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 15:06:07
>>778
日本で言う、在庁官人みたいな物かな
地方の国を支配する国衙、その上の階級の役人(守とか輔)は都から下ってくるが、
下級の役人は統治の利便のため現地の有力者を起用した
それら在庁の有官者は、その国内に自らの私有地を持つ一方で、
国衙の被官として国全体に権限内の力を行使しうるという二重性を持っていた
在庁官人=伊都国王=地元のボス
国の守=一大率=全くの司人

783 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/13(日) 15:18:01
>>782
其処まで行けば、景行の屯倉経営に成ってしまう
まだ 種貸し屋の状態。


784 :日本@名無史さん :2009/09/13(日) 15:54:02
一大率というのは名詞ですが、日本語の当て字ではなく、
中国語です。
意味が漢字で通りますから。
一大はひとつのおおきな、
率はひき従える、かしら=帥

諸国を検察する役目から、女王国直属の軍隊の長のようなものかなと思います。



785 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 16:14:59
>>784の言う一大率中国語説は、河童虫も言ってるから間違い。

786 :日本@名無史さん :2009/09/13(日) 16:35:18
>>784
倭人伝の名詞はすべて音の当て字ではないですよ。

たとえば、侏儒国、裸国、黒歯国、持衰など。

持衰を例にとれば、
持はもちこたえる
衰はよわる けずる おとろえる
という意味があります。


787 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 18:03:04
一大率については倭人伝に「刺史のごとき」と説明しているので、それで十分でしょう
刺史:
前漢武帝が紀元前106年に全国に十三州を設置したのと同時に設置された。設置理由は現地の官僚が豪族や商人たちと密着し、その犯罪を見過ごすことが多発したためにそれを監察するためのものであり、刺史も純然たる監察官であった。
後漢42年、光武帝が刺史の制を改める。前漢の時代には特定の治所を持たず領内を巡察していたを改めて、州の中に治所を持つようになり毎年8月に諸郡を巡察することとした。更にその治所の周辺の地域の行政権を完全に握るようになった。
魏晋では、刺史が将軍位を持って兵権の行使も行うことが殆どとなり、「領兵刺史」と呼ばれた。これ以後、将軍位だけでなく持節・都督により軍権を付与された刺史が地方軍の指揮を行うことが常態となった。
夏侯尚も郷侯に昇格と同時に、征南将軍・荊州刺史・仮節都督南方諸軍事に就いている。

788 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 18:34:37
>>780
>>782
そういう構図だと思います。
王は、伊都国の首長、ではなく、
かつての帥升連合のなごり、だと思います。


789 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 18:42:20
「帥升(スサ)」=代表者 と読んでいるんですか?
連合の代表なのに、世襲なんでしょうか?

790 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 18:49:59
一大率は九州北部だけだろ
実質管理してたのは邪馬台国じゃなく伊都国
当時、畿内の邪馬台国が本当に九州を支配してたのか疑問


791 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/13(日) 18:58:23
>>784
>一大率というのは名詞ですが、日本語の当て字ではなく、中国語です。

魏志は、壱岐(一支・イキ)の島を「一大國」としているから、
「一大率」は「一支率」の転写間違いと考えられる。
この場合、「率」の部分は日本語の音に、
似た漢音の文字の中から意味を考慮して選んだものと考えられます。


792 :日本@名無史さん :2009/09/13(日) 19:01:59
>>789
帥升は中国語+倭語です。
スイショウと読みます。

帥はひきいる、指導者 かしら
升は倭族の言葉で「王」を意味します。

中国語は名前の前に職名をよく置きますから、この帥もその意味でしょう。
連合の代表というより、王だと思うので、世襲だと思います。



793 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/13(日) 19:14:04

「伊都(イト)」は帥升の子孫の倭王の住むところから「倭都(イト)」の意味。
倭國乱以降の魏代には「倭都」と書けないから「伊都」とした。


794 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 19:54:59
>>793

なぜ倭都と書けないのですか?

795 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 19:56:41
倭の首都でなくなったからではないですか。すべて想像ですよ、想像。

796 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 20:11:39
>>792
帥升は中国人じゃないかな。
倭人の名前はもっとこう、舌を噛みそうな感じだろ。
なのに帥升はいかにも中国っぽい。。
日本の歴史に初めて名を残した国は実は漢人王国だったんだよ。

797 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/13(日) 20:19:24
>>793

「倭」を(イ)と読ませる場合、「倭」は名詞ではなく
連綿ですよね?
で、「倭都」の何処が連綿ですか?
「倭」の名詞は(ワ)です。

798 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 20:26:34
帥升と言ってるのだから委奴国にかけてるのでは?

799 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/13(日) 20:46:37
>>794
倭の大部分を代表できる王で無くなったから。

倭奴國に代わって立った帥升は倭の大部分を支配下に入れたので倭國王。
倭奴國の王が倭國王でなかったのは、倭には倭奴國に従わない国々があったから。
その従わなかった国の一つが倭米多國(倭面土國)である。
それが帥升の系統の国。
倭米多國帥升が倭奴國を倒して倭國王となったのである。

その時対馬海峡を検察する組織として作ったのが一大率(一支率)と思われる。
内陸の倭面土國と海峡の一大國(一支國)による同盟が、倭奴國を挟み撃ちにして滅ぼした。
一大國(一支國)と沿岸の倭奴國は対馬海峡の交易利権において競争関係にあったと推測される。
ゆえに、一大率は倭奴國討伐戦後に一大國がメインとなって編成された検察組織と考えられる。
検察地域は主に福岡平野沿岸にある奴國等の諸国。


800 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/13(日) 20:49:53
伊都国の王については 皆属女王国 でなく 皆統属女王国 と書いてあるから女王国(邪馬壹国)の
王族に連なる者であった可能性もあるのではないか。
一大率は>>787に言われるように監察官兼軍隊の指揮官であろう。諸国を検察するが、常治伊都国とあ
るから伊都国の重要業務を取り仕切っていた。

801 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/13(日) 20:52:07
>>797-798

委奴国=倭奴國  イト(orド)国

俀國=大倭國  タイ国

802 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/13(日) 20:57:53
>>801

>委奴国=倭奴國  イト(orド)国

俀國=大倭國  タイ国


だからそうではなく、倭奴、大倭 の何所が連綿なんですか?

803 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/13(日) 21:04:04
>>800
>女王国(邪馬壹国)の王族に連なる者であった可能性もあるのではないか。

可能性はないでしょう。
「皆統属女王國」の「統」の意味は、
ひとすじのつながり、血筋、一つにまとめる、すべる。

「皆統属女王國」は、代々の皆(王)が女王国に属する、の意味になる。

804 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 21:07:03
>>799
>倭奴國に代わって立った帥升

代わったとどこで判断すればよいでしょうか?

>帥升は倭の大部分を支配下に入れたので倭國王

倭の大部分を手に入れたとありますが、どのように読むとそうとれるのですか?

>倭奴國の王が倭國王でなかったのは、倭には倭奴國に従わない国々があったから。
その従わなかった国の一つが倭米多國(倭面土國)である。

なぜそのようになるのでしょうか?倭米多國(倭面土國)が倭奴國に従わない国とどの文章にてはんだんできるのでしょうか?

>それが帥升の系統の国

どのような系統なのだか、もう少し詳しく書いてください

>内陸の倭面土國と海峡の一大國(一支國)による同盟が、倭奴國を挟み撃ちにして滅ぼした

想像ですよね?



805 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/13(日) 21:10:17
>>802

7世紀までは、「倭」を「イ」と発音していた。 少なくとも九州では。

「磐井」は「倭ワイ」。

806 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 21:14:19
>>805>少なくとも九州では
??倭奴というのは、倭人が漢字表記して中国に知らせたものなんですかね?
倭奴、大倭のどちらも連綿語ではないでしょう。

807 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 21:14:45
当時にも山陰ー隠岐ルートなどもあったはず
伊都国そして一大率がすべての倭国を管理していたとは思えない

808 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 21:17:28
風土記の記述じゃ伊都国王の祖はアメノヒボコでしょ?


809 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 21:19:43
>>807
同意ですね。
航海技術に長けた種族なら、どんどん足を伸ばすのでしょう。

810 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/13(日) 21:23:58
>>805

お答えくださりありがとう。

811 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 21:26:23
河童が詰め将棋してるw

812 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/13(日) 21:26:30
>>804
根拠
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
  安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
倭奴國では使人でも光武帝から印綬できた。
帥升王では王自ら出向いているのに請見すらできなかった。
漢は帥升を正統な倭國王と見做していないのである。
すなわち、帥升は倭奴國を継承する王ではない。
別途資料では、帥升は倭土國王ではなく倭面土國王である。


813 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 21:40:47
>>812
>帥升は倭奴國を継承する王ではない

で、どうして代わって立つといえるのかな?全く別地域の王かもしれない。例えば倭面土=ヤマト
とか。

814 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/13(日) 21:41:59
連綿語は無関係

 倭→発音→シナ
大倭→タイ→俀
○○→イト→倭奴


815 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/13(日) 21:46:18
>>813
>全く別地域の王かもしれない。

そうです、全く別地域の王です。
帥升は有明海湾岸の王です。
倭面土國は有明海北岸にあります。

816 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 21:46:37
>>806
私の独断ですが
「卑弥呼」などの人物名や倭の官名は、そのまま音借して漢字表記したと思いますが
かりにも皇帝が制詔し金印にも刻む冊封国名については、中国側でつけた国号・王号ではないでしょうか
「倭奴」という場合、おそらく半島から見た呼び名でしょう、「倭人」という呼称も半島人が使っていたものだと思います
帯方郡は馬韓55国・弁韓12国・辰韓12国の韓族の長と各々冊封関係を結んでいますが、
そういった半島支配のテクニックとして、帯方郡の役人には韓族も起用していたのではと思います
なんせ魏にとっては征服したばかりの外地ですからね、統治の基盤として現地人を利用したでしょう
そんな韓族の役人が使っていた呼称が公式になったんだと思います
そして倭国との通訳も韓族の役人がしたと思います

817 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 21:47:24
>>814
このレスの意味がわかりません。「イト」の発音を聞いた中国人が「倭」と表記する可能性は
ないと思いますよ。

818 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/13(日) 21:50:16
>>803
伊都国は邪馬壹国にとって特別な要国になっています。郡使の常駐、一大率の本拠などは伊都国の地理的位置
によるものも大きかったと思いますが、元々伊都国(王)が邪馬壹国(王)の分家みたいな存在だったからと
いう可能性もあるのではないか。皆 統として属する あるいは 皆の(系)統が属する という読み方はな
いかということです。

819 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 21:54:20
2世紀初頭だから吉野ヶ里もまだ衰退してないから可能性としてあるが
当時の奴国を差し置いて倭国王と名乗るとは考えにくい
綏靖ー伊都国ラインのプレ女王国の王、即ち綏靖だと思うな

820 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 22:03:46
>>818
三国志のすべての用例に当たっても、血統の意味で用いられているものはありません。

821 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 22:15:32
>>796
帥升とか伊都なんて字なのは、
漢字の意味を知ってる人が書いたからなんでしょうね。
伊都国は帰化人を雇っていた。

822 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 22:15:58
伊都国は、戸数1000戸なんだろ
吉野ヶ里くらいの規模でしかない
そこから100里の距離に2000戸を有する奴国があるのに、なぜ伊都国の方が格が上?

823 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 22:17:12
× 2000戸
○ 20000戸 

824 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/13(日) 22:19:02
>>819 綏靖ー伊都国ラインのプレ女王国の王、即ち綏靖だと思うな
よく分りませんな。綏靖は仮に実在としても3世紀初の人物でしょう。神武が倭国大乱の頃(2世紀末)
東征したのですから。なお、この年代推定は神功の3韓征伐を4世紀末としてのものです。ついでながら、
崇神は4世紀初と考えています。

825 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 22:22:34
>>823
格を決めるのが人口や規模ではないということでしょうね。
交易の利権を抑えるもの、
地理的条件とか、中国との交渉技術とか。
伊都国が帰化人を雇って、一歩抜きん出たのでは?

826 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 22:24:17
>>819
帥升が倭国王を名乗っていたかどうかはともかく、後漢が帥升を倭国王と思って
いたことの方が重要だと思う。


827 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/13(日) 22:28:22
>>822
おっしゃるとおり。国としては奴国の方がはるかに(20倍の戸数)大きい。だから、私は伊都国の王は
邪馬壹国(7万余戸の超大国)の王と血縁があったのではないかと推測する。

828 :◆.L.MXSPOgc :2009/09/13(日) 22:34:55
>>392
流れが早くてかなり前のレスになってしまいました。

張政が来たときに、もし卑弥呼が生きていたなら、代理を立ててでも檄告喩卑弥呼となります。
卑弥呼が死ぬのを待っていたなどということは絶対にありません。死ぬのなんて何十年後なのか分からないのですよ?
同様に男王が失脚するのを待っていたなんてこともありません。何十年後か(ry
男王が騒動に巻き込まれて云々なら、なおさら男王を立てて、さっさとまとめて狗奴国に対抗するようにさせるでしょう。

あと張政たちは狗奴国の人とは会っていませんので「調停に来た」という解釈は誤りでしょう。
邪馬台国の後ろ盾のために来たと見るべきです。


829 :◆.L.MXSPOgc :2009/09/13(日) 22:39:41
>>403
それは「倭の地が温暖だ」ということで、そこに冬云々の意味はむしろ無いでしょう。
夏にだけ来たとしても、その地は温暖だとは十分に言える事です。そして「冬」の冬夏食生菜はこれに続けてあります。
これは「冬」もと読むより「冬夏」で一年中をあらわしている慣用句のようなものだと見るもので、
積極的な「冬」の記述とはかなり違うものであることがわかります。

結局「冬」の字以外に冬を連想させる記述は無く、その「冬」の文字さえも、冬を純粋に指しているものではないわけです。

830 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 22:41:12
>>822 >>827
魏略は「戸万余」と書いている。倭人伝は誤記と考える人が多いようだが。

831 :◆.L.MXSPOgc :2009/09/13(日) 22:44:27
>>653
>>わたしは終止符スレで、二◆さんに「郡使」教えてやったんだけど

教わった記憶など全くないのですが・・
思い返せば、私が「魏使」と「郡使」を用いたレスをしたところ、改め氏が混乱してトンチンカンなことを書いていたので、
その意味を私が説明したことはありましたね。

まーどうでも良いことでした。

832 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/13(日) 22:47:35
>>825
おっしゃるような事情もあったかも知れませんが、伊都国は完全な独立国ではなく、女王国の一機関的な
存在です。入出国管理を行うところで一大率によって検察され軍事的に保護されています。

833 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 22:48:54
>>831
改めさんは、過去の記憶が(無意識or意識的に)混乱して、ズタボロにやられたはずのもの
が、自分が勝ったことになってる場合がよくあります。

834 :◆.L.MXSPOgc :2009/09/13(日) 22:51:09
一大率にからんで(?)、副の卑奴母離も改めて見るとすごいですよね。

對馬国、一大国、奴国、不彌国。伊都国の前後で副が卑奴母離でないのは、官の書かれていない
狗邪韓国と末盧国のみ。ということはこの2国の副も卑奴母離の可能性があるのですよね。

一大率と卑奴母離についての考察って、何かありましたっけ?


835 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 22:55:59
>>832
あ、すいません。
825で言ったのは、帥升時代の話です。

836 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 23:01:10
2万戸とか7万戸って人口を養うのに田圃がどれだけ要ると思います?
1町歩で5人の食い扶持です
2万戸なら、1戸=5人と見積もっても、
20000戸×5人/戸÷5人/町歩=20000町歩 必要となります

平安中期で、
日向    7,400町歩
肥後   23,500
薩摩    4,800
大隈    4,800
肥前   13,900
筑後   12,800
豊前   13,200
筑前   18,500
豊後   17,500
壹岐    620
対馬    428 
--------------------
九州計  117,448町歩  なんですよ

ところが、
奴国   20000
邪馬台国 70000
--------------------
計    90000町歩  となります

この2国で平安中期の九州全島の数字に達しちゃうんです!!!
弥生時代に、平安中期ほどの生産効率があったでしょうかね???

邪馬台国を九州内に想定するのは、当時のGNPから言って無理があります
すでに破綻してます

837 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 23:03:36
>>834
卑奴母離は各国に共通しているから
女王国から送られた役人なのでは?

838 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 23:13:29
>>837
防人みたいなものでしょ。

839 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 23:23:43
というより、官が2人しか書いてないんだろ。だったら、文政を司る官
と軍事を司る官のはずで、ヒナモリってのは軍事を司る官だろう。

840 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 23:23:51
>>833

>改めさんは、過去の記憶が(無意識or意識的に)混乱して、ズタボロにやられたはずのもの
が、自分が勝ったことになってる場合がよくあります。


確信犯

841 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 23:26:15
>>836

>万戸とか7万戸って人口を養うのに田圃がどれだけ要ると思います?



842 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 23:32:21
>>836
私が子供の頃(60年前)一家7人で米20俵で1年暮らした。主食は米で、これに芋類があった。パンはなかった。
一人3俵(180kg)である。弥生時代でも1町歩で30俵くらいは穫れるだろう。としたら1町歩は10人分だ。

843 :日本@名無史さん :2009/09/13(日) 23:36:08
奴隷十人に対し、母屋2つ、小さい倉庫3つで5戸
平民は一家族に対し倉庫2つ、母屋、東屋で平均4戸
大家は倉庫大2つ、小5つ、母屋3戸 東屋3戸で平均13戸
宮殿は全部で物見櫓、祭殿、宮殿、倉庫、奴婢の家 その他もろもろで1000人で100戸
そう考えると
だいたい1戸に付き1・5人位の計算が妥当だと思う。


7万×1.5=105000人
邪馬台国はだいたい10万5000人位の人口でしょうかね。

105000÷5人/町歩=21000町歩になります。
平安の肥後といい勝負ですね。
想像ですから。



844 :縦目仮面:2009/09/13(日) 23:36:31
卑奴母離も難しいなあ。後代の鄙守・夷守と音がぴったり一致してしまうんで、なかなかそれ
以外の解釈が広がらないんだよな。俺が読んだ中で、ユニークだったのは「雛守」説・・・・・
その国の巫女王を養育・補佐するという役職らしいが、これはどうだか。

845 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 23:37:33
改めくんに苦い思いさせられた集まりかwww



846 :836:2009/09/13(日) 23:38:45
これは、奈良時代の数字でした (平安中期は誤記)
国ごとに耕作面積のほか、稲束の収量も記録されていました

847 :836:2009/09/13(日) 23:41:50
>>842
当時の1斗は現在の0.4斗です
10人分に ×0.4 しないとダメです、つまり4人分という事になります・・・・ 

848 :日本@名無史さん :2009/09/13(日) 23:42:35
>>843
842さんのレスをうけて

一町歩は10人だとすると10500町歩ですね。
ちょうど、平安の筑後位ですね。

考えてみれば、平安時代は米を一人が多く食べたでしょうが、
弥生時代の奴隷は殆ど米など口にしなかったでしょうね。

849 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 23:44:13
そんな計算全然役に立たない。第一米が主食であったかもわからないし、庶民の口に米が入ったという記録もない
それに、生産者ほど米を口にはできないのが支配世界の常識だよ
一般的に米が口に入り安いのは被生産者
米が高価なものとの物々交換の原資になった場合は、支配層は益々生産者の口から遠ざけ税の代用とする
生産者は稗や粟などの雑穀や、獣や魚

850 :日本@名無史さん :2009/09/13(日) 23:47:50
>>848
847さんのレスをうけて

105000÷4=26250町歩ですね。

まあ、奴隷は殆ど米は正月以外は食べられなかったでしょうから
それほど田はいらないでしょう。

851 :836:2009/09/13(日) 23:48:03
>>847
すみません、間違いました
意味のない係数でした

>>1町歩で30俵くらいは穫れるだろう。としたら1町歩は10人分だ
ありがとう御座います、参考にさせて頂きます

852 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/13(日) 23:50:23
>>817
>「イト」の発音を聞いた中国人が「倭」と表記する可能性はないと思いますよ。

「イト」の発音を聞いた中国人が「倭奴」と表記したのです。

倭(=委)の発音はイ


853 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/13(日) 23:51:21
>>844

だから前から言ってるように、官は雛人形の三人官女だって
単なるお飾りじゃないよ。1000年以上続いた雛飾りは

854 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 23:52:25
>>852
じゃ、倭人伝は「イジンデン」ね。

855 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 23:54:28
>>843

この場合の「戸」って建物数のことじゃないと思うんだが・・・・

856 :日本@名無史さん :2009/09/13(日) 23:58:09
>>852
家を数える時は屋根を数えますね。

それに対し、1戸あたり何人位で計算して人口を出したのですよ。

わざわざ、母屋だけを数えたりはしないですよ。常識的に。
それも異国人が。




857 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/09/14(月) 00:02:21
桃太郎が鬼退治に行くというのに
腰に付けたのは、米の握り飯ではなくて、黍団子とは……
涙無くしては語れない食生活。

858 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 00:02:23
>>843
漢書食貨志に戸数・口数の記述がある。
それで幾つか計算してみたが、口数を戸数で割ると、
ほぼ一戸四人ぐらい。

859 :836:2009/09/14(月) 00:02:29
>>842
ついでに、もう一点お世話になりたく思います
1町歩の田圃を機械を使わず、人力だけで面倒見るとすれば、何人くらい必要でしょうか?
奈良時代に行われていた班田収授法では、成年男子に2反、女性は1.33反が支給され
耕作と納税が義務付けられていました (この時代は、まるで農奴ですね)
1戸あたり、合わせて1町ほどの田圃を家族で耕していた感じだと思います
小作を使わず本人達だけでやっていた訳ですが、労力的には妥当な面積でしょうかね?

860 :日本@名無史さん :2009/09/14(月) 00:05:26
>>858
お国事情とデータの取り方の違いがありますから、まあ参考にはなりませんね。

861 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 00:07:23
>>856

「戸」って「屋根」のことでも無いだろうに。

862 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/14(月) 00:10:55
シナでは、
複数の「家」が集まって「一戸」。
一つの門戸の中に複数の家がある。
棟続きを含む。基本的に中庭を囲んで棟続きの建物。
それぞれの家の住人は親族。

一戸は日本の大家族の一軒にあたるのかな。

863 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 00:10:56
>>859
村落共同体で協力してやってたんじゃないの?一家が自分のとこだけってことはなかった
と思うけど。弥生時代なら、水田耕作のための共同作業により、支配関係や貧富に差が生じ
ていったと考えられるんだけど。

864 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 00:16:39
>>843はサイキバ君


865 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 00:18:14
戸は、所帯や一家族の意味だと思うけどね。「戸口」で、所帯数と人口 ほどの意味。数万
もの屋根(というか大方は竪穴式住居)を数えることは、ちょっと考えられない。

866 :日本@名無史さん :2009/09/14(月) 00:19:43
邪馬台国全体で約20万戸として、
20万×1.5で30万人。

邪馬台国連合は30万人の人口ですね。
畿内説ではないので。

兵力は全体で5万弱程度かな。
卑弥呼の後の国内の倭乱で1000人余人が亡くなったそうだから
半分に分かれて戦ったとしても25人に一人が戦死したと。
いい加減な計算ですが。


867 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 00:24:06
>>860
倭の記録であっても、記録を作ったのは中国人だ。読者も中国人だ。
一般中国人が読んでわかるように書いてあるはず。
なら、一戸何人か特に注釈が無い限り、中国の常識に沿ってるはず。
あてずっぽうで一戸1.5人とかいうより、よっぽど意味がある。

868 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 00:25:51
>>824
倭人伝からすると神武は一世紀半ば
その子が二世紀初頭に治世したとするのは妥当
また、綏靖が自国を離れて遠くに遠征するのは父親の影響とも考えられる
更に、自らの生口160人引き連れての外洋という無茶ぶりは内乱を引き起こさせたとも思える

869 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 00:29:24
おまけに綏靖は食人趣味の伝承があり、生口160人との関連性も窺わせられる

870 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/14(月) 00:33:47
>>828
卑弥呼が景初2年に朝貢したとき大夫難升米を派遣しています。また正始6年には皇帝の詔を受けとって黄幢も假
授されています。そして正始8年に張政を通じて黄幢を拝假され檄を作って告喩されています。難升米は女王国の
外交担当者だったことが分ります。外交担当者は自国の状況や方針を知っていなければ務まりません。魏は難升米
を通じて倭国の情勢をかなり把握していたと見なければならないでしょう。また、その時代、魏と使譯所通三十国
ですから魏は各国の使者や商人等から倭国の情報を得ていたでしょう。
魏が皇帝の使節を倭国に派遣するには多額の費用を要した筈です。また、失敗も許されません。倭国の事情も把握
せずに使節を派遣するなどあり得ません。
あなたは二つの報告ー二つのルートの思いつきを正当化するために無理を重ねているように見えます。

871 :836:2009/09/14(月) 00:38:53
主食が米じゃなく、雑穀も食べていただろうと言っても、
耕作する手間は一緒ですよね、また雑穀用の耕地を別勘定にしての話になりますし
(二毛作が始まったのは鎌倉時代からです)
つまり、耕地面積の上限がわかれば、人口の上限も決まるという事です
弥生時代の生産力は、常識的に奈良時代を出ないと思います

ちなみに、奈良時代の九州は、生産量で見ると全国の13%ほどです
それほど生産力のある土地ではありません
中国は16%、中部は21%、関東は18%で、それに比べて九州は見劣りします

872 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/14(月) 00:45:21
>>867
私もそうだと思う。三国志は倭人に読ませる目的で書かれてはいない。

873 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/14(月) 00:55:52
奈良時代には中央集権体制ができて調査も行われたでしょう。だが、その調査は税の徴収が目的でしょう。
地方の豪族が役人に正直に申告しますか?役人だって人の子、そこは適当にやりますよ。お互いの幸せのた
めにね。報告された数値は半分以下になっているでしょう。

874 :日本@名無史さん :2009/09/14(月) 01:03:29
>>872
当時の中国と倭国じゃ10世紀以上は文化が遅れてますからね。
土蜘蛛とよばれた国を持たない、先住民もいましたし。
どれが母屋でなんて数えちゃ居られないですよ。

4人で計算しましょうか?
20万戸×4=80万人

邪馬台国連合は全体で80万人の人口ですね。

壱岐は3千戸だから×4で12000人ですね。


875 :縦目仮面:2009/09/14(月) 01:04:43
米については、いろいろデータがあって、
静岡の登呂遺跡だと12の住居跡があって、1軒あたり5人が住居していたと仮定すると人口
は60人といったところ。登呂遺跡における水田面積はおよそ8町歩と測定されてます。まあ米
以外の食料も多かったでしょうが。

876 :縦目仮面:2009/09/14(月) 01:17:29
あと、単位あたりの収量について静岡大学と(九州説の嫌いな)橿原考古学研究所の共同
研究による、登呂遺跡の復元水田で古代農法による稲栽培実での推定反収が約190kg。

877 :836:2009/09/14(月) 01:18:47
>>873
奈良時代の豪族というのは、
その前の時代でいう国造の家柄だった者が、郡司に格下げされて命脈を保っている様な感じです
郡司としての職田・位田が支給されるだけで、私有地という物が存在しません
この時代は、公地公民が建前ですから
国別に戸籍が作られ、耕地面積が計上され・・・・、それは国司の役人の仕事でした
だから、だれも誤魔化す必要はない訳です

>>874
80万人は養えないと言っているんです
九州全体で 117,448町歩 という、奈良時代の数字でさえもです
弥生時代の生産力なんて、その何分の一かでしょう
奈良時代は朝廷が指揮して、国司に命じ、民に庸を課して開墾を進めました
その結果の数字です、11万余の耕地面積は
弥生時代に、それ程までの開墾や灌漑の痕跡がありますか?
自然農法に毛が生えたほどの技術でしかないでしょう

878 :836:2009/09/14(月) 01:27:51
>>875-876
つまり、登呂遺跡とかでは稲作が主たる生産ではなかったという事ですね
もっと縄文的というか、木の実を採ったり、漁労をしたりという生活では、
人口当たり、もっと広い生活空間と自然の恵みを必要としたという事です
なおさら、大きな人口には膨れ上がらない状況ですよね

879 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 05:26:21
>>836
肥後23,500町歩あるのに、日向7,400、薩摩4,800、大隈4,800町歩ってのは
おかしいな。これをみて、データに疑問をもたないのはどうかしてる。


880 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 07:02:01
数字を使い市民を煙にまくのは詐欺師の仕事。

881 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 07:06:14
「戸」は一般人の事。
これ、中華の常識あるよ

882 :日本@名無史さん :2009/09/14(月) 07:14:03
>>877
其の前に壱岐が3000戸もあることに疑問を持たないのかな?
せいぜい1000戸でしょう、どんなにあったとしても。
農地が不足している土地なのに。
目のつけどころが変。

それを1戸あたり4.5人で数えるのはどう考えても、常識はずれ。
古代史の勉強はやめて奈良時代以降にしたら。




883 :◆.L.MXSPOgc :2009/09/14(月) 07:50:39
>>870
主張がよく分かりませんが?
張政は卑弥呼が直ぐに死ぬことが(難升米の報告か超能力か何かで)分かって、
男王が十数年後に失脚するのが(難升米の報告か超能力か何かで)分かって、
それで十数年待って壹與に告喩した、という電波な主張でよいのですか?

あとこれは「2つのルート仮説」とは関係ない話なのですが、無理にからめようとするのは何故でしょう。


884 :日本@名無史さん :2009/09/14(月) 08:05:16
1戸あたり平均3つ家を持っていると考えればいいと思う。
あんな藁葺きの掘っ立て小屋一つでは足らないですよ。
倉庫もいるし。
それをなんで異国人が一つ一つ母屋を数えますかって。
みんな千単位の数え方だから、ざっと見渡して概算した数字ですよ。
そんなこともわからないのかな。

885 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 08:09:01
>>882
南北に穀物を買い付けに行ってるんだから、農地不足は理由にならんでしょう。
今は壱岐というと田舎というイメージだけど、当時は先進地域である朝鮮半島との、
軍事・貿易の要路にあるわけだから、三千許家あってもおかしくない。

886 :日本@名無史さん :2009/09/14(月) 08:20:21
>>882
家を数えるばあい、家族の戸数で数えたりしませんよ。

家の単位だって「家」だったり「戸」だったりしているでしょ。
数からみると、家も戸も同じ意味に使っている。
これは家のほうですね。建物の意味です。

887 :日本@名無史さん :2009/09/14(月) 08:22:36
>>885
要するに耕地面積で何人の人口を養えるなどという計算は、
弥生時代には全く見当違いの計算だということです。

888 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 08:39:15
数字を使い話しを纏めようとするのは詐欺師ぐらい。

889 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 08:42:12
人は数字に流されやすい、ましてやそこに計算が加わると
ころりと騙されてしまう。数字を使いたがる奴には気をつけよう。

890 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 09:12:23
>>883
横から失礼します
張政が来たのが壹與擁立後だとして、
それまでのゴタゴタの間、狗奴国との争いはどうなってたんでしょう?

891 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 09:22:23
>>879
延喜式による国の等級によると、

肥後は九州で唯一、「大国」となっている。日向、薩摩、大隅は「中国」。
壱岐、対馬は「下国」。そのほかの国(肥前、筑前、筑後、豊前、豊後)は
「上国」。

序列は、大国>上国>中国>下国

892 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 09:23:31
張政が擁立後に訪倭したのなら、壹與に告喩なんてしねえよ

893 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 09:31:21
>>887
そうではないよ。
30カ国のなかの1国の食糧は、他国から融通できるが、30カ国全体は、他からどうやって融通するの。
レベルが全然違う話を混同しているのか、誤魔化しているのか。

壱岐の三千許家という少数なら、壱岐の耕地で足りない分を、九州や朝鮮から輸入することは可能。
しかし、倭国全体をみると、略載されている戸数合計15万4千戸と名前だけの21カ国、それと狗奴國。
これだけの人口を養う食糧を、どこで調達するの。

しかも、一大國が南からも穀物を買い付けているのだから、
九州では食糧を輸出できる状況にあったことになる。
九州内で15万4千戸と22カ国の食糧を全部供給していたというのは考えにくいだろう。

894 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 09:32:25
壱岐の2009年の人口は29,500人
1800年代は27,000人
1700年代は20,000人
壱岐の人口は余り変化がない。

895 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 10:49:26
>>893
韓伝に書いてある朝鮮半島の国々の戸数などは信用するのかな。
それとも、全部信用できないという考え方かな?

896 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 11:07:43
>>895
畿内説をとる以上、方角は間違いだと言う事になる。
だから、戸数についても絶対に正確とは言わない。

しかし、九州説で、方角も正確、距離も短里で正確、と主張するなら、
当然、戸数も正確と考えるのが妥当だろう。

畿内説にとっては、戸数が正確でも食糧は供給できるし、正確でないなら検討の必要はない。
九州説は、戸数を正確なものとして食糧供給を合理的に説明する必要性が生じる。

897 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 11:10:43
結局九州説でも矛盾だらけという事です。


898 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 11:32:18
食糧供給を合理的にって馬鹿じゃね?
資料が何も無いのに、上手く妄想組み立てろってことか?
おまえらの話し聞いていると、まるで米が栽培されていない時代は人が住んで居なかったみたいだわ

899 :日本@名無史さん :2009/09/14(月) 11:36:33
>>893
米は一般人は殆ど食べられなかった。

それだけのこと。

それと1戸は1家のことで、建物のこと。
馬鹿みたいに1戸あたり5人などと計算するほうがおかしい。

900 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 11:49:40
>>896
韓国の戸数を正しいとみれば、九州が総戸数20万ぐらいは十分に考えられる。
北九州説は北九州だけで20万戸ということになり苦しいだろうが、九州全体
で20万戸ならば、何も問題はないよ。壱岐が三千、九州全体でその70倍ぐ
らいは当然のところだろ。従来の人口推計を見直すべきだね。


901 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 11:50:48
>>899
>米は一般人は殆ど食べられなかった。
おしんとか水戸黄門の見過ぎでね?

902 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 11:52:46
家は貴族や公務員の事だろ?一般市民は家なんて言ってもらえない。
日本だって一般家庭を家と言ったのは、最近の話しだ
昔の家は、武家か公家だけ

903 :日本@名無史さん :2009/09/14(月) 11:56:08
>>900

韓国の家は穴居がほとんどなんです。
寒いから。穀物も米は殆ど作れないので、高床の倉庫はいらない。
一家族に付き1戸で十分。
みな穴の中の生活空間ですませられるから。
倭国の状況と同じと考えたら、大間違い。

904 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 11:57:06
>>899
>米は一般人は殆ど食べられなかった。

米に限らず、人間は穀物を食う。その他の食糧も食う。その栽培には耕地が必要。
一般人が米を食わなかったからといって問題が解決するわけじゃない。
對馬國一大國の条にある糴とは、米に限らず、穀物を買い入れること。

>それと1戸は1家のことで、建物のこと。
>馬鹿みたいに1戸あたり5人などと計算するほうがおかしい。

魏の使者は空き家を数えて回ったわけではあるまい。
家には人が住む。人は物を食う。
それを計算しない方がおかしい。

905 :日本@名無史さん :2009/09/14(月) 11:57:29
>穀物も米は殆ど作れないので
訂正
穀物の米は

906 :日本@名無史さん :2009/09/14(月) 12:04:49
>>904
何十万戸も一つ一つ数えて回ったと考えてるの?
辺りを見渡して概算で計算したってことが想像できないかな・・・。
単位が千単位ですよ。
ここがこれ位だから、全体で幾つで・・・という計算。
だから、水増しになっているし、
母屋ではない家まで数えたと思うから、
大分、実際の戸数より多く数えていますよ。
そういう想像しないのかな。



907 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 12:09:41
↑妄想乙

908 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 12:14:09
>>900
韓国は、その北に帯方郡楽浪郡遼東郡がある。
しかし、倭国を九州内に限定すると、その東は、
「東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有シュジュ國在其南」
という状況。
食糧供給という面では、倭国と韓国を同列には比較できないと思うよ。

>>906
説明がつかないと、きっとそれは実数よりも多めに数えたはず。
でも、距離と方角は正確。
それは御都合主義というものでしょう。

909 :日本@名無史さん :2009/09/14(月) 12:18:29
>>908
距離方角は正確です。
戸数は概算。
↑普通の思考

距離方角は誤り。
戸数は正確。
↑の畿内説

いつまで畿内説にしがみついているんだか。


910 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 12:48:13
>>909
そう思いたいのはわかるが
距離方角はほぼ正確
戸数は概算
が、畿内説の主流ですから。

911 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 12:53:19
女王国とは瀬戸内海を中心とした、
西日本連合諸国で、奴国が伊都国を中心とする
北部九州地区との境界線です。

狗奴国は南九州一帯勢力で、投馬は出雲(丹波)です。
これで各種文献や伝承上との整合性も一致しますから。

912 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 12:55:52
しねえよ。

913 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 12:57:49
>>906
当時だって徴税制度、徴兵制度があるだろう。戸数は当然分かるんだよ。
たとえば、10戸に組長、10組長に班長、10班長に大班長などと組織をつくって
いるとする。大班長が何人いるかで、戸数が出るだろ。

914 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 13:00:32
>>911
>女王国とは瀬戸内海を中心とした、西日本連合諸国で

その意見は巻向の研究成果と一致しない。畿内説論者なら失格だ。

915 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 13:14:31
>>911
一流の詐欺師にはなれないってよ。

916 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 13:22:40
>>914
瀬戸内を中心という事で、
勿論東海地方等も対象国です。


917 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 13:29:52
有は所有を示し、確認済みの戸数であり
可は推測が可能を示し、推測値の戸数である。


918 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 13:32:14
女王国とは伊都国の女王が治める北部九州の国々のこと。
邪馬台国は女王国が更に発展したもの。

919 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 13:42:15
ゆとり

920 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/09/14(月) 13:49:04
>>913
>当時だって徴税制度、徴兵制度があるだろう。戸数は当然分かるんだよ。
>たとえば、10戸に組長、10組長に班長、10班長に大班長などと組織をつくって
>いるとする。大班長が何人いるかで、戸数が出るだろ。

上記が確認できるのは、隋書俀國伝。
6世紀初頭にも律令と元号が確認できるので、上記制度の存在を推測できる。
古くは半島に派兵し始めた4世紀末にも上記制度の存在を推測できる。
上記制度の原型が無いと半島派兵は無理。



921 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 15:11:00
>>918
万二千里がまったく説明できないな。

922 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/14(月) 15:12:30
>>876 登呂遺跡の復元水田で古代農法による稲栽培実での推定反収が約190kg。
ほぼ妥当な数字ではないかと思う。私が子供の頃住んでいた田舎では農薬もなく、肥料は堆肥であったが
反当6〜7俵であった。一人1日3合の米で生活していた。登呂遺跡では1反で1人養えただろう。

弥生時代は玄米を食べていただろうが、玄米は普通の釜で白米のように炊くと失敗する。私はいろいろ実験
してみたが、玄米を半日水に浸けておいて、それから30分以上蒸して食べるのが一番おいしいと思う。硬い
けれども十分に噛んでいると旨いと感じる。もっと美味しいのは、籾のまま水に数日浸してのち釜で煎ったも
のだ。歯が悪いと食べられないが外出するときの携行食や非常時用の保存食としていいと思う。


923 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/14(月) 15:32:40
>>918
弥生時代に九州が先進文明地域であったことは地理的条件から言っても、鉄器の出土状態から言っても妥当な
考えでしょう。倭人伝の記述からは邪馬壹国が九州内にあることが分ります。しかし、伊都国に女王がいたな
どとは倭人伝のどこにも書いてありません。居たのなら伊都国の記述のところで女王之所都と書いてある筈で
す。それはなくて、邪馬壹国のところで女王之所都が出てきます。正しく読みましょう。

924 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 16:29:15
>>922>>923縄文人

遺跡や出土品を重要視しないのが君の立場だった筈だが・・・


925 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/14(月) 16:44:28
>924
遺跡や出土品で全てを語らない。遺跡や出土品の年代や意味を考えている。誰が見ても間違いがないものはそれなりに
評価している。箸墓でも築造年代が確定すれば言及する。決して軽視はしていない。遺跡や出土物についてこれまでに
推測されていることを鵜呑みにせず、自分で納得できるまで考える。これが私の姿勢だ。

926 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 17:51:21
もともと魏志倭人伝は倭人や倭国について扱ったものであり、韓国について記述されたものではない。

927 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 18:57:05
>>925

「〇〇古墳から鏡が出土しました。」

「あ、そう。」


この姿勢が基本です。

928 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 18:58:08
>>925
>誰が見ても間違いがないものはそれなりに評価している。

誰がみても間違いない ってどういう意味?
例えば、弥生時代に九州に鉄が多いって、貴方は何に基づいていってるの? 貴方が使う「弥生時代」の定義は何?

929 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 19:25:47
>>925
縄文人の牽強付会をみた。

930 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 20:38:25
原文を読んだわけではないが、東夷伝では
馬韓は十余万戸、辰韓・弁辰あわせて四、五万戸。

ちなみに親魏大月氏王のクシャンは戸十万。
280年当時の晋の河南郡は十一万四千四百戸。

931 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 20:44:29
>十一万四千四百戸。
これはある程度数えたといってよい数字だな。

932 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 21:03:33
ほう、洛陽のある所で11万戸程度か。

933 :◆.L.MXSPOgc :2009/09/14(月) 21:04:34
>>844
なるほど、卑奴母離=鄙守・夷守で軍事職なのですね。
一大率の配下の役職と考えても一応意味は通るか・・苦しいかw

鄙=辺境、伊都=都、の対比も・・苦しいかw

934 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 21:10:57
よく、「倭に近いため倭人に似て」と書かれているから列島の倭人の方が先人なんだろうな
韓伝や倭人伝の倭人は列島出目だというのがはっきりしているし

935 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 21:12:10
>>933
勉強になったろ?


936 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 21:17:05
>>933
大体、縦目はそんなこと書いてないだろw
終止符スレからの引用バレバレwww

937 :◆.L.MXSPOgc :2009/09/14(月) 21:27:06
>>890
張政がいつ来たのかとは関係なく、後継者争いの間は狗奴国とはどうだったのかということでしょうね。

卑弥呼が死んで後継の男王が立ったもののごたごたする。
大国の邪馬台国相手としてもこれに乗じて攻めれば狗奴国はかなり楽な戦いになったはず。
しかしこのごたごたが、ごく短期間なら期を見ているうちに壹與で固まり逃してしまう、という事になったのかも。
逆に1年とか10年とかいっている場合は、それこそ狗奴国何してるの?ということになるでしょうか。

ちなみに私は、266(265?)の入貢は壹與ではないと(漠然とですが)見ています。
その後290年くらいまでに狗奴国が九州を統一し半島へ進出。
4世紀に入ると畿内ヤマトの勢力が伸びてきて九州を制圧、390年あたりから神功皇后の半島への進出。
という流れだったのではないかと私は考えています。


938 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 21:27:08
夷守岳(宮崎県小林市) 別名 生駒富士
東側に高千穂峰 西側に韓国岳がある。
http://www16.plala.or.jp/yuttarisan/hinamoridake2007.html

939 :縦目仮面:2009/09/14(月) 21:40:35
935は俺でないです。
・・・なんかね、自分一人の、特に頭の中だけで考えたことっていうのは、正しいように思えても
意外とそうでもないんですよね。変な例えだが、ゴキブリが狭い箱の中であっちぶつかり、こっち
ぶつかりしてるような。結局、自分の持ってるものの中でしか考えられない。

例えばマルクス経済学やモルガンの社会進化主義にしても、実証主義の台頭によって否定され
る事例がボロボロ出てくるようになった。あれほどの碩学にしてもね。

940 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 21:47:17
マルクスの人って、縦目仮面だったの?

941 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 21:50:18
>>937
日本書紀には、「(神功皇后)66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初
(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」と書かれている。

泰始二年(西暦266年)に倭女王が晋に朝貢したという記録である。
倭女王というのは、台与の可能性が高い。少なくとも卑弥呼ではない。
しかし、日本書紀は、これも神功皇后の時代としているらしい。

中国の記録にも詳しいわけだから、卑弥呼と台与の違いくらいはわかって
いるはずなのに、なぜか、卑弥呼と台与を合わせて神功皇后にしようとして
いる。

東遷説的には、というか個人的には卑弥呼+台与=天照大神と考えているわけ
だが、これを正しいとした場合、やはり卑弥呼と台与の二人が天照大神一人と
されている。

942 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 21:54:30
んじゃ、外宮の豊受大御神は?

943 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 21:56:39
ハンドルネーム盗む九州○朝に比べたらマシか

944 :縦目仮面:2009/09/14(月) 21:59:26
>>940
あのオカルト博士のことなら、俺の後輩。

945 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 22:02:48
>>940
縦目仮面は借金取りだ。

>>939
縦目、俺に早く債権10%で売れよ。俺が徹底的に追い込みかけて回収するからよ。
爪の下に針を通せばイチコロだぜ

946 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 22:03:04
>>942
豊受大神と台与は関係ないと思う。

947 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 22:10:18
縦目にコビ売ってどうするw

948 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 22:22:52
>>937
後継者争いの間、結局手を出しそびれていた、ということですかね。

ただの推測ですが、
張政が「詔書・黄幢を齎し、檄を告喩し」て
魏の外交方針が邪馬台国支持だとはっきりしたから
狗奴国は鉾を収めたと思うんですよ。
中国貿易の枠組みからはじき出されては食っていけないですから。

だから、張政が来る前に後継のごたごたがあったとするなら、
「それこそ狗奴国何してるの?」と腑に落ちなかったわけです。

ちなみに、司馬氏政権が健在な間は
交易の枠組みおよび邪馬台国体制は堅持されたのではないでしょうかね。

レスありがとうございました。


949 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 22:23:17
縦目。なにだんまり決め込んでえーんだ?
債権売るのか売らねーのかハッキリしろってえーんだ。
俺が本物の債権回収ってえのを見せてやっからよ。1000か2000か?
債務者には嫁はいるのか?回収には必要なアイテムだし、何時までも取れない債権抱えていたーて
しょうもねーだろう? 俺が1割バックするから債権売りな

950 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/14(月) 22:28:36
>>928 何時も覗いているわけではないので返答が遅くなった。
<誰が見ても間違いないってどういう意味?> 答:文字通りの意味です。地層の下の方にある出土物は上の方にある
出土物より先に埋まったなど。
<弥生時代に九州に鉄が多いって、貴方は何に基づいていってるの?> 答:例えば鉄鏃など。
<貴方が使う「弥生時代」の定義は何?> 縄文時代の後ろで古墳時代の前。

>>929 <縄文人の牽強付会をみた。>   見せてないよ。

951 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 22:32:22
>>950
> 縄文時代の後ろで古墳時代の前。

それはどこで線をひくの?

952 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 22:32:54
>>923
伊都国と考えられている平原遺跡は女王のものと見られ
魏略には伊都国の説明に「其国王皆屬王女也」とあり
伊都国王は女王であったとある。

953 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/14(月) 22:41:50
>>951
縄文時代と弥生時代の境ははっきりしない、地域によっても若干のずれがあっただろう。例えば、九州と関東、
東北では100年くらい違ったかもしれない。紀元前5〜6世紀あたりかな。弥生時代と古墳時代の境は3世紀末
くらいだろう。

954 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 22:48:53
>>952
>魏略には伊都国の説明に「其国王皆屬王女也」とあり伊都国王は女王であったとある。
学者でそんな読み方をしている人がいますか? いたら教えて下さい。

955 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/14(月) 22:53:53
>>952
<平原遺跡は女王のものと見られ >
女性の墓でも構いませんが、これが卑弥呼の墓だとおっしゃるんですか?
<魏略には伊都国の説明に「其国王皆屬王女也」とあり 伊都国王は女王であったとある。>
私には「伊都国王が女王であった」とは受けとれません。王女に属するとだけ書いてあります。
穿った見方をすれば「邪馬壹国の王女が輿入れしていて王はその王女に頭が上がらない」。冗談ですよ。


956 :縦目仮面:2009/09/14(月) 22:54:29
うくく、借金取りはもうやめました。あとご推察のとおり邪馬台国殺人事件は俺です。

縄文人は水稲耕作で区分しているのかな?

957 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 22:54:31
でも、九州はなぜか女の墓が多いんだよね

958 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 22:57:21
伊都国の王が邪馬台国の王をも兼任していたと考えれば
其国王皆屬王女也の解釈も全然違ってくる可能性有り

959 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 22:57:38
>>953
>紀元前5〜6世紀あたりかな。弥生時代と古墳時代の境は3世紀末くらいだろう。

だから、その実年代に根拠は何?

960 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/14(月) 23:05:40
>>959
しつこいお方だねえ。実年代の詳しいことが分ったら教えてやる。今検討中だ。

961 :縦目仮面:2009/09/14(月) 23:11:54
>>957
別に九州には限らない。オオヒコスレの男系・女系の議論でこれもさんざんやったんだが、

前期古墳について、この時期につくられた小型・中型の古墳322例のうち男性44%・女性24%
・男女とも16%・不明その他16%、 
大型古墳46例のうち、男性24%・女性20%・男女とも20%・不明その他36%。
(間壁葭子「婚姻の考古学」)
 
まあこれは形質人類学というより、副葬品からの推定が多いだろうから、それほど信頼度の
高い数値ではないかもしれない。しかし、女性の地位はかなり高かったとはいえるだろう。

962 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 23:24:15
>>960
>実年代の詳しいことが分ったら教えてやる。今検討中だ。

いえ、そうではなくて貴方の書いた「3世紀末」は何に拠ったものか。訊ねてるんですよ。
今後の検討課題を伺って居るのではないのです。まさか、根拠もなしに書かんでしょう?
でも、「今検討中」という事は「根拠はこれから考える」と受け止めざるを得ませんが、いかがですか?


963 :日本@名無史さん:2009/09/14(月) 23:33:58
>>956
>借金取りはもうやめました
やめたんなら未回収の債権が残ってーんだろ?
それを10%で買い取るって言ってんだよ。
回収なんていうのは、素人さんが手だしするもんじゃねーし、回収できるもんでもねー
一歩間違えばお縄な世界だ。
お縄になんかなったら銭がいくらあっても足らねーぐらい弁護士先生のぽんぽに入っちまう。
回収のプロはギリギリのところで回収するから任せときな

964 :ローガン:2009/09/14(月) 23:39:11
>>961
間壁さんといや、石の宝殿の論文がありましたが、あれは今の考古学ではどのように考えられているのでしょう?
私は益田岩船との類似を想像して石室だと思いますが。
木が生えているんだから、巨岩は削られてると思います。

965 :縦目仮面:2009/09/14(月) 23:42:39
>>942
あと俺に答えられそうなのはこれかな。
豊受大御神は、伊勢神宮外宮の社伝では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、丹波の国
にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさいと言われたので、
丹波国から伊勢国の度会に遷宮させた、とされている。

丹波の国といえば、もちろん豊鍬入姫命が笠縫邑から天照大神を最初に移した地であり、元
伊勢の一つ。調べれば、豊受大御神と豊鍬入姫命との繋がりはまだあるんだが、ただこれは、
あくまで伝承で根拠とはなりにくいものだし、もちろん=台与というつもりもないけどね。

966 :縦目仮面:2009/09/14(月) 23:47:05
>>964
何らかの石室なんでしょうが、面白いものですよね。

967 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/14(月) 23:58:46
>>962
弥生時代と古墳時代では文化の面でかなり大きな変化(墓制や政治や軍)があったと考えます。倭人伝に
記された倭の姿が弥生時代の後期のものでしょう。それは壹與の時代まで続いたでしょう。邪馬壹国の晋
への朝貢(266)以後倭からの大陸王朝への朝貢はしばらく途絶していますが、3世紀後半に列島に政治
的にも文化的にも大きく変わる事態が生じたのではないでしょうか。大量の渡来人の流入、騎馬の流入な
どです。これらが列島内の勢力地図の変化につながったのではないか。

968 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 00:08:26
>>962
そんな形跡は未だに見つかってません
もう随分前に否定されてます

969 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 00:09:14
アンカーミス
>>967

970 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 00:09:53
>>954
他にどのような解釈があるのでしょう?
「其国王皆屬王女也」は
其国=倭です
伊都国にの王は魏略では単数です(「世有王」と無いから)

971 :縦目仮面:2009/09/15(火) 00:11:13
>>953
>弥生時代と古墳時代の境は3世紀末くらいだろう。
>>967
縄文人は箸墓年代4世紀半ばでしたっけ?では、弥生時代から古墳時代への移行の指標
はどの古墳なんですかね?それとも古墳ではないと?

972 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 00:27:26
>>961
副葬品から男女の区別が出来るかどうか。
たとえば、平原遺跡の場合は女性と言われることもあるが、その根拠は薄いと
思う。剣類がないとか、玉類が多いとかを根拠にはできないと思う。

ただ、全ての鏡が割られてから棺に納められたらしいというのはかなり気になる。
もちろん、性別には関係ないが。

973 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 00:35:40
>>967
騎馬の流入?そんな無形な説はとっくに大多数に否定されてるんだよ!
つーか所詮、縄文の幼稚な知能じゃ無理だから、出しゃばって出てくんな


974 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/15(火) 00:41:24
>>968
騎馬民族征服説のようなことではありませんよ。3世紀末から4世紀にかけて中国東北部から半島にかけてかなり
大きな人の動きがあったと推定されます。高句麗に攻められた百済系の人々が列島に逃げ込んできたり(そのとき
馬を連れてきた可能性があります)、倭人が半島の戦争に関係したりと、倭の社会に大きな影響を与えたのではな
いかということです。

>>971
箸墓の築造年代は未だ確定していないというのが私の見解。推定としては、早くても3世紀末、4世紀が妥当なと
ころではないか。
<弥生時代から古墳時代への移行の指標>  答えにくい。文化的、政治的、軍事的にかなり大きく変わったと思
うが、ある日突然変わる筈はなく、移行期があるだろう。墓のどれが指標かは今は言えん。


975 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/15(火) 00:45:09
>>973
おまえさんと幼稚園に入り直そうか。

976 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 00:49:20
>>970
王女は逆転させて女王と解されているようですね。邪馬台国研究総覧には次のようにあります。

橋本は、〜 魏略に記された「其国王皆屬女王也」の一文に注目して、「魏略本文について考えれば、
対馬・一支・末盧・伊都と順次にその大官及び副官を掲げし後、乃ち之を受けて其国王皆屬女王也とい
うのであるから、其国王とは以上列挙せし各国の国王を意味するものとして認めるべきかの如き文脈を
なしているのである・・・」と述べている。〜皆を対馬以下の各国の王とする見解は白鳥をはじめ賛同
する学者が多いが・・・

977 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 00:49:31
劣等感の塊だからな〜縄文人は


978 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 00:50:28
>>967
>3世紀後半に列島に政治的にも文化的にも大きく変わる事態が生じたのではないでしょうか。大量の渡来人の流入、騎馬の流入などです。

論点をずらさないで。貴方の説を聴きたい訳ではないのです。
弥生時代の終わり これは当然、考古学上の区分です。貴方は考古学の知見に於いて万人が認めるもの以外は採用しない、という内容の書き込みをしましたね。
貴方は当然、その姿勢で3世紀末が分岐点であると述べている訳です。
よって、万人が認めている考古学上の知見に基づいて、考古学上の区分である弥生と古墳の変わり目が3世紀末であるとする根拠は何か?を訊ねているんですが。

979 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 00:52:25
>>972
>全ての鏡が割られてから棺に納められたらしいというのはかなり気になる。
一度、埋められてから、墓を暴かれたんじゃないかな。


980 :縄文人 ◆cM49xEAzX6 :2009/09/15(火) 01:03:33
>>978 <貴方は考古学の知見に於いて万人が認めるもの以外は採用しない、という内容の書き込みをしましたね>
そう受けとられましたか。私は遺跡、出土物について誰がみても間違いないものは評価する としか言っていませんよ。
弥生時代と古墳時代の変わり目がいつかと聞かれれば、私は3世紀末くらいが妥当だと言っている。これは万人が認め
ているわけではないだろう。967と974は私がそう考える理由を述べたのだ。

981 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 01:07:13
>>977
馬鹿な書き込みはやめたほうがいいよ。テーマに関係のあることで自分の意見を言えばよいだろ。

982 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 01:44:49
>>909
距離方角戸数、
どれも、そんなに正確な訳ない。
(3c、伝言ゲームの結果だから)
↑普通の思考 畿内説

距離方角は正確
戸数は概算
(都合が良い所は正確で、都合が悪い所は概算というのは御都合主義でしょう)
↑九州説

983 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 01:45:52
>>980これで最後にします。
>私は遺跡、出土物について誰がみても間違いないものは評価する としか言っていませんよ。

だから、それ誰が見てもじゃないでしょ?貴方のお眼鏡に叶ったものは評価する、でしょ?
誰が見てもなんて貴方に判る訳ない。自分の考えと齟齬をきたすものについて、「確定事項ではない」として自説以外のものの根拠に使用させるのを牽制してるだけなんですよ。
気づいてないでしょ。



984 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 03:09:27
最初の馬は船で数頭連れて来ただろう
そこから馬を増やす飼育が始まった
戦闘に大規模に馬を使うことはなかった
何が言いたいかというと、日本では馬は大変貴重な生き物で
日本に騎馬民族など渡って来てはいない

985 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 05:26:04
>>984
詳しいですね
類は類を呼ぶ というやつですな
貴方が詳しければそうゆう人ばかりあつまる 博士ぽいです

986 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 05:48:04
類は友を呼ぶ 

987 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 06:42:34
類は自演を呼ぶ、てか。

988 :◆.L.MXSPOgc :2009/09/15(火) 07:56:33
>>982
次の間違いでしょ。

畿内説
・方位でたらめ
・距離でたらめ、途中から日数(距離ですらない)
・戸数でたらめ

九州説
・方位、4方位の範囲で正しい
・距離、短里的記述で正しい
・戸数、伝聞情報程度に正しい

畿内説はこれに、卑弥呼もでたらめ、邪馬一国も邪馬台国もでたらめで畿内ヤマトの間違い、というおまけも付きますね。


989 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 08:53:04
>>985
頭大丈夫か?何処が博士なんだかよ。

990 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 09:11:52
>>988
頭大丈夫?

991 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 09:48:50
>>988は正しいと思います。
頭大丈夫?は990自身のことでしょう。

992 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 09:54:04
>>988
食糧が足りるか足りないか。
人口に大幅な違いがある。
伝聞程度に正しいなんて、とても言える誤差ではない。
言葉の誤魔化しだ。

993 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 10:14:22
>>991
自演乙。

994 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 10:22:16
>>992
どれだけの食料があったか分からないのに足りるも足りないもないだろう。
大幅な違いって言うのは、思い込みとの違いに過ぎん。

995 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 10:22:22
>>992は何のこと?
「・戸数、伝聞情報程度に正しい 」に異論があるなら
分かるように書いてください。


996 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 10:27:38
一大国の三千家を15,000人として
壱岐の人口は3世紀から今日まで倍にしかなっていない
でも特におかしくはない
3世紀の壱岐は交通の要所で先進地域
現在の壱岐は僻地で過疎地域


997 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 10:53:58
>>995
>>836以降の流れを読んでないのかな

998 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 11:35:45
戸数だって、疑うべき理由は何もないよ。

999 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 11:58:47
>>997
自分は九州内に在ったのは邪馬壹国と狗奴国だけで
邪馬壹国の7万戸と狗奴国(不明だが仮に5万戸として)計12万戸ほど
九州の人口60万人となる
水田以外にも畑作や漁労あるので十分に現実的な数
3世紀から奈良時代にかけて急激な人口の増加はなく
3世紀の人口は奈良時代の60〜80%くらいでしょう。

1000 :日本@名無史さん:2009/09/15(火) 12:19:23
1000なら邪馬台国は畿内説で決まり

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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