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【四道将軍】オオヒコノミコト【稲荷山鉄剣】bQ

1 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 15:29:26
★話題とする事項
  ・オオヒコ  ・四道将軍  ・稲荷山古墳鉄剣銘文  ・ワカタケル(雄略天皇?)
  ・崇神天皇(崇神朝)  ・孝元天皇  ・欠史八代
  ・東国支配  ・男系と女系  ・・・・その他

☆参考意見1
「稲荷山の鉄剣からは系譜に大彦命の名前がある
大彦は孝元の皇子であり、皇子が存在したいうことは父親もいたということだろ
孝元が実在したかどうかはともかく、少なくとも5世紀には認知されていた人物だった
彼らは決して記紀の創作ではない」

☆参考意見2
「それならばなぜ鉄剣銘文に大彦以前の系譜を書かない?
大彦はその父が孝元天皇で、もうちょっとさかのぼれば初代神武天皇に行き着く。
ヲワケという稲荷山の被葬者の一族が自分達が名門の出であると誇りたいなら
そこまでやる筈だ、
それにあと数代さかのぼりさえすりゃ皇祖神のアマテラスじゃないか、
単にワカタケル大王に仕えていたと書くより、ずっとずっとハクがつく。
しかし稲荷山鉄剣銘文は大彦止まりだった
それゆえこの5世紀段階の銘文は、人々が記紀のような天皇家系譜をまだ全然
考えもしてはいなかったことを明瞭に示している、
神々ー神武ー欠史八代のタテ系譜は、6世紀以降8世紀までのある段階から
生まれたと見る」

■前スレ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1244377043/

煽り、粘着禁止。荒しはスルー。出来るだけソースを出すこと。良識ある言動を。


2 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 15:42:38
辛亥の年七月中、記す。

ヲワケの臣。
上祖(かみつおや)、名はオホヒコ、
其の児タカリのスクネ。
其の児、名はテヨカリワケ。
其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。
其の児、名はタサキワケ。
其の児、名はハテヒ。
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。
其の児、名はヲワケの臣。

世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。
ワカタケ(キ)ル(ロ)大王の寺、シキの宮に在る時、
吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

3 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 15:58:32
『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』によると、
大彦の命は、阿倍朝臣、布勢朝臣、阿閇臣、高橋朝臣、阿閇朝臣、膳臣などの祖先とされる。


大彦━┳━建沼河別命━┳━豐韓別命━┳━大鳥臣━
      ┃              ┃            ┃
      ┃              ┣━意布比命  ┗━大臣命
      ┃              ┃
      ┃              ┗━磐鹿六雁命

4 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 18:01:31
オオヒコ    →大彦
タカリスクネ  →@彦屋主田心命(ヒコヤヌシタコリノミコト)
テヨカリワケ  →A豊韓別(トヨカラワケ)

@、Aは『本朝皇胤紹運録』での大彦の子孫であり、別の伝承との整合性もある。

テヨカリワケ →A豊韓別(トヨカラワケ) のどっちが元の名前に
忠実かと考えると、「トヨ」や「カラ」のある後者。

タカリスクネ →@彦屋主田心命(ヒコヤヌシタコリノミコト)も、「タコリ」という
頻度の高い名前の方が元の名前に忠実だろう。

となると、稲荷山の鉄剣は、東国なまりの呼び名をそのまま銘文に書かせたと言える。
その東国なまりの先祖系譜を覚えていたのは、剣の所持者その人である可能性が最も高い。

となると、「オオヒコ」だけが架空という考えは、ちょっと無理。


5 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 18:27:42

オホヒコ        →大彦
タカリのスクネ    →彦屋主田心命(ヒコヤヌシタコリノミコト)
テヨカリワケ     →豊韓別(トヨカラワケ)
タカヒ(ハ)シワケ  →高橋(大彦の後裔氏族)
タサキワケ       田崎?
ハテヒ         ?
カサヒ(ハ)ヨ     →笠原
ヲワケの臣 


6 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 18:30:24
辛亥の年七月に記します。
わたくしはヲワケの臣です。
遠祖の名は大彦命、その子は屋田心命、その子は豊韓別、その子は高橋別、その子は多沙城別、その子はハテヒ、その子は笠原、その子がわたくしヲワケの臣です。
先祖代々親衛隊長として大王に仕え、今に至って折ります。大泊瀬幼武大王が磯城の宮にあるとき、私は大王が天下を治めるのをお助けしてきました。
そこで、このよく鍛えあげられた刀をつくらせ、私が大王にお仕えしてきた由来を記しておくことに致します。

7 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 19:42:52
前スレ終盤のウィキ厨はもう出てくんなよw

8 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 20:28:23
欠史八代は母系大王時代をあたかも父系であるかのように偽作したものと結論が出ていたように思うが。
わざわざ次スレが必要か?

9 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 20:36:25
>>7
相手になってやるから何か書いてみろ
アホ

10 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/07(火) 22:03:29
孝昭天皇93年〜118年
孝安天皇119年〜144年 
孝霊天皇145年〜163年
孝元天皇164年〜182年 大彦誕生169年
開化天皇183年〜187年
崇神天皇188年〜215年 武濡河誕生189年、六雁誕生209年
垂仁天皇216年〜238年 タカハシ誕生229年
景行天皇239年〜260年 タサキ誕生249年、 日本武尊誕生240年、若武誕生258年
成務天皇261年〜264年
仲哀天皇265年〜273年 ハテヒ誕生269年
神功皇后274年〜323年 カザハヨ誕生289年、ヲワケ誕生309年、若武死亡312年
応神天皇324年〜366年
仁徳天皇312年〜399年
履中天皇400年〜405年
大彦から単純に20年で繋ぐと。
武濡河≒彦屋主田心命 崇神、垂仁に使える
イワカ六雁≒豊韓別 景行に使える、大彦の孫
高橋 六雁を祀る高橋神社
田崎? 俺は半島 多沙城まで行った?
ハテヒ? ここ〜は火の国最果ての〜 熊本? 熊本と云えば。
カザハヨ≒風早国 伊賀の郡。猿田彦の~、始め此の國を伊勢の加佐波夜(かざはや)の國(伊勢國)に屬けき。カザハヨとも読める。
風早は、垂仁時代、アヘ武濡河が入る、それ以来の土地。

ヲワケは、日本武尊の子若武の時代を生きた。
シキの宮は、日本武尊の陵墓の在る土地。河内のシキ。
墓標より、若建王命/小碓子 戊寅年11月6日55才 312年没



11 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/07(火) 22:09:05
>>10

曲学の徒氏掲示板

No.9295
>天皇の無い時代に天皇の名を持って来てどうする?

12 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 22:20:07
>>9
「ウィキ厨」と言われたら湧いて出てきたかww!
分かりやすいな、オマエww!

(前スレでユーカラを初めとする世界の口承については、その正確な伝わり方について世界的に注目する研究者がいることを指摘するレスに対し、「口承の伝わり方なんか不正確」と反論する>>9
ならばと、口承の伝わり方は不正確なものとする主張を述べた『具体的な出典』の提示を再三求めたところ、自説を繰り返すばかりで一向にソースの提示に応じない>>9
それで皆に責められてとうとう最後に出してきた論拠は誰が書いたものかもわからないウィキペディアww!)
当然、皆の笑い者になってしまう>>9w。
そんな>>9の往生際の悪〜い言い訳www↓

前スレ>>999
>提示できないから負けか。
>子供の相手は疲れるよ。

>なんで口伝が変わらないとか、言い切れるのか理解に苦しむ。
お前の根拠として提示したユーカラにしても誕生してから変わってないとか本気で思ってる?


学問板で具体的な出典の提示を求めることは「子供」の所行なんだそうでww

13 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 23:14:57
>>4
彦屋主田心命は大彦の子の大稲輿命の子
豊韓別とは従兄弟の関係だけど?

ttp://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208.htm

14 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 23:19:16
まあ相手にしてやるよ。
まず、焚書されるってのは、一度書かれた都合が悪い箇所を書き替えられないから。
これは理解できるか?
天皇記国記が蘇我蝦夷と一緒に燃えたのもそのため。
一度書かれた書物は写本されるから内容はわりとそのまま伝わる。
記紀は特に勅で作られたものだから尚更

15 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 23:20:43
ユーカラ馬鹿また出たのか

16 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 23:37:51
そもそも口承がほとんど改変されずに伝わる、なんて前提がおかしいだろ。
なんでそんなことが言えるのか。

17 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 00:01:32
>>14-16
自演乙 (´_ゝ`)


18 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 00:14:20
ユーカラか。これも激しく専門外だが・・・・。知里真志保氏の研究によれば、ユーカラの4
分類のうち、原初のものと考えられるカムイユーカラは、動物神、植物神、自然神が主人公
となって自叙するものである。yukar はおそらくyukーkar に基づき、それは「獲物を・為す」
→「獲物の・真似をする」が原義と考えられる。熊、狐、貝、鯨等ありとあらゆるものが神と
呼ばれる。

アイヌの自然神謡は、自然神である対象に同一化し、そのまま真似をする点で、精霊信仰
の延長上に位置している。しかし、時代を経て、特殊なシャーマンしか同化できなくなってい
くことや、対象がある特定の動物などに絞り込まれていくなど、精霊信仰が退化する過程が
示されている。そして、人間のユーカラである英雄詞曲まで至ると、同類闘争圧力を背景に、
各部族ごとの歌謡が生まれ、自部族の正当化観念へと変質していく。



19 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 00:22:39
>>14
いいからはやく客観的な出典だせよw

客・観・的・な・出・典
>これは理解できるかw?

>>15
その「馬鹿」にまともな反論もできないw?
>>16
お前は「〜なのはおかしい」とか「〜なはずがない」とか所謂「べき論」ばっかだなw
ちゃんと学校出てる?

20 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 00:27:03
続き
つまり、外的要因のない安定期に入っていればあまり変質はない。逆に社会構造の変化
など大きな外的要因があれば、口伝であれ、書伝であれ変質せざるを得ないのではない
だろうか。ちなみにユーカラについての本格的研究は20世紀の金田一京助氏以降であり、
それ以前は西洋人による断片的な収集があるのみで、安定期において内容の変質が見ら
れないとの確証はない。


21 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 00:42:31
>>16
ところが事実はその「前提」とは逆だから金田一なんかの学者も研究対象にしてるって話だろ


22 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 00:52:57
ユーカラが変わってないてのと、世界的に世界中でとか馬鹿なのか。
なんでそこまで敷延できるんだよ。

23 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 00:55:04
たとえば都市伝説てのも広まる内に変質する。
口承が変化しないなんて前提無理だよ。当たり前のことだと思うが

24 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:03:33
都市伝説と比較って馬鹿ですか

25 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:05:08
大彦の前の系譜がないから捏造っていうのは
ちょっと無理がある気がするわ

大彦が大和と関係ない関東の英雄だとするなら
他に何か証拠が出てこないと説得力が全くないし

26 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:05:43
都市伝説もフォークロアのひとつだろ。
違いを述べてみろよ

27 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:13:22
>>22
あれを「敷延」していると読んでしまえるオマエの脳ミソを抉じ開けて覗いてみたいわw

28 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:15:29
>>27
一例で世界中とかさ。他に例出してみろよ。ないだろ?

29 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:16:05
いやもう単純な話で議論の余地もないのだが。
分かり易い例で言えば、落語家も古典をやる時は現代人にもわかるように改変するだろ。
口承も聞き手を前提としてるし一切改変されないなんて有り得ない

30 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:18:55
>>23>>26
口承文学と都市伝説とが同じなのが「当たり前」?
どう同じなのか
>述べてみろよw
それから反論に詰まる度に話反らすのはヤメトケw なww!



31 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:22:29
>>29
文章の古典は読み難い。なぜなら昔のままだから。

口承の場合、平易に改変されて伝わってしまうというのはそうだろう。
口承が変わらないなんてのは言い過ぎで、誰もそんなことは言っていない。
金田一は本当にそんなこと言ってるのかい?

32 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:23:19
>>28
>>27をもう一度読んでみろよ。
やっぱり脳ミソ覗いてみたいわw。


33 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:24:58
>>30
都市伝説が口承かどうかはウィキペディアに書いてるから。
読んでみなよ。

34 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:25:21
さりげなくユーカラの伝達の正確姓については認めはじめているところが笑える

35 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:27:53
>>34
ユーカラがアイヌ語を正しく伝えているのと、数百年にわたって改変されていない
なんて主張はまったく違う。
それくらいは理解してくれないと話にならんよ

36 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:31:41
wをやたら使う方が押されてるということか。
分かりやすいな

スレ違いなんだからもう止めとけ

37 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:35:19
>>33
また引用はウィキペディアw

38 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:38:46
>>36
どこが「スレ違い」なのかの説明ヨロ!
それから他人のフレーズ盗むのは「やめとけ」よww

39 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:42:09
そもそも金田一先生が、ユーカラが何百年も変化していないと分かった理由は何?
口承だから何も残ってない筈だし。
タイムマシーンで何百年も昔に行って話を聞いたとか?

いい加減に潔く撤退しろ
馬鹿を晒すだけだぞ


40 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:46:10
>>38
結局ユーカラ馬鹿は何が言いたいのか分からん。
オホビコに絡めた話をせんかい

41 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:46:55
“口承”といえば聖書だってしばらくは(確か10C位まで)は口承だった筈だよ。
だから「YHWH」の正しい読みがわからなくなった。
口承では「主」としか読まずに千年以上も経過してしまったから。

42 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:50:39
>>40
前スレ終盤から読んでからもう一度そのセリフを言って来いよ、なw

43 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:53:33
ヤーヴェは声に出しちゃ駄目なんだよ。恐れ多いから。
聖書が十世紀まで口承だったなんて話は初めて聞いたが

44 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:58:10
>>41
ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』もそうですね。
紀元前13世紀頃に起こったものが紀元前8世紀頃に文字に起こされる迄は代々口承として受け継がれて来ました。

45 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 01:58:36
>>42
前のスレの終盤も読んでいたが、突然ユーカラの話をする部外者が珍入
してきたようにしか読めなかったぞ。

具体的に欠史八代やら大彦についてどう考えてるのか言えよ。
「口承文学は必ず正しく伝わる」という前提でどんな珍妙な説が聞けるのかは
興味がある。

46 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 02:03:24
>>41
死海文書も知らないのか

47 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 02:06:45
>>43
口承とテキストとの両方が有っただったかもしれん。失礼。
そして口承では「YHWH」の部分は、主を意味する「アドナイ」と発音して千年位経ってしまったので、その本来の読みは失われてしまった。
現在「ヤハヴェ」と発音するのも推測に過ぎないのだとか。


48 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 02:25:51
>>45
>突然ユーカラの話をする部外者が珍入
>してきたようにしか
過ぎなかったにしては、やけに返しのレスが返って来てたねw
どうしてその場で止めなかったのw
「ウィキ厨」さんww
口伝・口承の話はその前からの脈絡でちゃんと繋がってるだろうが!

それから
>「口承文学は必ず正しく伝わる」という前提

こんな歪曲・誇張した表現に変えて印象操作するのはやめとけw。
それとも真性か?
にしても「前提」という言葉が好きだな、お前w



49 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 02:33:03
>>48
だったらお前、いったい何が言いたいのさ?
ばかの相手はいい加減疲れたな

50 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 02:35:44
ウィキ厨のレスは
・自説への固執、
・「べき論」でしかものを言わない
・決めつけ、
・他人の言説の誇張化・歪曲化
・ソースの提示一切無し(たまに提示するのはウィキのみwww)

こんなのばっか \(^o^)/

51 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 02:42:13
たぶんだけど「アイヌの口承を正確に文書で記録した」というのを、
「口承は長い間改変なく正確に伝わってる」と読み違えたんだろうね。

52 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 06:57:56
>>49
>ばかの相手はいい加減疲れたな

とゆとり脳ニート爺イが申しておりますw。

53 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 07:57:18
>>48
>ユーカラを初めとする世界の口承についてはその正確な伝わり方について
>世界的に注目する研究者がいることを指摘する

自分でこう書いてるじゃん。


54 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 08:37:33
ユーカラ馬鹿が言ってることを誰か要約してくれないか?
何が言いたいのか分からん。
ていうか反論を恐れてか、内容のない罵倒しかしてないしw
根拠根拠と言いながら、ユーカラのみ、それもまともな根拠じゃなし。

結局、口承は変化すると認めたようだから(当たり前だが)、俺としてはもういいのだが

55 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 18:26:21
前スレッドの終盤を見てないから
どういう流れなのかさっぱりわからん

誰か詳しく

56 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 19:31:31
口承だろうが書物だろうが変化はあるだろう
その中から有益な情報を精査するのが学問の役割なのだ
それはそれとして、議論の最中に(うぃきぺでぃあより)などと書くのは
真面目な論争を放棄したと思われてもしょうがない
具体的に根拠を求められれば口承が変化していった課程などを述べるべきなのだ
それをせずにヒステリックに喚き散らしていればバカ扱いされてもやむを得まい

57 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 19:48:54
>>56
同意だな
文字のない社会において口承の変化は案外少ないのではないか?
って提示したんだろ?
そうではないというならその根拠を示さないとな

58 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 21:03:46
バヌアツという国も口承で歴史を継承する国だった。
大昔に死んだ王様を、ある無人島に46人の殉死者とともに埋葬したとの伝説があった。
今世紀の中頃になってフランス人が許可を取り、その墓を探したのだが実在した。
しかも伝説通りに47人の遺体が埋葬されていたのである。
調査の結果700年前の出来事と分かったが、それだけの期間
口承によって正確に事実を伝えていたのである。

59 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 21:13:03
>>55
文字が無くても8代程度なら暗礁して伝えられるんじゃね?

いやいや、戦前のひとは124代だって諳じられたものだ

そこでユカラ登場


覚えてるのはこんな感じ

&父系継承か母系継承か、妻問い婚がどうのこうの…

60 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 21:13:22
>>57
>口承の変化

色々考えられる。まず、駄洒落的に出来事を付け加えるというのがある。

武埴安彦の乱のときは、@最初は「くすは」に逃げた、という事実だけだったのが、
A「くすは」を覚えるため、敗走して「くそはかま」という伝承ができた。

箸墓の伝承でも、@最初に「はし」という言葉が存在した。これに関連させて
A箸でホトをついた、という伝承が生まれた。


駄洒落で話を膨らますのは、印象的な地名、人名などを覚えやすくする意味があり、
口伝では不可避に生じてしまう。


61 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 21:19:30
>>60の続き

次に、連想で話を話を膨らますというのがある。

丹塗矢伝承では、上流から恋する女性に丹塗矢を流すという風習が
矢がホトに刺さるという連想になり、さらに妊娠するにまで発展する。

仕舞いには、その女性がホトタタライススキ姫という名前にされてしまう。
「ホト」に矢が刺さって震えるという名前。

元の話は丹塗矢で恋を伝えたという話だったはずだが・・・


62 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 21:22:31
そんな変化は覚えやすくするために当然であり、
例えば物事や人物をを体の一部に置き換えるようなことは日本神話でも行われている。
だからといってそれは物語の本質を変えるようなものではない。

63 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 21:24:24
>>60
カグツチは火の神であったために、
出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、
これがもとでイザナミは死んでしまう。

巫女がホトの怪我で死ぬのはデフォ

64 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 21:24:42
>>61の続き
さらに、話を大げさにするというのがある。
劇的で印象的な描写により、話が覚えやすくなる。
箸墓の「昼は人が作り、夜は神が作る」は、急ピッチで作られた様子を大げさに表現したもの。

さらに、話を単純化するというのもある。
古代の話はほとんどが骨格しかのこっていない。


65 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 21:25:32
有名な研究の一つに、有文字、無文字文化における記憶メカニズムの差異を調査したもの
があり、それによると文字の有無により記憶の質に違いがあるということだ。文字を用いる場
合は、過去・現在・未来・の区分が明確なため記憶の時間軸に沿った厳密さが要求される。
それに対して文字を持たない者は映像を記憶して伝達する。この場合の場面映像の確かさは、
文字によるよりはるかに細部にわたって正確であるらしい。そして、肝心の伝達は映像の共有
化・シンクロニシティによって為される。つまり皆でユーカリを謡って陶酔する場合などもこれに
含まれると考えられる。

66 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 21:30:57
>>63
>巫女がホトの怪我で死ぬのはデフォ

スサノウが天のブチコマを投げたときもそうだね。
もしかしたら産褥熱のような病気かもしれないけど、巫女ではそれはない。
たぶん、巫女のホトを突きたいという願望だろうね。

67 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 21:35:03
ポリネシアやマオリは分子生物学的に同じ部族が枝分かれしたものだと
証明されてるけど、神話は微妙に違いがあるよね
それは口承で1000年もの間、同じ内容を伝える事の難しさを物語ってるものの、
意外とベースの部分は同じ形を残してたりする

なんちゅうか、英雄時代の出来事が伝承にどれだけ反映されるのか、
評価は難しいところではあるね

68 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 21:39:05
トロイ戦争なんてのは元々口承文学だったわけだ
それがシュリーマンが遺跡を発掘したり、2008年には
神話に描かれた天体の動きが天文学上合致するなんて研究発表もされた
口承だからってバカにしてると大間違いなわけよ

69 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 21:54:49
これも有名な話で、ノーベル賞を受賞した医師、カールトン・ガイジェセクが1957年にパプア・
ニューギニア地方を訪れたときのエピソード。まだ石器を使っている原住民と接触、歓待を
受けたが、そのとき多くの伝統的な歌を聞かせてもらった返礼として、彼はロシア民謡の「黒
い眸」を歌って聞かせた。数年後、ガイジェセクが同じ地方の別地域を訪れたところ、若い原
住民たちが「黒い眸」らしき歌を歌っているのを聞いて驚愕した。しかも、彼らの多くがその歌
が先祖伝来の歌だと思い込んでいた。さらに、この歌はさらに奥地まで浸透して広く歌われ
ていることがわかった。

まあ、この逸話には疑義を呈するむきもあるが、伝承の変質における外的要因が大きいこ
とを表しているとはいえるのではないか。

70 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:01:54
>>59
日本は中世前期までは妻問婚だが、
妻問婚即母系社会とするのには異論がある。
その母系の一族も、家長は男性だったのだから。



71 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:08:01
>>69
俺が前スレであげたアフリカドゴン族の「シリウス・ミステリー」と似たような事例だなwwww

72 :縦目仮面:2009/07/08(水) 22:12:25
この二つはセットで語られることが多い。民俗学フィールドワークにおける、説話採集の留
意事項とかでね。

73 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:12:34
東南アジアだと、子供世代のうち一組の夫婦だけが同居する大家族があるみたいだね
子供に二組目の夫婦が出来ると、一組目が自立するような形で
エマニュエル・トッドの本読んで色んな夫婦の形があるんだと思った

ちなみに、モンゴルや倭人伝の東胡種族などは相続時に実母以外の父(兄)の妻を
自身の妻にするらしいし、相続制度が実際どうだったのかは知りたいね
オッチギン的な制度はなかったみたいだけど

74 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:16:12
要するに口承だろうが筆記だろうが、事例事に精査しなきゃ詳しいことは分からんってこと。
それを頭から口承は簡単に変化するだの言ってるからスレも荒れるし、攻撃もされる。

75 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:22:10
アフリカのある部族が、飛行機から落とされる救援物資を、祖霊神からの贈り物と口承した例があるね。

それで先祖からの贈り物をもっと貰うため、飛行機を形取ったオブジェをつくり、祖霊神を祀ったとか。

カーゴカルトっていう奴。

口承がいい加減ていうのは十分に論証されてると思うが。
まだ反論ある?

76 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:26:59
ユーカラ馬鹿がモノを知らな過ぎるんだろ。
ゆとり脳の傲慢は見ていて見苦しい

77 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:28:12
口承が変化すると言う例に出すのには不適当だろカーゴカルトは
俺も口承が変化するのはあるよ派だけどそのたとえはいただけないな

78 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:28:32
>>75
↑ほら、こいつが癌なわけよ
まったく論証できていないのに言い張るわけ
少しは大人になれよ、小便小僧

79 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:31:07
恥をかかずに大人になる人はいない
頑張れよW
ユーカラ馬鹿

80 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:33:47
カーゴカルトは口承になんの関係もない、異文化に対抗する信仰のこと。
物が理解出来ないとこのような勘違いを起こす。

81 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:34:22
なんでユーカラ馬鹿なん?
コアラと関係ある?

82 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:36:16
横からごめん

日本書紀には一書に曰くがたくさん載せてあって
一書ごとにちょこっとずつ違ってる、結構大きく違う一書もある、ってのは
このスレ的にはどうよ


83 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:37:43
今までのやりとりで、ユーカラさんが自分の意見をどう軌道修正したのか知りたいところ。
まだ反論があるんでしょうか?

人を罵倒すると自分にかえってくるんだよ。
人を呪わば穴二つ

84 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:41:38
>>82
ユーカラでも英雄詞曲などは、部族・地域で微妙に違う。主人公の名前さえ異なる。しかし
それはあたり前のことだろう。


85 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:41:55
カーゴカルトはポリネシアじゃなかったっけ?
異文化との軋轢がトリガーなのはそうだが、現地人が結果的に今まで口承してた伝承を改変したのは違いないな

86 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:46:03
ふと、コロポックル=ネグリト説なんての思いついた

ところでオオヒコの話題はどこいったの?

87 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:46:51
前スレ読んでて思ったが、箸は7世紀伝来じゃないぞ。
弥生時代にすでにピンセット状の箸が出土してるからな。
姫のマンコに刺さったのだって食事に使う箸じゃなくて神事のそれだろう。

88 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:49:14
箸で突いて死んだから箸墓なんてのは流石に信じられないのだが。

89 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:53:12
ユーカラの話はこの辺りで置いといてw
欠史八代の話に戻りましょうよ。
誰も得しない議論を続けてても

90 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:57:47
箸ってのは古代は神職だけが使うことを許された神聖な道具だった。
その名が付くってことはそれだけ神聖な場所だったからだろ。

91 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:58:45
7 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 19:42:52
前スレ終盤のウィキ厨はもう出てくんなよw

すべてはこの書き込みが原因でスレ違いの話になってしまってる。

十分反省するように。

92 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:00:52
>>74
口承の変化の有り様を精査するという視点もあるね。
口承への他文化からの要素の移入について意見するものが多いけど、例えばフィンランド叙事詩「カレワラ」のように隣のスウェーデン等の北欧神話の要素が口承にほとんど入り込まなかった事例もあるからね。強国スウェーデンに征服されていた期間が長かったにも関わらず。
だから異文化からの要素の混入一つとっても一概に言うことは出来ない。

93 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:01:11
>>91
いちいちしつこいんだよ、屑

94 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:05:55
>>91
ウィキ厨乙!

95 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:06:30
ユカラくんは一日寝て頭を冷やせ。
こんな夜もあるさw

96 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:08:42
うぃきぺでぃあ(笑)

97 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:10:39
欠史八代や神武の話に戻してもいいですかね?

神武東征伝承について、みんなはどの程度信用してるのでしょうか?

宮崎から大阪湾までは当時の単なる航行記事で信憑性がないですが、
畿内に入ってからは急にリアルな奈良盆地統一の伝承になる。
神武の前の支配者、ニギハヤヒの存在も気になるところですし。

98 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:11:48
>>90  
神話では箸が出てくる場面がほかにもある。

スサノウが出雲に行ったときにも川に箸が流れてきて、上流に
出雲の有力者が住んでいる、と推測する場面がある。
つまり、出雲の上流階級に箸を使う風習があったことが、前提知識になっている。


モモソヒメも大国主を祭り、神への食事を献上するときには当然に箸を
使っていたはずで、「箸を使う巫女」として有名だったのであろう。

99 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:19:20
カレワラもキリスト教の影響でかなり変わっていたように思うが。

100 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:20:52
>>97
話を戻すなら大彦に戻せよwww


101 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:22:07
>>97
「航行記事」に出てくる
「三種の神器だ、同族だ」ってところは興味深いと思うが。

102 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:23:05
>>100
だって大彦じゃ盛り上がらないでしょ?

私はこのスレは崇神以前の伝承がどこまで信用できるか検証するスレだと思って
いますんで。
違いました?

103 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:24:33
箸と聞いて食事に使う道具と思うから違和感も生じるのであって
当時において箸とはなんだったか、を考えねばならない。
箸とは供物を捧げる道具だったのであり、もしかしたら巫女を象徴するものだった。
そう考えると色々と想像は広がる、姫は神に殉死したのかもしれないし
逆に箸に突かれたのだから罰を受けたのかも知れない。

104 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:28:07
>>102
その要素も否定しないが、大彦の伝承や大彦の後裔氏族の話が本来の主題。

阿部氏について言えば、阿部の苗字は東日本に偏っているね。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/024_abe.htm
しかし、福岡、大分にも多いのは何故だろうか?



105 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:29:09
>>97
スタートが隼人圏ってのがね

106 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:30:38
ホトを突いて死に、結果神の子を生めなかったモモソ媛。
丹塗矢神話を持つ氏族に対する牽制というか、その氏族が神からの祝福を受けずに
滅びた、ということを神話的に物語っているような。

子孫に祭られなかった結果、三輪の大神は祟り神となり、河内の陶邑から
見つけられた子孫が三輪山神を祭祀するようになる。
何か、時間軸がごっちゃになってるというかw

107 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:30:50
>>103
昔の人は女性と突起物がセットになると、すぐにホトを突いたという話にする。
スサノウの狼藉、丹塗矢伝承、モモソヒメなど。

それは後世に出てきた話で、それを除外したところが原型だろう。

108 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:31:02
>>98
まあ、これから何が言えるわけではないが・・・ 百襲姫の説話では、もちろん箸は重要な
モチーフだが、蛇体の大物主命が入っていたのは櫛箱。スサノオでは、箸流れと奇稲田姫。
スサノオは彼女を櫛に変え、自分の髪に挿して戦った。箸と櫛、そして蛇。 面白いね。


109 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:34:04
239 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2009/06/13(土) 02:40:59
大彦は北陸に派遣されて、その子のタケヌナカワは東海に派遣された。
二人が落ち合った場所なので会い津(会津)と名づけられたとする。

その会津では、弥生時代末期から古墳時代初めの時期に、北陸北東部(能登)に
由来する独特の住居跡とセットで、北陸北東部と全く同じ土器群が多数出土している。
*会津男壇遺跡、中西遺跡

これも大彦の伝承を裏付ける物証。


このような遺跡は他にないのかな?

110 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:37:26
にぎやかなスレだな。
でも何を論じてるのかさっぱりわからん。><

111 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:41:35
>スサノオは彼女を櫛に変え、自分の髪に挿して戦った。

クシナダという名前からの連想だろうね。櫛は。

そもそもヤマタノオロチ神話はペルセウス・アンドロメダ型神話の典型で、
蛇を殺す、つまりは治水をして田を守ったという英雄神の伝承が元。
クシナダ媛の「クシ」はあくまで奇し御魂とかのクシで、霊力を持った神田というのが
原義でしょう。


112 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:46:05
>>109
長野にある将軍塚古墳がオオヒコの墓じゃないかと言われてる。

>>105
神武の移動道程は水銀(丹紗)鉱脈に関係がある。

113 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:51:34
>>111
蛇を殺すのは象徴ではないでしょう。

現実には、出雲のクシナダ(奇稲田)姫との婚姻を和睦のしるしとして、
出雲の支配階級を酒席に呼び寄せ、酔わせて殺したのでしょう。

神話ではだまし討ちの話ばかりが出てきます。


114 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:58:01
蛇殺しは、女系から男系に転換した歴史的事実を神話的に物語ったという説もあるね。

当時の巫女女王はクシ箱に毒蛇を入れて飼っていという説も昔聞いたことがある。

115 :日本@名無しさん:2009/07/09(木) 00:02:10
>>104
安倍貞任の子が配流されたから…というのは安部氏だが、

どうも筑志国造の祖が阿部臣系(大彦命の五世孫・日道命)だからの様子。




116 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 00:18:33
>>115
>安倍貞任

安倍宗任な。
安倍晋三元首相もその子孫を自認している。

117 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 03:36:04
>>104
>>115
鎌倉時代とかに東国のお武家さんが領地をもらって行ったとかじゃないのん?

118 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 03:47:17
>>97
神武天皇は対隼人の前線で戦う司令官だったんじゃないかな
それが何らかの理由で大和に向かうことになり
隼人との戦いで鍛えた兵で奈良盆地南部を切り取ったと

東征してないなら東征伝説を創作する動機が
はっきりと説明できないんだよな

119 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 04:12:54
神武天皇のあたりはまったくおとぎ話みたいにみえる。
勇ましい征服譚とかっこいい歌ばかりでね。
南九州出身にしちゃったのは、そこらの豪族を手なずけるためとか、
西から来たことにしたほうがかっこいい感じがしたとか、
そんなとこだろう。

120 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 06:57:26
オオヒコのあたりはまったくのおとぎ話みたいにみえる。

121 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 06:59:08
神武は隼人の一派
“本家”と不和になって東遷して来た
ただその武略は後から付け加えられた尾ひれだろう

122 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 16:08:00
>>119
兄弟が戦死しまくったのに勇ましい征服譚?

123 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/09(木) 21:55:14
>>109
アイヅは今の岐阜県
大彦の軍は北陸方面を行く、冬の行軍だ、昭和38年の豪雪は、1週間以上大雪が降り続いた。
除雪車さえ立ち往生する大雪、当時の記事を探してくれ。
それから見たら、福島まで軍の移動は無理。


124 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 22:37:32
>>123
今の岐阜県のどの辺りなの?→アイヅ

125 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 23:48:06
神武が宮崎から来た、ていうのは流石に無理だろ。
宮崎の日向国造家の影響を受けた時代があって、それが始祖伝承に取り込まれたと


126 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 00:11:15
109は関東も含めて一時期を席捲した石川県を中心とする月影式土器のことを言ってる
んだろう。会津の弥生時代の中期〜古墳時代初期と見られる屋敷遺跡などの発掘結果
から、弥生後期の天王山式土器などの東北地方からの影響が、弥生終末以降は月影式
に代表される北陸系に文化の移入ルートが切りかわっている。・・・それに、123のような
妙なレスをつけられても答えようがないよな。

127 :ローガン:2009/07/10(金) 00:29:06
ではスレタイに戻って…
>>6> 辛亥の年七月に記します。わたくしはヲワケの臣です。
> 遠祖の名は大彦命、その子は屋田心命、その子は豊韓別、その子は高橋別、その子は多沙城別、その子はハテヒ、その子は笠原、その子がわたくしヲワケの臣です。

最近の研究、あまり知らないのですが「ヲワケの臣」で確定ですか?
タカハシとかタサキとか名前?氏? ハラハラ いや、カサハラは? どう思います?


128 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 00:48:03
「ヲワケの臣」にしても「臣」の解釈が難しいですよね。銘文中の 「ワカタケル大王」 を雄略
天皇とし辛亥年を 471 年とすれば、「臣」は中央で定められた氏姓制度によるものなのかが、
まず疑問としてあります。

129 :ローガン:2009/07/10(金) 01:09:08
「臣」で確定なのでしょうか? 佐伯先生は「直」だと…


130 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 01:19:09
佐伯直

131 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 01:26:10
臣は、葛城氏、春日氏などヤマト周辺の地名を氏名として持つ有力豪族に多いが、直は後代
の国造など地方官的な要素が含まれるので、どちらかといえば直のほうがふさわしいようです
が、なんともわかりませんね。

132 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 01:27:04
ハテヒはもしかして『直』?

133 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 02:46:13
影響を受けたとかそんなんで
大事な始祖伝説を創作するかね
いまいち説得力がないなあ

134 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 04:48:58
必要があれば、創作でも何でもするでしょう。
それなりにかっこうつけばいいわけで、日本書紀はそういうものでしょ。
稲荷山鉄剣もまたそういうもので、オホヒコという伝説的人物が先祖なんで
うちは格式ある家柄なんですのよ、っていいたいわけでさ。

135 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 06:03:44
臣だとしたら
臣は皇別氏族に与えられる姓だよね?
大彦が皇族でなければその子孫が臣っていうのはおかしいよね?

136 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 08:11:17
臣が皇別氏族に与えられた姓だというのは建前
渡来系の蘇我氏が臣なんだぜ?

137 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 08:49:34
まあ皇別氏族だと言う文脈で臣を使ってるならヲワケの代まで臣つかない理由は何よということになるな

138 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 09:37:25
>>136
> 渡来系の蘇我氏が臣なんだぜ?

えー、渡来系だってえ

139 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 10:18:45
蘇我は熊襲

140 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 10:30:19
辛亥の年七月に記します。
わたくしはヲワケの臣です。
遠祖の名は大彦命、その子は田心宿禰、その子は豊韓別、その子は高橋別、その子は多沙城別、その子は直、その子は笠原、その子がわたくしヲワケの臣です。
先祖代々親衛隊長として大王に仕え、今に至って折ります。大泊瀬幼武大王が磯城の宮にあるとき、私は大王が天下を治めるのをお助けしてきました。
そこで、このよく鍛えあげられた刀をつくらせ、私が大王にお仕えしてきた由来を記しておくことに致します。

141 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 11:08:02
加差披余→カサヒあれ→カサハレ→笠原
(磐余→いわ あれ→いわれ)

142 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 14:31:03
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比(表)

其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也(裏)



意富比垝・オオヒコ→大彦・オオビコ

弖已加利獲居・テヨカリワケ→豊韓別・トヨカラワケ
TE→TO  E→O
RI→RA  I→A

多加披次獲居・タカヒシワケ→高橋別・タカハシワケ
HI→HA  I→A

加差披余・カサヒヨ→笠原・カサハラ
HI→HA  I→A
YO→RA  Y→R O→A

半弖比・ハテヒ→ハトヒ?

143 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 16:11:21
大彦
田雁宿禰
豊雁別
高橋別
多沙城別
半弖比
笠原
ヲワケ臣

144 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 16:12:37
証拠はないけど創作したに違いない
それだったら何でもありになってしまいますね

145 :ローガン:2009/07/10(金) 16:31:10
>>131

うん。佐伯説によると、金文続篇にみられる「直」の字 それに山ノ上碑にみられる「自」を考慮にいれると銘文の「臣」と読まれた字は「直」とみなす事が出来る様です。

安閑紀に出てくる笠原は臣ではなく直だし、カバネとしての直なら隅田八幡鏡にも見えますしね。
「ヲノワケノアタヒ」と読むのが良いのではないかなあと。

146 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 19:10:10
>>135
実際どうだったかはともかく
鉄剣が作られた当時は皇別だと
認識されてたってことかもね

147 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 19:32:33
それを言い出したら「ワケ」も「王族の血を分けた者」ということになる。

148 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 21:28:42
「韓国の血を分けた者」の間違いじゃね?

149 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 21:29:23
ワケ王朝、イリ王朝だよね、やっぱり

150 :縦目仮面:2009/07/10(金) 21:33:27
>>145
128,131は俺です。これは純粋に銘文解読の問題なので、講釈は避けときます。

http://www.interq.or.jp/www-user/fuushi/5-anc/kodaisi/inani/inani-b1.htm 銘文表
http://www.interq.or.jp/www-user/fuushi/5-anc/kodaisi/inani/inani-b2.htm 銘文裏
http://www.interq.or.jp/www-user/fuushi/5-anc/kodaisi/inani/inani-c.htm トレース

まあ、臣と読む人は多そうですね。




151 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 22:23:24
ありゃ?直に見えるぞ??

152 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 23:07:58
多沙鬼獲居の「多沙」は朝鮮任那の地名。
銘文中の「世々為杖刀人首」から乎獲居臣の家は先祖代々大王家の近衛長官のような役職に就いていたことがわかる。
多沙鬼獲居は乎獲居(オワケ)の曾祖父(三代前)。
乎獲居の三世代くらい前だとちょうど神功皇后の頃と一致する。
しかもその「多沙城」の名が登場するのは日本書紀神功紀五十年条。
つまり日本書紀の記述とも一致する。

153 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 23:22:14
ヲワケ=ヲ・ワケ=大別(おおのわけ)⇒大野氏

154 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 23:23:05
要するに伽耶出身の韓国人が倭を征服した韓国人の天皇の配下として関東を征服・統治してたんだろ?
また日本書紀の記述がアベコベだったことが証明されたね。

155 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 23:56:50
乎・獲居(ヲワケ)
弖已加利・獲居(豊韓別)
多加披次・獲居(高橋別
多沙鬼・獲居(多沙城?田崎?別)
こうして見ると
乎獲居も先祖達同様に
「乎」と「獲居」を「別けて」考えたくなる。
よって大(おお)氏とするのが妥当か?
だがそうなると「臣」(直?)はどうなる?という問題があるか。



156 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 00:03:55
前スレより・・・

「ヲワケ」と読む場合の「ヲ」の意味について。
候補が多すぎる・・・
 A・尾  B・緒  C・御  D・麻  E・雄  F・男  G・夫  H・黄  I・その他

A・尾は、動物の尻尾のように刀をさげていたのかもしれない。
B・緒は、「命」の意味での緒のワケかもしれない。
E・雄は、猛々しい武人の家系の名にふさわしい。

イチオシは、「緒のワケのオミ」


157 :ローガン:2009/07/11(土) 00:06:19
>>150
> 128,131は俺です。

おや、気付かなかった。HN書いといて下さいねw
>これは純粋に銘文解読の問題なので、講釈は避けときます。

まあそう言わずに講釈をどうぞ


158 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 00:10:14
>>156
転じて「小野別臣」だったりして。
小野神社なら武蔵国に古くから奉られてるし。

159 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 00:19:16
小野氏、大(大野)氏とも坂東にゆかりが深い。

160 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 00:40:25
>>157
いやあ、金象嵌までしたわりには上手な字ではないなと。ww
ところで、稲荷山古墳には、礫槨等が後円部中央からずれたところにあるため、第一主体部
は未発掘で別にあるとする意見が根強くありますね。これが真かどうかで 「ヲワケの臣」の
性格付けがだいぶ変わってきますが、どう思いますか?


161 :ローガン:2009/07/11(土) 01:45:23
>>160

> いやあ、金象嵌までしたわりには上手な字ではないなと。ww

金文には金文用の字体があったのかも。


> ところで、稲荷山古墳には、礫槨等が後円部中央からずれたところにあるため、第一主体部
> は未発掘で別にあるとする意見が根強くありますね。

へえ〜 そう言う意見が「根強い」とは知りませんでした。追葬の場合だと整然と並ぶのが通常の理解かと。
ところが礫槨、粘土槨の位置関係、カタカナの「ハ」の下がもっと開いた感じで、他にまだ埋葬施設があり、その未検出のものが主体部だとは考え難いような。

zzz…

162 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 02:33:22
>>161
掘ったのは墳丘頂上部だけで、地下探査レーダーによると地下の深いところに、
主体部らしきものがあります。
開発で前方部が削られたときには、埋葬施設や副葬品が出ています。


それを言い出すと、@古墳の築造時期、A須恵器の製造時期、B稲荷山鉄剣の
ある埋葬施設の時期のずれが問題になって、ちとめんどう。

古墳の築造が古く「カサハヨ」時代のものとすると、須恵器は1世代古くなります。
しかし、「カサハヨ」と「ヲワケ」が長生きしたとすると、埋葬祭祀が新しくなって
須恵器が新しくなる可能性も。


163 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 02:49:06
>>154
>要するに伽耶出身の韓国人が倭を征服した韓国人の天皇の配下として関東を征服・統治してたんだろ?
>また日本書紀の記述がアベコベだったことが証明されたね。


(゚Д゚)ハァ?

164 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 04:46:51
釣りに決まってるんだから、いちいち反応するな
無視してりゃつまらなくなって消える

165 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 08:13:35
>>162
地下レーダ探査は2回行われ、どちらも中央部と北東の2箇所、あるいはもう1カ所埋葬施
設があるかもしれないという話ですね。ただし、中央部は盗掘と思われる影があるようです。
まあ、墳頂部施設は浅すぎるので、これと内部にあるとされる施設の設置時期の時代差が
問題になりますが、確かにやっかいです。

166 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 09:37:32
まず、多胡碑の多胡の由来なのですが、オオヒコ、多氏との関係が考えられます。
また、多胡碑に刻まれた「羊」の文字、これはオオヒコが渡来人だったとすると、
417年に東晋の劉裕(後の宋武帝)に滅ぼされ後秦の羌族(きょうぞく・チャン族)と
の関係がうかがえます。
関東は移民の作った国。人種のるつぼです。

167 :ローガン:2009/07/11(土) 17:00:57
>>162

> 掘ったのは墳丘頂上部だけで、地下探査レーダーによると地下の深いところに、主体部らしきものがあります。

そうなんですか。詳しく教えてくれませんか? 検索ではヒットしなくて…

168 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 18:55:15
>>167
『ワカタケル大王とその時代』p20以下

1982年と98年の2度地下レーダーによる探査がなされ、中央部には盗掘と思われる影が
見られ、北東側に埋葬施設らしき反射波がみられた。

169 :ローガン:2009/07/11(土) 20:25:30
>>168
どうも有難う。
『ワカタケル大王とその時代』は読んでなかった。一度読んでみます。
調べてたら倭人伝への旅というHPのDATASTOCKに墳頂の図がありました。
私が見てたのより墳頂の等高線が一本多い… 2つの槨はテラスだった?
トレンチが入ってるようだけど未調査とはどういう訳でしょうね?

170 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 21:08:31
>>162
まあ、あの墳頂部の施設以外に主体部があるというのは、当然あり得るだろうと思います。
あの規模の古墳としては槨の位置が上部すぎるようです。また、162のいうように前方部に
も何らかの施設があったと考えられ、笠原直使主とされる人物の一族の総合墓であったと
推測するむきもあります。その場合、笠原=「カサヒヨ」となるのでしょう。

確か「季刊・考古学」だったか・・・で読んだ論文には、国造本紀に見られる「兄多毛比命」(武
蔵国造)を主体部の被葬者とするものがありました。榛名山噴火による火山灰層と土器編年
文献の記年から推定していたようですが、なんともいえない感じでした。兄多毛比は「大伴
武日」に比定する説もあります。

須恵器の年代観についても、162のいうように鉄剣銘の辛亥年に引きずられて揺れている
現状であるようです。

171 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/11(土) 22:27:20
>トレンチが入ってるようだけど未調査とはどういう訳でしょうね?

ワカタケル大王が雄略で無い事が証明されたら困る方々がいらっしゃる為。
もし掘って近くの上毛の古墳群と同じ頃の古墳築造だったらみんな困るだろう。

それに「辛亥」年が西暦と関係無かったら更に困る人間が出る。
この古墳と箸墓には、近づくな、と言うシグナル。


172 :縦目仮面:2009/07/11(土) 23:38:08
>>171
やめなさいってww 世界文化遺産登録もねらってるらしいのに。
http://www.sakitama-muse.spec.ed.jp/historic-site/seibi/plan1.html

173 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 00:10:26
前橋市元総社町に日本最古級の寺院がありました。
「山ノ上碑」の銘文にある放光寺、奈良の法隆寺に
匹敵する大伽藍だったようです。
この地域は、岩宿遺跡で知られるように旧石器時代
から人が住んでおり、碓氷峠から関東平野に抜ける
玄関口にあたる場所です。
縄文時代の関東は、古東京湾沿岸の貝塚と、関東
平野の扇状地に人々は暮らしていました。
その人口は、畿内をはるかに凌いでいたと思われま
す。
国分寺の建立とともに、放光寺は滅んでゆきました。

174 :ローガン:2009/07/12(日) 01:16:10
>>171

> この古墳と箸墓には、近づくな、と言うシグナル。

だいぶ呑んでる様ですね。

175 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 01:47:59
>>173
狗奴国は毛野国だな。

176 :縦目仮面:2009/07/12(日) 01:53:49
>>174
稲荷山古墳の後円部調査は、H23以降の整備計画に入っているようです。170に書いた
榛名山の2回の噴火の理学的年代を調べていますが、なかなか面白いです。
http://gunma.zamurai.jp/pub/2009/haruna495.pdf

177 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 02:42:49
>>176 なんかなあ・・・
1、木材が噴火で成長を止めたとの仮定が成り立つのだろうか?
2、木材から採取したC14の数値に誤差が生じていないとの仮定が成り立つ
 のであろうか?そもそも補正値の問題もある。
3、古墳築造の時期と埋葬の時期とが同一との仮定は成り立つのであろうか?
  築造から20年後に亡くなった可能性もある。


この状況でここまでの断定表現を用いることは「トンデモ」のたぐいと言わざるを得ない。
最近この手のトンデモ報告が横行しすぎだろ。


178 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 08:16:38
>>177
まあね、本来はここまで絞り込むのは難しいものです。ただ、従来の研究でも1回目の噴火
は、6世紀のごく早い時期といわれていたから大勢はそう変わらないとはいえます。あと3は、
このグループではたぶん想定していないでしょう。

179 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/12(日) 10:17:20
>>176
では、埼玉古墳群は、周りの古墳群より新しいのは何故か?
大彦から七代繋いでも雄略にたどり着かない問題は?

答えられるかな?


180 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 10:45:03
辛亥の年七月に記します。
わたくしは多別臣です。
遠祖の名は大彦命、その子は田心宿禰、その子は豊韓別、その子は高橋別、その子は多沙城別、その子は直、その子は笠原、その子がわたくし多別臣です。
先祖代々親衛隊長として大王に仕え、今に至って折ります。大泊瀬幼武大王が磯城の宮にあるとき、私は大王が天下を治めるのをお助けしてきました。
そこで、このよく鍛えあげられた刀をつくらせ、私が大王にお仕えしてきた由来を記しておくことに致します。

181 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 13:26:53
>多別臣

これは「タワケ臣」と読むのかな?
タワケねえ・・・ううむ・・・

182 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 15:20:52
豊城入彦の孫の御諸別の子が荒田別。
これは、渡来人である多氏系の移民、別けとは領地を別け与えらるという意味。
阿羅田別ということです。

183 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 16:34:55
>>181
そう読まないと思うなら別な読み方を提示すればいいだろ
違う読み方をした根拠と一緒にな

184 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 16:45:03
ところで、この稲荷山の被葬者が「ヲワケではない(ヲワケから鉄剣を下賜された)」とする説
は混乱するのでおいといて、ヲワケは、

@畿内の有力者であるが、東国に派遣されて客死し、礫槨の被葬者になった。
Aヲワケは東国の豪族で、ワカタケル大王の元に出仕していたが、故郷に戻り礫槨の被葬
  者となった。

の2説を比べて、このスレ的にはどうでしょうかね。


185 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 17:13:19
>>183
日本語でおk

186 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 17:16:21
>>183
いや普通に意味は分かるぞw

187 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 18:09:07
タワケなの?

188 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 18:18:08
荒田別のたわけ者!
蘇我馬子、入鹿爺孫の馬鹿!

人名も捏造していないか?

189 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 18:28:17
現代日本の読み方で漢字の読みを論じたって意味がないだろうよJK

190 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 18:36:10
重要なのは古代日本語でタワケと読んだかどうかだな。

191 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 18:37:51
訓読みってのはいつ誰が始めたんだろうか
自然発生的に生まれたのではなく、初期の段階で日本語に当てはめる作業が行われたと感じる

192 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 18:49:06
古事記の訓注では、一漢字に対して複数の訓が見られるし・・・現在から見れば誰かが作っ
たようだが、一義一訓になるまでは、かなりの年月がかかったと思う。

193 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 18:53:23
>>184
Aじゃないのかな?
筑紫国造磐井も若いころ中央に出仕していたような記述もあるし
そういや磐井も大彦の子孫なんだよね?

194 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 18:54:33
少し前に出てた、稲荷山古墳の発掘についてだけど。
うちの本には
「稲荷山古墳の後円部の墳頂からは、粘土槨と礫槨の二つの埋葬施設が発見されている。
鉄剣は礫槨に副葬されていた。粘土槨の方が中央に位置しているので、こちらが古く、
礫槨は若干おくれて追葬された人物の埋葬施設と見られる。つまり稲荷山古墳は、
粘土槨に葬られた人物のために築造された古墳で、オワケ臣である可能性の高い礫槨の被葬者は、
そこに後から追葬されたにすぎないのである。」
とあって、いかにも発掘済のような記述なんだけど。

195 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 19:24:35
礫槨、粘土槨ともに発掘されています。粘土槨は盗掘され、遺物は断片だけだったようです。
上レスに出てきたのは、その下部にあるかもしれないと推測される施設のことでしょう。
http://www.asahi-net.or.jp/~fx3j-aid/kofun/saitama/68_gyda/inari.html

196 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 20:23:28
稲荷山古墳とほぼ同時代とされる熊本県、江田船山古墳。墳丘長は約60mで稲荷山の
半分。ここから出土した銀象嵌鉄剣の銘文、

「天の下治らしめしワ□□□ル大王の世、典曹に奉事せし人、名はムリテ、八月中、大鉄
釜を用い、四尺の廷刀を并わす。八十たび練り、九十たび振つ。三寸上好の刊刀なり。此
の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作
る者、名は伊太和、書するのは張安也。」

このムリテもワカタケルの宮に出仕していたのかもしれません。「典曹人」(おそらく文官)の
職にあったようです。

197 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 20:55:49
ワロロロル大王?
南の島の酋長みたいだな。

198 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 21:46:40
>>196
邪馬台国で古墳造り作りを指導した張政の子孫、張安が、
新たな古墳造営の需要のある土地を求めて東国に移り住んだ
ということですね?
出典となる文献を教えてください。

199 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 21:49:02
>>198
何を言っているんだ?

200 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 22:13:13
典曹て付き合いのあった魏ではなくて蜀の官職だよね
塩と鉄を扱う典曹都尉てのが

201 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 22:14:11
獲加多支鹵大王(バカタシロオオキミ)に仕えた多別臣(タワケノオミ)
の事蹟

202 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 22:49:43
>>196
> 長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。

ご利益系なのが三角縁神獣鏡に似ていて、
何処まで由緒あるものなのか分からないって言う人もいるね。
もうちょっと畿内に近いところで出土しないものか…


203 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 22:59:13
>>201
最近、造られたみたいだなwww

204 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 23:29:10
皇子は阿呆親王かww

205 :ローガン:2009/07/13(月) 17:02:31
>>160
> ところで、稲荷山古墳には、礫槨等が後円部中央からずれたところにあるため、第一主体部は未発掘で別にあるとする意見が根強くありますね。

昨日ちょっと調べたんですが、確かに「根強く」ありますね。(知らなかった)
白石さんは、礫槨出土の鈴杏葉…他墳ではMT15からTK10型の須恵器共伴。括れ部から出た須恵器はTK47型なので、墓主は礫槨の被葬者より一世代前の人物と考えると。


206 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 21:19:21
うーん、170にも書きましたが、笠原直使主とされる人物が真の被葬者であるとする説は
多くの人が唱えてますね。根拠としては、

書紀の安閑紀に、使主と、その同族のと同族の小杵(おき)が争い、小杵は上毛野君小熊
と共謀して使主を殺そうとしたため、使主は大和朝廷に助けを求め、大和政権は小杵を殺し
使主を武蔵国造としたとする記事があります。

この裏付けとして、5世紀後半頃に南武蔵と上毛野の勢力が弱まって古墳規模が縮小し、
逆に北武蔵に稲荷山を含む埼玉古墳が突如築造され始めることをあげるものですが、書紀
とは年代がやや異なります。俺的にもなんともいえないところですが、埼玉古墳群は年代幅
が広いので、いずれ被葬者の系譜については解明されていくのではないかという気がします。

唐松山さんのいう陰謀説はちょっと考えられません。




207 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/13(月) 21:47:13
700. 白石先生のお考え さわらびT  2003/04/08 (火) 00:03

昨日、白石太一郎先生のお話を聞く機会があり、せっかくですので、稲荷山古墳の年代観について、坂本和俊先生の説に対するお考えをうかがいました。

「FA降下時期はMT15の早い段階で同一形式に収まる。私の説にはなんら矛盾はない」とのお答えでした。坂本先生の提起されたFA降下前後の年代の違いは、重要ではないというお考えのようです。

それ以外の質疑応答については、懇親会でのことですので、記憶を確かめつつ必要があれば、書くことにします。見瀬丸山古墳=稲目の墓説には同意されないことは確かです。

箸墓の実年代に関する寺沢説にも否定的だったようです。(白石先生は、皆さんご承知のように箸墓=卑弥呼説に限りなく近いです。)

みんな自説に合わせるんです。
ついに箸墓も追いついた。と白石先生は喜んで居るでしょう。


208 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/13(月) 21:56:45
つまり,尾野氏の第2項目でいう「鉄剣の銘の「辛亥年」を471年とする考え方に立脚し」というのは,
もしこれが1979年論文の要約であるならば,あまりに乱暴といわねばなりません。白石氏は,従来の
考古学的な年代観に照らして471年説に軍配を上げ,翻って従来の編年の大まかな正当性を確認し,
然るのちに471年説によって須恵器の暦年代を補正しているのです。



209 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/13(月) 22:00:47
471年説を証明できる人いませんか?
大彦から、七代を継いで、471年になる。
又は、471年から七代前に大彦。


210 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 22:07:07
白石氏の年代決定論ですか・・・あまりこれをやると、考古板へ行けといわれそうですが、
礫槨出土の馬具を須恵器型式編年に置き換えることへの問題性が指摘されることが多い
ようですね。 

211 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/13(月) 22:27:59
太子の誕生年推測 これに大彦を20年で繋げる。

神武天皇 41年〜62年 
50年天押男、52年神濡名河誕生
綏靖天皇63年〜76年 12歳即位、68年安寧誕生
安寧天皇77年〜88年 12歳即位 82年懿徳誕生
懿徳天皇89年〜92年 7歳即位 89年考昭誕生
孝昭天皇93年〜118年 5歳即位 108年孝安誕生
孝安天皇119年〜144年 12歳即位 128年孝霊誕生
孝霊天皇145年〜163年 18歳即位 148年孝元誕生
孝元天皇164年〜182年 17歳即位 166年開化誕生
168年 大彦誕生
開化天皇183年〜187年 17歳即位 184年崇神誕生
188年 武濡河誕生 多かりたるに
崇神天皇188年〜215年 5歳即位 205年垂仁誕生
208年 磐鹿六雁誕生 テミカリのわこ
垂仁天皇216年〜238年 12歳即位 224年景行誕生
228年 高橋誕生 タカヒジ
248年 田崎誕生 タサキ
景行天皇239年〜260年 16歳即位 243年成務誕生
成務天皇261年〜264年
268年 ハテヒ誕生
仲哀天皇265年〜273年
288年 風早誕生 カサヒヨ
308年 コワコ誕生
神功皇后274年〜323年

各天皇もこれ以上圧縮出来ない数字。それに大彦を20年で貼り付ける。



212 :縦目仮面:2009/07/13(月) 22:37:26
わからないなあ?唐松山さんは鉄剣の辛亥年を、そんなに早い時期と考えているんですか。

213 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 22:48:49
>>211
一世は25年〜35年

214 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 23:16:55
>>210
白石説なんてまともに検討する価値あるの?
この人がまともなことを書いているのを見たことないんだけど。

関祐二、遠山美都男、武光誠なんかは、トンデモ説でもそれなりの
面白さがあるけど白石はトンデモで、しかもつまらん。
トンデモで食っていくなら少しは工夫しないと。

215 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 23:26:13
>>211
そもそも神武〜欠史八代くらいまで架空とする立場なんで、
いちいち反論するのもどうかと思うが一応言っとく。
雄略は仁徳の孫世代なんだから、ヲワケと同時代の人物としても不思議はないだろう

216 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 23:28:20
>>214
自分はどの先生の講演を聴いてきたんだ?

勉強も、公園も聞きにいかないだけの君よりまし。
グウタラな自分を正当化してるだけにしか聞こえない。

217 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 23:41:26
>>216
白石にトンデモ説が多いのは事実だろ。しかもつまらん。

彼は、まともな理由もなく須恵器を4世紀半ばに繰り上げようとしていたりするから、
彼の須恵器の見方には根本的に疑問がある。

三角縁神獣鏡でも、紀年鏡があるから舶載というレベルの論理しか書けない。
未だに畿内自生説で時勢に乗り遅れている。
年代遡上説の急先鋒ではあるが、根拠らしきものが見当たらない。

同じトンデモ系でも関さんとかは、読み物として面白さがある。
石野は弱い部分でもごまかし方がうまいし、「それもアリかな」というレベルで落ち着いている。
直木さんもそれなりに一貫しているし、「あの時代ならしょうがない」というのがある。


218 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/13(月) 23:43:59
では、崇神の子作りは何故遅い?
垂仁もホムツワケを除くと数年の空白に成る。
孫の居た天皇は、景行だけ?

弥生時代の死亡年齢で多いのは男38才、女27才 これがピークで山になる。
天皇も同じだ。
日本武尊は、16才で九州遠征その直後の子作り。
大碓の10才で色づくのは、例外とする。

当時から女の出産は、30才まで、是は江戸の大奥も同じ。

1世を天皇のみ引き延ばせない=大彦の系図も上記を同時に引き延ばすだけ、
全体を100年引き下げても、場所は変わらない。

私の数字は、
192,193年を新羅本記に合わせている、そうすると
273年の日食が、神功前紀になる。
さらに太陰暦に違わぬよう圧縮している、「19年*n回」これが基本。
そうすると、以前書いたように、卑弥呼=景行で登場人物も特定できる。

縦目仮面さん、 鉄剣辛亥471年を自分で計算したか?結果は?


219 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/13(月) 23:50:59
そうだ、忘れてた。
磐鹿六雁(大彦の孫)は、景行に仕え、高橋神社に祀られる。

これを忘れないように。


220 :ローガン:2009/07/13(月) 23:54:43
>>207

坂本先生って地元の郷土史家?確か教諭…?
件の古墳群研究で脚光を浴びたのかな?例えていうなら邪馬台国論でのサガミ先生みたいな…

221 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 23:58:50
>>217
>彼は、まともな理由もなく須恵器を4世紀半ばに繰り上げようとしていたりするから、
>彼の須恵器の見方には根本的に疑問がある。

へぇ 須恵器を知ってるてことは少しは考古学の勉強してるんだね。

>三角縁神獣鏡でも、紀年鏡があるから舶載というレベルの論理しか書けない。

これは常識だろう。
そのまま、紀年鏡があるから舶載だろう。

>未だに畿内自生説で時勢に乗り遅れている。

これはそうかもしれん。

>年代遡上説の急先鋒ではあるが、根拠らしきものが見当たらない。
>同じトンデモ系でも関さんとかは、読み物として面白さがある。
>石野は弱い部分でもごまかし方がうまいし、「それもアリかな」というレベルで落ち着いている。
>直木さんもそれなりに一貫しているし、「あの時代ならしょうがない」というのがある。

へぇ 少しは勉強してるんだね。

222 :縦目仮面:2009/07/13(月) 23:59:53
>>218
記紀の数字(干支)がすべて正しいとは思ってないんで、自分で計算はできません。まだ
そちらの世界に行くつもりはないです。ただ遺物の声を聞くだけ・・・・なんちゃって。

ま、俺は畿内説ですが 210のような白石説への疑問は多々あります。


223 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 00:02:06
>>219
最初から仕えていたのではなく、景行天皇の東国巡幸のときに現地で磐鹿六雁が
もてなしたら、善部に取り立てられたのでは?

巡幸のときに専用の料理人を連れて行くことが、この時代に始まっていたのならば、
雄略が狩場での料理のことで家臣を打ち首にしてから、専用の料理人が組織される
こともなかったはず。


224 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 00:13:56
>>218
自分で当時の平均寿命のこと書いてんだから、神武以降何代も父子相続が続いたのはおかしい、
という結論になる筈だが。
寿命だけじゃなく政争もあっただろうし。
仁徳以降の相続はリアル

225 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/14(火) 00:18:26
>>220
tk47でググったら出てきた。

>>223
いずれにせよ六雁は、景行に仕え、大彦の孫と書かれている。この男が
倭人伝の 倭王の大夫イセキ,イワカ 伊勢のベテラン磐鹿30才余
武濡河は、崇神、垂仁に仕え、垂仁時代に伊勢の風早に入る。


226 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 00:24:26
>>225
>tk47でググったら出てきた。

真面目だねw
http://www.youtube.com/watch?v=nvtjxH3WH_o

227 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 00:24:53
磐鹿六雁て料理屋開く人間が千葉の高家神社にいってお参りするあの人か

228 :ローガン:2009/07/14(火) 00:33:41
其児…其児…なんで同族ですね。 スクネ、ワケ、オミ(アタヒ) カリ を除く部分は個人名でしょう。
高橋とか笠原に比定して良いんですかね?以前からどうも気になって…

229 :縦目仮面:2009/07/14(火) 00:34:34
>>220
170に書いた2段目の人かと思いますが、今さがしても、ちょっと本が見あたらない。確か
高校教諭だったと思いますが、違うかもしれません。

230 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 00:38:19
>>221(=>>216
序文と末文が負け惜しみの混じったイヤミな文章でワロタ

231 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 00:43:10
アタヒ(直)が東国弁で
ハテヒ(半弖比)てことは無いか?

232 :ローガン:2009/07/14(火) 00:51:00
>>231
どうでしょう?
ハテヒが「直」カバネとすると彼だけが個人名が無しになるんですが。

233 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/14(火) 00:57:54
ローガンさんへ
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/BBS/BBS.501-600.html

高橋は他に?
カザハヨ=伊賀の國の風土記。伊賀の郡。猿田彦の~、
始め此の國を伊勢の加佐波夜(かざはや)の國(伊勢國)に屬けき。
加佐波夜=カザハヨ

ハテヒは、最果て火の国 熊本。テカ


234 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 01:00:50
>序文と末文が負け惜しみの混じったイヤミな文章でワロタ

いやいや みんな詳しいですよ。
負け惜しみもなにもない。



235 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 01:01:33
江戸弁だと「大嫌い」が「でーきれー」になったり、「大概」が「てーげー」になったりするからな。
それで言うと「直」は「あてー」

236 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 01:02:05
>>217>>221

■京都・宇治市街遺跡 4世紀後半に須恵器生産

 須恵器は、大阪府堺市などの陶邑(すえむら)窯跡で古墳時代中期から平安時代初期まで、連綿と作り続けられた。形や技法の変遷が明確にわかり、須恵器が出土した各地の古墳や集落跡の〈年代の物差し〉として、重要な役割を担ってきた。
今回、最初期の須恵器の生産が4世紀後半とわかったことで、物差しの起点が定まり、遺跡の年代の見直しを迫られるケースも出てきそうだ。

 従来、須恵器の生産開始は5世紀前半とされていた。
しかし、奈良・平城宮跡の下層で今回よりも新しい型の須恵器と一緒に出土した木製品の伐採年が年輪年代測定で412年と確認され、もっと早いのではという論議が起きていた。
今回の発見で一応の決着がついたことになる。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is60323a.htm
(2006年03月23日 読売新聞)

237 :ローガン:2009/07/14(火) 01:08:39
>>233
> 高橋は他に?

同族の系譜の一部に氏が記載されるのが疑問なだけです。タカハシは誰か?なんて特定しようと考えてる訳ではありません。

238 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/14(火) 01:22:11
河内の陶邑、タタネコの出身地。タタネコは、二世紀末崇神に使えた。
未だ埴輪は、無い。


239 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 01:29:29
>>235
言語学=古代史には関係なし、
日本各地の風土、風習(各藩による教育とか)の問題だろう。

>>236
わたしは否定してないよ。

240 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 01:45:39
>>233
>加佐波夜(かざはや)の國(伊勢國)に屬けき。

これはかなり重要な発見では。
同じ文章のなかに手柏野(タカハシノ)という地名も出てくる。
高橋は大彦の後裔で、その「タカハシ」も同時に出てくる。

大彦の子の建沼河別は、伊勢(伊賀も含む)の地域も含めて派遣先になっていた。

高橋は元は地名でそれが後世に氏族の名称になったのだろう。






241 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 01:48:06
磐鹿六雁命の「磐鹿」(イワカ)と乎獲居(オワケ)も音が近いよね。

242 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 02:10:33
万葉集の
「百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」に詠まれている『磐余』は「いわあれ」が「いわれ」と詰まったもの。
よって『余』は「あれ」と読む。
加差披余は「カサヒアレ」→「カサハレ」→「笠原」。
なお、加差披余の「披」は「波」の誤記かもしれん。
多加披次獲居の「披」についても同じ。

243 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 02:36:08
1字1音が原則じゃないか

244 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 03:13:58
そう、それだと、他の人名の読みを従来の説にしたがった場合、
(すなわち、オホヒコ・タカリスクネ・テヨカリワケ・タカハシワケ・タサキワケ・ハテヒ・カサハ[ヨ]・ヲワケ)、
「余」の「アレ」の部分だけが「訓読み」になっちゃうんだよね。
「シキ宮」とか「ヲシサカ宮」とか、上宮記の「践坂大中ヒメ」とか、
古い時代の史料で固有名詞の漢字音訓並行表記の例はあるけど、
「カサハ余」を「カサハラ(レ)」と読むのは、
(というより、カサハラをカサハ余と表記したというのは)、
それらのケースと比べてもかなり異質だよね。

245 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 06:07:12
>磐鹿六雁命の「磐鹿」(イワカ)と乎獲居(オワケ)も音が近いよね

石城(イワキ)国造も近い。
しかも石城氏は多(於保)氏でもある。



246 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/14(火) 17:02:40
景行の関東巡航は、千葉県から茨城県方面。
だから此方に鹿島神宮や高橋神社が造られる。

それより誰か、 鉄剣銘辛亥471年 に繋げる 系譜をシランか?
ネットでよい。何処の誰がどの様に繋いでいるか知りたい。


247 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 22:23:52
大彦の子孫、高橋氏とは、多白瀬のことだった。
つまり、多氏の一族多胡氏と、雄略天皇、つまり大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)の
両方の血を引く一族だったのだ。大橋氏、長谷川氏も同族。
これでまた一つ謎が解けた!

248 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 23:02:00
>>176
これはすごい。判明している時系列から考えると

1.金錯銘鉄剣を製作させたのは乎獲居臣なる人物
2.稲荷山古墳の被葬者は生前この鉄剣を持っていた
3.獲加多支鹵大王の治世あるいはそれ以降の「辛亥の年」に金錯銘鉄剣が製作された
4.稲荷山古墳が築造される
5.稲荷山古墳の被葬者が死亡し、礫槨の埋葬施設に葬られた
6.榛名山が噴火しFA火山灰が降下、さらに20-30年後に再噴火しその軽石が降下

榛名山FA火山灰が495年前後というなら、稲荷山古墳の築造は495年以前。
辛亥年531年説は完全否定されて471年説(あるいは411年説)が有力になる。

いままで6世紀と解釈していたのだから、年代観の大幅な見直しが必要

249 :ローガン:2009/07/15(水) 01:28:32
>>248
> これはすごい。

すごいか? っていうのが先週からの話だった様な気がしますが…

サガミハラハラは何故来ない

250 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 01:50:29
>>249
どこがすごくないの??
年代が絞り込めたんだからすごいだろ。

251 :ローガン:2009/07/15(水) 02:27:10
FAって、二つ岳アッシュでしたっけ。検出したの週濠でしょ?
礫槨の被葬者が主体じゃないよって話してましたよ。zzz…

252 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/15(水) 20:49:36
やはり 大彦から+七代で雄略に繋げる読み方は、存在しませんでした。


253 :縦目仮面:2009/07/15(水) 20:54:13
俺は比較的地元に近いので、現地に行っていろいろ見学していますが、特にFPによって軽石
層に埋もれた、「日本のポンペイ」とも呼ばれる子持村黒井峯遺跡は実に興味深いものです。
村全体を俯瞰的に考察することができ、古墳時代の集落論にも大きな影響を与えています。

http://kofunnomori.web.fc2.com/gunma/komochi/kuro.htm


254 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/15(水) 21:52:00
>>253
どんな興味?
例えば、400年頃高句麗にぼろ負けした倭国に、
この直後 高句麗人が子持村に入植した とか。


255 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/15(水) 22:02:25
お 子持村 六世紀中頃か


256 :縦目仮面:2009/07/15(水) 22:15:29
>>254
いやあ、俺の感想としては、
牧畜、畠、水田の複合農業が高い水準にあるなとか、当時の人々は地震や噴火をどうとら
えていたのだろうかとか。いずれにしても、大災害直前で村のすべての時間が止まっている。

257 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/15(水) 22:40:24
水田の大きさは、田1枚1坪、これは、大陸北方の水の少ない地方の耕作方法
また牧畜も北方。

そう考えると、高句麗か、その農業を知っている集団が、移住した。
古墳の「馬文化」とも考えなければならない。


258 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:16:18
秦名山の噴火の年代自体が怪しい。

259 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:49:58
>>258
稲荷山古墳は最初は、5世紀前葉とされていた。
まあ根拠と言えるものはほとんどなかったが。

例の鉄剣の文字が分かってから、4C末〜5C初頭になった。
やはり、鉄剣以外の根拠はなかった。
このときFAは5C初頭頃とされた。

今は4C末とする方向性があるが、どうだろう?
私は510年頃ではないかと考えている。


260 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 02:14:28
上祖名意富比W搗
エ児多加利足尼
其児名弖已加利獲居
其児名多加披次獲居
其児名多沙鬼獲居
其児名半弖比(表)

其児名加差披余
其児名乎獲居臣

みんな「上祖『名』」、「其児『名』」となっているのに、2代目の多加利足尼だけ『名』の字が無い。
多加利の『多』は、『名』の字の間違いではないのか?

261 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 03:14:17
カリのスクネ?

262 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 03:50:11
磐鹿六雁命=石城陸奥雁命⇒陸奥石城国造=多(意富、於保、大、太)氏

263 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 03:54:16
乎獲居臣=多(意富、於保、大、太)別臣⇒ヲノワケノオミ

264 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 04:18:19
大臣命⇒那須国造
{孝元天皇⇒大彦命⇒建沼河別命⇒大臣命(ヲノオミノミコト)⇒那須国造}

265 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 05:35:32
たわけ臣?

266 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 05:57:32
>>260
写真で見るかぎり、『多』で間違いないようにみえるけどね。
でも確かになんで一か所だけ『名』が抜けてるんだろうね。
きまぐれ?
「其児多加利足尼」までで文が切れてるとか。
文なんて概念は、無いか。

267 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 06:03:58
>>261
そう。カリノスクネ=磐鹿六雁命という人もいるね。

>>263
ヲとオホが同じわけないだろ。

268 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 06:18:35
>>266
下請けの象嵌業者が間違えちゃったんじゃね?

どーせオワケ臣は漢字読めないだろうし、このままでいいや。
みたいな。

269 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 07:28:23
>>267
>ヲとオホが同じわけないだろ。

そんなの分からんじゃん。
乎獲居の頃には関東訛りで「オ」「ヲ」「オホ」etc… 等がごっちゃになってたかもしれんじゃん!

270 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 10:52:17
例を出してみろよ

271 :ローガン:2009/07/16(木) 15:40:09
>>269

和気系図に 大別君(オオノワケノキミ)の弟に、小別君(ヲノワケノキミ)と。
又、年乃別君(トシノワケノキミ)の弟に小年乃別君(ヲトシノワケノキミ)とあるようです。
オ、ヲとオオ、オホは区別されています。

272 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 15:41:39
>>271
ヲケ王とオケ王とかもあるね。


273 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 16:08:29
OK!

274 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 21:27:45
稲荷山鉄剣銘文の中の「多加利足尼」(=タカリ宿禰)の中の二文字「利足」こそ
後の足利、室町幕府につながる関東支配の始まりだったことがわかります。

また一つ謎が解けた!

275 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 22:41:07
面白くないよ、お前

276 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 23:21:34
結構面白いよ。
謎が解け太くん。
ハンドルにすれば?

277 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 03:00:51
>>274
それを言うなら、毛野と野毛だ!

278 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 05:26:01
毛野地方の方が武蔵以南より先に発展したんだっけ?
確か、日本書紀の神功皇后の条に荒田別(→上毛野)、鹿我別(→下毛野)の名が出てくると思うんだが。



279 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 07:20:38
>>271
和気系図って讃岐だか伊予だかのイナギノアタイ?
いずれにせよ四国じゃん。

280 :日本@名無しさん:2009/07/17(金) 08:25:12
>>278
毛野というのはよく茂った(肥沃な)野という意味であります…
そんな風に名付けられたのですから推して知るべし。


281 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 10:53:41
女王卑弥呼の墓という説がある箸墓古墳(奈良県桜井市)と同時期とされる濃尾平野の遺跡群(愛知県)の
土器を放射性炭素(C14)年代測定で調べたところ、卑弥呼が没したといわれる西暦250年前後と重なった、
と12日、名古屋大と愛知県埋蔵文化財センターの研究グループが発表した。濃尾平野は邪馬台国と対立した
「狗奴(くな)国」の有力候補地。同センターは「『魏志倭人伝』に記された狗奴国の実態を知る手がかりになる」としている。

 同日、名古屋大であった日本文化財科学会大会で報告された。同大学グループは03年から愛知県で出土した
弥生〜古墳時代の土器80点以上をC14年代測定で調査。これまでは欧米の年輪年代を元にした国際標準の補正データを使ってきたが、
1〜3世紀の土器の年代が考古学者の見解より最大100年古くなり、測定結果が疑問視されていた。
今回、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)が作成した日本独自の補正データを用いた結果、3世紀中ごろから4世紀前半と判定された。

 同博物館による補正データは箸墓古墳周辺の土器にも応用され、同古墳の年代が卑弥呼の没年ごろと重なるとの結果が出ている。
濃尾平野には箸墓古墳と同時期に大型の前方後方墳が相次いで築造され、邪馬台国に対抗する勢力が形成されたとみられる。(今井邦彦)

http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK200907130005.html

282 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 22:06:43
>>281
>同博物館による補正データは箸墓古墳周辺の土器にも応用され、同古墳の年代が卑弥呼の没年ごろと重なるとの結果が出ている。
それでは、年代鑑定に問題ありだと自ら公言しているようなものだ。


283 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 23:19:19
相対的にしか判断出来ない考古学や形質人類学は科学じゃないから勝負にならない

多地域進化説とアフリカ単一起源説の争いも科学の勝利で終わった

284 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/18(土) 11:05:46
箸墓250年は気に入らないが、土器編年が100年前になるのは、何ら問題は無い。
後は、
古墳も100年前倒ししてくれ。


285 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 16:44:19
ミトコンドリアDNAの塩基配列は無慈悲なほどはっきりしたものですからね。ただし、炭素
年代は誤差を誘発する要素が様々にあります。

286 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 20:04:39
放射性炭素年代測定には、 ○ 半減期が5568年  ○過去の大気中の14C濃度は一定
○シュウ酸を標準に用いる ○δ13C=-25に規格化する ○ 1950年を基準年とする
等の前提条件があります。しかし、半減期は5730±40年がより妥当な値と考えられており、
大気中の14C濃度も一定ではないことが確認されています。このような実年代(暦年)との
隔たりを補正するのが、暦年較正ですが、日本独自の補正データというものがどれだけ有
効なものであるかの判断はまだつきかねる現状でしょう。

287 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 22:15:05
少なくとも主観で決められ年々変わる土器編年より理化学的年代測定法は何100倍も信用できる

288 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 22:21:16
誤差が大きいんだからどっちもどっち

289 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 22:29:06
もちろん標準偏差の問題、さらに資料汚染の問題もあります。また細かなことですが、薪材
のススの分析であれば、伐採時期や薪材の部位(芯材か辺材か)などのこともあり、歴博発
表による布留0式の時期が240〜260年というように細かく絞り込めるかどうかは、いくら測
定の精度を高めたとしても、疑問であるといわざるをえません。

290 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/18(土) 22:34:22
国宝「金錯銘鉄剣」は、埼玉県立さきたま史跡の博物館で展示されている。
これ1度はみにいきたいよね。
ていうか、盆休み誰かいかないの?

http://www.sakitama-muse.spec.ed.jp/exhibition-room/kokuho/archaeology.htm


291 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 22:44:57
おまいらほんとうに理化学的年代を感情論だけで否定するよなあ
反論があるならデータをだせよ

292 :285、286、289:2009/07/18(土) 22:51:24
287のいうことは十分理解できます。土器形式編年は、あくまでも土器形式の新古の順を
決定するものであり、これから実年代を推定することは、土器と同時に金石文(稲荷山鉄剣
のような)が好条件で出土するようなことがない限り、きわめて難しいものです。

ここでいいたいのは、ミトコンドリア・イブの事例と放射性炭素年代測定では、測定結果の信
頼度は大きく異なっているということです。


293 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 23:18:27
>>290
去年行った。

ついでにゼリーフライも食べた。古銭も買った。
あと埴輪サブレと古墳もなかと十万石(ry

294 :292:2009/07/18(土) 23:33:06
>>291
俺のレスは感情論ではないつもりですが。「日本独自の補正データ」についても、手にする
機会があれば、ぜひ検討してカキコミしたいと思っています。

295 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 00:06:39
>>281
その補正が正しいという根拠はないわな。

こんなレベルの与太話にニュース価値があるのか

296 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/19(日) 00:08:35
>>293
>去年行った。
>ついでにゼリーフライも食べた。古銭も買った。
>あと埴輪サブレと古墳もなかと十万石(ry

おお〜うらやましい。
わたしも、北関東に住んでたらいけるんですけどね〜w
反対側ですわw

297 :294=縦目仮面:2009/07/19(日) 00:33:07
ちなみに俺は畿内説ですが、c14についてはもう少し多方面からのデータが積み重なるの
を待ったほうがいいと思っています。ところで、この話題はスレタイ的にちょっとまずいかな。
「オオヒコ」に戻したいですね。

298 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 00:41:24
大彦は相当大きかったらしいですね。
北関東では、だいだらぼっちの伝説として継承されています。
平将門や千葉周作も2メートル近い巨漢だったというし、
前漢の中山靖王・劉勝や劉備玄徳も大男といわれています。

299 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 00:53:44
確か書紀では、仲哀天皇と倭武が身長10尺=1丈と書かれてましたね。まあ周尺だとして
2m以上?になるのかな。

300 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 07:07:34
日本人は江戸時代がむしろ一番小さかった

301 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 10:14:42
>>287
土器「編」年はそう簡単に変らないぞ。
コロコロ変ってるのは土器「編」年の実年代への割り当て。
「編年」という言葉をもっと厳密に使ってくれ。

302 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/19(日) 17:51:34
>倭武が身長10尺=1丈と書かれてましたね。

時代は、民の丈が「八た」
八た鏡の円周が「八た」
八た=8尺とも書かれる。

それより 大彦から八代で雄略にたどり着いた人はいますか?


303 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 19:00:45
天皇家……100年=4世代、稲荷山鉄剣……100年=3世代で概算すればよい。
文献上崇神が箸墓築造期の同時代人として伝えられていることや、
弥生社会から古墳時代への変化が、ハツクニシラスと呼ばれるに相応しい支配者の存在を想起させることから、
崇神の実動年代を3世紀半ば〜後半にかけて、と見ておく。

<天皇家>
崇神(3世紀第U四半期生まれ)−垂仁(3世紀第V四半期生まれ)−景行(3世紀第W四半期生まれ)−
小碓(4世紀第T四半期生まれ)−仲哀(4世紀第U四半期生まれ)−応神(4世紀第V四半期生まれ)−
仁徳(4世紀第W四半期生まれ)−允恭(5世紀第T四半期生まれ)−雄略(5世紀第U四半期生まれ)

<稲荷山鉄剣>
オホヒコ(3世紀初頭生まれ)−タカリノスクネ(3世紀半ば生まれ)−テヨカリワケ(3世紀後半生まれ)−タカハシワケ(4世紀初頭生まれ)−
タサキワケ(4世紀半ば生まれ)−ハテヒ(4世紀後半生まれ)−カサハヨ(5世紀初頭生まれ)−ヲワケノオミ(5世紀半ば生まれ)

304 :縦目仮面:2009/07/19(日) 19:27:06
>>302
これなんかどうですかね。まあ、俺は記紀の天皇の代数も干支もそのまま信じる立場には
ないのですが、参考までに。唐松山さんなら、仲哀・成務を外す点で恣意的と考えるんで
しょうが。
http://d.hatena.ne.jp/nene65/20090307/1236409738

305 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/19(日) 21:03:06
テヨカリワケ≒磐鹿六雁は大彦の孫と書かれている。
磐鹿六雁は倭人伝の伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカである。

天皇家と大彦の家系に年数の違いを付けるのは、間違いである。
人生40年の時代を30年で繋ぐ異常は受け入れられない。


306 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/19(日) 21:24:52
>反正天皇(18代)と履中天皇(17代)は允恭天皇とやはり兄弟だから3人で1世代である。

この3人を一代と数えるためには、治世年数が多過ぎる。
まず履中元年が、西暦400年の干支であるもちろん朔も同じ、
この年を移動すると、移動による書紀の干支と西暦の干支をを合わせねばならない。
何処で合わせるか?
書紀は、364年新羅 倭軍攻め込む、仁徳53年を支持していると思われる。


307 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 21:41:49
>>305
室町将軍なんかは人生40年(平均)だったけど、
結局尊氏−児義詮−児義満−児義教−児政知−児義澄−児義晴−児義昭
の系譜をたどれば33年で繋いでるよ。
江戸幕府も同様、近代まで生きた慶喜を除外すれば平均寿命は50歳だが、
家康−児頼宣−児光貞−児吉宗−児宗尹−児治済−児家斉−児斉順−児家茂
の系譜をたどれば38年で繋いでいる。
鎌倉幕府に繋がる河内源氏も、
頼信−児頼義−児義家−児義親−児為義−児義朝−児頼朝−児実朝
の系譜は平均寿命60歳、32年で繋いでいる。
要は、人生40年というのがそもそも決め付けであって、
30年で繋ぐ異常は受け入れられないという意見は受け入れられない。

308 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 23:12:02
といえ大彦の時代と鎌倉幕府じゃ医療技術にもかなり差があったのでは?

309 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 23:24:17
大した医療ないから変わらねえよ。
支配層は昔から長生き。
貧乏人も長生きできるようになったのは江戸時代辺りから。

310 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 23:39:14
律令の頃だって、60歳までを正丁、65歳までが次丁とされていたしな。
魏志倭人伝にも80〜100歳の長寿だったなんて書いてあるし、
まあ額面どおりには受け取れないにしても、長生きする人はそれなりに長生きしんだよ。
逆に古墳時代とそれ以降との間に格段の寿命差を設けるほうがおかしい。

311 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 00:15:47
平均寿命が短いから、短命とイメージされがちだけど
あくまで乳児死亡率の高さが平均を著しく押し下げているのであって
全員が若死にしたわけじゃないから。

成人してしまうとそこそこ長生き


312 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 00:29:18
もうちょっと大きくなってからも、はしかとかね。

313 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 02:41:11
>>307
長子継承
河内源氏 一世32年
室町将軍 一世33年
江戸将軍 一世38年

末子継承
天皇家   一世35年〜45年

314 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 07:08:33
>>310あたりが正解。
昔も長生きは普通にいっぱいいる。

315 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 08:07:31
武内宿禰は380歳、古代人はもっと長寿でした。

316 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 10:36:39
シュメールの王・エンメバラゲシも在位900年だしな。

317 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 10:49:48
つい最近でも裕仁って奴が在位64年を自称してたらしいw

318 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 11:03:41
ソースは? 死の床にあった64年1月に「在位64年を自称した」というソースは?

319 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 11:27:30
昭和天皇の在位は、足掛け64年間ではあるが、実際には62年と12日くらい。

320 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/20(月) 15:01:31
?


321 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/20(月) 15:02:41
http://www.pref.tottori.lg.jp/secure/202511/%E9%9D%92%E8%B0%B7%E4%B8%8A%E5%AF%BA%E5%9C%B0%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85.pdf
青谷上寺地遺跡、こちらに当時の死亡年齢が載っている。

倭人伝に長寿と載っている。
確かに、でもその長寿を天皇に当てはめては、開化初期に生まれた大鹿島や
開化末に生まれた「たたねこ」の年齢が説明出来なくなる。
二人の死亡は、たたねこ=景行末、大鹿島=成務初期になる。
私の計算では、大鹿島80才位 少し前に書き込んだ数字と合わせてみてくれ。

この辺で孫の居る天皇は、景行だけその子ども日本武尊は19才死亡。
成務の崩御は、25歳以下。

322 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 16:03:49
むしろ、鎌倉時代より平均寿命長いんじゃね?
数年前に、鎌倉時代の墓地から出た鎌倉人の人骨を調査した結果、
15歳未満で死亡したのが全体の三割、平均寿命は24歳、なんてニュースがあったけど、
この弥生遺跡の死亡年齢データをざっと見ると、15歳未満は全体の一割行くか行かないかだし、
平均寿命も30歳台だから、「鎌倉時代の世代例をもって古墳時代の世代例を復元するのはナンセンス」
とは言えないな。

323 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 16:37:56
全体の出産数が分からないのに平均を云々して意味があるのかね
成人を超えたら平均寿命は近代以外はどれも変わらんだろ
江戸時代は平均寿命が延びたと言われるけど、
都市部の庶民は米ばかり食ってたから脚気で早死にするのが多かった
地域性だって考慮しなけりゃならん

324 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 16:42:39
幼くして死んで子供を作らず系図を繋げなかったのは
307や313の計算からは弾かれるんだからこの議論には平均寿命はあまり意味がないよ
系図をつなげられた奴だけをカウントしてるんだから

325 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/20(月) 16:51:46
青谷上寺地遺跡の例は、若い骨ほど溶けやすい、土に帰りやすい、
この分を上乗せしないとならないが,大成したおとなとしては、38歳位が一番死亡
例が多い。
血液の濃い天皇家としては、寿命を縮める方向に働いてものばす方向はむり。

そう考えて私の数字を見て戴ければ、太陰暦とも受け入れ等れるのでは?

成務の記事は、4年程度とは、61年−(19*3)=4年が実在期間。
空白年57年間の「増し」と捉える。
何故この様な大きな数字にしなければ、成らないか?
古事記の干支と干渉しないため、古事記の干支は、考昭元年丙寅より伸長されること無く使われる。


326 :日本@名無史さん:2009/07/24(金) 10:22:30
大成の使い方間違ってるよ、お前

327 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/24(金) 15:59:12
>>326 ありがとう 訂正しておいてくれ。


328 :日本@名無史さん:2009/07/24(金) 23:20:20
ありがとうの使い方もまちがってるよ

329 :日本@名無史さん:2009/08/04(火) 22:06:47
大成したおとな

330 :日本@名無史さん:2009/08/09(日) 07:39:19
ツングース 靺鞨 大氏 大彦 高橋 ・・・
日本海を渡って、関東に移り住んだのですね。

331 :日本@名無史さん:2009/08/11(火) 22:51:58
>>2
「ハテヒ」については、「ハデヒ」が正しいようである。

沖森卓也の『日本古代の文字と表記』19pによれば、「半」のn語尾が
連合仮名として次の「テ」を濁音化する用法として用いられているとのこと。


332 :日本@名無史さん:2009/08/13(木) 21:21:38
家系っていうのは大抵途切れるものです。
遠縁から養子をもらって繋いだつもりでも、実はよその子だったり、
DNA鑑定をすれば、すぐわかってしまう。
家督を継ぐ者がなくてお家お取り潰しにならないためには、あらゆ
る手を使ったからね。むしろ、雑民の中に、高貴な血をひくものが
多いようです。

333 :日本@名無史さん:2009/08/13(木) 23:41:10
以上妙な幻想を抱く雑民がおおくりしました

334 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 01:38:47
畏れ多いことを書くんだが、明らかに現天皇家の祖先と考えられる墳墓から、DNA鑑定可能
な組織が出たとして、今上陛下のDNAと比較して血の繋がりを調べるなんてこともできてしまう
んだろうか?

335 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 01:40:24
>>334
あなたは今、考えてはいけないことを考えましたね。すぐ、そちらに行きます。

336 :日本@名無史さん:2009/08/20(木) 01:41:50
ん、なんだこんな時間に?誰ですか?・・・・オゲーッ

337 :日本@名無史さん:2009/08/21(金) 00:11:14
怖れ多いことだが、日本国民のほとんどは天皇の赤子。
DNA鑑定をすれば、渡来系の帰化人かどうかわかってしまう。
それでは困る人もたくさんいるので、
封印しているのです。

338 :日本@名無史さん:2009/08/24(月) 05:39:56
釣れなくて残念だったね

339 :日本@名無史さん:2009/08/24(月) 22:33:12
皇別とは渡来系のことだと言った歴史学者がいたね。

340 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 11:06:19
人類は栃木県で生まれたわけではないから、日本人はすべて渡来人だべ?
1.旧石器時代から住んでた人
2.縄文時代に来た人
3.弥生人←天孫族も含まれる
4.古墳時代の帰化人←漢人、秦氏
5.奈良時代の移民
まあ、この辺までは日本人とみなしていいんじゃないのか?
問題は、明治以降、特に昭和初期に移り住んで、
いまだに日本の風習になじまない半島系住民の存在だな。

341 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 19:57:38
平成の西郷隆盛を待とう。

342 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 20:08:38
>>341
征韓論か?ロマンだな。

343 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 21:50:02
半島と満州に手を出してなければ
今でも樺太と北方領土と台湾は日本のものだったかもしれんのに
今更征韓論なんているか
半島と満州の維持の為に払った犠牲と結果がまったく釣り合ってねえよ

344 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 21:53:00
征韓はともかく、半島には、あってはいけない国が一つあるよな。

345 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 22:20:10
あってはいけない国はむしろ倭列島の方に・・・

346 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 22:24:09
ああ、独島のことか。国辱ものだな。

347 :日本@名無史さん:2009/10/29(木) 01:04:14
上げとく

348 :日本@名無史さん:2009/11/02(月) 21:52:20
>>340
それだけ悠久の歴史の流れを認識していながら、
昭和初期からの時間の流れ程度で、「いまだに」なんて言えちゃうところに、
体感としての歴史がないなあ、と思うよ。
歴史が無い家の生まれなんだろうね。

349 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 00:19:59
上げとく

350 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 01:54:08
>>348
なにしたり顔で言ってんだコイツw

書物などで自分の生まれる以前の、“歴史時代”を学ぶことと、
現在進行形で、様々な事象が様々な影響を我々に及ぼしている近現代に生きる、
ということとを一緒くたにしか出来ていない見方だな。

これがどう「家の歴史の有る無し」に関係するんだw?

大体、お前言葉の使い方間違えてる。

>体感としての歴史がない

んじゃなくて、

>歴史を客観視できていない

とでもしないと、お前のそれまでの文脈に沿ってこないよ。

まずは国語のお勉強をしましょう!
「歴史ある家の生まれ」さんw



351 :日本@名無史さん:2009/12/18(金) 16:20:34
オオヒコってヲワケからたかだか200数十年くらい前の人物だろ?
その鉄剣のワカタケル(雄略)だって日本書紀から250年くらい前の記録だぜ?
いくら疑ってかかってもどうせ実在してるよ。


352 :日本@名無史さん:2009/12/19(土) 01:48:02
>>351
しかし、記紀の古い部分は全部捏造だとする捏造説が、学界では圧倒的多数説ですね。
直木孝次郎は、その筆頭で親の仇のように記紀をこき下ろしていますな。

彼のような見方に立つと、記紀や旧事本紀や古語拾遺などが基本的に同じストーリーで
あることや、そのストーリに沿った「オオヒコ」という名が稲荷山の鉄剣に書いてあったのは、
   「権力者による数十世代にわたる緻密で一貫した完璧な歴史の捏造」
があったということになるのでしょう。



まあ、正気とは思えない考え方ですが。

353 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 20:03:28
ウィキの大彦命の
>この記紀系譜に対する疑問が呈されている。その説によると、「景行天皇紀」53年に登場する大彦命の孫磐鹿六雁の存在
景行天皇にとって磐鹿六雁は父の従弟だよね なんでこれが系譜の疑問になるの?
なんか他の理由も系譜に疑問とするにはこじつけみたいな感じだよね
結論さきにありきなのかな?


354 :日本@名無史さん:2009/12/30(水) 21:14:15
まああんまりな名前のおかげで色々と言われるよな。
大彦命て。大いなる男、程度の意味でしょ。適当すぎる。
通称、渾名のように思われちゃってもしょうがない。

355 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 11:07:56
>>354
でも 大彦はどこにでもある一般的な名だったんじゃないかといわれてるけど
記紀にも同名異人はでてこないね
他の豪族の系譜とかにもでてこないんじゃないかな
倭彦とかは垂仁天皇の同母弟や 継体天皇の前に皇位継承に名の挙がった人物
がいるから 皇族の称号だった可能性はあるだろうけど

356 :日本@名無史さん:2009/12/31(木) 14:02:32
オオクニヌシの別名のシコオも大きい男と言う説がある。
シコ=大きい

357 :日本@名無史さん:2010/01/05(火) 23:45:53
大彦命はなんで同母弟の開化天皇に天皇位をさらわれたの?
活躍ぶりを見ていると天皇になっても良かったのではと思われる。
次の代の彦湯産隅命やその次の代の豊城入彦命は皇后腹ではない
異母兄なので仕方がなかったのではと思うが...  
大彦命はよくわからない。
豊城入彦命や五十瓊敷入彦命のように夢占いや天皇からの問いかけ
に対する返答によるなどの逸話も伝わっていないし...


358 :日本@名無史さん:2010/01/05(火) 23:57:13
逆に、臣籍降下してたから(とまでは言わないまでも、第一継承者でなかったがゆえに)
活躍の場、外征の機会があったとか

359 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 00:04:03
当時の大王は、自分の血筋を各地にばらまくことを考えただろう。

360 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 00:13:40
崇神のときのオオヒコと、景行のときのヤマトタケルは似ているな。
位の高い皇族が地方の引き締めをしたってことだろ。

361 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 00:17:24
まあ、産児制限しない限り皇子は次々生まれるだろうし、手元に置いとけば王位継承争いの種になったかもしれないし。

362 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 00:22:28
まぁ末子相続とか
集団・時代によっていろんな文化があるからなあ

363 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 00:47:53
>>362
古代は末子相続じゃなかったかと言われてるよね
允恭天皇は病弱なのに即位してるし
それ以前だとほとんど大彦もそうだけど同母兄弟の場合弟が即位してるし



364 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 20:11:36
允恭は兄弟継承だろ。

365 :日本@名無史さん:2010/01/06(水) 22:32:33
>>364
たしかに兄達が先立って即位してるが
病弱なのに父仁徳天皇に「位を継ぐのに身を痛めて」としかられてる

366 :日本@名無史さん:2010/01/09(土) 12:12:34
>>357
当時はオオヒコの方が圧倒的に力があって、
後の時代に、崇神天皇の父として開化天皇の系統が注目されたのではないか。
オオヒコの伝説は広く行き渡っているので無視するわけにもいかず、
また系統違いなので、天皇にするわけにもいかない。
こういう事情なのでは。

367 :日本@名無史さん:2010/01/26(火) 14:57:00
ワケ王朝とは、強い皇子はそこに留まらず、新しい土地に新しい都を作って王になり、国を別けるという意味ではないのか?
もともと九州にあった王朝が畿内に来たのも、国を別けたということで、国を移したのではないのです。
そのことを頭に入れて考えると、古代史はずいぶんわかりやすくなります。

368 :日本@名無史さん:2010/03/07(日) 02:19:30
ほほー

369 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/07(日) 15:45:37
ホ04188 ヰミナには タラにヨつぎに ナとノリと あわせヨツなり
アマツキミ ヒヨリトまでを つくすゆゑ ヒトにのります キネとヒコ ウシもノリなり
メはのらず フタオヤフタツ オにうけて

諱の始まりは、ヒト、キネ、ヒコ、ウシ。が貴重種で このいみなを上から貰う。
ヒト 長男の場合が多い
次男3男とキネ、ヒコ、ウシと続く。
これが変わったのが、崇神ミマキイリヒコイ(ソ)ニエ、この諱(イソニエ)は妾の子供である証拠。
「ミマキ」「イリヒコ」は名になる。
開化が春日卒川宮で祀りを行ったのは、卒川宮は仮宮で本宮建設途上で亡くなる。世継ぎを妾の子イソニエを指名した事により、本貫地に陵墓も認められなかった。
だから崇神も、本貫地である橿原に入ることを拒否され、磯城で祀りを行った。
諱 垂仁イソサチ、イクメ,イリ,ヒコは名と乗りと全部で四つ。景行オオタラシ
世継ぎが妾の系譜で有る以上、諱にヒト、キネ、ヒコ、ウシは使えなかった。
ワケは、それらに続く諱。
ワケ王朝は机上の空論。



370 :日本@名無史さん:2010/03/26(金) 09:23:07
そうなの?

371 :日本@名無史さん:2010/03/26(金) 19:47:30
唐松の電波説か。

開化天皇がどうたらとか言ってる時点で、お話にならならい。

372 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/26(金) 22:15:40
そろそろみんな気がついてきたみたいだな?ww

373 :日本@名無史さん:2010/03/26(金) 22:34:44
あんたも開化天皇を実在とか言ってる、記紀オタクの同類だろ。

374 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/26(金) 22:50:58
>>373
広島県沼隈郡の艮神社伝承には

 孝靈天皇皇子吉備武彦が開化天皇10年に新羅熊曾王と戦い、左眼を
 射た

とあるから、欠史の紀にはない記載が有史として存在しており、紀の
編者らとは独立別物の内容であって、実在でないとは津田病原菌に冒され
れた脳内の妄想であり、唐松山と同視しないこと。

375 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/26(金) 22:55:03
>>369
開化が3年のみだという論は、>>374からしてインチキ論であり、オマエ
のこの論はゴミ以下のクソ級の空論であ〜る。

376 :日本@名無史さん:2010/03/26(金) 23:06:23
桜の開花の時期になると、毎年開花天皇が話題になります。
しかし、花びらが散るころにはすっかり忘れられてしまう。
まるで、木花佐久夜姫のようだ。

377 :日本@名無史さん:2010/03/26(金) 23:30:24
唐松も太国も記紀の創作の世界にドップリ浸かったカルト信者だな。
自己流はやめて、まともな歴史の本で勉強し直せ。

いくら精緻な論証を重ねようが、大元が虚構なら、すべては砂上の楼閣。
時間と労力の無駄でしかない。

378 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/26(金) 23:41:49
艮神社の伝承があるということは、紀の編者と神社古代関係者との創作と
いう公文書偽造同行使の共犯性の容疑は紀が欠史の状況も手伝って考え 
にくく、オマエの創作説は成立しないと観るべきであり、今日の足利事件
の過去の捜査関係者と検事らの先行妄想のように、オマエもこの先行妄想に
かかっているらしく、このまま放置すれば、お前の脳内は津田病のために、
盲象暴走して脳内の危険状態に至るひどいものである。

zzzzzzzzzzzz・・・・・・・・

379 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 00:28:20
伝承はあくまで伝承であって史実ではない。民俗学とか神話学の対象だ。

また、書紀の編者やそれを命じた権力者は、近代以降の実証的な歴史学者ではない。
歴史編纂が政治から完全に独立したり、純粋な学問だったわけではない。
その辺の時代性を無視して、公文書偽造とか時代感覚を錯誤したタワゴトを吐いているようでは、
どこまでいってもカルトな皇国史観のままだな。

子供じみた数字遊びと戦前の国定教科書的な歴史観でmy古代史を妄想するのはイタすぎる。
神武も欠史八代も神功もみんな作り話だ。
つまらない数字遊びで理屈づけようが、所詮は脳内の妄想の域を出ない。

380 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 00:33:44
現代の歴史学の成果を「津田病」とか言って頭ごなしに否定するわ、
自己流のシロート歴史解釈を「先行研究」とやらより優先させるわ、
あげくに古代と現代の時代性や意識、感覚を故意に混同してるわ、
もう救いようがないな。

「平泉病」だろ、太国は。

381 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 11:24:57
神社の伝承なんて、義経生存伝説や楊貴妃来日伝説をみてもわかるように、
後世の創作や牽強付会(要するにフィクション)が多いからな。
伝承イコール史実と考えるのは、おとぎ話を事実と考えるようなもの。

382 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 11:27:58
キリストが日本で修行したという伝説は事実です。
それだけではありません。釈迦もモハメッドも孔子も日本に修行に来て悟りを開いている。
紀元前前後、日本が世界の中心だったのです。

383 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/27(土) 11:37:12
>いくら精緻な論証を重ねようが、大元が虚構なら、すべては砂上の楼閣。

神功の渡海は273年の日食で考える。
そして、忍熊王等を殺す内乱が起きる。
その後の空白をうめる大王が、日本武尊の子ワカタケルである。
丁度大彦から7代つないだ時代でもある。


384 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 12:13:27
あのねえ、仮に神功が実在の女王だったとしても(本当は架空だろうが)、
ホムタ大王の母でオホササギの祖母だったら、せいぜい4世紀後半の人物だろ。

それより百年もさかのぼるなんてありえない。馬鹿げた長寿年齢でも信じてるのか?

385 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 12:17:26
>>382
コテハンどもは、マジでそういう竹内文書みたいなこと言い出しそうだw

386 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 12:22:14
伊藤博文の朝鮮遠征は、は義士安重根によって失敗に終わった。
日韓の歴史は侵略の歴史ではなく、任那、百済、新羅の王が故地を取り戻す戦い。
ツングース系の満州族や女真族との戦いはまだ続いているということです。

387 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/27(土) 12:49:12
書紀は太陰暦で書かれ、伸長されている。
こう考えれば、正しい数字に直すには、
空白年をもって伸長されたのが、書紀となる。
崇神紀には『正朔』の文字もある。

後は、正しい数字を得られるか?だけだ。

韓国では、地方(道)同士はあまり仲が良くない。
この原因を探ると、各地方は反目し合い、戦争により、相手の住民を捕虜とし、
自国で奴卑として使う。飢饉には、食料とする。
これが実態だ。
だから、百済が強国で高句麗が弱小で有った時代に、高麗人が倭国に流入する。
高句麗の後方には広大な土地が広がるから、人民の補充も出来たが、
百済が負けても、後方(馬韓)は、倭が押さえている。人民の補充はきかない。
後は、じり貧。


388 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 13:19:17
だ・か・ら、唐松さん。
倭に暦が伝来したのは6世紀に百済から暦博士が元嘉暦を持ってきたときで、
朝廷で本格的に暦学の学習や公的な使用が始まったのは、7世紀の推古朝のとき、
聖徳太子のときに百済僧カンロクが来朝してからでしょ。

3世紀、4世紀に倭人社会で暦の使用なんてないでしょうに。

389 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 13:25:15
>元嘉暦
日本には朝鮮半島の百済を通じて6世紀頃に伝えられた。
当初は百済から渡来した暦博士が暦を編纂していたか、
百済の暦をそのまま使用していたと考えられる。
推古天皇10年(602年)に百済から学僧・観勒が暦本などを携えて来日し、
帰化人系の子弟らにこれらを学習させた。

390 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/27(土) 13:42:51
>倭に暦が伝来したのは6世紀

これは各自が勝手な解釈で、暦の存在を認めないだけ。
例えば、倭人伝。洛陽の役人が松浦でそこに住む、白水郎(みずもぐり)の生活を記述する。
白水郎にとって大事なのは、24節気(太陽暦)より、月の満ち欠け(大潮、小潮)だ。
それでも、郡における市(日にちが決まっている)には、間違えずに訪れる。
通常秋の取り入れの済んだ辺りに設定された、数日間。
白水郎が日付を知らずとも、九州奴国では、太陰暦が使われている。だから市に参加出来るんだ。
当然、狗奴国でも暦は、使われており、市に参加できる。

ここで何が起きるか? この時点では、暦(農事暦)の配布を前提とした、国家経営は、出来ない。

崇神10年辺りに『正朔』の文字がある。これは、畿内以北の民は太陰暦を知らない。
まだ暦(農事暦)の配布を前提とした、国家経営が成り立つ時代。

>6世紀に百済から暦博士が元嘉暦を持ってきた
これは、暦の製作や天体事象、占いまでをも含む。

神功元年の日食の記事では、「日食」を表す言葉さえ無い、しかし太陰暦自体は、
1章こと19年5940日の繰り返しですむ。
太陰暦を作る事と太陰暦を使うことは、別次元で考えられる。


391 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/27(土) 13:59:13
我々が 書紀を読むとき、正月朔と書かれていれば、太陰暦の朔と理解しそのまま読み進める。
しかし、全体の長さは容認出来ない、であるならば、太陰暦のまま圧縮するしか無い。

年号 西暦 元旦朔 増し 調整  暦日 朔干支 中国朔
神武元年42年庚辰 0日  0   0日  辛卯 辛卯
綏靖元年64年壬申 3章 1日 8033日 甲申 甲申
安寧元年78年庚申 1章 1日 13142日 癸巳 癸巳
懿徳元年90年己卯
孝昭元年94年丙戌 3章 0日 18988日 己未 己未
孝安元年120年乙酉 3章 0日 8467日 戊午 戊子
孝霊元年146年壬辰 4章2日 37976日 丁亥 丁亥
孝元元年165年辛未 3章1日 44916日 丁卯 丁卯
開化元年184年庚午 2章1日 51856日 丁未 丁未
崇神元年187年壬午 3章 0日 52948日 己未 己未
垂仁元年217年丁丑 2章1日 63904日 乙未 乙未
景行元年240年壬申 4章1日 72320日 辛亥 辛亥
成務元年262年甲申 2章0日 80352日 癸卯 癸卯
仲哀元年266年庚寅 3章1日 81799日 庚戌 庚辰
神功元年275年丁酉 0章0日 85106日 丁巳 戊午
神功39年313年 丁巳     98986日 丁丑 丁丑

仁徳元年313年丁丑      98986日 丁丑 丁丑
履中元年400年壬子      130761日 壬子 壬子

「増し」は、4章(6940日×4)に付き1日を減ずる。合計33章−9日の増し
神功39年太歳の年を、仁徳元年とする。
閏の廻しが違うので、調整場所も違うだろうが、中国の暦日と対応させることが出来るであろう。
「履中元年400年壬子」が西暦で400年壬子と表記出来る以上、これ以降の圧縮するのは、不可能だろう。

大彦もこの数字で読む。


392 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 14:22:48
書紀の年代記事なんて、編纂段階で後付設定=創作したものなんだから、
そんなものなんの根拠にもならない。

393 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/27(土) 15:06:14
>>379
この伝承は開化10年と言ってるから、看過できない。神武より手前の代
は年月の記述が殆ど無いから、真か否かは不明である。神武以後は
キチンと年月の記載があるから、伝説ではない。オマエこそ創作の実証が
出来ていない先行の〜「最初に結論ありき論」で、これこそウラもとって
おらずらしい先行押し付けの決まり文句である。だいたい創作ならば、
当然当時に政敵に弱点を握られるし、この前の某党議員の様に公文書偽造
同様の虚偽創作記載で逮捕されたが、別に舎人親王らが逮捕された前歴
はどの古文書を見てもどうやらありそうもない。つまり足利事件のあいつ
が犯人だとの先行決め付け捜査同然の当時担当の捜査機関のでっち上げ
同様に、オマエのこれは虚偽創作だとの最初に結論決めこんだデッチ
上げそのものであり、具体的動機も示すことができず、いい加減な
デタラメである。

たかが神武から八代創作しても大陸の三皇五帝の世にも届かず、殷、夏
にも全然とどかず、中国の古代に負けないように古くするには代数が全く
不足であり、不足で届かないということは負けないように引き伸ばし
たものではな〜い。やるんだったら数百代とか増加しないと、とてもじゃ
ないが古代中国の古さに追いつきはしない。だから紀の八代とかの記述
オマエの創作だは動機が固められない。それにこういう伝承は日本各地
の神社等にわんさとこれでもかというように存在し、創作の公文書偽造
をやるには朝廷の編者側と日本各地の神社、氏子等の間では離間にすぎ
て、公文書偽造同行使の共犯の数が朝廷の人数と比べて段違いに多い
だろうし、双方が独立してると観るべきであり、全国各地の伝承、由緒を
公文書偽造の共犯とし朝廷側をその教唆犯とするにオマエは容疑を
固めることが出来ない。つまり結論を言うと、創作だと言ったオマエこそ
がでっち上げという創作をした張本人なのである。ww どうだ、
図星だろう。www

394 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/27(土) 15:32:55
>>379
数字はオマエとかには全然関係な〜い。これは唐松山への薬用論であって
それ以外の者らは適用外であり、適用外の人物はどうのこうの言って
くる筋合いのものではない。だからそれを遊びだとか言い抜かしても、
こちらは別にかゆくもなく、オマエに余計なお世話だと言うことであ〜る。

但し興味のある人物がいるから、その者らは味を噛みしめてもやぶさか
ではない。だから縦目氏とかなら愛飲するのは結構であるが、オマエには
苦い薬で、左党を舐めた脳内の治療にはならない。ww

オマエはおそらく若いころから教育現場で象牙の糖の関係から歯科医糖や
強酸糖の左糖をたっぷり舐めさせてもらっていたようだから、その
歴歯観が欠歯八代がフガフガの代歯脱多の状態となる紀見なシソー(歯層)
の危機にある切迫の状態に来てるという事だ。オマエの脳内はペーハーが
円旗政でも忠政でもなく参政であり、しかももっともと危険である強酸政
を呈してそのリトマス史見視が赤化に〜真っ赤々wに変色している極めて
憂うる脳内にある。このまま放置すれば、虫欠く歯(チューカクハ)の
思想脳労に至り、餌舐める質も象牙質も神敬質もしてやられ、真の
欠歯八代という代歯脱多の危険な歯層(シソー)の情けない脳内と
なるのだ。創作だとかなんか津田病に罹った奴らの盲象だ。ppp

オマエも左糖をたらふく舐めたら、もう〜〜オシマイ。wwwww

395 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 15:48:37
太国って単なるネトウヨ?

396 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/27(土) 16:07:22
神功紀のを日食なんて言ってる奴は低級ムー民(←但し賢人のムー民もいる)と
同クラスかそれ以下であり、アマチュアのやり口論だね。プロ級の論者はあれを
日食だなんて主張なんかしないだろうし・・・。w

397 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/27(土) 16:28:11
まあ可愛そうなのは太国編年だな、その数字で歴史が語れないんだから、
可愛そうと云うより、哀れだな。


398 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/27(土) 16:36:15
>>391
この編年表もその殆どがデタラメで構成されている。唐松山のいう三重在位
(神功〜仁徳の代の三個の二重在位)説なぞはその典型的妄想であり、こんなの
記紀はいずれも否定している。まぁインチキの極だろう。ww

毎回この表を出して来るがいつも各2〜3年左右揺れており、信用は低下下落して
いる。神武42年だとか言ってるが、これでは金印側面の「常根津日子」の年代と
整合せず、インチキだと言う他はない。また艮神社の伝承からも開化の代が3年
しかないというもの紀の60年在位からも狭小にすぎ、奴の盲象の暴走論だという
臭いがプンプンする。空白年なんぞはA.D.0年以外存在せず、奴の脳内の妄想
そのものであるww

399 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/27(土) 16:48:18
歴史は語っている。オマエが語っていないとウソを言って、こちらの論を故意に
低下させる狡猾戦術をとってるだけのこと。だいたい真の神武以下の年代を策定
するのが目的であり、そういうことは二の次である。古今調べると世界各地で
n倍年暦の行使をしていることが確認されるが、年代の不正注入のマシなんぞ
やってる所はどこにもない。そうだろう。不正をやれば命の危険にさらされるし、
そんなことをやる利害大なる動機も全然無い。これは唐松山の盲象暴走から
醸成されたインチキ論だということである。>>75のとおり成務の代もけっこう
日本各地で成務の二桁年代があるわけで、マシなんかやる余地は無い。

年代にマシをやるんなら干支の倍数の60年120年とかでなくてはならないが、
唐松山の表からはそうなってはいない。奴はマシは30年だとかちょこっとどこか
の古文献を数文字位出して3年だとかぬかしてるが、これではバレること必定で
あり、奴の年代が恣意的要素を多大に孕むいい加減なインチキだということが
文字通り→歴然として来る。ww

400 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/27(土) 16:59:37
>>399 訂正
× >>75のとおり
○ 日本書紀のスレの>>75のとおり

401 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/27(土) 17:15:51
>>393 から>>399 までの書き込みに歴史は登場しない。
哀れな男よ。


402 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 17:19:13
>>390
それがしが幼少の頃、田舎の実家(農業)に住んでいたが、その頃はまだ数え年の生活だった。
田畑は多く作物の種類も多かった。種まきや収穫にはそれぞれ時期があったが、
その時期を知るには、自然の諸現象(草木の成長具合、山の木々の移り変わり、
虫や鳥の行動、朝夕の日影の状態など)を常に細かく観察し、時期をとらえていた。
暦はあったが今年は時期が早いとか遅いとか言っていた。朔や望は関係なかった。
古代でも、こと農業に関しては太陰暦は関係ない。太陰暦は季節がずれる。
ただし、望の頃は夜が少しは明るいという利点はあった。
今、都市に住んでいる方々には実感がわかないと思う。しかし現実なのだ。


403 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 17:37:11
ひいい、縄文よ。臭。

404 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 18:05:46
年代いじりまわして悦に入ってる数字キチガイのフトクニの言ってることは、
一般世界やまともな学者の世界では鼻で笑われるレベルの妄想でしかない。

405 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 18:12:36
1.崇神6年=193年に固執。
2.神功元年=273年=日食に固執。
3.七支刀=326年に固執。
4.応神=履中である。
5・ワカタケル大王は倭王武ではない。
6.仁徳天皇陵の被葬者は仁徳ではない。
7.後世編纂の干支に固執。

唐松山先生の上記説は、吾輩の頭を混乱させる。
古い方から下ってくるより、新しい方から遡って行く方が
分かりやすいのではないか。


406 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/27(土) 18:18:41
>>402 さんの言い分もわかりますよ。
しかし、江戸時代でも、伊勢の名物には、伊勢暦がある。
>今年は時期が早いとか遅いとか言っていた。
暦があるから日にちをずらすことが出来る。
もし暦が無ければ、それも出来ない。一度狂わせた農事日を元にもどす事も出来ない。
この狂いを安定させるためにも、暦が発明され使われてきた。

雪形の代馬や種まき祖父さんだけ、より暦は貴重である。


407 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/27(土) 18:21:28
168年生まれ 大彦 崇神(187年〜)に仕える
187年 タカリ足尼(武淳川) 崇神、垂仁(217年〜)、景行(240年〜)に仕える
武淳川は、垂仁時代に伊勢に入る(アヘタケヌガワ)
206年 テミカリ別け(六雁磐鹿) 景行に仕える
磐鹿は正始元年の伊聲耆掖邪狗(伊勢のベテラン磐鹿)である
225年 タカハシ別け 高橋神社は、六雁を祀る膳の臣
244年 タサキ別け
263年 ハテヒ 仲哀257年生まれ(266年〜274年)
282年 カザハヨ別け 風早国は伊勢。
301年 オ別け 仲哀ノ弟?ワカタケルは313年死亡か?。

次回から、ここに大彦を重ねて行くぞ。


408 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 18:27:43
ミマキ大王は3世紀後半か4世紀前半、
神功ほ架空のだが息子に設定されてるホムタ大王は4世紀末。
2世紀や3世紀のわけがない。

唐松のオリジナル見解は記紀の虚構の年代に引きずられすぎ。

409 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 18:36:00
唐松山と太国は不倶戴天の敵のようにバトルしてるけど、
(実際は太国が一方的に暴れまくってるようだが)
世間一般の最大公約数的な歴史からみれば、どっちもどっちなんだよな。

唐松山は崇神が2世紀、神功が3世紀とかトンデモ年代を基準にしてるし、
(崇神や神功の実在説をとるものでも、そんな古い年代には設定してない)
太国は年代は自分勝手に操作してるが、人物や事件は記紀の内容を盲信してるし。

フツーの古代史の本読んでる者に言わせると、どっちも記紀の記述に依存しすぎで、
説話と史実の区別がつかず、自分だけの架空歴史を妄想してるようにしか見えない。

要するに、同じ穴のムジナが「仲良くケンカ」してるような感じ。

410 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 19:13:59
【森蘭丸】織田信長の末裔ならホモになるべき!!

1 :毘沙門天の化身:2010/03/24(水) 12:48:06 ID:CFPJijBX0
      ,ィ'ノ///イl,l,l,l,l,l,l,'、ミミヾミ))     |::| .:|
        'ソノ/ヘi川川Kハヘッ'"~      |::| .:|
           ,{三三}            |::| .:|
          rf三三t=っ        |::| .:|
        ,.ィ〜'i"i´l ̄l`i"ー-,、、    |::| .:|
       ,ィif《'、',',、l,l,l,l,l,l,l,l,l,ノハヾミ 、    |::| .:|
      ,イll{',',、'、'、〈{{l,l,l,l,l,l,l}}〉リノ,.ベ、  |::| .:|
      ,'j川'、ヽヽヽ'、',l,l,l,l,l,l,ノノノノィiリハ   |::| .:|
     ハi、'、'、ヽ'、ミ'、ヾ',i,l,l,i,ツノノリ,川,l,l,'!,  |::| .:|
    ,!ミヾ丶、丶丶ヽヽ',ii,'ノノノノ,イリj,',','i,  |::| .:|
   Xiミミ三,r‐ァ- 、ヾ'、jlli,'ノツ彡≦ソノノj!  |::| .:|
   メjミミ三〈 /   ``'' ー '"´  `ヾ゙',ニl ,ィi |::| .:|
    トミミfr'" l|           li j三シノ |::| .:|
   '、ヾミ'  tキ-、、         リ_゙i彡'′ |::| .:|
    ゝ_>!   `ヾミヽ、,,_、i ir;'_,,.ィ彡',}シ    |::| .:|
    彡ト'、 `ヾでラ≧ォi' rf=tiァラ´ }リ    |::| .:|
    Tfハ    `"" 彡| lヾ`~´  ,ツ     |::| .:|
   _ノヽ'、      , 、l :, :、`'   ,'__   |::| .:|
'"´〈(丶ヽ'、     _'ー、__;. ィ   /^l::::`丶、|::| .:|   たわけども、やらないか
:::::::::ヾヽ:::丶'、 _,.ィ='-三竺三ミヽ,_/-<:::::::::::::l ̄ ̄l
\:::::::ヾヽ::::`丶,ィt, ``゙ii''ii゙ '´`,イト、::::::`(二二三三二
:;:;::\::::::\ヽ、::::ヾミ'、__,洲l,__ji}' リ:l',:::::::f`f⌒ヽ_l_
:;:;:;:;:;:;\:0oヽ::::::::`ヾミソハヾシ' /:ノ:l::/'´ヽ:.:.:.:ヽ,-―
;:;:;:;:;:;:;:;:;\:::::ヽ==`二二´=彡'イ/::::::::::::ゝ:.:.:.リ〈:;:;:
:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:`ヽ_ノ` ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄´l/==ミヾ^ヘ_jl:.:.ヾ:
:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:|o:::l::::::::::::::::::::::::::::::::::::/::::::::::::::`ヽヾ<>、:.:.:

http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1269402486/

411 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 20:12:20
それがしです。
>今年は時期が早いとか遅いとか言っていた。
これは、自然からとらえて種まきを始めた時期が、暦でみると
去年より10日程早く始めたなあ、暦の日に合わせると遅れるよなあ、
という意味です。自然から感じ取る方が暦より作物にとっては大事である、
ということです。


412 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 20:16:40
ホモ、サピエンス

413 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 21:16:16
>>406
それがしです。
>一度狂わせた農事日を元にもどす事も出来ない。
元にもどす必要はありません。元というものがないのですから。
毎年自然から最適な時期を感じ取っています。
ただし、通常の生活は暦を用いてます。


414 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/27(土) 21:48:15
>>401
どうだ? 今宵はx線星アタリからノギヘンでなく「寧」にしろとかの
送信がピピッと来てるか〜?ww

415 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/27(土) 21:53:35
>>404
オマエの言ってることは常に「始めに結論ありき」で、全然資料、根拠を
出すことができない。出せないんでは、これこそ世の一般学者に嘲笑され
るのがワハハハwwwの気太郎であり、当選確実であ〜る。ppp

416 :日本@名無史さん:2010/03/27(土) 22:11:20
鳩山首相のように結論がぶれるのも困ったものだ。
やはり信念に基づいて結論を明確にし、
それに向かって論を進めていかないと国民は付いてこない。

417 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/27(土) 23:04:22
時に、崇神五,六年の様な冷夏もある。
その対処に暦が無ければ、出来ない。
暖かくなる分には、影響も少ないだろうが、寒くなると、対処が難しい。
種籾を蒔く時期が狂うと、全てが狂う。
修正するためにも暦は必要、だから 崇神10年頃の『正朔』も新しい民は受け入れた。


418 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/27(土) 23:39:29
大彦が越に派遣された訳
これを説明する前に、崇神朝を説明せねばならない。
開化は治世3年で崩御する。この時開化が後継者として指名したのが、親(孝元)から貰った
妾(イカシコメ)ニ産ませた崇神である、当然朝廷をあずかる大臣などから大反対を受けるが
それを押し切って崇神を世継ぎとする。
これにより、旧朝廷経営陣が離反。やむなく祖先の地(畝傍山以南)を離れる事と成る。
ここは大事だが今は使わない。神武が大和に入って、大王大物主から任された土地は、
紀の国です、地図の無い時代、神武は畝傍山より南は紀の国と思って、そこに宮を立てた。
そして 西暦42年 神武即位
ホ30036 ヲヲモノヌシは アワウミの ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも
サホコみな タミをおさめて しつかなり いまアマキミの クラヒなる
崇神は、旧経営陣にそっぽを向かれたために、大彦を経営陣に迎え、その子供(崇神と同じく
幼い)も朝廷へ向かい入れる。
192,3年 崇神5,6年
ホ33047 ヰトシゑやみす ナカバかる ムトシタミちる
ホ33051 フタミヤを さらにつくらせ ムトセアキ ヲヲクニタマノ カミうつし 
ナツキソムカヨアスのヨハ アマテルカミの ミヤうつし
この五年の冷夏は、民どころか、大王大物主まで移動させる。
192,3年の出来事は、新羅本紀に書かれていることの裏返し。
193年が冷夏であったことは、後漢書にも書かれている。

そのうち続く。


419 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/28(日) 00:07:44
唐松山編年の一部 すべて1年づつだという。bbb

184年 開化0年 孝元崩御
185年 開化元年 開化即位
186年 開化2年 崇神立太子
187年 開化3年 開化崩御
188年 開化4年 崇神即位

しかしこれでは単調にすぎて奴はおかしいと思ったのだろう? 崇神の
立太子は翌年の開化崩御直前だと小さいうっちゃりで不審性をちょろまか
している。www 所詮デタラメの産物だ。ppp

420 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 00:17:51
>>417

>修正するためにも暦は必要

何を何に修正する?修正の意味が分かりません。それがし自身、自然の中で体験してきました。
冷夏であってもサインは出ます。しかし、育たないだけ。暦なんか関係ありませんでした。
これが事実だから、誰が何と言ってもしかたがありません。


421 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 05:26:37
あ、な〜るほど。仮に春の彼岸の中日に種を蒔きたいとする。
崇神元年(書紀のとおりBC97年とする)は2月20日だが、
翌2年は2月でなく翌月(閏2月)1日である。
早いところでは崇神5年2月4日、遅いところでは崇神21年3月1日。
同じ彼岸でも一カ月の幅で前後する。農耕に暦は役立たず。


422 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 09:21:36
史学科関連のスレで、社会人院生のオッサンは思いこみがはげしく、
自己流の考えに固執する石頭でどうもこうもならんって呆れられてたが、
ここの唐松とか太国見てると、とくに太国がそんな感じだよな。

プロの研究を敵視し、頭ごなしに否定して、自己流で唯我独尊状態になる、
アマチュアにありがちの悪しき典型だな。

423 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 09:46:44
プロかアマかで色分けするのは、全く意味がない。
真実は一つ。それだけだ。

424 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/28(日) 10:00:48
大彦が越に派遣された訳
これを説明する前に、崇神朝を説明せねばならない。
開化は治世3年で崩御する。この時開化が後継者として指名したのが、親(孝元)から貰った
妾(イカシコメ)ニ産ませた崇神である、当然朝廷をあずかる大臣などから大反対を受けるが
それを押し切って崇神を世継ぎとする。
これにより、旧朝廷経営陣が離反。やむなく祖先の地(畝傍山以南)を離れる事と成る。
ここは大事だが今は使わない。神武が大和に入って、大王大物主から任された土地は、
紀の国です、地図の無い時代、神武は畝傍山より南は紀の国と思って、そこに宮を立てた。
そして 西暦42年 神武即位
ホ30036 ヲヲモノヌシは アワウミの ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも
サホコみな タミをおさめて しつかなり いまアマキミの クラヒなる
崇神は、旧経営陣にそっぽを向かれたために、大彦を経営陣に迎え、その子供(崇神と同じく
幼い)も朝廷へ向かい入れる。
192,3年 崇神5,6年
ホ33047 ヰトシゑやみす ナカバかる ムトシタミちる
ホ33051 フタミヤを さらにつくらせ ムトセアキ ヲヲクニタマノ カミうつし 
ナツキソムカヨアスのヨハ アマテルカミの ミヤうつし
この五年の冷夏は、民どころか、大王大物主まで移動させる。
192,3年の出来事は、新羅本紀に書かれていることの裏返し。
193年が冷夏であったことは、後漢書にも書かれている。

続く。


425 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/28(日) 10:01:47
続き A

崇神5年、全国を冷夏が襲い大凶作の年となる。翌春には農民の逃散。
崇神6年の実りも期待できない。大物主はこの苦境を乗り切るため、崇神に身を寄せる。
崇神にしても同じ屋根の下で何時までも暮らせない。宮(住居)を二棟建て、大物主と伊瀬(豊け)
をそれぞれに移す。
この状況は、
近江伊瀬遺跡の衰退と纒向の発展を、意味する。
考古学はここを2世紀末に設定。

七年ハヅキナカ トハヤがチハラ メクハシメ ヲヲミナクチと イセオウミ ミタリミカトに
つげもふす ユメにカミあり タタネコを ヲヲモノヌシの イハヒヌシ
八年 ホ33120 このミキは わがミキならず ヤマトなる ヲホモノヌシの
カミのミキ イクヒサつくる スキバいくひさ
一〇年 ナツキコカ ヲヲヒコをして コシのオシ タケヌナガハをホツマオシ 
キビツヒコして ツサのオシ タニハチヌシを タニハオシ 
オシエうけずば ほころばせ オシテたまはり イクサだち

7年大物主は譲位を決意、初子田田根子を崇神に仕えさせる。
8年大物主と崇神が譲位の儀式と宴会を開く。大物主は、親の国(サホコ)出雲へ移る。
この時点で、崇神に協力しなかった旧臣達もほぼ戻っては来るが…。
一〇年 9月 譲位された土地の再編成とまだ平定されていない遠方の国を治めるために
四道将軍を編成。流動化した民の南下を押さえるため大彦が越(コシネ)に向かう。
大彦が奈良坂まで来たときに、あらぬ噂を聞きつける。
続く


426 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/28(日) 10:02:44
続きB
ヲヲヒコいたる ナラサカに ヲトメがウタに みよミマキ イリヒコあわや
をのがソヱ ぬすみしせんと シリツドを いゆきたがひぬ ヤエツドよ いゆきたがひて
うかがわく しらじとミマキ イリヒコあわや
その前に、
ミコトのり イサセリミコを ヲヲサカえ むかしアダヒメ うちやぶり 
ついにころしつ ヲヲヒコと ヒコクニフクと むかわしむ
この文だ、 「むかしアダヒメ うちやぶり ついにころしつ」これは
「タケハニヤスとアタヒメと イタサをこしてヤマシロと ツマはヲヲサカ」ここに出てくる
「アタヒメ」は「むかしアダヒメ」とは違う、多分187年の出来事であり、この出来事を
隠すため、188年崇神即位が1年早まって187年即位と計算されるのだ。
つまり19年単位で加増しなければ成らない数字を18年で打ちきる。
すると開化治世3年、空白1年、崇神即位。の空白年が崇神に割り振られる。
ここからは、武埴安彦の乱と成るが、皆さんご存じだろうから省略するが、ここで記憶しておかな
くては成らないことがある。
それは、武埴安彦の後ろで糸を引く、旧臣達の動向だ。これは、垂仁時代の狭穂彦王であり
景行が真っ先に行きたかった国、「三年春二月庚寅朔。卜幸于紀伊國。將祭祀群神祇。不吉。」
と続くのだ。

この後は、異族多帰 考古学が云う、纒向に各地の土器が集まる。になり、
一二年 初めて古墳を作る。箸墓の記事になるが、現在の箸墓では、巨大であるし時代も合わない。
この辺りから崇神の子作りは、始まる。


427 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/28(日) 10:18:46
>>423
ならばオマエはエジプト説とか南極説支持なんかどうだ?w

428 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/28(日) 10:46:55
卑弥呼の代がいずれの天皇の代かを把握するには、厳しい倍暦の逆算積み上げ
が必要である。唐松山のような忍者の高飛びとか低級ムー民(←賢人ムー民も
いる)の言い出すような神功紀日食などとのアマチュア見解に飛びついては
ならない。

逆算のは結果は崇神没年が259年であり、これは紀の同没年干支の258年がほぼ
真だということなのだ。このことは橋本増吉、菅政友の主張がほぼ正しかっ
たわけで唐松山の主張がインチキだったことを物語っている。ここから崇神即位
元年が237年を得ることとなり、崇神の即位したのは景初元年だったということ
が正解なのである。卑弥呼の活躍年代は崇神の代だったのであって、景行は
デタラメであ〜る。

429 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 10:56:57
崇神5年は冷夏凶作とは限らない。インフルエンザのような伝染病が猛烈にはやっただけ。
この頃は小寒冷期であって、冷夏凶作は頻繁に起こっていた。
崇神6年事件も食料の欠乏は想定されるが前年の伝染病からくるもので、凶作、餓えとはどこにも書いてない。新羅本紀の餓えた倭人はこのこととは限らない。
十分条件ではあるが、必要条件ではない。崇神はもっと後世のはず。


430 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 10:59:32
>>427
もし、邪馬台国を起こしたのがエジプト文明の末裔だとしたら、もちろん真実を支持する。
確かに、長江文明はシルクロードを通してエジプト文明とのつながりがあったのかもしれない。
エジプト王朝の分家が長江文明を起こしたとする仮説にも大いに興味がある。
南極はともかく、北極に近いアイルランドの巨大円墳やストーンサークルを作ったとする
ケルト文化と日本の古代文化とのつながりにも興味がある。
邪馬台国の問題も、そういった文明全体をみるための重要な視点の一つとして非常に興味がある。

神は細部に宿る。だから、編年の積み重ねからわかる真実もあるし、あなたのアプローチを否定するつもりはさらさらない。

431 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 11:04:23
太国って、自分の痛いところつかれたら極論や暴言でしか返さないんだよね。

逆に言うと、やっぱり自分のやってることはマトモな学界では通用しない、
アマのお遊び(恣意的な数字遊び)って自覚があって、気にしてるんだろうね。

432 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/28(日) 11:32:42
>崇神5年は冷夏凶作とは限らない。インフルエンザのような伝染病が猛烈にはやっただけ。

翌年に、民が散る。この状況は、飢饉の年の翌春に起こる普通の現象だ。
はやり病で死人が出ても、家族や人々は、その土地を捨てることは無い。

これが、どの時代でも共通する人々の行動である。
反論したければ、調べてくれ。


433 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 12:11:29
>翌年に、民が散る。
民が散ることは書いてあるからその通り。それが193年に固執せずに
もっと後世の場合も検討すればどうかということ。


434 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 12:13:16
凶作の場合、1年では土地を捨てて逃げ出すということはないのだ。
なぜなら、どこの村にもそれなりの備蓄はあり、1年で底を突いても、
翌年頑張ろうと思うものだ。
天保の飢饉を例に出せば、1833年(天保4年)に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化した飢饉である。
従って、人々が土地を捨てて逃げ出すほどの飢饉なら少なくとも前年も凶作だったはずで、その兆候が見えなければならない。

実際のところ、そういった兆候はなく、むしろ、渡来人が来たために、免疫のない新型の病原菌がもたらされたためと見るべきだ。
渡来系の王や帰化人が半島経由で病原菌をもちこんだのが原因。渡来人の王の娘御間城姫が皇后となったのが傍証となる。
これまで物部の娘を皇后にしてきたのに、大物主をおろそかにした祟りとしておそれられたのだ。

435 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 12:17:26
ていうか、いい加減、記紀の年代や人名などから離れた方がいいんじゃないか?
崇神○年とかミマキヒメとかいったあたりで、胡散臭さ全開なんだが。

436 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/28(日) 12:19:56
続き
垂仁時代(217年〜239年)

 フソフホシハス スエヤカに ヤマトメヨシコ コトシソヒ
二十二年に天照大神を祀るため、伊勢の地を選択、この時、武淳川も伊勢に入る。
90年 田道間守(任那王の親戚)を常世の国へ派遣。これが景初3年になる。
魏の使いは、半島南部まで来たとき、任那の存在を知り、倭国の情報を聞き出す。
これにより、大和に垂仁(イクメ)の存在を知る。
倭国に渡来した魏使は、九州倭王に面会を求め朝貢を促すが、九州は倭王(男王)一人にまとめられる時代では無く、抗争を繰り返した結果、男王は疲弊し、倭王としては朝貢できない状態であった。
そこで斎王卑弥呼を倭国王と決定する。魏使は、大和王の同行を求め、垂仁は、田道間守を派遣する。
翌年(240 景行元年)魏使を伴って帰国した田道間守は、垂仁の死を知り殉死する。
魏使は、倭国の状態を知り、景行に使いを魏へ送るよう要請。
これに応えて景行は、磐鹿(推定30才)を帰国の魏使に同行させる。
そこで魏は、一つの提案をする。それは、倭国統一。
その為の、治世方法から、戦の仕方までを伝授する事を約束する。
帰国した磐鹿はその事を、景行に報告、報告を受けた景行は、魏の提案を受理し、まず足下の仲違
いしている紀伊へ行こうとするが、「行くは良からず」と云うことで
ミユキやめ ヲシマコトのコ ウマシタケ ヰココロやりて まつらしむ
この手打ちにて、景行は武内宿禰を産むことが出来た。


437 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/28(日) 12:30:43
>もっと後世の場合も検討すればどうかということ。

現在の考古学が、纒向遺跡は、2世紀後半からとしている。
近江伊勢遺跡は2世紀後半まで。

まず 検討すべき年代は、崇神=纒向初め=2世紀末。
崇神=250年頃は、これまでほぼ全員がやって来たが、正解を得ていない。


438 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 12:32:41
祟神が四道将軍を使わして支配地域を広げようとしたのも、つまりはリスクヘッジ。
畿内が凶作の時も北陸や東海、西道や丹波はそれなりの収穫があったからだ。
祟神が長子、豊城入彦を東国に使わしたのも、東国の重要性を認識していたからだ。

439 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/28(日) 12:44:22
>東国の重要性を認識していたからだ。
孝霊は、富士山へ行っている、この時伊豆三島までは、関係が出来ている。
この時、諏訪酒折へ、タケダ、モロズミの入植が考えられる。

付録 
倭人伝登場人物
倭女王=大乱の国に立てられた女王 神橿日姫か?男王の斎王?
難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫 倭女王の部下
都市牛利=タジマモリ =田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁
倭王←タリヒコ =景行
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
狗奴國=狗古智卑狗?
イヨ=五百野姫←伊勢神宮より筑紫へ下向
ついでに書紀より
倭女王卑弥呼=巾3尺の石
男王=筑紫の大木
官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、
伊支馬=イクメ=垂仁
彌馬升=ヤマシロ=タタネコ  ホ37048 ミワのタタネコ ヤマシロが 
彌馬獲支?


440 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 12:47:14

言葉遊びの典型だな。

441 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 12:49:24
こういう言葉遊びって、中学生くらいの古代史マニアが必ず通る道だけど、
コテハン名乗ってる記紀厨は、いい年こいてまだ卒業できてないんだな。

442 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/28(日) 12:50:10
>祟神が長子、豊城入彦を東国に使わしたのも、

崇神の子作りは、崇神12年以降。
だから四道将軍には、登場しない。


443 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/28(日) 13:00:19
崇神の子作り
12年 ホ34096 このミヨを ハツクニしらす ミマキのヨ タミたのしめば キミやすく 
キサキもをえて スケヤサカ トイチにもふで うむミコは トチニイリヒメ
26年 フソムトシ ネツキハツヒニ ミマキヒメ シギにうむミコ トヨキヒコ イムナシギヒト
29年 フソコトシ ハツヒオウトに キサキまた うむミコイクメ イリヒコの イムナヰソサチ


444 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 13:08:06
だからさあ、その「崇神12年」なんて年代は架空の数字なんだよ。
ミマキイリヒコって三輪周辺の王様は、4世紀前半に実在してた可能性はあるけど、
そんな時代に正確な暦も記録もないんだから、細かい年代なんか不明なんだよ。

崇神紀の年月日なんて記紀編纂の段階になって、創作された数字だろ。

445 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 13:17:21
記紀以前に文字がなかったというのはおかしな話で、
碑田阿礼のような語り部の記憶に頼る要素は大きかったにせよ、
阿比留文字、ホツマ文字などの神代文字が存在したことは確かで
それらをいわゆる漢字に置き換えたものも多かったはず。
従って、記紀はすべてが捏造されたというわけではなく、
その中に含まれた事実を一つ一つ拾いあげる作業が必要なのです。

そういう根気のいる地道な作業を嫌って投げだすようでは、古代史は語れない。

446 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/28(日) 13:35:39
>>444

だからね、崇神紀に『正朔』の文字があり、書紀が太陰暦で書かれている以上
太陰暦による正歳は在るのだろうか?こう考える訳よ。
その数字と、設定場所を特定して、日本史を考えているわけ。


447 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 13:38:39
その崇神紀の「正朔」の文字自体が書紀編纂時の創作だとは考えないのか?
書紀はどこもかしこも文飾だらけじゃないか。

448 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/28(日) 14:16:18
>>445は唐松山くさいな?ww あいつはけっこう無コテで一人二役を
しでかす。不利になったとき、あいつはこれをよくやるんだ。ppp


449 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/28(日) 14:16:30
>>447
では、書紀の暦を後付けで証明しなければならない。
現在の処、間違いを七ヶ所?認めれば、リントク暦で読める。程度であり
とても後付けを証明したとは云えない。
何故か?
書紀全体を同じ思考で圧縮出来ない。また各天皇紀でも、同じ圧縮では、読めない。

であるならば、太陰暦が使われ、その時の朝廷が、改元のごとく、伸長した。
との考えも成り立つ。
この思考で、設定ヶ所が沢山得られれば、正しいとも考える事ができる。

私の数字は神功元年を275年とはじき出している。であるならば、神功元年の日食を273年の事である、と推定できる。
そして神功52年は、326年が得られる。
この数字は、神功の渡海と、七支刀がもたらされる出来事を、正しいと考えられる。
文飾では無く歴史的事実の記述となる。


450 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/28(日) 14:25:01
それは逆だろうな。ww
神功元年直前を日食と決めこんで、それから275年とやらを神功元年と決め
こんだろうが。それを逆にしてくらましをやっている。所詮唐松山のは
忍者の高飛び多様の不可能論であり、平成天皇を鳩山首相と鞍替えるよう
なインチキ論とか不可能大幅跳びの半島千人百姓メシなし渡海を強行
する盲象をやっている。ww

451 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/28(日) 14:26:55
>>450 訂正
× 多様
○ 多用

452 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 14:40:35
>>449
暦を後付けでなければ、当時からあったということになる。
BC660年に倭に干支暦があったという証明はできるのか。
証明ができなくても、なかったと考える方が順当と思うけど。


453 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/28(日) 14:47:00
歴史的に見て、
正しいと思われる設定位置が、一つの考えで幾つも得られれば、検討しなくては成らない。

否定するには、別の設定位置で歴史が読めれば良い。思考方法も問わない。

太国さんよあんたが否定しても、私の数字は正朔だ。これに沿った数字でもある。
全てを否定して、なにも考えられなくなった太国倍年とは、構造が違う。
暦の後付けが前提にある太国倍年が数字を拒否した時点で、太国倍年は潰える。

太国倍年は、歴史的事実と何も一致するところが得られない。こんな物を振りかざして何のトクがあるの?

これで良いんだよ、「神功元年直前を日食と決めこんで」ここから、事実と思われる数字を繋げることが出来れば。
まあ最初の設定は、神武6年からだったがね。


454 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/28(日) 14:54:48
決めこみがオマエのブレーキの利かないサビ脳だ。ww 日食は
数日も継続はしない。そんな妄想にひっかかるそれがしの脳では
な〜い。こちらは若いころ大失敗して懲りてるからな。そんなの
はネズミ捕りにかかる経験薄弱で無用心なネズミ同然だぞ。ww

ただし電波星等からむこうは日食が数日間も続くという送信が来て
るというなら、まぁ一応可能性は出て来るだろう。wwwww

マシなんかやってた地域なんぞない。21ヶ月の妊娠記事で目が
さめないオマエの脳は、正しい判断、制御を放棄してるのだ。よく
よく考えるんだな。

455 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/28(日) 15:09:48
ほ〜ら
歴史は全く語れない。
語る言葉は、騙る言葉の羅列だ。


456 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/03/28(日) 15:18:26
唐松山は歴史を語れない。やつの語っているのは歴史の創作だww。

457 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 16:09:34
おまえら、トムとジェリーかよ。
せいぜい仲良くケンカしてろ。

458 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 20:13:59
正朔厨も倍暦厨も、記紀の虚構に引きずられすぎで史学科じゃ落第決定だな。

459 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 20:26:03
文学部は史学科だけじゃないから

460 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 20:31:36
国文科で古典文学として記紀を学ぶにしても、
神話学や民俗学として記紀の伝承を学ぶにしても、
電波な年代論ばっかり語ってたら落第だな。

461 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 20:38:32
電波じゃない年代論(というか紀年論)ってあるの?

462 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 23:48:00
電波とはどこからともなく聞こえて来た説というのなら、
太国さんの説も唐松山さんの説も電波ではありません。
なぜなら限られたものであるにせよ現存する史書に基づいて編年をしているからです。
ただし、仮説に仮説を重ねた結果、元の姿がわからなくなってしまった。

そして二人の仲が悪そうに見えるのは似た者同士だからです。
日本人は西洋人や黒人には寛容なのに、韓国人には手厳しい批判をするのは、
お互い遺伝的にも近い関係があるが故に小さな差異が気に障るのです。
わしたち一般人から見ればどっちもどっち、何をじゃれ合っているんだ?と思うでしょう?

463 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/03/29(月) 23:14:51
>韓国人には手厳しい批判をするのは、
私は批判はしていませんよ。
ただ、書紀の神功紀は正しいと主張しているだけ。
その為に、これまで云われている、設定位置を、動かしている。
何もないところへ動かしたわけでなく、神功元年の日食は273年と設定位置を与えている。


464 :日本@名無史さん:2010/03/30(火) 00:08:34
神功の実在性はおいておくとしても、
応神の母世代の人物が3世紀後半の人物のわけないだろ。

465 :日本@名無史さん:2010/03/30(火) 22:51:49
応神=王仁
小倭は韓人に征服されたw

466 :日本@名無史さん:2010/03/31(水) 01:17:52
悲しいことに応神という諡号が付けられたのはもっと後の時代なんだね
王仁の頃はまだ応神天皇と言う呼び方は存在しないんだね

467 :日本@名無史さん:2010/03/31(水) 15:41:56
王仁も、あくまで日本書紀での表記であって、
もともとの伝承で「王仁」だったか怪しいものだ。
先行する古事記での表記は「和爾吉師」だしな。

だから、「ワニ」なる伝承上の渡来人が、
楽浪郡の中国系住民の王氏だっかも本当は怪しい。

468 :日本@名無史さん:2010/03/31(水) 19:25:48
だから中国系じゃなくて韓国系なんだろ。
出身地もすでに判明してるし。

469 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/01(木) 17:28:21
王仁が韓国系で漢字が使えたなら、この時代
百済では、それだけの文化の蓄積が無ければ成らない。
また、少し後には高句麗の使者の来邦もある。
400年前後の対峙する時代を避けてその時期を特定せねばならない。


470 :日本@名無史さん:2010/04/01(木) 18:23:46
ワニは、いまのところ中国系か韓人系かわからない。
文献を根拠に楽浪王氏を主張する見解がないわけではないが、
上記のようにワニの「王仁」表記は日本書紀によるもので、
より古い古事記では「和邇吉師」の表記である。
素朴な古事記の伝承をワニ渡来伝承のより古い形態と考えるなら、
ワニが王氏であったとは断定できない。

そもそもワニ(和邇吉師)は実在の個人ではなく、
4〜5世紀に倭国に移住した渡来人集団(西文氏の祖先の集団)を
ワニという一個人の姿に象徴させたものだろう。

471 :日本@名無史さん:2010/04/01(木) 18:45:00
肝心の韓国には現代まで、王仁(ワニ)に関する伝承も遺跡も存在しなかった。
ワニの存在は、日本統治時代に「逆輸入」されたものである。
本来韓国にはワニ伝承は存在せず、ワニ伝承は日本で生まれたものなのだ。

滑稽なのは、第二次大戦後だいぶたってから、韓国でワニの存在が注目され、
遺跡が捏造されているということ。
記紀の記述に否定的な韓国人が、この点だけは記紀の記述を利用しているのが、
滑稽としか言いようがない。



472 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/01(木) 19:12:11
359 百濟阿花王薨 十六年春二月 王仁來之 則太子菟道稚郎子師之
371 高麗王遣使朝貢。
414 広開土王碑
王仁渡来をこの辺の数字にしないと、その後高麗使を叱責出来ない。
50年遅くすると 高麗使の遣使が315年では、百済は高句麗の属国として存続している
時代になってしまう。


473 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/01(木) 19:23:49
七支刀は肖古王の位置を決定する。
百済本記には、肖古王が2名登場する、そして数字を無視しても、書紀の肖古王とは記事が合わない。
そこで肖古王を調べたのが下記の数字です

百済本記 肖古王
東漢桓帝延熹9年 :丙午年1月辛卯朔166年2月18日 この年肖古王即位 
東漢獻帝建安19年 :甲午年1月癸未朔214年1月29日 この年肖古王崩御
百済本記 近肖古王
東晉穆帝永和2年 :丙午年1月丙寅朔346年2月8日 この年近肖古王即位 
東晉孝武帝寧康2年 :甲戌年1月癸未朔374年1月29日 の年近肖古王崩御

書紀の肖古王
西暦273年日食、西暦274年神功元年として、
西暦301年?皇暦888年、神功28年戊申1月辛卯朔 この年肖古王即位か?
西暦328年◆皇暦915年、神功55年乙亥1月癸丑朔? この年、百濟肖古王薨。
30日の誤差で癸未朔が成立

神功52年 七支刀が 326年 東晉明帝太寧4年であれば、百済本紀の肖古王は、
ここから派生する。


474 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/04/01(木) 19:45:06
神功元年の記事
太国:「日食が数日も続く訳が無い」で日食を否定。それでは代換えの読み方を問うと、
太国:「数日も続く現象は無い」となる。
ならば何処に間違いがあるか?
則日暉炳。日夜有別。
『日夜有別』の“夜”を“闇”に置き換えると、
すなわち、ひのかげがきらめく。日を闇が別ける。で日食と成る。
『ひのかげがきらめく』は完全食かそれに近い状態となる。それは273年しか無い。


475 :日本@名無史さん:2010/04/01(木) 19:50:14
書紀の肖古王は、学界でも近肖古王と確定しているので、
いまさら考証してもあんまり意味がない。

ちなみに七支刀は
1.百済献上説
2.百済下賜説
3.東晋下賜説
などが主張されている。

日本書紀の記述をうのみにすると1説になるけれども、
七支刀の銘文を忠実に解釈するなら2説になる。
(百済王世子奇生聖音=貴須王、近仇首王が侯王たる倭王旨に下賜)

1・2の中間、折衷として、聖晋(東晋)の臣下である百済王世子は、
晋の侯王たる倭王旨に晋が刀を下賜する仲介者だったとする3説がある。

476 :日本@名無史さん:2010/04/01(木) 21:19:47
倭王旨は景行天皇ことオ「シ」ロワケノミコト。
景行陵=渋谷向山古墳の年代とも一致する。

三輪王朝のオシロワケ大王(当時は大王号はないから、本当はただの倭王)が、
百済王世子(のちの近仇首王)から百済の侯王として下賜されたのが七支刀。

477 :日本@名無史さん:2010/04/01(木) 22:25:26
百済という言葉でわかるように、山東半島から黄海、朝鮮半島、九州にかけて百もの斉の分国が存在した。
筑紫の磐井も長髄彦の国も「斉」の分国の一つだったのではないだろうか?

478 :日本@名無史さん:2010/04/10(土) 00:24:46

■古墳の変化、出土品で追う  さきたま史跡の博物館

朝日新聞 2010年4月8日
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201004080285.html

 埴輪(はにわ)が生まれる前の古墳には何が置かれていたか。
埼玉県行田市にある県立さきたま史跡の博物館で開催中の企画展「埼玉古墳群とその周辺 『稲荷山』出現以前の古墳」は、県内で発掘されたごく初期の古墳に光をあてる。

 古墳時代の開始期にあたる3世紀後半〜4世紀初め、旧武蔵国では比企丘陵などを中心に、まず前方後方墳の造営が始まった。
展覧会は、三ノ耕地遺跡(吉見町)、南志渡川遺跡(美里町)などの弥生時代以来の溝を巡らせた周溝墓に始まり、前方後方墳を経て前方後円墳が登場するまでを描く。

 周溝墓〜前方後方墳の段階では壺(つぼ)などが供えられたが、近畿にルーツを持つ前方後円墳の出現と同時に、埴輪が登場する。
また、墳丘墓などからは東海地方で作られた土器が出土しており、同地方とかかわりを持った集団の下で造られたことがわかる。

 展示品の多くは土器と埴輪。埼玉という土地を通して古墳出現期の地域相を語っている。5月16日まで、同月3日を除く月曜休み。(宮代栄一)

参考:
・埼玉県立さきたま史跡の博物館 企画展パンフレット
  ◆「埼玉古墳群とその周辺 『稲荷山』出現以前の古墳」
http://www.sakitama-muse.spec.ed.jp/kikaku0313/kikaku0313.html

・さきたま古墳公園のサクラが満開です
http://www.sakitama-muse.spec.ed.jp/22hana/hana-0409.html

479 :日本@名無史さん:2010/04/10(土) 04:45:35
古事記は平安時代初期に多長人の著作らしいね
古事記の表記が奈良時代初期風なのはそういう理由

480 :日本@名無史さん:2010/04/12(月) 23:16:38
前スレの石川年足の墓誌の例は
系譜が大彦からで、孝元がないのは後から系譜をつなげたからという説へのいい反証だな。

481 :日本@名無史さん:2010/06/14(月) 09:52:28
まだあったのか、このスレ

482 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/14(月) 20:19:15
千熊長彦の登場
http://kusegakunoto.progoo.com/bbs/kusegakunoto_topic_pr_218.html
より ラヂオ氏は、新羅本紀と百済本紀の誤差を百済本紀に近づけようとしています。
下記はその直訳
*AD370年- AD318年= 52年偏差.
[1409] 千熊長彦, 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,

千熊長彦は323年 神功49年です。


483 :日本@名無史さん:2010/06/15(火) 03:17:07
肖古王などの百済王の名称は聖明王または威徳王の時代に創作されたものだ。
当時の名は「余句」。これは一般的に「(夫)余(肖)句[=古]」の漢風名と考えられている、一方
次代の「王須」は「(百済)王の(貴)須」の略らしい、上の例から言えば「王」は姓で名が「須」と見るのが普通。
馬韓伯済王夫余氏と帯方の漢人の首魁王氏の連合政権が百済王国の正体と考えれば
「余句」は夫余族王としても「王須」はこれが実名の漢人としか考えられない
百済記などの肖古王周辺の記録は5世紀末の半島情勢を反映した箇所が多く見受けられる
三国史記百済本紀と漢籍に載る百済王の在位期間の不一致は両者が別人の証拠である

484 :日本@名無史さん:2010/06/15(火) 06:32:44
千熊長彦の百済記の表記は稲荷山鉄剣の表記と似てるから近い時代に記述されたのかもね

485 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/15(火) 17:53:25
書紀だけで神功49年を再現すると。

則與久■等共勒兵而度之。至卓淳國。將襲新羅。
請増軍士。百濟將也。
南加羅。喙國。安羅。多羅。卓淳。加羅七國。仍移兵西廻至古爰津。屠南蠻。 彌多禮。以賜百濟。
則將千熊長彦。至都下厚加禮遇。亦副久■等。而送之。

ここに「勒兵」とある。石勒、永嘉の乱(308〜323年ころ)
百済の軍を招く。半島を再編成する。領土の分与により百済は大国となる。
千熊長彦は以前から半島に居る。

これらの整合性を取ると。
乱の頃で、半島を再編成できる。これは、東夷軍が晋に帰属している間では無い。
だから、平州方面の帰属を晋があきらめた時、それは、洛陽奪回をあきらめた時でもある。
冊封が解除され、新羅に残留する石勒軍を討ち、長年の乱で流入した民の安全を図るため、
領土を百済に分与する。
百済国王は感謝の言葉を述べる「是以自今以後。千秋萬歳。無絶無窮。常稱西蕃。春秋朝貢。」
この3年後に七支刀がもたらされる。
であるならば、神功49年は、323年であり、七支刀は326年となる。

もしこの記事をねつ造とすれば、それ以前の年代決定もねつ造である。


486 :日本@名無史さん:2010/06/15(火) 21:16:23
太田天神山古墳こそ、獲加多支鹵大王の墓ではないだろうか?
そして獲加多支鹵大王を補佐いたのが稲荷山鉄剣で有名な意冨比[土危](大彦)。
雄略は関東出身だったことがはっきりしました。

487 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/15(火) 21:30:03
大彦から7代継いだ辛亥年は351年を下ることは無い。
7代目の知っている獲加多支鹵大王は日本武尊の子供である。


488 :日本@名無史さん:2010/06/15(火) 22:30:24
>>487
1、大彦から7代継ぐ (雄略に至る系譜)
2、子孫から7代遡る (鉄剣の系譜)
1と2では全然意味が違う

1、長男など比較的若い時期に生まれた子供が継ぐ(一世20〜25年ぐらいか?)
2、晩年に生まれた子の可能性もある(40歳や50歳の時の可能性もある。  一世30〜35年ぐらいか?)

7代で70年ぐらい違ってくる。

489 :日本@名無史さん:2010/06/15(火) 23:22:51
「斯鬼宮」とは、埼玉県加須市の鷺宮(さぎのみや)神社ではないかと思うのです。
この神社の由緒書には、

>当神社は、出雲族の草創に係る関東最古の大社である。由緒は神代の昔に、天穂日宮とその御子武夷鳥宮とが、
>昌彦・昌武父子外二十七人の部族等を率いて神崎神社(大己貴命)を建てて奉祀したのに始まり、
>次に天穂日宮の御霊徳を崇め、別宮を建てて奉祀した。この別宮が現在の本殿である。
> 崇神天皇の御世には、太田々根子命が司祭し、豊城入彦命、彦狭島命、御諸別王が、それぞれ幣帛を奉納した。

とあり、しかも、さきたま稲荷山古墳とは16キロほどの距離にあります。
「獲加多支鹵(わかたける)大王」は、関東の大王だったことは間違いありません。

http://www.washinomiyajinja.or.jp/

490 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/16(水) 18:22:05
>7代で70年ぐらい違ってくる。
しかしそこにワカタケルが存在しなければならない。
大彦から7代継いでも雄略にたどり着かない事は必定。
意冨比こ→多加利足尼→弖巳加利獲居→多加披次獲居→多沙鬼獲居→半弖比→加差披余→乎獲居臣
168年大彦命→188年武濡河→208六雁→228高橋→248タサキ→268ハテヒ→288カザハヤ→308
オワケ

164年孝元元年
168年 ホ32138 ヰホセミナ ウチウツシコメ うむミコは ヤマトアエクニ ヲヲヒコぞ
孝元天皇元年 164年
開化天皇元年 183年
崇神天皇元年 188年
196年 ナツキコカ ヲヲヒコをして コシのオシ
196年 タケヌナガハを  ホツマオシ
垂仁天皇元年 216年
230年 垂仁?25年 タケヌガワケ   アヘタケヌガ 伊勢に入る 風早国
景行天皇元年 239年
248年 景行12年 ヲホのタケモロ 九州へ
255年景行40年 日本武尊 関東遠征
成務天皇元年 261年
仲哀天皇元年 265年
神功皇后元年 274
神功52年 七支刀 (神功53年=326年東晉明帝太寧4年)
312年 乙巳 皇918 戊寅 若建王命/小碓子 戊寅年11月6日55 没

鉄剣銘は、ワカタケルが死亡後彫られる。
オワケは、ワカタケルに仕えた事がある。


491 :日本@名無史さん:2010/06/16(水) 20:54:43
家系図が数代飛んでいるなどといった例は良くあることです。
わかっているだけで7代ということでしょう。
偉そうに書いたけれど、そのくらいのことはだれでも思いつくことです。

492 :日本@名無史さん:2010/06/16(水) 21:06:14
サホヒコの玄孫についてはどう?

493 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/16(水) 21:49:46
>>491
家系図が飛んでいれば、
ワカタケル=雄略に何の繋がりもない。

サホヒコの系図は知りませんが、
サホヒコの乱は、崇神以来続く、旧勢力による反乱である。
庶母の出身である、崇神を良しとしない旧勢力は、
タケハニヤス→サホヒコと続く、この手打ちは、景行が紀の国と手打ちで
一応決着する。
葛城多遺跡は、神井八意(ミシリツヒコ)の領地であるが、前方後円墳の
導入は遅れる。
この事実は、崇神を良しとしない勢力を感じさせる。


494 :日本@名無史さん:2010/06/16(水) 21:55:22
家系図が飛んでいるだけでは、繋がりがないという証拠にはならない。
なんでそう決めつけるのでか?不思議だ。

495 :日本@名無史さん:2010/06/16(水) 21:56:35
感じるとか、あなたの感性でものを言われてもなあ・・・反論のしようもありませんよ。まいったまいった。

496 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/16(水) 22:42:32
大彦から7代つないだワカタケルが雄略なら、
大彦から20代つないだワカタケルも雄略である。
大彦から何代つないでも其所にワカタケルと表記されていれば雄略である。

途中が抜けていても良ければ、何でもワカタケルと書かれていれば雄略かあ。
そうは行かないから、7代書かれていれば、7代目と同じ時代を生きたワカタケルが居た場合は
雄略とは別人で説明せねばならない。

一番問題なのは、武蔵の古墳は、他の地域よりほぼ同じ状態でも遅れる。
竪穴式など雄略の時代にはここにしか無い。


497 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/16(水) 22:49:28
日本武尊の古墳は河内のシキに作られる。
シキの宮が日本武尊を祀るための宮の可能性がある。
それらの思考を停止させるのが、
7代で雄略に繋がらなくともワカタケルと書かれていたから雄略である。
との断定である。


498 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/16(水) 23:02:28
仏教は、永嘉の乱の時、石勒や慕容氏が仏僧を抱えている。
だから東夷軍も仏僧や仏教に出会っている可能性がある。
これは△縁に仏像が在る事からも推定できる。

だから「寺」の文字が「役所」で無い場合もある。
これらの思考を停止させるのが、雄略説でもある。


499 :日本@名無史さん:2010/06/17(木) 21:51:14
「斯鬼宮」とは、埼玉県加須市の鷺宮(さぎのみや)神社ではないかと思うのです。
この神社の由緒書には、

>当神社は、出雲族の草創に係る関東最古の大社である。由緒は神代の昔に、天穂日宮とその御子武夷鳥宮とが、
>昌彦・昌武父子外二十七人の部族等を率いて神崎神社(大己貴命)を建てて奉祀したのに始まり、
>次に天穂日宮の御霊徳を崇め、別宮を建てて奉祀した。この別宮が現在の本殿である。
> 崇神天皇の御世には、太田々根子命が司祭し、豊城入彦命、彦狭島命、御諸別王が、それぞれ幣帛を奉納した。

とあり、しかも、さきたま稲荷山古墳とは16キロほどの距離にあります。
「獲加多支鹵(わかたける)大王」は、関東の大王だったことは間違いありません。

http://www.washinomiyajinja.or.jp/


500 :日本@名無史さん:2010/06/17(木) 21:53:52
>>497
誇り高き関東の豪族が、どうして河内のおっさんに従わなければならないのでしょうか?
東山道を通って関東に大軍を送りこめたと思いますか?


501 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/17(木) 22:07:19
全国の前方後円墳は、景行、日本武尊より後になる。
これは、景行が採用した魏の屯倉経営で説明出来る。

魏の屯倉とは、領地の領有を認める代わりに兵役の義務を負う。

江戸時代の各藩は、領地を与えられた代わりに、幕府の命令を聞く。
同じ事です。
天草の乱には、幕府命令により兵を出す。

だから古墳の副葬品は、武器が主流となる、鏡は勲章でしょう。


502 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/17(木) 22:12:16
茨城?方面に磐鹿を祀る高橋神社がある。これは、景行の関東巡航の後。

しかも古墳時代の鉄は大和朝廷が握っている。


503 :日本@名無史さん:2010/06/17(木) 22:18:49
河内のおっさんのくせに、生意気な。

504 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/17(木) 22:32:08
大彦の3代目は磐鹿六雁、4代目は高橋ワケ
あと3代で雄略に繋がるか?

日本武尊が関東遠征の折、正月を迎えたのが、酒折宮でここに居たのが武夷鳥だ。

>「獲加多支鹵(わかたける)大王」は、関東の大王だったことは間違いありません。
どうしてもと云うなら、弟橘媛の子供がいるぞ、こちらもワカタケルだ。
神奈川県の橘で説明出来る場所が生誕の地である。

ただ300年頃に、文字を知り、象眼を知り、←これを関東で行うのか?
351年としても、だいぶ早い。
323年千熊長彦、これに従い、長野や上毛に、楽浪、帯方の民が入植する。
この中には漢字を知る民も居たであろう。

こんな思考のためにも、雄略では遅すぎる。



505 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/17(木) 22:47:17
それから、カザハヤは、伊勢風早国で説明出来る、
ここは、タケヌガワ(2代目)以来の土地である。
磐鹿六雁は長生きをしたから、タサキワケは、景行時代には生まれている。

ハテヒ 火の国と云えば、ここにも鉄剣銘がある。


506 :日本@名無史さん:2010/06/17(木) 23:14:26
(大里郡神社誌)
景行天皇の御代に、豊城入彦(とよきいりひこ)命の曽孫の御諸別(みもろわけ)王が、東山道の十五か国を拝領したとき、陸奥で蝦夷の騒動があった。
王は即座にこれを平定し、以来東国に浪風は無い。 当時の武蔵国入間郡は、国民も少く田畑も荒廃し、これを歎いた御諸別王は、天皇に奏上して、
大和、山城、河内、伊賀、伊勢の五国の多里人・八百九十七人を武蔵国入間郡に移住させ、多里郡(大里郡)を置いた。
御諸別王は、郡の鎮守として新宮を造って天照大御神をまつり、その末子を神官とした。御神体は、天照大御神が高天原で機を織るのに使ってゐた御筬を、
天穂日命が賜り、子の建比奈鳥命へ伝へ、これを東国守護の形見として、豊城入彦命、彦挟島(ひこさしま)王、御諸別王と受け継ぎ、ここにまつられたものである。

この多里人とは、日本書紀の継体紀にある任那国の4県(上多利(実際は口編)、下多利、娑陀、牟婁)の多利からの渡来人集落だったことがわかります。
そして、御諸別とは御牟婁別、つまり任那の牟婁県の王(の子孫)だったのではないでしょうか?


507 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/17(木) 23:39:07
>景行天皇の御代に、豊城入彦(とよきいりひこ)命の曽孫の御諸別(みもろわけ)王が、東山道の十五か国を拝領したとき、陸奥で蝦夷の騒動があった。

ここには後代の出来事が含まれている。

日本武尊は東北の民を教化するために、田道間守の持ち来たった、籾や種を分け与えて順化させた。
これから数年の後には景行は死亡する。
陸奥や北海道に古墳が無い事は事実である、教化が陸奥に達するのは
もう少し後の時代となる。


508 :日本@名無史さん:2010/06/18(金) 21:49:46
白村江の戦いで、近江臣毛野氏の子孫、上毛野君稚子羅は2万7千の兵を朝鮮半島に送っています。
御牟婁別の末裔、任那の王の子孫としては黙って見過ごせる事態ではなかったことがわかります。
ちなみに、近江毛野氏は、関東では大甕(おおみか)という文字が充てられることになります。
悪神香香背男(あくしんかかせお).とは、近江毛野氏の子孫だと考えられます。


509 :日本@名無史さん:2010/06/19(土) 03:34:44
大伴室屋の二代前が倭建命に仕えてたんだから世代的にも
神功応神を系図からのぞけば問題ない

510 :日本@名無史さん:2010/06/19(土) 09:21:57
辛亥年七月中記、乎獲居臣、(わかいおみ)

上祖名 意富比コ(土危)(いとひき)
其児   多加利足尼(たかりすくね)
其児名 弖已加利獲居(てこかりわけ)
其児名 多加披次獲居(たかはしわけ)
其児名 多沙鬼獲居(たさきわけ)
其児名 半弖比 (はてひ)
其児名 加差披余(かさはよ)
其児名 乎獲居臣(わかいおみ)

この中で一番不思議なのは、2番目の「多加利足尼」だけ、「名」という字が挿入されていない点です。
武内宿禰は300歳まで生きたといわれるように、多加利足尼というのは個人名ではなく官位なのです。
武内宿禰の時代とも重なります。従って、「多加利足尼」の代だけで2,3百年続いた可能性もあります。

>唐松山さんも、そのくらいのことはすぐ気づいていますよね?

511 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/19(土) 18:10:04
>>510
大彦から7代では雄略につながらないため、考え出されたあくどい思考ですね。

大彦の孫磐鹿の官位は六雁である。3代目では官位として宿禰を送らなかった時代かも知れない。
問題は、六雁を祀る神社は、高橋神社である。
6代も7代も後では無い。六雁神社であったらその思考も考慮せねばならないが、現実は高橋神社である。



512 :日本@名無史さん:2010/06/19(土) 21:40:40
大彦命=意冨比土危(おほびこ)=登美彦(とみひこ)というところが肝心です。

六雁の「むつ」は、陸奥とも繋がり、東国の六腹にも繋がり、ヤマトタケルが房の国に渡った渡った六浦にも繋がります。


513 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/19(土) 22:30:47
伊勢風早には、垂仁時代に伊勢神宮と共にタケヌガワが入る。
タケヌガワは、垂仁の大臣でもあるから、官位は宿禰であろう。
風早国で説明出来るのは、大彦の系譜阿部(又はアヘ)である。
景行時代には、五百野姫と共に筑紫へも入植している。



514 :日本@名無史さん:2010/06/27(日) 13:30:45
大彦の子孫は、日本海側の新潟や秋田を基盤としていた。
日本の県別身長ランキングで秋田が1位、新潟は2位になっている。
バレーボールの河合もジャイアント馬場も新潟出身だとケンミンショーで言っていました。
それは、安東氏の勢力範囲とも一致する。
ジャイアント馬場こそ大彦の直系ではないだろうか?

515 :日本@名無史さん:2010/06/27(日) 21:51:18
大彦は小柄だった

516 :日本@名無史さん:2010/06/29(火) 11:43:48
1 意富比[土危]=大彦命、獲加多支鹵大王=雄略天皇
2 意富比[土危]=大彦命、獲加多支鹵大王≠雄略天皇
3 意富比[土危]≠大彦命、獲加多支鹵大王=雄略天皇
4 意富比[土危]≠大彦命、獲加多支鹵大王≠雄略天皇

1の説があり、2を言う人もある。では、3、4の場合はどうなの。


517 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/29(火) 20:00:03
獲加多支鹵大王=雄略天皇 =ワカタケ大王
獲加多支鹵大王≠雄略天皇 =ワカタケ大王

書紀もワカタケルとワカタケを区別して伝えて来た。


518 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/29(火) 20:14:27
景行、大帯日子淤斯呂和気、大足彦忍代別 ヤマト オシロワケ イムナタリヒコ
成務、若帯日子 稚足彦 ワカタリヒコ  諱ウヂヒトは ヨツギミコなり
12,景行, けいこう ,大帯日子淤斯呂和気、大足彦忍代別・オオタラシヒコオシロワケ ,
13,成務,せいむ  ,若帯日子    、稚足彦・ワカタラシヒコ
14,仲哀,ちゅうあい,帯中津日子   、足仲彦・タラシナカツヒコ

たとえば タリヒコ(タラシヒコ)が3代も続いたら見分けが付かなくなるから
最初の大王タリヒコに大を付けて オオタラシヒコと呼ぶ。
こういう事はままある。
だから同じ呼び名の大王が二人いてはまずいから
雄略はワカタケなんだ、


519 :日本@名無史さん:2010/06/29(火) 21:24:32
式守伊之助も市川海老蔵も松下幸之助も世襲です。
親子で同じ名前がつけられなくなったのは戦後のことです。


520 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/29(火) 23:48:12
彼らは大王でないから可能なんだ。


521 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/06/29(火) 23:51:16
書紀編纂者は、年の干支と朔の干支が合う神功40年を景初3年と断定した。
これにより現実には存在しない75年間を埋める必要が生じた。

313年 神功39年丁卯太歳
もしワカタケルがこの直前まで生きていれば(若建王命/小碓子戊寅年11月6日55)
ここで大王が代わる、ここを仁徳元年とする。
343年 神功69年=仁徳31年 卅一年春正月癸丑朔丁卯 立大兄去來穂別尊 爲皇太子
344年 応神元年=仁徳32年
349年 仁徳 卅七年冬十一月甲戍朔乙酉 葬皇后於乃羅山 343年に崩御した神功かも?
364年 新羅 倭兵が大挙して侵入仁徳天皇五十三年 1年の違い。
371年 応神 二十八年秋九月,高麗王遣使朝貢,因以上表.其表曰:「高麗王教日本國也.」
同年   仁徳 五十八年冬十月 呉國 高麗國 並朝貢
374年 応神 三十一年秋一時貢上五百船
同年   仁徳 六十二年夏五月 遠江國司表上言 

まあこの様に同じものを二つに別けたともとれる。

新羅312年 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
313年 神功39年太歳= 仁徳元年
343年 神功69年= 仁徳31年卅一年春正月癸丑朔丁卯 立大兄去來穂別尊 爲皇太子
新羅344年 倭国が花嫁を求めたが辞退

内緒の話 応神は実は大兄去來穂別尊であった。



522 :日本@名無史さん:2010/07/08(木) 21:53:07
津軽(ツガル)とは、古代シュメール語で王を表す「ルガル」が同じ語源だと思われる。
シュメール語でルガルは、元々「大きい人」という意味であり、大彦とは王(ルガル)のことなのだ。
アレキサンダー大王の東征で滅ぼされたシュメールの王の末裔だ!

これで、大彦の出自が見えて来た。

523 :日本@名無史さん:2010/07/09(金) 23:01:10
えーーつ?!そうだったのですか。
そういえば、道祖神(合体絵図)は、シュメールがルーツだと聞いたことがあります。

524 :日本@名無史さん:2010/07/18(日) 16:18:08
シュメールのルガルは市の王という意味合いが強いけれど、
エンシは、国の王という意味になりますね。
藤原仲麻呂は、天皇からシュメール系の王の称号である「エンシ」を名載ることを許されました。
それが「恵美押勝」の由来と思われます。
蝦夷とは、アレキサンダー大王によって滅ぼされたシュメールからの渡来民のことだったのです。

525 :日本@名無史さん:2010/07/23(金) 23:18:50
唐松山は死んだ。
ろうそくが消える前のような書き込みだったですね。

526 :日本@名無史さん:2010/07/24(土) 06:59:28
孝元天皇

四道将軍‥大彦命

初代征夷大将軍‥安倍忠良

松浦党‥頭領、松浦(安倍)高俊

波多氏


527 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/24(土) 18:03:46
規制がきつくてでられない。


528 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/25(日) 18:08:15
317年 ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通 不遵朝廷之令 至是以倭王
女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之
千熊長彦 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,
七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁 与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗 休礼太后生長?子勿? 始立戸口典 禁民子母相婚

ラジオ氏は丁丑年を377年と言うが、377年では倭が従うべき朝廷は無い。313年とすると

316年 前趙の劉曜が西晋を滅ぼす。
317年 丁丑 倭は伽耶と共に朝廷に従わなかった。(東夷校尉崔から距離を置く?)
323年 癸未 神功49年3月 半島の占拠、再編成。千熊長彦に従う平州方面の人々の渡来。
326年 神功52年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
340年代には百済は大国として存在する。

日本武尊の子、ワカタケルは255年頃誕生する。
もし長生きをして60才位まで生きたとしたら、314年頃に死亡する。

上記の書き込みから、神功元年は275年が濃厚となる。そして神功39年太歳は313年になる。



529 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/25(日) 18:20:58
仁徳紀を分析すると、313年即位、343年仁徳卅一年春正月癸丑朔丁卯 立大兄去來穂別尊 爲皇太子
ここが仁徳崩御の場所である。この数字は、275年神功元年より治世69年間、313年神功崩御
この数字は偶然では無い。
314年応神元年とする、すると343年仁徳32年、この二人は
370年仁徳五十八年冬十月 呉國 高麗國 並朝貢
371年応神二十八年秋九月,高麗王遣使朝貢 非常によく似ている。
つまり歴史の時空で言えば313〜343年仁徳、344〜384年応神と、順番が逆転する。



530 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/25(日) 18:33:16
応神が274年生まれで、312年より少し前にウジノワキイラッコを世継ぎとしていれば、
ウジノワキイラッコは幼い。しかし仁徳の後ろに来た場合
応神天皇十六年(乙巳二八五)二月◆十六年春二月。王仁來之。則太子菟道稚郎子師之。
応神天皇二八年(丁巳二九七)九月◆廿八年秋九月。高麗王遣使朝貢。因以上表。其表曰。
高麗王教日本國也。時太子菟道稚郎子讀其表。怒之責高麗之使。

このウジノワキイラッコは幼くない。


531 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/29(木) 21:23:03
話が飛躍しすぎたかな? では少し戻って。

 從帶方(郡)至倭、 循海岸水行、歴韓國、從乍南乍東、 到其北岸拘(狗)邪韓國、
収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之
自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

狗邪韓國は倭地である。
ここに出てくる「大倭」とは
倭国(日本)を統一した畿内ヤマト=大和=大倭以外に無い。
倭国統一は景行時代である、それは壹與の時代でもある。
ホ38300 フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ
イセノカミ まつるいわひは ツクシむけ ヒメコトシソヨ ヤマトヒメ コトシモモヤツ
よろこびて ヨハヒいたれば ワレたりぬ わがヤソモノべ ソフツカサ ヰオノにうつし
つかえしむ
景行20年庚寅 如月4日に 五百野姫 皇子内親王 伊勢の神 祀る祝いは 筑紫向け
姫今年14才 やまと媛 今年108歳 …
我が八十武者 12指揮官 五百野に移し 仕えしむ。
この武者は大彦の末裔、磐鹿六雁以下の面々、後の風早国に住す。
壹與が筑紫に下向するとき、軍隊も同行し、伊都に駐留する。
もちろん日本武尊の熊襲征伐の主力である。
魏志の壹與13歳とは、九州平定の終了した年の年齢である。
そして九州諸国が一大率を畏憚するのは、日本武尊以降になる。
魏使は伊都に滞在している。でなければこれだけの情報を集められない。

魏志は大倭(大和)が登場する時代である。


532 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 21:52:31
なんでその文面で大倭が国をさす事になんのよ
大倭は市や交易を監察する役職でしょうが

533 :日本@名無史さん:2010/07/29(木) 22:15:00
痛いやつだw

534 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/07/31(土) 09:17:50
監使なら役職名になる
「監使大倭」「監大倭刺史」とかになるだろう、これは 「大倭が観察する使い」。
監察する役職なら倭語で「大夫」など
中国なら 校尉、刺史  ←など軍で使われる名になるだろう。



535 :日本@名無史さん:2010/08/02(月) 03:53:13
>>534
大夫なら、鎌倉時代以前から官位として使われてたろ・・。
「右衛門尉大夫」ってな感じで・・

536 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/02(月) 12:58:52
ここからなんだ
火の国熊本 江田舟山古墳のワカタケルと
埼玉稲荷山鉄剣の ワカタケル

関東と熊本方面に 高橋神社はある。


537 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/02(月) 13:07:51
高橋神社は六雁を祀る
六雁とは
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁である。


538 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/02(月) 14:09:08
先にあげた編年から仁徳は313年からとなる。
しかし編年では仁徳の後を応神が継ぐ。
応神が入らねばならない神功元年から神功38年迄の大王が不在となる。
ここにワカタケル大王が入る。


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