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♪邪馬台国 ドンと来い♪ 47

1 :日本@名無史さん:2009/07/03(金) 20:43:03
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。 煽り、粘着禁止。荒しはスルー

♪邪馬台国 ドンと来い♪ 46
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1245315761/

2 :サガミハラハラ:2009/07/03(金) 20:46:17
邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。
これを前提として話を進めましょう。

3 :日本@名無史さん:2009/07/03(金) 20:49:16
おお、いきなり2ゲットですか。サガミハラハラさん。さすがですね。

4 :日本@名無史さん:2009/07/03(金) 21:07:34
>>1
ドンと来い♪は、AA付けなきゃ駄目なんだが。

5 :日本@名無史さん:2009/07/03(金) 21:09:02
アニオタ困惑

6 :日本@名無史さん:2009/07/03(金) 21:13:52
さあ、畿内論者の美濃もん太氏への反論を聴こうじゃないか.

7 :日本@名無史さん:2009/07/03(金) 21:28:52
>>2さすがサガミハラ氏、よくぞ言いきった。
しかし、帯方郡の使者が訪れた当時の邪馬台国は佐賀県にはなかった。
何を隠そう、サガミハラ氏の地元?相模原にあったのだ。
伊都国とは伊東国。そして・・・サガミハラとは、佐賀+三原のことだった。
つまり、邪馬台国は、佐賀から広島県三原市を経由して、
佐賀三原=相模原を支配するようになったのだ。壬申の乱を陰で操った
尾張の勢力も同族だった。
これで全ての謎が解けた!


8 :日本@名無史さん:2009/07/03(金) 21:31:08
○○天皇は明治以降といっても和風諡号は元正までだよもん太

9 :sage:2009/07/03(金) 21:36:52
>>990
>九州は島津や毛利が治める前は誰が納めてたんだ?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%B0%8F

徳川時代の大名で、鎌倉時代の守護まで遡及できるのは島津家と佐竹家くらい
(ってな知識も持たないでスレ書いてるの)


10 :サガミハラハラ:2009/07/03(金) 21:49:38
>>7よくぞ佐賀からはずさずに論考できました。
以降の方々、参考にしてください。

11 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 22:08:10
俺は畿内論者じゃねーての
邪馬壹國は畿内でも九州でもないし、そもそも邪馬壹國が日本の発祥でもない
それに日本は同一民族による民族国家であって、すべての日本人は同じ民族神話を共有してる國
発祥も糞も日本民族は国之常立命やイザナミイザナキの民族由来を持つ民族が日本民族であって
例えば「九州は邪馬壹國があった邪馬壹國発祥の地だ」って言うんなら、九州人は俺ら日本民族とは違う歴史を由来に持つ、邪馬壹國民族だって事になるよ
ちなみに琉球民族は琉球神話、アイヌ民族はアイヌ神話を由来に持ち、その神話の種族の血統を持つ民族だよ
邪馬壹國だなんだ言うのは構わないけど、天照なスサノオなどの歴史がある、日本人の民族神話を否定して
「日本は邪馬壹國の卑弥呼が発祥だ」
とか言いたいのなら日本民族である事を止めれば良いよ


記紀を読めってば
日本人は大陸から戸来して来たわけでもなければ、邪馬壹國なんて国が発祥の民族でもないんだよ
ましてや縄文人やら石器人なんて民族でもないよ

12 :ギーコギーコ:2009/07/03(金) 22:11:27
ギーコギーコと鋸挽きの
ギーコギーコと血は流る ギーコギーコと竹鋸の
流るる血をば鼠が吸ってん 蚯蚓が吸ってん

13 :日本@名無史さん:2009/07/03(金) 22:44:23
佐賀の「さ」とは何か?考えたことはありますか?
佐賀、佐野、狭山、讃岐、佐倉(桜)、佐川・・
「さ」とは、英語の「The」と同義。唯一無二のものを示す接頭語です。
次に佐賀の「が」ですが、これは「我」、つまり私とい意味。
この言葉の意味するところは極めて重要な語彙です。
一方、三原、三島、三河、三輪山の「三」についてですが、これは、
神聖なものに付ける「御」という日本語の接頭語と起源が同じだと考
えるとわかりやすいと思います。
従って、サガミハラといえば、唯一無二の私(=天皇)の治める原とい
う意味に解釈できます。

14 :日本@名無史さん:2009/07/03(金) 22:58:50
>>6

畿内説の俺としては、美濃もん太の主張について何も言うことは無い。
そういう考え方もありだろ。

むしろ九州説の「邪馬台国の30国の範囲は九州だけ」って思い込みよりよほどマシ。




15 :日本@名無史さん:2009/07/03(金) 23:02:55
さすがに九州内で30国はもう無理があるよな。
これが1世紀位の話ならわからんでもないが。

16 :日本@名無史さん:2009/07/03(金) 23:04:06
美濃もん太に注文つけるなら、
「ちゃんと○○に書いてある」というなら、該当箇所を引用してくること。

そうすれば、美濃もん太が何を勘違いしてるかも一般人にわかりやすいだろ。


17 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 23:28:08
>>8
天皇=すめらのみこと
皇女=ひめみこ
皇子=みこと
だっけ?
「諡」って「送り名」って意味じゃないでしょ?
まず記紀の中に「元正天皇」なんてのはいない
元正天皇って呼ばれてるのは

氷高皇女
(ひだかひめみこ)
日本根子高瑞浄足姫天皇
(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと)
ってのが正しい呼び方父
草壁皇子
(くさかべのみこ)
岡宮御宇天皇
(おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)
母、
阿倍皇女
(あべのひめみこ)
日本根子天津御代豊國成姫天皇
(やまとねこあまつみよみしろとよくになりひめのすめらみこと)
ようは父も母も兄弟も「天皇(すめらみこと)」だよ
一方でこの時代は「○○王」ってのもいるよ
藤原氏族や大伴氏族は「○○王(おおきみ)」
「王(おおきみ)、大臣(おおおみ)、太政大臣(おおまつりごとのまえつぐみのおおおみ)」
「皇(すめら)、皇子(みこと)」
なんてのは単に血統てか氏族を表してるだけでしょ?
そもそも治世は大臣や太政官が行ってるんだしさ

18 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/03(金) 23:33:38
>>16
俺、携帯電話だからコピペ出来ないんすよ


とりあえず漢籍書や記紀は
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/wakan/menu-w.html#MOKJI
これ以外にも、気になれば手元にある古事記や、あとはそのつどネットで調べたりとかだよ

>>17に書いたレスなんて、検索して携帯に書いてとかだからめちゃくちゃ面倒臭かったよ

19 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 00:05:16
>>13

じゃあ


さる、さかな、さけ、さくら、さかり、さ(差)、さぐる……

これらは?

20 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 00:33:11
>>18

まず、倭国の範囲が朝鮮半島の一部も含むとした根拠の書名から教えてくれ。

21 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 01:18:17
>>20

好太王碑文で十分だろう!鴨緑江を超えたところに碑文があるのだから

半島全域と考えても良いだろう!



22 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 01:25:04
>>20
北史南史が一番詳しいかな?
あと基本的には魏志倭人伝にも漢史にも、書いてある内容は同じだよ
あと古事記にも日向三代が乾國の蘇冨里(ソウル)に降りたって國造りをする様子は書いてあるし、神巧皇后が治めた百済をたいそう気に入って、海の向こうの屯宮として、なんども行き来してた様子が書かれてるよ
あと百済や新羅や唐(加羅)の建国神話にも「大海から来た三人の神様が土地を耕し水路を造り稲作を伝え、百済や新羅を建国した」と伝えられてるよ
よく「百済系の渡来人」とか「新羅系の渡来人」とか言うけどさ、漢籍書には「百済民族」や「新羅民族」なんて民族は出てこないよ
朝鮮半島〜満州南部辺りで、倭人、漢人、秦人、鮮卑人、扶与人、真女人、、らがどういう勢力にあったのかが書いてあるだけだよ




23 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 01:33:01
もん太の言ってる事ってさぁ、合ってもないのに強引に
ピースをはめ込もうとしてるパズルみたいなもんでしょ。


24 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 01:34:30
ちなみに卑弥呼の朝貢ってのの朝廷ってのも、倭人を國造りに向かわせた飛鳥朝廷の事だよ
百済や新羅や高句羅も飛鳥に朝貢してたんだよ
記紀にも漢籍書にも書いてあるよ
で、倭國乱ってのが朝廷に対する百済や新羅のクーデターだよ
参加した勢力が天つ國の氏族の、百済、新羅、信州、美濃、三河、越、筑紫、吉野、近江、筑紫、出雲、、など国内外の氏族だよ
そら日本に新羅寺や百済寺なんてのがあっても当たり前なんだよ


彼らは別に渡来人じゃないんだし
渡来人は漢氏、秦氏、和仁氏だよ

25 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 01:42:18
>>23
まあパズルみたいなもんだよ
めちゃくちゃ詳しい訳じゃないし、まだまだ情報が少なくて、間違って解釈しちゃってる部分も沢山あるだろうしさ
例えば魏志倭人伝では邪馬壹國の場所がハッキリ解らないなら、漢史や宋史や南史の記述も読んでみれば足りないピースがあったりするんだよ
日本の歴史にしても日本書記や古事記以外にも沢山の風土記などが残ってるし、地域に詳しく伝承されてたりするしさ
東夷伝を伝えてる史記は魏志倭人伝だけじゃないんだしさ


26 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 01:49:58
つか魏志倭人伝の内容だけで、邪馬壹國やら卑弥呼やらの事を解釈しようなんて、基本的に無理だよ

魏志倭人伝ではああ書かれてる事柄は日本では何時のどの出来事の事を言ってるんだろ?
って事で、色んな書物や伝承を調べて、それらの相違点を探して行かないとさ
じゃなきゃ日本には邪馬壹國やら卑弥呼なんてのは無いんだからさ
そもそも邪馬壹國だの卑弥呼だのって日本語じゃないんだからさ


バスコダガマの本を読んで
「古代の日本には黄金の國のジバング王朝があったんだ!それは九州の事だ!いや畿内だ!」
てやってるようなもんだよ


27 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 01:56:37
>>25
色んな文献をあたる姿勢は全然間違って無いと思うけどね。
でも合ってないピースを強引にはめ込んでる感が強い。

28 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 01:57:29
基本的に魏志倭人伝には出発点の明記が無いんだから、陸行○○とかをいくらか考えても邪馬壹國の場所なんて特定できっこないんだよ
北史や南史には帯方郡(朝鮮北部)を出発点とちゃんと記載があるから解りやすいんだよ

ちなみにこの時代に朝鮮半島には朝鮮人はまだ居ないよ


29 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 02:10:16
ほんとに携帯から書き込んでいるとしたら、ある意味すごいな。

30 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 02:10:50
>>17
>まず記紀の中に「元正天皇」なんてのはいない
元正は記紀が出来た後に即位したんだよ当たり前じゃないかもん太

31 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 02:16:58
>>28
東夷伝には現地人がいると書いてある
しかし、いずれの地域でも支配階級では無かったから詳しくは書かれてないだけ

32 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 02:18:25
元正の代に出来てるけど収録されてるのが持統までな

33 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 02:19:51
>>27
細かい事までは上手く説明出来ないし、もちろん解らない事や理解してない事もある
そういう部分を都合良く勝手に解釈しちゃってる部分ももちろんあるっすよ

ただ邪馬壹國の場所ってのは俺は見つけたよ
あと卑弥呼の時代ってのもさ、何を根拠に「西暦192年」と特定出来るのかが俺には解らん
調べたら景初2年を西暦192年と言ってる学者は沢山いたけど、何を根拠に192年と特定したのかを説明してる学者なんて一人もいなかったしさ

そもそも中華人民共和国自体が60年しか歴史の無い國でしかないんだから中国の歴史は60年前までしか遡れないんだよ
60年前以前に中国なんて國はない
それなのに「昔の中国の王朝は、、」なんて平気で言ってる学者ばかりだしさ
西暦192年なんてのも間違いだよ
つか最初にそうやって勝手に時代を特定しちゃってるのもおかしいしさ
まずは時代にしろ倭國の範囲にしろ、勝手に決めつけない事だよ

それが植え付けられた先入観って奴なんだから
それを前提にしてる人には邪馬壹國や卑弥呼なんてのは一生解らないよ


謎でもなんでもないのに、勝手に「何処なのか解らない。謎だ」ってしてるだけだよ

34 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 02:26:03
邪馬壹國を見付けたも糞も、別に三韓時代の百済や新羅を探したらちゃんとあったってだけだけどね


九州でも畿内でもないよ
んで、別に日本の発祥でもないよ
だいたい邪馬壹國の話なんて謎でもなんでもないじゃん


35 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 02:36:39
>>15
本州や四国まで含めたら、30国ではぜったいに収まらないな。

36 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 02:44:55
ちなみにまだ国家って観念が無い、この時代の國ってのは「地域」って意味だよ
江戸時代で言う「藩」とかの意味
今の市町村の意味
んでその国々の連合が郡とか州だよ



37 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 02:49:27
そもそも九州には30ヶ国からなる連合体
(連合体なる文字が気に入らないのなら30ヵ国が支配下あった一大帝国w)
があったと想定できる材料があるのか?って話でw

それが無いから30ヶ国の位置・範囲もバラバラ
当然その中心たる邪馬台国の位置もバラバラ
・・・と言うのが九州説の現状www

「ヤマト王権なら30ヶ国じゃあすまない!」
と言うのはとりあえずおいといてだw

九州にそんな物を想定できる考古学的資料を探せよ…とwww

38 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 03:15:22
良く解んないけど、九州人ってのは何でもかんでも自分達を発祥としたいんかあ?
公家や朝廷や幕府を滅ぼした薩長政府も
「初代天皇の神武は九州から東征し、日本を治め、、」
なんて事にして、やたら九州が発祥(てか日本は九州民族が統治した)ってのに拘ってたし
ちなみに日本は神武以前に大国主や天照やスサノオが治めてたから、別に日本は神武天皇以前から日本なんだけどね

つかさ九州人も俺らと同じ日本人じゃないの?
九州説の人は、やたら日本人を大陸から九州に渡ってきた渡来人て事にしたがってるように見えるけど、俺ら日本人は大陸から渡ってきて日本を侵略して住み着いた民族じゃないよ

國の常立命が降り立った地が飛騨だからって、飛騨の人達が「飛騨王朝が日本を統治した」なんて言い方しないでしょ?
天つ國原ってのは信濃だけど、だからって信濃の人達もそんな言い方しないよ
九州説の人は日本の民族神話を必死で否定したいだけなんかあ?

39 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 03:40:00
>>37
一番大切なことをおいといて、似た地名を探したってなんにもならんのだよ。
30国を考古資料で判別できるってなことを考えてるのがおめでたいな。

40 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 03:42:25
>>38

>良く解んないけど、九州人ってのは何でもかんでも自分達を発祥としたいんかあ?

この点は同意。

半島の血が濃いからしょうがないんだろうけど。なんでも発祥を騙るのは。

41 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 03:50:12
九州説を取るのが九州の人間とも限らないだろう。
ここで有名な安本氏も九州の人間じゃないみたいだし。

42 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 04:14:26
九州人のオレは、畿内説。

43 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 04:27:48
九州発祥説=日本人は朝鮮からの渡来説
て、事でしょ?
日向三代が九州に降りたって神武が東征しただのさ
じゃあ日向三代以前の山幸彦やスサノオやアマテラス達は、どこの誰の話だよってなるよ
鉾でかき回した雫が島になって、そこへ国之常立命が降り立ったのが日本であり日本民族の歴史だよ

んで國造りを初めて各地を治めて行ったんだよ
日向三代にしろ神武東征にしろ、その日本の内部の出来事でしかないよ


この国之常立が降り立った地が九州だから九州が発祥って言うならまだ解る
それなのに、日向三代だの神武だの邪馬壹國だのを発祥にしたら、じゃあそれ以前の神話は日本人とは関係ないのかよって話になるんだよ


44 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 04:42:31
記紀ってのは、皇室の歴史書だから、別に日本人の発祥とは関係ない。
大和朝廷という最初に日本を統一した勢力がどこで発生したかという問題だから。

記紀によると、世の中が出来たときに神々が誕生し、それが皇室の祖先と
いうことになる。元々は天上にいたが、日向に下りてきて、やがて
イワレヒコが東征し、大和で初代天皇として即位したということになる。

天上の部分は神話が大部分だけれども。

45 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 04:54:12
天孫降臨すら否定し始めたか。
近畿が発祥なら、古事記にも日本書紀にも堂々と書くだろ、朝廷は。
そもそも、鉄器も稲作も九州がもっとも古いわけだし。
朝鮮からだけ渡ってきたと主張する根拠出せよ。
遣隋使や遣唐使の航路から考えると、古代であっても中国南部や沖縄から渡ることも可能だよ。
釜山から古代船で日本に渡る実験したら、対馬海流に流されて島根や鳥取辺りに着く可能性の方が高かったらしいし。

46 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 05:03:42
>>44
いや、あれは別に皇室とか関係ないよ

つかそもそも血統ってのは書物とかではなく檀家の戸籍によって付けられて来てたもので、明治政府が廃止して戸籍を燃やしてしまうまでは、
日本では天皇だけじゃなく、日本人なら誰しもが少なくとも平安時代以前まで血統を遡れてて、自分の氏神(昔の先祖様)が誰なのか解るようになってたんだよ
だから先祖崇拝の「氏神信仰」てのがあったんだよ
各地にある熊野神社なんかも、その地域の人々が共通の氏神を奉る為に立てられたりしたものだよ


記紀にはさ「○○天皇」なんて出てこないよ
カムヤマトイワレビコは、カムヤマトイワレビコだよ
神武天皇なんて名前じゃないよ
明治時代になってからイワレビコが「神武天皇」て名前でよばれ方してるだけだよ
例えばニギハヤヒってのは物部氏や藤原氏の氏神だし、アマテラスは土岐氏族などの氏神だし
天皇は正直いまでもどの立場の血統を引いてるのか、俺はよくわかんないよ
例えば大国主の國譲りってあるでしょ?
大国主が渡来人の秦氏と共に国造りを始めたのを見て、天つ神の氏族が「中つ国原は我々の氏族に治めさせる」って国を譲らせた奴
天つ神ってのはイザナキの時代から「どの神に中つ国を統治させようか」って事しかしてないんだよ
要は日本の場合は統治を任命する天つ神がいて、任命されたものが治世を行うんだよ

で、天皇はどっちなの?
イワレビコやスサノオやヤマトタケルや日向三代は、天つ神に任命された側の氏族でしょ?
だとしたら天皇じゃないよ

47 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 05:08:52
>>39
ん?

>一番大切なこと

ってのは何だ?
それによって30ヶ国の範囲を限定できるのかな?

もっともそんな物があれば今日の論争はもっと違った物になっているだろうがwww

>似た地名を探したってなんにもならんのだよ。

さて?

俺は地名の一致には拘ってレスした覚えないし
今日でも余り重視されるファクタではないんじゃないかな?

そんなもの大昔も大昔に、内藤湖南がやってそれを批判した橋本増吉が
九州の地名で同じような事をやってのけ

 「何等の力を有するものにあらず」

としたんだがwww

まあ30カ国を限定できる材料があるなら出してみろって話だなwwww
もっともお前が日向東遷厨なら大体内容の予想はつくんだがw



48 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 05:14:54
・太政大臣
・征夷大将軍
・関白
天皇じゃなく彼らが国の治世を行うのが日本だよ
朝廷のトップであり決定権は天皇じゃなく関白にあるんだよ
天皇は公家
関白は朝廷
大臣(将軍、大王)は武士(もののふ)
こんな感じだよ


・アマテラス・スサノオ・イザナキ・イザナミ・大国主・一言主・日向三代

天皇がもし日向三代だと言うなら、日向三代ってのは天つ神の命で乾国の国造りに向かった氏族だから、任命されて国を治める人が天皇て事になるよ



49 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 05:27:01
>>47
一番大切なことは、本州や四国まで含めたら、30国ではぜったいに収まらない
ということだ。倭国は30国、その全体的な規模を考えなければならん。
畿内説論者は、その面からの考えがまったくない。

>30カ国を限定できる材料があるなら出してみろって話だな
畿内説も同じだな。何かあったら出してみろ。

50 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 05:27:51
>>41-42

どうなんだろうねえ…

九州の人間でも多少なりとも歴史に首を突っ込んでいる人間だと意外と冷静に
「邪馬台国九州説は無理っぽい、畿内説だな・・・」
ってなるんじゃないのかな?w

少なくとも今の九州説を支えているのは郷土愛と言うよりは
畿内説に対する反感、「アンチ畿内説」のエネルギーのように感じるんだがwwwwwwww

51 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 05:29:00
>>45
別に天孫降臨の否定なんかしてないよ
天つ神から国造りの命を受けて、乾国の祖冨里に降り立った事が書いてあるんだから、その通りに受け止めてるよ
神功皇后が九州に宮を作ら百済を行き来してたのも知ってるよ


それに畿内が発祥とも言ってない
国の常立が土地を固めまず降り立ち、その後イザナミイザナキが中つ国に降り立ち、沢山の子供を授かった
これが日本民族だよ
もし九州人が大陸や朝鮮から渡って来た民族だと言うなら、九州人ってのは、俺ら日本人とは違う歴史の由来を持つ渡来人じゃん

渡来人は日本人とは民族の由来や歴史が違う民族なんだから、それならそれで、何処の地からどうやって日本民族の暮らす九州に渡来してきたのかを主張すりゃいいんだよ

インドから来たんならシバ神とかあっちの土地の神に由来を持ってる民族なんだろうしさ


52 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 05:47:33
>>50
畿内説ってのは「発祥」って意味じゃなく
天皇は1000年もの間、畿内の御所にいたって言ってるだけじゃないの?
そもそも畿内の人なら尚更、別に天皇の宮があった所で、治世は天皇じゃなく、江戸幕府や鎌倉幕府がおこなってた事ぐらい知ってるでしょ?
東大寺も清水寺も金閣寺も銀閣寺も、天皇や朝廷が立てた訳じゃないんだしさ
治世を行うものに、御所に住まわして貰うのが天皇や公家だよ
「マロは○○ぞよ」ってのが天皇だよ
そもそも何処に邪馬壹國があったからって、その地が日本の発祥って事にはならないよ

つか天皇て国造りや治世者を指名する側の天つ神の氏族か、もしくは国を譲った一言主の氏族かと思ってるんだけど違うのかな?
直接国を統治する側の氏族だってのなら、それを命じる天つ神の氏族は天皇じゃなく他にいるって事かあ?


53 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 05:49:40
>>49
結局
「ヤマト王権で考えたら30ヶ国じゃあ納まらない」
ってお話か…

で「面的な広がりじゃなく線的な繋がり」と言えば
「そんなものはありえない」とし、ついでに
「ゆるやかな連合体」とすれば同じように
「そんなものはありえない」と言ういつもの無限ループだなアホらしいw

>30カ国を限定できる材料

とりあえず初期の前方後円墳の広がる地域がその範囲だな。
(てか今更こんな事聞くか?w)
無論その範囲内全てのクニと言うわけではないが外廓線としてその内側に求めると言うことになるだろうな。


・・・で!!

九州説で30ヶ国の範囲を限定できる材料と言うのは一体なんなんだ?

それを打ち出せないから畿内説側から
「九州説は何処か一本に絞ってきてください」
なんておちょくられるんだよwwww


54 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 06:12:50
九州説の場合は、邪馬壹國九州説ってより「九州発祥説」って事を唱えてるだけだよ
邪馬壹國が九州にあったとするなら、九州王朝からの神武の東征の話も辻褄があい、日本も天皇も九州が発祥で、日本は九州勢力が建国した
て、ことでしょ?

けどこれてさ、同時に「日本は朝鮮からの渡来人が建国した」て事をな訳でしょ?
だとしたら日本人の発祥は九州じゃなく渡来してくる前の土地だよ

日本人の発祥は日本じゃなくなるし
もしそうだとしたら日本人を名乗るの辞めようぜ
日本を治めてたアマテラスやイザナキとかの日本人とは違う民族て事になるしさ


55 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 06:44:51
>>53
やっぱりな。国の大きさっていうのをまったく考えていないんだな。倭人伝がもっとも書くべきことは
何だ? 倭国までの行程も重要だが、何よりも、まず、倭国とはどの程度の国か?ということだ。
どの程度の大きさか、戸数(人口)はどのぐらいか、それが国力をみる重要な要素だってことは分かる
だろうな。それを倭人伝が書かないはずはないんだよ。
国土の大きさの方は、周旋五千里と明記されている(唐津上陸で東へのばしたら岡山あたりだな、それ
で倭国はおしまい。近畿は倭国に入るはずはないんだよ)。
戸数の方は、各国の戸数が明記されている。明記されていないのは旁国のみだ。これは小国だから大し
た数字にならんということだよ。倭国の全体の戸数は十五万からせいぜい二十万程度。倭人伝はその程
度であることを示しているんだよ。ところが、畿内説の考え方では、旁国をやたら大きくしなければ列
島は埋まらない。投馬国はどこ、邪馬台国はどこといってあとの国々の大きさはまったく書いていない
とする。つまり畿内説は、倭人伝が倭国全体の戸数をまったく書いていないと読むしかない滑稽な説だ
ということだ。

>初期の前方後円墳の広がる地域がその範囲だな。
何でそれが三十か国の限定理由になるんだ? 古墳なんて単なる流行で造っただけかも知れんだろ。
初期古墳は全国に結構ちらばっているぞ。

56 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 07:01:26
>>55
もう激しくデジャヴで殆ど読む気もしないが…

で、結局のところ

「現在の九州説にはその30ヶ国の範囲を限定するような材料はありません。
 各々が倭人伝等から自由にインスピレーションでもって語っているだけです」

・・・って事で良いんだな?wwwwww


57 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 07:04:36
>>53
>九州説で30ヶ国の範囲を限定できる材料と言うのは一体なんなんだ?
本当にアホな質問だな。帯方東南大海の中、山島によりて国邑をなす。倭人伝がちゃんと
書いているじゃないか。九州島に決まっているんだよ。当時、本州は島だってことは認識
されていないんだ。大陸の一部かも知れない所を、山島なんて言うわけはない。
九州島全体で30か国。普通に読めば、何の疑問もないところだ。
畿内にしたいだとか、北九州にしたいって思い込んでる奴が読めなくなっているだけだ。

58 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 07:06:49
>>45
>近畿が発祥なら、古事記にも日本書紀にも堂々と書くだろ、朝廷は。

これもなあ・・・
まあ東遷厨の決まり文句の一つなんだろうがw

そもそも始祖神話において御先祖さんが遠くの地よりやってきたなんてのは別に珍しい事でもなんでもない。

つうか正直に言えばご先祖さんが、その王朝の都のど真ん中に最初からいたなんて話を知らないwwwww

59 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 07:15:42
>>53
人に説明しろというよりも、先に自分から説明したら?
畿内説で30カ国をどのように考えているのか。

5世紀の倭王・武の時代でも、東55カ国、西66カ国となっている。畿内が
含まれるかどうかわからないが、最低でも121カ国ということになる。

3世紀と5世紀を比べると、5世紀のほうが国は統合されて数が少なくなって
いると考えるのが普通だろう。つまり、3世紀のほうが国は規模として小さく
その分、数が多かったと思われる。

倭人伝の、「もとは百余国、今使訳の通ずるところ三十カ国」は、国の統合を
表していると考えるのが普通。

つまり、30カ国を九州に収めることは十分に可能だろう。
しかし、畿内説で30カ国は、壱岐・対馬が入っていることを考えると、
かなりイビツな状態を想定しなくてはならなくなる。

何でも有りの畿内説でこれをどう説明する?
ついでに、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」をどう考える?

60 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 07:38:51
>>57
帯方郡から東南の海中にある嶋は本州だよ

九州も四国も北海道も嶋だっての
日本は島産みにより産まれた嶋国なんだから

61 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 07:53:44
九州説はそもそも「発祥」に拘ってるからおかしいんだよ

邪馬壹國が九州にあろうと畿内にあろうと(まあどっちも違うけど)
そもそも別に邪馬壹國は日本の発祥でもなんでもないよ


つか「発祥」なんて言い方自体がおかしいとか思わない?
例えばイギリスからの移民が建国したアメリカ
「アメリカの発祥は?」
とか言い方おかしいでしょ?
仮に神武が九州から東征をなしえたとして、これを「日本の発祥は九州」って言い方するのもおかしいと思わない?
九州の発祥は宮崎だ。いや福岡だ
って言ってるようなもんだよ


62 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 07:55:00
>>59
私が前々から言いたかった事をまとめてくれたようじゃな

63 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 07:59:03
発祥にこだわってないけど

64 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 08:03:43
>>45
>天孫降臨すら否定し始めたか

つうか「天孫降臨」なんてもろに神話構造で中央ユーラシア北東アジアに類似した物がある

下記、適当にググったサイトより

http://japanese.hix05.com/Myth/myth07.tenson.html
>建国の起源を、祖神の天上からの来臨に求める考え方は、北方アジア諸民族に広くいきわたっている。
>たとえば、ブリアート・モンゴルの神話には、至高神サガンの孫ゲゼル・ボグドゥが、六種類の神器を授かって地上に天下り、国を建てたとある。
>また、朝鮮の神話には、天帝の子桓雄が天符印三個とともに追従の神々を伴い、太白山山上の檀の木をつたわって降臨し、
>その子檀君のときに国を開いて朝鮮と名づけたとある。

ところで、現在に至る皇室のルーツと言うか、実際に皇室が祭っている神を高木神か天照か…
と言う問題に関して論じられる時

大嘗祭において天皇が布団の中で寝ると言う儀式(まあ公式に外にアナウンスされているわけではないだろうが)
を天孫降臨のシーンでニニギが布(真床追衾)に覆われていた事の再現だとし
天皇=天孫族の奉じる神は中央ユーラシアを源流とする高木神だと言う説がある

・・・なんて話も聞いた事が無いのかな東遷厨は?

この板の九州説、特に東遷説を唱えるような奴は神話が大好きだが、意外とと言うより呆れるほどに
神話の源流とかに対し何も知らないと思うのだがwwwwwww


65 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 08:12:31
>>63
そっか
あと渡来人は渡来人、日本人は日本人だよ
日本から乾国に渡来して百済や新羅を治めてた倭人は日本人。渡来人じゃない
けど大陸や半島の民族で、日本に渡って来た秦氏や漢氏は渡来人だよ
で、俺は日向三代もイワレビコも九州の人間も渡来人じゃ無いって言ってるんだよ


66 :64:2009/07/04(土) 08:12:53
更に言うと…

東遷説論者と言うのは往々にして
高天原、天孫降臨を史実として語り
神武東征も史実として語る。

しかし記紀はその間に所謂「日向三代」の神話を挟んでいるわけで
これを史実、しかも前後の話と連続したものだと言う奴はあまり見ない。

まあ産屋を覗いたらヨメの正体はワニでしたなんてお話じゃあ無理もないがwww

適当に使えそうなネタを”摘み食い”する東遷説論者の性だなw

無論、長い年月の間に本来一連の話として語られるべき物の中に
日向三代の神話が紛れ込んだと言う事はできるだろうが

それなら、最初から別々のパートだったから…としたほうが手っ取り早いwwwwwwww

67 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 08:30:07
>>64
そのモンゴルの神話も朝鮮の神話も、天つ国から国造りの為に乾国に降りたって、農地や水田を開拓し、稲作や麻作や暦などを伝えて
百済や新羅を建国した日向三代などの倭人の事を伝えてるんだよ
天孫降臨は日本の天つ神の孫が国造りに韓国に降り立った話なんだから、東アジアにもその話が伝わってるんだよ
百済や新羅の建国神話にも海中からきた三人の天子が百済や新羅を開拓して建国した話が残されてるんだし
で、倭人が治めてた倭国ってのは当然、漢籍書にも帯方の南方の朝鮮半島南の事だと言う事が書いてあるんだよ
新羅を建国した氏族の中の日本に戻らなかった氏族が、後に満州方面に渡り、チンギスハーンになったと言う話もあるよ
ちなみに義経では無いけど新羅を建国した倭人の氏族は後の藤原氏なんだよ
モンゴル人と日本人は語源や血統が近いと言われるのも、なんか納得出来る話ではあるよ
モンゴルが元と呼ばれたのも源氏の源だって話もあるよ

68 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 08:43:29
>>66
高天原って今の信濃の事だよ
諏訪大社がありイザナギが治めてた土地
ここが天つ高原だよ、いまでいう「○○こうげん」って意味だよ
天つ神が大国主から國譲りを受けたのも高天原の諏訪だよ

で、國譲りを受けた天つ神が、日向三代などを乾國の祖冨里(ソウル)の高千穂に國造りへ行かせる
これが天孫降臨

嫁がワニを産んだって話は、百済の屯宮へ行き来してた神功皇后が、あっちの氏族の和仁氏(秦氏や漢氏の氏とも言われてる氏族)との子供を身ごもってしまって、船の上で産んで隠して育ててたんだよ
それが新羅王だよ

記紀にたびたび出てくる鰐ってのは和仁氏の事だよ
主に船渡しをしてた渡来人の氏族だよ


69 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 09:00:51
>>66
つか史実を語る分にはいいんだよ
ただ東征論者ってのは、東征が紀元前2600年前だとか、だから天皇や日本の発祥は九州だとか
神武が日本建国者で、神武からが日本の歴史だとかさ
これらは史実じゃないんだし
記紀を何の偏見も持たずに読めば、普通はそんな解釈解釈にはならないよ

天皇に初代も糞も無いし、イワレビコ以前には大国主やスサノオやアマテラスが日本の高天原や中つ國を治めてるんだし

イワレビコは東征して飛鳥朝廷を倒したから都を遷都出来た訳じゃなく
イワレビコが大国主から国譲りを受けてた天皇子(あまつすめらのみこ)だったから、太政大臣として治政が出来ただけだよ



70 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 09:04:23
まあ話がズレズレだがwwww
俺は別に九州で30ヶ国揃えるのが無理だと言う話はした覚えは無い。

現に高島忠平なんかは地理誌や実際の遺跡を元に九州北部に30ヶ国を再現して見せたw
(この話も何回かこの板のあっちこっちに書いたが…)

問題なのはじゃあ30ヶ国の頭数揃えられたとして
そのクニグニがお隣同士仲良しこよしの隣組として一つにまとまったとするのに何の根拠があるのかって話でw

もっとはっきり言えば弥生末期の九州にはそう言った「統合の動き」を示す物が無い。
もし新たな威信財体系や祭祀形態が登場したのならそれに合せて30ヵ国の範囲も想定できるだろうが…

「九州全体なら30ヶ国揃えられる」と言うのなら九州全土が連合体を形成した
いやここの九州説だと力ずく、武力でもって統一されたモデルになるのかな?

まあどっちでも良いがwそれを示す材料を出せと言うお話で
ちなみに九州の土器編年だと弥生時代に九州の南北・全土に斉一性が見られるなんて事も無かったよな?w

71 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 09:16:50
30国と言っても投馬や邪馬壱国のように50000、70000戸のような国もあるのに。
どう九州に収めるんだよ。おまけに女王国に従わない国もあるのに。

72 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 09:16:53
>>70
「九州」って名前の由来しってる?

筑前、筑後、日本、百済、新羅、加羅(唐)、任那、日向、、、
倭人が統治してた朝鮮半島南部と、日本の筑紫島が合わせて9つの州からなってた時代に、筑紫は九州って呼ばれてたんだよ
んで倭国っていうのは日本ってよりこの時代の九州を指してる言葉だよ
倭人を国造りへ行かせてた日本の事は、倭国ってより朝廷とか中国(なかつくに)とか書かれてる事のが多いよ

んで百済の卑弥呼にしろ、新羅にしろ、加羅にしろ、儒教や漢字なとの写経を持って、なんども朝貢しに来てるよ
百済に関しては「女王になって以降、三年たっても朝貢に訪れない」って、朝廷はヤキモキしてたよ
遣百済史とかまで出して、早く朝貢に来いって催促してたよ

73 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 09:23:55
>>71
九州の言葉の由来調べてみ
筑紫と九州じゃ意味が違うんだよ

なんで明治以降からまた九州を名乗るようになったのか知らないけど、邪馬壹國にしろ卑弥呼にしろ日本府にしろ筑紫には無いよ

朝鮮半島南部の倭人の治めてた州を含めた九州にまで範囲を広げれば30国は行くんじゃないの?
ちなみに30国の中には実際には百済や新羅を建国した天孫の日向三代と同族の信濃のニギハヤヒ氏族や、越の吉備氏や、三河のヤタ氏なども含まれるんだけどね
近つ飛鳥の包囲網すよ


74 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 09:23:59
畿内派の皆さん、九州に(邪馬台国)来て直に見られてはどうですか?



75 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 09:37:42
>>71
投馬国は薩摩を主として肥後もある程度はいる、邪馬台国は日向を主として豊国
もある程度はいると考えたら何も問題はないだろう。旁国は傍らにある国だから
その両国の周囲にあった小国ということだ。

76 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 09:37:57
>>74

何処にありますか?

77 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 09:42:49
今言ってる九州は勿論現在の九州だろ、
そこに3世紀後半時点で30国を納めるのは
根本的に無理でしょという話。
少なくとも本州西部、山陰をスルー出来る訳がない。

>何でも有りの畿内説でこれをどう説明する?
ついでに、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」をどう考える?

伊勢からみて駿河以東の事でしょ。


78 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 09:45:41
>>75
で、この時代交流も深かったと思われる本州西部や
出雲はスルーですか、3世紀ですよ?
あり得ないと思うけど。

79 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 09:51:10
>>78
本州西部や出雲は、倭国の領域ではなかった。それだけのことだ。

80 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 09:57:03
>>79
小人の国とかの記述はあるのにw


81 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 09:58:39
倭種の国があるとは書いてあるじゃないか。

82 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 09:59:22
>>74
まず候補を絞ってから言ってください。

83 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 10:02:25
>>81
眼の前の対岸の事を千余里ですか?

84 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 10:15:03
>>83
千余里というのは、四国までの距離だろう。
しかし、弥生時代には、近畿と南九州だって一応の交流はあるんだよ。
瀬戸内海を航行していれば、その両側に陸地があることなんぞは十分分かるわけだ。
ただ、使者に説明した人間は、自分であちこち巡り歩いていたわけではないだろう。
だから、説明者は、中国地方と九州との距離を知らなかった。それだけのことだろう。

85 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 10:18:43
>>84
じゃ結局本州西部は記述で一切スルーって事?
それがあり得ないでしょって事です。

86 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 10:28:37
>>85
中国地方も倭種の国の中に入るんだよ。日向からみたら一番近いのが四国、
中国地方はそれよりも遠い所なんだ。
使者がどこを通ったかを考えるんだな。関門海峡なんぞ通ってないんだよ。

87 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/04(土) 10:35:35
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/hok-wakok.html
つか百済新羅は倭国だよ

あと漢の場所をシナと勘違いしてる人もいるでしょ?
漢はこの時は帯方郡にいた民族だよ


88 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 10:41:54
>>86
使者が日向まで行ったって事が前提な訳ですか?
それでは行程描写が何も無いという点で矛盾がでますよ。

まあ邪馬台国を日向辺りに比定するのは
反対しないが、山陰辺りの勢力を記述無しとするのは
年代的に無理があると思いますが。
山陰や瀬戸内の鉄は何処から回ったんだという事です。



89 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 10:52:33
>>88
別に無視はしていないが、出雲や瀬戸内諸国は朝鮮半島から直接に銅や鉄を
入手していたかも知れない。少なくとも、九州とは別の国で、倭国30国に
は入っていなかったな。
弥生時代には、九州の人間が山陰や北陸まで交流範囲に入れていたことはま
ちがいないだろうが、それと倭国の領域をどのようにみるかという問題とは
別だよ。近畿、瀬戸内や南九州の鉄は、ないわけではないが、確かに少ない。
これは北九州が鉄をその地域には渡さなかったということだろう。

90 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 10:58:43
>>88
日向まで行ったことが前提というわけではないが、関門海峡を渡った形跡がない。
倭人伝の行程を読めば、九州西回りと解釈できる。行程描写が何も無いという点
は矛盾でも何でもない。書かなくても分かりやすい話だから書かなかったまでだ。


91 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 11:08:53
>>89
それではこの時点で本州、四国以東は倭種でも
倭国ではないという論ですか。
個人的には1世紀頃の話だとまだわかるけど、3世紀の時点ではね‥

仮に出雲や瀬戸内諸国が直接半島から
鉄を入手していたのなら、それはそれで
九州勢力はこれ以降に東征なんて
無かったという証拠にもなるでしょう。

関門海峡の運航権も無いという事ですよ?
淡路島に垣内遺跡なんてのもあったことだし。


92 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 11:13:01
>>90
西周りなら桜島辺りの記述があってもいいんじゃないの?


93 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 11:15:35
>>91
出雲や瀬戸内諸国が直接半島から鉄を入手していたら、何で九州勢力の東征がなかった
ということになるのかな? 
東征ってのは、東の敵の勢力圏内に攻め入るってことだよ。運航権(制海権?)がない
のは当たり前だろ。攻め入って制海権を得ながら本拠を征服するんだよ。

94 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 11:16:28
奴国が二回出てくることから考えて、何処かを一周してるんだろうな。

95 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 11:18:52
>>92
あってもいいけど、なくてもいいよ。桜島も普段は静かなものだ。
使者が見たとしても、その時に印象に残るほどの活動はなかったかもな。

96 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 11:21:41
>>94
北の奴国は大国だ。南の奴国は小国。別の国だよ。

97 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 11:26:22
>>93
それなら尚更東に対抗勢力がある事の記述が無いと変ですね。
魏志の時点で30国を畿内を含む国々と考えたら特に問題ない部分でしょ?

東征なら少なくとも2世紀以前じゃないと矛盾しますよ。
3世紀以降の畿内の出土物で、少なくとも九州からの影響がないとね。

98 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 12:07:58
>>57

>九州島全体で30か国。

だめだめ。山口県は含まれてないと言うの?
おとなりの九州で卑弥呼が共立されたとき、山口の人は卑弥呼共立に賛同しなかったってこと?
ありえないね。文化的に敵対してた様子もないしね。

君の脳内ストーリーじゃ、九州人以外は卑弥呼共立したらダメなわけだ。
いくら山口が九州と親密であっても。



99 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 12:14:38
>>93

3世紀に攻め入られた様子が無いから東征は無いっていう話。
1世紀とかだと、高地性集落があるから、東征に例えられる戦乱があったとみることはできるが。


100 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 12:31:21
もしかして美濃もん太と言う人はNGしたほうがいい人なのかな?

101 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 12:44:14
淡路島の垣内遺跡も120〜220年頃までの稼働だとされてるな。
まさしく倭国大乱の時期に重なってるし。

3世紀以降に東征があったなら、畿内勢力がここの
鉄器製造を止めるなんてとても考えられないでしょ。


102 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 13:31:15
淡路島といえば、淡道之御井宮の和知都美。
和知都美は、あまり知られてないけど、ヤマトトトヒモモソヒメの母方の祖父なんだよね。

九州説に凝り固まってる人には、関係ない話だろうけどさ。



103 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 13:46:42
モモソが卑弥呼なんて珍説唱えてる畿内説の人には大事だろうね。

104 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 13:56:58
九州を一周したのは間違いないだろう

105 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 14:02:01
>>98
山口県はともかくとして、現在の北九州市付近もちょっと文化的に違う。
甕棺が全く出ていない。
福岡市付近からは甕棺がたくさん出てくる。しかし、遠賀川より東からは
甕棺が一つも出てこない。一方で、佐賀県はもちろん、熊本県からも出てくる。

文化圏を考える上で、これは重要かも。
方言の系統とも一致するような気がする。

106 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 14:05:59
神話上では最初に出来た島が淡路島だからな。

107 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 14:16:28
淡路島とは、現在の淡路島ではなく四国の阿波ではないだろうか?
そう考えると邪馬台国は四国にあったことがわかる


108 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 14:19:11
大昔にしては、たかが30国て少なすぎだな〜

109 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 14:24:10
>>107

阿波に行く道すがらの島だから「あわじ」と言うんだよ。

110 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 14:25:46
>>105
そこは「トヨノクニ」だからね。

111 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 14:29:26
>>109しかし、阿波ができる前に阿波への道、つまり淡路島が生まれたというのは不自然。
    やはり、淡路島は阿波より後にできた(名づけられた)はず。

112 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 14:30:32
>>107
残念おっさん、また明日

113 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 14:34:15
>>111
> 阿波ができる前に阿波への道、つまり淡路島が生まれたというのは不自然。
>     やはり、淡路島は阿波より後にできた(名づけられた)はず。

  できたはず、って・・・・・まあ、いいか。

  島の誕生の先後と現在の呼称は関係ないでしょう。
  島の呼び方なんてコロコロ替わるのよ。
  

114 :○スカ書庫入り:2009/07/04(土) 14:47:48
新唐書で「筑紫城にいる彦瀲の子、神武立つ」とあり、神武以前に日本の統 治者が筑紫にいたという伝承が伝わっている。地上の九州にいたと記している。
中国の「新唐書」 で初主(ニニギノミコト)から神武天皇に至るまで「筑紫城に居る」
『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。

115 :○スカ書庫入り:2009/07/04(土) 14:49:17
4世紀初に至り高句麗は楽浪郡・帯方郡を消滅させて新羅にまで勢力を及ぼすようになった。
倭王の国は新羅と近接している。新羅は平素から高句麗や百済を侵略し、もし危急が生じれば、倭王は宜しく派兵してこれを救う。
倭国は東海の小島の野人。耶古、波耶、多尼の三国がある。いずれも倭に従属している。北は大海が限界、西北は百済と接し、正北は新羅と抵触、南は越州に相接する。

116 :○スカ書庫入り:2009/07/04(土) 14:51:19
都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の東に在り、?耳と相似するという。

117 :○スカ書庫入り:2009/07/04(土) 14:53:38
前漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてより、漢に使訳(使者と通訳)を通じてくるのは三十国ほど。
国では皆が王を称することが代々の伝統である。そこの大倭王は邪馬臺国に居する。
楽浪郡の境界から、その国までは一万二千里。その西北界の拘邪韓国から七千余里。
その地は凡そ会稽郡東冶の東に在り

118 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 14:54:11
>>114
> 新唐書で「筑紫城にいる彦瀲の子、神武立つ」とあり、神武以前に日本の統 治者が筑紫にいたという伝承が伝わっている。

書紀と続紀に書いてあるからだろう

119 :○スカ書庫入り:2009/07/04(土) 14:55:38
初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
彦瀲の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治する。

120 :○スカ書庫入り:2009/07/04(土) 15:02:36
>>118
新唐書は11世紀中頃乃作  記紀は十分に吟味済み

121 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 15:21:15
>>57
>当時、本州は島だってことは認識
>されていないんだ。大陸の一部かも知れない所を、山島なんて言うわけはない。

国産み神話では、日本列島を大八島と呼び、その中に大倭豊秋津島が出てくるが、
あれはどこの島なんだ?


122 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 15:25:12
>>120

書紀と続紀に書いてあることを書いただけだろ。

123 :○スカ書庫入り:2009/07/04(土) 15:27:40
>>122
そうだよw  美濃もん太は良くわかってる様だな

124 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 15:29:22
しかし畿内説は苦戦してるな、助け舟が必要のようだな、箸墓が卑弥呼の墓です。

125 :○スカ書庫入り:2009/07/04(土) 15:47:43
彦瀲以前は皆筑紫が居城だよ。卑弥呼の勢力圏は南岸韓国から九州と大和地方まで。
神武は彦瀲の四男なので日向に飛ばされたんだよ。
神武は筑紫城からの要請で東征し大和地方を征服したんだって。
そして邪馬壹國 は滅んだんだよ。

126 :○スカ書庫入り:2009/07/04(土) 16:10:23
「唐会要」 (981年) 古の倭奴国なり。新羅の東南に在り、大海の中で暮らす。代々中国と通交する。
その王の姓は阿毎氏。官には十二等を設けている。

古の倭奴国なり。  古の倭奴国なり。  古の倭奴国が邪馬台国を滅ぼしたんだよw

127 :○スカ書庫入り:2009/07/04(土) 16:42:55
神武東征船旅の開始は西暦294年 この時の人数は?1000人じゃ食料確保困難でしょ?
せいぜい2〜300人だったんじゃないか?200人の武装集団があればこの時代怖いもん無しだな。
警察、自衛隊、駐留米軍がいなければ現代でもOKだな。

128 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 16:52:15
しかし徒歩で移動だと戦いを挑める範囲ってたかがしれてない?
軍事道路はまだできてないよね

129 :○スカ書庫入り:2009/07/04(土) 16:56:15
>>128
>神武東征船旅の開始は西暦294年

道なんてないよw 船に決まってます。

130 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 17:01:12
>>107
無茶言うなよw

131 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 17:34:56
もん太が来るスレは荒れる傾向にあるな
あいつがやるみたいなこじつけで書き込んで良いんだと皆が思ってしまうからか

132 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 17:39:07
>>105

神武が東征途中で北九州にいったが、福岡には行ってなくて、北九州市とまりなんだよね。


133 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 17:39:33
>>131
すごいエネルギーの持ち主なんだが、突っ込みどころが多すぎて、
突っ込もうという気にもならない。

134 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 18:00:03
>>126
倭奴国=イナバ国だったりしてなw

135 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 18:49:28
倭奴はワナと読み、意味はキャンディーズ
倭奴国の意味は後楽園球場。
あそこに青春をみんなで埋め込んだ地。

136 :サガミハラハラ:2009/07/04(土) 20:23:04
サムライの武術の流鏑馬等はもともとは貴族の嗜みだったということをきいたことがあります。
天皇も貴族なのでかなり古い時代は武道をやっていたのではと思いますが、くわしいかたよろしくお願いいたします。

137 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 20:33:18
倭人伝には、伊都国について、『世有王 皆統屬女王國』と書かれている。

辞書を引くと、「世」には先祖代々という意味もある。
つまり、「代々王あり、皆女王国に統属す」となる。
かなり古くから伊都国は女王国に統属していたわけで、いつからかというのが
一つの問題点になる。

帥升のときと考えるのが妥当だろうな。帥升は倭国王だから。
つまり、西暦100年頃からだろう。
ということは、この頃には邪馬台国が盟主として誕生していたと考えられる。
この意味でも、畿内説は成り立たない。

138 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 20:45:26
>>136 また突然奇妙なレスを。うーん、例えば後鳥羽天皇(上皇)とか?幼少時から武術
を好み、乗馬、弓、刀などを嗜んだといわれてますね。また、刀の制作では自ら刃紋を入れ
「菊一文字」「御所焼」などと呼ばれています。

139 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 21:05:03
>>137
「代々」には、「世」と「世世」があり
魏書でも「世」と「世世」の両方の表現がある。
同じ「代々」でも「世」と「世世」では意味が少し違う。
「世世」の場合は古来からずうっと代々の意味。
「世」の場合はある特定の期間に代々の意味。


140 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 21:10:38
>>137
女王国(の前身国)が倭国大乱後、畿内へ建国しただけでしょ。

つまり倭人伝の記述時には畿内へ建国済みとは解釈できます。

141 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 21:11:55
>>139
それを実例を挙げて証明して見せてくれ。

142 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 21:14:33
>>141
それぐらいは自分で検索して確認して。

143 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/04(土) 21:22:44
建国主ね〜〜
どの人がふさわしく思えますか?

まあ、天皇家なのは、間違いないはずです。

144 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 21:25:26
>>142
自分で検索して確認した限り、そういう事実は無いから聞いているのです。

145 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 22:04:54
>>144
当てはまらない例があった?

146 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 22:11:54
>>137
"世に"と日本後に読み下してるけど
"世の王"とすることも可能
とすれば、女王国に属する王達がいた場所と理解出来る

147 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 22:19:31
>>146
『世有王』で『有世王』ではないから却下

148 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 22:31:00
「代」と「世」は正確には意味が違います。
例えば、解りやすく説明すると、
有る国の歴代君主の三代目といった場合、初代王の弟達が後を継いだ場合は、
三代目でも同じ世代になるわけです。決して孫の代といういう意味ではありません。
「代」は代わる、交替するという意味です。
ですが、「世」は一世代、つまり父と子の世代の違いをいいます。
だいたい三十年をいいます。
つまり「世」とは少なくとも一世代以上は長く続いているという意味になります。


149 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 22:47:41
>ただ、前に読んだ鳥越憲三郎氏の「神々と天皇の間」では、大和平野の北端に都が置かれた
>のは、山城国南部を流れる木津川の利用および山城国への政治的進出を企画してのことと
>書かれてた。

但馬あたりは祟神王朝系が絶えず妃を求めてきた地であって
三輪王家は婚姻関係をもって木津川を通って山科、但馬にと北へ北へと勢力を伸ばしている節がある
…と言う見方があるが、やっぱ日本海交易がもたらす鉄資源他の物資に惹かれたんだろうか?wwwwwwwww



150 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 22:50:15
>>149は誤爆スマヌ(オオヒコスレに書き込むべきものだた)

151 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 23:00:08
大彦と少彦。
現在でも外人(ことに欧州系)と並ぶと日本人は少彦の子孫だと思いませんか?


152 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 00:39:58
少彦名命は、高皇産霊尊のたくさんいる子供のうちの一人となっている。
なんとなく、一寸法師の童話を思い出してしまう。

素戔鳴尊は高天原を追放されて出雲に行く。出雲で出来た子供が大己貴神。
少彦名命は、大己貴神を手伝って出雲の国づくりを行う。

大己貴神の別名は大国主命。三輪山に祀られている大物主大神は、
大己貴神の守り神のような存在らしい。
少彦名命がいなくなった後に現れ、大己貴神と共に国づくりをした。
しかし、出雲は、やがて高天原に征服されてしまう。→出雲の国譲り。

一方で、高天原勢は、日向を経て神武天皇(神日本磐余彦)が東征し、大和で
即位する。
そこで、神武天皇の后になったのが、大己貴神の孫娘ということになる。

崇神天皇のとき、うまく国を治めるにはどうしたらよいだろうかと考えて
いると、倭迹迹日百襲姫が神がかりして、大物主大神を祀ればよいと
神託した。さらに、大田田根子命に大物主大神を祀らせると、国は治まった。

ちょっと複雑で、年代的にどうかと思う部分もあるが、出雲はけっこう
物語に大きく絡んでいるように思える。

153 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 01:05:09
>>152
三輪山の大物主は祟り神でもある。国譲りで国を奪われた恨みがある。

モモソヒメはそれを鎮める立場にある。
「トドヒ」の「トド」は「千千」で、ようするにモモ(百)を圧倒する多さの日の光で
「モモ」(百)の「ソ」(災い、穢れ)を祓うということ。

別名のヤマトクニカヒメ、ハエイロネは、元の名であろう。


154 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 01:21:40
>>502 >>下の万葉集から「彌烏」=「みを」じゃな
       つまり彌烏邪馬は「みをやま」,「みわやま」。

阿摩能椰蘇訶礙 異泥多多須 彌蘇羅烏彌禮麼・・・
あまのやそかげ  いでたたす  みそらをみれば


155 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 01:51:50
>>153
それはありえるかも。
西暦720年だったか、大和朝廷は大規模な遠征を行い隼人を征服した。
その後、悪い病気や悪い出来事が起こった。そこで、隼人の霊を鎮めるために
建てられた、あるいは整備されたのが宇佐神宮といわれる。

神社とはそもそもそういうものなのかもしれない。

156 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 02:20:41
タミル語と日本語の多義語の間には偶然以上の合致が多く認められる。更には、たとえば
倭迹迹日百襲姫(ヤマト・トト・ヒ・モモソ・ヒメ)のような日本の神の名もタミル語で
解読できる事例もある。タミル語でツタや蛇瓜の意味を持つ語が日本語では蛇となって
いる例が多いところから、タミル語で蛇瓜を意味するtatt-anは列島内でtotoに変化し
「ヘビ」を意味し、またタミル語maimai[崇拝の意]は日本語mom-oと対応し、日本語に
「ももす」という動詞があったと想定し(上代東国方言では、中央語/u/が/o/と発音される
場合があった。この上代東国方言は、元中央語であった音韻を含んでいる可能性があるので
上代では「ももそ」となる)、倭迹迹日百襲姫は、ヤマトの「toto(ヘビ)霊を崇拝する姫」
ということになる。そして倭迹迹日百襲姫は日本神話上、ヤマトの蛇巫(へびふ)とされて
いるので、それにふさわしい神名となる。もっともこうした対応は、系統論的観点からは
認められない[田中孝顕「ささがねの蜘蛛」参照]。



157 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 02:24:28
>>156
大野さんは本当に哀れだなあ。
タミル語なんてやらなければ良かったのに・・・

158 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 05:27:19
>>98
山口が九州と親密かどうか分からんが、無関係なんだよ。北九州と南九州が戦った。
そして、南九州が勝ったが、和睦に至るいきさつとして両者が卑弥呼を共立したって
ことで、戦いに関係なかった山口が出る幕はないってこと。

159 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 05:36:35
>>99
攻め入られた様子? どこで戦いがあったのか、威圧されて終わったのか、分からない
のに様子がないなんて言えるかな? 3世紀に銅鐸がいっせいに埋納されて、鏡が配ら
れるようになった、弥生の都市が消滅した、それこそ、3世紀に攻め入られたことを示
す徴表とみるなんだよ。

160 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 08:56:08
なぜ古事記や日本書紀に最初に出雲が出てくるのか?
これはやはり大和政権系の朝鮮部族が渡来する経路がそうだったからだろう。
そこで製鉄の技術が発達したのも、鉄を輸入する朝鮮からの
ダイレクトの経路があったからだと思う。
その象徴が鉄製の刀、草薙剣だ。

次に渡来した神武系は宇佐から北九州へ入った。
なぜ直接北九州に入れなかったかと言うと、
やはりそこにはそれなりの勢力が陣取っていたから。
この流れも、日向が朝鮮半島であるという考えであればつじつまが合う。
当時も貧国であった宮崎が日向などというでっち上げは無理がある。

大和政権の神話や文化には、考古学上で明らかになった当時(2〜3世紀)の文化の継承や
他の歴史書(倭人伝)での記述に該当するものの痕跡が全く無い。
これらの事実から考えて、当時の日本文化とは異質な侵入者、征服者が
朝鮮半島出身の大和政権であると考えていいだろう。

日本書紀や古事記の神代の部分は朝鮮半島の出来事ではないかな?

161 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 09:01:39
>>156
アホかって言っとけやW

162 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 09:43:07
昨日の日経新聞の最終面に箸向遺跡の年代測定の問題点が書いてありましたね。
年代測定に使用した試料数が足りないため統計的手法が使えず、平均で年代を決
めたのにもかかわらず、240年から260年という短い期間に特定した手法に問題があ
るというようなことが書いてありました。

163 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 10:22:15
>>162
畿内派涙目www

164 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 10:24:07
>大和政権の神話や文化には、考古学上で明らかになった当時(2〜3世紀)の文化の継承や
他の歴史書(倭人伝)での記述に該当するものの痕跡が全く無い。

全然そうは思わないけど。


165 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 10:29:00
>>164
>痕跡が全く無い

そのとおり、捏造ばれて畿内派涙目WWW

166 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 10:29:52
九州説って、朝鮮が日本にする主張と似てるよね。
先進地域だった九州が畿内に屈するはずは無いってね。

167 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 10:35:31
畿内派 おチンチンびろーん
   ∩___∩
   |ノ   丶/⌒)
  /⌒)(゚) (゚) /
 / / (_●_)ミ/
( 丶 |∪| /
 \  丶ノ /
  /    /
 |  _つ <
 | /ω\ \
 | /   ) )
 (_ノ   ( \
      \_)



168 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 10:49:40
出雲からというのは正解でしょう。その後畿内、そして九州という流れですよ。
北部九州は結局単なる中継局という事でしょうね。
戦争による人やモノの移動が多いので文化が定着しなかったのです。

169 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 11:25:24
3世紀に魏と外交を展開しながら国を治めた国家=邪馬台国であり、
それは魏鏡の広がりにはっきり出ている事。
この大和を中心とする、倭人伝にも書かれたとおりの3世紀の国家の事が、
日本書紀や古事記などの後の大和政権の伝記には全く書かれて居ない事。
これはつまり、後の大和政権が3世紀の大和を知らなかったからに他ならない訳。
具体的には、神武が東征で制圧した大和の国が、
卑弥呼死以降に乱れた邪馬台国と考えられると言う事。

170 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 12:10:32
>>169
高天原が大和ですよ。で、天の岩戸とは箸墓の事ですから。
だから卑弥呼の威光が届く範囲に天の岩戸伝承地が、
各地に散らばってのです。

171 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 12:23:54
>>170

高天原は信州ですよ。

天岩戸と、ウズメの神社があるのは信州しかない。

172 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 12:51:03
>>171
天の岩戸伝承は葛城山周辺での話ですよ。天の金山に天の安河、河上の堅石等…


173 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 14:56:49
>>167

オマンチョビロ〜ンも貼付けて。

174 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 17:06:48
日本書紀、推古天皇20年に天皇のこんな歌が載っている。
「真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば日向の駒 太刀ならば呉の真刀」

つまり、蘇我氏の子供たちは、馬にたとえるならば日向の馬、太刀ならば
呉の真刀というわけである。
これからわかるように、日向の馬は非常に評判が良かったらしい。
今でも宮崎には都井岬に野生馬が残っている。

日向は馬と関係があり、日本の馬具あるいは馬の普及と関係があるのかも
知れない。ひょっとして神武天皇は騎馬民族かな。
もっとも、記紀の神武東征は船が主役で、馬は出てこないわけだが。

175 :sage:2009/07/05(日) 21:28:06
>>136
射礼(じゃらい)と読む。以下参考まで。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/0894190-0000/m0o/

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%B0%84%E7%A4%BC/

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%A4%A7%E5%B0%84%E7%A4%BC&ei=UTF-8&pstart=1&fr=top_ga1_sa&b=11&qrw=0


176 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 00:54:50
考えてみれば、近畿って不思議なところだな。あれだけの古墳を造った連中が
どこに住んでいたのか、その痕跡が見つからない。


177 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 01:49:46
>>176
河内にあると思うけど。

178 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 02:04:36
大和は単なる墓地?

179 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 11:54:10
弥生時代から人はいっぱいいますが?

180 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 20:07:34
「帯方郡から女王国に至ること万二千余里」を
「(狗奴国は)帯方郡から女王国に至り、(そこから)万二千余里」
と読めないかねえ…

181 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 20:38:06
全然読めません。

182 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 21:29:35
「帯方郡から女王国に至ること万二千余里」というのは、女王国の北の国境まで
ということです。南の国境は奴国の南です。つまり、女王国というのは、邪馬台
国を中心として投馬国や旁国21国を含む連合体です。じ
女王国と邪馬台国を同じだと解釈する人が多いようですが、倭人伝は断りもなし
に国名を言い換えたりはしません。


183 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 22:21:11
倭人伝には、邪馬台国(邪馬壹國)は、一回しか出てこない。
女王國は、五回出てくる。

女王国についてはいろいろ解釈があるみたいだが、置き換えてみて一番妥当
なのは、邪馬台国じゃないかな。

184 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 22:50:49
邪馬台国と女王国は別の国だとするのが妥当でしょうね。
女王国は紀伊。荒河戸畔の娘が祟神に嫁いだことでもあわかる。

185 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 22:55:23
>>174 しかし日本の野生馬はロバくらいの大きさしかないらしいな。

 騎馬民族でなくてロバ民族ではないか。


186 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 23:07:13
>>182
「自郡至女王國萬二千餘里」ですから
帯方郡治から女王國の中心地までです。
女王国=邪馬台国です。



187 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 23:10:29
騎馬民族に征服されたなんて何処の国だよw
船での馬の持ち込みは極少量しか無理なのに。

188 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 23:29:21
>>185
モンゴルは今でも蒙古馬で、ロバみたいに小さい。
チンギスハンは、そんな馬で世界征服?をやった。

日本の戦国時代もやはり小さな蒙古馬だったらしい。

189 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 23:33:14
>>187
ある時期から古墳の副葬品に馬具が登場するのは事実。
このことから、騎馬民族征服説なんてのが出てきたわけだが。

190 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 23:34:04
大和は 国の まほロバ

191 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 23:39:36
>>186
何で女王国の中心地なんてことが出てくるの?

192 :カミハミテイル:2009/07/06(月) 23:49:19
>>187騎馬民族とは言っても、その民族を概括的に言ったものであって、馬に乗らなくとも騎馬民族といえるのです。
満州を出発したときは騎馬民族でも、半島を南下して支配階級になっているうちに、次第に騎馬民族としての特質が薄れ、倭にわたってくるころには、
馬がなくとも民族としてのまとまりをもつことができるようになったと考えられる。しかし、もともとは騎馬民族であったが故に、騎馬民族の中にいれるのです。


193 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 23:51:09
「痔郡至女王國」
と書いてあるので

帯方太守のケツの穴から女王のケツの穴までが
萬二千餘里

194 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 23:52:49
騎馬民族というのは倭寇の勇士達に強制連行された人たちだよ。まさに歴史は繰り返すだね。

195 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 00:14:06
照葉樹林の根っこに足が取られて騎馬は転倒骨折する
草原でなければ騎馬の機動性は生かせない
日本の古代は船が最高速の移動手段

196 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 00:20:54
確かに弥生〜古墳時代だとまともな道は無いだろうな。


197 :カミハミテイル:2009/07/07(火) 00:23:00
ヨーロッパでは騎馬が大いに活用されたようですが、落葉樹林だったので転倒骨折しなかったということですか。

198 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 00:30:57
扶余族は、高句麗を建国し百済の王族となったが、日本までは来なかった。
記録上はそういうことになっている。
馬じゃ海は渡れないからねえ。

199 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 00:31:23
騎馬と言っても、人間がじかに馬に跨って乗るのは東欧の騎馬系民族だけだろ
ギリシャ、ローマは戦車を引かせて乗っていた

200 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 00:38:57
>>196

あなたは何を基準に「まとも」と判断するのでしょうか?
当時と時代を下った時とを比べてはいません?


当時古代人が歩いた道は、当時の最高な道です。
その道に不便を感じれば、人は必ず不便を解消するための新技術を取り入れ、取組みす。
たとえば現代から見て、まるで獣道のようでも不便を感じなければ

それが当時の最高な道です。

201 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 00:45:33
関係ないけど、高速道路を作ると古代の道とぶつかる。
国道を作ると中世の道とぶつかる、と聞いたことがある。

202 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 00:50:10
古代は山道、時代が下るほど平野部に降りてくるのかな
縄文→弥生も、山から平野へだったと思うし

203 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 02:15:38
>>200
馬での遠距離移動は基本的に無理だろ。


204 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 07:01:02
新大久保に騎馬民族が集結してる

205 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 07:14:27
>>188 よくテレビでモンゴルの遊牧民を映しているが、ロバみたいな小さい馬は見たことがないが。


206 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 07:33:34
朝鮮人が騎馬民族に支配されたのだけは事実だな。

207 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 16:05:31
>>205
モンゴルの馬は小さい。しかし、これで人を乗せて何十キロも走ったりする。
http://www.spiritualvoyagers.jp/blog/0002008_0904DP-S.jpg

208 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 21:19:54
鎌倉街道を知っていますか?
鎌倉街道は、野を越え山を越え一直線に作られています。しかも、馬同士がすれ
違えないほど細い道だった。
それは戦略的なものでした。そして街道沿いに数キロごとに見附台に番人を置き、
ことあらば狼煙を上げて通報する仕組みまであった。

こういう仕組みは、源頼朝や北条氏が考え出したものではなく、邪馬台国にも
同様な仕組みがあったと思われます。ニニギを道案内した猿田彦とは、彼らのこと
だったのです。

209 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 21:20:45
馬も牛も居ないって書いてあるけどね

210 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 22:02:31
猿が手を引っ張ってくれたのかw

211 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 22:31:25
すげーくだらない書き込みなのに思わずその情景思い浮かべてコーラ噴いた

212 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 23:48:29
>>208
>ニニギを道案内した猿田彦とは、彼らのことだったのです。

その理論で言うなら、邪馬台国の30国は伊勢まで含まれてたことになるが、それでいいんだな?



213 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 07:55:30
猿田彦に関する伊勢の地であるが、これは三重県のことではなく、福岡県糸島半島にも伊勢という地名があり、そこのことではないかとの説を古田武彦の書でみたように思うのであるが、
書名を忘れてしまい確認できません。
どなたか知っている方教えてください。

214 :九州王朝大好き:2009/07/08(水) 10:34:16
3ヶ月ぶりに悪禁解除になりました。

>>213
僕も書名は忘れたが、あなたの記憶は間違っていません。
糸島半島には「伊勢」「二見ヶ浦」「夫婦岩」と揃っています。
違いは、「桜井神社」と「伊勢神宮」、「サンセット海岸」と「サンライズ海岸」

現物を見比べれば、糸島は本物・原型で、三重は移設・コピーであることがすぐにわかります。

215 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 11:19:26
全国夫婦岩だらけでしよw

まず名前の移植は九州からと思い込んでるのが間違い。
全国似たような名前があるのはアイヌ語の影響もあるから。
丹後宮津に阿蘇湾なんてのもありますよ。


216 :九州王朝大好き:2009/07/08(水) 13:35:30
>>215
>全国夫婦岩だらけでしよw

単品で一致しても意味がない。
数点セットで一致して初めて意味を持つ。
この場合、神社・物・地名・地形の4点セット。

あなたは単品の指摘。 物:夫婦岩 地名:阿蘇湾

217 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 14:06:18
>>212
猿田彦の場合は、天孫が日向に降りる道筋にいて、道案内をした。
高千穂まで送った後、伊勢に向かった、と日本書紀ではそうなっている。
これがいつの出来事なのかが問題なのだろうが、天照大神=卑弥呼とすれば、
倭人伝に書かれている卑弥呼の後の出来事になる。

そうなると、伊勢が倭国に含まれていなくても問題ない。

猿田彦が伊勢に向かったとき、送っていった天鈿女命(アメノウズメノミコト)
は、猿女とも言われる。どちらも猿というのが面白い。

218 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 14:29:21
>>216
>数点セットで一致して初めて意味を持つ。
この場合、神社・物・地名・地形の4点セット。

桜井神社は何時の創建ですかね?

219 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 15:17:56
北部九州は博多も福岡も全部他からもってきた地名ですよ。
糸島半島の伊勢もまずその線を疑いましょうね。


220 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 15:42:37
福岡の昔の地名は名島(なじま)です

221 :カミハミテイル:2009/07/08(水) 18:16:03
福岡の地名は移植ですが、(戦国時代黒田氏が移封された時、博多の西部を故郷の播磨国の福岡と変えた)
博多は倭人伝にあらわれる好古都(ハォカタ)が転訛したものです。

222 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 18:50:27
>>221
それは俺も一時期思っていたのだが、奴国と重複するというのが難点だな。
伯兎、もしくは安来伯太で出雲の事ではないかな?

223 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 21:27:48
何となく出雲なんて言ってるけどさ、
出雲自体の場所もイマイチはっきりしないんだよね。
出雲神社なんて江戸時代までは丹後の亀岡にあった訳だし。
神話を見れば北陸の一部も含めれそうな感じでもある。



224 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 21:41:23
>>223
まじすか

225 :カミハミテイル:2009/07/08(水) 22:15:56
福岡市の繁華街のあたりは昔は潟でありました。その潟をはさんで東の岸が博多で
西が奴国となるでしょうか。そうすると好古都国と奴国は重複しません。

226 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:25:34
>>223
神社の名前の話と地名の話をごっちゃに考えてないかい?
ま、どちらにしても出雲族というか、出雲文化圏が山陰から北陸まで
の日本海側を支配していたのは確かだろうね。

227 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:29:39
>>224
出雲神社は旧姓で、現在は出雲大神宮。本来の元出雲と言われてるのはこっち。

>>225
奴国の人口を考えてみろ、それに「都」の字だよ?
伊都が至近距離にある意味がない。
大体そんなに近けりゃ倭人伝に詳しい説明があるだろw

228 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:38:19
ハカタという地名は大阪の和泉にもあるな。伯方だったか。


229 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 22:48:46
北九州はギリシャで畿内はローマだな



でっていう

230 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:06:34
伯方の塩

231 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 23:08:43
>>228
伯方なら瀬戸内に伯方島もあるな、塩で有名な所。

出雲神社の祭神が「三穂津姫」なんだよな。
出雲の国譲りに際して大物主に嫁いだという姫だよ。
これなんて箸墓のモモソ姫と被る話。

卑弥呼の読みが「ヒミホ」という説もあるのだが
どうなんだろうね?

232 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 00:22:34
伊都という地名もけっこうあったのではないかと思って検索してみたら、
出てくるのは前原とか糸島ばかり。こんなに盛り上がってしまったら、
後には引けないだろうなあ。
ちょっと結論を急ぎ過ぎじゃないかな。

233 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 00:33:30
伊都なら和歌山北部に伊都郡があるでしょ。

234 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 00:56:48
>>233
伊都高校というのがあった。

235 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 01:15:13
本当に。伊都国を怡土としたのが邪馬台国を見失った最大の原因。
伊都国が怡土では方角、距離が合わない。唐津上陸も理解できない。
また、倭人伝は放射式で書かれているが怡土では放射式が意味をなさない。
玄界灘沿岸では南水行もできない。そろそろ目覚めればいいのにな。

236 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 01:44:03
伊勢が九州からの移植ってどんだけバカなんだろうね。
北九州で猿田彦祀ってる古い神社があるなら教えてくれ。


237 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 02:02:11
福岡県福岡市早良区藤崎1丁目1−41

238 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 09:16:31
伯方の塩‥オノコロ島か?

239 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 11:40:08

桜井神社は古来からあった祠を17世紀に再興したもの。
17世紀に新規に創建できる立地ではない。


240 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 12:10:25
桜井神社‥寛永2年(1625)に三重県の伊勢皇大神宮を
模したものであるとはっきり言われてますが。


241 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 12:30:30
桜井神社を創建したのが黒田家二代目藩主黒田忠公。
「福岡」の名を付けた黒田長政の子です。

まあ忠公は色々問題の多かった人物で、今に残る噂も
芳しくない話が多い。当初は廃嫡しようとまで言われてた程。
典型的な二代目我侭ドラ息子だったという事ですよ。

つまり「こっちにも伊勢神宮が欲しい」と我侭をいった所でしょ。

242 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 13:54:40
黒田忠公は再興に当たって伊勢皇大神宮を模したのでしょう。

又、「伊勢」、「志摩」、「二見ヶ浦」の地名も黒田忠公が引っ張って来たのでしょうか?
三重県の夫婦岩より遥かに立派な二つの岩が海中にあると言う理由だけで。
三重県の夫婦岩は数個の岩の2つだけを取り上げて夫婦岩と称しているのに対して、
糸島の場合は大小2つの岩しかなく、それを夫婦岩としています。

それにしても、「伊勢神社」としないで、地元の地名である「桜井神社」の名称にしたのも腑に落ちませんね?
桜井神社を再興するに当たって伊勢皇大神宮を模したと言うのが真相ではないでしょうか?

243 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 14:04:21
黒田忠公ではなく忠之ね。
黒田家は元々外様で筑紫とは縁のない人物だからな。
地名の移設はどうでしょうね?

でもここが本来の伊勢だったという話は
トンデモ以外の何者でもないですよ。

244 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 14:58:22
筑紫とも伊勢とも縁のない人物である黒田忠之が、
伊勢の地名を3点セットで筑紫へ移設したのは何故でしょうね?
3点セットの地名移設、それと夫婦岩の移設はあり得ないですね。
夫婦岩の移設は、その形状から、糸島から三重へは可能性がありますが、
その逆は考えられません。実物を見比べればよく理解できると思います。
机上のいくら考えても無駄ですよ。まず実物を見比べてから考えましょう。

245 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 15:12:41
>>244

じゃ、逆ならどんな根拠があるのだという。

なんでもかんでも九州起源なんて、朝鮮人みたいだと思わんのか?
3世紀以前には、日本全国には神話は存在しなかったということにしたいのか?




246 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 15:31:38
>>244
もう少し伊勢について勉強してから書きこんでね。

>伊勢の地名を3点セットで筑紫へ移設したのは何故でしょうね?
簡単に言うと地方の繁華街に「銀座」と名づけるのと同じ事です。

それに時代背景として、九州で拡大していた
キリスト教の布教対策の影響もあります。
島原の乱もこの時期で、この黒田忠之も藩主として
島原へ鎮圧に向かうのですが、家臣からの信望がないため
指揮は他の者がしたという話もあります。

更にいうと黒田家は本来バテレン、禁止されてから
弾圧側にまわったという理由もありますね。
伊勢に対して思い入れや縁があったとも思えませんね。

247 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 16:51:32
そんな時代の話してどうする

248 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 18:41:45
まあすぐ地名だけで何でも九州にあったと安易に
勘違いする奴が多すぎなんだよ。

249 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 19:04:44
>>246
>簡単に言うと地方の繁華街に「銀座」と名づけるのと同じ事です。

数点セットで一致することと、「銀座」の様に単品で一致することとは全く違います。

>伊勢に対して思い入れや縁があったとも思えませんね。
だから、地名3点、物2点(夫婦岩・桜井神社)の5点セットが伊勢から移設されることはあり得ません。

>>247
>そんな時代の話してどうする
3世紀には糸島の5点セットの原型は既にあった。
その5点セットの内、桜井神社の原型は8世紀初頭に大和朝廷によって抹殺された。
この抹殺は大和朝廷武力による破壊です。
この時地元民の有力者達は、越後、出羽、陸奥方面送りになったものと思われます。
以上のことを述べているのです。

抹殺された神社は、小さな祠となって地元民が17世紀まで引き継いできたのでしょう。

250 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 19:14:29
>>249
二見が浦と夫婦岩のセットなら大分と福島にもあるけど。
それに伊勢神宮を模しましたと言ってるものをそこまで曲解するなよw

251 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 19:56:00
「伊勢」八代だよ。


252 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 20:38:41
エーゲ海の真珠と呼ばれるトルコ第二の都市「イズミル」
ヘロドトスによれば、紀元前1000年ごろにアイオリス人によって建設され、その後、イオニア人たちの手に渡り、
文化的・商業的中心地として大きく発展した。イオニア同盟の主要な都市の一つとなる。ホメロスが暮らしてい
たのもここであったと言われる。リディアの攻撃(紀元前600年ごろ)によって破壊された。その後、リディアや
アケメネス朝ペルシアの支配を経て、アレクサンダー大王の治世下で都市が再建された。

賢明な諸氏なら、ここまで書けば何を言いたいかわかりますね?
出雲とは、アレキサンダー大王によって派遣された「イズミル」からの遠征隊だったのだ。
これでまた一つ、謎が解けた!

253 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 20:54:17
イズミルの位置 北緯38.4 東経27.1
北緯38.4度といえば、宮城県仙台市の泉ヶ岳の真西に当たる。
ここにも出雲と関係の深い集落があり、偶然の一致とは考えらません。

254 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 22:02:53
偶然だよ

255 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 22:04:47
>>254
九州説の人間も同じ様な事言ってるんだから、可能性は高いw

256 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 22:12:46
実際にイズミルの民が来ていたとしても当人達も偶然だと思う筈
GPSあったんかね?当時に。

257 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 22:59:51
>>252すごい発見をしましたね。驚きました。
>>256北極星(北辰)の高さを測れば、緯度はすぐにわかります。
これで、アレキサンダー大王の東方遠征と出雲の関係がはっきり
しましたね。

258 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 23:08:22
どうしてアレキサンダーが出雲に兵を派遣するのかがわからない。
どうして同じ緯度のところに行かなくてはならないのかも分からない。

259 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 23:19:43
スミルナと似た名前を探した方が良かったんじゃ

260 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 23:38:33
アケメネス=アマテラス
天皇の先祖は、アレキサンダー大王の遠征で故国を追われたペルシャの民


261 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 00:30:46
>>250
「伊勢」「志摩」「二見ヶ浦(二見浦)」「夫婦岩」「桜井神社(伊勢神宮)」
上記セットの一致は動かしがたい。
また、17世紀まであった小さな祠の祭神に、
ニニギか天照神に相当する神が陪神としてあったと推測する。

262 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 00:41:30
>>261

かんじんの猿田彦神社が九州に無いのでアウトです。
残念でした。


263 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 01:41:27
>>261
セットなら何でも良いわけですか。
じゃ畿内には出雲という地名や出雲の地名、大神神社もあって、
河内には幾つもに別れる、ヤマタノオロチを思わせる河があったな。
つまり出雲とは元々ヤマトの事だったのかもねw

264 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 01:52:02
ヤマタノオロチはヤマトノオロチだったのかもね。
実際大和川には竜がいたという古くからの言い伝えは、
河内方面で多いんだよ。八尾(矢をおう説という話は疑問もある)や
八上、龍華なんて地名も残ってるしな。

265 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 03:40:40
伊勢神宮は、地形的には宇佐神宮と似ている。

266 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 04:05:03
>>262
>かんじんの猿田彦神社が九州に無いのでアウトです。残念でした。

福岡県福岡市早良区藤崎1丁目1−41 猿田彦神社 御中

手紙が届くよ。郵便番号は調べてね

267 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 04:15:31

猿田彦神社
福岡県糸島郡志摩町桜井4227

268 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 18:04:25
ほうほう。それで創建年代はいつなんだね?

269 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 20:57:36
>>252-253
弥生時代の集落・水田遺跡として有名な静岡県静岡市の登呂遺跡、
さいたま市北区土呂町、栃木県岩舟町瀞(とろ)。いずれも水の緩む
流れの穏やかな河川沿いで弥生時代の稲作適地だったことがわか
ります。
トルコ第二の都市イズミルの北にトロイの木馬で有名なトロイの地があ
ります。この地も立地は同じです。

これではっきりしました。出雲も登呂もアレキサンダー大王の東方遠征
で移り住んだアイオリス人が作った村だったのです。

これでまた一つ謎が解けた!


270 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 21:15:50
いい加減 神話と史実(現実)を混同するのはどうかと思うが。
松本清張の古代史擬を読んだが、意外にも松本清張は騎馬民族説を肯定してるんだな…。

271 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 21:26:03
>>270
松本清張に限らず、売文屋は売れれば何でも書くんだよ。
司馬遼太郎の書いた本なんか信用するのはバカ。
そこのところを勘違いしている読者は多いみたいですね。
それより、いくら書いても1銭にもならないのに一生懸命書いている
町の歴史家のほうが、真実を言い当てていることが多いです。

たとえば、岩宿遺跡を発見した相沢氏、板橋の茂呂遺跡を発見した
瀧澤少年、みんな儲けることなど考えてもいません。

272 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 21:52:27
>>214九州の伊勢について書いた書。ようやく見つけました。
「神武歌謡は生きかえった 古田武彦ほか著 新泉社 」p30
主に糸島郡二丈町の海岸近くにあります。
p33の地図によると、JR福吉駅より東南東600m二丈町福井村字伊勢田。
二丈町加布里駅のあたりが神在村が(伊勢田)とあります。
加布里駅より東南5kmぐらいのところが伊勢浦村とあります。(グーグルの地図では不明)
二丈町深江あたりの海岸が伊勢であったようです。

273 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 22:37:11
>>269
トルコの東洋と西洋の架け橋イスタンプールがあります。
このイスタンプールという地名、それは「伊勢丹」+泉を表す「プール」
をつなげたもので、まさに、出雲、伊勢、丹(にゅう)、泉(プール)を合
わせた地名だと気がつくはずです。

今まで疑いの目で見てた皆さんも、もうこれでイスミルが出雲族発祥の地だ
と納得がいったと思います。

これで、またまた新たな謎が解けた!!

274 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 23:07:36
阿漕的仮説
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou69/kai06901.html
八代市
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%BB%A3%E5%B8%82

275 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 23:42:19
>>274
結局何でも九州にしたいんだね、
読んでみたがこじ付けばかりじゃんw

276 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 23:54:09
八代市からは小銅鐸が見つかっている。5.3cmの小さなものだが、
銅鐸の南限らしい。2000年ほど前のものとされる。
となりに宮原という町があるが、おもしろいことに「みやはら」と読む。
九州で「原」を「はら」と読むのはけっこう珍しい。
ここは火の国発祥の地とも言われる。

近くには100mクラスの古墳もあるが、山の頂上付近に作られているのが多い。

277 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 00:03:45
余談だが、もう一つ。八代神社というのがある。別名は妙見宮。

星宮神社のところに、「星宮神社は、延長2年(924)の正月13日に、肥後国
八代郡八代(現熊本県八代市)から分霊勧請して祀ったものと伝えられている」
とあるので、歴史は古いかも。

この妙見宮というのは、祭神は天御中主大神だが、北極星を祀るものらしい。
天の中心にあるということなのだろう。
北を表すものは中国では玄武なので、亀が重要なものとして扱われる。

278 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 00:42:41
これもすごいよね、びっくりした
http://www.youtube.com/watch?v=OOT4kyggvfw&feature=related

279 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 01:07:16
>>278
卑弥呼がもらったかもしれないけど、倭人伝の目録には書かれていない。
やっぱり帥升だろうな。

280 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 01:29:21
>>279 日本製・女性用みたいだけど?

281 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 01:35:36
>>280
確か、後漢製だったと思う。女性用の鏡というのがあるのかどうか…。

282 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 09:00:07
妙見信仰、北斗信仰というのは、大洋の道にそって西アフリカを紀元とし
古代バビロニアから伝わったものです。
インド、中国大陸を経て日本に上陸し、三輪山、伊勢とたどって、伊豆
半島から関東上陸。秦氏の末裔、平氏、上杉氏(神杉)が信仰したこと
から日本各地に広まったことは言うまでもありません。

283 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 13:13:22
>>247
淡海、西に島七個、アコウという地名が近くにあり、
南には塩の甘い所もある‥

どうみても淡路島の事ととれる訳だが。
国産み神話の最初に生まれた島で、イザナギ神社もある。
太陽の道一直線の場所だし。

284 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 13:25:29
訂正
>>247 ×
>>274

285 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 14:10:13
「淡海」は、「塩味の淡い海」の意。
古代の球磨川河口(現在の八代市高田〜金剛)は浅い海に伏流水が噴きあげ海水が薄まっていたと考えられる。
現在、陸化した八代市高田〜金剛は伏流水が自噴する。
「淡海」の枕詞「石走」は、「石の上を流れる水」の意。急流「球磨川」にこそ相応しい。
『日本書紀』巻六垂仁天皇二五年(丙申前五)三月丁亥十や『倭姫命世記』には、
伊勢國は『傍國可怜國(かたくにのうまし国) 』との表現があり、
これは「その海岸には干潟が出来て、それがだんだん陸地となるというまことに結構な国である」との意である(喜田貞吉「伊勢人考」)。
八代平野の大部分は球磨川からの堆積物による自然陸化と干潟の干拓によるものである。
八代市には「倭姫命世記」に現れる「二見」という地名が遺存し、熊本県には「御船」と地名も遺存する。



286 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 14:11:19
八代市内には大島・高島・白島・大鼠蔵・小鼠蔵・水島・加賀島の7つの島がある。


287 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 15:15:26
八代=社

288 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 15:18:41
淡海=石走ね、考古学をかじってる人なら、
瀬戸内海、特に淡路島周辺は徳島、柏原(大和川流域)等の
石の運搬船で賑わっていた事が理解出来ると思う。

289 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 15:21:29
なんでも九州にしたがる可哀想な人がいるな。



290 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 15:27:34
>>285
それじゃ淡海ではなく球磨川の枕詞が石走じゃないと変でしょw

291 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 16:22:58
>>288
石の運搬船は走らないでしょう。

292 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 16:29:13
現在でも鹿児島県伊唐島では、八代海のことを伊勢海と呼ぶ。
八代海の中まで球磨川の川筋が流れている様子が石走。

293 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 16:51:49
>>291
当然石も走りませんよw

>>292
元々淡海とは琵琶湖の事ではないのでは?
という話なんだが。


294 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 16:56:23
>>291
船を走らせるとは言いますよ。

295 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 17:05:35
琵琶湖に鯨はいない。

296 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 17:11:16
>>276
九州の方言では原は「はる」だから、
「はら」と読むなら近畿からの移植なのは明らかだな。



297 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 17:58:17
最初に神々が作った大八島に天草が含まれていないし屋久島も種子島もない。
一方で佐渡島は含まれている。
どう考えても有明海側や南九州ではない。

298 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 18:16:42
>>271
市井の研究者が頑張ってるのはわかるが
だからといってトンデモ説は信用できんが

299 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 18:28:30
仮に淡海が阿波の海ならなんの違和感もないよね。
というより自然でしょ。

300 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 18:39:54
淡路島には淡海という地名もあるしな。
おまけに近所は「岩屋」だよw

301 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 21:07:37
>>298
公務員よりマシだと思うね

302 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 22:13:03
淡海とはアワビのこと。
貝塚といえば、多くはアサリやハマグリなど、海岸で取れる貝なのだけれど、
海女が潜水して取るアワビやウニなどの海産物も交じっていた。
アワビは、縄文時代からの珍味。グルメな族長に好まれていました。

303 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 22:28:44
天御中主=北極星 だろ

304 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 22:50:35
万葉集で「石走」に掛かる言葉で「淡海」の他は何か知ってる?
「滝」と「垂水」が多いんだよ。
垂水は神戸でも淡路島の対岸にあって、滝のある土地でもあったからね。
それから考えても淡路島付近の海=淡海なのは明白でしょ。

305 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 23:36:35
淡海とは遠浅の砂浜

そんなことは説明の必要などないと思ってました。

306 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 23:50:24
>>305
勘違いです。

307 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 00:30:39
淡海とは淡水の海、近江の語源

308 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 00:37:24
邪馬台国の邪馬と卑弥呼の卑をみると気分悪くなるんだけど
なんでこんな字なの?

309 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 00:45:18
>>307
鯨が捕れない点と、石走という枕詞がおかしいという事です。

310 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 01:04:48
久米歌の「宇陀の高城に鴫罠張る 我が待つや鴫は障らず いすくはし鯨障る・・・・・」
宇陀は内陸だから鯨とは海の鯨とは違う、鷹(古語:くち)のこと

311 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 01:09:02
>>308
邪馬台国をウェブ翻訳すると、よこしまな馬台国と出てきた。
邪には良い意味がないらしい。
卑弥呼の「卑」もあんまり良い字じゃない。

やはり蛮国扱いということなのかな。
でも、金印紫綬というのは良い物らしいんだが。
高句麗は銅の印しかもらっていないというし。

312 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 01:20:00
音だけとったものだろ

313 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 01:56:25
>>310
その鯨は山鯨、つまりイノシシ。
思いがけない大物が掛かったという事でしょう。

314 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 06:51:20
>>311
邪の意味が翻訳しないとわからないのかよ。
小学2年生か。

315 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 07:57:41
>>311
音をとっただけ。良い字を当てると、実際にその国がその文字を使っていると
誤解されるかも知れない。わざと卑字を使って、音標文字だということを示し
ている。と、いう説があったな。

316 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 08:30:48
和銅の好字例で邪馬台国からめでたい「山田国」に変わったのです。

317 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 09:23:38
邪馬台国ではなくヤマイチ国ですよ。

318 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 11:12:31
ヤマイ国

淡海=汽水湖

淡路=阿波路

319 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 14:23:32
邪の意味がわからない奴って学校じゃハングルしか習ってないのかな。

320 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 14:31:52
大体記紀編纂時点で間違えてる説があるからな、「淡海」と「淡路」

イザナギを「多賀」の地に幽宮(かくれみや)をかまえて祭ったとされてるが、
古事記が淡海の多賀に対して日本書紀が淡道の多賀。
この場合古事記が間違えているのでは?とされているから
当時の混乱が今にも至っている訳だ。

321 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 15:02:52
>>314 >>319
「邪」の意味を調べるために、「邪馬台国」を翻訳してみようとは、普通、
思わないだろう。
そういうことに難癖つけるほうが程度が知れるというもの。

>>315
音から取ったのは間違いないだろうが、それにしてもあまり良い文字が
使われていない。
「邪」は、邪悪などを連想させるし、「奴」は奴隷の意味がある。
狗奴国などの「狗」は犬だし。卑弥呼の「卑」は卑しいとなる。

誰がこんな字を当てたのやら。
陳寿ではないだろうから郡使なのかな。

322 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 15:27:29
陳寿というか、中華思想のため、当時の中国人なら自分たちから漢字で名のり出ない限り
こんな風につけただろう。鮮卑、匈奴とか。?なんか特にひどい。

323 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 15:30:37
あら、漢字出なかった。?→さんずいの「ワイ」のこと。

324 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 15:52:49
>>320

バカか?
「淡海」と「淡路」は違うが、
「淡海」と「淡道」は同じ意味だ。




325 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 16:00:49
淡い海とは波の穏やかな海路のこと。瀬戸内海全域を指す。
一方、陸の道の方は、菟路(うじ)と呼ばれていて、京都の宇治や
伊勢の宇治山田などにその名が残っている。

326 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 16:03:17
>>311
>やはり蛮国扱いということなのかな。
>でも、金印紫綬というのは良い物らしいんだが。

蛮国扱いに決まってるだろ。
蛮国なんだけど、中華が直接支配するのは手間だから、
中華に臣下の誓いを立てて朝貢する代表者に、その証として金印を贈ったわけ。

つまり、卑弥呼は中華の臣下なんだよ。
それを忘れてもらっちゃ困る。
もちろん、中華の臣下になったのは九州の蛮族であって、
畿内の大和王権は独立を保ってたけどな。





327 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 16:55:15
>>326
宋に朝貢したとされる倭の五王の場合はどうなる?
これも九州の王朝かな?
一般的に、讃・珍・済・興・武は、仁徳天皇あるいは応神天皇を含み、
それ以降とされるが。
これは大和の蛮族か?

328 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 17:02:08
古代の場合、日本の国が大陸に朝貢するのはなんか理由がある。
たとえば、倭の五王の場合は明らかに朝鮮半島の権益が絡んでいる。

とすると、卑弥呼がどうしてあの時期、魏に朝貢したのか。
理由は二つ考えられる。

一つは、公孫氏が滅ぼされ、身の危険を感じたということ。
司馬懿は、相当に残酷な殺戮を行ったようだし。

もう一つは、やはり狗奴国の脅威だろう。

どちらの方が重要だったのだろうか。

329 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 17:16:56
>>328

>公孫氏が滅ぼされ、身の危険を感じたということ
>狗奴国の脅威

意味がわからん。
どっちも関係ないだろ。


330 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 17:17:49
>>328
トンデモ本の受け売りだったら書名を教えてくれ。
そのほうが話が早いから。


331 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 18:32:46
>>324
だから古事記が淡海で、日本書紀が淡路になってる事を
言ってるわけだが。

332 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 21:48:55
淡路とは淡路島のことと考えるのは誤解ではないでしょうか?
阿波への道、つまり、瀬戸内海の」海路そのものが淡路とみる
ほうが合理的。何度言ったら理解してもらえるのでしょうね?
頭悪すぎ。

333 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 22:04:28
>101 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/07/04(土) 12:44:14
>淡路島の垣内遺跡も120〜220年頃までの稼働だとされてるな。
>まさしく倭国大乱の時期に重なってるし。

>3世紀以降に東征があったなら、畿内勢力がここの
>鉄器製造を止めるなんてとても考えられないでしょ。

これは普通に考えれば分かると思うが、
畿内勢力が北九州を勢力下に置いた訳だから、
鉄の供給ルートが絶たれれば当然生産力も衰える。
その中で、朝鮮半島から直接鉄を運べた出雲で、
鉄器文化(神武系王朝)が生き残ったと考えればつじつまが合う。

334 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 22:41:02
>>332
いや、あんたも勘違いしてるよw
誰も淡路=淡路島なんて誰も言ってないのだが。
俺は瀬戸内でも淡路島近海の海と解釈してるだけだけどね。

335 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 23:16:59
淡海っていうのは古代にあったとされる大和湖と河内湖の事ですキリッ
淡路っていうのはその湖の船の道の事ね。

336 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 23:29:02
河内湖は兎も角大和湖なんてのは相当古いですよw

337 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 23:29:13
>>329
なんだかどんどんレベルが低くなっている。

まあ、一応レスしておくと、帯方郡は、もともと公孫氏が支配していた。
景初二年にその公孫氏は、司馬懿に滅ぼされる。
15歳以上の男子を皆殺しにして、首を晒すという残酷なものだった。

その翌年に、卑弥呼は帯方郡に使者を送る。当時の情報伝達速度からすると、
かなり迅速な対応で、そこに意図を感じるのが普通だろう。

卑弥呼は公孫氏と通じていたという説もある。
魏を脅威と感じたというのはそこから来る。

狗奴国を脅威と感じていたというのは、卑弥呼が魏の軍旗である黄幢を
欲しがっていたフシがあるから。さらに、正始八年には、また卑弥呼は
使者を送り、狗奴国との争いの説明をしている。援軍を要請したらしい。
帯方郡の太守・王頎は、都に出向いて伺いを立てている。

しかし、援軍は来ることはなかった。代わりに調停役としてやってきたのが
張政だった。これは当時の魏の政情も関係あったのだろう。
明帝の死後、幼帝に代わって実権を握っていた曹爽は危うい状態にあった。
倭国にとって寛容な曹爽はほどなく失脚し、司馬懿が政権を握る。
曹爽一族は、やがて処刑されるわけだが。

338 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 23:30:57
こんなの見つけたhttp://www.catv296.ne.jp/~sensyo/yamataikoku-yasumotosetu.htm

339 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 23:35:01
>>336
それほど古くは無い。

340 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 23:52:02
邪馬台国の文字は吏読字だという説があるな
倭の事を韓半島の人が通訳として間に入って魏の使節に説明した
あるいは吏読字で表記して上申した

邪馬台国を吏読字でよむと、サマリハンとなり
シャーマン国という意味だそうだ

341 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 23:54:22
>>337
しかし、半島に於ける治安維持に倭国の軍事力を頼りにしていたとも考えられるよな
それなのに、狗奴国との紛争解決の依頼をするのかな?
なんか変なんだよ

342 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 00:10:31
>>338
今更論外ですw

>>339
少なくとも鍵・唐古遺跡の場所は湖ではない。
この時代は安藤村周辺が湿地帯だった程度。

343 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 00:14:15
>>338
北九州、それも甘木・朝倉を中心とする地方の地名を、その位置・方位をそっくりそのまま大和(奈良)地方へ
持っていくと、驚くほどその対比が合致する。ちなみに同じ地名を列記すると、三輪を開始地点として時計回りに、三輪、三井、池田、平群、住吉、三笠山、
春日、笠置、田原、山田(上山田)、鳥屋(見)山、玖珠(国巣)、天ヶ瀬、高取山、香山(香久山)、
三瀬(水間)、久留米(久米)、朝倉、加美(賀美)、長谷山、高田、雲堤、小田、三輪、となる

344 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 00:16:22
結論からいえば、これは北九州の邪馬台国勢力が東に移って大和朝廷をたてたさいに、
もとの九州の地名を畿内に持っていったんだとわたくしは思います。
イギリスの人たちがアメリカに渡り、たとえば「ニューヨーク」とか「ニューハンプシャー」とかイギリスの地名をたくさん持っていった。
それと同じような事情があっただろうと考えます。畿内の奈良県もこの甘木、朝倉のあたりも、地形が非常に似ていて、大きな川の上流であり、ある程度盆地的になっている。
こういうことから、私は甘木、朝倉あたりが邪馬台国の中心地であったと考えます。


345 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 00:17:31
>>341
卑弥呼の使者は、「説相攻撃状」つまり狗奴国と戦争状態にあることを説明し
それに応じて、塞曹掾史の張政がやってきている。
これは、戦争の調停にやって来たとしか思えないなあ。

346 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 00:20:24
>>342
そう言うとらえ方は間違ってるな。
鍵・唐古遺跡の場所は水没し湖になった。
標高40数mまで湖があったという風に考えるのが正しい。

347 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 00:22:20
畿内の地名は出雲や吉備のものが多いけどなw

348 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 00:26:02
>>344
東遷説という点では、安本説と同じなのだが、甘木説には納得がいかない。
里程・日程の解釈に無理がある。
地名が移動するかどうかもちょっと疑問。
北海道のように、移住した人が多くても、アイヌの地名が多く残っている
場合もあるし。

349 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 00:29:56
>>346
洪水跡はあっても水没してた形跡は無いよ。

350 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 00:33:22
地名の移動は偶然じゃないだろう。あまりにはっきりと合致している。しかし、あの対比した
2枚の地図に、安本氏はどうして、奈良市と太宰府市を入れないんだろうね。それを入れれば
奈良から太宰府に派遣された役人が、故郷を偲んで付けた地名とはっきりわかるのに。
邪馬台国よりかなり後代のものだと思うよ。

351 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 00:33:58
>>348
位置があまりにも極似している点はどう思いますか?
勉強を始めてまもない初学者なのでご容赦

352 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 00:36:05
北部九州からの東遷は、現在の遺跡発掘状況では難しいな。
出雲・丹波・吉備との関係や垣内遺跡が見つかった状況では。

353 :九州王朝大好き:2009/07/13(月) 00:38:18
>>338-351
この地名の移動は3世紀のことではない。
これは、7世紀後半、天武期680年代のできごと。
681年から始まる。


354 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 00:39:06
>>351
図にして線を引けばそう見えるだけで
特に位置も似てる訳じゃないですよ。
似たような地名はそれこそ全国にありますから。

355 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 00:43:02
>>353
正解です。奈良から九州にね。
博多もその頃移植されたんですよ。

356 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 00:44:12
>>353−354
ありがとう。もっと勉強してみる

357 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 00:53:09
>>356
以前、この説を見たときに、書かれている地名を探したことがあるけど、
かなり細かい地図でないと探し出せなかったと思う。
まあ、似ていることは確かだが。

あとは、甘木市にある平塚川添遺跡がどんなものなのか、かな。

358 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 00:55:46
>>357
平塚川添遺跡はオープンのころから行きました
吉野ヶ里と比べると大したことないですが

359 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 00:58:45
>>349
あんたねえ・・・洪水で水没しない事なんてあるかよ。
今でも洪水は水没だよ。

360 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 01:01:36
甘木・朝倉というと、奥に日田市があるのがちょっと気にはなる。

361 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 01:02:58
>>358
なんか面白いものが出るとかなり有力かもね。

362 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 01:09:08
>>359
大雨で水没した場所を後々「湖」とは言わないですよ。
洪水で水が排出されなかったら、
水没して湖になるという事ですから。

鍵・唐古遺跡はそういった状態ではないでしょ?

363 :九州王朝大好き:2009/07/13(月) 01:09:53
「淡路」の始まり

摂津西部(現神戸市)から見て、淡路は阿波への通路。
阿波の勢力は一時期摂津西部(現神戸市)にまで勢力を伸ばしていた。
淡路は畿内銅鐸勢力から見て阿波への通路であった。

神武は淡路島の東岸を北上する大阪湾沿いに右回りの大阪湾岸流(定常流)の海流に乗って、
南方を通り河内湖(汽水湖)に進入したのである。

書記は古地名「淡路」を誤解したものと思われる。

364 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 01:11:23
>洪水跡はあっても水没してた形跡は無いよ。
水没してたんだろ!

365 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 01:17:17
いいか、洪水があったと言う事は水没していたという事だよ。
だから先ずお前の言った事は間違っている。
しかも、弥生時代中期にも、水位40数m〜50m付近までのれっきとした大和湖があったんだよ。
大和湖はあった、これで間違いない。

366 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 01:25:16
>>365
だから普段湖なら洪水とは言わないでしょw
普段水が無い(少ない)所が溢れて洪水になるんだよ。

大和湖はあっても縄文〜弥生初期までですよ。
後は湿地帯程度ですから。

367 :九州王朝大好き:2009/07/13(月) 01:29:30

奈良湖は崇神期初期に完全に陸化して消えている。
奈良湖の最深部の広瀬神社が湖底から陸化した。

崇神初期が何世紀であったかは、あなた方の判断に任せる。

368 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 01:33:16
奈良盆地は湖のあとの湿地だった、だから照葉樹林に覆われてなく農地化が容易だった
弥生文化とは、縄文海進のあとに現れた平野に弥生式農業が入って来たものだよ
河川ないし湖があり、そこへ流れ込む支流がある
河川と山裾のあいだを開墾して、その支流の流れを田んぼに引き入れ、余分な水は河川に捨てる
河川ないし湖そのものの水はりようしない、と言うか出来ない、レベル的にそれより上に田んぼを作るから


369 :九州王朝大好き:2009/07/13(月) 02:00:41
広瀬神社
奈良県北葛城郡河合町川合99  (大和湖の最深部にあたる場所)

創建は、崇神天皇九年(前89年)。廣瀬の里長に御信託があり、一夜で沼地が陸地に変化し、
橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、この地に社殿を建てお祀りされるようになりました。

【創 建】
崇神天皇九年(前89年)、廣瀬の河合の里長に御信託があり、一夜で沼地が陸地に変化し、橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、この地に社殿を建て祀られるようになる。
〜当社縁起より

370 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 07:16:49
盆地から河内にでるところの川床がなにかで大きく削られふかくなり、結果
盆地の水が排泄されたということになる。亀の瀬ができ遡上できなくなったのはそのころからか・

371 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 08:10:20
本来、湖沼というものは、堆積により徐々に陸地化していくものでしょう。

372 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 09:13:13
河合という場所は文字どうりいくつもの河川が
合流する場所だからな。
ここが大和湖の最深部なのは間違いない。

普段は沼地で大雨になると溢れて
周囲が湖みたいになっていた場所。



373 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 09:43:33
そういう場合が多いのですが、湖沼の出口の地質にもより、柔らかい地質ですと、
けずられて事務が排泄され、湖面の水位が低くなっていきます。
大和湖がそのよい例といわれます。

374 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 13:20:14
大雨が降る〜亀の瀬で水が詰まる
奈良盆地に水が溜まる〜王寺から田原本周囲まで被害受ける

亀の瀬が水量に耐えられず決壊〜河内が土砂災害
河内に土砂が堆積〜河内湖消滅

つまり畿内に人が住んでいたとしても、
こういう事が繰り返されたから
単純に争いで征服されたとかいう話は
成立しないでしょう。

葛城山周辺や山の辺周辺が栄えていたのは
こういった理由もあるでしょうね。

375 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 14:42:51
>>337

答えになってない。

>公孫氏が滅ぼされ、身の危険を感じたということ

どうして、卑弥呼が身の危険を感じるんだ?
半島が倭国に攻め入ってくるような状況にでもあったのか?
なんのために?

>狗奴国の脅威

狗奴国と紛争してたからとはいえ、
邪馬台国が自力で解決できないような弱小国だったとしたら
金印を贈る意味などない。


376 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 14:50:55
>>375

『晉書』四夷傳 倭人の条
「漢末、倭人亂、攻伐不定。乃立女子爲王。名曰卑彌呼、宣帝之平公孫氏也。」



377 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 15:05:07
山の辺の道は昔の湖だった岸辺に出来たという話を聞いたが?



378 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 15:24:22
それは縄文以前の話。

379 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 17:11:30
>>376

卑弥呼が身の危険を感じる理由になってないと言ってるだろ。アホか?


380 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 21:22:23
卑弥呼ほどの美貌なら、常に男たちの視線を感じ、身の危険を覚えたと思うわよ。
それは男にはわからない感覚ね?!


381 :九州王朝大好き:2009/07/13(月) 22:44:55
広瀬神社の立地とその周辺について

広瀬神社のある河合は、東から西に流れる大和川に
数本の川が南北から合流するところです。
広瀬神社の西下流3kmには、南北方向に尾根筋があり、
大和川はその尾根を横断するかたちで西に流れてていきます。
この尾根筋の大和川の北側が三室山、南側が船戸山となっています。
また大和川が尾根筋を削り込んで分断しているところの地名は船戸です。
船戸の上流側即ち尾根筋の東側の地名は大輪田である。

弥生期の大和湖は大輪田の東に南北に広がっていた。
船戸(南北の尾根筋と大和川の交点)は、大和湖の排出口であった。
それが崇神期初期には船戸の排出口では尾根筋の河底が下がり、大和湖は消失したのである。
船戸の河底が下がったことにより、大和湖のあった場所は広大な水田地帯になったのである。
これを祝ったことを述べているのが広瀬神社縁起。

河底の低下は自然現象ではなく、人為的に為されたように思われる。
河底の掘削工事は200mほどの長さで、土砂の搬出は流水に任せることができるので、
この掘削工事は比較的小規模な工事である。
この工事の担い手は河内から大和に侵入した崇神勢力では無く、
大和在地の勢力(神武9代か?)による工事成果を崇神が奪い取ったように思われる。

382 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 22:50:06
なんで、崇神が河内から大和なんだよ

383 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 23:08:58
まあ箸墓建設の逸話では、石を大坂(二上山系の芝山)から
船運ではなく、人がはしごリレーしたという事だからな。

その頃には盆地の最深部を除いて
殆ど水が引いていたのは確かでしょう。

384 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 23:21:29
>>379
公孫氏は、遼東半島から朝鮮半島北部を支配していたが、これを滅ぼしたのは
司馬懿であり、司馬懿は魏の将軍のような存在。
しかも、司馬懿は公孫氏の成人男子を皆殺しにし、その首を高く積み上げたと
される。

卑弥呼が、強力な魏の軍隊、あるいは司馬懿の残虐性を恐れたのは確かだろう。
その恐怖心が朝貢に繋がったと考えるのも一理ある。
公孫氏と関係があったとしたらなおさらだろう。

でなかったら、卑弥呼が朝貢した理由をどう説明できるだろうか。
アホでない君の高尚な意見を聞いてみたいものだな。

385 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 23:45:04
司馬懿?首狩り族の酋長だろう?
命がいくつあっても足りないし、完全に打ち負かすためには相手を皆殺しにするしかない。
そんな野蛮人と戦うのは真っ平ごめんだ。
公孫子は平和に暮らせる土地を求めて、
人徳のある王が住むという東方の倭人の国を目指した。
そして与えられた土地が関東だった。ということだろう?

386 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 23:46:41
>>383
確かに石材を手渡しリレーしたという記述が日本書紀に見えるが、
その区間が芝山から箸墓までだったとは書いてない。

常識的に考えれば大和川の水運を利用した方が
芝山〜箸墓の全区間を手渡しリレーするより能率的だ。

だが亀ノ瀬のところに舟便が使えない難所が昔からあるそうだから
石材を手渡しでリレーしたのは芝山〜亀ノ瀬地点の約2キロと考えた方がいい。
亀ノ瀬の難所を越えた地点に手渡しリレーで石材を集積し、そこからは舟で運ぶ。

芝山〜亀ノ瀬地点の約2キロに、1メートルおきに人ひとりが立つとすれば
2000人ほどの動員で済む。子どもたちも使っただろう。

387 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 00:13:02
>>385
司馬懿は魏の高官で、西暦249年にクーデターを起こし、魏の全権を握る。
孫の司馬炎は、西暦265年に魏の皇帝から禅譲を受け(実際は奪い取り)皇帝に
なり、晋を建国。西暦280年に呉を滅亡させ、統一国家を築く。

このあたり邪馬台国時代と密接に関連している。
西暦266年に、倭の女王が使者を送ったという記述があるが、この女王は
台与に間違いないだろう。
しかし、どういうわけかその後、倭国は大陸と関係を持たなかったらしい。

388 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 00:17:58
>>386
どうだろうね、船運で運ぶという通常の方法じゃ無かったから
逸話として残ったのだとも思うが。

389 :うましか:2009/07/14(火) 07:56:55
>>388

やはり、長距離の「手渡し」は非効率的ですよね。
箸墓建造譚では、非効率を敢えてやったと言うことに意味を持たせたいのでしょうね。
夜は神様に手伝わさせたりしてますし、人界・神界総出の壮大な事業だったと言いたいのでしょう。
手渡しは、それを強調するための脚色の類かと思います。

390 :九州王朝大好き:2009/07/14(火) 11:45:49
>>382
>なんで、崇神が河内から大和なんだよ

説明不足でした。
崇神集団の前代迄が河内から大和川沿いに進入。
広瀬神社は信貴山麓方面からの移設です。
崇神は崇神9年に大和湖湖底であった大水田地帯を獲得することにより、
奈良盆地全体に勢力を拡大していったように思えます。
初期の崇神集団は三郷町王子町(平群町)付近の豪族と見えます。


391 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 12:10:03
あの周辺の豪族って結構難題だよ。
それに王子ではなく王寺町な。

葛城山系(生駒〜二上〜葛城)なんて候補が沢山いる。

余談だが戦前亀の瀬が崩れた時も
大和川が塞き止められて王寺周辺が水没。
この時は軍が出動して川底を下げて掘ってる。
関西線の線路もどうしようもなくて対岸に移設してるからな。
古代の災害記録とかあれば、人の移動も想像し易いのだけどね。

392 :日本@名無史さん:2009/07/14(火) 22:52:16
葛城氏とはだれなのか?
物部氏以上に謎に満ちた存在ですね。
記紀に邪馬台国の名前がないのは、大和朝廷成立と前後して滅亡した葛城氏こそ
邪馬台国の支配者で、その女王こそ卑弥呼だっただと考えるのが妥当かと思います。


393 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 01:13:05
物部氏なんて謎じゃないよ。
河内の田舎侍じゃないか。


394 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 02:11:39
>>391
天武天皇も掘ってるよ
大君は 神にしませば 赤駒の腹這ふ田井を 都となしつ
「田井」は田圃ではない水郷のようなところ

395 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 02:32:52
>>392
葛城氏が丹波方面と繋がりが深いのは確実だから、
魏志倭人伝の行程表と対比しても(投馬=但馬)で
葛城の當麻への移動線があったと思う。


396 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 04:17:41
>>387
邪馬台国が後の大和朝廷ならば
どうして大陸と関係を持たなくなったんだろうな
天皇で言えば垂仁、景行、成務あたりか?

397 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 05:38:35
>>396
広開土王碑
碑には391年に倭が百済、新羅を破り、
高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦ったとある。
日本の歴史では4世紀は「空白の世紀」と呼ばれている。

半島と戦争状態じゃなかったかな?

398 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 06:32:46
九州のクマソ退治で忙しかったはず。



399 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 10:23:12
卑弥呼の時代から戦争はしてたのに
なんで朝貢をやめてしまったんだろ

400 :九州王朝大好き:2009/07/15(水) 10:49:34
>>394
>天武天皇も掘ってるよ
天武は684年に広瀬神社に行幸しているし。
天武が掘ったのは、広瀬神社の3km下流、大輪田、船戸のあたり。
(三室山と船戸山を結ぶ尾根筋と大和川の交点あたり)
亀の瀬ではない。
広瀬神社の境内には、今でも、かつて水郷であったな残りの湿地や沼「水足池(みずたるのいけ)」があります。
広瀬神社の上流4〜5kmまでは明治時代でも常時洪水を起していたと明治生まれの祖母に聞いたことがある。

>「田井」は田圃ではない水郷のようなところ
田井は元の水足池の跡の水郷を指していると思われる。


401 :九州王朝大好き:2009/07/15(水) 11:11:13

崇神以前の「水足池」は、戦前迄の京都の「巨鯨池」のような広大で湖のようなものであったと推測される。

402 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 12:06:29
狗奴国ってのが謎だろうな。
卑弥呼が親魏倭王の印綬をもらった後も戦争を仕掛けている。
ひょっとして、呉の後ろ盾があったのかもしれない。

画文帯も三角縁神獣鏡も呉系統の鏡だし、日本には魏よりも呉の影響の方が
残っているような気がする。
西暦280年に呉が滅んだことは日本にとって大きな出来事だったかも。

403 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 13:16:23
>>402
ない。

404 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 13:40:35
そもそも狗奴國と戦争しているなんて考えてる段階でOUT

405 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 14:35:12
>>404
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状

倭・女王卑弥呼は、狗奴国男王卑弥弓呼ともとより不和。倭は載斯、烏越等
を遣わし、郡に詣で、互いに攻撃している状況を説明した。

普通は、戦争状態にあると解釈すると思うのだが。

406 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 15:55:08
>>405

「説」と書いてあるのだから「相攻撃状」は、

“互いに議論する様子”だろう …ふつう…

407 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 16:03:03
畿内連中に倭人伝を説いても無駄なのさ

408 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 16:06:31
>>406
郡にいたって「相攻撃状」を説明したわけだが、
「わたしたち、こんな風に議論してます」
と説明したと考えるべきか、
「わたしたち、こんな風に戦ってます」
と説明したと考えるべきか。
当然、戦闘の様子を説明したと考えるべきでしょう。

409 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 19:19:35
畿内説ってのは大和朝廷の遺物を
勝手に邪馬台国のものにして
畿内説の方が有力だって言ってるだけじゃん

410 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 20:30:55
頭大丈夫?

411 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 20:49:32
邪馬台国の行程なんて隋書倭国伝にヒント書いてるよな。
邪馬台国=大和であるとも断言してあるし。

おまけに魏志倭人伝の事にも触れていてるよね?

「東夷の人は里数(距離)を知らない。ただ日を以って計っている」
なんて投馬、邪馬台国に関しての事でしょ。
つまり魏志倭人伝に関しては魏の人間が邪馬台国まで行ってない、
伝聞情報だと隋の人間は思ってた訳だ。

412 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 21:30:40
>>411
隋書は、後漢書をほとんどそのまま引用している。その中に、

「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」というのがあるので、これは編者の
感想みたいなものだろう。その当時のこと、つまり邪馬台国がどこにあった
かについて知っていたわけじゃないと思う。

邪馬台国の位置を後漢書と同じように「去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
とか、「在會稽之東」あるいは「タン耳、相近」としているのは、大和の地理
としてはかなりおかしいので。

ただ、「夷人不知里數、但計以日」は、ちょっと考えなくてはならないかも。

413 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 21:56:02
>>412
当然隋書倭国伝は魏志を下書きにして書いてると思う。

でも投馬や邪馬台国への行程に関しては、当時の感覚としても
やっぱり「なんじゃこりゃ?」と思ったのじゃないかな。

414 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 22:21:20
>>411

夷人は領土の範囲を表すのに、中華のように「地方千里」のように、里数にて表す事を知らなく
「東西五月南北三月」のように、日数にて書き表す。

区間距離の里を知らないのではなく、面積の里を数える方法を知らない。と、述べています。
これが

「夷人不知里數但計以日」
の読み方です。

415 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 22:28:49
因みに「里数」とは

千里と言う事ではなく、
「千里×千里」と 言う計算。

416 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 22:33:25
>>408

女王卑弥呼與狗奴國
と書いてあるのに、なして戦争するの?

417 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 22:42:21
>>414
区間距離の里がわからないと、面積の里も当然解らないから。


418 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 22:50:14
>>416
はあ?

419 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 22:52:08
>>417

説明になっていない。

あの文章は区間距離の測量値を述べているのではなく、面積の求め方、表し方を述べているの。

モノサシで測る事は出来ても、応用が出来ない。

420 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 22:57:57
>>408

「相攻撃」を戦争と解釈する場合には、必ず
その戦争で被った犠牲者の数を記す
犠牲者が出るからこそ戦争と意味する事が出来る。

それともバーチャ?


この場合の「攻撃」は
悪くて“口喧嘩 ”
普通は、口論議論と訳す。

421 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 22:59:18
>>419
それは単なる拡大解釈だな。

422 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 23:02:32
夷人は、里数を知らず、ただ日を以って計る。

面積とはどこにも書いてないのだが。
倭国伝に書かれているので、やはり魏志の「水行十日、二十日、陸行一月」の
ことを言っているのだろう。

423 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 23:05:00
>>420
ただの口げんかを報告するために、わざわざ帯方郡まで使いを出すかな。
また、ただの口げんかの仲裁のためにわざわざ張政がやってくるかな。

424 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 23:07:33
卑弥呼 「キーッ、あんたの呪力なんか弱いのよ、弱いんだったら!!フギー。」

425 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 23:17:15
>>422
行程に関しては倭人伝を参考にしつつも、方角は
きっちり修正してるからね。

いきなり「水行10日〜」じゃ不思議に思うだろうなw

で、行程上は筑紫の東が「秦王国」な訳だが、
これはやっぱり山口辺りの事なんじゃないかな?



426 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 23:19:44
>>421-422

>拡大解釈

こんなにストレートなのに?


>面積とは何処にも書いてない。


ストレートに書いてあるだろう。

「不知“里数”」「“計”以日」



現代人には無理かな?

427 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 23:22:52
>>425
方角は修正されてない。相変わらず、「会稽の東にある」だから。

428 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 23:22:59
>>423

それは読み手がちゃんと読んでないからだよ

誰が「ただの口喧嘩」と言ったんだい?
「ただ」かどうかは受け手次第だから

429 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 23:27:30
「不知里数」=計算を知らない。


「計以日」=だから答は東西、南北の時間で表す。

430 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 23:37:20
>>420
>「相攻撃」を戦争と解釈する場合には、必ず
>その戦争で被った犠牲者の数を記す
>犠牲者が出るからこそ戦争と意味する事が出来る。

戦争したという記録で、戦死者の数を絶対に書かなければならないって、
そんなルールだれが決めた?

431 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 23:40:51
>>429
普通に解釈しろよ、
何処に計算を知らないという意味がw

432 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 23:44:49
卑弥呼が宗教的な存在であれば、宗教を異にする魏に助けを求めたとは考えにくい
宗教とはそんなもんだ、古今東西。

433 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 23:46:02
>>420

史記 東越列傳
至建元三年,?越發兵圍東甌.東甌食盡,困,且降,乃使人告急天子.
天子問太尉田?,?對曰:
「越人相攻?,固其常,又數反覆,不足以煩中國往救也.自秦時?弗屬.」

これのどこに犠牲者の数が書かれてる?
犠牲者の数が書かれていないのなら、この攻撃は、言い争いなのか。
言い争いなのん、兵を発して包囲して、包囲された方は食糧が乏しくなって苦しむのか。
つまり、攻撃が戦争の意味であるためには犠牲者の数が必要なんて、勝手に作ったルール。
勝手にルールを作って、だからこう読まなければならないっていう理屈は、
邪馬台国論争でよく見かけるな。
至と到は違うとかなんとか。

434 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 23:51:56
>>430

「攻撃」と言う熟語の意味は、文章の内容によって
様々に変化する。
だから「攻撃」を戦争と解す時には、文中に戦争と訳す伏線が書かれる。
だから(犠牲や被害状況)

これはルールじゃなくて


「常識」


>>431

あそこまで説明してあるんだから、後は自分で努力しなよ
そのくらいは自分で出来るだろう?

435 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 23:53:33
不可解な部分が多い倭人伝だけど、なんで狗奴国の規模を書かなかったんだろ?
大規模な連合国の長に逆らう国なんだから知りたいよね、普通。

436 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 23:57:02
>>427
「古伝承では」という文があるからな。

>>434
無意味な努力はしないよ。

魏志の行程で、日数表示のみの国がある以上
この2国は倭人の伝聞情報だという説をとります。

437 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 23:59:14
>>433

おいおい、説明になってないよ

人の説明はちゃんと聞くように

438 :日本@名無史さん:2009/07/15(水) 23:59:49
日数表示のみの国って、邪馬台国のことだよね。


439 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:05:32
>>434
大体問題点はさあ、魏志と隋書を比較して、

「隋(魏)の人間が実測したのか、倭の人間の情報なのか」

という点ですよ。

440 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:05:51
>>433

>>434をよく読んでね!


>>436

倭人からの伝聞なら、普通
「倭人曰」「倭人謂」
と、書かれるだろう?

441 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:09:22
魏使にしたって、歩測だろうが何だろうが測量をやりながら移動する事までやらなかっただろう
だから倭人の言う日数で記録しただけ

442 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:11:53
>倭人からの伝聞なら、普通
「倭人曰」「倭人謂」
と、書かれるだろう?

それは根拠のない推測でしょ?
全体的にみて文に整合性があるかも疑問だけど。


443 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:11:54
>>439

倭人伝の区間距離は、漢人の役人の実測記録(漢人の歴史書)


隋書の
「東西五月南北三月」の記事は、「不知里数但計以日」と、前置きされているので
倭人の測量記録。

444 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:12:25
>>440

常識というのは、誰もがそうするというルールだね。

もともと攻撃という言葉は、直接的武力行使を意味している言葉。
だから、攻撃が武力行使の意味であることに、
犠牲者の数を記さなければならないなどという決まりは無い。
それは、君もわかるだろう。

445 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:14:09
投馬国、邪馬台国では魏側の用意した船ではなく、倭国の用意した船だったから里数であらわせなかったってのもあるな

446 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:16:59
>>443
あんな大雑把な実測記録はないw

447 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:17:04
>>444

攻撃には
武力攻撃の意味しかないのか?

「個人攻撃」は、直接的な武力攻撃だけかい?

それとも“言葉の武力”なんて技を使いますか?

448 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:18:21
多分、海上での里数は二隻の船を利用しての目測だったと思われる
その条件を満たせなかった
投馬国、邪馬台国では

そういうことだろ

449 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:22:15
>>444

だから
倭人伝内で、戦争を意味する伏線がないのよ


もう、それだけで理解できるよね

後はつべこべ言わないの。


>>442

あなたには一生かかっても推測にしか見えないよ。

450 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:22:19
10日や20日も船旅するのに
何の記録も無いなんて事あるわけないだろ。

退屈で仕方ないぞ?
記録でも付けるなりしないと
船で何するんだよ。

451 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:23:53
>>449
君は一生誤解したままだよw

452 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:25:47
>>450船酔いがひどくて、生きた心地がしなかったということも考えられる。
    海賊が出没して、身ぐるみ剥がされたとか・・いくらでも理由は考えられる。

453 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:26:33
>>451

はい
わかったわかった
誤解したまんまで十分だから


はい
今日はおしまい。

454 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:27:17
>>452
真っ先にその事を記録するでしょw

455 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:36:48
物理的な距離なんて測ってみた所で意味ないだろ
通商をするにしても軍隊を運用するにしても、実際に要した時間というデータだけでいい
近代の戦争なら兵站を輸送するトラックの燃料とか、把握する必要から距離は必須だろうが

456 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:38:21
>>454船酔いがひどくて東も南もわからなかったと報告するのか?
身ぐるみ剥がされて、記録はすべてなくしたし、記憶もあいまいだと報告するのか?
えっらいですね。ぼくちゃん。

457 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:48:21
>>449
攻撃を口論だとか、里数を面積だとかいってる君は、河童だな。
粘着されたとか、泣き言を言わないのなら反論するけど、
泣くなら、もう相手にしない。
どうする?

458 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/16(木) 00:56:44
>>457
反論したけりゃすればいいし、スルーするならすればいい。
別にどっちでもいいよ
反論されたところで中身は見えてるし、反論から得られるものなんて皆無だから

好きにすればいい。
俺も、気が向いた時にしか顔は見せないから

459 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2009/07/16(木) 01:03:49
この“ドンこい”スレは
第一回から参加させてもらっているし
何度かスレ主も経験した
愛着あるスレだから、滅多に顔は出さないけど
たまには顔を出したくなる時もある。


ではオヤスミ

460 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 01:05:31
攻撃の本義は武力行使。
文脈によって、口論の意味が派生する。
本義の意味で使う時には伏線なんて必要ないよ。
派生の口論の意味で使う時こそ、
そういう意味ですよという伏線なり文脈なりが必要になるの。

「A国がB国を攻撃した」
何の断りもなければ、武力行使の意味にとって差し支えない。
「国連総会でA国がB国を攻撃した」
とあれば、国連総会は言論の場だから、口論だという意味にしか取れなくなる。
解りましたか?

461 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 01:17:43
>>456
バカじゃねーの?
海賊がいるならそれは報告が必要だと思うけど。

どんだけ間抜けな遣いなんだよw
そりゃ距離や方角も間違うよな?





462 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 03:51:33
郡から倭国までの記録もないんだから、
ごちゃごちゃ言うな。


463 :九州王朝大好き:2009/07/16(木) 06:28:59
>>422
>倭国伝に書かれているので、やはり魏志の「水行十日、二十日、陸行一月」の
>ことを言っているのだろう。

魏志に書かれているのは「倭人」伝、
隋書に書かれているのは「俀国」伝(タイコク・大倭国)
どちらも「倭国」伝ではない。

國境東西(国境の南北方向)は、 5月行≒5000里≒350km
國境南北(国境の東西方向)は、 3月行≒3000里≒210km


>>425
>行程上は筑紫の東が「秦王国」な訳だが、
>これはやっぱり山口辺りの事なんじゃないかな?

行程上は「竹斯国」の東が「秦王国」
竹斯国は東唐津、秦王国は唐津浜玉。

464 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 07:59:24
>>460
それは余りにも無理すぎる。だから道理が存在しない。

>本義

本義だったら尚更“口論”だよ。
人は相対した時に行う行為は「挨拶」「会話」「口論」「憎悪を伴う口喧嘩」「暴力」
と、言う経過で
いきなり「暴力」は犯罪であり、争いや戦争ではない。一方的な侵略だよ

これが「道理」


一方的なという条件付きの伏線が引かれているなら、そこに記載される「攻撃」は
正に戦争であり、攻撃側守り側と理屈に叶う
しかし、ここで問題になっているのは「相攻撃」だよ。
お互い攻撃してどうするの?

465 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 08:40:43
>行程上は「竹斯国」の東が「秦王国」
竹斯国は東唐津、秦王国は唐津浜玉。

流石に竹斯国の位置に無理がある。
10以上の国を経て海岸に出るという位置ではないな。

466 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 10:34:53
上陸がどこかが問題だな。筑紫上陸ならば秦王国ほかは北九州で大分あたりへ
でたということかと思われる。
しかし、秦王国上陸ならば萩あたりへ上陸して十数国を経て瀬戸内海沿岸に至
ったとみる余地がある。

467 :九州王朝大好き:2009/07/16(木) 11:52:50
>>465
>流石に竹斯国の位置に無理がある。
>10以上の国を経て海岸に出るという位置ではないな。

竹斯國の隋使上陸地点が東唐津松浦川河口右岸。
秦王国が唐津市浜玉(玉島)、
東南方向に50kmで有明海海岸に到達。
その海岸は筑後川河口のみやき町三根。
十餘國は、魏志不彌國程度の小国が平均4km間隔に存在する。
これら十餘國の総人口は、俀國9万6千戸のうちの1万戸以下。
それに殆どの人口が佐賀平野に集中している。


468 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 12:15:45
>十餘國は、魏志不彌國程度の小国が平均4km間隔に存在する。

魏志の時代から300年経ってますよw
国の規模が退化してるけど。
それに文中の○羅=松浦の事と仮定すると
唐津に上陸は位置関係に矛盾が生じる。

筑紫とあるなら上陸するなら奴の津、現博多です。

秦=秦氏と仮定するなら本州日本海側でしょう。


469 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/16(木) 12:25:40
>>467王朝さん

「又經十餘國達於海岸」
だろう?

ここで重要なのはただ一カ所「經」
これを単純に“へる”なんて解釈していては、百年経っても何も分からない。
地理に於いての「經」って何かを考えれば直ぐわかる。
王朝さんならわかるよね?

470 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 13:28:23
同病相憐れむ。

471 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 13:29:52
まあ筑紫から色々まわってから宇佐へ出たんだろ。
その時阿蘇山もみたんじゃないの?

もしく山口辺りから中国山地に入って
吉備、播磨辺りに出たか。

472 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 15:45:29
徳山あたりにでたかもね。

473 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 16:12:25
行基図というのがある。行基が作ったとされる日本地図で、それが正しければ
7世紀か8世紀に出来たことになる。
もちろん、伊能忠敬の地図のように正確なものではないが、面白いことに
街道が描かれている。

それによると、九州の街道は、壱岐→筑前→筑後→豊後→豊前→長門という
経路を取っている。つまり、古代は、唐津→佐賀→鳥栖→日田→宇佐?
という道が主要道路だったらしい。
鳥栖は、今も昔も交通の要所ということかな。
意外にも現在の福岡市を通っていない。

>>467
九州の人口の密集地は肥後(熊本)だったと思う。
延喜式でも、肥後は九州で唯一の「大国」となっている。

474 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 18:52:27
>>473
唐津は筑前ではなく肥前の国だと思うけど?


475 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 21:07:57
唐津というからには、加羅津、つまり半島だろう?

476 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 21:51:19
カラって半島っていう意味なの?

477 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 22:16:24
加羅とは伽耶のこと。こういえば反論の余地もなかろう。

478 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 22:41:39
>>476

カラは、見える表面上の物事だよ。

479 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 23:07:49
玉子の殻か

480 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 23:09:01
>>474
そうだった。
よくみたら、壱岐→筑前→肥前→筑後となっている。
地図が不正確なので良くわからない。

ちょっとサイズが大きいけれども。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/kochizu/gazou/3-1.jpg

481 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 23:19:37
>>479

そうだよ。だから「カラ」
「空=カラ」も

カラマツのカラもそう。

482 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 23:27:25
>>480
行基図上からも、記の文献記録でみても
6〜7世紀においては奴津(博多)が玄関口ですよ。

483 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 23:45:54
カラクニに渡る港だからカラ津なのでは


484 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 23:49:47
>>483
それは有り得る。

485 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 00:00:20
迎賓館として推古朝時に整備されたのが奴の津
唐津の名前が現れるのはずっと後の時代だからなあ。

486 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 00:03:37
>>483

「カラツ」と言う言葉は

違うと行ってるよ。


その津からは、カラクニ以外に出航する船はなかったのか?と言う疑問が残っちゃうだろ?

487 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 00:06:58
>>483

「カラツ」は「カラマツ」と同じ意味だから
「カラ」なんだよ。

488 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 00:15:32
語尾に付く奴・那・羅はともに「ラ」と発音し、京・国の意味
加羅は「彼の国」という意味で、奈良は我が国

489 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 00:25:04
>>488

じゃあ

はら
おなら
くら
つら
わら
そら
あら


これらは全て京や国の意味なの?

490 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 00:28:02
>>488。呆気なく沈没したな河童の瞬殺芸w

491 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/17(金) 00:33:25
>>488

「ら」は、時間が付加された物事だよ。


>>490
名無しで気軽に投稿してるんだから
ハンネ出すな!

492 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 00:37:40
河童も罪な事するよ..



何も瞬殺しなくてもwww

493 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 00:44:11
>>489
はら、おなら、くら、つら、わら、そら、あら
これらに奴・那・羅が付くのかな?
その字がつく場合の話だよ


494 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 00:53:06
>>493

じゃあ、奈良の何処に
それらが付くの?

495 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 00:56:36
「阿修羅」は国や京かい?「多田羅」は?

496 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 01:05:46
まだまだあるよ

「雀羅」「網羅」「軽羅」「綾羅」 などなど

497 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 01:20:01
しつこいな
まず、戸数5万、7万の話が解決してなかったんじゃないかな
九州内にそんな戸数を擁する邪馬台国を想定するのは無理
奈良時代ですら、全国で75万戸ほどだという話

498 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 01:52:43
戸数なんて適当でしょ。
壱岐に三千戸もあるんだから。

499 :九州王朝大好き:2009/07/17(金) 02:08:12
>>474
>唐津は筑前ではなく肥前の国だと思うけど?

唐津は筑前筑後肥前肥後と分かれる100年以上も前の筑紫。
「唐津」は「カラ津」で、半島やシナへの窓口となる湊の意味。
カラ津に「唐」の字を当てはめたのは673年以降だと思う。遅ければ室町時代。
古賀市にも「唐人浜」があるが、これも同様と思う。
唐人浜の由来は未だ調べていないが。


500 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 03:11:36
あのな、唐が付けば良いんならそんなのいっぱいあるぞ
唐仁原、唐湊、唐浜、唐坊、唐仁町、渡唐口と鹿児島の方なんか特にたくさんだ
なにせ坊津から遣唐使船が出てたくらいだから潮の流れはばっちりだしな

501 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 09:05:12
唐津や博多の例をあげると、つまり九州の地名は
比較的新しいという証明なんじゃないの?
大和へ地名を移植したという論もあり得ないのでは?

502 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 10:55:20
女王卑弥呼の墓という説がある箸墓古墳(奈良県桜井市)と同時期とされる濃尾平野の遺跡群(愛知県)の
土器を放射性炭素(C14)年代測定で調べたところ、卑弥呼が没したといわれる西暦250年前後と重なった、
と12日、名古屋大と愛知県埋蔵文化財センターの研究グループが発表した。濃尾平野は邪馬台国と対立した
「狗奴(くな)国」の有力候補地。同センターは「『魏志倭人伝』に記された狗奴国の実態を知る手がかりになる」としている。

 同日、名古屋大であった日本文化財科学会大会で報告された。同大学グループは03年から愛知県で出土した
弥生〜古墳時代の土器80点以上をC14年代測定で調査。これまでは欧米の年輪年代を元にした国際標準の補正データを使ってきたが、
1〜3世紀の土器の年代が考古学者の見解より最大100年古くなり、測定結果が疑問視されていた。
今回、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)が作成した日本独自の補正データを用いた結果、3世紀中ごろから4世紀前半と判定された。

 同博物館による補正データは箸墓古墳周辺の土器にも応用され、同古墳の年代が卑弥呼の没年ごろと重なるとの結果が出ている。
濃尾平野には箸墓古墳と同時期に大型の前方後方墳が相次いで築造され、邪馬台国に対抗する勢力が形成されたとみられる。(今井邦彦)

http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK200907130005.html

503 :サガミハラハラ:2009/07/17(金) 11:02:03
博多の地名の由来について、
博多は魏志倭人伝の旁国の一つ、好古都国のことです。
都(タ)は古い朝鮮語で国という意味だそうです。つまり、ハカ国となります。
三国遺事に駕洛国に船できた男児が、自分は竜城国つまり、浣夏国、花カ(庁の中が夏の字)国から来た。
といったとあります。朴ヘイ植氏によると、浣や花はハと発音するというのでこれはハカ国とよむのであろう。
つまり、このハカ国が好古都国のことであり、ハカタと転訛し、博多と表記されるようになったのである。

504 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 11:24:20
>>503
好古都=博多とすると奴国の位置が矛盾するな。

それに山陰には「ハクト=白兎」
安来にも「ハクタ=伯太」があるので
そちらの方が相応しいな。



505 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 11:25:33
好古都=ヲコト

506 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 11:31:17
■邪馬台国シンポジウム9 開催のご案内

 考古資料を通じて、邪馬台国が存続した3世紀の大和と各地域の関係や前方後円墳の出現・成立過程等を考える邪馬台国シンポジウムシリーズの第9回。
今年度は、古代に伊予(愛媛県)、豊前・豊後(福岡県東部から大分県)、安芸(広島県西部)、周防・長門(山口県)とよばれた西部瀬戸内地域に焦点をあて、
各分野に精通された7名の考古学研究者によって、邪馬台国時代前後の同地域と畿内の関係等について検討します。

▼日時 第1日 7月19日(日) 13:00〜  第2日 7月20日(月・祝日) 9:30〜
▼会場 香芝市文化施設・ふたかみ文化センター・市民ホール
▼定員 300人

▼内容
第1日(7/19)
13:00〜13:10 開催挨拶・趣旨説明 石野博信・二上山博物館館長
13:10〜14:00 「周防・長門における3世紀の集落と初期古墳」 田畑直彦氏・山口大学埋蔵文化財資料館
14:00〜14:50 「3世紀の豊後の集落と初期古墳」 田中祐介氏・大分県教育庁
15:00〜16:00 「3世紀の伊予と西部瀬戸内の土器交流」 梅木謙一氏・松山市考古館
16:00〜16:50 「畿内の西部瀬戸内系要素」 橋本輝彦氏・桜井市教育委員会
第2日(7/20)
09:30〜09:40 開催挨拶・趣旨説明 石野博信・二上山博物館館長
09:40〜10:30 「邪馬台国時代の前期古墳と西部瀬戸内の海人族」 苅谷俊介氏・俳優、日本考古学協会会員
10:30〜11:20 「3世紀の安芸の集落と初期古墳」 古瀬清秀氏・広島大学大学院
11:20〜12:00 「瀬戸内の早期古墳と近畿」 石野博信・二上山博物館館長
12:00〜13:00 休憩
13:00〜16:00 シンポジウム「邪馬台国時代の西部瀬戸内と近畿」
テーマ1「土器の流通」 2「住居と集落」 3「鉄と青銅器の生産と流通」  4「初期古墳─墳形と埋葬施設─」 5「初期古墳─副葬品(鏡他)─」
司会・進行:石野博信 パネリスト:梅木謙一氏、苅谷俊介氏、田中祐介氏、田畑直彦氏、橋本輝彦氏、古瀬清秀氏

▼その他
・事前の申込みは不要です
・入場には、当日発行の二上山博物館観覧券が必要です(観覧券は2日間有効です)
・資料集は1冊1,500円程度で販売します
http://kashiba-city.net/hakubutsukan_cgi/nicky.cgi?DT=20090614A#20090614A

507 :九州王朝大好き:2009/07/17(金) 11:37:06
>>501
>九州の地名は比較的新しいという証明なんじゃないの?

九州の地名は698年以降に畿内朝廷によって書き換えられています。
九州の地名論はその証明になることが多いですね。「大宰府」→「太宰府」
地名の音の書き換えもあります。「ちくし」→「つくし」

>大和へ地名を移植したという論もあり得ないのでは?
筑紫平野北野地域から大和への地名移植は、681年から690年までの一時期のものです。最長695年まで。

508 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 12:14:11

>筑紫平野北野地域から大和への地名移植は、
681年から690年までの一時期のものです。最長695年まで。

博多の例を見る限りむしろ逆でしょ。
大和から北部九州へと移植されたんだよ。
で、大和はむしろ出雲や吉備方面が
由来の地名の方が多いですから。

509 :サガミハラハラ:2009/07/17(金) 13:00:53
好古都国は現博多駅付近です。その西は潟になっていました。
行路上の奴国は佐賀県肥前山口です。
かつての博多潟の西から西南にかけては伊邪国でした。現在の弥栄原(イヤナガバル)井尻、井手、板付などの地名が残っています。
旁国は九州の地に存在します。本州四国北海道にはないです。

510 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 13:15:08
>>509
で、好古都国=博多のソースは?
奴の津は何処にいった?

511 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 16:37:23
>>507

古代は「つくし」じゃないの?
ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~tsukushi/cd/tsukusi/tukusi.htm

>「ちくし」はその昔「つくし」といわれていました


512 :サガミハラハラ:2009/07/17(金) 16:37:42
奴はトまたはドと発音します。奴をナと発音するとしたのは、千五の邪馬台国研究において、奴国の比定地の福岡市中央部にト音の地名がないことから、
奴国は那の津なのであるから、奴はナと発音するのではとして、奴=ナ説がでてきたわけです。
その前に奴はヌとも発音し、那の津の那はヌが転訛したとの説もあったが、ヌは呉音であること(他はすべて漢音読み)とヌがナに転訛することはないことから、
ヌが転訛説は否定された。しかし、奴国が那の津に間違いないとの考えから、ならば奴はもともとナと発音していたのだと強考し、今にいたっているわけです。

好古都国=博多のソースですが、後藤幸彦のオリジナルです。
書籍としては「神功皇后は実在した 明窓出版 後藤幸彦」の付録「メジャーで辿る邪馬台国」にのっております。

513 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 17:06:58
「神功皇后は実在した」っていう所が、いかにも怪しげな本ですね。

514 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 17:14:24
同一時期に伊「都」と好古「都」を至近距離に比定する時点で論外でしょ。


515 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 17:16:46
>>513
後藤氏の本は読んだことないが、
神功皇后の実在を否定する根拠って何?

516 :サガミハラハラ:2009/07/17(金) 18:11:49
真の伊都国は西唐津から東南に松浦川に沿って30数km行った多久市中小路です。
ですから、伊都国と好古都国は至近距離ではありません。
いままで邪馬台国がどうにもとけなかったのは、最初の一歩が間違っていたからなのです。
しかもあらためて振り返り、定説等を調べなおすことなく、旧態依然の論議を繰り返していたからです。
しかもその論理に著名な学者の支持があることから、それらによりかかって、新しく考えなおすということを怠っていたからです。

517 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 18:17:48
>>515
逆に神功皇后の実在の根拠を知りたい。

「応神天皇の母親」としての存在を肯定しても良いかも知れないけど、
神功記のような女傑が存在したのか?と問われれば否定的に
ならざるを得ないな。

神功記には七支刀の記事なんかの4世紀後半の国際関係の参考になる部分
もあるけれど、肝心の三韓征伐は神様が出てきたり、高句麗を降伏させたりと
記事に潤色が過ぎると思う。

518 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 18:39:27
>>517
わらわのことを非実在とは不敬な。おしおきをいたす。鞭200回ペンペンじゃ。さあ、お尻を
お出し。

519 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 18:40:45
神功皇后は多分に脚色はあるが、実在のモデルがいての事だとは思う。


520 :サガミハラハラ:2009/07/17(金) 18:56:18
一応「神功皇后は実在する」は神功皇后の実在性を記紀の記述などを現代科学の目をとおしてみなおしたものです。
結果、確かに潤色や誇張された面や創作もみられるが、多くの業績は事実であると結論づけたものです。
例:海水とともに新羅の国に乗り上げた=チャンキー岬(韓国迎日湾の東岸)沖を震源とする巨大津波である。
  多くの魚が集まり船を運んだ。小さな魚はイルカ等におわれると、流木やジンベイ鮫など巨大なもののそばによりあつまる習性を持つ。
  つまりイルカ等に追われた魚が船にぴたりとより添い、それが船を運んだように思えた。
  妊娠時に石をはさんだとは深江地方の安産祈願のことであり、産月のオーバーは記紀の編者の計算違いである。
  新羅の降伏は、津波が内陸の盆地まではいりこんだことを皇后の力によると勘違いし狼狽した結果である。
  王の権限は絶対であるから、他の者がしばらくお待ちをと言っても、すっかり狼狽した王は聞き入れずに降伏してしまった。
  あとで気づいたようであるが、あとの祭であり、約束通り倭に服属することになったが、あとあとまで尾をひき、倭国と新羅は対立するようになった。
  神がかりや神の名は出てくるが、神本人がでてきてどうのこうのという場面はありませんよ。

521 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 19:11:42
>つまりイルカ等に追われた魚が船にぴたりとより添い、それが船を運んだように思えた

馬鹿じゃねえの?お前。

522 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 20:37:18
>>517
記事に潤色があることと、全く実在しない人物の伝記を創作することとは、天地の懸隔がある。
神功皇后は実在しないということは、まるで現代の小説家が架空の物語を考えだすように、
古代の人が架空の人物の物語を創作したことになるよ。そっちの方が、よっぽどリアリティに欠けるわ。

戦後、マルクス主義が流行った時代、文献に書かれたことを何でも疑って否定する風潮があったらしいが、
その影響が今でも残ってるのかな。

523 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 21:05:18
三韓征伐自体はあっただろう
朝鮮側の資料にもたびたび日本から
攻められてるという記述はあるのだから

524 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 21:07:49
御諸別、荒田別の[別」についてなのですが、これを「ワケ」と読んでいたというのは
いつごろの話なのでしょうか?もしかして、「ベツ」と発音していたのではないでしょうか?
つまり「別」とは、「辺津」の意。

それに気がつけば、アイヌ地名とされている「登別」は、アイヌ語で、水の色の濃い川、
御諸別とは、高い丘(の縁)を流れる川という意味だったことに気がつくと思います。
つまり、三輪の神は、アイヌ系の縄文人だったことがわかってきました。

これでまた一つ、古代史の謎が解けた!

525 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 21:08:55
少しでも誇張などがあると
全部嘘だ、存在しなかったと決め付けてしまうのは
学問としてどうかと思う

526 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 21:17:39
マルクスとか持ち出すあたり思い込みの激しい人みたいだな。

527 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 21:27:55
>>526
大学時代に教官から聞いた話の受け売りだから、
思い込みというのとは、ちょっと違うと思うけど。
自分が実際に見聞したことではないから、
絶対に思い込みではないとも断言しずらいが。

528 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 21:31:32
狼なんて来ていないのに「狼が来たぞーー」と叫び続けた少年は、
本当に狼が来た時に「狼か来たぞー」と叫んでも、だれも相手にしてくれなくなる。
特に、コテハンの人は、日ごろの発言に気をつけた方がいいですよ。


529 :サガミハラハラ:2009/07/17(金) 21:33:16
>>521邪馬台国の会の講演会の会場で漁師さんがそういっていました。


530 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 21:35:22
邪馬台国の会ってまだあったのか。

531 :サガミハラハラ:2009/07/17(金) 21:47:24
大学の教官の話間違いありませんよ。
当時の歴史の論文には経済関係の資料をつけなければならないということまであったようです。
つけてないとみとめられないんだって。
当時の左系の大学関係者はみんな定年退職でいなくなったかと思っていましたが、そのお弟子さんあたりがまだ残っているようですね。

532 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 21:51:30
>>529馬鹿な漁師が増えたものだ。
    だから漁業は衰退したんだろうな。納得。

533 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 21:58:58
>>524すごい説ですね、びっくりしました。
    ヤマトタケルの関東遠征で、多くの蝦夷は降伏したけれど、
    大和に支配されても、独自の文化は持ち続けたということですね。
    関東地名にも、アイヌ語地名が多いことに気がつくと思います。

534 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 22:00:20
いや、ヨットで太平洋を渡った堀江謙一さんの本にも、気候帯が変わるまで同じ魚群が船
に着いてきたと書いてたな。たしか、シイラとカワハギだったか。しかし、それと書紀の記述
は別の話。神功皇后の軍勢の勢いを示す誇張表現だろう。そんなものを取り上げて得々と
本に書いても、識者には笑われるだけ。

535 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 22:10:20
三角波でも破壊されることのない現代のプラスチックヨットと、
古代のカヌー=枯野を比較しても意味がない
枯野乗りは、現代でいえば、野口さんや若田さんのような
エリートパイロットだったのだ。

536 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 22:51:19
日本書紀なんかによると、神功皇后の在位期間?は、西暦201年〜269年。
卑弥呼の時代をだいたいカバーし、西暦266年・倭女王の晋への遣使まで
含んでいる。

中国の歴史書に合わせて、倭女王を創らなくてはならなかったということも
ありうるだろうなあ。
しかし、実際問題として神功皇后の時代は卑弥呼の時代とは重ならないのが
面白い。

537 :サガミハラハラ:2009/07/17(金) 23:54:15
>>532あなたは、実際にしらべもせず、それでいながら他人の見識をうけいれないのですね。


538 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 01:05:12
見識っていうほどのもんかな?

539 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 05:52:30
自分が左派の人間はそれが当然と思ってるから
マルクスとか言われたら腹が立って
思い込みが激しいとかなんとか言わずにはおれんのだろう

540 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 07:47:12
>>525
言いたいことは分からないではないが、そのように考えると、結局、不自然なところ
は潤色として、物語は全てそれらしき史実があったとみなすことにつながる。
そこが問題だね。

541 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 09:13:46
そこを研究していくのが学問なんじゃないの?
ろくに証拠も出さずに創作ということにしてしまうのはどうかと思います。

542 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 09:32:50
もう悪魔の証明の領域。

543 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 10:22:25
>>541
もちろん、根拠もなく創作というわけにはいかない。創作ならば、何のために
創作したのか、それを考えてみるんだな。

544 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 10:40:02
小説家じゃないんだから考えるだけではだめだろう
納得できる説明ができないと

545 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 10:59:34
納得出来る説明を求める奴に限って、納得出来る説明が出来ない奴と言うのも



世の実情。

546 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 11:04:16
>>544
当然の話。考えただけでそれが根拠になるなんて誰も言っていない。
「邪馬台国の暗号」(安田哲也著)を読んでみるといいよ。記紀の物語が
一貫した筋書きで記載されていることが分かる。逆に言えば、物語が創作
だってことが理解できる。

547 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 11:06:49
小説まがいの空説を述べる奴には
妄想だと指摘するのではなく、妄想ではない史実はこうなるのだとするものを述べ
てやればいいと思う。
それをただ単に、妄説だと息巻いていたんじゃ
何も進展しない。
妄説と指摘する前に、ここはこうなのだとする史実を提示してやれよ。

548 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 11:18:23
そもそも>>520で言う「神功皇后の実在性」と言うのは神功皇后に関する逸話の
” 元ネタ ”がなんだったかを言及した物であって直接的に実在性に結びつかないだろう?w

「元ネタ」があっちこっちにあって、それらを合成して出来上がった人物となれば
それは創作上の人物と言う事であってwww

元ネタがある=実在した ・・・と言うことにはならないだろうがJK! w


549 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 11:29:22
なんか邪馬台国とはどんどん離れてるな。
それとも神功皇后=卑弥呼なの?

550 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 11:34:01
まあサガミハラハラの自著の宣伝だなw

551 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 16:24:08
史記・漢書などには、どこそこに龍が現れたとか、神爵が集まったとか、
御祭をしたら不思議な光が現れたとか、荒唐無稽な話が結構ある。
春秋という経典は、孔子が霊獣である麒麟を得た所で終わる。
(首の長いキリンではなくて、キリンビールのマークになってる麒麟の方ね)
それでも、登場人物は架空だなどとは言われない。

21世紀の現代でさえ、オーラの泉という番組は、神様がこう言ってるなんて放送している。
もちろん、江原某は架空の人物ではない。発言内容の信憑性は別にしてね。

神功皇后のエピソードが荒唐無稽だとか、神様が出てくるとか、
そんなことで実在性を疑うのは根拠薄弱だと僕は思うよ。

552 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 16:45:32
当たり前だけど、神功皇后は皇后。皇位には付いていない。
天皇不在の状態で69年も過ごすというのはちょっと不可解。
どうしてそんなことになってしまったのかな。

553 :縄文人:2009/07/18(土) 18:26:55
498 戸数なんて適当でしょ。壱岐に三千戸もあるんだから。
地理を知らないとこんなテキトウなことを言う。現場に出かけろとは言わないが、
航空写真でも見てみたらよい。壱岐は対馬と異なって平地も多く、半農半漁でかなりの人口が養える。
さらに、半島―九州交易の中継基地的な立場にもあって、3千戸くらい容易に養えたと推定できる。

554 :縄文人:2009/07/18(土) 18:54:50
2〜3世紀の畿内に7万余戸を養える農業生産力はあり得たか?
邪馬台国の戸数7万余とはおよそ30万の人口と推定されるが、
これを養い得る農地は奈良盆地にも京都にも河内にもなかっただろう。

555 :サガミハラハラ:2009/07/18(土) 19:40:52
神功皇后の時代の天皇は応神天皇です。皇后は摂政であり、皇位にはついていないのですが、書紀においては特に
神功皇后紀がおかれております。そのため応神天皇は皇后の死後に即位したことになりましたが、現実は皇后の摂政元年と応神即位年は同時だったのです。

556 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 21:24:03
>>554
畿内で和泉〜河内なら十分可能だよ。
実際遺跡も多いし。

557 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 21:51:29
>>551
そのとおりだと思いますねぇ。
実在に異論がほぼない応神天皇の母なのだから
元ネタになる人物がいたのは間違いない。
神功皇后がいたと思われる時代に半島へ出兵したのも間違いない。
そこから考えると実在した方が可能性は高いと思います。

仮に捏造したとすると、仲哀天皇の死や応神天皇の異母兄弟との争いなど
一連のストーリーを全て捏造しないといけなくなる。
そこまで大掛かりだとどこかで破綻しそうなものだけどな。

558 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 22:03:14
在位年代から破綻してるけどね

559 :縄文人:2009/07/18(土) 22:04:46
*556
縄文時代には河内平野は海であった。弥生時代には海退により干潟となったが、
低地の大部分には大潮の海水が上ってきた。水田を拓くには堤防等の土木工事
が必要であった。その工事技術をもたらしたのは先進技術を身につけた九州か
らの移民達であった。池上曽根遺跡は干潟の小高い土地にある。このような小高い土地を拠点として開拓を進めたのである。3世紀にはまだ7万余の戸数の國は成立し得ないのである。


560 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/18(土) 22:07:02
>>551
夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害

ミズチ=麒麟ではありません。
まあ、似たようなもんなんですがw

561 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/18(土) 22:12:10
>>559
>縄文時代には河内平野は海であった。弥生時代には海退により干潟となったが、
>低地の大部分には大潮の海水が上ってきた。

現在と旧石器時代の水位は、約7cm違うといわれてる。
縄文時代ならば、2〜3cmぐらい?

「河内平野は海」といっても現在とそんなに変わらないのではないでしょうか?

562 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 22:19:58
魏志倭人伝の戸数なんてどこまで信用できるものなんだろうな
妄想じゃないとすれば、魏の使者が数えられるわけじゃないんだから
邪馬台国側から教えてもらった数字なのだろう

その時点で魏から認めてもらうために実際より多く言ってる可能性がある

563 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 22:25:26
>>554
その計算だと、壱岐に1万3千人近く住んでいたって事ね。
生産力は現代より低い上、長生きとは書いてあっても、
平均寿命が30歳ぐらいだっただろうと推定される時代に
多過ぎやしないか?
100人/kmに迫る人口密度だぞ。

564 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/18(土) 22:25:33
「人口調査」

魏志倭人伝の戸数?
日本書紀に記載あったね。
倭人伝の戸数=書記の人口調査 とで、結びつけていいものか
迷いますが・・・。

565 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/18(土) 22:27:36
>>563
【平均寿命が30歳】

君は、太国みたいなことを言うやっちゃな〜w
なんせ、あの人は倍暦だもんねwww ナイナイww


566 :縄文人:2009/07/18(土) 22:32:19
* 561
6千年前(縄文期)地球は温暖期の盛りであった。この頃海水面は現在より4m
も高かったとされている。当然河内平野は海である。その後気温が下降してゆ
き弥生期には現在よりも少し寒い程度となる。したがって、弥生期の海水面は
現在とほとんど変わらないと考えられる。しかし、水田を拓くには工事が必要
であった。干潟の塩分を除くにも時間を要した筈である。


567 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/18(土) 22:38:07
>6千年前(縄文期)地球は温暖期の盛りであった。この頃海水面は現在より4m
>も高かったとされている。

来てます、来てますw

4m←んなわけねないでしょww
日本列島を沈没させたいわけですか?w

トンデモも、ここまで来ると笑えてしまうw

568 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 22:43:43
>>561
いわゆる河内王朝が主張されるのはもっと時代が下っての
事(4世紀末)だからね。
この時代(3世紀中頃)、大和王朝と結びつきがあると主張される所は
纏向遺跡がある奈良県桜井市だから、奈良盆地を中心に
考えればいいんじゃないか?

569 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 22:44:44
>>566
河内湖周辺だけではなく、和泉山脈山裾の方まで住居適地と
されてるから全然楽勝ですよ。

570 :縄文人:2009/07/18(土) 22:46:32
* 563
壱岐には昭和30年に5万人の人口があった。戦後間もない時期である。半農半
漁でこれだけの人口を養った。弥生時代の食料生産力は現代と比べればはるか
に低いが、戦後間もない頃の1/4の生産力としても3千戸は養える。だが、交易
によって生計を立てていた國である。土地の生産力以上の食料を得る手段を持
っていたのである。


571 :縄文人:2009/07/18(土) 22:57:15
* 567
縄文海進を知らないのか。笑われるのはおぬしだぞ。少しは勉強せい!!


572 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 22:59:21
>>570
オポチュニストだなあ。
畿内に生産力が無いって言ってるのと矛盾してる。
まあ、原の辻遺跡で証明されるといいね。

573 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 22:59:44
>>571
その人にはいってもムダだよ。

574 :サガミハラハラ:2009/07/18(土) 23:06:16
>>548元ネタとやらを三つぐらいあげてみてください。

575 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 23:09:51
>>568
巻向遺跡の古墳群の石は二上山系の石なんだよ。
ここを採掘してたのは、河内方面の豪族だからな。
最低でも協力関係が無いと無理でしょ。

576 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 23:10:04
>>574
>>548じゃないけど
卑弥呼
息長一族の伝承
オホタラシヒメの伝承

577 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/18(土) 23:16:17
石器時代の海面の水位7cmではなく、現在と7℃違いでした。
学生の頃、この「7℃」ていうの覚えたんですが、
「7℃」ちがえば、4〜5m水位が変わるということでしょうか?
それなら納得できる。

578 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/18(土) 23:20:28
>>571>>573

ハイハイ、間違えましたよ。

【訂正】
海の水位7cm → 温度7℃

海の水位に関しては詳しくしりませんが、多少、今と違うでしょうね。

579 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 23:21:41
他スレに書いたものだが・・・

最近面白い文章を読んだ。「考古学研究」54−3に次山 淳氏が発表したもので、それに
よると、弥生時代終末から古墳時代(布留0〜布留1)にかけて、吉備形甕の分布は博多湾
沿岸から、周防灘を通り→松山平野→今治平野を経て備後東南部→吉備→播磨→摂津沿
岸から大阪湾→河内湖→大和川→大和という道筋。分布の両端にあたる「西新町遺跡」と大
和への出入り口「船橋遺跡」 そして「纏向遺跡」で突出した出土がある。一番多く出土している
のが河内小阪合遺跡で45点。

吉備形甕はボウフラなどとも呼ばれ、側面の厚さが数ミリで熱効率の高い、当時最先端の
技術と考えられるものだが、何か示唆的ではないか。

580 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 23:23:10
特に579の、大阪湾→河内湖→大和川→大和(纏向遺跡)部分に注目したい。よく搬入土
器についてのレスがあるが、海路によるならこのルートは必然。つまり、大阪湾までを纏向
を含む一つのクニ、あるいは特に関係の緊密な連合国とは考えられないだろうかということ。
大和川流域には、東郷・中田遺跡群、加美・久宝寺遺跡群など纏向遺跡と同時代を含む
ものが多く存在する。

まあ、庄内式甕は河内型・大和型に分かれる系統もあるが、形式的な違いはわずかであるし、
庄内式後半以降には、大和・河内両技法の特徴をほぼ忠実に受け継いだ庄内式甕の生産が、
播磨や北部九州などの地域でも行われるようになっている。

581 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/18(土) 23:27:19
1度につき、海の水位はどれだけ変わるんでしたっけ?

誰か、即答でお願いします。

582 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 23:27:23
日本書紀が神功皇后について倭人伝を考慮しているのは確かだろう。

「魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等。詣郡、求詣天子朝献。
太守劉夏遣使将送詣京都也」(神功皇后摂政三十九年)。

「魏志云。正始元年。遣建忠校尉梯携等、奉詔書・印綬。詣倭国也」
(神功皇后摂政四十年)

「魏志云。正始四年倭王復遣使大夫伊声者・掖耶約等八人上献」(四十三年)
とある。

神功皇后に相当する人物が実在したのか、それとも魏志に合わせて作らざるを
得なかったのか微妙なところだろうなあ。

583 :縄文人:2009/07/18(土) 23:36:39
奈良盆地の湖
大和川のJR関西本線三郷駅付近―八幡神社横―亀瀬岩―国分寺大橋付近の何
処かに地震などで土砂が堆積して流れを塞き止めれば奈良盆地は大きな湖とな
る。実際、縄文期の奈良盆地の標高50m以下の低地(唐古・鍵遺跡より少し低
い部分)は湖であった。したがって、この低地には縄文遺跡が存在しない。3
世紀になって九州から先進技術を持った移民が(恐らく)国分寺大橋付近の大
和川の掘削を行い、排水を行って水田を拓いて行ったのである。記紀好きの諸
君には初期のリーダーは神武、3世紀末か4世紀初めに事業を完成させ大和王
権の基礎を固めたのが崇神と言えば納得できるであろうか。河内は前述の如く、
また京都も奈良同様湖の排水工事をやらなければならなかった。いずれにして
も畿内に邪馬台国は存在し得ないのである。


584 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 23:41:36
>>583
これも他スレに書いたものだが・・・

橿原遺跡・・・橿原神宮外苑、縄文時代晩期中心の西日本を代表する大集落跡として知ら
れる。皇紀2600年記念事業として、外苑の整備工事に先立ち、昭和13年から約2年半、
面積約10万m2の当時としては類例のない大規模発掘調査。縄文時代後期後半の宮滝式
土器から晩期後半の凸帯文土器までほぼ継続した形で出土。中には稲の種籾が入ったもの
も。

注目点としては、、イチイガシ(檪樫)の大樹根が多数出土したこと。東北地方中心に分布す
る大洞式系土器も含まれ、後に「橿原式土器」と呼ばれるものは、この東北系土器の強い影
響下に成立したと考えられること。

585 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 23:42:30
参考
壱岐の人口
1721年19,993人
1750年23,200人
1756年23,404人
1786年23,391人
1792年24,771人
1798年24,968人
1804年25,368人
1822年26,532人
1828年27,624人
1834年27,215人
1840年27,210人
1846年27,005人
1872年33,010人
1873年32,929人

※1271年には元寇の襲撃で殆どの住民が一旦いなくなる。

586 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 23:44:47
>583
ちがう
あまり田圃が無かったから、明日香や藤原京や平城京といった城都が営まれたんだ

587 :584:2009/07/18(土) 23:45:40
さらに、戦後、鹿沼景揚氏が、これらの遺物に米ミシガン大学においてC14による年代測定を
実施したところ、前600年±200年の結果が出たとされている。また、この遺跡だけでなく神武
帝の事績が伝承される地には縄文晩期の遺跡が見られることが多い。また、藤原京祉の下層
からもあちこちで縄文後期遺跡が発掘されている。

ただ、戦前の調査に関しては国威発揚などの観点から割り引いて考える必要があるだろうし、
発掘や年代測定の技術水準の問題もある。

しかし、俺的には、神武伝説縄文晩期の物語であり、なんらかの史実が反映されている可能性
も考慮できるデータと見る。さらに、そこには九州からの東遷どころか、東北地方の強い
影響が感じられる。

588 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/18(土) 23:46:48
>>583
>この低地には縄文遺跡が存在しない。

君の頭の中では、縄文時代の前期〜後期すべてが
海の水位は現在より高かった ていうかんじだよねw

高い時もあったし、低い時もあった。
これが正解だろw

>いずれにしても畿内に邪馬台国は存在し得ないのである。

反畿内派だったのかw おっさんww

589 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 23:55:13
>>583
3世紀の畿内には北部九州の痕跡が少なすぎるのでしょ。


590 :579、580、584,587=縦目仮面:2009/07/19(日) 00:05:35
>>583
>奈良盆地の湖・・・これについては否定しませんが、他は俺にはただの推論にしか思えま
せんね。地質学データをもとに説明していただければありがたいです。まあ、邪馬台国の比
定がどこなのか、ゆっくりお聞きしたいですね。

591 :縄文人:2009/07/19(日) 00:06:58
* 588
おっさんだと〜 このやろう てめ〜 誰にむかってもの言うとるんじゃ!
6000年前ころが温暖期の最盛期で、この頃が最も海水面が高かったんだ。日本
での地質調査で3〜5m現在より高かったことが分っている。その後気温の低
下とともに海面も下がった。“縄文時代の前期〜後期すべてが 海の水位は現在
より高かった”などと誰が言ったか。ドアホ “反畿内派だったのかw”だと?
あたりめ〜だ。 だまれ こんにゃろめ!!! 


592 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 00:11:20
奈良盆地の話題に対して海水面の話をしている不自然さは指摘しないのか。

593 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/19(日) 00:11:20
wwww

うん、縄文時代には、かなりの変動があったと聞いている。
んで、反畿内派〜ていうのは分かったが、もしかして九州説?

594 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 00:15:52
>592
海水面が高ければ、相対的に内域の河川水位も上昇し、奈良盆地が湖もありえる
議論は正しい

595 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 00:20:09
天気は最悪
http://weather.yahoo.co.jp/weather/

サガミ氏は、きっと美術館行きになるなw

596 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 00:23:44
いや、河童の逆襲だろう

597 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 00:30:50
>>583
>3世紀になって九州から先進技術を持った移民が

九州から移民が来た痕跡は何もないんだけどねえ。





598 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 00:31:05
今九州説を唱えるのはネタでしか無理だって事を
身をもって証明してるなw

599 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 00:33:46
>>587
>しかし、俺的には、神武伝説縄文晩期の物語であり、なんらかの史実が反映されている可能性
も考慮できるデータと見る。

こっちの話のほうがおもしろい。

ただ、縄文時代晩期の集落を襲って奪った征服者が神武という考え方もできるけどね。
九州から神武が来たかはまた別問題だし。


600 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 05:12:56
>>599
> 縄文時代晩期の集落を襲って奪った征服者が神武
いつごろの話と推定していますか?年代は?

601 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 05:52:29
>>597
庄内式土器はその痕跡かもしれんぞ。

602 :縄文人:2009/07/19(日) 11:16:10
遺物、遺跡として残らない文化・・・実は最も大切な事柄なんだけどね〜
灌漑、利水、干拓、稲の栽培技術などは物質形として残存しにくい。戦闘の技
術(用兵、戦術)や人心収攬の技術なども同様だ。古代において支配者の力の
源泉となった最大のものは知識である。大陸や半島からもたらされる先進技術
や文物を最も早く容易に手に入れることができたのは九州である。この九州か
ら日本各地に広がったのである。ごくごく当然のことだ。


603 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 11:35:13
なるほど、先進技術を有していた半島に日本は支配されていたんですね。

604 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 12:00:23
半島には、中国で王朝が変わるたびに都を追われた亡命貴族が
逃げてきた。大陸の盲腸ですからね。
しかし、半島は人の住む土地ではないし、何波にもわたって日本列島に移り住んだ。
そのたびに新しい文化を伝え、日本を人種のるつぼ文化の保温苗代に変えていったのです。

605 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 12:05:11
先進技術がやってきても通過しただけ。
つまり半島や九州は残り汁だよ。





606 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/19(日) 12:09:43
>>602
>遺物、遺跡として残らない文化・・・

縄文人の君に何が分かるっていうんだよ。
縄文人にはその過去が分かっても、弥生から始まる
稲作や、弥生土器、古墳時代に現れる巨大な王墓の文化は知らない。

607 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 12:10:03
秦人などの大陸からの移民は、主に関東に入植して、
平将門以来、鎌倉、室町、江戸と関東を日本の中心地
に変える原動力になってたのです。

608 :縄文人:2009/07/19(日) 12:29:05
* 605、606
おぬしらアホか。地理も知らぬ。古代人の生活も知らぬ。人間を知らぬ。
まさか大型前方後円墳の築造年代を3世紀だとでも思っているんじゃなかろう
な?歴博の陰謀も見抜けぬ奴らが大きな口を叩くな!顔洗って出直せ!!


609 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 12:39:28
>>608
陰謀とか言ってるお前が出直せよwww

ところで、最近元祖「wwwww」の人、見ないね

610 :縄文人:2009/07/19(日) 13:04:46
*609
C14年代測定法と年輪年代測定法の問題点の理解も出来とらんだろうな おぬ
しは。特に、年輪年代法には致命的な欠陥がある。年輪パターンを作成するた
めの試料―伐採年次と植栽地の明確な古代の木材―の入手は不可能だ。そうい
うことでありながら、さも科学的な手法を用いたかの如き、恣意的な調査結果
を出し続けたのが歴博の一派だ。箸墓の築造を3世紀半ばに持ってこんがため
の陰謀としか言えんだろうが。ばかめ!!
遺跡にしろ土器にしろ今は考古学の編年が誤って100年前後古く設定されてお
るが、これはいずれ訂正されることになる。見てろ。おぬしらが大きな口を叩
けるのもそれ迄だ。がはは ♪♪♪♪♪♪♪


611 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/19(日) 13:08:24
>>608
いやいや、縄文人は、縄文人らしく、
「縄文時代のことだけを語ってろ」てことだよw

弥生時代、古墳時代にしても、縄文時代より後の話だからwww


612 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 13:16:43
>>610  
>考古学の編年が誤って100年前後古く設定されて

この時点で馬鹿決定だなw

>大陸や半島からもたらされる先進技術や文物を最も早く容易に手に入れることができたのは九州である。
>この九州から日本各地に広がったのである。ごくごく当然のことだ。

・・・もうこの板の九州説論者の典型的な言い回しだなw

結局半島大陸からもたらされた文物文化が本州に伝わるに関門海峡が障害になるわけでなし
九州が地域的にアドバンテージを誇った時期なんてのが一体どれくらいあるのかって話で

少なくとも弥生末期、邪馬台国の時代、九州が衰退時期に入っているというのは
既に邪馬台国論争を超えた合意事項といって良いだろうに。



613 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 13:29:17
>>612はwwwwwの人?


614 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 15:04:28
「そこまで言って委員会」

春成 VS 高島 だったが春成センセイ飛ばし杉www

三宅の爺さん九州(説)の人間が聞いたらプッツンくるような事を言っていたし
てっちゃんが九州説と言うのは意外だったw



615 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 15:42:26
三宅の爺さんは歴史を知らん。
北部九州では弥生時代の遺跡からも中国銭が出土し
早くから貨幣経済が浸透し
『続日本紀』769年の記事でも大宰府の役人が都に
「此府人物殷繁。天下之一都會也(この府は、人の行き来や交易が盛んで日本で一番繁栄している街である)」と
報告しているように北部九州では既に経済が活発で栄えていた。


616 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 15:46:03
三宅さんは渡来人だったんだな。

617 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 15:51:40

しかし相変わらず九州説は邪馬台国=吉野ヶ里を持ってくるしかないのが現状なんだな・・・

618 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 16:08:17
さて先にサガミハラ先生がふったネタ神功皇后について言っておくと

既に>>576でも言及されているが神功皇后のモデルそのベースは
但馬の出石あたりの地母神「オオタラシヒメ」であろうと言うのは良く指摘されている事だと思うが・・・

記紀の中で三輪朝(祟神〜)と河内朝(応神〜)を繋ぐ存在として
但馬の地母神が出てきているというのは色々象徴的なことではあると思うwwwww

(まあ奈良盆地の北方に展開した佐紀古墳群とかもリンクするのかな?)


619 :縄文人:2009/07/19(日) 16:14:43
* 612
おぬしは自分の頭でものを考えることの出来ぬアホだと思われる。年輪年代法
やC14年代測定法を使って土器や遺跡の編年を古い方へ古い方へと書き変えて
きた歴史を見てみろ。学者の功名心よ。新しい事を言わねば評価されぬ 従来
の編年と同じじゃ意味が無い 新しい発見こそ考古学の成果 成果が研究費を
呼び、弟子が多く集まる また新しい発見(編年繰り上げ)をする こういう
風潮で来たのだ。
おぬし 一度橿原の研究所でもいい、茨城の歴博でもいい、年輪年代法の尺で
ある年輪パターンとその元になった古木の素性について問いただしてみるがよ
い。C14年代測定を行った試料とデータ処理法について問いただしてみろ。
答えてくれない筈だ。人前には出せないものだからだ。とにかく自分で確かめ
てみろ。そのうえで大きな口を叩け。このやろ〜 ふざけるな!!


620 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 16:26:36
>>617
そんなヤツはいないよ。

621 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 16:30:06
>>600

記紀の年代を計算すれば、だいたい、1世紀頃。

622 :縄文人:2009/07/19(日) 16:32:04
たかじんのそこまで言って委員会での二人の考古学者もお粗末だった。特に春
成某は底が浅い。箸墓を卑弥呼の墓だなどとタワゴトを口走っておった。語り
口を聞けばおよそ人間が分るが、彼は学者の面汚し、典型的な堕落学者だ。


623 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 16:34:48
>>617
客観的に見れば、邪馬台国の候補地として最も有力だろう。
それなりのものが出ている。
少なくとも、な〜んにも出ない纏向よりも百倍も千倍もまし。

個人的には、吉野ケ里が邪馬台国だと思っているわけではないが、
ひょっとして郡使の見た光景が吉野ケ里だった可能性は高いと思う。

624 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 16:36:45
吉野ヶ里遺跡は邪馬台国じゃないと思う。

あそこにもし卑弥呼や台与という魏と国交を結んだ女王がいたとすると
もう少し魏からの渡来品(魏鏡など)が出そうなものだが・・・・

それに例の「水行十日陸行一月」が、吉野ヶ里だと説明しにくい。

625 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 16:38:48
>>623

>な〜んにも出ない纏向

おまえが知らないだけじゃね。



626 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 16:42:55
九州でも吉野ヶ里はさすがに邪馬台国じゃないよ。年代が合わない。

627 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 16:49:10
>>625
じゃあ、何が出た。倭人伝の邪馬台国の記述と合致するものが出たかな?

纏向の場合は、
何かが出た→限りない妄想→これは邪馬台国だから出たに違いない→
邪馬台国の有力な候補地

という思考過程だからなあ。纏向=邪馬台国から全てが始まっている。

628 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 16:50:46
>>626
年代は合っているが魏志倭人伝の記述と合わない。

629 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 16:53:03
>>626
吉野ヶ里遺跡が発表されてからもかなりの期間、ほとんど全ての考古学者が
卑弥呼の時代と重なると言っていた。
今、重ならないという人がいるとすれば、なぜ重ならなくなったかが問題だろう。
ちゃんと説明している人がいるのかな。

630 :縄文人:2009/07/19(日) 17:08:34
倭人伝には“卑千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞
を伝へ居処に出入りす。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持
して守衛す”とある。吉野ヶ里の宮室・楼観・城柵遺跡はこのような情景に似
ているが、規模がやや小さい。また、戦闘で負傷したと思われる人骨が甕棺に
納められていた。卑弥呼の城塞が戦闘に巻き込まれた記録はない。吉野ヶ里は
やや古いので、奴國が盟主であった時代の倭国の一員であろう。


631 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 17:24:56
>>624
>陸行一月

この行程が倭人伝に書いてあるために、吉野ヶ里に限らず
北部九州に邪馬台国を求めるのは難しい。
北部九州内にひと月も歩くコースは、どんなルートでも想定できない。

古田武彦さんは韓半島陸行説でそれを回避しようとしたが
ものすごくトリッキーな読み方で、賛成する人はほとんどいない。


632 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 17:25:14
>>929
現在の考古学上での認識は、吉野ヶ里は邪馬台国の時代より古いでしょ。
逆に巻向は新し過ぎと思われていたが、思いもよらず古いという事になってしまった。
そこにちょうど卑弥呼を思わせるような姫の墓があったり、
全国の土器が出土していたりと、倭人伝を裏づけるような事象が多いからな。

633 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 17:29:37
>>629
>>929 ×

634 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 17:31:12
>>629

おまえが知らないだけじゃね。



635 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 17:47:36
邪馬台国に絡ませれば、商業ベースに乗る。

単純な発想だよ
マキムクも吉野ヶ里も

636 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 18:03:10
巻向は商業ベースに乗ってないでしょ。
最寄り駅なんて未だに無人駅だよw

637 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 18:30:50
631
>>陸行一月
この行程が倭人伝に書いてあるために、吉野ヶ里に限らず
北部九州や畿内に邪馬台国を求めるのは難しい。
陸行一月あれば1,000kmくらい行く。
陸行一月が事実とすれば邪馬台国は日本じゃないな。

638 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 18:36:28
>>636
商業ベースは何も観光ばかりじゃないでしょ。

639 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 18:39:30
残念ながら映画・コミック・小説その他の出版物に至るまで
商売としては九州説のほうが畿内説より有利w

九州説のほうが話として面白おかしく膨らませやすいwww

今日の「そこまで言って委員会」でも田嶋センセイも
九州説の方がロマンがあるつってたろうがwwwwwww

640 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 18:45:32
ロマンがある、面白おかしいところが邪馬台国、ってのは学問?

641 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 18:54:06
学問の世界では畿内説で決着が着いてるって言ってたじゃん。

642 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 18:55:16
>>638
いずれサイクリングコースができて修学旅行生でにぎわうようにするため、
市や観光協会はいろいろ手を打っているわけで、まあ、決定的な証拠など
出ない方がロマンがあっていいのかもしれない。

643 :縄文人:2009/07/19(日) 18:58:08
* 637
現在のように整備された道ならば、そして1人や2人の足ならば1日に20km
も歩けるだろう。だが、行くに前人を見ぬほど草木繁茂した道を、しかも曲が
りくねって、峠を越したり、川を渡ったり、かなりの人数の行列であればどう
だ?魏使は小人数で倭国を旅したと考えられるか?伊都国から倭人が厳重に警
護しながら、魏王の土産品を大切に守りながら邪馬台国を目指したのだ。1日
10km歩いても直線距離にすればその半分にも満たぬこともあろう。1月休みな
しでも直線距離にして100〜150kmというところだろう。季節は夏、暑い盛り
だ。途中で休養したり、雷雨を避けたりしていたらそんなに遠くへはゆけない
ぞ。九州内でなんら不都合はない。こんなことも分らんとは!! おぬしら机
上の空論を弄する輩は始末におえんわい。


644 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 18:58:08
>>641
大人の世界には、色々な事情があるのよ

645 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 19:15:14
>>638
著作権料でもあるのか。


646 :縄文人:2009/07/19(日) 19:21:36
学問の世界は真理が一番大事なものだが、学者の世界はそうでもないのだ。困ったもんだ!!

647 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 19:33:21
世間一般の関心が邪馬台国やら古代史に向くような余裕のある時代ではないから、畿内
説でも九州説でも、これで食えてる人は古代史ブームの時代からは激減しただろう。むしろ
自治体レベルの村おこし、町おこしに利用されてる感じ。

648 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 19:33:43
>>643
ちゃんとアンカーつけてよ
なんで*とか使ってんの?

649 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 19:37:59
>>643
それは道じゃない。
完全に捉え方間違ってるわ。

650 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 19:38:09
今鉄腕DASHで↓のやってたけど
1位のチームが3時間半くらいだった。
ちょうど時速10kmくらい。



6月末の沖縄で開催される「サバニ帆漕レース」。
座間味島から那覇までの全長約35q、東シナ海での過酷な戦いに達也が挑む!
レースに出場する為には、琉球王国の時代から漁業や物資運搬に利用されてきた木造帆掛け舟「サバニ」が必要。

651 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 19:45:27
>>643
洋の東西を問わず歩兵の行軍が速度は普通1日30km。
いくら悪路でも日本国内の陸行一月が100〜150kmということは在り得ない。
その前に水行20日、10日もあるので日本国内は不可能。


652 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 20:20:02
まあねえ、魏使を野宿させるわけにはいかないだろうから、集落から集落までは1日で歩い
たと考えたい。参考にはあまりならないが、東海道の江戸から京都までの約500kmを江戸
の町人が普通に歩いて、12〜15日といわれてる。昔の人は健脚だね。

1月で100〜150kmというのは、それこそ机上の空論。倭人伝の行程記事は地誌でもあ
るので、何日も一カ所に逗留したというような日数ではないと思うね。

653 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 20:20:08
学問的なのが畿内説
感情的なのが九州説

いくら科学的に畿内が有利だと説いても、
感情的にヤダヤダとだだをこねてるのが九州説。
こんなぐだぐだな論争ばかりじゃ、一般人の熱も冷めるわな。


654 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 20:24:42
科学的に畿内が有利だとの説明を聞いたことなどないが、
常に感情的で非論理的なのが畿内説だろ。

655 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 20:35:17
>>654

九州説が論理的なら、すでに卑弥呼の都が九州内で決定されてておかしくないはずだが、
いまもってバラバラなのはどうして?



656 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 20:42:48
畿内説の場合は場所はほぼ確定、他諸国との関係や人物の比定、
記紀との整合性を探るという段階なのにね。


657 :サガミハラハラ:2009/07/19(日) 20:45:56
卑弥呼の都は佐賀県小城市甘木に発見されているのであるが、誰も自説に固執し、
みとめないからである。

あすからの九州旅行天気はわるいようだ。宮崎での部分日食。部分日食でも天気がわるいので真っ暗になるだろうな。
どのくらい暗いのか体験してまいります。

658 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 20:47:18
九州説はほっといて、畿内説だけで記紀との関連性を語り合いたいよ。

九州説の横槍にはウンザリだ。

659 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 20:56:12
>>658
ならゴチャゴチャ言ってねえで、別スレでも立てて語れやぁ。

660 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 21:06:19
昼間たかじんの番組みたが、邪馬台国問題には関わりたくないって言ってたやつが正解。
不毛すぎて馬鹿らしい。個々人が己の妄想を延々披露してるだけじゃん。

661 :縄文人:2009/07/19(日) 21:13:31
畿内説論者はお偉いさんの受け売りでしかものが言えないのだ。自分の頭で考える能力がない
ことがはっきりした。支配権が軍事力とそれを支える経済力から成ることも分らぬ。3世紀の
畿内にそれだけの大国が存在できぬことをまだ理解できぬ。九州各地の弥生遺跡からの出土品
の数々を見ろ。他の地域に比べて如何に進んだ文化を持っていたかが分る。そこに邪馬台国は
誕生したのだ。畿内説論者は1から勉強し直せ。ばかたれどもが!!

662 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 21:19:43
九州説は東大が唱えてた説だから
お偉いさん云々は被害妄想にしか聞こえないな。

663 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 21:22:39
>>661
これまでのレスでお前が馬鹿なことがはっきりしたと思うが??

664 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 21:28:45
>>661
>自分の頭で考えない。
>>657で自説に固執しすぎだと言ってるじゃないの?
矛盾した事言うなよw

665 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 21:30:57
>>661
お前さんは自分の思い込みでしか語っていない

666 :縄文人:2009/07/19(日) 21:31:50
>>663
こんなことしか言えぬおぬしが馬鹿よ。口惜しいならまともな反論をしてみろ。
土器や遺跡の編年について論じてみろ。2〜3世紀の地理・地勢について論じ
てみろ。おぬしらに出来るわけが無かろう。全て他人の受け売りだからな。


667 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 21:33:41
畿内説は学問、九州説はエンターテイメント。
ロマンを求める人は九州説になるよね。

668 :縄文人:2009/07/19(日) 21:37:18
畿内説は学問にあらず。ロマンもなし。

669 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 21:37:21
土器や遺跡の編年、地勢、地理…考古学界では畿内説が断然優勢なんだが。

670 :縄文人:2009/07/19(日) 21:40:52
土器や遺跡の編年が間違っとると言ってるだろが。年代測定法を自分で仔細に検討してみろ!!
と言ってもおぬしらには無理か。

671 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 21:42:47
>>670
お前が一番自説に固執している事は理解した。


672 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 21:42:53
実年代と編年の違いが解ってないことがよくわかりますねw

673 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 21:44:08
問題は、邪馬台国と書いた石碑が出土していないこと。
それが発見されれば、邪馬台国が畿内でも九州でも事実として
受け止めようじゃないか。なぜ石碑が出ないんだ?
石碑の文化がなかったなんて言うのは言い訳にはならない。
ロゼッタストーンのような粘土版でもいい。
早く証拠を示してほしいものです。

674 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 21:44:46
>>666
>考古学の編年が誤って100年前後古く設定されて
まずお前がこの根拠を先にいえばどうだ。普通通説を否定する方が根拠を出すもんだぜ。
ま、これを読んだ時点で、統合が失調気味の人だとわかったけどね。

675 :縄文人:2009/07/19(日) 21:46:03
考古学会では畿内説が断然優勢だとは驚いたな。優勢というのは単に人数が多いという
ことだろ。論理で優勢なはずがないよ。単に頭の悪いのが畿内説論者に多いということさ。

676 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 21:48:47
>>675
まったくだw
頭の悪いやつが九州説論者に多いことをお前が証明してるねw

677 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 21:49:46
>>657
日食ソフトというのがけっこう出ている。
それによると、太陽の隠れる割合は、
東京 … 75%
名古屋… 79%
大阪 … 82%
福岡 … 90%
鹿児島… 96%
となっている。鹿児島の最南端佐多岬まで行くと98%。
出来るならここまで行きたいが、思ったほどは暗くはならないと思うけど。

678 :縄文人:2009/07/19(日) 21:52:55
>>674
畿内の大型前方後円墳の多くが存在する平野部低地は3世紀にはまだ湖の底が湿地帯だった
のだ。飛鳥時代でさえ大和川沿いに大きな湖が残っていたのだぞ。おぬしら自分では何も調
べようとせず、畿内説に拘るばかりだ。少しは勉強したらどうだ。

679 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 21:53:59
>>675
違うな。考古学者の9割以上は、ばかばかしくて口を出さない。
畑違いのことに口を出す少数の馬鹿な考古学者が、畿内説と言っているだけ。

680 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:01:27
畿内で出雲、但馬、丹波といった国名の地名が
大和の中心部やその周囲にあるんだよな。

それに対して北部九州の伊都や那賀といった地名は
少しはなれた和歌山にあるんだよ。

つまりこれは北部九州勢力は、
大和中枢には来れなかったってことだろ。

681 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:01:46
>>678
それと土器の編年となんの関係があるんだ??ヤマトの水運が利便で、各地から土器と
ともに物資が搬入されてきた証左ではないか。

682 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:04:45
>>678
飛鳥時代の大和川って何処?具体的にどうぞ。

683 :縄文人:2009/07/19(日) 22:07:16
>>671 >>672
レスしてやるから有り難く思え。おぬしら分ったような口をきいているが自分の頭で考えているのか?
それから、兵の行軍の速度がどうとか、江戸時代の町人の旅の速度がどうとか言ってる奴ら おぬしら
そんなものと比較出来ると思ってるのか?状況をよく考えてみろ。

684 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:08:51
縄文人のレス、なんか既視感があると思ってたら、
雰囲気が太国によく似てるんだ。

685 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:09:12
もういい加減この板の九州説論者のアホさ加減にはうんざりだが・・・

先ず『 土器編年 』 と 『 実年代(絶対年代) 』 の区別をつけろドアホ!

それと勘違いしている馬鹿が多いが
そもそも実年代に言及しなくとも畿内説の有利は動かない。

現在九州説が置かれた立場を把握している奴の少ない事…

つうかそんなまともな奴がこの板の九州説にいるのかとwwwwwww




686 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:09:38
>>684
俺も同じ事言おうと思ってたわwww

687 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:10:44
本格的に夏休みモードみたいだな。
餓鬼の戯言が、日増しに増えてくわ

688 :縄文人:2009/07/19(日) 22:13:01
>>682
飛鳥時代に奈良盆地の今の大和川流域に最大幅約1.2km長さ約15kmの湖があったのだ。

689 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:15:32
>>683
話をそらすなよ。勉強してるんなら、お前の邪馬台国比定地がどこか知らないが、例えば
北九州の下大隅式でも西新式でも土師器でもいいが、土器編年と100年ずれた近畿土器
の編年を、根拠とともに対蹠表にしてアプロードしてくれよ。

690 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:16:10
三世紀には奈良盆地の南西部は大湿地帯だった・・・

これを繰り返し言っている馬鹿がいるがそれがどうしたって話で

要するに邪馬台国と言うクニのモデルを大型拠点集落を中心に
耕地をもった周辺集落がいくつも点在すると言うモデルを勝手に前提としているだけ。

もとより一次産業従事者の住居跡が乏しい纏向周辺に農耕に適した地が無くとも問題ない。
それどころか湿地・湖沼を利用しての舟運のメリットが大きい。

ちったあ頭使えよドアホwwwwwwwww

691 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:18:09
3世紀の大和がどんな状態だったか、俺は良く知らないが、倭人伝が伝える邪馬台国は
九州にきまっているよ。畿内説をいうのならば、まず倭人伝の行程との関係をきちんと
説明すべきだな。方角も日数も、何もかも合わない畿内に邪馬台国があったというのは
まったくの思い込みにすぎない。

692 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:18:26
>>688
何処を起点に15KM?盆地をはるかにこえますよw

693 :縄文人:2009/07/19(日) 22:19:58
>>685
実年代をC14年代測定法や年輪年代測定法でやって間違えているということをいってるんだ。
編年は実年代を踏まえてやるべきものだが、基礎のところで間違えていると言っとるのだ。
おぬしには検証もできぬだろう。おめ〜こそドアホだ。引っ込んでろ!!

694 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:20:56
太国???じゃちょっと挑発してみようか。「倍暦が存在しないことは自明である」ww

695 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:22:20
>>694
やめれwwww
コピペの嵐が吹き荒れるじゃないかwww

696 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:23:45
それはそうと・・・

昼間「そこまで言って委員会」で高島センセイが
九州の卑弥呼の墓の候補についてチラッと言及していたが

何処の何と言う墳墓なのか?誰か知らないかな?

以前、高島が
「卑弥呼の墓と考えているものが実はある」
と言う内容を書いていたのを読んだ記憶があるが
それがとっておきの『隠し玉』なのかな?wwwww

697 :縄文人:2009/07/19(日) 22:23:55
>>692
国分寺付近から現在の大和川沿い、低地に伸びていた。直線ではないぞ。

698 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:28:06
>>693
ふざけるなよカス。歴博年代観は、例の弥生時代開始時期遡上の問題もあって、疑問を
呈している考古学者は多い。早く対蹠表を出してくれよ。できないだろう。編年が100年ず
れれば土器とともに出土した遺物も100年ずれるんだからな。ww


699 :縄文人:2009/07/19(日) 22:32:40
>>690
おめ〜にもレスしてやるから有り難く思え。古代に限らず現在でもそうだが食料は基本的な
戦略物資だ。7万余戸の人口を養い、狗奴国と争いをするような状況で舟運がどうのと脳天気
なことをぬかすか。ドアホはおめ〜だ。この野郎 引っ込んでろ!!

700 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:39:04
>>699 蠅

ほほうw

「七万戸」と言う人口を拠点集落とその周辺の集落からなるクニのモデルで考えているのかな?

言っておくが吉野ヶ里でさえ周辺集落全て合せて想定されているのが5千人程度だったかな?
「七万戸」をどう解釈するかは分かれるだろうが、どの道 桁 が合わんわドアホwww

で九州の何処に「七万戸」の人口を擁するクニがあるのか考古学的資料をもって説明してもらおうか?wwwwwwww


701 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:42:04
邪馬台国論争って江戸時代からだっけ?とすると、300年間続いてるのか・・

畿内と九州の限られた地域のなかで、巨大であろう卑弥呼の墓が今だに発見できない。

とすりゃ、どっちにもなかったんだろな。そう考えるのが普通じゃないの?

702 :縄文人:2009/07/19(日) 22:43:01
畿内説のアホどもの相手をしてやったが、どいつもこいつもまともな論を出す頭がない。もう飽きた。
これから友達と飲み会だ。バイバイ♪♬♪♩♪

703 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:48:29
>>700

ほほうw
「七万戸」と言う人口を文献史料をもって、具体的に示してもらおうかな?

704 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:51:03
拠点集落とその周辺の集落からなるクニのモデルなんてのが間違いだろうな。
戸数はその国の広さを示すと考えるべきものだよ。

705 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:53:26
>>701
新井白石や本居宣長以降は、九州説だけだった。
畿内説の登場は、20世紀になってから、内藤湖南からじゃないかな。

706 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:54:14
>>701
発掘できないから特定できないだけで、候補になる墓はいっぱいあるんだよ。

707 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/19(日) 22:56:00
>>700
ほら、>>703にいわれてるぞ〜w ・・・では、簡潔にくんだっけw

おめー考古学専門に勉強してるんだろ?
じゃあその勉強したっていう、コーコ学てやつで反論してみなよw

708 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 23:00:54
>>703

くだらねえ返し方だな、おい。
リアル消防お前は?ああそう言えばもう夏休みだっけ?w

結局纏向ってのは立地として農業生産に向かず
また遺跡のあり様からも一次産業従事者の居住跡が殆ど見られず
自然、食料等も外部に全面的に依存せざるをえない。

自己完結しようとしてもできないわけだ。
無論従来の 「弥生都市」 といわれる遺跡でも工業とかの比重が大きく
食料等をかなりの部分外部に頼ったと思われるが
纏向だとその傾向がより顕著と言うか徹底しているw

そうすると纏向を支えるべき人口の範囲を相当に広い範囲に求めるしかない。
分子が大きければ比例して分母が大きくならざるを得ない。

まあ毎度の事だが奈良盆地に湿地帯湖沼が広がっていたであろう事を
鬼の首でもとったかのようにはしゃいでいる馬鹿がいるが
残念ながら噛み付き方がピント外れの馬鹿丸出しなわけだwwww







709 :縦目仮面:2009/07/19(日) 23:02:52
しかし、「縄文人」は太国氏なんですかね。だったらカスとかいって申し訳ないですが、お
ふざけがすぎる・・・って、俺もやったか。

710 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 23:04:41
「縄文人」は「犬国」とは多分別人だろうw

芸風が違う、まあ、どっちも狂人である事に違いは無いがwwwwwwww


711 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/19(日) 23:08:33
なんだ終わったのかい?
せっかく〜盛り上がってきたと思ったのに〜!逃げたらいかんよなw
縄文人=太国 ではない、しかし、同じにおいがしたわっww

712 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 23:08:36
>>709
一瞬、縄文人=縦目仮面も頭を過ぎったwww

713 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/19(日) 23:10:53
縦目仮面さんは〜やたら真面目そうだもんな。
縄文人=縦目仮面はありえんだろう。
言葉の使い方でいえば、太国系だろうw

714 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 23:11:47
罵倒の雰囲気が、太国の方が縄文人より多少上品のような気がするので、
似てるけど別人だろう。

715 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 23:13:41
>>707 ドツボ

出た出た他人のふんどしまらぬレスでイチャモンつける

 改めドツボ の 金魚の糞戦法 wwww

残念だが>>703の改変コピペ返しは質問として成り立たないというか
意味が分からんわw

お前は分かるのか?アホw

ちなみに俺は
「古学専門に勉強してる」なんて言った事は一度も無いぞ?w

どこぞの自称某スレ主の馬鹿は
「考古学の本も読んでいる」として箸墓の発掘調査についても読んだ事があるとかほざいていたがwwwwwwwww

まあおまけで書いておけば「七万戸」なんておよそリアリティの無い数字だろうなw
3・5・7と言う陽数(奇数)を好む中国人の修辞によると言うのが個人的には一番首肯できる話だなw



716 :縦目仮面:2009/07/19(日) 23:17:18
うーん、土器片の一つ一つに注記として出土データを書いてる学生の身としては、やはり
考古学をああいう使い方をされるとついカッときてしまう・・・修行不足です。

717 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 23:19:05
>>705

新井白石以前は九州説って無かったんだよね。

邪馬台国以後、なんと1000年近く、邪馬台国が九州にあったと考えた人はいなかったわけで。
そりゃそうだよ。
九州には邪馬台国は無かったんだから。


718 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 23:20:05
まあ、たぶん7万戸は倭人も魏使も正確には調べようがないでしょう。面積というか行程
距離からの換算ならありえるかも・・・。

719 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/19(日) 23:26:43
>>715
>お前は分かるのか?

いや、俺もわからんw

>ちなみに俺は 「古学専門に勉強してる」なんて言った事は一度も無いぞ?w

へえ でも少しは知ってるようじゃん?

>箸墓の発掘調査

ん?部分的にはでてるだろ。

>まあおまけで書いておけば「七万戸」なんておよそリアリティの無い数字だろうなw
>>718もついでに

ん?日本書紀の祟神の条だったかな?人口調査したような記事はあるよな。

>>716 縦目仮面さん
君は、考古学大の生徒さんなのかな?

>>717
そこまで一般に知れ渡っていたかどうか。

720 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 23:37:45
しかしここだけの話だがw

今後、春成センセイは今後テレビで邪馬台国を扱う番組が組まれた時
畿内説のコメンテーターとしてお呼びが頻繁にかかるんじゃないだろうか?www

あの如何にも九州説を逆撫でする様な言い様とかキャラ的にはテレビ向きのような気がするし

何より箸墓の写真を出して
「これが卑弥呼の墓です」
と言うのは相当分かりやすい話だしwwww

721 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 23:44:16
>>717
新井白石以前は、邪馬台国の所在地について考える人はいなかったんじゃない
かな。大和朝廷は、はるか昔から存在するから、邪馬台国は大和だと漠然と
考えていたとか。
でも、日本書紀の編者あるいは著者は、邪馬台国の所在地について考えた
かもしれない。

記紀の年代観からすると、卑弥呼=神功皇后と思っていたのだろうが、
夫の仲哀天皇は筑紫で亡くなっているし、神功皇后自身も筑紫に長く
滞在している。息子の応神天皇も筑紫で生まれている。

案外、日本書紀も九州説だったのかもしれない。

722 :縦目仮面:2009/07/19(日) 23:47:37
俺は中国考古学、中国語専攻の学生で剣道部員です。・・・あのc14の年代がそこまで
自信の持てるものなんですかね。俺の考えはオオヒコスレに書いてます。

こういっては身もふたもないんですが、春成氏にしても安本氏とかでも、あの年代の人達
は自分が生きてる間に結論は出ないっていう確信があるんじゃないですかね。しかし、後
に続くものはちょっと大変というか・・・。



723 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 23:48:34
東北の八幡平という説はどうなの?

724 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 23:53:09
>>723
ここはレスの数がけっこう物を言うから、人を集めるかあるいは一人で何人分も
がんばればありえるかもね。

725 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 23:57:05
ぶっちゃけ投馬国の五万戸とか邪馬台国の七万戸とかはどれぐらいの実数に換算すべきなのか?
その明確な根拠も無いんだろうが・・・

何れにせよ 「 一つの大型拠点集落+幾つかの周辺集落 」からなる言わば”コロニー”が複数集まった物で無いと無理だろう。

そうすると、とてもじゃないが一つのコロニーぐらいで成り立ちようが無い纏向が有利なのは自明だと思うが?wwwww

逆に言えば
例えば吉野ヶ里なら周辺集落と合わせたもので一つのクニとして完結できてしまう。
(まあそこで造られた銅やガラス製品の交易範囲は更に広がるだろうが・・・)

726 :縦目仮面:2009/07/19(日) 23:59:07
>>723
鯨 統一郎氏が書いた小説ならたいへん面白かったです。平は「日本平(にほんだいら)」
のように「たいら」と読むのが普通で、八幡平のように「たい」と読む例は少ない・・・などなど。
まあ、フィクションですね。

727 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 00:03:12
説も何もその小説でしか見たことが無い

728 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 00:15:11
鯨の小説には、「到」には最終目的地に着くという意味があり、
「至」には途中経過という意味があるとしている。
これは学会とかではどうなの?

729 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 00:17:03
>>725
卑弥呼の墓の径百余歩も換算の必要があるかもね。

730 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 01:59:45
>>721

最後の1行が矛盾してるぞ。
ばかなの?


731 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 02:22:20
>>730
神功皇后さんは、大和朝廷の人のはずだ。だから、大和にいたのだ。
でも、魏志の倭人伝を見ると邪馬台国は九州としか思えない。さてどうしよう。
そうだ。神功皇后さんには、九州に行ってもらおう。

732 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 02:29:46
>>731
元検事の安田って人が「邪馬台国の暗号」で説いている説だな。
記紀はそうゆう筋書きだって話、確かにそう読めると思うよ。


733 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 03:06:39
神功皇后じゃ、時代が合わないからダメだな。

結局、記紀の筋書きは卑弥呼を神功皇后にしたけど、
実際はモモソヒメが卑弥呼なわけだ。

734 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 03:38:41
>>728
>「至」には途中経過という意味があるとしている。

至誠というのは、これ以上ない誠という意味だよね。
途中経過の誠じゃあ、おかしなことになるよ。
三国志全体を見る限り、至と到に、そのような類の使い分けがあるとは思えんなあ。

735 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 04:00:42
三国志 武帝操
進乃召董卓,欲以脅太后,【卓未至而進見殺.卓到,】廢帝為弘農王而立獻帝,京都大亂.
卓表太祖為驍騎校尉,欲與計事.太祖乃變易姓名,間行東歸.
出關,過中牟,為亭長所疑,執詣縣,邑中或竊識之,為請得解.
卓遂殺太后及弘農王.【太祖至陳留,】散家財,合義兵,將以誅卓

三国志 夏侯淵
馬超圍涼州刺史韋康於冀,淵救康,【未到,康敗.】

何進が董卓を呼び寄せたけれど、董卓が「未だ至らず」して何進は殺された。
韋康が夏侯淵を呼び寄せたけれど、夏侯淵が「未だ到らず」して韋康は敗れた。
未到と未至の用法に違いは無い。

最初の例文では、「卓未至」の直後に「卓到」とある。どちらも目的地は同じキ。
途中とか最終目的地とかで使い分けているのではないことが解る。
到着前後で使い分けているのでもない。
その少し後に、「太祖至陳留」とある。
今度は目的地に着いたという意味で「至」を使っている。

736 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 05:09:45
「至」は矢がまっすぐ届く様を表す。

「到」の旁である「立刀」は弓なりの刀。
紆余曲折を経て届く様を表す。

737 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 08:01:55
「至」は矢がまっすぐ届く様を表す。
「到」の旁である「立刀」は普通は弓なりの刀を表すが
「到」の場合は「人」が変化したものであり
本来は「立刀」ではない。


738 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 08:08:29
>三国志全体を見る限り、至と到に、そのような類の使い分けがあるとは思えんなあ。

魏略でも至と到の使い分けがあり
至と到の使い分けは基の資料からと考えられる
報告書を書いた者が至と到の使い分けをしたのだ。





739 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 08:30:07
ジャマ台国

740 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/20(月) 10:49:27
>>435

用例提示しても、その用例を把握出来ていないんじゃ、用例の意味がない。
宝の持ち腐れだよ

そこに書かれた「卓未至」と「卓到」の使用は、時間に関する至と到の違い
其くらい把握してから用例を使用してくれ

741 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/20(月) 10:58:22
>>740はアンカーミス


>>735へのアンカーでした。

742 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 11:53:54
もう邪馬台国問題はやめとけって。きりがない不毛な議論だよ。

743 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 12:41:46
お前は去ればいい

744 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 12:45:24
>>739
惜しい、邪馬台国とはジャワ島にあったジャワ大国のこと。

745 :縄文人:2009/07/20(月) 13:13:35
C14年代測定法や年輪年代測定法について研究し、これまでに発表されたデー
タの元になる実験条件や測定値の処理法について仔細に検討すべきである。
C14年代測定法と年輪年代測定法の問題点について季刊『邪馬台国』101号
(2009年4月号、梓書院)に鷲崎弘朋氏が論文を寄稿している。この論文
はおぬしらのようなアホにも分るように分かり易く書かれている。一度読んで
みろ。前方後円墳の築造年代が50〜100年新しくなる(弥生後期〜古墳時代の
100年遡上論は成立しない)ことが理解できるであろう。
とにかくおぬしら畿内説の連中はボンクラばかりだから勉強もしない。お偉い
さんだより。馬鹿の一つ覚えを繰り返すしか能がない。哀れむべき連中だ。
縄文人は忙しく働いているので、おぬしらの相手をできる時間も少ないのだ。
したがって、本日の講義はこれにて終了。コドモ達で遊んでな。ほなな


746 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 13:27:32
結局、周回遅れの受け売りネタかよ

747 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 13:45:10
>>731
大陸側では隋書の記述をみると、魏史の邪馬台国は大和と明言してるけど。


748 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 13:47:40
>>747
隋書の記述も九州だよ。

749 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 13:51:07
>>748
君の脳内ではね。

750 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 14:10:42
>>745
勉強しない…未だに魏史倭人伝から離れようともしない、
九州説の爺さん連中に言ってやれよw

751 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 14:32:24
伊都国が女王の都です。
全ては解決済み。

752 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 14:42:13
>>750
邪馬台国は倭人伝に登場する国。
倭人伝を離れろって言われてもねえ。

753 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 14:45:13
>>745
プププ 季刊『邪馬台国』だってよwww このトンデモ本出す以上正体は見えたな。どうりで
c14とかにこだわるわけだ。哀れだよな。


754 :ローガン:2009/07/20(月) 14:48:19
>>745
>縄文人は忙しく働いているので、おぬしらの相手をできる時間も少ないのだ。
> したがって、本日の講義はこれにて終了。コドモ達で遊んでな。ほなな

ん〜 この書き方に見覚えが…
曲学さんところで私が書いた近藤氏の「前方部通路説」に対して反論してた人でしょ? 桜井茶臼山の方形壇を前方部だと誤認してた人でしょ?
又、洛陽で神獣鏡は1枚も出土してないとか言っていましたね。あの時の人でしょう?閲覧者とか言うHNの。

755 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 14:48:33
>>748
隋書では邪靡堆だよこの頃は聖徳太子の頃だから邪靡堆がどこかはわかるな?

756 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 14:49:09
>>738
魏略には至と到の両方を使っているというだけじゃないの。
それが使い分けであると断定できる根拠はなに。

757 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 14:55:38
>>740
>時間に関する至と到の違い

納得できる説明をしてくれるのなら拝聴いたします。

758 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 15:05:38
>>755
聖徳太子は九州にいたんだよ。

759 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 15:11:26
魏志倭人伝も魏略も狗邪韓國と伊都國だけに到が使われ
意識的に至と到は書き分けられている。
行程の中で狗邪韓國と伊都國が重要な場所であった。

760 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 15:26:37
邪馬台国畿内説は文部省が畿内説研究者に予算をいっぱいくれるから成り立っている。
たとえそれが捏造の為の研究でも。
予算がもらえなければ自然に消滅する畿内説だな。
文部省は昔から歴史を捏造するのが好きだ。
第二次世界大戦でも捏造を繰り返したが、あまりに近い歴史なので証言者が多数いて
誤魔化しきれなくなって訂正した事数限りない。
1700年以上前の話では捏造してもだれにも判らないと思っているのだろう。



761 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 15:29:05
>>759
客観的事実としては、拘邪韓國と伊都國の記述で到が使われているという事だけ。
両国が重要な場所だから至ではなく到なんだというのは、
君の主観的な判断じゃないのかな。
広く漢籍文献一般に両字の使い分けが見られるというのなら解る。
それが無いのに、なぜ、倭人伝と魏略だけに通用する
ローカルルールを設定して読まなければならないのか。
そこが、納得いかない。

762 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 15:32:43
話は全然違って、2chに書き込むときに出てくる注意書きなんだけど、
書き込みによって生ずる揉め事は全て書き込み者の責任で、
生ずる利益は全て運営のモノって、ものすごく虫のいい取り決めだと思わない。
法律的に、こんなこと許されるんかな。
日常的な感覚では、利益について権利を主張するなら、
責任も同時に取らなければならないんじゃないかと思うんだけどね。

763 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/20(月) 15:49:25
>>757

「卓到」とは「卓未至」によって、進が殺害された後に発生する事象であって、卓が目的地に向かう移動時間内に進の殺害が行われたと言う事。
つまり、卓到の中に卓未至は内包されている

つまり、ここでの「至」は卓の存在であり
「到」は移動時間。
卓の移動時間が指定時間内であれば、進の殺害事象は存在せず
移動時間内に「未至」と判断する時間の区切りが存在したが故に
進は殺害されたわけです。
「到」は
発点から着点に触れるまでの事象であり
「至」は
着点とする範囲

となるわけです。


ここでは
それらを時間の経過で表現されているだけの事。

764 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 15:53:47
>>752
ワロタ

765 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/20(月) 16:00:32
>>762

「生じる利益の権利」だろう?

それは民事だよね
民事ならば、請求の趣旨に対して被告が答弁にて、
原告の請求が不当だと立証できれば被告勝訴
被告が原告の請求に対してなんら抵抗出来ない時は、原告の請求が認められるよ。
例え法的に灰色でも。

766 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 16:07:13
>>763
だからさ、未到と未至にも用法に差は無いといってるじゃん。

767 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 16:12:20
>>735の一部を、もう一回貼っとくよ。

何進が董卓を呼び寄せたけれど、董卓が「未だ至らず」して何進は殺された。
韋康が夏侯淵を呼び寄せたけれど、夏侯淵が「未だ到らず」して韋康は敗れた。

>>763の君の説明では、これはどうなるの。

768 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 16:15:55
>>745 蠅文人

で、だ・・・

「前方後円墳の築造年代が50〜100年新しくなる」のが無理だとしてだ…

じゃあお前が考えている実年代の根拠は何に置くんだい?

「遡上は無理」と言うのは基準となる年代があって
それが正しいと言う根拠があって初めて
「そこから遡上するのは正しく無い」
と言える事だ。

まさか
「今まで言われていたのが”古墳時代は4世紀から”だ」
とか言うなよ?

「畿内説はえらいさんの受け売り」
とかほざいている自分がまんま受け売りなんてやってた日には
アホ丸出しだぞ?wwwwwwwwww


769 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/20(月) 16:18:13
>>766

誰も用法について触れてないよ

>>735が「用法に違いはない」で、レスを締め括っていれば
別にヤリを入れるつもりはなかったが、

尾鰭の「到着前後で使い分けている」にヤリだから

770 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 16:19:23
>>752
魏史倭人伝なんてもう暗記するくらい眺めてるだろ。
少し離れて違う視点からの研究をお勧めします。


771 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 16:27:22
>729
>卑弥呼の墓の径百余歩も換算の必要があるかもね。

換算も何もそもそも殉葬百人なんて事が書かれている時点で
情報の正確さに大いに疑問を持つ。

はっきり言えば伝聞の伝聞、尾ひれのついた風のうわさ程度・・・じゃないか思っている。

無論、根拠は今日に至るまで畿内だろうが九州だろうが殉葬の跡が出てきたなんて話を聞いた事が無いからだw
まあ過去に事例が無いからこれから先も出てこないということにはならないが・・・

現時点でそんなモンが出てくるなんて考えている考古学者もそうはいないと思うwwwwwwww

日曜のTV番組に出ていた高島も九州の卑弥呼の墓の候補になりうる物についてボソボソ言ってたが
まさか周辺から奴婢百人の骨が出てくるだろうなんて考えて無いんじゃないかな?

772 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 16:30:50
>>768

全く同意。

縄文人は何を根拠に実年代を決めてるんだろうか?

「季刊邪馬台国」に書いてあることが全て正しいってことかな?




773 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 16:31:39
>>769
「用法に違いはない」は「到着前後で使い分けしていない」の意味だよ。
君の763の説明は、「未到」という文が存在しなければ成り立つけれど、
「未到」がある以上、成り立たないよ。

夏侯淵の移動時間が指定時間内(そんなものがあればの話だが)であれば、韋康の敗北事象は存在せず、
移動時間内に「未到」と判断する時間の区切りが存在したが故に
韋康は負かされたわけです。

こんな風に、すぐ書きかえられる。
君の説明は、何かを説明しているようで、その実、何も論証していないよ。

774 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 16:33:31
>>770
ト素人に言っても無駄
君とはレベル差があるんだからそっとしておいてやれ

>>752くんは至る、到るの違いから学ぼう。

775 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/20(月) 16:33:56
だいたい漢籍なんて
日本において根本の漢字に対する理解度が浅いから


「到着」とは、「着」だけでは表現仕切れない
着するためのプロセス(到)
までの意味を込める

これが到着。

776 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 16:41:05
>>775
先ず第一に、君のいう根本の漢字なんてものは、君がそう思うとうだけのこと。
事実そうであったという客観的証拠は何もない。

第二に、漢字の成り立ちを考えても、漢文読解の訳には立たんよ。

許慎は、漢字の成り立ちを研究して説文解字を作った。
五経無双と言われた許慎も、研究しなければ漢字の成り立ちが解らなかった。
しかも、当時甲骨文は発見されておらず、そのため、
現代の知見からすると許慎の説も誤りがある。
つまり後漢の時に、既に漢字は、その成り立ちとは無関係に使われている。
たとえば、先日、碧巖録を読んでいたら、「隈」を「畏」の意味で使ってた。
音や形が似た漢字が通用するというのは、ありふれた現象。

倭人伝が書かれた時代にどう使われていたかが重要であって、
漢字の成り立ちをいくら考えても、3世紀の漢文の読解には役立たない。

777 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/20(月) 16:48:37
>>773

私は卓ちゃんと進ちゃんについて説明しているんであって、勇み足じゃない?

意味の捉え方は、文章によって異なるし
到と至の根本的な違いは
一番最後に書いただろう?

もう一度だけ

「至」=範囲
「到」=プロセスが範囲に触れる


味噌と糞はわけて考えようよ

778 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 16:50:26
>>777
>意味の捉え方は、文章によって異なるし

便利だな。

>到と至の根本的な違いは

論証されたことは一度もない。

779 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/20(月) 16:53:55
つまり

「東南陸行五百里到伊都國」は

「東南陸行五百里」が至伊都國に対するプロセスであり、意味解釈は(末廬国内)

780 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 16:58:49
>>771
>無論、根拠は今日に至るまで畿内だろうが九州だろうが殉葬の跡が出てきたなんて話を聞いた事が無いからだw
>まあ過去に事例が無いからこれから先も出てこないということにはならないが・・・
>現時点でそんなモンが出てくるなんて考えている考古学者もそうはいないと思うwwwwwwww

殉葬はあったと思う。
倭人伝だけでなく、日本の記紀にも殉葬に関する記事が結構あるわけだから。
畿内の大古墳はことごとく宮内庁の管理下にあって、ほとんど調査の手が及んでいない。
これから少しずつ判明していくと思う。

781 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/20(月) 17:01:36
>>778の努力次第じゃない。
論証なんて
こんな所でやっても意味ないじゃん。興味をもったら持った人が自ら進んでやればいい。

世の中には、何をしても
否定的な人は必ず存在するから ほどほどでOK。

782 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/20(月) 17:09:31
>>776が自分の考えられる範疇でそう判断しているように、私も私の考えの範疇で
物事を考えている。

ただそれだけの事。


何も不思議な事ではない。

ただし、>>776が、漢字の創作主なら話しは別だが

783 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 17:12:11
>>774
勝手に遺跡を見つけて、ここが邪馬台国だと言っていればいい。
どこぞの墓に卑弥呼の墓と名前を付けてればいい。
あっ、もうやっているか…。

784 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 17:31:40
>>780
可能性と言う事で言えば「ゼロではない」と言うしか無いんだがw

しかし前方後円墳の全てが宮内庁の管理下にあるわけじゃない。

宅地等に丸々削られたり鉄道や道路が横切ったり・・・
無論考古学者の調査が入っているものもある。

それでも殉葬の跡が出てきたなんて話は聞かない。

もしあったらレアケース中のレアケースだろうなwwwww

まあ「魏志倭人伝ウソツカナイ」と言う九州説の連中には
殉葬百人の跡を伴った墓を探してもらうこととしてwww

そもそも記紀の埴輪起源なら埴輪は殉葬の代替品と言うことになるが
今日特殊器台からの変遷と認められているわけで



785 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 18:41:42
徇葬が疑われる例はないわけではないが、もし100人規模のものが連綿と行われていた
のなら、それは祭祀が行われたと考えられる「造り出し」部分のように、築造法そのものに
必ず影響を与えていただろう。

786 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/20(月) 18:48:56
「未到康敗」とは
至夏侯淵となる夏侯淵の存在もなく、
康敗の後に到夏侯淵の形跡もない
“卓ちゃん進ちゃん”と
似て非なる文章。

つまり康敗になった原因は、至夏侯淵へのプロセスが存在しないから「未到康敗」なわけよ

未到=プロセスがない。

787 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 20:35:15
>>786
ちゃんと原文読んで反論しよう。

788 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 21:02:50
>>787

キミの相手は、自分は白文が読めません、とカミングアウトしてるような人だよ。
そんな人と漢文法について議論しても意味が通じあうわけがなかろうに。

789 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 21:16:19
>>788
そうなんだよねえw
それで、どうやって先人の読解が誤りだと断言できるのか不思議なんだけど。

でも、白文を読めなくたって、前後に目を通したら、
夏侯淵がどんな行動をとってたか、漠然とでも解りそうなものと思ってね。

790 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/20(月) 22:00:37
>>787-789

はいはい。そうムキにならずに

で、笑わせないでよ
漢字一文字も理解できない面々が、どの面下げて白文なのよ?
白文じゃなくて白紙文じゃないの?盲目の。

ま、基本的な漢字ぐらい勉強してよ。


(追伸)
漢籍は読むものではなく、ぱっと見で文字を理解するものだよ

791 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 22:01:51
どんなに漢文が正確に読めても無意味だってわかんないのかね?


漢文書いたやつが想像で旅行記書いてるってのに。

792 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 22:44:36
それこそ想像です

793 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 22:47:11
倭人伝は、正確に、正しく読めば理解できるように書かれているよ。

794 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/20(月) 22:55:28
>>793

いったい何語で読むのかな?

795 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 23:00:28
河童語でないことは確かだね。

796 :河童虫 ◆l5VkvJO3Rk :2009/07/20(月) 23:03:30
>>795

>河童語でないことは確かだね。

いや、河童語だな

797 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 23:04:44
ラテン語を読めれ欧米語はほとんど理解できる。
西アフリカの影響を受けているスペイン語と
古代倭語で共通する単語も多い。
アイヌ語と英語に共通する語彙が多いのに驚いた。
タミル語と日本語は、それほど近い関係ではない。

798 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 23:06:03
偽河童かな?

799 :プラム ◆E2pz5a.Eic :2009/07/20(月) 23:59:10
>>798

そう、>>796は河童氏の偽者だね。

> 漢籍は読むものではなく、ぱっと見で文字を理解するものだよ

これこそ河童虫流の真髄だよ。
正確には、気になる字の意味を漢字字典で調べて、あーだこーだと決め付けて文章にする。
解かったかな?

800 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 00:36:35
>>790
読むんじゃない、感じるんだw

801 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/21(火) 06:31:22
>>799 泥棒さんへ

盗みは2ちゃんの中だけにして、今後は
一般市民には迷惑のかからないように生活しなよ。

もう少し、お天道様の下を堂々と歩ける仕事したら
どうかな?


人のコテやトリップ使って、何か楽しいの?
相当悔しかったのかな?
哀れすぎだよ。悲しくなっちゃうよ。

802 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/07/21(火) 07:04:27
だいたい、何語だかわからない漢字の列びを
どうやって読むの?今の中国人だって読めないんじゃないの?

803 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 11:10:14
そりゃあ簡体字しか読めない世代が増えてるからな

804 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 17:45:17
>>802

》だいたい、何語だかわからない漢字の列びを どうやって読むの?

自分が読めないからといって、他人様も読めないと考えてはいけないw

805 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 18:59:12
>漢籍は読むものではなく、ぱっと見で文字を理解するものだよ

さらっと言っているが、良く良く考えれば凄い事言っていると言うかw

そんなもん、それこそネイティブなみの習熟度がなけりゃ、できる芸当じゃないと思うが
河童虫ってコテは学があるんだな。

いやお見それしましたwww





806 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 19:17:40
>>785
>築造法そのものに必ず影響を与えていただろう。

そうなんだよねえ、、

今日前方後円墳と言えば殆どが樹木に覆われている姿だけど
全国に幾つかは築造当時の姿を再現した物もある。

箸墓についても築造当時の姿をおこした図も見る事はできるけど
殉死者を葬ったと思われるような場所が無いというかデザインじゃないと言うか・・・wwwwww

ちなみに
>徇葬が疑われる例
・・・と言うのはどういう物か?参考までに教えてもらえるとありがたい

まあ、例えば西殿塚は前方部と後円部にそれぞれ方形壇があって二人の被葬者が想定される
…なんて事例については承知しているが。。




807 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 20:10:33
古墳の殉葬者は外壕の外に埋められてる例が殆ど。
外壕の発掘が鍵になるだろうな。

808 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 21:04:17
>>807
それは『培塚』のことなのかな?

言い伝えのレベルならともかく
実際にそれが殉死であると確認された事例でもあるのか?

809 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 21:20:27
日本書紀の記述でもそうだが?

810 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 21:31:59
また5世紀も後の話か

811 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 21:44:54
いい訳はするな。

812 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 21:55:51
ハァ? 俺は810しか書いてない
気分を害したから言っておくが、日本書紀に邪馬台国の情報はないんだから読んでも無駄
日本書紀信者なら邪馬台国なんか知らねってのが正しい

813 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 21:56:22
結局、発掘調査による考古学的な確認のとれている殉葬跡は無いという事なのかな?

記紀に見る殉葬の風は埴輪起源の話といい、流石に全面的に信用するにはチョッとアレだしw

まあ、もし培塚に殉死者を葬る風習があったのなら畿内の方が有利な話ではあるがwwwww


814 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 22:05:56
殉死は江戸時代にも普通にあった。
江戸時代どころか、明治天皇崩御のときもあった。
ある意味、日本の伝統なのかもしれない。

815 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 22:14:23
自主的な殉死と強制供連れタイプの殉葬じゃ話が違うと思いますが。

816 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 22:34:18
殉葬の代わりに人型埴輪を並べることを提案した土師氏、
そのきっかけとなった垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命、
この女こそ卑弥呼だったのではないだろうか?

817 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 22:39:05
>>806
・鳥取県羽合町瀬高7号墳(5世紀中頃、径17m)の周溝から、馬を埋葬した馬墓3基と、人
 を埋葬した2基 の土坑が出土している。
・ 千葉県佐倉市大作31号墳(5世紀末頃、径15m)で、周溝に隣接した2基の土坑が検出さ
れた。1号土坑からは馬の殉葬が確認された。2号土坑はかなり浅いもので従属的な人の
殉葬墓ともみられる。

卑弥呼とは時代が違うし、豪族の古墳としては規模が小さい。おそらく追葬の可能性のほう
が高いだろうが、「疑われる例」とはいえないこともない。このレベルならそれなりにあるんだよ。
もちろん考古学的に確認された殉葬例ではない。

818 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 23:45:07
>>814
ただし連綿と続いた伝統ではない
殉死は江戸以前はむしろなかった

819 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 01:38:04
>>818
では、記紀が伝える殉死はどう解釈するのかな?

820 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 02:11:30
かなかなかなかな・・・・・
ひぐらし

821 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 04:39:41
日本書紀に古墳の外壕に直臣を生める風習があったと言うのをどうして
殉葬は無かったと勝手に決め付けるかな?
日本の古墳に殉葬はあったと書いてある以上、
そう解釈するしかないんだよ。

822 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 04:51:18
大体、古墳の本体に殉死者を葬ったと思われるような場所が無いとか
アホかと、バカかと、、、

823 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 06:47:51
私は畿内説派だが、エロい人に質問!

郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、
あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。
始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。
又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。
東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。
東南のかた奴國に至ること百里。
東行して不彌國に至ること百里。

と書いてるのに『三国志』魏書東夷伝倭人条はなぜ、邪馬台国の時は距離(旅行時間)を区切ってるの?
南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。
邪馬台国→洛陽or洛陽→邪馬台国までの総距離を最後に書いたとも解釈できないのか?

824 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 08:45:12
>>823
倭人伝の行程の記述は、基本的に、順次に国を辿る形式になっている。
帯方郡→狗邪韓国→対馬国→一支国→末盧国という具合で、距離や方向も
そのようになっている。

だから、何の前触れもなく、出発点を変えるようなことは考えられない。
普通に考えれば、投馬国も邪馬台国も同じで、伊都国→奴国→不弥国→
投馬国→邪馬台国だろう。

邪馬台国が帯方郡からの距離を示しているとすれば、「南至邪馬壹國」
ではなく、「自郡南水行十日陸行一月至邪馬壹國」となると思う。

また、邪馬台国が帯方郡からの距離を示しているとすれば、それまでの
国々の記述はなんだったのかということにもなる。
例えば、ソウルからプサンまで南に○○キロ、対馬まで南に○○キロ、(中略)
広島から大阪まで○○キロと書いてきて、いきなりソウルから東京まで
○○キロでは、文章としてもおかしいし、行程の説明になっていない。

放射説というのもあるが、伊都国を基点にしたとして、どうして奴国や不弥国
あるいは投馬国だけを書かなくてはならなかったのかという疑問がある。
他にたくさんの国があるのに、なぜ、この三つの国だけを特別に書く必要が
あったのだろうか。そう考えると放射説にも疑問がある。

825 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 10:10:19
>>824
放射説の部分以外は正解だな。日数を郡からなどと解釈する余地はない。

>伊都国を基点にしたとして、どうして奴国や不弥国
>あるいは投馬国だけを書かなくてはならなかったのかという疑問
使者が行程を書いた国は、使者が実際に訪ねた国なんだよ。そのことを忘れてはいかん。
奴国や不彌国は、伊都国に滞在中に様子を見にいったが、伊都国に戻った。
投馬国と邪馬台国については、実際には投馬国を経由して邪馬台国へ行ったが、投馬国を
経由しない方が早く行けるので、放射式でそのコースを書いた。そうゆうことだ。




826 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 10:59:38
天照の岩戸隠れ=皆既日食=卑弥呼の死

827 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 11:16:47
あのさあ雨降ってたら皆既日食なんかよりずっと長い間太陽が隠れたりもするんだぜ
そこまで特別な話じゃないだろ
現に悪石島なんて雨降ってて皆既日食見れなくて30万近くかけて来た奴涙目wwwwという状況だし

828 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 11:24:06
皆既日食は普通の晴れや曇りの天気だとやっぱり驚くと思うぞ。

今日のは薄曇りで直接欠けている状態をみてちょっと感動したよ。

829 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 11:44:56
天照は言い過ぎたが、皆既日食で卑弥呼の霊力に疑問をもった古代人が、
卑弥呼に見切りをつけ、王殺しに及んだ可能性はなきにしもあらずだろ。
皆既日食の年も卑弥呼の死亡時期とほぼ一致してるし。


830 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 11:52:15
皆既日食が無事に終わったのを見て、卑弥呼の力だとありがたがった連中が
多かったかも知れないな。やっぱり我らの卑弥呼様だとか。

831 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 12:08:05
太陽が欠けたりしてたら、禍々しい事に関連つけられる
事の方が可能性あるのでは?
戦争中でもあるし、あまり吉兆とはとられないと思う。

832 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 12:51:07
日食は再生を感じさせる
暗くなるときの驚きもあるが、すぐに日が復活する感動もある
感動として残るのは寧ろ復活再生したときのもの
まぁ、これは主観が入ってるのだが
少なくとも、この現象がマイナスのイメージだけで語られるものでは無いってこと

833 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 13:03:23
そこらへんは言い方次第でどうとでも取れるよね

834 :弥生の乙女:2009/07/22(水) 16:54:34
畿内説の皆様の中には、三国志魏志東夷伝倭人条の解釈において、南を東に改
竄されあそばして、その根拠に半世紀も前に室賀信夫氏が持ち出した混−彊理
歴代国都之図を、それも弘中芳男氏によって15世紀の初頭に朝鮮の権近が西
を上方にして描かれている日本の行基図を不用意に挿入したものであると論破
されたものを、今もって畿内説の一つの根拠としてお挙げになる歴博の春成先
生を支持される方がおいでになるようでございます。C14年代測定法を用いた春
成先生の箸墓築造年代の鑑定結果については、その妥当性について多くの考古
学者や歴史学者の方々から疑問や批判が出されておりますが、私が種々聞き及
びますところ、測定値の処理法(測定値がばらつきますので、そこから確から
しい値を求める方法)やC14年代測定のための年輪年代法による較正なるもの
の正体が極めて怪しいとのことでございます。私は木材を研究している者です
が、古代の木材試料(伐採年と伐採地がはっきり分った試料)は入手困難、と
いうより入手不可能でございますので、どうして年輪年代法が適用できるか不
思議に思っているところでございます。このような状況を見ますと、春成先生
の鑑定結果の信頼性は私にはゼロとしか思えないのでございます。したがって、
春成先生の鑑定結果を根拠にして畿内説を主張されている方々の仰ることは極
めて疑わしく思われるのでございます。

835 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 17:28:04
>>834
>私は木材を研究している者ですが、
>古代の木材試料(伐採年と伐採地がはっきり分った試料)は入手困難、と
>いうより入手不可能でございますので、どうして年輪年代法が適用できるか不
>思議に思っているところでございます。

年輪年代法は、いくつもの資料をつないでいくんだよ。
そうやって遡っていく。
最初から「縄文杉」みたいな古木を切って始めるもんじゃないよ。

木材を研究しているのに、知らないのかね。

836 :◆.L.MXSPOgc :2009/07/22(水) 17:50:05
>>823
倭人伝の行程の解釈はいろいろあるようですが、私の説が最終解答だと考えてよいとおもいます。
ここに来ている人たちも誰も反論できていませんからね。
行程記述が日程に変わっていることにもちゃんと説明しています。

http://yamat-2007.blogspot.com/

# やっと書き込めるようになった

837 :真面目な学生:2009/07/22(水) 18:14:34
僕は大学で地質学を専攻している学生で、アメリカンフットボールチーム(三
流ですが)に所属しています。ときたま遠征で地方に出かけることがあります
が、その折りには近辺を歩き回っては露出している土地の地質の観察に心がけ
ている、近来まれに見る真面目な学生と言われております。しばらく前に奈良
に行ったことがあります。現在では古代の様子が見た目には全く窺えませんが、
等高線図で見ますと、縄文時代にここに大きな湖が存在したであろうことは容
易に察せられます。現在大和川が奈良盆地に降った雨水の排出口となっており
ますが、この大和川はJR関西本線三郷駅付近から流れがやや急となって国分寺
大橋付近までの標高差は約10mほどあります。この川沿いに断層帯がありまし
て、大きな地震などがあって岩石がこの川を塞ぐようなことがあると奈良盆地
の大部分が水没する恐れがあるなあと思いました。先輩方の地質調査によりま
すと弥生時代まで奈良盆地の標高50m以下の低地部分は水没していたと考えら
れるということです。平野部の大部分が水没し、弥生時代の遺跡である唐古・
鍵遺跡や古墳の多い巻向地域は湖水に浮かぶ中州のような状態ではなかったか
と想像されます。河内平野とは異なって海水の流入は考えにくいので、陸地部
はある程度の稲作が可能だったと推定されますが、弥生時代のこの盆地に大き
な人口を養う農業生産力は想像できません。これは九州の福岡平野や筑紫、筑
後平野や熊本平野などとの比較ですが、比較にならぬ規模の小ささを感じます。
この盆地の排水が行われ、京都盆地の排水が行われ、河内平野の水田開拓が成
った後ならば畿内を統合する大勢力が奈良盆地に拠点を置く事も可能かとは思
います。しかし、それが3世紀のうちに行われたとは僕には想像しにくいので
あります。どなたかそれが可能だという論拠をお持ちでしょうか。


838 :弥生の乙女:2009/07/22(水) 18:17:38
>>835


839 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 18:27:09
>>837
>巻向地域は湖水に浮かぶ中州のような状態ではなかったか
>と想像されます。

全く違う。
巻向は扇状地。
東方はすぐ山であり、巻向を取り囲んで湖水が存在したなどとは出鱈目。

840 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 18:29:43
また水没厨かよw


841 :弥生の乙女:2009/07/22(水) 18:31:11
>>835
ご教示ありがとうございます。いくつもの資料をつなぎ合わせて遡ってゆくのですね。その
資料とはどうゆうものでございましょうか?教えて頂きたいのですが、法隆寺関連の木材ま
では(素性が必ずしも明確でないという欠陥もありますが、それは大目に見るとしまして)
なんとか無理にでもつなげるかも知れませんが、それ以前の試料(資料)はどうされている
のでしょうか?

842 :真面目な学生:2009/07/22(水) 18:39:30
>>833
巻向の地形が山側からなだらかに一様に傾斜した扇状地だとのご指摘ですが、必ずしもそうでは
なく、凹凸がございまして、この地域の凸部が陸地、凹部は湖となっていたとの推定です。水位
の関係で湖水に突き出た陸地という状態もあったかと思います。

843 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 18:40:37
>>836
しばらく見ないと思ったら、アクセス禁止だったのか。
てっきり、挫折したのかと思っていた。

844 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 18:42:06
誰も聞いてくれないからって自説の自演はやめようよ

845 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 18:46:53
>>841
原理的には、たとえば、現在伐採した樹齢100年の木で100年分の年輪の
パターンを作る。50年前に伐採した樹齢100年の木の年輪を調べれば、
50年分が重なり、それ以前の50年、合わせて150年の年輪のパターンが
出来る。これを繰り返して年代を遡るというものなのだろう。

理論的には、正しいのかもしれないが、実際問題となると、厄介な問題が
いろいろと起こるものらしい。

846 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 18:57:44
もしかしたら、卑弥呼は太陽神ではなくて雨乞いの神。
日食を見に行ったら暴風雨に見舞われ、
金返せ!と詰め寄られて殺されたのかも。

847 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/22(水) 19:05:02
冬の渇水期に陸地化した、湖畔を耕す、
春と共に水没する、ここが水田、
夏が過ぎると水量も減り、乾田となる、今の水抜きに相当する、
秋に収穫。

これが初期の大和の稲作。
これから想像できることは、当時の稲はかなり背が高い。


848 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 19:05:05
>>841

標準年輪曲線
http://www.nichibun.ac.jp/yasuda_home/envarc/master_j.html

クロスデーティング
http://www.nichibun.ac.jp/yasuda_home/envarc/dating_j.html

849 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 19:12:50
>>844
>自説の自演はやめよう
そういう趣旨のスレだと思うが。
それとも君は、学会の誰それの発表した説を受け売りしてるだけなのか?
他人の説を考察もせず鵜呑みなのか?

850 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 19:57:22
「僕の考えた邪馬台国」のスレだったのか。

851 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 20:12:45
自作自演は匿名板でこそできる技だし、必要悪じゃないか。

852 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 20:16:47
受け売り君がもう1人居るようです

853 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 20:31:33
この「弥生の乙女」と「真面目な学生」というのは、こないだの「縄文人」だろ。www
また理化学年代批判と纏向水没説かよ。www 他にネタはないのかね。ここは個人の掲示
板じゃないから、お前より勉強している人はいっぱいいるんだよ。


854 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 20:41:53
勉強しててその程度

855 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 20:42:50
こいつは、こないだ「季刊・邪馬台国」という安本が御用学者を動員して作ってるトンデモ本
に言及してたから、たぶんその一派なんだろうが、箸墓350年とかほざいてる安本は、もう
すでに学者生命も危ういよな。天敵古田と似たり寄ったりの晩年。哀れだね。

856 :弥生の乙女:2009/07/22(水) 20:49:23
>>853
私は縄文人さまのような乱暴な方とは無縁のかよわい乙女でございます。縄文人さまの提示された
問題については、わたくしが拝見する限り、畿内説の方々から納得のゆく満足な返答がなされてい
ないように思います。恐れ多いことでございますが、皆様にご返答をなされるだけの知識も判断力
も欠けているかの如くにお見受けいたします。それらの問題は畿内説が成立するか否かの鍵になる
ポイントだと存じます。明確な反証なり、説得力ある論拠を論理的な文章でお書きにならなければ
畿内説は敗北したことになるかと存じます。失礼を申し上げました。お許し下さいませ。

857 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 20:52:38
だいたい、まともな考古学者はc14にしても年輪年代にしても距離をおいてる。まだまだ
現状では自説の根拠にするには信頼度が十分とはいえない。特に今回の歴博年代は、
IntCalではなく、日本独自の補正データだそうだから、必ず光谷年輪年代とリンクしてる
だろう。まあ、理化学的年代測定法は原理的には正しいものだし、光谷氏の人格を疑う
いわれもないが、これを有効に利用できるまでには、まだ相当の時間がかかるだろ。バリ
バリの畿内説の俺ですらそう思ってるよ。

あと乙女言葉は気味悪いので、オカルト板でやれ。

858 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 20:56:45
>>856
だいたいお前の言葉のどこに論理性があるんだ??こないだの「1月行程100〜150Km」
説のどこに論理性があった。あんなのこの板の中学生がやってる推論ごっこと同程度のも
んじゃないか。あんな ごたくをマジレスしてる時点で、バカ確定なんだよ。www

859 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 21:06:17
安本の数理文献学というのは、少し歴史にも数学にも詳しいものが見たらトンデモの極み
でしかない。統計理論などまるでわかっちゃいないエセ学問。「用明天皇から35代遡る」??
その時点で誤差が大きくて何も言えなくなるんだよ。少しでも統計知ってるならこれは自明。
しかも用明の後に何代かずらしたら、たちまち合わなくなる代物wwww
だいたい記紀の天皇代数が必ず正しい保証がどこにあるんだって話で。www



860 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 21:10:07
>>853 「ここは個人の掲示 板じゃないから、お前より勉強している人はいっぱいいるんだよ。」
この文章は非論理的な文章の典型です。「ここは個人の掲示板じゃないから」とは 文章全体の中では
本文の結論部に先立つ前置きの部分で、内容としては理由を示していますが、結論である「お前より勉
強している人はいっぱいいるんだよ」とは論理的に筋が通りません。このような文章を書く人が畿内説
を説いても全く説得力がありません。



861 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 21:13:13
大和湖に関しては、俺もあったと思ってるよ。
>奈良盆地の標高50m以下の低地部分は水没していた。
まあ、そう思えるね。なぜなら、縄文後期〜晩期遺跡の多くはそのあたりだし、記紀の神武
天皇に関する事績についても、その線より上と考えられるものが多い。前6〜7世紀頃の
考古資料だけどね。

862 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 21:14:50
>>860
お前は事情を知らないからだろ。「曲学の徒さんの掲示板」のようにはいかないってことだよ。
消えな。

863 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 21:18:38
>>861
箸尾遺跡はどうなんでしょうね?
結構低地にあると思うけど。

864 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 21:30:36
確かに纏向とその周辺だけでは大人口を養うに足る農業生産ではないだろ。しかし全く大局
が見えてない。卑弥呼の頃のの纏向が水没していたということはないよ。むしろ大溝のよう
な水路が必要だった。お前もどうせWiki にある、 
>唐古・鍵遺跡の約10倍の規模を持ち、藤原宮に匹敵する巨大な遺跡。
を鵜呑みにしている一人なんだろう。なぜ遺跡の範囲をそこに限定する必要があるんだ?
環濠があるわけでなく、後代のような条坊制が敷かれているわけでもない。単に近代にあ
った行政単位の磯城郡纏向村をおおよその範囲として、恣意的に限定されたものだろう

865 :縄文人:2009/07/22(水) 21:31:15
>>858
やい てめ〜 何を寝ぼけてやがる。弥生の乙女を俺と勘違いしやがって、おめ〜はアホか。人を見る
目もなし、てめ〜の文章を見ろ!馬鹿丸出しだぞ。魏の使節一行を狗奴国と争っている邪馬台国連合の
陣営の要所に目立つように(魏の皇帝が邪馬台国を支援するために使節を派遣してくれたぞと)案内す
るのだ。急ぎに急いで駆けつけてどうする?魏の使節にすれば倭国の地理や人口や産業などの国情をで
きるだけ収集しようとするだろう。子供の使いじゃないんだぞ。少しはましな反論をして他人様を馬鹿
呼ばわりそろ。てめ〜みたいな愚か者には他人を罵る資格はないぞ。書け犬の遠吠えにしか聞こえぬぞ。
ドアホ 間抜け アンポンタン くそったれ これでもおめ〜にゃ褒め言葉だぞ。


866 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 21:35:25
自演するなボケ

867 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 21:38:52
ほ〜ら正体を表したな。この単細胞www 俺は倭人伝の一言一句をすべて信じる立場には
ないからな。www 錯誤、誤謬、誇張が含まれた情報として見ている。

>魏の使節にすれば倭国の地理や人口や産業などの国情をできるだけ収集しようとする
  だろう。

ほら、ただの推論じゃないか。アホらしい。他国への答礼使の行動様式を中国文献から
引いてきたなら認めてやるよ。


868 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 21:45:57
お前の書いたことに何か根拠があるのか??これまでは、お優しい人に囲まれてたから
それで通用したんだろうが。少なくとも現時点ではよくいって、仮説。しかも根拠のない仮説
だな。www こんなことを滔滔と書く自体、いかに学問と離れた場にいたかがわかるね。www



869 :縄文人:2009/07/22(水) 21:48:08
>>864
ついでにおめ〜にも一言言っとく。俺は唐古・鍵遺跡の約10倍の規模を持ち、藤原宮に匹敵する
巨大な遺跡なぞ気にしちゃいねえ。てめ〜の邪馬台国が奈良盆地のどこに、どのような産業的・経
済的基盤を背景に成立していたか述べてみろ。それを述べずに”大局が見えていない”などと偉そう
な口をきくな!てめ〜の大局論を述べてみろ。聞いてやるから言ってみな。

870 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 21:49:15
>弥生の乙女を俺と勘違いしやがって、おめ〜はアホか。人を見る目もなし。

おや、すまんかったな。俺は人を見る目はあるが、バカを見る目はないんだ。さらにバカ
集団を見る目なんてとてもとてもwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww


871 :◆.L.MXSPOgc :2009/07/22(水) 21:52:27
>>843
アク禁に挫折しそうになってたよw

>>844
自演ではないよ。初心者さんには最善の回答だと思っています♪

放射説や畿内説だとつっこみどころ満載で突つきまくるのでしょうが、
私の説には全く歯がたたないので、何も書き込めないのでしょ?


872 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 21:53:12
>>869
それ(864)も俺だよww ほーらやっぱりお前こそ人を見る目がない。www しかしお前面白い
な〜。しっぽを踏まれたタヌキ級だwww



873 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 21:57:53
都市というのは消費地なんだよな、生産地ではない
マキムク周辺にそれを養うだけの耕地が無いと言うなら、それこそ政権中枢だったことの証拠
弥生的散居村の状態から、広域な国家へと成長し始めたその中心にマキムクがある
都(都市)への供給は地方から行われる、道が整備され、徴税システムや役人制度が発達する
それまで自給自足的だった弥生の集落は、都市へ供給する側となる

874 :縄文人:2009/07/22(水) 22:00:12
>>867、868
ばかやろ〜 文献だけで解決するなら邪馬台国問題はとっくの昔に決着しとるだろうよ。倭人伝に
誤謬が全くないなど誰が思うか。俺は人間のやりそうな事を推理してるのだ。俺のが仮説ならおめ
えらのも皆仮説だ。えらそ〜な口を聞くな。

875 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 22:01:18
しかもこの「縄文人」のタコスケは人のレスを全く読んでない。まあ、自分が理解できないんで
目が逃げるんだろうが。

876 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 22:03:57
>>874
ふざけな無能のクズ。お前がそんなに偉いのか??過去の碩学が見つけられなかった
ことを見つけられるのかよ。小学生時の知能指数をいってみろ。おっと国民学校かwww


877 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 22:07:22
>>860
十分論理的だと思うんだけど。
2chのような掲示板は、個人の掲示板より出入りする人数が大きいと推測できる。
人数が多いほど、レベルの高い人がいる可能性が高くなる。

卑近な例が、田舎の小さな学校で秀才と言われた子が、
都会の大きな学校に行ったら、普通の成績だったとかね。

878 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 22:14:10
>最近面白い文章を読んだ。「考古学研究」54−3に次山 淳氏が発表したもので、

>弥生時代終末から古墳時代(布留0〜布留1)にかけて、吉備形甕の分布は博多湾沿岸か
  ら、周防灘を通り→松山平野→今治平野を経て備後東南部→吉備→播磨→摂津沿岸から
大阪湾→河内湖→大和川→大和という道筋。

>分布の両端にあたる「西新町遺跡」と大和への出入り口「船橋遺跡」 そして「纏向遺跡」で突
出した出土がある。一番多く出土しているのが河内小阪合遺跡で45点。

これは、俺がずっと上でレスしたもので、ひとつの土器形式からみた、北九州ー纏向ルート。
この他、東海からのものなど物資搬入のルートは明らかになりつつある。単に年輪年代など
だけで畿内説を唱えてるわけではない。



879 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 22:21:22
>>877
普段は、こんなに連レス、早レスはしないんで、自分でも理知的な文章になってるとは思って
ないww だいたい俺は理知的に人を罵倒する(「少年の日の思い出」のエーミールだっけか?)
のような悪人ではない。wwwwww




880 :縄文人:2009/07/22(水) 22:24:10
>>873
巻向が都会だというなら(邪馬台国だというなら)7万戸余の人口を養う背後の食料供給体制がどの
ように形成されていたか述べろと言うのだ。そしてそこが邪馬台国ならばそれと争っていた強大と考
えられる狗奴国はどこだ。詭弁を弄せず、説得力あるまともな論を聞かせろ。

881 :縄文人:2009/07/22(水) 22:35:44
>>878
貴殿のような反応はまともだと思う。物資の動きは確かに何かを物語るだろう。そういう見方に私は
異を唱えない。ただ、土器などの年代が問題なのだ。その年代を決める方法だ。
今日は一寸暇ができたのでこの板を覗いたが、俺の登場で活気がでたろう。相変わらず負け犬の遠吠
えが多いけどな。さて、もう飽きがきたので帰るわ。あとはコドモどうしで楽しみな。ほなな

882 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 22:39:45
邪馬台国は葛城山麓を中心とした畿内連合でしょ。
そして投馬は但馬(出雲)の事です。

883 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 22:40:52
>>856 弥生のZ女
>畿内説は敗北したことになるかと存じます

馬鹿馬鹿しいと言うか何を勘違いしているのかな?w

理化学的年代測定の批判をして畿内説自体に勝利できると思っているのか?
おめでたい奴だなwwww

実年代の話を全て棚上げしても九州説の窮状は変わらないんだよw

「畿内説が優勢なのは理化学的年代の嘘っぱちの数字ゆえだ」
と思っているアホの九州説論者の多いことw

むしろ九州説は畿内説を封じ込める為には自らのよって立つ年代の
証明をしない限りまあ浮かび上がる事は無いだろうなwwwwwwww



884 :縦目仮面:2009/07/22(水) 22:49:42
やっとwww登場か。一人で相手するのは疲れたってか、連レス規制にかかりそうで不安
だった。しかし「縄文人」は人が読めないね。
>>853>>855>>857>>858>>859>>861>>862>>864>>867>>868>>870>>872>>875>>878>>879
これ全部俺なんだが。




885 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 22:54:02
と言うかいつも思うのだがこの板の九州説の連中って
近代以後の邪馬台国論争の流れを知らず

どうして九州説が今日この間の春成センセイの言を借りれば
『 絶滅危惧種 』とまで言われているのか全く理解していないアホばかりw







886 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 22:55:22
大和湖なるものが本当にあったのなら、なんでその事実が名前や神社の言い伝えなどに残ってないのか不思議。
目の前にある淡水湖には全く無関心で、遠くにある琵琶湖を近つ淡海と呼んでいたことも不思議。


887 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 23:05:02
じゃあ実年代全て棚上げしてもだ・・・

例えば岡村の漢鏡7期編年・・・と言えばそれだけで九州説の連中が噛み付いてくるネタだが
縄文人とか言う馬鹿が崇拝している安本でさえ
そのグラフの横軸−年代については異議を並べているが編年自体は概ね了承している。

で、年代は九州説の連中の好きにさせてやっても
やがて九州以東で飛躍的に鏡が出土する7期まで
九州で右肩下がりに順調に衰退傾向を見せているのは
年代をどう弄っても変わらない。

九州に魏から冊封を受けた邪馬台国が出現したのに
漢鏡の出土量が全く微増すらせず下がっている。

威信財体系、祭祀形態・・・等々、年代の話は抜きにしても
九州にそんな30カ国を束ねたような勢力があったと思わせる形跡が何も無い。

故に学者はもう九州説なんて見限って邪馬台国論争なんてのは昔の話になっている
・・・と言うのが今日の現状と見て良いのではないだろうか?wwwwwwwww

888 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 23:10:19
>>886
湖というのはいいすぎだな。低い洪積大地が水草の繁茂した沼沢地となった状態だったと
推測される。

889 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 23:12:52
>>886
大和湖は弥生中期までには消滅ですから。
後は安堵村周辺に沼が広がっていた位ですよ。

神社や古い言い伝えでは河が暴れたというのは多いけどね。
スサノウを祀る杵築神社が低地の川沿いに点在していたり、
他でもないヤマタノオロチ伝承を伝えている神社があるのも興味深い。

890 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 23:12:59
>>856
>説得力ある論拠を論理的な文章

うーん。
考古学関連でググればいくらでも見つかるんじゃないのかなあ?



891 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/22(水) 23:16:29
皆既日食みたやつおる?
わたしは、部分日食しかみてないが、
あまり大した事なかったというのが率直的な感想。

もっと暗くなると思ってた・・・。

892 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 23:18:15
殉葬について少し「チラシの裏」やっておくがwww

昔から(いや今でも)不思議だったのは
どうして巨大古墳に殉葬の跡が見られないのかと言うことだった。
(少なくとも墓域内には見られない)

まさか今日の人道主義のようなものがあったはずじゃなしw

巨大古墳を造営するにどれくらいの労力を投入したか考えれば
奴婢の数人ぐらい生き埋めにしても良さそうだと思うんだがwww

今のところ思っているのは古墳は首長霊信仰の祭祀を執り行う
祭祀場( ← ”さいきば” じゃなくて ”さいしば”な !)
と言うことを考えれば、そこに奴婢が入るのは相応しくないと言う感覚があったんでは無いだろうか?

更に言えば埋葬された「オウ」を「カミ」に昇華するのに邪魔だったとか?w

もしこの事について何かもっと合理的な説明を考えている人がいるなら意見を拝聴したいwwwww




893 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/22(水) 23:21:30
>>885
>と言うかいつも思うのだがこの板の九州説の連中って
>近代以後の邪馬台国論争の流れを知らず
>どうして九州説が今日この間の春成センセイの言を借りれば
>『 絶滅危惧種 』とまで言われているのか全く理解していないアホばかりw

君はバカだな〜。
私も畿内説ですが、畿内説ていえども、そう万全ではない。
まあ、言っても無駄と思うがw

894 :縦目仮面:2009/07/22(水) 23:24:37
>>785>>817は俺のレスです。生口・持衰などに関する記述などからも、徇葬はあって不思議
はないんですが、「穢れ」などの宗教的禁違とかなんですかね。



895 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 23:34:21
>>893

あれ?
君、いつから畿内説になったの?


896 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/22(水) 23:34:27
>>894
>俺のレスです

とか、後でいうぐらいなら、はじめからコテで書き込んだら?

>宗教的禁違

おじさんにも分かり易く説明してください。

897 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/22(水) 23:37:10
>あれ? 君、いつから畿内説になったの?

いつ私が九州説だって言ったの?だいぶ〜前でしょ?
ていうことは、だいぶ〜前かなwww



898 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 23:40:10
日蝕絡みの話題で盛り上がってるのかなと思いきや、不思議な程スルーだなw

899 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 23:40:43
宗教的禁忌でしたか。すいません、辞書持ってないんで。ww いや、この方面は詳しくない
んで、「神社で血を流すな」系のそれ程度しか思い浮かびません。

900 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 23:41:04
>>893 ドツボ
>私も畿内説ですが

いつ宗旨替えしたんだ?
確か熊本平野辺りを比定地にしてたと思ってたが・・・



901 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/07/22(水) 23:45:55
>>898
大した事なかったよ。
あれで弥生人がびっくりしたとは思えない。

>>899
高卒なんで〜さっぱりですわ www

>>900
んじゃあ そのときは九州説だったんだねw

902 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 23:46:43
ちなみに今終止符スレで拾ってきた・・・

>392 名前: 改め ◆PWTcGEfp1s [age] 投稿日: 2009/06/02(火) 15:37:20
>>389
>>山口は九州ではないぞ
>そりゃそうだ!
>九州説のわたしは、邪馬壹國を熊本、邪馬「台」国は沖縄じゃない?とする立場。
>その著者は南九州の宮崎説だったかな...。
>山口県に卑弥呼の墓が在ると言ってるのは、透視者のマクモニーグルなわけで。

…う〜ん、6月ならそんなに前の話でもない気がするがw

まあドツボの記憶力なんか当てにする方がお間違いだとは思うがwwwwwwwww



903 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 23:48:04
>>901

なにをきっかけに畿内説に転向したんだよ?

その話をしたほうが早いだろ。

904 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 00:10:21
>>880
マキムクの土器が都市と後背地との関係を示していると思う

905 :ローガン:2009/07/23(木) 00:32:14
>>892

殯… 古墳完成迄、被葬者が安置された場所がありましたよね? 殉葬はその近くに。

906 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 01:29:03
>>887
おまいは三角縁神獣鏡に舶載鏡が含まれているという都市伝説を信じるのか?

いい加減に洗脳から覚めろよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww


907 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 02:13:28
>>906
九州王朝説のサイキバ君か東遷説論者かな?
まあいずれにしてもアホ丸出しの九州説論者だが・・・

三角縁の舶載、岡村編年で言えば漢鏡7期第3段階かな?
そこから三角縁の舶載と想定されている物を引いたところで
九州と九州以東の鏡の出土数が逆転している大筋に変わりは無いだろうにw

無論、九州から出ている三角も引かれるって話だぞ?

『 岡村期編→三角舶載 ここにツッコミを入れればおk 』
…と言うテンプレが脳味噌の中に出来上がっていて
後は「 パブロフの犬 」の如く条件反射。

・・・少しは脳味噌使えよアホwwwwwwww



908 :907訂正:2009/07/23(木) 02:17:13
誤) 岡村期編→三角舶載
 ↓
正) 岡村漢鏡7期編年→三角舶載

909 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 02:18:47
>>907
んで、三角縁に舶載は含まれるのかなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww


日本で500面以上出土                          日本以外で0面



これでも「舶載」なんていうのは、正真正銘のカルトですなあwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

910 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 02:26:13
>>905
>殯

殉死者のお供も殯まで
そこから先は首長・王クラスの被葬者の一人旅って事なのかな?

でも、それならそれで、古墳の近くに何やら殉葬の跡と思われるものが幾つも見つかっている
・・・なんて話が出てても良さそうな気が。。

まあ古墳に墓誌が無い以上殉死者の墓にそんな物があるはずも無いだろうがw
パンピーを埋葬したただの土壙墓と区別なし・・・てのもねえ、、
埋葬方法、副葬品等々で何らかの形で”殉葬”であると言う形を残す物だろうと思うが・・・



911 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 02:35:45
>>909

良いかな?
アホのサイキバ君

「三角縁に舶載は含まれるのかな」と言っている時点で
全体の一部分(それがどれくらいの割合かは別にして)が舶載って話で

そこに全体の数を上げて全てが舶載か倣製かなんて選択を迫っている時点で

アホ丸出しなんだよ?wwwwwww

出土数が500なら実際に作られたのは、その何倍もの数であって
オリジナルを大量に複製したのなら数自体は問題ではない。

アホの一つ覚えで 500対0 と 吼えまくっても意味なし。

いつもいつも同じワンフレーズの繰り返し
サイキバ君のサイキバ君と馬鹿にされるゆえんだなwwwwwwwwwwww

912 :縄文人:2009/07/23(木) 11:30:58
俺は現役で働いている人間だから仕事の合間にこの板を覗く(単なる気分転換、お笑い組の代替)
のだが、世の中には暇な奴も多いんだなあ。夜中の2時過ぎまで書き込んだりして。責任のない奴
らは気楽でいいな。俺が退場した途端に元気になりやがって勝手なことをほざいとる。
いいか よく聞け。邪馬台国連合は未開拓の土地が多かった中国、畿内地方とその周辺の整備がで
きた時点(3世紀末か4世紀初)に本体部分が九州から移って行ったのだ。移動の原因は半島から
の渡来人の増加、人口の増加、そして何よりも九州南部の狗奴国勢力との抗争だ。
出土物の変遷はその経過の反映の一部だ。だが忘れるなよ 年代が畿内説の考えるところより後に
下がるのだ。この点はそのうち優秀な考古学者が現れて証明してくれるだろう。
なお、俺は安本先生とかいうご仁を崇拝などしとらんよ。だいたい俺は記紀の神代の話はお伽噺み
たいなもんだと思っとるんだ。俺と安本氏を結びつけて見ている奴よ 見損なうな。

913 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 11:40:43
>>912
ふーん。ならば、邪馬台国はどこにあったというのかな? 
九州のどこ? 行程記事はどう解釈する?

914 :縄文人:2009/07/23(木) 12:08:48
邪馬台国の所在地候補は九州にはいっぱいある。筑前、筑後平野や熊本平野を食料生産地として持ち、
防衛にも適した地勢の場所に卑弥呼の宮殿が存在したであろう。その候補地はいくつもある。それは
存在可能という意味でだ。俺はマニアではないから”可能なところであればどこでも良いのだ”という
スタンスだ。可能でないところはダメだけどね。畿内は可能性がないのだ。理由は既に述べた。

915 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 12:15:02
候補地が沢山あってよかったねw

理由は述べた?誰も納得してませんよ。

916 :縄文人:2009/07/23(木) 12:26:57
>>915
おぬしは頭が悪いのよ。自分でよく年代測定法を検討してみろ。出来そうもないがな。がはは

917 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 12:31:20
縄文人は根本的に何も理解できて無いからなw

無能は語るだけ時間の無駄ですよ。

918 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 12:36:26
>>914
>邪馬台国の所在地候補は九州にはいっぱいある。

仮に九州説の一つの候補地が正しいとしても、
いっぱいある他の候補地は、皆ことごとく嘘をついていることになる。
誉められるものではない。
九州説は嘘つき合戦の様相を呈している、とも言える。
九州説は今後は厳しい相互批判を行うべきである。

919 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 12:40:05
九州説はまず候補だけでも絞らなきゃ
話にもならないでしょ。

920 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 12:54:08
魏から東に向かうと九州だろ
九州にいた田舎ものが邪馬台国を名乗ってたとするとつじつまが

921 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 12:58:16
>>918
正しくないからといって、嘘をついているということではない。
近畿説は正しくない。九州説は正しい比定地一つをのぞいて他は正しくない。
それだけのことだよ。


922 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 13:05:55
>九州説は今後は厳しい相互批判を行うべきである。
これはいいかもね。どうせ、近畿説は問題外だ。近畿説がどうのこうのとは言わず、
九州の中でどこが邪馬台国かを徹底的に考えるべきだろうな。

まず、第一に伊都国の比定だね。 末盧国=唐津はまず問題ないだろう。その末盧国
から東南陸行五百里、唐津から東南となれば佐賀市付近だ。そこならば、唐津から
陸行した理由も分かる。南水行の意味も十分に理解できる。



923 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 13:11:03
>>921
>九州説は正しい比定地一つをのぞいて他は正しくない。

そういう認識があるのならば、
>>914
>邪馬台国の所在地候補は九州にはいっぱいある。

が実にくだらない主張であることは理解できる筈だ。

924 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 13:12:54
>>919
ふーん。じゃあ君はどこだと思ってんだね?

925 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 13:15:28
>>922
徹底的に考えても九州では有り得ませんよw

どうせ倭人伝だと矛盾がでるし、
それこそ何百年と検証されてるでしょ。

926 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 13:17:55
畿内はそれらしい場所が1箇所しかないならな
だったら早く誰もが納得する証拠をあげてほしいものだ

927 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 13:18:29
早く宮内庁が古墳調査させれば良いのに。
藤村新一の様な捏造癖の無い人だけ集めてさ。

928 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 13:20:19
1箇所しかないにも拘らず、未だ確たる証拠も出せない。
すなわち邪馬台国ではない。

929 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 13:21:01
>>924
畿内で和泉〜河内〜大和の連合。

倭国大乱の結果、丹波や吉備、九州の勢力が
ここで共立の国を造った状態が倭人伝の記述だな。
巻向は大和東部への進出過程ですよ。

930 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 13:23:16
>>928
確たる証拠を出せない>候補地すら絞れないでしょ。

931 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 13:26:47
>>925
日向説ならば、倭人伝どおりで何ら矛盾はありません。

932 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 13:30:35
>>931
九州説なら日向はまだ可能性有ると思ってるよ。


933 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 13:30:37
>>923
複数の候補地があって、そのいずれかを決めかねるっていうのは何ら
くだらない主張ではありません。
証拠もなく決めたっていう方がくだらない主張というべきものです。

934 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 13:42:47
>>932
日向説を正しいとする立場なら貴君は
>>914氏の
>邪馬台国の所在地候補は九州にはいっぱいある。

の如き主張ではなく、
日向以外の九州内の候補地をことごとく否定し
日向説以外の九州説は全て論破していく態度が肝要である。

935 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 13:50:25
日向説以外の九州説は、最近あまり主張されていないように思うけど。
行程記事をトンデモ読みするか、行程記事を無視するか、そんな話になって
しまうからね。論破するほどの説がないということですよ。

936 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 13:51:11
>>934
偉そうに他人に指図すんなボケ

937 :縄文人:2009/07/23(木) 13:56:06
俺が九州にはいっぱい候補地があると言った意味はだな。それだけ7万戸余の人口を養う生産能力の
ある場所が多くあるということと、弥生時代の遺跡、出土物の質の高さが先進地域としての優位性を
物語ることから、可能性が極めて高いということだ。畿内は4世紀以降に発展したのだ。九州勢力の
お陰でな。そういう大局的なビジョンが俺の関心事なのだ。繰り返し言うが、俺は畿内説のアホども
(アホでない人もいる 公明正大な俺の認識として言っておく)のようなマニア、オタクじゃないか
らな。

938 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 14:07:57
>>936

小生は>>914氏の
>邪馬台国の所在地候補は九州にはいっぱいある。

の主張の如きは
九州説が正しいことの何らの論証になっておらぬ、と言いたかったまでだ。

むしろこの主張から判ることは、諸説乱立する九州説の中には
幾多の誤謬が充満している、という点である。

939 :ローガン:2009/07/23(木) 15:03:29
>>910
> パンピーを埋葬したただの土壙墓と区別なし・・・てのもねえ、、

「土壙墓に埋葬」すらなかったんじゃないかなあと。垂仁紀からの勝手な想像ですが。

940 :縄文人:2009/07/23(木) 15:27:38
>>917
おめ〜 自分の事を棚に上げて何ぬかすか。おめ〜に何が分っているんだ。言ってみろ。おめ〜なん
か人の上に立つような器量を持った人間じゃなかろう。古代の指導者、支配者がどのようなものだった
か想像もできめえ。國を運営することがどのようなものだったか、おめ〜の見解でも述べてから大きな
口を叩け。「あいつは何も分っていない」というセリフは無能な奴の常套句だ。俺はそういう奴らを
よく知っておる。哀れな奴らだ。負け犬の遠吠えというやつだ。反省しろ。言っても無駄か。うん

941 :縄文人:2009/07/23(木) 15:37:24
>>936
邪馬台国(卑弥呼の宮殿所在地)をピンポイントで指定しなければダメだと主張する奴らはオタクだ。
俺は存在が可能な条件を備えた地域を言えば十分だと思っている。存在を直接証明するには卑弥呼の
墓が発見されれば一番だが、まだあるかも知れんが、壊されて無くなっているかも知れん。発見でき
れば幸運だというところだ。

942 :ローガン:2009/07/23(木) 16:06:36
>>912
> いいか よく聞け。邪馬台国連合は未開拓の土地が多かった中国、畿内地方とその周辺の整備ができた時点(3世紀末か4世紀初)

この実年代の根拠はなんでしょう?



943 :縄文人:2009/07/23(木) 16:54:32
>>942
古墳の築造年代が3世紀末〜4世紀初以降に(近年の朔上論に逆らって)なるからです。実はホケノ
山古墳の築造年代について奥山誠義氏の挙げているC14年代測定法データ(2008年11月、橿原
考古学研究所編集の最新の報告書『ホケノ山古墳の研究』)では4世紀中頃を示す値が中心値になっ
ている。しかるにところが、調査概報をまとめた橿原考古学研究所調査研究部長(当時)の河上邦彦
氏は出土した画文帯神獣鏡の存在を重視して3世紀半ばの築造として世間に発表した。測定結果を意
図的にねじ曲げて年代を古くしたのである。あまり暴露的な情報を流したくないが、事実をねじ曲げ
るのはよくないので仕方がない。要するに、畿内の古墳の築造年代は発表されたものより2百年も後
世になることも考えられるのである。それはすなわち、そのような文化の発生が4世紀以降になるで
あろうということである。優秀な考古学者(達)がそのうち証明してくれるだろう。

944 :◆.L.MXSPOgc :2009/07/23(木) 17:14:27
>>935
私の説を忘れてもらっては困る。
トンデモ読みなどせずに書かれていることが理解できる。
方角を偽るとか放射説とか日程を行程記事だと信じるとか、
そんなことしなくても良いということが分かるはず。

前の書き込みにも書いたけど、日向説とかたたきやすくて皆たたきまくるけど、
私の説は誰もたたけない。誰も論破できない説なんですよ♪

http://yamat-2007.blogspot.com/

945 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 17:21:30
>>943
C14年代測定法データを全て信じるという立場じゃね。
しかし測定した有機物資料と古墳の築造年代を
ストレートに結び付けてもいいのかな?

946 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 17:45:24
>>912 縄文人

おい馬鹿、ここはチャットじゃなくて掲示板だぞ?
け・い・じ・ば・ん 分かるか?アホ
お前の閲覧書き込み可能な時間なんて、誰も知った事ではない。
甘えるなドカスがwwww

でだ、

>だが忘れるなよ年代が畿内説の考えるところより後に下がるのだ。

…と、まあ、根拠の分からない大口叩いているが
結局「東遷説」が初めにありきで、そこから年代を決めている。
自説に都合の良い希望的観測と言うか、まあ、ご都合主義だなw
もうこの板の人間なら、うんざりするほど見てきた現象ですwwww

東遷説論者の習性と言うか
安本みたいなオーソドックス?な東遷説(東征勢力が大和朝廷の祖となった)
だと九州の邪馬台国と纏向が同時代に並存していただけでアウトw
(今後は奠都説が主流になっていくんだろうなw)

自説に都合の悪い年代観にイチャモンつけるのに必死になるばかりで
自説の年代観の証明は全くお留守と言うのが現状。

この「縄文人」とか言う馬鹿にしても
「畿内説はエライさんの受け売り」とか威勢良くほざいているが

>この点はそのうち優秀な考古学者が現れて証明してくれるだろう。

・・・と結局将来現れるかどうかも分からない優秀な学者先生に丸投げ…ってんだから
もうアホは豆腐(絹ごし推奨)の角にでも頭ぶつけて氏んどけとwww


947 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 17:46:15
>邪馬台国の所在地候補は九州にはいっぱいある

…これもこの縄文人他、この板の多くの九州説論者が如何にアホなのか?を端的に語る台詞だよなw

「ぼっくんの きゅしゅうは こうほち いっぱいなんだぞ えらいんだぞ えっへん」

てか?wwwwww

結局、どれもこれもどんぐりの背比べ、一長一短で絞りきれない材料不足を露呈しているだけの話w

(まあ、それでも総合点で一応「ツクシ」が最有力なんだろうが
 行程記事の束縛を無くし単に考古学的資料で言えば福岡平野が最有力になるんだろうとは思うが・・・)

948 :縄文人:2009/07/23(木) 17:58:56
年輪年代法の問題点 再確認
木材は形成層と呼ばれる生きた細胞の組織で細胞分裂によって生長する。気温
が高く、水分供給と日照量の多い夏期には生長が早く気温の低い冬季には生長
が遅い。このため年輪が形成される。年によって気象条件が異なれば年輪幅が
異なる。年輪年代法の原理はここにある訳である。実際にどのようにして年輪
パターンを求めるかについては>>848に大学の方が説明して下さったのでその
部分については省略するが、殆どの人が認識していない問題点は深刻なもので
ある。
今、仮に、1500年前まで年輪パターンをつなぐことが出来たとしよう。ところ
がそれ以前の素性の明確な木材試料がない。あるのは遺跡出土の木材だけであ
る。遺跡の築造年代は1500年くらい前かも知れないが、よく分からない。木材
試料の数も少ない。しかし、とにかく年輪パターンを作ってみた。その年輪パ
ターンと一致する部分を1500年標準パターンに重ねて調べてみた。幸い年輪パ
ターンの一致する部分があり、この部分でつないで標準パターンを1550年まで
延長できた。ところが、実際には件の木材試料は1400年前に伐採された100
年生の木材であった。このようなことは起こりえるのである。100年や200年
の時間スパンにおいて気象条件が似通った10年の期間などいくらでもあり得る。
つまり、年輪の標準パターンを作るには、伐採年が明確な木材試料が必須なの
である。生産地には目をつむるとしても(出土地とさほど遠いところではなか
ろうと仮定)伐採年が明確な、1500年以前の(十分な数量の)木材試料の入手
は不可能と言ってよい。つまり、1500年以前の標準年輪パターンがないのであ
る。無理矢理作り上げたものはあるかも知れないが、それは信頼できるもので
ないことは明らかなのである。
畿内説の諸君 分ってくれたかな。


949 :縄文人:2009/07/23(木) 18:14:53
>>946
おぬしは救いようのない馬鹿だな。この書き込みは単なる負け犬の遠吠えでしかない。おめ〜の頭
にゃ糠味噌しか詰まっとらんのだろうな。文章が糠味噌臭いぞ。えらそ〜な口をきいてないで、ま
ともな反論をしてみろ。できね〜から悪口しか書かんのだろ。俺はC14年代測定の数値をそのまま
鵜呑みにしてるんじゃねえ。地理・地勢、地質、出土物資料、倭人伝など各方面から考えて畿内の
古墳文化は4世紀以降、邪馬台国の立地条件は畿内にないと言っとるのだ。これにまともに反論し
てみろ。できね〜だろうな。反論のしようがないからな。ばかめ。

950 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 18:28:30
>>937 縄文人

この馬鹿レスも九州説論者(特に東遷説論者)の陥りやすい穴だなw
…まあ仮に一回そこに落ちてもチョッと頭を使えば容易に出てこれるんだがwww

生産能力云々のお話は、別に九州が飛びぬけて優れていたわけでもなんでもない。

日本全国の弥生時代の遺跡の有名どころを挙げてみりゃ直ぐ分かる。
関西の唐古鍵、池上曽根、東日本なら登呂、朝日、山陰なら青谷上寺地、妻木晩田・・・
加えて古代の人口を想定したデータでも九州が他地域を圧倒していたなんてなんて物も見た事が無い。

結局、九州説の連中は何のことは無い、九州内でしか物事を考えられないアホだと言うこっちゃねwwwwww

半島から島伝いに往来できる九州がその文物の豊かさから常に先進地域であったとい言うならばだ
鉄の国内生産が本格的になるまで九州が他地域に対して圧倒的なアドバンテージを保有していなければならない。

が現実の歴史はそうでない事は義務教育を受けた真っ当な日本人なら誰でも知っているところw
そうするとその勢力の逆転は東遷説を持ってくるしかなくなるって話でwwww

もれなく東遷説とセットの九州説なんかそりゃ多くの学者には相手にされないだろうって話でwwwwwwwww

951 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 18:34:01
畿内の河内なんて地理や地質、地勢、出土品、倭人伝の記述でも
充分邪馬台国の要因を満たしてると思うけど。

952 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 18:37:50
>>949 縄文人

おい馬鹿。

お前根本的に勘違いしているようだが俺は「 C14年代測定 」とか
理化学的年代測定を金科玉条にして畿内説を唱えた覚えは無いぞ?w

どうせ水掛け論になるのは分かっているしwwwwwww

「実年代の棚上げ」・・・別に一向に構わないw

で、お前の考える年代観の根拠は何なんだ?

 >古墳の築造年代が3世紀末〜4世紀初以降に(近年の朔上論に逆らって)なるからです。

はあ?年代観の根拠を聞かれてこれじゃあ話し通じて無いぞ?
ニホンゴワカリマスカ?

どうせお前は

「理化学的年代測定の不備を突けば畿内説なんかボクにもやっつけられる!」

と意気軒昂にこの板に乗り込んできたんだろうが
九州説の置かれている深刻さはそんな程度じゃあ逆転できるほど甘くは無いぞ?

残念だったな厨房wwwwwwwww





953 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 18:41:54
あとやっぱり水銀だな。ベンガラなんて何処でも採れるが
弥生後期で水銀となると和歌山、宇陀しか採れないよね。


954 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 18:59:04
九州でも採れるから心配すんな

955 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 19:05:32
まあこれも定期的に書いている気もするがw

先ず大前提のお話としてだ…

山陰の四隅、吉備の楯築や墓上の祭祀で使われたであろう特殊器台
畿内を中心にした前方後円墳、東日本なら前方後方墳・・・

・・・といった大型首長墓による祭祀と言う動きが九州には見られない
と言うか列島規模のムーブメントに乗り遅れたのか、あえて乗らなかったのか?

まあそう言った大型首長墓なんてこの板の九州説連中に言わせりゃ
「単に大きなお墓」程度の認識なんだろうがwwww

重要なのはそれぞれに地域的広がりが見られ
墓上での祭祀に重きがおかれている点で
(ある意味巨大な舞台装置)
首長らが一堂に会して祭祀を行う事で連携を強化したであろう事が想定されている。
まあ「弔問外交」と言えば俗っぽすぎるかな?wwwwwwww

九州にはその大型首長墓もなく、果たして「統合の動き」と言うものがあったのかどうかさえ不明。
別に土器でも威信財体系でも弥生時代後期に九州で急激に斉一性が高まったとか言う事例があるか?ッて話で

ここら辺の話は実年代とは関係なく九州に邪馬台国を中心にした30国を想定する事が難しい条件になっている。

だから理化学的年代測定に距離を置いている学者も九州説なんてとっくに見放しているわけでwwwwwwwwwwwww


956 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 19:17:01
魏志倭人伝には前方後円墳だとは一言も書いてない。
そんな珍しい形状なら必ず記録する。
と書くと、魏使は直接見てないからと草生やして言い出すんだろうが。

957 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 19:25:58
>>956
「前方後円墳」なんて文字が倭人伝に出ていたらそりゃ驚天動地の出来事だなwwwwwwwwwwwwww

958 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 19:28:55
ガキの屁理屈しか返せないわけだな。よくわかった。

959 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 19:29:21
>>956
別に珍しいというほどの形状ではないと思うよ。

960 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 19:31:21
朝鮮半島にはあるね
こりゃ大和地方に居たのは朝鮮人だな

961 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 19:38:59
>>960
わかった? 高句麗の滅亡とともに半島から倭国へたくさんの人たちが亡命して
きたのさ。北九州が後ろ盾となってその人々を移住させた先が近畿なんだよ。

962 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 19:43:48
>>944 二 ◆.L.MXSPOgc
>日向説とかたたきやすくて皆たたきまくるけど、
>私の説は誰もたたけない。誰も論破できない説なんですよ♪

自己陶酔でうっとりしているところ悪いんだが…

お前さんの説は内容を見るためにブログにあたっても
全体の骨子を把握するためにどんどん過去の書き込みに遡っていかなければならず
非常に分かりにくい、と言うか
「何が悲しゅうて、こっちが過去ログ拾って説全体の再構築の骨折りをせねばならないんだ?」
…と投げちゃうんだよねwww

少なくとも俺はそうだったw
他の人間にしてもブログを読んでも途中で嫌気さして読むの止めた人間が多いんじゃないのか?w

もう少し「読ませる工夫」をしたらどうだ?
批判、批評を望むのであればだ。

これがレポートなら俺だったら即座につき返して、採点の対象外にするわwww



963 :縄文人:2009/07/23(木) 19:51:20
>>952
なんだ馬鹿。
まともな反論もできないくせに吠えやがってアホか。水掛け論になるような話じゃないぞ。おめ〜に
理解する能力がないから話にならないのだ。ドアホ。
畿内説の置かれている状況はおめ〜には理解できないのだ。馬鹿だからな。引っ込んでろ。

964 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 20:02:14
>>963 縄文人

では具体的に聞いてやろうw

「先進地域九州なら7万戸の大国を想定するに相応しい」

とかほざいているみたいだが・・・

とりあえず二万戸の奴国は何処に置く?
通説なら福岡平野だが
それの2倍強の投馬国、3倍強の邪馬台国を置ける場所地域となると限られてくるぞ?

まあ中には筑紫平野を南北二つに割って・・・って説もあるが
じゃあ倭人伝の行程記事とどう折り合いをつけるかだなw

一体五万戸の投馬国は何処だ?七万戸の邪馬台国は何処だ?

大口を叩くならその場所をそこに大きなクニがあったことを示す考古学資料をもってきて説明してからにしろドカスがwwwwwwwww


965 :縄文人:2009/07/23(木) 20:09:38
>>955
こんなことで畿内説が成り立つと思っているのがおめでたいのだ。
大型首長墓による祭祀なんてのは4世紀以降に出て来たものだと言っとるだろが。まだ分らんのか。
九州から移った連中(半島からの移住者も多く含まれていただろう)が始めたことだ。俺が提起した
遺跡、出土物の年代についての問題についてまともに反論しろ。そこが決定的なポイントだ。
まあ なんだな。おめ〜らには反論できる能力がないから 罵るしか能がないから 可哀想だけどな。

966 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 20:11:43
>>954
へー、何処で?
弥生末期に採掘してた場所教えて下さいね。

967 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 20:19:32
>>961
そうだよね
半島出身者には、九州じゃ暑過ぎて馴染めなかったのかも知れん
すると関西に在日の人が多いのも、祖先が住んでた土地だからだよな
目から鱗だわ

968 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 20:23:07
>>966
なんで1800年前の露天掘りの跡が残ってるんですか?
見つけられたらエスパーですよ

969 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 20:23:47
>>965 縄文人

いいかな厨房君?
>955で言ったのは九州説が成り立ちにくい要因のお話で
畿内説が成り立つかどうかの話ではない。

頼むから幼稚園児相手じゃないんだから
ここまで手取り足取り説明させないでくれドカスwwww


>大型首長墓による祭祀なんてのは4世紀以降に出て来たもの
って根拠は東遷説が初めにありきのお話で
そうやって実年代を持ち出すならて、めえがその根拠出せと言う話だなアホ。

しかし山陰の四隅も吉備の楯築も4世紀以降か・・・

九州説の電波にはなれていたつもりだったが
まだまだ甘かったようだwwwwwwwwwwwwwwwwwww


970 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 20:25:38
>>967
心配するな、半島なんて半分は本来日本の物だよ。


971 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 20:27:54
>>968
徳島や宇陀にはあったはずだけど。

972 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 20:33:49
結局、倭人伝の行程記事の方角(南)をその最大の根拠として強弁するなら
終いには隋使の訪れた地も九州の何処か?
・・・と言う『九州王朝説』と抱き合わせになる。

で、今はしゃいでいる縄文人のように
「九州の半島に近いと言うアドバンテージ」と言うことを殆どドグマの如く扱うなら
どの道ヤマト王権が起こる現象を説明するに
『東遷説』と抱き合わせにならざるを得ないwwwwww

まあ学者ならずともできればどちらも遠慮したい話だろうなwwwwwwwww

973 :縄文人:2009/07/23(木) 20:47:29
>>969
おめ〜はほんとのアホだな。畿内説のおめ〜の論拠のひとつが大型首長墓による祭祀だと書き込んだ
じゃね〜か。自分の書いたものだ。思い出せ。その論拠が崩れるのは前方後円墳の築造年代が4世紀
以降になるからだよ。それはおめ〜みたいな年代測定法に疎い、頭の悪い奴には理解出来ないところ
だろうよ。ドカスはおめ〜だ。それから なんだ W W W Wとは見苦しいぞ。臭い書き方はやめろ。

974 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 20:55:05
だからさ、畿内箸墓が邪馬台国だというなら、早く確証を出してよ
九州みたいにどこだか絞れない状態じゃあるまいし、
どうしていつまでもいつまでも証拠が出てこないわけ?
グダグダと議論を続けたいのは、実は畿内論者の方なんでしょ?

975 :縦目仮面:2009/07/23(木) 20:56:42
くそう、あちいぜ。剣道やるには最凶、最悪の季節だな。吐くところだった。

wwwが頑張ってるようだね。ま、しかし縄文人はお笑いだよな。しかも自分で何がお笑いか
わかってない。自から年輪年代には、伐採地や伐採年に問題があるから信じられないとい
っておきながら、ホケノ4世紀中頃というデータは肯定している。これは自己矛盾以外のなに
ものでもない。つまり、ご都合主義。自分の望む方向に年代を持って行きたいというのは、
wwwのいうとうりだね。


976 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 21:02:02
>>973
ところで、お前は日本の年輪年代は信じないという意見なんだろ。だったら。年輪年代以外で
大型古墳4世紀だか、5世紀だかを説明してみろよ。ま、お前が安本厨でないというなら、それ
は幸いなことだな。安本が土器のことで責められて、ひねり出したのはあまりにトンデモと
いうか醜い説で、最初読んだときは俺はあいた口がふさがらなかった。一言忠告しておくが、
「季刊 邪馬台国」は読まない方がいいぜ。ww

977 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/07/23(木) 21:08:30
>>935
>日向説以外の九州説は、最近あまり主張されていないように思うけど。

私の説も忘れてもらっては困る。
邪馬台国の卑彌呼の都のある場所と多利思北孤の都のある邪靡堆の場所は同じ。
かれらの都の場所は久留米。
2chでは、2006年からその様に書き込んでいる。


>>944
>http://yamat-2007.blogspot.com/
>ちなみに観音峠ルートの存在は2chの掲示板で教えていただきました。
>この場をかりてお礼を申し上げます。

これは、僕へのこと?
観音峠ルートは僕以外の書き込みは見たことないんだが。

もし僕なら、
どう致しまして。
参考になるのなら、どうぞご自由に活用下さい。

978 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 21:09:37
>>974
墓を掘れないんだからどうしょうもないけどねw

でも少なくとも系図や色んな伝承、諸国の共立を彷彿させる土器の出土など、
卑弥呼を思わせるような姫の墓ではあるでしょ。
この墓の年代が倭人伝と合致するとなると、
そりゃ有力候補にはなりますよ。

979 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 21:15:10
ところで縄文人は畿内の土器の編年は100年新しい方にずれるといってるようだが、畿内
だけずれるということはありえない。すりあわせができている北九州の土器も畿内に合わせて
100年ずれてしまう。そうでないと土器とともに出土した遺物の新古の順がめちゃくちゃに
なる。邪馬台国甘木説の安本の場合はそれを回避しようとして、自分の説がめちゃくちゃに
なった。

980 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 21:17:43
もともと邪馬台国は北九州にあったが卑弥呼の時代には畿内に移動していた。

981 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 21:19:53
安本先生もいい加減畿内の地名移植説や、高天が原北部九州説は引っ込めた方がいいな。
これからどんどん引っ込みつかなくなるよ。


982 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 21:20:49
畿内論は、基本的に場所が定まってるから、弱点を見つけるのは楽だろ?
箸墓なんて、めちゃくちゃピンポイントな候補地だ。

ところが、九州論は場所すらバラバラ。
お互いに弱点言い合ったら、畿内論の方がつらいよな。
相手の場所わかんないのに議論するんだもん。
こいつは、どう考えても不公平だ。

畿内論にいくら不利な材料を並べたところで、
九州論が相対的に信憑性を持たないんだよね。
過去ログ読んだだけの、ただの感想だけどさ。

983 :サガミハラハラ:2009/07/23(木) 21:28:04
高天原北部九州説はまちがいありませんよ。ただし場所は朝倉甘木の裏手ではありませんが。

984 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 21:30:12
発掘が進まないのは、単に宮内庁が禁じてるからだけではないよ。桜井市の予算書を読んで
みたが、纏向遺跡の発掘より、纏向小学校のトイレ改修工事などのほうが優先されてる。ww
まあ、もっともなことだよな。このスレの人が考えてるほど、古代史に世間一般の関心はない。
ただ、箸墓発掘の許可がでたら飛びつくところはいっぱいあるだろうが。




985 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 21:35:09
箸墓の周辺は興味深いよね。あの場所は元々は出雲郷だし。
現在でも箸墓の西側の地名が豊田に豊前、
大西や大泉なんてのもありますよ。

986 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 21:37:22
>>982
そうだよな。せめて東遷か九州王朝か、どちらかに絞ってくれればいいのにねえ。


987 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 21:40:41
九州も同じ事。新幹線にしか関心が無い。
実際過去国鉄建設のため数多くの古墳が失われている。
これらの精査が現代行われていたら、たらればだがな。

988 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 21:42:19
>>987
でもJR九州の社歌には卑弥呼が入ってるぞw

989 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 21:47:54
へえーじゃあ九州で決まりだね♪

990 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 21:53:15
>>954

九州のどこでとれるんだ?


991 :縄文人:2009/07/23(木) 22:00:16
縦目仮面という奴はアホか。ホケノ山古墳のC14年代測定の値(測定値の中央値)が4世紀半ばという
のが実際に担当した当事者の結果だったのに概報のまとめ役がそれを隠して3世紀半ばの築造だという
ことにしたという話はしたが、4世紀半ばが正しいと言った覚えはないぞ。よく読んでみろ。こういう
操作が行われたということを言ったのだ。お前、考古学の学生か?も少し真面目に勉強しろ!!もちっ
と骨のある論を考えろ。お前みたいな馬鹿がいるから考古学が発展しないのだ。馬鹿め。

992 :縦目仮面:2009/07/23(木) 22:07:28
>>991
おやそうですか。文章が下手でわかりませんでした。じゃ年輪年代は信じられないってこと
でご破算。ww 俺も光谷氏以外の標準曲線ができて、比較対照できるようになるまでは留
保ですから。
ところで、このリンクの下のほうの図を、近畿だけ100年ずらしてみてくださいよ。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html


993 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 22:11:51
だいたいこの「縄文人」は何を考えてるんだか全然わからん。夏休みの中学生とか多い
この板に来て、えらそうにしたいのかね。だとすれば実生活でよほど阻害されている人だ
な。「俺ほどの能力の人間を、世は何故受け入れない」とか思ってるんでしょう。ww


994 :縄文人:2009/07/23(木) 22:17:40
>>964
福岡平野が2万戸なら筑後川流域およびその南部一帯は佐賀南部も含めるとゆうに10万戸を養える
農業生産力のある平地があるぞ。熊本平野にしても7万戸どころではないぞ。都城盆地だって2万
戸はゆけるぞ。日向地方だって5万戸は固いぞ。宇佐地方だって万戸は下らないぞ。それほど生産
適地が確保できるのだ。それに比べると畿内の弥生期には万戸の人口を養える生産適地がなかった
のだ。これは地理、地勢、地質学的見地から言えることだが、まだ技術的後進地域であったという
理由もある。


995 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 22:20:55
「縄文人」も曲学さんの掲示板にいたのなら、こんなくだらないことやってないで、自費で
自分の候補地の地中レーダー探査でもやってみたらどうですか?道路工事でもやってるし、
結果はすぐ出る。そんなにお金もかからない。

996 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 22:22:03
うめ

997 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 22:22:49
宇目

998 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 22:24:37
>>994
歴史人口学の鬼頭宏氏の計算で、弥生後期の人口60〜100万人、7万戸なら一戸5人
としてそれだけで35万人、ありえないね。ちゃんとした根拠出して言えよカス。

999 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 22:25:13


1000 :998:2009/07/23(木) 22:26:21
おっと忘れ物。http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1150.html

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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