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♪邪馬台国 ドンと来い♪ 41

1 :日本@名無史さん:2009/04/02(木) 23:49:25
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http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1237602647/l50

214 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 08:43:21
距離の説明は次から次えと順番に説明しているのだから
日数の説明も
「南至投馬國」の基点が帯方郡なら
次の「南至邪馬壹國」の基点は投馬國になるはずだろ。

215 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 09:13:08
>>213
>基点が帯方郡ならば、倭は帯方の東南大海の中なのに、何で「南〜水行」なんだ?
>基点が不弥国ならば、水行二十日、水行十日陸行1月の投馬国や邪馬台国がなんで隣村なんだ?

烈しく同意!

216 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 10:05:22
伊都国から放射説
伊都国中心から東に7`不彌国中心
伊都国中心から東南に7`奴国中心
不彌国中心から奴国中心の距離5.3`
二辺7`底辺5.3`の二等辺三角形となり
不彌国中心から奴国中心のズレの平行距離はたかだか2.1`
よって不彌国の南は奴国であり邪馬台国の入る隙間がありません

217 :九州王朝大好き:2009/04/11(土) 10:30:06
>>213
>基点が帯方郡ならば、倭は帯方の東南大海の中なのに、何で「南〜水行」なんだ?
『倭人在帶方東南大海之中』
主語は倭人であって女王國ではありません。
『女王國東渡海千餘里復有國皆倭種』の倭人も含まれます。
ですから、倭人全体としては南ではなく東南となるのです。
冒頭の文ですから倭人全体のことを述べているのです。
「南〜水行」はそれぞれ投馬國と邪馬壹國に対してです。

>基点が不弥国ならば、水行二十日、水行十日陸行1月の投馬国や邪馬台国がなんで隣村なんだ?
投馬國と邪馬壹國への「南」の基点です。
「水行二十日」と「水行十日陸行一月」の基点は帯方郡となります。
陳寿は同じ事を繰り返して書きません。
不彌國までに里数による道程で、投馬國や邪馬壹國が帯方郡の南であることを述べています。
同じことの繰り返しを避ける為、より詳細に説明する為に「南」の基点を不彌國に置いたのです。

狗邪韓國→對馬國
對馬國→一大國
一大國→末盧國
上記3つは南方向への移動であると陳寿ははっきりと書いているのです。
それが判る方々なら上記説明も理解していただけると思います。
ご理解出来ない方々にはより詳しい説明が必要となります。

繰り返しますが、
以上は古田説による読法で読んだものです。
古田説の陳寿文の読法を支持しています。

218 :九州王朝大好き:2009/04/11(土) 10:33:17
>>214
>「南至投馬國」の基点が帯方郡なら
>次の「南至邪馬壹國」の基点は投馬國になるはずだろ。

動詞+至+国名

動詞無し+至+国名
の違いはご存知でしょうか。
順次説と放射説のことです。


繰り返しますが、
以上は古田説による読法で読んだものです。
古田説の陳寿文の読法を支持しています。

219 :九州王朝大好き:2009/04/11(土) 10:42:53
>>214
「邪馬台国はなかった」古田武彦著
上記内容を一度知って下さい。

220 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 10:43:52
>>217
「南至投馬国水行十日」は、不弥国の南に投馬国がある、帯方郡から水行十日だ、って
読もうということかね。方角の基点は不弥国、距離の基点は帯方郡? 文章の読み方と
して、無茶苦茶だね。それが古田説なら古田は文章を読む力がまったくないということだな。

221 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 10:47:29
>>218
>動詞+至+国名と動詞無し+至+国名の違いはご存知でしょうか。
>順次説と放射説のことです。
古田の妄説はともかく、順次説と放射説のちがいは動詞のあるなしではないよ。


222 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 10:56:24
どうせ行ったこともないトコの、又聞きの話(by陳寿)

223 :九州王朝大好き:2009/04/11(土) 10:59:01
>>216
主張の通りです。
これを3世紀の地形(佐賀平野)に当てはめると、
不彌國の中心地の直ぐ南には有明海が北に入り込んでいます。
奴國の中心地の東側は北に入り込んだ有明海です。
不彌國の領域で南が有明海で無いところは、
不彌國の中心地から2km以上東に行ったところです。

伊都國の中心地から正確に東南方向に7km進むと、
現在より北侵している有明海の中になります。


224 :九州王朝大好き:2009/04/11(土) 11:03:46
>>221
順次説と放射説のちがいは動詞のあるなしですよ

225 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 11:10:17
榎の「邪馬台国」でも読んでみたら? 動詞のない放射式の文章が載ってるよ。

226 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 11:17:50
不弥の南に投馬があるのなら不弥から何里でいいのでは?
投馬国を郡から総日数で表す意味はなんなの?
最終目的地である邪馬台国までの総日数だけを記載すれば
いいんじゃないの?

たとえば
南至さいたま水行二十日
南至東京、総理之所都、水行十曰、陸行一月。
至さいたま水行二十日←東京に行くのにコレは必要か?って話

南至大阪水行二十日
南至東京、総理之所都、水行十曰、陸行一月。

つまりこれは水行二十日 と 水行十日陸行一月
は大国の位置を示してはいるが場所がまるで違うってことだろ

227 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 11:24:06
>>225はちょっと錯覚。取り消しておく。

228 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 11:25:34

倭人伝原文は

南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
だよ。
で、この下線部を九州王朝大好きさんは

不彌國の南に邪馬壹國があり女王が都する所。帯方郡から水行十日陸行一月
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
と読むわけ?
そしたらここを同じ感じで現代語に訳してみてよ。

東南至奴國百里


229 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 12:11:24
>>224
動詞のあるなしで順次と放射の区別などない、
全て順次である、
動詞のあるなしで順次と放射がつくとする根拠は?
里数から日数に変わったところで基点が郡に戻るのは
同じ事を詳しく説明する為に別の表現で言っていると考えられるから正しいだろう。

230 :九州王朝大好き:2009/04/11(土) 12:23:27
>>226
投馬國と邪馬壹國は不彌國と領域で南接しているので、領域間の距離は0里です。

倭人伝には韓伝と異なり城郭が無いとの表記がありません。
各国々には当然のごとく城郭があり、国々の距離は城郭間のそれになります。

奴國と伊都國の距離はそれぞれの城郭間の距離です。

邪馬壹國には城郭があることはわかりますが、不彌國のそれとの距離は記載されていません。
それは不彌國も邪馬壹國も女王國内のことだからです。
投馬國も当然城郭があるでしょう、しかしやはり女王国内のことなので省略されています。

邪馬壹國と投馬國は倭人国のなかではは群を抜いた大国です。
この2国は常時帯方郡に使節を送っていたので、
魏は、それぞれの国と郡の距離を特記したものと理解しています。
この距離表現は、それぞれの国の遣郡使の派遣ルートに基づいた倭人側の距離単位であると理解しています。

>>228
不彌國に南に(領域が南接して)邪馬壹國があり女王が都する所。帯方郡から陸行一月と水行十日の距離である。
伊都國(の城郭)の南東方向100里で奴國(の城郭)に至る。(実際には行っていない、東南方向を指しているだけ。)


231 :九州王朝大好き:2009/04/11(土) 12:29:35
>>229
順次説と放射説のちがいは動詞のあるなしであることを、
古田武彦氏はその著書「邪馬台国はなかった」で論証している。
僕の拙い説明を求めるよりも、その著書を読んで下さい。

232 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 12:36:26
>>212

その『邪馬台国から大和政権へ』のp27あたりを読めw

その前の埋納のピークに言及しているwww

そもそも「聞く銅鐸」と「見る銅鐸」で工人の系譜も使用している銅も違うのではないかと
書いている福永の著述から銅鐸がある時期に一斉に消えたなんてどうやったら読み取れるんだよwww




233 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 12:40:20
ちなみに「大型青銅祭器の祭祀」から「大型首長墓の祭祀」へのシフトと言うのは
どこかで寺澤が書いていたことだと記憶しているんだが

読んだ時ちょっとした「目からうろこ」だたwwww

銅鐸から銅鏡へ青銅祭器の連続をぼんやり考えていたが
何の根拠も無かったんだと気づかされたwwww

234 :うましか:2009/04/11(土) 12:44:15
>>224

> 順次説と放射説のちがいは動詞のあるなしですよ

ちょっと表現が違いますかね。
「至」を動詞(至る)と取るか、介詞(至るには)と取るかのちがいです。
「至」を「介詞」的に用いた例が、漢書西域伝の記述法です。

 大月氏國、治監氏城、去長安萬一千六百里。不屬都護。戸十萬、口四十萬、勝兵十萬人。
 東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行 (以下略)
 
「東、都護治所に至るには四千七百四十里、西、安息に至るには四十九日行」とでも訳しますか。

この文章は「旅行記」では無く、単なる「大月氏國」の地理的説明です。
誰かが具体に「長安(A点=第一視点)」から「大月氏(B点=第二視点)」を経由して
「都護治所(C-1)」や「安息(C-2)」に移動したと言っているわけではありません。
まず、長安(A点)から大月氏(B点)までの距離を示し、
次に、視点を大月氏に移し、そこと周辺要地(C−1、C−2)との位置関係を記述しているのです。

これを基に倭人伝の地理的記述を読んだのが「放射説」

 從郡(A点)至倭、(中略)東南陸行五百里、到伊都國(B点)、
 南至奴國(C-1)百里。東行至不彌國(C-2)百里。南至投馬國(C-3)水行二十日。
 南至邪馬壹國(C-4)、女王之所都、水行十日、陸行一月。

まずは、郡から伊都までの経路を順次説明し、伊都に到った後は、伊都と周辺要地との位置関係になります。
倭人伝では、A点からB点までの距離が、頭では無く、段落末で「自郡至女王國萬二千餘里」と
語られている点以外は、両者の記述法に違いはありません。
で、伊都を界に記述法が変わってしまう理由ですが、これは、渡海ルートに関するものと、
倭地諸国間の位置関係に関するものの一次資料が別々の物であるためだろうと思います。


235 :うましか:2009/04/11(土) 12:50:36
書きそびれましたが、伊都以前の「至」は述語ですので動詞的用法です。

236 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 12:59:10
>>212
ついでに…

その引用部分の続き書いておくわw
(p50 第五章 卑弥呼の宗教改革と青銅器管理 )

>これと競うように長大化した北部九州の広型銅矛も同じ運命をたどった。

銅矛文化も何処かの勢力に滅ぼされたのかい?w

それとも九州のは自主的な「チェンジ」で畿内のそれは征服劇だったとでも?www


237 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 13:05:01
北部九州説の人たちが比定する場所には遺跡どころか
柵の跡すら見つかっていないのが現状だけどね。
数十万戸にも及ぶ集合体が存在していたにしては
その痕跡のあまりの少なさに可哀想に思えて仕方が無い

238 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 14:10:48
東遷の結果、銅鐸文化が一掃されたと考えてる考古学者はまずいない。そこに見られるのは
明らかな文化の切り替わりだね。これは九州を除く多くの倭人のクニが漸次的に連合して
いった証左とみるのが自然。個人的には、共食儀礼を含む首長霊信仰が、卑弥呼の「鬼道」か?

神話の中に各氏族の祖先神が取り込まれているのは、連合の構成部族の首長霊にそれ
ぞれ敬意を表しているのではないかな。こういえば反論必至だろうが、神武東征伝説は、
九州勢が最後に邪馬台国連合に加わらざる得なかったことを示しているように思われる。
つまり、厚遇していると。

こう考えれば、太陽信仰の見られないマキ向=邪馬台国=大和朝廷に、後に天照大神信仰が
見られるようになったのも、北部九州あたりに配慮した結果かもしれない。しかし、やはり主流
にはならなかった。伊勢に追いやられたわけだから。

239 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 15:58:46
>>238
異議なし、同意。

あえてその後を付け加えるなら天武・持統あたりで天照が皇祖神に祭上げられたでよろしいでしょうか?w

しかし墓域内で「共食儀礼」行われていたと言われるんだから
後世の日本人の感覚からは考えられんねw

240 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 16:17:16
>>238
連合なんていうのは考えられない。
古代は戦いの連続で、完全な弱肉強食の時代。

「大乱」もあれば、狗奴国との争いもある。王が不満だとなれば、すぐに
戦いになり、1000人余を殺しあう。
吉野ヶ里の甕棺の遺骨を見てもそれはうかがえるし、青谷上寺地遺跡の
遺骨の状態からもその状況がわかる。

中国の古代を見ても同じで、すぐに殺し合いになってしまう。

こういう時代背景を前提に歴史を考える必要があると思う。
歴史が動くときには必ず戦争があるというのは、常識だろう。
鎌倉時代の初め、室町時代の初め、江戸時代に始め、明治維新、すべて
大きな戦争がある。

戦乱なしに歴史が動くと考えるのは机上の空論に過ぎない。
考古学者が歴史に口を出すから空論がまかり通る。

241 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 16:25:42
>>240
長い戦いの後戦いが収束して戦いの無い時期が続くのもまた事実
鎌倉時代〜江戸時代幕府や明治維新政府

別に近代的な理想主義のなせるわざじゃなくて力の均衡ねw





242 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 16:28:58
>>233
寺澤薫って以前は東遷説だったのかな。
昔の、ある雑誌の対談(森浩一Vs石野博信)でこんな話が出ている。

森「…やはり、九州の大勢力がある段階でヤマトに大きな影響を与えたのは
まず動かないと思います。」
石野「研究所の寺澤君は盛んにそういいますね。私はそこまでは行けません」

243 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 16:31:17
>>242
それ東遷説なのか?

九州勢力が大和にきても、
大和に卑弥呼が登場する以前なら東遷説とは言わないだろ。

244 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 16:33:16
>>241
戦いのない時代ってのは、ほとんど何も変わらないからねえ。

245 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 17:03:02
從とは従って行く、行軍する等の意味で
「從郡至倭」「郡から倭に至るには」とは郡から倭に至る道順を説明するとの意味です。
道順の説明なので倭(邪馬壹國)への途中で目的地とは別の方向へ枝分した説明ありえません。
「大月氏國」の地理的説明とは異なります。
里数と日数は丁寧に説明する為に同じことと考えても問題はない。



246 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 17:59:08
>>230
>伊都國(の城郭)の南東方向100里で奴國(の城郭)に至る。
伊都国の南東に奴国がある。帯方郡から百里のところだ。
あなたの読み方ではそうなるはずだろ。

247 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 18:21:45
>>232
前のピークなんてのは問題じゃないんだよ。古い銅鐸の埋納が行われた時期は
弥生中期末から後期初頭と言ってるな。一世紀ころの話だ。そんなのは、銅鐸
勢力内部の再編とみることもできるだろうし、新式の銅鐸が流行してそれに乗
り換えたとみることもできる。銅鐸→銅鐸だ。銅鐸祭祀の基本に変化はない。
しかし、突線紐式銅鐸の埋納はそうではない。弥生後期後半に突如、まさに銅
鐸祭祀が終焉したんだ。仏教が入ってきたって神道は続いている、キリスト教が
入ってきたって仏教、神道は続いている。ほかの地域から新しい祭祀方法が入
ってきたって、普通ならば銅鐸祭祀も続くんだよ。時を同じくして周溝墓も終わ
っている。弥生葬制と古墳との間に連続性が認めがたい。だから、権力の交替を
考えるべきなんだよ。

248 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 19:02:23
>>240  同意
「連合」ってのは「統一王権」を否定するためのイデオロギーだね。

一つの権力によって統一されていたとすると、天皇の権威が増してしまう。
左翼史観が支配する学界ではこの結論は受け入れがたい。
そこで、何が何でも「連合」という結論に持っていこうとする。

あの時代に民主的連合も、策略的連合もありえないことは明白だから、
はたから見ると正気とは思えない。

それが「連合」という宗教。


249 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 19:26:09
>>248

それは魏志倭人伝を否定する、ってことでいいんだよね?
(数十国が一人の女王を共立した)

250 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 19:43:37
畿内説の有利なところは大和王朝とその近辺の遺跡が
優先的に国によって管理されてきたこと。
無関心な九州特に南九州では古墳くらいしか遺跡としての認識がなく、
河口付近、川岸は昔から住宅地・農地と変遷したため、
遺跡があったのかなかったのかすら今となっては不明である。
しかしそれが畿内説が正しいということは否である。
この先、九州のどこかまたは他の地で、偶然的発見があるかもしれない。
いまのままであれば九州説の確固たる証拠を見出すのはそれしか方法がないのである。
非常に残念であるが。

251 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 19:49:20
また、考古学の致命的欠陥は「おらが町」主体で、結果ありきの発掘である。
地方自治体や大学が主体的に動いたところで、どうなるか想像できないわけがない。
「邪馬台国がどこにあったのか」という本来の目的を忘れ、文献や出土品を
無理やり「おらが町」へ結びつける精神は、いままで続いた論争を見ても
何の利益もないことは明白である。
さっきも書いたが、畿内説は有利である。それは大和時代の遺跡として
特別な管理をされているからにすぎない。
結論から言えば、考古学的発掘は国または独立の法人が主体的に行うべきである。
地方自治体(教育委員会)は不要である。

252 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 19:58:48
>国または独立の法人が主体的に行うべきである。

これには基本的に賛成なんだが、主体が国であっても産業、今生きてる人の生活優先だから、
住宅地や工場地帯をわざわざ発掘はありえないと思う。このスレの人が考えるほど古代史フ
アンは多くないし、価値も認識されてないんでないの。

253 :251:2009/04/11(土) 20:04:26
>>252
国でないとすれば、学者や地自体がお互いの情報を共有して
共同プロジェクトを発足するしかないでしょう。
いまの非合理的的な発掘よりまだましなはず。

254 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 20:10:10
253は理想的だね。地方教育委員会が発掘するのは、ムラ起こしマチ起こしの側面が強い
んだろう。共同プロジェクトでもなんでも税金使う以上、国民的コンセンサスが必要だし、
今のご時勢なら、そんな金があるなら派遣対策にまわせとかなんとか・・・。

255 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 20:16:05
続き
量子物理学で莫大な金額の巨大加速器を作ったりするのは、真理探究もあるが、研究成果が
軍事や産業に役立つかもしれんからなんだよね。

256 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 20:40:56
>>249
共立したのは支配者層の王族では?
国とは書いていない。

そもそも魏志に出てくる「王」は2名のみ。
他の地域には「官」が居て支配下にある。


257 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 20:51:13
仔細なツッコミだが・・・
倭王卑弥呼・狗奴国王卑弥弓呼・名前のわからん伊都国王数代。
二人じゃないよな。

258 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 21:13:32
>253
学者なら共同より独占したがるだろうな
国や自治体から金を引き出し、発掘資金を得、研究機関を設立してもらい、自分が館長におさまる
学者とはそういうものだから


259 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 23:30:54
木を見て森を見ないどころか、
枝を見て木を見ない狭い視野のアマチュア歴史愛好家の皆さん乙
方向は一番大事ですよ。距離は移動手段や地形、潮待ちで変わるけれど
南と東を取り違えることはありません。その点はしっかり頭に入れて倭人伝を呼んでください。
でないと、あまりにも低次元の話になって、見てられません。

260 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 23:38:21
方角が、枝葉でないという根拠を示しなさい。


261 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 23:56:38
狗奴国のククチヒコのククチとは。
熊本の菊池市の西、七城をご覧あれ。
ここは古の土着人がククチと呼んでいた処。

クは繰るの意。クチはしっかり閉じているもの、口。高麗語より。
地図を見ると、
平野部で川の支流が複数本、一箇所で集まり、
しかもその形が他では見られない特殊な形をしている。
古の地形も遠からず近い地形をしていただろう。
つまり狗奴国、官は狗古智卑狗とは熊本の菊池平野の辺りを言うのです。
で、女王国に属していないとはっきり書かれています。
近畿にもしヤマト国があったなら、
北部九州にある伊都国から程近い狗奴国がまだ治められてなかったというのは
とても不自然です。
つまりヤマト国は北部九州の熊本菊池の北側にあったということです。
近畿のヤマトの北に熊野があるのはとても意図的。
吉野、大津、サカなど偶然以上の一致を見せるのは、
倭人伝にある邪馬台国は近畿にありましたって言いたかったから。




262 :日本@名無史さん:2009/04/11(土) 23:57:45
師長国造(しながのくにのみやつこ・しながこくぞう)は相模国西部を支配した国造。磯長国造とも。

これが帥升の正体。古代富士王朝の名残として残されていた。

263 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 00:25:53
わははw方角?んなもん枝葉も枝葉www

じゃあ例えば隋書の「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」をなんと介する?話で

九州王朝説でもない限り、邪馬台国九州説の立場からすれば
それは隋側の”誤認”と言う事にならざるを得ない。

しかし仮に誤認だとしても大和は九州から南進した地にあってよいと言う事になる。

隋書に「いやあ魏志の記述は方向は間違っているんだけど…」
ってただし書きが無い限りwww

まあ当時の中国にとって日本の地理情報なんてそんなもんだったちゅうこっちゃねw




264 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 00:29:45
>>261
狗奴国の官は狗古智卑狗。これを読むと、クコチヒク?
それともココチヒコ?
どっちでもいいが、これを菊池と結びつけるのは無理があるかと…。

それに、官名と地名の類似を言うのなら、伊都国の爾支はどう繋げるのかな。
対馬や壱岐の卑狗は、どうなんだろう。
邪馬台国にも伊支馬という官がいるけど、これはどう言う地名と繋がるのか。

そう考えると、狗古智卑狗と菊池の繋がりは、こじ付けのように思える。

265 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 00:33:06
>>248
>あの時代に民主的連合も、策略的連合もありえないことは明白だから

民主的連合もあり得ないと言うのは当たりまえとしても

策略的連合もありえないというのはいかなる根拠なのかな?
(それは逆に言えば強大な武力による統合しかあり得ないと言う事を意味しているのかな?w)

266 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 00:42:46
>>263
まったくその通り。

邪馬台国が九州にあったなら、隋書が間違ってることになり、
隋書より昔に書かれた倭人伝の信憑性も疑うことになり、
邪馬台国が方角的に九州にあったという根拠も成り立たない。


267 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 00:55:01
>>264
その前に地図をご覧あれ。
一遍でこの辺りはククチだって納得できる。
古に土着人がそう呼んでいたんだから。
狗奴の熊とククチの菊池と方角の南と
北には山門(やまと)や女王山や。
これだけ合致しているんです。まだまだ探せそう。
そもそもこの論は2ちゃん以外では定説ですから。

268 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 00:57:02
狗奴国:扶余や高句麗の流れを汲み、半島から渡ってきた人が立てた国
王:卑弥弓呼、高句麗国を建てた「朱蒙」とおなじ名(ルイ、ヘンリーみたいなものか)
官:狗古智卑狗、高句麗領内のハルビン地域(扶余)を治めた官とおなじ名
この国は東南アジア系の流れを汲む邪馬台国には入っていなかった

269 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 01:00:56
>>267
それが定説かどうかは置いといて、邪馬台国関連で定説というのは、その説に
とって都合がいいということが多い。伊都国=怡土も同じだと思う。

>>263
方向は枝葉ではない。畿内説にとっては致命的。

270 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 01:14:29
>>269
>方向は枝葉ではない。畿内説にとっては致命的

別に方向のみならず(普通に考えてありえない)戸数とか風俗も枝葉なんだがw

で、お前は九州王朝説なのかい?

もしそうで無いなら>>263であげた隋書の件はどう言う解釈をするのかな?w

271 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 01:17:21
当時の狗奴国は扶余系ではない。
倭人伝には倭国に牛、馬がいないと書かれているので、
少なかったとみえる。
円墳装飾古墳には馬がいて矢を射る絵があるので、
倭の五王(カヤ経由の扶余系)が470頃に西夷を平定する以前は
倭人と伽耶からの倭人と先住民(巨石文化を持つポリネシア人と樺太周りの北方人の混血か?)
だよ。
だから、古墳は巨石と絵文字と円の塚なのだ。
よかったら
>官:狗古智卑狗、高句麗領内のハルビン地域(扶余)を治めた官とおなじ名
これの出所を。




272 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 01:35:14
なぜ半島からの倭人であって扶余ではないかといえば、
扶余ならば方墳を築くはずだからだ。
百済も新羅も実は円墳。
高句麗は方墳だそうだ。
高句麗は扶余から出ている。
そして百済の王族も扶余。
南加羅にいた騎馬民族が4世紀初頭に大勢を引き連れて
移住してきたらしい。
それが倭の五王だ。服装も中国の胡公頭の帽子に似ていると南史には書いてある。


肥後の古墳を見る限り、副葬品からいっても、
円墳は古く、前方後円墳は新しい。


273 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 02:03:45
>>270
隋書については、その当時の中国人が、3世紀の邪馬台国について知っていたか
どうかだろうな。隋書が編纂されたのは7世紀なので、記紀とだいたい同じ頃。
日本人でさえ、記憶にあるかどうかわからない邪馬台国のことを知っていたと
考えるのは疑問。

そう考えると、単なる思い込みと取れる。

それに、隋書の記述は、東遷説を示唆していると取れないこともない。

一番、時代の近い、倭人伝にはっきりと「南」と書かれているわけだから、
あいまいな隋書と相殺はできないと思う。

274 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 02:14:23
■ふるさと納税は「畿内説」に軍配

 邪馬台国の有力候補地、纒向(まきむく)遺跡のある奈良県桜井市が、ふるさと納税制度を利用して同遺跡調査向けの寄付金を募ったところ、3月末までに全国から約600万円が寄せられたことが分かった。
邪馬台国九州説の拠点・吉野ヶ里遺跡のある佐賀県神埼市と吉野ヶ里町では、吉野ヶ里遺跡関連の寄付金は両市町で約55万円にとどまった。
畿内か九州かで二分される邪馬台国論争。全国からの纒向への寄付金も九州からだけはゼロとライバル意識も見え隠れするなか、ふるさと納税では畿内に“軍配”が上がった。

 ふるさと納税制度は、出身地や応援したい自治体に寄付した場合、税金の一部が控除される仕組み。
桜井市は昨年8月から、「卑弥呼の里・桜井ふるさと寄付金」として、纒向遺跡の調査研究▽産業や観光振興▽医療・福祉充実−など7項目の使い道を示し、市民らが希望の項目を選んで1口1000円で寄付をする。

 全体では3月31日現在で172件、1162万7000円が寄せられ、そのうち纒向遺跡関連は109件、596万2000円で半分以上を占めた。
特に、1月末に同遺跡の発掘計画が新聞などで報じられたのを機に急増、2、3月だけで63件、計559万3000円に上った。

 3月に行われた発掘調査では、3棟が規則正しく並ぶ宮殿構造の建物群跡が出土。
「卑弥呼の神殿か」と話題を集め、同月22日の一般向け現地説明会には全国から約2500人が参加し、市が説明会会場でふるさと納税を呼びかけたところ、20人の歴史ファンが計3万7000円を寄付した。

 遺跡関連の寄付はほとんどが個人で、数十万円単位の大口もあったが、5000〜1万円が大半。
遺跡の散策の途中で市役所窓口を訪れ、数千円を寄付するリュックサック姿のハイカーもいるほか、東京や北海道など遠方からの寄付も多く、邪馬台国ロマンが全国に広がっている状況も浮き彫りに。(つづく)

275 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 02:15:59
>>274
つづき

 一方で、畿内説への肩入れを拒んでか九州からの寄付は皆無。2月に福岡県内の男性から寄付金の問い合わせがあったが、同市税務課担当者は「邪馬台国九州説の人が探りを入れてきたのかも」と余裕の笑みを浮かべる。
谷奥昭弘市長は「寄付金を通じて、邪馬台国解明に結びついてほしいという熱い思いを感じた。九州の人たちは、地元こそ邪馬台国と思っているだろうが、吉野ヶ里遺跡は50〜100年も時代がずれている」と強気の姿勢。
同市は寄付金のうち125万円を21年度当初予算に組み込み、調査などに活用する。

 一方、吉野ヶ里遺跡のある佐賀県神埼市と吉野ヶ里町では、「吉野ヶ里歴史公園活用や観光振興」などを名目にふるさと寄付金を募集。
神埼市では、昨年7月から今年3月末までで同遺跡関連は53万円(4件)、吉野ヶ里町も同期間でわずか1万5000円(2件)にとどまった。
両市町では遺跡公園周辺の植栽や観光パンフレット発行などにあてることにしているが、地元出身者からの寄付が大半で、全国的な広がりはみられないという。

 吉野ヶ里町企画課担当者は「大規模な発掘が行われた平成元年には年間200万人が訪れたが、すでに主な調査も終わった。吉野ヶ里ブームのころに寄付金を募ったらもっと集まったのではないか」と悔しそうに話していた。

4月10日 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090410-00000661-san-soci

276 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 04:25:34
>>273
>そう考えると、単なる思い込みと取れる。

だーかーらー
九州邪馬台国(邪馬臺)を大和(邪靡堆)と誤認した=思い込んだ… って事だろうが?
隋使にとって方角の違いなんて問題じゃ無かったって事だよwww
(もしくは方角なんて最初から気にもしていなかったか?w)

要は隋代においてでさえそのように地理情報なんていい加減だったって事。

この時点で魏代の地理情報の正確さなんて疑問を呈すべき

疑わざるをえない史料があるのに
それでも
「いいや魏使倭人伝の方角は絶対間違っていない!」
と言うのならもう宗教レベルw

277 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 04:57:30
魏志倭人伝の風俗の記事について怪しいなと思う小ネタを一つあげておくw

良く九州説の連中が倭人伝には矛は出てくるが銅鐸は出てこないなんて事を言うが
(もっとも倭人伝に出てくるのは実用兵器としての矛だが…)

素朴な疑問としてなんで「戈」が出てこないのか?

何故かあまり指摘する人間はいないんだが
弥生時代相当ポピュラーな兵器だったらしいのだが…

本当に当時日本で使用されていた兵器を見て書いたんか?w

まあ一般向け図書のイラストなんかじゃあ剣や矛は描いてあっても
戈が描いてある事はまず無いがwww




278 : ◆.L.MXSPOgc :2009/04/12(日) 08:25:25
>>276
随書の記録は、当時のヤマト政権の意見が取り入れられているだけでしょ。
ヤマト政権は記紀が示すように、日本を生んだ神の子孫が代々日本を支配しているって話をつくっている。
ところが数百年前の中国の記録(三国志)に邪馬台国なる国が倭の30国を卑弥呼なる女王が居た、と書いてある。
中華帝国の記録は無視できないから邪馬台国の記憶などないのに、神功皇后が卑弥呼のことなんじゃないか?とか
しらを切る一方、自分たちをヤマトと名づけ邪馬台国の末裔のような振りを偽装したんでしょ。
もちろん隋の人にもそう説明するから、随書には「ヤマト(政権)は邪馬台のことだ」と書かれた。


279 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 08:35:31
>>277

> 素朴な疑問としてなんで「戈」が出てこないのか?

九州タイプの大型鉄戈は大陸では出土しないので、漢人から見れば目立でしょうね。


280 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 15:43:07
戈は、対戦車用武器だから、山海がちの日本には戦車が役に立たず、当然戈も使い道がない。

281 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 15:47:18
>>280
はああ?
戦車って馬が引くアレだよな?w

お前中国の騎馬・戦車戦で使われた物と今言われている物と区別できて無いだろう?

まあイメージとしては「バールのような物」をでっかくした物と言えば分かりやすいかな?www


282 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 16:30:42
そういうお前は、いままで中国での戈の使用目的を知らなかったんだろ。


283 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 16:36:23
つうか弥生時代の日本を馬に引かれた戦車が駆け巡っている光景を思い浮かべるなんて
どんだけのアホなんですか?www

284 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 16:47:10
>>279
銅戈は、朝鮮半島からも出ているらしいので、帯方郡の人間にしてみれば、
それほど珍しくもなかったのではないかな。

記憶によると、鎌のように引っ掛けて手前に引いて使う武器だったような。

285 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 16:51:46
日本の銅戈は戦闘跡のあるものは、ほとんど出土してないよ。

286 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 16:55:01
古代の道は野越え、山越え、谷を越え、河を越えて直進した。
それはなぜかというと、めぼしい目印がないので曲がると道が
わからなくなってしまったのと、修行を積んだ天狗様しか使って
いなかったからです。その道案内をした部族こそ猿田彦と呼ば
れた日本の先住民。

287 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 16:55:59

>>284
引っ掛けて…と言うのなら>>280のイメージしたであろう騎馬・戦車戦での使い道に近いなw

まあ適当にググってきた画像だが参考程度に

http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/images/h19g/0617-40.JPG

288 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 17:02:34
>>286その直線的な道を宇治(兎路)と呼んだのです。
    平城京、平安京の直線的な区画だけではなく、村と村をつなぐ道も
    地形的な条件を無視して直線的に結んだのです。

289 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 17:03:18
>>287
唐古・鍵の絵画土器からの復元創造図かな。しかし、これは兵士ではなくシャーマンだと
思うが。

290 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 17:07:50
>>289
まあ羽飾りとかはどうかと思うが
中々思ったような画像が見つからなかったんでなw

しかし弥生時代、剣や刀よりは近接戦において主だった戈の形としてはこれでいいだろう?www

291 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 17:16:46
いやでも、日本のは非実用的なほど刃部が大型化してて、戦闘使用例はほとんど見られ
ないんだよな。中国のは、騎馬戦士の使用が本来だったはず。まあ、このようなウオーピッ
ク系の武器は世界でも実用的なものだったろうけど、日本はちょっと違うんだよね。

292 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 18:43:32
竹槍のほうが攻撃力あるのに、なにいってんだか。


293 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 18:57:33
>>263
おいおい、何を勘違いしているんだ。隋書の「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」
は南九州の邪馬台国を指しているんだよ。
隋書だって、倭人伝の方角が誤りだったなんて一言も言ってないぜ。

294 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 19:00:33
>>263 >>266
なんか勘違いしているようだけど九州は「北九州」だけじゃないからな。
視野が狭すぎるよ君たち。

295 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 19:07:41
>>277
>素朴な疑問としてなんで「戈」が出てこないのか?
あまり使ってなかったからだろ。
倭人伝が書く武器は矛と木弓だ。弓は問題ないだろうが、矛は畿内にあったのかな?

296 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/04/12(日) 21:21:38
卑弥呼の時代大和には環濠さえ無い。

297 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 21:29:20
卑弥呼の時代に邪馬台国は存在しなかった。
これがファイナルアンサーです。

298 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 21:32:46
【学校】都内の女子高で“へそ出し制服”が登場…「動きやすい」と評判も父兄は困惑(画像あり)
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/fish/1235665825

299 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 23:08:19
さすがにfishでは釣れんだろ

300 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 23:23:41
>>287
戈は、確かにそういう風に、木の先につけて使ったと思う。
ただ、吉野ヶ里で見たものは、もっと幅が広いというか、平べったかった。
たいしてインパクトのあるものじゃないと思う。長さは20cmちょっとかな。
それに対して、銅矛は1mくらいはあったと思う。でかくて見るからにすごかった。

301 :日本@名無史さん:2009/04/12(日) 23:45:54
戈か矛かではなくて、戈も矛も・・でよいではないか。
しかし結局、前者は日本では根付かなかった。
それは、稲作と同時に日本に持ち込まれたはずの
三足土器が日本でほとんど使われなかった原因に
似ている。つまり、日本に既に津y買われていた
武器より劣っていたということです。

http://arms.cybrary.jp/db/longhandle/polearms/jpeg/ji.jpg

302 :日本@名無史さん:2009/04/13(月) 00:46:18
>日本に既に津y買われていた

日本語でおk。

303 :日本@名無史さん:2009/04/13(月) 00:52:03
裸国=ヤノマミ族のいる南米で決定

304 :日本@名無史さん:2009/04/13(月) 01:07:09
>>301 みたいなやつの場合、矛?戈?他になにか記述の仕方があるのかな?

305 :日本@名無史さん:2009/04/13(月) 01:09:07
ヤノマミ=邪馬弥国

306 :日本@名無史さん:2009/04/13(月) 07:04:30
>>295
遺物の一覧表をみる限り、近畿から矛は出土していないな。

307 :日本@名無史さん:2009/04/13(月) 08:23:01
へそだし制服って、セーラー服のことですか?
高校のころセーラー服の女子が背伸びをしたりするとへそがみえたことがありましたね。

308 :日本@名無史さん:2009/04/13(月) 20:29:20
【卑弥呼】倭迹迹日百襲媛命【邪馬台国女王】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1239621756/

309 :日本@名無史さん:2009/04/13(月) 21:05:37
卑弥呼って邪馬台国の女王なのか?
倭の女王と思っていた・・・

310 :日本@名無史さん:2009/04/13(月) 21:49:31
邪馬台国が畿内であったとする傍証が見つかりました。江戸の切絵図です。
江戸時代ですら北を上にするという決まりごとがなかったため、絵図に描か
れた地図の方向はまちまちでした。しかし、江戸全図ではほとんどが西が上
に描かれていました。

もう、おわかりでしょう?帯方郡の使者が持ち帰って地図も西が上、南は
左に描かれていたため、報告を受けた倭人伝の編集者が方向を取り違え
たのです。

これで、ほぼ全ての謎が解けたことになります。

311 :日本@名無史さん:2009/04/13(月) 23:10:43
木簡に日本地図が書かれていたのか?

312 :日本@名無史さん:2009/04/13(月) 23:29:16
■特別展  弥生建築 ─卑弥呼のすまい─ 

・大阪府立弥生文化博物館
・平成21年4月25日(土)〜6月7日(日)
・休館日 毎週月曜日(ただし5月4日[月祝]は開館し、7日[木]休館)
・入館料 一般600円/65歳以上・高大生400円


 これまで、弥生時代の建物は、その全容がわかる状態でみつかった例はありません。そのため、弥生時代の建物を知るには、遺跡の調査でみつかる掘立柱建物や竪穴住居など建物の跡をもとに、建物の構造や柱の並び方、大きさなどを考えます。
そして、その上にあったはずの建物については、鏡や大刀の飾り、土器や土製品に表現された建物を参考にして考えてきました。

 ところが近年、鳥取県青谷上寺地[あおやかみじち]遺跡(鳥取市)で弥生時代の建築部材がまとまってみつかり、建物の姿をより具体的に考えることができるようになりました。
ここでは、溝のなかから柱や壁、床などの板材、角材のほか、屋根材がまとまってみつかり、建物を復元することが可能になったのです。
こうして青谷上寺地遺跡で出土した建築材をもとに、掘立柱建物や竪穴住居の跡がまとまってみつかった鳥取県妻木晩田[むきばんだ]遺跡(西伯郡大山町)では建物が復元されています。

 また、みつかった柱や桁、床板などには、材をつなぐために加工した孔やくり込みや、材の表面を平らに削ったあとが見られます。
弥生時代の工具は石斧や石鑿など石製のものが主ですが、青谷上寺地遺跡では鉄斧、鉄鑿など鉄製の工具が数多くみつかっており、建築部材の加工には、こうした鉄製のさまざまな工具も使用されたと考えられます。

 竪穴住居を建てるには、まず、穴を掘ることで床と壁ができあがるため、あとは柱を立て、桁と梁を組み、屋根をかけることでできあがります。一方、掘立柱建物は、柱を立てて床を貼り、あるいは壁を立ち上げ、屋根をかけることでできあがります。
床を貼るためには、柱に穴をあけ、材を組み、床材が必要となり、壁を立ち上げるためには柱に穴をあけ、くり込みを入れ、壁材が必要となります。
つまり、掘立柱建物を建てるには、材に細かな加工を施すことができるさまざまな工具が必要であり、鉄製の工具はこうした加工に威力を発揮したと考えられます。(以下略)
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/tokubetsu/h21_haru.html

313 :日本@名無史さん:2009/04/13(月) 23:41:10
江戸時代の地図を弥生時代の陳寿が見たと信じなければ、畿内説にならないのか。

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