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【大名】江戸三百諸侯について語ろう4【藩主】

1 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 08:21:40 ?PLT(15556)

前スレ
【大名】江戸三百諸侯について語ろう3【藩主】
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【大名】江戸三百諸侯について語ろう2【藩主】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1220359847/
【大名】江戸三百諸侯について語ろう【藩主】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1210810352/

関連スレ
江戸時代の武家の極位極官
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1203212697/
江戸時代の旗本、御家人について
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1219934233/


2 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 09:15:50
南部信直と津軽為信は領地の配分を巡って諍いが絶えませんでした

3 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 09:19:31
一代で終わったなら良かったのにね

4 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 09:36:06
津軽は謀反人。切腹すべき。

5 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 12:51:33
信直は九戸に南部当主の地位を
やればよかったのに

津軽の自立を押さえ
新月のマルクなるまで
南部領

6 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 14:59:21
津軽のような性奸悪な男がそんなことで収まるわけがないと思うのだが。

7 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 20:33:49
南部美濃守は表高20万石、津軽土佐守は表高10万石で内高はそれぞれ27万石、32万石であり、少なくとも新田開発では津軽の方が上回っていた事が伺える

8 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 21:17:43
松平清武って、いくら家臣の養子になったとはいえ将軍御舎弟なのに、
保科正之とかと比べても待遇悪いね。
養子に出た家斉の子どもとかも、伺候席や官位でかなり優遇されてるけど、
そこは現役将軍の子と将軍の弟(父は将軍でない)の立場の違いなのかな…

9 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 22:03:44
>>7
平野の広さからして作付面積は拡大できたのだろうけど、
実際の収穫はどんなもんだったのだろね。
寒冷地なだけに安定しなかったのでないかと思える。

10 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 22:07:38
>>8
しょうもない人物だったんじゃないの。大封をやるのが惜しいような。

11 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 22:32:29
で、御三卿だが

12 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 22:33:08
まあしょうもないのは確かだろうけど。
優秀なら宗家唯一の生き残りなんだから、紀州の対抗馬にならないわけないし。
あるいは優秀すぎて、吉宗に暗殺されるのを避けて隠遁したのか?w

13 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 22:34:16
南部藩も津軽藩も一揆が多発しているからな

14 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 22:59:18
島津斉興が,安政5年(1858)に従三位に昇進しています。
島津家の極位を越えた位なのですが。
これが,何の功による昇進なのか分かる方はいますか?

斉興は,もう隠居していた時代で,斉彬が亡くなった年です。





15 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 23:32:00
日本の気候は縄文中期あたりが最も暖かく
歴史時代に入ってからは南北朝の頃が暖かさのピークで
以後徐々に寒くなって明治維新の頃が最低のはず
江戸も後期になると北の方の藩は厳しいかも

16 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 23:42:01
軍勢率いて江戸に登ろうとするような島津斉彬の反幕的政策を島津藩政を保守化させた功績を大老井伊掃部頭直弼が賞したとみるべきであろう

17 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 00:04:07
>>9
なめんなボケ。
日本一の一揆発生件数も、日本一の規模の一揆も我ら南部盛岡藩の栄光である。
津軽なんかと一緒にすんな。

18 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 00:15:21
相馬大作が矢立峠で大砲を放つもわが南部大膳大夫の栄光であり

19 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 01:30:38
当時の南部藩主って、なぜか二人いる11代か。

20 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 01:38:40
南部藩とか津軽藩の百姓は米作出来てたの?
毎日なに食ってたんだろうか

21 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 01:43:08
>>12
一旦、(徳川家ではない)臣下に下っていることと、
八代将軍レースの際は年齢が問題だった。
おまけに実子がいない。(いたっけ?)
というような(表向きの)理由じゃなかったっけ?
松平に養子、ではなく、
新規別家で親藩より上な扱いだったりすれば
また違ったのかもな。
つか臣下関係なく、
条件が「将軍家直系」ってだけなら、
会津にだって相続権があることになるんじゃね?

22 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 01:57:20
>>20
津軽は、、、
初期にお家騒動があって家臣制度が整理でき、
時々名君が出て殖産興業でき、積極的に外部からも人材登用した。
その後も藩士大リストラをやって、その人員を新規開墾に投入したり、
幕府ともあの手この手でパイプを作り、
あれやこれやと浮沈しながら乗り切っている。
南部は、、、
初期に暗闘があって、藩主一族と重臣が強固に牛耳る頭の固い体制ができてしまい、
初期に金山収益で豊満財政だったのが枯渇しても、
旧体制のまま、打開策をなにもしなかった。
足りない分は農民から絞る。
おかげで一揆多発。それを弾圧、そしてまた一揆。
民間が製鉄事業で頑張るが、藩営にしたら途端に経営悪化。
幕末には洋式製鉄を取り入れるも、生産量増加で価格暴落。
日本一の規模の一揆の発生原因となった。
ちなみに製鉄事業の主要製品は偽金作り。
隣の仙台藩が大迷惑している。

23 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 03:18:17
南部面白いな。

24 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 06:27:50
>ちなみに製鉄事業の主要製品は偽金作り。
>隣の仙台藩が大迷惑している。

仙台藩の仙台通宝は領内限り通用にもかかわらず大流出して近隣諸国が
大迷惑してるんだけどな。
金銀貨の偽造は大罪だが、銭はそれ自体が製品とみなされたから、贋銭と
いう感覚自体が乏しく、幕府も取り締まりに熱心ではなかった。
ただし、地金価値と通用価値の乖離が激しい天保通宝は取り締まり対象。

25 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 06:36:48
南部は甲斐の山猿
津軽は近衛家の末裔

26 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 06:39:39
貴種を騙る末裔は単なる僻地の山猿

27 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 07:28:38
山本勘助の末裔が、信州地獄谷温泉で外人観光客誘致に
役立っているしな。

28 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 13:13:25
本題の御三卿は厄介か
ついでに御三卿附の旗本も厄介なのか議論しようぜww

29 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 13:55:34
>>28
氏ね

30 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 17:39:34
御家騒動って結構多かったんだね。
黒田騒動で福岡藩が改易にならなかったのって、初代長政の関ヶ原前後の
大功によるところが大きいのかな?
加藤や福島に比べて、黒田・細川・藤堂あたりは上手く立ち回ってる印象。

31 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 17:46:35
鍋島は化け猫騒動がありました。

32 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 17:55:47
津軽の分家で黒石藩1万石ってのがあるけど、立藩するまでは4、5千石の
交代寄合だったみたいだけど、ウィキ見てたら、三代「津軽政たけ」って当主が
正六位下采女正に叙されてるって書いてあったけど、武家なのに布衣じゃな
くて正式に正六位下に叙されてたってことなんだろうか?
交代寄合でも6分の1殿山名氏や久能東照宮門番の榊原氏は諸太夫の家格だっ
たみたいだけど、正六位下ってのは初めて見た。

>>31
佐賀藩は竜造寺が母体だから支藩も含めて家臣団がいろいろ複雑そうだよね。


33 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 18:43:33
>>28
三家三卿スレが過疎ってるぞ。
アンタみたいな人が行ってやれよ




34 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 18:54:28
>>32
ウィキの記載が間違ってるんじゃないか?
采女正に叙任したなら正六位下に叙位されたと,単純に考えたんでしょう。
采女正の官位相当が正六位下だから。



35 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 21:31:57
>>34
そうかも。山名の従五位上とかもあるから、もしかしたら例外なのかとも
思ったんだけど、たぶんウィキが間違ってるんだろうね。

36 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 23:45:27
>>35
以前,官位スレで武家も,従五位下→従四位下ではなく。
従五位下→従五位上と順序どおりに昇進してゆくと書き込んでいた人がいたが。
それなら従五位上という叙位もあるのでは・・・・



37 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 23:47:50
室町以前はともかく従五位下→従五位上なんていう昇進は無いよな
江戸時代の場合、五位は従五位下だけ四位は順々に昇進する

38 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 23:59:40
従五位上は但馬村岡6700石・山名家だけなのかな?


39 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 00:14:51
山名の誰が従五位上なの?
少なくても代々全ての当主では無いだろう。

40 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 00:18:06
山名豊暄だけ
なぜこんなへんちくりんな叙位されたのかは知らない
名門寄合だから平大名に対しての優遇策?
でも喜連川や高家と比べて何とも中途半端

41 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 00:35:33
>>40
ウィキの村岡藩の項目では6代豊暄以下7・8・10代が従五位上になってる
けど、まあ所詮はウィキだからね。豊暄だけなんだー

でも山名家は屋形号とか道具とか、相当優遇されてるのは確かだよね。
3代矩豊の項目には准三位・万石大名の格を許されたって書いてあるみたい。

42 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 03:08:15
山名も特殊だけど、黒石津軽も割と特殊な家なんだよ。
ただ、その三代目で吉良絡みもあって、
綱吉に嫌われてしょんぼりしちゃうんだけどね。

43 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 03:41:56
近江国大森の交代寄合最上家も山名と同程度の扱い。

44 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 03:58:07
山名と最上は旧守護大名で、屋形号を許された交代寄合。

45 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 08:01:31
大森藩最上家って幼少を理由に石高減封で大名から転落してるね。
いつも思うんだが、「幼少」を理由に減封・転封するのは理不尽すぎると思う
んだけどね。(姫路のような要衝の譜代は別にしても)
幼少で務まらないなら幕府が国目付を派遣すればすむことだと思うんだけど…


46 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 10:06:45
>>41
山名は3位の格か,すごいな。
昔読んだ歴史読本では,喜連川の殿中での格式は4位侍従相当だったと書いてあった。

しかし,何で喜連川は正式に官位を叙位叙任されなかっただろう。




47 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 11:08:49
山名三位、城崎三位、一条三位、六条三位、長谷三位、梅小路三位、菊亭三位

48 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 12:20:50
喜連川って足利嫡流ではないだろう

49 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 13:00:53
嫡流だよ。

50 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 13:17:33
江戸在府の時、大名って登城する時以外はずっと屋敷にいたのかな。
たまにはお忍びで市中に出歩いたりしてたんだろうか…

51 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 13:41:19
>>50
吉原に入り浸りになったり、芝居見物にでたという話はいくらでも
あったと思うが。


52 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 14:00:22
大名仲間同士で美少年のケツ追っかけたり忙しかったらしいよ

53 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 14:25:04
旧守護なのに今川は最上や山名と比べてしょぼい

54 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 14:50:43
今川捨てて品川だからねぇ

55 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 17:09:41
主家だった影響?

56 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 17:51:53
>>19
二人?kwsk!

57 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 17:59:17
>>56
有名な話
検索してみましょう

同じ様な話が宗とか相良にもあったり。

58 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 18:01:53
11代南部利用(1号)が養父が死んで藩主になったんだけど
庭の木の上で遊んでたら落っこちて死んでしまった(享年15歳)
1号はまだ将軍謁見の前だったので
「このままでは改易じゃねーか、偉いことですぞぉぉぉ」となった
南部家中は顔がよく似ていた南部信浄の子供を利用2号として継がせ
世間的には「2号と1号は同一人物ですよ?ちょっと顔とか背とか微妙に違いますが
それ貴方の記憶違いでござるよ」と主張
無事に乗り切り南部藩は存続したのであった
ちなみに2号は失火略目を果たし4年後に死んだ(享年23歳)
相馬大作事件と同じころに起こってるので1820年代前半は南部藩は存続のため必死だった時期

59 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 18:21:28
南部家と津軽家の仲が険悪なのはよくわかったが、
南部家VS津軽家以外に仲が悪い大名家同士って、
他にどの大名家が居るん?。

また、仲が良い大名家同士っていうのは居るんですか?

60 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 18:27:19
>>59
丹羽家と前田家も仲悪かったはず

61 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 18:32:45
島津家vs伊東家
途中で出くわして乱闘騒ぎを起こさないよう参勤交代の時期もずらすように幕命で言われている


62 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 18:35:50
>>59
姻戚があれば親しいとか,近い関係とはいえるが・・・・
基本的に大名同士が仲良くなるのはタブーだろ,幕府に睨まれて改易されちゃう。
大名同士が殿中以外で合うときには,証人として旗本を同席させてたくらいだし。


肥後加藤が改易されたのは,駿河忠長と親しかったからというのを何かで読んだような。



63 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 18:38:07
薩長同盟ってバレていたら武家諸法度に違反か?

64 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 18:41:56
>59
細川と黒田も有名ですね。

65 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 19:01:42
で、御三卿だが

66 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 19:06:26
>>65
氏ね。

67 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 19:49:45
>>64
原因は後藤基次がらみですか?

68 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 20:07:39
>>59 基本的には、領地が隣同士の大名間は、
領地の境界争いや相互監視という事もあり、
仲が悪かったのではないかと…。

69 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 20:07:46
>>63
武家諸法度以前に幕府にとっては,ありえね〜だろ。

70 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 20:31:12
前田と織田も仲が悪い。
稲葉と堀田は仲が良いけど、一度稲葉に斬殺されてる。

71 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 20:54:32
酒井(雅楽頭)家と堀田家もなんか仲が悪そう。
…徳川将軍家の後継問題(四代家綱の跡目争い)の争いの後遺症か?。

72 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 21:13:57
>>60
丹羽家と前田家が仲が悪い訳は何?


73 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 21:17:54
薩長同盟は反旗を翻した長州との結託だからマズイだろうが、
天狗党に対しての松本藩と高島藩の連合共闘
朝廷唆しの長州に対する、薩摩藩と会津藩の同盟は幕府に有利になるから問題無しなのか?
それとも文久元治の頃は彼等の勝手な合従連衡を追及する余裕無しか

74 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 21:25:27
>>72
関ヶ原

75 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 02:18:55
細川と、間違えられたほうの藩。
気まずくなったりしなかったのかな。


76 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 02:20:54
>>59
南部と津軽が仲悪いのではなく、
南部が一方的に津軽に粘着してたんだよ。

77 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 02:25:21
まるで南部が<ヽ`∀´>ウェーハッハッハッ
みたいじゃまいか!ww

78 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 04:19:02
>>59
加藤(嘉明)家と藤堂家が仲悪いよ。
領地も松山と今治で隣り合わせだし。
遺恨は、朝鮮出兵の功名争いからだったかな。

盗賊や、逃散する農民にとっては、隣藩に逃げ込めば勝ちみたいなとこもあったらしい(仲悪すぎて、引き渡しの合議とかしないから)。

79 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 04:29:57
細川と黒田も仲が悪い、というかライバル視してたようだ。

80 :79:2009/01/18(日) 04:34:26
あ、既出だったwスマン。

萩毛利と長府毛利&徳山毛利&吉川も途中までめっちゃ仲悪い。


81 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 04:39:13
黒田は関ヶ原後に筑前福岡52万石
細川は豊前中津39万石
黒田さんは「俺のほうが石高高いぜ。しかも中津はこの俺の古巣
よって俺のほうが上なんだよww」と思ってたところ
細川熊本に国替えで54万石になり逆転されてショボーンってことがありそうだ
でも「四品で侍従も一緒だけど俺は国主だあいつは天草と相良さんのおかげで国主格にすぎん」と
留飲を下げたことだろう

82 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 09:26:08
逆に細川から見れば,黒田なんて所詮は成り上がり者。
室町以来の名門細川家からすれば。


83 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 09:59:02
分家末流の偽細川(長岡)が何を言うかwww

84 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:08:41

>>83

まあ確かに細川の本流じゃないけれど所詮黒田は播磨国の小寺氏の家臣

源氏を正統とする血筋からいえば、肥後熊本の細川氏>>筑前福岡の黒田氏


85 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:52:33
黒田は侍従止まりが多い
一国なくても
少将に進める細川が格上
いんちき薬売りと
室町以来の名家とでは
比べものにならない

86 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:53:51
血統からいえば小笠原は名家

87 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 12:03:11

上杉と伊達と浅野

吉良が浅野に冷たく
伊達に親切だった

伊達も吉良と同じく
上杉に養子を出してる(高家の上杉に)

伊達の先祖は浅野の先祖と絶交(奥羽仕置いらい)

でも上杉と浅野本家は
上屋敷も近く仲は悪くない

88 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 12:16:17
>>85
小倉の小笠原や佐賀の鍋島はインチキ薬売りと同格だったのかね?
肥後細川でも少将になれないやつはインチキ薬売りと同格認定と言うことかね?

89 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 12:42:59
小笠原、鍋島、毛利、
山内、蜂須賀あたりは
そうだろう

90 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 12:44:20

浅野と池田は格上

91 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 12:58:14
蜂須賀って昔こそ泥だったらしいね。
明治になっても天皇のタバコを盗んだりしてたらしい。

92 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 12:58:19
本多正信・正純親子と大久保一族も
相当に険悪だったそうだな(^-^;)。

93 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 15:47:20
大御所VS将軍の代理戦争だぬ

94 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 16:16:24
>>92 ついでに、本多上野介正純VS酒井雅楽頭忠世・土井大炊頭利勝の連合軍の場合も相性が良くないな…。

この場合は、狸家康が在世中に、
佐渡守正信と上野介正純が権勢を極め過ぎた反動か?

95 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 18:29:24
>>77
まるでその通りなんですが。
ちなみに盛岡名物の冷麺は、在日朝鮮人が流行らせたもの。

96 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 19:03:10
@南部信濃守と津軽越中守は、同席させず、かつ津軽を軽く扱う
A前田加賀守と織田伊勢守は、同席させず
B前田加賀守と丹羽右京大夫は、同席させず(幕末に和解)
C池田相模守と永井右近大夫は、同席させず
D島津大隅守と相良豊後守は、同席させず(幕末に和解)

97 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 19:04:30
>>95
だから焼き肉屋でメニューに入ってるのかw


98 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 19:16:55
>>97 知らなかったの?

99 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 19:35:58
>>96
前田と織田はなんで?

100 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 19:39:02
第2回忠臣蔵

101 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 19:44:27
勅使饗応役になった
織田監物が同役の前田を
しごいたので
頭にきた前田が織田をアボーン

102 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 19:49:14
第2回忠臣蔵=みちのく忠臣蔵
榊原忠之…里見浩太朗
ねずみ小僧…風間杜夫
相馬大作…堤大二郎
南部利敬…長谷川初範
津軽寧親…宗方勝巳
土井大炊頭利秋…夏八木勲
阿部豊後守正安…大出俊将軍家斉…水上保広
早道の者…石倉英彦、堀田真三

103 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 19:54:47
家来のまた家来の分際で
加賀百万石を笠に着た
前田の分家小倅をいじめてやる絶対のチャンス

と思った織田は
他大名がいやがる饗応役を逆に喜んだ

前田は作法が判らずオロオロ

指南役(畠山)は
浅野の前例に懲りノータッチで放任

織田が前田をイビリまくった

104 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 20:23:43
>家来のまた家来の分際で

これってどういう意味なんだろうな?
織田家は前田家の主筋にはあたるが、徳川時代は家来ではないし、豊臣
時代を言っているなら、当時の織田家こそ大坂羽柴家に臣従していただろ。


105 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 20:47:57
その時の指南役は能登元国主の畠山か

106 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 20:53:50

ゴン六の寄騎
猿の大老
狸(家来同然)の最大諸侯

107 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 20:57:04
上杉綱憲のはとこ
畠山義寧と思われ

108 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 20:59:26
旧領能登は前田家のものだな

109 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 21:07:33
以前にも
式典の段取りを書いた虎の巻
を意地悪して見せない
永井を
内藤が刃傷に及ぶ事件があった

内藤は浅野のオジサン
だから二代に渡って
プッツンの家系

110 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 21:43:07
外様大名の名前には将軍の名前の一字が入ってることが多いのに(池田光政・上杉治憲・島津斉彬とか)、
譜代大名の名前には殆ど入ってない様な気がするけど、何故なんですか?

111 :松平吉保:2009/01/18(日) 21:49:58
外様大名は将軍との紐帯感一体感がただでさえ希薄だから松平の姓を与えたり、片諱を与えたりして公方との疑似一体感を感じさせる必要ありと感じたのでしょうな

112 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 22:13:31
>>111
柳沢(松平)吉保は老中格や大老格にはなってるけど、
正式な老中や大老にはなってないと思うんですけど、
譜代大名なんですか?

113 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 22:18:41
譜代です

114 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 22:20:14
>>105
その畠山って上杉入庵の子孫なの?

115 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 22:52:09
上条政繁→上杉義真→
畠山義里→畠山義寧

上杉景勝→上杉定勝→
吉良富子→上杉綱憲

浅野事件の時に吉良の補佐役
刃傷を目撃した
討ち入りの時は綱憲の挙兵を止めている

その後、高家肝煎になる

116 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 23:02:32
浅野長矩は火事が起こると
興奮して町へ飛び出したらしい

117 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 23:06:31
刃傷はあと
堀田を稲葉が
細川を板倉が殺ったのが有名

118 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 09:15:20
豊島が井上を
外記が旗本4人をやったのも

119 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 11:40:10
佐野善左衛門は?

120 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 12:13:37
譜代大名には政権を担当する代わりに領地=軍事力を与えないという方針は幕末の動乱では仇になったな。
なんせ、徳川本家の旗本達が戦力外だし。

121 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 12:44:18
鳥羽伏見では御三家も要所に配置された譜代も総寝返りに近いし、
東北では譜代も外様も一緒くたに幕府側。

あんまり意味ないんじゃね?

122 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 12:45:34
旗本とかって意外に教養のない奴も多かったらしいね。
田舎の藩校の方が勉学熱心だったっぽいのはなんとも皮肉。

刃傷沙汰といえば、信州松本7万石の水野が長州府中の毛利に切りかかった
のもあった。譜代の名門だけあって、7千石の旗本として家名存続した後、
大名に復帰、老中を何人も輩出して5万石の堂々たる城持大名に復活してるな。


123 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 12:51:34
学問は暇をもてあましがちな場所のほうが研鑽できる。
今時の受験生が大都市圏志向なのも、「大都市の方が遊べるから」だからな。
おかげで馬鹿が量産されてるだろ。

124 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 16:16:58
>>123
おまえはその馬鹿たちにも劣るわけだが。

125 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 16:58:26
>>124
根拠を述べよ。

126 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 19:07:19
で、御三卿の家臣の件

127 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 19:25:46
>>126

ク    ク   || プ  / ク   ク  || プ  / ク    ク   || プ  / ク   ク 
 ス  ク ス _  | | │ //. ス ク ス _ | | │ // ス  ク ス _  | | │ //. ス ク ス
  / ス   ─  | | ッ // /  ス   ─ | | ッ //  / ス   ─  | | ッ // /  ス  
  / _____  // /         // /           // /      
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ヽ  ヽ    人_(  ヾ    ヽ    `Y⌒l_ノ   ヽ    `Y⌒l_ノ  ヽ     `Y⌒l_ノ
  >〓〓〓〓〓〓-イ   /ヽ  人_(  ヽ  /ヽ  人_(  ヽ / ヽ 人_(  ヽ
/   /  Θ  ヽ|  /    ̄ ̄ ̄ ヽ-イ /    ̄  ̄ ヽ-イ /     ̄  ̄ヽ-イ

128 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 20:24:04
>>127
そんなに簡単に釣られてAA貼るなよ
荒らしに反応するのも荒らし

129 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 20:28:24
>>128
そんなに簡単に釣られてレスつけるなよ
荒らしに反応するのも荒らし

130 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 20:29:55
>>129
ク    ク   || プ  / ク   ク  || プ  / ク    ク   || プ  / ク   ク 
 ス  ク ス _  | | │ //. ス ク ス _ | | │ // ス  ク ス _  | | │ //. ス ク ス
  / ス   ─  | | ッ // /  ス   ─ | | ッ //  / ス   ─  | | ッ // /  ス  
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ヽ  ヽ    人_(  ヾ    ヽ    `Y⌒l_ノ   ヽ    `Y⌒l_ノ  ヽ     `Y⌒l_ノ
  >〓〓〓〓〓〓-イ   /ヽ  人_(  ヽ  /ヽ  人_(  ヽ / ヽ 人_(  ヽ
/   /  Θ  ヽ|  /    ̄ ̄ ̄ ヽ-イ /    ̄  ̄ ヽ-イ /     ̄  ̄ヽ-イ

131 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 20:34:24
>>122
世襲の武士全体が無教養の傾向があったんじゃなかろうか。努力しないと勤まらない役職なんて
そうそう回ってこないからと諦めた輩はかなりの数に上っただろうし。

132 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 21:37:21
その代り養子相続した武士は向上心があるものが多い。
これは大名も同じ。幕末で活躍した大名は大抵養子相続。

松平慶永(春嶽)、井伊直弼、一橋慶喜、山内豊信(容堂)など。
また水戸斉昭は将軍家からの養子話を水戸家が拒否して立てた部屋住み。
島津斉彬は嫡男だが、廃嫡の危険があった。

相続の際苦労があると、その後も努力や研鑽を怠らないようだ。

133 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 21:57:34
名君と誉れ高い大名も養子が多いな。

上杉治憲→秋月家から養子入り
細川重賢→部屋住み
徳川治貞→連枝の西条藩主から本家へ養子入り
松浦清→庶子だったが他に世継ぎがいなかったので世子になった

134 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 22:32:44
>>132
おいおい、容堂はただの酒飲みじゃねーの?



135 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 22:48:26
容堂は一門連枝からの養子だね
それに容堂はただの酒飲みではないよ
詩文と居合の才を持つ四賢公の一人にして鯨海酔候だよ


136 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 22:55:06
>>135
なんか高知城下で酒を飲んでは無頼の者と喧嘩ばかりしていたと
聞いた事があるが、そんな才能があるのか。



137 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 23:06:30
山内容堂は詩文だけだな
あと気負いが尋常じゃないのは飼い殺しの分家から思わずして土佐国主になったからかな

138 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 23:11:47
向上心があることがすなわち世の中でプラスとは限らん

139 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 23:26:02
>>132-133
でも最たるものは徳川吉宗
これ以上はない

140 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 23:42:44
逆に,正室腹の嫡男で順風に家を継いで名をなした大名って,誰?


141 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 23:49:06
細川重賢も嫡男じゃないしな

142 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 00:17:30
土州侯山内容堂は人間的には興味深いが、しかし政治的にはどうだろうねえ。
侠客ぶって酒飲んで大言壮語して、あとは東洋を暗殺した藩内の勤皇志士を弾圧し、
大政奉還を後藤を通じて慶喜に建白したのと小御所会議で岩倉相手に激論したことしか印象に無し

143 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 01:01:24
>136
腕力で藩を鎮圧したとも言えない、、、か。

144 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 01:02:55
>>140
徳川家光。

145 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 01:21:41
なにが鯨海酔候だよw

146 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 02:08:02
容堂に限らず大小名どもは数百年来淫逸を事としてただけ

147 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 02:11:21
まあ幕末一の名君はそうせい候毛利敬親だけどな。

148 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 02:38:24
鯨海酔候(笑)

149 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 02:44:36
土佐清酒「酔鯨」

150 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 03:32:15
山内なんて暴政・圧政の代名詞やん。南部より多少マシって程度の腐れ治世。

151 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 03:38:35
南部なめんなよ。
新政府側につきたかったのに、
仙台藩から来た鎧兜姿の使者の恫喝に負けて、
仙台藩の下っ端になったんだぞ。
へたれ日本一の座は譲らない!

152 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 04:10:15
仙台伊達家に事大したんですね、分かります・・・

153 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 05:48:33
事大した相手がドンゴリだったのが運のつきか。伊達って何をしたかったんだろう。

154 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 05:53:03
>>147それは名君ではなく名物だろw

155 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 07:04:27
山田太郎は明訓d(ry

156 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 07:38:03
仙台から来た鎧兜の使者かっけぇー

157 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 08:20:02
既に幕府も西日本各藩も洋式に切り替えつつあったというのに。

158 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 08:40:12
とーほぐの未開地域だから仕方ないっぺよ

159 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 09:18:18
奥羽越にもガトリング家老が出てるんだから、地勢を言い訳にするのはよくないだろうな。
人の気質が地勢の影響を大きく受けるのは事実だけど。

160 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 11:04:12
ドンゴリは宇和島と対比させると悲惨の極地だね。
今に至るまで東北人が馬鹿にされ続けるという、とんでもない
結果になったことといい。

161 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 12:20:39
伊達家中は藩祖以来家中みな甲冑にこだわりを持ってますから

162 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 12:47:27
まあ所詮ローカル王者がもっと早く生まれていればとうそぶいていただけだから
夜郎自大

東北ファンだけどね

163 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 13:17:06
>ローカル王者がもっと早く生まれていればとうそぶいていただけだから

フツーに後出しジャンケンだよな。

164 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 14:51:50
改易された大名で、何か逸話とかある?

165 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 15:45:35
逆恨みにより、高家の隠居を集団で嬲り殺しにした事件がある。
これほどの残忍さは、いかに武士が首狩り族といえどそうそうあるものではない。

166 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 16:25:42
>>152
ドンゴリに事大って、だったら喜連川公方だの守山藩に事大するのと変わらんぞ。

167 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 18:28:31
事大って何?

168 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 18:56:26
幕末の優れた藩主と言えば藤堂高猷。
負けるほうに味方してもいいことないよね。

169 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 19:02:01
>>167
大に事(つか)える

強者にすり寄っていくこと。


170 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 19:39:11
夜郎自大は別の意味だけどな
こういうことも検索すればすぐわかるようになった

171 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 01:44:48
幕末の南部藩は民間製鉄があったので、
大砲は百門以上持ってたんですよ。
ただし、
全部旧式だったのと、
有効に活用できる人材と、有効活用できる弾薬がありませんでした。
南部なめんなー。

172 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 05:44:13
【東軍のその後】
福島 尾張清州20万石→安芸広島49万8千石(+29万)→信濃川中島4万5千石(−45万)→改易(旗本2千石)
加藤 肥後熊本24万石→肥後熊本52万石(+28万)→出羽丸岡堪忍料1万石(−51万)→改易
加藤 伊予松前10万石→伊予松山20万石(+10万)→会津若松40万石(+20万)→近江水口2万石(−38万)
黒田 豊前中津18万石→筑前福岡52万石(+34万)→分知47万石
藤堂 伊予松島8万石→伊予今治20万石(+12万)→伊勢津32万石(+12万)→分知27万石
浅野 甲斐甲府22万石→紀伊37万石(+15万)→安芸広島42万石(+5万)
山内 遠江掛川6万石→土佐高知24万石(+18万)
細川 丹後宮津18万石→豊前中津39万石(+21万)→肥後熊本54万石(+13万)
池田 三河吉田15万石→播磨姫路52万石(+37万)→因幡鳥取32万石、備前岡山31万石
田中 三河岡崎10万石→筑後柳川32万石(+22万)→改易(忠政の兄の養子が旗本500俵)
最上 出羽山形24万石→出羽山形57万石(+33万)→近江大森1万石(−56万)→旗本5千石
伊達 陸奥岩出山57万石→仙台62万石(+5万)→陸奥仙台28万石(−34万)
京極 近江大津6万石→若狭小浜9万石(+3万)→出雲松江24万石(+13万)→播磨龍野6万石(−18万)→讃岐丸亀6万石→分知5万1千石
京極 信濃飯田10万石→丹後宮津12万石(+2万)→分知7万8千石→改易(高家1500石)


173 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 05:45:05
有馬 遠江横須賀3万石→丹波福知山8万石(+5万)→筑後久留米21万石(+13万)
堀尾 遠江浜松12万石→出雲松江24万石(+12万)→改易
中村 駿河駿府14万石→伯耆米子17万石(+3万)→改易
松倉 浪人。単身関ヶ原参戦→大和五条1万石(+1万。戦国ドリーム)→肥前島原4万石(+3万)→改易(ドリーム終了。二男が旗本300俵)
寺沢 肥前唐津8万石→肥前唐津12万石(+4万)→改易
蜂須賀 阿波徳島17万石→安堵→淡路加増25万石(+8万)
小早川 筑前名島30万石→備前岡山55万石(+25万)→改易→明治に復活
脇坂 淡路洲本3万石→伊予大洲5万石(+2万)→信濃飯田5万石→播磨龍野5万石
有楽 摂津味舌2000石→大和山辺3万2千石(+3万)→分割
蒲生 下野宇都宮18万石→会津若松60万石(+32万)→伊予松山24万石(−38万)→改易
真田 上野沼田3万石→信濃上田10万石(+8万)→信濃松代13万石(+3万)→分知10万石
前田 加賀金沢83万石→加賀金沢119万石(+36万)→分知102万石
井伊 上野高崎10万石→近江彦根18万石(+8万)→近江彦根30万石(+12万)→近江彦根23万石


174 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 11:57:49
東軍サイド武将も悲惨な末路の香具師が多いなー

ろくな功績もないのに最終的に久留米21万石になった有馬は勝ち組
というか、この結果だけ見ると有馬豊氏は秀忠の衆道友達という噂も棄てたもんじゃないかも知れないなw

175 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 16:32:13
【旧守護】
畠山(金吾)  高家5000石
畠山(能登)  米沢藩士、高家3120石
斯波(武衛)  滅亡。一族が前田家臣
斯波(最上)  出羽山形52万石→近江大森5000石
細川(京兆)  秋田家臣
細川(和泉上) 常陸谷田部1万石→子爵
細川(奥州)  系譜上肥後熊本54万石→侯爵
赤松       阿波住吉1万石→自害改易
赤松(別家)  旗本5000石
赤松(有馬)  筑後久留米21万石→伯爵
山名      但馬村岡6700石→但馬村岡1万1千石→男爵
一色      滅亡
一色(式部)  崇伝。従兄弟が旗本2000石→無嗣
京極(高次)  近江大津6万石→若狭小浜9万石→出雲松江24万石讃岐丸亀6万石→子爵
          讃岐多度津1万石→子爵
京極(高知)  丹後宮津12万石→分知7万8千石→改易→高家1500石
          丹後田辺3万5千石石→但馬豊岡3万5千石→1万5千石→子爵
          丹後峰山1万石→子爵
六角      織田家臣(柏原藩)、徳川旗本
今川      高家1000石
今川(品川)  高家1500石→300石
土岐(美濃)  旗本500石×2
武田(甲斐)  高家500石、米沢藩士
小笠原     豊前小倉15万石→伯爵、肥前唐津6万石→子爵、播磨安志1万石→子爵
佐竹      出羽秋田20万石→侯爵
大友      高家1000石
島津      薩摩藩
宗        対馬藩
それ以外   滅亡

176 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 16:58:04
関東管領上杉は守護ではないのかな?

六角が織田家臣というのは信長との因縁からいえば信じられないな
疥癬和尚や杉谷善じゅ坊もびっくり

177 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 18:01:56
>>176
上杉も長期にわたって相模・武蔵・上野・越後の守護職を一門で占めていたし、
長尾景虎が「実質的」に越後守護・上杉定実の名跡を享け継いだようなもんだから
(ちょっと解釈に無理あるかな?)守護大名系に分類しても問題ない気はするね。

178 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 18:24:27
上杉っていっぱい家系があったのに、憲政−謙信・景勝系統以外は全部消滅しちゃったの?

179 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 18:41:24
能登の畠山義春系が
高家上杉として残る

上杉義春=長員=長貞
と続く

180 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 18:44:53
加賀つめ上杉も大名になったん
じゃまいか

181 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 19:06:34
加賀爪上杉は武蔵高坂藩
1万3千石

高家上杉は下総印旛および千葉など

182 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 19:28:10
大名レベルでも、関ヶ原後に名家や名将を多く召抱えてる家もあるね。
紀州とか細川越中あたりそうだっけ。

183 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 19:34:19
武田は信玄の弟の川窪信実の子が旗本となり、のち武田に復姓して存続。

184 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 19:35:15
紀州頼宣は出鱈目軍師を
騙されて高給でめしかかえてしまった

185 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 20:12:16
鎌倉→室町のあいだはあまり変動ないんだけど
(せいぜい足利の派閥が増えたぐらい)
やっぱり戦国挟んでるから世の領主の顔ぶれがガラッと変わってるな
秀吉期と比べても関ヶ原のせいで結構変わってる

186 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 20:34:05
運よく大名になれた人物って誰かいる?
運だけじゃないけど柳沢吉保の処世術はすごいね。

187 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 20:36:05
運がなきゃ成り上がれないし、下克上を防ぐこともできない。
ゆえにすべての大名が該当する。

188 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 20:45:13
>>186 大岡越前守忠相なんかは中級旗本(2,000石クラス)から
最終的には10,000石の大名になってますな(^_^.)。

後は、小姓上がり?の田沼意次なんかも
57,000石の大名(相良城主)にまでなってるしね。
(ただし、末路は良くなかったが…。)

189 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 20:51:39
悪だけは何で高家にならなかったんだろう

190 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 20:54:03
大岡なら出雲守忠光もいるね

191 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 21:04:03
権力を失っても15万石を維持した柳沢はさすがだ。
田沼も何代か後で若年寄に復権してた気がした。

192 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 21:10:41
意次が祟ったからね。
たかだか老中程度で祟るってのも笑止だが。

193 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 21:13:16
>>182
蜂須賀なんて、せっかく召抱えていたのを冷遇し、しまいには出奔されたけどな。

194 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 21:51:05
柳沢ほどではないが喜多見若狭守も見逃せない

195 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 21:51:18
>>193
あれって領内に住み着いていたから捨て扶持くれてやってただけでしょ。
むしろ出て行ってくれて清々してるくらいでは。

196 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 22:44:27
綱吉は抜擢したり改易したり理不尽な人事多いなw

伊予西条藩は紀州本家から合力米を貰ってたみたいだけど
尾張や水戸の御連枝も本家から援助受けてたんだろうか?

197 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 22:56:08
尾張の連枝は援助を受けていたようですね。

198 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:04:45
>>197
ありがとうございます。尾張家もでしたか。
やはり大広間・少将・連枝の格式を維持するには3万石では足りなかった
のでしょうね。水戸は実高が低い上に分家も多くて大変そうです。

199 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:22:02
>>198
家臣を少なくすれば良いと思うのですが、格がある家ならばそういう
わけにもいかなかったのでしょうかね。

1万石で家臣数は200人ぐらいが平均らしいが、三万石なら600人か。



200 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:32:42
慶安2年の軍役規定で,3万石なら610人。
ということは,参勤交代の供揃えも最低610人必要?
国元にも家臣を残すから,本当はもっと必要か。

まあ,参勤交代の供揃えは,今で言う派遣社員かフリーターの臨時雇用で間に合わせるか・・・


201 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:50:51
軍役免除でも吉井藩は極貧。
格式高いと終わってる。

202 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 00:34:49
そういう大名家の領民は悲惨

203 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 00:58:54
吉川は柳間席だったみたいだけど、付家老の伺候席はどこの部屋だった
んだろう?


204 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 01:09:20
>>201
>>202
喜連川公方ちゃんが通りますよ。

205 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 01:16:06
>>175
六角の子孫って、加賀前田にいなかったっけ?
あと関東一色、喜連川の家臣にいる。

206 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 03:03:14
>>186
間部詮房がいるじゃあないか。

207 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 03:06:31
>>183
信玄の次男・海野龍芳の系統も高家になってるよね。
息子が大久保長安事件でとばっちり喰らって、伊豆大島に流されたりとかいろいろあるけど。

208 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 04:00:48
>>206
でもさ、その辺の奴らって、成り上がりだの言われて、
やっかみ半分の悪名だので有名だけど、
なによりも、
本人たちの努力や資質、能力が主要員だと思う。
その辺鑑みると、
春日局の身内ってだけの稲葉や、
運がコロコロ転がってきた久留米有馬のほうが、
「運よく」という気軽がする。
それでも本人たちの資質は大きかっただろうし、
子孫も地位キープを頑張ったと思うけど。
あと、
豊臣関連なのに大老まで登り詰めた掘田とか、
たまたま藩主のどうでもいい子供を預かったら、
とんとんとんと八代将軍になっちゃった!とか。

209 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 04:03:13
蛍大名最高

210 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 08:16:42
紀州家中系大名
有馬 加納 田沼


211 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 10:17:37
幕府は桜田門の後、彦根藩に対する扱い酷すぎだろ?あの扱いが最後の裏切りに繋がったな。

212 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 11:48:51
>>211
同意
まして水戸系将軍だからね

まあ幕府言うてもがらっと中身(派閥)変わってしまったから


213 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 11:57:07
>>211 本来ならば、
彦根藩は、桜田門のテロの後、
幕法によって、御家断絶になっても仕方がなかったが、
水戸藩との激突を警戒した幕府が、
法を曲げて、彦根藩の存続を認めた。

そのまま井伊派の天下が続けば、
井伊家は、30万石のままだったかも知れんが、

一橋派が幕閣に返り咲いた事で、
井伊派の旧悪?を蒸し返してっていうか、
意趣返しで、井伊直弼を筆頭とする井伊派の面々を処罰(或いは追罰)した。

こんな事で、ゴタゴタするんだったら、
端から、江戸での戦乱等の混乱を覚悟の上で、
桜田門のテロの直後に、彦根藩、水戸藩双方とも御家断絶にしておけば良かった。
上手く処理出来れば、
両藩の取り潰しで幕府の所領が70万石近く増加するから、
ちとは、財政基盤の強化に役立ったろうて。

214 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 12:19:56
>>208
加納久通?

215 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 12:22:23
ひこにゃんが天地人イベントにゲスト参加した

上屋敷がかねやんの
おさがりなんだね

216 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 14:07:14
[若杉公徳] デトロイト・メタル・シティ 1-6巻
http://www.orange-mikan.com/index.php?topic=2835.0

217 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 20:35:42
>>213

彦根藩井伊家は、徳川将軍家の有事の際の先鋒を努める家格であり、また、朝廷から征夷大将軍に任命
(将軍宣下)された御礼や将軍即位の祝儀を述べる際には、幕府からの正使として上洛し、天皇に対面
していた。

そのため、家の家格としての極官も、御三家と加賀藩前田家を除く、どの家よりも高い家格を有しており、
正4位上中将に叙任されることもあり、大老職もほぼ独占して務めていた。

譜代の断突筆頭であり、断絶させられるような家ではなかったかと・・・

218 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 20:59:05
>>217
正四位上中将って大老職に就いた当主しか叙されてない気がする(勘違い
だったらごめん)んだけど、大老就任を捨象した井伊家の家としての極位
極官も正四位上中将なのかな?
在任期間の長い当主でも、大老になってない場合は正四位上には叙位されて
ないっぽいんだよね…


219 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 22:43:26
>>218 直弼の親父の井伊直中は、
大老職には就任していないが、
官位の昇進が可能な任務(将軍世継の宮参り後の屋敷御成・将軍世継の元服での加冠役・京都上使・日光参拝の将軍名代等)を数多く熟したから、

井伊家の極位極官(正四位上中将)に昇り詰めているよ。

220 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 22:48:56
>>219
ネットで見た限りだと中将にはなってるみたいだけど正四位上にも叙位された
のか分からなかったんだけど、大老にならなくても極位に叙されてるんだね。
わざわざありがとう。

221 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:00:32

井伊家は将軍宣下の際の正使であり、副使が高家となっていた。

代表的な高家の一人、吉良義央の最終官位は従四位上左近衛権少将であり

正使の井伊家当主は副使の高家の官位を上回っていなければならなかった

だろう。井伊家の官位が他の大名以上に高いのは大老職のせいではなく

正使として上洛し天皇に拝謁するがための理由からではないのか?

222 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:03:39
そうだね

223 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:13:57
京都上使の任務は、
井伊家というよりは、井伊家を含む溜間詰大名の任務だったようです。

京都上使の任務を無事に務め上げれば、
江戸に帰府の後、官位昇進が認められた。

…よって、井伊家だけでなく、
溜間詰の大名ならば、
京都上使の任務は、数少ない官位昇進のチャンス。
…まあ、溜間詰の大名は、少なくとも
最低限、従四位下侍従の官位を持っているからね。

224 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:18:11
上使が井伊家のみの任でないとしたら、上使・大老を捨象した井伊家の
家固有の極位極官はどうだったんだろう?

225 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:24:15
井伊家の極位極官(正四位上中将)に昇り詰めた当主。

二代直孝・四代直興・十代直幸・十一代直中・十二代直亮・十三代直弼。
(この内、直孝・直中を除いて全員が大老職に就任。)

ちなみに井伊家の当主は、藩主に就任して直ぐに死んだ者以外は、
最低限、従四位下少将にはなっている。

後は、官位昇進が可能な任務をどれだけ熟すかによって
官位が変わって来るようですな。

226 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:34:56
井伊家が官位昇進が可能な任務。

・京都上使
・将軍家若君の御宮参り後の井伊家上屋敷の御成
・将軍世継の元服加冠役 ・家康遠忌の日光代参(将軍名代)
・大老職就任

っていう所ですかね。

227 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:41:09
さすが譜代筆頭。役得が多いねー

だとしたら任務や役職で昇叙する正四位上中将を極位極官っていうのは少し
変な気もするね。老中をたくさん輩出してる御役家とかは従四位下侍従を
極官とは言わないのに・・・


228 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:47:11
溜間詰大名の中で
常溜(世襲詰)の大名(彦根井伊家・会津松平家・高松松平家の三家)の 極位極官は、
・井伊家 → 正四位上中将
・会津松平家 → 正四位下中将
・高松松平家 → 従四位上中将。

それ以外の溜間詰大名(飛溜・溜間詰格)は、
最低限、従四位下侍従で、頑張っても、
従四位下少将が限界かと。

これを見ると、幕府の最高職である大老(官位は従四位下少将相当)は、

事実上、溜間詰大名からしか選任されないようですな。

229 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:51:38
侍従

230 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:51:42
井伊家以外の大老の極位極官はどの位ですか?

大老になれたのは,井伊家の他は酒井雅楽頭家,堀田家,土井家と,柳沢家?


231 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:59:49
今年のセンター試験、坂下門外の変をボカシて(城門の名を書かずに)選択肢とし、桜田門外の変と勘違いさせてひっかけさせる問題が出ていた。
誤っているものを選べということで、選択肢に江戸城が官軍の総攻撃を受けて落城した、なんて笑うしかないものがあるので正解は明らかなんだがw
城外の変で老中が襲撃され、なんてあるのを「井伊直弼は大老やんか、これが誤り=選択肢だぁ」なんてマークした奴はどれだけいたんだろ。

232 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:01:04
>>230 大老は、従四位下少将相当の役職。

ちなみに、老中・京都所司代は、
従四位下侍従相当の役職。
大坂城代・側用人は、
従四位下(所謂、四品)相当の役職。

…よって、井伊家以外の大老就任者は、
酒井であれ、堀田であれ、柳沢であれ、
従四位下少将が限界だったのではないかと…。

233 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:04:34
>>231
その出題者は、受験生がちゃんとNHK大河ドラマを
観ていたかどうかを試したかったんでしょうね!

234 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:09:56
大老職は、事実上、
徳川家の大番頭と言える、井伊掃部頭家と酒井雅楽頭家が占めていると言えますな。
土井利勝と堀田正俊は、
当人一代しか大老になっていないから、
正直なところ、土井家と堀田家は、
大老家とは言いにくいかな。
…利勝・正俊以降の土井家・堀田家は、老中止まりだったし…。

235 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:12:34
大番頭は旗本だろ

236 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:13:52
大老でも従四位下少将,高家肝煎と同じ官位か。

確か老中でも,高家と一緒に御所で昇殿すれば,席次は高家が上席になったと何かで読んだ気が・・・・



237 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:20:52
>>233
いや、大河ドラマはおそらく受験生の親あたりが見ている。
それで、坂下門外の変にヒカカッた受験生である子供に対して

「おまえ、江戸城は無血開城されたんだぞ! 受験生の癖にそんなことも知らんのか、ゴルァ!!」

って言って親の威厳を取り戻させようとしたんだろw
歴史ヲタは団塊の世代あたりが大石・・・

238 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:22:52
引っかけ?
センターで日本史受けるなら誰でも答えられるサービス問題だろそれ

239 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:26:07
>>237
にわか歴史ヲタが大河ドラマで仕入れた蘊蓄を語りたいのは分からなくもないが
おそらく引っかかるような奴はその問題とは関係なく大学には入れまい。

240 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:36:34
>>234
本来、徳川家の大老は酒井家と石川家だった。
二人大老という形で進んでいたのだが、石川数正が出奔して以降、事実上酒井忠次と四天王筆頭の井伊直政が穴を埋めるような形になった。
ただ、徳川家における大老は本来酒井家。
井伊家は力関係でなり得るポジションを手にした。
しかし、その経緯もあって、その時々で重鎮なら将軍の裁量で大老になり得るという許容度が幕府初期にはあったのだと思う。
それが土井利勝だったり、堀田正俊だったり柳沢吉保だったり。
しかしこれらは家光や綱吉の個人的裁量による独断といった趣が強いだろう。

一方で酒井は忠清が更迭されて以降は却ってダントツだった大老の座がそうでなくなった。
結局酒井+井伊のパターンに戻っていったと思われる。

241 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:45:35
>>204
鷹司松平家(五摂家+家光義弟)から見たらショボ

242 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 01:02:51
>>240
酒井と言ってもウタノカミと左右衛門の上があるわけで。
両者は分けて考えないと。

243 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 01:26:15
左右衞門の上ってなんだ?

244 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 01:27:37
>>241
鷹司松平(吉井藩主家)はれっきとした万石取の大名だろ。
それに鷹司とはいえ、所詮は分家だし
官位だって一般の大名より少し高いだけで、別に公卿であったわけではない。

足利宗家(とみなされていた)で、10万石の格式を有しながら
たった5千石の所領しかなかった喜連川のギャップに比べたら、大したことないよ。

245 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 01:34:08
>>240
三河時代の酒井石川は、軍事軍政の二大リーダーであって、
家中取締、および表向き政治の、
後世言うところの「大老」とは違う。

246 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 06:11:27
それに直弼以前の大老なんて名誉職程度のモンだろ。


247 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 07:24:20
下馬将軍を愚弄するか

248 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 07:24:52
刃傷沙汰が何度とあっても、殿中への脇差の持込禁止令が出ないのは
いくら太平の世でも腐っても武士ってことなんだろうな。
見栄えだけなら竹光でも良さそうなもんだけど、そうはいかないか…

249 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 08:39:02
藩のサムライや領民って、此所は俺達の国って意識だったのかな?
一万石程度の小藩でも独立国的な意識だったかな?

250 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 08:49:59
1万石程度だと、まとまった形の所領は持ちにくかったから、難しかったことだろう。
ただ、政治的な独自性を保つために他領に近い繁華な地を避けて陣屋を置くケースは
あった。武士は主に藩主居所に在住するから、城下町陣屋町では独立国の意識を
保てただろう。

251 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 10:40:24
外様と親藩譜代、国持ちと小大名、東海と辺境で違うだろう

外様で国持ちで辺境なら独立国、島津・伊達など
譜代の小大名は事実上江戸詰の官僚

252 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 11:25:46
よく分からんけど譜代の小大名のほとんどは参勤交代してるし官僚もやらないと思う。

253 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 11:36:11
ところで、大身の譜代大名の
表高と内高って、どれくらいあるの?

254 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 11:47:49
豊前小倉城主小笠原
高拾五万石
実高30万石

255 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 14:57:24
水野忠邦のいた唐津藩もかなり内福だった。実高は20万石だとか…

256 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 18:00:10
>>255
ただ、長崎防備役があったんだよね。

257 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 18:52:13
ふと思ったけど柳川立花家ってバランスいいね。

藩祖・立花宗茂を中心に立花道雪・高橋紹運・ぎん千代とスター揃いだし、
家臣も由布惟信・小野鎮幸・薦野増時とか逸話も多い。
改易されながらもほぼ元通りに復帰。大きな御家騒動もない。
石高も10万石と多すぎず少なすぎず、家格は准国持・大広間席、極位極官も
従四位下侍従と高い。筑後は実高も多そう?だし…


258 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 19:13:10
客観性のない意見だな。そんなに立花家が好きかね。

259 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 19:15:18
>>256
そのくせ幕末では存在感無いね。今の佐賀県みたあsdgfふじこ

260 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 19:26:26
客観性なんてないよ、極めて主観的なレスだからw

261 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 19:43:53
吉良義央が高家肝煎となった頃(1680-1700年頃)の官位は従四位上左近衛権少将であり、
その頃の老中は
戸田忠昌(1681年 - 1699年)
阿部正武(1681年 - 1704年)
松平信之(1685年 - 1686年)
土屋政直(1687年 - 1718年)
小笠原長重(1697年 - 1705年)
秋元喬知(1699年 - 1707年)

であったが、いずれの老中も従4位下侍従だったので
詰間で同席することはないだろうが、確実に吉良>>老中だったろう

262 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 20:35:07
>>261
高家肝煎・従四位上少将だと並みの旗本よりは丁重に扱われただろうけど、
職制上、老中支配下の高家が老中より格上になりようがないんじゃないかな。

263 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 20:42:36
従四位の高家って、実質的にエライの?
官位高くても所詮軽輩じゃん?
政治的な発言力もないし存在に重みがなさそうなんだけど。

264 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 20:57:37
偉いだろう
式典の作法に疎い田舎大名は
米搗きバッターになるしか無い

265 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 21:10:35
偉いったって、政治権力の有無とは別物。
行儀作法や式典の専門家と政策立案の責任者を比べて
どっちが偉いかなんてナンセンスw

266 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 22:24:35
公家なら三位でも暮らしは庶民と大差ないだろう

267 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 22:25:53
式典(特に朝廷関係の儀礼)に関しては、
老中はもとより、将軍ですら高家の指導が無ければ、
どうしようも無いから、
少なくとも儀礼に関してだけは
先例に詳しい?、高家の天下かな…。

268 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 22:37:22

>>265

しかし、江戸も中期以降には、諸大名は詰の間等で如何に他よりも上席に
付けるか、官位が上がれるかが関心事になっていく。

そのためには、藩の留守居などは奥詰の諸役人などに対して賄賂攻勢

畳の目一つの違いに大きくこだわったのが、ナンセンスな平和ボケした
江戸城中の諸大名・旗本でした。

269 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 22:51:58
>>268 官位昇進の為には、
権門に賄賂を贈るだけでなく、
多額の出費を要する御手伝い普請も辞さない
伊達家のようなのも居るな。

270 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 22:58:48
>>226 官位昇進が確実な任務とは言っても、
任務を果たす為の出費も馬鹿にならないな…。

下手をすると、御手伝い普請クラス(まあ、規模にもよるが…)の
経費が必要になる…(T-T)。

271 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 22:59:59
乱世で殺し合いしてるよりは余程マシだと思う。

272 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 23:01:27
…やはり、官位昇進を果たすのに一番安上がりなのは、
権門への賄賂攻勢かな?

273 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 23:07:25
>>265
権力もそうだが、
いかに他人に対して威張れるかっていう下らないことが、じっさい案外重要だったりするのよ。
強大な権力を握ってなくても、相手に頭を下げさせればこっちの勝ち。
別に江戸時代に限らん、現代だってそうだろ。
ナンセンスっていえば確かにナンセンスだが、人間そんなもん。

274 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 23:20:54
儀式がある1か月かそこら威張れても仕方ないだろ

275 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 23:28:48
儀式があろうとなかろうと、
自分より官位の低い大名に対しては、常に威張れるだろ

276 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 23:31:17
四位になると御三家にも欠礼できたとかいう話ですね。
本来は総下座だけど、四位以上の場合は御三家も下乗して答礼
することになっていて面倒なので、お互いに気づかなかったことに
して通り過ぎていたとか。
「将軍の座」によると、相手が下座して礼をするのに対し、旗本の
場合には手、平大名の場合は足を出して降りるそぶりを取ることで
答礼したとか。

277 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 23:32:55
行列がかち合ったりしたら身分の低い方は脇道に逃げなきゃならんし

278 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 23:40:56
ぞれでも茶壺なら、茶壺なら何とかしてくれる!

追われたら戸を「ぴっしゃん」だぞ。

279 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 23:51:31
茶壺を宇治から江戸へ運ぶに当たり、伊勢・鈴鹿峠にて矢坂、久慈、燕の三浪人が将軍家茶道指南・丹阿弥(戸浦六宏)と警護の侍(曽根晴美)を襲撃してましたよ

280 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 01:15:46
現在、学校の授業では大名行列についてどんな風に教えているんだ?
下に〜下に〜は御三家しか使わないということは学校では習わなかった。
他の大名家は、除け除け、としか言わないとか、土下座の義務は御三家のみとか

281 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 02:11:14
行列そのものは中高の教科書には出てきません

282 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 05:00:23
士農工商も出てないんじゃまいか?

283 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 06:40:17

>>268

家督後すぐの初御目見などの際には、奏者番による習礼(予行演習)が普通に行われ
ていて、独礼でない柳間などの諸大名にあっては、古参の者に頼んで、習礼の予行演習
すら行われていた。

もし、間違いなどがあれば、差し控えや逼塞などの罰が待っていたようです。


当然に直接のあいさつはなく、老中の御取り合いにより進行される。

全くの儀礼そのもの・・これが 江戸幕府での武家のありさま

284 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 08:10:55
農、工、商の間には序列は無かったというのが現在の定説だから、教科書は身分制度の説明、ピラミッド型にはなってないかのな?

285 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 08:34:42
参勤交代の道中って、万石の家老クラスでも馬で移動してたんだろうか?
騎乗の家格の藩士はみんな馬で移動なのかな?

286 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 09:44:13
そりゃそうだろ。
たとえ廩米支給の小旗本でも、公務で移動するなら騎乗が基本だからな。
義務ではないから、川路聖謨などはできるだけ歩くようにしていたらしいが。

287 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 09:45:17
論点がずれたね。
行列で騎乗の市は1万石でさえ数名つくから、万石の家老が徒歩のわけがないな。

288 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 09:46:59
御三家附家老までいけば、藩主と同様に駕籠で移動じゃないだろうか。
参勤交代路では附家老の専門本陣に指定されていたところもあったようだし。

289 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 09:57:37
で、御三卿だが

290 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 10:41:19
>>289
御三卿が参勤交代するわけねーだろ

291 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 11:14:54
参勤交代は軍役じゃないのか?
軍役なら,1万石で騎上10騎,10万石で騎上170騎必要。

万石取りの家臣いる大名家なら10万石以上だし,これだけ騎乗の士が必要だから
万石取りの家臣はもちろん騎乗でしょう。

292 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 11:32:47
万石クラスの家老でも駕籠じゃなかったのかなー
徒歩よりはマシだけど何十日も馬に乗るのって辛いものがあるなw
徒歩の侍は馬のホカホカうんち踏んだりして大変そうだw

関所を通行する時の格式による違いってあったんだっけ?
どれぐらい以上の家格だと関所役人総土下座だったんだろ?


293 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 12:58:19
藩の規模にもよるが、
家老って、各藩に
どのくらい居たんですかね?

また、城代家老や江戸家老以外に
他の場所にも家老職が置かれてたん?

294 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 13:05:01
会社の取締役みたいなもので定員とかないのだろう
石高も筆頭と下っ端では桁が違う

赤穂藩とか会津藩とかは資料が多い

295 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 13:12:05
家老、老職、国老、加判、中老、宿老、執政

296 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 13:57:35
岡山藩なら家老は万石以上で6人程度、小藩なら藩の石高の十分の一程度の知行の家老が2人前後。

297 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 13:59:47
各藩の侍分限帳数年毎に作成されて、その何年か分がけっこう残っていたりするので、
郷土史料を漁るとけっこう拾える。

298 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 14:02:51
小藩だと2,3人だろうし、国主クラスだと10人越えてたっぽいね。

長州藩あたりは門閥の一門永代家老だけで9家(吉川家・毛利姓6家・
福原家・益田家)あった。
大名格(6万石)の吉川は別格として、1万6千石を筆頭に1万石以上が5家、
残りも8千石前後の大身。

家老の下に年寄を置いた藩もあるだろうし、一概には言えないかも。

299 :298:2009/01/24(土) 14:05:15
>毛利姓6家
一門筆頭の宍戸家(元就の長女の嫁ぎ先)は毛利姓じゃないから
厳密には5家でした。訂正です。

300 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 14:13:23
そりゃ知行を大幅に削られた大名家なら多いだろう。
だから、それを国主全体に当てはめるのはおかしい。

301 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 14:24:58
別に国主全体に当てはめてるわけじゃないけどね。あくまで国主の一例だよ。

加賀八家を抱える前田は確定として、伊達・島津あたりもたぶん二桁だろうし、
池田や鍋島あたりも門閥がかなり多そうな気する。
家によっては一門門閥が政務に就かない場合もあるから石高が多くてもまちまち
なんだろうけど…


302 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 18:29:17
江戸藩邸って周囲を全部白塗りの塀で囲ってたんだろうか?
10万坪以上ある藩とか、想像を絶して広さが分からないw

303 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 18:53:54
ちょうどこの範囲が薩摩藩邸跡
http://maps.google.co.jp/?ie=UTF8&ll=35.65088,139.74707&spn=0.003923,0.004678&z=17

304 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 19:19:31
>>302
江戸東京博物館で見た越前福井藩主・松平伊予守忠昌の上屋敷のミニチュアは塀で囲ってあった。

>>ttp://blog.livedoor.jp/gumizaki/archives/2006-05.html
このブログに少し写真があった。

ここは上屋敷だが,中・下屋敷はどうかな?
下屋敷の敷地内には,町屋や農村があったという話しもあるし・・・・






305 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 19:31:37
幕末に焼き討ちされた薩摩屋敷って全焼したの?
何人ぐらい殺された?皆殺し?

306 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 19:40:24
>>303
なんだかもう、広いとかどうのという次元じゃないね。こりゃ1つの町だw
御三家とか前田井伊とか、こんな巨大藩邸がいくつもあったと思うと…

>>304
精巧な模型だね。越前家は別格とはいえ、すごい立派な藩邸で驚いた。


307 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 21:13:48
>>304
そこまでなると、拝領屋敷ではなく、ちょっとした領地じゃん。
藩邸の中は治外法権だし。




308 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 21:27:13
皇居の吹上御苑が庭園になったのは吉宗の時代から
それまでは尾張藩邸や紀伊藩邸など大名屋敷があった

309 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 21:28:56
下屋敷内に疑似宿場町を作った尾張藩邸は有名だよな


310 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 22:07:24
長谷川平蔵のライバル・松平左金吾(久松系)も2千石ながら8千坪の屋敷を
構えてたとか。町与力の実収よりも少ないであろう2千石じゃ到底維持でき
そうにないけど、メンテの際は親族大名が援助したんだろうね。

紀尾井クラスだと屋敷の周り1周歩くだけでも1時間ぐらいかかりそうだw

311 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 22:24:59
>>310

花売りで大儲けなのかと思ってたのだが

312 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 22:34:16
花って意外に儲かるのかな。どれぐらいの規模で生産してたんだろう…

313 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 23:50:20
鼻*鼻=鼻炎

314 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 23:52:25
>308
三家の屋敷が江戸城外に移転したのは、明暦の大火が契機だから、吉宗
のときよりは大分前のはずだけど。

315 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 01:17:03
>>310
町与力って100〜200石くらいでしょ。
さすがに町与力よりは多いと思う。


316 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 01:57:09
>>315
町与力(200俵だっけ)はその10〜20倍ともいう役得があったらしいよ。


317 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 02:21:02
>>306
そんな越前本家屋敷もありつつ、
家老本多氏にはまた別に屋敷が与えられておりまして。
それも一般大名並の。


318 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 05:02:41
>>317
陪臣で拝領屋敷があったのは付家老5家と吉川に越前本多だけだったんだっけ。

松井・片倉・三原浅野・伊木・稲田・加賀八家あたりが陪臣なのに大名格の待遇
(2、3万石の知行・五位叙位・城主城代・将軍に拝謁など)の家々だとすれば、
この7家は本来大名として遇されるはずの家なのに有能だから家康の子に家老として
附されたりした家々だから陪臣といっても大名並みの屋敷を構えてても不思議じゃな
いんだろうね。


319 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 05:43:16
加賀の本多家は附家老の扱いからは外れるのか

320 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 05:46:40
伊木って岡山藩の?
岡山藩で領内の要所に陣屋を構えているのは伊木を含めて6家あるけど、
伊木だけ特別扱いの何かがあるのか?
一門の天城池田家とは、筆頭家老の座を争っていたようだけど。

321 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 05:50:58
>>319
でしょう。そもそも、御三家の附家老は幕府が徳川古参の勇猛な兵を
特に指名してお頼み附けたのがはじまり。

でも、加賀前田の本多はさにあらず。

322 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 06:16:49
>>320
3万石を越える大身だし伊木忠次が1603年に従五位下に叙されてるから挙げた。
他の家が従五位下に叙されたことがあるかは知らないけど。

323 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 06:26:47
まあ従五位下は一代限りのようだけど、江戸時代になってからの陪臣の叙位
は珍しいと思う。
浅野の三原城も陪臣が城主とは思えない規模&将軍の落胤を側室にしてるし、
加賀八家も4家が従五位下に叙されてるし、何かと別格って感じがするかも。
都城の島津あたりはよく知らない。

324 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 06:40:18
江戸近郊にあった藩だと、参勤交代って言っても1日で到着したんだろうね。

参勤交代とかで何か面白い逸話ってない?
喜連川が仙台候に嫌味を言った話とかそういうの。

325 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 07:06:41
>>324
参勤交代で面白い有名な話。
11代将軍家斉の25男であった斉宣が明石藩松平家に養嗣子に入り、家督相続後の参勤交
代時に尾張藩領を通過中(街道は尾張領であっても幕府支配施設) 行列を横切った3歳の
幼児が捕えられ、尾張藩の領民多数の者が斉宣の許へ助命嘆願を乞うも許されず殺害さ
れるという事件が発生した。

この処置に尾張藩主は激怒し、御三家の面子にかけて今後は明石藩の領内通行を断ると
伝え、以後の明石藩の参勤交代時では尾張領内で行列を立てられず、藩士たちは農民や
町人に変装して通行したというお話です。

少し尾鰭がついていますが史実のようです。


326 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 07:30:44
田舎のたわけ大名が三家を笠に
大樹の御子息に無礼な振る舞いをした
ちゅうわけや

327 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 09:49:44
尾張侯(斉温か斉荘)も家斉の息子で、斉宣の実兄。

要するに兄貴がバカな弟にブチ切れたと。

328 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 11:31:31
…そういう手合いだと、
斬られた幼児の親父(猟師だったかな?)に
木曽路で射殺されても仕様がないな…。

329 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 11:32:41
まず25男で吹いた
流石家斉公

330 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 11:57:13
時期がかぶるのは斉荘の方だな。
当時、30代前半で田安家当主から尾張藩主へ移動したばかり。
一方、バカな弟斉宣は、家斉の成長した男子の中では末っ子で10代後半。

331 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 12:10:14
>>318

八代の松井氏は幕府から山城国ほかで173石の知行地も貰っていますよ。そういう意味で陪臣でありながら直臣でもありますね。


332 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 12:18:31
>>331
えらい少ないし、中途半端だな。


333 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 12:44:36
でも松井はれっきとした城主ですから

334 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 12:45:23
大名が在郷時に隣国の知り合いの大名家に茶飲み話に出掛けるのは法度違反か?
公儀にバレると謀反の謀議と間違えられるかな?

335 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 16:08:26
>>333
では松井は普段は熊本城下か八代城でしょうが、その山城国の知行地に
陣屋を構える事もできて、別荘的扱いにもできたのだな。



336 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 16:12:48
松井ってもともと京都のあたり出身だろ?
旧領を返してもらったんじゃないの?

337 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 17:20:23
>>334 もし、本当にそれで幕府への謀叛容疑が掛かるんなら、
時代劇の場合は、謀叛容疑に掛かるような場合が多々出現するな…(^-^;)。

338 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 17:44:04
>>320
伊木は本来、独立大名でもなんらおかしくない”純粋寄騎”だから。
たまたま、世間の流れ上、池田軍団に属しっぱなしだっただけ、という扱い。
肥後の松井も同様。


339 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 18:09:35
伊木家は姫路城の建築奉行

340 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 20:52:12
>>338
でも松井や伊木は徳川が付けた与力じゃないからね。
稲田だって元は家臣というより客分・同輩で秀吉は稲田に大名にしようと打診
して稲田が固辞したわけだし、織豊時代の経緯を言い出したらキリがない気がする。

その点では、譜代大名が附せられて陪臣化した付家老や幕府が大名扱いしてる
吉川(年始八朔太刀馬代献上・手伝普請負担・白無垢着用・柳間席)とは違うと
思うな。
付家老や吉川は大名家から正妻を迎えてるけど、伊木や松井、稲田はそんな
こともなかったんじゃない?(もし迎えてたらすみません)

341 :340:2009/01/25(日) 21:18:24
なんか頓珍漢な方向のレスになってしまった。
食後の眠気の中で書いたのでごめんなさい。

342 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 22:07:01
岡山藩家老の天城池田家は小牧・長久手の戦いで家康に討ち取られた元助の系統だから、
本来は本家筋だったりする。そのために平福領主として利神城に石高不相応なほど立派な
天守を建てて輝政を呆れさせたりしている。代を経るごとに扱いも下がっていったようだけど。

343 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 00:13:14

元々独立勢力となってもおかしくない経歴だけど、陪臣化しているケース。

これは伊木や松井や吉川、城まで持ってる伊達の片倉とか。
片倉は独立勢力相当、とはちょっと違うか。
稲田や鳥取の家老はどうだったんだろ。



344 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 00:28:15
会津藩とかに預かり地が任されてるけど、あれは全部任された大名の
収入にしていいの?
会津の他にはどんな藩が任されてたんだろう。

城付米っていうのともまた違うんだよね?

345 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 00:37:26
>>344芝村藩とか預かり地が凄いよ
一般的に藩の表高に預かり地を入れないよ
芝村藩は表高一万石
預かり地九万石
合わせたら十万石になるけど
芝村藩十万石とは言わない


346 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 00:41:13
預かり地の収入は幕府に納めないといけないのかな?
彦根35万石のうち、5万石は幕府のものだが、幕府が求めてこない限り、返す
必要は無かったというが、それと同じもの?

幕末で幕府権力がほぼない時なら、預かり地をもつ諸藩は返済を拒否して完全に
自領として編入できそうだが。

347 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 00:45:31
>>345
表高には算入しないけど、年貢は全部預けられた大名の
取り分だったってことかな?

9万石はすごいね。
表高は9万石だから下手に10万石相当の軍役や普請を課せられない分、
ずっと預けといてくれるならウハウハだよね。


348 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 00:48:01
>>346
年貢は全部自分のものになるのか、一部は幕府に納めるのか、その辺は
どうだったんだろうね。
うろ覚えだけど上杉とかも預けられてたような…

349 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 01:36:33
藩士が住んでる藩邸とかの長屋ってのは
別に落語のくまさんとかが住んでるような
6畳ぐらいのワンルームじゃないんでしょ?
どのくらいの規模だったのでしょうか?

350 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 01:42:10
>>347
最初から9万預かりだったわけじゃなく、
徐々に増えてピークが9万。
そしてその後一揆起こされて、不手際を叱責されて全没収。

351 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 03:08:00
預かり地も含めちゃうと織田家で一番石高が多いのは芝村か
他は3万とか4万とかだもんな

ところで分割時に有楽が自分の隠居領にした1万石は堂何たんですか?
隠居領ってそいつが死んじゃうと公収?
よくわからん化粧料とか堪忍料とか捨て扶持とかのことも教えてください
世襲できるなら堪忍料4万石と4万石の大名ってのは4万石の諸侯という意味で同じ?
ならなぜ名称が違うんでしょうか?
福島正則が生前は信州に移されただけなのに
なぜ改易されたと世ではいわれているのかもついでに教えてください

352 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 03:17:20
とりあえず福島は死体焼かなきゃ
水口の加藤や大森の最上、矢島の生駒みたいに小大名で残れたはず
本多正純だって固辞しないでもらってりゃ出羽由里郡で5万石の大名で残れた
(忠勝系が結局3万石とかになってるのだから悪い話ではない)
加藤だっておとなしくしてりゃ出羽丸岡で1万石で諸侯になれたはず
福島、加藤(肥後)、本多正純と加藤(水口)、生駒、最上にはその時点では扱いに差はない

つまり堪忍料=普通の封土とおなじ
全没収だけどいろんな理由(名家とか藩祖の功積でかいとか)で
数万石くれてやるから堪忍しろって意味なのが堪忍料でいはず
隠居と化粧と捨て扶持の差はわかりません

353 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 03:31:13
>残れたはず

そんな確証はないはずなんだが

354 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 03:41:32
そりゃないにきまってるじゃん
歴史に「もしも」なんてないんだから確証なんてあるはずがない
でも推測ぐらいできるだろ
だから「残れた」と断言じゃなくて「残れたはず」って言ったんだがな

表だって悪さしなけりゃ潰す理由がないもん(認められてる子供もいるし)
福島の子供が3000石にされちゃったのは表向き到着前に死体焼いたからだし
一応正則の功積と名を考えて3000石くれてやってるんだから
法度違反とかそんなことしなけりゃ2万石でどこかの地方で残れた可能性は高いだろ
もっとも正利に子供いなかったからその後どうなるかはわからんが
それでも正利の甥が正利死後も2000石の旗本で残ってるんだから
こいつを養子にして福島家が諸侯に残った可能性は十分ある
家康が自分死んだら福島は潰せって言った話もあるが
どうしても潰したけりゃ広島没収のあと川中島あげないで
どこかの大名家に預けて飼殺してそのままとかにするでしょ

355 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 03:58:20
ぷっぷぷぷぷぷ〜ぷぅ
やれやれ超馬鹿が洗われたようだ・・・
自分の書き込みのどこが馬鹿かもおそらくわかってないのであろうな・・・
学問板である日本史じゃなくて他の板いきんさい
学問は人類の行いで最も崇高なことって学長もいってるでしょ?
あ、大学はいる知性がないから学長とか君の人生には一切関係がないことだったね
☆メンゴ☆
>>354よ、君のことを言っているんだぞぉ〜♪

356 :355:2009/01/26(月) 04:06:04
酔った勢いで書きました
ごめんなさい
許してください

357 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 05:39:53
預かり地はいわば藩が幕府代官の業務を代行しているだけ。代官の
役知が微々たるものであることを考えれば、役料がまともに支払われて
いるかも疑問。ただ、役得は認められていてもおかしくないけど。
村方はその支配体制に関してかなり支配者側にごねるものだから、幕府領と
扱いが変われば預かり地から外せとごねまくるだろう。

幕末に浜田藩が長州にフルボッコされて美作の飛地に逃げ、鶴田藩を
立藩したとき、幕府や新政府から、龍野藩預かり地を長州占領地の替地と
して与えられることになった。龍野藩は善政を敷いていたから、村方は随分
この措置に反対した。

なお、岡山藩の扇動によって、この鶴田藩の新領の村方は鶴田藩支配を
拒否し、同じく新政府側勢力の龍野藩のとりなしにも関わらず、朝廷に
嘆願中であることを理由に年貢の上納を拒否して鶴田騒動に発展した。

358 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 06:41:53
30万石や70万石の藩を
たかだか数万石の藩で止められるわけがない
2万石とか6万石とかの藩を対外様大藩ように配置とかしてた幕府は馬鹿
足止にすらならんもっても半日で突破されるだろう
動員力だって全然違う
浜田や人吉や飫肥は防壁としての存在は無意味
相馬も伊達とか南下してきたら止められない
九州は薩摩が反乱おこしたら止められるのは熊本か福岡ぐらい
でもどっちも外様
小倉15万石でも無理っぽい(げんに薩摩ではないがだがここは長州にやられた)
小藩だって馬鹿じゃないんだから徹底抗戦して自分が殲滅されるより
適当に戦うふりして幕府への義理を果たしたらさっさと降伏するでしょ

359 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 07:17:06
>>358
お前よりも幕府の人間の方が頭が良いわけだが・・・。

360 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 08:25:46
時間稼ぎの捨て石。関が原直前の伏見城と同じ。

361 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 08:38:48
上杉に対する最上とかね。
ただ、幕末は城が圧倒的に落ちやすくなってしまったのが誤算。
そりゃ、250年も経てばねぇ…。

もっとも、西南戦争のときの熊本城みたいな例もあるわけだけど。

362 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 11:19:40
>>348
上杉の預かり地
屋代3万7千石
越後や武蔵などに一万石

だから海無し藩のはずが
魚が取れ、(余談だが米沢ラーメンは魚介類の具入り)
戊辰の役で越後進出の足掛かりにした

屋代は高畠城で領内管理だが
後にやってきた織田家では
維持管理出来ず、別に陣屋を作った

363 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 11:25:45
同じ織田家でも
芝村織田と違い
天童織田は貧しかった

だから将棋駒を作ったり
領内農民に献金を募ったり
幕府に賄賂を贈ったりして
ゴマをすったが
財政難は改善しなかった

364 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 11:30:08
今日、将棋駒の街として
天童は有名である

人間将棋は壮観で
将棋タイトル戦も実施される

365 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 11:35:13
>>349

くまさんより悪いかも
「竜馬が行く」に出てくる長屋は
武市の他の奴らは相部屋だった

366 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 11:42:44
御用米って、彦根に50,000石(実質は20,000石)ある以外に、
どの地点に備蓄(預託)されていたんですか?

367 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 11:43:40
>>318
直江も江戸屋敷を拝領
絶家後は井伊家の上屋敷になった

368 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 12:12:39
>>366
内曲輪の御用米蔵

369 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 12:23:00
畿内であれば二条城とか、大坂難波とか。

370 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 14:22:51
飛び地に赴任する藩士は、当人の意識では左遷扱いを受けたなんて気持ちかな?
地方大名で江戸に近い飛び地だとラッキー!遊びに行ける!だったりしてw

371 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 14:58:38
地方支配は卑職と見られがちだったから、左遷の印象は強かっただろう。
役得が多いから、経済的理由でなりたがる人間も多かっただろうけど。

372 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 15:41:55
飛び地の方が石高の高い
桑名藩(/_・、)

373 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 15:50:07
関東諸藩であればそのケースも少なくない。在所を江戸近くにおいたほうが
何かと便利だったから、所領の割合が小さくても置こうとした。

374 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 16:11:00
榊原式部大輔や酒井左衛門尉、若狭酒井は従四位下叙位後何年ぐらいで
侍従に任官してたんだろう?
何かで四品叙位後30年って読んだ気がするけど、実際にはもっと早そう
な感じもするけど・・・

375 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 20:59:52
>>374
譜代では井伊家を除いてこの3家が特に家格が高い家柄
家督後まもなく4品に叙任され、やはり叙任後30年まで侍従になれなかった。
しかし、属人的に老中や京都所司代になれば別途で侍従になっていた。

376 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 21:21:37
>>375 若狭酒井家の方が雅楽頭酒井家より格上だったの?

377 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 21:30:34
>>374
ここにこんなのあるよ

 >>ttp://moura.jp/scoop-e/seigen/pdf/20070228/sg070228_ogawa_06.pdf



378 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 21:36:31
>>375
侍従にちいてはその三家のみの優遇ではないよ
バカすぎだね

379 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 22:19:34
>>375
やはり叙位後30年かぁ…30年は長いね。50歳でなれるものでもないのかな。
宇和島伊達以外の准国持(立花・丹羽・長府毛利)と同じような扱いなのかな…


>>377
ありがと。やっぱり30年みたいだね。
そのPDFの小川さんの著書は2冊持ってるけど、該当部分の本は絶版だし
古本でも2万くらいするから手が出ないw


380 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 22:26:59
内藤新宿の内藤さんは?

381 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 22:55:42
侍従が参内する

382 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 23:24:15
国持ちも

@藩主のほとんどが侍従止まり
…毛利、山内、鍋島
A藩主の多くが少将になれる
…浅野、鳥取池田
B中将や参議になれる
…伊達、島津、前田

の3グループがあるね

383 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 23:40:49
特に譜代に顕著だが10万石以下の大名はあちこちに領地があったけど
自由に在所を変える事ができたのか?
江戸に近い領地を選ぶとしてもたとえ100石程度でも変えられるもの
だろうか?

あと丸亀の京極家6万石は領地のうち1万石は播磨にあったようだが
参勤交代の関係上、播磨に在地を移したほうが便利なようだが
丸亀城に城代家老おいて、在地は播磨という選択肢は無かったのだろうか。


384 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 23:54:24
>>383
あんた小学生か?

385 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 04:27:25
>>383
実例を調べて、
ここにリストアップしてみてください。

386 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 06:34:58
国主大名の昇進の違いは
大大名クラス(前田、島津、伊達)

名門クラス(細川、上杉、佐竹など)

徳川親戚クラス(池田、浅野など)

その他(黒田、藤堂、蜂須賀、山内など)

に意識的に分けているようだ

準国主や譜代上位、願い譜代も
家によって微妙に昇進の差をつけている

387 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 06:50:09
>>383

大名が幕府に勝手に
本拠地変えられへんで

毛利かて何が悲しゅうて
萩に押し込められたん
普通なら山口選ぶやろ

388 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 07:29:15
城主なら城を無断で建て替えようとするだけで改易ってくらい厳しいから、
幕府も当然大名側の一方的な意向に許可を出すわけがない。各地の
軍事バランスを崩すわけにはいかないからな。
しかし、陣屋大名であれば、非関東の大名が関東に本拠を移すケースは
少なくない。

389 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 17:50:01
>>366 江戸時代中期の頃の御用米の備蓄状況は、
・20,000石 → 彦根。

・10,000石 → 桑名、尼崎、淀、姫路、松山、福山、小倉、唐津。

・7,000石 → 宇都宮、大垣、小田原、会津、(越後)高田。

それ以外にも、譜代大名と一部の親藩の城には、たいてい、1,000石〜5,000石ぐらいの
御用米が備蓄されているよ。

390 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 18:17:11
>>389の続き、
幕府直轄城の御用米の備蓄状況。

・70,000石 → 大坂。

・20,000石 → 大津。

・10,000石 → 二条、駿府。

・5,000石 → 甲府。

後は、(近江)永原、(近江)水口、(武蔵)神奈川、(相模)藤沢、(伊豆)三島、(信濃)伊奈、(駿河)蒲原の地点に、
1,000石〜3,000石の御用米が備蓄されているよ。

391 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 20:03:44
>>387
幕末の頃は幕府が大名を改易するような実力がなくなっていたから
長州毛利家は山口城を建てて在所を移したんだね。

では大名が参勤交代で国許に居る時、飛び地に行く事は許されていたんだろうか?

>>389
幕末になると諸藩の御用米は横領されてそうだね。
預かり地も自領に併合した諸藩もあったのでは?



392 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 20:51:51
幕末の長州藩は浜田や小倉を併合してたな。近辺の天領も併合したかな?
改易しようにも敗けた徳川に従うわけないな…

393 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 21:13:43
長州藩は山口・萩よりも三田尻(防府)が築城の第1候補じゃなかったっけ?
記憶間違いかな。三田尻には毛利水軍の拠点や毛利重就の隠居御殿もおかれた
んだよね。大層な御殿作っちゃったもんで幕府に目を付けられて、そんなに
金があるならと普請を命じられてるけどw

幕末に山口に政事堂を移し、明治に防府に毛利公爵邸を作ってるから少なくとも
萩はあまり望まざる候補地だったのは確かだろうけど、萩の指月城とその周辺の
武家屋敷はなかなか立派なもんだよ。山口から萩への道はものすごい山道だから
移転した気持ちも分かるけど、すでにある城を放棄するのはなかなかあることじゃ
ないよね。

394 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 21:18:22
>すでにある城を放棄するのはなかなかあることじゃないよね。

稀有な例が浜田城とか小倉城とか。

395 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 21:50:28
>>394
そりゃ、落城したからじゃね?





396 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 22:02:51
既にある城の放棄で有名なのは越前系松平家の前橋移城かな?
それで川越城は放棄。

397 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 22:03:50
>>393長州藩の上級武士は攘夷反対の幕府側だったからな
下級武士が攘夷を歌ってたから
上士のほとんどがいる
萩から出たかったらしい
(但し高杉晋作や井上馨は上士)
三田尻も候補だったけど
海に面してると軍艦から大砲で狙い撃ちされるため
内陸地である山口に藩庁を置いた


398 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 22:39:47
>>397
関ヶ原後なら三田尻が最良だろうけど、幕末だと艦砲射撃の脅威があるから
むしろ利便が悪い=攻めにくい盆地の山口の方が良かったってことなんだね。

399 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 23:02:36
>>387,398
山口に政庁を置いたのは,艦砲射撃を恐れたためなのかな?
時系列でいうと,山口に政庁を置いたのは馬関戦争の前なんだよな。
馬関戦争後であれば,艦砲射撃の脅威を避けたというのは分かるけど・・・

高校日本史的には,裏日本側の萩から,交通の便の良い山陽道(西国街道)沿いの山口に藩政の中心を移したとあったような・・・



400 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 23:18:44
>>399馬関の砲台にも洋式大砲があった事から洋式大砲の威力は馬関戦争前分かっていたと思われる

401 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 23:22:00
利便性だけなら、間違いなく山口より三田尻の方が好立地だから
単に交通の便だけじゃなかったのかもね。

西国街道の防長部分って今の山陽自動車道とほぼ被るんじゃないかと思う
けど、高速から山口市街までかなり距離があるから、単純に立地だけでいく
なら毛利庭園や水軍拠点があって軍港・商港だった防府(三田尻)の方が遥かに
利がある気がする。現に山口市は県庁所在地の中でダントツの田舎なんだよね。
防府は中関って言って、場所的にも西の下関(ふぐ)と東の上関(原発)の中間点に
あたるから、軍事面を抜きにすれば最高の立地だと思う。


402 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 23:40:45
>>401そうでもないよ
今でこそ
車や船があるけど
昔の移動手段って基本的に歩きだからね
萩と防府の中間であり四方を山に囲まれた天然の要塞
長州藩全体から見て中心が山口だから利便制なら山口だよ
(今じゃないよ昔の話)
幕末くらいは西洋的な帆船は珍しくほとんど櫓を漕ぐような小さな舟
馬もずっと走れる訳もなく
山口から下関行くにしても三日くらいはかかる
馬の足が折れた死んだも同然

403 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 23:53:31
>>402三日もかからないよ
せいぜい二日だろ

404 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 01:04:45
京都府庁舎がずっと舞鶴にあったようなもの。
そりゃ折りがあればそんなとこ放棄して、
京都市内に移転するよ。

405 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 01:12:25
>>404舞鶴に京都府庁があったっていつ頃の話?

406 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 01:23:29
>>405
404の「あった」は仮定法だろ

407 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 02:23:38
たとえるなら、三田尻は伏見か田辺か山科だな。
利便が良くても、やっぱりこの場合は京都市内選ぶ。

408 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 02:53:28
山口から下関行くにしても三日くらいはかかる
山口から下関行くにしても三日くらいはかかる
山口から下関行くにしても三日くらいはかかる
wwwwwwwwwwwwwww

409 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 08:22:00
長州の話が出るたびに
萩なんかに押し込められたとかいきたくないのに懲罰的に無理やりいかされたとか
幕威が弱まってやっと萩から解放されたよかったねとか
いろいろなところで言われて萩的に悲しいわ
そんな悪いところじゃないんですよ?
ほんと一度暇があったら来てみてください
それだけを目的に来ると中には時間を返せとか思う人もいるでしょうからついでにでも
石垣とかあるしそれなりに美味いものもあるよ

410 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 08:33:20
松平光長は寛永11年、初の帰国の際に家光から越後・信濃の大名の旗頭
となるよう命じられ、その旗下に村上堀、長岡牧野、新発田溝口、飯山佐久間
、松代真田、松本越前松平、上田仙石の7家が入ったらしいけど、これの意味
するところはいわゆる与力大名的な立場(柴田勝家と前田利家みたいな)ってこと
だろうか?

>>409
萩は魚が美味いから好きだよ。

411 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 08:48:49
>>409指月城の石垣ほど哀れに思うものはない


412 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 12:58:10
萩が良いところになったのは長州藩が山口に出てってくれたからというのもある。
大藩の城下町は軒並み県庁所在地になったせいで開発が進んじゃったけど
萩は昔の雰囲気が残ってるよね。

413 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 13:30:41
>>411
苔生して荒れ放題ってこと?それとも石垣の積み方が粗雑って意味?
去年行ったけど立派な城だと思ったけどね。そりゃ熊本とか佐賀とか他の国持の
居城には劣るだろうけど…

>>412
それはあるかもね。
実高百万石(開幕当初でも50万石超)の国持大名の城下が今や人口5万ちょっと
というのは寂しい気もするけど、あのひなびた雰囲気は悪くない。住むのはちょっと
ご免こうむるけど旅行で行くにはいい。近くの石州津和野もいい。
でもあんな山道(山口から萩往還のあたり)を参勤交代したのはすごいと思う。

萩行く人は是非アカウニを食べるべき。関東の方ではあまり流通してないけど
エゾバフンウニやムラサキウニよりも美味。剣先イカのお造りもオススメ。
やはり北陸山陰は魚が抜群に美味い。スレ違いだからこれ以上は自重するw


414 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 14:46:26
>>410
名誉職的な「班長」「町会長」って程度
なんら支配力や抑止力はない。

415 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 16:13:45
>>413 >>411だが
指月城の石垣、前に崩れたんだよ
正確には崩れてたんだ
観光客が崩れてるの見つけて通報
調べてみると崩れて数日たってた
人知れず崩れて発見されるまで数日かかるなんて
哀れに思うだろ?
俺は指月城より
指月城の前にある長屋の方がいいな
あの規模の長屋はあそこ位しか残ってないだろう

416 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 17:24:58
>>415
別に哀れじゃないと思うが?

417 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 19:06:44
>>414
長州藩は姻戚関係の越前家に何事も相談するよう言われてたようだし、
越前家は幼少の長州藩主の後見的な立場も担ってたみたいだけど、
全くの名誉職なら旗下の藩に対してそういうことも無かったんだろうか。

>>415
平日は観光客もまばらだろうけど、しかし管理人も気づかないとは…
指月城って普通に石垣に登れるようになってるけど、安全性は大丈夫なのかなw


418 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 20:26:30
石垣も無い米沢城の立場は

419 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 21:14:23
>>410
大阪の中学校の修学旅行で山口に行き、萩にも寄った。
夜の宿泊先のホテルでの出し物でカエルを使ったのだが、そのカエルは萩城の堀に放流してきたw

420 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 22:52:03
水戸城も萩城も
とても副将軍の居城とは思えへん

421 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 23:06:29
>>420

水戸城の再現CGです。
ttp://www.3kids-cg.com/mito.html

関東の城は石垣が少なく土塁が多いと聞きますが、少し御三家の居城にしては
しょぼいですね。定府大名なので必要最小限でしょうか。


422 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 23:37:45
>>420

ついでに萩城の再現CGです。

ttp://www.3kids-cg.com/hagi.html

423 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 23:44:01
幕府は黒船の来航以前からかなりガタが来ていたから、大名達がもっと早い年代に反乱を起こせば滅亡に追い込めたか?
幕末の長州藩、薩摩藩の躍進は改革有っての物か?

424 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 23:59:49
改革一番進んだのは、どこの藩なんだろう?
薩長は倒幕の中心だったからクローズアップされただけな気がする。

425 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 00:01:56
>>423
長州は撫育方(検地等で一般財源と分離した基金。撫育方を財源にいろいろ
と投資・整備した)の創設や越荷方(下関で倉庫金融業の創設)の設置がなければ
革命はなしえなかった気がする。何をするにもまずは金がかかるからねー

撫育方を設置した重就には、藩内にはいろいろ不満があったみたいだけど、
なんだかんだで重就は毛利家中興の祖だと思う。
でも三田尻の御茶屋を改修と言えないほど大規模に修築して顰蹙買ってるけどw


426 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 00:06:43
この水戸城は攻めたくないな。
大軍勢が駐屯できる割に、攻める方法が少なすぎる。

ってか前に書き込みあったけれど、
参勤交代ないしは江戸進軍コースで水戸を通過する大名はいないので、
堅牢な要塞化をする必要なかった、と。
和歌山城と一緒でしょぼく、名古屋城のように要塞化してないのはその違いじゃない?


427 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 00:23:25
その水戸城を落とせなかった天狗党達は…
撃退した市川三左衛門も維新後に攻略失敗したな…

428 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 00:28:18
水戸藩って江戸定府&実高額面割れしてるのによく財政破綻しなかったね。


429 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 00:43:53
>>426
安藤とか相馬とか
水戸を通らないならどこを通ってたんだ?

430 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 00:48:51
>>426
>>427
おいおい、いくら難攻不落にはしていないとはいっても一応城だぞ。
無理やり力攻めするなら、少なくとも万単位の兵力が要るだろうが。




431 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 01:28:17
>>429
幕府にとって、関東以北の仮想敵国は事実上仙台の伊達だけなんだが、
(上杉は大減封で歯向かうことは経済的に無理)
伊達がもし浜通り常磐経由で南下したら、どうするつもりだったんだろうねえ?
一応平を譜代で押さえたり、それなりのことはやっているが。

432 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 01:31:24
同じ数万の兵力が籠もるとしたら、
水戸城と名古屋城、どっちが手ごわい、って話でしょ?
なら名古屋だろうけれど、
磐城平は譜代でがっちり、棚倉も押さえた。
さらに高萩(松岡)に水戸家老の城もある。
″相馬五万石の野望″くらい、それで十分じやね?
あとは、伊達の別動隊が来るかも?という程度。
なら水戸城は、
水戸藩や千葉県諸藩、幕府の援軍の、
軍勢集結駐屯地であればそれでおkじゃない?
そしてそもそも上で書かれているように、
その水戸城、攻めにくいぞ?
二方が川、丘陵上の広い郭、土塁の城は頑丈だし。
立地的には三重櫓で十分目的果たせてるんじゃね?

433 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 01:38:29
>>431
伊達が吉原を占拠するためには、
浜通りは想像以上の迂回ルートになるので選ばないだろうし、
街道もしょぼかったので、大軍勢の移動には不向きかと、、、
やるなら、白石から一直線で乾坤一擲、しかない。
その途中には二本松や宇都宮、大田原などが。
横槍で会津や前橋や棚倉、水戸が。
橋の下では
喜連川公方さまが釣りをして邪魔します。

434 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 01:41:57
>>431
南部なめんなー
「五代将軍を決定したのは、南部藩主の一言である!」
と、南部藩民だけは信じてるんだぞー。
「そんな発言権はない」とか「綱吉はお前のせいか!?」
という意見は黙殺します!

435 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 01:54:41
大名と城の関係を考えてみるのも面白そうだな。
石高が多く家格も高いのに貧相な城の大大名、
石高が少なく家格もたいしたことないのに立派な城の小大名、
そんなバランスの悪い代表的な大名は誰だ?


436 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 01:57:58
>>434
もっと言うニダ!チョヌン五代将軍綱吉は南部が決めたニダ!<ヽ`∀´>ウェーハッハッハ

437 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 02:37:15
>>435
松本と島原と姫路は維持費用だけで大変。
あと福山も。

438 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 03:25:42
苗木城も入れてやってください。

439 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 04:05:32
篠山城も

440 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 07:58:53
>>435
もっとも貧相なのは開城直後の江戸城だろう。古写真見ると
悲しくなる…。
鶴が城と違って戦火に見舞われてはいないのになんでここまで
ボロボロ?と小一時間問い詰めたいレベル。

441 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 08:46:12
郡山城は秀長時代は100万石に相応しい巨大な城だったが、確か水野家が入った時だったと思うが維持の問題で大幅に規模を縮小したらしい。

442 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 09:12:32
城によって石垣の積み方がビシッと綺麗な城と、隙間だらけで残念な城が
あるけど、あれは普請責任者や棟梁の手腕の違いなのかな?
単に良い石が調達できるかどうかなのかな。

443 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 09:52:48
日本の石垣は秀吉の朝鮮侵略の前と後で大きく変わった。

朝鮮侵略前の石垣:粗雑
朝鮮侵略後の(拉致された朝鮮技術者による)石垣:きれい・隙間がほとんどない

444 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 10:37:34
綺麗な石垣は大陸の技術だったわけかぁ…
たしか陶磁器なんかも朝鮮出兵の副産物だよね。

445 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 10:46:49
大名でも三位以上or四位でも宰相だと「卿」をつけると思うんだけど、
「卿」(光圀卿とか忠長卿とか)をつければ諱で読んでも非礼には
あたらなかったんだろうか?本人がいない場所ならOK?


446 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 11:15:20
>>443朝鮮の石垣って垂直だよね
日本の城で垂直なのは滅多ないけど(俺は知らない)
日本の石垣って朝鮮にも似たような奴があるの?

447 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 11:28:10
水戸卿、越前卿

448 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 11:42:54
ttp://www.yado.co.jp/tiiki/tikuhou/gosyogatani/gosyogatani.htm
ttp://www.city.yukuhashi.fukuoka.jp/areamap/u1/goshogatani/top.htm

449 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 11:50:19
幕末によりによって高取城攻撃した彼らはアホ
ブリキトースもあるし

450 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 11:51:06
>>448
コラ時代が違いすぎる例を出さないw

451 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 13:00:33
>>447
領国名+卿っていうのは初めて聞いた。
水戸卿でググッたら3件だけヒット、越前卿は9件、紀伊卿・尾張卿・
駿河卿は0件だったけど…

光圀卿は274件(中納言光圀卿だと526件)、秀康卿は74件(中納言秀康卿
…441件)、忠長卿は331件(大納言忠長卿…349件)。


452 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 13:22:41
>>448
>>443の言うような綺麗でも隙間が無くもないじゃん
それに朝鮮征伐後の石垣じゃない

453 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 13:26:36
>>449
高取藩はバランス悪いな。高取城は三大山城のひとつに入り、山城の中では最大の広さだろ?特例で石垣組直す時でさえ幕府に届ける必要が無かったらしい。
それが植村家2万5千石とはなぁ…。
どこかの大学が高取城のCG公開してたな。あの城を2万5千石で維持するんは厳しいと思う。
天誅組の高取城攻めは無謀だわ。本気だったのかも疑わしいんでないか?


454 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 13:40:03
植村って分家取り潰しだっけ

455 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 13:40:37
幕府は幕末に限らず、反旗を翻すのは薩摩と長州ということは想定してただろ?
その場合はやはり小倉、浜田が現地で抑え、京都は譜代筆頭の彦根、大阪を紀州、東街道が尾張という布陣かな?
幕末は、彼等が尽く裏切ったし小倉、浜田がやられたから想定外だったか?



456 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 13:44:06
中山道は大垣、北陸道は越前と加賀だろうな。
彼等も裏切ったけどw

457 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 14:08:15
確か、加藤家改易で細川越中が肥後へ移封された際に、長門・周防・豊前あたりに
御三家を持ってくる案も出てたんだっけ?

水軍が強かった毛利になんで3方が海の長門を与えたんだろw
毛利なんて敗軍の大将なんだから、周防か備後・出雲あたり一カ国だけ一円で与えて、
あと20万石分ぐらいは数万石ずつ飛び地にしたら良かったのにw
薩摩も肥前肥後あたりに移せたら全然違ったかも。所詮タラレバだけど。

458 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 15:04:42
瀬戸内海の真ん中押さえられたらダメだろ。

459 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 15:23:52
>>453
3大山城ってしょぼいのばっかだよ
高取岩村松山みんな田舎の小藩だ
だいたい近世になっても山城なんか居城にしてる時点で・・・

460 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 17:28:00
>>459
誤解を招いたかもしれんが高取城がすごいと言ったんではなく、あの巨大な城を2万5千石の小大名では維持が大変だって事が言いたかったんだわ。
それともうひとつ、さっきも書いたがどこかの大学が高取城のCG公開してるのを見た事あるが(積極的に調べる気は無いけど)かなりデカイ上に落しにくそうだぞ。
そんな城を僅かな人数で攻めた天誅組は何考えてんだ?ってのが言いたかっただけ。


461 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 17:59:35
>>460それは高取城みたいな難攻不落の城を落とせば天誅組は幕府に畏怖を抱くだろ?


462 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 17:59:52
高取城は縄張り図見た感じ、結構大きいね。
山の上に武家屋敷までまとめてあげちゃったような感じ。
守護大名の山城みたいだな。

463 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 18:00:55
訂正
天誅組は幕府に×
幕府は天誅組に〇


464 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 18:13:01
平岩親吉って義直の付家老だったってことだけど、
もし平岩家が無嗣絶家にならなかったら、六十余万石の尾張家に十一万石の
陪臣(付家老)が置かれた可能性もあったんだろうか。

もし跡継ぎの養子・仙千代(家康8男)がもし夭折しなかったら、そもそも
同母弟の義直の家老にはなってなかったんだろうけど…

465 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 18:21:03
>>464独立した藩として続くんじゃね

466 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 21:09:47
>>435 鳥取藩はカワイソスだな

467 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 21:11:10
>>465
もし親吉に世子がいても、さすがに十万石以上となると陪臣化するより
独立した藩、あるいは与力大名的な立場になる方が可能性が高いかもね。

仙千代も長生きしたら、長沢松平の忠輝や武田信吉の例をみても平岩家は
数十万石の大封を与えられても不思議じゃなかったんだろうけどね。


468 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 21:17:02
平日の深夜とか日中にニートや派遣切りにあった人がひまつぶしに書くスレはここでつか?

469 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 21:22:09
>>466
鳥取城?なんで?
鳥取城については秀吉が攻めた時に城内が無茶苦茶悲惨で人肉まで喰ってたって位しか知らん。
なんで鳥取藩が可哀相なん?


470 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 23:14:31
>>435
三河田原の三宅
1万石

471 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 23:19:56
田原三宅といえば
三宅坂
渡辺崋山


472 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 23:33:57
>>468
そうだよ、
この時間帯ならまだマシなんだが

473 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 00:16:26
>>462
たかが2万5千石の小大名が維持出来る城とは思えんのだが。


474 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 00:38:28
>442
見た目きれいに隙間なく積んである石垣は、背面からの排水がうまく
いかないんで却って具合が悪いらしい。(今の石積みにはかならず
排水パイプが入っている。)
だから、正面の目立つところだけはきれいに積み、他は隙間を明けて
積むというやりかたをしている城も多いとか。

475 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 01:13:40
>>474
天守の石垣だけ隙間なく積んであって、他は隙間だらけの城もあるけど、
治水排水的なことを考えてワザとそうしてた可能性もあるわけか、なるほど。

476 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 01:16:27
>>467
尾張家老家と、譜代大名家に分かれると思うよ。

477 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 01:22:09
姫路城も15万石じゃかつかつじゃね?

じゃ、標準的な城ってどんなもんよ?
俺的には
1〜5万石なら勝竜寺城
5〜10万石なら日出城
10〜20万石なら丸亀城あるいは二条城
20〜30万石なら高知城
30〜50万石なら熊本城
50〜80万石なら名古屋城
80万石以上なら徳川大坂城


478 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 01:31:32
石高のみで大名を語ってもしかたない

479 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 01:52:06
大番頭って大名がなることも多かったみたいだけど、
大名が宿直勤務や上方在番とか辛くなかったんだろうか。
権力やうまみもあまりないだろうし大変そうだw

480 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 02:23:29
選ばれた武家の誉なことだからねぇ


481 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 02:26:36
>>477
それは表高か実高か、という話だ。
津軽の城は立派で、江戸時代に入ってからの築城。
だが五万石未満。
だけど実高は二十万とも三十万とも言われているので維持はできるはず。
しかしまぁ、
飢饉でgdgdなんだけどwww

482 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 02:38:53
>>479
江戸初期でしょ。
まだ制度も前例も安定していない頃の。

483 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 02:57:15
大名が御番方になると幕府には経費削減になる

484 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 02:59:35
何げに>>443 朝鮮人がコソーリとファビョってわろたw
また歴史の捏造かよww

しかしなんでわざわざ、「朝鮮侵略」なんて書くかね。
「自分は朝鮮人ですよ、自分の書き込みは捏造ですよ!」ってわざわざ言ってるみたいなものじゃん。

485 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 04:40:26
>>483
大番頭に関しては幕末まで大名も任じられてるよ。


486 :485:2009/01/30(金) 04:41:23
間違えた。>>482でした。

487 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 04:53:59
>>480
太平の世でも武士は武士ってことか…やっぱ名誉は大事だろうね。
御番方の頭クラスでも同僚イジリとかあったらしいし、大名でも、先任の
旗本の番頭とかにすごい気を遣ってそう大変そうだw

大坂加番の方は役料1万石ですごく美味しかったみたいだけどねー

>>483
大坂城や駿府城とかの警固を大名や寄合にやらせてるのはそのためなんだね。


488 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 06:02:12
丸亀城は結構いい城
二本松城はそこそこ雪が降ってると雰囲気はいいんだがろくなものが残ってなくて残念

489 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 07:52:22
ホントだ、筋金入りのニートスレだなw

これから日中にヒマな人間が書き込むのか・・・・・・

490 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 07:55:57
大藩だと、大名(50〜100万石)の家老(2〜5万石)の家老(500〜1500俵)の
用人(数十俵)のそのまた使用人とか、たぶんいたんだろうね。



491 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 08:07:55
>>489
他人のライフスタイルを自分のモノサシで推し量るのはどうよ?
2ちゃんに暇なニートや学生が多いのは今さら言うまでもないだろw
某スレみたいに過疎スレにしたきゃ別にいいがw

492 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 09:26:43
バイトや主婦や無職もいるだろうが
月〜金の昼間勤務ばかりが正業というか正社員という憧憬が強すぎるのも如何なものかと

493 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 12:41:24
給料のカットが無かった藩ってあったんかいな?

494 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 13:23:50
ないよ

495 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 13:38:39
静岡藩や田安藩、一橋藩、鶴田藩といったできてすぐなくなったところの中に
きっとあったに違いない。

496 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 13:41:10
>>495
吹いた茶を(ry

497 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 18:36:18
にわかに取り立てられた間部や柳沢、田沼みたいなのって、
藩士はどうやって集めてたの?
要職についてるわけだし、得体の知れない浪人をかき集めるわけにもいけないでしょ。

498 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 19:28:56
部屋住

499 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 19:42:27
>>497
旗本時代の家来とその親族から採るのと付き合いのある大名旗本から推挙された者
田沼の場合は郡奉行の三好のような相良の百姓商人の子弟も取り立てている。

500 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 21:02:37

>>479
大番は12組からなっていて、江戸城で8組、大坂城で2組・二條城で2組で警衛されていた。
しかし、大坂城・二條城での勤番の際には、『本高の一倍物成の合力米が給された』
とのことで、大坂・二條の在番となると、別途で役料(番頭なら5千石など)と同額が給
されたため、経済的には逆に美味しい勤めであったらしいです。


501 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 21:24:11
>>490-492
見苦しいほどの言い訳だなw
もう少しましなものを期待していたんだが

502 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 21:47:00
         ____   
       / \  /\ キリッ
.     / (ー)  (ー)\      
    /   ⌒(__人__)⌒ \    <無職じゃないお、部屋住みだお。
    |      |r┬-|    |      
     \     `ー'´   /
    ノ            \
  /´               ヽ              
 |    l              \

503 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 22:00:49
城を許されなかった陣屋大名でもの浅い堀と低い石垣、小規模な
虎口なら許されたのだろうか?
地黄陣屋や三日月陣屋などの例もあるし。

何か基準あるの?


504 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 22:02:55
>>501
このレスをどう受け止めてよいものやら


505 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 00:10:02
>>504
アホを相手にする必要はないよ。
つまり、受け止める必要なし

506 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 02:29:43
>>500
単身赴任だったのかな?

507 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 02:38:04
>>503
城と言って、城と認められれば城。
陣屋と認定されれば陣屋。
境界は曖昧だよ。
基本的に、一国一城令の時に「城」と認定されたのが城。
プラス、そのあとで「築城許可を得て作られたもの」が城。
それ以外は陣屋ないしは屋敷。藩によっては要害とか。
規模とか施設は関係ない。

508 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 02:54:28
陣屋と城を明確に分ける基準は門だけ。
陣屋大名は櫓門を建てることは出来ない。
その点以外では城のような陣屋も陣屋のような城もありえるが
陣屋大名は基本的に三万石未満なんだから
あまりごついのを作ると建築費維持費が辛いだろうね。


509 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 03:14:57
>>505

>>504さんは、
>このレスをどう受け止めてよいものやら
と書かれています。

それに対して
>アホを相手にする必要はないよ。
>つまり、受け止める必要なし
というのは、つまり、このスレがアホで相手にする必要なし
受け止める必要なしということですか?
それとも日本語の読解力のないどこかの国の方でしょうか?

510 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 03:17:56
>>500
>本高の一倍物成の合力米が給された
これって平の番衆だけじゃなくて番頭もだったのかー
なら加番の1万石よりも美味しいのかもね。番頭なら自分の家臣をそんなに
たくさんは連れて行かなくても良さそうだし。

>>502
座布団一枚!w

>>503
城主格の格式を許されて陣屋を「御城」と呼んだ藩もあったらしいよ。


511 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 03:19:01
>>509の続きは、お花畑板の専用スレに書いてあります。
なのでここでは終了です。
はたして、たどり着けるかな?

512 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 03:20:43
>>510
城と言ってみて、城と認定されれば「城」。

513 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 03:29:22
721 水先案名無い人 sage 2007/05/13(日) 02:08:14 ID:jppqSDxy0
フランスでは最初のHは声を出さないらしい

728 水先案名無い人 sage 2007/05/13(日) 02:28:56 ID:bm13aaks0
>>721
あたしはフランスに生まれないでよかった・・・orz
相手も初めてだったせいか不思議には思われなかったみたいだけど、
そうとう大きいらしい(///)

743 水先案名無い人 sage 2007/05/13(日) 03:20:33 ID:jppqSDxy0
>>728
フランス語の話です

514 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 03:39:43
>>502
つまり、このスレは部屋住みのご身分の方が大名諸侯の座に憧れてやり取りしているスレなんですね?
正直、何人くらいの人が参加しているのでしょう。
お仕事を見つけて社会に参加することをお薦めします。

515 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 04:33:21
キチガイがまだがんばって粘着中

516 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 05:50:09
>>509
>>504
アンカーについていっていると思われます


517 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 06:21:41
>>1

諸大名といえども、登城日(節句、御乗出、参勤交代の報告など)に公方様と
対顔したところで、老中などの御取合があるから、とりわけ大名から公方様に
話す会話は、当該大名→老中→公方様と間接的に話すこととなっている。

この御取合は並みの諸大名なら理解できますが、御三家クラスでも御取合で
進行されたのでしょうか。

『直答を許す』と言われれば、OKでしょうが・・・・
どなたかご存知ないですか??

518 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 09:40:08
>>517 例えば、御座の間で謁見する時に、
老中が取り持ちする場合は、公式の謁見となり、
将軍との距離は遠く、
御三家の当主といえども、将軍への直答は許されなかった。(大名の場合)

一方、御座の間で諸役人の謁見については、
老中が取り持ちする場合は、公式の謁見となり、
将軍への直答は許されなかった。

これに対して、御用取次が取り持ちした場合は、
内々の謁見となり、
将軍との距離は近く、
将軍と直接言葉を交わす事が出来たそうです。

…もっとも、御座の間で謁見出来たのは、
幕閣(老中や若年寄等)や限られた大名(御三家等の大廊下席、溜間詰大名だが、彼等も参勤交代の参府、御暇御礼等の時に限られた。)、
諸役人(布衣以上の役人の就任時と、職務について直接下問されたり、報告する時)
に限られていたそうです。

519 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 10:23:13

>>518
ありがとうございます。


520 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 10:40:40
殿上元服・偏諱を受けてる国持と受けてない国持の違い・基準って何だろう?

久保田佐竹氏のような屋形号を許された名門守護の国持が受けてないの反面、
長府毛利氏のような5万石・支藩主の准国持でも許されてる家もあるようだし。
松平姓は将軍家との親疎・姻戚によるんだろうけど、こっちは何だろうね…


521 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 13:31:51
>>396
元々松平大和守家は酒井家と交代で姫路から前橋に移ったんだ。
この相対替えは両家にとって不幸だったようで、酒井家では東照神君から直々のお言葉付で与えられた前橋から移るなどけしからん!と
反対派の重臣が賛成派の重臣を斬殺する事件が起きている。
一方、松平家は初代・二代目のころに引越し大名と呼ばれたように転封を繰り返したため、引越し費用の出費が膨大でかつ一箇所に
根を下ろして藩政に取り組むと言う家風が育たず、白河・姫路時代には収奪の酷さに一揆が起きている。
そして、たどり着いた前橋は背後を流れる利根川の浸食により櫓が川に崩落するというまるで「岸辺のアルバム」のOPフィルムのような事態
になっており、本丸などほとんど削られてしまったので住めない状態になっていた。
そのため、ちょうど老中秋元凉朝が失脚して山形に移されて空いていた川越に移ることになった。
まあ、今流行の言い方をすれば城なし難民になって避難してきたようなものか。

しかし、前橋城を破却した跡に陣屋を作って支配したように、領地は前橋周辺と川越周辺に大きく二分されるようになったことで一円知行
に比べるとコストのかかる藩政を強いられた。さらに、川越城周辺には前領主秋元家の飛領があったり、前橋城周辺には前領主酒井家の
分家である伊勢崎藩の領地が混じってたりとなかなか複雑なことになっていた。
さらに、文化年間からは三浦半島の海防を命じられ領地の一部を三浦半島に替えられるなどどこまでも金の貯まる気配はない。
これを何とかしようとして起きたのが、小説『義民が駆ける』で知られる「三方領地替」だが、結局は失敗しその代わりにか二万石加増に
なっている。

なお、松平家が前橋に戻ったのは開国によって生糸貿易で潤った前橋商人らの献金によるところが大きく、また幕府に再築を願い出た際
にその条件として完成後は川越城を返却するという一項があったためで、返却後に天狗党鎮圧の功により松平康英が棚倉から入っている。
故に、この場合は放棄ではなく返却と言うべきであろう。

522 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 17:52:37
>>508
櫓門にも規模の違いで許されるものと許されないものがあったんだろうかね?
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/takenaka.htm

あと、現存してはいないが高知県の安芸城も藩政時代は櫓門があり、現在も
虎口が残っている。しかし、ここの領主は旗本でもない土佐藩家老で、しかも
わずか1100石程度。維持できたのが不思議だ。


523 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 18:08:23
大廊下上之間って勅使の控え部屋にもなるんだな
浅野と吉良が松之廊下でぶつかったわけがわかった

524 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 18:38:26
だから綱吉が激怒したんだろ

525 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 20:09:56
>綱吉

これなんて読むの?
つなよし?つなきち?

526 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 20:38:35
>>520 長府藩は将軍の片諱もらってないだろ

527 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 21:12:16
>>526
初期はもらってたよ。
毛利綱元とか。

528 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 21:15:51
>>525
つねきち

529 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 21:54:01
>>526
2代光広(従四位下和泉守)は家光から、3代綱元(従四位下侍従兼甲斐守)は
家綱から偏諱を受けてるよ。初代秀元も秀吉から受けてる。
4代元朝は元服前に萩宗家の養嗣子になったから受けてないし、5代元矩も
15歳のときに無嗣で逝去してるけど、本来ならば偏諱を受けられたはず。
准国持大名としての長府藩は5代元矩で断絶。
その後、分家の清末藩主・元平(匡広)が長府藩主として入る(一旦、改易→
すぐに再興とみるべき?)も、表高が減った上に柳間席の並みの陣屋大名(後に
城主格)に転落してるから以後は偏諱なし。

530 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 22:06:11
>>529 なるほど。支藩のくせに初期の長府藩は官位も高かったんだね

531 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 22:28:52
高取藩植村氏は代々「家」を名乗る事を許された譜代の名門。
家保(いえやす)なんてのもいる。遠慮しろよ

532 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 22:42:12
植村氏は土岐氏の流れでれっきとした源氏なんで、捏造源氏である
徳川に遠慮したくなんかなかったのでは?


533 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 23:01:16
>>530
支藩というか正確には萩毛利氏の末家

534 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 23:15:09
>>531
イエホかもしれないぞ

535 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 23:46:14
しかし萩宗家からしたら、分家の分際で自分と同じ官位(従四位下侍従)で、
伺候席(大広間席)も同じ、同一の位階官職だと先任の者が上席になるらしいから
下手すると長府が萩より上座に可能性としてはなり得る?わけで、相馬大作事件
じゃないけど秀元のように宗家からの独立を画策するわ、普請の負担を拒否する
わでは、許しがたかっただろうねw幸か不幸か長府が宗家を継いで不和は解消
されてるけど…

結果論から事を超短絡化すれば、長府も徳山も清末も、いずれも一時的に断絶して
るけど、これは長門周防を一円領有する萩宗家の内証分知の藩だから幕府も再興を
容易に認めたんだろうけどね。もし秀元の独立工作が奏功してたら、断絶の時点で
所領は宗家に還付されずに収公され、御家再興もほぼ不可能だったんじゃないかな。

536 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 00:08:32
だから末家

537 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 01:54:58
>>534
ヤッホーかもしれないだろ。
植村ヤッホー。

538 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 02:07:30
>>537本当は
「いえもり」


539 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 02:10:32
植村ヤボ

540 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 02:24:26
質問。皆川氏って断絶したってあるけど嫡男の子孫がいないだけで兄弟の子孫は残ってるのかな。

武家家伝 皆川氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/minaga_k.html

541 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 02:36:31
旗本にいますが?

542 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 06:09:26
だからその旗本の皆川が断絶したって話じゃないの

543 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 10:41:03
本多作左って不遇の最期に終わってるね。お仙も4万石ちょい、もし
松平忠直が改易されなかったら付家老として陪臣化した可能性高いか。
まあ三河武士は面倒だからなーw

544 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 10:52:37
たとえ読みが違うとしても家保は家康を連想させる確信犯だろうな。
公儀もよく許したもんだ。

545 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 11:06:14
徳川家康の「康」の一字を拝領した者は、
結構多いようですが、
「家」の一字を拝領した者は、
酒井家次以外にいますかねぇ〜?

546 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 11:52:57
八幡太郎義家の家だろ
そう簡単に許すとは

547 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 11:54:59
>>545

形原松平と東条松平の両方に家忠がいます
あと思いつくのは石川数正の伯父の家成
ほかにもたくさんいたような気もする

548 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 11:55:37
>>545
最上、島津

549 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 12:02:38
>>545
植村家存

550 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 12:07:17
島津忠恒→島津家久
最上家親

551 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 14:59:08
石田重家
蜂須賀家政

552 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 16:05:34
同年代だし、前田利家や柴田勝家もじゃね?

553 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 17:38:30
ウン、ソウダネ。

554 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 18:54:22
>>544
秀忠の嫡男竹千代は「家忠」となる予定だったが、
摂関家に遠慮して「家光」となった。

555 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 18:55:03
>>554
>>544ではなく>>547へのレス

556 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 21:52:05
>>522
規定はないだろうけど天守や櫓同様に
暗黙のルールはあったんじゃないかな。
櫓門に鯱をつけるのも天守に次ぐ格式があるかららしいし。
門は嫌でも人目に触れる建物だから江戸屋敷でも
出格子窓がどうとか細かく定めてるよね。

557 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 00:00:13
>>543
そうじゃなくて

忠直のお目付け役として作左の息子が送り込まれ、
そいつのチクリにより忠直配流、作左の息子はお咎めナシで独立大名化。
どう考えても最初から陪臣化の予定などない、成功報酬が「独立大名」のトラップ、ヒットマンです。

一方、最初から結城秀康付の家臣として、その後忠直にも忠実にやっていた、
作左の息子の従兄弟(それも作左の兄、本来の家長の息子)は、
忠直配流の際に独立大名化を打診されたけれど、
越前家に忠義をもって仕える、として打診をお断り。
越前府中本多家は、幕末まで越前家家老として全うした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%AF%8C%E6%AD%A3

558 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 02:19:23
>>557
「どう考えても」って、ただのお前の思い込みじゃん。

559 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 03:09:02
>>557
幕府も越前はウザかったろうな。
家が大大名で残っただけマシじゃね?
つか作左って旗本止まりだったのか。

560 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 05:26:05
関東入った時に家中の再編も兼ねて
古参と十八松平なんかの所領は抑えてる
井伊、本多、榊原あたりを上にしたかったのだろう

561 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 08:19:15
>>557 日本語でOk

562 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 15:36:58
>>557
全俺が泣いた

>>559
とっとと潰しちまえばよかったのにな
>>560みたいな例もあるんだし


563 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 17:35:25
幕府も、別に越前家自体はそんなにウザくなかったと思う。
忠直みたいな乱行は許さないだろうけど、それは駿河大納言忠長も同じこと
で何も一伯だけじゃないし、改易どころか高田・福井の2系統に増えてるし…
越前系は徳川家門の最大勢力だし、御三家連枝が軒並み2、3万石の小大名と
いうことを考えれば、むしろかなり優遇されてると思うな。将軍スペアの御三家と
経歴的に将軍の目はない越前家を比べたらダメなだけで家格・石高は十分高いし。


越前系といえば、自分の世子にと吉品が考えた養子の松平昌方(毛利元重)がいる けど、
もし反徳川色丸出しの綱広の子が福井藩主になってたらかなり皮肉な展開だったねw
ウィキみたら従四位下大監物も叙任されてるようだし、あり得ない話ではなかったか…


564 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 17:39:39
2系統に増えてるってのは書き方おかしかったなw訂正。


565 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 19:02:44
井伊だけこれほど優遇されるとはなw
他の四天王とか不満なかったのかね

566 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 19:36:57
一族として比べれば大差なし。井伊があまり分家してないだけ。

567 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 19:57:26
酒井はそうだけど他で30万石クラスいる?

568 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:02:55
本多は一族全体ならむやみに多い。一族で束になられると幕府にとって脅威だから、
増やし過ぎるわけにもいかない。

569 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:09:34
>>567
本多は一族で30万石あった時期もある。
榊原はボロボロだけど。
井伊は確かに優遇されてるけど、意味不明の優遇だけじゃなく直孝の宿老としての能力による加増。


570 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:29:39
本多は、大名は十三家、旗本は四十五家だってさ。

571 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:39:26
本多と言ってもいろいろあるからなあ。

572 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:51:43
小笠原は27万石

573 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:58:08
忠勝直系だけに限らないと
酒井だって二系統別れたのかなり前じゃん

574 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 22:04:12
忠勝系なら結構改易、減封されてるな

575 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 22:29:24
本多、13家もある?
幕末時点では8家のようだけど。

576 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 22:47:20
>>559
>>562
いや越前は一橋が嫡男、次男と送り込んで乗っ取ってしまったさ
結局将軍家斉の伯父さんたちの家系となった。
潰すよりメリットあるだろw

577 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 23:06:23
忠勝系だけで当初30万石。
その後一時的に30万石超えたこともあったけど次々と潰れた。
本家も無嗣断絶のとこ救われて5万石まで削減。

578 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 23:15:56
譜代で,一族の石高合計が最高なのは,酒井家か?

まあ,左衛門尉家と雅楽頭家が同じ一族としてカウントできるか微妙だが・・・・




579 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 00:57:16
両酒井家は大統領になったアメリカのオバマ兄と
麻薬で捕まったケニアのオバマ弟くらい違うからな

580 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 01:21:42
戸田って大名もたくさんいるよなー。

581 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 01:28:51
四天皇の酒井は初代は三万石で冷遇されていたじゃん。
何故か庄内で一五万石まで出世したけど。

582 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 02:23:30
「お前でも、子供がかわいいのか?ん?」
家康コワス。

583 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 02:25:50
>>576
その前に、70万石超が10万石台まで減らされてるし。
加賀百万石への抑止力に、全然なってないwww

584 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 06:13:24
自演の時間帯は過ぎたようだな(笑)

585 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 07:03:54
↑基地外?

586 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 21:08:47
>>583 加賀前田の仮想敵国は越前松平家だったようだが、何げに背後にも糸魚川松平家が…

587 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 21:29:23
綱吉が越後高田藩を改易にしたのは、正に加賀藩前田の脅威が去ったと見るべきであろう

588 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 21:38:26
>>586
加賀前田家は外様といえども、
3代『光高』の母は2代将軍徳川秀忠の娘天徳院
4代『綱紀』の母は徳川頼房の娘(家光の養女)清泰院
13代『慶寧』の母は11代将軍徳川家斉の娘溶姫
であるので、鳥取池田家などと同様に徳川の血を濃く
受け継がれた外様大名であったので仮想敵国との認識が
本当にあったのかどうか・・・



589 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:06:21
それでも動くとしたら、一番怖いのは百万石様だろ。
近い分、伊達も脅威だけど。

590 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:16:15
まあ、実際に戦ってみると、前田は存在感皆無、伊達に至ってはドン五里兵だったわけだけど。

591 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:19:38
加賀藩の海軍なめんなよ!
能登の七尾湾内で外国人指導者の下、ずっと軍事訓練してたんだぞ。

たくさん船はあったけれど、全部せいぜい輸送船で、
「軍艦」が一隻もなかったらしいぞw

592 :大槻伝蔵:2009/02/03(火) 22:50:00
加賀藩改革は俺に任せろ。

593 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 23:04:53
藩主が創業者ならともかく,江戸中期も過ぎたころなら,藩の意向に藩主個人の資質など関係ないだろう。
殿は一代,お家は末代

藩主が徳川の血を引いていても,その下の家臣団の意向次第で親幕にも,反幕でもなるだろう。
将軍の子弟が養子に入って当主になっても,外様は外様であって親藩にはなれない。





594 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 23:15:29
伊達の抑えは水戸。
攻めてきたら、水戸が時間を稼ぎ、
その間に将軍家が、号令する手はずになっていたと、
何かで読んだことがある。
仮に、将軍家がやられたら、名古屋に引いて、
体勢を立て直すことになっていたらしい。
家康はそこまで考えていたらしいが、
天海は、伊達が徳川を裏切ることは
絶対ないと断言し、秀忠も、それを固く信じていたらしい。
後半部分のソースはNHKの大河だけど。
だけど、伊達は苦手の喜連川公が立ちはだかる限り、
電光石火は無理。足止めを食らうか、迂回しなきゃならない。
迂回すると喜連川公が追って来て、背後を突かれる。

595 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 00:03:00
>>594
たかだか、3000〜5000石の旗本に内高100万石を超えるといわれる大藩を抑えられる
わけがなかろう。


596 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 00:15:39
だから喜連川公は橋の下で釣りをすると。
大軍が足止めされるのだよ。


597 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 00:54:23
大田原城には幕府の備蓄米があったらしいな。
東北諸藩対策なんだろうな。
皮肉にもその備蓄米狙いで、、幕末に旧幕府方である会津軍の襲撃を受けた。

598 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 00:54:58
背後をどうやって突くの?

599 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 01:07:21
>>598
背後から声をかけて嫌味を言う

600 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 01:38:58
大田原って外様じゃないか
幕府の信用を得てたんだな

601 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 02:14:11
初代が信用されてたんじゃね?
大阪城番とかやってるみたいだし。
あとは家康の名家好き癖が、、、

602 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 14:44:09
仲通は白河があるし浜どおりは岩城平がある
そこをやっと突破しても宇都宮あるいは古河と水戸あるいは土浦がある
万が一江戸にたどりつけてもボロボロだわな

603 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 16:00:39
志村けんのバカ殿の石高は12万石らしい
ただし初期は50万石だったらしいので
殿がなんかしでかして大減封食らったものと思われる
幼名竹千代だし家紋が三つ葉葵っぽいので将軍家にごく近い親藩であろうから
そっちの配慮で改易を免れたのだろう。城主大名だし。
よく出てくる爺とかは2000石くらいだろうか?
(上島さんとかは1000石くらいで)

落語の目黒のさんまの殿さまの石高は12万3456石7斗8升9合1つかみ半分。
赤門がある(将軍家息女が嫁に来ている)からという理由で名前が赤井御門守だったりするが
親藩かどうかはわからない。石高もほぼ同じと考えると両者の地位関係はおそらく

バカ殿>目黒だと思われる

Q.E.D

604 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 17:15:05
バカ殿様は親藩で国持ちで減封されたことあり・・・
結城秀康の末裔か?

605 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 18:06:03
>>602
水戸家以外は話にならんレベルだろ。
岩城平の内藤家なんか弱小大名じゃん。



606 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 20:12:40
>>604
津山藩主かよっ!

607 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 22:20:01
>>603
目黒のさんまのモデルはそこらの大名ではなく、
将軍家光である、とされている。
実際目黒から学芸大学あたりにかけて鷹狩場があり、
家光は何度かそこにきている。
「はぁ!?保科正之がオレの弟ってか!?」
という”家光以外、家臣も江戸の町人もみんな知ってた秘密”を知ったのも、
あの辺の寺で一人でぷらぷらしてた時。

石高とかの細かいディテールは、演者ごとに違ってくるので当てにはならない。


>>605
上のほうに、同じ議論がある。

608 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 22:33:57
吉宗が「暴れん坊将軍」みたいに実際に街をうろつく事はあったのかどうか
知らないが、家光はマジみたいだな。



609 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 22:41:33
吉宗が「暴れん坊将軍」みたいに実際に街をうろつく事はあったのかどうか
知らないが、家綱はかのバカ殿様みたいに天守閣から遠眼鏡で街を観察(つか覗き)するのが楽しみだった。

「上から見られてる側の気持ちも考えなさい」
と、保科正之に説教されて、以降そのお楽しみはしなくなった。

610 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 22:47:48
結城秀康の墓って、羽柴の家紋である五三の桐があるらしいな。
家康には冷遇され、秀吉には厚遇された故なのか知らないが、秀頼の危機には
大坂城に入って秀頼を助けると豪語していたらしいね。実際はその前に死んで
しまったけど。

家康の子で父を裏切り、大坂の陣に豊臣方として入った者が1人いたようだが。
小笠原権之丞だっけ。


611 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 23:08:20
小笠原ディエゴにとってみればそれは裏切りではない

612 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 23:14:09
>>610
一方、別の隠し子「松平民部」は、
血筋からすると甥に当たる忠直の軍に加わり、大坂城を攻めていた。

613 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 23:21:55
>>610
秀康の存在は,親父の作った徳川政権では完全に傍流だからね。
豊臣政権なら,秀吉の猶子であり,当主秀頼の義兄でもある秀康は,実父家康から独立した存在になれる可能性があったから。
秀康にとっては,豊臣政権の方が良かったかもね。

豊臣家としても,徳川の勢力を分断できる可能性があったから,秀康の台頭を望んでいたかも・・・・




614 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 23:27:03
秀康が五大老に加わって、六大老になる計画があったとか。
本当ですか?


615 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 23:35:32
猶子は老職にはなれない

616 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 23:37:01
>>615
つ宇喜多

617 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 23:42:53
>>615
猶子は相続権がないだけだから,老職(大老)には,就けただろう。

618 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 01:48:56
>>615
秀吉ルールにそんなものは、ない。

619 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 06:37:33
秀吉は藤原氏の猶子になることによって関白になる根拠を得た。
ただし日本の関白にはなったが藤原氏の中では地位が低い
結局「豊臣」という新姓を得ることで(ry

620 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 08:58:16
>>619
藤原氏の中で地位が低かったのか?
どうみても一番高かったわけだが。

621 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 10:25:01
秀康は大老ではなく、中村式部、堀尾帯刀先生とともに中老を勤める予定ではなかったか

622 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 10:35:01
>>620
藤原の権威を利用して関白になったために、藤原をおろそかにすることができず、
藤原の権力が増大することにつながるから、それを嫌ったってことかもね。

623 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 10:38:16
>>607
竜ちゃん、そんな上級武士だったのか・・・

624 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 10:39:02
>>607じゃなかったスマソ
>>603でした

625 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 19:29:40
>>609
保科正之ってほんとにクソ真面目だったんだなw

626 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 19:51:56
保科正之が将軍の鷹狩り場での狩りを許可されて鷹狩りした際のエピソード

家光「雁何羽とれた?」
正之「献上した二羽だけっす」
家光「ムカッ」

酒井忠勝「嘘でもいいから沢山取れましたくらい言えよな」
家光「嘘付くのは将軍様をだますことになるから、正直に申し上げたっす」

627 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 19:55:26
家光は真面目だねえ。
さすが名君。

628 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 20:09:10
正之の間違いでした

629 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 20:10:19
>>627
>>626の最後は正之を家光と書き間違えてるだけだと思うぞ

630 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 21:18:11
>>628-629
1分差で何という麗しいいたわり合いぶり
おまいらケコーン汁

631 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 23:03:37
秀康系の子孫の忠直や光長にしてみれば,幕府の長子相続の原則なんてちゃんちゃら可笑しいよな。
家康の跡を継いだのが長兄で嫡子の信康なら諦めもつくが・・・・・

後を継いだのは,弟の秀忠だし
その秀忠だって正室の子じゃない諸子だし
家光が長子だといっても・・・・違うと思うよな













632 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 23:22:03
>>619 >>622
秀吉は近衛前久の養子となり、「藤原秀吉」として正親町天皇の関白に就任した。
しかし、五摂家のひとつである二条家から「秀吉に藤原姓を名乗らせるな」とい
横やりが入ったために、続く後陽成天皇からは豊臣の姓を与えられ、
「豊臣秀吉」として後陽成天皇の関白に就任した。
二条家からの横やりが入らなければ秀吉は本姓藤原氏、通称羽柴氏で関白になっていたはず。
徳川家康などは源氏諸氏から横やりも入らなかったために、堂々と本姓源氏で通してるしね。

633 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 23:28:02
>>631
長男;信康=切腹。断絶。
二男;秀康=家康が実子と認めず、認知せず。
       信康の計らいでようやく認知だけしたものの
       元服もしないうちに秀吉の養子にやり、冷遇。
三男;秀忠=2代将軍。

一応、曲がりなりにも筋は通っている。
長男は切腹させられているために徳川家は継げない。
二男の母は家康の側室ではなく、家康自身認知する気が全くなかったようだ。
二男が認知されていなければ、秀忠は信康亡きあとの家康の息子の中で
一番年長者ということで辻褄が合う。
もっとも、忠直などは秀康が家康の子だと認知された以上は、
秀忠の兄である系統に将軍職を譲れと思っていただろうが。

634 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 23:50:59
>>633
スレチ 御三卿以下

635 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 02:24:25
忠直は大坂の陣の時は
「俺の親父は太閤殿下の養子であり、
 つまり俺は太閤殿下の孫。秀頼公はおじさんじゃん。
 なーにが将軍っスか、はぁ?だな。
 俺、大坂城入っちゃおうと思うんだ。筋目として」
と言ってみて、例の本多富正になだめられて徳川方でしぶしぶ参戦。
冬の時は軍令無視して、局地敗北したりして家康に怒られ、
夏の陣の時は軍令守ってたら「サボってんじゃねーよ」と家康に怒られ、
「はぁぁあ!?じゃ勝手にする。全員、死ぬぞオラ!」と諸軍抜いて勝手に突撃。
真田隊を突破して大坂城一番乗り(例の本多が)、
二の丸炎上させて、勝利のきっかけを作った。
のに、
家康から褒美で貰ったのが茶道具ひとつ。
そりゃ荒れるわwww

636 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 04:29:38
http://2chcopipe.blog122.fc2.com/blog-entry-3328.html

wwww

637 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 06:58:58
本来徳川は秀康が継ぐべき→ということは本来忠直が徳川家当主になるべき
秀頼亡き後大綱の養子の子である忠直が豊臣家当主となるべき→本来豊臣家臣である家康・秀忠は忠直の家来。

638 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 20:01:31
>>636
まとめに載ったってこと?
過疎スレっぽいのに見てるやつ意外に多いんだなw

江戸時代の大名で、幕府公認の与力大名っていたんだろうか?
柴田勝家と前田利家みたいな関係の。

639 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 20:18:29
家康の好き嫌いは別にして秀康が徳川宗家を継ぐのは普通にナシなんじゃね?
代々徳川が天下を治める為の地盤固め、将軍職の世襲って時に、秀吉の養子に
なった秀安を将軍にしたんじゃ豊臣政権や秀頼との決別宣言にはならないし、
豊臣家を滅ぼすことも筋目から困難だったろうし・・・

640 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 20:44:05
>>639
長男を亡くした家康は、本来、次男秀康を家督相続者として
三男の秀忠こそを秀吉の養子に差し出すべきだっただろう。
(秀康が秀吉に差し出されたとき、すでに秀忠は生まれている)
それをせずに弟の秀忠を手元にとどめて兄の秀康を養子に出したのは
この時点ですでに家督を譲る気がなかったからだろう。

641 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 21:33:37
秀康に関白職を譲っていたらよかったのにな。
どうしても羽柴の血を入れたければ、秀康に完子を嫁がせれば
よかった。


642 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 22:17:27
秀康だろうが秀家だろうが所詮は赤の他人。
そんなのに関白譲るわけないと思われ。

643 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 22:55:15
当時の家の概念は血よりも存続が第一。
会社みたいなものだからな。

644 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 23:37:59
秀頼が生まれなくて、秀次も早死にしてたら可能性はあったかもね。
秀秋が泣くけどwww

645 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 02:43:39
木下って、よくぞ江戸時代も豊臣朝臣で通したよなあ。
そんなチキンレース怖くないのか、と。

646 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 02:45:54
>>594
天海が本当にそう言ったかはともかく、
「仙台が江戸を攻めることは無い」というのは、いわば地政学的な真理だからね。
地政学というより、弥生時代以来の日本史によるものだが、
畿内が日本の中心である限り、
東北南部の太平洋側は、どうしても「日本で最もひどい僻地」となってしまう。
中部山岳・脊梁山地の裏側の『裏日本』になる上に、関東平野のさらに向こうとなる。
海上ルートはさらに悲惨だ。難波・堺・兵庫の港から、これほど行きにくいところもない。
畿内からみて、日本全国これほど行きにくい所は無い。蝦夷地よりよほど行きにくい。
朝鮮や中国より行きにくいんじゃないだろうか。

ところが、江戸が「中心」を引っ張ってくれれば、
そこから奥州街道沿いに構造谷を直線一本で結ばれる、交通利便な地に早代わりする。
実現性はともかく、伊達政宗は天下を狙っていたらしいが、
天下をとれないなら、江戸に幕府を開いてもらうのは、事前の策としては最良に近い。

647 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 07:03:51

>>643

そうだけど その概念は江戸期も中期以降の太平の世になってから

648 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 08:50:04
>>645
それ以外に名乗れる名が無いから

だろなー。でなけりゃただの木下君だ。

649 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 09:18:51
林大学に頼めばいくらでも系図捏造してくれるらしいぞ。
俺も頼みたい。

650 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 10:54:47
>>645
つーか、あれは幕府公認だから。
豊臣の長者であった大坂城の羽柴家を滅ぼしたけれど、豊臣氏全体を
滅ぼす魂胆は毛頭なかったってことだろう。歴史教科書では豊臣=大坂
城の羽柴家という曲解があるけど、本来の意味は違うのだし。

おねの生家や秀吉自身も共通の祖先として近江の戦国大名の浅井の
流れをくんでいる説があるが、それが事実なら、ちゃんと藤原という
姓があった。

でも豊臣姓が名乗れる正当な理由があったのだから格上のものを
名乗ったって事では?





651 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 11:39:47
大名の領地で犯罪を犯した者が天領に逃亡、天領で捕縛された場合、藩は公儀に引渡しを要求するのか?

それとも御上の顔を立てて、裁きはお任せしますか?

652 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 12:29:22
>651
お上の顔云々以前に、自分の領内で完結していない時点で大名の裁判権は
及ばないはず。
水戸家や会津松平家で引渡しを要求した例もあるらしいけど、いずれも拒否
されているし、裏から手を回して引き渡させた仙石家は、自身だけでなく老中
も含む関係役人が処罰されるという大問題になっている。
特例として、前田家だけは引渡しの前例があるという話もあるらしいけどね。

653 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 12:55:02
江戸三百諸侯の話なんてもう誰もしてないやん
スレチw

654 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 13:12:55
江戸初期の頃は新田開発で農民が足りなかったから尾張藩あたりは大募集してた。
走り百姓は当然OKで、他領で罪を犯したものでも条件付で受け入れたらしいから
引渡し協定がない藩に逃げればお構いなしなんじゃないかな?

655 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 13:35:02
天領で罪人を捕縛した場合、裁判の材料にするために公儀が過去の罪状の情報を藩に求める事は有るかな?
その罪人が諸国で罪を犯した御尋ね者の場合。

656 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 13:57:01
ふつうにあるよ

657 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 15:17:05
>>650
俺馬鹿だからよくわからないんだけど
木下さんが豊臣氏なのは
秀吉さんの奥さんをだしたからで
元々は別だったわけじゃない?
豊臣ができる前から木下さんの先祖は活動してたわけで。
であるのに姓は豊臣ってのはなんか
余計「うちは本当によそと違ってこじつけられるような氏素性ないんで困っちゃうよね'`,、('∀`) '`,、」って
言ってるようにみられることはなかったのかな?
源平藤橘やなんかの初代(というのはおかしいのはわかってるんだけど便宜上)とされるような人と
同時代に活動してた血のつながらない人が「じゃ、うちもそこの家と同じね」って言いだしたような違和感を覚える
なんだい方って「実は我が家は○○の何世の孫の子で〜」ってのとは根本的になんか同じに見れない・・・

別に木下氏や他の家を馬鹿にしてるわけではありません
不愉快に思った方がいたらごめんなさい

658 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 15:41:16
>>657
藤原や源をみんなが名乗りたがったのは、確かに古い歴史を誇りたかったっていうのもあるだろうけど、
それ以上に、藤原や源が天皇から賜った姓だから、だと思われる。
そういう意味で、豊臣っていう賜姓を正式に、疑念なく堂々と名乗れるっていうのは誇るべきことだったに違いない。
徳川みたいに系図の創作したり、上杉みたいに他家を乗っ取ったりしたのとは違う。
現代人がノスタルジックに思いがちな、「古いものだから良い」みたいな感覚とは違ったんだよ。

659 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 16:10:31
姓がなければ受領に補任されないし武家だけではなく地下一般の慣習ですよ

660 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 18:05:42
>>659
その慣習って,禁中並公家諸法度が制定された後も同じなんだろうか?

家康でさえも三河守叙任では,姓と先祖の三河守叙任の先例の有無が問題となった。
しかし武家の叙任は,武家官位が当官の外になってからは,幕府の任命でOKなはずでは・・・






661 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 22:01:57
>>657
>元々は別だったわけじゃない?

だから、秀吉とねねの実家は元々は同じ血筋という話なんだって。



662 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 22:15:34
前田家って、羽柴名乗ってるよね。最初だけ?

663 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 23:34:36
>>662
秀吉時代の「羽柴」は、江戸期の「松平」と似たようなもんでしょ。
姓は「賜姓」に見られるように、天子以外は不可侵な特権だが、
替わりに名乗りを分ける行為として秀吉は羽柴を与えたんだろうね。
それを踏襲して、徳川も「松平」を与えたと。長岡忠興のように
そんなもんいらねーwwwと名乗りを元の細川に戻したのもいたりするが。



664 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 00:18:14
羽柴や松平に限らず,主君が家臣に姓を与える例はあったわけで。
主君と同じ氏や姓を与えることで,疑似血族≒一門扱いの家格を与えるという意味があったようですね。

665 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 00:54:15
蒲生がいい例だな。家臣、蒲生だらけ。

666 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 01:29:59
豊臣姓を名乗った木下より、
松平を受け入れなかった細川の方がすごいな。

「ハア?松平?うちはそんなニセ源氏じゃない、由緒ある正真正銘の清和源氏なんですけど?」
って幕府に公然と言ってるようなもんだろwww

667 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 02:11:43
藤堂だらけの津藩モナー

668 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 02:32:26
保科正之も、武田名乗っちゃえばよかったのに。

669 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 07:25:46
細川は蹴られると大恥なので
内々に打診したが断られた
上杉はハナから松平賜姓の対象にならなった

670 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 07:33:54
他の国持ち外様は有り難く
松平姓を頂戴しとる

あと木下2家にも松平やれば格好よかったな

671 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 07:56:35
関東管領家にしてみればマツダイラなんて鼻で笑いたくなるわな

672 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 08:24:56
そうかね?
上杉なんか新田分家のそのまた分家の執事に過ぎん家柄だが・・・

673 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 08:31:11
浮浪者の子孫とどっちが上だい

674 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 08:48:20
>>672
上杉って藤原じゃないの?

675 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 09:26:41
長尾じゃねーの?

676 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 09:29:21
変なこと書いちゃった
ごめんなさい
許して下さい

677 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 11:02:06
上杉は藤原っていっても所詮は乗っ取り
それに、どう考えても関東管領よりも将軍家連枝の方が上

678 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 11:06:58
よく知らんのだが佐竹はどうだったの?>>670

679 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 11:33:32
のっとりだろうがなんだろうが正式に関東管領譲られてるだろうが
アホか

680 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 11:42:32
相馬も鎌倉以来の名家だよな
場所も佐竹みたいに移されてないから基本的に変わってないし
島津と同じぐらい古くてずっとあそこにいる
(関ヶ原のあとにちょびっと空白があるけど復帰してるし)

681 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 11:54:14
>>679
んなこと言ったら徳川だって正式に天皇から将軍に任じられているわけで
どう考えても徳川の方が上。

682 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 13:34:25
佐竹の一族に松平氏がいた
江戸に入り高柿に改正

分家が捨てた姓なんか
名乗れないよ

683 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 15:17:28
豊後佐伯藩の毛利家は毛利輝元に気に入られてもらった姓だろ?
関ケ原の西軍大将の名字をなぜ捨てなかったのか

684 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 17:36:18
捨てる必要なかったから

685 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 22:14:22
>>683 もともと鯰江氏という宇多源氏の庶流だろ。
毛利よりずっと高貴だ

686 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 23:14:20
偽新田の徳川に決して宗家譲らなかった新田岩松最強。
20石で四州に準ずる格。新田名乗らなくなった褒美で100石加増。
幕末には新田官軍として活躍。
偽新田徳川に最後まで冷や水を浴びせ続けた。

687 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 23:19:21
新田岩松の格だって徳川から与えられたものなんだけどな
詐欺まがいな猫の絵売ってしのいでた新田岩松

688 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 23:45:14
詐欺まがいって何だよ。当時の法でいいから構成要件教えてくれ。
新田詐欺が徳川で宗家譲らないから20石で大名格に準ずるんだろ。
ただの嫌がらせ。

689 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 23:49:11
>新田名乗らなくなった褒美で100石加増。

けち臭いな。
たったの100石かよw
せめて5000石くらいはくれてやらないと

690 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 00:59:39
>>688
日本語でおk

691 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 01:20:39
>>680
鎌倉っつーよりそれ以前の将門時代から、、、

692 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 06:54:16
>新田詐欺が徳川で宗家譲らないから20石で大名格に準ずるんだろ。
そんなに新田宗家の名が欲しいなら、言い掛かりつけて取り潰して奪えば済むことだろうに。
で、奪ったのちに同族のよしみで再興とかなw

693 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 07:57:52
なに新田宗家って?

694 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 08:07:58
家が長く続くと本家分家の関係ができるし、更に一族が増えれば各家の格に応じて
総本家(宗家)、○○本家(東西南北や地名などを冠する)などと呼称されるようになる。

695 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 10:00:28
岩松は新田でもあり足利でもあるんだよな

696 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 19:01:04
もはや誰も江戸三百諸侯について語ってない件ww

697 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 23:40:34
>>696
自分で語ればいいじゃん?

698 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 01:37:43
みんなのアイドル市橋くん独立大名、
外様加賀藩筆頭家老で5万石の本多くん、
親藩越前付家老で大名格式だった2万石本多くん。
これが江戸城内や街中、
はたまた道中で出会った場合、
それでも市橋が一番偉いのですか?

699 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 02:11:21
>>698
序列は官位による
以上

700 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 03:13:15
官位に釣られて自分を失う大名もいる


701 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 09:09:08
>>698
加賀藩の本多って筆頭家老の位置づけ(土佐守家とかよりも上?)だったの?


序列は大名>付家老>本多5万石じゃないかな。
加賀本多は、序列・格式では無位無官でも大名格の付家老の本多や吉川あたり
よりも劣位だと思う。
幕府の大概順でも一部、無位(布衣)の役職が諸大夫の役職の役職より上位に
位置づけられてたりするから、一概に官位の順とは言えない気がする。


702 :701:2009/02/10(火) 09:10:49
>諸大夫の役職の役職より上位に
諸大夫の役職より上位に

703 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 10:34:58
朝廷を中心とした序列(官職)と幕府を中心とした序列(親疎の別、詰間)との
関係は、ケースバイケースじゃねーの

704 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 10:37:32
将軍ってどういう場合に五摂家の関白とかより格下となるのか。また、
禁中並びに公家諸法度の履行を迫れるのか。

705 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 11:58:54
将軍はいかなる時にもつねに五摂家より格下。
人臣最高位は関白。これは不動の座だ。
その関白を出す家柄は五摂家のみ。

706 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 12:04:25
格上の天皇・院や五摂家に法度の履行を迫れるのはどういう法的根拠があるのだろうか。
単なるジャイアニズム?

707 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 13:18:30
公家が公家諸法度を呑んだ事実が履行を迫る法的根拠にはなるね。
もちろん、呑ませたのはジャイアニズムってことなるけど。

708 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 17:24:38
>>701
百万石の筆頭家老家、本多五万石

      vs

役職ナシの「誰だ?」大名、市橋一万余。


これでもやっぱり市橋が上なんですね。

709 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 17:34:10
>>705
何を言う
関白なら豊臣家もあるぜよw

710 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 17:43:14
>>708
市橋家にも役職についた藩主は何人かいるぞ。

711 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 18:00:41
家康・秀忠時代は関白が上座、
家光以降江戸で対面するときは関白が下座だと聞いたことがある。
対面する機会が果たしてあったかどうか知らないけど。
室町時代から摂家当主が将軍から一字与えられることはよくあるし、
必ずしも関白>将軍というわけではないと思う。
朝廷的には関白>将軍だろうけど、

>将軍はいかなる時にもつねに五摂家より格下。

これは言い過ぎかと。

712 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 18:21:23
市橋と,本多じゃあ,直臣と陪臣となるから
直臣の市橋の方が格上でしょう。


713 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 18:29:37
>室町時代から摂家当主が将軍から一字与えられることはよくあるし、
>必ずしも関白>将軍というわけではないと思う。

征夷大将軍も関白も朝廷が根拠のものだから、朝廷が関白>将軍と
なると、それは不動のもの。
征夷大将軍は武家の棟梁だが、関白は公家、武家両方の棟梁だろ。
天皇の代理人だし。

臣下で「殿下」称号がもらえるのは摂政関白とそれを退いた者のみ。
鎌倉時代は征夷大将軍でも「殿下」と呼ばれたけど、以後廃れて
呼ばれる格式は失っている。


714 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 18:32:53
何を今更。

といいたいところだが、加賀藩筆頭家老本多家と、直臣っぽい江戸町奉行所同心の
中村主水はどっちが上か。コセコセした上司の与力ならどうか。旗本下っ端の小十人
ならどうか。

715 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 18:36:44
>>708
1万石の大名>6万石の陪臣(吉川家)だからね。大名と家来の垣根は大きいよ。
加賀八家本多家は吉川家のように大名格(献上品・柳間席・拝領屋敷など)でも
ないし、加賀八家のうち4家が従五位下に叙されるのもそれは三位を極位とする
前田家の家としての格によるものであって、本多家が特別だから諸大夫ってこと
ではないし、石高は関係ないと思う。
御三家付家老はかなり特殊だから位置づけが難しいけど、越前の本多は大名格だけど
やはり独立大名よりは下なのかなと思う。御三家と越前家との家格の差ってところで。

将軍への拝謁の順番も、1万石台でも城持大名の方が7万石台の陣屋大名より先みたい
だし、本多家の「5万石」という石高は陪臣としては2番目に大きい数字だけど、
江戸時代みたいに格式や儀礼が重視された時代にはそんなに意味をなさなかったのかも。
平和な時代になって豊臣時代以前のような流動性もなくなってるしね。


716 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 18:50:48
>>698
市橋ってこのスレでよく見るけど、仁正寺藩市橋家のこと?
なんでこのスレではそんなに人気あるの?

717 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 18:55:58
>>715
前田家家老の本多家5万石が陪臣としては最高の石高を持ってると思ってたけど
まだ高い奴が居るの?

本多家はさらに5万石の加増を固辞しているから本来なら10万石でもおかしく
なかったのだがな。



718 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 19:03:04
>>717
吉川の6万石が陪臣では一番高いと思う。
松浦静山や河井継之助も「吉川は陪臣の如き者」「6万石は陪臣には
過ぎたる知行」みたいなことをと記してるし、
限りなく大名格ではあるけれど、当時の人は陪臣という認識だったっぽいよ。
幕府はともかく、毛利家自体が吉川を1万石の清末藩毛利家より格下扱いしてる。

百万石なら十万石の筆頭重臣がいてもおかしくはないだろうね。


719 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 19:07:20
>>713

1598年
豊臣秀頼従二位権中納言
徳川家康正二位内大臣

でも秀頼の方がエラい

720 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 19:09:47
正確には岩国吉川は陪臣ではない

721 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 19:15:44
>>720
その理由は?

722 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 19:45:44
>>718
幕府は直臣扱いしたかったようだが、毛利家が認めなかったってやつかな?
微妙だな。

誰もが公然にみとめる陪臣最高峰は前田家家老本多5万石か。
前田家は加賀藩のみの米だけの収入でも130万石くらいあったから
10万石の筆頭家老がいても不思議ではないな。支藩いれると150万石、
雑収入入れると、200万石を超えていたらしいからね。



723 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 19:49:30
伊達の片倉って10万石じゃなかったっけ?

724 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 20:07:22
>>720
江戸幕藩大名家事典に、「代々毛利に属し列侯の員にあらず…、自余(それ以外)の
陪臣と異なり」「…付家老に准じ、自余の陪臣と異なり他に類家のない家」「吉川監物
列侯ならずと雖も」と複数の史料を引用した上で、吉川は陪臣と明記されたので陪臣
としたんだけど、1つの見解としてではなく断定的に否定するならその根拠を書いて
欲しいな。

「自余の陪臣にあらず」ってことは、特殊ではあるけど陪臣の集合には含まれるってこと
だと思うけど。


725 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 20:36:47
>>722
それだと
前田は十公零民になる

726 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 20:41:07
>>724
元々、毛利家が防長二カ国に押し込められた経緯を考えたらわかるのでは?
36万9400石の領土を秀頼(実質的には家康)より与えられたのは元々毛利家
ではなく、その一族である吉川広家だろ。吉川広家が家康に嘆願して毛利家
に与えられる事になっただけ。
それを考えれば、その後政権を乗っ取った江戸幕府が吉川家を直臣扱いした
がるのは自然な事では。



727 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 20:43:57
>>725
加賀前田は表高は102万石だけど、実高は130万石だよ。新田開発分だと思われ。



728 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 20:45:53
>>726
だから吉川はもともと防長を与えられなかったわけだ。
与えられたのは吉川の主君の毛利。
吉川は毛利の家来のまんま。

729 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 21:23:32
>>726
レスありがとう。
経緯として当初そういう事実があったけど、>>728じゃないけど吉川は辞退
してるし、その後は毛利宗家や幕閣の同意が得られず、格式としては付家老
に准ずるような特殊な形で陪臣化したとみるのが素直な気がするけどね。
当時の人や書物も陪臣という認識だったようだし…

でも>>726が言うように、幕府は大名扱いするつもりがあったのも事実だろう
から、「正確には陪臣ではない」というのも1つの考え方なんだろうとは思う。


730 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 21:55:12
でも一国一城令(伊達の片倉など陪臣は不適応)
は対象になって岩国城こわされカワウソ

731 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 22:28:23
おまえら幕府の一次二次長州攻めってしってますか?

732 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 22:39:54
>>723
五万石じゃなかった?
伊達は片倉以外に亘理とか五万石くらいもってる家臣が四家くらいいたような。


733 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 23:01:10
>>730
ホントは破却対象じゃなかったのになw
萩の嫌がらせなんじゃね?w

734 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 23:11:00
>>732
5万もないだろ。
1万ちょいじゃなかったか

735 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 01:43:59
>>716
「地味大名家決定戦」で序盤に華麗に登場して、
その他ライバルを制して圧勝して以来、
このスレではマスコット的存在。
「外様でほとんど仕事なし」「しょぼい石高」「藩政に見るべき点もなし」「これと言った騒動もなし」「子孫行方不明という噂」「ってか誰だよ市橋」「なんで大名やってんの?」
などと、愛されている。

736 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 01:48:38
岩国吉川
白石片倉
加賀本多
越前本多
淡路稲田
八代松井
ほかに「カワイソス大身陪臣」っている?


737 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 02:25:04
都城島津(元「北郷」) 3万石

よければ加えてやって下さい・・・
秀吉の時には直接朱印状をもらっているのに独立し損ねたあげく、
宗家から無理矢理養子押しつけられて
しかも苗字まで改姓させられたという、乗っ取られた家です・・・。

738 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 07:01:22
福島本庄は?
上杉家中の嫌われ者だが
ちゃっかり天地人イベントに便乗

739 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 07:11:32
>>726
大名か陪臣かの判断は微妙

諸大夫(従5位下)には御三家や加賀前田の家老職もなっていてこの基準では
判断できない。

江戸の武家地に拝領屋敷も陪臣で例があり基準にできない。

定例登城にも陪臣で上がる例がある。

たとえば、独立の藩であれば将軍家に所領安堵をしてもらい、また将軍家の代替わり
にも所領安堵してもらわなければならない。

その方法は、将軍家から領知判物(10万石以上)または領知朱印状(10万石未満)を持って
行われた。○○新田藩のように本家の内分地の場合は無い場合があったとか・・

では、吉川家はこの領知朱印状(10万石未満)を受領していたのだろうか。



740 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 07:39:27
かわいそうといえば、名張藤堂氏

藩祖藤堂高吉は丹羽長秀の三男として生まれ、はじめ豊臣秀長の養子になり、秀吉により豊臣秀保が秀長の養子として送り込まれてくると秀吉・秀長間の仲が悪くなることを心配した藤堂高虎が自分の養子としてもらい受けた。
関ヶ原の戦いで活躍し伊予二万石を領したが、高虎に高次が生まれると高虎の家臣にされてしまった。


741 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 08:00:52
>>732

一家の片倉家は18000石ですね。
五万石というのは、景綱が秀吉から直臣になり田村で五万石はどうかと言われたのが基ですね。(景綱は断りましたが、)



742 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 09:58:36
>>739
防長2国は萩藩が一国一円の領地判物、それ以前に関ヶ原の際に家康から二国
安堵の起請文を賜ってる。国絵図作成の際には境界線の色分けの仕方で大目付・
井上政重と揉めてる。
長府・徳山・清末各藩は萩の内証分知の家だし、吉川も独立の朱印状などは
貰ってないはず。吉川が大名になれなかったのって、秀元ら長府藩・徳山藩の
独立運動のとばっちりによるところも結構大きい気がするけどね。


個人的には吉川は陪臣だと思うけど、
拝領屋敷(3千5百坪ほか)・将軍拝謁以外だと、あとは伺候席柳間席、無官でも
白無垢着用を許されてる点、献上品を許され御内書を下されてる点、手伝普請を
吉川名指しで割り当てられてる点、老中を廻る際開門送迎されてる点、行列の槍が
2本道具、正妻を大名家から迎えている点など、実際かなり特殊な家には違いない。


吉川家の家臣は士814戸、卒587戸、陪臣456戸とあるから、加賀本多
5万石もおそらく同規模の家臣団がいたんだろうね。吉川と違って金沢に集住
の分、もう少し少ないかもしれないけど。


>>735
確かに珍しいかも。そりゃ愛されて当然だわw

>>736
松井や稲田が入るなら、岡山藩の伊木家(虫明3万3千石)とかもかな。
万石クラスの陪臣は維新後男爵になれてるし、下手に小大名になるよりは
万石陪臣の方がかえって良さそうw


743 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 10:14:56
万石陪臣の家臣は平民だけどな

744 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 10:58:41
平民上等!

745 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 11:31:31
陪臣って言っても与えられた領地を支配して住んでるのと、
他の家臣と一緒に主の城下に住んでるのとでは、きっとかなり違うね。

かわいそうなのは>>743の言うように、陪々臣の人たちだろうな。
数万石の家臣なら、数千石取りの人もいただろうに、
数十石程度の下級藩士からも格下に見られる。

746 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 12:42:21
>713
将軍と関白の比較は定期的に出てくるが、それこそ時期によるとしか言いようが無い。
ただ、少なくとも、義満以降は(幕末期を除けば)将軍の方が上。
摂家は将軍家に伺候しているし、将軍が関白に裾を取らせたりもしている。
幕末の宮廷によると、秀忠、家光の上洛時は、上皇の格式で天皇と対面しているそう
なので、公家よりは当然に上座。

後、摂政は天皇の大権を代行するが、関白はただの相談役で代理の職権はない。

747 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 13:00:11
爵位もらえた(諸侯扱いになった)陪臣の家臣は士族じゃないっけ?

南部の藩内支藩(幕府は支藩として公認したかったが、盛岡藩が断った)の遠野南部家は、
藩内で勤皇を貫いて本藩側に暗殺されそうになって、
新政府軍が来たときも領内に駐屯させたりしてるのに、
維新後には諸侯と認められずに士族。家臣は平民。

748 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 13:42:20
伊木の家臣も士族編入になってるよ

749 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 13:45:26
そうなのか。

本藩が佐幕の中で勤皇として新政府に従軍した稲田は、家臣を士族にと要望したところ、
徳島のDQN集団に洲本の町を焼き討ちされ、家臣の士族編入を却下された上北海道
開拓に追いやられましたとさ。

750 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 14:04:04
陪臣層の扱いは各々御家の事情によって様々

751 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 14:26:20
>>746 上皇の格式って、どれくらいの格式や待遇を受けていたの?


752 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 14:28:31
様々って言っても、江戸時代を通じて大名直属の家臣より低く見られてたという点では
きっとどこも同じなんじゃないかな。
で不満もたまってたっていう。

753 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 16:03:08
たぶん数十石の直臣と万石家老家の数百石の陪臣が道で会ったら、
お互い敬語で話をしたんじゃないかなあ。直臣とはいっても相手は
雲の上の人に等しい家老の重臣だから、おろそかにするとあとで
色々面白くないことが起きそうだし。

大物政治家の第一秘書が一年生議員を歯牙にもかけないような
感じじゃね?

754 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:00:35
陪臣と直臣の関係ならば,大名家だけではなく,舞台を幕府に移してもありますよね。
御三家や大老,老中の家老と,その他の大名,旗本の関係も同じようなものですよね。



755 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:08:15
全然違うんだけど

756 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:27:05
>>746

すくなくとも義満以降はではなくて
義満一代限りにおいてが正確なところだが。

室町時代は将軍=公卿、大名=諸太夫、陪臣=侍品という基本図式が崩れる場合が多い。
時期によって大幅にこの基本図式に変動があり、西国将軍型を志向するという政治プロトタイプには
やはり大きなリスクが潜在していると言わざるを得ない。

とくに鎌倉時代の途中から南北朝時代にかけて摂関家や親王が連続して将軍職につくという
権門デフレが常態化したおかげで、公家と武家の違いがあまりなくなった。
自分の死をもってこのデフレ状況に歯止めをかけたのが公家になりたくてなりたくて
しょうがなかった義満ということになる。

757 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:36:12
二条家の当主は代々将軍から一字与えられてるらしいね。
近衛や一条もだっけ?

758 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:46:17
>756
関白に裾を取らせたというのは義持。それ以降も、将軍が摂関を
伺候させ、命に従わないものは追放したりという状況は変わって
いない。
将軍家が摂関より上位に立ったのは義満一代限りではないよ。

759 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 18:11:00
松前藩の家老の禄高を教えて下さい。

760 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 18:24:09
無高

761 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 18:31:22
つーか、朝廷の官位なんてそんな絶対的なものじゃないんだけどね。

762 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 18:55:33
>>759
家老ってボランティア

763 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 19:13:17
松前藩にはアイヌの藩士は居なかったの?

764 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 19:13:35
松前家が無高

765 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 19:21:31
>>759
縄張りもらってショバ代で暮らしてた。
と書くとまるでやくざだなw

766 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 19:33:30
松前の家老って下国勘解由とか?

767 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 21:03:48
>>746
徳川将軍家は官位が正二位内大臣だろ。だが、関白は従一位左大臣級だから
やっぱ関白が上なのでは。




768 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 21:06:38
関白なんて老中にもビクビクしてたんだけどね

769 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 21:14:17
>>767
官位なんて所詮朝廷ローカルの序列に過ぎない。
実質的な権力関係は朝廷の外にある。

770 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 21:21:43
>>769
実質的な権力は将軍にあるだろうが、お互いが対面する時には関白のほうが
身分が上ってことじゃないの?




771 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 21:24:42
>770
摂関自体が「官位による序列」の例外であるように、将軍や摂関と
いった地位の場合の序列は、官位でははかれないでしょう。

772 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 21:37:53
>>770
朝廷内だったら関白の方が上かも知れないけど、
朝廷の外での対面だったら官位は関係ないのでは?

773 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 21:42:05
官位なんてそんな絶対的なものじゃないぞ。
たとえば御三家当主のジジイと将軍家世子の赤ん坊だったら
御三家当主のジジイの方が官位は上だろう?
でも将軍家世子の赤ん坊の方が主筋だから対面するときは当然上座。

774 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 23:48:35
>>765
つーか松前家はもともと武装商人=海賊
武装してたんで武士と間違われただけ

775 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 02:48:25
関白なんて所詮四品侍従の所司代以下のチンケな存在にすぎない

776 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 02:53:46
松前は武田です!
自己申告でそういうことになっているんです!

777 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 06:09:45
>>774
武士と海賊に明確な線引きなんてないし。海賊大名は何人かいるし、
大藩の船手方も立派な武士。

778 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 12:47:47
松浦、九鬼、かぎ裂き、水軍大大名

779 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 13:10:49
・農業系武士
各種あるが一番オーソドックス
・商人系(運輸流通系含む、山賊も?)
古いけど楠木さんとか



780 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 13:35:52
>>778
来島(久留島)を忘れちゃいけない

781 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 13:37:50
商人系
蜂須賀さんを忘れていた
赤松さんも運輸系だったかな


782 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 13:37:50
>>778
水軍と言えばやっぱり村上。個人的には久留島はともかくとして『村上』の名前で大名になって欲しかったな…。残念…。
あ、俺は別に村上関係者でもないし、村上厨でもありませんので。

783 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 13:50:39
>>779
蜂須賀も元々は水利・水運系の国人領主だから
商人系じゃね?

784 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 14:28:00
>>782
能島も因島も毛利の陪臣だからなぁ。

>>783
だね。講談だと野盗の親分扱いだけど。

785 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 14:45:04
九鬼長門守は志摩鳥羽から切り離されて内陸部に移されて、掘割に軍船を浮かべて往事を振り返ったとか?

786 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 14:53:48
日本海側にも、海賊いたはずなんだけどなぁ。
明智とか織田とか朝倉とか、軍艦多用してるし。

無名だなぁ・・・

787 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 17:35:02
松浦党をお忘れでは?


788 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 18:06:04
松浦党は東シナ海だろ

789 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 18:06:13
>>780
しかし参勤交代のため
よりによって嘗ては「庭」同然だった瀬戸内を航海中に 海 難 事 故
世人にプギャーされる

陸にあがっちゃったらもはや海賊でもなんでもないよねというおはなし
それを狙って豊後森なんて山奥に押し込めたのかもしれんが

790 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 22:56:57
>>789
陣屋大名だけど、神社と称して、事実上の城を建てた大名だっけ。

一応、飛び地に海があって港作っていたはずだが。



791 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 23:02:54
海賊衆として全うしたのは,表向きは幕府船手頭の向井将監だけか
でも,松浦,松前は元より,黒田や伊達,前田にしたって,自前の船団を持っていたのだろう。
じゃないと,通商で使えないし・・・



792 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 23:05:59
地元郷土史には「北冥の英主」と持ち上げられた「大名格」、松前城主蛎崎(松前)伊豆守だが、ホントに海賊上がりなんですか?

793 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 23:16:02
海賊も山賊も,現代では追い剥ぎのようなイメージもあるが,いわゆる悪党と同じで当時は違っていたのでは。
武装した商人が,いざとなれば武力で身を守り,略奪もして利を得て,それが陸では山賊,海では海賊だったのでは・・・・
日本の海賊・山賊は,最初から略奪目的のいわゆる「カリブの海賊」ようなものとは違うのではないか。









794 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 23:17:04
>>793
そうだよ

795 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 03:26:43
>>793
大規模になれば、世間は無視できなくなり、
認めてもらえるようになるんだよ。

796 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 04:26:54
>>792
だから松前は武田氏だと何度言ったらry


797 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 04:28:15
君たちは海賊を勘違いしてるような気が・・・

かつて西海で活躍した海賊は元は官人であり受領層でした

798 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 04:51:25
松浦や村上も、商人ではない。

799 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 06:44:12
譜代の名門 渡辺守綱(槍の半蔵)の家系は

本家が尾張徳川家の家老職を代々務めた渡辺氏(三河寺部1万4000石)

分家が和泉伯太藩の渡辺氏(13000石の譜代・陣屋・菊間)

両者が江戸詰で滞在中はやはり、分家の大名が本家の陪臣の渡辺家に挨拶に
あがったのだろうか?

おそらく、陪臣・直参は、対将軍家との関係であって、渡辺家内での価値観
ではない。よって、将軍家との直参・陪臣の価値ではく、純粋に本家と分家
の関係で接していたのだろう。

詳しい方、正しい答えをお願いします。

800 :ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/02/13(金) 14:11:18
九鬼といえばやっぱり潜水艦

801 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 15:17:48
>>786
日本海の海賊としては名和が結構有名では?俺は詳しくないんで申し訳ないが、まあ、時代的な問題はあるとは思うけど。南北朝時代に名和が海賊として存在してたのは無知な俺でも知ってるが、いつ頃から存在して、いつ頃消えたのかは知らん。
しかも自称村上源氏。ホラ吹くにしても何で『村上源氏』なんだ?やつらは武家ではなく公家社会に入りたかったのか?


802 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 19:34:51
清和や多田や河内源氏もいますが

803 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 21:06:37

あほ

804 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 21:20:42
そーいや、渡辺吉綱のことをナベちゃんいうたらえらい怒られたな

805 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 21:28:19
伊達吉村の子供が宗村と田村村隆な

806 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 21:32:22
>>799
ラガーは?

807 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 21:40:57
伊達吉宗
伊達宗宗

808 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 21:45:00
ムネムネ会会長
伊達紋別市長伊達宗宗

809 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 21:59:57
>>802
誤解招いたかもしれんので、一応レスしとくけど。
武家においては清和源氏、公家においては村上源氏が最上位。
名和氏が村上源氏を名乗ったのは公家社会に入りたかったのか?という意味だったんだがなぁ。
名和が海賊だったのは南北朝の時なんで時代的にスレ違いだが…。

810 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 22:20:38
今も名和男爵家として健在です。
名和神社の宮司さんです。
金はないそうです。
名越時正先生の本に載ってました。

811 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 22:57:49
>>809
何か由来があったんだろう。
まあ由来なんかなくても自称するのは問題ないだろうしw
前田が菅原朝臣を称しても、まさか林大学頭の地位を狙ってるとは思うまいよw

812 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:19:09
悪役俳優名和宏

813 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:36:48
公家社会に入ろうなんて思わないよ

814 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 03:52:07
荘園とか受領関係とか、なにかしら村上源氏と関係あったのかもね。
名和って九州あたりで生き残ってたよね。
旗本くらいになれなかったの?

815 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 08:47:01
肥後の名和氏は柳川藩の立花氏の家臣として明治まで続き
明治に名和神社の宮司に任じられてる

816 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 13:50:35
何か邪馬台国に負けまいと必死な感じがするスレだなw
ほとんどが自演

817 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 16:10:02
長州征伐で幕府が勝ってたら参戦した藩は恩賞に長州の土地を与えられたかな?

それとも全て幕府の天領になって諸藩は感状だけか?

818 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 16:17:54
そんな仮説は成り立たない。

819 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 18:54:12
官位における加賀前田家の厚遇を不思議に思っていたけど、
秀吉が関白のとき、利家が大納言だったんだね。
単に石高だけじゃなく、公家としても上位にあった利家の
家系ということが大きそうだね。


820 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 19:11:31
いや、多分単純に石高と将軍家との関わりだと思う。

821 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 20:02:45
池田みたいに二つに
分割されたら前田も
中将が極官だったろう

822 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 20:07:08
前例があるかないかでかなり違います
前田は前例があるから

823 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 20:17:20
池田輝政は慶長17年に正三位参議。

824 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 20:21:14
さらに上の官位を与えてやる必要がない

825 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 20:46:02
前田家は加賀藩だけでも表高102万石、実高は130万石あったらしいから
さすがに別格なんじゃないの?
元々が120万石をわけて10万石と8万石級の支藩が二つもあるし、1万石
の支藩もある。 

826 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 21:11:17
金沢は何で田舎なの?
落ちぶれたの?

827 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 21:13:58
金沢は何もないよ
高岡>金沢

828 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 21:42:56
七尾には部落があるらしい。

829 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 00:21:59
御三卿の用人はみじめだし

830 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 00:50:36
なんで部落の話が突然出てくるのかわからない

831 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 00:51:05
明治6年1月1日の主要都市人口
595,905 東京
271,992 大阪
238,663 京都
125,193 名古屋
109,685 金沢
74,305 広島
64,602 横浜
61,124 和歌山
51,991 仙台
48,861 徳島
45,318 萩
44,984 首里
44,682 富山
44,620 熊本
40,900 神戸
39,784 福井
39,757 高知
38,838 堺
38,118 秋田
37,808 松江
33,152 新潟
32,886 弘前
32,736 高松
32,372 岡山
31,595 加世田
31,555 静岡
29,656 長崎
28,825 函館
27,460 高田
27,240 鹿児島


832 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 01:17:50
なんで御三卿の話が出てくるかはよくわかるけどね

833 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 01:28:21
>>827
トヤ魔は巣に帰れ

834 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 03:51:04
加世田って鹿児島県の加世田かなぁ

835 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 07:45:22
>>831
鹿児島は田舎だね。
っていうか、加世田より小さいって・・・。

836 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 07:50:34
>>832
厨をかまうなよ

837 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 12:29:38
>>831
鹿児島よりも多い加世田って何があったのよ

838 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 12:46:27
坊津からの流れで旧薩摩藩の交易拠点だったのかなぁ。

839 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 13:23:15
富山なんか虫だらけの
田舎やん

「天地人」でも直江たち越後の足軽が越中に入ってから
「きやっ、虫がでた」
と大騒ぎしとった

840 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 13:26:21
>>831
どこから引用したのかはっきりさせてくれないとねぇ

841 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 13:28:59
前例があるなら
伊達も毛利も中納言

842 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 13:35:07
前例なら織田信雄家は内大臣

843 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 13:56:04
羽柴(木下)2家は
太政大臣やがな

844 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 14:20:20
>>837 >>840
史料は『日本地誌提要』という明治7年〜8年頃に編纂された地理書。
人口は明治6年1月1日付のもの
ttp://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/text/20292.pdf

鹿児島県はまだ行政区分が流動的で、統計処理の関係で加世田のようなところが人口過多となってしまった。

明治8年に編纂された共武政表の方だと、鹿児島ははるかに人口が多い(『鹿児島郷』全域の人口)。
ただしこちらは人口統計年代が統一されておらず、明治5〜明治8年の数字がごっちゃになっている。
ttp://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40037170&VOL_NUM=00002&KOMA=60&ITYPE=0

830,917 東京
271,992 大阪
226,134 京都
109,982 名古屋
109,685 金沢
89,374 鹿児島
66,906 広島
63,064 横浜
61,105 和歌山
51,998 仙台
48,861 徳島
44,619 熊本
40,538 富山
39,784 福井
37,796 鳥取
37,724 静岡
36,457 堺
36,102 松江
34,911 米沢
33,142 秋田


845 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 14:22:57
33,052 弘前
32,736 高松
32,372 岡山
30,092 萩
29,539 高知
24,368 彦根
24,272 姫路
24,092 鶴岡
23,724 高岡
22,043 新潟
21,661 佐賀
21,338 伏見
21,210 奈良
21,175 下ノ関 (赤間関)
20,985 博多
20,682 久留米
20,650 福岡
20,588 若松
19,857 銚子
19,656 長崎
19,411 津山
19,271 小浜
19,177 水戸
18,904 新湊
18,640 桑名


846 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 14:33:06
『日本地誌提要』は全8巻
ttp://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00001661
ttp://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00001664
ttp://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00001665
ttp://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00001666
ttp://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00001667
ttp://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00001662
ttp://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00001663
ttp://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00001660
>>831の続き (日本地誌提要の数字) 鹿籠(枕崎)、谷山なども登場
26,141 松山
24,964 鶴岡
24,945 米沢
24,902 鹿籠
24,521 姫路
24,368 彦根
24,067 長岡
23,724 高岡
22,473 山田
22,334 伏見
22,080 津
21,660 佐賀
21,306 盛岡
21,158 奈良
21,087 谷山
20,985 博多
20,782 鳥取
20,650 福岡
20,588 若松
20,381 久留米


847 :1700年頃の主要都市人口 (原則として武家人口を除く):2009/02/15(日) 21:09:23
史料は各藩の藩政史料や幕府への報告書などで、基本的に宗門人別改帳の集計値。
武家の多い城下町は、実際の人口は倍以上とみられるが、史料が余り残っていないので(武家人口は幕府への報告義務がない)、
本当の都市人口は明治以降の史料(>>831>>844)から類推するしかない。

501,394 江戸 (1721年)
364,154 大坂 (1699年)
351,692 京都 (1700年)
68,636 金沢 (1697年)
63,734 名古屋 (1694年)
57,005 和歌山 (1700年)
56,997 堺 (1703年)
50,148 長崎 (1703年)
48,351 広島 (1715年、新開地を含む)
39,621 山田 (1716年)
34,477 博多・福岡 (1690年:博多17,842+福岡13,675)
30,635 岡山 (1707年)
28,743 伏見 (1700年)
25,590 仙台 (1695年)
24,735 熊本 (1680年頃)
24,243 高松 (1667年)
23,500 奈良 (1714年)
21,526 姫路 (1700年頃)
21,393 福井 (1712年)
21,313 久保田・湊 (1747年)
20,700 若松 (1697年)
20,590 徳島 (1685年)
----------------------------------------------------
49,096 鹿児島 (1684年、ただし武家人口を含む総数)
31,450 佐賀 (1687年、ただし町方17,999と武家13,451の合計)
28,564 松江 (1761年、ただし町方13,545と武家15,019の合計)
23,903 冨山 (1676年、ただし町方16,210と武家7,693の合計)


848 :1800年頃の主要都市人口 (原則として武家方人口を除く):2009/02/15(日) 21:11:13
492,449 江戸 (1798年)
383,544 大坂 (1800年)
318,016 京都 (1766年)
75,779 名古屋 (1840年)
56,355 金沢 (1810年)
50,092 広島 (1822年、新開地を含む)
44,496 堺 (1813年)
40,980 伏見 (1843年頃)
31,993 長崎 (1789年)
26,936 冨山 (1841年)
24,431 新潟 (1843年)
23,089 博多・福岡 (博多14,619(1812年)+福岡7,470(1806年))
21,212 岡山 (1802年)
20,853 兵庫 (1800年)
20,661 奈良 (1856年)
----------------------------------------------------
61,507 鹿児島 (1800年、ただし町方5,185、武家43,841、その他鹿児島郷内の農民・漁民人口の合計)
31,161 松江 (1767年、ただし町方15,526と武家15,635の合計)
26,730 弘前 (1800年、ただし武家人口を含む総数)
21,351 高知 (1762年、ただし町方14,658と武家5,693の合計)
20,084 佐賀 (1854年、ただし町方13,711と武家6,373の合計)
----------------------------------------------------
以下の都市は町方人口が減少して2万人以下となった。
18,470 熊本 (1798年)
18,364 福井 (1792年)
17,798 仙台 (1802年)
16,387 久保田・湊 (1844年、久保田14,450+湊4,937)
14,725 姫路 (1809年)
11,670 若松 (1788年)
----------------------------------------------------
和歌山、高松、徳島などは江戸時代後半の町方人口史料が残っていない。


849 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 21:29:12
幕末の藩の石高順に並べると、

金沢、鹿児島、仙台、名古屋、和歌山、熊本、福岡、広島、萩、佐賀、
水戸、津、福井、鳥取、岡山、若松、徳島、高知、彦根、久留米、
久保田、盛岡、松江、川越、鶴岡、郡山、松山、小倉、姫路、高田、
米沢、高松、小田原

>>840のメンツと比べると、富山、弘前、高岡などが藩の実力に比べて栄えている。
また全般的に日本海側の都市の方が現在よりも相対的に人口が多い。


850 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 21:50:40
あ、すまん。

>>844-845>>831>>846のメンツと比べると」

だ。


851 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 22:00:16
>>848
鹿児島ってサムライばっかしのいびつな町なんね

852 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 22:26:01
まあ狭い意味の武家人口はその1/3で、残りの2/3は足軽・使用人階級。

嘉永5年(1852年)の鹿児島郷の人口は以下の通り
18,171 諸士
39,922 諸士家来・足軽・諸座付・門前
303 出家
4,040 鹿児島城下三町(町方)
129 横井野町(町方)
66 荒田浜(漁民)
14,281 在郷(農民)
86 穢多・慶賀
76,998 合計

鹿児島藩全体(本土のみ)では
18,171 諸士
104,911 郷士
47,612 私領士
73,634 足軽・家来・下人等
910 出家
1,151 苗代川(陶工)
14,473 三町・野町(町方)
307,254 在郷(農民)
49,393 浦浜(漁民)
1,949 その他
625,365 合計

鹿児島藩の場合は足軽階級以上はほぼ全員士族・卒族になれたようだけど。

>>831の鹿児島の人口2万7240人は、武家屋敷部分のみ。
一方で>>844の鹿児島の人口8万9374人は周辺の農村部も含んだ鹿児島郷全体。
西南戦争以降の明治17年1月1日の鹿児島の人口は4万9360人で、大体5万人というのが当時の鹿児島の人口として正しい数字だと思う。


853 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 22:36:50
なお明治6年〜明治8年当時の鹿児島藩下の都市人口の集計に統一性がないのは、
政府役人が独立国家状態の鹿児島藩領内に入れなかったから。
「郷」という藩独自の行政区画で集計された人口をそのまま転載するしかなかった。

西南戦争が終わってようやく地租改正が行われた。


854 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 22:57:18
やはり鹿児島藩は広義の武士が多いのだな。

855 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 01:28:11
鳴沢藩25万石

856 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 06:53:13
主要都市人口を書き込むなら、せめて三百諸侯と絡めて結びを
書き込んでほしい

857 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 11:49:07
>>854
後進地域なので士農の分離が徹底しなかったのだろう、土佐と一緒

858 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 21:44:07
川原泉

859 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 01:22:09
空のお城か。
しかし外様で二十五万石はかなり大藩だよね。
上が数えるほどしかいない。

860 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 01:37:04
>>857
町人、職人っていう階層(町方)が極端に少ないね。
町でも武士が町人まがいのことしてたんかな

861 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 03:39:30
>>859
なのに下手すればお家取り潰しのような、
藩政混乱、藩士不審死、藩主と正室の所業、、、
恐ろしい。
それもこれも有力親藩との血縁や、豪商の後ろ盾あってのことか。

862 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 09:39:27
>>860
ご明察

863 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 09:43:20
手工業でも、士分しか就けない職があったり、妙なことになってたらしいね

864 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 09:52:55
上杉と一緒で家臣団リストラできなかった組だからなー
最も
上杉は鷹山というウルトラ名君が出てきて紆余曲折の後に改善するのだが
そのころの島津といえば重豪っつー自己中後先考えてねぇバラマキバブル野郎ですからorz

865 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 13:48:20
上杉は倹約で借金を返したというのは嘘
本当はただ同然のガラクタを高く売ったり

米の先物相場で儲けたりしたのがホント

866 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 16:56:08
>>854>鹿児島藩は広義の武士が多い
うちは天領だけど戦国の遺風を残してる地域で自称武士(郷士)が多いが代官所(幕府)は華麗にスルー(見て見ぬふり)
してる。

867 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 17:03:38
天領で自称武士が多いといえば、八王子という印象が。千人同心は武士ではないので。

868 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 18:30:29
広域の天領でかつ地方でかつ藩領になったことなければ当然といえば当然だな

869 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 18:53:45
>>865
上杉:大坂の米の先物市場でボロもうけ メシウマー
同じころ大坂にて
島津:「わしは御台所の父じゃ、借金の棒引きは当然」→大坂の商人に以後ガン無視され、サラ金生活に→火だるま

こうですか分かりました_

870 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 20:30:42
上杉治広は
丸太ん棒や木の切れはしを
鷹や鯛の彫り物にして売ったり、
金欠病の江戸の絵師に
安く絵を描かせて売ったりもしてる

倹約リストラで金が貯まるなら
今日の日本の疲弊などは無いはず

871 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 20:36:36
倹約とは幕府や他藩に向けた建て前の要素が高い
そもそも首切りゼロで
倹約だけで借金が返せるなら
三百諸侯は皆カネ返してる
大半の大名は幕末まで
借金完済できなかった

872 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 20:45:50
上杉は農業重視ではない
領内の年貢米への依存度が低い
反面、商業や軽工業に注力してる

謙信時代から京都に家臣や商人を駐在させ
特産物を売りさばくなど変わった大名だった

人身売買で儲けていたという説もある

873 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 20:48:14
>>868
八王子は大久保長安の領地だったんでは?

874 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 21:34:03
広域の天領?私領がかなりあるけどね

875 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 23:17:20
信州飯田藩略歴
鎌倉時代→伊賀良庄地頭四条金吾支配
室町時代→信濃守護小笠原氏支配(信州における小笠原氏の拠点)
戦国時代→毛利秀頼→京極高知支配
江戸時代→小笠原氏返咲き→賤ヶ岳七本槍脇坂2代支配→堀秀政系堀氏支配→幕末

876 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 23:51:40
>>867
やつらは武田の元武士だよなぁ?

877 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 00:36:40
まあ大体普通に先祖が郷士ですっていうのは庄屋程度でしょ。薩摩郷士ですとか土佐郷士ですとかって言うもんな普通

878 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 01:12:23
>>876
同心株にはかなりの移動があって幕末では当初から続く家は十分の一くらいだったらしい

879 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 01:16:11
元禄5年(1692年)の米沢藩の人口の内訳
(原史料は原田直久『米府鹿子』)

31,173 武士
1,432 出家・修験・坐頭
12,129 町人
88,525 百姓
133,259 総人口

これには河原之者諸修行乞食(元禄7年(1694年)に495人)は含まれない。

江戸詰は安永5年(1776年)に桜田詰1156人、
麻布・白金・三田築地に210人の合計1365人。


880 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 01:24:42
>>879
確かに武士大杉ww

881 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 01:29:57
仙台藩も武家人口が多い。

元禄8年(1695年)の仙台藩・一関藩の人口

205,916 武家合計
 202,541 御一門並諸士諸組付職人
 3,375 一ノ関御家中 (支藩)
2,884 仙台寺院
 631 出家
 2,253 俗
22,706 仙台御町方
588,251 郡方合計
 542,268 御郡方 (陸奥領)
 9,095 近江国御知行所
 10,194 常陸国御知行所
 26,694 一ノ関御知行所 (支藩)
819,757 総人口

別の時代の人数調によると、エタなどの人口
は上の総人口の中に含まれていると記されている。


882 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 02:18:07
人口ってw

883 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 02:47:32
>>881それって武家のみでしょ?仙台藩は確か上士は領地在住だろ?上にあった薩摩みたいにしたら領地内の家来や使用人入れたら結構な数になるな

884 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 03:08:06
領地在住?

885 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 03:18:37
仙台藩の上士って?

886 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 03:20:29
在住とまではいえないか一応城下町に屋敷はあるが知行地に館を構えている非常に中世的といわれる支配機構

887 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 03:20:59
>>885知行取り

888 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 03:22:36
>>885
えらい人

889 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 03:46:58
宿老とか太刀上げ、着座など

890 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 03:51:10
門閥(一門、一家、一族、宿老、着座、太刀上)
だね
下は大番士
組士



891 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 11:38:57
エロい人

892 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 12:50:01
仙台伊達に限らず外様藩は幕末まで地方知行制メインのところが多い

893 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 13:04:30
転封食らっても知行制やりつづけたりするしね。

894 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 21:17:10
>>893
転封されて以降も知行制を続けた大名は,誰ですか?

895 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 21:51:42
佐竹?黒田?細川かな?


896 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 21:55:40
ていうか将軍家も外様も家門も譜代でも地方知行制を採用していない藩は松前くらいだろ?

897 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:50:29
素人?ですが
江戸時代の大名の半分以上は愛知 岐阜出身だと思いますが
どうなんでしょう?

898 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 23:05:12
>>897
出身をどう捉えるかによって異なるでしょう。
織豊,徳川の家臣から大名になったと捉えれば,大名の大半は愛知,岐阜出身者でしょう。
しかし,大名は源平藤橘出身とみれば,京の都出身。
鎌倉殿御家人に出自を求めれば,関東出身が大半。



899 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 23:22:11
>>898
それ言うなら藤橘は奈良だろ・・・。

900 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 23:24:19
897です
納得
このあたりの地名に蜂須賀や福島 稲葉 などいっぱいあるので単純に考えていたが!!

901 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 00:12:46
それをいうなら源平は天皇が天孫降臨した宮崎か?



なんか書いてて僕は頭の悪い子みたいな・・・

気のせい・・だよな

902 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 00:17:38
実際アホだろ

903 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 00:49:14
小田原の福島左衞門大夫(くしま)と福島左衞門大夫正則って血縁的に関係あるの?
同じ左衞門大夫なのはたまたま?

904 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 00:52:54
>>883
武家と便宜上書いたけど、「御一門並諸士諸組付職人」だから
組士・卒や使用人も入っている。
20万5916人/81万9757人≡25%だから十分多い。
仙台藩で明治に士族・卒族になれたのは5万人以下だから、
10万人以上が平民に格下げとなったことになる。。

米沢藩では3万1173人/13万3259人≡23%。
明治の米沢藩は総人口128,786人に対して華族13人、士族15,801人、卒族22,428人だから、
江戸時代に「武士」として扱われたところは完全に士族か卒族になれた。

一方幕末の鹿児島藩(奄美・琉球を除く)の武家・使用人人口の割合は
24万4328人/62万5365人≡39%。
薩摩藩は分母が真面目に調査されていなかったとしても(10万人程度漏れがある)、
やっぱり郷士・足軽クラスが異常に多い。


905 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 00:55:26
ちなみに宝永4年(1707年)の岡山藩は
10,027 家中
 6,620 藩主一門から無足中小姓格まで758家
 2,211 土鉄砲・忍び・御徒等762家
 603 足軽・楫取・加子・小人等2436家
 593 生坂・鴨方両支藩
70 御城女中
7,932 寺社
28,298 町中
334,668 在中
187 罪人
346 乞食()
381,528 自藩の総人口
1,497 他藩からの出稼ぎ
383,025 総人口

家中人口は1万0027人/38万3025人≡2.6%にすぎない。

また家中としてカウントされていない使用人の類を含めた武家人口は22,628人
(家中10,027人、町方・在方に籍を置く者12,170人、他国者431人の合計)で、
御城女中を含めた広い意味での岡山藩の武家人口は、それでも2万2698人/38万3025人≡5.9%でしかない。

明治の岡山藩は総人口35万0909人に対して華族11人、士族9738人、卒族6470人だから、
家中はほぼそのまま士族になれ、それ以下の武家としてカウントされることもあった
在中、町中人口の一部が卒族になれた計算になる。


906 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 01:00:04
>>905
追記

「乞食」はエタのことです。


907 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 01:03:13
>>906
エタ

908 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 01:41:49
>>905
それ位が普通な感じだね 印象としては。

町人よりも武士が多いってのは田舎で都市が発達していなくて、
しかも半分農民みたいな武士がたくさんいたんだろうな、って思ってしまうね。

909 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 01:43:16
>>905
>  603 足軽・楫取・加子・小人等2436家

これは何よ?

910 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 02:28:42
地方地行制なんか、市橋のような小藩にはないかと

911 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 02:38:49
>>909
すまん。
家数は無視してくれ、

2436家というのは、町中・在中に含まれる家を含んだ場合の家数。すなわち
『御足軽・御楫取・御加子・御小人・其外共御印帳ニ名出不申御扶持人』
の総数3130人が2436家ということで、家中扱いの603人の家数ではない。
3130人は家中603人、町中・在中に登録されている者2511人、他国人33人の合計。

同様に「藩主一門から無足中小姓格まで」758家、
「土鉄砲・忍び・御徒、其外末々御印帳ニ名出申者御」762家、
はそれぞれ使用人クラス7929人、1242人を含み、
実際の家中の家数はもっと少ない。

で、多分「足軽」はぎりぎり家中として扱われた本足軽で、
他の楫取りやら加子やら小人やらは郷足軽クラスの色々な階級だと思うが、
そこまで岡山藩の家臣団に詳しくないので断定できない。


912 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 16:54:17
>>897
各大名家とも移動してるからな

山口の毛利も出身は
広島とも新潟とも神奈川とも言える

伊達も宮城の前は山形だが
出身は福島か茨城か微妙

913 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 19:14:27
大阪の陣の頃には、三河出身の徳川譜代連中が関東武士扱いされたりもしているからなぁ。

914 :ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/02/20(金) 19:31:53
前調べたら確か6割くらいが愛知だった。



915 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 21:16:25
伊達は奥三郡の阿部の末裔だから、岩手だろ。
しかし、その阿部は稲荷山の鉄剣に、系譜が記された一族で、
上祖は大彦だから、奈良か。
結局、大本をたどれば、みんなアフリカということになる。

916 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 21:34:47
庶民はアフリカ出身だろうが、天孫に繋がる一族は直接日本の出身だろ?

917 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 22:17:34
大名系スレで以前あった書き込みだが,

江戸初期の大名の標準語は,名古屋弁

918 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 22:23:31
江戸時代に標準語なんてない

919 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 23:12:23
江戸城内で標準語がなかったら・・・・・
津軽や南部などの陸奥の大名と,島津や鍋島などの九州の大名は,どうやって会話してたんだろう。
もしかして,漢文で筆談か?

でも結局は,大多数が話す言葉が実質的な標準語になったか,雅な都言葉が標準語になったのでは。



920 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 23:55:18
よく言われているのは
謡曲の台詞回しが共通語的役割を果たしたとのこと
能は高級階級武士の必須教養だから

921 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 01:27:06
>>920
それはきっと、江戸時代に入って、体制が整って以降じゃないのかな。

ごく初期(大阪の陣の前あたり)は、家康自身や幕府の中枢とかは
三河とか愛知県内出身が多かったわけで、彼らはもちろんそういう言葉でしゃべっていたはず。
ちなみに三河弁と名古屋弁は違う。

922 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 01:56:36
ちょっと時代は遡るけど、
島津三兄弟の中で、義弘が比較的太閤政権と親しかったのは、
彼だけが上方言葉ができたから、と聞いたことがある。
反対側の津軽氏は、
中央との交渉や技術、文化導入を生命線と考えて、
上方出身の人材を積極登用し、
家臣も上方へよく通わせていたらしい。

923 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 02:03:31
>島津三兄弟の中で、義弘が比較的太閤政権と親しかったのは、
>彼だけが上方言葉ができたから、と聞いたことがある。
それ三戦史板とか戦国時代板でよく書かれていた話だけど
根拠不明なんだよね。何かの小説がネタ元なんじゃないか?


924 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 02:08:47
>>923
そんなことないよ俺が言ってるだけだもの

925 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 04:43:58
自分が知らないことイコール根拠不明

926 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 12:22:20
大名の区分についてだが
親藩 譜代 外様
ぐらいは分かりますが
城持ち 城なし
参勤なしなど
水戸藩は参勤なしと聞いてますが
どうなっていたんでしょうか?

927 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 12:29:22
将軍(家族=御三卿)、親藩(御三家)、一門・家門(越前系、奥平、久松、御三家の別家分家)、譜代、入譜代(脇坂、秋田、相馬、朽木)、外様

928 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 13:58:21
水戸家は定府だから
定府といえば
山上稲垣
椎谷奥田
相良田沼
一宮加納
丹南高木
新床永井
盛岡内證分南部
大和柳生
小池山内
黒川柳沢
西條松平
三日市柳沢
広島松平(浅野)内證分松平(浅野)
長島増山
母里松平
守山松平
糸魚川松平
府中松平
宍戸松平
三上遠藤
敦賀酒井
秋田新田佐竹


929 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 14:03:51
貝淵の林や西大平の大岡も定府
三草の丹羽、宮川の堀田
大垣新田の戸田、熊本新田の細川、高富の本荘も



930 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 14:35:53
すごい知識

まいりました!!!!!!!

931 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 20:25:59
なんで定府なんだ?

932 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 20:26:49
希望

933 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 20:38:53
参勤交代は格の高さの目安の一つと位置づけられていたため、国主/城主/無城の別、
官位、詰間、石高などの基準と並んでおり、定府は多少格が下がるポイントではあった。

三草藩丹羽氏のように謹慎のために定府とされる場合があったり、水戸が尾張紀伊より
格下に見られるのもそれを反映したものか。交代寄合は明らかに寄合旗本よりも格上
だしね。

934 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 20:47:14
たしかにザコキャラみたいな新興大名ばっかりだ

935 :こんな感じ。:2009/02/21(土) 20:53:04
         し!     _  -── ‐-   、  , -─-、 -‐─_ノ
    定    // ̄> ´  ̄    ̄  `ヽ  Y  ,  ´     )  定 え
  旗 府    L_ /                /        ヽ  府  |
  本 が    / '                '           i  !? マ
  ま 許    /                 /           く    ジ
  で さ    l           ,ィ/!    /    /l/!,l     /厶,
  だ れ   i   ,.lrH‐|'|     /‐!-Lハ_  l    /-!'|/l   /`'メ、_iヽ
  よ る   l  | |_|_|_|/|    / /__!__ |/!トi   i/-- 、 レ!/   / ,-- レ、⌒Y⌒ヽ
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ハ キ  {  /   ヽ,ト、ヽ/!`hノ  )  モ    |/! 「ヽ, `ー /)   _ ‐'
ハ ャ   ヽ/   r-、‐' // / |-‐ く    |     > / / `'//-‐、    /
ハ ハ    > /\\// / /ヽ_  !   イ    (  / / //  / `ァ-‐ '
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936 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 20:54:57
定府大名氏ね

937 :三河国西尾藩主松平和泉守:2009/02/21(土) 21:49:37
藩主が逮捕された

938 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 21:49:41
既に1人として生き残っていませんよ。

939 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 22:12:21
多少なめられても参勤しないほうがむしろラクっていう感じ?
それとも定府だと江戸暮らしで金がかかる?


940 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 22:17:27
昔 旗本と外様大名が
喧嘩するテレビドラマ
があったが
「たしか大久保彦左衛門」
実際 つよいのは
どっちかな

941 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 22:37:38
大久保彦左衛門と池田忠雄が喧嘩するドラマは実在する

942 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 22:39:59
喧嘩は御法度

943 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 23:40:48
テレビドラマいらね

944 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 23:59:57
>>939
色々。
水戸みたいな大藩は定期的に帰ったほうが統制も取れて経営しやすかったと思う。
大藩分家の小藩は帰っても意味ないとこも多いから、帰らんほうが経費浮くと思うし。
旗本上がりの場合、幕府の役職が多くて帰らないほうが出世に有利ってこともある。

945 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 00:02:02
真田家が大坂の陣の時に家康から送られてきた書状を24時間体制で幕末まで守り続けたって話、何処かで聞いた事があるんだけど本当の話か?

946 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 00:11:12
家康?

947 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 00:15:31
石田三成からの書状を盗まれる話は、こないだ再放送の暴れん坊将軍でやってた

948 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 00:21:11
多分家康だったような…。記憶が定かではないが、大坂方に接触するよう指示する内容で後で変な疑念を持たれた時に言い訳する為の切札として守り続けた、ってような感じの話だったような…。20年以上前に一度だけ何処かで聞いたような気がするんだなぁ。

949 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 00:37:12
ttp://oniheru.fc2web.com/jinbutsu/sekigahara/sanada_masayuki-nobuyuki.htm

 さて、真田家には「吉光のお長持」というのが代々伝わっていた。家老でさえ中を見たことがなく、常に4人の不寝番がいた。
中身は家康から拝領した吉光の短刀が納められいるとされたが、明治になって開けたときとんでもないものが入っていた。
なんと石田三成から届いた書状をはじめ、徳川家を敵にしていたころの危険な証拠書類が詰まっていた。
これが徳川幕府に発覚すれば、取り潰しの好材料になっていたにちがいない。
従順温和といわれた信之が危険な証拠書類を焼却せず、わざわざ不寝番をおいて秘蔵し、
後世に伝えたのは仇敵であった徳川家に対する反骨精神のあらわれであろうか。



950 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 00:56:36
あ、じゃあ多分その事だわ。内容については俺の完全な勘違いだったのか。
それにしても…よくもまあ、中に何が入ってるかも知らずにそんなに厳重に守り続けたもんだな。

951 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 01:50:58
どもほるんりんくるみたいだな
仕事だからな

952 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 02:05:59
毛利の
「今年はどうしますか?」「まだ早ぇよ」
も、相当おかしいと思う。

953 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 04:36:52
毛利のも相当執念深いものを感じるけど、あれって新年の挨拶の時だけの事だろ。
真田は4人の不寝番が幕末までって、度が過ぎるような気がするなあ。
他の大名にも真田や毛利みたいな事があったのかな?


954 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 09:28:56
つーかどう考えても中を見たい衝動に負けた不寝番がいただろ
掃除の時なんかに持って動かしたこともあっただろうし、
短刀が入ってるんじゃないことはみんな気付いてたんじゃないのかな?

955 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 10:28:33
ばれたら確実に切腹だよ。
ちょっとした好奇心で命はかけられないだろう。

956 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 10:34:52
ちなみに暴れん坊将軍では、真田家家臣の人、悪役の人、将軍様みんな中身のことは知ってましたw

957 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 10:44:42
草薙の剣の箱の中身は見たんだよな。

958 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 11:19:29
>>>952
毛利家当主が明治にそんなのしてないwwwwwていってたよ。
それって 元となるネタだれがいいだしんだろ



959 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 11:47:55
日向の伊東にも同じような話あったな

960 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 13:13:23
伊東はどんな話?

961 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 13:26:27
重臣「今年こそ島津を討ち果たさん」
主君「まだ時期にあらず」


これでいいのか?

962 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 13:32:57
織田家は兵法家を招いて
「江戸城を攻撃するには
どこから攻めるのがいいか」とか
「堀の深さはどれくらいか」
と兵法談義をしていたのを
運悪く隠密に聞かれてしまい鉄槌を喰らった

963 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 14:42:52
重臣「今年こそ津軽を討ち果たさん」
南部の当主「よし、やっちまえ」
ですね、わかります。

964 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 14:46:15
伊達と浅野
細川と黒田
前田と丹羽

965 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 18:45:09
>>961 飫肥藩なんて軽く島津に打ち破られるだろうね。
高鍋藩秋月家が佐土原島津を攻撃して相良が一気に南下しても難しい

966 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 20:43:37
ありもしない空想話イラね

967 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 20:46:56
>>962
kwsk

968 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 21:09:11
口減らしを兼ねて突撃して討死にのうえ手柄を上げれば御の字などという調子の
やばい薩摩隼人集団に、誰が好き好んでいくさなど仕掛けるのか。

とはいうものの、人国記では日向国はとにかく喧嘩っ早くてやば過ぎる奴らなんて
評価なんだよな。今の宮崎県民は大人しいというイメージがあるが、この2、3世紀で
一体何が起こったんだ??

969 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 21:11:10
>>962は明和事件のことだろ。
織田家はとばっちり食らっただけだよ。

970 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 21:11:31
交通の途絶から大人しいというイメージ持ってるだけ

971 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 22:01:07
織田藩の重臣の中に
幕府が危険視する思想家の門弟に
なっているものが多くおった

家老が酒の席でのお遊びで話していた話題を
「江戸城攻撃を肴に酒を呑むとはもってのほかである」
と因縁つけられ

五段階ある価格の二番目(準国主)から
一番下(無城)に転落
させられた

972 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 03:05:19
>>963
南部の粘着は異常

973 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 05:39:00
>>970
県民性の本には必ず、宮崎県民は大らかで大人しいと書いているし、
国土交通大臣を暴言失言でおろされた人はぜんぜん喧嘩慣れしてないし、
ビートたけしの一番弟子は、よく動き回るけど血の気が多そうではない。
飫肥の人攫いの気質は一体どこにいったのか。

とはいうものの、南九州の男は宮崎を含めてヤバイという話は確かに
聞くな。九州を博多のイメージだけで語るわけにはいかないか。

974 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 13:46:29
さてそろそろスレおかわり希望、の時期となりました。


975 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 18:46:49
宮崎に住んだ者の感想として、県南はとにかくのんびりしてる。
2時集合とかで時間通り集合場所へ行っても誰もいない。
大体15分くらい遅れてくるのが当たり前らしい。
あと、親軍的風潮が強いのも特徴的。
昔、東国原知事が徴兵制発言をしたけど、当たり前のこととして受け入れられる雰囲気がある。
男尊女卑も強い。「女は馬鹿だから〜」なんて発言を教員の口から何度も聞いた。

以外かも知れんけど、割と教育熱心。
というか序列を作るのが好きなんだろうね。
ほとんどの高校で、成績優秀者は教員から特別扱いされる。

完全にスレチだなw

976 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 18:56:59
ようするに宮崎は時代遅れと言うことだな

977 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 19:07:49
セクハラ芸人が知事やってられる所だからなw

978 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 21:51:38
>>974

【大名】江戸三百諸侯について語ろう5【藩主】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1235393450/

979 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 22:05:23
東国原日向守

980 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 23:42:53
日向守はハゲ

981 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 13:51:01
日向守を名乗ると
頭がよくなる

982 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 14:30:31
惟任日向守

983 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 14:48:49
江戸諸侯では
鬼日向と越前松平の家が日向守

984 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 14:51:46

ハゲは筑前守
秀吉の渾名は猿ではなくハゲが正解

985 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 18:12:53
ハゲネズミだろ。

986 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 17:42:59
江戸諸侯の渾名って沢山ある?

鼻毛、空弁当、知恵伊豆
そうせい、日本一のおごりもの
日本一の律儀者

987 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 22:20:08
>>986>日本一の奢り者、律儀者
これは誰?

988 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 22:24:58
>>987
前者はお前

989 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 22:28:52
>>987
後者は俺

990 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 23:24:58
良スレだったのに、
終盤にきてこの流れかよ。

991 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 00:11:17
>>990
まあ何だ、有終の美を飾るってやつだ

992 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 00:18:03
>>969
>>971
さんくす

993 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 17:37:47
>>987
前者は大久保石見守長安
後者は佐竹右京大夫義宣
だな

994 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 17:41:23
>>993
> 後者は佐竹右京大夫義宣
へー、三成の盟友だった人だよね
家康奇襲とかいうのとは違ったっけ
あれは講談か


995 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 20:03:14
将軍家は全ての大名の顔と名前なんか覚えられないだろうな

996 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 20:57:07
しかし大奥の若い娘の方であれば、全員覚えていたりするものだ。

997 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 20:59:24
一万石クラスの大名で側室平均何人くらいいたのかな?

998 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 21:02:36
セックスといえば69だろ
つまり69人だ

999 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 21:06:12
大名と言えども1000人切りは無理かー

1000 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 21:07:35
     ∧_∧
    ( ´・ω・`)    ___  __
 ̄Y ̄ U  U ̄ ̄ ̄L  o」 ̄[_ | ̄ ̄Y ̄
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