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♪邪馬台国 ドンと来い♪ 38

1 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 00:17:41
     (⌒─-⌒)
    ((*´・ω・)) 良スレだね
     ⊂  と丿
       ヽ__)-'  (・ω・`*)ネー


     (⌒─-⌒)
      ((*´・ω・)) 人気ありまくりだね
    ((  ノ つ ⊃ ))
      (__ノヽ__)   (・ω・`*)ネー


     (⌒─-⌒) ∩
      ((*´・ω・))彡 困っちゃうね
    (( ⊂ つ⊂彡
        ヽ__)-'   (・ω・`*)ネー


九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。 煽り、粘着禁止。荒しはスルー

■前スレ  ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 37
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1229197994/l50


2 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 00:29:57
2ゲット

3 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 01:11:57
邪馬台国は江戸徳川幕府みたいなもの。
九州説や四国説等は御三家。藩みたいなのもあるね。

4 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 06:46:28
邪馬台国は九州で決まり。畿内説にこだわると間違った歴史を作ることになる。
もうそろそろ、その後のことを考えるべき。

5 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 07:32:59
>>4
そうかそうか、何時までも失われた先進筑紫の夢を見続け、
現実から目を逸らすのか。
東遷説の井沢元彦ですら、箸墓が卑弥呼の墓である可能性について
考え始めたと言うのに。
小林行雄が作った「古墳時代は4世紀から」と言う概念に何時までも捕われ続けて、
最新の情報が入ってこない。
悲劇だね。

6 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 08:51:31
>>5
>「古墳時代は4世紀から」と言う概念に何時までも捕われ続けて、最新の情報が入ってこない。
古墳時代がいつ始まろうと同じだな。大和の古墳が早まれば、他の全国の古墳も同じように早ま
るだけの話だ。古墳の始まりが早まったからといって問題は何も変わらん。

>箸墓が卑弥呼の墓である可能性
箸墓なんぞを持ち出しているのは材料がないことを自白しているようなものだ。
だいたい箸墓は大きさが合わん。後円部の直径が合う? 径の意味が分かって
ないな。径というのは円の場合だけではない。図形の差し渡し。前方後円墳なら
長さも幅も径だ。大きいことを伝えようという径は勿論長さの方。
後円の直径など径ではないんだよ。だいたい、考えてもみろ。できあがった前方
後円墳をみて前方部だとか後円部だとか分けてかんがえるか? それは航空写真
などをみてはっきりするだけ。当時は横から眺めるんだ。長い山のような陵って
だけなんだよ。卑弥呼の墓は全長が百数十メートルのものを探さにゃならんのだ。

7 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 09:52:16
漢から倭奴国が「漢委奴国王」の金印を授与されたのが57年。
倭国王の帥升らが漢の安帝に拝謁を願ったのが107年。
帥升は倭奴国の金印から、たった50年後の出来事。
その帥升の70〜80年後の178〜184年に卑弥呼は倭王に共立され登場する。
そして卑弥呼は247〜249年頃に死亡する。
以上のように倭奴国から邪馬台国の記事は連続している、
また「漢委奴国王」の金印は博多で発見されていて倭奴国が博多付近にあったのは確定済み。
途中で記事の対照が移動したようには読めない、
全て博多近くの記事と考えるのが妥当だろう。

8 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 10:12:35
>7
流れとしてはそのとおりだと思うが、卑弥呼の共立の時期だけは間違いだろう。
178〜184年というのは、梁書によったものだろうが、それは姚思廉が倭
人伝を誤読して書いた記事だ。倭人伝は帥升の107年にまったく触れていない。
それなのに、その話を基準に七、八十年と書くはずはないだろ。
後漢書も桓霊の間と書いていると言うかも知れないが、後漢書はけして桓霊の間
に卑弥呼が共立されたとしている訳ではない。その間大乱が続き、更に相攻伐暦
年を経て卑弥呼共立に至った、としているんだ。つまり、范曄は後漢の末期に卑
弥呼が共立されたということにしてるんだよ。
范曄がこだわったのは、年已に長大と言う言葉。これは婆さんだという意味だか
らだ。卑弥呼は共立された時、既に婆さん。これでは180などという想定は無
理。もちろん、姚思廉も年已に長大は同じ意味に読んだ。だから、卑弥呼共立を
180前後に想定した彼は「年已に長大」がまずいということでこれを削ったんだ。

9 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 10:16:57
金印をもらった王の国は、帥升に滅ぼされた。
だから、帥升は、生口を160人も献上して謝りに行った。
お宅が金印を与えた国をやっつけてしまいました。ごめんね、と。

10 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 10:29:52
>>8
倭国の大乱については、北史が一番狭い範囲を示している。
霊帝の光和中、つまり、西暦178年から183年。
梁書や後漢書の記録などもだいたい同じで、この頃に大乱があり、卑弥呼を
王にすることにより、大乱が収まったと取れる。

卑弥呼の年齢が長大というのは、郡使がやってきた時点での話だろうと思う。

11 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 10:35:48
発掘調査してもなかなか発見されない卑弥呼の墓は、やはり天皇陵の何処かじゃないっすか?
邪馬台国から大和朝廷へのシフトに関して、卑弥呼亡き後、何かとんでもなく凄まじい、惨たらしい出来事があった為に、朝廷側で改めて弔ったとか?

12 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 10:40:21
ちなみに、後漢書は、倭国の大乱を桓帝と霊帝の間と書いてあるが、
これは、西暦147年から188年になる。

梁書は、北史と同じで霊帝の光和中。
隋書、翰苑、通典は、後漢書と同じで桓、霊の間となっているようだ。

13 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 10:40:42
>>10
問題は、いずれの史書も倭人伝から出ているということです。
それに後漢書はだいたい同じというのは雑な読み方です。
>卑弥呼の年齢が長大というのは、郡使がやってきた時点での話だろうと思う。
共立を180前後に想定した時は、辻褄があわなくなるのでやむを得ずそう解釈
してますが、後漢書は明らかに共立の時長大だったとしてますね。
1女子あり、名を卑弥呼という。年長じて嫁せず。〜是において、共に立てて王
と為す。

14 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 10:51:38
台与が女王になったのは、13才なので、卑弥呼もそれくらいでなったと考えても
いいと思う。そうすれば、女王になった時期と死んだ時期との説明が
付くわけだし。

なお、台与の13才というのは、現代の満年齢で言う13才とは違うと思う。
数十年前まで、数え年というのがあったが、それだろう。
つまり、数え年の13才は、満年齢で言えば11才位になるはず。

15 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 10:57:39
>後漢書は、倭国の大乱を桓帝と霊帝の間と書いてあるが、これは、西暦147年から188年になる。
これはそのとおりですが、桓霊の間の後、直ちに倭国の乱が終わったとは書いてないですね。
范曄は、七八十年を倭国乱の期間とみたんですね。ですから、桓霊の間はまちがいなく乱が続いた
としただけで、その後もしばらくは続いたと見ているんです(桓霊の間は約40年、大乱の期間が
七八十年ならあと三、四十年ありますから)。そして、更に相攻伐で引っ張って210年代あたり
に卑弥呼共立と想定しているんですよ。

16 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 11:16:05
>与が女王になったのは、13才なので、卑弥呼もそれくらいでなったと考えてもいいと思う。
幼くして女王になった者がいたから、卑弥呼も幼くしてなったのだろうとは言えません。
卑弥呼の場合は、「年已に長大」とあります。共立された時は既にかなりの年齢だったのです。

17 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 13:26:48
某スレでスレ違いとして流されたんでこっちで聞くがw

 『 魏年号の紀年鏡って、九州で出ていたっけ? 』

関東や山陰にはあっても、九州出土のものって知らないんだが・・・
ひょっとして現在ゼロ?
(邪馬台国九州説にとって不味い状況のような気がするんだがwww)

現在日本にある魏年号の紀年鏡が国産か舶載か・・・等の問題は別にしても
この板の九州説から言って、九州から出ていない(あるいは極僅か)って言うのはおかしいだろうと。

あ、断っとくが九州王朝説サイキバ君レベルの
「文化先進地域にあった九州王朝は薄葬だったから」
なんてお話は良いからwwwwwwwwwwwwww



18 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 13:35:00
>>17
西宮の辰馬考古資料館に所蔵されている景初四年銘入り盤龍鏡が日向出土と伝えられており、
持田古墳群から出たものだろうと言われているよ。
紀年鏡がでたからってどうということはないと思うが。

19 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 14:10:48
>>18
サンクス。
つうか手持ちの本(福永)で出てた、見逃してたわ、スマソwww

ちなみに、それ京都府広峯15号墳出土の物と同型らしい。
更に言うと鈕孔形状は長方形ねw

まあ実際、魏代に流通した鏡がどのような物か分からないなら
(この板の大方の九州説はTLVや内行花紋が主流で神獣鏡ではないって方向だろ?)
紀年鏡は一応の基準にはなるべ?

それにしてもやはり少ない。

卑弥呼の鏡がどんな物かは別にしても
やはり3世紀中頃には銅鏡の分布は九州から東にシフトしているのではないかな?

まあ、それとて所謂「偽僭説」のような枠組みで考えるなら九州説も成り立つんだろうが
この板じゃあ殆ど見ないからなw

東遷説や九州王朝説、そこまで行かずとも九州の贔屓の引き倒しで
本来なら銅鏡の数も

九州>>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>>>畿内

だろうからwwwwwwww

20 :19:2009/01/11(日) 14:23:16
ついでに聞きたいんだが

「特鋳説はあり得ない」
と言うのがこの板の九州説論者の大方だろうが

じゃあ仮に中国で出土するならどういう状況を想定するのか?

知っての通り魏じゃ徹底した薄葬だし
倭人への下賜品の為作った型も使い道が無いだろう?

それとも民間に払い下げでもするか?それこそナンセンスのように思うのだが・・・



21 :20:2009/01/11(日) 14:38:57
ちょっと分かりにくい文章になったので以下のように訂正


>「中国から一枚も出ていない現状で、特鋳説はあり得ない」
>と言うのがこの板の九州説論者の大方だろうが

22 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 15:56:35
>>19
九州に邪馬台国があった。その邪馬台国が本州に勢力を伸ばしたときに、勢力下
に入った豪族に鏡をばらまいたと考えるんですよ。鏡を輸入したにしろ、作った
にしろ、それは近畿あたりに常駐した司令部がどんどんやったと考えれば、九州
からの出土が少ないことは何ら問題ではない。

23 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/11(日) 16:01:24
ばらまいたかどうか、配ったとかは畿内の朝廷だよ。卑弥呼の鏡では
ないわけだ。

24 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 16:04:44
畿内の朝廷なんぞは、妄想にすぎないな。それがあったのならば、中国に認識
されないはずはない。しかし、我が国の政府は倭国王朝のみだ。

25 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/11(日) 16:17:24
>>24
言ってることがよく分からんが、 景初3年=239年 は倍暦計算で
崇神の代だ。つまり

 景初元年=崇神即位元年=237年

だ。倍暦ということは 紀の崇神六年=崇神即位2年=238年
となる。
つまり崇神六年とは崇神天皇の模の同床共殿策のあった年で、この
とき模擬の鏡を殿中に祀っているわけだから、その人民への
おこぼれ的鏡が畿内から出る△なわけさ。だから△は畿内朝廷関係の
鏡だということなのだ。妄想はあんたのほう。

26 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 16:20:44
倍暦なんてくだらないことを言ってるから、妄想から離れられないんだよ。

27 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 16:28:10
>>22
ん?
九州王朝畿内支部?
それとも東遷の先遣隊?

まあ『 ネタ 』はいいんでまともなのを頼むwwwww


28 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/11(日) 16:33:18
>>26
ならば紀記載の仁徳前の天皇の百数十歳の記事はどのように合理的
説明をするのかね?
それに ↓ はどう説明するのかねぇ?ww

【紀の欠史八代間の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】

1日 4  15日 0  29日 0
2日 2  16日 0  30日 0
3日 3  17日 0
4日 3  18日 0
5日 6  19日 0
6日 3  20日 0
7日 2  21日 0
8日 3  22日 0
9日 3  23日 0
10日 1  24日 0
11日 4  25日 0
12日 3  26日 0
13日 3  27日 0
14日 7  28日 0


上のように月の右半分がない。つまり当時の1ヶ月は2週間だったと
いうことだね。倍暦をやってたのさ。妄想はオマエさんだな。

29 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 16:42:39
>>282  犬国 ◆yVAs7uaYlY

古代の年中行事を見れば政務や祭祀がつき前半に集中する傾向があり
(中卯とか下寅とかの干支による指定ではなく日を実数で指定している物は前半に集中する)

欠史八代の月日の記述にその様な傾向があるのは何ら特異な事ではない。

むしろ記紀の長大な寿命の記述は仁徳あたりまで続くのだから
別のロジックが作用していると見るべき。


犬国の倍暦アホ理論 

 *********** 終 了 ***********





30 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 16:46:09
ついでに言えば犬国の理屈だと
「*月は忌日として以後すっ飛ばした」
とか言うのがありなのだから
倍暦のつじつま合わせに都合悪ければ
記述の無い日はすっ飛ばす事ができるw

もはやこれは「倍暦」とさえ言え無いかもしれない。

敢えて言うなら 「 虫食い暦 」 とか?wwwwwwwwww





31 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/11(日) 16:46:20
>>29 ジョーカー
そういう傾向はあったようだ。が〜
人間の死亡は月前半にかたよることは滅多にない。まぁ全員そのころ
の天皇が月上半分日に自殺暗殺だというならそうなろうが、そんな
ことはまず無いよ。つまりお前の盲象。wwwwwww

32 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/11(日) 16:48:16
>>30
虫食いが丁度2週間のところで切れるか〜?wwwwwww
じゃぁオマエの言う虫は暦の計算ができるのか?wwwwwwww

33 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 16:48:16
>>31 犬

創作なら月前半に固めることができるぞ?w




34 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/11(日) 16:50:47
>>33
創作するデカイ利害などないだろう?
さらに創作ならば1日〜30日までわからないようにばら撒くように
ランダムにやるだろう? 表のように左よりにすればなおさら創作
ならばやるわけもないぜぇ。wwwwwwww

35 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 16:54:20
>>34 犬

リアリティと言うことならもっと現実的な寿命を書けば良いw

要はそこまで拘っていなかったって事だw

そもそも記紀の編纂者が後世紙に印刷されパンピーレベルにまで
それが見られるなんて想定していたと思っているのか?wwwwww




36 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/11(日) 17:02:02
ジョーカー
拘っていないなら月数までで日の記載を略するだろうが。
実際神功紀あたりから月までしか記載しない個所が多くなる。
だからなんで八代間が日数までこだわる必要があるのか?
創作ならばだいたい月数までで充分だろうが。

所用あるからまたあとでな。妄想を書きこんでおけ。wwwwww
それか少しはいい言葉を使うようにしろ。

37 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 17:42:10
ところで・・・

卑弥呼に下賜された銅鏡百枚ってどう言う形で運ばれたんだろう?
一枚一枚木箱にでも入れていた?

もし何枚かを積みあげた形で運んだなら
三角縁ってのは便利だったんじゃね?wwwww
(鈕より縁が高い)



38 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 18:54:26
>>16
「名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國」は
魏書に書かれているのですから、郡使が卑弥呼に会った魏代時点でのことです。
卑弥呼が共立された漢代のことを書くはずがありません。
卑弥呼は幼くして倭王に共立され、魏の郡使が会った時にはババアになっていたのです。



39 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 19:22:02

末盧國→東松浦半島(沿岸航法により呼子)
伊都國→前原市南(平原・三雲・井原)
場所http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif
遺跡http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/tusin/honbun/tusin1.html
奴国→福岡(博多区板付・春日市須玖岡本)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/images/remains_map/map.gif
不彌國→宇美町

※距離も方角も問題ない説です。

投馬国→宮崎県(西都の都万神社妻)郡より南水行二十日
邪馬台国→福岡県(筑紫筑後平野) 郡より南水行十日陸行一日
狗奴国→熊本県(南部の奥行きは不明) 女王国の南

※方角に関して
倭人伝は一貫して「南東の方角が南」よって気持ち南を南東、東を北東と解釈。

保守本流不動の九州説


40 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/11(日) 19:54:09
>>36
八代間が日数までこだわる必要があるのか? 創作ならばだいたい月数までで充分だろうが。

こだわる必要が在ったから書き込まれたんでしょう それを年の数で2とか3で割ったんでは、
何の役にも立たない。

41 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/11(日) 20:14:42
>>40 唐松山さんよ
1900年代の記録を調べると2月以外はみな30日という日があるのに、
2月に限っては 2/30 という日は無いんだよ。なぜかね?
それは1900年代には2月に30日という日が無かったからだよ。同様〜
あの八代の統計表で15日以降が無いのは、当然当時は15日以降の日
が無かったからだよ。
紀の日数記事を舐めちゃぁいけませんなぁ! それを無視するあなた
は妄想の失敗に当選確実だ。

42 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/11(日) 20:24:52
太国さん それじゃあ 書紀の朔の数え方を教えてください。


43 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/11(日) 20:39:22
『白河本旧事紀』
二十五年甲辰(きのえたつ)春正月壬子朔
甲子(きのえねのひ・二十五日)天皇、群臣と相ひ議して皇子(ミコ)磯城津彦玉手看(ノ)尊を立て皇太子とす。
三十三年壬子(みづのえね)夏五月癸丑(みづのとうしの)朔壬申(みづのえ・二十日)、三更(さんかう)に至り、天皇、不豫(ミヤマヒ)したまふ。癸酉(みづのととりのひ・二十一日)、高丘(ノ)宮に崩す。

白河本旧事紀の年度、朔は書紀と同一
その白河本旧事紀に書かれた日付は 偽として葬る。
読み方が良くない。

44 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 21:12:50
江戸時代から一流の学者が研究しても邪馬台国がどこにあるかなんて分からないんでしょ。
三国志の原文すら読めない俺らがどう頑張っても分かる分けない。
分かっているのは三国志読んでも邪馬台国がどこにあるか分からないということだけ。


45 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/11(日) 21:42:14
書紀には、卑弥呼の事は何も書かれていない。
書かれている書物”ホツマ伝”此方の書は、偽書として葬る。

まだ100年は、続くでしょう。

46 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 21:57:37
>>38
>卑弥呼が共立された漢代のことを書くはずがありません。
だったら、漢代に共立されたことも書くはずがありません。


47 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/11(日) 22:21:17
>>42 >>43
だから「朔」はツクリが文字どおり「月」で、ヘンの「逆」字の
シンニュウを除いたヘンは結局逆と同義だ。だから月の運行の逆算
という意味そのものだ。その逆算の始点が真っ黒月の新月だという
ことだ。それで舎人親王一派が逆算したんだよ。そういうことから
すでに求まって紀に出ている干支が逆算のものだろうから、第一段階
はそれを数字で出した参考書で間に合うよ。何もあんたがよくやって
るが、自分から逆算をやるより、その数字から次の事に移行すること
が利口な頭脳だ。もうすでに出てるわけだから・・・。あなたは
望遠鏡が必要適時なときに顕微鏡を使っうと言うから物事の真の実体
が読めず、把握しずらいわけだよ。

それを紀以外の古文献を警戒もなしに信じちゃうんじゃぁ、もう
失敗は目に見えている。なぜかというに、紀は多数の原書群から
吟味検討してのその紀へ記載したものだから多数の書のバック、支持
があるも同然であり、他の古文献と相違するならば紀を優先する
のが安全な考察である。ホツマなどは単一個人的記載だから、それに
権威を持たせたやり方では道間違いに至るも同然だ。

48 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 23:10:43
>>46
「共立一女子為王」とは魏時の卑弥呼を説明する為に過去を補足説明したもの。
魏書は魏時のことを記した記録書ですから、
魏時の卑弥呼が「年已長大」であると行っているのです。

49 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 23:12:34
>>48
×行っているのです。

○言っているのです。

50 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 23:38:54
>>15
期間というのは、なるべく狭い範囲を書いてあるものの方を参考にするほうが
いい。たとえば、のちの記録に、第二次世界大戦は、昭和年間に起きた、と
書いてあるものがあり、別な記録には、昭和16年から20年にかけて起きたと
書いてあれば、後の記録のほうを参考にしたほうがいい。

二つの記録から、第二次世界大戦は、昭和の63年間を通じてあったと考える
のはおかしい。

だから、倭国の大乱も、梁書や北史の「霊帝の光和中」つまり、西暦178年
から183年のほうを参考にすべきだと思う。
常識的に考えても、戦乱が70年も80年も続くというのは考えにくい。

また、戦乱が収まっても、王のいない状態・無政府状態が続くというのも
考えにくい。「乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼」は、卑弥呼を王にすることに
より戦乱が収まったと考えるべき。

そうなると、卑弥呼が王になったは、西暦180年前後。当時、10才程度。
郡使が初めてやってきた西暦240年頃には、60才程度。
正始八年あたりに、70才くらいで亡くなったと考えるのが自然だと思う。

51 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 01:33:35
>>50
>倭国の大乱も、梁書や北史の「霊帝の光和中」つまり、西暦178年
>から183年のほうを参考にすべきだと思う。
この「霊帝の光和中」は、倭人伝の七八十年をもとに帥升の朝貢から七八十年後に倭国乱
があったとしたものである。しかし、七八十年は男王の続いた期間であって、倭国乱の時
期を表したものではない。

>常識的に考えても、戦乱が70年も80年も続くというのは考えにくい。
これはそのとおり。

以上を総合し、倭人伝が伝える倭国乱は卑弥呼が使者を派遣する直前のことだとした
のが榎一雄「邪馬台国」の見解。以後、何人かがこれに同調している。
これならば、「年已に長大」を、共立された時は既にかなりの年齢だったと素直に読む
ことができる。



52 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 01:40:41
>>48
魏書は魏時のことを記した記録書ですから、魏代に卑弥呼が共立されたと言っているのです。



53 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 08:39:13
>>52は、わざと変な事を言ってるようですが、
魏書は魏時のことを記した記録書ですから、魏代に居た卑弥呼を説明する為に卑弥呼が何時共立されたかも補足説明しているだけです。


54 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 08:56:01
やはり「年已に長大」は卑弥呼が共立された漢代のことでなく、
卑弥呼が郡使に初めに会った西暦240年頃のことですね。
西暦240年には卑弥呼は60才程度だったんですね。

55 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 09:06:55
漢から倭奴国が「漢委奴国王」の金印を授与されたのが57年。
倭国王の帥升らが漢の安帝に拝謁を願ったのが107年。
帥升は倭奴国の金印から、たった50年後の出来事。
その帥升の70〜80年後の178〜184年に卑弥呼は倭王に共立され登場する。
「其國本亦以男子為王 住七八十年」とは倭国王の帥升から卑弥呼以前の王は男であったことになる。
そして卑弥呼は240年前後に魏に使者を送り、
247〜249年頃に死亡する。
以上のように倭奴国から邪馬台国の記事は連続している、
また「漢委奴国王」の金印は博多で発見されていて倭奴国が博多付近にあったのは確定済み。

博多の倭が畿内に移動する時間はない。

56 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 09:26:18
>>53 >>54
漢代に共立されたというのは、後漢書や梁書からの判断ですね。
しかし、倭人伝のみを素直に読んだらどう読めるか、ということが問題です。
倭人伝は、倭国乱の時期を明記していません。倭国乱から卑弥呼の共立、この
一連の出来事がすべて魏代の出来事として書かれている、そう読むのが正しい
読み方だということです。



57 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 09:33:13
>>53
>卑弥呼が何時共立されたかも補足説明しているだけです
倭人伝のどの部分が補足説明なのかな?

58 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 09:52:46
>>57は頭悪いな
魏書は魏の時代のことを著した書物。
倭人伝も魏の時代の倭の様子を記録したもの。
倭人伝は魏の時代に倭には卑弥呼が居て、その風貌や人となりを紹介したもの。
漢代の卑弥呼の様子を書いてどうする?
魏代に居た卑弥呼の説明として漢代に倭王に共立されたと説明しているだけ。

59 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 10:03:42
>>56
倭人伝の記述を書いて見ると、

其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王
名曰卑彌呼

となる。

「その国は元は男子を王としていた。住すること7,80年」となるわけだが、
では、男子の王とはいったい誰か。陳寿の時代よりかなり前のことなのは
当然として、郡使が日本にやってきたときよりもさらに100年以上も前の
ことになる。これは何かの記録がないとわからない。

そういう見方をすると、西暦107年に後漢に朝貢したとされる「倭国王・帥升」
以外に記録は見当たらない。だから、107年から70年か80年たった2世紀後半に
倭国の大乱があったということになるのではなかろうか。
そうすると、梁書や後漢書などの記録とも一致する。

60 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 10:24:07
>>56
>一連の出来事がすべて魏代の出来事として書かれている、そう読むのが正しい
読み方だということです。

魏書には、一連の出来事がすべて魏代の出来事なんて書かれてないよ。
魏代の出来事を説明するためには前の時代の事も書いてあるよ。

61 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 10:32:33
ど素人ですが・・・。

帯方軍からずっと対馬、一大、伊都、不弥と
ずっと九州周辺国家が記載されているのに、
(上記国家は九州周辺で定説となっているんだよね?)
何故投馬国や邪馬台国の叙述の間には、
他の国々がまったく記載されていないんだろう。
投馬国が出雲、邪馬台国が畿内だったら、
その間に多くの国の叙述があってしかるべきだと思うんだよね。

なので魏志倭人伝は直感的に九州周辺を記載していると感じてしまう。
たとえ水行20日とか陸行一ヶ月とか記載されていても・・・。
また倭国、女王国、邪馬台国の意味合いがつかめないなあ。
倭国>女王国、狗奴国>邪馬台国、伊都国・・・なのかなあ?

あと官や副の名前とか、一大率とか固有名詞が一杯出てきているのに、
記紀には該当する名前が全然出てこないのも奇妙。
後の時代のタラシヒコ、リカミタフリも奇妙だけど。
一方で市場を監督していた大倭は過去の天皇名に盛り込まれているのが、
なんだか示唆的です。

素人考えでは邪馬台国=九州北部。
卑弥呼没後、騒乱の後大和で壱与が擁立。
魏志倭人伝は卑弥呼時代と壱与時代で
女王の都する所が異なることを混乱して、
方角と日数が矛盾してしまったのではないか?

その後邪馬台国ら九州周辺国家は狗奴国との騒乱で疲弊。
大和周辺の市場を監督していた現天皇家が壱与に影響力を持ち、
さらに出雲や吉備と協力して力をつけ大和朝廷にいたる・・・。

妄想失礼。

62 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 11:16:26
伊都国は伊豆半島の伊東、邪馬台国は会津耶麻郡。
邪馬台国とは、ウガヤフキアエズ王朝のことだったのだ。


63 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 13:01:07
>>56
>倭人伝は、倭国乱の時期を明記していません。

魏書は魏代のことを記す書物なので、魏代のことではない事は詳しくは書いてない。
つまり、詳しく書いてない倭国乱から卑弥呼の共立は魏代のことではない。
魏代のことなら詳細に明記さます。
詳しく書かれた「名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國」は
魏代の卑弥呼の姿を記したものです。




64 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 13:49:41
>>60
だから魏書
それを無視し、己の欲望をみたしてはいけません。
魏代を記すから魏書であり、他の別時を記する場合は該当時が分かるように、時間表記されます。

65 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/12(月) 13:55:06
ウガヤ朝があったとすれば神武以前だな。神武以前に卑弥呼の国が
あってウガヤ朝だとしちゃうと、その神武以前に239年が位置
することとなり、これだと神武以後歴代天皇の在位期間がスシ詰め
になる不合理が出る。だから女王国はウガヤ朝ではない。

66 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 14:14:48
『三国志魏書』倭人伝の
「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王」
魏45年はほどしか続かなかったので、
この部分は魏代を記したものではないと時間表記が明記されています。

67 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 14:16:26
>>64『三国志魏書』倭人伝の
「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王」
魏代は45年ほどしか続かなかったので、
この部分は魏代を記したものではないと時間表記が明記されています。


68 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 14:22:15
むかしむかし、卑弥呼という女王のいる国があったとさ。というおとぎ話ではないのか?

69 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 14:34:06
>>64

> 魏代を記すから魏書であり、他の別時を記する場合は該当時が分かるように、時間表記されます。

じゃ、これは?
高句麗第9代故国川王の擁立記事だけど、何時時代の事とは書かれていない。
魏時のことかな?

【魏志高句麗伝】
伯固死、有二子。長子拔奇、小子伊夷模。拔奇不肖、國人便共立伊夷模爲王。



70 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 14:53:42
>>69
ちゃんと時期は明記されている、
熹平中(172年−177年)と建安中(196年−220年)の間の記事だから
魏代(220年−265年)ではないですね。

71 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 15:27:03
>>69
しかも 伯固死と

72 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 15:30:41
>>69
つーか、高句麗伝を無理矢理引っ張り出して
ドボンするなんて


凄くネ?

73 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 15:35:10
>>67
そんな事表記されていない。

74 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 15:55:30
>>73
魏代は45年「七八十年」は魏代には収まらない、
「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」は
卑弥呼登場を説明する一続きの文章だからこの文章全体が魏代以前の出来事とわかる。

また上記のように解釈すると、
『後漢書』倭人伝「桓霊間 倭國大亂 更相攻伐 暦年無主 有一女子 名曰卑彌呼」
『梁書』倭国伝「漢靈帝光和中 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子卑彌呼為王」
『北史』倭国伝「靈帝光和中 其國亂 遞相攻伐 歴年無主 有女子名卑彌呼 能以鬼道惑衆 國人共立為王」
とも矛盾しない。

75 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 15:57:30
>>58
>魏代に居た卑弥呼の説明として漢代に倭王に共立されたと説明しているだけ。
どうして漢代に共立されたと考えるのですか? 魏代に入ってからかも知れないでしょう?

>>59
>郡使が日本にやってきたときよりもさらに100年以上も前のことになる。
どこからそんな数字が出てくるのですか? 卑弥呼の共立は郡使が来る数年前かも
知れないでしょう?

76 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 16:00:07
>>74
>魏代は45年「七八十年」は魏代には収まらない
それはそうですが、それで言えるのは、男王が漢代に始まったということだけです。
卑弥呼の共立が漢代だとは限りません。

77 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 18:38:08
>>76
『梁書』『北史』に靈帝光和中(178〜184年)とあり、240年ごろは卑弥呼「年已長大」とある。

78 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 18:43:14
だから後漢代と魏代に卑弥呼の共立があったんだろう

79 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 18:47:41
江戸時代に幕府の御様御用を勤めた「山田浅右衛門」は一人じゃないぞ
代々山田浅右衛門として御様御用をしていた。

80 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 18:55:22
>>77
>『梁書』『北史』に靈帝光和中(178〜184年)とあり
これが何に基づく記述かが問題です。倭人伝やそれに基づく後漢書以外の資料が
あったのならば価値がありますが、倭人伝、後漢書ならば、倭人伝にそんなこと
書いてあるのか?ということになります。

>240年ごろは卑弥呼「年已長大」とある。
これは北史や梁書にはないですね。倭人伝の記述です。しかし、倭人伝の文章は
共立された時に「年已長大」というのであり、240ではありません。
だからこそ、後漢書も苦労して辻褄を合わせているんです。


81 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 19:07:20
>>80
『梁書』『北史』に靈帝光和中(178〜184年)と魏書や後漢書より詳しく書かれているのだから
魏書や後漢書の基となった資料があり、それを参考に書かれたと見るべきであろう。

>共立された時に「年已長大」というのであり
如何したらそんな解釈になるんだ?
何回も説明したように「年已長大」とは明らかに魏代240年頃の卑弥呼のこと。

後漢書のどこが苦労して辻褄を合わせしているんだ?W

82 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 21:14:04
>>81
>『梁書』『北史』に靈帝光和中(178〜184年)と魏書や後漢書より詳しく
>書かれているのだから 魏書や後漢書の基となった資料があり、それを参考に書か
>れたと見るべきであろう。
残念ながらそのようには解されていません。 >55氏が指摘する、倭国王の帥升ら
が漢の安帝に拝謁を願った107年から70〜80年後とみて178〜184年と
したというのが内藤湖南以来の解釈です。つまり、倭人伝の七八十年がキーワードだ
という解釈ですね。しかし、この七八十年は男王の時代が続いた期間、別に107年
から数えるべき数字ではないのです。

>共立された時に「年已長大」・・・如何したらそんな解釈になるんだ?
「倭国乱、〜乃共立一女子、〜年已長大」。この文章の流れは、共立した時にすでに
年は長大であったと読むべきで、あなたのような読み方はできません。
だから、范曄も同様の文章を書いているのです。

>後漢書のどこが苦労して辻褄を合わせしているんだ?W
>>15




83 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 22:37:39
>>82
倭国の大乱について書かれた中国の歴史書は、全部、その時期を2世紀後半と
している。倭人伝も、男子の王から70〜80年と解釈するのが普通。
また、倭国の大乱は、卑弥呼が女王になって収束したと解釈するのが妥当。

逆に言えば、大乱の時期から卑弥呼の共立まで、50年程度の空白期間を置く
ことの方が無理がある。

その意味では、共立のときに卑弥呼の年齢が長大と解釈するのがおかしくて、
郡使がやってきたときに長大だったというわけだろう。

名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國

鬼道を事とし、よく衆を惑わす。年すでに長大、夫壻なく、男弟があり
補佐して国を治める。
この一連の文章は、郡使が見聞きしたとの印象が強い。

卑弥呼共立を、何とか3世紀まで持っていこうとするのは、○○説お得意の
無理な年代合わせとしか思えない。

84 :69:2009/01/12(月) 22:48:16
>>70

> ちゃんと時期は明記されている、
> 熹平中(172年−177年)と建安中(196年−220年)の間の記事だから

それは「明記」じゃないでしょう。
「熹平中と建安中の間の記事だから」は文字通りあなたの推量。
本文には時期を示す文言は何も書かれていない。
「読者の推量」を「明記」と言い換えてはいけない。


85 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 22:54:20
>>83
>倭国の大乱は、卑弥呼が女王になって収束したと解釈するのが妥当。
それは勿論そうなのです。違うとは言っていません。

>大乱の時期から卑弥呼の共立まで、50年程度の空白期間を置くことの方が無理がある。
これもそうです。私は、大乱も共立も三世紀になってからのことだと言っているのです。
後漢書は大乱を2世紀のこととしていますが、それは間違いだということです。
倭人伝は単に乱というだけ。相攻伐暦年は乱の状態。要するに数年の乱です。
ところが、後漢書は七八十年を乱の期間と思い込んだ、それために大乱と、しかも、時期を
2世紀としたのです。


86 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 23:31:50
>>84
明記されてなければ魏時の出来事じゃん。

一件落着。

87 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 23:40:04
>>85
呼び方は「乱」であっても「大乱」であっても、同じことを指していると思う
けど。

再掲するが、
「後漢書」、「隋書」、「翰苑」、「通典」は、桓、霊間。(西暦147年〜184年)
「梁書」、「北史」は、漢霊帝光和中。(西暦178年〜183年)
「晋書」は、漢末。(後漢は西暦23年から220年)
となっているわけだから。

ちなみに、
「乱」と書かれているのは、倭人伝、梁書、北史、
「大乱」と書かれているのは、後漢書、晋書、隋書、翰苑、通典
となっている。

88 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 23:43:14
>>86はサイキバ君


89 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 23:49:44
>>87
倭人伝は暦年(数年)、後漢書は桓霊の間(147年から188年)、この違いが
重要なんだよ。

90 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 23:50:51
>>82
>倭国王の帥升ら
が漢の安帝に拝謁を願った107年から70〜80年後とみて178〜184年と
したというのが内藤湖南以来の解釈です。

これこそ典型的な根拠のない妄想とも言える辻褄合わせの解釈ですね。WW

>「倭国乱、〜乃共立一女子、〜年已長大」。この文章の流れは、共立した時にすでに
年は長大であったと読むべきで、あなたのような読み方はできません。

「倭国乱、〜乃共立一女子為王、名曰卑彌呼、〜年已長大」は、
「名曰卑彌呼」より前の文は卑弥呼が王位に就くまでの経緯(漢代の出来事)、
「名曰卑彌呼」より後の文は現在(魏代)卑弥呼のことです。
共立された昔の卑弥呼を郡使は知りませんから共立された昔の卑弥呼について「年已長大」とは書けませんよ。

>>85
>後漢書は七八十年を乱の期間と思い込んだ、それために大乱と、しかも、時期を
2世紀としたのです。

上記主張の根拠は何ですか?妄想ですか?

91 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 00:02:15
>>87
魏書で「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王」と
年代が明記されていないのは「其國〜乃共立一女子為王」が魏代以前の出来事だから
魏書では省略されているのです。


92 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 00:11:39
>>90
>典型的な根拠のない妄想とも言える辻褄合わせの解釈ですね。
内藤の考え方が妄想だというのですか? それとも、内藤がそんなことは言って
いないということですか?

>共立された昔の卑弥呼を郡使は知りませんから共立された昔の卑弥呼について
>「年已長大」とは書けませんよ。
卑弥呼が共立されたのが「昔」というのが間違いなのです。使者が訪ねるほんの
数年前のことなら? あるいは直前のことなら? 書けるでしょ?

> 上記主張の根拠は何ですか?妄想ですか?
倭人伝と後漢書を比べれば簡単に分かることです。分からないとすれば思考力不足。


93 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 01:42:44
>>89
年代が違えば、広く言うことはある。
たとえば、聖徳太子は、奈良時代の人物と普通に言うが、奈良時代全体に
わたって生きていたわけではない。
もっと狭い範囲を書いている書物があれば、こちらと矛盾しない限り
狭い範囲が優先する。

霊帝光和中は、桓霊の間に含まれており、範囲が狭いのでこちらが優先する。
つまり、倭国の大乱は、霊帝光和中の5年間かあるいはその中に含まれる
もっと短い期間と見るべきだろう。
倭人伝とも矛盾しない。

94 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/13(火) 02:11:33
どの漢籍書見ても西暦年の表記は無いよ(当たり前だけど)


そもそも何を根拠に西暦190年とか言ってるんですか?

95 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 02:18:35
>>94
平成21年は、西暦2009年。
昭和元年は、西暦1925年。
明治元年は、西暦1868年。
こんな具合に遡っていけばわかる。

景初三年が西暦239年などは常識だと思うが。

96 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/13(火) 03:25:03
>>95
そんな方法で辿れる訳がない
そもそも中国24史は中国の歴史じゃなく五族(満州、漢、日本、モンゴル、朝鮮)共栄を掲げて、清の後継の満州国の建国の際に満州国の歴史書としてまとめられた書物
主に満州人と満州国建国を支援してた日本人でまとめたんだよ(日本から持ってった書物も多数ある)


清は満州族の王朝
明は江南族の王朝
モンゴル帝国はモンゴル人の王朝
唐は、、、良くわかんね
漢は漢人の王朝

そもそも全部違う民族だし違う王朝だし、そんな内容が沢山あるような書物じゃないよ
同時代に存在してたりなんて王朝も中にはあるよ

元号なんかで辿れる訳ないじゃん

http://www.google.co.jp/gwt/n?u=http%3A%2F%2Fwww.ceres.dti.ne.jp%2F%7Ealex-x%2Fkanseki%2Fmenu01.html%23MOKJI&hl=ja&source=m#MOKJI#MOKJI

↑漢籍書少し見てみ

そんな方法じゃたどれないすよ


しかも夏が3000年前だとか秦が2000年前だとか、、
何を根拠に言ってるんすか?

つかその年代を主張した学者って日本の学者じゃないの?

だいたい卑弥呼の景行○年だけがそんな明確な年代出せるなんておかしいし


97 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/13(火) 03:37:02
http://www.google.co.jp/gwt/n?u=http%3A%2F%2Fwww.ceres.dti.ne.jp%2F%7Ealex-x%2Fkanseki%2Fmenu01.html%23MOKJI&hl=ja&source=m#MOKJI#MOKJI


民族も都も違う別々の王朝ってのもあるけど、あと漢籍書を見た所でその元号が何年まであったのかのとかがまるで解らないすよ

それに景行25年 見たいな書き方もされて無いじゃん
漢籍書の元号のなにをどう辿れば西暦年が解るんすか?

つかいつどの学者がどんな根拠で景行2年は193年とかって解釈をしたんすか?

これが解らない限りは景行2年が西暦193年だなんてのは鵜呑みにしたらダメすよ

98 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/13(火) 03:42:17
そもそも日本で西暦が導入されたのが100年ぐらい前
大陸では70年ぐらい前の中華民国と満州国で導入されたぐらいでしょ?


西暦○○年って年代はそれ以降の近代学者が解釈した年代なはずっすよ

99 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 07:08:59
>>93
間違えているものを優先させても仕方がない。
霊帝光和中という記述がどうしてできたのか、だ。>>82に書いたような解釈
どおりならば梁書は誤り。別の資料があったはずだというならば、その原資
料の証明が必要。それでも出てきたならば話は別だが、出てきそうにないな。

100 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 09:32:22
>>99
>>82に書いてある解釈は個人の単なる一仮説で根拠が薄弱、
>>82の解釈が正しいとは考えにく。
後漢書は三国志の100年後に成立。
三国志では漢代のことことして省かれていた桓霊間が明記された。
まだ100年後なので当然三国志の基資料も存在していたと考えられる。
後漢については豊富な記録がつくられており、
梁書は後漢書の内容を引き継ぎながら別資料も参考にしたと考えられる。

101 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 13:13:57
邪馬台国= カタカムナ文明だよ

102 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 13:24:46
内藤湖南の解釈が本当か誤りかは証拠がなく確定していないので、
この解釈を用いて次の仮説の根拠に使うことは出来ない。
確定もしていない解釈を事実とした99の説は妄想にすぎない。
後漢書成立は三国志成立後100年ほどしか経っておらず
後漢書が三国志と同じ資料を基に書かれた可能性は高く
桓霊間としたことも信憑性は高いと考えられる。
内藤湖南のように自分の説な合っていない事を根拠に
資料の方が誤っているとする考えは思考方法事態が誤り。
資料が合わない場合は、
資料が誤っていのではなく自分の説の方がが間違っているのだ。


103 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/13(火) 14:49:00
>>102
最下段の上の行以下

ほぼ同意。

104 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 17:00:52
>>92
>>共立された昔の卑弥呼を郡使は知りませんから共立された昔の卑弥呼について
>>「年已長大」とは書けませんよ。
>卑弥呼が共立されたのが「昔」というのが間違いなのです。使者が訪ねるほんの
>数年前のことなら? あるいは直前のことなら? 書けるでしょ?
使者が卑弥呼に会った時「年已長大」だったのに、
推測して共立された時「年已長大」だったとの意味に解釈するのは変、
素直に使者が卑弥呼に会った時「年已長大」だったと解釈するべきでしょう。

『梁書』の漢靈帝光和中(178−184年)については逆算して出した可能性も否定できないが、
『後漢書』の桓霊間(146−189年)については間違いないでしょう。
倭國の乱、卑弥呼の即位は漢代の出来事です。

105 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/13(火) 17:25:35
太国さん
>資料の方が誤っているとする考えは思考方法事態が誤り。
これを認めてしまうんですか?


106 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 17:35:30
倭国の大乱がどういう性格の争いだったのかというのも重要。
大乱の時期を2世紀後半の出来事とすれば、共立当時、卑弥呼は少女だった
ことになる。
少女の卑弥呼が共立されるというのは、のちの台与のときと同じように
跡継ぎをめぐる争いだった可能性が高い。

卑弥呼が死んだあとの出来事を、倭人伝は次のように記述している。
更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人

台与を王にすることにより、この争いは収束する。
復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定

倭国の大乱を、跡継ぎをめぐる争いだったと考えるのは十分に妥当性がある。

跡継ぎ争いと考えると、卑弥呼の前から倭王が存在していたことになる。
これは、後漢書に書かれている倭国王・帥升からその可能性は十分にある。

倭王が1世紀あるいは2世紀初頭には誕生していたとなると、纏向などとの
関連から畿内説の可能性はなくなるわけだが。

107 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 20:02:31

トヨタン・・・・・・・・・・


108 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 20:36:22
後漢書〜後漢書〜で半年暮らす♪ヨイヨイ
後の半年〜寝て暮らす〜♪
よ〜いよ〜い後漢書〜♪


109 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 20:49:06
文献ばかり読んでると馬鹿になるよー。常識でものを考えましょう。俺は卑弥呼の共立は
倭国乱によって疲弊した各地の王が、もう戦争はやめようってんで考え出した一種の停戦
協定のようなものと思う。だったら、いつ死んでまた戦争が始まるかもしらん年長大の婆さ
んを共立するんだ??やはり男権的・世俗的な権力から超絶した少女の卑弥呼を立てたと
考えたいね。卑弥呼が巫女である意味もまたそこにある。

110 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 21:00:56
>>106
卑弥呼が崩御した時に王位を望んで反乱を起こしたのは武埴安彦命で
戦場になったのは京都府南部の祝園と言う場所だ。九州には関係のないことだ。

111 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 21:13:36
>>110
冗談は止めよう!

112 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/13(火) 21:21:13
>>110
武埴安彦命が王位を望んだのは、崇神の自出にある。


113 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 21:30:36
↑この人は病んでいるな。なぜハニヤスなのか理由を述べよ。

114 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:09:02
神事にとって、最もふさわしいとされたのは、やはり10歳前後の乙女なんだろう。
こういうのもある。阿蘇の霜神社で行われる神事の「火焚乙女」。

http://www.aso-dm.net/t1/fes1.htm

115 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 00:14:33
>>112
出自か?

116 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 00:20:41
巫女の役職に卑弥呼ってのがあるんじゃない。
だから卑弥呼は何人もいた。
そういう意味で倭姫も卑弥呼。

117 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 00:35:12
>内藤湖南の解釈が本当か誤りかは証拠がなく確定していないので、この解釈を用いて
>次の仮説の根拠に使うことは出来ない。確定もしていない解釈を事実とした99の説は妄
>想にすぎない。
そんなこと言ったら、邪馬台国論など全て妄想ってことになるな。もちろん、あなたのも
含めてね。

> 使者が卑弥呼に会った時「年已長大」だったのに、推測して共立された時「年已長大」
>だったとの意味に解釈するのは変、
何も変ではないな。例えば、者が会った時に60歳、3年前の共立時に57歳でも「年已
長大」でいいだろ。
だいたい、倭人伝の記事が使者の報告だってことすら明記されていないんだ。使者が卑弥
呼に会った時など、規準になるはずはない。


118 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 00:44:54
>>100
>>82に書いてある解釈は個人の単なる一仮説で根拠が薄弱、
個人の仮説でないものがあるのかな? 国が定めた公の説など一つもないよ。
井上「日本国家の起源」によると、「こんにち一般には書物のできた年代の順に
倭人伝から後漢書、後漢書から梁書ができたと考えられているようだ」とある。
単なる個人の仮説というのはどうかな?


119 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 00:59:13
>>110
崇神が畿内にあったとき、卑弥呼は既に死んでいた
崇神の治世はトヨの代である

120 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 01:01:14

トヨタン・・・・・・・・・・


121 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 14:03:47
>>117
だいたい、倭人伝の記事が使者の報告だってことすら明記されていないんだ。使者が卑弥
呼に会った時など、規準になるはずはない。

報告を基に記事を書かずに、何を基に記事を書くのでしょう?
1年前でも3年前でも使者は使者の行く前の卑弥呼を知りません、
倭人伝の著者も共立時の卑弥呼を知りません、
推測して共立された時は「年已長大」っだたとは書けません。

>>118
>「こんにち一般には書物のできた年代の順に
倭人伝から後漢書、後漢書から梁書ができたと考えられているようだ」とある。

それは其の通りだ、後漢書は三国志魏書も参考にしている。
しかし後漢書に桓霊間と三国志魏書に無い記述が新たに明記されているのは、
三国志魏書以外にも後漢書が参考にした資料が存在した事を示している。
後漢書が作成された時点ではまだ三国志魏書の基資料が残っていて、
直接、基資料を見て後漢書も作成されたと考えられる。
なにより当然ながら後漢書には三国志魏書より古い時代の事の記述が多いのだから、
直接、基資料を見たと考えられる。

122 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 16:29:26
だから、もうちょっと常識で考えろよ。文献文献たって、それを解釈するのはおまいらの
脳内だろ。だから、一つしかない記述に対しても水掛け論になるんだ。

想像してみろ。長年の戦乱で人も減り、米作りにも支障をきたした各地の王が内心は戦い
をやめたい、しかし「おまいらの下には、死んでも立ちたくねー」とそれぞれ考えていたとした
ら、そこで共立されるのは世俗の権力争いからほど遠い、神の声を聞ける少女しかないはず。
神の声だったら、どの王もプライドを捨てて従うことができるからだ。

婆さんなわけがないだろう。おまいら婆さんの下になりたいか?すぐ死んでしまって、また
戦争が始まるかもしれんぞ。

こんなの常識〜〜。

123 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/14(水) 20:19:15

このスレの議論を読んで、
卑彌呼複数説を捨て、転向します。

『其國本亦以男子爲王 住七八十年倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子爲王』漢代の出来事の記述
『名曰卑彌呼 事鬼道能惑衆年已長大 無夫壻 有男弟佐治國 ・・・・』魏代の出来事の記述
上記の様に読みます。

124 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 20:51:58
九州だろうが大和だろうが、そんなことどうでもいい。どこにあったか分かったところで何も変わらんよ。時間の無駄だ。
ところでどこにあったんだ?

125 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/14(水) 21:34:35
>>124
邪馬壹國卑彌呼女王の城郭は久留米にありました。

126 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 22:05:56
>>123
ご賛同ありがとう御座います(^^)

127 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 22:14:03
難升米は「なんくるめ」と読むのではないかと思うのです。
なぜ「なんしょうまい」などと読ませたのか不思議でなりません。

128 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 22:45:19
>推測して共立された時は「年已長大」っだたとは書けません。
使者が倭人から話を聞き、卑弥呼がいつ共立されたのかを確かめれば、その時の
卑弥呼の歳は簡単に分かるんだよ。推測だとか妙なことをいうような問題ではない。

後漢書が卑弥呼について、「年長じて嫁せず」と書いているのは何時のことと考える
のかな? 共立時かね? それとも使者が訪問したときかね?


129 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 22:49:53
「難升米」はナジームと読み、中東の人です。www


130 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 22:53:33
>>129その意見には、なじーめません

131 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 22:53:50
>>123
『其國本亦以男子爲王 住七八十年倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子爲王』が漢代
の出来事だというのは、何から判断するのかな?
「住七八十年」はどう解釈するの?

132 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 23:21:18
>>131
123ではないが。

後漢書、梁書を初め「乱」について書かれている書物が、全て、その時期を
漢代の出来事としていて、卑弥呼共立と関連付けているから。

倭人伝も、その「乱」を卑弥呼共立と関連付けているから、他の書物と同じ
「乱」と考え、漢代の出来事とするのが自然だから。

だから、「住七八十年」は、男子の王がいて、70年か80年たって、「倭國亂」
が起きたということじゃないかな。

133 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 23:29:56
>>132
あなたの説明は、後漢書や梁書を参考に判断したもので、倭人伝自体では分からない
ということになるのかな?

134 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 23:43:23
>>133
倭人伝の記述だけでは、「倭國亂」の時期はわからないね。
わからないときは、勝手に推測するより、他の書物で確認するというのが
当然だと思う。

たとえば、梁書では、
漢霊帝光和中 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子卑彌呼爲王
となり、

これが倭人伝になると、
其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王
となる。

他の書物も同じだが、たとえば晋書では、
漢末 倭人亂 攻伐不定 乃立女子爲王 名曰卑彌呼

となって、倭人伝で、不明な部分の時期が明らかになるということでは?

135 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 00:59:37
奴国=福岡、投馬国=岡山、邪馬台国=奈良(大和)、狗奴国=岐阜・愛知

金印の時代までは九州優位だったが、その後勢力逆転した


136 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 01:31:00
>>134
>勝手に推測するより、他の書物で確認するというのが当然だと思う。
後漢書や梁書が倭人伝と異なる資料に基づいて書かれているならそのとおりなのだ
が、別の資料はなさそうなのだよ。となれば、倭人伝の記事をあれこれ捻くり回し
て桓霊の間とか霊帝光和中という言葉を作り出しただけということになる。
それでは何の価値もないと言わざるを得ない。
例えば、榎「邪馬台国」には「菅政友が夙に指摘しているように、後漢書の文章は
魏志の文を改めたにすぎないのであって・・」などとある。梁書についても同じよ
うな見方なんだよ。

137 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/15(木) 01:35:16
>>131
@『其國本亦以男子爲王』:その国で元々は男子が王(倭國王帥升)であった
A『住七八十年倭國亂相攻伐歴年』:その後70年から80年間倭國は乱れ、国々が攻撃し合うことが続いた。
B『乃共立一女子爲王』:(男王では国々間が乱れるので、)そこで一人の女性を(男王とは別に)共立して王とした。(二王制)

  乱れていた間の男王は伊都國王(倭國王)
  共に立てた王は女王國王卑彌呼
  倭國内の全ての国々間ではなく、女王國内となる国々間で共に立てたのが卑彌呼であるとも解釈できる。

C『名曰卑彌呼 事鬼道能惑衆・・・・』:王の名前は卑彌呼という 鬼道を事とし云々・・・・

@→A→B→Cは起承転結となっている
@ABは過去、即ち漢代
Cは現在、即ち魏代

138 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 02:05:01
奴国が二回出てくるね。
君達はどう解釈しているのかね?

139 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 07:31:38
>>137
>@『其國本亦以男子爲王』:その国で元々は男子が王(倭國王帥升)であった
男王=帥升ではないと思うな。其の国は女王国であり、帥升は女王国の王ではない。

>B『乃共立一女子爲王』: 一人の女性を(男王とは別に)共立して王とした。(二王制)
2王制は無理。そんなことは全く書かれていない。

しかし、後漢書から梁書への変化は、姚思廉が後漢書をあなたのように読んだ
可能性もあるかな。107を基点に七八十年として霊帝光和中とした点ね。


140 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 07:39:07
>>138
別の国。北の奴国は大国。道里も書かれている。南の奴国は旁国(小国)。
後漢書は南の奴国がリーダーだった時期があると考えたのだろう。
倭人伝によれば両方とも単に奴国だが、范曄は倭奴国と書いている。倭をつける
のは北と南、どちらが適当かとなれば、邪馬台国の近くの方と判断したのも理解
できる(我々は金印が北から出たことを知ってるが、范曄は知らないからね)。

141 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 09:16:52
>>136
>別の資料はなさそうなのだよ。

同じ資料を使っていても、三国志魏書では魏代ではないとして省略された漢の年代の桓霊の間を後漢書では記したのです。


>倭人伝の記事をあれこれ捻くり回して桓霊の間とか霊帝光和中という言葉を作り出しただけということになる。

倭人伝の記事をあれこれ捻くり回したら何処から桓霊の間が作り出されるのでしょう?

142 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/15(木) 10:20:56
>>139
@『其國本亦以男子爲王』:その国で元々は男子が王(倭國王帥升)であった
  その国は女王國のことです。その国は倭國を指すとも考えられます。
  後世に女王国となる国々の中の一国の王が帥升。
  卑彌呼共立の70〜80年前にいた王は帥升との認識がシナ側にありますから。
  衰退前の不彌國(吉野ヶ里)が帥升の故地であり、不彌國は女王國を構成する一国です。
  参考事項:倭國王帥升、倭面土國王帥升、筑志米多國、米多(地名)、目達原(地名)

B『乃共立一女子爲王』: 一人の女性を(男王と)共に立て王とした。(二王制)


>>139
@小国の奴國
  女王国を構成する一国としての奴國。
  佐賀平野に存在する奴國。

A魏使に詳しくは知られたくない大国である奴国
  邪馬壹國と関係が良くない奴國、倭國乱の原因となった奴國。
  倭奴國の後継国で福岡平野に存在する奴國。

143 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/15(木) 11:20:47
修正
>>138

@小国の奴國
  女王国を構成する一国としての奴國。
  佐賀平野に存在する奴國。

A魏使に詳しくは知られたくない大国である奴国
  邪馬壹國と関係が良くない奴國、倭國乱の原因となった奴國。
  倭奴國の後継国で福岡平野に存在する奴國。

144 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 12:26:00
笑天〜ワライノテンサイ〜
http://www.orange-mikan.com/index.php?topic=1704.0


145 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 14:58:35
九州王朝大好きさんは想像力有り過ぎ。

146 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 15:36:49
>>136
卑弥呼共立を魏の時代にしたいのだろうが、魏の時代と書かれた書物は一つも
ない。
唯一、年代が不明とも取れる倭人伝だけを頼りに、卑弥呼共立を魏の時代に
持っていこうとするのは、間違った方法。
そのために、他のすべての書物の記述が間違っていると結論付けてしまって
いて、そういうことをすれば、何でもありになってしまう。
まさに、結論が先にあり、すべてをそれに沿って解釈しようとしている。

魏の時代の出来事なのに、他のすべての書物が桓霊の間とか霊帝光和中あるいは
漢末などと勝手に書くはずがない。

147 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/15(木) 15:49:23
>>145
>九州王朝大好きさんは想像力有り過ぎ。

想像空想はしておりません。
細かく検証に検証を重ねた個々の結論を組み立て繋ぎ合わせただけのものです。

148 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 19:35:33
事実のみを検証し、慎重に推論を進めてきたつもりが、いつのまにか
本来進むべき方向とは全く異なる方向へ進んでしまうことはままあります。
それは、木を見て森を見ないからなのです。
邪馬台国の時代だけではなく、旧石器時代、縄文時代から現代まで続く
九州地方だけではなく世界の歴史をよく勉強すれば、九州王朝があった
などという妄想にとりつかれることはなくなります。
歴史とは大きな流れによって動くもので、何もないところに突然、王朝が
誕生したりはしないものなのです。わかりますか?

149 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 19:50:32
世界の歴史をよく勉強すれば、突然に畿内に邪馬台国が出現して
日本を統一した等と妄想にとりつかれることはなくなります。
まず大陸に近く日本では先進地域だった九州を中心に国家ができ、
じょじょに東に文化が伝わり、8世紀に強大となった大和朝廷が
日本の天下を握るのです。
歴史とは大きな流れによって動くもので、何もないところに突然、王朝が
誕生したりはしないものなのです。わかりますか?


150 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 20:21:59
>>149マネすんな

151 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 21:36:00
>>147
147さんに捧げるWikiページ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/古田武彦
まあ、古代史はともかく、人生はあやまらんでくれ。

152 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 22:24:36
>卑弥呼共立を魏の時代にしたいのだろうが、魏の時代と書かれた書物は一つもない。
資料は数ではありません。質が問題なのです。

榎の説は>>136で紹介しましたが、皆が持っている岩波文庫の魏志倭人伝等にも「後漢
書倭伝について」として同じ考え方が乗ってます。山尾の「魏志倭人伝」も同様です。
良く読めば後漢書や梁書に独自の資料があったとは認められないのですよ。

153 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 22:37:36
>>141
>倭人伝の記事をあれこれ捻くり回したら何処から桓霊の間が作り出されるのでしょう?
菅、植村、榎らの主張するところをご存じないのですか? 倭人伝の「住七八十年」から
作ったとみるのです。すなわち、卑弥呼の即位した240年代から7、80年前と読んで
ちょうど桓霊時代だ、范曄はそうゆう計算で書いたのだろうとみるわけです。
この見方は、私は間違っていると思いますが、范曄が「住七八十年」から「桓霊の間」と
いう言葉を作り出したということは間違いではありません。
ということは、倭人伝のほかに頼るべき資料などないということなのですよ。



154 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 22:55:06
范曄が「住七八十年」からどのようにして「桓霊の間」を作ったのか?
倭人伝には、「其国本亦以男子為王、住七八十年。倭国乱、相攻伐暦年、乃共立一女子
為王」とあります。これを、今、我々は、「男王が七八十年続いた。倭国が乱れて暦年
にわたり戦った。そして卑弥呼を共立した」と読んでますね。これが正しい読みです。
しかし、范曄は区切り方を間違えたのです。「其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国
乱。相攻伐暦年、乃共立一女子為王」。このように区切ると、文章の意味は「其の国に
は男王がいた。七八十年にわたり倭国は乱れた。そして暦年(数年)にわたり相攻伐し、
卑弥呼を共立した。」となります。七八十年は乱の続いた期間になってしまうわけで、
中国で「桓霊の間」と言えば乱世の代名詞、倭国においても中国同様に乱が続いていた
と彼は考えたわけです。後漢書を良く読んで下さい、そう書いてあるでしょう?

155 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 23:00:17
>>152
後漢書には、倭人伝に書かれていないことが書かれている。

たとえば、
建武中元二年に、倭奴国が朝貢して、光武帝から印を賜った。

あるいは、
安帝永初元年に、倭国王帥升が生口百六十人を献じ、請見を願った、など。

これも、倭人伝だけを頼りに勝手に想像して書いたのかな。
そうじゃなくて、やはり独自の資料があった。

「桓、霊間、倭国大乱」も同じ。倭人伝とは関係なく、独自の資料を元に
書いた。勝手に年代を書くわけがない。

陳寿は、やはり同じような資料から、永初元年の倭国王帥升のことを知る。
これを元に、住七八十年を書いた。つまり、帥升から70年か80年を意味し、
倭国の大乱の時期は、桓、霊間、あるいは霊帝光和中で良い事になる。
倭人伝も、他の書物と同じ時期をさしている。

156 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 23:09:40
>>155
>帥升から70年か80年を意味し
帥升は107に王になったわけではありません。倭の諸国のリーダーだったからには
それ以前から王だった可能性が大ですし、帥升の前にも男王がいたでしょう。
「男王が七八十年続いた」という始まりを107の帥升に置く理由はありません。


157 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 23:19:06
>>156
帥升がいつ王になったかはわからないが、中国の記録に残っているのは
永初元年。陳寿は150年以上後の時代の人だから、記録を見るしかない。


158 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 23:44:54
>>157
>帥升がいつ王になったかはわからないが、
そのとおりです。ですから、陳寿も帥升を男王の始まりなどと決めつけるはずは
ありません。


159 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 00:04:58
話ブタ義理だが、『東アジアの古代文化』の最終巻が出たな。
この雑誌がなくなると、自由な思考で歴史を書いたものがなくなるね。

160 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 01:00:00
>>158
倭人伝は、帥升を男王の始まりとは書いていない。
卑弥呼の前、男王がいたということだけ。
中国の記録に、日本のことがそんなに多く書かれているとも思えないから、
ある記録だけを参考にして書いているのだろう。

しかし、後漢書は、帥升を「倭国王」と書いている。倭というのは、一つの国
というよりも、日本を総称する場合が多いから、日本国王というような意味が
あったと思われる。

特筆すべきは、帥升が献上した生口の数。
卑弥呼が魏に献上した生口は、男女合わせて10人。台与が献上した生口の数は
三十人となっている。
それに対して、帥升は百六十人。圧倒的に多い。

どうしてこんなに大勢の人間を献上することが出来たのか。
これは戦争以外にはないと思う。戦争によって征服した土地の人間を奴隷に
するのは、古今東西の常識だからである。
そう考えれば、帥升はかなり大規模な戦争の勝者と推測できる。

さらに、なぜ、帥升は後漢に朝貢したのか。これは、倭国の支配者となった
ことを後漢にアピールするためではなかったかと思う。

また、これも推測だが、倭奴国は、後漢から印綬をもらっている。当然、
倭奴国は、後漢との関係を他国に宣伝していたと思われる。
その倭奴国を帥升は滅ぼした。そこで、後漢に一言謝っておこうという
気持ちがあったのではないかと思う。あくまで推測だが。

161 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 02:25:45
献上した生口は、単なる奴隷ではないだろう。
中国語が話せて行儀もわきまえ、宮廷やその周辺で使える召使や職人の様なものだったと思う。
単なる戦利品の生ける屍なんか送ったら、そっちの方が不敬にあたる。


162 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 02:56:26
生で口でフェラしてくれる性奴隷のことだよ。

163 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 08:05:31
>>153
>卑弥呼の即位した240年代から

景初二年(238年)六月景(景初三年(239年))に卑弥呼は漢に使者を送っている
即位は遅くとも230年代、235年とすると。
70〜80引くと155〜165年
桓帝と霊帝の間が146〜189年
桓帝は146年〜167年
霊帝の期間は不要、桓帝期でよいはずだが作り出されたとして何故霊帝期も入ったの?


164 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 08:40:34
>>154
范曄が「七八十年にわたり倭国は乱れた。」と読んだとすると
桓帝と霊帝の間146〜189年では43年で期間として短すぎ。
せめて次の献帝までいれないと。

165 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 09:24:42
>>164
幾等何でも時代的にも近い范曄が区切り方を間違えたりしないだろ。
桓帝と霊帝の間146〜189年の前に倭には七八十年の男王の時代があったと范曄は認識していた、
146年の80年前は66年で倭奴国が金印を貰った建武中元二年(57年)。
范曄は倭奴国から七八十年と考えていたのだ。
范曄が区切り方を間違えたとはトンでも説だ。

166 :日本史初心者:2009/01/16(金) 10:30:22
邪馬台国宮崎説ってありえないんですか?

167 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 10:55:51
大分県(宇佐)より南は阿蘇山噴火の際の火山灰の影響で
稲が出来にくい土地になって、稲作が伝わるのが遅かったんだよ〜

っていうことを考えると、邪馬台国=宮崎はかな〜り可能性低いでしょうな。
人口がかなり多かったクニみたいなので。

168 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/16(金) 12:13:58
起(過去前期 漢代)『其國本亦以男子爲王』
@ 倭人の国ではもともとは男王であった。
  至近の男王が終わったのはAD110〜120年頃

承(過去中期 漢代)『住七八十年 倭國亂相攻伐歴年』
A-1 至近の男王から70〜80年間王が無い期間があった。
  70〜80年の期間は、AD110〜120年からAD190年頃

A-2 この期間には、倭國乱と呼ばれる倭の各国がお互いに攻伐する時期があった。
  倭國乱はAD146年からAD189年までの44年間。
  范曄はこの倭國乱の部分だけを、魏志倭人伝以外の別途資料に基づき、
  桓靈間の43年間にわたる倭國大亂と特定したと考えられる。

転(過去後期 漢代)『乃共立一女子爲王』
B 一女子を共立して王とし、よって倭國乱は終わった。
  AD190年頃に共立

結(現在 魏代)『名曰卑彌呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫壻・・・』
C その王の名は卑彌呼と言う。卑彌呼は、鬼道で衆を惑わすを事とし、年をとっており、・・・
  AD240年前後の状況 

169 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/16(金) 12:57:40
>>148-151
>本来進むべき方向とは全く異なる方向へ進んでしまうことはままあります。

「本来進むべき方向」と予め決めてしまうのなら、最初から何もしないで寝て下さい。
いや、あなたは起きて考えるのが嫌いなのですね。
伝統習慣にしがみついて、そのまま寝続けるのも生き方の一つです。
実務の世界では徐々に落ちこぼれていきますよ。
でもリスクを避けるには優れた方法の一つです。

170 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 15:53:44
まあ、>148の脳味噌は、

「思い込み」を実証するためだけの学問しか知らないということが良く理解できた。
こんな人は、火星には蛸が住んでいるという証明に、一生を捧げていればいいんじゃない?

171 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 21:56:53
なんか議論がせまくて結論の出にくいところに入り込んでるね。
「桓、霊間、倭国大乱」というのは、易姓革命思想が強く出ている。つまり、徳の低い桓、霊
帝の治世においては、僻地の属国王でも国が乱れ戦乱が続いた、というような。中国の史書
にはよくあること。桀紂を批判するようなもの。
「霊帝光和中」については、何か新資料に基づいているかもしらんが、根拠が書いてないので
結局、水掛け論にしかならん。

172 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 23:21:18
倭国の大乱の時期、そして卑弥呼共立の時期はけっこう重要。

畿内説は、纏向との関連から、これをなんとか3世紀まで持っていきたいと
考える。纏向誕生の時期を邪馬台国誕生にしたいわけだから。

しかし、大乱の時期が、西暦180年とかになると、纏向は誕生していないし、
卑弥呼は少女で、建国を指導できるとは考えにくい。
卑弥呼共立は、後継者を決めることにより、大乱を終わらせることが目的と
いうことになる。

そこで浮かび上がるのが、後漢書に記されている「倭国王・帥升」。
帥升が、後漢に遣使した西暦107年には、卑弥呼と同じような立場の王、
つまり、30カ国あまりの国を従える「倭王」がすでに誕生していた可能性が
高くなる。

邪馬台国・あるいは倭王の誕生がこの時代まで遡ると、畿内説の可能性は
全くと言っていいほどなくなる。
倭は、九州、あるいはその一部をさしており、邪馬台国は九州にあったと
いうことになる。

173 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 23:27:22
>>171の説は簡単に書くと
「范曄は他人の書いた文章の意味も理解出来ないボンクラで、
計算も出来ないで桓帝と霊帝の間は146〜189年で43年しかないのに『住七八十年倭國亂相攻伐歴年』
に范曄の個人的な趣味で適当に当てた。」でしょ
こんな説明は正常な思考では到底受け入れられません。

後漢書の成立時期から考えても、別資料か三国史の基資料で採用されなかった部分に基づいているとしか考えられない。


174 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 23:41:10
>>168
范曄の認識は
起(過去前期 漢代)『其國本亦以男子爲王 住七八十年』
@ 倭人の国ではもともとは男王であった。
     AD60から140年頃

承(過去中期 漢代)『倭國亂相攻伐歴年』
A-1 この期間には、倭國乱と呼ばれる倭の各国がお互いに攻伐する時期があった。
  倭國乱はAD146年からAD189年までの44年間。

転(過去後期 漢代)『乃共立一女子爲王』
B 一女子を共立して王とし、よって倭國乱は終わった。
  AD190年頃に共立

結(現在 魏代)『名曰卑彌呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫壻・・・』
C その王の名は卑彌呼と言う。卑彌呼は、鬼道で衆を惑わすを事とし、年をとっており、・・・
  AD240年前後の状況

でないかい。 


175 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 23:47:23
君たちはまだこんなくだらんこと議論しているのか?

後漢書倭伝 「相攻伐(歴年)無主」
魏志倭人伝 「相攻伐(歴年)」

この違いが分かれば、後漢書と魏書をごった煮などにはしないのよ

176 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 23:56:13
俺にも174が書いてあるようにしか読めんが、男王の時代が70〜80年続いて、その後
倭国が歴年(何年かは正確には不明、おそらく范曄もわからない)戦争状態になった。こ
れが普通の漢文の読みだよな?

177 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 00:06:08
>>176
普通じゃなく、古代漢文

178 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 00:15:47
>>174
范曄が180年代に共立された卑弥呼と239年の卑弥呼を同一人物と考えた可能性は
否定できないだろうね。同じ「卑弥呼」だし。

しかし、その卑弥呼が地位の名称かどうかは別問題だけど。
同一人物とすると、卑弥呼も男弟も異常な長生きになるのが難点。

179 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 00:27:32
卑弥呼が長生きしちゃいかんのか?

180 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/17(土) 01:12:02
>>178
>卑弥呼も男弟も異常な長生きになるのが難点。

この「男弟」は、隋書の「倭王 以天爲兄 以日爲弟・・・・・・日出便停理務 云委我弟」に云う
制度上の社会的「弟」である。卑彌呼の生物学的「弟」ではない。
卑彌呼治世60年間に「男弟」は何人かが交代していたと思われる。

181 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 02:04:45
>>163
「卑弥呼の即位した240年代」としたのは、卑弥呼が魏と通交し親魏倭王に
任ぜられたことを言っただけのこと。あとは、三品の総覧を見てくれ。



182 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 02:17:04
>>164
>范曄が「七八十年にわたり倭国は乱れた。」と読んだとすると桓帝と霊帝の間
>146〜189年では43年で期間として短すぎ。せめて次の献帝までいれないと。
献帝の時代にはいることは確かだが、献帝の最後まで入れたら長すぎるだろ。
范曄の想定は、140〜210(70年)あるいは135〜215(80年)あたり
なんだよ。それから相攻伐暦年で卑弥呼共立は後漢末と想定したんだな。
その想定ならば、共立時に「年すでに長大」=「年長じて」であることと矛盾しない。



183 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 02:30:29
>>165
>幾等何でも時代的にも近い范曄が区切り方を間違えたりしないだろ。
時代が近いから間違えるはずはないなんてのは、理由にならんよ。他人の書い
た文章を誤読するというのは幾らでもあることだ。
区切り方かどうかはともかく、范曄が倭人伝の解釈を間違えて作文したという
のは常識だよ。岩波文庫の倭人伝27頁でも読んでみな。

184 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 02:48:19
>>168 >>174
後漢書は「年長じて嫁せず、〜是において共に立てて王と為す」とあるのに、年長じて
を共立時ではないというのでは、まともな読みになっていないよ。
范曄が共立を190あたりに想定してるとみたのでは、「年長じて」がおかしくなるんだ。


185 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 07:47:33
>>176
あなたの読み方(物事の順序ね。年代のあてはめは問題だが)は普通なんだよ。
しかし、范曄は乱の続いた期間を「桓霊の間」としてしまった。倭人伝は単に
「暦年(数年)」なのに范曄は40数年以上にしたんだ。あなたの読み方とは
ちがうんだよ。
范曄は七八十年が乱の期間だと思って桓霊の間に乱れていたことは間違いない、
霊時代の後もまだしばらく乱は続いていたとみたのさ。

186 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 08:05:47
>>166
>邪馬台国宮崎説ってありえないんですか?
宮崎、それも都城盆地あたりとするのが正解だよ。従来は、伊都国の比定がまちがっていた、
それを佐賀市付近に比定し、そこから放射説、南水行20日で薩摩(投馬国)、十日陸行一月
で都城。これが倭人伝どおりで、まったく無理のない読み方だ。安田哲也の「邪馬台国の暗号」
の説だね。それに下のような似たような説もある。
http://www.geocities.jp/niginiginomiko/page1.htm
http://www7.ocn.ne.jp/~sui-yama/



187 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 08:23:53
>>167
阿蘇山の灰は南の方にだけ降ったのか? そんなことないだろう。
南九州のシラスは有名だが、2万5000年前の姶良カルデラの大噴火によるものと
されてるよ。稲作の伝来には関係ない。かえって南が早かったようだ。
http://www.miten.jp/miten/modules/popnupblog/index.php?param=8-200806

188 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 08:50:38
清水守民氏の北九州説↓には圧倒的な説得力がある。
http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/


189 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 09:22:48
>>188
行程はどう読むって?

190 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 09:51:34
>>184
「年長不嫁」は「年長まで嫁がず」の意味
@「桓霊間倭國大亂 更相攻伐 暦年無主」・・・卑弥呼の登場する以前状態。
A「有一女子名曰卑彌呼」・・・卑弥呼登場。
B「年長不嫁、事神鬼道 能以妖惑衆」・・・卑弥呼の一生を通じての人となりの紹介。
C「於是共立為王」・・・@だから王に共立された。

BがCの前に在るのはBが漢代から魏代に掛けての卑弥呼であるからです、
三国志魏書ようにBをCの後に書いてしまうと、Bの内容が即位後の魏代だけの卑弥呼の紹介となってしまうので
漢代を記す後漢書としては不都合なのでBをCの前に書き
漢代から魏代に掛けての卑弥呼としたのです。

范曄が共立を190あたりに想定しと「年長じて」はおかしくありません。

191 :うましか:2009/01/17(土) 10:08:54
>>185
ちょっと失礼します。

> しかし、范曄は乱の続いた期間を「桓霊の間」としてしまった。倭人伝は単に
> 「暦年(数年)」なのに范曄は40数年以上にしたんだ。

「暦年」じゃなくて「歴年」ですが、「歴」はめぐるとか訳すべき文字でしょう。
「歴年」とは、年をめぐる、つまり「ある程度」の年数と言う意味であって、
貴方の解釈(歴年=数年)のような短期の場合にも使われるかもしれませんが、
事例によっては、数十年、数百年の意で使われても構わないんじゃないでしょうかね。

原文は「桓靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。」です。
私が読むと「桓靈間、倭國大亂、更相攻伐」は「歴年無主」に係る文章に思えます。
桓帝と靈帝の治世、倭の国は大いに乱れ、かわるがわる攻伐しあう状態であってので、
「歴年無主」だったと言う感じですね。
つまり、この文章で言う「歴年」とは「桓靈間」とほぼ同時期を表すのではと思います。

192 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 10:17:24
>>182
>献帝の最後まで入れたら長すぎるだろ。

献帝の在位は189年〜220年。

>范曄の想定は、140〜210(70年)あるいは135〜215(80年)あたり
なんだよ。

献帝までいれて丁度いい。どこが長すぎる?

193 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 10:40:04
質問?「桓靈間、倭國大亂、更相攻伐」の部分は、「桓帝および靈帝の治世期間のうちの
どこかで」と読む余地はないのか。確かに誤読は多いが、讖緯説や仏教を排した実証的
な范曄のことだから、正確を期してこのように書いたと?

194 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 10:41:17
>>191
>「暦年」じゃなくて「歴年」ですが
そうでした。しかし、今の歴年の意味は、年々とか年を経るとか、ならば後漢書など
は暦年と同じ意味に解した方が通じるのかな。とにかく、私は数年の意味で使用され
ていると思いますが、数十年、数百年の意の使用例はありますか?

>この文章で言う「歴年」とは「桓靈間」とほぼ同時期を表すのではと思います。
岩波文庫の後漢書などは「更」をこもごもと読んでますから、あなたと同じように読
んだのだと思います。しかし、私は范曄がこれを入れたのは、大乱の直後に共立され
たと解すると「年すでに長大」との矛盾がでるということで、更にという意味で使用
したとみてます。

195 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 10:58:03
>>192
桓帝の即位と同時に倭国で乱を始めたわけじゃないからな。私の想定した年代を
みろ。220より前に乱は終わってるだろ。
共立を後漢時とする以上、献帝は入らないんだよ。相攻伐の期間も必要なんだ。

196 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 10:59:55
>>190
単なる屁理屈。文章の読みとしてなってないな。

197 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 11:36:08
>>196
君は全然文章の読解力がないな
『三国志魏書』
「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道、能惑衆 年已長大、無夫婿 有男弟佐治國」

『後漢書』
「桓霊間倭國大亂 更相攻伐 暦年無主 有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事神鬼道 能以妖惑衆 於是共立為王」
の違い
「年已長大無夫婿」が「年長不嫁」
後者では已にが無くなっている、
魏代卑弥呼はババア、漢代はまだババアではない、卑弥呼はババアになっても結婚しませんでした。
「乃共立一女子為王」が「於是共立為王」と最後に移動したのは
「乃共立一女子為王」より前が漢代が全部漢代のこととするため。
「其國本亦以男子為王 住七八十年」が無くなったのは
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
が書かれているから。
何処が屁理屈?

198 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 12:03:55
>>195
これこそ屁理屈!!

199 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 12:09:57
壷に呼ばれてきました

200 :うましか:2009/01/17(土) 13:33:45
>>194

貴方の「暦年」の方の解釈はよく判りませんが、私の「歴年」についての宿題を済ませます。

> 私は数年の意味で使用されていると思いますが、数十年、数百年の意の使用例はありますか?

多分、一般的な「歴年」は、そう長い(と言うよりは短め)期間を示すことばでは無いと私も思います。
「数年」の場合で使われることもあって善いでしょう。
ただ、長い・短いは相対的なもので、可能な用法を「数年」と言い切ってしまうのはどうかとも思います。

神代の歴史、人類の歴史から見たら「数百年」は「短い」場合もあります。
極端な例になりますが、
周書に「我不敢智、有夏服天命、惟有歴年。我不敢智、不其延、惟不敬厭徳、乃早墜厭命。」
と言うのが有ります。

我敢へて智らずや、夏有り、天命に服し、惟れ歴年有りしを。
我敢へて智らずや、其れ延からず、徳を敬しまず、乃ち廠命を早に墜とせるを。

夏王朝は徳が無かったので、短命であったと言うような意味かと思います。
実際のところは判りませんが、史記によれば夏は数百年は存続した王朝です。
これも「歴年」と言うわけですよ。

范曄が4〜50年を「歴年」と表記しても間違いではないでしょう?


201 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 14:09:22
                           
>『周書』は、百済王は自ら「於羅瑕」(オラジャ)と称していたこと、
>一方、民衆は「鞬吉支」(コンキシ)と呼んでおり、どちらも王の意味であることを
>記している。

オラジャはアルジ(主)の意味ではないだろうか。


202 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 14:15:04
陳寿の手元には、2世紀以前の日本の記録はあまりなかったと思う。
しかし、永初元年(西暦107年)の帥升の記録はあった。

だから、「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年」
の男子の王は、帥升をさしていると思う。

従って、永初元年の帥升から70年か80年たって、倭国は乱れ、攻伐し合うこと
歴年、とするのが妥当だと思う。

陳寿の書き方は、特定の男子の王を想定している書き方だと思う。
男子の王が特定されていなかったら、いったいどこから七八十年が出てくる
のかわからくなる。

203 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 14:17:12
>>197訂正
>>196
『三国志魏書』
「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道、能惑衆 年已長大、無夫婿 有男弟佐治國」

『後漢書』
「桓霊間倭國大亂 更相攻伐 暦年無主 有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事神鬼道 能以妖惑衆 於是共立為王」
の違い
『三国志魏書』の「年已長大無夫婿」が『後漢書』では「年長不嫁」と
後者では已(すでに)にが無くなっている、
『三国志魏書』では魏代に已(すでに)卑弥呼はババア。『後漢書』では漢代はまだ卑弥呼はババアではなかった、生涯ババアになっても結婚しませんでしたとの意味。
「乃共立一女子為王」が「於是共立為王」と最後に移動したのは
『三国志魏書』では「乃共立一女子為王」より後は魏代の卑弥呼のことが書かれている。
『後漢書』では「於是共立為王」が最後にあり全部が漢代のこととするため。
『後漢書』で「其國本亦以男子為王 住七八十年」が無くなったのは
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
と前に書いているから。


204 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 14:39:51

さあ、読みましょう。


205 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 16:11:27
卑弥呼が日女命で男弟が崇神天皇と書かれています。結論が出ました。

206 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 17:10:54
>>203
>『後漢書』では漢代はまだ卑弥呼はババアではなかった、生涯ババアになって
>も結婚しませんでしたとの意味。
ババアであり、結婚していない。ただ、それだけだよ。


207 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 17:25:54
                        
★古代天皇の在位期間についての考察

第10代・崇神天皇
(在位:224年〜258年1月9日=34年)

第11代・垂仁天皇
(在位:259年〜275年=16年?) [日本書紀の記録では在位49年。しかし、崇神の没年がAD258年ならば、]
                    [垂仁の即位は、翌259年となり、在位期間は16年となる。]

第12代・景行天皇〔ヤマトタケル〕
(在位:276年〜305年12月24日=29年)〔享年・72歳〕

第13代・成務天皇
(在位:306年〜316年7月30日=10年)〔43歳で即位。景行が亡くなった時は42歳。享年・53歳〕
                       〔景行天皇が30歳の時に生まれた皇子か。〕

             〔空位:2年間〕
第14代・仲哀天皇
(在位:318年〜322年3月8日=4年)〔享年・26歳〕〔景行天皇が63歳の時に生まれた皇子か〕



208 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 17:28:02
>>200
なるほど。良く意味が分からないが、使い方では長い場合もあるのかな。
しかし、倭人伝の場合に数十年と読むのはどうかな。それに、桓霊の間と書いて
いるのだから、また同じ期間を別の言葉で重ねるというのはおかしい。
桓霊の間と歴年はやっぱり別でなければね。
同じ話ならば「桓霊の間、倭国大いに乱れ、相攻伐す」で良いはずだ。

209 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 17:29:05
>>206
相変わらず説明なしの結論だけだな。
『三国志魏書』の「年已長大無夫婿」が『後漢書』 では「年長不嫁」と已(すでに)にが無くなっている。
これは卑弥呼は魏代には既にババアであったが、漢代にはまだババアではなかったことを指す。
「年長不嫁」とは卑弥呼が生涯独身であったとの説明で漢代の説明のではない、
漢代、魏代を通じての卑弥呼の姿です。
『三国志魏書』も『後漢書』同じことを書いている。



210 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 17:30:35
<続き>
 景行天皇がヤマトタケルならば、成務天皇と仲哀天皇の関係は、叔父と甥ではなく、歳が離れた兄弟ということになる。
仲哀天皇(タラシナカツヒコ皇子)は、九州におけるクマソとの戦で、26歳で戦死している。
 したがって、没年322年から26を引くと296年、この年に生まれたということだ。
日本書紀=仲哀天皇紀によると、仲哀天皇は即位後、
群臣の前で「父である王は、私が20歳(2倍年暦の記録なので、実際は10歳)になる前に無くなった」と、
語っている。
 ということは、景行天皇(ヤマトタケル)は、タラシナカツヒコ皇子(仲哀)が9歳の時に亡くなったのかもしれない。
296年に9を足すと、305年。これが景行天皇の没年か。
 その翌年、306年に成務天皇(ワカタラシヒコ皇子)が即位する。成務の没年は316年なので、
その在位期間は10年となる。

 成務天皇と仲哀天皇の年齢差は、33歳である。仲哀天皇は26歳で戦死しているが、
景行天皇の皇子・オウス命(別名=ヤマトタケル)は、30歳(2倍年暦なので実際は15歳)で伊吹山において、
亡くなったという。
 もし、仲哀天皇の父親が景行天皇ではなく、オウス命だとしたら、オウスが亡くなった時、仲哀(ナカツヒコ)は9歳であり、
オウスが6歳の時に生まれたことになる。これは有り得ないであろう。
 だから、仲哀天皇の父親はオウス命ではなく、景行天皇であると考える方が合理的なのである。



211 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 17:32:32
                     
>>207>>210

・・だね。






212 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 18:49:15
ヤマダイ国って言うくらいだから山の近くだろうな。

213 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 18:56:40
          
>>207>>210
つまり古代天皇は邪馬台国とは関係ないってことですか?

214 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 21:00:31
番能邇邇芸命は名前からすると、
稲作系の様であるが、実態は狩猟主体。
高千穂が稲作に適さなかった為に、
他の地を求めて、東進した?
卑弥呼の居た邪馬台国は、明らかに稲作農耕倭人系。
成功していろ稲作系倭人が、漸進なら分かるが、
一気に移動は考えられない。

215 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:32:54
九州王朝説は別として、畿内説と東遷説は、邪馬台国と大和朝廷をつながるもの
と考えている。しかし、倭人伝に書かれている邪馬台国時代は、世襲制では
なかったと考えられるね。

216 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:42:18
>>215
先ず、日本語の勉強から始めてくれ。

217 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:50:38
>>216
そう言う自分は、人に指導出来る程の教養があるというのかね?

218 :サガミハラハラ:2009/01/17(土) 23:05:50
>>210ヤマトタケル30歳没についてであるが、この部分は2倍年暦ではなく普通年暦であろう。
編者は換算し損なったのである。

219 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 23:22:12
>>209
倭人伝「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王
名曰卑彌呼 事鬼道、能惑衆 年已長大、無夫婿 有男弟佐治國」
「乃共立一女子為王〜年已長大」と共立が先に書いてあるから、「共立された時は
すでに」ということで「已」がある。

後漢書「桓霊間倭國大亂 更相攻伐 暦年無主 有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 
事神鬼道 能以妖惑衆 於是共立為王」
こちらは、「年長不嫁〜於是共立為王」と先に年長が書いてあるから「已」をつ
けない。前に「已」の基準時がないのに「已」を書いたら文章としておかしいだろ。


220 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 23:24:52
>>216
そういうことは、初めて言われたのだが、どこがおかしい?

とにかく、記紀でもかなり重要視している系統、つまり世襲制がどこから
始まったかというのは大事だと思う。

邪馬台国がいつから始まったかは不明だが、倭人伝に登場する邪馬台国の時代
つまり、卑弥呼共立、そのあとの台与、ちょっとだけ出てくる男王、これらは
世襲とは言い難い。
そのあとの梁書などに出てくる男王も世襲とは考えにくい。

221 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 23:30:40

トヨタン・・・・・・・・・・


222 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 23:51:05
>>219
「事鬼道 能惑衆」から先は、郡使がやってきた当時のものだろう。
「鬼道を事とし、能く、衆を惑わす」は、政治のあり方を示していると
思われるので。

で、そのあとの「年すでに長大、夫壻なく、男弟がいて補佐して国を治める。
王となって以来、見たものは少ない。婢千人を以って侍らせる。ただ、男子が
一人いて、飲食を給し、言葉を伝えるために出入りする。
居するところの宮室、樓觀、城柵を厳かに設け、常に人がいて武器を持ち
守衞す」となる。

事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國 自爲王以來 少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人給飮食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設
常有人持兵守衞

223 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 00:00:49
>>219
何言ってるの?
「年已長不嫁〜於是共立為王」
のどこが文章としておかしい?

224 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 01:04:50
>>223
>>219を読んで意味が分からないのかな?

225 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 01:05:35
>>209

>『三国志魏書』の「年已長大無夫婿」が『後漢書』 では「年長不嫁」と已(すでに)にが無くなっている。
これは卑弥呼は魏代には既にババアであったが、漢代にはまだババアではなかったことを指す。
「年長不嫁」とは卑弥呼が生涯独身であったとの説明で漢代の説明のではない、
漢代、魏代を通じての卑弥呼の姿です。
『三国志魏書』も『後漢書』同じことを書いている。

おいおい
後漢書は魏代の事も書いちゃう「ノストラダムスの大予言」か?

冗談だよな?ウケを狙った不意打ちだよな?
マジじゃないよな?・・・・・・・・・・・・「ウン」と言ってくれ…頼む


悲しくなるじゃん。

226 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 01:07:50
>>222
>「事鬼道 能惑衆」から先は、郡使がやってきた当時のものだろう。
共立された時は、「事鬼道 能惑衆」という能力はなかったというのかな?


227 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 01:27:26
>>224
ごめん、間違えた。

228 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 01:30:57
>>226
大乱の最中だからね。戦争させていたとも思えないし。

229 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 09:07:21
>>225
>後漢書は魏代の事も書いちゃう「ノストラダムスの大予言」か?

『後漢書』は400年代に書かれたから魏代の事も勿論判っている。
『三国志魏書』では卑弥呼は「年已長大無夫婿」と「既に年寄りで夫がいない」と魏代の状態を書いているのに対し
『後漢書』では「年長不嫁」と「歳を取っても嫁かず」と動作がないと書いている。
動作としたことで漢代も「歳を取っても嫁かず」魏代「歳を取っても嫁かず」でおかしくない。
漢代だけとっても「歳を取っても嫁かず」で文として正しくしている。
范曄は漢代の歴史書であることを考慮して『三国志魏書』とは文章を微妙に直して書いているのです。
「乃共立一女子為王」を「於是共立為王」として文末に移すなど
范曄は『三国志魏書』から『後漢書』に書き換える際にそのまま書かずに
「ノストラダムスの大予言」にならないようにし、尚且つ意味が変わらないように工夫して書いています。

230 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 09:42:50
>>229
ないない

何時の時代に書かれようが、後漢書は後漢時だけ

231 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 09:46:34
各書のできた時系列さえ把握してない奴がいるのか…

232 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 09:51:37
>>230>>229の意味を理解出来ないのか?
後漢書は後漢時だけしか記していないですよ。
『後漢書』の「年長不嫁」は漢代に「歳を取っても嫁かず」ですよ。
魏代にも「歳を取っても嫁かず」は知っていても魏代のことは書いてない。
『三国志魏書』では「年已長大無夫婿」と「既に年寄りで夫がいない」と魏代の卑弥呼の状態を書いている。
卑弥呼に対する認識は変わらないが漢代と魏代を扱うかで表現が変わってくる。

233 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 09:52:28
後漢書に願望を入れてはいけません。

234 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 09:55:40
>>231
>>230は各書のできた時系列さえ把握してないのか?

235 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 09:58:17
>>233
後漢書に願望を入れてはいけませんね、
『後漢書』も『三国志魏書』卑弥呼に対する認識は変わっていない。
漢代か魏代を扱うかで同じ事を書いても表現が変わってくるのは当然ですね。

236 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 09:58:20
魏志倭人伝と後漢書の異なるところといえば、狗奴国の位置がある。

倭人伝は、其余旁国として21カ国を書いた後、その南に狗奴国があるとする。

これに対して、後漢書では、女王国の東に海を渡ること千里で狗奴国(拘奴国)
に至る、と書かれている。

翰苑には、魏略曰く、として女王国の南に狗奴国があると書かれているから、
どうも後漢書の方が間違っているらしい。
范曄には、早とちりというか、勝手に解釈してしまうようなところがあるの
かな。

237 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:07:11
>>229
>「年已長大無夫婿」と「既に年寄りで夫がいない」と魏代の状態を書いている
年已に長大が共立時のことであるのは当然だから、そこに焦点を当てた解説は少
ないが、学者はどう読んでいるか、水野祐の解釈を紹介しておこう。
「文献上明記はないが、女王に共立された2世紀後半において、すでに大分年を
とった女性であったとだけ記されている。〜しわくちゃな細身の女性ではなかっ
たかと考えられる。」「歴史読本22−10」
どうかな? 共立時に婆さんだったと読んでいることは間違いないだろ。
まあ、それで年齢の辻褄が合うのかというのは問題なんだが。



238 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:10:53
>>236
范曄には、早とちりというか、勝手に解釈してしまうようなところがあるの
かな。

それは范曄の早とちりではなく、貴方の早とちりでしょう。
『後漢書』には「桓霊間」など『三国志魏書』にはない文が有り
成立時代も遅れるので『三国志魏書』や『魏略』以外の資料も参考にした可能性が大きい。

239 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:14:42
>>236
>後漢書では、女王国の東に海を渡ること千里で狗奴国…
>范曄には、早とちりというか、…

しかし早とちりで「南」を「東」に書き改められるだろうか?
後にできた後漢書が、三国志と異なる記載をしているのは
なにかもっと深い理由がありそう。

いずれにしても位置を含め、狗奴国が放つ問題点は重要。
みんなあせらないで慎重に考察しよう。

240 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:21:54
>>237
二世紀後半にすでに年寄りだったら、卑弥呼が死んだのは、西暦250年に近い
から、その後、60年も70年も生きたことになる。
それはおかしい。

古代史の学者は大勢いるから、一人の人間の解釈で決めてしまわないほうが
良いと思うな。

241 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:23:26
>>237
>年已に長大が共立時のことであるのは当然だから

根拠も証拠もなくよく当然だからなんて言えるな。
水野祐は昔読んだ覚えがあるが、全然頭が切れてないと感じた。
共立時に婆さんだったと読んでいることは間違いで、
『三国志魏書』なんだから婆さんだったのは魏代のことですね。
「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王」・・・漢代(卑弥呼が共立されるまで)
「名曰卑彌呼」
「事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國」・・・魏代(魏使が会った頃)

242 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:26:48
>>238
最も参考にされた一つが漢書でしょうね
後漢書にとって重要なのは、前時代からの流れ(禅譲です。)
引き継がれる魏代は未来の話しです。

243 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:30:11
>>236
そのとおりですね。名文家なのですが、その才におぼれて資料を書き直し、しばしば
間違いを犯しているのです。
岩波文庫の倭人伝等(石原道博)においても、「范曄の造作がその馬脚をあらわして
誤りを犯しているのは〜」と具体的に幾つか指摘されています。

>>238
>『後漢書』には「桓霊間」など『三国志魏書』にはない文が有り
倭人伝の住七八十年が消えて桓霊間になっているだけです。あとは比べれば、倭人伝の
記事を少し書きかえただけのことしかないでしょ。別の資料があったら、もう少し、
倭人伝とはちがったことが書けたはずですね。


244 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:30:47
>>240
>二世紀後半にすでに年寄りだったら、卑弥呼が死んだのは、西暦250年に近い
から、その後、60年も70年も生きたことになる。
それはおかしい。

壹與のように年少で共立されれば別に60年、70年生きてもおかしくないし、
年少の壹與を再び女王に立てたのは卑弥呼の前例に倣ったと考えた方が考えやすい。


245 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:36:17
>>243
>別の資料があったら、もう少し、
>倭人伝とはちがったことが書けたはずですね。

「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
とか『三国志魏書』には無い記述が『後漢書』には有りますから、
明らかに『後漢書』は『三国志魏書』以外の資料も参考にしてかかれてますけど。







246 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:38:03
>>237 >>238
良く知られているように、倭人伝には、「東に海を渡ること千里で
また国がある、みな倭種である」と書かれている。
当然、東に海を渡った倭種の国々と狗奴国は別のものとなっている。

范曄は、この二つをごっちゃにしたのではないかと思う。

九州説にたてば、後漢書に記録に従うと、狗奴国は、出雲あたりに比定出来る。
自分の説からすれば、この方が都合が良いのだが、自分の都合で決めるわけ
にはいかない。

やはり、魏略や倭人伝の方が正しいように思う。

247 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:38:20
>>241
>根拠も証拠もなくよく当然だからなんて言えるな。
倭人伝や後漢書をそのように読むべきことは、文章上明らかなことです。
根拠も証拠もないというのは、読解力を疑いますね。
水野祐を信用しないとのことですが、山尾幸久も後漢書について「ヒメコは
擁立されたときにすでに老婆であったような記述もある」と書いてますね。
まあ、山尾は2世紀後半に共立があったとするので、苦し紛れに若干ぼかして
書いていますが。

248 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:46:37
>>240
辻褄が合わないことはそのとおり。だから、共立を2世紀後半などと考えるのが
間違いだといっているのですよ。范曄だって馬鹿じゃないんだから、そんな想
定はしていないのです。>>154 >>164

249 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:47:30
>>247
>文章上明らかなことです。

この解説がない。

250 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:51:21
>>248
辻褄は>>244の通り合っている。
范曄を文意を理解出来ない馬鹿だと言っているのは>>154です。



251 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:52:51
>>245
もちろん、それらについてはそうでしょう。私が言ってるのは倭国の乱や卑弥呼
共立の話。そのことがあなたには分かりませんか?

252 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:53:08
>>248
でも、あなたが引用した水野祐は、二世紀後半にすでに年寄りだったと
言っているわけでしょう。

年寄りだったというのは正しくて、二世紀後半というのは間違っていると
言うのでは、あまりに都合の良い解釈じゃないかな。

253 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:55:10
>>247
>山尾幸久も後漢書について「ヒメコは
>擁立されたときにすでに老婆であったような記述もある」と書いてますね。

『後漢書』でそれらしい記述は「年長不嫁」だけ、
山尾幸久も『三国志魏書』と『後漢書』の記述の差の意味が判らなかったのでしょう。

254 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:58:21
>>250
>>244は、「二世紀後半にすでに年寄りだったら」という前提があることを理解できない
トンデモ氏のようだが。

255 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:59:07
まあ畿内説でクナ国=東海説ってのはいただけないな…
何故か後漢書の記述がまるで魏志に先行する史料のように扱われている不思議w

そもそも文献の話から離れても大和と東海の対立軸が見つからない。
前方後方墳と前方後円墳の文化圏を対立した根拠に持ってくるのは幾らなんでも無理がありすぎwwwww


256 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:00:11
>>251
倭国の乱や卑弥呼共立の話だけ資料が無く、
それ以前の資料は別あった?
それは無いでしょう。

257 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:02:38
>>254
卑弥呼は「二世紀後半にすでに年寄りだった」これ何処の宗教ですか?

258 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:04:59
>>252
私は、学者が一つ間違えたことを言ったからといって、その学者の言うことを全部間違いだ
という考え方はしません。それぞれを検討して、従うべきか、誤りかを判断してます。

259 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:07:08
>>257
このスレを最初から読んで下さいね。KYとか言われますよ。

260 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:10:22
>>259がKYです。

261 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:11:23
漢から倭奴国が「漢委奴国王」の金印を授与されたのが57年。
倭国王の帥升らが漢の安帝に拝謁を願ったのが107年。
帥升は倭奴国の金印から、たった50年後の出来事。
その帥升の70〜80年後の178〜184年に卑弥呼は倭王に共立され登場する。
そして卑弥呼は247〜249年頃に死亡する。
以上のように倭奴国から邪馬台国の記事は連続している、
また「漢委奴国王」の金印は博多で発見されていて倭奴国が博多付近にあったのは確定済み。
途中で記事の対照が移動したようには読めない、
全て博多近くの記事と考えるのが妥当だろう。

262 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:17:07
>>256
いくらでもあることです。魏志のほかに魏略だってあったでしょ。後漢について書いた
ものもいくつかあり、評価が高かったものが残ったと考えるべきです。そのような消え
ていったものに後漢時のことが書かれていて范曄が参照した可能性があります。

263 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:18:50
>>257

>>254は間違った事を言っていない。それをKYなどと
とんだ見当違い
人をとやかく言う前に、自分の誤認識を認めるんだな。
そして、直ぐに人をKYなどと言える自分の生い立ちを振り返る事だ

264 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:25:08
>>259とか>>263は頭悪すぎ。

265 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:27:27
これまでの所から、後漢書や梁書をもとに、卑弥呼共立は2世紀後半と考える
のは危険だということが分かったかと思います。
そこで、榎「邪馬台国」にある次のような解釈が見過ごせません。
「住七八十年は男王の支配が七、八十年続いたという意味〜従ってそれは、卑弥呼の
即位する以前七、八十年は男王(複数)の時代であったが、その男王の支配時代の
末期に国が乱れたということで、乱れたのは卑弥呼即位の直前で、それは卑弥呼が
最初に魏に通貢した年よりやや以前のことであったのでは〜」


266 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:30:41
卑弥呼複数説をとるなら卑弥呼は役職名で
壱与は個人名?www

267 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:31:49
>>265
これまでの議論だと、後漢書もとに卑弥呼共立は2世紀後半と考える
のがもっと信頼性が高いと思えますよ。
また根拠の示さない榎「邪馬台国」のであったのでは〜ですかWW。

268 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 12:00:21
>>264
人を頭が悪いと蔑む事で、一時でも優越感に浸れるちっぽけな自分を見つめなおせ。
自分はどれほど頭がいいんだ? ん?

269 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 12:00:51
李承晩ラインを宣言(1952・1・18)
日韓が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)で、韓国による実効支配の端緒となったのが
李承晩大統領が沿岸の漁業管轄権を一方的に主張する李承晩ラインの宣言だった。
サンフランシスコ講和条約が発効する直前のタイミングで、ライン内に竹島を取り込んだ。
韓国側は警備隊員を配備、デモ行動を展開するなど実効支配を強めていった。


270 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 12:02:47
>>267
卑弥呼共立なんて、後漢時と魏時にあったと書いてあるだろう。
議論なんてする余地ないよ

271 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 12:19:07
范曄の駢体の美文は評価が高いが、間違いというか独自の解釈を付け加える癖がある
というのはのぼ定説。例えば、

>国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦・・・倭人伝
>国には女子多く、大人は皆四、五妻あり、その余もあるいは両、あるいは三・・・東夷伝

>国には女子多く  の部分は戦乱で男子が失われたと考えて付け加えたか。

後漢書を書いた時点(432〜)ですでに大和朝廷は大きな勢力であったので、

南→東については、そのあたりのことがからんでいそうだ。

272 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 12:44:21
>>271
君は范曄を上から目線で評価出来る立場なんだ?
凄いの一言だね。

273 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 13:08:11
>>272
なんで、それで「上から目線」になるんだよwwwwwwwww

274 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 13:52:17
どなたへとは申しません。一般論としてお聞きくださいませ。

人は自分では気づかないうちに傲慢になってゆくものでございます。
しかも困ったことに、傲慢になればなるほど自分の傲慢さに気づかなくなるのでございます。
さらに厄介なことは、他人の指摘を素直に聞けなくなるだけではなく、親切心から指摘してくれ
る人に敵意を持って攻撃してしまうことでございます。
これでは人間関係はますます悪くなって孤立するばかり。恐ろしいことでございます。

275 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 13:53:12
>>273
ごちゃごちゃぬかすな

276 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 14:15:44
ほらほら始まっちゃったよ>>274みたいな書き込みが。
必ずこう言う書き込みが出るもの…卑怯だね

277 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 14:35:14
>>271
定説を捏造するなよWW。

278 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 14:50:29
>>270
ど、弩阿呆!
後漢時と魏時の何処に卑弥呼共立が後漢時と魏時にあったと書いてあるんだ!!

279 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 15:05:34
これまでの議論を纏めると、『後漢書』も『三国志魏書』も基本的な倭に対する認識は同じで、
文書の違いは『後漢書』は漢代を視点にして書かれて『三国志魏書』は魏代を視点にして書かれていることにより生じたもの。
『後漢書』は『三国志魏書』以外の資料も参考にして作成され、内容が詳しくなっている。
卑弥呼の共立は漢代末期で魏代には既に高齢であった。

280 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 15:09:11
>>278
馬鹿か?
話し以前のレベルにア然だな

281 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 15:15:00
>>279
後漢後期に共立された卑弥呼は魏代には存在しない
魏代に登場する卑弥呼は、後漢時共立された卑弥呼とは別人であり、卑弥呼を引き継いだ者(国内禅譲)

282 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 15:29:27
>>281ならは聞いてやる
卑弥呼を引き継いだ者(国内禅譲)って何処から出た話?

283 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 15:42:15
>>279
『三国志魏書』を書く為に陳寿は魏代中心に多くの資料を集めた、
魏代を書くに当たっては漢代のことも書いたが資料不足で詳しく書けなかった。
『後漢書』の范曄は漢代中心に多くの資料を集め、
『三国志魏書』も参考にし、更に
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」や
「桓霊間倭國大亂」を『三国志魏書』以外の別の資料を基に記述したですね。


284 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 15:54:36
>>282
別に聞いて貰う必要はない。
魏時の共立と後漢時の共立が別物である事は史書で明白
なら当然二人は別人
それに、わざわざご丁寧に後漢書にて卑弥呼は「年長」と書かれ、魏書には「自爲王以來」と明確に魏代卑弥呼と別ける書き込みがある。

ま、他にもあるが
これだけで十分だろう。

285 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 15:56:49
>>283
そんな推測を元に組み立てるから、話しがややこしくなる。

286 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 16:09:52
>>285
推測?
事実でしょ。

287 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 16:19:52
後漢書にて卑弥呼は「年長不嫁」(高齢になっても結婚しなかった、つまり漢代には結婚しなかった)と書かれ、
魏書には「自爲王以來」(王位に就いて以来)と有るが、
漢代と魏代の卑弥呼を別ける書き込みはない。

288 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 16:32:21
>>201
>>『周書』は、百済王は自ら「於羅瑕」(オラジャ)と称していたこと、
>>一方、民衆は「鞬吉支」(コンキシ)と呼んでおり、どちらも王の意味であることを
>>記している。

>オラジャはアルジ(主)の意味ではないだろうか。

「鞬吉支」(コンキシ)=国主(クニヌシ)



289 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 16:43:45
>>287

はっきりと「自」と明記されている。

290 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 16:47:02
>>286
事実と言うのであれば
参考にした資料とはなにか?

291 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 17:07:30
>>290
『後漢書』には>>283で示したように『三国志魏書』には無い記述がある。
范曄が『三国志魏書』以外にも漢代についての資料を持っていたのは明白です。
新たに『後漢書』を書くのに『三国志』だけをたよりにするはず無いでしょ。


292 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 17:08:29
>>289
貴方「自」の意味判ってるの?

293 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 17:11:47
別の資料があったか否かについて久保田穣の「邪馬台国はどこにあったか」には
以下のようにあるね。
「倭人伝には倭国乱の時期の記載はなく、書いているのは三国志よりも後で成立
した史書である。しかし、後漢の桓霊の頃、中国と倭国との国交はなかったので
あるから、中国政府に記録があるはずはない。したがって仮にこうゆう史書の記
載が倭人伝以外の資料に基づいているにしても、それはやはり、卑弥呼の魏使が
倭人から聞いた伝聞の報告書でしかありえないから、信頼性は乏しい。ただし、
私は独自の資料の存在を疑う。当時の魏使の報告書が長年月の後に残り、史書の
執筆者が読めたとは思えない。殊に後漢書の筆者范曄を含め各史書の筆者は、戦
乱の後、身一つで華南に逃れた者達の建てた王朝に属するものである。私はむし
ろ、倭人伝の「住七八十年」を、他の史家が魏使訪問時より七八十年前と読んで、
桓霊の間などという時期をあてたのではないか、つまり全く作文だろうという気
がする。」


294 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 17:19:24
>>293
また「気がする。」ですかWW。

295 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 17:21:53
>>292
漢字には名詞となるべきもの以外意味なんてない。

296 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 17:23:11
>>294
根拠のない思い込みを断定的に言う人より、ずっと奥ゆかしいと思うがね。

297 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 17:24:21
>>291
だから
事実と言ういじょう、何らかの資料が存在し確認できるのか?
と、聞いてるの。

298 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 18:05:22
>>296
>根拠のない思い込みを断定的に言う人より、ずっと奥ゆかしいと思うがね。

奥ゆかしいという事で、お茶を濁そうと?

299 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 18:31:00
>>296
「気がする。」レベルを定説とか言ってるヤツのことですか?

300 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 18:34:30
>>295
orz

301 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 18:48:43
>>293意見の変な点
@「卑弥呼の魏使が倭人から聞いた伝聞の報告書でしかありえないから、信頼性は乏しい」
  倭国乱の時期は卑弥呼の共立の時期でもあり、魏使が倭人から聞いた伝聞の報告書なら信頼性は高いはず。
A「当時の魏使の報告書が長年月の後に残り、史書の執筆者が読めたとは思えない。」
  『後漢書』倭人伝にはそれ以前の歴史書に全く書かれていないことが多く有り、
  漢代以降の倭に付いての記録が報告書が残っていた事が分かる。
B「倭人伝の「住七八十年」を、他の史家が魏使訪問時より七八十年前と読んで、桓霊の間などという時期をあてたのではないか」
  魏使訪問時より七八十年前では桓霊の間にはならない。  

302 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 19:20:05
>>289
>はっきりと「自」と明記されている。

で、何でそれが漢代と魏代の卑弥呼を別ける書き込み?

303 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 19:38:21
>>302
自という文字には

「内なるモノに重なる基」と言う表意が存在するからです。
つまり
ここに記載された卑弥呼には、重なるモノが存在し、
・今ここに書かれた卑弥呼は、重なる者が王となりし以来、
と、言うのが
「自爲王以来」の訳です。

304 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 20:13:39
>>303
自という文字は「より」です。
「自為王以來 少有見者」で「王になって以来より、会えるものは少い」
「内なるモノに重なる基」そんな表意は存在しません。
どこから「内なるモノに重なる基」なんて持ってきたの?


305 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 20:37:28
>>304
勉強の結果。
学校では習えない貴重な学習成果です。
忘れられた漢字の表意を浮き上がらせただけ

306 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 20:58:02
倭国の大乱の時期は、北史や梁書の「霊帝光和中(西暦178年〜183年)」が
正しいと思う。しかも、その中の一時期だろうと思う。
北史には、それまでの歴史書に書かれていない詳細な記述があることで
定評がある。

魏志倭人伝も、帥升が朝貢した時(西暦107年)から70年か80年たって大乱が
起きたと解釈すれば、だいたいその時期になる。

後漢書の恒・霊間が、かなりの長期を指しているとすれば、常識的に考えて、
あまりにも長すぎる。こんなに戦乱状態が続くとは考えにくい。
范曄はちょっと倭人伝の解釈を間違ったと思う。

隋書などは、後漢書に沿って書かれたのだろう。
ちなみに、北史よりも隋書の方がちょっと前に書かれている。だから、隋書は
北史を参考には出来なかった。

また、北史は、卑弥呼の年齢について書いていない。
すでに死んだ人の場合は、あまり年齢について書く必要性はないのだろう。

卑弥呼が共立されたときに年寄りだったら、「当時年長大」と書きそうな気が
する。倭人伝の「年已長大」は、郡使がやってきたときの卑弥呼の年齢だろう
と思う。

307 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 21:05:56
続き。

郡使がやってきたときに、卑弥呼の年齢が長大ならば、大乱が二世紀後半、
卑弥呼はそのとき少女でつじつまが合う。

しかし、卑弥呼共立のときに年齢が長大ならば、大乱の時期をずらすか、
または、複数の卑弥呼を想定しなければつじつまが合わなくなる。

大乱の時期が、三世紀のずれ込むのは、根拠がない。
複数の卑弥呼がいた根拠もない。

「年已長大」を郡使がやってきた当時のことと考えるのが一番無理がない。

308 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 21:46:20
>>307
ほとんど同意、それが一番支持されてる読み方だよな。俺は范曄の記述の特徴から考えて
「恒・霊のあいだのどこかで」、みたいな意味を持たせているんでないかと思う。
自分でもわからないので、正確を期するために長い範囲を取ったと。その例は他でもある。

常識で考えても、停戦のために各地の王が卑弥呼を共立したとしたら、「年長大」では、すぐ
死んでいつまた戦争が始まるかしらん。実際、卑弥呼の次の男王のときはそうなってる。
年少の少女を立てたのは、平和を長く続かせたいという各王の願いがあったんではないかな。

台与が13才で共立されたのも、シャーマンには少女がふさわしいということ(後の時代でも
諸神宮の巫女には若い処女がなる)の他に、上記のような意味があるんではないかと。

ま、実際はわからんし、わからんからネタになるんだが。



309 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 21:55:16

トヨタン・・・・・・・・・・


310 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 21:58:05
>北史には、それまでの歴史書に書かれていない詳細な記述があることで
>定評がある。
倭国の伝に関する限り、北史は先行史書の焼き直しであり、何も新味はないな。

>倭人伝の「年已長大」は、郡使がやってきたときの卑弥呼の年齢だろうと思う。
これは漢文の読みとして完全な誤りだね。

>卑弥呼共立のときに年齢が長大ならば、大乱の時期をずらすか、
>または、複数の卑弥呼を想定しなければつじつまが合わなくなる。
倭人伝は大乱の時期を明記していない。それがどうゆう趣旨かを考えるべきだな。



311 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 22:14:27
>>301
@ >魏使が倭人から聞いた伝聞の報告書なら信頼性は高いはず。
 桓霊の頃の話だということを忘れてるんじゃないかな。魏使が倭人からきいたのは
 240年ころ。六七十年前の話だから信用性などないだろう。
A >漢代以降の倭に付いての記録が報告書が残っていた事が分かる。
 これも前提を理解していないな。問題は、魏使の報告書だ。
B >魏使訪問時より七八十年前では桓霊の間にはならない。
 これは何人かの学者が述べているところで、桓霊の間には入る。
 確かに正しくは、>>154のように解すべきだがね。
  

312 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 22:17:13
>>306
オレは倭国の大乱の時期は、時代的にも『三国志魏書』に近い『後漢書』の記述の桓帝と霊帝の間(146〜189年)が最も正しいと思う。
43年の騒乱は長いように思えるが、常に戦争していたのではなく最高権力者が不在でたまに戦争のあるダラダラとした状態が長く続いたのだろう。
『三国志魏書』の男性を王とした7〜80年は『後漢書』では建武中元二年(57年)倭の奴国の朝貢時から桓帝までの期間であろう。
建武中元二年から桓帝まででは90年ほどになるが『後漢書』は漢代については詳しく調査しているのだから『三国志魏書』より正確に記されているはず。
卑弥呼の共立は倭国の大乱末期なので180年代であろう。

313 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 22:22:26
>>310
>>倭人伝の「年已長大」は、郡使がやってきたときの卑弥呼の年齢だろうと思う。
>これは漢文の読みとして完全な誤りだね。
漢文の読みとして完全な正解、これ以外に有り得ないですよ。

>>卑弥呼共立のときに年齢が長大ならば、大乱の時期をずらすか、
>または、複数の卑弥呼を想定しなければつじつまが合わなくなる。
>倭人伝は大乱の時期を明記していない。それがどうゆう趣旨かを考えるべきだな。
大乱の時期の時期が魏代ではなく漢代だからですよ。


314 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 22:26:25
>>312
>時代的にも『三国志魏書』に近い『後漢書』の記述の桓帝と霊帝の間(146〜189年)
>が最も正しいと思う。
『三国志魏書』に近いからと言って後漢書を信用しようというなら、それよりも、三国
志そのものを信用すべきだと思うがね。

315 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 22:29:11
>>313
>漢文の読みとして完全な正解、これ以外に有り得ないですよ。
学者ではどんな人がそのような見解を述べているのかな?
後学のために教えてくれ。

316 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 22:30:24
@ >>魏使が倭人から聞いた伝聞の報告書なら信頼性は高いはず。
 >桓霊の頃の話だということを忘れてるんじゃないかな。魏使が倭人からきいたのは
 >240年ころ。六七十年前の話だから信用性などないだろう。
 桓霊の時期に共立された卑弥呼がまだ生きているのです、生存者がいるんだから確かな話です。
A>>漢代以降の倭に付いての記録が報告書が残っていた事が分かる。
 >これも前提を理解していないな。問題は、魏使の報告書だ。
 魏使の報告書に問題はない。
B>>魏使訪問時より七八十年前では桓霊の間にはならない。
 >これは何人かの学者が述べているところで、桓霊の間には入る。
 >確かに正しくは、>>154のように解すべきだがね。
 >>154て何の根拠もないですよね、全部気がするとかのレベルの話で解すべきものじゃないな。

317 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 22:44:28
>>316
>生存者がいるんだから確かな話です。
魏使の報告書がそれほど信用性を認められているとは安心した。
今後は、報告書が間違っていたなどとは言わないでね。

>154て何の根拠もないですよね、全部気がするとかのレベル
154にはそんなことは書いてないな。間違いがないこととして書いている。
それに、倭人伝と後漢書を比べれば、読解力がある人には理解できることだ。

318 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 22:44:58
>>315
『三国志魏書』倭人伝に「年已長大」と書いてあるのに、
これを魏代以外の時代と理解する学者はいませよ。
『三国志魏書』ですよ。魏書。

319 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 22:49:35
>>317
根拠も無く「范曄は区切り方を間違えたのです」と決め付けてますけど。
317さんが誤読してるだけでしょ。

320 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 23:49:17
>>318
あれ? >>237>>247は読んでないのかな?

321 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 23:58:18
>>319
後漢書や梁書は倭人伝以外の資料をもたない、倭人伝の記事から倭国大乱の時期
を作りだしたというのが一般的な考え方です。そして、どうやって作りだしたの
か、もっとも簡単で分かりやすい方法が>>154ですね。ほかに、倭人伝からどうや
って作りだしたか、あなたは説明できますか? できないでしょ。ならば私の述
べた方法が正しいとみるしかないですね。

>>297

322 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/19(月) 00:02:51
「後漢書」にも「魏書」にも矛盾しない仮説を正解としなければならないですよ。

以下の仮説はいかがですか?
@ 倭人の国では倭を代表する男王がいる時代が109〜119年頃まであった。
A 109〜119年頃から189年までの70〜80年間は倭國乱と呼ばる各国が相攻伐が続いた。
  この期間の後半の桓靈間145年から189年は、倭を代表する王もいなくなり、
  倭國大亂と呼ばれる各国が相攻伐の状態が続いた。
B 190年一女子卑彌呼を王として共立することにより乱が収まった。
C 彼女は、漢代の終り210年代になっても、年を取っているのに女王を辞めて嫁にいかなかった。
  彼女は、240年頃老人になっていてもあいかわらず夫壻がおらず女王であった。

323 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/19(月) 00:06:46
修正
A 109〜119年頃から189年までの70〜80年間は倭國乱と呼ばれる、各国が相攻伐する状態が続いた。


324 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 00:17:53
>>322
>「後漢書」にも「魏書」にも矛盾しない仮説を正解としなければならないですよ。
別に両方の顔を立てなければならないという問題ではないですよ。
後漢書、梁書がまちがっているなら、それを排除すればいいんです。
おかしなことを書いている後漢書などに惑わされる必要はありません。それらが
なかったならば、倭人伝をどう読むのか、それを考えてみればいいんです。
倭人伝は良書との評価が高い史書です。信用して読んでみればいいんですよ。

325 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/19(月) 00:43:29
>>324
>後漢書、梁書がまちがっているなら、それを排除すればいいんです。

後漢書、梁書がまちがっているなら、どのように論証するのですか?
論証できているなら是非披露して下さい。
論証できるまでは全部正しいとしなければなりません。

326 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 01:09:54
>>325
私はすでに論証しています。本スレを遡ってお読み下さい。
それで不満ならば、あなたの論法を使って簡単な論証をしましょう。
後漢書を正しいとします。後漢書と梁書は大乱の時期がちがいますね。
梁書はまちがっています。
次に、梁書を正しいとします。同様に後漢書はまちがいだとなります。
どちらもまちがってますね。論証が完了です。

327 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/19(月) 01:29:54
>>326
>後漢書を正しいとします。後漢書と梁書は大乱の時期がちがいますね。

乱の時期は同じです。
乱の期間が違うだけです。
梁書は最も激しかった時期を後漢書や魏書より短い期間に特定しているだけです。
乱の期間が、魏書>後漢書>梁書となっているだけです。

328 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 01:40:03
>期間が違うだけです。
これも時期と言えるでしょう。魏書>後漢書>梁書というのは、単にあなたの
こじつけです。三者バラバラで、ちがってます。



329 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/19(月) 02:15:37
>>328
時期と期間は異なる概念です。

乱の期間を比較してみましょう。
梁書 :178年〜183年・・・・・倭國大乱
後漢書:146年〜189年・・・・・倭國大乱
魏書 :(109〜119)年〜189年・倭國乱

大乱の「大」は、大規模の意味ではなく、非常に激しいの意味ではないかな?

330 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 07:05:33
あなたが持ってる辞書と私が持ってる辞書はちがうのかな。まあ、こだわらんよ。
とにかく「期間」がちがうんだ。あなたの希望通り、後漢書、梁書がまちがいだ
ということは論証した。今後、後漢書や梁書は持ち出さんでくれ。

331 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 07:50:59
梁書、北史が正しい。魏志倭人伝もこれらと同じ時期を示している。
それと異なる後漢書は何か誤解している。
後漢書を引用した隋書なども同じ間違いをしている。

332 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 08:36:10
>>320あれ?
>>241>>249>>253は読んでいないないのかな?
>>321
>後漢書や梁書は倭人伝以外の資料をもたない、倭人伝の記事から倭国大乱の時期
を作りだしたというのが一般的な考え方です。
一般的な考え方じゃないよ、一部の人間の辻褄合わせの気がするレベルの話、説としても成り立っていない。



333 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 08:47:24
>>329
乱の期間は
梁書 :178年〜183年・・・・・倭國大乱
後漢書:146年〜189年・・・・・倭國大乱
魏書 :不明(漢代末か?)・・倭國乱
ですよ。
>>331
魏志倭人伝が正確に時期を示していないのに「梁書、北史が正しい。」と何故いえるの?


334 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 08:54:13
>>326
本スレを遡って読んでも
貴方の説明は証拠が無く、私はこう思うだけで全く論証になっていませんよ。

335 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/19(月) 09:41:09
>>330
>後漢書、梁書がまちがいだということは論証した。
時期=期間としている限りにおいて論証とはなりません。


>>333
× 魏書 :不明(漢代末か?)・・倭國乱  他史書との矛盾が出てくるから。
○ 魏書 :(109〜119)年〜189年・・倭國乱  他史書との矛盾が出ないようにした場合。

魏書を他史書と矛盾しないように読み解くと以下の様になります。
倭人の国では倭を代表する男王がいる時代が109〜119年頃まであった。
(最後の男王は帥升もしくはその後継王となる。)
そして、109〜119年頃から189年までの70〜80年間は倭國乱と呼ばれ、各国が相攻伐する状態が続いた。



336 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/19(月) 09:52:41
魏書は下記の様に区切って読んでいます。

『其國本亦以男子爲王。住七八十年倭國亂相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大・・・・』

337 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 10:03:04
魏書の
「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年」は
「その国は、本は男性を王とすること七〜八十年、(その後)倭国は擾乱し互いの攻伐が何年も続いた。」
ですよ。
男性を王とすること七〜八十年、は後漢書では建武中元二年(57年)から桓帝の前年(147年)、まででしょ。
倭国の擾乱は桓帝と霊帝の間(146〜189年)。


338 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 10:04:56
>>336
「住七八十年」と「歴年」の関係は?


339 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/19(月) 11:47:53
>>338
『其國本亦以男子爲王。住七八十年倭國亂 相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。』
倭國の乱の期間が70〜80年。
倭國乱で国々が相攻伐していたのが歴年。
歴年は、相攻伐していた期間が数年か数十年か、その期間が何回もあったのかは不明。

梁書を参考にすると、激しく相攻伐していた期間が178年から183年までの5年間。
この戦いは邪馬壹國とどこかの大国に限定していると思われる。

後漢書を参考にすると、激しく相攻伐していた期間が146年から189年までの43年間。
43年間も相攻伐していた期間がだらだら続くと、実際は国々の合従連衡があり、
数年短期で相手が異なる相攻伐が何回もあり続けたとも考えられる。
43年間局地戦があちこちで続いていたと思われる。

女王國は4ヶ国(確定できる国々)の連合国であるから、上記の様な推定に留めておくのが最適と思う。
  4ヶ国連合女王國:邪馬壹國・投馬國・奴國・不彌國・・・この論証については以前書いたことがある。

340 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 17:24:01
倭人伝は、
その国、もとまた男子を以って王となす。住まうこと七八十年。倭国乱れ
相攻伐すること歴年。すなわち一女子を共に立て王となす。
となる。

「住七八十年」は、70年か80年が経過し、とするのが良い。
男子の王は、永初元年(西暦107年)に後漢に朝貢した倭国王・帥升を念頭に
おいていると思う。

このように考えると、倭人伝が示す大乱の時期は、霊帝光和の時代に
だいたい重なる。

北史は、7世紀に出来たものだが、魏志が書かなかった西魏の人物について
詳しく書かれているとされる。この時代の詳しい資料を持っていたものと
思う。だから、北史の「霊帝光和中」は、信頼性が高いと思う。

梁書は、北史を参考にしていると思う。

341 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 19:37:33
出雲・丹後の状況を忘れてもらっては困る。

出雲はご存知の通り、九州の銅剣も畿内の銅鐸も出土してる。交易の中心地だ。
丹後からは鉄器も多く出土し、玉などの加工品を輸出していた。

つまり、山陰の交易路は十分発達しており、
朝鮮半島・九州と断絶してたとは全く考えられない。
出雲・丹後を知ってる使者は、当然のごとく近畿の状況も耳にしていたはずである。

つまり、魏志倭人伝の倭国の範囲は、出雲・丹後・近畿を、その範囲に含まれていなくてはおかしい。
まず、話はここからだ。

魏志倭人伝の倭国の範囲は、九州〜近畿を包括していること。
その上で、女王国がどこにあったか?という話なら、拝聴する。



342 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 21:58:37
>>340
>倭人伝は〜70年か80年が経過し、とするのが良い。
までは同意。

>男子の王は、永初元年(西暦107年)に後漢に朝貢した倭国王・帥升を念頭に
>おいていると思う。

魏志倭人伝を書いた陳寿は魏代については詳しく調べれたが、
漢代である男子の王期間や倭国の擾乱の時期については十分把握しておらず、
70年〜80年や歴年と曖昧に記したもので倭国王・帥升までは念頭においていないようだ。

後漢書の范曄は(後)漢代の歴史を調査し魏志倭人伝の記述と突合せて
歴年を桓帝と霊帝の間(146〜189年)であると判断し、
70年〜80年はその前の建武中元二年(57年)以降の期間としていると読める。

北史の霊帝光和中(178〜184年)は桓霊間(146〜189年)の中の一期間であり、
倭国の擾乱の最も激しい時期であったのかもしれない。
北史は「住七八十年」を、永初元年(西暦107年)からとしていると思う。


343 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 22:02:23
>>341
先に結論が有る、辻褄合わせの説はここではしたくない。

344 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 22:13:42
>>342
或いは霊帝光和中(178〜184年)は卑弥呼が共立された時期を指しているのかもしれない。


345 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 22:27:39
>>342
倭人伝の冒頭に、「舊百餘國、漢時有朝見者」とある。
元は百カ国あまり。漢の時、朝見するものあり。

これは、漢書地理誌とか漢の時代の記録を見たものと思われるので、
陳寿は、漢の時代の記録も見ていたと思われる。
だから、帥升のことも知っていただろう。

後漢書は、倭人伝の冒頭をまねしているが、「漢時有朝見者」を書いていない。
(多分)その代わりに、西暦57年に倭奴国が印綬をもらったこと、西暦107年に
倭国王・帥升が請見を願った、という文章を載せている。

ところが、范曄は、倭奴国を倭人伝の奴国と勘違いし、「倭國之極南界也」
などと書いている。
また、狗奴国の位置についても、倭人伝とは異なる。

どうも范曄は、変わった書き方をしようとして間違いを犯す性質のようだ。
倭国の大乱の「恒・霊間」もその一環だろうと思う。

後漢書は、若干、信頼性に欠けるような気がする。

346 : ◆.L.MXSPOgc :2009/01/20(火) 01:03:11
久しぶりでどこにつなげようか迷ったのだけど、ちょうど良いのでここに♪

陳寿は「魏」書を書いたので、元の資料の漢代の部分はばっさり省略してあると考えられる。
范曄が同じ資料を見たとしても、漢代の事に関して三国志にない記述があってもおかしくは無い。
と私は考える。
逆に陳寿が見られなかった漢代の資料を、范曄が見ることが出来たとは考えにくいというのもある。

とはいえ范曄にまったく新しい資料がなかったのかといえば、ここで韓国からの情報が入って来ていたのでは
ないだろうかと勘ぐってしまう。范曄にどのような情報がいったのかは知るすべは無いが、
韓国に残されている記録では西暦290−300あたりと西暦390−400あたりに、倭から韓国への侵略が
多くなっている(集中している)ことが分かっている。特に西暦390−400のものは、倭での神功皇后の時代の
稀な逸話(韓の王が捕虜になるが途中で逃げる/逃げられる)が双方で一致しており、同一の事件を記録して
いる可能性が高い。
少し話がそれたが、范曄が後漢書を記したときには、上記の大和朝廷の話が韓国経由で入ってきていた可能性、
及び、漢が滅んだ後に韓国内でも戦国時代(三国時代)が訪れた情報から、倭も戦国時代に入ったという拡大解釈
(いわゆる強大な漢が滅ぶとその周辺諸国も乱れる、という考え)
があって、後漢書にそのような記述になったのではないだろうか。

范曄の文章は信頼性が低いという評価には同意するが、全くもって根拠無く文を書き換えているとは言えないとも思う。

# ところで卑弥呼はともかく、臺與共立の年は正始八年(247年)だと思うのだけど、どう?w


347 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 01:07:55
>>342
>歴年を桓帝と霊帝の間(146〜189年)であると判断し、
卑弥呼の共立を189年ころとみているようだが、それでは「年長じて嫁せず」
と矛盾する。248ころには110才以上とか、とんでもない話になる。 

348 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 06:59:30
>>343

先に結論があるのは、九州説のほうだな。

安本は、卑弥呼をアマテラスとしてるが、
アマテラスの弟はスサノヲで、出雲で祭られてる神だ。

つまり、九州説の卑弥呼の時代には、確実に九州と出雲の交流があったと認めねばならない。
これは、畿内説でも同じ。

そして、出雲からは銅鐸も出ており、大和の大物主も出雲の大国主と同一だとされているのだから、
出雲と大和の交流もあった。東遷説を採用しても同じこと。

九州説だろうが、東遷説だろうが、もちろん畿内説であっても、
卑弥呼の時代に、九州〜出雲〜畿内が倭国の範囲だと認めるのがスジというものだ。

九州の中だけが邪馬台国とするのは、ちゃんちゃらおかしい。




349 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 12:10:11
>>341
> つまり、魏志倭人伝の倭国の範囲は、出雲・丹後・近畿を、その範囲に含まれていなくてはおかしい。
> まず、話はここからだ。

結論が先にありますねえ。

350 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 12:21:34
>>349

批判があるなら、具体的に反論してくださいね。




351 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/20(火) 13:01:31
>>347
>卑弥呼の共立を189年ころとみているようだが、それでは「年長じて嫁せず」
>と矛盾する。248ころには110才以上とか、とんでもない話になる。

「年長」とは幾つなのだ?
5才でも「年長」と言うことを知らないな。
後漢書の時代の場合、10代後半から20代前半でも「年長不嫁」と言えるのではないかな?
30才なら間違いなく「年長不嫁」だな。

卑彌呼が、189年に20才なら、248年には69才だ。
卑彌呼が、189年に30才なら、248年には79才だ。
卑彌呼が、189年に13才(壹與同年)なら、248年には62才だ。
上記場合、200年には卑彌呼が嫁になるには既に年長の24才だ。

352 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 15:34:34
魏志倭人伝と記紀神話を結びつけて、
卑弥呼をアマテラスと考えるなら、
倭国=邪馬台国の範囲は九州〜近畿になるしかない。
それはつまり、畿内説を肯定することだ。

アマテラスが卑弥呼と無関係で、
魏志倭人伝と記紀神話が関係無いという前提で、九州説を唱えるならば、
邪馬台国の記録が記紀神話に反映されてないというわけであり、
九州の邪馬台国は大和朝廷によって滅ぼされたことになる。

最後まで生き残るのは、九州王朝説だけだ。


353 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 16:12:42
>>352
>最後まで生き残るのは、九州王朝説だけだ。

そうですね、だから畿内説は論証無用で何が何でも卑弥呼、邪馬台国は畿内とする。

354 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 16:31:24
>>347
最初に郡使(建忠校尉の梯儁)がやってきたのは、正始元年(西暦240年)なので
卑弥呼の年齢が「年巳長大」なのも、そのときのことなんじゃないかな。

倭人伝は、読めばわかるとおり、
男子はみんな身に文をしているとか、どんな植物が実り、どんな動物がおり、
どんなものが取れるとかが書かれている。

また、どんなものを食べ、どんな生活をしているとか、葬式の様子とか、
法のあり方とか、占いの様子も書かれている。

大人と下戸が道で出会うと、下戸は静々の草の中に入り、うずくまって
両手を付くなんてのも書かれている。

つまり、倭人伝の大半は、あちらからやってきた人が見聞きしたことの
報告文のようなもので出来ている。
卑弥呼の年齢の時点も、郡使がやってきたときだったと考えても不思議ではない。
そのほうが、つじつまが合うし。

355 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 16:33:32
>>347は後漢書を誤読しているようだ、
「年長不嫁」の意味は「年長になっても嫁がなかった」だ。
つまり卑弥呼は高齢になっても漢代には結婚しなかったのだ。
漢の滅亡は220年
>>351で九州王朝大好きさんが言っているように、
卑彌呼が、189年に13才(壹與同年)なら、220年には十分に年長の44才だ。
魏志倭人伝の記述「年已長大」の意味は「魏代には既に高齢だった」だ。
つまり魏使が会った時には既に卑弥呼は高齢になっていたのだ。
同じ事柄でも対象時代が違うから書き方が異なっているのです。


356 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 16:35:16
九州からは船でしかいけない本州にある投馬国と、その先の邪馬台国のことは
我々本州の人間に任せて君たち九州の諸君は狗奴国なんかを頼む!!

357 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 16:38:15
卑弥呼=日女命=天照大神。
620年、推古天皇と聖徳太子によって作られた「天皇記」「国記」と同時期の
「丹波国造本記」を元に書かれた「海部氏勘注系図」が正しい。

358 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 16:45:42
>>356
投馬国や邪馬台国は本州にはない。
投馬国は朝鮮半島南部、邪馬台国は九州北部。

359 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 16:49:50
>>352
卑弥呼=天照大神ならば、邪馬台国=高天原となる。

高天原から征服された出雲も、高天原から天孫が降臨した日向も、
邪馬台国ではないことになる。
もちろん、高天原から饒速日命がやってきた大和も邪馬台国ではない。

>>357
系図の集大成は、古事記・日本書紀。

360 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 17:23:55
■庵寺遺跡:前漢時代の八禽鏡出土 日本海ルート交流を示す重要な発見−−大田/島根

 県埋蔵文化財調査センターは、大田市仁摩町大国の庵寺遺跡の箱式石棺から、前漢時代末期(紀元前1世紀後半)に作られ、8羽の鳥の模様が特徴の青銅鏡「八禽(はっきん)鏡」が出土したと発表した。
前漢鏡の出土は石見地方では初めて。八禽鏡は全国で8例目。
九州北部や鳥取県の出土例があり、同センターは「空白だった島根で発見されたことで、九州と鳥取をつなぐ日本海ルートによる交流の可能性も示す重要な発見」と話している。

 八禽鏡は直径9・6センチ、重さ201グラムで、古墳時代前期(4世紀代)の円墳「庵寺1―B号墳」にある箱式石棺(長さ2メートル、幅50〜75センチ)の右隅に、三つに割られた状態で発見された。
同センターは鏡を割ってから石棺に入れたとみている。
 前漢鏡は全国で約100例の出土があり、県では3例目。八禽鏡8例のうち3例は鏡の破片の出土で、完全な形で復元できるのは珍しいという。

 一般公開は今月から3月にかけ、山陰両県で開かれる「新発見!とっとりしまね発掘速報展」で行う。
21日〜2月15日まで、鳥取県立図書館(鳥取市)、2月21日〜3月15日、島根県立石見美術館(益田市)。【御園生枝里】
1月20日14時1分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090120-00000179-mailo-l32

361 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 17:30:57
>>360
さすが投馬国だね

362 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 18:01:54
>>359

高天原は葛城ですよ。








363 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 19:21:27
>>356>>357>>359>>360>>361>>362はここまでの漢籍に付いての議論を読んでないのか?
漢籍の記述は畿内説を完全に否定している。

364 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 19:27:14
漢籍を全く無視してるのは北部九州説だろw

365 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 19:34:45
>>364
漢から倭奴国が「漢委奴国王」の金印を授与されたのが57年。
倭国王の帥升らが漢の安帝に拝謁を願ったのが107年。
帥升は倭奴国の金印から、たった50年後の出来事。
その帥升の70〜80年後の178〜184年に卑弥呼は倭王に共立され登場する。
そして卑弥呼は247〜249年頃に死亡する。
以上のように倭奴国から邪馬台国の記事は連続している、
また「漢委奴国王」の金印は博多で発見されていて倭奴国が博多付近にあったのは確定済み。
途中で記事の対象が移動したようには読めない、
全て博多近くの記事と考えるのが妥当だろう。


366 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 19:41:46
>>345
>ところが、范曄は、倭奴国を倭人伝の奴国と勘違いし、「倭國之極南界也」
>などと書いている。
>また、狗奴国の位置についても、倭人伝とは異なる。

魏志倭人伝の「次有奴國」と倭奴国とを勘違いしたんですか?そうかな???
狗奴国の位置が違うのは何か別の資料があったのではないか?間違いにしてはおかしな間違形だと思う。

>どうも范曄は、変わった書き方をしようとして間違いを犯す性質のようだ。
>倭国の大乱の「恒・霊間」もその一環だろうと思う。

間違としたら「恒・霊間」を范曄が何処から持って来たか納得がいかないな。


367 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 19:47:48
近年の発掘調査で考古学の示すところは
すでに弥生時代に、北部九州と山陰や
瀬戸内海をめぐる九州・中国・四国・近畿など、各地の間で
盛んな交流があったということだね

368 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 20:18:37
>>367
当然だろ、でも考古学では邪馬台国は探せないぜ。

369 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 20:20:34
盛んな交流は縄文時代からあるわいw

370 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 20:36:28
>>368
どっかの古墳から卑弥呼が魏からもらった「親魏倭王」の金印が出てくれば
それだけで考古学の検知から邪馬台国が見つかるのだが。

371 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 20:47:27
高温多湿な日本の気候では、卑弥呼の時代の木管は残らない。
石碑に刻んだり、青銅器に文字を入れる習慣がなかったことが
悔やまれます。

372 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 21:42:29
>>365

下らない。

それを煎じ詰めれば
『金印』をアホの如く繰り返すサイキバ君と同じレベルw

「連続している」って?
おいおい、てめえが連続していると見るからそう見えるだけの話だろwww



373 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 22:06:53
>>367
貝輪なんてのは、沖縄から出てくる。作りかけのものも出てくるから、
各地で見つかる貝輪は、沖縄で作られたとされる。
沖縄とも交流があったことを示している。

交流といえば、大陸や半島とも古くから交流があったわけだが。

そういう意味では、九州と山陰の交流なんて当たり前。

374 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 22:09:59
邪馬台国論争を語る上で
弥生末期には九州は衰退しつつあったと言うのは
よく言われるこ事だが…

それも良く見ると衰退したのは専ら筑紫平野の方ではないか?
高島が書いていたが鋳型の出土を見ると玄界灘周辺より筑紫の方に
古いものが出土するとか

国内で鋳造が開始されて九州では筑紫の方が先に盛んになったらしい。

まあ素人の推測だが
専門工人の階級を生み出すにはそれだけの食料生産の余剰が必要で
その点は筑紫平野のほうが有利だったり
玄界灘周辺のクニにすれば
「右から来たものを左に受け流す」だけで利鞘を稼げただろうからw
原料を仕入れて加工することに対して筑紫よりも最初の頃はあまり熱心でなかったのかもしれないwww

で、結局、現在通説で福岡平野に比定される奴国の二万個を上回るクニを
九州に求めるのはあまり現実味が無いのでは無いか?

無論、単に人口と言うのなら筑紫平野のほうが多かったんだろうが
弥生末期古墳時代早期に九州に「四隅突出墳墓」「前方後円墳」「前方後方墳」等の
かなり広範な地域で共通する埋葬文化も見られず
果たして五万戸・七万戸とまで書かれたクニを見出せるのか疑問だwwwwww




375 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 22:12:17
九州〜朝鮮半島の海路の女神が宗像三女神。
この女神はスサノヲの娘なんだから、
九州と山陰の交流なんて当たり前。

それを無視して、邪馬台国を九州島に押し込めるなんて愚の骨頂。

なにが漢籍だ。

バカめ。






376 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/20(火) 22:12:27
>>357
卑弥呼≠日女命≠天照大神

377 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 22:15:04
>>372
卑弥呼が共立された時、少女だったとすれば、台与のときと同じで
大乱は、後継者の王をめぐる争いだった可能性が高い。

梁書などには、歴年無王などと書かれているわけだから。
そうすると、卑弥呼と同じ立場の「倭王」は、卑弥呼以前から存在していた
ことになる。

378 :374:2009/01/20(火) 22:17:12
「筑紫の没落」と言うことを念頭に置けば
吉野ヶ里の衰退も結構スムーズに理解できると思うのだが?w

筑紫平野における一大工業拠点の地位を福岡平野にさらわれたとwwww



379 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 22:30:16
>>371
それどころか、私は邪馬台国の時代の人たちが、
自分たちの歴史(というか政治というか)を、
後世に伝えようという意思・文化を持っていたのか(文字にしろ口承にしろ)、
ということに、やや否定的な見解を持っています。
奴国や伊都国等々についても同様です。

380 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 22:31:59
>>377
当然の話。

381 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 22:36:09
>>372
何処に切れ目があるんだ?
畿内に邪馬台国があったとしたら何処から畿内の話になるんだ。

382 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 22:36:22
日曜日のNHKスペシャルを見て全てがわかりました。
卑弥呼の時代は乱婚だった。
チンパンジーと同じように、聖なる儀式で一度に複数の男の精子を受け入れ、
その中で一番生命力のある精子が受胎した。それによって生命力の強い子孫を
残せた。
通い婚の風習があった部族。それが卑弥呼の国。


383 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 22:52:41
しかし…
「後漢書」が「魏志」や「魏略」とは別史料をもって「倭伝」をものもした…
てのはその史料が出てこない限り無理なんじゃねえのか?

よく言われる後漢書の
「女王国の東の海を渡ること千余里にクナ国があり…」
ってのも魏志倭人伝中の文章の合成なんだろ?wwww

「倭伝」の部分に関して何処までの信用性があるものやら…





384 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 22:54:51
>>374
>果たして五万戸・七万戸とまで書かれたクニを見出せるのか疑問だwwwwww

五万戸・七万戸は規模から見て國邑ではない。
韓の説明に「有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁韓」と紹介されている
馬韓、辰韓、弁韓と同じ様な種だ。
倭には韓と同じ様に投馬國や邪馬壹國などの種(國邑の連合国)があったのだ。
投馬國は朝鮮半島南部に、邪馬壹國は北部九州にあり
投馬國には狗邪韓國などが属し
邪馬壹國には對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國、斯馬國、已百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、為吾國、鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國が
属していたのだ。

385 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 22:57:54
>>383
>史料が出てこない限り無理なんじゃねえのか?

前の議論を読んでね。「後漢書」には「魏志」や「魏略」に無い記述がありますよ。

386 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 23:04:02
共立というのはだな、
各国の王が卑弥呼と乱交して、誰の子かもわからない子供が生まれる。
その子を王としたわけだ。それがトヨだ。
この方法は平等なように見えて、実は、卑弥呼がすでに妊娠していれば
全てが決してしまうというトリックが使えて便利な方法だった。

387 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 23:12:08
まあ「魏志」「魏略」に先行する史料の存在なんてお話は
「太平御覧」引用の倭人伝にも言われていたらしいが

結局のところ現在では魏志倭人伝に梁代の知識を持って改変・増補されたと見るに落ち着いているらしい。

(ちなみに、それに大きく寄与したのが榎一雄センセイの『太平御覧に引く魏志の文に就いて』だったとか…)

記述に差異があるからといって別史料によるものと考えるのは
あまりに短絡過ぎるのではないのか?

「後漢書」の「倭伝」が別史料をもって書かれたと言うのは
文献史学の学者の間で通用する意見なん?wwwwwwwwwwww



388 :387:2009/01/21(水) 00:01:45
この板で好んで文献について語っている連中に聞きたいんだが…
まあ文献史学の基本と言うか手続き論とでも言うのか…

後代の文献に違った記述があるからといって
そのまま”別史料によるもの”としたら何でもありなんじゃねえの?

それこそ怪しげな「○○文書」を持ち出して我田引水やり放題だろ?wwww

>>387で挙げた御覧でいうなら明確に連続式で書いた史料があったという話になるようなもんでw
(まあ畿内説には都合がいい話なんだろうがwwwww)


389 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 01:39:56
文献といったって解釈するのは人間の脳内なんだよな。だから、えんえんと卑弥呼は2人
いたとか、共立時すでに年長大だったとか、70〜80年が倭乱の時期だとか、自分の考え
を主張しても、根拠がないから水掛け論にしかならないでレスだけ流れてく。

「私は人面犬を見た」という本があれば、それだって文献資料だし、まあ常識に照らしてあり
えないが、完全に否定することはできない。「オバマは宇宙人と密約している」とかいう馬鹿
げたことだって、実は完全否定するのは不可能に近いんだ。

簡単に学者の意見を鵜呑みにしないのは、俺はいいことだと思ってるし、自分の説を持つ
のは歴史を勉強する楽しみの一つだけど、ネタとしていじるのはともかく、結論は出ないも
んだってことを頭の隅に入れておかなくちゃな。「俺は絶対正しい」っていい方は頭の悪さを
さらけ出してるだけ。

考古学だって基本は同じ、だから三角縁神獣鏡一つとってもあれだけの議論になる。ただ
文献よりははるかに新資料は出やすいから、俺ら考古学専攻のもんは、いつ自分の説が
一発でひっくり返されるかハラハラドキドキだけどな。

こんなの常識〜〜。

390 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 02:59:54
>>387
>「後漢書」の「倭伝」が別史料をもって書かれたと言うのは
>文献史学の学者の間で通用する意見なん?
通用しないね。後漢書も梁書も倭人伝を解釈した結果の作文に過ぎないというの
が一般的な見方だ。

391 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 04:41:02
山尾幸久も「魏志倭人伝」で「信用できるのは魏志だ」と書いている。
となれば、その魏志をどう読むかだ。ここで、倭人伝を始めとする史書の記事の書き方
をみておく必要がある。例えば、倭人伝の正始元年の記事だ。「正始元年、太守弓遵遣
建中校尉梯儁等、奉詔書印授詣倭国、拝仮倭王、并齎詔、賜金狛帛錦罽刀鏡菜物。倭王
因使上表、答謝詔恩」太守弓遵の派遣と倭王の答謝詔恩が同じ年とは思えないが、答謝
詔恩の年は省略されている。宋書の太祖元嘉28年には、「二十八年、加使持節都督倭
〜慕韓六国諸軍事、安東将軍如故、并除所上二十三人軍郡。済死。世子興、遣使貢献」
とある。これも、28年の出来事は「軍郡」までで、「済死」は二十八年ではなさそうだ。
そして、興の遣使もまた「済死」とは別の年だろう。このように、史書は、数年の間に
起こった出来事を一連のこととして、いちいち年の表示をしないことが多い。


392 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 04:44:05
↑の続き。
倭人伝の記事は、以上のことを念頭において読む必要がある。
「其国本亦以男子為王、住七八十年。倭国乱、相攻伐暦年、乃共立一女子為王、
〜景初二年六月、倭女王、遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献〜其年十二月、
詔書報倭女王曰、制詔親魏倭王」
倭人伝が伝える事実をみると、倭国乱終結→共立→倭女王遣使→制詔親魏倭王、
これが一連の事実だ。そして、その一連の事実の中に、「景初二年」という年
が表示されているだけで、倭国の乱や共立の年は明記されていない。となれば、
これら一連の事実は「景初二年」とあまり長い年月を隔てた出来事ではないと
いうことだ。共立と倭女王遣使が大きく隔たっていたなら共立の時期を明記し
ないわけにはいかないが、共立と倭女王遣使などが、さほど離れていなかった、
だから、魏の直接に関わってはいない倭国の乱や共立については、いちいちそ
れが何年に起こったことかを明記しなかったということだな。つまり、卑弥呼
の共立は、倭女王遣使の少し前なんだよ。卑弥呼の遣使は、倭の王に即位した
という挨拶だったのではないかな。


393 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 07:21:02
結論だな。

>簡単に学者の意見を鵜呑みにしないのは、俺はいいことだと思ってるし、自分の説を持つ
>のは歴史を勉強する楽しみの一つだけど、ネタとしていじるのはともかく、結論は出ないも
>んだってことを頭の隅に入れておかなくちゃな。「俺は絶対正しい」っていい方は頭の悪さを
>さらけ出してるだけ。


>「俺は絶対正しい」っていい方は頭の悪さをさらけ出してるだけ。
>「俺は絶対正しい」っていい方は頭の悪さをさらけ出してるだけ。
>「俺は絶対正しい」っていい方は頭の悪さをさらけ出してるだけ。


394 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 07:38:05
>>392
一番都合が良いからと言って、一番信頼できるというのもねえ。

他の歴史書は、すべて大乱の時期を漢の時代としている。魏志倭人伝だけが、
年代を書いていない。しかし、文面から漢の時代を指しているのは明らかだ
ろう。信頼できる?倭人伝が、大乱を魏の時代としているのに、
あとでできたすべての書物が漢の時代と書くことはないと思うが。

ところで、卑弥呼の前にいた男子の王をどのように解釈するのかな。

倭人伝に、はかない一縷の望みを賭ける理由は、やはり纏向との関連かな。
纏向の建設は、どんなに遡っても2世紀までは行かない。
しかも、卑弥呼が建国の主導的立場を取るためには、少女であっては困る。
そういう理由なんだろうな。

ちなみに、卑弥呼が帯方郡に使者を送ったのは、景初二年に公孫氏が滅び、
帯方郡が魏の支配下に入ったからだろう。

395 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 09:02:42
>>392
「住七八十年」「歴年」とか書いてあるので景初二年(魏が始まって18年目)からは
大昔の漢代の出来事は明らかですよ。

396 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 09:04:33
>>390
また「定説」や「一般的な見方だ。」を捏造するWW。


397 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 12:33:29
>>396

本当に定説でも、おまえは定説を信じないだろ。同じことだ。


398 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 13:12:36
>>397は定説の意味を理解しているのか?


399 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/21(水) 13:30:00
>>392  >>395

魏志倭人伝の時代の判別は、>>395が書いている通り。
それに加えて、過去(漢代)現代(魏代)を分けて示す言葉がある

『其國本亦以男子爲王。住七八十年倭國亂 相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼・・・・』
過去(漢代)を示す語句:「本亦」、「住七八十年」、「歴年」
現代ではないこと(漢代)を示す語句:「一女子」 単なる昔の市井の一人の女の子であるとして敢えて名前不明としている。
現代であることを示す語句:「卑彌呼」 その一女子こそ今女王をしている卑彌呼だよと現代についての記述に戻ったことを強調している。

以上により、共立の時期は、220年以前のそれも魏代から遥か昔の漢代であることがわかる。

>>392
「歴年」を「暦年」と改変してまでして自説を主張しない様に。

400 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 18:04:50
>>390

つまり、後漢書は「解釈」だけで、三国志に無い大倭王の朝貢記事を書いたと言いたいわけですね。

401 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 19:58:09
>>400
『後漢書も梁書も倭人伝を解釈した結果の作文に過ぎないというの
が一般的な見方だ。』等と言っている>>390は頭がおかしいのです、
『後漢書』倭伝には『三国志魏書』倭人伝には全く無い倭についての記述があり
明らかに『三国志魏書』倭人伝以外の資料も参考にしています。
『三国志魏書』の「解釈」だけでは『後漢書』の倭の記事は書けません。

402 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 20:18:58
>>400 >>401
子供みたいな議論だな。そんなことは誰もが承知。問題は倭国乱や卑弥呼共立
に別資料があるかどうかだ。

403 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 20:21:57
>>399
九州王朝氏らしいこじつけだ。そんなことでは、今年もトンデモから脱出できんね。

404 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 20:43:26
中国には、盗掘されてても発掘はされてない遺跡が山のようにある。考古学者の絶対的な
不足と、社会的に考古学の価値がほとんど評価されていないのが原因。しかし兵馬俑の件で
観光資源になるとわかったらしく、今後は期待できる。

中国遺跡のよいところは、全体的に湿潤な日本と違って気候的に遺物が残りやすい場所が
かなりあることと、文字資料が残されていること。日本の弥生遺跡から「和語」の文字資料が
出ることは考えられないが、中国では前1500年〜からばんばん出ている。

墓泥棒もかさばるだけで金にならない木簡、竹簡には手をつけないだろうから、文献の新資
料の今後の発掘はあるかもね。

こんなの常識〜〜。



405 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 00:05:30
>>402
『後漢書』の「桓霊間倭國大亂 更相攻伐 暦年無主」が『三国志魏書』だけを基に書かれたとすると
『三国志魏書』「住七八十年」は『後漢書』では「桓霊間」の前となるので(66、76〜146年)となる。
建武中元二年(57年)と永初元年(107年)の記事があり66、76年はその途中で中途半端な時期で変。
『三国志魏書』の「住七八十年」を「倭國亂」の期間と范曄が勘違いして「桓霊間」としたとの意見も「桓霊間」は43年しかなく変。
『三国志魏書』からだけでは「桓霊間」は如何にしても創り出せない。

406 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 03:26:29
>>405
「住七八十年」は、男王の時代が7、80年続いたということ。ただそれだけのこと
だから、その男王を、57年に朝貢した倭王や107年朝貢した倭国王・帥升にあてる
のはまちがい。魏志、後漢書の考え方は、1例を示せば以下のとおり(もちろん、
何年か前後する可能性はある。歴年を何年とみるかの問題もある)。

魏志倭人伝
@ 住七八十年は、152〜162から232。
A 倭国乱、相攻伐歴年は232〜237。
B 卑弥呼共立は237〜238。

後漢書
@ 住七八十年は倭国乱の期間。135から145に始まり215ごろが終わり。
    桓霊の間はまちがいなく乱が続いていた時代ということで、霊帝時代
    の終了とともに直ちに乱が終わったということではない。
A 乱の後に更に相攻伐歴年があった。215〜220ぐらい。
B 卑弥呼共立は220前後。


407 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 06:41:48
>>406
年代に根拠がない。

 ………

其國本亦以男子爲王 住七八十年

この70年か80年前の男子の王の前はどうだったのだろう。男子の王では
なかったのだろうか。では、女王?、それとも王はいなかった?

一般的な意味で、男子の王と受け取れば、このように不自然な印象がある。

しかし、この男子の王を陳寿が特定していたとすれば、不自然ではない。
つまり、陳寿は、倭国王・帥升を想定して書いたのである。
その国、元は(帥升という)男子を王としていた、住すること七八十年、
とすれば不自然さがなくなる。

帥升は、記録にも残っているので、陳寿も知っている可能性が高い。また、
記録から知りえたとすれば、帥升が朝貢した永初元年(西暦107年)が帥升の
時代として、陳寿の頭の中にあることになる。

107+70=177 107+80=187 つまり177年から187年あたり。
梁書などに書かれている霊帝の光和中(西暦178年から183年くらいか)と
ほとんど一致する。

408 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 12:41:01
>>406は誤読との上に根拠も何もない。
>魏志倭人伝
> B 卑弥呼共立は237〜238。

これは有り得ない、 魏使が訪れた238年には「年已長大 無夫婿」の卑弥呼が、
当年や前年に即位したばかりとは考えられない。
歳既に高齢なのだから高齢になって既に10〜20年は経った老女で独身の卑弥呼のこと。
一国の指導者、しかも高齢の老女に対して「一女子」とは表現しない、「一婦人」等と表現される、女子とは分別の付かない女のことです。
また折角共立しても死なれたらまた乱に戻ってしまう、何時亡くなるかもしれないような老女を王に共立するはずも無い。
魏志倭人伝では少なくとも卑弥呼共立は魏使が訪れた238年の40〜50年以前の漢代と見ているようです。
従って魏志倭人伝の@Aの期間も40〜50年のこととなり、
A 倭国乱、相攻伐歴年は180、190年以前の出来事。
@ 住七八十年は倭国乱の期間が不明なのでよくわからない。

後漢書では「桓霊間倭國大亂〜於是共立為王」とあり
Bの卑弥呼共立を桓帝と霊帝の間(146〜189年)としています。
同じく後漢書では「桓霊間倭國大亂」なので
Aの倭國大亂の期間を霊帝の間(146〜189年)としています。
Bの卑弥呼共立は霊帝の間(146〜189年)終わり頃となるでしょう。
@住七八十年は霊帝の間(146〜189年)以前の期間となる。




409 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 15:10:11
『三国志魏書』倭人伝の次の文の意味は
「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道、能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國」
「住」はとどまる、停止するの意味。
「女子」は分別の付かない女の意味。
「住七八十年」はとどまること七八十年なので倭國亂ではなく男の王の時代のこと。
「乃共立一女子為王」は及んで一人の女(分別の付かない女、つまり少女時代の卑弥呼)を王として共立した。
「名曰卑彌呼」より前は漢代に王に共立されるまでの少女の卑弥呼の姿、
「名曰卑彌呼」より後は魏代の魏使が会った老女の卑弥呼の姿。

410 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 15:24:53
『後漢書』倭伝の次の文の意味は
「桓霊間倭國大亂 更相攻伐 暦年無主 有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事神鬼道 能以妖惑衆 於是共立為王」
『三国志魏書』倭人伝では中ほどにあった共立が「於是共立為王」と文末に移動し
この記事全体が漢代の出来事であることを示している。
「年長不嫁」と初め少女だった卑弥呼が漢代には高齢になっても嫁がなかったと言っている。

411 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 15:54:36
『三国志魏書』倭人伝
「その国、本は男性を王としたが七、八十年で終わり、倭国は乱れ互いの攻伐が何年も続いた、及んで一人の少女を王として共立した。
名前を卑彌呼という鬼道に従いよく衆を惑わした。(魏代には)年齢は既に高齢で夫はなく、弟がいて国の統治を補佐した。」

『後漢書』倭伝
「桓帝と霊帝の間、倭国は大乱。互いに攻伐し、暦年に亘って主がいなかった。名前を卑弥呼という一人の少女がいて。高齢になっても嫁がず、神鬼道に従いよく衆を惑わした。ここにおいて卑弥呼を王に共立した。」

412 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:05:40
>>407
>この70年か80年前の男子の王の前はどうだったのだろう。男子の王では
>なかったのだろうか。では、女王?、それとも王はいなかった?
分かってないな。「其国」とは女王国。70年か80年前の男子の王の前は、女王国などなかったんだよ。

>陳寿は、倭国王・帥升を想定して書いたのである。
帥升は北九州の王だ。女王国は北九州の国ではない。別の国なのだから、帥升→卑弥呼ということは
ありえないな。

>107+70=177 107+80=187 つまり177年から187年あたり。
>梁書などに書かれている霊帝の光和中(西暦178年から183年くらいか)と
>ほとんど一致する。
後漢書はどうするのかな?



413 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:11:12
>>411
>名前を卑弥呼という一人の少女がいて。高齢になっても嫁がず、神鬼道に従い
>よく衆を惑わした。ここにおいて卑弥呼を王に共立した。
ほう。少女が老女になるのを待って共立したって? これは新説だな。


414 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:47:27
巫女→女王 という緊急避難的な共立だろ

415 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:51:24
卑弥呼は乱婚だった。
やりマンで、誰の子かわからない子をたくさん生んで、各地の王の後継とした。


416 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:05:20

ヒ、ヒミコサマ・・・・・・・・・・


417 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:05:29
倭国大乱…それが果たしてどれくらいの期間でどれだけの範囲だったのか分からずとも
まあ流石に九州がその舞台から外れることは無いだろうw

意外と筑紫の没落とリンクしているんじゃないかと想像しているんだが…

そう言えば例の吉野ヶ里の首無し遺体(w)
あれって甕棺編年で大体の実年代出ていないのかな?







418 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:17:21
■垣内遺跡 弥生時代最大級の鍛冶工房を確認 兵庫・淡路

 兵庫県淡路市(淡路島)の垣内(かいと)遺跡で、鉄器を製作する弥生時代後期の大規模な鍛冶(かじ)工房とみられる竪穴建物跡8棟が確認され、同市教委が22日発表した。
炉のある工房跡は昨年度も2棟見つかっており、弥生時代のものとしては国内最大級。
当時、淡路島が鉄器の一大産地だったことがうかがえるほか、日本で鉄器生産技術が伝わったルート解明のうえでも注目されそうだ。

 標高約200メートルの丘陵地にあり、07年度から調査している。
今回確認されたのは弥生時代後期後半(2世紀初め〜3世紀初め)の竪穴建物跡11棟。うち8棟で、床面に強い熱を受けて赤く焼けた炉跡が見つかった。
建物跡は円形や方形で直径5メートル前後のものが多く、最大のもので直径10.5メートルあった。鉄の矢じりの「鉄鏃(てつぞく)」など鉄製品や、石づちなどの工具も多数出土した。
 また、朝鮮半島か中国から輸入されたとみられる大型の鉄製品(長さ約20センチ、幅約5センチ、厚さ約3センチ)も見つかった。高度な鉄器生産技術が集まっていた可能性があるという。

 日本での鉄器生産は弥生時代中期後半に九州北部で始まったとされ、工房跡は四国、中国地方などで見つかっている。
松江市の上野2遺跡では弥生時代後期後半とみられる工房跡が6棟見つかっており、これまで最大とされてきた。現地説明会は25日午前10時半と午後1時半。【登口修、吉川雄策】
1月22日21時9分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090122-00000015-maip-soci
拡大写真
国内最大級の鍛冶工房とされる竪穴建物跡が見つかった垣内遺跡。手前の建物跡は、直径10.5メートルもある=兵庫県淡路市黒谷で2009年1月20日午後0時44分、登口修撮影
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090122-00000015-maip-soci.view-000

419 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:40:24
>>413
>>名前を卑弥呼という一人の少女がいて。高齢になっても嫁がず、神鬼道に従い
>>よく衆を惑わした。ここにおいて卑弥呼を王に共立した。
>ほう。少女が老女になるのを待って共立したって? これは新説だな。
じゃあ、詳しく書くと
名前を卑弥呼という一人の少女がいて。少女は高齢になっても漢代には嫁がず、神鬼道に従い
よく衆を惑わした。ここにおいて少女の卑弥呼を王に共立した。

「年長不嫁」過去のことだから結果が分かっているので途中にあるだけ。

420 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 01:30:17
「吉野ヶ里」の首なし人骨に関しては、何らかの刑罰、あるいは宗教的犠牲の可能性もあり
断定は避けたいが、鏃等が刺さったものについては、戦乱の犠牲者と見てもよいだろう。
佐賀県教育委員会の発掘チームは慎重に断定を避けているが、弥生中期(前1世紀ー
1世紀頃)と見る人が多いようだ。俺的には「倭国王帥升」以前と推測している。

一方、「高地性集落」に関しては、北九州には分布が少なく、弥生中期に瀬戸内から大阪湾
にかけて発達、弥生後期には近畿とその周辺部、古墳前期にそれ以北(北陸等)に分布し
焼け土(のろし跡)、狩猟用ではない石鏃等の出土から、山城のような軍事的性格のもの
であったと考える研究者が多い。「神武東遷」と関連付けて考えるものも一部いるようだ。

集落の分布状況から、弥生中期から後期にかけて、北部九州ー瀬戸内ー畿内間で大規模な
軍事的衝突があったのは疑いなく、いわゆる「倭国乱」は九州島内限定の出来事ではなかった
と考えている。「のろし」実験の結果でも、北九州ー近畿間で情報で数時間で伝わっている。

また、愛知県の「朝日遺跡」では弥生中期初頭ー後半にかけて(吉野ヶ里と重なる時期)環濠の
ほか柵列、逆茂木、乱杭など強固な防御施設が見つかっており、弥生時代の戦乱は東海を
含む日本全体といえる規模で行われたらしい。

やっと参加できる話題になってきた。長文スマソ。こんなの常識〜〜。

421 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 07:30:33
>>419
>卑弥呼という一人の少女がいて。少女は高齢になっても漢代には嫁がず、
>神鬼道に従いよく衆を惑わした。ここにおいて少女の卑弥呼を王に共立した。
少女だった卑弥呼は高齢になっても少女と呼ばれていたのか。
それに、魏代には卑弥呼は結婚したという解釈かな?

422 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 09:11:21
>>421
高齢の卑弥呼は少女とは呼ばれない。
少女時代の卑弥呼が共立された。
卑弥呼は共立された後も漢代には結婚しなかった、
後漢書には魏代の卑弥呼については書いてない。
「年長不嫁」とは共立の前も共立の後も漢代には結婚しなかったです。
過去のことですから共立の前も共立の後の事も分かっているのです。


423 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 19:57:14
邪馬台国は高千穂で
だめなのけ〜?

424 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 20:11:39
淡路島で大変なモノがみつかったね
九州の最後の砦の「鉄」が崩れた

425 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 20:37:58
>>420
>「のろし」実験の結果でも、北九州ー近畿間で情報で数時間で伝わっている。

摂津から山背を経て大和までの狼煙のネットワークがあったって話は知ってたが
相当に広範囲にあった可能性があるんだな。

よく九州説の連中は「首長連合」と言うものに対して現実味が無いとか言うんだが
先ず生き残る為にネットワークが必要だったんじゃないのかねえ…。

>>424
つうか最初から「鉄」なんてものは砦でも何でも無いだろう?





426 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 22:13:40
>>420
高地性集落は、防御的な集落ではなかったかと思う。
つまり、逃げ場所的な集落。あるいは見張りをする集落。

朝鮮の三国史記なんかを見ると、倭国が攻めてきたという記録が数多く
残っている。どの程度信頼性があるかは別だが。

この勢力の主体がどこにあったかとなると、前漢鏡、後漢鏡の出土状況など
から見て、北部九州だろうと思う。
大陸に出かけるほど、この地域の行動範囲は広い。
朝鮮半島まで攻めていた勢力が、瀬戸内海などを無視するわけがない。
むしろ、大海を渡る危険が少ない分、瀬戸内海方面の方が出かけやすい。

頻繁に攻めるから、防御的な集落が出来る。
そういう考えの方が妥当な気がする。
九州に高地性集落が少ないのも、そう考えれば納得できる。

たった一つの大きな戦乱で、各地に高地性集落ができるというのは考えにくい
と思う。

427 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 22:16:59
>>420,425その狼煙台の司令塔というべきものが讃岐富士です。
周防灘や豊予海峡を渡って急襲してくる神武軍の動きは、
讃岐富士にある卑弥呼の国まで数時間で伝わった。
狼煙台の分布を調べれば、邪馬台国がどこにあったかがはっきりする。
またひとつ、邪馬台国のなぞを解く鍵が見つかった!

428 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 22:24:40
なーんかまた眉唾っぽいもんが出てきたなぁと思うw
勢いずくのは結構だけど思い込むのも程ほどにしとけよ
狼煙、ねぇ

429 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 22:37:55
>>428
狼煙台が古代史を解くキーワード。
高地性集落を作っても交互の通信手段がなければ
数に勝る神武軍の攻撃に耐えて生き残ることは不可能。

430 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 23:30:54
>>418
この発見を含めても、なお鉄器出土量に関しては圧倒的に北九州優位。しかし、弥生中期
の畿内は北九州に比べ副葬の習慣が未発達であったこと、ヤレた鉄器は鋳つぶして再利用
していたと思われることなど、割り引いて考える必要がある。マキ向大溝の矢板など鉄製工具
だなくては作れず、畿内では大事に使われていたのだろう。

この遺跡はあくまで鍛冶工房らしく、製鉄が行われていたわけではないことに注意が必要。
近年、山陰での弥生末期の砂鉄精錬跡が発見されるようになり、鉄の流通は必ずしも大陸
からだけではないことにも注意が必要。

こんなの常識〜〜。

431 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 08:26:18
>>411
>及んで一人の少女を王として共立した。
女子は単に女性。少女などと置き換えてはいかんね。
>(魏代には)年齢は既に高齢で夫はなく、
かってに「魏代には」などと付加しないこと。「已」の基準は文章的に明らかに
なってなければならん。共立以外にはないよ。

倭人伝で時の経過を示す語は、「住七八十年」と「歴年」だけだ。
七八十年+何年か(数年、せいぜい5年程度だろう)。倭人伝はそれ以上昔の
ことは語ってはいない。





432 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 08:56:05
>>426
>前漢鏡、後漢鏡の出土状況などから見て、北部九州だろうと思う。
後漢までは良いとして、その後が続かないな。そう考えれば、九州でその後も
繁栄したのは日向だよ。

433 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 10:46:46
>>426
海賊は金持ちしか襲わない。
貧乏人を襲っても何の特にもならないだろう?
どうしてそんなことに気づかないのか不思議だ。

434 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 11:20:56
>>433
目当てとするものは幾らでもあるんだよ。土地と資源、・・・そして人間だ。

435 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 11:38:19
>>431
>>及んで一人の少女を王として共立した。
>女子は単に女性。少女などと置き換えてはいかんね。
論語「唯女子与小人、為難養也。近之則不遜、遠之則怨」 
中国封建時代には、女性は学問から遠ざけられており、道理に暗かったためにこう言われた。
女子とは道理に暗い女性のこと、単なる女性ではない。
道理に暗い女性だった卑弥呼が親魏倭王に任ぜられる程になるには
「乃共立一女子為王」から「年已長大」までは数十年の歳月が必要だ。


436 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 11:38:59
卑弥呼を少女にしたがるのはロリ。


437 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 13:05:55

ヒミコタン・・・・・・・・・・


438 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 14:21:21
>>426
これについてはいろいろなスレで書いているが、古代日本人の移動能力はきわめて高か
ったと考えることができる考古学的根拠はたくさんある。

縄文期(5500前〜)の青森三内丸山遺跡から、新潟のヒスイや北海道の黒曜石が出土し
ており、それからみても弥生人はわれわれの一般的認識よりはるか上の移動能力と意欲を
持っていたのは間違いないところ。北九州ー大阪湾間は容易に航海できたはずだ。

弥生後期に最盛期を迎える奈良の唐古:鍵遺跡からは、大型船に「持衰」らしき人物(もち
ろんこれには異論がある)が乗った様子が描かれた絵画土器が出土している。

有名な話だが、マキ向遺跡出土土器全体の約15%は他地域からの搬入土器で占められ、その
うち東海からのものが半数近い。交易センターあるいは宗教的捧物の容器等として流入した
可能性がある。その中で、九州地域の土器等が少ないのは、単に交流がなかったと見るより
対立関係にあったと考えるほうがより自然だ。  こんなの常識〜〜。


439 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 17:18:02
>>438
尼崎市の田能遺跡なんかは、九州との関連を言われることがある。
移り住んだのではないかとか。

持衰は船には乗っていないと思う。倭人伝には、遭難したら、これを殺そう
とする、とあるが、船に乗っていて遭難したら、殺すまでもなく死んでしまう
わけだし。

土器の移動がどういう意味を持っているのかについては、いろんな仮説が
ありそう。

440 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 20:09:18
179 :名無しさん@九周年:2009/01/24(土) 10:40:54 ID:h/eFJrbg0
箸墓は殆どもう卑弥呼の墓で確定。もう1人の女王台与の墓じゃないかって説も有るけど。
九州説騒いでいるのは素人歴史家ばかりというのが実態。


441 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 20:11:06
176 :名無しさん@九周年:2009/01/24(土) 07:27:21 ID:pjuBPnGXO
ところで「箸墓古墳は卑弥呼の墓」って主流なの?トンデモ?

188 :三河農士 ◆fZjiKO5lZ2 :2009/01/24(土) 18:15:58 ID:kQtCRXsTO
>>176
かなり有力。
てか魏志倭人伝自体が後世の支那の歴史家が伝聞で書いたものだから鵜呑みにするのもどうかと思うのですがね。


442 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 03:07:05
>>438
>九州地域の土器等が少ないのは、単に交流がなかったと見るより
>対立関係にあったと考えるほうがより自然だ。
2世紀後半には倭国乱が終わったのでは? 九州と対立してたってのは大和は
倭国からはずれていたってことか?

443 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 18:19:13
>>441
トンデモだな。だいたい、箸墓は大きさが合わん。後円部の直径が合うとか言う
輩は径の意味が分かってないな。径というのは円の場合だけではない。図形の差
し渡し。前方後円墳なら長さも幅も径だ。大きいことを伝えようという径は勿論
長さの方。 後円の直径などにこだわってはだめなんだよ。だいたい、考えても
みろ。できあがった前方後円墳をみて前方部だとか後円部だとか分けて考えるか?
それは航空写真などをみてはっきりするだけ。当時は横から眺めるんだ。長い山
のような陵ってだけなんだよ。卑弥呼の墓は全長が百数十メートルのものを探さ
にゃならんのだ。
畿内説論者も箸墓に考古学的証拠は何もないことを認めているよ。最近、築造年が
3世紀中葉になりそうだという説が出てきた、そうなれば、卑弥呼時代で一番大き
な墓だから卑弥呼の墓では、ってだけの説。それだけの話だ。

444 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 19:53:45
アマテラスが岩戸に隠れて世の中が真っ暗になったとあるけど、それが卑弥呼を
共立する以前の戦乱の世のことでは?

また、戦乱は北部九州で起こっていて、九州から本州に逃げてきた勢力が邪馬台国
を作り、他の国(出雲、吉備など)と協力して西日本を統一したのでは?

445 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 22:13:59
天の岩戸伝説が残る信州戸隠村、
聖徳太子と書簡を交わしたことで有名な善光寺を中心とした文化圏、
実は卑弥呼の墓も長野にあったのだ。

これで全てのなぞが解けた!

446 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 22:37:14
倭人伝によると、卑弥呼が死んだあと、男王が立ったが、国中が不服で戦乱に
なった。そこで、台与を女王にすると国は定まったとあり、記述はそこで
終わっている。

梁書などにはもう少し先まで書いてある。「其後復立男王 並受中國爵命」と。
つまり、「その後、また男王が立ち、中国の爵命を並び受く」、となる。
これは、倭人伝に書かれていないところを見ると、魏の時代の出来事では
ないのだろう。

晋書には、「泰始初 遣使重譯入貢」とあるので、泰始初め、256年頃に
倭王が使者を出したのだろう。
梁書では、そのあと「晋安帝時、有倭王賛」と西暦400年頃の時代に飛ぶ。
謎の150年という事になるわけだが、その間に何が起きたのだろう。

いわゆる「倭の五王」は、朝鮮半島の権益を得るために有利になるように
中国の権威を利用しようとしたふしがある。
中国に使者を出すのにはなんか理由があるんだよな。

447 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 22:49:50

トヨタン・・・・・・・・・・


448 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 00:29:50
>>438
>古代日本人の移動能力はきわめて高かったと
南北アメリカ大陸への人類の拡散を考えると、移動能力の高さは人類が普遍的に持っているものと思えるが、
古代日本人に限定している理由は?
ちなみに物の移動は何世代かかっているのか分からないので、移動能力が高かった証拠にはなりにくいと考えられないか?


449 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 01:19:06
http://anotoshi.com/item/no9/index.html

450 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 03:14:15
>>446
晋書の泰始初年(265年)倭入貢は、壹與が張政を送り届けた時の遣使のこと。

451 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 03:23:42

イヨタン・・・・・・・・・・・


452 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/26(月) 04:31:59
>>445
戸隠村(戸隠山)は天照の岩戸を隠した場所


天照の戸隠は皆神山の事だよ


ちなみにイザナミと天照の胞は神坂峠のある恵那山だよ

453 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 04:41:53
モンタン………………

454 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/26(月) 05:22:23
>>453
おいっすw

455 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/26(月) 05:38:07
>>409
「七八十年」

これ「780年」じゃないの?

なんで「70年かもしくは80年」なんて解釈するのかが解らん


ちなみにちょうど太歳が13周りで780年だよ

456 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 07:29:05
>>455
780年は、七百八十年。

457 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 09:32:07
>>456
美濃もん太は漢文読めませんから。

458 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 11:10:17
卑弥呼って少女がばばあになるまで邪馬台国を統治していたのか?

459 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 11:34:59
卑弥呼は780年も在位したのですか?長寿の秘訣は若い男の生血ですか?

460 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/26(月) 16:24:56
もん太殿
卑弥呼は女サンジェルマン伯爵なのか〜?wwwww

461 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 03:29:36
信用性に問題がある後漢書や梁書をのけておき、倭人伝に従って、倭国の乱を
魏代になってからのこと、230年代後半と考えると、次のようなところがす
っきりと理解できるな。
@ 卑弥呼の遣使、王になってから数十年たっているなら、何のために遣使し
 たのかとなるが、共立されて間もないならば、即位の挨拶と考えられる。
A 以北の国々と女王国(邪馬台国、投馬国、その他旁国)の区別があったこ
 とが理解できる。乱の後6、70年たっているなら、そんな区別はおかしい。
B 卑弥呼没後の乱の意味が分かる。倭国の乱の再燃なのだ。
 これも卑弥呼の時代が7、80年も続いたならば、何で今更ということになる。

462 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 12:29:35
男王はセイム天皇デース
その後チュウアイ天皇デース
この継承争いが倭国の乱デース
その後卑弥呼こと神功皇后デース


463 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 13:57:41
>>461
とりあえずAだけはあなたの妄想。
三国志の記述にそのような区別はない。

464 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 16:46:35
>>461
@も妄想。
即位の挨拶ではない、卑弥呼の使者が魏を訪れたのは
遼東を支配していた公孫淵が魏に滅ぼされる寸前で
魏と倭の間の通路を塞いでいた公孫氏政権が弱体化して
やっと魏に使者を送ることが出来るようになった。
卑弥呼が王に共立された頃は丁度
公孫氏政権が遼東に自立した時期で
以後は使者を送ることが出来ず
即位後数十年経ってやっと使者が送れるようになった。


465 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 17:30:18
↑これも妄想だろ

466 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 18:00:09
Bも妄想。
卑彌呼が共立されて冢に入るまで期間は約60年。
ティーンエイジャーの女の子が後期高齢者になってしまったのだ。

467 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 18:04:40
Aも妄想くさいな。
>A 以北の国々と女王国(邪馬台国、投馬国、その他旁国)の区別があったこ
> とが理解できる。乱の後6、70年たっているなら、そんな区別はおかしい。
卑弥呼を共立してできた国が邪馬台国だから、投馬国も邪馬台国の一部なのだ。

468 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 19:31:10
邪馬台国は卑彌呼の居る国。
投馬国と邪馬台国は別国。
女王國に含まれると推定できる国は、少なくとも邪馬台国、投馬國、奴國と不彌國の4ヶ国である。
明らかに女王國に含まれない国は、伊都國と狗奴國である。
残りの25ヶ国は女王國に含まれるとも含まれないとも判断できない。


469 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 21:34:54

邪馬台国は卑彌呼の居る国。
投馬国と邪馬台国は別国。

女王國に含まれると推定できる国は、少なくとも邪馬台国、投馬國、奴國と不彌國の4ヶ国である。

明らかに女王國に含まれない国は、伊都國と狗奴國である。
他に女王國に含まれないと見做せる国は、末盧國、一大國、対海国と狗耶韓國である。

残りの餘旁國21ヶ国は、女王國に含まれるとも含まれないとも判断しきれないが、
女王國に含まれないとする事に合理性がある。

470 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 21:40:40
卑弥呼は倭王なので、女王国=倭国。

従って、対馬国+一支国+末盧国+伊都国+奴国+不弥国+投馬国+邪馬台国
+その余の旁国21カ国=女王国(29カ国)

官が置かれているところを見ると、狗奴国もその一部かも知れず、そうなると
女王国は30カ国。

じゃないかな?

471 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 21:51:02
>>470

>卑弥呼は倭王なので

違いますな〜
「親魏倭王卑弥呼」です。

472 :461:2009/01/27(火) 22:43:26
女王国以北の国は、一大率に検察された国々。対馬国、一支国、末盧国、伊都国、
奴国、不弥国だ。
女王国は、郡から万二千余里で始まる。終わりは邪馬台国よりも南の奴国までだ。
女王の境界の尽きる所とあるだろ。それが女王国の南の境界だ。したがって、投
馬国、邪馬台国を中心としてその回りにある旁国も含まれる。女王直轄の国々と
言ってもよい。
狗奴国は女王国には入らない。

473 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 22:48:53
>>470
女王國は帯方郡から12000餘里にある国である。

帯方郡から12000餘里にある国は、奴國と不彌國である。

伊都國は、帯方郡から11900餘里にある国である。
末盧國は、帯方郡から11400餘里にある国である。
一大國は、帯方郡から9800餘里にある国である。
對馬國は、帯方郡から8000餘里にある国である。
狗耶韓國は、帯方郡から7000餘里にある国である。

依って、12000餘里にある奴國と不彌國は女王國内の国である。
帯方郡から12000里未満にある伊都國、一大國、對馬國、狗耶韓國の4ヶ国は女王國に含まれないと見做せる。

474 :461:2009/01/27(火) 23:02:14
>>473
>帯方郡から12000餘里にある国は、奴國と不彌國である。
奴国も不弥国も郡から万600里の国。
奴国が万二千余里だというのは、対馬国や一支国の方里を加算するなどというの
だろうが馬鹿な話。そんなものをいちいち加算して計算するはずはない。
どうしてもそうだというなら、末盧国についても国の入り口から出口までの距離
を考えるべきだろ。伊都国についても同じだ。書いてあるから入れるとか、書い
てないから入れないなどというのでは趣旨一貫していないな。


475 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 00:35:14
伊都國は、伊豆半島伊東を中心とした後の北条氏や三浦氏の支配した地域。
狗奴國は、北関東を中心とした後の毛野王国と呼ばれた土地。
両方とも倭武の遠征で一時、大和朝廷の支配下に入ります。

476 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 01:04:15
>>475
>伊都國は、伊豆半島伊東を…

単なる地名の語呂合わせだけ。こういうのは直ちに却下。しかし

>狗奴國は、北関東を中心とした後の毛野王国と…

狗奴國毛野説は一概に却下できない。
国語学者山田孝雄の提唱した説だったと思うが
荒唐無稽な説というわけでもないようで、賛同する専門家もいるらしい

477 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 01:24:11
>>448
本州や九州で南西諸島やら伊豆小笠原諸島の貝でできた腕輪等の装飾品が見つかっており
まあそれの移動にどれだけの時間がかかったかは分からずとも
相当に長い距離を航行する技術はあったと見て良いんじゃないかな?

ただ高地性集落と神武東征神話を結び付けるお話となると
いくら準構造船にしこたま水や食料、武器を積み込んでも
まさか九州から大阪湾にダイレクトに攻め込んだとは思えず

(まあ仮にできたとして片道切符の特攻隊、兵站線・補給線もクソも無しの自殺行為www)

足場を徐々に東に移していくしかないわけで
高地性集落が東から西へ展開していったと言う話が無ければ
両者を結びつけるのはナンセンスかとwwwwwwww

478 :477:2009/01/28(水) 01:31:50
>高地性集落が東から西へ展開していったと言う話が無ければ

西から東への間違いだわ…

まあ東征でも西征でも同じだけどなw

479 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 15:23:03
>>476伊都國は、「いとこく」ではなく「いつこく」と読むのではないでしょうか?

480 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 19:10:22
伊都国はいつっこく
ジャマイカ

481 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 21:55:35

西日本の高地性集落は、東侵とか西侵によるものではない。
食料不足による地域間抗争の址である。

西暦紀元前後(前1世紀〜後2世紀)の弥生温暖期には、
西日本では、梅雨の少雨と、夏季の旱魃と局地集中豪雨で食料生産量が低下した。
食料生産量低下から生き残る為の地域間抗争があったのだ。

4世紀の低温期になると、梅雨の適雨と夏季の日照により、食料は大増産できるようになった。



482 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 23:30:43
>狗奴國は、北関東を中心とした後の毛野王国と呼ばれた土地。
>両方とも倭武の遠征で一時、大和朝廷の支配下に入ります。
私もそう考えている。
卑彌弓呼=ひみあこ(屯倉)
大陸移民が土着開拓した毛野、その穀倉地帯を倭武(豊城入彦命)が支配下に入れ屯倉となる。

483 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 00:30:41
>>476
>狗奴國毛野説・・賛同する専門家もいるらしい
音が似ているというだけで、「ここだ、ここだ」という専門家が多いんだよ。
狗古智卑狗=菊池彦とかも同じことだ。ど素人と何も変わらん。




484 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 00:54:39
古代は正直学者もよく解らんのだろ
正論が確立し得ない以上、素人考えもあるていど通用する世界
ロマンがあっても良いじゃないか

485 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 01:02:26
10代崇神天皇人の子である豊城入彦命は東国へは行っていない。
途中で死んでしまった。
にもかかわらず、その孫の御諸別王は東国で歓迎されている。
つまり、それは、イリ王朝とは元々東国出身の王だったのでは
ないかという推論が成り立つ。

486 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 01:10:25
豊城入彦命は宇都宮二荒山神社をはじめ北関東に多く祭られている。
行ってないとは思えない。

487 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 22:56:20
■“邪馬台国”解明へ発掘 ── 有力候補の纒向遺跡

 奈良県桜井市教育委員会は30日、邪馬台国の有力候補地、纒向遺跡(3世紀初め−4世紀初め)成立の謎を解明するため、集落中心部とみられる場所の発掘調査を2月に始めると発表した。期間は約5年の予定。

 過去に神殿とみられる特殊な建物跡(3世紀初め−中ごろ)が出土した地点と周辺の約100メートル四方を発掘。市教委は「建物跡の東側に、巨大な中枢の建物の遺構が眠っている可能性がある」としている。
女王卑弥呼が君臨した時期と重なり、成果に注目が集まりそうだ。

 纒向遺跡は桜井市北部の南北1・5キロ、東西2キロの範囲に広がる巨大集落跡。過去160回調査しているが、発掘面積は遺跡全体の約5%で、不明な点が多い。

 九州から関東地方の土器も数多く出土していることから、一般的な集落とは異なり、広範囲から人が移動してきた「都市」との見方もある。
遺跡内には、卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳(3世紀後半)など最も初期の前方後円墳が点在している。
2009/01/30 17:30 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/200901/CN2009013001000669.html

■2月から発掘調査が開始される纒向遺跡の集落中心部とみられる場所(矢印)。右上は箸墓古墳=08年2月、奈良県桜井市
http://www.47news.jp/PN/200901/PN2009013001000732.-.-.CI0003.jpg

488 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 23:15:08
ニュース板(ニュース速報+)でもスレ立って、話題になってるよ。
読んだり、レスしたり、どうぞ。

■【文化】「邪馬台国」解明へ発掘 有力候補の纒向遺跡(奈良) 九州〜関東地方の土器が数多く出土
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1233310482/l50

489 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 00:08:10
邪馬臺国(連合国)は北部九州にあった。郡使の最終目的地は伊都国であり、女王国は(伊都国+奴国)である。投馬國は南韓の5万余戸ほどの地域である。狗奴国は、薩摩・大隈・日向地域。侏儒國は、「伊予」。裸國は、吉備・播磨地域。黒齒國は、讃岐地域。
http://www.d7.dion.ne.jp/~sekai/wiki.htm#.E9.82.AA.E9.A6.AC.E8.87.BA.E5.9B.BD


490 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 00:42:04
>>488
逝ってきた、書いてきた。

でも相変わらず九州王朝説論者が布教活動しているみたいだたw

サイキバ君もいたのかしらん?wwwwwwww

491 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 01:44:41
日向というのは、古代では薩摩と大隈を含んでいたらしい。
つまり、現在の宮崎県と鹿児島県が日向だった。
西暦700年頃に、薩摩と大隈が分離したらしい。

492 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 09:53:49
>>489 >>491
「おおすみ」って打つと「大隅」になるんだけど・・・

493 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 12:41:28
>>492
「おおすみ」で「大隈」と「大隅」に変換できないソフトが壊れている。
壊れているのなら、「おおくま」で打て。

494 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 21:20:31
>>492
この点では太国は間違ってない。
確かに「大隈」とも変換できる。

495 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/31(土) 21:23:56
??

496 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 22:17:58
大隈重信は「おおくま」
大隈半島は「おおすみ」
どちらか一方が正しい読み方で、もう一方は後の世に読み替えが行われたのだ。

497 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 22:58:13
何気なく「おおすみはんとう」と打って変換キーを押したら、大隈半島と
出てきたが、もう一度押すと大隅半島と出る。
地図などを見ると、正しいのは、大隅半島かな。

しかし、大隈半島で検索してもいっぱい出てくる。

498 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 02:12:14
大供米(おおくま) 神または天皇に捧げる神饌

499 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 03:47:56
こんなこと言っても誰も信じないかもしれんが、
私の知り合いに霊能者がいるんだけど、昔、古墳時代の霊に逢ったそうだ。
この時代の霊とはほとんど逢わなく、珍しいみたい、
でも、何故かその霊は、もう20年くらい同じ場所にいるらしい。

その霊能者ってのが、歴史が少し好きで
古墳時代のことをいろいろ聞いてみたらしいんだけど、
言葉がほとんど通じなかったらしい。でも全く通じないわけではなかったみたい。
どうしても話を聞きたかったらしく、資料をたくさん持っていって、見てもらったら、
霊の言ってる事が少し分かったって言ってた。
その古墳時代の霊によると、神獣鏡?は熊野あたりで売っていたものらしいよ。
金持ちが全国から買いに来てたみたい。なんか、鏡を持ってると、
死者は魔物に襲われることなく天国に行けるみたいな感じだったと思う。
あと、古墳は太陽と山を意味してるって言ってた。
太陽に続く山がある?ような、そんなような事を言ってた。
人の名前もたくさん聞いたみたいだけど、
文献とかに載っていないらしい、発音が違うのかもしれない。
他にもたくさん聞いたんだけど、忘れちゃった。
その霊能者はもう亡くなられているのだけど、
私は嘘をついていたとは思わない、私生活を見る限り誠実な人だったし。

500 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 10:32:04
>>499
もちろんだよ。俺は信じるよ。
しばらく、ここ(病院)に泊まって、ゆっくり話を聞かせてくれないか?
君のご両親は承知していることだし、後は君しだいだ。いいね?
まあ、今日のところは、この薬でも飲んで部屋でゆっくりするといい。
何かわからないことがあったら、君のお世話をすることになった
このお兄さんに聞いてください。
それでは、お大事に。

501 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 20:47:20
>>488
【ニュー速+】の纏向発掘スレは一晩で終わっちゃいましたが、
ニュース板では+無しの【ニュー速】にスレ立って議論が続いてます。
こちらです。

【考古学】 おーい、邪馬台国が見つかったゾーーー
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1233391757/l50

502 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 21:01:09
>>501
ニュース二軍+にも次のスレが立ってます

【歴史】邪馬台国見つかるか 奈良・纒向遺跡中心部を再調査へ[01/31]
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/wildplus/1233394112/l50

503 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 22:15:16
調査するというだけでニュースになるのがすごいのか、というよりも
調査するというだけでニュースにするのがすごいのだろうな。

504 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 23:16:50
調査結果にはニュース価値が無いところが残念。

505 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 00:40:31
唐古・鍵も、期待をこめて掘り続けたが、何にも出てこず、もう忘れられて
しまった。

506 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 01:51:21
調査報告書を何十年も出さなかったりしても誰も文句を言わない。
出すと「余計なものを出すな」と言われるwww

507 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 07:13:33
で、九州からは吉野ヶ里以降何か出たの?w


508 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 22:02:48
>>507
その吉野ヶ里も三世紀頃には寂れてしまっているって言うことだからねえ…
それが果たして単に一つの大型環濠集落の解体なのか
筑紫の地域全体の地盤沈下なのか…

まあ今後吉野ヶ里に匹敵する遺跡の出土はあるかもしれんが
(てか、あると見るべきだろうが)
それが九州説に有利に働くかどうかは別の問題w




509 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 22:50:16
吉野ヶ里は、呉国から防衛するための軍事要塞都市。
呉が滅亡したら要らなくなったから、縮小しただけ。
別に九州の国が滅亡したわけじゃない。

510 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 23:00:04
>>509
まあそう言う妄想は良いんで…w

じゃあ吉野ヶ里に代わって出てきたクニの遺跡ってあるのかい?

これは割りとマジに聞くんだが弥生末期は福岡平野の方は
まだ栄えていたと思われる遺跡があるが

筑紫とくるとイマイチ、ピンと来ない。

遺跡単体でなくても平野全体からの出土物等でも良いから
世良い末期の繁栄を示すものって何がある?




511 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 23:01:33
>>510
誤)世良い末期の繁栄
 ↓
正)弥生末期の繁栄

…なんじゃコラw

512 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 23:23:06
>>510

鉄とか絹とかって答え「しか」返ってこないと思うよ。

513 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 23:34:31
>>508
倭人伝には、「城柵を厳かに設け、常に人がいて武器を持ち守衛する」と、
書いてあるだろう?
警備が厳重ということは、濠が巡らされていると考えられる。でなかったら、
何のための環濠かわからない。

要するに、吉野ヶ里は卑弥呼の時代も存在していた。纏向の時代の方が
間違っている。

514 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 23:39:33
>>512
絹はどうか知らんが

鉄は総量なら依然、筑紫も九州以東に比べれば圧倒的に多かったかもしれんが
全体として衰退傾向で、製鉄の拠点も福岡平野の方に移ってない?

個人的に筑紫の没落と言うのは福岡平野のクニの交易範囲の拡大に伴い
それまで潤沢に回って来ていた半島大陸の文物が回ってこなくなった事も一因かなと思っているんだが…

少なくとも一大工業生産拠点であった吉野ヶ里の没落はそう言う背景を考えれば分かりやすいと思うw




515 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 23:42:49
吉野ヶ里遺跡からは、まがりなりにも宮室、樓觀、城柵の跡が出ている。
纏向からは、な〜んにも出ていない。
纏向を百年遡らせると、吉野ヶ里が古くなってしまうが、それはおかしな話。
纏向を四世紀とすれば、すべてがまとまる。

516 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 23:43:54
マキムクは環濠が無いけど、
筑紫のクニはずっと環濠を掘ってた?

それなら、内乱による国力低下で説明できるが。
一方、マキムクは平和裏に富を築いたと。

517 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 23:45:11
>>513
それは魏志倭人伝の件の部分が吉野ヶ里であると言う邪馬台国=吉野ヶ里の前提でのお話w

まあ書き込みする前に一度頭をクールダウンしてみような?wwwwwwwww

518 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 23:48:45
吉野ヶ里発見=邪馬台国発見と騒がれた時代から頭が硬直してるんだろ。

吉野ヶ里の学者も、吉野ヶ里が3世紀の間繁栄してたとは考えてない。

519 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 23:52:31
>>515
はあ?

纏向の年代と吉野ヶ里の衰退時期のお話は基本的に別ですが?

つうかそれだと吉野ヶ里を邪馬台国の3世紀に持ってきたいが為
纏向を4世紀にって話だなwww



520 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 23:54:57
>>518
吉野ヶ里の発掘責任者である高島忠平氏は、吉野ヶ里は卑弥呼の時代にも
存続していたとする立場だけどね。

521 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 00:04:11
>>520
高島忠平も発言が微妙だよなあw

公には邪馬台国=吉野ヶ里説は表明していなかったと思うが
腹案としては持っているという事を呼んだ記憶があるwwwwww

若かりし頃、研究仲間の討論形式の勉強会で
当時本人も嫌々やらされた九州説で畿内説の人間にコテンパンにやられて
その時の悔しさが今日のバネになっているらしいが…

本人談だからまちがいあるまいwwwwwwwwww



522 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 00:39:13
>>517
要するに、倭人伝に書かれた情景と吉野ヶ里は一致する。
しかし、纏向にはそのかけらもない。
だいたい、纏向を邪馬台国だという人は何を根拠にしているのか、ってこと
だろうな。

523 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 03:43:37
>>513
>警備が厳重ということは、濠が巡らされていると考えられる。

濠が巡らされてなくては厳重な警備はできないのか。

倭人伝に「濠が巡らされている」とは書いてない。
卑弥呼の宮室に環濠がなかった可能性はあり得る。

「濠が巡らされている」とは書いてないのに、「濠が巡らされていると考えられる」じゃ
もう何でもありの、想像、フィクションの世界であり、学問的態度ではない。

524 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 07:10:27
>>523
環濠は、飾りでもなければ、単なる境界でもない。
集落を守るためにあるというのは常識。だから、厳重な警備と無関係ではない。
同じく防御のための城柵と結び付けても、それほど不都合でもないと思うが。

ちなみに、吉野ヶ里では環濠とセットで城柵の跡が見つかっており、
復元されている。
http://webmap.torikyo.ed.jp/ipa/k-yda1/k-ycb1/k-ysb7/k-ybg3.jpg

どこかの遺跡から環濠のない城柵の跡が見つかったなら、それもありかも
しれないが。

525 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 07:22:32
>>524

マキムクは環濠が無いから、大和には外敵がいなかったってことだね。

つまり、大和王権は近畿一帯を掌握してたわけで、
吉野ヶ里も掌握できない九州の邪馬台国より勢力は大きかったわけだ。

526 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 07:25:32
吉野ヶ里の環濠は、倭国の乱を戦い抜いてきた北九州として当然のことだな。
しかし、北九州に乱の痕跡があるからといって、邪馬台国が北九州とは限らない。
倭人伝の行程を考えるべきだ。
まずは、伊都国がどこなのか?若干の遺跡だとか、地名に引きずられてはいけない。
東南陸行五百里、その方角と距離。何のために上陸したのか? 南へ水行したのは
どこからか?それを考えなければいかん。
一大率は伊都国にいた。奴国は大国だ、当然港は立派なのを持ってたはず。何で伊
都国、又は奴国から邪馬台国へ向かわずに不弥国などという名前が出てくるんのか?
そういった検討が必要なんだよ。


527 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 07:31:08
銅鐸の消滅、弥生時代の墳墓と古墳との断絶。近畿が近畿以外の勢力に征服されたと
考えないとどうにも説明はつかんな。そんな近畿が北九州を支配下に収められるはず
はない。

528 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 09:29:06
銅鐸の消滅、弥生時代の墳墓と古墳との断絶。出雲が出雲以外の勢力に征服されたと
考えないとどうにも説明はつかんな。そんな出雲が近畿を支配下に収められるはず
はない。


529 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 09:51:29
>>525
邪馬台国には、狗奴国という厄介な敵がいたから、纏向は邪馬台国じゃ
ないことになるわけだ。

530 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 12:52:22
熊襲のクナ国を相手に、どうしてマキムクに環濠を掘る必要があるの?

531 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 15:06:49
>>530
纏向が邪馬台国の遺跡で狗奴国が熊襲なら、熊襲から奪った戦利品が纏向から出土するだろうな。


532 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 15:58:42
>>529
だから、狗奴国は纏向よりもかなり遠くにあったって事だよ。
「旁国」は、邪馬台国と狗奴国の間に在る国々なんだろう。
>>527
それは遅くとも3世紀半ばだろうね。
早ければ2世紀中頃だ。

533 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 16:36:09
でも、4世紀には確実に畿内が九州を制圧してます。

3世紀から九州をじわじわ追い詰めていた背景があったからです。


534 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 16:38:43
九州に邪馬台国があろうが無かろうが、
畿内が九州を制圧したことには変わりありません。

邪馬台国が九州なら、
大和王権に滅ぼされた地方土賊のひとつにすぎません。それだけです。


535 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 17:33:39
それならそれで東遷説を否定する根拠を出さないといけないって
ことがなぜわからないのか

536 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 18:03:43
 「九州の邪馬台国が東遷してマキムクに都を作ったのだ。
その証拠として、庄内式土器を九州発祥とする。」
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<クスクス   /       \!??
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     \    u   .` ⌒/
    ノ           \
  /´               ヽ





537 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 20:36:43
>>536
>庄内式土器を九州発祥とする

これは安本美典ただ一人が唱えている説。いや、説というより妄想だが。
日本の考古学者の誰一人として、この安本の庄内式九州発祥説に賛同する者はいない。

安本は発掘の経験がないから、古式の庄内式土器がワンサカ出土した八尾市の遺跡と
在地の土器に混じって一つか二つパラパラとカケラが出る程度でしかない福岡・佐賀の遺跡の
区別や評価が、全く出来ないのだ。

538 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 21:02:27

庄内式土器が九州発祥でなければ、東遷説は成立しないということだよ。

わかった?>>535



539 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 21:17:14
そもそも、九州を捨てて東遷した理由がはっきりしない。
九州から逃れたのか領土拡大のために遠征したのか・・・
それすらはっきりしていないじゃないか。

説明できる人がいるなら、一歩前に出ろ。

540 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 21:49:28
九州の人々は、九州から他の土地に移ったことは無い。
逆に、他の土地から九州に入植することは多かった。
庄内式土器の移動もその一つ。

東海では、東海以外へ出て行く人が多かった。
逆に東海に入植してきた人々はほとんどいない。

奈良は、人の出入りが共に多かった。
交通の要衝であり、交易の場として発展したのだった。

「市(イチ)」という地名だけでも、
ツバイチ、高市、大市、十市と、奈良には集中している。
他に、市という地名が集中してる土地は無い。
地名が移動したと言われる甘木にも無い。
よって、東遷説は成立しない。

541 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:09:19
そもそも、安本の地名移動説(甘木→奈良)には、根本的な矛盾がある。

甘木が邪馬台国の本拠で、それが奈良に移ったなら、
「ヤマト」という地名もまた甘木を指す国名だったはず。
当然、邪馬台国もヤマト国と発音しただろう。

九州に連合国として存在した邪馬台(ヤマト)国があり、奈良に東遷した結果、
九州の甘木をヤマトと呼ばなくなり、奈良盆地東側の小範囲のみを、ヤマト国と呼称するようになった。
と、安本は考えてるらしい。

奇妙なたわごとですな。


542 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:12:21
>>541現代の、いや、あなたの常識を邪馬台国に当てはめようとすること自体無意味。
出直したほうが良い。

543 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:14:18
>>542

では、あなたの論をどうぞ。



544 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:19:50
どうして奈良盆地とかというのも考える必要がある。
弥生時代の奈良盆地はどう見ても後進地で、近畿地方で言えば、近江地方の
方が先進地域。

どうして奈良盆地で大和朝廷が芽生えたのか。

自分の意見を言えば、奈良盆地は守りに適した場所だと思う。
瀬戸内海の島々はあるし、生駒山地もある。非常にわかりづらい。
かなり攻めにくいし、山に囲まれているから迎え撃ちやすい。
また、いざとなったら、山に逃げ込めばいい。

震源地は、中国だろう。西暦280年に呉が滅亡。4世紀初めには永嘉の乱
があり、西晋は事実上滅び、大陸では混乱状態が続く。
多くの人が避難民となり、各地に移動する。
日本に避難してきた人もいただろう。
不穏な空気を感じたのではないだろうか。

545 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:22:50
>>544

うん、奈良に逃げ延びた渡来人はいたでしょう。

でも、九州の人は奈良には来なかった。


546 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:23:34
>>544
必要条件かもしれないけど十分条件じゃないな。

547 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:25:19
違う。

奈良には丹が採れたからだよ。

ほら、あおによし 奈良、っていうじゃない。

548 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:31:42
邪馬台国では丹が採れると倭人伝にありましたなあ。

549 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:37:52
奈良の古墳を見ると、大土木工事が好きそうな政権なわけだが、
田畑の開墾でも防御施設でも宮殿でもなく、そんな物に労力を裂くのはちょっと後世の日本人気質にそぐわない気がする。
なんかエキゾチックやなぁと思う。

550 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:40:39
当時、奈良盆地には大きな湖があった。それを仮に古奈良湖と呼ぼう。
淡路島から紀国に渡り、吉野川遡れば古奈良湖についた。
そこから川伝いに、大阪湾にも琵琶湖にも行けたし、交通の要所だったのです。

551 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 23:01:55
>>548
まあ古墳が後世に残って現代の我々が目にする機会が一番多いからなんじゃね?

552 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 23:28:07
奈良盆地が大きな湖だったのは縄文時代まででは?
まあ後まで、舟行できる河川が網の目の様にあったとは思うが
神武は生駒山の麓まで船で行ってるし、大和川を遡ることも試みたが撃退されている
巻向などは水の都だったんだろうな


553 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 23:39:40
貴人は歩かないし、神輿は揺れるし、馬は危険。
やっぱり船で行けるところにしか都は造りません。

554 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 16:03:26
魏は、西暦265年に、西晋へと変わり、倭の女王は使者を出す。
国名は変わっているが、これは、禅譲なので、使者を出すこととにあまり
ためらいはなかったと思われる。
そして、西晋から爵命を受ける。

ところが、その後、西晋は弱体化し、西暦310年代になると、懐帝、愍帝が
相次いで捕らえられ処刑される。事実上、西晋は滅亡する。

宗主国みたいな立場の西晋が滅び、皇帝が処刑されるというのは、倭国に
とってはただ事ではなかっただろう。

555 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 16:16:55
>>554
ただごとでなかったのは倭国ではなく、朝鮮半島。
倭人に攻められ支配されるんだからな。


556 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 07:08:52
>>538
そんなもの何の証拠にもならないね。△が畿内中心にばらまかれてるから
邪馬台国は畿内だったというのと、まったく同じ発想だ。いつまでたっても
そんなことしか言えないんだな。

557 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 07:20:36

じゃ、東遷説にはどんな証拠があるの?wwwwwwwww



558 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 21:38:12
阿蘇神社→剣山→紀ノ国→伊勢斎宮→三河→富士山→香取神社
これが神武東遷のルートだ!

559 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 22:30:09
>>537
正確には斎藤忠の説に安本が相乗りした形になっている。

庄内式は九州では弥生遺跡からの出土が多く、畿内では古墳時代が中心と
いう事実があるが、畿内の環濠の解体が九州よりも一足早かった可能性もある。

つまり、東遷して畿内の環濠集落を解体させたのちに、九州の環濠集落の
解体が始まった可能性があり、この場合九州と畿内の庄内式は同時期になる。

安本は、柳田の影響で平原を3C初めにして九州の庄内式をこの時期にしたが、
柳田は、安本がさんざん批判した岡村分類を前提に年代を決めている。
安本はここらへんが甘い。平原は4C初めで庄内式もこの頃からだろう。

560 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 22:39:34
畿内が古墳時代に入った時期(環濠なし)に、まだ九州は弥生時代(環濠あり)だったわけですね。


561 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 22:53:32
>>559

斎藤忠の説が載ってる書籍名を教えてくれないか?
探して読んでみるから。

562 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 23:22:52
>558
それは尾張族のルートだと思います

563 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 23:22:56

封印されたマリアのキリスト教―イエスをめぐるふたりの聖女 (ムー・スーパー・ミステリー・ブックス) (単行本)
斎藤 忠 (著)



564 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 23:29:14
斉藤忠というのは、東大教授で、箸墓の年代を4世紀終わり頃といった人
じゃなかったかな。

565 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 00:04:01
>>557
東遷したか否かを考古学的に決めるのは無理だって言ってるんだ。
別に東遷したと言ってるわけではない。

566 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 00:32:29
>>561
昭和41年ころ、日本歴史新書「古墳文化と古代国家」というのが至文堂から出てる。


567 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 07:16:45
昭和41年の説を根拠に東遷説を唱えてるの?

568 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 10:15:44
>>564
その人と>>559の斉藤忠とは同姓同名の別人。

569 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 16:37:06
>>559
>平原は4C始め
何か悲しいことがあったのか?
えらくぶっ飛んだな。
>>564
そう、考古学者の中で唯一ね。


570 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 16:37:29
いや、森浩一もそうだったかな?

571 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 17:06:17
森浩一が、箸墓の年代を4世紀終わりなんて言ってたか?


572 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 17:36:25
森浩一は、椿井は4C後半だとか言って年代遡上を批判しているが、
箸墓は300年頃にしたいたはず。


573 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 21:26:12
>>569
田辺昭三さんも、箸墓は4世紀後半じゃなかったかな。
まあ、言いたいことはあるが、あんまり触れないでおこうと思っている人が
けっこう多い。

京都の大学の学長だった門脇禎二さんが言っていたが、九州説を支持すると
関西では、何かにつけてチクリチクリとやられる、と言っていた。
その意味では、森浩一さんはえらく勇気がある。

京都大学では、九州説は一切受け付けないらしい。

574 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 21:36:23
斎藤氏とは藤原氏に従った磐井(斎=いわい)ですよね?

575 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 03:38:06
もともと門脇も森も中央より地方にスポットライト当てるのをモットーとしているようなところがあるから
いろいろしがらみの多そうな邪馬台国論争より他の研究対象にエネルギー注ぎそうだなw
(無論、学者で「邪馬台国専門」なんてのもとよりいないんだろうがwww)
まあ門脇は故人だが森センセイは今邪馬台国にどれくらいの関心持ってんのかな?

…てかムック本での井沢との対談、びっくりしたですwwwwwwwwwww

ところで、「魏使は女王の都まで行っていない」なんて誰が言い出したんだ?
普通に考えて畿内説側から出そうな気もするが
なんか九州説の人間の方に多く支持者がいそうな気がするんだが…気のせい?w

畿内説でつじつま合わせするなら伊都国にいた魏使に邪馬台国までの道程を教えたのが
半島との交易の為九州に頻繁にやって来ていたであろう山陰の人間と言うのはどうか?
(半島からは山陰系の土器も出てるんだし)
そうすれば邪馬台国までの道のりを聞かれれば自分達が往来する日本海ルートで答えただろうし…

これで万事解決…と言いたいんだがやっぱ方角がネックか…

当時の中国人の日本の地理に関する知識は無茶苦茶で、脳内地図の方角も出鱈目だったとしても
倭人が方角を間違えて答えたと言うのは苦しいわなwww






576 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 07:42:10
まあ、邪馬台国へ行っていないと言い出したら、その学者の説はだめだと思った
方がいいな。読めてないときに、それを言うんだよ。

577 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 10:32:51
邪馬台国なら昨日行ってきました。
なかなかにぎやかな国ですね。


578 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 11:22:48
>>573
東大における畿内説はどうなの?


579 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 11:42:58
東大も畿内説

580 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 12:33:39
武光誠は九州説だろ?

同時にヤマト王権も存在して、九州の邪馬台国が消滅した、
という説が一番もっともらしいと思うが。
門脇も最後にそう考えたんだろう。


581 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 13:58:20
>>577
おみやげは「蘇」ですね。たいへん美味しいですよ。

582 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 14:53:33

「蘇」は、「未蘇」or「熟蘇」?
お土産にするには、比較的腐りにくい熟蘇かな?

きっと「醍醐」のほうが美味い、
ブルーチーズ好きには。

583 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 18:52:28
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=KU972X&courseno=C4&photono=16

584 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 19:15:31
八女市 矢部川と星野川に挟まれた台地について

@ 現在のグーグル写真
  http://maps.google.com/maps?q=33.21583,130.6133&spn=0.0011373,0.014484&t=k&hl=en

A 1997年の国土地理院写真
  http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=KU972X&courseno=C4&photono=16

B 1975年の国土地理院写真
  http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=KU751X&courseno=C5A&photono=3

この台地は、1975年から1997年に造成されたようです。
安徳台のような古代に造成された台地ではありませんでした。

585 :うましか:2009/02/07(土) 21:38:00
>>575

> 当時の中国人の日本の地理に関する知識は無茶苦茶で、脳内地図の方角も出鱈目だった

出鱈目だったから卑弥呼に「親魏倭王」なんて過分な称号を与えちゃったんじゃないですか?

586 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 22:28:43
卑弥呼なんて、九州の土人の女酋なのにね。

魏が滅んだら、後ろ盾なくして、簡単にヤマト王権に屈しちゃうんだから。


587 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 23:35:29
>>576
魏使は伊都国付近までしか来ていない。
伊都国が邪馬台国(北部九州連合国)の中心的な国であったから。


588 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 04:04:29
>>587
そう? 次にあなたは言うね。「倭人伝の行程は伝聞だからまちがってるんだ」と。


589 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 10:13:23
>>588
倭人伝の行程は正しい、まちがってるのは読み方。
伊都国付近までが12,000里で、日数は12,000里に費やした旅の日数。

590 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 10:25:31
>>589
一言聞いただけで、あなたの読み方はまちがいだって分かるよ。

591 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 10:37:24
『三国志』魏書巻三十・東夷伝・倭人の条(魏志倭人伝)の中に
景初2年(238年)6月、卑弥呼は帯方郡に大夫の難升米と次使の都市牛利を遣わし、
太守の劉夏に皇帝(魏明帝=曹叡)への拝謁を願い出た。

とありますが、大夫の難升米と次使の都市牛利とは、久留米と小郡のことだと思うのです。
「難」とは国の首長、「都」は都の長だとすれば、邪馬台国が佐賀平野にあったことがはっきりします。


592 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 11:03:00
>>591
そんなこじつけでは、誰も同意しないでしょう。

593 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 11:07:21
>>590
目的地までの説明を、初め距離で説明して途中から時間で説明するような人は精神が病んでいる。
距離の説明と時間の説明は同じことを別の言い方で再度説明している。
「到其北岸狗邪韓國」が「南至投馬國水行二十日」に
「到伊都國」が「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」に対応している。

594 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 11:15:22
何の説明もなく「狗邪韓國」を「投馬國」に言い換えたり、「伊都國」を「邪馬壹國」
に言い換えたとしたら、その人は本当に病んでいるってことになるだろうな。

595 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 11:58:31
「到」は狗邪韓國と伊都國だけに使われていて他は「至」が使われている。
「到」は「至」に人(刀ではない人が刂に変化したもの)が付いたもの、人が至。
「到」は人が意思を持って到着する。
「至」は単なる至る、方向、通過点など。
狗邪韓國と伊都國は「到」で目的地、他は方向、通過点など。
つまり
「到其北岸狗邪韓國」が「南至投馬國水行二十日」に
「到伊都國」が「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」に対応している。

596 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 12:16:47
>>5912邪馬台国は、佐賀平野にあったという結論部分だけは同意。

597 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 13:35:14
全然不同意也!

598 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 14:02:50
>>594

キミの相手はプだよw

599 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 14:48:50
九州王朝はあったといっておきながら、ではどこにあったのだと問われると
意思の統一が全くなされていない。
これでは九州王朝があったといったところで相手にされないのは当然。
ここはやはり、甘木、久留米、小郡、八女など佐賀平野一帯を邪馬台国、
九州王朝の中心都市とすることで意思の統一を図るしかない。

それ以外の候補地を名乗るときは、「筑紫王朝はあった」とか「阿蘇王朝はあった」
といった言い方に変えてほしい。

これで、社会に九州王朝を認めてもらう下地ができた!

600 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 14:54:43
スレ間違った。orz

601 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 22:10:17
>>596
佐賀平野は伊都国だろ。邪馬台国はそこから水行十日陸行一月。

602 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 00:14:38
そこまでの読み方はいいとして

伊都国から南へ「水行十日」+「陸行一月」か
それとも   「水行なら十日」「陸行なら一月」か?


603 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 00:20:43
伊都国から南へ「水行十日」+「陸行一月」


604 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 06:50:28
九州説は健常者が提唱していたら
ここまで注目を浴びていないのでは?

605 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 09:57:54
魏志倭人伝の著者が、現代の犯罪捜査官に尋問されたら
絶対に白状するだろな
「ごめんなさい、伊都国までしか行ってませんでした」


606 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 15:01:44
>>605
魏志倭人伝の著者は伊都国にも倭にも行っていないよ。
倭に関する資料を読んで整理して書いただけ。
報告書を書いた魏使が伊都国付近までしか行ってないだけ、
伊都国付近で魏使は卑弥呼に会ったのだ。


607 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 16:52:56
景初二年(西暦238年)八月、公孫氏は司馬懿によって滅ぼされ、帯方郡が
魏の支配下に入る。

その知らせが卑弥呼の元に届く。

景初三年(西暦239年)六月、卑弥呼の使者である難升米などが帯方郡に
到着する。使者は、魏の都である洛陽におもむく。

卑弥呼の行動は非常に迅速だと思う。どうしてこんなに迅速な行動に出たか。
司馬懿は、非常に残酷な人間で、公孫氏を滅ぼしたとき、15歳以上の男子を
皆殺しにして、首を晒した。

この知らせは、卑弥呼の元に入っていただろう。
公孫氏とも通じていたとされる卑弥呼は、魏が怖かったんじゃなかろうか。
次は、自分たちが攻撃されるのではないかと。

だから、郡使を伊都国にとどめ、本拠地の所在を知られることを避けた、と
いうのも考えられる。

608 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 21:12:27
司馬遼太郎の「街道をゆく」を読んだことはありますか?
確かに現地へ行ってはいるのだけれど、マイクロバスに乗せられて、
地元の郷土史家の案内付き。後は、文献の引用と妄想で埋める。
魏志倭人伝もそうやって書いたbんじゃないかと思われます。
邪馬台国まで行ったかどうかは微妙なところです。

609 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 22:24:41
>文献の引用と妄想
妄想は酷いね…
せめて思索と言いなさいな。

610 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 22:50:43
>>607
倭は公孫氏の設置した帯方郡に帰属していたとされるから、
帯方郡が魏の支配下になる前から帯方郡には度々使者を送っていたのだろう。
公孫氏の滅亡は倭にとって衝撃的な事件であり、
新しい帯方郡の支配者に急いで挨拶し御機嫌伺いするのは当然だな。
魏は韓の支配に手を焼いていたようだから、倭までの進攻の心配はなかったろう。
むしろ狗奴国との戦いに援軍が欲しかったんじゃないかな。
帯方郡と倭の付き合いは長いから本拠地の所在とか邪馬台国の情報は帯方郡側は既に知っていたんじゃないかな。



611 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 23:11:01
軍事上(首都防衛?)からも正確な邪馬台国の位置をを魏使に伝えなかったかもしれないね
日本列島が九州から南に向かって伸びているという魏の間違った認識を訂正しなかった可能性が高い


612 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 23:21:35
大まかな地図も献上して国土の概要を示し冊封を受けたと思うよ
魏が何処に存在するかも解らない国に爵位を与えるとは思えない

613 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 23:23:21
不弥国から南へ水行20日+10日で太平洋に沈没するからね。

614 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 23:55:27
いずれにしても、魏志倭人伝の不正確な記述を真面目に考察しても
永遠の迷路から抜け出せなくだけだな
少なくとも邪馬台国の所在地と風習に関しては信憑性20%以下
ただ倭国の政治、内政に関しては信憑性は比較的高いらしく
最新の考古学上の検証とよく符合するように思う


615 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 23:56:23
>>612

で、その爵位が与えられたってーのは、魏使様が来る前のことなんだよね。

616 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 00:35:19
漢から冊封された奴国のことか?

617 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 01:33:57
>>614
>いずれにしても、魏志倭人伝の不正確な記述を真面目に考察しても
>永遠の迷路から抜け出せなくだけだな
言ったろ。 邪馬台国へ行っていないと言うのは、倭人伝を読めないときに言うことだと。>>576
倭人伝は素直に読めば読めるんだよ。
伊都国は佐賀平野。そこから水行20日で投馬国だ。当時の人口集中地は大きな河川のまわり
のはずだから川内だろ。そこが投馬国だ。後の薩摩国府の所だよ。
水行20日の投馬国が川内となれば、水行10日の地点は佐賀から川内までのちょうど半分の
八代あたりのはず。水行十日陸行1月は水行十日+陸行1月。そして、水行十日で上陸し陸行
する以上、それは水行では行きにくい所。となれば、上陸地点から内陸に入っていくはず。
しかし、全体としては南でなければならない。となれば、球磨川沿いに登っていき日向に入る
はず。小林市か都城盆地あたりが邪馬台国だよ。
何も迷路ではないな。勝手に行かなかったとか迷路だとか言ってるだけだ。




618 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 01:43:05
>>611
>日本列島が九州から南に向かって伸びているという魏の間違った認識
そんな認識あるわけないだろ。魏は帯方郡まで進出してきてるんだぜ。
日本列島がどちらへ伸びてるかは、朝鮮半島の連中に尋ねればすぐに分かることだ。

619 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 07:45:35
>>616

正始の魏使が何のために倭に来たのか知らないのかw

620 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 16:29:13
中国新聞、09.1.27      三ツ城古墳の築造年代判明
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200901270065.html

東広島市西条中央にあり、広島県内最大の前方後円墳「三ツ城(みつじょう)古墳」(国史跡)
1号墳の築造年代が、広島大や市教委などの調査で「412年ごろ」であることが、26日分かった。

古墳が築かれた実年代がほぼ確定するのは全国で初めて。同古墳から出土した須恵器(すえき)の
年代が、近畿地方で同型式の須恵器と一緒に見つかった木材の年輪年代測定から割り出された。

三ツ城古墳からは、西側造り出しから須恵器が出土。大阪府南部の堺市を中心とした陶邑(すえむら)
窯跡群で5世紀前半に焼いた「TK73型」と分かっていた。

1996年、奈良市・平城宮朝集殿下層の溝の調査で、樹皮直下の年輪が残るヒノキ材が出土。
廃棄されたTK73型須恵器が68年に見つかったのと同じ地層の溝だったことから、奈良文化財研究所
(奈良市)が年輪年代測定法で調べ、412年伐採と判断した。

広島大大学院の古瀬清秀教授(考古学)がこのほど、両遺跡とも須恵器の型式編年観と実年代に
整合性があり、一型式が20年前後であることを総合的に検討。同古墳は通説では「5世紀前半」と


621 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 17:15:25
>>620
意味不明の新聞記事ですね。

622 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 17:59:59
>>621

年輪年代法が正しかったと立証されたわけだよ。


623 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 21:29:01
だから邪馬台国とは、鬼界島の噴火など一連の地殻変動で沈んだ幻の大陸スンダランド
九州から地続きだった時代のこの大陸の女王に関する伝説を記しているのです。
徐福が探しに行って見つけることができなかった蓬莱山もこれのことです。

624 :KY774式:2009/02/10(火) 22:06:58
>>622
いやいや、TK(高蔵)73式がその共伴して出てきた木製品により412年頃と推定されると言うのは
1999年に発表されていて別に目新しい内容ではなくて

それと同じ様式の須恵器が出てきたと言うのがこの記事の本来の内容だろ?

この記事の書き方だと新たに年輪サンプルが古墳の中から出てきたかの様な印象になってしまう
古墳から直接発掘されたものではない分、やや間接的ではあるw

でこの広島の「三ツ城(みつじょう)古墳」ってのはザッと検索してみたが
その築造時期も5世紀の中頃、後半としているサイトもあるみたいだし
これでかなり年代のばらつきが是正されるのかな?

ただ先に言った間接的なものであると言うこと
年輪年代そのものに対する評価
…等々考慮してあくまで「参考値」に留めておきべきかもしれんが
いずれにせよ畿内説にとって有利に働くことはあっても不利には働かないんじゃないかな?

まあこんな年代観前方後円墳の出現自体が4世紀中頃とする東遷説信者には
到底認めることができない内容だろうがwwwwwwwwwwww



625 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 22:09:10
435 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2009/02/10(火) 11:00:54
>>432
A 広島の三ツ城古墳の造り出しからTK73式が出土
  →寿陵では古墳築造と埋葬の時期に2,30年のずれがありうる。
  →TK73の存続期間の幅のどこに位置するか不明である。
  →TK73の使用時期が全国一律である保証はない。

B 奈良市のある溝で412年伐採(推定)の木材が出土
  →溝の年代と木材の伐採年が一致する保証がない。
  →年輪年代そのものの確実性に問題がある。

C Bの溝と同じ地層の溝からTK73が出土
  →Bの溝と同じ時期の遺物と断定できない。

D ABCより、三ツ城古墳は412年ころに築造
  →ふざけるのもたいがいにせい!

626 :KY774式:2009/02/10(火) 22:18:39
>>625
こらこらコピペするなら横着せずにレス番号ぐらいは外しておけw

まあ今後のデータの蓄積に乞うご期待♪ってところだなwwwwwww

627 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 22:25:41
古墳なんて築造年代がどうであろうと邪馬台国には関係ないな。

628 :KY774式:2009/02/10(火) 22:29:38
ちなみに…

平城京第二次朝堂院東朝集殿下層の発掘調査で出てきたヒノキ材の木製品は
”作りかけの未完成品”。

木材の伐採時期と廃棄時期があまり離れていないとするのには都合が良いwwwwwwwwww

629 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 22:33:01
>>627
まあ東遷説信者にはそうも言っていられない
お家の事情ってもんがあるんだろwwwwwwwwwwww

>>625もいつもの東遷説信者によるものだろうがw

630 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 22:39:23
年輪年代の信頼性は、さておいて、結果的には、かなりずれがある。
伐採した時期と使用した時期にずれがあるのが原因とされるわけだが。

須恵器の時期についてもどんなものだろうか。
また、作ってすぐに埋めたというわけでもないだろうし。

古墳の年代を確定してしまっていいものだろうかな??

631 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 23:29:25
>>630
誰もが疑問に感じることではあろうが、>>624の言うとおり、
年代遡上の流れに沿う発表である以上、批判する者は居ない。

632 :KY774式:2009/02/10(火) 23:31:04
多分、東遷説論者あたりが噛み付いてきそうなのは
須恵器の出現時期より土師器・布留式の流通期間じゃないだろうか?www

布留0を3世紀後半(下手すりゃ中頃?)で高蔵73式の直前が布留3式とすれば
実に1世紀半に迫る期間となる。

まあ今日身の周りの工業製品や、大きく言うと生命の進化でもそうだが
あるモノが出た直後はいろんな形が作られ頻繁にヴァージョンアップされるが
やがて収斂していって変化も緩やかなものになると言う事はあるだろうが…

土師器自体は布留の段階で相当”枯れた”技術で外来の技術の須恵器が出てくるまで続いたとか?





633 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 02:55:19
>>632
畿内説に対する批判の最たるものは、日本で550面以上出土して、
国外では1面も出土していない三角縁神獣鏡をいまだに舶載とする
説が存在すること、それ自体ではなかろうか?

これはマトモな議論の通用する世界ではないことの象徴であろう。


634 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 03:22:08
>>633
中国で魏代の物とされる鏡がほとんど出ていないのだから
そんなお話は イチャモンレベル に過ぎない。

少なくとも紀年鏡で言えば神獣鏡は出ているが
九州説の連中の一押しの内向花紋やTLVが出たなんて話は知らないw

三角は”似た鏡(分類の使用によっては三角になりえる?)”は出ているが
内向花紋やTLVについては文字通り一枚も出ていない。

…多分俺だけでも数十回は説明してやってるはずだが
アホの九州説論者は同じ事を繰り返すサイキバ君脳なわけでwwwwwwwwww

635 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 03:32:26
>>629
東遷説だからって問題はないだろ。大国がいきなり東遷するわけがない。
まず、東征部隊が行く。東方を平定、安定してから東遷。2段階を考えれば、
古墳の発生などいつでも説明はつくんだ。

636 :634:2009/02/11(水) 03:35:08
結局>>634で言ったようなことは学者なら分かっていて
それで鬼の首をとったかのごとく言って
自爆するアホはそうそういないって事だなw

がネットじゃあお調子者がその部分だけを切り取って
ドグマよろしく繰り返しているのが現状とwwwwwww



637 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 03:57:59
>>635
まあ話を作るのは自由だが
東遷の規模が大きければ大きいほど(”クニ”レベル)
その要した時間が長ければ長いほど明確な痕跡が出てしかるべきと言う
ハードルも高くなるだろうなwww



638 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 04:21:46
>>634
それは話のすり替えだ罠。
△と他の鏡を混同させて議論の混乱っていう理屈?
魏は極度の銅不足で貨幣鋳造も滞り、物々交換や絹本位という有様。

この状況で大型の銅鏡を日本に大量に遅れるはずは無かろう。
しかも日本向けの特鋳とか、並みのトンデモ本では見られない高度なトンデモだな。
550以上対0という状況で無理言うなよww

「特鋳」とか、そのレベルのことを言い出したら、徳川家康だって中国が特鋳した
日本向けのスパイっていう議論も成り立つ罠。
ユダヤ陰謀史観の連中だってもっとマシな理屈だろうに。


639 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 04:26:55
「特鋳」なのに100種類以上あるとか、普通の思考じゃあり得んよ。

640 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 04:32:45
>>638
お前がすり替えだアホw

出土しているものだけでも500以上、実際に作られたとなれば
「千」どころか「万」にすら達するかもしれない三角全てを魏からの下賜品って元々無理な話。

故に舶載説論者は編年作業で確実に舶載である鏡の絞込みをしているのが現実。
(仮に出土率を1%として卑弥呼がもらったのが100枚なら、三角とて下賜品は1枚出るかでないか…)

この話もいつも出ていて、この板の九州説のアホが話を持ち出すたびにリセットしているwwww

絶対に無理な前提に相手を位置づけておいて勝手に話を進める。

・・・まあ単なる印象操作程度のお話ですが
みなさん、こんなオレオレ詐欺レベルにはだまされないようにしましょうwwwwwww


641 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 04:50:51
>>640
舶載と国産の線引きができるのか?

車崎はそれができないって言っているよな。
実際、連続性は明白だ罠。
まあ、彼はそれ故全部舶載っていう方向に走ったがww

舶載を絞り込んだと自慢したところで、それが中国で出土しているわけでもない。

642 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 07:43:19
トヨタとは日産とかホンダとか、国内メーカーが三角製造でしのぎを削ったんじゃないのかな?
一箇所で作ったと思うのが間違い。

643 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 07:56:20
日本人が高度の技術で作られた外国製品をただ輸入して
使っていただけたとは思えない。最初は外国製品の物まね
の粗悪品だったとしても、改良を重ねて本物以上の製品を
大量生産できるようになったはずです。そして過剰生産で
商品価値が下がりしバブル崩壊で不況に陥り銅鏡製造業
者は倒産。ついでに銅の精錬による鉱毒被害で村人が
次々と変死。祟りを恐れて鏡を破棄。
それが三角大量出土の理由だと思う。
日本人の国民性は、古代人も現代人も代わらない。

644 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 08:21:46
>>635

東遷はあっただろう。

第一段階は、高地性集落の時代の1世紀であり(神武の頃)
第二段階は、3世紀のマキムク(崇神の頃)
第三段階で、ヤマト王権の景行天皇が九州を平定した。

邪馬台国はどこかって言えば、
1世紀の段階で九州〜畿内は神武に平定されてるのだから、
九州〜畿内が邪馬台国。
3世紀の首都はマキムク。

645 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 09:06:02
畿内を平定したのは神武ではなくて吉備の勢力です。
神武は九州から連れて来られて祭られただけです。
天皇とは最初からそういう存在だったのです。

646 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 10:20:51
神武とか崇神とか言ってるようじゃ・・・

647 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/11(水) 10:34:56
>>633
同意だな。w

648 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 11:32:08
ドコモの携帯と同じで顧客の嗜好が外国と異なるからだろうな

649 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 11:53:54
東遷、東遷 って 内乱による中、小規模の人の移動と本来の意味である「首都の遷都」とゴッタにするな

650 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 12:32:32
>>617の南九州説には誰も反論できないのかな?

651 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 13:26:28
>>650

狗奴国との関係から、南九州説はありえない。

652 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 13:36:48
>>651
宇佐、耶馬溪〜西都、宮崎平野のいずれかが邪馬台国&投馬国
熊本、鹿児島、都城あたりが(熊襲で)狗奴国と考えればつじつまは合うでしょ

653 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 13:39:03
ビジュアル版 逆説の日本史1 古代編 上 (単行本)  井沢元彦
2008/12

これ読んだ人いる?
井沢元彦が邪馬台国論争で、意見を変えてきたというのは本当なの?
もしかして、井沢元彦、九州説から近畿説へ転向してきた?

654 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 14:19:01
7万戸に見合う遺跡もない南九州なんて誰も相手にせんわ

655 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 14:31:01
宮崎平野周辺はどこ掘ったって遺跡がでてくるわけだが・・・

656 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 14:42:57
北九州だって同じこと

657 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 14:43:40
畿内だって同じこと

658 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 15:12:33
上の3人さん。

どんな遺跡か、何が出てくるか、が問題なんだよ。
それを書かないと。

659 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 15:39:55
>>653
本当。
昔は「箸墓は4世紀だから、卑弥呼の墓ではない」と、
古い年代感に沿って考えてたんだけど、
最近では考古学の成果を積極的に受け入れ、
「卑弥呼の時代か、卑弥呼の死の直後に邪馬台国は畿内に移った。
箸墓は卑弥呼の墓だ。」と言う説になってるね。
森浩一との対談もその本には収録されてるよ。

660 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 16:08:15
考古学が無くても、文献だけ調べただけも邪馬台国は畿内だとわかる。

九州説を説いてる人たちは、魏志倭人伝しか読んでないからな。


661 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/11(水) 16:12:17
>>660
そのとおりわかる。紀無いに卑弥呼の国が無いことがね。

662 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 16:55:20
>>660
むしろ論争の歴史を見れば先に考古学に走ったのは九州説で
それに対し徹底的な文献の比較考証を迫ったのが内藤湖南。

つうか吉野ヶ里ブームまでは九州説にとって考古学は心強い味方だった感があるw

この板の九州説の連中ってそこら辺勘違いしているやつが多いwww

それこそ学術的な論争が始まった明治からアマチュアvs学会と言う構図だったと思い込んでいたり
昔から考古学が畿内説に有利だったと思っていたりw




663 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:02:45

考古学が無くても、文献だけ調べただけも邪馬台国は筑後平野だとわかる。

「魏志倭人伝」と「随書俀國伝」を読めば十分だ。

「聖徳太子伝暦」推古二五年条をも参考にすれば確定だ。

殆どの古書籍はそれを裏付ける。

664 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:12:21

吉野ヶ里遺跡は、邪馬台国が筑後平野にあったことを示す心強い味方だ。

665 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:13:32
九州説を採る人ってほとんどカルト信仰に近いものがあるんだな
近年の遺跡発掘結果が圧倒的に邪馬台国畿内説を指向してることにトコトン背を向けてる

666 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:19:01
>>665
いくらなんでもそれは言いすぎw

要は3世紀における日本国内における最大勢力を畿内ヤマトを中心にした
連合勢力とした上で九州説を組み立てるなら

今後、如何なる考古学的な発見があろうと
それによって不利になるものでもなんでもない。

まあ、この板の場合、九州説と言っても東遷説とか九州王朝説が主流なんで
その辺を差っぴいて考えなきゃならんがwwwwwwwwwwwwww





667 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:19:50

近年の遺跡発掘結果も圧倒的に邪馬台国筑後平野説を示唆してる。

668 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/11(水) 17:21:27
マキムクは垂仁、景行の時代の遺跡だよ。卑弥呼がその頃紀無いに
いたなら記紀に女王、女帝の記事がそれら天皇の前後に一章が追加
されて記述されてるはずだ。が、それが無い。ということは当時
紀無いに女王女帝なんぞおらず男王たる天皇がいただけのことだよ。
つまり畿内に卑弥呼の国はなかったということだ。当然なかったと
いうことは、卑弥呼の女王国は九州にあったということだ。

669 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:30:42
>>666
そうかな?
例えば、2世紀後半から3世紀前半の
土器、鉄器の様式の変化が何処から始まって何処へ伝わったか?
古墳のまたしかり

どうしても邪馬台国九州説を採るならその辺りの絶対矛盾を万人に納得出来るよう説明しないといけないだろ?


670 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:33:34
日本の考古学会で残念なことは、
遺跡発掘を行っている人達の殆どが天皇一元史観の持ち主で
邪馬台国畿内説の信者であり、
発掘の目的が邪馬台国畿内説の為であり、
発掘結果を恣意的に邪馬台国畿内説に都合よく解釈し、
客観的に判断していないことである。

671 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:34:01
そんなわけねー。

672 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:35:26
畿内説も北九州説も思い込みだけではなく、ちゃくと行程の説明をせんといかんな。
できなければ、あれこれ言う資格はない。
南九州はきちんと説明している。狗奴国は志布志湾沿岸に比定すればいい。何も
問題はない。

673 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:35:28
>>663

いろんな奴がいるが、こいつはとことんものを知らん馬鹿だなw

しかも『隋』もわからんらしい

674 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:37:20
>>670
そのとおり。白石なんてのは、思い込みだけで発言している。
あれが学者とは恐れ入るな。

675 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:39:09
>>670
カルト 乙

プレヤマト王権を邪馬台国と呼称するかどうかだけの問題かもしれないな
現在のところ、考古学会は九州論者との無駄な論争を避けて
あえて「プレヤマト王権」と呼んでる

676 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:39:33
>>669
絶対矛盾? そんな矛盾はないな。適当なことを言ってはいけない。

677 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/11(水) 17:40:13
臥海はとにかく垂仁、景行の天皇の時代とその場所に強引にも九州
所在の卑弥呼を接着させる〜天皇女王チチクリアイ歓喜天構想を
恒久的に曲げない盲象を今も育んでいるわけだ。wwwwwww

678 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:49:32
>>669
だから簡単に言えば九州邪馬台国が畿内を中心とした連合体の一部で
主に外交を請け負っていた立場で
ヤマトに黙って魏と交渉を持った一種の偽僭説とかなら土器様式の変遷等々の問題も関係ないだろ?www

まあどの道今後九州説の主流(?)はそう言う枠組みのものに淘汰されるんじゃないかな?と予想しているwwwwwwww



679 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:55:06
>>675
多分>>670はサイキバ君と呼ばれているアホじゃないか?w

おそらく考古学関係の本なんざあ一冊も読んでいないんじゃないのかな?

この板で九州説論者に叩かれている畿内説の学者の方が余程皇国史観に縁遠いw



680 :678:2009/02/11(水) 18:11:34
よく魏使いが伊都国とどまり邪馬台国の道のりも伝聞だけであったため
里数が途中から日数に代わっていて
それは邪馬台国がその所在地を魏に知られたくなかったから

…なんて話がまことしやかに言われるが
>>678の偽僭説にたてばつじつまが合うw

九州邪馬台国は自分達こそが当時の日本の盟主と嘘をついていた手前
魏使を畿内ヤマトに連れて行けるわけもないと言うことでwwww

…ってこれ関のストーリーだっけ?wwwwwwwwwwww

681 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 18:34:12
>>678

そのとおり、
九州説は、所詮偽僭説に行き着くしかない。
偽僭説なら、誰にも論破されないから便利かつ最後の砦。

九州王朝説もいってみれば偽僭説だがな。


682 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 18:53:30
偽僭説は本居宣長の説だぜ。また、先祖返りってわけかい?
やっぱり、行程記事は南九州を指しているんだよ。となれば、頭を切り換える
んだな。正真正銘、邪馬台国は南九州にあったんだ。大和は無関係。


683 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 19:03:40
南九州説を言ってるのは
九州王朝説じゃなくて
日向(宇佐もそうだけど)と畿内との結びつきの深さからでしょ
なんで国生み神話や東征伝説が
あんなにたくさん日向に残ってるのか

もうマキムクが3世紀はじめ頃には
列島で最大の勢力を持っていたことがわかり
そこが大和朝廷の元になったこともはっきりした

で北九州はマキムクの勢力と争っていたのかもしれんけど
どうやら日向にはそういう痕跡は薄い

だから南九州説というのは
天皇家の祖と血脈の関係ある女王が
西都や宇佐あたりで
マキムクの分地として祭祀をやっていたんじゃないか?
という仮説よ
神武東征もアマテラス天の岩戸神話も
魏志倭人伝もすべて説明がついちゃうからね


筑紫平野説とはまるっきり立脚点が違う

684 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 21:49:09
ここの住人の中で一部、勘違いしている奴がいるがw
というか、その勘違いは九州説論者に多いのだが

戦前・皇国史観=邪馬台国九州説
だからね。
どちらかというと、アジア全体の中で捉えようとしていたのは
邪馬台国ヤマト説。
皇国史観の元凶の本居宣長が、邪馬台国九州説だからw

それが、いつのまにやら、邪馬台国ヤマト説が有利になると
九州説論者は、邪馬台国ヤマト説のほうを皇国史観として批判しているw

685 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 22:14:24
>>684
戦前の皇国史観と言うのは所謂「本国中心主義」ってやつだなw



686 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 22:25:12
記紀の年代観って言うのがあるだろう。
神武天皇の即位が紀元前660年頃で、崇神天皇は、紀元前97年即位ってやつ。

江戸時代はもちろんのこと、その後もこの年代観が支配的だった。
この年代観で言えば、卑弥呼のいた3世紀前半には、大和朝廷が存在して
いたことになる。

本居宣長も当然この年代観のもとで歴史を考えている。
だから、九州の女酋が神功皇后の名を騙り魏と通行した、という結論を出した。

本居宣長は、朝廷が魏に朝貢するなどありえない、また、親魏倭王など
もってのほかだと考えたということで、皇国史観などといわれる。

しかし、邪馬台国の位置を九州としたのはけっこう画期的だった。
畿内説の人は、これをうやむやにしたいために皇国史観を強調するわけだが。

687 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 22:28:00
>>686
ちょっと書き忘れたが、本居宣長以前は、記紀の年代観のため倭王なる人物は
当然、大和朝廷の人物と考えられてきた。
要するに、神功皇后のわけだが。

688 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 22:36:19
>>686
>しかし、邪馬台国の位置を九州としたのはけっこう画期的だった。

逆に言えば、奈良時代からずっと邪馬台国は畿内というのが常識だったわけだよ。
誰も疑わなかったんだから、邪馬台国は畿内というのが事実。
もし捏造だったら、平安時代から異議が唱えられたことだろう。
竹取物語みたいに朝廷批判は自由だったからな。


689 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 22:40:11
ホツマを引用してるやつもいるが、
そういう故事には、
邪馬台国が九州だって明記されてるのかい?
九州の邪馬台国と畿内の関係はどうだったんだい?

どんなに古い文献をあたってみても、3世紀の九州に首都が置かれてたとは書いてない。
3世紀以前なら九州も首都機能を持ってたろうが。

690 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 22:53:02
新井白石も、最初は畿内説だった。しかし、のちには九州説に転じたとされて
いる(外国之事調書)。場所は、山門郡となっている。

本居宣長のあとは、九州説が支配的になった。
この考え方は、現在の九州王朝説につながるわけだが。

691 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 23:00:47
>>684
>皇国史観の元凶の本居宣長が、邪馬台国九州説だからw
宣長の考え方で皇国史観から導かれたのは、卑弥呼を九州の女酋としたところであって、
卑弥呼が南九州にいたというところではない。魏使の訪問先が南九州だというのは、倭
人伝の行程記事を素直に見たからにほかならない。

692 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 23:08:00
>>688
>奈良時代からずっと邪馬台国は畿内というのが常識だったわけだよ。
それはどうかな? 「邪馬台国の暗号」(安田哲也著)を読んでみな。
記紀は南九州に邪馬台国があったことを前提に書かれているそうだ。

693 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 23:12:36
>>692の続き
考え方としては、結構、おもしろいよ。
http://sns.ajcost.jp/blog/blog.php?key=56904

694 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 23:34:17
聖徳太子の大和朝廷は嬉々として中国に貢ぎしたわけだがね。

695 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 23:34:55
考古学的に見た場合、大和朝廷の発生は、記紀に書かれているほど
古くない。これがわかってくると、邪馬台国東遷説が出てくる。

銅鐸の消滅、銅鏡の普及。明らかに近畿地方には大きな変化がある。
九州の弥生文化と畿内の古墳文化には連続性が見られる。

また、白鳥倉吉などが言っているように、倭人伝に書かれた倭国の様子と
記紀に書かれた高天原の様子が酷似している。

また、それをつなぐものとして神武東征が重要な役割を果たしている。

などが東遷説の根拠となった。

しかし、第二次世界大戦後しばらくは、記紀を持ち出すことが悪のように
言われていた。皇国史観という言葉で非難され、東遷説を言うと軍国主義復活
を叫んでいるように言われ、口にするのをばかられた時代があった(らしい)。
畿内説は、そういう言葉で東遷説を封印しようとしてきたわけである。

それを打ち破った一人が、安本美典さんだろう。
こんなに声高らかに東遷説を主張した人は少なかった。
しかし、東遷説は、明治時代からけっこう多くの支持者がいる。

696 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 23:45:31
>>695
>考古学的に見た場合、大和朝廷の発生は、記紀に書かれているほど古くない。
確かに、銅鐸の消滅、弥生墳墓と古墳の断絶は近畿が外部勢力に征服されたこと
を推測させるな。

697 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 23:47:42
今じゃあ
完全にトンデモ&キチガイ学説に成り下がった騎馬民族征服王朝説が
ひと昔前に熱狂的に支持されたのも
「反軍国主義的左翼イデオロギー」のせいだわな

698 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 23:52:54
大和朝廷だか神武の東遷は、伝承のみ。
しかし天皇家直属の語り部の伝承だから真っ赤な嘘を国書にしたのか、と
いう議論になってくる。それはひとまず置いといて。

実際に九州の豪族は多く東遷している。その時期に九州にあった勢力権が
なんらかの形で畿内に移ったとみるのは当然。

699 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 23:58:04
近畿説論者は、意識的に銅鐸の消滅には沈黙だな。言ってもせいぜい宗教改革だ。

700 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 00:06:40
>697
東大は左翼、京大は右翼 が定説



701 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 00:16:10
>>698
>実際に九州の豪族は多く東遷している。

まったくのデタラメ。
九州発祥の豪族の氏族名を列挙してみな。


702 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 00:18:15
でも東大にも平泉一派がいた(る)し、京大にもサヨが沢山いた(る)。
結局は個人。

703 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 00:20:00
>>699

銅矛も消滅してるんだから、話にならない。
近畿の銅鐸、九州の銅剣が同時に出てくるのが出雲だが、
九州説のほうこそ、出雲を意図的に無視してる。
魏の時代に、外国人が出雲を知らないわけないし、畿内を知らないわけがない。
畿内に大きな勢力があるのに、畿内を掌握してない九州のクニに金印を贈るわけがない。

九州説は矛盾だらけだ。


704 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 00:26:17
>>703
>魏の時代に、外国人が出雲を知らないわけないし、畿内を知らないわけがない。
そこまで言うなら、出雲や畿内が末盧国あたりからみたら東北だってことも知らない
わけがないとなりそうだな。


705 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 00:27:10
方位に拘るなら、距離にも拘ろうな。


706 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 00:29:03
出雲だって銅剣、銅鐸を埋めたんだろ。他の勢力に征服されたんだよ。

707 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 00:29:56
>>705
当然だろ。十分考えてるよ。

708 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 00:31:24
>九州発祥の豪族の氏族名を列挙してみな。

物部氏、中臣氏、多氏、‥‥

709 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 00:35:28
>>701
論破されるのが嫌なのか、馬鹿なフリしてるのか
ここまで無知だと、無知の集団=畿内説ってことになるぞ

710 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 00:36:23
大神氏、阿蘇氏の東遷は言わずもがな。

711 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 00:36:37
今まで知らなかったの?

712 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 00:38:54
>畿内を掌握してない九州のクニに金印を贈るわけがない。

実際にいくつも贈っているしwwwwww




713 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 00:41:06
>>711
畿内説者は何も知らんよwwww

本当に小学生並みに無知だから、当たり前のことに
すぐ「ソースは?」「何で?」おい、史書嫁よww
無知で何も知らんから畿内説なんだよ。馬鹿相手に何度同じこと説明して
リンク貼ってやったことかww この繰り返しなんだよ。



714 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 00:48:33
日向宮→纒向宮でしょ。

715 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 01:15:00
ほかにも例えば猿女君・稗田氏なんかは九州からの東遷組に
決まってるでしょ。 論理的に考えて。
だってこいつらが九州の東遷説を代々口伝してきた大元であるし。



716 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 01:27:11
海部氏の偽書の疑惑高い勘注系図をみると、豊後の海部氏を国造として自分ちの
6世孫と繋げている箇所がある。つまり、大分にある海部氏と同族だと言ってるわけだ。
さて、大分の海部氏は海部(あまべ)古墳として残っているが

同時期の丹波の海部古墳はどこだ?家系図はあるのに古墳はわからないとは
お粗末すぎて話にならんよ。だいたい、内海の名前からして九州から
来た阿蘇氏の名前をとってるしな。この辺りも非常に怪しくて笑えるよw




717 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 03:24:11
しかし東遷説は今後もしぶとく生き残るんだろうなあ…w

そもそも西に半島大陸があって先ず九州を経由して文物がそこから東にもたらされる以上
モノの動きが西から東へと言うのは当たり前なわけで
そのたびに東遷と言うのなら稲作文化も銅鐸文化も東遷によってって事になる。

無論、九州の銅矛文化の王朝も半島大陸からのやってきた銅鏡文化民族に征服されたと…
結局騎馬民族説と同じロジックにならざるを得ないwww

まあ纏向勃興に九州の影が殆ど見られない現状では邪馬台国東遷説は無理っぽいわなw

だから時代的にはそれより前、伊都国東遷とか奴国東遷とかに主流は移って行くんだろうwww


718 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 03:40:34
そもそも東遷説ってその概略が具体的に見えてこない。
それは一体いつの時代から始まってどれくらいの規模で行われたのか?

単に情緒的にウリナラ起源説よろしく九州発祥を言いたいだけちゃうんかとw

銅鐸文化の消滅たってそりゃ文字通り文化だろ?w

近畿式と三遠式は別の王権の証?w

出雲の加茂岩倉はどういう位置づけ?www
昔の教科書に載っていた銅鐸文化圏と銅矛文化圏の二つの円が描かれた図も結構怪しくなってきたぞ?wwww


719 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 04:11:42
>>716
なるほど、邪馬台国=大和国となるわけか

720 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 04:52:53
>>716
なんと!「海部氏勘注系図」が偽系図だって!大笑い!大笑撃!大爆笑!
本物だったら邪馬台国九州説が大崩壊するからね。ワカリマス。
で、6世孫に九州の関係者がいるとか?いねーよ!10世孫、大原足尼が
筑紫豊国国造になってるぞ。崇神・垂仁天皇の時代に九州を侵略したんだ。
丹後に海部氏の古墳がないとか?あるよ!丹後には5000基も古墳があるぞ。
墓碑銘なしで特定出来ないから銚子山古墳や神明山古墳とか好きなの選べ!

721 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 07:51:11
>>708
>九州発祥の豪族の氏族名を列挙してみな。

物部氏、中臣氏、多氏、‥‥
>>710
>大神氏、阿蘇氏の東遷は言わずもがな。

>>715
>ほかにも例えば猿女君・稗田氏なんかは九州からの東遷組に決まってるでしょ。 論理的に考えて。

へー。この人達が東遷したって?
では、根拠を述べてみ?


「安本さんが、そう言ってたから」ですか?

げらげら。






722 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 07:54:15
氏族が誰も東遷してないとは言わないよ。

ただ、一番、東遷した可能性が高い大友氏がすぐに出てこないあたり、
東遷説論者の知識レベルが知れるよな。

723 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 08:27:01
安本が大伴氏を東遷氏族にカウントしないのは、
渡来系氏族と考えられてるからだろうな。
まさに、安本こそ皇国史観の塊。

大伴氏が渡来系なら、一緒に天孫降臨したニニギも渡来系になり、
高天原は海外になるからな。
高天原も九州にしたい安本には都合が悪いわけだ。

724 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 08:32:23
邪馬台国の所在地の問題は、当時の日本の情勢を知ることでもある。
壱岐や対馬が邪馬台国の支配下にあったのは確か。
伊都国には代々王がいて、みんな邪馬台国に統属しているとある。

近畿地方に邪馬台国があったと仮定して、このような広範囲な支配体制が
はたして出来上がっていたのか。これでは、のちの大和朝廷並の勢力と
いうことになる。

しかし、邪馬台国に属する国として倭人伝に書かれているのは30カ国。
倭王・武が宋に送った上表文に書かれている支配国は、朝鮮半島を除いて
121カ国。朝鮮半島を含めると216カ国にもなる。
明らかに違いがある。

当時、倭国は九州あるいはその一部をさしていたと考えるのが妥当だろう。

そう考えることにより、倭人伝にある「東に海を渡ること千里でまた国が
ある。倭種であるが女王に属さず」の文章も納得できる。

725 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 09:50:27
>>724
>そう考えることにより、倭人伝にある「東に海を渡ること千里でまた国が
>ある。倭種であるが女王に属さず」の文章も納得できる。

瀬戸内海まで銅矛がいきわたってるから、無理。



726 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 10:12:42
この間、神戸の雲井遺跡で鋳型が見つかってたわ

727 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 14:33:11
東へ海を渡ること千余里は伊勢湾を渡るという意味です。東海地方と言うでしょう。

728 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 15:12:53
いや、関東でしょう。

729 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 19:14:13
そもそもある氏族のルーツが九州にあることを証明できたとして
それで東遷説の証明になるのか?
いや傍証にすらなるのか疑問だなw

そりゃ九州からやってきた氏族もいるだろうし、山陰や山陽、あるいは東海・関東からやってきた氏族だっているかもしれない。
国内だけでなく帰化系の氏族もいるだろう。

結局、東遷説のゴールはそのスタートである記紀神話の神武東征神話が史実の反映であることを証明する事なんじゃないのか?

いくつかの氏族のルーツが九州にある可能性を挙げてそこで終わる話じゃないだろ?wwwwwwwwwwwwwwwww

730 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 19:30:58
先に銅鐸の話が出てたんで…

相変わらず銅鐸から銅鏡へのシフトを東遷説の根拠に挙げる人間がいるが
銅鐸のそもそもの性格や社会構造の変化等を考えれば銅鐸の終焉はむしろ必然。
何も東遷説なんてゲテモノを出してくる必要はないw

銅鐸なんてのは元々五穀豊穣を祈る農耕の祭祀に使われたもので(まあ穀霊信仰ってやつやねw)
初期には集落の中心でガンガン打ち鳴らす祭器だった。
その祭りを仕切ることで首長の権威と言うものも誇示されたんだろう。

がやがて首長の権力が大きくなり、一集落のお山の大将に留まら無いものになると
本来ムラ祭りの道具の銅鐸では役不足になってきた。
それでも巨大化することで威信材としての性格を与えてきたが舶来の銅鏡にその地位を譲ることになる…

まあより大きな権力を手にして、それに相応しい威信材を求めていた首長たちにとって
銅鏡と言うものはそのニーズにうまく応えたアイテムだったろうw







731 :730:2009/02/12(木) 19:42:14
銅鐸の終焉を使っての東遷説ってのは結局、騎馬民族説と同じ構図。

故にその批判にも同じネタが使えるw

例えば明治になってチョンマゲからザンバラ髪に洋服や洋館等々西洋の文物が大量に入って来て
その風俗も劇的に変わったが、別に西洋人が日本に入植して文化を持ち込んだわけじゃない。
明治維新自体はあくまで日本国内の変化。

文化の変容は国が丸ごと変わらなきゃ起こりえないものではないw

まあ「銅鐸!銅鐸!」言っているやつは
 「 銅 鐸 国 」 なんて謎の言葉を使うサイキバ君レベルっちゅうことやねwwwwwwwwwww


732 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 20:16:41
マキムクは縄文文化受け継いでるし
縄文時代から稲作もやってるしなあ

マキムクにおける
縄文と弥生ってどこに対立があるの?


733 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 21:29:26
もしかしたら、全く逆なのではないでしょうか?
実は魏は邪馬台国の属国、劉氏は邪馬台国の作った傀儡政権。
その事実を隠すために魏志倭人伝にはうそを書かせた。
日本書紀の成り立ちとそっくりではありませんか?

これで、全ての謎が解けた!

734 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 22:10:48
まあ邪馬台国東遷説は纏向で息の根止められた感があるがw

面白いのは土器の移動を見ると東海から畿内へ
畿内から九州へと言う東から西への「西進」なんだよねえ…。



735 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 22:18:39
まあ、比較の問題だな。
東遷説が不都合というのなら、代わりの説を出すべき。
そして比較してどちらが妥当かを論ずるべき。

畿内説も、大和朝廷の出自についてはけっこう揺れている。
以前は、自生説なるものもあったが、今ではほとんど省みられない。

さて、大和朝廷はどのようにして誕生したのか。
古代の大和朝廷自身は、日向からやって来たといっているわけだが。

736 :678:2009/02/12(木) 22:26:21
ちょっと話を戻すが…

>>681
実は個人的には偽僭説よりもう少し九州説よりに立った可能性を考えている。

それは九州邪馬台国が首長連合の一部にありかつヤマトやその他のクニグニの了解(もしくは黙認)の下
魏と交渉を持ったと言う筋書きw

どの道、畿内説をとる場合でも半島大陸との外交を受け持つのは北九州の勢力。

おそらく今後、纏向から宮殿に該当する建物跡が出てくる事はあっても
三韓・楽浪の土器がわんさか出てくると言うことはまずないだろうwww

ヤマトや他の国々にとっては「名より実をとった」と言う感じだろうか?

対外的には倭国王だが実際の国内においてはそれ程の権力を持ていなかったと…
そうすりゃクナ国の脅威にされされて魏に泣きついたってのもすんなり納得できると思うのだが
どうでせう?wwwww




737 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 22:46:38
>>735
日向って何処の事ですか?
と言う問題もある。

738 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 22:47:51
いや
さすがに日向は宮崎県以外にはないわ

739 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 23:12:39
古事記も日本書紀も、神武天皇は日向を発ってまず宇佐に立ち寄る。
次に筑紫の国の岡田宮(宗像付近?)、次に安芸の国(広島)、次に吉備の高島宮。

吉備には、かなり長期間滞在する。日本書紀によると3年。古事記では8年。
そのあと大和となっている。

面白いのは、神武天皇が立ち寄ったところ(吉備以外)には、航海の神である
宗像の三女神を祀った神社があること。
宇佐には、宇佐神宮。岡田宮付近には宗像大社。安芸には厳島神社。

740 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 23:41:24
>>739

だからといって、邪馬台国は宇佐にはありませんよ。



741 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 23:44:54
>>740は文章とかスレの流れとか読めない人ですか?


742 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 23:51:05
>>736
さらに複雑な様相だな

魏使と直接の交渉にあたった邪馬台国の外交官 難升米 が
奴国出身者だったという単純な理由の可能性大w

743 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 23:59:34
>>731
銅鐸埋納の意味すら分からないとはひどいもんだな。

744 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 00:20:10
>>743
ほい、出ました。
九州説論者の捨て台詞w

言いたい事あったら具体的に突っ込めやアホwww



745 :744:2009/02/13(金) 00:32:31
ちなみに複数出土したものを、菱環鈕から突線紐5までの型式で分類整理すれば
古いものは古い物どうし新しいものは新しいものどうしで
ある日突然全ての銅鐸が急いで埋められた状況ではないのは一目瞭然。

まあ破壊された銅鐸と銅鏡が共伴すると言う事例がいくつもありゃ
この板の東遷説論者の妄想もリアリティあるんだろうがwwwww
(てか、今そんなネタで東遷説言っている学者っているんかいな?)

746 :ローガン:2009/02/13(金) 00:35:52
>>736

> それは九州邪馬台国が首長連合の一部にありかつヤマトやその他のクニグニの了解(もしくは黙認)の下
> 魏と交渉を持ったと言う筋書きw

なるほど、それなら、九州説でも宋史の「其国王一姓伝継臣下皆世官」が説明出来る…かな。

747 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 06:49:33
>>745
制作年代や種類のちがうものを一緒に埋めた例がある。例えば神戸桜岡では、古式
の銅鐸4個と中期の銅鐸10個が儀器銅戈とともに埋められていた。滋賀の
小篠原でも制作年代、種類のちがうものが埋められていた。
森浩一は「3世紀から4世紀への移りかわりに軍事力を背景にした勢力の交替があ
ったことを十分に推定させる」と言っている。

銅鐸と銅鏡が一緒ならば? 銅鐸は敗者が埋めたもの、銅鏡は勝者がばらまいたも
のだ。一緒になるわけがない。勢力交替だから一緒ではないんだ。何を言ってる
のかな?

748 : ◆.L.MXSPOgc :2009/02/13(金) 07:54:56
>>739
日向を発って、というが実際は武力的に追い出されたというのが正しいだろう。
早朝バタバタと急いで出発したなどと伝わっているが、これは奇襲を察知して逃げ出したというのが本当のところだろう。

ところが北九州では、いわば保護されている。これは北九州が、日向を追い出したのと同じ勢力ではないということ。
つまり南九州の勢力が神武を日向から追い出したが、北九州には別の勢力があったということだろう。

神武は岡山まで戦わずに移動しその後畿内に上陸するわけだが、これは北九州の勢力が北九州から瀬戸内の岡山
あたりまでをその勢力下に収めていた、北九州瀬戸内というべき勢力だったのであろうと推測される。
少し前にも書いたが、この勢力範囲は神籠石の残っている遺跡の分布と一致する、というか一致するように
その勢力範囲を私が考えているわけであるが、少し恣意的か。(つまり出雲はこの勢力に入っていない。)

ここで北九州瀬戸内勢力を邪馬台国連合、南九州勢力を狗奴国と考えることはできないだろうか、といま考えている。
神武東遷は3世紀前半あたりの出来事と見ることができるのではないかな。

749 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 08:41:25
>>748

神武は北九州に行ってるが、肝心のイト国には行ってないけど?

まあ、神武東征神話が書かれた奈良時代は、イト国なんて重要視されてなかったってことだろうが。



750 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 08:47:08
>>747
え?敗者は銅鐸を”破壊して”埋納するのか?w

滋賀の小篠原は知らんが神戸桜岡の方は
外縁付紐が4個と、時代的にその次の
扁平紐が10個と言うパターンだな。

別にかけ離れた時代のものが抱き合わせで出てきたわけでもなんでもない。
(今見ている本ではその例は近江大岩山の突線紐3式と5式の組み合わせだけだ)

埋納自体は中期頃から行われており
一体どうやって武力による勢力の交代を読み取るんだ?

文化の様相が変わったら即、勢力の交代、征服劇かよwww


まあも森浩一が何といっているのか知らんが
例のムック本で箸墓が卑弥呼か壱与の墓とか言っているんだし
邪馬台国東遷説には関係のない話だなw
(まあ流石にリップサービスと言うか口が滑ったじゃないかとも思うがwwwwwwwww)




751 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 09:25:33

イヨタン・・・・・・・・・・


752 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 17:17:43
よく東遷説論者は
「九州の弥生文化は畿内の古墳文化に連続している」
見たなことを言うが

そりゃ銅鏡の副葬は大陸に近い九州が先であっただけで

そもそも九州に古墳なんて巨大な首長墓を作る文化があったのかと
(「前方後円墳は九州発祥」なんてウリナラ起源説はかんべんなw)

吉備の楯築、出雲の四隅、東日本の前方後方墳…とあっても
九州にはそう言った志向は見られないわけで

それが畿内に入ってからいきなり巨大首長墓の建造を志向しだすと言うのは
あまり説得力のある話だとは思えないw



753 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 01:19:24
>>729
>なんと!「海部氏勘注系図」が偽系図だって!大笑い!大笑撃!大爆笑!

作成が江戸時代だからな。

その作成当初の江戸時代から偽疑惑が根強かった。その偽疑惑自体、江戸幕府
の直属の専門家たちだからな。
命をかけて「秘伝の家宝だからという」として出さなかったのは有名だろ。

大体、丹波の国印がある本系図や2000年前だという鏡があるのに

その「勘注系図」の原書とやらは消えている、というか初めから存在さえしないwwww

まさに詭弁の機内説を代表する偽系図ですよ。

754 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 01:20:25
偽系図疑惑が前からあるのを知ってるくせに(知らないはずがない)
びっくりしたフリをするとは必死すぎる。
この辺りが嘘つきの癖だよな。

755 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 01:28:58
>>720
君、ずいぶん勉強不足だね。それは後だよ。6世孫に大分・宮崎が居るけどなwww
そして大分県南部に居た海部氏は地元の風土記(豊国のは記紀と同時期)
腐るほどあるけどね。
そしてその海部氏の大王と6世紀孫が重なる、というかわざと
くっつけてるために書かれてるんだよ。

あと丹後の5000の古墳なんか宮崎より少ないが?ww しかも
古墳の数でごまかせると思っているところが馬鹿丸出し。特定できないことがおかしいんだよ。

おかしなことに、あれだけ詳細な古代家系図がありながら(江戸時代製作だがw)
どの古墳がどの先祖か 皆目検討がついてもない。

他の豪族、皇族は家系図と古墳は全部(いちおw)特定してるが。だから
偽だっつーのよ、それも昔から言われてること。

あのさ、>>20 低俗なごまかしレスすると、益々嘘を突かれたときにごまかす
ためのものにしか見えないよwww


756 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 01:30:39
海部氏の鏡もどうせ、九州から持ち込んだんだろ。検討つくね。

なんせ内海に阿蘇氏の名前つけるぐらいだし、大分と宮崎の国造りを
祖先とくっつけるような家系図(偽)があるぐらいだから
相当九州に思い入れ強いらしいよw



757 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 01:51:58
東遷説論者=記紀論者

記紀は国書だからね。
しかも天皇家直伝の口伝書だから。
検証して当たり前、記紀論者がいて当たり前。

畿内説=記紀嘘説者だから。
これも根拠があるなら書くのは自由だけど、所詮、邪馬台国畿内説をつくりたいが
ための詭弁だからねえ。



758 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 04:44:59
>>753
「海部氏勘注系図」を江戸幕府が見てもいないのに噂だけで偽物と疑惑を
いだいたわけだね。お前は呼吸をするたびに嘘を吐く馬鹿野郎だ。
最も勘注系図の噂を聞いた水戸光圀が「見せろ!」と言ったことはあるがね。
「海部氏勘注系図」の原本である620年に書かれた「丹波国造本記」が
現存するわけないだろう。あれば同時期に書かれた「天皇記」「国記」も
現存しているはずだ。

759 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 04:50:03
>>754
当然、「古事記」「日本書紀」も偽物の歴史書だよな!

760 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 06:04:05
>>755
神道大系、古典編13の「海部氏勘注系図」によると6世孫は建田勢命、
建田小利命、葛木高田姫命、宇那比姫命だが大分・宮崎ってどの人物だ?
地元の風土記のような臭い物ではなく筑紫豊国国造の記録くらいあるだろな!
宮崎の古墳に人食い人種の熊襲のだれが葬ってあるか?答えろ!
「海部氏勘注系図」では14世孫以降は特定出来るぞ。

761 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 06:16:19
>>756
天橋立の阿蘇海沿岸に難波野があるんだが大阪に思い入れが強かったんだね。
天橋立の籠神社の伝世鏡である内行花文昭明鏡が九州で伝世されてるか答えろ!

762 : ◆.L.MXSPOgc :2009/02/14(土) 08:16:14
>>749
イト国云々がなぜでてくるのか理解できないのですが、神武が行っていないってだけでしょ。
敵の敵とはいえ味方というほどでもなく、宮崎を追われたからといってもどこかの領地を分けるのでなく、
自分たちの勢力外の東の土地に領土を求めろ、準備くらい手伝ってやる、って感じですからね。

763 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 10:42:07
>>751
まだ16だからな…



764 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 11:56:16
海部氏系図って国宝なんだな
しかも国宝の中でも系図とういうのはこの「海部氏系図」のみ
ちょっと驚いた

765 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 14:10:14
ttp://blog.hobbystock.jp/report/images/tp0108/013.jpg
お美しい・・・

766 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 14:29:10

イ、イヨタン・・・・・・・・・・


767 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 16:10:38
>「海部氏勘注系図」の原本である620年に書かれた「丹波国造本記」が
>現存するわけないだろう。

しないわけない。

当時の本系図も残ってるし1世紀の鏡も残っている。

記紀よりも後に書かれていてなぜ残ってないんだ、変だよなwwww

768 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 16:14:50
>>764
国宝になる経緯にはパナソニックの松下会長が絡んでる。
どうせそれが開示の条件か何かだろ。

>>758
江戸幕府直々が内々に調査するから見せるように言ったのに
お家をかけてでも守るとかなんとか言って開示しなかった。
だしたら潰されるのがわかってるから。
なんせw、天皇家より自分達が相応しいといっているような内容だからな。

あんた、馬鹿? なんでも信じるってすげーなw でも記紀は信じられないよねな、
九州がいっぱいでてくるからねw 


769 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 16:17:48
>>760

九州の豪族も知らないで質問してた馬鹿と同じ奴だろ?
論破されてごまかしが醜かったねww
で、こんどは肝心の海部のほうも知らないの?www

はい、君は人に自分の無知から人に教えを請うときもこんな態度なの?
だから無知の畿内説なんだよ。もう君の質問=答え方式には疲れた。
徐々に出すから必死でごまかしてろwww



770 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 17:12:47
>>769
ヨォ!九州の薄汚い在所野郎!海部氏6世孫のだれか?氏名を早く答えろ!
宮崎の古墳に穴を掘って住んでる土蜘蛛のだれが葬ってあるか早く答えろ!
キムチ臭い九州説のチョン!まだかよ!早く答えろ!

771 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 17:27:51
>>768
お前は九州にまともな王墓・遺跡・遺物が何もないのに九州説を信じるの?
やはり、アホ・馬鹿は、すげ〜〜〜な!

772 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 18:02:10
>>767
これは酷い愚か者だ!お前は算数の出来ないアホ・馬鹿・間抜けだ!凄いぞ!
712年、古事記が書かれた。720年、日本書紀が書かれた。数字わかるね。
620年、丹波国造本記が書かれた。さて、どれが一番古いのでしょうか?
お前は九州の在所だから理解出来ないんだ。カワイソウニ。
で、聖徳太子・太安万侶・舎人親王の誰が一番古い人かわからないだろう。

773 :本田:2009/02/14(土) 22:32:25
>>772
×720年、日本書紀が書かれた。
○720年、日本紀が書かれた。

日本書紀は、成立年代、作者共に不明です。
現存する日本書紀は、中世の物で、考古学の結果と一致せず。
史料的価値は低いです。

774 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 22:52:04
>>773
>現存する日本書紀は、中世の物で、考古学の結果と一致せず。
>史料的価値は低いです。

「日本紀」云々の問題が所在することは拙者も承知する。
しかしながら貴殿がそこに拘るあまり上記の如く主張なさるのであれば、
今後一切古代史は日本書紀の記事を参照されることなく論じられよ。

775 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/14(土) 22:56:25
稲荷山鉄剣の銘文の雄略、大彦、シキ宮等は、紀と一致してるだろうが。

776 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 23:01:33
古事記・日本書紀の前に、聖徳太子がかかわったとされる天皇記・国記が
あった。記紀はそれが元になっているんじゃなかったかな。
天皇記・国記は焼失してしまったらしいが。

777 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 23:06:09
実際、消失したからといって、読んで記憶してる人が何人もいただろうから、
記紀編纂には関係ないね。


778 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 23:20:01
>620年、丹波国造本記が書かれた。

 そんなもの初めから存在してませんwwwww

 江戸時代に書かれた偽の系図に「原本」として名前があるだけです。
 
  

779 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 23:20:54
>>770 - >>772
馬鹿が必死だな


780 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 23:26:11
>>777
天皇記と国記が焼失したのは645年で古事記が書かれたのは712年だから
67年後のことだ。読んで記憶してた人はずいぶん長寿だったんだね。凄いぞ!

781 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 23:32:35
>>776
記紀にせよ、天皇記・国記にせよ内容はどうせ同じ。

それにしても編纂時期が新しすぎるし、中国に遣いを出したのも
遅すぎる。いわゆる大和朝廷ね、かなり新しいのは一目瞭然。

邪馬台国とは関係ないだろうし、マキムク宮の支配層とだって全くの
別系統の可能性も大有り。


782 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 23:35:24
>>780
アマノウズメって聞いたことある?
その一族をちょっと調べてみようなw

天皇記と国記の原本が焼失したといって、内容が完全に忘れ去られたと?
それは頭がおかしいんじゃないの、君ww



783 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 23:46:54

東海・畿内からの発信による文化と、中国との交易による九州独自の文化と
その両方が同時にあったに決まってるじゃないの。
実際、当時の日本はひとつの朝廷でまとまっていたなんて史料は全く存在しないし
国内外に存在する全ての史書を参考にしてもそれの逆を裏付けている。

「考古学」の畿内説なんて言葉使うのは詭弁。

史料がゼロだから「記紀は嘘」
「倭人伝も嘘、又聞きで東と南を間違えた。温暖な描写は夏だったから」



784 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 23:52:00
東遷というのは記紀の内容の検証なわけで
実に正当な理由だが。

日向宮の神武天皇が何年もかけて奈良へ東遷した伝承なんて
考古学じゃわかりようがないから、考古学では反論不可能。
だから低レベルなレスしかできないんだよな、「畿内説」って。



785 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 00:00:55
>>778
なるほど海部氏勘注系図が本物だったら邪馬台国九州説が大崩壊するからね。
邪馬台国九州説にとって不都合な真実だったわけだ。

786 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 00:07:14
>>779
( ´д )ヒソ(´д`)ヒソ( д` )やだー変態!アホ・馬鹿九州説よ〜。

787 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 00:08:50
>>780語り部と言う古代職業を知らんのか?


788 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 00:19:02

東遷説論者はツッコミ入れて欲しかったらネタ(考古学的資料)の一つでも持ってこんかいちゅう話やなw

現時点では
「東征神話?ああ、それね、あくまで神話は神話」
とバッサリ切り捨てられても反論のしようがないだろうにw

事実、金鵄やヤタガラスと言った霊鳥が出てくるモチーフは中央ユーラシアに見られるそうで
ついでに言うと末子の神武が結局即位するが末子相続も中央ユーラシアの風習。
(モンゴルがそうだったはず)
恐らく神話に詳しい者ならツッコミどころ満載なんじゃないだろうか?

東征の前、日向神話や天孫降臨、高天原や国生み神話ともなれば
ますます海外との神話の類似が顕著になる。

よく東遷説論者は自分達がシカトされるのを
「軍国主義への反発からだ」
と言うが、確かにそう言う時期もあっただろうが
今現在においては、それを歴史として扱うためのネタがないからって言うのが本当のところだろうw

歴史としての俎上にも乗ってないものをどうやって検証しろと?

甘えるのもいい加減にしろよとwwwwwwwww


789 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 00:24:39
ここがヘンだよ東遷説w

そもそも東遷するに当たって鏡より先に鉄を持ち込むべきなんじゃないのか?w

特に東遷を軍事侵攻として捕らえるなら更にその重要性は増すだろうに…。

ちなみに東遷を軍事侵攻としてみるなら纏向はあまりに開放的というイメージで
侵攻してきた勢力が築いた都市としては不似合いだろう…と思うのは俺だけじゃないはずwww


790 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 00:26:27
>>788大国主の話はそこからかぁ

791 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 00:43:56
>>787
語り部とか言う古代職の氏族はだれ?従軍慰安婦の経験を語って金をもらってる
薄汚い朝鮮人ババアみたいな人?

792 :787:2009/02/15(日) 01:16:34
>>791語部氏、語造氏とかいるじゃん
語造氏は伴造だから当時としては清潔な暮らしをしてた人だったと思うけどなぁ


793 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 07:53:09
>>788
魏志倭人伝に書かれた倭国の状況と、神典(記紀)に書かれた高天原の状況は
酷似すると言って九州説を唱えた白鳥庫吉は、神話の権威でもあった。

邪馬台国と高天原を同一視するということは、卑弥呼と天照大神を同一視する
ことにつながる。しかも、九州説となれば、神武東征も示唆している。

794 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 08:16:49
神武東征は、紀元前だというのに。

時代修正しても1世紀頃で、邪馬台国よりも前。

あれも九州、これも九州、なんでも九州ってバカじゃないかと。


795 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 08:29:02
神武東征をいつの時代に描いているかを論じても無駄。そんな問題ではない。
大和の勢力が九州からきたのかどうかという問題だ。大和に自生したならば
何で神武東征なんて話を作ったのか、そこを考えれば、当然、何時の時代かは
ともかく、九州からきたということを考えなければならない。

796 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 10:24:15
そもそも神武東征というのは、
天皇家の男系の祖をさかのぼれば、たまたま九州の日向でした、ってそれだけの話。
あとの壮大な話は脚色だよ。

ヤマトに来た外来の勢力は東海が最大で次に吉備とか山陰だ。
九州から来た勢力の痕跡なんてほとんど無い。

797 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 10:31:29
神武だって、ヤマトに来た頃は、橿原の地域だけしか押さえてない。
葛城はすでに別勢力があって征服できなかったし、
奈良盆地北側も神武は征服できなかった。
そこはナガスネヒコの領域だったからな。
神武なんてただの土豪のひとりだよ。

たまたま最終的に橿原に居をかまえた九州出身の王の男系子孫が天皇家に続いていったから、
九州出身の神武東征神話が出来たというだけ。

葛城の子孫が天皇になったら別の神話になったし、
ナガスネヒコの子孫が天皇になったら、また別の神話になったろう。


798 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 11:30:12
神話は神話の話しとして、少なくとも「邪馬台国」とは時代もまったく違うし直接の関連性は皆無。

おそらく縄文時代末期 中国の戦乱(春秋戦国時代)に関連した大陸系移民(稲作を伝えた弥生系の人々)の伝承が
天孫降臨や神武東征の根底にあるのかも知れない、 
まあこれは俺の勝手な想像でスレ違いもいいとろだなw


799 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 12:15:52
>>793
>>793
白鳥庫吉ねえ…

ビッグネーム出すだけじゃなくてその唱えた中味出して欲しいな。
どうしても東遷説を持ち出し、高天原を九州に比定しないと説明できない内容がどれほどあるのかな?

名前出すだけでいいなら畿内説の三品彰英も神話学の権威でもあるなw

そりゃ美味しい所だけ切り取って自由に解釈すりゃどうにでもなるって話で
例えばアマテラスを卑弥呼にDV野郎のスサノオを狗奴国の卑弥弓呼にすれば
なんとなくそれっぽいが、じゃあツクヨミはハブられたままですか?っちゅう話で

これを神話として見りゃスサノオは日食月食を引き起こす存在と言うパターンになる。

逆にスサノオが暴れたときにまだら毛の馬を放ちその皮をはいで
…って記述は魏志倭人伝との齟齬をどうすんの?とかw

言っておくが神話に事実が元ネタとして一切含まれていないなんて馬鹿げたことを言うつもりはない。

(九州説の連中から出ないからこっちから言うとw)
神武の東征神話でも河内湾・河内潟の地形を描写したかのような部分はある。
しかしそれとてその近辺の氏族に伝わっていた伝承と言われればそれまで。

東征神話を歴史にまで引き上げる材料にはならない。

まして中味の吟味もすっ飛ばして神話の存在そのものを根拠にするなんてアホですか?って話www


800 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 13:27:14
日本書紀編纂の中心となったのは誰か?それを考えるのが大事。
藤原不比等は中臣氏。中臣氏とは、
・中臣氏は朝廷の祭祀を司る重要氏族として繁栄。神武天皇東征前の九州で繁栄。
・三世紀頃、朝廷の大和移動に伴い、物部氏族・出雲系氏族とともに大和朝廷の側近となる。
・四世紀、大和朝廷領地拡張政策に伴い、上記の豪族は先遣隊となり国造として任命。
・神八井耳命の系統は、多(大・太・意富・於保)氏を筆頭に、火君・大分君・阿蘇君・
 常陸仲国造・道奥石城国造など19氏族など全国各地に分散して国造となっている。


801 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 15:17:14
>>800
>・中臣氏は朝廷の祭祀を司る重要氏族として繁栄。神武天皇東征前の九州で繁栄。
中臣が九州で繁栄してた証拠は?


>神八井耳命

神八井耳命の母は畿内出身で、すでに九州系純血ではない。

九州純血の兄(手研耳)は、謀反の罪で死にました。
九州系の氏族が畿内を征服したとは記紀のどこにも書いて無いですが?



802 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 15:50:04
>>799
神話に詳しい人が記紀をどう捕らえるかと書いている人がいた。
だから、神話にも詳しい白鳥庫吉は、高天原を史実の反映と捉えていると
言ったわけだが。

神武東征について、記紀は印象的な書き方をしていると思う。
ヒーロー伝説にしているというか。
実際にそうだったかは疑問だが、筋としてはそれに近かったのではないだろう
か。

記紀によると、天照大神と高皇産霊尊が天孫降臨を主導する。天孫である
瓊瓊杵尊の子孫が神武天皇で、これが東征の主役となる。

天照大神=卑弥呼とすれば、当然、神武東征の出来事は、卑弥呼の後になる。
恐らく4世紀になってからだろう。
ただそう考えると、よく指摘されるが、初期の天皇がかなり詰まった状態に
なる。100年弱(あるいはもっともっと短いかもしれない)で、14人くらいか。

これもありえないとは思わない。欠史八代という奥の手もあるし。

803 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 16:26:02
>>801
神武天皇の子は、四人くらいいるのかな。

長男は、日向時代の吾平津姫の子なのだが、なんか悪者扱いされている。
これは、どういう意味を持っているのだろうか。

それ以外の子の母親は、五十鈴媛命で、大物主の子とされる。
これは、天津神系と国津神系の統合とも言われるらしい。

次男は、影が薄い。影の薄い存在は記紀によく登場する。
三男が、神八井耳命。
四男が、綏靖天皇で、またもや末子相続。

神八井耳命の子に健磐龍命がいるが、これは阿蘇神社の主祭神となっている。

804 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 17:40:33
>天照大神=卑弥呼とすれば、当然、神武東征の出来事は、卑弥呼の後になる。

ここはおかしいんじゃないの
天照大神=卑弥呼でも
神武東征はそれ以前とみなすこともできる

天照大神=卑弥呼っていうのは
要するに岩戸神話周辺の部分だけだから

神武神話も複数の人物の説話の集合体
アマテラス神話も複数の人物の説話の集合体って考えたほうがいいんじゃないの


805 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 18:12:14
>>803
>長男は、日向時代の吾平津姫の子なのだが、なんか悪者扱いされている。


そうなんだよ。神武が日向から来たと言っても、
同じく日向で生まれた神武の子は悪者として殺されてる。
東征中でも神武の兄弟は死んでる。

つまり、生粋の日向生まれは神武だけで、
畿内では畿内の豪族と婚姻していかないと生き残れなかったわけ。
これで神武が畿内を征服(邪馬台国東遷)とはちゃんちゃらおかしい。

806 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 18:14:18
>>804

アマテラス神話の成立が何時かってことも検証すべし。

神武の時代は、タカミムスビが主神で、アマテラスは祭られていなかったと見るのが普通。


807 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 19:12:27
まあ神話を元ネタにお話を作ろうと思えばいくらでも作れるわけで

>>802で言う照大神と高皇産霊尊の主導による天孫降臨劇も
女帝持統と藤原不比等がモデルではないかと言う説はよく言われるし
話としては大変良くできているwww

しかし、どの道、年代の話はおいといても
纏向に九州からの痕跡を求めるなんか到底無理なのが現状。

それでも九州から少数の集団が大和に流れ着いた
…というお話ならそういった考古学的資料の不備も問題にならないかもしれんが

九州邪馬台国がクニレベルで東遷したなんてスケールのお話にはなりえないwww







808 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 19:44:23
森浩一先生ご乱心の件について(笑)

ところで、森浩一は黄金塚出土の『景初三年銘平縁画文帯神獣鏡』を

「仁徳の頃に国内で造った物」と言う薮田説を支持すると言うスタンスだったんだよな?

でも井沢との例のムック本の中での対話で箸墓を卑弥呼か壱与の墓と言っている。

じゃあホケノの画文帯の年代は?
そっちは3世紀でおk言う事なんかいな?www




809 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 20:07:46
>>808
その薮田という人の本は読んでないが
和泉黄金塚古墳は前期古墳だ。
早い方ではないが、どう見ても前期の範囲におさまる。

したがって仁徳期(中期)の製品が黄金塚に入ることはあり得ない。

森浩一氏はときどき前言と違う説を言うことがあるが、
いくらなんでもその薮田説を支持するとは考えられん。

810 :808:2009/02/15(日) 21:02:04
>>809
レスサンクス。

>808の内容については森の「古代史おさらい帳」から

薮田と言うのは森の「和泉黄金塚」の出版元綜芸舎、舎主 薮田嘉一郎との事。

まあ森がその説の支持を出したのが1978年と言うからえらい前だし
その頃は小林の論文が学会を席巻していた頃なのかな?




811 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 22:31:50
>>804
神武天皇は、天照大神の5代あとなので、天照大神=卑弥呼とすれば、
神武東征は、卑弥呼の5代後の出来事になる。

天照大神=卑弥呼(+台与)として、記紀を参考に仮説を立ててみると、
卑弥呼が死んだあと、台与が王になる。同時に高皇産霊尊に相当する人物が
権力を握る。

高皇産霊尊と天照大神が最初にやったのは、出雲征服。
つまり、台与と男王の時代に出雲が支配される。
これが出雲の国譲り伝説として残っている。

そのあとに、天孫を日向に降臨させる。
天孫というのは、後でつけたもので、当時は日向征伐の武将だったかも
知れない。あるいは天孫族の単なる移住だったかもしれない。
西暦で言えば、260年代か270年代か。
饒速日命に相当する人物が大和に移ったのも、似たような時期と思われる。

この時期、何か大きな変動が起きている。
高天原から各地に移住する勢力が頻発しているような感じ。

日向系が皇室の祖となるため、記紀の舞台が日向に移る。
数世代を経て、日向は勢力を強め、やがて大和に移る。
これが神武東征として語り継がれる。

812 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/15(日) 22:40:20
>>811
卑弥呼が神武以前の女ならば神武以前に 239年=景初3年 が位置
することになり、これだと神武以後、後代の天皇の在位が著しく
スシ詰めになるから、卑弥呼は神武以前の女ではない。従って
卑弥呼=アマテラス とはなりえない。

813 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 22:48:46
>>806
>>811
本来の皇祖神がタカミムスヒで
神武時代や東征に相当する時代があり
その後が卑弥呼の時代
卑弥呼-台与の存在がでかくて
アマテラス神話になり
タカミムスヒに替わり皇祖神に祭られたと
でアマテラス神話は農作物豊穣を祈るための
太陽を拝む祭祀の長たちの(男もいたろうし卑弥呼も含まれる)
説話の集合体ではなかったかというのが俺の仮説ね

系図上は今ではもちろんアマテラスが皇祖なんだけど
それはタカミムスヒに置き換えられたものなんじゃないかってこと

そちらのほうが年代上のつじつまがあってくるでしょ

814 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 23:08:58

トヨタン・・・・・・・・・・


815 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 23:23:34
>>811

>日向系が皇室の祖となるため、記紀の舞台が日向に移る。
>数世代を経て、日向は勢力を強め、やがて大和に移る。
>これが神武東征として語り継がれる。

日向勢力なんて存在しない。>>801から読み直せ。


1、日向で生まれた神武の兄弟は、東征中に死亡。
生き残った手研耳命は、謀反の罪で討たれた。

2、日向生粋の血筋は神武しかおらず、神武は畿内で皇后を得て、子孫を設けた。
この時点で、九州の血は50%。

3、以後、九州出身の皇后はいない。
皇后は畿内から迎えており、九州の血は代を重ねるごとに薄まるだけ。




816 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 23:48:31
>>815
神八井耳命の母は日向出身だという説があるよ。→安田哲也著「邪馬台国の暗号」

817 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 23:53:55
兄が祭祀、弟が政務 という構図は
豊城と垂仁、天照と弟 と重なるな

818 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 23:58:21
>>816

バカいうな。

神八井耳命と、手研耳命の説話は、
母方が畿内か日向かの違いによる権力争いであって、
日向が負けました、って話なんだよ。
他にどう読み下せるってんだ?




819 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 23:58:47
>>813
神武以降に、卑弥呼に相当する人物はいない。
つまり、対外的に倭王を名乗れるような人物はいない。
まあ、神功皇后はいるが、明らかに時代が異なる。

中国に朝貢するとき、皇女の名前なんかを出したらふざけるなというだろう。

>>815
遺伝子とか血とか言うのは、現代の考え方で、昔は、女はどうでも良かった。
種と畑で比ゆされるように、女は、単に男がまいた種を育てる畑のような
ものという考え方だった。

820 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 00:01:15
>812
神武=崇神 とすればそんなに圧縮しなくて済む

821 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 01:00:33
>>818
それが思い込みってやつなんだろうな。
しかし、ぜんぜん違った読み方があるようだ。

822 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 02:07:40
>>819
>神武以降に、卑弥呼に相当する人物はいない。

崇神以降は確かにいないけど
神代はわからないでしょ

マキムクが大和朝廷の元であることははっきりしてる
そして崇神の代ぐらいから全国津々浦々に天皇家の勢力が広がっていったわけで
それ以前の神武や卑弥呼の時代というのは
あちこちに豪族がいてそれぞれ王を名乗っていたわけでしょ

823 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 02:39:29
>>819卑弥呼と神功皇后の時代って伝承では同じじゃない?

824 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 07:45:11
>>821

それでは、君の(思い込みではない)読み方を語ってもらおうか。



825 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/16(月) 10:41:44
>>819
記紀の内容からすればそのとおり神武以後神功は別として、卑弥呼に
相当する人物は見られない。それはそうだろう。九州と畿内は当時
外国同士の別国だ。遠い別国の九州の女王のことなんて情報が畿内
にあまり来ないんだから記紀に載ってないのは当たり前だ。
だから神武以後、九州に卑弥呼がいたということだ。

826 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/16(月) 10:44:09
>>820
太郎がそれがし太国になるか〜?ww
それは別人だよ。20面相がAでありBであり・・・などという考え
は妄想。記紀は探偵小説ではない。

827 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 19:17:55
>>798
頭の弱い想像であるな

828 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 21:07:37
>>815
皇室が宮崎にかなり愛着を持っているのは確かだろう。
宮崎神宮の由緒書きを見るとわかる。

明治時代、拡張造成工事のとき、明治天皇は寄付金を出している。
完成の祭り?のときには、のちの大正天皇が参拝している。
昭和天皇にいたっては、皇太子時代から7回ほど参拝している。
列車さえ満足に通っていない時代だと考えれば、異例だと思う。

829 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 21:33:26
>>828
元々本来『神宮』と言うのは伊勢の他は鹿島・香取のみ。
まあ明治になって神宮も大量にできたわけだがwwwwwwww

正直、江戸以前に皇室が宮崎を重要視していた印象は薄い。

三大宗廟と言えば伊勢、岩清水八幡、そして加茂神社。

九州で特に重視されたと言えば宇佐八幡か。

宮崎についてはむしろ記紀神話の内容についてこないかの如き扱いだと思うのだがwwwwww



830 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 21:56:45
高天原とも言われる葛城の地にある高天彦神社は、延喜式で名神大社に列せられているわけだが

日向には名神大社は無いらしい…

Wiki「名神大社」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E7%A5%9E%E5%A4%A7%E7%A4%BE

831 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 22:38:26
高天原とは高千穂のことです。かぜ、葛城説が出てきたのか、全く理解に苦しむ。

832 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 22:41:03
>>830
伊勢神宮も入っていない。
今はなき、園神社とか韓神社とかは入っているのか。
京中にも名神大社なし、とある。

833 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 22:49:21
その延喜式というのが難物。
どのような基準で決めたのかさっぱり見えてこない。
式内社意外でもその後大ききなった神社はいくらでもある。

834 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 23:09:26
朝廷が奉幣使を遣わすお宮を官弊社、国司が参拝するお宮を国弊社とし
ランキングしたもの

835 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 23:14:19
時代はかなり違うが巨勢山古墳群で木炭槨の墓もあるし何百年か
遡って高皇産霊尊や伊邪那岐命の伝承を持ち込んだ人々がいただろう


836 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 23:18:21
>>832
伊勢神宮は更にランク上と言うか別格でランキングの外なんじゃないのか?

なんにせよ社格とか>>828の言うようなことは事は
もっぱら明治以降

むしろそれより前は記紀神話の内容に見合った待遇だったとは思えない。




837 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 23:40:46
>>836
>むしろそれより前は記紀神話の内容に見合った待遇だったとは思えない。

記紀神話の内容ってなに?
日向がこの世の楽園のような描かれ方してた?
どこにも日向や九州が素晴らしいクニだとは描いて無いよ。

神武は「東に良い土地がある」といって東征したと日本書紀にある。
つまり、日向は住み難い土地だったと認めてるんだよ。



838 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 23:44:21
>>837
くだらない突っ込み方すんなよw

例えそこが荒れ果てた地だろうが何だろうが
始祖所縁の地として相応しい格が与えられていないと言う話だwww

839 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 23:49:28
というか伊勢神宮は、内裏にある賢所(春興殿)の本宮・奥の院みたいなものだろ
崇神天皇のときに宮中から外に出されたもの
地方の神々を宣撫するために大和政権が祭ることにした諸所の神社とは別もの
地方の宣撫を目的として祭る神々が、朝廷が祭る神社であり、延喜式神名帳もその流れだと思うのだが

840 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 23:52:08
宮崎神宮って脚光を浴びたのはやっぱり明治以降だろう?

明治 6年に県社
明治 8年に国幣中社
明治18年に官幣大社

841 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 23:54:11
まあ天孫降臨の地としては鹿児島県の霧島もあるよなw

842 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 00:02:27
式内式という名の亡霊。
旧弊社という幻想。
神宮という名の仲間はずれ。

843 :840:2009/02/17(火) 00:03:04
念のためwikiに当たってみたがwikiだとモロに書いてあんねw

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E7%A5%9E%E5%AE%AE
>江戸時代までは地方の1古社に過ぎず、当宮が広く全国的に知られるようになったのは、
>明治維新の王政復古の大号令で「神武創業の始め」に復することが唱導され、
>当宮が脚光を浴びるようになってからである。

844 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 00:04:41
タカミムスヒとか葛城とか必死で言ってる奴は一人だけ。

その根拠に何のソースも史書もない。神社の立て札だけwwww

そいつには宇佐とか日向とかいうと基地害みたいに暴れるが
実際何も知らんしせいぜい宮崎神宮とか出す。
出すなら鵜戸ぐらいだして反論しろよ、幼稚園児じゃあるまいし。

845 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 00:07:54
一番大事なのは、記紀のどこにも九州から「勢力」が来たなどと
書いてない。

しかし国書がこれだけ日向の神武天皇を大々的に出してるわけだから
無視するわけにはいかないね。

>>830
そんなこと言ってると壱岐・対馬が高天原にされるから辞めろwwwwww

846 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 00:13:33
>>844
また馬鹿が出た…

今の話の流れは高天原が日向だったのか葛城だったのかと言う話じゃなくて
日向が皇祖の故地として相応しい崇敬を受けてきたのかどうかと言う話。

少しは空気嫁アホwww



847 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 00:15:06
大分県=豊(トヨ)の国
宮崎=日向 

注目すべきは、奈良の大神神社と三輪山。
大神氏が宇佐氏と辛島氏に現在の宇佐を追い出される前の
形態そのものなんだよな。
ついでに奈良の大神神社の建設と形態を支持したのも
日向の天照大神をだして伊勢神宮を建てるのも同じ祟神天皇。


848 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 00:16:06
>>846
そこで宮崎神宮を出すから間違ってんだよwww アフォwww

849 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 00:19:07
>>848
おい吐く血、今の話の流れで宮崎神宮が出てきたのは>>828だぞ。

脊髄反射でアホレス書き込む前にきちんと流れを把握しような?

このドカスがwwwww

850 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 00:22:25
>>829
>三大宗廟と言えば伊勢、岩清水八幡、そして加茂神社。

そうそ。その通り!!
出雲も宇佐も入ってない。だから三大宗廟なんてそーゆーものなんだよ。

岩清水八幡は天皇のお側に建てた宇佐八幡の代わりなんだよ。
そしてそっちのほうが大切なわけ。
伊勢神宮だって、伊勢という土地でなく何を何のために、というところに
歴史の真実があるんだよ。


851 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 00:25:25
畿内といえば朝鮮奴隷の子孫どもの巣窟ですね。
顔さえみればわかります。
卑しい出は隠せませんから。

852 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 00:27:10
大阪って朝鮮街が点在してるし、奈良なんて更にB村だらけでしょ。
やはり古代は階級差が激しくて、1%のエリート支配層と奴隷達
そういう構造なんだよね。

853 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 00:27:22
宮崎神宮の別宮だった狭野神社というのが宮崎県高原町にある。
もちろん、主祭神は、神武天皇。この付近が生誕地とされる。
創建は、孝昭天皇の御世とされる。まあ、定かではないが。

しかし、古くからあったのは確かで、島津家の崇敬を受け、社殿の改築・
社領の寄進などが行われてきた。
一説には、霧島の火山を鎮めるための神社とも言われる。
古くはどういう神社とされていたのか興味がある。

854 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 00:44:48
岩清水八幡は、源氏が宇佐から勧請した神社だろ
神宮皇后が武門の神だから

855 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 00:45:08
宮崎県高原町なんて、100年ぐらい前まではとんでもない場所だぞ。
車はないし、馬が駆ける場所もないし、もちろんトンネルも高架もない。

例えば、大宰府から大分越えて徒歩で行くとして.....どんだけかかる?
九重連山も越えなきゃならんし山は100余裕で超えるだろ。
1ヶ月、下手すると2ヶ月ぐらいかかるだろ。

で、船で日向市に着いて高原町までいくとしても...やはり2週間はかかるだろうね。
はっきりいって、都の人間が実際によく訪づれた場所とは到底思えないね。





856 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 00:50:34
>神宮(神功ね)皇后が武門の神

それより神仏一体の八幡の精神じゃないの。
源氏は日向方面にも精神的に傾倒していたようだからね。

宇佐神宮を武門の神の崇められた話は聞いたことがない。
それどころか四拍手だし、いけばわかるが実の主役は神功でも
応神でもなく謎の女w 


857 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 00:57:36
その時の与えられた役割を忠実に演じただけだろう

858 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 00:58:28
では、「岩清水八幡は天皇のお側に建てた宇佐八幡の代わり」とはトンデモ話だな

859 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 01:00:24
神社なら京都府木津川市山城町棚倉にある和伎座天乃夫岐売神社(湧出宮)は
どうかね。崇神天皇の時代に反乱を起こした武埴安彦命がこの場所で首を斬られ
首が「ピュ〜〜〜ッ!」と飛んで木津川を越えて対岸の祝園神社辺りに落ちた。
この戦いで多数の戦死者が出て疫病が流行り静めるために居籠祭が始まった。

860 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 01:03:38
>>859
案外、椿井大塚は武埴安彦命とつながる勢力の築いた古墳だったりしてwwwwww

861 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 01:03:43
>>858
>岩清水八幡は天皇のお側に建てた宇佐八幡の代わり

いや、それが真実。そのものですが。

862 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 01:03:44
>>855
そういう経路をとる必要はないんじゃないか。
大宰府からだったら、南に陸路を取り、久留米あたりから船で筑後川を下る。
そのまま有明海を南下し、八代海を南下し、適当なところで陸路を取れば良い。
というと、どこかで聞いたことのある道筋になるわけだが。

といっても、神武天皇と邪馬台国はまた別問題だが。

863 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 01:08:41
>>862
筑後川を下ったら行き着くのは日田。これは中世のお決まりコース。
そこから宮崎いくと迷うしかない。
豊前(福岡)から海沿いに日向街道というのがある。
名前からして宮崎に行くのに使われたと思うが、結構大変なコースだな。

日田から八代海に南下するのは熊本にいくコースになって高原町へは
かなりはずれる。と思われるが...熊本側も相当山ばっかだしな。




864 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 01:10:21
>>858
岩清水「八幡」の八幡の総本山はどこでしょう?



865 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 01:13:20
ひょっとして畿内厨は八幡もよくわからんでレスしてる?
これまでの無知ぶりからして十分有り得るから
いまさら驚きもしない。麻生みたいな奴が首相の時代だしな。

866 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 01:15:04
>>863
地図をよく見てごらん。
大宰府から高原に直線を引いてみても良い。
大分回りなんてありえない。

867 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 01:15:37
もし八幡を少しでも調べる気があれば(畿内説者は更々ないだろうがw)
宇佐の地を、宇佐氏と辛島氏に乗っ取られる前の大神氏がどんな祀りを
していたか、その形態なんか見てみると非常に興味深いよ。



868 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 01:16:29
>>866
日向街道はどう説明すんの?

869 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 01:25:27

このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20)
【ダニエル・クレイグ】007/慰めの報酬 part4【Quantum of Solace】

俺なんか、もうイギリスのアマゾンで輸入したブルーレイ持ってるけどな。


870 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 02:59:31
また邪馬台国から大きく話がそれて九州名所案内になりつつあるなw

結局、記紀神話に天孫降臨の地として高千穂、そこから三代に渡る舞台として日向が書かれていても
実際に歴史の中でそれらの地があまり要視されてきていないのが事実。
(スポットライトを浴びるのは明治以降)

神武どころか皇祖神として本当にアマテラスを祭ってきたのかどうかさえ疑問視する声すらあるわけでw

ぶっちゃけ昔(江戸時代以前)の人間の方が神話は神話と割り切っている風ではあるwww
(まあ積極的に否定も肯定もせずあっても別にお構いなし…という感じかな?w)




871 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 03:08:12
アマテラスねえ
江戸時代どころか昭和30年代まで
伊勢は外宮の方が参拝者が多かったわけで

872 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 03:16:02
>>871
ああ、それね。
外宮の方が商売上手だったって話だよw

ちなみに日本三大遊郭が何処にあったか調べれば面白いかもwwwwwwwwww


873 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 03:23:55
結局、邪馬台国日向説が神話頼みなのは東遷説と同じ構図だなw

(つうか日向説は自動的に東遷説になると見ていいのかな?)

東遷説をとらなければ纏向に九州からの出土物が殆ど無いと言うこともネックにならんだろうが

日向に弥生末期の邪馬台国の候補になりうるような遺跡が無いのはともかく
北九州を凌駕するクニがあった状況を思わせる考古資料が無いのがいかんともしがたいな…。

874 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 16:43:36
僕は、日向を取り上げるし、ある意味宣伝もしているが、日向が邪馬台国だとは
言っていないし、そう思ってもいない。
あくまで、(邪馬台国=高天原)→日向→大和という構図で捉えている。

つまり、単純な言い方をすれば、邪馬台国は一度日向に遷都し、さらに大和に
遷都したという考え方。

875 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 16:48:09
子供っぽい妄想だね。



876 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 16:57:05
>>870
伊勢がスポットライトを浴び始めたのが江戸時代だが。
農民が大勢でなw
それまで天照大神を奉ってたか実際疑問視する声も多いわけで。

そういや海部が家系図かいて偽騒ぎがあったのも江戸時代だし。

877 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 16:59:48
実際のところ、昔に遡るほどに宇佐神宮>>>>>超えられない壁>伊勢神宮

現在は宇佐どころか明治神宮>>伊勢神宮>>>無知の壁>>出雲・宇佐だもんでw


878 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 17:03:43
西都原に眠っている何百もの手付かずの古墳は一体だれなんだよ。
いくつかの円墳が非常〜〜に怪しいねえ

巻向はせいぜい東海・畿内の範囲の中心部だと見て良い。九州まで
届いてないのは確実。せいぜい吉備辺りだろ。
九州と公易がない時点で 邪馬台国説は消滅www




879 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 17:33:52
邪馬台国南九州派だけど
俺も宮崎神宮のことはどうでもいいと思うよ

ただ古代をのぞけば明治までさほど重要視されてなかったわりには
あまりにも建国時代に関連する神話や風俗やゆかりの地が残りすぎでしょ
重要視されてきてあとからこじつけたのならともかく
千数百年以上前から残ってるわけで

この百済の里だって
なんで宮崎県の超山奥にあるのよ?
http://www.town.miyazaki-misato.lg.jp/317.htm
7世紀になんで百済王族が宮崎県の山奥に逃げてきたの?
これは百済がそれまでの数世紀倭人の支配下にあって
親交が深かった(奈良、日向ともに)ことの現れでしょ

880 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 19:23:25
日向説の人間が馬鹿だというのはわかった

881 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 19:43:03
>九州と公易がない時点で 邪馬台国説は消滅www

畿内説と言うか纏向説の弱点ではあるな。
東遷説が吹っ飛んでる代わりに果たして九州まで勢力が届いているのか?
を証明するのが困難なわけでwwwwww

いくら遺跡が巨大でも交易ルートとしてその範囲が九州北部まで及び
大陸との交渉を持っていなければ邪馬台国としてあり得ないわけで。

古墳時代の中期頃になっても半島から畿内式の土器は出ないわけで
直接半島に行くのは九州の勢力だろう。



882 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 19:56:50
>>879
百済が倭人の支配下?

883 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 20:10:58
いやだから
文献学やってる者は
マキムクと日向との関係について研究しなくちゃいけないでしょ

西暦1〜3世紀の列島にはさまざまな豪族がいたと
北九州には後漢書東夷伝に書かれた奴国があった
そして南九州の豪族だった天皇家の祖はこのあいだに日向から東に行って
畿内で大勢力となったと
この時期がたぶん倭国大乱であり
日向に残ったものたちは九州で倭国大乱に巻き込まれ
卑弥呼(たぶん神武の血筋の近い家の者)を擁立した

こういうふうに考えてもなんも不自然じゃないでしょ

>>882
広開土王碑によれば391年に百済は倭の支配下にあったわけでね
また百済は王族を倭王朝(大和朝廷の元)に差し出してるし
中国の『隋書』にも、
「新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、
並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。」
とあり倭国が上位にあり百済や新羅に朝貢させていたことがわかる

つまり百済は白村江の戦いまで倭の勢力下にあったわけでしょ

884 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 21:53:49
>>883
>こういうふうに考えてもなんも不自然じゃないでしょ

なんと言うかお話としては成り立つとしか言いようが無いというか…

そもそも比較的平穏だったであろう日向から、あちこちに高地性集落ができ
騒乱の只中にあった瀬戸内に漕ぎ出して、その戦乱の中をひたすら東進して畿内に入ると言うのが
その動機からして良く分からない。

で、「畿内で大勢力になった」ってその躍進の原動力は?
てか元々余程大規模な集団の移動だったのか?

…等々疑問は尽きないわけでw
まあifにifを重ねれば成り立つだろうが…

西都原の古墳群を見ればむしろ東征どころか西征を考える方がシンプルw
無論、東征後に西征したという壮大なお話もできるんだろうがw






885 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 22:15:22
百済の里なら奈良にもいくつもあるし
東日本なんか旧高句麗の地名だらけだぞ。

渡来系とか言い始めたらキリがない。

逆に言うと、百済・高句麗の移民の話をタブー視するから
畿内マキムク説が迷走してるんだが。畿内の民=朝鮮人そのものだよ。

886 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 22:26:36
東征とか西征に話がこだわってる奴って本当に馬鹿だな。
何のソースを見て、シンプルとか壮大な話って妄想で判断してんだろ。 

唯一の判断材料は記紀と中国産の史書しかないが
記紀=九州説=信じたくない、っていう発想だから妄想に頼るしかないんだろうな。



887 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 22:27:07
>>883

神武は紀元前の人だし、マキムクとは関係ないよ。
おまえこそ、文献をよく読んでみ。

神武の領地は橿原&畝傍山。
マキムク&三輪山ではない。



888 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 22:32:39
まず考古学から神話の信憑性などわかりようがない。不可能。

記紀にある神武の東征、つまり数人〜数十人が何年もかけて
日向〜宇佐〜安芸〜吉備〜奈良に移った話が嘘なんて検証なんて
できないんだよw ただ古墳の年代が偽、とかそういうことはできるけどねw

つまり考古学による記紀の否定など不可能なわけ。
「嘘だよ、俺は信じないよ。ただのでたらめ話だと思う。」

↑これは個人的な意見として有りだけど。考古学なんか関係ない。
信じるか信じないか、そんだけ。畿内説ってそーゆーレベルなのよ。




889 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 22:38:23
>>887
>神武は紀元前の人だし

ソースは? 記紀の年代を丸々信じるってわけ?
それはwww おめでとうww

俺は神武天皇=崇神天皇か、スジンの父親、せいぜい祖父ぐらいだと
考えてるけどねw 
巻向宮はともかく、大和朝廷の成立はかなり遅いよ。
下手すると6世紀ぐらいかもな。


890 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 22:40:25
>>888

おいおい、畿内説に
「東遷が無かったことの証明」=「悪魔の証明」の責任をおっかぶせる気か?ww

東遷説を言う人間がそれを証明するのが筋。

逆切れするしかないのが東遷説の現状wwww





891 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 22:44:33
日向宮の神武→奈良→子孫が纒向宮

熊襲に乗っ取られ日向宮≠纒向宮→大和朝廷

892 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 22:47:32
>>890
ほんっとうに頭悪いね、君www

東遷は天皇家の伝承なんだよ。だから検証の価値があるのにww
代々の天皇家の言い分が逆切れしてるって? 

天皇家が嘘ついてる証明をまずしろよww 不可能だよなあ



893 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 22:48:29
畿内説って頭悪すぎてどうしようもないな。

894 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 22:50:09
>>885
東日本は邪馬台国とはあんまり関係ないんで
東日本はまた別の話
百済・高句麗の移民は白村江の戦い前後にはたくさんいたでしょうよ
万を越すぐらいいたでしょう
戦乱と百済滅亡で敗走してきたわけだから

でそれ以前の話だと
まあとりあえず列島→半島の侵攻の証拠はたくさんあるが
逆はない
>畿内の民=朝鮮人そのものだよ。
というのはどういう証拠を元に書いてるわけ?
百済が倭人だらけだったという話のほうがずっと信憑性が高いわな

で百済王族亡命が宮崎山奥という話だが
いくら百済からの亡命が多かったとは言え王族となると限られるわけでね
それに俺が言ってるのは畿内と日向との
古代の関係の深さの話で
>奈良にもいくつもあるし
って何のこっちゃら

895 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 22:52:08
考古学では、記紀が嘘って証明なんてできないんだよ。
そんだけ。

畿内説ってのは、「記紀を信じたくない。嘘だろw」ってその妄想だけ。
それだけじゃんよ。




896 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 22:52:09
>>875
当たり前のことを書くが、記紀では次のようになっている。
もし、何か疑問に思うところのある人は、古事記や日本書紀を読むように。

天照大神の息子である天忍穂耳命と高皇産霊尊の娘の間に生まれたのが、
邇邇芸命(ニニギノミコト)。天照大神の孫なので天孫という。
この天孫が日向に天下る。

ニニギノミコトの子が、彦穂穂手見命。その子が鵜葺草葺不合命。
この三人を日向三代という。その次の四代目が神倭伊波礼毘古命、
つまり神武天皇であり、東征して、橿原の地で初代天皇として即位する。

日向三代に、女王に比定できる人物はいない。神武天皇以下にもいない。
たった一人、高天原の天照大神がいるだけである。

それだけでも、天照大神=卑弥呼、高天原=邪馬台国には根拠がある。
神武天皇は日向の出身だが、元々は高天原の系統である。
高天原から直接大和でなく、日向を経由していると考えてもいいと思う。

897 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 22:53:14
>百済王族亡命が宮崎山奥という話だが

それは妄想だろww ソース出せよ。




898 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 22:55:10
>>892

アホはお前だろう?

誰も神武東征神話があると言うことを否定していないんだよ。

要はそれが史実であるかどうかの問題。

史実であるとするのならそれなりの根拠をもってこいと言うのは
至極当然のお話。

神話が存在することとそれが史実であるかどうかは別の事。

頭に血が上った東遷説の連中はこんな単純なことも分からないのか?

故に自分達が無視されるといまだに
「戦後の軍国主義への反発だ!」
の一点張りw






899 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 22:58:26
渡来系だとすると考えられるのは百済じゃなく新羅だろww

それはあちこちに残っている。辛島氏もそうだし、阿迦留姫なんか
典型じゃん。とはいえ、新羅の渡来系王族は元々倭人の領土から
やってきてるようなもんだしな。


900 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 23:01:09
>>898
論破されて、逆切れしてるねw
一行おきに意味のない文章を羅列して全然反論になってないww

で、記紀嘘派で考古学ではない畿内説は一行おきに
書いて馬鹿を晒してるのwww


901 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 23:02:47
>>897

>879

902 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 23:03:18
>>898
>要はそれが史実であるかどうかの問題。

 史 実 の 意 味 は わ か り ま す か ?

馬鹿じゃねーの?史実が東征なんだよ。ソースはどこかな〜〜w
その反証は存在しない。そんだけ。はい終わり。

903 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 23:04:47
西都原古墳群は日向宮の王族の墓とすると
なくなった時期が神武東征の時期では?

904 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 23:06:11
神武天皇と祟神天皇とは同時代の人物。
共立したのが神武の妹、卑弥呼に夜這いをかけたのが祟神。
生まれた子が豊城入と彦活目尊。
神武の子孫が阿蘇王朝系の蘇我氏。
祟神の子孫が富士王朝系の藤原氏。
当然、邪馬台国は大和です。

905 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/17(火) 23:08:24
神武東征は神話ではない。神話は神武より昔の記紀の話がそうだ。
紀の神武東征には年月日がはっきり書かれてることで神話と区別
される。ただ崇神の三輪山伝説のよなに、神武より後代でも若干
神話そ観るべき伝説的な個所はあるにはある。

906 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 23:10:14
>>900
論破ねえ…

自分の言っている事をまともな理論だと思っているのがおめでたいなw

東遷説論者
「東征神話を史実として信じている」

それ以外
「史実かどうか分からない
 とりあえずそれが史実であるネタを出せ
 それが無い現状史実とみなすのは困難」

東遷説論者
「とにかく記紀にあるんだ!
 その価値を認めろ!」←イマココ、逆切れの最中…

テーブル上に手札すら出せず勝利宣言するようなアホ丸出しは止めておけアホw

どの道この板で金切り声上げてファビョろうが
現実、邪馬台国東遷説が支持されない物になりつつある現状は変わらないぞカスwwwwwwwww




907 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/17(火) 23:10:58
神武天皇≠崇神天皇

記紀は探偵小説にあらず。K−20がAでありBでもあるなどと考え
るのは探偵小説の世界。


908 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 23:18:22
だからさ
邪馬台国東遷説と神武東征とを混同しないでよ
読解力ないの?

909 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 23:19:37
東遷説論者のアホなところの一つは

高天原にせよ日向三代にせよ神武東征にせよ
モロに神話のモチーフで海外にもその類似が認められる部分が多々あるわけだが

そういった峻別をせずただ漠然とそれを史実といっているところ。
故にその年代とか移動した集団の規模とかがはっきりした物でないのだろう。

まあ今後は東遷説も時代は邪馬台国より昔、伊都国東遷説とかに主流は移っていくんじゃないだろうか?







910 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/17(火) 23:23:03
女王国東遷は妄想だな。

911 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 23:23:32
>>908
分かってるわそんなもん、だから>>909を書いた。

しかし神話との合致と言う点では 卑弥呼=アマテラス と言うおなじみのパターンで
邪馬台国東遷説が一番おいしいw

とにかく神話を根拠とする連中にすりゃ一歩後退だろう?www


912 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 23:25:34
神武天皇=崇神天皇=卑弥呼の男弟=卑弥呼の実妹の婿殿。
卑弥呼崩御後の男王=武埴安彦命。

913 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/17(火) 23:27:11
>>912
もう15回位等号をつけるとK−20級だな。wwwwwwwww

914 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 23:32:02
>>909
記紀は、古代の日本を知る上で貴重な文献だから、重視するのが当たり前。
記紀を前提に歴史を考えるのは、筋が通っている。
都合が悪いからといって無視したがるのは、単に自分の好きな物語を
作りたいからに過ぎない。

915 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 23:36:55
確かに古事記には比較神話学で分析できる
神話もたくさんあるけど

神武東征は
「天孫降臨」とかそういうすべての民族の神話に共通なモチーフ以外は
かなり具体的な伝承史だよね
神話的な部分っていうのはまるっきり排除したって
ちゃんと伝承史として成立する

916 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 23:59:31
なんにせよ下駄は東遷説論者に預けられた状態。
史実として扱ってもらいたかったらそれなりの材料を出して来いと言う話。

考古学をその手段としてとらないというのならそれも良し。
どうぞ文献だけでやってくれってだけw

もっとも、文献史学者で記紀にあると言うだけで
それを史実だと主張している学者がいるのかどうかは知らんがwwwwwwwwwwwwwwwww
(いるのなら後学の為ぜひ教えて欲しいw)

917 :サガミハラハラ:2009/02/18(水) 10:40:20
昨日考古主体の学習会に参加してきたが、年代一つとってみても統一的なものがなく、年代の幅もひろい。
考古は頼りにならないというのが感想である。
結局は文献を中心に検討し考古は補助的に扱うしかないであろう。

記紀にあるというだけで、というわけではないが、記紀の史実性を追求している学究はいます。

例として、安本美典、古田武彦、後藤幸彦らです。


918 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 11:31:30
>>896
お前に良いことを教えてやるが
もともと、ヤマト(山門=山戸=山門)とは、
現在の奈良県全域を指すのではなく
三輪山周辺の限定された地域を指す地域だった。

ちなみに、京都の一部は、ヤマシロ(山背=山城)であり、

このヤマシロ(山門)とヤマト(山背)の間には、山国という地名が残っている。
魏志倭人伝に登場する邪馬国のことだな。

で、この山門(三輪山周辺)の南西には、葛木という地域があり
ここには、葛木山、高天山(金剛山)があり、
この周辺は、またの名を高天原といった。

つまり、皇室の起源の地は、高天(葛木)のことであり
ニニギ命(神武天皇の曽祖父)は、
この高天(葛木地方)から、高千穂(九州南部)へ降臨したことになる。

919 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 12:29:07
>>917
炭素年代測定で弥生時代が500年さかのぼることが確定しちゃったんで

>弥生時代の開始期は通説では紀元前5〜紀元前4世紀ごろであったが、
2003年3月の国立歴史民俗博物館の発表では約500年古い(早い)
約3000年前(紀元前10世紀終頃、つまり、九州北部の弥生時代早期が前949年〜915年から、
前期が前810年頃から、中期が前350年頃から、それぞれ始まった。)に遡る結果が出た。
2003年5月の日本考古学協会総会での報告は、衝撃、当惑、賛成、反発などとともに拒否、
嘲笑などに覆われた。
しかし、その後も試料収集と測定は進められ、その成果が期待されている。
-以上Wikiより

いまだにその部分で
それまでの価値観に固執する人たちがいてガタガタしてるんでしょ

>>918
まあ高天原というのは
それこそ世界中のすべての神話に共通に見られるモチーフで
「聖なる他界」の類型だわな
高天原がどこかということにはあまり意味がないというのが趨勢でしょう


920 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 13:10:17
>>919
比較神話学では、高天原という言葉自体はそうだが
神話の地域である高天原という地名自体は
葛木地方をさしていたのは、古代からの皇室の公式見解だよ。
延喜式にもそのような前提で書かれているし。
神話を分析しても、高天原ってヤマト(三輪山周辺)と至近距離だわな。

そもそも、神武東征って、首都を移転したような大規模なものではなく
畿内の戦争に、九州南部から援軍として駆けつけた程度のものでしょう?
あれを、より純粋に読めばそうだw
しかも、神武軍は河内で大負けしているのに、なぜか和歌山方面から
畿内への侵入が成功している。
つまり、この戦争の神武側にいた軍の本体は、畿内にずっといた勢力のほうだったはず。
だいたい、神武は自分たちを天津神の子孫で、
その天津神の所在地は河内よりも東にあるみたいなこと言っているし
畿内に残る伝承でも、神武を出迎えたのは、神武の親戚たちとなっている。

このことから、日向三代というのは、畿内王権から
九州南部へ派遣された傍系家系だったということになる。
おそらく、天武天皇が古事記を編纂するときに揉めたのは
彼らの家系よりも、より正当性のある家系が存在し
それは、おそらくニニギ命の兄とされる火明命の後胤ある尾張氏でしょう?


921 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 17:07:33
高天原は、九州北部。熊本や大分を含む。

だいたい、記紀には、出雲が登場し、あれだけ詳しく書かれている。
また、日向も出てきてあれだけ詳しく書かれている。なのに、その間にあって
古代、最も栄えていたと思われる九州北部が全く書かれていないのはおかしい。

実は、書かれていないのではなく、高天原として、同じように詳しく書かれて
いるということだろう。

922 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 17:46:22
高天原は葛城だというのに、人の話を聞かないやつだな。

923 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 18:02:29
高天原は高句麗だろ。

924 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 18:59:24
はっきり言って記紀神話に九州に邪馬台国があった事を示唆する記事は無い。

東征神話より前を冷静に見れば…
日向三代の神話はモロに海外にも類型が見られる物

 ・海幸山幸→釣り針捜索型神話として海外に分布
 ・ブサイクな姉よりカワイコチャンの妹の選択→海外だとバナナと石の選択
 ・産屋に火を放つ→産屋近くで火を起こすインドネシアあたりの風習

…等々、神話部分を引き算したら恐らく残りはゼロw
日向に邪馬台国のようなクニがあたことを読み取れない。
(神武神話は”都落ちの話”と言う奴がいるが都の存在を思わせる記事自体が無いw)

じゃあ高天原はと言えばどうか?
先ず誰もが考えるのが 卑弥呼=アマテラス だろうが
そもそもアマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴神はあくまでセット販売でバラ売りはしてませんwwww
(太陽に対する月をはずすなんてのはあり得ないし
 ツクヨミは食物起源の神話にも絡んでくるので余計にはずせない)

そもそもアマテラスは南洋系の系譜でぶっちゃけ高天原の元々の住人ではないw






925 :924:2009/02/18(水) 19:15:15
神武東征神話とその前の部分は連続している物と考えがちだろうが
分けて考えたほうが良いだろう。

つうか高天原、天孫降臨、日向三代、神武東征…は個々に本来別々の物と考えたほうが良いだろう。
(無論更に個別に見れば様々な要素から成り立っているわけで)

もし、万が一、神武東征神話が九州からの 人の動き をトレースした物だと証明できたとしても
その出発が邪馬台国と言うことは神話からは読み取れない。

もし記紀神話に九州邪馬台国を示唆する部分があるというのなら具体的に教えて欲しい。





926 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 19:20:58
しかしまあ
海幸彦山幸彦の海幸彦=隼人(薩摩・大隅)
はもろに魏志倭人伝に出てくる刺青をしている「倭の水人」とかぶるわけで
南方系神話が隼人族に伝えられてきたと考えれば
何の不思議も無い


927 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 19:54:44
ようするに魏志倭人伝の(後漢書にも同様の記述あり)
 「男子は大小となくみな黥面文身す。
古より以来、其の使の中国に詣るや、
みな自ら大夫と称す。夏后少康の子会稽に封ぜられ、
断髪文身して以って蛟龍の害を避けしむ。
今、倭の水人好んで沈没して魚蛤を捕らえ、
文身してまた以って大魚・水禽を厭わしむるに、
後ようやく以って飾となす。諸国の文身おのおの異なり、
或いは左にし或いは右にし、或いは大にし或いは小にして、
尊卑に差あり。その道里を計るに、当に会稽東治の東に在るべし。」

っていうのが海幸彦山幸彦の海幸彦=隼人
(元南方系海人-南方系神話こみ)の風俗ってことね

これ西都原-宮崎平野-日南
あたりで何の矛盾も生じないでしょ

928 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 19:59:05
>>927
その風習が宮崎平野特有と言う物でないなら日向説の根拠にならない。

つうか隼人は蛤をわざわざ潜水漁でとっていたのかい?www

929 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 20:10:39
今でも
日南とか鹿児島の田舎の海沿いの男たちは
素もぐりして貝類とるわけだけど・・・

別に鯨面の海人は「淡路島の人たちだった」でもかまわんけど
海幸山幸の話が出たからね
山幸彦が祭られてる青島神社あたりだと
海幸山幸神話にも魏志倭人伝の記述にも全然矛盾が生じないよってこと

930 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 20:21:26
>>929
貝で一括りにしないようにw

末盧國の記述では「魚鰒(あわび)を皆沈没して之を取る」とあるが鰒なら潜水漁方になじむし
鰒を岩から引き剥がす為の「鰒おこし」も各地で出土している。

結局その部分は太白伝説で実際に倭地を観察して書かれたものじゃないだろう。

まあ現代で言えば何処かの少数民族を失われた王国の子孫末裔とみなすような物だろうか?w

931 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 20:30:21
高天原以前に、天地創造したのはイザナギ・イザナミなんですが忘れてるんですか?

イザナギ・イザナミは、瀬戸内海で祀られてる神ですよ。

932 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 20:30:39
>好んで沈没して魚蛤を捕らえ

いっしょくたにして魚蛤と書いてるわけだから
「はまぐり」だけちゅう厳密な話じゃないわけで・・・

933 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 20:42:29
>>931
イザナギがみそぎをしたのが日向の国橘の小門の阿波岐原
阿波岐原というのは宮崎市の阿波岐原町(シーガイヤ近辺)ということになってるわね
http://miyazaki.daa.jp/miike/


934 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 20:50:16

みそぎをして生まれたのが太陽神アマテラスで
これが卑弥呼(太陽神の祭祀を行っていた長)なら
これも矛盾ないのよね

935 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 20:51:25
>>931
イザナミイザナギの国生みなんて話は
原型としてポリネシアあたりに見られる原初の男女のモチーフか…
(初産が奇形児で正しいセックルを学んでやり直すというのもパターンw)

それにドロドロの世界を攪拌して世界を創造すると言うのは中央ユーラシアらしい

はっきり言って別に日本の何処でもいいんじゃね?www



936 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 20:58:46
>>935
だからさ
日本全国どこでもいいんだけど
南方系神話が元だとすれば
隼人に伝えられてきたとするのが一番納得いくわけじゃん

でその南方系神話や中央ユーラシア神話のモチーフが
現実にいた「誰か(-卑弥呼など)」の伝承のなかに混入していったんでしょう

937 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 20:58:54
神武は、ニニギによって滅ぼされた出雲系の王
のうち唯一九州で生き延びていた王だった。
しかも、神武を畿内の導いたのもニニギの子孫
祟神であり、神武の東遷は3世紀の出来事だった。
そしてその妹が卑弥呼だったとすれば、
邪馬台国は、魏志倭人伝が書かれた時期に
九州から畿内にも移ったことになる。
魏志倭人伝の距離や方向が不明確なのは、それを
知らずに書いたためではないだろうか?

938 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 21:32:40
で、ここまでのまとめ

・高天原、天孫降臨、日向三代、神武東征…
 はその神話の構造を見れば、単純に連続している物では無く本来別々の物と解するべき。

・仮に神武東征を実際の「人の動き」として証明できてもその出発点が邪馬台国であると言うことは
 神話から読み取ることはできない。

・もっとも”邪馬台国”東遷説はもはや年代的に無理と言うのが今の考古学の主流か?wwww


939 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 22:46:33
>>934

みぞぎをして、眼からアマテラスやツクヨミが生まれたってやつだろ?

それ中国の神話のパクリですから。

もっとも、紀元前数百年前に、
中国江南から稲作と民族移動と共に伝わった神話というなら、認めても良い。
卑弥呼や邪馬台国とは無関係ということでな。





940 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 23:05:16
>>939
超古代の九州王朝の子孫が、中国大陸に渡って揚子江文明を起こした
とすれば、中国神話が日本神話と共通することの説明がつきます。
各地に伝わる神話を収集し、その分布を調べてれば、日本が発祥の地
だとわかる。

941 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 23:15:33
卑弥呼(+台与)と天照大神は良く似ている。

共に女性であり、夫がおらず、最も高い地位にいる。また、共に巫女的な性格
を持つ。

状況も良く似ている。

卑弥呼は、狗奴国に苦しめられ、その頃、没する。
天照大神は、素戔鳴尊の乱暴に苦しめられ、天岩戸に隠れてしまう。

卑弥呼が死ぬと、跡継ぎをめぐって争いが起こり、千人あまりを殺しあう。
天照大神が岩戸に隠れると、高天原は真っ暗になり、悪い神が騒ぎ出す。

台与が王になると、国中がついに定まる。
天照大神が岩戸から出ると、高天原は元のように明るくなる。

台与のあとに男王が再び立ち、共に中国の爵命を受ける。
天照大神が岩戸から出ると、高皇産霊尊が登場し、主導的に立場に立つ。

まあ、卑弥呼(+台与)=天照大神は動かないだろう。

942 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 23:25:42

トヨタン・・・・・・・・・・


943 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 23:26:33
>>941
だーかーらー
三貴神のツクヨミはどうしたんだっちゅう話w

隠れた太陽をおびき出すなんて話も普通に海外に分布する
岩戸隠れのモチーフなんてのは何も日本独自のものでもない。

神話として特異なのは太陽神が女神であると言う一点だろう。

歴史との符合で見れば アマテラス=持統 説が一番良くできているw

神話を神話として検証するステップをすっ飛ばし
神話から歴史に昇華させるネタも出さずに
いきなりそれを史実として扱えと言うのは土台無茶な話。
故に今日東遷説は影が薄いわけでw

まあ、卑弥呼=アマテラス 説は今後も根強く残るだろうが
それはロマンに満ちた伝承レベルを超えないだろうなwww



944 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 23:28:36
卑弥呼(+台与)とヤマトトトヒモモソヒメ(+トヨスキイリイメ)は良く似ている。

共に女性であり、夫がおらず、最も高い地位にいる。また、共に巫女的な性格
を持つ。

状況も良く似ている。

モモソヒメは、タケハニヤスヒコの反乱に苦しめられ、その頃、没する。
天照大神は、素戔鳴尊の乱暴に苦しめられ、天岩戸に隠れてしまう。

モモソヒメが死ぬと、畿外で争いが起こり、四道将軍を派遣する。
天照大神が岩戸に隠れると、高天原は真っ暗になり、悪い神が騒ぎ出す。

台与が王になると、国中がついに定まる。
天照大神が岩戸から出ると、高天原は元のように明るくなる。
トヨスキイリヒメが初代の斎宮になる。

台与のあとに男王が再び立ち、共に中国の爵命を受ける。
天照大神が岩戸から出ると、高皇産霊尊が登場し、主導的に立場に立つ。
モモソヒメの死後に、崇神天皇がハツクニシラスの称号を受ける。

まあ、卑弥呼(+台与)=ヤマトトトヒモモソヒメ(+トヨスキイリイメ)=天照大神は動かないだろう。




945 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/18(水) 23:29:17
ここも妄想の行列だな。ww

946 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 23:35:36
>>939
いやみそぎをして神が生まれた
というのは神話の部分で無視してもいいわけ
だいじなのは「太陽神(-卑弥呼?)」が生まれたという部分

「誰か」がそこで生まれ
その力が強大だったために神格化され
神話の部分が付け足されたってことね

このみそぎしたとされる池のすぐ近くに江田神社があって
日本最古のご神体を祀る神社なのだが(イザナギ・イザナミ)
http://miyazaki.daa.jp/eda/
これも「誰か」が生まれ強大な存在になったから
その「誰か」の生まれの由来が神話のモチーフを借りて
神格化されそこで信仰の対象になったのだと考えられるのよね


947 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 23:41:50
>>944
倭迹迹日百襲姫は、一応、夫がいる。最高の地位にいるわけでもない。

状況も似ていないな。

948 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 23:46:09
というか卑弥呼にしろ台与にしろそれはシナ側の歴史書に登場するもので、
それは唐の歴史書。
 「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり、
山島に依って居る。東西は五月行、南北は三月行。世ヽ中国と通ず。
其の国、居るに城郭なく、木を以て柵を為(つく)り、草を以て屋を為る。
四面に小島、五十余国あり、皆焉(こ)れに附属す。」

の見地に立てばそれは内陸にはないことになる。

一方、天照大神は日本の記述である。
何もかも謎である。





949 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 00:24:31
元々太陽神アマテラス・アマテルなんてものは
卑弥呼とは関係なく存在した。

卑弥呼を元にアマテラスと言う神を作ったなんてのは
本末転倒のもはや電波以外の何者でもないw

もしアマテラスに卑弥呼と言う存在を仮託したとしたら
それを何処に見るべきか?

岩戸隠れなんて日食起源として他国にもあるようなお話ではなく
恐らく元々男神であった可能性大の太陽神を女神にしたと言うことだろう。





950 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 00:51:56
>>949
いや太陽神信仰と
アマテラス神話(天の岩戸など)とはイコールではないわけ
言葉が足りなかったかもしれないけど

太陽神信仰というのは元々あった
古代祭祀の形はわからないけど
卑弥呼もその太陽神信仰の祭祀の長でしょう

元々あった太陽神信仰が擬人化し
祭祀の長の伝承が神格化されそれに混入し
神話として語られるようになったということ

951 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 02:09:44
記紀の天照大神は、ヒロインでもなんでもない。
伊邪那岐命から高天原を治めよ、といわれたのは良いが、物語の筋は
素戔鳴尊に怯え、苦しむ話ばかり。
結局、天岩戸に隠れてしまう。

岩戸を出てからは、様子ががらりと変わる。
なぜか登場する高皇産霊尊が、出雲の国譲りや天孫の日向降臨を決定する。
天照大神は、影の薄い存在となる。

天照大神は、皇祖神とされるが、それにふさわしい面影を記紀に見つける
ことは出来ない。記紀が創作だとしたら、こんな物語は作らないだろう。

952 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 06:54:57
もはや国を治める力を失った出雲に国譲りを迫ったのが高天原=阿蘇の神「高皇産霊尊」
もはや政権を維持できない阿蘇の麻生総理に政権の禅譲を迫ったのが出雲の小泉
立場は逆転したが、ニニギに相当する人物は誰なのか?興味は尽きない。

953 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 08:04:31
神武東征が邪馬台国東遷を意味す売るなら、
神武が橿原で即位した時点で、西日本を平定して統一したように書けばいい。
東征に九州・吉備を経由して何年もかかってるなら、
その間に九州・吉備は神武の統治下にあったとして国造をばんばん置けばいいはず。

しかし、記紀にあるのは、神武は大和の橿原しか制覇しておらず、
隣国の葛城すら統一できずに葛城国造をわざわざ置いたという状況。

その後、崇神天皇の代でやっと四道将軍が派遣されるが、九州までは至ってない。
しかもこの時点で出雲はまだ掌握していない。
邪馬台国東遷が事実なら神武東征の時点で出雲も平定しているはず。
なんのために国譲り神話を前置きしたのか?まったく無意味になっている。

大和が九州を統一したという話は景行天皇の後からになる。
なぜ、こんなに日本統一がまだるっこしく書かれているのか?
それは、「邪馬台国東遷は無かった」からだよ。

954 : ◆.L.MXSPOgc :2009/02/19(木) 09:10:47
邪馬台国東遷なんて頭の悪い嘘っぱちなわけですが、その根拠が神武東遷だからといって、
邪馬台国東遷を否定したいがために神武東遷を否定しようと必死になってる人も頭が悪いです。

しかし>>945は言いえて妙・・

955 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 09:23:53
いいかげん
「神武東征」と「邪馬台国東遷」を同一視して語るのは
やめたほうがいい

それから邪馬台国が一国で大国であったというのも妄想
倭国(九州から東海地方までと朝鮮半島の一部-倭人の勢力範囲)
というのは大和朝廷まではずーっと連合国であり
奴国も伊都国も邪馬台国もその中の一国にすぎない


956 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 09:59:21
神武東征というのは
南九州の豪族であった神武が
(たぶん何度かの倭国大乱の際に)
南九州から畿内に出て行って
そこに大和朝廷の元になる小国
(マキムクのそのまた元)を作りましたよ
ということであって
それは倭国の統一とか邪馬台国とは別モノ

それから神武が南九州(日向)の豪族であったというのは
あれだけたくさんの神話や地名や神社や民間伝承や風俗が残ってるのだから
史実としか考えようが無い

957 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 10:28:24
>>956
> それから神武が南九州(日向)の豪族であったというのは
> あれだけたくさんの神話や地名や神社や民間伝承や風俗が残ってるのだから

具体的に挙げてみ。

958 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 10:31:55
>>957
日向神話に関する本を一冊でも読め
このスレに今まで書かれてるものだけでも検証してみろ

959 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 10:44:50
とりあえず地名
高千穂町の天岩戸神社、高千穂神社、美郷町の神門神社、
西都原、つま(都萬神社)、東霧島神社(つまきりしま神社)、
宮崎市の江田神社、阿波岐原町、日南市の鵜戸神宮、
高原町の狭野神社、高千穂峰、耳川、日向市美々津、立磐神社、
五ヶ瀬川、青島神社
その他めちゃくちゃたくさん
地名だけではなくそれぞれに神話や民間伝承つき

960 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 11:21:29
まあとりあえず
日本全国のほとんどの神社で祝詞になってる
「筑紫の 日向の 橘の 小戸の 阿波岐原」(古事記)
の阿波岐原が日向以外のどこかにあるのか?
俺は知らんけど
これが檍という字であったとしても(日本書紀)
「檍」も宮崎市にあるのよね
橘という地名も小戸という地名も宮崎市にあるしなあ
(小戸は福岡にもある)

そしてなんでこのフレーズが日本全国のほとんどの神社で祝詞になってるのか?
それについての意見だけでも聞きたいねえ

961 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 11:23:11
縄文、弥生、古墳の遺跡についての連続性と神話の相関はどうなの?

962 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 12:35:33
南九州の縄文遺跡といえば
鹿児島県霧島市上野原の上野原遺跡ね
日本最古の定住集落とも紹介されたとこ
http://www.jomon-no-mori.jp/
http://inoues.net/ruins/uenohara.html
土層の下からは縄文土器土層の上からは弥生土器が出土
古墳もあり
9500年前からずっとこの地には定住してきた人々がいた

相関関係はまるっきりわからんけど
ニニギの霧島神宮(宮崎と鹿児島の県境)はここからそう離れてない場所にある
神話だからどうでもいいことだけど
ニニギノミコトが霧島の高千穂の峰に降りたってことになってるわな

弥生の遺跡については
それはやっぱり北九州がすごいわけで
2世紀ごろまでの倭人連合国の中心地(奴国など)は
ずっと北九州でしょう

963 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 13:10:27
>>960
紀記成立後に神道が確立された
紀記成立後に日本全国のほとんどの神社が作られた

964 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 13:46:13
>>962
おお、興味深いね。縄文期の、大規模な定住集落が一目瞭然だ。

弥生期で言えば、銅鐸とか、銅矛、鏡、勾玉類の出土品はないのかしら。
水田耕作の跡とか。
弥生期の特長の話で北部九州は出てくるけど、南九州の話が出てくるのはみたことない。

古墳時代でいえば西都原なんだろうけど、それと、中央の古墳との関係はどーなの?
南九州の発展は、霧島→大隈/日向なんだろうか?

個人的に気になるのは、宇佐八幡つながりで、豊前から日向/大隈に入植したりして、
中部九州をすっとばして、北部九州と南九州がダイレクトに繋がってるような
記録があるんだよね。海陸どういうつながりがあったんだろうね?

隼人と熊襲の違いも気になる。

965 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 13:49:31
>>958

神武東征神話の成立年代について具体的な数値をいえる根拠があるのかと聞いてる。

子供向けの神話紹介本にはそういう検証は載ってないだろうが。

966 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 14:12:48
宮崎の古墳群で最古と思われるものは
今のところ西都原より生目古墳群ね
http://www.pmiyazaki.com/ikime_kohun/
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/006/re_006_040619.htm
http://blog.livedoor.jp/ak0503hr0406/archives/50557844.html (ブログ)
これが箸墓古墳と同時代と言われてる
まだ調査中だが
どっちが古いにしろ時期はすごく近い
だからこそ
箸墓古墳と同時期の日向と畿内との関係の深さを言ってるわけで

967 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 14:24:09
>>966
ほほう。西都原ではなくて、宮崎市内になるのか。

968 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 14:27:23
あと隼人と熊襲だけど
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/006/re_006_04071001.gif
この図のグリーン地下式板石積石室墓分布が熊襲の勢力圏
レッド地下式横穴墓分布が隼人の勢力圏と考えられる

隼人は前に書いたとおり南方系神話(海幸山幸や豊玉姫神話)を伝えた海人の流れを組む一族で、
前方後円墳分布と地下式横穴墓分布は重なる部分も多く、
神武の一族と隼人族とは交流が深かったと考えられる


969 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 14:46:54
うむむむむ。これは南九州説を支持せざるをえない。

970 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 15:42:13
西都原を「さいとばる」というように、九州の人は原を「はる」と発音する。
これは九州独自の言葉使いで他の地域では見られない。
もちろん、奈良にもマキムクにも原を「はる」と読む地名は無い。

例の高天原も「はる」ではなく「はら」だ。
よって、九州東遷説は却下される。高天原も九州にあらず。


971 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 15:46:08
高天原を九州だとしたい人は、1例でもいいから
高天原を「タカマノハル」「タカマガハル」「タカマハル」「タカアマハル」と呼ぶ事例を探してきたまえ。
それが見つかれば降参だ。


972 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 15:58:03
でちょっと追加

生目古墳群には
隼人族の首長の墓と目される地下式横穴墓と
ヤマト族の首長の墓と目される前方後円墳とが混在しているのだけれど

神武の祖父山幸彦の結婚した豊玉姫は海神の娘であるから、
隼人族系トップの首長の娘であったとみなすことができ
この地に残る日向神話(海幸山幸・豊玉姫神話)のバックにある
ヤマト族と隼人族の交流を裏付けているわけ

973 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 16:01:20
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/010/re_010_041225.htm

『魏志倭人伝』がこのように記す、卑弥呼共立の事情については、「倭国乱」の結果、近畿、東瀬戸内勢力が、
後漢の後ろ盾を失った北部九州勢力を圧倒し、邪馬台国連合を成立させたと説くものが多い。
前方後円墳の巨大な墳丘や、特殊器台=埴輪(はにわ)の原形=のルーツは、
弥生終末期(2世紀末〜3世紀初頭)の楯築(たてつき)墳丘墓(岡山県倉敷市)に求めることができるため、
特に東瀬戸内勢力の関与がクローズアップされている。

 こうした大勢に対し、柳田康雄・前九州歴史資料館副館長は、
邪馬台国=纒向遺跡と認めつつも、弥生終末期の伊都国王墓・平原遺跡1号墓(福岡県前原市有田)と
古墳時代前期(3〜4世紀)の前方後円墳の間に「直接のつながりが見える」と指摘する。
--------------------------------------------------------------------

九州の歴史関係者も、邪馬台国=纒向遺跡と認めている。

974 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 16:03:18
>>973に加えて

 こうした東遷説については、「ヤマトで伊都国系の土器が出土しておらず、伊都国の集団が移住した痕跡が認められない。
卑弥呼を共立した一員であっても、主導したとは思われない」(武末純一・福岡大教授)といった反論がある。

------------------------------------------------------------------

福岡大教授も、東遷説を批判している。



975 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 16:09:49
古墳(前方後円墳)について言えば、あれが各地の埋葬文化のキメラの如きものと言うのは史学者から一般人まで共通の認識だろう。
で、それが形成される場として、各地から人が来ていたとされる纏向が挙げられるのは当然で、流石に前方後円墳を南九州発祥と言うのは無理。

所謂「纏向方」と言えば西都原で81号墳が最古だったっけ?
あれが何処まで年代が遡るかだろうが流石に大和の物より古いと言うのは無いのではないか?

面白いのは北九州の纏向方と称されている古墳には三角が副葬されているものがある。
周知の如く纏向の古墳からは現在のところ三角は一枚も出ていない。
考えられる可能性は二つ。

 ・時間的なズレ、北九州の纏向方は大和の物より時代的に後の物
 ・ヒエラルキーの形成上の問題、大和と地方の被葬者のランクの違いによる物

まあ、上記二つが日向の古墳に当てはまった所で、邪馬台国日向説が成り立たない要素にはならないがwwww






976 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 16:17:45
俺は南九州のことを書き続けてるけど
邪馬台国東遷説は否定
神武東征は史実という考え

邪馬台国東遷説はおもに
北九州王朝説が下敷きだけど
北九州王朝説はこのスレには
もうあまりいないんじゃないかな

北九州は畿内と対立
南九州は畿内と同盟(同じヤマト-神武の一族)
というのが俺のスタンスね

魏志倭人伝に書かれている邪馬台国は南九州だとしか思えないけど
その時期の南九州はもう畿内とかなり関係が深かったと考えている

977 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 16:39:56
南九州とか畿内は巨大古墳が示すように文化的には後進地域。

978 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 18:13:24
追加
http://www.gondo.com/g-files/miya/miya3.htm
このサイトでは
宮崎平野生目古墳群の笠置山墳丘墓について書いてあるが
100人の殉死者の墓についての記述があって
それはけっこう重要かも
----------------------------------------------
笠置山古墳は、前方部と後円部を合わせた長径が、145.5mである。
多少、魏志倭人伝の記述する卑弥呼の大塚より大きい値では有るが、
これぐらいのずれは、誤差範囲に含まれるだろう。

一方、古墳の規模から言っても卑弥呼の墓である可能性が高いとされる
箸墓古墳の全長は、276mもある。明らかに大きすぎるのだ。
どうやら、箸墓古墳の大きさが卑弥呼の墓と一致すると主張しているのは、
後円部の直径のみをとっての話らしい。つまり、前方部は完全に無視しているのだ。
いくらなんでも都合良すぎはしないだろうか。

 卑弥呼が死んだ時、卑弥呼と共に100人余りが殉死したとされる。
・・とすると当然、卑弥呼の墓の周辺には、100人の殉死者の墓がなければおかしい。
笠置山古墳には、これがあるのだ!鳥型の羽の部分には、
穴を掘っただけの土壙墓が、整然と並んでおり、推定でその数は100基ほどなのだ。

979 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 18:46:21
>>977
サイキバ君乙。

いつもの薄葬ネタかい?
しかしどの道、北九州にも前方後円墳が築かれることになる(つか3世紀には既にあった?)事になるんだから言うだけ無駄だよw

>>978
そのサイトも随分前にも見たが…

首長墓の近辺に群集墓があるなんてそこだけじゃないだろうに
それだけで殉葬の跡とみなす事ができれば
「古代の日本において殉葬の風は見られない」何て言われていないよwww


980 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 18:55:37
まあ邪馬台国日向説はどうしても中途半端感はぬぐえないw

現在の考古学の趨勢として纏向と邪馬台国の時代は重なり
(森浩一センセイも太鼓判www)
日向の纏向型と大和のそれをほぼ同時期とするのなら
日向にそれなりの勢力が存在したことの根拠にはなだろうが
纏向型は関東・東北(北限は会津だったか?)まであり、当然北九州にもある。

北九州を凌駕する勢力のクニの存在の根拠まで引き上げるのは苦しいだろうw

それに畿内の勢力・影響力が南九州にまで及んでいたのなら
北九州に勢力・影響力が及んでいて、そこを中継して魏と交渉を持った
…と言う畿内説のシナリオが益々蓋然性を増すw

そうなると日向説は畿内説に対しアドバンテージを何に求めるかと言うと
やっぱり魏志倭人伝の暗号解読ごっこか記紀神話のトンデモ読みと言うことになるwwww

981 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 19:08:56
最近ふと思ったんだけど安本美典センセイって神話学に対する理解ってどれくらいあるのかな?
普通、神話に「数理文献学」とやらを当てはめる前に神話学でのアプローチするべきじゃね?w

まあ安本美典センセイ本職は心理学者って事で、俺は心理学なんてよく知らんが
ユングなんかは神話についてかなり研究して著書もあるよね?
神話に関しては考古学者より”鼻が利く”と思うんだがどうなんだろう?wwwwwwwwwwwwww


982 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 19:17:53
安本はもう駄目ぼ

983 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 19:48:03
>>980
>それに畿内の勢力・影響力が南九州にまで及んでいたのなら
>北九州に勢力・影響力が及んでいて、そこを中継して魏と交渉を持った

違うだろ
北九州と畿内が敵対していたので
鉄の中継基地-海路ルート確保の為にも南九州と同盟していたんだろ
(これは畿内と南九州の血縁のあるなしに関わらず)
それと古墳時代前期に宮崎平野生目古墳群より大きい
首長クラス古墳は北九州には無い

984 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 19:51:55
>>979
あなたみたいに文句つけるのはメチャ簡単なんでしょうけど、
卑弥呼の墓と呼ばれるところで、
100人の群集墓があるところは、
じゃあほかにどこがあるの??

985 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 19:56:47
>>983
は?鉄資源の確保で北九州を外すのは無理だろう?

半島産出の鉄をどうやって北九州を避けて南九州に運んでそこから畿内まで待ってくるんだ?



986 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 19:56:49
>>981
心理学を学ぶと、議論で相手を負かしたり、講演で客を洗脳するテクを身に着けられる。

相手の「(九州説を)信じたい心」につけいり、畿内説を仮想敵にして攻撃することで、
フラストレーションを解消させる。
そうすると、相手は安本を崇拝し神様みたいに見えるわけ。

安本の本をよむと、そうしたテクニックが散見されて笑えるよ。


987 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 20:01:31
>は?鉄資源の確保で北九州を外すのは無理だろう?

は?ぜんぜん無理じゃないだろ

988 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 20:06:07
>>979
ねえ、卑弥呼の墓って言われてるところで、
魏志倭人伝に書かれた物に相当する時代、大きさで、
100人の群集墓があるところは、
じゃあほかにどこがあるの??
早く教えてよ。

989 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 20:07:46
安本の手法は簡単で、とにかく相手を攻撃すること。
攻撃をくりかえして、少しでも相手に曖昧な点があればそこを追求していく。

考古学は変化し続ける学問だから、曖昧さがあるのは当然なんだけど、
安本は、あれがおかしい、これがおかしいと追求し、
反論できなくさせることで、相手の説は全部間違いで安本が正しいんだと喧伝する。

安本は、とにかく、自分の正しさだけしか主張しない。
自分から「いろんな考察ができる」とは決して言わない。これは詐欺師のやりくちと同じ。

はたからみてたら、幼稚な手法なんだけど、このスレにも洗脳されてるひとがいるみたいだね。



990 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 20:09:10
安本の話なんかどうでもいいから、
卑弥呼の墓って言われてるところで、
魏志倭人伝に書かれた物に相当する時代、大きさで、
100人の群集墓があるところは、
じゃあほかにどこがあるの??
早く教えてよ。

991 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 21:18:20
>>990
卑弥呼の墓が必ず現存しているとは限らない。
既に破壊されている場合も考えられる。

992 :979:2009/02/19(木) 21:25:47
>>990
うーん、時代と(100前後の)数を限定すれば確かに該当する物は無いかもしれないな。

が、近くにあるというだけで殉葬の跡とするのはあまりに強引。
時代は別にしても、吉野ヶ里の列埋葬された人間は、北墳丘墓の被葬者の殉死者だなんて九州説の人間でも言わないw

そもそも笠置山古墳が三世紀の中頃と言う根拠が希薄。
周辺で庄内土器を見つけた話が出ているがそれだけではなんとも…
生目にせよ西都原にせよ7世紀までは続いているんだし

よしんばその古墳の築造時期が3世紀中頃として周辺の土壙墓が同じ時期だという根拠も無い。

「可能性の示唆」をいつの間にか「前提事項」に摩り替えて話を進めるのは「ト」の常套手段だなw



993 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 21:28:00
次のスレ立てといた。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1235046399/l50

994 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 21:49:23
蘇我  馬子
蘇我蝦  夷
蘇我入鹿

縦に、時には下から、そして似た字を充てて読もう。
蝦入・・蝦人。倭人と蝦人については古田説が詳しい。
馬鹿・・この時代から馬鹿が蔑称だったかどうかは諸説あり。
子夷・・ひっくり返して夷子といえば、静岡県下田市須崎(=須佐崎)黒曜石の
    産地として縄文時代から栄えた神津島をはじめとする伊豆諸島への玄関口。
    伊豆は出雲。
これだけの謎が隠されている。

他にもトンチを利かせれば解ける謎はいくらでもある。
たとえば、香取神社の経津主神と鹿島神社の武甕槌神に討たれた常陸国の
国津神香々背男(かかせお)。なんとも不思議な名前ではないか?
しかし、弥生式土器の流れをくむ土師氏の子孫だとしたら?
土師香々背男(はじかかせ男)となる。つまり、大和に従わず、恥を欠かせた
荒ぶるる神だったことがわかる。
現に、土師氏は後になって、桓武天皇にかばねを与えられ、大江氏・菅原氏・
秋篠氏と名を変えている。

995 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/19(木) 22:16:19
「ト」???

996 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:19:00
>>995
鏡を見てごらん。

997 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:20:24
「ト」んでも説だと片付けてしまうのは簡単です。
しかし、本当にそれだけでしょうか?

998 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:29:57
>>994
>土師香々背男(はじかかせ男)

中川(酒)のことですね、わかります。

999 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:33:59
ヤマタノオロチ(大和のオロチョン族)も貢物として贈られた酒におぼれて滅んだ。
中川の祖先もそうだったという意見に、特に異論はありません。


1000 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/19(木) 22:35:08
>>996
オマエこそ見ろ。www

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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