5ちゃんねる ★スマホ版★ ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50  

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!26

1 :神奈川県民:2009/01/10(土) 19:52:31
三國志卷三十 魏書三十 東夷傳 倭人伝
其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑彌呼
事鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國
自為王以來少有見者 以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入
居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛

魏志倭人伝に記されてる「卑弥呼」なる女王の正体とは?
又、天皇家との関り合いは? 古代最大のミステリーに挑む!


2 :神奈川県民:2009/01/10(土) 19:54:17
スレ25が終了次第、こちらに書き込んで下さい。

<前スレ>
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!25
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1229431401/

3 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 20:15:43

イヨタンは? イヨタンは? イヨタンは?

イヨタン・・・・・・・・・・・・・・・


4 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 05:13:30


         //l:::::::::::::::::::::|.|.|:::::j | | !::::::::::::: !,!|::::::::|:||:::::::::::::::::::::l
       ///l ::::r┐::::::,j !イニ |_|、! |l___l ll ィ--,ニ,┐::::::::::l !:::: ! 闇ニ惑ヒシ憐レナ影ヨ  
     .////l::::::|,!.|::::::::l'lア::。::lヽヽ      /,イ"。:ヾ||::::::::::| !::::::|   
   / /./. //l::::::::|亅::::::|.|ヽ__,ノ .`      ヽ___/ ||:::::::::|ノ::::::::!  人ヲ傷ツケ貶メテ 
 ./  / / // !:::::::::::|::::::::| !              |,! :::::::|:::::::::::|!  
'´  / / /./ |::::::::::::|:::::::| l.      _ _        ,|::::|:::::|:::|::: :::!l   罪ニ溺レシ業ノ魂・・・
 / / / /  .! ::::::::::::::|::::::.|\     __       /: ̄l ̄:::j::::|::::l.l
/   / / ./  ! ::::::::::::::|:::::::l.l:::::: ヽ、    ー   _,ィ'´::::::::,||:::::::::|::::|::::l l,  イッペン 死ンデミル?
  /./ /  .l::::::::::::::/|::::::,!,!|:::_,ノ| ``ー---‐'"  ト_ ::::::l !::::::::|l:::|l::::| !l
/ / /   .!:::::::::::::/i,|:::::/,l〃'、 ヽ\.     / ./入l |:::::::::| !:l.l::: l !l



       こ の ス レ 地 獄 に 流 し ま す 。




5 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 05:24:53
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(※色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!これらの要素が弥生土器には一切ない。)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050618/4482.jpg
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050610/2764.jpg
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/090.jpg

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/099.jpg
http://www.sx.xinhua.org/ztjn/2003-08/29/xin_49b7e0a2d93511d7be2c0050ba1967d3.jpg
http://www.shtong.gov.cn/node2/node4/node2250/songjiang/node70313/node70604/images/00004623.jpg


6 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 06:07:58
「こしき」で変換すると↓

7 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 06:24:55
KOSIKI

8 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 06:53:16
だれもいないうちに好きなことを書き込んでおこう。

邪馬台国の中心は、もちろん現在の奈良、桜井市、天理市にまたがるマキ向遺跡である。
文献史学的にはそう言いきることはできないが、あらゆる考古学的事実がそれを立証している。

@マキ向で発生した前方後円墳は各地の墓制を混合したものであり、3世紀初頭に始まり
 九州を含む各地に伝播した。そして同時代の前方後円墳のなかで最も大きいものが、
 箸墓古墳であり、卑弥呼の墓である。

A箸墓古墳は従来280年以降とされてきたが、年輪年代法等により20年程度さかのぼる
 と考えるのが学会の通説である。造営に10年程度かかったとすればまさに卑弥呼の墓と
 して時代的にぴったり合う。
 
Bマキ向遺跡は藤原京に匹敵する、同時代最大の面積を持ち、環濠を持たない。これは各地
 豪族の合意による戦争廃棄を前提として建設されたことを物語る。特に箸墓周辺は大市
 と呼ばれ交易センターの役割を果たしていたと考えられる。

C発掘された土器は各地から搬入されたものが多く、東海地方のものが最大であるが、その
 搬出地はバラエティに富んでいる。東海地方のものが多いのは東海=狗奴国であり、戦争
 によって邪馬台国連合に屈服した後、貢ぎ物が増えたと想定される。

D3世紀後半には、北九州でも畿内型の土器を採用するようになっているが、これは古く
 からの勢力であった奴国等がついに邪馬台国連合を受け入れ、これに加わったことを
 表している。Aに書いた前方後円墳が九州に築かれ始めるのもこの時期である。

E箸墓古墳造営の様子は「日本書紀」「古事記」に初めての大型古墳制作として詳しく描写
 されており、これは皇后でもないものの墓の記録としては異例である。大和朝廷発祥時の
 始祖的人物の古墳であることが、強く記憶されているからであろう。
 

9 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 13:58:59
箸墓にしがみついているのに夢を壊してすまんが、箸墓が卑弥呼の墓の可能性は
全くないよ。
だいたい箸墓は大きさが合わん。後円部の直径が合う? 径の意味が分かって
ないな。径というのは円の場合だけではない。図形の差し渡し。前方後円墳なら
長さも幅も径だ。大きいことを伝えようという径は勿論長さの方。
後円の直径など径ではないんだよ。だいたい、考えてもみろ。できあがった前方
後円墳をみて前方部だとか後円部だとか分けてかんがえるか? それは航空写真
などをみてはっきりするだけ。当時は横から眺めるんだ。長い山のような陵って
だけなんだよ。卑弥呼の墓は全長が百数十メートルのものを探さにゃならんのだ。


10 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 14:02:45
箸墓の年代がこれまで考えられてきた年代より早くなったらどうだってんだい?
箸墓の年代がさかのぼるってことは、箸墓より前の古墳も全部さかのぼるって
ことだよ。卑弥呼の墓の可能性ある古墳が全国にあるってだけの話だ。

11 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/11(日) 14:15:22
>>8
「壹」→「臺」
「東」→「南」
「円墳」→「前方後円墳」

と3度もスリ替えた論理の妄想。スリ替えれば合うのが当たり前。
畿内だとの先入観が恣意的に → にもって行ってるだけ。
つまり妄想!!

12 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 15:05:12
箸墓の年代は此れまでどおり3世紀後半
それ以前の古墳が3世紀始めになっただけ。
3世紀初頭=巻向石塚古墳等。
240年ホケノ山古墳

13 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 15:14:53
畿内説論者が卑弥呼の墓探しに固執する必要は無いんじゃないかな?

そもそも「径」がどうのこうの言う前に「殉葬百人」なんて真に受けてないだろ?w
魏志倭人伝に照らし合わせるのなら箸墓は年代以前にアウトって話wwwwww

無論箸墓の内部の調査がされたわけじゃないが

(そう言えば以前、 神奈川県民こ と 改めドツボは 自信満々に箸墓の調査はされていると言ってたなw
 話の流れから言って周濠からの遺物収集とかを言ってた訳じゃなさそうだし
 てかそんな区別も認識してなかったようだったがwwww)

今日までそんな話は聞いたことも無く、箸墓だけが例外中の例外ってのも考えにくいのでは?

まあ九州説論者が奴婢百人が埋まっている墓を探しだして来るのを待っていれば良いかとwwwwwwww




14 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 17:20:23
>>12
箸墓は以前は4C以降だったんだが・・・
土器の布留0は4C半ばとされてきた。

布留0の石塚やホケノが3C前半になるっていうのは、無理だろww

15 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 18:41:20
>布留0の石塚やホケノが3C前半になるっていうのは、無理だろ
土器はいつでも持ち込めるだろ。古墳の年代を決める決め手にはならんな。
中から出てきたなら目安にはなるだろうが、外なら何とでも考えられる。

16 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 19:47:59
残念ながら考古学会には権威主義的な側面が強く、これまでの土器編年は小林行雄氏
の6世紀古墳の被葬者比定、および三角縁神獣鏡の伝世理論から逆算して定められた
感もあり、若い研究者の間には疑念を持つものが少なからずいた。1989年の氏の死去
により、自由に発言できる雰囲気が生まれ、土器編年も実際に近いものに変化してきてい
る。

さらに年輪年代法等自然科学的手法の発達により、布留0式の編年は研究者により240
年260年280年300年頃と諸説ある現状であり、どれをとっても決定的な間違いと言える
根拠はない。

もともと土器の編年は、須恵器の登場時期と弥生終末間を200年程度として、適当に割り
振ったという程度の学問的根拠しかなく、きわめてあいまいなものだ。




17 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 20:40:42
>>16

小林行雄つったら自分の研究の批判者に対して訴訟沙汰まで起こしているんだっけ?wwwwwwwwwww








18 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 23:03:08
>>16  昔は布留は4C半ばからって言う説の方が強かったよね。

弥生時代の出土物では、鏡では九州は畿内の100倍以上の出土量。
鉄も大和との比較では200倍以上、畿内全体との比較でも数十倍。

その事実をひた隠しにして、邪馬台国畿内説を唱えてきたクズ連中が、
出土事実を隠しきれなくなったときに始めたのが、極端な年代遡上。

古墳時代の開始を4Cから3Cに100年早くして、邪馬台国を古墳時代にした。
しかし、この年代観を本気で信じて唱えている学者が本当にいるのか。

年輪年代が根拠とか、トンデモの極致だな。
デタラメ尽くしの畿内説ってのが周囲の見方だろ。

19 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 00:13:28
>>18
昔から弥生時代の畿内の鏡の出土が極端に少ないことは意識されてきた。
畿内説は、「畿内の鏡はすぐには埋められずに古墳時代になってから埋められる
ようになった。」と主張した。これがいわゆる伝世論である。

鉄器の出土も畿内、とくに大和では極端に少なかったが、畿内説は、「大和は
もともと湿地帯であったから、水分により鉄の酸化が進み溶けてしまうため
出土しない。」とした。これがいわゆる「畿内の鉄だけ良く溶ける論」である。

20 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 00:22:22
>>18
>昔は布留は4C半ばからって言う説の方が強かったよね。

出鱈目だ

21 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 00:45:38
>>18
>邪馬台国を古墳時代にした

女王卑弥呼の墓が径百余歩もあったと魏書に記されていることから
これは古墳であり、3世紀邪馬台国が古墳時代に入っていたとする学者は
戦前から少なからずいた
三品彰英も一貫して卑弥呼の墓は大規模な古墳であると一貫して主張し
径百余歩の記事を否定する考古学者(小林等)を痛烈に批判している


>>19
>畿内説は、「大和はもともと湿地帯であったから、水分により鉄の酸化が進み
>溶けてしまうため出土しない。」とした。

原田大六こそ弥生時代の北部九州優位を強硬に主張した人だった
しかし原田は生涯邪馬台国畿内説を貫いたけれども、そのようなことは言っていない

22 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 14:16:21
>>19
>大和はもともと湿地帯であったから

湿地帯に国なんか有ったの???

23 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 21:54:34
機内の紀年鏡はすべて実年代。画文帯神獣鏡も邪馬台国時代。九州で発見される鏡は
後漢の古いものが多い。
鉄に関しては、北九州の優位は動かないが、近畿での出土が少ないのは、古くなったら
鋳つぶして再使用していたから。習慣の違いも大きい。湿地はトンデモ説。

近畿を中心に、瀬戸内、出雲、丹後、東海等の連合国である邪馬台国は、鉄の交易ルート
を握っていた古い勢力である北九州勢を制圧した。その結果、北九州にマキ向型前方後円
墳が見られるようになり、畿内式様式の土器も流入した。その後古墳時代の副葬品として畿
内でも鉄器が豊富に見られるようになった。

こんなの常識〜〜。

24 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:22:52
湿地で酸化して鉄が溶けるといったのは佐原だったか・・

25 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 00:05:32
北部九州の弥生時代は甕棺葬が大流行した時代でもある。
甕棺は雨水を防ぎ副葬品を劣化させなかった点も少しばかり考慮してみる必要があろう。
甕棺と木棺直葬では副葬品や人骨に対するダメージが同じではないと思われるが、どうだろう。

26 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 01:32:44
>>25 そりゃそうだ。
しかし、九州では鉄器は住居跡からも出ているからなあ。

27 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 11:52:01
九州の2世後半は完全に衰退期だな…

28 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 16:17:57
当時の近畿の鉄不足状況は木製農具の出土の多さ等ではっきりしている。しかし、大溝
から出土した矢板など、鉄製工具の存在も否定できない。

マキ向遺跡から出土した搬入土器は全体の15%で、これは数値として大きい。そのうち
さらに半分程度が東海系土器であり、北九州のものはほとんど見られない。このことは
はっきりと畿内ー北九州の対立関係を物語る。

当時の近畿と北九州が没交渉であったことは、ありえない。107年倭王帥升等が160人
の生口を献じたとの「後漢書」の記事があるが、史実とすれば反乱を抑える等で200人
以上の大船団が必要である。遣唐使時代でもたびたび難破した外洋航海をやってのける
操船技術のあった倭人が、波穏やかな北九州ー大阪湾の行き来ができなかったはずが
ない。このことを強く頭に止める必要がある。

こんなの常識〜〜。

29 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 16:19:38
清水守民氏のブログでは邪馬台国九州説を取っている。
blogs.dion.ne.jp/pentacross/

30 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 16:20:11
http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/

31 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 16:35:50
【日韓歴史】 古代の韓流スター武寧王は倭武王だった!日本飛鳥文化の源流![01/11]

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1231855264/

32 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/14(水) 22:48:35
前スレ 25
>997 訂正
× 仁徳前に日食の記事が
○ 仁徳前に月食の記事が

>999 発掘されない
じゃぁクレオパトラ女王の墓など発掘されてないぜ。この女王の実在
はウソか? ヒミコだってそうだろう。

それが遠い古代だからだよ。全くとか言っても、朝廷の機密等なんか
簡単には出て来ないぜ。さっきの日数表がそれが文証だ。
23月とか紀に記述がないんだからもん太氏の言うことは即興の
妄説なんだよ。

33 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 23:01:36
>>32
まあこの話は流れに関係ないようだからもうやめるが、「おおのくに」お前できるんなら
もんた君を召還してくれ。

34 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/14(水) 23:17:04
>>33
だいぶ夜が更けてきたのでそろそろ寝るので止めとくが、出て来ない
からくらいじゃぁ〜倍暦の否定の合理的説明にはほど遠い。

文証をこちらはちゃんと示してるんだから、オマエが出て来ないとか
頑張っても、紀の記載はそうじゃないぞと言ってるんだよ。

1900年代では2月の記録のみ30日が無い。これは1900年代では
2/30と言う日は存在しなかったからだ。同様に八代の日数表から、
当時は15日以後の日は朝廷の暦では存在しなかったということだぜ。
ということは、当時は2倍暦法を行使していたことになる。それに
天皇8人は全員月上旬に死んでいる。これなどは当時3倍暦法も
やっていたことをを物語るのだ。

孝安天皇だって1月即位してるのに室の秋津島宮の宮名だ。季節が
合ってないだろうが? それに紀の四季はさっきも言ったが、舎人
親王らの後付けだよ。彼らだって倍暦を知らず、官僚式の記載方法
に則ったしく、天皇が見るああいう文の月日には四季をその前に
入れる慣わしだったということだ。だから原文たる原書には四季が
無いのに彼らがつけたから、なおさら倍暦の真が隠没してしまったの
だ。それを今までオマエは騙されていたということだぜ。wwwww

また明日以降話があるなら相手をしてやろう。

ZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・

35 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/14(水) 23:26:11
おっと失礼。寝ようとしたが、もう1箇所間違いがあった。
>>996
開化の即位を12月の師走だと書きこんだが、正は11月だ。
慎んで訂正する。
今度こそ寝る。ZZZZZ・・・・・

36 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/14(水) 23:28:42
>>35
>996とは、前スレ 25 の>996だ。スマン。ZZZ・・・

37 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 01:10:55
宮崎県 西都原(さいとばる) 第2古墳群にある
柄鏡式前方後円墳の西都原90号墳こそ
が邪馬台国女王卑弥呼の墓である。
墳長96m ≒ 106歩(1歩90cm)

1歩=2尺(90cm)
※1尺は45cm程度

38 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 01:16:09
>>37
あっ、説明不足でした。すみません。
この単位は、古代の日本の単位で大体こんな感じでしょう。
中国人に墓のサイズを教えたのは日本人だから問題ないでしょう。

39 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 01:17:39
>>37
熊襲の古墳ですね。

40 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 02:30:43
熊襲は高塚式の古墳は好まない。
地下式石板積石室墓とか地下式横穴墓とか、そういうのを好む。

中国は古来、白髪三千丈の国だから、数字はかなり大きめに言う傾向がある。

41 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 05:21:01
西都原を掘り返したのかと。

42 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 06:38:32
>>40
地下式石板積石室墓ではなく、地下式板石積石室墓だった。

43 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 07:25:07
出雲・丹後の状況を忘れてもらっては困る。

出雲はご存知の通り、九州の銅剣も畿内の銅鐸も出土してる。交易の中心地だ。
丹後からは鉄器も多く出土し、玉などの加工品を輸出していた。

つまり、山陰の交易路は十分発達しており、
朝鮮半島・九州と断絶してたとは全く考えられない。
出雲・丹後を知ってる使者は、当然のごとく近畿の状況も耳にしていたはずである。

つまり、魏志倭人伝の倭国の範囲は、出雲・丹後・近畿を、その範囲に含まれていなくてはおかしい。
まず、話はここからだ。

魏志倭人伝の倭国の範囲は、九州〜近畿を包括していること。
その上で、女王国がどこにあったか?という話なら、拝聴する。


44 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 12:07:51
邪馬台国は高千穂で
瀬戸内海沿岸から畿内までが勢力圏
墓は西都原
ここ迄分かっています。

出雲は友達国だって

45 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 12:26:52
西都原は古墳がたくさんあってどれが卑弥呼のか
良く分からないのが本当
場所と方向から
90号が蓋然性が高いんだよね。

46 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 20:11:21
>>34
まあ、考古学は「これまで発掘されてない」=「これからも発掘されない」ではないからな。
お前とは違って厳しい学問的態度を貫いているんだよ。

あと、これは強く警告しておくが、俺は紀記に書かれた、天皇の人数も、即位年、崩御年そ
の他、おまえがちまちまこだわる干支等、すべて怪しんでいるからその方面の議論はしな
い。それは人生をムダにすることだ。

ま、前スレに書いたように俺は2倍年暦を全面的に否定しているわけではない。
仮に時代を5世紀として、2倍年暦の一般度は、
@ 宮廷の専門職がほそぼそ宮廷内だけでやっていた A首都近辺には広まっていた
B 倭国全体に広まっていた
@ならありえないことではないかもしれない、Bは絶対ありえんだろう。運ぶのに何ヶ月
もかかるようでは暦の意味がない。


47 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 20:32:42
>>35
次が本題、お前の言う2倍年暦の本質についてだ。
@ 倭人が独自の衛星軌道計算によってつくり上げたもの
A 倭人が中国暦をもとに改変したもの
B 月の動きを毎日観察し、素朴に月齢を記録したもの

@Aは絶対ありえない、前スレで「和算」(わかるか、日本の数学だぞ)の歴史を勉強しろ
と書いたが、例えば「算博士」の設置は早くても6世紀末、百済からの「暦博士」の来朝は
6世紀半ば、律令制度として固まったのは、なんと8世紀末だ。日本人が習得するのにそ
れほど時間がかかったのだ。「天文博士」も似たようなもの。

4〜5世紀の日本人に天文学計算をする能力はなかった。あったというならお前は善行女王
以上のトンデモだ。まして邪馬台国時代はいわずもがな。

Bならあったかもしれない。お前が冬休みにやるような観察日記だ。おれの想像では、稗田
阿礼につながるような語り部が記憶するために、13日というような日付が記号として必要と
されたかもしれないからだ。

ま46はどうでもいいが、これについてはぜひ意見を聞きたいね。

48 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 22:17:45
古代畿内で鉄が主流でなかった事は良いとして。

何故そこから「木器使いの土人」と言われねばならんのだ?
青銅は突いたり叩いたりする分には鉄より優れてる。

49 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/15(木) 22:32:58
>>46
そのとおり、@だと思われる。紀の編者は紀の原書群を徹底吟味
検討して天皇の崩御に関しては欠史八代間のものは3倍暦の原書を
採用したということだ。だからその間は8人全員が1日〜10日間の
月上旬に死んでいる。ところがその他の天皇の立太子、即位等とか、
立后だとかは1日〜14日までの記述しかない。これは天皇崩御を
抜いたそれらの出来事については別の原書の2倍暦法の記述のもの
を各々信が強いと判断して、並行して2倍暦をも行使していたのだ。

オマエ、臥海の威を借りる紀常になんかなるんじゃない!

50 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 22:49:57
マキ向の地に、出雲から移植された地名が多いのは周知の事実である。また日本最古級の
山岳祭祀遺跡である三輪山および大三輪神社の祭神の一人が「オホナムチ」であり、これは
出雲大社の主祭神である「オオクニヌシ」と同一神とされる。古代における出雲・丹後等と
畿内との人の出入りが、現代の一般的な認識よりはるかに大きかった証左であろう。

別スレでも書いたが、青森の三内丸山遺跡(4000年前〜5500年前)から、越(新潟)
産ヒスイや、北海道の黒曜石が発見されるように、縄文期から日本人の海上移動能力は
われわれの想像をこえるものであった。特に前1世紀〜1世紀頃にかけて、部族間での
移動が活発におこなわれていた考える。この時期に、いわゆる「神武東征」伝説の元とな
る出来事があったのかもしれない。

43のいうように3世紀には倭国の範囲はとうてい九州内に収まる状況ではなかった。これ
は文献学者はいざしらず、全国の考古学者のほぼ共通した認識である。特に北九州勢は
巨大な勢力になりつつあった近畿マキ向連合に対して強い恐れを抱いていたと考える。

こんなの常識〜〜。

51 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 22:50:17
>>49
欠史八代の天皇は、いなかったから欠史なんだ。わかるか?

52 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/15(木) 22:50:44
>>47
>あったというなら
それはわからんというのがいまのところは正解だよ。なかったなど
とどうしてわかる? 仁賢天皇の御名は億計尊だ。億の計算が軽く
出来たという意味の御名だよ。あんたの理由くらいじゃぁ、なかっ
たことにはならんな。わからんというべきだ。どんな奇人才人が
いたかも知れない? オマエは当時の日本人を全員調べたわけでも
あるまいがね。www

冬休みだと〜〜ふざけるな。余は学生じゃぁないぞ。

〜とにかく紀の朔とかは天文観測のものではないよ。前スレでも
言ったように超長寿の天皇の時代の記事に月食の記録はない。
ただし佛伝以後は観測だとは充分考えられる。そういう技術は仏伝
に付随した学とかでいろいろ観測が便利になっては来ただろう。
月食の初見は 皇極2年=643年 だ。それ以前には記録が無い。
紀にはこれでもかというほど朔の記事が満載なんだから、当然観測
ならば月食の記事が佛伝以前に少なくとも数個あってしかるべきで
あるが、全くない。ということは観測ではないということだ。月食
は特殊な朔であると言える。

つまり紀の編者連が朔を逆算でも求めていたのであり、月食の正確な
計算まではまだ不足であったということだ。

勿論紀の四季語も彼らの後付けだよ。オマエはそれに騙されたわけ
なのさ。wwwwwwww

53 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/15(木) 22:52:17
>>51
そうじゃないよ。そこが史実が殆ど書かれてないからだろう。

54 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/15(木) 23:05:23
>>49 訂正
× 判断して、並行して2倍暦をも行使していたのだ。
○ 判断してその別の原書を使用したもので、当時の朝廷は3倍暦
   に並行して2倍暦をも行使していたのだ。

55 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 23:18:22
>>49
古代においては、暦=予知、未来予測の側面が強く、一般大衆はそれを王権が持つ不思議
な力と考えて怖れた。暦学が発達したのは単に宗教的、農耕的意味合いからだけではない。
次のひと月、次の一年の天体現象を予測できなければ、それは暦とはいえない。

俺が46、47で書いたことはそういう意味だ。紀記の年数を細かく調べるのが真の歴史研究
ではないし、つまらないものしか産まれないだろう。人類学的、民俗学的な広い視野を持つこ
とで見えてくるものは多い。歴史学とはもっとダイナミックなものだ。

こんなの常識〜〜。



56 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/15(木) 23:27:21
>>55
紀年を甘く考えてるようだな。だからオマエは騙されたんだよ。
でもその@とやらは余もとうに考えていた。そこんところはオマエ
はまともだと言えるし、なかなかいい線を行っている。そこは正解
だな。

年数を細かく調べねば景初3年がいつごろの時代だったのか、つまり
卑弥呼の時代はいつ頃になるのか、神武天皇はいつの年代に即位
したとかの正確な年代が倭過乱ということになる。オマエの取り
組み方ではこれらのことがなおざりでいいことになってしまう。
これでは不味いぞ。また明日以降話そうぜ。ただし明日の夜はいそ
がしいので後日だ。明日の昼は書きこめるか〜??

ZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・

57 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 01:21:13
魏志倭人伝には、里、歩、尺と3つの単位が出てくる。
この数字を現代風に直してみると、以下の通りとなる。

里=90m 従って千里は90qとなる
歩=90cm 従って百歩は90mとなる。
尺=23cm 従って三四尺とは69cm〜92cmとなる。

58 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 13:34:50
最近、デブ国が元気だなw

59 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 20:16:14
東夷傳 倭人条

60 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 21:21:39
>>56
マヤ文明において、皇帝が生贄の儀式を毎日繰りかえさせるほど権力を持ち得たことと
同時代世界最高水準の暦の精度を持っていたことの間には深いつながりがあるというのは
文化人類学では定説。暦は一種の人民を支配するための装置だった。

古代中国でも、大規模な殉葬等が行われるほど各時代の皇帝の権力は大きかった。中国
ではおそらく前2世紀には簡便な形での暦は完成していた。ただし中国で人民を支配する
ための装置は他にもいろいろとあったが。・・・このようなアプローチのしかたで卑弥呼の殉葬
の謎も解けるだろうと俺は考えている。

えーと邪馬台国時代は、ちょうど中国暦の景初暦の施行時期にあたるが、これは何か示唆
的だな。日本人が独自で暦法を考え出すことができたという考えは俺にはいただけんが、
中国からうまく導入できたことを説明できるなら反対するつもりはないよ・・というかそこまで
関心がない。まともな議論ならいつでもいいが、お前は知の巨人とぶつかることになるんだ
ぞwww

61 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/16(金) 22:25:53
>>60
今帰ったところだ。今宵は遅く風呂も入ってないのでこれだけに
しておく。おどしをかけたってだめだよ。古神道の最高権威となれば
だ、オマエなんかに舐められるわけがな〜い。wwwwwww

そんなおどしをかけるということは、大して持ち駒が無いな。ww

明日またな!wwwwwww

62 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 02:27:48
もう来なくて良いよ。

63 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 18:33:32
ょち(up)

64 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 20:33:12
太国氏はどこへいった?

明日またな!といっておきながら・・

65 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:06:59
>>64
おおのくには痛いところを突かれて贅肉痛と思われ

66 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/17(土) 23:27:45
>>64
なに文句を言ってるんだ? 今は新年会とか知り合いとの飲み目的
で外出が多く、家事もあるし、いそがしいからだ。明日夜も飲みに
行くからあまり書きこみのヒマはない。ヒマが出来れば書きこんで
やるよ。

67 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 23:39:19
日記代わりにするな。

68 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 23:55:54
はやくゼイ肉痛がなおるといいねw

69 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 00:43:33
目亜目亜 日記杷弋濔袈度熱句成猗

70 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:29:56
>>66
64は俺ではないぞ。

71 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 10:35:51
>>70 追伸 
「九州王朝はなかったのか?」というスレで、冗談で 三枝充当著「ここに偽作王朝ありき」

という本を偽造している。興味ある人は見てくれ。
 
こんなの常識〜〜。

72 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 15:44:47
既出?
ttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad/8721/

73 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 17:16:23
3行で要約してくれ。



74 :記紀きりん:2009/01/19(月) 10:03:59
やや興味深いはなし。

先週、金曜夜、NHKで柔道の山下泰弘の特集をやっていた。

(1)彼は熊本県「山都」市の生まれで
(2)母親は「倭子」さん
というんだそうだ。

「倭」という名前は当然、蔑称なはずで、むりやり付けるような名前ではない。
熊本県出身者に聞くと、昭和10年ごろは時節柄のあり、国家を名前につける
ことがはやり、「国子」「邦子」(ともにくにこ、と呼ぶ)がおおはやりだった
という。
しかも、彼女が生まれたと推測される昭和10年くらいは、今日ほど
邪馬台国のことは知られていなかったし、この「山都町」もWikipedia
に出てこないくらいの知られざる町で、何のために「都」という名前を付けたのか
やはり、首都があった、という自負があるからではないか?

みなさん、どう思う?


75 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 10:25:32
なんのために「都」と名付けたのか訊いてみたら? 役場に。
まだ名付けて4年くらいだから分かるんじゃない?

76 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 10:58:08
>>74
人の名前なんかその時の流行り。

山都のことなんか言い出したら、
奈良の新しい開拓地に
高の原だの朱雀だの右京だの左京だの神功だの
名が付いてるぞ。

77 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 11:58:15
当時筑紫の海岸線は相当下がっていたようだ
上陸地点は八幡か小倉辺りだな
伊都国も豊津辺りだな

78 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 12:18:18
そう考えると色々と見えて来る
例えば志賀島なんてなかった
どうかい湾は海だったとか


79 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 12:33:41
当時の地名で津がついているのは大体湊だろう。
豊津辺りも湊だろう。間とか馬は海峡だろう。だから、投馬も海峡にあるかもしれない〜?

80 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 15:17:24
大津は滋賀県。
やはり、湊か。
淀川を上がって琵琶湖まで運んでたんだろな。

81 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 18:50:55
琵琶湖から若狭湾まで行くルートってあるの?
途中、山越えがある?


82 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 19:04:00
>>81
津野神社・・・・若狭彦神社あたりかな。まあ土地勘がないので適当だが神社を調べれば
古代ルートが見えてくる・・・ときもあるかな。
こんなの常識〜〜。

83 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 19:34:23
そういえば、鯖街道ってあったね。

若狭湾って、一つの勢力圏じゃなくて、
西は山陰道(丹波・丹後)、東は北陸道(若狭・越)で、わかれてるんだね。

出雲と越には、四隅突出型墳墓があるけど、丹後には無いとか。

84 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 20:43:27
独立した丹後王国があって、6世紀頃大和朝廷の支配下に入ったとする研究者もいるね。
四隅突出型墳墓は越〜出雲で丹後が抜けてるのもそれを裏付けてるという。
いい目のつけどころだと思う。越〜出雲ルートの探索など面白いテーマ。俺は海上が主だ
ったと思うが・・・・。日本海ルートと瀬戸内ルートの対立に対して中立国だったとか??
近くに住んでるならぜひ調べてみたら。

こんなの常識〜〜。

85 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/19(月) 22:06:51
投馬=巴=早鞆の瀬戸
これ以巴形をした地形は無い。

86 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 00:15:22
>>85
大変意外な回答。「水行二十日」をどう見るのかな?巴ねえ。確か八幡神の神紋・・・。
しかしそれは後代の弓具の「鞆」からきてるんだろう。勾玉を合わせた形とも言えるが・・・。
勾玉は明らかに日本発祥。これには詳細な研究がある。大陸の・・例えば「武寧陵」から
出土したものも、日本→朝鮮。起源は縄文の耳飾りから。


下関あたりの古墳は少ない。まあ、10m程度の弥生墳丘墓はあるにはあるが・・・。秋根
古墳群、岩谷古墳となると6世紀で規模も小さいし。

こんなの常識〜〜。とはちょっと言えない?

87 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 12:15:13
畿内説はどうしても方角がねぇ
南と東は間違えないよ

88 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 13:23:34
>>87
朝鮮で見つかった地図は
日本が90度傾いてるんだよ。

89 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 13:30:37
畿内説は
伊都を北九州
投馬を広島に比定してる。
水行は瀬戸内海、陸行は丹波もしくは難波から
大和だと解釈してます。

90 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 16:16:53
魏の使節は北九州から水行して投馬国のあった米子市に到着、さらに水行して
卑弥呼・台与の出身地である旦波国のあった京丹後市に到着、ここより陸行して
邪馬台国の都である纏向京のあった桜井市に到着した。これが正しいルートです。

91 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 17:33:59
>>87
その考え方で宇佐説も否定できるね?

92 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/20(火) 18:02:42
>>86
巴形銅器=渦潮
投馬国から南に行くと卑弥呼、及び邪馬台国
郡から投馬国まで水行20日


93 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/20(火) 18:30:38
>>88
今だって傾いてる地図があるよ。だけども、だからといって今でも
方位まで動くべきものではあるまいが。

94 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 22:12:25
http://www.ryukoku.ac.jp/university/kouhou/shuppan/kohoshi/kohoshi60/11_treasure/treasure.htm

この地図については、15世紀のものであり、あきらかに行基図を挿入したもので

http://www.city.ibaraki-koga.lg.jp/rekihaku/2001haru/p1.htm

これだけで大陸人の日本列島に対する認識をあれこれいうのは難しそうだ。
しかし、この件については漂流の地理学者w室賀信夫の堅牢な研究があり、俺が読んでも
日本列島逆転説がほぼ完璧に展開されている。

https://bookweb.kinokuniya.co.jp/ez/%8E%BA%89%EA%90M%95v/list.html

このようにリンクを多くつけたのは、推測であれこれ言うのではなくまず本物にあったてほし
しいから。特に室賀氏の本は一生の宝になる。

>>92郡を起点にするのは一般的な読みでとはいえないが?
>>93「おおのくに」また合ったなw

95 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/20(火) 23:20:17
>>94
オマエは紀無い節か〜?wwwww そんな地図なんぞで逆転とか
の根拠にするのは盲象! wwwwwwwww
いまだって逆転の地図はあるんだし、それで方位がそれだけ変更
になるわけでもな〜い。wwwwwwwww

96 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 06:09:58
>>88
その地図をつくった人物は、我が国を訪れたのかい?

97 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 11:50:13
畿内説は行程記事が全部こぴぺと伝聞ならありだろう
しかも可能性はある

98 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 12:01:51
そもそも当時の中国人と朝鮮人は遠洋航海能力は無い
だから、来た事がない


99 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 16:36:41
>>98
能力云々じゃなくて、
一大率が居るからそこまで行ったんで良かったの。

100 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/21(水) 19:28:15
>>94
一般的なる読み方を100年以上続けている、それで何か解決しましたか?

卑弥呼は、鬼道を事とし、奴婢千人が使える。
そうなると伊勢神宮の様な神社がまず無ければ成らない。
これで日向以南は、消える。
ホツマに拠ると住吉が第一候補、投馬の南の地。


101 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 19:39:32
伊都国までいったのけ?

102 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 19:43:26
伊勢神宮はまだなかったんじゃマイカ

103 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/21(水) 19:54:43
最初に魏の使いが来朝したときは、一つづつ手順を踏んで
松浦→伊都国までで終了。多分奴国までも来ていない。
次の来朝時には、卑弥呼や邪馬台国を訪れたかも
帰りの船は松浦から出たとしても、来訪時には、松浦や伊都は遠回り。

住吉が何処か解るかな?


104 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 20:25:34
下関が投馬国だったとは考古学的にはとても考えがたい。見るべき遺跡はほとんどない。
「帯方郡から水行20日」の可能性は全面否定はできない。原資料は魏帝への報告書だった
ろうから、中国から見てわかりやすい書き方を心がけただろうとは思う。

巴形銅器は、南方のスイジ貝を模したもので一般的にイメージする「巴紋」とはかなり違う。
渦潮ねえ。確かに北九州からは多く出ている。早鞆という名は、地形が一般的な「巴」に似て
いるんでつけられたのは間違いないだろうが・・・。

「奴婢千人」を言い出すと、考古学的には大変。そのような弥生宮城跡はどこからも出て
いない。あるいは「大三輪神社」の下とかになっていて発掘不能という可能性はあるか。
大阪の住吉大社は、書紀を信じれば211年神功皇后がひらいたとあるので、時代は合う
が、俺は4世紀末頃のものと思う。

投馬国は、瀬戸内のどこかと思うが・・・。




105 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 21:21:23

邪馬台国等の所在地論にこだわる書き込みばかりで、読んでて面白くない。
というか所在地論だけしか眼目になくって、歴史の何が判ると言うのだろう。

とにかく、ここは卑弥呼スレである。スレ違いの所在地論は、他スレでやってほしい。
邪馬台国の場所に関係なく、卑弥呼についていろいろ論じることは出来るはず。
そういうレスを読みたい。

106 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 21:39:50
卑弥呼に相当する巫女が、はたして日本に一人しかいなかったのか?

記紀を読んでも、機内にはモモソヒメがおり、九州には八女媛や田油津媛など、
卑弥呼に相応しい女王は日本中にいただろう。


107 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 21:50:41
>>106
>卑弥呼に相応しい女王は日本中にいただろう。

記紀や風土記には確かに女の首長や実力者の話がいろいろあるが
でも中国に使者を派遣して皇帝から倭王と認められた卑弥呼となると
列島の巫女なら誰でもいいというわけにはいかんだろう

108 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 22:01:19
まあ俺は考古学専攻だから魏史は一つの文献資料と考えており、そんなに邪馬台国だけに
こだわってるわけではない。

有名な例だが、福岡県の平原遺跡は方形周溝墓であり、時代は原田大六氏の学術的とは
いえない発掘のため判然としないが、おそらく卑弥呼以前1〜2世紀。1号墓の被埋葬者は
明らかに女性であり、伊都女王とする説もある。頭部変形された女性の頭蓋骨出土の例
もあり、邪馬台国以前から各地に巫女王的な存在があったのは間違いない。

こんなの常識〜〜。


109 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/21(水) 22:41:33
住吉は大分の瓜生島。
考古学で瓜生島がどれだけ判る?
せいぜい弥生時代から栄えていた。位だろう。

>>108 さんは、卑弥呼=?天皇と考えていますか?


110 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/21(水) 23:13:06
椿井大塚山古墳=磐鹿六雁
岡山車塚=キビタケヒコ

こんな考えを考古学は、どう見る?


111 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:21:34
>>109
瓜生島って・・・。赤恵比寿伝説のあれか???面白いな〜考えもしなかった展開が次々
出てくる。16世紀末に大地震で滅んだというが、伝説にしては時代が近すぎる。
ルイス・フロイスの文献からしても実際にあった島だとは思うが、砂州のようなものだったと
いう説もある。そこに住吉神社があったという根拠は?住吉ならば神功皇后との関係は?

天皇の呼称は天武期からというのが通説で、それ以前は大王と呼ぶのがふさわしいが、
そういう話ではないだろう。俺は、卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命説なのだが、箸墓について
の記事が、紀記に、初の巨大古墳造営としてあれほど大々的に出てくるのは、少なくとも
大和朝廷の始祖的人物だったのは間違いないと思っている。

超俗的存在である巫女と世俗的権威者である男王との、男ー女コンビによる統治の例は
結構見られるようだ。台与の墓説もある西殿塚古墳は、前方部と後円部の双方に埋葬施
設があると古い陵誌に確認され、これもその一例かもしれない。

ただ、他スレでも書いたが、俺は「倭国乱」で疲弊した各地の男王が一種の停戦協定として
卑弥呼を共立したと考えている。つまりお互いの下には立ちたくないが、卑弥呼の聞く神の
声になら面子を捨てて従えると。その意味では現在の象徴天皇と似ているかもしれない。
答えにならないか。長文スマソ。

こんなの常識〜〜。




112 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:36:01
椿井大塚山古墳・・・3世紀末頃か。遺物として銛、ヤス、釣針が出ているので、被葬者が船舶
および港の管理者であるというのは一般的解釈。「磐鹿六雁」的人物かもしれない。

岡山車塚・・・群馬北山茶臼山古墳、滋賀大岩山古墳等と同型の銅鏡が出土しており、また
大原の神原神社古墳との類似性も指摘されている。大和朝廷の前進基地??広範囲すぎ
てよくわからん。キビタケヒコもわからんが、吉備津彦の関係なら四道将軍の一人でもあり
時代的にもまあ合うかな。


113 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 01:35:02
椿井大塚山古墳は崇神天皇の時代に反乱を起こした武埴安彦の古墳です。
近隣の天上山古墳と御霊山古墳は大型古墳なのに副葬品も何も出土せず空っぽで
造りかけの寿陵だと思われる。付近に湧出宮と言われる和伎神社と武埴安彦を
祀った祝園神社があり両方とも居籠り祭が行われる。

114 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 07:28:58
日本各地に、女性首長墓があるという時点で、
魏志倭人伝の記述がいいかげんで信用に足らないということになるんだが。

中国から見れば、日本の女王が珍しいから、取り立てて記事にしてみた程度の話だろう。


115 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 07:59:38
「じょおう」と「じょうおう」か、ふむふむ

116 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 13:59:32
>>106
百襲姫と八女・田油津姫じゃ
時代が違うだろう。

117 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 15:52:45
>>72の説で全部説明つくんじゃね?

118 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 15:56:46
>>108
平原遺跡の方形周溝墓は、14m×12m。けっこう小さい。
熊本県のうてな遺跡から見つかった方形周溝墓は、一辺が34mもあった。

1号墓の被埋葬者が女性というのも疑問。
確か、この時代の女性の墓から普通に出てくる貝輪が出てきていない。
また、武器が副葬されていないことが女性墓の根拠の一つとなっているらしい
が、女王の墓であっても武器は出てくる。

たとえば、向野田古墳からは、長剣1本、直刀4本、短剣3本、刀子78本が出土
している。平原から武器が出てこないのは何か別の意味があると思う。

ただ、古くから鏡を副葬する習慣のあった九州でも、多数の鏡を副葬するのは
玄界灘沿岸だけの特徴で、これは畿内にも受け継がれている。
そのへんは気になる。

119 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/22(木) 18:38:13
>>113
崇神との戦いで敗れた武埴安彦
この武埴安彦が鏡の分配者?

>>111
卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命説→独身=嫁さん こう言う読み替えを繰り返すのが
卑弥呼=崇神時代です。
当時の結婚は、女13〜15歳で結婚、30歳で出産完了だと思いますよ
であるならば 孝元時代に大物主と百襲媛は結婚 百襲媛の受胎、出産に失敗死亡
その前に大物主は百襲媛と喧嘩別れをしていたので、百襲媛の葬儀をしていなかった
崇神6年大物主は、崇神に国を譲ります。その時問題となったのが百襲媛の葬儀
百襲媛の葬儀を改めてする事になり、古墳を作る。
崇神8年の歌 このみきは わがみきならず やまとなす おほものぬしの
 かみしみき いくひさ いくひさ
大和は大物主の支配する土地であった

崇神時代を考古学で見れば
崇神11年 異俗多帰。国内安寧。=巻向に各地の土器。



120 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/22(木) 20:18:14
スメラギいのり とびあがる かれスミヨロシ ナヲリカミ モロハノヤシロ
さらにたて これまつらしむ
住吉治り神の橿場が禰宜野 決して直入郡では有りません。

キビタケヒコ =遣吉備武. 彥於越國、キビタケヒコは日本武尊と関東平定に行く。


121 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 21:51:54
>>120
赤恵比寿伝説をどうみる?恵比寿像の顔が赤く染まったとき神の怒りにより島が滅ぶ云々
・・・という。エビス神はヒルコノミコト、またはコトシロヌシノミコトとされることが多いが。

>>118「明らかに女性」と書いたが、たしかに遺骸があるわけではなく、ちょっと原田説の鏡やら
朝日やら不思議な説に幻惑されている感もあるかしらん。

112追記
武埴安彦はなさそう。112の岡山車塚については、同型鏡は単に地方豪族に配られたと
いうより、稲荷山古墳の鉄剣にあった「杖刀人」(大和朝廷派遣の武人?)的人物(時代は違
うが)と考えたほうがいろいろつじつまが合いそうだが、推測の域を出ない。
稲荷山といえば「オオヒコ」の例もあるが、紀記の系図がそんなに正しいとは思わん。

122 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 22:52:46
卑弥呼(媛命)が百襲媛命なら、

卑弥呼の死の直前に、卑弥呼らに反旗を翻した
狗奴国の卑弥弓呼(彦命)は、自動的に限定されてくる。

百襲媛命が死ぬ直前に、百襲媛命らに反旗を翻したのは、
許乃国(このこく)の武埴安彦命しかいない。

123 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:01:51
>>119
大物主は蛇だったんだから
百襲媛命はリアルな人間とは結婚していない。
大物主との結婚の逸話は、彼女が神に仕える巫女だったというこだろう?
巫女は一生独身で、神に仕える身分だから。

124 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:24:48
大物主(三輪明神)の実態はきわめて謎が多い。大神神社の由緒では、大国主神が自ら
の和魂(にきみたま)を大物主神として祀ったとあり、知っての通り、大国主は出雲大社の
主祭神である。大和ー出雲の関係を考えるうえで非常に興味深い部分であり、畿内説の俺
としては邪馬台国建国の謎を解く一つの鍵となると考えている。

こんなの常識〜〜。

125 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 05:57:59
>>122
卑弥弓呼は武埴安彦命ではありません。京都府木津川市にある湧出宮と呼ばれる
伎座天乃夫岐賣(わきにますあめのふきめ)神社の由緒書きによると
崇神天皇の御代に天皇の庶兄で当地山城地方を任せられていた武埴安彦命の軍が
大和朝廷軍と戦い敗北して安彦は非業の最期を遂げた。と書いてあります。
武埴安彦命は記・紀に書いてある崇神天皇の叔父ではなく庶兄で卑弥呼崩御の
後に男王になって内乱状態にしてしまった人物です。

126 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 06:29:00
淡路市で弥生時代では国内最大の鉄器工房発見!
九州説にとどめの一撃? てかもう死んでるか・・


127 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 07:07:38
>>126
国内最大規模の鉄器工房跡見つかる 淡路・垣内遺跡
1月22日22時35分配信 産経新聞


 国内最古級の鍛冶工房跡の「垣内(かいと)遺跡」(兵庫県淡路市)で弥生時代後期
の大型鉄製品が出土し、同市教委が22日、発表した。工房として使った竪穴建物跡も
新たに8棟出土し、これまで発見された2棟を加え同時期の鍛冶工房跡としては全国で
最大規模という。

日本列島で政治の中心が九州北部から近畿へ移る時期とも重なっており、今後、遺跡の
性格が大きな注目を集めそうだ。

 大型鉄製品(長さ20センチ、幅5センチ、厚さ3センチ、重さ564グラム)は同
遺跡東端の竪穴建物跡(直径9・7メートル)で出土。弥生時代後期(西暦50〜220年ごろ)
の鉄器とみられる。全体がさびており、朝鮮半島か中国から持ち込まれたと考えられる。

 また、竪穴建物跡は円形9棟、方形2棟が出土。このうち円形7棟と方形1棟では、
床面の土が強い熱で赤く焼けており、鍛冶工房の炉跡と確認された。建物跡からは鉄鏃
鉄板の裁断片など鉄製品45点をはじめ、石鎚31点、鉄床(かなとこ)石なども見つかった。

 村上恭通・東アジア古代鉄文化研究センター長(愛媛大教授)は「鍛冶遺構がこれほど
密集している例は他にない。弥生時代の鍛冶の実態が分かる最東端の資料」としている。


128 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 08:11:19
やっぱり、大和朝廷の起源は淡路か。そうだと思ったよ。
イザナミ・イザナギの国産みも淡路からだし、
モモソヒメの祖父も淡路出身だ。

129 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 08:29:25
近畿地方では珍しいから報道されたんだろう。
弥生後期の鉄器は、当然、九州が多い。その中でも熊本県が一番。

村上教授は、鍛冶遺跡をTからWに分類しているらしいが、その中で最も
レベルの高いTの鍛冶遺跡が熊本県にはたくさんある。

45点の鉄器が見つかったといっているが、阿蘇の小野原遺跡からは1200点以上
の鉄器が出ている。そのほかにも西弥護免遺跡は、大量の鉄器が出たことで
知られているし、大量の鉄滓が出土し、精錬鍛冶の行われていたことが
確認された遺跡もある。

九州の場合は、考古学的な報道はあまりされない。逆に、近畿地方の場合は
報道され過ぎる傾向がある。

130 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 08:35:16
>>129

もう、あきらめろよ。



131 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 13:37:32
>>72の説では先発の渡来人が既に九州を制圧して国を作っていた為
後発の渡来人が水田を作れる土地を求めて渡り歩くうちに大和で国を興した
その後大陸との交易の旨味を求めて瀬戸内の国と連合して九州を制圧し大宰府のようなものを置いた
卑弥呼は大和に辿り着いた長を継いだ娘と言う事になっている

全体的には皇室の系統の事についての内容

132 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 14:34:16
>>131
( ´д )ヒソ(´д`)ヒソ( д` )やだー変態中国人よ〜。

133 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/23(金) 17:53:45
>>124
>大国主神が自らの和魂(にきみたま)を大物主神として祀った。
そのとおり、旧事記より 孝昭元年7月
是の月、大物主大神(オホモノヌシノオホンガミ)出現し、乃ち天皇に奏して曰く。
我れ神代より已来(このか)た、三諸山(ミムロヤマ)に在(あり)て、 国家を衛護(ゑいご)すること既に久しかりぬ。
而(しか)るに、太祖天皇、文武の徳ありと雖ども、尚を未だ知らざる所ろありけり。能(よ)く天祖諸神を祭 れども、未だ吾が廟を建てざるなり。

大物主本人が孝昭に初代大物主の社を作らせて祀らせた。
この時、暦も大物主に分与=古事記の暦。
崇神5,6年の凶作時、大物主は、其の治国を崇神に譲り、出雲(親の国、親=スサノオ)に入る。
「孝昭は、大物主の社を造った。」と「崇神は、大物主の宮を造った。」の違いがある。
社と宮を混同しない事。簡単に言うと、人=神、神=人の時代
社=死んだ神を祀る処。 宮=生きている神の住まい。


134 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 19:19:50
>>133
出雲とマキ向周辺の関係については、散発的ではあるが同一地名あるいゆかりある神社が
見られ、オオタタネコが三輪君族の始祖といわれていることからも、きわめて興味深いところ。

>>127
この発見があってもなお、鉄出土の総量で北九州の優位は動かない。ただし、弥生中期の
近畿は北九州に比して副葬の習慣自体が未発達で、鉄器はすり減ったりすれば鋳つぶして
最利用していたと考えられ、割り引いて考えなくてはならない。この遺跡にしても、詳しくは見て
ないが、砂鉄精錬跡がなければ、そのような再利用センターである可能性もある。

『魏志』東夷伝・韓条には、「この国(韓)は鉄を産し、韓・?・倭それぞれここから鉄を入手している」
という一文があり、この「倭」は北九州であろうと俺は推測している。そして鉄入手ルートを
めぐって北九州ー瀬戸内・畿内連合との争いとなり、最終的には畿内の邪馬台国が北九州を
制圧したと俺は見ている。根拠としては、弥生最終末期、北九州に畿内式の土器が流入したこと、
マキ向型前方後円墳が造られ始めたこと。

こんなの常識〜〜。



135 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 19:45:05
大国主神とは何者?強そう


136 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 19:48:44
>>134

オオクニヌシが出雲の神になったのは、奈良時代からだよ。
出雲を重要視しすぎるのは禁物だ。既成概念に惑わされなさんな。

ttp://www.izumo-d.org/history/gosaijin.htm

>『丹波国風土記』によれば、「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」と記します。
よって当宮に古来より元出雲の信仰があります。

137 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 19:54:38
島根の出雲大社は、オオクニヌシを勧請する前は「杵築大社」だった。

それ以前の出雲とは、丹波の出雲大神宮を指していた。
日本書紀の崇神紀にある出雲大神宮は、丹波の出雲大神宮と読める。

138 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 20:15:10
>>136
それは金輪造営の出雲大社のこと。俺が気にしているのは大きく3点。
@紀記にオオクニヌシの国譲り神話から、スサノオにかけて、なぜあれほど出雲のことが
 大量に記載されているのか。単に後代の大和朝廷の出雲征伐が時代を下げて書かれて
 いるだけとは思えない。

A島根県「物部神社」に見る、古代出雲周辺地域と物部氏の関連性。

Bマキ向遺跡辻地区で発掘された柵で囲まれた、正しく西面する妻入りの掘立柱建物と
 付随建物。この「妻入り」の部分(伊勢神宮等は平入り)

139 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 20:45:45
三種の神器のひとつ八坂瓊曲玉は元々、京都府亀岡市にあった物らしい。
元出雲と言われている出雲大神宮も亀岡市にあるのだが関係あるのか?

140 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 20:59:11
>>138

物部氏を過大評価する理由を聞きたい。

鳥越憲三郎の信奉者か?
鳥越説をパクって九州説を説いた安本信者か?
調子に乗って物部氏をマンセーした関ファンか?

まず、出雲と物部氏の関係に注目する根拠を教えてくれ。

141 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/23(金) 22:02:46
崇神六十年秋七月,丙申朔己酉,詔群臣曰:「武日照命,
一云,武夷鳥.又云,天夷鳥.從天將來神寶,藏于出雲大神宮.是欲見焉.」
出雲大神宮=出雲振根の居所=旧大物主

この時点で崇神は、畿内を中心とする本土の大王。



142 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/23(金) 22:12:58
垂仁3年 仍詔天日槍曰:「播磨國肉粟邑,淡路島出淺邑,是二邑汝任意居之.」
天日槍の宝を淡路島出淺邑に神社を建てて奉納。
天日槍=任那初代王の兄で後のタジマモリの先祖
崇神末年以降毎年のように任那より鉄の朝貢がある。


143 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 22:15:38
九州の鉄器の古いのって何時ぐらいのからだっけ?


144 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 23:03:51
>>143
弥生前期末(前200年頃)北九州での鋳造鉄器片の再利用が多いな。
>>140
スレをずっと読んでもらえばわかるが、俺は畿内説で考古学派。
石上氏等中央の物部氏族はある程度素性がわかるが、地方派遣される傍系の物部氏
が物部氏祖神の饒速日命(ニギハヤヒ)との関係で気になる。説明してもよいがあまりに
スレ違いの内容になるので自粛。

「物部神社」島根県大田市。主神は饒速日命。出雲勢力に対する鎮めとして創建されたとする説
がある。素戔嗚尊(スサノオ)は息子、娘とともに新羅から出雲へと渡るが、その上陸地点は大田
市の海岸ではないかとする説がある。

こんなの常識〜〜。










145 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 02:20:56
>>134
鉄器は、「畿内の鉄だけリサイクル〜♪」っていう説だね。
だから、「九州で畿内の10倍以上出土していても、九州優位じゃあないんだよ。」ってことね。


村上はそんなのは論外って言っているようだが。

てゆうか、その説の学者って出土量の格差を隠すような人柄の人なのよね。


146 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 02:33:33
>>112
椿井大塚山を3C末頃にすると、三角縁のデザインの変化や表現方法の変化の
6〜7割がこの時点で出ていることになるっていう難点があるな。

イ方製の△の末期が400年前後になるっていう定説を前提にすると、「空白の100年」が生じる。

デザインや表現方法の変化は、年代遡上が主流になってからは黙殺ってのもあれだ。
プライドを捨てた学者が多すぎだ。

147 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 04:30:13
学者のプライドなどもともとあってないようなもの。これについては言及したくないが、ほと
んど確かな根拠もなく、小林行雄氏の後世古墳の年代比定やら、鏡の伝世理論やらによって
古墳時代の開始が4世紀となってしまい、それに合わせていろいろな理論が整えられてし
まった感があり、実は疑念を持つ研究者は大勢いたが、皆口がない状態になってしまった。
1989年の氏の死後、やっと自由にものが言える状態になってきたわけだ。


俺は畿内説にもかかわらず、紀年鏡は実年代かつ国産というやや異端の立場をとっており
表現形式の分類について146の言いたいことはわからないわけではない。ただ、椿井大塚山
が箸墓の2/3規格であるという説も認めており、1/3、1/6規格等の諸古墳との副葬品の
比較を見てもそれらが前期古墳であるのは間違いないと考えている。

こんなの常識〜〜というか、この内容はまずいので考古スレでやろう。



148 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 04:42:14
>>144
>素戔嗚尊(スサノオ)は息子、娘とともに新羅から出雲へと渡るが
???


149 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 07:34:57
>>144

君は畿内説としてはまともな人間だが、

>出雲勢力に対する鎮めとして創建されたとする説がある。

トンデモ説の受け売りが酷い。
きちんと説明してみろよ。

150 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 08:31:17
>>144
>俺は畿内説で考古学派。
考古学派というのは、倭人伝の行程は一切考えないのか?
考えるんならば、どう考えてるのかな?

151 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 13:45:27
まあいろいろな説を紹介しているだけだが。ただ物部神社は、この他、富山に1、新潟3
山梨1、名古屋に1。大和朝廷の警戒する地域にあるといってもよく、主流ではない物部氏
の武人が派遣されていた可能性はある。ただし、この手のことは考古学と違って裏付けを
持って書いているわけではないので批判はどうぞ。

>>150
他スレでは、倭人伝や後漢書東夷伝の記述をめぐってすったもんだしているようだが、卑弥呼
は二人いたとか、共立したときすでに婆さんだったとか、共立は魏の時代に入ってからとか、
70〜80年倭国乱が続いていたとか、まず違うだろうということを主張するやつがいても、完全
否定することはできない。文献とはそういうもの。

152 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 15:51:06
>>151

物部神社が出雲だけにあるわけではない、と知ってて、
物部氏が出雲「だけ」を押さえていたような書き方は誤解をまねくぞ。

もとネタは鳥越憲三郎の物部東遷説だろうが、あれは根拠のない空想だ。
葛城王朝説の前フリみたいなもので、
葛城王朝が事実で無いこと(物部東遷説は空想)は君ならわかるだろ。


153 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 16:55:53
>>147
小林行雄は資料を独占して人に見せなかったから、反論できなかったのであり、
他人の言論を圧殺したわけではないだろ。

椿井大塚山の報告書は、ほんの数人にしか配られておらず、椿井大塚山の鏡も
他の学者は現物を確認できなかった。ゆえに、論文を書ける資料を有していたのは
事実上小林行雄だけだった。

この状況が小林行雄が亡くなった89年まで30数年続いたってのが、問題だろ。
その間に専門学校卒業の小林は京大教授にまで上りつめた。

154 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 17:06:35
>>147
三角縁神獣鏡の紀年鏡は、三角縁の表現の変遷のなかでは
半ばから後半期に位置するから、紀年鏡を国産・実年代とすると、
表現の変遷の大半が239年と240年に生じたってことになる。

つまり、1〜2年の短期間に数千枚の三角縁を製造して、一括保管して
少しずつ配ったってことになるが、さすがにこれは有り得んだろ。

椿井大塚山も箸墓も4世紀後半にすれば、問題は解決する。


155 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/24(土) 17:42:56
>>154
100年も後にすると、魏が滅んで約100年 有り難味があるだろうか?
266年イヨの朝貢以前位にしておけば?

>椿井大塚山も箸墓も4世紀後半にすれば、問題は解決する。
ホケノ山古墳が240年と出ている、そうすると箸墓までに100年の空白。
問題は大きくなるだけ。

書紀の編纂方法に、ある出来事の最初に起きた時だけ記事にし、それ以降同じ様な
出来事に対しては、触れない。と言うのがある。
古墳造営=モモソ姫より
任那の朝貢=崇神末より
埴輪=垂仁中期より
大陸への遣使=垂仁末より
これらの出来事は、その後も続くが何時終了に成ったか書かれていない。

大和の古墳は、3世紀初頭より。よってモモソ姫の古墳は3世紀初頭に探すべき。


156 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 17:56:57
>>155
ホケノ山古墳を240年頃とするまともな根拠など無いでしょう。
年輪年代を今も信奉している人がいるのですか?

箸墓が4世紀後半となれば、同じ布留式のホケノ山も4世紀後半になります。


157 :ローガン:2009/01/24(土) 18:19:12
>>150

>考古学派というのは、倭人伝の行程は一切考えないのか?
> 考えるんならば、どう考えてるのかな?

横からですが、三雲は楽浪との交流が盛んな様子が出土する土器から見えますね。
半島交流の中心地だったのでしょう。物流に適さないような大型の土器もあり、楽浪人の居住地だった…
交流センター機能を持ったこの辺りが伊都国でしょう。 しかし倭人伝の記述にしたがえば、背振山地の北側は行程にありません。
よって倭人伝の地理認識に錯誤があると考えるべきではないでしょうか?
(楽浪土器については考古学のおやつを参考にしました)

158 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/24(土) 18:27:59
古墳の年代
http://www.asuka-tobira.com/kofun/kofun.html#shinwa



159 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 18:46:15
>>154-156
一方は考古学的なことで箸墓の年代について言ってるけど
一方はモモソ姫伝承のある書紀から年代言ってるんだから
ぜんぜん議論が噛みあってない印象。
おんなじ調子でどこまでやっても平行線だろ。w

聞いておきたいのは考古学派の>>156にだけど
箸墓とホケノ山が4世紀後半ってのは
どういう論証すると導き出すことができるの?
年輪年代も書紀も使わないとなると
なんにも年代の取っ掛かりがなさそうに思えるけど。

160 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 18:59:00
ホケノ山が4世紀後半というのはムリもいいところ。マキ向遺跡自体、4世紀中頃にはすで
に衰退期に入っている。年輪年代を信じないのは勝手だが、木棺の破片のC14年代測定法
でも120年を中心に75〜215年という数値が出ている。(アメリカの専門機関)自然科学的手法
はまだまだゲテモノ扱する人がいるようだが、もう10年もするとデータが積み重なって強固なも
のになる。

土器一つとっても二重口縁壺20ケ以上が石囲い内に整然と並べられ、これは庄内式でも3
紀前半かそれ以前の古いものである。まあ、九州説の人は画紋帯神獣鏡などの年代観など
も否定するだろうが、少し考古学をかじれば4C後半がどれだけムリかわかるだろう。マキ向
石塚やホケノ山が4Cなら、「マキ向型前方後円墳」という言葉の意味がなくなり、前方後円墳
は津古生掛古墳など、九州で発生したということになる。そういう認識なら、とても話はできない。

京大系は小林ラインを否定すると職さえなかった。残念なことだが。

こんなの常識だぞ、マジで。

161 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 19:26:35
箸墓が4世紀後半とかいうのは規格君

162 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 19:29:54
>>160
年輪年代を信じるのかな?その根拠は光谷さんの人柄ですか?
科学的な実証を何一つ持たない結論の宣告を受け入れるのは宗教ですね。

C14は、年代の確実な遺物(例えば、6〜10世紀のもの)で正確性が確認されたという
前提すらないよね。
しかも、木材の伐採から使用までの間隔の問題もある。
さらにアメリカの調査では4C初頭とされた試料もあるのでは?まあ、どうでもいいかww

年代遡上説には確実な年代の根拠なんてないんだよねえ。

163 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 19:59:24
>>162
年輪年代は君は無視して構わんから
とにかく箸墓とホケノ山が4世紀後半であることを
君のやり方で論証してくれよ


164 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 20:03:33
>>162
だったら4C後半の根拠を言ってみろよ。俺らは九州の初期前方後円墳は3C末から4C
初頭と考えている。明らかにマキ向から伝播したものだと。お前の説なら前方後円墳は
九州で発生したことになるんで、そう考えるんだったら論文を書いて発表してくれ。基地外
あつかいされるぞ。

だいたい147で書いた鏡の表現形式編年にしても、古墳発生時期が古くずれれば、それ
だけ各期の期間が延びるだけであり、多少ご都合主義ではあるが不自然ではない。それに
160で書いたが、石囲木槨内で発見されたのは庄内式最古のもの、布留式ではない。
もっと勉強してからしゃべれよ。お前と違って知識のあるやつもいるんだからな。

>>161
混乱があるようだが、134、138、144、147、151は俺が書いている。それ以前のもある
が。俺は(〜と思う、〜と考える、〜だろう、〜の可能性がある)とできるだけ書くようにして
いる。根拠もなく自説だけを主張するのは、自分の頭の悪さをさらけ出しているだけだぞ。

こんなの常識〜〜。

165 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 20:08:57
「箸墓は4C後半だ!」といくら叫んでも宗教家のご託宣にしか聞こえない。
ここは学問板だ。早く論拠を言え。

166 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 21:20:31
いやつい興奮してしまった。他スレでも話題になったが、2005年発掘の西都原81号古墳
は後円部の長さ約33m。前方部が短くばちの形に開いた前方後円墳であり、宮崎大学の調
査で国内最古級、3世紀前半〜中頃と発表されている。

まあ津古生掛古墳や祇園山古墳なども発見当時は、3C半ばといわれたいたが、今では3C
末に変わってきているんでどうなるかはわからないが、(発掘した教育委員会が時代を下げた)
これらはマキ向式(ホタテ貝式)であり、30〜40m級。ホケノ山、勝山、矢塚、東田大塚など
マキ向の100m旧古墳はこれらに先立つものと俺は考えており、260〜300年頃の九州ー
畿内の関係を考える上できわめて重要と思っている。

考古板のようにしてしまってスレ主には申し訳ない。邪馬台国の話題を振ってくれ。
こんなの常識〜〜。

167 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 21:32:29
>>166
>まあ津古生掛古墳や祇園山古墳なども発見当時は、3C半ばといわれたいたが、
>今では3C末に変わってきているんでどうなるかはわからないが、(発掘した教育
>委員会が時代を下げた)これらはマキ向式(ホタテ貝式)であり、30〜40m級。

>こんなの常識〜〜。


祇園山古墳は方墳である。
マキ向式(ホタテ貝式)ではない。
偉そうに言うな。恥を知れ。

168 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 22:15:59
南のかた投馬國に至る。水行二十日。官を彌彌と日い、副を彌彌那利と日う。
とあるけど、飛鳥に耳成って地名があるけど関連あるのかな?

169 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 23:33:10
>>167
スマソ、赤塚古墳と間違えてた。

170 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 23:44:49
>>168
耳成は橿原と桜井の狭間にある 大和三山の耳成山辺りの地名ですね。
現在はミミナシと読むんですけどね

171 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 00:07:41
>>161

> 箸墓が4世紀後半とかいうのは規格君



規格君とサイキバ君w

同程度???

172 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 01:37:39
>>164
土器はちょっと違うのでは?

「小形丸底土器は北壁に近い床面直上より出土している。現状で少なくとも3個体が
確認でき・・これら3点の土器は、布留式土器の指標とされる小形精製土器に酷似する。」
『ホケノ山古墳調査概報』45頁より。

そもそもあの壷を庄内式最古っていうのもどうかな?
周濠から布留0がたくさん出た石塚さえも庄内にして、ホケノもこれに続けとばかりに
引き上げようっていう方向性もあるみたいだから、土器に関してはドキドキハラハラの
展開も期待しなくちゃならないのかなww


173 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 02:00:51
>>164
>鏡の表現形式編年にしても、古墳発生時期が古くずれれば、それ
>だけ各期の期間が延びるだけであり、

そりゃ違う。三角縁の表現の変化を6段階に分けるとした場合、椿井大塚山を290頃に
する編年観の説では、T〜W位までが280〜290頃の古墳で出土する。

つまり、初期に大量生産したのを、一括管理して100年位ちびちび配布して、4世紀末頃に
在庫切れになったので、生産を再開したってことになる。

しかし、こんな「特鋳説」レベルのトンデモを主張する学者はおるまい。
対して、初期の大量生産の時期を4世紀後半にしたら、4C末以降にスムーズにつながる。

こんな感じでデザインや表現の変遷の議論は年代遡上の障害物になることが明白だから、
この議論は無視するってのが彼らの主流だわな。


174 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 05:31:06
箸墓・ホケノ山=4世紀後半説の人、論証を述べてくれ

175 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 07:30:31
>>174
上、上www

176 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 11:10:02

>俺らは九州の初期前方後円墳は3C末から4C初頭と考えている。
>明らかにマキ向から伝播したものだと。
日向の西都原81や持田45はバチ型、ほかに手鏡式はいくらでもある。
箸墓や桜井茶臼山と同じ形だ。日向→大和ではなく、纏向→日向だといえる
根拠は何かあるかな? それにどちらが先かはともかく、大和の古墳が3世
紀中葉ならば日向の古墳も同様にさかのぼる可能性があると思うが?

それとも、>>164は>166で、訂正したってことか?

177 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/25(日) 11:20:49
宇佐八幡も治り神だった住吉との関係が気になる。

宇佐八幡の文化は古来の神道文化としては極めて珍しく、治病 繁栄 卜占 戦勝等々在来の神祇、
http://www.e-obs.com/heo/heo50.htm


178 :ローガン:2009/01/25(日) 11:33:52
>>173
いま、手元に資料が無いんだけと、新納泉氏の△変遷によれば、縁の角度の緩い紀年鏡グループは古いタイプだとしてましたね。

又、記憶で書きますが鈴木勉氏によれば、△のひび割れ線が無いものと多いものの違いに着目し、ひび割れの発生は製造工程の違いだと。
この違いが内区表現の違いと関連しており「別工房での製作」としています。
つまり内区表現の違いを指して「時間経過による抽象化」とは言い切れない。
思うに…洛陽で鏡が作れない間、呉の領域に生産を頼っていたので、半肉彫鏡が流行した。尚方復活後、集まった工人逹で
後漢代からの半肉彫り技術を継承している江南の人逹と、洛陽炎上により作鏡していなかった魏の工人逹、両者の技術の巧拙による内区表現の違いかと。

179 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 12:31:13
宮崎大学の奴等だって九州説でも何でもないんだろ
それとも宮崎説なのかw

180 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 13:32:45
>>175
>上、上www

意味不明。
三角縁神獣鏡がどうのこうのと言っている>>173は箸墓・ホケノ山=4世紀後半説と関係ない。
その上の方のレスを見ても箸墓・ホケノ山=4世紀後半を、筋道立てて論証した文章は無い。

箸墓は宮内庁管理の古墳である。主体部の調査はなされていない。
副葬品に三角縁神獣鏡が有るのか無いのか、ましてや果たして鏡が副葬されていたのかなど、全く何も判っていない。
ホケノ山古墳は詳しい発掘調査があった。しかし三角縁神獣鏡は1枚も無かった。
有ったのは画文帯神獣鏡1面と内行花文鏡片・半肉彫表現の鏡片若干だった。

箸墓・ホケノ山=4世紀後半などというのは勝手な思い付きではないのか。
違うと言うのであれば、確かな論拠でそれぞれ4世紀後半とする理由を示してもらわないと、誰も納得しない。

181 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 15:05:22
誰か>>72の説に問題があるなら教えて!

182 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 16:58:47
>>178
1、△の紀年鏡は全部同向式である。
2、同向式は550面以上出土している△のなかでも10数枚しか出土していない。
3、画文帯の紀年鏡も全部同向式で、△はその内区の神獣をパッチワークしている。
4、画文帯の同向式は、中国にはない外区デザインの踏み返しが約30枚日本で出土している。
5、△の紀年鏡は、△の外区の文様の変遷の中では後半以降に位置づけられる。

  以上から、以下の結論となる。
 A、これらの紀年鏡の製造元は同一集団である。
 B、これらの紀年鏡は、ほぼ同時期に日本で製造された。
 C、その時期は、△の製造期間の後半期にあたる。
 D、その製造集団は、△の製造集団の主流ではない(同向式は10数枚だけなので)。

183 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 17:03:00
>>180
>>154,>>173は規格君

184 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 19:34:16
>>180
>箸墓・ホケノ山=4世紀後半などというのは勝手な思い付きではないのか。

ああ、それね…

そいつはこの板の邪馬台国関連スレにいる「東遷説論者」もしくは「安本信者」だよw

三世紀にあった九州邪馬台国から神武が東征して大和入り。
欠史八代を経て纏向を建てた…

このシナリオに沿うようにすると
「箸墓・ホケノ山=4世紀後半」
という話にならざるを得ないw
(銅鏡の話もその線に沿っている)

ちなみに目下「規格君」とも呼ばれているみたいだが
こいつに言わせると伝祟神陵も現在「纏向型」と呼ばれている古墳も
同一規格でほぼ同時に造られたと言う事らしいwww


まあ今後も定期的に遭遇すると思うので記憶に留めておくべしwwwwwwwwwww

185 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 20:06:10
他スレで三角縁の鈕孔形状の話が出ていたが
ついでに福永センセイの研究によると…

三角縁と全く同一の銘文を持つ中国鏡と言うのがわりと最近に出てきていて

「吾作明鏡甚獨奇保子宜孫富無?」

と言う銘文が
静岡県磐田市松林山古墳出土の三角縁二神二獣鏡と
中国河北省易県燕下都出土の方格規矩鳥文鏡で完全一致。

少なくとも、画文の内区に国内で適当にデザインした外区をくっつけた
…なんて単純なお話ではなさそうwww






186 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/25(日) 20:58:09
>>181 >>72にコメントするのは、小説と現実の誤差を割り出すようなもの
支持出来る所もあるが、出来ない所もある。
もっと絞り込めば、コメントの仕様もあるが。


187 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 21:42:09
>>181
倭人伝がそのままでは読めないと思っているところが間違いだ。

188 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 21:48:53
>>184
そういうアナタは「自演君」wwwwww


189 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 21:57:58
>>180
つまり、箸墓の年代はわからないってこと?

190 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 23:27:29
そもそもだね。古代から現在まで絶大なカリスマを誇る日美子ちゃんのだね、
墓がそのまんまの状態で置かれているかね?墓泥棒とか心配じゃね?
誰にもわからない様にしてるとか、ゴリちゃんの子孫とかが墓の上を住宅地
にしちゃったり飛行場にしちゃってるんじゃねぇ?
箸墓なんか有り得ないと思うよ。ジョーンズ博士になれないよこんなんじゃ。


191 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 00:40:42
>>153
東大寺山古墳もそろそろ報告書を出して欲しいところだ。
中平年銘の鉄剣だけは去年でたが、本体はいつになることやら・・・
他の剣との違いがないことを公式に認めるのが、そんなにイヤなのか?


192 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 15:29:09
>>190
変な人キター

193 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 23:37:40
>>182 に続けて
この考えでは、紀年鏡は後世に偽年号を入れたこととなるが、何ゆえに同向式に偽年号を
入れたのかが、さらに問題となる。

A説、同向式だけを製造していた亜流の製造集団であった。
B説、中心を上とする他の神獣鏡とは図面配置が根本的に異なる同向式に偽年号を
   入れて年号の信憑性を高めようとした。

A説は、紀年鏡を出土する古墳が地方に多いことが根拠となる。
本流の製造集団であれば、紀年鏡の数はもっと多かったはずとも言える。
画文帯の同向式は踏み返しであり、同向式を好んで複製していた傾向も窺われる。

これに対しては、他のデザインのパッチワークも容易であったとの批判が可能である。
また、画文帯の同向式は出土する古墳の年代幅が広く、△の同向式もわずかなので、
同向式だけを製造していたとすると、製造量が少なくなりすぎる。
画文帯の同向式は中央でも出土している。

B説は、△では極端に少なく、他とは図案が根本的に異なる同向式を選択して偽年号を
入れたことの説明ができる。
しかし、画文帯の同向式は中国の平縁画像鏡からのパッチワークであり、ほかの画文帯と
異なり舶載ではないので、これを選択して舶載品と偽装しようとしたことの説明が難しい。
ただ、他の画文帯も大半は日本での踏み返しではある。

194 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/27(火) 18:33:31
景初4年2月=正始元年1月になる
5月丙午正陽の 吉祥句を本物にする為には、景初4年ならば、本物
正始元年5月丙午正陽は、存在しない日付。


195 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 19:58:21
>>193 さらに続けて、考えると・・・

紀年鏡は、△は4面、画文帯が2面、方格規矩が2面、盤龍鏡が2面、
平縁神獣鏡が2面ある。

まず、同位対比の近似性からはこれら全部が日本製の可能性が高い。
実際にも、全部が紀年よりもかなり新しい時代の古墳等から出土している。
九州からの出土もあるので、たまたま紀年鏡だけ伝世される偶然の生じる
可能性は限りなくゼロに近い。
ゆえに、これらは古墳時代開始後に偽年号を入れたと結論付けられる。

そこで、偽年号を入れる鏡をいかに選択したかを検討すると。
  A説、たまたま製造集団が原鏡を保有していたデザインを選択した。
  B説、古く見えるデザインを選択した。

△以外の紀年鏡の同位対比は、全ていずれかの△の紀年鏡と近似することから、
△が存在する時代にデザインが選択されたことは、明白である。
△の紀年鏡は△のなかでも極端に数の少ない同向式が選択されている。

ゆえに、B説が正しい。


196 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 20:32:28
>>195
>まず、同位対比の近似性からはこれら全部が日本製の可能性が高い。

同位対比なんかで鏡の生産地が決定できるわけがない。

貴君もここでは「可能性が高い」としているぐらいだから
大陸製、半島製の可能性がゼロとは考えてないわけだ。
そんなあやふやな前提で正しい結論が導き出せる筈がない。

197 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 22:32:01
>>195
>まず、同位対比の近似性からはこれら全部が日本製の可能性が高い。

はあ?
同位体の近似性???

一体その比較サンプルは何なんだ?

どういうデータで比較した上での結論なのかソースを出してみ。





198 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 22:43:02

そもそも「偽年号」と言っても中には呉の年号まであるのは説明がつかない。

(製作地はどこかは別にして)リアルタイムで作られた故のフライングとしか思えない景初四年と言うものまである。

まあこんな事は何回も繰り返して書かれているわけだが
>>195はそれに対する説明を言ったことがあるかな?

この件に関しては森浩一も相当に歯切れが悪かったがw








199 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 22:57:44
>>197
同位体は複数の機関が測定している。
新井宏が色々書いているものを読めばOK!
複数機関の測定誤差レベルの近似性やそれに近い近似性があれば、
同時または同時期の製造と言える。

>>198
景初4年は、それを製造した当時、「景初4年」と書かれた文献も日本に
あったと言うことだろう。
実際にも文献によって景初2年と3年の違いがある。景初4年の文献が過去に
無かったとは言えまい。

200 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 22:58:39
そもそも「同位体」云々のお話の最大の問題点はその比較サンプルにあると思うのだが…

「もし魏が朝貢してきた国に対し下賜品として銅鏡を作るなら
この成分の材料になる」
と言うものがあってこそはじめて比較に意味が出てくるのであって
後漢鏡と比較では意味がないだろう。

戦乱で銅鏡製作組織も壊滅し銅自体も不足。
呉地に頼らざるを得ない状況であったことは
>195の安本教狂信者も重々知っているはずだwww

実際、中国で出た「黄初」の年号を持つ紀年鏡は同向式・対置式の神獣鏡。
(王仲殊も華南で造られたとしている)





201 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 23:04:39
>>199
同位対比なんかで鏡の生産地は決定でないと言う>>197には反論しないのか

202 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 23:10:36
>>199
>同時または同時期の製造と言える

おい、こら、適当に誤魔化してるんじゃねえぞw

まず>>200で言ったように後漢鏡との比較は意味がない。

で、仮に間違いなく国産である銅鏡と成分比が一致したとて
その銅やら鉛やらが国産でなければ
同じ中国産出の材料で作られたという話になる。

(片方は銅鏡として日本に来て、もう片方はインゴットとして日本に来た)

『同位対比』なんて言葉を出せばなにやら科学的なテイストになると思ってねえか?www



203 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 23:32:58
>>199
>複数機関の測定誤差レベルの近似性やそれに近い近似性があれば、
>同時または同時期の製造と言える。

言えるわけがない。こいつは阿呆か。

いま仮にだ、測定された鏡を一つ失敬して、町工場で鋳潰してもらって
メダルか何かの銅製品を作ってもらってみたらいい。
同位体比は鋳潰す前も、2009年の新製品も、同じ値だ。

204 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 00:06:27
鋳潰されて、鏡になった銅鐸も多かったろうな。

205 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 00:19:56
ひょっとして…

>>193(いつもの東遷説論者)は同向式のデザイン自体が日本オリジナルと思っているのか?






206 :ローガン:2009/01/28(水) 00:32:22
>>199

> 新井宏が色々書いているものを読めばOK!

新井さんですか…
「理系の視点から・・・」とか云う本ありましたね。A式図、B式図がp.71に。 B式の異常鉛A領域の中に「韓国全州鉱山等の鉛」があります。
この領域内に朝鮮銅銭があり、全州鉛を含有している…。もっともな話です。
そして、同じ領域に椿井大塚山鏡があるため、 「全州鉱山等の韓国産のが添加使用されたと考えることが最も合理的な解釈である」(P.69)と書いていますね。
この朝鮮銅銭の鉛同位体の数値がp.56にあり、A式図におとすと、椿井鏡とは全く違います。違う鉛だと云う事ですかね?(笑)
新井さんは類似するB式のみに朝鮮銅銭をのせ、A式にはのせていません。

「科学的」でしょうか?w

207 :ローガン:2009/01/28(水) 00:54:01
>>194

唐松山さん。 こんなのはどうしましょう?
「赤烏元年五月廿五日丙午造作明竟百練清銅…」 (山梨狐塚)
「赤烏七年五月廿五日丙午時加日中造作明竟…」 (宝塚安倉)


208 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 02:02:13
>>200
よく分からんが、魏は朝貢してきた倭国の使者に大型の銅鏡を与えるために、
戦争していた呉に頼んで、数千枚の銅鏡を作ってもらったのね。
しかも、それは日本に与えるための特鋳だったから、中国からは一面も出ていないのね。

>>201
新井はこの部分はぼかしているね。私は銅は日本産だと考えていますが。
鉛は朝鮮産も一部あることは否定しないけど。

>>203
1個の銅鏡を鋳潰して、100%リサイクルで同じ大きさのもう一個の銅鏡を作るなんて、
今の最高レベルの技術でも無理ですよwww
だから、鋳潰して再生産するなら他の銅も加えるから、同位体比は変わっちゃいます。

というか、同じ大きさ、質量の同型の銅鏡にリサイクルっていう、想定もご都合主義ですね。
しかも、リサイクルの対象が完成品という前提も無理です。

209 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 02:05:31
>>206
銅のなかに含まれている鉛と、それとは別個の鉛原料を区別できていないような・・・

210 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 03:39:05
>>208
>戦争していた呉に頼んで、数千枚の銅鏡を作ってもらったのね。

 ド ア ホゥ !


漫画の横山三国志でも良いから読んで来いボケ!





211 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 15:31:48
>>208
だからね、
「三角縁神獣鏡」そのものは一枚も出土してないけど、
それと良く似ていて、これを元に作られたと思われる鏡なら
魏の領域からも出土してるわけ。
更に、確実に魏の時代だと分かる墓そのものが1つしか見つかってないんだから、
「中国にはない」と断定するのは焦りすぎている。
なんぼ国産と言う事にしたいとはいえ。

212 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 16:19:45

> 新井宏が色々書いているものを読めばOK!

あの本は、詭弁の匂いがぷんぷんする。



213 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 17:49:01
>>208
>しかも、それは日本に与えるための特鋳だったから、中国からは一面も出ていないのね。

当時の魏の状況から言えば朝貢してきた倭人の為に百枚の銅鏡を造ってやると言うのは
『 特鋳  』と言う事にならざるをえないだろうに…

そりゃ魏代の遺跡から神獣鏡以外のタイプの鏡が何百枚何千枚と出てきているのであれば
「中国から一枚も出てきていない」と言うのも意味があるだろうが…

つっても、どうせまた同じことを繰り返すんだろうな
「中国から一枚も出ていない!」と言うキャッチコピーをw

もう芸風がサイキバ君なみだなwwwwwwww

214 :213:2009/01/28(水) 18:00:00
で、結局、景初〜正始あたりの魏領域の銅鏡製作状況ってどうだったんだろう?
確かようやく生産が開始されたかどうかって微妙なところだったと聞いてるが…

魏と呉の蜜月(w)の期間は過ぎたものの
工人も材料も全て魏領域で揃えます…なんて単純な話じゃないと思うんだがw

東遷説論者はとにかく時代を下らせる為に
呉が滅亡以後でないと人や物の行き来はありえないとするわけだがwwwww

紀年鏡で言えば、右尚方銘がある中国出土のものは甘露5年(260)かららしいが…
(河北省高碑店 出土)

215 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 18:47:01
>>213
特鋳説って、頭の変な人にしか見えない。


216 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 18:58:09
>>215> 特鋳説って、頭の変な人にしか見えない。

理由は?

217 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 21:08:02
>>199
>景初4年の文献が過去に無かったとは言えまい。

まあ「無かった」と断言するなんてのは、それこそ「悪魔の証明」なわけで

確かに21世紀の日本で造られているラーメン丼鉢にも「乾隆」の年号があるっちゃあ、あるわけだがw

それでも「青龍」「景初」「正始」「赤烏」と年号も続く年数もバラバラじゃあ説得力が皆無。

仮に ” 謎の文献X ” があったとして、そこに何が書いてあったのか?
それぞれの年数に当時の日本にとって記念すべきイベント・慶事があったのか?
…っちゅう話だなwww


218 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 22:07:44
三角縁神獣鏡は、大切な、由緒ある鏡とはとても思えない。少なくとも、
そういう扱いを受けていない。

魔よけというか、その程度の扱いをされている。

倭王・卑弥呼が、魏の皇帝からもらった由緒ある鏡を、際限なく複製すると
いうのもちょっとおかしい。

畿内説の考古学者も、三角縁神獣鏡は、卑弥呼の鏡だと散々宣伝し、その理論を
組み立ててきたわけだから、今となってはちゃんと後始末をして欲しいものだ。
知らん顔して、今度は箸墓だ、今度は纏向だ、では困る。

219 :ローガン:2009/01/28(水) 22:55:22
>>218

> 畿内説の考古学者も、三角縁神獣鏡は、卑弥呼の鏡だと散々宣伝し、その理論を
> 組み立ててきたわけだから、今となってはちゃんと後始末をして欲しいものだ。
> 知らん顔して、今度は箸墓だ、今度は纏向だ、では困る。

だいたい、△がヒミコの鏡かどうか? なんて畿内説のなかでの議論でしょう…
貴方は畿内説支持でないのですね?
△がヒミコの鏡についての賛否に首を突っ込んで否定したところで畿内説以外のいろんな説の蓋然性が上がるものでもないでしょう。

220 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 23:00:33
大切な、由緒ある鏡って例えば?

221 :出土地不明:2009/01/28(水) 23:22:24
>>219
まあ、恨み節と云うとこかいな。

222 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 23:23:38
>>219
昔から、考古学的には畿内説と言ってきて、その柱が三角縁神獣鏡魏鏡説だった
わけだから。しかも、そうなると三角縁神獣鏡が日本に入ってきたのは、
西暦240年という事になる。
それを前提に理論は組み立てられた。

でも、違ったら、年代も異なることになる。
この辺がどうなるのだろうかというわけで。

223 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 23:31:50
>>218-219
石野博信氏の新刊本「邪馬台国の候補地 纏向遺跡」を読んだが、
三角縁神獣鏡はヒミコの鏡じゃないって書いてあったぞ。
だけど纏向遺跡は邪馬台国の最有力の候補地なんだってさ。

224 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 00:12:17
まあ三角縁が舶載だろうが国産だろうが年代が三世紀なら
畿内説にとって有力な傍証になることはあっても
マイナス材料にはならないw

製作地論争で国産としている者もその年代については
大方は3世紀なんじゃないのか?
少なくとも4世紀中頃なんて、あんまり聞かないんだが…w


「古墳時代は3世紀末か4世紀から」
と言う年代観の基たる小林理論は三角を舶載とした前提で成り立っていたわけで
それを否定しながら年代観だけはちゃっかり頂いているというのがこの板の九州説の連中www

無論、自前の根拠でそれを言うのなら構わないが
「昔は4世紀からと言う年代観だったのに
 畿内説の連中が勝手に遡上させている。
 ケシカラン!謝罪と賠(ry」
と言う怨み節だけだからなあwwwwwwwwwww

225 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 00:33:56
三角縁の国産大量鋳造は、鏡を愛した卑弥呼女王の徳を偲んで、
女王台与さまがお始めになられました。

226 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 00:38:34

トヨタン・・・・・・・・・・


227 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 00:51:55

イヨタン・・・・・・・・・・



228 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 01:29:52

ギュウタン・・・・・・・・・・

229 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 01:51:14
ピータン・・・・・・・・・・

230 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 02:27:25

プーチン・・・・・・・・・・



231 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 20:30:09
エリツィン・・・

232 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 21:39:35
卑弥呼は神功皇后だろ。

233 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 23:49:30
>>224
国産だと4世紀になる罠。
だから、周りからどう見られようが舶載といい続ける者がいる。

234 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 23:51:31
>>232
神功は夫仲哀がいるし子応神も産んでいるので、倭人伝の卑弥呼とは全然違う。
それに神功が実在とすれば4世紀後半の人だろう。
卑弥呼とも壹与とも重なり合わない。

235 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 00:06:12

イヨタン・・・・・・・・・・


236 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 00:25:11
まあ鈕孔形状や福永言うところの外周突線や銘文等々…

中国鏡の中では極めてレアな要素を持つものを半世紀も後の時代に日本で造ったと言うのもおかしな話ではあるw

だがしかし仮に製作地が中国であったとしても
それが果たして魏からの下賜品、所謂「卑弥呼の鏡」だったかどうかは分からないわなw

紀年鏡にしてもヤマト王権が一括して入手し分有されたものと考えるより
各地で独自に入手した可能性を考える方がリアリティありそうな気がするwwwwwwwwwww

237 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 12:31:08
結局の所銅鏡は主に日本製ということで決まりか
そういえば魏志倭人伝でも銅鏡あげたのは日本って感じで書いてあるもんな
騙されてたなあ

238 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 12:44:28
つまり、魏の年号を使いつつ、△鏡を生産してた大和が邪馬台国だったわけですな。


239 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 18:41:08
多分、正始4年としておみやげにしようとして間違えちゃったんだよ

240 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 20:04:51
                      
いつまで続くの、このクソスレ。

卑弥呼=モモソ姫、だろうが。





241 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 21:53:58
新井さんてふつうに在日だと思う

242 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/31(土) 10:42:26
>>207 「赤烏七年五月廿五日丙午時加日中造作明竟…」
赤烏七年五月廿五日は丙午日が無かったので5月に「加日」日数を加えて丙午とした。


243 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 11:35:06
>>237
まあ「主に」だけどな。
三角縁神獣鏡の源流が魏にあるのは
間違いない。
国産説?
ああ、中国で魏の時代と確実に分かる墓とかが1つしか出土してないことを良い事に
「ほらほら、無いでしょ!えっへん!」て騒いでるあれか。
将来見つかる可能性はあるし、現によく似た鏡なら見つかってるし。

244 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 11:51:12
■“邪馬台国”解明へ発掘 ── 有力候補の纒向遺跡

 奈良県桜井市教育委員会は30日、邪馬台国の有力候補地、纒向遺跡(3世紀初め−4世紀初め)成立の謎を解明するため、集落中心部とみられる場所の発掘調査を2月に始めると発表した。期間は約5年の予定。

 過去に神殿とみられる特殊な建物跡(3世紀初め−中ごろ)が出土した地点と周辺の約100メートル四方を発掘。市教委は「建物跡の東側に、巨大な中枢の建物の遺構が眠っている可能性がある」としている。
女王卑弥呼が君臨した時期と重なり、成果に注目が集まりそうだ。

 纒向遺跡は桜井市北部の南北1・5キロ、東西2キロの範囲に広がる巨大集落跡。過去160回調査しているが、発掘面積は遺跡全体の約5%で、不明な点が多い。

 九州から関東地方の土器も数多く出土していることから、一般的な集落とは異なり、広範囲から人が移動してきた「都市」との見方もある。
遺跡内には、卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳(3世紀後半)など最も初期の前方後円墳が点在している。
2009/01/30 17:30 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/200901/CN2009013001000669.html


245 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/31(土) 11:52:50
唐松山さん
曲学の徒さんの邪馬台国掲示板〜
No.5572〜5575を読まれたい。こいつは重要だな。

246 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 12:14:01
>No.5572 RE:踏査報告書から 投稿者:高田 久嗣 投稿日:2009/01/31(Sat) 11:28

曲学の徒様 その昔、橿原考古学研究所に末永博士という方がおられ日本航空写真文化社と
「日本史空から読む」という西日本の遺跡を空撮した写真集を出されました。昭和60年の事です。
バブル時代にはけっこう学校や専門学校に売れましたが、その後進展無く、会社は3億の負債を抱え、倒産しました。
写真はAー0版で非常に見やすいです。尚、在庫品は全て 橿研が関大の学生を使い、運ばせて今でも橿研で売っています。
(元社長は寄付したと聞いています。)
その次に網干教授という方がおられ、高松塚の被葬者は画像解析より忍壁親王と眼の前で認知されながらも、
とりまきの方々より発表は止められ、今でも、石棺の内部には文字が無いとされています。
(というより 今 現在 その文字の改ざんが我々の税金を使い行われています。)
高松塚の遺品が橿研から最近出てきましたが、丁寧に文字を消去した事でしょう。
何かと新技術を取り入れるのには、反発がありますが、経済的に弱体化している今が発掘のチャンスです。
私達も自力で発掘しますので、がんばって下さい。
  高田 久嗣




247 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 12:18:50
>No.5573 RE:踏査報告書から 投稿者:太国 投稿日:2009/01/31(Sat) 11:38

文字を消すなど懲戒処分相当だと想うが・・・?
何て書いてあったのかな? 「忍壁親王」かい??

>No.5574 RE:踏査報告書から 投稿者:太国 投稿日:2009/01/31(Sat) 11:41

驚いたな。高松塚が「忍壁親王」ならば、池田仁三氏の
サイトの話が真だということのなる。スゴイね。
重代な情報だぞ。

>No.5575 RE:踏査報告書から 投稿者:太国 投稿日:2009/01/31(Sat) 11:48

重大を重代と間違えた。失礼。
やはり、あのサイトは単にウソで片付けるのはまだ〜
早いぞ。真偽を保留して来たが、一見読んで大うそだと
決めかけずに、用心を捨てずに秤にかけよう。勿論
間違いもありうるが? なんとも? これからだ。

あの団体はどうか分からんが、無いを期待してるが、
なんらかの古代研究調査で真を隠匿するそういう文字の
故意の削除とかのことをやってる可能性はありうるか?

ならば、これは大事だ。

248 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 14:43:06
>>243
>中国で魏の時代と確実に分かる墓とかが1つしか出土してないことを良い事に

それは湖北省鄂城五里?14号墓でいいのかな?

もしそこなら黄始2年(221)の紀年鏡が出ていて
それが『 同行式神獣鏡 』らしいけどw

九州説論者は特に安本センセイの薫陶を受けているような奴の言い分としては…

「魏晋代に流通した鏡は後漢と同じく(九州から多く出土している)方格規矩や内行花紋
卑弥呼が貰ったとすればそれらの可能性が大きい」

ってなもんだろうけど実際、数少ない中国出土の鏡を見れば
むしろそれは「神獣鏡」である蓋然性が高いと見るが自然だと思うんだがwww

>いつもの東遷説の人

もし魏晋代の鏡が後漢と変わらないという事を示すデータがあれば教えてほしいわけだが…
てか、中国で出ている鏡についてどれくらい把握しているの?





249 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 16:51:21
>>243 = >>248  自演君ですね。

魏だろうが、漢だろうが、晋だろうが、中国からは、三角縁神獣鏡は
1面も出ていない。一方、日本では550面以上出土している・・・・・


もう諦めようよ。国産説で完全決着済みだろ。


あとは、奴らが550対0の敗北をいつ認めるかだけが、争点。

250 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 17:08:06
問題は国産だからって言っても、邪馬台国の鏡だということは変わらんことだね。

251 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 17:17:02
>>249
はあ?自演?
同じことを二度に分けるなんて面倒なことするかアホwww

「中国で一枚も出ていない」

と言う文言に脊髄反射で飛びついたはいいが
詰めが甘いというか全く考えてなくて
念仏のごとく繰り返すしか能の無くなった馬鹿の醜態w


そんなサイキバ君レベルのお話は世間じゃあ通用しないんだよw


252 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 17:18:32
三角縁神獣鏡が国産でも卑弥呼がもらった鏡かはわからない。


253 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 17:18:54
>>251  同意だな。
たとえ1000万対ゼロになろうとも、敗北を認めるなどあり得ない。
これは正義のための闘いであって事実など関係ない。


254 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/31(土) 17:21:31
△が国産ということは卑弥呼が大陸からもらった鏡でないという
ことになる。

255 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 17:45:42
国産かどうかは将来、鏡の製造遺跡の発掘で、おおよそ決着が着くだろうと思う。
それまではまだ結論を留保しておきたい。

こういう態度ではだめですか?

256 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 18:17:32
>>255
でも仮に国内で型が出てきたとしても
それが後期の国産と分類されているものだったら
決め手にならないんじゃね?

257 :ローガン:2009/01/31(土) 19:15:15
△が全て国産…
駱駝を何処で見たのだろう? オ、オーパーツか!?

258 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 19:30:43
何枚かは中国から貰ってそれを元に日本人が作ったんじゃね?
日本人はものづくりは得意だし

259 :ローガン:2009/01/31(土) 20:16:23
4Cの国産とすると、「買竟者富」…その頃国内では貨幣が流通するような経済であったかw

260 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/31(土) 21:23:11
陵墓造るんだって、いまなら莫大な金がかかる。当時陵墓はいくら
でも出来ている。

261 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/31(土) 21:26:08
△が大陸から出てないということは、国産と観るのが相当。

262 :ローガン:2009/01/31(土) 21:31:12
>>260
ははは、ごめん太国さん。 酔っ払いです。
ああ〜 古墳の労務費は現金なのね〜

263 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/31(土) 21:33:54
もっと古くか? 貨泉とかいうのが出土しているという。あり
うるかも知れないが・・・?

264 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 21:40:26
太国さんよ、

>No.5572〜5575を読まれたい。こいつは重要だな。

なにが重要なの?




265 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 21:45:37
>>255  逆じゃないかな。
考古学的状況からはとりあえず全部国産として進めないと、
考古学の否定になってしまう。

しかし、中国で△が大量出土するなどの事情変更があれば、
その考古学的事実を受け入れるべきでしょうね。

266 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/31(土) 21:46:37
>>264
唐松山さんとわらわの間での話で重要だということですの。
高松塚古墳が忍壁親王の古墳でしかもその文字を隠したとなると、
これだけでも大事でしょう?
その文字があったんなら、池田仁三さんのサイトがウソではないこと
となって来ますわ。紀年の研究に相当〜関連、影響が出て参ります。

267 :ローガン:2009/01/31(土) 22:02:07
>>263

> もっと古くか? 貨泉とかいうのが出土しているという。あり
> うるかも知れないが・・・?


あ!なるほどね。そうか新の貨幣が流通していたのか!わあ、 これは古いなあ。
しかし滅んだ国の貨幣が時をおいてとはちょっとなあ…
あ、そうか、倭で2Cから流通してたのかw

金関先生は貨泉の伝世を考え過ぎと云う意味の書き込みと読みました。


268 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 22:07:17
貨泉の年代は幅が広すぎるよ。

森浩一は、既に30年近く前に貨泉が晋代の墓からも多く出土するとして、
貨泉を1C後半と決め付けることに注意を促していた。

中国の出土事実に合わせるなら、貨泉は1C前半〜5Cまでの幅を想定する
必要がある。

269 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 22:23:26
>>268 に続けて
しかし、森がこのように書いた以後も、貨泉の中国での出土状況を
書かずに、貨泉を意図的に1世紀後半にするクズが後を絶たない・・・

こいつらは学者失格というか、人間失格。


270 :ローガン:2009/01/31(土) 22:45:53
うふふ、反応が速いねえ。2〜300年後の日本の「貨幣」が 王莽の貨泉?

271 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/31(土) 22:57:14
>>270
貨幣の流通を否定するなら、陵墓、鏡、ご殿はは奴隷の労働だと
言うわけかね?

272 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 23:02:27
>>270
貨泉は後の時代になっても製造されていたんだろう。
伝世だけでは後世の出土量の多さを説明できない。

まあ日本で貨泉の「踏み返し」がなされたとは俺も考えていないが、
あれを1Cと確定する連中の精神構造は理解し難いものがあるね。


273 : ◆.L.MXSPOgc :2009/01/31(土) 23:21:08
私は素人だが(でもって筑後平野説だがw)、△は卑弥呼の鏡ではないかと思っている。

景初四年とか紀年鏡とか、あきらかに国産と分かるものが多数含まれているのも確かだが、
一番ひっかかるところは、なぜこれほど大量に(大量に残るほどに)国内で作られたのか?というところ。
国内起源の鏡を一所懸命コピーするだろうか?誰が有難がるだろうか?
むしろ卑弥呼の鏡だったからこそ多数のコピーを産み出したのではないだろうか、そのように思っている。

・・・ごめん、よく知らないから思っているレベルなんだw


>確実に魏の時代だと分かる墓そのものが1つしか見つかってない
魏代の墓と判明している墓が1つだけ、というのは逆にいえば△が10出ていれば10はそれと言えるはず?
3世紀と想定されるの墓がいくつ? 2〜4世紀と想定される墓がいくつ? でこれらが5〜10しかなくて、
それで出ていないなら△は全部国内と考えられる、というものの反論になるでしょうが、
2〜4世紀のそれが1000とかあって、それでも1つも出ていないならやはり全部国内鏡と考えるのが
妥当なのではないかと思えるのですが、そのあたり、詳しく教えてもらえないでしょうかね?


274 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/01/31(土) 23:25:14
卑弥呼=神功? 120年のズレについては、こちらへ↓
http://www.23ch.info/test/read.cgi/history/1196772675/

終止符10なつかしいね

275 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 23:34:09
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!

276 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/31(土) 23:49:04
卑弥呼の鏡なら大陸産だということになる。国内産では卑弥呼の鏡
ではないという考えが正着だな。

277 :ローガン:2009/02/01(日) 00:11:16
>>272
そらまあ、前漢代までさかのぼらないですよ。 いくらか伝世?複製?としても それが倭の「通貨」ですか?
さておき、黒塚では棺内副葬の画文帯神獣鏡、33もの△は絹の袋に入れて棺外にありましたね。
△は「花輪鏡」だと思うんですが…いかが?
死者の為にすぐ墓に入れるべく作った鏡に、例えば「買竟者富」とかw。 作った工人は銘文なんて理解出来てないんでしょう。
銘文の意味が理解出来ない工人が作った国産鏡なら倭人作でしょう。
その倭人がわけもわからず「新作明竟幽律三剛配徳君子清而且明銅出徐州師出洛陽彫文刻鏤皆作文章取者大吉宜子孫」なんてね。書けるわけないでしょう。
雛形があったんですよ。雛形あきこがいたんですよ。 過去に招来した△ですよ。

278 :ローガン:2009/02/01(日) 00:11:52
>>272
そらまあ、前漢代までさかのぼらないですよ。 いくらか伝世?複製?としても それが倭の「通貨」ですか?
さておき、黒塚では棺内副葬の画文帯神獣鏡、33もの△は絹の袋に入れて棺外にありましたね。
△は「花輪鏡」だと思うんですが…いかが?
死者の為にすぐ墓に入れるべく作った鏡に、例えば「買竟者富」とかw。 作った工人は銘文なんて理解出来てないんでしょう。
銘文の意味が理解出来ない工人が作った国産鏡なら倭人作でしょう。
その倭人がわけもわからず「新作明竟幽律三剛配徳君子清而且明銅出徐州師出洛陽彫文刻鏤皆作文章取者大吉宜子孫」なんてね。書けるわけないでしょう。
雛形があったんですよ。雛形あきこがいたんですよ。 過去に招来した△ですよ。

279 :ローガン:2009/02/01(日) 00:12:57
ごめんダブった。

280 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 00:16:18
卑弥呼は神功皇后
宗女壹與というのは息長真若中比売


281 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/02/01(日) 00:18:25
神功皇后というのは、仲哀天皇の皇后で
『紀』では気長足姫尊 『記』では息長帯比売命、大帯比売命・大足姫命皇后。
父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天日矛裔・葛城高顙媛。
彦坐王の4世孫、応神天皇の母として知られる。

その日本書紀には神功の条に”倭の女王”として魏書のことが語られているが、
卑弥呼を神功皇后と同時代とするのはあきらかに間違いで、朝鮮史やら照らし合わせると
神功皇后は卑弥呼が没した249年ごろより120年後の時代というのが一般的。

つーと、神功皇后は249年+120年=369年ごろの人物?


282 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 00:20:45
朝鮮史なんてあるの?

283 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 00:24:56
>>281
干支の話は、60の倍数年ずらしたところに正しい年代があるという前提を
どうやって決めるかという問題がある。
倉西の姐御の本はこのレベルがクリアできていないのが残念。

朝鮮関係の同時代の遺物(七支刀、広開土王碑)とかの積み重ねで年代を
絞る方法の方が着実ではないかと思う。

284 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 00:31:42
>>278
花輪鏡ってのは同意。実際にも棺の周りに置いている。
そうなると、抱朴子(317年成立)にある魔除け効果を期待して、棺の周りに置いたって
ことになって、△は4C以降という見方が強くなります。

銘文を書いたのは渡来人というのも同意。
但し、中国ではなく朝鮮から来たという可能性の方が高いでしょう。
朝鮮に居た漢人か韓人かは決めがたいですが。

銘文だけなら△以外のものを手本にできますよ。
むしろ、△は日本特有の銘文があることも国産説の根拠になっています。

285 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 00:43:26
卑弥呼が神功皇后だから八幡神社の祭神は
応神天皇と神功皇后と息長真若中比売の三神を祭っているのじや

286 :ローガン:2009/02/01(日) 01:01:49
>>284

>抱朴子(317年成立)にある魔除け効果を期待して、棺の周りに置いたって
> ことになって、△は4C以降という見方が強くなります。

ほい。九寸超破邪とかが抱朴子を遡らない根拠ありますか?

> 銘文を書いたのは渡来人というのも同意。

おっと、渡来人とは言ってない。雛形があったと言っただけですよ。銘文が理解出来る渡来人なら、花輪鏡に「この鏡買ったら裕福になれまっせ」というような銘文入れんでしょうと云うこと。

もう少しお話したいが明日早いので失礼。又お願いします。zzz…

287 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 02:15:55
>>286
たしかに、9寸以上の鏡に魔除け効果があるという伝承がどこまで遡るか
はっきりしないという面はありますね。
「抱朴子」は長編で、編纂に長期間を要したことは明らかという点もあります。

しかし、古代の道教思想は4C初めに体系化が始まり、4C半ばに隆盛を迎え、
465年頃に最盛期となったということからは、道教の教義を取り入れた鏡の
大型化や魔除けとしての使用は、4C以降、特に4C半ば以降とすることが
合理的ではあります。

288 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 03:06:02
調べてみると、

抱朴子には、「明鏡の九寸以上なるを用いて自ら照らし、思存する所有ること
七日七夕なれば、則ち神仙を見るべし…」と書かれているらしい。

神仙とは、仙人とか神人とか言う意味らしい。不老長寿の薬をくれる人かな。
要するに、神仙思想の究極の目的は、不老長寿らしい。

となると、抱朴子の九寸以上の明鏡を墓に取り入れたとすれば、死者の復活
というような意味があったのかも知れない。黒塚古墳などは、確か写る方を
棺に向けていたから、理にかなう。

三角縁神獣鏡の文様は、元々神仙思想の表れと聞いている。
なにやら、わかったような…。

289 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 04:13:52
はい今度は「抱朴子」か…もうローテーションだな

で結局東遷説を成り立たせる為に4世紀半ばに持っていくのがお約束とw



290 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 08:12:16
>>281
>神功皇后は卑弥呼が没した249年ごろより120年後の時代というのが一般的。
そんなこと言っても、神功皇后の実在性自体に問題があるとされてるな。
実在しない人物を何時の時代だとかいうことは無意味じゃないかな?

291 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 09:11:52
神功皇后の実在〜?
これが、ゆとり教育の成果か。
住吉大社は実在しない
八幡神社は実在しない
神功皇后陵は実在しない
君も実在しない

292 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 09:17:16
>明治から太平洋戦争敗戦までは、研究の場では江戸時代より様々な論考があったにもかかわらず、
>学校教育において実在の人物として教えるよう指導されていた。現在では実在説と非実在説が並存している。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』神功皇后より


293 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/01(日) 09:37:02
>>283 >倉西の姐御の本はこのレベルがクリアできていないのが残念。
倉西女史は、60年ずらした場合日々の干支が説明できない。
此処がクリアーできない為 2chより撤退。
説明してもらいたかった。が撤退迄するとは思わなかった。

2倍暦も日々の干支は、説明できない。
この様な存在できない暦法で書紀を説明しようとすると、神功非存在等
で切り抜けるしか手は無い。神功を非存在としたら説明できるか?
説明できません。


294 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/01(日) 09:50:17
>日々の干支は、説明できない
それは古文献の量があのくらいじゃぁ出来ないのが当たり前。
この前も言ったが、唐松山さんは望遠鏡を使うべきところ、顕微鏡
の使用をやってるからデキがまずい。

295 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/01(日) 10:07:36
七支刀と神功
 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
これを満たす西暦は、326年5月辛卯朔 
東晉明帝太寧4年5月16日丙午、
273年 神功前紀 日食
326年 神功52年 七支刀 ←1年の狂いあり
328年 皇紀915乙亥年 肖古王崩御
先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音(又は晋)故為倭王旨造■■■世
奇生=貴須


296 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/01(日) 10:12:01
唐松山さん
曲学の徒さんの邪馬台国掲示板を見ましたか?
今見たら、高田さんから回答が来ています。

297 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/01(日) 10:28:09
太国さん 無いものねだりをしても仕方ない
書紀は、日々の干支を入れて完成する。
日々の干支は−660年まで再現可能、全てを好きに使っていただいて大丈夫ですから
再現に努力してください。
もし全ての干支が使われていたら、再現できるのですか? 更に再現不可能になるだけでしょう。


298 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/01(日) 10:39:46
もう何回も行ってるでしょう・・・。日々に空白の日があっちこっち
にある暦法だったと考えるべきですよ。だから日の完全充填での
計算は無意味ですし、古文献のいまの量、状態からでは、ではいつ
その空白日がどの年どの月にどのへんに幾日あるのかが定められ
ませんので、あなたの手法は失敗が目に見えています。やり方を
変えることをお勧めしますね。

299 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 10:43:47
失敗者同士がけんかしたって仕方ないぜ。

300 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 11:07:44
ほう、デブとチョロ松の喧嘩か。面妖な

301 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/01(日) 11:09:47
日本書紀卷第九 氣長足姫尊 神功皇后
九年(庚辰二○○)春二月。足仲彦天皇崩於筑紫橿日宮。・・・
秋九月庚午朔己卯。令諸國集船舶練兵甲。・・・
爰伐新羅之明年春二月・・・晝暗如夜。已經多日。時人曰。常夜行之也。・・・
三月丙申朔庚子。命武内宿禰。和珥臣祖武振熊。率數萬衆。令撃忍熊王。

三國史記 卷第二 新羅本紀第二 奈解尼師今
五年(庚辰二○○)秋七月 太白晝見 隕霜殺草 九月庚午朔 日有食之 大閲於閼川
六年 春二月 加耶國請和 三月丁卯朔 日有食之 大旱 録内外繋囚 原輕罪

これを見ると、書紀編者も日食とは見ていなかったようです。


302 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/01(日) 11:33:31
>>281
>つーと、神功皇后は249年+120年=369年ごろの人物?

私は「摂政」362〜394年と見ています。

303 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 12:03:16
七支刀の文字は日本の元号じやよ

304 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 12:13:27
「海部氏勘注系図」によると18世孫、丹波國造建振熊宿禰と書いてあり
「息長足姫皇后征伐新羅國之時、率丹波・但馬・若狭之海人三百人」とあります。
卑弥呼と神功皇后は何の関係もなく、卑弥呼は9世孫、日女命のことになります。

305 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 12:15:19
年代はサテオキ、
神功皇后が実在しないなんて馬鹿いるの?
まぁゆとりとかはならってないから知らないんだろうけど


306 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/01(日) 12:49:48
倭王旨が名前で ウマシなら 武内宿根の親や弟にいる。


307 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/01(日) 13:01:13
陵墓と天皇、皇后等の数はそんなにおかしくはないだろし、伝承が
各地にあるんだからそれぞれ独立性が強い話なわけであり、個別に
陵墓と天皇らの指し違いはありうるが、実在には不審はない。無いと
言ってるのは津田病患者だな。w

308 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 14:24:25
中国出土鏡の成分を検査しよう

309 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/01(日) 14:47:13
>>305
戦後しばらく(今も完全には無くなっていないかも)「神武天皇」「神功皇后」
という名前を言うだけで「右翼」と見なされ非難された時期もあったようです。
(漢風諡号が後世のものだということは別の話です)
韓国ではペ・ヨンジュンが広開土王を演じたりしているわけで、羨ましいところもあります。
まあ、半島では民族主義が行過ぎているところはあると思いますが。

310 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 15:52:19
朝鮮人は白村江で倭人を全滅させたことは知らないんだよな。
どういうわけか。



311 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 16:36:31
白村江は唐に負けた

312 :中大兄皇子:2009/02/01(日) 17:33:11

今日のところはこのぐらいで勘弁してやる。

313 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 18:32:44
>>307
そりゃあ、記紀編纂以降の話しだよ。
過去の話しはどうにでも弄れるし、記紀編纂以前の歴代天皇と陵墓の関係なんて
いったい誰がどう証明するんだね?

314 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 19:46:12
>>310
白村江では倭軍は全滅はしていない。
先方の部隊が負けただけ、
後続の殆どの部隊は百済人避難民等を収容し無事日本に撤収している。

315 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/01(日) 20:09:06
>>313
証明〜?ww 記紀は文証だ。それに紀は多数の原書群から抽出
されて出来たものだから、当然多数の後押しがあるわけで、単一的書
と考えるべきではなく、個人的古史古伝の証拠より以上に多数者の
古代人の証したものだと言える。さらに古史古伝でさえ神武をうた
っている。さらに九州を主体としての神武の各地伝承もある。それら
がバラバラで従属性なく、独立しての話なわけだから、当然イカサマ
の可能性はうすい。さらに神武以降の紀の内容には年月日が詳細に
記載されている。これは神武より手前の時代の伝説とは同一視でき
ず、その年月日から伝説とは言い難い。さらに年代の一見不合理に
見える拡張的内容も、当時は倍暦を使用していたのだから、不合理
のようで不合理にはならない。おまけに陵墓もほぼ同等に対応して
存在する。イカサマで膨大が金のかかるべきこれらの陵墓を架空の
天皇をこさえるために十年数十年かけて造る労力など、小説のため
に多数造成する古代人のバカはいるまいが。ww
ということで、それを軽く否定する輩は、津田病に罹った妄想者
なのであ〜る。ww

316 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 21:02:58
>>258
その「何枚か」と言うのが
卑弥呼がもらった100枚。
こう見るのが自然だわな。

317 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 22:15:49
>>315
>当然多数の後押しがあるわけで、単一的書と考えるべきではなく、個人的
>古史古伝の証拠より以上に多数者の古代人の証したものだと言える。
そんな証拠はまったくないな。記紀より古い原書群がどこにある?

>九州を主体としての神武の各地伝承もある。それらがバラバラで従属性な
>く、独立しての話なわけだから、当然イカサマの可能性はうすい。
記紀の神武の話を参考にしてあちこちでつくったんだろ。記紀と同じ話だけ
では寂しいからちょっと外れた話をつくっただけだよ。記紀より前から神武
伝承があったという証拠はまったくない。

>神武以降の紀の内容には年月日が詳細に記載されている。これは神武より
>手前の時代の伝説とは同一視できず、その年月日から伝説とは言い難い。
卑弥呼のことすらまともに伝えてないのに、それ以前の年月日など伝わって
るはずないじゃないか? 年月日はでたらめ、神武の話は創作だって証拠だよ。

>陵墓もほぼ同等に対応して存在する。
物語をつくるときに、なるべく存在する陵墓と辻褄を合わせるだろ。ただ、
それだけだ。だから、仁徳墓と履中墓が逆になったりずれがあるんだよ。

318 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 22:39:43
>>315

>おまけに陵墓もほぼ同等に対応して
存在する。イカサマで膨大が金のかかるべきこれらの陵墓を架空の
天皇をこさえるために十年数十年かけて造る労力など、小説のため
に多数造成する古代人のバカはいるまいが。ww

それは単なる貴方の主観だよ
いや、そうであってほしいとする願望かな?
願望だったものが、長い時間の後にいつしか貴方の中で史実化してしまったという
大変不幸な出来事にすぎないんだよ
当時の支配層のやることだ、既に持主がだれであるか忘れられた墳墓に
記紀に記した人物を重ね合わせる事も出来る。
リアルタイムで重ねたものでなく、後に纏めて重ねれば、当然記紀に記された天皇の数と陵墓に指定された墳墓の数は一致する
当たり前のことだよ
別に改めて造成する必要なんてないよ
自分たちの本当の先祖の墓なんて、長い年月の間に忘れ去られてしまうのが自然であるし
逆に指定陵墓と記載天皇の数が一致する事自体が眉唾だよ

神武の墳墓が分かっているなら、その父母の墓や祖父母の墓は何処なのかな?
急に神武の墓の所在が記録されるなんてへんだろう?

319 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/01(日) 22:46:56
>>317
記紀は文証である。紀には伝に曰くとある。それを観ても多数の
古文献から出来上がったものである。その古文書に神武がいなかっ
たというのがあれば重要だから、伝に曰く神日本磐余尊 はなにがし
からの創作である旨が載るだろう。大多数の古文書が一致してるから
神武東征の話があるわけだ。当時の文献で無いとあるのがあるという
なら、載せてみい。w さらに古事記以前の書という吾郷先生の書
でも、神武のことが書かれてあるだろう。どれも書かれてることは
同様だ。創作ならば神武の記述も各自の書が全くいろいろの書き方の
はずだ。が、殆ど同じだよ。それに相当の陵墓もある。陵墓の数字
もほぼ同数で不審はない。つまりオマエの考えすぎの津田病の重症
症状がオマエの脳に葛藤を与えてオマエはおかしくなってるわけだよ。

320 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/01(日) 22:54:41
>>317
あっちこっちで造れば、たとえばA伝承は神武東征ならばB伝承は
神武元から畿内居住、Cは神武は蝦夷から畿内で来たとか、Dは
大陸から来たとかさまざま多様になる。各自別の人間が格別に創作
するんだから、その創作物はみな同じにはなりえない。
共犯の犯人を辻褄合わせできない段階で供述を各犯人にさせれば、
辻褄の創作ならばみな内容の違う説明になるだろう? 見破ること
が出来うる。全部が同一場所時間で集合して創作するならば、それは
同一神武物語創作が一本の話でできうるが、そんな器用な真似が当時
出来うるわけがない。w つまりオマエの妄想だな。w


321 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/01(日) 23:02:04
>>317
>卑弥呼のことすらまともに伝えてない

それはそうだろう。当時卑弥呼のいた九州と畿内朝廷とは、今は
同じ日本の中でも、あのころは遠距離の別国同志だ。そんな遠い
国とおつきあいは殆どなかったわけだよ。
九州奥地は大陸からの畿内交易ルートから離れた盲点、死角の
土地柄であり、かような卑弥呼の国の情報は大陸以上に地理的関係
などから畿内に入らなかったということだ。情報のない九州の
秘奥的国のことなど書くタネもあるまい。それに1歩譲って〜オマエ
は卑弥呼の記事が載ってないと言い張ってるが、それは大間違いで
あり、紀の神功39年にその記事がある。つまりオマエの言い分は
この点ではデタラメだということになる。



322 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/01(日) 23:05:53
>>317
>物語をつくるときに
朝廷にそんな暇があるか?w 当時九州王朝との関係で、やっと日本
統一に行った時代で、日本がほぼ一国的となって勢力を保持したい
のに、創作なんかやってるほど朝廷は暇ではない。Pu!!ww
逆は宮内庁関係の間違いで、そういうことは可能性としては
ありうることだ。

323 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/01(日) 23:09:13
>>318
オマエ、記紀は探偵小説ではないんだよ。そんな長期の長き年月の間
に、あわせっこをやり出したとかオマエが言ってる人物がいたと
して、そいつはとうの昔に死んでしまう。www
オマエ相当重症だな。wwwwwww
明日でも精神科へ出向しろい。wwwwwww

324 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 04:52:29
これはひどいw

325 :記紀きりん:2009/02/02(月) 10:34:18
記紀の摩訶不思議な点は、歴代天皇の悪事の羅列が多いこと。
武烈天皇なんか、獣姦しました、妊婦の腹をさきました、等卑劣な記事のオン
パレード。
で、次の天皇は継体。

これって、王朝がかわったってことじゃない?

今でも、かしこどころでは「大正天皇の知能がどうだった」とか「雅子様の
結婚までの性生活がどうだった」とかひそひそ言うやからがいるらしいけど、
正史にのることはない。

326 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 14:19:44
だからなに?

327 :ローガン:2009/02/02(月) 16:39:03
>>287
> たしかに、9寸以上の鏡に魔除け効果があるという伝承がどこまで遡るか
> はっきりしないという面はありますね。

まあ、9寸だから21cm…これを超える銅鏡が全て4C後半以降だとは貴方も思わないでしょう?
△が抱朴子以降だとはちょっと無理筋ですね。

> 大型化や魔除けとしての使用は、4C以降、特に4C半ば以降とすることが
> 合理的ではあります。

大型化に言及されてますね。「大型化」ですから、元々存在したものが大きくなったという意味ですね。
年代観は違いますが大型化は同意です。 △は三角縁神人車馬画像鏡が大型化したものだと思います。

328 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 19:04:45
>>327
>9寸だから21cm…これを超える銅鏡が全て4C後半以降だとは貴方も思わないでしょう?

△は大きさに指向性がはっきり出ていて、9寸余のところに大半が集中するので、
「9寸」を意識していたと考えられます。


329 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 19:33:39
そもそも銅鏡のみならず銅鐸や銅剣・銅戈に見られるように
青銅祭器の大型化は時代に関係なく起こりうる。

それを最初から「抱朴子」に原因を決め打ちして年代を特定すると言うのは
考証の手続き自体に無理があるだろwww

330 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:47:54
女王卑弥呼は魏帝から100枚もの銅鏡をもらって
一体どういう使い方をしたのでしょうか?

331 :卑弥呼:2009/02/02(月) 21:56:32

ふっ、ふっ、ふっ、この三角縁神獣鏡が量産されたあかつきには…w

332 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 22:07:51
>>331
あの、卑弥呼さま。(まさか本人が出てくるとはなあwww)
レスはいささか意味不明なので確認したいと思います。
魏帝から100枚もらったのは三角縁神獣鏡だったがそれでも全然足りないので
国産で三角縁神獣鏡も大量生産するよう部下にお命じになったと
そういうことでしょうか?

333 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 23:20:16
百は日本語でモモ

モモソヒメは百襲媛

鏡も百枚

つまり、卑弥呼=モモソヒメなんだよ。


334 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/02(月) 23:25:05
じゃぁ〜「百済」は卑弥呼の国となるのか?www

335 :ローガン:2009/02/03(火) 00:52:53
>>329

> 考証の手続き自体に無理があるだろwww

同意です。先に云われちゃいましたね。(笑)
328さんはそう考えるという事なのでしょう。 まあ、魏晋代の9寸が22〜23cmである…という事は1里が420m位が東遷説さんとの共通認識

336 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 02:08:17
>>335
△の大きさに指向性がはっきり出ていることは事実です。
それは9寸余の大きさ。
しかも、大きさの偏差の幅が小さい。

これに対して、画文帯は、約20cmもあれば約14cmもある。
△にはそれが無い。
小型もなければ、平原のマンホール鏡のような大型化もない。

はっきりと9寸を意識して大量生産されている。

それが統計的事実です。

337 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 02:17:12
>>287
訂正465年→365年

この年は中国で神仙が大量に光臨したという熱狂が生じて、
元号の改正までなされています。

338 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 07:24:45
>>334

百済も前方後円墳があるから倭人の領地だよ。
学者は誰も認めないけどね。


339 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 08:19:30
応馬穢等は馬鹿じゃねーの?
銅鏡は鍋の蓋だ
△は落とし蓋だ
ドングリ煮るのにつかったんだよ


340 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 11:57:36
違うな
銅鏡は鉄板焼きに使ってた
銅は熱伝導が良いから調理にもってこい
卑弥呼は火見枯だ
つまり鍋奉行の婆さんだ

341 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 15:54:47
>>338
その前方後円墳は何時頃のもの?
また、それだけで百済を倭人国とする事は出来ないよ。
その論法で行ったら、日本なんかまぎれもない欧米諸国の一員だ。

342 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 16:14:41
>>341
前方後円墳は日本列島(くまなくある-3世紀から)と
朝鮮半島(すべて5世紀のもの)だけにしかないわけでねえ
倭人の領地ではないにしろ
いわゆる三韓征伐後
5世紀までの朝鮮半島南部が倭人の勢力下にあったのはほぼまちがいないわなあ

343 :ローガン:2009/02/03(火) 16:19:36
>>336
> △の大きさに指向性がはっきり出ていることは事実です。

それは後付けでしょう。小さいのは△に分類されない。

> それは9寸余の大きさ。 しかも、大きさの偏差の幅が小さい。 これに対して、画文帯は、約20cmもあれば約14cmもある。 △にはそれが無い。

椿井大塚山三神三獣鏡17cm
富雄丸山三角縁盤龍鏡24.6cm



344 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 19:11:07
そら、大きい鍋も
小さいのもあるよ

345 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 19:26:57
>>343
椿井のを△に分類しながら、

>小さいのは△に分類されない。

は矛盾では?

346 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 19:40:37
>>345
椿井のが下限だろう

347 :ローガン:2009/02/03(火) 22:02:54
>>345
> 椿井のを△に分類しながら、 小さいのは△に分類されない。は矛盾では?

つまり17cmは小さい鏡だと云う認識をされている。という事ですね。
大きい小さいの分岐点って何cmにしましょう?


348 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:10:33
>>347
そういう話じゃなくて、△の大きさに偏りがあって、9寸余の
ところに集中する傾向が出ているってことですよ。

349 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:26:59
例えば弥生後期後半〜終末期の国産倣製鏡は70〜80mmあたりに出土数のピークがあり
面径と出土数をグラフにすりゃ何処かにピークを持つ山形の分布になるのは別に特異でもなんでもない。

むしろ話の筋から言えば9寸余未満の大きさのものはその効能を持たないと言うことになるのだから
ある時期を境に小型の物が突如消えると言う現象が起きてしかるべきでは?



350 :349:2009/02/03(火) 22:45:49
そもそも疑問なのは中国で、その「抱朴子」のその件に基づいた埋葬様式があるのか?
まあ無くとも日本人の独自解釈と言うこともあるだろうが…

元々違和感があるのは道教と言うのは極めて現世利益的で死後の世界より現世での快楽
それを如何に得て永続させるか…で結局「不老不死」がその最終目的になって
挙句、砒素だの水銀だのを服用してかえって寿命を縮めるんだがw

「明鏡の九寸以上…」に関しても
それは現世で仙人と会うための手段で
別に黄泉路についた死者を守る方法として書かれていないようだし

現時点、まあ仮説の一つとしてはアリとしても
年代特定の傍証の一つにするのはいくらなんでも無理がありすぎるだろう…

つうか東遷説を成り立たせる為なら、どんなネタでも膨らませるその執念。
東遷説論者のセンセイ、マジでパねえっす!wwwwwwwwww





351 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 23:08:23
>>350
ある国の習慣が別な国に取り入れられて、かなり違った形になるというのは
普通のことで、逆に全く同じという方が珍しい。

たとえば、クリスマスなんて教会で静かにお祈りをささげる日だったらしいが、
日本にやってくると、とんでもないことになったりする。

352 :ローガン:2009/02/03(火) 23:29:56
仰る意味はね、理解してますよ。ただ>>336
>画文帯は、約20cmもあれば約14cmもある。△にはそれが無い。

に対する反論はしとかないとね。
まあ△の定義というか「これを△という!」なんて現代の考古学者が便宜上こしらえたものでしょう。
全く同じものが大陸にはない…よって全て国産なんて極論もいいとこ。
まして9寸ほどの鏡なんて△以前からあるでしょう?それに道教思想が抱朴子を遡らない根拠なんてないでしょう?
まあ、いろんな考えあってもいいとはおもいますが、ハードルが高杉。 はじめに結論ありき!ですかね?

353 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/03(火) 23:35:09
質問
ヲキツカガミ=凸面鏡と
ヘツカガミ=凹面鏡に 分類したとき
凸面鏡は、粉砕して棺内に納める
凹面鏡は、そのままの形で棺外に置く
でよろしいですか?



354 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 23:55:23
>>351
そのクリスマスの例えで言えば

この『 銅鏡大型化「抱朴子」由来説(笑) 』は
欧米のキリスト教圏にクリスマスと言う風習が無いのに
日本人が聖書の一説から独自にクリスマスと言う風習を作ったに等しい話だぜ?w

まあそれとてあり得ない話ではないが
現在「抱朴子」と銅鏡を結びつけるのは「9寸余」と言うサイズのみ。

本来なら「抱朴子」の一節が銘文に見られる等して
大型化に「抱朴子」の影響を見るに十分な根拠を得て
次に日本にその「抱朴子」の内容がいつ入ってきたのか・・・って話だろうに。

それを数字一つの一致で年代の特定に…と言うのはステップ飛ばしすぎと思わないか?w



355 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 00:03:22
>>349
△はピークへの集中の度合いが強いということです。
位至三公鏡のような小形鏡は踏み返されていないですよ。
逆に言うと、踏み返し鏡は国産の可能性が高いということです。

>>350
黒塚のように△を棺の周囲に配置した出土状況が日本で確認できる以上、それに
宗教的な意味を求めるとすれば、魔除けというのは自然な発想です。

>>352
抱朴子の元になる伝承がありうるというのは同意ですが、道教の神仙を書いた鏡を
棺の周りに配置し、その大きさが9寸余となれば、その意味を抱朴子のあの部分に
求めるのは、普通の考えですよ。


356 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 00:39:42
>>355
>△はピークへの集中の度合いが強いということです。

それは ” 何と比較して ” の話なんだ?

単に「集中の度合いが強い」と言われても理解しかねる。

同笵鏡・同型鏡が量産されれば集中の度合いが高くなるのは当たり前で
おそらく何千枚と造られた三角は一つの鋳型・原鏡から多数の鏡が作られたのはそりゃ当たり前。
(ついでに言えば短期間であればあるほどその傾向も強まるかな?)



357 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 05:32:52
>>330
魏から贈られた100枚の鏡を、卑弥呼がどう使ったか、だな。
それは「まんが日本史」のアニメで一目瞭然!
下の2/3に出てくる。

まんが日本史 第02話 幻の邪馬台国──女王卑弥呼──
・1/3
ttp://jp.youtube.com/watch?v=dRC0WYRN-EM&feature=related

・2/3
ttp://jp.youtube.com/watch?v=swtFxPBikLc&feature=related

・3/3
ttp://jp.youtube.com/watch?v=utY5yyEOJ3s&feature=related


1/3で卑弥呼が即位のとき言う。「皆も力を合わせ、平和な国にしていきましょう」
うーん、さすが大女王卑弥呼だ。偉い!

アニメで、張政は、卑弥呼はおろか、壱与にも会ってない。
伊都国に留まったままで、邪馬台国には行かなかった、と。
でもそれは疑問だ。
私はちゃんと面会し、内政・外交の諸案件についてきちんと意見交換したと思っている。

>>235ロリコンくんへ。
3/3で壱与たんが登場しているぞ。ちょっとだけだが。
うん、可愛いな。w

358 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 13:56:47
行ってたとしても会ったのは弟だろ。

359 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 18:05:37
>>357
まあアニメだし畿内とも九州とも断ぜず最大公約数的な内容だけど
なんで魏使が伊都国止まりって説をとっているんだろうな?

行ったとすれば何処に行ったかストーリー中で表現しなければならないから
苦肉の策だったのかな?w



360 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 00:21:50
>>357
アニメの鏡100枚の使用法はまるで素人の発想じゃないか。
漫画チックで面白く笑えるが本当とは思えん。
アニメ制作者が子どものころ鏡でピカピカごっこをやっててそれで思い付いたんだろ。

卑弥呼の弟の王が卑弥呼のお告げを伝える役もしてるがここも倭人伝通りじゃない。

>>359
2/3の7分16秒で狗奴国と戦った戦死者の埋葬シーンあるぞ。
ここで甕棺使わせてるから九州説を想定してるようだな。

361 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 01:24:25
>>356
内向花文や方格規矩は大きさにばらつきがある。
画文帯もばらつきがある。

三角は100種以上あるが、大きさのばらつきが小さい。

362 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 06:12:04
しかし考えてみれば九州説って頑張っているよな。w

テレビ程度じゃあ今も畿内説に伍しているかのように伝えられているんだし。




363 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 06:51:16

>>357otu

イヨタン・・・・・・・・・・・・・・・


364 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 07:01:01

バルタン・・・・・・・・・・・・・・・


365 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 07:58:36
イセタン・・・・・・・・・・・・・・

366 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 13:21:43
>>359
倭の船に変わってるところ、
距離ではなく、日数になってるところ、

邪馬台の女王は 遥か遠くにいると言われたところ、

まぁ 多々あるからじゃね?


367 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 16:11:48
>>366
伊都国について、倭人伝には「郡使往來常所駐」と書かれている。
「郡使が往来するに常に駐まるところ」、というわけで、普通は伊都国まで
しか行っていないと解釈するんだろう。

不弥国まで「里程」だったのが、投馬国から先が「日程」に変わっているのも
それを裏付ける。

魏は、大陸の真ん中のほうの国なので、船はなかったんじゃないだろうか。
だから、日本にやってくるのは、往来し慣れている日本の船を使ったと
思う。

ただ、呉の場合は、海があるので、船を使っていたらしい。
遼東半島あたりまで船で往来していた記録が数多く残っているらしい。

368 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 22:24:03
49 :名無しさん@九周年:2009/02/05(木) 20:24:02 ID:OU09XBv30
スマイリークコチヒク




369 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 22:51:38
>>367
>魏は、大陸の真ん中のほうの国なので、船はなかったんじゃないだろうか。

三国志を読んでないんだな。www

370 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 23:16:51
>>369
河船があったのは知っているが、波の荒い海を航海する船とは違う。

371 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 23:21:20
苦しいのう>>370

372 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 23:24:21
確か、河船は平底で、波の荒い海では使い物にならない、と聞いたことがある。

373 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 23:35:52
>>369
読んでる、読んでない、の問題ではないだろ。

374 :ローガン:2009/02/05(木) 23:39:37
楽浪當遣萬兵乗船來撃汝とか… 河舟?

375 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 13:21:50
>>367
レッドクリフ オススメ

376 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/06(金) 21:24:25
>>245
高田久嗣さんですね。
やはり真面目に墓標解読に取り組んでいる。
問題点は、干支の解読(皇暦と出雲暦)が出来ていない。
そしてこの墓標作成時期を読んでいない。
だから 古墳と墓標が合わない。
墓標が作られた時代の古墳比定の間違いにも気付いていないのでは無いか?

次は 巨大古墳100 の作られた時代の長さと其れに従事した人数の割り出しです
古墳中期(応神から安康あたりか?)の年数が少ない”太国暦”で説明できるか?
最大の仁徳稜築造に延べ680万人。ですよ。



377 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/06(金) 22:42:07
墓標はだれか言ってましたが〜だいぶ後代だと思いますね?
しかし金印は墓標のほうではないですから、しかもこれは大陸から
もらったものですので、57年で考察が正確にできます。金印を
とりあえずは重視してます。
なお陵に関しては保留ですね?

378 :ローガン:2009/02/06(金) 23:50:46
墓標? まだそんなの関心もってんですか?
先日、埋文へ行ったついでですが、雨の中を箸墓の改修碑「念入りに」見てきましたよ。ナイナイ。あのサイトは嘘。
大池改修碑を撮ったというあの写真…改修碑にあんな丸い部分ないし、足元の改修碑基礎部分の縁石ならあるにはあるけどあの背景にはならない。
(サイトの画像には少し背景が写っているが)北向きなら柵が写るし他の三方なら家並が必ず入るはず。
学問の板でとりあげるネタじぁないですよ。


379 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 00:45:25
>>378
それを言うならホツマにも突っ込まないとw

380 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 01:57:09
行った行ってないが議論になってるみたいだが
通訳なる者までいて倭のうちの30ヵ国ほどと交流があるってんだから
魏志倭人伝に書かれてる情報は一人二人が見聞きしたなんてレベルの話ではないと思うぞ?
それに倭国から奴隷が貢がれたりもしてるから彼らからも情報を得られるわけじゃん。
案外、魏志の編者が奴隷と仲良くて、直接彼らから聞いたかもよ?
倭人伝に書かれてる邪馬台国からの奴隷達なんて、魏志の編者と同い年くらいじゃね?

381 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/07(土) 09:48:42
>>378 ローガンさんへ反撃
325年 神功52年七支刀 計算上は325年になるが表記された年は326年が正しい 
328年 神功55年=皇暦915年 干支乙亥年正月癸丑朔 肖古王没

吉祥句を封印しても 上記のような計算結果が出ました。肖古王没年の正月朔は、癸丑になる
肖古王=近肖古王で有る以上年の干支は間違いである可能性が大きい、では何なら合うか?
探した結果が書紀の『朔』でした。

↑これなら反撃出来ないでしょう。 
「369年七支刀」で「肖古王は神功55年」を説明できますか? また無批判に「差込」でかわしますか?
此処も当て嵌まりましたよ。

資料批判よりその結果を批判して下さい。


382 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 15:04:29
新説 邪馬台国があったのは富山

383 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/07(土) 15:25:37
>>378
まだ分からんがね? 別人が詳細ではないものの一応金印の件を
説明している。それにイカサマにしては規模がドデカ過ぎる。
つまり莫大なイカサマをやっているということになる。そこまで
徹底的にイカサマをやり、それに立脚して当人が論説を展開して
いる。スリをやるのにも犯人は分からぬようにワルをするだろう?
それを滅茶苦茶にしたい放題に多数の通行人を一人残らず的に
ハイ掏ってますと捕まるようにやるものだろうかと考えれば、伊達
や酔狂でとことんイカサマをするものかと考察すると、まだまだ
分からん? あんたの言うことが正着とも言いうるが、それに
しては規模が多すぎるから、そうではないんではあるまいかとの
慎重な考察で観ている。それは円天のように莫大な詐欺被疑事件
はあるものだが、相手の客らに詐欺と分かるような仕方の勧誘は
すまい? まぁ今後に保留的に態度をとるのがよろしいかと想う。

384 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/07(土) 15:29:10
>>383
× 詐欺被疑事件←これじゃないな。

○は別の被疑事件だったね。慎んで訂正します。

385 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 22:37:06
女王卑弥呼は神功皇后で決まり?!



386 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 23:48:57
神功皇后は卑弥呼のだいぶ後だわ
つまり別人

387 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 23:56:46
卑弥呼=日女命=倭迹々日百襲姫命=天照大神。台与=日女命=稚日女命=豊受大神。

388 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 00:02:02

トヨタン・・・・・・・・・・


389 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 01:38:48

ビンチョウタン・・・・・・・・・・

390 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 04:19:33
>>386
記紀は神功皇后を3世紀の人物として描いているよ。
それがまちがいで、「だいぶ後」と言うなら、神功皇后が実在の人物だということと
いつごろの人物かということを立証しないとな。できるのかな?

391 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 04:45:31
>>390
>記紀は神功皇后を3世紀の人物として描いているよ。

記紀のどこにも「3世紀」などと西暦が使われている箇所は無い

392 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 07:12:22
>>391
西暦で書いてなくても、西暦に直さなくてはわからないだろうに。
ちなみに、神功皇后の在位期間を西暦に直すと、西暦201年即位の269年死去
ということになる。
これは、神武天皇の即位を紀元前660年とした場合で、これが、記紀の年代観。
この年代観で、卑弥呼と神功皇后は、時代が重なることになる。

もちろん、現実にはありえない話で、神功皇后が実在したと仮定した場合の
在位期間も、もっと年代は下ることになるのだろう。

神功皇后といえば、朝鮮征伐が有名。一方で、好太王の碑にも倭兵の朝鮮出兵が
書かれている。これが同じものを指しているとすれば、神功皇后の時期は、
4世紀終わり頃ということになる。

倭の五王の最初の「讃」の遣使が、5世紀初め。「讃」を応神天皇あるいは
仁徳天皇とすれば、神功皇后の4世紀終わり頃には妥当性がある。

393 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 08:31:39
>>391
当たり前だろ、さびしい反論だな。

394 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 08:38:17
>>392
>神功皇后といえば、朝鮮征伐が有名。一方で、好太王の碑にも倭兵の朝鮮出兵が
>書かれている。これが同じものを指しているとすれば、神功皇后の時期は、
>4世紀終わり頃ということになる。
神功皇后が攻めたのは新羅。好太王の碑は関係ないということになる。
「讃」を応神天皇あるいは仁徳天皇とするのも、勝手な想定だ。記紀にはそんなこと
は一言も書いていない。

395 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 08:51:55
>>392
そのまま西暦になおすのがおかしいわけで
西暦と皇紀のすり合わせは
文献学者が今からやっていかなくちゃいけない問題

>神功皇后の在位期間を西暦に直すと、西暦201年即位の269年死去
>ということになる。
>これは、神武天皇の即位を紀元前660年とした場合で

神代のすり合わせに少なくとも
二倍年暦説はあるていど適用できるはず
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32886634.html
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/33783418.html
http://www2.ocn.ne.jp/~syouji/kodaisi_14-H.html
http://www.windsnet.ne.jp/column_n/colum.php?day=20080317347
http://www.geocities.jp/yasuko8787/2-14.htm


396 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 10:23:14
>>395
それはしょせん、日本書紀が神功皇后を西暦201年即位の269年死去としていること
を前提に、なんとかちがった年代として読もうというだけの話だ。
どれもこれも、しょせんはこじつけだな。



397 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/08(日) 10:27:43
>>395
其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀 この文章を採集したところは、松浦までの海辺と思われる。
正歳とは、簡単に言うと24節季のことです。
海洋民族にとって必要なのは、月齢(潮の潮せき)です。 
釣りに行くとき見るのは潮、24節季を見ても潮は分らない。



398 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/08(日) 10:45:15
>>390
記紀は文証。それも紀はバックが多数の古文献の精査から出来た
文献であり、たかが個人独り的記載で出来上がったものではない。
だから信用できるわけだ。それに背反することはまず失敗論に
至ることが十中九九確実だよ。津田に騙されるととんだ目に合うぞ。

399 ::2009/02/08(日) 10:51:53
卑弥呼って、女王なのになんで「卑」なんて文字が名前に入ってるの?
「卑」ってそのころは「卑しい」意味じゃなかったのかな

400 ::2009/02/08(日) 10:52:53
卑弥呼って、女王なのになんで「卑」なんて文字が名前に入ってるの?
「卑」ってそのころは「卑しい」意味じゃなかったのかな

401 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 11:03:29
>>400
中国人がマクドナルドを麦克唐納と書くのと同じ。
しかも、当時は倭なんか辺境の卑しい蛮族と見下していたから、わざとその字を使った。

402 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 11:06:21
それなのに、何で天皇の崩年が古事記と合わないんだ?

403 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 11:08:53
>>402>>398への質問。

404 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/08(日) 11:20:44
>>402
当時数種の暦法が並行して存在して行使されていたためだろう。
その部分部分を多数の情報から阿礼が聴きこんでいた為だと想える。
それにA暦の一部からB暦の途中への挿入とかで狂ってしまったの
だろう? それに情報の元たるものも倍暦多数暦の介在を知らない
状態でのまた聞きの記憶とかで、阿礼にたどり着いたときは大きく
混乱していたという状態ではあるまいか? しかし記の崇神没年干支
は没干支の初っ端のようだから他の暦法との混在からの狂いが少な
かったようで、非常に正確のようだ。

405 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 11:28:24
>>404
多種の暦?無理な想定だな。それに、もし、そうだとしたら、甲暦の何年は乙暦
の何年と分かるはず。伝を併記するスタイルの日本書紀が、古事記の崩年を書か
なかったのはなぜか? 考えたことあるかな?

406 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 11:38:17
>>396
こじつけじゃないじゃん
ちゃんと『三国志』の魏書東夷傳倭人条っていう
外国側の客観的文書があり

日本側の資料にも
継体天皇について『古事記』が43歳で死亡したとするのに対し、『日本書紀』が82歳死亡としており
二倍年暦と一倍年暦との混同がある

407 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/08(日) 11:52:17
>>402
私は倍暦を仮定すると、古事記とかなり合うと見ています。
394年神功没、414年應神退位、427年應神・仁徳没などに修正。
「日本書紀の年代を考える」323,324に書きました。

>>405
>伝を併記するスタイルの日本書紀が、古事記の崩年を書かなかったのはなぜか? 考えたことあるかな?

鋭いですね。
古事記の分注没年干支、日本書紀の「一書」ともに問題がありそうです。
古事記分注はいつ書かれたのか?
日本書紀「一書」とは何か?
下のサイト面白いです。
http://www4.ocn.ne.jp/~crossgm/nihonnshokinoissho.htm

続日本紀には712年の古事記完成は書かれていません。
序文以外に成立年代を示すものが無い古事記。

408 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/08(日) 11:58:15
>>405
古代マヤ文明も多数の暦法だよ。それを当時の中南米ではそれらを
並行して行使してたのだ。これはその暦法の2種(だろう?)を今の
現代でも中南米では並行して使用している。なにも日本だけでは
ない。2種とはツォルキン暦とハアブ暦法だ。他にも多数の別の
暦法がある。

それを考えたとき、当時の日本も数種の暦法を並行混在させて行使
していたと観てもおかしくはない。だから記が紀と崩年が合わない
わけだよ。各暦を交雑させざるを得ない状況だったのだろう?

紀の編者連は、欠史八代間は当時天皇の没年を3倍暦法にてそれが
最も信用できるとして、紀に崩御年月日を記載している。だから
八代間の天皇はその死亡日が総て月上旬の1日〜10まで全部収まる。
11日以後死んだ天皇はいない。これは天皇没年に関しては3倍暦で
やっていたということである。しかもそれは朝廷の内部でのやり方
だろう? ところがそれ以外の八代間の紀の記事はすべてが
1日〜14日までの2週間に収まっており、15日以後の記述は無い。
これは当時天皇以外の出来事を、1ヶ月が2週間しか存在しない
2倍暦法でやっていたということになるのだ。一般の人民は通常の
暦法たる1倍暦であったろう? だから少なくとも当時は3種の
暦法を並行して畿内では使用していたのだ。

409 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/08(日) 12:01:47
>>408 訂正 下から4段目

× 天皇以外の出来事
○ 天皇の崩御日以外の出来事

410 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/08(日) 12:07:41
>>405
紀が記の崩年を書かなかったのは、自動車会社が旧車の不便を改正
し新車を販売するようなのと似たようなものだ。記のそこが旧車で
あり、紀の年代とかが新車だよ。紀の8年前に記が出来たんだから、
記の不合理を舎人親王らは厳しく検討吟味したろう。だから旧車
の特徴が消えてるように、紀には記の崩年が書かれてないわけだろう。

411 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 12:13:56
今の西暦の一年が365日っていう基準を
疑いもせず最初っからかたくなに信じ込んでるヤツが
頭の固すぎるバカなんだよ

月の暦だが
いわゆる旧暦っていうヤツが今の暦に平行して使われてたのは
ほんの50年ほど前だぞ
数えの年と満年齢が混同して平行して使われたのも
ほんの50年ほど前

412 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 12:56:38
デブ国さま、お友達がいらしてるようです

413 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/08(日) 13:07:19
>>402
私は、複数の暦を提唱しています。
書紀=1章(19年7潤)*n回の加増が各天皇に含まれている。
古事記=孝昭元年より加増される事無く記録される。

ここで問題となるのが 二つの暦の干支が重なる事 此れでは、正確に分類できなくなる。
そこで書紀は、各天皇の加増分を含めて「古事記の暦」とある程度の開きを取ることとなる
そうすると垂仁治世99年等前後の天皇と大きく違うところが出てくる.


414 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 13:12:39
ヒ、ヒミコタン・・・・・・・・


415 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/08(日) 14:13:58
古事記の干支は、西暦93年を丙寅年とし 加増される事無く使われた.
3流資料「墓標」も皇暦に合わない干支は合せてみる価値がある。


416 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 19:16:25
>継体天皇について『古事記』が43歳で死亡したとするのに対し、『日本書紀』が82歳死亡としており
>二倍年暦と一倍年暦との混同がある
古事記の雄略は、百二十四才だ。日本書紀は二百四十八才になっていたか?
少しは考えて書けよ。


417 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/08(日) 19:33:07
>古事記の雄略は、百二十四才だ。
其のとおり 雄略の死亡年齢124歳には、秘密が隠されている
書紀が神功、応神、仁徳で引き伸ばした数字を
古事記では、雄略が引き受けている。


418 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/08(日) 19:52:19
雄略を倭王武とする為には、
雄略没年を継体即位直前に持ってくる必要がある。
其の為にも124歳は必要である。

419 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 22:08:06
雄略は倭王武ではない。古事記にはそう書いてあるそうだ。


420 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/09(月) 19:06:55
古事記の雄略は、百二十四才を分解すると
若くして即位した雄略治世23年で崩御とすれば、34歳死亡此れに?の60年を加える
干支1順狂っているか?此れに天皇たる地位に30年の追贈、これで124才。

継体への追贈は、40年。


421 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 23:34:34
雄略天皇崩御は489年です。

422 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 01:46:38
>>420
そのとき、そのとき、あれこれ足し算してたら、どんな数字でも作れるな。

423 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/10(火) 10:51:49
倍暦計算で

 雄略天皇 崩御=493年(実年代)

424 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 18:43:15
雄略天皇時代よりふるいのでは?

425 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/11(水) 19:37:22
>>424
なにが?

426 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/11(水) 20:03:43
>>422
書紀、古事記の数字は、足し算で考える事。
>>420訂正
×継体への追贈は、40年
○雄略への追贈は、40年
古事記の継体43才は生で使える 書紀は、追贈40年。


427 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 23:44:09
記紀の「神功記」の時代は、中国や朝鮮の歴史書と照らし合わせれば
朝鮮出兵として残ってる記録と重なる。朝鮮のほうには神功と並んで名前が
出るスクネの息子のソツヒコが5世紀前後に出てくるから、まあ時期に間違いなかろ。

ちなみにソツヒコ=スクネ説もある。神功は実在したとしても邪馬台国と
時期が後なのは歴史書を照らし合わせれば間違いない。だから理論的にも
九州の隼人征伐(実際にあったとすれば)、せいぜい4世紀半〜。

428 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 02:00:28
>息子のソツヒコが5世紀前後に出てくるから、
ソツヒコなんて一言も出てこんよ。

429 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 06:56:15
ソツヒコの墓とされる
奈良県御所市の室大墓は宿禰の墓の可能性もあるのか・・・

430 :歴史はミステリー:2009/02/12(木) 10:49:10
魏志倭人伝の著者ないし中国からの使いは九州北部のある地点までは来たが
その先は現地の人間からの又聞きでお茶を濁した。
ということは「南ではなく東だった」とか里数を総和すれば九州の南方の海
のなかに沈む、とかの議論は不毛で、嘘と本当の入り混じった話のどこに
真実があるのか、を読み解くべきではないか?

431 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 12:04:15
邪馬台国が高千穂で
行程には問題は無いよ
宮崎全部で7万人位住んでたというのも西都原遺跡とか見れば問題無いし
考古学的にも問題無い
後は卑弥呼が誰かだけど、神功皇后が有力
年代が違うなどは妄言だから

432 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 14:39:54
なんと!卑弥呼が神功皇后!妄言と言うよりアホ・馬鹿・間抜け・愚か者ですね。

433 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/12(木) 18:43:04
何度も言うが、百濟肖古王=近肖古王なんですよ。
だから今の百済本記と数字を合せても仕方ない。
百済本記と新羅本記が対応していれば信じられるだろうけど、合わない。


434 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/12(木) 19:01:53
五十二年秋九月丁卯朔丙子 久氐等從千熊長彦詣之 則獻七枝刀
五十五年 百濟肖古王薨
六十二年 新羅不朝 即年 遣襲津彦撃新羅 【百濟記云 壬午年

52年の七支刀は、皇暦では無い
55年の肖古王薨は、年の干支は合わないが この年の正月癸丑朔の部分で213、374年と皇暦がほぼ合う。
62年百濟記の云う壬午年は皇暦。

書紀編纂時使われた百濟記は、皇暦に変換されていた可能性がある。


435 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 21:48:24
>>431
高千穂として、水行とはどこぞや?

なぜ陸路ではなく、わざわざ船に?

西都原も墓はあるが、ただそれだけという…w

436 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 01:08:48
高千穂は地の利を考えたら無理がある
西都原−宮崎平野-青島あたりはひとかたまりって考えたほうがいい
ここは7万戸でもまったくおかしくない
土地は温暖で肥沃
海路も陸路もある

神武の神話も多数残り
青島神社には神武の祖父山幸彦が祭られ
南洋植物の原生林がこの何千年ものあいだ生えている


437 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 04:34:36
邪馬台国の知識階級は、当時の中国語を「話す・聞く・書く」ことができた
と考えてもいいのですか、先生?


438 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 07:00:18
>邪馬台国の知識階級は、当時の中国語を「話す・聞く・書く」ことができたか?
先生ではないが一言。無理だろうな。だから、通訳を置いたはずだが、細かいことは
通じなかったと考えられる。
倭人伝が伝える、倭の気候、木の種類、いなかった動物、倭人の生活ぶりなどは、通
訳を介しての伝聞では到底書けるものではない。使者一行が直接に体験、観察したこ
とを書いていることが明らかだ。

439 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 12:08:31
卑弥呼(しなタラシ姫)は早くに
亡くなっていたのだろう
だから館はなるべく人の来ない奥地がいい



440 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 12:15:18
そうしたら魏の使者が来て、会いたいなんてぬかすから
仕方なく崩御を教えてやったんだろう
墓は西都原古墳

441 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 12:23:56
その後、後継争いが起り
名門しな一族から
とよタンを立てたという


442 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 12:26:35

トヨタン・・・・・・・・・・


443 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 19:02:05
マンガですか?


444 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 19:14:50
日本書紀より百済本紀とか
白偽本紀とか信じてるなんてほんきかよ〜?

445 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 19:50:33
奈良辺りにあった秦王国って、邪馬台国になったの?

446 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 20:11:43
あほぅ、秦王国は、豊前だよ。

447 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 20:21:26
馬鹿め!秦氏は伏見稲荷だ!

448 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 21:34:45
ドンダケ無知ダヨー
石見だろうが


449 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:15:30
箸墓がトヨで、西都原が卑弥呼。

久慈の本に書いてあった

450 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:16:18
箸墓がトヨで、西都原が卑弥呼。

久慈の本に書いてあった

451 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:22:16
西都原が卑弥呼で東国原が夜這いをかけた。
十分ありえる設定ですね。

452 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 10:28:50
井沢元彦は最近、
「元々九州にあった邪馬台国が、卑弥呼の時代か死後すぐに畿内に移動した。
箸墓は卑弥呼の墓」と言う説になっている。

453 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 10:58:41
それそれ、それでいいんじゃないのか?

454 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 12:27:29
その移動なら、やっぱ北九州はないな南九州で天皇家の祖先の血族だよ

455 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 14:03:19
>>452

その考えで行くなら、
卑弥呼が共立されたときに、九州から畿内を邪馬台国連合とするのがスジだろ。

井沢は本当にバカだな。


456 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 14:21:45
卑弥呼が死んでその跡目争いに大和が勝ったということだろう?

457 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 16:35:48
卑弥呼の墓は円墳でしょ、どうやっても。
箸墓じゃねーよw

秦王国は明らかに中津・宇佐・国東辺り。
秦氏:宇佐⇔岡山  
ここで間違うから偽説が出てくる。



458 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 17:00:26
秦王国は、紀伊水道の徳島や淡路島。
あの辺りは人の移動が少ないから井までも秦人の子孫が住んでいる。


459 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/14(土) 17:04:42
西都原で鬼道を事としていた神社はありますか?


460 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 17:09:14
当時の魏では、儒教以外はすべて鬼道だったのに・・・

461 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/14(土) 17:35:45
>>406
>継体天皇について『古事記』が43歳で死亡したとするのに対し、『日本書紀』が82歳死亡としており
>二倍年暦と一倍年暦との混同がある

日本書紀は「或本云。天皇廿八年歳次甲寅崩。而此云。廿五年歳次辛亥崩者。取百濟本記爲文。」とあり
本来の享年は85歳。ほぼ2倍となる。

>>416
>古事記の雄略は、百二十四才だ。日本書紀は二百四十八才になっていたか?

日本書紀では允恭天皇七年に雄略誕生とあるので62歳。
しかし雄略は粗暴な性格から、(当時としては)長生きしたのは疑問が大きい。
古事記を参考にすると441年誕生、489年没で49歳となる。
ただ502年に梁から一方的に「征東将軍」に進められたとき、生きていれば62歳。
これと関係するか。

462 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 17:45:12
>>460
儒教以外ではなくて朝廷が認めたモノ以外はすべて鬼道だったのじゃないか

463 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 18:12:56
秦氏は伏見稲荷だって!嘘つきはスズメの丸焼き食わすぞ!

464 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/14(土) 20:08:58
奴婢千人を従える神社の巫女=斎王
このレベルの鬼道じゃ〜。


465 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/14(土) 20:35:05
禁断の資料「墓標」を解読すると
継体は、489年生まれ492年に父親死亡 531年辛亥の死亡で43才。
父親の死亡年は動かないので継体が幼年の時父親死亡であるから
それほど動かせない。

雄略と武列は書紀に書かれた内容が悪い部分で重なる。
実34才+60+追贈30
この「60」は書紀の神功〜仁徳87年の延長された73年に相当する物だと思います。
此れ以降古事記干支も中華の干支に合せる。



466 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 21:35:15
>>457
邪馬台国の位置について使者が実際に同行しているにもかかわらず
あんな無茶苦茶を書く魏志が、
見てもいない卑弥呼の墓の形態を正確に把握していたとでも?
倭では王が死ぬと円墳を築くらしい、と聞いて
適当に書いちゃったのかもしれないよ。


467 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/15(日) 09:57:44
>>461
>ただ502年に梁から一方的に「征東将軍」に進められたとき
 生きていれば

梁書 巻五十四 列伝第四十八
「扶桑国齊の永元元年、其の国の沙門慧深有り、来りて荊州に至り、
 説いて云う。『扶桑は大漢国の東二萬餘里在り。地は中國の東に
 在り・・・・・国の王を名づけて乙祁(オケ=袁祁=顯宗天皇)
 と為し・・・・・嗣王立ち三年国事を視ず・・・・・』・・・・・」

上の > は雄略天皇を倭の五王の一人と観ているのですか?
ならば502年とは 永元元年=499年 の3年後ですから、倍暦計算にて

 永元元年=499年=顯宗即位元年

のため、502年の時点で雄略は崩御のすでに後でして、同計算から
502年は兄の仁賢が即位した年です。だから「征東将軍」は生きて
いないため雄略天皇ではありません。生きていればの仮説は成立
しないと思います。

468 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/15(日) 11:57:14
>>467
もちろん、502年で雄略は生きていなかったと考えています。
ただ62歳(倍暦124歳)の享年が合わないので悩んでいるわけです。
489年没で427年生まれとすると、父の允恭天皇は12歳となり、これは有り得ない。
允恭天皇7年誕生という書紀の記事を古事記に当てはめると441年生まれとなる。
死後の昇進を後で知り、享年を伸ばしたのだろうか?
太国さんは雄略≠武ですから賛成しないでしょうが。

469 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 12:47:45
NHKの特集では
偉大な女王は卑弥呼でなくトヨの方なんだそうだ。
鉄の精製に成功した出雲の王が大和まできて、トヨと結婚。
クレオパトラのように誘惑した模様(ここはNHKでは指摘されなかったが、)
実質侵略だったみたいだが、結局力を持ったのはトヨの方。

自分の血の正当性をアピールするため、卑弥呼の偉大さを宣伝したのではと。

出雲大社に(出雲の王は文字が使えた)残ってる文章がこれだそうだ。
現在トヨと卑弥呼の墓らしきもの発掘中。

470 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/15(日) 13:07:00
>>469
>これ

この「これ」ってどんな文献なんだろう?

471 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 13:45:10
TVだから名前は覚えてないけど、出雲大社に納めてある古文書。
ある程度研究が進んでいるので、何かで見る事はできるんじゃないかな。
その辺は詳しくないので、ここの住人の方が詳しいかと。
それをもとに古墳を発掘してるので、見てみる価値はあると思う。
NHKが特集をやるということは、それなりの確証があるかと思う。

472 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/15(日) 13:54:41
出雲王が文字を使えたんなら重要だから、参考になることを思い出せ
ば、書きこみをよろしく願いたい。

473 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/15(日) 13:59:46
>>469
クレオパトラは大袈裟でしょ。司馬一族を誘惑したならともかく。
司馬氏は卑彌呼を厚遇したが、壹與は利用価値無しと見て冷淡になったように見える。
晋書四夷倭人伝では「及文帝作相、又數至。」とあるので壹與は熱心にラブコールしたが
司馬昭は相手にしなかったらしい。

474 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/15(日) 14:03:27
469、471さんのおっしゃる出雲の古文献の名とか内容等〜お知りの
方は差し支えなければ書きこみをよろしく願いたい。

475 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 14:06:23
>>469
>NHKの特集

いつ頃の放送?

476 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/15(日) 14:10:01
>>472
>出雲王が文字を使えたんなら重要

松江市の田和山遺跡では楽浪郡のものと推定される硯が発見されています。
ただ、日本では実際に字を書いたのかどうかは疑問のようです。


477 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 14:18:45
島根県 出雲大社近くの書嶋の石窟で発見(現存場所不明)。
高知市天神町にも伝来され伊勢神宮にもこの書体で書かれた
奉納文あり。竹内巨麿氏の『神代の万国史』による古い伝承に
よれば、この文字は“トヨノ文字”と呼ばれイザナギノミコトより
何代も前の豊雲野天皇によって創られたと伝わる。

http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/photo/izumo.jpg

478 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/15(日) 14:35:52
ホ34207 イヅモはカミの ミチのモト ヤオヨロフミを
かくしをく のちのサカエを をもわんや

崇神末頃出雲には種種の文章が蓄積されていた。


479 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 15:20:00
>>477のバカに誰かツッコミ入れて。


480 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 15:26:54

トヨタン・・・・・・・・・


481 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/15(日) 15:30:04
>>477
誰がいつ発見?
現存場所不明とはどういうことでしょう?
これがNHKで放送されたのですか?


482 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/15(日) 16:01:38
ホ28404 そのフミを こえとさづけず まかるのち アマノタネコは このフミを ミカサにこめて
キミのトモ ナガスネヒコは そのクラを ひそかにあけて うつしとる

神武以前から文字はありました。



483 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/15(日) 16:37:30
各位に感謝!

唐松山さん
そのホツマの言う文字とは漢字なのか、神代文字なのか?
また岩盤文字なのか?〜前後の記述で判明しませんかね?

484 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 22:59:11
ホツマならホツマ文字でしょう

485 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 21:24:34
ホツマと魏志倭人伝と記紀てどこが違うの?



486 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 22:39:29
ホツマは新しく出てきたが、一番古いと称している。信じるかどうかはあなた次第

487 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 22:41:48
現在の歴史の教科書に載っているかどうかの違いです。
既成観念にとらわれない欧米の研究者の目で見ると、
歴史的価値はホツマが一番高いかもしれません。

488 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 22:54:52
>>452 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 10:28:50
>井沢元彦は最近、
>「元々九州にあった邪馬台国が、卑弥呼の時代か死後すぐに畿内に移動した。
>箸墓は卑弥呼の墓」と言う説になっている。

井沢さん、苦しくなってきたな...


489 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 23:42:04
他人の尻馬に乗って妄想ばっかりしてるからボロがでるのさ。


490 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 23:46:16
井沢はいいんだ、井沢は…

問題はその中で対談している森だろうwww

491 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 07:16:47
対談の時には口がすべることもあるだろう。まともに書いたものを読まないとな。

492 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 13:56:16
>>491
苦しい言い訳だな。
対談だろうがなんだろうが、人に読ますためのものだろう。
彼がそういう説になった事には間違いない。

493 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 20:05:16
>>491
まあ「口が滑った」と言うのは無理w
以下問題のムック本(p31)より…

 井沢 なるほど。宮内庁では、箸墓の被葬者を倭迹迹日百襲姫としていますが、
     誰の墓と考えますか。

 森  二つの見方があります。
    一つは、卑弥呼そのもの。
    その場合は九州で死んで遺骸を大和に持ってきたとする説と、
    大和で死んだとする説が成立します。
    どちらにしても変死らしい。

 井沢 私は殺されたと思っていますが。

 森  その可能性もある。
    もう一つは「魏志倭人伝」に書かれている壱与という女王。
    台与とも読めますが。

…この板で一応畿内説の立場とっている俺ですら衝撃的ですたwwwwwwwwwwwwww
 



494 :493:2009/02/17(火) 20:15:08
まあ学者が自説を変えるのは何も悪いことじゃない。
むしろ過去の自説にこだわるほうが問題だろう。

特に考古学の場合新しい発見があれば
それまでの前提条件そのものが覆るんだし…

とは言うものの、九州説論者にとってこのビッグネームのこの発言の衝撃は
如何ばかりの物だったかwwwwww



495 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 20:36:18
最近、畿内と聞くだけで煽ってくる
九州説論者見かけないな?

496 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 20:52:56
卑弥呼の正体はメーテルだった
永遠に地球の繁栄を見守る運命の女

497 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 21:12:55
>>490>>493
>俺ですら衝撃的ですたwwwwwwwwwwwwww

全然衝撃的じゃないっすよ。
森浩一先生は、すでに昭和61年発行の

『日本の古代 5 前方後円墳の世紀』(中央公論社)

の中で、箸墓古墳が卑弥呼または台与の墓となる可能性ありってこと
肯定的に述べてるっすよ。
もう23年も前っすよ。

498 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 21:16:45

トヨタン・・・・・・・・・・


499 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 21:21:35
>>497  そうだね。
森浩一は、若い頃から箸墓を最古級の古墳として3C末頃になる可能性を認めていた。
一方では椿井大塚山は4C後半としていたようではあるが。

彼は初期の古墳を3C末頃から4C末頃までの長期間で編年していた。

500 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 21:22:48
いやむしろ
大家の森浩一が箸墓古墳が卑弥呼または台与の墓となる可能性ありって言ったから
学会が右に習えなんじゃないの?

501 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 21:35:11
>>457
箸墓は元は円墳だった可能性が高い事が最近の発掘調査で分かったらしいけど…。
その辺はどうなの?

円墳を増築した跡(つなぎ目)が見つかってるんだけど。

502 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 21:37:20
関裕二の説も斬新ですね。
大和は吉備で、祟神天皇が神武天皇を九州から大和の三輪山に
向かいいれたとしている。
つまり初代とされる神武天皇と10代祟神天皇は同時代の人であり、
欠史8代とは、初代神武天皇の祖先、つまり出雲神話だったのだ。

これで全ての謎が解けた!

503 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 21:48:53
邪馬壱国は公孫氏の分国の投馬国=安羅国。
王家は卑弥呼、壱与に始まり、後に新羅と共に任那を滅ぼした。

504 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 21:50:10
卑弥呼は役職名で何人もいるから、そのうちの一人の墓とすれば問題ない。

505 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 22:23:26
関裕二は頭悪すぎて論評する気にもなれん。

ろくな知識もなく、妄想を広げてるだけだし。



506 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 23:08:40
★周りに百人埋まってる3世紀の女の円墳★



507 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 23:24:02
>>502
関裕二とかいってるやつは既知外

508 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 03:41:18
>>501
どこの世界にそんなマヌケな報告があるんだよ

509 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 12:27:39
仕方が無いなあ再度整理しておいてあげるから
卑弥呼は息長タラシ姫
壹與は息長マワカナ姫
弟は息長ヒコ王
ここで注意して欲しいのは
息長は「しな」と読む事
しなは越の国の名門中の名門
宇宙創世神の一族だ

510 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 13:37:56
卑弥呼は葛城族の日女命。
さらに妹の婿は祟神。卑弥呼から見て義弟に当たる。

葛城族の武内や蘇我が天皇並の力を持っていたのは、その為。

葛城には鴨氏の陰道がある。

511 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 15:14:28
>>497
…ひょっとすると俺は森浩一と言う男を
長い間誤解していたかも知れん。
彼もやはり考古学者として、
最新の研究成果を受け入れる事の出来る男だったんだな。

512 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 15:58:52
よくわからんけど、森浩一って変なこと言ってたの?

513 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 18:16:23
>森浩一

現在、例の黄金塚の紀年鏡の年代どう考えているのかねえ…?

その一点を知りたいなw

514 :卑弥呼:2009/02/18(水) 18:24:04
わらわはどこにもいて、そしてどこにもいない
わかるかえ?わかるかえ?

515 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 19:28:55
ついでに伝授しておくと
息長はしなで品とも書く
信濃の語源ともなってる
継体天皇もこの一族だ

516 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/18(水) 19:48:32
妄想ばっかりだな。ww

517 :よこ☆やり:2009/02/18(水) 20:31:35
>>516
突っ込んでいいか


518 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 20:42:16
>>517

犬国のようなリアル狂人に

 「お前のそれは妄想だ」

と言っても通じないよwww

519 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 21:03:56
なんだかこのスレを読んでいると
中川大臣のコメントを聞いているようで、
めまいがしてきました。


520 :中川(酒):2009/02/18(水) 22:35:53
あの〜、ふう〜、・・・・・・・・・・、どこだッ!・・・・・・・・・・、ヒック。。。。

521 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 22:50:29
>>513
森浩一は基本的には、古墳時代に出土するものは国産の可能性が
高いという方向性だね。

522 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 23:14:16
>>521
いやだから倣製か中国製かではなくて年代の話ねw

東遷説論者は年代と製作地の問題をわざと一緒くたにして
そこでよく森の名前を出すことが多いと思うんだがwww


523 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 23:20:18
森浩一は、△鏡は3世紀の国産という説なの?



524 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 23:31:39
箸墓が3世紀ならホケノの画文は当然3世紀(以前)

三角の出現は3世紀でも良いと言う事なのかな?

525 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 23:46:52
>>508
知らないの?

橿原考古学研究所へ問い合わせてみなさい。

526 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 23:49:46
森は△は(ほぼ全部が)国産としながらも、製造年代ははっきり書かないね。
国産で伝世も否定するので、基本的には古墳の時期に近接するという
ことになろう。

踏み返しも大半は国産という考えのようではあるが、この辺もはっきりしない。

527 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 18:57:33
>>525
できるよ。
以上。
↓次の方どうぞ

528 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 04:15:55
なにが?

529 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 06:34:44
なにが終止符だよ
卑弥呼どころか、魏志倭人伝の言う倭人が今のどの場所での
存在だったのかさえわからないじゃないか

530 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 12:09:31
!?卑弥呼は息長タラシ姫。墓は西都原。邪馬台国は高千穂
倭国は日本。日本書紀は正しい、酒は八海山で95%の日本人は納得
今は黒歯国の調査中

531 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/20(金) 12:31:34
>>485 ホツマと魏志倭人伝と記紀てどこが違うの?

ホツマ伝には、暦は神代に思兼がつくったと書かれている
書紀も太陰暦で書かれている が「長すぎる」
書紀の長さ=ホツマ伝の長さ←これを正常な太陰暦に直す。
書紀を正常な太陰暦に直せなかった学者達は、「ホツマ伝は偽書」で封印する。
ホツマ伝を認める=自分の無能を認める。という事。


532 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/20(金) 15:24:29
衝立船戸神
これなぞツキタツとは月立であり、新月から月が見えて行くことを
意味したものか? 「衝」は天体のオポジション(opposition)
をも示唆するか? 「合」(コンジャンクション conjunction)の
反対だな。月、日、地球〜直線列で考えるとよい。
船戸はフナ戸で二七戸にして 28日−1日=27日 のことか?
27日だと4週間だから 27 としたんだろうか? 戸は28日のところ
27日で仕切ることのようか?

時量師神
これも時間という暦の始原を決める名なんだろう?

533 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/20(金) 15:28:21
29日で考えれば、新月の日と満月の日の2日分を除いた27日の
仕切りを船戸(27戸)で示唆したものか?
ツキタツは結局 ツキタチ→ツイタチ(1日)となったんだろう?

534 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/20(金) 17:16:52
>>532 訂正
27日は4週間−1日です。

535 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/02/20(金) 22:28:03
卑弥呼=息長タラシ姫??

証拠をだしなさい〜しょーこを・・

536 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 22:52:17
丸墓山古墳・・さきたま古墳公園にある日本最大、直径105mの円墳。
鉄剣で有名な稲荷山古墳を見下ろす。これが蝦人の女王卑弥呼の
墓ではないだろうか?

http://www.uraken.net/rail/tra3/travel-urabe103b.jpg

537 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 00:18:49
>>536
出土した埴輪から6世紀前半ころと推測されているらしいから、無理がありすぎるんじゃないかな?
3世紀中に古墳をつくって6世紀になって埴輪を置いたってことになる。

538 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 08:19:38
>>535
日本書紀の年代設定が卑弥呼=神功皇后だ。
皇后は仲哀が死亡した後は独身→年已長大、夫婿なし。
皇后は神の言葉を聞いた→鬼道を事とした。
皇后には息長日子王という弟がいる→男弟あり、佐けて国を治む。


539 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/02/21(土) 09:17:38
>日本書紀の年代設定が卑弥呼=神功皇后だ。
>皇后は仲哀が死亡した後は独身→年已長大、夫婿なし。
>皇后は神の言葉を聞いた→鬼道を事とした。
>皇后には息長日子王という弟がいる→男弟あり、佐けて国を治む。

んじゃあ、 卑弥呼=神功皇后で決まり?! みなさん反対の意見はないのかな?


540 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 09:30:52
>>537
丸墓山古墳は、さきたま古墳群の前方後円墳とは明らかに異質で
6世紀に作られたという説には同意しかねる。
むしろ、丸墓山古墳が一番古く3世紀以前に造営され、その後は司祭場として使われて
いたと見る。
その古墳を囲むようにして、前方後円墳が作られていったと推測される。
ちなみに、さきたま古墳群の前方後円墳はみな北北東を向いて造営されている。
その先にあるものは宇都宮二荒山神社であり毛野市の勢力下にあったことが伺える。
そしてその線を南南東側に延長すると富士山にたどり着くことは、ほとんど
知られていない。
つまり、邪馬台国は狗奴国(毛野王国)の南、富士山にあった。

541 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 09:45:55
>>540
異質だったら即古い、て事?
単に文化の違いを示すだけで時代の違いまでは分からない。
3世紀だと言う具体的な考古学的資料でもあるの?

542 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/21(土) 09:47:28
>>538

 卑弥呼≠神功皇后

卑弥呼は、神功とは120年ばかり年代がズレており、卑弥呼のほうが
古い。神功は卑弥呼より後代である。

543 :アラタメ:2009/02/21(土) 10:36:15
<邪馬台国は九州>
(A)そのまま消滅(九州・九州王朝説)。 (B)大和朝廷になった(東遷説)。
(C)大和朝廷に滅ぼされた(西進説)。
<邪馬台国は畿内(畿内説)>
(D)そのまま消滅。(E)以後、大和朝廷になった。(F) 大和朝廷に滅ぼされた。
<その他>
G 九州、近畿以外の地域に在った。 H 邪馬台国など初めから無かった(幻説)。

太国さん・・・A 九州説で倍暦を唱える。記紀の系図を信じ卑弥呼は祟神天皇の時代。
唐松山さん・・・B 『ほつまつたゑ』を信じ、 卑弥呼は景行天皇時代。
愛知県民さん・・・B 畿内説⇒九州説。宇佐の比売大神やら万幡豊秋津師比売 などを調べる。
河童虫さん・・・B 漢字に強い人。倭人伝の解読に取り組む。東遷説。
サガミハラさん・・・A 邪馬台国は佐賀県小城市甘木で小城公園内桜ケ岡が卑弥呼の墓。著者。
美濃もんたさん・・・G 岐阜の山に伝わる伝承、弁韓(百済、任那)の弥鳥邪馬国などを調べる。
ローガンさん・・・F 数少ない畿内説。
九州王朝大好きさん・・・A 九州王朝説を信じる人。
記紀きりんさん、 出土地不明さん、銀河 秋彩さん、名無しさんはどこですか?

544 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 10:44:52
番付でいえば.....こんなかんじかな?

横綱 太国さん
大関 唐松山さん、愛知県民さん
関脇 河童虫さん、サガミハラさん
小結 美濃もんたさん、ローガンさん、九州王朝大好きさん

議論するなら、この中の誰を相手にしますか?w頑張ってww

545 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 10:54:12
前頭忘れとったww

横綱 太国さん
大関 唐松山さん、愛知県民さん
関脇 河童虫さん、サガミハラさん
小結 美濃もんたさん、ローガンさん、九州王朝大好きさん
前頭 記紀きりんさん、 出土地不明さん、銀河 秋彩さん、名無しさん

議論するなら、この中の誰を相手にしますか?w頑張ってww

546 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 11:46:22
>>544-545
アホ・馬鹿・間抜け・愚か者の番付け。特に横綱!

547 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 12:10:07
魏志倭人伝の邪馬台国に関する記述は、
邪馬台国が九州にあったころの伝承と
大和に東遷した後の報告とを混同して書いている。
これが混乱の原因だと思われます。
つまり、神武東遷は3世紀の出来事だった。


548 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 12:13:23
>丸墓山古墳は、さきたま古墳群の前方後円墳とは明らかに異質で
>6世紀に作られたという説には同意しかねる。
>むしろ、丸墓山古墳が一番古く3世紀以前に造営され、その後は司祭場として使われて
>いたと見る

推論や妄想は誰でも勝手にできるんだけど、他人を説得するには
証拠を出さなくちゃいけないのよね

549 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 13:49:20
ではなぜ、丸墓山古墳だけが前方後円墳ではないのか?
大和朝廷によると東国支配の歴史を考えればわかる。
丸墓山古墳は、この地方が大和に支配される前の大王の墓だからだ。
6世紀になって円墳を造営する意義があるのでしょうか?

550 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 13:59:47
いやだから
証拠というのはそういう推測や推論や妄想じゃなくて
具体的な裏づけがないといけないのよ
じゃあ3世紀のものであるという土器でも出てないと
お話にならないっていうこと
現状
>出土遺物の形式から築造年代は6世紀の前半
とみなされているのだから
せめて3世紀までさかのぼれる何かがないと


551 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 14:00:32
丸墓山は人物埴輪が出てるそうだから
3世紀以前説は無理

  糸冬  了

552 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 14:27:41
3世紀に既に存在していた円墳をその後この地を支配した大和の系の王が
司祭場として利用し、埴輪を埋めたのとしても不自然ではない。
前方後円墳群の中に、一つだけ、しかも、この地最大の前方後円墳より
高い円墳があることのほうが不自然です。
6世紀になって円墳を造営したという証拠でもあるのですか?

553 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 14:39:00
120年のずれとは何言ってるか分からんが
七支刀が西暦250から270年として問題無い


554 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 14:43:10
この地には、縄文・弥生時代から大きな国があった。
丸墓山古墳は大和の影響を受けて前方後円墳が
造営されるようになる以前の大王の墓。
この古墳は、まだ、石室の発掘調査が行われてい
ないようですが、古墳時代の土盛の下から、さらに
古い時代の遺跡が発見される可能性が高いと思わ
れます。発掘調査が待たれます。

歴史とは、繋がっているものです。今発見された
ものだけがすべてではないんですよ。


555 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 14:50:20
>>554
いまのところ丸墓山古墳=3世紀を示す証拠物件はなにも無い、ということで合意できます。

556 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/21(土) 14:56:49
>>553
七支刀は 468年(=泰始4年)

557 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 15:24:16
>>555
確かに発掘が進まないことには、証拠がないといわれてもどうにもなりません。
しかし、この地に3世紀以前から大きな国があったことまでは否定できないし、
前方後円墳が宇都宮二荒山神社のほうを向いていて、ここが狗奴国の支配地
だったことは間違いありません。
この古墳は、狗奴国の南、つまり富士山の噴火で壊滅した富士王朝こそが
邪馬台国だったという仮説を立証する上で、将来、重要な証拠になると思います。

558 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 15:49:24
>>557
いやだからさあ
なんべんも書いてるけど
せめて3世紀(卑弥呼の世紀)の土器が
出土してから何か書かないと
トンデモって言われちゃうだけ
くやしかったら土器を探しに行って見つけてきなさい

559 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/21(土) 15:58:23
さきたま古墳群は周りの古墳群に比べて造営年代が遅い
ここに作為を感じる。

大彦命から7代を繋いでも雄略まで辿り付かない、やはり作為を感じる。
大彦命から7代を繋ぐと、日本武尊の子ワカタケルで丁度7代
秩父山東山麓は日本武尊が関東平定の時武士団に下賜した土地。


560 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 16:08:04
う-ん
あの作為感じるとかそりゃキミの勝手だから
勝手に作為感じてりゃいいんだけど
それを他人に説明できるように
ちゃんと土器を探しに行って見つけてきなさい

561 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 16:09:00
>>558トンでも説といわれることを恐れては、大胆な仮説は立てられません。
もっと信念を持って古代史と向き合ったほうがいいです。
証拠がないから嘘だと決め付けてしまっては、一歩も前へ進めなくなる。
古代史は、自分に都合の良い証拠が全部そろっているわけではないのです。



562 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 16:21:02

卑弥呼=クレオパトラ

どうだ!

563 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/21(土) 16:27:05
大彦命の孫 磐鹿六雁が活躍した時代は卑弥呼の時代と重なる
当時の関東 さねなし相模 ←歌枕で判る様丹沢東麓は不毛の地
相模平野への入植地は少ない、この地を避け各地に入植
当時の民にとって住みやすい場所は、山を背にしたあまり大きくない川のほとり
出雲祝神社のある辺りも候補地、さきたま古墳の近くにはサヌカイト(ポンポン山)もカナサナも近い
中心地とみれば回りの古墳群より時代を下げられない。


564 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/21(土) 17:05:44
>>543
アラタメさん
私はBではない。AかC、どちらか難しいところ。
私は景行の九州遠征を4世紀初めと見ていますが、この時代は晋が衰え、
中国の混乱が始まった時期です。
後ろ盾を失った邪馬壹國も覇権を失い、再び九州大乱へ。
景行遠征時、既に邪馬壹國連合は存在しなかったと考えています。

>>559
唐松山さん
意富比[土危]=大彦命ではないように思われます。
「上祖、名はオホヒコ」という書き方から見て、超有名人ではないでしょう。

565 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 17:06:23
では、この地、つまり丸墓山古墳のある行田市から宇都宮の二荒山神社付近を
支配していたのは誰か?実は心当たりがあるのです。それは祟神天皇の御子
豊城入彦です。そして、さきたま古墳郡と二荒山神社をつなぐ線上には、気になる
場所がいくつかあります。
天香香背男命を祀る三毳山(佐野市)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征
伝説の残る出雲伊波比神社(毛呂山町)、つまり、この地域は、ワケ王朝と深い
繋がりがあったことが伺えます。
丸墓古墳とは三輪山、御諸山だったのではないでしょうか?

566 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/21(土) 17:22:05
>>565
私は詳しくないですが、豊城入彦とオホヒコが同世代とすれば「雄略まで辿り付かない」
矛盾は解消しますね。

567 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/21(土) 17:31:31
稲荷山鉄剣の銘文とその系譜は、七支刀銘文の 泰始4年=468年
の3年後の471年(辛亥)として七支刀を意識してその数字の七から
七系分を抽出したものであり、大彦の時代から471年までの人数は
系譜上では少し不足しているのをあえて、強いて鉄剣銘文作者が
そのまま七系で強行したもの。

568 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/21(土) 17:34:04
>>567 なお倍暦計算で

 468年=安康元年:七支刀
 471年=雄略元年:稲荷山鉄剣

569 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 17:40:17
七支刀銘文といえば、甕星香々背男、北斗七星信仰、妙見信仰に繋がる。


570 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/21(土) 18:04:41
七星剣なら、西遊記 蓮花洞の説話に出てくる。そこにお稲荷さんの
狐阿七大王とかいうのが登場する。

571 :唐松山:2009/02/21(土) 18:47:03
タカハシはどうします?
高橋神社=六雁を祭る。


572 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/21(土) 19:14:38
それから カザハヨ 風早国はタケヌガワ以来の土地


573 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/21(土) 19:23:42
神功41年【千熊長彦者 分 明不知其姓人 一云 武藏國人 今是額田部槻本首等之始祖也 
百濟記云 職麻那那加比跪者 蓋是歟也】

千熊長彦が武藏國埼玉に居たとしたら、その先祖は、毛国(群馬)で其の先祖は長野千曲川か。


574 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/21(土) 19:52:09
七支刀銘文が 泰始4年=468年で吉祥句
7代に足を付けたら 何処にでもこじつけられる
太国さんの編年は其の程度の物、と言うことですか。


575 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/21(土) 19:55:27
>>574
銘文をヨク読んでみな。

576 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/21(土) 19:58:12
その銘文とは稲荷山のほうだよ。ww

577 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/21(土) 19:58:45
>>571
>タカハシはどうします?

鉄剣銘に「世々為杖刀人首奉事来至今」とある。
料理人ではなさそう。


578 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/21(土) 20:01:33
「其児名加差披余、其児名・・・・・」

これは系名が加えたり差をとったり、本当はまだ余りの名があると
いうことだろう?ww

579 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/21(土) 20:08:02
>>572
>それから カザハヨ 風早国はタケヌガワ以来の土地

武渟川別命は大彦命の子ですが?
武渟川別=多加利足尼ということですか?
私はこの「多」は「名」の誤読で「加利足尼」ではないかと思います。

580 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/21(土) 20:17:51
>>578
>「其児名加差披余、其児名・・・・・」

この「余」は一人称とするのが適切では?
余はその子、名はヲワケの臣。

581 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/21(土) 20:18:55
>>577
料理人高橋は茨城?武蔵では無い
子供が多ければ分散するので 高橋の子供が杖刀人首として仕える事に
不信は無い。

稲荷山鉄剣に七支刀の事は書かれていない
七支刀 神功52年と安康元年の関係は何ですか?
暦に直してないので不明と言うのなら早く暦に直して下さい。



582 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 21:11:35
泰始4年は西暦268年だぞ〜
西晋の武帝の時代だ
南朝の宋と勘違いしてるぞ

583 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/21(土) 21:40:10
七支刀に書かれた 16丙午を吉祥句とすると
西暦368年や468年など 好きなところへ移動できる。
これが現在の実力で編年する見方
皆さんもみんなから認められる為には、大御所の言う事を良く聞く事。
西暦326年なら暦日で説明できるが こんな事を主張するのは私だけ。


584 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 22:08:34
祟神>豊城入彦>八綱田>御諸別>荒田別>竹葉瀬(たかはせ)。
この時期に大和仕込みの前方後円墳が造営されたことは間違いない。
だとすると、丸墓山古墳はいつ作られたのか?
紀伊国の荒河戸畔の娘の血を引く豊城入彦、紀伊国の荒河と
関東の荒川、紀の国と鬼怒国(狗奴国)。
これは偶然の一致ではないと考える。つまり、東国を支配していたのは
元々、紀伊国と同じ勢力だったのではないだろうか?
欠史8代とは、この勢力が大和を支配していた時代だったことと
日本書紀や古事記が東国を無視したこととは関連があると思われる。

585 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/21(土) 22:16:06
>>580
「披」はサクとかヒラクとかの意味で分割のことでしょう。
だからだいたいその文は加減乗除の意味を含んでいることを示唆して
いるわけです。だから系のうちにはデキの悪いのとかいいのとかが
いて、それを勘案して3年前の七支刀の七に則って7系としたん
ですよ。


586 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/21(土) 22:26:16
>>581
あなたはまるで蟻族がセッセと労働をやってるように、日数の
積み重ねから編年を目論んでますが、前も言いましたが労して功なし
ですよ。暦に直したけりぁあなたがそれをやってればいいことで、
こちらはそんなことメリットがあるんならやりますが、猿のオナニー
のようなことを貴方は聞く耳を持たず続けているようですが、拙者に
頼まず、貴方だけでその直すとかいう作業をやればいいことです。
拙者には何の益も見えませんので。こちらはもっぱら紀年の年代が
正確にわかればいいだけのことです。

587 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 22:32:41
泰始4年12月16日丙午正陽
泰始4年12月の朔は何だべか?

588 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/21(土) 22:37:24
>>581 下記から倍暦が合っていることに確信を持ちますが、
紀の神功52年の記事は、倍暦計算では370年でありますので、それは

 太和4年=369年

の1年前のことでしょう。七支刀の銘文では「和」のノギヘンがあり
ますから、通常の考察では銘文の■個所は「和」と考えて太和4年
だと確定するのがローガン氏のノギヘン教示からうなづくべき
ですが、ここん所は例外でして 泰始4年=468年 を製作者が黙示
した年代なのだと考えます。
それは3年前の 泰始元年=景和元年 という改元が重複しており

泰 景

始 和

ですが、これをナナメ(七目)読みをしろということなんですよ。
だから泰始でナナメでの泰和=太和を隠匿した銘文なのです。

589 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 23:24:42
そもそも七支刀とか
七枝刀と言ってるが
八握の剣を模しただ
見た事ないから適当
に作ってあるけどな

590 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 00:08:51
>>586
>これをナナメ(七目)読みをしろということなんですよ。


    (; д)  °°

流石は改めドツボのランキング1位だけのことはあるw

591 :これでどうだw:2009/02/22(日) 01:44:37
<邪馬台国は九州>
(A)そのまま消滅(九州・九州王朝説)。 (B)大和朝廷になった(東遷説)。
(C)大和朝廷に滅ぼされた(西進説)。
<邪馬台国は畿内(畿内説)>
(D)そのまま消滅。(E)以後、大和朝廷になった。(F) 大和朝廷に滅ぼされた。
<その他>
G 九州、近畿以外の地域に在った。 H 邪馬台国など初めから無かった(幻説)。

太国さん・・・A 九州説で倍暦を唱える。記紀の系図を信じ卑弥呼は祟神天皇の時代。
唐松山さん・・・B 『ほつまつたゑ』を信じ、 卑弥呼は景行天皇時代。
愛知県民さん・・・AC 畿内説⇒九州説。宇佐の比売大神やら万幡豊秋津師比売 などを調べる。
河童虫さん・・・B 漢字に強い人。倭人伝の解読に取り組む。東遷説。
サガミハラさん・・・A 邪馬台国は佐賀県小城市甘木で小城公園内桜ケ岡が卑弥呼の墓。著者。
美濃もんたさん・・・G 岐阜の山に伝わる伝承、弁韓(百済、任那)の弥鳥邪馬国などを調べる。
ローガンさん・・・F 数少ない畿内説。
九州王朝大好きさん・・・A 九州王朝説を信じる人。
記紀きりんさん、 出土地不明さん、銀河 秋彩さん、名無しさんはどこですか?

592 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 02:11:24
>>591
ようドツボ

593 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 02:44:29
>>591
畿内説は、大和朝廷になった、に絞られそう。

問題は、九州説の場所かも。
糸島半島という人もいるし、甘木もいるかな。吉野ヶ里もあれば、宇佐もある。
最近は、南九州という人もいる。阿蘇もある。八女もある。久留米もある。
鹿児島以外はほとんどが候補地かも知れないな。

594 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 08:27:00
>>593
加治木義博とかは今でも鹿児島説を唱えてるぞ。

宇佐説は実は方角と言う畿内説と同じ弱点を抱えてるのに
九州説として畿内説を「東と南を間違えるなんて考えられない」と言ってたりする。

595 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/22(日) 10:33:50
>>590
>>588を七目読みすれば 泰和=太和 になるでしょうが。w
それですよ。だから 泰始4年=468年=安康元年(倍暦) が
正解だということです。七支刀の銘文作者はナゾかけをやるリドラー
のようなことをするお人です。

596 : ◆.L.MXSPOgc :2009/02/22(日) 10:36:04
>>549
6世紀になって大陸から来た人だから。わざわざ日本独自の形にこだわらない。
墓の内部に絵を描いたりしたのも渡来人たちと考えられるし、この円墳もそんなものなのでは。

597 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 10:39:13
卑弥呼って当時どう発音したの?
この人がいるって書いたのはシナの人だよ。



598 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/22(日) 12:35:27
>>597
ペメハとか、ビミファとか言われているようですが
古代日本語だって分からないし、日本語を忠実に表記したのかも分からない。
難しい・・・

599 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 14:05:19
>>597
他の前方後円墳との位置関係から見て、開いている場所に後から円墳が作ら
れたのではなく、まず丸墓山古墳があってその周りに前方後円墳を造営して
いったと思わる。
なお、関東の古墳は、継体との関係が指摘されている。
今城塚古墳(大阪府高槻市)は存在する6世紀前半では最大級の前方後円墳。
最近の調査では、今城塚古墳は継体天皇陵だったという報告があり、この古墳
から出土した人物・動物埴輪を中心とする埴輪群像は、関東の古墳のモデル
となっているといわれている。
大和の支配が強まったこの時期に、日本一の円墳を造営する力を持った大王が
いたという説は到底信用できない。


600 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/22(日) 14:09:14
磯津山(貫山?)の榊に三種の神器をかけて景行天皇を迎えた「一國之魁帥」神夏磯媛。
彼女が卑彌呼・壹與の後継者ではなかったか?
「到豐前國長峽縣。興行宮而居。故號其處曰京也。」とあるから
邪馬壹國の都が京都郡にあった可能性も考えられる。
田油津媛の兄・夏羽も神夏磯媛の後裔と言われている。
景行〜神功紀はやはり貴重な史料。
好みに応じてホツマも

601 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 23:20:24
>>600
マキムクは京都に近いよ

602 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 08:58:02
泰始4年というが、日本書紀では泰初となっているから
泰初4年と言うべきかな
どちらにしても、晋の武帝の時代だな
やはり、卑弥呼は息長タラシ姫またの名を神功皇后だって

603 :サガミハラハラ:2009/02/23(月) 09:34:13
三国史記新羅本紀に卑弥乎とあります。
よって呼は古代ではカと発音されたものとみられます。

604 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/23(月) 10:59:30
>>602
卑弥呼は神功皇后じゃぁないですよ。もしそうなら神功の時代に
239年=景初3年 が位置することになり、これを肯定することは、
遠回しに後代の應神、仁徳の寿命が連続して百数十歳ということ
をも肯定したことになる。だから卑弥呼は神功皇后ではない。

605 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 12:25:49
タラシ中津彦亡き後は後継争いが起り
倭国争う事歴年で仕方なく皇后の息長タラシ姫を立てる
卑弥呼亡き後はまた納まらずトヨタンを立てる
その後息長タ和気と結婚でメデタシメデタシ
長生きシマシたトサ

606 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 12:35:31

トヨタン・・・・・・・・・・


607 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 20:18:55
トヨタはもうだめぽ

608 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 23:24:11
>>604
>これを肯定することは、遠回しに後代の應神、仁徳の寿命が連続して百数十歳
>ということをも肯定したことになる。
必ずしもそうではないな。後代の天皇が何人か省略されているといういう考え方
もありうる。

609 :小国:2009/02/24(火) 11:45:15
先日、古い新聞をみていたら、
「福岡県山門郡で金印を発見」
という記事に行き当たった。

で、その金印はどうなったか、というと、盗掘市場に流れていった、という。

たしかに、盗掘を買った人が正直に申告してくれれば、色々な発見や解明も
あるんでしょうね。

ちなみに、佐賀県の吉野ヶ里遺跡はもともとはつぶされそうになっていた
ものを
「邪馬台国関連」とハッタリを利かせて、なんとか保存にもちこんだんだ
そうです。

610 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 12:02:04
卑弥呼が神功皇后すなわち息長タラシ姫は結論でいいですか
じゃあ墓はどこ?
西都原、奈良、生目?

611 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 12:19:14
閑話休題
息長タラシ姫の時代は
湊は河口にあり、××ま(間)と云っていたのじや
今も残ってるよ
あかま、ありま、すま、おおま、しま、つま、はりま
但し、東京の多摩は違うかもじや

612 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 14:30:50
日本書紀も古事記も当時の政権争いで殆ど自分たちを格好良くしようと書き直されてるから。
日本の歴史の秘密も謎も全て知ってるのって天皇家だけだと聞いた。

613 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 14:35:00
>>610
西都原の男狭穂塚=卑弥呼のお墓、
    女狭穂塚=邪馬台国の2代目女王:台与(とよ)

614 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 15:51:56

トヨタン・・・・・・・・・・


615 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 16:59:22
>>613
箸墓古墳=卑弥呼の古墳。西殿塚古墳=台与の古墳。

616 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 17:01:42

トヨタン・・・・・・・・・・


617 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/24(火) 19:49:22
>>611 東京の多摩
多摩川田園調布の付近です。
投馬国=塢舸縣.岫門.鳥旗,くき,とをた
投馬とは、アイヌ語で二つの港の意味だそうです。
投馬=巴 も有り?
今の北九州市戸畑 当時「岫門.鳥旗」の二つの港を持ち 早鞆の瀬戸の潮を考えると
此処は重要な地点である、地形は巴。


618 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 22:24:19
>>609
九州の博物館に展示されてる、農民が見つけたのじゃなくて?
農作業の途中にクワに当たったか何かってやつ。

619 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 23:55:11
>>617
そして、伊都國は越、糸魚川付近。
日本海側のルートを取れば、そういうことになります。
そこから南へ陸を1ヶ月で碓氷峠を越えると群馬から多摩に達する。

620 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 00:30:06
東京の多摩は多麻。 マリファナが群生していたと思われますw

621 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 04:46:39
>>610
奈良ではないな。日向のどこかにあるよ。

622 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 09:06:13
多摩は勾玉とか水珠のタマか
大国魂とか言霊のタマじゃねーの?
邪馬台国じゃあ無いと思うわ。何となく。
なにしろホツマ国の都だ。邪馬台国なんてど田舎とは訳が違う
洗練された大文明を謳歌していた
霊峰高尾山が高天が原だぞ〜
国立が国常立の故郷だ

623 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 14:02:07
小金井―国分寺―国立―立川―日野

624 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/25(水) 14:18:03
高尾山の坊主より 相模の大山、あぶり神社が前にある
ここで きな臭い臭いがしたら 富士山の噴火だ
富士山の噴火を鎮めないと 関八州は無い。


625 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 21:32:13
このスレに限っては、邪馬台国=多摩台国説が有力ですね。


626 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 23:04:46
いや、だから
邪馬台国なんてど田舎なんだよ
鯨面文身なんて田舎かょ
魏なんて田舎もの相手に大変だったね。
文明は東京から

627 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 23:24:01
>>625
マキムクか九州か(北か南かで別れてるけど)で
結論でちゃったから
あとは研究や調査の発表待ち
それで他の地方の人たちが遊んでるのよ

628 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 00:10:14
スーパーヒロイントヨタン ハァハァ・・

629 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 03:25:39
>>626
東京なんて、
徳川家康が秀吉に岡崎から
江戸に飛ばされなけりゃ、
荒れた田んぼしかない糞田舎だったじゃねーかw

今も田舎者の集まりだけどなw

630 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 18:52:08
閑話休題
古来、みやこの事は(ト)と言うのじや
八戸、江戸、伊都、京都、富山、東京都、水戸、宇都宮、ヤマト
まぁ雄琴は違うと思うわ。

631 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 20:21:34
一戸、二戸、三戸、四戸屁、五戸、六戸、七戸、八戸・・みんな南部藩の都でした。
さて、ここで問題です。実際にはないのはどれ?

632 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 21:20:24
>>599
しもつけ風土記の丘に丸塚古墳という円墳があります。基壇直径 74m 墳丘直径 38m。
しもつけ有数の大型円墳で、7世紀頃の古墳時代終末期に作られたようです。
墳丘はゆるく傾斜する基壇の上にあり、墳頂は直径 12mの平坦な面になっています。
石室は 切石積横穴式石室 と呼ばれるもので、玄室の壁は平らに加工した凝灰岩の一枚岩で
組まれて、入り口は一枚岩の中心をくりぬいて開けられています。

丸墓山古墳もこの古墳と同じく7世紀に作られたとしているので、この古墳を造営したのは
半島からの渡来人ということになると思います。

633 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 23:03:59
しもつけ風土記の丘にある麼利支天古墳の麼利支天とは
天津麻羅、つまり古代製鉄と男根マラ、金山神社との関係が伺えます。
稲荷山鉄剣、タタラ式製鉄・・だんだんわかりかけてきました。



634 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 11:25:41
「刀婢」とか「刀邊」と書かれている「トベ」って姫のこと?巫女のこと?

635 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 15:34:22
瀬高には魏の通行証じゃないかと思われてる物も出土してるんですよね。
あそこは怪しすぎる。

636 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 23:17:32
>>635お前ほどではないよ

637 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 23:38:06
>>636
屈折してるなお前。

638 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 12:59:36
箸ていつ頃から日本にあったの?

誰か答えて

639 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 13:32:29
穴を掘らずに木造の高床に住み始めた頃から。

640 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/28(土) 15:48:52
>>601
>マキムクは京都に近いよ

京都府なら分かるが、福岡県京都郡は遠いでしょう。
出土物が似てるんですか?

>>609
>「福岡県山門郡で金印を発見」

>>635
>瀬高には魏の通行証じゃないかと思われてる物も出土してるんですよね。

調べてもよく分からないですが、確かですか?

641 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/28(土) 16:04:21
>>638
魏志倭人伝では「食飮用[竹/邊]豆、手食。」
隋書[イ妥]国伝では「俗無盤俎、藉以[木解]葉、食用手餔之。」
ウィキペディア「箸」では・・・
日本では、弥生時代末期の遺跡から一本の竹を折り曲げピンセット状の形にした「折箸」が発見されているが、
祭祀・儀式用の祭器として使われたものであろうと言われる。
二本で一膳の「唐箸」を食事に使い始めたのは、5世紀頃とも、6世紀中頃に百済から伝来してからとも、
7世紀はじめの聖徳太子の遣隋使の頃からとも言われるが定かではない。
古い時代の箸が発見されにくいのは、木や竹でできた箸は腐りやすく、
また単なる木切れか箸かの区別もしにくい為と考えられる。


642 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 16:14:47
卑弥呼と天皇家は関係あんの?

643 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 16:16:59
>>629
東京が田舎なら
どの地域が大都会なんですかw

644 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/28(土) 16:21:53
景行天皇紀では「京(みやこ)」(京都郡)とともに「夷守(ひなもり)」も注目される。
宮崎県小林市の霧島岑神社は、合祀された旧夷守神社跡地にあるという。
http://www.kumaya.jp/atikoti39.html

645 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 19:06:42
>>643
歴史的に見て、京都だろjk

646 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/28(土) 19:18:34
>>642
>卑弥呼と天皇家は関係あんの?
たぶん関係ないかと。
天皇家は九州倭国(倭奴国?)の「負け組」(言葉は悪いですが)で新天地を求めたのでしょう。
卑彌呼は倭奴国とは別の家系のようですし。

>>643
>東京が田舎なら

>>629 は「東京は田舎だ」とは言っていません。
「田舎者の集まり」江戸っ子は少なく地方出身者が多いことを言っているのでは?

647 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 20:14:30
神武天皇(イワレヒコ)と天皇家は関係あんの?
小墾田宮(推古天皇)と小和田家は関係あんの?

648 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/28(土) 20:35:55
>>647
>神武天皇(イワレヒコ)と天皇家は関係あんの?

もちろんあるでしょう? 少なくとも、そういう建前。
いろいろ詮索する人もいますが。

>小墾田宮(推古天皇)と小和田家は関係あんの?

これは関係ないでしょう?

649 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/28(土) 20:38:54
>>647
もっといい答えがあった。
卑弥呼スレと関係あんの?

650 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 20:47:14
卑弥呼が今の天皇家に関係ないとしたら、
誰も見向きもしないと思う。
そこの馬の骨ともわからない臍を突いて死んだ変態女のことなんか。

651 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/28(土) 20:58:06
>>650
>卑弥呼が今の天皇家に関係ないとしたら、
>誰も見向きもしないと思う。

そんなことはないと思う。
関係ないのではなく、遠縁の可能性はあると思いますが。

>そこの馬の骨ともわからない臍を突いて死んだ変態女のことなんか。

それはモモソヒメのこと?れっきとした皇女です。
臍じゃなくてホトでしょう。
そういえば、ホトとホゾは似てますね。詮索すると面白いかも。

652 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/28(土) 21:04:54
「五百」は「イホ」と読むから、百襲姫はホソヒメとも読める?

653 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 21:40:06
ホソヒメって誰?


654 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 21:45:29
>>646
その江戸っ子も元は太田道灌の所領の農民や、
家康の国替えの頃に浜松から来たんだけどなwww

655 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 22:09:42
>>644
日本書紀の景行天皇記にも夷守は出てくる。相当、古くからの地名らしい。
熊襲征伐のあと、最初に立ち寄った場所である。

「岩瀬川のほとり」と出てくるが、この川も小林市にある。
大淀川の上流になるのだが、大淀川という名前も面白いかな。

それと、景行天皇の帰京の経路も面白い。
宮崎平野?の高屋宮から児湯郡→夷守(小林市)→熊県(人吉・球磨盆地)、
→芦北→八代となっている。

これを逆にたどれば、倭人伝の記述と重なると考えるのもありかな??

656 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 22:12:59
>>655
ちょっと書き忘れたが、夷守は、倭人伝に出てくる卑奴母離とも繋がるのかも
知れない。

657 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/28(土) 23:31:04
>>653
>ホソヒメって誰?

いや、半ば冗談で、ホトとかホゾの伝承とつながるのかと。
ちなみに孝霊天皇の皇后は細媛(モモソヒメの母ではない)

>>656
>ちょっと書き忘れたが、夷守は、倭人伝に出てくる卑奴母離とも繋がるのかも
>知れない。

それは、そうでしょう?
女王国はミヤコを中心に、北のヒナモリから南のヒナモリまでではないか?


658 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/02/28(土) 23:50:56
ヒミコて日本でしか有名じゃないんだよね?!

クレオパトラとかのが有名そうだし

659 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/01(日) 00:08:21
>>658
クレオパトラは国の場所が分かってますから面白くない。
アラビア説とアフリカ説があるシバの女王が世界的には面白いでしょう。

660 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 00:58:41
魏略には、邪馬台国時代の倭国に関する記述が多く残っていることから、邪馬台国論争に熱をあげる研究者
たちの注目を浴びている。倭国に関する逸文が残っているのは、『三国志』裴注、『漢書』師古注、『翰苑』、
『北戸録』、『魏書』、『法苑珠林』などである。

そのうち『三国志』東夷伝倭人条に引く逸文では、「倭」について、

「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」
その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す

との記述から、春の耕作と秋の収穫を1サイクルとして今の半年を一年として数えていたという意見がある。
一方でこの記述は「春に耕し秋に収穫するのを一年と大ざっぱに考えている」と述べているだけで、この記述をも
って史書に記された年数を勝手に二倍に解釈するのは牽強付会との意見もある。



661 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 01:19:11
Chinese pronunciations Characters Modern Chinese Early Middle Chinese "Archaic" Chinese Middle Chinese
邪馬臺 yémǎtái jiamaɨ'dəj jama:t'ḁ̂i jæmæXdoj
邪馬台 yémǎtái jiamaɨ'dəj jama:t'ḁ̂i jæmæXdoj
邪摩堆 yémóduī jiamatwəj jamuâtuḁ̂i jæmæXtwoj


662 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 01:28:22
The etymology of Yamato, like those of many Japanese words, remains uncertain. While scholars generally agree that Yama-
signifies Japan's numerous yama 山 "mountains", they disagree whether -to < -tö signifies 跡 "track; trace", 門 "gate;
door", 戸 "door", 都 "city; capital", or perhaps tokoro 所 "place".



663 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 04:57:27
>>662
英語は苦手だが、

大和の語源は、多くの日本語の語源と同じように確かではありません。
しかし、学者たちは、一般的に日本の多くの「山」を意味していると認めて
いますが、「跡」「門」「戸」「都」あるいは恐らく「所」を意味して
いるとは認めていません。

でいいのかな。英語が得意な人は訂正・補足をよろしく。

>>661
つまり、「邪馬台」の古代中国語の発音は、「ジャマタイ」なのかな???

664 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/01(日) 07:18:00
>>660
晋書倭人伝では「不知正歳四節、 但計秋收之時以爲年紀。」で「春耕」が無い。
後漢書倭伝「多壽考、至百餘歳者甚衆。」
魏志倭人伝「其人壽考、或百年、或八九十年。」
ここは二倍の年齢と見られなくもないが、壹與の「年十三」は六・七歳になる?

665 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 07:54:21
倭が中国に飲み込まれるまで

2009
韓国経済デフォルト
日本に民主党政権誕生

2010
日本、外国人参政権可決
沖縄分離一国二制度
沖縄から米軍撤退

2011
台湾、中国に併合
北朝鮮崩壊、大量難民発生
2012
中国、北朝鮮を支配
沖縄、中国に併合

2013
韓国、旧北朝鮮勢力内乱

2014
中国軍、韓国に進出

2015
中国、韓国を支配
日本、難民で治安が悪化

2016
日本、初の中国人首相誕生
2017
日本、中国に併合

666 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/01(日) 10:15:27
晋書倭人伝では「不知正歳四節、 但計秋收之時以爲年紀。」
魏人が見たのは白水郎 海釣りに行くとき二四節気を見て釣りに行くバカはいない。


667 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/03/01(日) 10:24:14
畿内は倍暦をやってたが、九州のほうはまだ何ともだな?
もう少し根拠、資料が揃えば面白いが・・・。

668 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/01(日) 10:31:24
>>666
ん? 白水郎が「春耕秋收」ですか?

669 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 11:05:55
>>655
>これを逆にたどれば、倭人伝の記述と重なると考えるのもありかな??
記紀は倭人伝を書いた物語だって考えれば、当然、それは倭人伝の記述に
合わせた作り話ってことになるな。景行の巡狩記事が的邑で終わっている
のは、そこが不弥国だということになる。

670 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 11:18:51
犬国は「暦(こよみ)」の意味を理解していない。
暦とは日月を数学的に体系化したもの。
それを理解していないのが哀しいところ。

671 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/03/01(日) 11:28:33
>>670
そんな審判論法はやらないでいいよ。それより紀年編年の評論を
審判ではない選手の攻防で来い。

672 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/01(日) 11:32:36
>>661
「にっぽん」という単語が中国・ポルトガルを経由して英語になったのが「ジャパン」。
最初の文字が「ジャ」となっているのは、当時の日本語の「に」が「ジャ」に近い発音であったことを示している。

翻って邪馬台をジャマタイ(もしくはジャバタイ)と読んでいたなら、日本語にニャマタイ(ニャバタイ)といった
単語が残っているはずであるが、その様なものは見られない。

よって邪馬台の邪は、少なくともジャという発音を書いたものではないことが分かる。


673 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 11:45:50
魏志倭人伝の官についてだが、
「長官を伊支馬(イキマ)、次官以下を弥馬升(ミマショウ)・弥馬獲支(ミマカキ)・奴佳(ナカテ)」
奴佳(ナカテ)以外は「馬」の字が使われていることに注目したい。
つまり、伊支馬、弥馬升・弥馬獲支は征服民である騎馬民族の官であり、奴佳は
被征服民である原住民の歩兵ではないだろうか?
奴佳(ナカテ)が後に中臣となったことは多くの論者が指摘しているが、
彌馬升(ミマショウ)は、難升米と同じ「升」も字が充てられていることに注目したい。
「升」とは、すなわち「将」、彌馬升(ミマショウ)は騎馬軍団の大将という意味だ。
弥馬獲支(ミマカキ)は、馬を捕獲して飼育する官職。
ちなみに、難升米とは、灘(=海軍)の将、久米だと推定される。


674 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/01(日) 12:01:09
<黒塚古墳>
全長約130m、後円部径約72m、後円部高さ約11m
此方の 被葬者は誰?


675 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/01(日) 12:06:57
池田仁三さんは 下記の様にいってます。
官の名の「伊支馬(いきま)」の音は、第11代垂仁天皇の古事記名「伊久米」の呉音読み「い-きゅ-まぃ」と完全に一致しており、
副の名の「彌馬升(みましょう)」は垂仁天皇妃の「氷羽州(びばす=みます)比賣命」と、次の「彌馬獲支(みまかし)」は
太子(ひつぎのみこ)大帯日子命(おおたらしひこのみこと:後の第12代景行天皇)妃の「美波迦斯(びばかし=みまかし)毘賣命」と、
さらにもう一人の次の「奴佳提(ぬはでー)」は垂仁天皇妃の「沼羽田(ぬはだ)入毘賣命」と、ほぼ一致しています

676 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/01(日) 12:10:12
>>673
面白いですが、奴佳[革是]の[革是]という文字は匈奴の王名にも使われています。
しかし「其地無牛馬虎豹羊鵲。」ともあるので?です。


677 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 13:15:02
>>676
なるほど。奴佳(ナカテ)」 が[革是]だとすると、鞍などの武具を付きっていた官職だとも考えられますね。
邪馬台国は騎馬民族だったという仮説がまた一歩裏付けられた気がします。(自分としては)

678 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 13:16:47
×鞍などの武具を付きっていた官職
○鞍などの武具を造っていた官職


679 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/01(日) 13:33:48
>>677
[革是]の「革」に注目しましたか。
「是」に注目すると、後漢書倭伝の後に出てくる会稽海外の「東[魚是]人」が思い出されます。
こちらは海人でしょうね。

680 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 13:49:33
>>671

選手の立場つーのは、自分が主張する暦方の計算方法を説明しなくてよいのか。
便利な立場だなw

681 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 13:58:03
>>679
私はむしろ、東漢氏のほうを思い出します。
「日本書紀」雄略7年
東漢直掬(ヤマトノヤノアタイツカ)に命じて、
新漢(イマキノアヤ)である陶部高貴・鞍作堅貴・画部因斯羅我・錦部定那錦・訳語卯安那らを、
上桃原・下桃原・真神原の三ヶ所に移し侍らせた

682 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 14:01:24
葛城族は狩猟民族だよ!

683 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 14:06:41
>>682騎馬民族は自らは馬具や弓矢は作らないから、
    狩猟民族や鉄器を作る部族を征服して僕(しもべ)
    として従わせたのだと思う。

684 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/01(日) 14:15:09
>>681
鞍作堅貴
鞍作氏の祖は継体16年 (522年)に渡来した司馬達等とされますが、
それ以前にいた?

685 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 14:16:38
邪馬台国が騎馬民族だったとすると、邪馬台国は海岸や低湿地ではなく、
馬の飼育に適した牧草地帯にあったと思われます。その候補地として
阿蘇、外輪山の内側。草千里が最適だと思うのですが・・


686 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 14:22:39
>>684司馬達の名も馬の字が見え、もとは邪馬台国を支配していた
    騎馬民族と同じ部族だったとも考えられます。
    半島から職人集団を呼び寄せたのではないかと思われます。
    邪馬台国の「馬」に注目すれば歴史は面白いほど繋がってきますね。

687 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/01(日) 14:24:37
魏志倭人伝「其地無牛馬虎豹羊鵲。」は?

688 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/01(日) 14:29:53
「馬」は単なる差別的表現ではないですか?
「卑狗」「狗奴國」「狗古智卑狗」の「狗」=犬と同じで。
犬と馬の争い。

689 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/01(日) 14:39:55
景行が阿蘇で見た物は クヌギ(歴木)の大木。
犬飼は武士。武士に馬は必需品。



690 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 14:44:37
>>678
邪馬台国に従っていた国のうち、
騎馬民族の将が「彌馬升」、海洋民族の将が「難升」です。
難升米が牛や馬は持っていなかったのはむしろ当然。
邪馬台国の女王の使いとして魏に朝献した難升米一行
から聞き取ったものと思われます。

691 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/01(日) 14:49:23
騎馬民族は群馬県子持村に入植
http://www.gunmaibun.org/saishin/h200810h.htm

692 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 15:08:45
祟神と卑弥呼の関係は、実際良くわからないのですが、
邪馬台国は、騎馬民族と海洋民族の両面性を持ち合わせた国だった
ということを理解すれば、祟神と紀伊の荒河戸畔の娘の間に生まれた
豊城入彦が牧で有名な群馬(久留馬)と繋がりがあったのか見えてく
るのではないでしょうか?

693 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/01(日) 15:33:12
>>690
魏の使者も少なくとも伊都国までは来ており、伝聞だけでは無い。
騎馬民族が大挙して列島を征服したという、古典的な騎馬民族説はあまり支持されていないと思われますが。
渡来人がいたことと、大きな征服は次元が異なる話。
倭王武の上表文も「渡りて海北を平ぐる」とあり、先祖が大陸から来たとは言っていない。
家畜の去勢などの遊牧民的な習慣が伝わっていないなど、大規模な征服は考えにくい。
むしろ明治維新のように、外国人に教えられながら技術を吸収したのではないか?

694 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 15:38:16
>>693
邪馬台国は騎馬民族ではないが、馬を飼うことを覚えたことで急激に勢力を
伸ばした可能性もあるけれど、群馬に入植した渡来人は生粋の騎馬民族で
今でも、100m先のコンビニに行くにも車に乗る人たちが住んでいます。


695 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/01(日) 15:48:10
それは今の日本人全部でしょw
自動車産業もどうなるか分からないが
GRRR・・・

696 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 16:37:25
>>695他県民とは明らかに質が違うのは、住んでみないとわかりません。w

697 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 16:45:24
装飾古墳にも馬の話の装飾があるのもあったよね

698 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:14:23
>>689
おい、チョロ松
武士の始まりは平安中期からだぞw

699 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:23:19
>>692
祟神の嫁は葛城氏の娘。その姉に日女命がいる。
祟神にとって、日女命は義理の姉に当たる。
卑弥呼の弟が政治をしていたとすればそれが大王であり、祟神天皇のことである。

後に武内宿禰や蘇我が一大勢力を築き、
天皇にしか行えないような儀式を行うことが出来たのは彼らが卑弥呼の子孫であるからである。

700 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:39:14
確かに、
祟神は日女命(モモソヒメ)にお払いを依頼している記述がありますね。
葛城は陰陽道の鴨氏が居ますし、鬼道が陰陽道とすればこれは有力かも


701 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:52:06
文献がない以上、真相は闇の中。全部妄想でしかなく不毛な議論の繰り返し。


702 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:56:38
>>701
歴史学全否定はダメ。

703 :日本@名無史さん:2009/03/02(月) 09:30:53
息長タラシ姫が卑弥呼として
日本書紀では奈良の墓のみ記載されてる
しかし魏志倭人伝では邪馬台国の近所のような感じがする
それに、大きい墓が崩御後にすぐに出来た感じでおかしい

704 :日本@名無史さん:2009/03/02(月) 21:58:45
>>692久留米と群馬(群馬と書いて久留馬(くるま)と発音したらしい)の関係は謎が多いです。
    天皇の乗る御輿や牛車を支配していたことから車持氏の姓を与えられたとするより、
    天皇の御輿=久留米だった可能性のほうが高い。
    邪馬台国と祟神、東国を繋ぐものが車ではないかと調査中です。

705 :日本@名無史さん:2009/03/03(火) 04:42:06
卑弥呼は邪馬台国の王ではありません。邪馬一国の一部である女王国の王です。所謂土人の倭人(蝦夷の祖先)
ちなみに邪馬台国は大陸系騎馬の出雲王朝。これが日本人の始まり。その後百済人高句麗人新羅人が入り現代へ繋がる。
邪馬台国と邪馬一国は別の国。こんなの倭人伝の原文読めば明らか。
出雲を否定して古代日本の王が女性だったということにしたい人達の願望が教科書になったんだよ。

ちなみに日本人を構成した百済高句麗新羅人はフヨ系だから、新羅+ワイ族系の現代韓国人とはちょっと違う。まあ近いっていえば近いが。

706 :日本@名無史さん:2009/03/03(火) 04:54:53
>>672
jahpanでヤーパンとも読む。恐らく古代はYの発音。
ドイツ語でもラテン語でもヘブライ語でもJはヤ行の発音。

例…jah(ヤー、神、ヤハウェ) john(ヨハネ、ヨハン)

707 :日本@名無史さん:2009/03/03(火) 05:01:52
閻魔をヤマと読むから
ヤマの性質を(鬼道と思うが)遡っていったほうが
真相から外れる事はないと思う

708 :日本@名無史さん:2009/03/03(火) 21:12:05
>>665
現実になりそうでこわい。

709 :日本@名無史さん:2009/03/03(火) 21:44:28
小沢がコケたから大丈夫

710 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 02:21:51
中国も貿易"の利益"の味を知ったから、日本を中国にする事は無い。
差益ほど国が儲かることを無くすことはない
日本は時間を遡れば遡るだけ個々の人格も集団心理も立派だが
あそこは、2000年間下りっぱなしだね。優れた人は大陸から日本へ渡ってきた訳と
邪馬台国研究は根が同じかもよ

711 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 07:00:21
九州説なんていってる奴は
非国民、売国奴、チョン


チョンは半島に  カエレ(・∀・)!!




712 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 12:13:39
日本には何万年かの歴史があり北海道、東北、北陸や関東が文明の中心だった。縄文大海進で西に移住して
ざっと3000年
みやこは日向、奈良、津、山口、大阪、京都、ふぐすま
江戸、東京と遷都してきた
少し位、筑紫の島にあっても良いだろ
四国はダメだけどな

713 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 12:19:05
鎌倉やぐんまもあったか

714 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 13:28:05
理知的に考えたらどう見ても九州が優勢
神国日本、日本人サイコーって言いたいのもわかるけど
学問の話なんだしファシズムの拠り所する事は勘弁して欲しい
2ちゃんにはそういった板もあるんじゃなかったっけ

715 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 13:40:45
理知的に九州が可能性が高い理由を書けと。

716 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 15:37:30
>>706

        ┏━ヤマト━大和
邪馬台―┨
        ┗━ヤモト━日本

717 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 16:30:54
>>714
畿内説=皇国史観と言う戦前並みの思考も如何な物か

718 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 16:32:12
むしろ最近では「神国日本、日本人サイコー」な人間に九州説(東遷説)が流行っている。
井沢元彦や安本美典。
だから歴史にイデオロギーを持ち込むなとあれほどw

719 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/04(水) 19:57:08
312年 神功39年 太歳  仁徳元年 仁徳は大陸の暦を使用 (313年癸酉年)

神功39年の太歳がやっと解った。


720 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 21:00:45
私は素人ですが、倭国は百余国に別れていたとありますので、
これは西日本全域を倭国だと中国では認識していたんだと思いますね。
邪馬台国は畿内にあったと自分は思いますね。魏志では、
伊都国も千余戸になってますが、他の文献では一万戸になってますし、非常習う曖昧で信用できません

721 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/04(水) 23:38:40
>>720
畿内説で文献無視するってのなら、邪馬台国自体無視しちゃえばいいのに。
今の考古学はそういう方向でしょ?無理に畿内に固執していないはず。
畿内論者はその辺りが時代遅れな思考であるように感じる。

722 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 23:48:30
九州説はもっと時代遅れだけどな。

723 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 23:51:17
邪馬台国の「台」って「ドゥ」って読むってホンとですか?

邪ヤ馬マ台ト国ってなるって本当ですか?

724 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 00:29:10
邪馬台   ヤマタ

卑弥呼   オロチ

卑弥弓呼 スサノヲ

725 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 03:45:55
てか九州の宇佐とか、畿内の巻向とかそういったのじゃなくて、
邪馬台国って人口から察してもっと広域な範囲を指していたんじゃない?


726 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 04:50:21
>>725
奈良時代になっても大和は奈良県だけ。
大和朝廷のおひざもとの大和よりも、邪馬台国の方が広いというのは
常識ではありえない。

727 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 05:16:57
引き寄せの法則
因果応報
類は類を呼ぶ
波動同調の法則

倭人伝自体が、私ら君ら同様に、聞いた話読んだ話しの記紀なのね
だから
聞いた話し読んだ話しの域から200年以上も脱せ無いのよ

728 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/05(木) 11:31:08
倭人伝の行程の記述は、私の解釈でほぼ間違いはないでしょう。
有効な反論もでないようですから。
http://yamat-2007.blogspot.com/

あとは考古学とのすり合わせだと考えています。

# 私のこの論についてのレスは、邪馬台国ドンと来いスレにお願いします。

729 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 13:39:49
伊都は北九州
そっから瀬戸内海を進んで丹波へ。
陸行を進んで奈良へ。

>>726
大和朝廷自体が邪馬台国なら、ありえなくはない。
むしろ、当たり前。

730 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 16:32:57
恐らく、何らかの新しい情報が発見されない限り、邪馬台国に関する仮説の優劣の決着はつかないだろうな。
どの学問分野でもそうだが、近代科学の率先例である物理学の分野でも、正否が判明しない
相容れない仮説が山ほどある。(有名なホーキング博士の説もその一つ。何らかの証拠が発見
されればノーベル賞間違いなしだが、肯定する証拠も否定する証拠も上がっていない。
物理学の分野でさえ、裏付ける証拠が挙がるのに数十年以上かかる例は珍しくない。)
問題は、仮説の評価であり、過去の歴史から言って、珍説、奇説を排除するのは良く無い。
珍説奇説が、その後,定説になった例は山ほどある。時代の常識は,後代の非常識と戒めてかかるのが
科学的態度。


731 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 18:33:06
邪馬台国に関する仮説の優劣なら畿内説でとっくに解決してますよ。

それを認めない人々が九州説にしがみついてるだけであって。


732 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 18:42:54
畿内説ではあまりに普通すぎて面白みに欠けるな。
九州説などのどちらかといえばトンデモ説の方が楽しみがあるな。

733 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 18:51:34
日本書紀の神武東征神話のせいで邪馬台国九州説が連想されるのかな。
日本の王権が九州由来とするのは、多分、強大な九州王権と関係を持つ
ことによる九州王権に対する懐柔融和策なのかも。

卑弥呼が大和王権とつながりを持っているのは、無理な仮説ではない。
日本書紀の記述から卑弥呼が誰なのかを特定するのが難しいだけなのだと思う。

734 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/05(木) 19:04:52
>>730
どちらかというと私の説は「珍説、奇説」に入るのかもしれない。何せ今まで誰も言わなかったから。
ただし内容はガチガチの定説全肯定に近い。

>>732
私説も楽しんで頂けたでしょうか♪

>>733
>卑弥呼が大和王権とつながりを持っているのは、無理な仮説ではない。
>日本書紀の記述から卑弥呼が誰なのかを特定するのが難しいだけなのだと思う。

無理な仮説。自ら答えを書いているのに分からないのかな。

735 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 19:28:17
横レスするが、
>726
2万戸の範囲は、数値が正しいとしたら、どう考えても九州全域より広いし、
5万戸なら九州と中国地方を全部合わせた範囲より広いぞ。

邪馬台国の範囲(勢力範囲)が、いったいどれぐらいの広さになるかを考える手がかりとして、
無視し得ない要素なんじゃないか。

逆に、それだからこそ、戸数は虚説(あの1戸は人口一人を意味する数字にすぎないとか
まったく根拠なく誇張で報告された数値だとか、その他色々)だって考え方が出てくるわけで。(主に九州説の側に)

736 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 22:02:27
>>735
石野博信さんも言っていた。七万戸という戸数は、近畿地方全部を一国と
考えても到底おぼつかないと。
倭人伝は、戸数・距離などの数字に誇張があると考えるのが普通。

737 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 22:24:41
奈良時代の人口で中国の戸数表記つかったら、日本列島全体で100万戸近くにはなるが、
弥生時代の人口でだったら、日本列島全体で10万戸ちょい。
古墳時代は、その間のどっか。
(奈良時代の戸籍表記なら、奈良時代の人口は全国でおよそ5〜60万戸ぐらいなんだろうけど。)

奈良時代の人口ぐらいだったら、五畿内ぐらいの範囲でも7万戸を収容できるが、古墳時代や弥生時代なら無理だな。
弥生時代の九州なら、九州全域あわせても2万戸ちょっとぐらいか(近畿地方全域と同レベルだが)

弥生時代の人口で7万戸っつうのなら、日本列島の半分ぐらいに相当するだろう。中部から九州までの、ほぼ全域を統合するぐらいの規模じゃないか。

738 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 22:36:17
方角は誇張できない。九州決定

739 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 23:19:00
韓伝によれば、馬韓が総じて十余万戸、弁辰韓は総じて四五万戸だ。
朝鮮半島よりも住みやすいことを考えれば、九州だけで十五万や二十万戸
はあったはずだな。

740 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 23:25:43
畿内説にはやはり違和感あるな。
方角を間違えるなんてあり得ないし、航海できないよ。
魏志倭人伝の記載内容を素直に読むことが原則じゃないのかな?距離は別としてね。
九州の遺跡は発掘されてないところや既に宅地化で消滅してしまったところもある。
それも含めて今後の調査を見守るしかないんじゃないの?
調査するかどうかは別として。
こういうのは大学主体で自治体の背中押さないと無理なんだけどね。

741 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 23:44:02
>九州の遺跡は発掘されてないところや既に宅地化で消滅してしまったところもある
こういった考えの方がおかしいと思うけどなwそれなりに大規模な遺跡があるなら何ならかの発見が
あっても良いと思うが?

2000年近く前の人間が書いた文章に重要性があるかどうかの方が疑わしい

742 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 23:48:48
方角を誇張すると、高天ヶ原か黄泉の国

743 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 00:06:47
>>737
インド並みの人口爆発だな。
稲作は数百年前から始まっていて、食物事情は同じ。
それでその人口爆発ってのはあり得ん。

700年頃に700万人なら300年頃には500〜600万人だよ。
普通に考えようよ。


744 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 00:19:46
方角が正しいってのはそのとおりだろう。しかし、距離も正しいと考えるべきだ。
少なくとも、正しいと考えて、推理してみるべきだよ。
そして、方角、距離を考えれば、北九州ってのはどうみてもおかしい。
邪馬台国は、南九州になるはずだ。

745 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 01:27:52
>>743
関係ないが…。
人口爆発と言えば、1873年(3,300万人)から1975年(11,200万人)の約100年間。
たった100年で3.4倍くらいに増えている。信じられん。

746 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 01:38:07
そういや。
1590〜1600年頃には1200〜1500万人だったのが、1700年頃には3000万人に増えてて、
100年で2〜2.5倍ぐらいの増加だな。急速に増える時代ってのは、あるんだよな。逆に、停滞する時代・減る時代ってのもある。

747 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 02:48:27
卑弥呼本人が亡くなって、再び荒廃し、また2代目巫女を立てるあたりの流れは、典型的な、シャーマン。
このシャーマンは、
よく迫害にもあってきた筈であるけど、何故か卑弥呼どこでも国賓級な位置付け。
だから、神秘的な国の巫女の巡業統治。
活躍したのは九州で、卑弥呼の霊性の本部は天孫=滋賀石川か奈良か伊勢か…

邪馬台国の都を発掘発見し特定しようってったって無理!どこにでも小国の都があった。
そして、なにより天孫(後の天皇家)さえ、極端にいえば、当時はさ迷っていた。
御神体の奉りどころさえ右往左往していた時代の都特定に躍起になる事態に無理が有りすぎる。

748 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 07:14:37
まず、伊都国の比定が問題だな。
@ 末盧国からの方角と距離。素直に読めば、佐賀付近だ。
A 末盧国で上陸したのは船ではいけない所のはず。怡土では理解できないが、
 佐賀付近ならば上陸しなければ行けない。
B 南水行とあるな。乍東とか乍西を言わず、いきなり南への水行を言うのは
 有明海を南下することしか考えられん。白鳥も「有明海航行」と言っただろ。
 となれば、伊都国は有明海沿岸とみるのが自然だ。

冷静に伊都国の比定を見直せば、畿内説や北九州説は吹っ飛ぶんだよ。


749 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 08:42:50
自分の郷里がひょっとして邪馬台国だったら、な〜んて夢想したこともあったが、
「岡田 英弘:日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った (ちくま文庫) 」
によるとあながち全く的はずれでもないらすい。ちょっと嬉しくなった。
ちなみに山口県ね。

750 :サガミハラハラ:2009/03/06(金) 09:00:39
>>748そうです。邪馬台国論争混迷の第一の原因は伊都国の比定の間違いにあるのです。

751 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/06(金) 09:29:18
>>745,746
産業革命後の食糧生産量の激増がその人口の支えになっているわけで、それを2000年前に当てはめるのはおかしい。
卑弥呼が古墳に埋葬されたというのは、それなりに人口が多くなっていた証拠。

>>748
1〜3の全てを満たしても、なおかつ邪馬台国は筑後川下流域、という私の説がある。吹っ飛ばない。
http://yamat-2007.blogspot.com/
が、比定地の話ならドンと来いスレにどうぞ。

752 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 13:04:03
弥生時代の人口は多かった。だから生口を出せた。

753 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 13:29:32
>752
卑弥呼の時代は弥生時代より人口が多かったから、の間違いだ。

754 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 20:39:36
生口の数なら帥升の時の方が各段に多いのだが。

755 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 20:41:50
生口の数なら帥升の時の方が各段に多いのだが

756 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 21:15:31
リンカーンより1600年も早く、奴隷解放運動が起こって、
生口にも人権があるとした大王がいたのではないでしょうか?
だから佐伯、出雲、蝦夷・・みんな同じ日本人になったのです。

757 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 22:08:13
帯方郡(ソウル近辺)から邪馬台国まで12,000里
帯方郡(ソウル近辺)から狗邪韓国(釜山〜金海付近 )まで7,000里

以上のことから狗邪韓国(釜山〜金海付近 )から邪馬台国まで5,000里である。
地図を見れば一目瞭然。畿内説は却下される。

末盧国(唐津付近)から伊都国まで南東に500里(およそ50km)
つまり伊都国は佐賀平野である。(ここが重要)

伊都国からいきなり南に水行ということは有明海しかありえない。
陸路を選ばずに水行としたのは、波が穏やかな有明海だったからだと推測。

南に水行10日という記述は徒歩で10日よりも短い距離を推測。
おそらく手漕ぎであったことを考えれば、水俣付近までしかいけない。

水俣付近で上陸しさらに南に陸路1ヶ月というのは、おおざっぱな感じに受ける。
これは道程が険しかったことから「〜から何里」という表現ができず
おもったより日数がかかったと思われる。したがって、実際の普通に歩く距離より
短いと思われる。迷いながら歩いたということは南という方向も多少ぶれる。
邪馬台国の東には海があり、さらに東100kmに陸があるというのは四国のことと推
測。

以上、忠実に旅程に従うと宮崎しかありえないことになる。


758 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 22:09:50
ここで「南は東の間違い」とかわけのわからない考古学者が言うのは
出土品基準であり大和朝廷を無理やり繋げたがる傾向がある。
宮崎の遺跡は大正時代(記紀を史実と教育していた)に
大規模な調査が行われて以降、天皇に関わる関心を持つことがタブー視されたた
め、
本格的な発掘調査が行われていない。具体的には生目古墳群などの築年数が未確定
である。
また北九州説や畿内説を唱えている学者どもは
自分の首を絞めることになるので、宮崎近辺の調査を行うはずがない。
そういう状況が戦後ずっと続いてきている。
宮崎に7万戸あったはずがない。あんな僻地にあるはずがない。
そういう固定観念を持っていては足の引っ張り合いである。

宮崎の男性は温厚であるが頼りない。女性は情熱的でやさしく働き者である。
宮崎(都城除く)は他県の「九州男児」とまったく異質であり独特の気質がある。
女王がいたとしても不思議ではない。邪馬台国は争いごとを嫌っていたのである。
今後の発掘調査で神武東征とのつながりを証明できれば完璧であるが。

わしは、天皇家の気質は日向の気質に似たものがあるとずっと思っているのであ
る。


759 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 22:21:40
>>757 >>758
全体的には同意。ただ、「帯方郡から邪馬台国まで12,000里」というのは、
問題だな。倭人伝は「郡から女王国に至る、万二千余里」と書いているだけで、
「邪馬台国に至る」とは書いていない。表現が異なる以上、邪馬台国と女王国
とは別の概念だと考えるべきだ。
伊都国から千五百里では、せいぜい熊本にしか到達しない。そこから女王国が
始まると考えるべきだ。女王国=邪馬台国+旁国なんだよ。


760 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 22:22:16
生目古墳群は相当古い可能性がある。

761 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 22:35:20
やっぱり邪馬台国は大和以外に無いな。

762 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 22:54:14
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1236292757/185-187

763 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 23:49:05
>757-759
だが、洛陽と長安の間は1000里だろ。
それとも、中国本土と辺境では、異なる里程が使われていたと、魏志に明記されているのか?

764 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 01:11:50
>>758
朝鮮で見つかった日本の地図は90度傾いているのだが。

765 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 07:15:21
>>763
郡から末盧国までの各里数、対馬国の方四百里、一支国の方三百里などから、
1里=435ではない里が用いられていることは明らかだ。

>>764
朝鮮でそんな地図がみつかったとは初耳だね。混一彊理歴代国都地図のことを
聞きかじったのかも知れないが、同じ元資料から作られたらしい地図が島原市
の本光寺でみつかっており、その地図では、日本は正しく東西に画かれている。
問題はないな。

766 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 09:05:26
>>763
狗邪韓国(釜山)、対馬国、壱岐国、末盧国の間は各々1,000余里
したがって1里≒10kmと思われる。
朝鮮半島と日本列島が一目でわかる地図を見ればわかる。

>>764
東への旅程の証拠探しに一生懸命になりやっとみつかった証拠というところか。
お日様は東から昇って西に落ちるだよ。
東西南北の使い方が違ってて目的地に到達できるわけないだろ。
それとも日が昇るところが南と思っていたのか?

767 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 09:21:12
>>765
ではこの文面はどう解釈する?

女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、
その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。
次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。
次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。
次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。
次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。
次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。
次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

これだけの国は「北」にあるんだが。
まさか北は西の間違いか?w

女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國あり、その南にあり。

これは東を北に解釈すると?

768 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 09:22:22
>>765ではなく
>>764

769 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 09:29:19
東を南と言い張るのは、やめてほしい。
同じ日本人として恥ずかしい。

770 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 10:06:25
おお、九州説信者が最近沸いてるなwww

771 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 10:14:14
>>769
だから、東と解釈するとまた矛盾がでてくるのよ。
それは「あらたな謎か?」って歪曲されてるしねw
理由も書かずに「同じ日本人として恥ずかしい」はないだろ。

772 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 10:16:00
日が昇る方向が東で、日の沈む方向が西。
天才バカボンだって東と南を間違えたりしません。

773 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 10:31:18
末盧国は松浦、伊都は北九州。これは両説の研究者もほぼ一致している。
不弥国は大分の港

そこからが問題
南と解釈して地図を辿ると海の中なのだ。
大体、九州に入っているのにわざわざ船で水行を行く理由がない。
ここで九州説は終了している。
宮崎・・・?隼人や熊襲のいる近くにそんな大きい国があったとは思えない。
何ヶ国も統治していた女王国がそんな近くに敵国が・・・?

畿内説の方が遥かに現実味がある。
海行ではなく水行20日としているのは、瀬戸内海を河と思っていたから。

投馬は広島、更に水行10日で兵庫、兵庫丹波から陸行1月で奈良に入る。


774 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 10:44:31
卑弥呼は、倭迹々日百襲姫命こと葛城日女命。
弟王は日女命の妹、葛城之高千那毘売の婿、祟神天皇。

祟神は倭迹々日百襲姫命に神託を頼んでいる。
葛城氏にそんな力の女性がいたのは、鴨氏が葛城氏の中にいたからだ。
鴨氏といえば陰陽道。鬼道とは陰陽道のこと。


こんな論議が九州説で出来るかといえば出来ないといわざるを得ない。
九州説のよりどころは 『南』 これだけなのだが、
本当に南と読めるもので『南』というのは今の『南』のことかどうかも分からない。

研究会の中でも畿内説でほぼ決まり。九州説は時代の流れで消えていくのみ。

775 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 10:47:07
方向の違う畿内説は、日本人の誇りにかけて絶対認められません。


776 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 10:47:35
>>773
矛盾だらけだなぁ・・・
末盧国から伊都へ北東へ進んだことになる。しかも距離でいうと150km。
ここまでの認識が大いに食い違っているから以下解釈不要だなぁ。

ちなみに以下の文章はどう解釈する?

女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、
また侏儒國あり、その南にあり。人の長三、四尺、
女王を去る四千余里。また裸國・黒歯國あり、またその東南にあり。
船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、
あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。

777 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 10:55:20
>>776
ハワイか東南アジア。

鹿児島だろうと、和歌山だろうと んな暑い国はない。
倭種であって倭人ではない。これは人種が倭人のようにみえるから。
東南アジア人は縄文系である。
神武は刺青を・・とかタマに聞くが、実在すら疑わしい神武の刺青なんか誰が見て誰が書いたのか?

話は逸れるが、昔、世界不思議発見?かなんかでちょっとやっていたのを思い出したのだが、
簡単に弥生系と縄文系を分ける方法がある。耳垢が乾いているのは弥生系の血が強く、
ジメッとしているのは縄文系の血が濃いんだそうだ。

778 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 10:57:29
>>775
方角は中国からのものなのだが。麻雀やったことあるかい?そういうことだ。

779 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 10:59:52
>>774
勝手に畿内説論者が解釈を曲げているだけですよ。
方向を正しく読み、距離は1里=10kmで換算すれば
すべて合致するんですよ。
1里=10kmの根拠は狗邪韓国(釜山)、対馬国、壱岐国、末盧国の
それぞれの距離は1000里余。「余」は「約」とする。
末盧国の場所は説によりバラバラなので釜山−対馬−壱岐を直線距離ではかると
100km。よって1里=10kmと解釈できる。

この根拠に対して畿内説論者は、考古学見地を基準としているから矛盾が生まれる。
この説に反対するんだったら南九州の遺跡を掘りつくしてみればいい。
何も出なくて証拠がなければ認めるよ。
とにかく畿内の掘り尽くされた遺跡に比べれば可能性はあるよね。

780 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 11:07:54
>>777
裸國・黒歯國はおいといて、
「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり」
これをきいたつもりだったんだが、東に海があり、国(四国)がある。

兄は耳垢がジメっとしてて、わし(弟)は乾いているw
なんでだろう・・。

781 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 11:09:21
南九州、もしくは、縄文時代まで続きであった沖縄付近が有力。
火山の噴火や地殻変動で滅亡したたか急激に衰退し、
幻の王朝となったのでしょう。

782 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 11:18:39
>>780
千余里って記述でも分かるとおり話を聞いてただ書いただけのものだと分かるだろ?
関東や東北ぐらい向こうの話だろ

母と父の耳垢を調査すればよし。君たちは混血だ。

783 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 11:19:58
>>781
そんな離れ小島が、数ヶ国を統治していたとは思えませんが?

784 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 11:57:26
>>779
一応つっこんでおくと、1里=10kmなら、万2千里で地球何周回れますか?

785 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 12:35:21
>>784
すまん。100里=10kmでした

786 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 12:43:34
水行二十日、水行十日・陸行一月 なお、天照大神は『魏志倭人伝』の
卑弥呼女王であるという根拠、さらに天照大神(卑弥呼女王)が住まわ
れていた場所(都)については、拙著『日本建国の三大祖神』に詳しく
述べたが、特に本書に必要なので、その概略を以下に記しておく。 
天照大神とは『記紀』によって付けられた尊称であるが、御神名として
は大日g貴という。『日本書紀』では、大日g貴を「於保比詳能武智」と
読むようにとしてあるが「g」の文字は「霊」と「女」の合体した文字で
あって、中国現存の最古の辞書といわれる『説文解字』は「みこ」と読ん
でいる。「日」の文字を付けて「ひみこ」と読み、『魏志倭人伝』では
中国独特の、他の民族を蔑んだ文字を使って「卑弥呼」としたものと思う。
すなわち、天照大神は「大日霊女貴尊」であり、卑弥呼女王ということで
ある。 また、天照大神の住まわれた場所は宮崎県西都市である。
この市附近の郡名を「児湯郡」という。この郡名の由来は、西都市の
児湯池は天照大神の御子たち誕生の産湯に使った水をこの池から汲ん
だことにより、池名となり、それが郡名となったという。 
天照大神の御子たちが西都市で誕生したということは、
当然母親である天照大神が住まわれていた場所である。
すなわち西都市こそ卑弥呼女王(天照大神)の「都」としていた
ところである。

ちなみに西都市の隣の新富町には「湯の宮」地区や「湯風呂」地区があり
神武天皇の漬かった湯釜跡が湯の宮神社隣にある。


787 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 13:18:13
>>769
それは天皇家がじつは朝鮮から始まったという事実を隠すことではないか?
宮崎には西都原古墳群という日本有数の数を誇る古墳群がある。
不思議なことに未だに十分発掘されないんだよね。
発掘してしまうと、天皇家と朝鮮との関わりがだんだん深まってしまうからね。
つまり、朝鮮→九州→東征→大和朝廷というルーツが証明されることになる。
そりゃ隠したいわな。同じ日本人としてww

788 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 14:08:15
なぜ隠したいの?百済は夫余系を隠してないよ

789 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 16:35:47
>765-766,779
>郡から末盧国までの各里数、対馬国の方四百里、一支国の方三百里などから、
1里=435ではない里が用いられていることは明らかだ。

>狗邪韓国(釜山)、対馬国、壱岐国、末盧国の間は各々1,000余里
>したがって1里≒10kmと思われる。

単なる事実誤認なのか、それとも、独自の里程/度量衡があったが、違う度量衡であることを知らずに数値だけ載せたのか、
それを現存史料で区別する方法があるとは初耳だ。
どうやって、事実誤認ではないと確定したのかを教えてくれ。

>788
だな、本当に隠すつもりがあったなら、桓武天皇の母親が百済帰化人の出身だってことも隠しただろうにな。

790 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/07(土) 16:40:25
>>787
別に隠す必要ないのに?
いまどき人類が日本列島で発生したと信じているのは天理教教会ぐらいでしょう。

791 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 17:06:26
>>789
ちょっとスレ違いではあるが。

今はともかく、昔は、百済の王族の家系といえば、非常に由緒ある家柄と
考えられていたわけだろう。

続日本記で、桓武天皇の生母の高野新笠が、武寧王の子孫とされているのは、
高野新笠が、いかに立派な出自を持っているかを示したものと言える。

逆に言えば、桓武天皇の生母を由緒ある家系の人物にするための虚構とも
取れる。高野新笠と武寧王は200年以上の年代差があるから、その付近は
微妙だろうな。

792 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 17:12:55
>>786
なぜ西都に天照が生まれたことになってんだwww

793 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 17:20:19
>>789
なぜ事実誤認に持っていこうとするのか教えてください。
方角もあわせて。

ちなみに1里=100mね。
これで比定できます。



794 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/07(土) 17:41:37
豊前国京都郡は、隋書[イ妥]国伝にいう「秦王国」(竹斯国の東)の都だった可能性は高い。
日本書紀では、景行天皇が行宮をたてたからミヤコと名付けたというが、これは不自然。
六年いた高屋宮はミヤコとつけられず、一月しかいなかった行宮がミヤコとは?
これは女王(一國之魁帥)神夏磯媛の都だったと考えられる。
卑彌呼の都かとも考えたいが、行程的には合わないようだ。

795 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 17:54:02
>>792
どこの論者も「おらが町」基準に考えちゃうんだよね。

たとえ金印が発見されたとしても、移動して副葬された可能性もあるわけだし。
不動産だったらわかるけど、邪馬台国の都だった証拠にはならないわな。
東征とのかかわりも今のところ脈絡ないし、東征とともに持ち去られた可能性も否定できないしね。

政治的に不利なのが南九州なのは確か。
>786のように多少カマかけないと発掘調査しないでしょ誰も。
「卑弥呼の墓」と勝手に名乗っている畿内と同じこと。

796 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 17:57:28
>>795
奈良は調査始まってます。更に新たな古墳が見つかりだしました。
考古学研究所の車を最近特によく見ます。

797 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 18:18:29
>>774
卑弥呼=天照大神としたら?
同じように記紀との関連性に着目した議論であるよ。
何も「南だけよりどころ」ではない。
何度も言うが、南九州は発掘が遅れているのだよ。

古墳前期の古墳が見つかるかもしれない
(生目古墳群の大淀川対岸の遺跡)
形は大和地方に酷似しており、もし年代がそれより古かったらどうなる?
そういう仮説に基づいた調査がまったくできていないんですよ。


798 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 18:26:59
>793
・事実誤認の実例が、倭人伝以外のところにも複数ある
・(倭人伝の部分も含めた)東夷伝には、冒頭(前書きのようなもの?)に、
東夷諸国については充分な情報がなく、情報の真偽を確認するのも難しいが、
既存の史書には伝が立っていないので、特にこれを記しておく。
という内容の説明があるだろ。情報不足、事実関係の不明瞭さが明記されているわけだ。

事実誤認や誤情報がかなり多く含まれているはずだと思うのが普通で、
すべての記載が正確と考えるのは信仰者。

799 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 18:29:47
>>789
>単なる事実誤認なのか、それとも、独自の里程/度量衡があったが、違う度量衡である
>ことを知らずに数値だけ載せたのか、それを現存史料で区別する方法があるとは初耳だ。
そんなことが分からないのかな? 実測方二百里のところを方三百里と書いている程度な
らば誤認か、別の里があったのかは確かに難しい。
しかし、方三百里は1里=435で計算すれば方百三十キロだ。ところが実際は二十キロ
もない。これは誤認などといって説明できるものではない。
千里も同じだ。1里=435で計算すれば435キロ。逆立ちしても見える距離ではない。
しかし、半島から対馬、対馬から壱岐は見える。それを千里というからには、435とは
別の里があることが明らかだ。


800 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/03/07(土) 19:04:20
その昔、巫女さんが1番高いところにいたんだよ。

これが日本だー!!

日本独特の雰囲気が伝わってくるよね。
United States of America(アメリカ)にはない誇るべき出来事!!


801 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 19:10:06
魏志倭人伝(三国志)においては「短里」が使われている。
最近この事実が分かり始めた。
1里は75〜90mである。
もちろん「一万二千余里」(帯方郡治→女王国)が「短里」という
実定値で書かれている、とすれば、畿内説は成り立たないだろう。
したがって、「径百余歩」と書かれた卑弥呼の墓も考古学論者の認識とかけ離れているだろう。

最初から記載内容が当てにならないと無視しつづける論者はいい加減である。

802 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 19:34:23
>801
おまえさんの尺度では「最近」なんだな?
古田氏がそれを本にしてから何年たったか、当時は若かった(?)古田氏が、いまは何歳か。

一時は爆発的に人気をのばした古田説が、後には専門家から見放され、無視されるほどにまで凋落した後、
世間一般からはすっかり忘れ去られるに至ったいまごろになって、何を言ってるんだろうな。


803 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 19:42:48
>>797
仮説で穴なんぞ掘れるか(笑)
徳川埋蔵金みたいに実費で掘れよ(笑)
クマソの遺跡しか出ねーよ(笑)

804 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 19:55:38
>>802
最近である。というよりこの説に対して裏づけ調査が行われていない。
畿内説論者に潰されただけである。

805 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 20:20:17
西都はどう考えても
祭殿+墓地でしょ

町は西都じゃなくて宮崎平野でしょうよ
距離も近いし

806 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 20:41:49
>>805
西都原は標高60m以上の台地に連なり火山灰土壌のため畑作稲作に向かない。
集落は一ツ瀬川あたりか、大淀川下流と思われる。

807 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 21:14:55
>>794

>九州説のよりどころは 『南』 これだけなのだが、
畿内説のよりどころは「南を東とすることが前提」であるのだがw
こっちのほうが不安定じゃないか?この前提を守るために幾人を犠牲にしたんだ。
いい加減原点にかえれよ


808 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 21:25:23
>>803
熊襲の古墳と推測できるものは宮崎平野には無い
隼人の古墳やヤマト族の古墳ならあるけどな

809 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/07(土) 21:46:36
安本美典氏は卑彌呼は甘木・朝倉地域、壹與は京都郡と考えているようですね。
在位十年説や卑彌呼=天照大神説には賛成しかねますが・・・


810 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 22:06:40

イヨタン・・・・・・・・・・


811 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 22:09:11
>>808
熊襲というのは、架空の存在。

812 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 22:10:21
>>809
安本は、もし南九州なら都城だと言ってたな。

813 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 22:27:14
>>802
西都原古墳群の81号墳が3世紀半ばに築造されたことがわかったときに
多くの考古学者は「大和政権の一角」とか「大和政権の連合に編入されていた」とか
記紀などの文献を無視した発想を悉くされている。
わしは北九州説だとは思っていないが、吉田氏が畿内説論者や考古学論者によって
正しい議論の入るすべがなかった。
わしはこのような考古学の世界には嫌気が差す。
真実は闇のまま。分かったところで滅ぼされるだけ。

814 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 22:43:25
このスレでは、邪馬台国は南九州にあったということで意見の一致しつつありますね。
畿内にあったのは、邪馬台国と同じような文化を持った別の国。


815 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 22:48:45
邪馬台国は畿内大和

816 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 22:56:52
畿内にあったのは邪馬台国ではない。
何度言ったらわかるのでしょう?
方向が違うでしょう?

817 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 22:57:19
この較正(カクセイ)が、歴史を変える。

とか言ってるアニメがあるようだな。番組(?)CMをよく聞く。どうでもいいことだが。

818 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 23:00:36
>813
学会は組織だって行動する団体じゃないし、一枚岩でもない。
一致団結してつぶす能力なんか持ち合わせていない。

よってたかって叩きつぶされたとか組織的行動とか言ってるのは、敗者の言い訳だ。

>807
畿内説は、
>畿内説のよりどころは「南を東とすることが前提」であるのだがw
なんてことはなく、単に、情報の精度が低いと考えてるだけ。
方角も距離も、正確さを欠いた情報が継ぎ接ぎになって載ってるだけだと考えてるだけだ。

819 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/07(土) 23:15:47
邪馬台国連合は南九州まで含んでいたと思いますが、
小林市に「夷守(ひなもり)」があったところを見ると中心ではなさそう。


820 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 23:18:59
>>818
>単に、情報の精度が低いと考えてるだけ。
何で、制度が低いと考えるのか? 南を実は東と言いたいが為だ。


821 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 23:22:52
あるときは、魏志倭人伝の情報の精度が低いといって、またあるときは、
魏志倭人伝に書かれているから間違いないといってみるご都合主義。
日本人の恥です。

822 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 23:25:57
>>748
佐賀市も合併で広くなったが、鍋島藩旧ご城下の佐賀市市街地に関するかぎり
弥生遺跡は何も無い。
古墳さえ一基も見当たらない、
佐賀旧城下町付近は、古代においてはほとんど泥海状態であったろう。
金石なども奈良朝・平安期まで遡るものは無く
この地では中世以降にしか人の活動が認められない。
したがって伊都国を佐賀市市街地付近に想定することは不可能。

823 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 23:38:32
>>822
認識不足だな。佐賀市の市街地などという人はまずいないだろう。山手の大和
付近を考えるんだよ。山田という地名も残ってるだろ。

824 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 02:56:41
>>807
アホか。畿内説には後の歴史の繋がりと、古墳、文献、
その他数々の出土品が備わっていて、まだまだ出てくるというのに
九州説ときたらそのすべてが少なく、倭人伝の『南』に頼らざるを得ない

そもそもアレは 南 なのかすら怪しいのだがww

825 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 09:03:10
南でいいんですよ。

826 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 09:47:12
南は南、東ではないことは確かです。
東に大きな国があったとしても、それは邪馬台国ではありません。


827 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 10:23:23
それに、東に大きな国はなかったと思うよ。銅鐸の国はつぶされたし・・・
前方後円墳を造った勢力は西から来たんだろう。

828 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 11:00:48
では銅鐸文化の卑弥呼はやはり…


829 : ◆.L.MXSPOgc :2009/03/08(日) 11:56:38
>>818
末盧国までの行程を検証すれば、その記述がどの程度信頼できるのか分かりますよ。
方向間違えていません。
距離、短里という魏の里とは違う尺度ですが、その値で統一してそこそこ良い値が書かれています。
これらから少なくとも不彌国までの記述は同程度の信頼が持てることがわかります。

南を東とか、南東を北東とか、このようなことを言うのは妄想レベルの戯言に近いです。

830 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 12:20:44
>>828
まあ、畿内説の妄想はその程度だろう。

831 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/08(日) 12:25:50
(魏志倭人伝)
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。
(日本書紀巻三神武天皇即位前紀己未年)
高尾張邑有土蜘蛛。其爲人也身短而手足長。與侏儒相類。皇軍結葛網而掩襲殺之。因改號其邑曰葛城。

侏儒は天武天皇四年(675年)にも近畿・東海諸国から奉られている。
倭種、侏儒は主に本州の国々と思われる。

832 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 13:29:52
近畿や東海は、倭人の国ではなく、侏儒国だったというわけか。


833 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/08(日) 13:53:44
>>832
>近畿や東海は、倭人の国ではなく、侏儒国だったというわけか。

国をつくっていたのは倭人。
侏儒国はまとまった国家の名ではなく、高尾張邑の土蜘蛛のように散在していたのではないか。

834 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 17:36:23
>828
倭国乱/倭国大乱より以前までしか存在しなかった銅鐸文化は、
卑弥呼と直接の関連を持つことはないよ。

銅鐸文化圏があった故地に卑弥呼が共立されただけさ。

835 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 20:46:00
>>834
ではやはり、卑弥呼は畿内なんだね。

836 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 22:01:05
やはり邪馬台国は畿内ではなかったのか。畿内にあったのが句奴国だった可能性すらある。

837 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 22:36:32
後漢書では東に海を渡って拘奴国

838 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 00:20:42
拘奴国は尾張かと。

839 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 00:25:01

 お  わ  り




ですか、

理由は?

840 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 05:27:19
尾張は陸続きだよ。畿内説の詭弁

841 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 10:50:43
じゃ、毛野国だな。

842 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 18:27:03
女王国は九州なの

843 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 20:24:43
>>840
海ありますよ〜w

844 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 20:33:47
赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった

横浜の 埠頭から 船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった

今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう

赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢うたび 考える


作詞:野口雨情 作曲:本居長世
かなりヤバイぜ。

845 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 21:04:37
>>813
>学会は組織だって行動する団体じゃないし、一枚岩でもない。
>一致団結してつぶす能力なんか持ち合わせていない。
>よってたかって叩きつぶされたとか組織的行動とか言ってるのは、敗者の言い訳だ。

随分と攻撃的ですな。組織的じゃなければ派閥と言えば良いかな。
その副作用が学会の90%が畿内説を支持というとんでもない事態にしたんだろうが。
あなたの思っているようなクリーンな学者はいないよ。飯が食えるか食えないかが
かかってるからね。
その点アマチュアのほうが意を突いてる気がする。特に南九州説や宇佐説。

まだ不完全な考古学を持ってきても不公平極まりないよ。


846 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 21:27:29
>>845

>組織的じゃなければ派閥と言えば良いかな。

派閥というのは間違いないですね。
人が集まるところ、必ず派閥はできます。
派閥と言っても好き嫌いレベルの情実的な集団もありますが、
思想的な違いによる理論派閥、損得で結びつく利益派閥もある。
日本の学界にある派閥は、この三つの要素を全て含んでます。
でも、民間の好事家レベルでも派閥はありますね。
ここ2chにもありますw
中でも「九州説」派の皆さんは、理論的同一性は度外視して、
敵(畿内説)の敵は味方的な、情実+利益で結びつく派閥だと思いますよ。
畿内説は理論派閥的ですね。

847 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 21:35:43
>>844その、野口姓の人は、人類で始めて世界を又にかけて活躍した縄文人の血をひくのではないかと思う。
    野口英世(医学博士)、野口健(アルピニスト)、野口みづき(アスリート)、野口 聡一(宇宙飛行士)。
    これだけ一つの分野に情熱を燃やす人が集まる姓は、他にはないと思うのです。

848 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 21:55:21
卑弥呼はアマテラス。アマテラスの記紀の内容と魏志倭人伝の卑弥呼の内容が
似ている。

しかし、実際のアマテラスはヤマトトヒモモソヒメとリンクしている。

つまり、ヤマトトヒモモソ姫の話をアマテラス神話にしたてた可能性がある。

849 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 22:06:03
>>846
その理論派閥的というところが気になるのですが、
文献による記載の解釈は江戸時代からずっとやってきたわけで、
倭人伝だけではラチがあかない。
考古学的な見地から探るしかないわけですね。
この理論というのはおそらく考古学的なことを指しているわけだと思いますが、
さっきも書きましたが発掘されていない、または仮説すら無視され
出土品に対してあーだこーだおっしゃることに理不尽を感じるのは理論的ではないと
おっしゃるのでしょうか?
いまある(出土している範囲)で考古学的な検証を行うのはかまわないですが、
他の可能性も相対的に分析する配慮に欠けている気がします。
なぜ学会の90%が畿内説支持なのか理解できるわけがないでしょう。

大阪の古墳と宮崎の古墳は非常に良く似ており、舟形埴輪や家型埴輪も
珍しく似ている。若干宮崎のほうが繊細な作りな気がします。
南九州は熊襲として最後まで大和朝廷に抵抗したはずですが、
なぜここまで似た遺跡があるのか、年代とともに整理していく必要があると思います。
要するにどちらが先に作られたのかってことです。
ちなみに宮崎の古墳のほとんどは未調査・未発掘であいますが、
それでいて「大和朝廷の影響」とか「大和朝廷の支配地域が日向まで広がっていた」と
見当違いのコメントを出す学者は理解できないですね。
畿内説論者はすべてが大和朝廷基準です。

850 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 22:25:43
>>849

「派閥」の話ですよ。
九州説の方々は、畿内説に対して「あーだこーだ」と仰る点について一致しているだけで、
「九州説」派として存在していますが、各々の歴史観、追究方法等はてんでバラバラでしょ。
派閥の構成要因に「理論」は含まれていません。
大きく括って「畿内説」派と言うのを想定すると、
それは追及の方法、結論等で一致する集合であって、
互いの好きも嫌いも関係の無い。
派閥タイプの分類で言えば「理論派閥」になります。

851 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 22:41:18
日本文化は「恥」の文化。
古くは、変わり果てた姿を見られてしまった伊耶那美(いざなみ)の命は、
「あなたは、わたしに恥をかかせました。」と怒り、黄泉(よみ)の国の魔女を
使って後を追わせた。
その後も、大物主は「汝は吾に恥をかかせた。今度は吾が汝に恥をかか
せよう」と言い、空を踏んで三輪山へ登っていった。姫命は悔やんで陰を
箸で突き死んでしまう。それが卑弥呼。
「日本書紀」には「天津甕星神(天之香香背男神)」という悪神がいて、
金星の神と言われています。 天孫族に土師をかかせた悪い神で、武甕
槌命と戦って、天武葉槌命が退治したと書かれています。
その後も、菅原道真、平将門と続いた祟る神の伝統も、実は「恥」をかか
された者が、相手を祟るという図式。裏返して、祟りを恐れて倒した相手を
祭るという風習。すべて、古代シュメール人からタタールに繋がるシャーマ
ニズムが根源にあると思うのです。

据膳食わぬは武士の恥。拙者も切腹でござる。

852 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 23:19:38
>>850
それは追及の方法、結論等で一致する集合であって、
互いの好きも嫌いも関係の無い。

なんか話がかみあってないですね。
好き嫌いの話をしたつもりはなかったはずですが。誤解されているようでしたら訂正します。
思うに九州説派の主な言い分としては、畿内説派の理由付けとなる考古学的見地による
究明が不完全であるにもかかわらず一定の定説に持っていこうとすることに
不満があるんだと思います。歴史的・文献的見地についても自身の都合の良い部分のみチョイスして
いませんか?
「女王国の東に海があり、1000里向こうにまた国がある。」
これに対して東北とかその辺と回答した近畿説支持者がいますが、
理論的に考えれば東側沿岸地域またはそれを包括する地域である可能性が高いことは分かるでしょう。
記紀の神武東征についても、実は東征なんてなかったという文献自体の
信憑性を疑うことで解決しようしてませんか?
結果的に畿内説が定説となっても、多くの矛盾が生まれてそれを解決しなければ
皆納得できないわけですよ。その矛盾に対してどれだけ配慮しているのですかと問いたい。

私が書いた「畿内説論者はすべてが大和朝廷基準です。 」はこういうことです。
他の人が見たら矛盾に気がつくでしょう。

あくまで派閥の話をしたいなら返信不要です。論点が違うようですので。

853 :852:2009/03/10(火) 23:36:25
書き忘れましたが、確かに畿内説論者は理論的な方が多い気がします。
というよりある程度勉強されているのでしょうね。
初心者のもっともとっつき易いのは文献からですから。
まず倭人伝の解析に興味がありますよね。
そこで食い違いがあるんだと思います。
ただ、人それぞれですから。。

私はどちらかというと正当性の逆が好きですので、
九州のあちこちの遺跡について調べているうちにそういう疑問がでてきたわけです。
したがって決着はまだ幾分長引きそうですね。

854 :846:2009/03/11(水) 00:11:52
>>852

貴方は>845氏かな?
私は純粋に「派閥」のことだけを念頭に書いてますので話は噛みあいません。
なので、失礼いたすことにしますが、長文のレスを頂いたのでちょっとだけ私見を披露します。

>「女王国の東に海があり、1000里向こうにまた国がある。」

渡海千里の倭種について「それは伊勢湾の向こうの三遠地方だ」とか言う論者もいますが、
私はそうは考えません。
これは九州説の方々が「會稽東冶之東」を処理するのと同じような論法で非現実的解釈です。

畿内大和の東千里の海に倭種の地はありません。
つまり、私は女王国の東にも倭種の地は無かったと思っています。
畿内説に立つとすれば、倭人伝のその部分の記述は「誤伝」であると判断するわけです。
こういう「判断」の仕方について批判があることは承知していますが、
畿内説から見た倭人伝に対する解釈では、当然の「判断」となります。

ですので、話はかみ合わないわけなのです。


855 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 00:45:31
>>854
話がかみ合わなくて承知の上で返信します。怒らないでね。

まだあるんですよね。畿内説だと腑におちないのが。
空白の4世紀。もし邪馬台国が畿内になったとしてどう説明されるのでしょうか。

何度も言うことに恐縮ですが、私は正直考古学についてあまり信用していません。
学者によって説が異なるからです。畿内説の有力な証拠となりえる卑弥呼の墓についても
それが年代的に合致したとします。かたや九州説支持者は金印が出土したとします。
お互い主張するでしょう。「邪馬台国はどこにあったか」という観点で見れば
どちらも主観的な見方しかしていないのです。考古学はこういう危険を孕んでいるにも
かかわらず、歴史・文献に対しても誤記・誤植・誤伝と決め付けてしまうのです。
最後の三行がまさしくそれでしょう。
「倭人伝の方向が間違っている」このことに対して証明できませんよね。
それについてはお互い様でしょう。
こういう掲示板では学説ではなくアマチュアチックな見解のほうが
やりやすいかもしれません。

856 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 00:48:13
>畿内大和の東千里の海に倭種の地はありません。

横レス。
韓半島から対馬や対馬から九州へ行く際の「渡海千里」レベルの距離を考えるなら、
伊勢湾を越えて渥美半島あたりで上陸する程度の距離で充分じゃないかな、とか、

実距離にして一千里と考えて200〜300kmほど水行したら、
東海地方沖を渡海して伊豆半島か房総半島あたりへ上陸して関東地方へはいるコース、

このあたりを想定する余地ぐらいはあるわけですよ。

大和と東海地方の勢力の間で対立・緊張関係があったからとか、
そもそもこのエリアは陸路で往来する風習がなかったとか(陸路で往来するようになるのは「大化」よりも後の話で、
もともと畿内と関東を往来する際には伊豆半島や房総半島あたりを入り口としていたことが判明していますから、
考古学的な交通に関する地検とは矛盾しないわけです。強引な解釈っぽいところがあるとは言え、ね。)
想定しうることはいくつかある、あることはある。

>840
大和から尾張へ向かう際には、伊勢湾を渡海するのが普通
近江を通って関ヶ原を抜けるようなコースは、まだ幹線と言える状態にはなってない。
天智天皇のころから発達したルートだろ? 近江の宮から東へ行くには最短だったから。

857 :846:2009/03/11(水) 01:20:00
>>855

じゃ、噛みあわないままにお返事だけをw

> 空白の4世紀。もし邪馬台国が畿内になったとしてどう説明されるのでしょうか。

何故、中国文献から倭の記述が消えるのかと言うことですか?
別に畿内・九州どちらの立場でも結論は変わらないところだと思いますが・・・

> 何度も言うことに恐縮ですが、私は正直考古学についてあまり信用していません。

表現の仕方は別にして、今の考古的知見からの判断に100%の信を置いてはいけませんね。

> 畿内説の有力な証拠となりえる卑弥呼の墓についても

「箸墓」ですか?
「証拠」では無いと思います。
畿内説論者の太宗は箸墓を卑弥呼の墓などとは位置づけていません。

> 歴史・文献に対しても誤記・誤植・誤伝と決め付けてしまうのです。

自分の結論と倭人伝の記述が異なれば、誤りと解釈するしかありませんから当然のことです。

> 「倭人伝の方向が間違っている」このことに対して証明できませんよね。
> それについてはお互い様でしょう。

はい、お互い様ですね。
大概の九州説の方々も方向の「誤り」については「証明」できていないと思います。
と、言うか「誤り」と認識しないのですから、話は噛みあわないわけです。

ちなみに私も素人です。

858 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 19:53:13
畿内説が理論的な訳無いなあ
あまりにも馬鹿げているから一般人の支持がない

859 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 20:01:07
>>858
九州説はトンデモすぎるんですが。

文献はないわ、火山地帯であまり米作れないわ、
クマソは近いわ、大した発掘品ないわ
大和朝廷との繋がらないわ

860 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 20:40:05
>>859
こういう意見がね。畿内説論者に多いという典型ですね。
九州の地理感がまったく分かってないと思われます。

・邪馬台国時代に文献が日本から発見されたという事実はどこにもありません。
・火山地帯で米が作れないのはとんだ偏見です。水のほうがもっと大事でしょう。
 実際に九州全体で稲作に適しています。特に南九州は温暖で二期作もできます。
・熊襲の比定地は確定していません。
・大した発掘品はなにであるか明示的にお願いします。
・邪馬台国と大和朝廷に繋がりがあることが証明された事実はどこにもありません。

よってあなたの意見は主観に基づくと判断されます。

861 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 20:44:27
空白の4世紀とは祟神の子孫による東国遠征の時期と符合する。


862 :855:2009/03/11(水) 20:49:57
>>857
まだ言いたいことはあるのですが、ご自身で出された結論という記載があったので
コメントはここまでにしますね。また相手してください。

863 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/11(水) 20:57:13
九州か畿内かで論をするから両方共倒れ
倭人伝登場人物
都市牛利=タジマモリ
伊支馬=イクメ=垂仁
倭王←タリヒコ =景行
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
難升米=倭女王の部下で伊都在住の大夫
狗奴國=狗古智卑狗?
イヨ=五百野姫
ついでに書紀より
倭女王卑弥呼=巾3尺の石
男王=筑紫の大木

倭人伝と書紀を合わせると 上記の如くです。
考古学の歪みは、 埼玉稲荷山=雄略時代などと文献が歪めている部分がある。


864 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/11(水) 21:08:28
238 景初二年 卑弥呼は魏に遣使 この一団に垂仁の使者田島守が次使として参加。
タジマモリが帰国した翌年には、天皇イクメは、墓の中
失望したタジマモリは、殉職 持ち帰った土産(カグ四棹、カコ四棹)此の土産の入った
壺一つと共に半島式の造りの墓に祀られる(垂仁墓?の一郭)=ホケノ山古墳。
243 正始四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人
倭王タラシヒコは、世代交代の上奏に伊聲耆掖邪狗=イワカを送る。
245 正始六年 難升米は郡まで出張、黄幢假授を受ける。
247? 景行12年8月景行は九州遠征に出発、大和より周防サバまで20日で移動。
248 正始八年郡の使いが卑弥呼に合いに来たがすでに卑弥呼は、塚に埋葬されていた、合掌。
筑紫で男王が立つが、此方も間もなく死亡。景行18年の死亡。
景行20年 伊勢に居た五百野姫を卑弥呼の宗女として、筑紫に軍隊付きで送り出す。
景行25年 武内を関東、東北の巡察に出す。
景行27年には、関東平定を決定、その時九州でも熊襲が翻ったので、コウスの派遣を決定。
景行27年は景行治世16年目か?。天皇家の「しのぎ」を種貸しから屯倉経営に改める。
名前で「イクメ」は、通称。対する「イワカ、タリヒコ」は諱。中華の皇帝より叙勲を受けるのに
さすが通称ではまずいと思った天皇は、諱で上奏する。
景行=大帯日子淤斯呂和気=大足彦忍代別=ヤマト オシロワケ イムナタリヒコ
倭国大王オオタラシヒコの初め。


865 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 21:12:22
>>861
東国遠征にでていたから文献が少ないと?何がおっしゃりたいのか分かりませんが、
重要なのは邪馬台国3世紀から大和朝廷5世紀までの間の紐付けなんです。
これに対して仮説立てられるかたいますかね。

866 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 21:50:05
邪馬台国は九州のどこかにあった。
神武東征や岩戸がくれを調べれば仮説は立てられる。根拠もある。

岩戸がくれ、天照大神の行動が豹変する。具体的には隠れる前の行動と
出てきた後の行動がまったく違う。よって別人と考えられる。
また隠れるというのは死を意味していることがわかる。
隠れる前は卑弥呼=天照大神。出てきた人は臺輿である。
天照大神の弟は須佐の男の命であり、卑弥弓呼である。
狗奴国と邪馬台国は戦っていない。倭人伝に戦死者がないことを示す記述がある。。

記紀との関連を調べると以上の仮説が成り立ち、神武東征へとつながる。

畿内論者はこういう仮説を真っ向から否定よね。

867 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 21:57:07

神武東征は紀元前なのに、
どうして記紀神話を否定するの?

868 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 22:05:32
使者は伊都国までしかいってないね。
「到る」と「至る」の使い分け。
伊都国までは「方角→手段→国名」であるのに対し、
それ以降は「方角→国名→手段」になっている。
後者は主に伝聞によりこの方法を用いることに違和感がないことから
実際に伊都国までしか行っていないことがわかる。
したがって伊都国までは正確である。つまり伊都国はSAGA平野。

869 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 22:07:23
>>867
いいとこ突いたねぇw
神武から9代まで100歳以上は考えられないのが根拠。
よって年代は当てにならない。「年代は」ね。

870 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 22:15:16
なんだ空想ごっこかよ

871 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 23:05:39
>>867
その記紀の「紀元」の物差しを
西暦に対応させる作業が必要なのよ

倭暦独特の物差しが(倍暦など)あったというのが
定説になりつつあるところ

872 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 23:15:29
>>865
九州北部の久米などの地名と群馬の古名「久留間」など、
東国の地名が符合する。
北九州を追われた邪馬台国の住民が移り住んだのが東国。
大和朝廷による邪馬台国隠しと東国隠しは同じ目的だった
のではないでしょうか。

873 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 23:30:18
>>860
>邪馬台国時代に文献が日本から発見されたという事実はどこにもありません。
んな時代ねーよw

>火山地帯で米が作れないのはとんだ偏見です。
稲作に向かないからとサツマイモの栽培に力を入れた青木昆陽に謝れ。

>熊襲の比定地は確定していません。
くるしいのぉうwww

>大した発掘品はなにであるか明示的にお願いします。
鉄器が来る前の青銅器や木製の物。鉄は明らかに中国からの物であるからそれ以前の物がないとおかしくなる

>邪馬台国と大和朝廷に繋がりがあることが証明された事実はどこにもありません。
邪馬台国が具体的にどう大和朝廷に屈したか、または自然消滅したか資料や文献を用いて述べよ。出来ないだろうけどw


874 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 00:11:39
>>866

あー、力説しているところ悪いが…

太陽が隠れ世界が真っ暗になり(=日食起源)
その太陽をおびき寄せて再び世界に光を取り戻した…なんてお話は海外にもあり
別に日本特有の物じゃないぞwww

卑弥呼と言う女王の存在を
” 元々あった ”太陽神の神話に仮託したと言うことならいざ知らず

古代の一連の事件を元に高天原や岩戸隠れの神話が作られたなんてのは本末転倒。
記紀その他のあっちこっち摘み食いして考えた 『 ボクのしんわ 』はチラシの裏にでも書いておけっちゅう話だなwwww

大体、東遷説なんて伝説に毛が生えた程度の物w(少なくとも現在は)

否定も肯定も、そもそも学問の俎上に上っているかどうかも怪しいw

「相手してもらえない」と泣いて駄々こねるより、学説として成り立たせる努力をしましょうねwwwwwww











875 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 00:17:54
>>859
>クマソは近いわ、
アホめ、熊襲が近いことは邪馬台国の証明につながるんだよ。
熊襲の物語は、邪馬台国が南九州にあったことを物語の形で後世に伝えたものだという
説がある。小碓命は熊襲の兄弟を討った。まず、兄を討って「倭男具那王」になった。
次に、弟を討って「倭建命」という名前をもらった。倭男の具那王というのは、狗奴国
の男王。倭建命というのは、邪馬台国の建(王)。つまり、南九州に狗奴国と邪馬台国が
あったということを教えたものということだ。

876 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 00:25:09
>>840
古代の東海道は大河の難を避けるため伊勢湾や東京湾を船で渡ったのですよ。
遠投すまん

877 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 00:46:12
船で渡ったからといって、渡海千里亦倭種などとは書きません。地続きのところには
同じ人種が住んでいるのは当たり前。わざわざ書いたのは、別の人種が住んでいるか
も知れないから、すなわち、別の島だからですよ。

878 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 01:11:06
>>877
>同じ人種が住んでいるのは当たり前
ユーラシア大陸も同じ人種ばかりなんですねw

879 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 02:00:33
>>874
海外に似たような神話があったら、どうだっているわけ?

どういう神話か知らないが、海外にも似たようなものがあるから神話とは
そういうものだというわけかな?
つまり、記紀の筋が事実の反映ではなく、作り話だということを証明しようと
して一生懸命海外の神話を探した人がいるわけだ。

まあ、似たものかどうかは、似ているという、その神話を具体的に示して
もらわないと判断できないな。

倭人伝の卑弥呼と記紀の天照大神の類似点よりも、その神話が似ていると
したら、言うことはないが。

880 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 02:28:59
>>879
例えば
神は人を塵から創った。
アダムとイブ=イザナミとイザナギ
どちらの場合も女性が悪に騙され、男性を騙し二人とも堕落する。

ユダヤ教やキリスト教はすでに出来てるのだから
日本に教えの一部が入っていてもおかしくはない。

881 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 02:30:15
もちろん日食神話は他の民族にもあるけれど
天岩戸神話と相似形の神話は無いわな
特にストリップの話なんかは無いだろ

イザナギの黄泉の国神話は
ギリシャ神話のオルフェウスと気味が悪いほど酷似してるけどねえ

天岩戸神話と高千穂の夜神楽(ストリップが元)は
やはりつながりがあるって考えるのが普通じゃないのかなあ



882 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 02:36:20
>>879
インドシナに分布する日食起源神話だと
太陽と月の兄弟のその下に弟(妹)がいて
この悪行で日食月食が起こる・・・と言う話。

邪馬台国に合せるお話では三貴神のツクヨミ(月神)は一体どこに行ったんだよ?w

キャスティングをてめえのお話に合せて変えるんじゃねえぞとwww




883 :882:2009/03/12(木) 02:38:08
適当に類似点だけあげて史実だと言えりゃ世話ないって話で

例えば。アマテラスが岩戸隠れに至る原因になるスサノオのDVシーンで
邪馬台国の時代の日本にはなかったはずの”馬”が出てくる時点で
史実の反映と言うのはアウトw

探せばそのような部分は他にもあるだろうが
その部分だけは後付で、岩戸隠れの話の筋は史実の反映と強弁するのなら
一体両者を峻別する基準は何か?と言う話だなw

結局はてめえが
「これはこの話に似ているから史実」
「これは史実として組み込めないから後付」
と恣意的に分類しているだけ。





884 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 02:45:15
いや
「これはこの話に似ているから史実」
「これは史実として組み込めないから後付」
っていう作業は大事だよ
相似形がないものはオリジナルの話で
なんらかの伝承が元になってるわけでね

神話がその地に残るっていうことは
なんらかの神話化されるべき存在がその地にいたから
後で権威化するために外来神話がくっついたのよ

885 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 02:58:59
そもそも「類似している」と言うのなら

「 アマテラス=持統 」説が一番良くできているwwww
(知らない奴はてめえで調べろ)



886 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 03:08:10
>>884
>相似形がないものはオリジナルの話で
>なんらかの伝承が元になってるわけでね

記紀神話に邪馬台国の元ネタが無いと説明できないって部分は無いと思うが?
少なくとも俺自身は思い当たる部分がない。

逆に邪馬台国が元ネタとするには不都合な部分なら先に挙げた
 ・ハブられたツクヨミ
 ・当時いるはずのない馬
…等々は思いつくがwwww


887 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 03:28:13
だから書いてるじゃん
天岩戸隠れのストリップの話
そのストリップが高千穂の夜神楽になったんだろ
なんであんな僻地の山奥に夜神楽が
日向神話と結びついた形のまま残ってるのよ

ストリップをしたアメノウズメの子孫が稗田阿礼ってことになってるわな

888 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 03:41:38
ストリップショウが邪馬台国に由来する史実部分と言われてもねえ…w

それこそ魏志倭人伝に
「邪馬台国では卑弥呼の没後、盛大にストリップショーが行われた」
とか書いてあるのならともかくwww

ついでに言うと日向神話なんてそれこそ海外との類似の宝庫w

例えば不細工な姉とカワイコちゃんの妹の二択のお話は確か
海外だと神から送られたバナナと石の二択で
美味いバナナを選んだ人間の子孫はひ弱な肉体を得る事になってしまう・・・とかだったと記憶しているがwww





889 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 04:13:12

アメノウズメタン……

http://www5f.biglobe.ne.jp/~tukasa/kojikiekotoba/kamitu/amaterasu/iwaya.jpg

890 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 06:36:51
今年の日食で卑弥呼様の生まれ変わりが現れましょう。

891 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 08:01:21
著名な学者が言っているように、「倭人伝に書かれた倭国の状況と、記紀の
高天原の状況が酷似することを誰も否定することは出来ない」、これは事実
だろう。
つまり、卑弥呼(ブラス台与)=天照大神。

それでも、天照大神の実在性、また卑弥呼との類似性を否定せざるを得ない
人がいるのは、その次に「神武東征」があるからに他ならない。
すなわち、邪馬台国東遷説を受け入れざるを得なくなるからである。

畿内説や九州王朝説が存在する限り、否定する人は後を絶たないだろう。

892 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 08:49:09
>>891

類似する部分だけ抽出すりゃ、そりゃ酷似もするって話でw

卑弥呼(ブラス台与)=天照大神 の図式を強弁したいようだが
アマテラスのモデルなら>>885でも出た持統はじめ推古以後の女帝も候補に挙がるだろう。

何より日食と言う天体現象そのものと介するのが一番楽なはずwwww

結局、東遷説は神話頼みと言うのが現状。

 「否定してみろ。否定できないのなら認めろ」

と言うトンデモ理論でしかないwww







893 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 09:09:48
卑弥呼の陵は西都原だよ
生目はもっと古い物だ
現在の息長タラシ姫の陵は後代に墓参りが辛いので移転したのだ
西都原には殉死した人々の墓もあるもんな
これで結論でいいですかー

894 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 09:21:49
>>869
>神武から9代まで100歳以上は考えられないのが根拠。

なら、神武東征は1世紀頃と考えるのがスジだよね?

>>891

こういう人達は神武東征を4世紀とか思ってるんだろうが、
文献からも考古学からも全面否定される。



895 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 09:47:35
>>891
>著名な学者が言っているように

つうか、ぶっちゃけ現在『邪馬台国東遷論』なんて
真顔で唱えている学者って、安本美典だけじゃないのか?w




896 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 13:25:37
ここにも馬鹿がまだいるようだが
(w←こういうヒゲの好きなやつ)
「神武東征」と「邪馬台国東遷」は別モンだ

897 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 13:41:19
>>896
話の流れが読めてない馬鹿wwwwww

898 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 16:35:13
>>895
東遷説を真顔で考えているのは、畿内説の学者も同じ。
彼らの主張するところを見てみると、東遷説を否定することに躍起にやっている。
畿内説はアンチ東遷説であり、常に東遷説を念頭においている。

899 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 17:26:04
考古学上、東遷したという証拠がなんにもないんだから、考えようがないだろう。



900 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 17:31:24
記紀に書かれているいる以上、時期は何時のことかは不明だが東遷は事実として考えるべきだろう。
考古学では東遷した証拠もしなかった証拠も示せない。
考古学なんてそんな学問です。

901 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 17:40:19
記紀に書かれているのは神武東征であって
(それもそれほど大規模ではない
-単に神武が日向から出航していって6年後橿原で即位するまでの話)

邪馬台国東遷とイコールではないよ
むしろわけて考えないと

902 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 17:57:00
まあ神武東征を何とか史実としたいが為
「邪馬台国東遷」をあきらめて更に時代を遡るのは良いが

考古学的資料が無いと言う状況は変わらない。

いや、変わらないどころか想定する時代によっては
銅鏡すら東遷の証として使えなくなる。(画文の年代遡上の限界)

銅鏡を東遷の根拠にするなんて今時あまり見ないと言うか
(まあこの板じゃあバリバリ現役だがw)
元々無茶な話なんだろうが、それすら無くなるw

もう「記紀神話に書いてあるから史実として考えろ」の一点張り。
殆ど宗教に近いと思われwww




903 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 18:02:21
そうじゃなくて日向に残ってる伝承や神話や
数々の奈良や伊勢との関係性のあまりの深さを考えたら
神武に相当する人物が日向にいたと考えるのが
あたりまえってこと

904 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 18:07:04
筑紫の日向は福岡県の日向峠付近だろう。
北部九州から奈良に移住した一族がいたのだろう。

905 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 18:16:28
>>904
それじゃあ
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/006/re_006_040619.htm
これの説明がつかない

マキムクが大和朝廷の元だというのははっきりしたのだから
それと相似形の同時代古墳すべてがある日向(宮崎)との関係を明らかにしなきゃ


906 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 18:45:40
日向とは京都府向日市のことだろう。

907 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 18:54:55
マキムクと大和朝廷の関係は不明ですよ。
南九州へも北部九州からの移住した一族がいたのだろう。
武力で制圧した新天地の方が支配力が強いので住民を酷使して巨大古墳を造れたのだろう。

908 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 19:11:32
>>906
似てるけど字の順番が違うよww

909 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 20:06:44
>>907

それじゃあ
>>905の説明がつかないでしょ
奈良と日向は同時代に相似形の古墳があり
前方後円墳はこのあとに列島全体に散らばるわけで

奈良と日向のまるで深い血縁関係のような関係はもう
3世紀末ぐらいまでにはあったと考えられるけど

この時代の日向と北九州
奈良と北九州の深い関係は見出せない

910 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/12(木) 21:04:07
>>905
景行天皇 239年~260年
景行時代に全国統一 屯倉経営のため 各地に首長を配置。

書紀を別の時代で読んで証拠が無いとする 詭弁。



911 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 21:29:14
>>908
なんで?日向は京都府向日市だよ。元稲荷古墳とか五塚原古墳があるし。

912 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 21:38:48
纒向(まきむく)と日向(ひむく)が同義語だとわかれば歴史の見方が一変する。
既成観念を捨てて、もう一度、古代史を見直してください。

913 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 21:59:32
>>904福岡の日向峠の東にヤマトという地名があります。
ここのヤマトの出身者が奈良に移住して故郷のヤマトという地名をつけたのです。
移住者が新天地に故郷の名をつけることは古今東西よくあることでした。

914 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 21:59:32
この人、最近見かけませんね。

>>671 名前:太国 ◆yVAs7uaYlY [] 投稿日:2009/03/01(日) 11:28:33

風邪を引くようなタイプの方では無いと思ったんですが・・・

915 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 22:09:10
>>914(−人−)ナーム惜しい人を
    しかし、倍暦は永遠に不滅です

916 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 22:12:14
>>914
デブ国は曲学の徒氏のHP「日本建国史掲示板」で論破されて御臨終しました。

917 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 22:24:28
知りませんでした。ご冥福を・・・・・

918 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 22:26:35

まったく惜しくない人を失ったな…南無。



919 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 01:36:44
神武東征神話は後付けで、ホントは神武は最初から奈良盆地の出身。
外来者の「天下り」神話という形だったのが、クマソ併合に際して、九州の日向出身ってことに換えられた。

というだけで、日向国内に散在する関連地名は、それ以後に新設されたのだろうと思う。


920 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 01:50:59
>>919
それにしちゃあ
ゆかりの地ありすぎでしょ
神話ありすぎでしょ
民間伝承ありすぎでしょ
古墳ありすぎでしょ

高千穂や延岡なんて
どこをどう考えても熊襲じゃない

熊襲は薩摩(鹿児島)と球磨(熊本南部)だよ


921 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 08:11:56
>>920

そんなもの、全部後世の後付だよ。

民間伝承というなら、九州は景行天皇に征服されたってこともお忘れなく。




922 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 09:07:02
みんなで何をいってるのだ?
大タラシ彦、若タラシ彦、中タラシ彦、品タラシ姫と続く
神武朝の出来事だぞ〜
ちなみにタラシというのは
領土拡大とかクマソを倒したと言う事だって


923 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 09:11:19
品川が伝説の息長川かも
息長タラシ姫は東京都品川区出身ですね

924 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 12:15:51
息長氏は名門だしな
越の国信濃や吉備、大阪、宮崎、東海、大磯など
あちこちに君臨していたよ

925 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 13:25:12
>>913
こういう人に伊都国の比定をお願いしても
お返事がいただけません(笑)

926 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 18:12:48
>>919
>神武東征神話は後付けで、ホントは神武は最初から奈良盆地の出身。

大和朝廷がもともと奈良盆地の出身なら神武東征神話など必要ない。
大和朝廷は奈良盆地の下々の民とは出が違うことを誇りとしていたのだ。
筑紫の日向は福岡の日向峠。
景行天皇の話は九州内の統一の物語を大和朝廷に置き換えて書かれたもの。




927 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 21:42:04
傾向と対策

928 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 23:28:53
英語版ウィキだと卑弥呼は「Himiko or Pimiko」となっている。
ほかに「Fimeko」(姫子)なども紹介されている。

929 :神奈川県民:2009/03/14(土) 01:45:21
次スレへは、ここが終わり次第、書き込んでください

次スレ

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!27
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1236962486/

930 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 01:51:03
スレ主=神奈川県民=太国




931 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 07:08:35
>>926
>筑紫の日向は福岡の日向峠。
そんなマイナーな峠が出てくるはずないだろ。

932 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 07:28:49
>>920
>熊襲は薩摩(鹿児島)と球磨(熊本南部)だよ
古事記では熊襲は一言も出てこない。熊曾だけだ。
熊曾国は筑紫島(九州)から筑紫国、豊国、肥国を除いた全部。
つまり、宮崎、鹿児島全部だな。


933 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 08:51:38
>>931
>そんなマイナーな峠が出てくるはずないだろ。

日向峠は福岡市と前原市の間をつなぐ峠。
福岡市が奴国、前原市が伊都国とすると日向峠は極めて重要な峠です。
古代史上はマイナーな峠ではありませんよ。

934 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 09:07:05
考古学的にまとめれば、
絹は北九州から畿内へ伝承された(北九州のほうが古い)
古墳は現在分かっている最古級しかも同型のものが畿内と宮崎で判明している。
同年代ね。近畿の応神天皇陵と西都原古墳群の171号墳が非常に似ていて、
西都原の81号墳は卑弥呼の墓とされる奈良の箸墓古墳より古い3世紀前半の古墳とみている。

関係がなかったとは考えられませんよね。考古学的にもね。
問題はどちらが手本となったのか。ということまでは分かっていません。
いまのところ学者は大和朝廷の設計図が広まったとする説に支持があります。
まぁそうするしかないんですよね。いまさら西都原のほうが古いなんていえば
今までの仮説(近畿説)がふっとびますから。


935 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 09:19:37
畿内説の考古学的破綻の原因。

1)箸墓は卑弥呼の墓
箸墓の周濠から木製の輪鐙が出土。倭人伝によれば、卑弥呼時代は日本に馬はいない。
鐙自体は中国晋王朝時代に発明され、邪馬台国より時代が新しい。よって第二の卑弥呼の
墓をさがすしかない。

2)三角縁神獣鏡
三角縁神獣鏡は日本国内で既に500枚以上も出土している。
ほとんどが国内産であり、鏡の出土=邪馬台国の可能性はほぼゼロとなっている。

3)混一彊理歴代国都之図
この混一彊理図はもともと中国での地図に日本からもたらされた行基図を朝鮮で
合成したものであり、別の混一彊理図が長崎県で発見されている。
つまり、地図のスペースの関係で日本を南北に配置したのではないかという定説におさまりつつある。
この混一彊理図は1402年以降のものであり邪馬台国から1000年以上後世のものは根拠となりえない。

4)年輪年代測定法
曰く「年輪年代測定法は木材の伐採時期しか特定できない、古材の転用が
多いのでは」、曰く「光谷氏がデータを独占し他の研究者が検証できない」、
曰く「記録による法隆寺の再建年代と年輪年代測定法が100年合わない、
年輪年代測定法そのものが問題だ」、曰く「そもそも古墳の周濠から発見さ
れた木片で古墳の築造時期を断定するのは問題だ。
石塚古墳や勝山古墳の周濠から発見された木片は洪水で流入した可能性が
ある、このあたりは昔から洪水の川筋だった」。
邪馬台国のあった頃は畿内はまだ銅鐸文明の時代であった。
また年輪年代測定法の危険なところは畿内以外では適用されておらず公平でないことである。
これの測定法を根拠とするのは無理がある。



936 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 09:19:38
>>934
>西都原の81号墳は卑弥呼の墓とされる奈良の箸墓古墳より古い3世紀前半の古墳とみている。

箸墓古墳が卑弥呼の墓かどうかは問うまい。
というか、被葬者は主体部を発掘しないと分からんだろう。
いや、発掘しても被葬者が分かるかどうか・・・

そんなことより、西都原の81号墳と箸墓古墳の古さの比較だ。
それで、君に問おう。

@ 西都原の81号墳が3世紀前半という証明をしてくれ。
A 西都原の81号墳が箸墓古墳よりも古いという証明をしてくれ。

937 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 09:35:08
畿内説の地理的破綻の原因

1)邪馬台国は伊都国から1,500里

倭人伝によれば、帯方郡(韓国ソウル付近)から邪馬台国まで12、000余里とあり、
このうち伊都国まで10、500里を計上している。
伊都国から邪馬台国まで残りは1、500里に過ぎないので、比例関係からして
邪馬台国は九州の域を出ない。
仮に邪馬台国が畿内大和とすれば、倭人伝は「帯方郡から邪馬台国まで20、000余里」 と表現したはずである。

2)倭地は周旋5,000里
倭人伝は 「倭地は周旋5、000余里」 とする。この意味は「倭の領域はうねうねと端から端まで
5,000余里=400〜500キロ」、である。一方、同じく倭人伝は狗邪韓国(韓国釜山)〜
対馬国〜壱岐国〜末盧国(佐賀県唐津)を3、000余里とする。この比例関係からすると、仮に
邪馬台国が畿内大和であれば、倭人伝は「倭地は周旋10、0 00余里」 と記載したはずである。

3)難波〜奈良の陸行1月
難波から奈良は徒歩せいぜい数日の距離で「陸行1月」とは大きく異なる。
日本書紀の推古16年(608年)の隋使・斐世清(はいせいせい)の来日記録では
「1月半を宿泊(逗留)」していたが、「1月を陸上歩行」するのは、意味が全く異なる。

4)全12,000里との整合性
里程日程詳述と直後に締めくくりとして書かれた全12、000余里は、一体と考えるべきで矛盾があってはならない。
陳寿ならずとも、普通の感覚を持った人間ならば、この二つの原史料を直接つなぐことはしないはずだ。
倭人伝は帯方郡から邪馬台国まで里程日程を流れるように記載し、その後に21カ国および狗奴国を並べ、
最後に「全12、000里」としめくくっており、当初の原史料で既に「里程日程詳述」と「全12,000里」は
一体で書かれていたと見るべきである。


938 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 09:35:48
つづき・・・

5)倭種の国々、侏儒国、裸国、黒歯国
畿内大和説の場合、倭人伝の方向は約90度の誤り(誤認)とせざるを得ない。それでは畿内大和説は、
倭人伝の 「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、みな倭種」 の記事をどう説明するのか。
倭種の国々に続き、倭人伝には 「倭種の国々の南に侏儒国が有り、女王国より4,000余里 」 とある。
邪馬台国=畿内大和説は、この侏儒国をどこに比定するのか。
さらに倭人伝には、「侏儒国の東南に船行1年で至る裸国・黒歯国が有る」 と記載されている。方向(東南)、
距離(船行1年)、国名(裸国・黒歯国)と明記されている以上、この記事を無視できない。
また倭人伝の方向を90度修正して、東南を東北とすれば、カナダかアラスカになってしまう。

6)狗奴国の位置
畿内大和説の場合は、邪馬台国は日本の統一国家に近い領域を擁した大国である。
そうすると、これに対抗した強国の狗奴国を和歌山県熊野や南九州の狭い地域に求めるのは、地勢的見地からして成立しない。
狗奴国=濃尾平野説は、濃尾平野を中心とする東海地方に『前方後方墳』が多く分布することを根拠とする。
『前方後方墳』は全国で約450基が存在するが、主要なものだけでも東海地方のみならず近畿、中部、北陸、中国地方、東は関東、
西は九州(佐賀県)まで全国的に確認されており、東海地方特定の政治圏(狗奴国)を反映するものでは無い。


以上に対し私は明確なまともな説明をうけたことがない。
日本の現実の地勢と海流の条件を無視した邪馬台国位置論(畿内説)は机上の空論である。


939 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 09:43:54
>>936
「とみている」は仮説の域をでていません。
したがって証明はできません。
今後の発掘調査に期待です。

940 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 09:59:09
>>938の続き
邪馬台国は宇佐か南九州東側にあった。

以下根拠
1)伊都国から邪馬台国まで残りは1、500里に過ぎない。
伊都国は現代の地図より唐津付近から南東に向かうと佐賀平野付近である。
90度傾いているとして福岡県糸島郡三雲と比定できる。

2)里の単位
倭人伝は1里=85〜90メートルと、通常の魏里434メートルと比較して約1/5である。
この現実の地理との比較から、通説は「倭人伝は短里」または「倭人伝の里数は5倍の誇張」
または「比率妥当性を持つ」、としてきまた。
魏志韓伝は、韓地を帯方郡の南に広がる「方4000余里」と記載しています。
現実の韓地は一辺300〜360キロメートルのやや菱形の方形で、
これを計算すると1里=75〜90メートルの短里となります。
このことから、「倭人伝」「韓伝」は次表の通常の里度(これを長里と称す)と違い、「短里表示」とするのが通説である。

3)方向
現代の地理に当てはめると、短里を用いて測定すると南九州東側を邪馬台国と比定できる。
90度東に傾いているとすると、邪馬台国を宇佐付近に比定できる。


941 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 10:10:09
倍暦を使って神武天皇即位時期を割り出すのは無意味。
紀元前660年というのは大和朝廷の歴史改ざんにより作り出した年代である。
この神武天皇が東征で日本統一を成就し、紀元前660年という中国に負けない古い時代に
日本の統一国家が成立したことにした。
もちろん、九州勢力の東征が史実で、この東征の主人公を仮に神武天皇と
呼べば、神武天皇は決して架空の天皇ではない。
しかし、神武天皇は神代でなく、あくまで現世の「人の世」としての初代人皇と
設定されている。その意味で、実際の東征=紀元後300年頃より
1000年も前の紀元前660年の神武東征=統一国家の成立を
大和朝廷=天皇家は信じていなかった。あくまで、
中国に劣らず古い時代に統一国家が成立したとの意味付けだった。
大和朝廷は絶えず中国を意識していたのである。

邪馬台国(九州)とのつながりが記紀によって伝承されているのである。





942 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 10:19:27
>>937
>邪馬台国は伊都国から1,500里
そうは言えない。万二千余里は女王国までの距離、邪馬台国ではない。


943 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 10:32:09
大和朝廷は魏志倭人伝の存在を知っていた。
知っていたからこそそこに記載の人物名を記紀でつかうことができなかった。
すなわちアマテラス神話と神武東征神話を比喩している。

4世紀後半の応神天皇から5世紀の倭の五王にかけて、倭(日本)は
盛んに朝鮮半島へ軍事的に進出し、半島での覇権確立を狙うと共に、
中国王朝へ遣使して、その権威にもとづく承認を求めた。
ところが、雄略天皇時代には、一方では中国王朝を全世界の中心とする
「天下」を認めて中国へ遣使しながら、他方、日本国内のみを天下とする
「天下思想」が生まれはじめた。
そしてその後、国号を「日いずる国」としての「日本」に改め、天皇を頂点として、
中国王朝と対等の位置づけを主張すると共に、その総決算としての『日本書紀』の成立(720年)が、
古代統一国家の完成を象徴するものであった。

944 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 10:37:20
>>942
ということは女王国が九州を包括していたということですか。
邪馬台国が畿内にあったとして、女王国が邪馬台国を包括していることを考えると
邪馬台国の勢力はほぼ西日本全部ということになりますよね。
その中心はどこであったとお考えですか?
倭人伝の「女王国まで」というのは女王国すなわち邪馬台国の中心を指すのが
自然であると思いますが。

945 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 10:57:01
>>944
伊都国から千五百里で女王国が始まる。ということは、伊都国からせいぜい百二十キロ。
どうみても、九州の中です。邪馬台国は当然、女王国の中核として女王国の中にある。
つまり、邪馬台国は九州の中です。だが、女王国=邪馬台国ならば、倭人伝は素直に
邪馬台国と書いたでしょう。それに、千五百里が水行十日陸行1月とは思えません。そこ
が不自然である以上、邪馬台国と女王国は別の概念だと考えるべきです。

946 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 11:30:35
>>945
邪馬台国と女王国は別の概念と考えるのは一理ありますね。
ただ、女王国という記載は「邪馬壹国に至る。女王の都する所なり」
この文以降は「邪馬壹国」は消え「女王国」しか出ません。
つまり「邪馬壹国」は一回しか出てきません。
行政文書でいば「以下「女王国」という。」にあたるのではないでしょうか。
この解釈が定説となっています。

947 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 12:40:44
定説とは思いませんが、女王国=邪馬台国と読むのが、確かに多数説でしょう。
しかし、「女王国」は「邪馬壱国」よりも前にも出てきます。「以下、女王国」
ならば、最初に邪馬台国が出なければ不自然です。
倭人伝を良く読むと、自郡至女王国万二千余里は風俗記事の冒頭部分とみること
ができます。風俗記事は一般に倭国全体について書いてあると理解されているよ
うですが、以北の国々(末盧国まで)を含めた記述とは思えません。
しかし、諸国の文身などと複数の国についての記述であることは明らかです。
となると、邪馬台国を中心とした旁国を含めた国々を言っているのではないかと
いうことになります。会稽東冶の東とあるのも、それを裏づけます。会稽郡東冶
ではなく、会稽と東冶の東、女王国を広大なものとしてとらえているのです。


948 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 13:34:18
普通に解釈すると女王国の中に女王国の中心である邪馬台国があり、
そこに卑弥呼がいたということですね。
こうした場合畿内まで管轄に治めるのは無理がありそうなので、
畿内説は否定されますね。

949 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 14:50:44
>>948
なんで九州に邪馬台ありき?


950 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 15:36:54
倭人伝マンセーの立場であっても、邪馬台国が中心にあるとは読めないのだが・・・
そうか、>>948は読んでないのか!

951 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 16:51:25
そういえば倭人伝すべて読んでないかもなぁ。

952 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 17:41:19
神武東征というくらいだから大和朝廷の原点は九州にあった
だから九州に邪馬台国はあったに違いない

953 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 18:01:06
神武東征は妄想小説で東征などなかった。神武天皇と崇神天皇は同一人物で
崇神・景行西征はあった。したがって邪馬台国は大和である。

954 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 18:08:50
畿内説論者って神武東征がなかったとすれば邪馬台国は大和っていうけど、
ぜんぜん根拠になってませんね。
逆も然り。
相互を紐付ける根拠がないと説得力ないですよ。

955 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 18:20:43
邪馬台国は陳寿による捏造。
なぜなら日本の文献には邪馬台国に関する記述は全く残されていない。
卑弥呼なる女王も、また、想像上の人物。
そんな歴史書と呼べない代物に現を抜かし、一生を棒に振った研究者や
民間の歴史愛好家は哀れ。当の陳寿さえ、後世、そんな論争になるとは
夢想だにしていなかったはず。

956 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 18:22:03
>>939
>「とみている」は仮説の域をでていません。
>したがって証明はできません。

妄想、ってことだな。www


957 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 18:34:27
>>956
それを妄想というなら、全てが妄想だ。
その最たるものが畿内説だろうな。

958 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 18:38:36
>>955
日本の文献はあやしいところだらけ。どの天皇は架空だとか、系譜は嘘だとか
ぞろぞろ。それに出てこないからと言って、倭人伝をねつ造とみるのは本末転
倒というものだろう。倭人伝に、これは嘘だなどといえるところはないしな。

959 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 18:39:09
お〜い、だれか「仮説」と「妄想」がどう違うか、きちんとレスしてくれ〜

960 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 19:24:17
8世紀に書かれた記紀よりは魏志倭人伝の方が信憑性は高いな。

961 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/14(土) 19:34:19
「箸墓古墳は最古級」としておかないと気分を害する輩がいる。
為に「箸墓」は最古級、造作年代は300年頃
大和には200年頃から古墳は造られるが、特例として箸墓古墳も最古級に含まれる。


962 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 20:44:23
邪馬台国東北説を発表すれば大学教授になれたりする?

963 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 21:35:01
>>961
西暦300年というと、卑弥呼の時代よりずいぶん後の話ですね。

964 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 22:11:14
>>961
チョロ松の妄想する最古の古墳てどこの古墳?

965 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 22:15:33
九州の古墳に古いのは無いねぇ

966 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 22:20:14
箸墓がヤマトトソヒモモソ姫の墓だとすれば、彼女の出ているスジン天皇の十年は西暦273年になります。

967 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 01:49:17
>箸墓がヤマトトソヒモモソ姫の墓だとすれば、彼女の出ているスジン天皇の十年は西暦273年になります。

根拠は?



968 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 02:21:36
>>959
妄想=合理性のない推論
仮説=合理性がないとは言えないが、証拠がない推論
てなとこかな?

969 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 09:12:51
>>955
卑弥呼の伝説とか神社とかなにも残ってないしね・・・

神武天皇の方がまだ信憑性がある。


970 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 09:17:29
卑弥呼は、ヤマトトトヒモモソヒメだよ。

九州にモモソヒメに匹敵する伝説の巫女はいないよ。



971 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 09:52:27
卑弥呼は、当時の中国人が呼んだ名前だから、当時の日本人がそう呼んで
いたかどうかわからない。まして、伝承として残っていないと考えたほうが
良いだろうと思う。
残っているとすれば、別の名前で残っていると思うな。

ちなみに、今の皇太子は、外国では「ヒロ」と呼ばれる。プリンス・ヒロ
とか。しかし、日本人でそう呼ぶ人はいないしね。

卑弥呼は、別の名前で残っているんじゃないかと言ったが、たとえば
天照大神とか。
日本古代史上最も有名な女性と、日本神話上、最も有名な女性が同一人物で
あるというのも面白いんじゃないかな。

972 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/15(日) 11:05:27
豊前国田川郡の香春(かわら)神社の祭神・辛国息長大姫大目命=卑彌呼(と難升米)か。
御由緒によると
第一座辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、
豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ、
第二座忍骨命は、天津日大御神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる。
第三座豊比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ、
各々三神三峰に鎭座し、香春三所大明神と称し崇め奉りしなり。

香春岳は現代も「ひと山ふた山み山こえ」と炭坑節に歌われるが、古代も銅の産地であった。

973 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 11:58:21
(´・ω・`)コルネパンも好きやがな

974 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 12:22:46
>>959
妄想は、合理的ではなく、思い込みが激しく訂正がきかない。
仮説は、事象を合理的に説明できるように作った筋道のこと

まったく違う言葉である。

975 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 13:22:57
祟神は義姉のモモソ姫に
占いをお願いしに行ったという記述がある

976 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/15(日) 14:07:17
最澄は香春岳に渡唐安全祈願のため、神宮寺を造って読経したという。
『続日本後紀』巻六承和四年(八三七)十二月庚子
大宰府言。管豊前國田河郡香春岑神。辛國息長大姫大目命。忍骨命。豊比・命。惣是三社。元來是石山。而上木惣無。
至延暦年中。遣唐請益僧最澄躬到此山祈云。願縁神力。平得渡海。即於山下。爲神造寺讀經。尓來草木蓊鬱。神驗如在。
毎有水旱疾疫之災。郡司百姓就之祈祷。必蒙感應。年登人壽。異於他郡。望預官社。以表崇祠。許之。


977 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/15(日) 15:33:10
『日本三代実録』巻十貞観七年(八六五)二月廿七日己夘
豊前國從五位上辛國息長比□神。忍骨神並授從四位上。

しかし「謎の女王」のままであってほしいという、矛盾した感情もあるのでは?
カーネル人形は見つかって阪神ファンはよかったろうが、ミロのヴィーナスの両腕は見つからないほうがよい。
GRRR・・・


978 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 22:26:54
>>967 勿論、天の声です。

979 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 23:56:35
おめめパッチリ大姫大目命

980 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 00:07:43
大目は一つ目という説も

981 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 07:50:28
鍛冶の神は一つ目らしい

982 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 08:39:06
しかしカーネルサンナダーソン人形のことだが、ヘドロの中に沈めたのは阪神ファンでしょ。
カーネルさん怒っててて巨人を応援するんじゃないだろか。

983 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 11:58:33
息長大姫大目命はシナ一族で良い線だとは
思うけれど時代が古過ぎだよ

984 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 12:21:08
シナは風というか神の息を意味している
巴紋も神の息を表しているよ
だから八幡神社が巴紋は納得だね
支那は別の意味だからね


985 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 20:36:44
983 古過ぎというより、寿命長過ぎ。神代から崇神なんて

986 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 22:34:42
神代が開化以前なら分かる

987 :明日の風:2009/03/16(月) 23:24:58
>>983二倍暦なので、半分にするとちょうどいいということらしいですよ。

988 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 07:54:21
おめめ切れ長大姫大目命

989 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 12:16:20
イクメ入り彦は11代なのでイクメは古過ぎだな
やはり卑弥呼の陵は西都原だな
じゃあそれで
伊予タンの墓はどこ?

990 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 12:21:30

イヨタン・・・・・・・・・・


991 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 13:33:13
浜崎あゆみ みたいな
目のデカい宇宙人っぽい顔だったんだろうか。

992 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 17:06:40
>魏志倭人伝に記されてる「卑弥呼」なる女王の正体とは?
又、天皇家との関り合いは? 古代最大のミステリーに挑む!

本屋で考古学関係の本を漁ったけど、
大勢ではほぼ決着がついているようですよ。
昔のお偉い学者さん達も、
自然科学なるデータがこんなに鮮やかに謎を解明してくれると思わなかっただろうな。
実験データを覆すのは無理だから、今は既にミステリーではないな。


993 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 18:10:55
>>991

違う!
いよたんは大塚愛似の可愛い女の子だ。
あゆではバタ臭く、セクシー過ぎて、いよたんに相応しくない。

大塚愛
http://video.yahoo.com/watch/1478723/5042540

>>990よ!
きみは大塚愛で同意だな。

994 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 19:16:29

イヨタン・・・・・・・・・・


995 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 21:24:51
伊予と言えば松本伊予。
センチメンタルジャーニーを歌っていたことは良かったけれど、
しょうもない男と結婚した挙句、臍を突いて死ぬんじゃないかな?

996 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 22:22:27
トヨなら豊満なイメージ

997 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 23:25:48

トヨタン・・・・・・・・・・


998 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 00:21:10
考古学資料の解釈はむずかしい。今の学者どもでは正しい解釈はまず無理だな。

999 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 03:04:57
>>992
公平を期す為に書いておくと、、、

考古学が提示しているのは邪馬台国の時代3世紀には畿内ヤマトを中心にした広域の首長連合が存在し
これが後のヤマト王権の礎となる。
そして当時の国内の最大勢力が魏に朝貢した勢力であると考えるのが蓋然性が高い。

・・・であって「当時の国内の最大勢力=邪馬台国」と言う絶対的保障は無い。

恐らく今後の九州説の主流はそう言った前提を認めた上でのものになるだろうし
現実そうなっているんじゃないかとも思う。

ただこの板は「九州王朝説」や「東遷説」がいまだに花盛りでチョッと事情が特殊ではあるwww





1000 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 03:06:38
1000

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

338 KB
★スマホ版★ 掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

read.cgi ver 05.04.00 2017/10/04 Walang Kapalit ★
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)