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【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その5

1 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 20:31:48
次の意見(老教授氏)に関して議論するスレなのだ!

「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
それが王権の礎になったってことです。
その母体は、参加時期や規模の差はあるが
北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
後の大和朝廷だと考えられています。
そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね」

■前スレ
その4 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1222374987/
その3 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1203827235/
その2 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1177791246/
その1 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1166155276/

2 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 20:55:25
>>1 小津さん。

3 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 21:21:13
前スレ終盤の流れだけを簡単に書くと
3世紀を起点として国内で流通(製造・輸入)・消費(埋納)されていた漢式鏡の特徴について。

議論は百嬉夜行・・・じゃは無く、百花繚乱状態で論点はまとめがたい状態ですが

1 踏み返しを含めて国内生産された鏡を特定できるか?
 ・紐孔や意匠、製造思想などの変遷で特定できる。
 ・鉛同位体比でおおまかな推定は可能である。
 ・中国での出土状況で推定できる(中国で出土しないタイプであれば国産)。

2 神獣鏡群及び位至三公鏡3式の国内流通時期はいつごろか?
 ・神獣鏡群の流入は、公孫時代の楽浪から。
 ・呉が魏に従属していた時期に。
 ・呉滅亡後、鏡職人の移動によって。

取りあえず、この2点に絞った方がよろしいかなと思います。 


4 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 21:28:08
補足
2 神獣鏡群及び位至三公鏡3式の国内流通時期はいつごろか?

位至三公鏡3式については、中国の出土状況により生産開始がいつごろになるかと言うことが論点ですね。
中国での製造開始期が国内流通の上限となりうると言うことで、その太宗は晋代ということで異論は無いかと思います。
(と言うことでよろしいでしょうか>いつもの東遷説氏)

5 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 21:44:26
>>3
踏み返しは、『同型鏡とワカタケル』にキズの存否による系統分けがあるので、それを参照。

それを前提にすると、同型でキズの共有による兄弟関係や、キズの増加による親子関係が、
日本出土品のなかで生じているものが多い。

単純にこの点を見ると、これらは日本で踏み返された、とするのが自然な考え。


6 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 21:51:36
>5
オヤ鏡の一つは中国で出ていますが

7 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 22:08:51
>5は、三角縁が日本でしか出ていなから国産だとする単純な論理と同じだが、三角縁の場合以上に危うい。
画文帯の同型群は、中国に今のところ「同型」鏡はほとんど無いが(実は一組の原鏡はある)、同様式(同型式)鏡はたくさんあるということが三角縁とは異なる。
>5の論理だと、日本出土で中国に同型鏡が発見されていない漢式鏡は全て、日本出土だから全て国産である、ということになる。
そんなのは学問ではない。

8 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 22:35:53
鏡が先史〜古代史上の重要遺物であることは認める。
だがマキムクで見つかったのはホケノ山のみ。
三角縁神獣鏡は今のところマキムクでは1枚も出てない。

このスレはやはりマキムクで判ってる具体的な事実を元に論じるべきで、
鏡の問題は専門家でも意見が異なり相当難しいと思うから、
マキムクを離れ、鏡に特化して深入りするのはスレ的にどうかと。

そもそも前スレ終了間際に鏡の問題に論点が移ってしまったのは
特殊器台や楯築・櫛山などでトンチンカンをさらけだした例の馬鹿が
追及を交わすため苦し紛れに話題を振っただけのこと。
あんな奴にいちいち対応してたらマキムクが視界から遠のいてしまう。

まあ鏡をやるのなら、ホケノの鏡からホケノ山の被葬者像を探る、という辺りが面白いのでは?

9 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 22:39:12
伝箸中出土(箸墓??)のやや大型の内行花文鏡が無かったか?

10 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 22:41:21
そういえば、ホケノの報告書ってもう出たの?

11 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 23:06:25
巻向初期は、明らかに東海・近畿勢力と九州の勢力は別にあった。
つまり、初期の巻向における王権というのに
かなり限りがあったと見るのが当然。せいぜい吉備。

実はこのあたり、記紀と照らし合わせてもあまり遜色がない。
もちろん年代は別。

12 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 23:23:19
>>9
きみが言ってるのは大神神社の宝物館(宝物収蔵庫)に展示してあるこれかな?

・長宜子孫銘の内行花文鏡。径23、2センチ。
http://www.oomiwa.or.jp/c03/c03_23.html

大神神社ではご覧のように伝ホケノ山出土としてる。
ホケノ山も箸中の地にあり、箸墓のすぐ近くなんだが。

しかしこういうのは信じていいのか悪いのか、なんとも微妙なところだね。

ホケノ山の中心主体は2000年の調査でたくさんの遺物が出た。
それで報道なんかでも「未盗掘」なんて言われてたように思うが、
実際は少し攪乱されてるんだね。
また中心主体の横に後期になって造られた横穴式石室があって、
こっちは過去、徹底的に盗掘で荒らされていたらしい。

てなわけで、この大神神社蔵の内行花文鏡はいったいどの古墳のどこにあったのか・・・・・

13 :5:2009/01/08(木) 23:51:33
>>7
原鏡が中国から来ても、踏み返しも全部中国から来たことにはならない。
日本で多数踏み返されたのではないかということ。

原鏡の中国での流通時期と日本での流通時期がずれる内向花文鏡、方格規矩鏡、
キ鳳鏡、獣帯鏡、画文帯神獣鏡などは、日本で踏み返しが多く出ている。

平原の内向花文のように日本で大型化させたものや、平原の方格規矩のように
日本で製造(複製)したものも現に古い時代からある。
家屋文鏡やだ龍鏡のように独自の変化をさせたものも同時代に出ている。
その一方で、踏み返しさえ技術的にできなかったというのは、合理的ではない。

例えば画文帯を全部中国製とすると、日本での出土量が中国と拮抗するという
不可解なことになる。これは日本向けの特鋳という訳ではなかろう。特注ならば
原鏡を踏み返せばよいのであって、踏み返しを繰り返すのは合理的ではない。


14 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 00:19:26
だからさあ、
日本で踏み返したなら、それら漢式鏡の踏み返し鏡に、倭鏡(倣製鏡)と同じ紐孔や研磨、鏡胎の厚みの特徴が出るはずだがそれはない。
紐孔の違いはまだわからないのね。
鏡をよく見ろと
また、それだけ踏み返し生産が倭国で盛んだった割には、古墳前期の倣製鏡はほとんど同型鏡や踏み返し鏡がないんだよな。あっても僅か。
一応言っておくが、三角縁はどっちつかずの議論の対象だからこれは倭鏡に同型鏡や踏み返し鏡が多い例にならないし、どっち産にしても他の漢式鏡と紐孔断面形態が異なり工人が違う。

15 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 00:43:17
>>13
> 原鏡の中国での流通時期と日本での流通時期がずれる内向花文鏡、方格規矩鏡、
> キ鳳鏡、獣帯鏡、画文帯神獣鏡などは、日本で踏み返しが多く出ている。


三国晋代に、実際ひ古い鏡式(おそらく踏み返し)や、一見古い倣古鏡が多く実在すれことは前スレにある。
また中国の徐平芳氏などもそれを指摘している。

> 平原の内向花文のように日本で大型化させたものや、平原の方格規矩のように 日本で製造(複製)したものも現に古い時代からある。
超大型内行花文は倭鏡かもしれないが、方格規矩や27センチの大型内行花文は疑問。
柳田康雄説は重要な指摘だが、型式属性の乱れや技術的退化は単に漢末の本来の型式変遷より新しい時期に「倣古」して作られたとしても良い。
大宜子孫鏡も異形の銘は中国にも類例はあり、左右反転文様も漢晩期ないしそれ以降ならありうる。
あの方格規矩鏡群を倣製としたら、それら工人はその後何を作ったか説明不能。
> その一方で、踏み返しさえ技術的にできなかったというのは、合理的ではない。

踏み返しは技術的にはできたが、鏡を観察する限り、倭国内ではほとんどやってなさそうということだ。その理由は説明済み。


16 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 00:55:30
>>13

> その一方で、踏み返しさえ技術的にできなかったというのは、合理的ではない。

踏み返しが「出来なかった」とは言っていない。技術的にはできたはず。しかし、古墳出土の漢式鏡を観察する限り、紐孔の特徴や研磨から、倭鏡の技術で製作されておらず、日本では中国鏡を踏み返すことはあまりされてないだろうということ。
また、踏み返しが盛んだったなら、何ゆえに古墳前期の倣製鏡は僅かな例を除き同型鏡、踏み返しがされていないのか?
なお三角縁はそれ自体が製作地が議論の対象だから証拠に採用できないし、どっちの生産でも、長方形紐孔という点で踏み返し漢式鏡の大半や他の倭鏡と工人が異なり、一緒にできない。

> 例えば画文帯を全部中国製とすると、日本での出土量が中国と拮抗するという 不可解なことになる。

5世紀の踏み返し同型鏡群は日本向けの特鋳でよいでしょ

> 原鏡を踏み返せばよいのであって、踏み返しを繰り返すのは合理的ではない。
短期間に大量に製作するなら、まず原鏡を踏み返した後、それを二次原鏡として、他の工房にまわしたと考えられよう

17 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 00:56:59
>>14
紐孔を言い出したら、中国のものとも違うという意見もあるよね。
研磨なんかについては、具体性のない主張だなあ。
普通に出土状況に応じて考えたら、日本製ってなるのは当然では?

三角縁は国産で確定済み。それだけは断言できる。
下らない議論は打ち止めにして欲しいね。学界が嘲笑の対象になるだけ。

平原については、柳田の論拠のほぼ全部を無視した辻田のような舶載説も
あるが、あれは学問とは別次元。

舶載としたら画文帯は特注かな?


18 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 01:01:00
>>15
>三国晋代に、実際ひ古い鏡式(おそらく踏み返し)や、一見古い倣古鏡が多く実在すれことは前スレにある。
>また中国の徐平芳氏などもそれを指摘している。

中国で出土する踏み返し鏡は、日本で出土する踏み返し鏡と同型じゃないよね。


19 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 01:05:15
>>16
>古墳前期の倣製鏡は僅かな例を除き同型鏡、踏み返しがされていないのか?

具体例を挙げて欲しい。
同型鏡は古墳前期から存在するから、踏み返されなかったのは舶載で、踏み返された
のは国産という逆の理屈になるのでは?


20 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 01:25:28
>>17
>>14
> 紐孔を言い出したら、中国のものとも違うという意見もあるよね。

同じだが
で、中国鏡と倣製鏡の紐孔の最大の違いは分かったの?

> 研磨なんかについては、具体性のない主張だなあ。

古墳前期の倣製鏡は外区や紐孔の研磨が非常に丁寧
漢式鏡はそこまでしない

> 普通に出土状況に応じて考えたら、日本製ってなるのは当然では?
> 三角縁は国産で確定済み。それだけは断言できる。

福永や車崎が指摘する「関連鏡群」は無視ですか。前は自分も国産と思ったが、福永の研究で分からなくなった
その重要な研究を無視して王仲殊説ぐらいまでの国産説で止まっているのは問題外だなあ

> 平原については、柳田の論拠のほぼ全部を無視した辻田のような舶載説も
> あるが、あれは学問とは別次元。

はあ?説明したように柳田説は倣製の根拠となるか疑問。方格規矩が時期が下がるという根拠とごちゃごちゃになっているが



21 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 01:34:16
>18
その理屈だと、同型鏡が無いという理由で弥生中後期の漢式鏡も日本での踏み返しになるな
それはない訳だが

ここでは、三国六朝期に漢鏡の踏み返しが中国でふつうになされ、それが中国で流通使用しているという事実が重要だ。
それならば、日本にもそれらが輸出されうるということだ。
本来の鏡の総数が想像もつかない状況で、現状での同型の有無はここでは問題にならない。

もっとも、萩原1号の画文帯と楽浪のに同型があるとか、いくつかある訳だが

22 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 01:46:23
>>21
>もっとも、萩原1号の画文帯と楽浪のに同型があるとか、いくつかある訳だが

あれは日本から持ち込まれた日本製じゃないかな。
中国では1枚も出土例のない画文帯同向式だし。
朝鮮で1枚位出土で日本で30枚位出土。中国で0枚。
日本ではほぼ全部同型の画文帯同向式は、日本でアレンジされた国産だろ。


23 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 01:48:36
>>20
紐孔の話はどこを何の根拠にするか書いてくれないと、たたき台もないよ。
あれを学問の世界の議論にするのもどうかと。

柳田説に正面から反論せずに、自説の理由だけ書いた辻田は論外だろ。
だから舶載説はダメだと言われる。

24 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 01:51:27
>>22
ついでにいうと画文帯同向式の内区は中国の平縁神獣鏡の流用だね。
それに日本で外区をパッチワークしたんじゃないかな。
とにかく原鏡と違うものが日本で作られているよね。

25 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 02:00:26
三角は特鋳説でいいでしょ。
魏の皇帝に「もっと立派な鏡をくれ」って泣きついたんだよ、きっと。
魏としては高句麗を牽制する意味でも無下に断れず(これは隋の煬帝の時と同じ)。
また皇帝が三人もいる状況下で、自らを正当化するためにも、
朝貢する国が一国でも増えることは大変喜ばしいこと。
朝貢した国々に莫大な見返りを渡すのもその所為。

中国の権威を借りて、画文→三角などの銅鏡をレガリアとした権威体制を構築していた可能性がある、
初期の大和王権は。
福永曰く、倣製鏡の大きさの規制とかもやってたみたいだし。
ヒラバルの大型鏡は例外で、筑紫は割りと反抗的だったということ。

26 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 02:08:21
>>25
その頃の魏は極度の銅不足で貨幣の鋳造もできずに、物々交換に
なっていたくらいだから、特鋳もありえんだろ。

この点からは、三角縁は国産の原料ではないかというもの捨てがたい。
銅鐸の一部は国産の自然銅という説もあったが、これは真偽のほどは良く分からん。

27 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 02:11:05
銅の国産で気になるのは、朱(水銀朱)なんだよね。
水銀朱を採取できるなら、銅鉱石を探すこともできたはず。
それもあって三角縁は国産銅ではないかという疑いを持っている。


28 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 02:38:55
>>26
だったら呉地の銅を使えば良い訳で呉が魏に臣従していた時期なら可能。

まあこう言ったら
「だったら貨幣も何もかも呉地の銅を使えばいいじゃない」
って言うかもしれんが、そこは経済のロジックだなw

そんな鉱物資源がタダで徴用できるなら臣従じゃなくて完全な併合。
呉の滅亡だなw


29 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 02:39:38
>>26
おまえが何と言おうと、倭人伝に銅鏡百枚下賜したって書いてるからさ。

30 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 03:03:09
まあ鈕孔形状のお話をざっくり簡単に言うと

呉の年号「黄初」の銘を持つ紀年鏡
(現在日本・中国及び一枚はスウエーデンに所蔵、同向式・対置式神獣鏡)
はその形状が「円」ないしは「半円」で

魏の年号を持つ紀年鏡は長方形が主流(ほぼ八割がた)

・・・と言う事らしい。

もし王の言うように呉人が日本に来て造ったとするのなら
何でその鈕孔形状が円形・半円形にならず長方形なのか?

・・って事なんだろうなwwwwwwwwww


31 :30:2009/01/09(金) 03:20:45
ただ福永の鈕孔形状や、彼の言うところの外周突線や銘文を考慮して
三角の製作地が大陸としても、それが果たして魏からの下賜品であったかどうかは分からないと思うのだが・・・

呉から魏の領域に移動した工人がそこで華北北東部地域の特色を身に付け
そこで製作された鏡を倭人が買い求めた・・・と言うことならつじつま合うんじゃね?wwwwwwwwww

32 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 03:31:22
もっと纏向遺跡や出土物に即して議論してくれ
このままじゃ完全なスレ違いだ
銅鏡を議論するのが好きなら別スレ立ててそっちでやってくれ

33 :30 訂正:2009/01/09(金) 04:27:27
>>30
>呉の年号「黄初」の銘を持つ紀年鏡

「黄初」は魏の年号だ。
何書いてんだろ俺・・・orz

黄初年間は孫権が魏に臣従していた時期で
それらの同向式・対置式神獣鏡は呉で作られた実質「呉鏡」と言うことです


・・・吊ってきます。。。。


34 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 05:22:37
>>32
禿同
悪いのは>>3だよ。
いや内容じゃなくってさ、>>3が前スレ最後の鏡のとこだけ無理やり引き継ごうとするからさ。
だから安本東遷説信者のアホを引き込んでしまって
スレはもうめちゃめちゃだ、あ〜あ・・・
マキムクは古代史ファンなら名前ぐらいは誰でも知ってるし
このスレは地味だけどあんがい日本史板の上位にいるから
歴史好きは結構見てるんだよ、話題をマキムクに戻せよ

35 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 06:07:23
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1222374987/991
> マキムク1式は外来系土器比率が1割くらい
> そのうち、東海系は2、3割(以前に東海系とされたものの一部は北近畿系や近江系がある)
> マキムク1式段階は吉備がむしろ以降に比べて多い

ただホケノその他の前方部から、東海系の壷が出てるでしょ。
出た場所を考えると、そんな軽くは扱えないと思うよ。
そりゃ吉備に比べりゃ影響は薄いと思うけれど。

36 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 06:09:22
しかし紐孔あれば鏡はいらんくらいの勢いで驚いたw
チェシャ猫かよ

37 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 18:01:54
あと、抱朴子以降でないと大型の神獣鏡は作られなかった、とかいう話もウソ。
ウソていうか、根拠にならないだろ。

葛洪は単に、道士たちの間で九寸以上の鏡が魔除けとして流行ってると伝聞記載しただけ。
別に葛洪が編み出した呪術な訳じゃないから。

38 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 18:10:56
結局「呉滅亡以降」とか「抱朴子の記載」を根拠に、
画文帯やら三角縁を、何とかして四世紀の鏡にしたいわけ。

その理由とは、古墳時代の開始を四世紀とする古い実年代観(まったく無根拠)にしがみつき、
己の東遷説を守りたいがためなんだよな。
結論ありきの馬鹿馬鹿しい話というか。

39 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 18:29:04
「その理由とは」以下が分からないんだけど、
どうして年代が下ると東遷説に都合がいいの?

東遷は、往年の騎馬民俗征服説のような規模のものがなかったことは、
考古学的にもはっきりしていて、議論の余地がない。
仮にあるとしたら、三代前は顔見知りみたいな王族一族郎等がやってきて、
吉備、讃岐の協力を得て、オオヤマトを手に入れたくらいの話。
もちろん説得力のある証拠があるわけじゃない。
ただ、時代が下るほどいろいろと証拠が揃って不利だと思う。

北九州との相対的な年代が問題になるのかな。


40 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 21:25:05
しかし、いつもの「東遷説の人」は三角の製作地と制作年代を恣意的にパッケージして
更にそれを邪馬台国畿内説を唱える考古学者とパッケージしている感じだからなあw

例えば景初四年の紀年鏡の出現は国産説に有利に働いたかもしれんが
その様な間違いはリアルタイムゆえに起こると考えるのが自然なわけで・・・

まあこのスレ的には
「何故、纏向から三角が出ないのか?」
と話を振った方が良いんだろうけどw

考えられるのは
 (1)年代が合わない、三角はまだ登場していない時代だった。(箸墓にあるかないか?のギリ)
 (2)年代は合っていたが、(纏向の古墳被葬者と各地の首長らの)ヒエラルキー的に三角の副葬は選択されなかった。
・・・ってところ?

(1)については
以前ホケノの木棺のC14の測定で出ていた(日本の自然環境等を考慮して補正する前の数字)
 「120年を中心に、75〜215年」
 「120年を中心に、80〜155年」
と言うのが案外いい線をいっていたとか?妄説ですか?wwwwwwww

41 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 23:05:49
>23-24
別に辻田説を参照ではなく、柳田説の問題点を述べただけ
柳田の指摘は平原の方格規矩が新しくなる(岡村説のように古くはない)、という根拠にはなっても国産の根拠としては疑問ということ
平原の方格規矩国産説は柳田だけ
柳田の指摘に近い理由で平原の鏡の年代を漢末や三国初めに下げるのは小山田ほか何人かいる

同向式神獣鏡は中国にもあるが。同型かどうかはともかくな
中国に工人と日本の工人が、それぞれ別の場所でそれぞれ独自に神獣鏡をパッチワークして、たまたま同じ様式の鏡ができたのか?
文様要素、鋳上がり、研磨、紐孔も中国のと同じだが
文様要素だけでなく銘の字体も含め中国にある他の神獣鏡や画像鏡の一部と連関していて、同向式だけ日本産とか、無理だ

楽浪の同向式神獣鏡が日本産とか無理だろそりゃあ


ついでに紐孔の違いわからないみたいだが、紐孔の断面形にかかわらず、9割以上の確率で中国鏡と倭鏡ではその「垂直的位置」が異なる。

鏡研究者には当たり前のことだけどね

42 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 23:17:02
>35
ホケノの二重口縁壷は東海系の影響はあるが、あくまで畿内の加飾二重口縁壷だ。
あれを東海そのものというのは、東海至上主義の赤塚氏だけみたいだぞ
それにホケノは当初いわれたほど古くないという意見も強い。鏃の型式からもマキムク3式、布留0段階の方が妥当だ。
報告書でどうなるか知らんが

壷棺には蓋としての上棺にあったかと思ったが、あれ東海?畿内の土器でもいいんじゃねの?
むしろメインの下棺に西部瀬戸内の大壷が東田大塚やホケノにあるのが問題。



43 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 23:30:15
>40
ホケノの画文帯は3世紀第2四半期の製品を含む可能性がある。少なくとも第1四半期は確実
福岡の藤崎石棺例や安満宮山から、布留0段階から三角縁が存在した可能性が高い。権現山51もそうだろう。
ホケノも布留0になる可能性があり、たまたま入れなかった可能性も排除できない。量産三角縁より上等の漢式鏡を集められたのかもしれないが。
箸墓にだって、入っていてもおかしくないが、ホケノのように三角縁以外を集中して持っていたかもしれない。三角縁が大量に副葬される布留1でも天神山みたいなのがあるしね

ただし、副葬が増えるのは布留0新段階以降みたいだが

44 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 23:43:12
近藤は吉備至上主義で、柳田は筑紫、北條は阿波、赤塚は東海な訳ね。
結局、おらが村的な、自分の研究が素晴らしいモノと信じたいということなんだろうけど。
大和中心史観を打ち壊した功績はあるんだろうが、もっと広い視野で語って欲しいものだ。
例えば寺沢とか石野、松本のように。

45 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 01:50:13
>>43
ホケノの画文帯の同型は5Cの古墳からも出ているから、アレがあるから
古くなるとか、年代決定の指標になるとかいう議論はできないのでは?

三角縁を国産とすると、天神山の時点では国産が始まっていなかったということになる。
アレは△の一歩手前の斜縁という理解になる。

46 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 01:54:28
>>41
柳田の国産の根拠の中で、朱の塗装のところはどうなん?
鏡の製造工程の一環として朱の塗装がなされている。
朱の塗装は国産と同様にされている。
ゆえに普通に国産で確定。

この点の批判は見たことがないねえ。


47 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 05:01:16
朱が好きな倭人が、
鏡を朱で磨いていただけだろ。
舶載か国産かどうかの判断はできない。

48 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 09:56:16
「9割以上の確率」って、大して違わないね…
この指標では一割近く同じになることは無視して、
中国鏡と倭鏡に分けるわけね。

49 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 10:09:05
つまり、中国出土鏡と紐孔位置が一緒なら「舶載」、違えば「国産」と決め付けた上で、
「9割以上の確率」が導き出されるわけですね。

50 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 11:21:03
紐孔の話は、遺物研究としては面白いけど、
邪馬台国が絡むと電波化するのが残念。
やっぱり古代史ってのは考古学者には鬼門だと思う。

51 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 12:41:25
>>50
文献史学系の妄想が過ぎるだけですよ

52 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 12:55:57
・・・スレ違いだとお叱りを受けるかもしれんが
銅鏡の話が出ている流れのドサマギに聞くがwwww

 『 魏年号の紀年鏡って、九州で出ていたっけ? 』

関東や山陰にはあっても、九州出土のものって知らないんだが・・・
ひょっとして現在ゼロ?
(邪馬台国九州説にとって不味い状況のような気がするんだがwww)

3世紀において威信財たる銅鏡の流通には
ある種の統制がかなり強力に働いていた?








53 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 14:04:55
>>52
スレ違いだ

54 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 14:10:10
>>47
朱を塗ってから研磨しているから製造工程の途中に朱が入っている。
つまり国産をいうのが柳田説。
舶載とするためには、バリのついた出来立てホヤホヤの特鋳品を
一括輸入して、日本で仕上げをしたということになる。


55 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 15:04:21
>>45
>ホケノの画文帯の同型は5Cの古墳からも出ているから、アレがあるから
>古くなるとか、年代決定の指標になるとかいう議論はできないのでは?

ホケノ山の場合はそれより古くはならないという指標にはなる。


56 :ローガン:2009/01/10(土) 15:55:41
>>32

> もっと纏向遺跡や出土物に即して議論してくれ
> このままじゃ完全なスレ違いだ

ではネタを… 石塚の弧文円板ですが、あの模様は直弧文に近い。これを器台の筒部文様と絡めて考えると
都月型円筒埴輪に似て、それ以前の特殊器台には直線的模様は現れない…。
石塚の弧文板は箸墓より後?

57 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 16:56:41
>>54

中国では朱で研磨する習慣があるのか?


58 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 17:04:48
水銀でアマルガムを作って鏡面を作るって
そんなに昔からあるの?

59 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 17:14:50
日本の鏡は朱で磨いてたんだろ?

まさか、日本のほうが研磨技術が進んでたとか言うまいな。

60 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 17:35:05
>>59
かなり時代が下るよ。
朱で磨くってのも鏡面を輝かせる効果があったとは思えない。
朱ってのは硫化水銀であって、水銀とは別だから。
少なくとも現在のアマルガムで作る鏡面とはまったく別物。
水銀メッキは奈良時代に使ってるけど。

61 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 18:31:30
でも、朱で研磨してたのは事実なんでしょ?


62 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 01:37:58
>>41  
辻田さんって無駄に文章が文学的過ぎるね。
平原の巨大鏡のところは、要するに、

平原に巨大鏡がある → 中国にも巨大鏡がある →ゆえに平原の巨大鏡は舶載品である。

というスバラシイ三段論法だよね。読んでいてビール吹きそうになったけど。


63 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 07:45:40
>>41
>ついでに紐孔の違いわからないみたいだが、紐孔の断面形にかかわらず、9割以上の確率で中国鏡と倭鏡ではその「垂直的位置」が異なる。

この論法はおかしくね?
研究者によって、鏡が国産か舶載か見解が違う時点で、
紐孔の違いで9割判定できるって、おかしいだろ。

鏡が国産なら9割判定ができるが、
鏡が舶載なら、紐孔の違いでは判定できないってことで、
これこそ循環論法。





64 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 13:16:32
>>60だがアンカーは>>58への間違い。

>>61
研磨材としては使っていたようだが、アマルガムの鏡面とは別もの。
銅面自体が反射してる。
硫化水銀は鏡面にはならない。
磨いただけで水銀に分解して着床するということもない。
手軽に手に入れられる金属化合物の粉ってことと、
もしかすると象徴的な意味合いがあったのかもしれない。

65 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 13:26:19
巨大な前方後円墳を見ると強大な大王権力が突如誕生したかのように見えるが、
初期畿内王権は、実質、畿内有力豪族が緩やかに繋がった連合政権だったと思われる。
その内実は吉備や筑紫、出雲も同じ。
魏から承認された倭王位は世襲ではなく有力豪族間で持ち回りされた。
後世、有力豪族たちは皇別氏族「臣」と呼ばれる。

66 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 13:43:31
>>65
吉備、筑紫、出雲は、畿内と並列して書いているみたいだけど、
マキムクに対して、吉備は河内よりも影響が強いのが、
現在の考古学的な事実ではないでしょうか。
「オオヤマト王権は」ということならわかりますが。
古墳時代初期の「畿内」って何なのか慎重に考える必要があります。


67 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 16:19:03
吉備の影響はもちろん強い。
しかし単純な東遷などで説明できないことは、ある程度コンセンサスがあると。
奈良盆地に各地から多くの人と物が集まり、各地の文化や葬送儀礼の融合があったということ。
大和は各地と手広く交易していたから、土器にしろ墳墓にしろ各地の要素が出てくる。
ホケノの被葬者が阿波との関係が深い、などのように。
各地のオウと婚姻関係を結んだりとかもあっただろうし。

68 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 18:50:21
>>64


漢鏡って、アマルガムでコーディングされてなかったの?


69 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 18:59:01
>>67
>奈良盆地に各地から多くの人と物が集まり、・・・。

奈良盆地には大きな市場があって、色んな人が集まり宗教も融合していたのか。
交易の中継地かな。

70 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 19:37:35
>>69
そう。唐古鍵のころから、交易の中心として栄えていた。

瀬戸内海と東海、北陸の中継地として、畿内がキャスティングボードを握ったということ

71 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 19:57:41
>>70
> 畿内がキャスティングボードを握ったということ

それは現時点では分からない。
記紀の記述を鵜呑みにしない限り。

72 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 20:46:31
唐古鍵が何年永続してたと思ってるんだ?


73 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 22:26:52
>>71
記紀も考古学も皆捨てて
古田教祖の啓示に従うってか?

74 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 23:09:56
>>54に書いてあるのは、平原の鏡には朱が塗られてから、研磨等の作業が
されているということ。

日本出土の鏡には朱が塗られているものが多い。
特に、女性の被葬者と推測されるものに朱が塗られていることが多い。
鏡に朱を塗るのは日本独自のことなので、朱を塗ってから研磨等の作業がされて
いることから、平原の方格規矩などは国産とほぼ断定できるというのが、柳田の主張。
柳田はそれ以外にも国産とする根拠を多く述べている。

これら主張は意図的に引用も紹介もされないことが多い。
この部分を無視して「反論」したなどと自称するクズもいる。

75 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 23:53:16
マキムクとは200年の時代差なのでスレ違いなんだけど、
ここもスレ違い大流行りのようだから一応コピペしとこう。


■大和王権の鉄器生産拠点か、大阪市・長原に鍛冶工房跡
(2009年1月12日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20090112-OYO1T00096.htm?from=top

 大阪市平野区の長原遺跡で、古墳時代中期の5世紀前半に鉄器を生産した鍛冶(かじ)工房跡が、市文化財協会の調査で出土した。
百舌鳥(もず)・古市古墳群の大山古墳(仁徳天皇陵、堺市)など巨大古墳を築いた「倭(わ)の五王」の時代に当たり、近畿で最古の鉄器生産遺構という。
造営されて間もない古墳を壊して工房を設けていることから、当時の政権が関与しているのは確実で、同協会は「大和王権直営の鉄器生産拠点」とみている。

 工房は、4世紀末から5世紀初めに造営された方墳跡に、2棟建てられていたとみられる。
1棟ごとに一辺約8メートルの「コ」の字形の溝を設け、排水などに利用。溝からは、製造過程で出た3センチ大の鉄滓(てっさい)も発見された。
含まれる炭素が少ないことなどから、高温で加熱して繰り返し折り曲げる方法で製造したらしい。
 百済があったソウル近郊の旗安里(キアンニ)遺跡(3〜4世紀)などでも同様の溝が確認されており、同協会は「朝鮮半島の渡来人がもたらした先端技術を駆使して生産したのだろう」としている。

76 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 00:03:16
↑長原遺跡鍛冶工房跡ニュースの解説記事 (読売新聞関西版)

■「倭の五王」の政権支える
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is90112a.htm

 「倭(わ)の五王」の時代に鉄器を生産していた鍛冶(かじ)工房跡が確認された大阪市平野区の長原遺跡。同時期の古墳からは大量の鉄器が出土しているが、これまでどこで生産されたのかは不明だった。
今回の発見は、鉄器生産の歴史を解明する手がかりになりそうだ。

 鉄器は弥生時代中期、朝鮮半島から九州北部に伝わったとされ、この頃の福岡県春日市の赤井手遺跡では鍛冶遺構が見つかっている。
以降、小規模な生産が続いていたが、大阪府藤井寺市の野中古墳など5世紀の古墳に大量に副葬されるようになり、大規模生産が始まったと考えられている。

 しかし、これまで近畿最古の鉄器生産遺構とされてきたのは同府柏原市の大県(おおがた)遺跡(6世紀末)で、5世紀の鉄器生産の実態はわかっていなかった。
白石太一郎・奈良大教授(考古学)は「鉄器生産は当時最も重要な技術。大和王権と遺跡のかかわりが明確になった意義は大きい」と評価する。

 日本書紀には、「五王」の一人とされる仁徳天皇が現在の大阪府内に水路や堤を築いたと記される。
今回発見された工房で生産された鉄器がこうした土木工事に使用された可能性が高く、工房が大和王権の軍事、経済活動を支えていたことがうかがえる。

77 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 02:42:43
>>76
>これまで近畿最古の鉄器生産遺構とされてきたのは同府柏原市の大県(おおがた)遺跡(6世紀末)で、

読売新聞にはとんでもない不勉強の記者がいたものだな。w

大阪市文化財協会や白石太一郎教授がどんな風に報道陣に説明したかは知らんが
読売記者は近畿における鉄器生産が今回の発見でようやく5世紀に遡ることが判明した、などと
思い込んでいる気配濃厚。これじゃあ読者に誤った知識を植えつけるだけだぜ。

京都府丹後半島の扇谷遺跡や那具岡遺跡は、鉄器生産がなんと弥生中期まで遡るぞ。
扇谷は前期に届くかもしれん。

それと忘れてならんのが、他ならぬこのスレ主題の奈良県纏向遺跡。
いつも何かあったら纏向を記事にするくせに、記者は纏向の鉄のこと、全然知らんのかね。w

珠城山地区、勝山地区その他から、炉は未検出ながらも、鉄滓や送風管(フイゴ羽口)など
鍛冶による鉄器生産が行われたことを明瞭に示す遺物が出土してる。
これらは布留1から、さらに布留0まで遡るだろう。

俺は庄内期にも纏向で鉄生産やってたと思ってるから、そのうちにきっと出土するぞ。賭けてもいい。w

78 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 03:34:42
ちょうど茅原大墓古墳の頃だね。
このころはマキムクの古墳もそれほど小さなものでもない。
あまり注目されない古墳だけど。
せっかくホケノより大きいこと分かったのに。
これが当時のマキムクを支配する王族の墓だね。

79 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 03:53:53
>>77
>扇谷は前期に届くかもしれん。

春成のように弥生前期を古くする考えでは、日本での鉄器製造は
弥生中期以降ですよね。

80 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 10:51:36
>>78
古墳中期はほとんど大きな古墳ないね。
完全に河内に政権が移っていたんだろうね。

81 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 18:12:55
大和王権が単に佐紀盾列→河内を奥津城の地として選定しただけという説もあるが。

しかしまあ、マキムクがその役割を終えて廃都され、大和王権の本拠が河内に移ったのは確かだろう。
「なぜマキムクが廃都されたのか?」を考えることで、マキムクのそもそもの「役割」とは何か?を推測できるのではないかと。
端的に言えば、マキムクは非常に政治性の強い人工的な都だったと思われる。

82 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 18:47:39
おおまかに言えば、大和王権が河内潟跡の湿地帯開拓に本腰で乗り出し、
今来の渡来人たちを計画的に入植させていく中で、
本拠が河内に移っていったということ。
ただし、大和の有力豪族の力は温存されているようであり、大和が衰退し河内に取って代わられたとかではないようだ。

もしくは半島での軍事的緊張から、兵を送り易い河内に進出したとか、
大和王権の勢力拡大により、交易の中心が大和から河内に移ったとも考えられる。

83 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 20:04:12
>>78
大三輪君大友主のお墓でつね。

84 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 21:36:47
>>82
ほとんど同族間でのことだと思うけれど、
乙巳の変までは、ちょくちょく同じような主導権争いやってたんじゃないの?
応神天皇なんてなんなんだかよく分からない天皇だしね。
大和に主導権が帰るきっかけの継体天皇と宣化天皇も。
畿内の主導権が取って代わられたと考えるのが自然でしょう。
「王朝」が変わったとは思わないけれど。乙巳の変が分かりやすいね。

85 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 21:46:25
石津川上流域での陶器大量生産開始。
石津川河口近くに造られた百舌鳥古墳群なとは外国船にその威容を見せつけるためだったとも言われている。
更には、それまでの古墳築造規制のタガが外れたかのように、
吉備と葛城で大王墓に匹敵する前方後円墳が造られるようになる。
半島への積極的な遠征、南朝への朝貢再開。

などのように、かなり劇的に国家戦略の転換がなされているのが四世紀末。
マキムク廃都もおそらく同時期であり、
何らかの政変があったと考えるのが自然。

86 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 22:42:42
まきむく廃都ってそれより50年は早くなかった?

87 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:06:12
記紀でもちょっと間空いてんじゃなかったっけ?
応神天皇が130/111歳(記/紀)で崩御でしょ。
なんなんだろうね、この間は。
マキムク没落は、興隆より面白いかもしれない。
祭祀は遺跡上では維持されてる痕跡があるし。

百舌鳥古墳群は大和川の下流でもあるよね。
こっちはでかくて氾濫するから、ちょい南の石津川流域にあるんだろうね。


88 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:41:38
>>87
>百舌鳥古墳群は大和川の下流でもあるよね。

現在はそう捉えてもいいが、古代・中世・近世前期は違う。

宝永元年(1704)以前の大和川下流は、現柏原市→八尾市→大阪市と流れており
堺市市域には一滴の水も運んでいない。

したがって、

>こっちはでかくて氾濫するから、ちょい南の石津川流域にあるんだろうね。

は事実誤認を前提とする推論で、虚偽そのもの。出鱈目古代史の見本。

89 :うましか:2009/01/13(火) 23:45:30
>>85

> それまでの古墳築造規制のタガが外れたかのように、
> 吉備と葛城で大王墓に匹敵する前方後円墳が造られるようになる。
> 半島への積極的な遠征、南朝への朝貢再開。
> かなり劇的に国家戦略の転換がなされているのが四世紀末。
> マキムク廃都もおそらく同時期であり、
> 何らかの政変があったと考えるのが自然。

そのころ九州では横穴式石室が普及しはじめますよね。
これが畿内に伝播するのには100年くらいかかったみたいですが、
この現象はどのように位置づけますか?
念のために申し上げておきますが、私は九州王朝論者というわけではありません。

90 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 07:18:09
>>85

文献的には神功・竹内スクネの時代になるな。
竹内スクネは葛城系。
神功を祭る住吉大社・宇佐神宮は吉備・瀬戸内の守りをしてる。

>>89
墓制について、中央政権が細かく縛りを設けてたという説は反対。
墓の規模、様式は、クニ単位の労働力や設計担当者で決められるもの。

前方後円墳のような、外見の形式が一律なものは、
墓が出来てから祭祀をする必要があるため、祭祀が全国で統一されていたことはわかる。
地方のクニは大和の祭祀を受け入れていたが、墓の構造にまで縛りがあったとは考え難い。

しかし、石室は設計上の問題なので、設計者が渡来人なら祭祀とは無関係に決められる。


91 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 08:34:22
古墳の規制というのは形とかではなく、大きさの意味で書いたんですが。
あと河内みたいに、最初から大和王権に加わりながら、
初期古墳が見られない地域もあるし。

92 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 11:54:15
安土桃山時代の武将が作った茶室、庭は、
受け入れさせられていたんじゃなくって、
単なる武人の間の流行りだよ。
信長と家来、秀吉と有力武将の間には、
少々強制力のようなものがあったと思われるが。
規制を想定する必要はない。


93 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 12:28:28
考古学者でも、墓の大きさでクニの上下関係を決めてる人もいるが、
(上位のクニは、下位のクニに大きな古墳を作らせなかった等)
墳墓の大きさまで規制されるような、中央集権化が進んだのは、もっと後の時代だろう。

94 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 12:33:10
>>92
前方後円墳は茶室にたとえるより、天守閣の方が相応しいように思うが。
非常に政治的な意味合いが強い。
江戸幕府に慮って、途中で天守閣のサイズを小さくした大名もいたぐらいだし。

95 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 12:53:21
>>77
>俺は庄内期にも纏向で鉄生産やってたと思ってるから、そのうちにきっと出土するぞ。賭けてもいい。w

出土すれば君の勝ちだが、出土しないうちは
「まだまだ掘り方が足らん。そのうちに出る」と言われれば
「はあ、そうですか」と黙るしかなく、いつまで経っても賭けの決着がつかない。
えらく一方的で、君は絶対負けないようになってる不公平な賭けだから
乗るわけにはいかないが、どういう理由で君が
「俺は庄内期にも纏向で鉄生産やってたと思ってる」のかぐらいは書いて欲しいと思う。

96 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 12:58:57
>>94
徳川時代の例えは中央集権進みすぎでおかしいだろw

97 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 13:03:24
>>93
恣意的に意図を想定しているとしか思えない研究者もいるね。
自分が考える中心地でないところで大きくなると、”外国船に見せるため”とかさ。
海か湿地かの違いだけでマキムクと同じ地理条件なんだけどな。

98 :ローガン:2009/01/14(水) 15:40:29
初期の段階では古墳造営は里山掘削、土砂の搬出、濠による灌漑等大和での耕地拡大の役割があったのでは無いでしょうか。
ある程度開墾が進んだため、河内に移動したのでは? 想像ですが…

99 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 15:49:53
初期の大和王権が非常に小さく、中央集権からほど遠かったのはそうだろう。

しかしまあ倭王だし、自分の古墳より大きなのを地方の首長に造られたら、いい気はしないわな。
古墳は被葬者の権威を字を読めない人々に理解させる意味もあり、その大きさは重要視されてただろう。

箸墓の相似形縮小、何分の1かの古墳が各地にあること。
伝履中陵と吉備の造山が相似形など、明らかに中央の大きさが地方で意識されていたと思うが。

100 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 15:57:22
>>98
初期の稲作は扇状地の微高地で棚田を作って、
徐々に下流に降りて湿地の開拓になっているんだよね。
だから時代が下ると泥炭地用の農具が増えてる。
これはどこに行ってもほぼ同じなんだよ。
オオヤマトだけが持っていた技術じゃない。

101 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 16:07:01
>>99
オオヤマトの覇者が倭王かどうかは慎重に考えないと。
倭の五王の時代でさえね。
遣隋使一回目は国書を持たずに行っているので。
外交儀礼の伝達に支障を来たすような政治的問題を抱えていたということ。

102 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 16:11:05
九州王朝はそっちのスレでやれ。

103 :ローガン:2009/01/14(水) 20:47:42
>>100
> オオヤマトだけが持っていた技術じゃない。

当然、開墾はどの地域でもあったでしょう。中期以降、古墳の造営プランに土地の不足…というか、造営の際に農地を潰す可能性が予測出来たので、その土地を河内に求めたんじゃないかなあ?なんて考えます。
あまり、河内ワケ王朝ってのがしっくりこなくて(笑)…


104 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 22:16:33
なぜマキムクを始め、各地で古墳が次々と造られていったのか?

私の考えでは、そもそも潅漑、開拓のために多くの労働者が集まっていて、
その余剰労働力を古墳造りに転用したのではないだろうか、ということ。


倭王となった大和王を対外窓口として、
鉄器やら潅漑技術などが大陸から入ってくるようになった。
それらは各地の首長たちにも下賜され、
空前の開墾ブームが各地で起きたのではないかと。
地球規模の寒冷化により、それまでの中途半端な農業では立ち行かなくなり、
倭の人々は大規模農業、耕地拡大に飛び付いたのだろう。

鉄やら技術をもたらしてくれる首長は崇められ、各地で古墳が次々と造られていく。

105 :ローガン:2009/01/14(水) 23:03:14
>>103の追加で妄想を…
三輪禁足地からは陶邑(堺)で焼いた須恵器が多く見つかってますね。
オオヤマト王権の祭祀に関わる集団… (古市の土師氏もですが、) 河内人が古墳造営つまり付帯するインフラ整備と人口増加による経済活性を期待した土木工事の誘致。
手狭になった墓地を思案する王権との 利害が一致し、百舌鳥古市に巨大古墳が造られるようになったか?なんて考えます。

106 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 23:24:17
前方後円墳以前に大型墳丘墓があり、
マキムクでの自然発生説はおかしい。

107 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 00:35:30
>>105
百舌鳥が大王の墓域に選定されたのは、石津川流域が重要視されたからでは
ないだろうか?
新しい須恵器生産の場所として、石津川上流地域が選ばれたのは、
そこで良質な粘土が採れることと、燃料としての木材資源が豊富にあったこと。
更には石津川水運を利用することで、瀬戸内海へ直結し得たという利便性。

大量の良質の土器を造り各地に輸出するということが、古代日本では非常に重要なこと
だったようである。

108 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 02:35:37
>>81
マキムクが「廃都」された背景から、マキムク選定の事情を考察する方向は
もっと議論されていいとと私も思います。

109 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 03:16:00
いや、なかなかいい感じでスレが進行している予感。
>>88とか>>95さん、>>102さんのような、排他的な感情剥き出しのレスは勘弁して欲しい。
所詮は史料が殆ど無い、分かっていない時代の話なんだからこそ、
もっと謙虚な態度が必要。

110 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 03:27:58
憎まれ口を一つ。

戦国時代の城の話が出てきたが、城は日本にたくさんある。
詳しい文献があるので、城の生い立ちなどは詳細にわかるが、もし、文献の記録が
なく、現物の城だけが存在していたとしたら、実にいろんな物語が出来ただろうな。

111 :ローガン:2009/01/15(木) 23:26:17
>>107
同意。それに、新しい窯業の技術ですね。
記紀ネタで失礼…「オオタタネコは陶邑にいた」って どう思います? マキムクの頃陶邑があったか?
私は三輪の祭祀が復活した欽明の頃のことかなあと思います。

112 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 17:09:29
箸墓から堺市の土器が見つからないなら、
後付で三輪氏が創作した伝説じゃないの?


113 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 22:50:41
>>111
その一代前の開化天皇が日本根子(ヤマトネコ)だよね。
で崇神天皇の母親の伊香色謎命が北河内の人。
陶邑は河内じゃなくて和泉だけれども。

114 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 01:53:37
ヤマトネコ
      /゙ミヽ、,,___,,/゙ヽ
      i ノ   川 `ヽ'
      / ` ・  . ・ i、
     彡,   ミ(_,人_)彡ミ
 ∩,  / ヽ、,      ノ
 丶ニ|    '"''''''''"´ ノ
    ∪⌒∪" ̄ ̄∪


115 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 02:21:23
記紀は「あえて」棚上げして、
考古学的観点にしぼったところでだと、現在までの成果では、
三輪山祭祀はどのあたりまでさかのぼれるんだろうか?

山ノ神遺跡や大神神社禁足地の遺物は、せいぜいあげて4世紀後半。
それより以前のは出てなかったように思う。
(もちろんマキムクの祭祀跡を三輪山祭祀の初源と解釈すれば、庄内期まであげられるんだろうが、
それをイコール三輪山祭祀とするのは、「記紀」にひかれすぎ、というかどうも個人的に抵抗があるだなあ)

116 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 02:32:51
おおたたぬこ

117 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 07:12:45
三輪山はそもそも禁足地なんだから、古代の痕跡があるほうがおかしい。


118 :ローガン:2009/01/17(土) 15:58:43
>>115

> 記紀は「あえて」棚上げして、

了解。

> 三輪山祭祀はどのあたりまでさかのぼれるんだろうか? 山ノ神遺跡や大神神社禁足地の遺物は、せいぜいあげて4世紀後半。
> それより以前のは出てなかったように思う。

そうですね。
ただ、マキムク誕生の頃、三輪の集落は廃絶していたのでは?
人為的な無人化だとすれば、三輪山及び麓の聖域化とも考えられますね。
「三輪山祭祀の初源」はこの辺りでは?

119 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 16:47:41
うむ。巻向川・初瀬川・三輪山に囲まれた三角ゾーンに存在した芝や三輪や金屋の弥生集落が、
マキムク形成期にはどかされている(どいている)という話は聞いたことがある。

120 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 20:29:35
けど、考古学で「なくなってる」「なかった」って言うのはなかなか難しいんだよね。
「あった」ってのは確実なんだけど。

121 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 12:45:29
3世紀の三輪山信仰が大王に独占されてた時代が過ぎ、
徐々に三輪山が徐々に大衆に開かれていったということではないだろうか?
禁足地に入れない人々が神饌を食べかわらけを捨てたのが、山の神遺跡などであって。

マキムクの頃は、大王の居館の中でしめやかに行われていたのだろう。
ときどき大王が三輪山に分け入り神よばいなどをすることがあっただろうが、当然禁足地内の話で、痕跡は見つかっていない。

122 :107:2009/01/19(月) 22:27:39
>>111
三輪山祭祀の源流を考える時、記紀の記述をどこまで信用するのか?は難しいところ。

三輪山の神・大物主神には複数の神婚譚がある。
セヤダタラ媛との間に神武の皇后イスケヨリ媛が生まれ、
イクタマヨリ媛との間にオオタタネコ(三輪氏の祖)が生まれる。
崇神紀では、ヤマトトトビモモソ媛が祭祀に失敗し死亡、子は生まれなかった。

これらの三輪山説話は、大和政権が三輪の在地勢力を従えていく過程を神話的に表現した
ということになっている。
ここで言うところの「三輪を従える大和政権」とは、いつの時代の大和政権なのか?

少なくともマキムクの王権のことではないと思われる。

123 :107:2009/01/19(月) 22:51:03
オオタタネコについては、紀では堺市東南部の陶邑で発見され、
記では河内の美努村(八尾市)で発見されたとする。
この違いは何なのか?

私はおそらく、6世紀以降三輪氏が三輪山祭祀を管掌するようになり、
伝承が変質したためではないか、と思う。

本来、美努村の方が伝承が古く、河内で誕生した庄内式土器で祭祀が始められた
とするのが原初であった。

後世、三輪氏が三輪山祭祀権を掌握するに及んで、陶邑(三輪郷があり、おそらく
三輪氏の本貫地)で発見されたという伝承に変わったと。

124 :107:2009/01/19(月) 23:01:42
こういった三輪氏による祭祀権の簒奪は、宇佐神宮でも見られること。
恐らくは欽明以降、各地で神話の作り変え(つまりは天皇家に都合のいい歴史の編纂の前段階)が
計画的に行なわれていったのだろう。
その中心となったのが三輪氏であり、王朝内で台頭していったと思われる。
敏達の寵臣・三輪逆を輩出。同じく敏達紀で、蝦夷の首長が三輪山の天皇霊に服属を誓う
という記事があるが、その頃には三輪山=天皇家の山という認識が生まれていた。

三輪氏は壬申の乱で活躍し、記紀編纂の頃にも大きな影響力を持っていたようである。

125 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 10:07:16
>>123
六世紀なら「三輪を従える大和政権」じゃなくて、
大和政権内の権益争いだね。

126 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 17:24:44
■庵寺遺跡:前漢時代の八禽鏡出土 日本海ルート交流を示す重要な発見−−大田/島根

 県埋蔵文化財調査センターは、大田市仁摩町大国の庵寺遺跡の箱式石棺から、前漢時代末期(紀元前1世紀後半)に作られ、8羽の鳥の模様が特徴の青銅鏡「八禽(はっきん)鏡」が出土したと発表した。
前漢鏡の出土は石見地方では初めて。八禽鏡は全国で8例目。
九州北部や鳥取県の出土例があり、同センターは「空白だった島根で発見されたことで、九州と鳥取をつなぐ日本海ルートによる交流の可能性も示す重要な発見」と話している。

 八禽鏡は直径9・6センチ、重さ201グラムで、古墳時代前期(4世紀代)の円墳「庵寺1―B号墳」にある箱式石棺(長さ2メートル、幅50〜75センチ)の右隅に、三つに割られた状態で発見された。
同センターは鏡を割ってから石棺に入れたとみている。
 前漢鏡は全国で約100例の出土があり、県では3例目。八禽鏡8例のうち3例は鏡の破片の出土で、完全な形で復元できるのは珍しいという。

 一般公開は今月から3月にかけ、山陰両県で開かれる「新発見!とっとりしまね発掘速報展」で行う。
21日〜2月15日まで、鳥取県立図書館(鳥取市)、2月21日〜3月15日、島根県立石見美術館(益田市)。【御園生枝里】
1月20日14時1分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090120-00000179-mailo-l32

127 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 20:52:33
>>126
4百年以上伝世して、わざわざ破鏡して納める意味は何なんだろう?


128 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 12:31:18
存命中に割れちゃったけど、大事にもってた、とは誰も考えないんだな。


129 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 00:05:55
銅鐸の例もあるしねえ。
割ることに意味があるような気がするけどねえ。

130 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 07:30:09
銅鐸が割られてた例はほとんど無いだろ。

131 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:17:56
■垣内遺跡 弥生時代最大級の鍛冶工房を確認 兵庫・淡路

 兵庫県淡路市(淡路島)の垣内(かいと)遺跡で、鉄器を製作する弥生時代後期の大規模な鍛冶(かじ)工房とみられる竪穴建物跡8棟が確認され、同市教委が22日発表した。
炉のある工房跡は昨年度も2棟見つかっており、弥生時代のものとしては国内最大級。
当時、淡路島が鉄器の一大産地だったことがうかがえるほか、日本で鉄器生産技術が伝わったルート解明のうえでも注目されそうだ。

 標高約200メートルの丘陵地にあり、07年度から調査している。
今回確認されたのは弥生時代後期後半(2世紀初め〜3世紀初め)の竪穴建物跡11棟。うち8棟で、床面に強い熱を受けて赤く焼けた炉跡が見つかった。
建物跡は円形や方形で直径5メートル前後のものが多く、最大のもので直径10.5メートルあった。鉄の矢じりの「鉄鏃(てつぞく)」など鉄製品や、石づちなどの工具も多数出土した。
 また、朝鮮半島か中国から輸入されたとみられる大型の鉄製品(長さ約20センチ、幅約5センチ、厚さ約3センチ)も見つかった。高度な鉄器生産技術が集まっていた可能性があるという。

 日本での鉄器生産は弥生時代中期後半に九州北部で始まったとされ、工房跡は四国、中国地方などで見つかっている。
松江市の上野2遺跡では弥生時代後期後半とみられる工房跡が6棟見つかっており、これまで最大とされてきた。現地説明会は25日午前10時半と午後1時半。【登口修、吉川雄策】
1月22日21時9分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090122-00000015-maip-soci
拡大写真
国内最大級の鍛冶工房とされる竪穴建物跡が見つかった垣内遺跡。手前の建物跡は、直径10.5メートルもある=兵庫県淡路市黒谷で2009年1月20日午後0時44分、登口修撮影
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090122-00000015-maip-soci.view-000

132 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:40:36
それよりこれどうよ?

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090122-00000054-san-soci
国内最古級の古墳木棺 残存

 国内最古級の前方後円墳「柳本大塚古墳」(3世紀末、奈良県天理市)の被
葬者が埋葬され、明治期に取り出されたのち所在不明となっていた木棺が、同
県桜井市三輪の宗教法人「大神(おおみわ)教」(西野新也管長)の本院拝殿
に掲げられた額として残存していたことが21日、分かった。岡林孝作・県立
橿原考古学研究所総括研究員らの現地調査で判明した。
(以下略)



133 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 16:20:57
>>132
なんともなあ…

134 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 01:06:13
年輪年代法(笑)

135 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 02:39:06
>>134
門外不出、一子相伝の必殺技をバカにするなwwwwwwwww

136 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 16:18:46
>>134
こういう連中が
「箸墓・ホケノは4世紀後半」とトンデモナイ事を言い出すんだろうな。

137 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 00:25:11
少し前に放送して録画して放置してた平安京遷都をテーマにした
そのとき歴史が動いたをようやく見た。

それによると、都を移動するときは宮殿などの建物はそのまま移築するのが普通らしい。
長岡京に遷都したときの宮殿ていうのは難波宮からの移築なんだと。
これが本当だとすると、建物の柱の年輪年代から遺跡の年代を割り出すのはかなり危ないわな。


138 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 07:08:53
弥生時代に平安朝なみの宮殿があったとは驚きだ。

139 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 07:33:02
法隆寺が創建されたのは、西暦600年代。
その頃には、すでに結構な建物が建てられていた。
その「わずか」400年ほど前が卑弥呼の時代になる。

聞くところによると、倭人伝に書かれている「樓觀」は、かなり立派な建物を
指して使う言葉らしい。
我々は、弥生時代のイメージをちゃんと捉えているとは言えないかもしれない。

倭人伝には、通訳がいたとも書かれている。言葉をしゃべれる人ならば、
読み書きが出来たと考えるほうが自然とも言える。

140 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 15:38:05
>>137
弥生と平安をごっちゃにして楽しい?

141 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 01:35:21
都内在住の皆さん。寺沢氏の講演会が江戸博であるみたいだよ。
橿考研友史会主催かな?

◆ 2月14日(土) 第78回「大和考古学講座」
   江戸東京博物館会議室 13時30分〜16時30分
   講演 「纒向遺跡と邪馬台国論」 寺澤 薫氏(研究所 総務企画部長)
   会 費:無料(会員証をご持参下さい) 一般の方は500円(資料代)
   申込み不要 先着150名

ttp://www.oct.zaq.ne.jp/kashiko_yushikai/


…しかし、「考古学通信」の一部有料化ってのは、なにげに痛いというか、
まあさもありなんというか…。

142 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 01:52:07
長岡京遷都が平安時代っていう馬鹿は始めてみた。

143 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 02:06:14
移築っつうか、建築材の再利用ってのはふつうにあったんじゃないの?

縄文中期後葉の石囲炉がやたら抜き取られて再利用されてたりとか、
資材再利用の発想はえらい昔から連綿と続いていたわけだし。

144 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 07:41:01
漢字や独自文字があったとして、弥生遺跡から文字が出ないのはおかしいとは思わないのか?

145 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 12:43:18
材木とかの再利用は普通にされてたとは思う。長岡京の立地は淀川を使って難波宮から、
解体した建物を運ぶということを想定してのもの。

しかし、年輪年代測定がアテにならないということにはならない。
伐採年から遺跡の時代を推定するというのと、
「石鏃が大きくなってるから倭国大乱の頃」なんていうのと、
いったいどっちが信憑性があるのか、ということだ。

146 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 09:45:02


掘っ立て柱だと根元が腐るんですが。

再利用バカは掘っ立て柱も再利用できたと思ってるのかな?





147 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 14:44:42
>>127
やっぱ古墳の時代設定ておかしいよ・・・
と最近思い始めた大事に持ってたって当時は
現代よりも寿命が短いし安定した世の中じゃな
いだろ
400年以上も伝世するのは非常に困難だと思う
眉唾もいいとこだ。何とかならんのかね。このいい加減な感じ

148 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 15:17:09
>>147
>400年以上も伝世するのは非常に困難だと思う

籠神社

149 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 22:58:07
■“邪馬台国”解明へ発掘 ── 有力候補の纒向遺跡

 奈良県桜井市教育委員会は30日、邪馬台国の有力候補地、纒向遺跡(3世紀初め−4世紀初め)成立の謎を解明するため、集落中心部とみられる場所の発掘調査を2月に始めると発表した。期間は約5年の予定。

 過去に神殿とみられる特殊な建物跡(3世紀初め−中ごろ)が出土した地点と周辺の約100メートル四方を発掘。市教委は「建物跡の東側に、巨大な中枢の建物の遺構が眠っている可能性がある」としている。
女王卑弥呼が君臨した時期と重なり、成果に注目が集まりそうだ。

 纒向遺跡は桜井市北部の南北1・5キロ、東西2キロの範囲に広がる巨大集落跡。過去160回調査しているが、発掘面積は遺跡全体の約5%で、不明な点が多い。

 九州から関東地方の土器も数多く出土していることから、一般的な集落とは異なり、広範囲から人が移動してきた「都市」との見方もある。
遺跡内には、卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳(3世紀後半)など最も初期の前方後円墳が点在している。
2009/01/30 17:30 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/200901/CN2009013001000669.html

■2月から発掘調査が開始される纒向遺跡の集落中心部とみられる場所(矢印)。右上は箸墓古墳=08年2月、奈良県桜井市
http://www.47news.jp/PN/200901/PN2009013001000732.-.-.CI0003.jpg

150 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 23:17:19
>>149
>過去160回調査

なんていうか、「もうあきらめろ」としか言いようが無いな。


151 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 23:32:27
160回で5%だからね。
いかに一回の調査面積が狭く、かつ、総面積が広大かがわかる数字。
なにせ最小で4平米だからね。2m四方。


スネーク、スネーク。指令だ。
発掘調査員として潜入し、調査経過を逐次このスレに報告すべし。

152 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 23:47:44
あきらめるとか意味不明。
また畿内説の捏造とか言ってる人か。

153 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 23:55:02
>>149
>神殿とみられる特殊な建物跡

これって笑うところ?

154 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 23:57:15
どうでもいいけど、人が住んでいた痕跡が少なすぎるね。

5%で10人〜20人分程度なら、100%でも200〜400人にしかならん。

155 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 10:22:55
それはすごい大集落だ。

156 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 15:16:22
計画都市だから、居住区が厳密に分けられてるのよ。
もうじき、エジプトのワークマンズ・ヴィレッジみたいなのが見つかるから。

157 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 16:47:02
だから大集落が見つかるまではこれまでの出土状況はあまり言うな。

158 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 17:00:38
>>155
田舎の長閑な田園ですね。

159 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 22:13:15
実際、結構見つかってるって。
他の遺跡と比較しても、際立って住居跡が少ないとかではない。
マキムクをおとしめようという作為に騙されちゃダメ。

160 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 22:18:21
>>159  では具体例をww

まさかあの掘建て建物?
あそこには食事を作る場所がないのだが・・・


161 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 03:09:41
 「今では古墳時代の開始は少なくとも3世紀初頭に遡ることが
  確定して、マキムクはその中核都市と判明したんだ。」
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162 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 04:13:30
>>149
いい写真だねえ

163 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 04:14:24
>>147
じゃあ400年古墳の年代上げるのかよ

164 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 08:37:37
 「九州の邪馬台国が東遷してマキムクに都を作ったのだ。
その証拠として、庄内式土器を九州発祥とする。」
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165 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 15:27:01
>>164
実際には君がそんな目にあっってるんじゃないの?

166 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 15:28:47
色々間違えた。
まずアンカーは>>164じゃなくて161だし、
しかも「あっってる」て何だよ。

167 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 15:55:18
>>165
実際には君が>>164な目にあっっってるんじゃないの?


168 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 21:08:58
>>167
と言いつつ
実際にはやっぱり君の方がああいう目に会ってるんだろうね。

169 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 21:58:56
 「九州の邪馬台国が東遷してマキムクに都を作ったのだ。
その証拠として、庄内式土器を九州発祥とする。」
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170 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:57:30
調査始まったな。誰かアルバイトでもぐりこめよ。
どうせおまいら、ニートだろ。

171 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 01:22:20
ゴッドハンド炸裂しますよ、いいんですか?
北九州の発掘現場からくすねてきた前漢鏡埋めちゃうよ?
後悔しても遅いよ。そうなったら倭国大乱だよ。
三角縁神獣鏡がポケットの中で二つになるよ?
アーマーテーラースー!

172 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 08:41:40
漢式の鏡も、畿内全体で考えればかなりの数が出てる。
ただ筑紫などのように首長権力の増大が無かったから(長老制のような感じ)、
特定首長墓に副葬されることがなかっただけ。共同体内で伝国の宝鏡として伝世されていたのだろう。
その様相が変わるのが弥生末期、マキムクで古墳が造られるようになって。

173 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 11:56:47
某グループに混じってこの遺跡見学したとき
可愛い女子学生みたいな子が数人ついてきたんで?と思ったが
青いビニールシートを遺跡から外したり掛けたりだった
 
解説者がしきりに唐古・鍵を悪く言うのが面白かった
唐古・鍵ではやはり解説者が纏向の悪口を言ってた

174 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 12:50:34
唐古鍵の何を悪くいってたの?


175 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 20:54:40
田原本町の人と桜井市の人が、どっちが凄いか自慢してるっていうこと?
悪口を言う意味が分からない。ていうか唐古鍵とマキムクでは性質というか役割が違う。

176 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 21:32:57
はやく結果が知りたい。
発表は調査終了直前の三月下旬ぐらいか。

177 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:23:27
>>172
古墳が作られるようになったら古墳時代では?


178 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:47:04
>>174
要するにどちらも「あんなものは大したことはない」

179 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 23:02:46
纏向の始祖はマッキーとムック。

180 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 23:34:48
ぬばたまの、夜去り来れば、纏向の、川音高しも
嵐かも疾き

181 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 04:23:07
>>172
畿内では鏡の流行が少し遅くて、
それで国内にあった漢鏡を後から手に入れた
可能性もあるんじゃないかなと思ってる。
連合した頃に。もちろん東遷だって言ってんじゃないよ。
三角縁は大和政権の発展、漢鏡は円筒埴輪なんかと一緒で、
大和政権の黎明を解明する鍵じゃないかな。
あまり伝わってなかったからゆえに貴重だったものを、
勢力が大きくなったときに求めたんじゃないかと。
そしてその後は自分達の優位性を誇示するために配布。
漢鏡の扱いが畿内でも少し違うのはそのせいかなと。

182 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 16:31:25
>>181
配布ってのは△のこと?漢鏡は配布してないよね?

183 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 23:36:15
踏み返しの漢鏡は基本的に国産だから、年代は中国とは同じにならない。

中国の多種類の鏡(例えばA〜Z)の一部のみ(例えば、D、F、Hのみ)が
日本で2〜30枚セットで出土する状況を説明するとして、

A説、特定の種類の鏡のみが、偶然複数日本に来た。
   →確率論的にありえない。
B説、特定の種類の鏡のみを、多数セットで日本に持ち込んだ。
   →その都度、中国で特鋳して複製したことになるが、まあ無理。
C説、日本に来た鏡の一部を、日本で複製した。
   →もっとも素直な考え。

184 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 18:36:30
>>183
B説は違うのでは?
大量に鏡を作る時は、中国でも踏み返してただろうし。

185 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 21:16:36
>>184
5枚セットで取引されたという説ですか。
だから、日本で出土する鏡にかたよりがあるという。

186 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 21:53:55
>>185
倭国の特殊な鏡需要で、倭国向けに鏡が作られた可能性を考えて

187 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 22:34:21
>>186
つまり、楽浪あたりで日本向けの製造をしていたから、特定の種類の鏡の
同型鏡が多数日本で出土するってことだね。

△もその他も大半は特鋳品というのは、ちょっと説明として苦しい。

188 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 23:09:01
踏み返しを論じるまでもなく、日本以外で出土していない鏡には、
何があるのだろう。5C頃までのもので。

有名なのは、三角縁神獣鏡と小形イ方製鏡。
ほかには、だ竜鏡、家屋文鏡、平原の巨大内向花文鏡。

画文帯同向式は中国にはないデザインが日本で約30面出土しているが、
楽浪で1面出土した同向式が同じデザインであると言われているので、
日本限定ではない可能性が強い。


189 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 23:27:32
卑弥呼の鏡は画文帯じゃないの?


190 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 23:40:00
卑弥呼の鏡は神人車馬画像鏡です。

191 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 12:31:58
邪馬台国畿内説でいけば、卑弥呼の鏡は画文帯か三角縁になる。
時代的にも、畿内中心に分布することからも。
しかし卑弥呼の鏡と書くと揉めそうなので、あえて畿内王権に絞った方がいいかも。


192 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 22:09:59
画文帯は舶載品で初めて畿内中心に出土することからも、この時期を筑紫から大和への政権移動のそれと見る向きも多い。
それは東遷やら西征などの武力闘争による結果ではなく、単に倭国内の交易の結節点が大きく東に移動したということ。
つまりは大和マキムクに大きな王権が生まれ、その王権が列島の東西交易の安全を保障したために、
大和が中央となり得た。
中心の東移動を主導したのは、それによって最もメリットがある地域、五畿やら東海、関東らと思われる。

193 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 23:18:21
そろそろ何か出てないかなぁ。


194 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 01:54:07
鴻臚館並みの施設は出たのかな〜わくわく

195 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 02:58:39
>>192
画文帯は、日本では中国での全ての出土量の倍近い数が出土している。
これを全部舶載とするのは、オカルトの世界の議論であろう。
国内での踏み返しが多数を占めることは、自明のことである。

その当然の議論が許容されないのが、学者の世界である。


196 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 03:31:32
果たして纏向から王宮に相当する建物跡が出てくるんだろうか?

いや常識的に考えて「出てくる」とする方が普通だとは思うんだがw

このスレにケチレスつけてるレベルの邪馬台国九州説論者は
そんなものが出て来ないことを祈っていて
もし「纏向に王宮なんてものは存在しなかった」なんて結論が出れば
欣喜雀躍するんだろうがwwww

ひょっとして纏向は祭祀だけに特化された都市という可能性をどうしても考えてしまう。

まあそんな事になった日には政治的中枢が他にあったと言うことで
当時のヤマト王権が更に巨大なものになる訳だが(苦笑


197 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 04:23:55
>>196
今現在の出土状況を直視しろ。
妄想で自分を慰めるのは止めた方が良い。


198 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 06:45:26
画文帯神獣鏡は、魏の鏡ではなくて敵国である呉の鏡。
卑弥呼の鏡とは考えられない。

>>196
証拠となるようなものは何一つ出ていない纏向を邪馬台国の候補地というのは
おかしい。結論が先にあって、後で証拠を探すなんて…。

199 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 08:17:11
>>198

マキムクが邪馬台国という証拠は無いが、
九州一島だけで邪馬台国だと考えることは、もっと根拠が無い。
邪馬台国は、九州〜近畿の連合国と考えるべきであって、
そうなれば、マキムクが首都になると自然に導かれる。



200 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 09:44:59
>>195
画文帯の頃の倭国の鏡製造技術は低劣。
ヒラバルは除くが。
本当に踏み返しで大量に製造出来れば有り難味がなくなり、
鏡をレガリアとした政治体制は構築出来ないだろう。


201 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 13:42:25
ビジュアル版 逆説の日本史1 古代編 上 (単行本)  井沢元彦
2008/12

これ読んだ人いる?
井沢元彦が邪馬台国論争で、意見を変えてきたというのは本当なの?
もしかして、井沢元彦、九州説から近畿説へ転向してきた?

202 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 16:04:13
まともな頭なら九州説は捨てるだろうな。

203 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 21:34:57
ドラマ「鹿男あをによし」の評判が良かったので
予算がついたんだろ。

204 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 23:36:01
どちらにせよ巻向はせいぜい4世紀だし邪馬台国とは関係がない。



205 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 00:27:40
>>201
冒頭でいきなり年代遡上説に乗っかって、「箸墓は卑弥呼の墓である
可能性が高い。」と言い切ったね。

まあ、そのレベルの人と言ってしまえばそれまで。


206 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 00:34:52
年代遡上とか巻向が4世紀とか馬鹿ばかりか

207 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 01:13:56
事実なんだから仕方あるまいwww

結局、邪馬台国と結びつかないとなると基地害のように
レスしまくる。本性見えてるな

208 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 02:41:40
>>204
>どちらにせよ巻向はせいぜい4世紀だし

理由が書いてないが、それは本当か?
ぜひ4世紀の根拠を述べてくれ、頼む


209 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 22:47:36
>>205
君等が古い年代感にしがみついてるんだよ。
>>208
期待しないほうが良い。

210 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 22:55:41
遡上説の根拠は年輪年代だよな。

布留式土器を3世紀後半に遡上させたが、石塚以下の古墳が全て
布留式の時期と分かると、年輪年代で布留式を3世紀前半にした。

まあ石塚が庄内というのも居るが、アレだけ布留が出まくっても
そんなことを言えるのが学界クオリティー。
しかも、石塚を遡上させても、ホケノの布留という障害もあるよね。


211 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 23:06:44
古墳の周濠で行われる土器祭祀は、別に築造後も継続してたと考えても良い。
いわゆる、神餞を神と共食して、かわらけを濠に捨てるという形式。
出てきた一番古い土器の時期に古墳が築造されたと考えるのも一つの考え方。
議論はされるべきだが。

ただ>>210みたいに古い年代観を盲信する輩は正直どうかと思う。

212 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 23:45:19
>210
ちげーよ、C14年代だよ。

213 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 00:18:39
>>212
勝山古墳は布留0だが、年輪年代で3C初めとした。
http://www2.begin.or.jp/sakura/maka02.htm

石塚も年輪年代(200年頃)が一人歩きしている。
http://www2.odn.ne.jp/kofun/izuka.htm

恥知らずの狂演はまだまだ続く。

214 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 00:40:09
>213
C14較正年代と年輪年代は、まったく異なる手法で年代推定するが、
多くの遺跡で年代が一致している。

世の中にはAMS年代は信用しないって人が居るが、
それはAMSという測定方法の理化学的意味をまったく理解できない「理科音痴--理痴的な人」だけだよ。

従来的C14年代測定に使った液体シンチレーションカウンタ法と、AMS法とは、(処理ないし測定間違いがなければ)99.9%以上も一致する。


215 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 00:50:17
>>211
継続的な祭祀については石塚あたりの周濠が前方部分のところで
わずか4mぐらいの幅しかないと言うのがそれっぽいw
(後円部の周りだと20mあったはず)

つまり橋を渡して中に入って祭祀をやったのではないかと…
で、橋墓あたりで外界と隔離した形になっていったのではないかと…
(土橋は確認されているがあれはもっぱら建造時の物資搬入の為?)

それと「神餞を神と共食」と言う儀式は纏向の祭祀土坑からの出土物がそれを連想させるよねw

216 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 01:02:04
>>214
年輪年代が正しいと考える根拠はあるの?
あれはオカルトだろ。

少なくとも検証されざるものを相手にするのは論外。

217 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 01:07:22
>>214
そうか…

他の機関で年輪年代をやらなければ
別の理化学的年代測定法と付き合わせるって方法もあるんだね。



218 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 01:07:41
邪馬台国東遷説を成立させんがために、まったく無根拠な実年代観に固執するのは
学問的態度とは言えない。
反論があれば、君の言うところの「正しい」実年代を導き出した根拠を述べてくれたまえ。
訳のわからん「畿内説の捏造」とかオカルト的陰謀論でなくて。

219 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 01:11:56
検証機関が世界各地の研究室に同一試料の測定を依頼したら、
日本の研究室も含め、大半の機関が99.9%まで一致する測定値を出す。

それも、AMSと液シンの別なくだ。

つまり、AMSの信憑性は日本以外では確立されてるし、
日本のいくつかの測定機関もそれらと同レベルの信憑性で測定してる。
ただ、日本には反対勢力がいるから確立に至ってないだけ。

信仰的な反対論の前には、如何なるデータも意味をなさないから確立に至らなかっただけなんだよ。

220 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 01:13:14
>>213
>勝山古墳は布留0だが、

まずここが違う。FULL0が出たのは底じゃない。

>石塚も年輪年代(200年頃)が一人歩きしている。

200年頃と言ってる根拠は年輪だけじゃない。
※ だからといって200年を支持するということではない。


221 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 01:14:19
>>214
>C14較正年代と年輪年代は、まったく異なる手法で年代推定するが、

校正曲線は年輪年代で作るんだが・・・


222 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 01:28:19
>>219
国際基準から南半球が切り離されたのは知っているよな?

国際基準が全世界で当てはまるわけでもない。
南半球どころか、エジプトでも齟齬している。
歴博は、エジプトは完全無視だがな。

まあ、それがプライドの限界ってことだろうな。

223 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 01:32:06
年輪年代は、外国では信頼されているらしい。だから、日本でもやろうとした
人はたくさんいた。でも、日本の場合は気候が複雑でパターン化できなかった
らしい。

思うに、ちょっと場所が異なれば、違う年輪のパターンになるということじゃ
なかろうか。つまり、大阪と奈良では気候が違うから年輪の出来方が異なる。
京都でも異なる。そうなると、どこで伐採された木材かがわからないと
年輪年代は適用できないことになる。
しかも、各地の年輪のパターンが必要になる。

うわーめんどくせ、ということじゃないかな。

224 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 01:35:24
年代遡上に狂奔して異論を許さない北朝鮮のような状況に
なったというのが悔やまれる。

225 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 03:12:24
>224
5年前なら、年代遡上に反対する行為は「慎重な姿勢」と言えた。
しかし今、それは「信仰な姿勢」と呼ばざるを得なくなった。

226 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 03:48:11
>>204
>どちらにせよ巻向はせいぜい4世紀だし
>>208
>理由が書いてないが、それは本当か?
>ぜひ4世紀の根拠を述べてくれ、頼む





☆ チン

    ☆ チン  〃  ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      ヽ ___\(\・∀・)< で、巻向4世紀の根拠マダー?
          \_/⊂ ⊂_)_ \_______
        / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/|
      |  ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:| :|
      |           .|/





227 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 04:14:19
元々、庄内期は、西暦300年頃に始まるとされた。
1995年、池上・曽根遺跡のひのき材が、年輪年代で紀元前52年伐採とされた。
これを契機に畿内第四様式が100年遡る。
つられて、庄内期が100年遡る。
まあ、庄内期が遡ったのは、そういうわけでわずか10年ほど前に過ぎない。

考古学者は、都合の良い年輪年代の結果に飛びついたわけだ。

実際問題として、土器がいつ作られ、どれくらい使用されたかは、わからないと
いうのが正しいのだろう。

以前、ある本で畿内弟X様式という言葉を見かけ、それはいつ頃なのだろうと
思ったのだが、実年代はどこにも書いてなかった。
書いてないのが、考古学者の良心だったのかもしれない。

228 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 04:22:41




☆ チン

    ☆ チン  〃  ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      ヽ ___\(\・∀・)< で、巻向4世紀の根拠マダー?
          \_/⊂ ⊂_)_ \_______
        / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/|
      |  ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:| :|
      |           .|/


229 :サガミハラハラ:2009/02/13(金) 07:45:56
巻向は、東の山側につくられた天皇の宮(首都)の城下町のようなもので一般庶民や工人が居住し、
宮人に生活物資や工作物を提供したり、人夫が居住していた街なのです。
崇神天皇の時代から造成されたようであり(その前の開化天皇の宮は奈良市であった)
年代は崇神即位が271年であるから、そのあたりからケイコウ天皇の没年近くであるから340年ごろまでとみられる。
3世紀後半から4世紀前半ということになる。

230 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 08:04:27
>>228
根拠は、だいたい次のように言われている。

まず、須恵器の出現を5世紀中頃とする。布留式土器は、4つほどに分類される
ので、100年程度とみなし、登場したのは4世紀中頃となる。
庄内式土器は、せいぜい二つの形式に分類されるだけなので、期間はそんなに
長くない。
となると、庄内式土器の出現は、4世紀以降となる。

231 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 12:45:57
そうやっていい加減に決めてたのが、
ようやく科学的に理論立てて実年代が語れるようになったということだろ。
「昔は〜だった」とかアホかと。その根拠を聞いてるのに。
また土器の様式変化の年代幅が確定してる訳じゃあるまいし。
土器編年でわかるのはあくまで前後関係。実年代は非常に大雑把にしか分からない。
そもそも須恵器の年代も年輪で裏付けられた訳で、何を言ってるのか、と。

232 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 12:59:01
須恵器出現が5世紀中頃なんて言ってる人、今いるの?

233 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 15:13:30
>>232
その後に「より古い」とされる須恵器が複数発見されて、須恵器は400年頃から
というのが、今の多数説。ただし、「より古い須恵器」でそこまで遡れるかは微妙。

ただし、この説では従前の須恵器と並行する布留式の年代は変わらないので、
白石は須恵器を4C半ばからにしようとしているが、今のところ追随はわずか。

そこまで須恵器を遡上させると、横穴式石室の遡上につながり、5Cの古墳の
編年が大幅に変わりそうだが、初期の須恵器を極端に長くして遡上させれば、
何とかなるというのが、今の遡上説の方向性。

要するに庄内も布留も須恵器も極端に長くして、年代遡上に向かうという方向性は
共通認識と言える。

ただし、この場合でも5C半ばの須恵器と並行する布留式の年代をどうするか
という問題もあるが、この点は触れないことになっている。

234 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 15:40:02
>>233

おまえ、頭悪いな。

年代遡上の逆を言って年代を下らせたからって、
ヤマトで王権が生まれたのは事実なんだから、
仮に箸墓が400年で卑弥呼の墓で無いとしても、
東遷説は成立しないよ。

九州の邪馬台国が、畿内のヤマト王権の傘下に入ったのが400年頃、という結論が生まれるだけ。



235 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 16:49:51
そもそも
「古墳時代の始まりは3世紀末から4世紀初頭」
と言う昔の年代観を支えていた2本柱は

(1)祟神を実在としその古墳も伝承通りとし
  崩年干支から318年頃、4世紀始めの築造とする。
  ただしいきなりあのようなものができるわけも無く
  もう少し古い段階の古墳があったとして
  古墳の出現期を大体3世紀末〜4世紀初頭とする。

…と言う割と常識とされたものが一つ。
それと…

(2)三角をZ群分類。
  最古のT群を240年頃の卑弥呼が魏からもらった鏡とする。
  T〜Wまでを出した椿井大塚を最古旧の古墳として
  3世紀末にWまでをTと一緒に副葬した。

…という小林理論の二つだろ?
(無論、九州説の場合(2)は無いので(1)画根拠と言うことになる)

>>230の言うような事がスタンダードだったってマジですか?

大体古墳時代の始まりを計るに古墳を見ずに
須恵器の出現から逆算って何なんだよそれwwwwwwwwwwww

236 :235:2009/02/13(金) 16:56:55
そもそも>>235で言った小林の理屈は本来年輪年代の登場を待つまでも無く
V群までしか出てこない古墳の出現によって見直されなければならなかった。

(ただ被葬者がWを入手できなかっただけと言う可能性もあるので
 直ちに椿井大塚山より古いとはできないが)

別に年代観の見直しは年輪年代にのみ寄りかかっていたわけではない。
(と言うか年輪年代なんかは単なるきっかけに過ぎなかった?w)



237 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 18:50:00
>>233
>その後に「より古い」とされる須恵器が複数発見されて、須恵器は400年頃から
>というのが、今の多数説。ただし、「より古い須恵器」でそこまで遡れるかは微妙。

ここがよく分からないんだよね。

仮にスエキAが450年、スエキBが400年とする。

はじめスエキAとフル式aが一緒に出土してフル式aは450年て事になった。
フル式bはフル式aよりも古いがいつかは分からない。
その当時スエキとしてはスエキAが最古のスエキ。

その後、スエキAより古いスエキBがみつかっても、
フル式aはスエキAの年代なんだから、
年代の軸は動かないんじゃないの?
仮にスエキBがフル式bと一緒に見つかったら、
年代不詳だったフル式bが400年頃と判明するだけで。

238 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 19:05:31
>221
なんだ、アンチの宣伝するデタラメを信じ込んでるのか。
較正曲線を作るときに古木の年輪は使うだろうが、
そこから較正曲線を作るときのデータそのものは、年輪年代法とはまったく違う手法、原理を使うんだぞ。

もっと勉強してから批判しないと、自分の無知と恥をさらすだけ。
理化学的年代測定という分野そのものの勉強をし直してくることを薦めるよ。

239 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 20:29:07
>【較正曲線を作るとき】に古木の年輪は使うだろうが、
>そこから【較正曲線を作るとき】のデータそのものは、年輪年代法とはまったく違う手

自分で書いてて恥ずかしくないか?

240 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 20:38:41
>>230
おかしい。

実年代推定に、もし年輪やC14といった理化学的手法を用いないのであれば
必ず文献資料(或いはは金石文)とリンクするポイント、定点が必要な筈だ。それが書いてない。

年輪など理化学的手法は「未だ信が置けない」、という主張なら、それはそれで構わないと思うのだ。
しかし、ならば理化学的手法を使わないで、「AD何年頃」との実年代を導くためには必ず
文献・金石文等で示されている「史料年代の定点」を使わないことには、どうしようもない。違うか。
具体的には、漢書の王莽伝の貨泉の記述であったり、武寧王陵墓誌などだが。

そういう「史料年代の定点」を何も示さないまま、

>まず、須恵器の出現を5世紀中頃とする。

とは、恐れ入る。
どこぞの古式須恵器の器壁に「西暦四百五拾年作」と銘が彫ってあった,、とでも言うのか。ww

さあ、もう一度きちんと、「纏向遺跡の実年代は4世紀以降」と決定する確かな根拠を述べてもらおうか。逃げるなよ。

241 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 21:34:37
>>237
より古い須恵器が見つかっても、布留式の年代軸は動かないはずというのは、
そのとおりです。

しかし、遡上説では、この点は黙殺するというのが、>>233の趣旨です。

一方では、「より古い須恵器」だけを極端に古くして、須恵器を4C半ばまで遡上させて、
知らないうちに、布留式の全体も遡上させるというのが、白石などの論法です。


242 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 21:54:45
>>240
人に挙証責任を押し付けておいて、自分は批判するだけというのはおかしい。
それなりに答えているわけだから、そちらも言うべき。

さあ、纏向は何世紀だ。その根拠は何だ。

自分は何も言わず、人に答えさせ、批判するだけというのは公平ではなく、
卑怯なやり方だろう。

243 :235:2009/02/13(金) 21:58:08
正直に言って
>>230の言うように庄内や布留の開始時期を須恵器から遡って求める。

…それが昔の年代観の根拠だったなんて話は
この板でしか見たことが無いんだが…

俺が無知なだけ?





244 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 22:11:23
>>243
土器の年代は、手がかりがないとわからない。要するに定点をどこに求めるか
ということだろうな。

>>238
C14は、放射性炭素の量を測定して経過した年代を決める。そのためには、
最初にどれくらいの放射性炭素があったかがわからなければならない。

しかし、放射性炭素の量はいつもいつも同じではなく、年によって異なる。
年によって異なる放射性炭素から年代を決めるのが較正曲線。
これは、外国では年輪年代で決めているらしい。

ただ、年毎の放射性炭素の量は、国際的な機関で決められているらしいが、
全世界で一律の量となっている。
しかし、これには疑問がある。地域によって異なると考えたほうがいいと
思うのだが。

245 :235:2009/02/13(金) 22:14:01

いつもの東遷説論者の言う事だから、安本センセイから引用かな?
…と思って「邪馬台国の会」で適当に検索したらすぐに出てきたwww

元ネタこれかな?

http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku207.htm

>関川氏の土器についての見解を、もう少し詳しくまとめると、
>須恵器は、だいたい、五世紀のまん中ごろに出現する。
>須恵器のまえの布留式土器は、三つないし四つの型式に分類でき、その長さは、100年を大きく越えることはないとみられる。
>よって、布留式の初現は、四世紀のまん中前後とみられる。
>布留式のまえの庄内式土器は、いくら分けても、せいぜい二型式にしか分類できない。
>したがって、そんなに長い時期とは考えられない。
>よって、庄内式土器の前段階である纒向の石塚がつくられた時期、纒向の1という時代は、三世紀後半までさかのぼれるか否か、疑問である。
>(つまり、四世紀以降であろう)


246 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 22:17:41
寺沢もそういってるんだが。
寺沢の場合は450年じゃなくて400年だが。

247 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 22:20:10
>年毎の放射性炭素の量は、国際的な機関で決められているらしいが、
>全世界で一律の量となっている。
>しかし、これには疑問がある。地域によって異なると考えたほうがいい

地域によってそんなに異なるものなのか?300年も400年も?
今となってはC14で出た数値をとりあえず出してそれを基準に議論した方が建設的
そうすれば地域によっての違いってやつも自然と見えてくるし国際的な機関にも認
められるのでは。
まずは疑わしいから日本では否、じゃ進歩もへったくれもない

248 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 22:20:17
学問に関しては、ネットに流されてるままなら情報弱者になってしまうよ。
ちゃんと本屋とかで最新の専門書読まなきゃ。
Googleで邪馬台国検索したら安本ホームページがトップにくるもんな

249 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 22:20:22
>>245
須恵器の第一人者といわれる田辺昭三氏も同じような年代観だろうな。
布留0を4世紀中頃からとしているらしい。

田辺氏も関川氏も畿内説かな?

250 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 22:27:17
>>247
日本の場合、C14の測定結果はだいたい古くでる。
弥生時代の開始が、紀元前10世紀なんて出るくらいだから。
まあ、疑問を持って当然と思うが。

年によって異なる放射性炭素の量が、同じ年ならば、どこでも同じと考える
のはどんなものかな。
これも検証されたわけではないだろうし。

251 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 22:43:13
>>249
それを言っていた時代を考えろよ

252 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 22:56:26
>>242
そういうことではない。
さかのぼってレス読んでいくと問題の発端は>>204だ。

>どちらにせよ巻向はせいぜい4世紀だし邪馬台国とは関係がない。

邪馬台国所在地は議論があるところだから置いといていいのだが、
巻向の実年代は、こういう書き方ではいかんだろう。これこそ卑怯だ。
なぜ4世紀なのか、彼は説明しなくてはならない。
ところが本人かどうか判らんが、>>230

>まず、須恵器の出現を5世紀中頃とする。

と須恵器についていとも簡単にご託宣を言って、それを庄内式土器年代推定の出発点としてる。
いったい須恵器の出現が5世紀中頃とするその実年代は、どうやって導かれるのだ?
もし須恵器の出現を5世紀中頃ではなく400年頃とすれば、どうなる?
500年頃とすれば、どうなる?
このポイントになる年代が確定しないと、庄内式土器の年代だってグラグラ動く。
そこは理解できるだろう。
それゆえ理化学的方法抜きに、考古の実年代を論じるには、どうしての文献史学の助けが必要なのだ!
それを>>230は理解できていない。だから批判し再説を求めたまでだ。

253 :252訂正:2009/02/13(金) 23:00:22
× どうしての文献史学の助けが必要 → 〇 どうしても文献史学の助けが必要

254 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 23:59:02
>>252
5C中ごろの土器は、その頃の天皇稜古墳の埴輪や、5C末葉との違いなどから
ほぼ確実に決めることができる。

5C中ごろとされる須恵器は、今も昔も基本的には同じで、より古い須恵器の発見で
須恵器の開始時期が古くなったというのが事実。

まあ年代遡上が限界点に達した今では5C中ごろとされてきた古墳や須恵器を5C初頭
まで古く使用とする方向性があるのも事実だが、5C以降を中心にやっている学者に
してみれば年代遡上の連中の狂奔は目に余ることだよなあ。


255 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:03:14
須恵器の年代についてもいろいろあるわけだから、庄内式土器の年代も
なかなか難しいのだろう。

庄内期の開始時期は大きな問題で、要するに200年頃ならば、卑弥呼の前となる。
大乱の終了、卑弥呼の共立を西暦180年頃とすれば、若干ずれるが、まあ
許容範囲としよう。
しかし、西暦300年ならば、卑弥呼のかなり後になる。

つまり、東遷が可能か、不可能かという問題に突き当たる。
根本はそこなんだろう。

土器の年代が先にあるわけではなく、これらの思惑の方が先にあるのだろう。
土器の年代自体はなかなか結論が出ないと思う。

256 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:08:20
>244
>これは、外国では年輪年代で決めているらしい。
の行が間違っている。

オマイサンの目にしてる情報源、参考文献の著者が無知なだけってことか。

>ただ、年毎の放射性炭素の量は、国際的な機関で決められているらしいが、
>全世界で一律の量となっている。
>しかし、これには疑問がある。地域によって異なると考えたほうがいいと 思うのだが。

東西方向には、流量の大きい風が吹いてるので、数ヶ月以内には一様化してるだろう。
測定試料で地域差が出るほどの期間にわたって、大きな濃度差が続くことはないだろ。

南北間の風の移動は、もっとゆるやかだ。
特に赤道をはさんでの、赤道越えの移動は少ないようで、南北間には少なからぬ差があるようだがな。

>250
>日本の場合、C14の測定結果はだいたい古くでる。
なんてのも、デタラメ。
単に、従来の年代法よりも古い数値が出るという傾向、という意味にすぎない文章を、読者が勘違いしただけだろ。

>年によって異なる放射性炭素の量が、同じ年ならば、どこでも同じと考えるのはどんなものかな。
熱圏だか電離圏だか、はたまた成層圏だか知らないが、
はるか高空で生成されて自然拡散で落ちてくるC14の濃度に、大きな地域差が出るためには、
それ相応の特殊事情が必要だぞ。
つまり、C14を含まないCO2源が近隣地域に存在しているような特殊状況があるか、
もしくは、広域的な大気の流れから遮断され孤立するような特殊状況だな。



257 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:09:03
年代遡上の連中は、初期の須恵器を極端に長くして、かつ庄内や布留を細分化して、
それぞれの型式を長期化させている。

しかし、庄内は流通地域が狭い上に、畿内の一部地域でしか変遷は確認できない。
庄内を長期化すると、その矛盾が露呈してくる。

布留にしても布留0なんて一部の地域だけの話でこれを長くすると、布留0のない
地域との整合性が取れなくなる。

布留も全体を遡上させたが、かつては5C半ばとされた布留とのつながりは見捨てている。

この状況で庄内1は〇〇年とか布留0は〇〇年と断言している連中は、一体何を
考えているのかワケが分からん。狂気を出すことにより、反論を封じる戦法だろうか?


258 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:16:24
東遷説信者の中の人も大変だなw

259 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:16:48
>>256
C14の世界均一存在なんて、証明されざる仮説だろ。
実際には、台風一過の沿岸部でC14の濃度が極端に下がったとか、
海洋に近い沿岸部で濃度の低いことは既に公知の事実。

現実にも海洋面積の広い南半球は北半球とは区分した基準となった。
日本は海洋に囲まれている上に、農地は沿岸部に集中するということで
弥生の農地のC14が古くで易いのは、簡単な理屈だろう。

C14濃度は2%低下しただけで、約100年のずれになる。
「地域偏在がないこと」を前提にした理論は危ういといわざるを得ない。

260 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:18:43
 「九州の邪馬台国が東遷してマキムクに都を作ったのだ。
庄内式土器も4世紀の九州発祥なのだ。」
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     \ u.` ⌒´      /
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     \    u   .` ⌒/
    ノ           \
  /´               ヽ


261 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:23:59
纒向石塚は、墳丘の土器は庄内をほとんど含まないとされる。
それで、石野は石塚の築造は庄内の初期の頃とした。
(まあ再度の検証をしないと後世に禍根を残すだろうが)

しかし、石塚の周濠最下層からは、布留0が多数出土しており、埋葬された
祭祀に布留0が使われ、これらが落ち込んでいると考えられる。

つまり、石塚の築造の頃に庄内が始まり、石塚の祭祀の頃に布留0になっており、
(石塚の地域での)庄内の期間は2、30年と言える。
実際にも年代遡上前の庄内式の存続期間に対する見方はこの程度であった。

262 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:30:07
>>254
>5C中ごろの土器は、その頃の天皇稜古墳の埴輪や、5C末葉との違いなどから
>ほぼ確実に決めることができる。

あなたも、年輪やC14などの理化学的方法を採らないやり方で、考古学の実年代が
どうやって求められるか、おそらく全く解ってないようだ。

何度も言うが、史料、金石文・木簡などを扱う文献史学のお世話にならざるを得ないんだよ!

5世紀中頃の天皇陵古墳というのを一つ挙げてみてくれ。
そしてどういう根拠でその古墳に「5世紀中頃」と実年代を与えられるのか、言ってくれ。

263 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:30:09
>>254
須恵器の開始時期が古くなるとなんで布留の年代まで古くなるのかをきちんと筋道だてて話してほしいんだけどななぁ。


264 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:32:36
>>262
そりゃ文献資料との整合性だろ。
5Cになれば、朝鮮との関係で年代に確実性が出てくるってのもある。

その上で、5C中ごろの土器や埴輪や副葬品を決めていく。


265 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:35:33
>>263
須恵器の開始時期が古くなっても、布留の年代軸は変わらないだろ。

だから、白石のように初期の須恵器全体を古くする方向性が出ている。
そうしないと布留の遡上ができないから。

その流れのなかで5C半ばの古墳を、5C前葉に移すという作業が進んでいる。

266 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:47:25
>>264
>5Cになれば、朝鮮との関係で年代に確実性が出てくるってのもある。

具体例は?
一つでいいのだ。挙げてみよ。
何か四百何十何年と、実年代がほぼ確実に決められる5Cの古墳があるのか?
その朝鮮側史料とは?

267 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:48:14
>259
たしかに海草や海棲生物のC14濃度が低いことは事実だが...
樹木中のC14には影響しないだろ。

>現実にも海洋面積の広い南半球は北半球とは区分した基準となった。
南半球に海が多いのが原因ってわけじゃないぞ。原因と結果を理解するまで勉強しなおす必要があるな。

>日本は海洋に囲まれている上に、農地は沿岸部に集中するということで

偏西風の風上側は、日本海とか東シナ海といった、あまり広大ではない海(内海レベルか「地中海」レベルかワカランが)ぐらいで、
大洋と違って大きな影響はない。

268 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:50:53
>264, >266
日本の古墳には墓誌とか墓碑が伴わないから、
文献だけで年代を決定できる古墳はないだろ?

269 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 01:17:25
>>266
ピンポイントで決められるものなんて無いだろ。

朝鮮・中国の資料との関係から、応神〜仁徳が5C前葉、
履中〜反正〜允恭が5C半、雄略が470〜480頃ってのは、
ほぼ定説だろう。


270 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 01:20:00
>>267
>南半球に海が多いのが原因ってわけじゃないぞ。

じゃあ何が原因なのか、答えてくれ。


271 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 02:33:57
しかし朝鮮からの移民が畿内に大量に入ってきた時期を
無視できないだろ。結局大和朝廷の急激な発展もそこにいきつく。

高句麗=朝鮮のイメージで毛嫌いするのはわかるが
実際、朝鮮からの技術者の移民は日本の相当な場所にいたと
されるし、文化にも相当な影響をもたらしたと見て当然。ここを無視したら
君らの残り少ない一生をかけてもわからないよ。

272 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 02:40:29
>269
だが、どの天皇の陵墓はどれで... ってのも、実は決める手がかりがない。

厳密に決めれるのは、古墳相互の前後関係だけだろ。

だいたいこれぐらいの年代だから〜〜天皇の陵墓かもしれん、って程度しか決められないのが実情。

その際に文献を使ってるわけ。

ということはだ、そこで使ってる「だいたいこれぐらいの年代」を決めるには、文献資料は役立たないという意味でもある。

273 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 03:56:59
まあこれも東遷説論者にかかったら年代遡上を目論む白石一派に組する
悪の組織の陰謀って事になるんだろうがw

京都市宇治市街遺跡の調査で出土の
大阪府陶邑古窯跡群最古の形式である 栂232型形式 の特徴を持つ
須恵器と共伴した木製品の年代が年輪年代によって
389年伐採と言う数字が出ている。

須恵器生産開始が4世紀末の可能性が出てきたと言うwwwwww

そもそも須恵器の生産開始時期で
土師器の布留の生産開始時期を計るというのがワケワカラン話だが
須恵器が土師器に全て取って代わったわけでもあるまいし…

 

        

274 :273:2009/02/14(土) 04:00:05
誤)京都市宇治市街
 ↓
正)京都府宇治市街

275 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 04:41:31
勝山古墳の場合は、出土した木材が、年輪年代法で203〜211年に伐採されたと
いうことになったんじゃなかったかな。ところが出てきた土器は布留0式。
ちょっとねえ。

ところで、庄内期と布留期の間には大きな変化があるような気がする。

日本書紀によると、神倭伊波礼毘古が大和にやってきたとき、そこにはすでに
饒速日命がいた。饒速日命も天神の子であり、高天原からやってきた。
 となっている。

饒速日命と庄内期を関連付け、伊波礼毘古(神武天皇)を布留期と関連付けると
うまく説明できるような気がするのだが。

276 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 05:12:45
>>275
築造埋葬後も継続的な祭祀が行われていた…でダメかな?

277 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 07:50:00
東遷説の人は、
庄内期には、まだ古墳時代は始まってないという趣旨なの?



278 :サガミハラハラ:2009/02/14(土) 07:54:16
勝山古墳の出土木材であるが、あれは何かの溶剤を再利用する際にできた破片であり、それが何かの拍子(洪水や子供が遊んで池に放り込んだ等)で池の中にはいりこんだものであるから、
203〜211年という伐採年は古墳築造とはなんの関係もございません。

279 :サガミハラハラ:2009/02/14(土) 07:55:56
上記の溶剤は用材のあやまりです。

280 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 08:02:38
>>277の質問に加えて、

庄内期が古墳時代の始まりという根拠は、どこから求められるの?

281 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 08:08:13
>>275
>203〜211年に伐採されたということ

木材が伐採されたのがそのころで古墳の築造はもちょっと後だろうって認識で2,3年前の
過去スレ読むと大体の人間がその認識で一致してるんだけど

282 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 08:23:09
>>281
「もちょっと」をどれくらい取るかが問題で、要するにいつでも良いと
言うことなのかな。意地の悪い言い方をすれば、好きな時代に持って行ける。

年輪年代は都合が良いというか、伐採した時の年を採用したり、そのあとの
都合の良いときを採用したり出来る。
逆に言えば、全く当てにならないとも言えるのだが。

283 :うましか:2009/02/14(土) 08:59:36
>>280
> >>277の質問に加えて、
> 庄内期が古墳時代の始まりという根拠は、どこから求められるの?

「根拠」と言うよりも「定義」の話では?
庄内式土器が出現したころの墳丘墓を「古墳」と呼んで、その時代を「古墳時代」に含める。
纏向の「古墳」を見て、それが前代の弥生墳丘墓(畿内だと方形周溝墓)とは隔絶しており、
後代の定型化古墳に近い、そんな感覚で決めた「定義」なのかなと思いますが。
あくまでも用語用法の話ですから、その使われ方に注意していれば問題は無いと思います。
これは12世紀末の平氏政権時代を武家政権に含めるかどうかとかと同じことです。

284 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 09:30:13
勝山古墳の木材については、出土状況などから、当初大きな話題にはなったが、いろんな遺物遺跡の年代の決定には殆ど使われていない状況ですよ。

285 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 10:16:46
寺沢編年では、庄内期を弥生時代と古墳時代の過度期みたいに扱っているね。

286 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 10:35:22
>>285
訂正
過度期ではなくて、過渡期。

287 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 10:38:56
ま、実際にそうだから弥生時代末期にするか
古墳時代初期にするかでもめてるわけだが。

288 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 10:57:53
>>273
木製品は伐採してから使用までの期間が不明だわな。
年輪年代がいまだに一度も検証されていないブラックボックスってのもある。


289 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 13:16:34
>>283

方形周溝墓(弥生墳丘墓)が、庄内期ということですよね?
前方後円墳は、布留期から、というのが、「事実」ということでしょうか?




290 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 13:50:49
東遷説のい人は、庄内式土器を九州発祥として、
それが畿内に持ち込まれたから、それを東遷の証拠としてましたよね?

庄内期が、まだ弥生時代末なら、
畿内では方形周溝墓の時代。
一方、九州の弥生時代末の墓制は、カメ棺ですが、
東遷したのに、どうしてカメ棺の墓制は引き継がれなかったのですか?



291 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 13:58:46
東遷説の人は、副葬品(剣・鏡・玉)が九州から畿内に転移したといいますが、
それは土器と同じく物品でしかありません。

墓制は祭祀形態・宗教(卑弥呼の権威)と直結するものですから、
東遷したのに墓制が移動しないのはおかしな話です。

「東遷したが、宗教はまったく変わった」とするなら、
東遷説の中でアマテラスを卑弥呼とみなすことは出来ないはずです。




292 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 15:30:26
>273
土器形式の多くについては、従来の編年からおおむね一律に遡上する傾向にあるが、
一部の形式については、他の形式と平行しつつ長期間にわたって使われたと考えられるようになったものもある。
つまり「大阪府陶邑古窯跡群最古の形式である 栂232型形式」ってのが、
「最古の形式」ではなくなる可能性もある。ので、

その年代が事実だからといって、「須恵器生産開始が4世紀末」となるわけではない。
あくまでも「可能性のひとつ」としか言えないのが現状だろ。

293 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 15:33:44
年代遡上説の人は、庄内が4世紀以後だとしてるわけですが、
その場合、九州から出土する庄内も4世紀以後であり、
九州から出土する庄内以前の時期(3世紀)の大きな墳丘墓がない、
つまり、卑弥呼の墓がいまだに特定できていない、ということは認めているわけですか?



294 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 15:38:32
>>293
×年代遡上説の人は、
○年代遡上を批判する人は、

295 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 15:40:05
ハァ?

296 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 15:50:04
ハァ?
じゃないですよ。

九州の庄内期を4世紀と考えてるわけでしょ?

297 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 16:08:16
あれ?もしかしてもう論破しちゃった?



298 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 16:31:02
>>290
>庄内式土器を九州発祥…

こんな妄想まともに取り上げる必要ないよ。
安本が土器型式について全く無知なのは大学考古学科1回生でも、
いや中学校考古学クラブの子ども達でも丸分かりなんだからさ。
何もレスしなくていいよもう。
一人か二人かな、安本に洗脳されてしまった哀れな馬鹿がシツコク書き込んでるけど
もう無視しようや。
もっと本を読んだり博物館や埋文C行って勉強すりゃいいのに
それもせず盛大な恥を曝しているという自覚がないんだからもはや直す薬がないね。

299 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 16:37:23
奈良の偏差値35の馬鹿大の奴らが必死で畿内説なんか
いって考古学語ってるからな

何かあるとすぐ「それ何?」「嘘だ」

さすが馬鹿の集まり畿内説www 

300 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 16:40:35
素朴な ギ ・ モ ・ ン

年代はおいといても
東遷説論者は纏向の何処に(九州邪馬台国の)東遷の痕跡を認めているんだろうか?

まあ年代で纏向が邪馬台国の時代に既にあったとなったら
その場で即死になるんでとりあえずそっちの方に必死になるのは分かるがwwww

301 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 17:08:18
>>298
まあ、畿内の庄内は古墳時代が中心で、九州の庄内は弥生時代が中心というのは、
無視したらダメなんじゃね。普通に考えたら九州の方が先だよね。
吉野ヶ里のように環濠集落の末期でも出ている。
都合の悪いものは無視という悪癖は畿内説の専売特許。

遡上説は、庄内式を大和型と河内型に分けるのも止めちゃったみたいだが、何でかな?
九州と大和は大和型だったはずだよね。
最近は出土状況をそのまま報告して良いのかに悩む人も居そうだね。

ただし、安本のように、九州の庄内を200年頃まで遡上させるのは誤り。
九州の庄内は300年頃に開始で、畿内の庄内は310〜320年頃に開始だろう。


302 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 17:10:35
>>300
東遷説をとる場合には、橿原じゃないかな。

畿内の連中も意固地にならずに、伝承のある場所を掘ればいいのに。


303 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 17:15:03
>>302

その橿原に何か東遷の痕跡なんかあったっけ?w



304 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 17:29:01
>>301
>まあ、畿内の庄内は古墳時代が中心で、九州の庄内は弥生時代が中心というのは、

ちょっとまってください。
古墳時代かどうかは、「言葉の定義」の問題ですよ。

>>283の人によれば、
畿内の庄内は古墳時代といっても、弥生墳丘墓・方形周溝墓の時代を含めて
古墳時代と言う時もあるって事でしょ。

つまり、実質的には、
九州の庄内=畿内の庄内=同時代
ということでしょう。

九州の庄内を弥生時代末としたり、畿内の庄内を古墳時代初頭としたりするのは、
とい言葉の定義の問題です。
実年代とまぜこぜにしないでください。




305 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 17:29:05
>>303
「纒向はまだ5%しか掘っていない」が口癖のくせにw

橿原も掘れば出るだろ。出るまで掘ればな。


306 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 17:33:53
>>301

九州の庄内式土器が300年だとするなら、
卑弥呼はカメ棺に埋葬されたと考えるべきではないのですか?

円墳とした魏志倭人伝と矛盾するのではないですか?


307 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 17:34:50
>>305
少なくとも現行、纏向はおろか他の大和の地に東遷の痕跡を見出すことはできない

…って事でいいんだな?w



308 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 17:39:21
>>307

マキムクから出る木製の鋤の形状が銅矛に似てるって気がしない?

だからって東遷説じゃないよ。むしろ逆。
東遷したなら、本物の銅矛を持ち込むだろうからね。


309 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 17:51:14
>>308
まあ金属製の武器を模した木製品は何点か出てるな。

祭祀用か?威嚇用のフェイク?まさか子供の玩具って事はないだろうがwwww

310 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 18:11:23
何でもいいから、スエキ生産の開始年代が上がると、
何でフルや庄内の年代が古くなるのか、早く説明してほしい。


311 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 18:40:53
>>306
北部九州では全部が甕棺だったわけじゃあない。
地域によって箱式石棺も並行している。

魏志で円墳というのは、早計ですね。
魏志は「塚」とあるので、吉野ヶ里の北墳丘墓や平原レベルの
墳墓も候補になります。

312 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 18:52:52
>>311
>地域によって箱式石棺も並行している。

じゃあ、あるていど邪馬台国の位置が特定できますね。

カメ棺と平行していた箱式石棺を使った地域とはどことどこですか?
平原と、他は?



313 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 19:14:54
>>312
馬鹿。平原は木棺。

314 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 19:18:45
>>312
「棺あってカクなし」だから、必ずしも甕棺は除外しないだろ。
あれも棺だから。


315 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 19:27:41
>>301
都合の悪いことは勉強しないという九州説の悪癖ですね

316 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 19:41:32
>>314
甕棺は中国では珍しいから「焼き物の棺である」旨きちんと書いたと思う。
箱式石棺は構造物と言うべきで「棺」とは認識しないだろう。
結局当時の中国の認識では「有棺無槨」の棺とはまず木棺と思われ。

317 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 20:27:49
>>308
鋤については確か石野が詳しく編年していて、
オオヤマトだけでも弥生後期から古墳時代まで変遷があるぞ。
一言で言えば、固い土から柔らかい土を扱うことへ対応する変化。

>>219
> 大半の機関が99.9%まで一致する測定値を出す。

「99.9%まで一致する測定値」って一体何のことだ?
測定値の何が一致するの? 秒単位で一致するわけ?
測定により提示される区間があってそれが成立する仮説検定の話だよね?
99.9って有意水準0.001のことでしょ。確率とは違うよね?
「まで」の使い方も意味が分からないし。

統計の分からない人間の議論は粗雑だから困る。

318 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 21:15:33
>>316

ホケノでもいいんだね。


319 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 22:59:11
>>302
橿原から何か出たら、記紀の記述通りということで、記紀の信頼性が高くなる。
神武東征まで認めざるを得なくなるということかな?

320 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 23:03:58
神武東征は紀元前660年だから、橿原から何か出たら記紀の信憑性が無くなるだけだよ。


321 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 23:18:25
つうか東遷説論者は橿原他大和から何か出るのを夢想する前に

九州の邪馬台国探そうよw



322 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/14(土) 23:21:00
倍暦計算で紀元前660年の紀の内容は、実際はもっと後代だ。
心配はないだろう。

323 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 23:23:54
記紀の信頼性=天皇家の存在価値。

記紀が嘘なら天皇全員追い出せってことだよな。
で、海部家を天皇にするんだろwww

そういうことなんだがwww  


324 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 23:57:09
記紀の神武東征を読んだことないだろ、ここの人間はww

神武は日向から宇佐・安芸・吉備と何年もかけて旅したんだよ。
民族大移動ではないし、文化が移動してるわけでもない。
本当に頭が悪すぎる。

325 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 00:16:49
しかも、日向は北九州の文化圏とは分断されてたしな。
先進地域でもなんでもない、ただの田舎。

326 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 01:56:08
ただの田舎といっても極上の扇状地だわな。初期稲作には。

327 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 08:19:20
日向には鉄も無いから、それで繁栄してたというなら畿内も繁栄してたろう。


328 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 11:43:21
九州邪馬台国論者の人って 根底には郷土愛とかその辺からスタートしてるのかな?
自分と先祖が生まれ育った美しい土地を誇りに思うってのはよく分かる
もちろんそれと歴史、考古学 と混同して同列で語るってのは間違った発想だよ。

どうしてもわが故郷が邪馬台国と主張するなら その素晴らしい「俺の邪馬台国」の写真でもこのスレでアップしてほしい
そのほうが遥かに楽しいし、平和だと思う。

329 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 12:19:21
最近、環境考古学云々ってタイトルの本を読んだが、

明らかに石器じゃなく鉄刃によって切断されたことが確実な古人骨(縄文晩期後半)が
C14年代で3200年前---BC1200年頃と判定されてるってことだが、
これってスレ的にはどう扱われるのかね?

330 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 19:44:45
>>129
>銅鐸の例もあるしねえ。
>割ることに意味があるような気がするけどねえ。

破鏡と銅鐸破片とは、全く違う意図によるものだと思う。


>>130
>銅鐸が割られてた例はほとんど無いだろ。

いや、かなりある。三十いくつだったか。
纏向も発見地の一つ。
ていうか、銅鐸の破片が見つかった遺跡は、拠点集落的な重要遺跡が案外多い。

331 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 21:42:42
大和で後期銅鐸が見つからないのは、破砕して再利用したからと思われる。
青銅祭器から決別する時に、埋納するタイプと破壊して再利用するタイプに分かれたのだろう

332 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 23:07:06
>>328
>九州邪馬台国論者の人って 根底には郷土愛とかその辺からスタートしてるのかな?
>自分と先祖が生まれ育った美しい土地を誇りに思うってのはよく分かる
>もちろんそれと歴史、考古学 と混同して同列で語るってのは間違った発想だよ。

そりゃ、邪馬台国畿内論者も全く同じだよw
そもそも「邪馬台国」なんて言葉を使って、弥生時代の歴史を語る奴は、
どんな大学者も含めて一人残らず全員、
ただの「郷土愛脳内歴史ロマン論者」に過ぎん。おまえさんも含めてw
神武東征論者が、「オデュッセイアのアイアイア島の位置を現実世界に比定している馬鹿」なら、
邪馬台国論者は、「ヘロドトスのアマゾネス国の位置を現実世界に比定している阿呆」に過ぎん。


333 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 23:13:02
郷土愛から邪馬台国を九州にするまでは許せるが、
奈良に東遷して大和王権になって日本支配したという考え方は厚かましすぎる。

吉備や丹波や東海に喧嘩売ってるのかと。

334 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 23:31:02
邪馬台国はよそでやれ

335 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 23:31:59
>>333
そういう文句は記紀に言えww

336 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 23:53:50
記紀には、神武東征は紀元前とありますから、文句は無いよ。

337 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 00:05:16
>>333
郷土愛って、それは畿内説のためにあるようなもの。
なんたって、以前は、東大対京大の論争と、言われていたのだから。

338 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 00:30:37
>>126-129>>330
破鏡の意味を考える場合、次のような銅鏡出土状況による分類も押さえておきたい。

(1)完形で出土
(2)破片で出土。しかし接合すればほぼ完形。
(3)破片で出土。かなり接合できる鏡片あるが、完形にはならず不足分がある。
(4)小破片1片、もしくはわずか数片の出土。完形にはほど遠く、全体の姿はよくわからない。

とくに(4)の場合、破断面の処理具合(メントリ)や、穿孔の有無も大事な考察対象だ。
また墓の副葬品でなく、住居から出土する例もあるので要注意。

纏向のホケノ山古墳出土鏡の場合、画文帯同向式神獣鏡は(2)だった。
内行花文鏡、および半肉彫表現の鏡は、いずれも(4)。

(3)の例としては、有名な平原1号墓の超大型内行花文鏡など。

339 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 13:22:24
郷土愛というより、学者が、自分が関わった古墳を重要視し過ぎてしまうということだろう。
近藤の吉備、柳田の筑紫、北條の阿波など。
ただそれでも行き過ぎた大和中心史観が是正されたという意味では良かったのかもしれない。

340 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 15:39:38
前方後円墳なんて、百年くらいで全国に一斉に拡がったことからも分かるように、
専門の技術者集団がいて(おそらく渡来)、そいつらが各地のオウに雇われて順次設計、建築していったというのが真相だろう。
古墳の一部の要素を採って、「これはどこの影響だ」とか論じる意味があるのだろうか。

341 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 16:36:42
>>340
>古墳の一部の要素を採って、「これはどこの影響だ」とか論じる意味があるのだろうか。

おおいにある、としか答えようがないな

>専門の技術者集団がいて(おそらく渡来)、そいつらが各地のオウに雇われて順次設計、建築していったというのが真相だろう。

ひとつの仮説でしかないが、それが本当に真相なのかどうか
各地の古墳の特徴をよくみて、類似や相違を検討するところから出発するべきだな
きみのは本末転倒した考えじゃないかい?

342 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 17:18:17
>>341
たとえば箸墓に吉備の影響があるから吉備が東遷したとか無茶なのもあるし、
阿波の石積墓の影響が強いから、東瀬戸内地域がマキムクを主導したとか、非常に危うい議論。
技術は伝播するもの。あくまで人や物の往来があった程度の議論で押さえるべき。

343 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 18:22:27
なんにせよ、九州の痕跡はないけどね。

344 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 18:26:33
前方後円墳体制の成立プロセスは、
庄内〜布留0に一度各地から大和に葬送儀礼技術の集中伝播があって。
大和で前方後円墳が確立した後は、今度は一転ベクトルが逆向きになり、
一斉に各地に大和モデルが伝播する。
集中から拡散へ。
この現象をどう説明するか、だ。

345 :344:2009/02/16(月) 18:44:20
集中から拡散に転換する理由を考察すれば以下の通りになる。

各地から葬送技術者が呼ばれヤマト大王の葬儀が盛大に行われた。
そこで確立された前方後円墳の祭りが各地に伝播したということ。

346 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 20:38:10
>>345
各地から葬送技術者を呼び寄せる段階で既にヤマトに権力・権威が存在しているなw

それが烏賊にして形成されたかを私は知りたいのだ!www

まあ前方後円墳の拡散と言うことで言えば所謂「纏向型」といわれている物の分布を見れば
政治戦略的意思は見られると思う。

少なくともヤマトを中心としグラデーションを描くように広がっているわけじゃない。



347 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 12:27:22
そう、すでに大和に権威が存在したということ。
そこから始めないと。
マキムク型で突然王権が誕生したなんて議論はナンセンス。東遷説の名残りに過ぎない。

348 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 08:55:43
>>342
まあ無茶な議論が多いのは事実だが、
それは古代史の常で無視するしかない。

ただ王墓の変遷は、婚姻関係も含めた王族の変遷にも繋がっているわけで、
「人や物の往来があった」で片付ける方が無理があると思う。

349 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 09:02:56
>>346
そういう意味では九州はやっぱり特異だね。
初期の前方後円墳に影響は与えてないけど、
後に前方後円墳を作ってる。

九州の話になると東征説のことばかりになるものつまらない。
九州、東海と初期大和政権の関係は謎が多い。
特に東海はあんなに近いのに、壬申の乱の頃になっても、
棲み分けが行われているのは何故か。
マキムクには東海の影響が比較的濃いのに。

350 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 16:07:41
いや壬申の乱どころか戦国時代まで、西日本と東日本は関が原で勢力図が分かれてたんだよ。

マキムクの頃は東海(尾張氏・天火明命・天照大神系)が奈良に進出して天下を取ってたが、
神功皇后から壬申の乱までは、淀川水系・近江系の豪族(息長氏系含む)が天下をとってた。
壬申の乱は、東海勢力が返り咲いたことで、あらためて伊勢の天照大神を皇祖神としたんだね。

まあ、九州はずっと蚊帳の外だったわけだが。




351 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 16:12:06
奈良というのは、大阪・京都よりも伊勢・東海と関係が深いんだよ。
近隣に住んでないと感覚が掴めないだろうけどね。
大阪・京都と奈良は全然気質が違うから。

352 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 16:52:53
>>351
伊勢・東海って並べるって事は、
尾張も大阪京都よりも奈良と関係深いって言ってるって事?
さすがにそれはない。いくら生駒山あっても近いから。
伊勢は畿内だけど、尾張は違う。川の向こうだから。
ただマキムクの時代は伊勢、尾張はかなり一体化してるね。
舟を使ってたんだろうね。

353 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 18:40:57
>>348
「王墓の変遷」ていうのと、「古墳の一部分の要素がどこ由来か」ていうのはまったく違う。
阿蘇のピンク石を使ってるからと東遷説を言う人との違いは?

354 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 20:26:41
>>352

マキムクから出る東海系土器は、尾張は含まれてないの?


355 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 20:30:00
>>351
奈良と伊勢の結びつき…

奈良の近鉄のあちこちの駅で伊勢の名物「赤福もち」を売っているということですね、わかります。

356 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 21:08:36
>>353
「王墓の変遷」∋「古墳の一部分の要素がどこ由来か」じゃねーの?

> 阿蘇のピンク石を使ってるからと東遷説を言う人との違いは?

これ言いたいだけだろw

357 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 22:26:56
>>355

いや、冗談じゃなくて、人々の結びつきというのはそういうことだよ。
結びつき(往来)があるから、何億もかけて鉄道が敷かれたわけだし。


358 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 22:40:48
近鉄の路線図を見れば、そのままマキムク時代からの人の往来の歴史が反映されてるよ。
人の往来があるところにムラがあり、宿場ができ、交通機関建設の要請が生まれたんだよ。


359 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 22:52:24
人の往来ということなら鉄道と歩きはかなり違うぞ。
物流なら亀山、能褒野方面は水運と鉄道で近いものがあるけどな。
江戸時代に人の往来が盛んだった山道で、今は登山地図にも乗ってない道もあるしな。

360 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 23:00:22


というか、奈良と東海の関係を否定したいわけ?





361 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 23:33:11
質問です。纏向からは伊都国や北九州の奴国なんかと関係が深い遺物、
例えば土器なんかたくさん出ているんですか?纏向が邪馬台国だったら
特に伊都国と交流が活発だったから相当数の関連物があると思うのですが?

362 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 23:52:12
聞きかじった話だと、九州の人は大阪で足止めされてヤマトには入れてもらえなかったようです。

363 :日本@名無史さん:2009/02/18(水) 23:56:17
そう言えば日本の歴史を俯瞰すれば
京から東国へ落ち延びる時には
大抵吉野を経由して…ってパターンだよなw

364 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 00:23:44
>>360
アホっぽいですね。

365 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 01:10:34
>>356
王墓の変遷てのは同一地域内で語られるべきもの。
いわゆる造墓集団ってやつだ。
墓制の一部分の要素で語るのとは本質的に違う。
特に各地の葬送儀礼のパッチワークで急造された前方後円墳なら尚更。

東遷説などが持て囃された時代、大和の古墳の外来性、それ以前との隔絶性が
やたらとクローズアップされたことがあったが、その時の流行にいつまでも
流されるのはどうかと思う。

366 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 01:15:19
大和と東海の結びつきは銅鐸時代からで、かなり親密だったことは間違いない。
マキムク成立に東海勢力が大きく関与したのもそう。

しかしそれでも、大阪・京都より名古屋との結びつきが強いは言い過ぎだろ。

367 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 07:23:36
>>365
> 王墓の変遷てのは同一地域内で語られるべきもの。

アホかよ。


368 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 07:53:33
>>363

そうだよ。
吉野から迂回して鈴鹿山脈を東へ抜ける。

なぜ北から東国へ行けないかというと、北方の関が原は近江・美濃が押さえてる。
美濃は東山道だが、
尾張は東海道で伊勢の勢力圏内だよ。
ちゃんと区別してますか?


369 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 11:50:37
>>368
> 吉野から迂回して鈴鹿山脈を東へ抜ける。

吉野行かなくても鈴鹿山脈南端は山城からでも抜けられるが?
東海道がその経路なんだけど。オオヤマトを経由する必要すらない。
吉野は通過点以上の意味、目的があって現れてる。

370 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 12:48:25
吉野から伊勢に抜けるってどういう経路をとるの?
宇陀まで戻るんじゃ意味ないよね。
そのまま東に山越えするのかな。

371 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 13:39:20
>>369
>吉野行かなくても鈴鹿山脈南端は山城からでも抜けられるが?

山城から行くルートって、どこを経由してどこを目的地にするの?

>>370
吉野から迂回ってかいてあるだろ?
迂回して宇陀から東に行くんだよ。
>>363には「京から東国へ落ち延びる時には 」という前提がついてるだろ?
平時なら直で宇陀から東国へ行けばいい。





372 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 14:13:40
>>350
逆だよ
蚊帳の外だったのは近畿東海の方
当時の東アジアの情勢から考えると鄙もいい所。これは出土物を見ても明らか
日本国内のみ考えると近畿東海を中心と言いたい気持ちも分かるけどね
独自の文化が育っていたと考えた方が自然

373 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 14:36:39
>>371
亀山(能褒野)と伊賀の間が鈴鹿山脈の南端。
亀山は山城国分寺のほぼ真東。
だから甲賀か伊賀を通っていく。
甲賀経由だと東海道と同じで、鈴鹿峠越えになる。
地理的には宇陀に行く必要は全くない。
一旦吉野に行くのは故事に習った吉野詣。

ちなみに大石内蔵助は、鈴鹿山脈の真っ只中の
武平峠越えの道、現在の鈴鹿スカイライン、を、
京都と江戸の往来に利用していた。




374 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 15:33:28
>>373

亀山を通ると、伊勢までいくのにずいぶん遠回りになるけどそれでいいんだね?

375 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 16:13:37
>>371
>吉野から迂回ってかいてあるだろ?
>迂回して宇陀から東に行くんだよ。

宇陀って桜井のすぐそばだから、迂回の意味なくね?

376 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 16:16:28
>>375

日本書紀くらい読んできてください。あなたの家庭教師じゃあありませんよ。


377 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 16:25:40

纏向遺跡の頃(3世紀?)の交通を議論してるんだ。
日本書紀の壬申の乱(7世紀)の記述はほとんど参考にならんだろ。

378 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 16:31:09
じゃあ、話を戻すよ。

纏向遺跡の頃、東海系土器がわんさか出てきている。
この土器がもたらされたルートといえば、宇陀を経由して伊勢や津へ行く、
近鉄ラインが現実的。

亀山では、伊勢へ行くのに遠回りになる。
もっとも、亀山を経由して尾張に行くというなら近道だが、
尾張の影響が伊勢より強いなどとはどこのレスにも書いてないからね。



379 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 17:08:43
>>374
伊勢=お伊勢さんじゃないだろ。
能褒野は伊勢に含まれてるよ。

380 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 17:34:28
>>378
お伊勢さんに至るのは伊勢本街道、
松坂に至る初瀬街道、津に至る伊賀街道。

伊賀街道は笠取山と経が峰の間を抜けていて、
経が峰の北が能褒野、笠取山の北が初瀬街道。

山城の辺りからじゃ名張(伊賀の領域)は通っても、宇陀は通らないよ。
吉野なんてありえないし。

381 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 18:07:16
>>380

>山城の辺りからじゃ名張(伊賀の領域)は通っても、宇陀は通らないよ。

なんでマキムクから宇陀へ行く話をしてるのに山城が出て来るんだよ?
おまえ、バカなのか?
話を戻してるんだから吉野は忘れろよ。


382 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 18:14:33

マキムクから伊勢に行くには、

マキムク→宇陀→伊勢が近道であって、山城は経由しない。

尾張に行くなら

マキムク→山城→亀山→尾張だろうが、尾張が伊勢より影響力があったなんて話はしていないし、
おまえも尾張には注目してないんだろ?





383 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 20:00:31
伊勢って範囲広すぎるから話が噛み合わないんだよ。
桑名も伊勢だからね。

384 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 20:13:07
>>383

あっそ。
こっちは、さんざん近鉄路線と宇陀の地名をだして伊勢の話をしてるのに、
桑名も伊勢とは恐れ入った。

で、おまえさんは、桑名のあたりが東海式土器の生産地で、
それが山城からマキムクにもたらされたと、そう考えてるわけだね?


385 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 20:14:23
この辺のこと知らないと伊賀街道が一番平坦な街道で、
伊勢や初瀬は山の中を行く道だって分からないんじゃないの。
だから三関は伊賀街道の関市にあるんだけどね。

近鉄大阪線が初瀬街道ね。
青山高原を長いトンネルで抜けていて、
出たところが枕草子に出てくる榊原温泉。
都の人は初瀬街道好きだよね。

386 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 20:16:28
>>384
吉野通るとか言ってた人?
仮想敵を作って一人語りするのは辞めたら?

387 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 20:39:35
>>386
>吉野通るとか言ってた人?

ふうん。わざと言ってるとしか思えんね。
>>363の「京から東国へ落ち延びる時」というレスに対して
吉野から宇陀に迂回すると何度も説明してるのにな。

>>385
で、東海系土器は、伊賀〜山城を経由してマキムクに来たと、
君はそういう見解ということでいいんだね?

388 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 20:50:09
横入りして悪いが、議論がかなりズレてる。
マキムクが東海勢力の影響下だったかどうかがそもそもの発端。
まあそんなことはなかったと思うが。
単に東海からの移住者や物資流入が多かったということでは?

389 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 20:55:01
京都や奈良から東国に逃げるのにわざわざ吉野には迂回しないだろ。
探索者から逃れるために山に逃げるだけ。街道口は押さえられてるからしばらく潜伏。
落ち着いた頃を見計らって落ち延びるというのが常道。

390 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 21:23:36
>>388

吉野にばっかり食いついて議論を乱すヤツがいるから困る。

話の趣旨は、マキムクからの外来土器に東海系土器が多いこと。
東海からの移住者が多かったのはもちろんのこと、なぜ、移住してきたのか?
使役のためか?商売のためか?なんにせよ、東海と繋がりのある豪族がマキムクにいたことは確か。

では、その東海勢力とはどのあたりを指すか?
当然、マキムク〜宇陀〜伊勢街道で直結してる伊勢を想定することは自然。
伊勢には皇祖神のアマテラスが祭られてるし、海を渡ればすぐに三河に着く。
そのまま関東まで足を伸ばすのにちょうどいい立地なんだよ。
古代から人の往来が多い街道に、鉄道建設(近鉄)の要求が生まれるのも、これまた自然。

という考察に対して否定するのはいいが、
マキムクと伊勢が無関係というなら、具体性のある反論を頼む。

391 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 21:40:27
マキムクと伊勢が無関係なんて誰も言ってないと思うが。
むしろ伊勢は大和の影響下だったと思う。

392 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 21:48:23
マキムクと伊勢が関係あったとしたなら、
宇陀から伊勢街道を抜けるのが近道になる。

山城〜亀山を経由して伊勢にいくのは遠回りになるが、
それでも伊勢街道を使わなかった、というならその理由を聞きたいわけよ。
亀山経由のほうが道が平坦だ、というだけで必要十分なの?


393 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:02:02
横から。
ずっと上から読んだが、議論がかみ合ってない。

伊勢=伊勢神宮(神宮、伊勢市)と思い込んでレスしている者がいるようだ。
そういうことではないだろう、議論すべき点は。

394 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:22:27
東海の影響を無視したいのは、東遷説論者だからってことはわかってる。

395 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:26:22
巻向出土の東海系土器は雲出川沿岸で製作されたものではないかという話も
あったような気がするけど、どうなったんだろ。

そうじゃないとしても、S字甕の胎土には雲出川の土が使われてるそうだから、
尾張と伊勢は密接な関係にあったことは間違いなさそうだけど。

396 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:26:26
>>390
吉野迂回で東国とか、マキムクは河内より東海に近いとか、
あんまり無茶苦茶なのはきちんと訂正しとかないと。

吉野は紀ノ川を下って紀伊に行くポイント。
古代では陸路は殆ど整備されておらず、河川が主要な交通手段。
マキムクは大和川で瀬戸内海に繋がっているというのが第一義で、
東海や吉野に近いは二次的要素だろう。

397 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:32:31
>>396
>吉野迂回で東国とか、マキムクは河内より東海に近いとか、
>あんまり無茶苦茶なのはきちんと訂正しとかないと。

また蒸し返すつもりか?
吉野の話は>>363のレスを受けてのことだと、何度言えばわかる?

あと、君はマキムクは「東海より河内に近い」と考えてるわけだね?
ではその根拠を聞かせてもらおうか。

はっきりと聞かせてもらうよ。



398 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:35:32
>>396 じゃないが・・・・・

>あと、君はマキムクは「東海より河内に近い」と考えてるわけだね?

そりゃそうだろ。そうじゃないと思ってるやつがいるのか?


399 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:37:27
>>398

常識的にはそうかもね。

だが、具体的に、河内とマキムクを関連付ける物証はなんですか?


400 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:38:13
>>397
書いてるだろ。当時は陸路<水路。
付け加えるなら、
初期の庄内甕の分布を見ても、中河内と大和が非常に親密だったことが分かる。
大和川水系豪族の連合がプレ・ヤマト王権で、それに後から色んな勢力が入ってきたのだろう。

401 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:39:54
>>400

>大和川水系豪族の連合がプレ・ヤマト王権で、それに後から色んな勢力が入ってきたのだろう。

教科書通りだね。よくわかったよ。


402 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:50:45
東海さんのよく分からない理屈はどうかと思うが、
マキムクに東海の影響が強いのは確か。

ただまあ、マキムクってのが東西交易の結節点を抑えることで、
ヤマト勢力が肥大化したというのが大筋で支持されているのでは?
教科書通りではあるが。

東海の人々が多くマキムクに来ていたのは、交易が理由だろう。
当時は戸籍も無く、人々は国に縛られず自由に動いていた。
世界的な寒冷化で人々の動きが活発化し、その都度交易の中心、
交通の要衝は移動する。
たまたま人と物の交通路が一番交錯するのが当時はマキムクだったということ。
そして4世紀末に中心は河内に移る。

403 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:55:52
>>402
このスレじゃあ何回か出てきていると思うが
交易としたら東から西への交易品目は何なんだろう?

余程、東海の産物が大和に流れた?

404 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:57:39
>>402の教科書さんもよく考えて欲しいけどね。

東海がマキムクに参画しなかったとしても、マキムクは登場したのかどうか?

>>402は、東海が参画しなくても河内と共にマキムクは造られたと考えてるんだろう。
そして、マキムクが造られてから、東海が後からのこのこやってきたと。
そういうことなんだよね?

だが、俺の考えは違う。
東海勢力が伊勢街道を通じて三輪山麓に進出し交易拠点を求めてきたからマキムクが造られた。
これは俺の説だから、否定するのはご自由にどうぞ。





405 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 23:14:08
交易の主なのは鉄だろう。
これ書くとまた一斉に反論が出るんだろうが。

畿内の土器が東海から見つからず。
逆に、東海の土器の多くが畿内から見つかる。
東海勢力が畿内に搬入したのは多くの人間が土器で運ばないといけない物。
穀物や酒など発酵食品か。
畿内がその見返りに渡したのが鉄。

406 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 23:19:54
>>404
俺の考えとか言われても。
その根拠が「伊勢のアマテラスが皇祖神」とか言い出すんじゃないだろうなw

407 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 23:30:55
>>406
東海系土器の多さだと言ってるでしょ?
もちろん、伊勢でアマテラスを祭ってることも根拠にはなる。

反論があるなら、根拠立てて反論してくれ。
「東海勢力が関与しなくても、マキムクは登場した」んだろ?



408 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 23:42:53
再度言わせてもらうが、
マキムクが交易拠点なのは、外来の土器の多さから推測できる。
では、どうして奈良盆地の奥に交易拠点が出来たのか?
大和川のもっと下流でもよかったはずだし、
淀川水系のほうがよほど立地としてよくないか?
なぜ、初瀬川をさかのぼった三輪山麓でなくてはならなかったのか?
三輪山麓で祭祀があったからか?
教科書には、具体性のある答えなど載ってない。

「東海勢力が伊勢街道伝いに三輪山麓に進出してきたから交易拠点となった」という答えは、
俺にとっては、これ以上わかりやすい解釈は無い。

否定するならするで、きちんと根拠を述べてもらって否定してほしい。俺も勉強になるしな。



409 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 23:44:20
>>407
ただ、もし纏向が東海勢力によって建てられたとするのなら
なんで「前方後方墳」じゃなくて「前方後円墳」なのか?
…と言うのが素朴な疑問w

(まあ纏向にもさほど大きくは無いが前方後方の形をした周溝墓が一つあったっけ?)

410 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 23:57:17
>>409

そう、そういう具体性のある話を聞きたいものだね。

いろいろ解釈は出来るが、空想の世界になるのでこれ以上は書かない。


411 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 00:02:19
>>403
だいぶ前のスレに書いたが、

> 丹生鉱山(伊勢本街道の伊勢神宮手前)の辰砂
> 丹生は少なくとも弥生時代から

それから桑名は垂仁記の倭姫命の話に、
神武記にも現れる天の平瓮の逸話がある。
おもしろいことに伊賀、甲賀、近江、美濃、尾張、伊勢という順の巡幸w
前方後方墳の濃い地域を巡ってる。



412 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 00:07:47
この辺りの逸話は、壬申の乱の功績に合わせた創作という考えがあったが、
東海系土器の影響を考えると、創作と切り捨てるのは合理的ではないと思う。
といっても何かいい仮説があるわけではなく、
過去の仮説に合理性がなくなっているというだけだが。

413 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 00:16:51
常識的には、前方後円墳は、アマテラス系祭祀(現在の神道)に基づくものと思われてるんだろうけど、
アマテラスと前方後円墳を結ぶ接点は無い。
古墳時代の記紀には、アマテラスは出てこないしな。

どう考えるかだが。

414 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 01:22:33
崇神から倭建命までは鈴鹿山脈周辺の話が多いね。


415 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 01:36:46
>>409
過去レスにも挙げられていたが、
東田大塚古墳の周濠から、辰砂を使った東海系の壷を
壷棺の蓋に利用した子供の埋葬施設が見つかってるよね。
http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/bunkazai03.html
http://www.anmae.net/remains/images/1168017967-02.jpg

これが交易で得た貴重品(朱)の再利用なのか、
それとも東海系であることに積極的な意味、
たとえば連合に東海系の豪族も連なっていた、
があったのかどうか。



416 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 12:31:01
>>408
東海の土器が多いから東海勢力が造ったとか単純な話なら楽なんだが。
ていうか土器の数だけなら外来より在地の方が圧倒的に多いし。当たり前と言えば当たり前だが。

417 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 12:33:29
たとえばマキムクで九州系は少ないが、逆に筑紫に畿内の土器が入っている。
これは、九州から運ばれたのが土器に入れる必要がないモノだったということ。
もしくは希少なモノで数が少なく目立たない。
あと、先進の九州からわざわざ畿内に入植する必要がなかったということも考えられるかもしれない。

418 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 13:01:54
>たとえばマキムクで九州系は少ないが、逆に筑紫に畿内の土器が入っている。

筑紫をマキムクが攻め滅ぼしたってことじゃないの?

419 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 13:40:22
京都府向日市埋蔵文化財センターは18日、国内最古級の大型前方後方墳、
元稲荷古墳(3世紀後半、同市向日町北山)の外周部で敷石が確認されたと
発表した。センターによると同時代の大型古墳では墳丘部が葺石で覆われて
いた例はあるが外周部で敷石が確認されたのは初めて。出現期の古墳の外観を
知る上で貴重な資料という。2月19日、毎日新聞朝刊より。

420 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 20:23:19
>>418
その論法で言うなら、東海がマキムクを占領したことになるんだが。

421 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 21:32:16
筑紫←大和←東海

…弥生末期は土器を見れば東進ではなくて西進。。





422 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 22:02:41
もう少し現実的な考え方をすべきだと思う。

たとえば、徳川家康が江戸幕府を開いた。江戸に、三河系や浜松系の土器が
増えるだろうか。多分、在来系が多いだろうし、江戸にやってきた人の
出身地である近隣地域の土器が増えると考えるのが妥当だろう。

まあ、土器で権力の所在というか、権力の移動などを語るのは難しい。

423 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 22:45:07
土器が比較的残り易いから、土器にばかり目が行くのだろう。

424 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 22:52:23
そこらじゅうで出るしな

425 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 23:23:31
>>415は生活土器じゃないから、
>>417のような考え方はあまり当てはまらないと思う。

426 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 23:32:07
どうして東海の影響を排除しようとしてるの?


427 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 23:46:22
東海さんには悪いけど、東海が前方後方墳であること。
初期の三角縁が見つからないことからも、排除せざるを得ない。
アマテラスってのはロマンがあるけどねw

428 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 00:07:09
三角縁ももらわず、前方後円墳とは違う墳墓(前方後方墳)を造ってたわけですが、
東海以外に大和に拮抗する独自勢力がどこにありましたか?


429 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 00:26:44
考えてみれば、垂仁天皇の時代に、倭姫が伊勢にアマテラスを祭りはじめたころに、
東海では大和と違う前方後方墳を造ってたわけで。

ちょっと理屈に合わないよね。

430 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 01:25:37
>>427
前方後方墳と言う埋葬文化の違いはともかく
三角についてはどうだろう?

簡単に言ってしまえば
「釣った魚に餌をやる必要は無い」と言うかwwwww

既に東海地域が濃密な関係にあり銅鏡による懐柔を必要としなかった
…なんて仮説も成り立たないかな?

まあそうなると木津(椿井大塚)あたりの勢力より東海地域の勢力が
大和により近かった・・・と言うことになるが。

431 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 02:17:31
>>429
だから三輪の実体とは合わない後世の創作って言われてんだよね。
ただ>>415のように丹生の朱が使われていたことは確実なわけだ。

異文化ながら交流はあった。
後に伊勢、出雲の神話をそっくりいただいて接合。
という従来の説がやはりしっくり来る気がする。

432 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 06:55:17
倭を併合した日本(新唐書)
ここから、倭の源流(卑弥呼含む)は北九州にあり
日本の源流は畿内にあるとすれば、すっきりするのでは?
倭=日本としていることが根本的な間違い、混乱の元なのでしょ



433 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 10:03:11
> 卑弥呼含む
はともかく、倭人伝は、当時別の国だった
倭とヤマトの話の混合があると考えるのが自然では。

434 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 10:18:54
>>425
「フランスの華僑が、中国から石を運んできてフランス国内に儒教式の墓を建てました」
という話に近いんじゃないか?(実際にあるのかどうかは知らん。)
人の一定数の移住はあったはず。
だが、あくまでも「外来土器の大勢力」であるだけなんだよ。
征服のような権力構造の影響があったとは、とても思えない。
東海の「影響『下』」とか「東海豪族の『進出』」という考え方には、かなりの違和感を感じる。

これは、「アンチ巨人は巨人ファン」と同じで、
神武東征論をひっくりかえして「東海西征論」にすりかえているだけじゃないか?

435 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 10:30:04
>>434

畿内の庄内式土器が九州に拡散してても、
あくまでも「外来土器の大勢力」であるだけで、
畿内が九州を征服したわけじゃない、と考えるわけですね?



436 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 10:40:39
土器の移動が権力と無関係であるならば、
東遷説を退ける根拠が一つ減るだけですよ。

むしろ鏡を使った祭祀が九州から畿内に伝播してるのだから、
東遷説を積極的に受け入れざるを得ない。
もっと整合性のある論を組み立ててください。

437 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 10:43:37
>>435
そう。それだけの証拠なら、まだそうだとしか言えない。
遺物の拡散からの、権力構造の類推は慎重であるべきなんだよ。
遺物分布と征服を混同している奴が大杉。
例えば、7世紀くらいの東北南部における「柵」のように、
遺物、村落構造、遺骨の人類学的分析などを総合評価して、
誰がどうみても「上からの支配の試み」です、本当にありがとうございました
と言える状態なら、征服と言ってもよいんだが。

438 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 10:50:42
東田大塚古墳は、古墳下の層から、井戸、溝が見つかっていて、
井戸から原形を留めた山陰、東海の土器が出て来ている。
山陰地方の甕は縄が巻かれていて、井戸の釣瓶だった模様。
>>415の壷棺は壷本体は瀬戸内海中部、蓋は東海。
何故王域からこのようなものが出てくるのか。
三輪連合には東海も一枚噛んでいたと考えるのが自然。


439 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 11:51:57
>>436
なんかアレだな、東海の西遷が飲めないのなら九州の東遷を飲みなさいって
無理矢理二択にもっていこうとしていると言うか…ひょっとしていつもの東遷説の人かな?w

東海の土器が約50%つっても、あくまで外来系土器(破片の土器胎土まで調べて全体の26%)
の中での話しで、全体から見たら13%…これで東遷だの西遷だのって飛ばしすぎだよwww

440 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 12:10:27
まあ土器は年代を調べるのには重要だけど
権力と直接は結びつかんよね
よっぽど特別な宗教的意味を持った土器以外は
基本的には生活の道具

441 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 12:32:12
>>440
庄内〜布留期を特徴づける小型精製土器(器台、丸底壺など)は、
きわめて宗教的な土器だよ。

442 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 12:44:46
生活土器といわれても、生活の痕跡自体希薄な地域なので…
しかも具体例として上がっているのは埋葬に使われた朱の塗られた土器なんで、
「古墳を作らされた東海系の奴婢が生活で使った」とか
そういう冗談は勘弁して欲しい。

443 :441:2009/02/21(土) 12:54:06
もう一つの特徴的な土器である庄内甕・布留甕も
熱効率のいい煮沸用甕ということで話を終わらせたら駄目なんだ。
纏向もそうだがとくに八尾市久宝寺など河内の同時代遺跡では
おびただしい数の庄内甕が狭い一箇所に固まってゴロゴロと出る。
決して日常的用途のみに使ったとは思えない。
日常の炊飯器具とは出土の仕方が明らかに異質なんだ。

444 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 13:11:14
庄内式土器の卸問屋だろ。

445 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 13:19:46
卸問屋www
そこでろくろ回して焼いて作ってたんだろうな
それ以外のなんでもない

446 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 13:34:07
久宝寺も井戸から見つかってるぞ。まだ大和式と未分化との指摘もある。
http://www.occh.or.jp/kako_news/images/040319/hajiki-leaflet.pdf

447 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 13:55:17
庄内式の甕を使って、お湯をぐらぐら煮えたぎらせるような
何かの宗教的儀式があったのでは?

448 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 14:33:58
>>447
レス見てすぐ「湯立て」の神事を連想したが、これはそんなに古くからのものかな?

・京都城南宮の湯立て神事
http://staff-forone.blog.so-net.ne.jp/2007-01-21

449 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 15:28:12
マキムクに全国各地から人々が集まり、盛大な祭りを行っていたということ。
東遷やら西征などのような野蛮な話ではない。

450 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 15:44:06
>>448
湯立ての動画もあった。ミコさんの姿見て、つい女王台与を連想してしまった。ww

【晴明祭】湯立神楽…YouTube動画
http://www.youtube.com/watch?v=XuHGtFcUHwo&feature=related

451 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 17:30:04
しかし東海と言うか関東も含めた東国の中の人も大変だなw

ヤマトの敵対勢力とされたり、かと思えば纏向の勃興の立役者にされたりwww

452 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 17:40:19
いまどき自生説に固執する人がいることもびっくりだわ。

453 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 18:01:15
>>451
>ヤマトの敵対勢力とされたり、かと思えば纏向の勃興の立役者にされたりwww

案外そういうのが歴史の真実に近いかもな。
離合集散は世の習い、昨日の敵はきょうの友、だ。

尊氏は最初、後醍醐に味方して倒幕に加わったが、その後は知る通り。
明智光秀はどうだ、家康もだ。
西郷隆盛なんか維新の立役者だった筈だぜ。

454 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 18:11:40
>>453
いま麻生と小泉が大喧嘩の様相

455 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 18:46:46

>>450

トヨタン、トヨタン、トヨタン・・・・・・・・・・・・・・・


456 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 20:08:39
>>453
吉備とは後に派手にやりあってるよね。

457 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 01:42:05
>>451
ヤマトの敵対勢力と考える→「邪馬台国ロマン」の「狗奴国東海説」
巻向勃興の立役者→「神武東征ロマンの鏡像バージョン」としての「東海西征説」


どっちも、この問題を考える絶対の2大NGワード「邪馬台国」「神武東征」が
発想の原点にある段階で、ただの歴史小説ロマンに過ぎないよ。
この2単語が入った瞬間、全ての議論はただの妄想ロマンになる。

458 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 02:47:17
いまどき自生とか外来とか言ってる方がおかしいだろ。
どこかひとつの勢力とかではなく、各地から多くの人と物が集まり、
マキムクに王権が誕生したということ。

マキムクが当時の交通の要衝だったという事実を認められない東海さんにはむつかしいか?
吉野から東海とか、大和が河内より東海に近いとか言う人だし。

459 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 08:31:11
>>458
改めて記紀を見てみると、結構それを反映している。
長髄彦は原大和王権(方形周溝墓作ってた勢力)だし、
神武天皇は九州勢力(鏡崇拝の勢力)だし、
崇神天皇が吉備を征服さしたってのは前方後円墳に吉備の影響が出てきた事だし。

460 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 09:00:29
>>458
>マキムクが当時の交通の要衝だったという事実を認められない東海さんにはむつかしいか?

もちろん、マキムクは当時の交通の要衝だよ。

三輪山麓の初瀬川を東に上っていけば伊勢街道を通じて伊勢に行くからね。
伊勢街道の往来を否定してマキムクという立地が大和川の奥にある理由をどう説明するつもりなの?
河内との共同事業なら八尾市あたりでも良かったはずでしょ?

他の国が東海との交易を求めて東海との玄関であるマキムクが選ばれたと、
どうして認められないの?

「マキムクが当時の交通の要衝だった」とお互いが認めてるのに、
東海を抜きにして考えてるのはあなた。
東海を抜きにしてマキムクがどのように交通の要衝とどう言えるのか、
まだそちらから合理的な説明をきいてませんよ?


461 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 09:10:55
>>457
「東海西征説」とは、また刺激的なあおりだけど、
東海から来た豪商が「マキムクに市をつくれ」と要求したことは事実ではないか?
否定するならこの点も否定するよね?

あなたの言うように、東海を抜きにしてマキムクと河内だけで交易が始まり、
マキムクを選んで市をつくり、後からのこのこ東海が釣られて来たというならね。






462 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 09:15:39
東海との交易は誰も否定してないだろ。それがマキムクで突然始まったとか、
東海が大挙押し掛けたとかではないと言ってるだけ。
マキムクと唐古鍵もほとんど立地が変わらないことをどう説明するのか。
また本当に対東海重視ならイワレ地域の方が相応しい。

463 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 09:38:31
>>462
>マキムクと唐古鍵もほとんど立地が変わらないことをどう説明するのか。

マキムクと唐古鍵を、どう評価してるの?
見解によっては、ほとんど同一だし、まったく違うという人もいるだろうし、
立地だけなら数キロだけど、内容的にも同一と考えてるの?


464 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 09:54:52
マキムクの立地が唐古鍵とほとんど同じと言ってるのだが。
ちゃんと読めてない?

465 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 10:06:13
>>464
>マキムクの立地が唐古鍵とほとんど
その文脈からすると、

「唐古鍵にも東海系土器は豊富にあるから、マキムクが初めてではない」という風に読めるけど?


466 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 10:25:09
東海がマキムクを造ったとかではない。
マキムクの立地からそんなことは言えないということ。

467 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 11:02:34
>>466
だから、いえない理由を具体的に説明してください。

たとえば、「伊勢街道沿いに東海系土器はみつかっていない」なら明快な答えになります。
どうですか?

468 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 11:10:45
>>460>>461>>467

あのさ、どうみても、諸地方勢力のone of themとして
巻向での交易に参加できていただけなのに、
>東海から来た豪商が「マキムクに市をつくれ」と要求した
と妄想が飛躍するんだ??
そこを皆が叩いているんだよ。だから「東海西征説」と揶揄されるw

そこに巻向(唐古鍵でもよい)があった。
巻向は市場であった。
市場は繁栄していた。伊勢人も参加した。

(他の市とくらべて巻向は、伊勢から便利だったから、
そののち、伊勢人は外来者として最大となった)

ということなんだ。それだけ。
他人の土地に口を挟んで「市を作れ」という以前に、
「伊勢に来い」「尾張に来い」というほうが先だろ?
大和盆地にあるような結節点は、ついに尾張にも伊勢にも全く出来なかった。
畿内西国人は、尾張伊勢に来てくれなかったんだ。

469 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 11:18:55
>>468

そういう感情的な話は意味はありません。

こちらは、伊勢街道を古代からの交通の要衝と捉えており、
それゆえ、伊勢街道の出口であるマキムクが発展した、と結論してるわけです。

まず、伊勢街道は、古代には存在してなかったという旨を説明してください。
具体的に、途中にある宇陀地方とかからは顕著な東海系土器は出土していない、
とでも一言おっしゃられれば、こちらの説は簡単に崩れるわけです。
もっと論理的な話を聞かせてください。


470 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 11:25:52
途中にある宇陀地方とかからは顕著な東海系土器は出土していることを自分が立証するのが先だろ。


471 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 11:27:24
だから本当に伊勢への窓口なら、マキムクよりイワレだろ。
イワレに前方後円墳が造られるのは箸墓の後

472 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 11:30:47
伊勢街道に執着しているのも意味がわからん。
伊賀街道の方が重要に決まってる。
残された前方後円墳がそれを示している。ちゃんと証拠がある。
行ったことがなくても、googl earthでも見れば、
伊勢本街道は山道であることが分かる。

>>468
> 巻向は市場であった。

それはどうかなあ。

>>459
やはり崇神以降に鈴鹿山脈周辺の逸話が多いことと、
マキムクに東海系土器が多いことのシンクロが注目されるな。


473 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 11:34:13
>>472
吉野とか伊勢街道とか南の方が好きなんでしょう。
ただし裏付けはないようだ。

474 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 11:38:05
マキムクのお得意さんのひとつが東海だったということだろ。どう見ても。
東海=初期大和王権とした場合、前方後方墳の問題や三角縁の分布はどう説明するの?


475 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 11:44:05
>>472
すまん。巻向と書いてしまうとそうなるね。
「大和盆地南部の大規模拠点群」と書けば正確だが、まどろっこしい。

近畿あたりの道は、ある日誰かが新規に開いたというようなものじゃないからな。
縄文以前から、人間が通れるルートには道が開けているのが通常。
あまりに雪深い東北の峠越えで、伊達輝宗(あの伊達政宗の父)が、
会津と米沢を直通する街道(大峠)を「開いた」というような話ではない。

476 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 11:48:51
>>472

伊賀街道?

こちらの話の発端も近鉄路線からなので、伊賀が中継地なのは同じですよ。

伊賀→名張→宇陀→マキムクのルートが想定されます。現代の近鉄路線です。

さて、あなたは、伊賀から木津川をくだると考えておられますね?
木津川がマキムクに直行するならまだしも、木津川は淀川へ向かいます。
河内、瀬戸内、近江と通商するなら、淀川流域のほうがよほど交通の便がいいはず。

なおさらマキムクに物資を運ぶ理由がわかりませんね。
あなたには、理由がわかるのですか?




477 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 11:52:24
>>476
三関も知らないの?

478 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 11:58:48
さらに言わせてもらえれば、伊勢国がさらに関東方面と交易するために、
物資を集めるのに良い場所は、伊勢市〜津市になることは地図をごらんの方はご承知でしょう。
津市から伊賀に向かうのは、ほぼ直線としても、
伊勢市から伊賀に向かうのはかなり遠回りになります。
多少の山道であっても、伊勢街道を使うルートが近道といえます。
江戸時代でも2日の距離です。

479 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 12:09:05
文献からの話をするのは若干躊躇しますが、
日本書紀をお持ちの方は、崇神天皇の九年春三月十五日を見てください。

天皇の夢のお告げで「墨坂」「大坂」の神を祭れといわれます。

大坂の神は大和川下流・奈良盆地の入り口にある大坂山口神社と言われます。
おそらく、西側の重要な関所でしょう。

では、東の重要な関所である「墨坂」はどこにありますか?
墨坂神社は、宇陀郡榛原町にあるわけです。

関係ないと言われれば、関係ない話かもしれませんけどね。



480 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 12:18:24
伊勢街道に人が集まっていた証拠はまるでないんですね。
ちなみに江戸時代持ち出すなら、当時伊勢最大の港は白子港だよ。


481 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 12:33:14
>>480

江戸時代こそ、交易拠点は淀川〜木津川に移行してるでしょ?

逆に言えば、マキムクの頃は上記の水運が開発されてなかったことになるわけですよ。
マキムクの頃は丸木舟の時代だということをお忘れなく。
山道山道と批判してる人は、どんな船で往来してたと思ってるの?



482 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 20:31:52
丸木船ばっかりというのはさすがに縄文とか弥生初期とかかも
この写真は神武天皇の東征の船再現だそうな
http://log02.gozaru.jp/jinmusama/img/jm7_008.jpg
http://log02.gozaru.jp/jinmusama/img/jm7_008-1.jpg

483 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 20:56:12
>>462
>マキムクと唐古鍵もほとんど立地が変わらないことをどう説明するのか。
>>464
>マキムクの立地が唐古鍵とほとんど同じと言ってるのだが。

纏向遺跡と唐古・鍵遺跡は、立地は異なります。

唐古・鍵遺跡は盆地のほぼ中央に立地しており、周囲は相当広範囲に平坦です。

纏向遺跡は盆地の端部に立地しており、すぐそばに山(三輪山・穴師山等)が控えます。纏向川の扇状地上に遺跡が形成されていて、東が高く西が低い傾斜地形となっています。

たとえば何かの目的で河原石や太い木材を得たいと思ったとき、両遺跡の立地の違いが影響してくるはずです。
もちろん有利なのは、纏向です。
これに対し、稲作はどうでしょうか。
ご承知の通りで、唐古・鍵からは農耕を示す膨大な遺物が出土していますが、纏向はどうもそうではないようです。

484 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 21:14:58
>>481
>マキムクの頃は丸木舟の時代だということをお忘れなく。

これは誤解を招きかねない文だと思いますので、ぜひともこちらのページをご覧ください。

弥生ミュージアム  第四章 弥生時代の生活 5.交通
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode04/traffic.html
(引用)
弥生時代には丸太をくり抜いて造った丸木舟に竪板(たていた)や、舷側板(げんそくばん)等の部品を組み合わせた準構造船という大型船があったと考えられています。
準構造船の全体がわかる船の出土例はまだありませんが、滋賀県守山市赤野井浜遺跡などから舳先(へさき)や舷側板の一部が出土しています。

485 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 22:33:22
>>483
マキムクと唐古鍵は直線距離で十キロ程度。
東海さんの、なぜわざわざマキムクに造ったのか?との問いに、
いやもともとマキムク付近は弥生時代を通じての交易の要衝だったよと答えているまで。
何で分からないんだろう?
あと、前方後円墳やら三角縁の説明はいつしてくれるのか?

486 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 23:15:50
マキムクから三角縁出てた?

487 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 23:41:53
三角縁なんかもはや論拠たりえないことぐらい
わからないのか?

488 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 01:08:02
「何の」論拠?
邪馬台国とか魏鏡とか舶載とか伝世については昔とは違う状況だと思うけれど、
初期大和政権にとって重要な意味を持つことは全く変ってないと思うけれど。
黒塚古墳の例を見ても大和政権が配布したことが明かになっていくばかり。


489 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 01:29:24
三角縁は中国人の技師が
日本で作ったものだよね

490 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/23(月) 11:29:24
△は大陸から出てないから日本製だな。卑弥呼の鏡ではない。

491 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 16:37:22
>>490
「大陸から出ていないから日本製」と言うのが
「二十万都市で三十万殺せない」と言うのと同じ位のデタラメだと言う事を
何回言わせる?

492 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 16:47:31
>>491
「大陸から出ていないから日本製」と言うのが
「二十万都市で三十万殺せない」と言うのとは違う
キチガイは消えろ。


493 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/23(月) 17:16:41
日本製だよ。そう考えるのが妥当。大陸性なら向こうから最低数個の
完全な△が見つかるはずだ。つまり卑弥呼の鏡でないわけで、畿内節
の妄想が見え見えだということ。

494 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 17:20:28
三角縁の鏡は中国でもあります。
神獣鏡も中国でもあります。
両者の組み合った三角縁神獣鏡が中国では作られなかったのはなぜだろう。
何か信仰的なタブーがあったのだろうか?

495 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 17:31:30
△鏡を持ち出すとマキムクからどんどん話題がそれてしまう
スレ違いレスばっかりになる
前にも何度もあった
そんなに△鏡好きなら専用スレ立てようか?

>>486
マキムクからはいまのところ△鏡出てないね

496 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 18:14:50
マキムクからは三角は出てない。
これ重要。

マキムクが終了してから三角が配布されたのだ。

497 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 18:18:59
三角縁神獣鏡は中国人の技師が日本で制作したもの
@王仲殊(中国の考古学の第一人者)

498 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 18:24:32
△鏡はマキムクと関係ない
△鏡は卑弥呼とも関係ない
△鏡の出たとこは卑弥呼の墓候補から除外してもいい

499 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 18:35:47
>>498

つまり、マキムクに卑弥呼の墓があるわけか。

500 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 18:37:34
>>498
> △鏡は卑弥呼とも関係ない

これは卑弥呼の時代に△鏡はないってことですか?

それなら考古学的にもいいと思うんだけど、
時代を隔てても関係がないってことだといいすぎだと思う。
卑弥呼の末裔が△鏡を珍重したってことは大いにありうる。

501 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 18:46:18
なんでバカコテの太国はこのスレで
しかも三角縁神獣鏡にまで言及するのかねえ?

はっきり言って、考古学的な知識は、ほぼゼロだろう…

それを恐らくこの板で聞きかじった
「三角は日本で出ていない」
と言う断片的事実のみを馬鹿丸出しで繰り返すだけ。

知ったかぶりのバカコテって虫唾が走る。



502 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 18:52:50
今までのスレの流れでは、三角縁を邪馬台国とか卑弥呼と絡めてないだろ。
また倣製、舶載の議論でもない。
あくまで初期ヤマト王権が三角を威信財として利用していたという話だけ。
初期の三角が東海から出ないことから、東海が西征してマキムクに王権を造ったという話は眉唾だ
と言っている。



503 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 18:58:07
マキムクから三角縁出てた?

504 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 19:05:11
東征とか西征とか言う話で言うなら

そもそも纏向は農民階層の住居跡が殆ど無くて
クニや集落レベルでの”移住先”ではない。

纏向を造り維持する為には集落の一つや二つでは追いつかないだろう。
相当な人口が大和に流入した痕跡が無いとおかしいと思うのだが…

東遷説において考古学的資料の無いのを
大和入りした集団の規模を極少数として説明する向きもあるが
そんな少数じゃあ纏向なんか造れない。

>1のテンプレ
>ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、
>単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね
と言うのは至極当たり前かと。




505 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 19:05:30
>>503
けっこう重要なことなんだろうけどね。
重要なことでも、都合が悪ければ触れない。あるいは無視するってことかな。

506 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 19:10:03
東海勢力が纏向を造ったと言う説は三角より「前方後方墳」と言う墳墓の形の違いが
より大きな問題なんじゃね?




507 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 19:10:25
東海の影響はそれはそれで興味深いんだけど、
松阪の花岡古墳群が住宅地として潰されてるのが痛い。

残ってる宝塚古墳から出た日本最大の船形埴輪は、
底に丸太が使われているのかどうか良く分からない、
つまり準構造船なのか構造船なのかはっきりしない。
準構造船は古墳時代に現役の船の形式だったのか、
それとも古式を保った喪船だったのか分からない。
舟形木棺との間もミッシングリンク。
舟形木棺による水上運搬から準構造船が出て来た
という説も空想に過ぎない。海運と強い関係があった
に違いない花岡古墳群がないのは痛い。
巨大船形埴輪が出たのは最近だから可能性はあるが。

508 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 19:15:08
このまんま中国から出土しないようだと
△鏡は「卑弥呼の鏡」を真似て
日本で制作され
大和政権が配布し
副葬品として首長の葬儀に埋められたことになる

まあともかく日本だけで400面以上も出て
中国で一枚も出土していないのは致命的

509 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 19:18:37
>>507
巨大船形埴輪が出土したということは
5世紀以降のものってことよね
だから重要視されなかったんでしょ

510 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 19:21:36
>>506
西征説は全く支持しないが、
「墳形については」墳丘部が円か方かの違いしかないとも言えるのでは?
少なくともマキムクの時代は「前方後円墳」圏は(マキムク以外に)存在してないのだから、
あまり東海との違いを強調しすぎるのはよくないと思う。


511 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 19:22:36
>>505
「マキムク」から出ないの意味が分からない。
場所としてなのか時代としてなのか。
三角が副葬されるのが布留以降で、
マキムクにあるそれに先行する古墳から出ないのは当たり前では?

512 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 19:28:04
>>510
>少なくともマキムクの時代は「前方後円墳」圏は(マキムク以外に)存在してないのだから

日向(西都原ではなく宮崎平野)はマキムクと同時期らしい
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/006/re_006_040619.htm

513 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 19:50:11
>>510
しかしその纏向にメクリ1号墳という前方後方墳があることは無視できない。
天理市の大和古墳群にも古そうなのが数基ある。

それから馬見古墳群の中でまず最初に築かれたかもしれない新山古墳が
なぜかやはり前方後方墳だ。

東海の勢力はヤマト王権に何らかの影響を及ぼしていると見たい。


514 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 20:21:34
>>510
>西征説は全く支持しないが、

東遷説を跡形もなく粉砕するためにも東海にはがんばってほしい。


515 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 21:48:51
前方後方墳が各地の出現期古墳を考える上で重要であることは間違いないだろうが
問題はその年代。



516 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/02/23(月) 22:25:43
>>501
ここで聞いたんでないの。他からそれがしが書きこんだんだよ。
うそだというなら、ローガン氏に聞いてみろ。
彼が500枚だったか、出所を出せというから、書きこんだんだよ。
勝手に決めこむ一人歩きをするな。

オマエが0のドデカイ知識はこちらが保有している。考古なんかに
舐められはしないぜ。

517 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 22:36:09
>>516
(・∀・)カエレ!

518 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 23:07:37
>>513
前方後円墳は特殊な形だから、さすがに単系だとは思うが、
前方後方墳は、単系かどうか微妙なんだよなあ。
東海から関東平野を経て仙台付近まで広がるものは、
東海起源と見てよいだろうと思う。
弥生時代以来の「東国人」「東国文化」の起源(出発点)が、
東海地方(尾張から伊勢にかけて)にあることは、ほぼまちがいない。

だが、山陰にも前方後方墳があるんだよなあ。
さすがに考古学的には単系とは言うのはやや躊躇を覚える。
東海→山陰は、もちろん絶対にあり得ない。
山陰→東海は、あり得るんだろうか。神話ではまさにこれなんだが、
考古学的裏づけはなあ。


519 :ローガン:2009/02/23(月) 23:29:41
>>516
> うそだというなら、ローガン氏に聞いてみろ。 彼が500枚だったか、出所を出せというから、書きこんだんだよ。 勝手に決めこむ一人歩きをするな。

太国さんの云う通り。「根拠」を求めたら、その根拠だと云うURLを貼ってくれたので、開いてみると…


レプリカの通販でした。以上です。

520 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 23:35:49
>>518
>東海→山陰は、もちろん絶対にあり得ない。

どういう理由でありえないの?



521 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 23:41:46
>>520
地理的に、そんな進出方向はあり得ないし、全く意味が無いだろう?
東海勢が山陰(具体的には出雲)に行く意味がどこにある?
日本海に出るなら北陸で十分だ。何を好き好んで、
餘部鉄橋のあんな景色の平野の乏しい山間僻地を延々と山陰へ向かう必要があるかね?
しかも数百kmに及ぶ、奇妙なミッシングリンクが出来る。

弥生文化東進の一環として、先住の山陰勢が東海に進出した後で、
畿内・瀬戸内に独自の文化が勃興して切断されたというのなら、
まだ分からないでもない。正直、神話主義者は結構これを信じているようだが、
現実の人の動きとしては無理は多いと思うけど。

522 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 23:59:21
>>521
>先住の山陰勢が東海に進出

根拠は?

また空想を語られてもこまるんだよな。

523 :日本@名無史さん:2009/02/23(月) 23:59:47
出雲は前方後方墳ですらないからなあ。
近江、越は前方後方墳があって、越はさらに四隅突出墓もあるよね。

変ったところでは、神戸灘の西求女塚古墳が、
三世紀後半の前方後方墳で△鏡が7枚。
あれは重文になった時に調査し直してるから、
前方後方墳は確定でいいんだよね?
近江に後から前方後方墳が発覚したのあったけど。

能褒野陵が伊勢北部最大の前方後円墳。

マキムクは東海と瀬戸内海の架け橋のような存在で、
その後瀬戸内海に中心は移った。

524 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 00:01:30
>>522
それは仮にあるとすればこういう形くらいしか考えられない
という>>521の説を説明しているだけでしょ。
ツッコミどころが狂ってるよ。

525 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 00:04:34
根拠が無いなら、説じゃなくて空想だろ。
関よりタチ悪いな。

526 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 00:08:39
>>522
突っ込む前に、一応ちゃんと読んでくれよ。
だから「考古学的、地理的な根拠は乏しい(俺の知る限り無い)」と言っているんだよ。
神話研究家にはこの説を採る者が多い
(東海地方の神社祭神が軒並み所謂「出雲系」だから)けど、
俺は難しいと思う、と言っているんだ。

>>523
なんかその辺はあまりにも多元的なんだよなあ。なんともカオスで、
たとえば「東海/近畿」「大和/筑紫」のような二元論の危険さを教えてくれる例だと思う。
ただ、広範囲にさまざまな型が拡散していること、やたらと古いこと、
それから微妙に日本海側的だということは言えると思う。

527 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 01:09:45
前方後円墳と前方後方墳はある程度同じ思想、宗教観で造られていると思う。
上の方で誰かが言っていたように、後円を後方に変えただけ。

たとえば箸墓とほぼ同時期の播磨の権現山古墳は、
前方部と後方部の比率を考えれば箸墓型としてもいいだろう。
弥生時代の方形周溝墓を見ても丸型と四角型が一緒に出てくるし、別に対立して
いた訳ではない。

528 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 01:14:52
東遷を打ち破るために東海頑張れとか言う人へ。

どちらにしても単独征服説は成立し得ないというのが大勢なのだが。
二者択一とかいう話ではない。

529 :ローガン:2009/02/24(火) 01:18:15
前方後円墳と前方後方墳をどう考えるかって難しいですね。
首長墓の形の違いにどんなニュアンスを読み取るか?巨大企業の社長派と専務派の盟主争い的な感じなんてどう?

大型首長墓の祖型は楯築か?そして3Cに於て墓築造の際、共立国の中心マキムクは中国との国交樹立に起因した文化の流入により、正円を造れる土木技術などをを学んだ。もしくは、技術者を迎え大前方後円墳を造る。
しかし、東海等はマキムクから教えを乞うのではなく、自ら独自性のある首長墓を造る事により、
一応の中心はマキムクであると認めつつも、「アンチ!マキムク」みたいなものが… なんて妄想してます。

530 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 01:30:29
>>527
一部賛同するけど、古墳の形には不思議なところも多いよね。
なぜか「ひょうたん型」つまり「前円後円墳」が無いのも不思議な話だ。
だから、単純に宗教観を共有していたという話でもない。
これは前方後方墳の起源についてのいくつかの仮説からも伺える。


ただ、「対立していた」という発想がどうやら誤りだということには賛同するよ。
>>529だとか、あるいはwikiの「前方後方墳」の説明のような、
「二元対立観」は明らかな誤りだと思う。

531 :ローガン:2009/02/24(火) 16:38:21
>>530

>「二元対立観」

書き方が悪かったかな。いや、そうではなくて、広域王権(纏向)の王は各勢力の共立に拠るものだとして…
初期参加の東海勢力としてはキングメーカーのつもりだったものが、王権への求心力が高まり権益が集中したことに対する不満があったんじゃないかなあって。
連合体の構成勢力ではあるが、マキムクに迎合せず、独自性の堅持をアピールしたのではないか?
根拠はありませんが。

532 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 17:00:16
>>530
「前円後円墳」とは言わないが、「双円墳」というのはある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8C%E5%86%86%E5%A2%B3

金山古墳 大阪府南河内郡河南町
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

533 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 19:17:39
>>531
その書き方だと、まるで東海が一枚岩だったみたいな印象を受けるが。
古墳の大きさや分布から考えて、かなり小国乱立だったように思われる。
畿内ほど、政治的統合が図れていない。
東海の首長層たちが一致団結して自らの独自性を主張するために、
あえて前方後方形に造ったのか。
もしくは畿内の大王から、前方後円墳を造ることに規制を受けていたのかは
よく分からない。


534 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 19:21:08
>>533

その書き方だと、まるで近畿より西が政治的に一枚岩だったみたいに聞こえるよ?


535 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 21:08:27
>>533
「均質」/「多様」の対立と、「政治的に統合」/「政治的に分裂」では、
明らかに概念が異なると思うんだが。
東海から、甲信静岡、関東、南東北までの太平洋側は、
(この地方が多種多様な文化圏を作っていた縄文時代はともかく)
少なくとも弥生以降は、古代が終わるころまで非常に文化的に均一なところで、
特に弥生時代には、ほぼ単一・均一のエスニックグループが
広く住んでいたと思われる。
だが、エスニシティーが均一であることと、政治的に「一枚岩」であることは全く異なる。
むしろ凝集核はできにくく、小さい政治単位が散らばっていたような印象を
遺物や遺跡からは強く受けるけどね。

逆に西日本は、まさに唐古鍵や巻向がその一つであるように、
強い凝集核がみられるんだが、それぞれの地方民のエスニシティー自体について、
地域毎にかなり様相が異なるように見える。

536 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 00:39:13
>>527
>前方後円墳と前方後方墳はある程度同じ思想、宗教観で造られていると思う。
>上の方で誰かが言っていたように、後円を後方に変えただけ。

墳丘墓の発生的にはむしろ逆なんじゃないの?

方形周溝墓→前方後方形墳丘墓→前方後方墳→ 「箸墓」 → 定型化大型前方後円墳 
      ↑                   ↑
  四隅突出型墳丘墓            巻向型前方後円墳

537 :ローガン:2009/02/25(水) 00:44:09
>>533

一枚岩とは思いません。535さんのようにうまくは表現出来ませんが…
当時の主たるコミュニケーションの方法は会話でしょう。言語を共有する範囲(イントネーションを含めた方言)に某かの小ナショナリズムをつい考えてしまいます。
さておき…1980年の桜井市発表によると、搬入土器の内訳東海49% 関東5%で過半数をしめます。
土器だけみれば、在地系を除くと最もマキムクと関係が深いのは、東側の地域でしょう。
にも関わらずマキムク発信の首長霊祭祀方法を全面的には受け入れていない…つまり帰順(でいいのかな?)しない。
背景にはマキムクに期待した思惑が外れた東側諸国の不満があり、それに起因した結束の表れが、王権とは違った形の首長墓にある!?
あ〜妄想〜


538 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 01:09:10
マキムクが期待ハズレだったのは、
東海よりむしろ瀬戸内海勢なのでは?
オオヤマトから河内に移ってしまうわけだから。
しかも祭祀さえも跡絶えているような出土状況。

539 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 01:11:50
>>536
前方後「方」墳がすべて前方後「円」墳に先行するわけではないですよ。

「方」は同時期の「円」と比較すれば、規模が小さいので主流は明らかに
前方後「円」墳です。

問題は、「方」は自ら選んで「方」であるのか、「円」を許されなかったのか?
「方」と「円」に豪族と王族のような被葬者の階級の違いはあるのか?
という点にあります。


540 :ローガン:2009/02/25(水) 01:18:33
>>538

> オオヤマトから河内に移ってしまうわけだから。

え、河内でしたか?石野さんは奈良へ移ったと言ってましたが。
ZZZ…

541 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 01:46:30
そろそろ結果でた〜?

542 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 02:56:27
>>535
>それぞれの地方民のエスニシティー自体について、
>地域毎にかなり様相が異なるように見える。

このあたり詳しくご教授頂ければ。
古代の不明確・不明瞭な話なんで、印象論でもいいですよ。

543 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 02:58:46
>>538 >>540
そこは二つ説があるんじゃないのか?

(1)奈良南部の勢力が北部=佐紀へ進出、その後河内に移った
(2)佐紀へ出て行った勢力と河内へ出て行った勢力は別
  (ただし進出時期は多少時間のズレがあるという事になると思うが)

どちらかと言えば(1)の方が通説に近い?

まあ個人的には…

(3)既に纏向の時代に佐紀にも河内にも一定数の勢力があった

・・・と言う考えなんだがwww

544 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 03:10:07
大和も箸墓以降、王墓が柳本と桜井茶臼山の2系統に分かれるようだしな。
桜井茶臼山の扱いは難しいが、一時的に東海との関係が悪化し、
磐余地域の豪族が力を持ったという説もあるが。

箸墓以降、初期大王位は畿内有力豪族の持ち回りだったと
個人的に思っているので、>>543の考え方に近い。
一系統の血族に大王位が独占される(いわゆる王朝が成立する)のは
応神以降だろう。

545 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 13:34:12
>>543
纏向の時代の終わりに、
実際に人の「大移動」があったと考えている人は皆無では?

546 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 13:43:38
>>544
纏向に王墓はあったが、豪族の本拠地であったかどうかは不明。
王共立の連合が解け、王墓が磐余に移ることはあり得ると思う。
ただ考古学的には 出たということは強い根拠になるし、
遺物、遺構から多くの知識が得られるが、
まだ都の痕跡が出てないというのは弱い根拠にしかならないので、
この辺りの話はあまり深まらないのだと思う。

547 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 13:56:08
唐古・鍵が首都機能を持ってたじゃだめなの?
マキムクと共存してるんでしょ?

唐古・鍵=首都
纏向=祭祀場・市

なのでは?


548 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 14:07:42
今後出ないという保証はないけど、庄内期の唐古はしょぼいよ。
完全になくなったわけじゃないのね、っていう程度。

そりゃ、空き地があればだれか住み着くだろうからねぇ・・・
水没でもしない限り。

549 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 14:31:33
古墳後期の埋没古墳が見つかっているのが面白い。> 唐古・鍵
墓域って何なんだろう…

記紀的にも宮と陵が離れていることは多いし。


550 :ローガン:2009/02/25(水) 15:43:29
>>547

> 唐古・鍵が首都機能を持ってたじゃだめなの? マキムクと共存してるんでしょ?

どうでしょう?古墳時代初めに環濠の再掘削をしているようですが…
一旦埋めた環濠を再度整備するのは周辺との緊張感が想像できるような気が。

551 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 16:41:23
>>550
古墳時代はじめとはいつのこと?

これなんかを見ると庄内期にはほぼ廃絶状態にしかみえないけどね。
ttp://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/10-1haxtukutu.htm

この表が作成された後でわずかに方形周溝墓とか見つかってるようだけど。


552 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 17:48:32
>>551
あの表をみると、庄内期を飛ばした方が良いように見えるのだが・・・
弥生終末と布留をつなげると自然になる。

553 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 22:58:54
交易拠点が唐古鍵からマキムクに移ったから、唐古鍵は寂れたんだよ。

554 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 02:19:57
交易拠点にはもっと人が住んでないとなあ…

>>552の言うように、唐古・鍵には庄内期はない、
庄内土器が搬入されない理由があったと考えるのが自然だよね。

寺沢薫はそれを東遷に近い形で説明してるね。
もちろん邪馬台国以前の時代の話だけれど。

555 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 20:32:12
大量の外来土器が出てることからも、マキムクに各地から大量の物と人が集まっていたことは類推される。
これを交易拠点と言わずして何と呼べばいいのか。

556 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 21:07:58
これでなんか見つかるといいんだけどねえ。
http://www.asahi.com/eco/OSK200901310036.html

557 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 21:21:31
>>556  かわいい神殿だね。

最初はただの堀建て建物跡に過ぎなかった。
             ↓
隣に小さな堀建て建物跡が見つかった。
             ↓
規模が小さいので両者を関連させて「祭殿」と言ってみた。
             ↓
「祭殿」と言い続けたら気が大きくなってきて「神殿」と言ってみた。



まあ大小の倉庫が並んでいるだけにしか見えないのだが・・・


558 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 21:52:34
>>556
結果はまだか

559 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 23:40:40
小さいよな・・・
この程度ならどこでも出てるよ
こじ付けはいい加減やめてほしい
あと、まぁ時代的にも金石文が出てこないと厳しいね
志賀島の金印が57年だからな。全く無いって自称じゃ恥ずかしいよ

560 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 03:02:31
まあ神殿とか祭殿なんてのは言葉の”あや”程度の話で
神殿と言えばどうしてもエルサレム神殿とかパルテノン神殿みたいな
巨大な建築物のイメージになるからなw

このさほど大きくない使われている柱もかなり細い建築物は
今日の神社の遷宮みたいに一定期間で壊される事を前提にして作られた
…という話があるが

いずれにしても北の脇殿が出ないとどうにも…
現状考古学者の”カン”だけの話しだしw


561 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 10:38:11
>>555
規模が全然違うだろw
下手すりゃ一桁違うぞ

562 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 10:55:16
>>560
> …という話があるが

想像でしょ?
マキムクで痕跡見つかったことある?

祭祀跡の数が多いのは間接的証拠と言えるかも知れないが、
式年遷宮は完全に東海の政だぜ。
使役を課せられた神戸の分布見ればわかる。遠江にもある。
マキムクの時代はもちろん社遷宮は起源すら良くわかってない状況。

563 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 19:22:27
>>562
そのビルド・アンド・スクラップってのは高島忠平だったかな?
(遷宮は分かりやすい例えとして付け加えた)
恐らく纏向に今後太い柱を使った楼観と言えるような建築物は出る可能性は少ないのではないかとしてね。

まあどの道現状、祭祀に関係した建物と見た方が良いんじゃないかな?
(呼称は「神殿」でも「祭殿」でも良いがwww)

倉庫にしてもやや小さい印象を受けるが
何より周りから交易品と思われる物が出てきたと言う話も聞かないし…

つうか搬入土器は纏向の祭祀に参加する為に地方から来た人間によって
もたらされたと見る方が自然だと思う。

交易なら外来系土器の17%を閉める山陰・北陸は別に日本海で交易できたろうし
わざわざ大和に来る理由が無いと思うがw




564 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 20:44:35
>>563
>つうか搬入土器は纏向の祭祀に参加する為に地方から来た人間によって
>もたらされたと見る方が自然だと思う。

自然だと思うなら、
纏向の祭祀に一番多く参加した東海は、どうして前方後方墳なのか説明してね。





565 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 14:38:13
その前に、丸と四角にどういう政治的な意味があるのか説明してほしいな。
根拠を上げて。

566 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 15:45:39
>>560
イナバ物置は100人乗ってもびくともしないのだから、体育館と言えるだろうね。
イナバ物置体育館と纒向5メートル神殿とは良い勝負だw


567 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 16:34:56
>>563
日本海勢力は意外と畿内経済ブロックと近しいよ。


568 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 21:41:36
出雲に前方後円墳が出来るのが5世紀後半と聞いた。

どうして出雲が初期大和王権と関係あると言えるのか?

569 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 23:20:29
>>562
式年遷宮が「東海の政」だとは、その証拠からはとても胃炎。
伊勢神宮への神戸は、愛知県東三河や静岡県遠州に濃厚に分布している。
伊勢→志摩半島→渥美半島→遠州→東国太平洋側
という、尾張美濃をまるごとすっ飛ばして今の「名古屋圏」完全スルーで
東日本と直通するルートは、
しばしば等閑視されるにもかかわらず、歴史上非常に重要なルートではあるが、
伊勢の式年遷宮の起源自体とは、おそらくあまり関係ないよ。
この時代の古代史においては、
三遠式銅鐸のように、ツーテンポくらい遅れてw東海要素が残存繁栄する地域にあたり、
伊勢とも濃尾とも、>>562のいうような直通関係とは言い難い。


570 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 00:16:14
>>568
越と出雲は分けて考えた方がいい。
特に越はヤマト王権成立で瀬戸内海航路が

571 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 00:19:00
>>568
越と出雲は分けて考えた方がいい。
特に越はヤマト王権成立で瀬戸内海航路が安定するまでは、
東西ルートのメインだった。
弥生後期に畿内勢力から巨大銅鐸を送られていることからも、
畿内勢力が越勢力をいかに大事にしてたかが分かる

572 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 00:33:14
>>571
越が瀬戸内に対比される「東西ルートのメイン」とはどういうこと?
どんなルートを想定しているんだ?まさか真正の北回り(北海道樺太沿海州)ではあるまいに。
地名をあげてルートを具体的に教えてほしい。まったく意味が分からないよ。

573 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 01:49:41
>>572
日本海航路のことだろ

574 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 04:05:44
>>572

・・・なんでここで北海道が??????????

575 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 08:56:14
>>568
連合が成立したばかりの3世紀にはいろいろな墓制が共存している。
それが前方後円墳に共通化されていくのは布留0よりあとだ。
だからこういうシナリオが考えられる

200年前後に連合成立期。文字通り連合で、
各地域の首長はそれぞれ自主性を認められていた。

その後、ヤマトの中央集権化が進み、
ヤマト王権の力が大きくなるとともに前方後円墳が広がっていく。

この中央集権化の流れの中、吉備は布留0頃に、
尾張は前期のうちに前方後円墳に移行する。

最後まで中央集権化に抗い、連合を離脱したのが出雲。


576 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 09:36:39
前方後円墳などの墓制と日本の統一は無関係でしょ。
ヤマト王権は宗教国家じゃないです。


577 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 09:41:02
>>571

越が畿内の東西ルートのメインとは、どういう遺物からそう言えるの?
丹後のほうが遺物は多いのでは?

>>575
出雲については、初期連合に参画してたとは思えないけど、
前のほうのレスで、NHKの番組で、ヤマト王権誕生に出雲が関係してたとか言ってたのは、
やっぱりデマ?


578 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 10:17:20
なぜ思えないの?

579 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 10:32:45
>>578
なぜ思えるのか、考古学的な論拠は何なの?


580 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 16:38:49
>>577
銅鐸って書いてるだろ。
そもそも外来土器を交易じゃなく宗教とか言う時点で

581 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 19:37:58
だから、丹後についての評価はどうなのさ?


582 :日本@名無史さん:2009/03/02(月) 04:15:30
マキムクとは200年ほど年代が違うのでスレ違いだが、許せ。


◆造山古墳の謎を解明へ、岡山大が発掘調査

 前方後円墳で墳丘の大きさが全国4位の造山(つくりやま)古墳(岡山市、国史跡)=写真・本社機から=について、岡山大は1日、本格的な発掘調査を始める。
同古墳は全長350〜360メートルと推定され、全国3位で同時期の築造とされるミサンザイ古墳(履中天皇陵、堺市)に匹敵しており、天皇陵と並ぶ巨大古墳が、畿内以外に築かれた謎に迫る。

 調査は3年計画で、初年度は前方部の西側、後円部北側の2か所を発掘。墳丘の周濠(しゅうごう)の有無を調べて全長を確定させ、埴輪(はにわ)を発掘して、5世紀前半とみられる築造年代の特定を目指す。

 国内最大の大山古墳(仁徳天皇陵、堺市)などは造山古墳以降の築造とされ、調査にあたる新納(にいろ)泉・岡山大教授(考古学)は
 「畿内をライバル視していた吉備の権力者が巨大な古墳を造ったことで、畿内の古墳造りに火を付けたとも考えられる」
と話している。

(2009年3月1日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/university/research/20090301-OYO8T00294.htm

◇造山(つくりやま)古墳(岡山市、国史跡)=写真・本社機から=
http://osaka.yomiuri.co.jp/photo/20090301-471847-1-N.jpg

583 :日本@名無史さん:2009/03/02(月) 04:26:54
↑の関連リンク

◇岡山大学考古学研究室HP 造山古墳第1次調査速報
http://www.okayama-u.ac.jp/user/arch/zzn1/index.html

↑調査日誌あり (まずは草むしり?)

584 :日本@名無史さん:2009/03/02(月) 14:20:49
>>581
丹後半島も日本海側と太平洋側を結ぶ中継地として繁栄していただろう。日本で一番低い分水嶺だっけ。
それと今回の話とは余り関係ないと思うが。

反論なら、どう思うの?とか曖昧に誤魔化さず、きちんと自分の考えを述べて欲しいものだ。

585 :日本@名無史さん:2009/03/02(月) 23:35:11
吉備、造山の話は確かに興味深い。
>>1
>纏向が王権化して各地を凌駕したものが
>後の大和朝廷だと考えられています。

とあるが、本当にマキムクが各地を凌駕していたか?
マキムク当時、大和王はせいぜい頭一つ出ている程度だったのではないかと


586 :日本@名無史さん:2009/03/03(火) 14:35:00
>>569
伊勢からは三河も尾張も船で行くからね。
尾張すっ飛ばしに特に不思議はない。


587 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 15:13:14
尾張は小墾田だから、後に開墾が進んだ新興地域なんだよな、確か。

588 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 00:57:54
先日 新たに発掘が始まった纏向遺跡に行ってきた
発掘現場は訪れなかったけど
箸墓古墳、ホケノ山古墳、茅原(檜原神社)あたりを廻ってきた。
ビデオ撮影したんでよかったらその時の動画どうぞ

http://www.youtube.com/watch?v=j7PU6MTvlfE

589 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 14:45:32

■邪馬台国時代の前方後円墳は2タイプ 古墳誕生の謎に一石
3月5日23時33分配信 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090305-00000602-san-soci

 邪馬台国の最有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(3世紀)にある国内最古級の前方後円墳の矢塚、勝山、東田大塚の3古墳について、
県立橿原考古学研究所と同市教育委員会は5日、前方部の形によって2つのタイプに分かれていたことが判明したと発表した。

3古墳は、いずれも前方部が極端に短い「纒向型」で前方後円墳の祖型との見方もあったが、古墳誕生直後から2つの系統があった可能性が浮上。
前方後円墳の発展過程を考える上で貴重な資料になりそうだ。

 同遺跡では、3古墳のほかに纒向石塚古墳(全長96メートル)など計5基の最古級の前方後円墳が相次いで築造され、邪馬台国時代のトップクラスの墓とされる。

 「纒向型」は、前方部の長さが後円部のほぼ半分しかなく、天皇陵など巨大な前方後円墳とは形が異なるのが特徴。
今回の調査によって、矢塚古墳(3世紀中ごろ)は全長96メートル、前方部は後円部のほぼ半分の34メートルで纒向型と確認。
一方で、東田大塚古墳(3世紀後半)は全長120メートルで前方部は50メートル、勝山古墳(3世紀半ば以降)は全長115メートルで前方部が48メートルと、いずれも前方部が従来の想定より長いことが判明、纒向型ではないと分かった。

 前方後円墳は、纒向型から前方部の長い墳形に発展し、邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説が根強い箸墓古墳(全長280メートル)が築かれたという説が有力。

 寺沢薫・同研究所総務企画部長は「纒向型以外に前方部の長いタイプが当初から併存していた可能性も出てきた。日本列島の王権につながる纒向地域の前方後円墳の成立に、新たな謎が生まれた」と話した。

 現地はすでに埋め戻されているが、矢塚、東田大塚両古墳の出土遺物は6〜13日、桜井市埋蔵文化財センターで展示される。


590 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 14:55:38
寺沢が言うようなマキムク型、てのが本当に確立してたかは疑問だったし。
一括りにマキムク型とかではなく、皆思い思いに造ってたのでは?
ある程度様式が確立するのは箸墓=卑弥呼の墓以降。

591 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 17:37:56
これでバチ形に開く箸墓の起源が分かったな。
柄鏡形の先っぽに巻向形の短い前方部をくっつけたものがバチ形だ。
つまり二つの勢力の融合がフル0期に
ヤマト王権が拡大発展した理由であり、箸墓がその象徴だって事だ。
これで決まり。

え?石塚もバチ形?なにそれ。しらんよ。
あーあー、聞こえない、聞こえない。

592 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 18:16:55
>>589の発表は本来、
> 前方後円墳の祖形は「纒向型」で、
> 前方後円墳が「纒向型」から発展していることが、
> 邪馬台国が纒向にあったことの証拠
という説が間違いでした。
というものになるはずなのに、
二種類あったことが発見されたことになってるw


593 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 22:54:52
3〜4が2タイプに分かれるとか何言ってんだ、寺沢は。
ほとんど様式が確立されることなくバラバラで、
前方後円墳に先行する「マキムク型」なんか存在しなかったてことだろ。

594 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 23:33:09
■弥生中期の鉄製品 大量出土  高知県土佐市の上ノ村遺跡
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kochi/news/20090306-OYT8T01002.htm

 県埋蔵文化財センターは6日、仁淀川河口に近い土佐市新居の上ノ村遺跡で、弥生時代中期末(紀元前後)の鉄製品約250点が出土したと発表した。まとまって見つかった例では県内最古。
九州北部などを除いてこの時期の鉄製品が見つかることはまれで、同センターは「このあたりが九州から鉄を輸入する交易拠点の一つだったのだろう。鉄製品の生産が広がっていく始まりを解き明かす資料」としている。

 弥生時代中期末の鉄製品は非常に貴重で、県内では南国市や香南市で数点見つかっているのみ。対岸にあたる高知市春野町の西分増井遺跡で見つかった弥生時代後期の鉄器生産地より100〜200年さかのぼる。

 鉄製品は、竪穴建物跡(直径4メートル)で約170点が密集してみつかり、水路などにもあった。大きさは1〜6センチで、加工途中らしく、はっきりした形をしていないが、刃物のようなものもあった。
砥石(といし)も同時に見つかり、同センターは「鉄製品の再加工をしていた工房にかかわる施設ではないか」としている。

 九州北部では縄文時代末〜弥生時代初頭(2800〜3000年前)に鉄製品が使われ始め、弥生時代後期(1〜3世紀)に全国に広がったと考えられている。
同センターの池沢俊幸・調査第三班長は「鉄を入手できるだけの強力な集団がいたのだろう」と話している。

 現地説明会は8日午後1時30分から。仁淀川沿いを護岸した江戸時代前期の大規模な石積みとともに説明する。
(2009年3月7日 読売新聞)

他ソース
上ノ村遺跡:弥生中期末の鉄製品大量出土 県内最古塗り替える−−土佐 /高知
http://mainichi.jp/area/kochi/news/20090307ddlk39040628000c.html

595 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 00:11:39
>>594
弥生中期って・・・時代区分はOKなのかな?

最近の古代関係の発表は大本営的なものが多すぎてワケワカラン・・・

596 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 00:28:21
>>595
上ノ村の発掘調査はもう6年目。
大きな遺跡で全時代にまたがっているから、丁寧に掘ってると思うよ。
不審なところはきょうの現地説明会で聞いてみよう!
http://kochi-bunkazaidan.or.jp/~maibun/contents/5_excavation/contents/1_nation/contents/08_1hagegawa.htm

597 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 06:48:06
古代史ブームの底辺には、ルーツへの興味、身近な謎解き以外に、考古学への不信感があると思う。
これは、石器を埋めて年代をごまかした疑惑を暴いたのが考古学者ではなく、素人の新聞記者だったと言う
事件に象徴されるように、日本の考古学者に科学者と言う意識が乏しいことが挙げられる。

特に古代史ファンの中で理系教育を受けた人間に、現代の日本の考古学のアプローチに疑問を感じる人が多い。
これは、日本の考古学者の出す結論が結果的に正しいかどうかと言う問題ではなく、結論に至るプロセスが非常に
科学的でないと言う印象があるせいだ。
日本の土器編年に代表される年代推定も、疑問符の付く対象で、始めに年代ありきで、後付けで、主観的な(あるいは
関係者以外の検証が非常に困難な)理由を付け足しているような印象を与えている。


598 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 08:51:20
九州説は本当に科学的じゃないしな。

599 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 09:55:57
■NHK:番組撮影でJR西日本の列車止める−−奈良・桜井

 NHKの報道番組「クローズアップ現代」の取材をしていた外部委託カメラマンらが、奈良県桜井市のJR桜井線近くを撮影していた5日、運行中の電車を止めていたことが分かった。
NHKは近くJR西日本に謝罪するという。

 NHK広報部によると、撮影していたのはNHKが委託した民間制作会社のカメラマンと撮影助手。
同日午前9時すぎ、邪馬台国をテーマにした番組(放送日未定)の取材で、巻向駅近くの線路脇約2・5メートルの場所に三脚を立て、付近にある纒向遺跡と線路の位置関係を撮っていた。

 運転士が見つけて電車を10〜20秒止めたが、後続への影響や乗客らのけがはなかったという。

毎日新聞 3月7日
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090307dde041040042000c.html

600 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 11:14:43
    ☆ チン     マチクタビレタ〜
                        マチクタビレタ〜
       ☆ チン  〃  ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        ヽ ___\(\・∀・) <  調査結果のリーク、マダァ〜?
            \_/⊂ ⊂_ )   \_____________
          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /|
       | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  |
       |  愛媛みかん |/

601 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 12:54:05

イヨ・・・・タン・・・・・・・・


602 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 17:44:46
>597
オレが大学のころ習った、とある授業の教授も言ってたな。
考古学者は、理化学的年代測定の数値を受容せず、意図的に新しい年代にずらしてしまう、と。
それをずらさないで適正に受容したから現在の年代になっただけだな。

603 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 20:01:24
>597

理系だけじゃなくて、他の社会科学の分野から見ても考古学と言う分野が果たして
学会と言うものが機能しているのか大いに疑問。
推論、論文のプロセスもそうだが、少数説、異端説に対する取り扱いが、近代の学会とは思えない。
保守的と思われがちな法学の分野でも、少数説だからといって黙殺される事は少ない。
例えば、政府の主張する自衛隊合憲説は学会レベルでは少数説ではあるが、少数説だからと言う理由だけで
排除される事は無い。
日本の公庫学会も、もっとバラエティーに富んだ学説が飛び交っても良いはずなのに、箝口令が布かれているような状態。
自由な発表や批判が無いと学会とは呼べないと思う。


604 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 21:42:00
別に入会資格があるわけじゃないし、年会費だって、さほど高額ってわけじゃないんだから、
閉鎖的だと思うなら、自分が入ってみて、中から批判したらいいんじゃね?

605 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 22:03:24
誰かの推薦とかいらないの?

606 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 22:29:51
>604
中から変われるような立派な団体だったら,とっくに変わってるとオモ

607 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 23:59:25
例えるならば中小同族企業って感じじゃね?
逆らうヤツはクビなのです

608 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 01:03:18
>>603
むしろ、異端説が支配して批判できない異常さの方が問題だわな。

△が舶載とか、痛々しい説でも批判できない「空気」がある。
東大寺山の中平年刀も国産という意見をいえない「空気」がある。
検証のない年輪年代の批判をいえない「空気」がある。
碌なものが出てこない「マキムク史観」を批判できない「空気」がある。
挙げればキリがないなあ・・・・・


609 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 01:52:29
>>608

三角縁神獣鏡の魏鏡説を批判し、初めて国産説を提唱したのは森浩一氏である。
もちろん森氏は考古学者であり、長年にわたって大学で教鞭をとり、
日本考古学協会や考古学研究会など多くの考古学関連学会の会員として
会員名簿に名を連ねている。今や日本考古学界の重鎮である。

>批判できない「空気」がある。

は一方的な見方であり、上記のごとく事実誤認がある。

610 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 02:11:54
>>609
んなこたぁ知っとる!今現在の話だろ。

今は正面切って批判する者もいない。
あの争点への発言を避ける者が多数を占める。
△の言論状況は学界の言論状況を象徴しているってことだ。

611 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 09:20:15
>>608
お前の方が見ていて痛々しいわw

612 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 12:21:40

 ♪ 怨み節〜



613 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 15:18:30
ユダヤ人が弥生人を侵略して大和朝廷を打ち立てたんですよ。日本古代史は世界史の視点から見る必要性があります。

614 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 19:39:24
権力は絶対的に腐敗するからな。
昔の畿内考古学のドン、小林行雄の言っていた実年代観を、
みんな薄々違うとは思いながらなかなか否定することが出来なかったように。
理化学的に年代が測定できるようになって、ようやくそういった旧弊が打破されてきているというか。

615 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 19:50:46
理化学的にも証明できない九州説は哀れだな。

616 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 20:00:53
△舶載説や年輪年代法を批判する人は、それが自説に都合が悪いから批判する。
これは批判しなければ自説を否定することになるわけだから当然の行為でしょう。
自説の展開に影響しない論者にとっては、無理に批判する必要はないもの。
客観的に眺めていれば善いのだから。
学術的な疑問を感じてもそれを追究するには相手の研究領域に踏み込まなければならない。
よほどの閑人でもなければ普通は手を出さない。

617 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 20:27:07
>>616
多分に実年代が絡んできてしまう邪馬台国論争は学問的でない、ってことなんだよな。
実年代があやふやでは、本来考古学的には議論が難しいお題。
漸く年輪とか放射性炭素などで実年代がある程度確定してきて、
初めて議論が出来ると思う。

618 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 20:41:39
>>614
>小林行雄の言っていた実年代観

古墳発生を実年代でいつごろとするか、という点なら。小林の著書を読んでみればわかると思うが、彼自身一定していない。
おおざっぱに言うと、若い時の小林は梅原末治と同じで3世紀後半説。
晩年になるにつれく3世紀後半→3世紀末→4世紀初頭と変わっていった。
弟子の佐原真や田辺昭三の説に引き摺られ、或いは東大の斎藤忠氏に歩調を合わせたのかもしれない。

619 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 20:57:47
>>618
実年代が前提たからこその小林の伝世鏡説だと思っていたのですが。すいません。

そもそも畿内の遺蹟って舶載の遺物が少なくて実年代推定が難しいと何かで読んだのですが、
佐原とかの実年代推定の根拠って何なんでしょうか?

620 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 21:33:11
>>619
>佐原とかの実年代推定の根拠

高地性集落。
佐原は好奇心旺盛な一面があり、当時問題にされ始めた高地性集落について
後漢書記載の倭国大乱と、深い検討なく安易に結びつけてしまったと思う。

◇田辺昭三・佐原真「弥生文化の発展と地域性 3 近畿」、(『日本の考古学 V 弥生時代』 河出書房新社 1966)

佐原は最晩年、「私の古墳時代開始の年代観は、遅らせ過ぎだった」、と
反省の弁を述べていたそうだ。病床を見舞った森岡秀人氏の言。

このページなどが参考になると思う。
http://www.lbm.go.jp/mappie/00seminor.html

621 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 23:39:17
まあ例によって例の如くいつもの「東遷説の人」なんだろうが…w

三角縁については命題を
「では卑弥呼のもらった鏡はどの様な物であったか?」
と置き換えた場合、

その極僅かな大陸での出土を見る限り「神獣鏡」の可能性が高いと言わざるを得ないだろうに。

まあネットでも
「五斗米道とかに手を焼いた魏が仙道色の濃い神獣鏡を好んで使うわけがない」とか
「後漢朝より禅定で王朝を引き継いだ魏は当然後漢朝と同じ鏡(内行花紋・tlv)を用いるはず」
・・・などと実しやかに書かれているが実際の出土状況が伴っていない以上机上の空論。
(安本センセイも似たようなこと言ってたかな?w)

考古学者が積極的に魏鏡説を否定する状況にないのは自明の理。

自分の気に入ったように学会の趨勢が進んでいないからといって
ヒステリー起こすのはいかがな物かとw



622 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 00:43:20
>>621
出土状況を直視しろととしか言えないね。
痛々しい。
試験1週間前の3浪受験生なみのデリケートな扱いを受けていることくらい気づけよ。

623 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 01:02:08
だれうま

624 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 08:28:37
魏の紀年鏡をすべて後世の偽作としたり伝世鏡とする方がどうかしてると思うが。

625 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 10:49:31
九州からは卑弥呼の鏡百枚は見つかったの?

それはどんな鏡で、どこに配布されてた?

626 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 12:45:07
そもそも筑紫に広域の威信財配布状況を示すのは広形銅矛ぐらいで、
弥生末以降、そういったものは無くなる。
九州説の場合、卑弥呼の鏡はどうなったと考えてるのか?

627 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 15:27:40
>>626
近畿政権に奪われた
卑弥呼の鏡も国名も金印も法隆寺も何もかも・・・

628 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 18:24:20
たしかに鏡は動産なんで、筑紫から大和に運ばれた、持っていかれたという推測は可能。
しかしそのような畿内による西征やら筑紫の東遷が想定出来ないというのが大多数の意見。

629 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 20:43:27
>>626
広形銅矛は威信財ではあるまい。共同体の祭器であろう。

広形銅矛に限らず大型化した武器形青銅器類は、銅鐸と同じで
その出土状況から、弥生の共同体祭器であったと思われる。

(ただ対馬においてのみ、一部に威信財的使用が認められるが)

630 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 21:06:59
威信財かどうかの判別は、墓に埋葬されたかどうかなんでしょうか?


631 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 21:20:23
>>630
財の所有の主体が、個人であったか、なかったか、ということ。

各地において広形銅矛が、一人の首長の独占にかかる所有物だと、もし証明できるなら
それならば「威信財」と捉えても構わないのだが、きっと難しいだろう。

632 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 21:26:36
青銅祭器が集中的に生産され、周辺地域に配布されているとすれば、
それら地域にはある種の政治的結びつきがあって、
製作地を押さえている勢力がある程度の政治的中心性を持っていたと捉えるべきでは?
青銅祭器が後に舶載鏡に取って代わられたということ。

633 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 21:49:59
威信財と言う仮説そのものは否定しないけれど、根拠が弱すぎるなぁ
墓から同じものが出て来たとしても政治権力の影響の可能性もあるし宗教的影響も考えられる。
世界とは言わないけれど、東アジア的な視野に立った人類学的な考察が欲しい。
(世界的には,考古学は人類学の一分野と見なされている。)


634 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 22:05:23
>>632
>ある種の政治的結びつき
>ある程度の政治的中心性

それは別に構わない。認めていい。

ただ「ある種の」「ある程度の」は、便利な言葉ではあるが、
こういう言葉はともすると何となく分かってしまった気分になり
思考停止に陥る危険性もある。
お互いもっと具体的に掘り下げて検討してみようではないか。
縄文→弥生→古墳と、時代が進むにつれ、社会は変化し、「所有」の観念も実態も、変わってきているのではないかと思うから。

ともかく、もし財が一人の個人の所有と認められず、共同体による共同所有の形を強く匂わせる場合は
「威信財」と呼ぶべきではない。用語の問題だ。
1メートルに及ぶような広形銅矛・巨大銅鐸を博物館で見れば、誰しも「凄いな」「凄い財宝だな」と思うが
だからといってこれを即「威信財」と呼ぶようなら、あまりにも用語の適切さを欠く。




635 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 23:10:22
>>634
どうなんだろ?
弥生後期の首長権力の増大の過程と、青銅器の一括生産、一括管理はリンクしてると思うのだが。

確かに威信財という言い方は正確ではないかも。レガリアが適切か

636 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 23:26:50
>>628
九州王朝は唐との戦いに敗れ、
その後に起こった九州王朝の内乱壬申の乱で弱体化し大和朝廷に実権を奪われ、
695年に大化の改新(乙巳の変)で九州王朝は大和朝廷に滅ぼされる。

637 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 23:36:48
>>636
( ´д )ヒソ(´д`)ヒソ( д` )やだー変態朝鮮人よ〜。

638 :633:2009/03/11(水) 05:42:08
>635
レガリアと呼ぶのは一つのアイデア、想定として良いと思う

墓を掘ってるのだから、考古学者には、少なくとも墓を作った時代の人々の死生観についての
考察を行なって欲しいと言うのが、他の専門分野に従事している人間の正直な感想だと思う

世界的には、死後の世界の生活を信じて死者が生前身近に使っていたものと共に埋葬する例は非常に良く見られるし、
現代でも行なわれている。あるいは、魔除けとか(守り刀など)、盗掘者を呪う呪物とかの例もある。
これらの副葬品は、確かに埋葬者の身分が高くなればなるほど立派になって行き威信を示す意味合いも増すのは否定しないが、
あまりに表面的すぎる考察だと思う。
また、本当に威信を示すのが主目的なのであれば、埋めてしまうものよりも、外側から判るもの,例えば古墳の規模、高さ,装飾などの
方に注力すると思う。
青銅器が、埋葬のためだけに作られたものなのか、あるいは埋葬者が生前使っていたものなのか、魔除けなのか、
少なくとも、何らかの意味を込めて埋められた事は間違いない。

そういう意味で、王権の保持者を象徴するレガリアと言うのは、(一つの仮説として)良いアイデアだとは思う。


639 :633:2009/03/11(水) 08:37:12
>638
レガリアとした場合、当然の事ながらいくつか考えなければいけない項目が出て来る。

1. レガリアは通常先任者から後継者に引き継がれるのが普通。そうすると埋められたものはコピーか?
2. 仮にコピーとした場合、なぜ集中的に作られ配布されているのだろうか?
3. 日本書紀によると、レガリア(三種の神器)は下の者から、上の者へ奉納されている

等々の疑問が涌いて来るけれど、レガリアと言うアイデアを捨ててしまうにはまだ早いと思う




640 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 13:12:40
広形銅矛、銅鐸は威信財でなくてレガリア、っていう議論じゃないの?
三角縁は主に古墳祭祀用に使用されてたと思うが。
鏡の副葬は筑紫発で、ヒラバルの大量破鏡を見る限り呪術的意味合いが強い。

641 :633:2009/03/11(水) 19:48:43
>640
レガリアと青銅器と言う言葉で、勝手に鏡や後代の三種の神器の方を連想してしまった。スマソ。

書込んだついでに言うと、銅鐸は発見状態から言ってレガリアとするには結構疑問が残るが。
むしろ、銅鐸は専制的な君主が現れる前の村落の共同財産風な埋納のされ方でしか発見されていない。
銅矛の方は、古墳の副葬品としても発見されているから、王権の象徴、レガリアの可能性はあると思うが。



642 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 21:42:14
実際、後期の見る銅鐸は材料やら形式から見て、一つの工房で一括生産されてたらしい。
前期の聞く銅鐸は統一性がなく、各々の地域で作られてたのと大きく違う。

643 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 22:25:45
伝世していないという意味では、三角縁はレガリアとは言えない。
おそらくは威信財、辟邪のアイテムというので正しい。
卑弥呼の金印はレガリアとして伝世され、歴史の闇に消えたが、
おそらくは倭の五王の時代に副葬されたか、漢委奴国王印のように秘匿されたのだろう。
だからこそ倭の五王は南朝に遣使したのであって。

644 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 23:08:01
三角縁をレガリアとするなら、
たとえばヤマト王権が各地の首長の代替り毎に、
地位後継の承認として三角縁を送ったとか。
前に送られた三角縁は死んだ王と共に埋葬される。
ヤマト王権は各地のオウの代替り時に後継者を指名することで権力を広げていったとか。

根拠のない夢想だが、たとえば出雲や紀の国造家が皇室に代替りを報告したように、
そういったルールがあったと考えても良いのかも

645 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 23:24:38
>>643
五王が遣使したのは、半島で高句麗やら百済と対抗するためだろ。

>>641
見る銅鐸は中国の鼎みたいな扱いだったように思うが。

646 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 00:01:43
マキムクで出土してない遺物だと、みんな熱心になるんだね。w
このスレではしょっちゅうみたいだけど、スレ違いなんだから、よくないよ。ww
もちょっとマキムクを議論してくれ〜。www

647 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 00:51:49
では閑話休題w

以前から思っていたネタを…

纏向の掘立建物、正確に”西向き”だがあれは何か意味があるんだろうか?

素人考えだが、建物を現在の神社の拝殿のような物に考えれば
建物に対する人間は東を向くことになり上る朝日を拝む太陽信仰のような意味合いがあったのではないか…
とも考えるがどうでしょうか?w


648 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 11:10:31
>>647
> 正確に”西向き”

度で言うと?

649 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 21:03:59
他にも西向きの遺構なんてあるでしょ
比較検討もしないでは議論にもならん
また、時期によっても日の出日の入りは相当ずれるので建物が
正確に西を向いていた事が太陽信仰の根拠になるならば世界の西向きの遺構
も全て太陽信仰してたと考え直さなきゃいけなくなるんじゃないのかな

650 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 19:24:12
今のマンションは、南向きが一番高く、次に東向き、西向きの順に安くなって、
北向きが一番安い。
これは、太陽信仰の影響かと言うと、殆ど関係ないだろうと言うのが、(考古学者を除く)一般的な理解。


651 :650:2009/03/14(土) 05:46:42
建物の向きで太陽信仰の有無を語るのは、根拠が極めて薄いと思うが、かといって
古代日本に太陽信仰が無かったかと言うと、明らかにあったと思う。
欧米人は、現代日本においても、アニミズムの息吹にあふれていると感じるそうだし
(欧米では、アニミズムが無くなってしまったのではなく、社会の表面から消えてしまったと
言われている)、太陽信仰の痕跡は日本の神話にも残っている。
天照大神なんて、名前からして太陽を意味している。
ただ気になるのは、纏向が繁栄していた頃、太陽信仰がこの地にもあったとは思うが、天照大神と言う言葉がこの地に存在していたかどうかは判らない(オオヒルメノムチも同様)。
昨今、纏向と日本書紀、古事記等の伝承を結びつける論評が多いが、一つ一つを見て行くと余りに他愛無い論証が多い。
記紀の記述と合う所だけを論証に使い、合わない所は、単に記述の誤り、というやり方は、説得力に欠ける
(少なくとも、他国の学者は納得しないだろう。学問だから、ある程度の客観性が必要だ。)。



652 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 11:33:26
>>651
記紀なんてのは所詮、マキムクから数えて500年近く経ってますから。
現代人が、ろくな文献も無く、語り伝えで戦国時代のことを書くようなもの。
安易に記紀と結びつけるのは危険なのは至極真っ当な意見だとは思いますが。

しかし、初期ヤマト王権の王者が三輪山山麓に居住し、尚且つその大王の名前が
ハツクニシラスとかになると、語り部が昔のことを割と正確に伝えていたんでは?とか
考えたくもなります。

653 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 20:56:19
そういう名前は後付けの最たるもんじゃん。> ハツクニ、アマテラス
ワケとかイリなら、まだ実在を想定する理由はあるけど。

654 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 21:40:04
>>653
ハツクニシラスと呼ばれた崇神の忌み名はミマキイリヒコイニエ

655 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 21:55:48
ミマキイリヒコイニエは実在の名前を反映している可能性あるけど、
ハツクニシラスはそういうことは想定しにくい、というかかなり危険。

656 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 00:19:58
>655
いや、だから「和風謚号」でしょ、「ハツクニシラス」って。
奈良時代初頭頃に作られた称号らしいってトコでFAなんじゃなかったっけ?
んで、神武とか崇神とかは「漢風謚号」で、記紀編纂の途中か直後ぐらいに作られたはず。

どっちも、称号自体は奈良時代に作られて「追贈」されたものであって、同時代性のある名称じゃない。

657 :650:2009/03/15(日) 05:42:09
纏向が栄えていた頃、当然この地を統治していた王権があり、その王の名前が、ミマキイリヒコイニエだった可能性は
否定しないが、その勢力範囲がどこまで広がっていたかは議論の余地がある。
記紀、倭人伝、東夷伝から共通してうかがわせる日本の古代の姿は、小国の分立状態であったと言う事は論を待たないと思う。
この状態は、世界史で習う他国の発達段階と相似性がある。
倭人伝によると、卑弥呼以前の男王統治下では争乱が収まらず、また卑弥呼死後、男王が立つとまた争乱が始まり、豊与と呼ばれる女性を王にして
争乱を収めたとあるから、邪馬台国が軍事的に圧倒的な立場にいたのではなく、むしろ宗教的な力で、小国連合の盟主を務めていた事を想像させる。

(中国側の文献は、記紀に比べ同時代性が高く、また読書人が書いたものであるので、記紀のような数百年後に纏められた書物よりも信頼性があると思う。
ただし、地理的情報(方角や距離)に現代人の正確性を求めるのはナンセンスだし、日本全体に関する知識を元に記述したわけではないので、相当割り引く必要がある。
しかし、彼が直接見聞きしたと思われる事柄に関しては、記紀よりもリアリティーがあると思う。)

このような神政政治は、ギリシャの都市国家群とデルファイ(神殿)の関係を連想される。

纏向の王が、その後の大和朝廷の王になったと言う考えは、非常に自然だと思う。
しかし、一つの問題提起として挙げると、そもそも、こんな豊かな地を周辺の部族が黙って手を出さないでいたのだろうか?
世界史の教える所では、経済的に豊かな土地は周辺の蛮族によって攻撃されるのが、法則のようになっている。
ギリシャを纏めたのは、マケドニアと言うバルバロイ(野蛮人)だし、ローマは自分が雇った傭兵隊長に痛い目に遭っている。

記紀ですら、在地勢力と侵入して来た周辺の部族との戦いを伺わせる記述があるし、歴史の常識としては、むしろ普通にあったと考えてもおかしくないと思う。

ひょっとしたら、神武天皇も侵入勢力のメタファーかもしれない、と言うのもオレなりの仮説だが。


658 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 09:10:20
>>657
>しかし、一つの問題提起として挙げると、そもそも、こんな豊かな地を周辺の部族が黙って手を出さないでいたのだろうか?

周辺地域が手を出さなかったという君の認識の根拠はなんなの?
むしろ、周辺地域の部族が積極的に奈良盆地を開拓して拠点を作っていた痕跡が、
奈良の六県神社として残ってるわけだが。




659 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:56:53
新興宗教「天理教」の犯罪
http://www11.atwiki.jp/tenrikyo/

660 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 01:22:43
神武天皇=政治王  天村雲命=祭祀王

この間、火明命系とニニギ命系の間で争いが起こる=欠史八代前期、倭国大乱の時期

崇神天皇=政治王、ヤマトトトヒモモソ媛命=祭祀王

崇神天皇=政治王+祭祀王

661 :650:2009/03/16(月) 05:14:15
>>658

いや、普通に周辺地域からの平和的・軍事的侵入があったと思っている。
六県神社については、何の知識も持ち合わせておらずコメントは控えるが、
仮に外部からの侵入勢力と奈良盆地の在地勢力の戦いがあったとしても、文字情報を含まない
遺物からだけでは、論証が出来ないので仮説と言ったまで。
戦闘が発生した蓋然性は極めて高いと思うが、いつ、どこで、誰が戦ったかは判らない
いわば、統計的推論に近いと思う、つまり、一万人の集団がいて、そのうち一年以内に誰が死ぬかを
予想する事は極めて困難だが、何人死ぬかはかなり正確に予想出来る、と言った類いの推論。
つまり、軍事力をある程度持つ地域間で富のアンバランスが長く続いた場合、いつどこで戦闘が発生するかは
予想するのは困難だが、いつか戦闘が発生するだろうと言う事はかなりの確度で言えると思う。
そして、記紀の神武神話は、過去の歴史的事実のデフォルメーションだと思う


662 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 08:05:17
たんなる印象ですやん

663 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 09:12:51
弥生終末期に各地からの畿内に対する軍事的侵入があったってのはかなり眉唾。
記紀神話に引きずられ過ぎ。
マキムク開始時に各地から多数の物資が流入、人々が移住してきたのは確かだが、
軍事的緊張はなく、むしろ環濠が埋め立てられるという事実からも平和裡な政治的決着がなされたと推測される。

あと、大和での古墳祭祀が突然起きていることから、外部主導を言う人がいるが、
マキムク型がどこか他の地域ではなくあくまで大和で誕生した点は見逃せない。
あくまで大和にて王権誕生が誕生したということ。
これは記紀神話においても、初代天皇がわざわざ東征してまで大和で即位したことと理屈は同じだろう。

664 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 10:35:56
>>663
日本はもちろんのこと、世界的に見ても、歴史は武力で動く。
壬申の乱から大化の改新、源平、戦国時代、明治維新などすべてそうだった。
平和的な政治決着などあったためしがない。

古代も武力で動くと考えるのが自然で、ありえないことを想定しなくては
ならないのは、考え方が根本的に間違っているからだろう。

平和的な政治決着などは机上の空論。それを想定しなければならない畿内説も
机上の空論。

665 :650:2009/03/16(月) 10:41:54
>>663
平和裡な政治的決着の根拠として環濠が埋め立てられていることを揚げられているが、
そもそも環濠があったこと自体が戦乱状況であったことを伺わせるし、また、埋め立てに関しても、
平和裡な交渉の結果かも知れないし、戦後の結果処理かも知れない。

また、記紀の記述にあるように、大和政権樹立後も戦乱の繰り返し状態であったし、むしろ、
そちらの方が自然だと思う。経済力と軍事力は通常一致しない(一致するようになったのは、近代になってから)。

戦争の痕跡は考古学資料に現れることはまれなので(例えば、壬申の乱は、実際にあったとする意見が多いが、
考古学資料だけで、それを証明することは出来ない)、遺跡の情報からだけで、古代は戦争の無い平和な時代だったと断定する方が、
よっぽど不自然であり、何故、そのような平和が維持できたのか、そのシステムを明らかにする必要があると思う。
(単に宗教的権威だけでは長続きしないことは、倭人伝の記述にある通り。)


666 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 12:41:35
>>664
ここでは畿内説かどうかは関係ないんでは?
>>665
戦が無かったと言ってる訳じゃなくて、マキムク誕生の契機として、
遠隔地からの外部勢力の進攻とかは想定出来ないと言っているだけ。
もっと言えば大和川水系豪族の連合、中河内からの大和への介入がヤマト王権の誕生の契機となったと。
その後マキムクが交通の要衝として人、物が集まり強大化したというだけで、
これは弥生中期末以降、大陸利権で人、物が集まり大きくなった玄界灘グループと同じプロセスだろう。

667 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 17:23:01
>人、物が集まり強大化したというだけで、

なるほど集まって来た連中の中に神武がいたのか。

668 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:35:00
>>667
神武ではなくもう一人のハツクニシラス、崇神がいた、というのが正しいだろう。
神武はイワレとかカシハラ、葛城?とかに縁があって、マキムクとは無関係。
しかし考古学的には大和に最初に誕生した王権はマキムクと思われ、
神武の縁の地にはそんな痕跡は見つからない。


669 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:57:57
日向三代とか神武東征、欠史八代を抜いて考えれば、記紀は非常に見易くなる。
つまりは崇神を初代としたシンプルな始祖王伝承が最初にあって、
それが大和王権の版図が拡大していくに従い、伝承世界も拡大せねばならず、
日向三代やら東征服やらが追加されていったということ。
当初は三輪山とか生駒山に降臨したであろうローカルな神の子が、
降臨の場所を日向に変え、日向神話を取り込み、瀬戸内海沿岸の豪族に歓迎されながら即位の地に向う神武の神話は、
大和がそれらの地域を支配する正当性を主張するために創られたものだろう

670 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 22:43:18
                _∧_∧_∧_∧_∧_∧_∧_∧_
     デケデケ      |                         |
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         ||  γ ⌒ヽヽコ ノ  ||
         || ΣΣ  .|:::|∪〓  ||   ♪
        ./|\人 _.ノノ _||_. /|\
         ドチドチ!

671 :650:2009/03/16(月) 23:34:48
文字の無い民族は、過去の話が神話化しやすいと言う報告がある。
未開の部族が初めて白人と接触した事件が、たった50年後には神話風に語り継がれていた、
と言う報告もある。
従って、神話から時代を推定する事は危険だと思う一方で、神話は無から創造されるのでなく、
かなりの確率で、過去の事件や事実を反映している、と言う報告もある。

記紀、とくに日本書紀は誕生の経緯からして政治的であり、また編者達は、明らかに倭人伝などの中国側の
文献を読んでいた形跡があり、大和朝廷の起源を邪馬台国に結びつけて過去を解釈しようとする傾向が見られるのは、多くの識者の指摘する所である。
歴史と言うのは、過去の事実の羅列だけではなく解釈でもあり、いつの時代もその束縛から逃れられない事は、
意識しておく必要がある。
そして、記紀を通して古代史を見ると言う事は、記紀の編者達の目を通して過去を見る事になる。
従って、記紀を分析する上で重要な事は、記述された事実と編者達の解釈を分離する事である(勿論、記述された事実が、編者達の選択の結果である事は
意識する必要がある)。
そして、考古学の第一の任務は過去の事実を洗い出す事であり、その歴史的解釈とは分離して語る必要がある。

さて、>>669 氏の記紀解釈であるが、日向三代等を抜いて考える、と言うのは一つのアイデアではあるが、
一つ疑問を呈するとすると、南九州の一酋長の支配地を略取する正当性の得るために、自らの王統の先祖譚を書き換えてしまうと言うのは、
いくら何でもやり過ぎなのでは無いだろうか?
スレが荒れる恐れがあるので、あまり邪馬台国などの国名を挙げたくないが、過去において自らの先祖譚を書き換える事は決して珍しくなく、むしろ良くある話だが、
大部分は自分より上位の権威に結びつけようとするものであり、征服の正当性を得るために行なうと言うのは、他に類例がない非常に特殊な事態ではなかろうか?




672 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 23:48:31
お願いだからマキムクを論じてくれ

673 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 00:18:14
>>672
お前が論じろよ

674 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 01:30:38
>>671
>南九州の一酋長の支配地を略取する正当性の得るために、自らの王統の先祖譚を書き換えてしまうと言うのは、
>いくら何でもやり過ぎなのでは無いだろうか?

記紀の日向神話をどう解釈するかは難しいところで、神話学者も納得できる見解を提示できてない
のが実際だ。
記紀の神代の殆どが出雲と日向神話で占められており、
なぜ大和や筑紫、東海、吉備、丹波など、弥生終末期に王権を誕生させたであろう強国地域の
神話は無視されているのか?は理解出来ない。
少なくとも記紀の編纂者は日向を一酋長の支配地程度には考えていなかったことは確か。
天孫降臨の地に選ばれる以上、聖なる場所という意識があったのだろう。
考えていなかったのだろう。
つまりは何度も各地域の王族間の混血、同族化が進む中で、日向の王統は
完全に中央に取り込まれており、大和朝廷から見れば完全な身内と思われて
いたのではないか?
少なくとも西都原は古くより大和と交流が深かったようである。

675 :サガミハラハラ:2009/03/17(火) 07:38:27
それは、記紀を編纂する際、日向から出された資料(現地の伝承)に天神降臨のことがかかれていたからです。
おそらくもっともくわしくかかれていたとおもわれる。そこで編者はあっさりと、降臨地は宮崎ということにしてしまったのです。
そして、それをもとに日向風土記では降臨者はニニギ(本当は別の名前であったようだが)ということに変えて記述されました。
これがしんそうです。

676 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 07:58:07
纏向の人口は何人ぐらいと推定できますか?

677 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 08:30:14
>>675
日向風土記にニニギの降臨神話があるのは事実だが、
神の子が聖なる山に降臨して最初の王になるといった神話は、
北方系では割りとポピュラーで、日本各地にあるし朝鮮半島にもある。
ニニギのクシフル岳自体、半島系の名前という説もあるし、ニギハヤヒが降りた白庭山も朝鮮神話の白頭山との関連性を言う学者もいる。

678 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 12:51:41
マキムクに王権があったかどうかまだ分からないのでは?
古墳も含めて祭祀的なものばかりだし。
マキムクは終始一貫象徴的な土地だったのかも知れない。
宮はもちろん、王の居住地であったかどうかも疑わしい。

679 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 13:03:35
>>678
古代において ”政教分離” を考える方が難しい

仮に王宮と言える物が無いとしても
纏向自体は王権によって作られたと見るのが自然だろう。

王権と関係の無い一大宗教施設と考えるのは流石に無理w


680 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 13:45:55
>>679
マキムク大勢の人が暮らした跡でも見つかったのか?

681 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 13:56:30
>>677
朝鮮神話は日本の神話より何百年も後のもので
その部分に関してはあきらかに古事記などの影響を受けているとも言える

682 :678:2009/03/17(火) 13:59:13
>>679
当時王権と呼べるものはもちろんあっただろうが、
マキムクにあったかどうかまったく未知数って事。
マキムクにはないはずだと言っているのではないよ。
しかし鍵・唐古が消滅したのに、
オオヤマトには代替地が見つからないなど、
不可解なことが多いからね。


683 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 13:59:45
>>678
箸墓古墳は纏向遺跡の地所内にある。
全長278m。墳丘規模で11番目。
これほどの巨大古墳が王権と全く無縁とは考え難い。

684 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 14:26:30
>>680
質問がズレているよ低脳君

685 :678:2009/03/17(火) 14:36:21
古墳が王権と無縁だとは思ったことはない。
王権の所在地がはっきりしないと言っているだけ。
これだけ発掘しても祭祀施設以外ほとんど出てこないのは本当に不思議。


686 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 14:49:42
>>685
その線の話だと
王宮があったのは同じ奈良盆地の天理であるとか
大和川下流域の河内、現在の八尾市とかの説は聞いたことがあるが・・・

個人的には 「纏向=ネクロポリス説w」 まで視野に入れてはいるがw

687 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 16:03:35
鍵・唐古の後継地がヤマトに今だ見つかってないのは何故だろうね。
たまたま見つからないってサイズじゃなかったのに…
相当の富の集約があったはずで、あのくらいの都市を保持していたら、
マキムクのヤマト政権自生説もうなづけるのだが。
倭人伝に流されすぎのような気もするが、
やはり連合国だったのだろうか。

688 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 19:17:07
>685
世間の注目を集めやすい祭祀施設でさえ、なかなか発掘費用を捻出できない。
ましてや、注目度が低い(と世間では考えられている)住居跡遺跡は、
発掘計画を後回しにしてるに違いないとしか考えられん。

先月のニュースなんか、「巻向で初の学術発掘」なんて言ってただろ。

工事現場で緊急に行う発掘(奈良県ではこれが大半)では、
某大型百貨店の時みたいに、貴重な出土物の存在に気付かずに闇に葬ってしまう危険が常に存在する。
長屋王邸宅跡地で、どれほど多くの木簡が、木くずと誤認されて消滅したか、未だワカラン。
工事途中に研究者がたまたま気付いて、工事を中断させて確保した分だけで、あれほど膨大な量だったって言うんだがな。

注目度が低いと思われる物件なら、工事を中断させることさえ難しいだろうしな。

689 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:36:38
>>688
> 先月のニュースなんか、「巻向で初の学術発掘」なんて言ってただろ。

まあ1971年以来160回も調査発掘してるけどなw


690 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 21:26:24
まあ結局のところ、大きい道とかの建設計画が持ち上がって大規模に発掘されるとかなければ、
いつまで経っても一部分しか分からず、マキムクの全体像が掴めない。
ただ都市計画道路とか通れば、山辺の道の雰囲気とかがなくなるからなあ。

691 :縦目仮面:2009/03/17(火) 22:09:50
発掘の話は難しいよな。王宮をつぶして、その上に箸墓古墳を作ったのかもしれないし、
(紀記にそういう話はないが)大三輪神社の下かもしれんが、どちらも発掘不能。これは
九州でも同じで、例えば宇佐神宮の下には応仁天皇等にからんだ凄いものが埋まって
いそうだがもちろん発掘不能。

書店に邪馬台国コーナーがあった頃からすれば、古代史人気の衰退を感じるね。


692 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 22:17:37
>>674
そんなに悩むことも無いと思う。ストーリー再編と考えれば単純な話に見える。
つまり、
主人公A「現在の王統(皇室)に接続する神話」
正統性を補強する別の要素B「日向神話」
被征服者を象徴する敗残者要素C「出雲神話」
主人公、ヒール、サポーター、三者でストーリーは必要十分なんだ。

雑多な伝承が、ABCの3つに整理されて、
それぞれの中で枝葉を付けられて、一応の論理性を付与されたと考えればよい。
日向、出雲は、一定の地理的意味は持ち得るだろうが、
それ以上のものではないだろう。
日向は、漠然と「文明伝播の上流」のイメージであるだけで、
出雲は、漠然と「先住者の文化圏」のイメージというだけ。

日向に関しては俺は宮崎説は取らない(福岡説を取る)。
旧訳聖書の「ウル」と同じで、同音(同字)の別地名と混同されただけだろう。
だが、博多平野だとしても、
博多平野を指すこと自体は、そんなに重要視するものだとも思わない。


693 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 22:39:06
続き。
あくまで妄想だが、ひょっとすると、宮崎と島根は意図的に選ばれたのかもしれない。
これらの地域は地理的に小勢力とならざるを得ない場所で、
大和王権にとって、たとえ神話の対抗勢力の根拠地に定めても、「人畜無害」。
おそらく、本当のBとCの中心は、それぞれ九州北中部と広義の東国だろうが、
筑紫、吾妻などと書いてしまうと、
国定神話が変な正統性を在地勢力に付与してしまうことになり
ガチンコでヤバいことになりかねない。

694 :縦目仮面:2009/03/17(火) 23:08:37
まあ、俺は畿内説だが出雲に関しては、かなり古くからマキ向との繋がりが見られる。例えば、
・マキ向周辺には出雲由来の地名が多いこと。

・大三輪神社の祭神が大物主大神(倭大物主櫛甕玉命)であり、これは大国主命の幸魂奇魂
(和魂)であること。もちろん大国主は出雲大社(杵築大社)の主祭神である。

・マキ向遺跡で発掘された 辻地区の正しく西面する掘立柱建物が「妻入り」で造られている
 こと。これは上記 杵築大社と基本的に同一構造であり、大社造ともいう。(伊勢神宮は「神明造」)

この他まだまだあるが、一方マキ向と日向のつながりに関してはあまり時代の古い要素は見られ
ない。大和朝廷が熊襲・隼人制圧の拠点として強いつながりを持つようになったのは、4世紀ごろ
からと思われ、紀記の疑問点の一つではある。

695 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 23:22:02
>>691
熱心に本を読んで考えるような層はもう撤収したからね。

696 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 23:28:09
>>692
>日向に関しては俺は宮崎説は取らない(福岡説を取る)。

いや、太陽神信仰に相応しい地は、東に大海原が広り、水平線から昇る御来光が拝めるところ。
日向や伊勢、常陸(日立)はその条件に相応しいし、日向風土記にニニギの話が
載ってるのに敢えて筑紫の神話とする必要がない、ていうか根拠がない。
そもそもヒナタなんて地名は全国的にあり、日がよく当たる場所、程度の意味合いだ。
日向三代はで隼人族との濃密な関係が描かれており、宮崎の地方神話という蓋然性が高いだろう。

そもそもはヒラバルを調査した原田が「アマテラスの墓を発掘した」とか電波を
飛ばしたから、結構筑紫が天孫降臨の地と考える人が戦後増えたみたいだが。
天孫降臨の地はどっちだみたいな争いを宮崎県としているらしい。やれやれだ。

むしろ玄界灘地域では、太陽神信仰より、オオタラシ姫の母子神信仰(応神伝承の元になったやつ)
の言い伝えの方が多く残されている。

697 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 23:30:46
>>691
古墳の下の王宮を想定するには、
死んでから作ったことがはっきりしないとね。
巨大王墓は生きている間に作ったものが圧倒的に多い。

マキムクからまだ出てないから絶対にないって事は言えないけど。
まあ今回発掘待ちかな。都合よく王宮なんて出てこないと思うが、
広い範囲の状況が分かれば、当時の様子の足掛かりにはなる。


698 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 23:38:07
正直ここだけの話だが
「邪馬台国論争」なんてすでに終わってしまった過去のお話・・・と言う感はあるw

699 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 23:44:24
>>698
まあいずれ、ヤマタイコクなんかではなく、普通にヤマト国って
教科書に記載されるんだろうけど。
ただ実年代がはっきりしないので、まだ確定ではないというだけ

700 :縦目仮面:2009/03/17(火) 23:52:08
>>697
確かに古墳時代のものは生前墓も多いが、魏史の記述、
「卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人」
からは死後造営のようだが・・・。

また日本書紀には、
「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其
の墓を号けて、箸墓と謂ふ。」とある。その後、「大坂山から手渡しで石を運んだ」とか「昼は
人が造り、夜は神が造った」の記述が続く。
まあ、当時の日本人は箸など使ってないし、実際、箸墓の下に王宮跡があるとは考えてはいない。


紀記の神話については、「書かれた当時の大和朝廷の有力氏族の出身地に配慮した」という
学者の説もあるが、俺にはあまり説得力があるとは思えない。

701 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 00:17:23
>689
最初から研究者が計画立てて土地権者と交渉して発掘するのがマレってことだ。

何らかの建築工事や造成工事の際の、工事直前緊急発掘は多いけどな。
こういうのは、目玉部分以外は発掘作業すらせず掘り捨てる危険が小さくない。

後から考えたら貴重な遺跡だったはずなのに壊されていた、なんて事例が極めて多い。
奈良県内に限らず、全国どこにも、そういう話は多いだろ。

702 :縦目仮面:2009/03/18(水) 00:22:57
>>701
まあ、このご時世でもあり遺跡のような金にならないものには関心を持つ人が少ないのは
しょうがないかな。吉野ヶ里や青森の三内丸山遺跡はけっこうな観光名所となっているが、
奈良には見るものはたくさんあるし。

703 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 00:30:55
>>698
俺はそもそもあまり関心がないな。
倭人伝は、外交の記述は信用、
北九州の地名が確定している部分の記述は、まあまあ信用、
あとは基本的に疑ってる。

初期大和政権は「邪馬台国」抜きで十分面白い。

もちろんマキムクでは祭祀が重視されているところなど、
共通するところがあることは面白いと思っている。



704 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 00:37:47
三内丸山はほんとうにでかいな。
まだまだ保存地が広がりそうでうらやましい。
あそこは国の宝。

705 :650:2009/03/18(水) 09:39:25
>>674
確かに、記紀の神代の記述は謎が多いな

現代の感覚では、大和朝廷の系譜が福井県から始まろうが朝鮮半島から始まろうが、
大方の人間はフ〜ン程度の問題でしかないかも知れないが、当時の日本紀の編者達に取っては
系譜とその原点は極めて重大な問題、と言うか、朝廷の権威の源泉であり、それを明らかにする事が
編集の最大の目的の一つとしてあった事が想像される。
神々を天津神と国津神の二つのカテゴリーに分類し、前者が後者を支配する構図はイデオロギー的とも言える。
そして、国津神の代表としてスサノオ神話を擁する出雲を持って来たのはまだ判らないでも無いが、
天津神の系統として日向を持って来たのは、今の感覚では不思議な観がある。


706 :縦目仮面:2009/03/18(水) 14:46:24
705の意見にはおおむね賛成。
高千穂の所在地に関しては、宮崎よりはまだ博多のほうが大和朝廷との関係は深い(3世
紀以前)ように思う。古事記の「この国は韓国に向かひ・・」うんぬんの記述にも合うようだし。
ただ、それが東遷説につながるのは畿内説の俺としてはちょっと困る。三品彰英氏の「加耶
の首露王」説は原典資料がとても信用できるものではない。

マキ向の話に戻せば、647〜650で出てきた 掘立柱建物が今回の発掘の中心となるようだ
が、周辺450平方、総予算400万の調査ではとうてい大規模発掘とはいえない。「西向き」
に関しては、694で書いた「妻入り」とともに俺にも興味深い。太陽信仰かどうかはともかく、
古代人が測量して造ったのは間違いなく、三輪山あるいは他の古墳との相対的な位置関係
とか、何らかの意味はあるのだろう。

http://www.asahi.com/eco/OSK200901310036.html




707 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 15:08:32
「測量」ってどのくらいの精度で西向きなの?

708 :縦目仮面:2009/03/18(水) 15:48:04
ズレても誤差の範囲でほぼぴったり西。ただし30年前の調査結果なので、今回は多少違
って出るかもしれんが、俺が掘ったわけではなくそこまで責任は持てない。興味があるなら
自分で桜井市教育委員会の資料を調べてくれ。


709 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 16:09:20
数値もわからんのによく「測量して造ったのは間違いなく」なんて言えるね。

710 :縦目仮面:2009/03/18(水) 16:36:25
>>709
・・・しかしこいつは・・・。定規を置いてるわけじゃないんで、測定位置によって誤差は違う
んだよ。おおむね1〜5度程度南北線からずれている。満足したか?

711 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 16:57:53
5度も違って「測量して造ったのは間違いなく」なんて言える感覚がわからん。

712 :縦目仮面:2009/03/18(水) 17:29:41
馬鹿馬鹿しいが、もう一回だけレスしよう。竪穴式住居ならともかく、直角を含む立方体
建築物なら測量しなければ作れない。もちろん古墳もそう。当時の調査団は、意図的に
西面させているとの見解を述べており、俺はそれを全面的に支持しているということ。

713 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 17:33:49
建物を測量して造ったのは当たり前だが、
建物の方角、西向きについて測量した結果だとはまったく言えない。
5度なんて目視でも合う程度の精度。

714 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 21:27:40
>>696
そりゃ逆だ。東に海があれば太陽神信仰が生まれるということはない。
東の聖なる山から太陽が登るというパターンでもよければ、
西に沈む太陽を拝むバージョンもあるし、(この2つとも難波(大阪)で行われたようだ)
太陽=熱源のメタファーで、南が聖なる方角となる場合もある。
ただ、同じコードの太陽神信仰が広域で確立してから、
神殿建設に相応しい地の一つとして、東を海に面する地が後から選ばれることはある。
まさに伊勢のように。

いずれにしても、宮崎は後付けで、元ネタは博多であったとしても、
これは神話編纂の題材なのだから、地域史そのものには、大した意味は無いだろう。
出雲系の地名や祭神が全国に散在して、それらが重きを置かれていることは
よく知られているが、これとて「島根起源」と解する必要は無い。
「先住の神々」の右代表が、島根県の神として脚色編纂されただけの話だ。

715 :650:2009/03/18(水) 21:48:03
西向きの建物だけど、磁北と真北でも5度ぐらいはずれるし、
正確に真西に合わせるには、基礎的な天体観測の技術が必要となる。

エジプトの例もあるから、古代の天文観測技術は侮ってはいけないが、もしマキムクの建物が、
ある程度の精度で真西を向いてたとしたら、考古学上すごい発見となる。

また、磁北から割り出した磁西を向いていたとしたら、もっと凄い大発見では無いだろうか?
(方位磁針は、かなり後代に発明されたと言うのが定説だから。)


716 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:38:51
>>703
>初期大和政権は「邪馬台国」抜きで十分面白い。

特にその発生プロセスは他国に例を見ないぐらいユニークなんじゃないのかな?

強力なマッチョな王様 と言うより 弱弱しい担がれた神輿の如き存在 と言うかw



717 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 00:00:28
>>715
一定程度の農耕文化があれば、
農耕のための原始的な暦を作るために、二至二分の観測くらいはできるだろ。
二至の正確な期日の観測は結構難しいが、
二分は比較的簡単で、かつこれが分かれば正東西線を引くことができる。
まあ、星でみることもできるが(当時の北極星は歳差のためこぐま座βとなる)
ちょっとブレが大きいだろうな。

718 :650:2009/03/19(木) 00:18:54
>>717

むろん、当時も東西南北の概念はあったと思うので、だいたいの西の方角は判ってたと思う。
問題は、その精度のレベルで、精度を高めるためには、少なくとも角度、もしくは、それに同等の概念かが必要になって来る。
(歴史的に、円周360度は、一年を360日と考えてた時代の名残り)



719 :縦目仮面:2009/03/19(木) 00:23:02
まあしかし、400万の予算の発掘というのはもの悲しい。更地にコンクリ打って駐車場にする
だけでもそれくらいかかるんでは。(よく知らんが)ちょっとした公民館だって億近くいくだろう。
・・・桜井市にふるさと納税しようかね。

720 :650:2009/03/19(木) 00:41:06
>719
単なる思いつきだが、寄付金を集めて、寄付した人は発掘に参加出来ると言う制度にしたらどうかな?
最低限の講習会と、相互監視システムは必要だろうが。
結構、やってみたいと言う奴がいるんじゃないだろうか(オレも、その一人だが)


721 :縦目仮面:2009/03/19(木) 01:16:49
>>720
俺は近畿に住んでるわけではないが、高速乗り放題1000円になるんで、そのアイデアは
現実味がありそう。

722 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 03:52:26
>>718
360は一年の日数に近いということもあるが、
2,3,4,5,6,8,9,10,12で割りきれる素晴らしい数だから、
使い勝手がいいんだよ。12/60進法が多かったのはそういうわけ。
10進法は指の数と合っていることくらいしかいいことがない。
一年を360日だと思っていたのははるか昔のことだと思われる。


723 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 12:53:18
>>714
大阪湾や玄界灘沿岸で、太陽神信仰が盛んだった痕跡ってあるの?

落日を信仰するって話は余り聞いたことがない。西=死、汚れのイメージ。
記紀での出雲は、伊勢=東(ひむかし)=聖との対極として機能している。
太陽と東の関係は深い。

二上山や近つ飛鳥が西方浄土とか死の世界みたいな扱いだったとかの話も、
西方に対する古代人の感覚を物語っている。

724 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 14:18:20
朝日信仰があるから
初日の出で太陽を拝むんでしょうよ

伊勢なんて朝日信仰そのものじゃん

725 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 14:49:59
東アジアでの太陽信仰ってのは、毎朝東方海上の巨大マン○(いわゆる扶桑)から太陽が生まれ、
西に沈む時に貪り食われるってのが古来の形。
沈む夕日を祭るってのは確かに余り聞かない。

726 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 15:00:04
筑紫が天孫降臨の地だとしても、次に始まるのは日向地方の神話。
日向三代まで筑紫ってことはないだろう。
筑紫神話の名残が少しでも記紀に採録されていれば。
筑紫天孫降臨説は、東遷説の拠り所なんで拘泥るのは分かるが

727 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 15:43:04
国譲りが出雲で、天孫降臨は筑紫(仮定)。日向三代が日向、初代天皇即位の地が大和。

記紀の編纂者は、当時の日本国内で、それぞれ最も相応しい場所を神代の舞台に選んでるだけ。
そう考えると、天孫降臨の場所として相応しいのは日向>筑紫。
筑紫神話は残念ながら記紀には採用されていない。
対して、記紀編纂者は日向を皇祖の本貫地として選定している。
つまりは日向の地に中央政府ですら無視できない来歴、神話体系をもった豪族がいたということ。

728 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 15:57:07
串間の穀璧とか西都原の古墳。
宮崎を片田舎で片付けるのは現代人の感覚なんだろう。
個人的には応神以降、宮崎から妃を迎えることが多くなり、
大和と日向の同族化が急速に進んだと考えている。
で、後に応神が神格化され神武となったと。
神武伝承がいつ成立したのかは議論の分かれるところだが、
直木孝次郎なんかは、イワレ地域に数代の宮が営まれた雄略の頃としている。
確証はないが妥当な解釈だろう。

729 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 16:13:50
では、雄略以前の大和王権の建国神話はどんなものだったのか?

おそらくは、三輪山神の子・崇神がハツクニシラスとなって、四囲に将軍を派遣した
というものだったのではないか。
四道将軍が派遣された地、ってのが、東海、越、丹波、吉備っていうのも、
初期大和王権構成メンバーであって(筑紫が入ってないのに注目)、
マキムクの倭国大連合の時に、神話・始祖王伝承の共有がなされたのではないかと思料する。
4国の始祖を同族化、血縁関係にまとめたと。

この神話の共有っていう潮流を別の言い方で言えば、
前方後円墳の祭りが各地に拡がっていったということになる。

730 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 17:21:06
>>727
日向三代の日向って、やっぱり福岡県の福岡市(奴国)と前原市(伊都国)の間にある日向峠付近のことでしょ。


731 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 18:04:38
>マキムクの倭国大連合の時に、神話・始祖王伝承の共有がなされたのではないかと思料する。
4国の始祖を同族化、血縁関係にまとめたと。



勝手な推測だな
勢力を統合するほど友好関係を構築できないだろ

732 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 19:24:35
宮崎説に必死な奴がいるなあ。まあいいけど。

日向三代についても「アシカ」が登場してきたり、奇妙な点はぬぐえないけどね。
黒潮が直撃する宮崎県には、どんなに厳しい氷河期がやってきてもアシカは来ない。
イザナギ、イザナミ神話は淡路島と思われるモチーフも多く、
雑多な神話の寄せ集めといったところが真実だろう。
太陽信仰についても、伊勢に実際に行ってみれば分かるが、
伊勢(度会郡)の沿岸から伊勢湾を望むと、神島の向こうに渥美半島が望めるわけで、
「東が海に開けた」という感じではない。
二見が浦に至っては、実は北面しているからな。
まさに宮崎とそっくりな地勢をしているのは、紀伊半島熊野沿岸だが、
ここは中世には僧侶が死へ片道切符を手に船に乗せられ浄土への旅立ちをした、
まさに「死と常世の地」だ。
>>696>>723のような考えは、後付けなんだよ。
難波の太陽信仰に関しては、議論も多く、大阪の地名探索の常として
どさくさにまぎれてキムチに珍説を披露されて荒らされる厄介な要素も多いが
「な+には」や「莵我野(現梅田のやや東側)」の地名に残るとされている。
実際、上町台地の先端の生国魂神社と座摩神社の故地(現大坂城)のほぼ真東が、
石切、枚岡など生駒山系の最も重要視された聖地群となる。

まあ、俺の考えは>>693なので、
>>727>>728みたいな風に大真面目に信じてくれるのが、「記紀編纂者の思う壺」だろうとは思う。

733 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 20:30:05
北から太陽が昇る?
新のバカボンの唄?

734 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 21:43:24
>>732
記紀編纂者に騙されてるとか読解力が足りない。
私が書いてるのは、天孫降臨とか神武東征とかが創作されたのは5世紀頃のことだろうということ。
実際に宮崎に天孫が降臨したとか信じてる訳じゃない。当たり前のことだがw
しかしそれが当たり前じゃない輩がいる。
いわゆる東遷説とかいう連中だ。
彼らはそれらの神話を2〜3世紀の筑紫で本当にあったことだとする。
記紀ですら神代と人代で明確に書き分けて区別してるのに、
神話を安易に史実だとして飛び付く。
考古学的に否定され、後は神話くらいにしかすがるものがないらしい

735 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 22:03:30
>>732
そんなのは「全部あとづけ」とか言って反論することから逃げながら、
自分の論証はかなりのあやふや振りという。
君のが後付けでないという根拠はあるの?

736 :明日の風:2009/03/19(木) 23:01:39
私は、神話は2〜3世紀の筑紫で本当にあったとみていますが、東遷説ではありません。
神話の日向は福岡市の日向ですよ。
神話については、天石屋戸以降はかなり史実に近いとみていいと思います。
かつて、考古栄えて記紀滅ぶ、といわれた(そんな時代もあったっけ)ものであるが、近年では、
科学(自然、社会、医学等)の進歩につれて、記紀の信ぴょう性がましつつあります。
まさに今、そんな新しい時代がはじまったのです。

737 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 23:13:08
>>734>>735
俺は、極論すれば「みんな後付け」と考えているからw
「神話の地名は全国からかき集められ、思いっきり改変が加えられているのだから、
元ネタの推測はできるが、それほど大きな意味は無い。」と考えている。
「オデュッセウスがセイレーンの声を聞いたのは、地中海のどこの島なのか」
という話と同じくらい馬鹿馬鹿しい。
まあ、セイレーンがいたのはアメリカ大陸や日本列島ではないだろうという程度の意味しか無い。
いろいろ書いているのは、
要するに、「記紀の太陽信仰の起源と宮崎県の直接の関係を切断する」論だけで、
難波に太陽信仰があろうが無かろうが、これはまあ傍証なんでどうでもいい。
大体、記紀神話の示す最古層の信仰が、太陽信仰かどうかさえかなり怪しいw

738 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 23:17:22
>>737
>要するに、「記紀の太陽信仰の起源と宮崎県の直接の関係を切断する」論

記紀の太陽信仰と宮崎が無関係なのは当たり前と思って書かなかったのだが。
かといって、筑紫と関係あるとかもないと思うよ

739 :縦目仮面:2009/03/20(金) 00:29:43
応神期から5世紀初の男狭穂塚築造以降、大和朝廷からみての日向(宮崎)の重要性が
増し、外戚関係が発達したのは確か。おそらく、まつろわぬ南九州勢力討伐の拠点として
利用されたものと考えられ、そのころの逸話が神話となって紀記に取り上げられていると
いうのは十分ありえるところでは。



740 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 01:11:55
>>737
まあ古代から連綿と太陽神を信仰していたとするのなら
北極星を意味する「天皇」と言う称号を用いること自体がおかしいんだけどねw

少なくとも纏向で太陽信仰が行われていたと言う傍証になるものは
現在のところ何も無いのでは?

なんだかんだ言っても記紀神話のアマテラスの存在に引っ張られている気がするwww

741 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 03:13:17
エジプトやアステカなら、
これが太陽信仰じゃなかったら一体何なんだって
絵画や工芸品が出てますけどね。
マキムクはぶっちゃけた話、そういう遺物はない。
囲形導水埴輪なんて屋根付きのがあるくらいだし。

742 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 10:31:23
あくまで記紀の記述からだが、天津神系の共通した特徴は、自らを太陽の子孫と称し、
鏡を太陽の形代として崇めている事が挙げられる。
従って、太陽信仰の痕跡を纏向に求めると言うのは、非常に意味があると思う。
(もっと現実的には、卑弥呼の鏡が出て来たら、観光協会は大喜びだろうが)

現在の所、祭祀跡と見られる遺跡からは、銅鏡などの太陽信仰を窺わせる遺物は見つかってないようであるが、
鏡を用いない祭祀の形式を取っていた天孫族侵入以前の信仰の形態を示しているのかも知れないし、貴重品の鏡を
そんな所に置きっぱなしにしてなかっただけかも知れない。

ただ、多神教の民族は、王統が変わっても祭祀を引き継ぐ傾向が強いから、祭祀が一貫しているから王統も一貫しているとは
即断出来ない。他国の例でも、征服側が被征服側の神々の祭祀を引き継いで行き、祀る神様の数がどんどん増えて行った例は多く、
日本でも、例えば、出雲系と見られる神様(例えば三輪神社)も、朝廷側が祭祀の面倒を見ているし、朝廷が幣帛を配る式内社の大半は
被征服側の神社だ。

鏡を用いた太陽信仰の原点は、日本の最古の銅鏡群が発掘される北九州にあると思うが、これはいわゆる天孫族が北九州発祥だと言う事を
直接意味しない。
征服側が、北九州の祭祀を引き継いだだけかも知れないし、古族の子孫である事を仮冒しただけかも知れない。


743 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 10:58:16
日本紀の編集者達は、一部の学者が言うほど、故意に歴史を変形しようとは思わなかったのかも知れない。
大和地方に侵入して来た勢力として、神武天皇以外に、継体天皇と応神天皇の2者がいるが、共に大和地方の古族の子孫を
仮冒している。
応神天皇は、仲哀天皇が死後3年して誕生しているし、その仲哀天皇に至っては父親の日本武尊が亡くなってから30年以上経って
生まれている。
大阪の住吉大社は、社伝で、応神天皇の父親は仲哀天皇なんかではないと言い張ってる。
また、継体天皇の出自も極めて怪しい。
どうせ捏造するなら、いくらでもやりようがあると思うが、日本紀の編者達は、そのままにしているのは、仕事がいい加減なのではなく
良心的なのかも知れない。
つまり、良くわからないから、後世の人がもっと詰めてくれ、と言うメッセージを発しているとも受け取れる。
あるいは、母系社会の影響下にあったから、女系で繋がってるから好いじゃん、と考えていたのかも知れない。



744 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 11:08:01
太陽信仰がマキムクの時代からあったかどうかなんてわからんよ。

まず、アマテラス信仰の登場が飛鳥時代〜奈良時代からという議論もあることもお忘れなく。

記紀神話でも、アマテラスより上位にタカミムスビがいて、
タカミムスビがもともとの信仰だった可能性が高い。

745 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 11:10:19
銅鏡が太陽信仰ってのはよくわからないなあ。
車輪石は太陽信仰に違いないと思うけれども。
伊勢からは良く出てるよね。
あれはマキムクより時代は下るのかな。

746 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 11:14:34
きちんと日本書紀を読めばわかるが、
自らが即位した証にアマテラスを祭った天皇は、崇神天皇と天武天皇しかいない。
神武天皇が祀ったのは、タカミムスビだ。

応神や、継体の時代(古墳時代全般)にはアマテラスなんて神は全く出てこない。

747 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 11:26:37
細かく読めば、崇神天皇だって、自分で進んでアマテラスを祭ったようには書かれてない。
恐れ多くて宮中から追い出したようなことが書いてある。
まるで、アマテラスを受け入れることを拒んでいたかのようだ。

仮に九州の鏡が太陽信仰(アマテラス信仰)であったとしても、
王族の東遷説の根拠には全くならない。
崇神天皇が自身がアマテラスを拒んでるんだからな。
実際、奈良でアマテラスを祭る神社なんて無いに等しい。
かわりに、オオクニヌシを祀る三輪山の巫女の墓が作られた。

こういうことを、矛盾なく説明できるやつはいるのか?


748 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 11:31:57
「鏡=太陽信仰=アマテラス=大王の祖神」
という図式を全部忘れないと、袋小路に入っていくだけだよ。
もっと、大きく俯瞰しないと。



749 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 11:42:26
東遷説の人に言っておくが、
よく地名の類似が、九州から奈良への人の移動の根拠という。
そして、九州で祀られてた神がアマテラスだったともいう。

では、九州でアマテラスを祀ってた人々は奈良に移り住んでから、
アマテラスを祀ることをやめてしまったのか?
奈良でアマテラスを祭る神社を造らなかったのはなぜ?
伊勢のほうが太陽が拝めるから、というなら、首都も伊勢に移せばいいだろ。
そもそも、本元の九州でさえ、アマテラスを祀る神社はどこにどれだけあるの?
神武の出身地の日向国の一宮は、オオナムチを祭る神社だぜ。

矛盾しまくりで話にならん。

750 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 12:36:09
天照大神は、崇神天皇以来ずっと祀られてきた。

崇神天皇の時代には、天皇の娘である豊鍬入姫が、天照大神を大和の笠縫邑に
祀った、という記述がある。

次の垂仁天皇のところでは、同じく天皇の娘である倭姫が、天照大神の鎮座
する場所として伊勢を探し出した。

次の景行天皇の娘の五百野皇女も天照大神を祀ることをやっている。

このように天皇の娘が天照大神を祀る制度を斎宮あるいは斎王といい、
後醍醐天皇の時代まで続いたとされる。

斎王は、未婚の皇女あるいは王女がなり、天皇が死んだりして、任を解かれる
までは結婚することは出来なかった。どうも、霊的な能力を求められた
らしい。神の声を伝えるというようなことだろう。
つまり、その源流を天照大神に求めていたのだろう。
なにやら、卑弥呼の鬼道と通ずるものがあるような気がしないでもない。

瓊瓊杵尊にしてみれば、天照大神は、父方のおばあさん、高皇産霊尊は
母方のおじいさんということになるので、どちらも皇祖と言うことには
なるのだが。

751 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 15:48:04
「全部後付け寄せ集め説」の者だがw

一部なお執着している奴もいるが、
スレの流れとしてアマテラス自体をここまで相対化していれば、
俺がとやかく書く必要もないかもしれない。
俺はもちろん露骨な東征説を取らないが、
ただ、元ネタの読み方として、たとえ古田説であってもw
筋のよいものは取り入れて考えてもいいと思っている。
おそらく、次の3つは言えると思う。
1 「筑紫の日向」は"tikusi nö pinata"と読むのが筋がよいこと。
 つまり、この点は博多湾岸のローカル神話を取り入れたらしいこと。
2 弥生時代のうちに、西から河内湾に侵入を試み、あえなく敗退した勢力が
 いたらしいこと。これは古地理に忠実すぎることから裏付けられる。
 大和勢から見れば、原形は「撃退成功の武勇伝」だった可能性もある。
3 奈良盆地南端に、南東から山岳勢力(山賊?)が襲来し、
 そのまま山麓に居ついたという故事があるらしいこと。
1と2、3が別なのは当然のこと、
2と3は全く別の可能性も高い。間の話(熊野の話)が曖昧すぎるのだ。

3 

752 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 15:49:02
その辺は>>744の言うことの方がずっと可能性として高いわ。
アマテラス信仰については文献史学がいい成果を残している。
考古学の方で、アマテラス信仰@オオヤマトの時代に成果がないのは、
文献史学の人たちの言うように、そういう信仰自体なかったからだろう。


753 :752:2009/03/20(金) 15:50:27
>>752>>751に対してね。
アンカーつけなかったら間に他の人が入ってしまった…

754 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:08:24
>>750の斎宮というのは、結局、伊勢の太陽神を祀るために、
天皇家が娘を出したという意味でしかない。

アマテラス信仰が九州に存在したなら、
九州に神武がいた頃から、斎宮を九州の太陽神の神社に送っていたはず。
だが、そういう記述は無い。
しれ以前に、太陽神を祀る神社そのものが九州には無い。




755 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:18:40
>>751の1,2,3を別々の故事と考えることは理にかなっている。

えてして、人間というものは、あれとこれをつないで一つの壮大な話にしたがるもの。
「義経=ジンギスカン」説もおなじことで、
義経が北方に逃げ延びた→ジンギスカンになった、と話をつないだだけ。

だから、「河内に攻め入った海賊がいた」「奈良盆地南端から山賊が襲来した」「大王が橿原に住んでいた」
という故事をつなげれば、神武東征神話の出来上がりとなる。
「神武東征神話ありき」で考えても、なにも見えてはこない。


756 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:39:31
神武東征神話から、史実を拾えるとすれば、
神武と行動した大久米氏が刺青をしていて、大和の娘が驚いた、という古事記の記述だな。

刺青をしていた部族(おそらく海賊)がヤマトに来たのは確かなようだ。
そしてオオクメ氏になったらしいこと。
日本書紀にも、ニニギと共に九州に天孫降臨したの部族として、オオトモ氏、オオクメ氏の名が見える。
神武と同じく橿原近くに居があったので、これらの部族が九州からヤマトに来たらしい、
という部分は認めてもいい。時代がいつかなんてことはわからない。
ましてや、マキムクとは何の関係も無い。

757 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:46:49
>>756
倭人伝には、「男子無大小皆黥面文身」とある。
倭国の男子の刺青は当たり前で、これに驚く大和の娘は、倭国の人間とは
言えないな。

758 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 18:43:46
>>757

では、神武以前にヤマトに住んでた「イレズミの習俗を見たこと無い娘」は、
どういう素性だったのかね?

759 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 19:02:21
>>751
天孫降臨とか北方神話にありがちなモチーフで、筑紫の神話とか
別に関係ないと思うのだが

760 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 19:37:33
刺青に関しては、それを伺わせる出土品がないでもないけど、
紀記や倭人伝を元に実在と考えるのはまずいと思うね。
南九州の風習が紛れ込む可能性もあるしね。

761 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 19:43:31
イレズミは、隼人の特徴
日向神話どおり
神武は大和族と隼人との混血

762 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 20:00:04
オオクメの子孫久米氏(隼人)は、朝廷に歯向かい700年に筑紫総領に成敗される

763 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 20:08:15
>男子無大小皆黥面文身

うーん、流石にこのスレでは魏志倭人伝の風俗記事の事までは勘弁して欲しいねw

そもそもその部分手のは太白伝説の一部として語られており
元々倭人伝の風俗記事は中国の海南島あたりの習俗と混同している可能性が高いなんてのは
良く指摘されるところで・・・


764 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 20:08:40
昔は刺青してた倭人が、時を経てその習俗をなくしてたってことだろ。

765 :縦目仮面:2009/03/20(金) 20:13:05
http://www.47news.jp/CN/200903/CN2009032001000569.html

766 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 20:13:34
そう言えば纏向って人骨の出土ってどうなんだろう?

無論、刺青なんて分かるはずも無いと思うが
「抜歯」なら分かりそうだがwww

767 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 20:23:07
>>765

7世紀の豪族館みたいな感じだね。

768 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 20:53:18
>>765
この写真が良い。
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/090320/acd0903201931003-p2.htm

それから二週間前の古墳の外形調査の記事のこの写真も。
http://www.nara-np.co.jp/n_arc/090306/arc090306a.shtml
後ろの竹林(現在一般人から古墳と見做されている部分)と
前方部前端の位置関係が良く分かる。

> 矢塚古墳は後円部が外見より2メートルほど小さく、全長約96メートル、前方部
> 径約34メートル、後方部長約62メートル。周濠は前方部まで巡らず、後円部の
> 南側周濠内では盛土をした遺構を確認した。

周濠が前方部のみってはっきりしたのも面白い。


769 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 21:02:57
くまくま━━━━━━ヽ( ・(ェ)・ )ノ━━━━━━ !!!

【ほな、いっくで〜!】 奈良で卑弥呼時代の重要施設が見つかる。 九州厨涙目か?
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1237545981/



770 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 21:14:28
産経 写真4枚
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090320/acd0903201931003-n1.htm

771 :縦目仮面:2009/03/20(金) 21:14:42
30年前の調査と同じものなので見つかるのは当然だが、これで発掘継続だな♪♪♪

772 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 21:30:58
毎日
http://mainichi.jp/select/today/news/20090321k0000m040056000c.html

今のところ、共同、産経、毎日だけか。読売、朝日は見当たらなかったな。
図面があるといいんだが。
月曜には読売大阪にもうすうこしくわいい記事が出るだろう。


773 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 21:40:27
マキムクの暴走はなんとかならんかね?


774 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 21:40:43
卑弥呼の宮殿キタキタキター!
今まで弥生遺跡が出る度に卑弥呼だ邪馬台国だのハエのように飛び交ったわけだが、
今度はガチ。

邪馬台国論争に決着を付けるのは考古学以外にあり得ないが、
今の九州説は内堀まで埋められた大阪城と同じだ。あとは夏の陣あるのみ。

775 :縦目仮面:2009/03/20(金) 21:41:09
いや、同じではないか。昭和53年調査で出た建物の脇殿と考えていたが、一辺6m以上な
らそれよりも大きい。ちょっと興奮してしまった。冷静に推移を見守ろう。

776 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 22:27:18
写真を眺めてみると、3棟並びで描かれていた以前の想像図が間違いだったことは確かだな。

黄色の棒が建物、白い棒が『柵』と言われてるもので、白棒が奥のほうで曲がって
前の調査分とあわせて凸型になるのかな。
右奥にある黄色い三本が前の調査で見つかった建物の一部か。

黄色と白の間が2mぐらい?
何のための柵だろ。

http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/090320/acd0903201931003-p3.htm


777 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 22:31:20
ちゃんと卑弥呼時代、としてる所もあるね
ガチでも何でもない。毎度毎度引き倒しもいい所で笑える
暴走っていうより独走だろこりゃいや、独創か

778 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 22:32:16
ちがった。

こっちの写真を見ると黄色の建物のところが出っ張っていて凸型か。
なんか不思議な配置だな。

http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/090320/acd0903201931003-p2.htm

779 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 22:37:42
纏向ってのは、なんか出ればすぐに卑弥呼だ、邪馬台国だと言い過ぎ。
建物跡が出たら、すぐに卑弥呼の宮殿?

畿内考古学がこんなものなのは知ってはいるが、さすがに、ふざけるなという
感じがする。

780 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 22:38:42
マスコミ一般受けするようにネタ供給せんと資金集まらんからな

781 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 22:47:51
口先だけでイヤミ言うしかない九ちゃん乙!
悔しかったら3世紀の有力な遺跡の一つでも発掘してみろって。

そうしたら自分も口先でイヤミ返せるんだがな。「無い」遺跡にはイヤミも言えん。

782 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 22:51:32
出雲大社から文献が出てきた。それも山のように。
そこに卑弥呼やとよの墓の場所が載ってた。
それを元に発掘してるそうだよ。
これが歴史を覆す文献になると思うので、調べられたら調べた方が。
日本にはすでに文字はあったらしい。
NHKでは出雲の王は鉄の精製に成功いて、領土を広げ、
大阪の港を制してたトヨと結婚したとまで、話していた。

783 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 22:54:23
>>781
纏向が3世紀だとどうして言える?

784 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 23:02:48
同じ場所を発掘して、新しい発見がある。
それはつまり、通常の発掘は時間的制約や費用の制限などで、不十分な発掘しかできないことを意味する。

建築工事に際しての緊急の発掘ばかりだから、百数十回も掘ってても、
規模的に満足のいく発掘調査は皆無に近かったってことだろ。

だから、充分な出土が今までなかっただけじゃね。

785 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 23:22:42
文献は大きいよ。文字はあるだろうとは前から言われていたけど。
だいたい紀元前5000年も前から貿易をしてた国に、中国人が来ないわけない。
だから古い神社等に残っている可能性はあるよ。
新しいものを見つけた人の名は残るよ。

786 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 23:24:30
>>781 4キロ×4キロなんていう、巨大なものはないが、その50分の一ぐらいのものは、九州北部にもある

787 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 23:26:03
>>778
しかも白と黄色は方向がかなりずれてるよね。
これは違う時代のものじゃないかな。
同じマキムクの時代内だとしても。
黄色の方が方位が合っているように見える。
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/090320/acd0903201931003-p2.htm
の左側の一番長い発掘境界が五度くらい北東向きのはずだから。

>>781>>784
まあ今の段階ではそんな騒ぐほどのものじゃないよ。
このレベルのものはこれまでも出ていたし。

これがもっと何棟も続いているのなら話は別だけど。
これ100m四方発掘の計画だからまだ出ると思われるが。
今は12m×25mくらい?
ただ上の写真で左側の黄色の方向が待たしてもずれてるのが気になる。
計画的な建築じゃないかも。
> 3棟が東西に整然と並ぶことも確認
と報道されてはいるが。

788 :明日の風:2009/03/20(金) 23:26:07
少なくともあの柵は倭人伝の城柵ではないな。

789 :縦目仮面:2009/03/20(金) 23:33:09
30年前の調査は駐車場整備にともなう緊急発掘だったはずだ。
方位はこれでみると確かにけっこうズレている感じがするな。
ところで離れた黄色ポール3本は棟持ち柱なのかな?こんなに庇が張り出しているのか、
それとも隣の建物の一部かちょっとわからない。誰か詳しい人はいないかな。

790 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 23:41:58
島根大学の先生の論文が見られれば、ある程度説明がなるんじゃないかな。
発掘はその出雲大社の神として祭られている文献を参考にしてるわけで。
だから発掘が再開されているんだが。


791 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 23:42:19
>>778
こういう凸の上だけって型の囲型埴輪ってのは見たことがないね。
古墳の作り出しの形とも違うし。

あと>>787の写真は下が北ね。

>>789
まあ普通に考えて別の建物だと思うけれど。
方向がずれすぎてるから。

ちなみにこの写真の手前、一番左の団地のすぐ左奥がチコマートね。
そのすぐ左奥が>>787の写真の発掘現場。右側に土を盛ったのが見えてる。
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/090320/acd0903201931003-p1.htm



792 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:03:33
>>756
>刺青をしていた部族

倭人伝に出てくる倭人には刺青の描写がある。

つまり神武の連れ=日向の人間の記紀と倭人伝が一致してる箇所とみえるな。

793 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:05:12
>>785
>古い神社

神社の起源をわかってんのか?w 馬鹿がwww 

794 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:08:12
九州説完全敗北、完全に決着がついたね。

795 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:09:44
>>763
>>倭人伝の風俗記事は中国の海南島あたりの習俗と混同している可能性が高い

海南島と風俗が似ている、という記述があるが、混同という指摘など聞いたことも
ないし、ちゃんと読めば意図がわかるはずだが。

海南島のように気候が温暖で、という記述なんだが。馬鹿かおまえはww
 

796 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:12:06
モモは? 卑弥呼の国と決め付けられてモモが怒ってるよww

797 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:15:04
昭和53年調査区の平面図
http://toku.xdisc.net/cgi/up/ttt/nm11390.png

大和・纏向遺跡によれば、多分、

SA-101 纏向2期とみられる柱穴
SB-102 纏向1期の建物
SB-103 纏向2期の建物(纏向1期より新しく3期より下らない)
SB-101 纏向2期の建物

今回の調査区はこの南側と思われ、今回の調査では

SA-101の南側の柱列が出土し、SA-101がおよそ5m四方の建物であることが判明
さらにその南側におよそ6m四方の建物とそれをめぐる柵列と見られる柱穴が出土

ということか。(あってるかな?)

新聞記事では建物が東西に並んでいるように書いてあるけれども、
図からすると南北に並んでいるはずなのだが。

新聞記者は何か誤解しているかもしれない。
上の図と同じような北を左向きにした図を見て、南北を東西と間違えているのか?


798 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:15:07
>>793
古い文献を神社に隠したらしいよ、ご神体として。
出雲大社もそれで残った。

799 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:15:12
>>779
>畿内考古学

正直、こんな造語?初めて聞いたわwww





800 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:28:43
ここの上のほうでアマテラス=太陽神信仰の信憑性が問われる文面が
いくつかあるが

形や呼び名はどうであれ、太陽神信仰というのは環太平洋文化圏の先住民族に
似通ってみられる共通の信仰の形。つまり、仏教と中国・朝鮮文化によって
「文明化」される以前の日本の国で「土着の倭人達」が崇拝していた宗教形態と
みるのが一番自然。

アマテラスがどこから来たとしても(記紀では日向→大和になってるが)
仏教と渡来人どもに洗礼される前の、古代の本当の日本の民の宗教=神道=自然・太陽信仰

それを考えると、アマテラス=太陽神信仰が古代日本の記憶というのが自然で
そこにタカミムスが本来の神?だったとは到底思えない




801 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:30:35
しかし、正直、纏向遺跡の紹介に一々邪馬台国を引き合いに出すのはいかがな物かと思うw

どの道金印でも出てこない限り完全決着することは無いんだし
遺跡の重要性は邪馬台国論争なんかとは別次元であるわけで・・・



802 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:33:23
>>797
おお!サンクス。

今回の調査はその調査区を東西南北に拡大だよ。
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/090320/acd0903201931003-p2.htm
の中央の黄色いポールがSB-101で5m四方の建物、
SA-101は凸状と言われる白いポールの_|の部分(上下逆)。
この写真のど真ん中に人が屈んでるじゃん。それがアップしてくれた平面図の
SD-113と書いてあるところのすぐ上の窪状の部分。
窪状の形を比べてみると分かる。

だからポールだけで言えば、新たな発見は、
凸状の ̄|_(白ポール)と新しい建物(黄色ポール三本)ってことになるね。


803 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:34:52
>>791
>あと>>787の写真は下が北ね。

あ、そうなのか。
そうすると、SA-101の西側を掘ったのか。
これだと建物は一列には並ばないけどな。

産経の

>過去に見つかった建物跡とあわせ、3棟が東西に整然と並ぶことも確認。

はどう理解したらいいんだ?

毎日の

>この建物跡の東側で、東に延びる新たな建物跡(南北6メートル以上)を確認。

という記事からすると、上側が北じゃないとおかしいけどな。
いろいろ間違ってそうだな、新聞記事。


804 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:38:19
>>800
スレ違いなんで書くのは気が引けるが・・・

文明化される以前の宗教形態が太陽信仰と言うのがそもそも根拠が無い。

纏向で行われていた祭祀については・・・

 祭祀土坑からの出土物から・・・五穀豊穣祈願、穀霊信仰
 前方後円墳の祭祀から・・・祖霊信仰、首長霊信仰
 神獣鏡の神仙世界のモチーフから・・・道教系

あたりが想像できるだろうが太陽信仰を想像させる物は無いも無いというのが現実だろう。



805 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:44:19
>>802
ああ、そういうことか。
じゃあ、今回新たに見つかったのはその写真の左側の三本の黄色ポールと、
西側、北側、少し離れた南側の白ポールだけか。

それでもやっぱり、産経の

>3棟が東西に整然と並ぶことも確認。

は意味不明だな。

806 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:45:40
今回の調査区は凸状になってるけど、
_| ̄|_の部分が西側の新調査区域だね。
西側が一番拡大が小さいけど、
SA-101がどこまで伸びるのか確認しようとしたんだろうな。

807 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:45:56
あんま関係ないけどw

苅谷俊介さんも発掘調査に参加
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090320/acd0903201932004-n1.htm

その昔「西部警察」に出てた人だよねw

いや考古学に興味があって畿内説を積極的に支持して
発掘なんかにも参加しているってのは聞いてたけど・・・

808 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:48:19
>>805
まあ新聞記事なんて検証し始めたら、
意味不明のところが残らないことなんてないし。

809 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:58:50
導水埴輪と一緒に出てくる囲型埴輪で、

| ̄ ̄ ̄|
|     |
|__| ̄
    ↑ドア

こういうのあるじゃん。あれ出てこないかなあ。
なんであんな形にしてるんだろw

810 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 01:04:33
>>804
うん、纏向で行われていた祭祀は太陽信仰ではないよな。
つまり記紀に出てくるようなアマテラス=後に朝廷内から持ち出された
伊勢神宮の形態とも関係ないわな。

それは理解できる。記紀ではアマテラスは日向だし九州から来たと
いう従来の考えとも合致するね






811 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 01:09:00
>>804
世界中の「文明化」以前の共通の太陽神・自然信仰というのは
たまたま、あるいはただの偶然の一致、という考えなら根拠はないわな。

しかし例えば太陽神信仰+刺青というのはポリネシアの文明とも一致する
し、それが南九州や日向にあったと考えると、記紀の記述とも一致。

そして、そんな文化は当時の大和にはなかったらしい記述もある。




812 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 01:12:27
>>810
じゃあ東遷は三輪以後って事で他のスレで暴れてきてください。。

813 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 01:18:25
記紀だと纏向宮は景行天皇が開いたことになってるだろ。
以前から邪馬台国と同時期は祟神天皇という説も多い。

それはともかく、倭人伝邪馬台国を纏向宮にひっつけて
卑弥呼の国とするとしたら女王格に匹敵する存在はモモソか
神功ぐらいしかおらんが。 

 




814 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 02:00:10
>>813
>記紀だと纏向宮は景行天皇が開いたことになってるだろ。

それは間違い。
記紀の時系列に従うなら一代前の垂仁が早い。

11代 垂仁 纒向珠城宮
12代 景行 纒向日代宮

また、もう一代前の崇神は

10代 崇神 磯城瑞籬宮

となっているが、事跡の中に三輪山や箸墓など、この地域の地名が出てくる。

纏向遺跡に重なると思われる文献史料は、どう見てもこの三代の箇所が中心であり
文献を重視する立場で纏向を追究するのなら、崇神〜垂仁〜景行あたりを深く掘り下げるべき。

上の方で盛んに神武を持ち出す御仁がいるが、神武を纏向に結びつける記紀の記述は何もない。

815 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 02:09:53
しっかし、>>769の記事を境に、突然レスの質が暴落して
見事に悲惨な糞スレと化しているな。
昨日の昼間のうちは、神話ネタであるにもかかわらずかなり面白かったのに。


いかに「邪馬台国」が最悪のNGワードであるか、よくわかる。
これをマスコミが発掘記事のキーワードに据える限り、
学界から2ちゃんねるまで、
すべての議論が糞スレレベルになることは仕方ないんだろう。
まったく皮肉なことだが、
もし、中国の戦乱で「魏志」が散逸してしまっていたら、
日本の弥生時代研究はどれほど進歩していたことかw

816 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 03:39:49
神坐日向神社  太陽信仰ぽいどころか九州の地名ね。

まさに何をいわんとす

817 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 03:44:44
そして三輪山を開いたのと伊勢遷宮をはじめた崇神

崇神天皇=アマテラス持込=初期マキムク宮

やっぱ、崇神天皇=神武ぽい。昔からいわれてるけど。



818 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 07:24:22
オレも纏向あたりから、銅鏡を使った太陽信仰の形態が畿内に持ち込まれたとニラんでいる。
古代史で一番重要なのが年代推定の確度だけど、まだまだ誤差の範囲が大きい。
一つの仮定として、オレは、銅鐸祭祀の終焉、古墳時代への移行、銅鏡文化への移行は同じタイミングで
起こったのではないかと考えている。
元々、銅器は大陸からの輸入であり、国内で作るようになっても、その原料の銅は希少だったと思う。
そして、銅鏡の原料として、大陸産の銅鉱とは別に、既存の銅器つまり銅鐸などを鋳溶かして使ったんじゃないか
と思っている。
そして、銅鐸を素直に差出した部族もあれば、隠そうとした部族もあり、後者が現在地下から埋納された形で発見されているのだと推理している。
(当時、国内に銅山があったかどうかは判らないが、北九州の香春岳あたりは古くから銅が産出しており、
ひょっとしたら古墳時代に採れていたかも知れないが、近畿地方では銅山の候補は見つからない。)
また、この事態から、銅鐸文化の突然と消滅と、丁寧な埋納状態、そして、不可思議な埋納場所の説明が出来ると思う。

記紀神話に頼る歴史解釈は本意ではないが、神武天皇の侵入譚は、この地方に銅鏡を使った太陽信仰をもたらした象徴として語られてたのではないかと推理する。


819 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 08:33:20
>>800
>アマテラスがどこから来たとしても(記紀では日向→大和になってるが)

でたらめを言うな。
アマテラスは高天原の神だが、
高天原が畿内を意味していたとは考えないのか?

820 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 08:41:22
>>818
>神武天皇の侵入譚は、この地方に銅鏡を使った太陽信仰をもたらした象徴として語られてたのではないかと推理する。

なんの根拠も無い。

神武天皇が鏡を携行してたとはどこにも書いて無いし、
即位したときでも、タカミムスビを祀ってはいるが、アマテラスを祭っていない。
神武は橿原を制したが、マキムクとは地理がまったく違う。
太陽信仰をもたらしたのは、神武ではない。


821 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 10:37:01
>>805
> >3棟が東西に整然と並ぶことも確認。

http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20090321-OYO1T00226.htm?from=top
この記事によると1978年の調査では西にもう一つ調査区があって、
そこで一棟見つかっているみたいだな。

それから産経の写真を見てた時は気づかなかったけど、
柵の南端も見つかってるんだな。
読売の平面図見てから見ると白いポールあるのが分かるわ。

線路まで後40mは掘れるな。

822 :縦目仮面:2009/03/21(土) 11:17:34
なるほど「東西に並ぶ」の意味がわかったよ。うちらの地方新聞には、柱穴径15cmと出ていて
これだとあまり太いとは言えないが、この雰囲気なら、東側はかなり期待できそう。

823 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 11:24:31
>>821
なるほど。これはよくわかる。時期的には全部纏向2期なんだろうね。

こうしてみるとSB-101は中心建物といわれていたけど、
この図からすると端のほうに置かれた付属的な施設っぽい。
はやいとこ、もう少し東側に調査区を広げてほしいな。

>それから産経の写真を見てた時は気づかなかったけど、

産経の写真でもわかるよ。少し引き気味の写真の奥に写ってる。


824 :明日の風:2009/03/21(土) 11:41:33
それにしても、倭人伝の城柵から、柵のあとがでたからといって、即座に邪馬台国にむすびつけるなんぞ、
邪馬台国畿内説の面々の底の浅さがあっさりと割れてしまったのには失笑を禁じえなかった。

825 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 11:50:12
俺は「神殿が見つかる」という意味では全く期待してないけどね。
マキムクの場合、2m四方、5m四方の建物が、
あちこちで見つかるのが特徴で、
今回の報道内容もそれに沿うものなので。

この北側(同じ北太田微高地)で見つかった
トイレ遺構かとも言われている導水施設の脇にある建物も同じサイズだったし、
水路との配置を考えると、他にも同様の建物が並立していておかしくない感じだった。

けど建物の集合構造が分かるのは非常に面白いと思う。
後は併設される土抗(井戸)、導水施設の有無。

826 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 11:54:52
>>825
間違えた。
北太田微高地→太田北微高地

この辺は元々中州の細い先端だったところで、
少し南のグランドの辺りの方が小高くて、
低塚群があるんだよね。
箸墓との間はまだまだ田んぼが多いから、
たくさん発掘できるといいね。

827 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 12:08:45
>>825
しかし、柵で囲っているというのはないんじゃないか?
柵で囲っているというのはやっぱり何か特別な場所ではあるだろうし、
V字溝などもないから、柵は防御というよりは精神的な結界の意味合いのほうが強いと思う。
そうすると、もう少し東側でこれまでとは違うものが出土することは期待できると思うけど。
神殿なのかどうかはしらんけど。


828 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 12:58:50
神社は、柵で囲まれてるものだよ。
様式通り。

829 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 13:05:26
この周辺では、柵、4 5m四方建物、2m四方建物、土抗がセットだよ。
無数って書いてる人もいるよね。土抗の埋設物の三層構造も共通だから、
ほぼ使い捨ての農耕祭祀施設と見られている。一番下が籾殻だから。

柵の全周が見つかる可能性があることと、凸状が確認されたのは面白い。


830 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 13:13:04
>>814
纏向遺跡が誰が開いたかは明確に区切ることは分からないけど
正直、三輪山だろうが葛城だろうが
全部、至近距離で、同じ生活圏なんだから
どこからどこまでなんかは明確には分からん。
居住地に、纏向の名前がついているのは、11代前の垂仁天皇からだが、
それ以前の数代の天皇だって、纏向遺跡と同じような生活圏に
宮があるわけだから...

831 :縦目仮面:2009/03/21(土) 13:49:14
建物もそうだが、第7次の辻地区土坑4のような豊富な遺物が見つかるのも楽しみ。
わくわく。

832 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 13:58:25
纏向遺跡周辺に遺跡が出てくるのは当たり前のことなんだよね
それが邪馬台国だなんてこじつけもいいところ

833 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 14:25:36
単に邪馬台国の一部に過ぎないのにね。

834 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 14:31:33
ああ、「邪馬台国」が出てくるたびに、レスが見事に糞化するよ。どうしようもない。
ちょっとマトモになっても、「邪馬台国」の一言で、一気に糞レスのオンパレードになる。
昨日のニュースでも、マスコミが嫌な騒ぎ方をしたんだよ。
いい加減、邪馬台国は日本国全体がきれいさっぱり忘れてくれないかなあ。
昨日今日のレスを見れば一目瞭然、
諸悪の根源は、記紀ではない。古田説でもない。皇国史観でもない。魏志倭人伝なんだ。
「反支那ナショナリズム」でも何でもいいよ。
とにかく邪馬台国という単語自体を、非科学的だとレッテル張りしてパージして欲しい。
あと「卑弥呼」もだなw

835 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 14:32:50
石野は本当にこんなこと言っているの?
彼らの名誉のためにこれが記者の勘違いであることを祈るよ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090320-00000577-san-soci
> 卑弥呼が中国・魏に使者を送ったのは239年。今回見つかった建物群跡は、
>まさにこの時期にあたる。纒向遺跡が邪馬台国の中心とみる石野博信・兵庫県
>立考古博物館長は「方位を合わせた構造は、中国の宮殿と共通している。卑弥
>呼は、魏の使者を迎えるにあたって外交交渉上、国の威容を整えようとしたの
>かもしれない」と推測する。
>
> 辰巳和弘・同志社大教授(古代学)も「魏志倭人伝は『卑弥呼は鬼道(きど
>う、呪術)につかえ、よく衆を惑わす』と記す。まさに女王が祭祀(さいし)
>や政治を行った場所の一部だろう」。
>
> 今回の発掘現場を昭和53年に調査した寺沢薫・奈良県立橿原考古学研究所
>総務企画部長は、西側に張り出した柵(さく)と、方位を合わせた建物群の計
>画性に注目し、「儀式を行う特別な建物だったことは間違いない。中心施設は
>さらに東に埋まっているのだろう」と今後の調査に期待をよせた。


836 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 15:05:03
朝日の方はもう少し穏当な発言だね。
http://www.asahi.com/culture/update/0321/OSK200903200060.html
>  兵庫県立考古博物館の石野博信館長(考古学)は「3世紀段階で建物が軸を
> そろえて並ぶのは極めて異例だ。建物をきれいに配列する中国の思想を既に受
> けていたのだろうか。ここが邪馬台国とすれば卑弥呼の宮殿の一角なのかもし
> れない」と推測する。

ただ朝日のは平面図が無理に理路整然と並び立っているように書かれてるw
現地説明会は22日10時/13時らしい。


837 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 15:54:57
>>828
様式どおりなら、真ん中に本殿があるはずだね。
東側から本殿が出てくる可能性が高いというレスと読んでいいかな?

838 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 16:10:22
>>836
朝日に限らず、

>市教委によると、これほど計画的に造られた同時期の建物跡の確認例はなく、

とか書いてあるけど、どうも、計画的とか整然と並んでいるとかには見えないんだよね。

計画的なら柵が凸型に曲がったりはしないだろうし、
整然とというけど建物の間隔は右と左でだいぶ違うしね。
南北の位置も少しずれてるし。方位はそろえてるけど。

それにしても何で柵が凸に曲がってるのかが不思議だ。
こういうのは最初にまず建物があって、その後、柵を作る必要が生じたからこうなったんだろうけど、
もっと広くガッツリ囲ってはいけなかったのだろうか?いけなかったとしたらなぜ?

あと、朝日の図から見ると、未発掘とされていた北側の脇殿は見つからなかったみたいね。
南側の小さい建物は書いてあるから。

839 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 16:30:01
>>797
> http://toku.xdisc.net/cgi/up/ttt/nm11390.png

で方位が揃っているのは、作図マジックのようだ。写真を見ると。

北側の脇殿(という名前が適切かどうかは分からないが)というのは、
この図で言うとSB-102と同じものが、SB-101を挟むように両脇にあるはずだ、
「推定三号建物」って議論だよね。ないね。
正殿(という名前が適切かどうかは分からないが)に心の御柱があったってのも
写真見る限り嘘だね。寺沢、石野、木村(宮大工)が書いていたはずだが。

840 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 16:39:37
石野さんも昔は、「考古学的に邪馬台国や卑弥呼は存在しない。だから、私は
邪馬台国について語ったことはほとんどない」なんて言っていたのに、
最近は、邪馬台国にどっぷりだな。

841 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 16:45:59
>>840
どっぷりつからないと、乗り遅れるからだろう?
もう、邪馬台国=大和国できまりだから。
しかも、卑弥呼が、孝霊天皇の皇女ということで決まりだから。

842 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 17:15:51
>>834
ほう、史料無しで3世紀の日本がどんだけ解るんだ?

そんなに考古資料万能なら是非とも4世紀のヤマト政権でどういう事が起こり
どういう風に発展して5世紀の大和朝廷になったのか教えてくれないか?
文献資料がないほうがよく解るんだろ?
昔から知りたかったんだが、大抵の歴史書は3世紀の邪馬台国から5世紀の倭の五王に飛んじまう。
是非是非教えてくれ。

あと、1世紀後半に北九州でどんなことが起こり、帥升が倭国王になったのかも。
文献ない方がいいんだろ。教えてクレクレ。

君は倭人伝が無くても考古資料だけから3世紀の日本像をより鮮明に描くことの出来る頭脳を持ってるんだろ。
4世紀なんてチョロいだろ。是非頼む。

843 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 17:24:58
横レスすまんがちょっと食い違いがないかい?
>>834が否定しているのは「魏志倭人伝」(仮称w)だけだろ?
さすがに四世紀なら「魏志倭人伝」より考古資料だと思うよ。

ちなみに俺の立場は>>703に書いた。外交記事は極めて重要。

844 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 17:30:07
正直、正殿と脇殿なら正面のラインが南北で”ツラ”揃えているんじゃないのか?とも思うのだが・・・w

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845 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 17:40:02
>>842
まじれす、107年の帥升の倭の面土国。
これは中古音で、メタ国とよむ。
どう考えても、佐賀平野にあった、米多(めた)国のことだろう?
つまり、倭国は、当分の間、内乱状態になっていたんだろう?

846 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 17:47:46
マスコミにしたら「話題作り」もしくは「記事作り」には「邪馬台国」と言う記号は外せないだろうw

学者先生にしたってマスコミが邪馬台国についてのコメントを求めているのに緘口令を布いたみたいに
ノーコメントを通すわけにもいかんだろ実際wwww

まあ>>834はそう言った周辺の雑音がもたらす弊害を忌み嫌っているんだろうが
実際のところシャットアウトするのは無理だろうwww


847 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 18:06:49
>心の御柱

あれって別に梁や屋根を支えているわけでもなく
柱と言うより、ぶっちゃけ、ただの「杭」なんだっけ?w

まあ勘だけどアレは道教的な思想が背後にあるような希ガス。
天にあって不動の北極星のような象徴と言うか・・・

個人的には三輪纏向の建物にそんな物が無い方が正解www


848 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 18:08:47
邪馬台国を持ち出すのを嫌うのは九州説の連中だけ。

九州の連中だって、九州の遺跡から何か出たら、喜んで邪馬台国という語句を持ち出すだろう。

849 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 18:11:38
>>844
そういう推定図が描かれていたんだが、どうも違ったみたいだね、っていう話。

850 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 18:14:54
>>782

>出雲大社から文献が出てきた。それも山のように。
>そこに卑弥呼やとよの墓の場所が載ってた。

これ、本当なの?
ググっても、ニュースが見つからないんだが。

851 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 18:17:58
どう見てもネタだが・・・・

852 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 18:27:54
なんだ、ネタか・・・・

出雲大社解体作業で系図でも出てきたかと思ったよ。

853 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 19:03:28
>>844
まあ埋まってたらある程度歪んで位置ずれるもんだけど、
今回のはちょっとずれすぎかもね。
この程度の並びなら弥生時代の遺跡にもあるね。
そして鍵・唐古や池上曽根の大型建物よりはるかに小さい。
数が多いことから、米作ごとに作り直したんじゃないか。

854 :縦目仮面:2009/03/21(土) 19:28:50
今回の発掘で感じたのは、古い調査報告・・・特に緊急発掘で遺物もあまりないまますぐ
埋めもどされたものについては、情報が一人歩きしてしまうってことだな。前回より広げて
掘ってもまだ確定的なことはほとんど言えない状況・・・俺も西面しているという情報を鵜呑
みにしてました。反省。

もう一つは、発掘主体が桜井市教委という市レベルの地方自治体では、常に予算の問題
がつきまとうということ。4月以降の調査継続が決まったようだが、住民の生活第一だろう
からこれからもいろいろと難しいと思う。

マスコミについては、マキ向の発掘といえば条件反射的に邪馬台国と結びつけるのは、
もうどうにもならんだろう。

855 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 19:44:38
調査は最初から5年の計画だよ。>>149
今掘ってる450平米を今年度中ってのも決まっていた。
>>787
> 今は12m×25mくらい?
って書いちゃったけど、15m×30m(=450m^2)くらいだね。
100m×100mの計画だからまだ5%しか掘ってないんだよ。
あの辺農地だから出来たんだろうけど。

856 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 20:11:20
>>842
「考古学資料万能」なんじゃない。
魏志の倭人部分は、普通に考えれば「歴史記述」として
まったく役に立つような代物じゃないんだよ。
そもそも、最初の最初から揉めてきた
「指し示す地理が定まらないこと」自体が致命的で、
もはやこの点だけで、全く使い物にならない。
もし、日本のどこかで「アメリカ旅行記」が出てきたとして、
「ニューヨークから西に10000km向かって、首都ワシントンに着いた。プレジデントと会った。」
なんて書いてあったら、これはワシントン州なのかワシントンDCなのか
会ったのは合衆国大統領なのか、ワシントン州知事なのか間違いなく揉める。
だが、このことだけですでにこれ自体、
旅行記として信憑性を持たない役立たずになることは確実なわけだ。

857 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 21:08:56
>>838
吉野ヶ里の物見櫓と見做されてる建物で、
環壕の張り出しの所に立っているのがあったよ。
http://material.miyazaki-c.ed.jp/ipa/yosinogariiseki/syuraku_minami/minami/k-yda7.jpg
http://material.miyazaki-c.ed.jp/ipa/yosinogariiseki/syuraku_minami/minami/k-yda6.jpg
支配者の住居などがあったと考えられてる南内郭の環壕。
環壕ないから軍事用途じゃないんだろうね。
太さ十五センチじゃ櫓にもならないし。

858 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 22:07:13
やっぱりマキムクが邪馬台国だったんだな。

859 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 22:11:19
邪馬台国と同時代とされたら、マスコミは邪馬台国とどうしても結び付ける。
それはマスコミの本能として仕方ない。
あとは個人がマスコミ報道をどれだけ理性的に扱えるかということ。
世間の耳目を集めるために、ある程度分かり易く邪馬台国を出すというのは分かる。
自治体から予算を引き出すためには止むを得ないのだろう。
まあ新聞的に、大和政権の〜、とかやるより、邪馬台国にした方が大衆民主的とか思ってるのかもしれん。

860 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 22:30:18
>>859
大衆民主的というか、「科学的だ」と思っているようなんだよ。愚か極まりないが。
>>842もマスコミと全く同じなんだけどね。

昭和初期には、奈良盆地南部や宮崎県などで古代の遺跡が発掘されると、
「記紀の○○天皇の××の事跡発見!」
と報道されるのは普通のことだった。
樫原神宮造営時の「切り株」の報道なんて面白い事例もある。
だが、戦後はこのような報道は影を潜めた。
神話に引き付けるのは「非科学的だ」とされたからだ。
なのに、魏志倭人伝(仮称w)については、
「魏志倭人伝の卑弥呼の△△の遺跡の可能性!」と報道する。
最も極端に皇国史観化した昭和10年代の記紀の扱いと全く同じなんだよ。
ちょっと突き放して考えれば、地理記述すら滅茶苦茶で全く信用の置けないような代物を、
「偉大なる中国様の歴史書である」という理由だけで、
「神話ではなく「歴史の事実」を語る文献資料」だと、頭から信じ切っている。
馬鹿げた話だ。
樫原神宮の切り株と全く同じレベルなんだ。今のマスコミや>>842は。

861 :明日の風:2009/03/21(土) 22:30:36
さあって、明日は東京マラソンをみにいこうっと。
関西の人たちはマキムクだろうね。

862 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 22:47:29
マキムク信者は何か1個でも見つかると最大出力でわめくのなwww

863 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 22:50:12
今城塚古墳は、継体天皇陵とするのが常識となっている。
宮内庁は違う考えで、大田茶臼山古墳を継体天皇陵としている。
だから、今城塚古墳は、発掘調査が行える。しかし、いくら調査しても
継体天皇陵とはわからない。
考古学とはそんなものだろう。

箸墓を調査しても、誰の墓かわかる可能性は低い。
たまたま人骨が出てきて、かなり年寄りの女性だとわかれば、卑弥呼の
可能性が高いことになるだろう。「親魏倭王」の金印でも出れば
ますますその可能性が高い。

しかし、これは魏志倭人伝に書かれているからそんなことが言えるのである。
仮に倭人伝がなかったら、誰の墓なのは全くわからない。

倭人伝は信用ならない、考古学こそが万能というのは、邪馬台国関係では
本来、有り得ない事なのだが。

864 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 22:52:37
邪馬台国九州説の人が、今晩、金縛りになりますように。

865 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 22:56:44
>>863
箸墓はふつうにモモソヒメの墓と考えればよい。
築造の記述も、墓所の記述も、モモソヒメの業績の記述も資料として残っている
状況で、積極的に異なる事実を認める根拠はない。

記紀は皇国史観で捏造されているとかいう馬鹿は無視すればよい。


866 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 23:00:53
>>863
金印が出て来ない限り、全く意味の無いこと。
そして、今の所、このようなことは全く明らかではない。おまえさんの妄想だ。
今の所、そもそも地名の指し示す地理的位置すら分からないような
信憑性のない「外国の書物」に過ぎない>魏志倭人伝

「邪馬台国関係では」という言い方そのものが駄目なんだ。


橿原神宮の陵墓を調査しても、誰の墓かわかる可能性は低い。
たまたま人骨が出てきて、2600年ほど前の男性の人骨だとわかれば、
神武天皇の可能性が高いことになるだろう。三種の神器でも出れば
ますますその可能性が高い。

しかし、これは日本書紀に書かれているからそんなことが言えるのである。
仮に日本書紀がなかったら、誰の墓なのは全くわからない。

日本書紀は信用ならない、考古学こそが万能というのは、大和朝廷関係では
本来、有り得ない事なのだが。

今、このようなことを言う者はいない。だがなぜ魏志については同じことを言うのだ?

867 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 23:01:36
ここはマキムク遺跡に興味がある人だけでいいよ
邪馬台国関係はよそでやれ

868 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 23:08:57
邪馬台国九州説論者のうめき声が聞こえるスレ。


869 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 23:10:52
>>867
だったら、纏向関連の新聞記事で、邪馬台国とか卑弥呼とかの名前を出すのを
止めたらいいのに。

870 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 23:15:59
>>869

そんな事はお前がマスコミに直接言えよ馬鹿w

871 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 23:18:33
>>867
>>769の糞紹介の尻拭いをしているだけだよ。
「ほな、(スレが糞方向に)逝っちまっただー」だww

「邪馬台国」「卑弥呼」は、奈良だろうが九州だろうが朝鮮だろうがペルーだろうが、
どこでどんな遺跡発見のニュースが出てきた時も、
このスレでは絶対のNGワードにしておかないと、マトモな議論が全く出来ない。
恥ずかしいが、出てくるたびに火病ってパージしないと、どうにもならんw
俺は「記紀」も同じNGワードだと思っていたが、
昨日の日中あたりのレスのやりとりを見ていると、
このスレの住民の大多数なら、十分に相対化しているように思う。
神話と宗教観念の推測だからね。
だが、「邪馬台国」「卑弥呼」は事実だと勘違いする馬鹿が後を絶たず、
これは本当にどうしようもない。

872 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 23:36:37
恐らく考古学者にとって邪馬台国を研究するメリットの一つに
実年代の確定ってのがあったんじゃないのか?
(小林行雄が良い例だと思うが)

しかし今後更に理化学的年代測定の技術が向上すれば
その魅力すらなくなる。

…と言うか既にそうなっているのでは?

873 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 23:50:33

遺構配置図と航空写真(読売新聞)

http://osaka.yomiuri.co.jp/zoom/20090321-OYO9I00219.htm
http://osaka.yomiuri.co.jp/zoom/20090321-OYO9I00215.htm

874 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 23:54:19
考古学の役目は、事実を探ることであって、魏志倭人伝の記述が正しいことを立証することでは無いよ。
考古学的事実によって、魏志倭人伝に書かれてる多くのことが間違いだとわかれば、
それはそれで考古学の成果というもの。

875 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 03:02:45
そこまで倭人伝を嫌わんでも。
外国人の目線とはいえ、やはり同時代の伝聞記事は貴重。
考古学の成果でようやく邪馬台国や卑弥呼のことがわかりつつあり(実年代が分かればだが)、
最初から諦めるのは問題。

876 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 03:17:37
柵の全貌は明らかにならないかもね。
北側が民家の下に伸びている可能性が高い。
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/090320/acd0903201931003-p3.htm

877 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 09:32:52
東側も向こうに民家が見えてるから、そこまでかな。

878 :縦目仮面:2009/03/22(日) 10:33:28
現段階では当て推量にしかならんかもしれんが、建物の正面はどっちだと思う?

879 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 10:53:55
>>878
まだ掘ってない東側にあるものは南向きの気がする。
といっても、まあ25%ぐらいですが。

ところで、誰か現説行ったかなー。
関西在住のスネークはいないのか?

880 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 13:01:58
素人ですいませんが、本当にマキムクの頃の遺跡なの?
地層とかで分かるのだろうか?もしくは布留土器が出てるんですか?

881 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 13:11:06
>>880

纏向のTかU期ですから庄内相当です。

882 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 14:35:23
>>877
あの少し南は線路まで何もないんだけどね。
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/090320/acd0903201931003-p1.htm

>>880
>>797が書いてくれているよ。

883 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 14:55:10
>>878
SB-101は柱が南北面3本、東西面4本だから、
当然東か西が正面じゃないのかな。
真ん中に(入り)口が開いてるんだろうから。
ただあれは普通の意味で「建物」なのかどうかも実は良く分かってない。

>>809の囲い型埴輪の入り口の位置とか
入り口一つ取ってみても謎な事も多いし、
http://inoues.net/ruins/idogata_haniwa.jpg
井戸の囲い型埴輪は正方形なんだけど、
マキムクの掘っ立て柱の中に井戸があったという報告はまだないね。

柱は墓壙内柱穴とか心御柱とか良く分からないものが多いしね。



884 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 15:11:08
>874 魏志倭人伝の記述が誤りなら,邪馬台国は存在しなったということなの。

885 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 15:16:05
>>884

ある意味それで間違いない。

これはちょうど「聖徳太子はいなかった」と同じ構図。

確かに聖徳太子の”モデル”になった「厩戸王子」は実在した。
しかし超人的な能力を持ち様々な改革を成し遂げた
最近まで語り継がれた「聖徳太子」その人は実在しなかったと・・・



886 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 15:16:35
>>881
纏向1は庄内じゃないよ。それより古い。V様式末期。

887 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 15:22:03
>>885
まあね。対外的に国として存在したのは倭国だし。
邪馬台国は、今でいう東京都みたいなもんだから。

888 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 15:52:43
>>883の囲い型埴輪、井戸併設型って、
井戸は囲いの中にあることは出土状況で確定済みですか?
外ならマキムクと一緒だよね。

889 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 19:16:29
説明会行った人いる?

多くの報道で新たに見つかった三本の柱跡は、
最低でも南北に6mっていう報道なんだけど、
(大きさに言及している報道のほとんどがそうだから、
調査員からそういう説明があったのだろう)
その根拠は説明されたのかな?

http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/090320/acd0903201931003-p2.htm
を見ると1978年に見つかった5m四方の柱跡と長さが違うとは思えないんだけど。
http://www.sankei-kansai.com/2009/03/21/20090321-007712.php
を見ても、現時点で伸びる形跡が発見されているとは到底思えない。

1978年に見つかったのは図面によれば5m弱。
>>883にもあるようにそれが二分割(南北面)、三分割(東西面)されてる。
ところが新たに見つかったのは、三本で東西面だけど、
前に見つかった柱跡でいうと南北面で使われた間隔。
もしかすると、東西面は三分割と推定、
だからもう一本あると推察しているのだろうか。


890 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 19:31:56
ただ、その柱跡の間隔だけど、
石野の「邪馬台国の考古学」では、
魏尺の吉尺である魯般尺を使っていると想定している。
魯般尺は32cmだから、5m弱だと、32*15=480cmが怪しい。
ところが15分割だと、柱跡で二分割、三分割されているのと矛盾する。
三分割なら柱の間隔が5尺だけど、二分割だと7尺5寸。
寸に分割するなら吉尺でも何でもない。
使用尺を想定するなら12分割、24分割できるものを想定すべきではないか。
同じ柱跡間隔の建物が三つ出て来た以上、たまたまではないのだろうから。

その上、上述の書籍では、
> 纏向遺跡の建物群に関する木村氏の復元案については、建築史の分野から
> その使用尺を含めて批判があるかも知れない。しかし、事実にもとづく復元案で
> あり、検討の対象とすべきである。木村氏の指摘の中で、魯般尺が吉祥尺であり、
> 陰陽尺とも呼ばれているという点は、道教の現世利益の考え方と一致し、卑弥呼
> の鬼道を実修(原文ママ)する建物にふさわしい。
などと書いている。どうして「事実にもとづく」などと言えるのか。


891 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 22:37:24
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命
って、それだけで凄い発見なのに...
なぜか、考古学の先生って、記紀を読まずに
独自の空想の解釈ばかりするよねw
すぐ、そこまで来ているのに、なぜか、直前で寄り道するみたいなw

892 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 01:01:49
今回のは「祭殿」の再発掘だよね?
http://blog-imgs-30.fc2.com/k/i/t/kitsunekonkon/makimuku_map.gif

893 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 15:38:17

ただいまニュー速+板で大議論中!

【考古学】「邪馬台国畿内説」に弾み 卑弥呼宮殿の一角とみられる特異な張り出し柵や建物跡出土 奈良・纒向遺跡
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1237759585/l50


894 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 17:37:57
>>42
> それにホケノは当初いわれたほど古くないという意見も強い。
> 鏃の型式からもマキムク3式、布留0段階の方が妥当だ。
> 報告書でどうなるか知らんが
> >>210
> 遡上説の根拠は年輪年代だよな。(略)
> しかも、石塚を遡上させても、ホケノの布留という障害もあるよね。

ホケノを三世紀初期に持って行くのは厳しいでしょうね。

C14年代測定法で三世紀前半であることが分かったと鼻息荒かったけど、
> 測定の結果、サンプルの年代は「西暦120年を中心に、75〜215年」
> 「120年を中心に、80〜155年」などと判明。
が実際の測定の結果だからね。(逆に二世紀前半)
それも「など」として、全てを公表したわけじゃない。

その結果に
> 調査委は、欧米と日本の自然環境の違いなどからデータを補正し、
> 木棺を加工した際に木材表面が削られていることなどを考慮、
> 伐採年を2世紀末〜3世紀前半と推定した。
と修正に修正を加えた挙げ句、
> 中国で2世紀末〜3世紀初めに作られた画文帯神獣鏡が副葬されていたこと
> などから、築造年代を3世紀前半と判断した。
と最後は画文帯に頼った上に、(C14年代測定法やった意味ないよ!)
ここでも「など」と根拠を具体的に提示せず。

その上、年輪年代法と結果が一致するという発表だから恐れ入る。
もう邪馬台国と卑弥呼は勘弁して欲しい。


895 :縦目仮面:2009/03/23(月) 19:15:29
>>890
その本は読んだが、ほとんど遺物も出ていない道教とかなり強引にこじつけられている
気がした。全容が明らかになってから石野氏の発言がどう変わっていくか・・・。

896 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 21:11:49
>>894
> 測定の結果、サンプルの年代は「西暦120年を中心に、75〜215年」
> 「120年を中心に、80〜155年」などと判明。

この測定データなんだけど、
放射性炭素C14の測定量から、半減周期を使って、
生物として死んだ年を推定することになる。
ただ北米の長年にわたる調査によって、
年輪年代法、貝殻年代法の値、つまり実年代とずれることが分かっている。
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/sousei/yayoinoukou/hokoku05/e/e1.pdf
それがこのグラフ。C14年代が10000年前(BP)だと、
較正年代12000年(cal)くらい前であることがグラフから読める。(縦は1950年を起点)
ところで上の「西暦120年」はこの較正を行う前だろうか、後だろうか。
(以下誤差±αを省いて書く。引用記事のように100年以上の誤差があることに注意)
もし120年が較正を行った後であれば、C14年代は120+(1950-120)/6=425年
逆にまだ行ってないなら、較正年代は120-(1950-120)/5=-246となる。
幾らなんでも較正後が紀元前ということはないだろうから、
「西暦120年」はC14年代ではなく較正年代だと分かる。
(続く)

897 :896:2009/03/23(月) 21:18:39
(続き)
較正年代であれば、
> 調査委は、欧米と日本の自然環境の違いなどからデータを補正し、
この修正にはINTCAL98の較正は含まれてないことになる。では、
> 伐採年を2世紀末〜3世紀前半と推定した。
> 築造年代を3世紀前半と判断した。
一体何を根拠に60~80年時代を下げるのだろうか。

実は群馬大地学研究室に国内の基礎資料があるのである。
http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/seminar/14C/400.gif
このグラフによれば群馬では西暦400年で120年ほどの較正を行う必要がある。
残念ながら西暦250年頃のデータはないので、仮に150年としておこう。
ところでINTCAL98では較正年数が(1950-120)/6=305年だった。
となると、INTCAL98(04でもほぼ同じ)305-150=155年古く考えすぎだったのである。
日本固有の較正を行うには北米の較正年代から155年時代を下げなければいけない。

ところが上述のように60~80年しか下げてないのである。
これで「C14年代法でホケノが3世紀前半であることが分かった」と言えるのだろうか。
120+155=275±α(αは40 90くらい)、三世紀前半から四世紀前半となる。
「調査委」の考え方であれば、「三世紀後半と判断」してよいことになる。

898 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 22:47:13
C14とか年輪でも、須恵器開始時期とかマキムクより後世の実年代は信憑性があるんだけど。
このあたりはどう考えてるの?

899 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 23:40:04
信憑性というのは具体的にどういうことですか?
例えば誤差、中心値のずれなど。


900 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 00:13:12
>>894
石野さんはC14年代測定法は信用してないって、
前スレに張られてた安本との激論(笑)で言ってたよ。
その時持ってきた自分の資料でも使ってないってさ。
河上さんは当時肯定するような発言していたけど。
http://www2e.biglobe.ne.jp/~fujimoto/kibi/kofun.htm


901 :縦目仮面:2009/03/24(火) 06:27:49
まあ、調査委がムリをしているのは確かだと思うし、すべてのデータを出さないのはフェア
ではない。ホケノ山は石囲い(積み)木槨という特殊な埋葬部からも、3世紀末でも不思
議はないと思う。・・・calソフトは遊びで使うと面白い。

902 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 06:56:30
>>901
どうして石囲い木槨だと3世紀末?理由は?

903 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 07:27:14
>>898
須恵器そのものはC14年代測定法では年代が分かりません。
またAMS方式測定器の設計者が、
通常の原子核物理実験程度の精密性を出せるように機器を作っても、
80年ほどの精度しか出ないと言っています。
http://www.kutl.kyushu-u.ac.jp/SubGroups/AMS/
信憑性があるというのは一体どういう意味においてでしょうか。

ホケノについては誤差の範囲内に、
土器や銅鏃の編年に合うものがあるのに、
あえて合わない三世紀前半を選ぶ意味が分かりません。
ホケノ→箸墓という古墳編年を崩したくないとしか思えませんが、
箸墓=卑弥呼の墓というのも、記紀の倭迹迹日百襲姫命の記述、
昔の陵墓指定に基づいているに過ぎないのだから、
一度そのあたりは一切忘れて、古墳の編年をやり直した方がいい。
矢塚や勝山が浮上する事も十分ありうる。


904 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 08:03:53
C14と年輪年代はかなり密接な結びつきがあるんじゃなかったかな。
年代の確かな年輪に含まれるC14の濃度が基準になっているという点で。

放射性炭素年代測定法というと、なんとなく正確で、科学的で、客観的な
というイメージを持ちそうだけど、なかなか難しいな。

905 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 14:03:06
C14と年輪年代なら
年輪年代のほうが信用できる。

906 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 14:13:42
卑弥呼(ヤマトトトヒモモソ媛命)の時代、
畿内王朝には、祭祀王と世俗王の両方がいた。
形式的な地位の高さは 祭祀王>世俗王 だが、
実際の権力の強さは 世俗王>祭祀王 だった。

ヤマトトトヒモモソ媛命の地位は、祭祀王の地位。
一方、神武天皇〜開化天皇は、世俗王の地位にあった。
崇神天皇から、祭祀王と世俗王の両方を兼ねるようになった。

で、魏志倭人伝によると
卑弥呼が共立されるまでは、倭国大乱があり、その前には
数十年間、一人の男の王が擁立された時代があったという。

おそらく、この一人の男の王の系統というのは、
神武皇統とは別の系統だったのでは?
それは、出雲王朝のように、ヤマト王朝とは全くの別の系統ではなく、
ヤマト王朝とは、共通の男系先祖をもつ王統だった。
それが、おそらく、葛城(高天原)王朝だったように思う。

倭国大乱とは、
葛城王朝(祭祀王系=火明系)と
ヤマト王朝(世俗王系=ニニギ系)による
古代版南北朝動乱であり、
葛城王朝は、祭祀王の座を、ヤマト王朝に奪われたのであろう。


907 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 15:45:52
>>905
年輪年代って、C14の値で大体の辺りつけたり、正しいかどうか検証するんだよ。
お互い相補的に発展していく。年輪資料をとんでもない勘違いな年代に填めな
いことを、C14で保証しながら系列を作っていって、C14の大気中の含有率を年
輪系列中の木材資料で調べて較正を作っていく。>>897のグラフ見れば分かるよ
うに含有率は一定じゃない。一定だったらグラフが単調(数学用語)になる。

それからこのグラフは日本のじゃなくて、アメリカのものだね。古いものだけど
日本はまだこんなに正確な較正表はない。確かその研究室だったと思ったけど、
西暦700年くらいの実年代の分かっている国内資料で200年の差って結果があるはず。
だから使うグラフが間違っていても>>897の内容はそれほど間違いじゃないと思う。

あと上に書いた相補について安本が突っ込んでいたことがあったよ。安本って
人はおかしな事(九州説w)も一杯言う人だけどいいこともたまに言う。
ググったらすぐ見つかった。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku270.htm
細かい議論まで公表しているのもいいと思う。記紀読解はいかがなものかと
思うが。資料の統計的扱いはまともかな。


908 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 18:07:08
>>906

>葛城王朝(祭祀王系=火明系)と
>ヤマト王朝(世俗王系=ニニギ系)による

逆だろ。



909 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 18:18:24
>>905
部分的にしか発表されていない標準年輪パターンでは信用できない。
4000年分のパターン早く発表する事をキボンヌ。

でも、永久に発表しないしないつもりらしい。シロウトを弟子にしやがった。
税金使って研究したくせに。
税金泥棒とはこのことだな。

910 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 18:33:46
>>909
誤解されているみたいだけど、全く公表してないわけじゃない。
http://www.rekihaku.ac.jp/research/subsidy/density_c14.html
http://www.rekihaku.ac.jp/research/subsidy/density_c14_c01.pdf
http://www.rekihaku.ac.jp/research/subsidy/density_c14_c02.pdf
http://www.rekihaku.ac.jp/research/subsidy/density_c14_c03.pdf
http://www.rekihaku.ac.jp/research/subsidy/promenade.html
http://www.rekihaku.ac.jp/press/yayoi_kaishi.pdf
須恵器なんかは付着物で測定する。付着物の種類によって較正値が違う。
http://www.rekihaku.ac.jp/research/subsidy/subsidy_0710_03.html

911 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 18:35:26
>>905
C14と年輪年代なら
C14のほうが信用できるの間違い?

912 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 18:57:15
>>910
いや、奴が言ってるのは年輪年代の方だよ。
しかも、普通のグラフじゃ加工されてるからだめで
手書きのメモから何からすべて公開するまでは満足しないらしいから、
放置しておくのがよろし。

913 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 19:20:47
■奈良・纒向遺跡で説明会、卑弥呼に思いはせ2500人

 邪馬台国の有力候補地で、女王・卑弥呼の時代の3世紀前半〜中頃に計画的に整備された建物跡が確認された奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で22日、現地説明会が開かれた。
約2500人が、中枢施設の一角だった可能性もある遺構に見入った。

 同市教委の橋本輝彦主任が1978年に出土した建物跡や新たに見つかった柱穴を示し、少なくとも3棟が向きをそろえていたことなど、発掘の成果を紹介。
「当時の先進技術や思想を反映した特別な場所と想定できる」などと説明した。

 参加者はメモを取ったり遺構を撮影したりしながら熱心に見学、横浜市から家族で訪れた西和道さん(15)は
「卑弥呼のために職人を集め、計画を練ってつくり上げたのかな」
と想像を巡らせていた。

(2009年3月23日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20090323-OYO1T00276.htm?from=main3

写真
大勢の考古学ファンらが集まって開かれた纒向遺跡の現地説明会(22日午前10時5分、奈良県桜井市で)=森田昌孝撮影
http://osaka.yomiuri.co.jp/photo/20090323-855633-1-N.jpg

914 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 19:33:23
>904
まったく無関係ってことではないが、原理そのものはまったく違うぞ、C14法と年輪年代

>903
単一試料では充分な精度は出ないが、
複数の試料の測定値を組み合わせると、「ウィグルマッチング法」(大気中C14比の変動)の影響を利用して、かなり絞り込めるようになる。
単一試料だけの場合、もとになる大気中C14の変動のため、100年を超える誤差が出ることが多いし、
年代によっては数百年を超える誤差が潜在することさえある。(特にBC1000近い時期からBC500ぐらいの期間が厳しいんじゃなかったか)

あと、ここには来てないかもしれんが、
「AMSは従来法(液体シンチレーション法/ベータ線法)より古い年代が出るとか寝言を言うヤツもいるようだ。
実際のところ、
・同一試料を測定すると、両者は基本的には同一結果が出る。
ただし、液体シンチレーション法の方が、技術的に未熟な測定者が測定する事例が多い関係から、誤差が出やすい傾向はある。
・かなり多量の試料を消費しないと調べられない液体シンチレーション法では、
測定しうるサンプルが極めて限られており、現実問題としては年代の誤差を云々しうる状況にはなかった。
が、何桁も少ない量の試料で測定しうるAMS法なら極めて多種の試料について測定しうるため、
従来法と違い、極めて数多くの試料について測定値を得られるようになったため、年代値の絞り込みが可能になった
というところだろう。

以前は、C14年代の示す推定年代の幅のうちから、別系統の年代推定値に近い部分だけを取り出して年代値にしてしまう蛮行が横行していたが、
それを排除して、純粋にC14年代だけを使うようになったから、「最も新しい部分の年代値だけを取り出す」などという情報操作ができなくなっただけってのが大きいんだろうな。

915 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 19:58:01
年輪のことはそっとしておいてやろうよ・・・

916 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 20:10:43
>>914
>複数の試料の測定値を組み合わせると、「ウィグルマッチング法」
>(大気中C14比の変動)の影響を利用して、かなり絞り込めるようになる。

ここの日本語(というか括弧)がちゃんと理解しているかどうか不安になるんだが…

「ウィグルマッチング法」ってのは、年輪を持つ木材が出た時に、
その年輪の内外のサンプルから年代測定してグラフ化し、
それを較正グラフと付き合わせる事で年代を推定しようってやり方。
日本語にすると「変動(wiggle)合同(matching)法」というところか。
もちろん年輪がでなければ使えない。

>>907で指摘されているのは、そのマッチの評価が恣意的なんじゃないか、
他にも合う年代があるでしょうってこと。マッチ評価は数学的な処理で
行えるはずなのに、都合のいい所だけ抜き出しているじゃないかと。

ただこの指摘が正当かどうかはデータがないから俺には分からない。
データさえあれば、PCでも簡単にマッチ評価できるが。

917 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 20:21:33
C14とか年輪ももっとケース数が増えれば精度が上がるんだろう。
実年代を知る術は今のところこれら以外にないんだし、今後の発展に期待するしかない。
今までの適当に決めてた実年代は、今後余り語るべきじゃないんだろう。結果土器編年で語ることになる。
必然的に邪馬台国の話は考古学上棚上げになるが

918 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 20:41:04
精度は低くても、低いなりにフェアであればいいんだけどね。


919 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 20:43:52
九州説論者は商売あがったりになるもんな。
あまりにも小説とか歴史読み物で
九州説のものが多く登場したために
これらが全部、ぱーになってしまうから。

920 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 20:51:42
フェアとかいうのは良く分からんなあ。
畿内説がバイアス掛けてるみたいな陰謀史観の人ですか?

921 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 21:05:46
邪馬台国は四国らしいけど、どうなの?そのへん。

922 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 21:43:00
はいはい、正解正解。

では次の方。



923 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 22:41:42
>>917
土器編年がまた当てにならない。


924 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 22:51:36
>916
大気中のC14濃度が激しく上下変動していることを利用して、
C14濃度の凹凸にマッチさせる手法だから、おかしくないだろう。

最も短期的な変動(1年周期の季節変動)から、数年単位、数十年単位の変動まで、いろんな凹凸がある。

925 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 23:09:52
うむ。炭素と年輪を虚心坦懐によめば、
大本命は無難に3世紀末から4世紀、対抗馬があっと驚く2世紀と言ったところか。
この結果自体は、実に面白い。示唆するところも多いね。
考古学だけだったら、ここから更に議論と研究が進められて、
理化学的年代法の重要な研究例として、
世界の考古学に貢献できる可能性すらあったのに。



「邪馬台国」で全部ぶち壊しだよ。
本当に、魏志倭人伝さえ無ければ、弥生時代研究はどれほど進んだか分からない。
あんなデタラメな有害書物は焚書でもしてほしい。
まあマスコミや在野の馬鹿は放っておけばいいだけの話だが、
予算の問題や、耳目を引く重要性もあるから、難しいね。

926 :明日の風:2009/03/24(火) 23:33:01
確かにそうだ、考古の方々は聞きかじりで文献を引き合いにだすから、考古及び古代史研究があらぬ方向へといってしまう。
考古の型は文献から手をひくのが最良の方法なのです。

927 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 00:01:11
>>925
邪馬台国も魏志倭人伝も悪くない。
悪いのは、変な風に解釈したがる人間。

邪馬台国は九州で決まり。その後のことを考えるべき、と誰かが言っていたな。

928 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 00:19:06
>>926
>聞きかじりで文献を引き合いにだすから、

まったくだ。
学問というのは、理化学的事実を土台にして研究をするもの。
文献は、オマケにすぎない。

弥生時代末の近畿に広域な勢力圏を持つクニがあったという事実があるわけだから、
まずそこを土台にしないと始まらない。


929 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 00:52:22
なんか良く分からん書き込みばかりだな。
実年代が分かれば邪馬台国の話が出来るだろ。

930 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 01:18:13
九州征伐完了!邪馬台国九州説自滅!

931 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 01:32:50
>>929
魏志倭人伝は、時間は一応確定できる(とされている)が、
空間の記述が、素直に考えれば全くの滅茶苦茶。
これは、いくら理化学的方法が進歩しても、絶対に治しようが無いので、
考古学的年代が、いくら理化学的に確定しようが、
現実の地理に則った「魏志原本」が発掘でもされないかぎり、
文献学の見地からも、実際にはほとんど何の価値もないレベルのもの。
これを後生大事にしている日本の「歴史学者」の頭がおかしい。
スレ違いだがな。

932 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 01:54:53
つーか、いまどき地理の記述で位置を決めようとしてる「歴史学者」なんて、一人もいないだろ。
もうとうの昔に終わった話で結論は出てるからな。

史料の限界を超えた話だと。

933 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 02:11:09
>>932
つうか、そもそも魏志東夷伝は、中華の周辺諸国について述べた地理書だぞ。
なのに地理の記述が滅茶苦茶。
つまり、こんなものは普通に考えれば、全く読むに値しないものなんだ。

「アフリカ大陸はヨーロッパ大陸のすぐ『北』に存在する大陸である」
なんて地理書は、何時誰が書いたものであっても、存在自体ネタ扱いだ。
これは「南」の間違いだと「読み変え」て、
従って、この地理書はとても有意義なものだ、と言う馬鹿はどこにもいないはずだ。

倭人伝は、邪馬台国はフィリピン海のはるか南に浮かぶ亜熱帯の孤島だと書いてある。
普通に読めばそうとしか読めない。
そんな島は、いくら人工衛星で探索してもどこにも存在しない。
それとも、ムー大陸の断片か何かかね?w

「当時書かれた唯一の中華帝国公定の漢語の書物だ」というだけで、
倭人伝をありがたがる感性がそもそもおかしい。

934 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 02:23:15
まあ、そうはいっても卑弥呼という倭王が共立されて魏から冊封を受けたという
重要な事実は魏志倭人伝によって知れるのだし。

ところで、纏向遺跡についての最新の発掘情報を網羅した
一般向けの概説書でお勧めのものってあります?

935 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 06:19:20
倭人伝は読むに値しないったって、邪馬台国も卑弥呼も倭人伝とかの書物に
出てくるだけで、考古学では絶対にわからないこと。

さらに、倭人伝に「銅鏡百枚」の記述があるから、三角縁神獣鏡なんかが
出てくるわけだし、卑弥呼の墓のことやその大きさの「径百歩」の記述が
あるから卑弥呼の墓に関する論争もある。

また、倭人伝にある「倭国の大乱」も考古学は十分に参考にしているだろう。
魏からもらったと書かれている金印や銀印も相当に意識しているに違いない。

つまり、倭人伝などがなかったら、考古学だけでは、縄文時代と同じくらい
のことしかわからないだろう。
考古学が万能だというのなら、青森県の三内丸山遺跡について考古学で
いろいろと語ってみればいい。なんと言う国で、どんな人がいて、
何をしたかなど。

縄文時代でなくても、鳥取の妻木晩田遺跡でもよい。考古学で、なんと言う
国で、王は誰で、当時どういう役割を果たした国なのかがわかるだろうか。

936 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 07:32:20
>>935
このスレで「考古学が万能」なんて言っている奴がいるのかよ?w

そもそも所謂魏志倭人伝と言う物はその内容が何処まで正確なのかも分からないのに

その前の段階
「何が書いてあるのか分からない=どう解釈して良いのか定まらない」
・・・ってシロモノ。

百年以上かけても分からず、それどころか新しい解釈のアイデアが出るたび
比定地を絞り込むどころか拡散する始末。

ぶっちゃけ中国人が読んでさえ解釈が分かれる。

まあ>935は元々文献史学からの問題提起であったはずの邪馬台国論争に
考古学が幅をきかせている現状が気に入らないんだろうが
文献の解釈がニッチもサッチもいかなくなった現状ではいたしかたないだろう。
他に有効なアプローチがあるのか?
それとも畿内説に名を成さしめるぐらいなら論争の打ち止めを願うか?w

勿論俺は考古学が万能なんて微塵も思ってないぞw

937 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 08:08:44
>>936
考古学は、古代の「文化」を研究する学問。
極論すれば、考古学的には邪馬台国も卑弥呼も存在しない。
守備範囲は限定的だということ。

たとえば、いくら発掘調査しても、吉野ヶ里遺跡や妻木晩田遺跡がなんと
いう国かはわからない。
椿井大塚山古墳や黒塚古墳が誰の墓なのかもわからない。

こういう状態だから、纏向が邪馬台国だとか、箸墓が卑弥呼の墓だとかも
言えないだろう。邪馬台国論争に考古学が首を突っ込めるのは、やはり
倭人伝の存在が大きい。
にもかかわらず、倭人伝を否定する傾向があるのはやっぱりおかしい。
ということかな。

938 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 08:32:39
倭人伝を毛嫌いする理由が分からん。
確かに倭人伝解釈は余り学問的ではないが、
少なくとも同時代の人間が書いた唯一の文献てだけでも十分に価値があるだろ。
考古学に軸足を置いた上で倭人伝を解釈すればいい。記紀なんかより余程有効。

939 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 08:42:30
>>938
記紀も倭人伝も考古遺跡も、みんなかけがえの無い大切なものですよ。

>>937
文化と政治・経済・外交とは、完全に切り離せるものではありません。
いま若者はロックミュージックなんかが大好きですが
近代史を知る人はこれが政治や外交と無縁だとは考えないでしょう。
文化の背景には必ず政治の姿があります。

940 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 09:25:00
>>935

だめだめ。
俺は畿内説支持だが、
卑弥呼の鏡を三角とは考えて無いし、
(三角とは別の複数種類の鏡をもらったかもしれない)
卑弥呼の墓が箸墓だとも考えて無い。
(古墳時代が4世紀からだとしても、卑弥呼の墓に相当する古い墳丘墓が大和にある)

そうやって安易に魏志倭人伝と結びつけるから九州説側から年代がどうのと足元をすくわれるんだ。
結果、無意味な論争で時間を浪費することになる。


941 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 10:03:13
議論があるから弱点が補強されるんだよ。倭人伝を学問的でないと敬遠する気持ちは分かるが。
昔の大和中心史観が是正されたのも、九州説や九州王朝説からの反論によるところが大きい。
現在はそれが行き過ぎた反省から揺り戻しが起きてるだけ。

942 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 12:37:04
大和中心史観ってなんだよ?

そもそも、邪馬台国は後の大和国のことだと、奈良時代から常識だったのに、
九州説を言い出したのは江戸時代のトンデモ学者だ。


943 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 12:42:56
>>908
これでいいですか?

卑弥呼(ヤマトトトヒモモソ媛命)の前の時代、
倭国大乱の前までは畿内王朝には、祭祀王と世俗王の両方がいた。
形式的な地位の高さも実際の権力の強さも 世俗王(男)>祭祀王(女)だった。

倭国大乱後に擁立されたヤマトトトヒモモソ媛命の地位は、祭祀王兼世俗王(倭王)。
一方、神武〜開化は、娘を祭祀王(女)に出すだけで権力はなかった。
卑弥呼の摂政になった崇神から、権力を振るうようになり。
四道将軍派遣、武埴安彦の乱の後、完全に権力を掌握し
世俗王=天皇家、祭祀王=斎王となった。


倭国大乱とは、
出雲王朝(本家)と
葛城王朝(分家に婿入りした火明系)による
古代版南北朝動乱であり、
出雲王朝は、倭王の座を、大和王朝に奪われたのであろう。

944 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:03:28
>>936
そうなんだよ。てか、そもそも魏志倭人伝はそもそも「文献」の名に値しない。
戦後、日本書紀の神武即位あたりの部分は、
文献史学の扱う「文献史料」から外された。
その最大の理由は、指し示す「時間」の問題として、
ヒトの寿命として医学的に不可能な数字が軒並み書かれているから。
あの数字を一生懸命いじっているのは、今では在野の好事家だけ。
「ありゃ神話だからね」というのが、今の態度だが、
その突破口となったのは、あの滅茶苦茶な年代記述。

同じように、魏志倭人伝の「空間」の記述は、地理学上あり得ない。
米軍の最新鋭の軍事探査衛星を以ってしても、
魏志に記載のある「邪馬台国」の位置に陸地は全く発見できない。
「指し示す地理が滅茶苦茶な地理書」。こんなものには何の価値も無い。
四則演算がデタラメな数学の論文のようなものだ。

つまり、そもそも魏志倭人伝は、文献史学の扱う対象の資格を全く有しない。
邪馬台国なんて、ムー大陸と変わらん。
>>935とか、「中国史書」であるというだけで、デタラメを真実と勘違いしている。
「聖書に書いてある」からという理由で、世界が7日で創造されたと信じる
キリスト教原理主義者と同じだ。つまり史学なんかじゃない。宗教なんだよ。
宗教としては、憲法に基づく信仰の自由が保障されるけどね。


945 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:15:34
スレ違い心苦しいが、もう少し真面目に書くとこういうことになる。

歴史上の「クニ」なり「君主」なりにたどり着く為には、
合理的推論を働かせながら、信頼性のある史料から遡ることが必要だ。

日本書紀の場合、
編纂時の天皇→「王統譜の時間を一つ一つ遡って、系譜を確定する」→「神武天皇」
となる。
ところが、この遡る時間の記述が、医学的に滅茶苦茶だから、
神武天皇の実在は、マトモな文献史学の観点からは、そもそも存在が疑われる。

魏志倭人伝の場合
出発地→「旅程の空間を一つ一つ遡って、地理位置を確定する」→「邪馬台国」
となる。
ところが、旅程の空間が、地理学的に滅茶苦茶だから、
邪馬台国の実在は、マトモな文献史学の観点からは、そもそもその存在が疑われる。

存在を支える前提が崩壊しているので、邪馬台国なんて実在自体、極めて怪しい。
文献史学としても、まともに取上げるような代物ではない。

946 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:23:39
>>943

「出雲王朝」自体が存在しないだろ。
出雲王朝を示す痕跡ってなに?
出雲王朝の範囲はどこからどこまで?
四隅突出型墳丘墓を出雲王朝の証とするなら、奈良には存在しないから、
出雲王朝と奈良は全く無関係だよ。

947 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:28:30
>>945
>存在を支える前提が崩壊しているので、邪馬台国なんて実在自体、極めて怪しい。
>文献史学としても、まともに取上げるような代物ではない。

九州説を採るならば、なおさら魏志倭人伝は信用できなくなる。
九州に邪馬台国があったときに、近畿では広域連合が出来つつあったのに、
魏の使者は知りませんでした、ってことだからな。
四隅突出型墳丘墓をつくって、確実に半島と交易していた出雲の記述さえ無いとしたら、
倭人伝としては評価に値しない。

948 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:29:55
マキムクスレなのにマキムクのこと誰も書かなくなってしまったな
嘆かわしい

949 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:07:03
>934
>ところで、纏向遺跡についての最新の発掘情報を網羅した
>一般向けの概説書でお勧めのものってあります?

検索で出てくる本では、これぐらいか。
>ttp://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E3%83%BB%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1-%E7%9F%B3%E9%87%8E-%E5%8D%9A%E4%BF%A1/dp/4311304943
大和・纒向遺跡 (単行本)
石野 博信 (編集)
価格: ¥ 10,290
発行が2008年と新しいとは言え、充分に新しいかワカランし、けっこう高いな。一般向けかどうかも知らん。

950 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:17:39
>>949

それなら持ってるけど、どういう資料を知りたいの?
内容的には、3000円くらいの普通の考古学本3冊分と思えばそれなりだよ。


951 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:25:05
>>947
普通に考えれば畿内は蚊帳の外でした
って結論だよ
畿内が蚊帳の外が気に食わないっつーのもわかるけどね
持ち込まれた土器だってまだまだ原始的だし鄙の集落で市がありました
ってのが正解だろ
魏志も知らなかったとは書いてないし。皆倭種って国名がずらずら書かれて
たのを忘れたか。そのどっかが畿内だったり東海だったりしたんだろうね

952 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:29:57
>>951

なるほど、蚊帳の外程度の認識だった畿内が、
4世紀に九州を支配するまでに至ったんだね。
九州の邪馬台国が滅んだのは、魏の後ろ盾を失ったことが大きかったんだろう。

953 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 14:43:23
はっきりいって今後も纏向で新しい発見があるたびに
新聞雑誌の紙面に「邪馬台国」の文字が躍るだろう。
・・・これはもう仕方が無い。

かつて九州説もそうだったんだし、その恩恵を受けてきた側面は十分にあるw

むしろ現在においては邪馬台国ブーム自体が過去の物となった分
かわいらしいモンだと…

文献との齟齬が気にいらないのなら文献に完全合致する遺跡でも探して来いっちゅう話だなw

もしくは文献の解釈において他説を圧倒するだけの材料を揃え
「倭人伝の解釈はこれ以外ありえない」
と言うものを打ち出すかだな(まあ無理だと思うけどw



954 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 15:14:58
>>946
出雲王朝 封建制
九州 大和 吉備 丹波 越 東海

大和王朝 中央集権的
九州 出雲 吉備 丹波 越 東海

955 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 15:40:41
>>954

証拠を出せよ。

956 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 15:49:12

ただいま2ちゃん「ニュース速報+」板にて、次の2スレ、大熱論中!

【佐賀】邪馬台国を考える会(仮称)4月に発足 畿内説との討論などを交えながら吉野ケ里遺跡が邪馬台国であったことを究明
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1237962346/l50

【考古学】卑弥呼宮殿の一角か 特異な張り出し柵や建物跡出土 奈良・纒向遺跡★2
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1237824846/l50


957 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 17:15:49
日本の歴史にとって重要なこと邪馬台国の比定ではなく、
当時の日本の政治権力どのようなものであったかの究明だろう。

958 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 18:19:50
>>956

大熱論中とかって言われても、九州説側の戦略は、
「畿内説を証明させない=畿内説の不備を突いていく」だけでいいんだから楽だよ。
「畿内説はこんなに変ですよ」というムードをつくれば、見かけ上、九州説の勝ちだからな。
世論が、今、どっちを向いてるかくらいしか興味ない。


959 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 18:25:22
>>958
被害妄想では?

960 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 18:39:06
まあ個人的にこのスレで殊更魏志倭人伝・邪馬台国の話題を避ける必要は無いと思うが

現実問題、今度はそこに記紀神話が入ってきて年代も古代全般に飛んで・・・
って流れになるのはウンザリだなw

邪馬台国の話題に触れつつバランスをとりながら
スレを進めていくと言うのは実際無理だなw

で、話を纏向に戻すと俺みたいな素人がすぐに思うのは
箸墓より前の前方後円墳について記紀にその記述が無く
「ああ、やっぱり神武+欠史八大、及びそれ以前の事はやっぱり殆ど作り話だったのね」
と思うわけだがw

場所とその(造営当時の)大きさを考えれば
「見落としてました」「記録に値しませんでした」で済む話じゃないだろう?www



961 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 19:05:18
>>960

だからね、箸墓が4世紀でもいいわけでしょ?
畿内説であっても。
モモソヒメは欠史八代の人だよ。


962 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 19:48:27
>>960
むしろ現状では、記紀ネタのほうがはるかにマシ。
スレの上の方を読めば分かる。
神話の「付き放し」は、一部の電波レスを除いて普通に出来ているわけで、
実に冷ややかに、考古学と折りあいを付けながら、
静かに議論ができるようになっている。
そんな奴でも、魏志倭人伝は全く付き放しが出来ない。どうして同じことができないのか。
付き放しが出来ない以上、言及厳禁とするほかない。
むしろ絶対に議論から抹殺すべきは、魏志倭人伝ネタ全部。


そろそろ本来の議論に戻りたいんだが、
とりあえず上のほうのまともなレスから、ざっくりと問題をピックアップしてみる。
同位体+年輪法の「2世紀説」と「4世紀説」(大雑把にまとめたw)で、
他の考古学的出土品と符合したとき、よりよく説明できるのはどちらなんだろうね?
2世紀説のほうを補強する出土品や、あるいは考古学的仮説立論があったら、
かなり面白いんだが。

963 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 20:06:23
一時埋まっていた唐古・鍵の環壕に
再掘削が見られるのは布留0ってことでいいの?
天理の前方後方墳、ノムギ古墳と同じ?

964 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 20:09:11
これね。
http://www.kashikoken.jp/from-site/2003/nomugi.html
布留0ってことは箸墓と同じだよね?

965 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 20:19:26
>>957
記紀が語る大和王権の成り立ちを大体で概略すれば、
大和カシハラで神武即位→欠史(葛城地方?)
→崇神がマキムクに移る→アマテラスを伊勢に移す→吉備・越・東海・丹波に皇族将軍を派遣、駐屯のちに土着豪族化→出雲討伐
→景行の九州西征→英雄の東奔西走により大和王権の版図が大幅に拡大(特に東国)
→仲哀がクマソと交戦中に戦死→神功の三韓征伐(高句麗でなく新羅だが)→応神が河内に移る


結構、的を得てるんじゃないかと思うのだが。こんなに戦乱状況ではなかったと思うけど

966 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 20:30:35
>>960
俺は君と逆で、もし纏向遺跡を考古の面だけでなく歴史史料の加えて論じるのなら
記紀を主とし、魏志倭人伝は従とせよ、との立場。

なぜなら「纏向」は、記紀にまさにそのズバリの字句が宮名として出ているから。
倭人伝では、推理はできるかもしれないが、基本的に不明。
倭人伝の邪馬台国・卑弥呼は、専用の別スレがたくさん立っているからそこに書けばいい。
このスレで邪馬台国・卑弥呼に言及したら、必ず荒れる。

ただまあ、このスレには、纏向遺跡の考古の面をもっともっと書き込むべき。
もうすぐ次スレが立つだろうから、心機一転、俺もなんか書くことにする。

ああ、それと「箸墓」も、日本書紀に注目すべき記事がある。利用しない手はない。
おそらく今の箸墓古墳が書紀の「箸墓」が同じか、という疑問も出てくると思うが
それも含めてこのマキムクスレの中で議論していいと思う。

967 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 20:30:48
>>963
実年代の定点をどこに持ってくるかだろう。
雄略=ワカタケル大王として4世紀後半に実在したとした場合、
少なくともその頃には大和政権の版図は西は熊本から東は埼玉まで。
ある程度の官僚機構を備え、他の豪族との軋轢を繰り返しながら中央集権を指向していたようである。
この実年代には殆ど異論がないかと思う。

968 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 20:35:34
ごめん。五世紀後半の間違い

969 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 20:37:28
>>962
でも「2世紀説」と「4世紀説」どっちにしても
何か重大な齟齬が発生するって事あるのかな?

纏向内のその前後の古墳、あるいは近隣の大和の古墳で絶対年代がほぼ確定している物があれば
いろいろ不味い事も起きると思うけど・・・

970 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 20:43:32
>>965

結局、邪馬台国は九州にあって、九州の邪馬台国を景行天皇が滅ぼしたように解釈できるんだよね。
卑弥呼の頃に、九州〜畿内の邪馬台国連合が出来てたなら、
景行天皇の九州西征は必要ないし。




971 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 20:53:47
>>949>>950
おー、ありがとう。しかし、その値段からするとかなり専門的なやつですね。
できれば、もう少し安くてカラー図版がいっぱい載ってるようなのを希望(あればで良いけど)。


972 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 20:56:11
次に5世紀後半の雄略の数代前、倭の五王の最初・讃が応神か仁徳になるのもある程度信憑性がある。
数代前で4世紀後半頃在位か?
須恵器開始の理化学年代と概ね同じ頃だ。
石津川下流に築造された百舌鳥古墳群は仁徳以降の大王家の奥津城だろうし、
石津川上流で作られた須恵器の出現と、倭の五王の系統の始まりは軌を一にすると考えた方がいい。
ちょうどその頃、倭国は南下する高句麗と半島で激突している時期で、
挙国一致の気運が高まり、新たな政治体制を模索した結果がマキムク廃絶、河内への移行を引き起こしたのかもしれない。
神の声を聞かず南九州制圧にこだわった仲哀が死に、神功の三韓征伐のくだりは、
その転換点、歴史的事実を神話的に物語っているのかもしれない。


このあたりまではコンセンサスを得られるように思うのだが。

973 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 21:07:36
>>970
景行西征の時に、榊に三種の神器をぶら下げて臣従してきた神夏磯姫を卑弥呼の末裔とする説もありますしね。
私は畿内説ですが、邪馬台国が筑紫にあっても全然問題ないと思っています。筑紫東遷は流石にないと思いますが。
ただ筑紫オウの系統は、磐井の乱の所為で不当に貶められている可能性があるんで、
単に筑紫が大和に屈伏したと言い切ってしまうのも問題だとは思います。

974 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 22:07:35
>>969
>でも「2世紀説」と「4世紀説」どっちにしても

昼間見てないので何のことかわからん。
なんじゃこれは?


975 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 22:11:11
日本書紀に、箸墓は倭迹迹日百襲姫の墓とある。これを信じているというか、
拠り所にしている人も多いはず。
倭人伝にしても、記述のある親魏倭王の金印に期待している人も多いだろう。

にもかかわらず、記紀否定、倭人伝否定の人が多い。
これは、都合の良い部分は信じ、都合の悪い部分は否定しているとしか
思えない。
根本的に、前提が間違っているとは考えないのだろうか。

976 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 22:36:34
>>975
卑弥呼の墓は勝山古墳辺りも
十分ありうると考えているけどね。
理由は、箸墓より古い可能性が高いこと。
祭祀跡がたくさん発見されている
太田微高地の西部分にあること。
農耕祭祀の色合いが強いので、
必ずしも三輪山に近い必要はないこと。
台与にでかいの残しとかないといけないしね。
記紀の倭迹迹日百襲姫の話はあまり重視してない。
朝貢してるということなので女王の存在は信じてる。


977 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 23:03:03
>>976

箸墓より古い前方後円墳があるなら、
そっちを卑弥呼の墓と見るべきだろう。
あくまで、卑弥呼が邪馬台国連合の初代女王なんだから。

978 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 07:31:48
>>971

■邪馬台国の候補地・纒向遺跡 シリーズ「遺跡を学ぶ」
石野 博信著
税込価格: \1,575 (本体 : \1,500)
出版 : 新泉社
サイズ : 21cm / 93p
ISBN : 978-4-7877-0931-8
発行年月 : 2008.12

内容説明
奈良県・三輪山の麓に広がる纒向(まきむく)遺跡。邪馬台国の有力な候補地として浮かびあがってきた纒向遺跡の祭祀場跡や大溝、東国や西国からやってきた人びとの痕跡、纒向型古墳などから追究する。
http://www.bk1.jp/product/03070582

■最初の巨大古墳・箸墓古墳 シリーズ「遺跡を学ぶ」
清水 眞一著
税込価格: \1,575 (本体 : \1,500)
出版 : 新泉社
サイズ : 21cm / 93p
ISBN : 978-4-7877-0735-2
発行年月 : 2007.3
http://www.bk1.jp/product/02763667

■ヤマトの王墓・桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳 シリーズ「遺跡を学ぶ」
千賀 久著
税込価格: \1,575 (本体 : \1,500)
出版 : 新泉社
サイズ : 21cm / 93p
ISBN : 978-4-7877-0839-7
発行年月 : 2008.8
http://www.bk1.jp/product/03033516

979 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 07:36:17
遺跡の自由化だろ。

980 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 08:24:05
>>978
ありがとうございます。それ買ってみます。
第一人者が書いてるし、図版もたくさん載ってそうでお得な感じですね。
親切な人がいっぱいいて助かりました。

981 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 08:51:58
>>977
あそこにあるのは全部箸墓より古い可能性がある。
少なくともより下るということはない。石塚に至っては庄内0が出てる。
布留0を250年くらいに持ってくる年代感だと200年頃。もっと上るかもしれない。
それから大和古墳群(天理)にも、箸墓とほぼ同時期と見られている古墳がある。
>>964にあるノムギ古墳。ヒエ塚古墳でも外堤水路から布留0が出てる。
どちらもいわゆる纏向型ではない。
纏向の古墳が最古というのは、東田の古墳群のことであって、
周濠埋蔵土器の編年から言えば、箸墓ではない。
同じ頃天理にも古墳がある。



982 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 10:52:27
>>977
実のところ、埋葬施設が確認されてないので、
墓であるかどうかも分らない。
墓だとは思うけど、一抹の疑念はある。

それに、卑弥呼が恐ろしく長生きだったとすると、
卑弥呼より先に国の元老クラスが死んだ可能性だってある。
箸墓が卑弥呼の墓だとすると、これはありだと思うんだな。

箸墓以外のどれかが卑弥呼の墓なら、一番古いのだろうね。

ま、年代次第。


983 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 11:02:44
卑弥呼の墓が箸墓でしょう?
彼女は長い生きだったわけだし。
ヤマトトトヒモモソ媛命の晩年の活躍時期は
崇神天皇の時だから。
ヤマトトトヒモモソ媛命の兄妹の孝元天皇の孫だからね、崇神天皇は。
つまり、崇神紀では、ヤマトトトヒモモソ媛命は皇室の長老的な存在。
ということは、彼女が初めて祭祀王の座についたのは、もっと前。
おそらく、孝元天皇の時代。
倭国大乱時代の最後のニニギ系世俗王でしょう?孝元天皇は。

984 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 11:07:03
ニニギ系の神武天皇〜開化天皇は世俗王。

祭祀王は別にいたはず。その家系は、おそらくニニギ系ではない。
尾張氏の先祖である火明系。

卑弥呼(ヤマトトトヒモモソ媛命)が継いだのは祭祀王の地位。
彼女はニニギ系での最初の祭祀王。
ちなみに、ニニギ系で、世俗王と祭祀王の両方を兼ねた最初が、崇神天皇から。

985 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 12:16:24
>>982
東田の古墳群のいくつかは、
戦争の時の砲台化で墳頂を失ってる。
埋葬施設も同時に失ったと思われる。
ちなみにあれを墓であることを疑う人間は皆無に近い。

986 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 12:27:18
>>985
だれも口にはしないけど、頭のどこかで引っ掛かってるはずだよ。

それに、そんな直近の話なら、必ずだれかが見てるか記録が残ってるかしてる。
失われたとすればもっと前で、最後に跡形もなくしたのだ高射砲陣地でしょう。

しかしなぁ、それでも全く何のうわさも残さずに消えるかなぁ。
粘土槨なら分らないけど、石組だろうからなぁ・・・・

987 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 12:43:36
>>897
ホケノのデータは調査概報に出てるけど、
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/hokeno.html
で公開している人がいるよ。
>>897の計算はちょっとおかしいところもある気がするけど、
基本的なところはこの人、イリヒコさんって言うのかな、も同じ考えみたい。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/rekihaku.html
C14年代(BP)は補正しないとホケノが一世紀とか二世紀になっちゃうんだよね。
これまでの編年と比べると100~200年の違いがある。
しかも100年くらいの誤差を持ってる。
じゃあどう補正するかってのは決定打がない状態。

年輪年代法を精緻にしていくしかないんだけども、
いろいろ誤解があると思うのは、標準年輪が完全に決定して、
木材資料が出ても、木材資料の解釈で議論の余地があるということ。
伐採と利用の時期は一緒か、外皮が残ってない場合どのくらい削ったか、
木棺じゃなくて、例えば環壕の底から出た時に、建設時とみなすのか、
建設時に以前の地層が混じった(堤の造成時など)と考えるののか、
既存の水路を利用したと考えるのか。
底にあれば、基本は建設時あるいは直後と考えるべきだけど、
報告読むと思惑に左右されていることや
偉い人の編年に配慮していることが多い。
基礎報告でさえその調子だから一般書なんて…
上のページは一度読んでおくべき。

驚くべきことに古墳編年は考古学的資料のみに基づいたものがない
と言っていい状態。

988 :987:2009/03/26(木) 13:15:38
>>987のレスアンカー間違えた。
>>894
> それも「など」として、全てを公表したわけじゃない。
に対して書いたつもりだった。


989 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 13:45:57
次スレ建てる人はテンプレで邪馬台国、記紀の話題は原則禁止にして欲しい

990 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 14:48:42
マキムクだけでは話題が続かないよ

991 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 15:52:28
畿内説であっても、箸墓の年代に疑問を呈してもいいだろ?

九州説の言うように、箸墓は4世紀かもしれない。
しかし、箸墓に50年先行する前方後円墳があれば、それが本来の卑弥呼の墓だといえるはず。
反論が聞きたい。



992 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 17:34:34
つうか卑弥呼の墓に固執する必要は無い。
どの道、奴婢百人の殉葬の跡なんか出てこないだろうしw

それに倭人伝の印象から国内においても
相当な権力・カリスマ性をもっていたと思いがちだが
それすら当てにならない。

それより気になるのは箸墓やそれ以前の古墳の被葬者が一体何処の権力者で
その間柄はどうだったか?・・・だな。

単にあの遺跡の何処かに宮殿があって、そこにいた王で
その血縁の者が葬られたとしていいものか・・・

993 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 20:06:48
>>992
>>949の本でも庄内式がよく出るのは太田地区と全員の話が一致しているね。
だからこの辺から始まったことは間違いないと思う。
ただ竪穴式は全くと言っていいほど見つかってない、
つまり人は住んでない。

森浩一(東遷説w)は纏向遺跡は太田遺跡と名づけた方が
よかったのではないかと言っていた。
文献の世界ではオオタタネコは
かなり新しい時代の美輪氏に由来すると考えられているが、
森は、庄内式、美努村、オオタタネコ、太田のつながり、
記紀ではオオタタネコが「人」して扱われていること、
崇神が始まりの逸話(船など;もちろん作り話)を多く持つことから、
太田が大和政権の始まりの地ではないかと言っていた。
確かに庄内式が出ることとよく合う。>>123も書いてる。
この辺は森が「三輪山の考古学」に書いてる。

庄内式は北九州でも出る不思議な壷。


994 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 20:28:49
>>987
詳しいことは次スレで議論しようと思うが、
突破口は簡単な気がする。


「本当に、三角縁神獣鏡=布留0=237年の基準年は正しいのか??」


景初年号の文字そのものは、
巻向と直接関わる遺跡の鏡からは出ていなかったんじゃないか?
上の=を外すだけで、すべて整合的な結果が出てくる気がする。
やっぱり魏志は、あらゆる点で諸悪の根源だと思う。
この史料で、「倭国大乱」と「高地性集落」を繋いだ結果、長らく議論が混乱したことの
反省が述べられているが、今回も実は同じなのではないか。

995 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 20:34:33
>>994
確かに紀年銘鏡と言われる物は奈良からは出ていなかったと思う。

京都、大阪、兵庫、島根、山口、群馬・・・だったか。。

996 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 21:08:02
>>994>>995
纏向遺跡、纏向古墳群から出ているもので議論するのがこのスレの眼目だろ。

みんなどうして纏向スレなのに、纏向以外のものを議論したがる?www

997 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 22:33:49
纏向の話をしてほしくないんでしょ。要は実質的な嵐。

998 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 23:17:49
もう魏志倭人伝、邪馬台国、卑弥呼とか
記紀のアマテラスあたりの神代の話を絡めるのとか
神武東征とか欠史八代とかあたりの話は禁止にしてほしい



999 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 23:35:07
立てたよ。

【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その6
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1238078055/


1000 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 23:59:24
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                   巛ゞア⌒ヾう心
                   rメソ二ゝ,__,ノ二イh
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