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軍人としての徳川家康について

1 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 17:09:00
倍以上いる羽柴軍相手に善戦したり姉川の戦い等で武功を立てる一方
関ヶ原で一枚岩とは言えない西軍に苦戦したり大阪の陣で殺されそうになる等

評価が分かれる家康の軍事手腕について語ろう


2 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 17:30:57
逃げ足の速さを見るに、一級の才能を有する

3 :平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/12/22(月) 11:33:47
いいスレが立ち上がったな。

4 :日本@名無史さん:2008/12/22(月) 13:47:35
関が原の苦戦は仕方あるまい。
徳川の精鋭部隊を率いていた秀忠が、遅参したんだから。
それよりも、相手側に対する事前工作を評価すべきだ。

家康の場合、ほとんど生涯を通じて不十分な兵力で戦い抜いたといえる。
圧倒的な戦力を持って闘うことが出来たのは、晩年のこと。
軍事手腕に関しては、やはり超一流であった。

5 :日本@名無史さん:2008/12/22(月) 13:50:36
大阪の陣で殺されそうになったというのはフィクション。
多少の混乱があり、軍旗が倒れただけのこと。
その軍旗も大久保彦左衛門がすぐに立て直している。

6 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 13:59:23
結局負けたのは三方が原だけだものな。
(本人がいないところでは、真田にもボロ負けしてるがww)

関ヶ原はすごいよ。
秀吉が死んでわずか2年かそこいらの間に、公然と反旗を翻して
あれだけ有利に事を進めるのは並大抵じゃない。

戦上手の秀吉相手に、寡兵で刃向って撃破しまくることができた人間も家康だけ。
結論として、確かに

> 軍事手腕に関しては、やはり超一流であった。

という他にない。

7 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 17:56:59
徳川家康の主な戦績。
1558年 寺部城攻略 〇
1560年 丸根砦攻略 〇
1563年 三河一向一揆制圧 〇
1564年 吉田城攻略 〇
1569年 掛川城攻略 〇
1570年 金ヶ崎城攻め ×
1570年 姉川の合戦 〇
1572年 三方ヶ原の合戦 ×
1575年 長篠の合戦 〇
1580年 高天神城攻略 〇
1584年 小牧・長久手の合戦 ×
1590年 小田原の陣 〇
1600年 関ヶ原の合戦 〇
1614年 大坂冬の陣 〇
1615年 大坂夏の陣 〇

…主だった所の戦績を挙げると、取りあえず、12勝3敗っていうところですか…。

(もっとも、小競り合いやら小規模な戦闘等も入れると、
ホントはもっと戦っているんでしょうが…。)

8 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 18:04:31
普通に強いよ 徳川次郎三郎家康のその器
上杉謙信に匹敵す

9 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 18:10:42
小牧長久手の合戦も、家康勝利と言えなくはない。
岡崎中入りの秀吉軍を撃破し、池田勢を壊滅させている。
ただ、戦闘自体は勝っているが、秀吉の政治力にしてやられた感はある。


10 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 18:23:22
>>8
小牧長久手は勝ちか、せいぜい引き分けでしょう?

11 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 19:05:44
小牧長久手は勝利なのかな?
負けじゃないけど、奇襲部隊を蹴散らせただけで、秀吉本体は無傷。
せいぜい引き分けじゃないですかねー。

12 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 19:10:37
>>7
恵まれた環境での合戦が目立つね。
姉川の活躍は怪しいし。

家康の凄いところはどの合戦もかならず自分の成長につなげていて無駄がないことかな。
三方原だけは信玄が死ななければそのまま三河を併呑された危険があるけどね。

13 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 19:16:46
戦に勝利を収めても、容易に得難い程の名声を、

家康の場合は、武田信玄との戦いに敗れながら、
「海道一の弓取り」の名声を獲得したのだから、

ある意味、戦に勝利したのと殆ど同じくらいの評価を高めたと言えるのではないかと…。
その意味では、家康は大変?幸運だったな。

14 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 19:25:18
>>12 確かに、姉川の合戦・長篠の合戦・小田原の陣等は、
織田信長や豊臣秀吉が主体だった戦いだったからなぁ…。

その点、家康が主体の戦いとなると、
三方ヶ原の合戦や小牧・長久手の合戦等、敗北者の立場に立たされる場合が多い。

15 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 20:15:50
三方ヶ原の合戦クラスで敗北を喫すれば、
たいていの戦国大名は、滅亡への道を歩む運命が待ち受けているが、

家康はよく持ちこたえて、見事に勢力を回復させたものだ…。

16 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 20:27:45
徳川家康は、石川数正の出奔後に、武田家の軍法等を積極的に採用して、徳川家の全面的な軍制改革を行っているが、

数正出奔以前の徳川家の軍法と、
数正出奔後に採用した武田家の軍法には、どんな違いがあったのでしょうか?

17 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 20:56:30
>>16
大番の導入(中身は別物)
先手二手制
なんかかな
後は細かな信号とか
そしてそれが明文化され、理解しやすいものであったかと思われ
急速に領土拡張した徳川家としては整備された軍法は重要でしょうし

18 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 21:53:30
自軍よりも兵力に優る敵の前に立った家康は、
実に頼りないな…(T-T)。
三方ヶ原の合戦では、武田信玄に大敗し、
小牧・長久手の合戦では、数に優る秀吉陣営を撃破する戦略(戦闘ではありません…。)を一つも持たなかった…。

味方の劣勢を跳ね返す戦略を案出出来なかった家康は、
まあ、平均点の指揮官っていうところかな?。

家康の場合は、軍人としては平凡でも、
政治家としては、相当優れていると言えそう…。

19 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 22:24:19
>>18
天正壬午の乱は?

20 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 22:53:17
>>18
家康の場合、そのほとんどが自軍よりも兵力に勝る敵との戦いだった。
そして、そうした苦しい戦いを勝ち抜いてきたしたたかな武将なのだよ。

まずデビュー戦からして壮絶だった。
桶狭間の合戦前夜に敵陣を突破して大高城へ兵糧を運び入れることに成功。
桶狭間の合戦翌日未明に今川方総崩れの情報を得たものの、そのときは既に敵軍の中に取残された孤軍であった。
普通ならこのような小部隊は摩滅四散してしまうものだが、よく兵をまとめて岡崎まで無事撤退した。

その後も一向一揆との戦い、今川との戦い、武田との戦い・・・・少ない兵力でよく勝ち抜いたのだよ。
頼りないなど認識不足である。

21 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 22:58:02
>>11
小牧長久手の戦いはその兵力差を考慮すれば負けなかっただけでも評価すべき。
ましてや少なからぬ敵部隊を壊滅させているから、少なくとも負け戦ではない。

22 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 23:07:57
>>18
あんた何言ってんの?w

23 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 09:29:18
家康は、城攻めが下手だったという評価があるが、
自分個人的な感想では、
秀吉ほど天才的では無いにしろ、
城攻めに関しても結構、戦果を挙げているように思うが、

やはり、家康が直接指揮していないとはいえ、
真田攻めの失敗が、城攻めが下手という風な評価をされているのかな?

24 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 09:57:06
武田信玄や上杉謙信と比べると見劣りはするけれど、
彼等みたいに好戦的じゃないから仕方ないよな。

25 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 10:12:17
徳川家康ほど、敗北を糧に成長し続けて
最終的に天下人になったパターンも珍しいな。

中国の漢王朝の創始者である、劉邦と重なって見える。

26 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 11:45:06
>>7 他の有力な戦国大名の戦績は、どれくらいの勝敗だったのですか?

27 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 12:54:13
>>25
敗北なんてそんなにしてないけど

28 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 17:01:35
>>23
家康が城攻めが下手というのは、何か根拠があるのであろうか?
伝統的に三河武士というのは野戦を行う。
たとえ相手が圧倒的兵力であっても、篭城することなしに野戦を行うのがスタンダード。
たとえば、家康の祖父清康が急死(森山崩れ)した後、織田軍の侵攻を受けたが、わずか500の兵で城から打って出て野戦を行い、3000の織田軍を撃退している。
三方ヶ原の合戦もこの伝統にそったものである。
よって、篭城戦を好まないというなら間違いではないといえる。
しかしながら城攻めがとり立てて言うほど下手だったという事例は無いはず。

秀吉については戦術家としてはさほどの才は無い。
彼が最も得意とした戦術は、大軍勢で敵の城を取り囲み兵糧攻めにするというもの。
秀吉の才能は戦術ではなく、敵の何倍もの兵力を調達できた点にある。

29 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 17:09:47
>>28
まぁ、戦の才能って基本的にソレだよね<敵の何倍もの兵力を調達・集中
信長もそうだね

30 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 07:34:31
>>29
戦略的な観点からはそう言える。
しかしながら通常「戦の才能」と言う場合、戦術面を指すことも多い。

人気の高い源義経などは戦術家としては評価できるが戦略眼は欠落していたな。
戦略は勝利を得るための条件作りではあるが、最後の勝敗を決するのは戦術であることも忘れてはならぬであろう。

31 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 08:31:26
家康の場合、戦略的な冒険を避けて
戦術的な冒険を良くする

32 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 09:14:04
しかし関ヶ原の戦いでは、普通に考えれば
勝てる筈の無い戦いを、
家康はよく勝ち切れたもんだ。
…豊臣家の象徴である金の千成瓢箪の馬印が
関ヶ原に出現するだけで東軍陣営が動揺し、崩壊するのは火を見るよりも明らかだったからな…。

33 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 09:51:07
そこは事前に三成の書状を入手したりで、輝元が来ないのに
秀頼が来るはずないという認識ができてましたから

34 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 18:03:44
徳川家康という人は、
ホントに学習能力が高い人だったね。
三方ヶ原の合戦の敗北を教訓にして、
後の長篠の合戦・関ヶ原の合戦に生かし、
また、小牧の陣での(政略的)敗北を教訓にして、
後の関ヶ原の合戦に生かして
同じ失敗を二度と繰り返していない。

35 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 20:56:28
徳川家康という人は、
恩も仇もずっと忘れずにいて、必ず報いた人でもある。
真田攻めで徳川軍が苦戦したのも、実はそのせいではないか?と俺は思っている。
真田攻めの主将は大久保忠世で、軍監はその弟の大久保忠員。
ここまでは良いのだが、それに附けられたのがなんと平岩親吉と鳥居元忠。
この二人は大久保忠世を憎んでいた。

憎んだ原因は、彼ら二人が岡崎信康の傅役だったから。

信長が信康の処断を命じたときの使者が酒井忠次と大久保忠世。
このとき酒井と大久保は助命のとりなしをしなかった。
平岩と鳥居はそれを恨んでいたというわけ。
もちろん、家康自身も酒井・大久保には悪感情を持ったはず。

で、家康は大久保に多少意地悪をする意図でこの人事を行ったのではないか?というのが俺の考え。
案の定、大久保は平岩・鳥居に足を引っ張られ大苦戦。
ただ、家康は真田の実力を過小評価していた気配がある。

酒井は、譜代の家臣随一の貢献をしたにもかかわらず、最終的にはわずか2万石程度(うろ覚え)しか貰えなかった。
大久保にいたっては、息子の忠隣の代に謀反の濡れ衣を着せて改易。

36 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 21:43:41
烏帽子にかちんの鎧直垂で苦悶の姿のあのような肖像画は家康のしか知らない

37 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 22:00:19
武田に負けた時の肖像画のこと?

38 :平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/12/30(火) 11:45:56
>>35
酒井家は庄内(鶴岡)と姫路の二家あって
両方とも十八万石ぐらいじゃなかったか?
四大老家(井伊・酒井・土井・堀田)の一つでもあるし。

39 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 13:18:24
>>1
軍人というな。武人と言え。

40 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 19:38:43
>>38
そのとおり。
だが家康が関東へ移封されたとき、本多忠勝、榊原康政、井伊直政らが揃って10万石ほどの処遇を受けたにもかかわらず、酒井忠次はわずか3万石くらいしかもらえなかった。
庄内、姫路については家康没後に忠次の子孫らが処遇されたもの。

大久保についても家康が死んだ後に名誉回復がなされた。

酒井、大久保は古くからの宿老の家柄であり、松平家のために尽くしてきて多くの戦功を上げた実績がある。
対して、井伊などはだいぶ後になってから帰属した家臣である。
本田正信に至っては、三河一向一揆の時には家康を裏切った過去がある。

それらの連中への扱いと比べると、この両家への処遇は異様に低い。

41 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 20:39:18
>>40
だってその三人は秀吉の命で10万石だもん
それ以外は酒井・大久保・鳥居・大須賀等一律3万石
後、本多正信は一貫して1万石だよ

42 :日本@名無史さん:2009/01/02(金) 21:25:35
本田正信、一説によれば1万石ともいわれるが2万石というのが多数意見。
石高は低くとも、与えられた権勢は尋常ではなかった。
息子は16万石も貰ったしな。

43 :日本@名無史さん:2009/01/02(金) 21:50:33
家来の石高をかなり押さえた家康は本当に経験に学んだ賢者だと思う

44 :日本@名無史さん:2009/01/02(金) 22:57:30
>>42
二万石は関ヶ原以降かと

45 :日本@名無史さん:2009/01/02(金) 23:14:05
だ〜か〜ら〜ぁ
石高は低くとも、与えられた権勢は尋常ではなかったってこと。

46 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 09:37:56
>>45
知行と権勢の分離が家康流

47 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 08:08:04
>>46
ほお?家康流?

家康自身は、それに当てはまらんようだが?

48 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 10:40:32
>>47
自分のような簒奪者が出ないように配慮したって事でしょ。

49 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 17:02:58
生涯戦場を往来して、大敗は一度ぐらい。
大阪の陣だって、結局事前の戦略的優勢がものをいって勝ってるし。
十分優秀だよ。

50 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 18:45:33
結果として、徳川家康が天下平定し、その後2世紀半にもわたる長期政権を樹立したわけだからな。
家康が最高だべ。

51 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 02:47:40
秀吉はいい軍師がいたので
戦いは強かったが、政治ビジョンはないな。まあ無学の百姓だから仕方ないが。

朝鮮出兵も信長の構想を真似したらしいしな。

52 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 15:09:30
 

53 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 15:54:48
徳川家康は、(政略・戦略・戦術での)隙間探しの名人と言われていたそうな。

54 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 07:42:35
家康が優れていた点は、隙間探しなどという姑息なものじゃあなかった。
極論すれば「人格」だろうな。
そうでなければ、あれだけ多くの戦国諸将の支持を得ることはできまい。
徳川家臣団の忠誠については言うまでもない。

55 :日本@名無史さん:2009/05/28(木) 21:47:13
家康って真田幸村に殺られそうになって糞尿たらして失心した人ですね

わかります

56 :日本@名無史さん:2009/05/29(金) 15:10:06
>>55
それは史実には無い創作。

57 :日本@名無史さん:2009/05/29(金) 17:24:45
家康の戦の仕方って小牧戦以降変わってないか?
無論、大軍を指揮するようになったってのもあるが、なんと言うかそれまでは
とりあえず戦場にもちこんじゃえ、みたいなやり方で戦場で全てを決する、という。
戦術重視というか戦略面、特に多数派工作なんかを軽視してた感がある。
三河一向一揆なんてそんなもん完全無視で力攻めだし、三方が原だってもう少し
北条への働きかけや、駿河国人衆への工作もあって良かったんじゃ?

それだけ戦場での駆け引きに絶対の自信があったんだろう。
信玄に私淑したのも、その部分で自分より上と認めたからじゃないかな。

で小牧戦で戦場での駆け引きでいつものごとく完勝したのに、果実は全部
向こうに持っていかれるという初めての経験をする。
戦略と言うものの重要性をここで思い知らされ、以後必勝の体勢を作る
政治工作に重点を置いた、と。

個人的には前半の家康のほうが好きだけど。確かに謙信に重なるw
妖怪じじいと化した家康に凄みは感じるが、ロマンが感じられないw

58 :日本@名無史さん:2009/05/29(金) 20:12:04
関ヶ原では包囲される危険性がある中、あえて前線から数百メートルの位置まで本陣を前進させているし、
大坂夏の陣でも中央の自身前方の備えは左右に比べて薄い

指揮官としての意地は最後まである

59 :日本@名無史さん:2009/05/29(金) 21:07:41
それが安祥松平からの伝統なのだよ。
三河武士の意地でもある。

60 :日本@名無史さん:2009/05/29(金) 21:55:01
単に一家総出で気が短いだけと言う気もしないでもないw

61 :日本@名無史さん:2009/05/30(土) 06:19:54
>>60
そんな簡単な話ではない。
基本的に篭城戦はしない。
敵の数分の一の兵力しかなくとも、城から打って出て野戦で決着をつけるのが安祥松平の伝統。
北条早雲率いる今川の大軍を野戦で撃退、織田信秀の三千を五百で撃退などなど、数々の実績がある。

62 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 02:56:57
敗れて学ぶ、ということを本当に重視した人。
だから、三方原以外は、敗戦しても生命に直結する事が無いよう、十分に保険をかけている。
死んだジイサンの「ご威光」なんてもんに実体があると信じるようなバカ女では対抗勢力にもなりえん

63 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 22:58:16
http://dec.2chan.net/up2/src/fu8143.png

64 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 23:08:16
何で小牧の陣の時
徳川方はたった8000人しか動員しなかったの?
存亡の危機なんだから、もっと連れて行けたのでは?

65 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 23:46:08
北条とはちょっと前にガチでやりあっているから

66 :日本@名無史さん:2009/08/28(金) 13:24:46
小牧・長久手?は、元々が秀吉vs信雄(家康は助っ人)の戦であり、
信雄さえ屈服させれば、戦略目標は達成される。
結局、秀吉軍の物量の前にどうすることも出来ず、
家康は、緒戦(小牧・長久手)で勝ったものの、
秀吉が、中入りのようなハイリスク・ハイリターン作戦をやめ、
地道に拠点を潰す作戦で、尾張の加賀野井城、奥城、
竹ヶ鼻城を落城させる作戦(全て落城)に出ると、家康は手も足も出なかった。
蒲生氏郷らの別動隊が賀・伊勢に侵攻し、大部分を占領しても、どうすることも出来ず、
結局、信雄が伊賀一国と伊勢半国(120万石→80万石)を割譲、
家康が長男を人質に出して和議を結び、秀吉の完勝。

67 :日本@名無史さん:2009/08/28(金) 21:09:04
>小牧・長久手?は、元々が秀吉vs信雄(家康は助っ人)の戦であり、
>信雄さえ屈服させれば、戦略目標は達成される。

全然違うよw
秀吉は信雄・家康の領土を蹂躙した後、
一気に関東まで征伐するつもりで
関東地方の大小名あてに大量の書状を送って下準備してたんだから。

思いがけない家康と信雄の善戦で、その計画は壮大にコケた。
征夷大将軍の任官もおじゃんになって、秀吉は戦略の大幅な見直しを迫られましたと。

68 :日本@名無史さん:2009/08/28(金) 23:24:33
全然違うよw
実際に家康を討ち果たし、関東制圧なんて計画していたわけでは無い。
秀吉としては信雄のみを叩くハズが、家康が助っ人になり、
秀吉包囲網が形成されてしまったので、長宗我部、佐々、根来、雑賀
などの周辺勢力には同じような書状を出している。
敵(家康と同盟する北条)の敵は味方なので、
北関東の佐竹などにも景気のいい書状を出していたわけだ。
実際に家康から、「氏政か氏直のどちらかが尾張まで加勢に来て欲しい」
という書状が来ていたくらいだが、佐竹のガンバリで出陣が遅れて実現しなかった。
※実際に徳川・北条をまとめて討ち果たす計画は、
この後の天正14年正月18日に発せられ、上杉家などにも動員を指示する文書が残っているが、
家康から和議の申し入れがあり中止。結局、家康は上杉、毛利と同様、上洛して家臣となった。

69 :日本@名無史さん:2009/08/28(金) 23:48:06
秀吉は家康についても人質を求めたが、家康はこれを拒否し、一触即発まで至ったが
秀吉は養子で妥協している
家康の分国は侵されておらず、また徳川との戦いは常に敗北している秀吉は以後、
家康に対し一目置くようになっている

これが豊臣政権における家康の立場が一際立ったものとなる大きな理由の一つ
恐らくこの時の家康は自分の力の誇示が第一目標だろうし

70 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 00:35:10
しかし普通、これだけ力を持てば、豊臣政権下で何癖つけられて滅ぼされるよな。
甥の秀次でさえ切腹させられたんだし。

戦上手の秀吉に、「こいつと戦っても簡単に滅ぼせない」と思わせたこと自体、
他の大名と比較して極めて異常なことなわけで、
家康がいかに突出した軍事的・政治的才能を持っていたかを物語る。


71 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 01:37:37
>>69
それは、そうだろう、家康を滅ぼすのが当初の目的ではなく、
織田家の当主として振舞う信雄を屈服させるのが目的。
だが、家康が守っていた尾張は、伊勢、伊賀のように徹底的にやられたわけではないが、
秀吉の圧倒的物量の前に、加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城は落城、徐々に侵食された。
家康は、小牧から近いのに指をくわえて見てるだけで、後詰の要請に空しく首を振るだけw
緒戦のパールハーバーで勝っても、戦争に勝ったことにはならない。

72 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 01:40:52
>>70
秀吉にはデカイから滅ぼすという意識は無い。毛利、上杉なども同じ。
北条も上洛して臣従すれば200万石安堵されただろう。
「こいつと戦っても簡単に滅ぼせない」w
だいたい、滅ぼそうと思ってないからw。

家康は秀吉と違い、デカイ外様は危険と気づいたようだ。

73 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 01:52:10
>>71
蟹江城では叩き返した
家康は彼我の力を的確に判断し、蟹江城の様な致命的な所は即座に反応している
結局、秀吉も規模の割には大した成果を収めることはできていない

74 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 02:37:00
大阪での陣で真田親子に肉薄され家康が
「首を獲られるぐらいなら自分でハラを切る」
って言ったのを家臣がなだめて持ち直したのは
徳川方の資料(名前失念)に記載されているから事実なのだろう
真田親子は篭城しても兵糧を食い尽くして自滅するだけだから
打ってでるべしとも進言したんだけど聞き入れられなかったんだよね

個人の能力で言えば 真田>家康 だけど
経済力、軍事力では圧倒的に 家康>真田 
家康は政治力が優れていたから260年も徳川政治が続いた
家康は徳川を攻めるとしたら薩長だとにらんで街道を整備し
格拠点に城を築いたが、実際に現れたのは海の向こうのアメリカからで
全くの想定外で危機になった

75 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 02:56:10
家康は戦術では、謙信、信玄レベルでは勿論無く、
武田の一武将(天野景貫)にも、ころころ負ける程度。
夏の陣でも、家康は本陣を捨てて逃げ出すなど名将とはとても言えない。
関が原は調略で勝ったが、陣形図で見ると負けw。
裏切りを約束したとしても、実際に裏切るかどうかは賭けなので、薄氷の勝利。
だが、天才レベルでは無いにしても秀才レベルか?

76 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 08:00:19
>>75
ちょっといまいち。煽りにしちゃ。

77 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 14:01:17
三方が原でも、坂を下りていく敵を背後から攻撃と勇んで出たが、それは信玄のワナ。
ひよっこ武将?

78 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 17:17:35
一応、夕方に出て戦闘が早く終わるように心掛けた

79 :日本@名無史さん:2009/08/29(土) 18:42:56
>>74>>75
どこを縦読み?

80 :日本@名無史さん:2009/08/30(日) 02:59:56
>>75
ドイツ流の陣形図とやらで見たら負けなのに、
実際には圧勝してしまうってところが
秀才レベルじゃなくて天才レベルなんじゃないのw

家康の事跡をよく見ると、
単に「長生きしたから棚ぼたで天下が転がって来た」なんてもんじゃない、
高度で壮絶な戦略と策略とで天下を取っただろうことが推測されるわけだが、
それを単に「長生きと運で取った」って思わせてしまうところが、
常人と違う並はずれた大きさなんだがな。

81 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 06:19:07
>>75 秀吉も吉岡定勝みたいなよく分からん武将にころころ負ける程度

82 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 09:18:29
戦国板家康スレで政宗厨が暴れている


意味が分からん

83 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 09:45:24
関ヶ原の陣形図はいわゆる死地に飛び込む形
一般的には圧倒的不利な陣形だが、
日和見ができず、味方が一致結束して死に物狂いで戦わないと活路が開けない形なので、
どの部隊がどちらに寝返るかわからないような戦闘では異常な効果を発揮することもありうる

つまり、
1.味方から裏切りは出せない
2.ごく短期間(時間)のうちに勝敗を決してしまわなければならない
という条件下で戦わなければならなかった家康にとってうってつけの陣形だったことがわかる

天才とか秀才とかは所詮、凡人レベルの発想
優れた武将は自分に適した戦い方を必然的に見つけるものだ

84 :日本@名無史さん:2009/08/30(日) 22:00:20
>>83
どの部隊がどちらに寝返るかわからないような戦闘では異常な効果を発揮することも「ありうる 」
つまり、小早川の裏切り頼り。
やはり、棚ボタなのね。

85 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 01:20:57
関ヶ原は内通等の状況次第ではどうなるか全くわからない、
いわば「非常に際どい圧勝」だったっていうのは確かだとは思うが
しかしあれを「棚ボタ」とか言ってしまうのはあまりにも歴史を見る目がなさ過ぎる。

86 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 12:11:52
徳川家康は将に将たる力量を持っていた数少ない日本人。

87 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 21:47:59
関ヶ原は「薄氷を踏む勝利」だからこそ意味がある、いやむしろどうしてもそうでなければならなかった
なぜなら、最初から圧勝することがわかっているほど徳川が強かったなら、
いくら三成が不満でも挙兵はしなかっただろう

三成が決起しなければ家康は天下を取れなかったか、少なくとももっと時間がかかったはず
家康が言うには、「自分が天下を取れたのは武田信玄と石田三成のおかげである・・・
天下には手出ししにくかったが、三成が謀反を企てそれを討ったので天下を取れた」

88 :日本@名無史さん:2009/09/01(火) 01:08:45
家康はつり橋を渡る時、落ちたら怖いと言う理由で
つり橋になれた家来におんぶされて渡っている

家康が天才だったら信康のクビをはねないで信長と戦っかて破っていただろう
そうしたら秀吉も出てこなかったはず

自分は凡才であることを自覚し2人のやりかたをきっちり学んだからこそ
史上最長の幕府をひらけた

89 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 00:18:47
軍人としては天才的だが統治者としては凡才、ただし学習能力はハンパなく、人望と部下に凄く恵まれた人だった、って感じなのかな家康は。
やっぱあの2人に較べると複雑な人だ。

90 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 16:03:14
独立したたで若輩かつ弱小であるにもかかわらず 民百姓の為に
凡愚でボンボンの今川氏真を完膚なきまでに破壊したのは見事だった

91 :日本@名無史さん:2009/09/02(水) 19:43:49
>>89
天才なら、徳川、武田同盟で挟撃し、信玄に今川主力を撃破してもらうまでもなく
簡単に今川を倒していただろうが、氏真に苦戦し、なかなか遠江に進出できない家康w。


92 :日本@名無史さん:2009/09/03(木) 10:37:35
兵力違うからねー

93 :日本@名無史さん:2009/09/03(木) 10:50:35
当時の徳川の戦力なら
信玄が氏真をたたきつぶしたあと
余勢を駆って、徳川もそのまま潰しかねない。

94 :日本@名無史さん:2009/09/03(木) 20:06:50
>>92
とはいっても、石高では三河vs(遠江+駿河)で差は大きくない。
慶長3年検地では
三河(290,715.00)
駿河(150,000.00)
遠江(255,160.00)

十万石しか差は無い

95 :日本@名無史さん:2009/09/03(木) 20:20:39
年とるごとに渋さを増した人だよね 
一流の役者が年とって一層かっこよくなったようなもの

96 :日本@名無史さん:2009/09/03(木) 20:34:54
>>94
家康が独立した当初は岡崎周辺を確保しているだけの弱小大名だよ。
10万石もないと思われる。松平家の中にも家康に従ってないのがごろごろいるし。


97 :日本@名無史さん:2009/09/03(木) 21:40:47
松平は、大給、三木、藤井、東郷、西郷、牧野、久松、奥平、山鹿三方衆とかそういう後の譜代大名の原型になる連中との
戦いに明け暮れていたのだよ。


98 :日本@名無史さん:2009/09/05(土) 10:28:25
家康は秀吉以上に苦労したんだろうな。

99 :日本@名無史さん:2009/09/05(土) 11:58:52
>>91
お前馬鹿だな 笑

100 :日本@名無史さん:2009/09/05(土) 16:27:44
鳥居家は代々あれほど忠実だったのに山形を召し上げか

101 :日本@名無史さん:2009/09/05(土) 16:42:41
秀吉以上には苦労しとらんだろ。

秀吉が家出した当時は身の回り周辺を確保してるだけのブータローだぞ。
いやそれも確保出来てないかも。

102 :日本@名無史さん:2009/09/05(土) 17:42:29
>>100
後継ぎがいないので断絶と言う所を、過去の忠節を考慮して減封の上で存続
ということが二度ほどある
徳川家はアフターケアはしっかりしている

103 :日本@名無史さん:2009/09/05(土) 21:38:48
昔、なんかのボードシミュレーションゲームで家康は戦闘修正3だった。
3って、北条氏康、明智光秀、武田信玄くらいだった(上杉謙信は4ね)。

104 :日本@名無史さん:2009/09/05(土) 22:11:08
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 i'i;、:;;r‐'" ̄``丶、 .ヾ::::゙:...._   ''-ァ,            ≧=- 。
  / -ー- 、、   `ヽ、ヾ:;;;;;;;;;;;;;;イレ,、          ヾ ≧  。゚ ・ ゚

105 :日本@名無史さん:2009/09/05(土) 22:48:00
>>95
むしろ荒々しい武者ぶりがもっと取り上げられて欲しいなー。
なんか世間的には狸な政治家イメージばっかでさ。


106 :日本@名無史さん:2009/09/06(日) 00:15:43
荒々しい武者っていうよりかは
綿密な戦略と策略で天下を安定させた人って感じだからね。
戦に強いのは確かだが、それは乱暴な比喩で言えば、関羽よりも諸葛亮に近い。

107 :日本@名無史さん:2009/09/06(日) 20:43:10
>>106
それ、信玄も信長も秀吉もそうじゃね?

108 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 02:46:47
家康個人は政治家としては超一流だけど
軍人としては中間くらいでしょ

軍人としてなら、2000人で38000人を足止めした真田親子や
鉄砲や矢が飛び交う戦場に鎧をつけないで出陣していた
武田勝頼の方がすごい

家康が同じことしていたら多分死んでるよ

109 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 11:21:16
>>108
多人数相手なら天正壬午の乱や小牧・長久手の戦い
また、蟹江城攻防戦では風呂場で急を聞き、浴衣姿で馬に乗って
先駆けをし、敵を分断している

110 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 13:10:32
>>108
司馬史観では、家康が政治家として一流というのは苦労のすえ
後天的に獲得した性質で、本来は実直な武人とされていた

111 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 14:25:49
>>103
明智光秀が3って高杉だねw
信長、秀吉のほうが高そうだ

112 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 16:55:59
>>108
講談と歴史を一緒くたにするなよ。
あと「勝頼の方がすごい」ってなんだよギャグのつもりか?

113 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 18:16:57
>>111
秀吉、勝頼あたりが2で、どういうわけか信長は1だった気がする。
信玄公の家臣団はおおむね2ね。

114 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 19:46:02
尾張が商業が活発で、兵士が弱すぎるからじゃないの
美濃を平定するまでに、苦戦してるからな
まあ、尾張の経済力が、畿内平定の原動力でもあるんだろうけどね
逆に、ゲームでは上杉とか武田は兵士の強さが、指揮官の能力を
上乗せしてるような気がしないでもない

115 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 19:47:56
ここには家康教の信者(愛知県民?)が占めていて
分が悪いこと書かれると発狂するのかw

家康が軍事の天才だったら何で信長と戦わなかったの?
普通何の落ち度の無い自分の息子のクビははねないよ
勝ち目が無い( 信長 >> 家康)から従ったんでしょ

何で秀吉と2回引き分けた後、手打ちにしてるの?
軍事に秀でてるんなら講和なんか突っぱねて
秀吉を打ちのめせばよかったじゃん
5大老なんて結局は家来になりましたってことじゃん
信長の時と同じで軍事で勝ち目がないからそうしたんだろ?




116 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 20:03:30
>>114
一般に弱兵弱兵というけど、そんなにも違うもんなのでしょうか。

117 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 20:13:51
>>115
戦術は戦略に、戦略は政略に勝るから

118 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 20:14:46
>>117
訂正、勝るでなく、負けるだね

119 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 20:14:46
膳城素肌攻めを知らんのか

家康は勝頼が来たら逃げまくってただろう 
単独じゃ家康が勝てるとは思わんな 秀吉でさえ勝頼が東国一だと言ってたし

120 :日本@名無史さん:2009/09/09(水) 21:21:06
>>115
逆に軍事の天才だったから戦わなかったんだよ。

121 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 01:38:10
>>115
敵を知り己を知れば・・・という孫子の言葉。基本中の基本なんだが、それすらも知らんようなオマエのようなガキが戦国を語るようではこのスレもダメだな・・・。

122 :日本@名無史さん:2009/09/10(木) 22:33:42
基本的に尚武の国である挑戦と違って、日本は伝統的に文弱だからな。

123 :日本@名無史さん:2009/09/11(金) 00:35:39
えっ、なんですか?
賞糞の国?

はい、確かにあなた方にかなうなどとは毛頭思っておりません。

124 :日本@名無史さん:2009/10/20(火) 08:04:36
ガキ丸出しワロタ

125 :日本@名無史さん:2009/12/28(月) 00:15:58
すごいです

126 :日本@名無史さん:2010/03/15(月) 20:16:47
覇王の家ヨメ!

127 :日本@名無史さん:2010/06/22(火) 05:15:08
>>67
別に秀吉は征夷大将軍を強烈に望んでいたわけじゃないでしょ
源氏じゃないから〜東を制圧してないから〜とか
カビの生えた説を今更言わないでくれよw


>>70
秀吉の政権構想が足利幕府の延長だからそうはなるだろう
>>72の言ってる通り、畿内の物流を支配して優位に立ち、権威によって各大名家にイニチアティブをとれれば
デカい大名は後で互いに戦わせたり、後継者問題にかこつけて揺さぶったりできるって発想で


128 :日本@名無史さん:2010/06/25(金) 15:42:23
なんつーか……ゲーム厨ってどこにでも沸いて出てくるんだな
このスレを見てしみじみ思った

129 :日本@名無史さん:2010/06/26(土) 01:07:00
一部の足利将軍や管領細川はホントにキレキレの工作で他家をつぶし合いさせるが
ああいう本人の資質頼りではなくちゃんとした機構を作ったのが家康の偉いところ

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