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謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!25

1 :神奈川県民:2008/12/16(火) 21:43:21
三國志卷三十 魏書三十 東夷傳 倭人伝
其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑彌呼
事鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國
自為王以來少有見者 以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入
居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛

魏志倭人伝に記されてる「卑弥呼」なる女王の正体とは?
又、天皇家との関り合いは? 古代最大のミステリーに挑む!

2 :神奈川県民:2008/12/16(火) 21:48:14
ここのスレは終止符24スレが終わり次第、書き込んで下さい。


<前スレ>
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!24
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1225463504/l50

3 :日本@名無史さん:2008/12/16(火) 22:36:11

イヨタンは? イヨタンは? イヨタンは?

イヨタン・・・・・・・・・・・・・・・


4 :日本@名無史さん:2008/12/19(金) 00:34:02

偉大なる
   九
   州
   王
   朝マンセー!!



5 :日本@名無史さん:2008/12/19(金) 16:26:08
偉大なる



朝マンセー!!



6 :日本@名無史さん:2008/12/20(土) 20:58:07
>>977


「土蜘蛛」 宮崎ではなくて熊本では??

7 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/20(土) 21:06:49
艫舳(ともへ、巴、鞆)

この船前を交えた様な地形に 投馬国が在った。


8 :日本@名無史さん:2008/12/20(土) 21:56:54
土蜘蛛ってのは、単に大和朝廷支配下でなかった人・地方のこと。

九州の北端のごく一部を除いてほぼ全部。つーか、実際は全部だろ。

つまり、景行天皇(4世紀ごろ)まで大和朝廷は九州には支配権が
ちっともなかったってこと。
神武天皇が東遷したのもその直前ぐらいだと考えると記紀の辻褄もあう。
例えば日向宮の権力争い。反乱でのっとられて潰された、とか。


9 :日本@名無史さん:2008/12/20(土) 22:01:55
大分県の海部(あめべ)氏族の歴史が非常に興味深い
6世紀以降は畿内にいったのかな?

10 :日本@名無史さん:2008/12/20(土) 22:37:35
大分県の海部(あめべ)氏族ていうたら、
大分県佐賀関〜佐伯付近らへんの一族かな?

11 :日本@名無史さん:2008/12/20(土) 22:55:00
つまり、九州の邪馬台国は、大和勢力に追い詰められて滅んだわけだね。


12 :日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:14:15
>>11
文章の意味がぜんぜん読み取れんみたいだな。

13 :日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:35:10
>>11
つまり九州の土蜘蛛国は、大和朝廷に追い詰められて滅んだわけだね。

14 :日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:43:56
>>8
地面に穴堀って住んでる土蜘蛛の人食い人種の熊襲が東遷するわけがない。

15 :日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:57:38
>>9
旦波国(丹後国)から九州北部に侵攻した海部氏は非常に興味深いね。
出雲大社の同様に二礼四拍手一礼を宇佐神宮に強制した人達だから。

16 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/21(日) 00:07:07
>>9 >>10
ふつう「あまべ」氏と読むのでは?
愛知県を含め、各地にある「海部郡」は「あま」郡、徳島県にあるのは「かいふ」郡と読むらしい。
愛知県の元総理大臣、「海部」氏は何故か「かいふ」氏である。

17 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 00:27:31
つまり、九州の邪馬台国は、大和勢力に追い詰められて滅んだわけだね。


18 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 00:48:21
つまり、九州の部落国家は、大和朝廷に追い詰められて滅んだわけだね。

19 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/21(日) 11:25:54
一般的傾向として九州説は文献重視、畿内説は考古学重視という傾向があるようです。
記紀や旧事本紀など古文献では、畿内ヤマトの九州進出は景行以後でほぼ一致しており、
伊都国などを傘下にする邪馬壹國は畿内ではないと思われます。
考古学では「年輪年代法」によって箸墓が卑彌呼の時代になると言われますが、
この測定方法は客観的に検証可能なものなのか、疑問や批判も多いようです。

唐松山さんは卑彌呼を景行時代とする内藤湖南ばりの年代観で、考古学と文献を整合させようとしていますが、
伊都国は仲哀天皇時に畿内に属したとする日本書紀、筑前国風土記(釈日本紀引用)と矛盾します。


20 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/21(日) 11:40:57
唐松山氏は1年くらい前は卑弥呼の国がどこにあるか、その年代が
いつごろかの確定ができないほど迷路の思考であった。それが即興的
考察から女王国の年代を決めてたが、それが埴輪の矛盾からいったん
論を引っこめて、その矛盾を解消するのに畿内九州に大股がりの
虫のいい玉虫色の畿内九州説という両刀使いを論とした上、さらに
弥馬獲支がミマキ(崇神)、伊支馬がイクメ(垂仁)などと字がよく
似た名の古代人を王クラスでもなく官級なのに天皇に固着させ妄想
を甚だしくしている。土地ならばかような地名の合うのが合理的な
場合が一応ある(末盧→松浦等)が、数字が多数人の人名に対しては
こういうやり方は失敗(神武=崇神等w)が当選確実である。

21 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 11:43:59
伊都は北九州で良いと思うがそっからが問題だな。
水行・・・普通は川だと思うが、
両サイドに陸地が見える瀬戸内海を川だとすれば、
投馬は岡山か広島あたりで邪馬台国は畿内だが、有明海を川に見立てれば宮崎だな。

何日も川を行った先のそのまた山の先に邪馬台国があると
伊都の住民が張政に言ってるのが気になる。

畿内か?


22 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/21(日) 11:52:31
>>19
全く矛盾しませんよ。
景行が戦で狩り取った土地は、景行の屯倉となる。
最初に狩り取った土地は、香椎。
連戦の末頃 筑紫の男王が死亡する 景行は五百野姫を筑紫に送り込む
当然軍隊付きです、軍隊の駐屯地がイト、
是を以て筑紫は、平和的に景行へ権力委譲。
神功も香椎に駐まるが、博多を自分の領地としている風が見えない。
筑紫男王の末裔は、天皇家の屯倉の長として、博多辺りを管理するだけ。


23 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/21(日) 11:57:19
景行天皇九州行幸は卑弥呼とは無関係だ。

24 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/21(日) 12:11:17
>>23
そして書紀と考古学も無関係。

女王の軍隊と倭王の軍隊は、共同して事に当たっていましたが、女王の死亡で、
筑紫男王軍と成るも、間もなく男王も死亡、
この軍は、筑紫種貸し屋の手先として生きるより、倭王から与えられた屯倉の主と成る道を
選んだ。当然倭王の後胤神功の軍でもある。畿内に同行もあり。


25 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 12:41:32
妄想だらけ


26 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/21(日) 12:53:30
妄想でなく推理と言ってくれ。
倭人伝に、倭女王と倭王のかき分けが在る。
この推理だ。

27 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 12:59:45
つまりは妄想。

28 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 13:07:48
>>26
魏志倭人伝には女王(日女命)男弟(崇神天皇)と書いてある。

29 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/21(日) 13:09:20
唐松山さん
正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、
并齎詔賜金・帛・錦[四/(炎り)]・刀・鏡・采物。倭王因使上表答謝恩詔。
其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、
上獻生口・倭錦・絳青[糸兼]・緜衣・丹・木[犬付]・短弓矢。 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。

正始元年の倭王と、四年の倭王は同一人物でしょ?
そもそも卑彌呼は「親魏倭王」です。


30 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/21(日) 13:24:01
>>28
ホツマに「男弟」を「彼スミヨロシナオリカミ」。と表記している。

31 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/21(日) 13:35:49
卑弥呼の最初の訪問時は、卑弥呼の下に垂仁のタジマモリ。この時点では、大和は田舎。
正始4年の時点で卑弥呼と景行は、同じ爵位と推定しています。
正始8年時点 黄幢拜假難升米為檄告喩之。
卑弥呼と景行は、共同して、狗奴國男王卑彌弓呼との戦に臨む。

時空は流れている。




32 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 13:36:51
これが決定版「魏志倭人伝2000年目の真実」

対馬市   人口 3万5千人 1千戸(對馬國)
壱岐市   人口 3万人    3千戸(壱岐國)
松浦市   人口 2万5千人 4千戸(末盧國)
武雄市   人口 5万人    1千戸(伊都國)松浦の東南40km
白石町   人口 2万6千人 2万戸(奴国) 伊都の東南10km
白石近辺港(有明海に面す) 1千戸(不彌國)
島原市   人口 5万人    5万戸(投馬国)有明海水行50km
宮崎市   人口36万9千人 7万戸(邪馬壹國)島原〜上天草は水行24km、上天草から125km
鹿児島市  人口60万4千人 (狗奴國)

33 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/21(日) 14:03:14
>>31
>正始4年の時点で卑弥呼と景行は、同じ爵位と推定しています。

親魏倭王が二人になったと言われますか?
梁書倭伝には
復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命。
とありますが、卑彌呼ではなく臺與(壹與)の時代のことです。

34 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/21(日) 14:22:50
臺與(壹與)は、卑弥呼の宗女として名は、在りますが
景行以降の大和朝廷の窓口。

「卑弥呼に戦闘の指揮をとれ」とは言えないので「景行に戦闘の指揮をとれ」が
魏の意向。

35 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/21(日) 14:30:36
>>24
関係ありますよ。稲荷山鉄剣の「獲加多支鹵大王」なんか雄略天皇
だ。これは考古での資料だろうが。w
唐松山さん。関係ないなんて言うと正常人から笑われるぜ。

36 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/21(日) 14:33:22
>>28
日女命≠卑弥呼  男弟≠崇神天皇

37 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 14:43:02
これが決定版「魏志倭人伝2000年目の呪縛を解く」

・倭國(和國)は九州で、宮崎日向國が女王國
  なので、以下の記述となる
  ・倭國の周囲は 5,000里(周旋可五千餘里)
  ・女王國(邪馬壹國)は帶方の東南 1,2000里(郡より女王國に至ること萬二千余里。)
  ・中国の上海の東(當在會稽、東冶之東)

・大倭國(大和国)は関東から西で、畿内の大和国が中心
  本州にはいけなかったので、斯馬國(志摩)など国名を記載

・狗奴國 (くのくに)は熊襲國で現在の鹿児島あたりで勢力圏外(其南有狗奴國)
  鹿児島は女王國(邪馬壹國)の南に当たる

★何のことは無い、魏志倭人伝の記述通りであった

38 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 14:51:31
日向から薩摩は南西の方角
日向の東は太平洋、四国は北東の方角
日向は伊都国から南西の方角
日向は上海から北東の方角


39 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/21(日) 14:54:09
>>34
>「卑弥呼に戦闘の指揮をとれ」とは言えないので「景行に戦闘の指揮をとれ」が
>魏の意向。

戦闘の指揮をとるのは、黄色い旗をもらった難升米。
彼は卑彌呼を殺して王位につくが、誅殺されてしまったと考えられます。


40 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 15:11:16
>>38
細かいなあ、

>日向から薩摩は南西の方角
 日向から薩摩は、行った訳ではなく
 日向国と薩摩国の位置関係だから南で問題ないでしょ

>日向の東は太平洋、四国は北東の方角
 神武東征という位だから、倭人からすれば東なんじゃないかな

>日向は伊都国から南西の方角
 これは、ちょっと問題にしている点が分からない?

>日向は上海から北東の方角
 ほぼ東だよ。中国人はそんなに海に詳しくないから


41 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 15:13:01
これが決定版「魏志倭人伝2000年目の真理」

卑彌呼は神功皇后 摂政在位(西暦201年〜269年)

42 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/21(日) 15:14:10
”「獲加多支鹵大王」なんか雄略天皇 ”これが考古学?
”「獲加多支鹵大王」”は考古学
これを”雄略天皇”とするのは、類推。
「獲加多支鹵大王」とは日本武尊の子供「稚武」でも良い、接点の一つ
一つでは歴史に成らないので次の”接点”は?

43 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 15:17:28
>日向は上海から北東の方角

ただ、倭人が頻繁に上海(会稽)に行っていたのは、
宮崎からではなく、琉球や薩摩など多数の国から行っていたと思います

44 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 15:19:59
もう、これが決定版シリーズで異論は無いね?
じゃあ、失礼しますよ。

45 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/21(日) 15:20:54
>>42
その可能性はありうる。雄略天皇にひっかけてそういう人名を
示唆してることはありうる。そのころ(成務の時代)畿内朝廷で
重要な事件が記紀にはないようだが、あった模様だ。
しかし考古と紀は関係がある。無いなどと笑われる。www

46 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/21(日) 15:32:38
>>42
雄略天皇は性格や行動などが、ヤマトタケルと似たところがあります。
「ヤマトタケル二世」ワカタケルと呼ばれたのでしょう。
ヤマトタケルの子は、もちろん言葉通りの二世。

47 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/21(日) 15:35:11
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/geography/fudoits8.html#koku8a
釋日本紀 卷十
筑前の國の風土記に曰はく、怡土の郡。
昔者、穴戸の豐浦の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし足仲彦(たらしなかつひこ)の天皇(仲哀天皇)、球磨噌唹(くまそ)を討たむとして筑紫に幸しし時、
怡土の縣主等が祖(おや)、五十跡手(いとて)、天皇幸しぬと聞きて、五百枝(いほえ)の賢木(さかき)を抜取(こぢと)りて船の舳艫(へとも)に立て、
上枝(ほつえ)に八尺瓊(やさかに)を挂(か)け、中枝(なかつえ)に白銅鏡(ますみのかがみ)を挂け、下枝(しづえ)に十握劔(とつかのつるぎ)を挂けて、
穴門の引嶋(下關市彦島)に參迎(まゐむか)へて獻(たてまつ)りき。天皇、勅して、「阿誰(たれ)人ぞ」と問ひたまへば、五十跡手奏(まを)ししく、
「高麗の國の意呂山(おろやま・蔚山)に、天より降り來し日桙(ひぼこ)の苗裔(すゑ)、五十跡手是なり」とまをしき。
天皇、ここに五十跡手を譽めて曰りたまひしく、「恪(いそ)しきかも伊蘇志(いそし)と謂ふ。五十跡手が本土(もとつくに)は恪勤(いそ)の國と謂ふべし」とのりたまひき。
今、怡土の郡と謂ふは訛れるなり。

伊都国王は高句麗系だったのか?
また来週。GRRR・・・

48 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/21(日) 15:40:05
太国さん次は”七支刀”ですかね?
七支刀の鍛造復元の結果、七支刀は鋳造された物と思われる。
百済では鋳造温度を得られないので、高句麗で鋳造?
480年代は百済は高句麗に隷属していた。とか…


49 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 15:40:35
日向説は方角さえメチャクチャなんだね
細かくマツラから東南だの東だのいって伊都国を糸島から佐賀大和に比定したのは日向説ではないかね
その佐賀大和から日向も南ではなく南東なんだよ、気がついてる?w
なんせ一月も東に歩かないといけないんだからねw
だいたい馬鹿を相手にしてあげてるだけでもありがたく思ってください。

50 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 15:41:14
おまいら・・・

ttp://dl.illusion.jp/question/blog_question.php?question=2&mode=1&find=%91%97%81%40%90M

51 :改め:2008/12/21(日) 16:20:45
河童くん居る???

みなさん〜今年の年末年始はどこかへ出かけるのでしょうか?

出雲大社いってみたいですね。

52 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 16:21:27
邪馬台国と狗奴国が戦闘状態になった時に塞曹掾史の張政が魏朝の停戦命令を
伝えに来訪したが、張政は戦場の九州に駐留していたらしく大和で卑弥呼が崩御
した情報を後から聞いて大和に急行したが時すでに遅く内戦まで勃発していた。
後継者に台与が決まり張政は台与に告げさとしてやっと面目を保った。
張政が卑弥呼の崩御した時に大和にいれば内戦はなかっただろう。

53 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 16:28:48
>>49
えぇ?なんで?行程をもうちょっとちゃんと書けば、

01) 帯方郡→(帯方郡の南、東、海岸水行七千餘里)
02) 狗邪韓国→大体90km(始度一海千餘里)
03) 対馬市(對海國)→大体90km(南渡一海千餘里)
04) 壱岐市(一大國)→大体50km(渡一海千餘里)
05) 松浦市(末盧國)→末盧の東南40km(東南陸行五百里)
06) 武雄市(伊都國)→伊都の東南10km(東南百里)
07) 白石町(奴国)  →奴の東南10km(東百里)
08) 近辺港(不彌國)→不彌の南50km (南水行二十日)
09) 島原市(投馬国)→投馬の南50km (南水行十日)
10) 上天草の近辺→125km(陸行一月)
11) 宮崎市に、ご到着。

問題ないがに。

54 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 16:29:53
>>49
だったら、方向も距離も全く問題ないところを示してみな。

55 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 16:44:27
>>53 スマソ。ちょっと間違えた

01) 平壌(帯方郡)  →南、東大体920km(帯方郡の南、東、海岸水行七千餘里)
02) 金海(狗邪韓国)→大体90km(始度一海千餘里)
03) 対馬市(對海國)→南大体90km(南渡一海千餘里)
04) 壱岐市(一大國)→大体50km(渡一海千餘里)
05) 松浦市(末盧國)→末盧の東南40km(東南陸行五百里)
06) 武雄市(伊都國)→伊都の東南10km(東南百里)
07) 白石町(奴国)  →奴の東10km(東百里)
08) 近辺港(不彌國)→不彌の南50km (南水行二十日)
09) 島原市(投馬国)→投馬の南50km (南水行十日)
10) 上天草の近辺  →125km(陸行一月)
11) 宮崎市に、ご到着。

56 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 17:16:44
>>54
末盧國→呼子町
伊都國→前原町
奴国→福岡市
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬→宮崎県
邪馬台国→福岡県南部
狗奴国→熊本県北部

57 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 17:33:05
>>55
必死に書き込んでるけど島原に5万戸w叩き台にもならんよ。


58 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 17:46:56
島原は貿易の拠点なんだから50万人位軽かったでしょう

59 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 17:48:47
つまり、九州の邪馬台国は、大和勢力に追い詰められて滅んだわけだね。


60 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 17:57:13
何をいってるの
邪馬台国は大和の
一部ですよ

61 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 18:04:28
末盧國→呼子町
伊都國→前原町
奴国→福岡市
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬→宮崎県
邪馬台国→福岡県南部
狗奴国→熊本県北部


この定説に反論できる人いるの?

62 :日本文尊 ◆m0yPyqc5MQ :2008/12/21(日) 18:08:45
お前何もわかってねーよ。死んだ方がいいんじゃね?

63 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 18:12:44
>>61
そのとおりだと思います、反論できません。

64 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 18:15:41
末盧國→呼子町
伊都國→前原町
奴国→福岡市
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬→宮崎県
邪馬台国→福岡県南部
狗奴国→熊本県北部

反論が無いようなので邪馬台国はこれで決定します。

65 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 18:27:11
つまり、九州の邪馬台国は、大和勢力に追い詰められて滅んだわけだね。


66 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 18:48:50
>>64
反論つーか疑問なんだけど
水行十日陸行一月はどうなるの?
とくに陸行一月は邪馬台国福岡県南部じゃ解釈ムリと思うよ

67 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 18:54:39
>>66

一大国→×
一支国→○

女三国→×
女王国→○

一月→×
一日→○

誤字。一月を信じるなら女王国とは別に女三国も探してください。


はいはい他に疑問は無いですか〜

68 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 19:02:48
投馬国は薩摩がメインで日向はサブ
日向は薩摩(隼人族)の墓場だったと思う。

69 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 19:27:02
>>67
じゃあ「水行十日陸行一日」は、どこからどこまで?

70 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 19:30:10
>>69
帯方郡から邪馬壹国までです。


71 :日本文尊 ◆m0yPyqc5MQ :2008/12/21(日) 19:47:00
ぺちゃくちゃ下らねーヨタ話してんじゃねーよヘナチンども!

72 : ◆.L.MXSPOgc :2008/12/21(日) 20:41:00
>>61
方角が約45度ずれている。呼子からみて前原は東南ではなく東。
距離もあやしい、末盧−伊都:伊都−奴=500:100、の記述だが、
呼子−前原:前原−福岡=3:1、程度と記述との乖離が大きい。

投馬以下は妄想レベルなので捨て置く。

73 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 21:30:47
>>72
煽り専門コテを相手にしてもしょうがないんだが…

遺跡の場所を見れば解る
http://selfpit.way-nifty.com/0706/070626_22.gif

74 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 21:54:40
末盧國→呼子町
伊都國→前原市南
奴国→福岡(春日市)
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬→宮崎県
邪馬台国→福岡県南部
狗奴国→熊本県北部

誤解があったようなのでテンプレ訂正
反論ないですか〜
まじめな質問にはまじめに答えます。

75 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 22:34:48
末盧は唐津(東松浦)、伊都は北九州
投馬は当麻(たいま)で邪馬台国は畿内

水行十日陸行一日→瀬戸内海を10日、大阪から畿内まで1日。




76 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 22:35:20
>>74

福岡県南部とすると、以下がおかしいと思います。

・魏志倭人伝の描写より寒そう(裸足は無理だろう)
 倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣
 (倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を喰うし、皆裸足)

・緯度が合わない(せいぜい鹿児島、宮崎、熊本辺りまで)
 當在會稽東冶之東
 (会稽の東治の東にあたる)

・投馬国は女王国の北にあるべきなのにおかしい
 自女王國以北其戸敷道里可得略載
 (女王国より北の戸数や道のりは簡単に記載出来る)

・福岡南部じゃ近すぎます(伊都国から1,300里は離れてないと)
 自郡至女王國萬二千餘里
 (帯方郡(平壌)から女王国にまで12,000余里)

・末盧國から伊都國は 東南陸行五百里です。
 呼子町 → 前原市南 じゃあ見当違いです


77 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 22:58:09
>魏志倭人伝の描写より寒そう(裸足は無理だろう)
>倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣

倭の地はどこのこと?逆に聞きたい
壱岐も対馬も松浦も奴も伊都も倭

倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣←原文
邪馬台国温暖冬夏食生菜皆徒跣←君の勝手な解釈

>緯度が合わない(せいぜい鹿児島、宮崎、熊本辺りまで)
>當在會稽東冶之東

会稽の東治の東にあるのは倭

>福岡南部じゃ近すぎます(伊都国から1,300里は離れてないと)
筑紫筑後平野が適切な距離です。

>投馬国は女王国の北にあるべきなのにおかしい
>自女王國以北其戸敷道里可得略載

南に船で二十日かかる投馬、南に十日と一日で着く邪馬台国
どちらが南にあるか明らかです。

>末盧國から伊都國は 東南陸行五百里です。
>呼子町 → 前原市南 じゃあ見当違いです

見当違いの理由が書いてないのでコメントできません。



78 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 23:01:16
つまり、九州の邪馬台国は、大和勢力に追い詰められて滅んだわけだね。


79 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 23:02:40
>>73
>>74
この二つは同一人物のレス?

80 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 23:06:16
同じ話題を2つのスレでは迷惑
今後はドンと来いスレにて返答します
南九州説のように逃げ出したりしません
このスレでの質問受付は終了します

末盧國→呼子町
伊都國→前原市南
奴国→福岡(春日市)
不彌國→宇美町

距離も方角も問題ない説です。

投馬→宮崎県
邪馬台国→福岡県南部
狗奴国→熊本県北部

誤解があったようなのでテンプレ訂正
反論ないですか〜
まじめな質問にはまじめに答えます。
ドンと来いスレにて返答します。




81 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 23:15:12
なぜここじゃないんだよw

82 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 23:21:23
>>81
元々ドンと来いスレでデンパ南九州説を吊るし上げてたんだけど
南九州説のがココに逃げてきたから勢い追ってきた。
このスレは卑弥呼は誰か?だから場所比定はスレ違い。

83 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 23:29:29
つまり、九州の邪馬台国は、大和勢力に追い詰められて滅んだわけだね。


84 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 23:51:33
>>76
結論的にはあなたの言うとおりですが、次の2点は要注意です。

>投馬国は女王国の北にあるべきなのにおかしい
北は戸数道里を書けると言ってますが、南は全部書けないとまでは言ってません。
書けないのは、旁国のみだということに留意すべきです。
そのことを意識すると、投馬国を女王国の北と断定はできないはずです。

> 福岡南部じゃ近すぎます(伊都国から1,300里は離れてないと)自郡至女王國萬二千餘里
女王国と邪馬台国を同視していませんか? 表記がちがう以上、意味はちがいます。




85 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 23:55:12
末盧國→呼子町 前原は呼子の東で道なりで38km(東南陸行五百里)
伊都國→前原市南 春日市は前原の東南で25km(東南百里)
奴国→福岡(春日市) 宇美町は春日の北東で7km(東百里)
不彌國→宇美町

結局、呼子町〜宇美町は合計 68kmで邪馬台国まで+1日
1日の移動距離が、3km/hで8時間=24kmとすると
68km+24km=90kmとなります。これが2000里(12,000里-1,000里)
となります。

距離も方角もちょっと苦しいのではないでしょうか?

86 :日本@名無史さん:2008/12/22(月) 00:00:02
だからこの話題はドンと来いスレに来いって
迷惑だろうが!
まったく南九州説は人間的にもレベルが低い連中だ。

87 :日本@名無史さん:2008/12/22(月) 00:11:23
>>84
「自郡至女王國萬二千餘里」
この「女王国」が指すものは倭国だとすると
狗邪韓國あるいは対馬が北限となりますが
そうであれば、帯方郡から7000か8000余里となり
わざわざ12,000里と記す意味がありません。

また、「自女王國以北其戸敷道里可得略載」
この「女王國以北」も意味を成しません。
従って、「邪馬壹國」が「女王國」ではないでしょうか?

88 :日本@名無史さん:2008/12/22(月) 02:30:03
>>86
その発言はあまり褒められたものではないですね
全く節操がない。

89 :日本@名無史さん:2008/12/22(月) 14:27:00
>>77
>会稽の東治の東

地球は丸いって知ってる?
中国人は紀元前には気付いて平面図の歪みを修正していた。
東っていったら球面上の東なわけ。当時の中国人の観念でも。
だから線も2,30℃の歪みがでてくる。

>當在會稽東冶之東

この記述にあうのは熊本・宮崎・大分南部。

90 :日本@名無史さん:2008/12/22(月) 21:13:04
さあ 邪馬台国はどこなのか?どんどん議論してくれたまえ。

東遷が真実なのか?はたまた、幻だったのか?どこに邪馬台国はあったのだろう。


91 :日本@名無史さん:2008/12/22(月) 21:56:45
>當在會稽東冶之東

>この記述にあうのは熊本・宮崎・大分南部。

誤差の範囲、筑紫筑後平野で問題ない。


92 :日本@名無史さん:2008/12/22(月) 22:05:00



邪馬台国は九州。

後に、畿内の大和王権によって滅ぼされて終了。






93 :日本@名無史さん:2008/12/22(月) 22:27:28
つまり、九州の土蜘蛛国は、大和朝廷に追い詰められて滅んだわけだね。

94 :日本@名無史さん:2008/12/22(月) 22:51:43
>>87
女王国=倭国ではないというのはそのとおり。しかし、女王国が倭国でないからといって
いきなり女王国=邪馬台国というのはまちがいです(多い説ですけどね)。
その理由は、以下のとおり。
@ 表記が異なる。単純ですが重要な問題。史書は軽々しく言い換えはしません。
A 女王国までは万二千余里。邪馬台国までは伊都国から水行十日陸行一月。
 同じわけがありません。
B 女王国以北は戸数道里を略載できるとある。邪馬台国の周囲には旁国があった。
 女王国=邪馬台国ならば、女王国よりも北に旁国があるかも知れず上記のようには
 書けない。女王国には旁国を含むから上記のように書けるのです。
  つまり、女王国とは少なくとも、邪馬台国+旁国と考えられます。

95 :日本@名無史さん:2008/12/22(月) 23:48:06
つーか、ここでいう「一日」は今の「24時間」なのか?


96 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 00:28:16
>>94
ということは、概ね以下のようなお考えということですね。

 ・倭国=敵対国も含めた日本全体(住人は倭人)
 ・女王國=卑彌呼の勢力圏
  (旁国を含む。但し北の国の對海國、伊都国、投馬国あるいは狗邪韓国などは除く。)
 ・邪馬臺國=女王の都のある國

@は確かにそう思います。Aは考えどころですね。
Bですが、 女王國=卑彌呼の勢力圏は良いとして、北の国を除くことは納得がいきません。

97 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 00:31:14
>>95
海なら正に24時間だけど、水行は川とか沿岸だから、夜は上陸するでしょう。
岸辺をのんびり進む感じじゃないでしょうか?

98 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 00:39:17
水行20日+水行10日といっても、一日6時間も乗れば疲れるので
6時間×2ノットとして、20km/日位じゃないでしょうか?
とすると30日で600km。それでもずいぶんありますね。。。。アセ

まあ、天候や風向きで休むでしょうから、半分見ておけば良いでしょう。
ということは300kmですね。

99 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 00:50:29
驚天動地!ヤバイ国が巨人のキャンプ地だった!
巨人はヒミコの末裔か!?

01) 平壌(帯方郡)  →南、東大体920km(帯方郡の南、東、海岸水行七千餘里)
02) 金海(狗邪韓国)→大体90km(始度一海千餘里)
03) 対馬市(對海國)→南大体90km(南渡一海千餘里)
04) 壱岐市(一大國)→大体90km(渡一海千餘里)
05) 芦屋 (末盧國)→末盧の東南62km(東南陸行五百里)
06) 筑前 (伊都國)→伊都の東南25km(東南百里)
07) 中津 (奴国)  →奴の東南25km(東百里)
08) 宇佐 (不彌國)→不彌の南227km (南水行二十日)
09) 日向 (投馬国)→投馬の南60km (南水行十日)
10) 宮崎       →82km(陸行一月)
11) 都城 (邪馬壹國) 高千穂


100 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 00:59:30
>>96
>女王國=卑彌呼の勢力圏は良いとして、北の国を除くことは納得がいきません。
女王国以北には一大率を置く。〜諸国これを畏憚す。この言葉が意味深だということです。
普通の同盟国同士ならば、以北の国々(対馬国から不弥国まで)が畏憚するような
事態になるでしょうか? 私は以北の国々と女王国とが戦って以北の国々が女王国に
従うようになった、それが倭国の乱だったのであろうと思います。

倭の諸国=狗奴国も含めた倭の国々全部。
倭国=狗奴国を除く。以北の国々+女王国。要するに卑弥呼が率いる国々。
女王国=投馬国、邪馬台国及びそれらに従う旁国。
私は以上のように考えますが、それはともかく、女王国=邪馬台国と簡単に思い込まず、
慎重に考え直してみた方が良いと思う次第です。

101 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 01:54:09
夜明けに起きて、日が暮れたら終わり。
これが古代人の一日。



102 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 01:55:04
>>100
成る程。勉強になりました。中々、一筋縄じゃあ行きませんね。
確かに、12,000里というのは中々難しいです。
西回り、宮崎市(邪馬壹國)だと、1,435Km  
     120m/里 だと 11,958里〜12,575里でいい感じです。
東回り、都城(邪馬壹國)だと
     120m/里 だと 13,925里〜13,775里でちょっと遠い感じです。
が、120m/里はちょっと変な感じです。もう少し検討が必要です。


103 : ◆.L.MXSPOgc :2008/12/23(火) 05:09:39
>>100
つまり福岡には福岡県知事がいるから日本国ではない、と言っている様なものだ。
こんな馬鹿は相手にするだけ無駄だw

104 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 08:26:56
>>98
水行1日あたり20km進むことに同意いたします。水行20日+10日で
600kmですから邪馬台国の都は間違いなく畿内です。さらに陸行1月
ですから100%間違いなく邪馬台国の都は畿内です。九州説だと魏の使節は
太平洋の真ん中で沈没して他界されましたとなり九州説は大馬鹿者となります。

105 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 08:44:44
>>102
万二千余里について、内藤湖南「卑弥呼考」は「邪馬台国を指すか、女王境界尽きる所
の奴国を指すか、また投馬国と邪馬台国との接界を指すか」が問題だとし、「もし投馬
と邪馬台国の接界を標準とするなら万二千余里は必ずしも短くはない」としています。
女王国が邪馬台国とそれを支えた国々と解せば、女王国に単一の首都はないので、内藤
に従い、以北の国と女王国との接界(女王国の入り口)と解することができます。
これなら、万二千余里は十分ありえます。私は1里=80mぐらいとみています。


106 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/23(火) 22:34:14
>>100 を訂正すると
元々倭王は、奴国の王であり九州30ヶ国程を治めていたが、
凶作等により、奴国王の締め付け(一大率)だけでは、九州全体を治められなくなる。
卑弥呼(大和に対する伊勢を考えて下さい)を立てて30ヶ国の代表(王)とする。
景初3年倭女王は、魏に遣使(この時大和の都市牛利タジマモリも同行)
243 正始四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人。 倭王=景行
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランいわか=六雁
この直後から奴国王(男王)、卑弥呼、景行連合軍による九州平定、統一の
戦が始まる。
投馬国=巴=鞆=早鞆の瀬戸 景行により最初に治められる、


107 :日本文尊 ◆m0yPyqc5MQ :2008/12/23(火) 22:39:50
そんなのどうでもいいじゃん

108 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 22:57:57
計其道里當在曾稽東冶之東

これが卑弥呼の都の位置と仮定すると、やはり、南九州が適当な気がします。

場所 緯度 基準との差
北九州市 33°53'N 2.50
福岡市 33°35'N 2.20
佐賀市 33°16'N 1.88
大分市 33°14'N 1.85
佐世保市 32°48'N 1.78
熊本市 32°45'N 1.42
長崎市 33°10'N 1.37
延岡市 32°35'N 1.20
宮崎市 31°54'N 0.52
都城市 31°43'N 0.33
鹿児島市 31°36'N 0.22
上海市 31°23'N 0.00 会稽に比定
那覇市 26°13'N -5.17
石垣市 24°20'N -7.05


109 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/23(火) 23:13:16
無理を通せば”道里”が引っ込む。

110 :日本文尊 ◆m0yPyqc5MQ :2008/12/23(火) 23:22:50
止めろ止めろそんな話は。下らねえ。

111 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 23:30:23
計其道里當在曾稽東冶之東

東渡海千餘里復有國皆倭種

矛盾してることに気がつかないのかw
暑い国の東に国があればそこも暑いw
南九州の東は太平洋w

112 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 02:05:32
>>11
え、何で意図的に東海に四国のある西臼杵郡を無視してんの?

日向の東には四国がある。

南九州っていっても鹿児島や宮崎南部の熊襲領域のこといってんじゃねーよww
大分県南部なら向こうに島々が見えるぐらいだからな。

>計其道里當在曾稽東冶之東
>東渡海千餘里復有國皆倭種
 
 熊襲(クナ国)領域を除いた九州日向説は倭人伝的にも全く問題ない。

 それどころか九州で唯一倭人伝と一致する場所なんだが。

113 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 02:14:56
西臼杵郡の東は贔屓目に見ても足摺岬。

http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ie=UTF8&q=%E8%A5%BF%E8%87%BC%E6%9D%B5%E9%83%A1&ll=32.560704,132.061157&spn=1.59953,3.081665&z=9&iwloc=addr

114 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 03:00:23
熊本、大分から南のほとんどを女王国と考えればいいんだよ。もちろん、南の端
の狗奴国は除くことになるが。
計其道里當在曾稽東冶之東はその女王国が会稽から東冶の東の方になるってこと。
東渡海千餘里復有國皆倭種は女王国の範囲に含まれる日豊海岸から東千里に四国
があるってこと。



115 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 03:10:20
古代人にとって、最も住みやすい土地は、都城盆地だという話を聞いたことが
ある。もっとも、あそこは熊襲祭りなんてのをやっているわけだが。
熊襲=隼人だと思うが、都城付近が本拠地だったと思うな。

116 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 03:12:13
>>112
>熊襲(クナ国)領域を除いた九州日向説は倭人伝的にも全く問題ない。
そのとおり。そして、狗奴国領域を大きく考えないことです。倭人伝を良く読めば
狗奴国は以北の国ではないし、戸数道里も記されていません。ということは旁国
(大国の傍らにある小国)の一つにすぎないのです。狗奴国王が卑弥呼と対立した
ことから狗奴国を大国とみるのはまちがいですね。


117 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 05:26:12
畿内大和連合のほうがもっと強大なのに、
魏志倭人伝には載ってないんだな。


118 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 08:20:24
畿内大和連合がその当時存在した証拠はないな。

119 : ◆.L.MXSPOgc :2008/12/24(水) 09:26:13
>>114
>計其道里當在曾稽東冶之東
「計」ったのが誰なのか、もう少し考察すべきではないでしょうか。
実際に行ったものが「當在曾稽東冶之東」というのなら信憑性も高いでしょうが、
海さえ見たことのないものが云っているのであれば、その「計」った根拠を考えてみて
はじめて「當在曾稽東冶之東」が信頼できる記述なのかどうかが分かるのではないでしょうか。

私は信憑性の低い記述だと見ています。
# 史の記述自体は、この文が「計」であることをきちんと書いてあることで、その信憑性が低くなるものではないと考えます。


120 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 09:36:58
九州の邪馬台国が滅んだのは、
畿内大和連合が九州侵攻したからですが。


121 :記紀きりん:2008/12/24(水) 09:45:45
昨日、区立図書館のリサイクルフェアで
「国民の歴史」(新しい歴史教科書をつくる会)
という本を50円で買ってきて、読んだ。
田母神問題なんかにも出てくる話題の本なんだけど、中を見ると、それは
著者からの贈呈本であり、しかも誰かに読まれた形跡はなかった。

さて、邪馬台国はどうかかれているかというと
「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」
と、断罪している。かと言って、神武天皇なんかは無批判に実在を信じている。
しかも、天皇陵を発掘して古代史を徹底的に解明しよう、という感じもない。
太平洋戦争の敗戦にあたって
「国民全員のせつなる願いは国体(つまり皇室の安寧)護持であった」
なんて記述もあって、文部省からは強い推薦があったらしいが、ほとんど
売れず、版元の扶桑社とも絶縁したという。


122 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 11:19:57
>>121
極左暴力集団の人,コンニチハ。

123 :記紀きりん:2008/12/24(水) 11:43:13
僕のこと?

僕自身は、歴史は今後の指針に利用できれば、という功利主義者なんだけど。
今日はTBSで「あの戦争はなんだったのか?」という番組があるらしいんだけど、
どっちかというと、国を滅ぼしかかったのは、むしろ、右翼国粋主義者たちのほうではなかったか?
樺太と千島列島だけでも、約8万平方kmも損したんだぜ。

124 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 14:11:06
日向説が段々北に北上してるわけだがw
で西臼杵郡が邪馬台国?
もう邪馬台国大分説だw
佐賀大和から船で有明海南下するんじゃなかったのかな?あれれ?w

125 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 14:41:03
>>123
日本が第二次世界大戦に敗北したのは左翼の売国行動が原因だった。
ゾルゲ事件で日本の作戦・戦略情報をソ連に流して冬季に強い精鋭部隊である
シベリア軍団を唯一優秀な戦術家ジューコフ将軍ごと独ソ戦線のモスクワと
レニングラード攻防戦に投入する原因を作ったのが日本の左翼だった。
日本とドイツの共同作戦は戦争に勝利するためには絶対必要でそのためには
ソ連を降伏させなければ成らなかった。日本海軍とドイツ機甲部隊が共同作戦を
すれば当時世界最強の作戦部隊となりアメリカ本土占領も可能だった。

126 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 16:52:23
>>121
>>120は事実を書いているだけだが?
>>125
プロパガンダが事実、事実がプロパガンダ…
右翼言説ってのは倒錯の世界だな。

127 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 17:04:59
>>126
ヨォ!左翼解説者「筑紫」!

128 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 20:49:57
>>120
畿内大和連合が九州侵攻したのは何時のころかな?

129 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 20:56:36
>>119
>「計」ったのが誰なのか
倭人伝のもとになった資料(報告書)を書いた人物ですね。
それ以外に誰かいますか?

130 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 21:10:23
その人物は測ってなくて倭人に聞いたのかもしれないな

131 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/24(水) 22:17:36
>>114
太平洋は片道切符。
>>121
確かに読むに値しない内容みたいだ。
>>124
もう少し北上すると”スミヨロシナオリ神”の領分だ。

132 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 22:34:58
>>121
魏志倭人伝には、「親魏倭王」とか出てくる。これは、魏の属国である「倭王」
というような意味がある。それに、卑弥呼は魏に朝貢したとも書かれている。
ある種の人には、かなりプライドを傷つけられる内容である。だから、
魏志倭人伝の記述は受け入れたくないのだろう。

133 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 23:02:06
>>124
君はまだ九州の地理が全く理解できてないね。
で、どうして西臼杵郡が卑弥呼の住んでいた女王国に至った経緯が。

連投続く限り今からも書き続けるけど....今までのレスを読めばわかるはずだが(ため息w
アララww なのは君の頭。まあわかってないから仕方ないが。。。。
まず君は九州の地理を山脈の標高や百を超える小さい島々までよく見える小地図を
見ること、そして海流まで知ることから始めなさい。それができないかぎりいつまでも
小学生の質問しかできないだろうし。

「陸路一ヶ月」という記述で出る場所はアソコしかないわけ。
しかし間違いなく陸路一ヶ月上かかる、何とかしてやっと着く場所がある。
、そこは記紀でも皇祖神発祥の場所として書かれている山脈の連なる場所。
偶然か?
それとも元々九州のほとんどを牛耳るぐらいの勢力の上層階級が集まる場所が
あったのか?って話になる。

それに西臼杵郡〜日向(宮崎北部のことね。)が唯一、倭人伝の記述に全く
矛盾するところがないわけ。そこを「陸路一ヶ月」とするならスタート地点は
筑紫か熊本。例えば鹿児島から海岸線ぐらいだと平野続きだからアッという間。

もちろん中津あたりをいれれば、って話もなるけど陸路一週間もかからないし
気候が佐伯や日向とは全く違うわけ。





134 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 23:07:15
>>132
その後の7,8世紀の大和朝廷はもっと恥ずかしいことばかりして
貢いだりして受け入れてるけどな やってることは魏の時代と同じ。
ただ素人の集団だった。



135 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 23:13:45
末盧國=東松浦
伊都國=北九州
投馬國=広島
邪馬台國=大和

水行10日→瀬戸内海=広島
陸行 1月→広島〜奈良


136 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 23:34:31
>>124
西臼杵郡+佐伯市+日向市ぐらいまでの領域。
つまり大分南部と宮崎北部ってこと。

あのさあw 日向(市)より東は何もないとか言ってる奴って地理のこと
何も知らないやつだよねwww 地球は丸いんだよ。北半球だと
どう歪んでるかな〜〜www   定規とか当てて直線で結ぶ馬鹿とかいる?

佐伯〜日向の東には愛媛と高知と高知南部の島々が点在してるよ。
九州で倭人伝と全部一致してる場所は他にない。

倭人伝を読んだらここなわけ。もちろん高千穂などと重なるが卑弥呼が
天照などというつもりはない。
ただ、記紀を読んでもわかるとおり、熊襲を除く九州の大部分にとっての
支配者層がここに居たわけだから、卑弥呼が居てもおかしくない、というか
重なるのは偶然ではない。

137 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 00:04:28
大分県佐伯市
http://maps.google.co.jp/maps?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4ADBR_jaJP240JP240&q=%E4%BD%90%E4%BC%AF%E5%B8%82&um=1&sa=X&oi=geocode_result&resnum=1&ct=title

だいぶ上に上がってきたな
まあ佐伯市なら東に四国があるな
最初から大分南部説と言ってればよかったのにw

138 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 00:06:03
>>137
なんで、わざと宮崎北部を避ける????
俺は大分南部も入れるが
基本的に宮崎説だけど。

139 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 00:12:45
>>137
大分県の東渡海千里に四国があるとする考え方にも大きく分けて二つあることに
気づいていないな。
@ 大分県+日向北部あたりに邪馬台国を比定する説。
A 日向南部に邪馬台国があったとしながら、女王国(邪馬台国+旁国など)の
 範囲を大分県まで広げて考える説。

140 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 00:15:25
日向市の東は太平洋だw
http://maps.google.co.jp/maps?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4ADBR_jaJP240JP240&q=%E4%BD%90%E4%BC%AF%E5%B8%82&um=1&sa=X&oi=geocode_result&resnum=1&ct=title

141 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 00:18:16
http://maps.google.co.jp/maps?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4ADBR_jaJP240JP240&q=%E6%97%A5%E5%90%91%E5%B8%82&um=1&sa=N&tab=wl

日向市から東に線を引いてみよう、何も無いですねw

142 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 00:23:11
>>137
その地図をもっと拡大でみてみ?

佐伯から蒲江(大分県最南端)が無数の山に囲まれてるだろ。
そこから延岡までグッと拡大でみると山しかないんだよ。
そこら辺りから、内陸は阿蘇まで山しかないの。見渡す限り。
未だに高速道路も通せないし、電車も飛ばせないスゲーとこなんだよ。

熊本からなら陸路一月以上。ただ筑紫からなら陸路は一月かかるが
豊後水道と日向灘を逆流すれば水行できる。いわゆる神武東遷航路。

143 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 00:27:04
>>139
Aは誰だよ、それ?西都原古墳群の奴か?

俺が言ってる「日向」ってのは日向市までだよ。
それより南は入れない。だって熊襲の領域だろ。
宮崎(日向)南部は熊襲の領域、これ常識。

>>140 >>141

定規で引くのは地理を知らないアホ。航海図って知ってる?
地球は歪むから定規引くなら15〜20度は北にずらさないと
いけないんだが。

地球は球って知ってる?日本は北半球って知ってる? ww
これだけヒント言ってるのにわからないとは小学生だな。




144 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 00:31:34
地球は平らだと信じたいなら別にかまわないが、
そんなことだから倭人伝も読めない。

倭人は実際船を出したら日向市の東も四国があるのは知ってるはず。
しかも海流が。。。。あ、海流なんてわからないだろうなw


145 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 00:51:00
漢文で「又」がつかないとこは続いてないと読むのが正解だろ。
実際、誰か一人が順番に国を廻っていった旅記じゃないんだから。


146 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 00:59:11
伊都以降は日数だし、ひょっとすると、
伊都から先は
倭人に皇帝の国書を託したのでは?

147 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 01:04:20
>>143
Aは都城盆地あたりに邪馬台国を比定する。
日向南部を熊襲の領域だなどと考えてるのは甘いな。熊襲の意味が分かってない。
大分や日向北部に比定したんではコースがうまく行かないだろ。

148 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 01:04:47
>>136 氏 西臼杵郡+佐伯市+日向市ぐらいまでの領域。

つまりこうですね!※違いがあれば、ご指摘願います。
東回り・豊後水道南下・高千穂説
01) 漢城(帯方郡)  →南、東大体730km(帯方郡の南、東、海岸水行七千餘里)
02) 金海(狗邪韓国)→大体90km(始度一海千餘里)
03) 対馬市(對海國)→南大体90km(南渡一海千餘里)    有千餘戸
04) 壱岐市(一大國)→大体90km(渡一海千餘里)       有三千許家
05) 芦屋 (末盧國)→末盧の東南62km(東南陸行五百里)  有四千餘戸
06) 筑前 (伊都國)→伊都の東南25km(東南百里)      有千餘戸
07) 中津 (奴国)  →奴の東南25km(東百里)         有二萬餘戸
08) 宇佐 (不彌國)→不彌の南129km (南水行二十日)   有千餘家
09) 佐伯 (投馬国)→投馬の南73km (南水行十日)     可五萬餘戸
10) 延岡       →43km(陸行一月)
11) 高千穂 (邪馬壹國) 高千穂                 可七萬餘戸

CP1) 自郡至女王國萬二千餘里--------------13422里 問題無し
CP2) 計其道里當在曾稽東冶(治)之東---------高千穂 32°42'N 差 1°19' 許容範囲か(女王國南端ならOK)
CP3) 女王國東渡海千餘里復有國皆倭種------四国があるのでOK
CP4) 周旋可五千餘里----------------------九州(筑紫島)の1周は1万里だが、倭人の話なので尺度が違う

149 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 01:13:36
>>148
佐伯は宇佐の南というより東南ですかね?
途中がどこか違うのかな。

150 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 01:15:36
日向北説と日向南説
南九州説はどちらか統一しろよw



結論は筑紫筑後平野なんだけどねw

151 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 01:24:19
西回り・有明海南下・霧島説

01) 漢城(帯方郡)  →南、東大体730km(帯方郡の南、東、海岸水行七千餘里)
02) 金海(狗邪韓国)→大体90km(始度一海千餘里)
03) 対馬市(對海國)→南大体90km(南渡一海千餘里)
04) 壱岐市(一大國)→大体50km(渡一海千餘里)
05) 松浦市(末盧國)→末盧の東南40km(東南陸行五百里)
06) 武雄市(伊都國)→伊都の東南10km(東南百里)
07) 白石町(奴国)  →奴の東10km(東百里)
08) 近辺港(不彌國)→不彌の南67km (南水行二十日)
09) 宇土(投馬国)→投馬の南43km (南水行十日)
10) 水俣  →60km(陸行一月)
11) 霧島(邪馬壹國)


152 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 01:25:48
正直、西回りか、東回りかだけでも決定して欲しい。。。

153 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 01:41:32
もう水行陸行で山奥歩かせたり妄想辞めた方がいい
空想の結果あっちが立てばこっちが立たずだろう
常識的に考えよう

154 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 01:41:48
>>148東回り説=H
>>151西回り説=H

比定地の一覧だけ目を通したけど、
どっちも遺跡の宝庫、前原市、福岡市は完全無視なんだねw

最近の古代史ファンは考古学や遺跡とかも大好きな人多いから
前原市、福岡市の古代遺跡を全く無視した説はどうかな
まあほとんど話題にもされないんじゃないかなw

155 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 01:47:28
>>154
いや、まあ、女王国へ行くのが主目的だから、
東回りなら福岡港もありだと思うけど
海流に任せてドンブラコで出来るだけ東に行くのかなあと。

というか、壱岐市から千里とあるので90km位離れたいのですよ。

156 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 01:51:39
奴国はどこでもいいわけかw

157 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 11:18:16
九州内に納めようとするからだよ

158 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 11:40:07
四国きた?
四国なら周旋5千里も夢じゃない

159 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 12:27:09
周旋とは、1周では無く、半周のことかな
もしかしたら、マツロから沿海5千里航海しても着いたと言う事か〜?


160 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 15:48:02
>>148
ちょ、ちょっとそれは余りにも滅茶苦茶じゃね?
つまり、皆に攻撃させるため誰も言ってない
そんな説を作り上げて西臼杵郡説者にぶつけんの?

161 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 15:52:29
霧島説ってあったんだ。すげーな、>>148>>151
遺跡とか古代の勢力図全く無視してんのか。

大体、経路も山も海流もマチマチなのに、キロ数だけで
決定するのも痛すぎる......

162 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 19:11:36
古代の勢力図下さい。

163 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 20:25:37
末盧國=東松浦
伊都國=北九州
投馬國=広島
邪馬台國=大和

水行10日→瀬戸内海〜広島
陸行 1月→広島〜奈良



164 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 21:31:08
沖縄で解決。

165 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 21:47:01
>>164
確かに沖縄なら手っ取り早いんだが、
悲しいかな、邪馬台国と言えるような大規模な遺跡が存在しない

166 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 22:49:42
ヒミコの到着占いで各学説を評価してみたところ
以下となりました。僅差ですが、全般運 81.8 を叩き出した高千穂ですね。

@東回り・豊後水道南下・高千穂説
 全般運 81.8
  (内)旅程運合計 (41.1)
  (内)判定運合計 (40.7)
A西回り・有明海南下・霧島説
  全般運 81.6
  (内)旅程運合計 (42.7)
  (内)判定運合計 (38.9)
B東回り・豊後水道南下・都城説
  全般運 79.7
  (内)旅程運合計 (41.1)
  (内)判定運合計 (38.6)





167 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 23:50:08
宮崎説を忘れてました
これは思ったほど伸びませんでした。霧島説より悪いとは以外でした。

C西回り・有明海南下・宮崎説
 全般運 80.5
 (内)旅程運合計 (43.1)
 (内)判定運合計 (37.4)

これらの結果から、高千穂が邪馬台国ということで、宜しいでしょうか。
次に「余旁國」の比定に行きたいですね。
その後、ヒミコとは誰か?という段取りで頼みます。


168 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/26(金) 00:36:43
明日から連休の人いる?

古代史旅行はどこへでかけるのでしょうか?

169 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 06:42:25
>>168
邪馬台国までちょっくらと・・
あっ、訂正。纏向までww

170 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 10:17:37
>>169
近鉄の主要駅に置いてあるTV番組「歴史街道」のガイド用パンフレットは
ありがたいですね。主な遺跡は全部地図・写真・説明文付きで載っている。
飛鳥、山の辺の道、葛城、当麻、室生、斑鳩、奈良も地域別にパンフがある。
しかも全部無料のだからうれしい。

171 :記紀きりん:2008/12/26(金) 10:55:53
昨日、久しぶりに魏志倭人伝を読んでいたら、卑弥呼は大量の真珠を中国に
献上した、的な記述を発見した。
ということは、3世紀に(田崎真珠とかでなく)真珠が取れていた場所の近辺
に邪馬台国があった、とはかんがえられないだろうか?

172 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 11:14:54
考えられません。

173 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/26(金) 11:16:26
>>171
>ということは、3世紀に(田崎真珠とかでなく)真珠が取れていた場所の近辺
に邪馬台国があった、とはかんがえられないだろうか?

その真珠が獲れるという所は何処のことをいってますか?





174 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 11:53:10
>>171
エッ!真珠だって?それは台与が献上した白珠五千ののことなのか?
白珠は首飾りなどに使用する水晶の珠のことだ。

175 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 12:25:02
まんず斯馬国はどこ?
普通は志摩だろうが
なんかおかしい
しまだから淡路島だろう
倭人があわじしまといったのを吾の島と聞いたのだろう

176 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/26(金) 13:03:48
真珠といえば、愛媛、長崎、熊本が有名

177 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 13:34:32
真珠は三重が一番有名。
伊勢・志摩・鳥羽

178 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 14:05:00
>>98

水行は一日50km進まないと対馬海峡は渡れないよ。
海流があって海の真ん中で休む事は出来ない。
夜中に寝ていたら日本海のほうに流されてしまう。

そう言うことが判っていないで勝手な夢想をする学者がいて困るんだよね。
特に畿内説の学者は気が狂っているとしか思えない輩が多い。



179 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 14:28:28
だから白珠は真珠ではない。白珠は水晶だって!

180 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 14:48:05
じゃあ水晶の産地は何処だべか?

181 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 15:09:43
真珠といえば大分日南海岸

182 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 15:16:09
>>180
旦波国(丹後国)現在の京丹後市久美浜町にある甲山が水晶の産地で、水晶を
京丹後市弥栄町にある奈具遺跡へ運んで加工して各地に出荷していた。

183 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 15:27:23
水晶の名前がつく地名データ・ベース
http://mineralhunters.hp.infoseek.co.jp/suisyochimeidb.html

184 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 20:38:55
さて、前回までで、邪馬壹國は神聖にして神秘、神々の伝説と神話に彩られた気高き「高千穂」に決定いたしました。

今回の問題は「餘旁國」ですが、これは中国人が倭人から聞いて、適当な漢字で書いたものです。
そこでは、どんな國かまでは聞いていないようなので、単なる当て字(表音文字)と考えられます。
ここから推理するには、以下のポイントが考えられます。

CP1)  この漢字をどう読むか?当時どう発音されたか?
CP2)  各地が当時どう呼ばれていたか?
CP3)  倭人が教えたわけですから、順番に意味がある(つまり、国は順に並ぶ)
CP4)  九州の北の國は説明が済んでいると考えている事から、本州、四国の国名だろう
CP5)  幾らなんでも北海道はないだろう
CP6)  東北も時代的に可能性は低い(あっても常陸まで)
---------------------------------------------------------------------------------
自女王國以北其戸敷道里可得略載
其餘旁國遠絶不可得詳

次有斯馬國次有己百支國次有伊邪國次有都國
次有彌奴國次有好古都國次有不呼國
次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國
次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國
次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國
次有支惟國次有鳥奴國次有奴國
此女王境界所盡


185 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 21:03:58
>>184

>今回の問題は「餘旁國」ですが、これは中国人が倭人から聞いて、適当な漢字で書いたものです。

中国人が倭人から聞いたとする根拠は?
適当とするなら本来あるべき漢字があり、それと比較し適当と判断するのではないでしょうか?
で、その基準となるべき漢字はいったいどのような文字だったのでしょうか?

186 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 21:38:20
ご質問の趣旨を間違えているかもしれませんが、

>其餘旁國遠絶不可得詳
それ以外の国はとても遠くにあるため詳しく調べられない。
とあるので、其餘旁國と狗奴國には行っていないということでしょう。

ただちょっと気になるのは
>參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
のように、伝聞・引用の時はきちんと断わっています。
ですので、倭の人に、地図のようなものを見せてもらいながら
なんと読むのか聞きながら書いたんじゃないかと思います。

適当というのは、適切といえばよかったかもしれませんが
其の聞き取って書いた人が、其の音に当てるべき
適切な漢字を十分に吟味しそれを当てたということです。


187 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 21:51:08
丹後国の奈具遺跡では玉造り加工の他にガラス加工もやってたそうだが
九州の三雲南小路遺跡から出土したガラス製の璧は中国からの輸入品ではなく
国産品ではないのか?アヤシイ。

188 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 21:52:43
いい忘れましたが、西側の九州をはずした理由は以下の通りです。

・南には敵対する狗奴國(つまり、邪馬壹國が女王国の南限)
・北には伊都国および、通過してきた国
・邪馬壹國は高千穂(九州の東側)←これは前提です
・邪馬壹國へは東回りにきた(九州の西や北西は通過していない)
・餘旁國は遠絶にある
・東に海を渡ること千餘里(90km以上)で倭種の国がある

このことから、西九州(熊本など)、北西九州(佐賀・長崎など)、本州、四国、北海道が考えられますが、
ここで、東に海を渡るを考え、かつ、伊都国が諸国儉察の要衝に当たるということから、「其餘旁國」は
東方面に書いてあるだろう。従って、西側の九州はないでしょう。と考えました。

189 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 21:58:09
>>186
倭人から聞いたと言うのは、あなたの想像なんですね?それに、旁國とありますから
決して遠くにあった訳ではありません。

190 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 22:08:04
>>189
「其餘旁國遠絶不可得詳」
「其餘旁國」は「遠絶」遠くにあって境界は絶している
(陸地が離れている)と書いてあるのですから行くのが困難なんでしょう。

それなのに書いてある、という事実からは、人から聞くか、
何らかの元となった資料から引用したということになります。
確かめずに引用・参問を載せた場合は但し書きがしてあるようなので
「倭人から聞いた」としましたが、他に考えうる方法があるのでしょうか?

191 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 22:11:11
                          
雄略天皇の息子、清寧天皇は、億計王(仁賢天皇)を恐れていた。
だから、億計王の弟王(弘計王=顕宗天皇)に皇位を譲り、
顕宗天皇と同盟を結ぼうとしたが、顕宗天皇は、兄である仁賢天皇に
暗殺されてしまった。
清寧天皇を暗殺したのも、仁賢天皇であろう。




192 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 22:32:58
>>190
>「其餘旁國」は「遠絶」遠くにあって境界は絶している
(陸地が離れている)と書いてあるのですから行くのが困難なんでしょう。

境界が絶してる? どこからの引用でしょうか?
「旁國」と書いてあるので、ここで既に位置関係は示しました
位置関係を示した訳ですから、次の「遠絶」は位置的説明ではなく、「絶」の理由が「遠」となり
この「遠」は地理的な遠近ではない「遠」ということになります。
つまり、「旁國」という位置関係にあるにもかかわらず「絶えた」理由が「遠」と言うことになります。
ましてや 「遠近」はそこに基準がない限り人それぞれ感じ方の異なる主観的なものとなり、曖昧な文章が出来てしまいます。
当然、編纂者が学者なら尚更気遣うところです。

そして倭人伝は中華の歴史を記した歴史書の一部です。
当然そこに書かれた記事は漢人が携わった歴史であり、倭人からの伝聞での記載ならば
間接的に解釈したものだから「倭人曰」と記載されます。
その見出しがないという事は、漢人が自ら確認したと判断するしかないでしょう。

193 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/26(金) 22:51:42
>>192
>漢人が自ら確認した ?
又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里。
又有裸國、K齒國,復在其東南,船行一年可至。
もですか?


194 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 22:58:29
>>192
そこは解釈かと思いますが、
「餘旁國」というのは、「あまねく国」の意味で女王国の残りの国を指していると思いました。

傍(かたわら、そば)ではないと思っています。もしそうであったとしても、例えば山口県は
傍らと言えば傍らと云えるので、そんなに気にしないでも良いのではないでしょうか?
本当に21カ国が全部女王国の隣とかになると話も合いません。。。

195 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 23:06:20
こいつら日本語から教えないといけないから徒労ですよ


196 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 23:09:00
>>193
「倭人曰」と書いてありますか?

>>194
「旁國」は「旁國」。かたわら以外解釈のしようがありません。

197 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/26(金) 23:20:26
私は、文章を一つに纏めるときの錯誤が在ると見ています。
「旁國」=かたわら
「旁國」=「あまねく国」
どちらも編纂者が行ったわけでは無い。

198 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 23:40:52
>>197
>私は、文章を一つに纏めるときの錯誤が在ると見ています。

ようするに、あなたは陳寿を超えた位置に立っているということでしょうか?

199 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 23:59:01
>>196
ご趣旨は、21国の比定に関して、近隣(南北ではなく、東西は良いですよね?)に
限定すべきということでしょうか?

例えば、今は高千穂に邪馬壹國を比定していますが、
21国の比定は、高千穂の東西近隣をということでしょうか?
といっても東は海なので、西九州ということになりますが。

200 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 00:37:11
ちょっと、脱線気味かもしれませんが

(1)魏志倭人伝冒頭に、「今使早譯所通三十國 」とあります。
(2)その後、旅程を含め9か國(邪馬壹國を含む)を紹介しています。
  ・狗邪韓国、對海國、一大國、末盧國、伊都國、奴国、不彌國、投馬国、邪馬壹國
(3)その後、「自女王國以北其戸敷道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」と書いています。
(4)それから、21か國を名前のみ羅列しています。
従って 9+21=30か國が使者を通じる國(=女王國)と解釈しました。

そうなると30か國の中の9か国までは道理や戸数の略載を得ることが出来たが
その残り全て(21か國)は詳しいことを得ることが出来ない。
理由は「遠絶」(物理的に遠い)であるから。じゃないですかね?

近隣にあるなら疎遠のような感じとなりますが、女王配下の国が疎遠というのは
おかしい気がします。

また、なんとなく魏志倭人伝の文章があちこち錯綜している感じを受けますが、後段に
「參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里」
とありますので、倭の地は物理的に絶していることが分かります。


201 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 01:08:49
郡史の居場所から遠絶と報告してたのか?
遠絶と記したのは洛陽にいるチンジュではないか。

202 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 01:41:12
>>200
30国は、對海國、一大國、末盧國、伊都國、奴国、不彌國、投馬国、邪馬壹國
旁国21国、狗奴国であろう。狗奴国も戸数道里がない。したがって、狗奴国も
旁国の一つである。
旁国とは傍らの国。大国の傍らにある小国である。大国とは投馬国、邪馬台国を
さす。郡使は投馬国、邪馬台国は訪ねたが、両国とも国が大きく、その傍らにあ
る国まではかなり遠かった。すなわち、遠絶だった。そこで、郡使は旁国(21
国及び狗奴国)を訪ねることなく、その国名を列挙した、ということであろう。

203 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/27(土) 01:59:02
高千穂いってごらん。
凄いよ!何が凄いって〜子供もスサノオとか平気で話てるしw

204 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 08:11:03
>>202に少しつけ加えれば、狗邪韓国は国名からして韓国の一つであり、倭の国
ではないことが明らかです。それに、もし倭の国ならば、女王国以北となり戸数
道里が記されているはずですが、狗邪韓国には戸数はありません。倭人伝は
「倭人は帯方東南大海の中にあり」としており、朝鮮半島に倭の国があるという
意識はまったくないことも考え合わせるべきです。

そして、「今使早譯所通三十國 」には狗奴国が入ると考えるべきです。
郡使は卑弥呼と卑弥弓呼の紛争に際し檄を作って告諭しました。これは狗奴国が
30国に入っていることを示しています。入っていなければ、狗奴国が魏の檄に
従うはずがありません。

205 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/27(土) 08:41:14
>>204
>狗邪韓国は国名からして韓国

はじめはみんな通る道なんですよね(笑)


206 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 08:54:37
>>205
そして、勉強したつもりでトンデモの世界に入っていく(笑)
改め ◆PWTcGEfp1sのようにな。

207 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/27(土) 09:10:05
>そして、勉強したつもりでトンデモの世界に入っていく(笑)
>改め ◆PWTcGEfp1sのようにな。

勉強不足だな〜君w

いや議論不足かww




208 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 09:16:47
>>201
「遠絶」とは、我が帝国との関係が遠絶だと言っているのです。

209 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 09:21:47
>>207
>勉強不足だな〜君w
やっぱり勉強したつもりになってんだ(笑)

210 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 09:53:03
どうやらここに在住する人達は、都合の悪いものに蓋をする
術を会得しているようだな。

211 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 10:18:12
>>210
なるほど、不都合な真実は見なかったことになるわけか。それでは、もう一度
「九州から出土した璧は日本製だ!中国製の輸入品ではない!璧は国産品だ!」

212 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 10:41:54
>>211
璧が日本製であろうが香港製であろうが関係ない。
璧が自ら云われを語る訳じゃなし、
ここから璧が出土するという情報を元に発掘されたわけじゃない。
云われを作り出すのは、直接璧とは
縁もゆかりもない第三者が、権威を背景に作り出すものだから
璧が喋ったという話しは聞かない。

213 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 10:54:23
「璧が喋ったという話しは聞かない。」

何が言いたいのやら・・・


214 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 10:58:01
>>213
予想外にたまたま出てきた璧で、歴史を語ると過ちを犯すと言っています。

215 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 11:02:18
>>211
国産とする証拠は何かな? 中国で串間の璧と同じデザインの物が出土して
いるのを知ってるのかな? もし、串間のが国産ならばそのことをどう説明
するのかな? 南九州は中国に輸出するほどの力をもっていたとか?
中国から技術者を迎え入れるだけの力を有していたとか?
いずれにしろ、南九州の繁栄は明白ということになりそうだが?

216 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 11:08:38
>>214
>予想外にたまたま出てきた璧
予想外というのはあなたの無知。予想外ではないんだよ。種子島の広田遺跡を
知ってるかね?文字が刻まれてるみたいだという遺物が出ているな。南九州か
らは中国の貨幣である貨泉も出ている。広志逸文には屋久島らしい島のことも
出てくる。倭人伝は南九州に邪馬台国があったことを伝える。何が予想外なの
かな?

217 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/27(土) 11:21:49
んで古代史旅行はどこへいく?ALL


218 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 11:22:14
>>215
その「穀璧」は、再発見後に「宝物」として流転して、加賀前田家の殿様の手に渡っていたわけでしょ。
王之山に埋められる前だって同じですよ。
宝物としてアチらからコチら、そしてまたアチらと譲渡されてある時期に埋められた。
串間の被葬者と中国との関係を想定する根拠には乏しい。

219 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 11:44:20
>>218
遺物には確かに流転の可能性が全く考えられないではない。しかし、璧は王侯に
与えられる物、貰った側にとっては中国から王と認められた証しだ。そう簡単に
他へ与える物ではない。金印が北九州から出たことで、北九州の奴国がそれを貰
ったのであろうということは今は誰も疑わない。後漢書は極南界とあってもね。
「串間の被葬者と中国との関係を想定する根拠には乏しい」というのは屁理屈に
すぎんよ。反証が出ない限り、想定する根拠として十分と言うべきだな。

220 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 11:56:55
>>216
だからなに?
広志逸文曰、串間の大地に璧を埋めたから探せと
徳川埋蔵金の如く、探索した結果出土したわけか?

221 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 12:00:13
>>217
ハワイ

222 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 12:14:30
な〜んだ>>216は、

俺の友達の叔父さんの会社の上司の知り合いが、オバマの実家の近くに引越したから
俺とオバマは知り合いだと言いたい訳だ。
で、そんな事で他人を「無知」と言えるあなたが怖い。

223 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 12:37:51
俺はキーウェストとディズニーワールドだ。

224 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 12:37:57
>>222
何を言いたいのか訳が分からん。

225 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 12:43:46
>>224
分からなければ黙って流せ。

226 :218:2008/12/27(土) 12:44:18
>>219

> 遺物には確かに流転の可能性が全く考えられないではない。しかし、璧は王侯に
> 与えられる物、貰った側にとっては中国から王と認められた証しだ。そう簡単に
> 他へ与える物ではない。

件の「穀璧」自体は周代のモノだそうです。
貴方、まさか今から3000年前、宮崎の地に周王朝の子爵様が居たと思っているわけじゃないでしょう。
また、前田家に伝わる穀璧の「箱書」に発見時の様子が書かれている。

「文政元年戊寅二月日向国那珂郡今町農佐吉所有地字王之山掘出石棺所獲古玉鉄器三十余品一蓋
 日向上古之遺跡多矣所謂王之山亦必非尋常古塚」

これを見る限り「王之山」と言う古墳は石棺墓のようですね。
遺物が散逸してしまっている以上断言できないが、中期古墳の一つでしょう。
穀璧が作られたBC10世紀から、王之山に埋納されたAD5世紀まで、
ずーっと串間に伝えられていたものなのでしょうか?

副葬品からは穀璧以外に中国との関係を示すものも無いようなので、
それだけが突出した感じです。
「乏しい」と表現するしかないですね。


227 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 12:53:19
穀壁ねえ…。

調べてみたら、1818年、串間の佐吉という人物が、王之山という自分の土地から
石棺を掘り出した。中から直径33.3cmの完璧な穀壁が出てきたということ
らしい。

穀壁というのは、中国の皇帝が、各地の王に与えたものらしい。作られた
年代はというと、どうも戦国時代、つまり紀元前2世紀か3世紀頃かな。
ただ、見つかった石棺は、鉄器も含まれていてそれほど古くはない。

作られたのは、揚子江沿岸地方で、三国時代で言えば、呉の領域ということに
なる。これは間違いないらしい。

徐福が持ってきたという説もあるらしいが、日本の王が中国の皇帝から与え
られたものなのか、それともそれを持つにふさわしい人物が、中国から
穀壁を持って渡ってきたものなのか判断するのは難しい。

ちなみに、穀壁の破片が福岡市と前原市から一つづつ出ているらしい。
穀壁のランクとしては、串間の方がずっと上と見られているらしいが。

228 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 12:56:03
単なる質流れじゃないの?璧の裏には中國製と書かれた。

229 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 13:01:08
>件の「穀璧」自体は周代のモノだそうです。
そのように書いている資料もありますが、璧は後の時代にも作られています。
周代のものとは簡単には決めつけられません。

>「王之山」と言う古墳は石棺墓のようですね。
>遺物が散逸してしまっている以上断言できないが、中期古墳の一つでしょう。
弥生時代にも石棺墓はあります。これも中期古墳とか5世紀などとは言えません。





230 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 13:05:31
>>228
串間の穀壁は質は良いらしい。
穀壁としては最高ランクとも言われる。
大きさも中国で出土しているものよりも大きいらしい。

231 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/27(土) 13:56:07
ななしさん

貴方達もハンドルネームつけたらどうですか?

もし、つけたくないなら構いませんが....誰が誰やらw

232 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 13:59:28
>>230
では中国出土の璧が、裏にベトナム製と書かれた質流れ。

233 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 14:08:07
「穀璧」自体は周代のモノだというのは、玉璧が周代に作られたことが有名なので
それに飛びついた判断だろう。昔も璧は周のものだと考えられていたのかもな。
魏略逸文によると、倭人は「其旧語自謂太伯之後」とある。邪馬台国の者は、周の
王族である太伯の末裔と称していたというわけだ。邪馬台国に璧があったというな
ら分かりやすい話だな。


234 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 14:10:03
>>227and>>230
穀壁は、穀璧の間違い。いつも注意しているのだが。

235 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 14:15:01
ところで、大和で璧は出てんの?

236 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 14:31:40
>>233
未だに 太伯の末裔伝説を語っているとはいやはや

太伯之後とは夏后康少之子と対比するものであり、
その社会システム的な違いを
漢人達にわかりやすく例えられた言葉。

237 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 15:31:20
事実か否かはともかく、自称太伯の後。少しはそれらしき証拠もないとな。

238 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 15:49:59
>>237
>自称太伯の後

自謂、自云は分かるが、自称太伯なんてあったか?
あったらスマソ。

239 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 16:01:12
原文は>>233に書いたとおり。自称太伯の後は意味だ。

240 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 17:07:50
>>239
自謂が自称なら
自稱はいったいなんじゃらほい?

わっけわかんねぇなぁ

241 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 17:27:34
「改め君見てるか?」

夕べから時間に余裕があったので、久しぶりにちょっと遊ばさせて貰ったが
相変わらずこんなばっかし繰り返していたんだね

ま、頑張ってくれ
たぶんここは、今年最後の書き込みだと思うから(予定)


よい年を迎えてくれ!

242 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 18:25:28
てすと

243 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 18:39:58
>>216
種子島広田遺跡の遺物は、一部に共通点はあっても、北部九州の遺跡から出てくる遺物とはかなり異質。
北部九州の比恵・那珂、今宿五郎江、原の辻等と、広田を比較したら、よくわかる。

だから広田遺跡の遺物持ち込みは、南西諸島伝いや東シナ海ルートが強く匂うわけで、
もし広田も、大陸→半島→対馬→壱岐→・・・と北部九州同様に想定してしまったら
ものすごい矛盾が起こってしまう。

・広田で出ているような遺物が原の辻等には無い。
・中間に位置する熊本南部や鹿児島は、北部九州的な遺跡・遺物がはなはだ希薄。
等々。

244 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/27(土) 19:00:47
「其旧語自謂太伯之後」の太伯については、魏人は呉の太伯と受け取ったとしても、
倭人の言った意味は違うかもしれない。

仲哀天皇を迎えた怡土の縣主等が祖(おや)、五十跡手(いとて)の言葉
「高麗の國の意呂山(おろやま・蔚山)に、天より降り來し日桙(ひぼこ)の苗裔(すゑ)、五十跡手是なり」
(釈日本紀に引く筑前国風土記逸文)
これを見ると伊都国王は江南系ではなく、高句麗系らしい。
一方、三国遺事に書かれた壇君(檀君)神話によると、壇君の父・桓雄は「太伯山」に天下り、
壇君は「山神」となったとある。

245 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 21:06:37
>>204

博引旁証

1)魏志倭人伝にて
 「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」
 狗邪韓國が倭の北岸といっている

2)魏志倭人伝にて
 「今使早譯所通三十國 」とあります。 狗邪韓國含め9か國を紹介した後
 その後、「自女王國・・・其餘旁國・・・」で21か國を紹介している

3)魏志韓伝にて
 「韓在帶方之南東西以海爲限南與倭接」南は倭に接する
 と記載されている

4)魏志韓伝にて
 「其×盧國與倭接界」×盧國は倭に接しているとある

5)そもそも、「狗邪韓國」は魏志韓伝ではなく魏志倭人伝に記載されている

以上のことから、「狗邪韓國」は倭に属していることは明らかでしょう。






246 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 21:21:45
全く自信がないのですが、取り合えず21か国の比定の例を示します

番号 魏志 読み 比定
K01 斯馬 しま 淡路國
K02 已(巳)百支 いほき 伊予國
K03 伊邪 いや 伊勢國
K04 郡支(都支) とき 大和國
K05 彌奴 みの 美濃國
K06 好古都 こごと 上野国
K07 不呼 ふこ 備後国
K08 姐奴 しの 信濃國
K09 對蘇 つさ 上下総國
K10 蘇奴 さの 讃岐國
K11 呼邑 こおう 甲斐国
K12 華奴蘇奴 かのさの 武蔵國
K13 鬼 き 木津(大阪)
K14 爲吾 いご 伊賀國
K15 鬼奴 きの 紀伊國
K16 邪馬 やま 山代國
K17 躬臣 きゅうしん 近江國
K18 巴利 はり 播磨國
K19 支惟 きび 吉備國
K20 烏奴 うの 周防國
K21 奴 の 長門國

魏志倭人伝を素直に読めば、もうちょっと順番がちゃんとしているとは思うのですが。。。
巴利 はり 播磨國は良いんじゃないかとは思います。


247 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 21:25:00
邪馬台国は、奈良の大和国のことです。

邪馬台国は、「やまと」と素直に読んでください。



248 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 21:27:11
K09 對蘇 つさ 上下総國
K10 蘇奴 さの 讃岐國
「蘇」を「さと「読むのはなんとなく気が引けます。阿蘇関係のほうがフィットするような気もします。

249 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 21:49:45
>>247
相当無理あるやろ

250 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 21:54:18
>>247
邪馬台国が、「やまと」は良いとして、旅程が問題。南水行が東なら良いけど。
後世に漢字を書き間違った可能性はあるが、「東西南北」は素朴な字だし間違える可能性は相当低い。
中国人に限らないが、距離は誤差が大きいにしても方位は間違えないだろう。

251 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 21:55:23
>>245
1)倭の北岸は、倭の北方の岸というだけ。倭の領域に属するということではない。
2)対馬国以下8か国をし紹介し、その後旁国22国を紹介している。
3)倭に接するとは海を挟んだときも使用される言葉。
4)3に同じ
5)狗邪韓国とは魏志韓伝にある弁辰狗邪国のこと

狗奴国のことをどう考えているのかな?

252 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 21:59:12
>>243
>広田も、大陸→半島→対馬→壱岐→・・・と北部九州同様に想定してしまったら
>ものすごい矛盾が起こってしまう。
当たり前でしょう。何を考えてるのやら・・・


253 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 22:01:27
>>251
1)現代で考えて、日本の北岸は韓国です。なんて言い方はあり得ないでしょ
3)韓国は日本に接している。なんて言い方はあり得ないでしょ
5)「狗邪韓国」と「弁辰狗邪国」は名前が違います

254 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 22:07:37
>>247
邪馬台国は、都城盆地の山田のことです。
邪馬台国は、「やまた」と素直に読んでください。

これの方が素直かな。




255 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/27(土) 22:10:07
>>247
それは「邪馬壹国」だから、ヤマヒ国あるいはヤマイ国と読むのが
正解である。ヤマト国ではない。あんたの主張のようにこれを
「邪馬臺国」だとしてヤマト国と読むんだというなら、こんな『臺』
(←タイ)などの字を使わず、もっと ト と読める『都』の字を
使うべきはずだ。「伊都国」なんか『都』の字を使っているでは
ないか。

256 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 22:13:01
「卑弥呼」は「日女命」と素直に読んでください。

257 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 22:17:35
>>254
都城は、ヒミコの到着占いで4位でした。
残念。
東回り・豊後水道南下・都城説   全般運 79.7


258 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 22:23:33
ちょっと、、、

D東回り・瀬戸内海突破・畿内説
 全般運       64.1
 (内)旅程運合計 (38.6)
 (内)判定運合計 (25.5)


259 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 22:27:26
>>257
オカルト板へ行け!シッ!シッ!

260 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 22:28:40
>>259
オカルトはないですよ〜。いちおう、科学的・合理的分析に基づいてます。

261 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 22:30:45
>>253
1) 漢文ですからね。榎の「邪馬台国」によると、旅順(遼東半島の都市)は
  登州(山東半島の煙台)の北岸と書かれた例もあるそうです。
3) これも榎の本ですが、タクラマカン砂漠の南道にあった国が砂漠を隔てた
  北道の国と「接」と書かれている例をあげ、「海を隔てて接している意に解
  すべき」としています。
   韓の南の海は韓の海、倭の北の海は倭の海、そう考えれば、間に他国がな
  い以上、韓と倭は接していると言えるのですよ。
5) これも榎が同じ国だと断定してます。別の国だという説はありますか?  

262 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 23:12:36
>>261
「狗邪韓国」=「弁辰狗邪国」というのは驚天動地の考え方でした?
それで、その榎何某氏の荒唐無稽な説では
「狗邪韓国」=「弁辰狗邪国」はどこにあったのでしょうか?

263 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 23:25:53
>>262
狗邪韓国は、今日の慶尚南道金海の地方に存した小国家で、魏志弁辰伝の弁辰狗邪国
にあたり、わが古代史料に頻出する任那国である。

三品彰英の「邪馬台国研究総覧」の注解には以上のように書かれています。
そして、榎というのは放射説で有名な榎一雄、まさか本当に知らないのかな。
狗邪韓国と弁辰狗邪国が同じことを知らない人がいたとは驚天動地ですよ。


264 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 23:33:49
武光誠の「邪馬台国辞典」には、狗邪韓国は倭人伝の表記だが、魏志弁辰伝には
弁辰狗邪国とあり、また三国史記では金官国、三国遺事では駕洛国、日本書紀で
は南加羅と表記されている、とありますね。

265 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 00:19:41
ひとつの国を弁辰狗邪国と書いたり狗邪韓国と書いたりするとは
陳寿って頭悪かったんだな

266 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/28(日) 00:22:28
卑弥呼の一族と天皇家とは性格が違います。

天皇家というのは・・・・・・。

267 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 01:27:29
ここ、まだヤッテたんですか…で、邪馬台国は結局、何処にあったんですか?

268 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 01:54:50
>>267
高千穂説が有力です。

1位 @東回り・豊後水道南下・高千穂説   全般運 81.8
2位 A西回り・有明海南下・霧島説      全般運 81.6
3位 C西回り・有明海南下・宮崎説     全般運 80.5
4位 B東回り・豊後水道南下・都城説    全般運 79.7
5位 D東回り・瀬戸内海突破・畿内説   全般運 64.1
その他の説は詳細不明で占い不能のため割愛


269 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 02:00:12
>>263

そうですか。魏志韓伝に出てくる国は国名の羅列のみで
全くどこにあるか分からない 馬韓50か國、辰弁韓合わせて23か國の国名から
名前が似ているだけで同じ國だとしているなら、ずいぶん大胆な人ですね。

270 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 02:30:43
>>269
「JAPAN」「日本」「ニッポン」「にっぽん」「にほん」「ニホン」「大和」「大日本帝国」「ZIPANG」「ジパング」「ジャッポン」「JPA」「ナイチャー」「東夷国」「扶桑」「東海」「蓬莱」「倭」「中国(なかつくに)」「天下」「大倭秋津島」、、、他多数

全部日本の呼び名。
国や民族や語源や言葉や文字により沢山の呼び方をされるよ



つか逆に一民族一語源の日本が文内でアメリカを指す言葉(文字)として使う表現だけでも
「アメリカ」「アメリカ合衆国」「U.S.A.」「米国」「亜目理加」「America」



あと、例えばブッシュ大統領を指す表現として
「アメリカ大統領」「現アメリカ大統領」「ブッシュ大統領」「ジョージ・ブッシュ」「米国大統領」「アメリカ君主」「ブッシュ」「第○代大統領」「大統領」

いろんな表現がされるよ


例えば「今のアメリカ大統領」なんて書いてあれば、それを書いた時代が何時なのかにより、誰を指すのかも変わるし

271 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 03:01:18
>>270 こんな観光ガイドですね。

アメリカはメキシコの北にあります。アメリカは、キューバに接しています。
アイダホ州、ポテト州、ニュメヒコ州、フロイダ州、ニュジャジ州、テキサコ州、ニュヨク州など
およそ50の州があります。フロイダ州はキューバに接しています。

キューバはメキシコの東にあります。メキシコからクーバへ行くには、米国の海岸を伝っていって
キューバの北岸のテキスコ州に到ります。そこから海を渡ってのハバナ州に到ります。
また海を渡って、青年の島に到ります。

272 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 03:13:49
>>267

邪馬台国は奈良県の大和です。

人生の負け組みだけが、見えない敵と戦いながら九州説を唱え続けているだけです。


273 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 03:14:35
>>269
ちなみに韓三国の「馬韓、辰震、弁韓」なんて名前も漢民族が呼んでた呼び名なだけで
日本ではこの三国を「百済、新羅、高句羅」って呼んでたよ
ちなみに魏志の中ではこの三国は「魏、燭、呉」とも呼ばれるよ
ちなみに「韓=漢=乾」ってのはわかってます?

「韓(漢、乾)国、韓(漢、乾)半島」ってのは今の朝鮮半島の事だよ
ちなみにに今のソウルを韓人(漢人)は「漢城(ハンナン)」って呼んでて
日本は「祖富里(ソフル)」って呼んでたよ



274 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 03:18:49
>>273
はぁ。頭痛くなってきた。

275 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 03:36:34
>>271
それはつまり「メキシコから見た目線」であればあってるよ

メキシコがアメリカの場所を伝えようとすれば「アメリカは北の大陸の事です」

日本がアメリカの場所を伝えるには「ここから東の海を渡った大陸に有ります」になる



魏志にしろ唐史や漢史や隋書にしろ「日本は東方の海中にある」と書いてる訳だから、魏や漢や隋や唐は日本の西にあった国だよ
ちなみに日本の西は朝鮮半島だよ


遣隋師や遣唐師ってのは「近江港」から向かってたけど、この近江港って越の近江の事だよ
越に漢氏や秦氏の由来が多いのも、帯方との交流の港が越の近江港だったからだよ


中国大陸の南部(江南、重慶、上海、南京など)にまで道を作ったり都市を開拓したり漢字などの漢文化(黄河北東文化)を広めたのは、同じ漢文圏の蒙古人のモンゴル帝国だし


276 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 04:26:27
>>274
魏志三國志伝の原文とかちゃんと読んだ事ある?

「遼東」「遼西」「」「河北」「高句羅」「遼東南海」「朝鮮」「鮮卑」「烏丸」「倭国」「和国」「制東大将軍」「金城」「各陽」「韓」「日皇太后」「平壌東南」「帯方」「楽浪」「京都海東諸軍」



最も多いのが【遼東】
遼東を守ったとか、遼西には烏丸がいるとか、高句羅の東南海から使徒が来たとか、東海諸軍の兵力が北西に来たとか、平壌が遣られたとか、倭国から使徒が来たとか


三國志はそういう話が書いてあるよ
遼東、帯広周辺の地名や民族間の対立を書いてるだけだよ


277 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 04:38:47
あと基本的に「魏書曰、、」 つまり「魏書に書いてあるには」で始まる
後は「呉書曰、、」とか「倭人が伝るには」とかばっか

つまり魏って国の歴史じゃなく、「魏書曰く、」って魏書って言う書があり、その内容を伝え書いてる感じの書物
出てくる地名は遼西、遼東、帯広、楽浪、倭国、東夷、、程度で、かなり限定出来る狭い地域しか出てこないよ

あと高句羅や新羅の金城が出てくる事から解るように、百済や新羅と同じ時代の話だよ
日本書紀の朝鮮半島の三国の時代の話を高句羅や遼東からの目線で見たって感じの内容


278 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 05:06:55
>>275
イタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタ

279 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 07:09:11
>>278
つか中国や朝鮮の書物では「東夷」が日本民族が統治してた領土の事だよ
つか三國志なり魏書なり唐書なりちゃんと読んでみ
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/wakan/menu-w.html#MOKJI

倭人が統治してたのは楽浪(朝鮮半島江南部)と日本列島


ちなみに魏志やら漢書やらは遼東(満州)〜帯方(朝鮮半島北部)辺りの視点から日本(東夷、倭)を見てる事が解ると思うよ

一回良く読んでみ
それに例えば中国大陸の山東半島から見たら東海上に日本は無いから(朝鮮半島になる)

上海から東なら九州には着くけど、上海の南に倭や三韓国は無いわけだから

例えば漢書には漢からの視点の地理が詳しく書いてたりするよ
古代漢人の居た都市は各陽でも山東半島でも無いよ

280 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 07:22:12
邪馬壹國の位置は置いといて、漢書や唐書や新羅紀をちゃんと読めば
東夷の倭人が納めてた領土がどこまでで、倭人の女王の弥烏邪馬國や卑彌國のあった場所が何処かってのはちゃんと解るよ


邪馬國と邪馬壹國は共に倭人の女王が治める國

邪馬國と邪馬壹國が同じ國の事を書いてるのなら邪馬壹國の場所は邪馬國のあった場所だよ

もし邪馬國と邪馬壹國が違う國の事を書いてるのなら魏書や漢書の景行元年って年に
倭人の女王卑弥呼の治める邪馬壹國って國と
倭人の女王が治める邪馬國って國
この全く似たような國が同時に2つともあった事にはなるけどね


まあもし2つあったなら魏書や漢書でもちゃんと同じ時代に二人の倭人の女王が居たって書くだろうけどさ

281 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 07:23:28
卑弥呼って、女系天皇の事だろ?

282 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 07:28:39
>>265
そこが陳寿の智恵ですよ。妙な解釈をほどこさず、史料を素直に引用しているんです。
范曄などは解釈をして史料を少し直して書くということをします。そうすると、解釈
を誤ると間違えたことを書くことになります。陳寿はそれを避けるために、資料を忠実
に引用するということを心がけていたようです。
韓伝と倭人伝で同じ国につき違った表記がなされているのは、原資料のちがいによるもの
でしょう。

283 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 07:29:11
邪馬壹國と弥烏邪馬國は共に景行三年に貢朝してる國

字が似てるだけじゃなく、倭人の女王が治めてたって所も一緒

邪馬壹國と弥烏邪馬國は書物によって少し書き方が違っちゃっただけで同じ國の事と思うけどな

だとしたら単に邪馬壹國は加羅にあった邪馬國の事で、卑弥呼ってのは善徳女王(皇極天皇)の事だよ

倭国大乱の時代ってのも一緒だし

284 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 07:34:57
>>282
三國志の魏書や倭人伝を書いたのは陳寿だね
彼はちゃんと文頭に「魏略曰、、」とか「魏書曰く、、」とか「宋書曰く、、」って書いてるしね


三國志ってのは陳寿が魏略や魏書や隋書や呉書などの複数の書物をまとめ書いたものだしね
(ちなみに原本の魏書や魏略や呉書などは現存してない昔の書物)

285 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 07:39:44
>>274
美濃の解釈は、世間では通用しないのが多いから、そのつもりで読み流すこと。
真に受けると恥をかくよ。

286 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 07:48:09
>>284
>三國志ってのは陳寿が魏略や魏書や隋書や呉書などの複数の書物をまとめ書いたものだしね
隋書っていつできたんだ?


287 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 08:06:14
>>285
そら学校で習った事や、どっかの学者が唱えた説を何の疑問も持たずに鵜呑みにして信じ込んでるだけの人には通用しないさ


例えば「卑弥呼の金印受授の景行三年は西暦220年頃の話だ」なんてのも、
「何を根拠に西暦220年なんて事になるんだ?」
って事を考えない人は卑弥呼の邪馬壹國は西暦220年頃の話とただ信じ込んでる
(ちなみに三國志には西暦なんか書いてないし、元号から時代を特定するのは無理)

太歳や干支も記述が無いんだから三國志や倭人伝の内容から「西暦○○年頃だ」と特定出来る訳が無いんだよ


それを疑いもせずに「卑弥呼は西暦220年頃の人だ」って先入観に捕らわれてる人には、一生卑弥呼が誰かなんてのは解らないよ

西暦220年頃(この年代だって言われる通説に、なんの根拠も無いよ)ってのを何も疑わない人は、西暦220年頃の人物を当てはめようとしちゃう訳だから


魏志倭人伝には西暦や時代を特定出来る暦の記述は無い訳だから、卑弥呼や邪馬壹國の時代を特定せずに考えたり調べないとダメだよ


288 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 08:21:20
>>287
すると君は魏は何時頃の国だと思ってるの?


289 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 08:29:43
>>286
知らないっす
ただそうやって疑問に思ったら色々調べるべきっすよ
ちなみに中国26史を纏めたのは満州人王朝の清国(つか清を引き継いだ満州国)すよ
満州民族が昔から満州民の歴史書として受け継いで来たものなのか
それとも何処か他の大陸の民族が保管して伝えて来てた歴史書を集めたものなのか
それは良く知らないすよ

ただ満州国ってのは五族共和(満州族、モンゴル族、古代漢族、朝鮮族、日本族)を掲げて立ち上がった国であって、隋書や唐書や三國志などは平安時代から既に日本に漢氏族や三韓時代の出来事を伝える書物として存在してた書物
(ちなみに「武帝○年、皇太子為即位」など、書き方も日本書紀そっくり)
満州建国の際には日本人のシナ歴史学者が、清朝廷や満州政府の満州人の歴史学者と一緒に満州国の歴史を研究して満州の歴史を26の正史としてまとめたから、それが今ある隋書とか三國志とかだと思うよ

それらの書物をどういう解釈してたのかは知らないけど、今の中国見たいに「統一国家中国、4000年の歴史」なんて解釈の仕方はしてなかったんじゃ無いかと思うよ

正史24史ってそもそもが黄河河北部の遼東や満州の歴史を纏めたもので、長江文化圏の江南部の上海民族や重慶民族などの民族とは関係無い歴史だし


290 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 08:47:00
>>288
まず魏が国家だとかも決めつけて無いよ
単なる書物の名前かも知れないし、日本の出雲紀や扶桑略紀のように、単なる都や氏族の名前なだけかも知れない

ただまずは「大陸のどの民族の歴史なんだろう?」ってのは気になるよ
例えば魏志がモンゴル民族の歴史書ならモンゴル民族の歴史だし、古代漢民族の歴史なら漢民族の歴史だし
大陸には沢山の民族がいて、それぞれの民族は他の民族と対立や交流をして、違う歴史を歩んで来てる訳だから
例えば日本が中国に戦争に負けて、中国に統合されたとしても、日本民族の歴史書は記紀であって、漢や秦や唐は日本人の国でも歴史でもないし


魏がいつ頃の国家って前に、魏志は何民族の歴史なのかってのを考えながら調べてるよ
魏民族って過去に居たけど今は滅んじゃってる民族の歴史なのかも知れないし、古代の漢民族の漢氏族の歴史を伝えるものかも知れないし

そも中国の歴史だとは思って無いから、どの土地に住んでる何民族なのかなって所から考えてるよ
ってもまあ古代漢人の氏族なんだろうとは思ってるけど

夫輿人、朝鮮人、倭人、鮮卑人、韓人、、とか魏書の中にも沢山の民族が出てきててそれぞれ異なった語源や文化の民族と書かれてるし

291 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 08:48:43
>>268
ありがとうございます。礼が遅くなってスイマセン。

292 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 08:56:01
>>272
ありがとうございます。しかし、邪馬台国ごと九州〜四国〜畿内に移ったとは考えられないでしょうか?

293 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 09:12:44
>>288
三國志って「魏書、蜀書、呉書」の三部に纏められてる書物だけど、別に「魏の○○が蜀と戦争し、呉が魏を滅ぼし、、」なんて事が書いてある訳じゃ無いんすよ

つか原本なんか当然残ってないすよ
http://www.google.co.jp/gwt/n?u=http%3A%2F%2Fwww.chinapage.com%2Fbig5%2Fhistory%2F3.htm&_gwt_ov=1&_gwt_srcpg=0&hl=ja&q=%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%BF%97+%E5%8E%9F%E6%96%87&source=m&start=15&site=web
↑原文はこれっす

遼東や帯方や遼西や高句羅の記述が多いでしょ?
韓(漢)の三國時代ってのは三國志伝の魏書や呉書以外にも、隋書や新羅紀や日本の記紀にも書いてある話だけど、魏や呉や蜀じゃなく韓(漢)が漢城、金城、平城に三分されてた話が書かれてるよ



294 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 09:22:21
>>292
だとしたら日本や大和じゃなく、卑弥呼の子孫が朝廷の邪馬壹國って名前の国になってるってば
んでこの国の歴史も卑弥呼様一族の偉業や活躍を伝える歴史になってるってば

過去に日本には九州にクマソ王朝や、北海道にアイヌ王朝や、沖縄には琉球王朝があったよ
同じように、卑弥呼女王の邪馬壹國があったとしても別に不思議では無いよ
ただ仮にその卑弥呼王朝があったとしても、クマソや琉球のように大和民族の朝廷に滅ぼされてるから、その卑弥呼朝廷の歴史が残って無いんだよ
卑弥呼朝廷が日本人の歴史とは関係無い朝廷だったなら日本人の歴史じゃ無いわけなんだし

295 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 09:42:57
>>294
古代日本は王国が乱立してて、大和朝廷が統一してゆく過程で、それらの痕跡を抹殺したのです。だから邪馬台国や卑弥呼が何なのか、現在になっても不明なんです。
ま、いずれは明らかにされるでしょうが。

296 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 10:01:37
>>295
まあ別にちゃんと調べれば不明でもなんでも無いよ

ただ間違った解釈や先入観を元に調べてるから、邪馬壹國が何処にあった国で、卑弥呼女王が誰の事なのかってのが解らないってだけですよ


http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/wakan/menu-w.html#MOKJI

↑ここに魏書東夷伝や他の書物もあるから読んで見て下さい


297 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 10:31:11
魏志倭人伝の記述で解る事と、これだけの記述では解らない事があるんすよ

解る事
・邪馬壹國を統治してた
・女王
・倭人
・鬼道使い
・独身
・卑弥呼が死んだ時の殉職者が百余人


とりあえず魏志倭人伝では、これくらいしか解らないと思うよ


したら次は他の書物に邪馬壹國や卑弥呼の記述が無いかな? って探して見るすよ
漢書や唐書や新羅紀や日本書記、、、
んで、魏志倭人伝以外で邪馬壹國の卑弥呼が乗ってないか調べて見て、新しい情報が無いかを探してけばいいんすよ

したら例えば漢書からは倭人は楽浪(朝鮮半年南部)まで統治してた事が書いてあったり
他の書では邪馬壹國が邪馬壱國って違う字で書かれてたり、楽浪の弁韓に倭人の女王が統治する邪馬国って名前の国があったり、、
って、色々解って来るよ


あと「卑弥呼って名前で書かれて無いけど、卑弥呼の境遇に合う倭人の女王って誰か居ないかな?」って調べて見たりさ

神功皇后、アマテラス、倭女王、推古天皇、皇極天皇、斉明天皇、、、記紀の記述だけでも沢山の倭人の女王はいるよ


298 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/28(日) 10:34:31
魏志韓伝では、韓であることは分かっているので、韓の中の「弁辰」狗邪國
魏志倭人伝では、倭ではなく韓である(「弁辰」まで言う必要無し)「韓」狗邪國
「韓狗邪國」ならすっきりするのですが、「狗邪韓國」だから微妙。
その前に「歴韓國」とあるからか?
韓國の中で、倭の北の対岸にある国ということか。

299 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 10:41:51
あと、漢書や隋書や記紀や新羅紀には倭人が過去に統治してた土地や、倭人が統治してた時の事が結構詳しく書いてあるよ

日本列島以外で倭人が統治してた国として記述がある国は百済、新羅、加羅、任那、楽浪、韓国、帯方南部、弁韓、辰韓、乾国、漢城、金城、、、

んしたら、これらの国を治めてた倭人の女王が居ない調べると、加羅(新羅、弁韓)には善行女王と善徳女王って言う倭人の女王が居た事が解るよ
あと三韓を調べれば弁韓に邪馬國って名前の国があった事も解るよ

300 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/28(日) 10:48:49
>>299
もん太君
「善行女王」って誰?
「善徳女王」は7世紀新羅の女王ですが、何を根拠に「倭人の女王」というのですか?


301 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 10:53:03
あと三韓の邪馬國があった場所は、日本では加羅や新羅と呼んでた場所だってのも調べれば解るよ
んで新羅の女王の善徳女王が、皇極天皇と全く同じ年に即位して、全く同じ年に二人とも戦闘で死んだ事が解る
ちなみに二人とも百余人余りの兵士がその戦闘で殉死してる
これだけ一致すれば善徳女王と皇極天皇は同一人物だろうって解るよ

あと皇極天皇を調べれば百済新羅との関わりが沢山書いてある事が解るだろうし、大化の改新や白江村の戦いなどの倭国の乱世の天皇ってのが解る



302 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 11:03:13
>>300
まず大国主から国譲りを受けた天つ神
その天つ神の血統氏族である天孫の日向三代が天孫降臨で日向三代が「筑紫へ行き、そこから海の向こうの乾国の高千穂の祖富里」に国造りの為に降り立った
って記述が記紀にあるんで確認して見て下さい
ちなみに乾国ってのは朝鮮半島の事です

ちなみにこの日向三代の天孫降臨神話は、百済や新羅の建国神話との共通点が多くみられるし、漢書や隋書や宋書などに倭人が統治してたと書かれてる楽浪に建国された国すよ
新羅や百済や加羅が倭人の国だったってのには他にも色々根拠はありますよ


303 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/28(日) 11:11:00
>>301
>んで新羅の女王の善徳女王が、皇極天皇と全く同じ年に即位して、全く同じ年に二人とも戦闘で死んだ事が解る

皇極天皇は642年即位して645年退位、655年に重祚した斉明天皇は661年、九州で崩御。
善徳女王は632年即位、647年、乱の収拾中に薨去。
全然違います。

304 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 11:11:36
>>300
つか7世紀って時代に引っ掛かってるんですか?

そもそも邪馬壹國や卑弥呼の記述がある魏志倭人伝や唐書や漢書などには、それが西暦何年の事なのかなんて書いてないし、卑弥呼や邪馬壹國が何時の時代の話なのかは魏志倭人伝や漢書からは解らないですよ

魏志倭人伝の卑弥呼が7世紀だろうと3世紀だろうと、なんら矛盾は無いですよ



305 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/28(日) 11:20:32
>>304
>そもそも邪馬壹國や卑弥呼の記述がある魏志倭人伝や唐書や漢書などには、それが西暦何年の事なのかなんて書いてないし

それはその通りですが、曹操や劉備も7世紀の人だと言われる?
歴史が滅茶苦茶になりますよ。何でもありじゃないですか。

306 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 11:29:45
>>303
えっとすみません。(新羅の年代解釈が正しいとして)在位期間が重なるってだけすね

確かに必ずしも同一人物とは言えないっすね
善徳や善行と皇極が同一人物なのかはまだ調べなきゃ解らないすね


ただ殉死した兵士が百余人であるとか、その後埋葬された事などの記述は、善徳女王と卑弥呼は似てますよ
邪馬國があった場所も善徳女王の治めてた加羅ですよ

307 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 11:32:13
>>297
>漢書からは倭人は楽浪(朝鮮半年南部)まで統治してた事が書いてあったり
そんなこと書いてあったかな?


308 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/28(日) 11:34:26
>>302
>ちなみにこの日向三代の天孫降臨神話は、百済や新羅の建国神話との共通点が多くみられるし

これは重要な指摘ですね。
もん太君のいう「倭人」、韓国・北朝鮮で教えられる「檀君朝鮮」は、古代扶余のことではないのか?
以下は、ウィキペディア「扶余諸語」より抜粋。

扶余諸語(ふよしょご)または扶余語族(ふよごぞく。朝鮮語:부여어족、中国語:扶餘語族)は、朝鮮半島と南満州における特定の古代言語
(とりわけ高句麗語。あるいは百済の支配層で話されていた言語もそうではないかと言われている)。
また、高句麗語と日本語に関連が見出されることから、以下の仮説が唱えられている。

高句麗の祖先でもある扶余地域の住民が日本に渡来したのが大和民族のはじまりである。
百済は高句麗の王族によって建国された。また百済自体が扶余を祖先とする。
やがて百済は大和時代の日本と近しい関係となった。
その点で、日本語は扶余と未だ関連性を持つと認められるとクリストファー・ベックウィズ(Christopher Beckwith)は示している。

309 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 11:39:36
>>305
曹操や劉備がいつの時代の人かは調べて無いんで俺は知りません

ただ三國志の魏書や呉書の暦は西暦で書かれてる訳じゃ無いんで、魏書や呉書の記述から劉備や曹操の年代の特定は出来ないですよ


ちなみに三國志ってのは、魏書、呉書、蜀書の三書からなる書物の事でしょ?
7西暦頃の三国時代を書いた書物で三國志紀ってのがあるんすけど、これは新羅本紀などが載ってる韓の三國時代の事ですよ


あとちなみに三國志伝の中にも魏書などで高句羅や弁韓などの三國時代の話は出てきますよ

310 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 11:41:33



邪馬台国は奈良県の大和です。





311 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 11:43:16
>>308
フヨ人は帯方の高句羅の北、長城の北に住んでます


http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/wakan/menu-w.html#MOKJI

どの書が一番詳しく書いてあったか忘れちゃったけど、ここで沢山漢籍書が見れるっす


312 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/28(日) 11:50:06
>>309 >>311
もん太君、高句羅じゃない、高句麗だよ。
私も他人の事はあまり言えませんが・・・

313 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 11:52:04
蜀、魏、呉の三國時代ってのは確かに有名だけど、明時代に書かれた三國志演義とごっちゃになってる気がする

蜀書、魏書、呉書
これ国の名前なの?
他の漢籍書には蜀や呉なんて名前の国は出てきて無かった気がするよ

魏は漢民族だとして、例えば呉は何民族なのかな?
魏が漢民族で呉が倭人だったりすると、もろ三韓時代のまんまな気がするけどな

314 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 11:59:57
>>312
新羅(シラギ)と新羅見たいなものかな?
その辺はまだちと整理ついて無いかもっす


あと百済や新羅は倭人が建国したと言っても、王は倭人だけど漢氏族や秦氏族などの氏族も居たとか、朝廷と民衆は別の言葉を使う、、見たいな記述だから、沖縄や北海道のように民族統合がなされる程の統治って意味では無いとは思ってるよ


新羅も百済も結局は高句羅・唐に負けてる訳だし

315 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/28(日) 12:03:56
>>313
>魏は漢民族だとして、例えば呉は何民族なのかな?

長江はもともと漢民族の土地ではなかったが、倭人も違う。
長江文明を築いたのはオーストロアジア語族と言われています。

>>314
>
新羅も百済も結局は高句羅・唐に負けてる訳だし

もう匙投げた。

316 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 12:09:51
けど邪馬壹國とか卑弥呼ってのは、ある程度は解った気がするよ

加羅にあった弥烏邪馬國と、そこを治めてた善徳女王と卑弥呼の類似点

大化の改新や皇極天皇や飛鳥の蘇我氏の衰退や白江村の戦いや中大兄皇子とかが、どう絡んでるのかまだまだ良く解って無いけど、倭国大乱って、この時期の事のようにも思うし

ちなみに善徳女王の時の元号は太和だよ
大和に「、」が付いた元号が善徳女王っす
加羅には大倭山や狼山(大神山)などもあったっすよ

317 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 12:14:35
>>315
長江って韓半島を流れてる川の名前だよ
三國志紀(新羅本紀)や漢史などで書かれてる長江の南の江南とかってのは、韓国の長江の南部の事ですよ


中国の地名と同じだからややこしいけど


318 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 12:39:02
や...ややこしい!
酒飲みながらの傍観だから余計わからん

319 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 12:56:00
>>318
まあ魏や蜀などの三國志も、単に7世紀の三韓時代の事とは思うよ

暦調べたら魏書は干支暦だからあれだけで西暦年数は特定出来ないんだし
魏書に出てくる地名とか見てみても、遼東、遼東、高句麗、韓、帯方、楽浪、、

今の朝廷半島と満州付近の地名ばかりで、三韓時代の舞台と同じ地域に限定されてるし
倭人伝じゃない箇所に倭国女王の話も出てきてるし


劉備や曹操は良く知らないけど、魏書を読む限りは遼東と韓半島周辺の話しか出てこないよ

そもそも劉備や曹操の三國志を1世紀頃の話とする根拠が全く解んないし


320 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 12:58:42
地元に卑弥呼は久米氏で
味波々命ってほざいてるジジィいる
爺さんの話では味波々命(卑弥呼)の夫は景行天皇の息子で阿牟君だと言う
時代がズレてるし
爺さん.90越えてるから
誰も信じてないけど(笑)
まぁ景行天皇の在位伝承がズレてるのかも知れないけどね


321 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 13:34:01
>>319
魏の時代の干支は、西暦で特定出来ています。
魏文帝?初元年 ?次:庚子 生肖:鼠 西元220年11月13日=太陰暦10月1日癸卯朔
ただ我々は、日単位で合わせるのも大変なので
「西暦220年10月1日癸卯朔」の様に 太陽暦と太陰暦を混同して使う。

>>320 景行天皇の在位伝承がズレてるのかも知れない
伝承がズレて居るのではなく、伝承を西暦に直したときにズレてしまった。
修正が必要です。



322 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 14:04:52
國名の比定で、倭人の言葉を漢字にしたと仮定すると
その倭人が何語をしゃべっていたかが問題になる。

本当の国の名→倭人の言語→中国人の理解→丁度良い漢字を当てる
恐らく、博多弁だろう。従って以下の変換例を挙げることが出来る。
いせ→いやあげなとおかくにはなかばい。いしぇというばってんごわす→イヤ・・・?→伊邪國


323 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 14:04:59
>>321
魏書も記紀と同じ暦は旧暦の干支表記でしょ?


例えば「丁丑年」とあった場合、
西暦677年の丁丑の事なのか、317年の丁丑なのか、197年の丁丑なのか


どうやって特定してる訳?

その記述にある干支のコウシ年は、西暦260年でも西暦700年でも干支はコウシ年になるっての

324 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 14:19:42
干支は60年周期たから60年に一度同じ干支が来るって解らないんかなあ

干支が「丁丑」と有れば、60年毎にある丁丑年のどの干支の年の事なのか、魏書なり記紀なりの記述だけで特定は出来ないって話すよ


そもそも>>321じゃ元旦干支が何なのかすら解らないし


325 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 14:22:39
>>323
他の資料や同一資料で日々の干支を探す。日々の干支で日数を計算する。
年の干支が同一でも 日々の干支が 許さない。
日数が正しいか月齢(29.5306)の倍数なら正しいとせざるを得ない。

326 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/28(日) 14:27:24
虚無の空白日を無視するのが唐松山氏。
当初から問題なめちゃくちゃ論を含んでる美濃もん太氏。

327 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 14:35:37
>>322
更に 漢字表記をする時に○○国の通訳が入る。
漢字に直す書紀が洛陽の標準語なら少しは良いが
帯方の”なまり”が入っていたら?

328 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 14:38:42
>>325
だから「日々の日数」って何ですか?


例えば
太歳丙寅年、春正月朔乙巳

これが西暦何年の事か解りますか?


329 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 14:47:18
>>328
正解は
西暦1626年で旧暦では1月1日。新暦で1月28日の事
ちなみにこの年は一年は384日です

んで翌年の旧暦での正月元日は
太歳丁卯、春正月朔己巳で、新暦では西暦1627年の2月16日です
ちなみにこの年は一年が354日です


330 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/28(日) 14:57:51
>>329
あんたこの前、1年は365日(366日)だとか断定してなかったっけ?

331 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 14:58:40
お前ら本当頭いいよな、みんな学者なの?

前スレよんでないけど
卑弥呼=天照大神って説なかったけ?


332 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 15:06:45
>>329
書紀の太歳は天体の運行と関係無い物としてとりあえず「棚上げ」。
日数とは、書紀に書かれた日数。
もん太君、君は崇神元年1月1日より履中元年1月1日迄の日数を数えましたか?
日数も数えず年の干支は、60年毎に巡ってくるので、それ以上細かく分類できない、
と言っている。 書紀は日々の干支まで細分化出来る。
細分化した朔は、29.5306の倍数で理解できる。

333 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 15:14:17
>>330
いやそれは間違ってました
またアレから勉強しましたよ

一年の始まりの月(正月)は「立春の次の雨水(太陽黄道330度の時)を含む月」
一ヶ月の始まりは「朔が含まれる日」

だから旧暦の1月1日は「立春の次の中気が含まれる朔の日」になる
一年は「立春の次の中気(雨水)が含まれる朔日から、翌立春の次の中気が含まれる朔日まで」ってなる
だから毎年一年の日数が変わってくる

多分、天体運動や季節の節季を理解してない今の現代人には難し過ぎる暦
ただし朔日から節季や節句や冬至や太歳まで、天体運動の様子を正確に表せる暦だよ


これに仏暦や六陽を組み合わせた暦まである

つか、この旧暦を使うのを辞めちゃったから日本人は旧暦の暦の読み方すら解らなくなっちゃってるだけだよ

今の暦は天体運動とバラバラすよ

334 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 15:21:42
>>332
だから日数を数える意味も良く解らないけど
そもそも祟神元年が西暦何年で、履中元年が西暦何年か解らなければ数えられ無いでしょ?

祟神から履中までを数えるとして、それが西暦何年かをどうやって決めるの?

唐松さんは神武天皇元年元旦から日数を数えるとも言ってたけど、そもそも神武元年の辛酉年が西暦何年なのかどうやって割り出すの?



335 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/28(日) 15:24:40
>>333
倍暦を否定するなら、仁徳以前の天皇の超長寿を合理的に説明でき
ないんじゃぁ片手落ちだってことよ。これからはそういう説明を
してもらいたい。できないんじゃぁあんたの否定論は否定音のみで、
論無しの遠吠え!

336 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 15:31:59
>>335
だからそもそもが神武天皇の辛酉年を紀元前660年とする根拠は何?

天皇が長寿だなんて記紀には書いてないよ

神武天皇が300歳まで生きたとか解釈してる学者がいるなら、その学者の解釈が間違ってるんだよ
それを前提にするからおかしいんだよ



337 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/28(日) 15:38:29
紀元前660年なんて思ってないよ。だから研究してるわけだよ。そん
な抗弁じゃぁ倍暦を否定しても遠吠えだけのうわ言。w
ちゃんと合理的説明をしてくれ。できなくてそんな肩透かしのよう
な抗弁じゃぁ、無意味だねェ。

338 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 15:49:05
簡単そうなところで「巴利國」

(1) この漢字をどう読むか?当時どう発音されたか?
   巴 → ハ / パ / ヘ
   利 → リ
   とすると、「ハリ」、「パリ」、「ヘリ」のどれかとなる。

(2)これに似た、地名、人名など
   といっても、律令制以前と考えられるので、せいぜい旧国名
   出来れば、国造(くにのみやっこ:国都奴)位がありがたい。

  @はりはり漬の名産地をググルと岡山と出た。語源は不明。
  A播磨の国は以前は針間の国でやっぱり「ハリマ」らしい。(針間国造)
  Bパリと言えばフランス(その辺の時代にパリと言っていたかは不明)
  Cをはり、おはり、おはり、おわりだから尾張あたり?(尾張国造)

なかなか、難しいですね。

339 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 15:57:07
>>337
紀元前660年って思ってるなら、

340 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 15:58:05
もん太君とりあえず西暦は棚上げして
日本書紀に書かれた日数を調べる。
その答えが−660年とかに成るが、棚上げ
書紀に書かれた日数を調べる
朔=新月だから、朔=月初め
当時の暦は4分暦=平均値で暦を運用であるから、時々1日程度の誤差は有るが
長く見れば狂いは無い。

341 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 16:00:41
>>337
紀元前660年って思って無いなら別に倍暦なんか出してまで辻褄合わせる必要無いですよ

神武天皇が約330歳ですっけ?
例えば神武の即位した辛酉年が紀元前330年って解釈すれば、神武の年齢は30歳になりますよ

難しく考えすぎですよ
年齢が会わないのは干支を間違った西暦に直してるからですよ

342 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/28(日) 16:04:59
>>341
そこまで言うなら、具体的での真を書きこめ。まだまだ話が抽象的
で内容が無い。説得力は0。

343 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/28(日) 16:09:15
辻褄合わせなどとの反論では抽象的に終始しており、具体性の
ある否定論にはなってはいない。具体的に間違ってることを書きこめ
ないんでは、否定の語のみの遠吠えだな!

344 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 16:15:22
>>342
イワレビコ天皇御年、壱佰参拾漆歳



↑これの事すか?
これ138歳って読むものなんですか?

345 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 16:18:41
超長寿って言うけど、例えば「御年、○○歳」ってのを仮にそのまま天皇の寿命だと解釈したとしても
イワレビコは138歳すよ
景行天皇は御年壱佰七歳とか書いてあったはず

あと御年って、これ別に年齢の事じゃ無い気もするけどね

346 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 16:38:51
>>343
太国さんは例えば神武天皇は何歳だと思ってるんですか?
記紀には神武が300歳近く生きたなんて書いてないですよ


誰が超長寿なんて解釈してるんすか?
つか太国さんは神武は何歳だと思ってるんですか?

347 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 16:56:13
>>338
巴利國の情報求む!

348 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 17:08:39
ホ31367  キミまかる トシモモソミぞ 113歳
書紀の年齢は、書紀の中に於いてのみ 有効、正しい。
だから治世60年、90年も正しい。

常識から見れば”伸長されている”。
年齢も治世も”圧縮”する必要がある。←万人の考え
この時 どの様に”圧縮”するか?により 方法が人により異なる。

是までの大方の圧縮方法=倍暦 思考により各天皇の圧縮比が違います。
欠点=暦で読める書紀が暦で読めない。
私の”増し”暦 書紀の各天皇の治世から 19年*n回の増しを差し引く。
特徴=圧縮後も太陰暦で読める。

もん太君まず書紀の年齢、治世、日数を素直に認めそれから”圧縮”する。


349 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/28(日) 17:30:11
神武即位前紀の甲寅(こういん)年十一月丙戌(へいじゅつ)朔から仁徳八十七年十月癸未(きび)朔まで
日本書紀は当時存在しなかった「儀鳳暦」で記述されているという。
(天文学者の小川清彦による。ウィキペディア「日本書紀」より)
当時の倭暦の記録を太陰暦に誤って換算したのでしょう。
もとの倭暦を太陰暦で読めたら、かえっておかしいのでは?
この辺は日本書紀スレの話題かな?
畿内が海外と本格的につきあい始めるのは神功以後で、どう見ても卑彌呼は畿内ではない。


350 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 18:08:15
>>349
4分暦に19年(6940日、4回毎に6939日)*n回の”増し”
これで「7回ほどの間違いを認めれば「儀鳳暦」で読める。」
7回の間違いを認めるなら。大半の暦法が含まれる。

Wikiに「7回程の間違い」この文字が無ければ Wiki編纂者の”作り話。

私も未だ其処まで細かく分析して無いが。
神功の渡海に書紀には、戦が有った様な書き方だが、半島の記録に見あたらない。
もし戦に成ったとしたら、船で渡れる人数、戦の方法等考える処が有るが
渡って直ぐに、「百済、新羅も下した」。
時期は、私273年頃、一般に330年頃 50年のズレも大きい。
神功渡海 成功の下地は?
私の編年ならおおむね説明できるが50年間半島情勢に変化無し、で乗り切れるか?

県民さんもん太君の調教 お願いしますよ。


351 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/28(日) 18:29:58
>>350
7回ですか? 下のウィキなども間違いですか?

小川は『日本書紀』の暦法を450年頃を境に以前を儀鳳暦、以後を元嘉暦と考えれば、3箇所の平月を閏月に直すだけで、
『日本書紀』の暦日が全て解明できることに気付いた。
だが、元嘉暦より儀鳳暦の方が後の暦法であり、これを明らかにすれば『日本書紀』に記された暦日が後世になって付けられたことが明確になることから、
当時の皇国史観と抵触する可能性があっために発表を断念せざるを得なかった。
第2次世界大戦敗戦による皇国史観崩壊によって自論の発表の機会を得たと考えた小川は1946年に論文「日本書紀の暦日について」を執筆するが、
公表の機会を得ないままに没した。墓所は多磨霊園にある。
死後公表された小川の説は、内田正男らによって支持されて通説となり、『日本書紀』及び神武天皇紀元の研究に大きな影響を与えた。
(ウィキペディア「小川清彦 (天文学者)」)

小川邦臣・マサの次男として生れる。東京物理学校卒業後、東京天文台勤務。天文暦学史に関する種々の研究を発表したが、そのうち特に注目すべきものは、
日本神武紀元に関する『日本書紀の暦日に就て』(S21)で、従来の渋川春海・中根元圭の第一・第二・第三期に分かったものと異なり、全面的に研究し直し、
『日本書紀』編纂当時知られていた暦法により、神武紀より450年ごろまでは儀鳳暦平朔、 450年ごろより持統紀までは元嘉暦によったものとの仮定により、
『日本書紀』において三ヶ所の「閏」の字の脱落があるものとすれば、『日本書紀』の暦日を全部説明しうるという新説を立てた。
この説は長い間正式に発表されなかったため、正式の批評がなされていないが、有力な神武紀元の推定法として専門家の間に認められている。
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ogawa_k.html


352 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 18:59:58
『日本書紀』の暦日を全部説明したら 暦日全部を肯定しなければ成らない=圧縮出来ない。
4分暦に同等?の”増” 是で必要部分のみ肯定 他は”増し”として否定=正しい暦年、暦日の復元。
『令集解』「古記」は、「暦数は、十九年を一章と為し、三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月とす。
私は、
神武元年=暦数15年=辛酉年正月庚辰朔 で計算しています。

353 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/28(日) 19:29:20
>>352
>4分暦に同等?の”増” 是で必要部分のみ肯定 他は”増し”として否定=正しい暦年、暦日の復元。

唐松山さん、「増し」とは誤りでは無く、嘘を書いたということですか。
目的は? 歴史を古く見せるため?
それにしては中途半端なように思います。
夏どころか殷にも届かない。あ、「百七十九万年」がありましたか。
それなら必要無いのでは?


354 : ◆.L.MXSPOgc :2008/12/28(日) 19:36:33
>>338
>とすると、「ハリ」、「パリ」、「ヘリ」のどれかとなる。
その3択ならパリで決まり。当時日本にはハ行の音はなかったから。

>>350
>渡って直ぐに、「百済、新羅も下した」。
>時期は、私273年頃、一般に330年頃 50年のズレも大きい。
291年かと思っていました。一般の330年頃というのはどういう根拠のものでしょう?
また291年はその半島の記録ですが、見当たらないとは?

>>351
それって単に日本書紀の内の暦の整合性の問題で、
それらが西暦の何年に対応しているとかそういった話ではないですよね?
違うのかな?

355 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 20:22:42
>>353
”増し”はウソでなく当時の暦法
種貸し屋が農事暦も提供、暦の暦法が知れ渡ったら存続しない
そこで”増し”を注入 暦の暦法を計算できないようにする。
ホ13109 こたえとく スズはマサカキ ホスヱのび トシにぎなかの
ムヨロホギ ホシヰをされば スズカなり 
年任期半ばの6(ヨロ)ほぎ(寿ぎ)…6年目位から少しずつ”増し”を注入
ホスヱのび…治世末には可なり延びます。
それ以外 出雲暦(伸長なし)とのかね合いから出来るだけ30年の誤差を確保(干支の混合を避けるため)。

神功前記に日食=273年
神功52年七支刀= 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
326年 東晉明帝太寧4年なら暦日ですが
東晋の大和四年と解釈され、西暦369年 として吉祥句で乗り切る。
倭人伝登場人物
都市牛利=タジマモリ
伊支馬=イクメ=垂仁
倭王=タリヒコ =景行
伊聲耆掖邪狗=イワカ=磐鹿六雁
難升米=倭女王の部下で大夫
狗奴國=狗古智卑狗
イヨ=五百野姫

これらが暦で読める”増し”暦。

356 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/28(日) 20:25:45
>>354
>それらが西暦の何年に対応しているとかそういった話ではないですよね?

それは変わらないでしょうね。「超長寿」は何とかしないと。
ただ、新しい暦で書いてあるなら年月日は(1)全くの創作(2)換算された、のどちらか。
古い記録のままではないことになる。

357 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/28(日) 20:40:09
わじんは人が好さそう

358 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 20:46:01
改めさんは、上司として苦労していそう。
しゃーない 時代が最悪だから、胃に穴の開かない程度で年を越して下さい。

359 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/28(日) 20:51:21
愛知県も今は最悪。
初詣が賑わいそう・・・


360 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/28(日) 21:36:17
>>358
>改めさんは、上司として苦労していそう。
>しゃーない 時代が最悪だから、胃に穴の開かない程度で年を越して下さい。

いえ 気楽にやらせてもらってますwww

361 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 22:20:31

ドツボの場合、胃に穴が開く前に
脳みそに穴が開いているから大丈夫だろw




362 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/28(日) 22:37:36
美濃もん太氏は自分で紀年をやって、どのようになるのか、説明
されたい。神武が何歳かを聞いても、倍暦否定じゃぁ意味がない。

363 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 23:14:25
>>354
なるほど。そうすると、尾張は無いですかね。「ばり國」とすると
1)播磨(針間) 港湾は姫路とか バリマ
2}今治     港湾は今治、宇和島とか しかし当時、今治とは呼ばれていないようだ

K18 「巴利國」は、播磨(針間)國にほぼ決定しました。となれば、
K19 「支惟國」は、吉備国?ちょっと飛び過ぎな気がしますね。その前の
K17 「躬臣國」は、これが分からないですね。
播磨と山城の間?だとすると、明石、河内(凡河内)、山背、摂津あたりなんでしょうが
読み方も怪しい。。。、キュウシン、キシン、キジン、クウジン、キュウジェン。。。

---------------
K16 邪馬 やま 山代國(山城国)
K17 躬臣 きゅうしん 播磨と山城の間?
K18 巴利 はり    播磨国
K19 支惟 きび    吉備国
 


364 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 23:39:35
>>1
邪馬台国は卑弥呼が畿内に引っ越して来てから建国されたのです。
それまで畿内は群雄割拠で纏まりはなかった。
卑弥呼の出身は九州王朝倭国。伽耶の分国。
伽耶は元ウガヤ王朝。
九州王朝と邪馬台国の間には吉備とかの有力国が存在。後にそれらを併合して邪馬台国連合成立。

365 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 00:01:02
来年の7月に日本で皆既日食だ。喜べ!糞野郎ども!

366 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 00:11:37
>>362
イワレビコ天皇御年、壱佰参拾漆歳

↑だから、記紀にはこう書いてあるけど、これは死んだ時の年齢の意味ですか?

もしそうなら、記に書いてある137歳が寿命だよ

これが寿命の意味じゃなければ、産まれた年と死んだ年が記紀に書いて無いから、寿命が何歳かなんて解らないよ
つか記紀のどこをどう読んだら、イワレビコが超長寿なんて書いてあるように読み取れるんですか?

太国さんは本当にちゃんと記紀を読んでますか?
在位が何年だとか、いつ産まれたとか書いてないよ

だから寿命なんか俺は知らないすよ
イワレビコ天皇だけじゃなく、江戸時代の天皇の寿命ですら俺は知らないですよ


逆に記紀のどこをどう読んだらイワレビコの寿命が解るのか教えてくださいよ

御年ってのが寿命の事なら137歳って書いてあるから、これが寿命で良いんじゃ無いですか?
137歳も生きる訳無いなら御年、137歳ってのは寿命の事じゃ無いんだろうし

367 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 00:25:46
>>355
だから旧暦の蝕季を知らないんですか?
朔の意味を本当に解ってますか?

朔の前後数日は毎月蝕季ってのがあって、ほぼ毎月の様に、蝕の季に地球上の何処かで日食ってのは起きてるんですよ


朔ってのは月が何処の位置に来た時の事か解りますか?

そもそも記紀は朔まできちんと表してる暦で書かれてますよ
朔や日食を理解してるから、わざわざ暦に朔の日にち(干支表記)まで書いてあるんですよ
つか旧暦の16日には絶対に日食は起きないですよ


368 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 01:07:49
>>362
紀年って言うけど、暦が書いてない記述に関しては解らないよ
アマテラスやイザナミが西暦何年に産まれた人かなんて書いてないでしょ?


例えばイワレビコが産まれた年なんてのも書いてないから解らないすよ
ただ「イワレビコ天皇は太歳辛酉年に橿原に遷都」とかはちゃんと暦や太歳干支が書いてある

干支が解れば、これはいつの辛酉年の事なんだろうな?って、他の資料や伝承などから、これに一致する出来事を探すだけだよ
んで60年毎にある、いつの辛酉年の事なのか解る場合もあるし、調べても解らない場合もある


あと記紀の人物は沢山の名前で呼ばれてるからそこも気を付けてるよ
記では「イワレビコ天皇」って書かれてても他の資料では違う名前で呼ばれてたりとかする訳だから

あと孝徳天皇以前の天皇は元号なのか天皇の呼び名なのか訳解らないのが多いし


369 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/29(月) 01:11:42
>>366
>逆に記紀のどこをどう読んだらイワレビコの寿命が解るのか教えてくださいよ

日本書紀では「及年四十五歳。・・・是年也太歳甲寅。」とあり、
「七十有六年春三月甲午朔甲辰。天皇崩于橿原宮。時年一百廿七歳。」とあります。
この「七十有六年」は辛酉の年(甲寅の七年後)を即位元年として数えていますから
45+7+76−1=127となり、寿命は計算上合っています。
泉重千代さん以上の長寿で、修正が必要でしょう。

370 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/29(月) 01:28:52
>>368
>アマテラスやイザナミが西暦何年に産まれた人かなんて書いてないでしょ?

確かに書いてないですが、ニニギの降臨については、神武天皇が45歳のとき
「自天祖降跡以逮。于今一百七十九萬二千四百七十餘歳。」と言っています。

371 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 01:36:58
>>369
俺、前にもどっかで書いたけど
【年時廿廿七】
【御年、一佰貳拾陸歳】
【及年、四十五歳】

このうち、どれが年齢の事を書いてるのか日本書記では良く解らないんすよ

例えば年齢を書くなら書くで、年齢の書き方は統一すると思うんですよ
あと【年時】には、一、二、十、廿、
【御年】には、壱、貳、参、拾、佰

日本書記では漢数字もなんか使い分けてるんですよ
ちなみに年時ってのは立皇太子の時に一緒に使われる事が多くて
御年ってのは、基本的に最後に書かれてる


これらは何か意味があって使い分けられてるとは思うけど、良く解らないんですよ
年時は立皇太子の時の年齢な気はするけど
御年ってのはだいたいの天皇が、壱佰拾陸歳とか言う数字が当てられてるから年齢の意味じゃ無いような気もするんですよ

歳星の意味の歳なのかなっとも思うし
景行天皇は御年、壱佰漆歳
で、次の天皇は景行天皇と同じ干支(つまり60年後)に、御年、壱佰陸歳 って確か書かれてたし



だからどれが年齢なのかいまいち良く解らないんですよ

372 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/29(月) 01:56:30
自天祖降跡以逮 于今一百七十九萬二千四百七十餘歳

↑河童さん答えてよ!

いなくにいなよ ちゃんだっけ?!wwww


373 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 02:11:50
>>369
あと「七十有六年」ってのは、別に即位年を元年と考える必要は無いですよ
景行天皇だか、その次の天皇だかは「二年、皇太子即位」となってたよ

あと皇極天皇の記述を見る限り、この頭に書かれる「○○年」は元号すよ
皇極天皇は四年に改元して、翌年を元年としてるよ
(ちなみにこの時に改元した元号は大化だけど、記紀には大化○年って書き方はして無かった)



そもそも多分、イワレビコの「七十有六年」とかってのを
「神武76年」とか「神武天皇76年」って言い方してると思うんだけど、これは勝手に年数の前に「神武」とか天皇の名前を付けちゃうからややこしいんすよ

元号が残ってる孝徳天皇以降を見る限り、この年数と天皇の在位は関係無いし、この元号を天皇の名前で呼ぶとおかしくなるすよ


天皇の即位を元年としてる訳じゃ無いですよ
例えば神功皇后の所に書いてある年数は、記紀には元号は何も書いてないのに頭に勝手に「神功」って付けて、神功7年とかって呼んじゃってるし
神功は天皇じゃないってのにさ






374 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 02:19:52
つか、こうやって勝手に天皇自身の名前で元号を付けられちゃった人は、他の元号と被っちゃってる可能性もあるよ

例えば元号が「禿頭」として

禿頭元年にA天皇が産まれた
禿頭65年にA天皇は死んだ

禿頭20年にB皇后が○○した
禿頭15年にC天皇は○○した


この「禿頭」の部分に、それぞれの天皇や皇后の名前を付けちゃって
A天皇65年
B皇后15年
C天皇20年
ってやっちゃうと、同じ時代の事が、まるで違う時代の事になっちゃうよ
んで、もちろん年数や年代もズレてくる

これやっちゃうと年数とかが合わなくなるよ

「天武○○年」とかって勝手に付けて、そう解釈しちゃうのはダメだし、それやっちゃってるから年代がおかしい部分が有るんじゃないの?

「これとこれは同じ事柄の話じゃないの?」
って思う話が記紀には結構あるぞ?

375 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 02:34:04
>>370
それも御年って奴と漢数字の使い方とかが同じ書き方すね

やっぱ、それ多分年齢を表してないすよ


年齢の数えかたは(とくにこの時代は年齢は数えだし)は、元号などと同じで十進法だから、年齢を書くなら元号と同じように簡易漢字で書くと思うよ

「立皇太子、年時廿廿七」ってのは「47歳の時に皇太子に、」って意味と思うよ


って事は、「壱佰貮拾陸歳」とか言うのは、年齢の事じゃ無いと思うな


376 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 03:15:53
>>369
まあ別にイワレ彦の年齢が127歳でも67歳でも構わないっす

127歳なら別に超長寿って程じゃ無い訳だし

ただイワレ彦が127歳まで生きてて、その間ずっと即位してたのなら、次のスイゼン天皇は、天皇になって無いね
古事記では45歳
書紀では33年、84歳

で、死んだってなってる

ちなみにこの33年は、イワレ彦の時の年号の事だと思うよ
(これをイワレビコが死んだ後のスイゼン元年〜33年って考える方がおかしいし)


仮にイワレ彦の即位年を元年としたら

元年、イワレビコ天皇 即位
33年、息子のスイゼンが死亡(45歳?84歳?)
76年、イワレビコが死亡

後は干支とかが合うかどうかは知らないけど時代の並びはこっちが正しいと思うよ
イワレビコが76年まで在位してたとしたら、スイゼンは天皇にはなって無いよ

スイゼンの「スイゼン、33年に崩御」を、イワレビコの次にスイゼン33年としてもって来るからおかしくなるんだよ

そら欠史八代て言われるわ
あとこんなアホな歴史の並べ方したら、そらスイゼンも超長生きしたなんて事になるての
神武○○年とかスイゼン○○年なんて名前付けた奴がバカだよこれ

377 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 03:40:11
>>335
太国さん、超長寿の理由が解りましたよ
記紀には元号に名前は付けてないのに勝手に「神武○○年」とか「スイゼン○○年」って元号に名前付けたバカがいたから長寿になったんすよ

神武○○年とか、神功○○年とか、履中○○年とか言う呼び方をまず止めた方がいいすよ

特に元号の記録が無い孝徳天皇以前の天皇に関しては、他にも沢山こうやって被っちゃってる奴が居ますよ

てか、天皇の名前で「○○天皇○年」なんて呼ばれてる年号と年代は全て改めた方がいいすよ

多分、元号をこれだけ勝手に付けられちゃってると、欠史は8人だけじゃないよ
神功60年とかって年号もアホだし
神功は皇后なんだから、その間60年も天皇が途切れてたのかよって話だしコレ
あと百済や新羅とかの元号だか帝名とごっちゃになってるのもありますよ
景行とか正務とか武烈とかは、魏書や新羅記紀で使われてる元号名すよ
長足彦天皇とかイワレビコ天皇とかが本当の名前すよ


378 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/29(月) 07:40:38
>>376
>127歳なら別に超長寿って程じゃ無い訳だし

これは驚き。もん太君は127歳まで生きるつもりですか?
ウィキペディア「ジャンヌ・カルマン」によると
ジャンヌ・ルイーズ・カルマン (Jeanne Louise Calment、1875年2月21日 - 1997年8月4日)とは、
公式記録史上最も長生きをした人物で、122年と164日間生きたフランス人の女性である。

>スイゼン天皇

綏靖天皇(すいぜいてんのう)のこと?

>ちなみにこの33年は、イワレ彦の時の年号の事だと思うよ
>(これをイワレビコが死んだ後のスイゼン元年〜33年って考える方がおかしいし)

???
33年間、天皇が二人いたことになりますよ?
天皇は一人しかいないのが大原則。

辛酉年春正月庚辰朔。天皇即帝位於橿原宮。是歳爲天皇元年。(神武天皇元年)
元年春正月壬申朔己卯。神渟名川耳尊即天皇位。(綏靖天皇元年)

干支が違うのに、同じ年のわけがない。




379 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 08:37:52
>>377
もん太と似たような事を、以前河童puが言っていたのを思い出した。

380 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/29(月) 09:22:23
>>379
>もん太と似たような事を、以前河童puが言っていたのを思い出した。

どこか二人は似てる部分があるよね。
共通してるところがあるというかwww

381 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/29(月) 12:10:59
>>377
書紀の編年の長さにやっと気が付いてくれたか。
書紀の長さは、書紀に纏める以前の記録の段階でこの長さであった。
この記録が不満なら、使わなくても良い。

382 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 12:16:01
K17 躬臣 きゅうしん 播磨と山城の間?
これはどうも、笠臣国(備中国/吉備道中国)のことではないか?

この辺が山陽道の事だとすると、ちょっと順番がおかしい感じがしますね?
ちょっと、名前だけでは厳しいな。

播磨国 はりま(播州)   ←K18 巴利 はり 
美作国 みまさか(作州)
備前国 びぜん(備州)   ←K17 躬臣 きゅうしん
備中国 びっちゅう(備州) ←K19 支惟 きび 
備後国 びんご(備州)
安芸国 あき(芸州)
周防国 すおう(防州)
長門国 ながと(長州)


383 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 12:23:22
>>378
スイゼン天皇も天皇に即位してたとしたら
もういっこ考えられるのが、天皇が同時に二人いたって事だと思うよ
南北朝時代は、実際に天皇は二人いたし、明治時代に、どっちが正統かで、系図を書き換えたりしてるし


ただ南北朝時代見たいにお互い対立する関係だった訳じゃなく
1人は日本、もう1人は百済新羅を統治してたって形だったのかもだし

例えばイワレビコは日本を治めてて、神武は百済を治めてた人みたいなさ


景行とか武烈とかって、魏や新羅で使われてる元号なんだし
武帝とか

384 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 12:24:04
>>382 ずれてました。

それから、笠臣国は15〜16代 應神天皇の頃だから微妙に時代が合わないかも。

播磨国 はりま(播州)   ←K18 巴利 はり 
美作国 みまさか(作州)
備前国 びぜん(備州)  
備中国 びっちゅう(備州)  ←K17 躬臣 きゅうしん
備後国 びんご(備州) ←K19 支惟 きび 
安芸国 あき(芸州)
周防国 すおう(防州)
長門国 ながと(長州)


385 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/29(月) 12:50:56
>>383
10,崇神, 261.,すじん ,御真木入日子印惠、御間城入彦五十瓊植・ミマキイリヒコイ(ソ)ニエ,磯城瑞籬宮, 186
 − 御肇国天皇・ハツクニシラススメラミコト。
この内 崇神と 御肇国天皇・ハツクニシラススメラミコトは、諡=おくりな
我々が死んだ後付けてもらえる?戒名と同じ。
戒名?の崇神が通常使われる。それ以上の物でない。

386 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/29(月) 12:55:10
>>383
綏靖は神武の子供と書紀等に書いてある。勝手に他人の子にしないで下さい。
今許されるのは、伸長された暦を正常な長さで読むこと。

387 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 13:07:21
>>385
戒名って、あーた、仏教じゃあるまいし

388 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 13:13:28
K01 斯馬
K02 巳百支 岩城
K03 伊邪
K04 都支 土岐
K05 彌奴 美濃
K06 好古都
K07 不呼
K08 姐奴

K09 對蘇  土佐
K10 蘇奴  讃岐
K11 呼邑
K12 華奴蘇奴

K13 鬼   紀伊
K14 爲吾 伊賀
K15 鬼奴
K16 邪馬 山代
K17 躬臣 越

K18 巴利 播磨
K19 支惟 吉備
K20 烏奴 穴戸(長門の旧名)
K21 奴

389 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 13:15:13
>>386
記紀は少ない人数で長い歴史を語っているのだから、各天皇を正常な寿命に
なおしたら歴史が分からなくなるよ。

390 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 13:17:21
>>386
だから百済新羅は天つ神の氏族が治めてた土地だっての

イワレビコは日本の天つ国から、乾国の高千穂に渡って百済新羅を治めてた日向三代の息子だよ


391 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/29(月) 13:29:30
>>383
>もういっこ考えられるのが、天皇が同時に二人いたって事だと思うよ

もん太君の論法だと、二人どころか同時に何十人も天皇がいたことになる。
そこらじゅう天皇だらけ!


392 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 13:49:28
>>388
K17 躬臣 越ですか。
確かにK17とK18は地域的に分けて考えたほうがいいかもしれません。
きゅうしん、きゅうじん、くしん、くぅしん、きゅうちぇん
こしのくに→くしのくに→くしんコク→躬臣國

K20 烏奴 穴戸(長門の旧名)
これは何か妙案がありますでしょうか?
をの、おの、うの、をな、おな、うな
あなとの国→微妙な気が。。。

393 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/29(月) 13:51:31
大化以前で一番在位が長いのは、日本足彦國押人天皇=孝安天皇
彼は何十人もの天皇の中で「長生き競争」に勝ち抜いた。

百二年春正月戊戌朔丙午。天皇崩。

もん太説では、日本の始まりは645−102=543年。
それで干支が合います?



394 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/29(月) 13:56:03
>>389
そこを解るように圧縮する。
現在の 私の編年 

天皇 即位西暦   治世  
神武天皇 41年  19年間
空白(タギシミコ) 3年間
綏靖天皇 63年 14年間
安寧天皇 77年 11年間 
懿徳天皇 88年 5年間  幼くして即位
孝昭天皇 93年 26年間 幼くして即位
孝安天皇 119年 26年間 
孝霊天皇 145年 19年間
孝元天皇 164年 19年間 
開化天皇 183年 5年間
崇神天皇 188年 28年間 幼くして即位
垂仁天皇 216年 23年間
景行天皇 239年 22年間
成務天皇 261年 4年間
仲哀天皇 265年 9年間
神功皇后 274年 50年間
この辺で読んでくれ。

395 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 14:01:54
>>394
卑弥呼が魏と通交を始めた年に景行が即位したってこと?
大和と邪馬台国はまったく関係がないという説なのかな?

396 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 14:17:17
魏志倭人伝には
「其人壽考或百年或八九十年」
倭人はその辺の庶民でも100歳くらいまで生きる
と書いてありますよ。

それに、庶民でも4、5人は妻がいて、子供をバンバン作って、
60歳くらいで生まれた子供はまた100歳くらい生きれば、
あっという間ですよ。

ましてや、子供に限らないわけだから。
兄弟だって、40歳くらいの年齢差は当たり前でしょう。

397 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 14:22:59
ヒンオ
一年二歳春と秋

398 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/29(月) 14:23:35
>>394
神武〜仲哀間は、常識的な在位期間という印象です。
(全体として、書紀の1/4程度)
神功・應神・仁徳の三代が、書紀そのままに近い超長期在位となっている?
この辺りが課題かもしれません。

399 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 14:29:26
>>397
中国人(魏志倭人伝を書いた人)は、1年を2年と数えていたって事?
そんなのありなんですか?
第一不便でしょ春から始まる年と秋から始まる年なんて。

それに、在位平均15年?15年ごとに天皇稜を作った?
そんなに大土木工事を頻繁に出来るほどの
国力があったなんてちょっと信じがたい。

400 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/29(月) 14:33:49
>>396
考古学は、弥生時代の遺骨の年齢も調べています。
それによると、幼少時の死亡を考慮せず 見ると 女性は、出産時の死亡が多い
男の死亡は、30代が多い。
例えば5歳で即位した崇神は、治世28年33歳で死亡←こんなもの。
13歳で即位した垂仁は、治世23年36歳死亡
18歳で即位した景行は、治世22年41歳死亡
おおむねこんな年齢では無いでしょうか?

401 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 14:40:34
K01 斯馬           sieg-mag
K02 已百支     岩城 di(e)g-pa[v]k-kieg
K03 伊邪           i(e)[v]r-(g)ia[v]g
K04 都支      土岐 tag-kieg
K05 彌奴     美濃 mie[v]r-nag
K06 好古都         hog-kag-tag

K07 不呼     宇和 piu(e)g-hag (呼:万葉仮名ヲ)
K08 姐奴           tsia[v]g-nag
K09 對蘇     土佐 tu(e)d-sag
K10 蘇奴     讃岐 sag-nag

K11 呼邑           hag-i(e)p
K12 華奴蘇奴       (h)ua[v]g-nag-sag-nag
K13 鬼       紀伊 kiu(e)r
K14 爲吾     伊賀 (h)iuar-(g)ag
K15 鬼奴           kiu(e)r-nag
K16 邪馬     山代 (g)ia[v]g-mar
K17 躬臣     越   kio(g)-ghien

K18 巴利     播磨 pa[v]g-lied
K19 支惟     吉備 kieg-diu[e]r
K20 烏奴     穴戸 ag-nag (長門の旧名)
K21 奴             nag

402 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/29(月) 14:46:06
>>366
>寿命のことじゃ無い
じゃぁ何なんだよ?

403 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/29(月) 14:56:06
>>368
分からないで、何で倍暦否定がわかるのか?
ここまで言ってても否定の具体的反論が出来ず、抽象的スリ替え話に
終始している。つまり反論の根拠があんたに無いからだよ?
あれば具体的に矛盾を指摘して、こちらも再考せねばならぬのを
余儀なくされるさ。抽象的反論なら、どんな説にもそんなのは使え
るからねぇ〜。
あんたは24節気で当時24月あったような反論をしてたが、ならば記紀
に二十二月とか二十三月とかの記事がなければおかしい。しかし
そんな記事は見たことも読んだこともない。つまり君の論は成立
し難いことになる。君の幼稚な即興的反論以外の何物でもなく、
全くこちらが納得するに値するものではない。

404 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/29(月) 14:57:09
>>403

あんたの倍歴はもうすでに論破されてるじゃないか

405 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/29(月) 15:01:09
>>377
分かったなら、自分で紀年を作成してみろ。それから否定なら否定
して〜自説を押し出せばいいではないか?

406 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/29(月) 15:09:41
>>404
オマエになんか論破されてないよ。オマエが余に論破されたんだよ。
それが詭弁のオマエが逆に言ってるだけではないか。
笑わせるなよ。w 何なら通常暦だけらしいオマエも、紀年をして
その説に不合理がなく発表してみろ。
だいたい管理職にもなって、詭弁をやらかすのをまだ捨てないのか?
管理職になったら社会での責任は大だぞ。トンでもない野郎だな。

407 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 15:10:00
>>400

まぁ、ちょっと短すぎるような気がしただけです。
なんとなくなので。すみません。

・現在の日本人平均寿命(余命)は世界でも有数の国
・魏志倭人伝に、「其人壽考或百年或八九十年」 とかいてある
・魏志倭人伝に、「人性嗜酒」とかいてある(子供も飲むか?)
・幾らなんでも15年毎に天皇陵を造営していたら民衆が怒る?
・平均寿命30歳の国がそんなに発展するだろうか?
・あまり発掘された人骨について詳しくありませんが、全国の庶民の
非常に限られたサンプルで、天皇家を推定するのは危険な気がします。


408 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 15:24:54
ドツボとデブ国が一位争いしてるwww

409 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/29(月) 16:13:43
>>407
縄文時代の平均寿命は14.6歳、弥生時代、古墳時代も殆ど同じという研究があるらしい。
ただし、乳幼児を除けばもう少し高かったろうし、弥生時代以後の支配階層は長かったかもしれない。
現代日本とは別世界。

410 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/29(月) 16:15:34
朝廷には全国からうまいもの、山海の珍味が集まるから長寿は多い
と観るべきだな。

411 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/29(月) 16:24:45
>>410
基本的にはそうでしょうが、たとえば後漢の皇帝は短命が多かったようです。
不老長寿の仙薬と称して重金属を摂取したりとか・・・哀れ・・・

412 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 16:27:21
卑弥呼サマ、台与たんは、何を食べていたのかな?

413 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/29(月) 16:28:35
らしいね。道教だから、ヘンな薬を飲んで短命になったとかいう。
アレンジ金丹の飲みがマズかったんだろう。
危険だからのまないよう上奏した賢臣もいたそうだ。

414 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 16:30:07
>>412
九州ラーメン。

415 :ローガン:2008/12/29(月) 16:36:20
>>414
三輪素麺。

416 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/29(月) 16:49:14
>>412
其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。
とあるから、普段は肉も食べていたようです。
「其地無牛馬虎豹羊鵲。」ともあるから鹿肉とか?

417 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/29(月) 17:23:37
>>416
>とあるから、普段は肉も食べていたようです。
>「其地無牛馬虎豹羊鵲。」ともあるから鹿肉とか?

普段は肉を食べてませんよ。
普段から肉を食べてるのは、愛知県民さんでは?

間違って食べた事はあるかもしれませんが、
実際に食べたしたのは明治以降から。それが古き日本人です。



418 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 17:30:29
だから、人種が違うだろ邪馬台国人と日本人。

419 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/29(月) 17:45:13
>だから、人種が違うだろ邪馬台国人と日本人。

人種はおなじでしょ。
それに、「不食肉」というのは「肉を食べない」ということ。


420 :ローガン:2008/12/29(月) 18:34:43
>>419
> それに、「不食肉」というのは「肉を食べない」ということ。

當時不食肉なのでふだんは食べていたのでしょう。

421 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 18:50:53
>>420
倭人伝の例の持衰の記事ですが

その行来して海を渡り、中國にいたるには、恒に一人をして頭をくしけらせず、
キシツを去らせず、衣服コ汚し、肉を食わせず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。
これを名づけて持衰と為す。
もし行く者吉善なれば、共にその生口・財物を顧し、
若し疾病有り、暴害に遭わば便ち之を殺さんと欲す。その持衰謹まずといえばなり。
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html

ここも>>416愛知県民さんの引いた例といっしょで、
なにか特別の事情があるから「肉を食わせず」なんでしょ。
すると、普段は肉を食べていたと解釈できますね。

422 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/29(月) 18:54:19
ホ09162 タミのカテ ケシシゆるせば こゑつのり みなはやかれす
民の糧 毛宍許せば 肥えつのり 皆早枯れす。←景行時代。



423 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 19:25:29
>>417

> 間違って食べた事はあるかもしれませんが、
> 実際に食べたしたのは明治以降から。それが古き日本人です。

「古き日本人」っていつの時代のことだよw

424 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 21:20:54
>>391
天皇=あまのすめらぎ
元々は天つ神の皇って意味でしょ?
天子とか天孫とかも天つ神の血統氏族達を指す呼び名でしょ?

「日イズル国の天子、日没する国の天子に、、、」
って文献は、随の皇帝へ送った訳じゃなく、日本を治めてた天子から、日没する土地にいた天子に送った文献と思うよ


卑弥呼の「貢朝」の話も漢の北史書だかには
「倭の女王が帯方まで進軍してきて日本の朝廷に貢物をするように迫った」
って書かれてるよ

http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/wakan/menu-w.html#MOKJI



記紀を読んでも同じ内容が書かれてるよ
大国主から国譲りを受けたのは天つ神で、天つ神がどの天つ神の子に、どこの土地を治めさせる事にした。とかさ
で、その次は天孫が国造りに乾国へと向かう話


イワレビコとニギハヤヒは同氏族って言われてるけど、ナガツネヒコの伝承にも
「以前、西から天子がやって来たから領土を譲ったのに、今度は東からまた天子が来て領土を迫られた。」
見たいな事言ってたよ

イワレビコとニギハヤヒの事だよ

425 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 21:27:33
貝原益軒の養生訓を読めば色んな動物の肉を食べてた事が判るよ。

426 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 21:38:39
>>391
実際に日本では朝廷が分断した南北朝時代には天皇は二人いたよ
どっちも同じ正統な血統で、どっちも天皇だよ
その後、南朝が衰退し江戸時代までは京都の北朝が正統として扱われて来たよ

ただ明治時代になると京都の天皇をも従わせた明治政府が
九州と縁のあった南朝廷を正統と改めて、それまで続いてた北朝系統を廃止し
歴代の北朝の天皇6人ぐらいを歴代天皇から外し、南朝系統の天皇だった人を歴代の天皇と定めたよ
(この時点で歴史の天皇の系図は明治政府により書き換えられてるよ)
明治天皇は京都の北朝廷とは無縁の九州勢力が連れてきた南朝系の子供だった為とも言われてるよ



天皇の歴史ってか日本の歴史は、明治時代で一度書き換えられてるよ
今は南朝を正統とし、南朝天皇のみを天皇としてるけど、本当は北朝の天皇がその時代を治めてた天皇だよ


427 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 21:40:16
>>424細かい事なんだけど
あまのすめらぎ
ではなく
すめらみこと
では?


428 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/29(月) 21:56:16
>>420
>當時不食肉なのでふだんは食べていたのでしょう。

ふだん食べたとどこにかいてあるんですか?

429 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 21:56:46
>>393
俺の説は「日本の始まりは天御中主神や国常立神が降り立ち島造りした所から」だよ
だから「日本民族は世界一長い歴史を持つ民族だ」って言ってるんだよ
ピラミッドの古代エジプト民族や、旧約聖書の神話を由来する古代ユダヤ民族なんて既に滅びてる
けど日本民族だけはいまだにその時代からの歴史がある唯一の民族すよ


日本はイワレビコが東遷する以前から日本であって、天照やスサノオ達の話も日本の歴史だよ

国常立神が降り立ち島産み
中つ国にイザナミイザナキが降り立ち中つ国をイザナミ、天つ国をイザナキが納める
天照が天つ国を治め、スサノオが芦原中国を納める
スサノオが天つ国に入り天照と契約をし、天照との子供を造る
スサノオ子供の大国主達が国造りで、あちこちの国を納める

天つ国の神が天下(治世)の正統を唱え、タケミナカタを追い詰め相撲で勝ち、大国主から国譲りを受ける
天つ国の神の子の天子や天孫達が国造りを始める

430 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 22:17:40
>>429
追加

これらははっきりとした時代は良く解らないけど「日本の歴史」だよ

神武天皇の東制を日本の始まりと考えてる人は
ようは「神武天皇以前はただの神話。あんなのは日本の歴史じゃない。日本の始まりは神武天皇からだ」って事でしょ?

それはおかしいと思うから
記紀は日本の歴史書と思ってるから、ちゃんと記紀の始まりから読んでるし、天照やスサノオ達の話の舞台は日本の何処だろう? って事も調べたりしてるし


つか記紀を読めば解るすよ
イワレビコが天皇として即位する以前から日本は既に日本だよ

ちなみにイワレビコの血統は天つ神の血統
仮にこの血統氏族が統治者となった所からを日本の歴史とする場合には天つ神が、大国主から国譲りを受けた所からだと思うし
国譲り以降は天つ神の氏族達が日本を統治して来た訳で、イワレビコが天皇となったのも日本を統治した天つ神の血統継承者だからなだけだよ

天皇は天皇御子(アマノスメラミコ)って意味だよ


431 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 22:34:51
>>403
とりあえず24節季とかは関係ないです
つかその認識は俺の勉強不足でした。謝ります
ただちゃんと旧暦を勉強してきましたよ

つか太国さんも勉強中の俺と一緒にちゃんと旧暦を理解しましょうよ


>記紀に22日とか25日とか(15日以降の)記述が無いのがおかしい


↑これが倍歴の根拠でしょ?
これを言うまえに、まずそもそも記紀は月の日にちは干支で書かれてる

例えば
「廿廿八年、立為太子。『時年卅一』稚足彦天皇無男。故立太嗣。○六十年天皇崩。明年秋九月壬辰朔丁酉」
↑の【九月壬辰朔丁酉】って、旧暦での9月の何日目の事なのかとか解ります?


旧暦の成り立ちや仕組みを知らなければ、そもそもこれが旧暦の9月の何日目の事なのか解らないでしょ?

太国さんは「朔(ついたち)」すら知らなかったんだし(まあ俺も詳しくは知らなかったけど)

432 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 22:40:17
倍暦を否定するも何も、記紀で使われてる旧暦の成り立ちや仕組みも知らないのに
「15日以降の日付が無い」
って言ってる事がまずおかしいすよ


日付も何もまず記紀では日付は「干支日付」で書かれてる訳だから、その日付の干支が、その月の朔から何日目の事なのかを計算しなければ、その月の何日目の事なのか解らないすよ




433 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/29(月) 22:40:18
>>426
>今は南朝を正統とし、南朝天皇のみを天皇としてるけど、本当は北朝の天皇がその時代を治めてた天皇だよ

確かに。
三国時代の曹操(魏)・劉備(蜀)にも似ている。
後世、蜀漢を正統とする朱子学の影響から、魏を正統とした陳寿は非難された。

434 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/29(月) 22:44:11
>>431
記紀だけでは資料不足でそんなのは絶対に近く分かりっこない。
それはこれから記紀をしのぐ詳細の書かれている古文献でも出て
くりゃぁ話は別だがね。だいたい空白日があったりするんだよ。そう
いう状態で分かるわっけがないだろう?ww w

いいかい15日以降の日がないということは、当時15日以降の日が無か
ったからだと考えるのがもっとも安全な考えなのだ。15日、16日
・・・30日、31日とかは無かったんだよ。
  ↓ 以下を考えてみろ!

どうして今から逆の1900年代を調べると、2月は30日、31日が無い
んだよ。となれば1900年代は2月30日、2月31日は無かったと考え
ることが正解ではないか。www オマエさん2/30,2/31が有ったと
でも主張するのか?wwwww そういう考えでいるんだろう?ww

435 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/29(月) 22:47:46
>>429
>日本はイワレビコが東遷する以前から日本であって、天照やスサノオ達の話も日本の歴史だよ

ちょっと私の意見は違います。
「日本」の歴史は7世紀後半からであり、白村江以前は「倭(大和)」・「隼人」・「蝦夷」の歴史。
「日本」国号自体、則天武后(周)時代に初めて中国から呼ばれたものです。

436 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 22:54:36
>>428

> >當時不食肉なのでふだんは食べていたのでしょう。
> ふだん食べたとどこにかいてあるんですか?

倭人伝に「ふだん食べた」と書いてあるか無いかの問題じゃないでしょうw
「肉食をしない」ことが「特筆」されていることが肝腎なこと。
「不食肉」が例外なんだから通常の食性がどうかは自明でしょう。

>実際に食べたしたのは明治以降から。

こんな認識から導きだされた思いつきに固執するから「ドツボ」呼ばわりされるんでしょうにw
江戸期に肉食を規制していたものが、どういう文化に由来するのか考えたことも無いのですか?

437 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 23:01:58
>>433
まあ天皇が何人も居たとは思わないすけど
ただ天皇称号なんて平安時代に作られた称号だから、あんま関係ないと思うんだよな
後に天皇と呼ぶか呼ばないかだけでしょ?

国造りでも天つ神の複数の子孫らが、あちこち国造りに向かった訳だから、それら全てが天子(天つ神の子)だろうし


それに本当に古くから神様を奉ってる山や神社は、○○天皇ってのは奉って無いよ
少なくとも天皇称号が出来る以前は○○天皇なんて呼び方してない訳だから、仮に○○天皇を奉ってる神社があれば、後の時代になってから立てられたり合祀されてるだけだよ



438 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/29(月) 23:04:13
>>431
>例えば
>「廿廿八年、立為太子。『時年卅一』稚足彦天皇無男。故立太嗣。○六十年天皇崩。明年秋九月壬辰朔丁酉」
>↑の【九月壬辰朔丁酉】って、旧暦での9月の何日目の事なのかとか解ります?

横レス失礼。
それは簡単。【九月壬辰朔丁酉】は九月一日の干支が壬辰であり、事件のあった日の干支は丁酉である。
壬辰の5日後が丁酉だから、九月六日を指します。
太国さんも唐松山さんも、こんな基本知識は当然ご存知です。
もん太君、お二人が何も知らないと思ってはいけません。

439 :ローガン:2008/12/29(月) 23:11:31
>>428
> ふだん食べたとどこにかいてあるんですか?

「ふだん食べていた」とは書いていません。君は何がいいたいの?

440 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/29(月) 23:14:07
>>437
>ただ天皇称号なんて平安時代に作られた称号だから、あんま関係ないと思うんだよな

天皇号の成立時期は諸説ありますが、平安時代というのはないですね。
早くて推古朝、遅くて天武朝。飛鳥時代でしょうね。
しかし、もっと古く「天王」が使われていたとも言われ、謎はいろいろあるようです。

441 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 23:17:06
>>434
だから例えば記紀に書いてある「九月壬辰朔丁酉」って日付の干支が、その月の朔から何日目の事なのかが解らなければ
「15日以降の日付が無い!」
なんてのも言えない訳でしょ?

解らないなら今後は「15日以降の日付がない!」とか言わないで下さいよ

つか俺は多少あれから旧暦を勉強したから、これぐらいは解るようになったすよ

九月壬辰朔丁酉

9月の朔の日干支が壬辰。日干支が丁酉

干支を数字に置き換えると、9月6日



つかこんなの日付を干支表記してるだけだよ
ただ旧暦は陰暦だから一年が365日と決まって無い。それに閏年には閏月を加えた13ヶ月になる

それに60周期の干支を日付表記で使ってるからややこしいのはややこしいよ
例えば「9月壬辰」って書かれてても、9月の朔(ついたち)の干支が解らなければ何日目の事なのか解らないから

けど記紀はきちんと朔の干支と日付の干支も書いてあるから、朔から何日目の事なのか解るようになってるよ




442 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 23:23:02
こら!! >>441!! あんた、こんなトコ居たの?
今日は ラプソーン倒しに行く日でしょ!!
早くしないと アタシ達だけで 倒しに行っちゃうからね!!
集合場所は 「海辺の教会」だから 早くしてね!!o(=`・ε・´=)o

443 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/29(月) 23:24:49
年数だから日がどうのこうのはあまり関係が薄いんだよ。途中に
空白日があることが多い。だから断定できないからやっても無駄
だし、分からんが正解だよ。すなわち紀年は年代だけでだいたい
間にあうのさ。
朔からの日数はさっきも言っておいたが、逆算であって、天体観測
の記録ではないんだよ。だから舎人親王らは空白日の考えなんか
まず知ってないだろう。これに関心持って詳細を論じても、紀年は
正確には出来難いんだよ。

ZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・

444 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/29(月) 23:24:55
私の「肉食」発言が改めさん、ローガンさんを巻き込んでいるようですが、
>>436 さんが示唆しているように、日本人が肉食を制限するという傾向が出たのは仏教の影響です。
古き日本人は肉好きでした。

445 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/29(月) 23:28:23
>>444
>日本人が肉食を制限するという傾向が出たのは仏教の影響です。

それははじめて聞きましたw

>古き日本人は肉好きでした。

ありえませんww


446 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/29(月) 23:33:52
>>439
>「ふだん食べていた」とは書いていません。君は何がいいたいの?

古き「和」のイメージですよ。
ローガンさん、愛知県民さんと私とのイメージではかなり違いがあると思う。

そりゃ一部の人は食べてたかもしれませんが,
この列島が、普段から肉食を取るようになったのは明治以降です。

あまりにも私のイメージと貴方達のイメージが違ってたので言葉を
かきこんでみたというわけです。

447 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/29(月) 23:35:35
>>445
ウィキペディア「肉食」より

日本の場合は、『日本書紀』天武5年(675年)4月17日のいわゆる肉食禁止令で、4月1日から9月30日までの間、
稚魚の保護と五畜(ウシ・ウマ・イヌ・ニホンザル・ニワトリ)の肉食を禁止と言うものであったが、
仏教の影響もあり、たびたび改正がなされ、明治時代まで続いた。
ただし、山で狩猟されたものは除外されていた。また常食ではないが肉食はされていた。
地域によっては常食の風習が残った地域もあった。ただし鯨は魚の一種と見られていた。
また、沖縄、北海道などの地域では独自の食文化が存在した。
江戸時代後期にはももんじ屋が現れ、都市部においても肉食が流行した。



448 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/29(月) 23:38:54
>古き日本人は肉好きでした。

だからそれは、愛知県民さんでしょww

古きというのは弥生・古墳時代で「稲作」文化です。
米・魚介類・野菜を主食にしてたんですよ。

わたしが聞いた限りでは「肉食」という言葉は聞いたことがありません。

449 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/29(月) 23:41:24
>>447
そうゆう習慣がないということですよ。

愛知県民さんには、政治ではなく「和の心」というものを学んでほしい。

450 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 23:56:43
>>440
牛頭天王(ごずてんのう)とかね

牛頭天王は自らを「私はスサノオである」と名乗ったとされ、スサノオと同視される天王
(実際にはスサノオ血統を名乗った子孫族じゃないかと思ってる。大国主に出てくる天照も、天照を名乗った天子だと思うし)

天王(てんのう)ってのは天つ国原の王って意味とも取れますしね

漢籍では日本の王を、○○大将軍とか○○帝とか○○王とか呼び方もしてるし


例えば「初代天皇を誰とするか?」って事を決めるのは俺は無茶な気がするよ
どう解釈するかって話になって来ちゃうだけだと思うし
初めて天皇称号を使った天皇を初代天皇とするのか
初めて日本を統治した神を初代天皇とするのか(これだとイワレビコは初代じゃなくなる)
天皇血統の祖氏神を(つまり天つ神の誰か)を初代とするのか(これもイワレビコが初代じゃなくなる)
天皇氏族の氏神を初代とするのか(天皇が物部氏なら氏神はニギハヤヒ)
どのみち、別に天皇や天皇血統や日本の歴史はイワレビコから始まってる訳じゃないんだし


ちなみに神武天皇を初代天皇とし、日本の始まりは神武天皇からと定められたのも明治時代以降だよ

説明すると長いけど、明治維新はそれまでの日本の封建社会文化の大破壊改革
制夷大将軍の幕府を倒した後、自分達が日本の治政を行う事への正統性を得る為に天皇を祭り上げ神格化し、幕府無き後の天皇治政と言う建前の元に、薩長政府が治政を行う事を正統化したんだよ

あと歴史の改ざん
まずそれまで続いてた御所の天皇系譜を削除。新たに南朝廷を正統とした天皇系譜を作り、学校教育でもこの薩長が作った新しい天皇系譜を空で言えるほど徹底的に教えこんだ

ちなみに明治政府が天皇の血統の歴史を南朝系譜に改ざんしたり、神武を初代天皇とした理由は、神格化した天皇と自分達九州との縁を求めたからだよ




451 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/30(火) 00:12:36
>>449
改めさんは九州人でしたね?
天孫降臨神話に「膂宍之空國」(そししのむなくに)という言葉が出てきます。
これは一般には「猪の背中は肉が乏しいから、やせた不毛の国をいう」と言われます。
ところが、民俗学者・谷川健一氏が九州の猟師から聞いた話では、「ソジシは霜降り肉のようにキメが細かく、
脂肪も多くないので、もっとも美味である」そうです。
たとえクマソの一帯が不毛の地であっても、そこで生活する人が「むなくに」などど言う筈がない。
これは別表記の「胸副國」が本来の意味で、あるいは「うまくに」が転じたものかもしれない。
「膂宍之空國」は中央史観による差別表現だったようです。

452 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 00:13:57
>>443
倍暦(一ヶ月が15日、一年が182日)が使われてるとする根拠が
「15日以降の日付が無いから」
でしょ?

じゃあ太国さんは記紀に書かれてる暦の日付も知らないのに「15日の日付が無い」って言ってたの?

あと記紀みると改年はもちろんだけど、行事事は朔日に行ってる事が多いよ
春正月の朔が一番多い
例えば日本では年齢ってのは数え歳と言って、明治時代までは春正月朔で歳を重ねてく数え方をしてたんだよ

後、元号も明治以降は天皇の在位に合わせて改元と定められた以降は
「○月○日までか昭和64年、○月○日以降が平成元年」
なんてやり方されちゃってるけど、明治以前はちゃんと元号を数えれば年数が解るように改元は正月朔に行われてたよ
(明治以降の改元の仕方だと、例えば明治30年産まれの人が昭和18年で何歳かってのが足し算では計算出来ない)


453 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 00:23:54
>>438
さすが愛知さん

つか俺はそれ、旧暦を勉強するまで知らなかったすよ
つか日本の古くからの暦を全く理解して無かったっす
やっぱ記紀年代を調べるとか言うなら、まずはきちんと旧暦を理解しなきゃ解らないと思ったよ
ちなみに太国さんや、唐松さんは旧暦は俺と同じで解って無いですよ

朔や日付の干支の意味も解って無いし、大陰暦では一年が365日と定まってる訳じゃない事も解ってないすよ


まあ俺も全然解って無かったんだけど

454 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 00:44:53
日本人は肉を食べるよ
ただ同じ日本人でも仏教徒は肉を食べないよ
漢籍の書に「倭人は肉を食べずに野菜だけ」って書いてあるんだっけ?
その倭人が仏教徒だったからだと思うよ
日本なんて明治時代以前は天皇も仏教だし
つか天皇が遷都した平安京や平城京見れば解るでしょ?
あれは仏教徒が作った都だよ


そもそも「神道」なんて言葉も明治時代に明治政府が作った言葉
自然崇拝や氏神を奉ったり八百の神だったり、、、
こういうのは神道とか言う宗教な訳じゃなく、古来から日本人が持つ精神であり文化だよ

本来シャーマニズムの国で信仰心が厚いのが日本民族
天皇が仏教徒って言うと聞こえが悪いと感じる人が要るかも知れないけど、仏教が入って来たからって、そういう日本人の信仰心が失われた訳じゃないよって意味だよ


明治政府により天皇を人間神とする神道と言う国家宗教が作られて、天皇は神道って言う宗教の長となり沢山の寺が神社へと作り変えられた
だから神社へ初詣や参拝の行事はあるけど、今やってるのは明治時代以降に作られたしきたりだよ

そもそも神社ってのは本来は自分達の氏神を奉る為のもので、今見たいな形の神社なんて江戸時代までは無かったよ


455 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 01:06:30
肉を食べない仏教徒が肉を食べたくてガンモドキとかを作った訳だし
ただ日本は作物を造る気候に恵まれ高い農耕技術があって、食は農耕が中心だったのも事実だと思うよ

日本は農地には的さない山間部にまで田んぼや農耕用の水路がある訳だし
優れた農耕技術や農地の開拓力が無い所では、狩猟が食の中心に成らざるを得ないから
何万石とかってのも、農耕量が権力の象徴だったからでしょ?


つかなんか一般的には大陸にあった漢や随や唐が大国だった見たいに認識されてるけど、俺はこの点に置いても大陸と日本の力関係は日本のが上だったと思ってるよ

モンゴル帝国ですらアジアで唯一日本だけには侵攻すら出来なかったし


456 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/30(火) 01:09:48
>>454
>日本人は肉を食べるよ
>ただ同じ日本人でも仏教徒は肉を食べないよ

まあ、大半の日本人は仏教と神道をどちらも信仰しているわけですが。
最も古く、最も長い列島文化は縄文であり、狩猟・漁労・採集をしながら世界に誇る縄文土器を作った。
その上に稲作などの弥生文化や古墳文化が重なっている。
隼人・蝦夷は倭人ではなかったが、日本人に同化されていった。
琉球人・アイヌ民族は現在「日本国人」ではあるが、歴史的には「日本人」とは言えない。
日本国は単一民族国家ではない。

457 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 01:18:12
日本人は肉を食べない訳じゃ無いけど、農耕民族と狩猟民族に分けたら農耕民族だろうね

これは食卓に肉も並ばない貧しい生活をしてたって訳じゃなく
それだけ農耕技術や農地開拓が進んでた国って考えた方がいいすよ
牛は食べるものじゃなく農耕に使ってたし

ちなみに日本でも狩猟中心の暮らしをしてたサンカとかはいる


あと日本は昔から海では遥か海洋沖まで出てクジラ漁とかまでしてた訳でしょ?
これも高い航海技術が無きゃ無理だよ


458 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/30(火) 01:23:57
>>451
>改めさんは九州人でしたね?

ハイ 九州育ちです。

>天孫降臨神話に「膂宍之空國」(そししのむなくに)という言葉が出てきます。
これは一般には「猪の背中は肉が乏しいから、やせた不毛の国をいう」と言われます。

それで肉を普段から食べていたといえるのでしょうか?
それは、違った話かと思います。

>ところが、民俗学者・谷川健一氏が九州の猟師から聞いた話では、「ソジシは霜降り肉のようにキメが細かく、
>脂肪も多くないので、もっとも美味である」そうです。
>たとえクマソの一帯が不毛の地であっても、そこで生活する人が「むなくに」などど言う筈がない。
>これは別表記の「胸副國」が本来の意味で、あるいは「うまくに」が転じたものかもしれない。
>「膂宍之空國」は中央史観による差別表現だったようです。

「膂宍之空國」というのはよく分かりませんが・・・。
愛知県民さんの主張は証拠がないんですよ。
しかし、一部では「獣の肉」を普段から主食として食べていた
かもしれません。それは否定しませんが、
一般的にはあり得ない話で、「普段から食べていた」とか間違った認識と思う。

貝塚ならぬ骨塚スか?証拠みたいなのはどこにあるんでしょうか。

459 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/30(火) 01:28:54
誰か、>>454-455のもん太くんに鎖を・・・w

460 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 01:37:56
鹿の骨で占ったりしてたし、
各地に鏃や槍も見つかっている。
大陸から稲作が伝わるまで山菜や狩猟や漁で
生活していたと考えるのが普通だと思うが。

461 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 01:50:29
埴輪にも猪や鹿の狩猟の場面を表したものがあるよ。
肉食が戒められるようになるのは仏教伝来後と考えるのが普通。
ところが時代は下って江戸の大名屋敷なんかを発掘すると獣骨が結構出土するらしい。
つまり,一般に思われている以上にかつての日本では肉食が行われていたということ。

462 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/30(火) 01:51:52
岐阜県人なら飛騨美濃に関わらず、猪肉文化を知らないはずがないわけだが。

463 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/30(火) 01:53:23
>>460
稲作が伝わる前はそうかもしれませんが、
伝わった後に聞いたことありますか?

鹿の骨で占ったりて食べたんですか?www

464 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 01:55:59
>>456
日本の仏教は日本仏教って言われて日本独特のものだしね
仏教から宗教侵略を受けた訳じゃなく、仏教の信仰を取り入れたって形だと思うよ

日本仏教は先祖崇拝や成仏を目的とした葬祭事でしか無いしね

そもそも日本人は仏教や神道を宗教って思って無いだろうし
仏教ってより山岳信仰や氏神信仰の延長で先祖信仰をしてるだけだしね


465 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/30(火) 02:04:10
愛知県民が肉食を忌避する理由もわからん。

466 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 02:05:31
弥生時代には豚の下顎の骨を用いた祭祀も行われている

自分の思いこみを主張する前にいろいろと調べてみることだ

467 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 02:06:52
>>455

>モンゴル帝国ですらアジアで唯一日本だけには侵攻すら出来なかったし

フィリピンは?ボルネオは?インドネシアは?
アジアから外されてしまったのか?
かわいそうに

468 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/30(火) 02:10:48
祭祀と肉食は直結しないだろうけどな。

469 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/12/30(火) 02:11:43
>>466
はあ?それで”普段から食べてた”といえるのか?

わたしが愛知県民氏、ローガン氏へ、突っ込んでる内容わかってますかー?
祭祀やらト事の話やないんです。
主食にしてたのかそうかの話なんすけど・・・・。
話をしてるんですが。

470 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/30(火) 02:16:14
>>458
>一般的にはあり得ない話で、「普段から食べていた」とか間違った認識と思う。

いろいろ意見が出ているようですが、、倭人はやはり、米と魚が中心の食生活であったと思われます。
倭人については「普段から食べていた」とまでは言えないでしょうね。
失礼しました。
ただし、蝦夷・隼人では事情が異なっていたでしょう。


471 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 02:17:50
まあ,下記URLでも読んでみることだ
「主食」とはどの程度のものを行っているのか知らんが
今の考古学の研究成果では例え稲作が始まっていても
狩猟・採集といった食料取得方法は歴然として続いていた
と考えられている

ttp://www.yoshinogari.jp/ym/episode04/foods02.html

472 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 02:18:18
>>456
いや、日本人は世界一古い歴史を持つ単一民族だよ
国之常立やイザナミやアマテラスも当然日本人でしょ?

例えば旧約聖書ってのは古代ユダヤ民族の歴史書。古代エジプト民族などとの対立が書かれてる書
旧約聖書の中のソロモン王やモーゼやイエスも古代ユダヤ民族
けどこの民族はローマ帝国により滅んだよ
つかこの古代文明時代を築いた民族はエジプトもアーリアもローマも全て滅んでるよ

この時代まで歴史を遡れれる民族は世界中で日本人だけだよ
国常立や天照は俺らと同じ日本人だから

途中で渡来氏族が入って来てたり、アイヌや琉球の混血は否定しないけど、これは単にアイヌや琉球が日本民族に同化したって事だよ

民族ってのは別に血統で分類してるものじゃ無いわけだから
もし逆にアイヌ民族が日本人を同化してたら、日本神話や歴史に由来する日本語を話す日本人は居なくなってて
アイヌ語を話しアイヌの歴史や神話に由来するアイヌ民族が存在するのみになってるよ

473 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/30(火) 02:24:58
なんか近い人たちが自虐に駆られているようで辛いね。

474 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/30(火) 02:25:59
>>472
>いや、日本人は世界一古い歴史を持つ単一民族だよ

もん太君は大臣にはなれないか。
次は日教組批判?

475 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/30(火) 02:28:24
朝鮮半島からの亡命者を現代の日本人と認める寛容さが在るか否かではあるな。

476 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 02:29:46
>>456
つか縄文人とか弥生人って何?
縄文人や弥生人ってそれぞれなに民族すか?
中国人やモンゴル人は弥生人なの?縄文人なの?
縄文人ってサルや原人の事?


縄文人ってククリは良く解らないけど、縄文民族が居たなら居たで、この島には昔はアイヌ民族や縄文民族も居たって事で良いじゃん
縄文民族の残した文化や文明は日本民族の文化や歴史じゃ無いって事?

縄文人とか言われても良く解んないんすよ


477 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 02:37:03
>>462
つか日本では牛とかも食べてましたよ
和牛ってのは輸入牛じゃなく日本種の牛って意味すよ
ただ牛は食用じゃなく農耕などの労働力として飼ってた家畜で、死んだら食べてたって程度みたいすよ

猪とか山鹿とか、当然日本全国で古来から食べてたすよ


478 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/30(火) 02:46:52
いや、縄文人が肉食で弥生人が非肉食とかいう人がおるもんで。

479 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 02:47:29
慶尚南道・全羅南道・済州島・竹島は日本固有の領土です。
薄汚い朝鮮人は今すぐ日本に返還しなさい!

480 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/30(火) 02:48:55
>>476
>つか縄文人とか弥生人って何?
>縄文人や弥生人ってそれぞれなに民族すか?

縄文、弥生はもともと土器の形式の名前。弥生は最初に出土した場所。
民族の名ではありません。
大きく見れば、日本語・朝鮮語(韓国語)・アイヌ語は似ているらしいが、
縄文時代の言葉なんて何も分からないし。
弥生時代の末になって、やっと倭人語が微かに見えてくる。
アイヌ、エゾ、エミシの関係も謎が多いし・・・ちょっと話が拡大・脱線しすぎの感もありますが。

481 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 02:52:16
たしか平城京出土木簡にも各地から献上された鹿肉・猪肉の荷札があったはず
奈良時代になっても税制の一環として肉が献上されてた=食料だったのは間違いないのでは?


482 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 02:52:38
>>474
なぜ日本民族の歴史を話すと日教組批判になるのかが良く解らないすよ
日本民族の歴史は実際に国常立神まで遡れれるすよ
つか国常立神の時代からずっと自民族の歴史が続いて来てる民族が日本人だから


例えば今のイスラエル人と、旧約聖書を残した古代ヘブライ人は違う民族
モーゼやソロモンは古代ヘブライ人。古代ヘブライ人の先祖だよ
(まあそもそも今のイスラエルは他地方からの移民国家だし)

日本人以外にこれだけ古くまで歴史を遡れれる民族あるの?


483 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/30(火) 02:53:03
>>478
>いや、縄文人が肉食で弥生人が非肉食とかいう人がおるもんで。

そういう人はいないと思いますよ。
真実をいえば、どの時代も雑食。

484 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/30(火) 02:57:05
この流れでこっちに振るなよ。

485 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/30(火) 02:57:26
>>482
>なぜ日本民族の歴史を話すと日教組批判になるのかが良く解らないすよ

ジョークですよ。もん太君はニュース見ないの?
「日教組は癌」「日本は単一民族」と発言して辞任した大臣さんいたでしょう?

486 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 03:22:30
>>480
隼人や蝦夷やアイヌは解るすよ
縄文人や弥生人なんてどの古い書物にも乗って無いすよ

縄文人やら弥生人やらは近代になって考古学者が発掘物から想像して考えた空想の歴史であって
縄文時代だの弥生時代だのってのは、近代になって新しく作られた歴史だよ
別に過去にこの島に縄文人やら原人やら他の文化や文明を持った人種や民族が居ようがどうでも良いですよ
別に俺、日本人以外は居なかったと言ってる訳でも無いですし

それとも今の日本民族は先住民じゃ無いとか言う話し?
じゃあアイヌ人と縄文人はどっちが先住民?
それとも日本民族を形成した人間は日本で発生した訳じゃないから、大陸から渡って来たとか言う話し?
こんな話ししてるとじゃあ人間はどこで発生したのかって話しになりますよ

つか先住民って言葉は、後住民族が何処からの移民なのかって事で産まれる言葉でしょ?
イギリスからの移民に対して、インディアンやアボリジーが先住民とかってさ
仮に日本人が大陸からの移民なら、大陸にも日本民族が住んでないとおかしいよ
他に拠点があって初めて移民な訳だと思うよ

日本人が大陸からの移民なら日本人た大陸の先住民って事になるし

487 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/30(火) 03:27:18
>>486
>こんな話ししてるとじゃあ人間はどこで発生したのかって話しになりますよ

ホモ・サピエンスはアフリカ発生でほぼ間違いないでしょう。
ZZZ・・・・

488 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 03:37:14
まあ日本の歴史を言うと「戦前回避だ」とか訳の解らない事を言う人がいるのも解るっす

ただちゃんと記紀や風土記など沢山の歴史書が残ってるんだから、ちゃんと自分達日本人がどんな歴史に由来する民族なのかってのは教えた方が言いと思うけどね

ちなみに明治政府がやった見たいな記紀の神武天皇を始まりとして
天皇の歴史のみしか教えないような天皇史観のやり方はダメと思うけど

ちゃんと国常立神やイザナミやアマテラスやスサノオ達の所から知るべきで、その日本の歴史の中にイワレビコや織田信長がいて
平安京の時代があったり鎌倉幕府の時代があったりってのが日本の歴史な訳だしさ

自分がどんな歴史に由来してる民族なのかを知らない日本人が多すぎるよ
だから日本人であることに誇りが持てないんだと思うよ

489 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 03:52:42
>>487
じゃあまずこの島にはアフリカで発生したアフリカの先住民である縄文人が移住して来て、次に○○で発生した弥生人が、、、
って事で良いじゃん

つか縄文人縄文人言うけど、別に縄文式土器や弥生式土器なんて誰でも作れるよ

そもそも頭蓋骨の骨格が現代の人類とは違うなら単にサルや原始人だし

490 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 06:05:21
>>458
「膂宍之空國(日本書紀)」
これ「むなしくに」って読むんじゃないすよ
つか痩せた土地とか言う意味でも無い
単なる地域の呼び名だよ



なんかみんな天孫降臨は日本書紀からしか引用しないけど、古事記からも引用すれば解るよ
「此地者向韓國」

「からくに」って読むんだよ


491 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 11:05:24
気楽にw

492 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/30(火) 12:35:35
>>489
>つか縄文人縄文人言うけど、別に縄文式土器や弥生式土器なんて誰でも作れるよ
>そもそも頭蓋骨の骨格が現代の人類とは違うなら単にサルや原始人だし

これは違う。縄文人はホモ・サピエンス(現生人類)です。

493 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/30(火) 14:01:06
>>486
どんな書物にも”縄文人”が乗っていない? ”縄文人”なる命名は現代だが
ホ39028  アナにすみ ケシシをはみて ケコロモき 
この様な生活を縄文と言う。



494 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/30(火) 15:05:43
>>493
>ホ39028  アナにすみ ケシシをはみて ケコロモき 
>この様な生活を縄文と言う。

間違い。
縄文人とは縄文式土器を作った人々。
縄文式土器は世界最古の多様で複雑な土器で、芸術的な評価も高い。
これを作った人々を原始人呼ばわりするのは問題。



495 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/30(火) 16:32:39
>>452
だから空白だって言ってるんだよ。15日以降、当時はそういう日は
天皇に関しては使わなかったということだよ。
1900年代も2/30 , 2/31は記録では無かろうが。つまりこの日々は
同年代では使わなかったということだね。つまり2/30 , 2/31は
無かったわけさ。そうじゃなくあったのかねぇ? wwwwwwww

496 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 18:19:15
>>495
朔から次の朔までは約30日だよ


497 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 21:10:39
おお、年末とあって有名コテが来てますね。
美濃くんと太国師匠の3倍念力論争、昨年同様読み応えがありますな。

498 :改め:2008/12/30(火) 21:28:16
>>495
まだ空白とかいってるの?ww

499 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/30(火) 21:41:48
改めさん 田舎に帰ったら、瓜生島の住吉を調べて下さい。


500 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 21:55:19
>>495
そもそも一ヶ月を15日で計算すると日付の干支が合わないでしょ?

正月の朔が甲子なら、2月元日が戊辰になるんすか?
仮にそうなると2月の元日は朔じゃなくなるすよ?

一ヶ月が15日だとしたら
1月元日が朔、2月元日は望、3月元日は朔、4月元日は望、、、
こういう事?


記紀はどうみてもこんな暦使って無いでしょ?
月の朔干支まで、ちゃんと記述されてるじゃん


501 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 22:07:52
過去に一ヶ月を15日、一年を182日としてた倍暦(つか1/2暦)があったかどうかは知らない

けど記紀の暦は朔から朔を一ヶ月とした旧暦(大陰暦)で書かれてる事は「朔」の記述で解る
あと大陽運動を24分した24節季が使われてる事も「春」や「秋」の記述から解る
あと木星(歳星)運動を表した太歳が使われてる事も解る

記紀で使われてる暦は日本が明治時代まで使ってた旧暦(和暦)と同じだよ

502 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/30(火) 22:15:38
>>500
>記述されてる
朔の干支は逆算だよ。参考までに留まる。「朔」は、だからその
ツクリが逆の意味とほぼ同義だよ。「逆」のシンニュウを除けば
そのツクリになるのさ。つまり「朔」とはヘンが「月」で、月の
逆算を意味する語なわけさ。
だから日数にこだわると紀年は失敗に至る。無関係にこだわらない
ほうがいいんだよ。勿論全く関係ないでもマズイがね。w

503 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 22:15:54
太国さんは「倍暦が使われてた!」とか言う前に、まずはそもそも倍暦ってのがどんな暦なのかを説明しなきゃダメすよ

一ヶ月は何日か?
一年は何日か?
なぜを基準にそう定めてる暦なのか?
倍暦なんて暦があるってのなら、これぐらいはちゃんと説明して下さい


説明っても簡単でいいし
大陽暦ってのは地球の公転周期を表した暦
大陰暦ってのは月の運動周期を表した暦


この程度の説明で構わすよ
倍暦ってのはどんな暦なのかを説明して見て欲しいすよ

504 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/30(火) 22:17:14
>>501
24節季は分かったよん。w
だから21月とか22月とか、23月が記紀のどこに書かれてるんだい?

505 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/30(火) 22:21:47
>>498 改めよ
1900年代では2/30 , 2/31は空白だろうが。当然当時の古代にも
空白があっていいことは分かろうはずだが? それともなにか〜?
2/30 , 2/31は空白でなく存在してたのか? Pu! ww

506 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/30(火) 22:23:36
>>503
そっちのほうは過去にもう充分説明をつくしてるよ。してないのは
オマエさんのほうだろうが?wwwww

507 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 22:35:57
>>504
24節季はそう言う暦じゃない

「太陽が天球上を約365日かけて一周する太陽黄道を24分割した暦」
だよ

解りやすいので例えば四分割したのは「四立(四季)」だよ
立春、立夏、立秋、立冬の4つ(四季)


24分割したのが
正月節気、立春
正月中気、雨水
2月節気、啓蟹
2月中気、春分
3月節気、清明

12月中気、大寒


桃の節句や土用の丑の日とか彼岸とかは、この24節季の暦を元に行う行事だよ


太陽が太陽黄道を回る周期は約365日だから、約15日で次の節気(もしくは中気)が来るよ

508 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/30(火) 22:38:33
だったら24節季なんて言い出すな。どうせ24月とかが記紀に載って
るわけでもない。オマエさんの反論が即興妄想だったわけだよ。

509 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/12/30(火) 22:47:14
無駄な論議だな。

510 :改め:2008/12/30(火) 22:48:21
>>499
>改めさん 田舎に帰ったら、瓜生島の住吉を調べて下さい。

はて どうしてでしょう? 九州へは来年の夏いきますよ。

>>505
>改めよ 1900年代では2/30 , 2/31は空白だろうが。当然当時の古代にも
>空白があっていいことは分かろうはずだが? それともなにか〜?
>2/30 , 2/31は空白でなく存在してたのか? Pu! ww

何が言いたいのかわからん。
そんなレベルのこと言ってるんかい・・・。w

511 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 22:51:00
>>508
記紀の暦には「春正月」とか「秋九月」とか書いてあるでしょ?

太陽黄道周期(365日)を分割した暦の24節季(四季)が使われてるんだよ

春は24節季の立春〜
夏は24節季の立夏〜


記紀の暦には「春」とか「秋」とか在るでしょ?

512 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/30(火) 22:55:26
>>511
オマエさん、単純だな。この前から言ってるではないか。四季は
舎人親王の配下の後付けだよ。唐松山さんに聞いてみな。ホツマ
の文は全部四季が年月の前についてるのか否かを?www

513 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 22:56:00
記紀でも使われてる旧暦の成り立ちは多少理解出来ましたか?


ちなみに倍暦とか言う暦が、何を基準としたどんな暦なのか教えて下さい

例えば倍暦での一ヶ月の単位は何日で何を元にしてるんですか?

514 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/30(火) 23:02:02
>>513 あれほど〜
日にこだわるなと言ったろうが。日の組成の具体的真相なんて
わかりっこないぜ。この前もこれも言ったようにだ、記紀よりもっと
詳しい分厚い古文書が新発見されれば望みがあるが、こんな日の
具体的内容なんて正確には捉えられないんだよ。それでも倍暦は
あったことは分かるものだが・・・。オマエさんのやり方をやって
たら、いつまでたっても当時の年代なんて把握できない。

515 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 23:02:21
>>512
ほつまが24節季の暦の記述をしてるかどうかは知らないし関係無いよ
記紀は、太陽24節季や月の朔望や歳星の周期を表した旧暦(和暦)で書かれてますよ


記紀では倍暦なんて暦は使われてないです

そもそも倍暦ってどんな暦ですか?
太陽周期を元にした太陽暦?
それとも月の周期の大陰暦?


倍暦ってのは何を基準としてる暦なのか、それぐらいは説明して下さい


516 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/30(火) 23:04:17
>>515
いままで数を忘れるくらい説明したろ。何回も言わせるな。
こんどはオマエさんがそっちの文献を調べて考えろ。

517 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 23:06:19
>>514
別に日まで気にしてる訳じゃないですよ?


倍暦ってのはどんな暦の事かを説明して下さいってだけですよ
例えば一ヶ月は15日って暦でいいの?
で、一年は15日が12ヵ月で約182日って事でいいんですか?



518 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 23:10:00
>>516
例えば「ユリウス暦は一年が約365日で、、」とか程度でいいんですよ


519 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/30(火) 23:10:56
>>515
日本書紀に書かれた 24節気を教えて下さい。
履中以前で。

520 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/30(火) 23:12:55
>>511
>記紀の暦には「春正月」とか「秋九月」とか書いてあるでしょ?
>春は24節季の立春〜

「春」をウィキペディアで引くと

(1)社会通念・気象学では3月・4月・5月。
(2)二十四節気に基づく節切りでは立春から立夏の前日まで
(3)旧暦による月切りでは1月・2月・3月。上に近いが、最大半月ずれる。
(4)天文学上は春分から夏至まで。

とあります。
日本書紀の春夏秋冬は(2)ではなく(3)ではないか?

521 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 23:13:35
>>519
明年秋九月壬辰朔丁酉

履中以前かどうかは知らないけど

522 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 23:14:56
>>502
「朔」を語る場合、「晦」もセットで語らねば
朔の説明はできない。

523 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/30(火) 23:17:09
>>522
できるだろう。それがしの話は暦の事典からだ。

524 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/30(火) 23:17:53
>>519に追加
○○天皇○年11月1日冬至のように 日付も忘れずに。

525 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 23:18:30
>>520
まあ暦表記は3かも^^
古キン和歌集では、12月に立春が訪れた事とか書いてあるすよ


ただ旧暦は
「立春の次の中気(雨水)を含む朔」
が正月元日すよ

これが1年の始まりとしてるよ

526 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 23:22:50
>>524
面倒くさいっす
つか「冬至」とか「雨水」までの詳しい節気や中気は表記してないんじゃないすか?

24節季って言い方がダメなら訂正しますよ
立春、立秋など太陽黄道を四分割した四季って事でもいいすよ



527 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/30(火) 23:23:44
>>519
『日本書紀』巻十一仁徳天皇六二年(甲戌三七四)
天皇歡之。自是以後。毎當季冬必藏氷。至于春分始散氷也。

「冬至」が巻二六斉明天皇五年(六五九)に出てきますが対象外?
秋分、夏至は無いようです。

>>521
>明年秋九月壬辰朔丁酉

??二十四節気は無いですよ。

528 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/30(火) 23:31:58
二十四節気が離れて二つあれば、暦の特定に役立つ
でも もん太君なら知っているかも?

529 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 23:34:06
>>523
>できるだろう。それがしの話は暦の事典からだ。
暦の辞典から引用すればそれでいいのかな?

530 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/30(火) 23:34:38
>>519
立春、立夏、立秋、立冬は無し。

531 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 23:37:40
>>526
>立春、立秋など太陽黄道を四分割した四季って事でもいいすよ

それでは太陽黄道が先に存在し、それを四分割せねば四季というものが存在しないという理屈が成立してしまう。

532 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/30(火) 23:38:06
>>527 で挙げた「春分」も、以後の習慣を記しているだけなので
特定には役立ちませんね。

533 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 23:44:23
>>528
俺まだ最近旧暦の成り立ちがようやく前より解った程度だよ

暦の特定って書かれてる太歳が西暦何年の事かって事すか?
それは他の書物や出来事などから定めるしかないすよ

よっぽど詳しく天体の計算をして、日付の干支と照らし合わせれば
「西暦○○年は太歳○○で正月朔の干支が○○になる」
って出来るかも知れないけど
ただよっぽど旧暦が正確じゃなきゃ計算上はずれますよ
朔から月の朔だって正確には29.0518日とか、そんな単位すから

534 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 23:50:47
>>531
いや太陽黄道周期が先すよ
立春とかより正確には春分夏至秋分冬至が先だろうけど
これらは昼夜の長さで区切ってて、例えば岩磐遺跡などにも春分の日に太陽が丁度昇る位置を表せるようになってたりするよ

で、例えば立春ってのは、冬至と春分の中間点を立春と定めたんすよ


535 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/30(火) 23:58:22
解らないなら
太歳と24節気は、解るまで封印して下さい。
まだ誰も正解を得て居ないことですから、
それから、書紀の太歳は、天体の運行と関係有りません。
土星の運行の奇特日が、殆ど天皇の即位と同時に起こる確率は?0%とお考え下さい。
封印ね。
使えるのは、月の運行だけ。この数字に狂いが無い(当然許容範囲の誤差は有る)から
西暦−660年神武即位と成る。
まず書紀の朔の正確さを認識して下さい。その為に数字を列挙しました。

536 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/31(水) 00:05:01
>>519
二十四節気は他には無いようです。

537 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/31(水) 00:19:37
>>535
太歳は歳星です。
歳星の運行の奇特日って何ですか?

西暦年数を得ようとした場合、太歳干支が一番重要ですよ


神武は太歳辛酉年です
ちなみに紀元前660年ももちろん辛酉年だけど、西暦661年も辛酉年すよ


「イワレビコ天皇は辛酉年に橿原に遷都」
記紀で解るのはこれだけ
あとは何時の辛酉年の事なのかをちゃんと調べてみるだけ

紀元前660年の辛酉年とするなら、何を根拠に紀元前660年なのかを、きちんと説明してみて下さい

538 :日本@名無史さん:2008/12/31(水) 00:20:31
>>543
>立春とかより正確には春分夏至秋分冬至が先だろうけど

根本的な事から処理しなければ
一年という日の周期を、先ずは日の長さをもって二分割した
それが「春と秋」
冬至の次の日〜夏至を「春」(日中が徐々に長くなる)
夏至の次の日〜冬至を「秋」(日中が徐々に短くなる)

勿論この時点ではまだ(夏至や冬至という言葉は存在していない)

春と秋という概念が出来てから「分ける」という「秋分、春分」が生まれ

秋分と春分という概念が成立してから
一年を「春と秋」以外に「夏と冬」というもう一つの二分割概念が誕生する。

春分〜秋分を「夏」
秋分〜春分を「冬」

この夏と冬を二分割したものが 冬至であり夏至

ここまで来ないと冬至や夏至は誕生しない。


539 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/31(水) 00:23:14
二十四節気は私も探しましたが、特定できる日付は、有りません。
ホツマには、二十四節気も七草粥も記事は有っても日付無し
有れば狂っていても特定の情報として使うつもりでしたが…。
神功前紀の日食も日付け無し。今のところ全く有りませんね。
やはり ”暦は秘密”ですかね。

540 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/31(水) 00:23:29
ちなみに記紀って天照やスサノオや大国主の話には暦が入ってないっす


これは単純に暦の記録が無かったから、暦が解らないから書いてないだけだと思うよ
暦が解ってる事柄にはちゃんと暦が入る

てか、暦が入る事柄は記紀が書かれた時代より、そんな昔の事じゃないと思うよ

541 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/31(水) 00:38:55
>>538
一年が約365日
↑これを求めるには夏至な冬至の存在を知ってるか、または星座の位置を覚えておくか、、、だろうね


夏至、冬至を知るのはそこまで難しくないと思うよ
例えばこんな原始的な方法はやってないと思うけど
日時計に日の入りと日の出に記しを付けといて、
昼間の長さが一番長くなったら夏至
短くなったら冬至
たし
春分と秋分は昼夜長さが同じ日だけど確かにそれをまた半分に「分けた」って形で決めたのかも知れないね

夏至や冬至の存在を知ったなら、あとは何日周期で夏至が来るのかを数れば、約365日を周期とした暦を作れるね


542 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/31(水) 00:40:51
天照の時代から暦は、使われていました。記録方法は、
「百万」の振り
神武誕生の頃より暦を改める。アスス27年より神武以降の暦が使われる
神功末年を以ていったん途切れたかも知れない、
その後は、後付け(出雲暦の振り替え)かも?。

何しろ4世紀を飛ぶために色々考えています。
書紀の編纂者は、神功39年以降”増し”が無い物として編纂している。
それ以前の暦に対しても疑問を持っても編纂出来ずそのまま記載。

543 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/31(水) 01:00:33
>>542
古事記は基本的に「一書曰」で始まる書

他の書物などの内容を集めて書き写した書物
その元の書物に暦の記載が無ければ書けないよ

「一書曰」ってのが微妙だね。どの書の内容を書いたのか、書物の名前を書いといて欲しかったな

記紀の内容って「あれ、この天皇の話って、あの天皇の話とおんなじ事?」見たいな話が結構あるよ
例えば景行(大足彦)と成務(稚足彦)なんて即位と崩御の太歳がまるかぶりだし
あと中大兄大海人と山幸彦海幸彦

韓国派兵の話なんて、神功、斉明、推古、、
とにかくこれらは実際に被ってる話が複数あるんだと思うよ


あと「諱」って「いみな」の意味じゃ無いと思うよ
忌諱ってあればキキの事だし
あと読むとか発音はとか、そう言う意味でも使われてるよ


544 :日本@名無史さん:2008/12/31(水) 01:08:01
>>541

>>538の説明は飽くまでも太陽をベースとした解釈であり、ここには一切
月の周期は考慮されていないということだよ
天体ベースで語れば、月と太陽というのは地球にとって正に対となる存在
太陽は昼に存在し、夜は月
春と秋、夏と冬の関係に非常に似ている
朔と晦もそういう関係にあるのじゃないのかな?
朔は月の周期でいう一日、晦は太陽周期で存在するもの

辞書では晦日も月の周期の最後の日と言うようにはなっているけど、どんなものかな?

545 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/31(水) 01:08:58
神代の数字
ホ15159 タミゆたかにと クニおさむ ワレみるススキ チヱヨタビ わがミもコトシ
フソヨヨロ いまたさかりの カキツハタ のちモモヨロを ふるもしる
民豊かにと 国治む 我見るススキ(稲)千枝4度 我が身も今年24万 今だ盛りのカキツバタ(夏)
後 百万を 振るも知る。
>>541
暦法を知っていて暦を使っていれば 365日は解っている。
ただシノギで”種貸し”を生業とする以上暦付きで種貸しをしたい、民に暦を知られたくない。
暦の分散は、考昭が后を娶るときに大物主の了解を取るために大物主に分与、大物主は。
考昭元年の干支でそこから伸長せずに使う(出雲暦=古事記暦)
九州は、暦の支配層の分裂(神カシイ姫)など、景行は種貸し屋からの脱却に屯倉経営を取り入れる。

もん太君 ホツマを読め それから君の好きな
エナこふときに ミコトのり ハニシナヌシは ヱナガタケ 
こんな話にも乗る。


546 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/31(水) 01:12:48
>>542
服部半蔵問って三人居るのとか知ってます?

これ初代から三代目までか服部半蔵門を名乗ってたかららしいよ
日本は何か「名を継ぐ」見たいな風習が無い?
例えば相撲でも貴乃花は二人いる

「牛頭天王は我はスサノオと名乗り」
「彼らは両面スクナの神を名乗り旗を掲げ抵抗した」
「タケミカズチは天照を名乗り」


まあ名前を継がなくても、例えば誰の子孫だって意味で名乗っただけでも、相手はその人が名乗った方を名前と受けとるだろうから、
一方では牛頭天王って呼ばれてる神が、他方ではスサノオって呼ばれてたりって事になってるんだと思うよ


記紀は特に複数の書から書き写した書だから、この辺りの名前のヤヤコシさがある

547 :日本@名無史さん:2008/12/31(水) 01:13:06
>>543

>古事記は基本的に「一書曰」で始まる書
他の書物などの内容を集めて書き写した書物

それはどうかな?
「曰」と書かれているのだから、書を移したのではなく
当然アレンジしたものではないかな?

写したものならわざわざ「曰」などと断り書きなどいらない


548 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/31(水) 01:19:14
>>544
まず月と地球と太陽の関係だけど、これを正しく認識しなきゃ解らないかも

まずこれは学校の教育が悪いけど、多くの人が月の動きを誤解してるよ
× 月は地球の周りをまわってる。月は地球を公転してる。
○ 月は太陽の周りをまわってる。月は太陽を公転してる。


まずはこれを頭に入れて置いて下さい


549 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/31(水) 01:26:12
んで、まず地球と太陽の関係
地球は太陽の周りをほぼ正確な円軌道で回ってる。太陽の周りを一周(360度)回るのに約365日


次に月
月は地球と平走して共に太陽の周りを回ってる星
月が太陽を回る際の公転軌道は地球とは違い、正確な円じゃなく、12〜13角形(一周するのに12回か13回軌道が変わる為)の形の軌道になる



550 :日本@名無史さん:2008/12/31(水) 01:28:46
>>548
その知識は必要ないんじゃないかな?
当時、地動説は存在していないのだから

551 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/31(水) 01:31:55
天照の弟に何故”月読み”がいるか?
四分暦
6940+6940+6940+6939=27759, 27759/76=365.25
27759日/940月=29.53085日
29.5306*940=27758.76日 76年で0.13日くらい狂う
重ねていけば、何処かで修正。

552 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/31(水) 01:34:01
紙とかに書けば解りやすいけど
まず太陽を中心に書いて、それを中心にコンパスで円を書く。これが地球

次に太陽を中心に、定規を使って12角形を書く。これが月の軌道


で、この円と12角形の線が交わるように大きさを調整してやって重ねる
これが地球と月の関係

月の軌道を12角形にして円に交わるようにすると
月は地球の円の内側に来る時もあれば、外側に来る事もある軌道になる

553 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/31(水) 01:43:00
>>550さんの言う通り 太陽が地球の周りを回っていようと
1年の長さに変化なし
「タケミカズチは天照を名乗り」 その通り。
名前も継いでいますよ。
孝霊、大倭根子日子賦斗邇、大日本根子彦太瓊 イムナネコヒコ ヲヲヤマト フトニノミコ
孝元、大倭根子日子国玖琉、大日本根子彦国牽  ヤマトネコヒコクニクル イムナモトギネ
名前は四つに別けて下さい。
孝霊の諱ネコヒコを孝元は呼び名ネコヒコで使っている。
孝霊のヲヲを名としたのが大彦。

554 :日本@名無史さん:2008/12/31(水) 01:45:07
>>552

美濃もん太君、それはあくまで太陽を中心にしたときの見かけ上の軌跡だよw

じゃあ太陽すら銀河の中で回転しているとするのなら
月は太陽の周りじゃなくて銀河の中心に対し公転しているという理屈だよwwwwwwwwwww

更に言うとその銀河すらある中心(ビッグバンが起こった場所?)から猛烈な勢いで遠ざかっている。

月が地球の周りを回っているのは正しく。
地球が太陽の周りを回っているのも正しいんだよwwwwwwwwwwww


555 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/31(水) 01:49:13
(実際には月の軌道は正12角形じゃないけど、ややこしいからとりあえず正12角形を前提として)


12角形の軌道の月は地球の内側に来たり外側に来たりする
んで、月が12角形の角(地球の外側)に来た時の月が「満月」
この時、太陽→地球→月と、ほぼ一直線になる(この時に地球の影が月に掛かるのが月食)

そこから月は角を曲がって、地球の円軌道と交差した後、地球の内側にくる
んで月が12角形の辺の真ん中に来た時が「朔」。この時、太陽ー月ー地球と、ほぼ一直線になる(日食はこの時におきる)


月が軌道上で太陽に最も近づいた日、太陽→月→地球と一直線になる日
これが朔。これより三日後が三日月
朔を境に地球から見ると月が太陽に照らされて光ってる側が逆になる。
んで三日月からどんどん照らされる部分が増えて行き、また満月になる
んでまた、今度は反対側がどんどん掛けて行き、朔になる

556 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/31(水) 01:49:25
>>522
サインカーブにしてくれんか変則でも良いから

557 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/31(水) 02:06:54
>>554
月は地球と交差しながら太陽の周りを並走してるだけ

だから地球を中心として見た場合にも、月は地球の周りは回らないよ
地球と月は同じスピードで並んで走ってる

地球を中心と見た場合、地球が真っ直ぐ走ってるのに対して、月は地球の走るコースの右側に行ったり左側に行ったりしてるだけ


太陽を中心とした場合には太陽の周りを歪な軌道(12〜13角形)で、約365日で回ってる
約29日周期で軌道を変えるから365日で12回〜13回月は朔(最も太陽に近づく日)を迎える

365日÷29日だから数年に一度は一周するのに13回朔になる
これが旧暦の閏年
この年は大陰暦では一年は閏月を加えた13ヵ月になる

558 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/31(水) 02:14:37
朔=新月=日食の可能性大
満月=十五夜=月食の可能性大

ただ暦法等の誤差で末日日食もあり。

559 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/31(水) 02:18:16
>>546
>服部半蔵問って三人居るのとか知ってます?
>これ初代から三代目までか服部半蔵門を名乗ってたかららしいよ

服部半蔵ね。半蔵門は半蔵が警備を担当した江戸城(現在の皇居)の門。
地下鉄半蔵門線、半蔵門駅もあるね。

560 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/31(水) 02:22:05
>>558
>朔=新月=日食の可能性大
>満月=十五夜=月食の可能性大

これはまずいですよ。
新月でも日食が起きないことのほうが多いですから。
訂正:日食は新月のとき以外は起こらない。
月食は満月のとき以外は起こらない。

561 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/31(水) 02:23:34
ところで 書紀で日食の記事履中以前 有りますか?
日付入りで?
無ければ、日食の話も封印。


562 :日本@名無史さん:2008/12/31(水) 02:25:04
>>557  美濃もん太 ◆hF.jG29Cew

う〜ん、どうやって説明してやったら良いものかw

月が地球の周りを回り、その地球が太陽の周りを回っているんだから
太陽を中心に見たとき月の軌跡が地球を中心にした円形にならないのは当たり前で・・・

まあ下記のサイクロイド曲線の説明でも参考にしてくれwwwwww

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%89

563 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/31(水) 02:40:13
>>561
以前にも書き込みましたが、推古天皇崩御直前が最初の日食記録です。

564 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/31(水) 02:40:20
>>562
その地球さえ真円には成らないんだから
月齢の説明程度では、とても及ばない。

ただもん太君が朔の計算が出来れば良いだけなのだが?。ゥ〜ン

565 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/31(水) 02:53:43
>>562
いや動いてる地球を中心として見たい場合には、自分も地球と同じスピードで動けば良いんだよ
すれば地球が止まった状態になって、他の星が静止した地球に対してどんな動きなのかが解る
仮に太陽が銀河を公転してたとしてたら太陽と同じスピードで動けば静止した太陽に対する他の惑星の動きが解るよ



静止した太陽に対して地球は太陽の周りを回ってる。水星も木星も月も太陽の周りを回ってる
で、地球と同じ公転スピードで動いて静止した地球を中心とした場合、月は地球を中心に公転はしないよ

例えば自分が動いてる地球の周りを公転しようとして見れば解るけど、一定のスピードを維持したままだと、地球の周りは回れないよ

地球と月の軌道にの空間に線を引くとDNAの螺旋図のような軌道になるよ
この回転を公転と呼ぶならこれが公転なんだろうけど


566 :日本@名無史さん:2008/12/31(水) 04:21:40
コンノケンイチより酷いな。


567 :日本@名無史さん:2008/12/31(水) 07:35:21
てすと

568 :日本@名無史さん:2008/12/31(水) 08:22:49
だから〜
当時は地球の周りを他の天体は回っていたんだよ。
今とは考え方が違うんだから、今の蘊蓄語られても(>_<)だけ。
いや、回っていた事すら
認識ないかも

569 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/31(水) 12:05:15
太歳に関しては ただもん太君がその日を特定して
西暦元年から500年頃の物を 幾つか掲載して頂ければ、それで済む。


570 :日本@名無史さん:2008/12/31(水) 15:15:06
謎の女王卑弥呼は誰か?
「卑弥呼は日女命である。後に天照大神になった。」
邪馬台国問題に終止符がうたれたので2008年めでたく終了。
それでは皆さん、よいお年を。

571 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/31(水) 17:10:09
「肉食」について今更ですが
日本書紀巻二六斉明天皇五年(659)
蝦夷を連れていった遣唐使が、皇帝の質問に答えています。

天子問曰。蝦夷幾種。使人謹答。類有三種。遠者名都加留。次者麁蝦夷。近者名熟蝦夷。
今此熟蝦夷。毎歳入貢本國之朝。天子問曰。其國有五穀。使人謹答。無之。食肉存活。

蝦夷については、肉を主食としていたことが史料から確認できます。

572 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/31(水) 17:53:28
>>570
卑弥呼≠日女命≠天照大御神

573 :日本@名無史さん:2008/12/31(水) 18:13:59
>>401
どうもです。プロバイダ規制になってしまいました。
もう少しのところで残念です。

574 :改め:2008/12/31(水) 20:38:22
>>571

わたしは部分的にはあっただろうといいました。

一般的にはどうなのですか?愛知県民さん


575 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/31(水) 21:36:12
>>574
>一般的にはどうなのですか?愛知県民さん

肉食については、もう一つ問題がありました。
魚を食べるのは肉食に入るのか?という問題です。
ウィキペディア「肉食」を見ると「肉食(にくしょく、にくじき)とは、動物が他の動物の肉を喰らうこと。」
とあり、魚も含まれるように思われます。
ところが、「猟/漁によって得た肉を食べる場合」というタイトルがある一方、
日本人の肉食の説明で「ただし鯨は魚の一種と見られていた。」ともあり、どうも曖昧なようです。
改めさんはどうお考えですか?

576 :日本@名無史さん:2008/12/31(水) 21:43:26
古代天皇・皇族は狩猟が大好き。
猪狩りの話は、雄略のところにも出てくる。

捕らえた獲物の料理のために雄略は宍部を設置した。
お肉大好き雄略天皇。


577 :日本@名無史さん:2008/12/31(水) 21:47:39
ドツボが言う「肉食」の定義とは「主食」として毎食肉を食うこと。
一般人とは感性が異なる人なので、それを理解してあげないといけない。

578 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/31(水) 22:07:32
>>577
そのような意味では、肉食ではなかったでしょうね。
「毎食」と言っても、近代まで一日二食が一般的だったようですが。

579 :日本@名無史さん:2008/12/31(水) 22:53:57
もともと御当人の勘違いが発端のようです。

-----------------------------------------------------------------
417 名前:改め ◆PWTcGEfp1s [age] 投稿日:2008/12/29(月) 17:23:37
>>416
>とあるから、普段は肉も食べていたようです。
>「其地無牛馬虎豹羊鵲。」ともあるから鹿肉とか?

普段は肉を食べてませんよ。
普段から肉を食べてるのは、愛知県民さんでは?

間違って食べた事はあるかもしれませんが、
実際に食べたしたのは明治以降から。それが古き日本人です。
-----------------------------------------------------------------

多分、>>416の「普段は肉も食べ」を「普段は肉を食べ」(主食が肉)と誤読?したのかな。
「間違って食べた事はある」とも言っているので、もともと、日本人には肉食文化は無いはず
と言う思い込みが、そう読ましてしまったのかもしれない。

「貝塚は有っても骨塚は無い」とか頓珍漢(貝塚と言ったって獣骨も多数出土するのに)な例を
出してみたり、倭人伝や日本書紀の文献資料にもノーコメントなので、
古の日本には肉食文化など無かったと思いたいだけなのかもしれません。




580 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/31(水) 23:36:12
骨を探すのは大変だよ。
ミ01128 ホネはタのタネ
肥料にされてるから。

581 :改め:2008/12/31(水) 23:52:16
ほら カウントダウンはじまるよ

582 :日本@名無史さん:2009/01/01(木) 00:00:01
>>579
そこで
「勘違いでした」あるいは「教えられた。ありがとう」
の一言が言えない時点で学問を追求する姿勢としては終わってる

583 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/01(木) 01:17:14
>>568
>今とは考え方が違う

今の考え方が間違ってると思うよ
そら地上から見たら太陽も月も回ってるように見えるけど
実際には太陽や月は地球の周りを回ってる訳じゃ無いですよ


ちなみにこうした天動説が唱えられ始めたのは西暦300年頃のヨーロッパ

584 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/01/01(木) 01:34:47
取り敢えず、おめでとう。
だから、実際はという考えが広まったのは近年であり、暦や季節感をサイクル化した当初の考え方は
天が動いているという前提で作り出されている。

585 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/01(木) 01:36:25
>>575
獣の肉
牛の肉
魚の肉
鯨の肉
肉は肉すよ


仏教の精進料理で肉を食わないのは、殺生を禁じてる為で、当然、獣も魚も昆虫ですら命ある者って考えすよ

586 :改め:2009/01/01(木) 01:41:50
あけましておめでとう 

「肉」ていうのはだね 獣の肉〜 
ようは動物の肉を指していってるんだよ。




587 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/01(木) 01:47:26
>>584
天動説が唱えられたのは西暦400年だか300年頃のヨーロッパ

天動説に対して地動説を唱えたガリレオは、天文学者じゃなく数学や哲学や歴史学者


プラトンだかアルキメデスだかの古代書物に天体の成り立ち(地動説)が書いてある記述を読み
その記述が正しくて、天動説は間違いと主張したんだよ


暦を作ったのも古代の人だし、古代では日本含め、今の西洋暦より天体運動に正確な暦が使われてたよ
(ちなみに今の月などの天体運動が正確に合わない西洋暦が作られたのも西暦400年頃)

588 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/01(木) 01:48:45
>>587
間違えた。訂正
×西暦300年だか400年頃
○今から300年前だか400年前(たしか西暦1500年頃)

589 :改め:2009/01/01(木) 01:56:06
早朝、伊勢神宮へいってきます。

なにか情報あれば書き込んでて下さい

590 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/01(木) 01:57:27
>>584
例えば太陽を中心としてみた場合、地球は太陽の周りを回ってる
だから地球は太陽の周りを公転してる

じゃあ同じように地球が静止してるものとして、地球を中心に見た場合、月は地球の周りは回って無いよ
公転ってのは一定周期で中心の星をグルグル回る事でしょ?



ちなみに自転ってのが自転軸を中心に回る運動の事を指すのなら、月は自転すらしてないすよ
月には自転軸が無いすよ

591 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/01(木) 02:05:17
地球上には磁力があり磁石で方角が解る

ちなみに磁石が示す方向は北と南。つまり磁石は自転軸の中心を示す


これは過程だけど、地球上にあるこの磁力ってのが地球の自転運動による「回転」により発生してる者であるとしたら
自転軸を持たない月の地上では、磁石で方角をしる事は出来ないのかも知れないと思う


ちなみに鉄にコイルをグルグル巻いて、電気を通すと磁力が発生し電気磁石になる
これも回転が関係ある気がする

592 : 【大吉】 【1271円】 :2009/01/01(木) 02:17:16
こいつ・・・マジで言ってんのかな?


593 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/01(木) 02:21:51
例えば人工衛星ってのも地球の周りを回ってる訳じゃないよ

地上から見たら人工衛星は空を回ってる(移動してる)ように見えるけど、実際には人工衛星は地球の軌道上を地球との距離を保ち地球と並走してるだけだよ



594 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2009/01/01(木) 02:30:42
>>590
暦が作られた当時は、地球を中心としてなどという考え方もないし、
自分達の今居る地に対し、天にある太陽や月や星は、空を移動しそのサイクルは、ある一定の期間だという認識

595 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/01(木) 03:00:04
>>594
風土記だか古史古伝にも
「宇宙には中心は無い。また宇宙のどこを中心とするかで、宇宙の見え方は大きく変わる。我々は宇宙の中心点を地球とし神々の生まれたこの黄金人の暮らす日本を地上の中心とする」
見たいな事が書かれてるよ
インドのサンスクリットの古書など、他の書にも同じような記述が良く書かれてるらしいすよ
あと太陽系惑星の成り立ちや、肉眼では見えないシリウスやスバルの衛星の話まで書いてあるっす

ガリレオもプラトンだかアリストテレスの書いた古書の記述を読み、地動も月や金星などと同じ惑星である事を知ったんすよ
そもそもガリレオは天文学者じゃないですから


暦を作った古代の人達は天文運動をちゃんと理解してますよ
その上で地上におけるその惑星の周期を求めてた訳ですから
例えばマヤなどの金星暦や日本などの太歳暦って、太陽に対する金星や木星の公転周期を表してる暦ですよ

596 : 【大吉】 【1454円】 :2009/01/01(木) 03:24:26
肉食については、『神々の肉食と古代史』(平林章仁)って本があるよ。

古代人は肉を食わなかったという思い込みが広く存在するが、それは
誤りだということをとうとうと書いております。
昔は祭りのときに肉を献上するのはふつうだったとか。

この人の『三輪山の古代史』も結構良かった。

597 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/01(木) 03:31:38
例えば旧暦の太歳で使われてる十二干支ってのは、木星の公転周期を12分割して、それを表したもの
木星の公転周期=約12年(太陽を回る周期)
木星の会合周期=約400日(地球と会合する周期)

地上から見た場合、木星(歳星)の周期は400日すよ
なのに古代では木星の公転周期を太歳(干支)としてる
古代人はちゃんと惑星の成り立ちを知ってたからこういう暦を使えてたんすよ


そもそも月が地球の周りを回ってるって勘違いしてる現代人には、旧暦のように正確な月暦を表す暦は作れないんじゃないかな?

今は「月の公転周期27.32日」と言われてる
ちなみにこの周期を元に月暦を作ると、1年で約24日もずれるよ

古代の人達はちゃんと月の朔望の日数が約29日って言う正確な暦を使ってるよ

598 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/01(木) 04:07:51
地球の公転周期 約365日

木星の公転周期 約12年、会合周期約400日
水星の公転周期 約87日、会合周期約116日
火星の公転周期 約687日、会合周期約780日
金星の公転周期 約225日、会合周期約583日
土星の公転周期 約30年、会合周期約378日
月の公転周期 約365日、会合周期約29日


ちなみに会合周期は地球との会合周期
例えば木星から見た場合の他惑星との会合周期はまた違うよ

これを理解してない人には正確な木星暦や月暦は作れないすよ
今世界で使われてる西暦は約400年前頃に作られたものだけど、正しい月暦が表せない暦
月の天文を理解してない人が作ると、今の日本が使ってる西洋暦見たいな太陽暦しか表せない暦になっちゃうよ

599 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/01(木) 04:54:14
月が自転をしてるかどうかは「自転の定義」によるとは思うよ

例えば地球や火星見たいに、自らの地軸を中心に回る回転の事なら月は自転はしてない

けど単純に「その惑星の1日(朝→昼→夜)の周期」を自転と言うなら、月は1日の長さが約27日だから、27日で自転してるとも言える


600 :日本@名無史さん:2009/01/01(木) 05:17:13
卑弥呼は現在大塚角海老で泡姫をやっています。
邪馬台国が本当はどこにあったか知りたい人は会いに行ってください。
なぜ魏志倭人伝(通称)に誤りがあったのかは判っています。
中国人を倭国に来させるわけにはいかなかった。怖かったんです。
なぜなら卑弥呼はそれほどのカリスマ性があった。
顔面を一瞬に変化させ違う顔になることができた。私はビビリませんでしたが、
普通、人はアレをやられると恐怖のドン底になる。
ちなみに神武天皇を生んだのは卑弥呼です。

601 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/01(木) 11:27:04
改めよ
 オマエが伊勢参宮なんぞ、片腹痛い。w 管理職になったんなら
 論破したなどと虚勢を張らず、論述の小ズルイ真似は止めて姿勢を
 正せ。
>>600
卑弥呼は女K−20ではない。w 神武を産んだのは卑弥呼に非ず。

602 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/01(木) 11:52:34
おめでとうございます。
もん太君、地動説を古代ギリシアで唱えた学者はアリスタルコスです。

改めさん、動物の肉と言えば魚も鳥も入りますが?
四足の獣を区別するのは、ヒトと同じ哺乳類であり、共食いに通じる面は確かにあるのかも。
ただ獣を食べないのを「日本の心」とまで言うのはちょっと違和感あります。
日本人の基層には数千年の縄文文化があるのを無視できないと思うからです。

新年を迎えたが、今の暦は1月、2月の名前を残しながら、お月様の動きと無関係なのも違和感。
元号と西暦を併用しているのだから、月日も旧暦を併用すればよいと個人的には思う。


603 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/01(木) 18:12:12
>>599
月は恥ずかしがりやなので地球に対し絶対裏側を見せない。
これを自転という。

604 :日本@名無史さん:2009/01/01(木) 20:45:54
ドツボにデブ国にチョロ松か・・・
愛知県民にバカが感染しないか心配

605 :日本@名無史さん:2009/01/01(木) 20:59:34
ここは天文スレか?
誰がどう見ても、動いているのは空にある月や太陽。地球の自転や公転を感じる馬鹿はいない。
それは古代人も同じ感覚。

606 :改め:2009/01/01(木) 23:58:50
www

607 :記紀きりん:2009/01/02(金) 12:44:52
ある歴史の本を読んでいたら、都市のタイプには以下のいくつかがある。

1 河川の下流で、肥沃な土砂が田畑を生み、都市を生んだ(ナイル川)
2 貿易港(イタリアなんか)
3 鉱産物の産出地帯に近い工業都市

邪馬台国は九州なら1か2.畿内なら3のタイプといえるのではないか?

608 :日本@名無史さん:2009/01/02(金) 13:39:23
                         
                           
★韓国の首都名・「ソウル」は古代日本語か。

韓国の首都は「ソウル」という名前だが、韓国人はソウルの語源が分からないという。
中世・古代の韓国語(朝鮮語)をいくら調べても、ソウルの意味は不明だそうだ。

この「ソウル」は、実は古代半島の南部=カラに住んでいた倭人たちの言葉ではないか。
つまり、古代日本語ではないだろうか。
おそらく、「ソウル」とはソ・ウラ(曾浦)の意味であろう。
ソ(曾)は、熊曾・クマソのソであり、古代日本語で「遠くの」あるいは「遠い土地」という
意味の言葉である。
ウラ(浦)は日本語で「海辺」の意味である。
ようするに、ソ・ウラとは「遠方の海辺」という意味であり、半島南部(馬韓)に住んでいた倭人たちが、
京畿湾の沿岸地方をソ・ウラと呼んでいたのだろう。
半島南部の倭人が滅びた後も、ソウラという呼称は使われ続け、ソウルと訛って、
今に至っている・・・これが真実であろう。
韓国の首都名が日本語であるという事実は驚くべきことだが、古代倭人文明の残像が、
今の韓国にも残っているということなのだ。

今のイタリアに、異民族・ローマ人が残した古代文明遺跡が残っているようなものだ。



609 :日本@名無史さん:2009/01/02(金) 19:21:03
太国 ◆yVAs7uaYlY さん神武天皇は松本伊代だということは判っているんですが
だれが神武天皇を生んだのですか?神武天皇は西暦223年に生まれたと思うんですが?
教えてください。

610 :日本@名無史さん:2009/01/02(金) 20:42:09
神武天皇=崇神天皇である。崇神天皇=男弟である。
崇神天皇=日女命(卑弥呼)の義弟でもある。

611 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/01/02(金) 20:45:35
また説明できんことを

612 :日本@名無史さん:2009/01/02(金) 21:07:46
>>609
病院でもらった薬はちゃんと呑まなきゃだめだぞ。

613 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 21:51:57
>>609
回答よりも〜あんたは精神科へ行ってお脳を診てもらえ。

614 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/03(土) 01:02:22
>>608
また、私の不勉強・・・ソウル=京城(キョンソン)ではないんですね!
「ソウル」に該当する漢字表記はなく、「首爾」(簡体字「首尔」)を当てている。
漢陽(ハニャン)、漢城(ハンソン)も別の名前。

「ソウル」は、新羅で「みやこ」を意味する「徐伐(ソボル)」が転訛した固有語である等、諸説いろいろあるがはっきりした語源は分からない。
また、漢字表記(漢城・漢陽・京城など)の変遷に関わらず、古来朝鮮民族はこの地を「ソウル」と呼んできたとも言われているが、
これも必ずしも確証があるわけではない。いずれにせよ、「ソウル」は朝鮮語固有の単語であるため漢字表記は無く、通常はハングルのみで表記する。
(ウィキペディア{ソウル特別市」)

615 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 12:04:40

★韓国の首都名・「ソウル」は古代日本語か。

 韓国の首都は「ソウル」という名前だが、韓国人はソウルの語源が分からないという。
中世・古代の韓国語(朝鮮語)をいくら調べても、ソウルの意味は不明だそうだ。

 この「ソウル」は、実は古代半島の南部=カラに住んでいた倭人たちの言葉ではないか。
つまり、古代日本語ではないだろうか。
 おそらく、「ソウル」とはソ・ウラ(曾浦)の意味であろう。ソ(曾)は、熊曾・クマソのソであり、
古代日本語で「遠くの」あるいは「遠い土地」という意味の言葉である。ウラ(浦)は日本語で「海辺」の
意味である。
 ようするに、ソ・ウラとは「遠方の海辺」という意味であり、半島南部(馬韓)に住んでいた倭人たちが、
京畿湾の沿岸地方をソ・ウラと呼んでいたのだろう。
 半島南部の倭人が滅びた後も、ソウラという呼称は使われ続け、ソウルと訛って、今に至っている・・。
これが真実であろう。
 『ソウル』の語源が古代日本語であるならば、中世・古代の朝鮮語に語源を求め、いくら研究しても、
語源は絶対に見つかるまい。
 たとえば、現在の日本にはファーストフード店が無数にあるし、それらの店ではハンバーガー、
チーズバーガーが売られている。ハンバーガー、チーズバーガーはもともと英語である。
もし、日本人の誰かが、ハンバーガーやチーズバーガーを日本語だと勘違いし、古代日本語や中世日本語に
語源を求めて調査しても、語源は見つからない。もともと外国語だからだ。
 それと同じように、韓国の首都名・ソウルが、実は古代日本語だったとしたら、いくら中世以前の朝鮮語を
調べても、語源は見つからないであろう。
 ソウルの語源は、やはり、古代日本語に求めるべきではないか。韓国人はこの説を受け入れたくない
であろうが。
 韓国の首都名が日本語であるという事実は驚くべきことだが、古代の半島に存在した倭人文明の残影が、
現在の韓国に、まだ残っているということなのである。

今のイタリアに、異民族・ローマ人が残した古代文明遺跡が残っているようなものだ。


616 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 12:27:39
                           
新羅の首都を、金城(キムシロ)といったという。

キムは新羅王朝を建てた金氏の意味であり、シロは「国を治める拠点」の意味。
日本語の城(しろ)と同じ意味である。というより、城=シロは日本語である。
「キム氏の都」という意味である。
新羅人(ワイ族)が、首都のことを日本語で「シロ」と呼んでいたわけだ。

つまり、ワイ語=キムと倭語=シロが合わさったのが、金城=キムシロ。



617 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/03(土) 12:31:55
弥生情勢図
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/12/ad50jousei.gif
海洋民族「熊曾」にとってソ・ウラとは「遠方の海辺」では無い。


618 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/03(土) 13:02:57
>>615

好太王と倭が戦ったのが曾浦(ソウル)では?

半島南部にいた倭人の遠征地として、まさに曾浦。

好太王が渡海して攻め込んだ先も曾浦と言える。

高句麗語が消滅した言語なのでなんとも言えぬが。

619 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 13:26:59
                    
高句麗が渡海するのは不可能だろうな。
造船技術も航海術も、高句麗人にはなかったから。
そもそも、遊牧民族は船に乗ることを好まないからね。
渡海したのは倭人のほうだろう。倭人は日本列島と半島南部の間を
船で日常的に往来してたからね。





620 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 13:28:16
>>401 どうもです。K07,K09,K17,K20は同意しました。
合意が取れた国は○をつけました。他も少し考え直して現状は以下の通りです。

魏志倭人伝 其餘旁國の比定

K01 × 斯馬 しま 淡路(淡道)/志摩(嶋津)/熊野
K02 × 已(巳)百支 いほき 伊予(伊余)/美濃 ⇔岩城
K03 × 伊邪 いや 伊勢/伊予
K04 × 郡支(都支) とき 大和/都怒(周防) ⇔土岐
K05 ○ 彌奴 みの 美濃/石見
K06 × 好古都 こごと 葛城/上野

K07 ○ 不呼 ふこ 宇和
K08 × 姐奴 しの 信濃 ←四国か?
K09 ○ 對蘇 つさ 土佐(都佐)
K10 ○ 蘇奴 さの 讃岐

K11 × 呼邑 こおう 甲斐 ←近畿か?
K12 × 華奴蘇奴 かのさの 武蔵 ←近畿か?
K13 × 鬼 き 木津(大阪)  ⇔紀伊
K14 ○ 爲吾 いご 伊賀
K15 × 鬼奴 きの 紀伊
K16 ○ 邪馬 やま 山代
K17 ○ 躬臣 きゅうしん 越(高志)

K18 ○ 巴利 はり 播磨(針間)
K19 ○ 支惟 きび 備中(吉備)
K20 ○ 烏奴 うの 長門(穴門)
K21 × 奴 の 周防・安芸 ←この辺


621 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 13:41:37
>>620
昔から繰り返される不毛な作業・・・。
南無阿弥陀仏。

622 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 13:49:51
>>621
その、昔の成果で、それらしいのを教えてください。
特に「×」印の所で良いの無いですかね?

623 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/03(土) 14:19:52
>>618
>半島南部にいた倭人の遠征地として、まさに曾浦。

広開土王碑文
十四年甲辰而倭不軌侵入帯方界・・・倭寇潰敗斬殺無數
この「帯方界」がソウル?

>>619
>高句麗が渡海するのは不可能だろうな。
>造船技術も航海術も、高句麗人にはなかったから。

碑文より
而倭以辛卯年來渡海破百残■■■羅以爲臣民以六年丙申王躬率水軍討科(=百?)残國軍
広開土王は自ら水軍を指揮しております。


624 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 14:43:28
K12 華奴蘇奴 かのさの は、ココでしょ

 祝園(ほうその) 京都府相楽郡精華町大字祝園

K11 呼邑 こおう は、甲賀でしょ

625 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 14:44:32
>>620
K13 鬼 き 木津は大阪ではなく、奈良


626 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/03(土) 14:49:51
>>620
まず 何処の誰が国名を語ったか? ここから始めないと不毛な論。
都=た。
好=は。
かも。

627 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 15:16:05
>>622
貴方の成果が採るべきところが無いのと同じで何もありません。


628 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/03(土) 16:10:50
>>623
>この「帯方界」がソウル?

帯方界にソウル近辺も含まれます。
旧帯方郡の影響下にあった方面です。
後に、百残は高句麗の圧迫により、忠清南道方面に追いやられます。

629 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 16:12:54
>>626
中国人が國名を、勝手に付けるわけにも行かないので、
倭人が付けたものをそのまま記載したのでしょう
前にも問題になりましたが、ソースとしては、倭人から聞くか、倭人が書いたものを見るか
どちらかしかありません。

K06 好古都 こごと、こうこと、こうこつ、はこと、はごと、はごた、はごつ、ほかた
滋賀県 琵琶湖 大津 おごと温泉かも

※「都」は、他に、伊都國、都支國(郡支國)があり、
読み方が揃っているほうが合理的ではあります


630 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 18:51:35
>>625
木津は京都府だよ。今は木津川市になってるね
木津と高の原が県境。


631 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 20:33:11
じゃあ、この辺はこんな感じで。

K11 ○ 呼邑 こおう 甲賀
K12 ○ 華奴蘇奴 かのさの 祝園(京都・祝園)
K13 ○ 鬼   き 木津(京都・木津川市)
K14 ○ 爲吾 いご 伊賀
K15 ○ 鬼奴 きの 紀伊
K16 ○ 邪馬 やま 山代(山背)
K17 ○ 躬臣 きゅうしん 越(高志)


632 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 22:59:21
ビートたけしのテレビ見てたけど
一番の怨霊は大国主神だと思うんだけど…

633 : ◆.L.MXSPOgc :2009/01/03(土) 23:08:53
>>620
K02 × 已(巳)百支 いほき

山口県熊毛郡平生町佐賀伊保木
昔(戦前?)は伊保木郡佐賀だったらしく、広い範囲を指す地名であったことが伺える。
今はかなりの田舎だが、〜7世紀あたりまで結構栄えた土地だった。
(佐賀の白鳥古墳は山口・広島エリアで最大の前方後円墳)

ってどう?w

634 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 08:45:22
このスレは当時邪馬台国のゾウリムシだった太国 ◆yVAs7uaYlY の
オナニースレです。
おまえは一生ヒラ社員!!WWWWWWWWWWWWWWWW
馬が目!!!

635 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 10:44:40
>>633
なるほど、「伊保木」という地名があるんですね。
「五百木」か、「五百城」だとばかり思って探していたんですが、納得です。

K02 ○ 已(巳)百支 いほき 山口県熊毛郡平生町佐賀伊保木

636 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 12:44:47
次に、、、最後に「此女王境界所盡 」と書いてあるから
女王國の近所を最初に、遠方を最後に書いてあるような気もします。
そうであれば、「斯馬國」こそ近所で、「奴國」は遠方になります。

近所→遠方→近所も有りだけれども(山陽道→近畿→山陰道など)
そういう、分かりにくい書き方は有り得ないような気もする。
兎に角、一通り比定してから推敲したいと思います。

一応考えられる書き方は
・ブロック毎に記載(山陽道、山陰道、近畿とか、倭人の概念に基づく)
・近所→遠方
・近所→遠方→近所(Uターン)
・遠方→近所
---------------------------------------------------
其餘旁國遠絶不可得詳
次有斯馬國次有・・・次有奴國
此女王境界所盡


637 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 12:53:04
それより国の大きさをどのように考えるのかな。
旁国は傍らの国、何かの傍らにある小国だと思うが。


638 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 13:14:06
>>623
高句麗には水軍なかったじゃん。

広開土王が、どこの国の水軍を指揮するの。





639 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/04(日) 13:32:24
>>638
高句麗は内陸国でしたか?

640 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 13:53:58
                        
高句麗には水軍なかったじゃん。

高句麗には水軍なかったじゃん。

高句麗には水軍なかったじゃん。

高句麗には水軍なかったじゃん。

高句麗には水軍なかったじゃん。



641 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/04(日) 14:06:01
>>640
一度言えば分かります。
確かに建国当初はなかったと思いますが、この時代には海に出て倭軍と戦っております。
高句麗の広開土王が高句麗以外のどの国の水軍を率いて百残(百済)を破るの?
「倭」じゃないですよねw

642 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/04(日) 14:07:30
>>638

自国の水軍。

高句麗の広開土王碑は鴨緑江中流にある。
鴨緑江は黄海に流れ込んでいる。
旧楽浪郡(現平安北道平安南道)は高句麗の領地に含まれる。

643 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/04(日) 14:13:52
>>642
お、さすが王朝さん!
一般に高句麗=騎馬というイメージが強いですが、森浩一氏もこの点に関し、
高句麗は水軍も充実していたと注意を促しています。

644 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/04(日) 14:26:04
また来週。
GRRR・・・

645 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 14:27:29
                       
高句麗が水軍を保有していたなんて記録があるのかねえ。
なんか、高句麗ファンが必死に高句麗を大国化して見せようとしてる
みたいだねえ。

まあ、たしかに7世紀以前の時代における北方の有力国ではあっただろうけど、
水軍は持ってなかったでしょ(w

妄想はほどほどにしましょう。




646 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 14:34:55
                      
<広開土王碑文>
而倭以辛卯年來渡海破百残■■■羅以爲臣民以六年丙申王躬率水軍討科(=百?)残國軍


「倭王が水軍を率いて百済を討った」というのは、大和朝廷が百済シシ王を討った、
そういう意味なんだろう。

倭王が、なんで広開土王になるんだよ(w




647 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/04(日) 14:38:57
倭兵は九州小国か九州王朝の兵で大和朝廷の兵ではないな。

648 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/04(日) 14:46:50
>>646
漢文を読む訓練をしようね。
広開土王を称える碑文で、なんで倭を褒めなきゃいけないんだろうね。

649 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 14:46:57
                       
この時代に九州王朝はないぞ。
筑紫君は、神功皇后・応神天皇の時代からヤマト朝廷に従っている。
いや、景行天皇の時代には、もう朝廷の支配下にあった。




650 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 14:54:50
                          
倭を褒めてないだろう。

倭が水軍で攻めてきたのは、けしからん! 
と、書いてあるんだろう。




651 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/04(日) 15:12:45
>>649
景行天皇九州行幸は九州の視察であって、支配下までには至って
いない。その2代前の崇神の代で畿内周辺の視察のため、四道将軍
を派遣している。崇神のころはそれまで畿内の小国的勢力だった大和
朝廷が畿内で充実化しただけの時代であって、遠国に勢力は及んで
はいない。その前は孝靈天皇の山陰行幸があり、中国地方の視察か
倭の大乱の収拾に動いたわけで、崇神の四道将軍はその後の畿内
周辺、山陰とかの視察なわけであり、このころは九州に勢力は及んで
いたとは言えない。その2代後の景行でも九州支配などしては
おらず、九州の視察なわけである。その2代後の仲哀の世のあたり
で、とても九州支配など制覇など出来てるわけはなく、たまたま
起こった半島の事に仲哀、神功が動いたまでのことで、とても
九州支配などできてはいない。ただ仲哀のころは北九州では大和朝廷
のわりと強い影響力は培われて来たことは言える。
九州に支配的状況が出来て来た始まりは雄略天皇の御世からであり、
完全支配は文武世から始まって元明以後の時代だよ。九州王朝は
崇神の代あたりが始まりであり、文武の代ころで終焉をむかえた。

652 :うましか:2009/01/04(日) 15:15:37
>>646
「倭王が水軍を率いて」とは書いてないでしょう。
ただ「王」としか書いてないのだから自国の王のことですよ。

653 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 15:35:44
                         
ケイコウ天皇=ヤマトタケルは、九州のクマソタケルを倒して、
九州地方を支配下に置いただろう。

雄略天皇の時代は、九州は押磐派(市辺押磐皇子とその子孫の支持者)が
支配していたんだろ。
雄略天皇は九州地方を支配できていなかったんじゃね?
支配してたら、対馬に干渉してくる新羅を排除できたはずだ。
実際は、手をこまねいて何もできなかったらしいよ。
これは雄略天皇が、大宰府(筑紫宰府)をコントロールできていなかったから、
つまり、北九州地方が半独立国状態だったからだろう。
まあ、筑紫君が、形式的に雄略天皇に頭をさげることはあったかもしれんが、
九州地方は押磐派の本拠地だっただろう。筑紫君も押磐派。
億計王や弘計王、武寧王=橘王は、九州地方で保護されていたのだから、
雄略天皇の権力が及ばない地方だったことは間違いあるまい。



654 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 15:39:07
                      
>>652
倭が攻めてきたことを非難してるんだから、王は倭王のことではないか。
そう解釈すべきだろう。




655 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 15:40:23
>>653
するどい

656 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/04(日) 16:23:33
>>653
それは雄略が完全に九州を支配してたのではない。雄略が九州支配の
始まり的なものだということだよ。完全支配的なのは文武、元明の
代だよ。その先駆け的ブツが江田船山鉄刀の銘文だ。雄略の手前で
支配というより朝廷の影響力が強い九州の地方もあったわけで、
とりわけ北九州は確かだろうが、支配までは至らんよ。ただ皇族の
系が北九州を受け持ってたことは可能性としては言える。しかし
卑弥呼のころの大和朝廷の勢力は、ようやく畿内の体制が出来上が
ったころだぜ。

657 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/04(日) 16:33:49
>>653
日本武尊がクマソ征伐をしたろうが、それは九州制覇の意味では
ないだろう。当時九州と畿内はうすいとはいえ連絡性があったと
いうことだ。それがイヤガラセか知らんが朝廷に対立的であったと
いうことで、このままだと畿内への利害に関わるから日本武尊に
討伐をやらせたということだ。クマソが逆らっていたということは
九州が制覇されてないからだ。さらに討伐で疲弊してるであろうに、
九州制覇などまだまだできてはいない。なお彼は景行天皇では
ないよ。景行だというなら、まるで探偵小説の読みすぎであり、

 K−20=某人

とかの話同然的であり、事実はそんなことは否定すべきである。w
せいぜい尊が女になりきったとかがあるくらいだろ。w

658 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 16:53:27
>>650
他の部分も読めば自然に解る。
広開土王碑で何の断りもなく王と言えば広開土王のこと。

659 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/04(日) 17:23:16
>>654
>>665

『永樂五年・・・・而倭以辛卯年來渡□(海)破百殘□□新羅以為臣民』
『以(永樂)六年丙申王躬率水軍討科殘國軍□□・・・・』

永樂五年の条:(永樂元年)辛卯年に、倭が渡海して百殘□□新羅を破り臣民とした。
永樂六年の条:(永樂)六年丙申年に、(好太)王は水軍を躬率して殘國軍□□を討った。 以下好太王の戦果が続く。


660 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 17:31:58
>>637
邪馬壹國 可七萬餘戸、投馬 可五萬餘戸 、・・・で平均1.8万、島を除くと平均2.4万戸
このことから、其餘旁國はというと、少なくても、1國あたり1萬戸は見込んでおいたほうが良いでしょう。
ここで、人口密度: 1,000人/km2 ※1`四方に100戸(1,000人)とすると
生活圏としては、1國あたり、100 km2 もあれば、十分となります。
つまり、相当小さくてOKとなります。日本国中どこでもOK程度の感覚です。
勿論、食料を得るための地味の良い農地或いは栗林などが必要ですし、市場もいるし
公共の斎場もいります。漁撈中心とすれば、近所に良い漁場が必要です。
従って、縄張りとしては、最低でも港ひとつくらいでしょう。

661 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 17:42:12
>>656
>雄略が九州支配の始まり的なものだということだよ。

九州支配は、神武天皇の時代から始まっているだろう。
もともと、天皇家は九州地方の一族だからね。
ただ、ヤマトに遷都して以降、九州地方の豪族や皇族が、しばしば反乱を起こす。
九州はそういう土地なんだよ。
しかも、カラに近いので、カラ系豪族との間に政治的な人脈が生まれやすい。
大和から百済に飛ばされた御馬王・押磐王の兄弟が、北九州の筑紫君と
政治的に強く結びついたのも、九州とカラが近いからだよ。
筑紫君は、武寧王の誕生現場にも立ち会っているようだし、文周王の時代に、
幼児だった武寧王を九州で預かっている。

景行天皇は、ヤマトタケルのモデルの一人で、しかも第一のモデルだよ。
崇神天皇もモデルの一人だが。




662 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 17:58:47
>>661
>もともと、天皇家は九州地方の一族だからね。


しかし、畿内に来てからは九州の血はどんどん薄まっているわけだが。

神武の子は50%しかなく、孫は25%、3代目は12.5%で4代目は6.25%
崇神天皇では、九州の血は0.1%しかないんだよ。
もはや、九州出身と標榜することさえ無意味。




663 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/04(日) 18:00:18
>>661
神武から八代間は朝廷の勢力は畿内に留まる。神武のころ朝廷は畿内
の一つの豪族級に毛が生えた程度の勢力であり、過去いた九州
なんて朝廷の勢力はがら空きだよww  ガラ空きだから九州に
卑弥呼の女王国があったわけで、八代の後半から崇神のころだ。
とても朝廷の勢力なんぞ及んではいないね。九州に神武が過去に
いたという名ばかりだよ。

さらに

 K−20=A人=B人

のような考えは探偵小説とかの世界のことであり、神武の変装が
崇神であるわけがなく、景行の変装が日本武尊には現実論ではなり
えないぜ。君の完全な妄想なのだ。しっかりしたほうがいいぜ。w
笑われるから引っこめたほうがいいよ。

664 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 18:04:50
いやいや、

女王国よりもっと
強大な国が東にあるのに
書かないってのはおかしくありませんか?

665 :うましか:2009/01/04(日) 18:47:52
>>654

> 倭が攻めてきたことを非難してるんだから、王は倭王のことではないか。
> そう解釈すべきだろう。

他の方々も仰ってますが、王の顕彰碑に「王」と書いてあれば本人のこと以外に有りえないでしょう。
辛卯年に倭が渡海して百残新羅他を属国化した。
丙申年に「王」自ら水軍を率いて「敵国軍」を討った。
碑文では「敵国軍」の辺りが詳らかでは有りませんが、王が「倭」王で、討った対象が「百残」であれば、
倭王は前年に属国化した「百残」を討ったことになってしまいます。
そんな、アフォな話はありません。
「王」は広開土王で、前年に叛いて倭と結んだ「百残」を討ったのです。
こう書かないと顕彰碑の文章らしくないでしょう?

蛇足ですが、広開土王時代の高句麗は遼東、楽浪を治下に置いていますので「水軍」も使えると思います。

666 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 18:54:36
>>662
>九州の血

血の問題じゃなくて、統治システムの有無が問題。
神武天皇は、遷都してから、九州に対する統治権・領有権を放棄したわけではない。
ちゃんと北九州に宰府を置いているわけだから。統治は続いている。





667 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 19:01:48
>>665
高句麗はシナと敵対してたから、水軍があったなら、シナの文献に記録があるはず。
でも、記録はないでしょ。

百残を討ったのは陸地で討ったわけで、しかも、討ったぞと思ったら、
すぐに倭の反撃を受けて、北に逃げたんでしょ。




668 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 19:50:20
ちょっと疲れたというのもありますが、こんなところで、御勘弁願います。
何故か、山陰道は無視、尾張なんかも無し、大和は無理やり。。。ですが。

魏志倭人伝 其餘旁國の比定

K01 斯馬 しま 屋代島(周防大島/大島)
K02 已(巳)百支 いほき 山口県熊毛郡平生町佐賀伊保木(周防)
K03 伊邪 いや 伊予(伊余)
K04 郡支(都支) とき 安芸
K05 彌奴 みの 美濃(三野)
K06 好古都 こごと 大和/葛城
K07 不呼 ふこ 宇和
K08 姐奴 しの 信濃(科野)
K09 對蘇 つさ 土佐(都佐)
K10 蘇奴 さの 讃岐
K11 呼邑 こおう 甲賀
K12 華奴蘇奴 かのさの 祝園(京都・祝園)
K13 鬼   き 木津(京都・木津川市)
K14 爲吾 いご 伊賀
K15 鬼奴 きの 紀伊
K16 邪馬 やま 山代(山背)
K17 躬臣 きゅうしん 越(高志)
K18 巴利 はり 播磨(針間)
K19 支惟 きび 備中(吉備)
K20 烏奴 うの 長門(穴門)
K21 奴 の 周防・安芸

669 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 20:07:27
結局、邪馬壹國は高千穂で
その実態は、大和朝廷と其の国造ですな。

卑彌呼は、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)俗に神功皇后
その弟は、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)

官名の、伊支馬(いきま)とか、みますとかは、当時はそう呼んだんでしょう。
という訳で、やっと終止符が打たれました。

670 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 20:10:36
なんで葛城が息長氏の子になってんだよ

671 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 20:17:44
葛城は日女命の実家ぞ。

672 :うましか:2009/01/04(日) 20:19:39
>>667

>高句麗はシナと敵対してたから、水軍があったなら、シナの文献に記録があるはず。
>でも、記録はないでしょ。

何で「記録があるはず」なのか判りませんが・・・
遼東とか楽浪と中国本土の交通は海路が一般的です。
その遼東を押えていて海上交通の手段を保持していない方が不自然ですけどね。
ちなみに「高句麗には水軍がありました」と言う文面ではございませんが、
晋代に高句麗が爵命されていた号を紹介します。

「使持節・都督・遼海諸軍事・征東將軍・領護東夷中郎將・遼東郡公・高句麗王」

「遼東郡公」と言うのものが海と結びついていることが判ると思います。

>百残を討ったのは陸地で討ったわけで、しかも、討ったぞと思ったら、
>すぐに倭の反撃を受けて、北に逃げたんでしょ。

そんなこと何処にも書いては無いです。
つまり、そう思うということですね。
互いに「思う」だけで話しておりますので、これは平行線のままですね。




673 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 21:25:13
卑弥呼の名前はね なつし  と言うんだよ
この意見賛成↓
http://yumiki.cocolog-nifty.com/station/2006/06/post_2f8e.html
ところで多くの文物や人が今の韓半島からも?来て古代日本に貢献してくれたのはいいとしても

今の韓国いや李氏朝鮮の統治を見てもさすがにこの国がお手本だったの?と唖然としますよね
信じたくないどころか自分の国の歴史を残さず正視しない今の燐国はいや北も含めて権力を握ったとたん自己正当化の為何でも歪曲してしまう、
なんだかトーテムポールの文化も違うし
ほんとにこの人たち礼の国なの?文法が似てるといってもこっちに無い子音もあれば
あっちも発音できないバ行他、違和感しか覚えません
そもそもあの半島は今の民族が住んでいたのでしょうか?
確かに今の九州は北部は平均的な日本語の語尾がそれぞれ地域で違う程度
南部九州は特に鹿児島以南は言葉をはしょるのもありますが
文構造は同じでも別の言葉ですよね、、
当時の耶麻台と馬韓伽耶新羅百済と言葉は通じたのでしょうか、、
七枝刀みたいに当時の発音を漢字で音を表したものは残ってないのでしょうか?

674 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 21:43:01
宇佐八幡が卑弥呼様の墓(甘木かもしれないが)
するとその後に続くトヨと九州がマッタリハマル
やまたいではなくヤマト、
で、畿内は楢ナラ、、で東征よりもこの頃は逆に畿内から攻撃を受け九州が併合されてしまった
だからヤマトタケル倭武の名前をもらったと言うのは
畿内側が国名をつまり倭わをやまとと呼ぶ様になり
八幡様の総本山は武の神様、九州の地名が畿内に移設したと言うのはどうだろう


675 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/04(日) 22:33:49
>>669
卑弥呼が神功皇后だとすると、遠回しに子の應神天皇と、また仁徳
天皇の寿命が連続して百数十歳だったことを容認したことに
なるのだ。だから卑弥呼は神功ではない。

676 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/04(日) 22:36:47
>>669
卑弥呼が神功皇后だと主張することは、遠回しに子の應神と次代の
仁徳の寿命が連続して百数十歳であったことを容認することに
なるのだ。だから卑弥呼が神功であることは、成立はし難しい。

677 :冷静さん:2009/01/04(日) 22:37:23
そこいらの斎宮だったなら問題ないな。

678 :日本@名無史さん:2009/01/05(月) 02:50:31
>>666

>神武天皇は、遷都してから、九州に対する統治権・領有権を放棄したわけではない。
>ちゃんと北九州に宰府を置いているわけだから。統治は続いている。

日向が北九州を統治してたとか、崇神が北九州を統治してたとか、
そういう事実はありませんから。






679 :日本@名無史さん:2009/01/05(月) 05:03:48
ではどういう事実があるんですか?

王朝ですかwwwww

680 :日本@名無史さん:2009/01/05(月) 07:09:04
稲氷命が残って統治を続けたんだろう。

681 :日本@名無史さん:2009/01/05(月) 23:28:47
卑弥呼て神功皇后なの?


682 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 04:10:17
そうだよ。

683 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 06:33:51
卑弥呼=日女命=天照大神。

684 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 07:38:15
卑弥呼=日巫女=職名(個人名ではない)という説もある。

685 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 08:26:39
卑弥呼が天照?
オカルトですね(笑)。
卑弥呼の親はイザナギになってしまいますよ。
因みにキリストの娘って説もあるんですがね。
いや〜〜オカルトっすよ

686 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 21:03:37
今日、和歌山行ったら橋本市に 伊都って地名あったわ

687 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 21:34:33
>>686
それで?

688 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 22:57:31
なんだと

689 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 23:12:37
しかしだ、北史 東夷傳 倭國に以下のように記載されているのだから
放射説なんてありえないよなあ?
何故いまだに放射説なんてありがたがってる人がいるんだろう?

名末盧國又東南陸行五百里
至伊都國又東南百里
至奴國又東行百里
至不彌國又南水行二十日
至投馬國又南水行十日陸行一月
至邪馬臺國即倭王所都


690 :パオさん:2009/01/07(水) 00:10:50
結論として、卑弥呼は天照大御神です。

理由として挙げられる説として
卑弥呼の時代(西暦250年頃)に活躍した記紀上の女性キャラを調べると
天照大御神ぐらいしか該当者が居ないからです。

記紀上のキャラを西暦に置き換える方法として
生没年が明らかな飛鳥時代の天皇を古代に向かって辿っていく方法があります。
古代の天皇の在位が平均10年前後であることを利用して、「1代=在位10年」の梯子を掛けて行くのです。
するとどうでしょうか、西暦310年付近が神武天皇の活躍した治世だと分ります。
そして天照大御神は神武天皇の6代前の人ですので、彼女が西暦250年前後に活躍した事が分ります。

また卑弥呼との他の共通点として以下の事柄も無視できない

@巫女である
A弟がいる(スサノオ)
B太陽の象徴である(日の巫女=卑弥呼)
C船で使節を送っている(天の浮船)
D没後に世の中が混乱した(倭国大乱)

691 :日本@名無史さん:2009/01/07(水) 02:10:50

>>690

>天照大御神ぐらいしか該当者が居ないからです。
インチキな前提その1

>古代の天皇の在位が平均10年前後であることを利用して
インチキな前提その2

魏志倭人伝の記録と、日本書紀の記録が同一事件の反映と見ること。
インチキな前提その3

天照大神と卑弥呼が共通しない点。

天照大神は、八百万の神々から「共立」されたわけではない。はじめから現在まで統治者である。
魏志倭人伝の卑弥呼の弟は、スサノヲに該当するほど乱暴者ではない。むしろ、クナ国のクコチヒク。
卑弥呼が日巫女だというのは、語呂合わせの域を出ない。呼はコと発音したか微妙。
天照大神が魏から金印をもらったという神話は存在しない。
天照大神が岩戸に隠れたときは、神々が宴会をしたのであって、混乱ではない。





692 :日本@名無史さん:2009/01/07(水) 02:34:24
>>691
宴会は暗い闇からの
脱却・アマテラス復活の為の団結であって
混乱=宴会ではないよ。

>>687
いや…あったよ♪ってなノリだっただけで…

693 :日本@名無史さん:2009/01/07(水) 03:33:32
>>689
北史とか梁書とかを持ち出しても、元は魏略、魏志なんだよ。
魏志などが放射説で書かれているとしたら、北史や梁書は編纂者が誤って書いたに
すぎないこととなる。そして、実際に魏志は放射式だということさ。


694 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/07(水) 15:01:20
>>690

卑弥呼≠天照大御神

新羅本紀
「阿達羅二十年夏五月 倭女王卑弥乎遣使來聘」

天照大御神は五月蝿なす暗黒世界を嫌って岩戸に籠った方だから、
5月にはジっとしていて半島なんかに働きかけなどしないのだよ。
それに在位が平均十年が当たっているかどうか保証もない。
すなわち上記不等号が成立する。

695 :日本@名無史さん:2009/01/07(水) 19:22:40
>>694
( ´д )ヒソ(´д`)ヒソ( д` )やだー変態朝鮮人よ〜。
李朝弘文館の「増補文献備考」巻178日本交聘の条に、阿達羅王20年
「倭王仲哀死、歴年無君、人立其妻卑弥呼、為女君称神功天皇、至是遣使来聘」
( ´д )ヒソ(´д`)ヒソ( д` )やだー変態朝鮮人の歴史書は嘘ばっかりよ〜。

696 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/07(水) 19:54:14
154 阿達羅王即位(逸聖王長男)
173 阿達羅王20年

西暦273年仲哀死、
100年の誤差。

697 :日本@名無史さん:2009/01/07(水) 21:57:38
天照よりも前から日本に人は存在するし、王ももちろん居たはず。。
結局、ただの誇張された祖先の女の一人。
天皇系譜はどんなに遡っても実際にはせいぜい3,4世紀。

倭人伝の卑弥呼と大体重なるなら同じ人物と考えて検証する価値はあるよ。
特に、記紀は天照大神を九州に設定している。
倭人伝も九州。

698 :日本@名無史さん:2009/01/07(水) 22:59:27
>>696
>西暦273年仲哀死
どこからそんな数字がでてくるんだ?


699 :日本@名無史さん:2009/01/07(水) 23:16:42
卑弥呼=天照大神とすると、その後には神武東征が控えている。
邪馬台国九州説ばかりでなく、東遷説までも認めなくてはならなくなる。
畿内説としては、容認できないだろう。

九州王朝説も、邪馬台国時代に畿内に大きな勢力が何もなかったというのでは、
困ってしまうから、これも認めるわけにはいかないだろうな。

伊都国の比定地の問題と同じで、邪馬台国の所在地が大きく絡んでくる。

700 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 00:50:54
ええと・・・

ところでツクヨミ君は何処にいったん?w

DV(ドメスティック・ヴァイオレンス)野郎のスサノヲ君は出雲建国の父となるでおk?www

神話の都合の良いところだけ切り取ってんじゃねえよwwwwwwwwww




701 :パオさん:2009/01/08(木) 01:52:37
>>699
>東遷説までも認めなくてはならなくなる。

神武東征は文字通り東遷を意味してるんでしょうね。
古事記の伝説の舞台は主に九州と出雲だし。
(⇒畿内に高天原が有ったなら、畿内の地名が一番多くなる筈なのに!)

倭人伝の記述も素直に読めば、九州から外には邪馬台国は無かったという風に読めるし。
(⇒女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり!)

702 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 02:39:38
神武東征は、事実としても1世紀だよ。

だから、邪馬台国(大和王権)は畿内なのさ。



703 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 03:40:21
>>701
このスレに昔からある定説を教えよう。
「紀記を素直に〜」
なんて書く奴は全てデンパ。

畿内の地名が無い?
九州の地名も無いだろwww

704 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 03:48:29
>>699
伊都は北九州で両説とも大体同じだが、
水行を有明海ととるか、瀬戸内海と解釈するかで説が別れる。

因みに朝鮮で見つかった地図では日本は90゚傾いていて、
それを当て嵌めると畿内説が最有力になる。


705 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 03:54:39
このスレの素人ですまないが、質問。

●記紀(崇神以前)の記事に、史実の反映を積極的に認める人→このスレの多数派→その多くは邪馬台国九州説
●記紀(崇神以前)の記事をあまり重視しない人→このスレの少数派→その多くは邪馬台国マキムク説

↑ざっくりいえばこんな感じなのかしらん?

706 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 05:18:12
>>705
邪馬台国畿内説ですが古事記・日本書紀の崇神天皇以前の記録を重要視して
います。「歴代皇后に九州出身者が1人もいない」という事実が最も重要です。

707 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 07:23:38
>>706
古事記にほんとにそう書いてあるのかな?
http://hyocom.jp/blog/blog.php?key=56904

708 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 08:08:55
>>705
大和に都する大和朝廷の作った歴史書を、否定的に見るのが畿内説で、肯定的に
見るのが九州説というのが面白い。

709 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 09:49:47
>>708

違う。畿内説ほど、記紀と考古学が符合する。

710 :記紀きりん:2009/01/08(木) 09:50:23
恥と無知を忍んで書きますが、「漢書」には「東魚是国(ただし魚と是で一文字
)」が存在した、という記述があるそうだ。そういえば、魏志倭人伝にも、邪馬台国を
東にてくてく歩いていくと、やはり倭種の国がある、と書いてあったような

711 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 09:50:41
>>704
混一彊理歴代国都之図と魏志倭人伝で、邪馬台国は畿内で確定だな。
何より現代中国人博士の故、李立軍も一応納得してたわけだし。

712 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 10:23:03
邪馬台国も、その東方にあった別の倭人の国も同じ女王国。
両国とも母なる太陽の国、ニライカナイの継承国だったので、大和朝廷に狙われたわけだ。
大和朝廷は角を生やした侵略者ばかりなので、記紀を捏造する必要があった。
因みにニライカナイ側と大和朝廷側の争いは現代も続いてるよ。

713 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 10:26:52
>>712
ニライカナイ?(笑)と
大和朝廷の争いとは?

714 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 10:33:52
>>713
地球で誕生した原ニライカナイ哺乳類人と、それ以外で誕生した爬虫類開祖の人類魔族、基地外扱いされるからあんま言いたくないけど、アトランティス人。

715 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 10:36:48
>>714
はい...!?

716 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 14:40:56
>>708
そう決め付けると
原田大六や藤間生大の説明が出来なくなるよ

717 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 18:24:45
>>695 >>696
173 阿達羅王20年
西暦175年乙卯年
書紀皇859己卯(仲哀8年)

乙卯と己卯を間違えた?。書紀が伸長されているのが原因。


718 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 20:22:54
>716
原田大六はヤマト説だよな

東遷説がありうるなら原田説の年代観
今では相当問題あるが

719 :パオさん:2009/01/08(木) 22:28:24
>>702
>神武東征は、事実としても1世紀だよ。

どこから「1世紀」という年代を算出したんでしょうか???

>>709
>違う。畿内説ほど、記紀と考古学が符合する。

具体的にどの変の記述がでしょうか?

>>711
>混一彊理歴代国都之図

ずっと後の時代に描かれた地図です。

720 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 22:39:02
もう、高千穂に決まったんだから。あきらめなさい。

番号 魏志出発 | 比定地 | 方角点 交通点 距離点
S01 帯方郡 | 漢城 | 2.0 2.0 1.20
S02 狗邪韓国 | 金海 | 2.0 2.0 2.00
S03 對海國 | 対馬市 | 2.0 2.0 2.00
S04 一大國 | 壱岐市 | 2.0 2.0 2.00
S05 末盧國 | 芦屋 | 2.0 2.0 0.40
S06 伊都國 | 筑前 | 2.0 2.0 0.00
S07 奴国 | 中津 | 1.0 2.0 0.00
S08 不彌國 | 宇佐 | 1.0 2.0
S09 投馬国 | 佐伯 | 1.5 2.0
S10 (中継点) | 延岡   |
S11 邪馬壹國 | 高千穂 |
■旅程運合計 | 41.1

721 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 22:39:49

番号 チェックポイント | CP点
P01 帯方の東南に位置するといえるか(東南、東南東、南南東) | 5.0
P02 上海の東に位置するといえるか(東、東南東、東北東) | 3.5
P03 帯方郡〜女王國までは、12000里ほどか(不彌國から1300里:117km) | 1.2
P04 倭の地を1周した場合は、5000里ほどか | 0.0
P05 女王國の東に海があるか?千里(90km)ほどで島か州はあるか | 2.8
P06 (邪馬壹國)の南に(狗奴國)は置けるか | 3.0
P07 伊都國は女王國の北方で旁國含め諸國を検察可能な要衝の地にあるか | 3.0
P08 S05(末盧國)は港を持つか | 3.0
P09 S08(不彌國)は港あるいは船着場を持つか | 3.0
P10 S09(投馬国)は港あるいは船着場を持つか | 3.0
P11 S10(不明)は港あるいは船着場を持つか | 3.0
P12 S11(邪馬壹國)は陸路1月で行くのが普通か | 3.0
P13 S08(不彌國)〜(投馬国)は水行20日程度か | 2.1
P14 S09(投馬国)〜(中継点)は水行10日程度か | 2.1
P15 S10(中継点)〜(邪馬壹國)は陸行1月程度か | 3.0
■判定運合計 | 40.7
★判定運合計 全般運 81.8

722 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 22:50:19
>>719
確かに明代にやっと完成した、李氏朝鮮の地図ですが、しかし、だからと言ってデタラメとは言えませんよ。

723 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 23:00:29
九州王朝倭国って、邪馬台国よりも圧倒的に偉大な王家が治める国なんだから、別に邪馬台国が畿内でもいいじゃん。

契丹古伝の東大神国が、九州王朝の元々の姿なんだけどね。

だから邪馬台国なんてカス気にするなよ。

724 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 23:09:46
倭人伝の記述は、実際にやってきた人が書いたもの。
混一疆理歴代国都之図の日本は付け足しみたいなものだから、行基図か何かを
見て書き加えたものだろう。同列には論じられない。

だいたい、混一疆理歴代国都之図を現代の地図と見比べてみると、インドシナ半島は
ないし、インドの内部には大きな海があるし、かなりめちゃくちゃな地図と
いうことがわかるはずだが。

725 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/08(木) 23:14:42
神武東征は紀元前7年。この年九州出発。

726 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 23:28:53
>>724
ま、所詮チョン作の地図だから当然か…

ならば、14世紀に元で描かれた「声教広被図」の写し、「広輿図」に収められた「東南海夷図」ってのもあるんだが…?

727 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 23:40:28
>>724
北九州の地名における方位異常はどう説明するのかな?
例えば西松浦郡と東松浦郡との位置関係は??
それは九州西部を北に向けると辻つまが合うのだが???

728 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 00:23:49
>>724
混一疆理歴代国都之図が作られた時代を考えるべきだな。平安以降だろう。
そのとき、既に我が国は大和が中心になっていた。だから、我が国の地図を
手にいれた彼の地の人間は、倭人伝などをみて邪馬台国=大和と思い込んで
大和が南になるように混一疆理歴代国都之図に書き込んだんだよ。

729 :パオさん:2009/01/09(金) 00:42:40
混一疆理歴代国都之図は現在世界に2点のみ現存しており、いずれも日本にあるが、
有名な南北に転倒している日本列島が描かれているのは龍谷大学所蔵の地図のみであって
長崎の本光寺にあるもう一つの地図は正常に東西に描かれている。

日本列島が東西に長い「本光寺図」
http://homepage3.nifty.com/washizaki/paper/paper19.files/image003.jpg

730 :冷静さん:2009/01/09(金) 00:44:16
どう見ても日本地図が脇役添物でしかないんだが。

731 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 01:07:24
>>729
この議論は、これで決着ついたな。乙です。

732 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 01:26:53
邪馬台国女王卑弥呼は、何て名前の部族?民族?出身なんですか?

733 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 02:01:41
>>732
名前 ヤマトトトヒモモソヒメ
出身 現在の桜井市

734 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 02:37:53
>>732
そりゃあ、出雲族。

735 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 02:46:20
いや、やはりヤマトゥ、縄文倭人だな。
しかし、縄文人もいくつかの種類があったらしいんだけど、詳しくはわからん。

736 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 02:48:43
>>727
伊万里の北にあるのが東松浦半島、西にあるのが北松浦半島
西松浦半島ってどこにあるの?


          東松浦半島
             ↓
北松浦半島→ ┤
   

737 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 03:19:28
>>732
京都府天橋立の籠神社に伝わる「海部氏勘注系図」によると邪馬台国の卑弥呼は
日女命です。日女命にはたくさんの別名があって倭迹迹日百襲媛命、神大市媛命
中津媛命、日神、千々速日女命とも伝わっています。日女命の実妹には
葛木高千名媛がいて別名を大海媛と言い第10代崇神天皇の妃になっています。
したがって崇神天皇は日女命の義弟となり魏志倭人伝の言う男弟になります。
天照大神は別名が大日靈貴、日神と言われています。大日靈貴は日巫女の意味で
日女命とそっくりで日神は日神そのものです。天照大神は日女命なのです。
結論として、卑弥呼=日女命=天照大神、崇神天皇=男弟、となります。

738 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 04:20:54
>>737

卑弥呼は日女命だが、天照大神じゃないよ。
日女命が祭ってた神が天照大神。

739 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/09(金) 10:06:48
>>737
ww 卑弥呼はまるで「女K−20」だな。そんなに変装してたのか?
妄想ごくろう!!ww

740 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 11:58:15
>>734
出雲だと?んなわけないじゃん。もしかしてお前バカ?卑弥呼はノロなんだよ。つまり琉球〜九州一帯の支配者に付属してるシャーマン一族の長だったんだよ、たぶん。部族名までは知らん。

741 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 13:27:31
>>739
上杉謙信も名前がいっぱいあるよ

742 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 15:32:07
>>739
( ´д )ヒソ(´д`)ヒソ( д` )やだーハゲで加齢臭のメタボよ〜。

743 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 17:19:55
>>737
海部氏勘注系図とか、全然、理解できないんだが、確か、始祖は彦火明命か
なんかだったと思う。これは、天照大神の息子か孫に当たるんじゃなかったかな。

日女命?は、彦火明命の子孫だから、天照大神=日女命ってことはないんじゃないか。

卑弥呼についても、対外的に「倭王」だから、ちょっと違うと思うが。

744 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 18:04:07
>>743

彦火明命は、丹波=尾張系の祖神であって、
天照大神とはもともと系統の違う系譜だよ。
大和朝廷が各地と連合することで、系譜が混ざっていっただけ。

彦火明命は、丹波=尾張系の祖神ということは、銅鐸信仰の弥生時代の近畿の神ということ。
卑弥呼以前の男王の時代。
そこに、天照大神を祭る卑弥呼が女王として登場した。
天照大神は伊勢の神だから、マキムクには東海系土器が多く出土する。


745 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 19:49:42
卑弥呼は倭迹迹日百襲媛命のこと。「迹迹日」とは太陽を追いかけ祭った巫女のこと。「百襲」と
は100人を殉葬したこと。

倭人伝に出てくる「伊聲耆」とは弟の「いさせりひこ」、「掖邪狗 」とはやはり弟の「わかひこ」、
「伊支馬」は「いくめいりひこいさち」(垂仁天皇)、弥馬升や弥馬獲支は「みまきいりひこいにえ」
(崇神天皇)、「いにえ」とは50人を殉葬したことが伝承して和風諡号となった。
「奴佳碑」は中臣?(これは少しあやしい)

ちなみに「掖邪狗」は「ややこ」と読み、赤子のように若々しい男子という意味、それが伝承
して百襲媛命の弟の名が「若彦」になった。あと、垂仁・崇神天皇の名が、邪馬台国の官名
になってるのは伝承の混乱。

746 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 21:13:28
漢から倭奴国が「漢委奴国王」の金印を授与されたのが57年。
倭国王の帥升らが漢の安帝に拝謁を願ったのが107年。
卑弥呼が共立され倭を治め始めたのが178〜184年。
卑弥呼が魏から「親魏倭王」の金印を拝受したのが240年。
卑弥呼死亡が死亡したのが247〜249年。
倭の遣使が重ねて入貢したのが晋の265〜266年ごろ。
漢から魏、魏から晋へと帝位次々に禅譲されて続いて来た最後の王朝の陳が隋に滅ばされたのが589年。
倭王の阿毎多利思比孤が隋に使者を送ったのが600年。

王印は自分が正当な王である事を示すものであり、
印を拝受した王一人のものではなく代々王家で引き継がれるもの。
特に対中国の書状には自分が王である王印は必須である。
印は次の印を貰うまでは使い続けられる。
「漢委奴国王」印は57年から「親魏倭王」印を拝受した240年までの180年ほど使われたと考えられる。
その後中国から王印を拝受していないので「親魏倭王」印は240年から陳が滅ばされた589年まで350年ほど使われたと考えられる。

「漢委奴国王」は「親魏倭王」印を拝受し不要になったので廃棄されたとかんが得られる。「漢委奴国王」は博多湾岸で発見されているので、「親魏倭王」印を拝受した卑弥呼は博多湾岸に居たと考えられる。


747 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 21:29:09
>>746
それは違うだろう。「漢委奴国王」はあくまで、「倭」地域の中にある「奴国」という一国に対する
王印。それに対し西日本全体にゆるやかな他国連合ができた3世紀にもらった「親魏倭王」は、
いちおう「倭」全体を国とみてのもの。ちなみに当時の倭の中心地は、奈良マキ向。

あと台与時代に「親晋倭王」に取り替えてもらったと考えるのが普通では。

748 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 21:50:07
回転日本列島が15世紀の朝鮮人や8世紀の中国人によって生み出されたと
主張している奴がいるが、
思えば既に漢書には倭が朝鮮の南の彼方にあると記され、
論衡には倭人が江南の草を献じたと記されてるわけだから、
この事一つとっても「倭は南の方」と言う価値観の方が古いわけだ。
8世紀の中国の地図や15世紀の朝鮮の地図に見られる回転日本列島は、
古い地理感の名残と言うわけだ。

749 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 22:02:18
>>748
同意。
>その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。
皆、この文言を軽視しすぎている。当時の中国人の地理感として日本列島は実際より
大きく南にずれている。

750 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/09(金) 22:08:12
>>745
じゃぁ卑弥弓呼は卑弥呼なのか〜?wwwww

751 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 22:21:12
>>744
都合のいい解釈ばかりしているように思う。

それに、纏向に東海系の土器が出ていることがどんな意味を持つのかを
考えないと。
支配層にとっては、土器の形なんてのは関係ない。土器を作るわけでも、
食物の煮炊きや保存をするわけでもない。
遠い場所からわざわざ重い土器を持ってくる必要もない。
そこにあるものを使えばいい。

となると、大量の土器が見つかるのは、土器を作る人間の移動だろう。
では、いったいどんな人間が土器を作っていたのか。
一般的に、古代の土器は、女性が作っていたといわれる。
つまり、大量の土器の移動には、多くの女の移動があると思われる。

つまり、支配層の移動と土器の移動には特に関連はない。あえて言えば、
征服した地域から多くの女性を連れてきたと考えるほうがつじつまが合う。

では、支配層の移動によって何が変わるか。それは宗教的あるいは文化的な
価値観だろうと思う。

752 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 22:22:10
>>750
「卑弥呼」は「日の巫女」 「卑弥弓呼」は、俺は「卑呼弥弓」の誤記だと考えている。
「卑呼弥弓」は「ひこみこ」と読み、「彦のみこ」つまり男の霊的指導者と考えている。
まあ、誤記を前提にしているので批判されるのはしかたないがw

753 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/09(金) 22:25:37
だから字の読みが似てるからといって、同一人物だとする考えは
失敗だと思うよ。

754 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 22:33:24
>>748
上海の緯度は、北緯31度20分くらい。杭州は、北緯30度30分くらい。
鹿児島市の緯度は、北緯31度40分くらい。

だから、杭州は屋久島と同じくらいの緯度で、上海は、鹿児島市と同じくらい
の緯度になる。つまり、会稽はそのくらいの緯度になる。
もし、会稽からまっすぐ東に進めば、鹿児島市付近に到着する。
しかし、まっすぐ東に進んでも、海流に流されてもっと北に到着する。

海図も地図もない時代だから、実際に航海した人からすれば、会稽の真東は
九州の中部あるいは北部と考えたに違いない。

755 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 22:45:28
>>754
「会稽」というのは、現在は浙江省、抗州市の南方の山の名に会稽山として残っているが
かっては江蘇省から浙江省、福建省にかけて置かれた郡の名。
現在の「会稽山」をあてはめて考えれば754のとおりだが、当時の群庁の場所から考え
なくては意味がない。

756 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 23:07:46
洋上ならそれこそ方角の見定めが生死に関わる。

恐らくは倭人の先導で陸上を行った魏使は方向を間違えず
(朝夕に地平線の太陽を観測して夜には北極星を観測でもしたのか?w)

死と隣りあわせであったろう海上交通に関しては方角がいい加減だったと

・・・九州説論者のご都合主義だなw

757 : ◆.L.MXSPOgc :2009/01/09(金) 23:50:10
計其道里當在會稽東冶之東
「計」ったのは誰か?
実際に倭に来た人や會稽に居た人ではなく、
海を見たことも無い者が「計」ったのではないでしょうか。

ゆとりも酷いが、今の50〜70歳の日本語力もかなり低い。

758 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 23:54:58
>>755
確かに、東治(倭人伝では東冶)は、もっと南にあるね。

しかし、考えてみれば、「會稽東冶之東」と書いてあるのは、これくらい南に
行ったら、会稽や東治の東くらいになるんじゃなかろうか、くらいの意味かも
しれないな。

759 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 00:06:19
>>757
それはそうだろう。俺の読みでは、この部分は陳寿か、あるいは参考にしたという王沈の感想
だと思われる。ここで言いたいのは、当時の会稽郡の郡庁は台湾のやや北あたりにあったと
考えられ、当時の中国人の地理認識では日本列島の位置が実際より大きく南にずれていると
いうことだ。

760 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 00:14:41
>>759
郡庁と言いますが、会稽東冶は会稽(郡ではなくて山だな)と東冶と二つの
地名に読むべきでしょう。陳寿が三国志を書いた当時、東冶は会稽郡には属
していません。

761 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 00:23:48
>>760
そう、ただ南方の代表的な地名としてあげているのだと思う。だから、日本列島は南にあった
というのは当時の知識人のおおかたの認識だっただろうと・・・。

762 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 01:47:56
ここで新しい命題を・・・。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/yasumotosetu3.htm
これは安本美典氏の大和および甘木周辺の地名の類似であり、氏の東遷説の大きな根拠と
なっている。しかし氏は意識的に書き落としていることがあり、大和の地図に現在の奈良市を
入れてみて、甘木の地図で同じ位置関係に何があるか・・・太宰府跡である。

つまり大和の地名が甘木市周辺に移動したと考える。最近の発掘により太宰府の存在は
これなで考えられていたより大きくさかのぼることとなった。大和から太宰府に派遣された
当時の役人が、大和を懐かしんで周辺の地名をつけたと考える。

太宰府の長官の官名は権帥(ごんのそち)であり、倭人伝に出てくる一大率(いちだいそつ)
が元となっている。つまり大和地方は弥生時代から北九州地方に官人を派遣し、監視、支配
していたことの証左である。

763 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 05:07:57
>>762

地名の類似の件なら、
大和から甘木へ移動したということでFAだよ。

大和で一番の名物の三輪山や大和三山に類似する山が、甘木には無い。


764 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 07:34:29
>大和から太宰府に派遣された当時の役人が、大和を懐かしんで周辺の地名をつけた
>と考える。
だったら、大宰府を中心につけるはずだろ?
それに、地名の類似は南九州と近畿大和にもあるんだよ。これをどう説明するかな?
都城盆地の南に吉野、西に生駒、いろいろあるだろ。元は南九州と考えればすっきりするが。


765 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 08:00:32
>>761
単に南方なんて話ではないですね。会稽東冶を書いたのは、原資料を書いた使者です。
彼は計算したんですね。郡から万二千余里で女王国。そのうち南へ進まなかったのは
半島南の乍東と末盧国からの東南のみ。だから郡から南へ一万里ぐらいで女王国の境
界に至るとした。そして、女王国の終わり(南の境界)は万五千里くらいに考えた。
女王国が大きすぎる? いや、そうではありません。熊本あたりから種子、屋久まで
女王国に入ると考えてるんですよ。

そう考えれば、合ってるでしょう? 彼の1里は約80m、郡の緯度から会稽の緯度
まで約800キロ、東冶の緯度まで1200キロ。ピタリですね。

そして、魚豢、陳寿、范曄らは、それをとがめることなく史書に引用した。中国は普
通の里なら南北五、六千里しかないんだから、1万里となれば赤道付近、それを会稽
の東としたのは史家連中も1里=80mを知ってた証拠でしょう。

766 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 08:30:03
>>764
わかってやりなよ。
自信も根拠もないのに限って一方的な決めつけをしたがる。
そうしないと、誰にも相手してもらえないから。

767 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 08:32:33
>>765
計算した可能性はあると思うが、しかし1里=80mというのは根拠がないと思う。単に壱岐
ー対馬間などから割り算をして都合よく導き出しているとしか思えん。中国本土について
書かれている三国志の文献は1里=400mであることが多い。地域的短里説などという
のもあるが、ご都合主義といわれてもしかたがないだろう。

>>764
だから、太宰府を奈良として周りの地名をつけている。美典氏がその両方の地名をわざと入
れず中心にもしていないのでわかりにくいだけ。都城も奈良の地名が移っただけ。その地
の豪族が天皇家に后を出したりして人の出入りがあり西キ原の古墳群などもできた。

768 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 09:50:01
>>763
>大和で一番の名物の三輪山や大和三山に類似する山が、甘木には無い。

三輪山(目配山の別名)はある。三輪山のふもとには大己貴神社もある。(現地で調べるか、古い地図を調べよ)

大和三山は奈良の伝説にも出てくる山であるから、甘木にあるはずがない。

769 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 10:05:55
>>767
>1里=80mというのは根拠がないと思う。単に壱岐
>ー対馬間などから割り算をして都合よく導き出しているとしか思えん。

魏志東夷全部が短里で書かれている。
随書東夷も現地距離は短里で書かれている。

770 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 10:10:22
>>756
「その道里を計るに」とあるだろ。だから「会稽東治の東」という記述は、
会稽から東に渡海して倭国に到着した人間の証言ではない。

> 死と隣りあわせであったろう海上交通に関しては方角がいい加減だったと

は筋違い。>>757-758 の解釈が妥当。

771 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 10:14:44
>>764

地名の一致は四国と大和にもあるよ。

探せば日本全国にある。

772 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 10:38:01
>>765
全くその通り。しかも郡と会稽東治というのは当時の中国の土地なんだから、
その二点間の南北距離を短里で計っておいて、なのに誰も(原資料の作成者や陳寿ら)
そのことに文句をつけていないというのは重要。
東夷伝では短里を使う、という暗黙の了解があったのだろうね。

773 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 11:04:22
>>772
俺は考古学が専門なのでこのあたりの議論は苦手だが、知り合いの中国人研究者(とい
っても学生だが)はすべて短里説を否定している。その必然性がわからない、と。

三国の対立状況から、魏の属王国である倭を過大に見せかけるため、人口や面積(距離)
を過剰に記述してあるという議論もあるようだが、俺には考え過ぎとしか思えない。

774 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 11:28:36
>>773
>その必然性がわからない、と。

必然性ではない、習慣性だ。
東夷では7世紀の唐の侵略(旧唐書の時代)まで短里が使われていたと推測できる。


775 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 11:43:30
>>773
過大に見せかけるために万二千里などを書いたのならば、会稽東冶の東なんて
書くはずがないな。過大な表現だというのがバレバレだ。

776 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 12:17:59
次の命題・・・。
>また侏儒國あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸國・黒
  歯國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。


倭人伝の記述をすべて真実と考える輩には上記の記述を説明してもらいたい。侏儒國は
オーストラリアのアボリジニか?北海道のコロボックルか?それとも倭人が嘘を魏使に教
えているのか。

倭人に1年以上航海する技術があり、実際、遣唐使時代にも困難だった中国への渡海も
やってのけているので、九州の邪馬台国から穏やかな瀬戸内海を通って大阪湾まで来る
のは簡単だったろう。当時大和には唐子・鍵遺跡や初期のマキ向遺跡があったはずだが
それは倭人伝のどの国に当たるのか??それともこれない事情があったのか?

777 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 13:30:06
>>776
侏儒国などは伝聞だということが明らかだな。奄美あたりの島から普通よりかなり
小さい成人の骨が出たという話を聞いたことがある。土佐あたりにもそんな人種の
村が残っていたのかも知れない。倭人に1年以上航海する技術があったかどうかは
分からないな。南島から漂着した人がいたということかも。
大和は女王国の東にった倭種の人々の国だ。倭人伝の旁国ではない。

778 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 14:59:13
>>777
>侏儒国などは伝聞だということが明らかだな。奄美あたりの島から普通よりかなり
>小さい成人の骨が出たという話を聞いたことがある。

出土した人骨の非常な低身長で注目されたのは種子島の広田遺跡。
井上さんの邪馬台国大研究サイトに、シンポジウムのレポートがある。
http://inoues.net/study/kanaseki.html

・・・・・以下も別サイトから引用・・・・・
≪「超」小柄≫
弥生時代の日本列島には、渡来系弥生人と縄文時代から先住していた在来縄文系の
人たちのほかに、「南九州・南西諸島弥生人」と呼ばれる人たちがいた。代表的なのは、
鹿児島県・種子島南部の広田遺跡(弥生後期〜古墳時代)の「広田弥生人」だ。
出土した約170体は、顔付きは縄文人に似て立体的だが、身長は成人男性が約154センチ、
女性が約143センチと縄文人よりさらに低く、頭部の前後長も極めて短いうえに扁平な
過短頭、顔の高さも縄文人より低いという均一的な特徴がある。

 「これほど小柄な集団は、国内では古代人でも他になく、ルーツはよく分からない。
ただ縄文人に似た特徴もあることから、古くからこの地域にいた集団と思われる」
と竹中正巳・鹿児島女子短大准教授。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080915/acd0809150905006-n2.htm

779 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 15:37:37
侏儒國は種子島か屋久島のこと。
丁度、高千穂の東岸延岡あたりから
四千餘里に当たる。

裸國黒齒國は南方の国で
インドネシア・パプアニューギニアのこと。
丁度、高千穂の東岸延岡あたりから
復在其東南船行一年可至に当たる。

780 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 15:47:02
ちなみに、

西暦57年頃 後漢 光武帝が都の洛陽にきた日本の使者に金印を授けた
「漢委奴国王」の金印の事だが、これは、倭の奴国の王ではない。
委奴国の王である。それはつまり、高千穂の南、屋久島の人が洛陽観光にいったら
何を勘違いしたのか、金印を寄越したのでもらったという事。
委奴国≠伊都国である。

781 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 15:53:21
屋久島人の船長は、珍しい金印をもらっったので、
今度はこれで、何か旨い物に取り替えようとして
福岡へ行ったら、難破して沈没してしまった。
それが、後代に田んぼの中から見つかった。

782 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 15:56:21
ちなみに、

107年 倭國の國王「師升等」生口(奴隷)160人を後漢の安帝に献じて、願い出て謁見を求める。
これは、スメラミコト即ち天皇の事で、
大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)または
大帯日子淤斯呂和氣天皇の事である。

783 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 16:15:45

種子島に低身長人がいたのであればは、鹿児島から高知、和歌山にかけて、同様の低身長人がいたと言える。

現代でも、奈良県南部、和歌山県内陸部には高身長人が狭い地域(十津川流域)に多くいる。
又、静岡県にも、血液型Aの比率が特異的に高い地域(安部川流域?or大井川流域?)があったとの統計を見たことがある。

784 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/10(土) 16:26:06
>>645
>なんか、高句麗ファンが必死に高句麗を大国化して見せようとしてる
>みたいだねえ。

別に私は高句麗ファンではありません。
ただ「高麗の國の意呂山(おろやま)に、天より降り來し日桙(ひぼこ)の苗裔(すゑ)、
五十跡手(いとて)是なり」と筑前国風土記逸文にあるのは注目されます。

785 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/10(土) 16:35:13
>>780
屋久島はどうかと思うが、「倭国の極南界」だから博多ではないと思います。
宮崎県串間市(日向国那珂郡)ではないでしょうか。
ここからは玉璧も出土しているし、都井岬は「極南界」にふさわしい気がします。


786 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 16:41:48
いくらなんでも780はトンデモ説ではないのかw
ところで、北九州の邪馬台国と大和の勢力は行き来してたの?
当時の大和は名前も知られてない遠い国なの?

もう少し常識でものを考えろよな。三内丸山遺跡は青森にある5500年〜4000年頃の
縄文遺跡だが、新潟の翡翠や北海道の黒曜石が出土している。日本人の移動能力は
きわめて優れていた。倭人伝の描写がせまい九州内での出来事とはとても考えられな
いね。

787 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 16:46:06
>>786
いや、だからさ、邪馬台国の女王が住んでるっていうのは高千穂で、
其餘旁國に大和もあるんだって。別に不思議でもなんでもないって。

それに、屋久島のことは中国人も蓋し、屋久島だって云ってるよ。

788 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 16:52:57
>>786
ちなみに、

伊耶國というのが屋久島だよ。

(後漢書)光武中元年二 倭國奉貢朝賀 使人自稱大夫 光武賜以印綬 

(翰苑)廣志曰 
東南陸行五百里到伊都國 
又南至邪馬嘉國
百女國以北其戸数道里可得略載 
次斯馬國次巴百支國次伊邪國 
安西南海行一日有伊邪分國 
無布帛以革爲衣
盖伊耶國也中元之際紫綬之榮 


789 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 17:31:16
>>787
いーや不思議だ。782に107年倭国は生口160人を後漢に送っているとあるが、生口が
奴隷だとして、反乱等がないように後漢まで送るとすれば合計200人以上の大船団が必要。
それだけ航海能力のある倭人が、どうして大阪湾程度まで頻繁に行き来できないんだ?

>その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず

とあるのは当時の人の移動からは考えられない。大和=邪馬台国 その他の某国=関東
の毛野や北陸の越と考えたほうがよほどすっきりする。

790 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 17:39:37
>>789
大阪湾程度まで頻繁に行き来できないなんて誰も言ってないよ。

遠絶って云ってるのは中国人で、倭人は別になんとも言ってないよ。
中国人はそりゃあ、大陸の人だから、海なんて分からないから当たり前。



791 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 17:51:05
しかし、実際は頻繁には行き来できなかったと考える。奈良のマキ向遺跡から出土する
土器の中では東海地方のものが半分程度を占め、北九州のものはほとんどない。これ
は東海ー大和ー瀬戸内という邪馬台国連合ができており、古い勢力である北九州勢を飲
み込もうとする直前の状況だったと考えられる。

792 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 18:20:02
スマン、ここは考古学スレではないのでもうやめる。スレタイに戻って新たな命題。
>卑弥呼以て死す。

卑弥呼の死は自然死か?「以て」意味は?

793 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 18:45:37
>>791
纒向は、元々垂仁天皇、景行天皇が都とした所だから、大きな遺跡があるのは当然だよ。
ただ、それは、卑弥呼よりだいぶ前(100年位前)だけどね。

しかし、北九州の土器が無いから交流が無いなんて極論だろ。
江戸で伊万里焼きがたくさん出るから、東北とは交流してないなんて考える奴はいないよ。

794 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 18:48:52
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795 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 18:54:35
>>792
「卑彌呼以死」は張政らを倭へ派遣ししようとしたら、
卑弥呼は既に死んでいたということ。
元々、「年已長大」大分お年を召されていたとあり、
普通に老衰か何かだろう。

796 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 19:15:49
>>795
卑弥呼が共立され倭を治め始めたのが178〜184年だから、
卑弥呼も壹與と同じように10歳前後で共立されたとして
247〜249年頃に死亡したとして70〜80歳で死んだことになる。


797 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 19:23:49
>>796
>178〜184年だから
ってどこから出た話?

>10歳前後で共立されたとして
何故に10歳???

798 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 19:29:03
>>782はないだろう。
漢から倭奴国が「漢委奴国王」の金印を授与されたのが57年。
倭国王の帥升らが漢の安帝に拝謁を願ったのが107年。
「漢委奴国王」の金印は博多で発見されていて倭奴国が博多付近にあったのは確定。
帥升はたった50年後の出来事。
大足彦忍代別天皇や大帯日子淤斯呂和氣天皇に帥升なんて名前はない。
帥升の70〜80年後には卑弥呼は登場する。
倭奴国から邪馬台国の記事は連続しており、
全て博多付近の国にことと考えられる。



799 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 19:35:32
『梁書』「漢靈帝光和中(178〜184年)倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子卑彌呼為王」
178〜184年に倭王に共立され者が247〜249年頃に死亡している、
在位60〜70年であったことになり、
即位時に年少でなければこの在位期間は不可能。

800 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 19:44:50
>>795
>塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を
 つくりてこれを告喩す。
 ・・・これは対狗奴国戦争で張政が卑弥呼に対して檄文を読んだことを表すが、張政は
 その後帯方軍に帰ったというのか?そうかな?
>>796
 後漢書は「倭国乱」を「倭国大乱」とし、これを「桓霊間」とする。桓霊とは、桓帝(147-167)
 と霊帝(168-189)のことなので、180〜190年頃共立されたで大筋間違いではないだろう。
 また、台与が13才で即位したとあるので卑弥呼の十代での共立も考えられる。

卑弥呼は殺された(井沢元彦、松本清張)説もあるが、老衰で死んでもおかしくない年齢だ。

801 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 19:52:31
>>798
西暦57年頃のは「委奴国王」で屋久島の人(伊耶國)
西暦107年頃のは「倭(面土)国王」の「師升等」(すめら)で景行天皇(けいこうてんのう)

※天皇というのは「すめらみこと」と読む

802 :神奈川県民:2009/01/10(土) 19:55:53
次スレ
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!26
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1231584751/

スレ26へは、ここが終了次第、書き込むようにして下さい。


803 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 19:59:58
>>800
張政が行く前に死んでいたという事だよ

それに、中国は渡海能力が全く無いから、援軍にもならないし
せいぜい、書面を送って励ますとか、それだけ。
影響力は皆無。


804 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/10(土) 20:09:28
倭人伝登場人物
都市牛利=タジマモリ
伊支馬=イクメ=垂仁
倭王=タリヒコ =景行 名前の特定無し
伊聲耆掖邪狗=イワカ=磐鹿六雁
難升米=倭女王の部下で大夫
狗奴國=狗古智卑狗
イヨ=五百野姫

ついでに書紀より
倭女王卑弥呼=巾3尺の石
男王=筑紫の大木


805 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 20:14:28

イヨタン・・・・・・・・・・


806 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 20:24:06
ではスレも200を切ったので卑弥呼の墓について、上にも出てくるが皆好きなことを言
ってるようなので・・・条件を考えよう。
>大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人

@チョウとは何か。墓、陵とはどう違うか。
A径百余歩は三国時代の単位で150m程度でよいのか。
B徇葬する者、奴婢百余人・・・考古学的には日本では殉葬例はほとんどないが、これは
 事実か。

807 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/10(土) 21:57:36
>>806
「徇」が「殉」なのか、少し気になります。
ただ、魏志夫餘伝でも「有敵、諸加自戰、下戸倶擔糧飲食之。其死、夏月皆用冰。殺人徇葬、多者百數。」
ですね。倭人伝では「殺人」とは書いてない。

808 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/10(土) 21:59:36
>>782
107年の帥升が景行天皇だというなら、畿内説はもうオジャンだ。
なぜか? 107年以前先帝の垂仁天皇が生存していたわけで、垂仁は
生き埋めを廃止させ代替で埴輪を造るようになったから、卑弥呼の死
の時は後代だから同人の死で生き埋めなんぞするのはおかしい。

真の景行の代は倍暦計算で293年即位、322年崩御だ。

809 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/10(土) 22:01:24
>>793
卑弥呼より後だ。


810 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 22:10:41
径百余歩しかないのに100人も埋めるわけ無いよ
すし詰め状態じゃんか。埴輪だよ埴輪。

811 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/10(土) 22:13:40
わきに埋めたんでないの?

812 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 22:41:34
径百歩約23m周囲約70m、墳墓の周りに土饅頭を100個並べた、てことかな。

813 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/10(土) 22:47:31
倭人伝に埴輪だなどと書かれてあるのか?

814 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 22:50:32
卑弥呼の墓は南方古墳群だよ

815 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 22:51:39
>>812
どんだけ足が短いんだよ。百歩も歩けば60mは行くだろ

816 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 22:52:56
>>808
出た、倍暦!今は西暦4000年位?

817 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 22:53:36
>>802
次スレ立てるの早過ぎ
てゆうか、このスレ、もうみんな飽いちゃって、役立たずになってる希ガス

818 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/10(土) 22:59:53
>>816
倍暦やってたのは佛伝あたりまでだよ。以後はやってないようだな。

819 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 23:10:01
壹與の十三歳も倍暦ですか?
6歳?

820 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 23:10:44
殉葬に関しては、「日本書紀」垂仁紀に、垂仁天皇が生き埋めにされた人が死にきれず
犬や鳥に食われて泣き叫ぶのを聞いて(生きたまま下半身だけ埋めた?)なんとか取り
やめたいと考え、野見宿禰の進言により埴輪に変えた、とある。

埴輪かもしれんが、埴輪は吉備地方から畿内に移ってきたもので、九州にはほとんど見
られない。

821 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/10(土) 23:16:46
>>819
卑弥呼の女王国は九州所在だ。畿内と直接の関係は少ないから、
記紀に独立した卑弥呼らの記事がないわけだ。
九州では倍暦を行われていたかどうかは今のところ判然としない。
畿内と暦法が違うことはありうる。

ZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・

822 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 23:22:26
>>799
倭人伝は卑弥呼共立の時期を明記していないよ。後漢書や梁書は倭人伝を誤読
して作られたものだという有力説がある。そこを考えないとな。



823 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 23:27:45
九州王朝は倭国です。
九州王朝内の一般民衆は大半が倭人です。
倭人のルーツはタリム盆地であり、シュメールとスキタイ王家とその忠臣により構成されていました、最初は。
その後異民族との混血によって本来の倭人が誕生したわけです。
よって、邪馬台国に何時迄も執着する必要はありません。もっと誇りを持って下さい。邪馬台国はカスです。

824 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 23:34:46
>>821
あるじゃん。神功皇后として。

825 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 23:37:11
>>823
( ´д )ヒソ(´д`)ヒソ( д` )やだー変態九州土人よ〜。

826 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 23:40:54
>>815
>どんだけ足が短いんだよ。百歩も歩けば60mは行くだろ

1歩≒1フィート
歩もフィートも足の長さ
西洋人は足が大きいので、24〜25cm
東洋人は足が小さいので、23〜24cm
君の足は? 25.5の靴を履いているなら、足の長さは23cm位

足で寸法を測ったことがあるだろう?
右足のつま先に左足のかがとを着けて、
次に左足のつま先に右足のかがとをつけて、
ハイ、1歩。
君が普通の日本人男性で、裸足なら1歩は23〜24cmになるよね。

827 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 23:53:59
魏の1歩=6尺であり、約144cm。したがって100歩は当然144mとなる。
奈良マキ向の箸墓古墳の後円部の直径は約150mでありこれに近い。
ただし、これにも短里説をあてはめ1/5の30mと考えるものもいる。
http://homepage2.nifty.com/hyakkadairo/3594/sub9bunka/9sunpo.html

828 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 00:40:51
河童虫くんでてこい

829 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/11(日) 00:44:01
>>605
「天文学的知識」の問題


現在使われてるグレゴリオ暦は
1538年にローマ国のグレゴリウス13世が制定
キリスト教を国教としたローマは、キリスト教普及の為に、次々に他国に侵略、入植し、
その土地の暦や宗教を武力により全て排除し、世界をキリスト教での統一支配を目論んだよ

キリスト教こそが法でありキリスト教こそが唯一神
これが今使われてるグレゴリオ暦
ローマ法王はグレゴリオ暦制定以前の暦を廃止し、それ以前まであった宇宙の成り立ち(地動説)を主張する事を、学者(権力者、星占師)達に禁じた



「天動説」ってのは、グレゴリオ暦を制定したローマ帝国(キリスト教徒)らが唱えてただけの主張だよ

グレゴリオ暦が制定される以前までは、日本やアジアや北南米やインドや中東はもちろん
西洋ですら地動説での天文学だったんだよ



1、グレゴリオ暦制定以前の天文学(コペルニクス、アリストテレス、ソクラテスなど)

2、グレゴリオ暦制定以降の天文学


天動説なんて間違った天文学は、グレゴリオ暦導入以降の、キリスト教徒らの主張なだけだよ


830 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/11(日) 00:53:14
>>614
漢籍書(古代漢人達の韓国の呼び方)

・漢城(漢の都の意)
・漢江(長江の支流)
・漢国



今は「韓国」「朝鮮半島」って呼ばれてるけど、漢籍書では「漢国」「漢城」「漢半島」だよ


つか「漢」や「漢人」って中国の事じゃないよ
今の朝鮮半島の事だよ
古代漢人ってのは長江の支流(漢江)にいた民族だよ
だから日本と漢は交流が盛んだったんだよ

831 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/11(日) 01:01:12
ちなみに「ソウル」

これは古代漢人の漢籍書では「漢城」と書かれ、長江の支流の地にあった漢の都の事だよ
(だから今でも漢字表記ではソウルは漢城と書く)


んで和籍書(記紀)などでは「祖冨里」と書かれてて、発音は「ソウル」だよ

ちなみに和籍でもちゃんと「乾国の祖冨里(漢国の漢城の事)」って、ソウルや韓国の話は出てくるよ


つか天孫降臨の話とか良く読んだ方が良いよ

あれは日本から乾国の高千穂の祖冨里に降りたって、和の朝廷が乾国を統治したって話だよ

832 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/11(日) 01:09:58
>>746
倭の女王の話は唐書だか随書にも具体的に書かれてるからちゃんと良く読んだ方が良いですよ


「倭の女王が兵を引き連れ漢諸国に『我々(中つ国)の朝廷に貢ぎ物をせよ』と迫った」
って話がちゃんと書かれてるよ

漢倭奴国王→漢(帯方)を統治してた倭の王
親魏倭王→魏を統治してた倭の王

こういう意味だよ


ちなみに魏とか漢(弁韓、辰韓)とかは漢籍での呼び方であって、単に百済や新羅の事だよ

833 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/11(日) 01:21:08
「漢」を今の中国と認識してるなら、まずそこから間違いだよ

漢は今の朝鮮半島だよ
んで、民族は古代漢人。現在は遼東や満州に居て漢語を話す少数民族(満州民族と同一民族との説も有り)


今の朝鮮民族は漢籍では平壌にあった殷の箕子朝鮮が書かれてる

殷の平壌に箕子朝鮮民族
漢の漢城に古代漢民族
箕子朝鮮は鮮卑人じゃないかって話もあるよ
ちなみに漢民族は倭人や李氏朝鮮などに追いやられ満州や遼東に移民したよ


834 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 01:30:53
オカマ?

835 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 03:09:34
卑弥呼の墓が韓国南部にあるとしたら何処だろうか?

836 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 07:01:32
「漢」族=「満州」族であり、一般的中国人からみると少数である。第二次世界大戦時に
日本が「満州国」を打ち立てたのも、迫害される少数民族の国を作るという大義名分を
標榜してのものである。

漢=韓と考えても大きな間違いではない。

837 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 09:18:50
>>806
>径百余歩は三国時代の単位で150m程度でよいのか。
良いと思うが、余り信じ込むのも危険だな。もしかしたら、歩の長さが違うかも知れん。
それに、径は陵の一番長いところだ。けして後円部の直径ではない。

>徇葬する者、奴婢百余人・・・事実か。
事実だろう。近畿の古墳にその跡がみられないというのは近畿ではその習慣がなかった
からだろな。もっとも陪塚が問題だが・・
九州では北九州にも南九州にもそれらしきものがある。




838 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 09:26:07
美濃もん太は馬鹿ですか?キチガイですか?

839 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 09:39:40
>>827
>魏の1歩=6尺であり、約144cm。したがって100歩は当然144mとなる。

魏の1里は500mくらい、日本古代の1里は75m程。
この比率で144mの100歩は22m程。
古代の日本では100歩は22mくらいか。

840 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/01/11(日) 09:49:59
>>839
>古代の日本では100歩は22mくらいか。

いえ 24mです

841 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 09:56:29
>>837
径の字を用いてるため円墳、ないしはそれに近い形であるというのは間違いないだろう。
方墳であれば 「方百歩」の形で書かれるはずである。ただし円墳と前方後円墳は違うと
いう議論は当然あり得る。また、吉野ヶ里の亀甲形墳墓は「径」で測られるであろう。

九州地方でもこれは殉葬である、と完全に認められる事例は近畿同様ほとんどない。た
だし、弥生中期〜後期初頭には副葬品がまったく含まれない墳墓もそれなりの数があり、
土壌の炭素分析をすれば遺骸の痕跡が検出される可能性がある。その意味では主葬者
副葬品ともにほとんど出土しなかったマキ向石塚古墳も殉葬跡であったかもしれない。

4〜6世紀古墳の陪塚は、主古墳と建造時期がずれているものが多い。また、強制的殉葬
と自分の意志での殉死は異なるものであると考えられている。

842 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/01/11(日) 10:16:17
>>690
>結論として、卑弥呼は天照大御神です。

皆、初めはそう言うんだよね......。

>>732
卑弥呼は縄文民族では?
大陸から渡って来たというよりは、縄文民族でもともとそこの地域に住み着いていた
日本人(倭人)というか。

>>806
>B徇葬する者、奴婢百余人・・・考古学的には日本では殉葬例はほとんどないが、これは
>事実か。

でも古い列島では殉葬例があったと、なぜか我々は知ってるよね?
人から人へ語れ継がれて、古き列島がどうであxっつあか知ることができるのです

843 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/01/11(日) 10:23:03
>>793
>殺人徇葬

「徇葬」と「殺人徇葬」、「殉葬」の違いはどうなんでしょうか。

>>810
>径百余歩しかないのに100人も埋めるわけ無いよ
>すし詰め状態じゃんか。埴輪だよ埴輪。

倭人伝には「埴輪」とか書いてないんですよね。
現在のの霊園ではそれくらいスシ詰め状態になっているかと思うのですが。


844 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 10:28:21
>>841
>方墳であれば 「方百歩」の形で書かれるはずである。
これは「方」の意味を誤解されてるようですね。「方」は面積の表示であり、墳墓の
長さを表す言葉には使えません。
真四角な墓ならば、方百歩で一辺の長さが百歩といえますが、長方形ならば長辺、短
辺、どちらも百歩とはなりませんね。

845 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/01/11(日) 10:34:27
円墳だよ〜円墳。
弥生時代を代表する「土が盛り上がった丘」というか、
前方後円墳出現より前のお墓だね。

846 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/01/11(日) 10:41:19
民族についてはみなさんどう思っていますか?

@卑弥呼は九州に居た縄文民族

A卑弥呼は畿内に居た縄文民族

B卑弥呼は大陸から九州へと渡ってきた弥生民族

C卑弥呼は畿内(又は九州→畿内)へと、渡ってきた弥生民族

わたしは@ですが、みなさんは?
ちなみに天皇家は大陸から渡ってきた民族ですが、卑弥呼一族は違うような気がします。

847 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 10:43:21
841でも書いたが、主要埋葬施設の近くに何も埋まっていない墳丘が見つかる例はかな
りあり、土壌の化学的分析をすればよいのだが、なにしろ考古学学会は予算がないw
 
殉葬・殉死の定義は定まったものはないが、
@まったく本人が望まないものを殺して埋める例
A奴隷や使用人が主人が死んだ場合、自分も後を追うことになるとはじめから認識している場合
Bだれも強制するものがないのに自分の意志で後追い死した場合
があると考えられるが@Aの区別はけっこう難しい。

ちなみに中国では古代から大規模な殉葬例は知られており、日本でそれがあまり見られ
ないのは王権規模の違いではなく宗教的死生観の違いと考えられる。107年帥升等が160
人の生口=奴隷?を後漢に献上した例があり、それができるなら殉葬させてもおかしくは
ないのだが・・・。

848 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 11:07:24
>>827 >>839 >>840

1歩≒1フィート
同じ発想から出てきたものである。
歩もフィートも足の長さ
西洋人は足が大きいので、24〜25cm
東洋人は足が小さいので、23〜24cm
君の足は? 25.5の靴を履いているなら、足の長さは23cm位

足で寸法を測ったことがあるだろう?
右足のつま先に左足のかがとを着けて、
次に左足のつま先に右足のかがとをつけて、
ハイ、1歩。
君が普通の日本人男性で、裸足なら1歩は23〜24cmになるよね。

卑彌呼の墓は径百歩、即ち直径23〜24mの円形又は変形円形となる。

又、1里=300歩であるから、1里=69m〜72mでもある。

849 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/11(日) 11:14:05
>>843
改めさん、アンカーミス? >>807 ですね。
「殺人徇葬」=「殉葬」ではないでしょうか?
「徇葬」だけだと、その時に殺したかどうかは分からない。

>>846
私はBですね。
熊襲・隼人は@、天皇家はCでしょうね。

850 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/01/11(日) 11:41:30
う〜ん 愛知県民さんはBですか....。

@とB、どっちなんでしょうね。


851 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 11:55:47
>>846
弥生人の定義はきわめて難しく、縄文後期から弥生時代にかけて大陸から渡来した人
ということだろうが、渡来ルートも渡来期間も諸説に分かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA

俺的には邪馬台国の3世紀には、少なくとも西日本では縄文人と弥生人は大規模に混血
してしまっていると思うが・・・

852 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/11(日) 12:04:40
「高麗の國の意呂山(おろやま・蔚山)に、天より降り來し日桙(ひぼこ)の苗裔(すゑ)、五十跡手(いとて)是なり」
(釈日本紀に引く筑前国風土記逸文)
北扶余の祖についても、天帝の子・解慕漱(ヘモス)が天降りして建国したと伝え、扶余などの王族には「解」姓が多く見られるが、
「解」は朝鮮語で太陽・日の意とされる。

853 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 13:20:23
↑あぶない人。
インディオをポルトガル人が征服して現在のブラジルができたわけだが、混血は比較的急速
に進んだ。これは、ポルトガル人がスケベと言うより、軍事的征服として男性が多数入った結果
と思われる。アメリカの開拓者は家族での入植が多かったので、ネイティブ・アメリカンとの混血
はあまりない。
どのような形で弥生人が入ってきたかが重要だが、縄文人との混血はゆるやかに進んでいる。

854 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/11(日) 14:27:48
>>824
紀の日本側の原書群に記載が無かったということよ。紀の編者側は
卑弥呼が神功皇后ではないかと考えてたわけで、小康状態のため
神功39年等に合わせたもの。独立した卑弥呼の記載とは、倭人伝に
たよらず、独自に紀の原書群に卑弥呼の記事があって、それを紀に
載せるべきところの記事をいう。原書に卑弥呼の情報がまるで
ないから、載せなかったまでのこと。卑弥呼の情報を舎人親王らが
都合悪く隠したというなら、神功39年等の記事も倭人伝から挿入
するはずがなく、抜かすはずだ。

855 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/11(日) 14:49:35
紀の編者は皇紀が正しいものとして
皇紀239年の処に西暦239年景初3年の記事を載せた。
所が 神功52年七支刀の記事は、年の干支が合わない
神功前紀の日食を西暦273年と見ると 
神功52年壬申年5月己亥朔 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
西暦326年東晉明帝太寧4年丙戌年5月辛卯朔の事として載せた。


856 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/11(日) 15:22:10
>>855
あれ、日食は封印したのでは?
晝暗如夜。已經多日。
明らかに日食ではないです。

では、また。GRRR・・・

857 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/11(日) 15:33:53
唐松山さんは日食でない記事を日食にしちゃう。さらに名前が
似てるから〜もうある人物にしちゃう。
唐松山さんよ。じゃぁ卑弥弓呼は卑弥呼にしちゃうのか?ww

858 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 16:55:05
>>845
> 円墳だよ〜円墳。
> 弥生時代を代表する「土が盛り上がった丘」というか、

円墳が弥生時代を代表する墓型?
捏造すなw

859 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 20:34:04
なんとか上の方を読んだが、天体のことを書いているやつは基地外だな。

>鬼道に事え、能く衆を惑わす。・・・「鬼道」とは何か。
@太陽信仰   A精霊崇拝(ネイティブアメリカンに見られる、オオカミ信仰とか山信仰)
B預言者・予言者(この2つが違うことは知ってるが、面倒なので一緒にした)
C祖先霊崇拝・死者への祭司  D呪術(卜占とか催眠術?)  E道教(五斗米道とか)
F大地霊信仰(穀物霊といってもよい、米作り関係)
G仏教(呉では仏像鏡も作られているのでトンデモとまではいえない)
H五行陰陽説、あるいは儒教のような中国古代思想(まあないな)
Iその他

俺は考古学専攻なので上の分類はでたらめだが、いちお思いつくだけ並べてみた。
まだあるかもしらんが、さあどれだ。

860 :ローガン:2009/01/11(日) 22:26:30
>>859

>さあどれだ。

さあ? 私はC

861 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 23:37:05
>>859
C祖先霊崇拝・死者への祭司 
及び 
F大地霊信仰(穀物霊といってもよい、米作り関係)

「首長霊信仰」と「穀霊信仰」って事でw

理由としては(畿内説を前提にしてだが)

・C祖先霊崇拝・死者への祭司・・・首長霊信仰 
纏向の古墳で継続的な祭祀が行われたと思える跡がある事。
恐らく箸墓で外界と隔絶された形でその祭祀が途絶えたのではないか?
倭迹迹日百襲姫命が蛇体の大物主に逃げられて死んだ話と言うのは
そう言った巫女による祭祀の終焉の隠喩と考えれば分かりやすいと思うwwwwwwwww

・F大地霊信仰(穀物霊といってもよい、米作り関係)・・・穀霊信仰
同じく纏向で祭祀土坑から大量の炭化した籾殻や炊飯に使ったと思われる土器が出土していることから
各地から集まってきた人間らが一堂に会し丁寧に脱穀された米を共食するような儀式
後の「新嘗祭」のようなものが行われていたと推測。


862 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 00:11:25
>>861
うーん首長霊信仰はよく言われることだが、卑弥呼共立の過程を考えると、「倭国乱」で
疲弊した各地の王が話し合い、男権的・世俗的権力から超越した巫女的存在である卑
弥呼を国家連合の象徴として迎えたのではないかと思われる。その場合、「首長霊」とは
どういう存在なのだろう?

863 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 01:37:59
鬼道は、シャーマニズムじゃないのかな。
シャーマニズムは、トランス状態に入って霊(超自然的存在)と交信する状態
と定義されるらしいが、記紀にもそんなような記述がある。

たとえば、大物主命が倭迹迹日百襲姫に憑依し、「大和の国の主である自分を
重く祀れば、必ず国土は平安になろう」と託宣したとか、

神功皇后が、神懸りして「熊襲よりも新羅を攻めよ」との神の声を伝えた。
しかし、夫の仲哀天皇は従わず、熊襲を攻めたために病死した、とか。

現代でも、似たようなことをする女性がいるようだし。

864 :861:2009/01/12(月) 08:55:36
>>862
巫女による祭祀とかヒコヒメ体制みたいなのは元々あって
ある時点で男王の一本化に行き詰って
本来政治の表舞台には立つはずの無い巫女が担がれた…
言わば妥協案の産物だったと言うことなんじゃないかな?

卑弥呼個人のカリスマ性やらを過剰に評価するのはちょっと抵抗感があるなwwww

纏向で行われていた首長霊祭祀の首長霊と言うのは
あくまで奈良盆地を勢力基盤とした王のそれと言う事で良いんじゃないかな?

「首長霊」がさらに巨大化して「天皇霊」になるのは後の時代の話って事でwwwwwwwww



865 :861:2009/01/12(月) 09:10:04
それと>>859で挙げている道教的な要素については個人的には否定的。

確かに纏向からは神仙世界を表す神獣鏡も出ているが
そのモチーフが受け入れられたのと、宗教として道教が受け入れられたのとは別の話ではないか?

例えるなら今の日本で年の瀬12月、あっちこっちでクリスマスケーキが売れてクリスマスパーティがあっても
実際クリスチャンがそんなに多いわけではない・・・みたいな?wwwwwwwwww



866 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 09:40:30
確かに、道教は最終的には神仙化して不老不死を目指すという、徹底的な個人利益追求
の宗教なので、古代日本にはそぐわない感じがするな。(秦の始皇帝は道教を信じて神丹
=水銀を含むの飲み過ぎで死亡した説があるくらい)また、卑弥呼が五斗米道のように民衆
の病気を治すというような行為をしていたとも思えない。

いずれ祖霊をなぐさめるという形の祭祀が行われていたとすれば、古代日本人が死後の世
界をどうとらえていたかは興味あるところ。イザナギ・イザナミの黄泉行のような感じだろうか。

もし奈良に邪馬台国があったとすれば、卑弥呼がトランス状態になって三輪山の神から受け
た神託=預言を弟に伝えたというシャーマニズム的な側面も十分考えられる。861のAとB
かな。卑弥呼は民衆に姿を見せなかったと書かれているので、この場合弟によるパフォーマ
ンスも重要な要素だったろう。

867 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 10:42:09
追記
三輪山山頂は、大三輪神社から見て南東、箸墓古墳から見て北東寄りにあり、卑弥呼が
三輪山を祭るシャーマンだったとすれば、太陽信仰 861の@と関わりがあった可能性も
十分考えられる。つまり、三輪山方向に見られる朝日に対して祈っていたということだ。
この場合朝日の昇る方角を考慮すれば、卑弥呼の住居=神殿跡の位置をある程度特定
できるかもしれない。ただしこれは考古学的な考え方ではないので、批判はあるだろう。

868 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 12:17:34
鬼道とは、

中国人が云う鬼道とは、普通の日本人が言うところの祈祷であり、
現代の日本人も普通に行っている神道の祈祷のことだよ。
あまり、変に考えないほうがいいよ。

869 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 14:15:45
>>838
誰がバカでキチガイでハゲやねんw



つかどの話が違うと思うっす?
違うと思うなら違うと思うって言って貰えれば、ちゃんと根拠も説明しますよ

870 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 14:36:51
>>847
「殉葬」の意味、おれ解ったよ


つか前から俺、「邪馬壹國って単に韓半島にあった倭人が納めてた烏弥邪馬國の事じゃないの?」って言ってたけど

烏弥邪馬國のあった辺りの弁韓やら加羅やら新羅の歴史とかを調べたら
卑弥呼と同じように倭人で鬼道使いで独身で埋葬された墓とかの明記もされてる女王がいたすよ

加羅の弥烏邪馬國の善行女王の話と卑弥呼の話はそっくりすよ
ちなみに善行女王と皇極天皇も、倭人、女王、戦死、独身、殉死兵数百人とか、、共通点多すぎで、同じ人物の事じゃないかと思ってるよ



ちなみに卑弥呼と善行女王との共通点の多さから、同一人物と仮定した場合、卑弥呼の所に書いてある「殉葬者数百人」てのは
善行女王(皇極天皇も同じ)は沢山の兵を従えてた女王で、彼女は最後は他国との戦闘中に死んだんすよ
んで、その時に一緒に死んだ兵が200人ぐらい(だったけな?)

これを殉葬者って書いてるだけすよ


ちなみに善行女王は生前に「私が死んだときは私が産まれた土地である海の向こうの須弥山に埋めてくれ」って言ってたって事で須弥山だか狼山に埋葬されてるよ

ちなみに須弥山ってのはシュメール神話や仏教に登場する山で、三日月形と三角と四角と台形の島からなる土地の三日月の島の中央にあると言われてる山


これは信濃にある妙高山の事だよ


871 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 14:54:43
>>859
そこまで細かく分類する意味が良く解らないけど、古代信仰は大きく分けてタントリズムとシャーマニズムの2つで良くないすか?

てかシャーマニズムとタントリズムにしたってルーツは同じ信仰な気がするけど


あと古代には太陽信仰なんて無いと思うよ
古代エジプトのラー神とかも頭に赤い○が書いてあるから太陽神って解釈されてるけど、赤い○は古代では「無極」を表してる意味みたいだよ
で、無極の下に太極があり、陰と陽が産まれ、その下に五行(五惑星)があり、その下に、、って言う成り立ちすよ



天照はイザナミが天照を産んだ様子が具体的に伝わってる中津川市(中つ国)の安気の伝承によれば、天を明るく照らしたのは太陽じゃなく神鳴り(雷じゃないよ)すよ
天を照らした神鳴りがあり、その時に産まれた女の赤子だったから天照って名付けられたんすよ

ちなみに天照の胞は恵那山に納められ、天照は神坂を上がり最後は天つ高原(信濃)の皆神山に納められたすよ

んで、天岩戸の話はその天照が奉られた皆神山の岩戸をスサノオ達が開けたって話すよ


872 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 15:03:27
善行女王ねー。何に出てくるんだ。「三国遺事」かな?俺は全然わからないが、後三国以
前の朝鮮の歴史に関してはまともな資料はないと思うんだけどな。ねつ造バリバリだし。
加羅の話なら6〜7世紀頃かと思うが、倭人伝の記述をもとに後世後付けされたものでは
ないのかな。

870は上で天体のことを書いてた人だろ。スマンがまったくわからんかった。

873 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 15:07:38
>>870追加

「卑弥呼と善行女王とでは時代が合わないじゃないか」
って事を思われるかも知れないけど、そもそも「卑弥呼は西暦200年頃」とされてる解釈が間違ってるだけと思うよ
そもそもが漢籍書にある夏や周や秦や漢や魏の時代解釈も間違ってて、これらの国は同じ時代に同時に存在してた國(地名)の事と思うよ

あと書によって呼び方が違うだけで単に同じ國の事とかさ(三韓は単に百済、新羅、高句羅の事とかみたいに)

魏と倭なんて同じような字だし
韓、漢、秦は漢音の発音は全て「ハン」だし


874 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/12(月) 15:10:08
もん太氏はけっこう博識なところがあるのに、妄想もそれに比例
してるように多いのが困った点だ。直したほうがいい。

875 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 15:25:14
>>872
「善行女王」でくぐって見ればいろいろ出てくるっすよ^^
善行女王、皇極天皇、卑弥呼の共通点とか確認して見て下さい^^


卑弥呼の金印授の話も他の漢籍書(唐書だったかな?)では「倭の女王が数百もの兵を引き連れやってきて、『我々の朝廷に貢物をしろ』と迫って来た」って話で書いてあるよ


あと確か、金印授の出来事があった年の内容と暦の月までまるで同じだったりとかも俺、見付けたりもしたよ(どの漢籍書とどの女王の内容だったか忘れたけど)


つか俺、疑問があるたびに自分でいろいろネットで調べて見て、出来るだけ沢山の情報を見て、どこかでパズル見たいに共通点で繋がらないか見たいに考えたりしながらとかすよ


つか卑弥呼や善行女王とかだけじゃなく
例えば山幸彦とイワレヒコとかにしてもいろいろ情報調べると似たような共通点が多かったりするから、こういうのも単に同じ人物なんじゃないかとかは沢山あるすよ
国もそうだし

新羅の歴代の王の名や漢や魏の元号名と日本の天皇(元号)名なんて殆んど似た名前だったりさ


ああいうのみて「あれ?」って思わないすか?

876 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/12(月) 15:31:24
明智小五郎が明智光秀だとか桂小五郎だとかいう論は妄想が殆ど。

877 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 15:39:10
>>874
俺、学者や誰かの主張をまるまる鵜呑みにしたりとははせずに
とにかく出来るだけ沢山の情報や意見や解釈調べてみて、それらの情報とかの共通点がパズル見たいに繋がらないか考えてみてとかだから
どーしても最後は自分なりの勝手な解釈をしちゃってる事は事実っすよ


学者の意見や解釈にしても、コイツの言ってる事のこの部分は俺もそう思うけど、この解釈は違うだろって思いながらとかすよ
あと学者の解釈や通説となってる解釈なんかは、なんでそう言われてるのかって言う、その根拠とかをちゃんと調べるまでは間に受けないすよ

神部即位が紀元前660年と解釈された根拠なんて、調べて見たらひどかったすよ
通説では紀元前660年前かも知れないけど、ありゃさすがに紀元前660年ってのは間違ってるっすよ


卑弥呼の年代(つか漢籍書や漢、秦、夏とかの年代)も、あんなの怪しいすよ
何を根拠に魏書の景行2年が西暦126年と解釈されてるのかとか、ちゃんと調べて解るまでは鵜呑みにしない方がいいすよ
ちょっと調べて見たけど、具体的にその根拠ってのが出て来なかったすよ


878 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 15:41:33
徇葬と殉葬の区別も出来ないのか?

ここの住人は

879 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 15:47:44
>>876
一般的に言われてる通説なんかも、まずそうやって疑ってかかるんすよ

んで、それが通説だろうとトンデモ説だろうと、頭から否定する訳じゃなく、そう解釈されたり言われる根拠を調べてみるすよ


そう言われるようになった根拠や由来ってのは必ずあるはずですから
あといつ頃からそう言われてる話なのかとかさ
例えば皇暦なんて明治時代になって明治政府が作って唱えただけの年代なんだから、あんなのは単なる近代学者が新しく作った解釈なだけすよ

880 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 15:49:09
まあ、考古学では最初に「邪馬台国、卑弥呼」を想定して論じることはない。あくまで遺跡
遺物が学問の対象であり、そこで得られた事実で文献資料に合致する記述があれば、そう
かなと思うくらい。だから魏志を全面的に信じてるわけではないし、邪馬台国=3世紀という
先入観もない。ただ、マキ向遺跡の発掘結果から、3世紀の日本で最も規模が大きく、勢
力が強かった連合国家の中心地であることは間違いないと考えているだけ。

シャーマニズムとかはそういうだけでわかった気になってしまう便利な言葉だが、「何に対
して祈ったか」が重要だと考える。キリスト教にみられるような「唯一絶対神」があったわけ
ではないだろう。だから細かく並べてみた。あと「首長霊」といっても、俺は邪馬台国は吉備
や四国、出雲、東海等の連合国家だったと考えているので、大和の祖先だけを祭っていた
という考えはありえないと思っている。


あと「衆を惑わす」の部分に興味がある。マヤ文明(トルテカ人?)では太陽の運行を止めな
いために毎日生け贄の儀式を繰り返していた。マヤ文明は古代とは言えないだろうが、俺
がおもしろく思うのは、神官が民衆を従わせた巨大な権力がどこからきているかということ。
卑弥呼の「衆を惑わす」によく似ていると思わないか。

長文スマソ

881 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 15:49:22
>>879
>例えば皇暦なんて明治時代になって明治政府が作って唱えただけの年代なんだから、あんなのは単なる近代学者が新しく作った解釈なだけすよ

へー、美濃くんは博識だなあ。(棒読み)

882 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 15:53:34
>>878
魏志倭人伝の殉葬(字が違うかな?)の意味は、俺は卑弥呼と善行女王や皇暦天皇との共通点の多さからそれらは同一の話と仮定した場合には、女王が死んだ紛争で共に死んだ兵の数と解釈してるすよ

善行女王も皇極天皇も、紛争中に死んでてて、どちらも殉死兵は200人余とかだったはず
ちなみに卑弥呼の殉葬の人数も200人余でしょ?


善行女王と皇極天皇とかでくぐればちゃんと調べられるはずすよ

883 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 16:11:18
>>881
だから疑うのは構わないすけど、違うと思うならちゃんと調べて見て下さいってば

ちなみに皇暦が制定されたのは明治5年
神武即位を紀元前660年だと唱えた学者は那苛道世

那苛道世(なかみちよ)が何を根拠に神武即位を紀元前660年としたかとかはくぐれば簡単に調べられるすよ
紀元前660年前の出来事を調べるのは大変だけど、神武即位年とかは、それを唱えた那苛道世のたかだか100年ぐらい前の事なんだから、明治時代を調べるだけすよ

そもそも紀元前660年前の具体的な資料や情報なんて無いから調べられないすよ
だからいつ頃からそれが言われてたのかを調べりゃ良いんすよ


そうやって調べると、明治政府が明治時代になってから作って普及させた解釈が今では通説となってるだけの事がいっぱいあるすよ

明治維新後は、それ以前までの伝承や歴史観を改ざんして、新たに自分達が解釈した歴史観を普及させてる事が解るすよ

天皇の血統、歴代天皇、橿原神宮、宮崎神宮、神武天皇陵、他の○○天皇陵、出雲大社(改名)、、、

まだまだ沢山あるけど、これら全て、明治政府が新しく作った歴代解釈で、明治時代から始まった歴史観でしか無いですよ

ウソだと思うならちゃんと調べて見て下さい

884 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 16:17:57
>>880
>邪馬台国=3世紀という先入観もない。
そんな常識もないの? その程度のことは知っててもらわないと。

>マキ向遺跡の発掘結果から、3世紀の日本で最も規模が大きく、勢力が強
>かった連合国家の中心地であることは間違いないと考えているだけ
邪馬台国が列島で最も規模が大きく勢力が強かった国などということは言えない。
この程度のことを理由に、大和=邪馬台国などと発言されても困るな。
そう思ったら、行程記事はきちんと説明がつくのか、少なくともそれは考えてくれ。

885 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 16:27:10
権力者が自分達の都合の良いように歴史を改ざんし新たな歴史観を普及させる事は当たり前の事


明治維新ってのは記紀時代(つか少なくとも制夷大将軍がいた飛鳥時代以前)から続いてきた、日本の封建制度や文化や暦を全て崩壊させ
新たに日本を大英帝国型の民主主義やら政党政治やらの欧米化させる為の倒幕戦争すよ


坂本竜馬や勝海舟はアメリカのメーソン、薩長はイギリスのメーソンからの武器と金の支援を受けて、日本の幕府を倒した事は知ってるでしょ?

ちなみに日本幕府側は対抗してフランスからの軍事支援を受けてたよ
(ただ武器とかじゃなくフランスの軍人さんが来て戦略参謀にあたってただけ。この人がラストサムライのモデルの人。けど実際はこの人は、幕府側に潜り込んだメーソンのスパイなだけだった可能性もあるっす)


明治時代以降に新しく作られた歴史観は注意した方がいいすよ
いまだに根強い九州発祥説とかもこの時に作られた歴史観なんすよ


886 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 16:33:07
勝海舟は倒幕派か?

887 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 16:55:43
俺は一応、一般的に言われてる通説や歴史観に関しては、まず最初に「敗戦後に作られたもの」「明治維新後に作られたもの」の可能性を疑って調べるすよ
敗戦後に普及した日本の歴史観は、敗戦前までの日本の歴史観を廃止する為に新たに作られた解釈でしかないし
明治政府が普及させた歴史観は明治政府がそれまでの日本の歴史観を変える為に、新たに自分たちの都合よく解釈したり改ざんを加えた歴史観でしか無いですから


そもそも神武天皇なんて天皇は、明治時代前までは、どこにも奉られて無い人物すよ
しかも古事記にも先代旧事紀にも出てこない天皇すよ
古事記や先代旧事記では、神武ってのは天皇ってより元号として使われてる名前と思うよ(これは俺の勝手な解釈だけど)

ちなみに金山幸彦を奉る古い神社とかでは「神武」ってのは「建設、神武時代」って元号ってか、時代の呼び名として使われてる名前すよ



まあ神武天皇だの、今ある歴代の天皇の血統や歴代天皇位に関しても、明治時代に明治政府が改ざんして新たに作った天皇史だから、本当の歴代とそぐわなくて当たり前だけど

明治政府は天皇血統をそれまで記紀時代から続いてきてた北朝廷系の天皇の歴史を破棄し、新しく南朝廷の血統を正統とした系図で歴代天皇順位を作って、それを天皇史として歴史を改ざんしてるから

そもそも明治時代以前は、日本人の元祖は天照とされてたよ

そもそも記紀は建国神話じゃなく民族神話で、日本民族の歴史の由来を伝えてる書物だよ


記紀の時代には国家なんて観念は無いよ(そもそも国家なんてのは共和国に対する観念だし)
日本は共和国じゃないんだから建国なんてしてないよ
日本って国はどうやって建国されたのかじゃなく、我々日本民族はどんな歴史をたどって来てるのかを書いてあるのが記紀だよ


888 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 17:11:25
>>886
うん。
ジョン万次郎、福沢諭吉、坂本竜馬、勝海舟は倒幕派だよ
つか薩摩派(アメリカメーソン派)

後の海軍派

勝海舟と坂本竜馬達の作った海軍の秘密結社が、後の海軍の水交社だよ
この水交社が敗戦後に日本グランドロッジとなって、今でも日本のロッジの本部だよ


つか薩摩と長州は倒幕するまでは手を組んだけど、その後は長州派が薩摩派をおいやったもん
西郷隆盛も長州に反日本政府賊として殺されてるでしょ?(だから西郷は靖国にも奉られてない)

西郷を英雄として銅像とかを建てたのは明治政府じゃなく白州政子の兄の薩摩派の樺島や吉田茂達の反政府派(反陸軍派)だよ



889 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 17:36:07
こう言えば大きな批判を受けそうだが、「魏志倭人伝」それほど信頼できる資料なのか?
@現地人(倭人)が間違えたり、不確かなことをいったり、わざとだました可能性
A魏使が、誤解したり、自分に都合のいいように事実を変えた可能性
B陳寿が、自分なりの認識で書き換えたり資料が混乱した可能性 
C後世の誤記等

これらによって100の事実が50になってるかもしれない。資料批判は必要だし、批判して
もわからないことが多いだろう。「原典をみだりに変えてはいけない」とか言ってるやつは
果たしてどこに行き着くものやら。

>>887神武天皇は「壬申の乱」で出てくるんじゃないか。神武陵に勝利を祈って武器をささ
 げたとかなんとか・・・あやふやだが。


890 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 17:43:37
明治維新はまるで素晴らしい改革のように伝えられてるけど、単に欧米諸国が薩長を支援して、内外からの軍人圧力で日本の幕府を倒させただけだよ


明治維新って何をやったか良く考えた方がいいすよ
江戸にあった幕府は倒されて各地にあった城は焼かれ
京都の御所の皇族達は御所を追いやられ一般人と同じ身分にされ朝廷も無くなった

明治天皇が本当に薩長連合に死ぬまで対立してた朝廷の孝明の息子かどうかだなんて、そら怪しまれて当然すよ
そもそも本当に薩長が大和朝廷や天皇を崇拝してたなら孝明天皇の言うことに従ってるっての

まだガキの明治天皇を祭り上げ神格化して長州政府の政治統治に利用してただけすよ


明治政府が作った明治維新以降の新しい歴史観は疑った方がいいすよ
頭ごなしに否定するつもりは無いけど、明治維新後に普及した歴史観は、ちゃんとその根拠まで調べた方がいいすよ

紀元前660年が神武即位と定めた根拠なんてまるでデタラメな解釈から定められてますよ
こんなのを前提にしちゃダメすよ

891 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 17:51:15
>>889
日本書記ですか?

ちなみに壬申の乱は飛鳥時代すよ
金山幸彦の神社の社史にある神社が建てられた神武時代ってのも飛鳥時代の頃の事すよ

古事記では神武代の章として山幸彦やイワレビコ天皇が書かれてますよ


イワレビコ天皇を神武天皇と呼ぶなら、別に神武天皇でいいすけど、どちらにせよ神武天皇(イワレビコ天皇)の話は飛鳥時代の頃の話すよ



892 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 18:09:34
>>891
いやもちろん飛鳥時代だが。現在の神武陵は明治時代に、たいした考証もなく決められ
ただけだし、俺的にはその時代にあった神武(イワレヒコでもいいよ)陵が、どこで、どんな
性格のものだったかに興味がある。(実際、もう一つの神武陵といわれるのにも行ってみた)

891のいうように明治維新期に改ざんされた歴史的事実は数多いし、当時否定された天皇
陵もほとんど違っているのは周知のとおり。しかし・・・善行女王はないだろう。



893 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 18:10:14
否定→比定

894 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 18:41:50
>>889
D近代学者が書いてある内容を正しく解釈出来てない


これが一番の問題と思うすよ
例えば卑弥呼の話が書かれた景行2年

何を根拠に、近代学者はこれを西暦126年(だっけ?)と解釈してるのかって話すよ


唐書(だったかな?)に書かれてる倭の女王の話は卑弥呼と言う名前は無いものの、魏志倭人伝の卑弥呼の話とほぼ同じすよ
あれは西暦600年頃の話でしょ?


そもそも漢の三国史は中国の紀元前の話じゃなく
古代漢人の都が置かれてた韓半島の三韓時代の話だと思うよ

日本でも百済、新羅、高句羅の時代を韓三国って呼んで記紀にも詳しく書かれてる話だし

つかそもそも日本が付き合ってた大陸人って、満州人や古代漢人であって
中華民国と満州人と古代漢人による清朝廷の後継の満州国を侵略して建国された中華人民共和国作った江南人とはまるで別の民族すよ
つか今の中国からしたらモンゴル帝国(元)ですら我々中国の歴史とか言う訳だし


895 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 18:46:00
美濃もん太 くん 邪馬台国はどこにあったのかすべてここへ書き込んでくれ。

んで、女王の卑弥呼いうんは、誰を指すのか詳しくかきもみやがれw

896 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 19:02:44
>>892
善行女王って確かもういっこ名前あったすよね?
善徳女王だっけ?

皇極天皇ももうひとつ斉明天皇って名前がある
あと天豊財重日足姫とも呼ばれてる

あと皇極天皇って呼び方はされてるけど、皇極とか斉明ってのはこの時代の元号名なだけで、近代学者が勝手に皇極天皇とか呼んでるだけの名前かも知れない
(記紀では皇極天皇とか斉明天皇とか言う天皇名では書かれてない)
あと推古天皇なんかも皇極天皇と同一人物(じゃないとしても同時代の人物)な気がするし


とりあえず記紀に書かれてる名前に合わせるなら天豊財重日足姫って呼べば良いのかな?


なんか記紀では天皇って書かれてない人まで○○天皇って呼ばれてるから良く解んないすよ

例えば記紀では允恭3年に出てくる浅津間若子のスクネ王が、記紀には記述すらない允恭天皇とか言う名前で呼ばれてるし

元号と天皇名を誰かが間違えて天皇名として付けちゃったのかな?

とにかくややこしいすよ

897 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 19:20:38
>>895
他の漢籍書(随書や唐書や新羅書)にも倭人の女王の記述は有りますよ

ちなみに魏志倭人伝では邪馬壹國と書かれてるけど、他の書では邪馬國とか弥烏邪馬國って言う倭の女王の宮の国が書いてあるよ


これ、魏志倭人伝の卑弥呼と邪馬壹國と同じ話でしょ?
内容とかも朝貢とか秋祭金印授とか同じような内容だし


ちなみに弥烏邪馬國は倭人が統治してた新羅(弁韓、加羅)にあった國すよ
えっと今の釜山だったかな?



新羅(加羅)の歴史には確かに善行女王、善徳女王って女王が治めてた話があるよ
ちなみに記紀には同じように、皇極天皇や神巧皇后が兵を連れて九州から海を渡って百済や新羅を統治したとあるよ


これ全部違う人物? 卑弥呼以外に、烏弥邪馬國を治めてた倭の女王や、邪馬國を治めてた倭の女王や、烏弥邪馬國を治めてた善行女王や、善徳女王がいて
それ以外にも皇極天皇、斉明天皇、神巧皇后、天豊財重日足姫、豊玉姫、、羅が同じように偶然にも烏弥邪馬國があった土地を治めたの?


邪馬壹國と烏弥邪馬國と邪馬國を別の時代の別の國とかすると、訳解んなくなって来ないすか?


だからずっと「邪馬壹國と烏弥邪馬國は違う國なの?」って聞いてるんですよ


898 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 19:44:24
>>896
大丈夫かい?
皇極も斉明も奈良時代に淡海三船が献じた呼び名。
天皇家がこれを認め、以後の史書にはすべてこの名であらわされる。
近代学者が勝手につけた名前でも年号名でもないよ。
そもそも年号が天皇号になったのは明治天皇からで
それ以前は尊号や地名によってつけられることが中心。
天皇在位中に改元も頻繁に行われていた。

899 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 19:45:57
>>895
ちなみに魏書三國志伝以外の漢籍書に書かれてる「倭の女王が治めてた弥烏邪馬國」ってのがどこにあった國で、この女王は誰の事なのか調べて見て下さい


韓三国の時代を調べれば見付かると思うっす
そういや魏書の正式な名前も三國史なんすよね
日本の皇極天皇らの話も韓国三国時代の話ですよ


魏志倭人伝の三國志伝は本当に紀元前頃の中国大陸が三つに分断された時の話を書いた書なんすかね?
そもそも魏志倭人伝を書いた古代漢人がいたのは韓国の漢城ですよ


900 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 19:59:39
いいぞ美濃もん太その調子だ!
もっと訳の判らん話を創れ。


901 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 20:02:12
>>889
勿論、その辺の事は織り込み済みだ。
魏志倭人伝原理主義なんてのは殆どいないだろう。

ただ、他の中国文献はもっと怪しいので、一番それらしい
魏志倭人伝がネタにもってこいという訳だ。

で、それでも怪しい原典を、更にひねると訳が分からなくなるから
出来るだけ忠実に解読してみようというわけだ。

それに、日本のは、古事記や日本書紀でさえケチを付けるし、
他の古史古伝なんてのは軒並み偽書だと言い張る
三国人や赤学者が多いけど、中国の正史なら何故か文句無いらしい。

902 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 20:03:20
>>898
ありがとう
淡海氏調べてみたっす
「淡海氏は漢詩に優れ淡海氏が歴代天皇の漢風諡を定めたとの記述もされている」

ですね


つかおれやっと「諡」の意味が理解出来た気がするよ
「諡」ってこれいわゆる「通訳、和訳(漢訳)」の意味でしょ?



今の中国もそうだけど、古代漢人とか大陸の人って、日本人見たいに漢字を表音文字として使えないんすよ

だから天豊財重日足姫って書いても、中国人は「テン、ホウ、ザイ、ジュウ、ニチ、ソク、メイ」って意味の無い発音でしか読まない

大陸において漢字はあくまでもその字の持つ意味を読み取るだけの表意文字でしかないんすよ

だから天豊財重日足姫見たいな和名は大陸人に解る表記に変えてやらないとダメだったんだと思うよ


おれ前に記紀の中に書かれてる「諡」を抜き出していろいろ見て見たけど、
「死んだあとに付ける送り名前」とかの意味で使われてるようには読み取れなかったよ
人名でもない國名とかにも諡とかあったしさ
「またの呼び名は」とか「意味は」見たいな意味で使われてるような気はしてたすよ

903 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 20:14:53
>>902追加
諡名=漢人が理解出来るように表記した名前
これを付けたのが奈良時代、漢詩に優れてた淡海氏って意味すね

つまり允恭天皇とか推古天皇とか景行天皇って名前は、漢人が読んでも解るように付けられた漢語に翻訳された名前だね
諱や諡はその意味すね
多分、ちなみに元号が允恭の時代の時の天皇って意味が漢人に伝わるように允恭天皇とかって漢名を当てたからこういう呼び名になってるんだと思うよ


ちなみに魏志三国志にも諱や諡は沢山出てくる
あれもやっぱ日本が書いた三国志を漢人に渡してやったからなんか?
日本には平安時代に既に三国志を初め複数の漢籍書があったすよ


904 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 20:24:58
>>903
天皇号は日本国内で使われたもので中国皇帝に捧げられたものではない
漢人が天皇号を知ろうが知るまいがどうでも良く
漢人のためにつけた名前であろうはずがない
奈良時代以前、日本人は漢字を表音文字としてしか使ってなかった
しかしこの時代から漢字を表意文字として使うようになったことのあらわれなんだ
つまり、漢字の意味を知ってなるだけ良い意味の文字を名前に使うようになったということ
同時代、天皇号だけではなく貴族の子弟の名前も表意の影響で
良字をあてることが通例になってきている

905 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 20:27:54
>>902>>903
わざと?

906 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 20:28:41
>>903
何度も言うが明治天皇以前に元号が天皇号になった天皇は一人もいない
そして一天皇一元号制になったのは明治天皇からで
それ以前は一人の天皇の在位中に何度も改元が行われるのが普通だった
允恭の時代の元号が允恭だったなんて、事実無根。
現在、史料で確認できる最古の元号は孝徳天皇のときの大化であるはず。
しかも孝徳天皇は大化天皇と諡されていない。


907 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 20:31:54
前記した神武天皇の話に俺が興味を持つのは、壬申の乱において大海人皇子が、神武
陵に捧げ物をしたことや箸墓の戦いが強調されていること。これは、明らかに大海人皇子
側が、大和朝廷の始祖的人物に敬意を表し、その正統を受け継ぐことを強調して書いて
いることは、紀記に詳しくない俺でもわかるよ。

また皇極天皇についても、日本書紀は古代神話をうまく利用してその子である天武天皇
即位の正当性を演出している面があることもそのとおりだろう。・・・しかし善行女王はないね。

908 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/12(月) 20:33:43
>>903
次は日本において元号が何時から使われ始めたか、確認してくれ。


909 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 20:40:37
>>836
やっぱ古代漢人って満州人なんすか?
満州國は五族共栄を掲げてたけどその中に満州族と漢族があったから違う民族なのかと思ってた
満州國の五族って、漢族を漢字として、それぞれ独自の文字をも持ってた民族だし
ただ中国24史は元々は満州國が採用した歴史書であって漢籍の書を正式と採用したすよ
あれって清朝廷が持ってたのもあるかもだけど、日本にあった漢籍書を満州國に持ってったのもあるすよ

満州人の清朝廷の再建に尽力したのも日本だし

満州國の五族の漢人、満州人、日本人、モンゴル人、朝鮮人って、
漢籍書に書かれてる倭人や漢人や鮮卑人とかの民族なんかも知れないすね


中国は満州國の正史から満州を抜かした24史だかをそのまま「これが我々中国の偉大なる歴史」とか言ってるけど、あれ中国の歴史書じゃなく、漢人や満州人がや倭人達の歴史書すよ
だから遼東から漢半島付近に住んでた民族の事が書いてあるんすよ

910 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 20:51:38
漢風諡号については、中国皇帝に対抗し、天武期から天皇号を取り入れたため、中国に
対して国家の体裁を保つために作った側面も確かにある。「日本書紀」などの正史を作った
のも同じ意味合いはあるだろう。

漢風諡号は面白い・・・例えば持統や継体というのは、どちらも「国体を受け継ぐ」という意味
で、中国には「継体持統」という四字熟語がある。国家の混乱期の天皇にふさわしい。
また、崇神というのは「神の祟りをうけた天皇」という意味を持つという研究者もおり、日本書
紀の記述に一致している。淡海三船はよく考えてつけており、これだけでもいろいろなことが
見えてくる。・・・でも善行女王はないと思います。


911 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 20:58:37

淡海三船は大友皇子の曾孫だから、いろいろとアレですよ。





912 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 21:05:12
>>904
中国の皇帝ってなに?

つか魏志倭人伝を書いた司馬氏って日本に移民してきてた漢人って事知ってます?
鞍作氏すよ
秦氏は幡多氏だし
あと日本は平安時代に既に学校があり空海の漢字の師匠のなんとかって人も漢人だよ

つかそもそも漢音(訓読)の発音しかない漢字を、表音文字として使う事は無理だよ

まず日本には漢字以前に神代文字や仮名文字って言う表音文字があったんだっての

で、だから漢字が導入されても中国大陸見たいに表意文字のまま使わずに、まずは漢字の意味に和音をあてて
「天照(テンテル)」と書いても発音は「天照(アマテラス)」と呼んでたんだよ

つか表意文字って表意文字のままだと単なる象形文字と一緒だよ?


万葉集にしろ記紀にしろ「和歌」が沢山乗ってるじゃないすか?
和歌って発音に何の意味もない表意文字で書いても読んだ時に意味が解らない事とか解りますか?
それに漢音のままだと575にもならないすよ



つか日本は漢字伝来以前まで文字が無かったとか言うのを前提にしちゃってないすか?
文字を持って無かったのは大陸河南の中国人でしょ?
だから今でも中国人は表音文字として漢字を使えてないんすよ


913 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 21:24:47
↑なぜそこまで漢人にこだわるのだ??卑弥呼が6世紀の朝鮮の女王というのは、絶対
絶対、絶対ありえないし、単なる説だとしても面白くない。まあ俺だって2chだから半分は
不確かな想像(妄想でもいいがw)で書いているが、なぜ歴史のおもしろさをもっとすなおに
楽しもうとしないのだ??

914 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 21:26:08
>>906
そういやそっか
元号は関係ないや


つか元号表記も無いのに勝手に元号と解釈して神武62年とか年号振っちゃうと時代がおかしくなっちゃうすね


けどとりあえず淡海氏を教えて貰ったから諱諡の意味が何となく理解出来ましたよ

字の意味からしても「韓言で」とか言う事だと思うし

日本人が和音付けて表音文字として書いた字は確かにそのままじゃ大陸の人には見ても意味が伝わらないすもんね

ちなみに表意文字って基本的はそのままじゃ読んでも言葉にはならないから文字としては使い辛いすよ
ただ表意文字の利点ってのは、共に漢字の意味を知ってれば、その民族の言葉を知らなくても字の意味から内容を理解出来る所すよ
これは英語や仮名文字では無理っすよ


915 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 21:41:24
>>913
加羅、百済、新羅、任那が、何で朝鮮人になるんすか

つか認識が違うだけすよ
俺はこれらの国は国造りに乾国に向かった倭人の王が統治してた国って認識すもん

漢籍書にも倭人が韓国を統治してた様子とか結構具体的に書いてあるすよ


善行女王や善得女王も倭人って意味で言ってるすよ
つか新羅王や百済王も倭人すよ

あと天孫降臨神話を良く読めば天つ高原の子(天の孫)が国造りの為に乾国の高千穂の祖冨里(ソウル)に降り立った話って書いてますよ


「乾国てのは乾いた土地の国って意味で九州の事だ」
って言う解釈は間違いすよ

乾国、韓国、漢国
どれも漢音でハンゴクで、漢の事だよ
確か漢字の意味も、漢国や韓国も乾国も同じ干上がった土地って意味だったと思うよ

916 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 21:49:02
>>915
http://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
で今調べました。確かに漢と韓は乾と同様の意味の字のようですね。

917 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 21:51:09
卑弥呼ってのは倭人の女王すよ
だから当然、卑弥呼は朝鮮人や漢人や鮮卑人とかじゃないっす


http://www.google.co.jp/gwt/n?u=http%3A%2F%2Fwww.ceres.dti.ne.jp%2F%7Ealex-x%2Fkanseki%2Fmenu01.html%23MOKJI&hl=ja&source=m#MOKJI#MOKJI


↑つか漢籍書読むと、少しづつ違った書き方とかがしてあって、いろいろ書いてあって面白いすよ

あと漢籍書って、倭人や韓国の話が殆んどすよ

これ中国の歴史書じゃなく韓国や満州での漢人やモンゴル人や満州人や倭人や鮮卑人の歴史書すよ

随や周や秦や呉とかも中国の皇帝って意味で書かれてるようには思えないよ

漢籍書読む限り倭国が一番の大国すよ

918 :冷静さん:2009/01/12(月) 22:03:22
ああ、初めて同意できる意見が出た。

919 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 22:09:14
スマンいくら聞いても意味がわからん。3世紀というのは朝鮮半島南部と九州北部に明確な
国境線というのはなかっただろうし、東夷伝 韓伝にも「韓は、帯方郡の南にあり、東西は海で
限られ、南は倭と境を接する」とあり、「南は倭と境を接する」の部分に海の記述がないのは
中国側でもわからないほど人が入り交じっていた証拠と考えている。狗邪韓国は韓に入るん
のだろうが(別に違っててもいい)北九州との民族的差違はほとんどなかったはず。

「韓」でも「漢」でも「倭」でも他の中国人でも人種は同じモンゴロイドだし、遺伝子的な違いも
ほとんどないだろう。(よく知らんが)なぜ「漢」にそこまでこだわるのだ。どうでもいいことでは
ないのか。

920 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 22:10:26
もん太くんもん太くん頑張れ!!

その調子だ

921 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 22:29:10
>>919
楽波郡→韓半島北部(平壌)
帯方郡→韓半島中西部(平壌南部)


その南には倭王が治めてた百済や任那や加羅とかすよ
倭との境界に海が無いのは当たり前じゃないすか

で、韓はどこにあったって書いてありますか?
漢は中国の朝廷じゃ無いって事が解るでしょ?

つか中国側とか中国ではとか言われても、中国のどこの事なのか良く解んないすよ
その時代に中国なんて国は無いし、中国大陸ってチベットやマカオまで中国大陸すよ



そもそも中国正史って呼ばれてる書物は満州国が建国の際に纏めた満州正史の事で中国の歴史書じゃ無いすよ


922 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 22:41:09
>>919
その文章からも韓半島の帯方の南は倭が統治してた領土って解るでしょ?

http://www.google.co.jp/gwt/n?u=http%3A%2F%2Fwww.ceres.dti.ne.jp%2F%7Ealex-x%2Fkanseki%2Fmenu01.html%23MOKJI&hl=ja&source=m#MOKJI#MOKJI


↑他の漢籍書にはもっと具体的に書いてあったりするんで読んで見て下さい

ちなみにそれ魏志倭人伝からの引用ですか?
魏志倭人伝ってのは三国史って書物の中の話すよ


ちなみにこの時代の韓国は三韓時代って呼ばれ、漢籍書や記紀にも書かれてる有名な時代っす
漢の三国史ってのは中国の話じゃなく韓国の三国時代の事じゃないんすか?

ちなみに三国は百済、新羅、高句羅の事す
弁韓、辰韓、あといっこ忘れた
呉、魏、燭、、、

三国の呼び方は複数あるすよ


923 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 22:49:07
前王朝の歴史を編纂することが国家事業になったのは唐代からかな。皇帝の「起居注」を
記録する史官がおかれ、さらに清代になって二十四書が正史として選ばれ、「二十四史」と
呼ばれるようになった。・・・俺が知ってるのはこれくらいだが、違うのか?

満州国建国の話は近代史としてものすごく面白いが(甘粕とか)それはまた別の話。
・・・でも卑弥呼は善行女王じゃないよね。

924 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 22:58:42
追伸

別に俺は、政治的な主義主張とかはないし、任那とかのことも俺的にはあまり面白くなくて
興味がないだけだが。書記で任那奪回にあれほどこだわってるのは、かって支配してたから
かもしれんし天皇家の故地があったからかもしれんが興味の持てない分野だ。

上を読んで、暦法や倍歴に関することはほぼその通りだと思うが、これにこだわる意味は
わからん。



925 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/12(月) 23:00:41
もん太氏は倍暦否定だろ。古代は24ヶ月制だたっとかぬかして
いるぜ。ww

926 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 23:06:11
つか善徳女王の妹に真徳女王ってのもいるね
この女王も独身で、埋葬の話とか具体的に書かれてるよ

ただ真徳って名前は諡であって、漢名すね。
和名が別にあるって事なのかな?



あと卑弥呼と卑彌呼の違いって善徳と真徳の意味かな?
皇極天皇と斉明天皇も確か姉妹がどうとかって話が無かったっけ?


真徳女王は唐新羅連合の女王で
斉明は新羅討伐に白村江に行った女王だ

なんか似てるけど違う人物なんかあ?

弁韓(任那、加羅)の弥烏邪馬國に宮を置いてたどっちだろ?


927 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/12(月) 23:15:20
>>924
政治的な問題って、朝鮮や中国人の感情に配慮する見たいな事すか?

別にそういう意味での拘りは無いすよ
つかむしろ韓国人が「孔子は韓国人だ」って主張も一理あると思ってるすよ
漢は中国じゃなく韓国と思うよ
三國史も中国じゃなく韓三國の話と思うし


ただ古代漢人と今の朝鮮人は違う民族とは思うし、百済や新羅も朝鮮人じゃなく倭人が建国した国と思うよ
唐が漢人なら高句麗が朝鮮人なんかな?
この変は良く解んないや



928 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 23:19:00
ほれもん太 ほれほれ

929 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 23:35:44
これは、あれか?

畿内説が調子悪いとみるや、奇人変人を登場させて
話題を訳わからん方向に持っていこうとする高等戦術か?

930 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 23:41:21
イスラエルのような強烈な宗教的信念があって周りと隔絶しているのでなければ、民族は混血す
るものだし、○○人とかいわれても定義じたい不明確だと思う。

倍歴に関しては・・・3世紀の倭人にひと月の概念があったかは不明。月の動きを見ればわ
かるのであったかもしれん。しかし日本の古代神話では月神はあまり活躍していない。
中国歴は採用されていなかった。四季のはっきりした日本には倍歴はなかった。また倭人
伝の記述にある100才とかいう年齢にしても、俺は当時一般人(下戸)は自分の年齢すら
わかっていなかったと考えている。

あと「三国史記・遺事」は資料として扱うにはあまりに信用のできない記述が多すぎると思う。

931 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 23:42:52
倍歴→倍暦 スマソ

932 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/13(火) 00:05:27
>>930
今のイスラエル人は欧米からの白人移民の国であって、黄色人の古代イスラエル人とは人種も民族も違う人達すよ

それにあそこは宗教信念で対立してる訳じゃなく
今の60年ぐらい前に入植して来た自称ユダヤ人(実際には古代ユダヤ人とは人種も民族も別)たちが、エルサレムを武力制圧して占領しパレスチナを分断してパレスチナ人を勝手に武力で追いやった経緯があるからだよ
日本だってもし他の国の人にこれやられたらそら怒るでしょ?


中東諸国は宗教でイスラエルと対立してる訳じゃなく、人道的な観念で対立してるだけだよ


テレビじゃやたらイスラエルと対立する組織をわざわざ「イスラム原理主義者」って呼ぶけど、あんなのも宗教対立に見せかけるプロパガンダすよ

中東問題は宗教思想で対立してる訳じゃ無いすよ
あれはイスラエル建国の経緯がイスラエル側が一方的に悪いよ


そもそも古代ユダヤ人は白人じゃないよ
突然白人が日本にきて、我々は古代大和民族だ
とか言って占領して来たらアホかと思うでしょ

中東問題はそういう問題っす
今のイスラエル人は欧州からの移民達だよ
他民族が入り交じってて、移民達はそれぞれが移民してくる前に住んでた土地の言葉を話す
古代イスラエルとは何の縁もない訳の解らない国だよ

933 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 00:13:53
言い方が悪かったな。ユダヤ人は国家建国以前から各地に分かれ住んでいても、混血の
あまりなかった特殊な例としてあげただけだよ。上の弥生人とかのとこでも書いたが、今で
はもはや差違がわからなくなっているほど縄文人との混血は早くから始まっている。
お休みなさい。

934 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/13(火) 00:24:06
>>930
あと人種ってのは黄黒白の分類の事っす

んで、俺が言う民族民族ってのは、血統とか細かい事じゃなく、一番解りやすい分類で、話す言葉が同じかどうか程度すよ

上海人は上海語
満州人は満州語
モンゴル人はモンゴル語
日本人は日本語
香港人は香港語
朝鮮人は朝鮮語

漢人は漢語
北京と江南人は北京語
(これが中国では公用語として他の民族にも学校で教えてる。日本が朝鮮を統治した時には学校で公用語として日本語を教えてたのと同じ)



モンゴル帝国と漢と明と清と、、
これら全部違う民族の王朝だし、都のあった都市もバラバラすよ(モンゴルと明は北京だけど)
ちなみに毛沢東は明と同じ北京語を話す江南民族だよ

明は満州王朝や漢王朝とは民族も語源も都市も違う関係ない王朝だよ
大和王朝と李氏朝鮮王朝は別の民族の王朝でしょ?
それと同じで違う王朝すよ



だから複数民族が暮らしてる中国大陸には同時代に複数の王朝が存在してる訳だから中国の皇帝とかひとくくりにするのはおかしいんすよ
だから中国の皇帝とかじゃなく、中国のどの場所の民族の王朝なのかを言わないと意味が解らないすよ


935 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/13(火) 00:27:07
例えば100年前には中国には清王朝、李氏朝鮮王朝、タイ王朝、チベット王朝、ウイグル王朝、、、他にも調べればあるかも知れない

とにかく同時代に複数の王朝があるよ


中国の皇帝ってひとくくりで呼ぶのはおかしいすよ
そもそも100年前には中国なんて国は無いんだから中国の皇帝なんて人は居ないよ


ローマ皇帝の事をイタリアの皇帝とかEUの皇帝とか呼んだらおかしいでしょ?

936 :ルミ:2009/01/13(火) 02:40:32
あんまり言うとキチガイ扱いされて嫌なので言わないけど
基本、邪馬台国人はアトランティス人の末裔。
新生代第三期中新世に現生人類の祖先と分岐した系統の半水棲人類。

倭人伝の一節
「好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。」
「倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う。文身は亦以て大魚・水禽を厭う。」

937 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 07:12:44
そうか。君はもういないアトランティス人の末裔なのか。

938 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 08:25:38
もん太クンに何を言っても無駄だろうけど、三国史記と三国志は全く別の書物だからね。
編纂者も編纂時期も書いてある内容も全然違うから。理解できないだろうけど。

『三国史記』(さんごくしき)は、高麗17代仁宗(在位:1123年-1147年)の命を奉じて金富軾らが1143年に執筆を開始し、
1145年に完成させた三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の正史である。
朝鮮半島に現存する最古の歴史書。全50巻。

『三国志』(さんごくし)は、中国の西晋代の人陳寿(233年 - 297年)により西暦280年〜290年頃に編纂された紀伝体の歴史書。
後漢の混乱期から、西晋による三国統一までの三国時代についてほぼ同時代の人物によって書かれた重要な史料。
個人の撰ではあるが、三国時代の歴史を扱う歴史書としては唯一、二十四史の一つに数えられた。

(byウィキペディア)

939 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 08:43:52
私は邪馬台国の直系です!

940 :記紀きりん:2009/01/13(火) 10:10:21
連休中、ある歴史月刊雑誌の「古事記、日本書紀特集」を読んでいたら、
そのエディターが下記の疑問を呈していた。

1 316年に中国では西晋が滅亡して、周辺各国にも多大な動揺を与えている
  のに、記紀には何の記述もないのはおかしい。
2 いわゆる「倭の五王」の中国への朝貢の記事もない。

941 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 11:29:20
九州王朝の人ですね。

942 :記紀きりん:2009/01/13(火) 12:14:51
別に九州王朝とはかぎらないんじゃないかな。
ただ、「皇室は万世一系」的な考えにクエスチョンというところだろう。
畿内にあった邪馬台国を4世紀以降、誰かが滅ぼした、でもいいじゃないか。

943 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 13:18:15
三国志の編纂が280〜290なら、
その頃にはトヨは、
女王になってた事になりますね。

944 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 13:45:24

トヨタン・・・・・・・・・・


945 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 14:12:46
イヨタン・・・・・・・・・・

946 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/13(火) 14:39:03
>>930
四季がはっきりしてるとなぜ倍暦が無いことになるのか? 〜それで
仁徳前の天皇の超長寿をいかように合理的説明がつくのか?

947 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 16:14:31
>>946
>仁徳前の天皇の超長寿をいかように合理的説明がつくのか?

「還暦」



948 :ローガン:2009/01/13(火) 16:33:05
>>947
> 「還暦」

根拠は神功紀でしょうか?


949 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/13(火) 16:41:00
>>940
1 316年に中国では西晋が滅亡して、周辺各国にも多大な動揺を与えている

西晋の滅亡より 魏の滅亡と楽浪郡の消滅の方が衝撃的
神功は、仲哀を殺してでも直ぐに渡海したかった。


950 :ローガン:2009/01/13(火) 17:15:28
>>940

> 2 いわゆる「倭の五王」の中国への朝貢の記事もない。

「臣雖下愚…」とか言って将軍にしてもらったような過去は、スルーして当然でしょう。

951 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 19:56:12
>>946
まず神武の即位年が、前660年というのが無理。弥生前期ではないか。中国の前漢から後
漢に流行した讖緯説(しんいせつ)を採用して推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉
年)から逆算して1260年遡った紀元前660年(辛酉年)を、大革命である神武天皇即位の年と
して起点を設定した。

また、欠史8代は知っていると思うが、綏靖〜開化帝は非実在。崇神天皇の国風諡号が「ハ
ツクニシラススメラミコト」で神武天皇と同じ。これははじめて国を開いた天皇という意味であり
ここらあたりから大和朝廷の真の歴史が始まった。しかし、それでもまだ前660年にしたむく
いで誰の記憶にも残ってない崇神〜成務帝の年齢も引きのばさなくてはならなかった。

諡号には「ヤマトネコ」「タラシヒコ」のように同じ称をもつものがある。例えば、7代孝霊、8代孝
元、9代開化の諸天皇は「ヤマトネコ」の称を、12代景行、13代成務、14代仲哀の諸天皇は「タ
ラシヒコ」の称を共通にもっている。これらの称はずっと下って7世紀の初めに実在した天皇に
もみられ、後世の称を遡って付けた可能性が高く、その実在が疑われている。

また俺は神功皇后、応神天皇も非実在と考えている。この時代に三韓がらみで皇統が一回
途絶えたと。根拠もあるがこのスペースではとても説明できない。

まあ考えてみろよ。自分の家のひいひいじいさんの年齢や何かを説明できるか?日本書記
編集時に帝紀・旧辞他、ほとんどの資料は一般から失われていた。日本書紀編纂チームは
が最初の神武即位年を古くしたため、だれも覚えていない時代に実在しない天皇を入れたり、
個々の年齢を引きのばさなければならなくなった。

ひー疲れた。こんな長い文 誰が読むんだ。

952 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 20:51:19
>>951  30年くらい前の学者の多数意見ですね。直木さんのシリーズの影響でしょうか。

1、讖緯説については、基点としての601年には特に大事件は起きていないこと、
 1260年を遡る必然性が低いことに問題があります。
 むしろ、長寿伝承をそのまま信用して、最後に辛酉年で帳尻合せをした程度のことと
 考えた方が良いのでは?

2、後世の諡号との類似性は、むしろ後世に真似をした可能性もあり、決定打になりません。
  具体的な伝承があり、巨大な古墳もあることから、諡号だけで実在を疑うのは合理的では
  ないですね。

953 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/13(火) 20:56:51
またここから始めるか
諱を調べました。
ホ04185 マコトナを ヰミナとたゝゑ アネにミツ われはヨツなり
… タマキネいわく ヰミナには タラにヨつぎに ナとノリと あわせヨツなり
アマツキミ ヒヨリトまでを つくすゆゑ ヒトにのります キネとヒコ ウシもノリなり
メはのらず
カンヤヰミミノミコをうむ イミナイホヒト=後のミシリツヒコ
綏靖、神沼河耳、神淳名川耳 カヌカワミミノ ミコうみて イミナヤスギネ
安寧、師木津日子玉手見、磯城津彦玉手看 イミナシギヒト タマデミコ
懿徳、大倭日子{金且}友、大日本彦耜友 ヨシヒトの ヲヲヤマトヒコスキトモ
ソフヲシエ カエシネミコをヨツギなる コトシソヤなり 懿徳12年 カエシネを太子とす、18歳
孝昭、御真津日子訶恵志泥、観松彦香植稲 ウチのうむミコ カヱシネの イミナミルヒト
孝安、大倭帯日子押人、日本足彦国押人 イムナヲシヒト ヤマトタリ ヒコクニノミコ
孝霊、大倭根子日子賦斗邇、大日本根子彦太瓊 イムナネコヒコ ヲヲヤマト フトニノミコ
孝元、大倭根子日子国玖琉、大日本根子彦国牽  ヤマトネコヒコクニクル イムナモトギネ
開化、若倭根子日子大毘毘、稚日本根子彦大日日 イミナフトヒヒ ワカヤマト ネコヒコノミコ
崇神、御真木入日子印惠、御間城入彦五十瓊植 ウチのうむミコミマキ イリヒコの イムナヰソニヱ
垂仁の兄 ミマキヒメ シギにうむミコ  トヨキヒコ イムナシギヒト
垂仁、伊玖米伊理毘古伊佐知、活目入彦五十狭茅 イクメ イリヒコの イムナヰソサチ
景行の兄 ニシキ イリヒコの イムナヰソキネ その前に生まれたホンヅ(譽津別)の皇子は?
景行、大帯日子淤斯呂和気、大足彦忍代別 ヤマト オシロワケ イムナタリヒコ
成務、若帯日子 稚足彦 ワカタリヒコ  諱ウヂヒトは ヨツギミコなり
☆ イミナを四つに分けるのは、自分でして下さい。



954 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 21:08:03
>>952
まあな、たかが文献記録だからな。倍暦厨がうるさいので書いてみただけ。ただ、百舌鳥
古墳群・古市古墳群等の被葬者の比定はすべて違ってるよ。おそらく日本書記に書かれ
ているより数人多い大王(重臣じゃない)がいるね。

955 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/13(火) 21:40:17
百舌鳥古墳群・古市古墳群だけでなく 巻向も違っている。
「数人多い大王」は本当だろう。


956 :ハコテン:2009/01/13(火) 22:14:05
もん太君と戦うために、コテハンにしてみました。あらためてよろしく。

957 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/13(火) 22:27:45
>>951
那珂博士と伴信友の盲象を君が盲信した説明書きだな。>>952
言いたいことを少し代弁してくれた。
彼らのマンモス−毛象だよ。そんなんで前660年になってるんで
はないね。w

958 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 22:35:23
ぼくはむしろ記紀の伝承はいい線行っていると思いますね。で、ぼくの大まかな予想は、
百舌鳥・・・大仙・陵山・土師ニサンザイ/仁徳・履中・反正
古市・・・津堂城山・仲津山・誉田御廟山・市野山・岡ミサンザイ・白髪山・ボケ山・高屋築山
     /小碓・仲哀・応神・允恭・雄略・清寧・仁賢・安閑
大和・・・箸墓・西殿塚・行燈山・渋谷向山/百襲姫・崇神・播磨稲日・景行
磐余・佐紀・・・桜井茶臼山・メスリ山・佐紀陵山・宝来山・五社神・市庭
        /大彦・武渟川別・日葉酢媛・垂仁・成務・神功
絶対的に巨大な古墳でも、同時期において相対的に規模が小さい古墳ならば、
それらは后妃・皇子クラスのものであろう。
また、歴史には何があるか分からないから、思ってもみなかった人物が被葬者であるケースもあろう。
墓碑・銘文なんかが出てきて、「えっ、何でこの皇子がこんな巨大古墳に眠ってるの?」
なんてシーンが将来無さそうで有りそう。

959 :ハコテン:2009/01/13(火) 22:38:45
いやいやだから、もん太君と戦うために長い文章を書く練習をしてみたんだ。本当は日本書
紀に書かれている大王の人数じたい俺は信じてない。
例えば、継体陵は本来今城塚古墳で、太田茶臼山古墳はだれか別の大王のものだ。また
陵墓参考地となっている大王の陵もある。これは皇后陵や重臣の墓を慎重に除いて考えて
いる。書記の記述が怪しいのに年齢も何も・・・。
だいたい武烈天皇の実在や、あの記述を信じられるのかwww



960 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/13(火) 22:49:04
>>959
オマエのには津田病の初期症状群が発現しているようだな。盲象
の集団構想がオマエの脳内。

961 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 22:56:49
>>958 同意
伝承による天皇稜は、崇神を基点として考古学的には古いものから
新しいものに移り変わっていることは事実なんだよね。

比定が誤っているもののほとんどは、1キロ以内に正しい比定地が存在する。
今城塚と太田茶臼山も数百mの距離でしかない。
百舌鳥も順序を変えれば全体として整合する。

後世に適当に天皇稜を書いたならば、これほどの偶然はありえない。

962 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:03:40
>>959
武烈の紀の記載は、事実かどうかは別として、紀を書いた時点で
実際にあのような伝承があったのだろう。

紀は異説があれば一書としていちいち紹介していて、一つの結論を強要せず、
歴史を探求する史料としての性格も強い。
武烈のすぐ後の継体のところでは没年に関して、異説を紹介して、「後の時代の
者が決めよ」として結論を述べないという態度である。
戦後の記紀捏造説の学者とは歴史を探求する精神において天地の差がある。

ならば武烈に関しても悪行の伝承が実際にあった(民間講話的なものかもしれんが)
からこそ、あのような記載がされたと考えるのが自然である。


963 :ハコテン:2009/01/13(火) 23:05:38
>>961
マキ向の比定は宮内庁の手白香皇女は別として比較的正しいと思っている。またいうよう
に、近くに正しい比定地があるというのもその通りだよ。少なくとも墓守の戸も何代か続い
ただろうし、伝承は百年以上は残ったろう。いい線行ってるというのは否定しないが、やはり
人数は合わないと思うが。

964 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:07:47
>>959
太田茶臼山古墳は允恭の岳父にして継体のご先祖、
稚野毛二派皇子の墓じゃないかと思ってます。
まさしく、「えっ、何でこの皇子が?」のパターン。
太田茶臼山は規格が市野山とソックリですからね。

965 :ハコテン:2009/01/13(火) 23:12:40
>>962
武烈として数えられる実在の人物はいたかもしれんが、俺は皇統と血縁関係が薄い継体
の即位を正当化するために悪行記事が書かれたという通説を支持するが。あそこだけ文の
調子も違ってるし。

966 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/13(火) 23:18:28
>>965
そうなら雄略天皇を悪く必要もなかろう。清寧は繼體とは継承が
似てはいないだろう。つまりオマエの妄想だ。
正当化するとか言ってるが、そうなら神武から全部悪く書けば
いいではないのか。ww

967 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:20:40
>>961
>今城塚と太田茶臼山も数百mの距離でしかない。

卑弥呼が誰かは、まあ今はまだファンタジーの部類だろうから
極端な年代の違いがなければ、お互い色々言い合ってよし、としたい。

しかし今城塚と太田茶臼山の位置は、地図を見ればすぐ判明することで、
ファンタジーの入る余地はない。事実か虚偽か、の二者択一である。

「数百mの距離でしかない」、などと出鱈目を平気でレスする961は、
学問をやるに値しない人間だ。お引き取り願おう。

968 :ハコテン:2009/01/13(火) 23:27:16
>>964
ええと市野山は允恭陵に比定だったか。どちらも規格はほぼ同じだな。時代は太田のが
ちょっと古いか。どちらも現大阪では10位に入る大きさで大王陵と思うが。まあ、大きさ
だけでは決められんのはそうだが、5世紀当時の規格から言っても。

969 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/13(火) 23:35:56
天下をオマエ(オホド王)にやると来てるのに先帝を悪くいうわけ
がない。ノーベル賞をオマエにやると来ているのに、もらう人間が
1回前の受賞者を大々的に悪く言うわけがあるまいが、さらに
ノーベル財団をノーベル賞をくれるからと言って悪口を言うわけが
あるまいがね。ww つまり勝手な妄想なわけだよ。

ZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・

970 :ルミ:2009/01/13(火) 23:40:07
太国さんて働いてないのですか?

971 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:43:33
>>967
地図で確認した1.3キロ位離れているね。まあ誤差の範囲内。
こんなことで鬼の首を取ったかのような口の利き方は人間失格だな。

972 :ハコテン:2009/01/13(火) 23:44:30
>>969
易姓革命(血統の断絶より徳の断絶を重視)の影響を受けているのだと思うが。あと、清寧
については、40才前後で死んで、皇后、皇子なしというのは変だと思わんか。西浦白髪山
が清寧陵だとして、5世紀にしては小さいし。

混乱してきた。古墳か紀記かどっちかにしてくれ。・・・だめだこれではもん太を倒せん。

973 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:46:01
>>971
いつもの畿内説のクズだろww

974 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:54:10
武烈の性格は雄略からの隔世遺伝です。これが定説ですw

975 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:59:07
卑弥呼の墓は塚、墳ではないはず。
箸墓古墳の作られた年代が、
幾ら遡ろうとも、
イヤ、遡れば遡る程、畿内邪馬台国説から、遠くなる。

塚を重視したのは安本美典氏の説だけど。

卑弥呼がどこにいて、誰(誰と特定可能か)であるかという事は、
古代史に於いてそれほど重要な事ではないのでは。

976 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:59:19
邪馬台国女王卑弥呼の墓ついに発見か!?

宮崎県 西都原(さいとばる) 第2古墳群にある
柄鏡式前方後円墳の西都原95号墳
全長79m、円部径42m、方部幅25m

「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」
近くに徇葬者100人埋められる原っぱもある
円部直径42mなので1歩30cmとして、140歩
年代も問題ない。

977 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 00:13:40
>>976
残念!熊襲の古墳でした。

978 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 00:26:33
>>977
熊襲はないだろ、熊襲は。
近くにはコノハナノサクヤビメ、ニニギノミコト、オオヤマツミ・・・
らしい・・古墳もあるんだぞ。
時代は違うから、多分どれかがトヨの墓なんだと思うが。

979 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 00:30:03
第一、景行天皇が熊襲征伐の拠点としたのが
この、日向の西都原らしいぞよ
時代が下って、卑弥呼の墓になったでおかしくないだろ?

980 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 01:39:49
卑弥呼・台与の偽物イケナイ。西都原は熊襲の古墳!

981 :ローガン:2009/01/14(水) 10:35:20
>>976
> 円部直径42mなので1歩30cmとして、140歩

1歩って30cm? 聞いた事が無い

982 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 11:46:22
24cm?
60cmなら全長79mだから130歩デース

983 :ローガン:2009/01/14(水) 14:02:33
>>982

周、春秋、戦国、前漢(BC10〜BC1c) 1.35m
新、後漢 (1〜3c) 1.3824m
魏 (3c) 1.4472m
東晋 (4〜5c) 1.464m
隋 (6〜7c)1.7706m
唐 (9〜10c) 1.5555m
宋、元 (10〜14c) 1.536m
明 (14〜17c) 1.555m
清 (17〜20c) 1.6m
現代中国 (20c) 1.666m
以上、旺文社漢和辞典「中国度量衡変遷表」から引用した「一歩」。 30cmとか、24cmとか、60cmは何に基づいて出てきた数字でしょう?


984 :ローガン:2009/01/14(水) 14:08:57
>>975

> 卑弥呼の墓は塚、墳ではないはず。

塚と墳はどう違うのですか?

985 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 15:34:05
寝てしまってすみませむ。もん太君の出現がないので名無しにもどりますた。出現したらコテハンで戦いまふ。
>>952
これはのは俺の考えではなくて、倍暦厨が喜ぶようにとわざと初心者っぽいことを書いて
みた。ほら、957とか面白い反応だろ。あと30年前っていうけど、二倍年暦自体明治13年
にウイリアム・ブラムセンが提唱した明治以降最も古い学説の一つだよ。このスレも終わり
そうだが、俺の考えはおいおい・・・。

>>962
日本書紀は異説併記をした、当時としては画期的な歴史書だったことは知ってる。天皇名
をリストアップし、その地の豪族らに聞き取り調査をして良心的に比定したのだと思う。
しかしだからといって、正しい記事もあれば間違いや作為的な記事もあると考えて臨む
のが、資料に対する正しい態度ではないかな。

>>964
俺は太田茶臼山と市野山は同じ下図を元に造築されたと思う。とすれば当時の葬令から
も、どちらも大王ー大王、皇子ー皇子という同じ身分のものの墓ではないかと。
まあ、実際の被葬者は発掘しないと(あるいは発掘しても)わからないし、あれこれ比定し
て楽しむのは、お金のかからない趣味だよね。

>>966
しかしこの「おおのくに」とかいう相撲取りはつまんない品性だね。他人が考えた説を必死
に覚えて、ネットで初心者に受け売りして自分を偉そうに見せようってのは、よっぽど実生
活では・・・(以下自粛)。
まあ、二倍年暦は面白い考え方なので、ぜひ絶対間違いないという万人が納得する証拠
を見つけてくれ。どっかの大学の歴史学部が迎え入れてくれるぞ。


986 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 16:15:28
二倍暦なら、畿内説の高城修三も唱えてるぞ。

二倍暦を肯定する人はみんな電波度が増すのはなぜだろう。(笑)

987 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/14(水) 17:14:11
>>972
いまでも40歳で独身はけっこういるだろうが。長い皇統の間に
そういうことは有って然りだろう。

988 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/14(水) 17:31:21
>>985
下表が倍暦の文証の一つだよ。オマエこれをどう説明するんだ?
これは当時の1ヶ月が14日(2週間)でやっていた時期があったと
いうことなのだ。

【欠史八代の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】

1日 4  15日 0  29日 0
2日 2  16日 0  30日 0
3日 3  17日 0
4日 3  18日 0
5日 6  19日 0
6日 3  20日 0
7日 2  21日 0
8日 3  22日 0
9日 3  23日 0
10日 1  24日 0
11日 4  25日 0
12日 3  26日 0
13日 3  27日 0
14日 7  28日 0


なんで ↑ は15日以後の右半分は全部0なのか? 考えろ。さらに
八代の天皇の崩御は全部月上旬(1日〜10日)の日なのだ。

989 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/14(水) 17:57:27
書紀は日にちで書かれていない、
日にちはどうやって出したか?

990 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/14(水) 18:01:59
書紀に書かれた朔や日々の干支から割り出したとすると、朔や日々の干支を
ある程度は認めることになる、では書紀の朔や日々の干支の数え方は?


991 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/14(水) 19:12:22
孝安天皇治世102年間 37267日 太国暦では3倍なので3で割ると
34年間 12422.33日
12422日として34で割ると1年平均365.35日
月齢29.5306で割ると420.65ヶ月
太陽暦でも太陰暦でもない。
此れでよろしいですか?


992 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/14(水) 19:24:26
孝霊天皇治世76年間 27759日
此処も3倍暦なので....。



993 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 19:46:04
>>988

おまえの言う2倍暦があったなら、
「冬7月」とか「1月夏」という記述があるはずだが、
どこに書いてあるんだ?

ははは。


994 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 21:07:23
>>988
>>988
やれやれ、俺はこれについてまともに考えたことがないが。知ってる限り相手してやろう。
しかしこの表はなんかの新書で見たことがあるぞ。「おおのくに」の中では相手がこう来たら
こう返すのようなマニュアルがあるようだな。他スレにも書いていたし。あくまでも人の受け
売りとは、つまらないことだ。

俺は実は6世紀の「暦博士の来朝」以前は2倍暦のようなものがあった可能性はあると思
っている。しかしこれは、中国暦のような天文学的計算によって導き出されたものではなく
あくまで素朴な月の観察によるもの。それもほんの一握りの専門職が行っていたと思う。 
つまり朔の日を1日として、月の動きで3日とか7日とか決めていた。だから上で書いたよう
に、新月〜満月の15日間を一ヶ月とする1年24ヶ月説もあながちトンデモとはいえない、
少なくとも、もん太君は「おおのくに」よりは自分の頭で考えている。

考古学的には、2003年、持統3年(689)3月と4月の暦を表裏に書き写した木簡が見つ
かり、「元嘉暦」であった。日本書記編集者は古記録にむりやり儀鳳暦をあてはめて考え
た(元嘉暦と違うから)ために記事に混乱が生じているのかもしれない。



995 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 21:07:54
ここで重要なことは、上記2倍暦風の記録は、朝廷の専門職か神官などが行っていたもの
で、けして庶民には広がっていなかったことだ。5世紀以前に2倍暦があったことを確実
に示す日本出土の考古学的資料はない。そしてこれが2倍暦が学会の通説にならない
最大の理由だ。

邪馬台国時代に2倍暦はなかった。というより暦の概念がなかったのは、倭人伝に
>その俗正歳四節を知らず、ただ春耕秋収をはかり年紀となす と、あるとおり。
これをもって2倍暦の証拠とするものもいるようだが、漢文の素養が足りない。
俺は上レスにも書いたように邪馬台国では自分の年齢も知らないものが多かったと考える。
そのような人は21世紀の現在でもいる。
もし弥生遺跡から、マヤ暦のような結びひも、あるいは刻み目をいれた粘土板等が発掘
され、そこに2倍暦があれば考えを改める。

もん太君のように基地外と思われかねないのでもうやめるが、「おおのくに」のように、ちま
ちま書紀の干支などを調べるのは人生のムダと思う。もっとダイナミックに生きるよう忠告
する。


996 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/14(水) 22:19:09
>>993
四季は舎人親王の後付けだよ。唐松山さんに聞いてみろ。
ホツマに全部月日の前に四季がついてるのかを?

紀の原書群には四季のついた書とついてない書があったんだよ。
それが紀には殆ど毎回月日の前に四季がある。後付けだからだよ。
オマエの豆脳はそれが最初からあると思って読んでたわけだ。だから
オマエは騙されたということさ。wwwwwwwwwwwwww
だが彼らはだます紀はなかったろうにねぇ?wwwwwwwwww

それの例えば紀の開化の条は春日宮だというに12月なんかに即位
している。それに大日日尊などと日たる太陽を2個も増やした夏の
ような御名であるのに12月の師走に即位していて季節が合わない。
つまりオマエが騙され続けてまだ懲りてないわけだ。Pu!wwwww

997 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/14(水) 22:26:20
>>994
ならば紀のどこに21月とか22月とか23月とかの記事があるのか?w

観察ならば当時の天皇の超長寿の仁徳前に日食の記事が少なくとも
数個あるはずだ。がしかしそれが全くない。紀の最初の月食記事は

 皇極2年=643年

だ。仁徳よりずっと後代で初見である。だから後代では観測記事は
あろうが、仁徳前とかでは朔望は逆算の記事で、観測ではないね。
月食は特殊な朔に相当するもでだから、観測ならばこういう特殊な
天体記事を紀に載せるはずだ。つまりオマエの盲象。wwwww

998 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/14(水) 22:31:07
>>995
マヤ暦に結縄文字数字とかがあったのか? 初耳だな。www
インカの間違いだろう? 沖縄の八重島諸島にはインカのような
結縄文字が昨今まであったそうな話だが。 竹富島とかいう。

999 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 22:32:10
こんなレスをスレの終わりのほうにして申し訳ないが、お前の家にカレンダーは何冊ある?
もし2倍年暦が庶民の間で(つまり日本で)日常的に使われていたものなら、なぜまったく
発掘されない??

俺は和算の歴史から見ても、4〜5世紀の日本で、天文計算による独自の暦があったとは
思わない。これは善行女王が卑弥呼でないのと同じように自明なことだ。
また、暦博士来朝以前に中国暦を採用していたとしたら、それは当然2倍年暦ではない。

もっと他人の意見を受け入れ、広い視野でものを見れば2倍年暦がまともに取り上げられない
理由はわかるだろう。 


もん太君の出現がなく残念。次スレに期待しよう。

1000 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/14(水) 22:36:04
古代マヤの暦法は色とりどりだ。イニシャルシリーズ、セカンダリー
シリーズとかある。長期暦ではバクトン、カトウン、トウン等の単位
による素晴らしい暦法からツォルキン暦、ハアブ暦の農耕暦と占い暦
があり、ほかにも月齢暦、短期暦、819日変則暦とか、実にさまざま
だ。しかし結縄というのは聞いたことがないぞ。w

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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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