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日本書紀の年代を考える

1 :サガミハラハラ:2008/12/11(木) 22:40:26
今まででたらめとして学界で無視され、在野においてもこれといえるような論のない日本書紀の年代についてかたってみようではないか。
日本書紀の年代が確定するならば、そこには日本の歴史の明るい未来がまっているのです。
さあ諸君。一丸となってこの難問にとりくもうではないか。さあ、者ども、奮え奮え。

2 :ローガン:2008/12/11(木) 22:48:15
1乙! 参加しま〜す。ヨロシク

3 :サガミハラハラ:2008/12/12(金) 10:56:11
まず叩き台として私の復元日本書紀紀年法の説明をいたします。
とっかかりは、AD57年の漢の委奴国王の金印授受にはじまります。
金印を授受するような国は地方の壱国家ということはありえず、倭国を代表する国家であるとみます。
つまり、この少し前に、委奴(イト)国は倭地を統一していたということになります。
そのような事象は記紀によると、出雲国譲りに該当するものと思われます。
始めは葦原中国(博多湾一帯)だけのはずが、大国主命を捕虜にすることによって、
彼の影響にある土地をすべて手にいれることができ、その結果新領土にニニギノ命だけでなく多くの天神を
派遣し統治することとなった。出雲にはアメノホヒノ命、畿内にはニギハヤヒノ命といった具合である。
問題はその年代である。
当時の倭の地域は半島の南部もはいっていたのであるから、そこにも派遣されたとみました。
そこで、三国史記をみると、42年にキンスロ王の降臨伝承があります。
これが天神降臨であろうとみました。57年に年代も近い。
一方日向風土記に降臨伝承がのっており、その時に日食があったことがわかります。
宮崎県南部に40年頃の日食を調べてみるとAD41年4月19日にあったことがわかりました。(この日食については、九州南方海上を通過したとなっているが、
くわしく計算する必要がある)
41年42年とずれがあるのは、高天原からの距離や支配下にはいった時間差であろう。
となると、高天原から最も近い葦原中国へのニニギノ命の降臨はAD40年ということになる。
ニニギノ命は性的によわかったらしく、子がうまれたのは22歳とみたい。
三つ子が生まれたのは西暦62年(推)である。
三つ子の末っ子のホホデミノ命が17歳のときウガヤフキアエズ命がうまれたとして、ウガヤ西暦79年の出生である。
ウガヤの子のイツセノ命がうまれたのは西暦96年とみれる。
神武天皇は男子参番目であるから、98年から102年の間の出生であろうか。間に女子もうまれたかもしれない。


4 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 11:46:10
>>3
まずさ、魏書の三國志記も魏志倭人伝も記紀も、解釈されてる時代が違うと思うよ


例えば魏志倭人伝では卑弥呼が金印授受されたのは「己末年」とされてる

この己末年(景初2年)を西暦239年なんて解釈してるけど

己末年(景初2年)
6月、邪馬壹國の女王・卑弥呼が魏に使者を派遣
12月、明帝から「親魏倭王」の金印・銅鏡などを紫綬される


ちなみに同じ己末年の 659年(斉明天皇、真徳女王) には

6月、坂合部石布、津守連吉祥らを遣唐師に派遣
7月、唐に到着
10月、唐の帝にも諸見
12月、唐の冬至の儀式において日本(倭)からの遣唐師の風采挙措が最も優れてたとの評価を得る


と言う出来事がある
魏志倭人伝の中の景初2年って西暦659年の事だと思うよ
ちなみに西暦650年頃に倭の善徳女王(皇極天皇)が治めてた弥烏邪馬國が加羅(新羅)に存在してるよ


5 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 11:55:01
>>3
あと年代を考える以前に日本の記紀も、中国の史書も「西暦」なんて暦で書かれてないって事をまず理解した方が良いすよ

魏志倭人伝にしろ日本書紀にしろ十二支干支の、いわゆる「和暦(景初暦、旧暦、皇極暦)」で書かれてるよ


まずは西暦何年とかの前に、その書物に「辛酉年」とか「太歳甲申」とかの、十二支干支年数をまずはきちんと調べる所からやらないとダメすよ

十二支干支さえ解れば、後は60年周期の何時の十二支干支の事を言ってるのかを調べれば良いだけなんだから

6 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 12:08:17
日本書記の年代にしろ中国の書物の年代にしろ、まずは干支が記述されてるかどうかだよ(元号で年代は解らない)


・書物に書かれてる出来事の干支年数を調べる
・干支が解れば他の書物や伝承などで伝えられてる出来事を60年事に調べてみる
・書物の内容との相点(同じ出来事)のある年代を探す

きちんと1から書物に書かれてる干支年数を調べる所から始めないと意味無いよ
西暦で書かれてる訳じゃないのに、いきなり「○○は西暦○○年の事だからー」って言い方はおかしいと思うし

まずは「○○は干支の○○年の事だからー」だよ

7 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 12:22:50
>>3
つかそもそも記紀などで使われてる古代の日本の暦(旧暦)では、ちゃんと日食の起きる季節まで表してる暦だってば
古代の日本の暦は、ちゃんと「朔日」や「触の季」を表してる暦なんだってば
記紀の暦で使われてる「朔」の意味とか解ってますか?


8 :サガミハラハラ:2008/12/12(金) 14:05:08
昔の学者さんたちが、干支や即位年等から、西暦に直してくれています。
ありがたいことです。感謝。

9 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 14:39:54
>>8
西暦年に解釈したのは明治時代後に出てきた近年の学者さん達だよ
その近代の学者さん達が何を根拠に「○○は西暦○○年だ」って言ってるのかを良く調べた方がいいよ
記紀にも中国の史書にも西暦なんて書いてないし、旧暦で書かれてる訳だから
そもそもサガミハラさんは歴史年代を学者の主張を鵜呑みにしてるだけなの?
記紀の年代っても、まず干支が解らなければ出せない事ぐらいは解りますか?

記紀の年代を考えるっても干支が解らなければ年代なんて解らないよ

10 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 14:44:18
とりあえず日本書記の何かの事柄の年代を調べて見ますか?

つか調べるにしても学者の解釈した年代は信用せずに、1から自分で調べる事が大事すよ


11 :ローガン:2008/12/12(金) 15:11:45
>>4
> 魏志倭人伝の中の景初2年って西暦659年の事だと思うよ

じゃあ、唐顯慶4年は1079年か? その計算でいくと、今年 中国は明神宗萬暦17年を迎えたという事?

12 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 15:34:57
>>11
景初○年だの、唐萬○年だの、推古○年だのは単なる元号でしょ?
景初○年がどうとか全く関係無しに、干支の太歳から年代を出してるだけだよ
魏志倭人伝では卑弥呼が金印紫授を受けたのは、太歳の己未年

ローガンさんなら、この己未年が西暦何年の事と考えますか?
日本の出来事とかも調べて一致するような出来事とか探して見れば解ると思うけどな



13 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 15:44:54
十二支干支、太歳の暦とか解んないっすか?
ちなみに 2008年は戊子
来年の2009年は己丑すよ

日本書記の原本にも太歳は書いてあるでしょ?
元号なんかから年代は解らないよ
例えば元禄9年って言われても年代なんて解らないでしょ?


14 :ローガン:2008/12/12(金) 16:01:46
>>12
> 魏志倭人伝では卑弥呼が金印紫授を受けたのは、太歳の己未年

魏志倭人伝には景初と書かれているが?


> ローガンさんなら、この己未年が西暦何年の事と考えますか?

ひょっとしたら神功紀39年分注の事をいいたいの?もしそうなら、魏志曰だから景初3年239年。



15 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 16:04:50
日本書記には太歳が書いてあるじゃん
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/wakan/menu-w.html#MOKJI

後はこの干支が西暦何年の事かってだけだよ


16 :ローガン:2008/12/12(金) 16:09:57
>>13
>解んないっすか?
>解らないでしょ?


わからない。何を言いたいのか。

17 :ローガン:2008/12/12(金) 16:16:10
>>15

> 日本書記には太歳が書いてあるじゃん
> 後はこの干支が西暦何年の事かってだけだよ

それで何故、景初が420年ずれるの?

18 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 16:24:15
>>14
そういや魏志倭人伝自体には太歳は書いてないんだっけ?
倭の遣徒を送った干支は日本書記に書いてあるんだったかも
とにかく太歳己未の年すよ


19 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 16:34:59
>>17
景初ってのは元号でしょ?
つか景初って元号は誰が使ってて、どの太歳の年に改元した元号とか解ってますか?


俺は単に干支の己未年で、似たような事柄があった年は無いか探しただけだよ


魏志倭人伝(己未年)
6月、邪馬壹國の女王・卑弥呼が魏に使者を派遣
12月、明帝から「親魏倭王」の金印・銅鏡などを紫綬される


これとそっくりなのが
659年(斉明天皇、真徳女王)
6月、坂合部石布、津守連吉祥らを遣唐師に派遣
7月、唐に到着
10月、唐の帝にも諸見
12月、唐の冬至の儀式において日本(倭)からの遣唐師の風采挙措が最も優れてたとの評価を得る


659年の己未年の事を書いてるだけじゃね?
って事だよ



20 :ローガン:2008/12/12(金) 17:10:15
>>19
> 魏志倭人伝(己未年)
> 6月、邪馬壹國の女王・卑弥呼が魏に使者を派遣
> 12月、明帝から「親魏倭王」の金印・銅鏡などを紫綬される

だからね。己未に遣使があったって紀にあるんじゃなくて、景初に遣使があったと魏志に書いてあると述べたもの。
よって景初3年が239年は動かないよ。

21 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 17:22:34
>>20
魏志は西暦で書かれてる書物じゃないってば
景初3年が西暦何年の事かなんて西暦を使って無い頃の書物には書いてないよ
つか大陸って歳暦使って無いの?

元号なんかじゃ年代は解んないよ


22 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 17:26:54
仁徳天皇崩壊=丁卯年
履中天皇崩壊=壬申年

ちゃんと書いてある
あとは何時の丁卯年や壬申年かを調べるだけ
この解釈を間違えると年代が60年単位でずれちゃうよ

23 :ローガン:2008/12/12(金) 18:58:16
>>21
> 元号なんかじゃ年代は解んないよ


じゃあ一度宣統3年(辛亥)から景初迄遡ってみなさい。光緒→同治→咸豐… って。
239年になるから。

24 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/12(金) 19:15:11
>>22
書紀は一日単位で書かれている。
年の干支を合わせるだけでは、日々の干支が狂う。

中華の暦は、ほぼ日々の単位で復元できる。

年の干支を合わせることに何の意味も無い、合わせるなら日々の干支。


25 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 19:23:01
>>23
宣統って元号調べた、、、
これ清朝じゃんかよ(笑)
清→満州氏族王朝
明→江南氏族王朝
元→モンゴル氏族王朝
近代の王朝に限ってもこれらは全部違う民族だし言葉も文化も違う別の王朝だよ
明が清になった訳じゃなく、明を滅ぼした満州族の朝廷が清だよ
また清を滅ぼしたのが中華民国で、中華民国と満州を滅ぼしてウイグルやチベットやモンゴルを統合し建国されたのが今の中国

つか清にしろ中国統一王朝じゃなく単なる都市民族王朝なだけだよ


26 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 19:30:46
>>24
そもそも「中華の暦」なんて無いってば
中華思想ってのは中華民国が中国統一思想を元に唱えた思想なだけだよ
満州族には満州族の語源と文化があり、上海族には上海族の語源と文化があり、モンゴル族にはモンゴル族の語源と文化がある


日本見たいに同一民族による民族の歴史と文化が続いてる国じゃないんだってば
中国大陸にあった古代王朝は全て滅んでるよ

27 :日本@名無史さん:2008/12/12(金) 19:41:27
えと、魏呉蜀の三国時代は7c頃の話だと主張してるんですか????

28 :日本@名無史さん:2008/12/12(金) 19:47:25
華夏


29 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 20:05:58
つかまず中国にあった王朝はどの民族の氏族で、なに語を話してたのかって所からはっきりさせないと中国の歴史なんて解んないよ

古代歴史ってのは民族歴史な訳で、例えば日本の歴史は大和民族の歴史ってのは解るでしょ?
例えば旧約聖書は古代イスラエル氏族の歴史で、古代ヘブライ語を話してた古代イスラエル民族の残した歴史


中国で言えば清は満州氏族
明は長江氏族、元はモンゴル氏族、、までは調べたよ

ちなみに漢は漢氏族でしょ? 語源は中国語じゃなく古代漢語。しかも漢氏族と秦氏族はチベットより西方からの移民だよ
魏、燭も漢氏族でしょ?
呉は遼東湾周辺の呉語圏の呉人じゃないの?
唐や随も地理的には呉氏族か漢氏族な気がするし
つか全て既に滅んでる王朝で日本見たいに同一民族が歴史を継いでる訳じゃ無いから、基本的にはハッキリした事は解らないよ


ただ明と中華民国以外は中国の歴史って言われてる王朝は単に河北部周辺にあった民族や王朝の歴史なだけだと思うよ

30 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/12(金) 20:08:50
もん太君 下記の台湾文献の中に 中華の元号が西暦?年で有るか
計算と研究が有るから、こんな物でも読んでから
返答した方がよい、ただし暦までたどりつけたら。

http://140.109.138.249/ihp/hanji.htm

31 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 20:19:14
>>30
つか中華民国と中華人民共和国の違いとか理解出来てますか?

台湾の正式な国名って知ってます?
それに中国人と台湾先住民は違う民族だよ


つか台湾の正式名称が中華民国だって知らないでしょ?
日本が南京政府に解放したのか台湾島すよ

32 :ローガン:2008/12/12(金) 20:23:44
>>25
> 宣統って元号調べた、、、

ほう、偉い偉い。それが明治の終わり頃だね。1909〜1911なのはわかる?
この西暦を景初迄遡ってご覧なさい。慌てなくていいから。

33 :日本@名無史さん:2008/12/12(金) 20:23:46
>>31
中国の、いわゆる三国時代は7c前後のことなんですか?

34 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/12(金) 20:31:44
>日本書紀の年代を考える と言っても
日本書紀のみで年数を数えるのもきついから、 他の資料も使わせて貰います。
まず古事記、 
古事記に書かれた干支は、考昭元年丙寅年より 加増されることなく使われた。
書紀の干支は、この古事記の干支と成る可く離れた数字にする為に、平均圧縮では合わない。
例えば、成務61年を見ると 61-(19*3)=4
4年有れば成務治世61年の記事を無理なく説明できる。


35 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 20:37:18
>>32
清王朝の元号は清王朝建国までしか辿れないってば
そもそも明王朝と清王朝(満州王朝)は同時期に存在してた王朝で清は明を継いだ訳じゃ無いんだよ
清は河東北部に住む満州族、モンゴル族、漢族(今の中国人じゃなく古代漢語を話す漢民族)を満州族が纏めた王朝で、明とは関係無い王朝だよ
ツングースって奴だよ
古代日本と文化交流してたのも、河東北部のツングース民族だよ

36 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 20:45:34
>>34
だから成務61年って元号でしょ?
日本書記にはちゃんと太歳年が書いてあるから、元号は関係無いってば
ただ干支の場合は解釈を間違えると60年の単位で年代は、ずれちゃうから、そこだけ慎重に調べればいいんすよ


37 :日本@名無史さん:2008/12/12(金) 20:51:15
「成務」なんて元号ありませんがな。
もうこいつスルーで良いでしょ。言ってることが支離滅裂。

38 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/12(金) 21:00:03
サガミ編年と私の編年
       サガミ  唐松
神武天皇 20年 22年
綏靖天皇 9年 14年
安寧天皇 11年 11年
懿徳天皇 9年 5年
孝昭天皇 22年 26年
孝安天皇 26年 26年
孝霊天皇 19年 19年
孝元天皇 15年 19年
開化天皇 16年 5年
崇神天皇 17年 28年
垂仁天皇 27年 23年

見た通り非常に近い処も有る、私は、太陰暦で読めるように編年。
そうなると サガミ編年は太陰暦に直せるか?

美濃もん太君 年の干支や日々の干支は、王朝が変わろうが元号が変わろうが
常に1日に一つずつ数を増してゆく。
正月を一月ずらしても干支は一つずつ変化する、
中華の干支で何処か大きく飛んでいるところでも有ります?



39 :ローガン:2008/12/12(金) 21:07:31
>>35
> 清王朝の元号は清王朝建国までしか辿れないってば
> そもそも明王朝と清王朝(満州王朝)は同時期に存在してた王朝で清は明を継いだ訳じゃ無いんだよ

順治と永暦の事かね?まあ天命元年(丙辰)以降並立しているが、それ以前は萬暦という年号なんですよ。
だいたい史は次の王朝が作るんだよ。

面倒くさくなってきた…

40 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/12(金) 21:14:51
確かに 酒を飲んだローガンさんより話がかみ合わない。


41 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/12(金) 21:29:47
もん太君 Wikiで良いから「太歳」の意味を調べて下さい。
そうすれば書紀に書かれた「太歳」と天文学の「太歳」は、違う物である
事に気が付く。
天文学の「太歳」=土星の86年周期
書紀の「太歳」=暦の修正=新暦(天皇即位元年1月1日よりその天皇紀の為)とか。


42 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 21:59:56
>>41
太歳って言い方せずに干支って言った方が言いかもだけど、木星の公転周期の十二支(約12年)と、陰陽の十支を合わせた60年周期の暦すよ

日本では記紀時代から明治時代前までずっと使ってたんすよ
壬申の乱、戊辰戦争、甲子園、、、
干支にちなんで付けられた名前すよ

43 :日本@名無史さん:2008/12/12(金) 22:00:50
古い時代の記録はなかったんだろう。だから、年号や日付は適当に
書いたと思う。

第16代・仁徳天皇は、年齢が142才かな。在位期間は87年?
これはありえないので、この頃の年代の記録は残っていなかったと思う。

ところが、第17代・履中天皇になると、在位期間が6年と現実的になる。
しかし、年齢は75才くらい。西暦400年即位の405年崩御(確実とはいえないが)。

どうも、この頃を境に記録らしきものが出来たような気がする。
それまですべて父子継承だったのが、兄弟継承が現れるのもこのときであり、
年齢や在位期間が現実的になったのもこの頃からだから。
つまり、履中天皇の生まれた頃は記録がなかった。しかし、在位の頃の
記録はなんとなく残っているというような。

倭の五王である讃が、東晋に最初に遣使したのは、西暦413年。
この出来事が契機の一つになっているのかも。

44 :日本@名無史さん:2008/12/12(金) 22:06:30
>>43
訂正

>古い時代の記録はなかったんだろう。

古い時代の年号や日付の記録はなかったんだろう。

45 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 22:14:06
>>38
んな事知ってるっす
だから年代を調べるには、きちんとその出来事のあった干支をまずは調べるべきって話すよ
特に記紀はきちんと干支が記述されてる訳だし
ちなみに元号なんて改元や元号名の決定に、何の決まりも無いし、たいして意味無いですよ
元号は天皇の即位年や諱とリンクしてる訳でも無いすよ

46 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/12(金) 22:20:24
こんな資料もある
大雀命/仁徳O 己未年8月15日83
伊邪本和氣命/履中P 壬申年1月5日64
崩御年齢は仁徳53歳
履中34歳
この辺が妥当な気がする、気がするだけなので読み方に正当性は無いが。
仁徳50歳で応神の子供の尻を追っかけ回す。
速総別王命/応神皇子 辛亥年10月7日36
女鳥命/応神皇子 辛亥年10月7日36
速総別王命と女鳥命の没年齢は-20 16歳
二人の恋には丁度良い年齢だが?
応神?歳の時の子供?

とにかく神功が大和残留組を滅ぼしてから 全く読めない
空白の4世紀です。




47 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/12(金) 22:27:29
>>45 書紀の編年は伸長されている。
その伸長された干支を調べても 伸長された数字が正しいとしか出ない。
伸長された数字が太陰暦で読める、読める以上圧縮したときににも太陰暦で読めねば成らない。
皇暦から19年6940日を一つの単位として差し引く(何回でも良いがマイナスは、困る)
4分暦の暦法を学んで下さい。



48 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 22:31:54
>>44
まあそこまで細かい記録は必要無いだろうし、記紀にしろ日本書記にしろ、別に歴代天皇の生誕から崩壊までを纏めたって言う書物じゃないですよ
「天皇」に捕らわれ過ぎっすよ
天皇(天つ神)の血統氏族が活躍し天下を統治したって頃の話だからら天皇の血統氏族が主役となってるだけで
鎌倉時代の歴史書なら源氏や平氏の話だろうし、戦国時代の話なら、徳川や織田の話になるだろうし

記紀は天皇以外にも、各地の国つ神達の血統の由来や祖氏の記述もある訳だし
ただ名前が沢山あってややこしいのはややこしいっす
例えば飛鳥朝廷の蘇我氏などの名前は出てこないし(たぶん、違う呼び名で書かれてるから解り辛くなってるだけとは思うけど)

それと同じ話じゃないかなって話が複数ある
(山幸彦の3年とか、なんとか天皇の3年とか。山幸彦の話と、神功皇后の話に共通する和仁氏の子供を産む話とか)

あと例えば景行天皇って呼ばれてる天皇は、日本書記では大足彦忍代別天皇って名前すよ
本来なら記紀に書いてある名前での大足彦忍代別天皇って呼ぶべきなんだろうと思う

49 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/12(金) 22:35:58
古事記のラインにはこの様な干支が有ると考えられます。
このラインをホツマは出雲暦と呼んだ。
孝安天皇 145年 戊午
孝霊天皇 163年 丙子
孝元天皇 180年 癸巳
開化天皇 190年 癸卯
崇神天皇 225年 戊寅
垂仁天皇
景行天皇 265年 戊午
成務天皇 262年 乙卯
仲哀天皇 269年 壬戌
神功皇后
応神天皇 361年 甲午
仁徳天皇 386年 己未
履中天皇 399年 壬申
反正天皇 405年 戊寅
允恭天皇 420年 癸巳

かなり怪しい資料ですがこんな見方も有ると言う 見本。


50 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/12(金) 22:50:51
     皇暦  増し
神武天皇 79年 57年
綏靖天皇 33年 19年
安寧天皇 38年 27年
懿徳天皇 35年 30年
孝昭天皇 83年 57年
孝安天皇 102年 76年
孝霊天皇 76年 57年
孝元天皇 57年 38年
開化天皇 60年 55年
崇神天皇 68年 40年
垂仁天皇 99年 76年
景行天皇 60年 38年
成務天皇 61年 57年
仲哀天皇 9年
神功皇后 69年 19年
応神天皇 43年 0年
仁徳天皇 87年 54年
皇暦から”増し”を差し引くと各天皇の治世が出る。
全てが19の倍数ではない、ホツマを読んで?考えて下さい。

51 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/12(金) 22:53:49
>>47
まず書記の編年を伸長解釈したのは明治政府であって、皇紀元年が紀元前660年と定められ、皇紀なんて暦を使いだしたのは明治時代以降になってからだよ

天皇史観として読むからおかしいんであって、別に国譲りを受けたのは天皇じゃないよ(天皇は国譲りを受けた天つ神の血統継承者ってだけ)


52 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/12(金) 23:16:59
名前
景行、大帯日子淤斯呂和気、大足彦忍代別 ヤマト オシロワケ イムナタリヒコ
各書物によって少しずつ違っている だからこの天皇の名を最もポピュラーな”景行”
で何か不都合が有るのか?
明治政府に、「皇紀元年を紀元前660年と定める。」こんな権限は、有りません。
皇紀の長さを書紀の記事通り積み上げていくと紀元前660年と成っただけ
江戸時代の長さと同一ただ西暦に直して読んだだけ。

「書記の編年を伸長解釈」この訂正が此所の趣旨ですから、どの様にしたら正しい数字
に成るか考えて下さい。
それから 書紀は、各天皇紀の積み重ねですから、各天皇紀の正しい数字を考える事。
国譲りを受けたのは、崇神。


53 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/13(土) 00:00:57
>>52
イワレビコの年代すよ
イワレビコが橿原に東遷した辛酉年は672年すよ


国譲りは記紀ではタケミカズチだけど、これは何とも言えない
例えばイワレビコやヤマトタケルの話も、この時の同じ話なのかもしれないし、蘇我氏を倒した事を書いてるだけのような気もするし

大国主辺りから「海原中つ国」「常世」「蛾の服をきた海人」とか、渡来系(たぶん秦氏)を思わせる記述が多くなるし
ただ大国主以前にスサノオ氏族が海原中国や綿つ見国に渡って常世を治めてた話もあるから、その氏族かも知れないし
また天つ神はニニギとかを海原中国に統治にに行かせたりもしてるし
海のあっちやこっちや、なんかいろんな話がごっちゃになってる感じがする

けど年代は西暦500〜700年頃の大和大乱の頃の話だとは思うよ
蘇我氏とか白江村の戦いとか三韓征伐とかさ
その頃の話と思うよ



54 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/13(土) 00:11:31
>>52
そもそも皇紀なんて暦は明治時代以前は無いですってば
だいたい記紀時代から江戸時代まで使ってた和暦を今のキリスト暦に改正したのも明治政府すよ

また日本の歴史は2600年なんかじゃなく、天孫やイワレビコや祟神以前の、スサノオやアマテラスやイザナキの時代も日本の歴史すよ
国之常立の時代から続いてるのが日本の民族史であり歴史すよ


読み辛いだけで記紀は蘇我氏達の事も書いてあるはずだよ
ナガスネヒコが蘇我氏とかの話だと思うけど

55 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/13(土) 01:24:39
紀元前の660年の辛酉を神武元年とする説を考えたのは明治時代の那珂道世って人

この説を明治政府が天皇史観歴史に採用し、明治6年に和暦が廃止された年から皇紀(神武元年暦)が日本で採用されたよ


ちなみに神武元年を紀元前660年とする根拠だけど「中国では1260年に一度の辛酉年に政変が起きると言う話がある。日本では600年の推古天皇時がこの政変に当たり、神武元年の政変はその推古の辛酉年より1260年前の紀元前660年が政変の年に当たる」
「だから神武元年は紀元前660年だ」
とか言う根拠だよ

記紀の編年を遡ったら神武の辛酉年が紀元前660年だったとか言う理由じゃないよ

56 :サガミハラハラ:2008/12/13(土) 10:39:02
>>3の続きです。
西暦107年の倭面土国の貢献であるが、この国は博多湾岸にあった国で帥升はニニギノ子のスセリノ命のことである。
この国はこの記録以外登場しないことから滅んだとみる。その時期は122年とみる。三国史記新羅本紀に121年倭が東辺を侵す。
122年倭の大軍襲来の流言123年倭と講和とあることから、この時期に倭国で政変があり、倭面土国が滅んだとみる。勝者は邪馬台国である。
神武兄弟は邪馬台国側に組したが、戦後の邪馬台国主流のなかで大した地位をえることができず、新天地を求めて東へと移動することになった。
これが神武の東征である。その時期は123年とみる。神武45歳(二倍年暦)というから、逆算して101年神武出生となる。
123年に出発し、筑紫(筑前の国の南西端に筑紫の地名がある)宇佐(大分県の宇佐ではない。博多の近くの宇美町のことである。応神天皇の出生以後宇佐
が宇美となった)、その年に岡田宮に1年(二倍年暦)、広島のタケリノ宮に7年(2倍年暦なので3.5年)124年から127年春年までいた。
ついで、岡山の高島宮に8年(2倍年暦なので4年)127年秋年から131年春年までである。
移動や戦闘の期間はそれぞれの宮の滞在の中にいれた。
そして、橿原にて即位をしたのは131年秋年である。

57 :日本@名無史さん:2008/12/13(土) 14:24:58
>>56
帥升は、後漢に生口160人を献上したとある。
古代の人口を考えると、これはすごい数で、一つの国でこれだけの人間を
差し出してしまったら、国は機能しなくなってしまうのではないかと思う。

しかし、これだけの奴隷?を差し出せる出来事が一つ考えられる。それは戦争
である。征服した国の人間ならば、生口として差し出すことも可能だろう。

帥升について後漢書は、倭国王としている。
邪馬台国は、30カ国近い国を従えていたと書かれているが、他の国を従えて
いるということは、優劣が決した出来事があったと考えるべきだろう。
つまり、帥升は邪馬台国の王であり、帥升のときに、邪馬台国は倭国の盟主
となった。そう考えるのが妥当だと思う。

倭面土国=邪馬台国ということかな。

帥升のあと、あるいはそのあとで倭国王の座をめぐって争いが起きる。
それが倭国の大乱であり、これは卑弥呼が王になることによって決着する。

西暦107年から続く邪馬台国は当然九州にあるわけで、神武東征に相当する
出来事はその後になると思う。

58 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/13(土) 16:14:54
>>3>>56 の中に、書紀の記事と大陸の記事がピタリ合う と言える物は見あたらない。
神武の東征にしても 広島のタケリノ宮で3年半無駄飯を食わせてくれる輩が居たとは、
到底支持出来ない。

次の年度確定の記

59 :サガミハラハラ:2008/12/13(土) 23:05:25
>>56の続きです。古事記干支ではスジン没年戊寅年で、住吉大社神代記では垂仁没年辛未年となっている。
この間、53年であるが、古事記干支は2倍年暦であるから、垂仁の在位は26.5年となる。
しかるに、日本書紀では在位年は99年となっている。
99年と26.5年を比べてみると、ざっと4倍ぐらいの差がある。
となると、垂仁以前は在位年は4倍にひきのばされているようである。
そこで神武即位年の131年秋年から4倍年(1年が4年分とする。132年春年前年、132年春年後年、132年秋年前年、132年秋年後年とよぶ)
神武  131年秋年前年から150年春年後年まで
スイゼイ150年秋年前年から158年秋年前年まで
安寧  158年秋年後年から168年春年前年まで
イトク 168年春年後年から176年秋年前年まで
コウショウ176年秋年後年から197年春年後年まで
コウアン197年秋年前年から222年秋年後年まで
コウレイ223年春年前年から241年秋年後年まで
孝元  242年春年前年から256年春年前年まで
開化  256年春年後年から271年春年前年まで
スジン 271年春年後年から288年春年前期まで
となります。

60 :サガミハラハラ:2008/12/13(土) 23:12:33
追加訂正
2行目古事記干支の次に住吉大社神代記をいれてください。
6行目行の最後に で計算していく。を入れてください。
6行目と7行目の間に、 日本書紀の在位年数を越年称元法でいれていく。
を入れてください。


61 :日本@名無史さん:2008/12/13(土) 23:59:32
>>60
そんなにリキいれて、推敲するほどの内容か?

62 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/14(日) 09:54:26
>>61 リキいれて 正しい年を割り出す。 重要ですよ。
その割り出した年から 書紀の年数に変換する。
此所までやって 初めて「書紀の年数解読」になる。
短くしただけでは、「書紀の年数解読」に成らない。
なにしろ 書紀編纂時 「編纂者が引き延ばした」と申しておりますから。


63 :サガミハラハラ:2008/12/14(日) 21:55:21
>>59の続き
古事記分註天皇崩年干支(以下記干支)は2倍年暦であるため、30年で還暦となる。
しかし、記干支2倍年暦には2種あり、私はT類U類となづけた。
日本書紀の干支は世界共通のものであり60年還暦である。以下干支と表現。
干支と記干支と合う年をさがしてみると、十干が戊年しか合わない。
干支が戊申である288年は、288年春年は記干支はT類が戊申でU対が戊寅である。
198年戊寅年は春年 T類が戊申 U類が戊寅である。
228年戊申年は春年 T類が戊申 U類が戊寅である。
258年戊寅  春  T類 戊申 U類 戊寅
288年戊申  春  T類 戊申 U類 戊寅
318年戊寅  春  T類 戊申 U類 戊寅
348年戊申  春  T類 戊申 U類 戊寅
378年戊寅  春  T類 戊申 U類 戊寅

戊申と戊寅とあるが、申と戊は子午のように対しているので、表と裏の関係であるとみる人もいる。

崇神天皇は没年は288年の春年のU類戊寅の年である。

64 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/15(月) 11:55:26
段々難しく成ってきた。
できあがった物が、太陰暦で読めるか? 読めない場合は、どの様な暦になるか?
それを 書紀に変換しないと、成らない。


65 :サガミハラハラ:2008/12/15(月) 13:39:16
問題は垂仁天皇の年代である。記干支では前帝との間が26.5年であるならば4倍は106年である。前帝没と即位年がかさなるので107年となる。
本来106年であるならば、書紀ではなぜ99年となっているのであろうか?
これを解くカギは神武即位紀元前660年辛酉年にある。辛酉年は変革の年であるとの説により、紀の編者はそれにあわせたのである。
おそらく、編纂したら神武即位年が660年をこえてしまったのであろう。そこで出すぎた分7年をけずり、調整したのである。
その調整した部分が垂仁帝の終わりごろなのである。
よって垂仁帝は在位107年、4倍年なので、実年で27年(当年称元で288年は崇神鄭と重なる。)である。
288年春年後年即位314年秋年後年没年である。

66 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/15(月) 15:52:23
>>65
そうすると 即位紀元前660年辛酉年にある。
この 神武辛酉は、動かない?


67 :サガミハラハラ:2008/12/15(月) 23:23:38
神武の即位が、書紀の編纂作業中に偶然BC660年近辺になったので、辛酉革命のことが頭に浮かんだので、神武の即位年を辛酉年にすることにし、
垂仁天皇の在位年を削って調整したということです。

68 :サガミハラハラ:2008/12/16(火) 10:19:28
>>65の続きです。
次は景行天皇の年代にはいる。
書紀では、在位60年宝算(天皇の寿命)106歳である。
2倍年暦であるから、それぞれ30年53歳である。
315年春年即位であるから、没年は344年秋年生年は290年となる。記干支はない。
武内宿禰は景行3年から9年の間に生まれたもののと思われる。6年生まれの可能性が高い。
彼は長寿であったとされ、天皇に召された最後の記録ではしっかりとした言動であったのでその時(仁徳50年)は実年105歳であったとみられる。
仁徳は87年であるが、実年は21年である(仁徳帝のところで説明します)。
仁徳50年は比例で出すと、実年は12年である。87:50=21:X X=12
仁徳の実年12年は422年となる。仁徳即位年は411年(後述)。
422年から105年さかのぼると、317年となり、それが武内宿禰の生年と推測される。
317年が景行6年とすると、景行元年は315年か314年となる。住吉神代記によると314年垂仁没年となるから、315年景行即位となる。


69 :サガミハラハラ:2008/12/16(火) 10:46:16
>>68の続きです。
次は成務の年代に入る。
書紀では、在位60年宝算107歳とある。(どちらも2倍年暦)
彼は武内宿禰と同年の生まれであるから、317年生まれで345年の春年に28歳で即位したことになる。
在位実年30年であるから、没年は375年となるかというと、ほかとの関係を見比べるとそうはいかないのである。
仲哀天皇は355年春年に没している(後述)。記干支は壬戌であり、記干支2倍年説の干支は355年春年である。
在位6年とあるから実在位年は3年である。よって即位年は352年春年となる。
そうすると、成務天皇の没年は351年の秋年となり、書紀の在位60年(30年)とはあわなくなる。
記干支では乙卯没であるが、375年は乙卯ではない。351年秋年は乙卯である。
記干支が正しいとみているから、書紀の成務在位60年は間違い(意図的?)である。
成務即位345年春年在位7年没年351年秋年となる。

70 :ローガン:2008/12/16(火) 15:35:46
>>69
少し質問があります。貴説に従うと、日本武尊は15才没でしょうか?
景行43年に没ですから半分にして21.5年…景行が315〜344なんですよね?しからば、日本武尊没は336年頃。
仲哀は26才没ですから329年生まれ。日本武尊8才の時の子になるようですが… いかがでしょうw

71 :ローガン:2008/12/16(火) 15:56:31
>>70
おっと、間違った。
仲哀330年生まれで9才の子に訂正。

72 :サガミハラハラ:2008/12/16(火) 17:46:10
ヤマトタケルについては、後世の創作(民間伝承)がふくまれているようであり(英雄美化)、記紀の記述をそのままうけいれるわけにはいかないようです。
わたしはヤマトタケルの九州征伐はなかったとみています。九州にいったことがあるにしても、父の景行天皇の征伐についていって陣のまわりでうろちょろしていただけだと思います。
よって30歳というのはおそらく民間伝承によるもので、普通年齢で記述されているものとみています。

73 :ローガン:2008/12/16(火) 20:36:47
>>72
回答どうもです。理解しました。とりあえず続きをどうぞ。
話のこしをおりました失礼。

74 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/16(火) 22:39:22
ま〜全部お説を述べられてからですかね。


75 :サガミハラハラ:2008/12/17(水) 00:42:44
実はこれらが難しいのです。
うまく説明できるかどうか。

76 :サガミハラハラ:2008/12/17(水) 10:32:12
>>69の続きです。
成務天皇と仲哀天皇の年代について記干支をもって説明いたします。
記干支にはT類とU類があり、時代により別の類を使用しています。
二倍年暦は以後Aをつけます。100歳Aとあったらこの100歳は二倍年暦ということになります。

仲哀天皇の在位は9年Aです。没年は壬戌Aです。
成務天皇の没年は乙卯Aです。よって仲哀の即位年は丙辰Aです。
2年Aは丁巳A 3年Aは戊午A 4年Aは己未A 5年Aは康申A 6年Aは辛酉A 7年Aは壬戌A 8年Aは癸亥A 9年Aは甲子Aとなります。
ところで仲哀はある年の春(仲哀7年A)に死んで、その後、皇后の朝鮮出兵や忍熊王の叛乱などにより、空位状態がありました。
没年の秋(仲哀8年A)が朝鮮出兵、あくる春(仲哀9年A)に忍熊王征伐で秋に皇后摂政元年(応神天皇即位)となります。
こうしてみると、どうやら記干支は天皇の死んだ年の干支であることがわかります。
日本書紀では空位は存在せず、死んだ後も、次の天皇が即位するまで、つづけていくことにしているのです。
仲哀は仲哀7年Aに死んだがその後の混乱で次の応神が即位するまで在位を続け、応神天皇の即位の前年まで在位したということです。
その在位の最後の年を末年と名付けることにしました。
尚記干支にはT類とU類があるといいましたが、この部分はT類です。

77 :サガミハラハラ:2008/12/17(水) 12:01:19
288年春年はT類が戊申、U類が戊寅で、ここから始めます。
そうすると、成務没年乙卯は西暦351年秋年T類となります。
仲哀元年丙辰は352年春年T類  仲哀没年である7年A壬戌は355年春年T類
仲哀末年である9年A甲子は356年春年T類  摂政元年は乙丑は356年秋年T類となります。  

78 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/17(水) 19:20:54
私の考えの及ばなかった方法では、有るが。
聞きますよ。

79 :よこやり:2008/12/17(水) 21:04:13
>>59
久々に書き込みますが、

倭国では131年の時点で既に日誌が記録されていた事になるのですか?
そしてそのデータが700年頃まで保存されていた事になるのですか?
読書きが出来る人間も当然、複数連続して居た事になりますよね?

以上3点については、確実という事ですよね?




80 :サガミハラハラ:2008/12/17(水) 23:26:28
さあ、どうでしょうね。それはこれからの課題の一つであると考えます。

81 :日本@名無史さん:2008/12/17(水) 23:54:40
聖徳太子の時代頃「国記」が編纂されましたが、
これは、儒教国家隋と国交を結ぶための言わば日本国の履歴書のような物で
当然卑弥呼も歴史書のような資料があれば提出していたでしょう。

しかし倭人伝では、倭国の過去については具体的な人名や年数は出てきません。
これは、当時邪馬台国には年代記が無かったからでしょう

もし建国を131年に置くならば、邪馬台国は、大和朝廷と繋がらない蛮国
(人文が無いという意味で)となります。

この場合、魏が大和朝廷と国交を結ばない理由は、大和朝廷は卑弥呼と敵対する
狗奴国だからと考えるしかないと思います

可能性は低いと思いますが


82 :よこやり:2008/12/17(水) 23:56:15
>>81は、俺です


83 :サガミハラハラ:2008/12/18(木) 12:54:42
魏が大和朝廷と国交を結ばない理由は、まだ大和の勢力は弱く、かつその存在をしらなかったからだと思います。
わたしは邪馬台国北部九州説をとっています。狗奴国は熊本県北部の国とみています。

84 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/18(木) 17:33:13
サガミさん 書紀は、当時の現在を記録した物であることに疑いを持っているんですか。
其れでは「暦に直せなくても何ら支障ない」の前振りですか。

>>82 よこやりさん
詔書報倭女王曰:制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、
次使都市牛利。都市牛利=田島守
官有伊支馬。イクメ=垂仁
是で読めますよ。



85 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/18(木) 18:17:25
垂仁は天皇であって官ではない。妄想!wwwwwww

86 :よこやり:2008/12/18(木) 21:19:48
>>83
大和が弱小というのは、最近の考古学の成果から有り得ない事になっているでしょう

>>84
大和に邪馬台国を肯定した場合、>>79>>81で起案した疑問に回答する必要があります

皇紀元年が、倭人伝よりも後なら問題は、無いのですが・・・・



87 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/18(木) 22:14:31
垂仁はスメラギであって天皇ではない。が正解。

神武元年=西暦41年 
考昭元年=西暦93年、この年の干支を以て元年とし、加増されていないのが、
古事記を代表とする”出雲暦”
日本書紀も太陰暦で読むこと、方法 19年*n回の空白の”増し”。

其四年,倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人,伊勢のベテランいわか=六雁
倭女王と倭王は、別人。倭王=景行。




88 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/18(木) 22:26:54
よこやりさん
終止符24!を初めから読んでおいて下さい。
その上で反論期待しています。

89 :サガミハラハラ:2008/12/18(木) 23:14:06
>>86卑弥呼が貢献した238年から266年までの大和の天皇はコウレイ、孝元、開化です。
ヤマトが強大化したのはスジン以後とみます。それまでは岡山あたりまでであったとみます。
強い弱いの程度をどうみるかでしょう。


90 :サガミハラハラ:2008/12/19(金) 00:13:14
異なっているとみている人もおり、私もそのとおりだと思う。>>77の続きです
で元嘉暦等、暦が切り替えになっていることや文体が異なることから、雄略を境にして編者がは正確な年代がわかってくるのはどの天皇の時代からであろうか。
記干支と書紀干支が一致するのは安閑天皇の没年からである。
安閑 記乙卯 紀乙卯
宣化 記不明 紀己未
欽明 記不明 紀辛卯
敏達 記甲辰 紀乙巳  (両者1年違い)
用明 記丁未 紀丁未
崇俊 記壬子 紀壬子
推古 記戊子 紀戊子
となり、安閑以降は記干支も普通の干支となっている。
継体の記丁未と紀辛亥については、継体の没年の問題もあり、今は棚上げにしておく。

そのずーっと上の雄略のところをみていく。(清寧、顕宗、仁賢、武烈については記干支は不明)
雄略は紀干支では己未(479年)となっている。
記干支では己巳とあり、己巳は2倍年暦では478年秋年T類にあたる。
両者は半年の違いである。
允恭は記甲午(454年)で紀は癸巳(453年)で1年違いである。
允恭の紀干支は普通年とみてよいといえるようであるが、他の天皇の年代と突き合わせる必要がある。
尚甲午が2倍年暦とみると、461年春年T類である。
反正は記丁未で紀庚戌である。
允恭は問題があるので脇に置いておいて、記干支が普通の干支となったのは雄略以降であることがわかる。


91 :サガミハラハラ:2008/12/19(金) 00:20:10
>>90訂正

1行目の思う、までを、2行目の編者が、のあとにつづけてください。
そしてそれを最後の行にしてください。

92 :ローガン:2008/12/19(金) 00:50:22
>>81
> 聖徳太子の時代頃「国記」が編纂されましたが、 これは、儒教国家隋と国交を結ぶための言わば日本国の履歴書のような物で
> 当然卑弥呼も歴史書のような資料があれば提出していたでしょう。
> しかし倭人伝では、倭国の過去については具体的な人名や年数は出てきません。 これは、当時邪馬台国には年代記が無かったからでしょう

なかったとは思いますが、あったところで「歴史書の提出」をしたかどうか…
ヲワケ臣は過去の系譜を把握していたようですが、同時代頃と思われる宋書には、遡る王の系譜がありません。
それに対魏と対隋外交を同様には考えにくいと思いますがいかがでしょう。

93 :サガミハラハラ:2008/12/19(金) 10:30:45
>>90の続きです。
倭の五王の貢献年。
413年 倭国方者を献ず。
   安帝のとき、倭王讃朝貢
421年 永初2年 倭王讃朝貢
425年 元嘉2年 讃再び朝貢
430年 元嘉7年 倭国王方物を献ず
不明      讃死して弟珍立つ、貢献
438年 元嘉15年倭国王陳を安東将軍に
443年 元嘉20年倭国王済を安東将軍倭国王に
451年 元嘉28年倭国王済を安東大将軍に。6カ国諸軍事。
不明      済死す。世子興が貢献
460年 大明4年 倭国貢献
462年 大明6年 倭王世子興を安東将軍倭国王とする。
不明      興死んで弟武立ち、自らーー7カ国ーー倭国王と称す。
477年 昇明1年 倭国貢献
478年 昇明2年 倭国王を安東大将軍6カ国諸軍事
479年 建元1年 倭国王武を鎮東大将軍に
502年 天監1年 倭王武を征東将軍に
 

94 :サガミハラハラ:2008/12/19(金) 11:58:22
>>93の続きです。
以上は岩波新書の藤間生大氏の「倭の五王」を参考にしたものであるが、460年の記事とその上の不明年は入れ替えうる可能性がある。
その件については後述。

中国への貢献の理由であるが
@新皇帝への即位への賀詞
A倭王の即位の報告
Bその他
となる。

倭の五王については、おおかた
讃ー仁徳天皇
珍ー反正天皇
済ー允恭天皇
興ー安康天皇
武ー雄略天皇
となっており、履中天皇は貢献しなかったか記録がないとみられている。
私も以上で正しいとみている。

95 :サガミハラハラ:2008/12/19(金) 13:05:08
>>94の続きです。
倭王武の502年の授号であるが、天監1年とある。これは梁が建国された年である。
この授号は、建国のお祝いとして手当たり次第にばらまかれたものであるといわれ、倭王武の生死も確認せずにおこなわれたものとされている。
事実倭国の貢献の記録もない。倭国が梁建国の賀詞を送るにしても、その年に間に合うはずもない。
となると、502年の記事は倭王武の生存を証明するものではない。
となると、478年没の雄略天皇が武であることの矛盾とはならない。


96 :サガミハラハラ:2008/12/19(金) 13:17:21
訂正5行目の478年没は479年没のあやまりです。

97 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/19(金) 18:09:11
履中天皇、元年春二月,壬午朔,皇太子即位
是まで即位時に使われていた、”太歳”の文字が無い。
そして 庚子年二月,壬午朔は、西暦400年の中華の干支で有る、これ以降
中華の干支で書紀は書かれていると見て、異常は見られない。

此方の見知からも検討しないと正しいと見ることは、出来ない。



98 :ヨコヤリ:2008/12/19(金) 23:18:11
>>92
倭人伝には、過去のその時代の過去について書かれている箇所が有ります。
男王の在位年数、倭国の乱の時期、卑弥呼の共立

もし倭人が年紀を付けていれば大雑把な年数で表わす事は無かったように思われます。

宋書については、武の上表文のみの掲載では、年期の有無は不明です。




99 :サガミハラハラ:2008/12/20(土) 08:42:12
>>95の続きです。
雄略の在位は23年であるから、479年から23年遡った457年が即位年となるはずであるが、そうは問屋がおろさないのである。
というのは、允恭崩御以来の継承をめぐる混乱のためと、編纂がこの部分から別になっていることから、通して考証編纂されなかったからのようなのである。
しかし、幸いなことに中国の史書にその混乱のさまが克明に記録されているのでそこから読み取ることができる。



100 : ◆.L.MXSPOgc :2008/12/20(土) 11:18:03
広開土王碑に刻まれた391年の倭の征韓はどう見ていますか?

101 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/20(土) 22:52:46
391年は仁徳陵完成間近、
お飾りを半島北部迄取りに行ったが高句麗に返り討ちにあった。

まあどの様に読んでも、五王に近づかない。「何事も無かった20年間の出来事」。


102 :サガミハラハラ:2008/12/20(土) 23:04:04
391年に倭の出兵はありません。
392年好太王は百済を攻め、辰斯王を死にいたらしめます。
倭は援軍をおくったが、到着したときはすでに遅く、戦いは終わったあとでした。


103 :サガミハラハラ:2008/12/21(日) 11:17:45
>>99の続きです。
雄略天皇(武)の貢献についてですが、478年に上表文を提出しています。
477年に宋の最後の皇帝である順帝が即位しています。
この年に武の使者到着し、翌年の478年に儀式が行われ上表文の提出がおこなわれたものです。
よく479年は宋が滅び斉が成立しました。
と同時に斉によって、武の号がすすめられました。このときには武の使者は中国をさっていたと考えられます。

104 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/21(日) 12:03:25
◆.L.MXSPOgcさん 書紀しか信じられないのなら、書紀を信じてあげれば。
私は現在出雲暦にて、考察中。
資料は3級品、墓標です。

105 :サガミハラハラ:2008/12/21(日) 20:26:36
>>103の続きです。
雄略天皇の即位年はちと後回しにして、神功及び応神天皇の年代を推測してみよう。
神功摂政元年が356年秋年であるとしよう。治世69年Aで没年は390年秋年となる。
あくる391年春年が応神天皇の即位年(書紀では)である。応神在位41年Aであるから最後の年は411年春年である。
仁徳の即位年は411年秋年となる。そうすると、413年の倭王讃の貢献は仁徳天皇であったということになる。
即位の挨拶に使者をつかわしたことになる。ところが在位87年Aではながすぎるのである。
これでは末年が455年となってしまい、倭の五王は438年には珍の時代になっているのである。

106 : ◆.L.MXSPOgc :2008/12/21(日) 20:52:44
広開土王碑の倭の征韓は無視ですか?
倭が百済、新羅を支配下に収め、その後高句麗がその倭を破った、と書かれている。
2国を破るほどの大遠征、大勝利、なのに記紀には何も書かれていないというのですか?

数字遊びもよいですが、もうすこし整合性を取られたら如何でしょうか?

107 :サガミハラハラ:2008/12/21(日) 21:01:14
広開土王とたたかったのは応神天皇です。
もう少しおまちください。

108 :日本文尊 ◆m0yPyqc5MQ :2008/12/21(日) 21:16:56
誰かセックスの話しない?俺童貞だから色々教えて欲しいです。

109 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/22(月) 20:28:22
書紀で応神死亡=366年、他の資料で361年
書紀で仁徳死亡=399年、他の資料で394年

もしこの様に読めば 仁徳。 まだ読めない。

110 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/22(月) 20:41:12
西暦400年履中元年…
此所までは、日々の干支は、伸長されている、と思われる。
400年過ぎも伸長されている、と考えると 日々の干支を圧縮した場合の”圧縮しすぎ”
も考察の範囲。その後どの様にして日々の干支を戻したか?


111 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 17:39:43
みなさん神武即位は何年と考えてるんですか?

112 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/23(火) 22:50:42
神武即位西暦41年
皇暦から19年*n回の”増し”を差し引く=太陰暦で読める。
設定場所 崇神6年民散る=193年新羅倭人到来、崇神11年春異族多帰=2世紀末、巻向の土器
273年日食=神功前紀。

113 :サガミハラハラ:2008/12/23(火) 23:37:24
仲哀から雄略までの諸天皇の記干支を西暦にかえてみる。
仲哀壬戌 355年春年T類
応神甲午 411年あたりに甲午の年はない。411年春年T類甲寅  411年秋年U類甲申
仁徳丁卯 T類なし  432年秋年U類
履中壬申 T類なし  435年春年U類
反正丁丑 T類なし  437年秋年U類
允恭甲午 T類461年春年 U類446年春年
安康   記干支なし
雄略己巳 478年秋年T類

記干支であるから、天皇の実際に崩御した年である。
紀の天皇の在位最終年は崩御年か末年である。
各天皇の年代は各天皇の事件を詳細に分析することにより割り出すことになります。

114 :日本文尊 ◆m0yPyqc5MQ :2008/12/23(火) 23:39:03
まるで嘘。全部嘘。大嘘つきだお前ら。

115 :ヨコヤリ:2008/12/23(火) 23:48:36
西暦279年


116 :ローガン:2008/12/24(水) 15:06:51
>>97
唐松山さん
> 履中天皇、元年春二月,壬午朔,皇太子即位
> 是まで即位時に使われていた、”太歳”の文字が無い。

?? 太歳庚子…元年の記事にありますが。太歳は元年の最後に記したものでしょう。


117 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/24(水) 22:29:01
ローガンさんご指摘感謝。私の誤り


118 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/24(水) 22:36:52
仁徳、是以 政令流行 天下太平 廿餘年無事矣
履中、「大王辭而不即位.位空之,既經年月.群臣、百寮,愁之不知所為.願大王從群望,強即帝位!」

20余年の空白は、本物か? 暦の操作か?


119 :サガミハラハラ:2008/12/24(水) 23:56:38
>>118廿余年無事とは仁徳の治世でしょうか。
私の復元日本書紀紀年法では仁徳の治世は22年となっています。


120 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/25(木) 00:08:07
いまだに倍暦なんていってんのかよ

記紀の暦で使われてる太歳の干支十二支は60年周期だよ
干支十二支は木星と太歳の周期を表してるもので、木星は約12年周期だから、十二支が6年になる事は無い


あと記紀で使われてる和暦(旧暦)の【朔】の意味を良く理解した方が良いよ

「朔」は約30日周期で訪れるんだよ


121 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/25(木) 00:19:13
「倍暦」とか言ってる人は、いい加減に記紀で使われてる日本古来からの和暦の成り立ちを勉強した方が良いですよ
太歳の干支十二支は約60年周期
朔日(食季)は約30日周期


干支十二支や朔日(食季)を理解してないから倍暦説の人は「一ヶ月は15日しかなかった!だから一年は今の半分しかなかった!」とか言ってるんでしょ?


仮に一ヶ月が15日だったとしたら
1月1日が朔だった場合、15日後の2月1日は朔にならないよ
これは理解出来てますか?


1月1日が朔で、同じ年の2月1日や4月1日も朔なんだから、記紀の暦は一ヶ月は約30日だよ


倍暦なんて訳のわからない暦は使われてないよ

122 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/25(木) 01:36:56
日本書記巻第七
大足彦忍代別天皇
景行天皇

「大足彦忍代別天皇、活目入彦天皇第三子也。」
「活目入彦天皇州七年、立為皇太子。年時廿一」
「九十九年春二月、活目入彦天皇崩壊」
「元年秋七月己巳朔己卯、太子即天皇位。因位改元、是年也、太歳辛未」
「六十年冬十一月乙酉朔辛卯、天皇崩壊、時年一百六歳」



123 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/25(木) 01:52:03
稚足彦天皇
成務天皇


「稚足彦天皇、大足彦忍代別天皇第四子也。大足彦天皇、廿廿六年、立為皇太子。年廿四。六十年冬十一月、大足彦天皇崩」

「元年春正月甲申朔戊子、皇太子即位、是年也。太歳辛未」

「二年冬、葬大足彦天皇」

「三年春正月、初天皇興武内宿禰同日生也」

「四年春二月、詣之日我先皇、大足彦天皇、聡明神武、冠受」


「六十年夏 六月己巳朔己卯、天皇崩。時年一百七歳」



124 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/25(木) 02:13:50
この「時年一百六歳」とかが天皇の寿命って解釈されてるんかな?
これ天皇の年齢の事じゃない気がするけど

あと大足彦天皇が神武と呼ばれてるし


あとここに書かれてる天皇の名前は
「活目入彦天皇→大足彦天皇→稚足彦天皇」
が正しいね


景行天皇とか成務天皇とかってのは良く解らない
例えば大足彦天皇の事を後から景行天皇って名前を付けたのか、それとも別人なのか
それとも大足彦天皇が改めた元号の景行をとって景行紀の景行紀の天皇の時代紀って意味なのかも知れないし


ただ大足彦天皇は改元をしてるけど、稚足彦天皇は改元をしたとは書いてない
「元年」とか「廿四年」とかってのは元号の事じゃないかもね


あと改元の仕方やタイミングも、明治以降と江戸時代前では全然違うよ


明治以降の改元は「天皇崩壊日」なんてしたから、昭和64年と平成元年が同じ年にくるアホの改元

昭和は64年
平成は今のところ20年

この改元の仕方だと例えば昭和50年に生まれた人の年齢は、元号の数字からは解らなくなるよ
意味解るかな?

125 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/25(木) 02:30:33
>>122
大足彦が皇太子になった年齢は21歳
ちなみに年齢の書き方は「年時廿一」


「時年一百六歳」ってのは上の年齢の書き方とは違うから、これは年齢の事じゃないと思うよ

それに10を「一十」とは書かないのと同じで
100を「一百」とは書かないと思うし

元年に大足彦天皇は即位(太歳辛未)
六十年、大足彦天皇が崩壊。時年一百六歳
(ちなみに即位は元年)

三年に稚目足彦天皇は即位
六十年、稚目足彦が崩壊。時年一百七歳


「時年一百六歳」ってのを年齢と考えるとやっぱオカシイよ


126 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/25(木) 02:52:21
ちなみに古事記では


御眞木入日子命、治天下也。
此天皇、○木国造、生御子、豊木入日子命

天皇御歳壹佰陸拾捌歳、戊寅年十二月崩



この「天皇御歳壹佰陸拾捌歳」ってのが
日本書記の中では「時年一百六歳」
って書かれてるだけじゃないの?


「○○天皇は○○才で死んだ」なんてのは記紀には書いてないよ

ちなみに天皇の名前も景行天皇とか神武天皇とか仲哀天皇とかって名前では書かれて無いよ
大足彦天皇とか稚目足彦天皇ってのが天皇の名前だよ



127 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/25(木) 05:52:14
>>112
だから皇暦なんて明治時代以降に作られた暦だってば

つか明治時代以降に神武の辛酉年が決められたいきさつを説明してあげたでしょ?


128 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/25(木) 09:32:35
日本書記巻第八


「足仲彦天皇、日本武尊第二子也。皇后○○姫。活目入彦之女也。稚足彦天皇、廿廿八年、立為太子。『時年卅一』稚足彦天皇無男。故立太嗣。○六十年天皇崩。明年秋九月壬辰朔丁酉。葬干倭国○陵」

「元年春正月庚寅朔庚子、太子即天皇位」

「九年春二月發卯朔丁未、天皇惚有痛身、明日崩、時年五十二」

129 :サガミハラハラ:2008/12/25(木) 20:13:14
>>113の続きです。
書紀の在位年数は、仁徳87年、履中6年、反正5年、允恭42年、安康3年、雄略23年となっている。
応神の甲午に該当する年は応神の終わり近くの年代にはないが、411年春には甲年があり、仁徳没年の432年秋年U類までは44年Aである。
履く中は433年春年から435年春年までとして、在位5年Aである。
反正は、435年秋年から437年秋年まで5年Aである。
允恭は、438年春年から461年春年まで47年Aであり、446年春年にも甲午があり、438年からは17年Aである。
允恭は、紀在位42年であるから、461年春没であろう。446年没はない。
安康は不明であるが、雄略即位は457年であった。
こうしてみると、安康は即位していなかったかに見える。

以上みると、履中反正允恭は、その在位数が記干支とほとんど合っているように見える。
問題は安康と雄略である。

ここで外国の資料が登場する。
それは百済武寧王の出生年である。
百済武寧王の出生年は、墓碑により」確認されており461年とされている。
さらに書紀によれば、それは王仁5年のことであるという。
479年が雄略没年(雄略23年)とすれば、雄略5年は461年となる。そうすると、即位年は
457年でよいことになる。

ところがこれに真っ向から対立するのが宋書である。


130 :サガミハラハラ:2008/12/25(木) 20:17:02
3行目の履く中は、履中の誤りです。
下から5行目の王仁は、雄略の誤りです。

131 :サガミハラハラ:2008/12/26(金) 20:01:50
宋書等にあらわれる。 
倭王武は雄略天皇であるとされている。となるとその前の興は安康天皇ということになる。
倭の五王の興の貢献をみてみよう。
不明年 済死す。世子興貢献(宋書倭国伝)
大明年(460年)倭国使いを遣わして貢献(宋書孝武帝紀)
大明年(462年)倭王世子興を安東将軍倭国王とする。(宋書倭国伝)
不明年 興死んで弟武立ちーー自ら称す、とある。
最後の不明年の記事は貢献記事ではないとみてもよい。
この中で興がはっきりしているのは462年である。
しかし、この年に興が生存していたとはかぎらない。
使者が倭国を出発したときには確かに生きていたが、中国に到着して皇帝に謁見するまでの間に死亡している場合もある。
安康天皇の場合は暗殺されたのであることを頭にいれておいてほしい。

132 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/26(金) 21:45:09
履中、反正、允恭 この3人
誰の何歳の時の子供か?


133 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 21:56:39
                          
雄略天皇の息子、清寧天皇は、億計王(仁賢天皇)を恐れていた。
だから、億計王の弟王(弘計王=顕宗天皇)に皇位を譲り、
顕宗天皇と同盟を結ぼうとしたが、顕宗天皇は、兄である仁賢天皇に
暗殺されてしまった。
清寧天皇を暗殺したのも、仁賢天皇であろう。




134 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/26(金) 22:19:20
書紀の干支は、日数単位で数えられる。
天皇名    元年干支 朔干支 日数
神武天皇元年 辛酉 庚辰 1日
綏靖天皇元年 庚辰 壬申 28853日
安寧天皇元年 癸丑 庚申 40901日
懿徳天皇元年 辛卯 己卯 54780日
孝昭天皇元年 丙寅 丙戌 67567日
孝安天皇元年 己丑 乙酉 97866日
孝霊天皇元年 辛未 壬辰 135133日
孝元天皇元年 丁亥 辛未 162892日
開化天皇元年 甲申 庚午 183711日
崇神天皇元年 甲申 壬午 205623日
垂仁天皇元年 壬辰 丁丑 230458日
景行天皇元年 辛未 壬申 266633日
成務天皇元年 辛未 甲申 288545日
仲哀天皇元年 壬申 庚寅 310811日
神功皇后元年 辛巳 丁酉 314118日
応神天皇元年 庚寅 丁亥 339308日
仁徳天皇元年 癸酉 丁丑 355018日
履中天皇元年 庚子 壬子 386793日

もん太君 上記を否定出来るか?
これが太陰暦で書かれた日本書紀の日数です。
サガミハラハラ暦にも適用可?

135 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/26(金) 22:37:49
下記の式は、”B4”の数字を干支に直します。誤差は、スライドしてお使い下さい。
数字=CHOOSE(MOD((B4+66),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")&
CHOOSE(MOD((B4+68),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")

もん太君も上記の式で書紀の日数を確認の事。

136 :サガミハラハラ:2008/12/27(土) 11:23:43
>>131の続きです。
藤間生大氏の年代表で460年の前に「済死す。世子興、使いを遣わして貢献」の不明年の
記事がきているが、これは460年の記事と順がいれかわって彼は判断したと考えられる。
彼は記干支は2倍年暦であることに気づかなかったのであるから、安康天皇の在位が3年で
あると解釈していたのである。だから462年のA年まえの460年の記事は安康をさすとみたのである。
しかし、2倍年暦であるとすると在位1年半であるから、460年では安康の在位は超過してしまうことになる。
よって私は、不明年は460年のあとにつくものであるとみる。
つまり、460年の貢献をおこなったのは允恭天皇なのである。
それを次にシミュレーションしてみよう。

137 :サガミハラハラ:2008/12/27(土) 11:30:32
訂正 2行目を次のように書き換えます。
記事がきているが、これは順が逆で460年の記事の次に不明年がくるものと私はかんがえている。
藤間氏がかのように(不明年の次に460年記事が来る)判断したのは次のようなのであろう。

138 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/27(土) 21:19:47
>>129
だから百済とかの時代に日本でも中国大陸でも「西暦」なんて暦は使ってないですよ
(ちなみに日本でも中国でも西暦が使われたのは明治時代以降)


西暦が使われる以前の例えば百済王の石碑だの、魏志倭人伝だのに西暦は書かれてない
だからそれらの資料から「この時代は西暦何年の出来事」とは判断出来ないよ

魏志倭人伝の卑弥呼も「西暦200年頃」って言われてるけど、魏志倭人伝の内容が西暦200年頃の話とする対した根拠なんてないから



139 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/27(土) 21:32:23
>>134
まず干支や太歳暦ってのは「60進法」ってのを理解して下さい


例えば記紀の中には
10進法→一、二、三、、、十、廿、卅、、
60進法(10×12進法)→甲子、乙丑、丙寅、、、
12進法→子、丑、寅、卯、、、
?進法→壱、貳、参、、、伍、陸、、拾、、、一佰、、



記紀では暦は甲子などの60進法で書いてあって
年時は一、二、廿、などの漢数字で書いてあって
御年は壱、貳、壱佰などの数字(これも漢数字?)で書いてある




140 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/27(土) 21:43:08
>>139追加
この数を表す漢字表記の使い分けは、理由があっての事だと思うよ

>>122>>126>>128
などをもう一度見て欲しい
少なくとも三種類の数字を使い分けてるのが解ると思います


暦には60進法の干支(甲子など)
元号(なのかな?)や年時には漢数字(年時廿廿四、元年○○月○○など)
御年には壱佰七歳(一○七歳)などの書き方


なぜこんな使い分けをしてるのかですよ


141 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/27(土) 21:52:00
この数字の使い分けはもしかしたら○進法によるものかも知れないよ

例えば天皇の寿命と解釈されてる「御年、一百七歳」ってのは、伊勢暦などで使われる7進法での表記だったのなら、10進法上での80歳ぐらいの事になるよ


ちなみに「皇太子立位、年時廿廿四」とか書かれてるってのが「年齢(よわい)24歳の時」って意味であるなら、年齢を表す書き方(漢数字表記)は、
一(元)、二、三、四、、拾、廿、卅、廿廿、五十、、
の、10進法の漢数字で統一されるはずだよ




142 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/27(土) 22:10:13
>>134
干支って、神武天皇即位日を元年元日として、日数で数えてると言う意味ですか?

全然違いますよ。まず干支の意味をちゃんと理解してください

十支は甲が始まり(甲兄=1、甲弟=2)
十二支は子が始まり(子=1、丑=2)
干支は甲子が始まり(甲子=1、乙丑=2、葵亥=60)
漢数字は一(元)が始まる(元=1、二=2)

干支は60進法で使われる数字だよ
例えば「TUVWXYZ[\]」これも数字(確か12進法だったかな?)


143 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/27(土) 22:24:20
つか現代では数学にしろ数の数え方や計算にしろ、一般的には殆んどで10進法が使われてる


けど古代では数字や数や計算は「12進法」で始まって、後に10進法に切り替わったんだよ
(人間の手の指が10本で10の方が都合が良くなった為と言われてる)


英語やドイツ語やフランス語や古代ローマ語や古代ギリシャやインドやマヤやインカ、、、
例えば英語で12は「テンティーツー」とは言わない
「トゥエルブ」って言うよ
英語語源が出来た時は12進法だったからだよ
日本やアジア仏教圏も同じ
例えば日本やアジア圏で使われてたソロバン
あれは元々は上の玉1個、下の玉が5個で、12進法での算盤に作られたもの
(下の玉を4個にすれば現代の10進法の算盤が出来るソロバンとなる)


144 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/27(土) 22:39:57
ちなみに60進法(10×12進法)上での数を表す干支や、12進法上での数を表す十二支などは

方角を12分割し方角を表す文字としても当てはめたり、木星や歳星の黄道上の軌道を60分割し天体の位置を表す暦(太歳)としても使われてるよ


例えば「太歳、辛酉年」ってのは、「惑星の木星と歳星が地球の黄道上のこの位置にある時(約60年周期)」ってのを表してる暦

ちなみに歳星ってのは、古代に太陽系で火星と木星の間にあったとされる星で、世界中の古代神話の中で言い伝えがある星(この歳星から金星がうまれ、その際に地球に天変地異が起こったって話に繋がる伝承が多い)


145 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/27(土) 22:47:49
記紀の中で書かれてる干支
例えばイワレ彦天皇が干支(太歳)の辛酉年に即位したとあれば、歳星(木星)が黄道上で辛酉の位置関係になるのは約60年周期なんだから、太歳辛酉年の年なんだなってのが解るよ


太歳乙丑年ってあれば、約60年周期の歳星の位置を60分割した乙丑の年って意味だよ


神武元年元旦を1として、日数とか関係ないよ


そもそも干支の始まりは甲子年だよ
60年後にまた甲子年になる
この周期を「還暦」って言うんだよ

146 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/27(土) 23:02:04
>>134
ちなみにこの表をみる限り唐松さんは「朔」を理解してないと思うよ

○○元年、○○年、朔○○


例えば
寛永元年 閏甲子朔丙辰

元号が寛永1年、干支が甲子年(ちなみに閏年)、朔(元日の意味)の干支が丙辰の意味

ようは寛永元年の正月元旦の意味。寛永元年の干支が甲子で閏年で元日干支が丙辰だって意味

旧暦の寛永元年の1月1日を西暦で表すと

西暦1624年、2月19日


だよ

147 : ◆.L.MXSPOgc :2008/12/27(土) 23:17:12
他スレであったリンク先で
http://www7.ocn.ne.jp/~sui-yama/
のなかの「九州勢力の優位性」のところに「日本書紀と三国史記の一致」として以下のような文がありました。
リンク先がややこしいので引用しますと、

〜ここから〜
三国史記によると、新羅の王は、西暦402年に王の子、未斯欣を日本に人質として差し出しており、
その人質は、西暦418年に逃げ帰っている。
ところが、日本書紀にも、同じような記述がある。 これは、許智伐早という人質をとっていたが、
新羅の使いの策略によって逃がしてしまったと言う記述である。
これは、神功皇后の5年ということであるから、皇紀で言うと865年、西暦205年になる
〜中略〜
このことから、4世紀の終末から5世紀のはじめが神功皇后の時代と考えてよいのではないだろうか。
〜ここまで〜

この少し前の西暦391年に前に書いた広開土王碑の倭による征韓記事があるわけで、
これが神功皇后の三韓征服とリンクしていると私は考えているのですが、どうでしょうか。


148 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/27(土) 23:17:38
唐松さんは「朔」の意味を理解して下さい


旧暦では月の元日が「朔」ですよ
朔の前後数日を食季といって地球上ではこの旧暦の食季に、日食が起こるんですよ


例えば旧暦では一年の始まりは正月(終わりは12月)

旧暦では
【一年の始まりの月(正月)は「立春の次の雨水(太陽黄道330度の日、冬至と春分の中間の日)を含む月」】

【一ヶ月の始まりの日は「月が朔に来た日(月がちょうど太陽と地球の中間点を通過する日、約30日周期)」】


と定められてるよ(その日はだいたい西暦の2月19日前後。この日が旧暦での正月元日)


149 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/27(土) 23:42:33
ちょっと訂正

太歳星(木星)自体の周期は約12年で、これが干支の中の十二支です(歳星の位置を12分割し、その位置を表してるもの。歳星子、歳星丑、歳星寅)

対する十干の方は太陽と五行陰陽を表してます

組み合わせて60年周期になるよ


ちなみに1月〜12月を十二支で表す場合もある
その場合は
(旧暦での)
1月→寅月
2月→卯月
3月→辰月

11月→子月
12月→丑月

みたいすね

150 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 00:08:40
ちなみに五行の中の「土」ってのは一般的には土星の事と言われてるけど、これ本来は地球の事を指してたんじゃないかなって気がするけどな

五行
木→歳星(木星)、青、春、八、視、脾臓、東、朱雀(蒼竜)
火→火惑(火星)、赤、夏、七、言、肺臓、南、朱鳥
土→鎮星(○○)、黄、土用、五、思、心臓、中央、黄竜
金→太白(金星)、白、秋、九、聴、西、白虎
水→辰星(水星)、黒、冬、六、貌、北、玄武




↑が陰陽五行だけど、「土」を表すのは土星だと思う?
おれは地球(大地星、土)の事と思うけどな



もしくは昔は地球の事を土の星って意味で土星と呼んでたとかさ


英語やギリシャ神話でもサタルヌゥス、サターンは農耕の神で土地や大地を表す神だし
クロノスやタイタンって方が今土星と呼んでる星の事じゃ無いのかな?


五行の太陽系惑星に地球を当てはめないのはオカシイと思うし、もし地球を当てはめるなら土(大地)や中央を当てはめるだろうし

151 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 00:23:45
>>147
三國志や魏志倭人伝の歴史年代の解釈も一般的に言われてる年代と実際の年代は随分掛け離れてると思うよ


卑弥呼の下りにしたって、西暦200頃との先入観さえ無くせば、西暦600年頃の皇極天皇、善行女王の事柄と全く一致するし


共に弥烏邪馬國をも治めてた倭人で鬼道師で、多くの兵を率いてた女王で、独身で、戦争で死んでその際に多くの民や兵士が殉職殉職してるよ
墓は須弥山だよ



ちなみに須弥山ってのは「三日月の形の周りに四角形と台形と三角形の島があり、三日月の土地の中心にある」として仏教以前の古代サンスクリット教の時代から崇められてた場所で、その土地も申請な土地とされてた場所

「三日月と、四角形と、、」
って島は、日本人なら日本列島の事だってピンと来ると思うけどな

ちなみにシュメール山(漢字表記で須弥山)ってのは日本では妙高山って名前の山だよ

152 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 00:39:59
>>147
ちなみに三國志が単に乾国の三國時代の事を書いた話ってのも同意
今でこそ朝鮮半島は朝鮮民族が支配してるけど、朝鮮民族が移住してくる前は漢城(ソウル)が置かれてた土地で古代漢人が住んでたよ
(ちなみにこの古代漢人と同民族は満州と遼東付近にしか居ない)

三國志伝は別に今の中国の歴史じゃなく古代漢民族の歴史でしかない書物
古代漢人の城や都市がどこにあったのかを考えれば解ると思うよ

なぜ朝鮮半島が「韓国、乾国、漢国、漢城、弁秦、」とか呼ばれててたのかとかさ

ちなみに漢氏や秦氏の祖氏は和邇氏(王仁氏)って言われてるけど、王仁氏との話は記紀中にも沢山書かれてるしね
和邇の背中に乗って騙された因幡の白兎
和邇の子供を産んだ神巧皇后の話

とかね



153 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 00:56:20
唐松さんやサガミハラさんに言いたいのは、日本書紀の年代を考える前に、まずは記紀でも使われてる日本の旧暦の事をもっと理解して考えて欲しいって事すよ

記紀で使われてるいわゆる旧暦は、明治政府が廃止するまで日本で少なくとも記紀時代以前から、ほんの100年前までちゃんと使われてた暦


かってに「倍歴だ」とか「神武元年元日から日数計算してる暦だ」とか、訳の解らない解釈をせずに、
明治4年以前に日本でどんな暦が使われてたのかを勉強して理解して欲しい

記紀や万葉集などに使われてる暦は古代の暦じゃなく、明治4年まで日本人が使ってた日本の暦だよ
暦の成り立ちや形式を調べるのには、つい百年前まで使ってた暦を調べればいいだけだよ

「朔」や「干支」や「太歳」や「節季」の意味ぐらい理解して下さい


154 :サガミハラハラ:2008/12/28(日) 10:40:11
>>136の続きです。
ヤマトから中国に到着するまで足掛け3年とみます。
462年興の使者が中国に到着したとすれば、出発は460年中である。勿論このときは安康は生きている。
今、安康が使者を送りだしてから、直に暗殺されたとしよう。
そうすると没年は460年秋年とすると、在位3年であるから即位年は459年秋年となる。
そうすると、460年の倭王の貢献は興では時間的に無理である。
允恭の貢献だとすると、足掛け3年かかるとすると、允恭の使者の出発は458年到着は460年ということになる。
允恭の在位は書紀では42年Aであるから、仮に記干支の反正の没年の437年秋だとすると、允恭の即位は438年春年となり
允恭の没年は458年ということになる。あくまでもこの没年は仮の話である。
あくる459年安康即位となる。
460年に安康が使者をたてます。同年には允恭の使者が天皇の死を知らぬまま中国に到着謁見します。
460年か461年には安康が暗殺されます。使者に連絡はとれず、そのまま中国への旅路についています。
462年には安康の使者が中国に到着します。
両者の使者は途中で遭遇した可能性があります。
ところで允恭の没年についてはもう少し考慮する必要があります。
なにぶんにも没年と末年が異なる天皇もいるわけですから。



155 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 14:15:57
もん太君 >>134 の日にちを29.5306で割れば月数になる。
19年=235月≒6940日
計算して、この日数が太陰暦で有ることを確認の事。

>>154
タジマモリは、大和から洛陽往復9ヶ月と24日で行き来しています。



156 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 14:28:37
>>155
神武天皇の辛酉年は紀元前660年じゃないってば
那珂道世が何を根拠に紀元前660年って言ったのか教えたでしょ?
それを前提としてる所がまず間違いなんすよ
あと何を1として数えてるのか知らないけど日数は関係ないすよ


つか誰が唱えた式か知らないけど、なんでそんなもん間に受けるんすか?



157 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 15:31:07
那珂道世?私は知りません。書紀を書いた人ですか?
履中天皇元年 庚子年 壬子朔  386793日
386793/29.5306=13098.04月 13098/235=55.73617章
55.73617*19≒1059年
履中天皇元年 庚子年 壬子朔は西暦400年太陰暦庚子年 壬子朔になりますから
神武元年は、是より1059年前。

那珂道世?が計算しなくとも我々が計算してもこの様な数字になる。

それとも もん太君はこの程度の算数も勉強してないのか?


158 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 15:43:13
386793日を
365.25か365.2422で割っても1059年になる。
何を以て私の数字を否定するのか?
”馬鹿”を曝すだけだが、受けてあげますよ。


159 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 15:48:14
>>157
だからその履中の庚子年を西暦400年とする根拠は何ですか?
西暦460年も庚子年ですよ



あとその日数は何を数えた物ですか?
神武元年の辛酉年から履中の庚子年までの日数?
神武の辛酉年が西暦何年で、履中庚子年が西暦何年かわ解らなければ日数は数えようが無いですよ


そもそも履中の庚子年が西暦何年なのか解ってれば日数なんか数えなくても、西暦何年なのかが出てる訳じゃん

ちなみに履中の西暦を460年として同じ計算してみて下さい
神武元年は1119年前って数字が出ますから


ちなみに履中の庚子年を西暦520年として日数数えても約29で割れば1179年前って事で計算は合うよ

つかそんなの朔の周期が約29日なんだから当たり前じゃん


60年周期の干支を60年前にしようが600年前にしようが、計算が成り立っちゃう事解らないですか?
つか5年や3年づらしてもその計算で成り立っちゃうよ

160 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 15:55:26
>>158
だから履中元年の庚子年を西暦401年として
386793+365日をその数字で割って見てください

1060年って数字が出ますから
じゃあ1060年って数字が出たからって履中元年は西暦401年で正しい、って成りますか?

例えば100年(36500日+閏年の数)ずらして履中元年を西暦500として計算して見てください
1159年って答えになりますから


西暦500で日数数えてその計算しましょうか?
1159年になりすよ?
って事は履中元年の庚子年は西暦500年で正しいですか?

161 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 16:09:41
唐松さんは、その計算は何で調べたんすか?
朔の周期は約29日
年の周期は約365日

だから神武元年〜○○天皇元年までは、閏日だけをちゃんと計算してやれば、どんな年数を当てはめても成り立つんですよ?


365.25で割るってのは、一年が365日で閏年が4年に一度だから、一年の平均が365.25日ってだけです

祟神を紀元前664年として、(365日×4年+閏年の1日)を割って見てください
4年って数字がピッタリ出ますよ


けどだからといって祟神元年の庚子年が紀元前656年だなんて間違いですよ

162 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 16:11:11
>>160
計算してくれ 期待しているぞ。
履中元年の庚子年1月壬子朔=西暦400年
ヒント
 武烈天皇元年 己卯年1月戊寅朔 元年春三月,丁丑朔戊寅
 庚辰年壬寅朔
この100年間 432099−395569=?日







163 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 16:31:13
>>162
いや、面倒くさいから履中元年の庚子年を紀元前659年で計算しますよ

とりあえず神武天皇は紀元前660年1月1日に即位
履中即位は紀元前659年3月12日

(365+31+30+31+12)÷29.5306≒15.4
約15.4ヶ月≒約1年3ヶ月12日


履中元年は紀元前559年すよ

164 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 16:35:36
ちなみに紀元前560年でも計算しますよ
履中即位が紀元前560年3月12日

365×100+25(閏日)+31+30+31+12÷365.25≒100

出ましたよ約100年です
履中元年は紀元前560年で決まりで良いですか?

165 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 16:45:17
履中元年(皇暦1060年)より100年前は、応神31年で 記事無し
200年前 神功皇后前 三月,壬申朔 この年
庚辰年正月癸酉朔
300年前(皇暦760年)庚子年正月甲申朔 景行30年で記事無し
400年前(皇暦660年)庚申年正月乙丑朔 垂仁29年記事無し
500年前(皇暦560年)庚辰年正月甲戌朔 開化57年記事無し
600年前(皇暦460年)庚子年正月乙酉朔 孝元14年記事無し
700年前(皇暦360年)庚申年正月丙申朔 孝安92年記事無し
800年前(皇暦260年)庚辰年正月丙午朔 考昭75年記事無し
900年前(皇暦160年)庚子年正月戊午朔 懿徳10年記事無し
1000年前 (皇暦60年) 庚申年正月戊辰朔 神武60年記事無し

年の干支だけでなく朔の干支も合わせること。

166 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 17:14:23
もん太君 >>164 で 世継ぎ(子作り)不可能
やり直し。 書紀ではおおむね 親→子→孫で繋いでいる。
やり直しだよ。

167 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 17:25:38
4分暦の日数19年*4=6940日*4−1日
1年平均365.25日 月の満ち欠けとも合う 当時の暦法(西暦元年〜250年ころ)



168 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 17:36:16
東晉安帝元興3年10月1日甲寅朔=西元404年11月18日 此方の確認は台湾電子文献で確認。
履中5年冬十月,甲寅朔甲子 書紀で確認の事。


169 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/28(日) 18:02:48
神武即位前紀の甲寅(こういん)年十一月丙戌(へいじゅつ)朔から仁徳八十七年十月癸未(きび)朔まで
日本書紀は当時存在しなかった唐の「儀鳳暦」=「麟徳暦」で記述されており、
安康紀三年八月甲申(こうしん)朔から天智紀六年閏十一月丁亥(ていがい)朔までが南朝の宋の「元嘉暦」と一致するという。
(天文学者の小川清彦による。ウィキペディア「日本書紀」より)
儀鳳暦の日付は後で換算されたものであることは明らか。
景初暦、四分暦等の日付は最初から存在しなかったと思われます。存在していれば、儀鳳暦に直す必要が無い。
やはり、倭暦=倍暦説が優勢ではないでしょうか?

170 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 18:25:25
倭暦=倍暦説 ホツマ伝を”偽書”として葬らねば成らない。
何故か? 倍暦や諸先輩、大先生方は、太陰暦で書かれた日本書紀を正常な太陰暦に
変換できなかった。 ←不幸にも本当です。
だから「古代日本に暦は無かった。」で通す。
ホツマ伝には、「暦」と言う文字が躍っています。←暦に直せなければ 「偽書」として葬るのが妥当。
もし「ホツマ伝」を認めると書紀を暦に直せないおのれの無能を世間に曝す、だけですから。
この辺は頭の良い学者様達です、数字が合わなければ「吉祥句」で通すことも可。

私如きの敵う相手では無い。

171 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/28(日) 19:01:17
>>170
>だから「古代日本に暦は無かった。」で通す。

私は暦はあったと思っています。
ただ、旧暦を誤った方法で太陰暦に換算したために不自然に延びてしまったと思われる。
この換算がどのようなものであったか?無能な私如きには手ごわい謎です。
諸先輩のご指導を賜りたいものです。

172 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 22:33:12
>>166
別に何回やり直しても良いですよ

神武天皇を紀元前8000年前と定めても
履中天皇を西暦2008年と定めても

西暦を何年に定めても、いくらでも計算合いますから


この計算に意味が無い事に気付かないですか?

唐松さんは「履中天皇が西暦400年だと計算が合うから西暦400年だ」って言ってるけど
西暦を460年にしようが533年にしようが、どの年でも計算合いますよ

173 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 23:10:59
>>169
「廿廿八年、立為太子。『時年卅一』稚足彦天皇無男。故立太嗣。○六十年天皇崩。明年秋九月壬辰朔丁酉」


例えば「明(廿廿九)年秋九月壬辰朔丁酉」とある


んで↓これなんですけど
【九月壬辰朔丁酉】

1、9月の壬辰 (この月の朔は丁酉)

2、9月の丁酉(この月の朔は壬辰)


ちなみに朔ってのは元日(つまり元日の日干支は○○)なんだけど
記紀の暦は、1と2、どっちの意味なのか解りますか?


どっちが朔の干支かが解らないと、書いてある暦が、その月の朔から何日過ぎた日の事なのかが解らないすよ



ちなみに儀鳳暦とか言う近代学者が作りだした暦をどうこうする前に
きちんと日本が明治時代まで使ってた旧暦を理解して、まずは旧暦を読み取れるようにした方が良いですよ
とりあえずは無理に西暦や今の暦に直す必要は無いんですから


記紀では旧暦と同じ、太歳や朔や24節季を使ってるんだから、まずは旧暦の仕組みをきちんとしるべきですよ




174 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 23:20:35
>>171
記紀では日付や朔も干支表記してるけど、江戸時代とかの暦は、日付は数字で表す暦に改めてたような気がするよ


○月の朔の干支が○○で、今は○月の○○干支
これは(えっと朔の干支が○○だから、朔から○○日後かあ)って考えるのが面倒臭い


まずは干支で書かれてる記紀の月の日にちを数字表記にする所から始めれば言いと思うよ

例えば干支が朔の干支から18日後だったら、9月18日って形に変えた方が解りやすいよ
江戸時代とかは、そっちの表記をしてたはずだし


ちなみに記紀暦や旧暦の一年は365日と決まって無いから、朔の干支が解らないと、干支で書かれてる日にちを数字に直せないよ


っても記紀はちゃんと朔の干支も書いてあるから平気と思う

175 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/28(日) 23:33:22
太国さんだったかな?
「記紀では月の日付が15日までしか無いから倍暦を使ってたんだ」とか言ってたけど


ちゃんと記紀に書かれてる日付の干支が、その月の朔の干支から何日後って数えて日付出したのかな?


旧暦では朔から朔までの日数が一ヶ月なんだから、15日しか無かったり、50日もあったりはしないんだけどな


旧暦の場合、天体運動や節季や節句に合わせて暦を決めてる訳だから
例えば12月25日に立春が来て、次の日が朔なら、一年が365日立って無かろうと、一ヶ月が25日しか無かろうと
次の朔の日が新年の正月元日になるよ


おれ旧暦の仕組みは大分勉強したっすよ
まだまだ良く解らんけど

176 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/28(日) 23:56:15
あんなもんは舎人親王配下の日付の逆算だよ。彼らが月の天体観測を
してそれを書いたんではないの。観測なら神武〜仏伝まで特殊の朔と
いうべき月食の記事がすくなくとも数個は記紀に載る。それがない
ということは観測でなく逆算。さらに空白月もあるのだ。

ZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・

177 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/28(日) 23:59:08
>>173
>ちなみに儀鳳暦とか言う近代学者が作りだした暦をどうこうする前に
>きちんと日本が明治時代まで使ってた旧暦を理解して、まずは旧暦を読み取れるようにした方が良いですよ

もん太君、何を言ってます?
旧暦(天保暦)より儀鳳暦のほうがはるかに古いんですよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%B0%E5%A4%AA%E9%99%BD%E6%9A%A6#.E6.97.A5.E6.9C.AC
日本で使われた暦が古い順に書いてあります。
ちゃんと調べてください。

178 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 01:18:43
>>177
ありがとう
そういや閏月の入れ方も昔は閏年の閏月は12月にもって来てたけど、途中から33ヶ月に1回とかに変えたとかあるらしいし
それによって閏月の月がほぼ順番に変わるようにとかなんとか

旧暦ってひとくくりにしちゃえばそれまでだけど、地方暦なんかも含めて、例えば天保暦を基準にするなら、天保暦との違いも頭に入れなきゃ、確かに正しく読み取れないかもっすね


179 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/29(月) 04:23:49
>>176
日食→年に必ず2〜4回
月食→年に平均2回〜3回
いちいち歴史書に
「○○日に月食がありました。日食がありました」
なんて書かないすよ

つか何度も言うけど古代の人の方がよっぽど今の時代の人より天文学に優れてて、正確な暦を使ってるんですってば


月や星をアホ見たいに観測してた訳じゃなく、太陽系惑星や月や星座と地球が、どういう周期でどういう運動をしてるかっていう知識を既にもってるから、暦を作れるんですよ


つかそんなに古代の人をバカにするなら、マジで古代の人が使ってた旧暦の仕組みや成り立ちぐらい理解して見て下さいってば


例えば太国さんは、月の軌道は、地球の周りを回ってる訳じゃ無いって事とか知ってます?
月がどういう軌道を取ってるのか解りますか?

大陰暦を使ってた古代の人はちゃんと理解してましたよ
だから朔や閏月なんて暦を使えるんですよ

180 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/29(月) 10:45:09
足仲彦天皇(仲哀天皇)は、日本書紀によると日本武尊の第二子。
身長十尺。稚足彦天皇(成務天皇)四十八年(西暦178年に当たる)立爲太子。時年卅一
九年(西暦200年)春二月癸卯朔丁未。天皇忽有痛身。而明日崩。時年五十二。

ほぼ合っているようだが、父の日本武尊は身長一丈、景行天皇四十三年(西暦113年)以前に「時年卅」で亡くなっている。
178年には65歳以上のはずで、明確な矛盾がある。

181 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/29(月) 11:20:16
ヤマトタケルは武内宿禰(たけうちのすくね)の若き姿
http://www.geocities.jp/shoki_otoku/

全て賛成はしないが、なかなか面白い。

182 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/29(月) 12:32:01
ホ38025 キノクニに カミまつらんと うらなえば ゆくはよからず ミユキやめ ヲシマコトのコ
ウマシタケ ヰココロやりて まつらしむ 
ホ38053 ヰホネシモ ソヰカヒのデに うむコのナ ワカタリヒコぞ
タカヨリは ヒノマエもふぞ (紀の)ウヂマロが タチでマコうむ ヰココロが イムナをこえば
タカヨリが イムナタカヨシ ナはウチト タケウチマロそ
武内宿禰の本名=イムナタカヨシ ナはウチト タケウチマロ


183 ::2008/12/29(月) 15:13:47
>>179
「朔」の字のヘンは逆のぼるとかの意味だ。逆算を示してるの
だよ。だからこの字自体が文字通りに月の運行の逆算を意味して
るのだ。

184 :ローガン:2008/12/29(月) 16:20:19
唐松山さん。よく調べてられますね。さてメトン周期…19年間に7回の閏をいつ差し込むのでしょう?
紀の閏初見は仲哀元年11月ですが、垂仁23年では9月の後に閏月があるようです。
又、月の大小も固定してませんね? パターンが決まってないようですが、朔干支をどのように求めますか?

185 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/29(月) 17:43:52
>>184 昨日何処かに書いたが、返信ということで
『令集解』「古記」は、「暦数は、十九年を一章と為し、三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月とす
崇神元年は、15年目、辛酉年春正月庚辰朔。天皇即帝位より
19年のブロックを積み重ねる。朔の誤差を修正しながら新月より異常に離れないよう並べる。
出来た皇暦を当時の4分暦で表記出来れば、多分正解。
閏の正誤は、それから 多分閏は正月の後。

「古記」は、「大宝令」の注釈書であって、天平一〇(七三八)年頃に成立したという。その頃の日本国では、
儀鳳暦が行われていた。儀鳳暦は、章法から脱 却した破章法による暦法であって、「古記」が示すような固定的な閏月の型を示さず、
閏月は次第に進行する性質を持っている。「古記」が解説する暦法は、儀 鳳暦ではない。




186 :ローガン:2008/12/30(火) 00:28:07
>>185
ご教示どうもです。近くの図書館に暦日原典を予約しているのですが、なかなか…


187 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/30(火) 00:53:47
>>186
ローガンさん、よく研究されてますね。暦日原典か!

日本暦日原典(にほんれきじつげんてん)は、内田正男によって作成された長暦。
1975年に雄山閣出版より初版が刊行され、最新版は1992年刊行の第4版である。
従来の長暦は通常『日本書紀』によって記された神武天皇即位(紀元前660年)以来の暦日について作成されてきたが、
『日本暦日原典』では450年頃以前の暦日は『日本書紀』編纂時に儀鳳暦に基づいて逆算されたものに過ぎないとする小川清彦の説を採用して、
日本で使用が確認されている最古の暦である元嘉暦が中国南朝宋で使用が開始された年で
朝鮮半島において日本と関係が最も深かった百済でもほぼ同時期に採用されたとされている445年(日本の允恭天皇34年)から
太陰太陽暦が用いられた最後の年である1872年(同明治5年)までの1428年間の暦日を記載している。
(ウィキペディア「日本暦日原典」)

188 :ローガン:2008/12/30(火) 01:16:56
>>187
愛知県民さん。半島の金石文である巡狩碑は元嘉暦?稲荷山の辛亥年云々も…
とすれば雄略の頃、元嘉暦が割と行き渡っていたように思います。zzz…

189 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/30(火) 01:48:38
>>188
巡狩碑は新羅の真興王の時代だから欽明天皇の時代ですね。
いろいろ調べましたが、元嘉暦が使われたのは中国南朝・百済・倭国であり、
高句麗・新羅は北朝の暦を使っていたようです。

190 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 04:13:37
>>189
中国の南北朝時代ってのは漢籍の北史、南史に由来する時代でしょ?

http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/wakan/menu-w.html#MOKJI

↑実際に読んだ事あります?


日本で言う白江村の戦いとかその頃の話しな気がするよこれ


191 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/30(火) 12:32:10
>>190
>中国の南北朝時代ってのは漢籍の北史、南史に由来する時代でしょ?
>日本で言う白江村の戦いとかその頃の話しな気がするよこれ

北史、南史はダイジェスト版。それぞれの王朝の歴史書を読まないと駄目。
×白江村 ○白村江
白村江は南北朝の後の唐の時代。


192 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/30(火) 12:53:07
4分暦でも儀 鳳暦(定朔)でも 月の満ち欠けは、変わらない。
四分暦は、19年7閏6940日*4回で−1日
暦を誤魔化すには是さえ守れば、幾つかの方法が推定出来る。

儀 鳳暦の定朔←こんな暦法何処に書かれていますか?
実際の運用は4分暦とどれだけ違うか?。解る方解説を。
24節季は、含まなくて良い。


193 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/30(火) 13:30:20
私製暦日 神武元年正月より19年間この積み重ね。(正しくは無いと思うが充分使える。)
後は修正しながら使う
1日 31日 60日 90日 119日 149日 178日 208日 237日 267日 296日 326日
355日 385日 414日 443日 473日 503日 532日 562日 591日 621日 650日 680日
710日 740日 769日 799日 828日 858日 887日 917日 946日 976日 1005日 1035日 1064日
1094日 1123日 1153日 1183日 1212日 1242日 1271日 1301日 1330日 1360日 1389日 1419日
1448日 1478日 1507日 1537日 1566日 1596日 1625日 1655日 1684日 1714日 1743日 1773日 1803日
1832日 1862日 1891日 1921日 1950日 1980日 2009日 2039日 2068日 2098日 2127日 2157日
2186日 2216日 2245日 2275日 2304日 2334日 2363日 2393日 2422日 2452日 2481日 2511日
2541日 2571日 2600日 2630日 2659日 2689日 2718日 2748日 2777日 2807日 2836日 2866日 2896日
2925日 2955日 2984日 3014日 3043日 3073日 3102日 3132日 3161日 3191日 3220日 3250日
3279日 3308日 3338日 3367日 3396日 3426日 3455日 3485日 3515日 3545日 3574日 3604日
3633日 3662日 3692日 3721日 3750日 3780日 3809日 3839日 3869日 3899日 3928日 3958日 3988日
4017日 4047日 4076日 4106日 4135日 4165日 4194日 4224日 4253日 4283日 4312日 4342日
4372日 4402日 4431日 4461日 4490日 4520日 4549日 4579日 4608日 4638日 4667日 4697日 4726日
4756日 4786日 4815日 4845日 4874日 4904日 4933日 4963日 4992日 5022日 5051日 5081日
5110日 5140日 5169日 5199日 5228日 5258日 5287日 5317日 5346日 5376日 5405日 5435日
5464日 5494日 5523日 5553日 5582日 5612日 5641日 5671日 5700日 5730日 5760日 5789日 5819日
5849日 5878日 5907日 5937日 5966日 5996日 6025日 6055日 6084日 6114日 6143日 6173日
6202日 6232日 6261日 6291日 6320日 6350日 6379日 6409日 6438日 6468日 6497日 6527日
6557日 6587日 6616日 6646日 6675日 6705日 6734日 6764日 6793日 6823日 6852日 6882日 6912日


194 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/30(火) 13:46:52
崇神元年より19年間 5,6,7月省略(長文エラーの為)
1月 2月 3月 4月 8月 9月 10月 11月 12月 13月
205623日 205653日 205682日 205712日 205830日 205859日 205889日 205918日 205948日 205977日
206007日 206036日 206065日 206095日 206213日 206242日 206272日 206301日 206331日
206360日 206390日 206419日 206449日 206567日 206596日 206626日 206655日 206685日
206715日 206745日 206774日 206804日 206922日 206951日 206981日 207011日 207040日 207070日
207099日 207129日 207158日 207188日 207306日 207335日 207365日 207394日 207424日
207453日 207483日 207512日 207542日 207660日 207689日 207719日 207748日 207778日
207808日 207838日 207867日 207897日 208015日 208044日 208074日 208103日 208133日 208162日
208192日 208222日 208251日 208281日 208399日 208428日 208458日 208488日 208517日
208546日 208576日 208605日 208635日 208753日 208782日 208812日 208841日 208871日
208901日 208931日 208960日 208990日 209108日 209137日 209167日 209196日 209226日 209256日
209285日 209314日 209343日 209373日 209491日 209520日 209550日 209579日 209609日
209639日 209669日 209698日 209728日 209846日 209875日 209905日 209934日 209964日 209994日
210023日 210053日 210082日 210112日 210230日 210259日 210289日 210318日 210348日
210377日 210407日 210436日 210465日 210583日 210612日 210642日 210671日 210701日
210731日 210761日 210790日 210820日 210938日 210967日 210997日 211026日 211056日 211086日
211115日 211145日 211174日 211204日 211322日 211351日 211381日 211410日 211440日
211469日 211498日 211528日 211557日 211675日 211705日 211735日 211764日 211794日
211824日 211853日 211883日 211912日 212030日 212060日 212090日 212119日 212149日 212178日
212208日 212238日 212267日 212297日 212415日 212444日 212474日 212503日 212533日
w48=CHOOSE(MOD((W48+65),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")&
CHOOSE(MOD((W48+63),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")

195 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/30(火) 14:51:49
四分暦
19年7閏月の章法を採用し、1太陽年を365+(1/4)日(=365.25日)、1朔望月を29+(499/940)日(≒29.53086日)とする。

景初暦
19年7閏月の章法を採用し、1太陽年を365+(455/1843)日(≒365.24688日)、1朔望月を29+(2419/4559)日(≒29.530599日)とする。

元嘉暦
19年7閏月の章法を採用し、 1太陽年を365+(75/304)日(≒365.2467日)、1朔望月を29+(399/752)日(≒29.530585日)とする。

儀鳳暦
破章法を採用し、1太陽年を1340分の489428日(≒365.244776)、平均朔望月を1340分の39571日(≒29.530597)とする。

もし、元嘉暦以前の日本で四分暦や景初暦が行われていたなら、その時代の日付を儀鳳暦に換算する必要は無かったのではないか?
全く違う暦だったように思われます。


196 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 18:33:09
「春h」

197 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/30(火) 21:08:21
4分暦の誤差を 空白年で調整すると?
現実の朔も調整される。

儀鳳暦に換算すると何年で1日狂うか?。
崇神以前の数字も76年で1日程度減らされている。
19年=6940日より少ない
章法を使いながら倭独自に月齢を調整していたのではないか?
垂仁元年 24節季の調整。


198 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 21:19:35
>>197
四分暦も儀鳳暦も、俺から見たら旧暦(大陰暦)なんだけどな

閏月をいつに持って来るかとか、細かい相違はあるだろうけど、同じ分類の暦すよ

朔を1日として暦だよ


199 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 21:36:31
あと唐松さん、旧暦(四分暦や儀鳳暦)では一年間の日数は特に決まってないよ
太陽暦の24節気を元にした春分や、月の運動を示す朔日により一年間の日数は変動するよ
旧暦の閏年ってのは閏月の1ヵ月(約29日)が多くなる訳だから


例えば
1601年(辛丑) 慶長6年 正月元旦の朔が庚子 一年は384日 (閏11月)
1602年(壬寅) 慶長7年 正月元旦の朔が甲子 一年は354日
1603年(發卯) 慶長8年 正月元旦の朔が戊午 一年は354日
1604年(甲辰) 慶長9年 正月元旦の朔が壬子 一年は384日(閏8月)


コレが旧暦すよ
一年間の始まりが(正月元旦)が、24節気の春分の次の雨水を含む朔だよ
一ヶ月の始まりが朔が含まれる日(約29〜30日周期)


200 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/30(火) 21:36:52
さて 太陰暦に強いもん他君 神武元年から崇神時代の1ヶ月平均は出せますか?
崇神時代の朔も日数ででていますから正月の平均値出して下さい。

201 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 21:40:10
>>200
一ヶ月は「朔から次の朔まで」の期間ですよ
29〜30日だよ


202 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/30(火) 22:12:17
>>193 >>194 の数字は、書紀に書かれた朔を日数に直した物
この数字を現実に流れた年数に直す。
数字の正誤は、29.53059で割って調べる。


203 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/30(火) 22:22:04
1年の長さが知りたければ
2年目−1年目=1年の長さ
正しいかどうか 全ての数字を朔干支に直し 書紀の記事と比べる。
式も提供しているよ。

204 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/30(火) 22:57:39
>>197
だから、四分暦を使っていたなら、そもそも儀鳳暦に換算する必要は無いですよ。
当時の中国の暦と合っているわけだから。


205 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/30(火) 23:06:40
私は、日本書紀が儀鳳暦で書かれている。又は、儀鳳暦に変換した。とは申しておりません。
むしろ 「日本書紀が儀鳳暦で書かれている」に反対しています。
何故なら 「神武以前から暦は使われていた」を主張しますから。
暦は後付けでなく、現実の記録、記録方法に”増し”も含まれる。


206 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 23:32:44
>>203
まあ干支を数えれば解る事は解るかな?

ただ計算式では日数は出ないすよ
閏月がある年は例年より日数が29〜30日多くなりますから


ただあんま一年の日数は気にしなくて良いと思うすよ
記紀の太歳干支が、西暦何年の事なのかって事を得たい訳ですから

207 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/30(火) 23:35:27
>一年の日数は気にしなくて良い

オマエさんが紀にしてたんだろうが?wwwwww

ZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・

208 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/30(火) 23:36:29
例えば空海の誕生日は6月15日だけど、
これをわざわざ
「旧暦の○○年6月15日は今の暦の7月○日の事だ。だから空海の誕生日は7月○日だ」
なんて西洋暦に直して空海の誕生日を7月○日と改める必要は無いですよ

空海の誕生日は旧暦の6月15日
日付なんて、このままでいいすよ

209 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/31(水) 01:53:16
>>208
たまには太陽暦に直した方が分かり易い時もある。
忠臣蔵の雪など太陽暦なら直ぐ解る。

210 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/31(水) 02:05:23
それだけじゃない 歳首って解るか?
年の初め 建寅月と建丑月等がある
日本の暦は建寅月で神武以来変更は無いが
200年頃の新羅や魏で建丑月が使われたことがあるので注意してください。

理解できたかな?。


211 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/31(水) 02:36:47
>>210
補足すると
夏・殷・周はそれぞれ違った正月を採用しており
夏正(建寅月が正月)
殷正(建丑月が正月)
周正(建子月が正月)
周時代は一般的な旧暦の十一月(冬至を含む)を正月としていた。
殷時代は一般的な旧暦の十二月を正月としていた。
一般的な旧暦は夏正の暦です。

212 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/12/31(水) 04:29:44
>>210
>>211
今調べ中だけど、それもしかして帰忌日とか血忌って奴じゃないですか?
節切りとかなんとか、、、

寅子丑寅子丑寅子丑寅子丑

213 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/31(水) 11:16:44
>>194 の見方
崇神8年『208192日』この数字を真と増しに分解したら
皇暦571年=真152年、増し419年と見ています。
152年=76年*2=55518日←4分暦の数字
419年=208192日−55518日=152674日=(6940日*22=152680日)−6日
6940日が22回だから 4回に1日減ずる必要が有る
22/4=5.5日 6−5.5=0.5日 この時点で0.5日先行して減じられている。
神武元年は、暦の初めでなく途中の為か?暦法の為か?
こんな使い方をしています。


214 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/31(水) 11:29:21
>>185
「古記」が解説する暦法は、周正の暦と思われます。
章末の閏月が「十九年十二月」となっているから。
夏正の暦であれば、章末の閏月は「十九年十月」であり、十一月一日に朔旦冬至=章首を迎える。
実際、推古天皇十年(六〇二)には「閏十月乙亥朔己丑。高麗僧僧隆。雲聰共來歸。」とあり、
三章後の斉明天皇五年(六五九)には「潤十月」「十一月一日。朝有冬至之會。」とあって、
遣唐使が唐の朔旦冬至の儀式に参加したと書かれています。
日本書紀は「古記」に従っていない。

215 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/31(水) 12:29:57
>>214
履中以後は儀鳳暦で説明できますから、それ以前の暦法かと

216 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/31(水) 12:36:23
>>215
>履中以後は儀鳳暦で説明できますから、それ以前の暦法かと

×儀鳳暦 ○元嘉暦
仁徳以前は周正の暦だったという見解ですか?

217 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/31(水) 13:00:31
仁徳以前の暦を作って 朔を総て当てはめる
崇神元年=15年目として閏を当てはめる
それから閏の錯誤を探す。
開化五年春二月丁未朔壬子←1月
崇神七年十一月丁卯朔←8年
垂仁九十九年秋七月,戊午朔←98年
(仲哀元年閏十一月乙卯朔戊午←正11月の後)
(神功前年十二月,戊戌朔辛亥,生譽田天皇 閏12月が続く)

多分間違いは、この程度 正月の後に閏が来るのが当時の暦法


218 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/31(水) 13:09:48
神功前年、十二月,戊戌朔辛亥,生譽田天皇 閏12戊辰
1月丁酉、2月丁卯、神功元年、三月,丙申朔庚子,命武內宿禰

閏12月のある暦法です。


219 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/31(水) 14:55:35
>>218
>閏12月のある暦法です。

なるほど。
「仲哀元年閏十一月」(192年)は古記の「十一年閏十一月」
201年1月が章首になる。
483年の「閏五月」は「十七年閏五月」
486年1月が章首。
この辺りまで周正ということ?
一応、合っていますね。


220 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/31(水) 15:42:50
閏年の注入位置が神武から推古まで変わらないんですよ。
だから何処で暦法を変えたか?まだよく判らない。
ただ400年を過ぎると朔に揺らぎが出てくる(それ以前も無いとは言わないが)。
並べてみないと判らないと思います。

221 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/31(水) 16:15:35
>>220
>閏年の注入位置が神武から推古まで変わらないんですよ。

おや、そんなことはないと思いますよ。
清寧天皇四年(483年)のあと、安閑天皇元年(534)閏十二月は移行混乱期?
次の欽明天皇九年(548)閏七月は602年11月の章首から逆算して古記の「三年閏九月」に当たり、
この時点では夏正に変わっているようです。
敏達天皇十年(581)閏二月は閏三月の誤りと見ると古記の「十七年閏五月」に当たると見られます。


222 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/31(水) 16:34:36
534年は閏十一月の誤りと見て古記の「十一年閏十一月」周正と見るべきか。
すると仏教伝来・欽明即位以後、夏正に変わった?

223 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/31(水) 17:42:44
>>221
閏月が変わっても閏年の入る年は変わらないと言おうとしましたが、字足らずで。
534年は正12月の後に閏12月ですね。朔の干支も正しいが?ですか。



224 :日本@名無史さん:2008/12/31(水) 21:36:44
.  \\    七,_ l 十 こに |   一ァ ├  ゝ‐、ヽ ll               尸  //
    \\   (メ )| ノ   Cト、 l_ノ (  Cト、_ ノ l_ノ よ  ̄ ̄ ̄ (⌒/   //
                     /\  │ |  /ヽ
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            ::, イ::ノ⌒'Z _⌒ Y彡::./V  j/ヽ::ハ.::.V::Y⌒/;^)- 入 \:
           ::/ :/八  '(:::::':,\ トV::./⌒     ⌒ヽ.::∨/,.::'::/  /:::∧  '\::
           ::/ `V::/ヽ\ \ :':, 八W __    __ jハ:::l, :':::::, ′ /:::/   ̄ ノ\::
        ::〈   ,.:'::/   ヽ \ \:l:ハ| 〃⌒    ⌒ヾ ハ:|::::/  ,.イ:::/     ∠.::勹::
       ::/ ! :.'::::∧   |  ヽ  \ム .:::::  r ┐ ::::.,'ノ/  / /::/   |__:/::
     ::∠._jハ_ん:ヘ/}ノ /ヘ  ヽゝ_  ヽ ノ   イ/  /⌒ん'⌒)_>::
                     ̄   ̄`ヽ   `=≧r ‐i彡''´  /::     ̄
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225 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/12/31(水) 22:39:09
素朴な疑問であるが、日本書紀の古い時代は閏(潤)月の記事が異常に少ないのですが?
仲哀天皇紀に1回、清寧天皇紀に1回、繼體天皇紀まで2回だけ。
6世紀は4回、7世紀は11回。
19年に7回、235分の7なら34分の1。
もう少し出てきてもよさそうだが・・・

226 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/31(水) 23:04:15
ホツマにはネシモ(11月)、メヅキ(10月)、アフミ(7月)等有りますが、書紀と少し違っているかも
書紀とて古記の様に入れないと、不信な所が出て来る、
 古記を知る前は、閏の入れ場所が違っていて政務で躓きました。

だから書紀は、不思議だが古記のとうり朔を入れると朔にぶつからず読める。
そして 朔は閏の有る事を主張している。

また来年お会いいたしましょう
皆様も よいお年を。

227 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/01(木) 01:25:17
>>211
間違ってるかも知れないけど、
もし建丑年とかの記述が
日付けの吉凶などを表す(凶日を避ける?)為のもの(名前が良く解らない)なら
夏も周も殷も大和もそれこそ同じ暦を使ってたって事だと思うよ

帰忌とか結婚とかの日付けに、吉日とか凶日とか(仏暦見たいな事かな?)あったみたいだよ

丑月、寅月、子月は帰忌日を表すだかなんかみたいです


ごめん、あんま詳しくないけど

228 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/01(木) 01:29:58
>>225
これも間違ってるかもだけど、元々は12月だかに固定してた閏月を
途中から、24節季の中気を含まない月を閏月と改めるようになったとか、、

いう話をどっかで見た覚えはある
(ただそれが本当かどうかは解らないす)

229 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/01(木) 18:37:55
>>227 新羅本紀第ニ・第九代 伐休尼師今
3年(AD186) 三年 春正月 巡幸州郡 観察風俗 夏五月壬辰晦 日有食之 秋七月 南新縣進嘉禾
南新縣進嘉禾←南新県が籾を献上した。
新羅では7月が稲刈り、倭では、8月が稲刈り
1ト月のズレが有る暦法です。



230 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/02(金) 18:34:47
日本書紀の月朔干支(一日干支)の誤りについて。

内田正男氏の「日本書紀暦日原典」によると、書紀には一日干支の誤りが14か所あるという。
古くは孝元天皇4年(紀元前210)3月から、最後は大化5年(649)5月まで。
ところが、これらの誤りはいずれも、前後の月に影響を与えておらず、神武紀元前まで正しく計算されている。
したがって、単純に時間を遡って計算したのではない、ということ。
貝田禎造氏の「古代天皇長寿の謎」によると、2か月ないし3か月を1節とし、その接点の一日を主として
長暦尺と指示尺を使って求めたのだろうというが、なかなか理解できない。

231 :日本@名無史さん:2009/01/02(金) 18:39:50
                           
★韓国の首都名・「ソウル」は古代日本語か。

 韓国の首都は「ソウル」という名前だが、韓国人はソウルの語源が分からないという。
中世・古代の韓国語(朝鮮語)をいくら調べても、ソウルの意味は不明だそうだ。

 この「ソウル」は、実は古代半島の南部=カラに住んでいた倭人たちの言葉ではないか。
つまり、古代日本語ではないだろうか。
 おそらく、「ソウル」とはソ・ウラ(曾浦)の意味であろう。ソ(曾)は、熊曾・クマソのソであり、
古代日本語で「遠くの」あるいは「遠い土地」という意味の言葉である。ウラ(浦)は日本語で「海辺」の
意味である。
 ようするに、ソ・ウラとは「遠方の海辺」という意味であり、半島南部(馬韓)に住んでいた倭人たちが、
京畿湾の沿岸地方をソ・ウラと呼んでいたのだろう。
 半島南部の倭人が滅びた後も、ソウラという呼称は使われ続け、ソウルと訛って、
今に至っている・・・これが真実であろう。
 ソウルの語源が日本語古語であるならば、中世・古代の朝鮮語に語源を求め、いくら研究しても、
語源は絶対に見つかるまい。
 たとえば、現在の日本にはファーストフード店が無数にあるし、それらの店ではハンバーガー、
チーズバーガーが売られている。ハンバーガー、チーズバーガーはもともと英語である。
もし、日本人の誰かが、ハンバーガーやチーズバーガーを日本語だと勘違いし、古代日本語や中世日本語に
語源を求めて調査しても、語源は見つからない。もともと外国語だからだ。
 それと同じように、韓国の首都名・ソウルが、実は古代日本語だったとしたら、いくら中世以前の朝鮮語を
調べても、語源は見つからないであろう。
 ソウルの語源は、やはり、古代日本語に求めるべきではないか。韓国人はこの説を受け入れたくない
であろうが。
 韓国の首都名が日本語であるという事実は驚くべきことだが、古代倭人文明の残像が、今の韓国にも
残っているということなのだ。

今のイタリアに、異民族・ローマ人が残した古代文明遺跡が残っているようなものだ。


232 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/02(金) 19:24:25
孝元元年正月辛未朔甲申162892
四年春三月甲申朔甲午 164045
六年秋九月戊戌朔癸卯。164959

孝元4年は、39ヶ月目で1日多いがそれ以上の不信は、無い。
この1日は、空白の日数で埋めた為と見るか?暦日(暦法による誤差)の為か?

まだ此処までは研究していません。




233 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/02(金) 19:38:45
神武元年を−660と見る暦法は誤りである証拠かもしれません。
私は−660年と見る暦法の誤りだと思っていますが、1日単位までは未だ計算していません。
1日の誤差は、他にも幾つか有るはず。
この誤差は割り算(倍暦)では解消できない。
出来るとすれば”増し暦”。


234 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/02(金) 21:52:17
孝元4年3月は甲申朔と書かれているが、正しくは癸未朔。
甲申は4年1月朔とのこと。


235 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 21:53:48
>>233
あんたの妄想。w

236 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/03(土) 00:20:40
>>233
日本での最古の干支使用は、稲荷山鉄剣銘文の「辛亥年」=471年と思われます。
450年頃から元嘉暦が使われ、書紀の年代が正常になる時期と一致します。
それ以前の書紀の干支は逆算して求めたもの。
2本の計算尺(干支60組=2か月分、又は90組=3か月分。これを1節とする)
を用いて神武以後の各節の接点の一日干支をまず求め(これは絶対正確になるようチェックする)、
それから接点以外の月の一日干支と、各月の事件があった日の干支をそれぞれ求めたのでしょう。
だから14か所も一日干支が間違っていても、前後は正しくなっているのです。
最後の間違いが大化5年=649年ということは、時代の古い新しいには関係なく、
神武天皇から持統天皇まですべて逆算したのだと思います。

237 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 05:07:22
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. / //  /        /  \   ヽ   >        /.,┴、j-n、ノ
/ //  /      /   / ` 、       _,,,..=/r+   "  ~~}_
 .// /      /     ,r--/`''''     ''''/   / >.-=''''''""`'=.<
 / /      / __,,/  \        ト、/  i        }
./ /       (_  !,      \   _,,ノ' /  /_|        `,
 /       / )  ` ,      ` >r  / // |          |
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    /  ./      `-''~ヽ+,rヽ+"i O /n,_/,_-" |          |

238 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/03(土) 11:37:38
>>234
162892-164045=1153日 1153/29.5=39.1 39ヶ月
孝元1年=12ヶ月
孝元2年=13ヶ月 閏6月
孝元3年=12ヶ月
孝元4年=13ヶ月 閏3月(正3月の後)
正3月まで39ヶ月
暦日原典の間違い。
私の皇暦計算式
=INT(INT((E49*E$2+$E$1)/29.53059+E$3)*29.5306)+E$4
E$2=365.25、$E$1=106、E$3=0.3、E$4=8305、E49=皇暦1年=8777
116年より閏の数字が狂う。後は訂正しながら使ってください。

239 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/03(土) 12:11:39
164045甲申
164044癸未
1日の違いなら、>>232で認めています。




240 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/03(土) 14:47:12
>>238
>暦日原典の間違い。

>>239
>1日の違いなら、>>232で認めています。

矛盾してません?


241 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/03(土) 15:02:05
四年春三月甲申朔甲午 164045  この次の癸未朔なら2ヶ月後。
この2ヶ月後と1日前を間違えました。
正確に暦日を数えれば「3月癸未朔」
空白年を差し込んだ為に「3月甲申朔」に成った。と思っています。


242 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/03(土) 18:41:21
増し暦ねえ・・・
1章=6940日は60日の整数倍ではなく20日余るのでので、6940×3日、即ち57年挿入しないと
干支誤りが前後に影響していないことが説明できません。


243 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 23:49:10
だいたい初代の人は任期が短いんだよね
天皇10代で部下は平均7世代だから
当時は、長く生きれば50、60ぐらいまで生きれただろう
10代で200年ぐらいじゃないかと思う

244 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/03(土) 23:59:24
孝元天皇57年、実19年+増し38年
183711−162892=20819日、=6940+6940+6939
孝元天皇の治世は、20819日であるが この内どれが真であるかまでは、まだ計算していません。

そろそろ1回計算してみます。

245 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/04(日) 15:56:38
計算の途中結果
神武元年から神功元年までで 日にちが1日足りない。


246 :サガミハラハラ:2009/01/06(火) 12:20:37
>>154の続きです。
仁徳履中反正の年代から押してみよう。
仁徳記干支丁卯紀在位87年
履中   壬申    6年
反正   丁丑    5年
允恭   甲午   42年
である。今、仁徳の没年が丁卯で正しい(越年称元法)とすると、履中は在位6年であるから、丁卯
の次の戊戌が即位年で壬申までは5年である。
反正在位5年であるから、キ酉から丁丑まで5年である。
履中が1年あわないということになる。
ところで書紀に空年があったとの説がある。
高城修三氏は「紀年を解読する」の中で、成務、応神、反正、継体の没後に空年があった
としている。
私は、履中と反正両帝のあとに空年があったと考える。
履中没時に3月15日天皇は病気になられて身体の不調から臭みがましてきた。とある。
反正即位のときに6年春3月履中天皇がなくなられた。元年1月2日に即位したとある。これらから、履中没後即位までの間に1年の空年があったようである。
体から臭みが増したとは遺体が放置されていたことをあらわしているのだろうか。 

247 :サガミハラハラ:2009/01/06(火) 14:29:52
>>246の続きです。
反正は5年の在位であるが、5年春1月天皇は正殿で崩御した。とある。
允恭は元年冬12月に洗手水の事件があった。1月に前帝が死に、12月になっても新天皇の即位はなかったのである。その間2年くらいである。
そうすると、履中の没年は壬申で末年はキ酉で在位は6年となる。
反正即位は甲戌となり、没年は丁丑で末年は戊寅となり、在位は5年となる。
これで書紀の在位年に合う。
そうなると、允恭の即位年は己卯年となり、没年の甲午は在位の46年目にあたり在位42年の記録とは食い違うこととなる。
書紀の在位42年が正しいとすれば、46年では安康の時代にくいこんでしまう。
一方、雄略5年を461年とすれば、中国への貢献の記録からは安康の治世にくいこんでしまう。
記干支には安康の記干支はのっていない。暦はここらあたりから、普通暦と2倍年暦に分かれる。また、元嘉暦と儀鳳法暦とのわかれるところでもある。
また、このあたりから、編者が異なるとの説もある。
つまり、このあたりは、木に竹をつぐように、しっくりといかなかったようである。
これらから導きだされた結論は、安康天皇については複数の系譜があり、安康は即位しなかったとされている系譜があったということである。

248 :サガミハラハラ:2009/01/07(水) 12:07:12
ここで安康について詳しくみてみよう。
458年 允恭の使者出発
460年 允恭の使者到着
     同年安康の使者出発。
461年 武寧王誕生(雄略5年)
462年 安康の使者到着

安康は在位3年である。
461年が雄略5年とすると、ここまでに安康は死んでいたとみられる。
460年中は安康は生存していた。
となると、安康の在位3年は二倍年暦であるとみられる。」
459年に安康が即位した可能性がある。
460年は安康の治世である。
461年は安康の末年の可能性がある。
461年は雄略の治世である。

安康3年をみてみると。
3年秋8月9日暗殺される。
3年後に埋葬されたとある。
安康の即位は12月14日とある。
しかし、元年春2月1日天皇は大泊瀬皇子のためにーーーとある。
となると即位は12月であるが、元年は翌年ということになる。
そうすると、安康元年は460年春年、2年は460年秋年、3年は461年春年となる。

私の復元日本書紀紀年法では461年春年T類は甲午となり、記干支の允恭没年となる。
そこで私は安康崩御は461年春年であるとみる。記干支の記録者は安康の治世をみとめなかったとみる。
そして、允恭の在位を461年までのばしたのである。

249 :サガミハラハラ:2009/01/07(水) 14:34:36
雄略没年が479年(記干支では己巳T類で478年秋年であるが、ここは日本書紀紀年法であるから、479年没をとった)
で在位23年であるから、雄略5年は461年でよい。がそのままでは、元年は457年となってしまう。
しかし、5年以前が2倍年暦であるとすると、元年は安康即位年の459年秋年となる。
つまり、この年代の天皇については、三つの系譜があり、安康の治世をみとめず、允恭の治世を伸ばしたものと、雄略の即位年をさかのぼらせたものと、安康の
治世を認めたものがあったのである。しかも、この部分で編纂グループがことなっていたことなどから、このような齟齬を生じたものであろう。
459年秋年が安康即位年である。
459年春年が允恭42年となる。允恭元年は438年秋年である。
438年春年が反正末年(反正5年)で、437年秋年丁丑U類が反正没年である。
436年春年が反正即位年である。
435年秋年が履中末年(履中6年)で435年春年壬申U類である。
433年春年が履中即位年で、432年秋年丁卯U類が仁徳没年である。

250 :日本@名無史さん:2009/01/07(水) 14:49:02
アンコウ鍋喰いてえ

251 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/07(水) 19:42:03
さて 計算が出来ましたので、眉に唾して、再計算してください。
西暦41年 神武元年0日
西暦400年 履中元年壬子朔、皇暦386792日
実 131116日、131116/365.2422=358.98年、131116/29.53059=4440.01月
増し255676日、255676/365.2422=700.02年、255676/29.53059=8658.01月
履中元年壬子朔より131116日前の干支は丙申朔、 西暦41年1月は丙申朔?。
西暦41年1月は、丁酉朔か戊戌朔で1日か2日少ない。

天皇   治世 治世月  治世日   増し すべて元年正月朔
神武天皇 22年 272月 8033日  20819日
綏靖天皇 14年 173月 5108日   6940日
安寧天皇
懿徳天皇 16年 198月 5847日  20819日 含む安寧
孝昭天皇 26年 321月 9480日  20819日
孝安天皇 26年 322月 9508日   7759日
孝霊天皇 19年 235月 6940日  20819日
孝元天皇 19年 235月 6940日  13879日
開化天皇
崇神天皇 33年 408月 12048日 34699日 含む開化
垂仁天皇 23年 285月 8416日  27759日
景行天皇 22年 272月 8033日  13879日
成務天皇 4年  49月 1447日  20819日
仲哀天皇 9年  112月 3307日    0日
神功皇后 126年 1558月 46009日 26666日 含む応神仁徳
応神天皇
仁徳天皇
合計   359年 4440月 131116日 255676日 700年


252 :サガミハラハラ:2009/01/09(金) 14:23:56
続いて仁徳天皇である。
432年秋年が仁徳没年であるとするならば、仁徳治世87年で2倍年暦とすると43.5年であり、即位年は389年となる。
しかしこの年は辛未か辛丑年であり、応神記干支の甲午ではない。その前後にも見られない。外国資料と照らし合わせても、この時代は応神天皇の真っただ中である。
応神天皇は在位41年御年110歳である。389年から41÷2=20.5さかのぼると369.5年である。ついで、神功皇后は在位69年(34.5年)であるから335年即位となる。
そうなると仲哀没年は334年となる。(空年あり)
しかし仲哀記干支は壬戌の年であり、その年にも近くにもない。

もう一度2倍年暦の始まりである安康の時代まで戻ってみよう。
安康没年が461年春年とすると在位3年であるから458年即位となる。(2倍年暦なのであるが便宜上普通年として計算していく、)
允恭42年であるから416年即位
反正5年であるから411年即位
履中6年であるから405年即位
仁徳87年であるから318年即位
応神41年であるから277年即位
神功69年であるから208年即位となる。当年称元法であるから7年ひくと
201年即位となり、皇暦の即位年と合致する。
これは卑弥呼が在位した年代(183〜248年)でもある。
つまり、卑弥呼と神功が同一人物であるとみせるための造作があったと考えられる。
単純な倍暦ではこううまく一致するとは思われないからである。

253 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/09(金) 18:10:24
神功、応神、仁徳この3人の治世は、69+43+87=199年間
399年仁徳末年より199年を引くと201年神功39年は、239年
卅九年 是年也 大歳己未 【魏志云 明帝景初三年

数字を誤魔化すためには、書紀を素直に読まない。





254 : ◆.L.MXSPOgc :2009/01/09(金) 23:54:58
途中読み飛ばしており申し訳ございませんが、再度お尋ねします。
広開土王碑に刻まれた391年の倭の征韓はどう見ていますか?

これが説明できないような編年なら、意味が無いですよ。


255 :ローガン:2009/01/10(土) 15:34:00
暦日原典が届きました。これは便利ですね。間違いがなければ。

256 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/10(土) 16:53:02
>>255
暦日原典は445年以後でしたね?
ちょうどこの頃から、書紀の年代が自然になってきます。
このスレ的には、紀年が延長されているそれ以前が問題となります。
唐松山さんの「増し」論も根拠がいまひとつだし・・・

貝田禎造氏「古代天皇長寿の謎」によると、崇峻天皇以前の書紀日付の92%が月の前半、15日以前という。
古事記の没年干支は100%が15日以前である。
ここには著しい不自然があると言わざるを得ない。

257 :ローガン:2009/01/10(土) 17:10:23
いえ、BC662〜697迄。神武即位前から持統11年の儀鳳暦と元嘉暦の朔干支です。

258 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/10(土) 17:57:53
>>257
すみません、勘違いしたようです。
正式書名は「日本書紀暦日原典」でしょうか?
同じ内田正男氏で「日本暦日原典」というのもあるのですね。

259 :ローガン:2009/01/10(土) 18:33:41
>>258
すみません。言葉足らず、「日本書紀暦日原典」です。

さておき、少し前の話ですが真興王の巡狩碑、「大系日本の歴史2」では和田氏は黄草嶺碑と磨雲嶺碑を「同文と認められる」とし、
後者にある「太昌元年歳次戊子□□廿一日□□…」が 黄草嶺碑の「八月廿一日癸未」であると。
つまり568年8月朔は己巳であり、「この二つの真興王巡狩碑にみえる暦日が元嘉暦にもとづいている事実は、これまで、指摘されていないと思う。」(p.205)と述べています。

260 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/10(土) 18:33:44
「増し」論も根拠に ホツマ伝を使っています。
書紀の数字を暦に直せる以上 ホツマを偽書とする根拠も薄弱となる。

ホツマの垂仁末、タジマモリは9ヶ月24日でトコヨ国往復=10年間。


261 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/10(土) 19:50:42
>>259
568年8月朔は己巳←不信?
真興王の戊子巡境碑なら黄草嶺碑の「八月廿一日癸未」=568年は可。
癸亥朔=「八月廿一日癸未」

262 :ローガン:2009/01/10(土) 19:56:05
>>261
うわ、すみません。癸亥でした。訂正します。(己巳は567年ですね。)

263 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/10(土) 21:47:50
>>259
新羅でも元嘉暦が使われていたのでしょうか?
当時は北朝が分裂・混乱していたようで、ウィキでも北朝の暦はスルーしておりますね。

>>260
9年の増しということですかね?

264 :サガミハラハラ:2009/01/10(土) 23:21:34
>>254様へ
半島における倭の勢力であるが、元々加羅は倭の領域であり倭人が居住していました。加羅が大和の勢力化にはいったのは
垂仁天皇(290年代)であろうとみられます。
神功皇后の新羅遠征は355年秋年であり、その後新羅は属国に、百済は同盟国となりました。
好太王碑文の391年は好太王即位年であり、日本では390年夏皇后が崩御、391年秋年に応神元年となった。
ところで、好太王碑は顕彰碑である。高句麗王談徳を顕彰する目的で建立されたものです。談徳の時代は、それまで衰えつつあった高句麗を立て直し、倭や燕の
勢力を撃退したという輝かしい時代である。
それを顕彰する際に、倭や燕の侵攻をまねいた事情をそのまま先祖の落ち度であるとかくわけにはいかなかったのである。
先祖の失態をのせるわけにはいかない。よって、倭や燕の侵攻が談徳の時代に始まりそれを談徳が撃退したと
したのである。
よって、391年に倭が襲来し新羅百済からを従属させたというのは事実ではなく創作である。
391年談徳は即位と同時に百済関彌城を攻め、辰斯王を倒した。(阿シン王即位)(三国史記では392年となっているが、この時代の年代が1年ずれていることに注意)
これに該当するのが、日本書紀の応神三年の記事である。「この年百済の辰斯王が位につき貴国の天皇に対して礼を失することを
した。そこで紀角宿禰、−−−を遣わしてその礼にそむくことを責めさせた。
そこで百済国は辰斯王を殺して陳謝した。紀角宿禰らは阿花を立てて王として帰ってきた」とある。
どちらが真実かというと、碑文のほうである。

265 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/11(日) 01:33:42
>>233
今まであった旧暦を廃止し
それに伴い新しくグレゴリオ暦を制定し
それと同時に皇暦を定め

日本はイワレビコの即位により建国された解釈し、神武天皇を初代天皇と定め、日本の歴史は神武天皇から始まったとし、その即位年を紀元前660年と決めたのは、明治5年の事だよ


明治政府らが何を根拠に神武即位を紀元前660年としたのかをちゃんと調べた方が良いですよ

ちなみに神武が初代天皇だとか、日本は神武即位により建国されたとか言う解釈も明治政府が作って普及させただけの、近代になって新しく作られた歴史解釈でしかないよ




明治時代以降は日本人の祖は天皇と明治政府により定められたけど
それ以前までは日本人の祖は天照とされてたんだし
歳神や氏神とかさ

266 :サガミハラハラ:2009/01/11(日) 12:22:54
>>264の続きです。
391年談徳は百済を攻め辰斯王を死に至らしめた。、百済では阿シン王が即位した。
同盟国である倭は紀角宿禰らを中心に軍を派遣したが、高句麗の攻撃が素早く倭軍が到着したときにはすべてが終わったあとであった。
そこで派遣軍は虚偽の報告(または、紀の編者のねつ造)をしたのである。

356年秋年を摂政元年とすると、応神元年は392年春年となる。阿シン王即位は391年秋年のこととみられる。よって、392年春年に倭軍百済救援軍到着では早過ぎることとなる。
応神紀の春秋の順番をみると、応神3年を春年とすると、事件の季節とは逆転しているようである。真の応神3年は秋年であったようである。
応神3年は392年秋年である。
どうやら、紀の編纂の資料とした三国史記は、既に7世紀には1年の狂いがあったものと思われる。
しかし、紀は外国資料に合わせるために国内資料の年代をかえたようなのである。
元元は紀の年代のほうが正しかったのであるが。

267 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/11(日) 14:21:19
応神時代に倭が敗れたのなら、仁徳稜の築造費は、何処から出たか?
もっとも現在言われている仁徳稜の整合性は50%位か。

>>263
九州から帰った武の尊 景行28年に大和に帰って 直ぐ関東へ行く(景行40年)
景行28年=景行40年 この場合が一番短い。


268 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/11(日) 14:33:22
もん太君 >>251 を参考に 書紀に書かれている日数を数えてください。
>>251の”実”+”増し”を合計して朔干支を出すと全て書紀に書かれた干支となる。
勿論途中の干支も実在したとすれば、皇紀の年数に成ります。

書紀が明治時代に編纂された物でない以上 皇紀を受け入れざるを得ない。

269 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 06:33:10
人間が最初に単位として使うのが指だから
古代では「1月=10日、1年=100日」で考えてた可能性ないかな?
…で、中国から太陰暦やら太陽暦やらが
伝わってそっちに変更したと…
そんな記述どっかにない?

270 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/12(月) 16:48:27
>>269
寝言は、寝てしてください。
秋の次に冬が来る位毛虫でも知ってる。


271 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/15(木) 18:37:01
サガミハラハラさん
そろそろ編年を暦に直してください。



272 :サガミハラハラ:2009/01/15(木) 21:54:33
すみません。私は暦の研究にはノータッチです。複雑でわかりません。
2倍年暦とはいっても、年までの研究です。

273 :ローガン:2009/01/15(木) 22:27:39
>>272
サガミ先生、どうぞ自身の古代史観を…

唐松山さん史観はご注意を。。気を付けないと、はまります!


274 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/16(金) 19:44:51
私の歴史観が当りだから、はまる
ただし4,5世紀に100年の空白を埋めないと完成しない。
100年の空白を考えましょうか。


275 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/16(金) 20:13:47
墓標より 継体は応神5世孫
398〜451 若沼毛二股王命/応神子 甲子年3月5日53
417〜459 意富富杼王命/若沼毛王子 壬申年2月15日42
455〜485 彦主人王命/宇斐王子 戊戌年2月8日30
438〜492 宇斐王命/意富富杼王子 乙己年6月8日54
460〜512 振比賣命/彦主妃、継体母 乙丑年5月4日52
479〜531 袁本杼命/継体天皇26 辛亥年2月7日82 皇暦で−30歳

これで見る限り継体は応神5世孫で、揺るがない。
干支は、出雲と皇暦。←ゴミとして捨て去るか拾うか?


276 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/16(金) 20:48:22
雄略天皇は
墓標 414〜446 大長谷若建命/雄略21  己未年8月7日62
古事記 362〜456 大長谷若建命/雄略21  己巳年8月 124

書紀の没年 480 此れより124年前は、356年
いずれにしても仁徳の娘が后では、遅すぎる。
仁徳を素直に読んでは、いけない?
又は 己未年=継体即位前年?←雄略=武王なら此方か?




277 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 23:10:17
近現代史ならともかく、古代史専門家はイデオロギーにまみれすぎ。


278 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 16:45:24
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/GAZO2.html


279 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 16:46:01
どうみる?

280 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 19:45:19
>>278
これは・・・新種のペトログリフのたぐいか。箸墓の案内碑石の話など聞いたことがない。
民家の庭???まあ、あったとしても江戸後期の陵墓補修時のものか。それで何かが
わかるとも思えないが。まゆつば。

281 :ローガン:2009/01/17(土) 20:39:15
その「財団法人資料調査会古代史研究室」って本当にあるんでしょうか? ヒットしなくて…

282 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/17(土) 20:52:07
>>278 墓標は、玉石混交非常に面白い
分類の仕方、書紀の干支と同じ又は、10年以下の狂いのものは、同一暦上の別伝。
それ以上に狂っているものは、古事記の暦と同等 考昭元年丙寅より伸長されずに使われた。

書かれている西暦はあてに出来ません。←分類が出来ていない。



283 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 21:36:35
???碑石は、羊太夫伝説で有名な多胡碑、多賀城碑などそれなりに素性がわかって
いるものは古くて8世紀。その碑石が、蒲生君平の頃のものとしたら、それからは何も
わからない。むしろ道をあやまる種となりそうだ。実際このHPに出てくるのもごく普通の
マキ向説。

284 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/17(土) 22:11:54
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/HIMIKOK.html
「墓碑から卑弥呼を確定する」に書かれた記事はめちゃくちゃ。その検証

箸墓古墳環濠内碑石墓碑銘
当初「倭母母曾毘賣命墓、戊申年十月廿日薨、御年九十四歳」であり、再解読後干支は「戊辰」に、没年は「八十四歳」に変更
「申」又は「辰」ではなく「寅」とした。戊寅の年は西暦198年に当たる。
〔椿井大塚山古墳〕
「建波邇夜須毘古命棺、丁未年四月九日薨、御年四十歳」の墓碑銘を得た。薨年の丁未年は西暦167年に相当
倭母母曾毘賣命 戊寅の年は西暦198年薨
「椿井大塚山古墳」建波邇夜須毘古命棺丁未年四月九日薨、薨年の丁未年は西暦167年
崇神紀6〜11年の辺りに書かれた記事の時間的誤差が約30年←皇暦より長い
椿井大塚山古墳は、魏鏡でおなじみそれが、丁未年は西暦167年←100年早い

この程度の思考回路の人間が自分の為に創作したのが“墓標”には成り得ない。
逆説的“墓標”の容認。

ローガンさんぴったり嵌まりますよ。
私の編年
188年戊辰 出雲辛丑 皇564甲申 崇神天皇元年
崇神7年出雲丁未年、崇神8年出雲戊申年



285 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:24:43
278のサイトの内容を信じたらアカン
現物では全く観察できない文字が
赤外線など特殊光をあててもない画像から読み取れるなんてありえない
図録に掲載されてる写真から「解析」できたなんて笑うしかないね

286 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/17(土) 22:44:52
>>285
複数の画像(人間の両眼)から凹凸を読み取って文字に直した?んでは。

幸か不幸か私の編年と良くマッチする。
私が >>278を知る前に編年は出来上がっている。
拠ってゴミとして捨て去れない。

287 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:53:39
>>286
どうも。別スレで「おおのくに」をいじめていたものです。上に書いたようにこのHPは考古
学的には見るものはなく、特に「吉野ヶ里」に関する部分は犯罪的なほど違っている。
まあ、碑石が本当にあったとしても江戸以降であるのは間違いなく思われ。

288 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/17(土) 23:17:47
碑石は、平安時代に作られたのではないか
鎌倉時代以降は、これらの資料が散逸する。

太国さんは精神的に強いお人ですから、逃げ出すことは無いと思います。
「吉野ヶ里」は玉石の石?
そう言えば風土記には、石が多い 地方に派遣された連中が適当に命名したとか?
ただ 没年と年齢を考えるには資料の多いのはうれしい

天皇の崩御年齢=+30
殺された太子の没年齢=+20
一応の基本で例外あり。


289 :ローガン:2009/01/17(土) 23:29:47
碑石 宇治橋断碑が古いでしょう。
おっと、BSでPPM始まったので、また…

290 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 00:45:38
>>288
まあ墳墓の年代等はともかく

>吉野ケ里墳丘墓の墓碑は井上赳夫先生が甕棺周辺部写真から〜読み取れていて
・・・前1世紀の甕棺から墓碑が出たのであれば、日本考古学学会はひっくり返っている。

>徐福軍は九州八女付近に上陸し〜〜
・・・戯言以外のなにものでもない。

>(彼が師とする)井上赳夫先生
・・・航空機の墜落や地震発生の日を予測できるという人物。↓
                         http://www.akashic-record.com/inoue.html
結論・・・・壊れた人

291 :ローガン:2009/01/18(日) 01:26:28
胡散臭いですね。明日時間があれば箸墓の碑を見てきましょう(笑)。
まあ、勝手に作ったのでしょうが、唐松山さんの説と合う?と云うのはいいとしても、
論拠に用いるのはいかがなものかと…


292 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 02:17:01
いや最初見たときは、幕末期、尊皇思想が盛んだった頃、神武はじめ多くの天皇陵の改修が
あって(本当は改悪・・・これで崇神陵など元の形がわからなくなった・・・いちお改修前後の
絵図が残っている)そのときの碑かと思ったが、最初の感想のように日本のペトログリフだった
ようだ。

ペトログリフ・・岩石等に意匠、文字が刻まれた彫刻。世界的にはちゃんとしたものだが、日本
では、特定の人物にしか見えないというエセ学問。碑石ではなく山岳祭祀の磐座に縄文だか新
石器時代だかの目玉とかの絵が、見える人には見えるらしい。www

293 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:22:13
>>292
追伸 村興しとかにからんで、このペトログリフなどで金儲けしようとする古代史ゴロの
ような人物がちょっと前までけっこういた。考古学は素人はなかなか手を出せないし、はじめ
に自説があって、それに合うように自分らしか読めない資料をでっちあげる。同じ手法。

283に書いた「多胡碑」は面白いよ〜。群馬県吉野町にあり、8世紀初め「藤原不比等」が
「羊」という人物に食戸を給う という内容だが、羊=ペルシャ人説、不比等同一人説などの
トンデモがある。いちお定説は「鮮」の字の簡略が「羊」となっているが俺的には怪しい。
伝説では「羊」に「八束脛」という足の早い家来がいて、一日のうちに群馬〜大和間を往復
していたとか・・・・。「羊」は最終的には討伐され悲劇的な最期を迎える。

こんなの常識〜〜。

294 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/18(日) 14:34:45
今週は時間が無いですが、神功皇后紀の新羅・百済の年代逆転が気になっています。
200年の新羅遠征で微叱己知波珍干岐を人質とするも、
205年に汗禮斯伐・毛麻利叱智の計略で新羅に逃げ帰られてしまった。
これは三国史記によるとそれぞれ402年(與倭國通好 以奈勿王子未斯欣爲質)
418年(王弟未斯欣 自倭國逃還)であるとされる。
なんと200年もさかのぼっている。
一方、百済の近肖古王などの記事はよく知られているように120年さかのぼる。
近肖古王没は375→255年、など。
三国史記では未斯欣の方が時代が新しいのだが・・・

そもそも神功の新羅遠征記事は波沙寐錦(三国史記では婆娑尼師今、在位80〜112年)やら
宇流助富利智干(三国史記では于老、200年代前半)やらが登場してきて
わけがわからない。
微叱己知が逃げたあとは應神の立太子、続いて魏志の引用が続き、
その後は百済との記事が中心となり、まとまりがないような印象がある。


295 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/18(日) 18:33:05
香坂王/仲哀子 丙戌年12月9日30 
忍熊王/仲哀子 丁亥年7月15日28
この様な記事を 前紀として纏めて書いてあるのが、神功皇后紀
それに対する百済記は、使い物に成らない。
墓標を持ち出したくなる私の気持ち解ってください。
言える事は、書紀のみで編年を考えると間違える。

書紀の通り 百済記を並べ替えるのが本道だと思うが、他国の歴史を書き換えることも出来ない。


296 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/18(日) 18:47:39
274年 神功皇后元年
279年 香坂王/仲哀子 丙戌年12月9日30 10歳で死亡
280年 忍熊王/仲哀子 丁亥年7月15日28 8歳で死亡

神功等が凱旋後残留組と遠征組に分かれて戦いが有り、遠征組の勝利
遠征組は河内に本拠を置く、巻向の衰亡。=歴史記録が採られなくなる。


297 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/18(日) 19:11:28
または
香坂王、忍熊王との戦が仲哀4〜9年の間の出来事とすると
墓標に錯誤がある。


298 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 07:47:06
当時2倍暦法を使っていた地域というのは日本の他にどこがあったんでしょうね
たしか朝鮮や中国では紀元前から普通の太陰暦だったはずなので
南方系なのかな?

299 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 19:36:11
>>298
もちろん四季のない南方系が多い。書記倍暦説は明治初期に外国人が唱えた、近代では
最も古い歴史学説だが、一般化したのは古田武彦氏がインドネシアの研究者から聞いたこと
を著書で広めたことも大きい。俺的には陸稲の二期作との関係も考えられる。古代中国殷の
時代は2倍暦が用いられていたなどというものもいるが、根拠はない。

いずれ人生を誤る危険なものなので近づかないほうがいいよ。
こんなの常識〜〜。

300 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 20:05:05
もし本当に古代日本で2倍年暦が使われていたとしたら
古代に大陸から騎馬民族がきて倭を制圧したというのは間違いになるね
大陸では紀元前から普通の暦を使っていたのなら海越えたとしても同じ暦法を使ってるはず


301 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/19(月) 20:22:59
神武天皇即位前紀乙卯年(前六六六)三月己未 積三年間。

神武即位以前から、暦は ”増し”
積三年間。とは、「経る3年間」では無く”増す3年間”です。



302 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/20(火) 18:08:49
>>301 を訂正 積三年間は、実1年増し2年

ワレはカラクニ キミのミコ ツノガアラシト チチがナは ウキシアリシト。
○ アメヒホコ モロスケをうむ モロスケは ヒナラギをうむ ヒナラギは キヨヒコをうむキヨヒコは タシマモリうむ。
○ 垂仁3年 ミホハモロスケ トミにめす むかしヒボコが ミヤゲモノ…。
○ キミのアコ ナはアメヒボコ ヲトチコに クニをゆづりて…。任那初代王
三宅連等之祖名多遲麻毛理
天之日矛→多遲摩母呂須玖→多遲摩斐泥→多遲摩比那良岐→多遲麻毛理次多遲摩比多訶次清日子【三柱】此清日子娶當摩之me[口羊]斐生子酢鹿之諸男次妹菅竃(上)由良度美【此四字以音】故上云多遲摩比多訶娶其姪由良度美生子葛城之高額比賣命【此者息長帶比賣命之御祖】

多遲麻毛理の子供と日本武尊の年齢差は、3才です。そうすると仲哀の后「息長帶比賣命」は、
多遲麻毛理の孫の年齢のはず。

清日子→多遲麻毛理
清日子→由良度美→葛城之高額比賣命→息長帶比賣命
清日子が多遲麻毛理の弟では、1世代の

さて偽書が正しいか古事記が正しいか 突込みどころですよ。


303 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 20:24:26
>>270
だけど数ができた当初なんて季節に
合わせる概念に無頓着だったともいえる。

304 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/21(水) 22:55:12
>>303
>>193>>251 を参考に、途中の県民さんの書き込みも参考
月の満ち欠けを正確に記録することにより、”増し”を差し込んでも狂いが出ない。
冬至日の変更には、慎重でも月齢の狂いは、直ぐ訂正。


305 :ヒミツッコ:2009/01/22(木) 07:40:06
いろいろなソフトのダウンロードサイト「ベクター」に「超スーパー暦」というのがあります。
それを見ると、わが国の暦が毎日毎日展開され、もちろん日ごとに干支も分かります。
それによると神武天皇が即位したのは、紀元前660年の1月1日で、辛酉の年であり、庚辰の日です。グレゴリオ暦では
2月11日です。意味はないが、土曜日で、五黄です。当然先勝です。
また、天智10年4月25日辛未の年丁卯の朔で辛卯の日に漏刻(水時計)が設置されました。グレゴリオ暦では
671年6月10日土曜日四緑仏滅です。時の記念日ですよね。
このように日本書記の中に設定されている干支による年月日は編者により儀鳳歴や元嘉歴の計算法により
1200年間の膨大な暦が作成されていました。そこへ事象を置いていっただけです。
紀元前660年1月1日が庚辰であり、1200年後の671年4月25日が辛卯です。連綿と続く日と干支の繰り返しで間違いなく
庚辰からたどって辛卯にいたります。すばらしいではありませんか。

もん太君
神武即位が−660年と決めたのは、明治政府や那珂道世ではないっすよ。書記の編者っすよ。後世の人が辛酉論を持ち出したのは、
書記の編者がなぜ、−660年に置いたかを想像し仮説をたてただけっすよ。ちなみに神武や天智という呼び名をここで
使用するのも、神日本磐余彦尊や天命開別尊というのは、面倒だし、かと言って天皇Aや天皇Bでは愛想がないので、
既にある神武や天智を使っている一種の記号と思ってはいかがっすか。それと、60年サイクルだとどこへもっていっても
いいというのもどうですかね。−660年1月1日は庚辰ですが−600年は辛酉の年ですが1月1日は壬辰ですよ。勝手に動かせんよ。
履中元年1月1日(AD400/02/12)は壬子ですが西暦460年の和暦1月1日は甲子でダメです。

ここのスレは書記の中に貫かれている暦が西暦何年に相当するかではなく、そこにあてはめられた事象を皆が
納得のいくような順序や時代に再構築できないか、と思います。西暦への換算は完成?しているのですから。


306 :サガミハラハラ:2009/01/22(木) 11:55:18
>>266の続きです。
神功皇后の年代にはいります。
皇紀でいくと、201年摂政に即位とある。
この時代は2倍年暦であるが、紀の編者は普通年として編年している。雄略帝から天皇の在位年数を遡っていくとこの201年となる。
安康以前を半分に修正していくと、履中即位が433年春であるから仁徳没が432年秋年となり、仁徳在位が
在位87年(43.5年)であるから即位は389年秋年となる。
応神41年(20.5年)であるから応神即位は369年秋年である。
神功69年(34.5年)であるから335年春年が神功即位年となる。
ところがこれではどうにも合わないのである。

307 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/22(木) 19:01:26
>>305
暦法による月齢と観測による月齢は、同じに成らない事がある。
この辺に足を突っ込むと難しいぞ。

308 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 22:08:16
もん太君来ないな?基地外あつかいされるので、もう別板にいったかな?

309 :サガミハラハラ:2009/01/23(金) 13:28:40
書紀の編者は神功を卑弥呼とあわせようとした。卑弥呼の初出は238年であり年長大とあることから、
200年ごろに10代後半から20代前半が適当とみた。
三国史記に201年新羅で日食があったとの記事をみた。
一方、神功皇后の伝承に、和歌山の小竹に皇后が来たときに日食があったとの伝承があった。
そこで、編者はこの二つの事象をまとめて、皇后が和歌山に来たときに日食があり、それは新羅で観測された年
の201年であるとしたのである。日食とは東から西へと移動していくものであり、編者もそれを知っており新羅で観測された
日食は日本でも観測された可能性があることから、あてはめたものであろう。
よって、神功皇后摂政元年の日食が201年であるのは創作である。皇后が和歌山に居た時に日食にそう
遇したというのも創作である。
ところで、おどろいたことに、この201年の日食は、アスキー社製のステラナビゲータでは、和歌山県の小竹をも通過しているのである。


310 :サガミハラハラ:2009/01/23(金) 14:42:26
日本書紀の年代と朝鮮の史書三国史記の年代は神功応神のあたりでは綺麗に干支2巡、120年のずれがある。
紀256年貴須が王に  三376年近仇首王即位
 264年枕流が王に   384年枕流王即位
 265年辰斯が王に   385年辰斯王即位
 272年阿花が王に   392年阿シン王即位
 285年直支が王に   405年テン支王即位
 294年久爾辛が王に  420年久爾辛王即位
久爾辛王のときの差が126年である以外は120年差となっている。
応神3年(2倍年暦)が392年阿シン王即位とすると、神功在位69年(34.5年)であるから、
391年に没したとなるので、即位年は356.5年、つまり356年前後となる。


311 :サガミハラハラ:2009/01/23(金) 14:43:30
日本書紀の年代と朝鮮の史書三国史記の年代は神功応神のあたりでは綺麗に干支2巡、120年のずれがある。
紀256年貴須が王に  三376年近仇首王即位
 264年枕流が王に   384年枕流王即位
 265年辰斯が王に   385年辰斯王即位
 272年阿花が王に   392年阿シン王即位
 285年直支が王に   405年テン支王即位
 294年久爾辛が王に  420年久爾辛王即位
久爾辛王のときの差が126年である以外は120年差となっている。
応神3年(2倍年暦)が392年阿シン王即位とすると、神功在位69年(34.5年)であるから、
391年に没したとなるので、即位年は356.5年、つまり356年前後となる。


312 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/23(金) 17:57:25
半島の歴史は、近仇首王=仇首王と同一人物のはず。
まだ 百済本記は、歴史に載せられない代物。



313 :ヒミツッコ:2009/01/23(金) 22:37:31
西暦201年の日食は、グレゴリオ暦(G)では201年3月22日の午前10時頃のようです。
書紀歴では辛巳の年の2月丁卯の朔の日で、この年は、1月朔(G1月22日)が戊辰、閏1月朔(G2月20日)が丁酉のようです。
本当かな?


314 :サガミハラハラ:2009/01/23(金) 22:55:15
三国史記では奈解6年(201年)三月、丁卯の朔日、日蝕があったとあります。
紀には3月5日武内宿禰と---忍熊王を打たせた。とあります。
この3月5日は旧暦であるから、新暦では3月22日にあたるのでしょう。

315 :サガミハラハラ:2009/01/24(土) 13:02:34
>>おかんがえられる。311の続きです。
神功皇后の即位年が356年秋年と335年との2通りあるのであるが、歴史事象からみて、356年秋年が正しいとみられる。
とすると、356−335=21の21年(2倍年暦では42年)は虚構年と考えられる。(概数で計算してきたので左記の数字になったが、細かく
計算すると実数22年2倍年暦44年となる)
この虚構年は皇后と卑弥呼の年代をあわせるためにつくられたものであろう。
つまり、安康以前を2倍年暦を普通年にしてさかのぼっていったところ、神功即位が245年となって卑弥呼に近づいた。
そこで、三国史記の201年日蝕にあわせるために44年(2倍年暦)年を増したのである。

316 :サガミハラハラ:2009/01/24(土) 15:43:48
神功摂政元年が356年秋年であると、応神末年は411年秋年である。(神功69年応神41年計110年実年55年)
仁徳即位は412年春年である。
413年の倭王讃の貢献は讃=武の即位の挨拶である。

仲哀の即位は352年春年で、末年は356年秋年となる。
成務は345年春年即位在位7年没年351年秋年となる。>>69
景行は315年春年即位で在位30年(2倍年暦)で344年秋年没である。
垂仁は>>65のごとくである。垂仁の本当の在位年は107年(4倍年なので実数26.75年)である。
そうすると垂仁即位年は288年春年後半となる。
崇神没年は288年春年前半です。
そこから在位年が4倍年であると計算していくと、神武即位年は131年となる。>>59参照。
かくしてAD42年の天神降臨から年代を下ってくると、その結果は神武即位131年となる。
安康から遡ってくると、その結果は神武即位131年となる。
よって、上から来ても下からいっても131年であるから、神武即位年は131年である。


317 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/24(土) 16:35:20
日食
193・ 2・19 最大食分0.709
194・ 8・ 4 最大食分0.759
200・ 9・26 最大食分0.691
201・ 3・22 最大食分0.202
201年の日食は、小さく前年にもっと大きな日食もある。
書紀の内容に合わない。



318 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/24(土) 17:11:03
>>316 仁徳即位は412年春年である。 そうすると
書紀の履中元年庚子年2月壬午朔=西暦400年の干支に合せてください。
合せられなければ錯誤が在ります。



319 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/24(土) 17:17:45
書紀は年単位のツジツマ合せだけでなく日々の干支まで合せる必要がある。
何故なら 「書紀編纂者がツジツマ合せをした。」とサガミさんが認めているからです。
4倍暦=1日に四っつ干支が進む?かな。

320 :ローガン:2009/01/24(土) 17:36:34
>>316
倍暦とか、4倍暦って何を基準にしてつくられた暦なのですか?

321 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/24(土) 18:08:35
>>320 倍暦とはサガミさんが >>272 で認めているように
各天皇の治世の長さを勘案するだけで、それ以上の物では有りません。
サガミさんと良く似た長さになる私の”増し暦”は、
「書紀=太陰暦」が「圧縮されても太陰暦」で読める。

圧縮しても太陰暦で読める方法は多くない。


322 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/24(土) 19:23:18
唐松山さんの質問は、倍暦説からすると質問自体が無意味。
唐松山さんは、書紀の暦と干支はすべてリアルタイムの記録だという前提に立っているからです。
神武東征開始から文武天皇即位まで、すべての日付に干支をふるのは個人では大変ですが、
国家プロジェクトで可能な作業だと思います。
書紀の誤った(干支の誤りではなく、出来事のあった年月日の誤り)換算結果に拘束されてしまうとも言える。
堂々めぐりの議論になるだけ。
仮説で説明できる事象が多ければ、その仮説は有力になるという程度の段階でしょう。

323 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/24(土) 19:28:05
古事記没年干支は謎の記事ですが、それなりに整合性があるようです。
ただし394年の應神没は明らかにおかしく、神功没の誤りではないかと思う。
應神退位は日本書紀の阿知使主帰国の記事から、倭が東晋に朝貢した翌年、414年と推定。
すると、仁徳天皇を除いて、允恭以前の書紀倍暦と古事記干支が一致します。

履中・反正・允恭三兄弟の在位は、書紀では453−399=54年
古事記では454−427=27年、ちょうど半分。
應神在位は書紀では310−269=41年
古事記修正で414−394=20年、これも半分。
仲哀・神功夫妻の在位は書紀では269−191=78年
古事記修正で394−355=39年、これも半分。

仁徳天皇は書紀で87年
古事記修正で427−414=13年
仁徳天皇だけが60年ほど延長されています。
これはサガミさんの考えのように、神功を卑彌呼に重ねるための操作ではないかと思います。
百済王暦の繰上げを60年から120年に増やすと同時に、仁徳在位を60年増やした?

324 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/24(土) 19:29:09
應神天皇は古事記では130歳となっていて、倍暦ならば65歳となる。
427−362=65
つまり、應神は仁徳と同年に死んだことになる。
仁徳天皇は古事記では83歳、倍暦なら41〜42歳。
父と同年に亡くなってもおかしくはない。
414年に應神は死なず、退位しただけだとすると
日本書紀で應神の埋葬記事が無い理由も説明できる?
書紀には仁徳の年齢が書かれていないが、一説では143歳とされ、
古事記より60年長生きという。60年延長のためか?

垂仁・景行・成務の三代は書紀で191−(−29)=220年
古事記干支で355−258=97年、これは半分の110年と比べて微妙な数字?
綏靖〜崇神の九代は書紀で−29−(ー584)=555年
そのままでは一世平均60年余、倍暦なら30年となり、まずは妥当。

325 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/24(土) 21:30:12
古事記の干支は、倍暦を支持していない。
そうなれば、年齢の数え方も書紀とは違う。
古事記の年齢は、天皇の場合 −30才が、基本だと思います。
古事記と書紀の年代を合せる為に、雄略124才も念頭におく。


326 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/24(土) 23:21:06
>>325
>雄略124才

日本書紀は62歳。

327 :ローガン:2009/01/24(土) 23:39:50
>>320の質問にサガミ先生からの回答なし。
まあ、気長に待つとしましょう。
唐松山さんキレが鋭い。がしかし…
墓標はダメダメですね。箸墓行ってきました。大池改修碑を見てきました。件のサイトは「嘘」
大事に思うなら別カテで。学問とかではない。

328 :サガミハラハラ:2009/01/25(日) 09:23:30
2倍年暦については、その起源は中国殷王朝の時代までさかのぼるともいわれています。また、北方民族の中には2倍年で年季を数えていたとの報告もあります。
日本においては、魏志倭人伝の魏略逸文に倭人は春耕秋収をもって年季とするとあり、当時2倍年で年をかぞえていてといわれます。
また、民俗行事においても、春秋2回、同じ行事がくりかえされることから、昔は2倍年であったとみられます。
記紀の上古の年代についても、天皇の年齢や在位年数が通常の倍近いことから、やはり古くは2倍年であったといわれます。
紀においては安康以前については2倍年を使用するように統一されています。
記紀においてのみ2倍年が使用(編者の創作)されているのかというと、どうもそうではないようです。
記紀編纂の時代のあたりは、普通年と2倍年が混淆していたようなのです。
4倍年についてですが、そのような数え方は存在しません。紀の編者の創作です。
なぜそのような年を作ったのかについてはまだはっきりしたことはわかりません。


329 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/25(日) 11:12:09
ホ23100  ミチたてゝ ガのミモムソヰ アメノミチ 
ミ06070  アマメクリ ヒはおほきくて ひとおくれ ミモムソヰタビ ヒトトシの ハルたつヒには
モトにきて ヒトタビモトの ホシにあひ ツキはおもくて ソミノリを おくれヒにあふ

1年が365日という文章は出てくるが、春夏秋冬で2年等と言う文章は、日本に存在しない。
書紀もホツマも長さは同じと考えると、ホツマが1年の長さを365日とする以上、書紀に2倍暦は、適合しない。
其の証拠が日々の干支。日々の干支を無視する為に、ホツマ等を偽書として扱わざるを得ない。
それでも書紀に日々の干支が書かれている以上、この読み方も必要。

墓標の墳墓設定は、全く使えない←其のとおりだと思います。
ただ文字と数字は、面白い。


330 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/25(日) 11:58:33
>>328
4倍暦は無いと思います。

>>329
1年365日というのは太陽暦の数え方。
中国伝来の二十四節気は太陽暦であり、ホツマの文は二十四節気の立春を言っています。
日本にそのような精密な暦があったなら、日食・月食の記事が7世紀より前に何故無いのか不思議。

331 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/25(日) 14:22:18
垂仁・景行・成務の三代は、書紀で立太子と崩御の年齢が合いません。
垂仁・・・崇神48年24歳で立太子→143歳崩御のはずが、140歳。古事記は153歳
景行・・・垂仁37年21歳で立太子→143歳崩御のはずが、106歳。古事記は137歳
成務・・・景行46年24歳で立太子→ 98歳崩御のはずが、107歳。古事記は 95歳
三代ともに立太子による享年のほうが古事記に近く、三代平均ではほぼ一致します。
懿徳天皇から孝元天皇まで立太子の年齢しか書いてないのを見ても、立太子を重視すべきか。

332 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/25(日) 15:03:08
垂仁 崇神29年生まれ 68+99−28=139 キミまかるトシ モモミソナ
景行 垂仁20年生まれ 99+60−19=140 ヤホヨソミホの アキアメカ
景行55年秋崩御
成務 景行4年生まれ 60+60−3=117

どの資料で見ても多少の狂いは有る。 これも正しく読めない原因の一つ。


333 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/25(日) 15:18:51
ホ22044 タツタヒメ をのをのミナを たまわりて コヨミをまもる ヤヤサカミなり
このカミの つねにめぐりて まもるゆえ ヒミツのワザの さわりなし

暦は秘密。
暦日を誤魔化す、日食・月食を記録しない。
これで殆ど再現不能。 ただ暦の管理者は、再現出来ないと暦の運用に困る、よって再現は出来るはず。


334 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/25(日) 15:36:09
ホ01038 イマのヨは たゞフヨロトシ いきなるゝ ミケかさなれば ヨワイなし 

フヨロトシ=2章=38年か?
ミケかさなれば ヨワイなし =年齢に真実なし。


335 :虹歩命:2009/01/25(日) 21:09:16
サガミさん、上から来ても下からいっても131年になるから神武即位年は131年でキマリというが、年譜が
書紀の編者によって固定されているのであるからそれはあたりまえではないですか。

336 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/26(月) 04:49:13
>>314
日食なんて毎年、1年間の間に3〜6回起こる


あと日食の場合は観測される地域が極々限定される現象だよ
「中国で日食が、、」「日本で日食が、、」

日食ってこんな広範囲で観測される訳じゃ無いんすよ?

337 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/01/26(月) 04:51:59
>>268
期紀には「皇紀」なんて暦は有りません


皇紀なんて明治時代に作られた新しい暦です


期紀は皇紀が作られる以前の旧暦で書かれてますよ

338 :サガミハラハラ:2009/01/27(火) 10:54:07
つまり日本書紀には年代の矛盾がほとんどないということですよ。

もん太くん、日食は地球の回転と月の移動により、地表面を東から西に移動していきます。
AD273年5月4日の日食は茨城県に上陸し能登半島に抜け、朝鮮半島中部に再上陸し、渤海湾を横断、北京を通過し、青海をとおり、
チベットへと進みました。

339 :サガミハラハラ:2009/01/27(火) 13:09:35
追記
古事記干支では成務没年乙卯仲哀没年壬戌となっております。
私の解読した復元日本書紀紀年では、成務没年の乙卯年はT類で351年秋年となります。
仲哀即位年は同じくT類352年春年で丙辰となり、没年はT類壬戌で355年春年で、末年はT類甲子で356年春年です。
在位は9年ですので死後、2倍年暦で2年の空位があったことになります。
応神天皇の生年は355年秋年です。皇后の摂政元年は356年秋年T類乙丑となります。

340 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/27(火) 18:15:58
>日本書紀には年代の矛盾がほとんどない?

応神紀に書かれた廿八年秋九月 高麗王遣使朝貢の菟道稚郎子は、
卌年春正月辛丑朔戊申の菟道稚郎子より壮年である。



341 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 05:45:56
日本武の死んだ年と仲哀の生まれた年の差も医学的にあり得ない

342 :サガミハラハラ:2009/01/28(水) 10:05:11
紀には、仲哀が「父がわたしが10歳にならないうちに死んだ」とあります。
ヤマトタケルは30歳でなくなったとありますが、これは普通暦です。紀の編者の換算漏れです。
ヤマトタケル307年生、337年没
仲哀329生、355年没です。

343 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 23:01:48
やけにくわしい数字を出してきたが、ほんとかね?

344 :虹歩命:2009/01/29(木) 13:16:19
雄略天皇についてであるが、没年が紀では己未(479年)とある。記干支では己巳年とあり、貴公は478年秋年を主張しておられるが、
この差は半年から1年である。紀の没年は正確であろうから、記干支が間違いとなるのでは?
記干支の478年己巳年をずらして479年春年か秋年にしてはいかがであろうか?

345 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/30(金) 20:57:11
古事記の没年齢より-30が実年齢
仲 哀 52才→22歳
神 功 100才→70歳 21才即位治世50年
応 神 130才→100歳 神功没後更に50年=異常がある 治世41年
仁 徳 83才→53歳 神功末頃誕生 応神を生き抜き天皇となる 治世33年 
履 中 64才→34歳
反 正 60才→30歳
允 恭 78才→48歳
安 康 56才→26歳 雄略は10才以下で即位
雄 略 124才→94歳 異常な年齢


346 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/30(金) 21:00:41
応神天皇
大鷦鷯尊の誕生は、応神即位前でないと13年の恋が説明できない。
16年時点(学問を始める)で菟道稚郎子の年齢6〜10歳くらいか
28年(高麗使に対処)で18〜22歳ならば子供が居ても可笑しくない年齢なのに
40年 立太子菟道稚郎子は、未だ子供である。
40年の記事を20年位に持ってきて其の後に御陵造営の時代20年が来ると ←応神20年頃応神死亡
応神治世41年間は圧縮できない。
仁コ天皇
仁徳30年までに磐之媛は4人の子供を産む。
応神13年には大人であった仁徳が、30年に応神の子供八田皇女を娶る
31年  立大兄去來穂別尊 爲皇太子
40年には、を雌鳥皇女娶ろうとする。世継が決まっている以上を雌鳥皇女を娶る
理由は?
仁徳、治世13年(仁徳31年)以後御陵造営を始める ←この時点で仁徳死亡
その後の出来事は、仁徳の身に起こった出来事では無い。
八田皇女、雌鳥皇女は、菟道稚郎子の子供である可能性も有る。
仁徳治世33年。


347 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/01/31(土) 09:26:39
265〜273年  仲 哀→22歳
274〜323年 神 功→70歳 21才即位治世50年
324〜366年 応 神→100歳 267仲哀3年の生まれ
268年〜273年は、仲哀の御陵造営と、渡海派と残留組による確執の時代。



348 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 14:21:06
景行40 日本武没
景行60 景行没
成務1  成務即位
成務60 成務没
仲哀1  仲哀即位
仲哀9  仲哀没 52才

従って、仲哀は父の没後20年以上経ってから生まれたことになる。


349 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/31(土) 17:01:50
>>345
>古事記の没年齢より-30が実年齢

根拠は?
顕宗天皇はゼロ歳で即位し、八歳で亡くなったのですか?

>>348
>仲哀は父の没後20年以上経ってから生まれたことになる。

ヤマトタケルは武内宿禰(たけうちのすくね)の若き姿
http://www.geocities.jp/shoki_otoku/
全面賛成はしませんが・・・

古事記によると、成務天皇は308年生まれと考えられる。
日本書紀によると、武内宿禰は成務天皇と同日生まれ。
私の編年では仁徳天皇は416〜427年在位となるので
(應神は362年生、394〜414年在位、427年没)
武内宿禰は110歳余まで生きたことになります。


350 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/31(土) 17:38:45
百済王暦の120年繰り上げは、397→277年の直支(腆支)来日の年が基準のようです。
百済関連記事(366→246年から始まる)は神功15年(215)から書かれていた筈ですが
通常暦の百済王暦に従って圧縮され、神功46年から開始となり、不自然な空白が生じました。
そこに魏志が挿入されました。
また、應神25年(414→294年)直支王没(これは百済の記録でしょう)
と應神39年(428→308年)直支王が妹を派遣した記事(これは倭の記録と思われる)
これも397年基準で倍暦を考えれば應神39年は428年でなく413年となり、
不審はありません。


351 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/01/31(土) 18:06:17
古代の金大中事件とも言われる「未斯欣逃亡事件」
三国史記・新羅本紀によると418年のことで、これは「仁徳天皇5年」の出来事だったと思われます。
この国辱的大事件を書紀が仁徳天皇段に書いていないのは頷けることですが、
新羅で有名な事件であったために黙殺するわけにも行かず、「神功摂政5年」に移して
「神功大勝利」と一体化させ、恥辱を薄めようとしたのかもしれません。


352 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/01(日) 00:41:09
応神、仁徳稜が5世紀の築造とすると、その費用は何処から出たか?
半島からの朝貢はそれを可能としたか?
392 阿シン王即位アシン この時代以降百済は、弱体化 新羅は高句麗寄りになる。


353 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/01(日) 08:39:51
>>349 古事記によると、成務天皇は308年生まれと考えられる。
古事記も倍暦を主張する以上 干支は使えない。
>>351 の思考では、418年を「仁徳天皇5年」とする為に ”「神功摂政5年」に移して ”
など 勝手に書紀を書き換えて良いのか?


354 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/01(日) 09:05:49
>>350 >不自然な空白に魏志が挿入されました。
神功元年=皇紀861年=西暦201年に相当
書紀の編纂者は、倍暦を否定 神功39年=西暦239年として魏誌を注入。

書紀の編纂者が倍暦を行ったと主張する為に、思考方法まで歪められる。



355 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/01(日) 09:25:24
>>353
>古事記も倍暦を主張する以上 干支は使えない。

古事記分注に干支が書かれ、日付が月の前半に集中している。これをどう見るかです。

>勝手に書紀を書き換えて良いのか?

日本書紀と三国史記のうち、どちらかは間違っている。
(神功5年=418年とするのでなければ)
唐松山さんは三国史記を勝手に書き換えますか?

356 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/01(日) 09:33:24
>>354
>
書紀の編纂者が倍暦を行ったと主張する為に、思考方法まで歪められる。

それは私の書き方が悪かったかも。
確かに「空白だから」魏志が挿入されたわけではないですね。
晋起居注は普通に挿入されていますし。
そういえば書紀編者は壹與をどう考えていたのでしょうね。


357 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/01(日) 12:54:37
三国史記って 百済本記の事なら 百済本記が間違っています。
肖古王=近肖古王 その他この問題がクリアーされていない。


358 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/01(日) 13:25:37
>>357
高句麗王でも「宮」と「位宮(宮に似ている)」がいますし、
大雀天皇と若雀天皇とかもいますから、百済本紀も不審は無いと思いますが。
今、問題にしているのは新羅本紀です。
未斯欣と微叱己知波珍干岐は別という説?
話の筋まで似ていて、ちょっと無理でしょう。

359 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/01(日) 19:05:08
肖古王=近肖古王、仇首王= 近仇首王
この「近」の字は 肖古王が二人居る為現在我々がこの二人を区別する為に「近」を頭に付けて区別しているだけ。
韓国へ行っても 「肖古王は一人である」と言う見解です。



360 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 20:59:21
書紀のほうが変。仁徳から安康まで百済王名無し

361 :サガミハラハラ:2009/02/02(月) 10:22:45
>>344
雄略の没年であるが、雄略の終末期の資料の混乱がひどい点があげられます。
百済滅亡は475年ですが、書紀では476年となっています。文周王の没年、三斤王即位年が三国史記では1年遅れとなっています。
また、記干支の478年は没年で末年が479年春年だとすると、次の清寧天皇との間に1年(0.5年)の空位年があったことになります。
ここの点はまだ考え中です。

362 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 22:17:22
>>361
単純に考えて、「もがり」の期間だったんでないの?

363 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/03(火) 23:18:06
書紀と百済記の関係
神功39年=皇紀239年、魏志云 明帝景初三年六月  西暦239年 皇紀との誤差=0
神功52年=皇紀252年、七支刀 西暦369年? 皇紀との誤差=117 
神功55年=皇紀255年、百濟肖古王薨 (近肖古王とする)西暦374年 皇紀との誤差=119
神功56年=皇紀256年、百濟王子貴須立爲王(近仇首王とする) 西暦375年 皇紀との誤差=119
神功62壬午年=皇紀262年、新羅不朝 即年 遣襲津彦撃新羅 【百濟記云 壬午年 
神功64年=皇紀264年、百濟國貴須王薨 西暦383年 皇紀との誤差=119
神功65年=皇紀265年、王子阿花年少 叔父辰斯奪立爲王 西暦384年 皇紀との誤差=119
神功66年=皇紀266年、晋武帝泰初二年 西暦266年 皇紀との誤差=0
応神8年=皇紀277年、百濟記云 阿花王立无禮於貴國 
応神16年=皇紀285年、百濟阿花王薨 西暦404年 皇紀との誤差=119
応神25年=皇紀294年、百濟直支王薨 即子久爾辛立爲王 西暦419年 皇紀との誤差=125
問題点
今我々が使っている百済本記と書紀編纂時に使われた百濟記では、長さが違う可能性が有る。

肖古王の秘密  百濟肖古王薨年の検証
肖古王ショウコ(素古、蓋婁王の子)214年死亡 干支甲午年正月癸丑朔
近肖古王 374年死亡 干支甲戌年正月甲寅朔←癸丑日と1日の差
七支刀を326年とした時の肖古王
肖古王 328年死亡=皇暦915年 干支乙亥年正月癸丑朔
朔は私の計算値に付き誤差あるかも?各自点検願います。

書紀編纂時に使われた百濟記は倭暦に換算されていて、その空白を埋める為に
近肖古王等が注入された?それが現在の百済本記。←計算はまだしてない。
>>361
1年の誤差は、神功52年七支刀でも見られる。

364 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 23:30:13
>>363
なぜ神功39年が皇紀239年なんだ?
西暦239年の間違いだろ?
皇紀は西暦+660だぞ
因みに今年は皇紀2669年

365 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/03(火) 23:50:10
神功皇后摂政元年 皇暦861−660=201年←これが「生」の西暦
神功39年=239年 この様に読んでくれ。西暦に対応させた。





366 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/06(金) 21:54:59
369年 七支刀では、
371年 百濟肖古王薨年にならない。

年の干支より朔干支も調べましょう。


367 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/07(土) 16:48:28
>>366
>年の干支より朔干支も調べましょう。

干支が始まった殷王朝では、干支はもっぱら紀日の手段でした。
しかし日本の古代で、干支が紀日に使われたのは日本書紀が最初ではないですか?
(外国から来た中平刀・七支刀の「五月丙午」は除く)
稲荷山鉄剣や隅田八幡神社人物画像鏡も干支紀年のみ。
古事記の没年干支も紀年だけで月日は数字です。
やはり、書紀の紀日干支は国家プロジェクトの逆算ですよ。


368 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 19:00:59
よくよく考えると当たり前のことだな。
今われわれが当時が西暦で何年だとか書いているが、当時の日本で西暦が使われていたわけではない。
同様に記紀が記されたとき、昔の年を干支で記したが、当時の日本で干支が使われていなかった時代も多く含まれているだろう。

369 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/07(土) 19:08:06
>>367
百済本紀も干支は出てこない、出ては来ないが調べれば >>363になる
ホツマにも干支は有る、干支の呼び方が気になる、
きあえ→甲子→きのえね 漢字の入ってきた時点で日本風の干支が無いと
読みをどのように変換したか? 

370 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/07(土) 19:20:09
日本書紀と同じ表記法は、百済の武寧王墓誌銘が最古でしょうか。(523年)
「寧東大將軍 百濟斯麻王 年六十二歳癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩」
これより古い例がありましたらご教示ください。


371 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/07(土) 19:42:55
続き
私も書紀の干支は後付けを否定しているわけでは無い ただし 西暦400年以降の日付について、、です。
それ以前の干支を後付けとするには、時々1日狂わせ即修正 月齢に対しては全体で(神武即位時)正しい数字になる

書紀は伸長されているから 「2倍された日付と考えるのが正しい」とした場合 朔は付いて来ない。
書紀編纂者が暦日元典なるものを作って「2倍した日にち」に記事を差込みそれに合せて季節も違え...。
そして 編纂グループ間の連絡を緻密にし、編纂した。となる まづ不可能。



372 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/07(土) 20:01:27
武寧王墓誌銘の「1年の狂い」が七支刀時代から続いていたとしたら
百済本紀の編纂者は頭を抱えたことでしょう。
これ以上の狂いを書紀に加えた編纂者は天才以上の頭脳の持ち主?
何しろ 七支刀が1年狂っている事も再現可能なのですから。


373 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/07(土) 20:47:54
>>371
>私も書紀の干支は後付けを否定しているわけでは無い ただし 西暦400年以降の日付について、、です。
>それ以前の干支を後付けとするには、時々1日狂わせ即修正 月齢に対しては全体で(神武即位時)正しい数字になる

干支の狂いは7世紀まであるようですが?
しかし、その狂いが、前後に影響を与えていないということですね?
ところどころで計算尺の見誤り等があったが、つなぎの管理は正確にできていた。まさに国家プロジェクト。

>>372
>何しろ 七支刀が1年狂っている事も再現可能なのですから。

七支刀326年(太寧四年)説?全く読めないと思われます。

374 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/07(土) 20:49:21
応神、仁徳辺りの長さを考えたとき 世継を優先すれば、かなり圧縮できる
しかし 大仙稜 仁徳67年に土地の選定、87年葬儀 と書かれている。
計算値は、16年延べ680万人 
仁徳死亡直前から土地選定に入り19年後に完成翌20年目に葬儀
世継優先で圧縮すると古墳の造営が出来ない。
葬儀の翌年が履中即位。
允恭天皇 が仁徳の子供足り得ない。
世継は文章、古墳は現実。


375 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/07(土) 21:02:19
>>374
ウィキペディアで「大仙陵古墳」を引くと・・・
築造時期・被葬者
採集されている円筒埴輪や須恵器の特徴から5世紀前半から中葉に築造されたものと考えられている。
前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後期のものと考えられるが、前方部に存在する副次的な埋葬施設の年代として問題ないとされる。

死後も造営は続いたとして問題無いのでは?

376 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/07(土) 21:35:45
応神稜も人数を減らして 20年ぐらい掛けたと思います。
反正からは、古墳完成葬儀をまたず即位?
とりあえずこの時期の古墳はこの時期に完成していますから余り圧縮しすぎると
古墳前期との整合性がとれるか?

古墳築造総人数を数値化する。←何も判らないのでとりあえず下記のような数式を考えました。
総人数=古墳長^3/168810 大仙稜486mの3乗割る168810=680(万人)
3乗は大きすぎる気はするが 立体であり 最大の人数を必要とするのが 
土堀、土盛り、より土固め(大きいほどしっかり固める)ということで。


377 :ローガン:2009/02/07(土) 22:23:58
ローガンへ反撃。

遅くなりました。太国4年で何か問題が?
猿でも解る解説を…

378 :ローガン:2009/02/07(土) 22:29:08
あ〜国を和に訂正。太国さん。ごめん。


379 :ヒミツッコ:2009/02/07(土) 22:59:48
書紀の編者は渋川晴海のような長歴を作成、それを見ながらイベントを
伸長して置いていった。さて、その際であるが、年干支を守るとなると、
置く場所が限られてくるので、年干支は目をつぶる。あとは、月と日である。
今日、ある行事が行われるときは、何月何日と認識し、日が近づくと曜日に
バトンタッチする。来週の何曜日、というように。古代ではどうであったか。
識者は別として、一般では、カレンダーはない。もちろん干支もまだ輸入
されていない。古老がいうには、「あれは、とっても寒い日で、半月のころ
じゃった、、、」というように、季節と月の満ち欠けが頼りだったと思う。月にしても
1月か2月か分からない。とにかく冬である。しかし3か月もずれることはない
と思う。月齢については、1日くらいのずれはあるかも知れないが、割合に
正確に認識したであろう。従って、書紀の編者は、何かのルールで年を決め、
何月何日と置いていった。そして、手もとの長歴で、その日の年干支、朔干支、日干支
を割り出して採用した。と、考えることはできないだろうか。その可能性も
あれば、再編年するとき、年の検討はともかく、月日は干支にこだわらず、
月と日にち(月齢)をあわせるだけでよいのだが。

380 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/07(土) 23:38:12
貝田禎造氏は長暦尺について次のように推測しています。

見誤ることなく日数を数えようとすると、干支一組の幅は少なくとも1.5センチ程度は必要であろう。
とすれば1か月で45センチ、1年で5.4メートル、「日本書紀」全体では約7.3キロの長さになる。
試作してみると、一人一日5時間を費やして8.5メートル程度は作れるので、7.3キロだと、
延べ約870人日が必要となるだろう。
膨大な作業量ではあるが、国家的事業として実施したとすれば問題として取り上げるほどの量でもない。
(古代天皇長寿の謎)


381 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/08(日) 10:45:56
>>379
古代に暦が有ったとしないと暦の復元は不可能、
暦が有ったとすれば、1章(19年7潤)を単位として加増する。
ただしダラダラ差し込んでゆくと暦として成り立たないので、各天皇の代毎に計算
ツジツマを合せると19年*n回になりそれだけ 年の干支や朔干支も加増される。

もし書紀の編纂者が引き伸ばすとなると >>380のような大変な作業になる。


382 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 11:43:27
編纂者が一人二人じゃなくて何十人、何百人と用意して作業させたらええよ・。
アメリカが日本の暗号解読に投入した要員と同じように。

383 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/08(日) 13:16:34
仁徳陵造営を思えば、比較にならない軽作業。


384 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/08(日) 14:07:00
パソコンでさえ 間違いが無いか再計算している

それから考えると 7Km以上のテープに記録を書き長さに間違いが無いか精査する。
クラッシュしたテープでがんじがらめに縛り上げられるのが 落ち。
算盤が有ったかどうかの年代ですから。


385 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/08(日) 15:09:44
千年程度の長暦が作れないようでは、とても中国の暦法は学べなかったでしょう。

現存する最古のそろばんは1846年にギリシアのサラミス島で発見された「サラミスのそろばん」と呼ばれるもので、紀元前300年頃のものである。
また大英博物館には「ローマそろばん」と呼ばれる溝そろばんが保存されている。
中国では紀元前の頃から紐の結び目を使った計算方式や、算木を使用した籌(ちゅう)と呼ばれる独自の計算方式があった。
これらは紐や竹の棒や木の棒で計算していたものであり、桁を次々に増やせる利点はあるが珠の形ではない。
珠の形になったのは2世紀ごろの事と考えられ、『数術記遺』と言う2世紀ごろの書籍に「珠算」の言葉がある。
なお、三国志の武将、関羽がそろばんの生みの親とする伝説があるが、三国時代より前から中国と中東・ローマには交易の痕跡があるため、
関羽が発明したと言うのは伝説以上のものではない。
ただし中国では良く知られている伝説であり、関帝廟の壁や柱には絵や彫り物のそろばんが描かれている。
中国から日本に伝わったのがいつ頃か詳しいことは分かっていないが、
『日本風土記』(1570年代)には「そおはん」と言う表現でそろばんのことが記されており、その頃には日本に既に伝来していたことがうかがえる。
(ウィキペディア「そろばん」)


386 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/08(日) 19:24:48
長暦尺について次のように推測しています。見誤ることなく日数を数えようとすると. . .

早い話が「物指し」を造るわけだ、伸ばせば弛みが出る、乾けばちじむ 濡れれば伸びる
もし造っても使い物にならない。

19年7潤の物指し(6940日)*4で−1日
この物指しを2組造り ”実”に1組、”増し”に1組 此れで運用する。
運用のキーポイントは、月齢で月齢には忠実に狂いが出れば修正して運用。
出来た数字は4分暦に当て嵌まらない。神代の昔から使われた当時の暦
神功渡海以降は、こんな使い方が出来ない。

387 :ヒミツッコ:2009/02/08(日) 21:03:40
巻尺のような物を作ると大変ですが、渋川晴海の長暦のようなものなら、儀鳳暦、元嘉暦
の暦法で計算すれば、それほど大変なものでもなさそうです。
本のように綴られていて、片方のページに10年分(1年1行x10行)、見開きで、20年、5回めくれば100年です。

神武元年、辛酉、正月大庚辰、二月小庚戌、三月大己卯、四月小己酉、五月大戊寅、六月大戊申、七月小戊寅、八月大丁未、九月小丁丑、十月大丙午、十一月小丙子、十二月大乙巳
  二年、壬戌、正月小乙亥、二月大甲辰、三月小甲戌、四月大癸卯、五月小癸酉、六月大壬寅、七月小壬申、八月大辛丑、九月小辛未、十月大庚子、十一月大庚午、十二月小庚子
  三年、癸亥、正月大己巳、、、、、

こんな具合です。儀鳳暦では、前年の11月朔日干支と11月中気(冬至)、元嘉暦では1月の朔日干支と1月中気(雨水)が、それぞれ、時刻まで算出されます。あとは、1朔望日で、
区切っていきます。時刻まで加算されます。それとは別に1月中気から、1節季の日数で区切っていきます。もちろん時刻も加算されます。2月中気(春分)を含む月が2月という
具合です。月末に中気が訪れると、次の中気は翌々月の1日位になり、翌月は中気を含みません。即ち、閏月です。

計算そのものは、筆算では面倒ですが、それほど難しくありません。今では電卓で簡単に出来ます。
順を追って行かなくても、どの年でもいきなり冬至や雨水とその月の朔日干支が算出できます。その後、1年間は、順を追う事になりますが。
しかし、暦というものがあったか、なかったか。あったと思いますが、見えない月が細い月となって現れ、満月となり、また細くなりついに見えなくなる。これを一月として
認識しただけではないでしょうか。閏月の知識はなかったと思います。太陽があの山の頂から昇る月の始まりを正月としよう、くらいはあったかも知れません。
このようなどんぶり的な簡単な暦と思います。


388 : ◆.L.MXSPOgc :2009/02/08(日) 22:01:38
何の話をしてるんだ?
日本書紀に記された干支が正しく逆算されたものか否かという話なら、当然正しく逆算されたものだろ?
そんなものを長々と書かれても面白くないぞ。
違うというなら楽しいが。

389 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 02:52:03
江田船山は「大王世」とあり、稲荷山は「辛亥年」とある。つまり雄略朝は、
日本人が年を「○○天皇の御世」としか表していなかった時代から、年紀を
使うようになるちょうど移行期。これは『日本書紀』が、雄略朝以降は元嘉
暦(445作)で記し、それ以前はありえない儀鳳暦(665作)で記しているこ
ととも合う。すなわち史実かどうかは別として、雄略朝以降の歴史は暦に紀
年として記録されたものが残っていたということである。

それ以前は残念ながら何年ということは記録されていなかった。例えば允恭
○年に××という事件があった、という記し方ではなく、允恭朝というのは、
即位した年、クガタチをした年、衣通郎姫と出会った年、崩御した年、という
ような具体的な事件によって記憶されていた。これは洋の東西を問わず、古代
には一般的なもので、例えばメソポタミアなどでも、ハムラビ王即位何年とい
う書き方はされておらず、王が○○と戦争した年とか、大飢饉があった年とか、
具体的な事件で以て、年号代わりにしている。

日本も同様で、大昔はそうだったのだろう。『日本書紀』の無記事の年を除いた、
有記事の年の集合が本来の姿なのである。そうして算出された各天皇の在位が、
『古事記』崩年干支によって算出される年数と類似していることは、すでに
笠井倭人氏が指摘している通りである。

390 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/09(月) 19:37:29
>>387 ヒミツッコさんへ >>230の様に時々変則的な間違いまで計算で出そうと言う試みです。

>>389 稲荷山の「辛亥年」を雄略朝の事とするには、かかれた文字を否定しなければならない
つまり大彦から後7世では、繋げない。
誤魔化し=かかれている文字の否定。

大飢饉があった年=崇神5,6年=新羅本記193年
巻向から急に各地の土器が出始める=崇神11年異族多帰=2世紀末
273年=神功前記=日食

>>389さん 良く解っている。
太陰暦で書かれた書紀は、太陰暦で読めるよう圧縮するのが本来。
方法と数字は、ここを初めから読んでください。



391 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 07:45:27
大彦命なら呼び捨てにしないでしょ

392 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 22:37:15
雄略朝に元嘉暦を導入した。
当然それ以前は、中国が元嘉暦以前に使っていた暦を
日本も使っていたのだろう。
元嘉暦の前の暦知ってる人教えて。

393 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 22:43:23
景初暦?

394 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 19:01:36
393さん、ありがとうございます。早速ウィキで引いてみました。
魏の明帝、景初元年(237年)から晋を経て、劉宋の文帝、元嘉二十一年(444年)まで
使用された太陰太陽暦の暦法。
とあるので、確かに元嘉暦の前の暦ですね。ご教示ありがとうございました。

395 :ヒミツッコ:2009/02/11(水) 21:12:46
2000年前の今日、神武天皇が即位した。地球の回転軸は倒れる前のコマの
様に首振り運動をし、13,000年で半分、26,000年で一周し元の所へ戻る様
だけど、2000年では、角度30度近く動く。北極星の位置も今とは違って
いたことになる。感激です。

396 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 00:14:59
今日じゃないよ。もっと暖かい頃です。
それから西暦9年でもありません。

397 :サガミハラハラ:2009/02/13(金) 17:58:54
神武天皇即位年ですか?
西暦131年秋年前年です。

398 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/13(金) 19:04:21
神武天皇即位年が西暦131年だと
弥生時代後期後半
そうすると弥生時代後期の在大和民族を考えないといけない。
西暦131年神武入植、西暦200年古墳が作られ始める。

西暦41年頃にすると、丁度弥生時代後半の幕開け。


399 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/13(金) 19:46:05
応神卅七年春二月戊午朔 阿知使主は高麗國へ渡り高麗國の案内人に従い呉国へ行く。
西暦390年以降は、倭と高麗國は戦闘状態となる。
応神37年は、西暦380年以前である。
神功52年七支刀が1年の狂いで326年の事とすると、応神37年は、西暦379年の出来事である。


400 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 20:21:47
応神元年は390年だよ。

401 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 20:35:02
応神三年で、百済の阿花王の即位を伝えており、百済本紀で阿華王の即位を392年と伝えている。

応神八年で、百済王子 直支の来日を伝える。同百済本紀で人質として使わした年代を397年と記している。

応神元年「庚寅」の候補は270年、330年、390年、…

これからも、応神元年が390年とわかる。

402 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/13(金) 21:01:06
応神元年春正月庚寅年丁亥朔と書かれている以上
どうしてもと言うなら270年になる。
強引に390年に合せると
履中元年=400年 此れ以降は、圧縮されていると成る
引き伸ばす方法は?。 有るの?。



403 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/13(金) 21:13:00
百済本記の日食は、数字に直せない=百済本記はメチャクチャである。
>>363 で説明したより より整合性のある説明が出来るか?


404 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 21:25:49
そう、圧縮されている。

現代では、一世一元、先帝没年が時期天皇の即位であるから、
それを考慮して、古代でもそうであったと考えるかもしれない。

しかし、実態はそうではなくて、立太子した時が=即位なのである。

405 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 21:47:40
>>363
で、誤差119となっているところが複数ある。そこがポイント。
つまり、神功皇后は、卑弥呼と混同されているので、事績を分けて考えるのだ。

神功39年=皇紀239年、魏志云 明帝景初三年六月  西暦239年 皇紀との誤差=0
神功40年=皇紀240年、魏志云 正始元年 西暦240年 皇紀との誤差=0
神功43年=皇紀243年、魏志云 正始四年 西暦243年 皇紀との誤差=0
神功66年=皇紀266年、晋武帝泰初二年 西暦266年 皇紀との誤差=0


以下は、史実としては+120である。応神元年が西暦390年と整合する。

神功52年=皇紀252年、七支刀 西暦369年? 皇紀との誤差=117 
神功55年=皇紀255年、百濟肖古王薨 (近肖古王とする)西暦374年 皇紀との誤差=119
神功56年=皇紀256年、百濟王子貴須立爲王(近仇首王とする) 西暦375年 皇紀との誤差=119
神功62壬午年=皇紀262年、新羅不朝 即年 遣襲津彦撃新羅 【百濟記云 壬午年 
神功64年=皇紀264年、百濟國貴須王薨 西暦383年 皇紀との誤差=119
神功65年=皇紀265年、王子阿花年少 叔父辰斯奪立爲王 西暦384年 皇紀との誤差=119



406 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/13(金) 21:59:07
>>363 で説明したのは
肖古王=近肖古王で書紀に書かれた位置を確認すると 「朔」が合うという事
そして 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■を満たす年として
326年東晉明帝太寧四年なら暦日で読める。(吉祥句では無い)


407 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/13(金) 22:08:39
そして
倭人伝登場人物
都市牛利=タジマモリ
伊支馬=イクメ=垂仁
倭王=タリヒコ =景行
伊聲耆掖邪狗=イワカ=磐鹿六雁
難升米=倭女王の部下で伊都在住の大夫
狗奴國=狗古智卑狗?
イヨ=五百野姫

ついでに書紀より
倭女王卑弥呼=巾3尺の石
男王=筑紫の大木
が現実となる。

408 :サガミハラハラ:2009/02/14(土) 10:02:35
わたしは、西暦57年の委奴国金印授受をもって、この年代に近い頃に倭国統一があったとみた。
記紀からみるにそれに相当するのは出雲国譲りであるとみた。天孫降臨はほぼ同時である。
記紀にはニニギのことだけであるが、じっさいには倭国を支配統治するために各所に天神が派遣されたとみた。
半島南部も倭であるから、そこにも派遣された。それが金首露王である。
この年代は西暦42年とある。このあたりが出雲国譲り天孫降臨の時代であろう。
ところで、南九州の宮崎にも降臨があったのであるが、日向風土記によれば、その時太陽が隠れ暗闇になったという。
つまり日食があったということである。そこで西暦40年ころの九州の日食をしらべてみたところ、西暦41年4月19日に種子島を通過する
皆既日食があったことがわかった。この位置からして、宮崎においても9割はかける日食となったようである。
つまり日向風土記の記載は正確であったということである。(人物がニニギノ命となっているが、ニニギの降臨地は博多湾岸であるから宮崎は別人であるが、
記紀がニニギとしたため、風土記の編者はそれにしたがったのであろう。)
金首露王の42年説、そして風土記の41年の二つの事例からみて、天孫降臨は事実であり、その年代は40年代初めとみてよいであろう。
くしくも今年は、九州のトカラ列島で日食がみられるという。41年の通過コースとちかい。
2000年たって、宮崎で再び天孫降臨のときとおなじような光景がみられるのである。

7月22日にはぜひとも宮崎に行こうとおもっています。

409 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 15:58:40
>>408
>ニニギの降臨地は博多湾岸である

なして委奴国の博多湾岸に降臨する必要がある?



410 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/14(土) 17:01:02
西暦57年の委奴国金印授受をもって、この年代に近い頃に倭国統一があった。
当時の天皇家はせいぜい「種貸屋」 どのような手法の政治が考えられるか?
全国統一は景皇の屯倉経営より 文字の無い時代ですから 景行の子供(養子になる)
として各地に入植。 景行の子供80人はこうしてうまれた。


411 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/14(土) 17:54:27
>>399
>西暦390年以降は、倭と高麗國は戦闘状態となる。
>応神37年は、西暦380年以前である。

高句麗との戦闘は碑文では404年、倭の大敗で終わる。
高句麗は他の敵に向かうため、應神28年=408年ごろ倭との和平を図る。
菟道稚郎子はいったん拒絶するが、その後に和平が実現したとしても不自然ではない。

412 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/14(土) 20:55:26
>>100 で指摘されているように「碑文では404年」以前から高句麗の圧迫は
百済、新羅を「属倭」から「属高句麗」に傾ける。
この辺の事を碑文は、「百済、新羅」は高句麗の属国であったが404年頃から倭が出てきて
「百済、新羅」を属国化しようとしている と表記される。
380年頃から百済の記事が書紀に登場しなくなるのはその表われ。応神37年以降の話。

書紀に書かれた神功39年から応神37年に記載されている百済等の記事は差込みであり
神功、応神の実際の長さでは無い。
そう考えると書紀編纂者が「年代を伸長した」は否定される。


413 :ヒミツッコ:2009/02/14(土) 23:32:05
神武即位について、サガミ先生はAD131年、唐松山先生はAD41年、この差は僅か90年です。
仁徳没年にいたっては、432年と400年、僅か32年です。日本@名無史さんさんや愛知県民さんの
お説は何年ですか。安本先生でしたか、棒グラフの先生です、は確か、AD270年頃だったと思います。
皆さんの納得いく年あるいは、頃が設定できると、そこが手掛かりになって、
新展開しないでしょうか。私は詳しいことは分かりませんので、自説はありません。
興味だけは旺盛です。


414 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/15(日) 00:33:57
>>413
秘密のアッコちゃん?

私は仁徳没=應神没=427年説。
崇神没は258年。神武は決めかねていますが270年は考えられない。

415 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/15(日) 00:44:48
>>408
金首露王は158年間在位したと言われますが、西暦42年頃でよいのでしょうか?

416 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/15(日) 01:09:34
ウィキペディア「銅鐸」によると、「銅鐸の埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中している」
そして銅鐸の記憶は大和朝廷に残らなかった。
ここから何が読み取れるのだろう?

417 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/15(日) 01:52:07
安本氏が神武270年説を唱えたのは、銅鐸終焉は250年頃、古墳開始300年頃という
当時の考古学の年代観に基づいていた。
現在で言えば、神武は紀元前後、孝霊〜開化が2世紀頃とするのが妥当か?

418 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 05:53:30
元嘉暦より前は日本人がどんな暦使ってたかわかんないのなら
復原のしようがないじゃん。『日本書紀』の儀鳳暦はありえないんだから。
明治政府みたいに神武即位が2月11日だって強論するなら別だけどw

419 :サガミハラハラ:2009/02/15(日) 06:57:54
金首露王は伽耶の王で、当時半島南部は倭の領域であるので、2倍年暦による年齢であると思われます。
とはいっても、普通暦で79年の在位はながすぎますが。

420 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 08:29:15
古事記より逆算。

26継体 507-531
(507.02.04即位、531.02.07崩御)
25武烈 499-506
(500.12即位、506.12.08崩御)
24仁賢 488-498
(488.01即位、498.08.08崩御)
23顕宗 485-487
(485.01即位、487.04崩御)
22清寧 480-484
(480.01.14即位、484.01.15崩御)
21雄略 457-479
(456.11.13即位、479.08崩御)
20安康 454-456
(453.12.13即位、456.08崩御)
19允恭 412-453
(412.12即位、453.01崩御)
18反正 408-412
(408.01即位、412.01崩御)
17履中 402-407
(402.02即位、407.03崩御)
16仁徳 ?-402.01崩御

421 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/15(日) 09:48:21
>>420
これは日本書紀じゃないの?
私の案は
繼體514〜527
武烈506〜513
仁賢501〜505
顕宗493〜500
清寧・飯豊490〜492
雄略467〜489
462年の倭王世子興は木梨軽太子か。

422 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 10:09:07
>>421
2007年が継体帝即位、1500年だった。
継体帝の治世が25年間で、継体帝崩御が辛亥。
近辺の辛亥は531年。
そこから足掛け25年遡及すると、507年が即位年になる。同じように歴代を遡及すると>>420の結果になるが、仁徳帝の在位年数が長過ぎて眉唾物だから、その先に遡及できないでいる。

後は系図も併用して勘案しるぐらいだな。

423 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/15(日) 10:28:59
>>418
書紀の朔を計算すると、書紀は定朔で書かれている。
定朔とは、月の満ち欠けは夏と冬ではスピードが違うその他太陽の惑星の影響で
約8年の周期もある、これらの影響を平均化したものが定朔
代表的な暦は、「四分暦」でこの仲間は幾つかあり景初暦以前の暦です。
最初に使われた暦は、19年=6940日の暦
次に使われた暦は、19年*4=76年=6940*4−1日 ←これが四分暦
景初暦はこの76年を積み上げてゆくとやはり月齢に誤差が出るのでさらに大きな年数に−1日で合せる。
合せる数字は計算されたものです。
書紀は四分暦を使用そして月齢の狂いが貯まった時点で修正を繰り返す。
この本物の暦を伸長するには、”A(本当の暦日)”という暦と”B(虚の暦日)"という暦(どちらも同じ物)を用意する
この二つの暦を混ぜて使う、ただし混ぜっぱなしでは「本物」がどれか分らなくなるので
各天皇紀を一つの区分とする。例えば成務天皇治世61年を分析すると
”A"4年+”B"19*3=4年+57年=61年
成務天皇の記事が合計4年分しか無いのは治世が4年で在ったから。ただし例外もある
また神功以降は国外の暦法ともある程度の整合性を保たねば通商に悪影響が出る。

倍暦を主張したければ現実の暦をその主張する方法で伸長してみてください。
多分不可能だと思います。
倍暦主張論者は、自分に甘く他人(書紀編纂者)にきびしい。



424 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/15(日) 10:58:49
干支については後付けで説明可能。
月後半の日付が極端に少ないことや、六月に雪が降った記録などは倍暦を考えないと説明困難。


425 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 11:07:32
>>419
首露とは「首(首長)露(ロ=国)」って意味ですが。

日本で言えば「天皇」
モンゴルでいうなら「カァン(大汗)」
満州族なら「アンバ・エジェン(大王)」

『新増東国輿地勝覧』によれば初代金首露王の名前は悩窒青裔ですよ。

後藤幸彦先生、ちゃんと調べてくださいよ。

そんなに大穴ばかりの理論を振りかざすから
季刊邪馬台国編集部からまともに相手にされないのにまだ気が付かないんですか?

426 :サガミハラハラ:2009/02/15(日) 13:26:50
私が問題としているのは、伽耶の王が空からおりてきたとの伝承をもっているということです。

相手にされないって、私の邪馬台国論には平成16年から投稿したものは連続7回採用されておりますけど。

427 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/15(日) 14:20:39
干支は後付けとしても良い、とする
そして其の出来た編年に書紀の記事を数字に直せるか
直した数字を伸長し干支を貼り付ける。

此処までして「再現」になる。
書紀編纂者と同じ事をする 此れが出来ないからと言って編纂者に責任を押し付けるな。
暦法と違うところまで再現できて完成。

428 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/15(日) 15:14:10
書紀は「伸長」はしていないと思う。
もとの暦を通常暦と見誤って干支をつけたもので「伸ばした」のではなく「伸びた」ということ。
意識的に伸ばしたならもっと大袈裟に伸ばしたでしょう。

429 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 19:15:07
>>426
「伊都国はタクと読み、多久のことだ……」とか言い出したから
八回目の連載はなかったと言うわけですね。

季刊邪馬台国の編集部の人たちも
(゚д゚)ハァ?ナニコノヒト? ってな表情したのがありありと想像できますな(苦笑)

430 :サガミハラハラ:2009/02/16(月) 14:17:23
>>429伊都国はイタ国と読むとはいったが、タクと読むとはいっていない。
7回連続で採用されているとかいてますよ。
しっかりよんでから、ご意見をどうぞ。

431 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 17:44:04
>>430
そういうのであれば、あなたはなぜ伊都国が多久にあったと言い切るんですか?

432 :サガミハラハラ:2009/02/16(月) 20:07:47
倭人伝には東南陸行500里とあります。
唐津(呼子では壱岐からの距離が短いことと、呼子からあるかなくとも船で唐津にいける)
から、東南にすすむと多久市にはいります。だからそこが伊都国となります。

433 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 21:37:51
>>432
では、この発言は?
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1207913538/363

まさか別人の書き込みだとか言うのではないのでしょうね?

434 :サガミハラハラ:2009/02/16(月) 22:46:12
何がわからないのでしょうか?

435 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 01:48:30
元嘉暦輸入以前に日本人が、どの月を大にして、どの月を小にして、
閏年を何年に何回にして、なんてことを独自にやってたとは思えんわな。
中国に倣ってたか、あるいはそもそもそんな厳密な暦はなかったか。
少なくとも、当時の支配地域全域に渡って、統一した暦が使われたとは
なかなか考えがたいな。

436 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 07:47:43
>>434
あなた、自分の発言が矛盾していることに気が付かないのですか?

437 :サガミハラハラ:2009/02/17(火) 15:33:03
どこ矛盾してますでしょうか?
教えてください。自分ではまちがっているおかしいとはわかりませんので。

438 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 17:33:52
>363 :サガミハラハラ:2009/01/30(金) 10:04:28
>伊都はイタと発音しました。
>これと現代地名のタクとの関連はちとわかりません。(糸島半島にも多久がある)
>イ(ヰ)のつく地名は出石、因幡、出雲、石見、壱岐、イト(リッシン遍に台と土)、伊邪(弥永の弥)、伊都とあります。
>倭は古くはイ(ヰ)と発音していたので、これら地名のイ(ヰ)は倭国のという意味かもしれません。
>都はタと発音し、国を意味するとのことです。

「タ」という言葉が「国を意味する」って何を根拠に言い張っているんですか?

その説を応用するなら「伊都」は「伊国」という意味になりますが。

さんざん「伊都国は多久だ」と言っておきながら、答えに窮したらこれですか?

妄言もいいかげんにしなさいな。

439 :日本@名無史さん:2009/02/17(火) 17:52:25
>>438
病識のない統失患者には何を言っても無駄じゃ。
正気に戻るまで放置しる。

440 :よこ☆やり:2009/02/17(火) 20:29:34
>>413
魏志倭人伝を読むと、
当時の倭国に年紀あったと思われないので
邪馬台国時代は先史時代でしょう
神武から歴史時代とすると、270年頃とする説には説得力があると
思われます

441 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/17(火) 22:34:15
ホ24029 ムカシヒヨミの ヲモイカネ コヨミつくりて こゝにあり のちムラクモに ゆつりをく

暦は神代の昔から在りました。
天皇家のシノギは、種貸家 これに農作日を付けて種を貸すことで生計を立てる。
海人に種を貸す事は無い また海人に必要なのは24節季でなく月齢による潮。24節季など潮に比べたら
必要度は格段に小さい。
これらの海人も治める為に屯倉経営にシフト。


442 :サガミハラハラ:2009/02/17(火) 23:27:43
「タ」が国を意味するとの件ですが、かなり前に聞いたことのある説で、朝鮮語であるとのことですが、
確認したわけではありません。ですから末尾に「ということです」とつけております。

伊都国と表記したのは中国人です。
問題は外国の表記法です。
相模川を英語ではsagamigawariver(サガミガワリバー)と表記します。
gawaが川のことであってもriverとは訳さずそのままgawa と表記しsagamigawaを1個の固有名詞としてあつかう
わけです。
よって、倭人が自国名を名乗った際、イの国という意味でイトといったのを中国人はイ国とは表記せずにイタコク(伊都国)と
表記したわけです。

その説を応用するなら「伊都」は「伊国」という意味になりますが。という文章と、
次の、さんざん「伊都国は云々」の文章には論理の飛躍があるようにおもわれますが。

443 :リリミア:2009/02/18(水) 08:14:05
卑弥呼=北九州、邪馬台国のボス
神武=熊襲のボス

ジンム東征服=邪馬台国&張政による大攻勢で日向から逃亡
→奈良に亡命政府設立
「♪友よいつの日か狂信者を打ち倒し、自由の地に自由の旗を立てよう!」

崇神時代に邪馬台国に報復戦をしかけて潰す


444 :日本@名無史さん:2009/02/19(木) 09:08:11
>暦は神代の昔から在りました。

月の大小や、閏年の周期、どうやって決めてたんですか?

445 :よこ☆やり:2009/02/19(木) 23:58:30
暦があったら神代じゃないだろ
ちがう?


446 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 06:00:11
神代は年数のみ

447 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/20(金) 13:07:14
ホツマ伝、神代 思兼が作った暦は、多分四分暦に”増し”を注入して 暦の管理者
以外復元が困難な暦
太陰暦の基本が19年ですから 本物+19*n回の増し
これで当時の民には暦の構造は解らない。
天皇家のシノギ種貸と共に農事の吉日を教える。

19年の暦が有れば閏月が動いても月の名称が変るだけで 太陰暦の基本は変らない
ただし月齢の誤差には敏感であったらしく 頻繁に月齢の調整は行われた。


448 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/20(金) 16:44:12
ホ24030 ヲモイカネ コヨミつくりて こゝにあり のちムラクモに ゆつりをく 
ホ22044 タツタヒメ をのをのミナを たまわりて コヨミをまもる ヤヤサカミなり
このカミの つねにめぐりて まもるゆえ ヒミツのワザの さわりなし 

「古記」は、「暦数は、十九年を一章と為し、三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月とす
「古記」は、「大宝令」の注釈書
神武元年は、15年目。
後は私の数字を参考にして下さい。 
書紀に書かれた空白の年が「増し」の候補,設定位置は書紀の記事より妥当と思われる記事を西暦に変換そこに合わせる。


449 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/20(金) 16:59:23
 『梁書』新羅伝
無文字、刻木為信。語言待百濟而後通焉。
文字なし、木に刻みを入れて通信に使う。言葉は百済の通訳を待ち、然る後に通じるなり。

神代文字の存在を肯定している。


450 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 20:55:28
倍暦の証拠 母音交替により倍数を示す

 1 Φi1to2 
 2 Φuta

 3 mi1 
 6 mu

 4 'jo2
 8 'ja

 5 'itu
10 to2'wo

451 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 20:56:43
             数詞対照表

  古代日本語 高句麗語 新羅語 高麗語 中期朝鮮語 現代朝鮮語

1   Φi1to2    −−  hっtっn hっtっn   hΛnah    hana
                 (一等)  (河屯)
2   Φuta    −−  tu¨pっ¨l tuβっr   tulh      tu:l
                 (二尸)  (途孛)
3    mi1     mil    siet    sei     s∂ih     se:s
            (密)    (悉)   (洒)
4    'jo2     −−   −−   nei     n∂ih     ne:s
                       (廼)
5    'itu     'utsu   −−   ta∫us   tasΛs    tasっs
           (于次)        (打戍)
6    mu    −−   −−  'jul∫us  'jっsΛs    'jっsっs
                       (逸戍)
7   nana    nanun  −−  'ilkup    nilgub    'ilgob
            (難隠)        (一急)
8    'ja     −−   −−  'jultap   'jっdщlp    'jっdっl
                       (逸答)
9  ko2ko2no2  −−   −−  'ahop    'ahob     'ahob
                       (鴉好)
10   to2'wo    t∂k   −−   'jっl     'jっlh     'jっ:l
            (徳)         (噎)

※古代日本語の[i1]はイ列甲類、[o2]はオ列乙類。[っ]は母音[?]の代用。
  高句麗語の数詞「5」については村山説を挙げたが、
  李基文や板橋義三は再構語形を[uc]としている。

452 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 01:25:30
日本人は偶数が好き

453 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/21(土) 17:37:03
>>451
面白いですね。
「太王四神記」や「朱蒙」・・・韓国人は高句麗ドラマがお好きなようですが
日本語をしゃべらせたほうがよかった?

454 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 01:53:30
「三国史記」に記された高句麗の故地名の音訓併用表記

新羅意訳 高句麗語
三餐郡 密波兮 「み(つ)はけ」(中国語フォントでは餐が山+見になる)
五谷郡 于次-呑忽 「いつたに/たむ」
七重県 難隠-別 「ななへ」
十谷県 徳頓忽 「とたに/たむ」
兎山郡 烏斯含達県「うさぎだけ?」
海曲/海西県 波旦県 「わた」

三 mit (jap.み(つ))
頂上が平らな山 pua-kei (jap.はけ、はげは山梨・神奈川でまだ使われているようです)
五 (h)u-tsi (いつ)
谷 ta/on-mut (呑忽 = 頓忽) (たに、たむ?)
七 nan-in (Tungusic nadan)
重 in-pet,pet
十 to/ek (と(を))
兎 o/u-si/e-g/ke/am (をさぎ)
山 d/ta
海 pua-dan(波旦)? (Korean pada / Jap.わた)

水 買 mai (Jap.*mi-)
深 伏斯 b/puk-si/e(ふかし?)
谷 呑,旦 (たに)
鉛 乃勿 nai-mut (Korean nab) (なまり?)
口 忽次 kut-tsi (くち)

455 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/02/22(日) 11:00:28
高句麗の五族「涓奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部」
「奴」の頻出は倭人伝の二十一か国を連想させる。


456 :ローガン:2009/02/27(金) 16:09:51
下がったのであげときましょう。
唐松山さん。七支刀の、「五月十六日丙午正陽…」が吉祥句ではないとお考えのようですが。
銘文の5文字目は読めてないのですよ。「一」(よこぼう)が辛うじて確認されている程度。よって「八」を除く数字の可能性がある。
しかし後に続く「十六日丙午正陽造百練…」が金属器によく観られる銘文と同様の吉祥句であろうと云う事で「五月」と読まれたんです。
つまり吉祥句でないとするなら「五月」だけが該当するわけでなく、「八月」以外すべて考える必要があり、日の干支から歳を探るには七支刀は不適当でしょう。
付け加えると3文字目「四」と6文字目「月」の間は字配りから考えると3文字入る可能性もあり、「十一月」「十二月」もあるかもです。

457 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/27(金) 18:10:59
七支刀が何故神功52年なのか?
275~280 晉武帝咸寧中、馬韓王來朝、自是無聞。三韓蓋爲百濟、新羅所呑并。
272年神功渡海 少しでも遅れたら 任那も無いであろう 仲哀を殺してでも渡海の
必要が有った。楽浪郡から軍の出動要請が有ったのかも?それとも任那からの要請か?
この数字から半島の前方後円墳は、倭人の墓。

そして何時なら渡海できたか?
半島の前方後円墳は、誰が作らせたか勿論時代を入れて、
ローガンさん これらを時代を下げたところで説明出来ますか?。


458 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/27(金) 18:32:52
金海大成洞古墳群
http://www.netlaputa.ne.jp/~andreus/bbs0209/bbs/134.html

神功渡海には半島情勢の正しい認識が必要
古墳に武具が大量に埋納されるのはそれだけ軍が強力に成った証拠でもある。
この強力な軍を持つ半島を神功はどの様に上陸そして戦ったか?
もちろん武器は倭より手漕ぎの船で持ち込む。
的確な論をお待ちしています。


459 :ローガン:2009/02/28(土) 16:25:13
>>457
> 七支刀が何故神功52年なのか?

紀は神功39年40年43年66年に「倭女王」がいたように書いています。己未、庚申、癸亥、丙戌ですね。
紀は干支表記ですから「年代」が表せない。よってそれを中国史書に求めたんでしょう。
神功が唯一の女帝であるがゆえ中国史書の「倭女王」に個人特定出来ることを利用したものと思います。
しかし、39年40年43年はいいとしても、別人であろう66年の女王も該当者が居ないため神功とせざるを得なかった。
干支二運下げて(元に戻して)壬申年七支刀招来ですから、神功紀52年に記載されたのでしょう。
実際は応神への下賜品だと思います。

460 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/02/28(土) 18:00:59
紀は神功39年40年43年66年の魏書を朔まで違和感が無く合わせている。
何故 七支刀のみ 日付がずれるのか?← この話は置いておく。
では 神功渡海と半島の古墳に付いて 述べて頂きたい、
この辺がずれては歴史に成りませんので是非お願いします。


461 :ローガン:2009/02/28(土) 19:00:44
>>460

今から会議→宴会→二次会ですのでまた後程。

462 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/01(日) 00:02:12
>>457 横レス失礼
>そして何時なら渡海できたか?

新羅本紀によると、倭人は新羅建国当初から西暦500年まで、ほとんど絶え間なく新羅を襲っています。

>半島の前方後円墳は、誰が作らせたか勿論時代を入れて

朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したものであり、
百済の国境沿いに近い伽耶の地のみに存在し、・・・伽耶の在地領主の墳墓ではないかという説が出されている。
・・・倭人領主の墳墓と見る説もあり、墳墓に眠る人物の身元はいまだに確定していない。
(ウィキペディア「前方後円墳」)
これが一般的な見解のようです。

463 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/01(日) 09:45:01
>「新羅を襲っています」
倭寇と大和政権関与に別けて考えないと。

巨大古墳の築造人的資源は、半島に求められる
現在の日本人の構成から 20余万人の流入が考えられる。
1年当たり千人として200年余 此だけの人間が流入しながら日本語が健在で有るのは
少しずつ流入した為と思われる。パピプペポの訛りはこの流入した民からもたらされた。


464 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/01(日) 09:47:02
百済本記の不審
405年 腆支王即位テンシ(直支、映、枕流王の子)在位15年
応神廿五年 百濟直支王薨 即子久爾辛立爲王 百済本記と享年が違う。
413年 晉安帝義熈九年百濟王映
424年 少帝景平二年、映遣長史張威詣闕貢獻。
此方でも在位期間が合わない。
腆支王以前には、肖古王=近肖古王と言う最大の疑問がある。
書紀に書かれた肖古王、百済将軍と倭軍は共に百済の東部、馬韓の4村等を平定
百済東部は、百済の領土として肖古王の物となる、そのお礼に太子仇首が七支刀を献上
時代は馬韓に小国が存在出来た時代。
七支刀を読み変えるか?肖古王を七支刀に合わせるか?
とりあえず 七支刀を此処(326年)に固定するとそれ以前の歴史が見える。
しかも数字は太陰暦。


465 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/01(日) 10:03:18
応神卅七年 高麗を介して呉(東晋?)と通商
この年代も教えて下さい。


466 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 10:24:22

外来文化(中国、儒教、仏教、律令)を受け入れざるを得ない状況で、日本のアイデンティティと政権の正当性を確認する為に作った。
無理は承知で!
継体以前と・欽明・蘇我・大化改新は悩んだろうな。


467 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/01(日) 11:06:59
>>464
宋書百済伝では「(元嘉)七年,百濟王餘毗(毗有王)復修貢職,以映爵號授之。」とあるので
久尓辛王を認識していない。
同時期、倭国の履中天皇も認識されていないようである。
新羅王に到っては影も形もない。

>時代は馬韓に小国が存在出来た時代。
倭の五王の称号にも「秦韓慕韓」がありますが?

>>465
応神卅七年は413年でしょう。


468 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/01(日) 11:24:46
新羅本紀の不審
梁書新羅伝「普通二年(521年)、王姓募名秦、始遣使隨百濟奉獻方物。」
隋書新羅伝「其王本百濟人,自海逃入新羅,遂王其國。傳祚至金真平(真平王)」

469 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/01(日) 11:30:32
420年 廿五年 百濟直支王薨 即子久爾辛立爲王 
この17年後は 413年なんですか。



470 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/01(日) 11:52:54
>>467
宋書は久尓辛王を認識していない。となると百済本記が怪しくなる。
書紀に書かれた百済は百済本記と一致しない そして書紀の百済記と百済本記
も一致しない。
つじつま合わせの方便はどうにでも成るが 一致しないことは確かである。


471 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/01(日) 11:58:46
>>469
應神廿五年の直支王薨去記事は倭国でなく、百済の記録によるもの。
(應神)卅九年春二月。百濟直支王。遣其妹新齊都媛以令任。
これは倭国の記録によると思われ、はっきりと矛盾しています。
應神卅九年は413年と思われ、直支王薨去の414年の前年となります。
唐松山さんは新齊都媛の記事をどう説明しますか?

472 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/01(日) 13:11:00
>>468 の続き
新羅に関して、半島と大陸の記述は全く違っている。
もちろん外国に関する記事に多少の不正確さが出るのは当然で、
倭国についても、大陸の記事と合わないとして九州王朝説もあるわけですが、
私は誤差の範囲内と見ています。
しかし梁・隋の新羅伝はあまりに新羅本紀と違うので、今後の課題です。
それにしても・・・「普通」という元号には笑ってしまったw

473 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/01(日) 14:45:00
隋書新羅伝「其王本百濟人,自海逃入新羅,遂王其國。傳祚至金真平(真平王)」
なんとなく、神武東征に似ているような?
扶余から南へ逃げて高句麗を建てた朱蒙にも似ている。
神武は九州で負けて東へ逃げて建国、子孫は祖国を滅ぼす。

474 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 16:27:55
ガリレイの相対性原理が完全に間違っていることは、
支配原理(支配の法則・速度の法則)が完全証明する。
必然的にアインシュタインの相対性理論も間違っている
ことになる。
http://hwbb.gyao.ne.jp/cym10262-pg/fenomina.html

475 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 23:11:24
誤爆はやめて

476 :ローガン:2009/03/02(月) 19:12:28
>>460

> では 神功渡海と半島の古墳に付いて 述べて頂きたい、
> この辺がずれては歴史に成りませんので是非お願いします。

金海大成洞古墳は3C後半からですね。鉄を中心とした交易の拠点でしょう。埋葬施設が大型木槨墓、北方系の起源では?
例の29号墳では畿内系遺物が出ている様なので、全く無関係だとは言えないとは思いますが、「神功渡海」とやらとこれがどう繋がるかは、私にはわかりません。
仮に同地のおける「支配層の倭人」を考えるとすれば、玉杖、筒型銅器、碧石製品等から考える事も可能かもしれませんが、4〜5世紀の話でしょう。

477 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/03(火) 19:38:03
4世紀は2朝並立?
274年 神功元年
312年 神功39年 太歳  仁徳元年 仁徳は大陸の暦を使用 (313年癸酉年)
325年 神功52年 七支刀 (326年)
343年 応神元年 
346年 仁徳53年 新羅に大量派兵 新羅346年条参照
398年 仁徳87年

1年のズレは有るが上記の様な構造が考えられる 詳細は未だ検討していません。
武内宿禰の年齢はこれで人間の年齢になるか。242年武内宿禰誕生、312年時点の年齢71才
武内宿禰、墓標の年齢106才 30位加増 これは天皇の加増数字と同等。


478 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/03(火) 19:47:37
ローガンさん昨日はロックアウトに会って話に乗れませんでした。
やっと4世紀の暦の読み方が解りましたが 応神をロックアウトしてしまいました。

空白の4世紀を読むには、やはり「墓標」が必要かも。


479 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/08(日) 19:07:36
312年 神功39年 太歳  仁徳元年 仁徳は大陸の暦を使用 (313年癸酉年)
仁徳31年 履中太子となる、神功元年から数えて69年目

翌年即位したのは、応神か履中か?

480 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 03:04:56
古事記には允恭天皇の時代に新羅の王族が金氏を名乗っている
新羅の王族が姓に金を使用するのは真興王の時代からであり
允恭記を史実とする場合、この人物は6世紀の人間と考えなければならない
すると允恭天皇自身も6世紀の人物と考えられるのではないだろうか?

481 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 14:16:15
允恭記を史実とする場合、
新羅の王族が姓に金を使用するのは、5世紀に遡る

482 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 22:31:27
梁書新羅伝、王姓募名秦は?

483 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 04:48:11
允恭天皇と同時代の新羅王は訥祇麻立干で三国史記には倭と戦の記録がある
前後の王代でも倭と戦っているので
この時代に医者なんかよこさないと思う
新羅から倭戦の記録なくなるのは六世紀になってから
允恭の実年代は六世紀の可能性が高い

484 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 10:17:45
真興王が今のソウル辺りを領有して以降
中国本土から海路で物資が入手し易くなると
漢籍などから得た…

 新羅の支配領域は元々「秦韓」とも呼ばれていて
 始皇帝の秦の末裔を自称する人たちが住んでいたらしく
 秦王の祖先が黄帝の子の「少昊金天氏」という人物の末裔だ

…という、忘れられた(?)歴史知識が
「金氏」を称し始めたきっかけになったのだろう。

485 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 23:54:00
古事記なんて平安初期の偽書なんだから真に受ける必要なし

486 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 22:29:27
平安初期でも十分古い

487 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 03:19:08
安康天皇が大日下皇子の妃を皇后にしたり妹を雄略の妃にしたりするのは
年齢的に不自然。允恭天皇を架空として除けばいいのでは?

488 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 03:20:17
>>485
「偽書」の定義は?内容に誤りがあることは偽書とはいわないよ。

聖徳太子捏造説の中身も似たようなもの。
王朝交代説に至っては王統が続くのに王朝交代とかトンデモって
レベルじゃねえよwww

やつらは、派手な見出しにこだわる東スポとかと同じレベルの人間だろ。

489 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 07:05:56
そうですね。偽書とかの定義とか言われても困るので
『古事記の内容について史実として受け入れる必要はない』というのに言い方に変えます、失礼しました。

490 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 08:38:29
>>486
古いは理由にならない
古事記は新撰姓氏録に対抗して日本書紀や風土記などを元に作られ
由来も偽った旧事紀などと同様なものと考えればよろしい



491 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/14(土) 12:58:36
書紀の中身もこの程度の物ではないか?だとしたら書紀のみで編年は考えられない。

274年 神功皇后元年 
 書紀ではない記事 312年 乙巳 皇918 戊寅 若建王命/小碓子 戊寅年11月6日55 没
312年 神功39年 太歳
312年 仁徳元年 〜398年仁徳87年
342年 神功69年=仁徳31年履中を太子にする
343年 応神元年

1年の狂いは有るがどうだろう。


492 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/14(土) 20:33:33
神功「十月」遠征の疑問
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/2-6hayameta.htm

『三国史記』によると、倭が侵攻して来る季節は、すべて春から夏にかけてである。
『日本書紀』の新羅出兵の月日『冬十月三日和珥(わに)〔対馬上県郡鰐浦〕の津より発した』という記述は疑わざるを得ない。

旧暦十月頃の朝鮮海峡は、台風に遭う可能性もあり、波高も高くなる。渡海して軍事行動をとるには適さない時期である。
記紀は共に、軍船は追い風を受けて一気に侵攻したとする。北西の風が吹く、冬場の侵攻ではない。



493 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/14(土) 21:28:34
普通は春以降なのだろうが、のっぴらきならない事情があったのでしょう。
又はこの辺に1年の狂いがある この1年を使えば春の渡海も考えられる。

神功以降の編年は大変ねん。


494 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/14(土) 21:53:12
>神功の新羅侵攻は363年
点で数字を合わせても 線にならない 線で読めて初めて史となる
それが太陰暦で読めればよいが。


495 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/03/14(土) 22:52:48
日本書紀の太陰暦をどう読むと、季節が正反対になるんでしょう?
イスラム暦など純粋太陰暦なら、十数年で反対になりますが・・・

496 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/15(日) 01:15:01
書紀の太陰暦を誤魔化すには
朔を認めない 朔が3コで1月30日とする
春秋暦の欠片も無いが朔12〜13コで2年とする←こんな読み方の出来るところは
書紀には無い。無くても此を認めないと「倍暦」に成らない。

書紀の干支を全て後付けとする、季節を全て書き換える。

まあどの様に考えても、自分では書き換えられないので暦に直せない
これを書紀編纂者は実行したと主張する←「主張するなら自分でやってみい」と言うと自分には出来ないと言う。
出来た物が正しければ「伸長された暦」と「圧縮された暦」は一定の思考の元で行き来が自由でなければ成らない。
倍暦は片道切符に付き検証不可能。
サガミさんも年数を読むところまでしか出来ないと認めています。

私の方法は圧縮と伸長どちらにも移行出来ます
古墳時代は圧縮出来ませんでしたので重ねました。
重ねるにも書紀の記事を重視 強引に重ねただけでは無い。
4世紀を飛びましたよ まだ思考途中ですが異論があれば拝聴します。


497 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/16(月) 19:33:12
古墳時代は2朝並立? 
274年神功元年 皇861辛巳
301年 辛酉 神功47年 皇907丁卯 この年新羅、百済が朝貢←新羅300年条 この時点で19年加増されている。
312年壬申 神功39年 皇899己未 太歳←加増されていない 皇918戊寅←19年加増されていれば
312年仁徳元年 (313年癸酉)仁徳は西暦の干支を使用
312年若建王命/小碓子 戊寅年11月6日55 没←皇暦918年で無いと説明できない。墓標は皇暦
神功時代は実質50年
324年甲申 応神元年 皇930庚寅
351年辛亥 皇957丁巳 応神28年=仁徳40年
この年仁徳が応神の皇女「女鳥皇女」を娶ろうとするが果たせず殺す、
女鳥命/応神皇子 辛亥年10月7日36←年齢は20加増。墓標は西暦干支

応神治世41年在りますが、少しおかしい 宇遅能和紀郎子命 応神28年高句麗の使者に十分対応しているのに
40年に太子と成る時応神に幼いと表現されている これが同一人物なら応神の没年は応神20年頃になる。
「女鳥皇女」が仁徳40年16才でも可笑しくない。
消されたり書き換えられた大王は誰か?。


498 :縦目仮面:2009/03/17(火) 21:55:16
5世紀以前の日本に数学的・天文学的に算出された暦があったとは思えない。根拠としては、

・欽明14年(553?)に百済から暦博士を勧請していること。実際に律令として暦博士の制度
 が整ったのは8世紀。・・・それだけ日本人が暦法を習得するのに時間がかかったとみている。

・考古学的には、日本最古の暦として出土しているのは、持統3年(689)3月4月の木簡。
 もちろん中国の元嘉暦。それ以前の・・・例えば結びひも や粘土板に刻み目を入れたような
 素朴なものさえ出土はない。

・和算の歴史から・・・万葉集には九九を扱った歌があり、平安時代には算木による計算法が
 発達している。また大規模古墳造営にはある程度の幾何学は必要だろうが、それでも中国
 の数学史とは比べものにならない。古代日本人に複雑な天文計算ができたか?

・暦とは民衆支配のための一種の装置であり、大衆に伝わらなければ意味がないこと。例えば
 日食を予言するとかw。マヤ文明の神官が、当時世界最高水準の暦を作ったことと、毎日太陽
 への生け贄を捧げるほど強大な権力を持ち得たことは無関係ではないとみるのは人類学では
 定説。


ただし、天文観測によって月齢で日を記録していた可能性はあると思う。重大事件が起きた月日
を稗田阿礼の元祖のような語り部に記憶させる必要はあっただろうと思うからだ。また、干支につ
いてはけっこう古くから入ってきている可能性もあると思う。

499 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/18(水) 19:23:54
太陰暦とは、
19年7閏6940日の積み重ねで出来ている。
19年*4回で月齢が1日ほど多くなるので1日減らす。
この積み重ねで1年365.25日平均の暦が出来る。

農業の出来る脳みそが有れば、この位の運用は出来る。
閏月が何処に入ろうと関係無い。

私の編年はこの「19年」を単位として 書紀から差し引いている=太陰暦で読める。
その時書紀と外国記事などと前記の様に整合性がとれる。

梁書の新羅条に 「文字無し、木刻をもって通信に使う」と書かれている。
古代文字の存在を肯定している。


500 :縦目仮面:2009/03/18(水) 20:21:49
360日程度で1年が一巡りするのは、四季のある日本に暮らしていれば誰でもわかるだろう。
むしろ農民なら太陽の動きで春分・秋分はだいたい把握できていたのではないかな。「太陽が
あの山の中央から昇れば何とか」とか。こちらのほうが種まき、刈り入れと直接かかわるもの
であるし。

閏月が土地土地で違うとしたら、上記したように暦の意味はないと思う。厳密な太陰暦が
全国的に統一して用いられていたとは思わない。

「木刻をもって通信に使う」は知っているが、日本でも「のろし」跡は弥生遺跡からいくらも
見つかっている。煙2本で「敵が来た」は文字とはいえない。(当たり前かw)これにあるのも例えば○×式
の通信記号ではないのかな。




501 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/18(水) 21:28:12
古代天皇家のシノギは 種貸し屋 種貸しと共に作付け日を教える。
その為に 暦は「秘密」増しをして暦の復元を困難にする。
天皇家のシノギが変化するのは、景行時代の屯倉経営。
屯倉経営への舵取り失敗が九州←倭国大乱
大和は九州より遅れていた分間に合った。
文字は暦を読むのに絶対必要、文字も「秘密」。
オシテ文字の様な物が無いと新羅との商売が出来ない。
○×式? 何を表現できる。


502 :縦目仮面:2009/03/18(水) 22:06:42
種貸しねえ・・・。それが景行期として、列島のどの範囲まで行っていたのかな。稲だと
すれば、勝手に種籾をまかせないようにするには収穫を全部取り上げるか、軍事力でおど
しつけるかのどちらかだろうが、そんな権力が景行期にあったものかな。

○×は例えだが、使者を送れるなら伝言させたほうが早いだろう。秘密の神代文字とか
いわれるものもいくつかあるが眉唾だな。


503 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/18(水) 22:19:20
使者の伝言では、使者の方便が考えられる。

日本武尊は、常陸辺りまで遠征した。
東北で日本武尊が尊敬されるのは、とりあえず種を頒布したから
東北の農業には、暦は必要不可欠。この暦を香取、鹿島が頒布
関東なら寒川、氷川。
前方後円墳の広がりは、景行抜きに考えられない。



504 :縦目仮面:2009/03/18(水) 23:08:42
>前方後円墳の広がりは、景行抜きに考えられない。
景行帝には九州巡幸の逸話があるが、最近宮崎で同時期の古墳が発見されており、年代
感覚はさすが。

四道将軍と日本武尊の時代に前方後円墳と大和の文化が広がったのもまた確かだが、
種の頒布というのは??それまで東北では稲作はなかったということかな?

香取鹿島は御田植祭、新嘗祭が大行事なので(近いのでよくわかる)武神が農耕神を
兼ねているのも理解できるが、当時の東北の範囲は後代の胆沢城のずっと南だろうか
ら、地域にもよるが奈良と比べてもそんなに気温が低いともいえない。種籾の管理が
必要とも思えない。


505 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/19(木) 18:56:13
193年崇神6年凶作により農民の離散=新羅本記193年条参照
198年崇神10年 四道将軍=翌年の異族多帰=巻向から各地の土器=2世紀末
199年崇神11年 モモソ媛の箸墓=大和で最も古い古墳は200年頃。

>それまで東北では稲作はなかったということかな?
まだ其処までは研究してないが、日本武尊関東遠征(255年頃)稲作の北限は
常陸、多分陸稲だと思う、この時の種籾は素早く陸奥まで普及、ただし未だ種貸し屋の
にまで農事暦が(この地方の)出来ていないので緩い屯倉経営から始まります。


506 :縦目仮面:2009/03/20(金) 14:35:36
前に聞いた瓜生島や早鞆の瀬戸も含めて、唐松山さんの話は面白いです。

507 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/20(金) 15:38:22
投馬国は クキ、トウタ(戸畑)の二つの港を持つ洞海湾から東側
ヒョッとすると戸畑から南へ歩いて瀬戸内側にも港を持っていたのかも知れない。

数字がピタリと合うと書紀などの記事をそのまま歴史と出来る、
その作業を進めていますが、古墳時代は空白や治世年数の引き延ばしで出来ている
これ以上の分析は、在りもしない?資料を集めて再分析しないと前に進まない。
ここからが本当の正念場なのだが、言った様に資料が無い。


508 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/20(金) 16:07:51
>>497 で古墳時代を分析したように 長いから只圧縮した では歴史は読めない
私が 古墳時代の分析に苦慮した事が如実に出ている 只圧縮しただけでは、雌鳥皇女の話は
歴史に載せられない、そして「雄略は応神の5世孫」の説明も出来る。


509 :縦目仮面:2009/03/20(金) 16:46:32
大王墓とされる古墳と紀記の系図の比定を試みても、明らかに大王墓の数が多い
ようです。現地を歩いて結構マジにやったのですが。
確かにこの問題を解く資料は存在せず、これから出る可能性も薄いと思われます。

510 :縦目仮面:2009/03/21(土) 08:45:39
あるいは各氏族の系図・・・籠神社の海部氏系図のようなもので紀記と違った記述がある
のでしょうかね。

511 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/21(土) 10:47:46
「雄略は応神の5世孫」
此を認めるには、60年の空白(雄略の系図上)を埋めないと繋がらない。

西暦 .雲干支. 皇歴、干支. 名前………………….没年……………………..誕生
280癸酉,皇867 丁亥 忍熊王/仲哀子,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,丁亥年7月15日28……..252生
285戊寅,皇872 壬辰 五百木入日子命/景行子,,,,,,,,戊寅年6月3日46 ……..239生
312乙巳,,918  戊寅 若建王命/小碓子,,,,,,,,,,,,,,,,,,,戊寅年11月6日55 ….257生
362乙未,皇968 戊辰 大山守命/応神皇子,,,,,,,,,,,,,,,,,,乙未年6月7日50 …..312生
363丙申,皇969 己巳 宇遅能和紀郎子命/応神子,,,,,,,,丙申年6月9日30 .….333生
351  (辛亥)   速総別王命/応神皇子,,,,,,,,,,,,,,,,辛亥年10月7日36(16) …336生
391..甲子...1051..........若沼毛二股王命/応神子.......甲子年3月5日 53.………339
399..壬申...1059.........意富富杼王命/若沼毛王子.......壬申年2月15日 42……..357
432..乙巳...1092..........宇斐王命/意富富杼王子........乙己年6月8日 54………378
485..戊戌...1145..........彦主人王命/宇斐王子........戊戌年2月8日 30…………454
512..乙丑...1172..........振比賣命/彦主妃、継体母........乙丑年5月4日 52……..461
又は
451甲子 皇1111 辛卯 若沼毛二股王命/応神子 甲子年3月5日53
459壬申 皇1119 己亥 意富富杼王命/若沼毛王子 壬申年2月15日42
485戊戌 皇1145 乙丑 彦主人王命/宇斐王子 戊戌年2月8日30
492乙巳 皇1152 壬申 宇斐王命/意富富杼王子 乙己年6月8日54
512乙丑 皇1172 壬辰 振比賣命/彦主妃、継体母 乙丑年5月4日52
531甲申 皇1191 辛亥 袁本杼命/継体天皇26 辛亥年2月7日82
何処かで丁度60年の不足が生じる。

各氏族の系図も 古墳時代の空白を埋められない気がする。


512 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/21(土) 10:58:15
応神、仁徳を5世紀に持って来れるか?と言うとそうもいかない
巨大古墳とは、不安定な時代の自己顕示の象徴でもある
高麗に負けた経済力では、大仙陵古墳の築造は不可能では無いかと考えている。


513 :よこ☆やり:2009/03/21(土) 11:46:03
そんな事ないでしょう
朝鮮半島を撤退した秀吉軍も
大坂城、桃山城、広隆寺等を建造しているし


514 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/21(土) 12:33:41
朝鮮半島を撤退した秀吉はまだ倉一杯の黄金を貯め込んでいた。
経済力とは築陵の人足とその食料に代表される。
人的資源は、半島より捕虜の略奪によって補われる。
敗戦により人足の補充が減少=古墳が小さくなる。
人足は、各地方の国々の分担で築陵されたが築陵後各地方に分散各地方で築陵。


515 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 12:53:22
ただ、最も初歩的な置閏法を使う太陽太陰暦より、
ざっくりとした太陽暦のほうが、よほど簡単に作成できるという事情があるからね。
要するに、二至二分の大体の観測ができればよい。
もっと言えば、周囲の山々などから、春分と秋分の日の出の位置さえ分かれば、
それで十分なのだ。神殿などの土木工事で「レイライン」を作ればなお正確になる。
そして、農耕のためには、太陽太陰暦などは実は不要で、
二至二分からの経過日数さえ数日以内の誤差で分かれば、
そのほうが、「精密な中国暦」よりよほど重宝する。
つまり、
「中国暦(旧暦)3月15日前後に籾撒きする」では、
気候が1ヶ月前後にぶれてしまい、実は全く役に立たない代物になる。
だが、「春分から30日後に籾撒きする」とすれば、中国暦などよりよほど正確な季節に
籾撒きを行うことが出来る。数日の誤差があってもいい。

516 :縦目仮面:2009/03/21(土) 13:06:35
>>515
俺もそう思うし、「種貸し」は現実的ではないが、それはそれとして唐松山さんの話は面白い。

517 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/21(土) 13:19:38
文字を持たない民にとって1年を365.25日を知るすべが無い。
記録でなく記憶だけでは割り出せない数字
それにひき換え月齢はまだ数えやすい。
月齢で日にちを数えるのがまず前にある
月齢で日にちを数えて19年で元に戻るまで記憶してこれを数回繰り返す
寿命38才位の弥生人に記憶せよは非常に酷な要求。
19年数えただけでは366日の暦少しずつ狂いが貯まる 以前の記憶が無ければ
修正できない狂っていることだけは理解できるが。
これとて太陰暦の最初ですから 文字による記録から割り出された物。
月の満ち欠けと季節さえ分かれば、漁業に支障は無い。ただ農業はそうは行かない。


518 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/21(土) 13:30:54
ホ28230 モノヌシが オキナうゑんや キミうゆる アマノマサカキ いかにせん 
ワレはノトコト のんすのみ またとふナンヂ タをすつや ほろしていわく チはすてず

上記の様に暦無しの営農は旨くいかない。


519 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 13:49:37
>>517
順番が逆だろうと思う。いきなり365日を全部数える必要はどこにもないんだ。

二至二分が分かれば、そこから一定日数を数えれば農耕は出来る。
現実の平年差は、山の「雪型」や、
芽吹き・開花・渡り鳥などの生物季節で補正することになる。
ここには、太陽太陰暦の出番はどこにもない。
そして、これだけを基に、おそらく最も原始的な祭りが行われただろう。
それが、「祈年祭」と「新嘗祭」だろう。
祈年祭≒春分祭、新嘗祭≒冬至祭と考えて良い。
後者については、歴史にハッキリとした記録がある。
(中国暦公式導入初年の冬至日が、中国暦11月の中の卯だったのだ)
鹿島神宮の祭頭祭なども、祈年祭≒春分祭と同系だろうね。
祈年祭で始まり、新嘗祭で終わる「1年」。ざっくり3/4年になる。
残りは冬ごもりで「なんとなく空白」になる。
まだ、太陽太陰暦の発想はでてこない。
「空白のある暦」なんて気持ち悪いかもしれないが、
古代ローマの最も古い暦が、まさにこの形だった。


520 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 14:03:55
おそらく記紀の最古の多数派「正月即位」は、
新嘗祭(大嘗祭)における即位=冬至即位だったのだろうと思う。
それが中国暦導入とともに、中国暦の寅月正月に読み変えされて変形してしまった。
春分即位という例は、ちょっと見当たらない。これが自然な形ではあるが。

農耕民にとっての太陰暦発想が出てくるのはこの後、
「月month」で区切るという発想がでてきてから。
それでも最初は、春分前後の新月からスタートし、漠然と朔望を9回か10回数えて
冬至の月で終わらせておけばよい。
その後、社会の発展で冬場も活動・記録する必要が生じて「冬ごもり」が不合理となり、
暦を全部繋げると「朔望月の区切り」と「二至二分」が矛盾するところから、
ようやく「閏月」の問題が生じることとなる。
1年が365日+何時間あるかなんて話は、そのさらにずっと先になるのだ。

日本の場合、自律的発展の途中で中国暦が「押し寄せてきた」のだと思われる。
日本人の暦法苦手、占星術の致命的不発展は、ここに起因している。

521 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/21(土) 15:22:11
ホ33139 ウスエフカ オトミカシマと タタネコと タマカエシノリ まつらしむ 
卯月24日 大臣鹿島とタタネコと…
鹿島は日本武尊に同行して茨城辺りに神社を造った人間。
天照大神の弟に何故月読命がいるか考える程でもない。


522 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 16:36:11
>>499
日本史限定ならそんなロマンも可能だろうが、世界史的に見ればほぼあり得ないw
19年7閏という基本周期を、人類が初めて知ったのは、
古代の全ユーラシア世界で1万年来最も先進的な文明を持っていた、
オリエント世界においてさえ、紀元前7世紀の新バビロニア王国時代のこと。
(これをバビロン捕囚中のユダヤ人が覚えて、今のユダヤ暦となる)
古代オリエント人が「農耕を出来る頭」を獲得したのは、
1万年ちかく昔のこと。全然連動しない。

弥生時代の日本人が、独自に置閏周期を知った可能性は確実にゼロ。
中国人は前漢武帝の改暦までには確実に知っていたので、
中国から伝わった可能性はあるが、
あくまで暦は生活のためのツールであることを考えれば、
それ以前に知るべきことのほうがよほど多い。
とにかく、当たり前のことだが、どんなに精密な中国式太陽太陰暦を知っても、
それだけでは農耕は出来ないという、自然科学上の厳然たる事実を受け入れる必要がある。
中国暦受容後であっても、必ず二十四節気を併用しないと、まったく農耕は出来ない。
逆に、二十四節気さえ知っていれば、太陰暦も置閏法も知らずとも、農耕はできる。
二十四節気である必要さえない。二至二分でなんとかなるのだ。

523 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/22(日) 11:56:58
暦の話は 書紀を太陰暦に変換(正常な長さ)出来無かった輩の詭弁でもある。
書紀が太陰暦に変換できた今 暦の有無は 出来た太陰暦が正しいか?そうでないか?
を検証する段階、正しくなければ、何故か?やはり暦は無かったのか!!
この段階です。


524 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/22(日) 12:02:07
歴史の定点まとめ
41年 神武元年 大和出土土器の変化
193年癸酉(丙午)皇569 己丑 崇神6年 民散る、新羅193年条
198年戊寅(辛亥)皇574 甲午 崇神11年 異族多帰、巻向の土器
238年戊午(辛卯)皇654 甲寅 垂仁90年 田道間守(都市牛利)魏国へ行く
273年癸巳(丙寅)皇860 庚辰 仲哀9年  日食
301年辛酉(甲午)皇907 丁卯 神功47年 百済、新羅が朝貢、新羅300年条
326年丙戌           七支刀
364年甲子(丁酉)皇970 庚午 仁徳53年 新羅を攻める、新羅364年条
398年戊戌          仁徳87年

312年壬申(乙巳)皇899 己未=皇918戊寅 太歳 若建王命/小碓子戊寅年11月6日55没
この年より応神、仁徳の2朝並立、神功58年=仁徳元年(313年癸酉)
351年辛亥(甲申)皇957 丁巳 応神28年=仁徳40年 速総別皇子、雌鳥皇女殺される
速総別王命/応神皇子 辛亥年10月7日36←20加増、16才

括弧内は出雲干支です。1年の狂いは放置して有ります。


525 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 00:14:50
蘇我一族を追放し 百済史から日本史をずらして 白村江敗戦を封殺し 日本人を国際音痴にさせて 日本支配をスタートさせた藤原4家…近代代表ふ〜みんさま

526 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/23(月) 19:31:20
 百済史は使い物に成らないので
七支刀を 326年東晉明帝太寧4年=神功52年(1年の狂いが有るが)に打ち込みました、
300年 新羅 倭国と国使を交換=神功47年 百済、新羅朝貢

19年1章の狂いが有りますがこれは七支刀を差し込み記事に合わせた為、差し込み記事は神功69年の圧縮を認めないが
倭国の記録は、ここで19年の「増し」があります。

これを認めると 百済は倭国の属国になってしまうので認めることは無いと思います。
書紀に書かれた肖古王≠百済本記の近肖古王 記事内容が明らかに違う。
書紀に書かれた肖古王の七支刀は、326年以外ありえない。


527 :サガミハラハラ:2009/03/26(木) 23:50:43
高城修三著の神武東征p196に、
高地性集落の研究からみちびかれた森岡秀人の論説に拠れば、神武東征は西暦130年頃に終息したことになる。
とある。
私の復元日本書紀紀年法によれば、神武の橿原即位年は131年であるから、森岡氏の130年説はずばりである。
どうやってみちびきだしたのであろうか。知ってる人おしえてください。

528 :縦目仮面:2009/03/27(金) 15:13:29
「東六甲の高地性集落」これかな。今は古本でしかないはず。ずいぶん前に読んだんで
内容は忘れたが、たしか高地性集落と銅鐸埋納状況から紀元1世紀第1四半期末の戦乱
を重視していたはず。もちろん森岡氏はまっとうな学者なので、神武などには言及してない。
高松塚古墳の発掘で有名な人。

529 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/03/27(金) 19:20:22
神武東征は 大和出土土器の変化から 1世紀中葉。
高地性集落は 崇神6年の離農者? 2世紀末、離れ過ぎか?
銅鐸埋納は崇神時代、大物主の国譲り以後 青谷上寺地遺跡以後。
青谷上寺地遺跡
http://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?menuid=69171


530 :日本@名無史さん:2009/05/05(火) 20:23:17
みんな日本人なのに日本書紀嫌い?あげときます。

531 :日本@名無史さん:2009/05/06(水) 07:25:23
いま巷に出回ってる日本書紀や古事記は恵美押勝のアホゥが内容を改竄してて
オリジナル原本とはかなり違ってるという記事を読んだんだが本当なんだろうか
ジトウのおばちゃん時代に完成した元々の初版には漢風シゴウの記述は無かったとかなんとか

532 :日本@名無史さん:2009/05/06(水) 11:01:58
漢風諡号は淡海三船が撰上したというのが定説だね。

533 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/06(水) 12:52:22
>神武東征は西暦130年頃に終息したことになる。
西暦130年頃大和から環濠集落が消える。
神武東征軍は、「環濠集落を造らなかった」と言いたいのか?
環濠集落は敵に対するだけでなく 害獣からの被害対策でもある。
神武東征により害獣も大和から逃げ出した。と言いたいのか?

神武征服王朝は、初め環濠集落に住み 世も安定し害獣も刈り尽くされ 
そして環濠を捨てた。
環濠を捨てた大和に不安定な時代がやって来るのは、神功皇后軍と大和残留組
の確執。



534 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/06(水) 13:14:27
誰かが良いことを云っていた
>大型古墳が次々と造られるのは、儲かる仕事で有ったから。
ちょっと考えると金ばかり喰うように見えるがそうでは無い。

巨大古訓築造とは、水路掘削や岡面の平坦化事業で彫られた土の集合体である。
つまり鉄器流入により余った人手を新たな大水田地帯構築に使う。
これにより米の増産となり、更に新しい水路や水田を造る。
つまり 大型古墳とは、開発時の残土の山の再利用ともとれる。
大型古墳ほど力の有った大王の墓の必要は、無い。


535 :日本@名無史さん:2009/05/06(水) 17:03:48
>>534

古墳の発生理由としても、大規模土木事業の残土の処分ってのが考えられますよね。

536 :縦目仮面:2009/05/06(水) 18:11:32
>>534
唐松山さんのレスで、初めてまともな意見を聞いた気がする。平地にある大古墳は周濠
を掘った土を盛り土とすることが多いが、水路開発や田地開墾で余った土を使ったという
のは十分あり得るだろう。また、周濠の水は当初から、後代のように用水として使われた
かもしれない。ただ、もちろん古墳の発生要因の最大のものは宗教的意義で、これを抜か
せば本末転倒になってしまう。

唐松山さんには、半島工作員?に対する防波堤として今後も頑張ってほしい。ww


537 :日本@名無史さん:2009/05/08(金) 17:28:56
半島工作員?こわいね。

538 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/09(土) 17:19:39
「残土の処分」は極端な見方では有るが、
5世紀初め高句麗に負けるが、巨大古墳を造り続けられた背景を考えると。
農地整備は、外せない。


539 :日本@名無史さん:2009/05/09(土) 18:09:12
推論でしかないな
残土の処分なのかどうかは地質学的に証明する必要あるんでないの?

540 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/05/09(土) 23:34:44
>地質学的に証明する必要あるんでないの?
どの様な方法が有りますか?

大古墳の脇の水路跡は何を意味するか?
その地方で一定量の大古墳が造られると、別の土地に移って大古墳が造られるのは、
農地開発の一応の終了とも考えられる。


541 :日本@名無史さん:2009/05/26(火) 18:33:54
日本書紀も古事記も恵美押勝のオッサンが改竄してるんじゃなかった?

542 :日本@名無史さん:2009/06/05(金) 09:21:49
古事記は多長人の時代の独自史料+日本紀(日本書紀ではない)
日本書紀はその現物の管理場所だった図書寮の長官だった
山部王(後に親王)は初代天皇の即位した年の干支を
自分が即位した年の干支に強制変更した

辛酉革命説はその作者が別の理由でその干支を利用しただけ

543 :サガミハラハラ:2009/06/07(日) 00:10:00
欠史八代に空年が存在した。

私はこの八代は、干支をしたから遡って機械的に入れていあるものであるから、
空年など存在しないものだと思いこんでいたが、本日、高城修三の神武東征をよんでいてとんでもないことをしった。
p228
ところが、第五代以降、陵墓の地は葛城になる。『日本書紀』は第四代と第五代の間に一年の空位期間を置いている。
何らかのかたちで皇位の変更があったのかもしれない。しかも第五代〜八代はいずれも漢風シ号に「孝」を冠している。
漢風シ号は八世紀後半には追贈されたものだが、その頃まで考昭・考安・孝霊・孝元天皇は同一皇統であると考えられていたのではなかろうか

*確かに調べてみると、イ徳天皇即位年は辛卯であり、34年在位であるから、没年は甲子の年になる。
となると、次の考昭は乙丑年即位であるはずであるが、紀では丙寅となっている。
詳しく見ると(34年秋九月亡くなり、翌年冬十月十三日にイ徳天皇は葬られた。元年春一月九日、皇太子は天皇に即位された。−−
秋七月都をワキ上に移した。これを池心宮という。この年、太歳丙寅。)とある。

そうなると紀元は2669年の中で、この空年はどのようになっているのであろうか?

544 :サガミハラハラ:2009/06/07(日) 11:48:05
干支については、北部九州はともかく、大和へは垂仁天皇の時代あたりにはいってきたものと考えている。
だから、八代の干支は記紀編纂時につけたものである。
欠史八代が創作であるならば、途中空年をつくることなどありえないことだろう。
秋九月没で、翌冬十月葬儀であるが、これは2倍年暦だとしたら4年となってしまう。
9月が秋で10月が冬では、7、8、9月が秋年で10,11,12、月が冬年となる。1,2,3、月が春年で4,5,6月が夏年となる。
1年4倍年となるのか。秋9月の次の翌年10月は、あくる月という連続になる。
在位34年目にはいり即死亡したとすれば、あくる10月に葬儀をし、続く1月に孝昭は即位したとなる。
34年が甲子であれば葬儀は乙丑となり即位年は丙寅となる。
しかしこれでは4倍年暦が存在したことになってしまう。
4倍年暦はなかったし(紀の編者が4倍にひきのばしたのはある)干支は垂仁の頃に大和にはいってきたものなのだから。
 太国さん唐松山さん、どう考えます?

545 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/06/07(日) 18:27:55
ホ31320  ソフヲシエ カエシネミコを ヨツギなる コトシソヤなり
ミソヨトシ ナガツキヤカに キミまかる ワカミヤカミに つかえんと モハヒトホまて

喪の期間は、丸1年 これは世継ぎのワカミヤの年齢が幼い為と考えて居ます。
暦の編纂権(改元の権利)は天皇にあります。天皇が若すぎるとこの権利を使えない。
依って安寧と懿徳は同じ暦を使用
安寧死亡後安寧の妃の一人が出産 懿徳の妃、子供として育てられる。その子が考昭
懿徳も早死、さすがに3人で一つの暦には出来ない。
考昭は新暦。
垂仁の子供ホムツワケも本当は、崇神の落とし子。安寧懿徳の時に準ずる。

倍暦なるものが存在したならば、各年を月で読めなければならない。これが真理です。
書紀は各年を「月」では読めない。 これは現実
書紀編纂者が書き換えたと唱えても、倍暦論者自身で元に読み変える事は出来ない。編纂者は書き換えて居ない。

結局 各天皇の終末の空白に何が起きたか説明できない。
通常何も起きなかったで説明出来てしまう。


546 :日本@名無史さん:2009/06/07(日) 22:18:15
>>543八代に空年が存在したからといってなにをうろたえているのかね。空年なら
神武とスイゼイの間にもあるよ。
ということは、サガミ氏はそんなことも知らずに復元が完成したっていきがっていたのかね。
まだまだ基本的な資料をよく読むという姿勢がたりないね。

547 :日本@名無史さん:2009/06/07(日) 22:50:27

恵美押勝のオッサンは悪者?それとも正義のみかた?




548 :日本@名無史さん:2009/06/08(月) 01:14:15
恵美押勝?恵比寿様のお父さんじゃなかった?

549 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/06/09(火) 18:27:09
恵美押勝のオッサンが生き返ったとき皆動揺してた。
この事実?からすると多分悪者、
そう大伴氏にとって天敵ではないか この時一番動揺したのが大伴氏らしい。


550 :縦目仮面:2009/06/11(木) 11:06:26
さすがのレス!!! 唐松山さんは古代史界の「弓削道鏡」のような存在だな。

551 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/07/11(土) 14:51:26
初代「神武天皇」の諡号は、後漢書倭伝の57年「漢倭奴国王」=イワレヒコと見なしたものだろう。
32年、倭奴国王と同様に光武帝から王号を受けた高句麗の「大武神王」を参考にしたと思われる。
二代「綏靖天皇」は、107年の倭国王「帥升」と、帥升らを迎えた摂政のケ太后「綏」に因んだ名だろう。
高句麗の太祖大王・宮の次の「次大王・遂成」も「二代天皇・綏靖」に似ている。
三代「安寧天皇」は、帥升らが会いたいと願った安帝(孝安皇帝)に因んだ名だろう。
四代「懿徳天皇」は、安帝の次に125年に即位・すぐ崩御した少帝「懿」に因んだ名だろう。
五代「孝昭天皇」と八代「孝元天皇」はともに前漢の孝昭皇帝・孝元皇帝で、よく分からない。
六代の「孝安天皇」は上記の孝安皇帝だが、安帝も後漢第六代であり、代数が合う。
七代「孝霊天皇」は後漢の孝霊皇帝、在位167〜189年。年代が近いのだろうか。

552 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/11(土) 20:00:05
安寧 治世12年間 4年6月 懿徳誕生
懿徳 治世4年間 ウチツミヤ、アメトヨツヒメ2月 考昭誕生
考昭 治世24年間 29年妃世襲足媛たつ 49年正月元旦 孝安誕生

この頃 懿徳は、即位3年で死亡 1年の「喪」を経て考昭即位、この様に考えている。
そのわけは、1年の喪、当時も七五三の5才が、男子の年齢 それまで即位を引き延ばした。
なお父の妃等が妊娠していた時、その妃等を自分の(義理の)妃としその子供も自分の子とする。
安寧→懿徳=子供考昭
開化→崇神=数名いる
崇神→垂仁=ホムツワケ
これらが先代から引き継いだ(義理の)我が子になると思われる。
ホムツワケに出雲の罰が降るのは、崇神が振根を殺したから。


553 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 21:02:51
2倍日説

一日で二日

景行天皇のヤマトタケルの歌 紀記
新治 筑波を 過ぎて 幾夜か 寝つる

御火焼老人が返答 記
日々並べて 夜には九の夜 日には十日を

一日 よる
二日 ひる
・・ ・・
九日 よる
十日 ひる

昼系列 アサ(朝=昼の始まり)→ヒル(昼)→ユフ(夕=昼の終わり)
夜系列 ユフベ(夕べ=夜の始まり)→ヨル(夜)→アシタ(朝=夜の終わり)

554 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 21:03:50
277 名前:娜々志娑无 ◆NcNEDmUA 投稿日:2001/09/28(金) 00:52 ID:6PMGyoVA
○日時を表わす語の語源について

 その前に、皆さんは一日がどこから始まるという風にお考えでしょうか。現
代に生きる我々は、もちろん私もそうですが、何となく朝をもって一日の始ま
りと考え、夕方をもって一日の終わりであると考えているのではないでしょう
か。実際の一日には夜の時間もあるわけですからこれはすこぶる感覚的なもの
ではありますが、実際問題として我々は昼間を主な活動時間としていますから、
このような昼間を中心とした見方はある意味合理的でもあるわけです。しかし
ながら、古代の日本人にはこれとは異なる見方があったのです。即ち、現代人
と同じように昼間を中心として一日を見る見方に加えて、夜を中心として一日
を捉える見方があったようなのです。前者をとりあえず昼系列、後者を夜系列
と名付けておきますが、それぞれの見方に従って一日の時間帯を区分すると、
以下のようになります。

  昼系列 アサ(朝=昼の始まり)→ヒル(昼)→ユフ(夕=昼の終わり)
  夜系列 ユフベ(夕べ=夜の始まり)→ヨル(夜)→アシタ(朝=夜の終わり)

 現代人の感覚とマッチする朝系列はさておき、夜系列の方は夜を中心とした
見方なので、夕方から一日が始まり、夜明けとともに一日が終わるという感覚
になります。ここで思い起こして欲しいのは、現代においてユウベという語が
昨晩、アシタという語が明日の意味で使われているという事実です。そう、夜
を中心にしてユウベのことを想起すれば、ユウベは昼系列でいうところの昨日
の話に、アシタは明日の朝の話になっちゃうわけですね。結局、この夜を中心
とする見方は中世を迎える頃には日本人の感覚から失われてしまいましたが、
アシタ、ユウベはその意味を変えつつも、かつての夜系列の感覚を今に伝えて
いるという次第です。

 ちなみに、アス(明日)という語は当初から「明日」という意味で使用され
ておりました。語形から見ても、本語は昼系列のアサが母音変化を経て意味分
化することによって生じた語でしょう。現在ではすっかりアシタに押されて文
語チックになってしまいましたが(^^;。

555 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 21:06:03
>>554の続き

 次に、キノフ(昨日)の語源ですが、一言で言えば不明です。辛うじてわか
っていることを言えば、キノフの語構成がキとフという名詞を連体格助詞ノで
結合させた語であると見られること、フがケフ(今日)のフと共通し、かつケ
サ(今朝)のような語も存在することから、フはヒ(日)の転ではないかと推
測されていること、キについては、昨日の夜を意味するキソという語にも含ま
れていることから、キにはおそらく過ぎ去った時間という意味があると見做さ
れる(それに対してケは現在を指す)こと、せいぜいこの程度です。

 まぁ個人的には、フはヒ(日)の転ではなく、草木が生え茂ったり、物を産
したりする場所を意味するフ(生)という語(芝生シバフ、丹生ニフ、埴生ハニフな
どのフ)との間に関連を求めたいという風には思っていますが。フ(生)の例
はいずれも空間を指し、時間との接点はありませんが、総じて空間を指す語と
時間を指す語はしばしば相通じますからね。例えば、日本語のマエとかサキ、
アト、アイダなどの語は空間・時間ともに使用可能な語です。フが時間・空間
を問わず、ある一定の限られた範囲を指す語であると考えることが可能なら、
ケフ、キノフのフとシバフ、ニフなどのフとを結び付けることもできるのでは
ないかなぁ、などと妄想に耽けってみたりして(^^;。おっと、桑原桑原。

 あ、そうそう。ついでに言えば、ヲトツヒ(一昨日)の語源は

   ヲト(遠)+ツ(連体格助詞)+ヒ(日)

です。ヲトは時間的に又は空間的に先の方を意味するヲチ(遠)という名詞の
交替形で、複合語にのみ使用される語形です。ヲトトシ(一昨年)にも含まれ
ていますね。オトツイという語は今でこそ標準的な語形とは見做されておらず、
共通語のオトトイに対してただの関西方言扱いを受けていますが、オトトイは
本来は東日本における方言形なのであって、オトツイこそが上代より受け継が
れた正統な語形なのです。

556 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 21:06:54
280 名前:娜々志娑无 ◆NcNEDmUA 投稿日:2001/09/28(金) 04:30 ID:eIQL9NJA
 >>278で、間違いがないように時間をかけたなどと大言壮語を吐きながら、家
に帰って見直して大きな間違いをしたことに気が付いてしまいました。誠に申し
訳ありませんが、訂正させて下さい(恥)。

>>277
> ちなみに、アス(明日)という語は当初から「明日」という意味で使用され
>ておりました。語形から見ても、本語は昼系列のアサが母音変化を経て意味分
>化することによって生じた語でしょう。

 a接尾形のアサ(朝)よりも、u接尾形のアス(明日)の方が明らかに古いは
ずなのに、何てことを(^^;。>>278を書いておりながら、私は何という大惚け野郎
でせうか。アイゴー!

 日時を表わす一連の語彙の中でu接尾形を取るのは、アス(明日)、ケフ(今日)、
キノフ(昨日)、ヒル(昼)、ヨル(夜)、ユフ(夕)の6語。これらの語彙の
うち、ヒル(昼)とヨル(夜)は昼系列と夜系列を分かつ最も重要な語彙ですし、
ユフ(夕)は上代には昼系列ですが、夜系列のユフの中にユフという語が含まれ
ることからも、ユフ(夕)の方が古い語であることは言うまでもないでしょう。
また、アス(明日)・ケフ(今日)・キノフ(昨日)が昼系列・夜系列とは無関
係に日時を表わした語であることも明らかです。結局、アス(明日)という語は、
語源的にはアサ(朝)やアシタ(朝・明朝)と繋がりつつも、最早morning
の意からは解放されているわけで、morningの意味を持っているアサ(朝)・
アシタ(朝・明朝)よりも成立の古い語であると考えるのが自然でありました。
更に言えば、アス(明日)は夜系列、即ちアシタ系の古語である可能性が高いと
思われます。

557 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/11(土) 22:10:04
フ=ヒは正解です。フは、関東訛り。
藤の花は、焼き畑の”ひ地”に生え咲く。
「フ=ヒ」を調べるには、伊豆の神様を調べると出てくる。


558 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/11(土) 22:34:25
>>278 で皇暦から外れる 干支は、西暦93年丙寅のラインで並べる。



559 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/07/12(日) 11:12:35
>>557
富士山は「ヒジ山」火の山ということでしょうか。
ホツマでは「ハラミ山」だったかと・・・

高千穂=高祖山(福岡)説あり。
神武=倭奴国王もこじつけとは言い切れないかもしれない。

560 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/07/12(日) 11:49:57
神武=倭奴国王ならば、紀元5年に海を渡って摂政王莽に国珍を奉じた東夷の王はホヲリノミコトか。

561 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 15:28:23
?

562 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/12(日) 19:54:10
伊志夫神社[いしふ]「大山祇之神」石火明神と呼ばれ、社地の北の字神田に雄石、雌石と呼ぶ大石がある。静岡県賀茂郡松崎町石部字坂下

伊志夫=石火、ふ=ひ この他にもある。
富士山は、ホ32096      ハラミヤマ ひとふるさけよ
ホ32097      フヂツルの ナをもユカリの
ホ32098      このヤマよこれ
ホ32099      これよりぞ ナもフジノヤマ



563 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/12(日) 20:08:18
# 火牟須比(ほむすび):⇒迦具土神

カグとは、「果草」であり、穀物である。
迦具土とは、焼き畑である。 香具山も焼き畑である。
当時の農業を水田中心で考えてはならない、しかし焼き畑は、遺跡として残らない。


564 :愛知県民:2009/07/12(日) 21:12:44
かぐや姫は?

565 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/13(月) 22:38:07
唐松山最大の欠点 美人を見ると、前後が見えません。


566 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 22:46:43
「なよ竹のかぐや姫」でした「かぐや」は燦然とかがやくというほどの意味でしょう。

567 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/15(水) 20:34:41
藤木田 (塵袋 第三:參考)

昔、尾張ノ國ニ春部(かすがべ)ノ郡ニ國造(くにのみやつこ)、川瀬連ト云ケル物、田ヲ作リタリケルニ一夜ノ間ニ藤(はぎ)オヒタリケリ。
アヤシミオソレテ、切棄ルコトモナカリケルニ、其ノ藤、大ニナリニケリ。其ノ故ニ此ノ田ヲバハギタト云ト云ヘルトヤ。
此ノ事ヲ菅C公卿ノ尾州記ニ云ヘルニハ、其ノ藤漸大ニシテ樹ノ如シ、遂ニ藤木俗ニ波木ト云田號スト云ヘリ。

(今井似閑採択)

伊勢で「藤木(萩)」が在るのは、日本武尊が連れてきた関東の蝦夷に依るものではないか
そして「田」と言いながら、この木が生えるのは、焼き畑の2次植生による。


568 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/15(水) 21:40:17
年齢予想
ミ00020  マキムキの ヒシロのヰソミ  トシツミヱ ホツミハツヒに
ミカサトミ イセノカンオミ  オヲカシマ フオヨソナトシ  さゝぐハナオシ

たたねこより長生きした?大鹿島の本当の年齢予想
景行53年に247才
景行53+垂仁99+崇神68+開化60=280
280−247=33 開化33年が西暦何年に当たるか判らないので、
大鹿島誕生 183年開化元年として260年景行60年まで生きたとすると
大鹿島 享年77才
当時でもあり得る年齢と思われる。


569 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/07/18(土) 14:58:56
>>551 補足
これは漢風諡号考案者(淡海三船?)の考えで、倭奴国王=神武、帥升=綏靖としたのだろう。
実際には倭奴国王=ニニギ、帥升=スソリ(スセリ)=海幸彦であり
スソリの弟がヒコホホデミ=山幸彦=神武ではないか。
唐松山氏は二人の肖古王・仇首王によく言及されるが、二人のヒコホホデミも怪しい。

570 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/18(土) 19:16:44
そろそろ神代に入りますか。


571 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/07/18(土) 20:03:09
>>570
神代は年代が無いので、このスレの対象外?
いや、「一百七十九萬二千四百七十餘歳」があった?!


572 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/18(土) 20:56:28
モモ ヨロを振るも知る。たたねこの言葉です。

今花火大会から帰ってきた、普通年ならまだ梅雨空であろうが、今年は出来た。
そこそこの花火大会では、あるが岡崎の花火とは、日付が違う、これが「伝統のNASA」なのだ。

伝統と云えば、我が郷土は、縄文より歴史が続いていると思うようになった。



573 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/24(金) 17:02:45
書紀の数字を太陰暦のまま圧縮すると、本当の治世年数となるか?

開化天皇 60-(19*3)=3年
崇神天皇 68-(19*2)=30年
垂仁天皇 99-(19*4)=23年
景行天皇 60-(19*2)=22年
成務天皇 61-(19*3)= 4年
仲哀天皇 9-(19*0)= 9年

これに「歴史の定点」を合わせる、定点として
崇神5,6年の記事を新羅192,193年と見て合わせる、崇神5年迄は記事で埋まっているので
この間に数字の伸長は無い物とする。(記事の無い年は、伸長された可能性がある。)

開化天皇 185年〜187年
崇神天皇 188年〜217年 崇神5年=新羅192年。
垂仁天皇 218年〜240年
景行天皇 241年〜262年 田道間守帰朝。
成務天皇 263年〜266年
仲哀天皇 267年〜275年
神功皇后前紀 273年日蝕 この数字は動かせない。

1, 2年の狂いは、在るだろうがこれ以上 記事と数字がマッチする読み方は存在するか?



574 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/07/25(土) 14:12:56
22日の深い部分日食は、運良く薄曇りで肉眼で見ることができました。
(目に悪いかも? 後遺症が心配だ)
皆既は皆既帯のみ数分間、部分日食も3時間弱で、「晝暗如夜。已經多日。」は日食ではありません。

575 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/25(土) 15:21:36
神功初年の記事は日食にあらず。唐松山のゴリ押しは虚飾のため。
合っていることを期待して日食にゴリ押ししているが、ホツマ病の
景行元年を景初3年が合えば他の編年が間違っててもキズが軽いと
して間違ってても構わないという未必の故意で、日食に無理押しして
編年が出来ているように見せ飾っているわけで、ホツマ狂を
ばら撒くのがまた目的でもある。

この前の歴史読本で、原田氏がホツマ病カルト患者が景行に盲象固執
してるのを嘆かわしい旨酷評していたが、彼も景行をえらく絶対視
してこだわるホツマカルト病の重症者なのである。

576 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/26(日) 14:46:39
新聞に 「暗くなると共にセミが泣き止んだ」と書かれていた。
セミにとっては 日食の闇=夜 であり、日食の終わり=朝 になる。それが
「晝暗如夜。已經多日。」なんですよ。これだけでは説明不足の恐れがあるから

則日暉炳。日夜有別。
すなわち、日のカゲがきらめいた。日を夜が別けた。
日々を夜が別けた、では無い。これでは記事にならない。

こちらを無視している。


577 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/26(日) 14:59:11
太国さんよ 貴方の「倍年」は学会レベルの思考らしいが、
ならば 日本書紀をその数字で書き換えてくれ。
是が出来て初めて議論のテーブルに載せられるんだよ
いつまで経っても、これが出来ない以上、議論の場に数字だけ掲載しても屁の突っ張りにも成らない。


578 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/07/26(日) 15:03:17
>>576
古代人はセミだったのですか?!

後半の記事は、明るくなった日のことを書いています。
一日だけの出来事とはいえません。

579 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/26(日) 15:11:49
すり抜けはマズ外れる。まっとうな読み、解釈が真に近い。
とにかく日食が数日は続かない。この厳然たる事実をスッポかしては
ドジの渦中としか言えない。w

580 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/27(月) 16:20:12
>>578

「晝暗如夜。已經多日。」を数日の事と読む現代人も セミの思考能力と同程度
何もセミに拘るわけでは無い。鳥もそうだ。
朝、ねぐらを立って餌場に向かった鳥は、日食の暗さでねぐらに帰る、途中で明るくなるのを待つ
事は無い、日食の終わりと共に又餌場に向かう。
鳥にとってもこの日は、2日間だったかも知れない。

歴史の定点は、一つだけ潰してもダメなんだ、3カ所同時に潰せる対案を出して戴きたい。

太国3倍年は、西暦に直せた。しかし
日本書紀の記事をその数字に直せない←本人の見解だから。
つまり 日本書紀は、太国3倍年を「否定する」。

太国さんの書き込みを見ているとそれがよく解る。
@数字を書き込むときは、数字のみ
A出来事を書くときは、自分の数字が入らない。


581 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/27(月) 18:50:14
セミなんか神功初年と関係はない。セミがどう思ってるかなんぞ、
そんなことはオマエだって知るよしもあるまいが?ww

ツクツク法師とかがどう日食が数日間も続くことの意味になるのか?
オマエは精神科へ行ってオマエの脳内を診てもらって来い。ひどい
重症のようだぞ? それともヒグラシだと数日間の意味となると
でも言うのか?ww カナカナカナ・・・・か〜??ppp www

582 :愛知県民:2009/07/27(月) 19:40:19
蜂や蟻は頭の良い昆虫です。蝉だって分かりませんよ?

583 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/27(月) 20:01:36
そのうち暗い所が好きなゴキブリが数日間日食が続いたサインを
出してたとでも言い出すのか〜?bbb www

584 :唐松山:2009/07/29(水) 17:57:13
まだ歴史と云うものがわかっていない。
歴史とは、現在の4次元の世界を過去に遡ったものである。
簡単に言うと、卑弥呼の時代でも、4次元の世界が復元されなければならないのだ。
私の思う4次元とは、
@西暦で読めること。
Aそこに書記の記事を当てはめられること。
Bさらに大陸の記事や天体運行、考古学の数字を重ねることが出来る事。
Cこれらが整合性をもって容認出来ること。
ここまでしなくては、ならないのだ。

太国3倍年の真実
倍率の違う各天皇紀を繋いで、数字(西暦)をぶらさげたもの。
分り易く云うと、伸びの違うゴムひもを天皇の数だけ繋ぎ、つなぎ目を天皇の代替りとしたもの。
1本のゴムを引張ってつなぎ目に数字をぶら下げたが、書記の記事もぶら下げられない。
まだ2次元の世界で足踏、
だから、数字のみを書込むか、数字のない見解を述べるか、この2通りのみ。
本来有るべき姿の4次元の世界を語れる数字に成っていない。
4次元の数字を否定したければ、4次元の世界を描いてくれ。



585 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/29(水) 18:45:58
君のは蝉の声ご機嫌伺い編年だろ?ppp www

586 :唐松山:2009/07/29(水) 20:49:56
太国3倍年がどういう物か分ったろうから、押売りは止めることだな。


587 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/29(水) 22:42:23
ハハッ!
イワシの頭も信仰からか〜?ww
ホツマ狂はセミの頭か〜?bb ww

588 :唐松山:2009/07/30(木) 17:53:10
太国3倍年

年表の上に、例えば、259年崇神崩御とか 天皇を中心に数字を決定した物。
この年表には、書記の記事を被すことがまだ出来ていない、日本書紀を正しく圧縮した数字なら
日本書紀の記事を被せられなくてはならない。
これが出来ない理由は、日々の干支を「後付」として無視したためか
又は、273年の日食等貴重な「合せ目」を「間違い」で片づけたため。

日本書紀が、3次元の世界(時空の狂いから4次元には成らない)なら
太国3倍年は、2次元の世界を抜出していない。

>イワシの頭も信仰からか〜
古神道が西暦を使うより 信頼出来る。

>セミの頭か〜?bb ww
ついに太国氏の頭の中でセミが鳴出したか。


589 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/30(木) 18:23:54
オマエの主張を、とぼけてこちらの主張に切り替えるとは、オマエも
なかなかのワルだな。 pp

空松山空蝉編年というより、増し蝉ご託宣編年ではオマエの頭が
パンクしないか〜?ww

590 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/30(木) 20:12:56
ご託宣編年は太国御用達。
数字が合いさえすれば、「何でもよい。」でしょ。

591 :縦目仮面:2009/07/30(木) 20:21:11
お二方、こんなとこでセミについての議論ですか。俺は倍歴は信じませんが、崇神没年は
太国さんに近いです。頑張ってください。

592 :日本@名無史さん:2009/07/30(木) 20:32:44
tv tokyo osaka

593 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/30(木) 20:51:44
電光説火の早業で 〜 今日も走らす 王と倍
唐松山に燦然と 戦い挑んで去って行く 〜 ♪ ww

594 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2009/07/30(木) 23:47:33
>>579
「蝕の日」って知らないのかよ
朔前後の数日間は蝕の日だっての

595 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/31(金) 10:42:48
そっちのことを言ってるんでないの。
皆既日食とそれに準じる日食の論戦だ。

オマエの言うんだったら毎年四六時中的にそんな朔前後の触は起きて
いて、別に特別扱いで神功元年に書くまでもないことだろうが。w

596 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/07/31(金) 22:38:59
>>591
歴史とは、4次元の世界を過去に遡ったもので有る。

崇神没年を、250〜260年で考えるなら、それを証明する外国書籍がほしい。
例えば、新羅192,193年は、崇神5,6年に当たる。

この様な、同一と考えられる、点を沢山集め、その間の数字を「暦法」で説明する。

私の話は、これらを全てクリアーしている。
なにしろ 誰でも考えられる「数式」であり、太陰暦で読める、=書紀の書き換えが最小限に抑えられている。

この編年は、私のオモチャですから、オモチャの本質
誰でも判る。本物より、より本物らしい話に纏められる。
そして紀記、旧事紀、ホツマはおろか墓標まで肯定する、これは、話を作り込む為に、情報は多いほど良い。
話をより深く作り込む、又は話を作り替えるにも情報は多い方が良い。

出来るか?


597 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/07/31(金) 23:16:55
唐松山のはセミご機嫌伺い暦編年論!ww

598 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/01(土) 18:19:51
皆既日食〜その時、蝉は歌わない〜|ムッチーの禁煙日記2
不思議そうに空を見上げていた。そして10時50分、更なる異変が起こった。
「ミーミー、ジージー、ミ・・・・・・・(静寂)・・・・・・」
なんと、公園中の蝉が一斉に鳴き止んだのだ。


599 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/01(土) 18:44:19
日食:“宇宙の神秘“胸わくわく 県内各地で観測 - 毎日jp(毎日新聞)
那覇市おもろまちの県立博物館・美術館の「日食観察会」には、30人の定員に約100人が申し込み、太陽が最も欠けた午前10時54分ごろには約200人が駆け付けた。遮光眼鏡などをかけて日食を観察する人から「すごい」「夜みたい」と歓声が上がった。

 日食中、それまで盛んに鳴いていたセミが一斉に鳴きやんだり、同園によると餌の時間以外、日中は逆さづりであまり動かないコウモリの雄10匹が飛び回り行動が活発になる現象が見られた。また野鳥が一斉に鳴き始め、巣に戻るような行動も見られたという。



600 :改め ◆PWTcGEfp1s :2009/08/01(土) 18:52:13
皆既日食〜

暗闇になるとばっかり思ってたのですが、
友人に聞いた話によると、そこまで、大したこと無かったよう。


601 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/08/01(土) 22:08:53
次は2012年5月21日の金環日食が楽しみ!
その頃には書紀の謎も解明されているかな?


602 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/01(土) 23:52:17
「夜みたい」を 「日夜有別」と表記する。
セミや鳥の行動を「已經多日。」と表記する。

有ると思います。


603 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/08/02(日) 00:41:43
>>602
唐松山さん
中国では紀元前から、日食の原理は知られており、予報もされていました。
その程度の知識もなく、正確な暦を作ることは不可能です。
ところが神功紀において、「一老父」は二人の神主のよからぬ関係が暗闇の原因であるという
きわめて非科学的な説明をし、それが正しかったと書かれています。
この現象が日食だという主張は、かえって日本の古代暦の存在を疑わせるものではないか?
それに、この出来事が日食ならば、「三月丙申朔」のところにあるべきです。

604 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/08/02(日) 06:42:47
日本書紀卷第九 氣長足姫尊 神功皇后
爰伐新羅之明年春二月
小竹祝與天野祝共爲善友。小竹祝逢病而死之。天野祝血泣曰。吾也生爲交友。何死之無同穴乎。則伏屍側而自死。
仍合葬焉。蓋是之乎。乃開墓視之實也。故更改棺櫬。各異處以埋之。

墓をあばいて埋葬し直すなど、数分で終わるとも思えませんが。
深読みすれば、この二人を一緒に葬ったとは、月と太陽の重なりを表しているのか・・・?

605 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/02(日) 11:02:05
>>603
全く逆ですよ。古代暦は天皇家等一部の秘匿物で有った。
倭人伝に「正歳を知らず」と書かれたのは、民のレベル
このレベルでは、日食も神の怒りとして信じられていてもおかしくない。
日食に日付が付加されていないのは、秘匿物の影響。

神功紀39年以降に対外記事が差し込まれる。
これは書紀編纂者がこれ以降 「暦の伸長」は無かったと判断した為、
ただし これ以降も「書紀を圧縮」しないと数字が合わない、圧縮方法の変更が予見される。

>>604 民の古老の話でしょ、昔日食が有ったとき、どんな「神の罰」が降ったのかを考えた時
少し前に、暮葬の習慣を破って二人が同じ穴に祀られた神主が有った、この神主の行動が、日食の原因とされた。
 この話を分析すると、棺有りカク無し、の暮葬と思われる。
古墳時代も後半、横穴時代なら、一つの穴に何人も祀られる、この時代なら一つの「棺」に複数もあったかも?

古老の話は、倍年より信じられる。なにしろ民は、季節を知っていてそれを1年としていたから。
ただしこの程度の年数決定では、後の時代に朔干支を付加する事は至難のワザ。
時々「日」を狂わせるんだから。暦が無かったとしたらこの説明も必要。

太国さんが年の数字より先に進まないのは、小難しい「日々の干支」を後付けとして考えたから、
日本書紀の数字は、正しい数字に直せる。逆も真なり。
日々の数字を捨てた「倍年」には、逆行不可。


606 :サガミハラハラ:2009/08/02(日) 12:11:00
ちなみに、書紀で神功皇后摂政元年は201年ですが、この年の3月22日に和歌山県御坊市小竹を通る皆既日食がありました。(アスキー社製ステラナビゲータによる)

607 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 13:44:20
>>605
秘匿するなら日数だけでなく年月数双方も秘匿するはずだ。ならば
神功元年の記事が日食ならば秘匿でなくて公開していたことになる。
だから秘匿なんぞするはずもなく、当時朝廷以外の一般人民も日食
を見てるんだから秘匿なんぞしてもバレていて隠すことなどできっこ
ない。つまりオマエの盲象だ。カルトのスレでも行け。ww

608 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/02(日) 16:43:21
>>607
太国さんへ 下記の疑問にお答え下さい。
>>73
>余は絶対視まではしてないが、紀の記述を極めて信用している。
@ 日々の干支も季節も切り捨て、書き換えたと主張。

>それにあの表を出して 文句をこちらに言って来てるが、
A 「あの表」とは、太国編年の「初めにありき」の俵。
>>90
>V=113.097335
>097は崇神即位年だよ。B.C.97年のことだ。
B 書紀編纂時 西暦が使われたことを意味する。
>>96
>それはホツマ教信者限定での論戦のお話です。
4二枚舌。
C以外は、その他の方法で証明が必要デス。


>>73
>他国等の史書群を見て記紀と照合した奴はまず失敗だな。
5他国の資料との整合性が全く取れていない。
それどころか 
E 書紀の記事さえ 編年の上に被せられない。

この疑問の答えを聞いてからかんがえますわ。


609 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 17:00:49
オマエはカルト・ホツマ狂の信者であり、その布教の目的で学術的
質問を布教隠匿の偽装でやって来ているわけだ。隠匿とは景行を
極端重視して史実を先行解釈する盲象カルト狂偽であり、その洗脳
にこちらは絶対はまることはない。それはオマエのほうから出して
来ている V の右辺によって完全にオマエが折伏されている。ww

 オマエはカルトのスレでも行け。

オマエの編年はド素人強引暴走の披露であり、プロ参画などとても
出来ない幼稚なご都合接着ばかりだ。ww その典型が数日間も日食
が続くだとか稚拙にも主張しており、昨日今日?どうやら盲象に気が
ついたのか、日食は数日も継続しない旨過去の妄想を吐露認容
したようだが、これもテレ隠しのためか〜まるでこちらが数日間続く
など言ってるかのように晦ましまでやるように成り下がっている。w

ド素人はムー誌のスレででも書き込んで仲間を作って論議すれば
いいことだ。ww ここに来るにはもっともっと修行をしてからの
ほうがオマエの身にふさわしい。ww

610 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/02(日) 18:07:22
ムー誌なんて知らん。

素人の疑問にも答えられないほど程度が低い太国倍年か。

数日継続は、太国説です。この出来事も疑問の一つ。


611 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/02(日) 18:12:02
数日日食継続はオマエの主張なわけだよ。鞍替えしてこちらが主張
したように見せるとはオマエはトンだ野郎だな。

612 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/02(日) 18:15:43
そういえばムー誌、ムー誌と書込んでいるのは、太国さんでしたっけ
愛読者の貴方こそムー誌にふさわしい。

彼方でのご活躍を心から願っています。


613 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/03(月) 18:03:58
複数年を1年とする不都合
これは太国3倍年に限ったことではないが、太国さんは主張はするが、主張した
倍数で、書記を纏めないので代りに纏めました 違っていたら訂正よろしく。

237〜240年 崇神治世時代
元年春正月壬午朔甲午皇太子即天皇位。

四年冬十月庚申朔壬午。詔曰。
五年。國内多疾疫。民有死亡者。且大半矣。
六年。百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之。

七年春二月丁丑朔辛卯。詔曰。大田田根子。令祭吾者則立平矣。
   十一月丁卯朔己卯 國内漸謐五穀既成。百姓饒之。
八年夏四月庚子朔乙卯。以高橋邑人活日爲大神之掌酒
  冬十二月丙申朔乙卯。天皇以大田田根子令祭大神。是日活日自擧神酒。獻天皇
九年春三月甲子朔戊寅。天皇夢有神人。誨之曰。

十年秋七月丙戌朔己酉。詔群卿曰。導民之本。在於教化也。
   九月丙戌朔甲午。以大彦命遣北陸。武渟川別遣東海。吉備津彦遣西道。        壬子。大彦命到於和珥坂上。
  冬十月乙卯朔。今返者悉伏誅。唯海外荒俗。騷動未止。其四道將軍等今急發之。
十一年夏四月壬子朔己卯。四道將軍以平戎夷之状奏焉。是歳。異俗多歸。國内安寧。
十二年春三月丁丑朔丁亥。詔曰。
   秋九月甲辰朔己丑。始校人民。是以。天神地祇共和享。而風雨順時。百穀用成。


614 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/03(月) 18:05:56
複数年を1年とする不都合 続き

1年目に問題は無い
◎ 2年目 5,6,7,8月國内多疾疫。これはこれ以降の記事から「飢えの病」と
思われるが、夏から初秋に架けての飢えは、考えられない。
9,10,11,12月 百姓流離。
◎ これは食料を求めて民が離散する、病人が徘徊したり、病の家族を残して、健康な
者が逃出すことは無い。
◎ 3年目1,2,3,4月 春。五穀既成。百姓饒之。秋じゃ無いぞ。
5,6,7,8月 飢饉の翌年、米の収穫前に 酒盛。春が豊作でもビールは無い。
4年目 1,2,3,4月 田仕事を放り出して男衆は戦へかり出される。


615 ::2009/08/05(水) 23:28:49
 完全スレチちゅい!
アシ・テナヅチと
サクヤビメの
母親を教えてください!
オオヤマツミの子だということはわかるのですが。

616 :日本@名無史さん:2009/08/07(金) 00:11:14
ホ24281  これヱナのアヤ
イミナなす はつにてるナは イミナムメヒト つぎのコは ナもホノススミ サクラギぞ 
すえはナもヒコ ホヲテミの イミナウツギネ またヒメは コをうむヒより
ハナたえず ゆえにコノハナ サクヤヒメ

サクヤヒメの子どもは上記の3名のみ。
オオヤマツミとの関係は不明
サクヤヒメの子育ては、母親の土地。


617 ::2009/08/08(土) 16:34:41
母親のことはどこにも書かれてないんですね?
系図とかを眺めてても、父親はしっかり書いてあるのに、
母親が不明だったりしているところが、
すごく気になります。

618 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/08/08(土) 20:36:05
磐長姫の母親は気になりませんか?
たぶん母親が違うのではないか。

619 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/08/09(日) 15:17:25
結婚相手はイワナガヒメ、浮気相手はサクヤヒメがよい。
何という身勝手な・・・!

620 :日本@名無史さん:2009/08/12(水) 21:10:11
>>544サガミ氏はとんでもない間違いをしでかしたようだね。

621 :サガミハラハラ :2009/08/13(木) 22:12:55
イ徳天皇と考証天皇の間に1年の空年があります。
神武天皇とスイゼイ天皇の間の空年は、タギシミミ命の件があるので納得できますが、
考証天皇の即位の前に何故空年が存在するのか理由がわかりません。
考えられることは、
 編者の計算間違い。
 政権が移動するとき、事件が起こり別の系統の天皇が立つときに混乱があった。

他にどのようなことが考えられるでしょうか。
また、皆さまのお考えをお聞かせください。 

622 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/16(日) 09:57:20
有史八代より
観松津彦香殖稲尊 母は、皇后、天豊津姫(アマトヨツビメノ)尊、
懿徳天皇乙未(きのとひつじ)の歳にして生(あれ)れましけり。二十二年春二月丁未(ひのとひつじ)の朔(ついたち)戊午(つちのえうまのひ・十二日)、立(たち)て皇太子となる。時(と)き年し十八。
元年丙寅(ひのえとら)春正月丙戌(ひのえいぬ)の朔甲子(きのえねのひ・三十九日)、皇太子、天皇の位に即(つ)く。
秋七月、都を腋上(ワキガミ)に遷す。
是の月、大物主大神(オホモノヌシノオホンガミ)出現し、乃ち天皇に奏して曰く。我れ神代より已来(このか)た、三諸山(ミムロヤマ)に在(あり)て、国家を衛護(ゑいご)すること既に久しかりぬ。而(しか)るに、太祖天皇、
文武の徳ありと雖ども、尚を未だ知らざる所ろありけり。能(よ)く天祖諸神を祭れども、未だ吾が廟を建てざるなり。亦た、闕如(けつじよ)たらざらんや。夫(そ)れ天祖は已(すで)に国を生むと雖ども、而(しか)も国、未だ開かず。
父の大神は、已(すで)に国を開くと雖ども、国、未だ成さず。吾れ能く国を修(をさめ)て、以(もつ)て之を成しぬ。其の功、亦た大ならざらんや。夫れ然(しか)り。故に八百万(やをよろづの)神の社(やしろ)を建つと雖ども、
吾が神廟(しんべう)を建ることなかりけり。則ち国家威(い)からず。国主、寿(ながいき)せず。国穀、登(みの)らず。国民、穏(おだ)やかならず。国賊、熄(や)まざりぬ。是(これ)に於て、天皇、三輪(ノ)大社(おほやしろ)
を建立(こんりう)し、又た内殿に於て、天照大神(あまてらすおほんがみ)と同く大物主(ノ)大神を祭りたまふ。
 天皇、天性至孝にして、専(もは)ら皇太后に事(つかへ)まつりて、政務を事(つ)かへたまはず。然(しか)れども天下泰平、国土安穏(あんをん)、此れ聖徳(せいとく)の然(しか)らしむる所ろなり。
● 皇太后に事(つかへ)まつりて、政務を事(つ)かへたまはず。 考昭が幼いと
書かれています。


623 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/22(土) 16:55:47
神功皇后摂政三九年、大歳己未。に景初三年の記事が注入される。

神功39年正月1日は 己未年1月丁巳朔 
景初三年己未正月丁亥朔、
景初暦は、1と月遅れなのでこの時点で「朔」に異常は無い。

神功元年は、274年ですから、312年は神功39年になります。
「魏志云。明帝景初三年六月。」の注入はこの時点で「年、朔」の干支が合致した為
この位置に注入された。
 検証
神功39年正月1日 己未年1月丁巳朔と景初三年己未正月丁亥朔の誤差は、
312−239=73年 ここで「朔」が合うか?
4章76年は、27759日ですから
27759−353−353−353=26700日 76−3=73年 この数字で「朔」は合う。
−3年の数字から1と月の誤差、この誤差は暦法による物。

書紀編纂者は、年の干支及び朔の干支の合うこの場所に「魏志」を注入した。
と云う事は、編纂者は、この時点で書紀が「加増」されていないと判断しています。


624 :ローガン:2009/08/22(土) 23:30:26
唐松山さん、居てる?三国志公孫度伝「二年春遣太尉司馬宣王征淵…『八月丙寅』夜大流星長数十丈…『壬午』淵衆潰…」
地統の景初二年八月の朔は何ですか?八月に丙寅、壬午ってありますか?どうも計算が解らなくて…
早見表のあるサイトとかあれば教えて下さい。

625 :日本@名無史さん:2009/08/23(日) 17:37:15
景初二年八月の朔は己未(グレゴリオ238/08/27)で、丙寅は8日(グレゴリオ238/09/03)で、
壬午は24日(グレゴリオ238/09/19)のようです。
また、景初三年は己未年で正月朔は丁亥(グレゴリオ239/01/22)ですが、
312年は壬申年で正月朔は癸丑(グレゴリオ312/01/26)と思うのですが、、、


626 :ローガン:2009/08/23(日) 21:33:48
>>625

それは、儀鳳暦ではないのですか?

627 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 15:02:56
秀真伝の崇神の条を読むと多数の月日が載ってるのに、四季の語はわずか2個しか
ない。このように古文書で季語が抜けてるわけであり、秀真伝を拠り所とするの
では、紀の月のところにある四季の語は後付けが多いということがこれで
わかる。唐松山はヒタ隠しにしたいところなるも、伝を読めば季語が後付けで
ないというこの唐松山の主張はデタラメであると云える。

628 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 15:23:12
それがしの持ってるホツマ伝は吾郷先生訳のものだが、これによると
当時の超長寿の因は朝廷が歳の加算で部下の褒章とした旨の話を
荒深道斉筆録の「道臣命在世記」を根拠に解説している。いずれ
ヒマがあれば書棚から持ち出して調べてみたいがそれは後にして、
部下ならあろうが、まさか天皇が自己の功績で自己に歳の加算を
するとは考えにくい。だから部下の歳の加算というのは、今で言えば
一般会社でのノルマ達成の数字をそれでやっていたとは考えられると
思える。しかしだからといって、天皇ご自身がご自身の功績の
ノルマ表を自己採点していたなどとはとても思えることではない。

唐松山のマシの動機の説明はここからひっぱりだしたんかと
想っている。w

629 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/24(月) 20:24:19
>>625 さんへ
私の書き方が悪かった。すみません。
312年 皇暦で神功卅九年是年也。大歳己未。2月丁亥朔になります。
274+38=312年 
1と月の違いは 暦法の違い。
神功四十六年春三月,乙亥朔までは、2568日
この大歳を仁徳元年とすると、312+87−1=398年 1年の不足



630 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/24(月) 20:27:24
訂正
×312年 皇暦で神功卅九年是年也。大歳己未。2月丁亥朔になります。
○312年 皇暦で神功卅九年是年也。大歳己未。前年12月丁亥朔になります。

631 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 20:43:41
日本書紀と秀真伝の崇神の個所の年数の統計を下記のとおり表にした。重複部分
は1回分である。なお、特殊な事情で数字配分がほんの少し数字通りに行か
ない個所も出た。この点については了承されたい。

【日本書紀と秀真伝の崇神の条の年数統計表】

元年 3 11年 2 21年 0 31年 0 41年 0 51年 0 61年 0
2年 0 12年 2 22年 0 32年 0 42年 0 52年 0 62年 1
3年 1 13年 0 23年 0 33年 0 43年 0 53年 0 63年 0
4年 1 14年 0 24年 0 34年 0 44年 0 54年 0 64年 0
5年 1 15年 0 25年 0 35年 0 45年 0 55年 0 65年 0
6年 2 16年 0 26年 1 36年 0 46年 0 56年 0 66年 0
7年 5 17年 1 27年 0 37年 0 47年 0 57年 0 67年 0
8年 4 18年 0 28年 0 38年 1 48年 2 58年 1 68年 1
9年 3 19年 0 29年 1 39年 0 49年 0 59年 0
10年 7 20年 0 30年 0 40年 1 50年 0 60年 1


上表を眺めると空白個所もあり10日前後までの記載が多く数字の多い年は空白は
多くなるも、とりわけ故意にマシ年にすべき空白を作ったとは思えない。

632 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/24(月) 20:51:50
>>631 訂正
× 10日前後
○ 10年前後

633 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/24(月) 20:58:41
太国さん 古事記の崇神崩御43歳 
何故他の天皇より若いか判りますか?
何故ならば崇神の母が「庶母」の出だからです。

>>630は不要でした。


634 :日本@名無史さん:2009/08/26(水) 09:43:36

>>624

景初暦の各月朔日の干支は次の通りです。

景初元年 C丁酉 D丁卯 6丁酉 F丙寅 8丙申 H乙丑 10乙未 J甲子 12甲午
景初二年 @癸亥 2癸巳 B壬戌 4壬辰 D辛酉 6辛卯 F庚申 G庚寅 9庚申 I己丑 11己未 閏J戊子 12戊午
景初三年 @丁亥 2丁巳 B丙戌 4丙辰 D乙酉 6乙卯 F甲申 8甲寅 H癸未 10癸丑 J壬午 12壬子 後K辛巳

○囲みは大の月、景初二年9月の庚申は朔時刻が夜半を過ぎ、未明に差し掛かったところとして、庚申になっていますが、
暦法や厳密な計算では、前日の8月末日の己未が9月朔となるかも知れません。いずれにしても、その後の月に影響は
ありません。
景初二年8月には丙寅や壬午はなく、9月にあります。



635 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/26(水) 13:20:16
書紀は下記の様な数字で書かれています。この数字を、整合性のある数字で西暦に置き換えられるか?

神武元年 春正月庚辰朔。天皇即帝位 20837日として
神功元年 辛巳年1月丁酉朔 334954日
神功元年 三月,丙申朔
履中元年 庚子年1月壬子朔 407629日
履中元年 春二月,壬午朔
仮説
神功元年は274年 皇暦辛巳年です。
履中元年は400年 西暦庚子年です。
407629−334954=72675日 皇1060年−皇861年=199年 この数字を朔で圧縮する
400年−274年=126年 
199年−126年=73年の増しが在る 73年は76年(6940*4−1)−3年であるから
とりあえず 27759日−383−353−383=26640日
皇暦199年間は、現実126年間+増し73年間
神功元年以降の「増し」は、73年26640日である。
下記の式で数字(日数)を計算
G8=CHOOSE(MOD((G8+69),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")&
CHOOSE(MOD((G8+71),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")
↑式はエンターで折り返してあるのでコピペで使うときは、エンターをはずす事。

334954が丁酉になれば式は正解
407629−26640=380989 この数字を朔に直すと「壬子」になる。
73年間26640日の圧縮の跡は、朔に現れない。
皇暦神功元年辛巳年1月丁酉朔 より西暦400履中元年庚子年1月壬子朔 までは 
126年46035日である。


636 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/26(水) 14:05:56
瀚典: 資料庫選單
台湾 中央研究院 漢籍電子文献 より
全文検索2.0版へ入る ここから漢籍全文資料庫(現行版) 免費使用へ
右上の「工具箱」 使い物にならないか?

後は 日本の暦日計算?よりその資料の一部
景初暦

# 5: whenhv +c1$d /(Xk) U:0 *m(13) V:-221 景初 1
0.976 237 2 12 22.0785 319.646 戊戌 237 1 2 != 青竜 5 1 1
6.698 237 3 14 10.8129 349.216 戊辰 237 2 2 != 青竜 5 2 1
0.230 237 4 12 23.5473 17.799 丁酉 237 3 2 != 景初 1 3 1
5.952 237 5 12 12.2816 47.368 丁卯 237 4 2 != 景初 1 4 1
359.484 237 6 11 1.0160 76.937 丁酉 237 5 1 == 景初 1 5 1
353.016 237 7 10 13.7504 105.520 丙寅 237 6 1 == 景初 1 6 1
358.738 237 8 9 2.4848 135.089 丙申 237 7 1 == 景初 1 7 1

それから 台湾?資料より
魏明帝景初元年 ?次:丁巳 生肖:蛇 西元237年4月13日(星期四)起
蜀後主建興15年3月1日起 ?大帝嘉禾6年3月1日起
4 戊戌 13
蜀3
?3 14 15 16 17 18 19 20 21 22 戊申 23 24 25 26 27 28 29 30 ### 2 戊午 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
?4
5 戊辰 13
蜀4 14 15 16 17 18 19 20 21 22 戊寅
これ以上は化けて掲載出来ない。

まだ 使用感の良い物にで出会っていません。


637 :ローガン:2009/08/26(水) 16:38:22
>>634
> 景初二年8月には丙寅や壬午はなく、9月にあります。

うわ!詳しいんですね。ご教示感謝。
魏志で景初暦に合わないのは、公孫伝だけのようなのですが、伝を書く時に景初暦ゆえ、ひと月遡らせたかな?とすれば、「斬淵」は9月の出来事でしょうか…?
公孫伝の記述がひと月上がっているとすれば、「六月軍至遼東」は実際は七月。
倭人伝にある「景初二年六月」では開戦以前になり、当然まだ帯方太守は居ないでしょう。
やはり「三年六月」か。 因みに太初暦だと「八月丙寅、壬午」は整合するでしょうか? クレクレですみませんが…

唐松山さんもご教示有難う。

638 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 15:33:30
>635
確かに書紀による神功元年 辛巳年1月丁酉朔から履中元年 庚子年1月壬子朔の199年間の総日数は72675日
で、干支1211巡と15であるから、丁酉+15番目は壬子で合致します。
しかし、干支に関すれば、仮説の神功元年を274年とすると、
1月朔は、長暦や儀鳳暦によれば、甲午で、丁酉は1月4日のようです。
また、年干支は辛巳年でなく甲午年だと思います。増しの73年だと干支1巡+13なので、辛巳+13番目は甲午です。
さらに1月朔を甲午とすれば、書紀の神功元年 辛巳年1月丁酉朔から数えてこの日まで、干支443巡+57番目で総日数26637日になります。
「73年間26640日の圧縮の跡は、朔に現れない。」これは成り立ちません。
そして、この日から、履中元年 庚子年1月壬子朔までは、126年間干支767巡+18番目となり、総日数46038日のようです。

次はグレゴリオ暦による西暦換算とユリウス通日です。それぞれ差引すると、72675、26637、46038となります。
神功元年  辛巳年1月丁酉朔 201/2/20=1794524
仮説神功元年 甲午年1月甲午朔 274/1/25=1821161
履中元年   庚子年1月壬子朔 400/2/12=1867199

274年1月にある丁酉を1月1日か1月4日かによります。
丁酉は1日か4日かどなたか分かりませんか。

事象の置かれている年月日を伸長圧縮移動する場合年干支や日干支をどの程度尊重するのか、全く無視してもいいのか、
このあたり、皆様いかがでしょうか。



639 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/27(木) 16:35:46
年の干支は、皇暦辛巳年より199年後の庚子年になります。

>274年1月にある丁酉を1月1日か1月4日かによります。
274年は横に置いといて、「神功元年 三月,丙申朔 」より59日か60日前が
神功元年1月○朔になる、○に私の計算から「丁酉」を選択しました。
ここは、皇暦から数字上の段差が無く西暦に移行するための思考です。
日数を29.5306で割って月齢に異常が無ければ一応成立する、そう言う数字です。

だから別の数字でも合わせることが出来るが、書紀の記事を満たせるか?が問題となる。
神功前記 273年日食 と読んだ数字から計算しています。


640 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/27(木) 18:20:28
唐松山は精神病院行きか。ww 数日間続く日食を提示しろ。273年は
数日間も日食が続いたとぬかしてるからな。ppp bbb wwwwwwwwwwwww

なお空白日がぞろぞろあるようで、いくらやっても合うわけがない。労して
功なし。乙枯れ!wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

641 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/27(木) 19:27:09
おー2枚舌さんか
>数日間続く日食を提示しろ。

数日間続く日食の如き自然現象は、有りません。
したがって 書紀の記事を「数日間続く日食」と読むのは間違いです。
だから私は、1日内の出来事だと主張しています。

数日間続く日食 と読むのは、太国さんです。
だから以前 雲が厚いとか黄砂だとか答えてくれたんでしょ。其れを否定されたら
今度は、私の言として私に説明を求めても、
書紀の記事は、その日の出来事としか読めません。あしからず。

書紀を3倍年で読んでも、「3分の2は空白」倭人伝の重要な時期が空白にあたる。
3倍年で読んだところは、数字上の季節や日付を無視しても、季節が合わない。
可愛そうに。


642 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/27(木) 21:32:32
73年26640日と26637日 3日の違い、場所を変えても2日の違いがある。
どうしたものか?
後 30日の違いも有りそう、此方は 閏月の関係で切り抜けられる?
倭の暦法では、6月が次年度の暦発行になるから。


643 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/27(木) 21:35:40
>>639
>神功前記 273年日食 ←ppp

記紀のどこにこんな日食の記事があるのか?www
自分の主張に責任を持てよ。オマエはこちらが言ったことに鞍替えするとは、
オマエとんだフテエ野郎だな。

644 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 21:51:27

>>636
漢籍電子文献 覗いてみました。
工具箱に換算表があり、ばっちり利用できました。
それによると、
>634 と殆ど同じですが、台湾 中央研究院 漢籍電子文献では、3か所だけ次のようになっていました。、
景初元年 C戊戌 5戊辰 景初三年 後12壬午
他は >634 と同じです。景初二年9月は 9庚申でした。



645 :日本@名無史さん:2009/08/27(木) 21:53:40

>>636
漢籍電子文献 覗いてみました。
工具箱に換算表があり、ばっちり利用できました。
それによると、
>634 と殆ど同じですが、台湾 中央研究院 漢籍電子文献では、3か所だけ次のようになっていました。、
景初元年 C戊戌 5戊辰 景初三年 後12壬午
他は >634 と同じです。景初二年9月は 9庚申でした。



646 :ローガン:2009/08/27(木) 23:59:27
>>642
> 後 30日の違いも有りそう、此方は 閏月の関係で切り抜けられる?

ええと、仲哀九年12月朔が戊戌、神功元年3月朔は丙申。
よって1月朔は戊辰、閏1月朔が丁酉、2月朔が丁卯のようですが…


647 :日本@名無史さん:2009/08/28(金) 08:27:27
これは微妙です。24節季の雨水が仲哀九年12月(朔は戊戌)の翌月末に入れば、この翌月は神功元年1月(朔は戊辰)、
翌々月に中気は含まれず、閏1月(朔は丁酉)になります。ところが、計算の結果、積算残余が切り上がり、雨水の日時が
翌々月初頭になれば、12月の翌月に中気がなくなり、仲哀九年閏12月(朔は戊辰)となり、次月が神功元年1月(朔は丁酉)
となります。実際、渋川春海の長歴では、仲哀九年閏12月(朔は戊辰)となっています。儀鳳暦では閏1月(朔は丁酉)
のようですが。

それはともかく、再編年の場合、年干支は無視し、着地点では○月の初め、10日前後、中頃、20日前後、月末頃などのように
幅をもたせた表現にすればいかがでしょうか。その中に目指す干支が含まれていれば、容認するのです。
書紀の編者はポイントを表す目盛りに干支が重要な役割でした。今では○月13日か14日か15日かといっても、どちらでも
いい、大雑把に丸めて、月半ばと思ってしまうことがあります。ところが、己巳、庚午、辛未といわれても、この間には
大きな壁があって、連続しているとはピントきません。どうしても干支(ピンポイント)で記憶しようとします。

距離に置き換えても言えることですが、長い間隔の中での僅かな値は誤差の範囲です。仮に干支2巡(120年)動かせば、
43800余日です。この中での4〜5日は誤差の範囲だと思います。合理的な推論であれば、干支にこだわらなくてもいいと思います。



648 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/28(金) 12:37:06
当時の倭の暦法では、閏月は、本月の前に来ると思われるフシがある。
しかし 仲哀元年閏11月は、12月の前月。
仲哀9年12月戊戌朔、閏12月戊辰朔
神功元年1月丁酉朔、2月丁卯朔、3月丙申朔

神武から成務までは、19年*nで増しをした。
この場合 朔旦冬至を中心とした閏月の変更はあり得ない。
せいぜい月齢の調整程度。
だから大陸の暦(儀鳳暦では閏1月)とは狂いが生じる。

暦の導入当時は、同じ廻しになるのが理想。
暦の導入は、西暦元年前後 この時点で100年が経過している。
(前105年が朔旦冬至?)

>この中での4〜5日は誤差の範囲だと思います。
これでは 月齢を「準器」として使えない。
書紀は長さこそ違え月齢を「準器」として使っている。


649 :ローガン:2009/08/28(金) 16:19:24
うーん長暦だと閏12月、儀鳳暦では閏1月、元嘉暦は閏2月か。
さておき、小川清彦氏の「日本書紀の暦日に就て」 手元にあるので一部引用します。何かの参考になれば。

650 :ローガン:2009/08/28(金) 16:43:34
「日本書紀には約900個の月朔が載って居るが、その記載方には一種の特徴があることに注意される。
それは或る月に何等かの記事があれば必ず先ず月朔が添記されるところである。
かやうな暦日の書き方は支那の漢書を初め隋書に至るまで見受けぬところであり、ただ日本紀よりも後に出来た旧唐書本紀にのみ見るところで、それも唐書の方はすっかり削除されてあるのである。
如何にしてかやうな書き方が採られたのであらうか。
日本紀は漢文で書かれてあるがその原本は仮名日本紀であったといわれる。
これには日は必ず日数で書かれてあったにちがひない。それを支那の史書の体裁に倣って干支で記すことにするとなると必然月朔を知る事が必要となる。
これは推算に待たねばならない。従ってこれらの月朔は編纂当時に施された推算の結果知られたるものであることが明らかとなるわけである。」
(カタカナをひらがなに変えて引用しました。)

651 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/28(金) 18:38:43
半径3の三輪の円は立体化して半径3の球を構成するが、その球の
体積V’は右辺十桁としたとき

 V'=113.0973355・・・・・・(0)

となる。ここで天津菅曾になぞらえ十桁目を末打ち断つとき、右辺は
九桁となり、これを球の体積と為した場合、その体積Vは

 V=113.097335・・・・・・・(1) 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位

となる。Vの右辺の本たる大数値の最初の桁百桁1数を本刈り断ちて

 V=100+13.097335・・・・・(1)'

となるが、これの右辺第二項には

 1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位

の値が存在する。

(1)の右辺の数字は各三分して 113 097 335 に分かれるが、この
3分とは暦法の3倍暦を示唆するものである。これは(0)’において
は末桁数5があって余り分であるが、三分の数字を日数と観た場合、

 113+97+335=545日=365日+180日

となり、これの右辺は1年とほぼ半年となる。180日に先の5を追加
すれば185日となり、

 180+185=365日であるから、180日乃至185日は1年が半年の意味
を余り分5日を入れて示唆している。これは2倍暦法を示唆して
るのだ。当時の1年が現今の半年分だったことがある示唆なのである。

652 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/28(金) 18:43:27
訂正
× (0)’において
○ (0)において

653 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/28(金) 20:12:46
>日本紀よりも後に出来た旧唐書本紀にのみ見るところで、
>日本紀は漢文で書かれてあるがその原本は仮名日本紀であったといわれる。
>これには日は必ず日数で書かれてあったにちがひない。それを支那の史書の体裁に倣って干支で記すことにする

↑本末転倒の理論とは、こう云うものか。

ホツマの暦は、
ホ31331 トキアスス フホヨソミトシ ツミヱハル ムツキツウエハ コカキミエ アマツヒツギを
うけつぎて カヱシネアメの スメラギミ 
アスス暦 243年 ツミヱ春 睦月ツウエ朔 9日キミエ 考昭即位
ホ33003 トキアスス ムオフソヒトシ キナヱハル ムツキネシエハ ソミキシヱ ヰソニヱノミコ
トシヰソフ アマツヒツギを うけつぎて 

この様な重要部分の一部のみ干支が入る。でもこの数字は、書紀と同等の長さを表している。



654 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/08/29(土) 13:14:41
>>650
ローガンさんご紹介の小川清彦氏の意見に賛成。
書紀で全ての日付にわざわざ朔干支が付されていることは、「編纂当時に施された推算」を暗示していると思う。
これは膨大な作業という見方もあるが、消えた年金問題を追及した長妻氏が言われるように、
本気で「国家プロジェクト」として実施すればすぐに出来るでしょう。
古事記分注の日付はすべて数字であり、朔干支などはありません。


655 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/29(土) 15:05:09
>「編纂当時に施された推算」
パソコンがあれば可能だろうが、推算する意味が分からない。
やってみれば解ると思うが、推算で出る数字では無い。←私はやってみました。

>古事記分注の日付はすべて数字であり、
古事記は、引き延ばされていないので、数字で表記した。

私の結論として、干支は、引き延ばされた数字を元の暦に再現するために必要不可欠なもの。


656 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/29(土) 15:39:57
書紀に書かれた五百の干支を再現するのに
29.5306又はこれに近い数字で全てを再現出来ない。
19年、76年の積み重ねでも(時々数字を動かしても良い)再現出来ない。
当然近い数字は得られるが、再現とは云えない。何故なら「後から注入した数字」だから。

後から注入した数字なら、その合理的注入方法を再現出来なければ成らない。
まだ誰も成功していない。


657 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/08/29(土) 15:47:48
>>655
当時はパソコンは無く、計算によって求めるのは困難だが、貝田禎造氏は計算尺を使って求めたと推測している。
1360年間の干支を帯状につないだ「長暦尺」を作る。(干支一組=1.5cmとして約7.3km)
90組(3か月分)または60組(2か月分)の干支をつないだ「指示尺」を当てて読み取っていく方法である。
指示尺の中間で読み取り違いをしても、両端で間違いさえしなければ、間違いが前後に影響を与えることはない。

658 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/29(土) 15:48:44
>>656
オマエの四苦八苦は死ぬまでだな。四苦八苦をこちらに鞍替えしなく
たっていいんだぜ。ww

いかにうっちゃるかが四苦八苦のオマエの脳ではないか。ww
うっちゃり大王の君は四苦八苦どころではなく、不合の為無限地獄
のネズミ捕りの檻の中。ppp

659 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/08/29(土) 15:59:11
そもそも1360年間の朔がすべて当時の記録なら、何故、朔に起きる日食・望に起きる月食の記事が7世紀まで無いのか?
唐松山さんは「秘密」と言われるが、将来の食ではなく、過去の食を秘密にしても意味が無い。
秘密にするなら朔干支もすべて秘密にすべきでは?

660 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/29(土) 16:08:17
仏伝の手前の時代のは観測ではないと観る。朔が観測ならば、
もっと特殊たる月食の起こったことを記載から落とすわけがない。
日食も同様だ。ところが仏伝以後の時代は大陸からの当時の最新の
ものが伝わっていて、ここから以降の時代のはほ観測だろう。

それでポツンと1個の日食を大々的に誇張して記載する必要など〜
若干年を置いて再び天文ショーの日食は起こっているんだから、1個
のみで神功初年の紀の記述が日食だとはとても考え難いし日食は
数日間も続くわけがないことは唐松山以外の通常人なら小学生でも
分かりうることである。

661 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/29(土) 16:18:51
月前の四季の語も後付けだよ。紀は多数の原書群からの安全な
いいとこ取りのものだ。原書群のほぼ全部が月の前に春とか秋とかの
語が連ねてあったとは考えられない。その証拠に秀真伝の崇神、垂仁
の条を読んでみたが、四季語のついてるのはまばらであることから
これが分かる。そして唐松山はいままで黙ってヒタカクシにして
いたのだ。ww

それがしの家にも以前から秀真伝は持ってるよ。久しぶりに眺めて
みて、唐松山のおトボケが露呈して来た。ww

662 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/29(土) 16:37:19
太国さん 書紀の干支が後付けなら、書紀の干支を再現する方法が有るはず。

再現してから、「後付け」と発言して下さい。
もし再現出来れば太国さんのお手柄、期待しています。

663 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/29(土) 16:45:43
何で吾郷先生の秀真伝と紀の内容とが話の記載部分の同一ろ観られ
るものの日数が同じなのか? 唐松山さんよ。紀も秀真伝も月日は
デタラメなのかね?w

後付けは君の経典と言える季語のついてないことで、もうはっきり
してるよ。www

664 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/29(土) 17:15:44
再現したって空白日があるから編年はもうおじゃんだよ。

だから年代で観るべきなのだ。君は日での逆算を捨てきれないから
失敗したわけ。要するに外れ馬券だよと教えてるのに、後生大事に
持ってたって大金は得られないのよ。ww

665 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/29(土) 17:26:33
空白日が多いのと空白年が多いの違い。
現実には、空白年が多いと「読めない」。

>だから年代で観るべきなのだ。
だから1年は1年で観るべきなのだ。


666 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/29(土) 17:32:58
>>665
そうなら例の八代の日数表のように14日までに偏りはしませんよ。
君はこの重大な日数の数字を無視してるんだよ。要するに検問を
破って暴走してるようなもの。ホツマも八代は開化の1点だけ
除いて15日までしかないのはどう思うんだね?ww

例外は崇神世の暦法で編んでるから下旬になってるわけさ。

667 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/29(土) 18:53:25
崇神世は記事が多いから 3年を1年に纏めやすい。
その結果 1年は1年で読まないと齟齬が生じる。
自分で1年を三年分の記事で埋めて読んでみなさい。

>例外は崇神世の暦法で編んでるから下旬になってるわけさ。
崇神世は記事の日付から、3倍年は無い ということか?

日々の干支は、1年の長さを正しく表している。
空白年は、時空の変化が小さすぎる。


668 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/29(土) 20:07:30
答えは終始符のとおりだ。空白年はオマエが説明を抽象的にして
論じたふりをしてれうだけで、一般人には分からないようにして
くらませている。
さらに畿内兼九州説で卑弥呼は九州などとその場の都合でうっちゃり
をやっている。関係スレの書きこみ人の評価の中でオマエの論は
幼稚園児よりひどい判断で即興度も多く、ところどころにシッポが
見えて化けの皮の正体が散見される。wwwww

つまりスレ人の中でも、オマエの論は最低より以下。0点もやれ
ないひどいもので、小学生のほうがまだましだろう。ww
要するに0点より下のマイナス点だから、君は各スレから退場
したほうが皆のためによい。本当に最悪点の君には退場勧告だ。

669 :ローガン:2009/08/30(日) 01:27:30
けなしあいが一段落したようなのでネタ投下します。
記の序文によると諸家は帝紀及び本辞を持っていた。大王系譜を記したものでしょう。それが「多加虚為」ゆえ新たに帝紀を撰録しようと…
「偽を削り実を定めて後葉に流へむと欲す」と詔した天皇の葬儀が持統二年に行われています。
その際「諸臣が先祖等の仕え奉れる状を挙げて互いに進みて誅」しています。
ここで述べられたのは、従来からの虚為が多い旧事とは考えにくいでしょう。
天武十年詔により記定された「帝紀及上古諸事」に沿った内容になっていると考えるのが自然だと考えます。
遅くとも持統二年には諸家の系譜は詔に沿った形に改変されていた…勿論書紀成立以前です。
書紀と諸家の系譜、及び諸家同士の系譜が皇統を介する部分で整合がみられるのは、こういう経緯によるものであると考えます。
それゆえ、各氏の系譜が合う事を指して、欠史八代の実在する根拠として使えるかどうか疑問です。
これは、以前別の所で書いたものですが、皆さんは如何考えますか?

670 :縦目仮面:2009/08/30(日) 01:56:06
>各氏の系譜が合う事を指して、欠史八代の実在する根拠として使えるかどうか疑問

当然そうだと思いますが、「天皇家の目に触れぬよう秘匿していた系図」のような言い方も
実際ありますからねえ・・・。

671 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/08/30(日) 06:07:41
>>669 ローガンさん
欠史八代は、大王として実在したとは私も考えていません。
(ほとんど奈良盆地か畿内で、天下を治めた形跡が無い)
初代の大王は崇神であり、崇神の祖先たちに諡号をを追贈したのではないでしょうか。
中国の例にならったものかもしれません。

>>670
おや、縦目さんは砂漠から帰還されましたか?
選挙には間に合いましたね。


672 :縦目仮面:2009/08/30(日) 08:15:11
>>671
どうも、お気遣いありがとうございます。欠史八代は、考古学的には宮地も墳墓もちょっと
怪しすぎますね。

673 :ローガン:2009/08/30(日) 08:28:09
>>671
> 初代の大王は崇神であり、崇神の祖先たちに諡号をを追贈したのではないでしょうか。

おはようございます。系譜の整理というか…朝臣の祖が皇統には繋がる事とし、血縁として取り込む。
これが「奉事の根源」ではないかなあと。そして真人と優劣をつけるため、朝臣の皇統との接点を遠くに持っていった。
賜姓朝臣の多くが、皇統に繋がる部分が欠史八代であるのは、こういう造作の結果ではないかなあと考えます。
選挙行ってきます。

674 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/08/30(日) 11:05:07
私も選挙に行きます。
卑彌呼の時代と違って、今は全国民が共立に参加する時代です。

675 :縦目仮面:2009/08/30(日) 13:37:18
そうですね。欠史八代の記事には明らかに編纂者の意図が感じられますね。例えば、オオヒコ
スレに書いたんですが、
 
孝元天皇の都は軽境原宮、伝承地は橿原市見瀬町の牟佐坐神社。「日本書紀」天武天皇元年
(672)によれば、壬申の乱で金綱井(現橿原市内)で戦った時、高市県主許梅に牟佐社の生魂
神が憑霊して勝利に導いたので、これを厚く祀ったとされています。

このときの許梅の神がかりには、「神日本磐余彦天皇(神武天皇)の陵に馬と種々の兵器を奉れ」
との有名な言葉も含まれ、これらの記述の解釈は難しいですが、許梅という人物の口を通して、天
武側は、古い皇統との繋がりをことさらに強調しているとも考えられます。

676 :縦目仮面:2009/08/30(日) 13:54:18
続き
孝元天皇の御陵は剣池嶋上陵。4〜5世紀と推定される中山塚1〜3号墳(円墳2基、前方
後円墳1基)と自然丘をまとめて前方後円形に似せられていますが、これは文久の大修陵時
の造作が疑われます。「日本書紀」には、応神天皇11年 軽池等と共に剣池を造った、との
記述があり、御陵名は後代に付けられたもののようです。

また、皇極天皇3年(644)の6月、剣池で一本の茎から二つの花を咲かせた珍しい蓮が見つ
かるとあり、当時繁栄の絶頂期にあった蘇我蝦夷は、「これは、蘇我臣が栄えるという目出度
い前兆だ」と考え、金泥で蓮の花を描かせ、大法興寺に献上したとの記述が見られます。この
翌年が大化の改新であり、馬子が編纂に携わったとされる「天皇記」は焼失しました。このあた
りは、後代の平家物語に見られるような、蘇我氏の滅亡譚としての性格が付されているのかも
しれません。



677 :縦目仮面:2009/08/30(日) 14:02:52
続き
ちなみに蘇我氏は、孝元天皇の曾孫(孫)武内宿禰を祖としています。武内宿禰は300歳
前後の寿命とも推定され、他にも紀・巨勢・平群・葛城など有力豪族の祖とされます。この、
五代の天皇に仕えたとされる武内宿禰の異様な長寿は、多くの氏族の祖とされるために必
要だったとする説もあります。

このあたりも含めて、書紀の様々な記述は、編纂された7〜8世紀当時の事情を加味して
読んでいくと意味のある部分が多いのは確かだと思いますね。


678 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/30(日) 14:05:20
西暦41年神武元年 土器X紀の始まり頃。
164年孝元元年 この直後 大彦誕生ここから8
代目は、320年頃を生きる。
314年頃若武(日本武尊の子ども)死亡
大彦から雄略までをこの代数で繋ぐことは出来ない。
188年 崇神元年 200年頃より古墳が造られる、モモソ媛の古墳もこの頃

歴史を全て書き換えましょう。

それはさておき 子持村が埋まったのが六世紀末とすると、
ここで安定した農業が出来るまで、100年として5世紀末
ここの農民が長野からの移住者とすると、長野でも100年ほしい 4世紀末
4世紀末は、高句麗に破れた頃、この頃に大量の移住者はつらい
350年頃には、長野に移住か。


679 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/30(日) 14:11:45
五十瓊尊(崇神天皇)の五十瓊玉

三輪(半径3の円)を球にして同半径の球の体積Vは末十桁に末打ち断ちてV’で

 V’=113.0973355・・・・・・(1)'

ここの末桁5→0としたときは、これをVとして

 V=113.097335・・・・・・・(1): 1/13 A.D.97年 崇神天皇 即位

となる。崇神の御名五十瓊尊の五十は十を読まぬわけで、これは(1)'の末桁
5→0(50)の数字のことを示唆するが、これから(1)式となり、

 (1)の右辺=113.0973350 

と書くこともできる。その末二桁50が天皇の御名の「五十」にて示唆されている。

論は(1)'に戻して、右辺の末三桁355は十が足りれば

 355+10=365日

となり、通常暦での1年の日数が出る。御名の十を読まないことはこれの示唆
でもあろう。

680 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/30(日) 14:15:29
>>679 訂正
× A.D.97年
○ B.C.97年

681 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/08/30(日) 14:26:30
>>675
神日本磐余彦天皇(神武天皇)の陵についての記事は神武以後、ここで初めて登場するようです。
また天武紀では崇神紀の「箸墓」が「箸陵」と字を変えて登場しているのも注目。

>>677
>このあたりも含めて、書紀の様々な記述は、編纂された7〜8世紀当時の事情を加味して
>読んでいくと意味のある部分が多いのは確かだと思いますね。 

それは認めますが、すべてが編纂時の創作とするのも行き過ぎと思います。


682 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/30(日) 14:33:42
>>679 >>680 続き 五十瓊尊(崇神天皇)の三輪(半径3)の五十瓊玉

 V'=113.0973355
 V =113.0973350=113.097335 :1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位

この即位年月日の年数はみかけのものであり、実年代はVの右辺の三分にて
097と335との差−1によって決まる。すなわち

 −97+335=238年
 238−1=237年=景初元年=崇神即位の真の実年代

このことから卑弥呼の活躍年代は崇神の代であることになり、景初3年=239年
は崇神即位3年なのである。Vの右辺の数字の3分は3倍暦を示唆している。
いま当時の1ヶ月が4週間の28日の時代があったとして、12ヶ月分を考えると

 28×12ヶ月=336日  → 28×12ヶ月−1=335日

となり、右式の右辺は先述三分の中間の数値335にプラス1としたものなのだ。

Vの右辺三分の先頭数字113において、これを日数とみなして3倍−1とすると

 113日×3−1=335日 → 365−335=30日 (閏月分か?)

であり、ここでも関係数字の日数が出る。

683 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/30(日) 14:36:31
>>682 訂正
× 右式の右辺は
○ 左式の右辺は

684 :縦目仮面:2009/08/30(日) 14:50:11
>>681
>すべてが編纂時の創作とするのも行き過ぎと思います。

それは、もちろんそうなんですが、5世紀なら5世紀、6世紀なら6世紀の、そのエピソードが
まとまったときの事情というものが幾重にもにも入り組んでる感じなんですよね。例えば上に
書いた676の蘇我氏の話にしても、蘇我本家の誅罰は天智天皇の事績であり、石川氏の残
っている8世紀時点ではピントのずれた話になると思うんです。



685 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/30(日) 14:54:34
374 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/25(火) 14:35:16
>>682
あれはカルト狂のホツマ至上とする唐松山の論戦用だよ。


686 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/30(日) 14:58:52
>>685
カルト・ホツマ狂のオマエ用だよ。ww
ただ傍聴者も読んでよい。

687 :縦目仮面:2009/08/30(日) 15:08:45
続き
だから、記紀の記事を素直に読む、というのではなくて当時当時の事情を考慮して裏読み
していくことが比較的確実な方法とも考えられます。

例えば欠史八代でいえば、開化天皇については、都は春日率川宮で奈良市内の率川神社
が比定地であるものの、神社の創始は推古元年(593)で、開化帝と直接の関係はなさそう。
御陵は春日率川坂上陵で、宮内庁は同じく奈良市内の念仏寺山古墳に比定。これは約100
mの前方後円墳で、5世紀頃の埴輪片の出土があったといわれています。

前に読んだ鳥越憲三郎氏の「神々と天皇の間」では、大和平野の北端に都が置かれたのは、
山城国南部を流れる木津川の利用および山城国への政治的進出を企画してのことと説明が
あり、確かに后は物部氏の女、妃は丹波の女(竹野媛)ですが、これは有力豪族の系譜と皇統
をつなぐため、4世紀あたりに後付けされたものである可能性があるかもしれません。


688 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/30(日) 15:11:45
>>682 再訂正

× 三分の中間の数値
○ 三分の右側の数値

689 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/08/30(日) 15:37:59
縦目さんは書紀の年代などは完全な創作、という感じですかね。
私はもう少し書紀を信頼してもよいかと考えています。
「一書に云う」とする多くの異伝の併記、
「後勘校者知之也」という繼體天皇紀最後の一節など読むと、
編纂者はそれなりに謙虚な態度で書いている印象を受けるのですがね。


690 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/30(日) 15:47:15
創作すれば公文書偽造罪で舎人親王らはしょっぴかれる。首を
かけてそんな危ないマネはやりっこな〜い。創作とは縦目の創作
だということなのだ。w

691 :縦目仮面:2009/08/30(日) 15:47:18
年代がすべて信用できないということはありません。ただ、欠史八代も含めて、干支があった
と仮定しても、文字のない時代の情報がどれほど正確に伝わるだろうか、という疑義がどうし
てもありますね。

692 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/30(日) 16:09:08
>>686
それで どう使うの?


693 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/30(日) 16:12:04
縦目仮面さん 倭人伝が読めていないよ、
文字を持たないのは、松浦辺りまでの庶民。
良く読み直してごらん。


694 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/30(日) 16:15:09
どうもクソもない。w
崇神即位の実年代は237年だということが分かる。カルト・ホツマ狂
はこれにて盲象だとハッキリした。ww

瓊玉の丸薬はオマエの妄想をさまさせる遅効薬。www
ほかに特効薬はなし。

695 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/30(日) 16:20:18
自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津捜露傳送文書賜遣之物詣女王不得差錯
このうちの
傳送文書賜遣之物詣女王不得差錯
ここに文書を送っても間違いが無い。と書かれている。



696 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/30(日) 16:29:54
>>695
公平に見て、これは点数がつけられる。

697 :縦目仮面:2009/08/30(日) 16:38:38
>>695
それは、文章を読み書きできる人は当然いたでしょう。当時半島と列島の境はないも同然だった
でしょうから。しかし、当時の出来事が干支として文書(木簡等)に記載されていたと仮定しても(そ
うは思いませんが)、記紀編纂時まで正確に伝わるというのはかなりのハードルの高さですよ。

698 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/30(日) 16:40:14
>>694
それで v=何とかは、何時誰が西暦を隠すために使ったのですか?


699 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/30(日) 16:44:40
>>698
それでホツマの日数はいつ、どこで、どのように作者が拾ったのか?
またなぜ紀と大して変わらんのか?

700 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/30(日) 16:58:17
>>968
ホツマの作者とは 臣 三輪李聡 ですか? この臣は 官 伊支馬
同様これは天皇ですか?

いつ、どこで、何のために三輪という名なんですか?

701 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/30(日) 17:00:31
あぁ間違いですな? 「臣 三輪季聡 」ですな?
この方も天皇ですか? 倭人伝の誰に当たるんですか?

702 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/30(日) 17:27:35
ホツマはたたねこと鹿島と書かれています。

さあv=何とかを説明して下さい。


703 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/30(日) 19:01:21
>>702
書かれている? これは三輪という人なんですか? なぜ三輪というんでしょう?
いつ、どこで、どのように、どうやってこれを作ったのですか?
ちょこんと言ってるんではわからんね?
さあ一筆ではね〜? 何とか三輪等を説明して下さい。

704 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/30(日) 19:43:30
>>703
あんたホツマ伝持っているんでしょ、読みなさいよ。
それに比べ v=何とかは、資料を書き込んで戴ければ自分で読んでも良いですよ。

提示出来ない資料でどうすんの?


705 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/30(日) 21:09:24
な〜〜んだ、オマエも答えがないではないか?ww


706 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/30(日) 21:38:51
>>679 >>680 >>682 >>683 >>688 続き
五十瓊尊(崇神天皇)による五十瓊玉(丸薬)の体積V'は、

 V'=113.0973355

この数値 天津菅曾を本刈り断ち末刈り切りて(右辺の先頭桁1と最末桁5を
切り払って)

 V'=1 | 13.097335 | 5

はタテ線の針を入れて八針(実質八桁)に取り裂き、内部八桁の数字Uは

 U=13.097335

ここで13を年数としたとき 13×3=39年 の39年が通常メリットとなる。崇神
当時の39年は3倍暦のため、現今の13年となる。
Uから、3倍暦の崇神(垂仁)の代は元年から39年までは積極的祭政行動の年
なのであろう。翌40年以降は消極的非活動の年であり、この時代は特段の事情の
ある場合は積極的活動を執行するが、通常事はソッとした静的時間を過ごして
活動を控えていたようである。

だから紀でも秀真伝でも、39年を超えた40年以降は特段の事象がない限り記載
がなく(記載が少なく)、これが年後半の記事の少ない理由なのであろう。

秀真伝垂仁の条には二個崇神39年の記事がまぎれている。これなど崇神の条に
入れればいいものの、垂仁の条に書きこまれているのは、このへんの消息を
物語っている。年代後半の記事が少なく見えても、3倍暦だから空白年は1/3に
なるわけで、べらぼうというほどでもない。しかし記載は、後半にては物足り
ない目立ちは感じる。それでも視覚的に実質1/3で観察すべきなのだ。

要点は39年は3倍暦で13年であり、Uの小数点上二桁の13がこれを示唆している。

707 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/31(月) 13:48:42
>>706 続き
【天津金木の運用】

三輪(半径3の円)から同半径の球の表面積Sは

 S=4×π×3**2 (**は指数でここは3の2乗の意味)

 4×π×3**2=113.09733552923・・・ (同半径の球の体積と同値)

天津金木とは公式とこの計算結果をいう。天津金木の金は下式の左辺で公式その
ものであり、木は右辺の計算結果を各 表す。天津金木を本打ち切り末打ち断ちて
とは、前者の下式の冪数2の前を分断すること、後者の小数点11位以下2923・・・
と同10桁とを分断し、Sを有限小数とすることを言う。
千座の置座とは右辺に千の位たる整数第四位を設定することで、この場合は0を
置くこととなり、分断は明確に両辺が等号で結ばれないため、不等号で

 2≠0113.0973355

と書くこととなるが、この不等式が大祓い祝詞の
「大中臣 天津金木を本打ち切り・・・・・千座の置座に置きたらはして」
を遂行した式となる。

ここに於て不等式両辺からは

 201年1/3 誉田別尊(應神天皇) 立太子

の数字が見つかるのだ。

708 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 17:47:11
↑煙に巻く、としかいいようのないレス。

709 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/31(月) 19:11:48
玉手箱か〜。w

710 :むにょら書記:2009/08/31(月) 19:44:18
なんとかのミコト

711 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/08/31(月) 20:01:30
浦島の玉手箱なら急に年を取るが、
2枚舌3倍暦は、むせるだけ。


712 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/31(月) 20:54:49
オマエは畿内兼九州説の典型的大二枚舌だな。ww
まるで蝙蝠のように鳥だか獣だかハッキリしない。畿内が都合悪いと九州説に
鞍替え、そして九州が都合悪いと畿内に鞍替えだ。ww
いつぞやも男と女説のこっそり並存での二枚舌をやってたな。オマエのやるこう
いう行為をこちらがさもやってたようにスリ替えるのがオマエのイカサマ
常套手段の詭弁舌。ww

713 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/31(月) 22:09:58
>>707 訂正
× 10/2 201年 誉田別尊(應神天皇) 立太子

上は目が悪いので誤りました。203年なので間違いです。大幅に
以下の通り訂正します。

三輪は開曲線のヘビ形と違い閉曲線なわけですが、これを数式でも
同様に閉じるのです。半径3の球表面積Sは 4×π×3**2 で天津金木

 4×π×3**2=113.09733552923・・・

の本打ち切りとはπと3の間を切断する。末打ち断ちは右辺全九桁式
で5と5の間を切断する。そして天津金木を千座の置座に置いた式は

 3×**2=0113.097335

で右辺10桁となる。先頭 本の3と末の5を繋ぎリングとすれば、
末の35⇔53を使い、逆読みで

 10/2 353年 神功皇后 摂政皇太后(実年代:倍暦計算)

を得る。

714 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/31(月) 22:13:58
>>713

誤 3×**2=0113.097335

正 3**2=0113.097335

715 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/08/31(月) 22:24:01
「千」と「4」の数字は不思議にも形状がよく似ている。
「誉」はヨ(4)とも読めるな。

右辺 4×π×3**2 の(πは別として)4と3の間はヨミ(黄泉)国
での千引き岩の岩盤なのか?

716 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 23:48:02
コテハン連中って、こういう言葉遊びや数字遊びみたいなことやってるから、
電波扱いされるんだよな。

本人たちがネタでなく本気でやってるとしたら、痛いとしか言いようがない。
リアル厨房ならまだしも、けっこう年食ってそうだし・・・

717 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/01(火) 10:08:13
>>716
それは強度妄想病とカルト編年・治療丸薬です。一般の方にこの薬を飲むのは
いいが、ついて行けないのは分からんわけではないです。ですが忌み嫌わず、
否定に終始せずに参考にされたい。

718 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/01(火) 10:57:07
>>716
崇神紀での三輪とは半径3の円のことだと考えています。これの球化
で、同半径の球の表面積Sと体積Vは同値であり、

 S=V=113.097335

となります。右辺は三輪の三にかたどり、数値の三分を行えば、
113 097 335 ですが、113は崇神即位の月日数1/13を意味し、
097=97は崇神即位のみかけの西暦年の示唆です。

そこで

 1月13日 B.C.97年 崇神天皇 即位

が得られますが、この年数はみかけの年であり、実年代は残りの三分
の 335 の差−1 によって得られます。故に(符合逆 和の計算で)

 −97+335=238年
  238−1=237年=景初元年

の237年が崇神即位の真の実年代です。

719 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/01(火) 17:35:57
>>718
日付は使えるのか?


720 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/01(火) 18:00:51
>>719
オマエのホツマツタヱは崇神即位月日が 1/13 でないのか?

721 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/02(水) 22:06:02
>>720
ほ〜3倍年は、書紀の暦を否定した処から始まっている。
崇神即位のみ正しいハズがない。
しかも崇神即位の数字は、太陰暦だ。


722 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/02(水) 22:54:37
オマエの持つホツマツタエは崇神即位月日が違うのかいな?pp

723 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/02(水) 23:02:40
1月13日が太陰暦の数字かの確認だ。


724 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/02(水) 23:23:17
三輪(半径3の円)と同半径の球化での球(瓊玉)の表目面積Sと
体積Vは

 S=V=113.097335・・・・・(1)

で求められる。先述のとおりの数値の三分で、113 は崇神の即位月日
を意味し、次の三分値 097=97 はB.C.97年で崇神のみかけの即位年
を意味する。最後の三分の 335 は実年代との差を意味し、最後に
−1年の計算にて真の実年代が求まる。差を逆に和で計算して

 (−97+335)−1=237年=真の崇神即位年=景初元年

を得る。

(1)の右辺の崇神即位年月日数は逆に読んで、790があり、

 皇紀790年=景行天皇 崩御

また、順読みではその中に

 西紀130年(みかけの年代)=景行天皇 崩御

が存在する。いずれも 景初元年=237年 とは景行天皇が直接関係が
ないことを示唆している。

725 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/02(水) 23:25:53
>>274
v には、未だ使われていない数字が無限大にある、
日にちの数字も割り出した方が良い。


726 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/02(水) 23:35:43
>>724 続き
先の三分とは別に、(1)には三数309に塞がれてその数の左右数に
より

 垂仁37年 1/1 大足彦(景行天皇) 立太子

が成立できないでいる。309数が妨害している。このことは景行天皇
が 237年=景初元年=崇神即位年 とは直接関係できないことを
物語っているのだ。

727 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/03(木) 20:15:58
v=何とかの話は、先に進まないので、置いといて、

暦の数字も度量衝と見ることも出来る

太陰暦の1年なら354日、とか384日の数字を1月1日から数え12月大晦日までを
1年と呼んだ。
だから
1年(354日)=2年(354/2)の2倍=3年(354/3)の3倍=1年(354日など)
これでは、度量衝にならない、別の単位が必要だ。
ところが 何処を探しても太陽暦の1年位しか無い。
依って 「複数年=1年」は誤りである。

書紀は、太陰暦で書かれているが、特異な特徴がある、天皇等の寿命が著しく長いのと
殆どの日付に朔が添付されている。
この二つを勘案するに、「圧縮するには、太陰暦を尊重しろ」では無いか?

 

728 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/03(木) 22:00:54
君が何と言おうと、天津金木、天津菅曾は崇神紀もホツマの崇神の条も月日
は即位に関し変わりやしない。君のどこかに大きな考えの誤りがあるんだよ。

それに天津金木、天津菅曾を眺めると、崇神即位年月日と重複して景行崩御年が
皇紀790年=西紀(みかけ)130年 として存在する。景行即位年月日はこれらに
は存在しない。ということは君の盲象だということが観てとれる。早く目を
覚ましたほうがいい。つまり237年とか239年ころは景行の代とは直接関係がない。

729 :後藤幸彦:2009/09/05(土) 23:04:03
近頃、皆さんの活躍もあって、年代の研究者の中で、倍暦をつかって年代を割り出そうとする動きがでてまいりました。
そこで倍暦を更に普及させるために、倍暦普及協会(仮名)を立ち上げようと考えています。
とりあえずは準備委員会を結成したいと考えております。

730 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/05(土) 23:07:59
成功を祈る。なお唐松山は否定者だから入会はないね?

731 :後藤幸彦:2009/09/06(日) 00:04:15
早速の激励ありがとうございます。

732 :ユッキー:2009/09/06(日) 19:13:45
皆さん教えてください。

次は、日本書紀、古事記にある安閑〜推古までの天皇の没年です。これから見て、
安閑天皇までは、書紀編者の作為はなく、書紀の記述のとおり、年代に大きな違いはない。
この時点までは、とりあえず、遡ることができる、と見ていいでしょうか。
古事記にないものは、日本書紀のとおりとしておく。敏達は日本書紀のほうが1年遅いが、
公式記録として、日本書紀を尊重する。


天皇 書紀 古事記(西暦)

安閑 乙卯 乙卯(535)
宣化 己未   (539)
欽明 辛卯   (571)
敏達 乙巳 甲辰(585/584)
用明 丁未 丁未(587)
崇峻 壬子 壬子(592)
推古 戊子 戊子(628)

皆さんいかがでしょうか。



733 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/06(日) 19:46:25
欽明即位は一般に言われているはずの539年と観て可でしょう。ただし12月即位
ですから実際には540年だともとれますが? そこんところは若干研究外なので
それがしの興味は薄いです。571年はまず間違いでしょう。なんだか天皇ご一代分
ズレてはいませんか。

佛伝以前では倍暦使用があったと観て、通説どおりではないですな。宣化の時代
がだいたい境界線です。

734 :サガミハラハラ:2009/09/06(日) 21:59:40
そうですね。それでよろしいです。
ちなみに継体没年は533年です。紀の531年は間違いです。

735 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/06(日) 23:12:36
過去に論述したが繼體の時代は二倍暦を行使していたのだ。これは
紀の繼體の日数統計表から覚知出来る。表を眺めれば月の後半の日々
がまるでない。ただ特殊な記述たる文が二つあるも、これは先帝の
代の通常暦の日と百済の記述からこれも通常暦での日であり、月後半
にあるのは当たり前だということだ。その他は総て月の前半の記事
ばかりであり、ここから当時二倍暦法をやっていたことが伺えるので
ある。しかしこの2倍暦法に加えて補助的というか裏というか、蔭で
通常暦もさらに過去でやっていた3倍暦法も並行して行使してたの
である。それが伺えるのは以下の文

繼體紀の繼體二十年の条

「二十年秋九月、丁酉の朔にして己酉の日、都を磐余の玉穂に
 遷しき。一本にいはく、七年なりといへり。」

繼體即位元年は通説507年のところ実年代は521年なのであり、
同二十年は通説526年で実年代(2倍暦)530年だが、3倍暦だと
繼體七年なのだ。一本とはなんとか本紀のことか? 別説が書かれて
おり、これは3倍暦行使の消息が観てとれる。

736 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/07(月) 11:26:31
>>735
ということは、繼體二十年の記事は、併記の同七年の別説でも真で
あったことが分かる。先帝の代に上るとこのへんで通説と14年の段差
が出来ていて、これが後代佛教伝来538年説と552年説ができた事情
だと考えられるのだ。すなわち

 552−538=14年

であることから、武烈手前ころの代での倍暦からの14年差がこういう
上式での14年差の二説になった原因なのであろう。真は538年のところ
暦法の相違からの別説の原書が存在して、552年に引き下げた結果の
ことと想う。こういうことを唐松山の論ではおそらく説明できないで
あろうから。奴もまだ合理的説明をしたためしはない。

さらに梁書の永元元年(499年)の乙祁(顯宗天皇)の通説485年即位
の14年差もそれがしの論では合理的説明ができるが、唐松山はこれ
に関しても自ら15年差として、その合理的うなずける説明がいまだ
しないでとぼけている。だから無理なうっちゃりをして、盲象の
うっちゃり反論に終始する。ww 彼の論がデタラメだからだ。

737 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/07(月) 19:25:42
日本の記録として
>武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に…

この話がある。この話は墓誌からも確認出来るので、動かせない。


738 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/07(月) 19:45:55
どのように墓誌から確認できたのか、相変わらず毎回中途半端な君の
得意の説明不充分のやり方だな。w

墓誌に何年どのように誕生したのか? そういう説明がそこに皆目
説明してないではないね? それにそんなことがあるんなら、とうの
昔にこちらに君は反論してるだろうが?

なら君のいつでもやらない具体的説明を今度こそやったらどうだ?

739 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/07(月) 19:52:57
サガミハラハラさんよ
どのような協会を作るのかね? 単に会でなく協会というからには、
けっこうデカいものにするのかね? 具体的に知りたいな?
また倉西女史はどうすんの? 彼女は少々九州に関してだったか、
肯定してた気配があったが? 盲象の唐松山は否定者だから入会
するわけないしね・・・。

740 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/07(月) 19:55:27
「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」

墓誌に誕生日が書かれていないからウソだというのか?
没年から逆算してくれ。

最低でも、書紀編纂者が墓誌を見ることは無い
百済記に誕生のいきさつも載っていない。


741 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/07(月) 19:59:15
そこの523年も書かれていたんか?w そうするとそのときは西暦は
彼らは知ってたわけだね?ww

まあいい。どうせそんなものは白黒が後日つく。

742 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/07(月) 20:03:19
>墓誌を見ることはない
ほほ〜ぅ。そうだな渡海のため金まで使って船と熟達の渡航操縦でき
る人物と飯、水を用意せねばならんからな。ww

743 :ユッキー:2009/09/07(月) 21:11:52
皆さん教えてください。

>宣化の時代 がだいたい境界線です。
ということは、安閑崩年(宣化の幕開け)まではOKですね。
では、継体です。

繼體即位元年__通説507年_実年代521年
大和入り20年_通説526年_実年代530年(2倍暦)_ 繼體七年(3倍暦)
継体崩年25年_紀=531年_実年代533年

>ちなみに継体没年は533年です。紀の531年は間違いです。
一層のこと、紀分注のとおり、甲寅年の534年ではだめですか。

継体20年が3倍暦で継体7年であれば、継体即位年は523年?(530-7)
継体20年が2倍暦であれば、継体即位年は520年?(530-10)

>「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」
は継体17年で、書記にも記述がありますね。l

継体没年にいたっては、527,531,533,534年とあります。
どれが、合理的に説明がつき、万人が納得のいく年代でしょうか。



744 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/07(月) 21:24:27
3倍暦とは、234日+234日+284日=254日+234日+284日
この数字が信じられれば使っても良いが、書紀で書かれた数字を全て捨てる必要がある。

自分の信じられる年度の干支を使うと隙間は出来るが、干支を捨てる必要は無い。


745 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/07(月) 22:32:25
>>734
>継体没年は533年
正解、同意です。

>>737 >>740
>雄略天皇紀5年(461年)・・・動かせない
>六十二歳・・・(523年)
まぁ、かぞえ年と満年齢の違いくらいはいいだろう。
君は相当脳内が狭小に出来ているのかねぇ〜?w いいかい〜忘れてるんか?

雄略天皇の宝算

 古事記   124歳
 日本書紀 62歳

これは2:1の比である。雄略当時通常暦の他に2倍暦法が並行に行われていた文証
だ。半島の連中はまず倍暦を知らないから通常暦で歳を計算する。日本書紀の
編者連中も同様だからそのままだと通常暦で紀を編んだ。しかし氷山の一角の
ようにこういう62歳という歳(←武寧王でなく雄略)が1/2で残っているわけだ。
だから紀の雄略5年から計算して、武寧王のは通常暦での年齢となるのは当然な
わけだ。

これでは動かないにはならんぜ。www
同王の生存年数を編者らが通常暦で逆算して、雄略5年に入れたのだろう。
ちいともおかしくはない。繼體の代でも倍暦に並行して、蔭で武烈以前の通常暦
を使用して、書いた原書があったと観てよい。これで同5年でも辻褄が合う。

746 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/07(月) 22:54:38
>>743
>安閑崩年(宣化の幕開け)まではOK
朝廷の天皇の面前での暦法すなわちメインではそうですが、家臣とか
それ以下の一般では、繼體から安閑の代までのこの朝廷の2倍暦以外
に通常暦も場合によって3倍暦使用も居残ってた事情を看過でき
ません。ですが繼體〜安閑世は朝廷公式使用の2倍暦を主題として
ればまずよろしいです。三段の紀年の数字はそのとおりとなります。

>534年
即断は出来ません。諸般の事情で1年違うことが研究上大いに
あるからです。何らかの事情が533年から1年ずれたと言える場合が
生じますので、単に捨てるわけには参りません。だから533年のところ
534年は保留としておくべきです。

以下の文ですが、実年代繼體即位は521年、同崩御は533年の計算結果
が算出されます。

747 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/08(火) 13:55:02
>>737
>動かせない

「古田史学会説」(NO.31)によると
1998年9月、古田先生は武寧王陵へ行き、碑面の字の改刻痕跡を発見した。
「癸卯」とあるところ、その翌年の「甲辰」とあったものである。

こんなことがあるのに動かせないとは、また君の思慮が浅薄すぎないかねえ?w
なんでこんな改刻文字になってるわけ?w

748 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/08(火) 14:18:57
>なんでこんな改刻文字になってるわけ?w

決まっているでしょ。百済人のやることはこの程度。
だから私は、百済本記より新羅本記を信ずるんですよ。
百済本記にすり寄っても、裏切られるだけですよ。
現在の歴史感は、太国さんを初め皆さんすり寄っていますから。

武寧王の場合1年程度の誤差だからこのまま受け入れるのが得策かと。


749 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/08(火) 14:28:08
百済本紀でなく、君が「墓誌」と言ってたんだろうが・・・。pp
君のデタラメ抗弁の得意技だ。ww

750 :愛知県民:2009/09/08(火) 18:28:01
隋書によると、新羅の始祖は海から逃げた百済人という。
梁書によると、新羅王の姓は募と言った。

751 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/08(火) 18:37:54
「墓誌」だけで話をすると、日々の干支は、癸卯年になります。

新羅→百済→扶余=高句麗
高句麗が新羅、百済を配下と思うのも尤もですね。



752 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/08(火) 19:16:13
日々の干支でなく年の干支の書き方ではないか?w

753 :ユッキー:2009/09/08(火) 20:02:21
皆さん教えてください。

皆さんありがとうございます。
それでは、継体没年は533年としておきます。
安閑元年(534年)正月には都を大倭国の勾金橋へ遷しているので、前年を
没年とするのもいいと思います。ただし、前年でも年末頃は、西暦では
534年かも知れませんが、陰暦では、甲寅の年の前年、癸丑の年です。

次は武烈ですね。書紀では、507年、519年が考えられますが、
少し、勉強してから、また訪れます。
よろしくお願いします。


754 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/08(火) 20:49:38
「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到」
この数字から癸卯年を削って翌年の「甲辰」を差し込んでも、日々の干支が翌年でないことを主張する。


755 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/08(火) 21:45:13
>>754
いずれにしろ>>745でもうOKだな。君のはいつ読んでも具体性がなく中途半端
で説明が終わる。だからさらに信用が無い。

756 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/08(火) 21:54:37
何でもご存じの太国さんに、事細かに説明しても
くどくなるだけと了解しています。


757 :愛知県民:2009/09/09(水) 12:31:20
隋書によると、百済の始祖は仇台といい、帯方故地に建国したという。

758 :愛知県民:2009/09/09(水) 19:50:15
隋書は帯方郡滅亡後の百済王仇台と設置前の夫余王尉仇台を間違えたか?
二人の仇首王の謎・・

759 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/09(水) 20:09:59
夫餘はもと玄菟に属す。漢末、公孫度海東に雄を張り、外夷威服し、
夫餘王尉仇台さらに遼東に属す
BC 18 温祚王即位オンソ(扶餘王の次男とされる 慰礼城、現ソウル市付近)

前漢の末百済国を建国?


760 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/09(水) 21:00:03
百済記より
義熙中、以百濟王夫餘腆【佗典反】爲使持節、
義熙(405年-418年)
405 腆支王即位テンシ(直支、映、枕流王の子)
409 倭国の使者が夜明珠を送る 厚く礼遇する(夜明珠の意不明)
416 東晋の使者が王を鎮東将軍百済王とする (414 広開土王碑)

腆が映になっている。違う人間だと思ったが?
廿五年 百濟直支王薨 即子久爾辛立爲王
この辺は、書紀の治世年数と合わない。



761 :愛知県民:2009/09/10(木) 04:15:53
521年、梁に朝貢した新羅王募秦は法興王でよいのか・・?

762 :愛知県民:2009/09/10(木) 04:42:38
564年、北斉に新羅王金真興が朝貢。

763 :愛知県民:2009/09/10(木) 12:25:59
594年、隋に新羅王金真平が朝貢。
先祖は海から逃げた百済人。

764 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/10(木) 18:26:50
百済本記の編纂には、日本書紀が使われたのではないか?
百済本記と日本書紀は、下記の様な関係にあります。

346年1月丙申朔 百済本記 近肖古王即位の年
300年 皇暦887年1月丙申朔 神功27年、肖古王即位
326年 七支刀 神功52年では1年の狂いがある。
この時代 百済は、南朝に朝貢していたので、七支刀を鋳造する機会はある。
日々の朔で合わせた。

同じように古事記の干支を西暦に合わせた為、雄略124才となる?

雄略天皇124歳 これを出雲暦で計算する。
没年は、西暦489年 己巳年1月丙午朔の年
出雲暦の始まりは、西暦93年 皇暦186年癸巳年1月丙戌朔
出雲暦は、伸長されずに使われてきたが、雄略崩御年では、加増により数字あわせがおこなわれた。
皇暦658年戊午年1月丙午朔 ←この朔を日々の干支合わせに使うと。
皇暦659年己未年
西暦で 489−93=396 現実の時間経過
皇暦で 658−186=472 数字あわせのための時間経過を含む
472−396=76 数字あわせのための年齢加増分
124−76=48才 雄略天皇崩御時の加増分を含む年齢?

年の干支は、合わないが日々の干支は合致する。


765 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/10(木) 19:25:55
唐松山のは読んでやらねえ〜。

766 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/10(木) 19:41:01
<唐松山の毎回のゴリ押し強行大盲象>

@ 日食が数日間続いた。
A 天皇は臣であった。
B 七支刀の銘文の元号がノギヘンのところノギヘンでない年号使用。
C 空腹の農民千人が畿内から無渡航技術、渡海無経験で山口県と
   北九州の間及び北九州と半島の間の日本海を大船の調達もでき
   ない上、まだ畿内に天皇も乗ったことのない船無製造の時代に
   軽々と大量人数で無事に荒波を越え半島に渡った。wwwww

767 :愛知県民:2009/09/10(木) 20:04:34
新羅王家の金姓は、金官国を真似たのかもしれない。

768 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/10(木) 21:48:39
赤玉さん 私の書き込みなんか読まなくて良いから
2枚舌3倍年で、「歴史」を読んで下さい。


769 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/10(木) 22:33:43
オマエこそ二枚舌だろうが。bbb
畿内説だと思ったら一言九州説ですの鳥か〜二言目蝙蝠かハッキリしないイカサマ
二枚舌論説だな。バットマンも驚くわけだ。www wwwww

オマエのマシ年とか出雲暦など読んでやらないぜ。それとも具体的説明致すの
かね? そういうことなら読むのもやぶさかではなかろう。www
しかし今までイの一回もそんなことはなかったからねぇ〜。ppp

770 :愛知県民:2009/09/11(金) 07:01:22
新羅と百済について、大陸文献と半島文献の相違は深刻。
世界史板の対象か?

771 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/11(金) 11:08:33
>>766
このように、おや? おかしいぞ?? と思う不合理が4つとも見え隠れして
いる。これは赤松山の論説がもともとホツマ景行重視狂に染まって景行至上に
させてる極めて強固な盲象意思を貫いている事からの〜その重視の意思が間違い
であるということを物語っている。1個不合理が見え隠れするのならまだしも
(それでさえ誤であるわえだがそれはいいとしても)、4つもこういうあら?
変だぞ?? という通常の誰でもがありえない状況という不審点が4回も起こり
うるということは、もう赤松山の当初からの景行基点説が全然成立しないという
ことを思い知らされるものなのだ。www

それでも赤松山はなかなか盲象が消えないのは覚醒剤の副作用とそこから離脱
できないことと似ており、今後も先述の4点を2ちゃんに書きこみ、盲象を
大麻の煙の如く、悪臭のように広くばら撒く事だろう。その弊害は計り知れない。

772 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/11(金) 11:10:34
× 誤であるわえ
○ 誤であるわけ

773 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/11(金) 17:56:15
>>766
は、赤玉産の主張でしょ。
3倍年なら、正しく読めるの?
一字一句読めないのが「3倍年」の特徴。
他人の説を否定することは出来ても。自説を主張出来ない。
出来たと思ったら「赤玉」の放出だ。 赤玉の放出は男の最終章だから
次は三途の川か?


774 :縦目仮面:2009/09/11(金) 18:06:08
ははあ、太国さんもついに逝きますか。三途の川の渡し賃は六文、六道銭ですが、太国さん
なら、天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄のどこですかね?

775 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/11(金) 18:35:11
縦目仮面さんよ
そんなことより紀年でも論じなよ。盲象の赤松山に騙されないようにな。

776 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/11(金) 20:32:47
赤松山なら松茸がいいな。


777 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/11(金) 21:59:36
三輪(半径3)の球化(同半径r=3)の体積Vと表面積Sの値、丸薬 金丹は

 V=S=4×π×r**3/3=4×π×r**2

すなわち

 4×π×r**2=113.09733552923・・・・・

この等式を天津金木という。左辺が金、右辺が木に相当する。

天津金木を本打ち切り末打ち断ちてとは、左辺の**(ベキ)と2の間(本)を
分断することと右辺の55の数字の間(末)を分断して、左辺はr手前を取り去り
右辺は5以下の小数点下を除去して有限小数化することである。千座の置座とは、
右辺の先頭桁(整数第四位:千の桁)を設定することで、この場合0を置くことを
意味する。すなわち

 2≠0113.097335

となり、右辺は千位の0を含めて全10桁となる。

778 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/11(金) 22:07:28
>>777
数学出来るんだw


779 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/11(金) 22:11:35
>>777 続き

 2≠0113.097335

この数字の本末を繋げたとしたときに、本末から

 533年2月(実年代) 安閑天皇即位(通説531年)

が得られる。しかし日付の7がない。よく観れば7は335の前にあり、
533年2月7日 安閑天皇即位数字は攪乱されていて不成立なのだ。しかし同日は
繼體天皇崩御でもあり崩御も攪乱されているから、三輪王朝がかろうじてこの
時代存立していることを示唆するものなのだ。

780 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/11(金) 22:13:23
丸薬 金丹が真球であったと
でその金丹は、男の最後の赤い玉に利くのか?


781 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/11(金) 22:20:19
唐松茸の質問にはもう答えないぜ。オマエも出雲暦とか答えないと
言ったろうが。

782 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/11(金) 22:29:52
>>779 続き 半径3の球化 丸薬 金丹は
天津金木(分断前)

 4×π×3**2=113.09733552923・・・・・

ここは先述のとは本の分断個所が異なる。
天津金木を本打ち切りとは左辺のπ×と3の間を分断することで、末
打ち断ちてとは先述同様55の間を分断することをいう。

千座の置座(千の桁:整数第四位)に数字0を置きたらはす。すると

 3**2≠0113.097335

先述同様本末の数字を繋いで

 10月2日 353年(実年代) 神功皇后 摂政皇太后

を得る。

783 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/11(金) 22:49:17
>>782
右辺(天津菅祖)は本が千位(整数第四位)末が5である。
天津神はイツ(5)の千別きに千別きて聞こし召す。

784 :改め ◆qexCkQtLcY :2009/09/11(金) 22:51:00
ん〜もっと少し難しいですよね

もっと分かり易く説明してくれたらうれしいのですが。


785 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/11(金) 22:57:39
>>784
だから天津金木とは

 4×π×3**2=113.097335

だよ。天津菅曾(右辺)は数字の三分(三輪にかたどる)で、

113は1/13で崇神即位の月日数、中の097=97はB.C.97年 崇神即位年
末の335は実年代を与えるもので、中の値との差をとる。ただし最後
に−1を行う。差の逆に和でやることとなり

 −97+335=238年
 238−1=237年(実年代)=景初元年=崇神即位年

を得る。zzzzzzzzzzz・・・・・・

786 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 10:21:57
雄略天皇、崩御時124歳?

雄略は允恭7年に誕生? 〜 雄略23年崩御
この間61年、数え年だと62歳?

倍暦支持者には都合のいい数字ではないか?


787 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/12(土) 11:53:19
>>786
雄略天皇の御世前後では2倍暦法が生き残って行使されていたと
いうことだ。しかし朝廷はそのころ倍暦を休止しており、通常の暦法
を編んでいたがそれは公式的朝廷中核でのことであり、蔭では過去の
2倍暦の時代の暦をそのまま継続して記録していた一部の者らが
いたことを物語っている。履中反正の代で2倍暦を朝廷中核で使用
しており、これが允恭安康と通常暦に戻した時代に2倍暦の継続での
暦を編み続けて2倍暦が残存し、それが雄略の代までも存続して
いたのだ。その氷山の一角が浮かび出たものである。

そういう文証を軽く拒否、否定してさらに欠史八代の日数統計表を
見ても日数は1日〜14日間までの2週間しかなく、当時の一ヶ月が
現今の半月だったことが綺麗に表から滲み出ている。こういう露見
している倍暦の文証を強引に否定しても、結局はその者の編年は
記紀に逆らい、盲象群の論説になるだけである。唐松茸はそういう
ゴリ押しをして倍暦を否定し、自らの信奉する景行絶対ホツマ狂の
カルトの脳内に汚染され、一見学術的論述をしているようでそれは
見せかけであり、カルト・ホツマ教布教のための活動の野望がこちら
には用意に伺い知れるのだ。それは覚醒剤、大麻に毒された脳内と
同様、その副作用禁断症状はひどいもので、カルト・ホツマの盲象
に染まった唐松茸の強行盲象はちょっとやそっとでは治らない。w

歴史読本8月号でも原田実氏がこういうホツマ景行絶対視信者らを
嘆いて酷評しているが、なるほどととそれがしは思うわけで、
彼の誤理押し信念強行の盲象は、実に実にひどいに尽きる。

788 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/12(土) 11:58:46
>>787 訂正
× 滲み出ている。こういう露見している倍暦の文証を強引に否定しても
○ 滲み出ているのにこういう露見している倍暦の文証を強引に否定しても

789 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/12(土) 12:25:31
>>786
古事記の問題は、古事記の中で考える。

何でもありで赤玉発射でぽしゃるより賢明。
もし雄略の実年が61才没なら、子供の出来ない清寧に繋ぐ意味が分からない。


790 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/12(土) 14:23:06
唐松山の論は、カルト・ホツマ教の景行ご本尊絶対により、とにかく
その年代が卑弥呼の時代と合わせねばならないという脳内のカルト・
教義ロボットの強行服従意念が、学術的とする仮面をかぶってこの
盲象教の布教の陰謀をしているのである。

以前奴は自説に合えば倍暦を認めますとか言っていたが、これは奴の
考えている景行ご本尊が卑弥呼と必ず合わせるんだという恣意的屈強
な盲象信仰心からの近日連立政権的妥協を主張しているのである。w

ところが倍暦からは景行の時代が卑弥呼に行かないため欠史八代の
日数統計表とかの明確に近い紀の内容をも絶対的に否定に回るわけで、
これがもし景行=卑弥呼の時代とかあいなれば、この表に対して
こんな否定には回らないだろう。こういう奴からすれば論、信仰
カルトの存否の利害観念が彼の脳を支配しており、それに反する証拠
が出てもこれまた絶対に否定(うっちゃりの繰り返し)に終始する。

しかし金丹 丸薬は相当効果があったらしく、しかしだからといって
軽く盲象が治療できうるののではない。盲象、ホツマ狂カルトの
マインド・コントロールの解けるのは一夕一朝には為しえない。

もう一つ奴の言う193年とやらの大海未経験 危険海域無知の百姓千人
が、軽々と日本海の荒波を越えるとかいう主張でも同年が崇神六年
だとか抜かし、当時は天皇も船にのったことのない船舶無製造の時代
であることが紀により確認できるわけで、この不合理を突いたことも
奴には相当のダメージがあっただろう。言い訳として、奴はそれがし
のせいにしてるくらい論の防衛に狂気の奔走していたようだ? まさ
に奴は正気の沙汰ではない。ww

791 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/12(土) 14:41:35
先述した金丹 丸薬の解説 天津金木 はさしずめ孫悟空の如意金箍棒
であって、その強固さは唐松山のカルト盲象強固さ以上に頑丈堅牢な
武器なのである。奴たる盲象の鼻の中に如意棒つ突っこんで盲象を
空中で振り回すのが、この棒の使命であると言ってよい。

西遊記 八百里獅駝嶺 の条に二大王をこの方法で妖魔を降ろす孫行者
の神魔小説の話がある。唐松山の妖説はこの金箍棒で一網打尽に
したいがまだ奥に一大王三大王がおり、なかなか妖魔の降伏は容易な
業ではない。象大王ら調伏にはまだまだ長い時間かかかるのだ。

792 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/12(土) 18:47:19
赤玉の次は、呪文を唱えだしたか。


793 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/09/12(土) 18:49:02
>>760
唐松山さん
>409 倭国の使者が夜明珠を送る 厚く礼遇する(夜明珠の意不明)

ホタル石=フローライト(蛍石)のようです。
ttp://ep.blog12.fc2.com/blog-entry-632.html

「夜明」は日田の地名にもあります。「夜開」とも書かれます。

794 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/12(土) 20:00:22
盲象大王を調伏する有難い蛾眉山の真に賢き有難い菩薩。

 南無普賢菩薩 摩訶般若波羅蜜

795 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/12(土) 20:13:12
ついに菩薩の域に祈るようになったか。


796 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/12(土) 20:28:36
どうせ唱えるなら、真言密系はどうだろ
アビラウンケンソワカ…ボーチソワカ。ちゅうやつ。


797 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/12(土) 20:39:14
娥眉山はマユツバ盲象を調教する普賢菩薩の道場。

 南無普賢菩薩


一大王は唐獅子大王ww 降魔の尊は五台山に坐します。

 南無文殊師利菩薩

798 :縦目仮面:2009/09/12(土) 20:54:25
wwww

799 :ユッキー:2009/09/12(土) 21:34:07
皆さん教えてください。

武烈の没年について少しだけ勉強しました。

書紀から507年と519年が考えられます。
まず、507年を考えてみます。
武烈の両親は仁賢と春日大娘(雄略皇女)で、第6子となっている。
姉である第3子(手白香)が継体皇后、第5子(橘仲)が宣化皇后である。
仁賢の大和帰国は、清寧3年(482)なので、翌年から年し子で6人続いても武烈誕生は488年、1年おきだと、493年。
仁賢7年(494)には武烈を皇太子としているので、その時点で、1〜6歳。
治世8年(499〜506)として、没年齢は13〜18歳となる。
問題は次の点
○継体元年(507)、継体は手白香を皇后に迎えているが、当時の年齢は継体が58歳、手白香は
生年484〜487年として、20〜23歳。年齢差が気になる。また、20年間大和へ入らなかった
(入れなかった?)のに、即位頃に、大和にいた手白香を迎えることは可能だったのか。
○宣化と橘仲の間に5子あり、第1子(石)が欽明皇后。橘仲の生年は(487〜491)で、
継体即位頃は、16〜20歳、20年後の大和入りの頃だと35〜39歳。宣化との結婚はいつか。
539年頃48〜52歳で、第5子(乳飲み子?)と共に亡くなっている。
宣化も539年73歳で崩御。年齢差と高齢出産が気になる。
○欽明の誕生が508年頃とすると、即位時は32歳、これでも「年若干」で叔母に頼らなければ
ならない歳か。迎えた皇后(石)の年齢は継体即位頃の出生だと、欽明と同じ位だが、
大和入りしてからの出生だと、14歳位。
欽明天皇の没年齢は63歳、これでも「年若干」か。
(続く)


800 :ユッキー:2009/09/12(土) 21:34:57
皆さん教えてください。
つづいて、武烈の没年519年について考えて見ます。

継体の大和入り、継体20年(526)と継体7年とは同一年(526)と仮定してみます。
すると武烈没年は519年となり、継体元年は520年となる。それを元に遡ると、
武烈元年=512年、仁賢元年=501年、顕宗元年=498年、清寧元年=493年となる。
すると、仁賢の大和帰国は、清寧3年(495)。
継体即位時(520)の年齢は継体71歳、手白香は生年(498〜500)で、20〜22歳、
橘仲は生年500〜504、継体即位時で 16〜20歳、大和入りの頃は22〜26歳、没年539年時は35〜39歳。
欽明は誕生521年頃で、即位時は19歳(若いと言えば言えるかも)、没年齢は50歳(若いとは言えない)。
継体没年時欽明は、12歳、クーデターや2朝並立など自らの意思では無理。
欽明皇后の年齢は欽明即位時、欽明と同じ位か14歳位。
なお、継体、安閑、宣化の父と連れ子の年齢が531年82歳、535年70歳、539年73歳と3人とも高齢だが、
越前にいた頃の記録ではなく、自己申告? 都合のいい解釈だと春秋年暦で数えていた?
すると、安閑、宣化は35歳、36歳、生年は500年、503年、継体即位時20歳、17歳? 
継体は安閑誕生時、仮に24歳位だと、即位時44歳、没年齢57歳となる。生年は476年頃。

継体は40台半ば、樟葉で即位(520)。5年(524)筒城へ移動。7年(526)磐余へ入る。
12年(531)弟国へ移動。2年後(533)実際は弟国で崩御、それ故、大和ではいつ亡くなったか分からなかった。
墓も弟国の近くにある。この2年が空位期間かも。大和には5年間しかいなかった。
12年、継体、安閑、宣化揃って、大和から姿消す、(日本の天皇、太子・皇子、倶に崩薨りましぬ、と符合?)
2年後までに安閑、宣化は再び大和へ。

細かい数字はともかく、この位だと519年説の方がうまくいきそうなのですが、だめですか。



801 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/09/12(土) 22:36:00
ユッキーさん、よく研究されてますね。
正直、この辺りの年代は難しい。太国さん・唐松山さんは自信をもって答えてくれるでしょう。

>12年、継体、安閑、宣化揃って、大和から姿消す

これが「日本の天皇、太子・皇子、倶に崩薨りましぬ」というのは?
ちょっと苦しいかと。
百済記も伝聞記事なので、信用性に疑問もあります。
因みに古事記では雄略没489年、繼體没527年(43歳)、安閑没535年、などとなっています。
こちらの方が真実に近いのではないかと考えています。

802 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 22:42:22
んじゃ俺からも

ユッキーさん さっき終止符スレ691にも書きましたけど

>初めにこの日本でその「字」が認められるのは石上神宮に伝わる
>七支刀ですよね。
>その七支刀というのは半島の文献で紀元369年、百済王世子が倭王旨に造る とある。
>日本書記では372年ですよね。
>約3年間の誤差があるけども、だいたい年代的に合っている。

武烈の没年についてですが、「文献」と「考古」とが一致したところを
基準にし、そこから各年代を導きだしたら如何でしょうか。
だいたい、それらを基準にして考えるほうが一般的と言いますか、
みんな、そのようにやってるかと思います。

803 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/12(土) 22:46:19
>>799
大量書きこみなので、理解回答に手間とります。なるべく小きざみに書きこんで
質問されたい。このスレが終わって新スレが立たないときは近隣関連スレへ書き
こめばよろしいでしょう。それで簡単に言いますと

○ 繼體は通説450年誕生説に従えば、実年代の450年とは倍暦で14年段差が
ありますので、繼體の誕生年の実年代は

 450+14=464年

です。14年差は即位の507年(実年代521年)にて出来ており、即位元年時点での
天皇の年は貴殿の主張どおり

 521−464−1=521−463=58歳

となります。当時は現代の年齢差は関係ない場合が多いですから、この差に
こだわることはありません。神武も年が行ってからの結婚のようです。
天皇の年の多い形容を「手白髪」皇女とか姫の名としたのかも知れません?
迎えられなきゃぁ后にできないんではないんですか?

のこりの質問はポツリポツリと行きましょうか。

804 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/12(土) 23:03:34
>>799
○宣化の誕生は通説では467年ですが、この時代の允恭年間でも倍暦
による段差はまだ14年ですので、繼體即位時の宣化の年齢は

 467+14=481年(宣化誕生の実年代)
 521−481−1=521−480=41歳

です。

橘仲皇女立后は通説で536年で、この年は倍暦の関係でも朝廷の中核
は公式にて佛伝から繰り上げて通常暦採用に改正してますから、
536年のままで数字が合います。536年時、宣化は

 536−480=56歳

です。

805 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/12(土) 23:21:18
>>799
欽明誕生は通説では確か509年のはずですが、貴殿の考えとは何らか
の事情で508年と、1年差となっています。そのへんは完全に詰め
るのは難しいところですが、とりあず509年で行きますと、この年は
繼體三年(倍暦では繼體2年:522年)でして、即位時は

 539−522+1=539−521=18歳

となります。

訂正 >>803 >>804 等式内の −1 としたところは、それぞれ
× −1
○ +1

です。慎んで訂正します。すみません。なお>>800は明日に
しましょうか。zzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・

806 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/13(日) 10:22:30
>>800
あのぅ〜。みかけの年代と実年代が交錯して論じておられますよう
なので、よく読めばだいたいおっしゃる年代のことがいずれをとって
言ってるのかだいたい分かりますが、混線しますので、長文の場合は
天皇17年なら十七年と漢字を使い、年代の場合は括弧書きで示すとか
何らかの書き方で判別するようにおおむねそうしてくれますと、
わかりやすいです。それがしのも分かりにくいところがあったと
思いますので、今後明確に書きこむようにしましょう。

今の件天皇十七年なら紀の記述からのの年数とし、天皇17年なら1年
が現今の正味のまま実の1年分計算の17年とし、かようにそれがしは
書きこむつもりでおります。また西暦年代の場合はみかけとか通説の
場合は半角で、実年代では全角というのも、今思いつきましたが
容易に理解しやすくなりますが、一考して下さい。

繼體二十年は紀の記述の一本では同七年だとの内容ですが、これは
先述したはずですが、後者は3倍暦での話でして、3倍暦が当時
裏で使われていたとすれば前者も後者も同年となり、いずれも正解
だったということになるわけです。この年は皇紀1186年=西紀526年
となり、右辺は通説、みかけの年代なわけです。当時朝廷は2倍暦法
を行使してましたので、526年は2倍暦計算で実年代530年後半
となります。貴殿の武烈519年没年説ですが、なかなか研究されて
るのだなと思いましが、それがしと1年差のようで、まぁいろいろ
何らかの事情とかで1年のズレはいた仕方ありません。繼體即位の
521年の前年であることから、武烈崩御は520年となります。

807 :ユッキー:2009/09/13(日) 11:58:38
皆さん教えてください。

>806
継体元年は、
継体二十年(西紀526年)と継体七年を同一年とし、単純に遡ると
同元年=520年、その前年(519年)を武烈没年としました。
即位年=521年は、どのように導き出すのですか。
すみません、よろしくお願いします。


808 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/13(日) 12:54:06
>>275 で継体の年齢を推測してある。


809 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/13(日) 13:14:00
>>807

皇紀 西紀 2倍暦   繼體3倍暦
1188 528       八年
1187 527 531
1186 526←−−−(繼體七年)繼體二十年
1185 525 530 七年
1184 524
1183 523 529
1182 522       六年
1181 521 528
1180 520
1179 519 527 五年
1178 518
1177 517 526
1176 516       四年
1175 515 525
1174 514
1173 513 524 三年 安閑 立太子
1172 512
1171 511 523
1170 510       二年
1169 509 522      欽明 誕生
1168 508
1167 507 521 元年 繼體 即位   手白香皇女 立后
1166 506 520      武烈 崩御
1165 505 519
1164 504 518


逆算にて ↑ 下から上に読む。武烈年代は通常暦法。

810 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/13(日) 13:49:53
>>807 >>809
紀の繼體二十年の条になぜ一本に繼體七年(3倍暦計算)とあるのかというと、
繼體は應神5世の孫だというわけだが、この應神の時代が3倍暦を行使していて
次代仁徳世も続けて3倍暦を行使してたのだが仁徳世が3倍暦行使の末期であり、
その後は同暦の使用はなかったが、いま一度言うと繼體が3倍暦行使應神の
系だということから、應神世の主体使用たるこの3倍暦にて後代の誰かがその
まま暦計算をしたために、繼體二十年の条に一説での體繼七年の記事が残存
したということである。だか同七年は應神世での3倍暦の行使の傍証になるの
である。唐松山の論では説明できないだろう。

811 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/13(日) 16:08:40
>>803 訂正 五段目
× 実年代の450年とは倍暦で
○ 実年代とは倍暦で

812 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/13(日) 16:43:54
>>810
その数字で日本書紀を書き換えねば成らない。
書き換えられない数字に意味はない。

書き換えられるのか?


813 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/13(日) 17:04:02
>>613 >>614
で書いたとおり複数年の集合は、不都合の集合。


814 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/13(日) 17:04:33
>>812
意味不明。
だいたい〜紀の表を否定し、ホツマ偏重がオマエの道間違い。w

815 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/13(日) 17:17:10
>>809 に於いては、
十七年夏五月。百濟國王武寧薨。を合わせても 没年齢に齟齬が生じる。


816 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/13(日) 17:27:12
>>813
紀年を行う研究態度で、どうなってるんだろうと考えてそれde地道に
研究して論を構築して行くのが冷静賢明な研究家の態度。倉西女史
とかサガミハラハラ氏も間違っていそうだが、こういう真摯な態度で
論を張るから、突く点はいろいろあろうmo、傍らから何らかの役に
立つことが多く、失敗はあっても一定の評価がもらえる。つまり点数
が頂けるのだ。

しかるにオマエは研究の当所、出発点において最初から景行が卑弥呼
の年代だと盲象ホツマ信奉者にて望んで紀年を行うから、それに
反する事象が種々現れても、反証がかなりの明確性を帯びていても、
まともな反論からではなく、ただ強固な否定に終始して、正規な文証
などをことごとくうっちゃってホツマ・カルトの景行ご本尊絶対を
貫き通す。ww こういう諸々のオマエの論に合わない根拠
資料がうんと出て来て(←これについては今まで幾回も提示済み)
いるということと例の4つのミエミエの不合理とあわせて、オマエの
景行=卑弥呼 とするホツマ盲象狂の教義がデタラメであるという
ことを物語って来ている。

とにかく最初の研究の心構えがどうなってるんだろう?という考えで
はなく、景行=卑弥呼年代 だと最初からゴリ押しで決めこんで研究
してその信念を絶対的に曲げないでやってるから、行き着く所まで
行き着いて4つのボロが出てくるわけだ。そしてそれ以上の金剛不壊
たる金丹 丸薬が出れば、強行に景行絶対を腹蔵していたオマエの
盲象がイヤでもオマエの腹と脳に染みこむこととなる。ww

つまりオマエの点数は弊害著しいことから0点以下のマイナス点だ。

817 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/13(日) 17:55:34
太国 ホツマの作者とは 臣 三輪李聡 ですか? この臣は 官 伊支馬
同様これは天皇ですか?
太国 いつ、どこで、何のために三輪という名なんですか?
あぁ間違いですな? 「臣 三輪季聡 」ですな?
この方も天皇ですか? 倭人伝の誰に当たるんですか?

唐松山 ホツマはたたねこと鹿島と書かれています。
さあv=何とかを説明して下さい。

太国 書かれている? これは三輪という人なんですか? なぜ三輪というんでしょう?
いつ、どこで、どのように、どうやってこれを作ったのですか?
ちょこんと言ってるんではわからんね?
さあ一筆ではね〜? 何とか三輪等を説明して下さい。


この程度の 答申しかできないんだから無駄とは思うが、
「三輪」は何処から出てきた解らない。
私の書き込みに無いものを答えろ、が太国でしょ。
出所ぐらい掲示してからにして貰いたい。


818 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/13(日) 19:45:37
オマエの質問にも答えないぜ。オマエが答えないと言っただろうが。
こちらを批判するにはオマエの勝手さ。こちらも批判はするぜ。
オマエの論のカルト・ホツマの景行絶対視を砂上の楼閣化して崩し、
オマエのホツマ狂の盲象禁断副作用症状を無とせねばならぬ。w

819 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/14(月) 11:17:53
ホツマ伝の「三輪季聡」の名は『三』と『季』で崇神当時の1年が
三つの季節としたことからの命名であろう。となると当時の1年は
現今の1/3しかなかったということになる。これは3倍暦を示唆
したものと考えうる。すなわち3倍暦とする考察を『聡』の聡明で
賢察だとの意味なのであろう。当時の3年が現今の1年で循環すると
いうことを彼は名で暗示したのだと思える。

『季』に似た『李』字はスモモであろうし、桃栗3年柿8年の語句
から、桃は3年で出来るを強調している。当時の3年は現今の1年
と観るべきだ。

820 :ユッキー:2009/09/14(月) 14:20:05
皆さん教えてください。

>801

武烈に入る前に、継体没年に異論があるようです。

>繼體没527年(43歳)、安閑没535年、などとなっています。
>こちらの方が真実に近いのではないかと考えています。

安閑はいいとして、繼體で真実に近いと思われるのは、年代ですか、年齢ですか、両方ですか。
年代だと、527年から安閑即位534年までは、空位ですか。
それとも527年=533年とし、全体を6年間繰り下げるのですか。
よろしくご教示ください。


821 :ユッキー:2009/09/14(月) 14:23:08
皆さん教えてください。

>802

七支刀の年代は369年、武烈没年代は507〜520年、
継体没年代533年で皆様にOKしていただいてます。(一部には527年の方もおられるようですが)
また、安閑没年535年は皆様異論はないようです。「考古」に匹敵する重要な資料と思ってます。
すると、武烈年代は継体、安閑の方が近いです。七支刀に近づいた時点で、七支刀も参考にしたいと思います。
その時は、よろしくお願いします。


822 :愛知県民:2009/09/14(月) 18:22:53
ユッキーさん、次期総理?
継体は年齢ですね。書紀は年寄り過ぎる感があります。
年代は模索中ですが、上宮聖徳法王帝説の欽明531年即位説が気になります。

823 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/14(月) 20:26:53
>>820
下は紀年表です。西紀はみかけ通説の年代、倍暦が実年代
全2倍は欽明即位を基点としての逆算で仮に基点から全部2倍暦とした計算。
公式での倍暦の基点は宣化元年(皇紀1196年)です。
繼體崩御527年とは、後代の暦法計算者が欽明即位以前を全部2倍とみて逆算
したから ★527年 同崩御★ となったものです。真の同崩御は倍暦で533年☆。

皇紀 西紀 倍暦 全2倍
1200 540 540 540  欽明元年 石姫立后 用明誕生
1199 539 539      欽明即位 宣化崩御
1198 538 538 539  佛教伝来 敏達誕生
1197 537 537
1196 536 536 538  宣化元年 橘仲皇女立后
1195 535         宣化即位 安閑崩御
1194 534 535 537  安閑元年 春日山田皇女立后
1193 533 534
1192 532     536
1191【531】533☆     安閑即位  ★繼體崩御
1190 530     535
1189 529 532
1188 528     534
1187★527【531】
1186 526     533
1185 525 530
1184 524     532
1183 523 529
1182 522     531


表は ↑ 下から上へ逆読み

824 :ユッキー:2009/09/14(月) 20:28:25
皆さん教えてください。

>822

ありがとうございました。

では、没年代でなく、没年齢の点で、再検討させていただきます。
今後とも、よろしくお願いします。



825 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/14(月) 20:33:33
>>823 補説 説明がちょっと不充分でした。
下から上へ ↑ 見て行き、全2倍計算での533年は通説の527年(後半)になって
いますので、繼體崩御527年説が出たのだと思います。


826 :ユッキー:2009/09/14(月) 22:14:29
皆さん教えてください。

>823

う〜ん。欽明即位基点の2倍暦ですか。
それだと、安閑崩御の西紀は531年ですね。
宣化元年基点だと、安閑崩御の西紀は後年ですから、535年と通常西紀と一致、
継体崩御は書紀の継体二十八年(534)だと西紀533年となりますね。
やはり、533年が有力ですね。

ありがとうございました。


827 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/14(月) 22:57:03
>>826
仮で全2倍暦計算と言いましたが、もっと踏みこんで言えば、
繼體の時代から始まった朝廷中核の公式の2倍暦法が継続して安閑
宣化と行使されたが、そのころの佛伝により暦法の大改革で恒久の
通常暦法の採用となったのが佛伝直後の欽明朝廷だったということ
です。これが繼體から先述の欽明元年基点まの全2倍暦法が存在
している事由なわけです。

ところがこれではあまりにも唐突ということから、先帝の代まで
やっていた2倍暦をとりあえず通常暦として、宣化元年基点で後代を
恒久的に通常暦法を永く継続しようとする朝廷の暦策が行われたと
いう事です。だから宣化は2倍暦をやってたんですがそれをわきへ
外し。宣化から後代へ通常暦法で暦を編んで来たということに
なるわけです。

828 :ユッキー:2009/09/17(木) 09:13:35
前にも記しましたが、継体即年を書紀のとおり、西紀507年とすると、
次の点が気になります。
1.橘仲の高齢出産
   50(±2)歳くらいで孺子出産
2.欽明の即位時年齢
   即位時の33歳は、自分はまだ若いので、政治ができない、と
   当時唯一存命の安閑皇后に頼らなければならないほど若い年齢か
これを15年繰り下げれば35歳、18歳となり、ころあいになってきます。
次回編年してみます。


829 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/17(木) 11:54:55
>>828>>511 も参考に

西暦 出雲 皇暦   名前    没年 墓標 没年齢
492乙巳 皇1152 壬申 宇斐王命/意富富杼王子 乙己年6月8日54
512乙丑 皇1172 壬辰 振比賣命/彦主妃、継体母 乙丑年5月4日52
531甲申 皇1191 辛亥 袁本杼命/継体天皇26 辛亥年2月7日82-30=52才
何処かで丁度60年の不足が生じる。

古事記に書かれた聖寿は、大体+30歳
例外の崇神は、43−10=33歳が妥当。
これは、崇神の母が庶母で有ったため、都を「巻向」に移したのも其れまでの
天皇家とりまきから追い出された、タケハニヤスの乱は、旧勢力によるクーデター。

当時の出産は30歳まで、これは江戸時代の大奥まで同じ。
この数字に適わない所は、錯誤がある。


830 :ユッキー:2009/09/17(木) 13:12:14
>828での15年繰り下げるには、治世年数を繰り下げる。
治世の28年が2倍になっているなら、半分の14年を没年から遡ると、520年が
継体元年となり、磐余遷都が「一本にいわく、七年なり」と一致する。
(521年説と1年の差があるが、落ち着いた時点で修正し、それまで520としておく。)

504 甲申 仁賢四年 ±2年、橘仲誕生
519 己亥 武烈八年 武烈崩御
520 庚子 継体元年 継体即位 樟葉宮
521 辛丑   二年 欽明誕生、白誕生
523 癸卯   四年 百済王 武寧没
524 甲辰   五年 筒城へ遷都
526 丙午   七年 磐余へ遷都
531 辛亥  十二年 ★弟国へ遷都
533 癸丑  一四年 継体崩御/安閑即位
534 甲寅 安閑元年 
535 乙卯   二年 安閑崩御/宣化即位
536 丙辰 宣化元年
539 己未   四年 宣化崩御/この頃橘仲(36歳)、孺子ともに逝去/欽明(19歳)即位
540 庚申 欽明元年

★>801で、ちょっと苦しい、と指摘されましたが、継体十二年弟国遷都の記事があり、
百済記にある「日本の天皇、太子・皇子、倶に崩薨りましぬ」の辛亥の年は十二年に
なります。継体、安閑、宣化揃って、磐余にいなくなったことの、伝聞がこうなったのでは
ないでしょうか。
次回、継体、安閑、宣化の年齢について考えてみたいと思います。



831 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/17(木) 13:44:56
二倍暦では30歳は当時60歳だから30越えての出産記事があっても、
必ずしも間違いとは言えない。

>>830
だいたいいいと思います。

832 :ユッキー:2009/09/17(木) 13:47:46
出産の限度が30歳としても、橘仲誕生は506年までしか下れない。539年は34歳。
仁賢七年(507)武烈立太子だから武烈は507年までには誕生。
孺子没年は4歳? または、535年に亡くなっていたものを、掘り起こし、539年宣化と合葬?


833 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/17(木) 14:14:02
春日大娘皇女は7人ばかり子がいるから、仁賢崩御まで毎年生んで
いることとなる。それに30歳までとは江戸幕府がそうでも朝廷が
そうだとは言えまい。手白髪皇女なんか名前からして白髪頭のよう
だし、とりわけ不合理でもあるまい。

834 :ユッキー:2009/09/17(木) 15:04:08
継体天皇の年齢を検討してみました。

継体 安閑 宣化
82 70 73 書紀記述没年齢
41 35 37 2倍暦として半分にした年齢
531  535  539  書紀記述の没年
491  501  503  誕生年
11 1  −− 501 安閑誕生時年齢
30 20 18 520 継体元年時年齢/橘仲は15歳
43 33 31 533 継体没年時年齢

安閑、宣化に不自然さはないが、継体には少なくとも5歳は加増必要。
各天皇の没年齢は
継体 533年 48〜82歳
安閑 535年 35〜70歳
宣化 539年 37〜73歳

古事記に従えば継体没年43歳(527)、533年だと49歳。実態に近いのでは。


835 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/17(木) 17:37:04
仁賢の后 春日大娘皇女は女6人、男1人生んだと紀にあるわけだが、ここの
男一人とは武烈天皇のことであり、最初の5人は女ばかりで次に武烈の男、その
次に女1名の順の紀の記述であるが、これなんぞも女ばかり続けて5人も連続
生むのかと考えれば、そういうことは絶対ないとは言えないが、どうやらこんな
に女を5人も続けるとは、生んだ順番が女の連続性から紀の記述のままでは
ないのではなかろうかと思う。最後の女1名は何らかの事情からの置いて
けぼり的記載となったものであろう? 5人連続女児誕生も稀にはあろうが、
紀の記載は順番通りとは限らないと観たい。

こう考えたとき仁賢没年は倍暦実年代512年(ユッキー氏だと511年に
なるの?)だから、橘仲皇女の誕生が同没年あたりならば、彼女の立后時は25歳
の計算になるからそんなに不合理はなかろう。

836 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/17(木) 18:01:47
>>834
繼體の491年誕生というのは、どこから出した数字ですか?

繼體紀の始めに武烈崩御のとき57歳とあるから、単なる逆算だと
450年誕生だね。誕生から武烈崩御の間は通常暦と観てるから、この
数字で通常なら構わんということになるが? 後代の倍暦計算での
14年差で計算すれば、繼體の誕生は実年代464年になる。

837 :ユッキー:2009/09/17(木) 19:08:57
>836
書紀記述の531年に82歳、これを半分の41歳とすれば、531‐41=490、数え年だと491年となりました。
武烈崩御の時、57歳でも57+14+1=72で、範囲に入るからかまいません。
ただ、この数字は倍暦計算、この数字は通常暦計算、と判断できず、都合のいいよう選択するのも
いかが、かと思い、治世、安閑、宣化の没年を倍暦扱いしたもので、継体没年も倍暦扱いに統一した年数です。
そうすると、安閑は継体が11歳の時の子供になるので、継体生年は491年より古くしなければなりません。


838 :ユッキー:2009/09/17(木) 19:14:40
>837
済みません、72歳は間違いで、没年533年−誕生実年代464年=没年齢69歳とするところです。


839 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/17(木) 20:50:00
お三方の誕生の実年代は、それがしの計算では

 繼體 464年(皇紀1110年=西紀450年)
 安閑 480年(皇紀1126年=西紀466年)
 宣化 481年(皇紀1127年=西紀467年)

だな。ご三方が同年崩御という説は、通常暦と倍暦との交錯により、
倍暦に未知な者が各種古文献をもとに計算中、同年との結果と
なるおかしなことが置きたので、これは同年ではないか?との説の
増幅に至ったのであろう。 まずそうだと思うがね。

840 :ユッキー:2009/09/18(金) 08:26:13
>839

   生年 没年 没年齢 継体元年時年齢
継体 464  533 70  57
安閑 480  535 55  39
宣化 481  539 59  40

こうなりますね。範囲内なので、OKです。
小生、まだ絞り込めてませんが、高年齢側は否定したいです。


841 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/18(金) 14:13:04
>>840
通常人が生きられる範囲内の年齢であれば、相当の矛盾、不合理が
ない限り、単に長寿だからといって否定するのは早計だと思う。
たとえば仁徳前の天皇はその殆どが百数十歳とかで崩御して
いるわけで、こういう状況の場合は否定は当然出て来て然りで
あるから、真の年齢を考えての否定は一応聞く耳が持てる。

七、八十歳が3回くらい続いてただけでは、これで否定はやりすぎ
だ。しかし疑念を持って間違いの有無を調べて真か否かを確認
するのは、当然やるべきことだと考える。

842 :ユッキー:2009/09/18(金) 15:33:39
>841
だから、絞りきれないでいます。

今日の70歳は、まだまだピンシャンしており、古来稀なりではありません。
当時でも、怪我、事故、争いをまぬがれたら、後は、病気、食中毒。
それも切り抜ければ、70歳くらいは、十分生きられるとは思います。
栄養状態が今ほどでないから、肥満、糖尿などありませんし。
人生五十年、これは、寿命ではなく、何らかの事情で寿命に達する前に命を落とした人が
多かったのだと思います。
それにしても、親子三人82、70、73歳とは、気になりませんでしょうか。


843 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/18(金) 20:03:17
真の宝算は結局

 繼體 70歳
 安閑 56歳
 宣化 59歳

だな。そんなにおかしくはないが・・・。とにかく倍暦で詰まるから、この宝算
になる。

844 :ユッキー:2009/09/18(金) 20:21:02

武烈没年から一気に雄略没年までいってみます。
取り敢えず、叩き台です。

通常暦 2倍暦
天皇 治世  没年 治世  没年
雄略 23年 492年 12年 504年
清寧 5 497 3 507
顕宗 3 500 2 509
仁賢 11 511 6 515
武烈  8  519  4  519

通常暦では書紀にあるままの治世年数を、これまでの続きに繋ぎました。
2倍暦は書紀の治世年数を半分にして、繋いでみました。
奇数年は切上げましたが、奇数年2代で1年ずれてきます。
ただ、並べてみただけで、考察はこれからです。
2倍暦だと、五王の武が雄略かどうか知りませんが、武登場最後の502年は雄略はまだ存命です。

私は、2倍暦というものが、極く普通に使われていたかどうか知りません。
書紀編者が、年数を水増しするため、単純に2倍したのかも知れない、とも思います。
しかし、それでは、奇数年が説明できませんが。



845 :ユッキー:2009/09/18(金) 20:27:26
>844 表が崩れたので、再掲します。

_______通常暦_________2倍暦
天皇__治世____没年___治世___没年
雄略__23年__492年___2年__504年
清寧____5____497_____3____507
顕宗____3____500_____2____509
仁賢__11____511_____6____515
武烈____8____519_____4____519



846 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/18(金) 20:37:46
2倍暦をやれば通常の1年が2年になるんだから、確かにそういう意味では
水増しになったことになりますが、その目的が水増しの為ではないと思います。

単に水増しが目的なら、その動機が何なのかが必要でしょう。単に伊達や酔狂で
1年を2年としても大した利害の穴埋めにはなりえないと思います。水増し
したいというより、動機は当時の迷信事にその因があるのだと考えています。

847 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/09/20(日) 17:21:57
>>844
>2倍暦だと、五王の武が雄略かどうか知りませんが、武登場最後の502年は雄略はまだ存命です。

梁書倭伝・扶桑伝が問題です。
扶桑伝によると齋永元元年(499)に扶桑国の慧深という僧が荊州に来て、国王「乙祁」について語っています。
この「乙祁」=顕宗天皇と思われ、すると502年の武王進号記事が不審となります。
私はやはり武=雄略天皇で、清寧死後に播磨から迎えられた顕宗が、中国への朝貢を続けても成果があがらないとみて
中国向けに「倭」姓を名乗るのをやめ、「倭」国名も「扶桑」国に変えたのではないかと見ます。
中国では消滅した倭国の武王の称号だけが残り、梁建国祝賀で一方的に進号したのでしょう。
武烈死後、越前から迎えられた繼體は再び国名を「倭」とした?
宋大明二年(458)の仏伝記事も問題となります。


848 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/09/20(日) 19:14:07
上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)は、推古天皇の摂政のいわゆる聖徳太子の伝記とされる現存する最古のものである。
作者は不詳であるが、仏教的事績を主として記録している。
写本は江戸時代末期まで法隆寺秘蔵物で天下の“孤本”といわれ、現在京都の知恩院に所蔵されている国宝である。成立年代も不明であまり世のなかに広まった様子はない。
写本の所有者だったと思える高僧(相慶・法隆寺五師の一人、12世紀後半の人物)の名が末尾に記されている事から、成立年代が12世紀以前である事が確実ではある。
(以上、ウィキより)
志癸嶋天皇御世 戊午年(538)十月十二日 百済國主明王 始奉度佛像經ヘ并僧等 勅授蘇我稲目宿祢大臣 令興隆也
志歸嶋天皇治天下(横棒一本に縦棒四本)一年【辛卯年(571)四月崩 陵檜前坂合岡也】

849 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/20(日) 19:26:16
通説では

 485年(皇紀1145年 乙丑年)=顯宗天皇 即位=499年(倍暦)=永元元年

乙祁は顯宗天皇を観て間違いなかろう。即位年の干支の漢字が名にあるのは、
即位年を示唆してるのだろう。倍暦計算で顯宗から武烈までは通常暦であること
が実年代499年、梁書の永元元年の記述から確認できる。

武王は天皇にあらず。九州王権の王だな。なお乙祁を顯宗でない方がおられるが、
要するに扶桑国の距離が日本を大きく逸脱するからということだが、これは距離の
単位の幅に間違いがあるからだ。単位を大きくとっているのがいかんわけで、
短里とかで考えるのが正解だろうね。

850 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/09/21(月) 17:15:52
>>847 補足
梁書 卷二 本紀第二 武帝中 天監元年(502)
天監元年夏四月丙寅 高祖即皇帝位於南郊
戊辰 車騎將軍高句驪王高雲進號車騎大將軍 鎮東大將軍百濟王餘大進號征東大將軍 
   安西將軍宕昌王梁彌[台頁]進號鎮西將軍 鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍

即位2日後の進号であり、使者が来た記事もありません。
武王の生存を示すとはいえないでしょう。

851 :日本@名無史さん:2009/09/21(月) 17:33:18
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり

852 :ユッキー:2009/09/21(月) 18:17:57
扶桑國は、齊の永元元年(499)、其の國の僧慧深が荊州にきて話した。
「扶桑國は大漢國の東二萬餘里。・・・國王の名は乙祁(おけ)という。
・・・後嗣ぎの王が立ったが、三年間、國事を視なかった。・・・」

○Aの後Bが立ったが、三年間、国事を視なかった。現在(慧深が扶桑國出立の時)はCである。

乙祁=顕宗とする。
1)雄略の後清寧(492-497)が立ったが、三年間、国事を視なかった。現在は顕宗(497-500)である。
2)清寧(492-497)の後顕宗(497-500)が立ったが、三年間、国事を視なかった。現在は顕宗(497-500)である。
3)顕宗(497-500)の後仁賢(500-511)が立ったが、三年間、国事を視なかった。現在は仁賢(500-511)である。

1)なら、ゆっくり間に合うが、B≠Cが気になる。
2)は、497-499 と、足掛け三年、その年の内に扶桑國→荊州が可能なら苦しいが成立する。B=C。
3)は、×


天皇‥治世‥‥元年‥ 没年 
雄略‥23年‥470‥‥492年
清寧‥‥5‥‥493‥‥497 
顕宗‥‥3‥‥498‥‥500 
仁賢‥11‥‥501‥‥511 
武烈‥‥8‥‥512‥‥519 


853 :ユッキー:2009/09/21(月) 18:54:07
>848

欽明崩御は、辛卯年(571)四月で、OKですが、欽明四十一年ということは、
欽明元年は531年。正に、2朝並立ですね。仏伝の538年は欽明八年としてます。
この年は、紀では宣化三年です。欽明元年を531年とすると、当時欽明は10歳です。
2大勢力?それとも、何らかの理由で、系譜の記録から、二人の連れ子を除外した?


854 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/09/21(月) 20:45:27
>>853
仏伝は書紀では欽明天皇十三年(552)冬十月となっており、十月は上宮聖徳法王帝説と同じ。
日付干支が無いところが疑問で、やはり538年を採るべきか。
2朝並立は、あまりに都が近いとして疑問視する見方もあります。
上宮聖徳法王帝説の成立年代は不明ですが、やはり欽明は手白香皇女との結婚によって
正統性を得たのであり、尾張連の系統である安閑・宣化を飛ばしたのか?とも考えられる。


855 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/21(月) 20:55:45
顯宗天皇(乙祁)即位=485年(乙丑)=499年(倍暦)=永元元年

から

 499−485=14年

の年数の段差がある。
これは倍暦(繼體即位年〜安閑年間)だったからこの段差が
できてるわけで、同様に仏伝は552年と538年だが、これも

 552−538=14年

と、いずれも14年なのである。この事は552年が538年が真のところ、
倍暦に未知な連中が編年に関わったことで14年後の552年説を真と
考えたのであろう。538年が真であるようだ。

856 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/09/21(月) 21:02:11
>>854 訂正
×欽明は手白香皇女との結婚によって
○繼體は手白香皇女との結婚によって

857 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/21(月) 21:14:46
>>855
先述の14年差は繼體から安閑までの2倍暦が、双方の14年差を形成
させたのだということなのだ。逆に14年差がいずれにもあることは、
この数字が2倍暦を繼體〜安閑の代に行使していたという理証と
いうことになって来る。唐松山の論では合理的説明が為しえない。

さらにこのへんの年代、ユッキー氏でさえ見事に紀年してるのに、
唐松山は否定に回った池田仁三氏の墓標年を提示して、一見説明を
し終えたように繕って、見せかけの編年でゴマ化している。ww

858 :ユッキー:2009/09/22(火) 10:01:18
取敢えず整理してみました。

天皇‥治世‥‥元年‥ 没年‥没年齢
雄略‥二三年‥470‥‥492 年‥62歳
清寧‥‥五‥‥493‥‥497 ‥‥41(39,42歳説あり)
顕宗‥‥三‥‥498‥‥500 ‥‥38
仁賢‥一一‥‥501‥‥511 ‥‥50(51歳説あり)
武烈‥‥八‥‥512‥‥519 ‥‥13〜19 

*允恭七年、雄略出生
*雄略二二年、清寧立太子
*清寧三年、顕宗・仁賢帰還(脱出は安康三年)
*仁賢七年、武烈立太子
*武烈は仁賢の第6子、仁賢結婚は帰還直後?


859 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/22(火) 11:48:53
梁書武帝紀に倭の武王が征東大将軍号をもらったということは、この
年が502年であることから、倍暦の実年代502年は仁賢即位年で
あり、武王が天皇だというなら仁賢天皇だというほかはない。という
ことは、武王が雄略天皇ではないこととなる。
雄略は倍暦で493年崩御だから、502年では雄略はこの世に生存
していない。

なお武王は南斉書東南夷伝から479年に鎮東大将軍号をもらって
るわけで、この時代では雄略は生存していたから、武王が探偵小説
もどきの二人いたとかいう以外w、502年にはこの世にいないこと
から、これは天皇の皇統譜では絶対に近く合わないこととなる。

あとは大陸古文献に誤りがない限り、武王は天皇とは別物と観るほか
はない。ならば合理的思考では、武王は九州の王だったということに
なるのだ。

倉西裕子女史は 461年=雄略5年 を確定紀年として不動として
いるが、そうなると梁書から 499年=永元元年 時に 乙祁(顯宗)が
生存していたことにならねばならないが、499年は彼女の説では通説
通りであり、武烈即位年であるから顯宗はとっくにあの世にいるわけ
で生存していないから、不合理だということになる。

860 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/09/22(火) 14:31:26
>>859
>あとは大陸古文献に誤りがない限り

梁書は武王を鎮東大将軍から征東将軍に進めたとあるが、鎮東大将軍→征東将軍では進号にならないため、
征東大将軍の誤りとされる。
梁書では倭の五王のうち最初の二王は「賛」「彌」であり、宋書の「讃」「珍」とは異なる。
後漢書扶余伝・魏志扶余伝の尉仇台や、後漢書倭伝・魏志倭人伝の卑彌呼も在位が長過ぎること、
魏志扶余伝では位居王が亡くなったあとに「位居」という同名の別人が登場するなどの例があり、
慎重な考察が必要である。

861 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/22(火) 14:52:05
愛知県民氏はこのごろ編年の英知が著しく滲み出ている。今後も
好論説を期待している。

愛知県民さん。倭の五王と天皇編年を今後やってみてもらいたいな。
まぁ〜合わないと思うよ。いくらやっても合わなけりゃぁ、五王は
天皇ではないということになる。貴方はまだ天皇だと思っているの
かね?

「大」の字がないので不審には思ってましたが・・・?

862 :ローガン:2009/09/22(火) 15:42:22
>>859
> 梁書武帝紀に倭の武王が征東大将軍号をもらったということは、この年が502年であることから、倍暦の実年代502年は仁賢即位年で あり、武王が天皇だというなら仁賢天皇だというほかはない。という
> ことは、武王が雄略天皇ではないこととなる。

倍暦はさておき、天覧元年(502)は「進号」なので、武の生死は関係ないでしょう。


863 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/22(火) 15:54:03
改め殿
ここを読んでるなら〜〜鷲崎さんの板でソフトに虫があったせいか、書きこみが
出来ない状態にあるようだ。しようがないので、最初から後続の書きこみをここ
に、最初からに遡ってそれがしは書きこみをやろうかと思う? 書きこみ途中か〜
そのころに彼の板の故障が修復するかもしれないが〜? どうかなぁ?

【倍暦と應神と仁徳朝の秘密】 題名をちょっと変えてみた。

日本書紀の仁徳の条に、天皇が高臺に上って人民の竈の煙雲を遠望したとの記述
がある。仁徳元年は倍暦計算で391年に相当しており、広開土王の即位した年と
同年であることは以前に2ちゃんに書きこんだとおりだ。紀の仁徳の条

「四年の春二月、己未の朔にして甲子の日、群臣に詔したまひしく、
 『朕、高臺に登りて遠く望むに、烟氣域の中に起たず、以為ふに、百姓既に
  貧しくして家に炊ぐ者無きか。・・・今朕、億兆に望みて、ここに三年に
  なりぬ。・・・炊烟轉疎なり。・・・』とのりたまひき。」

古代マヤの遺跡を考察していたついでにフッと想ってみたのは、マヤの天文台の
遺跡から連想して、仁徳の遠望した『高臺』とは天文台ではなかったかと、そう
いう考えが頭をよぎったのである。煙雲が無けりゃぁ、夜間の空はキラキラと
星辰が輝き、綺麗に天体の遠望が出来るからだ。            〜続く

864 :ローガン:2009/09/22(火) 15:56:12
すみません>>850で愛知県民さんが書いていた。



865 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/22(火) 15:59:23
>>862
追号なら、君の言うことはありうるね。
ローガンさんよ。貴殿も編年をやってみるといいね。五王都天皇の
記事が合うんなら、ことごとくに近くどれもこれも合致する。

それを書きこんでもらいたい。まぁ合わないと想うがね?
合うということを見せてもらいたい。こちらは合わないということを
いろいろ見せているよ。君の今日の言い分はなんとか通るから、
こちらはこれへの反論はない。

合わなけりゃぁ、五王は天皇にならないよ。

866 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/22(火) 16:01:58
訂正
× 五王都天皇
○ 五王と天皇

867 :日本@名無史さん:2009/09/22(火) 16:11:05
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった

868 :ユッキー:2009/09/22(火) 17:02:28
くどいようですが、

>850のとおり
502年4月丙寅の日に梁の武帝が即位し、2日後の4月戊辰の日に次の新号をしている。
高句驪王‥高雲‥‥‥‥‥車騎將軍‥→車騎大將軍
百濟王‥‥餘大‥‥‥‥‥鎮東大將軍→征東大將軍
宕昌王‥‥梁彌[台頁]‥‥安西將軍‥→鎮西將軍
倭王‥‥‥武‥‥‥‥‥‥鎮東大將軍→征東大將軍
河南王‥‥吐谷渾休留代‥鎮西将軍‥→征西将軍

やはりこれは、梁政府が建国のご祝儀に周辺国の王位を一階級昇進させたものである。
この建国は前年武が擁立し、帝位に就いた南斉のラスト・エンペラー和帝から禅譲という形で
受継いだもので、前々から式典の準備が進められていた筈である。とはいえ、周辺国が揃って使節団を
派遣しているとも思えない。やはり、式典2日後に一方的に発令された辞令であろう。
であれば、502年での雄略の生存は関係ない。それにしても、タイムラグがあるとはいえ、
9年前の雄略崩御もそれ以後も情報が伝わっていないとは。


869 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/22(火) 17:24:48
今回の武王が追号ならばその時点で雄略がこの世にいなくてもおかしくはないこと
となるが、じゃぁ〜確実に生きてた年は大陸とこちらの文献の年代とが合うのか
と調べれば、まぁ合わないんだよ。これは倍暦でも合わない。追号の言い逃れは
正当のうっちゃりになりえようが、それがしも502年のこの件は反論のほうを
受け入れることを拒まないが、それ以前の年代の個所が向こうとこちらとが合わ
ないようだ。このことは五王が天皇ではないことを物語っている。頑張り通して
天皇だと言っても合わない限りはソッポで、その説を受容できないのだ。

464年これは雄略年間だが、この年宋書には「武王立つ」とあるそうだ。ところが
通説では雄略が即位したのは456年、雄略元年が457年だから、前者なら8年の差
がある。大陸で即位の情報が入っても、情報を渡した者は8年前だと言うに
違いない。本年ですと言えばデタラメを教えたことになる。さらに倍暦計算でも
即位は470年、元年は471年だからやはり合わないわけで、雄略年間から
武烈までは通常の暦法を行使してたんだから、先述の14年差で通説と判別できる。
つまり武王は天皇にあらずが正解だ。471年は稲荷山鉄剣銘文のワカタキルの
年(辛亥)とも合致し、これもそれがしの倍暦説を強力に支持していると言える。

870 :ローガン:2009/09/22(火) 17:27:35
>>865
編年ねえ…
敏達572以降、確定。允恭没453頃で、とくに違和感なし。この間118年、7世代10人。
仲哀、2運下げて神功没389。允恭没まで64年間で3世代5天皇。
1世代で17〜20年。いいくらい。神功紀分注を「年代の操作」と考えて、他の在位の長い天皇は同様の操作により伸長。
その法則性を探るすべがないので、細かな「編年」自体にさほど意味無し。


871 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/22(火) 17:39:28
>>870
ローガンさんよ。あんたの言い分が正か間違いかを測る上で極めて
重要なことだと想うよ。しっかりツメて研究したほうがいい。
時間がかかるのはやむを得ない。合うんだったら、いずれいいから
論をあげようぜ。途中でいい加減な回答で乗り逃げじゃぁ、あんたの
名にかかわるな。とにかく合わなければイコールにはならんぜ。

872 :日本@名無史さん:2009/09/23(水) 17:25:33
数字遊びに終始してるスレにしか見えない・・・

873 :ユッキー:2009/09/23(水) 19:35:39
次はこうなります。たたき台です。

‥‥│←‥通常暦‥‥‥‥→ │←‥2倍暦‥‥‥→│
天皇│治世‥‥元年‥ 没年‥│治世‥‥元年‥没年│
仁徳│八七年‥326‥‥412 ‥│四四年‥407 ‥450 │
履中│‥六‥‥413‥‥418 ‥│‥三‥‥451 ‥453 │
反正│‥五‥‥419‥‥423 ‥│‥三‥‥454 ‥456 │
        (空位1年)
允恭│四二‥‥425‥‥466 ‥│二一‥‥458 ‥478 │
安康│‥三‥‥467‥‥469 ‥│‥二‥‥479 ‥480 │
雄略│二三‥‥470‥‥492 ‥│一二‥‥481 ‥492 │

*広開土王碑、倭との交戦、391,399,400,404
*泰和‥四年?(369)、百済王が倭王へ七枝刀を献上(?)=神功五二年?
*仁徳‥七年、履中の記事有り
*仁徳三一年、履中立太子、15歳
*仁徳三五年、皇后(履中(1子)、反正(3子)、允恭(4子)の母)逝去
*仁徳三八年、仁徳再婚
*履中‥二年、反正立太子
*履中‥五年、皇妃(市辺押磐皇子の母)逝去
*履中‥六年、3月、履中崩御、70歳
*允恭‥七年、雄略出生
*雄略二二年、清寧立太子
*稲荷山鉄剣、471年製作、雄略?の名刻あり
*倭の五王記事
‥讃‥413,421,425,430
‥珍‥438
‥済‥443,451,460
‥興‥462,477
‥武‥478,479,502

874 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/23(水) 20:25:51
>>863 続き
仁徳四年は倍暦計算で392年に相当する。「・・・ここに三年に
なりぬ・・・」とは当時は3倍暦を行使していたから、三年なら現今
の1年が経過したことになる。だから即位の翌年だということに
なろう。紀の仁徳の次の条、四年(392年)には

「三月、己丑の朔にして己酉の日、詔したまひしく、
 『今ゆ後、三載に至るまでに悉に課役を除めて、百姓の苦しみを
  息めむ』とのりたまひき。
 ・・・茅茨壊るれども葺かず、風と雨と隙に入りて衣被を沾らし、
 星辰壊より漏りて、牀蓐を露しき。この後、風と雨と時に順ひ、
 五穀豊穣にして、三稔の間に、百姓富寛に、頌徳既に満ちて、
 炊ぐ烟もまた繁くありき。」

三載だから三年であり、四年の後の三年経過は仁徳七年(393年
:倍暦 実年代)に百姓が富裕になったとの話である。文面には
星辰が穴から漏れて見える状況だったということだから、煙運が
なく晴れ渡っていた様子を強調しており、仁徳は夜空の天体の動き
をほぼ障害がなく見ることができたという意味のようなのだ。
それを過ぎて竈の煙(空の雲を包含して言ってるのだろう)がうんと
見られるようになった(天体見物の障害)という事なのである。〜続く

875 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/23(水) 20:43:52
>>874 続き
それで、紀の仁徳七年(393年:倍暦 実年代)には

「七年の夏四月、辛未の朔の日、天皇高臺の上に居して、遠く望み
 たまひしに、烟氣多に起てり。・・・ 天皇
 『烟氣國に満てり、百姓おのづから富めるならむ。』
 とのりたまひき。」

七年に煙運がたちこめたという裏の意味は、天体を見終わったという
示唆で、この年に高臺(天文台)で見られた天体のある様子が一段落
ついたんだ〜というナゾのようなのである?

それで古文献には 超新星

 A.D. 393年 さそり −1等 中国記録

           星の古記録(斎藤国治著)

の記録が存在するのである。                〜続く

876 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/23(水) 22:58:41
>>875 続き
この超新星の記録が中国のどの古文献にあるのかといろいろ調べて
見たが、中国の公式サイトでは交錯があるようでなかなかこれだと
いうものには当たらなかった。

「雑記帖」というサイトに無名の方の書きこみがあったので、これか
なぁ?〜と一応コピーすると

「・・・紀元393年=東晋孝武帝太元18年で探してみると、
『宋書』巻25天文志3に「太元十八年二月、有客星在尾中、九月
 乃減。」とあって、たぶんこのことを指しているんですよね・・・」

また交錯の原因は386年にも超新星の爆発があったことで混線
したのではないかと思われます。              〜続く

877 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/23(水) 23:29:35
>>876 続き
話は少しわき道にそれるが、参考に書きこんでおく。
超新星の記録はもっと古いのがあって

 A.D.185年 ケンタウルス −8等 中国記録
                   (星の古記録 斉藤国治著)

この超新星爆発の185年は倍暦計算で

 185年=孝靈24年=中平2年

である。中辺の24年は1年が現今と同じ1年の意味である。この年
は紀での孝靈70年〜同72年だということになる。

ところが東大寺古墳の中平刀の銘文には中平の年号があるわけで

「中平■■年五月丙午 造作支刀・・・上応星宿■■■■」

とあるが、ここの 星宿とはここのケンタウルス座のことでは
あるまいか? そして■■■■とは当時のこの星座の名称の漢字等
だったのではなかろうか? それがしはそう想うのである。  〜続く

878 :愛知県民:2009/09/23(水) 23:45:44
太国さん
尾は二十八宿の尾宿。さそり座の尾ですから合っていると思います。

879 :愛知県民:2009/09/24(木) 06:36:55
尾宿は青龍の尾であり、二本の角は乙女座の角宿と牛飼座の大角星です。

880 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/24(木) 11:10:18
愛知県民どの
参考情報有難う御座います。なにかと貴殿は学がありますな。
これには続きがありますから、いずれ後で・・・。

881 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/24(木) 15:13:51
>>880 続き
鷦鷯伝「先代旧事本紀大成経」(宮東齋臣編)によれば
仁徳四年三月の条に

「是を以て宮垣は崩れ而も造らず、茅茨壊るるも、之れ更以て葺か
 ず、風雨隙に入而衣、被を沾し、星辰壊より漏れて床の蓐を露す。
 是の後、年々、風雨も時に順い、五穀も豊かに穣り、三稔の間に
 百姓も富寛になり、徳を頌る音も既に満ち炊烟も亦繁り。」

この文は>>874に掲げた紀の仁徳四年の文とほぼ同一的であり、原書
が同じか似たもの同士と考えられる。先述どおり仁徳四年は倍暦で
392年であり、さそり座の超新星発現の1年前である。上の文にも
紀と同様星辰光が壊れた穴から漏れ、床に光が写し出された旨の記述
がある。当時は現代と違いネオンや車の照明灯などが全く無かっ
たから、煙と雲さえ無ければ夜空の天体はピカピカと丸見えだったに
違いない。                        〜続く

882 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/24(木) 15:38:01
>>881 続き
高木彬光氏の「古代天皇の秘密」はそれがしが若年の頃読ませてもらって、日本
古代史の面白さと神秘を味あったが、その中で核心部分は確か 應神=仁徳説 で
あったと記憶している。神津恭介の病床中に古代史を探偵して、その秘を説明
しようとする試みで、なかなかよかったが、この説は間違いだと考えている。
今回のそれがしの論はこの説とは当然違うが、その辺に、似て、こんなトリック
があったんではないのか? とする論説なのである。

先代旧事本紀大成経 應神四年の条

「四年夏四月、百済の辰斯王、礼を失て敬信せざるの故に、木角宿禰、羽田矢代
 宿禰、石川宿禰、木菟宿禰を遣わして、其の礼の無き状を嘖譲む。是に由で
 百済の諸臣は辰斯王を殺し以て其の罪を謝る。」

應神四年は倍暦計算で377年に相当する。そして・・・        〜続く

883 :ユッキー:2009/09/24(木) 18:14:48
>873

稲荷山鉄剣、斯鬼宮が気になりますが、ワカタキロ/ワカタケルが雄略であるならば、
辛亥年は471年です。この鉄剣が製作されたのは、471年雄略天皇の御世です。
雄略元年は通常暦計算の470年でいきたいと思います。必然的に安康没年は、469年です。
次に、古事記にある雄略の没年齢124歳は、どうみてもオーバー。1年に2歳、歳をとる
数え方なら、62歳です。没年492年から逆算すると、生年は431年になります。
允恭元年を425年とすると、431年は允恭七年になります。書紀にも允恭七年十二月に雄略
出生の記事がありますので、ピッタリです。
それや、これやで允恭元年は通常暦計算の425年でいきたいと思います。
いかがでしょうか。

だんだん、ややこしくなりそうです。私に続けられるか、、、、



884 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/24(木) 22:08:31
允恭は、雄朝津間稚子宿禰
天皇と書かれていても、身分は宿禰であり、履中、反正の弟では、
治世が長すぎる。


885 :ユッキー:2009/09/25(金) 08:49:10
允恭の治世四二年は長いですか〜。
確かに允恭二四年〜四二年は何の事跡もありませんね〜。

では、允恭あたり以前は倍暦だったならば、治世二一年としてみます。
逆算すれば、允恭元年は446年。雄略出生は允恭七年とあるから、雄略没年を492年とすると、
452(允恭七年)〜492=雄略没年齢51歳
449(允恭四年(倍暦換算))〜492=雄略没年齢48歳

通常暦治世より、こちらの方が実態に近いのでしょうか?

ちなみに、履中は病死、反正は原因不明(記述なし)


886 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/25(金) 11:04:42
倍暦は、日々の干支を合わせる事が出来ない。
日々の干支をあわせるなら −19年。

430年頃につなぎ目が入れば、倭の5王。


887 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/25(金) 15:35:27
>>882 続き
紀の應神三年には

「この歳、百済の辰斯王立ちて、貴き國の天皇に失禮かりき。故、紀の角宿禰、
 羽田の矢代宿禰、石川の宿禰、木菟宿禰をして、その禮無き状を嘖譲ばしめたま
 ひき。これに由りて百済の國、辰斯王を殺して謝りき。」

このように大成経には應神四年とあるも、紀には同じ内容の記述が應神三年に
なっている。應神三年は倍暦計算では376年末(9月〜12月頃)あたりに相当
している。何らかの事由で記載に1年のズレがあるのだろう?

ところが大成経の應神四年の後に、さらにまた應神「四年」と〜年から記載して
いる異様な文があるのだ。先代旧事本紀大成経 続きの應神四年の条

「四年、夏五月、天鳴き赤星焼て双出で、大きさ啓明(金星)の如く、二とも
 光烈くして日の如し。赤色にして朱の如く・・・天皇、之を異とし武内公に
 問う。大臣奏して曰く。此の星は妖星なり。天に回るの度、天に合わず、必ら
 諸の地に近づき、百丈の上に在り。唯り吾が国ににみ現れ三韓に見われず、
 是れ吾が国の妖なり・・・」

通常 紀も どうやら大成経も年からの記載をした場合、同年ならば次は×月と月
から書いて同年の記載を継続して行く。然るに同経、應神四年の条に於ては重ねて
應神「四年」の記載をしている。ここに何らかの記載の事情があるのであろう?
尋常ではないようだ? 上の記事は紀には無い。
同記事の應神四年(倍暦計算 377年:実年代)に関してだが、以下の天文記録
がその3年前にあるのだ。

 ハレー彗星近日点通過 A.D.374年 中国 晋書 寧康2年

しかし3年後も彗星が見られるのかと? それがしは疑問を持っていた。〜続く

888 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/25(金) 19:34:24
>>887 続き
この大成経の應神四年の追加の天文現象記事の中で、強い光輝を発する金星大
らしき星が奇異的に夜空に見え出したことについて、武内宿禰はこれはわが日本
に於て見られるが三韓には見られませんと問いを発した天皇に説明してるもので
あるが、なぜ武内大臣は半島のほうにはこの星は発現せず、日本に於て見られ
るのだという事をどこから覚ったのであろうか? その時点、半島に彼は行って
ないだろうし、来朝した遣使にでもから聞きこんだのか、いろいろと不審に想う
のであるが、遣使らから聞いたのなら、こんなことは天皇の耳にも入って
いようし、どこから半島にはこの新天体が見えないということを察知したのか、
えらく疑念に想ったものである。

結局これは当時朝廷が倍暦を行使してたから天皇も武内大臣も倍暦法については
その運用を知ってるわけだが、この金星様の天体について年数が倍暦のズレ
で層ができており、このため年数からは半島の記録と日本の記録とが倍暦
で合わなくなってしまうことを武内は当然解かっていることになる。そうなると、
日本と半島との記録の双方同年に相当する記録個所では、こちらに新天体発現が
存在しても、同年相当の半島の記録では、この関連記事が載っていないことに
なる。それが武内は三韓には記録上見られないことになってるよということを
天皇の前で広言したのであろう。天皇は倍暦行使を知ってるから、すぐに武内の
説明を理解したことであろう。

889 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/25(金) 19:37:39
訂正 >>888
× 層ができており
○ 断層ができており

890 :愛知県民:2009/09/25(金) 20:35:55
太国さん
緯度により星の見え方は違います。さそりの尾は日本でも南に低く見にくい。
半島では更に見にくい。

891 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/25(金) 21:43:39
>>890 愛知県民さん
そういう場合がありましたか〜。ご意見有難うございます。
>>888 >>889 続き
ハレー彗星 374年 の場合は3年の差がるわけで、それがしは唐松山じゃぁ
ないからゴリ押しは保留としよう。辰斯王没の件を先述したが、日本書紀と
三国史記の半島記事との簡略表は以下のとおりである。

255年 肖古王没   375年 近肖古王没
264年 貴須王没   384年 近仇首王没
265年 枕流王没   385年 枕流王没
272年 辰斯王没   392年 辰斯王没
285年 阿花王没   405年 阿華王没
294年 直支王没   420年 映支王没

これを見ると、最下段を除いて年数差は皆120年になっている。倍暦の段差で
それを知らずか、紀の編者が干支の2倍数を繰り上げて神功の代へと記事の挿入
をしたものであろう。辰斯王の場合の紀の記事は先のとおり應神三年である。
それが、三国史記では392年で倍暦計算では仁徳2年に相当している。

このことは大成経の應神四年では、同計算で仁徳3年になるのだ。つまり393年
なのである。ということは、同経の編者が應神四年と金星大の綺羅星発現を上表
の如くその年に時代を繰り上げたということなのだ。だから同星発現は、実年代
が 393年=仁徳3年 のことだったのである。武内に天皇が応問しているが、
應神天皇とは経に書かれていない。この記事は仁徳天皇の代の事だったのだ。

赤い星はアンタレスか? そこに393年超新星が現れ、仁徳が見たわけである。

892 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/25(金) 22:33:21
今地球儀を見たが、見えるんじゃぁないかと思うんだがねぇ〜?
地平線下だとダメだろうが、もう少し上だと当時はネオンとか車の照明灯なんか
も半島だってなかったんだから、車等の廃気ガスもなく空気も澄んでいたろう
から、夜間雲に邪魔されない限りは見えないかねぇ〜? まぁカノーブス(南極
老人星)だと見えないと思うが〜? どうかなぁ??

【干支と倍暦干支の関連年代表】【癸巳】の、干支と倍暦干支とが符合している。

皇紀 西暦 干支  倍暦 倍干
924 264 甲申 374 甲戌 ハレー彗星この頃近日点
925 265 乙酉
926 266 丙戌
927 267 丁亥 375 乙亥
928 268 戊子
929 269 己丑            神功皇后 崩御
930 270 康寅 376 丙子  應神元年 應神天皇 即位
931 271 辛卯
932 272 壬辰
933 273【癸巳】377 丁丑  應神四年
・・・・・・・・・・・・・・
973 313 癸酉 391 辛卯  仁徳元年 仁徳天皇 即位
974 314 甲戌
975 315 乙亥
976 316 丙子 392 壬辰  仁徳四年(紀)=仁徳2年
977 317 丁丑
978 318 戊寅
979 319 己卯 393【癸巳】  仁徳七年(紀)=仁徳3年

893 :愛知県民:2009/09/25(金) 23:07:44
歳差運動により、当時の北極星は小熊座コカブであった。
面倒臭い・・

894 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/26(土) 10:54:43
>>892
表と詰めて要点略記すると

933 273【癸巳】377 丁丑   應神四年
・・・・・・・・・・・・・・
979 319 己卯 393【癸巳】☆仁徳七年(紀)=仁徳3年

大成経の應神四年の天体発現記事は、日本書紀と三国史記の120年差と同様、経の
編者が 紀の編者らの120年移動したのと似た行為をやって、應神四年にその記事
を挿入したものであろう。だから120年違う超新星発現の393年(>>875)こそ
が、経の應神四年の天体記事だったということになる。

 273+120=393年

このように双方の干支と倍暦の干支 癸巳 が符合しています。

>>893
あぁ歳差運動も見逃せませんね。そうですか、あの頃は天の北極がコカブに
あったんですか? 今それがしの面前のPC画面の少し向こうの壁に、大きい
天体図を飾ってありますので、それを注視しています。小ヒシャクの角の星
ですね。
数年前泥棒に入られて、天体ソフト等を盗まれてしまいましたので、当時の天体
星座位置を調べることが即興で出来なくなっています。あれがあれば何とか
だいたい解かるんですが、くやしいですね。あの泥棒がにくくて恨み満杯です。
東京秋葉原で再入手したいところですが・・・。

895 :ユッキー:2009/09/26(土) 13:31:20

七枝刀の製作西暦369年を視野に入れながら、一度整理してみました。
ワカタキロは雄略とみて、雄略元年は470のままでいってみます。
叩き台です。

天皇 元年‥ 没年‥ 治世
神功 339 373 35 七枝刀の製作は神功三一年に相当
応神 374 394 21
    空位 1年
仁徳 396 439 44
履中 440 442 ‥3
反正 443 445 ‥3
    空位 1年
允恭 447 467 21
安康 468 469 ‥2
雄略 470 492 23 稲荷山鉄剣製作は雄略二年に相当

ハレー彗星は応神元年、超新星は応神二〇年になってしまいました。
広開土王と戦っていたのは、モラトリアム最中の仁徳?

896 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/26(土) 15:01:27
七支刀と神功
 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
これを満たす西暦は、326年5月辛卯朔 
東晉明帝太寧4年5月16日丙午、
273年 神功前紀 日食
326年 神功52年 七支刀 ←1年の狂いあり
328年 皇紀915乙亥年 肖古王崩御
先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音(又は晋)故為倭王旨造■■■世
奇生=貴須 まだ文字が定まらない頃に製作を意味する。

大彦からプラス七代では雄略(ワカタケ)までたどり着かない。



897 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/26(土) 15:12:34
船王後墓誌では、
オサダ宮に天が下収めたまいし天皇の世に生まれ、の「天皇の世」とは
敏達天皇の世が終わってからの表現。
これを稲荷山鉄剣に当てはめると 雄略死亡後となる。
製作年代が遅く成りすぎる。


898 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/26(土) 15:27:30
>>888
もしそれが超新星爆発なら
超新星 年 星座   銀河 最大光度 型 残骸・別名 備考
SN 185 185年 ケンタウルス座 銀河系 -8 RCW 86 最古の観測記録
SN 393 393年 さそり座 銀河系 -1 RX J1713.7-3946 ?
SN 1006 1006年 おおかみ座 銀河系 -9 I
SN 1054 1054年 おうし座 銀河系 -6 II? かに星雲
SN 1181 1181年 カシオペア座 銀河系 0 II 3C58
SN 1572 1572年 カシオペア座 銀河系 -4 I チコの星

赤色矮星では暗すぎる。


899 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/09/26(土) 17:27:19
185年の超新星は、他スレによると
『後漢書』/志/志第十二 天文下/靈二十の
中平二年十月癸亥,客星出南門中,大如半筵,五色喜怒稍小,至後年六月消.占曰:「為兵.」

らしい。黄巾の乱と結びつけられたようだ。
南門はケンタウルス座の一部だが「半筵」「筵」という星は無いようで、ムシロ半分の意味か?
393年では >>876 星の明るさ・大きさの記述は無い。
どうやって−8等とか、−1等を計算したのだろう。

これに比べると、1006年の超新星は宋史天文志によると「状如半月」まさに史上最大の星であった。

900 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/26(土) 18:00:56
應神四年は通説では273年だから倍暦に結びつけなくとも、日本書紀と三国史記の
120年の各差から

 273+120=393年

で、もう393年さそり座の赤星アンタレス近隣での超新星☆記事だということは
動かないに近いね。唐松山が否定しても紀と史記の各120年差から、その言い分
には何の威力もない。

901 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/26(土) 18:15:04
日々の干支が合わない。


902 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/26(土) 18:21:59
合うもクソもない。ppp
その年にまだ別の超新星とかがあれば話は別だが、日数なんてそこまで
必要はないね。それでピタリだよ。ww

そこで初めて倍暦がここでは出て来るわけだ。この前の勘注系図の成務の
代での干支と倍暦の干支のピタリ一致が、ここでもまた現れて一致した。
まるでDNAとか指紋の一致のごとくだ。合うわけだよ、それがしの論が
正解だということをこれら一致が遠回しに言ってる感がする。ww

おまけに金丹がダメ押し点だな。www

903 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/26(土) 18:27:10
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2000a_41.html
日本出土の朝鮮産土器・陶器

邪馬台国を九州にすると、その後の東遷を何処に置くか?
邪馬台国を大和にすると、卑弥呼が読めない。



904 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2009/09/26(土) 18:41:55
三国史記を調べましたが、三国ともに185年・393年の超新星の記録はありません。

905 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/26(土) 19:36:50
>>904
調査して頂き、感謝しています。光度は斎藤国治さんの
「星の古記録」95ページ表によります。

906 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/26(土) 21:02:27
この辺の年代は、応神朝、仁徳朝の2朝並列で考えていますから
応神で使うだけですよ、

398〜451 出雲甲子 皇暦1111 辛卯 53才 若沼毛二股王命/応神子



907 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/26(土) 21:37:43
出雲暦なんてオマエが全く解説したことはないんだから、どうせそんなものは
信用しない。オマエ暦だろうが?www

一段書きこんだだけで、何の説明もない。いつものオマエの抽象的書きこみで
オシマイなんだから、こっちは受けもしないよ。無駄な書きこみにすぎず、一段
だけでは何のことやら解かりもしないね??www

干支の一致は1/60の確率だ。それが勘注系図でも一致してるし、ここでも一致
しており、このことは遠回しにそれがしの倍暦計算が合致してることを各文献類
が証しているも同然である。君がそこまで要領の悪い日にこだわるなら、時間
割りでもっと細かくしなければ合ってるとは言えないと、君が遠回しに言って
ることとなる。ww だからそういう猿のオナニーの類をやり通すなら、今度は
猫のオナニー様の時間積みで計算しろい。ppp

908 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/26(土) 21:53:02
其れを言い出したら
応神に書かれた記事を仁徳に持って行くのは邪道。


909 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/26(土) 21:59:44
じゃどうなんだ? 三国史記はデタラメか? 紀が動かしたん
だろうが。120年もね。120年動かせば合うんだろうから、こちらも
120年動かしただけだよ。そこから倍暦を観ると、干支と倍暦の干支
が一致したということだね。120年動かさねばならないよ。

並立なんて、即興で今の今考え出したデタラメを撒き散らすな。

910 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/26(土) 22:10:31
☆仁徳七年(紀)=仁徳3年

是を「真」とするには、季節が合わない。


911 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/26(土) 22:18:12
>>910
季節は後付けで何にでもなる。毎回毎回おんなじことを言うな。
オマエのホツマも月の前に全部春夏等がついてないだろう。ならば
官僚式の記載方法と一般の記載方法で季語がついたりつかなかったり
してるんだから、官僚方式を真似ればそんな季節語は後でつけ
られる。

だいたい七支刀の銘文の■がノギヘンだって分かってるのに、
ノギヘンと無関係の年号をゴリ押しするな。デタラメ野郎になるぞ。

912 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/27(日) 19:44:16
>季節は後付けで何にでもなる。

なるほどねえ。では、巻向遺跡さえ説明出来ないのは何故?

纒向遺跡
 “邪馬台国”解明へ発掘
 有力候補の纒向遺跡 奈良・桜井

 奈良県桜井市教育委員会は30日、邪馬台国の有力候補地、纒向遺跡(3世紀初め−4世紀初め)成立の謎を解明するため…
 過去に神殿とみられる特殊な建物跡(3世紀初め−中ごろ)が出土した地点と周辺の約100メートル四方を発掘…
 九州から関東地方の土器も数多く出土していることから、一般的な集落とは異なり、広範囲から人が移動してきた「都市」との見方もある。遺跡内には、卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳(3世紀後半)など最も初期の前方後円墳が点在している。



913 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/27(日) 19:51:42
巻向がどうだと言うんだ? これではなんだか分かりやしないぜ。w
いつもの中途半端な書きこみで夜逃げか?ppp
オマエのはいつも具体性がないんだよ。

914 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/27(日) 21:30:38
具体性とは、その数字で歴史を語った時まで待ちますよ。

数字合わせだけで、歴史が語れないのが、貴方の数字。


915 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/27(日) 21:45:40
君はこのごろ支離滅裂のようだな。w
おかしいんじゃないのか〜? 全然具体性が乏しい。まるであさって
の話に終始している。君のお脳の点検をする必要がある。

916 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/27(日) 22:40:36
考古学は、巻向に各地の土器が集まるのは、2世紀末と云う。
この直後に、前方後円墳が造られ始められる。

書紀の記事でこの時代を探すと崇神時代になる。
書紀の記事を書き換えねば読めない数字では歴史は読めない。
書紀が太陰暦で書かれていることを否定する数字でも読めない。


917 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/27(日) 22:51:31
君はそのうち時間割りにすることを進める。それのがいいだろう?w
日より精密ではないか?wwwww
えらそうなことを言ったところで、うっちゃりうっちゃりの連続技
はそうは毎回利かない。すこしのうっちゃりは出来うるが、君は毎回
出た結果に逆らって特殊な言い訳でうっちゃろうと繰り替えして
ばかりいる。そんなに毎回うっちゃりが利くわけがない。w

918 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/28(月) 11:49:38
だいたい 書紀の日々の干支から算出した日付を信じながら
日々の干支を否定する、初めから錯誤を含んでいる。

季節を否定しても、その記事は季節を肯定するものがある、この説明が出来て居ない。

空白年には、朝廷付近の出来事が停止し、その後の朝廷に、なってから歴史は動く。
歴史の動きは、書紀の記事に左右され、空白年に大きな出来事は何もない
3倍年なら3分の2は空白年となるが、この空白年に動きの無いのはおかしい。

五十瓊の赤玉だから崇神であったハズ、金丹では崇神と関係無い。
強引に赤玉放出で信用度”0”。


919 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/28(月) 14:04:20
>>918 日数を重視して
これを ↓ 否定、軽視してるのがオマエだよ。それこそ錯誤だな。

【紀の欠史八代の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】

1日 4  15日 0  29日 0
2日 2  16日 0  30日 0
3日 3  17日 0
4日 3  18日 0
5日 6  19日 0
6日 3  20日 0
7日 2  21日 0
8日 3  22日 0
9日 3  23日 0
10日 1  24日 0
11日 4  25日 0
12日 3  26日 0
13日 3  27日 0
14日 7  28日 0


上を見ると、最も数字の多きが14日だ。それだけ朝廷は14日を重視
してたんだということだね。つまり当時に1ヶ月はほぼ半月(14日間
の2週間位)だな。

920 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/28(月) 14:31:06
>>918
いつもいつも説明に具体性がまるで無いのが、オマエの書きこみ。
いつぞやなんかモロに不合理が見えて、こちらのせいにしている。w
なかなかズル賢いようだな。ww

オマエの論説はまぁ〜90%がデタラメだよ。100%と言われないだけ
有難く思え。

921 :日本@名無史さん:2009/09/28(月) 19:46:13
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆爆


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50219a.htm
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり
小麦などのプラント・オパールも見つかり

922 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/09/28(月) 20:59:34
>>919

その数字には全て太陰暦の干支が振られている。
それを否定するのが貴方です。

日々の干支を否定した数字に関心は無い。


923 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/28(月) 23:15:02
否定したと言った覚えはないぞ。こっちの言ってない勝手なことを糊塗するな。
振られるのは当たり前。干支とはいっても、逆算という計算だからだ。

924 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/28(月) 23:34:57
オマエは>>919の表を無視してたから、オマエの紀年については完全に失敗なん
だぜ。出る結果が全部に近くオマエのは合ってないことばかりだった。つまり
サイの目が丁だという結果が出たとき、常と言っていいいくらい半を主張して
来たわけだ。ww それが丁の結果で合わないのに今の今考えだした即興でもっ
て合わない半をゴリ押しでうっちゃりの連続で無理を通してきたわけだ。

そんなことが毎回毎回うっちゃりで裏目の主張が通るわけがない。
5月だったか、千葉の歴博グループのC鑑定でも、こちらは値が許容範囲内
なのに、オマエのは基準値から50年も逸脱していた。これなど他の鷲崎さんの
住民の主張でも、そんなひどい逸脱人物は皆目いなかったろう。それに池田氏の
金印の常根津日子の側面文字の名でさえ、こちらが合ってるのにオマエの年代は
やはり外れていた。これも訓読みが当時無かったなどと、即興で今の今の思い
つき言い訳を考え出して、どうしてなのかも説明などこれも一切具体的説明など
していない。そうだろう〜即興の抗弁だからな。それの調査研究など全くして
いないだろう。オマエのはこんないつも結果に逆らううっちゃりのし通しで、
要するにオマエの紀年がデタラメ滅茶苦茶だから、結果が毎回反対なわけだ。ww

925 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/09/28(月) 23:37:03
>>924 訂正
× 鷲崎さんの
○ 曲学の徒さんの

926 :ユッキー:2009/10/02(金) 20:56:50
崇神から仲哀までを前回のものに繋いでみました。
成務あたりで、どうしても大幅に年代をカットしなければ、つじつまが合いません。
干支1順(成務の治世60年)カットできれば、都合がいいのですが、そうもいかず、
成務は即位年崩御という形で名前だけのこしました。この部分、これまでの手順から
外れましたので、再考します。
干支については、どっちみち後付ですから、編年後新しい干支に変えればいいと思います。

天皇 元年 没年 治世  没年齢
崇神 229 262 34 60歳(203誕生)
垂仁 263 312 50 70歳(243誕生)
景行 313 342 30 53歳(290誕生)
成務 343 343  1 20歳(324誕生)
仲哀 344 348  5 26歳(324誕生)
神功 349 383 35 50歳(334誕生)七枝刀の製作は神功二一年に相当
応神 384 404 21 57歳(348誕生)
    空位 1年
仁徳 406 439 34 63歳(377誕生)
履中 440 442 ‥3 34歳(409誕生)
反正 443 445 ‥3 30歳(416誕生)
    空位 1年
允恭 447 467 21 39歳(429誕生)
安康 468 469 ‥2 28歳(442誕生)
雄略 470 492 23 43歳(450誕生)稲荷山鉄剣製作は雄略二年に相当

*日本武尊、景行二二年(334)没


927 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/02(金) 21:03:15
崇 神 68年-38=30年間
垂 仁99年-76=23年間
景 行60年 –38=22年間
成 務 61年-57=4年間
仲 哀9年-0=9年間
神 功69年-?

これで太陰暦に違和感は出ない。


928 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/02(金) 22:03:04
>>926
成務の代だけハミ出るということは、どこかに間違いがあるということだな。
後代から洗い直しが必要だね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

違和感が出ない〜即合ってることにはならない。w

929 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/02(金) 22:03:50
>>926
成務の代だけハミ出るということは、どこかに間違いがあるということだな。
後代から洗い直しが必要だね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

違和感が出ない〜即合ってることにはならない。w

930 :ユッキー:2009/10/03(土) 14:34:55
次は、紀、無修正の年表です。
仲哀は、父(日本武尊)が死んで36年後に生まれました。
日本武尊没年は仲哀生年より後にしなければなりません。修正するには、
1 景行後半〜成務前半の間で大幅に年代をカットする。
2 日本武尊の没年を大幅に下げて高年齢化するか、活躍年代を下げる。
3 仲哀の生年を大幅に上げ、没年齢を高齢化する。
事跡を調べると、成務年代は、成務五年から没年の六〇年までに四八年の仲哀立太子
しかないので、このあたりで、年代を縮めるか、仲哀の生年を景行四三(113年)、
没年齢を88才としなければなりません。すると、応神は仲哀88才、神功31才の
時妊娠したことになります。やはり年代を縮めるか。

71 景行‥元年
84 景行一四年    成務誕生
85 景行一五年 ○日本武尊誕生
114 景行四四年 ○日本武尊(仲哀の父)没 30才
130 景行六〇年  ↑ 景行没106才
131 成務‥元年  ↓
149 成務一九年 ●仲哀(日本武尊の子)誕生(200-52+1=149)
190 成務六〇年    成務没 107才
192 仲哀‥元年
200 仲哀‥九年 ●仲哀没 52才


931 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/03(土) 15:31:26
太子の誕生年推測

50年天押男、52年神濡名河誕生
綏靖天皇63年〜76年 12歳即位、68年安寧誕生
安寧天皇77年〜88年 12歳即位 82年懿徳誕生
懿徳天皇89年〜92年 7歳即位 89年考昭誕生
孝昭天皇93年〜118年 5歳即位 108年孝安誕生
孝安天皇119年〜144年 12歳即位 128年孝霊誕生
孝霊天皇145年〜163年 18歳即位 148年孝元誕生
孝元天皇164年〜182年 17歳即位 166年開化誕生
開化天皇183年〜187年 17歳即位 184年崇神誕生
崇神天皇188年〜215年 5歳即位 205年垂仁誕生
垂仁天皇216年〜238年 12歳即位 224年景行誕生
景行天皇239年〜260年 16歳即位 243年成務誕生
成務天皇261年〜264年
仲哀天皇265年〜273年
神功皇后274年〜323年

932 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/03(土) 16:00:38
日本書紀と歴史の整合性

崇神5,6年は新羅192,3年の記事に対応
崇神12年異族多帰は、巻向より各地の土器
その直後から巻向に前方後円墳が造られ始める。モモソ媛はここです。
景初3年=都市牛利(タシウリ)=田道間守この記事とあい前後して 垂仁より景行になる。
273年 神功前紀の日食
326年 七支刀 神功52年? 東晉明帝太寧4年5月16日丙午、

書紀を歴史として再現するなら、この様な設定が必要です。



933 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/03(土) 16:11:16
三輪(半径r=3の円)は編年の照魔鏡。この円の球体化が金丹(五十瓊玉)
こそが崇神即位の真の年代をその古代から未来へと絶対的に教示している。

同円の球の体積 V=4πr**3/3 は

 4πr**3/3=113.097335・・・  (**はベキ)

この式を天津金木といい、左辺が金、右辺が木に相当する。
当時の3倍暦にかたどって右辺九桁を三分すると

113 は崇神即位の月日数1/13、097=97 はB.C.97年崇神即位を、末3桁 335は
実年代を教えるための数字なのである。そこで

 1/13 B.C.97年 崇神天皇即位

この即位年と末3桁の数字の差が実年代への扉であり、便宜上和をとると

 −97+335=238年

ここで097年にある邪魔 0 が紀元0年を無として,B.C.1年の次年を
A.D1年=西暦元年 と為し、年代が1年詰まり

 238−1=237年(真の実年代)=景初元年=崇神即位元年

が出る。239年=景初3年=崇神即位3年 となるのだ。景初3年当時垂仁はまだ
生まれていないから、当然伊支馬は垂仁ではない。

934 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/03(土) 16:27:08
全くと言っていいほど整合してはいな〜い。崇神5、6年には船が
まだ出来ていな〜い。だから天皇でも船には乗れな〜い。おまけに
百姓千人が腹ペコで渡海操縦の船の技術もなく経験0で危険海域も
知るわけもな〜い。だから192、3年に対応するわけがなく、デタラメ
であ〜る。

神功初年の記事は数日も日食が続くわけもなく、日食だとの主張は
非科学的であり、これもデタラメで整合していな〜い。

「寧」の字にはノギヘンがなく、鑑定結果と不整合であるそう
だから、これもデタラメ臭く、論説の腐敗性は極めて著しく、有害
不実の大盲象たる書きこみなのであ〜る。

935 :ユッキー:2009/10/04(日) 15:48:42
景初3年(垂仁九〇年)、邪馬台国の垂仁天皇が難升米と田道間守に非時の香菓を
ゲットしてくるよう、帯方郡への出張命令を出した。

事実なのでしょうか。

936 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/04(日) 17:05:14
>>935
奴の盲象だよ。景初が垂仁崩御頃〜景行初期の時代ではないんだよ。奴はホツマ
・カルトの強固な信心に傾倒したために道を誤ったのだ。

 景初3年=崇神3年=239年

あいつのカルト脳は滅茶苦茶で簡単には治癒しないひどいものなのさ。そうで
なければ日食が数日間続く非科学的な論説とか、X線検査で七支刀の■が
ノギヘンだそうなのにノギヘンで無い漢字の年号をゴリ押しとか、官は天皇の
家来なのに天皇だとか、こういうことを平気で主張する奴は他にカルト等、精神
異常者、とかでない限り毎回毎回改めないで平気で言い張るわけがない。という
ことは、奴の脳内はカルトの盲象で凝り固まっているわけだ。勿論デタラメ
なのさ。あなたも脳内のブレーキが利くよう、盲象論説からの警戒をされよ。

937 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/04(日) 19:28:27
>非時の香菓をゲットしてくるよう、帯方郡への出張命令を出した。

田道間守はカグ、カコ各4棹を持ち帰ったと書かれています。
カグ、カコとは、草木の実であり籾と捉えて居ます。
この籾により、東北地方まで稲作が広がった可能性が有ります。
この籾は日本武尊により、関東、東北の首長に分配される。


938 :ユッキー:2009/10/06(火) 07:50:31
一気に神武まで繋いでみました。
手順から外れたのは、安寧の没年齢を7歳上げたのと、
成務の治世年代を、残せるだけ残して、大幅に縮めました。

天皇 元年 没年 治世  没年齢
神武 前59 前22 38 64歳
綏靖 前21  前5 17 42歳
安寧  前4  15 19 36歳
懿徳  16  32 17 38歳
考昭  33  74 42 57歳
考安  75 125 51 69歳
考霊 126 163 38 64歳
考元 164 192 29 59歳
開化 193 222 30 58歳
崇神 223 256 34 60歳
垂仁 257 306 50 70歳
景行 307 336 30 53歳
成務 337 343  7 26歳
仲哀 344 348  5 26歳
神功 349 383 35 50歳
応神 384 404 21 57歳

*日本武尊、景行二二年(328)没

939 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/06(火) 15:20:19
ユッキーどの
先日も言っておいたが、唐松山に質問したって〜奴の答えはカルト・ホツマ絶対
からの説明であって、きちんとどうなってるんだろうという謙虚な研究態度から
にじみ出た結果のものではなく、強信で狂信のカルト脳内服従からの目的を
達成するためには論の手段を選ばないという盲象暴走を平気でやる野郎だから、
奴を痛烈批判するのは大いに結構だが、奴の言い分を参考になどしてはいけない。

なんのメリットもなく有害カルトに脳内が洗脳されるだけのもので、酒井が
飛びついた覚醒剤同様、極めて君の純粋な脳には甚大な悪影響を及ぼす以外の
何者でもないのだ。また今後の研究の進展を祈り〜書きこまれたい。

940 :日本@名無史さん:2009/10/07(水) 13:33:59
一世25年とすると

         生年
 1 神武  −1年頃
 2 綏靖  25年頃
 3 安寧  50年頃
 4 懿徳  75年頃
 5 考昭 100年頃
 6 考安 125年頃
 7 考霊 150年頃
 8 考元 175年頃
 9 開化 200年頃
10 崇神 225年頃
11 垂仁 250年頃
12 景行 275年頃
13 倭武 300年頃
14 仲哀 325年頃
15 応神 350年頃

941 :ユッキー:2009/10/07(水) 19:21:30
とりあえず、推古天皇から神武天皇まで、つないでみました。
2倍暦を信じているわけではありませんが、複雑な手法をとらず、出きるだけ同じ
手法をとりました。結果2倍暦になりました。検証はこれからです。

暦も干支もなかった頃は、○○の帝が××した頃△△の事があった、というように
説話が伝承されたのでしょう。書紀の編者はそれら説話を1件1葉で木簡か何かに
要点を書き、それを並べたのでしょう。粗かた固まってから、年干支の分かっている
時代から遡って年干支を割り振っていく。別に暦法によって長暦のような暦を計算し、
個々の説話に日々の干支を付けていく。その結果、思ったほど古くならなかったので、
古い時代を伸張した。その際、架空の天皇を挿入したかも知れない。その後、半島や
中国の史記で、倭に関する記事を、年干支を頼りに、この辺りだろうと思われるところへ
挿入した。こうして日本書紀が出来上がったのだと思います。最初の無修正をVer.1
とし、第1回修正をVer.2とします。それでも足りなかったので、Ver.3として、垂仁辺りから
古い時代を再伸張したかも知れません。サガミハラハラ先生はこの説ですか。
伸張の方法は分かりませんが、あまり複雑な方法は採ってないのではないでしょうか。
実年代を求めるというのは不可能で、Ver.1が再現できないかということではないでしょうか。
古くしなければならないのは、なにしろ神武天皇の曽祖父が天から降りてきたのですから、
あまり新しいと神秘性もなく、誰も信用しません。辛酉革命など意識してなかったのでは。


942 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/07(水) 23:51:04
神武以降の書紀は暦の存在を否定しない、しかし治世年数が長すぎる。

暦が有ったとすれば、各天皇紀を19年*n回で圧縮するのが暦を肯定する最良の方法。
当然「辛酉革命など意識してなかった」は当然。

ホツマに依ると暦の使用は神武より60年ほど前になる。(今に繋がる暦の初め)

それ以前も暦は有ったが、まだ数字に直せません。


943 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/08(木) 00:08:43
>天皇 元年 没年 治世  没年齢
>神武 前59 前22 38 64歳

この数字だと、神武が大和入植の足跡が無い。
神武元年 41年 土器X紀の始まり。

懿徳、考昭は腹違いの兄弟で安寧没後に考昭は産まれた。
開化、政務、は早くに亡くなる、日本武尊享年19才。

崇神没後に生まれたホムツワケは、崇神の落とし子。崇神没後に生まれる。
出雲の祟りがホムツワケに降りかかるのは、崇神の子供であったから。

天皇の専制事項である暦の変更を神功時代に求められない。
仲哀亡き後を日本武尊の子供「ワカタケル」が継ぐ?312年に死亡。


944 :縦目仮面:2009/10/08(木) 00:20:26
>出雲の祟りがホムツワケに降りかかるのは、崇神の子供であったから。

ホムツワケは垂仁天皇の皇子でなかったでしたっけ。狭穂毘古の叛乱で火の中に生まれた。ただ、
出雲の祟りというのは深い意味がありそうです。

945 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 10:19:50
腹違い←こんなのはアマテラスが男だと言ってるのと同類の言い訳で、根拠は
ないと観てよい。ww こういうことは十二分否二十分のの具体的根拠を合理的
に提示説明して、なるほどと想える内容でなければ、そんなデタラメには応じら
れない。兄弟継承は履中からである。皇制が出来て十分な状況でなとき、息子に
皇位を行かせないでわきの兄弟に行く理由付けが全くといって無いに乏しい。
つまりデタラメなのでである。

946 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 11:04:43
こういうふうに記紀の内容と違うことを毎回毎回重ねて、アマテラス
は男だとか、記紀に説明ない時代に兄弟継承だとか、いろいろと見解
を十二分を越えた根拠等もないのに記紀に違えて主張を繰り返して
行くと、もう全然記紀を違背いた内容になるわけで、こういうことを
平気で言い張って信を覚えることが、真の古代史から大きく遠ざ
かる要因になる。これが唐松山のように一人立ちして突っ走ると、
もう奴のように帰ることが出来なくなる盲象突進の密林に至る。

記紀に間違いは確かにあるが、十二分より以上の根拠等を持って
きて、その間違いを主張すべきで、そうでもないのにす〜ぐ記紀に
違えた論を言い張ってれば、これは十中九は盲象に至ろう。

例えば記紀の年代には不合理があることは、両者の年代の記述の相違
とかから確かに存在するわけで、その矯正とか違っている事由とかを
合理的具体的に研究を重ね、真を得るようしなければならない。他に
も記紀には確かに間違いはあるとは思っている。そこんところを
違えることが大丈夫か否か、充分検討吟味を重ね裏取りも手は抜け
ない。これをしないで奴は主張だけを先行させてその違えた事由を
説明してない訳だが、こういうのは一発で棄却して古代史の真を奴の
妄想から防衛しなければならない。こういう違背を多発してる唐松山
のようなのは、ほぼ全部が妄想のばら撒きの有害結果を生み、著しく
その悪影響は計り知れない。

947 :ユッキー:2009/10/08(木) 14:19:38
書紀の年代を考えるには、二通りのゴールがあると思います。
一つは、考古学、外国文献、生理学などから観て整合性のある
実年代で編年することです。実在、非実在や二朝並立、父子兄弟間の王位継承など
充分検討しなければなりません。
もう一つは、とにかく書紀の記述はできるだけ尊重し、辻褄のあわないところ、
不自然なところを修正し、すっきりしたものにしたい。ただし、万人の認める定点があれば
そこは合わせる。
前者を求めるのが本当でしょうが、邪馬台国論争のように、決着が着きません。
いろいろな説を一つ一つ吟味し、多くの説を切捨てながらでなければ、進めません。
後者だと、五王や卑弥呼は、書紀に比定できなければ、九州かどこかの大王だと突っぱね
れば簡単です。
無理に、作ろうとすると、説の数だけ出来、決定打は出来ないと思います。
取敢えず、平成版日本書紀として後者を作り上げ、新しい定点が確定される
都度修正を重ねて、精度を上げていくのも一つの手と思います。
実年代の検討と平行して、取敢えず、神武〜持統間の平成版日本書紀を編年しませんか。

948 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/08(木) 16:25:44
>充分検討吟味を重ね裏取りも手は抜けない。

その結果である「赤玉」の正しさは?
球の体積V=(4/3)πr^3 乗=「身の上に心配ある身」

ご自愛あれ。


949 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/08(木) 16:33:34
>>940
>一世25年とすると

寿命が40才弱の時代にそぐわない。
孫のある天皇は、神武と景行ぐらい。


950 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 16:42:08
それではもう一つ唐松山に三輪のパンチを食らわすことにしよう。w
三輪(半径r=3の円)は球化してその体積Vは V=4πr**3/3
であるわけだが、このの球(金丹)五十瓊玉とは先述通り
天津金木を設定して、右辺全九桁で

 4πr**3/3=113.097335

にて左辺が天津金木の金、右辺がその木に相当する。三輪と3倍暦に
かたどって右辺を三つに分け 113は崇神即位の月日数、097=97 は
崇神即位のみかけの年代 B.C.97年を、最後の335は実年代を指示
する数字であり

 −97+335=238年

の準実年代が出る。097の0は邪魔者と観ての紀元0年の示唆であり、
同0年を無と為して積めると1年分ズレるわけで、ここから実年代

 238−1=237年=景初元年=崇神即位元年

を得る。                         〜続く

951 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 17:03:59
崇神天皇(五十瓊殖尊)の即位とは

 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位

だが、これはみかけであり、実年代は 237年 であることは先述
した。V(天津金木)は右辺が全九桁であったが、最初の基本は
全十桁であり

 V=113.0973355

なのである。問題は十桁となる末桁の5であって、これを0と為し
たのが>>950のVであるわけだ。十桁目の5→0の50は五十を意味して
>>950のVは十桁目が0となる。(←また、十桁の次桁もあれば0と
なる)これが崇神の御名になっている。上の右辺を天津菅曾といい、
末桁5→0で

 V=113.0973350 (右辺全十桁記載)

となる。

整数桁が3個であることに因んで末桁も3個とるとこれは350であり

 350−113=237年(崇神即位実年代)

を得る。パチパチパチ Vサインだな。wwwww V

952 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 17:23:40
>>951
先述最後の式

 350−113=237

であるが、移項して

 350=237+113

これの右辺はそのまま 実年代 で

 237年 1/13 崇神天皇 即位

が得られる。崇神天皇即位は 237年=景初元年 だったのだ。Vサインだぜ。

953 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/08(木) 18:52:53
紀=書紀による編年(元年)
古事記、墓標(出雲干支)は伸長されることなく使われた。

西暦  天皇        治世  出雲干支
93年 孝昭天皇元年 26年 丙寅
93年 出雲歴のはじまり 丙寅
119年 孝安天皇元年 26年 紀
145年 孝安戊午年1月9日77 墓標 戊午
145年 孝霊天皇元年 19年 紀
163年 孝霊丙子年2月8日55 墓標 丙子
164年 孝元天皇元年 19年 紀
180年 孝元癸巳年9月3日46 墓標 癸巳
183年 開化天皇元年 5年 紀
188年 崇神天皇元年 28年 紀
190年 開化癸卯年4月9日40 墓標 癸卯
216年 垂仁天皇元年 23年 紀
225年 崇神戊寅年12月7日42 古事記、墓標 戊寅
239年 景行天皇元年 22年 紀
261年 成務天皇元年 4年 紀
265年 景行戊午年11月7日86 墓標 戊午
265年 仲哀天皇元年 9年 紀
274年 神功皇后元年 50年 紀
324年 応神天皇元年 43年 紀
361年 応神甲午年九月 古事記、墓標 甲午
367年 仁徳天皇元年 33年 紀
386年 仁徳己未年8月15日83 墓標 己未
394年 仁徳丁卯年八月 古事記  丁卯
399年 履中壬申年1月5日64 古事記、墓標  壬申
400年 履中天皇元年     6


954 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/08(木) 19:17:23
西暦  天皇        治世  出雲干支

404年 反正丁丑年七月崩 古事記 丁丑
405年 反正戊寅年7月5日59 墓標 戊寅
406年 反正天皇元年    6年 紀
412年 允恭天皇元年    42年 紀
420年 允恭癸巳年1月14日61 墓標 癸巳
451年 安康甲子 古事記    甲子
451年 清寧甲子年1月16日41 墓標 甲子
454年 安康天皇元年 3年 紀
455年 賢宗戊辰年9月25日 38 墓標 戊辰
456年 雄略己巳八月 古事記 己巳
457年 雄略天皇元年 23年 紀
465年 仁賢戊寅年8月8日52 戊寅
473年 武烈丙戌年12月8日18 丙戌
480年 清寧天皇 5年 紀
483年 安康丙申年8月9日41 墓標  丙申
485年 顕宗天皇元年 3年 紀
488年 仁賢天皇元年 11年 紀
499年 武烈天皇 8年 紀
506年 雄略己未年8月7日62 己未
507年 継体天皇 27年 紀
531年 継体辛亥年2月7日82 皇紀墓標 辛亥
534年 安閑天皇元年 紀
554年 継体丁未年四月 古事記  丁未


955 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 19:43:53
499年は顯宗天皇(乙祁)の時代だよ。梁書の永元元年(499年)の
記事でオマエのはデタラメだと分かる。武烈ではな〜い。ww
おまけに出雲暦なんぞ朝廷には関わりなさそうで、オマエ以外あまり
聞いたことがない産物だし、わけのわからぬいい加減なものらしい。

956 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/08(木) 19:52:19
>>919 >日数を重視して これを ↓ 否定、軽視してる
>つまり当時に1ヶ月はほぼ半月(14日間 の2週間位)だな。
数字は書紀の朔から割り出した数字なのに日々の干支を否定する。

>>923 >否定したと言った覚えはないぞ。こっちの言ってない勝手なことを糊塗するな。
日々の干支は、日にちの空白を否定する。なのに
>>911 >季節は後付けで何にでもなる。
書紀の太陰暦は、季節が書いて無くとも、季節を否定出来ない。
>>934 >神功初年の記事は数日も日食が続くわけもなく、日食だとの主張は 非科学的であり、
「数日も続く」は、太国さんの読み方。説明して貰いたいのはむしろ私の方です。
>>924 >金印の常根津日子の側面文字の名でさえ、こちらが合ってるのに
そうすると57年当時倭国では、漢字が使われていた、なのに暦は使われていない、と主張。
だから太国説は
>>946 >記紀を違背いた内容になるわけで、
>>924 >千葉の歴博グループのC鑑定でも、こちらは値が許容範囲内 なのに、
許容範囲とは?

モモソ媛の箸墓が250年頃の築造。
その箸墓に誰が祀られているか?と云う問題ね。
では崇神の墓はどれ?


957 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 20:05:37
大石凝真素美翁は天津金木を「天津神算木」として論を張ったが、
まことに金木の代替字としては適当であったと、このごろ感じている。

天津神算木(天津金木)は古神道の秘義であり、このスレ等で破蛇
のため断続的に書きこんできたが、これにより真暦が防衛できうる事
は実に喜ばしいことと想う。これこそ未来千年、末法万年の時代
となっても古代当時の真の年代がしっかりと天津神算木によって測ら
れ、盲象からの砦となりうるものだ。

>>953>>954
オマエ墓標は否定していたくせに、今度は肯定につかうとは如何に
いい加減でデタラメのメチャクチャ野郎だということが手にとるよう
に、ミエミエに分かる。pp
都合が悪いと墓標を否定し、必要になると肯定に使う。オマエは
日本史板古代史スレのブラック・リストに載せるべき人物だな。

958 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 20:22:23
>>956 オマエもっと行間を空けて書け。読みにくいったらありゃぁしない。

欠史八代の表をもう一度見てごらん。14日間しかないぜ。当時の1ヶ月が半月
だったことを物語っている。オマエはこれを否定してるから、金丹を飲んで
オマエの盲象解鎖をせねばならない。ww 当時空白日でも干支計算に入って
いたようだな。しかし天体は違うことになる。紀のは逆算だよ。測定ではない。

それで特殊朔の月食の記事が佛伝以前には全くなく新月の記事ばかりを記載して
いるわけだ。観測なら日食ももっと紀に載ってるはずだ。これだけでも神功初年
の記事が日食である可能性が非常に薄い。それに愛知県民氏もオマエの日食と
するのをおかしいと言っていたろう。数日間続くわけもなく、紀にその旨書かれ
てあるんだから、こちらのせいにしてゴマ化してもダメだぜ。ww

この前も船の築造の矛盾をこちらのせいにしている。いずれもこちらのせいに
するんじゃねぇ。

>季節を否定できない
その理由、説明が無〜い。こちらのせいと同様、いつものオマエの詭弁だ。ww

959 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 20:28:27
>>956
>漢字が使われていた、なのに暦は使われていない、と主張
全くもって意味不明。こっちにせいに鞍替えする〜オマエそろそろ脳内が
支離滅裂状態だな。ww

崇神の墓などと〜またまたモモソヒメから視点を鞍替えしている。ww
崇神の墓も重要だが、これから編年などこれだけでは出来っこない。名が崇神の
墓だからって、名にかこつけて鞍替えしてくらますんじゃぁねぇよ。

960 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/08(木) 21:12:37
>14日間しかないぜ。当時の1ヶ月が半月だったことを物語っている。

日々の干支は1月が29〜30日であると主張している。
朔とは新月の事であり、暦を知らない人々でも数えられる。

太国倍年は、この無知な人々も騙せない。


961 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/08(木) 21:40:44
大石凝真素美が山本家に十年間寄宿し、 懺悔法で精神病の治療にあたったとされている。

太国さんは、患者だったのね。


962 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 22:01:11
>>960
騙してるのオマエのほうだよ。ないじゃないか、あの表にはね。
一ヶ月が14日間(2週間)ですよということなんだよ。
干支なんか空白日でもつけていけば、一ヶ月が2週間だということに
矛盾はないね。オマエはこの2週間しかないことを今の今まで無視
して来たから、失敗したんだよ。

三輪は古代史編年ボクシングのチャンピオン・ベルトも同然だな。
大石凝翁が精神病でも、こちらが精神病とはならないね。そんなこと
を言うオマエは脳内を精神科へ行って診てもらったほうがいい。pp

これを見てみい。金丹の薬丸

 V=113.097335

ここの数字の・・・130・・・は、逆読み・・・790・・・は

 皇紀790年=西紀130年(みかけ) 景行天皇 崩御

で【即位年】ではない。これはオマエの負けを意味するのだ。ww

963 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/08(木) 22:51:45
>干支なんか空白日でもつけていけば、一ヶ月が2週間だということに矛盾はないね。
>否定したと言った覚えはないぞ。こっちの言ってない勝手なことを糊塗するな。

だから日々の干支を否定するんでしょ。
日々の干支は否定するが、朔(日々の干支で出来て居る)から割り出した数字は、肯定する。

これを2枚舌と云う。
金丹の薬丸 って、「赤玉」であり「身の上に心配ある身」である、依って
大石凝真素美が山本家に十年間寄宿し、 懺悔法で精神病の治療にあたったとされている。
ここの患者様が太国さん。

すべて合っているでしょ。





964 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 23:00:44
オマエは年の後半があまり無いからマシだとか言う。ww
なら八代の表の日数の月後半がないのは、マシではなくムシ(無視)
か〜?ppp wwwww

オマエは大石凝を詳しく知っているから、小笠原孝次も赤玉とかで
知ってるようだな。ww まぁそれはいいとして、オマエはホツマ
の飲み過ぎで、取り返しのつかない副作用にやられたのだよ。

オマエはもう景行を強行に固定したから、もう天津神算木の算木の
数結果から、その編年はデタラメとの結果が決まったのだ。それが
先述の景行崩御があって同即位がないことで、これが分かるのだ。w

965 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 23:09:42
だいたい美濃もん太氏も言ってたが、オマエの19年という暦本に解説
があるその計算を使っても、2000年ばかり前では年代だけ観て行って
たのと相違しても、せいぜい現今の年代感で数年の誤差だろうに〜
なぜそんな要領の悪い面倒な計算を強いる必要があるのか? 奴も
疑問だと言ってたが、そのとおりだろうが? 年代の和でやって行っ
たほうが計算がたやすく、誤差もオマエのやり方と数年くらい
だから、そんな面倒な細かいオマエの計算をしなくたって、日数計算
の和をとらなくたって、年の和の計算で間に合うはずだろというのが
美濃もん太氏の苦情なわけだよ。要するにメリットが殆どないのが、
オマエの要領のわるい計算方法固執なわけだな。

本当にオマエのやり方は得策ではないと思うんだぜ。www

966 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/08(木) 23:30:07
オマエははぐらかしに専念しており、日食が数日続くことを平気で
強行しており、そのはぐらかしとしてこちらが数日続くことを説明
するように誘導して、オマエの非科学的日食数日継続論の不合理を
希釈隠匿するよう行動している。ww

日食が数日続く不合理をとぼけてカモフラージュして改めないの
なら、明日にでも精神科へ行ってオマエの脳内を診てもらえ。
オマエ、以前にラトレッジ精神病院へでも通ってたんか?ww

967 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/10(土) 10:55:53
唐松山は研究の当初から、というより当初以前から、景行世が絶対だとの盲象
の確信を抱いていたんだろう。確信と言うより強信と言ったほうがズバリだろう。

そして強信が狂信へと暴走することとなる。じゃぁなぜ初っ端よりももっと以前、
景行絶対を地球よりも重く強信していたのかと考えれば、これはホツマの読みすぎ
でその当人が自覚しない強力な副作用即ホツマ・カルトの大間違い教義の確信が
唐松山の脳内にまるでサナダ虫の体内寄生のようにあるいはエイリアンの同化の
如く根付いてしまったということなのだ。そしてそれがもう治癒出来ないホツマ
・エイリアン脳の誕生となったのである。

これがゴリ押し編年の後代から先代へのどうなるかからの紀年確定でなく、まず
先に絶対景行の年代固定ありきでそれから上下の年代を決めこんで行き、これを
強引にこうだと言い張るから、一見正規の論述に見せかけてるだけて、その実体
はカルトの隠れ布教そのものだということなのだ。

968 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/10(土) 11:29:17
そしてこうだと奴が言い張っても、それが間違いだからおやおやっw
ところどころに各々合わない個所が見え隠れするから、客観的にそこ
を閲覧、調べれば、な〜んだこれはおかしいぞと、カルトにやられて
ない通常の正規な判断が出来る脳ならば、その不合理な点を軽く
見破ることができ、妄想を吸収しないで棄却することが出来る。

ところがカルト・ホツマにいったん濃く染まってしまうとこういう
多々の不合理を平気で無視し突っ走り、ご本尊の景行絶対を最後まで
擁護しこれを改めようとはしない。だから平気で日食が数日間続く
わけもないのにこうだと言い張るのを毎回主張し続けるわけである。

このように超強固なカルト・ホツマに洗脳されてしまうと、その
副作用は正当な資料、根拠を多数出してそうではない真っ当な論説を
結果を掲げ示してみても、全部が全部うっちゃって当人の説を何らか
の言い訳を即興で繕って平然とおかしなカルト説を強行固持
するのだ。だから正当な証拠が出てもまだまだそういう(カルト・
ホツマからの)自説をぜったいに曲げないだろう。これを唐松山に
奴の自説がおかしいと微々でも気付かせるには、そういう考古学
の出自とか記紀等正規の古文書からのブツでは不可能に近く、天津
金木、天津菅曾からの丸薬金丹を飲ませるしかまず他に方法はない。

しかも即効性などこれでも他でもあるわけがなく、極めて遅効性で
あるが、毎回この丸薬にたよる他、唐松山の盲象脳を治療する手立て
は全くに近くないであろう。ww

969 :ユッキー:2009/10/10(土) 16:19:24
とりあえずです。太国先生も欲しいですね。

天皇‥サガミハラ先生‥│‥‥唐松山先生‥│‥‥ユッキー‥‥|‥‥墓標暦‥‥‥│‥太国先生
‥‥‥即位‥没年‥治世|即位‥没年‥治世|元年‥没年‥治世|没翌‥没年‥治世│元年
神武‥131・‥150‥‥21・│041・‥063‥‥23・│-59・‥-22‥‥38・│---・‥-45‥‥‥・│
綏靖‥150・‥158‥‥09・│063・‥076‥‥14・│-21・‥-05‥‥17・│-44・‥-09‥‥36・│
安寧‥158・‥168‥‥11・│077・‥088‥‥12・│-04・‥015‥‥19・│-08・‥030‥‥38・│
懿徳‥168・‥176‥‥09・│089・‥092‥‥04・│016・‥032‥‥17・│031・‥064‥‥34・│
考昭‥176・‥197‥‥22・│093・‥118‥‥26・│033・‥074‥‥42・│065・‥088‥‥24・│
考安‥197・‥222‥‥26・│119・‥144‥‥26・│075・‥125‥‥51・│089・‥118‥‥30・│
考霊‥223・‥241‥‥19・│145・‥163‥‥19・│126・‥163‥‥38・│119・‥136‥‥18・│177
考元‥242・‥256‥‥15・│164・‥182‥‥19・│164・‥192‥‥29・│137・‥153‥‥17・│
開化‥256・‥271‥‥15・│183・‥187‥‥05・│193・‥222‥‥30・│154・‥163‥‥10・│
崇神‥271・‥288‥‥18・│188・‥215‥‥28・│223・‥256‥‥34・│164・‥198‥‥35・│237
垂仁‥288・‥314‥‥27・│216・‥238‥‥21・│257・‥306‥‥50・│199・‥250‥‥52・│
景行‥315・‥344‥‥30・│239・‥260‥‥22・│307・‥336‥‥30・│251・‥298‥‥48・│
成務‥345・‥351‥‥07・│261・‥264‥‥04・│337・‥343‥‥07・│299・‥310‥‥12・│
仲哀‥352・‥355‥‥04・│265・‥273‥‥09・│344・‥348‥‥05・│311・‥319‥‥09・│
神功‥356・‥390‥‥35・|274・‥324‥‥51・|349・‥383‥‥35・│320・‥389‥‥70・│
応神‥391・‥411‥‥21・│324・‥367‥‥44・│384・‥404‥‥21・│390・‥394‥‥05・│376
仁徳‥412・‥432‥‥21・│367・‥400‥‥34・│406・‥439‥‥34・│395・‥419‥‥25・│391

970 :ユッキー:2009/10/10(土) 19:23:45
定点に成り得るか?

武寧王の没年
百済本紀に武寧王の没年は、癸卯(523)年5月とあり、武寧王墓誌銘にも同様である。
継体一七年にもその記述があるから、定点である、というのがある。再編年の結果、
仮に継体四年が癸卯(523)になったとしよう。そうすると、この記事を新継体四年癸卯(523)年に
引越しすればいいわけである。単純な差込み記事のように思えるので、どんな編年に
なろうとも、癸卯(523)のところへ差し込めばいいように思う。

ということは、書紀の継体十七年=西暦523年と決めつけることができない。
と思うのですが、いかがでしょうか。


971 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/10(土) 19:32:07
>確かに 応神 時代おこるはずだが..
>倭の軍事力が膨脹した時期..

364新羅 倭兵が大挙して侵入
『日本書紀』巻十一仁徳天皇五三年(乙丑三六五)◆五十三年。新羅不朝貢。
夏五月。遣上毛野君祖竹葉瀬。令問其闕貢。田道連精騎撃其左。新羅軍潰之。
『日本書紀』巻十一仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月◆冬十月。呉國。高麗國並朝貢。

1年の狂いは有るが、この時代です。これを正しいとして。

『日本書紀』巻九神功皇后摂政元年(辛巳二〇一)二月◆爰伐新羅之明年。
適是時也。晝暗如夜。已經多日。則日暉炳。日夜有別。
この日食は、273年。翌年を神功元年(274年)として計算すると
『日本書紀』巻九神功皇后摂政五十二年(壬申二五一)九月丙子《十》
(325年))五十二年秋九月丁卯朔丙子。久■等從千熊長彦詣之。則獻七枝刀一口。七子鏡一面。
泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■は
326年 5月辛卯朔、東晉明帝太寧4年5月16日丙午。

>単純な差込み記事のように思えるので、
この場合百済本記にも記事が有れば思考の範囲内と成るでしょうが
百済本記に無い記事は、倭国の記録。


972 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/10(土) 19:50:25
X線検査でノギヘンが出たんじゃぁ、「寧」にはならない。つまり
デタラメだ。また非科学的な日食が数日間も起こるわけもないから、
精神異常者とかムー誌的空想ロマンだとかカルト脳内等の人間以外
は、みなこれもデタラメだと分かる。ww

973 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/10(土) 21:45:10
>>970
まぁ決めつけは早計かも知れないです?

ただ1998年に古田先生が武寧王陵へ行き碑面の確認をしたところ、
干支は「癸卯」とあるところ、翌年の「甲辰」との改刻痕を見つけ
てますので、事は複雑なんです。ここは慎重にならざるを得ないの
で、今後研究が進展すれば別ですが、今のところ明快にこうだとの
結論は避けざるを得ません。

そこでここはいじくらず、保留として他を優先したほうがいいと思い
ます。貴方にしっかりとした見解があれば、それがしから貴方に聞く
こともあろうかと存じます。なおアマチュアですから、先生の語は
不要です。

974 :ユッキー:2009/10/11(日) 09:19:21
定点に成り得るか?

武寧王没年
寧東大將軍 百濟斯麻王 年六十二歳 癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩 
到乙巳年八月癸酉朔十二日甲申 安[广+昔]登冠大墓 立志如左

癸卯年(523) 五月 丙戌朔 七日 壬辰 (523/06/07)
甲辰年(524) 五月 庚戌朔 七日 丙辰 (524/06/25)

で、年干支を甲辰に変えれば、当然日干支も変わります。
仮に何らかの事情で、実体が甲辰年が正解と判明し、碑面だけ取敢えず修正した場合、
日本書紀も甲辰年のところへ差込めばいいだけと思うのですが。
はっきりしてなければ、新編年では癸卯年に挿入し、分注として、一本曰く甲辰・・・とすれば。

いずれにしても、定点としては弱いと思います。


975 :ユッキー:2009/10/11(日) 10:04:19
定点に成り得るか?

神功初年=日食=273/05/04
確かに273/05/04(癸巳年四月朔戊辰)に皆既日食がありました。中心線は
半島中央を西北西→東南東→能登半島→茨城県北部→太平洋へ抜けます。
皆既の下限線は越前海岸→千葉県北部を通ります。
和歌山では15:51→17:55で、最大食分は0.94(16:56)です。

しかし、近くでは277/02/20(丁酉年二月朔丙子)にも金環日食があります。
半島では南西→北東へ抜けます。和歌山では14:25→17:03で、最大食分0.69(15:49)です。

もっと離れれば、いくつか出てくると思います。
なぜ、273年でしょうか。

書紀の記述は、はたして日食でしょうか。皆既日食で夜のように暗くなるのは数分間です。
皆既帯から外れている和歌山では薄暗くはなりますが、真っ暗にはなりません。
常夜行之也というからには日食ではなく、一天俄に掻き曇り、、、こんな気象状態が
何日か続いた(あるいは断続的に)のではないでしょうか。単なる日食であれば、
天皇がいぶかって周囲に質問するでしょうか。

定点率を上げるには、もう少し納得したいです。


976 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 10:13:31
523年(癸卯)も524年(甲辰)も倍暦逆算では双方529年の同年ですから、碑文
の干支の改刻はそのへんの倍暦存在の事情を語っているのやもしれません?
今後の研究に依ることとなります。また嶋王は日本生まれですから、半島でも
倍暦の短期間の行使、跡形があってもおかしくはないと思います。

唐松山のはカルト・ホツマの布教論ですから、非科学的なことも平気で強行
する滅茶苦茶のあきれた男です。有害至極ですから信じてはいけません。

977 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/11(日) 19:44:41
>一天俄に掻き曇り、、、こんな気象状態が何日か続いた(あるいは断続的に)のではないでしょうか。

則「日暉炳」日のカゲがきらめく。黒い太陽。

>非科学的なことも平気で強行する
「3倍年」は非科学的です。


978 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 19:48:49
古代マヤでも1.4倍暦のツォルキン暦(1年=260日)を行使して
いたので倍暦は非科学的ではない。これはオマエの非科学的の語の
恣意的糊塗であり、オマエには何ら根拠が無い。

979 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 20:03:06
>>953 >>954
この暦年表もデタラメであり、梁書から乙祁(袁祁=顯宗天皇)が永元元年
(=499年)頃に位置するのに、顯宗没後の武烈即位年に当てているからもう
デタラメだと分かる。

それに仁徳3年(=393年)が先述のとおり先代旧事本紀大成経の應神四年が
干支の倍数の120年の移動が三国史記の120年移動同様確定するのに〜つまり
超新星爆発が393年の仁徳3年なのに、これに外れて仁徳3年を369年に当てて
おり、これからもデタラメだと軽く見破れる。

即ちこの表は何の具体的説明もなく造ったいい加減のマユツバ物であり、いい
加減なデタラメ編年なのである。

980 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/11(日) 21:40:45
>>979

日本書紀』巻五崇神天皇元年正月甲午。《十三》◆元年春正月壬午朔甲午皇太子即天皇位。

日本書紀は、↑の様にその月の朔とその日の干支で書かれている。←是を認めないから非科学的と云ったんですよ。
即位の日にちは13日に成る。←3倍すると365日で収まらない。←是を認めないから非科学的と云ったんですよ。

だから3倍年は、いい加減なデタラメ編年なのである。


981 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 22:03:58
そんなものはおかしくあるまいが。空白日にも干支をつけてたん
だよ。どうってことはない。日々の干支を否定なんかしておる
まいが。w

それで欠史八代なんか14日になっててそこが七つも統計表で出て
いて、いかに当時14日を重視してたかわかるだろう。こんなことは
前々にもう説明してるよ。

またそんなに朔があって、なんで特殊朔たる月食が一個も佛伝前に
ないのか? 当たり前だ、観測の干支でないからだ。それは逆算
だよ。そして古代、空白日も干支をつけて成っていたということ
だな。かように特殊朔たる月食が記載がないんだから、1個ポツンと
日食の記事があるのはこれこそ不自然だ。だからこれだけでも神功
初年とかのは日食でない可能性が高いし、それが数日間も起こり
っぱなしのわけが非科学的で起こるわけもなかろう。

当時1ヶ月が14日間(2週間)しかなかったのだよ。それでも空白日
にはそのまま干支をつけてたわけさ。このことは当時倍暦のほかに
通常暦も並行してやってたんだから、そういうやり方をしたん
だろう。空白日に干支があれば、通常暦同様干支が替わる。統計表
があの場合は14日までしかないんだから、もう間違いない。月後半
は干支があって空白、無の日だよ。

982 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 22:10:36
当然朔も後付けだな。だからこれは原書群を見られないから何とも
だが、春夏秋冬の季語も後付けだから、即朔が新月だったかどうか、
これは用心したほうがいい。まぁオマエは単純だからすぐ信じて
そのままが正解だと飛びつくだろうな?ww

983 :ユッキー:2009/10/11(日) 22:11:17
>則「日暉炳」日のカゲがきらめく。黒い太陽。

日の光が輝いて。何日か続いた薄暗くなるような曇り空が晴れ、ようやく
元通り昼夜がはっきりしてきた。

天の岩戸を日食というノリでいうなら、ここも日食といえるかも知れないが、
現実味の増してきたこの辺りでは、少し苦しいと思います。


984 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 22:16:31
紀には蟻の大群のように朔があるんだから、通常の原書総てが例の
春夏秋冬の語の多用と同様であり、どうやら後付けの可能性が高い。
朔のあまりない原書群があってもおかしくはないだろう。紀の編纂
当時朔の起きる日数値は精密計算で分かっていたんだろうが、
逆算でこの日だこの日だとつけて行ったんでないの?

事実はそのへんだよ。

985 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/11(日) 22:18:34
>空白日にも干支をつけてたんだよ。

↑これでは、季節が合わないと云うと。

>季節は、後付けでどうにでも成る。

以前季節を無視して崇神紀を読みましたが、春に五穀豊穣となり、季節を無視できませんでした。
その他の記事も季節を無視出来ませんでした。
「季節を無視」した読み方が解らない。
太国さんも季節を無視した編年を発表していない。
季節を無視した3倍年の崇神紀を発表出来ますか?出来ないでしょう。

それが3倍年の無い証拠です。


986 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 22:20:13
>>984 訂正

× 通常の原書総てが
○ 紀の神武以後の殆どの記事の

987 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 22:31:35
>>985
そういうことは一個一個ぼかさず具体的に言え。オマエはいつも
具体性に行かない前で打ち切るからな。こんな批判は抽象的で具体的
にはどうなのかがないんだから、説明しろというほうが無理強い
だろうが。

だいたい開化天皇がなんで11月即位なのに春日宮の名をつけるのか?
あと一ヵ月半で正月がくるだろうにね? 通常暦ではおかしいでは
ないか? これに対応するごとく、孝安天皇は1月即位で秋津島宮の
季節外れの宮名だ。これでさえも通常暦では不審でならない。

それのオマエは毎回突いているが、例の表の14日までしかない事由を
今の今までオマエの通常暦で合理的説明をしたことはない。だいたい
オマエはどうなってるんだろうという考えが無で、当初からまず景行
の年代を根拠もなく強固に決めて編年をやっただろう? 先に景行
ありきでは、カルト・ホツマ以外の何物でもない。つまり正規な論説
を仮面としたカルトの顔だ。

988 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 22:58:32
>>985は抽象的に不合理だと言ってるだけで、具体的にどこがどの
ように季節が合わないとかの説明がない。今の今まででさえ雨の多い
月に池を造らんとか8月とか暑いときには乞食はいないような主張を
してたくらいで、他に具体的に五穀がどうのこうのなんぞ、こちら
に問いしたことは一度もないぞ?

そんなことで3倍暦否定の証拠だとはちゃんちゃらおかしい。ppp

もう一度八代の天皇全員の没日を見てみろ。全部が全部月上旬に8人
とも死亡だ。こんなことは滅多に起こりえない。中旬とか下旬に
2〜3人は死んでてもおかしくはない。然るに全員月上旬死亡を
何と返答するんだい? これこそ季節がどうのよりずっと不審だろ
うが? これは当時一ヵ月が10日しかない時代があったということ
だよ。なるとこれは3倍暦を行っていたんだとなる。オマエの証拠と
やらもこれでガッチリ無能化される。つまりオマエの証拠とやらの
証明力が大きく減殺されたのだ。

989 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/11(日) 23:19:48
日本書紀の記事を太国3倍年で書き換えることは出来ない。

だから3倍年は、あり得ない。

それとも書き換えてみます?

>これは当時一ヵ月が10日しかない時代があったということだよ。
書紀を勝手に編纂すればの話ですよね?
朔=新月ですよ。


990 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 23:20:20
切羽詰りゃぁ夏だって飯を食えなくなる奴は古今東西いくらでも
いる。当時8月あたりは喰いっぱぐりは無いなどとのオマエの楽観論
での説得力は全くない。オマエがこれを主張したのは本夏だが、
喰うに困った奴がうんと愛知県の役場に集まったことはTVでも報道
していたから、この現証を見てもオマエのいい分はデタラメだ。

切羽つまれば、雨が多かろうが造るときは造る場合があるし、逆に
宙に浮き造らんときもあるはずだ。今日もTVでダム建設保留になって
いる所は十個二十個などうんとあると言ってたんだから、こんな工事
でのハプニングなどいくら起こりうるぜ。だからこれもオマエの
言い分は主観的であり、何ら客観性もないデタラメ推定だという
ことだ。ww

991 :ユッキー:2009/10/11(日) 23:21:44
定点に成り得るか?

神功元年=日食=273/05/04

神功元年の紀州行は 辛巳年 二月朔ではない(中旬〜下旬?)
273/05/04の日食は 癸巳年 四月朔 戊辰
277/02/20の日食は 丁酉年 二月朔 丙子

273年からの計算による七支刀が326年5月辛卯朔、東晉明帝太寧4年5月16日丙午。
太寧4年は1月まで、2月に咸和元年2月に改元。太寧4年5月はない。
七支刀の画像をみると、元号2文字目の左側(偏の部分)に長い縦棒が1本見える。
「寧」ではない。

従って定点というのはどうも。


992 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 23:30:59
神功皇后摂政元年の日食は、西暦201年となるが、この年和歌山県御坊市小竹において日食がありました。

993 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 23:35:23
勝手に書き換えてはいないぞ。日の干支の否定もオマエの糊塗では
ないか?w さっきも前にも言ったろうが。空白日も干支をつけて
たんだから日の干支の否定にはならない。だから天皇八代の死亡日
はそのまま考えてよい。天体は空白日は飛び越えるよ。だから朔と
いう天体現象は用心しなければならない。

どうして上旬に死亡日が集中したのか、その理由を言ってみい。
言ったことは今の今までイの一度だって明快具体的な答えをオマエ
から聞いたことがない。これは当時3倍年を行使してたのだ。

日でガタガタ言うなら月で行くか〜。神武もそうだろう。神武即位
から崩御までの記事をみても、1月〜4月までしかない。これは
八代の倍暦と異なった1年が当時は4ヶ月でやっていたからだ。
つまり3倍年で、6月とか11月なんては神武即位から没まで無いん
だよ、当時は1年が4ヶ月だったのさ。日以外、月でも3倍年が成立
てると言える。それが神武没以降は即通常暦に神沼河耳尊は不便の
ためだろうが、戻している。だから神武葬は1月〜4月の間でない
9月に行っている。元に戻したのだ。

君の3倍年否定の証拠とやらは、こういう文証で抹殺される。

zzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・

994 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/11(日) 23:40:32
>>651 より
180+185=365日であるから、180日乃至185日は1年が半年の意味

この数字で崇神3倍年は説明出来ない。

>全部が全部月上旬に8人とも死亡だ。こんなことは滅多に起こりえない。

滅多に起こりえないが否定出来ない。
ホツマでは死亡日の変更もありますよ。



995 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/11(日) 23:44:47
まあ 朔を否定しない太国さんなら、10日で月が満ち欠けをした。
これこそ非科学的思考の絶頂でしょ。

996 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/11(日) 23:52:33
>>994
寝ようと思ったが、もうすぐ終わるから? 再びおきてやったぞ。

オマエのほうこそ寝言だろうが。ww
余の説では2倍暦があるんだから、おかしくはない。オマエ忘れ
たのか? 随分年を食ったな?ww

ホツマなんか作者は単独だろうが? 紀は多数の原書群からのバック
支持がある。アマテラスを男だとか言ってる盲象文献を紀と同様に
扱うオマエが要領がわるい。それに朝廷と一般では暦法が違うよう
だし、そんな暦法を直接朝廷の暦と同格に置くこと自体がオマエの
失敗だと言える。ただホツマが全部悪いという意味ではない。

それに金丹は

 V=113 .0973 350

350−113=237 → 350=237+113 237年1/13 崇神天皇 即位

はダメオシで、これでVサインだ。w オマエの負けだよ。泣け!
こんどこそ寝るぞ。zzzzzzzzzzzz・・・・・

997 :ユッキー:2009/10/12(月) 09:43:32
和歌山の日食
201/03/22=辛巳年閏一月の後の二月朔 丁卯

この日食は皆既日食で中心線はニューギニア→ハワイ日本の中間よりハワイ寄り→
カナダ西海岸を通ります。
和歌山では 07:13→08:33 で、最大食分 0.21(07:52) です。
和歌山を通るというより、日本列島どこからでも最大食分0.2前後の日食が見られます。


998 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/12(月) 10:11:44
>>997
現実に皆既日食又はそれに近い「食」を見なければ意味がない。
先日の「日食」時私は東京にいたので、曇り空が薄暗くなっただけ。


999 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/10/12(月) 10:47:55
8人どころじゃぁないぞ。崇神以降もほとんど死亡は月前半だ。神功は女で皇后
で天皇でないから死亡日が通常暦で、天皇の死亡日とは暦を替えてたんだろう。
仁徳以前が仁徳を除いて全部月前半だ。こんなに神武から死亡日がずっと月前半
が何らかの事情がなけりゃぁ起こるわけがない。八代が全員上旬死亡を軽く
起こりうるような口を叩くな。毎回毎回8回もサイの目が丁ばかり連続で起こ
るなんて、不可能事ではないが滅多やたらと起こるわけがないぞ。これを無視
すれば当時の暦の論は奈落行きだぜ。

仁徳から不思議と超長寿の天皇がなくなって来るんだから、やはりそれまでの
全員月前半死亡の天皇が続くというのは、2倍暦の行使があったとする傍証と
なる。自殺他殺以外死亡日は自然現象で決められないからな。

1000 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2009/10/12(月) 10:56:38
>これを無視すれば当時の暦の論は奈落行きだぜ。

太国さんは、ついに「暦」を掲示できなかった。


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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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