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♪邪馬台国 ドンと来い♪ 34

1 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 00:37:29
     ____(;゚;;)    ∧∧ (;゚;;)
   __/ ∧_∧ (;゚;;)(;゚;;)\(´・ω・`)丿
  / //_(´・ω・)(;゚;;)(;゚;;)(;゚;;)\ /     
 〈  〈※(  つ ______ \           
  \ ~と( ※ ※ ※ ※ ※ ※ヽ\
   \ \⌒ ※  ※ ※ ※ ※ ※ ヽ \
     \ `ー──o(´・ω・`)o──‐‐'  \
      ゝ、, ____________〉

九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。

前スレ  ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 33
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1224002175/l50

2 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 00:48:06
>>1乙!

倭地は温暖だから、まだコタツは早いんとちゃう?
きみはひょっとして蝦夷国の住人?

3 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 01:24:04
前スレ999 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2008/10/31(金) 00:47:57

> > 説によって、千里弱の路程差が出ますよ。
> その千里は長里?短里?

短里。

4 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 02:01:00
ローガン=邪馬台国畿内自生説は、電波

  こう書くと、名無しでむしゃぶりついて来るダボハゼがいる

 → ローガンの自作自演劇場

5 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 02:24:48
>>4
サイキバ君かな?

じゃあお前の言うところの「邪馬台国畿内自生説」の定義言うてみ?

もしその自生説の対になるものが”クニ”単位の人口移動があってヤマトを打建てた
…なんてものなら俺も自生説をとるがwwwwwwwwww


6 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 02:33:07
そもそも九州説の連中にとって「自生説」なるものが都合が良いはずw

外部からの干渉影響が全く無いとした方が「女王共立」のお話から遠ざける事ができるはずなんだしww

まあ九州王朝説信者アホのサイキバ君はそんな事微塵も考えていないんだろうがwww

(他にもC14で測定すれば九州の方が古いとかワケワカラン事繰り返していたが
 …九州の年代を今より古くしてどうするって?話でw)




7 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 04:32:27
×邪馬台国=ヤマタイコク
○邪馬台国=ヤマトコク

8 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 06:15:58
隋国の役人が、「即ち・・」と随書のなかで、ヤマトに関しての
混乱を断定形で正して見解している。

遣隋使の使者や返礼者としてヤマトを訪れた裴(世)清ら一行の報告
をもって、その混乱も解消した。

「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」
(原文=邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)

この裴(世)清の来日の件は日本書紀では、推古天皇16年の条で大唐
とされている。

日本書記の編者らは隋から唐への革命による政権移行が正しく認識で
きていなかったことは事実である。

これをもって、九州説諸氏はこの条項に反論しているが、ヤマト側に
よる中国(隋や唐)の認識よりも、要は隋国の使者が正しくヤマト側の
ことを伝えていればそれでよいのである。

608年4月 裴世清ら隋使一行が筑紫に到着
   同6月 難波津に到着、一行のため高麗館の傍に新館を建設
   同8月 京に到着、大伴連が出迎えて国書を天皇に奏上
   同9月 裴世清が隋に帰国、小野妹子は大使として随行

この行程からも、裴(世)清ら一行のヤマト入りは、九州であった
はずはない。当時の実力者(王)は推古天皇ではなく、実質的には、
嶋大臣の蘇我馬子(天武系の人々に後に卑しい命名がなされ歴史
から抹殺)であった。


9 :のんびりひまじん:2008/10/31(金) 08:00:47
>>8
>日本書記の編者らは隋から唐への革命による政権移行が正しく認識できていなかったことは事実である。

日本書記の編者らは隋から唐への革命による政権移行を正しく表現していないことは事実である。
だからといって認識もできなかったというのは、日本書紀の編者への偏見。(←古代人を見くびってはいけない!)

  
   〜日本書紀という奇怪な書物を、まともに考えることが危険。


10 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 09:48:19
>>8
何度もコピペするなら、もう少し文章を練ったら?日本語になっていない文章を
何度見せられても、この文章を書く人の意見ではなあ、と信用してもらえないよ。

11 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 11:52:01
畿内説ってむかしから北朝鮮のようなところだよね。

「畿内の後進性」の問題では、ヤマトの出土量が九州の50分の1だろうが、100分の1
だろうが、そのことをはっきりと認める人が内部からは全然でないまま、100年近くを
費やしてきた。

「年代遡上」の問題でも、周りでは批判が多くても、かれらの中ではその批判を議論することすら
まったくされない。
年輪年代も年輪グラフを出した事例が1個もないということをはっきりとは言えない。

三角縁が国産であることについても、舶載説への批判がタブーとされて、いまだに批判できない
空気が支配している。

こんなの、内部では批判とか議論なんてことは許されずに、ひたすら将軍様に拍手を捧げるのみと
いう北朝鮮とおなじだよね。哀れな人たちだな。

12 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 12:01:54
だいたい、庄内期の始まりを西暦300年頃にすると、これは卑弥呼のあとと
言うことになる。つまり、纏向の誕生は、卑弥呼が死んでから50年ほど後に
なる。これだと、いわゆる邪馬台国の東遷が十分にありうる。

しかし、庄内期の始まりを西暦200年頃にすれば、卑弥呼の時代にはすでに
纏向は誕生していたことになる。大和朝廷につながる古墳時代がすでに
芽生えていたわけで、邪馬台国東遷説の可能性はなくなる。

通説は、西暦300年頃だったが、畿内説の学者はなんとか100年ほど遡らない
ものかとかなり前から考えていた。
昭和55年頃にはその兆候があった。しかし、根拠がない。
さらに、その必要性を痛感したのは、吉野ヶ里ショックだった。
まさに、倭人伝に書かれた国が九州に登場したのだから。

つまり、わかりにくい土器の編年に、実年代を持ち込む必要性があったのは、
畿内説のほうなのである。
考古学的には畿内説、の中核を担っていた三角縁神獣鏡魏鏡説が破綻して、
畿内説にはもうそれしかなくなってしまったのだから。

13 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 12:03:16
しかし、庄内期が西暦200年頃に始まったというのが、畿内説の唯一の根拠に
なっているんじゃないのかねえ。つまり、纒向は卑弥呼の時代に重なると
いうわけで。
それとも、三角縁神獣鏡魏鏡説はまだ生きているんだろうか。

庄内期に関連してだろうが、吉野ヶ里遺跡についても意見が分かれるらしい。
吉野ヶ里は卑弥呼の時代の前に衰退していたとする説と、吉野ヶ里は
卑弥呼の時代に重なるという説と。

寺澤編年を支持する人は、衰退説となるわけだろうが、吉野ヶ里発掘責任者の
高島忠平さんは重なるという考えらしい。

もし、吉野ヶ里遺跡が卑弥呼の時代の前に衰退していたとすると、
「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」という倭人伝の
記述が宙に浮いてしまう様な気がする。もちろん、吉野ヶ里が邪馬台国と
言うわけではないが、はたして郡使は、倭国でいったい何を見たのかと。

14 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 12:04:12
吉野ヶ里ですが、素人向けの本にはどれを見ても300年頃まで存続とあります。
これだけ見ると、「吉野ヶ里遺跡は邪馬台国の時代も繁栄していた」、
「纏向遺跡が180年頃から340年頃だから東西で共に同じ時代に繁栄していた」という事になります。ところが、そうは問屋が卸さないのです。

後期の吉野ヶ里は解体・分村化の段階にあり、集落規模は縮小の一途をたどります。この間、首長墓に比せられるようなお墓もありません。
環濠内には庄内期の遺構が全くと言っていいくらい無く、内・外の環濠は庄内式併行期の土器をふくむ土で埋まり、この時期に中期以来営まれつづけた環濠集落は廃絶します。

一方、纏向遺跡が繁栄を始めるのが庄内式期の始めですから、この二つの遺跡はほとんど共存していないのです。
しかも、九州の柳田編年にしても畿内の寺澤、あるいは石野・関川編年にしても庄内期の開始を200年頃としていますから、
これらの年代観を当てはめれば、吉野ヶ里は邪馬台国の頃には完全に衰退していたことになるのです。

これがなぜ300年頃まで継続していたことになるのでしょう。
実は、発掘責任者である高島氏(佐賀県教育委員会)は、庄内期の始まりを300年頃とする年代観の持ち主だったのです。
弥生の終末が早くなっている現在の流れからはかなりかけ離れた年代観ですが、完全に否定も出来ず、300年という年だけが独り歩きしていたのでした。
ちなみにこの高島氏は、「ここ(吉野ヶ里の物見櫓)から邪馬台国が見える」と言った方です。

15 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 12:05:18
倭国各地のオウたちが大同団結して、ヤマト王権が誕生した。
で、倭人伝でいうところの「ヒミコ共立」がそれに当たる、と。
ヒミコ共立は二世紀末から三世紀初頭のことだろうから、
要は、その実年代が、土器編年でどの辺りになるかで揉めている訳だな。

ヒミコ共立は庄内開始期か布留開始期か?

個人的には布留に同意する。
庄内期のマキムク型は吉備の特殊器台か無いことからも、まだこの時点では吉備はヤマト王権に参画していないということ。
最近のC14でも、庄内開始が二世紀半ばという結果が出ている。箸墓=ヒミコの墓か。

16 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 12:06:40
>>12-15
これ次から>>1のテンプレな

17 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 14:35:19
纏向には、宮室、樓觀、城柵の跡があるのかな。
ないと困るよなあ。帯方郡からやってきた使者はそれを見ていて記録に
残しているわけだから。

18 :ローガン:2008/10/31(金) 14:50:45
>>4
>  → ローガンの自作自演劇場

ははは、そんな事しませんよ。>>5 >>6さんは、いつもドンコイで書いている方ですよね。書き方でわかるでしょう?
ちなみに私も「自生説」の定義、是非訊きたいですね。

19 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/31(金) 15:02:36
巻向は卑弥呼の国ではなく、垂仁、景行の国である。
記紀には卑弥呼の記事がほんの僅かな副流煙位しかなく、これは倭人伝の「台馬」
の記述の主流煙から出た副流煙なのである。
かように記紀には独立して畿内に女王国があったという主流煙的記載の検体値は
0であり、副流煙たる神功39年等の記載は主流煙たる倭人伝からのものであり、
こういうことから紀無いに卑弥呼の女王国の「台馬」があったとなる検体値は
認められずの0、即ち紀無いに卑弥呼の国が無かったことを物語っている。

20 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 15:43:29
おもしろいな
親魏倭王印が発掘されたら、膨大ないろいろな仮説が一発で崩壊するところが

21 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 15:53:46
そもそも纏向に宮室、樓觀、城柵の跡なんか無くてもいいしな

22 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 16:46:22
>>21
じゃあ、どこにあったらいい。

23 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 16:57:23
邪馬台国にあれば何処でも良いんだろ

24 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 17:34:10
>>12
>吉野ヶ里ショック

Googleによる検索結果
http://www.google.com/search?hl=ja&q=%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

>吉野ヶ里ショック に一致する情報は見つかりませんでした。

>検索のヒント:

>キーワードに誤字・脱字がないか確認します。
>別のキーワードを試してみます。
>もっと一般的なキーワードに変えてみます。
>キーワードの数を減らしてみます。

上記に追加して…

ありもしなかった事を言うのは止めましょう。
あったのは大衆的な「ブーム」です。

考古学者が、樓觀、城柵のある環濠集落が発掘された事にショックを受けた?w

話を作るのは止めましょうねwww

25 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 17:52:50
そういう問題じゃない

>>12はココの九州厨が考える考古学史上の「正史」だろ

そういう問題

26 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 17:57:50
>>11>>12

27 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 18:11:56
>>25

「 九州厨 」と言うより「 アンチ畿内説厨 」だなw

28 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 18:12:23
>>20
別に畿内から出てこようが関東から出てこようが沖縄から出ようが
徳島やら岡山やらから出ようが良いが、
北九州から出てきたら魏使の感覚を疑う。
何で不弥国からそんなに遠いと思ってたんだ?
陸行数日で行けるだろw

29 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 18:39:35
>>19
煙たいアホ!馬鹿の太国は廃棄ガスだ!

30 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 18:50:55
>>12
>(庄内期の始まりを)通説は、西暦300年頃だった・・・(後略)

庄内期についてそのような「通説」なるものが一般に流布していた事実はない。

そもそも田中琢氏提唱になる庄内式土器とは、
それまでは古墳時代開始の指標であった布留式土器と、
弥生時代後期の指標であった第X様式土器との間をつなぐ一群の土器として、
時代的な位置付けがなされたものである。
田中氏の論文表題(「布留式以前」『考古学研究』1965)を見ても分かるはずである。

庄内期を弥生、古墳のいずれの時代に含めるかは今でも若干議論があり、
また畿内全部のムラ(集落遺跡)に庄内式土器が及んだわけでもないのであるが、
出土を見ている畿内の拠点的ムラにおいての庄内期の始まりが西暦300年よりも前に、
すなわち3世紀以前に遡るであろうとの考えは
田中氏提唱のときから程なくして、すでに考古学者の中にあったのである。

私に反論するのであれば、「通説は、西暦300年頃だった」を示す諸論文や諸文献を
きちんと明示し、列挙してもらいたいが、それは決してできないであろう。

31 :30:2008/10/31(金) 19:04:17
>>30に補記
>すなわち3世紀以前に遡るであろうとの考えは

「3世紀以前」と書いたが、ここは「3世紀を含み、それより以前」の意味。


32 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 19:07:03
>>30
佐原編年ではそうなっていたはずだが。

33 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 19:11:06
>>5
キ印君、こんばんは!今日もキ印発言爆発だね。

34 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 19:14:41
>>30
昔の通説が300年頃に庄内式が始まるとしていたのはそのとおりだよ。
異説も当時からあったが。
だから、「年輪年代で通説が100年古くなった」と言われている。

文献を引用するときはページ数も書いたほうがいい。

35 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 19:15:33
ローガン説は「邪馬台国畿内自生説」だと決めたのは夏祭。
それをローガン本人が肯定。
畿内説同士の傷の舐めあい、自作自演のインチキ劇場。>>5>>18

36 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 19:27:40
>>24
言葉にそんなにこだわる必要はない。検索して出てこないからといって、
その言葉を使ってはならないということはないから。

宮室、樓觀、城柵の三点セットが出てきたわけだから、畿内説の考古学者が
ショックを受けるのが普通だろう。考古学的には畿内説といい続けてきた
わけだから。
倭人伝に書かれた国の様子が、九州に出現してショックを受けないわけがない。
畿内にはそういう遺跡はないし。

マスコミで、吉野ヶ里=邪馬台国みたいな報道をされたこともショックだった
ろうが。

37 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 19:29:03
ローガン説は「邪馬台国畿内自生説」だと決めたのは夏祭。
それをローガン本人が肯定。
畿内説同士の傷の舐めあい、自作自演のインチキ劇場。>>5>>18

38 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 19:35:18
マキムクショックで九州厨1年365日涙目w

39 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 19:37:59
>>36
前半のグーグルによる検索は皮肉だよw

環濠集落にそんな3点セットがあるのを想定していなかった考古学者なんているのかよって話でwww

もともと遺跡の存在は知られていてそこに樓觀だの城柵だのの跡があったことも知られていた。

で、工業団地建設で潰される予定だったものを学者が地元のブンヤに
「ここには倭人伝に書かれた通りの…」とリーク?w

でそれが記事になり瞬く間にブームになった・・・って話で

ある日突然、誰も予想だにしていなかった遺跡が出てきた…なんて話じゃなかったはずだが?wwwwwwww


40 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 19:43:42
>>34

>だから、「年輪年代で通説が100年古くなった」と言われている。

弥生中期の池上曽根遺跡のことだろ、それ


41 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 19:45:18
まあ樓觀なら唐古鍵にもあるし、この板の九州説の言い分なら
城柵がありゃ環濠もあるに決まっていると言う事だから
逆に言えば環濠がありゃ城柵があっても良い訳でw

「宮室、樓觀、城柵」が環濠集落において特に奇異なものである訳じゃないだろうって事でwww

吉野ヶ里の場合あれほどの面積が保存され復元されていると言うのがレアケースって事だよなwww

42 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 19:46:08
>>40
そうだよ。畿内第W様式が100年遡った。
ついでに庄内式も100年遡ってしまった。

43 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 19:50:10
>>41
唐子・鍵の樓觀?はインチキ。柱の穴が出土して初めて存在が確認される。
想像で書いたかもしれないし、どこか違うところでみたのかもしれない。
考古学的に存在してはいない。
大きさもわからないのに、土器の絵から再現するなんておかしい。

44 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 19:55:45
土器の絵でも宇宙人でも何でも、すべて根拠になるのが畿内説です。

45 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/31(金) 20:01:36
>>29
オマエは ヘビー・相撲カー か〜?

46 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 20:04:51
>>43

でもさ、そんなこと言ったら
吉野ヶ里遺跡の祭殿とか物見櫓とかも
それから池上曽根遺跡の大型神殿?だったかな、とかも
遺跡の復元建物はぜーんぶインチキってことになっちゃうんじゃない?

けっきょく柱の穴だけだろ、手がかりは?


47 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 20:11:26
>>44
裏を返せば、考古学で邪馬台国の所在地なんぞ決められるはずはないのに、
考古学のみで「ここだ」と喚いているのが畿内説です。

48 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 20:13:50
>>45
ハゲの太国!神無月は今日で終わりだ。来月から霜月だ、よかったな。

49 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 20:14:14
考古学的裏付けに矛盾するならそこが邪馬台国かどうかは特定出来ないよね

50 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/31(金) 20:16:03
>>48
オマエのアタマは 髪無付キ か〜〜?

51 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 20:30:37
>>50
ハゲの太国!カボチャの中身を食ったら頭にかぶれ。わかってるな!

52 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 20:31:50
>>43
だったら青谷上寺地遺跡でw

こっちは柱跡じゃなくて建材・柱のようだが…

http://asalab.blog11.fc2.com/blog-entry-743.html
http://news.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/200611/20061110000275.htm

いずれにせよそんな物を特別視する必要があるのか?

高層建築?なんて別に吉野ヶ里の専売特許ではないし
城柵にいたっては環濠に防衛機能を待たせていたような状態なら普通にあるだろうし・・・


53 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/31(金) 20:33:21
>>51
ア〜ン? オマエは 助悪労 カ〜?

54 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 20:45:14
太国きょうは酔ってるな・・・・w

55 :前スレ 968 犬国ではあらず:2008/10/31(金) 21:17:22
前スレ>>972 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1224002175/972

「委奴」と「倭奴」は一体化した名前。(音はヰド・ヰトの中間音)
「倭の奴の国」ではないが、意味上では倭の奴国の意が含まれる。
「狗耶韓國」のごとし。
「伊都」の音はイト・イドで、倭奴と委奴に似ているだけ。

倭奴國は奉貢朝賀し、光武は倭奴國王に印綬を賜った。
倭國王帥升は生口を献じたが、請見を願うが叶えられず。
よって、王帥升の倭國と倭奴國は別の国。

サガミハラハラ氏の以前の書き込みを引用します。
@後漢書では倭国王帥升
A翰苑所引の後漢書では倭面上国王帥升
B唐類函・辺塞部倭国の条所引通典では倭面土地王師升等
C北宋版通典では倭面土国王帥升
D杜佑の通典では倭面土地王師升
E日本書紀纂 所引後漢書では倭面上国
F釈日本紀開題所引後漢書では倭面国
G漢書地理志倭人の条の如淳の注では委面
H宮内省図書寮尊蔵北宋版通典では倭面土国王師升等
I旧事本紀では、筑志米多国
となっております。諸本を照らし合わせた結果、倭面土国王帥升が正しいであろうということになっております。
通典 : 北宋本、明抄本、明刻本、作「倭面土國王師升獻生口」

倭面土國は背振山地の南側、吉野ヶ里はその最盛期の城郭。
伊都國の城郭は惣座遺跡(肥前国庁址及びその隣接地)、伊都國は倭面土國の後継者。
怡土・福岡平野の勢力は倭面土國(帥升)と女王國・邪馬壹國(卑彌呼)にとって旧勢力であり反勢力である。


56 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/31(金) 21:52:56
>>55
オマエも 助悪狼 か〜?

57 :前スレ 968:2008/10/31(金) 22:00:25
>>56
違う。
前スレの下記への返答。

976 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 20:58:32
当時の発音だと、委奴国はイト国と読めないのでは? とくに奴の字。

犬国かもw


58 :55:2008/10/31(金) 22:08:00
>>55の最後の一行修正

怡土・福岡平野の勢力は倭面土國(帥升)・伊都國と女王國・邪馬壹國(卑彌呼)にとって旧勢力であり反勢力である。


59 :サガミハラハラ:2008/10/31(金) 22:25:13
伊都国の都はタと発音するのが正しいです。
好古都はハォカタで博多のことです。

60 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 22:37:20
環濠集落の時期の各種の出土物は、北部九州は畿内の10倍以上。
戦前からこの傾向は明白だったが、門外漢の医学博士である中山氏が九州説の
中心だったため、畿内説はこの事実を無視し続けてきた。

戦後派、門外漢の原田が九州説の中心になったため、畿内説はより頑なに
「畿内の後進性」を無視・否定し続けてきた。
学界では「畿内の後進性」を認める者が皆無であったというのがこの時代の状況。

90年頃になり、畿内の後進性があまりにも明白で、無視を続けられなくなり、
これを認めるのと同時に環濠集落の終焉を100年早くする年代遡上が始まった
というのが、学説の変遷についての事実。

61 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 22:38:58
庄内式の問題は、かつての「畿内の後進性」の問題と同じなんだよね。

弥生時代の畿内が九州より後進的であったことは、すでに戦前の出土状況からも
明らかであった。しかし、ヤマト中心史観に染まっていた戦前の学会はこの事実を
拒絶した。

戦後、鉄器の出土量で畿内の「絶対劣位」が明白になったが、学会は約40年も
これを拒絶し、無視し続けてきた。「九州→畿内」という権力移動の図式化は、
「神武東征」という皇国史観であるとされてきた。

庄内式の出土状況を単純に比較すると、畿内の庄内式の方が新しいことが
すでに30年ほど前から明白であったが、それを拒絶し続けるという同じ誤りを
学会は繰り返している。

鏡の同位体比は、既に20年以上前に三角縁国産説を結論付けていたが、
学者の大半はいまだにこれを無視し続けている。

学会というのは、人間の良心を持っていては生きていけない世界なのか?

62 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 22:39:51
古墳時代が遡ったのは、弥生時代における
   北部九州>>>>>>>>>>>>>>畿内>>>>>>奈良
を無視し続けることが、限界に達したからだよ。

年代遡上が始まる90年頃までは、弥生時代を300年頃までとしていたが、
弥生時代における畿内、特に奈良(ヤマト)の後進性はあまりにも明白で、
鉄器では何と50〜300倍、鏡でも十倍以上の差が出ていた。

これを無視し続けることが限界に達して、畿内の後進性を認め始めたのが、
90年頃から、それと並行して、弥生時代が200年頃までに終わることにして、
畿内説を維持しているのが、今の畿内説。

ここら辺は理屈じゃないよ。C14も年輪も口実に過ぎない。

63 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 22:40:44
畿内の後進性を畿内説が認めてこなかったことは、事実。
白石のように、いまだに認めないのもいる。
これを明確に認めだしたのは、寺沢の『王権誕生』のころから。
それまでは出土状況を図やグラフにすることさえ、勇気のいることだった。
この「無視」は少し古い文献を見ればすぐに確認できる。

鉄器については、村上が『古墳時代像を見なおす』でいかにひどい無視が
続けられてきたのかを縷々書いている。

64 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 22:41:47
昔の畿内説は卑弥呼の時代を弥生時代として、「畿内の後進性」を無視・否定し
続けて来たんだよね。

鉄の出土量で九州とは30〜50対1という圧倒的な大差があったにも関らず、
頑として認めなかった。・・・認めたら畿内説はそこで終わりだった。

鏡も環濠集落の時期に限ると畿内では皆無で、とくにヤマトの後進性は
明白であった。畿内説はその事実も認めてこなかった。
畿内説は、一方では、銅鐸の時期を古く見てバランスを取ろうとした。
しかし、弥生中期に確実に遡る銅鐸がないという問題があった。

それが限界に達して、弥生時代は200年頃に終わり、古墳時代が始まった
という年代遡上が15年前に始まったというのが学説史のうえでの事実ですね。

65 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 22:42:35
もともと庄内式は300年開始説とそれ以降の時期の開始との対立だったよね。
それが今や、200年にまで遡っているという状況が異常なんだよ。

戦後の「失われた60年」の左翼世代の人たちも「畿内の後進性」を無視しても
自ら積極的に誤りを述べることは拒否してきた。その限度での矜持はあった。
年代遡上が畿内説に有利なことは自明であったが、彼らはその主張はしなかった。
批判を受けようとも、伝世鏡論などで対応してきた。

・・・一概に昔の人の方がモラルが低いとも言えないな。

66 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 22:45:22
>>61-63

いつもの『 恨 み 節 』ご苦労さんw

半島の人間の恨(ハン)を想像させるw

で良く分からないんだけど「先進性」とか「後進性」ってどう言う定義なのかな?




67 :↑ ↑ ↑ ↑ ↑ :2008/10/31(金) 22:52:10
66は、畿内説でメシを食っている、三流学者。

68 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 22:52:56
この際だから言っておくと、この板でもサイキバ君レベルでも言っている
「三角神獣鏡は大陸で一枚も出ていない」
って件にしても、そもそも中国でも銅鏡はもっぱら墳墓から出土し
確実に魏の時代の墓と言う発掘事例は精々一基ぐらいなんだとかw

ヒステリーちゃんは
「きいいいいっ何で国産説で決まらないのよ!いまだに舶載説が生きてるなんて陰謀よ!」
と金切り声上げているがw
舶載説が消えないのはそれなりに理由があるんだなwww

まあ俺自信この板で舶載説なんか主張した事も無いがあまりにもこの板の九州説がヒステリックなんで

69 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 22:53:48
>>60
つか原田って誰? 原田常治さん?

70 :68:2008/10/31(金) 22:55:24
まあ言うまでも無いが中国で魏代の墓がほとんど発掘されていないと言うのは
言わずもがな魏の「薄葬」ゆえで
皇帝以上の埋葬が家臣豪族にできるはずも無くwww

71 :68:2008/10/31(金) 22:58:55
そもそも
「三角舶載説コケたら畿内説みなコケる」
なんてあり得ないw

年代をその前に画文を持ってきても尚、三世紀に届かない辺りにしない限りwww

これはどんなアホでも考えれば分かるwwwwwwww

72 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/31(金) 23:02:24
>>57
じゃ〜オマエは例のジョーカーか〜??

73 :57:2008/10/31(金) 23:19:00
>>72
違う。
例のジョーカーって何だ?
犬国は太国氏の蔑称なのか?

74 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 23:20:24

   犬国
  (U^ω^) わんわんお!
C/    l
 し−し−J



75 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 23:29:56
犬国氏と太国氏は明らかに字が違うから別人。
太国氏はこのごろ吼え・・・い、いや、さ、騒ぎ過ぎ・・・

76 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 23:35:53
>>35>>37
プロパガンダ布教ごくろうさん。
>>47
考古学で邪馬台国の位置は決められない→考古学は無視してよい!
だから九州に軍配が挙がる!
なんてアホな展開にならないことを祈ろう。

77 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 00:15:15
学者の世界はタブーが多すぎなんだよ。不自然過ぎて逆に目立つぞ。

(現在最大のタブー)    
年代遡上を批判してはいけない。
マキムクと同時期の九州が古墳時代かどうかは後日決まるまで空白にする。

(伝統的タブー)  
神武東征を認めてはいけない。文化の東遷もできるだけ否定する。
→畿内の後進性への言及はできるだけ避ける。
欠史8代の実在性を認めてはならない。
成務天皇、仲哀天皇、神功皇后の実在性は認めてはいけない。
→先代旧事本紀の国造本紀の扱いに注意する(成務の代の設置が大半)。
古代の大阪〜奈良の盆地湖はできるだけ言及しない(自生説への配慮)。
王権の成立はできるだけ遅らせて、初期は連合政権とする。

(個別論点タブー)
稲荷山古墳の鉄剣の「オオヒコ」が誰か詮索してはいけない。
(四道将軍までの系譜の史実性が欠史8代〜神功皇后の史実性に関連する)。
中平年刀が国産である可能性に言及しない(環頭が国産でほぼ確定も言及しない)。
三角縁神獣鏡舶載説を追い詰めてはいけない。
古墳が寿陵(生前に作られた)であることの言及は避ける。
古墳の設計が時代ごとに変わっていることは、はっきり言ってはならない。
貨泉が中国では4世紀まで作られていたことは言及しない。

78 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 00:22:07
そもそも、この板で考古学的アプローチでもって九州説を唱えている人間に聞きたいんだが・・・

2・3世紀に卑弥呼と言う女王が共立され
30ヶ国の連合体ができ
その女王を代表者にして魏から冊封された

・・・一体これらの事を指し示すような考古学的資料が九州にあるのか?
(勿論「弥生時代の…」なんてピンボケじゃなくもっと時代を絞り込めるような物でねw)

実際のところ年代観争いの俎上に載せるネタすらないんじゃないのか?w

ド素人の素朴な疑問っちゅうレベルで悪いんだが
くる日もくる日も畿内説に対する恨み節、脳内イデオロギー闘争ばっかりで
肝心要の部分がさっぱり聞こえてこないwwwwww




79 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 00:27:43
>>77
>学者の世界はタブーが多すぎなんだよ。不自然過ぎて逆に目立つぞ。

プロの学者さんですか?

80 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 00:36:39
>>77
年輪年代への批判もタブーだな。

81 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 00:40:29
で、そのタブー破ったらどうなるんだい?

破って抹殺された人間とかいるのかな?

82 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 01:31:57
>>80
妄想・妄言で有名な森浩一同志社大名誉教授と言う人が批判してた。

83 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 01:58:27
>>81
程度問題で、緩いタブーをさりげなく書く程度ならOKだろ。
状況ごとにどこまで書いていいかは各人が判断する。

成務天皇は国造本紀で触れざるを得ないが、実在性には触れない。
古代の地形の論述のところでは、盆地湖のことは書かざるを得ない。
という状況判断を個別にするんだろうね。

84 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 02:00:56
>年代遡上を批判してはいけない。
批判以前に古墳時代が4世紀開始であるというまともな論拠が提出されていない。

>マキムクと同時期の九州が古墳時代かどうかは後日決まるまで空白にする。
そんなことはないね。
具体的にどこの遺跡のことかな?

>神武東征を認めてはいけない。文化の東遷もできるだけ否定する。
神武そのものの存在を論証するだけの史・資料がないのに
神武東征を認めるのはデンパ
弥生時代にいろいろな文物が北部九州から東方へ伝播・拡散していく事実は
さんざん分析されているが?

>欠史8代の実在性を認めてはならない。
実在性を認めるにたり得る根拠は?

>成務天皇、仲哀天皇、神功皇后の実在性は認めてはいけない。
文献史ではそのような傾向が強いが,考古学では無頓着だが?
cf 津堂城山古墳の被葬者候補には必ずといっていいほど
  仲哀が挙げられる

>古代の大阪〜奈良の盆地湖はできるだけ言及しない(自生説への配慮)。
その盆地湖とやらはいつまで存在していたのかな?
弥生〜古墳時代の奈良盆地内の遺跡分布を検証したことはあるかい?

>王権の成立はできるだけ遅らせて、初期は連合政権とする。
連合政権の盟主が倭王=大王ということになっているが?



85 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 02:02:36
>稲荷山古墳の鉄剣の「オオヒコ」が誰か詮索してはいけない。
どの時代でもそうだが,(同時代のものではない)後世の系譜に名前があることが
すぐに実在性を語るものであるとは限らない
これ,学問的良心に基づく常識

>中平年刀が国産である可能性に言及しない
中平年銘刀が大陸製のものであるという定説は
倭国内の技術史的観点と古墳の年代観との検討から得られたものですが?

>環頭が国産でほぼ確定も言及しない
環頭部分が国産であることは出土直後からの共通認識

>三角縁神獣鏡舶載説を追い詰めてはいけない。
考古学界では舶載鏡説の方が主流ですけど?

>古墳が寿陵(生前に作られた)であることの言及は避ける。
仁徳記を知らない研究者はいないと思うがね。
考古学でも埋葬施設の構築法から生前築造の可能性があることは既に指摘されているが?
茂木雅博の著書は知ってる?

>古墳の設計が時代ごとに変わっていることは、はっきり言ってはならない。
岸本直文の論文でも読んでみたらいかが?

>貨泉が中国では4世紀まで作られていたことは言及しない。
これは知らんかった。
で,その根拠は?


86 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 02:07:18
>>82
森先生は、早い時期から学界主流派とは距離をとって言うべきことは
はっきり言い続けてきたね。


87 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 02:22:42
>>84
年代遡上については、それ自体の批判的検討は全くされていませんね。
その論拠である年輪年代の問題性もまた然り。
紀年鏡もあって、三角縁舶載説批判が再びタブーになるとか、色々ややこしい。

学問ならば、東征を主張している人の論拠を列挙して、逐一批判するべきでしょう。
反対説を議論の俎上にきちんと載せるというのは、他の学問分野では当然のことです。
しかし、その検討をすることが、タブーなんですよ。

<欠史8代>稲荷山鉄剣に名のある「オオヒコ」は欠史8代の世代の子供ですよ。
ゆえに、「オオヒコ」は誰か?という検討までタブーにされてしまった。

<盆地湖>ヤマト盆地に古墳が作られない地域がはっきりと存在しますよ。
自生説は、「ヤマト盆地の農業生産力を背景に・・・・」と書いていたので盆地湖が
あったなんて書けない時代もありました。今じゃ笑い話の類でしょうが。

88 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 02:29:45

横からスマソ

盆地湖 って3世紀にあったの?
どの辺り?
面積は?

89 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 02:33:37
下らない。

結局自分のお気に入りの説が主流でないと言うことから
「それはタブーによって発言機会すら奪われているんだ!
 謝罪と賠償(ry」
と言う電波にすぎんw

年輪年代ならグラフだけ出されてどうするんだ?って話で
そんなモン既に出されている数字とグラフが一致しているか否かの
ケアレスミスのチェックにしかならないだろうにw

正しいかどうか検証したいのならサンプル採取して自分でグラフ起こすしかないだろうに…
手法自体は奈文研が編み出した物じゃ無し…

それにも「見えざる手」が働いて止めさせているのかな?

アホ言えって話でwww




90 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 02:41:19
>>85
中平年刀は、環頭が国産であることを、逐一はっきりと書いておくべきですね。
刀身のみが舶載とする前に刀身も国産である可能性を検討すべきでしょう。
多数の同じ刀身(そり)の刀は国産で、中平年の銘があれば、舶載というもの不合理です。
古い刀身の銘文を傷つけずに、あの環頭をつける作業は容易ではないでしょう。
そんな考えを書くことは、まさにタブーでしょうけど。

寿陵、古墳規格>寿陵を前提とすると古墳規格と副葬品のずれの解決にもなります。
古墳規格と副葬品が緊密に関連付けられる結果、古墳の時代差を広くできず、年代遡上に
不利なので、最近は寿陵は書きにくいんですよ。気をつけないといけないですね。

貨泉>ネットで調べて分かる程度のことです。時代ごとに違いもあります。
『貨幣の中国古代史』などに記載もあります。日本で出土した貨泉が中国のどの時代に
出土したものと類似するかを、はっきりとさせる必要がありますね。


91 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 02:49:07
>>88
http://yamatai.cside.com/katudou/bonntiko.htm
伊達宗泰編『古代「おおやまと」を探る』(学生社、2000年刊)より

『なにわ考古学散歩』には、盆地湖に至る変遷が詳しく図示されています。
地質学では定説のレベルです。

これを認めると、畿内の自生説や邪馬台国の人口問題にも影響して、ちょっと
よろしくないので、畿内説の若い人は気を付けたほうがいいですね。
あの安本さんが引用しているくらいですから。


92 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 02:56:11
>>90
>最近は寿陵は書きにくいんですよ。気をつけないといけないですね。
>>91
>畿内説の若い人は気を付けたほうがいいですね。

・・・よほど危ない目にあっているんだな

メンヘラ サン デスカ ?

93 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 03:45:19
邪馬台国が博多にあったっていうのはメジャーな説なの?

94 :大和の土蜘蛛の末裔:2008/11/01(土) 04:00:23
>>88
大和盆地湖 神武の時代(2〜3世紀?)
流出口は、広瀬大社の西方3km、三宝山と舟戸神社の間の所。
湖の北岸は、現大和川の少し北側。
湖の西岸は、広瀬大社から南へ、広陵町と大和高田市のライン
湖の東岸は、JR桜井線のあたり。
湖の南岸は、JR桜井線のあたり。
天香具山の麓も湖であった時代があったようだ。地名:南浦
神武は奈良盆地湖の南岸の芦原地帯に定着したようだ。漁労民であった神武は湖岸で半農半漁の生活。
崇神9年に奈良盆地湖は全くなくなり、その最深部であったところに広瀬大社が創建された。(4世紀頃)
又湖であった場所は古墳の空白地帯でもある。古墳時代には、未だ湿地帯であったから?


95 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 04:03:50
>>93
僕は、邪馬壹國久留米説です。

96 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 04:06:01
それは幻の邪馬台国じゃないんですか

97 :大和の土蜘蛛の末裔:2008/11/01(土) 04:30:24
>>94
間違えた

×湖の東岸は、JR桜井線のあたり。
○湖の東岸は、近鉄橿原線のあたり。

×湖の北岸は、現大和川の少し北側。 (表現が曖昧な為)
○湖の北岸は、JR関西本線のあたり。


98 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 04:35:17
>>96
違うと思う。
名前は忘れたが、祇園山古墳が卑彌呼の墓とした人と同じ意見。理由は違うが。

99 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 04:57:11
>>91
>あの安本さんが引用しているくらいですから。

引用だと? 馬鹿なことを言うな!
安本美典がやっているのは引用じゃない。あからさまな改竄じゃないか!ケッ。

その改竄された地図をリンクに張っておきながら、君は知ってか知らずか、
臆面もなく伊達宗泰氏の名前出している。恥ずかしいと思わないのか。

他の方々にも事情が解るように説明をしておく。

『古代「おおやまと」を探る』13ページの地図は、伊達論文「倭六県と「おおやまと」」の中で、
  「六御県・遺跡相関概念図」
として示されているものである。
ところが、これが邪馬台国の会サイトでは
  「奈良盆地の盆地湖」
と安本によって改竄されてしまった。

アミ掛けの部分は、伊達氏による図説明では

  「標高50m線(網目地域)以下の地域は網流地域と考えて、厳密に
   水支配の境界が策定できないという判断で示していない」

なのであり、要するに現在の地形図で標高50m以下を機械的にアミ掛けしたわけである。
決して遺跡の有無で分けたものではない。
それどころか、島ノ山などの古墳は13基ばかり、きちんとアミの中に描かれている。

伊達論文は、延喜式記載の祝詞や神名帳に出る倭六県、および数座の山口神の分析と
弥生〜古墳期の遺跡分布から、大和政権の中核地域「おおやまと」の、該期における具体相を
割り出そうとしたものである。地図はその意図の下に作成されている。
論文中、盆地湖には一切言及しておらず、「盆地湖」なる言葉も一切見当たらないことを付け加えておく。


100 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 05:03:21
>>98
祇園山古墳か…
(確か画文が出てる)
・・・ひょっとして筑紫御井を比定した植村清二かな?
放射説の榎も支持してたはず。

どうやったら陸行30日もかかるのか知らんがwwwwwwwwww

101 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 07:34:30
安本に「あの」を付ける程の評価を与える人ってなんなの?w

102 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 07:37:24
奥野のことかな?

103 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 07:52:29
>>77
>年代遡上を批判してはいけない。
九州説が旧説にしがみついてるだけじゃないの?
>神武東征を認めてはいけない。
どうして東征が起こったのが3世紀後半しかないと思うの?
考古学的に見たら2世紀〜3世紀初頭ぐらいの方が合ってるよ?
中山平次郎、原田大六、柳田康雄を知らんとは。


104 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 07:57:53
この九州厨の教祖が安本なだけだなw

105 :のんびりひまじん:2008/11/01(土) 08:29:09
>>60
>戦後派、門外漢の原田が九州説の中心になったため、畿内説はより頑なに「畿内の後進性」を無視・否定し続けてきた。

いつから原田大六さんは、九州説へ変説されましたのか?
まぼろしの邪馬台国(宮崎康平)初版(1967)のころ、原田大六さんはシロウトの盲説に猛反発。
九州説に限って、このような蒙説なのだ!と。
卑弥呼の墓(1977)では、ヤマトトトイモモソヒメの箸墓を推した。
いつから原田大六さんが、九州へ変説されたのですか?

             
   〜例によって、本題ズレですけど・・・(誤引用→この2ちゃんの読者が書物を誤選択・・・

106 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 08:46:14
九州厨涙目で赤面www

107 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 08:56:54
まぼろしの邪馬台国って今日から公開だな

108 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 09:30:14
>>105
単に「戦後は、門外漢の古田〜」の間違いでは?

109 :日本@名無史さん :2008/11/01(土) 09:47:05
>>55
倭面土国が博多湾にある奴国あるいはイト国とは違うとしても、
さらに権力は卑弥呼を共立したことで、
移動したはずだから、
旧勢力の奴国あるいはイト国が、一大率を其処に置いて郡使の常駐所にして再び脚光を浴びたことは十分ありえる。
かつて倭国王として認められた過去がある土地だから。
ところで後段の、伊都国が面土国の後継者というのはどこから推測できるのでしょうか。



110 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 10:08:58
邪馬台国は奈良盆地湖に浮いてたんじゃねーの?
古墳時代になってイスカンダルに飛び立ったんだよ

111 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 10:15:17
九州厨涙目でROM中ww

112 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 10:19:26
捏造・曲解が必要不可欠の畿内説など、相手にしてませんが

113 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 10:39:38
邪馬台国は、このあたりじゃないかとにらんでいる。
この地形を見てくださいよ、それにここは人類発祥の地。
今も野生動物の宝庫マサイ・マラサファリ国立公園付近。

http://www.panoramio.com/photos/original/209597.jpg

114 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 10:50:00
>>93
博多=奴国、という認識がメジャー
そこから不彌国、投馬国を経て邪馬台国に至る、ので
邪馬台国の比定地が日本中にあるのが現状です。

115 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 11:14:02
『007シリーズ、邪馬台国九州説は二度死ぬ!』絶賛上映中。

116 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 11:19:43
邪馬台国は久留米に近い有明海寄りの地域じゃないか?

117 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 11:50:50
>>116
そのような考え方は、畿内説同様に倭人伝の行程記事のどこかを大きく改変し
て読まなければなりません。倭人伝を離れて、いわばかってに比定する説。
素直に読めば、邪馬台国は南九州。それならば、倭人伝の記事に完全に従って
たどりつきます。そして、そこは九州随一の古墳地帯。記紀の伝承も残る所。
記紀も南九州に邪馬台国があったことを前提に書かれているとか。

118 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 11:54:24
>>117
>九州随一の古墳地帯

魏志倭人伝には、大量の古墳造営記事なんか、一切書かれていません。

119 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 12:28:38
>>117
不弥国から邪馬台国まで水行30日と陸行1月かかりますが・・・
薩摩から太宰府まで朝貢品を運ぶのに陸行12日間で行ける。
ちなみに博多から京都まで朝貢品を運ぶのに水行30日間、
又は陸行27日間で行けた。年表の付録でも確認したらどうですか?

120 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 12:32:48
>>119
800系つばめと、乗り継ぎ在来特急使えば
数時間で行ける。

121 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 12:47:00
文学板から来ました。日本史板面白いなあ。武陽淫士って人有名ですか?

122 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 12:47:22
>>116
>邪馬台国は久留米に近い有明海寄りの地域じゃないか?

隋書俀國伝
『其地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』
『達於海岸・・・・・倭王遣小徳阿輩臺 従數百人 設儀仗 鳴鼓角來迎 後十日 又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞 既至彼都』
上記より、邪馬壹國は有明海岸沿いではなく、海岸から東へ入った内陸部と見做せる。久留米でも山麓より。


123 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 13:02:54
>>99
91のリンク先には
「〜にのせられている地図をベースに、安本先生が、JR線や弥生時代の遺跡を書き加えた。
伊達宗泰氏は中央部のアミ掛けの部分を「氾濫平野」と呼んでおられる。古代においては、
この地域は盆地湖か湿地帯であって、人が住むのに適さなかったのであろう。 」とあり、
改変したことが書いてあるが?

伊達さんが「盆地湖」とはっきり書くような、タブーに触れるヘマをするわけないだろ。
「標高50m線(網目地域)以下の地域は網流地域と考えて、厳密に水支配の境界が策定できない
という判断で示していない」 は、網流地域で水支配が確定できないほど水が入り組んでいたの意味。

伊達さんの元の地図でも中央部に遺跡、古墳がほとんどない地域がはっきり出ている。
普通に考えれば、安本のいう盆地湖が湿地帯だわな。
これ自体が言いにくいことだったから、伊達さんなら「盆地湖」という表現は避けるべきだろ。

>>91
『なにわ考古学散歩』は「河内湖」の方だった、これは勘違い。


124 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 13:29:55
環濠集落の時期の各種の出土物は、北部九州は畿内の10倍以上。
戦前からこの傾向は明白だったが、門外漢の医学博士である中山氏が九州説の
中心だったため、畿内説はこの事実を無視し続けてきた。

戦後派、門外漢の原田が九州説の中心になったため、畿内説はより頑なに
「畿内の後進性」を無視・否定し続けてきた。
学界では「畿内の後進性」を認める者が皆無であったというのがこの時代の状況。

90年頃になり、畿内の後進性があまりにも明白で、無視を続けられなくなり、
これを認めるのと同時に環濠集落の終焉を100年早くする年代遡上が始まった
というのが、学説の変遷についての事実。

125 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 13:34:52

奈良盆地湖の証拠と見なせる地名が残っている。

「舟戸」「大和田」「豊浦」「南方」「南浦」etc.

126 :日本@名無史さん :2008/11/01(土) 13:35:01
権力の推移
大夫→帥升→卑弥呼(邪馬台国)→
狗奴国(磐井氏の祖先)→イト県主(高麗ウルサンに天下ったヒボコ)
→近畿ナラ王朝

風土記筑前逸文には伊都県主は高麗ウルサン(新羅)に天下ったヒボコの子孫)
とあります。九州王朝の磐井氏を撃ったのが随書にある阿毎君の多利思比孤の先祖だと思う。
次に近畿王朝がイト県主を撃って天下統一した。
それは日本書紀の仲哀紀にあります。
引用
筑紫のイト県主の先祖でイトテが天皇が来たと聞いて、大きな
賢木を根から引き抜き船の舳先に立てて、上枝に(中略)
天下を平定して頂きたいからです。
つまり降服を表しています。

127 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 13:38:03
学会に無視されたから、
2ちゃんねるに寄生ですか?

それはそれはご苦労様です。

しかし残念ながら、スタンダードは畿内ですから。

128 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 13:53:19
畿内説は18世紀の妄想学ですから

129 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 14:04:54
畿内説は論争を避けるようになって来た。
もはや、論点さえなくなったという感じか。
念仏のように、畿内、畿内と唱えるだけ。

130 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 14:25:12
邪馬台国では奈良盆地湖の潜水漁でフナでも食ってたのかな?

131 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 14:45:40
縄文時代の海進期には、海から奈良盆地まで船で俎上できたのです。

132 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 15:10:05
>>124
もうこいつ病的だなw

確か纏向型前方後円墳は祟神陵も含め同じ形式で同じ時代(10〜20年ぐらいの間だっけ?)に築造された。
関東北陸に至る物も同じ。

四世紀には神武による強力な中央集権の統一王朝ができた!
左翼学者どもの言う連合体など認めない!

九州説は門外漢のアマチュアが学会の支配者、悪の畿内説に迫害

133 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 15:11:30
>>124
もうこいつ病的だなw

確か纏向型前方後円墳は祟神陵も含め同じ形式で同じ時代(10〜20年ぐらいの間だっけ?)に築造された。
関東北陸に至る物も同じ。

四世紀には神武による強力な中央集権の統一王朝ができた!
左翼学者どもの言う連合体など認めない!

九州説は門外漢のアマチュアが学会の支配者、悪の畿内説に迫害・無視しつづけられた歴史!

その歴史は以前は明治からとか言っていたしw
(おいおい東大vs京大の学閥云々のお話はどうなったんだ?真偽はべつにしてもw)

で、中心人物がいつのまにか原田から中山に代わっちゃったなw

もうなんか脳内イデオロギー闘争しまくっちゃってますねwwwwwwww


134 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 15:12:46
では邪馬台国奈良盆地海「肥海湖」と名付けよう


135 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 15:13:01
>四世紀には神武による強力な中央集権の統一王朝ができた!

記紀をちゃんと読んでみろ。神武はわずかな人数を率いて畿内に乱入し、小領土を得たのみ。
「神武による強力な中央集権の小集落ができた」が真相。

136 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 15:15:05
畿内なんか、外部勢力からしょっちゅう簒奪されてきた、カゲロウ王国。

137 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 15:16:43
>>135
普通、小集落に「中央集権」なんて使わんわアホw

何れにせよ文句は>>124に言ってくれwww


138 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 15:23:35
畿内説って、異称日本伝から続く、江戸時代の単なる思い込み。

思い込み
1:日本列島に最高権力って天皇以外にいるわけないじゃん
2:天皇は畿内以外にいるわけないじゃん
3:漢籍は、1・2に符合するところだけ読んで、あとは無視すりゃいいじゃん

1+2+3が畿内説です。

139 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 16:31:08
>>135
よく読んでも、「わずかな人数」とは書いてないが。

140 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 16:42:03
しかし>>78の質問も誰も答えてくれないなw

質問のレベルが低すぎてスルーされたのか?…orz

まあ答えなきゃならない義理も無いだろうが
この板の九州説の連中のレス読んでいてもその答えが見つからないのも事実。

九州の先進性(先進性・後進性の定義がイマイチ分からないがw)をもって
考古学的裏付けになるもんでも無かろうに・・・

それだったら後漢朝時の「金印」をアホみたく繰り返すサイキバ君レベルと同じやんけwwwwwwwwwwwww

141 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 16:44:09
>>137

人目を忍んで熊野の山道を登れる人数って、「強力な中央集権の統一王朝」を作れる人数なの?

142 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 16:45:15
>>78
すくなくとも畿内にはない。畿内には王宮も宮殿もないしね。ないないづくし。

143 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 17:00:03
>>142
日本語の読めないアホですか?

畿内説云々ではなくて九州説自体の根拠を出せよ・・・って話だぞw


全くこの板にはまともな「九州説論者」は殆どいない。

いるのは幼稚なあるいは病的な「アンチ畿内説論者」だけだなwwwwwwwwwwwww

144 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 17:00:41
弥生後期の鉄器は西高東低。
近畿地方はかなり少ないが、比較的ましなのは北部の近江地方。
奈良盆地はいくら掘っても出てこない。
以前の考古学者はこれをかなり意識していたが、最近はあまり触れないな。

ただ、大和朝廷がここで芽生えたのは確かで、なぜ大和なのか、そちらの
方に興味があるなあ。

145 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 17:23:48
>>78>>140
冊封や共立を意味する考古学的な史料って、
具体的にはなんだ?
土器に冊封や共立の文字でも書かれていればいいのか?

146 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 17:26:54
>>78
ありすぎるだろ。九州では各地で「特定個人墓」が出土している。
それが派遣された官か地域の王かは邪馬台国が連合か王政かで評価は分かれるだろうが。
少なくとも、畿内のように何もない状態から、いきなり各地の首長が出てくる不自然さはない。

>連合体・・・・・これはあり得ない。
魏志には王は2名しか出ていない。
この記載からは、連合として、各地に王が居る状態は全く読み取れない。
むしろ、王政のもとに各地に「官」が派遣されていたことが、はっきりと読み取れる。

魏志の2名の王は「イザナキ、イザナミ」のような似た名前。
日本神話の神代七代も似たような名前の男女一組の統治者である。
ゆえに、一つの王政のなかの内乱として、男女2名の王が反目していたとするべき。


147 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 17:32:16
>>146
>男女2名の王が反目していたとするべき。

イザナキ、イザナミも最後は反目しあって戦う状況が描かれている。
その次の世代のアマテラスとスサノウも反目しあっている状況が書かれている。
後世をみても記紀には「お家騒動」の記事が多い。


148 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 17:35:18
考古出土物がどうしたって?ん!
土器や鏡は何も喋らないぞ!

それとも
畿内から出土する土器は喋るのか?

149 :55:2008/11/01(土) 17:37:53
>>109
>ところで後段の、伊都国が面土国の後継者というのはどこから推測できるのでしょうか。

面土国(シナ名・音メト[タ])は米多国(日本名・音メタ)であると見なせます。
米多(目達原)が吉野ヶ里遺跡の近くであることから、
109年頃にピークとなった面土国の主城郭は吉野ヶ里遺跡
(佐賀平野で現在発見されている1世紀頃にピークとなった最大の城郭)となります。
面土国は背振山地南麓の佐賀平野にあったことになります。

魏志を素直に読むと伊都国は佐賀市大和になります。
その城郭は惣座遺跡(肥前国庁跡)になります。
又、伊都國に代々王がおり、一大率なる検察統治組織の拠点があり、
軍事上の要衝の面土国の城郭である吉野ヶ里(不彌國)が女王國に組み込まれており、
壱岐半島方面への通交の要衝に伊都国の拠点があることは、
伊都國が前政権面土國の名目上の権限を引き継ぐものだと見なせます。
これは邪馬壹國が王の共立(女王と伊都国王)により面土国から権力の移譲を受けたことをも意味します。

魏使の最終到着地点も名目上の倭政権である伊都國であることが理解できます。
(不彌國からは女王國国内移動)


もっと説明が必要なのですが、うまくまとめられませんので、このあたりで終わります。


150 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 17:39:21
畿内では大量の鉄がリサイクルされてた
土器は全国から集まってるし鏡は何千枚も出てきてる
文句あるか?

151 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 17:50:09
>>150
やけくそだね。

152 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 17:50:16
>>150
土器が集まると、土器を集めるは違うよな?
で、集まると集める
どっちなんだ?

153 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 17:52:03
>>149
奈良盆地は天然の城郭みたいなもんだけど
奈良盆地湖には大型船は上ってこれたと思う?答えて!

154 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 17:53:36
>>145
>冊封
金印の出土がベストだろうがw
畿内説だと楽浪鏡とも分類される画文帯かな?
冊封を受ければ当然楽浪での入手も簡単になるだろうし

>共立
畿内説だと纏向の搬入土器の多さ。
そもそも前方後円墳が各地の埋葬文化の合成された物。


・・・上記、畿内説におけるに事例についての反論は良いから
(もう過去腐るほど見てきたしw)

あくまで九州説に該当する物で説明乞うwwww

155 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 17:56:28
>>146
>特定個人墓

意味不明と言うより意味無し

それを30個ほどリストアップして連合参加の首長の墓とするのか?
それともどれかが卑弥呼の墓とでも?


156 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 17:59:08
>>152
集まるかな、慕われる感じ
吉備勢力と東海勢力が九州に対抗するために各地の王が三輪山のふもとに集まった
そこで共立されたのが卑弥呼
禁足地遺跡、山ノ神遺跡、新境内地遺跡
この辺が卑弥呼の王城だった可能性が高い

157 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 18:01:26
九州説の考古的な史料と言えば、やはり文献だろう。 土に埋もれる事もなく、なにより文字が当時の状況を
説明してくれる。
共立や冊封の状況も、文字が伝えてくれるな

158 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 18:02:05
>>155  やっぱりそうきたかww
畿内説は伝統的にこれを無視してきたからね。

159 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 18:02:19
九州厨の解釈学にはウンザリだなw


160 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 18:05:32
>>149
奈良盆地は天然の城郭みたいなもんだけど
奈良盆地湖には大型船は上ってこれたと思う?答えて!


161 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 18:08:15
>>149
奈良盆地は天然の城郭みたいなもんだけど
奈良盆地湖には大型船は上ってこれたと思う?答えて!

私は待ちますが答えられないのであれば邪馬台国は奈良です。

162 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 18:09:58
共立と言っても二つの解釈が出来、
一つは「共に立てる」
もう一つは「共に立つ」
これらの違いを
土器はどう語ってくれるのかな?

163 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 18:11:19
>>158
無視?
単にそれらに意味が無いだけ。

その埋葬形態に2・3世紀頃の九州に特定される「何か」があれば
30各国の首長のそれとする蓋然性もあるだろうがw

164 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 18:42:06
出土物の裏付けに文献を利用していいの?
普通は文献の裏付けに考古出土史料を利用するよね?でも、
畿内説はいつの間にか、考古出土史料の裏付けに文献
利用してるよね?

165 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 18:50:38
『古墳時代の歴代皇后に九州出身者は1人もいない』
この件について知的レベルの低い邪馬台国九州説を語る人から
まともな反論を聞いたことがない。

166 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 18:52:10
第一文献と言うのなら「九州王朝説」なんてウルトラトンデモを出さない限り
毎度毎度おなじみの >>8 のコピペで畿内説で ジ・エンド ちゅう話w


同じ様に御覧引倭人伝も魏志・魏略に先行する史料に基づいて書かれた物ではなく
宋代の知識で大和を意識して書かれたもで方角の訂正がない以上
大和が九州からひたすら南の地にあって何ら問題無いと言う事になるwwww

まあこんな事くる日もくる日も文献をオレサマ解釈している連中にとって
今更説明するようなことでもないだろうがwwwwwwwwwwww



167 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 19:00:24
>>164
本来すべきじゃないと言うか
少なくとも安易な併用は慎むべきだろうねw

でも九州説に文献を裏付ける考古学的資料が乏しいのも事実。

でなければ今日の状態を招いていないwwww


はっきり言えば九州説は畿内説に噛み付く前に
倭人伝の「方角」が怪しくなってくる
現在定説の伊都国、奴国の比定地をどうにかして来い・・・って話でwwwwwwwwww

168 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 19:01:33
そもそも、文武以前に、畿内に王朝などないわけで、九州以外に王朝などあるはずもなく・・・

169 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 19:02:45
絹と鉄器の出土状況をみれば、九州以外に邪馬台国などあるはずもない

170 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 19:40:42
やっぱり博多だろ。

171 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 20:29:37
考古学では邪馬台国は決められない。どこを見たって邪馬台国と決めるような
物は出ていない。となれば、倭人伝の行程記事で決めるほかないよ。となれば
日向は絶対。

>>118
邪馬台国に古墳がなかったとも書いてないな。
日向は少なくともかなりの権力者がいたことは明らかなんだよ。
北九州は衰退の一途。大和はサイキバだけだろ。

172 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 20:31:52
久留米は?

173 :149:2008/11/01(土) 20:32:26
>>153

>>149
>奈良盆地は天然の城郭みたいなもんだけど
>奈良盆地湖には大型船は上ってこれたと思う?答えて!

何を知りたいのだ?
質問の趣旨が理解できぬ。

大型船どころか小さな川舟でも上がれぬ。
下るのでさえできるかどうか?
無理に下れば、舟を引き摺って川の中を歩いたり、荷物ごと川に投げ出されたりしかねない。
大和盆地湖で舟を使えるのは、湖の流れ出し出口の舟戸から東南北の湖岸に荷物を運べるだけ。
北の大和郡山から橿原方面への物資輸送には便利だったろう。
それも崇神の頃には湖がなくなっていた。
唐古・鍵遺跡の住人は湖の水上交通を活用したと思えるが。

174 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 20:35:36
>>168
ヨォ!薄汚い朝鮮人!日本の歴史を捏造するな!祖国が国家破綻するぞ、帰れ!

175 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 20:46:24
>>167
伊都国に関しての方角は、河童puさんが言ってる事に
もう少し耳を傾けるべきじゃないかな?ww
ふだんは意味不明なレスが大半だけどwwww

176 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 20:49:07
>>171
なに?日向!大笑撃!
人食い人種の熊襲が住んでる土地に何があんねん!人間の干物か?ボケ!

177 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 20:49:52
>>174
纏向のどこに王宮や宮殿があるんだよ。
畿内には、木器使いの後進文化人が掘っ立て小屋に住んでただけだよ。

178 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 20:51:17
日向には日向人が住んでいただけ。
邪馬台国は博多から八女にいたる地域にあっただろう。

179 : ◆.L.MXSPOgc :2008/11/01(土) 21:14:28
>>117
私の説では、倭人伝を素直によんで久留米に近い有明寄りの地域にたどり着きますよ。
行程記事に大きな改変も1つも無いと言えます。

http://yamat-2007.blogspot.com/

因みに記紀には邪馬台国の記憶(形跡)がありません。

180 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 21:25:00
>>177
纏向には宮殿跡が出てますが?

181 ::2008/11/01(土) 21:32:19
>>167
>現在定説の伊都国、奴国の比定地をどうにかして来い・・・って話でwwwwwwwwww
どうにかした私が来ましたよw
反論があるならよろしくお願いします♪

http://yamat-2007.blogspot.com/

182 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 21:32:35
>>177
纏向には纏向豊田遺跡、纏向箸中遺跡、芝遺跡、纏向太田遺跡など
たくさんの遺跡があるが、まだ数%しか発掘されていない。これからだよ!
木器しか使ってないだと!そのわりには青銅・鉄器がたくさん発掘されてるな。
九州の朝鮮土人の分際でなに日本の歴史を捏造してんだ!お前、間抜けかボケ!

183 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 21:35:56
>>177
あの掘っ立て小屋は粗末にすぎるぞ。
炊飯の設備もないイヌ小屋のようなもの。

竪穴式住居が2,3あるらしいから、そこに7万人が住んでいたという
のがマキムク都市伝説wwww

>>180
ねえよwww

184 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 21:47:34
>>146
>むしろ、王政のもとに各地に「官」が派遣されていたことが、はっきりと読み取れる。

今の畿内説のなかには、安易に「連合」と叫ぶバカもいるが、これは重要だね。

さんざん年代遡上して、集権的王権を認めたら、皇国史観そのものだから、
魏志で各地に「官」が書かれていることは、無視せざるを得ない。
それが、「連合」という妄想。


185 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 21:53:59
>>187
なんで掘っ建て小屋から
最古の祭用太陽神マスクが発掘されたり
水道、濠が発掘されんだよwwwアフォか

大体、竪穴じゃなくて高床だろ。竪穴は唐古鍵だろ

186 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 22:05:20
>>184
今時珍しい皇国史観の持ち主乙。


で聞いてみたかったんだが、北部九州の纏向型前方後円墳も
北部九州が大和王朝の傘下にあった証拠なのかい?www

187 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 22:10:25
>>183
超ドアホの九州の低能朝鮮土人さん、こんにちは。
お前のような間抜けな九州の朝鮮土人は柵の中で飼われていたんですよ。
大和の日本人から豚のエサをもらってね。悪さしたら殺虫剤でブシューッ!
九州土人の首長はカボチャの中身を食ったら頭にかぶっていたそうだ。
これが真説、九州王朝の実態だ。

188 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 22:12:02
そもそも邪馬台国「連合」とか最初に言い出した馬鹿って誰なの?

189 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 22:14:06
>>181
倭人伝の行程記事を二人の報告の合成だとするのかな?
それは行程記事を壊すことになる。行程記事を壊したり改変したりせず、
そのまま素直に読むことが大切。

190 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 22:14:16
さて、そもそも一つの集落で七万戸を収容できるとか考えている>>183以下
ここの九州説はアホばかりなんで自作自演気味に畿内説に突っ込んでみるwwwwwww

倭人伝に見える官の配置と言えば「ヒナモリ」とかだが…

そもそも大和からの距離を考えた場合、その配置が厚すぎると言う指摘がある。

一般的に言って都に近づく程に関所だの防衛施設は厚く布陣されているのが普通だからねw


191 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 22:32:06
出土物を見ても、世界史的に見ても、九州しかないな。

192 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 22:36:41
九州に7万戸を収めるのは無理でしょ
畿内の膨大な土地がふさわしい
畿内東海吉備連合が邪馬台国

193 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 22:39:38
邪馬台国連合の中心地奈良盆地
盆地の奥底に聖帝卑弥呼神の宮殿があったと思うがな


194 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/01(土) 22:40:25
>>192
めでたく入りますよ。地図上では九州は小さく見えるが、そのくらい
は容易に収容可能。

195 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 22:41:06
>>188
元々畿内説は自生説、つまり邪馬台国は大和で生まれ、それが大和朝廷に
繋がるという考えだった。
期待を持ったのが、唐古・鍵遺跡。ここの人間が纏向に移動したと考えた。
でも、唐古・鍵はいくら掘ってもめぼしいものが出てこない。
結局、自生説をあきらめざるを得なかった。

その結果出てきたのが、連合説。まあ、東遷説だけは絶対阻止という姿勢が
表れたものだろう。

196 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 22:45:58
そこで「連合」論に逃げたのがローガン
そこで「東遷」論に逃げたのが夏祭

197 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 22:50:17
>>191
その出土物、遺跡、王墓を九州説の人が出してくれないんだ!物証を出せ!
だから愚かな九州説を語る人は知的レベルが低いんだ!

198 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 23:01:15
>>186
もちろん。
弥生時代の「邪馬台国」がへき地のヤマトに東遷して、ヤマト王権が誕生した。
各地に王族を送り込み支配を確立していった(成務の代の国造など)。
四道将軍(これも王族)を派遣して、各地の反抗を押さえ込んだ。

これらの王族の墓が各地の古墳。
だからヤマトと同じ古墳。

199 :サガミハラハラ:2008/11/01(土) 23:02:49
>>179
記紀に邪馬台国の形跡がない件について。
日本書紀は大和朝廷の正当性を内外に伝えることを主旨としています。よって、九州にあった邪馬台国のことをのせるわけにはいかなかったのです
もし、邪馬台国が奈良にあったならば、堂堂とのせていたでしょう。
ヤマトは結局は邪馬台国をほろぼしたのであるが、中国が倭国の正統であるとする国をほろぼしたとするならば、
中国の覚えめでたからずとかんがえたのでしょう。そのため、神功紀のところで、大和は邪馬台国であるような
偽装をしています。

200 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 23:05:02
>>197絹と鉄だよ!!!

201 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 23:12:36
>>188
「馬鹿」の部分を省いて、もう一度質問を書いてみてくれ。
答えるから。

202 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 23:14:35
>>194
九州では養える人口ではない他に5万戸の国もある
江戸時代より人口が多くなるではないかどうやって食っていくんだ
>>200
それだけじゃだめだな


203 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 23:15:00
>>179 >>199
>因みに記紀には邪馬台国の記憶(形跡)がありません。
それは浅はか。記紀は邪馬台国の所在を南九州と書いているんだよ。
「邪馬台国の暗号」(安田哲也著)を読んでみな。かなり説得的。



204 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 23:18:40
>>200
魏使は北九州の風俗を倭の風俗としている状態で
「不弥国から水行三十日陸行一月、ようはすごく遠い所に邪馬台国がある」
と認識してるんだよ?

205 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 23:26:41
>>202
>それだけじゃだめだな
遺物では邪馬台国のありかなど分かりはしないのさ。


206 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 23:29:05
>>204
>北九州の風俗を倭の風俗としている状態で
何か変な思い込みがあるのでは? 倭人伝が書いている風俗は北九州の
ものではないよ。


207 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 23:39:56
まあどちらにしろ水行三十日陸行一月と書いてある時点で九州は無いな
あ、書き間違いとか屁理屈は聞き飽きたから

208 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 23:41:21
>>200
なんと抽象的なんでしょう。絹だったら倭錦、倭文、斑布を出せ!
鉄だったら銘文刀を出せ!どの時代で九州のどの遺跡から出土したか出せ!

209 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 23:42:39
>>207
>書き間違いとか屁理屈は聞き飽きたから
南は東の書き間違い、陸行1月は岡山上陸とかの話かな?

210 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 23:48:45
>>208
そんなもん、いくら出したところで邪馬台国の証明にはならんよ。
古墳を造らせるぐらいの豪族なら、みんな持ってただろ。その中のほんの一欠片が
偶然に出土するだけの話なんだ。


211 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 23:50:23
>>197
ケチをつけるだけでなく、畿内説のほうこそ物証を出せ。

212 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 23:50:24
俺は若い頃丸木舟で九州から関西まで行ったが水行30日かかったぞよ

213 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 23:52:23
>>211
そんなもん、いくら出したところで邪馬台国の証明にはならんよ。
古墳を造らせるぐらいの豪族なら、みんな持ってただろ。その中のほんの一欠片が
偶然に出土するだけの話なんだ。


214 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 00:02:00
>>212
昔、西都原古墳群から出た舟形埴輪を模して野生号という古代船が作られた。
その野生号で、博多湾からソウルまで47日かかったらしい。

215 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 00:06:19
>>214
ついでながら、九州から出た舟形埴輪に対抗して、近畿地方から出た舟形埴輪
を模してやはり古代船が作られた。しかし、この船は設計者の予想通り、
構造上、実際の船としては成り立たなかった。
前に進まず、ちょっとした波で転覆しそうになったとさ。

216 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 00:17:53
>>198
>もちろん。
>弥生時代の「邪馬台国」がへき地のヤマトに東遷して、ヤマト王権が誕生した。

・・・なるほど。

邪馬台国の怪あたりからの引用と思われるレスが多いから予想はしていたが
やはり東遷説論者だったかw

邪馬台国が東遷して大和王朝を打ち建て日本全国にまたがる強固な王権国家を造らにゃならんのだから
纏向が三世紀じゃ不味いわなwww


217 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 00:29:40
>>210-211
奈良県天理市の3世紀末の下池山古墳から卑弥呼献上の斑布と同種と見られる
高技術の絹織物が出土した。
京都工芸繊維大学によって倭文(しどり)の可能性が高いと認定された。
これは知的レベルの低い九州説にとって都合が悪いんだよな。

218 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 00:29:44
6世紀以前の東遷説を唱える奴は、破綻した畿内説をむりやり支えただけの、負け組みだよw

219 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 00:31:38
圧倒的な絹の出土量、圧倒的な鉄器の出土量、三種の神器がセットで出ることも含めて、

   九州 >>>>>>>>>>>>>>>>>>>> 畿内

220 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 00:38:48
>>219
いつものパターンだね。結論の連呼w
これ以上突っ込まないでって 意思表示だよね。

221 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 00:55:20
あとこの板の九州説論者がなかなか言わないのが自分達の言う実年代の根拠w

兎に角従来のが正しいかのごとき一点張りwww

考えて見れば例えば紀年鏡で
「いやそれは古墳の築造時期から百年からずれている」
つってもその古墳の年代が正しいかどうか…

そもそも紀年鏡の検証は従来の年代観が正しいか否かの検証でもある訳で
そこに従来の年代観を持ってくるのは普通に循環論法wwwwwwwwww




222 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 00:56:25
>>219
何が出土したの?時代は?遺跡は?だから九州説は絶望的に知的レベルが低い!

223 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 01:08:12
役にも立たない出土物を競い合っている畿内説と北九州説。どちらも絶望的。

224 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 01:32:06
>>222
で、畿内から絹は出たのか?

225 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 01:37:38
>>217
時代がズレてるしピンポイントだし、物証としては弱いよ。
3世紀末ならむしろ東遷説の証拠とも言えるだろ。

226 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 01:43:11
>>225
それをいったら九州説論者の主張する絹の出土数こそ
時代がズレてるものまで含めてるものなんだけどね

227 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 01:55:59
>>217
「卑弥呼献上の斑布」が、どんなものか誰も知らないと思うが…。

228 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 02:23:32
>>225
下池山古墳が3世紀末というのは、年代遡上の結果の年代ですよ。
遡上を認めなければ、4世紀半ば〜後半です。

あそこは、盗掘されていたから正確な年代を出しにくい。
今の畿内説にとって、年代の決め手に欠くというのは、遡上OKということ。

まあ椿井大塚山のように昔は布留1〜2式とされていたのが、いつのまにやら
布留0〜1になったというトリックを使えばなんでもアリなんですが。


229 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 02:32:50
>>221
その前に年代遡上の根拠を言うのがスジじゃないかな?

年輪年代?  一度たりとも年輪グラフが公開されていないですよね。

C14?  信頼性がないですね。せめて奈良・平安で信頼性を確立してから頼るべき。

しかし、この両者を除くと何も残らない。それが年代遡上。

紀年鏡?  三角縁舶載説という時点でダメですね。

230 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 04:24:48
>>229
よほどジャンケンは後出しで無いと不安らしいなw
何をビビってんだよwww
情けない奴wwww

まあ以下素人の見るところだが
先ずは従来の年代観を暫定基準にし、各種理化学的年代測定を参考とし
俎上可能な上限一杯までの間で学者の裁量で補正を加えている。

…とまあこんなところだろう?違うのかな?

例で言えばホケノの木棺のC14も最終的には画文で数字を決した。

別に畿内説であろうがその年代観は統一されているに程遠い今
九州説に絶対的基準を求めるのはナンセンスだが

暫定基準に過ぎない物を絶対的基準の如く言って相手を否定するのはイカサマ、詐欺、ペテンの類www

つうかリアルの学者でお前さんみたいに自説の年代観で言いきる奴もいないんじゃないのかな?wwwwww

その自信満万の絶対的根拠を是非教えてくれwwwwwwwwwwww



231 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 05:46:11
>>230
なんか言いがかりをつけるのが得意みたいだな。
しかも、粘着質。

まず、自分の年代観を言い、その根拠を示すのが先。
人の根拠を聞く前に、自分の説の根拠を言うこと。常識だろう。
文章を見ると、とても常識人とは思えないが。

ちなみに、土器の編年は難しいと思う。
比較的意見の一致しているのは、須恵器の開始時期で、だいたい400年頃と
言われているが、これとて異論がないわけではない。
布留式の土器がその前にある。このように比較的確かな須恵器から遡って
いくのという方法がある。

しかし、庄内期の開始時期を西暦200年としている寺澤編年は、最初に古い
庄内期を先に決めて、須恵器との間を均等割しているらしい。
寺澤氏自身が、誤差があるといい、その編年も年々変化しているらしい。

箸墓の場合は布留0式とされるが、寺澤編年ではこの時期を西暦300年か
それより前としている。
しかし、須恵器の第一人者といわれる田辺昭三氏は、布留0式を西暦350年
頃としているらしい。
当然、庄内期の開始時期も異なってくるだろう。

纏向の開始時期は、今の畿内説にとって死活問題だろう。
だから、その説明責任は、畿内説のほうにある。
挙証責任を転嫁してすむ問題ではないと思うが。

232 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 06:15:07
>>231
ん?

レスのリンクを辿れば分かるがこの話は>>221の俺からスタートしている。
筋から言えばレス指定してきたお前が>>229で自分のよって立つ根拠を言うべきだろう。
何を勘違いしているのかな?アホwww

それでもこっちは素直に答えてやったが
結局何人かの学者の編年・年代観を並べ立てただけで
自身の実年代の根拠は言わず終い。

なんで断定できるのか?
当然絶対的根拠があるんだろうが…
結局何も出てこない。

こっちはそれが言わば「暫定基準」であろうと言う事は認めているんだが・・・

普段はさも自身に絶対的基準があるかのように言い
突っ込まれたらそれを明示するどころか
絶対的準なのか暫定的基準なのかそれすらも怪しいくなるw

    『 断定するなら断定するだけの根拠を言え 』

実にシンプルな問いかけなんだがwwwwwww
そんなミエミエ幼稚なレトリックで逃げても意味が無いと思わないのか?


233 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 06:24:24

>>228-
昨晩も畿内説否定による九州説肯定化に励んでいましたか?
九州説は一枚岩でないので、ハエのように散らしても散らしても
何処からともなくやってくる。正にやっかいだ。

あの太国氏にあっても、南九州としか言わない。

・・・の論は間違い、よって、・・・の論は正しい。
これってホントに????


234 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 07:48:40
倭人伝によれば、伊都国は末盧国の東南五百里。一大率が津に臨んでチェックで
きるところ。南水行ができるところ。→有明海沿岸の佐賀市付近。これで畿内説
は完全にない。

>>207
>水行三十日陸行一月と書いてある時点で九州は無いなあ、
放射説に耳をふさいで悲鳴をあげてる感じだな。伊都国から邪馬台国までは水行十日
陸行一月。十分に九州の中に収まる。




235 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 08:05:47
>>234

「伊都国は末廬国の東南五百里」ではありません。

末廬の港は、東南陸行出来る場所にある。

です。間違いの無いように

236 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/02(日) 09:32:21
>>233
南九州〜? 中九州以南とか奥九州と言ったんだよ。そんな言い方はせんぞ。
それに北九州だって場所が畿内に情報が届きにくい地域であれば、北九州も
可能性はあるんだぜ。

237 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 09:46:20
「遡上遡上」言う人は、従来の実年代がいかにいい加減に決められてたのか
知ってるのかいな?

小林行雄が、「倭国乱の時期=弥生後期初め」と考えただけに過ぎない。
当時から九州の学者から批判があった。
畿内の遺跡は舶来品の出土が少なく、なかなか実年代が絞り難いという
ハンデがあったから、適当に決めるしかなかったんだよ。

238 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 11:33:14
「まぼろしの邪馬台国」を見に行った。

・帯方郡は「ソウルのあたり」
・奴国は「ヌコク」と呼んでいた。
・女王国は阿蘇山のふもとw
・畿内?何それ?

239 :のんびりひまじん:2008/11/02(日) 12:51:23
>>238 原田大六さんが怒った部分 (>>103 >>105 ) つまり宮崎康平さんという
原作者が地元(島原)へ邪馬台国誘致に成功したことが映画に十分に表現されてましたのか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E5%BA%B7%E5%B9%B3

240 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 12:56:04
盲目のジジイの『まぼろし』
ですからwwwww

全く無駄な人生だなw

241 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 13:12:54
>>235倭人伝の記述では、マツロ国の東南に伊都国があるとしかよめませんよ。
津に臨んでとあるのは、伊都国が内陸国であることをあらわしています。
伊都国が港町なら、わざわざ津に臨んでなどと表現しません。

242 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 13:22:39
>>241
方角、間違って記述してるつーことは?

243 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 13:35:12
中国人が方角を間違えるというのですか。
この件については中国のかたはおこっていいのではないでしょうか。
名誉毀損でうったえるとか。

244 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 13:53:55
>>230
遡上説ってのは、結局根拠がないってことだな。

布留0のホケノをC14でさらに遡上するという暴論で、布留0が250前後になったのか?

ホケノの画文が舶載という断定も成り立たない。
あの画文は日本でのみ30枚近くの同型が出土するタイプの鏡で三角縁と同様に国産の
可能性の方がはるかに高い。

あっと、これもタブーだったかwww

言論の自由がないのが畿内説の最大の特徴だな。

245 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 14:09:06
昔の年代観を取り入れつつ遡上できない理由を挙げると・・・

例えば、仁徳稜を5世紀前葉にするというところから遡上していく方法がある。
古墳の型式ごとに1世代位の年代を与えて遡上していくと、1世代を長く見ても
300年より前にはならない。

稲荷山の須恵器を480頃として、遡上すると須恵器は400年頃に開始になる。
須恵器の開始から遡上していくと、やっぱり300年より古くするのは無理。

時代ごとに作られる古墳の数がほとんど変わらないとして遡上していっても、
300年より古くはならない。

三角縁国産説を前提とすると、三角縁の終末期400年頃から遡れるのは
せいぜい50年という話は、このスレでは何回も既出。
三角縁の開始を350年頃とすると、遡上は成り立たない。

魏志の記述する邪馬台国は環濠集落の時期であるとすると、遡上の上限が
できてしまうね。

246 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 14:16:09
>>245 に続けて
三角縁の出土に先行する画文帯が北部九州での出土が少ないというのも
理由になるね。

纒向型古墳やバチ形古墳は、ヤマト以外では地方に少し分布しているだけで、
地方では1世代以下の存続期間だから、これに2〜3世代ずつ割り当てて無理に
遡上させるという年代遡上説は成り立たないね。

崇神稜が纒向型という問題もあるね。
崇神が在位の初めに崇神稜をつくり、その後に家臣が纒向型古墳をつくり、崇神が
20年くらい在位したのちに埋葬されたとすると、遡上説は成り立つ余地もない。
だから、畿内説では、寿陵や古墳規格がタブーになったという面もあるね。

247 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 14:20:59
今の学界では、遡上説を仮説として批判的に検証するという学者らしい
言動をすること自体が絶対に許されないという空気があるね。

結局、「畿内の後進性」を100年も無視、否定し続けてきた体質はそのまま
なんだよね。

248 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 14:22:22
マツラ国のどこの港かで東南の位置が変わる
呼子の港と唐津では大違い
呼子から東南500里ならちょうど糸島半島の前原あたりになる

249 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 14:30:51
>>248

>呼子から東南500里ならちょうど糸島半島の前原あたりになる

ならないよ

250 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 14:31:13
名護屋浦から前原市がちょうど東より若干南の方角になり
魏志がほぼ正確であることが伺える

251 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 14:31:58
三角縁の大きさも遡上否定の理由になるね。
三角縁の大半は21cm以上で大型であるが、これは『抱朴子』の影響が
あることは明らか。

『抱朴子』は9寸(21cm位)以上の鏡には魔除けの効力があるとする。
実際に日本では黒塚古墳のように棺の周りに大型鏡が配置されているのが
確認されている。

この『抱朴子』が書かれたのは317年。当然、日本に来たのはその後、
さらに日本で三角縁が作られたのはその後になる。


252 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 14:44:12
マツラ国のどこの港かで東南の位置が変わる
呼子の港と唐津では大違い
呼子から東南500里ならちょうど糸島半島の前原あたりになる

名護屋浦から前原市がちょうど東より若干南の方角になり
魏志がほぼ正確であることが伺える



253 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 14:48:19
>>252

>呼子から東南500里ならちょうど糸島半島の前原あたりになる

ならない


254 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 15:36:46
>>241
伊都国が末廬の東南に位置しているのなら

「東南至伊都国陸行〇〇里」と書かれます。
東南陸行五百里到伊都国で、伊都が末廬の東南なら
東南至〇〇国の場合、〇〇国は東南では無くなりますね?

255 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 15:57:37
>伊都国が末廬の東南に位置しているのなら

地図見てみたら東南に位置してますがな
東より少し南


256 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 16:10:47
名護屋浦から前原に行こうとしたら唐津方面に東南に歩くだろう
そして行き先の前原辺りも真東より南、これも東南
何の不都合もございませんが?


257 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 16:25:24
>>255
あなたの地図には伊都や末廬が載っているの?

258 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 16:36:48
だから
伊都国が末廬の東南にあれば、

東南至伊都国と書くよ

259 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 16:41:55
東海道本線は、東京から西の神戸に続いているけど
東京都内の東海道本線は、東京駅から多摩川大橋まで、
ほぼ南に延びてる。

260 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 16:44:00
「東南」の問題

古田さんは確かデビュー作の『「邪馬台国」はなかった』で
「道しるべ」みたいなこと言ってた

261 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 17:04:40
又渡一海至末廬國

今までの対馬や壱岐の島とは違い、末廬國の港は長く東西に延びる九州の北岸沿い。この海岸の何処に着岸(上陸)
するかを知らせる記事が
「東南陸行」

末廬國の港は
東南に陸行出来る地、これが東南陸行。
その道を辿ると五百里で末廬國が終わり、先は伊都國領域となる。


それが
東南陸行五百里到伊都國。
つまり、これは末廬國内の記事です。

262 ::2008/11/02(日) 17:42:38
>>189
>倭人伝の行程記事を二人の報告の合成だとするのかな?
二人の報告だけではないでしょうが、三国志はそのようにして書かれたものですよ。

>それは行程記事を壊すことになる。行程記事を壊したり改変したりせず、
逆です。今のところ行程記事を唯一壊したり改変したりせずに読める説だと自負しています。
これが素直に読んだ結果なんですが。



263 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 17:50:38
>>245 >>246 の補充

遡上説では、古墳規格ごとの分類する議論が成り立たないよね。
同じ規格の古墳でも三角縁が出れば古いとして、黒塚を大幅に遡上させて、
3C後半にもってきた。

しかしそうなると、同じ規格の古墳が4C後半〜末葉とされることに合わない。
あれは、纒向型でもバチ形でもない。
全部を3C後半に遡上させれば、それこそ「空白の4世紀」だわな。

土器にしても、椿井大塚山は布留2が出たから、4C後半より古くはならないと
言い続けてきた石野まであっさりと3C後半に持ってきた。
いまさら布留0なんて無理だろうに。

264 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 17:52:51
>>244
>三角縁と同様に国産の可能性の方がはるかに高い。

全く同様ではない。
恣意的なミスリードは止めろw

三角は一面も出ないから元々中国にそのオリジナルが無いのでは?と疑われているのであって
画文において楽浪の物がオリジナルでないと言う断言もできない。


>あっと、これもタブーだったかwww
>言論の自由がないのが畿内説の最大の特徴だな。

被害妄想狂だな。。


265 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 17:54:16
ホケノにしろ、石塚にしろ、土器は箸墓と同じ布留0だよね。

布留0を280年頃まで大幅に遡上させて、さらに年輪とC14でホケノと石塚を
3C前半に遡上ってのは、やりすぎだろ。

少数の古墳だけ孤立して遡上させるというやり方自体がそもそも無理。

年代遡上には問題点が山積みなのに、誰もこのことを問題視しない、できない。
一体何が目的で学者になったのやら・・・

266 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 17:59:40
>>264
日本で出土する画文帯同向式の同型は、

中国では0枚、楽浪郡で(約)1枚、日本で約30枚

この状況で、楽浪で1枚見つかったから中国製という理屈をひねり出すのは、無理。
しかも楽浪のものは年代がはっきりしない。

画文帯同向式の内区は中国で出土している画像鏡のパクリだから、三角縁のように
日本でデザインがまねされたことは、明らか。

267 :264:2008/11/02(日) 18:03:55
>>245
仁徳稜から連続して遡って行く古墳を挙げた上で
1世代どれくらいの年数を与えるのか具体的に書いてもらわんと
結果だけ「300年より前にはならない」などと書かれても読むほうも困る。

テレパシストじゃあるまいしwww

須恵器も同様。

まあその開始を400年頃と言うのは妥当だと思うが…
ちなみに高蔵73型式の共伴木製品が年輪年代で412年と言う数字が出ている。
まあ参考までにだなw




268 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 18:08:51
中国で三角縁が出てるのに話題になったことあった?

269 :264:2008/11/02(日) 18:09:41
>>245
露骨な牽強付会だな。

三角縁の通説での終末期を基準にして自分の決め付けで開始時期を言っているだけ。

そもそもどの様式も同じ長さの期間と言う前提自体根拠無し

新しい時代の物になると様式が連続した物にならずバラけてくる。

後の時代になればなるほどバージョンアップも頻繁で無くなり
ついでに造りもやっつけで粗くなっていると考えれば分かり易い話www

270 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 18:15:03
>>267
昔の学者は、時代ごとに首長(天皇)と家臣の古墳があるとして、朝鮮資料などから年代が
ある程度分かる仁徳稜あたりから、遡って年代を考えてきた。

この思考法でいくと、遡上説のようにホケノや石塚が、「その時代でヤマト唯一の古墳」なんて
不自然なことを考える余地はなかった。
家臣や后の古墳もないなんてあり得ないと普通に考えてきた。
まあ、当たり前のことだろう。

しかし、畿内の後進性が無視できなくなり、年代遡上の必要性に迫られて、纒向の古墳を
数段古く考えるようになったというのが、事実の経過である。

その結果、纒向の狭い領域に長期の歴史を読み込む不自然な説が跋扈しだした。

271 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 18:18:22
>>269
そりゃ、終末期の方は、横穴式石室や馬具や副葬品で年代が分かりやすいから、
基準にするのは当然だわな。


272 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 18:25:27
>>241
>倭人伝の記述では、マツロ国の東南に伊都国があるとしかよめませんよ。
当然ですね。

>津に臨んでとあるのは、伊都国が内陸国であることをあらわしています。
>伊都国が港町なら、わざわざ津に臨んでなどと表現しません。
一大率の居所から伊都国の津まで若干距離があったのでは?






273 :264:2008/11/02(日) 18:28:21
>>246
そもそも古墳の規格なんて言うのは後世の人間が分類上つけたに過ぎない。
北九州の古墳も前方部分がやや長いと分かり「纏向型」の分類から外せなんて話もある。

無論、「造山古墳」と「上石津ミサンザイ古墳」のように地域を越えて同形のものもあるが・・・


それに…

>崇神稜が纒向型

と言うのも2ちゃんのこの板で初めて聞いた分類だなw
(つうか定説なのか?w)

単に大きくした物としたいんだろうが例えば大きくした事により土橋の存在とかが出てくる。
陵の中に入る為一々正面に回ってられないとかも考えられるが濠の底の土の流動を押さえる為
底面を階段状にして高低差を少なくしたと言う事もあるだろう。
(同じ勾配でも全長が長ければそれだけ高低差が大きくなってしまう)

あと周濠の形も前方部の部分が極端に狭い物は
そこに板でも渡して中に入り頻繁に祭祀していた事も想定できる訳で
そうなると古墳の意味その物が違って来る。

まあ仮に古墳時代を200年としてもそれを1世代を20年ぐらいで設定?で割って10規格。
その規格に綺麗に納まった編年ってそんな物あるのか?

無論、前方後円墳以外に円墳、方墳、前方後方墳、双方中円墳、帆立貝式・・・とあるんだがw


274 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 18:32:02
>>262
そうですか? 倭人伝の行程記事が読めずにバラバラにしているとしか
見えませんが。1人が書いた記述として何も不自然はありませんよ。
すっきりと読めます。

275 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 18:33:20
>>263
現在、古墳編年の基本的な指標となってるのは埴輪、とりわけ円筒埴輪だ。
中後期はそれに須恵器編年が加わる。

円筒埴輪の製作技法の変化が古墳編年の基本的なベースになっていて、
それに副葬品や外部構造(墳形・立地)、内部構造(棺槨、石室)を加味する。

あなたのような、鏡だけ、墳形だけ、という編年は、もう過去のものだろう。

あと、黒塚を3C後半というのは、恐らく考古学界の一致した見解ではないだろう。
埴輪が得られていないから黒塚は漠然と前期前半とするしかなく、
だいたい「3世紀後半から4世紀前半の間」とするのが考古学者の一致できる見方だと思う。

276 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 18:35:04
伊都国佐賀大和説の御仁は消え失せたのかな?

くやしいのうwくやしいのうw

277 :264:2008/11/02(日) 18:35:47
>>247
>今の学界では、遡上説を仮説として批判的に検証するという学者らしい
>言動をすること自体が絶対に許されないという空気があるね。

「絶対に許されない」ねえ…

そもそもお前学者なの?ww

学会で「KY」って言われてぶち切れているとか?wwwwwww

278 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 18:38:35
弥生後期初めの土器と貨泉が一緒に出たとこでチェックメイトだろ。

弥生後期の始まりが従来より100年近く古い1世紀半ば
ということは動かせない。

他の状況証拠もそれを補強しているのに、いつまでい

279 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 18:42:16
そもそも学者は実年代についてはかなり慎重だろ。
c14とか年輪の人は別にして、ふつうは土器編年で語っている。
だから邪馬台国の話とかは余りしたがらない。
まともな考古学のシンポジウムに行ってみたら分かるよ。安本以外なら。

ルサンチマンの塊なレスは正直読んでいて見苦しい。

280 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 18:45:10
>>272
伊都国があった前原から海岸の加布里まで3kmほど距離があります。
もし伊都国の役所が三雲遺跡付近にあると、さらに距離が延びます。

281 :264:2008/11/02(日) 18:47:34
>>270
>この思考法でいくと、遡上説のようにホケノや石塚が、「その時代でヤマト唯一の古墳」なんて
>不自然なことを考える余地はなかった。

はあ?

前方後円墳の他に方形周溝墓も何十基とあるんだが?
(「メクリ1号」とか・・・)



282 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 18:51:59
>>278
貨泉は中国の300年前後の墳墓からも大量に出ていますが何か?
貨泉が王蒙の時代に日本に来たなら、奴国の領域から大量に出るだだろうに・・・

日本で出土している貨泉が、100〜300年のものである可能性も十分にある。
というか、貨泉の流通期間の真ん中あたりで150〜200年前後とするところから、
検討を始めるべきじゃあないかな。


283 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 18:52:48
>>280
当時は海進で船越湾から今津湾まで海で繋がってます。

284 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 18:57:36
>>273
古墳規格がなぜ重要な指標か。それが理解できないのかな?

後世に同じ規格の古墳を作ろうとしたら、同じ設計図を流用するか、
大和にでも行って測量しなけりゃならん。

設計図があるなら、古い時代のものよりも、自分と同世代の天皇と似た形の
設計図を選ぶわな。
測量なんて古代に正確にできるはずもないし、大和まで測量に行くはずはない。

要するに、古墳規格の類似性ってのは、埴輪や土器よりもはっきりした指標と
しての意味があるってこと。これが理解できないのかな?

これを無視して、恣意的に土器分類を無理に細分化したり、再編成をしたりという
やり方は見苦しいの一言に尽きる。

285 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:02:16
>>284
>測量なんて古代に正確にできるはずもないし

何と比べて正確といっているのか?

286 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:02:19
>>281
前方後方墳を挙げるならノムギ古墳でも出したらどうかな。
あそこは、古いとされる布留0が出たね。
鰭付円筒埴輪や須恵器と一緒に。

要するに、布留0〜須恵器までの期間なんてそれほど長くないってことだよね。
まあ、正式な報告書では、どうなるか分かったもんじゃないが・・・

287 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:04:51
>>282
>貨泉は中国の300年前後の墳墓からも大量に出ていますが何か?

そんな事実ねえよ。いったいどこの本にそんなこと書いてるんだ?

288 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:05:30
>>275
黒塚なんて、遡上前は4C後半でほぼ一致していたよな。
三角縁を出土したから古くするっていう魂胆が見え透いていてダメだな。


289 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:10:38
ノムギ古墳をググったら泣けた


290 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:14:30
>>289
泣けたと言うのは・・・
例えばこんな↓事かな?w

>ノムギ古墳の周濠は開削から6世紀後半までの間に何度か改変されており
>その間に古墳にかかわる祭祀が行われていたと考えられる

291 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:17:09
>>290
ご名答wwwww
そうそうwwww

292 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:18:35
>>288
だからその古い実年代観が否定されてきてるんだって。
鏡、土器などから考えて。
陰謀論みたいな捉え方は学問的じゃないよw

293 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:21:17
>>284
ミステリーサークルを作ったおっさんに古墳を造らせたら上手に造ると思う。
古墳の設計など知恵を出せば出来るよ。後は人海戦術になるけどな。

294 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:22:43
邪馬台国が畿内だったら、魏志倭人伝には古墳の話が大量に書かれ、
木器はあるが絹や鉄器はないと描写されていただろう。

295 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:24:02
>>287
洛陽の西晋墓から出土した3391枚のうち「五銖」銭は3304枚、貨泉は70枚。
(『貨幣の中国古代史』263頁参照)

五銖銭や貨泉が出たから古いってわけじゃあない。
後世になっても貨泉は流通していたし、墓にも入れられている。

296 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:25:59
>>291
自演がひどくて泣けたwwwwwww

要するに、布留0と埴輪、須恵器は全く違う年代といいたいようだが、
古墳の祭祀が後世まで長く続けられていた例は、多くない。
ここの古墳だけ都合のいい妄想を浸らないようにwww

297 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:26:06
>>294
径百余歩の大塚と書いてあったんではないか?
マキムクに鉄はあるし。ホケノの副葬品知らないのか?

298 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:27:44
>>293
ナスカの地上絵を書いた人とかも上手そうだね
測量なんかしなくてもロープ1本あれば出来る

299 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:28:03
>>288
> >>275
> 黒塚なんて、遡上前は4C後半でほぼ一致していたよな。
> 三角縁を出土したから古くするっていう魂胆が見え透いていてダメだな。

「三角縁が出土したから」・・・・それは、「遡上」の燃料にはならんな。
むしろ4C説を補強するものだね。
黒塚3C説なんてデムパは、批判する必要もないこと。

300 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:29:41
>>288
黒塚の年代が以前は4世紀後半でほぼ一致していた、という事実はないのでは?
調査前に一致していたのは前期古墳ということだけだろう。

で黒塚の発掘の結果、
・割竹形木棺が採用されている
・碧玉製腕職類が見当たらない
・鏡の種類
などから、少なくとも前期後葉(4世紀後半、佐紀古墳群西群などと同時期)となる可能性は
排除できる、と判断したのだと思う。

301 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:30:01
>>279
土器編年も最近はブラックボックスと言わざるを得ないね。

庄内式をどうやって細分化したのかはっきり書くべき。
それが地方で通用するか(しないよね)もはっきり書くべき。
庄内が2〜3に分かれるから年代を長くしたっていう結論だけじゃなくて。

302 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:30:38
>>284
馬鹿馬鹿しい。

お前は1世代=20年ぐらいで1規格って言ってるんだよな?

少なくとも口伝で20年以上同形の物を伝えるなんて普通に出きる事だろうに・・・



303 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:32:50
>>300訂正

碧玉製腕職類 ×
碧玉製腕飾類 〇

失礼。

304 : ◆.L.MXSPOgc :2008/11/02(日) 19:45:41
>>274
バラバラではありませんよ、2つに分けているだけです。
それから書いたのは陳寿一人ですよ?何か勘違いしていませんか?

あと、あなたの「すっきり読んだ」結果、何処にたどり着きました?
方向と距離の片方または両方が勝手な解釈で捻じ曲げられているでしょうが。

305 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:46:36
>>302
>少なくとも口伝で20年以上同形の物を伝えるなんて普通に出きる事だろうに・・・

それをやっていたら、纒向型は数倍の数になっていただろうね。
てゆうか、布留0の古墳を庄内の時期に分類するってのはダメだろ、普通に。

石塚は墳丘の土器は庄内初期で周濠からは布留0が出ていたが、寿陵を前提と
すると、庄内始めに作って、布留0に埋葬祭祀がなされたってことだよね。
とすると庄内ってのは、せいぜい20〜30年くらいだよね。

そもそも、庄内の古墳群なんてものも存在しない。期間が短いから。

306 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:56:58
>>300に追加。
黒塚の竪穴式石槨が、佐紀古墳群でその内部構造が分かっている佐紀陵山古墳のそれより
もっと古式で初源に近い構造(板状石で持ち送り)だったことも、
前期前半とする判断材料になったと思う。

なお、現地説明会での発表:
> 黒塚古墳の年代については、遺物を取りあげていないため、まだ結論は得ていませんが、
>古墳時代前期前半の古墳であり、これまで調査してきた中では中山大塚古墳よりは新しく、
>下池山古墳よりは古いと考えています。
http://www.begin.or.jp/sakura/kurotuka2.htm(一番下)

も、竪穴式石槨構造の形式編年からくる的判断だろうし、妥当と思う。


307 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 20:01:34
>>306訂正

形式編年からくる的判断だろうし ×
形式編年からくる判断だろうし  〇

308 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 20:11:27
>>305
>それをやっていたら、纒向型は数倍の数になっていただろうね。

それは規格を統一していたらの話w

「この時代の古墳はコレコレこう言う規格で
 それ以外の規格は認めんぞ!」

と言う具合になwww

そもそも纏向型からして後円部が綺麗な円形じゃなかったり
前方部と後円部の比率が微妙に違って来たりと
果たして規格なるものに沿った物か疑問だなwwwwww


309 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 20:47:18
貨泉は光武帝が正式に廃止して貨幣としての価値を失っている。
2世紀に広域に流通してたとかは妄想だよ

310 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 20:51:44
>>309
実際に出土しているじゃん。>>295

後世のものは貨幣としてではなく、墓に入れるためのお守りの
ようなものかもしれないが、後世に作られていたのは事実。


311 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 21:05:59
マキムク型っていう定義自体、寺沢の説だし、結構バリエーションに富んでて、
一括りにするのは疑問。


マキムク発の宗教に各地の人々が乗っかったのは確かだろうが、
各地で思い思いに造られた。中央からの規制は無かったと思われる

312 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 21:20:08
>>310
埋葬銭として使用されるのと、流通するのとは大きな差があると思うが。

313 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 21:31:26
>>309-310
流通していても流通していなくても、貨泉は考古学の「実年代論」に重要な働きをする。
それは、前漢以前には貨泉というものがこの世に存在していない、という点。
上限を押さえるという意味で重要なのだ。
二人とも議論がそっぽを向いている気がするが、解っているのか。大丈夫か。w

314 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 21:31:58
そもそも2世紀に貨泉を造っていたとするなら誰が?
後漢は造らないだろうし、私鋳銭だとしても、わざわざなぜ貨泉を造ったのか?
造るなら五銖銭を造ればいい。



315 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 21:42:17
>>313
貨泉は極めて短期間に造られて、短期間流通してたから、
示標として貴重なんだよ。
後世も継続的に造られてたとすれば、話が違ってくる。

316 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 22:04:37
>>289->>292
要するに、土器編年の年代が遡ったために、矛盾が生まれた。
その矛盾をつくろうために妙な仮説が生まれる、ということかな?

317 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 22:21:18
>>304
統一的に記載されている行程記事を二つに分けてはいけません。

>書いたのは陳寿一人ですよ?何か勘違いしていませんか?
あなたは史料を梯儁のものと張政のものとに分けるという考え方だったのでは?

>あなたの「すっきり読んだ」結果、何処にたどり着きました?
>方向と距離の片方または両方が勝手な解釈で捻じ曲げられているでしょうが。
結論を聞きもしないで、ねじ曲げられているはずと決めつけてはいけません。
私はあなたとは違うんです。
末盧国で上陸したら東南陸行五百里。伊都国は佐賀市大和付近。
伊都国からは放射式。投馬国は水行二十日ですから薩摩川内付近。
邪馬台国は水行十日陸行一月で日向、都城盆地付近。
投馬国も邪馬台国も伊都国からみれば南。日数もごまかしなし。方向も距離も
何らねじ曲げたりしていませんよ。



318 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 22:26:10
ひとくくりに九州説といっても
いろんな考えのひと、いろんな比定地があるんだね
2ちゃんで議論がなかなかかみ合わないの、よくわかる

319 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 22:30:47
>末盧国で上陸したら東南陸行五百里。伊都国は佐賀市大和付近。

末盧を東南に行けば前原あたりに着くよ。
前原ではダメで佐賀大和なら良いという理由を教えてくれよ
このままではあんたの願望の垂れ流しだよw


320 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 22:37:25
伊都国は郡の使の往来して常に駐る所なんだよ?
末盧からどうやって佐賀大和まで行くの?
那国無視して背振山脈超えか?


321 :日本@名無史さん :2008/11/02(日) 22:39:29
学者は奴国をどうしても博多湾に持っていきたいから、
方角を無視してまで、そこにこだわる。
奴国はAD57年の時は奴国で博多湾にあっただろうけど、
時代は200年も後。
今と昔は比べられないけど、あえて今と比べれば、江戸時代のこと。
大昔とはいえ戦乱の時代だから国はいつまでも同じではないはず。
奴国が他国を合併してイト国になっても不思議ではない。
学者は頭かたいね。
そうすれば、方角を無視することなく東南500里で博多湾の南の春日あたりに
比定できる。
もちろん上陸した土地は前バルの末盧国。

322 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 22:47:24
>>321
博多湾とか簡単に言うけど博多湾の砂浜が那国なの?
岡本遺跡とか板付遺跡とかどの辺にあるのか知ってるの?
少しは地図見てみなよ、幼児じゃないんだからさ。

323 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 22:48:40
>>319 >>320
末盧国は唐津、唐津から前原は東北、けっして東南ではない。
前原では駄目だというのは、@方角、距離が合わない、A前原ならば船で行けるのだから、
使者が唐津で下船し陸行するはずはない、B前原では南水行はできない、東へ水行するか
西へ水行するかしかない、という理由。
唐津から東南へ陸行すれば、五百里=約40キロで佐賀市大和付近へ着く。
すなわち、有明海沿岸(嘉瀬川で海へ出る)。南水行ができる地点だ。

324 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 22:49:09
>>314
後世なっても貨泉が作られたのは、後漢の時代に五銖銭が粗悪になったり、
魏の時代に銅不足で悪貨が出回って貨幣の信用が落ちたときに、昔の銅貨は
良かった、という復古思想から、貨泉が作られたということが考えられる。

魏の時代は特に銅不足で悪貨が多かったから、貨泉の方が信頼が高いという
ことがあったのかもしれない。

325 : ◆.L.MXSPOgc :2008/11/02(日) 22:52:20
>>317

>あなたは史料を梯儁のものと張政のものとに分けるという考え方だったのでは?
そうですよ。でも書いたのは陳寿一人ですよ。
言ってる意味わかりませんか?遠まわしにあなたは馬鹿だといっているのですよ。

>放射式
どこが捻じ曲げていないのやら、笑わせないでください。
放射式解釈なんてねじまげの最有力候補の1つでしょ。

だいたい佐賀市大和付近に伊都国?
伊都国がそんなとこにあったなんていってるの、あなたくらいですよ。
どうして賛同者が増えないか考えて見られたらいかがでしょうか?

>投馬国は水行二十日ですから薩摩川内付近。
>邪馬台国は水行十日陸行一月で日向、都城盆地付近。
これで距離を捻じ曲げていないなんて、よくいえますね。
水行二十日とか陸行一月とかでそんな短い距離といえる根拠がまったく分かりません。
だいたい、なぜ里程ではなく日程で書かれているのか答えられますか?
魏使が邪馬台国には行ってない、なんて言わないでくださいよ。

これだけ簡単につっこめるあなたの説が、どれほど信憑性をもって他の人に受け取られるのでしょう?
捻じ曲げていない?なにを? っていえるようなひどい説ですよ。

ということで、私の説にちょっと突っ込んでみてください。
バラバラなんて何度も言わないでくださいね。
魏使が2度あったから、ルートも2つと考えられる。とちゃんといってるので。
同一ルートを通ったという決定的ななにかを提示してくれるのでしたら別ですが。

326 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 22:57:51
>>323
唐津?唐津湾の虹ノ松原辺りの事?笑わせる。
末盧国は名護屋や呼子辺り加部島の裏、地形知らずが勘違いしてるよw
自分の知らない田舎の事だからテキトーに考えてない?


327 :日本@名無史さん :2008/11/02(日) 22:58:23
>>322
意味不明。
説明するのも面倒。


328 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 23:07:58
>>327
バカには意味わかんないかな?
海進って知ってる?
今の福岡城辺りが当時の浜辺なんだよ?
つまり居住地域は今の海縁ではなくてもっと内陸ね
遺跡も海から離れてるだろ?その遺跡群と前原の遺跡の位置関係を見ろって事。


329 :日本@名無史さん :2008/11/02(日) 23:11:46
>>328
だから内陸部を比定しているではないですか。

330 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/02(日) 23:16:02
>>325
>だいたい佐賀市大和付近に伊都国?
>伊都国がそんなとこにあったなんていってるの、あなたくらいですよ。
>どうして賛同者が増えないか考えて見られたらいかがでしょうか?

>>317氏のような伊都國佐賀市大和説は他にもいますよ。
伊都國佐賀市大和説を2ちゃんねるに最初に書いたのは僕ですよ。

〜〜〜〜┃◎┃都斯麻國〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
→→→┐┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜經都斯麻國迥在大海中
〜〜〜└→→→→→→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜迥在大海中又東至一支國
〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━┓〜〜
〜〜〜〜一支國┃◎┃↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵┃〜〜
〜〜〜〜〜〜〜┗━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵┃〜〜
〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜〜〜┏━┓〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵┗┓〜
〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓〜〜┏┛∵┗━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓
〜〜〜〜〜〜〜┃唐┃↓〜┏┛∵∵∵∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵∵┗
〜〜〜〜〜〜〜┃津┗↓━┛秦王國∵∵∵∵∵大宰府∵∵∵∵∵∵東至秦王國
〜〜〜〜┏━━┛∵∵◎→◎→┐唐津市浜玉∵◇倭京∵∵∵∵∵∵此地帝都・・・遷京北方
〜〜〜〜┗┓∵∵竹斯國∵∵∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵↓十餘國∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵伊都國◇→→→┐海岸∵∵∵∵∵∵∵∵∵經十餘國達於海岸
〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵佐賀市大和∵∵┏○→→◎邪靡堆(久留米)∵其地勢東高西下都於邪靡堆
〜〜〜〜┏┓┗━┓∵∵∵∵∵∵∵∵┃┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵邪靡堆則魏志所謂邪馬臺
〜〜〜┏┛┗┓〜┃∵∵∵∵┏━━━┛┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜┃∵∵┃〜┗┓∵∵∵┃〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
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331 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 23:16:55
>>321
方向通りに有明海の方に出たら、畿内説は絶対成立しないから。

332 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 23:18:00
>>329
その内陸ってのが佐賀大和なんだろ?
極端なんだよ、当時は背振山地が穏やかな平地か?w
どんなルートでマツラから佐賀大和に行ったのか言ってみろよ


333 :日本@名無史さん :2008/11/02(日) 23:21:26
>>331
アンカー間違えてない?
いつ有明海といいましたか?
私は横から入った人です。
横から、を入れなかったせいですか?
他人のレスをよく読んでから書いたほうがいいですよ。
少し焦りすぎ?w


334 :日本@名無史さん :2008/11/02(日) 23:24:30
>>332
勘違いですよ。よく読んでください。
春日市です。
どうりでおかしな事言ってると思った。

335 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 23:26:07
>>324

[貨泉が作られたということが考えられる。]

確かに原の辻の貨泉なんかは四世紀の舶載遺物と一緒にでるくらいだから、
この遺物はピンポイントでの年代指標には使えないものなのだが、
「考えられる」(ただ自分の頭の中だけの考察)の一言で否定されてもなあw

336 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 23:29:05
>>324
後世出土する貨泉は、王モウの頃に造られ、流通価値を失い、
埋葬用として使用されたと考えるべきだろう。

2世紀に貨泉が広域で使用されたとか、中国の学者では誰も言ってないよ

337 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/02(日) 23:32:42
>>332
穏やかな観音峠標高400mがあるだけで、険しい道ではありませんよ。
国道323のドライブでもいかが?

338 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 23:33:11
>>325
>遠まわしにあなたは馬鹿だといっているのですよ。
あなたの方が知性に欠けた書き方をしていると思われた読者が多いかと思いますが。

>放射式解釈なんてねじまげの最有力候補の1つでしょ。
学会でも有力説とされる一つの考え方。ねじまげと非難するのはどうかと思いますが。

> 佐賀市大和付近に伊都国?伊都国がそんなとこにあったなんていってるの、
>あなたくらいですよ。どうして賛同者が増えないか考えて見られたらいかがでしょうか?
さっそく、反論がありましたね。>>330 有明海沿岸説は何人もいるのですよ。
知らないのはあなただけかな。
賛同者が増えない理由は分かってます。畿内説論者は佐賀市付近とは絶対に言いません。
そんなところから大和へ行くはずはありませんから。北九州説論者もまず言いません。
北九州が窮屈になりすぎるからです。

>水行二十日とか陸行一月とかでそんな短い距離といえる根拠がまったく分かりません。
有明海は干満の差が激しく、進めるのは日に数時間だそうです(まぼろしの邪馬台国に
そんな話が載ってましたね)。
八代付近で上陸、陸行一月は山登りみたいなもの。道はくねってますしね。日数がかか
って当然なんですよ。従来、根拠もなく速い進行を考えていたのが間違いなんですね。







339 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 23:34:25
>>336
広域で使用されていなくても、中国で300年前後の墳墓から出てくるのは
事実だからしょうがない罠。

墓に入れるお守りなのか、復古的な模造品なのかは分からんが、
貨泉=王蒙という脊髄反射が成り立たないことだけは、事実。

340 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 23:41:56
>>337
行った事無いだろ?
高さは400mだろうがアップダウン凄いんだよ、山舐めてるよね君
それに佐賀大和に辿り着くまでずっと峻厳な山地、傾斜角45度の密林
郡の使の往来して常に駐る所、ありえないね
草木茂盛して行くに前人を見ずがマツラ半島、背振山地はそれ以上だね。


341 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 23:46:43
三角、画文までにとどまらず、貨泉まで復古的に造ったとか、本当に苦しいな。
貨幣不足で貨泉が使用され続けたとか言うならまだしも
幣稀代の叛臣・王モウの貨幣を後世造る意味なんてないよ。ましてや公式に流通が否定されてる訳だし。

342 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 23:53:17
>>325
>だいたい、なぜ里程ではなく日程で書かれているのか答えられますか?
簡単なことですよ。小刻みに進む日数が多くなり、距離が良く分からなかった
からに決まってます。山道はくねってますしね。何時間歩いたから何里といっ
た計算はむずかしいわけです。

343 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 23:57:49
九州王朝説は傾聴に値すると思ってたんだが
松浦半島を勝手に唐津でひとくくりにしたり
七山〜観音〜北山越えをドライブとか甘い事言ったり
九州王朝説もダメだこりゃ


344 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/02(日) 23:58:33
>>340
観音峠が急峻だって?
日本の峠は全部急峻だと言うのかい?
君は背振山地以外の山を知らないようだね。

345 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 00:05:05
>>344
峻厳です、さらに七山から佐賀大和までずっと分厚い密林。

日本の峠?すり替えはやめなさい。


346 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/03(月) 00:12:30
>>343
>七山〜観音〜北山越えをドライブとか甘い事言ったり

君もこれを急峻な峠というのかい?
九州で急峻な峠道を僕は知らない。

若い頃には長野県の山歩きをよくしたものだ。
友人は今でも登っているが、僕は病めた。

347 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 00:14:52
↑根性なし

348 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 00:16:33
唐津→相知→多久→小城→大和というルートでもいいのでは?

349 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 00:21:32
>>346
邪馬台国時代に観音峠あったのか?w

夏はスズメバチ、薮蚊、虻、当時は日本狼もいたろう
冬は凍結、標高400mのアップダウンは縛れるぞw
いいから山経験者なら一度歩いて登ってみろって
佐賀大和まで50キロはあると思うぜw


350 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 00:22:40
長白山に登る能力がないって奴がいるなあ。
後で韓国行ったら教えてあげよう。

351 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/03(月) 00:24:26
>>348
昔それも考えました。
でも500里をはるかに超えるのです。
『東南陸行五百里到伊都國』が直線距離で500里と読めると成立するのですが。

352 :日本@名無史さん :2008/11/03(月) 00:27:37
横からですが
末盧国が松浦半島だと名前だけで判断しないで、
他にも港はありますから。
末盧国はもっと広い範囲にあると考えられませんか?
前原市がその東端にあると。
糸島半島は昔は島だったということです。
だから前原に津があったとみていいと思います。
それに末盧国だけ官の名、副官の名がありません。
推測するに末盧国の端っこだったからだと思います。
そうすれば地政学的にも有利な福岡平野に伊都国を比定できます。
でそこから南へ水行できるんです。
大宰府の近くの阿志岐というところで、宝満川にのって南へ。
阿志岐は昔万葉の歌によく読まれたところみたいです。
田園地帯の平野を流れる緩やかな川です。






353 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/11/03(月) 00:33:42
そろそろ気づきなさいよ

「東南陸行五百里到伊都國」って、末盧の領域
末盧の港から五百里が末盧の領域

伊都国なんて何処にも出てこない現実を

354 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 00:34:49
>>351
>500里をはるかに超えるのです。
唐津港上陸で五百里は約40キロ。ちょうどだと思いますが。
上陸地点か里の長さについて、別の考え方ですか?

355 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 00:36:38
299 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 00:15:36
>>298
残念ながら、日本の古代史の研究は
日本よりも中国のほうが圧倒的に進んでいる。
日本の場合、日本国内の抵抗勢力が強すぎて厳しいわけで。
一方、中国は何の抵抗も無く調査している。

中国の考古学者の話だと、邪馬台国は九州の話で
九州南部の狗奴国と争っていたという考え。
大和国が覇権を握ったのは、西暦300年ごろと書いてあった。
大和国は当然、畿内。
神武天皇は卑弥呼よりも前の時代の人で
九州にあった王朝(狗奴国か?)の派遣軍で畿内へいったという考え。




356 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 00:47:51
で?港ってどこの港?
壱岐から南に下れば最短距離、加部島にぶつかりその裏に呼子と名護屋浦があるんですが?
名護屋浦から東南の位置に前原の有田地区(平原遺跡群)がありなにもおかしなところはありません

勘違いしてる人がいるけど伊都国(平原遺跡)は今の筑前前原駅じゃないよ
そのずっと南ね

357 :日本@名無史さん :2008/11/03(月) 00:54:53
>>355
>日本の場合、日本国内の抵抗勢力が強すぎて厳しいわけで。
日本ってほんとにアホだね。
大人になりきれてないっていうか。
ウソの日本史を教えられたって何も嬉しくない。
私は日本人だけど、そういう日本が大嫌い。


358 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 00:56:37
少なくとも王仲殊は畿内説だったが。
その上、三角は日本に渡来した中国の工人が造ったと断じた。

それくらい当時の国産と舶載の技術レベルが違っていたということ。

359 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 00:58:49
抵抗勢力とか、陰謀史観はやめようや。
もう少し理性的な議論に期待。

360 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 01:02:26
抵抗勢力=畿内説
ノーマル勢力=>>355






馬鹿勢力=九州王朝の佐賀大和


361 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 01:03:07
「ユダヤ人じゃないのにユダヤ人だと言い・・・」 -聖書より-

「日本人じゃないのに日本人だといい・・・」

超賎人ってほんとにアホだね。
大人になりきれてないっていうか
ウソのキリスト教を教えられたって何も嬉しくない。
私は超賎人だけど、そういう超賎人が大嫌い

362 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 01:14:37
>>358
三角縁神獣鏡は日本製、と言い切ったわけだから、三角縁神獣鏡を根拠に
邪馬台国畿内説は成り立たないと言うべきだった。
それを、畿内説を否定するわけではない、みたいな言い方をするから
あれっと思った。

363 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 01:29:32
日本製というか、中国の技術で造られたのは間違いない、ていうこと。
中国の鏡の専門家から見て。

景初四年があるから、日本産としたにすぎない。

364 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 01:30:34
>王仲殊

年代はなんて言ってるの?

365 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 01:36:33
王仲殊は、日本書紀の立場を、生暖かく見守っているだけでしょ。
畿内説なんか嘘っぱちだと判っちゃいるけど、
日本の橿原系馬鹿連中をバッサリ否定しちゃったら、
日本側が総崩れだから遠慮してるわけ。

366 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 01:45:51
>>365
王は、生粋の学者ではあるが、畿内説を否定すると日本に読んでくれた
恩人のメンツをつぶすということは理解していた。
それで畿内説を否定しないという発言はしたが、積極的にこの点は関与しなかった。

彼は、三角縁は中国で1枚も出ないから日本製と当たり前のことを言った。
彼は、画文帯同向式は、中国にはないデザインが20枚以上(当時)あるから、
日本製であろうと、これまた当たり前のことを言った。

彼にしてみれば、当たり障りのないことを発表したに過ぎない。
文化大革命を経験した彼からは、自由なはずの日本でこの体たらくというのは、
理解に苦しむことだったろう。

367 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 01:47:46
そんなに悔しいのか

王仲殊が畿内説でw

368 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 01:50:19
王氏は大人だなあと感心してるだけ。
幼稚な畿内説とすごい対比だ。

369 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 01:50:56
鏡の学者にとって、畿内説か九州説はどうでも良かったてことでは。

橿考研に気を遣ってとかアホ過ぎ。

370 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 01:59:52
橿考研に気を使ってと言うおまえらの願望の感想文はどうでもいいよ

無価値だからw


利害関係のない王仲殊は畿内説で、九州信者はそれが悔しいとw

371 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 02:02:05
新唐書のとおり、日中間で虚偽の申し合わせをしたからね。

372 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/03(月) 02:02:29
>>354
上陸地点は唐津市の中原遺跡から現競艇場のあたり。鏡山の西南側麓です。(現松浦川右岸・湾若しくは汽水湖)
もしくは、虹の松原砂州と鏡山に挟まれた湾(汽水湖)の浜玉町横田下付近鏡山の東北麓。
1短里はやや短めの70m位と見ています。

>>360
>馬鹿勢力=九州王朝の佐賀大和

この板では九州王朝が佐賀大和と比定した人は見かけたことがありません。
ちなみに九州王朝の都は、617年までは久留米、618年から697年までは大宰府です。

373 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 02:03:32
具体的に、邪馬台国九州説の中国の考古学者って誰なの?


374 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 02:04:13
>>366
>文化大革命を経験した彼からは、自由なはずの日本でこの体たらくというのは、
>理解に苦しむことだったろう。

 テ レ パ シ ス ト 現 わ る (笑)


キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━!!!!!


375 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 02:05:17
隋のハイセイセイが邪馬台国=大和国と認めてるからな

376 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 02:07:49
375ほど、漢文の読めない奴もめずらしい

377 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 02:09:44
>>373
本音として畿内説の中国人など、一人もいないから、具体的には挙げようがない。

378 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 02:15:11
中国の考古学者が全員邪馬台国九州説って初めて聞いたよ。


379 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 02:20:10
>>366
>彼は、三角縁は中国で1枚も出ないから日本製と当たり前のことを言った。

まあ、そうなんだが肝心の魏の時代の墓として発掘された物が
一基ぐらいしかないんだよねえ・・・


「確実、魏の時代の鏡が数多く発掘されていてその中に三角が無い」

…と

「そもそも魏の時代の鏡が自体が殆ど発掘されていていない」

では話が随分違う。


380 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 02:26:42
王が畿内説ってことは、
三角やら画文を、中国の系譜に繋がる3世紀の鏡と認めたってこと。

後世、復古的に造られたとか言われたら別だけどな。

381 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 02:31:40
魏→西晋は禅譲だから、379の断定は誤り。
王が畿内説を肯定したのではなくて、日中間でのトラブルを避けただけ。
王の内心では畿内説など噴飯もの。

382 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 02:36:40
確か、呉の工人が日本に渡ってきて作ったものと言ったはず。
神獣鏡というのは、呉の系統の鏡だろう。
画文帯も同じ。

呉が滅んだのは西暦280年。なんか関係あるのかな。
逃げて、日本にやってきた人はいるのだろうが。

383 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 02:39:33
つうか中国の考古学者にとって邪馬台国論争ってそんなに関心事なのか?wwwww

384 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 02:40:12
>>372
あなたの場合一から十まで全て希望的観測
それも定説を覆せずに自説を垂れ流してるだけ
それが学問と言えるのかね?

北海道はアラスカです、こんな狂言レベルなんだよ。


385 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 02:44:43
三角が呉の工人ていうのが王の説だが、
別に呉滅亡まで製作年代を遅らせる必要はない。

むしろ、呉滅亡まで待つなら、魏の紀年鏡なんて造らない。
ましてや、景初四年が存在しないことも判っている筈

386 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 02:54:11

まあ MADE IN JAPAN であっても亡命呉人によるものなら三世紀。

画文は三角に先行するので畿内説は磐石なわけだがwwwww

387 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 05:57:39
庄内期に属するホケノ山から三角は出ない。
なので畿内説的には、三角は4世紀の方が問題が少ない。
逆に3世紀だとしたら、配布から埋納までの期間の説明がたいへん。


388 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 07:15:53

>>338
有明海は干満の差が激しく、進めるのは日に数時間だそうです(まぼろしの邪馬台国に
そんな話が載ってましたね)。

でも、普通に考えたら、郡使は「安全」で「便利」な土地を「常所駐」としたと
と想像される。当然に交易商人も来ていたかもしれない。

389 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 07:51:56
>>375
裴清が訪ねたのは南九州の倭国王朝。大和を認めたことは全くない。

390 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 07:59:55
>>388
>普通に考えたら、郡使は「安全」で「便利」な土地を「常所駐」としたと
>と想像される。
倭人伝は「拝仮倭王」と書いています。普通に考えたら郡使は邪馬台国を訪ねた
となります。「常所駐」は郡使がそこに常駐した(邪馬台国へ行かなかった)と
いう意味ではありません。

391 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 08:14:51
しかし、結局、邪馬台国は永久に特定されないんじゃないのか?
魏志倭人伝は矛盾だらけだし、有力証拠も発見されていないし、
邪馬台国と書いた看板(石碑)でも見つからない限り無理。
いや、文字がなかった時代にそんなものあるわけがないとさらに
偽造説が出たり、しょうもないことになる。
金印に、「卑弥呼さん江」とか書いてもらえばよかったんだよ。

392 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 08:34:27
>>391
>魏志倭人伝は矛盾だらけだし、
倭人伝にはほとんど矛盾はありません。各人がまちがった読み方をして、辻褄
が合わなくなると矛盾だと非難しているだけです。
>>317をご覧ください。

393 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 08:41:25
>>325
>佐賀市大和付近に伊都国?伊都国がそんなとこにあったなんていってるの、あなたくらいですよ。
ネットで探したら、伊都国を有明海沿岸に比定する説がすぐにみつかりましたよ。
http://www.geocities.jp/niginiginomiko/page1.htm
http://www7.ocn.ne.jp/~sui-yama/

394 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 08:47:37
>>356
>名護屋浦から東南の位置に前原の有田地区(平原遺跡群)があり
どう見ても、東南ではなく東だろ?

395 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 09:15:26
最近やけに厨房が増えたようなキガス

396 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 09:24:19
>>387みたいのは典型的なアフォ

397 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 09:25:13
「むつごろうの会」が、必死で有明海沿岸に舞台を
移そうとしているからな。

398 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 09:58:21

>>1

結局のところ、3世紀の半ばには、九州にはしょぼくても邪馬台国連合が存在し、
そして、畿内には大和大王家が、そして、各地域(出雲、吉備、尾張など)にも
大王家がそれぞれ支配していた。

しかし3世紀末には九州の邪馬台国連合も衰退し、畿内の大王家に恭順吸収
されていったのではないでしょうか。



399 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 10:32:36
九州は抗争ばかりで安心して暮らせない。
これが神武が東遷を決意した理由でしょう。
それはまさに先見の明があったといえましょう。

400 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 11:03:10
北部九州説の人間は魏志倭人伝を読んだことがあるのだろうか。
不弥国、もしくは伊都国から水行十日陸行一月かかるのが邪馬台国なのに、
陸行数日しか掛からないようなところに邪馬台国をおいている。

401 :日本@名無史さん :2008/11/03(月) 11:13:45
倭人が刺青して文身をするのは、
古くルーツをたずねると、東南アジア。
(引用)蛇、鮫、ウツボらを水界の主として畏排、
その害をさけるために文身を施した。
それでのちにインドシナ〜華南の集団が稲作を始める。(引用終わり)
この華南に住んでいた人々が日本の倭人のルーツではないだろうか。
後に戦乱で分離して北は日本にたどり着き繁栄した。
南はチベット方面に。
だから日本人はチベット人にそっくり。
ユーラシア大陸からこの倭人種はいなくなったそうですが、
今でも東南アジアの島々には末裔が暮らしていることでしょう。


402 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 11:15:43
>>400
読んでも理解できないのでしょう。その結果、韓国内陸行とか、珍訳、こじつけを
繰り返すわけです。恥ずかしいことですね。

403 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 11:21:28
>>400
奴国が女王国の中心地、伊都国が女王国の王都。
帯方郡庁から水行二十日で投馬國(狗邪韓国)、そこから水行十日陸行一日で邪馬台国(女王之所都、伊都国、奴国)。
帯方郡庁より女王国(女王国の中心地奴国)に至るには一万二千余里。


404 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 11:24:27
>>400
典型的な読めないお馬鹿さんですね。

405 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 11:25:55
>>401
>(引用)蛇、鮫、ウツボらを水界の主として畏排、

畏れて排除しようとしたのか、それとも敬拝の誤りか・・悩む。w


406 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 11:27:48
>>403
帯方郡に戻るなよ!

407 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 11:31:42
半島内陸行や投馬国を狗邪韓国だなんて話しの他。
脳内破壊おこしているとしか
思えない。

408 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 11:32:46
面土国の範囲
西…佐賀県大和
南…熊本県山門
東…大分県山戸
北…福岡県馬田

と妄想している。

409 :日本@名無史さん :2008/11/03(月) 11:37:26
>>405
敬拝のほうでしょうね。
排除したら祟られると思い敬拝しながらも同時に恐れ、
文身を施して害を避けたのでしょう。

410 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 11:43:58
>>409
いえ、単に言葉を知らなかっただけです。

411 :日本@名無史さん :2008/11/03(月) 11:44:21
倭奴国王の金印の紐通し部分が
蛇の形だって、皆さん知ってました?
漢は倭人が蛇を畏敬していたこと知っていたんでしょうか。

412 :日本@名無史さん :2008/11/03(月) 11:47:25
>>410
あ、スミマセン。
排と拝を間違えました。今気付きました。

413 : ◆.L.MXSPOgc :2008/11/03(月) 11:48:18
>>338
>学会でも有力説とされる一つの考え方
学会ってどこの学会だよw 邪馬台国学会でもあるとか妄想してるの?www
放射説は有力説どころかほとんどの人に見放された説。到と至の字が違うってだけのことにしがみついて、
三国志全体をみても使い分けられている例を1つも見つけられないにもかかわらず、
勝手に出発地点を自分の好きなように変えてあそんでいるだけ。説得力皆無の説。

>有明海沿岸説
まー私も半分そうだから変なことはいえないのだけど、伊都国が有明海沿岸というなら、
伊都国=前原、奴国=博多、(と末盧国=唐津)の3点セットと私が以前呼んだこれらを
覆すくらいの有力な裏づけが必要なのですよ。でも有明海沿岸には伊都国や奴国が
そこにあったらしき痕跡が何一つないといってよい状況でしょ?
賛同者が増えないのは畿内説云々ではなくて、上記が根本的な理由でしょ、違いますか?

>有明海は干満の差が激しく、進めるのは日に数時間だそうです
九州北部まで船で来た魏使がそこから陸行し、さらにまた水行する。という非合理的な話を頭から信じている
ようですが、わざわざまた水行に変えたところが日に数時間しか進めないようなとことか、笑われますよ。
せめてまともに進めるところまで陸行してそこから水行に変えなかったのか?といわれて答えられないでしょ。
だいたい水行20日なら九州北部から西回りでも東回りでも九州内のどこでもいけます。わざわざ途中で
陸行する必要性がまったくないです。

>342
別人かもしれませんが、ついで。
中国人は、倭人は距離を(長さの単位をもたないため)日程(時間の単位)を用いる、と書いてあるのは、
裏返せば、自分たち中国人は距離を時間の単位で言ったりしない、といっているのですよ。
だから山道だろうが計算が難しかろうが日程で距離をいうようなことはしないはずです。
#ちゃんと調べてないから三国志に距離を日程で記述している箇所があるのかもしれない、私は知らないですが。


ところで、私の説への突っ込みはまったく無しですか?
他人のくだらない説のつっこみって飽きてきているので、ぜひ私の説の検証をおねがいします。

414 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 11:59:45
>>413
ツッコミどころ多過ぎて、何からツッコんでいいか分からなくなる。w

415 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 12:32:20
というか何で末盧国が唐津なわけ?不便な唐津の理由は?
末盧国は漁撈民で総戸数4000戸
海進で平地のが狭い唐津で4000戸が農業を営んでたと勘違いしてない?

416 : ◆.L.MXSPOgc :2008/11/03(月) 12:32:38
>>414
全部つっこんでみろ、できるならね。
ただし感情的なつっこみとか、そういうのはもうやめてね。

417 : ◆.L.MXSPOgc :2008/11/03(月) 12:37:35
>>415
唐津が不便? そう言いきる理由のほうが知りたいな。
以下2行はその説明のつもりかもしれんが、まったく説明になってないぞ。

それに末盧国が唐津でないとしたらどこ?
前原か? 伊万里か? 名護屋浦ではなさそうだが。

418 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 12:40:29
>>416
>全部つっこんでみろ、できるならね。

だから多すぎてwww

419 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 12:43:07
>>417
末盧国は松浦半島だろ、船泊は名護屋浦かその周辺。

420 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 12:47:04
>>417
あんた自ら末盧が唐津って言ってるんだろ
でその理由は?

421 : ◆.L.MXSPOgc :2008/11/03(月) 12:48:26
>>400
北部九州説ではないが(広くは入るのかな?)

>不弥国、もしくは伊都国から水行十日陸行一月かかるのが邪馬台国なのに、
これに対しては前も書いたけど、なぜ里程ではなく日程で書かれているのか?ということがまず問題。
日程でかかれていることをちゃんと説明できている説はほとんどない。
(邪馬台国に行ってない説はやめてね。)

魏志倭人伝を「読んだ」とは、読んだだけで理解できていないレベルのことか?

422 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 12:50:05
>>416
>放射説は有力説どころかほとんどの人に見放された説

見放された説ではない。
はじめから誰も見向きもしなかったから、見放されてなんかいない。

>到と至の字が違うってだけのことにしがみついて、
三国志全体をみても使い分けられている例を1つも見つけられないにもかかわらず

至と到は別な文字だから、最初から意識的に使い分けられることもない



423 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 12:51:02
>>421
末盧の時点で勘違いしてる君にその先を言う資格は無いなw


424 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 12:54:09
文字を使い分けるという行為は日本人の行為
漢字が母国文字の民は、使い分けるという意識すらもない
音も違うし意味も違う

425 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 12:56:42
末盧国は日本の交易の表玄関、交通の要所。
朝鮮半島はもちろん、遠く西安やベルシャからの行商人も来ていたし、
人種のるつぼであり、利権をめぐって抗争の火薬庫でもあった。

426 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 12:59:11
>>425
ネタなんだろうけどこの程度の認識なんだよなー


427 :日本@名無史さん :2008/11/03(月) 13:14:00
横から

到・・・トウ  dao ゆきつく

至・・・シ  zhi  およぶ

428 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 13:18:48
こんなたわいのない間違った認識を持つ>>416には
ツッコミが入らない。

ツッコミどころが多過ぎ以前に、ツッコむ価値すらもない。

429 : ◆.L.MXSPOgc :2008/11/03(月) 13:34:19
>>419,420
名護屋浦では一大国からの千余里が、狗邪韓国・対馬国などとの千余里と整合性がとれないほど
距離が違いすぎる。また途中で船を泊めて陸行したなどとは書かれていない。

遺跡の発掘状況や地の形状などから考えて末盧が唐津と判断している。
消去法的には、私は伊都国=前原と考えているので、前原は除外。位置的に伊万里も除外。
名護屋浦は上記の理由で除外。

逆に唐津よりも末盧国と考えられる状況にある土地を言ってみてよ。理由とともに。


430 : ◆.L.MXSPOgc :2008/11/03(月) 13:43:55
>>422
レスありがとう。
フォローしてくれているのか、揚げ足とられて笑われているのか分からないけどw

>至と到は別な文字だから、最初から意識的に使い分けられることもない
そのまま解釈すると「別の文字なのだから別の意味で使われている」といってるように読めますが、
三国志を読むかぎりでは、そのような別の意味を見出せないのが現状なのではないでしょうか?

>427
もうすこし詳しく♪

#到については狗邪韓国も忘れないでw


431 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 13:55:26
>>429
整合性が取れないのは君のの個人的推量だろ
唐津では整合性がとれて名護屋浦では整合性が取れないほど差は無い

唐津よりも末盧国と考えられる土地は 松 浦 半 島 と何度も言ってるだろ。
唐津の遺跡の発掘ってどこだよ?>遺跡では大まか過ぎてよくわからん○○遺跡と示して。



432 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 13:57:31
到は目的地で、至は経由地っていうのは俗説。
むしろ、到のりっとうのほうに注目すべし。
りっとうは要するに刀。
武力をもった王が住んでいた都に到るのです。

433 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 14:06:30
>>432
思い付きで書くな。

434 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 14:12:50
思い付きではないです。長年論争になっている。

435 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 14:13:57
なってないよ

436 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 14:27:32
死んだ婆ちゃんの妹の嫁ぎ先(大分の宇佐)の土地が
邪馬台国卑弥呼の墓?といわれている。
盗掘されているけど。畑掘ったら勾玉が出てきていたらしい。

ちなみに「デカチン」で有名な道鏡に関わる
宇佐八幡宮神託倒置事件の土地です。

437 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 14:33:27
地図上に定規で測ってハイ唐津が末盧国ですって思考が浅いんだよ
定規で測った後、必死で該当する遺跡をパソコンで検索してるんだろ?
畿内説のマキムク連中と行動が同じと言いたい。
もっと深く末盧国考えないと歴史を舐めてるとしか思えないね。

438 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 15:35:47
>>432
リットウは刀って、意味わかってつかってるの?

リットウが刀だったら、リットウは刀の文字が無ければ有り得なくなるし、リットウの付く文字が刀の文字よりも
後に誕生した証拠等何処にもない。
文字から判断出来る事は、「到」は「至」が有るからこそ存在出来るもので、至では表現しきれない付属の部分を
リットウが補っている。

439 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 15:42:37
>>438それで?
    邪馬台国の位置との関係は?

440 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 15:46:59
>>439

知らんがな。

441 :日本@名無史さん :2008/11/03(月) 15:49:23
>>437
>地図上に定規で測ってハイ唐津が末盧国ですって思考が浅いんだよ
松浦半島という名前の先入観からですよ、たぶん。
唐津湾じゃなくても、例えば博多湾や平戸あたりだって
キロ数を測ることはします。
それで各自が思い思いの里値に当てはめて
考えていくんでしょ。初歩の初歩です。
少なくとも指で測ったりしていますよね?
指のかわりに定規を使っているだけの話ですよ。
批判する対象にはなりません。
何のための万二千里なんですか。
感だけがたよりなら、万二千里の記載なんかいらないですよ。






442 : ◆.L.MXSPOgc :2008/11/03(月) 16:00:34
>>431
>名護屋浦では整合性が取れないほど差は無い
ある。名護屋浦では「又渡一海千餘里至末盧國」という記述にならない。
まず千餘里ではなくなる。次に陸行して末盧國についななら、そのような記述になる。
まったくお話にならないレベルのお粗末な意見。
それを「差は無い」といいきる君の頭の悪さもどうしようもないのではないか?

それから松浦半島ってどこだよ。東松浦半島のことか?
これも広くとれば唐津から伊万里まで含まれそうだが。
これでも範囲が広すぎて話しにならないが、さらに松浦市のほうまで含めたところを指してるのか?

だいたい、唐津には桜馬場遺跡などもあるが、君のいう松浦半島には
卑弥呼の時代に栄えていた何らかの形跡はあるのか?

どうせ伊都国=前原として南東500里を逆算して名護屋浦とか言ってる程度とかでしょ。
南東でも500里でも、一大国から千余里でもないというのに。

>473
>地図上に定規で測って
それはあなたでしょうwww
どうせまともな説など出せないでしょうが。


末盧国=唐津なんて定説に近いのだから、違うというならそれなりのもっともらしい理由つけてよ。
小学生がだだこねてるんじゃないんだから。

#こんなのが私の説に対する唯一の質問かい?

443 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 16:04:09
1万2千里とは帰路に直すと4万8千キロ。
地球一周しても赤道付近で4万キロしかないのに・・・w


444 :日本@名無史さん :2008/11/03(月) 16:06:54
>>442
あなたは方角が間違ってます。

445 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 16:11:50
>万二千里の記載なんかいらないですよ

じゃあ長里でも短里でもいいからさ正確に定規で測っていけば?
そこが海の上だろうがアフリカだろうが君の心のヤマタイ国なんだからさ
ただそれを人に公表すればバカ扱いされる、それだけだよ。
先に結論(佐賀大和=伊都国)ありきで定規片手に自分の固定観念を通そうと
解釈を捻じ曲げあるいは無視。関西説マキムクそのものではないか?
それから先ほど遺跡の発掘状況とか言ってたよね、どの遺跡なの?


446 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 16:14:42
>>442
>だいたい、唐津には桜馬場遺跡などもあるが、君のいう松浦半島には
卑弥呼の時代に栄えていた何らかの形跡はあるのか?

今までにたまたま出てきた遺跡を大上段に振りかぶってもな〜
遺跡を語るなら、全て掘り尽くしてから語りなさいよ
これからだって、全国各地でどのような遺跡が飛び出すかなんて想像も出来ないんだから
遺跡を根拠に語るのはヨシナサイ

447 :日本@名無史さん :2008/11/03(月) 16:14:55
>>445
あなたは感だけをたよりに比定していればいいですよ。
絶対地図などみてはだめですよ。


448 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 16:17:06
邪馬台国メキシコ説がにわかに真実味を帯びてきましたね。
邪馬台国は扶桑国のあったのかもしれません。

449 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 16:21:21
>>442
現在定説化している伊都や奴に比べたら、この末盧国=唐津が最もモロイ説であることも
確かなんだよね
有明海側に抜けたい連中にしてみたら
絶対に死守したい説であることも確かなんだが

450 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 16:24:23
>◆.L.MXSPOgc

ごちゃごちゃ書いてるけど「頭が悪い」とかの文言に必死さが伺える
おまえみたいのがだんだん中傷に走るんだよなw
今必死か?



451 :日本@名無史さん :2008/11/03(月) 16:29:31
>>445
447だけど、
あなたね。みんなほとんど名無しで投稿している
のだから、みんな別人だというくらいの構えで読まなくちゃだめですよ。
お話にならないレベル。

452 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 16:31:13
ある場所でこれこれこういう遺跡が出てきた、これは何だろうと
関連しそうな文献を見てみると
文献にこの遺跡に関連しそうな記述がみえる。

これが現在の末盧国=唐津な

これって一番やってはいけない事


文献から末盧国=唐津を特定して
唐津を徹底的に発掘調査してみたら、文献に記載してあることが次々に
土の中から現れた。
だから末盧国=唐津が主流となり定説化された。

これが文献の根拠に遺跡を活用する正しい考え方な

453 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 16:36:25
>>447
砂浜の唐津湾は釣れない、カレイ・キス位か?とても4000戸(2万?)の人間を養えるほど漁獲があるとは思えない
漁法も潜水漁だし
リアス式海岸の呼子周辺は潮流も早く魚影が濃い
アワビ・サザエ・イカ・黒鯛・カサゴ・メバル・メジナ等磯物が豊富



454 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 16:41:30
末盧国=唐津か?否か?範囲は?
当時唐津に津はあったのか?
あればそこに軍使の往来があったのか?
なければどこの港に船は来てたのか?

455 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 16:44:09
>>453
>リアス式海岸の呼子周辺は潮流も早く魚影が濃い

呼子周辺でなくても、呼子より西の地域は大体同じような条件ですから
呼子周辺と限定するのはやめましょう。

456 :日本@名無史さん :2008/11/03(月) 16:57:18
>>453
私は唐津湾派ではないですから。
ただ距離を測ることは必須だよ、といったまで。
呼子じゃ、壱岐から呼子までと
呼子から前原までの距離がほとんど同じになりますよ。
あなたは伊都国は何処に比定?前原ですよね。
倭人伝の里数を無視ですか。
さすが。


457 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:21:00
>>456
千葉県から東京都までどの位距離ある?

458 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:27:00
>>457
距離0(隣接)から無限数(東回り)まで、様々なバリエーションが想定出来る。

459 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:33:20
邪馬台国の場所を知られないために、わざわざ遠回りした可能性もあるね。
雲助運転手(いつの時代だ?)に遠回りされて大金むしり取られたってこともある。
帯刀郡の使者はどれほどのものかということだ。

460 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:37:01
馬韓

461 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:39:16

>>1

女王国を宇佐(大分)から日向(宮崎)にかけての九州東南部の沿岸地一帯と
比定したい。畿内説は論外として、北部九州に比定できない根拠として

■計其道里當在會稽東冶之東
郡よりの方向、距離から推測すると、女王国の位置は会稽・東冶(台湾・奄美
大島の西対岸)の真東にあたると認識されるほど相当に倭国の南と理解されて
いた。

■倭地温暖冬夏食生菜皆
倭の地は温暖で、一年中生野菜を食べていると記載されている。意外と北部
九州も雪が多く、冬も寒いが、その点では宮崎は温暖の地です。

■使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚
女王国より北の国々には監察吏員を特別において諸国の皆が畏怖していた。
よって、女王国が北部九州ではありえない。

■女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有朱儒國
女王国の東に海を渡ること千里(対馬から壱岐と同程度の距離)にまた国があっ
て、全て倭人が住んでいると記載されており、四国(伊予)が倭種として比定され
るが北部九州では比定地がとれない。

462 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:40:52
>>459
知られたく無ければ朝貢するなよ。w

463 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:41:35
東南陸行五百里到伊都國

船はマツラの北岸、唐津湾を東に見れば遠く加也山の美景を望む
遥か東に見える美山加也山の南に伊都の国はあるという


464 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:55:45
>>379
ちょっと不正確じゃないかな。
魏の時代の墓碑のある墳墓の発掘が少ないのはそのとおりなんだが、
魏の時代と推定される墳墓は結構ある。

さらに魏〜晋の時代と範囲を広げると墳墓の発掘は多い。
もともと魏は薄葬令が出ていて遺物が入れられた墳墓は少ないと推測されている
ので、魏〜晋の墳墓といえはほとんどは晋ではあろう。

その晋の時代の墳墓から出土する鏡(位至三公鏡、獣帯鏡、画像鏡など)は、日本では
ほとんどが古墳から出土する。

岡村なんかは、魏晋時代の鏡の検討を一切せずに、魏晋時代の鏡を「漢式」と分類する。
あれは酷すぎるね。

465 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 18:03:51
>>461
>■計其道里當在會稽東冶之東
それこそ認識の問題です。
例えば北海道よりイギリス本土は高緯度ですが暖流のせいで北海道のほうが北と感じます。
>■倭地温暖冬夏食生菜皆
北部九州説といっても筑後川を中心に穀倉地帯であったと考えてます
それに領域として伊都を初め那国も含まれます
この穀倉地帯を南のクナ国と争っていたのでしょう
九州最大の穀倉地帯筑後川流域と隔絶された宮崎ではむしろ九州の覇権に不利
>■使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚
博多北岸と有明海沿岸の広大な平野では距離があります。それが一大卒を置くに十分の理由
>■女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有朱儒國
宮崎の東は四国ではなく太平洋、宇佐は北部九州邪馬台国に含まれます

466 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 18:03:51
>>461
>■計其道里當在會稽東冶之東
それこそ認識の問題です。
例えば北海道よりイギリス本土は高緯度ですが暖流のせいで北海道のほうが北と感じます。
>■倭地温暖冬夏食生菜皆
北部九州説といっても筑後川を中心に穀倉地帯であったと考えてます
それに領域として伊都を初め那国も含まれます
この穀倉地帯を南のクナ国と争っていたのでしょう
九州最大の穀倉地帯筑後川流域と隔絶された宮崎ではむしろ九州の覇権に不利
>■使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚
博多北岸と有明海沿岸の広大な平野では距離があります。それが一大卒を置くに十分の理由
>■女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有朱儒國
宮崎の東は四国ではなく太平洋、宇佐は北部九州邪馬台国に含まれます

467 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 18:23:44
壱岐から松浦、次に前原そして博多から東の宇美
ここまでは倭人伝の正確さと古代から変わらぬ人の営みの写実性に感動すら覚える。
客観的資料を超えて文学の香りさえ漂わせる紀行文、いや一編の詩。

468 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 18:28:16
>>465
水行二十日、水行十日陸行一月はどう考える立場?

469 :379:2008/11/03(月) 18:52:35
>>464

それも不正確と言うか、結論を誤った方向に導きかねないw

恐らく魏と晋の銅鏡が殆ど同じ物であろうと言う前提だと思うが
(まあ、魏 自体が短命でもあるし)

問題は魏の時代には銅鏡の製作を呉地に委ねなければならない状況だったと言う事。

魏年号の神獣鏡を明帝太和元年(227)まで使用していて
呉形式から転換するのは青龍3年(235)から (森岡秀人 三世紀の鏡-ツクシとヤマト-)

銅鏡の生産組織が立ち直っていた晋と戦乱で壊滅状態にあった魏では
鏡の様式が随分違った物であっても不思議でもなんでも無い。

上記の事は例の鉛同位体のお話にも関係して
比較サンプルに戦乱の三国前の漢鏡のデータを持ってきても意味が無いと思うのだが?w

その辺クリアできているのかなあ?wwwwwwwwwwwwwww

470 :379:2008/11/03(月) 18:56:53
しかし例の「邪馬台国の怪」
呉の銅・鏡は呉の滅亡後で無いと日本に来ないみたいな事を書いているが
アレっていいんか?wwwwwwww

471 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 19:17:59
>>468
北部九州と確定的立場を取った場合それらは枝葉
AからBが確定、どこからか不明で距離も出てないCは確定されたBに破綻が無いように解釈する。
Cの解釈以前にBは確定されています。Cの解釈が上手くいかないのならばその解釈が間違っています。



472 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 19:40:14
最近のレス、比定地争いがきついな
正直、読んでてあまり面白くない (ーー)

473 : ◆.L.MXSPOgc :2008/11/03(月) 19:41:40
>>444
私の説の、どこの方角が間違えていますか?

>>446
まったく何の根拠も痕跡もないところをして、ここが俺様の末盧国だ、ですか?
そんな説でなぜ満足できるのか不思議です。

それから、全部を掘り尽くさなくても語ることができるのが考古学です。
立派な学問ですからできるのです。小説とかと違うところです。
まともな高等教育を受けていないのか、受けたが身についていないのか、科学的な思考とか、そういうものの欠如している感じがああああとか書くから変なのもわくのか・・

>449
>伊都や奴に比べたら、この末盧国=唐津が最もモロイ説
その3つの順序を比べるのにどれほどの意味が?
比べるべきは末盧国=唐津と他の末盧国の候補でしょう。

>450
中傷にはしってるのではなく、くだらない話に付き合わされることへの行く先の無い鬱憤というか、そんなものが噴出してしまうんですよ。
0.3秒でつっこみ入れられるヘボい他人の説の話とか、ほとんど考えてないかのような説の書き込みとか、とか。

>452
書いてることは正しいと思うけど、実際何がでてきたらそこが末盧国になるんだい?
文献に記載してあることって具体的には何?
官の名前やら、国名のはいった何かとか?
ひとつ分かるのは、今はまだ出てきていないってことだね。
だったら今分かる範囲で考えるのが普通なのじゃないかい?
唐津は昔から栄えてきたことをうかがわせる遺跡がみつかっているのに、それを無視するのはどうかと思うのですが。


474 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 19:43:03
連休中は厨房が沢山参加するから
自ずとレベルは低下する。

475 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 19:51:32
>文献に記載してあることって具体的には何?

山海居草木茂盛行不見前人好魚鰒水無深浅皆没取之



476 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 20:05:07
>>474どおりでレベルが上がっていると思った。
    頭のいかれた卑弥呼オタだけの時より
    視野の広い貴重な意見が多かったですね。

477 : ◆.L.MXSPOgc :2008/11/03(月) 20:08:53
>>467
>壱岐から松浦、次に前原そして博多から東の宇美
ここは確かに素敵な部分だけど、従来の解釈では方角が45度から90度ずれていませんか?

>>472
さーせん

>475
だから、何が発掘されたらそこが末盧国だってことになるの?
そこに書かれているものは、北九州湾岸沿いならどこでも当てはまってしまう事だろうし、
そもそも発掘される何かが期待できるものは書いてないように思えるのだけど。

478 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 20:18:32
>>477
ちなみに聞くけど
海進の時期の唐津に4000戸(2万人?)がひしめいて居を構え
唐津湾の砂浜でアワビ取ってたの?不合理だとは思わない?
君は九十九里浜でアワビ取ってくる?











ヒント・・・・アワビは磯にいるよね

479 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 20:21:02
>>466

>■計其道里當在會稽東冶之東
>それこそ認識の問題です。
>例えば北海道よりイギリス本土は高緯度ですが暖流のせいで北海道のほうが北と感じます。
・首都洛陽から會稽東冶の距離と帯方郡との距離はほぼ同じ。首都洛陽は北部九州と同緯度
・郡から南に12000里と明記されている以上認識違いはありえません。

>■倭地温暖冬夏食生菜皆
>北部九州説といっても筑後川を中心に穀倉地帯であったと考えてます
>それに領域として伊都を初め那国も含まれます
>この穀倉地帯を南のクナ国と争っていたのでしょう
>九州最大の穀倉地帯筑後川流域と隔絶された宮崎ではむしろ九州の覇権に不利
・この内容は穀倉地帯云々ではなくて温暖の地であるか否かの記載です。

>■使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚
>博多北岸と有明海沿岸の広大な平野では距離があります。
>それが一大卒を置くに十分の理由
・「自女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」とあるように、女王国の傍の国は遠絶で詳細はわからないと記載。有明沿岸の傍ら国も絶縁なの??

>■女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有朱儒國
>宮崎の東は四国ではなく太平洋、宇佐は北部九州邪馬台国に含まれます
・貴公の説では、邪馬台国は有明海から宇佐まで?? 現在の地名でいうと、「小城」-「神崎」-「小郡」-「大宰府」- 「飯塚」-「みやこ」-「行橋」-「中津」-「宇佐」くらいですか。


480 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 20:27:16
縄文の海進は聞いたことがあるが、古墳時代の海進は聞いたことがない。

481 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 20:46:54
>郡から南に12000里と明記されている以上認識違いはありえません
緯度が無かった当時現地の気候で推測するしかないのではないか
さらに暖流寒流の要素が加わり九州島と内陸の要素も加わる、ユーラシア内陸の冬は寒いぞ
認識間違いありませんって言い切ってるけど世界地図見た未来人しか緯度はわからない。
そんなに正確に緯度求めるなら自説が近いじゃなくて素直に会稽の東に正確に邪馬台国探せって事だな。
>この内容は穀倉地帯云々ではなくて温暖の地であるか否かの記載です。
では聞くが宮崎と久留米方面それほど気温が違うのか?
ほぼ確定的な末盧国で海に潜って魚鰒取ってる、真冬以外それほど寒くないって事だ
>「自女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」とあるように
女王国の傍の国は遠絶で詳細はわからないと記載。有明沿岸の傍ら国も絶縁なの??
軍使のいる所(伊都)から異国人の軍使にはそれらの国は詳しく解らないということ
>貴公の説では、邪馬台国は有明海から宇佐まで?? 現在の地名でいうと
「小城」-「神崎」-「小郡」-「大宰府」- 「飯塚」-「みやこ」-「行橋」-「中津」-「宇佐」くらいですか
推戴された連合なんだから山を隔てた内陸の飯塚あたりはなんとなく微妙かも
海で繋がる宇佐はガチ

482 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/03(月) 20:54:27
>>480
弥生後期(AD1〜2世紀頃)にわずかですが海進があったのはご存知ですか?
古墳時代に海水位に変化があったとすれば海退です。

483 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 20:55:32
>>481
>緯度が無かった当時現地の気候で推測するしかないのではないか

既に漢の時代、緯度の認識は存在しました。
だから以降の考えは無効です。

484 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 20:56:02
九州の今日の気温
http://www.weather-service.co.jp/Public/cts0004/weather/amedas/amtwidko.html

福岡県福岡 20時18.1 3日最高気温20.8 3日最低気温17.1
宮崎県宮崎 20時18.3 3日最高気温19.6 3日最低気温15.2

ちなみに今日はほとんど差が無い
宮崎が南国で年中暑いなんて間違ったイメージなんだよ

485 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 21:01:04
>>482
海進で糸島半島の平野地域が水没して糸島になったと主張する人がいるが。

486 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 21:05:49
>>481
緯度の認識って結局人間の感覚
測量でもしないかぎり当地の緯度なんでわかりません
軍使が会稽から羅針盤と星座を頼りに真東に向かってそこに何があるか調べたならわかるが?
グズグズ言わないで会稽の東に邪馬台国探してみたらいい
近いとかダメだよ、正確に一度でも緯度が違ったら無効なw


487 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 21:15:48
>>485平野地域は江戸時代まで元々海没した地域ですよ。

488 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 21:33:28
>>469
>問題は魏の時代には銅鏡の製作を呉地に委ねなければならない状況だったと言う事。

委ねたという事実は確認できない。
まず、呉鏡(画像鏡)は魏での出土はわずか。
呉は独自の年号を使う前は魏の年号を借用していたが、それをもってして魏のために作った
という暴論は成り立つ余地すら全くない。

魏では、銅が不足して鉄鏡も作っていた。
貨幣の鋳造も間に合わなかった。
その状況で、わざわざ大型の銅鏡を作ってもらう理屈が成り立つわけもない。
大型銅鏡をくれるなら、普通に銅を輸入して貨幣経済の建て直しをする。
魏は日本と違い鏡を崇拝する国ではない。

要するに、呉鏡が日本に来るようになったのは呉の滅亡後、かなり時間が経過してからだろう。
300年以前には来ていないと考えるのが穏当である。

489 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 21:35:00
>>484
秋の季節で比べてどうするの。
夏の平均気温では 大阪>沖縄 なんだから。
冬で比べないとダメじゃないの?

>>481
>異国人の軍使にはそれらの国は詳しく解らないということ
〜あらまぁ〜

>内陸の飯塚あたりはなんとなく微妙かも 海で繋がる宇佐はガチ
〜あらまぁ〜






490 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 21:45:10
>>489
なんで冬で比べないといけないの?

491 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 21:53:41
>>489
宮崎では冬に海水浴するの?

492 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 21:59:28

>>490
なんで冬で比べないといけないの?

そもそも、温暖云々の元は

>>461
■倭地温暖冬夏食生菜皆
倭の地は温暖で、一年中生野菜を食べていると記載されている。意外と北部
九州も雪が多く、冬も寒いが、その点では宮崎は温暖の地です。

から続いてきた問答なので・・・

493 :日本@名無史さん :2008/11/03(月) 22:02:06
>>487
ですよね。
天然の良港があったとみていいと思う。
前原辺り。

494 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 22:06:24
>>492
福岡と宮崎では年平均気温で1℃位しか変わらないよ
というかそのくらい自分で調べたら?
こちらで調べてもどうせ春の平均気温じゃないといけないとか揚げ足取るだけでしょw
キリが無いじゃん


495 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 22:30:00
>>413
>学会ってどこの学会だよw
あっ、学界の間違いね。

>放射説は有力説どころかほとんどの人に見放された説。
あなたが知らないだけね。井上が賛同したことは有名。奥野、久保田、それに
大和説の山尾も放射説。

>到と至の字が違うってだけのことにしがみついて、
放射説をまったく理解してませんね。大きな問題は語順。最近、安田が「郡使往来常所駐」
を根拠として出していますね。

>伊都国=前原、奴国=博多、(と末盧国=唐津)の3点セットと私が以前呼んだこれ
>らを覆すくらいの有力な裏づけが必要なのですよ。
玄界灘からは南水行ができないということは決定的ですよ。
それに何で末盧国から陸行五百里なのか。伊都国が前原ならば、船で伊都国へこれるは
ず、末盧国で上陸したのは前原ではないからです。

>九州北部まで船で来た魏使がそこから陸行し、さらにまた水行する。という非合理的
>な話を頭から信じているようですが、
倭人伝にそう書いてありますからね。あなたはそうは読まないのかな?




496 : ◆.L.MXSPOgc :2008/11/03(月) 22:30:02
>>478
>唐津に4000戸(2万人?)がひしめいて居を構え
おなじことを松浦半島(謎)なら大丈夫なの?
範囲がひろいからひしめかなくてすむとか?w

魚鰒を単にアワビと読むのか。まぁいいが。
あなたの主張は、末盧国だけアワビをとり、しかもアワビしかとらなかった、というものですねw

目黒のサンマを笑って、東京湾ではサンマは取れないと結論づけるようなものでしょ。

ヒント・・・想像力の欠如

497 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 22:37:37
>>488
元々貨幣その他に使われる銅と
薄葬で需要も少なかったであろう銅鏡の量を同列に考えているのがおかしい。
そう、「魏は日本と違い鏡を崇拝する国ではない」のだからw

その銅鏡とてタダで徴用できたわけでもあるまいし、極端な事例を挙げる詭弁の手法。

そもそも魏の鏡として間違い無いと言う物が幾らあるのかな?
魏の墓として発掘された例は一基としか知らないが…


呉から日本へ流れを阻害する物が無いのに
呉の滅亡以後でないと不可能と決め付けるのは全く根拠が無い。
先ず初めに「東遷説」ありきで導き出した単なる決め付け。

はっきり言えば「邪馬台国の○」ぐらいだろう?そんな事を言っているのはwwww

498 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 22:39:52
>>452
現状はその中間だね。
文献学上から場所を特定しようとするが、それだけではやはり限界があるので
考古学的資料もあわせて検討する。

499 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 22:53:00
>>424
> 文字を使い分けるという行為は日本人の行為
> 漢字が母国文字の民は、使い分けるという意識すらもない
> 音も違うし意味も違う

ヴァカかw
意味が違うから使い分けるんだろうが!
それは日本人でも中国人でも一緒だべさ。
マァ、「文字を使い分ける」と言う単純な日本語も満足に使いこなせない奴に言ってもムダかもしれんが。

500 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 22:53:33
>>496
>魚鰒を単にアワビと読むのか
「あわび」と打ち込んで変換押して、アワビは鰒だよ?
君大丈夫?

>しかもアワビしかとらなかった
どこにレスしてある?コレ君が勝手に妄想したんじゃないの?幻覚見たの?


501 :タカリュウ:2008/11/03(月) 22:56:24
はじめまして。
私は高木彬光さんの説をほぼ信じているのですが、その前に皆様に質問です。
その@
至ると到るの違いはどの様に解釈してますか?。
どのくらい意味があるのでしょうか。
至るは途中で到るは目的地なので、使節団は最終目的地まで着いていない、という説はどのくらい説得力がありますか。
そのA
使節団は卑弥呼に会えたのでしょうか?。
魏志倭人伝って、卑弥呼以降の歴史が詳し過ぎると思いません?。卑弥呼が死んで国が乱れて治まらなかったので、新たな女王を立てたらやっと沈静化した。
って、卑弥呼に会った者がそこまで出張報告書を書き上げるのを遅らすか?。
井沢説の卑弥呼⇒卑弥と呼ばれていた⇒卑弥呼=ひめ(卑弥呼を中国人が読むとペメハになる)、と呼ばれていた、というのは過去形?
どうでしょう?


502 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 23:53:04
>>499
>ヴァカかw
意味が違うから使い分けるんだろうが!
それは日本人でも中国人でも一緒だべさ。
マァ、「文字を使い分ける」と言う単純な日本語も満足に使いこなせない奴に言ってもムダかもしれんが。


愚かな知識をお持ちのようでお気の毒さまです。
初めから意味も音も違うものを使い分けるようなことはありません。というか使い分けするようなテーブルにも乗りませんから
使い分けようとしても使い分け出来ないのです。
話の中で飛行機の部品と野菜を使い分けすることがありますか?
使い分けする以前に、意識の中にも上って来ません。使い分けされるには意識の中に上ってこなければ絶対に使い分けされることはないのです。

貴方には少しムズイ内容で話してしまいましたが

503 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 23:54:27
>>501
>至るは途中で到るは目的地なので、使節団は最終目的地まで着いていない、
>という説はどのくらい説得力がありますか。
説得力はないでしょう。漢和辞典をみる限り、どちらも同じような意味です。
ただ、到は韓国の終わりである狗邪韓国と連続式の終わりの伊都国とに使用
されています。異なる文字を使用することで、そこが、行程記事において、
一区切りすべき所だということを示したのだと思いますね。

>卑弥呼に会った者がそこまで出張報告書を書き上げるのを遅らすか?
2度目に倭国を訪ねた張政は、卑弥呼の死後、倭国内の紛争が一段落してから
帰国したと考えられます。そこの見聞を書いているために詳しくなっているの
だと思いますが。

504 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 00:08:43
>>501
「至と到」の違いですが、「到」の文字の中には既に「至」の文字が含まれ
構成されているということです。
しかも「リ至」ではなく「至リ」で「到」という文字が構成されていることを
追記させていただきます。



505 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 00:09:21
>>502

Pu!語が理解できるヤツなんて本人以外にはいないなwww

506 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 00:15:23
>>501

>私は高木彬光さんの説をほぼ信じているのですが

信じるには貴方の自由ですから、それを否定することはいたしません。
ただ学問として見た場合は、価値のない作品です。推理小説として眺めるくらいにされてはいかがでしょうか?
あの本で一つだけ価値を見出すなら、初版本をほぼ完品で所有しているかという事ぐらいでしょうか

507 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 00:39:19
>>505
「漢字を使い分ける」行為と、「至と到を使い分ける」行為の区別ぐらいはしてください。

508 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 00:52:05
>>503
「至」と「到」の違いで押えておくべきことは、
「至」は、空間的な端点以外にも「至成人」「至4月」等々時間的端点や
「四乃至六」のように数列のような概念上の端点にも使用される。
共通することは起点に対するもう一つの端点(終点・着点)を示す文字だと言うこと。

和語に訓下す場合、「至る」のように動詞的に扱われることが多いが、
現実的には何らかの行為を表現するというよりも、
次に続く文字の状態を示す、指示詞的なものだと言えます。
主題から見て「静止」的イメージが有り、実際の移動で無く、
単に二点間の距離を述べるだけの場合にも使えます。

「從郡至倭」なら「從」が起点「郡」の、「至」が終点「倭」のそれぞれの状態を示しています。
「又渡一海、千餘里至末盧國」の場合なら「千餘里」と言う路程の終点が末盧國ということ。
一支と末盧の間は千餘里だとでも訳しましょうか・・・
一方「到」は動的、文章の主題自身が移動してある点に到達すると行為自体を示します。


509 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 00:55:20
>>507

> 「漢字を使い分ける」行為と、「至と到を使い分ける」行為の区別ぐらいはしてください。

ハァ?
ホントに難儀な脳みそだな・・・・
そんなことはキミにしか出来ないw

510 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 01:03:48
>>509
狭い認識でしか物事を判断出来ないようですね

511 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 01:08:18
>>510
> >>509
> 狭い認識でしか物事を判断出来ないようですね

違う。
狭いのはキミの方。
キミの認識が狭すぎるのだ。
それはキミだけにしか理解できない、キミだけが世間だ、という超マイクロな狭さだ。
あー、そうか!
きっと「狭い」ってことばの意味も世間とは違うのねw

512 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 01:28:14
魏に朝貢した邪馬台国は、北九州。邪馬台国が畿内にあったとすると、
魏志倭人伝の記述と考古資料に矛盾をきたす。北九州に優位性がある。

邪馬台国と敵対していた狗奴国は、南九州か、畿内(=纏向)勢力。
邪馬台国が畿内にあったとすると、魏志倭人伝に
纏向勢力の古墳のことが描かれていないのは不自然。
卑弥呼が死んだときに埋葬されたのは円墳で、規模も小さい。

513 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 01:34:12
卑弥呼は、北九州邪馬台国の女王であり、
畿内勢力の膨張により危機を感じ、魏に助けを求める形で朝貢。
卑弥呼のころは、北九州は没落の一途をたどっていた。

最終的には、畿内勢力に邪馬台国は滅ぼされたか、
あるいは卑弥呼の一族が南九州に逃れたかと考える。
(後者だとすれば、天孫降臨のモデルにもなり得る)

一部九州説論者の語る東征などありえないのは
考古学的にありえないことは自明。

514 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 01:34:31
アナルアナール

515 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 01:36:49
↑少し日本語が変だった。ごめん



516 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 01:45:13
崇神とは、九州邪馬台国を圧迫していた畿内の巨大勢力の、早い時期のリーダーであり、
「四道将軍」に象徴される、勢力の拡張事業を大々的にはじめている。
(古来、「崇」のつく天皇には特別な意味があり、崇神も例外ではない。後述する)
「四道将軍」の事業を発展させたのが、ヤマトタケルの伝承であり、この伝説が
畿内勢力の支配圏が、日本全国的な規模に広がっていく過程を示しているのである。

しかし、それは邪馬台国ではない。

517 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 01:46:31
崇神王朝(=畿内勢力)は、景行天皇が最盛期であったと思われる。

景行とは、いよいよ畿内勢力が九州に進出する時代のリーダーである。

話は飛ぶが、神武は虚構であると考える。理由のひとつとして、
景行が九州に渡るときにあたり、自身の先祖である神武の東征の出発点、
ひいては天孫降臨の地という重要な地方であるにもかかわらず、
感慨深げになったり、九州の地に敬意を表したりするという
当然あるべきはずのことが、「全く何も記されていない」ことが挙げられる。

景行天皇は、神武東征のことを、そして天孫降臨さえも「知らなかった」のである。

518 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 01:48:37
景行の九州遠征時、九州のかなり零落した勢力が平らげられていくが、
そのリーダーとして、女性が描かれているシーンがある。
九州地方において、女性がリーダーとして君臨していたという、
卑弥呼なる女性をリーダーとする九州邪馬台国が存在するための
必要条件たりうる記事で、非常に興味深い。

仲哀とは、崇神王朝=畿内王権の最後の王であるに相違ない。
そして、仲哀とその子たる 応神 の間に血縁関係が存在しないことが
暗示されている書き方がなされているのは、至極有名な話である。

「崇神〜景行〜仲哀」の系譜とは、畿内王権の歴史の記述に他ならず、
応神以降の天皇家とは「関係の無い」一族である可能性がきわめて高い。

そして九州邪馬台国。これは、景行天皇の九州遠征の時点で、
滅ぼされたか、あるいは畿内勢力に吸収されたかということで間違いない。

では、邪馬台国の話はそれで終わるのか?

519 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 01:49:52
応神は、もともと畿内王権の兵馬の権をつかさどっていた将軍クラスの人間か、
クーデター的な策略をもって、九州から畿内に逆に攻め上ったと考えられる。
応神は、九州で滅んだ、しかし由緒正しい邪馬台国の後裔を自称したか、または
リーダーであった女性指導者かその後裔の女性を探し出し、祭り上げたかした可能性が強い。
後者だと考えると、神功皇后とは、その過程で神格化された女性と考えられるのである。


崇神の称号における「崇」なる文字とは、「崇峻」「崇徳」など、
怨霊化する・タタリをなす と恐れられるような天皇におくられる文字である。
崇神の晩年・最期においては、そのような記事は見当たらないが、
崇神〜景行〜仲哀王朝を一体のものとして考えると、意味が通じる。

応神が、畿内王朝自体を乗っ取った形である。名だたる歴代のリーダーたちが
こぞって怨霊化するような、恐ろしく陰惨な謀略を仕掛けたのではないか。
だからこそ、その初代リーダーに「崇」、それでは足らないので
始祖を意味する「神」の称号を与え、怨霊を封印したのだ。

長くなったのでここで終わるが、次のような等式を提示して終わりにしたい。
「邪馬台国」=「高天原」、「崇神王朝」=「畿内王朝」=「出雲」、「崇神天皇」=「スサノオ」

オオクニヌシとは、出雲大社という霊魂の牢獄に封印された神であるが、
それはまぎれもない、応神によって封印された、畿内王朝そのものの神格化である。

520 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 01:53:09
最後に。

神武天皇とは、崇神天皇よりも古い始祖の存在を
必要としたために創作されたと想像する。

神武東遷はおそらく、応神天皇が、畿内乗っ取りを成功させたときのことを、
「東征」などという華々しい、しかし考古学的にありえないものに美化した記事であり、
明らかに神武東遷は応神東遷の焼き直し+時代遡及バージョンだと考える。

521 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 05:17:03
すげー!マニアックすぎで難しくて全くわからないが、かこいいよ

522 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 07:09:01
でも、小説染みている。

523 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 07:22:11
>>520
関デンパ君キタな。

524 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 08:10:08
>>523
関にすら否定されている東遷説って…

525 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/04(火) 09:34:35
>>493
糸島水道と呼べるような水路状の海があり、
そこに砂が堆積して陸化しています。
残念ながら天然の良港であった時期はありません。
それらは地名が示しています。 「波多江」「周船寺」

前原市中心部あたりだけが島影に湊があった時期があったことを否定するものではありません。
このあたりで天然の良港とよばれるものがあったのは筑前深江です。

526 : ◆.L.MXSPOgc :2008/11/04(火) 10:01:29
>>495
放射説の方の名を幾人か上げられていますが、それらの邪馬台国比定地は同じでしょうか?
放射説は行程をいじる自由度があがるため、多くの(説得力のない)説で使われているのは知っています。
しかし放射説は、よく似た感じの1文字の違いをいろいろ勘ぐってようやく出てくるようなもので、
そのような分かりずらい記述を陳寿がしたとは考えられません。
放射説が支持できない(されない)根本的な原因はこの分かりずらさなのです。もし放射説ような行程なら
基点を明確に書かれているはずだと考えられるからです。

ただ、いわれる最近の安田氏の根拠などは知らないですので、ご教授いただけたら幸いです。
関連urlでもよいです。

あと私説のurlは以下です。反論などは私の説を読んで理解してからお願いします。
http://yamat-2007.blogspot.com/

>500
だから、目黒でサンマが取れないから、江戸ではサンマは取れなかった、と主張してるのと同じでしょ?
だいたい唐津が砂浜だからとかいうけど、当時の唐津周辺が砂浜だけだったという根拠は?
#この方も小学生程度な思考の人だと感じるのだが・・本当に小学生ならごめんね。

>501
1、至と到に違いはありません。少なくとも三国志という書物のなかでは違いがないといわれています。
2、卑弥呼は他人に会わないと魏使がかいているので直接はあっていないでしょう。しかし同じ敷地内で側近などの第3者を介して話などはしたと思います。
3、「名曰卑彌呼」なので、呼ぶという解釈は中国語てきにどうなのでしょう、無理な感じがしますが・・
張政は20年後くらいに台与(壱与)に送られたと書かれていることになっていて、詳しいのはその為といわれていますが、
20年くらいも居たわりには逆に情報がすくなすぎるため、3回目の使いがあったのだろうと私は考えています。

527 : ◆.L.MXSPOgc :2008/11/04(火) 10:02:45
休み終わったのでレス遅れます。最長1週間くらいはw

528 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 10:22:52
>>527

いらねえよ!

529 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/04(火) 10:38:49
>>493
追加
前原市近辺で湊として条件がそろっているのは「津和崎」です。
しかし津和崎は半島側なので湊としての価値は高くありません。
地名から判断できるのは、津和崎と前原市中心部の間にある「新田」です。
この地が水田となったのは江戸時代ですから、陸化したのは中世以降と推定されます。
新田の東側の「泊」と「浦志」は少なくとも弥生期には入江であったと推察されます。
それは泊の東に志登支石墓群があるからです。この支石墓群は弥生早期から中期のものとされているからです。
この地は縄文晩期の海水位低下の時に島と九州本土を繋ぐ陸橋になったと推定されます。
しかし弥生後期の温暖期に海水面が上昇しているので、海水冠水地帯もしくは海岸の低湿地帯となり墓地として不適地になります。

530 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 10:46:51
はじめまして。

又南黒齒國、裸國、去倭四千餘里、船行可一年至。
又西南萬里有海人、身黒眼白、裸而醜。

どんどん南に行ったらパプアニューギニアみたいなところに着いたようです。
阿蘇山もあるというし、卑弥呼の国ってやっぱり九州だったんじゃないでしょうか。

531 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 12:39:20
>>511
『狭義は広義を知るが故に覗ける世界。
広義を見る者、未だ狭義を覗けず。』


これは
あの有名な河童虫先生が言った台詞だ。

(^O^)/

532 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 12:44:51
狭義じゃなくて狂気だろ。
そんなもの、誰も覗きたくないよw

533 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 12:48:31
河童虫=プラム、美濃もん太、改めドツボの発言は、馬鹿が伝染るから放置

534 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 13:18:15
東海の扶桑の陽が昇る大木(箒木)のある地に住んでたのが東王父仙人

ちなみにこれ、邪馬壹國やら卑弥呼より以前の日本の事だよ


535 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 13:23:12
モンタキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!

536 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 13:31:23
別に邪馬壹國が九州だろうと畿内だろうとどっちでも良いけど、別に邪馬壹國が日本や大和の発祥じゃないんすよ

そもそも大陸では
邪馬壹國→ヤマタイコク
卑弥呼→ヒミコ
なんて発音の仕方もしないよ



邪馬壹國と書いて「ヤマタイコク」とは読まないし、卑弥呼と書いて「卑弥呼」とは読まないし

537 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 14:00:55
スワとかモノノベとか読むの?

538 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 14:30:12
>>537
大陸に置いて漢字は表意文字でしかなく、一字には漢字の意味とは関係ない一発音しかない
ローマ字に例えると解りやすいかな?
ローマ字の呼び方は
A→エー
B→ビー
って一字一音で決まっる(これが日本の漢字で言う訓読み)
例えば「dog」って書いたら日本では「ドッグ(犬)」って読むのに対して
中国大陸では「dog」を「ディー・オー・ジー」って読むんだよ

漢字は発音を表す文字じゃなく意味を表す文字でしかないよ


もし日本が大陸と同じ漢字の使い方しか出来なかったら

「お父さん、お母さん、ありがとう」
ってのが「父母謝謝」って書いて、
この文の発音も「フゥ・ボゥ・シェイ・シェイ」って何の意味の無い発音になるよ

539 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 14:50:30
>>524
考古学的に見て、筑紫勢力の東征を3世紀後半に持ってくる
根拠が無いんだよなあ…

540 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 18:24:14
九州にはアダムスキー型古墳しかない。

541 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 19:13:01
>>497
呉の画像鏡がリアルタイムで日本に来たとする証拠はないですね。
画文帯は、ほとんど全部が古墳から出土し、古墳時代の開始直前頃に日本での
流通が始まっています。

対して、中国では300年前後の墳墓からの出土の多い位至三公鏡は、九州では
弥生時代の遺跡(岩屋遺跡)から出土する。
岩屋遺跡を中国とパラレルに300年頃にすると、年代遡上は成り立たない。

位至三公(縦ステッカータイプ)の始まりが中国でどこまで遡るかといえば、確実に遡るのは
晋まで、後漢はもとより魏の時代にさえ確実に遡るとはいえない。
あれは後漢の双頭竜文鏡をもとに後の時代に作られたもの。

画文帯はこの位至三公鏡より後に日本での流通が始まっています。
これでは、画文帯が魏の時代に日本に来たとは言えないでしょう。
画文帯は350年頃から日本で製造が始まる三角縁の直前期の鏡であることから、
330〜340年頃に日本に来たと考えるのが穏当でしょう。

542 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 19:54:51
>>541

…で、話が横道に逸れているが、そもそもこの話は

 「三角は中国で一枚も出ていない」

…と言う紋切り型の台詞に対して

 「そもそも魏代と確定できるの鏡が殆ど出ていないだろう」

…と言う疑問を呈したのが始まり。

よって同じ質問を繰り返させてもらう。

>そもそも魏の鏡として間違い無いと言う物が幾らあるのかな?
>魏の墓として発掘された例は一基としか知らないが…

先にも言ったがこれは例の鉛同位体にも関る話w

魏代の鏡がどんな物か確定していない状況で
 
 「三角舶載説を批判する事はタブー」

だの何だの恨み節言うのは病気だよそりゃw…って話でwwwwwwwwwwww


543 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 20:10:54
銅鏡の考察については、福永伸哉の説が穏当であると思うが。

特に>>541の説というか安本の説は、魏の年代の紀年鏡全てを、
後の時代に造られたもの、という大前提がある。
果たしてそうなのか?ってのが率直な意見で。

鏡の編年の中で、紀年鏡ってのは実年代との摺り合わせの材料として
充分に活用出来るんじゃないかと。
紀年鏡が全て後世に作られたという言説は極端過ぎやしないかと。

544 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 20:55:47
紀年鏡全てを後世の作とするのは
「景初」だの「正始」であれば中国の文献や記紀にも出てくる
日本にとって由緒のある年号だが …

「青龍」「赤烏」については説明がつかないと言う欠点がある。
(まあこれも散々ループしている話だけどw)

「位至三公」についてはそもそも流通期間が良く分からない。
例えば「御廟山古墳」の陪塚と見られている「カトンボ山古墳」でも出ているが

http://www.city.sakai.osaka.jp/kofun/database/katonboyama.html

>>541の説だと300年頃から100年以上は流通している事になる。
無論新しい時代のものは伝世の可能性の可能性も考えなければならないが

そもそも「岩屋遺跡」の年代が良く分からない。
因みに下記では古墳時代にも分類されているw

http://www.isekiwalker.com/iseki/172192/


545 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 20:56:50
百済の王を意味する「コンキシ、コニキシ、コキシ」は

「ニニギの命」の別名「アメニキシ天邇岐志,クニニキシ国邇岐志...」
の「クニニキシ」が変化し「クニキシ、クンキシ」に訛ったと思われる
志羅紀のニシキ、久多良のコニキシ、伊都国の官,爾岐ニキ、ニニギ、ニギハヤヒ
等々のニギ、ニギシは(賑わし処,国村)から古代の倭人語と思われる。

この意味からの発生で後、良き人能力の有る人文官などを「吉師」キシ、キッシ
と呼ばれる様に成る。例、王仁吉師


546 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 21:14:10
>参考  http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku236.htm
>中国の社会科学院考古研究所の所長であった考古学者・徐苹芳氏の発言
>「位至三公鏡は、魏の時代(220〜265)に北方地域で新しく起こったものでして、
>西晋時代(265〜316)に大層流行しましたが、呉と西晋時代の南方においては、
>さほど流行してはいなかったのです。

>>541のタチの悪さは上記だと「位至三公」の年代は220〜316の幅があるはずなんだが
かなり後の方の300ぐらいに限定しているところw

上記の引用も過去に>>541自身もしているはずwww

547 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 21:55:58
>>542
あれま、そんなレベルの話だったの?

三角縁神獣鏡の出土数

日本:550面以上   中国・朝鮮:0面

これで日本製であることが完膚なきまでに証明され尽くしています。
年号ももちろん日本で書かれた(当たり前)。

確実に魏の時代と分かる鏡(要するに年号の書いてある墓碑とともに出土した鏡)
が少ないから、舶載の余地があるという理屈にはなりません。

>>543
福永はハクサイ説と言う時点で検討する価値さえない。
あと、>>541は安本の説ではない。安本説を勉強して来い。



548 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 22:01:07
>>546
ありゃりゃ、自分で魏の鏡の出土がわずかだと主張しながら、位至三公に限っては
取り入れるのかなwww

徐苹芳が魏晋というのは、通算して述べているだけで彼が挙げる数種類の鏡が
全部魏の時代までさかのぼるというわけではない(当たり前だが)。

位至三公鏡にも文字を4箇所に分けて入れるものと、ステッカーのように縦にデカデカと
書いてあるものがある。前者は魏までさかのぼるだろうけど、後者はその確実性が乏しい。
後者は、300年前後の墓碑のある晋の時代の墳墓から集中して出土する。
日本の弥生時代の遺跡から出土したのは、後者の方。


549 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 22:12:43
>>547

”こんなレベルの話”も理解できないとは情けない…

要するに可能性として

 ・魏の時代、南方系の神獣鏡が魏でも流通した。

 ・魏の時代、流通したのは内向花文やTLV、神獣鏡は入って来ていない。

この二つの可能性があり、これを決するのに確実魏の物と分かる鏡の出土例が不可欠と言うのは
どんな馬鹿でもわかる話だな。

少なくとも 「三角は中国で一枚も出ていない」と言うネタ一つでひっくり返るほど
三角の問題は単純じゃないと言う事だ。

まあヒステリー起こしてこの板で畿内説の陰謀だのタブーの喚いても現実は変わらんよw



550 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/04(火) 22:17:51
△はもう大陸に1個も出ないことから、倍暦計算で

 239年=景初3年=崇神即位2年

たることから、卑弥呼の鏡ではなく、畿内の崇神天皇の

 崇神2年(=238年)=紀の崇神六年=景初2年

時の模の同床共殿策の、一般人民へ右へならへ式でうんと造られ
た鏡がそれらの鏡。


551 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 22:51:00
>>550
オイ!太国。いいかげん倍暦やめや!真面目な話でもウソ臭くなるやんけ!

552 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/04(火) 22:55:31
卑弥呼がどの天皇の年代に相当するのかという事は重要だ。
だから倍暦の計算はそれを特定するのに欠かせない。ウソ臭いと
いうのは貴殿の恣意的感情の為せるワザで、そういう感情は鎮め
て書きこみを読むべきだ。

553 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 22:57:46
倍暦計算は魔法の杖。

554 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/04(火) 22:58:51
>>550 訂正 スマン これでウソに見えたのかな?

○ 239年=景初3年=崇神即位3年

555 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/04(火) 23:08:37
>>551
倍暦でなくても、古事記の崩年干支で

 崇神天皇崩御=戊寅年=258年説

があり、これを逆算しての

 238年=景初2年=崇神即位3年説

の研究家もいるから、それがしの説と殆ど合うし、ウソを造って
書きこんでるものではない。拙者のはちゃんと計算してのものだ。

556 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 23:32:47
「三角縁神獣鏡」は確かに中国から出てないが、
それに良く似た鏡ならあるんだよなあ、魏の領域に。

557 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 23:41:42
>>555
古事記と日本書記の天皇崩御干支と一致してるのは安閑・用明・崇峻・推古の
4人の天皇だけじゃないか。一説には崇神天皇は318年崩御となっている。

558 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 23:51:08
魏、呉、燭、漢、唐、晋、随、秦、夏、、、

これらの王朝が実際には今の中国のどの都市にあった朝廷なのかははっきり解ってないと思うよ
そもそも中国は昔から「川の向こうでは言葉が違う」って言われるくらい多民族の土地
北京と長江と満州では言葉も民族も文化も違う
違う民族の北京の朝廷と長江の朝廷が同時代に存在もする訳だし


あと中国大陸を支配してた国家にはローマ帝国、トルコ帝国、ギリシア帝国などもある
モンゴル帝国はそれこそ北京から南京まで統治してた帝国だし


「中国4000年の歴史」なんて言ってるけど、中国はたかだか60年前に建国された国で、継続して4000年も歴史が繋がってる国じゃないし中国大陸全土を統治してた訳でもないすよ

559 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 23:53:13
>>549
三角縁に関しては、あの出土状況で舶載を言うのはちょっと酷すぎるよ。
早く国産と確定してその先の議論をして欲しい。
未だに舶載説にしがみついている人たちは、何を考えて学者になったのだろうか?

舶載説への批判をオモテの世界ではできないって状況は異常だよ。
学問ってのは真理を追究する快楽を求めるものじゃないのかな。
学者ってのは、自己の生涯をかけてその真理を追究するものじゃないかな。
将棋には「バカ詰め」ってのもあるけど・・・その真理はいらない。

560 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/04(火) 23:57:23
ちなみに漢字と儒教をを作った漢の朝廷があった場所は北京でも長江でもなく「漢城」でしょ?

もし漢の王朝が漢城にあったのなら漢人が書いた三國史伝も中国の話じゃ無いと思うよ


561 :ローガン:2008/11/05(水) 00:02:25
>>541
> 画文帯は、ほとんど全部が古墳から出土し、古墳時代の開始直前頃に日本での
> 流通が始まっています。

出土した同向式の半数以上は5C以降入手として、岡村編年でも割愛されています。
よって貴レスの「ほとんど全部」が「古墳時代開始直前」にかかるとすれば、間違いです。

> 対して、中国では300年前後の墳墓からの出土の多い位至三公鏡は、九州では
> 弥生時代の遺跡(岩屋遺跡)から出土する。

ひとくくりに位至三公鏡といいますが、岩屋遺跡で出た破片が洛陽晋墓で多くみられるものと同年代であるとどうしていえますか?



562 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/05(水) 00:09:03
>>559
戦後の学者の主張なんて何一つ信じない方が良いよ
戦後の日本の歴史は自虐的な歴史認識しか認められない風潮もある
中国や朝鮮の主張する歴史認識と違う主張をしただけで中国や朝鮮からだけでなく国内からも「反省をしてないのか」って批判するバカがいる

百済や新羅は倭人が建国したなんてのは例え事実でも期記に記述があったとしても今の日本じゃ認められないと思うよ
「中国の朝廷を中心とした封建社会だった」なんてのも嘘っぱちだから
中国は過去にはローマ帝国やギリシアやモンゴル帝国らが統治してた土地で、そもそも中国には中国大陸を統一した統一王朝なんて過去には存在しないすよ
北京には北京人の王朝があり、上海には上海人の王朝があるって言う多民族多王朝の土地が中国ですよ
ちなみに明と清は北京王朝すよ

中国4000年の歴史なんて嘘すよ


563 :タカリュウ:2008/11/05(水) 00:14:31
>>506
ども、タカリュウです。
高木彬光さんの説で2番目にシビれたのが、本土(九州)上陸地点。今までの説は壱岐から一番近い唐津だったのに対し異議を唱える。
「対馬から壱岐までの距離と同じだけ指定されているのに対し、そこは余りにも近すぎる。半分くらいしかない。
また、壱岐から本土については方角の指定が無い。
加えて、使節団は上陸してから東へ、南へ、東へと向かっている。
当時は水面が3mほど高かったので、今の海岸沿いの道は無く、山道を強いる事になる。
よって、できる限り船で東に行った筈。そこで良港といえば、神湊しかない」
それ以上の東、関門海峡には危険なので乗り入れできず。とのこと。
なるほど、と思いましたよ。

564 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 00:19:41
>>544
鏡を出した「岩屋遺跡」は、リンクしてるそこ(佐賀県)じゃなく、
福岡県の北九州市若松区有毛。

このあたりと思う。
http://www.pref.fukuoka.lg.jp/d07/iwaya.html

ケチつけたようだが真実探究のため。決して>>541に加勢するわけじゃないぜ。w

565 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 00:21:27
>>563
「又一海渡」
又と書かれていますから
「南一海渡」
行為が又繰り返されるのです。

566 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/05(水) 00:22:30
漢王朝の都は「漢城」にあったと思うけどな
三國史伝が書かれた時代と乾国の三國時代も同時期な訳だし
最終的に魏は唐の勢力に負けるんでしょ?
三國時代まんまの話な気もするよ
それに大陸にいる漢民族(古代漢民族の方)って遼東周辺に少数民族がいるだけだし


567 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/05(水) 00:33:45
ちなみに「魏」って名前の国は日本の古書物に出て来てる?

漢、唐、随、秦、晋、百済、新羅、高句羅、任那、、、

期記ではこれぐらいじゃないっすけ?

遣唐史、遣随師、遣百済師、遣新羅師はあるけど、魏や呉や燭ってのは日本の歴史書には明記がない気がする
だとしたら日本ではその国を違う呼び方をしてたんじゃ無いかと思うよ
中国が日本のどこかを邪馬壹國やら卑弥呼って呼ぶのと同じで



568 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 00:33:48
>>559
考古学の基本はそこに存在するモノから考えるってことで
そのモノの製作技術がどのように復元され
それがどの地域の技術から系譜をたどれるかってことが
最も重視されるんだ

三角縁の場合,それ以前の列島内の青銅製品の製作技術とはつながらないし
それ以後の列島内の鏡生産技術とも断絶があるわけ
一方製作技術に親縁性が認められる鏡は大陸にあることが明らかになってきてる

出土状況というものは一枚でも出土すればすべてがひっくり返るわけで
すべての遺跡を発掘しているわけでもないから
「ない」ということ根拠とするなんてことはまともな考古学者はさけるもんだ

考古学の王道たる技術論からいえば
三角縁は大陸性の方が説得力があるってのが現在の研究状況


569 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 00:41:44
>>567
日本書紀の神功39年から「魏志に曰く〜」というのは出てくるな。

570 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 00:49:01
>>564
ありゃりゃ、以前その佐賀の遺跡で位至三公出土を見た記憶があったけど
記憶間違いだったか…


指摘サンキュ
じゃあ>>544の岩屋遺跡に関する部分は取り下げる。

571 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 00:53:44
>>568
>三角縁は大陸性の方が説得力があるってのが現在の研究状況

大陸性といっても果たして魏から下賜された所謂「卑弥呼の鏡」なのか?
それとも単に大陸伝来なのか?

…それも考慮しなきゃならないのがややこしいw


572 :のんびりひまじん:2008/11/05(水) 01:00:49
>>567
仁徳58(370)年冬10月、呉国、高麗国、並朝貢。

なお、隋は一回きり。唐が多いのですが、目立つのは大唐 という表現。

573 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 01:02:24
銘文や外区部分、福永説の紐孔形状…舶載説に部がありそうなネタもあるし
この先、三角縁の問題にけりがつく事ってあるんだろうか?www



574 :568:2008/11/05(水) 01:14:12
>>571
そこで製作技術に注目ですよ
・文様は先行する複数種類の鏡のものを組み合わせており試行錯誤が認められる
・文様の変化が早い
・同ハン鏡と呼ばれる同時製作鏡の多さ
これらの点から,同じような鏡を急いで多数製作する必要に駆らていたことが窺えます

そして初期段階における魏の紀年銘鏡の存在

また列島内における同ハン鏡の分布状況からは
ある程度の枚数が一括して流入してきた状況の方が想像しやすいですから・・・



575 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/05(水) 01:18:58
>>569
「魏志」って書物の三國史伝の魏志の意味すよね?
日本書記以前には三國史伝は伝わってたからその書曰く、倭とか邪馬壹國とかがあった見たいな記述

>>572
ありがとう。「呉」じゃなく「呉國」すか
國は単に「地域」の意味な気がするよ
随や唐や百済とかは「國」って書いてないはずすよ

大唐すか
そういや秦も大秦って書き方しますね(ちなみに大秦はローマ帝国の意味)
昔は中国の事はシナとか唐って呼んでて唐傘ってのは唐の傘って意味らしいすね

つか三國史伝って中国じゃなく半島の三國時代の事を書いた書物かもね
漢の都の漢城も半島にあったんだし時代も同じだし

576 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 01:23:49
黒塚古墳の場合、画文帯神獣鏡が一面。三角縁神獣鏡は33面。
画文帯は棺の中。三角縁は棺の外。
画文帯の方が重要で、三角縁神獣鏡が普及品であるのは明らか。

三角縁神獣鏡は、画文帯神獣鏡を粘土か何かに押し付けて、型を取り、
それに三角縁をつけたものとする説(奥野正男)があるが、これが妥当だろう。
三角縁23cm程度。画文帯14cm程度と大きさからもそれがうかがえる。

黒塚古墳から出たものの中には、画像鏡に酷似した三角縁神獣鏡も見つかって
いる。これも画像鏡を型に押し付け、同じようにして作ったのだろう。

577 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 01:37:19
>>561
画文帯の同向式って、出土が5C以降に多いけど、その割に同型の踏み返しばかり。
呉の画像鏡の同向式を大型化するために、日本で外区をつけたけど、
大量生産には至らなかった。つまり、大量生産の工房で作られたものではない。

紀年鏡をみてみると、画文帯も三角縁もなぜか全部同じ同向式。
三角縁の同向式は10数枚とわずかしかない。三角縁の本流からは明確に外れる。
紀年鏡は、ヤマトから外れた地域から出土する。

ちょっと亜流の鏡作部がこれらを作ったという感じがするね。

ともかく、画文帯の日本での流通が古墳時代の直前頃からというのは、間違いではないよね。

578 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 01:57:29
>>561
あの位至三公が中国でどこまで遡るのかは、はっきりしない。ゆえに、魏まで遡る
位至三公が存在して、岩屋遺跡から出土した可能性は排除できない。
しかし、現実の中国での出土状況からはその可能性は低いでしょう。

弥生後期〜末期の九州から出土する小型イ方製鏡Uの類似鏡が晋の時代に流行していた
ということから見ても、位至三公は300年前後のものが日本に来たと考えた方が
整合しやすいですね。

中国の位至三公の文様や同位体比等を調べて、日本出土のものと比較できれば年代を
決めやすいとは思う。

位至三公は、中国では大量に出土するけど、日本では人気のない小型鏡で踏み返しが
されていないので、中国産の鏡の輸入量を検討する目安にはなります。


579 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 02:00:41
すいません
江戸時代に火はどうやって起こしてたんですか?

580 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/05(水) 02:29:15
つか中国って良く考えたらモンゴル帝国から明王朝以前まではモンゴル人の王朝じゃん
明は長江民族らが南京で建国して元(モンゴル)の王朝のあった北京を攻めて元王朝を追い出して南京人が北京に都を構えた
その後満州人がなんとかって都市に清王朝を築き、その後明王朝を倒して北京を首都に

なんか民族やら語源が良く解んないや
今の中国の史書は確か清王朝がまとめた史書をほぼそのまま中国の歴史書としてるはずだけど、ようは北京の歴史をまとめた書物なんかあ?


よく「中国から日本と同じ○○が発見、」なんてあるけど中国の何処の事なんだろ?
洛陽市?

581 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 03:58:48
「位至三公」って畿内の場合、奈良大和からは出ていないんだよな。

出ているのはもっぱら河内(古市・百舌鳥)で通説だと5世紀。
古墳時代前期をほぼすっ飛ばして中期。

大陸での流通の下限を西晋の末4世紀前半316だとすると
畿内の河内から出るものは軒並み100年からの伝世を想定しなきゃならない。

ワケワカラン話だなwww

「約100年」のズレと言うのは紀年鏡でも出てくる話で
いっそ河内の古墳群も100年ぐらい遡上させればつじつま合う?wwww


582 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 06:48:13

>>1

結局のところ女王国連合とは北部の九州に限定された国々であって

3世紀後半に勢力が衰えた邪馬台国は畿内ヤマト大王家連合に粉砕さ

れたってことでしょ。畿内ヤマトも大陸との交易を望んでいたけど、

玄関口に位置していた邪馬台国やその一派が目障りで、遂に吉備国や

尾張国との支援を受けて、北部九州の30ケ国を配下にいれた。

その出来事は記紀では景行天皇や神宮皇后の巡幸で比喩的に表現され

ている。

583 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 08:46:15
>>582
景行天皇は、熊襲征伐にやってきたのであって、日向に宮を構え、6年かけて
熊襲を平らげたとある。邪馬台国は、熊襲とは比べ物にならないくらい弱く、
日本書紀に記録するほどのこともなかったというわけかな。

6世紀はじめの磐井の乱は、大和朝廷の命運をかけた戦いといわれる。
ほとんど系譜しか書かれていない古事記にも書かれている位の大事件だった。
仮に、九州の邪馬台国と畿内中心の勢力(ちょっと実体がつかみづらいが)
が争ったとしたら、記紀にも特筆されて当たり前の大事件だと思う。

でも、それをうかがわせるような記録はない。

584 :のんびりひまじん:2008/11/05(水) 10:55:48
>>583 平然と今どきこんなこと書いてる
景行18年秋7月、(南方から)福岡県三池に到着。そこは、百官が往来する と真相が書いてある。
つまり、中央官庁の公務員(=百官)がハイキングに来るのだから、そこから北日帰り圏に
公務員住宅や中央官庁が存在した。
景行の本拠:奈良マキムクに百官はいないようです。

585 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/05(水) 11:05:12
>>557
その4人は記紀編纂に近い年代だから合いがいいわけだ。他は倍暦計算では
もっと合いが悪い。しかし崇神に関しては同計算と非常によく合う。これは
稗田阿礼への情報が別々のものだったからだろう。

318年説もあるが、258年説が正解だと観ている。

586 :のんびりひまじん:2008/11/05(水) 15:01:05
>>583 今どき、このような無邪気なこと書いている。

景行の熊襲征伐も磐井の乱も、ともに九州内での事件。当事者の一方を関西に住んでいたことにした
とする仮説あり。さしあたり傍証として、どちらも瀬戸内海沿岸の進軍・補給の記載がない。

少なくとも、磐井の乱 との表現には、問題がある。継体の乱かも知れない。

587 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 16:00:39
邪馬台国である馬韓と大和朝廷は全く別だな。
倭王の印を授けて、日本人を子分にしたとでも思ってる嘘は馬鹿チャンコロもしくは
その支持者の考え付く範囲だな。
武帝にでも聞けよ、日本に対しての見解を、えっ。
チャンコロは飢饉になると人食いをはじめるからな、ザリガニ並みかな。
チャンコロは話にならないからな。どの動物が強いかで、その軍門に下ろうとする。
霊能力ももう弱いしな、チャンコロ。アジチじゃないからな。
中国の宗主権はないもんね、実力的にも。

588 :ローガン:2008/11/05(水) 16:12:32
>>577
> ともかく、画文帯の日本での流通が古墳時代の直前頃からというのは、間違いではないよね。

そうだと思います。萩原鏡の考察から踏み返し現場は楽浪でしょう。

>>577位至三公鏡…その定義がそもそも?です。晋墓のものは当然ひとくくりで良いのでしょうが。
位至三公銘の双頭龍文鏡等を通称として「位至三公鏡」といいますね。
弥生遺跡で出たものは「双頭龍文鏡(位至三公鏡)」と言う風に記載されますね。西川氏の本には「魏、晋朝以降も引き続き製作された」とありました。
つまり、長きに渡り造られた…それらを全て晋墓以降とするのは?ですね。
ただ、岩屋遺跡出土鏡を見ていないので、これ以上はなんともです。

>>581 そうですね。私も疑問に思います。

589 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 19:13:27
>>585
崇神天皇崩御が258年だと後の天皇崩御の年があわなくなる。
成務355年、仲哀362年、応神394年、仁徳427年、履中432年、
反正437年、允恭454年、雄略489年、継体527年の天皇崩御の年が
全部、混乱してしまう。これは日本史の年表の崩壊だ。

590 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 21:44:32
>>589
一度崩壊させてから考えたら?

591 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 21:48:11
そもそも、崇神を存在の可能性のある最初の天皇とした根拠が不明確。
そこに問題の本質があると思う。

592 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/05(水) 22:22:17
>>589
稗田阿礼の入手した崩年の情報は1個のものからのものではなく、
数個の別々の伝からのバラバラのものでしょう。
だからそういう1個のものとして崩年干支を年代にあてがっていって
も合わないと思いますよ。バラバラだから崇神のあとの垂仁、景行の
崩年干支が抜けてるんだと考えますが・・・。

崇神は戊寅ですが、このことは住吉大社神代記でも戊寅ですから、
信憑性はいささか高いのではないでしょうか? なお同記には垂仁の
崩年干支 辛未 が書かれているそうです。崇神崩御258年はそれがし
の倍暦計算と1年違いですから、ほぼ合っていると想われます。

593 :タカリュウ:2008/11/05(水) 23:24:02
>>565
>>「又一海渡」
>>又と書かれていますから「南一海渡」行為が又繰り返されるのです。

ども。タカリュウです。
その解釈は違うと思います。
方角指定が無く、距離が対馬と壱岐間と同じだけ、という記述は無視できないと思います。
方角が書いていないのは、海岸線にそって移動したため基点(壱岐)との位置関係があやふやになったためと思います。
(私が思うだけなので、結局証明する術はありませんが・・・)


594 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 23:26:01
>>592
崇神天皇崩御258年説だと倭の五王、讃・珍・済・興・武が
正体不明の天皇になってしまう。

595 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/05(水) 23:30:46
>>594
今寝たところだが、薬を飲むのを忘れていて再度起きて、pcを
また立ち上げた。まもなくまた寝るが書きこみがあったので、拙者
も書きこむ。

倭の五王は九州小国の王であり、畿内の天皇ではない。当時九州は
まだ小国が多くあったと思うね。
だから編年つまり大和朝廷の編年には五王は外して考えるのが正解。

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・・・・

596 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 00:12:45
>>593
推理小説と学問を並べてはいけないよ

597 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 07:17:22
>>588
それで、結局、大勢は画文帯の流入からどうゆう歴史を読み取ろうとしているの?

598 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 07:25:22
>>594 >>595
中国の史書によれば、邪馬台国→五王→随使が訪ねた倭国王は一連のもの。
記紀が伝える畿内の天皇はどこにも姿を見せない。


599 ::2008/11/06(木) 07:58:45
>>589
はじめますて ちょっとこの時代は自信ないが あえて挑みますが

日本書記には二貫目には雄略天皇からの実質的生活がはじめますよね。
一貫目はそれまでの神武天皇に至るまでの神話や神武自体の神話や雄略に至るまでのならわし

要は雄略天皇は実際いたとはみとめられても 雄略以前の天皇の存在なんて日本書記ですら神話として扱ってるのになんでいると確定できるんですか?

どうしてそんなにはっきりと神武を存在したと断定できる材料かなんかがあるのですか?

600 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 08:44:31
昔の人が、小説を書くみたいに架空の物語を作ったかというと、
どうもそうは思えない。やはり、伝承みたいなものがあって、それを元に
記紀は出来たと思う。

伊邪那岐命・伊邪那美命の物語は、どうも現実的でないけれども、天照大神の
高天原時代あたりからは、物語が比較的現実性を帯びており、詳細になってくる。

神武天皇は、記紀においては非常に重要な役割を担っている。
朝廷の先祖が、日向から大和に移るポイントになっているからである。
だから、神武天皇というか神倭伊波礼毘古に相当する人物はいたのではないか
と思う。
もし、いなかったとしたら、古事記や日本書紀の信頼性が根本から疑われる
ことになり、これは困ったことになる。

そのあとの綏靖天皇からのいわゆる欠史八代の実在性については疑問がある
という人もいる。
崇神天皇は、記録の詳細さから実在性は高いと思われているらしい。

601 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 11:32:48
>>595
ナント!倭の五王が九州小国の王???論理的に破綻してますね。
使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍の号を
九州小国の王が持つと重い重い重すぎる。中国にとっても戦略的価値がない。

602 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 13:22:32
>>600
イザナギ、イザナミは
アダムとイブに似てると思う。
アダムとイブの子は兄弟で殺し合いをしたというし。
なにかしらの形で聖書が伝わったのかもね

603 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/06(木) 14:33:02
>>601
重いとか戦略的価値がないなどとは君の恣意的考えであり、なんら
根拠も書いてはおらず、暖簾に腕押しの書きこみとしか云えない。

604 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 16:16:35
>>601
九州国の王が中国様から拝命したからこそ、焚書史書偽装して必死に隠すんだよ
わが大和は中国様から将軍拝命なんかしてません、記憶にありません
もしそうでもそれは九州小国の王が勝手にやったことですって
政治家と秘書みたいな関係さねw

605 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 16:30:04
>>601
鉄器もろくにない畿内は、その九州の植民地かつ属国でしたが何か?

606 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/06(木) 16:32:30
>>604
だったらなんで太平洋戦争で日本がアメリカに負けたことを政府は
必死に隠さないのか?ww

607 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 17:06:33
現代で焚書できるものならしたいだろうねw

608 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 17:52:58

>>605
3世紀末に衰退する九州の女王国連合と畿内大王家はまったくの別物
九州にあった邪馬台国以外の有力な王家が東遷したかもしれないが〜
それで何か・・・・


609 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 18:08:29
つい最近も居たな。
侵略戦争じゃ無かったとか騒いでたのが。
南京で何人殺したか、それを教科書でどう書くかとか、
グジュグジュやってるのも、都合のよい歴史を作り上げる、
そのための作業だろ。
犬の言っていること子供騙しにもならない。

610 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 18:22:07
>>605
>鉄器もろくにない畿内は、その九州の植民地かつ属国でしたが何か?

倭の五王時代は5世紀。
古墳時代中期にあたるが、畿内の中期古墳からは夥しい鉄器が出土する。

例) アリ山、黒姫山、七観山、百舌鳥大塚山、西墓山、野中、・・・

「鉄器もろくにない畿内」、は事実誤認であり、平たく言うならウソである。
「九州の植民地かつ属国」、などというのも、ウソを前提にウソを積み上げる九州王朝派の妄言。

611 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 18:40:04
ていうか、卑弥呼の時代に畿内に鉄器が無かったことを知らない馬鹿(>610)がいたことにおどろき

612 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/06(木) 18:41:10
>609
お前の云うとおりなら、政府は太平洋戦争での敗戦を必死に隠すだ
ろう。しかしそんなことはやってない。何故か、世界中の人間が
すでに知ってるから隠しようがない。編纂当時だって、隠したって
大陸の古文献に五王らが将軍号をもらってると書かれているん
だから、隠したって当時の日本人がそれらをいずれは読むに決まって
いる。だからそんな将軍云々を紀に隠したってバレるのは時間の
問題。つまりお前の主張は成立しない。お前の妄想の果ての構築論。w

613 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 18:45:34
>>602
どうなのでしょうね。
イザナギが黄泉から戻る時の振り向いてはいけないという話と
聖書のゴモラだかどこかで振り向いた妻が石になるという話は、
大元の話は同じといわれています。
ノアの洪水の話と、日本の国産みの泥水をかき混ぜたという話も同根という話も
ありますが、こちらは今ひとつ皆からは賛同を得ていないようです。

ただ男女一対というのは、始まりとしては想像しやすいところですね。

ちなみに、聖書の話はメソポタミアあたりの神話などに同様の話があり
それらが伝わって聖書の話となったと言われているので、
聖書の話が伝わった、というと全く間違いな意味になります。

スレ違いすみません。

614 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/06(木) 18:50:06
だから強い利害があるとそういう隠し立てはある。たとえば東京裁判
で掲げられた地図にはハワイあたりがないそうだ。そこを弁護で
つつきにくいようにカットしたんだろう? なんでも真珠湾攻撃の
少し前に米艦が先に日本の潜航艇を攻撃してたとかいう話だから、
先制攻撃は米側だということになるんだろう?

615 : ◆.L.MXSPOgc :2008/11/06(木) 18:53:59
>>528
なんだ降参か?w


しかし、私の説に対してこうも反論やなにやらが出てこないと、
なんだか皆から承認されてたのではないかと思えてきますが、
畿内説の方も九州説の方も、それでいいのかな?w

http://yamat-2007.blogspot.com/

616 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 19:08:11
>>611
>ていうか、卑弥呼の時代に畿内に鉄器が無かったことを知らない馬鹿(>610)がいたことにおどろき

レス>>610は、倭の五王時代の鉄器について述べているだけである。
卑弥呼の時代については何も言及していない。

したがって>>611は早とちりか、もしくはわざと誤読したのであろう。
「馬鹿」、は不当な言いがかりである。

617 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 19:50:05
>>605
>鉄器もろくにない畿内は、その九州の植民地かつ属国でしたが何か?

また カルト集団九州王朝説論者 アホでマヌケな サイキバ君 のピンポンダッシュか!
だったら畿内が九州王朝の支配下であった考古学的資料の一つでも出してみろって話でw

そもそも鉄器の保有数の差が軍事においてどれくらいのアドバンテージになるかも分からない。

その前に農耕にすらどれくらいの影響があるのかも分からない。
収穫量に鉄器保有数の差がダイレクトに現れるなら九州の人口は他地域を圧倒しているって話だなwww

もちろんそんなデータは無い、少なくとも俺は見たことがない。

サカキバラ君の脳内データまでは知らんがwwwwwwww

618 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 19:53:17
>>617訂正

誤)サカキバラ君の脳内データまでは知らんがwwwwwwww

正) サイキバ君の脳内データまでは知らんがwwwwwwww


悪いなサイキバ君w別に他意はないからwww
ま、どっちでも似たような(ry


619 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/06(木) 20:15:38
>>599
日本書紀の神武以降は神話ではない。神武以後には年月日が書かれ
ている。神話なのは神武より手前の神代だよ。
稲荷山鉄剣銘文には雄略天皇のほかに崇神天皇の磯城宮と同代ころの
大彦の記載があるから、遠回しに崇神の実在を認容できる。

崇神以前の孝靈天皇の倭国大乱の様子見か収拾のためか、孝靈天皇
吉備行幸の記載が日野郡誌にもあるそうで、なにもかような古い代
の天皇の記述は記紀だけでなく古史古伝にもあり、さらに全国各地
の神社等の由緒、伝承にも各々が独立してと認められる各天皇の
記録があるわけで、創作だというなら、全国各地に舎人親王らが
虱潰しにこういう古文書とか神社等を調べに調べてそれに天皇の創作
を付加せねばならないことになるが、そんなヒマなど朝廷にあろう
はずもなく、こういう天皇の伝承等は個別であることから、天皇の
存在はウソにはなり難い。それにそのころの天皇と同数程度の古墳
もあり数字が合うわけで、創作のために数十年かえて万の人数の労力
を駆使して莫大な金がかるこんなものをこさえるわけがない。
神武の件は池田仁三氏という方が橿原にある慈明禅寺の境内から、
神日本磐余彦尊の書きこみある墓標類らしきものを発見している。
真かどうか論議はあろうが、参考だ。

620 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 21:30:51
>>609
でもま、ヨーロッパの支配から、
独立をすることが出来たんだから、
朝鮮中国はタマには感謝してくれないとな。

621 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 21:33:00
>>619 
>天皇の記述は記紀だけでなく古史古伝にもあり

その伝古史古伝が記紀以前にあったと言う確証が無ければまったく意味が無い。

鉄剣の銘文も同じ。
雄略の時代に崇神以前の王が出てきても
それは既に神話・伝承として成立していただけと言う可能性がある。

>それにそのころの天皇と同数程度の古墳もあり数字が合うわけで、
>創作のために数十年かえて万の人数の労力を駆使して
>莫大な金がかるこんなものをこさえるわけがない。

言っている事が支離滅裂。
気は確かか?

実際には天皇の数以上の古墳があり
「 後付け 」で指定していけばすむ話。


結局、崇神以前の王の存在は崇神以前の遺跡・遺物でしか確認できない。


622 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/06(木) 21:51:33
>>621
刑事裁判級の証拠は必要な〜い。あれば尚可だがね。
だったらお前が無かったという論拠を書きこめ。大彦が出ればもう
崇神は遠回しにいたんだよ。古代史はそのくらいで十分よ。

支離滅裂だと〜。お前だって数十年もかけて百姓の墓の為金もくれ
ないで参画するか? そりゃ過去の小室氏くらいの財力がありゃぁ
やれないわけでもなくなるが、それでもそこらのおっさんの為に
膨大の大きさの墓を造るアホはどこにいるんだよ? よ〜くこういう
現実を考えてモノを云え。www

それはピッタリ古墳の数字は合わなくても、ほぼそれに匹敵する
ドデカい古墳がありゃぁもういたことは確かだよ。それに記紀と
多数の神社の伝承に個別に天皇のことがあるわけだ。いちいち創作
するために当時の朝廷の官吏が全国万の神社へ行って創作しに行っ
たというなんらかのモノがあるのか?ww なら出せ。
仮にそれが出来たからといって、そんなことをすれば、いずれ神社の
氏子がコソコソ官吏がイカサマを由緒書きに書くよう訪れたとかの
ナイナイの話が全国各地に出回るから、いずれはバレるに決まって
いる。そんな話はなかろう。www 
笑わせるな。wwwwwww Pu!

623 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 22:04:49
>>622
 
 犬 国 が 発 狂 し た !

 誰 か 狂 犬 病 の ワ ク チ ン を !



624 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 22:09:15
卑弥呼着任まえの倭国大乱は、もし畿内だったら、木器の戦いかよw
鉄器がごまんとあった九州にきまってるだろ。

625 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/06(木) 22:11:29
>>615
僕の考え方に非常に近い。 しかし、
吉野ヶ里説は、随書『其地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』の部分を説明できない。
うまく説明できるのは女王の都が久留米の場合だけ。
久留米説の傍証は、「日本書紀景行紀九州行幸部分のラスト」と「「聖徳太子伝暦」推古二五年条」にもある。


626 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/06(木) 22:15:44
>>623
オマエどーかしてるんじゃないのか〜?
いいか〜、池田大作氏がご本佛のために大客殿という高価な建造物
を造ることはありえようが、オマエだとかそんじょそこらのただの
おっさんのために大仙古墳だとか行灯山古墳とかに数十年の歳月
をかけて、万の民衆を動員して造るアホがどこにいる?www
それに巨万の財力がなければ、タダではそれを請け負う奴がいよう
はずがな〜い。そういう古墳が畿内にうんとあって、これを造るに
数百年とかかる計算になってくる。すごい権力者、大王がいたから
造ったわけだよ。それが文証たる記紀に帳尻がほぼ合う程度にありゃ
ぁ、もう存在が神社等の個別の伝承、古史古伝も加わってもいるし、
間違いはない。

627 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 22:17:09
>>622

>アホはどこにいるんだよ

何時の時代にもアホは存在する。
現在も チキンレースを楽しむかのように掲示板に犯罪予告をし
偽計業務妨害で逮捕されるアホが後を絶たない。

たまにイレギラー的に予告では物足らず、犯罪を実行してしまう
アホ中のアホも存在する。

628 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 22:19:01
>>622
たしかに、陵墓のある天皇の実在を後世に捏造したっていうのは、ダメだね。
実際に天皇陵は初代から順に新しくなっていて、伝承が正しいことを裏付けている。
一部の例外もその近くに「真の天皇稜」と推測される古墳が存在する。

オオヒコの伝承も稲荷山の時代に急にできた神話とかいうのは、
ラッセルの「5分前世界創造のレトリック」だよね。
・・・世界は5分前に神が創造された。全ての建物も自然も遺跡や遺物も
神が予定調和のなかでお造りになられたのである。

これを論理的には否定できなくても、事実じゃないことは誰にでも分かる。

629 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 22:22:45
>>626
俺は畿内説だが、このあたり>>626の太国氏は実にマトモだと思う。
応援したくなってきたぞ。w

630 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/06(木) 22:26:43
>>627
そっちのアホではないぜ。Pu!wwwwwwwwwwwwwww

631 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 22:29:27
話がややこしいのは記紀が全くのでたらめでもないと言う事だなw

問題は各王(もしくはそのモデルになった権力者)が実在していたからと言って
記紀の王統譜がそのまま正しいと言う証明って訳じゃない。

まあ一番手っ取り早いのは欠史八代の陵墓の内部を調べりゃ良いんだろうがw

特に前方後円墳も幾つかあるが
もし中から埴輪とか出てきたら大笑いなんだがw




632 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 22:29:48
>>624
奈良県天理市の東大寺山古墳から出土した中平年銘環頭大刀で
お前の股間の異物をちょん切って平成の遺物にしてあげよう。

633 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 22:37:51
>>630
>そっちのアホではないぜ。


♪富士の高嶺に降る雪も 京都先斗町に降る雪も♪雪に変わりはないじゃなし 融けて流れりゃ皆同じ

634 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 22:42:46
>>631
そんな思考をする人が戦後の学者に多かったけど、理解に苦しむね。

どこの秘密結社がそんなことをしたのやら・・・
王朝交代とか、いまどき無茶言うな、って感じだな。

倭の五王は中国に上表文を出す程度の漢字の使用ができた。
つまり、文字による伝承が存在していて、記紀の時代まで続いていた。

この状況で途中に「とんでもなく大きな捏造が挿入されている」とか
そんなことを言うのは、本物のキチガイだろ。



635 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 22:54:35
>>634
文字による記録がいつから始まっていたのか?は分からんが
だからと言って記紀の記述が全て正しいと言う根拠にはなり得ない。

それに王朝交代と言うより王朝と言える物があったかどうかも疑問だな。
(時に王朝の定義から血統が除外される事もあるかもしれんが
 あくまで直系による相続を基本と言う意味で)

少なくとも>>581のような矛盾、ワケワカラン話が出てきてしまうのも事実だしwww

636 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 23:31:47
>>635
捏造ではなくて、伝承の途中での「伝言ミス」のようなものは当然認めるよ。
そのレベルから途方もなく離れる王朝交代とかは、トンデモの類だね。

王朝なら、奴国の時代からあったと考えた方がいい。
特定個人墓(王墓)があるなら、王がいる。
王の血族や家臣の血族も当然いる。
血統主義で王を承継させれば、それは王朝である。
奴国から複数出土する王墓は王朝の証拠である。


637 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 00:00:48
>>636
問題は

万世一系 宜しく一つの王統であったのか?
複数の有力氏族とかがいてそこから王を選出したのか?

現実的には後者の方が色々納得いく事が多いと思うw
(無論時に2・3代の直系相続はあったろうが)

で邪馬台国の問題に立ちかえるなら
畿内説の場合、王を共立すると言うのは邪馬台国以来からという事になるかな?w


638 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 00:18:19
卑弥呼の時代あたりは世襲制じゃないみたいだなあ。
卑弥呼も台与も男王も特に血縁関係で王になってはいないみたいだし。

だから、血縁関係が重要になった時代の人が、過去を振り返って血縁関係を
挿入した。
どこから世襲制ができたのやら。

639 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 00:21:52
>>637
魏志には、各地に「官」や「副官」がいたと書いてあり、これらの人物が
王から派遣されて各地の統治に当たったことは、明らか。

つまり、「共立」といっても王政内部の複数勢力が王を擁立したってことで、のちの
王朝の時代とおなじことをしていたに過ぎない。

「共立」という言葉から、各地に王がいたとか、さらには各地の王(首長)が連合した
とかいうのは、文字が読めない人じゃないかな。

640 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 00:30:42
>>639
まあ、いきなり強固な中央集権国家がドンと現れるなんて事考えている人間の方が少ないんじゃないのかな?w

多分いつもの 東遷説の人 だろうが神武も所謂「欠史八代」も実在って事で良いのかな?

もしそうなら神武が東征して祟神が全国制覇する前に
さらに「欠史八代」の時間を開けねばならない訳で

相当スケジュールがタイトになるんじゃ無いかなと思ってwwwwww

641 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 00:41:55
まあ実際「三朝交替説」が現在どのくらいの扱いうけているのかは
俺は良く分からんが

仮にそれが下火になっていても、少なくとも

 王朝交替説の衰微 → 記紀の皇統譜の肯定

と言う流れになっているのか疑問。

4・5世紀の「王朝」と言う概念自他が廃れているのではないのか?
実際どうなんだろう?www

642 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 01:04:19
>>612

> お前の云うとおりなら、政府は太平洋戦争での敗戦を必死に隠すだ
> ろう。しかしそんなことはやってない。

やってるだろうw
「敗戦」の日を「終戦」記念日と呼び、「占領軍」を「進駐軍」と呼び、
かっての敵「連合国」を「国際連合」と言い換えている。
万人に知れていることを少しずつ、涙ぐましい努力で、ぼやかそうとしてるじゃないかw

> 編纂当時だって、隠したって大陸の古文献に五王らが将軍号をもらってると
> 書かれているんだから、隠したって当時の日本人がそれらをいずれは読むに決まっている。
> だからそんな将軍云々を紀に隠したってバレるのは時間の問題。

時の経過により、バレるのは当然だろう。
現にバレてるわけだがw
犬国説は、とっくにバレている事実をすっとぼけてシラを切っているに過ぎない。
記紀の記述の正当性を立証する理由が「記紀に書いてないから」と言うダブスタ屁理屈は
とても見苦しい。

643 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 01:06:45
>>639
>魏志には、各地に「官」や「副官」がいたと書いてあり、これらの人物が
>王から派遣されて各地の統治に当たったことは、明らか。

あまり明らかではないような気がする。そう明記はしてないからな。

「官」や「副官」をその土地の旧来の首長層(諸国王というべき?)に委任する、
というような事態もあったのでは?
ちょうど室町期の守護代のような感じで。

中国でも漢や魏呉蜀時代の地方官が、全部が全部中央からの派遣官だったのではないだろう?

644 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 03:49:27

まあ邪馬台国にも「官」がいて(伊支馬)
伊都国にも「王」がいたと言う記述だからなw

「副」についても「卑奴母離(ひなもり)」で統一もされていないし…

645 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 04:16:38
>>639
>「共立」という言葉から、各地に王がいたとか、さらには各地の王(首長)が連合した
>とかいうのは、文字が読めない人じゃないかな。
この認識は問題。国というのは王が支配する所。倭人伝が国と書いているのは、言葉を間
違えていないとすれば各国に王がいたからなのだよ。後漢書が「国皆王を称し」とし、隋
書が「魏の時、訳を通じるもの三十余国、皆自ら王と称し」と書いているのはそれを裏づ
ける。官や副官はその王が任命したものなのだ。

>魏志には、各地に「官」や「副官」がいたと書いてあり、これらの人物が
>王から派遣されて各地の統治に当たったことは、明らか。
「派遣されて」とするのは、卑弥呼あたりが派遣したと考えているのかも知れないが
そうとすれば、そこは邪馬台国(卑弥呼が邪馬台国王かという問題はあるが)の一部
にすぎず別の国名をもつはずはない。対馬国の官は対馬国王が、奴国の官は奴国王が
任命した、そう考えるべきものなのだ(邪馬台国が奴国の人事に圧力を加えるという
のはありえるかと思うがそれは別問題)。




646 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 07:39:32
↑サイキバ君級のオ○鹿発見!

647 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 07:57:44
>>645
クニと王の支配が結び付くのは、「国」と言う文字が使われ出す
少し前の話しで、それ以前の「國」の時代には
クニ=王支配は
定着した概念ではなかった。

648 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 08:01:12
官というのはその後の日本にもないのでわかりにくい。
本当にあったのかどうか。

魏の時代に「九品官人法」という官僚制度ができて、同時に郡ごとに
中正官という役職を任命したらしい。
つまり、中正官というのは、魏の皇帝あるいはそれに準ずる人が、郡ごとに
任命する官ということになる。

ということは、邪馬台国(の女王である卑弥呼)が従属する国に置いた官と
言うことになるのかも。
伊都国には、王がいて、一大率がいて、正副の官がいることになる。
一大率もそうだが、官も中国的なのだろう。わかりにくい。

649 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/07(金) 11:09:18
>>642
字の入れ替えくらいで消えるわけがない。そんな事は本質的に隠匿したことには
ならない。女を婦人と云ったってwomanと言ったくらいのことでおんなじ〜、
本質的には同じ事だ。

650 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 11:17:34
>>648
>官というのはその後の日本にもないのでわかりにくい。
官というのは役人、すなわち権力者から任命されて国の政治を実際に行う人のこと
です。ですから、どんな国にも官は存在します。名前は大臣とか家老とかいろいろ
ですが。 王=官ということはありえません。


官=王などということはありません。3世紀ごろの主権者は王しかいませんから、




651 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 11:19:29
>>650の最後の一行は消し忘れ。すみません。

652 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 11:20:44
>>648
魏志の当時の伊都国には、「官」はいたけど王はいなかったと考えられます。

まず、王と官を並立させると、二重の統治となる矛盾が生じます。
他の地域では、その土地の統治のための「官」が置かれていて伊都国も同様です。
代々王が居たというのは、昔のこととして書かれたのでしょう。
王の名前が書かれていないことからも、その当時には居なかったと考えられます。


653 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/07(金) 12:47:22
>>652
>王と官を並立させると、二重の統治となる矛盾が生じます。
>魏志の当時の伊都国には、「官」はいたけど王はいなかったと考えられます。

邪馬臺國には女王と官がいる。
狗奴國にも王と官がいる。
これらでも二重統治の矛盾が生じていことになる?

伊都國で王と官がいるのがだめな理由は何?



654 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 13:20:41
狗奴国に官がいるというのもちょっと奇妙な感じがする。

655 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/07(金) 14:35:17
>>642
市橋が逃走していて顔にヒゲをはやしたりつけヒゲあるいは顔の整形
などするのが隠すことなんだよ。これには市橋が絶対にバレない為に
捕まらないようにするための窮余の策なんだ。こういうのが隠すと
いうんだよ。オマエがヒゲを伸ばしたりヒゲを毎日剃ったりするのは
オマエのイケメンでないのを隠すためではない。少しはアゲ底で特徴
が変わるが、それでオマエのオマエという人物を隠すためのヒゲ伸ば
しヒゲ剃りではあるまいが・・・。PuPu! wwwwwwwwww

656 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 16:12:52
>>652
>王と官を並立させると、二重の統治となる矛盾が生じます。
官は王から任命されて政治(まつりごと)に携わる者です。どんな国でも、王のみで
まつりごとをやるのは不可能ですから、かならず官がいるのです。役人は全て官です
から、数多くの官がいるわけです。倭人伝などにあるのは、官の中の最高クラスのも
のを記載しているにすぎません。王の命を受けてやるのですから、二重統治の問題は
起きません。



657 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 17:19:41
弥呼は宗教的な存在であり人心の平定はプロ、しかし政治は素人同様
政治を司っていたのは政治のプロである男王達。
伊都国にて男王達が合議で内政外交の政を司る
政治の素人である卑弥呼は魏からお墨付きを貰い、帝国の後ろ盾を背景に
国内No1の地位に君臨

だから一応「世有王皆統属女王国」なわけ

一方内心不満を覚えるのが国内実質No1の男王達のリーダー
元来政治の中心的存在であるリーダーは対外政策でも卑弥呼の後塵を歩むこととなる

658 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 17:39:49
>>641
水野祐の「三王朝交替説」は既に否定されてるけど、
(色々な天皇を消しすぎなんだよ、あれは)
「王朝交替」と言う概念そのものはトンデモとは思わない。
大和王権と言うのはかれこれ2世紀後半〜4世紀前半から長く続いた。
その間に、一つの一族がずっと支配権を保っていられるかどうかは怪しい。
武力による政権交代もあったろうし、後継者が居なくて
どこかの国の王族から婿を貰うこともあるいはあったかも。

659 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/07(金) 18:33:56
>>654
>狗奴国に官がいるというのもちょっと奇妙な感じがする。

狗奴國の王は「卑彌弓呼」、官は「狗古智卑狗」と魏志倭人伝に書いてある。
書いてあるのだから素直に認めなければ。文句あっか?

『其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗』
『倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和』

660 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 18:46:02
倭地で王に封じられたのは、親魏倭王の卑弥呼だけだから、
中国では公式に王は一人となる。

実際は王を名乗る奴が山ほどいて、
後に畿内王は大王を名乗るようになるという流れ。

661 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/07(金) 18:48:54
>>654
伊都國には王がいた、しかし名前は不明。
邪馬壹國、狗奴國、伊都國以外の27ヶ国にも王がいた。
しかし、魏はその27人の王を王として認めなかった。

魏使倭人伝 『伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國』
隋書俀國伝 『魏時 譯通中國 三十餘國 皆自稱王』

662 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 19:04:28
>>655

その市橋某というのは、結局バレてつかまったんだろう。
で、何が言いたいんだ?
自説を補強するようなたとえ話にはなっていないんだが。
前レスでの主張と真逆の例をだしてもいみがないだろう。
耄碌すると自分が何を言ってたかも認知できないのだね。
きっと、悔しくて悔しくて、涙目で脊髄反射的に書いてしまったのかな。
哀れだなw

663 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 19:18:37
筑紫哲也が死んだから邪馬台国九州説は無くなった。

664 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 21:25:33
>>658
王朝交代説は言いだしっぺの水野祐も、「婿入りでも王朝交代」という方向に
行っちゃったから、世界史の王朝交代とは違うんだよね。

要するに「万世一系」を否定するためのイデオロギーとして王朝交代っていう
用語がもてはやされただけ。

今では、戦後の左翼思想が強かった時代のトンデモ説ってことでFAですな。

665 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/07(金) 21:29:37
>>662には何の論もない。お前の妄想がオマエはくやしくギリギリ
してるから無能書きの能書きを垂れてるだ〜け。wwwwwwww

666 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 21:47:20
(筑紫)今日はこんなところです。

 あなたに〜グッドナイト♪

667 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 22:26:47
>>665
> >>662には何の論もない。お前の妄想がオマエはくやしくギリギリ
> してるから無能書きの能書きを垂れてるだ〜け。wwwwwwww


だから>>665は、何が言いたくて書いたんだよw
論が無い、妄想・・・自分自身にいってることだね。



668 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 22:33:22
>>664
さて、そろそろ「万世一系」の証明でも聞こうか?


669 :日本@名無史さん :2008/11/07(金) 23:04:18
伊都はイトでも怡土でもなんでもないことがわかった。
イツと読んで、
古代語で稜威(イツ)、厳(イツ)という言葉。
つまり恐ろしい威力という意味。
だから、奴国の中に一大率を置いた場所を得に伊都国と呼んだ。
100里先が奴国であったわけがわかった。
奴国は博多湾一帯通説通りで、筑前国続風土記頃は那珂郡と呼ばれていたところ。
だから、ナ国と読む。
その中に伊都国(イツ)があったわけだ。
この場合の国は場所、地域という意味だ。

だから伊都国は福岡平野の春日市あたりだと考える。
福岡平野は奴国の場所だから。
着岸場所はその西北500里のあたり。
そのころはそこは末盧国(バル)だったと思う。
バルとは出っ張るという意味。
具体的に周船寺あたりか、今津湾かそのあたり。
末は一音で読むべき。


670 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 23:05:55
水野の三王朝交替説は、崇神(三輪)、応神(河内)、継体(淀川水系)
みたいな説だったっけ?

あと鳥越の葛城王朝説なんてのもあったな。

671 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 23:21:53
>>669
邪馬は古来グジって呼ばれていた
イツ=伊都国 ベリ=鬼国 バカ=太国 バル=末盧国

672 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/07(金) 23:24:42
>>667
そうだろう〜。お前ご自身に言ってるわけだよ。

673 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 23:28:13
>>668
王朝交替説がトンデモ説だからといって、万世一系説が正しいわけではない。

674 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 23:29:41
伊都国はイツと呼ばれていたつまり厳島神社で安芸の宮島だから広島でちょうどいいと考える
ナ国は難波のナだから大阪しか考えられんが?

675 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 23:46:50
>>674
>伊都はイツと呼ばれていた。

生で聞いたの?

676 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 00:57:00
>>675
古代語でitu(イツ・伊都)厳島神社のituも同源。
意味的にはitu=恐れ多い・恐ろしい・猛威。
厳島神社は一大卒、那国は難国から転じて難波国。
伊都国は今で言う福岡平野の春日市あたりだと考える。

677 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 01:04:01
>>673
ならばどこで万世一系が途絶えたのかを言わなきゃ。

678 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 06:30:55
古代の大和には、小さな豪族集団がいくつもあっただろう。

そのうちイワレの小さな土豪が、先祖代々何百年続いていて、結果的に大和の大王になったなら、
それは「万世一系」と呼べるだろう。

記紀を読んでも、イワレヒコ〜崇神が統治したのは大和の一角でしかない。


679 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 06:35:50
あのう、これだけの凄い研究を皆さんはいつ、どこで、どの様にやっているのか聞きたいです。わたしも研究したいが、全くわかりません

680 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 07:07:56
>>679
小さなことからコツコツと。
と言っても、ここにいる人の多くは思い込みが激しく、勝手なことばっかり
言っているけど。
魏志倭人伝とか、古事記・日本書紀などを読んでいく方が良いかも。
偏った本を読んでいくと、その考えからなかなか抜けられなくなるから。

それから、邪馬台国の比定地は、いろんな資料を幅広く分析して、最後に
決めるべきだと思う。
最初に決めてしまうと、それに当てはまるものは正しくて、当てはまらない
ものは間違っているなど勝手な解釈をしてしまう。
また、その比定地にマッチするような理論を組み立ててしまう。
畿内説がその典型。

681 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 07:28:01
>>672

犬さんよ。
〜するわけがない、〜なわけだ、というこじつけ回しもできなくなって、
とうとう遠吠えだけになってきたね。
それじゃ、サイキバ君と同じだよ。

682 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 07:31:21
>>677
その考えがまちがいのもと。

683 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 07:49:21
偽史倭人伝、誤事記、日本嘘記・・いろいろ読んだが
どれもこれもいい加減なことばかり書いてあって、
全く信じられません。人民を騙して政権維持が目的
だったとしか考えられませんね。禁書にすべきでは?

684 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 07:52:18
>>679
最初に、魏志倭人伝や古事記や日本書紀を生のまま読んでも内容を百分の一も理解できない。

まずは、魏志倭人伝や古事記や日本書紀の「解説本」を読むこと。
解説本にもいろいろある。

1、日本神話の内容そのものを解説したもの(初心者向け)
2、神話の内容を事実の反映と解釈し、邪馬台国の位置や神武東征の真実を推理するもの(中級者向け)
3、日本書紀や古事記が編纂された理由を、当時の社会情勢や民俗学的に分析したもの(上級者向け)

2の本を読む場合は、偏向した考え方がインプットされる可能性があるが、
2ちゃんで議論する場合は「この人の考え方は、この本の影響か」と観察することで、
相手の知識レベルを推察できるという利点がある。

ただ、多くの人は2で止まっているので、いまだに九州説を信じるものが多い。
九州説か畿内説はか、3まで読み進んでから判断すること。

685 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 07:53:14
>>679
この板で 『 研究 』 ってレベルの書き込みはまず無いよw

程度の差はあれ所詮素人、何処かで読んだ本に自分流のアレンジ加えたに留まるのが殆どだろうw

例えばこの板の住人の何人が基本の基本 「邪馬台国基本論文集」なんて蔵書しているやら…
無論俺なんか持っていないし、恐らくプレミアがついて相当高額だろうから手が出せるやらw

兎に角、本当に研究したかったらこんな板は参考にもならないw

それと老婆心から言っておくと、この板の九州説は
今では殆どトンデモにカテゴライズされつつある
「九州王朝説」や「邪馬台国東遷説」の信者だから
一般の九州説とは分けて考えてあげてね(はあと)wwwwwwwwwwwwwwwwwww

686 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 08:01:55
>>684の補足

ある人が、3まできちんと読んでるかどうかは、その人の発言でわかる。

「神武東征は真実で、九州の邪馬台国が畿内に遷都して大和朝廷になった」
↑これは、典型的な2止まりの人。
もっと勉強すべし。

「神武東征は真実だとすれば、卑弥呼より前に畿内に東征した」
↑古代史をよく俯瞰できている。

「神武東征はナンセンス。邪馬台国も大和できまり」
↑考古学重視の立場。文献はいっさい無視。

---------------------------------------------
結論を先に述べれば、邪馬台国以前に神武が東征し、畿内に大和朝廷の礎が出来ている。
したがって、邪馬台国は、畿内。
もしくは、邪馬台国は、九州の地方政権であり、後に畿内王権に征服された。となる。



687 :のんびりひまじん:2008/11/08(土) 08:06:34
>>685
>「九州王朝説」や「邪馬台国東遷説」の信者

どちらも時期(ないし在り方)が違うだけで 東遷 を言うことは同じ。


        〜この板、読んでる初心者向け解説でした


688 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 08:09:58
>>686の補足。

>したがって、邪馬台国は、畿内。
>もしくは、邪馬台国は、九州の地方政権であり、後に畿内王権に征服された。となる。

「九州地方が、後に畿内王権に征服された」のは動かしようの無い事実。
これに異を唱えるのは、恥ずかしいことなのでやめたほうがいい。

「九州地方が、後に畿内王権に征服された」時期が問題となる。

卑弥呼の時代の3世紀初頭なら、邪馬台国は畿内。
卑弥呼の死んだ3世紀末まで、九州が独立していたなら、邪馬台国は九州。
↑論点を明確にすればこうなる。

後は、論点を深く追求していけばいい。
はたして、九州は、3世紀末まで、独立していられたのかどうか?




689 :685:2008/11/08(土) 08:15:49
>>685 の自己レスw

>「邪馬台国基本論文集」

改めて検索してみたが意外とあるのなw
それも無茶なプレミアがついているわけでもなしw

まあ俺如きが勝手も猫に小判
「つんどく」状態必死だがwwwwwwwww

690 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 08:27:47
>>677
誰が見ても継体あたり結構怪しいんだけど…
>>686
考古学が発達してなくて、大和王権の始まりが4世紀だと思われてた頃は
邪馬台国東遷説でも良かったんだけど、
考古学が発達してくるとそうは行かなくなってきたわけね。
縄文も、弥生も、古墳も、どんどん始まりが古くなってきた。

691 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 08:32:11

>>1

ふと感じたが、△鏡は舶来鏡でなく国産鏡である可能性が高い。しかし、
△鏡が舶来鏡か国産鏡かという論点ではなく、「銅は徐州で取れ、製作者
は洛陽の人」と刻まれた、景初3年・正始元年の紀年鏡が島根県から群馬
県までの範囲で広く時の権力者により配付されていた事実が大切である。

権力の象徴として地方に配り、受け取る側も、その鏡を受け取って、その
地の支配権力を強化しただろう。
現在でも、勝ちあると感じられる物のみがコピーされ、贋物が出回るので
あって、価値ない物の贋物は出回らない。

692 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 08:39:16
偽のローレックスとかなんちゃってグッチとか、まがい物といえば
中国が本場。本物は日本製で、人件費の安い中国の工場で模造品を
作って密輸していたとみるのが妥当。田舎豪族にはそれで十分。

693 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 09:01:38
>>691

>島根県から群馬県までの範囲で広く時の権力者により配付されていた事実

全て「配付」かどうかはわからない。
交易などで移転することも有るし、作り手の工人集団が移動する場合もある。
三角縁の場合、鋳造数が多いので目に付くが、その他画文帯やTLV鏡等でも事情は同じこと。
鏡の出土から一つの文化(価値観)を受け入れていたということは言えても、
支配関係まであったとは断定できない。

694 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 09:07:46
>>684
こんなレスじゃあ知能レベルは推して知るべしだな。

初心者とか上級者とか、そんなレベル分けは無意味だよ。
普通に読んで、普通に考えればそれでいい。

弥生時代の九州の鉄器の出土は畿内の50〜100倍であった。
これは九州の方が先進地域であったと普通に考えれば良い。
上級者向けには、「畿内の鉄はよく溶ける。」と書いてあるかもしれんがww

△は日本で550面以上出土、中国、朝鮮では0面。
故に、日本製であるとして完全に決着済みとすべし。
「上級者向け」には、中国で日本向けに特鋳したとか、書いてあるかもしれんがww

>>684のいう上級者ってのは、オウムとかのカルトの上級者ってのに等しい。
ようするに洗脳の度合いが強いってこと。

695 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 09:12:47
>>690
継体で王統断絶って説は、いまやカルトの部類でしょう。
家臣団はそのままなのに、王が全く別系統というのはあり得ん。

考古学の発達ってのは、ブラックボックスの年輪年代のことかな?
結論のご託宣は下るけど、データは一切不明。
それともC14かな。信頼性が低いよね。あれは。


696 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/08(土) 09:21:40
>>681
オマエが種無しだから悪口しか出てこないわけだろう。wwwwwwwwww
何も無いのがオマエも豆脳なのだ。wwwwwwwwwwwwwwwwwww
サイキバなんて語は知らんぜ。訳の分からん語でゴマ化すのがオマエだ。

697 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 09:28:20
5世孫といったら明治天皇と愛子の関係と同じだから、
天皇家のような身分の高い家柄で血統を見失うことなど
ありえない。継体も万系一世は継承されているとみるの
が妥当。

698 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 09:31:52
継体断絶がカルトとかなんで言える?きめつけ勝利宣言か?w


699 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 09:34:19
>>694
>弥生時代の九州の鉄器の出土は畿内の50〜100倍であった。

もはや畿内説でも王権発生のファクタとして鉄をどれくらいに扱うか意見が分かれている。

そもそも古墳時代初期においても鉄保有量は九州が多いわけで
鉄の保有量=勢力の大きさ などと言う幼稚な理論は到底通用しない。

それにお前さんの東遷説だと鉄器の豊富な九州から少ない畿内に移って
全国統一と言うのだから鉄のご利益はどうなったんだ?って話しだなwww

>△は日本で550面以上出土、中国、朝鮮では0面。
>故に、日本製であるとして完全に決着済みとすべし。

…で、結局、魏の物に間違い無いと言う鏡は何枚出ているのかな?w

お前さんのいつも熱弁している「魏の銅不足」に加え
「薄葬」も考えれば下賜品の銅鏡百枚はどの道「特鋳」に近い状態だろうにw

>>695
>継体で王統断絶って説は、いまやカルトの部類でしょう。

普通なら「確実に間違い無いのは継体から…」って程度に留めるなw

万世一系なんて唱えているのは「神武由来のy染色体」なんてわけの分からない事言っている連中www

あと東遷説論者も万世一系でなくちゃ困るんだっけ?wwwwww



700 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 09:47:11
結局「万世一系」なんて宮内庁が陵墓の中の調査を拒んでいるんだから確認のしようも無いだろう。

ただ纏向遺跡内の所謂「纏向型前方後円墳」が陵墓として記されていないのは
神武や欠史八代の始祖神話が作られた頃には既に埋もれていたからではないのか?

元々纏向は少し掘れば湧水層にぶち当たり川も度々氾濫していたらしいし周濠の幅も小さい。

で神武や欠史八代の陵墓のある地域を考えれば
河内朝で勢力を伸ばした葛城氏が怪しいと思うんだがwwww

ただ、(天皇記、国記を持っていた)蘇我氏も本貫地が葛城氏と被っている為
そっちも考えておかねばならないだろうがwwwww


701 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 09:48:02

>>693
>交易などで移転することも有るし、作り手の工人集団が移動する場合もある。

そう、交易で△鏡が移動する場合もあるが、価値が認められて移動し、陵墓
に埋葬される。また、鏡作師に作らせる場合もあるが、贋物として製作させる
のであって、その価値を理解して作り、権力の象徴としている。

魏志による邪馬台国の時代から、わずか100年後には各地に行き渡ることとなる。

702 :ありがとうございます:2008/11/08(土) 09:51:22
色々と指導ありがとうございます!みなさんかっこいい。僕もそれくらいあれこれ論ぜるくらいに早くなりたいと思います

703 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 09:52:08
>>696

>> 編纂当時だって、隠したって大陸の古文献に五王らが将軍号をもらってると
>> 書かれているんだから、隠したって当時の日本人がそれらをいずれは読むに決まっている。
>> だからそんな将軍云々を紀に隠したってバレるのは時間の問題。

>時の経過により、バレるのは当然だろう。
>現にバレてるわけだがw

オマエがこのツッコミに答えられなくなったので、とぼけてボケレスを繰返しているんだろうw

704 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/08(土) 09:54:57
>>703
オマエこそ答えられないからそんなクソ語を連発して攪乱して
るだけのことだ。笑わせるな。PuPu! wwwwwwwwwwww

705 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 10:00:21
竹内文書とか東日流外三郡誌のような本が見つかったの発見されたので
それを参考にして書いのかもしれない。

706 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 10:03:47
>>694
>弥生時代の九州の鉄器の出土は畿内の50〜100倍であった。
>これは九州の方が先進地域であったと普通に考えれば良い。
>上級者向けには、「畿内の鉄はよく溶ける。」と書いてあるかもしれんがww


まあ、素人の典型的発想だね。

「鉄が先進国の証」という現代的な発想しかできない。
民俗学的にみて、何が古代人にとって重要か、もっと考えないと、
九州のほうが畿内より立場が上だったとはいえない。

例を出せば、ヒスイが貴重品なら、九州よりも新潟が上位となる。
丹が貴重なら、丹生の地名のある場所が重要となる。

古代人にとって、何が重要で、どこの地域が信奉されていたか研究すれば、
九州が先進国だから邪馬台国だ、なんて短絡思考はとても出来ないのである。


707 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/08(土) 10:04:21
余は青森文書のことはよくは知らんが、竹内文献だとかじゃぁもう行きすぎで、
その書は肩透かしで遠のけるほかはない。

708 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 10:06:47
ついでに葛城氏について言うと
葛城氏自体が渡来系だとか
葛城襲津彦が南朝鮮の倭人集団の首長だった
…なんて話しもあるらしく
意外と神武東征神話の出所かもwwwwww

709 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 10:08:07
ケニアからの移民の子であるオバマ氏がアメリカ大統領に決まったように、
時代が大きく変化する時、異国出身の新しい血を受継いだ指導者が国
を治めるものです。
ズバリ、卑弥呼は渡来人。たぶん、ユダヤ系だと思う。
そしてその墓は、讃岐富士。

710 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/08(土) 10:10:33
>>709
日本の古代は民主主義国家ではない。すべてが妄想の増幅、ご苦労殿。

711 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 10:12:32
>>707古田先生の本は全部読んでるくせに、とぼけちゃって・・

712 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 10:12:53
>>704
> >>703
> オマエこそ答えられないからそんなクソ語を連発して攪乱して
> るだけのことだ。笑わせるな。PuPu! wwwwwwwwwwww

悔しいんだったらさ、ちゃんと答えてみろよ。

713 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 10:15:02
犬国はボケ老人だからしょうがないな。

714 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/08(土) 10:16:07
>>711
青森は畿内九州じゃぁないから、あれは関心うすい。そんなことで
とぼけてもしようがないよ。青森文書について本格的に書き
こんだことはないので分かろうよ。

715 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/08(土) 10:18:30
>>712
別にくやしくはな〜〜い。
くやしいのはいつも余の論に負けイクサのウヌだな。BuBuBu!!! www

716 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 10:19:17
>>706
>「鉄が先進国の証」という現代的な発想しかできない。

どうしても産業革命以降、現在に至るまでに果たした
鉄の役割のイメージを引っ張りすぎてしまうんだと思うw

考えてみれば鉄原料を加工する為には化石燃料も無い古代、木を使うしか無かった訳で…

例えば鉄製の鋤一本を作るのに木製の鋤何十本分の木を使うとなれば
どっちがパフォーマンス良いか分からないよねwww

もっと分かり易く言えば、鉄がそんなマジック・アイテムだったら
古代ヒッタイトはエジプトを滅ぼしているっちゅう話しwwwwwwwwww



717 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 10:28:46
>>715

>別にくやしくはな〜〜い。
>くやしいのはいつも余の論に負けイクサのウヌだな。

だからさ、そう言うことはちゃんと答えてから言えよw

718 :ローガン:2008/11/08(土) 10:29:31
>>694
> 普通に読んで、普通に考えればそれでいい。

一口に普通といってもその「普通」にレベルの違いがあるでしょう。

> 弥生時代の九州の鉄器の出土は畿内の50〜100倍であった。
> これは九州の方が先進地域であったと普通に考えれば良い。

その元になった資料は弥生時代→古墳時代の鉄器の出土量の変化を著したもの。
しかも弥生時代の終わりがいつか?は各府県担当者の主観に委ねられたものであり当然ながら、統一した実年代に基づくものではない。
よって「50〜100倍」といった数字のみ一人歩きさせ、それが邪馬台国期の鉄器量を表すというのは「普通」ではない。
勿論、九州が先進地方であり、畿内が後発であることを否定するつもりはありませんが。

> △は日本で550面以上出土、中国、朝鮮では0面。
> 故に、日本製であるとして完全に決着済みとすべし。
> 「上級者向け」には、中国で日本向けに特鋳したとか、書いてあるかもしれんがww

これについては後述します。

719 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 10:35:21
>>716
鉄は当時では先進性の証だよ。
ただ、それと総合的な生産力とは別の話。



720 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/08(土) 10:41:01
>>717
だからオマエも悪口など止めてちゃんと論説をしろ。無いのか??ww

721 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 10:44:59
>>719

鉄は「先進」ではないよ。

九州に鉄が多いのは、九州を経由して鉄が列島に入ってきたという証明にしかならない。

仮に「鉄は先進」と定義したからといっても、「権力の中心」と定義する論拠に乏しい。

722 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 10:50:55
卑弥呼は「鏡がすき」とは魏志倭人伝に書いてあるが、
卑弥呼は「鉄が好き」とは書いてない。
鉄を取ってたのは、ただの倭人。
さて、△鏡の話をするが、卑弥呼がもらった鏡百枚が全て△とは決められない。
△が全て国産でも、卑弥呼は別の鏡を魏からもらったかもしれない。
無駄な議論としか言えない。

「卑弥呼は鏡がすき」という点だけ見れば、
鏡は畿内中心に配布されているのは事実。

もし、九州中心に同系の鏡が大量に出土してるなら、九州に卑弥呼がいたと考えてもいいが、
事実はそうではない。ここ重要。


723 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 10:54:04
>>718

横から失礼

> > 弥生時代の九州の鉄器の出土は畿内の50〜100倍であった。
> > これは九州の方が先進地域であったと普通に考えれば良い。
> その元になった資料は弥生時代→古墳時代の鉄器の出土量の変化を著したもの。
> しかも弥生時代の終わりがいつか?は各府県担当者の主観に委ねられたものであり当然ながら、統一した実年代に基づくものではない。
> よって「50〜100倍」といった数字のみ一人歩きさせ、それが邪馬台国期の鉄器量を表すというのは「普通」ではない。

「100倍」のネタ元で思いつくのは、ドン来いの安本な人がよく引用する例のサイトにあるグラフだねえ。
確か、鉄鏃の出土が一番多い福岡県と畿内で一番少ない奈良県の出土数の比率じゃなかったかな?
2世紀以前の畿内で特異的に少ない奈良の事例を「畿内全体」に粉飾している点は安本流のテクを踏襲しているが、
まあ、10倍くらいと言うなら十分同意できる範疇の説ですね。

> > △は日本で550面以上出土、中国、朝鮮では0面。
> > 故に、日本製であるとして完全に決着済みとすべし。
> > 「上級者向け」には、中国で日本向けに特鋳したとか、書いてあるかもしれんがww
> これについては後述します。

後述される前に書きますが、紀年鏡群を含めて舶載の可能性は無いでしょうね。
「特鋳」というような事象が、三角以外で確認されていない(存在しないとも言う)ことから、
中国や楽浪で流通しない鏡が、倭に輸出されることは有り得ません。
と、言うことは、三角の意匠は倭地オリジナルのものであって、例え製造集団が外来者でもそれは「国産」鏡です。

724 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 10:57:40
>>720
> >>717
> だからオマエも悪口など止めてちゃんと論説をしろ。無いのか??ww

だから、悪口しか書けないのはオマエの方だろう。
さっさとレスに答えろと言ってるんだよ。

>> 編纂当時だって、隠したって大陸の古文献に五王らが将軍号をもらってると
>> 書かれているんだから、隠したって当時の日本人がそれらをいずれは読むに決まっている。
>> だからそんな将軍云々を紀に隠したってバレるのは時間の問題。

>時の経過により、バレるのは当然だろう。
>現にバレてるわけだがw

オマエはこのツッコミに答えられなくなってから、ボケしか飛ばしてないぞw

725 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/08(土) 11:03:40
どうやら△は国産鏡だから卑弥呼がもらった鏡ではなく、これでは
卑弥呼の国が畿内にあったという論は不成立である。おまけに記紀
にはスズメの涙ほどしか卑弥呼の記事はなく、しかも倭人伝からの
借り物の副流煙的モノであり、主流煙たる独自の卑弥呼の記載は
記紀にまったく無いと言ってよい。だから「台馬」の主流煙は記紀
にはなく、記紀に「台馬」を九州した主流煙の痕跡は見られない。

このことは畿内には卑弥呼の女王国は無く、畿内に卑弥呼の情報が
得られにくい九州に卑弥呼の国があったことを物語っているのだ。

726 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/08(土) 11:05:48
>>724
バレるサ。オマエばれないと思っているのか?? これはだ、
オマエの豆脳が経験幼稚であることを吐露してるにすぎない。www

727 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 11:06:18
>>725

ボケ老人に成り切って、見過ごしてもらおうと言う演技ですね。

728 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 11:10:04
>>725

九州の卑弥呼は鏡がすきなのに、
それより大量の鏡を畿内王権は近畿に配布してたということだけど、
それでいいね?



729 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 11:11:50
>>725 犬国
三角縁神獣鏡が国産であったとて
それは魏からの下賜品でなかったという事に過ぎない。

お前もこの板の邪馬台国スレの固定やっているんなら
そんな恥ずかしい書き込みをするな。


730 :v:2008/11/08(土) 11:12:23
ど田舎富山DQN男の家族消えろ ど田舎富山DQN男の親消えろ ど田舎富山DQN男の子供消えろ ど田舎富山DQN男の親戚消えろ
ど田舎富山DQN男の家族消えろ ど田舎富山DQN男の親消えろ ど田舎富山DQN男の子供消えろ ど田舎富山DQN男の親戚消えろ
ど田舎富山DQN男の家族消えろ ど田舎富山DQN男の親消えろ ど田舎富山DQN男の子供消えろ ど田舎富山DQN男の親戚消えろ
ど田舎富山DQN男の家族消えろ ど田舎富山DQN男の親消えろ ど田舎富山DQN男の子供消えろ ど田舎富山DQN男の親戚消えろ
ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・)
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね
苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね
苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね
苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね
死ぬとき このレスの事思い出してから地獄へ行けよ
ニヤ(・∀・)ニヤ(・∀・)

731 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 11:12:38
>>726

> バレるサ。

じゃ、それで決まりだ。
倭の五王の朝貢が記紀で隠されていることは認めるわけだ。

「卑弥呼の記載は記紀にまったく無いと言ってよい。だから・・・」
と言う論理も撤回しなさい。




732 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 11:15:07
>>730

犬国、答えに窮してアラシに転じたか?

733 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 11:15:46
ボケを演じたり、アラしてみたり、忙しいことだなあ。

734 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/08(土) 11:21:19
>>728
だろうな。そういうことになる。倍暦の計算からは

崇神3年=景初3年=239年=紀の崇神七年(摸の同床共殿策の翌年)

だから、同策での鏡を当時の人民へ配ったとかして〜それがうんと
畿内から出てくるわけだ。倍暦が信用できないなら、記の崇神の崩年
干支258年からの逆算でも上記等式と1年違いだから、正確度は
高いだろう。つまり△は卑弥呼のもらった鏡ではなく、崇神関係鏡。

735 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/08(土) 11:27:42
>>731
オマエどうかしてるんじゃないのか? 卑弥呼の国を紀が隠し
たんなら、紀に神功39年等の記事も卑弥呼が分かるので紀に載せは
しない。それが載ってるということは隠したんじゃぁないことに
なる。隠すんならそんな同39年の記事は抹消してるぜ。
それを考えれば五王なんか九州の短命政権で、隠す必要もなく、
情報が舎人親王らが得られないから、卑弥呼と同様に独立した記載が
紀に無いわけで、こういうことは五王が天皇ではないことを意味して
いる。ということは五王は九州小国の王だと見るのが相当なのである。

736 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 11:28:31
>>734

畿内王権の象徴の△鏡は500枚。

九州の卑弥呼の鏡(未確認・未発見)は100枚。

力の差は歴然ですね。

737 :万年ロム夫:2008/11/08(土) 11:29:58
こ、これが噂の自演ですか(Θ_Θ) 嬉しい!見事なまでの分かりやすい自演に感動すら覚えたY(>_<、)Y

738 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/08(土) 11:31:13
>>736
そうだと思う。だから九州小国、九州王朝は滅亡したんだろう。
朝廷のほうは永続政権となったわけ。さあメシだ。またあとで・・・

739 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 11:56:29
九州は王朝と呼べるほどのものだったのだろうか?


740 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 12:07:45
>>735

> オマエどうかしてるんじゃないのか? 卑弥呼の国を紀が隠し
> たんなら、紀に神功39年等の記事も卑弥呼が分かるので紀に載せは
> しない。それが載ってるということは隠したんじゃぁないことに
> なる。隠すんならそんな同39年の記事は抹消してるぜ。

勝手な読み替えをして、誤魔化そうとしてもダメ。
紀の「記事」じゃない、誰が書いたかわからない「註」だ。
こんな基本的なことを「間違える」のはイケナイことだね。

> それを考えれば五王なんか九州の短命政権で、隠す必要もなく、

オイオイ、倭の五王は5世紀100年間を通じて中国王朝と通好していた政権だよ。
その前と後は、中国側が戦乱状態で交渉記録が途絶えているだけ、けっして「短命」じゃjないだろう。

> 情報が舎人親王らが得られないから、卑弥呼と同様に独立した記載が
> 紀に無いわけで、こういうことは五王が天皇ではないことを意味して いる。
> ということは五王は九州小国の王だと見るのが相当なのである。

オイオイ、武の称号を見ろよ。
使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭王だよ。
これは、当時の極東地区では、高句麗、百済につぐ序列の称号だぜ。
極東ナンバー3の所在が九州にあったとすると、半島への大和朝廷の外交使節や遠征軍は、
「九州王朝」のお膝元を何度も行き来しているのに、その存在を感知できないってことになるぞ。
紀にだって、半島関係との外交記事はあるし、伝記・資料も豊富に引用している。
それを「得られないから」とする根拠はなんだね?



741 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 12:20:21
>>91
>http://yamatai.cside.com/katudou/bonntiko.htm

この安本の地図だけど、
明日香村あたりに銅矛が出土したマークがついてるけど、どこの遺跡?
まさか安本の捏造じゃないよね?

742 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 12:32:47
宋書を読んでなかったんだろ、記紀の編纂者は。もしくは誰か分からなかったので載せなかったとか。

魏志は読んでて、卑弥呼=神功皇后として、紀の実年代比定の重要な定点に使ってる。

743 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 12:43:10
第一、古奈良湖っていつの時代の話だ?
地球の気温が高かった縄文時代の海進期と
古墳時代の話を一緒にするなよ。

744 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 12:59:49
>>743

全く笑っちゃうよな。
もっともらしく、他人様の作った資料を転用してしてるが、その説明・解説は何もしない。
自説の都合に合わせて、そこに只貼っとくだけ。
図のシャドウ部分が湖だと言うなら唐古は湖の中になっちまうw
だから、「説明」を載せないわけだが、安本信者の初級クラスだと安本の言ってることが、
図の製作者によって論証済みかのように見えて騙されてしまう。

745 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/08(土) 12:59:56

安本美典氏は「つづりかた兄弟」の安本?
誰か知っていますか?

746 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 13:02:02
すみません、明日香村で銅矛が見つかったという遺跡を教えてください。

747 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 13:30:58
>>699
弥生時代は、   九州>>>越えられない壁>>>畿内
ってのは、はっきりしているわな。

鉄器に関しては、畿内は明らかな後進地域、出雲の足元にも及ばない。
鏡は環濠集落からの出土は皆無で九州の100分の1以下。まあ九州の鏡は
破鏡だから正確な数は不明ではあるが。
絹も100倍以上九州から出土する。

この状況を無視して自分の著書には一切書かずに、農業生産力がどうたら、
王権が連合によりなんとか、とか寝言は寝て言えよww

しまいにゃ鉄は全く無関係とか、鏡は畿内だけ伝世品だとか、頭が膿んでいるんじゃ
ねえのか。そんな寝言は学界だけにしておけww


748 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 13:30:59
>>745

「安」教授ネタに振りたいのですか?
だったら作品名が違います。
「つづりかた兄妹」の作者は安本姓ではありません。
多分、王朝さんの頭にある作品は「にあんちゃん」ではないですか?
こちらの作者は安本末子さんと言います。
安本美典は、満州に生まれ、岡山育ちですので、どちらの作品とも関係は無いと思います。

749 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 13:33:29
すみません、明日香村で銅矛が見つかったという遺跡を教えてください。


それとも、>>91の地図は「捏造」なんですか?w




750 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 13:33:30
>>747

「100分の1」
「百倍」

アンポン教徒かどうかを識別するキーワードだなw

751 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 13:36:52
>>744  やしいのいう、くやしいのうww

>>741の元の地図でも網掛けなんだもんなあ。
あの地域から遺跡がほとんど出ないことは公知の事実。

あれを湿地帯にされると奈良盆地の農業生産力がどうたらという寝言は
消え去るわなあ。マキムク遺跡にも田は無かったよねえ。

まあ伊達は「水支配」という言葉で、あたかも農地であったかのようなニュアンスを
最大限出そうと努力しているが・・・言葉遊びには誰も付き合ってくれないねえ。

752 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 13:37:53
もともと心理学者だし、読者(卑弥呼オタ)の心理を巧みについて
ひと儲けを企んだのではないの?
つまり、安本は、読者の望む方向に説を展開していったのだ。

753 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 13:41:38
>>751

アンポン教徒!キター!!!!

754 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 13:42:59
>>747
でもねえ…

実際問題として鉄器の保有数の逆転が起こる前に
古墳時代に入ってしまうと言う厳然たる事実があるわけでw

学会の言う事が寝言でも皆寝言の方に信を置くわなw

まあ精々、夢の世界、脳内わーるどで覚醒しておいてくれwwww

「ムー」とかアレ系の新興宗教であるのかな?
 
  「 目覚めよ!選ばれし戦士達!」

とか?wwwwwww



755 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/08(土) 13:49:37
>>748
ありがとう。
「つづりかた兄妹」の長男か、にあんちゃんではないのかな?とふと思ったので。
安本美典氏は京大卒なので。

756 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 13:49:43
>>754

鉄製品の普及度だけなら、多分4世紀まで九州>畿内でしょう。

畿内で製鉄が始まる5世紀までは、九州が鉄の供給源であることに変わりはない。

757 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 13:49:49
すみません、明日香村で銅矛が見つかったという遺跡を教えてください。


それとも、>>91の地図は「捏造」なんですか?w



758 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 13:52:35
>>752

> つまり、安本は、読者の望む方向に説を展開していったのだ。

まあ、そういったところは古田も関もみんな同じだね。
彼らの支持者は「読者」だけなんだから。

759 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 13:55:35
>>754
畿内の後進性の問題は正面から認めたほうがいいよ。

畿内での鉄や鏡の出土量が九州より圧倒的に劣っていることを
まず、グラフや図ではっきり示すことが先決。

言い訳があるから無視している、という理屈ではダメだろ。

それが学界の高度な議論ってのが笑えない事情ではあるが・・・


760 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 13:59:08
>>759
ん?

鉄器の保有数が九州に圧倒的に分がある事を否定していないが?w

その鉄器保有数に劣る畿内中心に古墳時代に入って行く
>>754で言っている事に何か事実誤認でもあるのか?wwwwwwww



761 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/08(土) 14:02:08
>>740
どういうゴマ化しをしたというんだ? 〜それは紀の註だよ。なに
誰かが挿入したとして紀無い節を擁護するのか? 別に註でないと
したって構わんよ? どんなドデカい利害があって卑弥呼の記事を紀
が隠したって妄想するんだ? 隠すまでもなかろう。朝廷が幕末の
幕府をやっつけたように、女王国を滅亡させたと書けばいいでは
要するに卑弥呼の国に勝戦したことを書けばいいことろうが。
こちらは隠し立てなんぞやってないぜ。オマエの妄想だよ。

五王は朝廷より小国だよ。勢力は朝廷より大ならばそろそろ記紀にも
その威勢が載るだろう。朝廷より小国だよ。

短命だろうが、畿内の朝廷より長命か〜?? あ〜ん? 短命だよ。
朝廷より長命なら根拠を出せよ。それこそ五王は萬世一系的だぞ。w

得られにくいからいまだに邪馬壹国だ邪馬臺国だ〜卑弥呼は独りだ〜
職名で多数だと妄想のオマエも加わって現代でも争っているんだよ。
大陸でも女王国の名がいずれなのか臺と壹とでバラバラだ。大陸にも
女王国の情報があまり多くなかったからだよ。それが少し取れて
九州の状態が分かってきたことから倭人伝ができたんだろうが。
こういうことを考えてからデカい口をたたけ。wwwwwwwww

762 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 14:06:22
おいおい。ここの人は、誰も答えられないの?

>>91の地図で、明日香村で銅矛が見つかったという遺跡を教えてください。

これこそ、神武東征、邪馬台国東遷の証拠じゃないですか?w


それとも「捏造」なんですか?






763 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 14:09:09
>>752
確か安本センセイ神功皇后が「乖離性人格障害」とかなんとかいってたんじゃなかったっけ?w


>>758
>彼らの支持者は「読者」だけなんだから。

まあ作家は自著を買ってくれる読者がいてナンボだからなw

穿った見方すれば自分の言う事を100人中1人しか信じてくれなくても
1000人を相手すれば10人、10000人なら100人信じてくれるwww

764 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 14:13:31
>>760
江戸時代に入っても大阪が経済の中心であったことと同じだよね。
鎌倉時代でも京都の方が栄えていたってのとおなじだよね。

九州から東遷してもしばらくは九州の方が上だったっていうのは、
俺も否定していないよ。

しかし、「元は九州の方が圧倒的に上だった」ってことを認めずに、
鉄とか鏡は無関係で元から本州の勢力が力が上だったという
方向に持っていこうとするのは、見当違いだってこと。

畿内・吉備連合とかの妄想はネタじゃないんだろ。

765 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 14:16:47
>>764

>しかし、「元は九州の方が圧倒的に上だった」ってことを認めずに、
>鉄とか鏡は無関係で元から本州の勢力が力が上だったという
>方向に持っていこうとするのは、見当違いだってこと。

残念ながら、全然間違い。
そもそも、弥生初期の鉄が無い時代は、九州はただのド田舎。
巨大銅鐸を作ってた近畿の方が上だよ。


766 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 14:17:16
畿内では環濠集落からの鏡の出土が皆無ってことは、触れないんだね。
昔は、鏡が伝世して、古墳に埋められたとかいうトンデモ説もあったなあ。

というより、前提の環濠集落からの鏡の出土が皆無ってことは、認めなかった
わけだがwww

それが、学界クオリティーwwwwwwww

767 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 14:19:02
おーい、早く誰か、答えてくださいな。

>>91の地図で、明日香村で銅矛が見つかったという遺跡を教えてください。

これこそ、神武東征、邪馬台国東遷の証拠じゃないですか?w


それとも「捏造」なんですか?


安本センセの「捏造」なんですか?




768 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 14:23:54
>>764
くどい奴だな。
だから「鉄器の保有数が九州に圧倒的に分がある」つってんだろうが馬鹿。

で東遷してまだまだ貧弱な鉄器でもって全国制覇したのかよ?って話しだw

もうそんな自爆しまくりの邪馬台国東遷説なんか誰も相手にしてないぞw
ぶっちゃけ九州説の関や武光にすらあっさり否定されている始末wwww

ちなみに森浩一は東遷でも伊都国東遷説だったなwwwwwww

769 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 14:25:07
>>765
銅鐸の時期を古くすることによって、九州の鉄とのバランスを
取ろうとした昔の説だね。

九州に前漢鏡が来る前の時期に、畿内では銅鐸が・・・って説だよねえ。
しかし、銅鐸が最終的に埋められたのは、古墳時代開始期だよねえ。

九州で青銅器が巨大化した時期と畿内で銅鐸が巨大化した時期は
同じとしたほうが良いんじゃないの。

銅鐸にすがって、畿内の後進性を否定しようとしても、初期の銅鐸の鋳型は
九州で多く出土して、完成品が本州で出土している事実は否定できないねえ。
それとも、鋳型より先に完成品ができるのかなあwww

770 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 14:25:40
>>761

>どういうゴマ化しをしたというんだ? 〜それは紀の註だよ。なに
>誰かが挿入したとして紀無い節を擁護するのか? 別に註でないと
>したって構わんよ? 
>隠すんならそんな同39年の記事は抹消してるぜ。

>>735でオマエさんが言ってたことはこうだ。まだ、二時間ちょい前のことだぞw
>オマエどうかしてるんじゃないのか? 卑弥呼の国を紀が隠し
>たんなら、紀に神功39年等の記事も卑弥呼が分かるので紀に載せは
>しない。それが載ってるということは隠したんじゃぁないことになる。

オマエは紀が「卑弥呼」の存在を隠したかどうかの論拠として、
神功紀に書いてあるか隠す意図などないと言ってるわけだろ。
記者不明の註では論拠として成立しないんだからさ、
そう言う場合の言い方は「構わんよ」じゃないだろう。
潔く「撤回します」と言うのがまっとうな論者の言うことだ。


771 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 14:35:56
>>764

君は東遷説だね?

じゃ、答えて欲しいけど、
>>91の地図で、明日香村で銅矛が見つかったという遺跡を教えてください。

これこそ、神武東征、邪馬台国東遷の証拠じゃないですか?w


それとも安本センセの「捏造」なんですか?




772 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/08(土) 14:35:55
>>770
そんなことはどうでもいい。要するにだ、刑事裁判級の証拠までは
古代史では必要はな〜い。必要なら卑弥呼の女王国がエジプトにあっ
たとかムー大陸にあったとか、ひいては火星にあたっとかの説まで
も完璧に証拠証拠でつぶすことは出来ない。そこが常識の範囲だ。
そういうことを云うオマエはこういう女王国火星だとかエジプト
だとか月にあったとかまで肯定の範囲に入れるのか〜??

もしそうならオマエの豆脳にはオマエのトイレの便器壁の〜オマエの
糞の残滓のような腐敗物思考がタップリと収納されているような状況
にあるというとになってクるゾ!www 大丈夫か〜>?wwwww

773 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 14:39:07
>>766
鏡の伝世がトンデモ説とな。ビックリ!
京都府天橋立の遷宮伝説を持つ籠神社の伝世鏡はトンデモないことなんだ。

774 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 14:46:17
>>761

> 五王は朝廷より小国だよ。勢力は朝廷より大ならばそろそろ記紀にも
> その威勢が載るだろう。朝廷より小国だよ。

朝廷より小国なのが極東ナンバー3なのか?
新羅や加羅より上位の勢力なのか?
ヤマトタケルは九州くんだりまで遠征して、極東ナンバー3王朝さまの存在には気づきもせずに
熊襲征伐をやってたのか?
ちゃんと答えろよ。

> 短命だろうが、畿内の朝廷より長命か〜?

主題をずらして誤魔化すなよ。
>>735でオマエさんはこう言っている。

> 五王なんか九州の短命政権で、隠す必要もなく、
> 情報が舎人親王らが得られないから、卑弥呼と同様に独立した記載が紀に無いわけ

倭の五王時代の長さを言ってるんだろ。
朝貢などの国際交流を100年間に渡って続けている王統だ。
この時間は「隠す必要もない」ほどの「短命」なのか?
世代数で言ったって3世代分の長さだ。

他国の文献をしきりに引用する紀の編者たちに、この国際的に認知された政権の情報が
「得られないから」と言い張る根拠を訊いているのだ.。

> こういうことを考えてからデカい口をたたけ。wwwwwwwww

デカイ口をたたきたかったら「中身」のある答で返して欲しい。

775 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 14:51:22
>>766

>>91の安本センセの地図には、
唐古・鍵に鏡出土のマークがついてるよ?

それとも「捏造」なんですか?w




776 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 14:52:23
>>772

潔くないなぁw
で、結局罵倒だけの「中身の無い」レスで誤魔化すの?
ダメダメ、ちゃんと答えてくれないと二度と「デカイ口をきくな」なんて言えなくなるよw



777 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 14:54:24
犬国はマケ犬。

778 : ◆.L.MXSPOgc :2008/11/08(土) 14:55:57
>>679,702
魏志倭人伝は2000文字程度なのですぐに全文読めますね。
記紀は、読むと時間がかかりますが、はっきり言うと邪馬台国がらみのことは一切書かれていません。
鏡関係の話は、考古学あたりのまじめに書かれた本などを読むのが一番早く確実と思います。

ここにいる人たちの多くは10年以上同じようなことを考えていると思うので、
ネタがなくなって手を広げていった、って感じじゃないでしょうかね。

邪馬台国ってどこ?というのでしたら、ぜひ私の説もお読みくださいw
http://yamat-2007.blogspot.com/

新しい発想で読み解いたオリジナリティーあふれる説で、今までの疑問が全て解決されています♪
・・・とかって書くとすごく胡散臭いなw

779 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 14:58:19
>>775

自ら安本タンの話にかかわると・・・・後悔するよ。
今、ここにはまともな教徒は一人もいないから。
あっ!教徒だったら、もともと「まとも」じゃないかw
こりゃまた失礼いたしました・・・・

780 :ローガン:2008/11/08(土) 14:58:31
>>723
> 確か、鉄鏃の出土が一番多い福岡県と畿内で一番少ない奈良県の出土数の比率じゃなかったかな?

そうですね。奈良県では、ホケノ出土を弥生時代としていない為、グラフに載らなかった。

> まあ、10倍くらいと言うなら十分同意できる範疇の説ですね。

はい。弥生時代通じて10倍なら違和感はないですね。


781 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 14:59:49
犬国さんも遠吠えモードになったままだし、そろそろ帰るとするか。

782 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 15:05:04
>>769
九州では銅鐸鋳造の下請をやってたのか。これでは弥生時代の早い時期から
九州が大和の支配下にあったことになる。銅鐸は全部本州に搾取されました。

783 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 15:12:53
すみませんが、どなたか教えてください。

>>92の安本センセの地図では、
唐古・鍵遺跡に鏡出土のマークがついてますが、
>>766の人は、畿内では環濠集落からの鏡の出土が皆無と言ってます。
どちらが、ウソつきなのでしょうか?

また、
>>92の安本センセの地図では、
明日香村あたりに銅矛の出土マークがあります。
どこの遺跡から銅矛が出たのか、教えてください。


784 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 15:14:35
安本センセの地図は、
>>91の間違いでした。申し訳ない。
http://yamatai.cside.com/katudou/bonntiko.htm


785 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 15:29:58
>>784の心底が余りにミエミエなので皆にスルーされている件

786 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 15:39:50
犬さんは、只今トイレにこもって長文の「遠吠えだけ」を執筆中。

787 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 15:54:41
鉄は重要。それは学者もみんな認めているはず。
でも、弥生後期の畿内からの出土は非常に少ない。
だから、溶けたとかリサイクルとかいう説が出てきた。
最近は、鉄は大して重要ではないなどと言う声も聞く。

こんなんで良いのかね。

788 :ローガン:2008/11/08(土) 15:54:51
>>723
500面以上の△が全て舶載だと考えている訳ではありません。
多くが国産でしょう。新井氏言う所の「花輪鏡」ですね。これには同意です。
前期から中期にかけての古墳に於いて必須アイテム化する以前に、それら花輪鏡のモデルとなったのが舶載された△だと思います。
7期V段階に近いもの、つまりあまり縁の角度の鋭くない紀年鏡等が該当するように考えます。
又、貨幣経済が存在しなければ、書かれるはずもない銘文が散見しますので、まず日本で造られたものではないでしょう。

789 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/08(土) 15:55:38
>>774
オマエも妄想が激しいなぁ。w 五王は神功か應神の代からの時代
からだ。それともヤマトタケルはタイム・マシンでも作ってたという
のか〜?? オカシイねぇ〜〜BuBuBuBuBu!! wwwww
そういうことを云うなら、オマエはイマからでも精神病院でも行って
診療医にでもオマエの豆脳を診てもらえ。ヤマトタエkルの時代に
五王の情報ななんかヤマトタケルがとれるわけがない。オマエはすぐ
精神科へ急行せよ。wwwwwwwwwwwwwwwwwwww

時代をズラしてゴマ化すなよ。wwwwwwwwwwwwwww
それともオマエまともに五王が景行の代に生存してたとでも主張
するのか? PuBuPuBu!! wwwwwwwwwwwwwww
そうだろうなぁ〜 100年とか続いてたとか抜かすから、そのうち
神武のころの世に五王がいたとか、挙句の果てには幕末に五王が
いたとか噴飯モノをゴリ押したいのだろう? そんなに長期政権
なのか〜?? ハッハッハッ!!wwwwwwwwwwwwwww

オマエは相当史離滅裂になっているようだ。そんなに毎回余に
負けてギリギリしてたのか〜??wwwwwwwwwwwwww

今日もトイレでオマエの史離をまくって、五王とヤマトタケルの時代
が同一の時代か〜よ〜く考えるんだな。wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

790 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 16:10:07
>>785

なにが?

安本センセの地図が正しいかどうか、確認したいだけじゃないの?
盆地湖の話をしたのはそっちでしょ?

791 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 16:13:11
>>773
「三角縁は全部伝世した」っていうスーパートンデモ説のことだお。
頭の構造が普通じゃないよね。

唐古・鍵遺跡からは、鏡の破片が出ているお。
時期はちょっと良く分からんが。
九州以外では環濠集落での鏡の出土が極端に少ないってのは、事実だお。
でも、それをはっきり書くことはタブーだお。

>>788
紀年鏡だけは舶載っていう「壇ノ浦の舶載説」ってやつですね。
三角縁の図案の抽象化の過程では、紀年鏡は初期ではないお。
だから、岡本は1〜2年で数千枚を作ったという説なんだお。

792 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 16:18:22
>>791

そうですか、唐古・鍵遺跡からは、鏡の破片が見つかってたわけですね?

では、銅矛はどうなんでしょう?
明日香村あたりから見つかってました?

793 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 16:32:33
唐古・鍵遺跡から見つかったとされるのは、鏡の破片ではなくて、
鋳型の破片では?
でも、本当にそうなのかな。
銅鏡の鋳型は、ほとんど出てこないと言われるが。

794 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 19:00:28
>>787
>最近は、鉄は大して重要ではないなどと言う声も聞く。
>こんなんで良いのかね。

良い。
何ら問題無い。

鉄器の保有数において大和はかなり劣ると言う状況のまま
古墳時代に入って行くと言う事実があるのだから。

その事実を直視すれば鉄器の保有数のアドバンテージを絶対的なものに見る方がおかしい。

まあ今までの『 九州の優位性を示すネタ 』 を否定されて悔しいのかもしれんがw

普通に考えればそうならざるを得ないのだから
諦めなさいwwwwwwwwwww


795 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 19:11:30
>>794
それを言うなら、全ての財貨や威信財の保有数が劣るという状況のまま
鎌倉幕府ができたとも、江戸幕府ができたともいえるわな。

つまり、古墳時代の前に繁栄していたのは、どこかってことになると九州っていう
答えがはっきりしている。あとは、東遷を認めるかどうかだけだわな。

鏡が極端に少ない畿内に鏡文化なんて特殊なものを持ち込んだのは九州だわな。
記紀も先代旧事本紀も古語拾遺も新撰姓氏録も東征を伝承している。

はい、これにて東遷も確定。

こんな当たり前のことを「皇国史観」とかいって否定するバカな連中が
自分を学者だとか言い張るなよ。

796 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 19:31:02
>>795
何か訳の分からない事を言っているが・・・w

邪馬台国の東遷があろうと無かろうと
鉄器の少ない畿内を中心に古墳時代を迎える

…先ずこの時点で従来九州説おろか畿内説も乗っていた鉄器の絶対的アドバンテージは吹っ飛ぶw

大体
江戸幕府を開けたのは結局、諸大名が東軍=徳川に付いたから
例え話にするのなら、そのトータル兵力を鉄器や銅鏡に模すべきだなw

1/10とか1/100の兵力で徳川が天下とれたのか?ちゅう話しだよwww


797 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 19:41:16
>>795
>鏡が極端に少ない畿内に鏡文化なんて特殊なものを持ち込んだのは九州だわな。

例えば、畿内に出回る初期の銅鏡が九州の土器と共伴すると言う事実でもあるのか?

” 直接 ”に持ちこまれたと言う根拠を示せよw

でなければ

 「稲作も青銅祭器も九州からやってきましたがそれが何か?」

と言うレベルのお話wwwwww

てか和辻哲郎がこれだけ大人気なのもこの板ならではかな?wwwwwwwww

798 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 19:42:12
>>796
鉄が入ってきたから畿内が隆盛できたわけで
鉄無しではろくに古墳も作れないだろう?

799 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 20:22:29
結局のところ、魏志東夷伝倭人条による邪馬台国の記述は、北部九州のしょぼい
国々を限定的に紹介しているものだろう。

その頃は別途、畿内大和の連合大王家が存在し、吉備や出雲、遠くは尾張に
群馬あたりまでの国々と交易がなされていた。

そして、3世紀末頃には、北九州の邪馬台国連合は、畿内大和の連合大王家
に吸収・併合され、史実から完全に消え去っていった。

800 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 20:53:07
畿内大和の連合大王家は伊都国から派遣されたんだけどね。


801 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 20:58:51

>>800
ソースは?

802 :ローガン:2008/11/08(土) 21:06:48
>>791
> 紀年鏡だけは舶載っていう「壇ノ浦の舶載説」ってやつですね。

あはは、面白いですね。崖っぷちかな。

> 三角縁の図案の抽象化の過程では、紀年鏡は初期ではないお。

近藤喬一氏は紀年鏡は△の初現期のものだって言ってた様に記憶してますが。さておき、その「抽象化の過程」についてはよく知りません。
職人の巧拙に拠るものでは無いのですか?


803 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 21:17:40
しかし「銅鏡」と「鉄」

その出土量が畿内と九州で逆転するのにタイムラグがある。

…これって東遷説にとって結構悩ましい問題なのかな?

特にこの板で頑張っている安本な人は「緩やかな連合体」なんてモデルは認めないのだから
銅鏡を配布しての融和政策なんて考えないだろうw
むしろ生産力、軍事力向上の為、鉄器の方を優先すべき…となるはずだwwwww

804 :日本@名無史さん :2008/11/08(土) 21:35:01
鏡が破壊されているっていうのがどうにも不思議。
須恵器ならば割れてもしかたないけど。
そんなに簡単に割れるものなのか。たたき割ったとか。
それと、九州では後漢鏡と一緒に、多くの三角縁が一緒に出てきたりしている。
それがとても不思議。

どう考えても九州の古墳の方が全然古い。
壁画などを見てもかなり原始的。
規模も小さいものが多い、北部九州は。
その後に時代だと思われる熊本の古墳は何か異国的で
豪華そのもの。
そして近畿古墳は大規模で整頓されていて、
壁画も高松塚古墳に見るように、かなり完成されたもので新しさが漂う。
高松塚古墳は後期のものだが。

そもそも竪穴式は古墳が巨大化したから、
必然的に竪穴になっただけで、
横穴式のほうが古いといえる。
博多の西の今宿古墳群には数百年の長きに渡って古墳が同じところで
全国的にみても珍しいそうだ。


805 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 22:01:43
いまのアテネがショボいからといって古代アテネがショボいという馬鹿は
いない このスレ以外は

806 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 22:16:19


くりかえしですみませんが、明日香村で銅矛が見つかったという遺跡を教えてください。


それとも、>>91の地図は「捏造」なんですか?w


東遷説のあなた、どうなんですか?ご存知ですか?>>795



807 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 22:28:34
東遷というより伊都国朝廷から派遣されたのが大和大王家幕府なんだけどな。

808 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 22:36:59
>>807
馬〜〜〜〜〜鹿!

809 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 22:46:38
天皇家が伊都国から派遣されたのか女王国から派遣されたのか悩ましいところではある。

810 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 22:51:09
初代神武将軍が興した畿内幕府はいつしか伊都主家を経済力で凌駕したんだよ。

811 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 22:53:52
【ヒキ一族】と麻原彰晃って同じに見えない。

 ああ、絶対区別ついてないよな、現実と嘘の。だなあ、絶対邪馬台国が現存してると思ってるよな。
 そうだなあ、【ヒキ一族】は卑奴母離だもんな。男じゃないしな。異性に嫌われるもてないインポだもんな。
 自分の中の嘘が外でも通ると思ってるよな。エンタープライズの中にいるとかいいそうだなあ。
 そういや、小室哲哉捕まったんだって。詐欺だってなあ、容疑。あれっ、昔小室が浜田と組んだときの歌の替え歌
 あったなあ、オウムバージョンの。H−ジャングルか、時代が変わって忘れたなあ、もう。
 ♪〜 ヘーイ ヘイヘイ 時には起こせよ ポア 〜♪
 てことは、本来は穢者を殺すから・・・、【ヒキ一族】殺すってことだな。
 ♪〜 ヘーイ ヘイヘイ 【ヒキ一族】を ポア 〜♪
 売れないだろうなあ、当たり前すぎて。ゴキブリ殺す歌が売れるとは思わないもんなあ、当たり前でなあ。
 小室も【ヒキ一族】も終わりか。♪〜 毛 終わりだね タオイズムが 小さく見〜える 〜♪

812 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 22:55:53
× 初代神武将軍が興した畿内幕府はいつしか

○ 初代ならずもの=神武が定着した橿原部落は

813 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 22:57:57
>>802
紀年鏡を中心に原初鏡として、それだけは舶載とする説は、森田克行が
『東アジアの古代文化』99号で書いていますね。

デザインを区分して分けるだけだと、紀年鏡は△も画文も全部同向式だから、
ひとくくりにしやすいという利点があります。
△の同向式は枚数が少ないというのも利点です。

しかし、表現の変遷でみると、外区の抽象化の過程では初期には来ないようです。
そのためか賛同者はあまりいないと記憶していましたが・・・


814 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/08(土) 22:58:37
スサノオ命は高天原で大暴れしてるぞ。こっちのほうがまだ初代
だろうが?

815 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 23:04:19
O ×

チャンコロって存在が×だよね。えっ決まってるじゃん。
そういや×...。 チャンコロ = 罰 か。
存在自体が罰せられてるんだね。 なるほどな、人肉くうしな。
飢饉になると、家族同士でも食うんだって。食われると判ると部屋から出ないらしいよ。
じゃあヒキじゃん。なるほど、【ヒキ一族】か。ああ、外の世界(現実世界)では
驚くほど弱いからなあ。ああ、吃驚するよなあ。外で喰われるから出ないんだな。

816 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 23:10:36
なんで畿内説の奴が半島式にファビョるんだ?

817 :ローガン:2008/11/08(土) 23:21:19
>>813
どうもご教示有難う。外区の「抽象化」なのですね。調べてみます。

818 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 23:29:28
>>817  ソースが分かったら教えてください。

『シンポジウム三角縁神獣鏡』ではこの点は書いてなかったという記憶。
あの議論のなかでは、紀年鏡を特に原初に位置づける説もなかったはず。

岡村の『時代』には、景初4年より景初3年の方が外区の抽象化が進んでいると
いう形で書いてあった。

819 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 00:02:29
鏡作りは職人芸だから、技術者集団が存在したかではなく、
優れた職人一人いたかどうかで鏡の良しあしが決まる。
時代が新しいから良い鏡ができるといったものではない。
素人は、それがわかってないんだよな。

820 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 00:22:06
>>804
銅鏡は割れやすい。薄いものは固い床に落とすだけで割れる。それは成分比の違いによるもので、
鏡は澄み切った鏡面を得るため、他の青銅器にくらべスズが多量に加えられている。それゆえもろい。
青銅器でありながら「白銅鏡」(まそかがみ)とも、古代では称した。

竪穴式と横穴式の新古だが、地域差も考慮する必要あるが、一般的には竪穴式が古い。
これは須恵器との関係を読み解けば判明する。
須恵器は弥生遺跡には皆無で、古墳時代の途中から登場し、飛鳥・奈良・平安と継続する。
多くの横穴式石室に須恵器の副葬があり、竪穴式の古墳には墳丘まで含め須恵器が見られないものが
多数あることから、竪穴式→横穴式 と推移したことが知れる。馬具の副葬の有無も傍証となる。

壁画古墳は横穴式石室への推移を待たないと出現してこない。
「原始的」という印象だけで「九州の古墳の方が全然古い」と判断するのは誤った思考である。

今宿古墳群はお書きの通りで、重要な遺跡である。
この地域近辺の他の古墳や弥生時代の遺跡もあわせ、よくウォッチングしていただきたい。

821 :日本@名無史さん :2008/11/09(日) 00:41:42
>>820
むしろ須恵器を入れるほうが古いと考えられます。
よって
>古墳時代の途中から登場し、飛鳥・奈良・平安と継続する。
自体が疑問です。
時代が下ると埴輪になります。
此方の方は全国各地の古墳から埴輪が見つかります。
竪穴式、埴輪の副葬のほうがずっと時代が新しいと思える。
馬具の副葬についてはまたあとで。

822 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 01:34:28
>>821
>むしろ須恵器を入れるほうが古いと考えられます。
その根拠は?

>>古墳時代の途中から登場し、飛鳥・奈良・平安と継続する。
>自体が疑問です。
実際弥生時代や古墳時代前半期の遺跡からは須恵器は出土しないが
飛鳥以降平安時代に至るまでの遺跡からは須恵器が出土しているが?


823 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 03:19:59
>>794
石器よりも青銅器、青銅器よりも鉄器と言うのが世界の常識。
骨まで傷を負わすことの出来る鉄剣など、武器としてだけでなく、道具としても
鉄は非常に有用。

その常識に沿って考古学者は、畿内で鉄を探す。でも、見つからない。
だから、溶けてなくなったとか、リサイクルしているので出て来ないなどと
の解釈をする。ところが、青谷上寺地などからは湿地なのに鉄は出てくる。

だから、今度は鉄は重要ではないと言う。
東遷説を認めれば、それで済むことなのに、認めない。
要するに、畿内説が前提で、それに合わないものは常識でも却下する。
年代観でさえ変えようとする。それで良いのだろうか。
日本の考古学は、畿内説が壊しているのかもしれない。

824 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 03:45:20
17世紀に学者が適当に思い込んじゃった畿内説。

思い込み
1:日本の最高権力者って天皇以外にいたはずないじゃん
2;天皇は畿内にいたに決まってるじゃん
3:日本列島の代表国家は畿内にあったに決まってるじゃん
4:これに合わない都合の悪い資料は無視すりゃいいじゃん

この説を支えられるなら、
「鉄などどうでもよろしい」とか
「魏志倭人伝の描写が温暖なのはどうでもよい」だとか
「弥生の絹が北部九州からばかり出るのはどうでもよい」だとか
「箸墓は卑弥呼の墓に間違いない」だとか
「三角縁神獣鏡は舶載鏡に間違いなく卑弥呼のもらった鏡と断定できる」とか
「三角縁神獣鏡は国内産だから魏志倭人伝の描写にふさわしい」だとか
「巨大前方後円墳は邪馬台国の証拠」だとか

デタラメでも何でも言い出すのが畿内説です。

825 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 04:09:36
>>823
実際に鉄器保有数の逆転の前に古墳時代が始まっている現実はどうしようもないぞwww
言っている事が全くあさっても良いところ。
その実ヒステリックな恨み節w

「過去の鉄器に対する評価が間違ってました
 少なくとも再評価するべきです」
…じゃあいけないのかな?wwww

それとも、そのような方向転換する時は今までの論敵の許可を得なきゃならないのかな?

「勝手にルール変えるんじゃねえ! ウリは傷付いたニダ! 謝罪と賠償を!」
って言ってるとしかwww

それに…

 >東遷説を認めれば、それで済むことなのに、認めない。

はあ?仮に邪馬台国が東遷していたとしても大和からの鉄器出土量は変わらないぞ?
言っている事が支離滅裂wwwwwwwwwww


826 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 04:24:43
>>820-821
九州の「壁画古墳」って言うのはサイキバ君の大好きな装飾古墳?w

アレは横穴石室ができて恒常的な空間が確保でき
そこに出入りできるようになって(追葬も可能になって)初めてできたんだろう?
差詰、ペイントはあの世、冥界を現したものか?w

それに須恵器なんて半島からの外来の技術なんだから
あまりに年代を遡上させるのも限界あるべ?

はっきり言って>>804の言ってる事が良く分からない・・・。

827 :もうねますzzz:2008/11/09(日) 04:40:05
>>823
この際書いておくがw

要するにお前さんは畿内説の学者がコロコロ内容変えるのが気に入らなくて
ヒステリー起こしてんだろ?wwwwwww

別にええやんw

新しい研究結果に基づいてそれまでの自説を翻してもw
むしろ旧説にしがみ付く方が学問としての発展の障害。

九州説もどんどん変わって行けば良いし

いや九州説から畿内説、或いはその逆に立場を変える人間がいても良い。

よほど畿内説にうらみつらみがありそうだけど
藁人形に五寸釘打つ代わりに、この板で恨み節ぶちまけられてもねえwwwwwwww

828 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 05:36:47
>>827
恨み節はそっちだと思うが。

昔、椿井大塚古墳から三角縁神獣鏡がたくさん出た。
それで、三角縁神獣鏡を卑弥呼がもらった鏡にした。
ところが、年代が合わない。年代を合わせるために伝世鏡理論なるものが出来た。
まあ、そのうち、年代は合うようになったようだが。

箸墓は卑弥呼の墓であると言う説が出た。しかし、これまた年代が合わない。
合わせるために、年代が遡った。古墳編年も変わった。
大きさを合わせるために、後円部が先に出来、前方部はあとから付け足した
という説が出来た。しかし、調査の結果、同時に出来たことが確認された。

まあ、こんな調子だな。はじめに畿内説ありきで、そのために理論を組み立てる。

でも、三角縁神獣鏡をはじめ、畿内説の理論はだいたい崩れてしまっているが。

829 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 06:27:59

くりかえしですみませんが、明日香村で銅矛が見つかったという遺跡を教えてください。


それとも、>>91の地図は「捏造」なんですか?w


東遷説のあなた、どうなんですか?ご存知ですか?>>795 >>823



830 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 06:34:05
>>823

>東遷説を認めれば、それで済むことなのに、認めない。

安本センセの地図通り、>>91
明日香村あたりで銅矛が見つかってたなら、神武の居とも近いし、
神武東征の時期も含めて東遷説の大きな証拠となります。
それなのに、東遷説のあなたは、この重大な事実をどうして無視するんですか?
いままで知らなかったんですか?


831 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 06:40:28
こちらも、明日香村のどの遺跡で銅矛が出たのか調べてるけど、見つからない。

しかし、
ttp://www.town.tawaramoto.nara.jp/03_sightseeing/ruins/karako_kagi/karako-kagi_history.html
このサイトによると、
唐古・鍵遺跡から、ムラの南端の確認。細形銅矛片、木戈などが出土。 とありますね。

唐古・鍵の時代に、鏡や銅矛が奈良に入っていたことは確かなようです。
これは、唐古・鍵の時代に、九州とも関係を持っていた証拠となります。
神武東征を支持するなら、この事実をもっと評価すべきなんじゃあないですか?

>>823


832 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 06:53:25
細形銅矛について、こんな記載がありました。

ttp://home.b06.itscom.net/kodaishi/page081.html

>銅矛

>銅矛は全国で約550本のうち75%の400本以上が九州から出土しています。
>そのうち半数近い180本は福岡県の出土で、九州からは全ての形式の銅矛が出土しています。
>初期のものとされている細形銅矛は全国出土(23本)の全てが九州からです。
>それらの中には古いため出土状況が確認できないものもありますが、
>出土状況が明確なものの内15本が副葬品として甕棺などの中に納められておりました。
>出土した場所は唐津周辺や王墓があったと考えられる吉武高木・三雲・須玖岡本などであります。
>これから見ると、細形銅矛は支配者の持ち物として扱われ、支配者が亡くなると
>墓に副葬されることが多かったように思われます

唐古・鍵遺跡から、細形銅矛片がでたのは、1983頃のようなので、↑の資料は古いものなのでしょうが、
細形銅矛が伝世されてないものなら、およそ1〜2世紀のものです。
この時代に九州から「細形銅矛を持った権力者」が九州から畿内にやってきた証拠になるものです。

神武東征を支持する方なら、この事実に着目しない手はないでしょう。
ここの九州説&神武東征支持の方は、どうお考えなのですか?


833 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 07:03:29
もっと端的にいえば、九州説&神武東征支持&東遷説の人は、
神武東征は、邪馬台国以後、4世紀でなければならないと、
まず東遷説ありきの結論から先に論じてるからではありませんか?

だから、弥生時代の奈良から銅矛が見つかる事実は知られたらまずいのです。
安本センセも、そのことを知りながら、あえて触れようとしないのでしょう。
事実を隠蔽し、歪曲してるのはどちらなのでしょうね?

銅矛が弥生時代の奈良から見つかったなら、
銅矛をもった権力者、つまり神武に相当する権力者が九州から奈良にやってきた大きな証拠です。
純粋に神武東征を支持する人なら、神武東征は1〜2世紀だと判断する材料にするでしょう。
そして、神武東征が1〜2世紀ならば、欠史八代をふくめて、崇神天皇に至る古墳時代までの統治時代とよく符号します。

この事実を都合が悪いとして隠蔽してるのは、安本東遷説のほうじゃあないんですか?
どうなんですか?




834 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 07:36:03

>>823

だから、そんなにむきにならなくても良いよ。
邪馬台国はしょぼくても北九州にあって、そのあと、畿内大和朝廷の前身となる
大王家連合が吸収・併合したんだから。3世紀の後半以降から

畿内大和大王家連合は、以後は九州にあった邪馬台国の継承を偽って、東晋・宋〜隋・唐
などとの交易を行い、記紀にも、暗に継承した国であることを主張している。



835 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 07:40:04
>>833
神武東征に相当する出来事が、1世紀あるいは2世紀とすると、邪馬台国は
畿内ということになるんだろうし、魏に朝貢した卑弥呼も畿内にいたという
ことになるんだろう。
これは、神武東征のあとと言うことで、当然、記紀に記録があるはずだが、
卑弥呼をうかがわせるような人物はいない。

倭迹迹日百襲姫と言う人もいるが、王として共立されたわけじゃない。
倭人伝に書かれているような出来事の記録もない。

早い段階の神武東征は、けっこう無理がある。

それに、唐古・鍵遺跡からは肝心の鉄が出ていない。また、王が住むような
住居の跡も出ていない。唐古・鍵は、畿内説の人の望みをかなえられる遺跡
ではないと思うが。
もし、唐古・鍵が望みのある遺跡なら、以前のように、唐古・鍵の人間が
纏向を作ったのだと言う自生説が畿内説の主流になっているはず。

836 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 07:49:43
神武天皇の在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月11日)。
この大前提は崩せない。

837 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 07:50:41
そこで2倍暦ですよ。

838 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 08:24:11
>>833

>銅矛が弥生時代の奈良から見つかったなら、
>銅矛をもった権力者、つまり神武に相当する権力者が九州から奈良にやってきた大きな証拠です。

何でさー?
そんなもん、誰も神武東征の証拠だなんて思わないでしょうが。
それに弥生終末期以降の大和・河内は銅鏡作りの本場っぽいよ。
リサイクルの為に旧型銅製祭祀(「サイシ」と読みます)用品が全国から集まってきてもおかしくないぞ。


839 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 08:24:11
東遷説のぶざまなところは、
九州の鉄器の優位性を前提とし、後進国の畿内へ進出したというが、
九州がクニとして優位で、奈良は寒くて作物も採れないなら、
どうしてわざわざ土着民を制してまで畿内へ遷都しなければならないのか、
その理由がまったく語られてないことだな。

現代でいうなら、東京から北海道に遷都するようなものだ。
鎌倉幕府だって、関東の利権を求めて成立したわけだし、
九州の邪馬台国が東遷したと仮定しても、畿内に利権を感じなければありえない。
九州に鉄器がたくさんあったとしても、畿内にそれを上回る利権があればこそ、東遷の理由となる。
畿内に利権が無いなら、九州は魏の利権を失い、半島が混乱状態の中、
孤立無援の状態で、なんのアテもなく畿内へ進駐したことになる。

畿内が東遷に値する魅力ある土地なら、九州が優位などという仮定はありえない。
つまり東遷説は自己矛盾に陥ってるわけだよ。

実際は、魏を後ろ盾にしていた九州の邪馬台国が、
魏が滅んだことで孤立し、畿内大和王権にすりよるしかなくなった、ということだろう。



840 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 08:26:57
>>839

アノ人たちは、「記紀神話」命な人たちだからねw

841 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 08:56:48
記紀も重要なんでね。大和朝廷が自らの歴史を綴ったものだから。

記紀には、矛が出てくる。鏡も出てくる。ところが、近畿地方であれほど
発展した銅鐸が全く出てこない。
記紀の神代に銅鐸が全く登場しないのは、皇室の歴史が、銅鐸のない地域を
舞台にしていたことをうかがわせる。

高天原から日向、そして銅鐸のない畿内に移ったことになるんだろう。

842 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 09:02:18
>>841

邪馬台国東遷説の根拠にはなりませんな。

神武東征は1世紀。


843 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 09:07:32
でも、一世紀には百済王家は日本へまだ渡来してないということは神武も存在しないということだよ

844 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 09:10:20
なにいってるの?
神武は群馬県の人だよ。


845 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 09:13:40
え?皇祖の一人ですよ?なにいってるんですか?

846 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 09:19:24
神武天皇の即位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月11日)。
この大前提は崩せない。

847 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 09:22:03
だって百済が滅亡したの何年だかしってますか?

848 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 09:32:35
だって紀元前660年なんて、天皇のての字もないでしょ当時。春秋戦国時代より先に天皇が即位存在していたなんてありえないよ

849 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 09:41:15
神武が群馬県出身だって知らないの?

プッ


850 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 09:52:03
>>84

古墳時代以降、日向、筑紫、豊、吉備等との同盟関係が成立した畿内で作られたとしても同じことだけどな。

851 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 09:56:28
同盟したのは関東だろ。
古墳時代初期からどれだけ関東から鉄器が出てると思ってるんだ?

852 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/09(日) 10:06:39
ぁ〜ぁ 妄想論ばかりだな。

853 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 10:12:10
キターーーーーーーーーーー
犬国様キターーーーーーーーーーーーーーo(゚∇゚*o)〜♪

854 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 10:13:16
>>832
国産の初期の青銅器は、銅矛も銅鐸も九州で作られていた。
しかし、そのうち銅鐸は早い時期に本州に渡った。
遅れて銅矛が本州に渡った。
鏡はさらに遅れて本州に渡った。

神武東征伝承には、鏡が登場するから、それ以前の話は、
オオクニヌシの伝承の時期とニギハヤヒの伝承の時期ってことに
なるんじゃないのかな。

倭国は初めは九州だけで本州は植民地のような感覚だったのが、
本州も含めた地域が倭国と認識されるようになって、最終的に畿内に
本拠地を移したのが、神武東征ってことでしょう。

855 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 10:23:06
>>854
>しかし、そのうち銅鐸は早い時期に本州に渡った。
>遅れて銅矛が本州に渡った。
>鏡はさらに遅れて本州に渡った。

おおむね正しいんだが、例外があってな、
多紐細文鏡だけは極めて早い時期に本州へ、それも畿内へ渡っている。

大阪府柏原市大県(おおがた)
奈良県御所市名柄

856 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 10:37:53
>>855

今の話の流れは、モノの移動では無く、製造拠点の移動のことみたいだよ。

あと、王権の所在地が移動することと王権の主体集団の拠点が移動することは全く別の話なのだが、
東遷説な人と話すときはこの点留意する必要があるね。

857 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 11:11:35
>>854
>神武東征伝承には、鏡が登場するから、それ以前の話は、

ウソをつけ。

神武は鏡は携帯してない。


858 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 11:21:57
>>852自分の意見と合わない説はすべて妄想ですか?さすが太国氏。

859 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 12:10:18
たしかに、記紀神話の神武は、鏡を持ってない。
天照大神も脇役にしか描かれて無い。
祖神は、高御産霊尊となっている。

つまり、記紀を読む限り、神武東征は鏡が伝来する以前の伝承となる。

860 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 12:35:25
やはり、神武天皇の即位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月11日)。
この大前提は崩せない。


861 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 12:38:41
神武天皇の生まれ変わりの俺


862 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/09(日) 13:30:40
>>858
ばかりっていうのはすべての意味ではない。妄想が多いなということだよ。
真も少しはあろう・・・。

863 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 14:06:31
話をまとめると、弥生時代、近畿には銅矛も鏡も近畿に入ってきてるということだね。

日本に最初に入ってくる多紐細文鏡は、九州と同時に大阪の高尾山の高地性集落にも入ってきている。
なにも古墳時代から畿内に鏡が伝わったわけじゃない。

神話では、神武東征で最初に生駒山から進軍しようとしたが阻止された。
これは、多紐細文鏡の出た高尾山の高地性集落の人が防戦したと見ていいだろう。
ここに故事と考古学が見事に一致したわけだ。





864 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 14:28:06
(´ヘ`;)ハァ?

865 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 15:12:57
>>863
銅矛も鏡も九州勢力が持ち込んだもので量的には、少数だった。
つまり、九州勢力の一部だけが畿内に来ていたところに、神武が東征してきた、
って話になるが、記紀の話とスジは合ってくるな。

出雲が畿内より先に繁栄しているっていうのも、記紀のとおりだ。
神武は、九州を出てすぐに戦闘を始めずに、畿内に入ってから戦闘を始めたところ
なんかも、本当は不自然なはずだが、なんらかの史実の反映だろう。

866 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 15:37:44
紀元前の細形銅矛などの青銅器祭祀は吉備まで影響受けてるから、
九州勢力が吉備までくることは容易でしょ。

神武東征は紀元前1世紀前後の史実の投影だろ。

867 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 16:12:39
神武ヲタが一人で盛り上がってみたいだか、畿内大和に銅矛祭祀の痕跡なんて皆無に近いんだけどな。

868 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 16:21:09
東遷説を臆面もなく語られるよりはいい。
哀れになってくるからな。

869 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 16:26:06
人目を忍んで熊野の山を踏破できる神武軍など、せいぜい百人ぐらいじゃないのか?
取締りを逃れて他の都市に流れた、弱小暴力団程度の話が神武東遷譚。
縄文時代に海外へバンバン渡航していた列島人が、弥生・古墳時代に
九州→畿内に百人移動するなど当然で、神武神話を持ち出す意味もない。

870 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 17:35:17
なにこの必死な自演wwwwwwww


東征が怖いのか、怖いのかwww


871 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 17:41:48
九州→畿内という繁栄の流れは考古学と記紀などの伝承が一致して認めるところ。

出雲の古代の繁栄伝承も、考古学で裏付けられた。

つまり、出雲の時代から伝承の大筋が信頼できると理解すべきである。

「神武東征を認めるのは皇国史観である。」というイデオロギーに脳を汚染されて
洗脳に浸りきっている連中の哀れさが際立つね、この問題は。


872 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 18:03:15
あ考古学的に確認できる東進と言えば「遠賀川式土器」の東進、それに伴う稲作の東進か…

しかしそれらは「神武東征」とはレベルの違うお話だからなw

西から東への文化の東進と言う現象があるからと言って
九州からある勢力が畿内入りして記紀に書かれた王の始祖に成ったと言うのは次元の違う話www

「皇国史観の亡霊」としてこれを廃すると言うより
現在のところフィクションかノンフィクションかも分からず
お話だけならいくらでも作れるわけで

歴史と言う学問の俎上に載せる事ができない・・・と言う事だなwwwwwwwwwwwww

873 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 18:15:42
彼は夕べいきなり出現して、スルーされまくってたドウホコ君だろ。
まあ、コミックスかなんかに触発されたんだろうけどさ、
サイキバ君以上に浅薄なレス内容なんだな。

874 :872:2008/11/09(日) 18:23:28
たまに神武東征の足跡を高地性集落に求めようとする奴がいるが…
高地性集落が西から東へ(あるいはその逆でも良いが…)展開して行ったと言う話も聞いた事が無い。

まあ証拠に使うには無理があるなwwwwwww

875 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 18:27:11
無理やり「神武東遷」説話を、歴史学に流用する必要はない。
九州の盗賊が畿内の小部落を占領しただけのくだらない話であって、参考程度。

876 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 18:31:09
防御的高地性集落の変遷については、吉備が重要なポイントになるね。
なぜか吉備周辺は各期を通して分布が希薄なんだよね。

877 :872:2008/11/09(日) 18:35:07
纏向と邪馬台国の時代が重なってしまった時点で
少なくとも「邪馬台国東遷」は物理的に無理www

箸墓を卑弥呼の墓に比定かどうかはともかく
纏向の出現自体を4世紀とするのは、まあ現在極少数派?
ぶっちゃけト(ry

878 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 18:37:11
吉備には、高地性集落が出来る以前にクニが存在してたからでしょ。


879 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 18:41:35
弥生前期にですか?

880 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 18:42:00
>>876
あれ見ると吉備最強wwwww

881 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 18:44:53
>纏向と邪馬台国の時代が重なってしまった時点で少なくとも「邪馬台国東遷」
>は物理的に無理www
九州勢力の近畿への流入は一回とは限らない。まず、迩芸速日命、ついで神武。



882 :872:2008/11/09(日) 18:46:46
>>855
名柄遺跡の「多紐細文鏡」は同じ鋳型と思われる物が

 大阪府柏原市
 山口県下関市
 佐賀県唐津市

それに新羅からも出ているらしい。

当時、葛城に住んでいた人間が上記の入手ルートを持っていたなら
それが神武東征神話の元ネタとも想像できるが

まあ無数に想像できるお話の一つに杉ナイwwwwww

883 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 19:00:33
姫川の翡翠は遠くモンゴル高原まで渡っているが、ジンギスカンの御先祖様は新潟県民と同族かw

884 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 19:18:17
義経が?

885 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 20:57:08
東遷説論者が言っている弥生期の九州優位は、間違っているわけではない。
前期・中期・後期をならして弥生期全般で考えれば、九州北部の優位は認められる。
考古学者もそれを全否定してはいない。

だが、弥生後期は、全国的に事情がかなり変化してきたことも、事実なのだ。

その最も著しいのが出雲で、「四隅突出墓文化圏」ともいうべき独自の葬送儀礼が発展する。
四隅突出墓は、特定の首長一族にのみ許される墳墓で、築造には大きな労力の結集が必要だろうから
「文化圏」はそのまま「政治圏」と見てよいだろう。

そして重要なのが、四隅突出墓はその祖形となるようなものが、中後期北部九州の墓制に見当たらないことだ。
一部に、四隅突出墓は渡来系の人々の墓ではないかとの意見があるように
外来の要素が多々見られるのだが、それが北部九州を通してから東へ移動してきたとは考えられないのである。

東遷説論者の悪い点は、視点が九州と畿内にしか行き届かず、その比較の中でしか論じられない点だ。

もっと弥生後期について、全国的に見据える視点を持たなくてはいけない。
出雲のみならず、吉備、越、東海なども弥生後期は独自な地域性が窺われ、相対的にどこも力を増している。
倭人伝に記される「倭国乱」も、皆がそうした観点に立った上で、あらためて議論するべきであろう。

886 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 21:28:31
>>885

当然のこと。

しかし、東遷説論者の辞書には吉備や東海なんて単語は無いんだよ。

887 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 21:56:17
>>877
ぶっちゃけその年代観を本気で信じている学者はいないだろ。
言ってる本人も含めて。

本気で主張するなら、自説の弱点(年輪年代やC14の問題点)から
目を逸らさないよ。
彼らのそんな心情が周りにもひしひしと伝わっている。

このスレでもあれを本気で信じる人は君を含めて一人もいないってのがそれを証明している。


888 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 21:58:50
箸墓=卑弥呼墓説に、頼って生きるのが畿内説。

東遷説が当たっているのは、壬申の乱ぐらいだろう。

889 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 21:59:34
要するに…

 九州王朝説論者…九州しか考えていない、関門海峡から先は真っ白。 

 邪馬台国東遷説論者…九州から大和への一方通行、一本道しか考えていない。

ってことですか?wwwww

890 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 22:06:00
>>887
じゃあ、お前さんが年輪年代に批判的として良くあげる寺沢は布留0をいつにしているのかな?w

もはや九州説でも纏向と九州邪馬台国の並列を前提にするのが主流だろうにwwwwwwww


891 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 22:08:04
記紀には、出雲についても詳細な記述がある。
高天原、日向と並んで重要なところだったのは確か。

結末は、三人も四人も神様を派遣して、ついに出雲の国を譲らせている。
これは、出雲の征服を意味しているのだろう。

そのあとで、天孫の日向降臨があり、伊波礼毘古が畿内に入るのは当然の
ことながら、その後になる。
もちろん、その前に饒速日命が高天原から大和に入っている。

このように見てみると、一つの筋が見えてくると思うのだが。

892 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 22:42:08
東遷は紀元前の話。
卑弥呼はいわば九州本家。
崇神の時世に本家の女王を呼び寄せて三輪山に祭った。
こういうことだ。

893 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 23:14:54
>>890
寺澤は布留0を280頃にしているね。
彼は庄内0とか布留0を導入して、着実な年代遡上を図ろうとした。
纒向型古墳の概念でも着実な年代遡上の意図が見える。

石野とかの急進的遡上論者に比べると穏健に見えるけど、結局
遡上論者の一翼を担う人物に過ぎないってことだな。

纒向型まではやったが、4C後半型と3C後半型の乖離は放置した。
古墳規格を突き詰めるなら、100年近い空白を放置したのは不徹底だね。


894 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 23:25:36
古墳規格では、まず近藤がバチ形を古いとして、年代観を少し遡上した。
その後、寺澤は纒向型古墳を提唱して、これに上積みをした。

しかし、4C後半型から眺めると、どっちも4C半ば前後までしか
遡らない。
両者を3Cにもっていくと、古墳規格にほとんど変化のない「空白の100年」ができる。

そこで古墳規格で年代遡上を図りながら、古墳規格を無視するという矛盾がうまれた。
しかし、目的を達したのちは、古墳規格からの議論は打ち止めになった。


895 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 23:31:05
古墳は実は縄文時代から作られていた。
そう考えた方が合理的です。

896 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 23:31:59
>>885
四隅突出墓の議論で疑問なのは、あれの存続期間のところ。
のちの古墳時代と同じ視点で見れば、せいぜい20〜30年の短期間に過ぎない。
つまり、環濠が解体されて定型前方後円墳ができるまでのつなぎに過ぎない。

その経過に楯築なんかも位置づけられるはずなのに、この期間を100年近くに
見積もって、年代遡上の道具に仕立て上げた。

問題点がはっきりしていても、その点を誰も指摘しない。
「畿内の後進性」を100年も無視した学界の風土がそのまま出ている象徴だよ。


897 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 23:33:57
>>893

だって、寺澤の専門は弥生だぜ。
纒向あたりが限界じゃないのか?

898 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 23:43:07
>>896
>四隅突出墓の議論で疑問なのは、あれの存続期間のところ。
>のちの古墳時代と同じ視点で見れば、せいぜい20〜30年の短期間に過ぎない。

四隅突出墓の存続期間を「せいぜい20〜30年の短期間」とする、その年数の根拠は?

899 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 00:50:26
>>894

「古墳規格」ねえ…

まあ200年からの古墳時代を10年だか20年ごとに区切り
その規格をきちんと数字で出して、各規格ごとに該当する古墳を組み入れ
勿論、土器や埴輪の編年とも整合性のあるものを出せれば
世間の耳目を集める事ができるんじゃないか?wwwwwwwwwww

「4C後半型」って何?w

ついでに古墳と言っても前方後方墳とか双方墳とかもあるからなw

しかもそれを全国規模で展開するとなるとねえ…

実際形や大きさが被葬者の身分等に対応しているのではと分類しても
全国規模となると統一した規格なんて見出せないんじゃなかったかな?

特に古墳時代中期頃までは畿内の王家に匹敵する大きさの古墳が作られており
大きさに関して強力な”縛り”は見られない
…まあ、これも小学生向けの本にでも書いてあるようなレベルのお話ねw

まあ精々脳内イデオロギー闘争頑張ってくれやwwwwww

900 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 00:57:02
まあこれも何回も言っているが

所詮旧来の年代観と言っても祟神の陵墓を4世紀前半にすると言う
さして根拠の無い、言わばそれまでの共通認識程度のお話。
(祟神陵の内部を調査した訳でもないし、した所で絶対年代を示すものは出ないだろう)

九州説論者が自説に都合が良いからと、それにしがみ付くのは自由だが
「年代遡上ケシカラン!」と喚くのはお門違いっちゅう話しwwwwwwwwwww



901 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 01:13:29
西殿塚古墳は誰の墓?

902 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 03:35:32
っていうか、根拠のない畿内説が、時代判定捏造してまで、何が何でも「箸墓=卑弥呼の墓」にしたいだけ。

903 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 04:35:01
では『捏造』だと証明できる何か証拠はありますか?
科学に対する挑戦ですか?

都合の悪い事は『嘘』とするのは宗教的な匂いがしますね。

904 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 06:31:06
>>896みたいに、二言目には「畿内の後進性」「畿内の後進性」とか念仏を唱えてるのをみてると、
東遷説って宗教なんだなあ、って思うよ。

「畿内の後進性」を前提としながら、古墳時代には畿内に王権が出来たのは事実として認め、
しかも「畿内の後進性」の根拠としてる畿内の鉄器量が、
古墳時代でも九州より劣ってることには言及しない。

古墳時代に至っても、「畿内の後進性」は、認められている。
それなのに、畿内に王権が生まれた理由として「九州勢力の東征」という「仮定」を持ち出している。
では、「九州勢力の東征」という証拠はあるのか?と問えば、何も証拠は無い。
「鉄器の乏しい畿内に王権が生まれたからだ」では、循環論法になる。
まあ、”循環論法”なんて単語は知らないだろうが。



905 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 06:42:37
4世紀の古墳時代前半でも、畿内の鉄器量は九州より劣っている。
弥生時代では鉄器量で「畿内の後進性」を指摘できても、
古墳時代まで鉄器量で「畿内の後進性」を説明することは出来ない。

これを回避するために「九州勢力の東征」という「仮定」を持ち出しているわけだが、
東遷説がすべきことは、「九州勢力の東征」という「仮定」を物証をもって証明すること。
何か、九州勢力が畿内に東征したような証拠はあるのか、それを丁寧に論じるべきであり、
畿内説を攻撃しても、九州説を証明することにはならない。



906 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 07:01:55
畿内説の場合も同じで、
九州説が鉄器を理由に「畿内の後進性」を指摘してきたら、毅然と反論できるようにしなければ。

そもそも、鉄器が「国家の先進性」を計る目安となっているのは何故?
大昔の畿内説の小林が「鉄器が畿内王権を生み出した」と言い出したのが元でしょ。
でも、畿内をいくら探しても鉄器は出てこなかったので、
九州のほうが鉄器が多いから、邪馬台国は九州だと言い出した人が出てきた。

これはおかしな話で、
小林は「国家の先進性」を計る目安に、鉄器を利用しようとしたけど失敗したえわけで、
この時点で「鉄器が多いほど先進性がある」という理論は不成立なんだよ。

九州説は、「鉄器が多いほど先進性がある」という不成立となった小林理論を、
不成立になった後から利用して、「鉄器が多いほど先進性がある」だから九州が邪馬台国だ、と、
頓珍漢な論を展開してるわけ。

「鉄器が多いほど先進性がある」という仮説を利用するためには、
まず、九州に、畿内を支配するような王権が生まれた事実があってから論ずべきこと。
しかし、九州に王権があったとしても、畿内まで支配していたとは言えない、
せいぜい、北九州を支配した地方政権が存在したにすぎない。
これに異を唱えるものはいない。

つまり、「鉄器が多いクニが、他のクニを支配できた」なんて仮説は、
まったく通用しないわけなんだよ。

弥生時代末―九州は畿内より鉄器が多かった―しかし、九州が畿内を支配下に置けなかった。
古墳時代頭―九州は畿内より鉄器が多かった―九州が畿内を支配下に置けないばかりか、畿内に王権が生まれた。

鉄器は、王権の成立と無関係とまでは言わないが、他国を支配するまでの力を持ち得ない、ということは事実。




907 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 07:22:38
もっとわかりやすく言えば、
>>896みたいに、鉄器で「畿内の後進性」を謳い、畿内説を否定するためには、

ある時期に「鉄器の多かった九州が畿内を支配していた」という前提が必要。
邪馬台国が九州なら、九州の邪馬台国が畿内を連合国に含めて主従関係にあった。
という論を展開する必要がある。

九州の邪馬台国が、鉄器の多さで、畿内まで連合国傘下に治めていたというなら、
九州説は、成立する可能性がある。
しかし、九州説論者は、畿内をまったく意識することなく九州だけで完結させようとしてる。
滑稽としか言いようが無い。

弥生時代末、九州の邪馬台国が、鉄器の多さで、畿内まで連合国傘下に治め、
4世紀に九州の邪馬台国が、連合国内の畿内に遷都した、というなら、辻褄は合う。
しかし、東遷説は、九州の邪馬台国と畿内は別のクニだったという前提で論じてるのは何故なのか?

とにかく、九州説の人は、「畿内と無関係で、九州独自の王権があった」としないと気がすまないわけだ。
たとえ、邪馬台国王都が九州にあったとしても、「九州と畿内を合わせて邪馬台国連合だった」という
モデルケースを考えたくないわけだ。
畿内説に通じることを恐れてるのかもしれないがな。

鉄器の優位性で九州説を唱えるなら、理論的に、
「九州と畿内を合わせて邪馬台国連合だった」という前提で、
「邪馬台国の王都は、畿内ではなく九州」という結論を導かないといけない。

九州と畿内が別のクニのままでは、
鉄器の優位性で九州と畿内の関係を考察することは出来ないのだから。






908 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 07:24:50
>>904
自分でも、東遷を認めてるんじゃないかな。
後進地畿内のさらに後進地である大和に突然、王権が生まれる。
大和が突然変異したのでなければ、誰かが移り住んだ可能性が高い。

畿内では、銅鐸祭祀がいっせいに終わりを告げる。代わりに鏡信仰が始まる。
信仰の突然の変化は、単に文化の変化と言えるのか。
鏡といえば、弥生時代の中頃から九州の墓の副葬品だった。

つまり、九州の文化が畿内に蔓延する。

皇室の歴史書である古事記・日本書紀を見ても、発祥が九州であると
記されている。
倭人伝を見てみると、邪馬台国は九州であると思われる。

邪馬台国東遷、あるいはそれに類似する出来事の可能性が高いのは
合理的に判断すれば、誰が見ても明らかだろう。
それを宗教などと言うのは、自分が宗教染みているからに他ならない。

909 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 07:39:06
畿内説の場合は、卑弥呼の時代に、
「九州〜畿内の邪馬台国連合があり、王都はマキムク」としている。

九州説の場合は、卑弥呼の時代に、
「九州と畿内は別のクニで、卑弥呼は九州にいた」としている。

考えてみれば、この長年の対立軸はおかしい。
「弥生時代末、九州と畿内は同じ連合国で、卑弥呼は九州にいた」
「古墳時代頭、九州と畿内は同じ連合国のままで、九州の王都がマキムクに遷都した」
というモデルはなぜ論じられないのか?




910 : ◆.L.MXSPOgc :2008/11/10(月) 07:40:10
>>625
一応私へのレスなので答えておきますが、
私説は吉野ヶ里説ではないですし、
その隋書の邪靡堆は機内大和を指しているもので久留米ではありません。
私の説を曲解したうえで、認められていない邪靡堆=久留米説を持ち出して、
それを説明できない(から間違い)といわれても、
いろいろ間違えているのは其方ですというしかありません。

911 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 07:42:28
>>908

>邪馬台国東遷、あるいはそれに類似する出来事の可能性が高いのは
>合理的に判断すれば、誰が見ても明らかだろう。
>それを宗教などと言うのは、自分が宗教染みているからに他ならない。

邪馬台国連合は、九州〜畿内を含めた西日本広域連合と考えてもおかしくないと思いますが、
なぜ、九州単独で邪馬台国と考えるわけですか?

古墳時代が4世紀からとして、卑弥呼が九州にいたとして、
邪馬台国が、九州〜畿内を含めた西日本広域連合だった可能性を否定する理由は何?





912 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 07:47:21
「畿内の後進性」「年代遡上の批判」を展開するひとは、誰でも答えて欲しい。

古墳時代は4世紀からでもいいし、卑弥呼は九州にいたとしてもいい。
鉄器の優位性は九州にある。

ならば、邪馬台国は「九州〜畿内を含めた西日本広域連合で、王都は九州」でもかまわないわけだ。
なぜ、九州と畿内を別個のクニとして扱わないといけないのか?



913 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 07:57:02
邪馬台国は「九州〜畿内を含めた西日本広域連合で、王都は九州」というモデルは、かなりしっくりくるはずだ。

弥生時代末には、瀬戸内海で高地性集落が生まれる。
魏志倭人伝には倭国大乱とある。
倭国大乱のあとに邪馬台国連合が生まれるわけだから、
邪馬台国連合とは、九州〜近畿を含めた連合であると自然に導きだされるはずだ。

年代遡上批判する人の意見を受け入れて、4世紀まで九州が繁栄していたとしても、
邪馬台国連合とは、九州〜近畿を含めた連合ではなく、
九州島内のことでしかない、という根拠はどこにもないはずだ。

もし、魏志倭人伝が九州のことしか伝えてないなら、
倭国大乱も、瀬戸内海の高地性集落の存在とはまったく無関係ということになる。



914 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 07:58:08
たとえば、崇神天皇のとき、四道将軍と言うのが出てくる。
北陸、東海、吉備、丹波に将軍を派遣して平定するというわけである。
つまり、崇神天皇のときでさえ、畿内の周辺はまだちゃんと支配していたわけ
ではない。

それよりも古い邪馬台国時代に畿内から九州までの連合が出来ていたと
言うのとは明らかに矛盾する。
時代錯誤的な広域連合という考えがどうして生まれたのか、ちょっと疑問に
思うのだが。

915 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 08:03:35
>>914

東遷説の人ですか?

だったら、おまえの言うことは矛盾してますよ。
畿内の周辺をちゃんと支配してないのに東遷する王はいないでしょう。

東遷するなら、安全を確保してから(畿内を連合国傘下)にしてからの話。

それに、四道将軍は近畿のさらに外に向かう将軍の話だしね。

916 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 08:08:18
>>915
人の矛盾はまあ置いといて、自分の矛盾のほうはどうなの?

917 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 08:12:22
>>915
俺の矛盾てなに?
広域連合がってこと?

具体的に何が矛盾なのか説明してくれないと話しにならんな。


918 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 08:13:29
>>917は、
>>916あてね。



919 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 09:23:36
「安本な人」の言うところの東遷説は自己矛盾噴出でもう
2ちゃんのこの板ですら真面目に議論する価値も無い。

鉄器が豊富な先進地域の九州から邪馬台国が東遷してきて
(何故に東遷したのかも不明だがw)
鉄器が不足のままに九州から関東に至るまで全国制覇
(纏向型古墳がその証らしいが…)

おいおい鉄器の豊富な古巣の九州や、その他の地域をどうやって征服したんだよ?w

ちなみに「安本な人」は「連合体」なんてモデルは認めないのだから
銅鏡配布による融和的懐柔策はとれんわなw


ハァ? (゚Д゚) ナニ イッテンデスカ オマエハ..

920 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 09:59:49
>>899
古墳規格もいまはタブーだよなあ。
4C後半の古墳と3C後半の古墳の形状が区別できない混在状態では。

三角がでたら古いとか、イイカゲンすぎるわな。
土器も椿井大塚山が布留2から布留0に変更とか、ありえんだろwwwww


921 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 12:28:29
>>914
四道将軍を派遣するまで支配が存在しないというのは、ちょっと無理じゃないかな。

地方の統治は基本的には中央から派遣された「官」が当っていたというのが、
すでに魏志の記述からも裏付けられる。

その統治官は大和朝廷では国造として再編成されるが、中央に従順なところと
反抗的なところがあるということは、ヤマトタケルの話にも出てくる。

四道将軍も中央による支配の強化のために地方に派遣され、その後の国造に
よる支配の地ならしをしたという位置づけの方が良い。

もちろん「連合」なんて妄想は全然ダメってところは、同意。

922 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 12:37:04
平和的に稲作が東に広まったと考えるなら、それこそ妄想だ

923 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 13:22:28
稲は一年に一度ほぼ定期的に確保できる食料。
食料確保の知恵をごり押ししたり、
拒否するなんて事ありえるのか?

924 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 13:31:26
弥生時代末の、九州〜畿内の「ゆるやかな広域連合」をリアルに考えるか妄想と思うか、
九州説と畿内説の対立軸が鮮明になってきたわけだな。

九州説−九州から畿内の広域連合は無い。→畿内王権は九州の東遷で生まれた
畿内説−九州から畿内の広域連合があり、王都はマキムク
並立説−九州から畿内の広域連合は無い。邪馬台国と畿内王権が同時に存在した→九州の邪馬台国は滅んだ

という、3極かと思ってたが、

九州に邪馬台国があったという人=九州から畿内の広域連合は無い。
畿内に邪馬台国があったという人=九州から畿内の広域連合があった。

という、2極に分かれるわけだ。




925 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 13:43:00
では、九州説(九州から畿内の広域連合は無い)の人は、
弥生時代の高地性集落はどう考えるのかね?

高地性集落の時代に、九州から畿内へ進出があったり、
九州から畿内の広域連合を作ったとは思わないということなんだね?

926 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 14:03:41
>>925
南九州説はそう単純ではないと考える。弥生末期にまず北九州が南九州や本州に
勢力を延ばそうとした。北九州勢力は本州の豪族を支配下に入れ、吉備や畿内に
根拠地を築いた。一方、南九州は、その北九州に対して反撃し、北九州を破って
北を支配下に納めた。そのころが倭人伝の伝える邪馬台国時代。その後、南九州
は、吉備や畿内に勢力を延ばした。まあ、そんなところだな。

927 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 14:09:28
>>924
「連合」の人に聞きたいんだけど、

具体的にどれだけの小勢力が独立性を有していたのかな?
その独立性の程度は?
地域ごとの首長は完全に独立していたのかな?
全体の代表者を民主選挙で選ぶのかな?
どうやって「連合」から「王権」に変わったのかな?

・・・とまあ、ふつうにブラックボックスの概念にしか見えないのだが・・・
だからあれは洗脳系に見えてしまう。

928 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 14:20:39

「東遷」という言葉自体も、意味がわからないけどね。

いきなり、敵地の只中に王都を築いたのかね?
環濠も作らずに?
吉備や東海や近畿の周辺国とはどういう関係を持ったの?
何人くらいの兵や側近が王を警備したの?
王と側近と警備兵への兵糧はどこから入手したの?

929 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 14:35:24
俺が持つ常識で考えるなら、
東遷したとするなら、その前に、畿内の安全を確保しないといけない。

畿内の人は九州の王をなんの抵抗もなく受け入れたの?
それって、「九州と畿内はゆるやかな連合だった」とは言わないの?

九州の人が武力で畿内を制圧にいったなら、どうしてマキムクに環濠が無いの?
マキムクが4世紀だとしても、イヨ?が朝貢した266年から、50年しか経たないのに、
もう、東海やらの多くの人を従えて箸墓(誰の墓か知らんが)をつくらせることが出来たというの?
しかも、その直後には関東まで勢力を伸ばして、関東にいっぱい鉄器を持ち込んでるよね?

広域連合が無い状態で、九州勢力が関東まで制圧するのに、100年もかかってない。
が、そんなに強大な九州が、魏の後ろ盾のあった卑弥呼の頃には東には手を出さず、
魏の後ろ盾が無くなってから猪突猛進で東進したということだね?

いったい、どっちが妄想だと言うのだろう?




930 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/10(月) 14:39:34
また今日もジョーカーを筆頭に妄想ばかり。盲象で突進するなよ。wwwwwww

931 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 14:51:00
まあ「連合体」を否定しても

じゃあ纏向の搬入土器の多さや
各地の埋葬文化のキメラの如き前方後円墳の発生と
それが北九州から会津辺りまで広がった事を合理的に説明できる仮説があるのかと…w

最初から武力による勢力拡大、強固な中央集権国家を想定する方が
よほど非現実的だな。


ヤマト王権が連合的なものから、強固な王権を目指す変質をとげたのは
巨大古墳の造営が畿内のみになる5世紀半ばあたり
もっと言えばその画期は雄略。

…もうこの辺は定説だと思うがwww


932 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 15:08:11
「連合体」と聞いて近代的な民主主義国家群を連想する奴がいるみたいだが
もうアホかと馬鹿かと…

古代ローマは共和制から帝政に代わったが、その共和制は現代の共和国のような物だったのかと…
(まあ北朝鮮のような共和国もあるがw)

強力な王のトップ・ダウン式の社会形態より、長老が寄り集まっての社会形態が古いのではないのか?
(地域の特性等が影響するだろうが)
少なくとも強固な王権が初めにありきと言うのは根拠が無い話だ。

933 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 15:10:51
西殿塚古墳は台与の墓です。

934 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 15:16:50
倭国大乱はどこで軍勢が激突したんだろうか?
そこを掘って何万人も首なし死体やら出てきたら証拠にしていいんだろ?

935 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 15:25:28
そもそも倭国大乱で卑弥呼と言う女王が共立され
その卑弥呼が死んだら再びすったもんだ…

かなり不安定な脆弱な政治基盤であるのは見て取れる話。

畿内説の「緩やかな連合体」と言うのはそれに合致する。

で、確たる求心力を得る為に「親魏倭王」の看板を欲したと言う事でw

936 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 17:11:16
>>906
>大昔の畿内説の小林が「鉄器が畿内王権を生み出した」と言い出したのが元でしょ。

小林行雄?
小林はそんなこと言ってないと思うが。何て本に載ってた?

佐原真だったら、言ったような気もするが。

937 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 17:14:33
邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。

1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
 類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
 西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
 (日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
  尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
  9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
  邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
  これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
  人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。

朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。




938 :ローガン:2008/11/10(月) 17:35:00
>>818
>ソースが分かったら教えてください。

「三角縁神獣鏡・邪馬台国・倭国」(2006新泉社)に西川寿勝氏のコラムがあります。
「外区形態は断面が厚く、三角の突出が小さな形式が古く、次第に薄く、そそりたつ三角が強調される形式へと変化する。
これによって、強度を保ちながら原料と重量を軽減させることが可能となる。
銘帯は紀年をもつ長文がめぐる形式が古く、文字の間に小乳を付加したり、『天王日月』『君宜高官』を繰り返し、間に唐草文・龍紋・双魚紋等を配置する鏡が新しい。」
外区文様の抽象化について言及はありませんが、これを読むかぎり紀年鏡群が形式的に最も古いと考えて差し支えないように思いますが、いかがでしょう。

939 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/10(月) 18:21:42
隠蔽を行うなら神功39年等の記事は紀から削除されてる。だから隠蔽
とかは考えすぎから来たもの。

940 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/10(月) 18:26:05
神功39年等の記事があれば卑弥呼がいたことは分かってしまう。それでここん
ところの記事は挿入だとか言い出す奴は隠蔽だという誤想を擁護するために言う
主張なわけで、その主張で妄想をさらに頑張って護り通すわけ。wwwwwwww

941 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 18:27:41
>>938 サンクス
実物見て分かるのかな。
『総覧』あたりで確認してみる。


942 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/10(月) 18:28:47
要するに都合の悪い古文書の記事は後代の挿入とか偽書と言って妄想をかたくな
に護り通すわけ。護ったって妄想は妄想の〜盲像突進!!

943 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 21:24:23
実は欠史八代とは、九州王朝の時代だった。
そして九州王朝は女王とその兄弟王が支配していた。
その中で最も勢力を持った時代が卑弥呼の時代だった。
記紀は、その事実を隠した。そういうこと?
で、その理由は何でしょうか?

944 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 21:30:50
>>937
「都」字のある「西都原」は、せいぜい江戸後期から始まる地名表記のようです。
西都原古墳研究所所長の日高正晴先生によりますと・・・・・、

西都原の地は、室町末期永禄年間から江戸時代元禄年間へかけての16〜17世紀頃は
「斉殿原」(さいとのはる)だったそうです。
19世紀初め、文化年間になって、ようやく「西都原」表記の史料が現れるようです。

以上は、「倭人伝への旅」ホームページの「データ・ストック」の53番目、
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/data_stock.html

53.西都原という地名について 

で詳しく読めます。参考まで。

945 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 21:59:05
>>1

結局のところ、魏志東夷伝倭人条による邪馬台国の記述は、北部九州のしょぼい
国々を限定的に紹介したものだろう。

その頃は別途、畿内大和の連合大王家が存在し、吉備や出雲、遠くは尾張や群馬
あたりまでの国々と交易がなされていた。

そして、3世紀末頃以降、北九州の邪馬台国連合は、畿内大和の連合大王家に吸収
・併合され、史実から完全に消え去っていった。

これがすべて。以上で邪馬台国問題も終止符です。

946 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 22:02:26
うざいよ。何回も書くな

947 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/10(月) 22:37:01
>>943
隠すなら神功39年の記事を紀に書けば卑弥呼のいたことが分かるわけ
で、隠したというのは妄想だ。九州王朝は崇神のころからだ。まぁ
開化あたりは入るだろう。

948 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 22:39:56
ねえねえ。素人なんですけど質問ですよ。
帯方郡から女王国に着くまで一万二千里なんですよね?
で松浦国までで一万里。残り二千里って事は邪馬台国は九州のどこかですよね?
なのになんで皆こんなに熱く論戦するんですか?


949 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/10(月) 22:46:38
紀無い説という〜妄想衆が目を覚まさないためだな。

950 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 22:48:48
>>1

結局のところ、魏志東夷伝倭人条による邪馬台国の記述は、北部九州の極東最大の
王国や周辺の国々を紹介したものだろう。

その頃は別途、畿内大和の諸部落が存在し、吉備や出雲、遠くは尾張や群馬
あたりまでの国々を九州が支配し、また属国化していた。

そして、3世紀末頃以降、畿内大和の部落は何度も外部勢力に吸収 ・併合され、
史実から完全に消え去っていったが、それは九州王朝の国内問題にすぎない。
壬申の乱で、またまた畿内は九州王朝に支配されて、畿内王国は滅亡。

これがすべて。以上で邪馬台国問題も終止符です。


951 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 23:04:43
>>948
最低でも伊都国から水行十日or陸行一月、
長いと不弥国から水行三十日と陸行一月費やさないと邪馬台国にたどり着かないからだよ。
九州島内にあるなら「伊都国から陸行何日」ぐらいに書いてくれればよかった。
そうすれば皆「ああ、九州の小国に邪馬台国ってのがあって魏とやりとりしてたんだな」て納得できるけど、
なんか偉く遠くにあるように書いてるから、
「もしかしたらこれ○○(大和、吉備、阿波、沖縄等遠くの方)の勢力のことじゃないの?」と思う人が出てくる。
でもその一方で「こういうのは全部誇張」と言ったり、
「一里は君等が思っている以上に短い」と主張する人間もいる。
こういったわけで、未だに決着が付かない。
「親魏倭王」印はどこにあるんだ!

>>950
大昔の畿内派考古学者の筑紫蔑視の裏返しだね。
言われた悪口を相手に言い返すだけの、頭の悪いやり方。

952 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 23:08:27
筑紫東遷が考古学的に否定された今、次の段階に進まないと。

953 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 23:17:04
>>924
>並立説−九州から畿内の広域連合は無い。邪馬台国と畿内王権が同時に存在した→九州の邪馬台国は滅んだ

リアルじゃあ九州説の主流はそれなんだろうけど、この板じゃあ人気が無いw

何故か?
言わずもがなこの板の九州説は「九州王朝説」「邪馬台国東遷説」が主流だからw




954 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 23:24:06
>>927
>具体的にどれだけの小勢力が独立性を有していたのかな?
>その独立性の程度は?

具体的には弥生以来の拠点集落の首長レベルが政治単位だったと思う。
律令期の郡司レベルだな。
畿内のみならず、筑紫にしろ吉備、出雲にしろ、拠点集落の首長たちが
対外的にオウを祭り上げて連合したというのが実相だろう。
一つのまとまったクニであったとは思えない。
その前段階が、筑紫の広形銅矛だったり、吉備の特殊器台、出雲の四隅突出型墳丘墓。
畿内、東海の見る銅鐸。共通の葬送儀礼もしくはレガリアで連合していた様子が窺える。


>全体の代表者を民主選挙で選ぶのかな?

比較的後世でも、天皇位は有力豪族に推戴される形式をとっている。
有力者の会議のような形で決められていたのだろう。
記紀を読む限り、ひとつの血統による世襲は応神以降かと思う。


>どうやって「連合」から「王権」に変わったのかな?

王権の定義によるな。巨大な古墳が造られると、まるで強大な王朝がその時誕生したかのように
錯覚してしまうのだろう。
実際のところ、先文字時代、オウの偉大さを民衆に示すには巨大な王墓を
築くしかなかったんだよ。
初期大和王権は実質有力豪族たちの連合政権であったと見るべき。
有力御家人に支えられた鎌倉幕府みたいなのを想像すればいい。

955 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 23:46:52
>>948
>帯方郡から女王国に着くまで一万二千里なんですよね?
>で松浦国までで一万里。残り二千里って事は邪馬台国は九州のどこかですよね?
女王国まで万二千里という記事から、邪馬台国が九州内だという結論はどうかな?
女王国と邪馬台国とはちがうよ。

956 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 23:51:31
>>953
> 言わずもがなこの板の九州説は「九州王朝説」「邪馬台国東遷説」が主流だからw


九州王朝説?ははは、その可能性だけはないよね。 サイキバの脳内だけにあるトンデモだ!
まだ東遷説の方が論理的だね。九州王朝説には全く論理がない。
あっと!東遷説じゃないよ。俺は。
九州説だけどな、トンデモの九州王朝脳内説と邪馬台国九州説を一緒にはして欲しくないって考えているwww

957 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 23:56:59
>>954
先代旧事本紀の成務天皇の時代の国造の記事からは、それは無理だよ。
まあ、直木のように成務は実在しないってやれば良いんだろうけど・・・

四道将軍の派遣(崇神)→ヤマトタケル→景行天皇の子息を各地に派遣
→成務天皇のときに国造が急増

という流れからは、崇神時代に土着化してきた地方の統治官の引き締めと入れ替えが
始まって成務の代に完成したってことになる。
その後、国内統治を終えて、仲哀〜神功の代から三韓征伐って流れになる。

三韓征伐後に新羅の王子を人質にして日本の来させたって流れも続く。
新羅に対抗して百済が歴代の王族子弟を日本に質として送ったってのもある。
その人質が百済で王として即位して、墓碑も見つかったってのもある。
百済からの最後の人質が、白村江の戦いの前に百済に帰国して即位したってのもある。

・・・王権の確立を遅らせるのが、反皇国史観として流行った時代もあったけど、未だに
それを続けている人は一部の突出したマルクス主義史観の人だけだろうに・・・
魏志で各地の「官」と「副官」がさんざん書かれているのに「連合」とか無理だよう・・・


958 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 23:59:18
>>951
>九州島内にあるなら「伊都国から陸行何日」ぐらいに書いてくれればよかった。
同じだろうな。関門海峡を越えるぐらいは省略して全部陸行と書いたというだろう。
邪馬台国を畿内に比定したいと思い出したら、どんなことが書いてあっても目に
入らなくなるんだよ。
倭人伝の記述だけで明確なんだよ。伊都国又は不弥国から南へ水行十日陸行一月。
どう考えたって九州から出るはずはない。また、北九州の中のはずもない。でも
納得しないだろう?

959 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:02:32
>>955
詳しく教えーて!!

960 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:13:33
そもそも「連合体」に反応しちゃっている人達は
ヤマト王権が当初から強固な中央集権国家でその範囲をジワジワ広げて行ったと言う認識なのか?

ヤマト王権の中央集権なんて試行錯誤を繰り返し
最終的には律令制の完了でやっと成る…と言うのがもう常識じゃないのか?w

吉備には全国でベスト4(築造時は国内最大とも)に挙げられる5世紀前半築造とされる巨大古墳があり
5世紀の奈良盆地西南部でさえ馬見古墳群からはヤマト王権がその地域を完全掌握していたかどうか疑問視されると言うのに…

もうそれこそ「皇国史観」の亡霊なんじゃないかとも思うがwwwww

961 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:18:28
倭国大乱の後、大和国及び周辺諸国に擁立された卑弥呼は九州征伐軍を編成し
九州に侵攻して奴国王を志賀島に追い詰める。
奴国王は金印を放棄して九州北部の諸国王と共に殺された。
卑弥呼の九州征伐軍はさらに南下し九州の女首長・田油津媛を討ち取った。
その後大分県日田市にある小迫辻原遺跡に狗奴国を迎撃する拠点を築いた。

962 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:21:29
>>960
だったら、魏志に「官」と「副官」がいちいち書いてあることをどうするんだ。
これも誤記なの?えらい具体的な誤記が連続するんだなあwww

というか、年代遡上をすれば、最後にはこの点で王権確立の遡上に向かう。
魏志の時代=遡上年代のヤマト初期になるわけだから。

「神武東遷を認めるのは皇国史観だ」として、年代遡上に狂奔して、結局は
より強固な皇国史観に行き着くってえのは、笑えない喜劇だよなあ。


963 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:23:05
祟神代の「四道将軍」を持ち出している人がいるが

アレは夫余の「四出道に将軍を配した」と言う話が原型と言う説があるが・・・

大体初期の古墳の分布を見ても、畿内と言っても、もっぱら大和川水系周辺で
いきなり畿内を完全掌握なんて事は考え難いと言うのが普通の見方だと思うがw

964 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:25:54
>>955
女王国までは郡から万二千余里。これは伊都国から千五百里。これは倭人伝の
里からすればせいぜい百キロ余りだな。一方で、伊都国から先の行程は少なく
とも水行十日陸行一月。これが百キロ程度の話でないことは明白。
それに、女王国=邪馬台国ならば、倭人伝は、邪馬台国までの日数に続けて「自
郡至邪馬台国万二千余里」と書いたはずだ。理由もなく、邪馬台国を女王国と書
きかえたりもしないものなんだよ。
女王国とは何か?これは、邪馬台国を中心として旁国も含んだ国々と考えるべき
だね。邪馬台国や旁国を書いてから「女王の境界の尽きる所」という言葉が出て
くる。これが女王国の遠い方の境界。万二千余里から始まった女王国が狗奴国の
直前まで続いているということ。そのことに気づかないと倭人伝は理解できない。

965 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:28:20
>>964>>955の続きね。

966 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:31:47
>>962
先ず「役職」として考えられるのは複数見られる「ヒナモリ」
だとすれば後の統一を欠く「官」や「副」は個人名か?

個人名と役職名のゴッチャと言うのはきちんとしてた組織編成で無かったのでは?w

倭人伝中の官や副がどのような性格だったのか?・・・が正確に分からないのに
中央集権国家機構の一部の如きに言うの%

967 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:33:10
四道将軍の記述は、当時強盛な地域だった越・東海・吉備・丹波が
大和王権に参画したということなんだよ。

中央から地方に皇族将軍を派遣したとかではなく、
大和王権と同族化したことで、神話や始祖王を共有化したということ。
それが後に欠史八代の伝承になる。

968 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:34:15
>>962
先ず「役職」として考えられるのは複数見られる「ヒナモリ」
だとすれば後の統一を欠く「官」や「副」は個人名か?

個人名と役職名のゴッチャと言うのはきちんとしてた組織編成で無かったのでは?w

倭人伝中の官や副がどのような性格だったのか?・・・が正確に分からないのに
中央集権国家機構の一部の如きに言うのは早計だなwww

969 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:34:15
>>961
倭人伝は卑弥呼共立で倭国は戦いが収まったと書いているのに、卑弥呼共立の
後に大戦争が起こったというわけ?無茶苦茶な話だな。

970 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:41:41
>>968
>後の統一を欠く「官」や「副」は個人名か?
官と明記されているのに個人名のはずはないだろ。
>>962の意見は官と副の任命者がそれぞれの国王だということをまったく
理解していないんだろ。



971 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:45:26
>>970
もし任命権者が各地の王とするのなら

「官」や「副」は中央の管理機構とは別の話しという事だなwww




972 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:51:19
そもそも祟神代の「四道将軍」と言っても
その活躍は日本書紀にも具体的に書かれていない。

出てくるのは何故か畿内のタケハニヤスヒコの反乱平定のお話でw



973 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:52:57
>>967
稲荷山の鉄剣に四道将軍のひとり「オオヒコ」が出てきて、詳細な系譜まで
書かれている。
これを「後世の伝承」なんてことで片付けるのは無理だよう。

年代遡上は、反皇国史観にとって「ミイラ取りがミイラ」なんだよ。

974 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:54:18
>>971
>「官」や「副」は中央の管理機構とは別の話しという事だなwww
当然。中央の管理機構は「一大率」。
倭人伝はちゃんと分かるように書いているんだよ。



975 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:55:55
中国から見れば、倭国での王はあくまで邪馬台国の親魏倭王だけ。
倭国内に王は、形式的には他には存在しないことになる。
実際は違ったのだろうが。

976 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:56:41
>稲荷山の鉄剣に四道将軍のひとり「オオヒコ」が出てきて、
こんな一般的な名前を四道将軍のひとりと断定はできんだろ。

977 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:59:00
>>964
>女王国とは何か?これは、邪馬台国を中心として旁国も含んだ国々〜
>万二千余里から始まった女王国〜
壱岐国や対馬国はたまた伊都国なんかは女王国に統属してないんですか?
もし仮に松浦国が女王国(邪馬台国を中心として旁国も含んだ国々)の始まりなら
女王国まで一万里でいいのでは?  以上素人からでした。
ちなみに倭人伝に出ている倭国の数は30国でクヤ韓国までは七千里って
書いてありました。



978 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 00:59:51
>>975
倭国王は1人だが、倭国というのは狗奴国を除いた国々、その国々に王がいた
ことを否定しているわけではない。「形式的に他には存在しない」というのは
どうかな。

979 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:01:32
>>974
で?

畿内から遠隔の地に「一大率」をワンポイントで配した。

・・・これで連合体の否定になるのか?w

しかし

>>962 で

>だったら、魏志に「官」と「副官」がいちいち書いてあることをどうするんだ。
>これも誤記なの?えらい具体的な誤記が連続するんだなあwww

・・・とぶっつけてきたのは何の意味があるんだ?
行き当たりばったりもいい加減にしろよ、 安本チックな皇国史観君wwwwwww

980 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:02:32
>>977
伊都国などは女王国に統属する国々。女王国に従う国々であって、女王国を構成
する国ではない。そこを間違えないように。

981 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:15:25
>>980
ほんとに素人で教えてちゃんですいません。
女王国を構成する国ってなんですか?
親・兄弟がいる国って事?女王国に従う国々が女王国でないの?


982 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:20:38
>>980
それ正解。

女王国の中心に(政治的な意味だが)邪馬台国がある。女王台与はそこにいる。
壱岐対馬から伊都国奴国不彌国投馬国までは女王国の領域ではない。

証拠は
「郡より女王國に至ること萬二千余里」

983 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:21:58

トヨタン・・・・・・・・・


984 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:26:54
女王国と女王国に従う国はもちろん別。それをごっちゃにする説はトンデモ説
のほかにはない。
女王国=邪馬台国とする説が多いが、それは間違い。女王国とは邪馬台国、投
馬国そして両国のまわりにある旁国の連合体。
その女王国と北九州諸国(これが女王国以北と言われる)が戦ったのが倭国の
乱。北九州諸国が実質的に敗れたから、女王国から派遣された一大率の監視下
に置かれていたというわけ。


985 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:31:17
>>984
いや、投馬国も女王国には含まれぬと思う。

986 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:38:30
>>985
投馬国については、確かに難しい問題はある。しかし、女王国は万二千里
から始まる。したがって、水行二十日の投馬国は女王国が始まってからの
国となる。それに倭人伝は、女王国と以北を書くだけで、投馬国を独立の
立場には描いていない。結局、投馬国は女王国の構成国とみるのが妥当。

987 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:41:42
過去に遡れば、遡るほど、人間は神仏化されてゆくので
卑弥呼etcの存在自体、危ういと言うか信憑性が無い。

988 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:47:16
>>987
今からみれば千七百年以上も前の話だが、倭人伝が書かれた当時は卑弥呼が
死んでほんの30年。しかも、その資料は卑弥呼を訪ねた使者の記録と考え
られる。信憑性は十分。

989 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:50:56
2000年ぐらい過去に戻ってみたいものだね。
日本の創世記を見てみたいなぁ

990 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 02:18:04
邪馬台国が何処にあろうと

どうでもええやん。。

991 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 02:33:54
>>984
>女王国とは邪馬台国、投馬国そして両国のまわりにある旁国の連合体。
というのが良くわかんないですね。倭人伝に記載がないし
倭国内乱の後国々が協議して一人の女を王に立てたんですよね。
女王国が連合体ならば壱岐対馬から伊都国奴国不彌国投馬国までは
女王国の領域ではない、というのは変でしょ。一大卒は伊都国にいるし
帯方郡の使節は行き帰りに必ずここに滞在しますよね?
とすると帯方郡から女王国に着くまで一万二千里も素直に解釈できますが。


992 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 02:50:41
次スレ、立てますた。

♪邪馬台国 ドンと来い♪ 35
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1226338977/l50

本スレ使い切ってから、ドゾ。

993 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 06:01:07
>女王国

倭人伝から「女王國」と記述している部分を拾ってみた。
5か所あるようだ。(Aは刊本によっては「女三國」となってる)

@ 東南陸行五百里到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王皆統屬女王國。郡使往來常所駐。

A 自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶不可得詳。

B 自郡至女王國萬二千餘里。

C 自女王國以北特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。

D 女王國東渡海千餘里、復有國皆倭種。


Cの書き方だと、「諸國」や伊都國は、女王國とはやっぱり別の国だね。
そのほか「女王」だけが数箇所あった。

994 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 06:07:10
わらわは卑弥呼ぢゃ

995 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 06:19:35
>>993
女王国=邪馬台国だろうな。
AとCから一つの国であることがうかがえる。

996 :のんびりひまじん:2008/11/11(火) 07:03:34
三品彰英先生が 邪馬台国研究総覧(1970) に、魏志倭人伝だけを読むのでなくて
魏志東夷伝 全体を読むべきだと指摘された。
三品先生は、古代朝鮮史の研究をされたから他の学者たちとは違った。

ここのスレのアマチュアたちは、ほとんど魏志倭人伝だけを議論している。

997 :のんびりひまじん:2008/11/11(火) 07:09:46
三品彰英先生が 邪馬台国研究総覧(1970) に、魏志倭人伝だけを読むのでなくて
魏志東夷伝 全体を読むべきだと指摘された。 そして、出現したのが

短里説 であった。(古田武彦 「邪馬台国」はなかった 1971)

安本美典が追随する、一方で二倍年暦を指摘した。

古田武彦が、追随した。

998 :のんびりひまじん:2008/11/11(火) 07:14:33
三品彰英先生が 邪馬台国研究総覧(1970) に、魏志倭人伝だけを読むのでなくて
魏志東夷伝 全体を読むべきだと指摘された。
この指摘が意味するのは、

それまでの学者たちが魏志東夷伝を読まないで論争していたことが分かる。

韓の地が 方四千里 ばかり と

書いてあることすら知らずに議論していたのであった。



999 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 07:26:36
ばーか


1000 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 07:29:22
三品彰英先生は畿内説だよ。www

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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