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【壮絶】浅井三姉妹スレ【華麗】

1 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 21:02:30
以前(?)に誰かがこんなスレはないの、と書いてたのを見たので
立ててみた。
北近江の戦国大名浅井長政と織田信長の妹お市の方の娘、
浅井家の三姉妹について語るスレです。

長女;茶々(淀殿・菊子;1566〜1615)
 天下人豊臣秀吉側室。豊臣秀頼生母。
 秀吉没後の豊臣家の運命を担う。
次女;初(常高院;1570〜1633)
 京極高次正室。実子はなかったが京極家の嫡子忠高を後見し、
 落ち目だった京極家を再興した。
三女;江(江与・達子・崇源院;1573〜1626)
 3度の結婚の末、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の正室に。
 3代将軍家光、後水尾天皇中宮和子らの生母。

戦国の世に華麗な軌跡を残した三姉妹について語りましょう。

2 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 21:17:54
6歳年上でバツ2の女を貰うことになった秀忠はどんな気持ちだったんだろうな…

3 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 21:40:06
17歳の初婚の男の子には
23歳で子を産んだ経験もあるお江は
優しく性の指南をしてくれて最高だったかもよ
寝所で嫁のほうからあれこれ指南されて
一生嫁に頭が上がらなくなっちゃったけど

4 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 20:05:15
お江与は豊臣家最後の生き残りの完子の生母でもあるんだな。
徳川家と豊臣家の両方にお江与の血が受け継がれているわけだ。

5 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 20:11:32
>4
有名な秀頼の娘や、関白となった豊臣秀次の娘たちが何人か除命されて生き残っているから
完子が豊臣家最後の生き残りだったわけではない。
しかも女性ばかりが生き残ったから子供の代には夫の姓になってしまい
事実上「豊臣姓」を継承することのできる男子は秀頼の遺児である国松が斬られて絶えている。


6 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 22:59:33
むしろ女児だったこそ生き長らえたんじゃないか?
男児なら国松のように処刑されていただろうし。

7 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 17:22:08
淀の方を再評価しよう PART2
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153802162/

8 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 20:11:39
完子の孫が寧々の実家浅野家に嫁いだり
初の養女(氏家行広の娘)が秀次正室の一の台の実家に嫁したりして
豊臣家滅亡後も豊臣ゆかりの家たちで交流があるのが
豊臣家ファンとしては嬉しかったりする。
初は和子とも手紙の交換とかして交流があったらしいね。
中宮と関白夫人として和子と完子もきっと交流があっただろうね。


9 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 20:33:27
徳川和子の入内に当たっては当時関白に就任していた
豊臣完子の夫九条忠栄(のちの幸家)の並々ならぬ尽力があったらしい。
完子は豊臣家滅亡後は敢えて豊臣氏を名乗らず、
母の再婚相手である徳川秀忠の養女になっており、
その意味からも徳川家に協力を惜しまなかった。
完子の嫡男九条道房の正室は、完子の異父妹勝姫の娘(父親は松平忠直)。
完子が再婚する母お江与に伴われなかったのは
徳川家が正室の先夫との連れ子を認めなかったせいかもしれないが、
豊臣家を父方とし、幼くして母と別れ淀殿の手許に引き取られ、
秀頼とは実の姉弟のようにして育った完子が、
成長したのちは徳川家の養女となり、
徳川家繁栄のために尽力したことは皮肉でもある。

10 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 21:00:51
>>4
秀次の娘は、大坂の陣で散った真田信繁の側室になった娘や
大坂城に入城して戦後処刑されたお菊など、
浅井三姉妹に引けを取らない曲者揃い。

11 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 17:41:12
三姉妹の子孫で現在まで残ってるのは
完子と千姫、珠姫、勝姫、家光の子孫のみ。

12 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 17:41:47
家光子孫って誰。

13 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 17:49:31
高齢出産してるよね。

14 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 17:51:19
>>11
なんか文章が変。
三姉妹の子孫で今でも残っているのはお江与の子孫だけ、
ならわかるが。
>>12
11じゃないんだが、家光の子は長女千代姫の子孫が残ってなかったか。


15 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 18:45:33
なんといっても彼女達の生母であるお市の方はすごい。

織田と浅井の血を関白家、将軍家、天皇家と時の最高権力者たちの
家にのこしたのだから。

ところでこのお市の方の血はまだ継承されてるの?
貞明皇后は九条家令嬢だったんだけど、直系が現在の天皇家。
まさかお市の血筋がここまで繋がってるとか?


16 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 20:21:35
市―江与―完子は繋がってるかどうか忘れたが
市―江与―家光―千代姫以下略で何代か後に九条家に
入った方は繋がってたような

17 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 21:18:08
市-江与-家光-千代姫-綱誠-吉通-千姫-二条宗基
二条宗基-二条治孝-九条尚忠-貞明皇后-昭和天皇というルートで繋がっている。
市-江与-珠姫-前田光高-綱紀-節姫-浅野宗恒で浅野家にも。

18 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 21:41:11
市−江与−完子−九条道房−待姫−九条輔実−幸教(千姫夫)−二条宗基以下略

19 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 22:17:52
すぐ現代の皇室の話題に結び付けたがるな。
うざい。

20 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 22:38:01
>>13
孫(二条康道)より年下の娘(和子)もいるからな。

21 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 22:58:10
>>19
何がダメなの?

22 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 07:40:00
>>19 於江の娘が天皇家にも、公家にも嫁いでいるのだから
皇室の話題に結びつくのは当たり前じゃん。
それにしても家光系統で脈々と現在の天皇家まで繋がっていたとは驚き。
お市様GJ。

23 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 19:38:10
できれば戦国時代の三姉妹の話に限ったほうがいいんじゃいの?
たしか、完子の血が貞明皇后にまでつながっていることは
明治天皇の皇后と側室スレだったかに出ていたと思うけれど、
雅子様紀子様スレに出没している既女の方々が
自分に興味のある内容にシフトさせている気がする。
ここは三姉妹のスレなので、貞明皇后の話がしたい人は専用スレへどうぞ。

24 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 19:48:48
うむ、近現代の皇室の話題は不要。
江戸初期の摂関家との関係までで十分。
それ以上は蛇足だ。

25 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 20:02:11
お江与は嫉妬深くて秀忠は側室を置けなかったってよく言われるけど、
長丸やその母親についてはどう思ってたの?

26 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 20:16:29
お江与の先夫である豊臣秀勝は好色で、お江与以外にも側室が多かったらしい。
なぜ秀勝には側室がいて秀忠には側室(ちゃんとした)がいなかったのか。
実権を握る徳川家康が出兵中の秀忠に嫁と別れてさぞかし不自由しているだろうと
侍女を差し向けたが秀忠は何もせずに丁重に侍女を送り返したという逸話もあり、
別に、お江与の嫉妬で秀忠に側室がいなかったのではないという説もある。

お江与は第一子(完子)も女子だったし、秀忠に嫁いでも最初の4人女子続きだった。
女腹(実際は性別は精子次第なんだけど昔は女側に原因があると思われた)だと思われて
庶腹に男子を儲けられてもある意味その養母として後見していく覚悟はあったと思う。
子のなかった姉の初は側室の子を養子にして京極家を守ったし
母のお市も浅井の嫡子万福丸はお市の実子ではなかったという説が根強いし(年齢的にあわないらしい)。
幸い、お江与はのちに男子に恵まれたし、秀忠は自分が側室の生まれだっただけに
家庭を大切にしたいという気持ちが強かったのでは?

秀忠の隠し子保科正之もお江与が嫉妬して追いだしたというより
将軍秀忠本人の意思で江戸城から落とされ認知もされなかったのだと思う。
なぜなら、お江与は秀忠よりも早くなくなっているのに、
お江与が没して尚、秀忠は正之を認知せず、それどころか生涯会わなかった。
お江与の嫉妬が原因ならばお江与が死んだら認知し、将軍子息としてお披露目して問題ないのに。
秀忠が死の間際まで正之を気にかけてこっそりあったというのはドラマの作り話だし。

27 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 20:31:51
戦国期の側室は正室の仮腹&征服した家の人身御供、和平のための人質、戦利品。
戦国期が終わったら側室は正室の仮腹のみがその仕事。

家康が基盤をかためてくれたから秀忠が政治的理由で
人質代わりの側室をもらう必用はなかったし、
御台に次々子供が生まれたらとりあえず側室は必要ないし、
男子が二人も生まれたらなおさら。

家康は大御所として直系で将軍家親藩の家を創立する男子をたくさん残したかったら
亡くなるまで盛んだったが。

秀忠の奥には正式な側室はいなかったが、夜伽兼の侍女はいただろう。
御台の妊娠中、出産後など相手をする女性もいただろうから。
仮腹が許されないとなると、妊娠しても出産そのものが許されないか
暇をだされて私生児として産むか、出産後すぐに他家に養子にだされて
徳川とは無縁とされるか、その手の話は将軍家に限らずどこの武家にも
あった話で、身分の低い女たちはそういうことは当たり前という認識でいたんだよ。

28 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 20:42:27
>>27
3代将軍家光以降は正室が江戸城で出産した経験は一度もなく、
側室が一生江戸城に残って将軍生母などとして牛耳ったりしている。
やっぱり、2代将軍秀忠の後宮だけが異色だったと思うんだよね。
どこの武家でも正室がそんなに大事にされて側室が軽んじられていたのならば
3代将軍家光の正室軽視が説明できなくなる。
やっぱり、正室がここまで重んじられたのは秀忠の世だけだったと思うよ。
江戸時代の側室はそこまで軽んじられてないし。

29 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 07:59:21
>>28 個人の感情と実際の立場とで重んじる、軽んじるは比例しないから。
将軍御台所は将軍から愛情を得られなくてもその家の女主人に代わりなく
どんなに権勢を誇った将軍実母よりも立場は上。
現役御台所>先の御台所>将軍実母の側室>上臈トップ…
将軍家では4代以降は先の御台所と次期将軍は養子縁組をする慣習だったから
将軍の母上様として先の御台所は亡くなるまでかなり厚遇され続けた。
この構図は将軍家に限らずどこの大名家でも一緒だがな。

家光の御台所は大奥には入らないといっても江戸城の女主人として
生涯をまっとうしてる。けして軽んじてなどされてない。
そんなことしたら公家と武家の共存という大事な婚姻の大義名分が
意味をなさなくなる。

それに正室の出産の有無と立場の安泰はまったく別もの。
当時の結婚制度は家と家との結婚だから、正室は存在するだけで価値がある。
側室は子供が産めないと価値がない。せいぜい上臈として生き残ること
ぐらいしかできない。将軍生後とはいえ正室のそれとは本質的にまったく異なる。

将軍生母が大奥を牛耳ったというのも、実際は将軍生母の取り巻きの上臈衆の
権勢があったということであって、将軍在位中限定。
上座には常に御台所がいるわけで、厳しい身分制度の城内において、
御台所付きの上臈たちを無視して将軍生母とはいえ好き勝手することは
大奥内では許されない。

秀忠の時代は大奥制度が確立されていないので、御落胤騒動なども
おきたが、災いの元になるので今後そういうことが将軍家にないように
春日局が大奥制度を確立して、徹底的に将軍後継者問題を管理したってこと。

30 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 08:39:55
お江与以外に、将軍の母、関白夫人の母、中宮の母になったくらいの女性って他にいる?

31 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 08:44:11
>>28家斉は正室との間に数人子供をもうけたよ。
みんな流産、死産、夭折して成人できなかったけど。
あれだけ側室も大勢いたわけだから、
家斉もそれなりに正室とは仲が良かったとされてる。
当時の乳幼児の死亡率は70%以上といわれ、成人できるのはさらに
その半分といわれていたから、正室たちも実は妊娠はしたけど
出産までいたらなかったとか、生まれてすぐに亡くなったというパターンはあったかもな。

32 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 09:50:33
>>26 あの時代なら側室が多い=好色とはならんぞ。

お市があれだけ多産だったにも関わらず浅井長政にも複数側室が確認されていている。
だけど長政が好色ということにはならん。
子供はすぐ死ぬものだし、いくらいても困らん。嫡男以下は養子にだして
家臣にすればいいだけのことで、女子は政治の駒に利用できるから。
側室制度は家制度継続になくてはならんものだったし、
側室がいて当たり前の環境で育った江与や秀忠が感情的に
側室を否定する価値観で育つとも思えん。

33 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 10:06:12
>>29
秀頼の場合は嫡母であるはずの北政所が大坂城から出て行ったけどね。

34 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 12:12:06
嫡母が当主と同居しなきゃならん決まりはない。
ねねが嫡母としてその後もずっと秀頼の後見をしていたわけだし、
だからこそ家康に目をつけられ、豊臣が滅んでもねねは将軍家から
厚遇された。秀頼と家康の接見の時、ねねが同伴できたのもそのため。


35 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 13:04:56
三姉妹の生誕地は滋賀県の湖北だけど、
地元での人気はどれほどなの?

36 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 13:17:33
人気は知らないけど、最近は長浜市がやたら浅井氏を
プッシュしている。
浅井・お市ツアー(と姉川ツアー)みたいなのやったり
長浜城博物館で浅井関係の特設展示したり。
駅の観光パンフレットのひとつに「昼ドラよりおもしろい
歴ドラがあります」という煽りと三姉妹のイラストを
描いたのがあるよ。

37 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 14:01:36
お市は柴田の正室じゃなく、側室としてあがったという説があるがどうなの?
最後まで御方様とはよばれず、小谷の御方と呼ばれていたらしい。
娘たちを連れて行ったあたりで、やはり側室待遇だったのかな。
子連れで側室にあがるケースけっこうあったしな。
男の子は小姓になったり、女の子はどこぞの有力家臣の家に預けられて
そこからいい家に嫁にいけたり。

38 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 16:10:38
亡き主君の妹、新当主の大叔母
勝家は先妻を亡くしており正室の地位は空いていとことを考えると
側室は有り得ないのではないか?
一年足らずの結婚生活だったから最後まで家中に受け入れられなかったにかも知れん
それよりも、お市が死ぬまで三姉妹誰一人嫁に行ってないのが不思議だ。
もう充分適齢期だったと思うが。

39 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 16:59:27
勝家の正室って誰?
なんかの本に勝家の正室もあの時城で自害して亡くなったってあったんだけど。

茶々・初はとりあえず適齢期だな。
信長が生きてて、あの調子で四国、九州を平定したらそこの大名家にでも
とついでいたかもしれないな。

40 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 19:48:08
>>37
勝家には織田氏(信長の一族)から迎えた正室がいたが、
この頃にはすでに没していて男やもめだった。
正室がいるから側室なのであって、
正室もいないのにお市が側室であったとは考え難い。
ちなみに、正室が呼称で呼ばれることはよくある。
お市は浅井長政の正室だったころに「小谷の方」と呼ばれていたんだろ。
その呼び名が慣れていたからみんなそう呼んでいただけだろう。
後水尾天皇の中宮だった徳川和子も宮中で「江戸姫君」などと呼ばれているよ。
「○○の方」は側室、なんていう決まりはない。

41 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 19:54:04
>>32
お市は多産

お市が織田に伴った三人の娘がお市の子供だったことは間違いないけど、
万福丸や万寿丸はお市の子ではなかったとも。
この時代、嫁いで十年で子供3人は特に多いとも思わないが。
お江与も最初の夫佐治一成との間に男子2人、
2番目の夫豊臣秀勝との間に女子1人(完子)、
3番目の夫徳川秀忠との間には五男二女の7人を産んで
生涯に産んだ子供は10人で多産とされていたが
最初の男子2人はどうやらお江与が母親ではなく一成の庶子らしいし。
8人でもまあまあ多いが、11人の子を産んだ芳春院には負ける。

42 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:12:12
お江与の娘の珠姫も24歳で8人産んでるな。
長生きしてたらもっと多く産んでたかも。

43 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:27:41
>>42
15歳から24歳までほとんど年子で8人。
さすがに母体を酷使しすぎだろう。
そこまでやったら珠姫でなくとも死んでしまう。
母親のお江与は8人の子を15年かけて産んだから。

44 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 21:11:41
>>40 >>正室がいるから側室なのであって、

家康は正室不在でも亡くなる直前までがんがん側室を増やしてたぞ?
正室は政治的な理由がなければあえてもらう必用がないってだけだろ?

小谷の方というのも変な呼び名だと思うけどな。
ようするに「小谷城に住んでた長政の後家」と呼ばれ続けたようなもの。
普通に「御方様」と呼ばれないわけ?

>>41 次男はお市腹なので、助命が許され浅井家滅亡後に僧籍に入ったという
史料があるな。

45 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 22:03:39
徳姫だって離婚しても岡崎殿と呼ばれ続けたから
小谷の方がそんなに変だとは思えんが、
そもそも御方様と呼ばれず小谷の方と呼ばれてたという根拠は?



46 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 22:50:20
「大友家文書録」には『小谷の御方、北庄城において自害』とある。
勝家の家臣が記した史料(史料名を忘れた)にも「小谷ノ御方」とあったよ。
柴田家でも他家からもいつまでたっても「浅井の後家」呼ばわりというのは
失礼だと思うんだけど。家臣目線なら「内」とか「御方」とかで
他家の目線なら「勝家室」とか「北ノ庄殿」とかにならない?

岡崎殿はその後独身だったからいいけど、仮に再婚したとしてそれでも
岡崎殿と呼ばれるのって変だし、
千姫も「江戸御前」と呼ばれていたという史料があるけど、
再婚後に大阪殿と呼ばれていたとは思えないけど。

お市は長政に嫁いだとされる年齢が当時では遅すぎるので(推定20歳)、
長政以前に誰かに嫁いで茶々と初は連れ子だったのでは?なんていう
説もあるね。もっともお市の出自も信長従兄妹説なんていうのもあるから
年齢的なことはなんともいえないけど。

47 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 22:59:43
家康は後家の側室多かったけど、元の嫁ぎ先を引きずるような
ネーミングの側室は誰もいなかったな。

48 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 01:34:32
「浅井三姉妹」大河要望厨のスレですか。

49 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 08:03:15
嫁ぎ先で後家呼ばわりされたままだったということは、
形式的には正妻だけど、お預かり状態だったとか?
家康の側室でも家臣に下げ渡されたけど、手をつけず上客扱いの
特別待遇にしてたら家康の子を妊娠してることがわかった家康の元に
戻った側室がいたと思ったけど、そんなかんじ?

50 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 08:52:23
おごうは、9歳年上説もあるよね。
和子中宮を産んだのはいくつなんだろ?

51 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 13:05:27
和子は10万石の化粧料で嫁入りしてるけど、これって将軍家の姫とはいえ
破格の扱いだよね?
確か千姫の再婚の時も10万石の化粧料といわれたけど、
それって秀頼の時の化粧用なの?
あらたに10万石に加算されたのかな???

52 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 13:59:09
>>47
阿茶(雲光院)の呼称の一つに、
「神尾一位殿」ってのがあるけど?

53 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 14:05:17
ところで於江の遺骨は増上寺の菩提の移転工事の時の
発掘調査の時に発見されたんだけど、その調査の本を読んだら
けっこう詳しくでてた。
火葬にされていたのは事実で、大腿骨などから身長など生前の体格が推定されてて
すごい小柄だった。(130センチ後半〜140センチ前半かもって)
ちなみに歴代将軍の頭蓋骨から生前の人相なんかもだいたいわかるのだけど、
頭蓋骨の特徴と肖像画の特徴がよく似てることがわかった。
当時の肖像画はかなり正確に似せて書いてるみたい。
そうなるとお市はやはり絶世の美女で、淀殿はごつい女で
お犬あたりもかなりの美人だったろうな。現存する於江の肖像画では
美女か否かの認定は難しいけど、身体つきが華奢で小柄なイメージの
お市の方に体格も風貌も似てたらかなりの美人だったろう。

54 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 14:16:59
>>52 官位をもらう時の諱名には夫の姓を上につけるからじゃないの?
江与は徳川達子だし。正室じゃないから阿茶局は徳川姓を名乗ることは
できないし、便宜上夫の姓を名乗ったんじゃ?

55 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 14:34:12
阿茶局ってすごい人物だよね。
もっと注目されてもいいと思う。
大河では「だんだん」の吉田栄作の母が演じてたよね。

56 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 14:41:08
>>53 秀吉も本当は小柄で華奢な江与のほうがよかったんだろうな。
子供もたくさん産んでくれたかもしれないし。


57 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 15:00:49
>>53
お市の肖像画って本人を見て描いたんじゃなくて、後年茶々が
描かせたものじゃなかったっけ?

58 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 15:18:17
奉納したのは茶々だけど、もしかしたら生前書かせたものを奉納したのかもよ。
長政とペアで奉納してるんだよな。

59 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 16:52:46
>>54
官位貰うときは名字じゃなくて氏でだよ。秀忠も源秀忠でしょ。
お江与が貰ったときは藤原姓。
もっとも浅井家が藤原姓ってのは徳川家が源氏であること並に怪しいレベルだけど。
>>55
大阪の陣での交渉役や一側室が中宮の代母と言えど従一位を生前に貰ったことは
もっと注目されてもいいと思う。

60 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 17:33:11
>>59 家康の側室の話なんてどうでもいいんですけど。
一滴も浅井三姉妹と血のつながりはないし。

61 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 20:10:49
>>51
千姫は本多忠刻と再婚するにあたって、
持参金として徳川将軍家から化粧料10万石が贈られた。
本多家ではこの千姫持参金をもって
姫路城西丸殿を建設したとされている。



62 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 20:18:27
>>54
官位をもらうときは生家の姓だよ。
この時代、女性は結婚しても旧姓のままで夫の姓になるということはない。
後水尾天皇中宮和子は結婚後も「源和子」で位階を受けている。
お江与は「藤原達子」という名で官位を受け、
姉の茶々は「藤原菊子」という名で官位を受けている。

例外中の例外が、豊臣秀吉の妻ねね。
彼女は北政所として官位を受けるとき、「豊臣寧子」と名乗っている。
もっとも、ねねは秀吉の妻だから夫の姓を名乗ったのではなく、
「豊臣」の姓は秀吉とねねの双方に後陽成天皇が与えたものだかららしい。

63 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 20:28:49
>>44
お市の方が「小谷の御方」と呼ばれていたという史料は何?
柴田家家中の者の記録?
第三者が記録を残す場合、有名な名で記すことはあるよ。
茶々だって、淀城に住んでいた時期は大変短いのに、
「淀殿」「淀の方」が普通名称のように独り歩きしているし。

64 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 21:18:10
>>63 淀殿と記された同時代の史料はないよ。
生前中に確認されてるのは「淀のもの」「淀の方」「西の丸」「二の丸」、
侍女の手紙などに「上様」なんていうのもある。
リアルタイムには住んでる場所に応じて呼び名が変わったろうけど、
西の丸、二の丸、となると後世誰のことかわからなくなるが、
淀殿となると一発で誰をさすかわかるから後世そう統一されたんだろう。

ただ淀殿は側室だから、もしお市が正室なら立場が違う。
お市が柴田に嫁いだあとまで小谷の御方と記されていたとしたら
それなりに意味があるのでは?
お市のことは普通に「柴田継室」とかで構わないと思うよ。
柴田継室だけでお市のことだと特定できるから。

65 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 22:08:11
>>64
それで?
「小谷の御方」が何の史料に出てくるか書いてほしいんだけど。
柴田家中の手紙に出てくるの?
柴田家の中でお市がそう呼ばれていたことが確実なもの?

66 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:24:28
>>54
さあ。「神尾一位殿」との「呼称」のことを言っているので。
朝廷から官位をもらうさいの手続き上の名まで言及しているわけでは無いので。
しかし、>徳川達子 って、初めて聞いたなw

>>56
秀吉の貴種好みはたくさんの研究家も指摘しているけれど、
秀吉が小男だったから、かえって大柄な茶々に引かれたのでは?
なんて推測をする研究家もいる。

>>58
高野山のお市の方の肖像が、寿像であるという説を聞いたことがないけどね。

>>65
>それで? って、なんか高飛車でイヤな感じだな。



67 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 08:11:05
>>65 >>「大友家文書録」には『小谷の御方、北庄城において自害』とある。
それから勝家合戦記だかの北の庄の最期を記した合戦記にもあった。



68 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 08:26:40
柴田の後見がないと信孝は兄である信雄に対抗できないと思って
叔母であるお市を差し出した、と解釈したら
お市が側室であっても不思議じゃないな。
60才を過ぎた柴田には年齢的にお市ぐらいしか妥当な女性はいなかったんだろう。
柴田とお市の婚儀を記す史料ってあったっけ?
大名家の婚姻なら仰々しくやるはずだが。

69 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 10:18:10
でも「神尾一位殿」というのも変じゃね?
だって夫の姓を名乗ることはないわけだろ?


70 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 10:42:16
そもそもお市が柴田の側室だった説派のまともな研究者っているの?
柴田に嫁した後も小谷の方と呼ばれてもそれほど違和感は感じないが。
柴田との婚姻は一年足らずのことだし、柴田の家臣といえども
昔からお市を知っていれば昔からの小谷の方と記してもおかしくはない。
他家や後世に書かれたものならなおさらだと思うよ。
正室なら資料に○○室と必ずしも記されるものでもないしね。
濃姫だって晩年の資料で濃姫らしき人が書かれるとこはあるけど
(安土殿、御局、大方様など)その中でどれが濃姫かなんて特定されてない。
信長室齋藤氏なんてご丁寧に書いてる資料のほうが少ないよ。

71 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 11:05:34
親元から嫁いできて、実家由来の名で呼ばれるのならかまわんが
最初の結婚の由来の名で呼ばれるのとでは、呼ばれるほうも嫌じゃないか?
「小谷城に住んでた浅井長政の後家さん」と言ってるようなもの。
まわりからそう呼ばれていたのなら、なにやらずいぶんとお市の方に失礼
に思うが。

それに北の庄の話や柴田もお市も有名人だからいいようなものの、
もしその後すっかり歴史にうもれる人物たちとなっていたら
「なんで柴田勝家という人は、近江にある小谷城城夫人と
越前北の庄で一緒に自害したんだ?」となったかもしれん。

72 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 11:50:01
>>69
それは阿茶局が名乗ったわけではないんじゃないの。
彼女の呼称(実際に対面してそう呼びかけたというのでもなく)の
一つとして伝わったものなんだ、ってコト。

ちなみに阿茶局が最初に嫁いだ神尾忠重は天正5年に戦死。

73 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 12:40:35
>>70 お市が正室だったと確実にいえるものって実はないんじゃない?
柴田には当時正室がいないはずだし、
信長の妹だから当然正室として嫁いだのだろう、という臆測だけで。
柴田の妻子の詳細も不詳だらけだしな。

74 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 13:20:04
小谷城から引き上げて、お市母子は信包が預かって面倒をみてたというけど
信孝の政治の駒になんでお市がなっちゃったんだろう。
当初は信包も反秀吉、勝家だったってこと?

75 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 13:22:11
明智 光秀

76 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 14:35:35
>>74
小説でよく言われる「万福丸を殺した秀吉が許せなかった」んじゃないかと
思ったけど、万福丸はお市の子じゃないしなあ・・・

77 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 14:41:00
明智 光秀

78 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 19:20:26
>>74
お市と三姉妹を庇護していた織田信包(信長弟、お市兄)は
本能寺の変後は羽柴秀吉方に組し、信孝・柴田勝家に対抗しているから
信包が勝家方であったとは考えられない。
お市と勝家が結婚するに当たっては秀吉が協力したとする資料もある。
秀吉は天下をいただく代わりに勝家にはお市夫として織田家姻戚の名目を認める
という妥協策であったのかもしれない。
平和的に秀吉の世がくるならということで信包も庇護していたお市の再婚を
認可したのでは?
結局、秀吉の天下を勝家が認めなかったことにより破綻したが。

79 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 19:21:16
寄生虫

80 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 09:45:41
崇源院が朝廷から賜った名って、「徳子」じゃなかった?

「達子」ってのは没時に付けられた云々てのが、
大奥スレであった気がす

81 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 13:06:49
角田文衛の「日本の後宮」だったと思うが
そこには東福門院の母は藤原徳子となっていた記憶があるが
それ以外ではみた事ないんでよく分からん。
まあこの時代の人は名前を複数あるのが普通なんで
死後、従一位を追贈されたときが徳子で生前が達子か?

82 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 01:41:43
通常用いることなど無く、官位をいただくおりの名乗りって
あまり興味ないんだよね。
学者や研究者だって(勿論充分に承知のうえで)スルーしたり
サラッと一行で済ませていることが多いし。

大河板によくいる厨の書き込みで
「○○の本当の名は×子なんだよ」なんて書き込みを読むと
あーあ、何言ってるんだかと思う。
「真田幸村なんて本当は居ないんだよ」ってのと同じレベル。

83 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 03:30:47
阿茶局ってウンコー院って言われてものすごい出世してるね。

84 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 03:38:05
お市って凄い淫乱だったんでしょ。古文書に記録があったらしい。

85 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 11:49:32
「らしい」って便利な言葉だよね

86 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 12:29:50
千姫淫乱伝説と似たようなものだろう

87 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 16:19:53
淀殿淫乱説だってあった。
秀頼は太閤の子じゃないとか、太閤亡き後は大野を愛人にしたとか。

88 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 16:54:09
淀殿自体も浅井長政の娘じゃなくて信長の娘だって説もあるな。
お市は信秀の養女で信長とは従兄弟だとか。

89 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 20:19:58
>>88
淀殿は亡き両親のために京に養源院を建てている。
ここに祀られている淀殿の両親が、浅井長政とお市。
あの有名なお市の肖像画が娘の淀殿によってここに奉納されたことは有名だが、
実は、淀殿は父浅井長政の肖像画も同様に奉納している。
淀殿の実父が織田信長だというのはテレビのとんでも説の影響かもしれないが
通常は考えられない。
淀殿がお市の先夫との子ならば、子は父親のもとにとどめられて母に同行しないのが普通。
お江の再婚時にも娘の完子は父方の豊臣家に所属し豊臣家が養育した詩、
五徳も織田へ帰されるとき2人の娘は徳川家にとどめられて徳川家が養育し、
母親の五徳には同行しなかった。
お市が柴田勝家に嫁ぐとき3人の娘が同行したのは
3姉妹の父方(浅井氏)がすでに滅亡しており
養育者がいなかったためにほかならない。
淀殿の父親は浅井長政だというのは今のところ最も妥当な節。

90 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 21:54:16
84は嵐みたいなもんだし、87と88は
「そういえば、こういう異説もあるよな」
って意味合いで軽く書き込んだだけなんで
そう真面目に、すべて今さらなことを長文で書かれてもw

91 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 02:55:29
僕知ってるんだよ!すごいでしょ!って言いたいだけ。

92 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 09:43:49
>>89 >>3姉妹の父方(浅井氏)がすでに滅亡しており
養育者がいなかったためにほかならない

織田のほうで姫達の面倒をみたっていいんじゃない?
信包が後見してたんだから、引き続き姫達の養育を信包に委ねてもおかしくないじゃん。
春日局のように父方がだめなら母方実家の縁者が母子の面倒をみることだっておかしくない。

乳飲み子ならともかく(乳飲み子だって母親と引き離されても大丈夫なように
乳母制度なんだから)、ましてや3姉妹はそれなりの年齢だったのだから
母親にくっついていきゃなきゃならないのはもっと別の理由があったはず。
織田においていくと姫達が信包にいいように利用されるのを
避けたかったか、なにか切羽詰ったそれなりの理由があったのだろう。

93 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 11:23:30
岩下志麻のおごうはよかった。

94 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 11:25:12
浅井三姉妹で最近オナニイしたひといますか?

95 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:31:07
>>92
織田信包はお市の3人の娘たちの養父なの?
養女縁組をしていたの?
信包は信長の命令で妹お市を庇護していただけで、
兄の没後、妹のお市が他家へ嫁ぐといえば
お市を肉親とする3姉妹を引き留める権利を持たない。

3姉妹の父親が織田氏ならば、最後まで織田が面倒を見ただろうが、
浅井長政を父親、お市を母とする3姉妹を
なぜ第3者の織田信包が引きとどめるのかが意味不明。

96 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 21:08:18
>>95 お市は信包の実妹で、三姉妹は姪。
第三者でもなんでもない、あの段階ではお市にとって兄が一番近い男性の身内。
信包が娘たちの面倒をお市に頼まれたら嫌とは言わないだろうな。
ただ信包は秀吉・信雄組になってたから、お市も
他に安心して娘たちを預ける人がいなかったから連れてったというだけだろ。
身分の高い女性が子連れで再婚する例はあまりきかないが、
あの時代では他にあったのかな?

97 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 21:42:55
>>96
女性が子供を夫側の一族ではなく、
自分の実家の兄に預けて再婚する例なんてあったの?

家康の側室などは子供を伴って再婚しているようだけど。


98 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 21:56:33
>>97 家康の側室でそんなのいたっけ?
子供が男子なら小姓として取り立ててもらったというだけじゃないの?


99 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 22:00:10
信包は何で信雄信孝の後継者争いに参加しなかったんだろう。
馬揃えの序列は信孝より上なのに。

100 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 22:06:49
>>97 
夫側に子供を預けるのは夫側の家が存続してるからであって、
お市みたいに夫の家が滅んじゃったらで戻った場合は預けようがないから
一緒に実家筋の面倒になるしかないじゃん。
で戻ってからずっと母娘の面倒をみてたのに、
お市が再婚するに際して手のひら返したように
「子供の面倒をみる筋合がない」と兄が言い出すわけもないし、
お市が子供を連れていったのは誰も姫達の面倒を見る人がいないから
なんていう理由は変だよ。
子連れで再婚は珍しいから姫達を連れて行くということで
再婚を承諾したのかもしれない。

101 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 22:09:17
>>99 信長→信忠→(三法師)というラインができてたから
そこに信長弟である信包はもはや後継者としては正当性がないな。
信忠の弟たちにがたくさんいたし。

102 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 22:17:07
>>100
父方の実家が滅んで母親が生き残っていれば
子供は母親に同行する。
母親も死んで孤児になっていたのならば
庇護を求めて誰の養女にでもなったかもしれないが。

母親のお市も失い、本当の孤児になってしまった三姉妹は
今度は血縁のない羽柴秀吉の庇護を受けることになる。
長女は秀吉の側室に、妹2人は秀吉の養女になっている。
織田家が三姉妹の母方の実家として扶養の義務を感じていたのならば
当然浅井姓の三姉妹を取り返すはずなんだよね。
織田姓のお市のようにさ。
だけど、このときも信包は何もしていない。
孤児になってしまった三姉妹がたよる相手は血縁のない秀吉しかなかったことが
何よりの証拠じゃないの?

103 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 22:33:14
>>102 三姉妹たちが北の庄後の経緯ってはっきりしてないんじゃなかった?
いつの間にか淀殿が側室になってたけど、お市と死に別れてすぐに秀吉の庇護を
受けたっていうソースがあるの?
秀吉の元に淀殿があがったので、その縁で妹二人が秀吉の庇護を受けたと思って
たけど。
淀殿を秀吉の側にいったのは近江衆の影響が大きいと思う。
大蔵卿の秀吉からの厚遇ぶりをみるとそれに一役かってるだろうけど。
その後近江衆の発展をみても淀殿が側室になたのは政治的な理由でしょう。
義理人情で秀吉が他家の姫たちの面倒を買ってでたとは思えないんだけど。
お市と死に別れた後でも織田宗家の三法師もいたし、信雄もいたし、とりあえず
織田の血をひく姫たちが孤児で行き場をなくしたということは考えられないな。

104 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 22:35:44
>>102孤児ってことはないだろう。
だって織田の親族は大勢いたのだから。
年頃の姫ならいくらでも親戚で引き取り手はあったと思うよ。
養女にすれば政治の駒に仕える。引く手数多だろう。

105 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 23:00:53
華陽院や督姫のように娘を連れて再嫁した例はある。
両方とも娘を先妻の息子と結婚させてる。
完子のように母の実家に預けられる例もあるが
それは数少ない豊臣家の姫という政治的な理由も大きかったと思われる。
柴田が滅びることがなかったら、茶々と柴田の養子又は親戚との縁組も充分ありえる。
子供のいなかった柴田にとって年頃の三姉妹は政治的にも歓迎するものだっただろう。

106 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 00:25:06
ようするに、お市は姫を連れ子にしなくてもそれなりに面倒をみてくれる
あてはあったがそうしなかったってことでいいの?

淀殿は秀吉亡き後は総見院の信長の法要の喪主もしてるし、
母方の縁も大事してると思うんだけど。
父方じゃないから一族の女性の娘たちの庇護をしないなんていうのは
偏りすぎた意見だと思う。
それなら淀殿だって母方親族に対して知らぬ存ぜぬを通したかといえば
そんなことなく、信雄とは亡くなる直前まで交渉あったのは
織田家の血をひくものとして信雄と豊臣のパイプになってたからでしょ?

107 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 09:43:18
>>105 督姫って初婚の時に子供いたっけ?

でももしいたとしたら、今川家ではその子を手放し督姫は子連れで実家にもどった
ことになる。父方なのに今川は子供の面倒をみてないじゃん。
華陽院だって同様。
父方だからといって子供の権利を絶対的に有していたわけじゃないってこと。
確か離縁となった時には女児は母親実家、男児は父親実家に権利があるというのが
当時の武家の慣習だったと読んだことがある。
女児の場合は母方の実家が養育して、再婚となった時は母親や相手方の意向なんかも
あるから連れ子になるかならないかはケースバイケースってことでしょ。

五徳のように女児二人を婚家に残してくるケースもあったけど
あの場合は信康死後同盟の人質がわりに残されたのかもしれないし、
女児だからといっても必ずしも母親実家が引き取るというのでもないみたいから
こっちもケースバイケースだろうな。

108 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 10:03:01
>>107
督姫と北条氏直の娘がいて、池田利隆に嫁がせてる。

109 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:10:47
>>102
三姉妹の中で一番最初に結婚したのは一番末のお江。
お江の最初の夫佐治一成とお江の縁を取り持ったのは
いうまでもなく秀吉で、お江は秀吉の養女として嫁いでいる。
(秀吉と夫が不仲になると、お江は秀吉に連れ戻されている)
次に結婚したのが中の初で、こちらも秀吉の養女だった。
淀殿が秀吉の側室になったのは一番最後。
妹たちを先に嫁がせて淀殿が自分の側室になる以外道がないように外堀を埋めたのだとも。

淀殿が秀吉の側室になったので、淀殿の妹2人が秀吉の養女になったのではないよ。
なぜなら、淀殿が秀吉の側室になる前に、2人の妹は秀吉の養女として他家へ嫁いでいる。



110 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:21:07
>>109 それって淀殿が秀吉の側室になった時期が明らかに妹二人よりも
後という憶測での話でしょ?
実際淀殿がいつ秀吉の側にあがったのかを明確に示す史料はないし、
お捨が生まれた1年前以上だろう、という程度しか時期的なことは
わからなかったはずだけど。
年齢的に淀殿が先に縁付くものだろうし、外堀から埋めて
有無を言わせずみたいなことをしなくても、秀吉が妹二人の後見を
確約してくれれば淀殿は素直に秀吉の側室になることを承諾するとも
考えられる。
時の最高権力者である秀吉からの申出は願ったり叶ったりと思うけど。

側室になることを拒否したければいくらでもできたでしょう。
京極殿のように側室になることとひきかえに弟の命乞いをした
立場とは違うし。
ましてや妹二人がすでに秀吉の養女としてそれなりの家に縁付いているというなら
妹達のために自分を犠牲にする必要もないじゃん。

111 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:37:36
南野陽子が12時間ドラマでお江やってたよね。

112 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:38:12
>>110
>秀吉が妹二人の後見を確約してくれれば

あれあれ?
3姉妹の後見は織田家が見るんじゃなかったの?
なんで淀殿が血縁のない秀吉に後見をお願いしないといけなかったの?
それ自体、父方と母親を失った3姉妹が身よりを失った証じゃない。

末妹のお江は柴田勝家とお市の自刃の翌年、早くも最初の結婚をしている。
それならば淀殿が秀吉の側室になったのはさらにその前ということになる。
徳川家康と秀吉が争う前、まだ天下は秀吉のものとならず
織田の家督もどちらに転ぶか分からない頃に
織田は3姉妹の扶養を放棄し、淀殿は天下人でもない秀吉の側室になったと。
淀殿は側室になったとき、大阪城二の丸に入って「二の丸殿」と呼ばれていたんじゃなったっけ?
まだ大阪城も出来上がってない時期だよねえ?

113 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:50:08
後見人にすでに秀吉の言いなりの落ちぶれ果てた織田家と、
飛ぶ鳥落とす勢いの秀吉が名乗り出たら有利なほうの申出を受けるのも
ありなんじゃないの?
お市とともに勝家のもとに行った時とはさらに織田家の状況が変わってたんだから。
ただ衣食住の面倒をみてくれる程度なら織田家だって
できないことはないだろうけど、秀吉の後見の方がはるかにメリットが大きい。
妹達の縁談先も全然違ってくる。
淀殿が北の庄から落ちてすぐに秀吉の側室になったとしたって
なにも不自然なことはないさ。あの時代の女ならいかにもありがちな話。

それから淀殿は淀城に住んでたから後世その呼び名で統一されただけで、
大阪城に移住してからは西の丸、三の丸、と呼称は変化してるんだけど。
淀城をたててもらった時はすでにお捨を出産後で側室してたんですけど。

114 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:57:05
淀殿が妹二人を嫁がされ外堀埋められて無理やり側室になった、みたいな話って
歴史小説にありがちなパターンだよな。
実際はラッキー!とばかりに側にあがったかもしれないのに。

行き場のなくなっていた近江衆も味方になってくれるし、秀吉にとっても
淀殿を側室にすることのメリットは政治的にもあったろう。

115 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 18:04:55
>>113
「大阪城ができる前」の淀殿の呼称は?
お江初婚前に淀殿が秀吉の側室になったのならば、
淀殿は大阪城ではなく別の秀吉の城に迎えられたはず。
その城の名前と淀殿の呼称は?

淀城は鶴松を妊娠したときに建ててもらいましたが?
完成したときは出産後。
何を書きなぐってんの?
淀殿が側室の時の最初の呼称が「二の丸殿」だったと書いているだけで。
だいたい、西の丸は伏見城の頃のものでしょ。
君は淀殿が二の丸に入る前に側室になったと言ってるんだから、
二の丸殿になる前の呼称を書くべきでしょ。

116 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 18:13:03
>>115 なんで側室一人一人に城を与えなきゃならんのさw

秀吉がその頃居住していた城の奥に入って、ねねの下におかれ
浅井殿とでも呼ばれただけだろ。

じゃあ、淀城に住んでる以前にお捨を妊娠した時は淀殿は
その段階ではまだ秀吉の側室じゃなかったというわけ?
だって淀城に入城する前に淀殿なんて呼ばれるわけないから
側室じゃなかったんでしょ?

117 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 18:19:05
三姉妹の面倒をみた信包の娘も秀吉の側室になってるしね(姫路殿)
茶々が秀吉の側室になったのも他の側室と同じく政治的なもの。
近江衆や旧柴田家臣との関係上、三姉妹は駒として重要。
茶々は鶴松を出産するまで目立った側室じゃないし、
北の庄の後から出産までほとんど記録がないから、いつ側室になったか不明。
ただ言えることは三姉妹とも政治の駒として価値があったということ。

118 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 18:20:44
>>115 側室の最初の呼び名は伏見城の二の丸殿というのは、変じゃない?
淀城のほうが先に建てられてる。側室として淀城の入ったのは紛れもない事実で
淀の方、淀のもの、なんていう呼称は一次史料にあるよ。


119 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 18:30:05
茶々も京極殿と同様の側室だったんだろう。
側室になった代わりに身内を厚遇してあげようという条件付きの。

120 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 18:32:15
>>118
君は何か勘違いしてるね。
秀吉の側室になった後の淀殿の住まい

大阪城二の丸→淀城→伏見城西の丸

文章よくよんでる?
大阪城西の丸にいたことなんかないんだけど?

121 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 18:35:08
>>116
お拾いを妊娠したとき、淀殿は大阪城二の丸に住んでいたから
二の丸殿と呼ばれていたんだよ。
淀殿がお江の結婚前に秀吉の側室になったという史料をあげたらいい。
ましてや側室が「浅井殿」なんて呼ばれるはずもない。
いかに史料を読んだことがない素人かということがわかるね。

122 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 18:42:37
>>121京極殿は? 側室だけど?

123 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 18:44:57
>>121 それなら自分も淀殿がいつ秀吉の側にあがったのかを明確に示す
史料をあげたら?

二の丸殿とよばれてたってだけが根拠?

124 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 19:12:47
>>121 側室が実家の姓で呼ばれるのってありえないの?
信玄側室の禰津御寮人は「禰津御前」と記す史料あるし、
信長側室のお鍋の方は小倉、小椋と書かれてるよ。

125 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 19:57:11
お鍋の方の「小倉」は前夫の姓じゃなかったけ?

126 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 20:01:16
浅井三姉妹なんてしょせん負将の姫。
勝った秀吉にとってどうとでもなる存在。
淀殿を側室にしたかったら命令すればいいだけのこと。
段取りする必用なんてない。

127 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 01:32:51
〜〜でしょ? 〜〜たの? 「?」の多用
こういう粘着質な書き様の人は濃姫スレでも居たが
攻撃的でもあり、実に読み苦しい。

枝葉の部分の揚げ足取りの応酬になってしまっている。
いい加減にして欲しい。

128 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 07:39:44
>>127 そう感じるのは矛盾を指摘され反論できないからだよ。

そうでしょ?

君が攻撃的とかんじるレスに共感して読んでる側としては
全然攻撃的には感じないんだよ。

129 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 10:55:28
淀城て石垣やお堀のある立派な城だと思ってたらただの館造りの城だったんだってな。


130 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 14:26:52
>>115 二の丸殿という呼び名は現在までに確認された史料の中では
淀殿が側室になった最初の呼び名ってだけで、
必ずしも二の丸殿から側室時代が始まったこととイコールじゃない。

妊娠したことでその名が史料に登場したってだけで、
それ以前から側室だったがたんに記載されるほどのことがなかった
という可能性だって考えられる。

そういう意味では淀殿が於江の輿入れの前にすでに太閤の側室になってい
いた可能性も否定できない。

とにかく淀殿の足跡は鶴松の出産前後から始ってるから
それ以前のことは臆測でしかないが、かといって二の丸殿以前の呼び名がない、
ということを根拠に自説を主張するには説得力がなさすぎる。

131 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 19:15:48
>そうでしょ?

既女?それともオヤジ?

132 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 08:27:06
歴史小説みたいに秀吉が淀殿をゲットするのに、あれこれ画策なんてするわけないよな。
三法師に対してだってあっという間に家臣扱いにしちまったぐらい
なんだから、信長の姪たちをそんなに上の扱いにするわけない。
淀を側室にして、江与に強引な縁談をさせてたのがその証拠。
信長の娘、淀、信包の娘、と織田の従兄妹同士が3人を側室。
淀と京極殿も従兄妹同士で側室。
秀吉の溺愛したという豪姫の妹も側室にしてるし、
そういう感覚の男なんだから。

133 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 09:54:35
淀が秀吉の寵愛を受けたのはお市の子だからなんていうのじゃなくて
なんといっても御袋様であったことが大きいだろうな。
とりあえず妊娠、出産したという経緯は他の側室にはない
次も!という期待をもたせてくれる大事な存在だったところに、
見事秀頼誕生で豊臣家にとってなによりの功労者だったわけだ。
そのせいで秀次は気の毒だったが。

134 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 12:43:07
秀頼誕生は秀吉にとっては幸福でも豊臣家にとってはそうでもない。
豊臣家の貴重な成人男子の秀次を失ったのは大きな痛手。

135 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 12:56:36
秀次を亡き者にしたかったのは、淀&鶴松を奉る近江衆の陰謀。
太閤亡き後秀次の時代になれば鶴松もろとも邪険にされるのは目に見えてた。
鶴松を太閤後継者にし、その配下で実権を握ろうと画策しての
秀次事件だろう。

136 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 07:53:53
おごうは、「シングリッシュ」の姉ちゃん以外は比較的美人が演じている。

137 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 08:27:09
お市は夏目雅子、茶々は池上きみ子が最強。


138 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 13:00:43
瀬戸朝香の茶々はズラがあっていなくて最低だった。

松たか子の茶々はあからさまに三成を誘惑したり
真っ赤な胸空きドレスを着たりしてぶっ飛びすぎ。

139 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 14:55:48
富田靖子のお初はかわいすぎた。

140 :日本@名無史さん:2008/11/06(木) 15:02:28
淀殿は下品であってはならないと思う。
あの時代に生きたお姫様だから感情的になりすぎたり、
男を誘うなんてもってのほか。
プライドは高くても、威張りちらすのもパスだな。
ヒステリックなだけの憂いのかけらもない永作茶々は最悪だった。
和装も全然似合ってないし。
ちょっと年食ってたけど、小川まゆみ・波野くり子・岩下志麻の浅井三姉妹は
好きだ。

141 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 05:01:29
>>140 金のかかるキャスティングだった。 小姑になったお初が良かったが。

142 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 07:42:34
長山藍子がはった江与もよかったぞ。
まだ幼い千を奪われるように無理やり手元から離され、嫁にださなきゃならんシーンは
なんともいえなかった。
お志麻さんみたいに強いかんじじゃなかったのもよかったな。

143 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 09:54:29
高島礼子のおごうは、綺麗だった。

144 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 20:36:34
>>133
肖像画を見る限り淀殿はお市には似ていない。
正直、美人だとも思えない。
(母親のお市は肖像画も綺麗だけどね)
淀殿が秀吉の寵愛を受けたというのはお市の影響ではないかも。
淀殿が一番お市に似ていたから秀吉が側室にしたというのは
秀吉がお市に恋慕説の一番有力なものだけど
当の淀殿がお市に似ていなければこの説はあまり意味がない。
秀吉は淀殿がお市に似てなくとも側室にしていただろうし、
淀殿がお市似の絶世の美女で周囲の男を誘惑しまくっていたという
のちのドラマの落ちなんかもどこまで史実だったことやら。

145 :日本@名無史さん:2008/11/07(金) 22:08:11
落ちもなにも、ドラマはドラマであって史実とは異なるものだから。

146 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 10:22:21
秀吉は別に三姉妹のうちだれでもよかったんだよ。
浅井の末裔の姫を庇護してあげる、というポーズが大事だったわけだから。
織田家と近江衆への懐柔政策でもあったんだろ。
でも年功序列で長女が選ばれ、3姉妹の将来の保障してあげたってだけのこと。
淀殿だってどうしても嫌なら嫌といえたろうさ。
出家したってかまわん。そしたら免れる。
でも嫡子も庶子もいない秀吉の側室っておいしい話じゃん。
北の庄から落ちのびた段階での秀吉の勢いは信長の重臣たちを配下におき、
信雄すら下に従えるほどの事実上のトップ。
天下取りに一番近い男だったからな。
乳母にでも「御腹様になれれば栄耀栄華は思うがまま」と言われたら
その気になったのかもしれん。

147 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 18:27:29
でも、 不細工なおっさん・・

148 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 20:53:54
>>146
何か、「何が何でも淀殿は権力者の甘い汁が吸いたくて
秀吉の側室に自ら喜んでなった」ということにしたい人がいるみたいだけど、
40歳も年上の男の側室に大喜びで若い娘が群がっていったってキモいんだけど。
史料にはなく、一人一人の感じ方の問題だから
連投で力説するのやめてくれる?
おっさんの妄想もいい加減にしたら?

149 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 23:04:24
>>148 金のある男はぶさでもチビでももてまくるのは現代も同じ。
あの時代の女は出自が高ければ高いほど経済力のあるパトロンが
いなきゃ生活レベルを維持できん。
淀やその他の実家のなくなったような側室が時の権力者のもとに喜んでいったと
してもなんら違和感ないがな。

淀が外堀埋められて仕方なく側室にされた、という
歴史小説のイメージにばかり固執する必要もない。
歴史小説こそ妄想、幻想の世界なんだから。

150 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 23:18:46
>>148 >史料にはなく、一人一人の感じ方の問題だから

だったら他人がどう感じようと勝手だろう!

嫌ならスルーしてろ

151 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 07:49:16
江与が一発逆転満塁サヨナラホームランを放つまでは
三姉妹で一番おいしい思いをしたのは淀殿。
本妻のいなくなった巨大な大阪城で女城主もどきの権勢も手に入れた。
秀吉が残した財産は現在に換算すると何十兆というとてつもないものだったからな。
秀吉の側室を拒めば初や江与の二人の夫同様のしょぼい相手と縁談して
しょぼい人生を送ったろう。
江与だって当初は豊臣の臣下のド田舎の江戸くんだりに
嫁にいったはずだったのに、
家康のおかげで立場逆転しただけなんだから。

152 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 13:02:45
>>149
なんで外堀を埋められた説が妄想で
淀が大喜びで秀吉の側室になったが妄想でないのかw
そんなに権力者が大好きなら
母のお市も2人の妹もまとめてみんな秀吉の側室になっちゃえばよかったのに。

お江与が秀吉がもってきたしょぼい相手との縁談を断れなかったように
(2度目の夫は秀吉の甥で養子、お江与はその正室だったから全然しょぼくないんだが)
淀も断る道などなかっただろうが。
そんなに権力者が大好きならお江与もお初も他の男に嫁ぐのは厭、
太閤さまのおそばにおいて、と秀吉の側室に立候補すればよかったんだ。

153 :sage:2008/11/09(日) 13:23:16
>>151
淀が権力を手にしたのは秀頼の母だからだろう
子がなければ他の側室同様
秀吉没後は里に帰るかしょぼい男と再婚しかない
里のない淀は後者だったろうが
爺と初婚してしょぼい男と再婚(それも妾)なんて
仮にも一国一城の主の正室だった初や江よりも酷い

淀が権力を手中にしたのは
子種なしと言われた秀吉の男子を唯一産んだという「偶然」
淀が結婚前にそれを予知していたかといえばそれは疑問


154 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 16:01:38
三姉妹について語るのに結果論でしか語るしかないのでは?
途中までは明らかに淀>初>江与、後半で江与>淀≧初 だな。
側室とはいえ天下人の子供を産んだ淀殿の権勢はしょぼい大名夫人よりも
すごい。

あの時代の女たちの結婚に自分の意志はもてない。
後見人から行けといわれれば相手がうつけと評判の馬鹿殿でも、
夫婦仲に問題がなかったのに離縁して別の男の元にも、
出自の卑しい男の親族でも、
8才も年下の父親頭の上がらない情けない男でも、
30歳も年上の元家臣の男の元にも逆らわずにいくのが
この時代の女の運命。受け入れざるを得ないってだけ。
淀殿が喜んでいたか、屈辱感いっぱいだったかは知らんが
とりあえずは秀吉が気に入るように素直に仕えたんだろ。
秀吉もねねに手紙に書いてる。
淀と西の丸が自分が気に入るように仕えてくれるから
九州までよこして欲しいって。
小説やドラマにある淀殿のように心を開かない威張りくさった淀殿では
あそこまで寵愛は得られなかったろうさ。女の代わりはいくらでもいたんだから。

155 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 16:14:24
>>153 
鶴松懐妊したら出産前に淀城建ててもらってそこに移り住んでるから
秀頼誕生前から格別の寵愛ぶりだったんじゃないの?
生まれてくるのが男子か女子かもわからないのに。
側室なのに城をもらってそこの奥の女主人におさまり、城の名前で呼ばれるって
側室としてはかなりの好待遇。へたな大名正室よりも権勢はあったかと。

156 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 16:28:07
>>155
江戸時代でも将軍のお中ろうは懐妊すると「お腹さま」と呼ばれて
専用の部屋と侍女が与えられる
男だろうが女だろうが天下人の子を孕んだことには違いない
姫であっても太閤息女ならばそれこそ天皇に入内などなど政略結婚の道具に重宝するだろうし
子供のなかった秀吉が懐妊を知って城をプレゼントしたのはおかしくもなんともないが

157 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 16:31:16
>>154
「自分が気に入るように仕えてくれるから 」は
ねねのプライドを刺激しないようにあえて
淀殿や西の丸(京極竜子)を侍女のように見下した言い方で言ったんだろ
そら寵愛の側室を呼び寄せることはねねにとって面白いことであるはずがないから
実際には秀吉が下手に出て若い側室たちの機嫌をとってたとしてもさ
ねねの前では侍女扱いしてねねを持ち上げとくだろ

158 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 16:39:53
御腹様は無事男子を産んでから称されたんだ。
それも子供が男子か女子かで待遇が違ったんだぞ。
「御腹様」「御部屋様」だったかな。当然男子を産んだ側室のほうが上。
でも将軍生母になれても権勢をもてたのは将軍が亡くなって
子供がはれて将軍になれてから。それまでは上級上臈に従えられてたんだから。
そう考えると懐妊した段階で城を与えられた淀殿は他に例を見ない破格の扱いだったと思う。

159 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 16:47:15
>>157 それでもねねは面白くはないだろう。
「気に入るように仕えてくれる」→「俺好みの女たちだ」ってなるじゃん。
いくらでも現地調達できるのにわざわざ遠路から呼び寄せるというのだって
どう言い訳したってねねの気に障らないというのは無理だな。

京極殿と淀殿が寵愛されていたのは、秀吉の消息なんかでも明らかだから
理屈ぬきにとにかくこの二人のことが気にいってたんだよ。

160 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 17:02:34
>>158
前田利家の娘摩阿姫も秀吉から京に専用の屋敷をもらってるぞ。
西の丸殿や三の丸殿と呼ばれた京極竜子や信長息女も
北政所とは別に伏見城内に屋敷をひとつもらっていたわけで
そんなに特別なことではない。

淀が懐妊したから淀城をもらったというのがそもそも小説の読みすぎ。

秀吉は京と大阪城の間にあり水運に恵まれた淀に
もともと城を持ちたい願望があり、
たまたま出来上がった城に側室の茶々を置いたために
茶々は淀殿と呼ばれるようになっただけ。
そもそも、淀城なんかに置かれても秀吉とはなかなか会えないし
現地妻のようなもので特別に良い待遇だったとも思えないんだが。
正室なら主城ではないこんな城に置かれたら
別居だといわれかねないよね。

161 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 17:12:44
>>159
あの消息文から「淀殿が秀吉が気に入るように素直に仕えた」
とまでは読みとれないということだよ。
秀吉が茶々や竜子を気に入っていたことは事実だろ。
ただ女性たちがどう思っていたかは記されてないわな。
秀吉が気に入っているなら高飛車な姫でもいいわけだわな。
だけど、秀吉がそうかいてご覧。
「茶々と竜子のことは大変気に入っている。
あの姫たちのいうことなりら何でもきいてやる。
とにかく大好きで離れたくないからよびよせたい」
と。
「あの者たちは感心な側室たちで
主人である私の意のままにつかえてくれるから」
(間接的に正室であるねねも側室たちの主人であるという意味を含んでいる)
とかかれるより腹が立つだろ。
実際にはねねがどう思おうが秀吉は側室たちをよびよせただろうけどさ。
呼ばれなかったねねには「正室は側室たちの主人であり、
茶々や竜子たちとは身分が違うのだから寛大に」となだめてるんだよ。

162 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 19:19:23
>>160-161 
摩阿姫は後に病弱ゆえに実家の加賀屋敷に下がることが許され
療養がてらそこで過ごしたんじゃなかったか?
二の丸、三の丸は別棟とはいえ伏見城内に居住していたわけで、
独立した城に女主人として居住していた淀殿とは同一に語るもんではないな。
二の丸は伏見城の併設した建物でしかない。
現地妻だろうが側室として最高のステータスシンボルを得たわけだ。
正室と同じ城の空間で遠慮する必要もない。
たまたまというがなぜたくさんいた側室の中から淀殿が選ばれたのだ?
たまに出向く城に一番のお気に入りの側室をおきたかったからだろ。
淀城内では奥向きトップの座にいられるという特権を与えたかったからだろ?
あの時代、淀殿は他の側室にない特別待遇を受けていたというのは
否定できない事実だ。

手紙の件はそこまで複雑に読む必要はない。
ねねが呼ばれないのは、あの時代夫婦そろって長期城を
あけるような慣習がなかったから。
秀吉が呼ぶわけもないし、呼ばれないのは当たり前だとねねは承知さ。
そもそも二人とも良く仕えてくれるから二人を現地に送ってくれ、とねねに依頼する
手紙だ。一応奥向きのことだから正妻のねね経由でそういうこともしたってだけだろ。
なだめてるって、太閤夫人にもなって相変わらず側室のことでああだこうだ
焼もちやくような立場をわきまえない進歩のない女なの?ねねって。

163 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 19:49:02
>>160 淀城は元々あった城だよ。光秀が山アの合戦の時に淀城に陣を張ってる。
その後秀吉が秀長に改築普請をさせて出産前の淀殿を住まわせたの。
規模は小さいながらも一応天守などもあった城らしい。

164 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 06:58:14
>>160 加賀殿は京都にあった上京用の前田家に病気療養のためいただけだよ。
明らかに人質としての側室だったから特別待遇といえば特別待遇だけど
淀殿が本境地以外の城に治まったのとは意味合いが違う。
西の丸や三の丸はそこに局をもらった、ってだけで城内にいたことにはかわらない。

>>161 「そなた(ねね)が一番、次が淀のもの」と手紙に書いてあるんだから
側室達と自分はそういう位置付けだったとねねも充分わかってたろう。

165 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 07:39:10
>>158
江戸時代の大奥と、織豊の奥向きの制度や慣習が違うのは当たり前。

それから、将軍側妾は上臈付にならないし、上級上臈なんてものはない。

166 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 08:11:46
摩阿姫ってやる気のない側室だったね。

167 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 10:23:18
秀吉は色ボケだったのではなく、没落した姫たちを救済してたんだよ。
天下人の側室ということにすれば、身分や生活が保障されるだろ。

晩年の衰弱した秀吉ではそうそう頻繁に交接はできん。
秀吉の快楽のためというよりは、没落した姫たちを保護してやったと考えるべき。

いわば秀吉は戦国のあしながおじさんだ。

168 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 13:15:24
京極松子は夫がいたし、前田の姫も没落組みじゃないぞ。

169 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 16:23:09
秀吉の側室は人質色の濃いのが特徴じゃないか?
ねねを人情味あふれる愛情をそそぎ、二人の側室を人目はばからず寵愛してたけど
その他の女性には意外と淡白だったようにも見れる。
秀吉は女好きといわれてるけど、子供を20人以上つくった信長や
晩年まで若い側室に子供を生ませた家康は女好きとは言われないのにな。

170 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 17:18:47
信長:後家好き
家康:中年くらいまで後家好き。晩年はロリコン。
秀吉:姫専

171 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 17:34:11
秀吉は男色に興味がないから殊更に女好きの印象を持たれるのだろう。

172 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 17:46:18
フロイスが秀吉のことを「極度に淫蕩で、獣欲に耽溺していた」と記したり、
「勢州軍記」にお市のことを秀吉も望んだが、信孝が柴田に与えたから
秀吉が信孝を恨み、柴田とも仲が悪くなった、なんて書いてあるからだろ。

「勢州軍記」にはお市は信孝のところにいた、となってる。
信包の元にいたと思っていたのだけど、なんで甥の信孝のところに??

173 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 20:14:14
だって、お市の方は三重県津市に娘といたもん。

174 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 20:12:49
>>169
秀吉は人妻に言い寄ったとか、淫乱な逸話が多いからでは?
秀吉がたまたま手紙で呼び寄せた側室が竜子と茶々だったというだけで、
他の側室は寵愛しなかった、手をつけなかった、という保証はないよ。
若い娘が自分の目の前にぶら下がっているのに
手をつけないほうがおかしいと思うんだが。
子供がいないから秀吉が手をつけなかったというものでもないだろう。
(そういや、昔あった漫画で秀吉は早漏でいつも太ももでいってしまい、
正室ねねは処女のままだったというのがあった。
さすがにそれはないだろうが、ねねは子供がいなかったから、
女とやった=子供ができるはず、という前提なら
ねねは生涯処女だった、という説もなりたたなくはないわけだ)

175 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 22:35:26
晩年の衰弱した秀吉ではそうそう頻繁に交接はできん。
秀吉の快楽のためというよりは、没落した姫たちを保護してやったと考えるべき。

いわば秀吉は戦国のあしながおじさんだ。

176 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 23:28:50
姉や妹に比べて地味だけどお初の結婚生活が一番幸せそうだな。

177 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 09:09:52
秀吉の側室
浅井の主筋にあたる京極家正室
たらいまわしの最後に将軍御台所

それぞれ後見人がコロコロ代わったわりにはおいしい人生送ってる

178 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 11:31:21
秀吉の女好きは自分で言ってるからな
真似をするなよと注意された秀次はたまたま妻子が処刑されたので
どれくらい側室が居たのか分かるが、注意されたにしてはかなりの数
多分秀吉はもっと多かったのだろう

179 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 13:20:38
いろいろあったけど、最後に夫で幸せだったのはおごうでしょ。

180 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 20:13:21
>>162,164
それを言うなら、茶々も淀城に局をもらっていただけ。
淀城は茶々の城でなければ茶々に所有権もない。
実際茶々が淀城で暮らした時間は生涯で非常に短い期間。
次子の秀頼のときには茶々は妊娠から出産までその他大勢の
側室たちと一緒に伏見城におり、
秀吉が妊娠によって城を与えるわけでも
寵愛しているから城を与えるわけでもないことがわかる。
醍醐の花見でもてかるように、側室時代の茶々の地位は
後継ぎを産んでもなお、北政所に及ばないのは当然としても
秀吉の子を一人も生んでいない京極竜子と杯争いをする程度でしかなかった。
側室時代の茶々は側室の一人としての範疇での待遇しか受けていない。
淀城の所有権が茶々にあったなど、もってのほか。

181 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 20:25:56
>>176
初とその夫京極高次はいとこ同士。
高次の母は三姉妹の父浅井長政の姉。
江与の最初の夫佐治一成も三姉妹のいとこ。
(一成の母はお市の姉で信長の妹のお犬)
妹2人の初婚は単に秀吉の都合で嫁に行ったというよりも、
姻戚を辿って縁者に引き取られるように嫁に行ったに近いかも。
初婚の相手とその正室として生涯添い遂げた初は一番穏やかな人生だったかもしれない。
初は3姉妹の中では唯一実子がなかったけれども
わが子のためなら盲者となる姉妹たちを一歩引いた目線で眺めることができたかも。

182 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 20:53:42
>>180 >>162をどう読めば、淀殿に城の所有権があったと
解釈できるんだ?正室だって城の所有権なんてないなんだがな。
ようは城の奥のトップに座れるか否かが問題なわけで、
淀城は淀が奥のトップだから淀殿とよばれたのだろ?

初の旦那の京極高次なんて姉の犠牲と妻の姉のコネで秀吉の取り立ててもらって、
その後は妻の妹のコネで家康に厚遇された蛍大名、武将としては二流だな。

なんだかんだで江与が勝ち組じゃん?
将軍御台所、3代将軍生母、天皇生母、なんて日本にはそんな
名誉を得た女性は江与以外いないだろう。

183 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 20:58:35
>>182
淀城に「奥」なんてありませんが?
秀吉の奥は正室北政所の配下にしかありません。
茶々が北政所からすら独立していたなんて、嘘もいいところ。
「西の丸」と呼ばれた竜子や「三の丸」と呼ばれた信長息女と同様、
茶々も淀城内に局をもらっていたにすぎないんですが?
どこまで馬鹿なんだ。

184 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 21:10:49
>>182
ついでに、同時代史料で茶々を「淀殿」と書いたものは一つもない。
知らないみたいだから付け加えておく。

185 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 21:12:10
>>182
お江与はいつ天皇生母になったんだ?

186 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 21:12:29
側室のいる局を含めた城内の当主のプライベート空間が奥なの。
正室がいない城でも、側室や幼少の子供達、それにつかえる侍女たちがいて
当主の寝所があればそこが「奥」なの。
当主意外の男が簡単に入れるような空間に局なんて与えないんだよ。

奥の定義がわかってなんだな。

187 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 21:17:05
>>183 でも「淀のもの」「淀の御方」とよばれてたじゃん。
「小谷ノ御方」と称されたお市はどうなっちゃうの?

>>184 中宮生母の間違いだな。でもって江与は天皇の祖母。

188 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 21:27:07
>>186
そんな新解釈お前だけだわな。
現地妻を持ってる大名はあちこちに「奥のトップ」がいるって?
あほらし。
徳川慶喜は江戸に正室がいたが、京の二条城に愛妾を伴っていた。
とすると、愛妾が二条城の奥のトップで「二条殿」と呼ばれるわけだ。
宇喜多秀家の母なんかも秀吉の愛妾で前夫が残した岡山城に住んでいた。
するとこれも奥のトップで「岡山殿」なわけだ。
秀吉もあっちこっちの女が妊娠したなら
あっちこっちの女を「奥のトップ」にしなければならず
たいへんだわな。

茶々はわずか2年足らずで淀城をさっている。
その後、秀頼を孕んだ時も伏見城にいたまま。
ずいぶんあっさりと「奥のトップ」を手放したもんだなw

189 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 21:31:01
>>183の理屈だと正室と別居していた家康のあんだけ大勢いた側室たちの
いた空間はなんといわれてたんだ?
家光の正室は大奥に住まなかったが(離縁説もあり)、大奥は存在してたぞ?

>>187お市は小谷城で局をもらっただけのただの側室の一人だったんだよw

190 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 21:39:53
奥向の頂点に座するのは正室だろう。

「奥」が政所である「表」と対をなす寝所を含む
プライベート空間なのは事実だけど、
あくまで奥向は主人・女主人のためにある。
淀が権勢があろうとなかろうと、
豊臣の全ての奥向で北政所がヒエラルキーのトップ。

逆に言えば、築山殿や朝日姫没後の
家康の奥向は女主人不在の不完全な代物。

191 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 21:44:09
>>188
君がしゃかりきに否定しても江戸期には「淀殿」認定してるんだから
仕方ないじゃん。
淀殿は大名家の側室の中ではかなりレアなケース。
だれもかれもが淀殿のように特別待遇にはなれるわけないし
しなきゃならない理由もない。

それに淀城トップの座はずっと名称に残ってるからかまわんだろ。
それがあるかないかが女の価値が決まるわけだから。
>>187が指摘するようにお市だって「小谷城の奥のトップ」というのが
後世の人にとってもシンボルマークになったようにな。

ところで>>189の質問に答えてくれ。
浜松城には奥がなかったのか?
築山殿のいる屋敷が家康の奥だったのか?
家光の代の大奥は正室不在だが、あれは将軍の奥空間ではなかったのか?

192 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 21:44:24
>>189
家康の側室も秀吉の側室も城の中に局を与えられてたんだが。
茶々もご多分にもれずね。
家光の正室は離縁なんてされてないぞ、
家綱や綱吉のころまで生きて嫡母として尊敬されているから。
正室がいる場合、側室はすべて正室の配下に入る。
そして、秀吉の存命中はすべての側室がねねの配下にあった
それだけの話だが。

193 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 21:46:08
>>189
家康と築山殿は別居してたが、女主人であるお大の方がいたわな。

そして大奥は豊臣とは制度上も文化的にも全く異なる。


194 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 21:50:01
>>192
本理院は離縁させられてはいないが、嫡母にもなっていない。
家綱は御台所御養いの記録なし。
綱吉が本理院を敬ったなんて聞いたことがないが、
もしそうだとしても綱吉正室の縁者だからだろう。
綱吉は家綱正室を嫡母と見なしてる。

195 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 21:52:53
>>190 当主のプライベート空間が奥なんだよ。
そこに正室がいようといまいと関係ない。
妻妾子供を含めたもの全てが当主の生活空間。
正室と死に別れようが、離縁しようが、一度形成された奥空間は
役割分担された女どもが仕切り、問題なく機能していく。

江戸期では正室が江戸に人質にとられているので
地元の城では側室のトップ(次期当主生母など)とその取り巻きの上臈が
事実上奥を仕切ってたわけで、それで機能してたし
そうしなきゃどうしようもないだろう、正室が不在なのだから。
不完全どころか立派に機能させなきゃ後継者問題に発展する。

正室を側室が凌駕するしないとは別次元の話。

196 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 22:04:58
>>192 だからその局が男子禁制の奥の中にあるんだよ。
それに家光正室は御台所の名称も剥奪されて
中の丸と称され、正室の権勢はなにもなかったようだが?
家綱は孝子の葬儀に参列はしてない。
正室がいる場合は〜というのは全てにあてはまるようではないようだが?

197 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 22:05:24
>>195
そもそも茶々は淀城の女主人であるという162から派生したレスだろう?
城の所有権もない、北政所配下、側室としての地位は京極竜子と同じくらい。
茶々が所有権もない城の「女主人」であるはずがないだろうが。
茶々は淀城に局をもらっていた側室にすぎなかったし、
鶴松没後は淀城をさり伏見城の一角に局をもらうようになったが
それで特に「格下げ」でもなんでもなかったわけだ。
もともと女主人などではなかったからね。

198 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 22:07:11
>>193 
先代の正室はいくら当主の実母でも女主人とはいわないよ。
代代わりしたら当主夫人が女主人。先代の正室は元女主人。
これもヒエラルキーさ。

199 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 22:10:21
>>194>>196
「徳川実紀」を読んだことがないのかい?
将軍家綱は縁者の女性に贈り物をよくしているが、
そのときには本理院にも贈り物を欠かさず、
また、そのときの女性の序列は
天樹院(千姫・父の姉)、本理院(父の正室)、千代姫(将軍姉)で
将軍姉よりも先になっている。
また、本理院が没した時には将軍綱吉自ら葬儀の指示を出している。
これをもって、家光の息子たちが本理院を父の正室にふさわしい待遇を
もって接していたことがわかるのだが。

200 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 22:17:24
>>197 俺は淀殿が淀城の女主人とは一言も言ってない。
ただ淀城には淀殿をトップとする奥が形成され
だからこそ淀殿は周囲から「淀の御方」とよばれたんだよ、
と言ってるだけ。

正室の配下にあるのに淀城に奥があるのはおかしいのなんのというが、
仕方ないだろ、事実だったんだから。
城の女たちは男子禁制の空間で侍女たちに囲まれるのが当時の生活スタイルなんだし
淀殿だってそうやって育ってるはずじゃないのか?

201 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 22:21:28
>>199
葬儀の支持をだしてるとはあても、参列してるとはないだろ?
それに家綱は孝子と養子縁組してないんだ。
家光以外は正室腹もいないし、他家から迎えることもあって
先代の御台所とは養子縁組してるのにな。
正室ではあっても御台所としては接してないというのが一部の歴史家の主張。

202 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 22:24:24
>>200
茶々は「二の丸殿」「西の丸殿」なんてもよばれているよ。
だからって、大阪城二の丸や伏見城西の丸に茶々をトップとする
奥があったと言えるのかい?

そもそも、この時代の人の呼び名なんて、地名や官職を適当につけて言っているだけ。
茶々が淀城に住んだことがあるのは事実だろう、
ただし、井上靖が「淀どの日記」を書くまで「淀の方」という呼び名すら
ポピュラーではなかったんだよ。


203 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 22:33:22
>>201
正室と御台所は同意なんだが。
将軍は自分の生母の葬儀にも参列はしない。
天皇も聖体を汚すという理由で両親の葬儀に参列しないんだよ。
家綱は養子縁組をしていないという理由で孝子の喪に服せない代わり、
恒例の東照宮代参をとりやめて喪の代わりとしている。
次期将軍と養子縁組をしなかったという点で
家光が正室と不仲であったというのはそうだろう、
だが、孝子が家光正室の座を奪われた事実はないし、
家光の息子たちが孝子を相応に遇していたことは事実だ。
孝子の没を聞くと諸大名が江戸に参集して将軍の指示を仰いだとあり、
一介の側室などではありえない事態だ。
将軍正室として徳川家の菩提寺にも葬られているしね。
政略結婚だし、ホモの家光と仲良くできなかったのは仕方ないだろ。

204 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 22:38:18
>>199
ねえ、上級上臈とか言ったのあんたでしょ。違ったらごめんね。

ところで、あんたこそ徳川実紀読んだ事あんの?
御台所御養いすらさせてもらえない中の丸が家綱の嫡母!

そしてさんざん言われてるのに大奥の話を混同させてるから、ついでだから書く。
大奥は徳川家の御上並の者たちが主人・女主人であって、将軍個人の占有物ではない。


205 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 22:42:15
>>201 孝子は墓も伝通院だし、なんだか迫害されてたイメージが強いな。
側室たちが多い菩提だしな。なぜか仇敵の春日の局と一緒なんだけど
御台所にしては格落ちの扱いが否めない。

>>202 ポピュラーかそうでないかを現代人の視点から語っても。
茶々が淀城に住んでいた事実を示す史料が残ってるし。

>>203 家光は江与の葬儀に参列したはずだけど、違ったかな?
江与が亡くなった時に家光が京都の方にいってて、
家光が帰ってくるまで遺体をおいておいたので
腐敗が酷く、そのために火葬にしたとか本で読んだな。
将軍に準ずる立派な葬儀だったと葬儀記録に残ってる。

206 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 22:50:36
>>204
上級上臈って何?あんたが言ったの(笑
大奥のトップは将軍御台所ですが?
大奥女中トップの上臈御年寄も御台所について京から来た
公家の姫たちがつきましたが何か?

混乱してるのはあんたじゃないの(笑

207 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 22:52:13
>>205
現代人の目から見てるのはお前だろ。
茶々が生きていた当時の人の目からしたら
「淀の方」という呼び名は一般的じゃなかったんだよ。
茶々が当時どのようによばれていたのか、
さあ、史料を読もうね。

208 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 22:58:34
>>205
お江与がなくなったとき、将軍家光と大御所秀忠は上洛中だった。
家光は母が没したと聞き葬儀の沙汰をするために一足早く江戸へ。
葬儀には出席していない(沙汰をしたのみ)。
ひどいのが秀忠で、長年ともに暮らしたお江与が死んだというのに、
ぶらぶらと遊び歩いていて葬儀どころかなかなか江戸へ帰らなかった。
正室のいなくなった江戸城が寂しいからなんて言い訳をするかもしれないが
あまりにも冷酷だという意見も。
ちなみに秀忠の葬儀にも現役将軍の家光は参列していないはず。

209 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 22:59:42
「淀のもの」はねねにあてた秀吉の手紙にあった。
「淀ノ御方様」は侍女の手紙にあったな。




210 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 23:03:01
>>203
一介の側室でも御上並なら群臣出仕は当然だけど。

>>205
火葬はその当時そんな珍しくないよ。
通常、御台所であれば芝か上野に葬送される。
そこから鑑みても本理院が御台所として扱われていなかったことがわかる。

>>206
ああ、違ったんだ。ごめんごめん。
前にそういうこと書き込んでたヤツがいたから。
女中トップのフツーの上臈御年寄は権力はまるでないけどね。
それよりあなた、
ttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1150687234/l50
でも読んで勉強してらっしゃい。

211 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 23:04:38
ていうか、>>207みたいなのってキモイな。

212 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 23:05:42
>>209以外に侍女からは「上様(かみ様)」とも呼ばれてたらしいよ。
あとは秀頼誕生後はもっぱら「御袋様」だな。政宗の手紙にもある。

>>208 それ逆じゃなかったか?
家光が死んだら急いで帰っても仕方ない、とぶらぶらはしてないが
きっちり日程をこなして帰った。だから実母との仲が悪かったという
話も裏付けられた、みたいいな感じだったぞ。

213 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 23:11:22
>>205
家綱は孝子をたよって都からやってきていた孝子の弟信平に
徳川家縁者として「松平」の名すら許している。
家綱が孝子に対して行った厚遇はむしろかなりいいほうだよ。
家光と孝子の不仲は置いとくとしてさ。
そういえば、孝子はもともと家光の生母お江与の養女として
都からやってきたんだっけ。
お江与としては家光に見合わせるつもりでの養女縁組だったんだけど。
家光がここまで孝子を当てつけがましい待遇をしたのは
母の愛を得られなかったことへの母お江与に対する復讐みたいにも思えるのだが。

214 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 23:14:19
>>212
家光は死んでないだろがw

しかし、お江与が死んで秀忠が相当悲しんだという
話も伝わらないようだな。
一番出世したといわれるお江与だが
夫婦仲のことは本人たちにしかわからん。

215 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 23:17:56
>>210
御台所は芝か上野に葬送されるって・・

家康には将軍になって以降正室はいなかったし
本理院より先に死んだ御台所なんてお江与一人しかいないじゃん。
得意がって書いて馬鹿丸出しだね。


216 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 23:26:22
>>210
伝通院は家康生母お大の方の菩提寺。
家光の姉千姫や徳川綱重(家光の子)正室も眠る。
初期の徳川家の菩提寺としては十分な格式だが。
孝子が将軍御台所としてあつかわれてなかったって苦しいな。

217 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 23:29:35
大奥スレとかもそうだけど、話題が話題だと鬼女スレになるんだな…
お前らキモすぎ。

ところで>>215はその後に改葬できるとは思わないのか…
>>210は短慮だがどっちもどっちだな


218 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 23:36:10
>>214 家光が、江与が死んでしまったのなら、早く帰っても仕方ない〜

と解釈してやれ。

とりあえず「御台所」から「中の丸殿」と呼ばれ側室なみの名称に
格下げされた孝子はどうみても粗略に扱われてたな。

大奥をでようが御台所は御台所なんだからなぜそう呼ばれなかったのか?

219 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 23:42:38
ちと亀だけど>>207ってもしかして茶々は「淀のもの」「淀の御方」って
書かれた史料があったこと知らなくて、井上靖が「淀の方」と書いたのが
始めだったと思い込んでたとか?
まさかね…

江戸期には侮蔑をこめて「淀君」なんて言われてたくらいだから
茶々はむしろ「淀」という固有名詞とくっついた名前のほうが知名度が
高かったのかもと思ってるんだけど。

220 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 23:45:21
浅井から話題逸れすぎワロタ

221 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 23:46:51
御世が変わっても、「本理院」ではなく「中之丸」と呼ばれた孝子。

222 :日本@名無史さん:2008/11/13(木) 00:02:44
二の丸殿、西の丸殿、と同格の中の丸殿

223 :日本@名無史さん:2008/11/13(木) 00:24:08
江与が亡くなってあの季節に一ヶ月以上も遺体が安置されたままだったのは
秀忠、家光が城洛中で彼らの帰りを待っていたからだから
二人とも葬儀にでたんじゃなかなったかな?
かなり壮大で立派な葬儀をし、腐敗臭を消すために
ものすごい量の線香がたかれたという。
9月に亡くなって一ヶ月放置したからさぞかしすごいことに
なってたろうな…

224 :日本@名無史さん:2008/11/13(木) 07:58:33
戦国期の姫スレだと、寵愛された側室がいて、
特別扱いされたとなると「そんなことはない」と過剰に反応しすぎるスレがつくね。
正室の権限より上だとか、正室格だとかなんて書いてないのに。
正室は正室、側室は側室、秀吉だってねねを正室として扱い
ねねも北政所という関白正室に相応しい称号で呼ばれてるんだから
それでいいじゃん。名が女性の格付けそのものなんだから。
秀吉が淀殿を正室扱いしてる様子はどこにもないしね。

225 :日本@名無史さん:2008/11/13(木) 16:53:34
>>223 水銀につけてたんじゃない?

226 :日本@名無史さん:2008/11/13(木) 20:05:55
>>218
北政所だって秀頼と養子縁組はしていなかった。
それでも嫡母として秀頼を二条城に呼びつけるだけの
権限は有していたわな。
孝子が将軍と養子縁組をしていなくとも
将軍が孝子を嫡母として扱うのは不思議でもなんでもないんだが。

227 :日本@名無史さん:2008/11/13(木) 20:08:23
>>224
淀城にいる現地妻を特別待遇だというお前がおかしいんだよ。
秀吉存命中の茶々の待遇は跡取りを産んでなお
同じ側室の竜子を凌駕するものではなかった。
茶々がほかの側室を凌駕するのは秀吉死後。
淀城に住まわせてもらった=茶々は特別待遇って
頭おかしいだろ。

228 :日本@名無史さん:2008/11/13(木) 20:10:10
>>221
君の説に従うと本丸から追い出された先代家定将軍篤姫も
側室扱いだったと言い出しそうだw

229 :日本@名無史さん:2008/11/13(木) 20:12:24
>>217
お大だって歴代将軍の尊母なのに結局改葬されなかった。
徳川将軍の関係者ならば他の墓地に眠っているものでも全員掘り起こして
いちいち改葬するのかよ
馬鹿じゃね

230 :日本@名無史さん:2008/11/13(木) 20:35:25
>>226 知らんの?将軍家では次期将軍と先代の御代所は養子縁組する
慣習があったんだよ。正室の子が家光以来いなかったから。
だから孝子は御台所としての立場がどんだけなかったんだ、という話。

>>227 >同じ側室の竜子を凌駕するものではなかった。
醍醐の花見での輿の順は竜子の上だから誰がみても凌駕してたな。
盃の順も竜子より先。近江衆があれだけはびこれたのは
淀殿の権勢と比例してるし、秀吉生前からダントツだな。

>>228 篤姫は先代御台所ゆえ将軍と養子縁組して形式上親子だったわけで
篤姫を側室扱いと思うやからはまずいないだろうな。
将軍生前中はもちろん大奥にいたしね。

>>229 なんでそんなに真っ赤な顔して興奮してんだかw

231 :日本@名無史さん:2008/11/13(木) 20:48:55
>>230
顔が真っ赤なのはお前だろw

2代将軍徳川秀忠=父の正室朝日姫と養子縁組をしなかった。
7代将軍徳川家継=先代御台所の寛得院と養子縁組をしなかった。
9代将軍徳川家重=先代御台所の証明院と養子縁組をしなかった。
10代将軍徳川家政=先代御台所の証明院と養子縁組をしなかった。
13代将軍徳川家定=先代御台所の浄観院と養子縁組をしなかった。

何が将軍家では次期将軍が先代御台所と養子縁組をするだよ。
先代御台所と養子縁組をした将軍は皆他家や分家からの養子で
御台所ばかりではなく同時に先代将軍の養子にもなっている。
家光の実子である家綱は他家からの養子ではないので
実父家光との養子縁組もなければ孝子との養子縁組もない。
嘘ばっかり書き散らすなよ。
何をあせって間違いばっかり書いているのか。

232 :日本@名無史さん:2008/11/13(木) 21:22:26
また正室マンセーが吠えてるなw
濃姫スレに戻って生駒sage濃姫ageageでもやってれば?

233 :日本@名無史さん:2008/11/13(木) 21:22:36
少しタイプミス訂正。

2代将軍徳川秀忠=父の正室朝日姫と養子縁組をしなかった。
7代将軍徳川家継=先代御台所の天英院と養子縁組をしなかった。
9代将軍徳川家重=先代御台所の寛得院と養子縁組をしなかった。
10代将軍徳川家治=先代御台所の証明院と養子縁組をしなかった。
12代将軍徳川家慶=先代御台所の広大院と養子縁組をしなかった。
13代将軍徳川家定=先代御台所の浄観院と養子縁組をしなかった。

先代将軍が実父である場合、次代将軍は実父との養子縁組を行わず、
実父の御台所である先代御台所とも養子縁組を行わない。
家綱もこの例に当てはまる。

234 :日本@名無史さん:2008/11/13(木) 21:24:15
>>232
自分のミスを指摘されるとすぐに正室マンセーか。
君は側室マンセースレでも立てて嘘とねつ造を書きたててたら?
淀殿も迷惑だ。

235 :日本@名無史さん:2008/11/13(木) 22:03:24
>>233 家継以外は御台所と養子縁組をしたくてもできたなかったろうな。
みんな次の将軍即位前に亡くなってるんだからさw
実父と養子縁組なんて俺どこにも書いてないぞ?
先代の御台所と養子縁組をする慣習があったと書いただけ。
15人中9人が先代御台所と養子縁組、うち5人は即位の段階で
先代御台所は亡くなってる。
庶子や他家からきたものが将軍に即位する場合は、先代正室と養子縁組することで
後継者の正嫡性を高めた、と桑田忠親が自書に書いてんだから、
文句があんなら桑田さんに言えば?

236 :日本@名無史さん:2008/11/13(木) 22:05:31
>>234 >>232は俺>>235じゃないからな。

妄想も甚だしいやつだな。

237 :日本@名無史さん:2008/11/13(木) 22:12:39
で、>同じ側室の竜子を凌駕するものではなかった。の見解は?

秀吉が生きてる時すでに淀殿>>>竜子だったのは認めざるを得なかったのかな??

238 :日本@名無史さん:2008/11/13(木) 22:18:21
基地外には触れないようしましょう。自論展開ばかりで先に進まないからw

次女の常高院は将軍家との結びつきを深めようと
江与の娘の初姫を養女にしてるけど、初姫って夫に軽んじられてたよね。

239 :日本@名無史さん:2008/11/13(木) 23:12:57
忠高が初姫を冷遇したのは初姫よっぽど性格が悪かったからかな。
初姫に嫡男が生まれれば秀忠の外孫として優遇してもらえるだろうに、
あろうことか臨終の際に相撲見物に行ってたなんてね。

240 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 00:39:44
>>228 歴代御台所は将軍が亡くなると落飾して本丸から西丸に移って
将軍の菩提を弔いながら余生を過ごすのが慣例だったから
篤姫は追い出されたんではなく、その慣例に従ったまでなんだな。

241 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 00:50:24
>>240

しかも西丸には世嗣夫妻か先代正室しか住めないわけで、
西の丸にいた、というだけでだれも側室だとはおもわないわな。
>>228がいかに馬鹿かが証明された。

242 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 02:04:50
揚げ足の取り合いで、肝心な事は解決してないし。
意見もてんでバラバラだし第三者としてはいい加減スレタイに沿った話題にしてほしいわな

243 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 07:26:40
>>227 淀に専用の城を建ててもらった、てだけでも特別待遇だと思うが。醍醐の花見では、秀吉から、北政所の次にお盃受けてるしね。跡継ぎ秀頼の生母としての待遇、他の側室たちとは違ったと思うよ。

244 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 07:36:36
>>202 秀吉自身が手紙とかで茶々のことを“淀のもの”とか言ってたから、世間も淀殿、て言ったんじゃないの?たぶん淀城出てからは淀殿とは呼ばれてなかっただろうし。二の丸殿、西の丸殿も、そこに住んでた時にそう呼ばれてただけだでしょ。

245 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 09:37:24
>>242 一人だけ勝手な自論に従って側室sage正室ageを繰り返してるだけだな。




246 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 10:18:04
戦国から江戸大奥の女性関連スレは議論は盛り上がることも多いけど
最近数ヶ月、レスの枝葉に必要以上に拘って
おかしな揚げ足とりをする人が出現しているのを感じる。

口汚い呼び方をしたり、〜〜でしょ?と?の連発に、馬鹿の連呼。
も少し冷静になってくれ。

247 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 12:14:25
家柄、美貌は淀より松の丸が上という説もある。
醍醐の花見では松の丸が次の杯を受けるところを
気の強い淀が「まちゃれ!」と生母であることを
主張したが、前田のまつが機転を利かせて丸く治めたんだろ。

248 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 12:39:22
とりあえず昨夜はえらそうなこと書いておきながら
嘘とねつ造だらけを指摘され何も言えなくなった
>>233-234が恥ずかしいやつだった。

249 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 14:52:01
>>247
ごめん、「醍醐の花見の盃争い」なんて、そんな憑性のない話を・・・
あの伝承は加賀藩にのみ伝えられてた逸話で
芳春院を讃えるための創作で
眉唾だというのがだいたいの研究者の見解じゃないのかな。

太閤の華やかな妻妾連の、華やかな大イベント・花見での事件として
面白おかしく喧伝され、江戸人の興味も引く題材なのか
錦絵などにも絢爛に描かれてはいるが、
聞けば聞くほど芝居じみてて創作臭さしか感じないんだな。

>>248
そういうの、いい加減にしたほうがいいよ。
キリが無い罵りあいなだけじゃないか。

250 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 18:10:46
でも醍醐の花見の輿の順は「太閤さま軍記のうち」にきちんと記されていて、
ねね・淀・京極・三の丸・加賀〜の順。
筆者の牛一はこの時三の丸に従ってたのだから、かなり信憑性も高い。
この順こそが秀吉の奥の女たちの序列そのものといっていい。
盃の話なんてだれがきいても黒百合の逸話同様に眉唾だが、
公の場での輿の順という客観的な事実が全てを物語ってる。

251 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 18:41:47
>>247 見た目はわからないけど、家柄は淀より龍子のほうが上なのは事実。
京極家は浅井家の主筋だし、室町幕府では四職の一家、守護大名の家系だから
成り上がりの戦国大名である織田や徳川なんかよりもはるかに名門だね。

252 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 20:22:49
>>235
7代将軍、12代将軍は将軍についたとき
先代御息所は生きていたぞ。
養子縁組などいくらでもできるのになぜしない?
また、8代将軍を除けば前の将軍在任中に
後継ぎは決まっていた。
それにもかかわらず、将軍の実子が次期将軍になる場合
いずれも先代御息所との養子縁組はない。
言っていることはわかるな。
お前が間違っているんだよ。
>>248
一日中2ちゃんねるに張り付いて嘘書いてればいい
お前のようなニートとは違うのでね。
昨日は夜遅くまで2ちゃんねる、
今日も朝から延々2ちゃんねるのお前とは違うんだよw


253 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 20:37:14
>>252も毎晩涌いてきてうざいよ。

大奥ネタは大奥ネタのスレでやれ。
相手してるお前も同罪だよ。

254 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 21:04:21
>>252
>将軍の実子が次期将軍になる場合
>いずれも先代御息所との養子縁組はない。

御台所との養子縁組は将軍即位が決まった前後に形式的にするだけだから
御台所が亡くなってからの即位で間に合わなかったんだと思うよ。
大名家だと庶子でも養子でもそのまま当主になれるけど、このシステムは
将軍家独特のものだったんだよ。将軍生母が大奥で実権をもち、秩序を
乱さないせないためとか、養子元の家が台頭することを防ぐためにしたこと
らしいんだけど。
手元の史料では確認できないけど、7代と12代がその事実がないのであれば
なにかしらの理由があったのだろうけど、12代は家斉夫妻が大御所夫妻として
大奥にとどまっていたからかも。即位の段階で実父の前将軍の後見があれば
大御台との養子縁組は必要ないだろうから。

255 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 21:06:07
>>253 あぁごめん。投稿してから気が付いたけど、大奥ネタは確かにスレチだね。



256 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 21:19:37
>>254
将軍が「即位」って・・・

将軍が先代将軍の実子である場合、
先代将軍の御台所は嫡母なのだから、あえて養子縁組は行われない。

君が将軍は先代御台所が嫡母であっても養子縁組を行わなければならないというなら
その例を出すべきだよ。

嫡母(父の正室)と養子縁組を行った将軍は実際のところ誰もいない、
これが事実なのだから。

257 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 21:30:35
>>252 ところで、淀殿が竜子を凌駕するものではなかった、という件は?
本丸から追い出された先代家定将軍篤姫の件は?

間違ってるのはどっち?

258 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 21:38:18
>>257
お前の間違いをまず認めることだな。

孝子は本丸に住めなかった=側室扱いだった、
と言いだしたのはお前だろ。
本丸に住めないなら正室扱いではないと。
ところが、正室でも本丸に住めなかった例はあるんだな。
そこでだしたのが篤姫の例。
実際には本丸に住もうが住むまいが孝子も篤姫も将軍正室だわな。

さあ、お前の間違いを認めろよ。

259 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 21:38:49
>>256 それが 【壮絶】浅井三姉妹スレ【華麗】とどう関連あるレスなの?
スレチのことをえらそうにだらだら書かれても興醒めするだけ。

>>257 おまえも去れ!


260 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 21:47:06
>>256
将軍「即位」で別に問題ないよ。
事実上の日本国王だし、某学者の本にも将軍位とか在位とか書いてあったし。

江戸時代の天皇なんて幕末までは、公方様に形式的な認証を与えるだけの、
いまの象徴天皇以上に国家から切り離された存在だしね。

261 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 21:55:32
>>250
「太閤さま軍記のうち」は秀吉没後に書かれたもの。
冒頭に後陽成天皇と豊臣秀吉をほめたたえる序文があり、
史実に基づいた史料というよりも、
秀吉没後の豊臣家の依頼で書かれ、
豊臣家に献上された可能性が高い書物。

秀吉没後の豊臣家に献上されたものとすれば、
それは遺児秀頼と淀殿に対するもので、
とりわけ幼児の秀頼よりも淀殿の強い意向があったものと推察される。
淀殿の意向とあれば、輿の順など信憑性も何もない。
「太閤さま軍記のうち」は研究者の間で一次史料扱いは受けていないはずなんだが。

262 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 21:57:33
>>258 
篤姫は嫁入りして将軍在位中はずっと本丸に住んでる。
火事があって修復後に西の丸に入ったという記録があるから
将軍死後もすぐには西の丸に移らず本丸にいたと推測されてる。
普通は将軍死後は御台所は本丸から西の丸に居住場所が変わるのだけど。

どうでもいいが、IDもでないスレで不特定多数相手にあてずっぽうに吠えてるのは
みっともない。

263 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 21:58:18
>>260
自分の間違いには最後までスルーかw
将軍が日本国王ってなんていう学者の本に書いてあったのかな?
スレ違いだからもう来なくていいよ。
将軍「即位w」

264 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 22:07:46
>>258 孝子は本丸に住めなかった=御台所の扱いをされてなかった、て話で
だれも側室扱いだったなんて書いてないようだが?

側室云々に飛躍したのは
>>228
>>221
君の説に従うと本丸から追い出された先代家定将軍篤姫も
側室扱いだったと言い出しそうだw

とかいたお前だよ、お ま えw>>

265 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 22:10:19
>>262
先代御台所は西の丸に住むなんていう決まりはない。

新しい将軍が就任すると先代将軍(大御所)は
二の丸、西の丸、三の丸などに移り、大御所のための大奥もこちらへ移動する。
先代将軍が没した場合、先代将軍の妻妾はやはり本丸を出て
江戸城内の屋敷へ移り住むが場所は「西の丸」と決まってはいなかった。

もっとも、新しい将軍の「母」はそのまま新将軍のための本丸大奥に住むことができた。
ここでいう母とは「実母」と「養母」。
紀伊家から迎えられた将軍家茂と養子縁組をしていた天璋院は
「将軍養母」として和宮輿入れ前も輿入れ後も本丸大奥に君臨したし、
本丸大奥に住む権利を有していた。
天璋院が本丸大奥を出たとき、嫁和宮との不和が噂されていただけに
「嫁が姑を追い出した」と巷で噂になったものだ。

266 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 22:17:37
>>「太閤さま軍記のうち」は研究者の間で一次史料扱いは受けていないはずなんだが。

「太閤さま」は秀吉死後書いたものだが、秀吉主役の一代記だから
秀吉をことさらもちあげてはいるがそれ以外のところはかなり他の史料にも
共通した箇所があって、秀吉マンセーをさっぴけば
そんなに信憑性のないしろものでもない。
それに淀殿のことは「太閤さま〜」にはほとんど記述がないに等しい。
淀殿の依頼でというなら、もっと淀殿の権勢をかきたててるだろうがそんあ
内容も見当たらない。輿の順も豊臣家の世継ぎの御袋様という立場上は当然と思えるが。

267 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 22:27:49
>>265 >>ところが、正室でも本丸に住めなかった例はあるんだな。
そこでだしたのが篤姫の例。

この書き方だとあたかも篤姫が将軍生前から孝子同様に本丸に
住めないとしか解釈できないが?

>>「嫁が姑を追い出した」と巷で噂になったものだ。

当時の人々が巷での噂にすぎないことなのに、
なんで君が>>228で「追い出された」と断言してるんだ?
篤姫の意思ででただけかもしれないじゃないか。
大奥の中では和宮が下座に座ったわけだから、追い出される立場でもないのだし。

268 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 22:28:20
>>252
御台所が夫である将軍の子女を嫡子扱いとするのが御台所御養いで、
家継は天英院の、家慶は広大院の御養いになってるよな。

綱吉の代に実母だけでなく血縁関係のない前将軍正室も形式上母に当たるから、
実母同様に敬うべき相手だとか言ってたね。

それにしても浅井三姉妹は何処へ…

269 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 22:33:24
>>264
実際には孝子は家光正室として正当な
家綱の嫡母の扱いを受けてたので
君はまちがいだったわけだ。

正室の扱いをうけていない
本理院が嫡母ってw

これ、君が書いたんだよね?

270 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 22:35:33
>>263
天皇中心史観に凝り固まってるんだな。
物の本質を見抜けず、つまらない形式にばかりとらわれているのか。

世界史的に見たら、徳川将軍は事実上の日本国王。

271 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 22:36:21
>>267
>大奥の中では和宮が下座に座ったわけだから、追い出される立場でもないのだし

そのあと、幕府の老中が朝廷に対し篤姫が間違ったことをして
申し訳ありません、と謝っているのを知らないの?
まさか、大河ドラマを見て篤姫が正しいとみんなが納得したと
勘違いしてるの?

272 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 22:39:58
将軍が「即位」とかいってる奴は
どこの史料にそんなことが出ているのか示したらいい
それができないから吠えてるんだろうが

273 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 22:41:16
あちこちの歴史サイトでは将軍即位とよくあるぞ。
ためしにくぐってみ。

274 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 22:44:15
>>269 いいや、俺は書いてないよw

恥ずかしい奴だな…

家光生前は正室なのに正室扱いを受けてなかったが、
家光死後は形式的にせよ、家綱からお情けで嫡母の扱いをしてもらったってことだな。

孝子かわいそす…

275 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 22:46:41
>>273
歴史サイトって・・・・

そこは笑い所かね

276 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 22:58:26
いや、だから将軍即位も大奥もスレ違いだろ。
大奥スレがないからってここで語るな。
語りたければ、スレ立てろ。
ここで語っていい将軍御台所は江与だけ。

277 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 22:59:52
たぶん江戸時代当時に「将軍即位」なる用語を使用したやつはいないであろう。

278 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 23:02:10
>>271 その後の話は知らんが、和宮が下座に座ったのは事実なわけだな。
つまり大奥では大御台>御台所という明確な序列があるわけで、
いくら皇女であっても大奥のルールでは和宮の立場は大御台よりも下。
表とは異なる次元のヒエラルキーで成り立ってる大奥で篤姫が
追い出されるようなことにはならないな。

とにかく篤姫は嫁入りしてから本丸に住んでいた、ということを言いたいだけ。

279 :日本@名無史さん:2008/11/14(金) 23:08:36
秀吉だって秀次だって関白に即位したんだよ。なっ。

280 :日本@名無史さん:2008/11/15(土) 07:29:35
【男子禁制】大 奥 vol2【女の園】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1150687234/




281 :日本@名無史さん:2008/11/15(土) 20:30:01
>>274
江与に関係のあることだから書くが・・・

孝子が家光存命中正室扱いを受けなかったという事実はない。
いろんな反論を見てきたが
・孝子は家綱と養子縁組していない←嫡母と養子縁組した将軍は実際のところいない
・家綱の御台所御養をしていない←これがはじまったのは江戸時代後期
・孝子の菩提寺が寛永寺・増上寺ではない←家康、家光も別のところに葬られている。
    孝子の菩提寺は家康生母お大の菩提寺でもあり、徳川家の一員として葬られたことは事実であり
    将軍御台所はこの2寺に葬られることとという決まりはなかったと思われる。

そして、孝子が家光生前、中の丸に住んでいた件。
孝子を中の丸に移住させたのは大御所秀忠であり、家光ではない。
理由は孝子が家光の側室に嫉妬して取り乱したためだとあり、
正室扱いを受けさせないために移住させたのではない。
さて、ここからだが。

孝子は江与の養女として都から江戸城にやってきた。
孝子の後見人は言うまでもなく養母の江与なのである。
孝子が正室扱いを受けなかった、もしくは中の丸に移ったことで正室扱い剥奪の憂き目にあっていたならば、
それはとりも直さず後見人である大御台江与の地位の低さを物語るものでしかない。
孝子が中の丸に移った時は養母江与の存命中のことであり、
これによって孝子が正室扱いを受けられなくなったという事実はない。
日光東照宮に奉納された春日局の願文には孝子の讒言が書かれてあることから
大奥の権限を手中にした春日局が大御台江与、御台孝子と不和であったことがわかる。
孝子が大奥でことさらに事実より悪く言い伝えられてきたのは
大奥での勝利者春日局によるところが大きいかもしれない。

282 :日本@名無史さん:2008/11/15(土) 22:20:31
なんで孝子は将軍正室を示す御台所と呼ばれなかったの?
どこに住んでようともそうよばれて然るべきだと思うのだけど
そのことが後世孝子が正室扱いされてなかったといわれる一番の理由だと思う。

それと家光の側室に嫉妬して取り乱したとあるけど、
嫉妬するということは家光に対して並々ならぬ愛情を抱いていたことになって
それならなおさら孝子に対して非情な話だと思うし、
それに公武合体のためにわざわざ公家方から
招いた姫を将軍から遠ざけるようなまねをするというのもなんか解せない。
嫡子をもうけることも不可能な状況に公然と周囲が加担したって
ことになるし、素朴な疑問だらけだ。

283 :日本@名無史さん:2008/11/15(土) 22:38:36
>>282のつづき
個人的には公家方も失礼にあたらない別居の理由として孝子が自分の意思で
大奥をでたんじゃないかな、と思ってるんだけど。
家光との不仲もあったろうけど、春日局のしきる大奥がどうしてもなじめず
精神的に多少おかしくなってきたので大御所の秀忠の許しを得て
別居に踏み切ったが、家光(春日局)の怒りをかい御台所の呼称を剥奪されて
将軍生前中冷遇されてしまったというのが真相かも、と思ってるんだけど、
ちがうかな。

284 :日本@名無史さん:2008/11/15(土) 23:06:56
>>281
家綱の件はあくまで嫡母扱いであって、嫡母ではないよね。
中の丸へ引き移った件の秀忠云々は、「側室への嫉妬」とは言及されてないよね。
秀忠主導はあくまで春日局の残した文章によるものだよね。

285 :日本@名無史さん:2008/11/16(日) 10:04:51
おごうの九条のご簾中になった娘は、摂関家にかなりの影響をもたらしたね。和子中宮とも交流あったのかな?

286 :日本@名無史さん:2008/11/16(日) 12:17:30
和子と千姫は交流があったようだけど。


287 :日本@名無史さん:2008/11/16(日) 13:31:27
>>281 
大御台の江与の後見がありながら孝子を御台所と周囲が呼ばない
ということは江与の地位の低さを物語ってるともいえる。
老中以上の権勢があった春日局には大御台といえども
なすすべがなかった、あるいは大御台も新将軍の奥がらみのことには
一切の口出しができなかった大奥のルールだったということか。
形式上の養女にすぎない孝子が大御台と入魂だったかどうかも不明だけど
江与は家光のことには無関心を通したのかもしれなくて、孝子の処遇からも
親子間の仲の悪さも後世語りつがれてきた所以かな。

288 :日本@名無史さん:2008/11/16(日) 16:25:34
大徳川展に和子の手紙が展示してあったな。
千姫あてだったと思ったけど、年賀の挨拶状だったと思う。
そんなふうに姉妹間で交流があったとしたら、和子や千に限らず
他の同腹の姉妹同士も仲良かったかもね。

身分的にももちろんだけど女としても多くの子供を産み子孫を残した江与が一番
幸せに思えるな。忠長の事件を知らずに亡くなったのも不幸中の幸いだし。

289 :日本@名無史さん:2008/11/17(月) 08:23:18
鎌倉時代から御台所と呼ばれなかった将軍正室っているの?
孝子一人ならやはり意図して孝子を貶めることをしてたとしか
思えないな。将軍からも放置されて御台所の権威はゼロじゃん。
孝子が大奥からでてしまったら大奥内のことは御台所へのお伺いもしなくて
いいわけで、春日局や春日の息のかかった側室於万の方のやりたい放題できるし
かえって都合がいいから、願ったり叶ったりだったろうね。

290 :日本@名無史さん:2008/11/17(月) 09:57:10
>>鎌倉時代から御台所と呼ばれなかった将軍正室っているの?

いないよ。
夫が将軍職になったから正妻だけに許される名誉ある呼称だもの。
どこに住もうが、夫が亡くなっても名乗ることが許される。
ねねも秀吉が亡くなっても、大阪城の本丸大奥から西の丸に移っても
北政所と呼ばれてた。出家後は高台院とも呼ばれたけど。
孝子は家光生前は第三者にまですぐにわかるやり方で虐げられてたってこと。
将軍御台所として輿入れして、御台所の呼称を許されなかったのは何よりの屈辱。
ただ中の丸の屋敷では何不自由なく贅沢もできたろうし、
京風三昧も自由だし、そういう意味では御台所に相応しい生活レベルだったろうけど。
これで経費もケチられ貧乏公家そのままの生活ぶりだったら目も当てられん。

291 :日本@名無史さん:2008/11/17(月) 10:45:57
江与と孝子の交流の記録が書いてあるような史料って何もないの?
一緒にどこかに行ったとか、家光のことを江与に愚痴ったとか
新年の挨拶に大御所夫妻にきたとか、なんでもいいんだけど。

292 :日本@名無史さん:2008/11/18(火) 10:07:30
>>281 >孝子の菩提寺は家康生母お大の菩提寺でもあり、
徳川家の一員として葬られたことは事実であり

でも伝通院は実家のそばだからよく知ってるけど、
あそこは将軍家の菩提寺といっても埋葬された当時は将軍家縁の人物って
於大の方と千姫だけだよね。
将軍御台所が伝通院というのは当時は違和感あったと思うな。
江与が増上寺なんだから増上寺でよくない?
増上寺のほうが将軍家の菩提としては格が上で伝通院は次席扱いだったはず。

293 :日本@名無史さん:2008/11/18(火) 11:02:10
死んだ後まで虐げられて孝子どんだけやっかいものだったんだ?
春日は死んでるから春日二世で大奥を支配していた於万の方のさしがねだったりして。

294 :日本@名無史さん:2008/11/18(火) 18:44:06
浅井さんて名前が恋しちゃいそうな綺麗な苗字だね

295 :日本@名無史さん:2008/11/19(水) 01:09:26
>>288
千姫と和子が実際に会ったときって
豊臣家滅亡から翌年姫路に行くまでの一年足らずだけか?
和子は珠姫と勝姫には会ったことない。
勝姫とは五歳のときに嫁にいって以来会ってない。
異母姉完子とは入内以来中宮と北政所として交流があったと思われるが。
伯母の初とは便りを交わす間柄だったらしいが。

296 :日本@名無史さん:2008/11/20(木) 13:34:10
孝子はいってみれば公家への見せしめだな。
今後大奥に逆った御台所はこうなるよ、というみせしめ。
孝子も「辺鄙で粗野な東くだりまでして、田舎侍大将のところに嫁いできてあげた」
ぐらいの気持ちでいたんじゃね?
改装前の増上寺のお江の墓は秀忠に次ぐ立派なものだったよな。
葬儀もすごい金かけて仰々しくやった記録が残ってる。
孝子の葬儀ってどんなだったの?

297 :日本@名無史さん:2008/11/21(金) 02:31:57
>改装前の
改葬前だろ・・・、お前は東京プリンスホテルかw

298 :日本@名無史さん:2008/11/21(金) 22:37:51
>>295
会ったことはなくとも実の同母姉妹同士、
文のやりとりや物の贈りあいはあってもおかしくないが。
しかし、江与は生涯8人もの子を産んで、
うち6人までは女子であったために皆幼い時に手放し、
(完子は江与の再婚で別れ、残る5人の娘は皆結婚が早かった
一番結婚が早かった子々姫(珠姫)とは2歳で別れた。
一番一緒に入れたのは14歳で入内した末子の和子か)
同じ江戸城内で元服を見届けたのは男子2人だけ。
晩年には嫁ぎ先から戻ってきた千姫、勝姫が傍にいたと思われるが
娘をみな幼少時に手放すってそれなりにさみしかっただろうな

299 :日本@名無史さん:2008/11/21(金) 23:03:59
>>292.296
3代将軍以降も将軍御台所は多くが摂関家、皇族などから迎えられている。
特に、5代将軍綱吉の正室は孝子と同じ鷹司家から来ているんだよな。
綱吉の御台所鷹司信子にとって孝子は祖父の妹。
信子の妹房子は霊元天皇中宮で、当時の鷹司家はけして日陰公家ではない。
御台所が余程悲惨な目にあうなら無理に江戸へ来ることもなかっただろう。
伝通院が2番目だという序列はないはず。
そもそも夫の家光は墓所が増上寺ではない。
ちなみに信子は墓も寛永寺だよね。

300 :日本@名無史さん:2008/11/21(金) 23:45:47
鷹司家の江戸期の家禄は1000石からのちに1500石に加増。
これっぽっちの家禄なら生活はかつかつだよ。
力関係上は将軍家の意向には逆らえないだろうし、幕府からの支度金は
あれっぽっちしか家禄のない鷹司家にとってはかなり魅力だったろうな。
幕府としては御台所の実家が仮に御台所が跡継ぎを産んでも
外祖父として台頭できない立場の微妙な貧乏公家が良かったわけだから、
先例もあったし綱吉御台所は無難な鷹司家がまた選ばれたってことだろ。

301 :日本@名無史さん:2008/11/22(土) 00:43:32
>>299 >伝通院が2番目だという序列はないはず。

一応Wikiには増上寺の次席となってるけどな。
将軍が埋葬されてる増上寺や寛永寺と比べたらはやはり格が落ちるのは
仕方ないんじゃないな。寛永寺の開山は天海和尚だし。
家光の葬儀は寛永寺で行って、4,5代は寛永寺に埋葬。
6代以降は交合で埋葬していったそうだから、やはり伝通院との格の違いは一目瞭然。

302 :日本@名無史さん:2008/11/22(土) 08:01:29
>>300
信子は御台所として選ばれたのではなく、
館林藩主正室として選ばれたのでは。
この時点ではまだ綱吉が将軍になるとは決まってない。

303 :日本@名無史さん:2008/11/22(土) 09:32:08
将軍御台所の墓所は夫と一緒の増上寺か寛永寺なの?(家康、家光以外)

304 :日本@名無史さん:2008/11/22(土) 11:54:16
>>300
>生活がかつかつ
あの時代の公家はみなそんなもんだろうな。
家職で儲ける、内職で稼ぐ、みな対面を保つのに必死だった。
だからこそ、娘を武家の縁付けて支援を受けるんだ。
輿入れ前の事前の交渉の時点でさえ、武家は公家に金をばら撒くからね。
輿入れだけでなく奉公に出すこともする。
また皇族の娘を嫁にしてお賄い金を朝廷から貰うということもあったけど
皇族の娘相応の居室を整えたりと金子もかかり、金銭と名誉の+−が生じる。

戦国時代の話だが、転法輪三条家は娘を信玄に嫁がせて
武田からの援助金で屋敷の補修を果たしている。

>>302
浄光院・信子(小石君)が綱吉に嫁したのは1664年。
綱吉が館林宰相と言われていた時期で、嫁いだ場所は神田橋御殿。
綱吉が将軍となったのは1680年、信子もその年に江戸城本丸に入った。
 
綱吉擁立はすんなり決まったものでもなく
急遽論議が交わされたようでもあるから、
302の言うように、信子は「いつかは御台所」という認識で
入輿したわけでは無いのだろうね。

>>303
まず自分で調べてみよう。


305 :日本@名無史さん:2008/11/22(土) 21:52:26
>>304
信子と綱吉が結婚した頃、綱吉は21歳の若さにして従三位参議だった。
当時、摂家の息女の顛末といえば天皇に入内するか尼門跡になるかしかない。
この時点では綱吉将軍は決定的ではなかったとはいえそんなに悪い相手ではなかったのだろ。
信子と綱吉が祝言を挙げたとき、同じ鷹司家から出た3代将軍室孝子はまだ生きて江戸にいた。
何らかの交流があったかもしれないし。


306 :日本@名無史さん:2008/11/22(土) 21:59:45
>>303 
1代:築山殿-西来院、朝日御前-東福寺、瑞龍寺(家康将軍拝命前に亡くなる)
2代:増上寺
3代:伝通院
4代:寛永寺
5代:寛永寺
6代:増上寺
7代:知恩院(納采の儀だけで降嫁せず京都で亡くなる)
8代:本門時、報恩寺(吉宗が紀州藩主の頃亡くなる)
9代:寛永寺(家重が将軍拝命前に亡くなる)
10代:春性院(寛永寺子院)
11代:増上寺
12代:寛永寺
13代:浄観院、澄心院-谷中墓地(将軍拝命前に死亡?) 篤姫-増上寺
14代:増上寺
15代:谷中墓地

ちなみに2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂が増上寺。
4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定が寛永寺。
初代家康と3代家光が日光東照宮、15代慶喜が谷中墓地。

12代と13代将軍と御台所はなぜか増上寺と寛永寺に別れてしまってるけど、
将軍御台所で増上寺と寛永寺以外に埋葬されたのは、孝子と美賀子だけ。
美香子は晩年はもはや将軍御台所ではなかったという理由もあるし、
慶喜と並んで埋葬されてるから違和感ないんだけど、孝子は御台所として
扱われてなかったと後世言われてもこれじゃ仕方ないよ。

谷中墓地には浄観院、澄心院以外にもけっこう将軍家縁の墓があるそうで、
現徳川家の当主が寛永寺に改葬するらしい。家慶夫妻は知らないけど
墓を掘って埋葬物や遺体の発掘調査をやってるよ。

307 :日本@名無史さん:2008/11/22(土) 22:08:47
>>304
下々の生活が苦しいのは武家も公家も同じ。
少なくとも摂家は江戸時代には何千石かの収入を保証されていたのだし、
大名のように幕府のために武具と武士を一定数自前で用意することや
参勤交代、そのほかさまざまな幕府のための普請を義務付けられていなかったのだから
自分の家族や使用人が生活するには十分だったはず。
戦国時代とは根本的に違うよ。
それを言い出したら幕末の和宮は天皇家が幕府からの賄い金のために
朝廷が差し出した人身御供かという話にもなる。
でも孝明天皇はあのとき和宮を江戸へやることに反対したんだよね。
のちに将軍となる徳川家宣(当時は甲州藩主)の室も摂家の近衛家から来ていたが、
父親は天皇の命令だから仕方がないと日記に散々文句を書き散らした揚句、
摂家息女の嫁ぎ先としてまったくもって不服だからと
わざわざ実の娘を格の劣る他家の養女にして嫁がせていたはず。

308 :日本@名無史さん:2008/11/22(土) 22:20:49
だが天英院の親父の近衛関白は、娘の嫁ぎ先にやってきて何年も滞在して、
将軍岳父で儀式先例のアドバイザーとして優遇されてるよな。

309 :日本@名無史さん:2008/11/22(土) 22:27:16
>>306
長野の有名な善光寺には4代将軍家綱の病気平癒を祈願した
大奥女中52名の署名の入った文面が今も保管されている。
寛文2年(1662)、本理院が家綱病平癒の代参をさせていることが見えるので
このときに奉納されたものだと考えられている。
善光寺には本理院の廟、また本理院の養女だった紅玉院(将軍家宣実父綱重室)の廟もある。
これを見ても本理院が亡くなった家綱時代、本理院が冷遇されていたことは考えられない。
史料を見ても家光の正室が孝子であり、孝子が御台と呼ばれていたことは確実であり、
なぜ孝子が御台所扱いを受けていなかったということを繰り返し書き込む人がいるのかが分からない。
家光と不仲だったのは事実だろ。
但し、孝子が家光の正室であったことは事実だし、
家綱が嫡母として扱っていたこともまた事実である。

310 :日本@名無史さん:2008/11/22(土) 22:44:43
いい加減スレタイさえ読めない人多すぎだろ

311 :日本@名無史さん:2008/11/23(日) 00:19:28
ちゃんと、「この場合は○○だが」というニュアンスの言葉を添えても
そこを読まずに突っ込でくるのはこのレスの特徴なのかな。

>>307
確かに多くの家臣や参勤交代もない公家だが
生活が楽だったのはほんの一部。
また、戦国期の公家や朝廷の貧窮は勿論知っているが
レスではその時代の事情には言及したいないので。念のため。

また、皇女の降嫁のさいのお賄い金について書いたが
公家の場合とあくまでも書いている。
幕末の和宮の想定などこの場では買いてもいないのに
違う方向へもっていって欲しくない。
>幕府からの賄い金 なんて意味合いに、なんで飛躍するのやら。



312 :日本@名無史さん:2008/11/23(日) 00:26:26
>>309 >>孝子が御台と呼ばれていたことは確実であり、

これはどの史料なの?
どの本を読んでも孝子は「御台所と呼ばれず中の丸殿と呼ばれた」と
書いてあるんだよね。江戸城内でどう呼ばれたかが気になるな。

あと孝子が正室であったことも、家継の嫡母だったことも誰も否定はしてないと思うけど。
離縁していない以上は形式的にせよそういうことになるんだし、
ただ呼び名や墓の件から他の正室と比べるとずいぶん死後も冷遇されてるな、という話。

313 :日本@名無史さん:2008/11/23(日) 01:12:08
>>309 

とりあえず孝子が御台所として扱われていた、振舞ってた、中の丸殿ではなく
御台所と呼ばれていた、大奥をでても大奥の上臈たちが孝子にかしずいていて
お伺いをたてにしょっちゅう中の丸にきていたとかいうエピがあれば
それを書けばいいんだよ。それが一番説得力がある。
善光寺の大奥廟には春日局や家康の側室の供養搭も一緒にあるし、
それだとむしろ孝子は御台所のくせにやっぱりいい扱いじゃないなとしか思えない。
家光と不仲なのも確かだろうし、春日局が讒言を祈願文に書いたというから
春日局との仲も険悪だったのも事実だと思う。
将軍と春日局がそういう態度ならまわりがそれでも「御台所だから」と
孝子を奉るわけもないとは思うが。
少なくとも大奥内で春日局に逆らうことは許されないだろうから。

314 :日本@名無史さん:2008/11/23(日) 08:45:11
     小沢ちゃんを救う会
     ┏━━━━━━━━┓
     ┃  /        \  ┃ 小沢ちゃんは
     ┃/            \┃ 主席就任以前から心臓が弱く
     ┃    _____    ┃ 総理になるためは政権交代が必要です。
     ┃  /  ) (  \   ┃ しかし政権交代には衆院過半数という
     ┃/‐=・=- -=・=-\ .┃ 莫大な議席が必要です。
     ┃|    (__人_)   |. ┃ 
     ┃\   `ー'´   / .┃ 小沢ちゃんを救うために
     ┃/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\  ┃ どうか協力をよろしくお願いします。
     ┗━━━━━━━━┛
       小沢ちゃん 66歳


315 :日本@名無史さん:2008/11/24(月) 02:49:29
「大猷院御所の中の丸殿と申せしは、鷹司摂政家信房の姫君にて
御いみなを孝子と申す。
記録にも御台所としるせし事見えず中の丸殿とのみあり」
『以貴小伝』

ここは浅井三姉妹スレっていうので覗いてみたけど
何か時代が飛んだ違う話題で盛り上がっているんだな。
江戸期大奥の話は自分は好きなんで少しロムってみたけど
揚げ足の取り合い、些細な言葉の突っ込みあいを
ほんの何人かだけががしているみたいな、ささくれだった印象だ。

316 :日本@名無史さん:2008/11/24(月) 10:22:22
そう?
一人だけ孝子ageにムキになってるのがいるだけじゃないの?
そいつが勝手な解釈で自論を繰り返すので、矛盾をつかれてるだけで、
揚げ足取りとはいわんでしょ。
だって『孝子が御台と呼ばれていたことは確実であり』なんて
妄想書き込んじゃってるんだから。


317 :日本@名無史さん:2008/11/24(月) 11:16:32
【男子禁制】大 奥 vol2【女の園】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1150687234/


長浜城歴史博物館の特別展示の浅井氏特集が今日で終わってしまいますが
誰か行った人います?三姉妹についてはどんなもんでした?
なんか三姉妹の肖像画が初めて一同に会したとかいう話ですが。

318 :日本@名無史さん:2008/11/24(月) 12:35:02
>三姉妹の肖像画

見たかったな〜九州のど田舎に住んでるから無理だけど。
初と江は尼僧姿の肖像画で茶々はあのでぶっとした奴かしら?
三姉妹とお市の肖像画だけは死ぬまでに見ておきたいな。

319 :日本@名無史さん:2008/11/24(月) 16:19:10
お市は現代人がみても絶世の美女だよね。
あの時代独特の美人画という説もあるけど、でもあの時代の
女性画はみんな個性があって違う顔立ちに書かれてるから
ある程度似てたのではなかろうか。
でっぷり淀殿とは似てないなぁ。

320 :日本@名無史さん:2008/11/24(月) 16:44:59
伝茶々の肖像画には「伝」をつけねば。

高野山のお市画像は、その成り立ちと来歴がわかっていても
様式としての女性画像に偏っているような気がする。
(私感ですので気にしないでね)




321 :日本@名無史さん:2008/11/24(月) 17:37:04
お市は、ミポリンみたいな感じだな。

322 :日本@名無史さん:2008/11/24(月) 19:01:50
>>320でもあの於市像は受け口で描かれてるあたり故人の特徴が描かれてるように
かんじるな。姉妹のお犬はもっと目鼻立ちがくっきりしてて、容貌が異なるけど
於市のほうがなんとももの悲しげな憂いがあってよいわぁw



323 :日本@名無史さん:2008/11/25(火) 03:04:54
お市の肖像画は何年か前の上野の国立博物館で実物を見た。
「おお、これが!」と思ってしげしげと見た。

だが、その時は武田信玄から高坂への、あの名高い書状も
同じような位置に展示されていたため、
人々の視線はそちらに偏り気味でありました。
自分もやはり「おお、これがアノ!」と熱心に見てしまったが。

324 :日本@名無史さん:2008/11/25(火) 08:01:24
お市の肖像画は誰かに似てるなと思ったら、浅田真央ちゃんだ!

325 :日本@名無史さん:2008/11/25(火) 15:57:48
>>306 家喜夫妻は谷中墓地にある寛永寺管轄の墓地に埋葬されてるから
寛永寺に埋葬された、という認識でOK。
神式にしたから歴代将軍の菩提には埋葬できなかったらしいけど。
夫婦そろって丸くて変わった形の墓。

そうなると歴代将軍御台所で増上寺、寛永寺に埋葬されていないのは
家光御台所の孝子だけとなるな。
家光にも縁のある寛永寺にでも改葬してあげればいいのにな。

326 :日本@名無史さん:2008/11/25(火) 16:29:03
>>325
バカなの?

327 :日本@名無史さん:2008/11/26(水) 22:46:51
家喜って、文脈から察すると慶喜のことなのかw

328 :日本@名無史さん:2008/11/27(木) 13:02:20
三姉妹の性格をわかりやすくアニメキャラ風にたとえてくれ

329 :日本@名無史さん:2008/11/28(金) 03:47:46
茶々がジャイアン
初がスネ夫
江がドラえもん

330 :日本@名無史さん:2008/11/29(土) 15:59:00
そういえばお初はお江のお葬式に参加した?
あと当時の葬式では故人を荼毘に伏す際に親族は立ち会ったの?

331 :日本@名無史さん:2008/11/29(土) 20:35:02
荼毘に伏すのに何時間もかかる大作業で、臭気もあるし、
お骨拾いは僧侶の仕事だし、今とは事情が違いすぎる。

332 :日本@名無史さん:2008/11/30(日) 12:18:50
江与の遺体は家光が京都から戻ってくるまで夏なのに一ヶ月以上も
安置されてたから腐敗が進み、とんでもないことになってた。
火葬したのはそのせいといわれている。
火葬しなければとても葬儀をやれる状態じゃなかったということらしい。(が諸説あり)
死んだら質素倹約でやるようにと遺言した秀忠の場合よりもずっと
立派に行われ、火葬ということもあって費用も秀忠よりかかったらしい。
秀忠は仰々しい葬儀を行わず、埋葬されてるしな。

333 :日本@名無史さん:2008/11/30(日) 13:14:48
へー、なるほど。なんかすごい事情だな。遺体が腐ってしまったんなら遺骨と遺灰になったほうがいいしな。
凄い葬式というのはいっぱい坊さんが来てお経を上げたりとか?
お初も来ていたのだろうか…?

334 :日本@名無史さん:2008/12/03(水) 20:25:15
菩提寺で行われる葬儀には将軍や御台所の親族は出席しないんじゃなかったっけ
将軍や御台所が亡くなると棺に入れられ菩提寺へと家臣が担いで運ばれる
菩提寺では経を読み、菓子を備えて葬儀を行い、棺を埋葬する

初も江与の葬儀には出ていないはず
初は晩年、京極家の江戸屋敷にいたために
死ぬ前の江与に再会はできたらしいが

335 :日本@名無史さん:2008/12/03(水) 20:45:33
お初が住んだ場所って
小谷→尾張→越前→大阪OR伏見→近江八幡→大津→小浜→京?→江戸だっけ?
この時代の人にしてはかなりの引越し回数だよね。

336 :日本@名無史さん:2008/12/03(水) 23:19:52
お初したたか。

337 :日本@名無史さん:2008/12/04(木) 16:36:47
お初の夫て松の丸殿の姉じゃん。

338 :日本@名無史さん:2008/12/04(木) 18:03:19
334
はー、いろいろ詳細をありがとうございます。
きっと妹に先立たれたお初は寂しかっただろうな…

339 :日本@名無史さん:2008/12/04(木) 22:00:45
養子の忠高と姪の初姫の仲も上手くいってなかったようだし、
お初も肩身が狭かっただろうね。

340 :日本@名無史さん:2008/12/05(金) 12:47:22
忠高と初姫の仲がよろしくなかった説って
あの初姫の臨終を相撲で立ち会わず、秀忠激怒っていう細川家の文書以外にあるの?
お初の死後に出雲に国替えして加増されたり、
無嗣断絶なのに丸亀藩で再興許されたりと、かなりの厚遇ぶりだよね。
どうも秀忠が激怒したとか嘘臭いんだが。

341 :日本@名無史さん:2008/12/07(日) 11:42:07
京極家は初のお陰でもっていたようなものなので
初の肩身が狭かったということはないだろう。

相撲で立ち会わず、というのが秀忠が怒った原因ではないにしろ、
初姫の葬儀が婚家の京極家で行われず
将軍家の主催で行われたこと自体、秀忠を不満がらせる何らかの原因はあったのかも。
もっとも、秀忠は晩年、千姫や勝姫など出戻りの娘たちに囲まれて過ごしていたようだし、
初姫に対してもただの過保護な父親の面が出ただけなのかも。

342 :日本@名無史さん:2008/12/07(日) 14:30:39
何気に京極家って江戸時代初期はかなり羽振りがいいよね。
高次系だけじゃなく高知系も閨閥がすごい。
娘が八条宮妃だし、伊達政宗の娘や家康の孫(督姫の子)を嫁に迎えてる。
息子の代でしくじらなければ有力大名として残れたのにもったいない。

343 :日本@名無史さん:2008/12/08(月) 18:12:29
将軍の姫は臣下の礼をせずに、将軍家親族待遇のまま
嫁ぐことが許されたからな。
城の奥には入らず専用の御殿を建てさせ、ぞろぞろくっついてくる
局連中の面倒までみなきゃならんわけで、
正直押し付けられるほうもかなり迷惑だったらしい。

勝姫は嫁ぎ先の菩提寺に葬られてるから、いろいろあったにせよ
形式的には嫁にいったまま亡くなったことになってるけど、
初姫は病弱などの理由で実家に戻ってきてしまったのかもな。
力関係からすれば京極家が絶対に初姫を粗略に扱うわけもないし、
将軍家でも納得できるなにかがあったんじゃないの?
細川家文書なんて自分ところだって怪しんだから他家のことなんてw

344 :日本@名無史さん:2008/12/17(水) 22:43:41
江与と秀忠の血をひく直系子孫ているの?


345 :日本@名無史さん:2008/12/18(木) 00:50:01
千姫→勝姫→池田家系
珠姫→前田家系
勝姫→長子→九条家系
家光→千代姫→綱誠→宗春→勝子→近衛家系
こんなところかと。初姫、忠長、和子の子孫はいない。

346 :日本@名無史さん:2008/12/18(木) 16:15:17
>>345 それぞれの家の直系の子孫というのも今でもいるの?
長政や信長の血も引いてるってことだよね。
直系の姫達もあちこちの名家に輿入れしただろうし、
とんでもないところまで江与のDNAはつながってるんだろうな…


347 :日本@名無史さん:2008/12/18(木) 17:54:46
>>345 >>346
そもそも「直系」って言葉をどういう意味あいに解釈して使っているんだ?

348 :日本@名無史さん:2008/12/18(木) 19:28:02
>>344>>345
秀忠と江与の血は女系でしか残っていない。
男系の血は絶えている。

349 :日本@名無史さん:2008/12/18(木) 19:35:30
次女の前田の珠姫の子供は、宮家妃になったりと大勢いたヤン。
あと、江与の場合、九条完子という長女がいるじゃねーか。

350 :日本@名無史さん:2008/12/18(木) 19:36:31
秀忠には、会津藩祖つー隠し子もいたじぇ。

351 :日本@名無史さん:2008/12/18(木) 19:48:33
保科正之の血筋は断絶してるがな

352 :日本@名無史さん:2008/12/18(木) 20:02:13
>>349>>351
344氏の聞き方の解釈にも相違が。
「秀忠と江与」の「直系子孫」という意味ならば、
江与の子ではあっても秀忠の子ではない完子や、
秀忠の子ではあっても江与の子ではない保科正之は対象外だろう。
女系は直系とはいわず、その意味においては
「秀忠と江与」の間に誕生した「直系(男系)子孫」は絶えている。

353 :日本@名無史さん:2008/12/18(木) 20:51:36
つまり家系図的な秀忠と江与の直系は絶えてしまったが、
女系による血統的な直系はいるわけだな。
ちなみに女系にせよずっと直系でつながってるのってどこの家の誰になるんだ?

淀殿や初は絶えてしまっているし、子沢山の江与はGJだったな。

354 :日本@名無史さん:2008/12/18(木) 21:00:46
血筋をたどればそのうち江与と秀忠に行き着く、って程度なら万単位でいるんじゃね?

355 :日本@名無史さん:2008/12/18(木) 22:23:49
万単位はありえないだろう。
江戸期の乳幼児の死亡率は70%以上と言われてたし
子供が無事成人して、結婚、出産するまで生きられる確率となったら
さらに低いし。

356 :日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:55:37
>女系による血統的な直系
考えていることは何となくわかるが、
やはり直系という言葉の解釈ができてないと思うぞ。
単純。

357 :日本@名無史さん:2008/12/19(金) 01:22:02
現代用語における直系血族子孫の意味で使っているのだろう。
歴史版では相応しくない使い方だが、家継の代で絶えてることは周知の事実だからな。
>>353
系図上の直系は今の徳川宗家。血が繋がってなくても正式な子孫。
子孫が万単位は有り得ない。家光女千代姫の息子は家斉並の子沢山だが
大部分は子孫を残すこともなく若くして死んでいる。

358 :日本@名無史さん:2008/12/20(土) 21:56:03
>>343
初姫が里に帰されたのならばさすがに史料に残るだろう。
しかし、そんな形跡は全くない。
嫡母の常高院もまだ生きていたのだから
初姫を返したのならば徳川将軍の養女なりを継室に迎えても
よかったのにそれもない。
忠高は20代のころに正室を失って以来、継室すらない。
初姫は病弱で離縁、徳川家に戻ってきていたというのは考えにくいと思うよ。
初姫は姉妹の中では最も夫の地位が低かった(忠高は9万5千石の大名)。
こんな夫がしょぼい大名では愛娘のために満足な葬儀や墓も作れまいとして
秀忠が京極家に難癖をつけて初姫の葬儀と墓の権利を京極家から取り上げたとかさ。
勝姫の嫁ぎ先は越前松平家で将軍家の一族、そこそこの石高もあったし。

359 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 11:23:03
>>358 
正式に離縁したとかじゃなく、病弱の姫を実家で面倒みただけどかじゃないの?
正室じゃないけど秀吉側室の加賀殿も加賀藩の邸で病気療養してたし、
政宗生母も晩年実家に戻ってたけど、伊達家の嫁として葬儀されたし、
ましてや将軍家の姫なら嫁ぎ先に気を使うことなく
自分の好きなように出来たんじゃないかと思う。
参勤交代が正式に義務付けられたのは家光の時代だけど、
関ヶ原以降はすでに大名の江戸への参勤や妻子の江戸邸住まいを制度化していたし、
初姫が江戸に常駐していたとしてもおかしくないわけで。
その後の京極家が将軍家にたてついたとか、不興をかったとは思えない
順調ぶりなのであくまで将軍家の意向に従った感じがする。

360 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 18:44:51
興安院は28才で亡くなって、子供もいないし、
たしかにあまり丈夫なほうではなかったかもな。
京極家の菩提寺に興安院の供養搭や位牌もないの?

361 :日本@名無史さん:2008/12/22(月) 07:45:22
>>358 10万石近い大名が奥方にまともな墓をつくれないわけない。



362 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 16:40:58
>>358 
>>こんな夫がしょぼい大名では愛娘のために満足な葬儀や墓も作れまいとして

そのわりに伝通院の初姫の墓はそんなに立派なものじゃないのだが…

363 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 18:47:49
本当にしょぼい大名なら、わざわざ将軍家の娘を
嫁に出したりしないわな

364 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 19:30:39
>>363
初姫が嫁いだのは京極家に実の叔母がいたからだろ。
常高院がいないのに初姫が石高9万程度の大名に嫁いだとも思えない。
お江与が長姉茶々のもとへ長女の千姫を預けて帰る途中
次姉の初のもとへ立ち寄った際、
初は懐妊中の江与に、娘だったら私の養女にしたいと申し入れた、
というのが本当かどうか知らないけど。

365 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 19:34:17
>>359
正式に離婚したのではないのならば、なぜ京極家の墓に入らないの?
摩阿姫は醍醐の花見の後公家に嫁いで子供まで生んでいるし、
(秀吉の城に入れないほど病弱だったというなら、なぜ?)
婚家の墓に入った伊達政宗の母の話など関係がない。
婚姻が解消されていないのに婚家の墓に入らなかったなど、例がない。
長姉の千姫は徳川家に葬られているけれども、
婚家が男子なく滅亡してしまったためなので、
夫が長生きした初姫の場合は当てはまらない。



366 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 21:00:05
>>365 大名夫妻でも夫婦で違う寺って他にもたくさんあるじゃん。

367 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 21:12:24
>>365濃姫は離縁したという記録もないが織田家の菩提寺に墓も位牌もない。

>>366蒲生氏郷正室の冬姫は蒲生家の菩提寺ではなく知恩院に墓がある。
氏郷とは違う墓所だし弟の秀勝と背中合わせに墓があるな。

368 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 08:13:41
>>365 >>婚姻が解消されていないのに婚家の墓に入らなかったなど、例がない。

相変わらずうそつき野郎だなw


369 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 08:57:24
知恩院墓地には千姫の供養墓もあるな。
上杉景勝の室の菊姫(来年は少しは話題になるだろうが)の、
まず当初埋葬された墓は妙心寺の塔頭。
伏見屋敷で死んだせいもあり、
かつ武田家が昔から妙心寺の旦那だったためもありだろう。

>>365
>婚姻が解消されてもいないのに
>婚家の墓に入らなかったなど例がない
初姫の件ではないけれど、
この点についてが疑問を呈したい。

例としてその夫人が生前に得度して法名をもち
(または死去後の法名でも)
死後のその法名を寺院になおしてその寺の開基とし
その寺内に墓を建立することもあり
そういう場合は婚家の菩提寺とは異なる例になるよ。



370 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 09:59:55
>>365 本多家は滅亡なんてしてないぞ!
次男や養子で繋いでいってるよ。
千姫は墓や供養等が伝通院以外にもあって、どこも将軍家の親族扱いとして
供養されてて本多家はノータッチ。

371 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 10:12:16
>>369 >>死後のその法名を寺院になおしてその寺の開基

ねねがまさにそうだね。
高台院には秀吉の霊廟もあるけど、秀吉とは別々に埋葬されているのは事実。

現代の婚姻制度とは異なるので、女性は嫁いでも実家の姓を名乗り、
附属している感覚だから夫の死後は嫁家にとどまるか、実家に戻るか、
出家して独立するかなどの女性の意向がある程度許されたんじゃないかな。
仮に跡継ぎを産めなくても嫡母として嫁家にとどまる権限はあったろうし、
実家に帰らざるをえないような立場にはなかったはず。

墓も江戸期の大名正室は原則江戸住まいを強要されてたから、
国元で埋葬することが叶わなければ江戸に埋葬されても
仕方ないという側面もあったろう。

372 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 11:48:19
>>365
摩阿姫を例に出してるけど、彼女は万里小路充房との間に子をなした後、
結局は子とともに前田家に戻っている女なんだよね。
墓は利家夫人・まつがおこした大徳寺塔頭芳春院。

「関係がない」「例がない」とか「滅亡」とか言い切るさいには
引用する例の顛末や背景まで理解したうえで書き込んだほうがいいと思う。
あと、大名家の婚姻や家としてのあり方、菩提寺のことなど
江戸初期とその後では慣習が異なってくることが多いこと考慮にいれないと。

373 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 23:30:09
加賀殿が病弱だったのは本当だろ?
秀吉が加賀殿が温泉で療養してる時に身体を気遣う手紙を残してるし。
豪姫の姉妹だし、醍醐の花見にも同行を許されてるから
寵愛されたというのではないにしろ大事にはされていたんだろうな。

374 :日本@名無史さん:2008/12/26(金) 23:59:59
初姫は池沼の可能性が高い。それを京極が面倒見ていたみたいな。
死んだ時の相撲見物も、細川忠興のフィクションだという説が強い。

375 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 00:33:39
石高十万石程度の京極家が、将軍家の娘を無碍に扱えるわけがないもんな。

376 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 01:36:25
初姫って女院号を貰った和子を除いた姉妹の中で唯一
院号が天○院じゃないのが気になる。
ただの偶然なのか、初の養女になったからなのか?

377 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 00:05:45
>>372
摩阿姫は再婚相手の万里小路充房と離婚したために
実家の前田家の墓に入ったんだよ。
ずいぶん偉そうな人だから当然のこと、知ってるわい、とふんぞりかえるんだろうけど、
離婚の話のない初姫となんの関係があるの?
そっちは勿論、この顛末を知ったうえで書いてるんだよね?


378 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 11:08:26
万里小路充房の正室は信長の姫の源光院(戒名、没年等も諸説あり)で、
摩麻姫は側室だよ。側室だから実家で埋葬されたってことでしょ。


379 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 16:01:18
初姫は池沼か精神病だったようだよ。
隔離された別の建物にいたようだし。
相撲見物の件は細川忠興が一部創作して書いたもの。
徳川としては、障害者の娘の面倒見てくれてdクスって感じ>?

380 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 16:05:06
どこの資料に初姫が池沼だったと書いてあるの?
細川忠興が創作して書いたと言う証拠は?

381 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 19:57:49
>>378
摩阿姫が万里小路充房との間に儲けた息子、利忠は、
母親の摩阿姫に伴われて加賀で育ち、
母方の前田姓を名乗っている。
これも摩阿姫が万里小路充房と離婚したからではなく、
摩阿姫が側室だったから?
違うでしょ。
側室の子だから利忠は母方の姓を名乗ったのではなく、
摩阿は離婚して息子を里へ連れ帰っていたんだよ。

382 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 20:13:16
そもそも何で細川忠興が相撲云々を創作する必要があるんだ?

383 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 21:23:27
>>379
初姫には勝姫のような武勇伝?も伝わっていないし
その説は薄いね
細川家文書は将軍家へ提出されたものではない
身内同士の手紙のやり取りであって徳川家が知るはずもなく
ましてや後の世にまで残るなどと思ってもいなかったもの
創作するならもっとうまくやるだろ
徳川実紀に相撲の一件を書くとか

384 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 22:45:32
>>380 初姫は、夫から離れた小屋のような屋敷に住んでいたらしいが
奇行がかなりあったので、噂が外に出ないように隔離(今で言う精神科閉鎖病棟)
していたらしい。将軍の娘&姉としての威厳を保つために京極も気を使ったらしい。
細川忠興は当時1級の教養人で相撲の件は創作ありと、幾つかの歴史本にある。
歴史読本でもとりあげていた(2000年ごろ)

385 :日本@名無史さん:2008/12/29(月) 22:50:52
>>384
歴史読本は何を出典にしていたの?
概説をよく覚えているのに出典がわからないなんて。
細川家文書以上に信憑性の高い史料があるんだよね?
調べてほしいんだけど。

386 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 12:56:27
初姫が粗末なトタンで隔離された小屋に住んでいた話は京極家の地元では有名。

387 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 13:39:27
へぇ、戦国末期から江戸初期にかけてトタンがあったんだ?
へぇ〜〜〜

地元で有名なら郷土研究家が本の一冊でも出している筈。
出典を上げてみな?

388 :日本@名無史さん:2008/12/30(火) 18:05:52
>>386
京極忠高の正室だった初姫は京極家の江戸屋敷に住んでいたはず。
お国で亡くなったわけじゃない。
それだけでどうも怪しい話なんだが。

389 :日本@名無史さん:2009/01/02(金) 02:27:38
あいかわらず「?」を多用する奴がうっとおしい。


390 :日本@名無史さん:2009/01/02(金) 08:02:40
>>389
質問に答えられない君にはうっとおしく感じるだろうね。
君が史料にないことを書き込んだばっかりに。


391 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 01:22:48
365は人気者なんだな。

392 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 17:44:53
人気者は脳内とんでも説を流した364だろ。
史料がないことを得意げに書いたから。

393 :名無氏物語:2009/01/03(土) 18:02:03
364じゃなくて374だろ。

394 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 22:15:41
うざい文章を書くのは、女官スレや濃姫スレに居る人と同一人物なんだろう。

395 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 03:27:43
浅井三姉妹を大河に、っていうレスが大河板に良く書き込まれてるけど
過去の三傑モノからの手垢エピの脱却も含めて
最近の風潮である美化されまくったスーパーお姫様物語に変に脚色されそうで
自分は反対なのだった。

396 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 14:02:42
>>381 武家では離婚しても子供(特に男子)を里に連れて帰ることは
できなかった。男子は嫁ぎ先の子とされたから。
摩阿が息子を実家に引き取れたのは相手が公家だったから。

公家はあの時代でもまだ女系による婚姻制度だったから
通い婚もあったし、生まれた子供を嫁の実家で養育することも
あったし、正妻、側室の垣根も厳格じゃないし、
跡継ぎ以外は嫁の里で養育したり、そこから養子にだしたりというケースも
珍しくない。忌年や厄年の出産のせいで実家に下がって出産、
子供も厄落しのためにそのまま実家で養育という慣習もあった。

武家と公家の婚姻制度をごっちゃにしないように。

397 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 18:49:27
↑公家は「女系」じゃなく「母系」だな。


398 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 20:06:31
>>396
徳川家は娘が生んだ孫を松平姓にしているけど?
今やってる大河でも上杉謙信は女系(姉の子)に上杉家を継がせている。
武家=男系で父方の姓しか名乗れないわけじゃないよ。
伊達政宗の孫も政宗室の里である田村家を再興している。
嫡男であっても母方や妻方のほうが身分が高ければ
そちらの姓を名乗る男子もあったしね。
武家でも父母の間に生まれた子がどちらの姓を名乗るかは
家の存続も絡んで流動的。
武士と公家を分けて、武家はこうだ!って馬鹿じゃないか。

399 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 20:46:28
>>杉謙信は女系(姉の子)に上杉家を継がせている。
謙信も景勝も元は同じく長尾姓。
謙信自身、関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られて上杉氏を継いだ。
景勝はその謙信の養子だから、上杉氏を継いだ。
つまり母方の姓を継いだのではなくて養子となったから上杉姓となったのだし、
御館の乱で上杉の家督を相続するまでの景勝は長尾姓を名乗っていたとも言われているよ。

400 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 21:01:50
>>399
上杉以外の例は?
上杉だって、母方が謙信の縁者ではなかったら養子縁組なされなかっただろう。
武家では女系無視だという君の主張が明らかに間違いだよ。
武家は離婚しても男子を実家へ連れて帰れないというのが君の主張だが、
離婚なんてしなくとも母方へ引き取られた例はいくらでもあるんだよ。

401 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 21:02:51
>>398 養子にしたからその家の姓を継ぐことになっただけじゃん。
養子にならなきゃ他家に生まれた外孫が勝手に松平を名乗れねえよ。

おまえこそ馬鹿だなぁw



402 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 21:08:28
>>398 他家の外孫でも養子になったから松平や上杉を名乗れただけだな。
養子は縁者からもらうことは一般的だったけど、まったく血のつながりのない
養子を後継者にすることだってあった。
一番多いのが当主の子供や縁者を後継者のいない家臣の家に
嫡養子として押し付けられるパターン。

403 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 21:10:10
>>離婚なんてしなくとも母方へ引き取られた例はいくらでもあるんだよ。

例えば?

404 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 21:10:44
>>400
自分>399だが、
>武家は離婚しても男子を実家へ連れて帰れない
とは一言も言っていないんだが・・・
上杉氏のところでちょっとあれ?と思ったからレスしただけなのに、
どうしてその前の>>397の発言まで含まれているんだ?

405 :404:2009/01/06(火) 21:12:13
違った。
>>387の発言→>>397以前の発言

406 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 21:20:20
でも離縁となったら嫡子を嫁ぎ先に連れ帰ることは許されないんじゃ?
だってあの時代なら両家が手切れになったから離縁なわけでしょ?
敵対関係になった相手に大事な男子を渡すわけがないと思うけど。
側室の場合だって正室の仮腹として子供を産むのだから
側室に子供の所有権はないはず。
実家に戻っても子供は家の子としてそのまま当主の子として
養育されるんじゃないの?

407 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 21:31:31
だから摩阿姫の場合は万里小路家で後継者問題にまったく絡まない、必要のない子
だから、貧乏公家の万理小路家で面倒みてもらえず、
実家で面倒を見ざるをえなかったってだけだよ。

408 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 21:40:17
結局、摩阿姫とその子供のことは浅井三姉妹には関係ないよね。
江与と完子ならともかく。
江与は娘を嫁ぎ先に置いたまま再婚でいいのかな。
それとも姉(=実家)に預けたと言う扱いなのか。

409 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 21:40:27
>>407
摩阿姫の再婚相手だった万里小路充房自身、
嫡妻腹の子ではなく愛妾の子だから、
側室の子が里へ帰される理由にはならないよ。
万里小路充房には孝房という嫡子はあったものの、
仏門に入った息子も多かったために
仏門に入らない弟の存在は有益だったと思うが。


410 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 21:45:34
>>408
完子の父は豊臣秀勝(秀吉の甥)。
完子は母の再婚に伴われず豊臣家にとどめられ、
江与の姉茶々に育てられた。
形の上では江与は先夫の家に完子を置いて再婚したわけだが、
育てたのが信頼する実姉の茶々であったことで
ある意味安心して完子を預けられたんじゃないかな。
茶々に養育させたのは、秀吉の計らいだと思うけど。

もっとも、前のほうにもあるけど、完子は実家の豊臣家が滅ぶと
母の再婚相手徳川秀忠の養女となって源姓を名乗っている。
九条家に嫁いだ後の話だけど。

411 :日本@名無史さん:2009/01/07(水) 00:38:04
少し読んでいて気になったんだけど、このスレって
「おおまかに」とか「例外もあるだろうが」とか
「この場合は」とか、万事ではない旨の注釈つけて書き出さないと
さも間違ってるような聞き方をされたりするんだね。

婚姻や離婚の有様はほんとに多種多様で、
すべての婚姻例や夫婦のあり方を書き出せるわけでもないので
(多くの例を知っていても書き出すとキリが無いので)
とりあえず一例というほどの意味合いで書いたものに対しても)
「○○の場合は?」「○○は違うけど?」って
その度に食いついているレスが妙に目立つ。
何だか書き込む辛いな。

412 :日本@名無史さん:2009/01/07(水) 10:13:56
>>411 >>398みたいにあきらかに間違った自論を述べてるくせに
「馬鹿じゃないか」と見下したようなレスを書くから総攻撃をくらうってだけ

自論を断定的に書けば誰だって違う例をだしてつっこむに決まってる


413 :日本@名無史さん:2009/01/07(水) 12:09:54
>長姉の千姫は徳川家に葬られているけれども、
>婚家が男子なく滅亡してしまったためなので、

こんな嘘を平気で書くやからもいるスレだもの、
つっこみどころ満載さw


414 :日本@名無史さん:2009/01/07(水) 12:49:44
>>410>>形の上では江与は先夫の家に完子を置いて再婚したわけだが、

秀勝亡き後嫡子なく、事実上婚家は断絶してるはず。

江与は実家もないし、淀殿、秀吉の後見で再婚するまで母子の
面倒を見てもらったろうから、再婚しろと言われても、
完子を置いていけといわれても逆らえなかったろう。
ただ完子は淀殿の猶子となっていたから、秀頼の御袋様となって
豊臣家で権勢をもった姉に託したほうが、完子の将来によいと
手放すことを自分で選んだのかもしれないな。

415 :日本@名無史さん:2009/01/07(水) 20:55:02
>>414
完子の嫁いだ豊臣家

完子の夫秀勝は男子がないまま死亡した。
秀勝の後は絶えたが、このとき秀勝の養父である秀吉は生存していた。
秀吉が生存している以上、「豊臣家」は存続しており、
完子は豊臣家の息女として祖父秀吉の庇護を受ける権利があったのでは?

秀勝が全く別の分家を立てていたのならばともかく。
たとえば、松平信康は、男子がないまま死亡した。
そのため信康の後は絶えたが、信康の父である家康は生存していたので
「松平(徳川)」という家は残っていた。
信康の娘は松平の息女として祖父家康の庇護を受ける権利があり、
結果、五徳は娘を婚家においたまま実家に帰っている。
五徳は織田信長の息女であり家康に義理はなかったが、
それでも娘を置いて帰っているんだよね。

416 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 02:02:40
「宗家の三姉妹」はいい映画だった。
3回も見て、原作もよんじゃったよ。

417 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 06:34:10
>>415 

五徳が娘を置いてきたのは政治上の理由。
織田・徳川の同盟のために人質代わりに徳川に信長の孫をおいてきた。

それから家制度的には秀勝系豊臣家は断絶という解釈でよいよ。
秀勝は嫡子認定されてなかったし。
五徳だって嫡子に嫁いだけど、信康系松平家が断絶したから
信康系は松平宗家から外されちゃって、秀忠系が宗家になったし。

418 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 07:46:43
秀頼みたいに生まれながらの嫡子以外の男子は結婚した段階で分家扱いだもんな

419 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 11:15:24
鶴松はともかく秀頼は生まれながらの嫡子じゃないよ。

420 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 19:22:42
>>417
五徳の娘は徳川家のに所属するのであって織田家には所属していない
松平姓を名乗っている孫を置いてきても
信長の人質だとは言い難いよ。
むしろ、織田ー徳川ラインを守りたいがための人質ならば、
家康がわが家の孫娘を織田家に差し出すくらいでいいだろうに。
五徳の娘の結婚はすべて男系祖父の家康が決めて
女系祖父の織田家が口出ししていないことでも一目瞭然。

421 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 20:22:31
>>420 戦国時代の同盟は立場が有利なほうが姫や息子を嫁や養子に差し出し、
同盟を押し付けるパターンだから、家康が差し出す側じゃないな。 
同盟破棄で嫁の実家から攻め込まれた場合などは
男子は嫁ぎ先に残し、女子は嫁とともに女方の実家に戻されることも
多々あったから、女子が必ずしも女方の実家に所属していないとは
言い切れないと思う。千姫のように夫と死別して姫とともに実家に戻ってくる
場合もあったわけで。

それに五徳が実家に戻ったのは立場上信長の命であろうから、
姉妹を松平家に残したのも信長の命であろうと思われ、
そこに信長の意図が読みとれる。

それから五徳の姫達は信長が死んでから嫁に行ってる。
姫達が嫁に行く頃は織田宗家も分家も没落しまくって
口出しする立場にはないしな。

422 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 22:09:33
千姫の娘の勝姫は秀忠の養女として池田家に輿入れしてるし
小笠原室になった五徳の娘は家康の養女になって輿入れしてる。
史料に残ってないだけで本多室のほうもそうかもしれない。
結家があるのに母親とともに実家に戻って母親の実家から嫁にでた姫もいたし、
母親だけ実家に戻って婚家から嫁に行った姫もいたのだから
姫がどっちの家に所属するなんて断定できるもんでもないだろ。

423 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 07:50:10
>>421
同盟も劣勢な側が人質に子供を差し出す場合もあるよ。
その場合は嫁じゃなく側室にされたり、男子は軟禁状態になる。
あの頃の徳川の立場じゃ信長に逆らえない主従に近い同盟だろうから
信長主導の同盟だろうけど。

424 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 10:04:39
三姉妹は柴田とお市が再婚した時なんでくっついていったの?
乳飲み子ならともかく三人とも結婚適齢期まで成長してたわけだし、
そんなでかい娘達が母親の再婚先まで一緒に行く
というのは珍しいように思うのだけど。

それとお市はいつのまに信孝の庇護下におかれたの?
兄の信包の庇護下にいたとされてたけど、
どういう流れでスイッチして甥の意向に従わざるを得ない状況に??

425 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 19:56:08
>>421
五徳が信長の命令により娘を徳川に置いて帰ったというのは反対。
秀忠が勝姫を引き取った際、その娘も同時に引き取って家光の養女としたように、
通常は強い立場にある婚家が娘も孫も一緒に引き上げてしまう。
五徳の場合も信長は本来五徳と一緒に孫娘も引き上げたかっただろうが、
織田との仲違いを恐れた家康が「わが家の孫」である信康の娘たちを
健全に養育することを信長に誓って徳川にとどめておくことを了承してもらったのだろう。
徳川と織田が健全な仲にあるなら、五徳が織田へ戻されるのもおかしなこと。
本来、秀忠は嫡子の嫁であった兄嫁五徳の養子にでもならないと徳川の跡取りになれないから。
それをせずに、徳川家の後家である五徳を織田へ帰してしまったのは、
織田の血を引く五徳に徳川家の実権を握られたくなかった家康の思惑が見え隠れする。
政略の道具にもまりうる孫娘も手元に残せて、家康はほくほく顔だっただろう。

426 :日本@名無史さん:2009/01/09(金) 22:12:06
>>本来、秀忠は嫡子の嫁であった兄嫁五徳の養子にでもならないと
徳川の跡取りになれないから

そんなことしなくても信康に男子がいない場合は
弟たちに正統な家督相続権があるんだよ。

427 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 12:47:44
>>424そう言われるとなんで娘達とともに再婚したのか不思議だな。
三姉妹もお市同様に政略結婚に使えたろうに。
それを危惧してお市が同伴を条件に再婚をOKしたか、あるいは
当初は娘達は信孝の庇護下にいて美濃にいたが、
信孝の状況が不安定になったので柴田が娘達を引き取ったのかもしれないな。

>>425五徳に男子がいたら否が応でも信長の手前その子を当主にしなきゃ
ならんだったろうけど、男子がいない以上は信康の弟を跡継ぎにしても
信長も徳川家の世継ぎ問題には口出しできなかったろう。
そう考えると信康事件は武田内通説が濃厚でありながら
信長がいずれ当主の外祖父となることを嫌った家康の思惑なんかも
あったのかな。

428 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 00:02:47
>>425そんなに家康の都合が通るような関係でもないだろうに。
一度家忠日記を読んでみなよ。どんだけ家康が信長にへりくだってたかよくわかるよ。
信長に対して自分からあれこれ要望を言えるような関係とはとても思えない。

429 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 12:32:05
映画チャチャのとき初役の富田靖子妊娠してたの?

430 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 13:16:13
初は史実通り子梨だったよ。

431 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 21:14:21
>>428
そんだけ家康に気を遣わせる織田信長の息女を
徳川の家の中に置いておくのは家康も気が休まる暇もなかっただろう。
織田家からの嫁が連れてくる侍女たちは信長の諜報機関そのものだし。
むしろそれがうっとおしい家康が嫡男を殺してでも
織田の嫁をおっぱらったのかも。
まだ乳飲み子だった秀忠には当分織田の嫁は押し付けられないしね。
五徳が産んだ孫娘は徳川家で生まれた徳川の孫であって
孫娘の侍女は徳川家が選んでよかったし。

432 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 23:59:07
>>431 信長がその気になれば空席になった家康の正室にと、
自分の一族の女性や遠縁の娘を養女にしていくらでも押し付けることは
できると思うが。その女子との間に男子が生まれれば必然的に
松平家の跡取りということにもなる。


433 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 09:19:31
>>432
だよねえ
「五徳(と侍女)を追っ払いたかったから信康を殺した」説はないよ
もしそうなら絶対に築山殿を死なす訳にいかないし

434 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 11:10:13
なんかスレタイとは違った方に話が進んでいっているんだが、
ここは浅井三姉妹語るスレだよな。
関係のない信康事件について語りたければ該当スレに行けば?

435 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 19:30:56
>>429 あの映画の撮影の時は妊娠していたのかってこと!

436 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 12:40:40
信長がもし亡くなっていなかったら、五徳の娘のどちらかに信長の孫が
徳川の養子として縁組し、織田に家を乗っ取っとられたかもしれん。
将来的にそういう伏線もあって姫達をあえて徳川に残しておいたとかかもよ。

437 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 16:06:50
北畠家も神戸家もそうやって乗っ取ったしね。

438 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 01:39:28
京都には何十回も行っているのに、
何故か一度も訪ねたことのなかった養源院に
先週初めて行ってみた。

うーん、文化財保護や修復や、予算は大丈夫なのか?
超人手不足のようだし、セキリュティや火災予防も心配だぞ。


439 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 18:45:45
淀殿も秀頼を産んでから養源院を秀吉に建ててもらったのだから、
養源院の建立は一側室からお袋様へと成り上がった権勢の象徴でもあるね。
左仁五郎の彫りものもあるし、血天井も迫力あるし、金閣寺なんかよりも
見所あって面白いのにね。


440 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 02:09:55
養源院。
茶々が建立し亡き父の法名をつけた寺を、江与が再建したんだもんな。
今となっては血天井や俵屋宗達の杉戸絵で有名な寺だけど、
浅井姉妹に興味がある人は行ってみるといいね。
豊国神社や方広寺にも楽々徒歩圏内だもんな。

441 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 11:24:59
三姉妹の絆って深そう。
やっぱり同腹の結びつきは特別なんだろうね。

江与は将軍御台所、将軍生母というわりには権勢を振りかざすような
言動は伝わってないし、大人しい内向的な女性だったのかも。
秀忠の手がついた隠し子の母親が奉納した神社への安産祈願文に、
「御台所の悋気云々」と書いてあるんだけど、これもただの焼もちじゃなくて、
江与公認の側室じゃなく、江与に内緒で手をつけたことに
腹をたてただけかもしれない。正室非公認のため側室認定されず、
隠し子になっちゃったっていうのが真相じゃないかな。
きちんとだんどりふんで側にあがらない女性って
本当に当主の胤かどうか怪しいじゃん。

442 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 13:50:39
>隠し子の母親
保科正之の母、お静(お志津)の方・浄光院
って書けばいいじゃん



443 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 13:55:14
お静の方は「ぜひ男子を授けてくれ!」と祈願文に書いてるんだよな。
かなりのしたたかもの。
こんな女だったから江与が怒り狂ったんだろう。

444 :日本@名無史さん:2009/01/20(火) 22:42:23
大宮氷川神社への祈願文か。

「御なんじにしてあん産守ごしたまい」

あの時代の武家の女が男児誕生を祈っても、
少しもおかしく無いと思うけどね。


445 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 08:06:09
将軍継承問題に関わるんだから、男子を望むのはかなりのしたたかもんだろう。
あの時代の乳幼児の死亡率を考えたら野心は当然あったと思う。
嫡子の二人が亡くなれば将軍世継ぎご生母様!
それが無理でも将軍庶子として大大名のご生母様!
になれるわけだ。
そして祈願かなって大名当主ご生母になれたわけだしな。

446 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 12:48:02
秀忠が正之を隠し子扱いにして正解。
公に庶子と認めたら、春日局や秀忠一派に暗殺されてた可能正大。

447 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 19:54:55
将軍の子を身ごもったからには、栄達の道を思い描いても
それはごく普通のことなのではないだろうか。


448 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 19:56:34


449 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 19:59:28
江与が嫉妬深い女と神様に愚痴るお静の方って相当のしたたか女

450 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 20:27:25
江与に関しては永井路子説を信じる。

451 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 20:46:23
>>441
お静は「江与の嫉妬のせいで私は側室になれない」とでも言いたげだが、
結局のところお静を側室にしなかったのはほかでもない将軍秀忠なんだよね。
江与の最初の夫と2番目の夫には正室江与以外に側室がいたことが確実だし、
正室とはいえ江与が将軍たる夫秀忠に対して側室を置くなと強要する権力もなかったと思うし。
現に、江与は続けて姫ばかりを産んだために、秀忠に召された女性が長丸(早世)を産んでいる。
生母の名は分からず、秀忠が側室として迎えたのではなかったのかもしれないが、
子が秀忠の子として認知されていることは事実で、認知を受けらず、父にも一度も会えなかった正之とは明らかに異なる。
とにかくお静を側室とせず、正之を庶子としてすら認知しなかったのは将軍秀忠なのであって、
お静がそれを「江与のせいだ」と逆恨みするのは筋違いだろう。

452 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 21:31:22
>>440
現在の養源院は徳川家が再興した時に
関ヶ原合戦の直前、石田光成に攻められて自刃した徳川型の武将
鳥居元忠らの血痕のついた床を廊下の天井にしていて
淀殿の遺構を訪ねて行くと度肝を抜かれるかもしれない。
(一番のみものは当然この血天井であるため、ここが誰それの・・・と詳しい解説がつく)
寺には歴代徳川将軍の位牌が祭られてあり、「徳川の菩提寺」でもある。





453 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 22:55:38
鳥居元忠らが自刃して果てた伏見城の遺構だろ。

って、養源院の血天上は迫力あるとか見ものだとか
前レスでもちゃんと書かれているのだがな

454 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:19:07
高野山に、高野山内に数多くある供養墓のなかでも
大きさとして最大級だという崇源院の墓があるのだそうだけど
見たことのある人はいますか?
徳川家廟の裏にあるというのだが。

455 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:25:26
>>451 長丸の生母は、江与となってるけど側室説もあって不詳だったんじゃないの?
明らかに側室の子という断定された文献は見たことないな。


456 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 00:30:56
断定したがる人がここには多いから。

457 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 02:30:58
>>455
江与の息子なら長丸ではなくて竹千代を名乗るのでは

458 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 08:06:25
>>457 秀忠自信の幼名が長丸だし、竹千代が世継ぎ認定の名前になったのは
家光以降の話だからおかしくないと思うが。

459 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 10:35:16
現在のイメージでは江が夫の側室に激怒した恐妻、
初は側室の子でも跡継ぎとして育て上げ、京極家を盛り立てた賢夫人みたいな扱いだけど
当時の資料では江が側室や庶子に激怒した記録などなく(知らなかっただけかも?)
反対に初が側室に子が出来たのを激怒して困ってるっていう記録がある。

460 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 11:55:51
>>452 養源院は茶々亡き後は江与の庇護を受けた寺だから
将軍家縁の寺のなったんだろう。
しかしそんな恐ろしいものを天井に使うという発想がよくわからん。
ものすごい恨みの念がこもってそう。

>>459 江与は男子を二人ももうけた後にできた庶子だからそんなに激怒する
理由はないわな。

461 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 14:32:40
保科をお静が身篭った時に信玄の娘がお静を匿ってるよ。

462 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 19:15:19
匿ったんじゃなくて徳川吉宗のように、しかるべき人物に預けただけ。
秀忠は「正室が側室の子供に嫉妬して、毒殺しようとするも、
誤って自分の子供を毒殺した」どこぞの大名のように無能ではないからな。
奥ののことはきちんと治めていたから、庶子を匿う必要なんて全くなかった。

463 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 19:40:07
>>462
督姫と池田利隆のことか?
あれも督姫が利隆の毒殺を図ったという確固たる証拠はないと思うが。

464 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 19:41:22
>>461
武田信玄の次女見性院は名家好きの家康によって招かれ、
当時、江戸城内に住んでいた。
見性院は息子を若くして失い、家康の子信吉を後見するもこれも早世。
里の武田家と婚家の穴山家の復興を望む見性院は、
いわくつきの子を預けるには格好の存在だったのだろう。
しかし、正之は信吉とは異なり将軍が非認知であったことが災いしたのか、
結局見性院の手を離れて武田より格下の保科氏の養子ということで成長した。
見性院が大奥まで出かけて行ってお静を保護したのではないし、
正之は見性院の後見を受けるにあたって母お静とは別居していたはず。
見性院がお静を匿ったわけではない。

465 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 20:17:24
>>463
自分は当の保科正之のことかと思った。
側室腹の娘が前田家に嫁ぐことになって、上杉家に娘を嫁がせていた正室が
「側室の娘のくせに正室の娘よりも格上の家に嫁ぐなんて!!」って怒って
その側室の娘に毒を盛ろうとしたら、間違って自分の娘が毒を飲んで死亡。
この事件後、保科正之は女性不信になったとか・・・

466 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 20:35:29
>>465
父親から愛情を受けることなく育った保科正之は
自分の家庭も崩壊させていたからな。
正之が女性不信になったと書くと正之一人が被害者面している感じがするが、
もともと多くの女性を次から次へと囲い、家庭を治められなかったのは正之の責任。
この事件のころには正之もいい歳のじいさんだったのだし、
これまで女性たちに迷惑をかけた代償を受けただけ。

467 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 21:13:26
可哀想なのはとばっちりで実母に毒殺された娘だよな・・・

468 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 21:18:36
正之の正室はその後も生き長らえて正経の生母として君臨してたりするからな。
普通なら離縁されて正経も廃嫡されそうなものだが。

469 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 21:32:32
>>468
それを言うなら保科正之がお家騒動の責任をとって徳川幕府から改易されるだろ。
正之の継室お万は正之との間に実に9人もの子を儲けており、一番正之の子を多く産んだ女性。
正之が隠居するとき家督を譲るべき男子はお万との間の男子しかいなかった。
(側室との間に乳のみ子が一人だけいたが育つかどうかわからんし)
なんだかんだ言って、正之が一番愛した女は実はこのお万であるらしいのが皮肉なところ。

470 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 21:39:28
なんつーか・・・女の趣味は父親譲りなんだな。
嫉妬深かろうが気が強かろうが結局は正室が一番なあたり。

471 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 21:51:35
お万は側室上がりの継室じゃなかったけ?
もともとは東福門院の侍女を勤めてた、社家の家柄。
側室から正室に繰り上がりのところを見ても寵愛は深かったんだろうね。

472 :日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:15:11
>>460
無念のこもったものだからこそ、
寺院の建築財として用いて「供養」することになるんだな。

>>464
江戸城を出たお静の方はまず八王子の信松尼を頼った。
そして出産は親戚筋であったというし。
その後は(自分が読んだ資料本2〜3冊には)お静も幸松丸とともに
見性院の比丘尼屋敷で世話になっていたように書いてあるけどね。

>>471
保科正之が寛永十年に娶った正室は岩城平の内藤家の姫、お菊の方。
お万の方・聖光院の生家は上賀茂社の社家・藤木家。


473 :日本@名無史さん:2009/01/23(金) 08:10:56
嫡男以外の弟たちなんて生まれてすぐに家臣の家に預けて養育されるのなんて
当たり前じゃん。そしてそのままどこぞの家に養子にだされたり。

生母ごと追い出されて御落胤扱いなのは別として、
正之がたどった人生は大名家の庶子なら特別おかしなところはない。

474 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 09:36:06
家康だって築山殿に遠慮して醜いという理由で側室腹の我が子を邪険にしてたがな。
その生母も冷遇されてたし。

475 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 19:14:59
保科正之なんて松平清武に比べたら全然恵まれてるよな。

476 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 19:18:23
【新潟】寺の再建費用を着服、柴田勝家被告と住職を逮捕・起訴
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1232512326/

477 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 20:59:30
>>472
氷川神社の祈願文で「住む処に彷徨う」「この辺にしのぶ」
とあることから幕府が用立てたというより
信玄六女の信松院が救いの手を差し伸べたらしい。
お静が産み落とした男子は信松院の姉見性院のもとで養育されたが、
その出費の面倒をすべて見ていたのは見性院であり、
見性院は自分の知行の半分を幸松に与えて武田の跡取りとして養育、
徳川幕府は扶持を行わなかった。
しかし、尼所帯で男子を養育することは困難であったためか、
幸松7歳の時もと武田家の家臣で子のなかった保科正之の養子として育つことになる。

幕府が正之に何の養育のための禄も与えていないこと、
母のお静が住むところにも困ったと言っているあたり、
秀忠にとって正之は認知しない子ではあったのだろうが。

478 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 21:40:51
>>477 それだけ周囲も秀忠自身も「本当に俺の子供?」と
怪しいと思っていた証拠だよ。
上臈たちの検閲を経て側に差し出された女なら妊娠してるか否かを
厳重にチェックし、男子禁制の空間に軟禁して、準備してるから
間違いなく上様の子供として認知されたろうけど、
そうじゃなく、突発的に手をだしたのなら認知を受けられず
御落胤扱いになっても仕方ない。

479 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 09:19:18
江戸時代でも殿様の子供を生んでも、身分が低いことを理由に
側室と認められず、家臣に払い下げられた例とか普通にあるからね。
秀忠の時代はまだ奥の制度が未完全な時代だし、
庶子扱いすらされない大名の御落胤って結構いたんじゃないかな。

480 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 10:17:29
殿様が家臣の家に接待されてお泊りすると夜伽に用意された女が身ごもっても
認知されないんだよ。将軍もあちこち泊まるたびに
そういう女が用意されてたから、実際いたと思うよ、御落胤。
でも中絶させるか、すぐに誰かと結婚させるか、世にでないようにしたろうね。
客をもてなすのは夜伽女もワンセットという時代だから
なんていうか、子供を産むための女じゃないんだよ、ただの性欲のはけ口でしか
ない女だから、女サイドも承知の上ってことじゃないかな。

481 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 04:23:27
浅井三姉妹のスレなんだからそういう雰囲気も当然なんだろうけど
ずっと、やたらと、お静の方を貶める一方のレスばかりしてるのがいる?


482 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 13:16:25
>>481
お静の方を貶めるレスとかある?
当時の側室制度とか御落胤について語ってるレスばかりで
お静について書いてるレスなんてほとんどないと思うけど。
そもそも、お静自体が記録がほとんどなくて語りようがない人物。
分かっている事は秀忠の御落胤を生んだ女性で、側室になれず
子供も秀忠の死まで実子として認められず養子に出された。
見性院、松姫姉妹にお世話になったことと、祈願文が残っていることだけ。

483 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 18:11:27
結城秀康の母子ととても似てる人生歩んでるな。
お万の方も側室扱いされずに城を追い出され家臣宅に身を寄せ出産。
庶子認定はされたものの、まともに対面することなくあちこち養子にだされた。

484 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 19:26:16
>>481
もともとはお静が氷川神社へ納めた願文で
「御台所の嫉妬が強く、おかげで私は住むところもない。
だけど、ぜひぜひ、(将軍の)男子を私に授けていただきたい」
ってな文章を書いたもんだから、そんなに正室お江与が悪いのか?
というところから派生した文章でしょう。
別段、不必要にお静を貶めているわけではない。
むしろ、将軍秀忠に認知されないことを恨み、お江与の嫉妬のせいに違いないと
不必要に正室を恨んでいるのはお静のほうだったのでは?ってこと。


485 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 20:51:51
>>484 側室にさえしてもらえないほどの身分の静が江与と対面して嫉妬めいた
ことを言われたとも思えないし、上臈から「側室とは認めぬ、子供も上様の子供ではない、
これは御台様のご意向だ!」というようなことを言われて追い出されたんじゃないかな。
それで静は御台の嫉妬のせいと信じてたとか。
でも実際は上臈衆がいいように取り計らってるだけで、
江与は静や子供の存在すら知らなかったんじゃなかろうかと。

486 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 22:08:39
お万の方にしても、お静の方にしても、正室の承諾を得ずに手をつけられた女は悲惨。

487 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 23:15:40
家光の兄長丸の生母は側室として認められていたんだろうか?
素性すら全く伝わっていないのは不自然。

488 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 01:34:32
>>484
自分は祈願文の全体を読んでみたけど
都合良く祈願文の文章の順番を都合良く端折りすぎているのでは。

「それがしまつたくいやしき身にして」とか
「神ばつとしてかかるおたねをみごもりながら住所にさまよふ」
など謙虚な部分だってあるのに、そういう部分をスルーしてるよ。

ってスレ違いだけど、気になったものでね。

489 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 07:45:33
そんな謙虚な気持ちがあるなら「御台の悋気のせい」とか「男子を授かりたい」
なんていうこと書かんでしょ。謙虚な部分は
神様の手前謙虚なことも書かざるを得ないってだけで、こんなの
神前の常套文句。静の本音がよくわかる手紙だと思うよ。
男子が無事生まれることで不遇な自分の将来が全然違ってくるから
神様に必死でお願いしたんだな、ということがよく分かる手紙じゃん。

自分は静の育ちが丸分かりの手紙って印象。

490 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 12:19:31
>>489
>自分は静の育ちが丸分かりの手紙って印象
なんでそこまで言うかwww
なんだか既女さん臭いな

491 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 14:07:51
>>489
>男児が無事生まれることで不遇な自分の将来が全然違ってくるから
 神様に必死でお願いしたんだな、ということが

それは別にお静の方に限ったことではなくて
寝所に侍って権力者の種を宿した女は少なからず(少なからず、ね)
そう願うものではないだろうか。
自身の、一族の栄達を賭けて奥奉公に上がることが多くある時代でもあるし。

492 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 14:30:38
ふと思ったのだがお静には頼る実家もなかったのか?
「住む処に彷徨う」ってあることは、父親はともかく、
兄弟やおじのような頼れる縁者すらがいなかったってことなのかな?
側室になれなかったのも後ろ盾が全くないっていうのも原因かも知れないね。
天皇家や公家でも後見人のないお手つきは悲惨な待遇だしね。

493 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 18:52:51
祈願するなら「元気で健康な子供が無事生まれてきますように」
どまりにしときゃよかったのにな、お静の方。
江与の悪口書いたり、男子が欲しいなんて書いたもんだから
正体みたりってかんじ。




494 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 19:35:40
>>492
それを言ったら江与の実家だって滅亡してて後ろ盾はいない。
お静が側室になるのを妨害する権限なんてないだろうに。

495 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 19:52:29
>>488
あの願文に書かれた謙虚さというのは、
「たぐいまれな未来」に対する謙虚さなんだよね。
私は出自はそれほどではないが、この上ない身分の将軍様とセックスでき、
そのお胤まで孕むという空前絶後な幸運をいただきました。
今は不遇なのも未来の更なる幸運への天が与えた試練。
ぜひぜひ、哀れな私をお見捨てくださらず、
更なる幸運である将軍の男子を授けていただきたい、と。

別に御台所に対しての謙虚さでは全くないし、
(将軍の胤を得た私を路頭に迷わすなんて、
全く醜い御台所、と願文で神に報告している)
将軍を寝とったことに対する後悔も全くない。
身分の低い私がこんな幸運を得ることを、
神様どうぞお許しください、という感じの文であって、
それはお静が出自に合わない立身出世を祈るにあたって
神に取り繕った言葉だよね。



496 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 20:04:44
>>494
秀吉という天下人を後見人とし正室として祝言を挙げたお江と
住む場所すらないお静が同じ立場なわけないでしょ。
そもそもお静が側室になるのを妨害したのはお江なんていう徳川家の資料はない
お静が側室になれなかったのも、正之が実子として認められなかったのも
すべて秀忠と将軍家が決めたことだ。

497 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 20:10:29
>>488
その願文にある、
>全く醜い御台所 の原文は?



498 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 20:29:03
>>489 >>495
何だかお静に私怨wwwでもあるのかぁ?



499 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 20:32:49
>>492
お静の親兄弟っていうのは名前もわからないんだよね。
保科正之も自分の母方の素性を公の記録には一切残さなくって、
その母お静は大工の娘とまで言われている。
というか、産まれてくる子の立身出世を願ったお静が、あえて親や親戚を頼らず、
産まれてくる子に将軍の胤として相応しい後見をしてくれる人を探して回り、
いろんな人に断られてようやく信松院が引きとってくれた、ということじゃないだろうか。
大工の家で子を産んでもその子は将軍の胤だとして育つことはないからね。
その点、武田信玄の実の娘で里の武田家の再興を考えている信松院、見性院の姉妹は、
お静の目に適った「わが子を将軍の胤として相応しい地位につけてくれる人」だったのだろう。
正直、お静は産んだ子を連れてどこかの町人の後家にでもなれば、生活していくことは可能だったと思うよ。
保科正之も名も知れぬ町人の子として終わっただろうが。
だけど、お静の「立身出世欲」がそれをさせず、
どうしても将軍と交わって生まれたわが子を一国一城の主にしたかったってことだろ。

500 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 20:33:10
>>498 側室問題は奥の上臈衆が先導してそうだけどな。
女子ならまだしも男子となると後継者問題に絡んでくるから、
春日局や忠長の側近の女たちだって心中穏やかなはずがない。
生まれたのが男子ゆえに側室にされず、子供の認知もされなかったとかかも。
女子ならとりあえず側室認定、庶子認定ぐらいしてくれたかもよ。
いずれ嫁にだして政治の駒につかえるわけだし。

501 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 20:56:14
テレ東の電波歴史バラエティで茶々の出自を大発見!してたのでw
何気なくここを覗いたのだが、いつの間にか浄光院スレに。

>>492 >>499
お静の方の生家は北条浪人の神尾氏でほぼ良いのでは。
秀忠乳母の大姥局・岡部氏に奉公に出た時点では
武家として成り立つことができず、大工やらを生業にしていたと推測。
阿茶局・雲行院が家康に出仕する以前に嫁いでいた家も神尾氏なので
(阿茶の呼称の一つには神尾一位局というのがある)
その関連性を指摘している研究者もいる。

502 :sage:2009/01/27(火) 21:10:09
>>500
女子ならば側室認定されるのであれば、
腹の子が男子か女子かわからないうちから
お静が「住む処もなく彷徨う」わけがない。
また、秀忠や家光は自分の姉妹が産んだ娘を養女にして
盛んに他の大名家に嫁がせたりしているため、
身分の低い一晩限りのお手付き女に産ませた女子がそんなに必要でもないしね。
認知せずとも、産まれた子に扶持すら与えなかったのは
秀忠がこの子を完全に「無視」していたことの証でもあるし。
秀忠が娘がほしい、娘ならお静を側室にする、という意志を持っていたのなら、
お静が出産するまではどこかに匿うだろうに、
妊娠中のお静は秀忠と連絡を取ることも不可能だったみたいだし。

503 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 21:17:21
>>495
謙虚であればいいってことでもないけどね。
本当に御台所に申し訳ないと思って彷徨っていたら、卑屈すぎって逆に嫌味。
仮にも将軍家の胤を身籠もったことを神罰を言ってのける強かさは潔くて良いと思うよ。

504 :497:2009/01/27(火) 21:17:25
間違えた。
>>495
へ、質問。

その願文にある、
>全く醜い御台所、と願文で神に報告している
そこの原文はどうなってるの?
早く教えて下さい。

505 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 21:40:36
>>503
本当にお静が謙虚だったら、将軍の寝所へ侍らないだろうし。
将軍に手をつけられたとき、やった、これで私も立身出世、
と天にも昇るような気持ちだったんだろう。
テレビの大奥もまんざら嘘ではないんだろうな。

506 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 22:09:54
>>502 「住む処もなく彷徨う」ていうのは、奥に局ももらえず、
邸を与えてもらえず、不安定な預かりの身を嘆いてのことなんじゃないの?
将軍の子種を宿した女性を下に置く扱いをせず、預かった家臣は
丁重にもてなしてたと思うけど。もちろん見性院も。

本来なら奥に局をもらって側室としてそれなりに安定した生活が
保障されるはずが、あてが外れて城外に追い出され、密に
匿われる立場になった、てことを嘆いてるのであって
身重の体でふらふら彷徨ってたわけないじゃん。

507 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 22:43:43
>>505
>将軍の寝所に侍らないだろうし。
モノ知らずなレスで笑える。
いち女中が自分の意向で将軍寝所に侍れるわけもない。
何者かの指示で寝所に向かうわけなのだが?
将軍に名指しをされて断れとでも言うのかw

>やった、これで私も立身出世
それのどこがおかしいんだ?
権力者のお手つきになることを期待して奥入りする女なんて、
古今東西にざらに居るものだろう。
奥向きはそういう場所でもあるんだからな。

508 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 22:58:26
祈願文の内容でお静を非難してる人って
実は祈願文の原文を全文通して読んだことがなくて
大奥ネタ本等に引用されて現代訳した部分しか知らないのでは。


509 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 23:01:51
>>506
幕府は保科正之に養育の扶持を与えていないんだよ。
この事実をどう見るの?
あなたの話だと、幕府がみごものお静のために家臣をつけ、
当然、お静や産まれてくる子、それに幕府がつけた家臣の禄を
払うはずでしょ?
なぜ、全額見性院が扶持することになったの?
見性院のもとを離れたあとは養父の保科家が
将軍家とは関係のない子として正之の面倒を見ている。
一体、将軍家がどの家臣にお静を預けましたか?
もっと史料を読んでください。

510 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 23:04:23
>>507
周囲も将軍の意向なくして将軍寵愛の侍女を追放なんてできないから、
当然、お静が江戸城に住めなくなったのは将軍秀忠の意向でしょうね。
それも禄も与えないなんて、寵女に対してずいぶん冷たい将軍様ね。

511 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 23:45:42
>>509 >>510
女性のレスなんだろうか?
正直、非常に感情的というかヒステリックな意図を感じる。

512 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 01:09:50
>>489 >>495
早く岩井家に残るお静の祈願文のなかでの
「御台所の嫉妬が強く」「御台の悋気のせい」とか「全く醜い御台所」
などと書かれているという箇所周辺の「原文」を出してください。

513 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 08:03:17
>>509 幼少の子供に扶持は与えないのが普通だな。
大名家では家臣預かりにして幼少期を過ごした庶子はたくさんいる。
そのままその家臣の養子になったり、他家に養子にだされたりと
嫡子以外は男子も政治の駒以外の何ものでもないしな。

老中の土井ほか数名は知っていたとされているから、当然幕府関係者経由で
性見院に預けられたと考えるのが妥当だし、保科家に養子になったのだって
そうだろう。でなきゃお静一人がが言ってることをまともに信じる馬鹿はいないさ。
だから正之の正統性が認められ、家光から弟認定されたってことでしょ。
保科家の養子になった背景に幕府の要人も関わった事実があるから。
保科家だって家光、忠長にもしものことがあったら、将軍後継者になったかも
しれん大事な預かりものだし、丁重に扱ったろうさ。当然お静のことも。

514 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 11:25:35
「うやまって申祈願の事

南無氷川大明神、当国の鎮守として跡を此の国に垂れ給い、衆生普く助け給ふ。
ここにそれがしいやしき身として太守の御思ひものとなり、
御胤を宿して当四五月頃臨月たり。
しかれども御台嫉妬の御心深く営中に居ることを得ず。
今信松禅尼のいたわりによって身をこのほとりに忍ぶ。
それがし全くいやしき身にして有難き御寵愛を蒙る。
神罰としてかかる御胤をみごもりながら住所にさまよう。
神明まことあらばそれがし胎内の御胤男子にして、安産守護し給い、
二人とも生を全ふし、御運を開くことを得大願成就なさしめたまはば、
心願のこと必ずたがひたてまつるまじく候なり

慶長十六年二月 志津     」


これが静の祈願文の全文

御台の嫉妬のことはばっちり書いてある。
そのせいで城内にいれないとも。
しかし信松禅尼の庇護のもとにいて、出産を待っていることも
書いてある。見性院とともに、妹の信松禅尼も面倒をみていたとある。
二人とも徳川の庇護下にいたわけだから、将軍家の意向に逆らうようなことは
しないだろうから、頼まれて面倒をみたのだろう。

お静は「身分が卑しいくせに将軍の寵愛を得たために神罰にあってこんな
身の上になった」と自省する一方で、「男子を授けほしい、運が開ける」
という本音もばっちりでてるな。

515 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 12:19:49
>御台嫉妬の御心深く
こういうことを書くような人間だからこそ側室にもなれなかったのかもしれんね
奥を乱すようなタイプは後々跡継ぎ問題とかで揉めそうだから
とっとと家臣に養子に出したほうがいいと幕府も判断したのかもしれん。


516 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 12:51:10
志津が秀忠の寵愛を得ていたのは事実じゃないの?
正之が生まれた頃は、江与は和子を最後にもう子供を産んでない。

517 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 13:54:58
そらそうでしょ。二度懐妊してるし

518 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 14:15:44
寵愛を得ていたのなら正之も実子として認められたと思うが?
出自だけなら家康の晩年の側室と変わらないのに
側室としての待遇を受けなかったのは沢山いる夜伽の相手にすぎなかったのだろう
同じく側室が生んだとされる長丸は実子として扱われてる。

519 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 14:22:30
>>518 長丸が嫡子か否かは確定してない

520 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 17:18:01
>>514

「うやまつて申きぐわんの事
 南無ひかわ大めうじん

という原文を示せと言われてるんだろ。

「りんげつたりしかれども、御たいしつと御こころふかく
ゑいちゆうにおこることをゑず・・・」とね。

521 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 17:23:01
それと、>514、>515
>本音もばっちりでてるな
>このようなことを書くような人間だから
とか、なんでそんなにむきになって感情を込めてるのかわけがわからん。

522 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 17:28:06
>>514
「全く醜い御大所」という言葉は、どこをさすのですか?
また、>520の原文には「嫉妬」という言葉はないのですが、
どの語が「嫉妬」に現代語訳されたのですか?

523 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 17:45:48
>>522 まんま書いてあるじゃん。

「御たい」→「御台」
「しつと」→「嫉妬」
「御こころ」→「御心」
「ふかく」→「深く」

この頃のひらがな文の小さい「っ」とかは「つ」と書かれるし、
濁点には点をつけないの。

524 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 18:30:37
祈願文の文言でお静一人に対して妙に執念深い叩き
やはり既女の側室叩きか。

前のレスに養源院のことが話題になっていたので
寺に伝わる女性の肖像、それはやはり寺伝のお市像なのか
はたまた茶々像なのかと、その変遷の経緯を書くので
論じて欲しかったのだけど、やめときます。

525 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 19:44:02
>>524 あの有名なお市像って持明院に伝わったものじゃないの?
お市の17回忌にお市と長政の肖像画を淀殿が奉納したという説と、
慶長以降に奉納されたものという説があったはず。

淀殿像と伝わっているものの方が確証がなく、実はお市説があると思ったけど。

526 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 21:37:44
長政像だって17回忌に「有人」が絵師に書かせた、という賛が書いてあるんだけど
淀殿とは確定してない。この絵が伝わった浅井家の菩提寺を秀頼が再興した
ことから、淀殿だろう、とされただけで。

527 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 21:38:24
>>514
神罰って言うのは、身籠もったことじゃなくて、
将軍家の子を身籠もりながらも流離ったことに掛かるような・・・
まぁ御台所への恨み節も、妊娠からくるマタニティーブルーで
悲観的になった攻撃的にもなったりとかだと思う。
不自由な身重な身体に加えて側室として認められなかった精神的なショックもあっただろうし。

528 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 23:45:22
お江の方にまつわる話はとことんドロドロしてておっかないなあ。・・・ブルブル。



529 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 00:21:34
養源院では浅井長政画像とともに伝わって
お市の画像というふうに言われていたのだが、
高野山持明院に伝わるあの著名なお市画像とあまりに容姿が違うので
(要するにあまり美形な画像ではなかったらしく)
・こちら(養源院)のはお市ではないのでは?
 ↓
・では、誰だろう?
 ↓
・考えられるのは建立者の茶々・・・、の可能性もあるのでは。
526さんのおっしゃってるように、この程度の経過だったようです。
この養源院の女性画像の鮮明なものが見てみたいものだけど・・・

ところで奈良にある「伝淀殿肖像」は、もとはどこの所蔵だったのか、
ご存じの方はいらっしゃいますか?

>>527
自分もお静も落剥した後北条浪人の娘として
色々と苦労したんだろうな、と思います。。
奥向きへ伝手を頼りに奉公し、一族の期待も荷ったでしょうしね。
なので不安な懐妊時の祈願文から突っ込むのも気の毒かと。


530 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 08:54:26
祈願文は当時の奥の女性の率直な気持ちがわかる貴重な史料だと思うな。
誰もが仕える家のため、正室の仮腹でしかありません、なんていう純粋な気持ち
ばかりで子供を産んでないってことだよ。
そこまで迫害されてたのにはもっと別な理由があったのかもしれないけどな。
一説によると秀忠乳母の岡部局付きの侍女で、その縁で見初められた
というけど、岡部局の権勢は奥内ではそこそこあったろうから
堂々と側室にしてもらえる後見はあったはず。

静の方が神尾氏というなら、秀忠の養育にも携わった
雲光院の縁で奥にあがったのかも。(雲光院の最初の夫が神尾氏)
でももしそうであっても身分は低くても雲光院という
徳川家でもかなりの権勢をもった女性の後ろ盾があって
奥にあがった女性になるわけだし、側室にしてもらえなかったのは
不思議な話。

「御台の嫉妬」は何に対する嫉妬だったのか、単純なものじゃ
なかったのかな、なんて深読みしちゃうね。

531 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 11:56:42
一般的に側室の身分なんてみんな低かったんだから、
お静の方が出自のせいで側室になれなかったのは変だよな。
確かに正妻の嫉妬なんていう簡単なことじゃないのかもしれない。
でも幕末の会津藩の原動力がここにあるとしたら、
静さんも将軍家のためにいい仕事してくれたと思う。

532 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 12:45:22
お静の方は一度堕胎してるんだっけ?流産だっけ?


533 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 21:35:00
御落胤の認定をされただけでもラッキーなほうだ。
秀忠の乳母は老中土井利勝の弟の妻だから、仕えていたこの乳母のおかげで
お墨付きをもらえて、老中公認でしかるべきところに見を寄せ、
大名家に養子になれたのだろう。
そんなコネもないただの下級士族出身の侍女が秀忠の子を孕んだとしても
そんな事実は闇に葬られて終わってたろう。

534 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 21:57:34
お江与も関係ある話題と言えないこともないが
あんまりお静や落胤云々の話に偏るなら
子作りスレあたりでやってくれないか

535 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 22:02:42
昨日、日本史サスペンスとかいう番組でお初のことをやっていたらしいのだが
見た人いる?どんな内容だった?
三姉妹の中でも地味なお初が取り上げられるなんて珍しいよね。

536 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 22:04:12
地味だけど初婚の男に正室として迎えられ
最後まで添い遂げた初が一番幸せだったんじゃないだろうか
夫は天下人かもしれないがその正室ではなかった姉淀殿や
離別に死別と3度も結婚して子供を産まされ続けた妹江与に比べてさ
初自身は子がなく側室の子を養子に迎えたけれども
京極家では終生大事にされていたわけだし

537 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 22:06:00
>>531
会津は全然いい仕事してないんだがw
薩長に比べて先見の明のなさといったら
これも保科正之が暗愚だった証拠なのだろうか

538 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 22:20:39
>>536
淀は非業の死を遂げたし、江与も春日局関連で気苦労が多そうだしな。
初が一番安定して幸せそうだ。

539 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 22:41:07
実子を産めなかったという無念さはあったと思うな、初。
春日局が勢いづくのは家光将軍拝命後だろうし、江与は秀忠より
先に亡くなってるから、大御所生存中となれば大御台の権威は
変わることなかったろうし、晩年までたいした気苦労なく幸せじゃん。
忠長事件も知らずに亡くなったわけだし。

540 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 11:51:51
どうみても初が一番貧乏くじ引いてるように思えるな。
淀殿は最期はああだったけど、一大名としてなら助かる道はいくらでも
あったわけで、それに甘んじていれば生涯安泰だったはず。
将軍の姫だった千姫が嫁だったわけだし、千姫の手前将軍家だって
徳川に逆らわなかったらむやみに取り潰すことはしなかったろう。

初はどうあがいたってあれ以上にはなれないわけだし、
姉や妹のコネがなければ繁栄も難しい微妙な大名家だったしさ。
京極家は豊臣や徳川なんか比較にならない名門だけど。

541 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 14:55:43
茶々はお市の連れ子説、というのがあるけどどうなの?
普通は連れ子は実家に預けるなどするだろうけど。

542 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 22:03:03
浅井長政供養の為に茶々が養源院に創建しているから、連れ子の可能性は低いと思う。
連れ子だとしても、母のお市が身籠もったまま嫁いだってとこないじゃないだろうか。


543 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 22:08:13
茶々がお市の連れ子なら茶々の実父は誰なんだ?
お市は信長の従姉妹で信長が茶々の実父なんて与太話もあるけど。

544 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 23:07:49
>>537
オマイ、阿呆か?

545 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 23:16:33
手元に資料本が無いのでうろ覚えだけど
お市は信長の従姉妹・・・と書いた女房(侍女か?)の消息文があったそうで
『以貴小伝』はそこから、お市は信長の従姉妹という記述をしている。
その『以貴小伝』から、「一説には信長の従姉妹説もあり」が
資料概説本に引用されているのだろう。

そういう史料のある話とは全く別に、
お市は実兄信長を男として慕っていた設定の創作は見られる。
最近ではAB蔵主演の舞台劇などがそういうお市(小田茜)像だった。
これは余談ね。

546 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 11:50:31
従兄妹を妹として嫁がせることは珍しくないし事実かもな。
そうなるとお市を土田殿の養女にでもしたかな。
そのあたりに離縁後いつの間にか信孝の庇護下におかれ、政略結婚の駒にされた
理由がるのかも。お市の実の父親は信孝配下におかれていたとか。

547 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 17:34:16
そう、お市がなぜ信孝の犠牲になる立場にあったのかが俺も不思議だった。


548 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 14:10:23
数年前に、NHK「その時歴史は動いた」でお初が取り上げられてたな

549 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 14:19:02
20年前の「春日局」で、
淀を喜多嶋舞→大空真弓

お初を宮沢りえ→松原智恵子

お江与を坂上香織→長山藍子が演じてた

550 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 14:30:25
>>540
>将軍の姫だった千姫が嫁だったわけだし、千姫の手前将軍家だって
>徳川に逆らわなかったらむやみに取り潰すことはしなかったろう

京極家にも将軍家の姫が嫁いでいるよ。
秀忠とお江与の四女、初姫が。
初姫が京極家に嫁いだのもお初の嘆願のためだったらしいが。
天下人の妻になれれば華々しく散ってもいい、という女性だったならば
初は3姉妹の中で最も貧乏くじかもしれないが
命の保証という点では一番安全だったでしょ
お江与も関ヶ原次第では茶々と逆の運命になっていた可能性もあるわけだし


551 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 14:43:37
>>546
お市と三姉妹は小谷城を落とされた後、
信長の弟織田信包に預けられていたはず。
政略結婚の道具として一時的に養女とされただけなら、
もはや政略結婚の道具としては使い物にならなくなった
お市は三人の娘とともに実父に返されるのでは?
しかし、信長は二度とお市を政略の道具にしなかったにもかかわらず
織田家中に留め置き相応の待遇を与えていた。
側室腹のお市を土田御前の養女にしたことはあるかもしれないが、
お市が信長の従兄妹であったとは考え難い。

武田信玄の存命中、その子勝頼に嫁いだ信長養女は
実は信長の従兄妹であったことが史料に見えている。
浅井や柴田は武田よりも格も勢力も劣るのだし、
お市が信長の従兄妹ならはっきりそう書いてよいはず。
それに従兄妹を嫁がせるなら信長の養女でしかるべきだが
お市はそれもせずに信長の妹として浅井や柴田に嫁しており、
与太郎話は抜きにすれば妹で何も問題ないはず。

552 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 15:50:54
結局、お市は何人の男のチンポ咥え込んだんだ?最初はやっぱり信長か?

553 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 18:27:49
>>551 勝頼室は苗木勘太郎室になった信長の妹の子とする史料がある。
(「巌邑府誌」)これを否定できるだけの確たる証拠はない。

「以貴小伝」にお市は信長の従姉妹という記述があるのだから
その説を否定できるだけの確たる証拠ももない。

両者出自については諸説ある、としかいいようがない。

554 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 20:00:37
>>551 信包に預けられたとされた、とあるけど何を根拠にそうなったの?
小谷落城後の母子の消息ってぷっつり切れてて、柴田再婚の時に
突然表舞台にでてくるんだよね。
小谷落城後の母子がどんな生活を送っていたとか、どのあたりに
居を構えていたとか知りたいんだけど。

555 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 20:10:40
信長の従姉妹でありかつ妹というのもありえなくもない話だぞ。
信秀が生前中に自分(もしくは土田殿)の姉妹の娘だったお市を
なんらかの理由で養女にして信長の義妹になっていたとしたら。


556 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 21:06:40
>>553
「以貴小伝」は江戸時代末期の成立。
もともとは徳川将軍家の女性たちを扱った文献。
お市が死んでから300年以上もたってから成立した「以貴小伝」に
いとこという記述があるからって、
なんでそれが一次史料の扱いになるの?
「信長公記」とか、「徳川実紀」とか、もっと信憑性の高い記録には
お市は信長の妹だとあるのに。

557 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 21:24:37
「徳川実紀」だって編纂は江戸後期だし、将軍家についてのことがメインで
しかも途中で元となる史料が火事で焼失してる。
徳川将軍家以外のことは一次史料とは言い難い。

「信長公記」も仮に従姉妹が信秀の養女となって信長の義妹となった場合は、
あえて義妹とは書かなかっただけかもしれないし、その事実を知らなくて
本当の妹だと思っていたのかもしれない。

とにかく、史料に従姉妹と記されている以上はその史料が絶対間違っている、と
証明できるものが提示できない限り諸説あるとしかいいようがないだろ?


558 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 19:49:18
>>557
だからあ・・・
「以貴小伝」の史料としての信憑性はどうなのよ?
一次史料でないことはまあ、間違い無いよね。
そして、今日信長研究者の多くが読む「信長公記」ですら一次史料ではない、
とあなたは言うのだから、信長の生涯も大抵のことは確実ではないことになる。
信長の父は誰かわからない、母や兄弟姉妹はおろか、妻も子もわからない。
そういうことがいいたいの?


559 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 20:33:38
>>558 
信長に関しては父親の名前と数人の兄弟と子供のことぐらいしか判明してない。
生母も土田殿といわれてるけど、史料によって諸説ありなんだよ。
濃姫に関することも謎だからけ。
子供たちも生母が判明してるのは数人程度。
「信長公記」読んだことあるの?
政治に絡んでくること以外ほとんど親族妻子のことなんて書いてないよ。
公記は信長の私生活の様子を知るには適してない。
比較的そういったことが書いてある宣教師の記録にだって信長の
妻子のことなんてほとんど書いてないんだから。

「信長公記」は作者が織田家に仕えた以前の話や現場にいない話などは、
関係者から情報収集して得た話なので信憑性に欠ける。
一級史料ではあるけど、全部が事実じゃないことも研究で明らかになってるしな。

560 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 20:36:04
結論言い忘れた。

結局、どんな一級史料も全て事実であるわけでもないし、だからといって
信憑性の乏しい史料であってもでたらめだと証明できないのなら
〜については諸説ある、としか専門家だって結論付けるしかないってこと。

561 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 20:55:29
>>559
君は、何の史料を持って「信長の父が判明している」というのかな?
お市だって知らない間に養女にされていたら妹であると史料にかくしかない、と言っている。
信長だって、知らない間に信秀の養子にされていた可能性も同じようにあるだろ。
なぜ、お市は知らない間に養女にされた可能性があるのに、
信長に限っては絶対ないと言い切れる?
つまり、君の説に従えば、信長が実子か養子か証明できるものは何もないんだよ。
人の意見に反対意見をかくなら、自分の矛盾点にもこたえられるようにしておかないと。 

562 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:27:50
>>561 
信長は兄も弟も複数いたのに幼少から嫡男認定されていたのだから当然実子でしょ。
お市は「従姉妹」と書かれた史料があるから、「妹」という説もあるなら
義妹であったかも、というあくまで仮定の話が昨夜でてただけ。
ちなみにそれを書いたのは自分じゃないけど、今日読んで一理あると思ったよ。
第一信長が養子と書かれた史料なんてないじゃないか?
どこかにあるの?
ないから信長は上記の理由もあって実子でいいでしょ?
史料にないものを信長が養子だと証明できないのに云々と食ってかかられても迷惑だな。

563 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:55:17
>>562
君の説は説明になっていない。
信秀に男子がなく、全員養子だった可能性すらあるのだから。
兄弟に生まれた子(甥)を養子とした例はいくらでもあるし、
当時、養子は幾人もいるのが普通だったから。

尚、さっきの話の続き。
お市を信長の妹としているその他の史料
「浅井三代記」「垣見文書」「江濃記」「竹生島文書」
「阿部文書」「佐久間軍記」「豊鑑」他
現段階では江戸末期成立の書物にのみ見えるいとこ説が
専門家に取り上げられないのがわかる。
(いちゃもんTVは別ね)

564 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:59:34
信長公記の信行謀反の箇所で、信長がお袋様の懇願で信行を許した、
とあるから信長が信秀の実子なのは間違いないな。


565 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 22:10:43
>>563 
でも従姉妹を示した史料があるのだから、諸説あるとされても仕方ないさ。
専門家が取り上げたからといってその史料の信憑性が高いとは限らない。
「武功夜話」がそれを証明してる。
いまでも「武功夜話」参考文献、と堂々と書かれた信長、秀吉本はたくさんある。

566 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 22:20:58
>>563 そんならお市も養女だったとしても全然おかしくないじゃんw
甥を養子にするのがいくらでもあるなら、姪を養子にした例もいくらでもありそう。
養子同士だって家系図上は兄妹、実際は従姉妹だけど
父親の養女になったからお市は信長の妹と史料に残って当然じゃんww

567 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 07:46:00
>>566 >>563が墓穴掘ってるな、まさにブーメランw


568 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 13:55:36
ねぇ…そろそろ三姉妹の話に戻らない…
私の意見そんなに間違っている…?
…少し…頭…冷やそうか………

569 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 20:56:55
秀勝と江与の娘の完子は養母の淀殿を殺した秀忠の養女になってるんだよな。
母を殺した秀吉の側室になってる淀殿といい数奇な家系だ。

570 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 21:31:59
>>565
濃姫スレに出入りしてる人だと思うけど、
あなたが示しているお市いとこ説の史料も
信憑性のなさでは武功なみと思うけど。
同時代史料でお市いとこ説など証明できないでしょうに。
でも、同時代史料でお市を妹だとしているものはあるでしょ。
どっちの信憑性が高いと思うの?


571 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 22:48:17
>>569
完子って秀忠の養女になったの?猶子?
結婚した女性が養子縁組するのってあまり聞かないね。
完子は関白夫人で従三位にまでなったのにあまり記録が残ってないみたいだ。

572 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 23:23:40
>>570 前に討論してた人?
いい加減お市の方のことはスレチだって気がつかない??

573 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 00:30:20
>>569 >>571 養女といっても一回も会ったことがないだろうし、
太閤亡き後にきちんとした後見人が形式上必用だっただけでしょう。
この時代名家に嫁いだ女性ほど実家の後ろ盾がしっかりしてないと
嫁家ででかい顔できないから。成長する段階ではあれこれあったけど、
太閤、将軍、としっかりした後見人がいたから完子は嫁ぎ先で
安定した生涯を送れたと思う。

考えてみたら完子って豊臣の血をひいてるんだよね。
江与は豊臣の血も残したのだからGJ!

574 :545:2009/02/12(木) 23:01:20
>>570
565さんではなく、前レスで『以貴小伝』の名を出したものですが。

ただし、様々な資料本や戦国女性特集に載っている
「お市従姉妹説」は、どこからきたのか?ということに対して
『以貴小伝』なのでは?というレスをしたまでのことなんで。

575 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 08:53:35
ある程度信憑性のある史料として徳川の女性がらみの参考文献に
されてるけど、『以貴小伝』。
新人物往来社系の歴史本には必ず参考文献として登場してる。
武功なみに信憑性のない史料というなら、
お市の方以外の全ての将軍家の女性達の出自が眉唾ってことになるけど、
両家の家系とマッチして出自が明らである記述もあるし、
全てを否定できないのは事実。

浅井三代記にはお市と信長の親密さをうかがわせる記述があって、
武功には「市への情だけは捨てられない」とお市へのなみなみならぬ情を
うかがわせる記述がある。
そのあたりから以前から近親相姦説や義妹愛人説もあったわけだ。

ただお市とされる信長の妹が長政に嫁いだ年齢が当時ではかなり遅い
20才を越えたあたりとされ初婚ならありえない。再婚説もあるけど、
もしかしたらその年齢の実の妹と、手駒がなく長政との政略結婚のために
急遽従姉妹を妹として嫁がせたお市という義妹とが混同された可能性も
あるかな、と思う。

従姉妹か妹かよりも、お市が晩婚だった理由、小谷落城後信長との
接触の記録や行方を示すものがまるでないお市母子のことのほうが
ずっと気になるんだな。

576 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 18:09:41
浅井三代記には
「信長が浅井家を訪ねたとき、お市の方と二人きりで奥の間で親密にされていた」
という意味深な記録があるしなw


577 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 18:30:06
で、信憑性のハナシになると「浅井三代記」も怪しい部分大有りってことだな。

ある程度おおまかな目で見渡さないと、何も語れなくなってしまうのが女性史。

578 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 20:05:19
確か茶々の出生のことが浅井三代記には何一つ書いてないんだよ。
女子だからスルーされただけかもしれないけど、
茶々連れ子説の根拠の一つだったりする。
お初や江与も書いてなかったと思ったけど、「初」という名前から
長政と市の長女はお初だ、という臆測がまた茶々連れ子説を強調してたりする。


579 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 19:10:18
茶々が長政とお市の供養をしていたから長政の実子だとは思うけどな。

ところで、肖像画の話に戻るけど、
茶々の肖像画は茶々が奉納したお市と長政の肖像画をミックスして
後年描かれたときいたんだけど、そうなるとあまりにお市のイメージと違う
ので茶々の肖像画とされたというお市の方と伝わっていた肖像画は
やはりお市の方だったんじゃないかと思うんだけど。

580 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 21:29:23

『総見記』
「備州ノ内室ハ正シク御妹ナルカ故ニ、暫時ノ間ハ上野介信包ニ預ケ置カル、
其ノ後尾州清洲ノ城ヘ遣ハサレ、三人ノ息女皆御養育成サレ置キ給フ」

581 :日本@名無史さん:2009/02/14(土) 23:13:44
>>579
ごめん。

要約すると「高野山持明院蔵のお市の方肖像画と印象が違うので
(お市の方ではなく茶々像なのでは?)という方向になっている養源院の肖像画
は、やはりお市の方では?」ということだよね。

582 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 11:32:09
美人で誉れ高いお市の肖像画があんなドブスかよって感想は確かにあるわな。
でも、同じく美人で誉れ高かった京極竜子の肖像画も微妙だしな。
家康の娘督姫なんかは尼僧姿でもきれいに書かれてるんだけど。

583 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 11:56:38
あの時代の大名夫人がやたらと人前で顔をさらすわけもないし、
お市は秀吉が懸想して柴田と争った、という史料があるので
そのあたりで当時じゃ年増で子持ちのお市がそんなにもてるのは
絶世の美人だからなんだろう、という臆測が広まっただけだなんじゃ?
お市とされている肖像画は確かに美人だよね〜
凛として気品があってまさに麗人ってかんじ。
実際は淀殿のように下膨れででっぷりとしたかんじだったのかも。
信長を描いた宣教師の肖像画だと、信長は鼻が高く、骨格がはっきりした顔立ち
だから、信長やお犬に似てたら目鼻立ちの造作の大きい顔かなと思う。

でも薄幸で有名武将に愛された女性は絶世の美人じゃないとな。

584 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 13:30:48
>>583
淀殿が奉納した父浅井長政の肖像画は別に美男子じゃないし、
(結構小太りでえらが出てる)
淀殿が父親だけにせ絵で描いて
母親だけは似ても似つかぬ美人を描かせる必要はないんじゃ?
淀殿は勿論、おつきの者や織田縁故のものは実物のお市を知ってるわけだし。
女は人前に出なかったとは言っても戦国時代の武家の姫は
何も平安時代の貴族の姫のように御簾の中に常にいて立って歩いてはいけない
(進む時は必ず膝で進む、つまりほとんど一日中同じ場所から動いてはいけない)
わけではないのだし。

585 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 13:40:37
養源院所蔵の茶々像とされてる肖像画は軸に
「浅井長政卿室之像歟、未詳、寛政十一巳未年八月僧正亮天修補之」
とあるので、お市で間違いないと思う。寛政期に修復されてはいるようだけど、
とにかくお市ということで奉納されたようだ。

奈良県立博物館の茶々の肖像画は江戸中期に両親の肖像画を参考に
淀殿の肖像画とした「伝淀殿」ということ。
この肖像画の淀殿の着物の時代考証から江戸中期以降なのは間違いないらしいし、
あくまで「伝」なので確証はないだろう。

結局絶対茶茶の肖像画である、と太鼓判を押せるものはないってことらしい。

586 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 14:55:50
紹介されることも多い奈良県立博物館の伝淀殿肖像の来歴は?

本来どこに伝わっていたものなのだろうか。

587 :日本@名無史さん:2009/02/15(日) 20:52:35
養源院か持明院と考えるのが自然だろうけどな。
両親の肖像画をモデルに創作されたとい寺伝が事実なら
両親の肖像画のある寺で淀殿も創作されたんじゃないかな。
浅井長政は他にも肖像画があるから、埋もれていたお市像が
あらたに発見されたらうれしいが。


588 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 13:03:29
今さらなことでご存じの人も多いだろうことだけど、
吉川弘文館の人物叢書、桑田忠親著の「淀君」に
(確かないわれでは無いけれど)と本文つきで掲載されているのが
持明院所蔵というの茶々の肖像が。(P10)
奈良県立美術館のものとは異なる作だ。


589 :日本@名無史さん:2009/02/16(月) 20:57:19
>>588 へぇ〜知らなかった。でも養源院にある茶々伝がお市だとしたら、
それってお市かもよ?同じ理由でお市伝とされる美人画とあまりに違うので
勝手に茶々認定されてたとか。確かなわけではないというのがいかにもそれっぽい。

590 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 21:40:26
>>573
秀忠としても完子を豊臣家の生き残りとしてではなく、
将軍家の娘として扱いたかったんだろうな。

591 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 10:23:48
公家の名家に嫁いだ完子がなんだかんだで一番穏やかな一生を送ったろう。


完子、千姫、和子、と江与の産んだ三姉妹たちの人生もすさまじいよな。


592 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 18:33:33
女性史研究としては三姉妹と娘たちとか面白そうだけど
完子、勝姫、古奈みたいな比較的マイナーな姫を研究してる人とかいるのかな?


593 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 19:16:51
>>584 戦国時代でも大名家の姫なら嫁入り前ならめったに奥からでずに、
男性と接することもほとんどなく、同腹の元服前の弟ぐらいでしょ、
気兼ねなく顔見せできるのは。
奥方だって基本は奥にいて、表にでても家臣は平伏したまま
許可がないと顔をあげることもできないし、それも家の祝い事や
冠婚葬祭の時ぐらい。

当時はふくよかな女性が美人とされる風潮はまだあったから(裕福さと安産の象徴)
ブサ顔っていうけど、当時の価値観ならでっぷりと描かれている茶々はけして不美人では
ないよ。お市だとしても描いてる人は「美人」と思って描いてるって。

594 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 21:06:36
>>593
江戸時代の大奥と勘違いしてないかい?
戦国時代の大名家の奥は男子禁制ではない。
北政所なんか秀吉以外の男にも堂々と顔を見せているし。
加藤清正らの縫物の繕いをしてやった頃にはまだ大名の妻ではなかったかもしれないが、
それ以後も大名を呼びつけたり徳川家康と対面したりしてるし。
また、平安時代のように妻妾別居ならともかく、この時代の大名の妻妾は同居しているから、
異母兄弟とは離れて住んで疎遠になるといったこともない。
同母兄弟は勿論、異母兄や異母弟とも同じ屋敷内に住んで、
大名家の行事や宴の際には顔を合わせるのが普通。

595 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 22:00:49
>>594 大阪城にも男子禁制の奥があって、厳しく掟を定めたのは秀吉自身だ。
あれこれ指図している史料がある。
江戸城も秀忠の代ですでに大奥の原型があったことは史料からわかってる。

高台院が家康と対面したのは出家後だし、奥の中に家康を呼びつけたわけじゃない。
清正の繕い物云々も信憑性はともかく、子飼い時代の清正をかわいがった=
奥に子飼いたちが出入りしていた、とはならんでしょ。

大名家の男子の場合は次男以下は幼少期に家臣に
預けられて養育されることも多いし、そのまま養子にだされることも多い。
必ずしも同じ奥の中で育つとは限らない。
もちろん元服前の男子は基本的に奥で養育されることになるが。

だいたい奥が男子禁制じゃなければ、奥の女が産んだ子が
当主の子種かどうかわかったもんじゃない。

596 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 23:05:07
>>595
ほう、そんなに厳しい男子禁制があったのならば、
よそのスレでやってる秀頼は秀吉の子ではない、なんて真っ赤な嘘で、
秀吉の奥に入れる男子は秀吉一人、
秀頼はもう間違いなく秀吉の子、ってわけですねい。
というか、秀頼が生まれたときの秀吉の居城は大阪城ではなく伏見城で、
秀吉は生前大阪城を常城としたことはなかったのだが。

というか、信長の親父はどうだったのさ。
まだ尾張一国統一していない頃の小大名家でも、
男子禁制の奥を持っていたのかい?
お市は信長の親父のもとで育ったんだからさ。

597 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 23:14:22
最も厳しいとされた江戸城大奥ですら完全な男子禁制ではなかったんだけどね。
大奥内部には大奥女中の御年寄と幕閣である老中が対面して話し合うための部屋が設けられてあり、
両者は大奥の中で直接会って話し合いをしていた。
鈴の扉の向こうに行ける成人男子は将軍だけ、なんて全くのウソで、
老中やら側用人やらは大奥に堂々と入っていた。

月光院と間部詮房の仲の話など、江戸時代にすでに書かれていたこと。
大奥が男子禁制で月光院と間部詮房にまるで接点がない、
男子禁制の大奥にいる月光院の顔を詮房が見ることすら絶対にありえないのであれば
そんな噂が巷に流れるわけもない。

598 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 00:25:43
>>596 淀が他の男と気軽に接する環境にいたら、さすがに秀吉も疑ったんじゃ
ないのか?秀吉の晩年、あれだけ大勢いた側室の中で二度も妊娠、
出産したのは淀だけなんておかしすぎると。
秀頼の出生になんの疑いをもたず、秀次を死に追いやってまで豊臣家の後継者にしたのは
淀の姦通など不可能だ、という確証があったからではないのか?
すなわちそんな可能性が絶対ありえない状況下に側室達はおかれていたという。
「大奥」という言葉を始めて使ったのは秀吉らしいし、
側室のいる空間を厳しく管理していたのは確かなようだ。
奥がらみのことだからもしかしたら高台院の意向によるものかもしれんがな。

もっとも奥と表の空間をわけるのは当主の胤を宿す可能性のある女どもや
嫁入り前の娘が、当主以外の男と接する機会を避けることが目的であって、
そういう役割にない女どもが表向きの用事があって家老などにあったりするのは
構わんだろう。それと出家したらそういった俗世間とは離れたわけだから、
自由に行動できたろう。初なんて出家してからかなりアクティブに行動してる。
高台院も出家してからのほうが表舞台で活躍してるしな。

599 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 00:53:53
とにかく男子さえ産めばこの身は安泰!とお静のような側室がいたら
手当たり次第男を引っ張り込んで男子が生まれるまで妊娠・出産を繰り返したろうな、
男子禁制じゃなかったら。


600 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 08:46:40
秀忠が静の子を自分の子と認めたのは、それなりの理由があったってこと
なんだろうな。

601 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 20:14:31
>>598
勘違いをしているようだが
淀が秀頼を懐妊したのは肥後の名護屋城にいる頃だよ。
江戸城大奥にいる側室たちがほぼ生涯江戸城から出れなかったのに比べ
淀や京極竜子など秀吉の側室たちは秀吉に気ままに呼ばれて
戦地へ赴いている。

秀吉は醍醐の花見や北野大茶会なんかにも平気で妻側室を連れ出して
大名たちと交流させているな。
この時代は表と奥が未分離で、女性が表へ出てくることもよくあったのだ。
戦国大名でも幼主が立つとその生母が堂々と表へ出て公に城主としての役割をしているよね。

602 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 20:45:36
>>598
秀吉の秀頼に対する溺愛は自分の胤であるという確信があったからというより
わが子だと信じたかった→ここまで愛しているのだから報いてくれ!
的なものだったかも。
男子禁制にしないとわが子だと信じられないのならば、
世間一般の男は誰一人自分の子だと確信を得られないまま
子供を養育する義務を長年背負ってきたことになる。
現代人も別にDNA鑑定などしなくても
嫁の産む子はわが子だと勝手に信じてるし。

603 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 20:49:49
>>598
思い出したけど、勝海舟の日記には幕末の大奥に関する記述があって、
海舟は実際に大奥に入って天璋院に会っているんだよね?
女中レベルではない先代将軍の正室が、大奥で夫以外の男性と対面することができた。
ちなみにやはり幕末の幕府役人の記録で、
将軍家茂の婚約の説得のために京を訪れた一行が
孝明天皇の妹皇女和宮に会い、五体満足か、容貌は美しいかなどといった
個人的なことを記録に残している。
嫁入り前の姫様にも結構会えたということだな。

604 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 20:59:12
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605 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 23:34:11
>>601 秀吉がねねに手紙で淀を名護屋によこすように依頼してるから、
気ままに、というのとも違うと思うよ。
奥の総取締役の奥方の采配のもとで、それなりの段取りふまなきゃ
できないことだったんじゃないかな?

阿茶の局みたいに側室でも外交大使をしてたわけだし、
ようするに男性との謁見も周囲に上臈衆が常にいる状況で、
過ちがおこるような状況にならなきゃいいんでしょ。
二人きりじゃなきゃいいんだよ、大河ドラマの一幕みたいに。

606 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 03:41:33
>>604
めちゃくちゃ可愛いな

607 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 10:11:57
>>602 >>男子禁制にしないとわが子だと信じられないのならば、

夜這い当たり前の時代だから、警戒してたという時代背景も
あるんじゃないの?庶民あたりは自分の子か怪しい??と思いながらも、
さほど気にせずいたらしい。
裏をかえせば自分の子もどっかの家の子として育てられてるからかも
しれないからなんだってさ。
大店のお嬢さんですら危険にさらされるから、常に乳母や女中と
同じ部屋に寝て、一人寝はさせなかったという。
奥という空間に妻妾や娘を囲わないと冗談抜きで危険な時代だったんだよ。
戦国期の妻妾は他家のスパイみたいなもんだから、外部との
接触を必要最小限に絶つ必用もあったんじゃないか?

608 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 20:20:28
もともと、お市の方の顔をどれくらいの人が見ていたか、
という話から派生したレスだよな?
つまりは大名の婦人であってもおつきの人と一緒なら
夫以外の男とも普通に対面できたってことだろ。
浅井家家中の家臣たちや織田家家中の家臣たちはかなり見ていたんじゃないのか。
この時代は婚礼も公開するし、嫁御料人の前で家臣たち一同が
3日3晩飲み食いの宴を繰り広げるのに
肝心の嫁御料人の顔を誰も知らないなんて事態になるはずもない。

609 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 20:28:34
>>603
和宮の容姿を観察して江戸に報告したというのは、
あくまでも隠密裏の指示が出て
報告も慎重に行われたようなことなのだが。

おおっぴらに和宮と一行がご対面したとかの事ではないよ。

610 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 20:36:04
>>608 そりゃこの時代の結婚は家同士の結婚だから祝宴は派手にやったと思うよ。

ただね、この時代の女性のメークってみんな同じ顔。
眉を抜いてこってり白塗り、鉄漿、目鼻立ちが目立たないように目立たないように
表情もでないように、でないように、メークする。(これが美人の条件だから)
頬を鼻の高さがわからぬように真っ赤にそめ、口は小さく見せるために
紅を上下にちょこっとつけるだけ。
家の中は蝋燭の灯りだけで薄暗く、酔っ払った家臣なんて
同じメークをした侍女が座っててもわからんと思う。

611 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 21:03:23
阿茶の局ってもっとクローズアップされていいくらいの人生だよね。

612 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 21:06:25
>>609>>610
ここ近日、ずっと同じ人が張り付いてない?
女の人の顔などみんな一緒に見えるはずだとか、どこまでいい加減なこと書いたら気が済むのw
この時代の女性はみな絶世の美女だったわけ?
お市が美人だと言われているのはそれなりに根拠があってのことでしょ。
作り話はもういいから。


613 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 00:03:04
ぶっちゃけ、この3人は別に大したことやってないんだよな。
和歌の達人だったわけでもないし、武術に秀でてたわけでもないし、
茶々と江には特筆すべき功績なんて何もないんじゃないか?
初だけは大坂の乱の時に調停役で活躍らしい活躍をしているけど、
それだって結局は無駄骨に終わってしまったし。
なのにこれだけ有名になってるというのはどうなのかという気がしなくもないんだが。

614 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 10:45:53
>>612 お市が美女だったと実際お市を見た第三者目線で書かれていた
一次史料ってあったっけ?
いろんなエピとお市の肖像画とされる絵から絶世の美女と認定したのは現代人なのでは?
その肖像画も茶々の肖像画がお市の方だとそのまま信じられていたら
現代人の評価もずいぶん変わっていた可能性があるよ。

京極竜子も同様なんだけど、子供も産んでないのに淀殿に勝らぬとも劣らぬ
秀吉の寵愛ぶりから、よほどの美女だったんだろう、という現代人の臆測だよね。

615 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 11:57:13
>>613
明治以前の歴史に名を残した人物で特別な業績があるやつのほうが少ないよ。
大部分は名家に生まれたか、有名人の家族とかそんなもん
歴代天皇なんてほとんどが特別な業績なんてないだろ。

616 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 13:12:56
出自の問題だよな、後世名が残るか否かは。
浅井三姉妹よりももっとすごい波乱万丈の人生を送っても、
ド庶民なら記録も残されず語りつがれる事もなくおわるわけで。

秀吉が生涯愛しぬいたねねが美女といわれることが皆無というのも
なんだかな。信長は秀吉にはもったいないとまで言ってる女性なのになぜ。
お市に関してはあの超美しい肖像画のせいとしか思えない。(でも違うんでしょ?)

617 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 15:12:33
>>616
>浅井三姉妹よりももっとすごい波乱万丈の人生

赤橋登子はその一人だと思うんだけどなぁ
旦那が謀反を起こしたせいで実家どころか実家の一族全体が壊滅
2人の兄弟も無残に死亡(投降すれば確実に助かっていたのに)
その後はその後で、旦那が九州まで追われてしまったりしてるし
心の休まる時なんか殆ど無かったはず
もっとも、旦那があと少しで見れなかった孫の姿を見れたし
最晩年は三姉妹よりも平穏だったといえるけど

618 :日本@名無史さん:2009/03/02(月) 12:56:46
>>>616
昔は今以上に元々の顔の造形よりも環境要因が大きかったんじゃないか?
労働することもなく奥で大切に育てられてきたお市や三姉妹と違って
若い頃のねねは水汲みや家事で日焼けや埃被った生活をしてたろうし
中年以降の美醜に影響を与えたとしても不思議ではない。

619 :日本@名無史さん:2009/03/03(火) 03:37:07
肖像を見るかぎりだと、お犬の方(細川昭元室)は端正な顔立ちで、
持明院のお市の方の肖像とも近い雰囲気だと思う。


620 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 21:31:10
なんでお茶々は投降しなかったんだろうな
各方面から助命嘆願が来ることを考えれば
殺されるわけが無かったじゃないか

あるいは、投降しようとしたのに流れ弾に当たって死亡したとか
病気などで急死してしまったなんてこともありうる・・・?

621 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 21:51:02
茶々は助けられても秀頼は殺されるだろうから、息子と一緒に死のうとしたのでは?

622 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 05:02:16
自尊心や意地が勝って投降という選択肢すら頭にはなかったかも。
因果で喩えると信長・長政・市、血縁ではないが勝家という滅びの遺伝子の見事な継承者に見える。

623 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 19:00:23
そもそも、お袋様くらいは敵軍が侵攻してくる前に
大坂城から疎開させるべきだった気がするんだが・・・
羽柴領内のどこかに安全な場所は無かったんかな

624 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 00:26:20
茶々に限らず投降すれば助命を許されたとしても、あえて死を選んでいった女性は
いたわけだから、戦国特有の死生観だろうね、茶々の最期も。
晩年の淀殿が気鬱だったとする史料もあったから、生きていこうという気力が
すでになかったんじゃないかな。
秀頼も素直に投降していたら、秀頼の切腹とひきかえに
息子の助命を認められ、しょぼ〜い一大名としての豊臣の存続は
認められたかもしれない。織田家クラスの扱いで。

625 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 05:42:32
茶々の親族は自殺者だらけだな
本人、両親、祖父、叔父、従兄弟2人、息子、甥・・・
それも北条一門みたいに同じ場所でほぼ同時刻に死んだのではなく
全く別々のときに、全く別々の場所で自殺してるんだから

他にも刑死や病死した者も多すぎ
兄、祖母、孫・・・
姻族も含めれば、妹の旦那たちも病死してるし・・・

626 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 12:26:09
えらい亀だけど、最初の方に淀殿がいつ秀吉の側室になったのか云々という
やり取りがあったけど、淀殿は北の庄落城の翌年には大坂にいたことが
はっきりしてる。
「兼見卿記」に大坂の茶々からお礼の品をもらったという記述がある。
この「大坂」が大阪城とすればすでに茶々は秀吉の側室だったのだろう。
妹達の縁談の時期から、茶々はいち早く秀吉の側室になってたのではないかな?
そういうなりゆきには、もはや誰も文句もいえず、当の本人も有無を言えるような状況
ではなかったんじゅなかろうか?敵方の姫の処遇は勝利者の意向には逆らえん。

627 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 12:32:05
結局は浅井の娘は浅井

628 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 16:29:14
>>626
それなら、せめて筑前の側室にさせられる前に自害できなかったんかな。
死ぬことを怖がるような人だったとはとても思えないし。
懐剣を取りげられていたのかな?

629 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 17:28:24
大坂方の実質的な首班だろ淀殿は

630 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 18:38:20
>>628 つか信長よりも上をいくリーダーシップで天下人に一番近い人物だった
秀吉から側室へどうか、と誘いを受けたらそんなに嫌でもない話だったかも。
もし本気で嫌なら死ななくても出家してしまえばよかっただけのこと。
秀吉が大蔵卿あたりから切り崩して、近江衆の将来のことなども含めて、
淀殿がその気になるように持っていってもらったとか。
実際近江衆のことを重用してるよね、大蔵卿親子も重用されてる。
淀殿は深窓のお姫様育ちなんだから、自分の意思を持つ必用がなく育ち、
実は乳母や側近の意向でどうにでもなるような姫様だったのかもしれないよ。
江与もそんなかんじだったかもしれない。
初だけは意思をもって生きていたな、というのが足跡から感じられるな。

631 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 20:22:41
秀吉のもとに嫌々いったというイメージが定着しすぎてるかもな、茶々。
わざと豊臣が滅びるような言動にでて結果的に親の復讐を果した、
満足して散った、みたいな茶々像が歴史小説の定番。

本当のところは、どうだったんだろうね。

江戸に人質にいくことを淀殿は承諾したのに、秀頼がそれを拒否した、
という話もあるし、幼い時に父親をなくし、帝王学も学ばず甘々の
殿様に育てられた秀頼の力量のなさが豊臣を滅ぼした大きな一因だったのに、
全てが淀殿のせいとばかりになってしまってるのもどうかと思う。

政子や富子みたいに悪女っぷりを示す実際の言動がまったくないに等しいのに
プライドが高くて独裁的とレッテルがはられてる茶々がかわいそうだな。

632 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 00:04:41
>>帝王学も学ばず甘々の殿様に育てられた秀頼の力量のなさが

↑のように育てた淀殿が悪い、母親の責任である、ということも
淀殿の悪評につながってるんじゃないかな。
ただ実際は本人の資質+側近の養育に責任があるんだよね。
実母とはいえ幼少期を過ぎたら信頼できる家臣の手にゆだねて
若君の教育してもらうもんだろうから。

633 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 10:10:57
江与にしても自分の元で育てた忠長を可愛がったって言うけど、
忠長にも乳母はいるし、殊更に贔屓していたわけでもないしな。

634 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 16:44:32
江与だってふってわいた年下の男との結婚に心うきうき嫁いでいったかもしれない。



635 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 19:52:29
>>604
管理人の尻がすげーw

636 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 12:42:53
>>628
なんで自害推奨なんだ?

戦国の相克のなかにあって、敗れた家の女としては
敵将の妻妾になるという生き方は珍しくもなんともないのに・・・

637 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 18:19:01
ちょっと前だけど、日本史サスペンス劇場でお初が取り上げられてたね。

あの番組の内容だと、お初は相当図太くて逞しい人だったみたいだね。

あと、3姉妹でいちばん地味顔だったからなかなか縁談が決まらなかったって言ってたけど本当かな?

638 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 21:02:39
永井先生は3姉妹でおごうが一番ブスと言ってるが
映画チャチャでは梨園の歯茎娘がおごうで確かに・・・だったが
葵徳川三代ではおごうが一番きれいだった(他が妖怪だった)

639 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 21:20:49
大河ドラマよりマトモな脚色をしている点もあるけど
基本、なんちゃってドラマ仕立ての「日本史サスペンス」での
脚色を、真に受けて欲しくはないな・・・

また、三姉妹のなかでの容姿の優劣なんて
比較検討している文献もなく、
その劇的な生涯から茶々が一番・・・・とか、
何度かの結婚を果たしているのはお江の容姿が優れていたから
・・・などと、そういうことは皆想像の部類を出ないことなのでは?

また、優れた小説家でも自分の小説内容の主役や構成や
狙いによって、人物の容姿を決めて創作するのであって
小説家の言うことをあてにするのはいけないと思うけど。

ドラマの配役で想像するのも、その場だけの脚色にすぎないし。

640 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 22:55:29
茶々は疱瘡にかかってあばた顔だった。(秀吉死後)




641 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 05:44:47
>>638
>葵徳川三代ではおごうが一番きれいだった(他が妖怪だった)

う〜む・・・
おれは初だけが(比較的)妖怪らしからぬと思ってたんだがw

642 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 07:45:55
泣く子もだまる葵徳川三代浅井三姉妹の件ですねw

若作り編にものすごい無理強いを感じたけど、
見慣れると演技派の三人には惹き付けられたよ。
個性豊かな三姉妹でよかったんじゃん?

643 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 22:54:52
小川真由美の茶々はよかったな。
イメージ的には池上きみこが最強なんだけど、
小川真由美の存在感はすごい。
武田信玄の時の三条の乳母の八重役も最高だった。

644 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:34:13
黒川芽以チャンが八重に変貌するというありえない老化ぶりには
まさに愕然とするしかなかったが・・・w

645 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 12:51:25
小川真由美には妖怪チックな魔性オーラがあるんだよ。
古いけど「八つ墓村」の最後の洞窟で血の涙を流しながら主人公を追いかける姿は
伝説となった山崎努の村人惨殺シーンよりインパクトがある。

646 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 20:48:26
>>644 
伊達政宗の時の愛姫が後藤久美子から桜田淳子になった時の衝撃にはかなうまいw

647 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:09:40
>>601 名護屋城にも大阪城同様の山里丸をつくらせ、
ここに呼び寄せた淀や大蔵卿、現地調達の側室広沢の局なども住まわせていた。
名護屋城においても、側室達の女だけの空間があった。

大阪城内における大奥は、例えば「御本丸鉄御門番事」(天正17年制定・七か条)
の第一条に「夜間の出入りの禁止」などもあり、大奥への出入りに関しては
命を受けたものだけが切手の門で消息文などをとりついだ。
第三条には「門の番衆以外男子禁制」とある。
大奥へ入れる男性は非常に限られており、
秀吉以外は秀頼のお伽衆や選り抜きの詰衆の武士や小姓程度。
つまり男子禁制といっても、↑のような男子の出入りは
厳重な監視下の元に認められていた前提での男子禁制となる。

秀吉生前300人いたという大奥の最高権力者は北政所で
大奥内に化粧殿という北政所が日常使っていた部屋などもあったが、
北政所が大阪城をでると、実質的に大奥で采配をふるったのが
大蔵卿であったことから、淀殿が北政所にとってかわったといえよう。

側室たちが秀吉自身の掟に従いこのように厳しく管理されていたことから、
秀頼が秀吉の子供であることは疑いの余地がなく、
だから秀吉本人が自分の唯一の子供だとなんの疑念ももたずに大喜びしたのである。

648 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 15:02:28
>>604
左の子はかわいいな

649 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 20:07:31
>>636
武田勝頼の生母もそうだよな

650 :日本@名無史さん:2009/04/17(金) 13:10:13
戦国期の分国法には、縁談のことや奥の女性の言動を定めているものもある。
他家への縁談、家臣同士の縁談についても領主の承認が必用だった。

「長宗我部氏掟書」には、「男(夫)留守の時は、親類たりといえども、男一切の
立入を禁止する。どうしてもという時は、昼間だれかを同席して会うこと。妻は
夫が留守の時は寺社詣、見物一切禁止」とあり、妻の行動を非常に制限している。

「吉川氏法度」には「来客があっても妻はその席にでてはいけない」とある。
「信玄家法」には「夫の承諾なしに他国へ進物や書面をだすことを禁止」とある。

大名家の妻妾が気楽に成人男性を接することができた、などということは
不可能なのだ。

651 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 02:09:39
>>650
密懐という、かなりデリケートな問題もあるしね

652 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 13:18:29
[[園基任]]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%92%E5%9F%BA%E4%BB%BB
この記事で娘が京極高次室になってるけどどういうこと?
側室の間違いだとしても壬生院の姉妹としては年が離れすぎてるような。


653 :日本@名無史さん:2009/04/18(土) 14:02:35
>>651 武家社会において「密懐」は反社会的行為とされ、厳しい罰則が認められた。
「長宗我部氏掟書」には原則は不倫相手を殺すことを命じている。
これは夫の権利であり、義務でもあるという考えに基づいている。
また「塵介集」には妻と不倫相手双方とも討ち果たすことを原則としている。
不倫の場合は仲介者も罪に問われた。

高台院の管理下におかれ、秀吉子飼いの大名と台頭してきた淀殿を
主筋とあがめる近江衆との確執もあり、淀殿が不義密通などという願ってもない
大粗相をしたら、大喜びで近江衆もろとも追放できたろう。

逆にそういう疑いすらあっただけで自分や近江衆の進退問題に大いに関わってくる
ことが容易に想像できるのだから、淀殿や側近は非常に気をつけたのではないかと
思う。

秀頼は間違いなく秀吉の子だ。
その点に関しては当時の誰もが認めざるを得ない状況で淀殿が懐妊したので、
淀殿のお袋様としての地位が確固たるものになったのだろう。

>>652 「室」とあっても、家系図などでは側室のこともそう記すことはあるよ。
特に公家の場合は「正室も側室も妻」という感覚だし。

654 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 13:08:11
大名家の妻女となると、奥にとじこめられ、当主の許可なければ
手紙ひとつ実家に送れない、なかば軟禁状態かのようなイメージに
なってしまうかもしれないので、補足しておく。

戦国期の武家の女性は結婚の時に「化粧料」を実家からもらい、
独立した経済基盤をもって嫁いでくる。「六角氏目録」によると、
女性が亡くなった場合は、土地は実家に戻し、金銭は戻さない
とする文書を取り交わせとある。

離婚の際は双方の落ち度によって財産分与がの量がかわった。
「吉川氏法度」では夫に不貞、夫が理由なき離縁を迫った場合は
妻が納得できるだけの財産の持ち出しを認めている。

夫からもらった所領は「後家分」といい、本来嫡子一子相続だったにも
関わらず妻には財産分与が認めれらた。つまり次男、三男よりも
妻のほうが優遇されたのである。秀吉は関白秀次に関白職を
譲ったあと、ねねに1万石以上の化粧料を与えている。
実質的に親子関係にない秀次とねねの関係を思い、自分にまさかのことが
あってからねねが困らないようにと処遇したと思われる。

夫は妻の財産の管理をする、と定めた明治期などに比べれば、
はるかに武家の妻のほうが夫から独立した存在になりえたといえよう。

655 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 13:13:03
一方戦国期の側室は人質や命ごいで奥に入った場合があるので、
その場合は正室の仮腹であること以上に、奥にとどめておくことに意味のある
存在だったわけで、当然ながらその言動に制限があった。
中には正室や側室のお声がかりで側室にあがった侍女などもいたが、
その場合は直属のボスである正室や側室に言動の制限を受ける。

だが側室も男子を産めば準家族の扱いを受けられたり、家の菩提の中に埋葬を
許されたりした例もあるので、子供を産むこと、もしくは正室に気に入られ
奥で重要なポストの上臈につくなど、立身出世はいくらでも可能性はあり、
側室とはいえ必ずしも日影の身というだけの存在ではなかった。

家の存続や自分の親族の出世に大いに貢献できた側室たちもまた、女性ならではの
仕事で、両家に貢献した存在だといえよう。

656 :日本@名無史さん:2009/04/20(月) 07:38:05
>>654 各家でそれだけ厳しい罰則を明文化して規定にしたということは、
逆をいえば不義密通とかがけっこうあったということなんだろうな。
大名家みたいに立派な奥空間を確保できない武家屋敷なら
その気になればやれそうだし。


657 :日本@名無史さん:2009/04/22(水) 20:26:52
>>653
北政所とはいえ、夫であり関白である秀吉の命令には逆らえない。
秀吉が寵愛する淀殿、秀吉がわが子と信じて愛してやまない秀頼を
むやみに追放することは我が身を滅ぼすことにつながる。
結局、秀吉を惚れさせた淀殿の勝ちだよ。
仮に父親の怪しい子を側室が懐妊したとしても、
夫がわが子だと世間に公言してやまなければ
正室がどうこうすることなどできようはずもない。

北政所は秀吉が死ぬと大阪城を出ている。
豊臣家を快く思わぬ徳川家康の庇護を堂々と受けて、
京の東山に威風堂々とした高台寺を家康の出費で建てさせ、
豊臣家の滅亡後も豊臣家を滅ぼした男の庇護ものとで裕福に暮らした。
高台寺には夫秀吉とねね2人きりの木像を作らせて供養させた。
そこには秀吉が生前愛した多くの側室の姿も、
秀吉が死の間際まで最も気に掛け愛してやまなかった愛児秀頼の姿も、
秀吉の晩年の愛を一身に受けたその母淀殿の姿もない。
これだけでも充分淀殿と秀頼に対する恨みを晴らしていると思うが。

658 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 13:28:34
>>657 正室の権限がそんなにないの?仮にも北政所だよ?
仮腹の側室が当主以外の子種を宿した、という疑惑があっただけでも
堂々と秀吉にそのことを言う権利も義務もあるだろう。
自分が仕切ってる奥内での大不祥事だからねねにも責任の所在はあることとなるが。
そもそも秀頼誕生した時は家督を秀次に譲っていたのだから、
秀頼にけちがついて追放されようが豊臣家的には問題ないから家督のためと妥協する必要もない。

ねねが大阪城をでたのは秀吉の遺言に従ったまでだし、
家康からもらった化粧料のほかに秀吉から生前すでに一万石以上の
後家分の化粧料をもらってるから、家康から庇護してもらわんでも
悠悠自適に暮らせたよ。

高台院はねねの菩提寺だから側室たちの位牌等がなくて当たり前だ。
秀頼ぐらいは位牌があっても不自然じゃないが、徳川の権勢を考慮して
あえてしなかったということも考えられる。
家康との謁見のときはねねが同行して両者の間に介在して両者の関係を
一時的にせよ修復したし、疱瘡になった秀頼を京極殿が見舞ったという
史料もある。すでに実家に身をよせ、豊臣とは関係ない立場の京極殿は
秀頼の長男が処刑されたのち、遺体を引き取り、供養したという。

秀頼に対して悪感情があればねねや京極殿は秀吉死後は
秀頼がどうなろうとしったこっちゃない、という態度にでたんじゃないのか?
そうじゃないのは秀頼が正統な豊臣の跡継ぎだからじゃないのか?

659 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 19:27:55
>>658
北政所が言ったところで秀吉が退ければそれまで。
秀吉が秀頼はまぎれもないわが子、後取りだと言っているのに
当主の意見を退けて正室の意見が通ると言っているあなたのほうが
無謀だと思うが?

秀吉の跡取りであり、二条城では自分が嫡母として後見までした秀頼を供養しないのは
豊臣家の正室としてはあるまじき行為だろう。
淀殿の実妹であるお江与は淀殿が父浅井長政と母お市を供養するために建てた養源院を再建し、
実に徳川の世、自分は徳川家の嫁であるにもかかわらず、
ここに実姉淀殿と甥秀頼を供養しているのだから北政所にそれができないはずはない。
北政所は秀吉が死んだ時点で豊臣家の人間ではなくなったのならば
秀頼を供養せずとも良いのかもしれないが。
北政所が最後まで豊臣の女として勤めを果たすというのならば、
秀吉の嫡孫に当たる国松の遺体は側室の京極竜子などではなくねねが引き取るべきだったろう。
それもしていない。
ちなみに京極竜子は淀殿のいとこで血縁の上でも秀頼に近い。
義姉の初は淀殿の妹で、このとき竜子は兄夫婦である高次・初夫妻の庇護を受けていた。

660 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 20:33:44
高台院が秀頼をまったく供養しなかったという証拠かなにかあるの?
自分の寺でひっそり法要したり、表立って何かしなくても
読経をあげたりするだけでも十分供養になる。
それすらしなかったという確固たる史料でもあるの?
ねねが国松の遺体を引き取るべきといったって
それをいうなら千姫はどうなんだ?義母だぞ?
国松の義祖母のねねより千姫こそ秀頼の正室としての勤めを果すべきだろうに。
国松の妹を後見し命乞いをしたのに、国松はどうでもいいということか?

ねねだって、千姫だって秀頼親子や国松のために命日には
読経のひとつもあげたと信じたいけどな。

661 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 20:40:28
>>660
>ねねだって、千姫だって秀頼親子や国松のために命日には
>読経のひとつもあげた

悔しいのはわかるが、史料を出そう。
言いたいのは、ねねが秀頼を供養しようと思えばいくらでもできたということ。
養源院に淀殿と秀頼の位牌を置いたお江与、
秀頼の命日に供養し、秀頼の側室腹の娘を庇護した千姫。
そのいずれもねねはしなかった。
これは事実なのだから、どうしようもないよね。
史料に残るようなことは一切しなかったが、
心の中ではこう思っていたはず、では日本史板では通用しないことはわかるよね?
それは君の願望でしかないから。

662 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 21:01:12
>>661 ではねねが秀頼のために読経のひとつもあげなかったという証拠はあるの?
千姫が秀頼の命日に供養していたという史料ってなに?
千姫ってその後再婚してるのに、そんなことできたの??





663 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 21:24:50
>>662
千姫は再婚してからも先夫秀頼の供養をしている。
千姫が再婚先で女子しか育たず跡継ぎである男子が育たないのは
先夫秀頼の怨霊のせいだと言われたためというのもあるけど。
こちらは史料に残っている。

ねねが読経したという史料は?
あなたはこちらばかりに史料提示を求めて、
ご自身では全く史料をお読みになれないのですね。
ねねが秀頼のために読経をしたという史料はありません。
あなたが私の説を覆そうとするのならば
ねねが秀頼を供養したという史料を出すべきかと思いますが?
史料は一切出せない、だけど、あたしはこう信じているの!
ではあなたの説は通りませんよね。

664 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 21:38:40
双方とも頑張って史料の提出に励みましょう。

665 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 21:39:31
>>663 だから千姫が秀頼を供養したと断言したんだから、その
ソースとなる史料はなに?
毎年命日に供養してたのに、秀頼が千姫を祟ったのはなぜ??

私は断言ななんてしてませんから。
供養の読経ぐらいあげたと信じたい、そのぐらいしても不思議じゃない
と書いただけで。それが馬鹿げてる、妄想だというならけっこう。
私はねねや千姫の人間像から主観でそう思っただけですから。

でもあなたは「千姫は再婚してからも秀頼の命日に供養した」と断言してるんだから
客観的にそれを証明できる証拠があってそう書いたんでしょ?

あなたの説を覆すもなにも、史料などで裏付けされていることを
覆すもなにもないのでは?推論、臆測ならともかく、
ずばり千姫が秀頼の命日に供養し続けたということを記した信憑性の高い
証拠史料があったら覆しようがないじゃないですか。

だからまずはその証拠を提示してもらわないと。

666 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 21:44:32
自分もテレ東の制作プロダクションに入って、
なんちゃって歴史ミステリーの構成作家になろうかと思う。

しかし、豊富な歴史知識が創造の翼の邪魔をする・・・

667 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 21:45:15
>>665
願望でものをいう人に何を話しても仕方がないw
ねねが秀頼を供養したという史料は一切出せない、
これがあなたの事実のすべてでしょう。

千姫の史料は自分で探しましょうね。
史料を読んでいる人なら簡単に見つかりますので。
これ以上史料の読めない人の相手をしているつもりもありません。
ねねの妄想だけで書き込んでいる人は小説板にでも行ったらよろしい。
時間の無駄です。

668 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 21:54:06
外野から失礼。
高圧的なもの言いをしているほうのお人も、何も史料名をあげてない。

669 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 22:02:39
>>667 で、結局ソースもないのに「千姫は秀頼の命日に供養してた」
なんて書いちゃったってことでいいの?

何度もいいますが、主観で書いたことに史料もなにもありません。
貴方がいううように願望でもあるわけですから。

ささ、口惜しかったら早く史料だしなさいよ。

あるならねw

670 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 22:59:25
言い争っている様にしか読めないけど、
ほんと、両方とも史料だせコールをするばかりで
なんの史料名も出してないね。


671 :日本@名無史さん:2009/04/23(木) 23:05:33
>>659国松はもともと京極家とは縁が深いんだよ。
千姫をはばかって庶子ゆえに生まれてすぐに京極家に預けられ、
守役は京極家につかえたものだったという。
その後乳母の親類だか再婚相手だかの養子になって、
秀頼の子供とすら扱われていなかった。
千姫に男子が生まれなければ御落胤でおわっていたような、
その存在すら徳川に知られていない庶子だった。
他家の名を名乗っていた国松を高台院が供養する必要はないといえばない。

京極殿が国松の遺体を引き取ったというのは上記の経緯があったからというのが
大きいのでは?京極殿は秀頼が病気の時に見舞ったり、大阪城落城の時に
茶々の侍女であるおきくが京極殿を頼って落ち延びてきたのを
面倒みている。生前の茶々とも関係が良好だった証拠だろう。

ちなみにもうひとり秀頼には庶子がいて、増上寺の僧侶となったとあるから
大姫同様に徳川(千姫の嘆願?)の温情によるものだろう。

672 :日本@名無史さん:2009/04/24(金) 00:36:35
>>657はねねが淀殿と秀頼を恨んでいると決め付けてるけどなんで?
憎い側室の生んだ子が豊臣を継ぐなら、いっそのこと豊臣なんて滅んでしまえ!!
なんていう、そんな了見の狭い女だったんかいな。


673 :日本@名無史さん:2009/04/24(金) 00:47:19
>>671
国松と(後の)天秀尼のほかにも、秀頼の子がいたとは初めて聞いた。
>増上寺の僧侶 というからには男児なんだろうけど、
ごめん、絡むわけじゃないけど何に載ってる話なんだろうか。
それと大姫って誰ですか? (後の)天秀尼のこと?
(長幼的に年かさな娘や、いちの姫のことを「大姫」と呼び習わすことは
勿論知ってますが、天秀尼の出家前を「大姫」と呼ぶのも初耳なので)

国松が京極家に預けられたというのも、興味深いことですね。
一時的にそういうことは有り得ないことも無いかなと思うけど、
でもいくら何でも秀頼の男児が >他家の名前を名乗って いたり
京極家での乳母または係累の養子になったなど、
ちょっと考えにくいというのが本音です。

読経や供養云々で議論があったようですが、
そういう「仏間のなかでの日々のお勤め」・・・という
外からは見えにくい行いではなく、
(国松が)大阪城から出されて京極家に移り、
そこからも(系譜的な)続柄が動いたという出来事で
多少なりとも人々の関与もあったであろう事跡なので、
再び「史料はあるんですよね」と聞きたくなります。
すみませんがw



674 :日本@名無史さん:2009/04/24(金) 06:43:41
>>673

>>でもいくら何でも秀頼の男児が >他家の名前を名乗って いたり
京極家での乳母または係累の養子になったなど、
ちょっと考えにくいというのが本音です。

庶子にはよくあることだよ。
養子にならないまでも幼少期に家臣の家に預けられ養育されるのは
むしろかなりポピュラー。
秀吉の養子だった秀勝は信長の庶子。
幼少から羽柴家で養育し、その後正式に養子になって羽柴姓になってる。
国松の養子のことはwikiで知ってたけど、wikiといえどもそこに書いてあるということは
それなりの史料があったんじゃないの?
大坂冬の陣の時に常高院とともに大坂城に入場とも書いてあるね。

675 :日本@名無史さん:2009/04/24(金) 08:13:40
>>673 『浄土本朝高僧伝』によると求厭(ぐえん)上人が亡くなる寸前に
秀頼の次男であることを弟子に告白したとある。


676 :日本@名無史さん:2009/04/24(金) 10:54:33
つまり庶子の後見を頼まれた京極家としては、千姫に男子が授からないときは
国松君が豊臣家当主になるかもしれないという期待の星でもあったわけだな。
そうなれば京極家の立身出世のチャンスでもある。
龍子と茶々は仲が悪いのかと思ったけど、そんなことなかったんだな。

677 :日本@名無史さん:2009/04/24(金) 17:31:29
>>674
自分も、wikiはチェックしてみました。

正室を娶る前の庶子や、家に残すこと困難な庶子を
養子に出すのはよくあることだとはわかりますが、
前レスで、「史料を出しなさい」論争があったけど
国松の京極家への養子については、家譜でも覚書でも
何かしらの史料名が出てれば、
「そういう伝えもあるのだ」と、すとんと腑に落ちるんですけどね。

ちゃんとした研究者が検証してる内容の資料本でも構わないんだけど。

>>675
色々と検索していたら、その名はネット上に少数だけど挙がってきました。

豊臣家の子を、徳川の菩提寺である増上寺内に囲いこんでしまう。
そういう手法は敗者の子に対する勝者の方法として常套手段でもあるので
あっても不思議は無いな・・・・とは思います、。
しかし、庶子や、俗っぽくなりますが隠し子、ご落胤については
やはり真偽は闇の中のことも多いかな、と思うので、
上人本人がそう弟子に語っていて文章に残っても居るため、
そういう説もあるということを頭の中に入れれておきます。

増上寺内には少々伝手があるので、歴史に詳しい方を見つけて
訊ねてもみようかな、と。
675さん、手がかりをありがとう。

678 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 02:40:09
初めて見たときから浅井三姉妹の良いイメージが全くない 寧ろ悪い

特に長女と三女はヒステリックで嫉妬深くて悪女という印象が強い

まぁ苦労してきたんだろうなぁとは思うな



679 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 02:56:52
順序よく思い切ってやれよ

680 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 09:02:50
伊勢神宮社家に後白河天皇末いて、その家来近江源氏山本義経末が山本清順慶光院で女系譜に浅井いて3姫の外戚 その子家光将軍が慶光院側近をみそめ大奥君臨のお万の方に 戦国以前織田荘の管理人やる社家〜歴史の裏に伊勢神宮社家あり

681 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 14:30:27
>>677 
家伝レベルだけど、のちに豊臣姓を許された高台院系豊臣氏は
(ねねの実家が特別に豊臣姓を認められて継いでいった)
密に助けられた国松(もしくは別の庶子)が高台院の養子になり、
その系統(秀吉系)で明治期まで続いた、とかいう説もあって、
子孫達はそう信じているらしい、と本で読んだ。
高台院が実家の甥を養子にして、豊臣姓を継がせたことは事実なので
その甥かその次が国松(別の庶子)ということになるのかな。


682 :日本@名無史さん:2009/04/26(日) 19:59:58
>>678 裏切り者!片桐且元への茶々直筆の手紙を見たって
ヒステリックで感情的な女などとはまったく思えん。
高飛車なところもまるでない。丁寧な言葉づかい。
「なんやかやと噂がたっておりますが、親子ともそなたを
少しも疎かに思ってません〜御登城がないので、ご静養してください、
明日もこなければまたお手紙します〜」
と、とても頼りにしている様子がわかる。

それでも登城のない且元に三か条の誓書を茶々の宛名で書いているが、
そこからも気の毒なほど低姿勢で且元の助力を必用としていたことがわかる。

結局且元は大坂方を見限るのだが、自分を頼りにしている
茶々直筆の消息を何度ももらい、豊臣への忠誠心と保身とに
身を裂く思いだったのではないかな。

秀吉の茶々への手紙をよむと、どうやら茶々も乳母とともに秀頼に母乳を
あげていたようだ。滋養に気をつけ身体をいたわるように書いてある。
側室への手紙はどれもこれも愛情溢れるものばかりなのだが、
秀吉と茶々は当主と愛妾というより、父親と秀頼のかあちゃん、
という感じになっている。
通説のように主筋の茶々に頭があがらず、高飛車でわがままな茶々にぞっこん
惚れてた秀吉、というのではないようだ。

683 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 01:13:48
>>604
SEXが三度の飯より好きってことだろ。
思想は関係ない。

684 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 08:38:36
>>682 大坂城に行ったら殺されるから行くに行けなかったというのは
且元が後世勝手に言ってたことだったのかもね。



685 :日本@名無史さん:2009/05/13(水) 13:26:15
完子は九条家に嫁いだけど、貞明皇后は九条家の末裔だった。
今上やお子さん達に完子のDNAが引き継がれてるの?
そうなると浅井、織田、豊臣のDNAも引き継がれたことになるのだけど。

686 :日本@名無史さん:2009/05/14(木) 00:58:07
>>604
スゲーいい体してるな。


687 :日本@名無史さん:2009/05/28(木) 13:53:46
age

688 :日本@名無史さん:2009/05/28(木) 13:56:48
浅井三姉妹ポスター 滋賀県長浜市観光協会
http://www.nagahamashi.org/news/azai3shimai.html


689 :日本@名無史さん:2009/05/28(木) 19:06:36
以前にここで話題になったチラシや小冊子と同じ絵じゃん。


690 :日本@名無史さん:2009/05/29(金) 22:20:36
>>671
秀頼の次男の話は求猒という坊さんが死ぬ間際に
俺は秀頼の落胤だった、と語った以上に論証はないと思うが。
「太閣記」によれば、秀吉は実は天子様(天皇)の落胤だと語ったことになっている。
(母のなかがその昔、内裏へ下働きに出て手が付き、あわてて里へ帰って秀吉を出産した)
これを持って、秀吉が天皇の子だと信じている人は現在のところほぼいないのと同様。

国松が秀頼の子とされず、落胤で終わったというのは話に無理がある。
本来、父子名乗りを一切認めない落胤であれば、豊臣家が滅びようが捨て置かれる。
国松は大坂城に入って父秀頼と対面しわが子である墨つきをもらっているし、
徳川家がその行方を探し出し豊臣家の跡取りとして
市中引き回しの上六条河原で大勢の物見の前で処刑するという悲痛極まりない見せしめをするほど
国松の存在は知れ渡っていた。
幼児が市中引き回わしをされて処刑されるというのは余程のこと。
父子名乗りを許されていないどこぞの養子がこれほど醜い刑は受けない。


691 :日本@名無史さん:2009/05/30(土) 11:09:50
戦国の姫が側室にされても自害しない理由は、
自分が側室になることで、一族が殺されなかったり、
一族を引き立ててもらったりできるから。
戦国の姫はほとんどがたくましかった。

692 :日本@名無史さん:2009/05/30(土) 19:47:49
>>691
側室とはいってもそこそこいい暮らしができ、
花見に物見とさまざまな楽しみもあるのだから、
そんなに悪い話ではなかったと思うよ。
この時代はむやみやたらに自害する時代だと思っている人がいるけど、
余程のことがない限りやっぱり人って死なないもんだよ。

693 :日本@名無史さん:2009/05/30(土) 21:59:33
自分に一族再興が掛かっているという責任感と誇りもあるだろうしな

694 :日本@名無史さん:2009/05/31(日) 04:13:31
>この時代はむやみやたらに自害する時代だと思っている人がいるけど
居るね。わりとたくさん。

生延びた女には、亡くなっていった一族の菩提を弔い、
供養をしていくという大事な勤めもある。
滅んでいく一族にとって「死後の供養をしてくれる」人が居ることは
死後の往生を確実にするためにも大切な存在だ。
そういう当時の死生観や宗教観からも女が生延びてもOKなんだよね。

695 :日本@名無史さん:2009/05/31(日) 14:51:36
>>694
お市や淀殿は女の身で自害の道を選んだし、
千姫が生きて江戸城に戻ってきたときには父の秀忠は
なぜ夫秀頼に殉じて死ななかったのか、と叱ったというから
婚家に殉じることが美徳とされたのも事実だと思う。

だけど、側室や娘が自分の意志で自害の道を選ぶ例は少ないね。
城を敵に囲まれて逃げ切れなかった、というような災害に近い場合を除いて。
側室の場合、夫が死ぬと実家に戻ったり再婚が比較的自由など
夫の家の人間であるという意識が希薄だったし、
嫁入り前の幼い娘に自害の決意を持てというのも残酷だし
娘の場合息子と違って報復の可能性も低かったからね。
親を殺された娘が敵の側室になる例はよくあったし。
息子目線から見ると親父を殺した敵は敵でしかなく、
敵からみても滅ぼした大名の息子は的でしかないわけだが、
娘目線であれば、滅ぼした男の娘はいとおしむ対象になるわけだし、
娘に対して愛情を与え、庇護を与える夫になるわけだから不思議なもんだ。


696 :日本@名無史さん:2009/05/31(日) 15:40:14
>>647
亀だけどさ。
この人は長々長文書いてる割に史実を全く知らないよね。
つまり、淀殿が秀頼を妊娠した場所は名護屋城だってことをさ。
いくら大阪城の警備が堅固だといったところで
当の側室が外出してるんだから、どうしようもないよね。
淀殿は小田原城へも行っている。
醍醐の花見とか、北野大茶会とかにも秀吉は側室たちを伴っているし、
ほとんど江戸城内で飼殺しだった大奥の側室たちと違って
安土桃山期の側室たちは結構外出できたんだよね。

697 :日本@名無史さん:2009/05/31(日) 18:27:43
>>696 ?
名護屋城にも側室だけの空間の奥があったと>>647にあるから
同様にやたらと男子が出入りできない警備だったんじゃないの?
ねねに頼んで淀殿をよこしてもらったのは名護屋城だったよね?
そこまでしないと秀吉ですら寵愛する側室を呼び寄せることが
できなかったのだから、側室の管理はかなり徹底していたと思うけど。

698 :日本@名無史さん:2009/05/31(日) 19:51:23
>>690

でも千姫に男子が生まれていたら他家の養子になった国松は
やはり落胤扱いだったんじゃないの?
でなきゃとりあえず城内で庶子として育てるはず。
秀頼の唯一の男子だというならなおさら。
たまたま嫡男がいなくて、豊臣家の存亡の危機がきちゃったから
急遽呼び寄せられただけなんだろ。

699 :日本@名無史さん:2009/06/01(月) 13:47:27
>>695 >>千姫が生きて江戸城に戻ってきたときには父の秀忠は
なぜ夫秀頼に殉じて死ななかったのか、と叱ったというから

ソースは?
初めて知った説だ。

なんで千姫に自害すべきだったと秀忠が言ったのか理解できん。
あの場合千姫が自害したら実父や実祖父が千姫を責め殺したみたいに
なって、よけい世間体が悪いと思うが。

700 :日本@名無史さん:2009/06/02(火) 02:59:35
千姫が豊臣家と死をともにする理由もないし、
してもあまり意味はないような。
両家はとっくに手切れになっていたんだから
実家に戻っても何の問題もないと思う。

701 :日本@名無史さん:2009/06/02(火) 09:00:33
千姫が落城寸前の土壇場まで戻ってこなかったのが千姫の意思だとすれば
運命をともにしたかったという覚悟があったともとれるけどな。
淀殿親子や豊臣方武将たちの命乞いのために戻ったとする意見もあるけど、
本来そういう交渉事は正式の使者をたててやるものだから違うと思う。
正式に交渉したらさすがに秀頼の命乞いは無理でも
秀頼の首と交換条件にかなりの不利な条件であっても豊臣家の家名ぐらいは
残せたと思う。少なくとも淀殿の命まで奪うことはなかったろう。

結局、秀頼親子が投降することなく亡くなったのは彼らの意思、
千姫が実家に戻ったのも彼女の意思ってことなんだが、
千姫が戻ることは徳川家の家名のためでもあるわけで、
そのあたりに千姫の複雑な思いが伝わってくる。

一方お市や勝頼夫人はそれぞれの実家のやり方に憤りを感じていたから
実家に戻ることを拒否したんじゃないかな。
戻ろうと思えば織田も北条もいくらでも受け入れたろうけど、自害することで
彼女達のそれぞれの実家への強烈な批判メッセージを感じるんだよな。

非戦闘員の婦女子が本来する必要のない自害をする場合は、
死ぬことでしか伝えられないメッセージがあるんじゃないかと感じる。

702 :日本@名無史さん:2009/06/02(火) 09:51:49
北条夫人の方は
「私が散々お願いしたのに、貴方は越後の兄を救ってくれなかった。今更実家に帰れません」
とか言って自害したつー話も一応あるから、実家のやり方に憤りがあったかはよく分からん
まぁ八幡宮への願文見ていると夫を愛していたことに間違いはなさそうだが

703 :日本@名無史さん:2009/06/02(火) 13:58:09
>>604
管理人のパイオツすげえなw

704 :日本@名無史さん:2009/06/02(火) 16:09:36
>>702 北条があっさり裏切って織田と組んで侵攻してきたんだ、
好意的に思ってるわけはないわな。


705 :日本@名無史さん:2009/06/02(火) 19:25:22
>>698
正室をめとる前に当主がこっそり女に通じて産ませた子はいわゆる庶長子で
落胤扱いというか父子名乗りを許されず出家させられたりした。
しかし、正室をめとった後、れっきとした側室の腹に生まれた子は
庶子扱いではあるがちゃんとした当主の子。
庶子といえど父親からの相続権は認められているし、
城をもらって城主になることも多い。
嫡子がいなかったり夭折すれば家督を継ぐこともできる。
つまり、国松が落胤であることを言、うためには
母親が秀頼の側室ではなかった、秀頼が本来お清であるはずの侍女にこっそり手をつけ、
子が生まれた後も側室待遇を与えなかったことを言う必要がある。
一説によると国松と天秀尼は同母であったともいうし、
隠し愛人がそんなに頻繁に秀頼と接触を持てたとも思わない。
普通、側室になれない女が懐妊すると、城を出されたりするからね。

706 :日本@名無史さん:2009/06/02(火) 19:37:37
>>701
豊臣の家名は残っているよ。
もっとも、秀頼と血縁関係はないが。
秀吉の正室ねねの生家(ねねの実兄の家系)が徳川家に許されて豊臣を名乗っていた。
徳川は秀頼を滅ぼすためにねねの力が必要で、ねねには最大限の譲歩をしていたよ。
千姫が豊臣家再興を願い、甥やいとこの一人でも養子にもらってきて豊臣を名乗らせることは
不可能ではなかったと思うけれども、千姫にそこまでする気はなかったと思う。
大阪城を出たらすぐに再婚してるしね。

707 :日本@名無史さん:2009/06/02(火) 21:27:35
>>705 で、なんで側室が生んだ正統な長男が早々に
城から出されて他家の養子になってるの?


708 :日本@名無史さん:2009/06/02(火) 22:19:14
国松は千姫が11歳の時の子。
国松が生後すぐに他家お預け、そのまま豊臣姓を名乗ることも
許されなかったのは仕方ないさ。
嫡母が11才じゃ側室は仮腹という建前が通用せんもの。

709 :日本@名無史さん:2009/06/03(水) 01:30:07
>>702
自分は勝頼好きで勿論北条夫人も好きだが
彼女の(特に)武田滅亡時の貞女としての逸話は
かなり後世の創作が入っていると思う。
武田八幡社への願文とて、妖しい点があると言う研究者もいる。
自分も薄々そんな気はする。

710 :日本@名無史さん:2009/06/03(水) 08:58:37
国松生母は詳細不明なんだよね。
正式な側室か否かすらわからないはずなのだけど、
>>705がれっきとした側室と断言できるソースって何?
一説によると秀頼の衣類などを担当していた侍女が国松生母で成田氏とも、
渡辺氏ともいわれているけど。
保科正之生母も秀忠側室と明記してある書も多数目にしたけど
実際は江与公認の側室ではなく、ただのお手つき侍女にすぎなかったから
正之は老中公認ではあったがご落胤扱いになったわけだ。
国松はこのケースとかぶってしまうのだが。

711 :日本@名無史さん:2009/06/03(水) 13:47:37
御落胤て父親から認知をされない私生児のことをいうのだけど、
保科正之は秀忠とは親子として対面してるし、家光からは弟としての待遇を
受けてるし、それでも御落胤なの?

712 :日本@名無史さん:2009/06/03(水) 21:07:29
>>710
国松は当時の史料に秀頼の長男として出てくるのだから
世間的な認知が十分であったことは疑いようがない。
国松が落城寸前の大阪城に入り、秀頼の命で大阪城を落とされている以上、
秀頼が豊臣家再興をこの息子に託したと取られても仕方がない。

保科正之と同じだ、というが、例えば江戸幕府が滅んだら保科正之は秀忠の子として
国松同様、市中引き回しで見せしめの処刑がされたか?
国松の処刑を見て人々に豊臣家の滅亡を分からせたように、
正之が死ねば徳川家は滅んだのだ、と世間に認知されるか?といえばかなり懐疑的になる。
これこそが落胤たるゆえんで、正之は徳川将軍家はおろか
一門の松平家の一員ですらなかったのだから仕方がない。

713 :日本@名無史さん:2009/06/03(水) 21:11:39
>>707
よくある話だよ。
豊臣秀吉の後を継いで関白になった豊臣秀次も他家の養子になりまくり。
国松養子の話は出典は何?
まさか、ウィキじゃないよね?

具体的に国松が他家の姓を名乗り、他家の家督を継いでいた証拠でも出してくれないと。
国松は死ぬ時には他家の誰それではなく
ほかでもない豊臣家の長男として扱われてるからね。

714 :日本@名無史さん:2009/06/03(水) 21:46:46
>>712 >>例えば江戸幕府が滅んだら保科正之は秀忠の子として
国松同様、市中引き回しで見せしめの処刑がされたか?

老中公認で認知された隠し子だったのだから、
将軍の直系男子として処刑された可能性はゼロじゃない。
将軍の御落胤=徳川の正統な後継者、と担ぎ上げられ旧徳川派が
反旗を翻す旗印にされる可能性がでてくるから。

秀次は戦略の駒として養子にしたのだから養子にだされて当たり前だ。
結果的に嫡子になれたのは御捨が亡くなり、他の側室も子供をもうけなかったからで
実子と養子とではなんの比較にもならん。
それに正之は生涯保科姓を名乗ったけど、生前中に家光から
松平姓を名乗ることを許されてるから将軍家から一門扱いされてるぞ。

715 :日本@名無史さん:2009/06/03(水) 22:57:39
>>712 そりゃ市中引き回しの上処刑されたら誰もが秀頼の子だと認知したろうけど
そうなる前はどうだったの?誰もが国松を認知しているような存在だったかどうかは
例えばなんの史料をみたらわかるの?

716 :日本@名無史さん:2009/06/04(木) 00:38:36
国松の養子の件にしても、保科正之の件にしても、激しく既視感が。

717 :日本@名無史さん:2009/06/04(木) 09:13:09
御落胤というと家臣に下げ渡した側室が月足らずで生んだ父親が
どっちともとれる子供とかっていうイメージだな。
一応下げ渡された家臣の子になるけど、本当は当主の子で
周囲が「ご落胤、ご落胤」とまことしやかに噂していって後世まで
いい伝わられていくかんじ。

718 :日本@名無史さん:2009/06/04(木) 11:13:02
信長にもご落胤と言われる子供が4〜5人いたはず。
一休さんも天皇だか足利将軍だかのご落胤説があったよな。

719 :日本@名無史さん:2009/06/04(木) 11:30:25
一休さんは天皇の子供。母は女御で正式に認知された子供。
だから生まれた時からご門跡様で、アニメはうそ。
晩年門跡をやめたから大騒ぎをされただけで。
母方の祖父が南朝の人で、天皇を継げないように出家させられた。
父や兄(天皇)に溺愛されたから、あの時代でも何をやっても許された。
だから庶民に人気だった。

720 :日本@名無史さん:2009/06/04(木) 14:40:13
>>715 俺もそれ知りたい。秀頼が生きていた頃は国松はどういう扱いだったんだ?
大阪城に住んでいたのかどうかもまったく不詳。

721 :日本@名無史さん:2009/06/04(木) 17:09:23
>>719  菅原和長の日記『東坊城和長卿記』明応3年(1494年)八月一日の条、
「秘伝に云う、一休和尚は後小松院の落胤の皇子なり。世に之を知る人無し」

落胤というのは秘伝であって、誰も知らないことだ、とあるのに、
なんで公に認知されてんだよw




722 :日本@名無史さん:2009/06/04(木) 17:20:21
門跡だから。

723 :日本@名無史さん:2009/06/04(木) 18:53:30
>>722 だから?


724 :日本@名無史さん:2009/06/04(木) 18:54:09
いつどこでどの寺の門跡になったの?


もし女御の皇子なら称光よりも継承順位は上になるから出家はさせないはず。
あと後円融、後小松親子に女御はいないよ。

725 :日本@名無史さん:2009/06/04(木) 20:50:15
女御って中宮に次ぐ地位で、江与の娘の和子だって女御で入内してるほど。
摂関家でも最初は女御で入内する。母親が女御なら出自は悪くないはずだな。

726 :日本@名無史さん:2009/06/06(土) 20:07:37
>>719
「本朝天皇胤運紹録」だったかに
一休の母は南朝遺臣花山院某の娘で、後小松天皇に侍る際に
懐に剣を侍らせていたために一休を孕んだまま宮中を追放になったと書かれてある。
ちなみに、一休の母は女御ではない。
この時代の北朝の天皇には中宮も女御も置かれてないんだよね。
後小松天皇の正妃でのちに光範門院の院号を受ける日野西資子も、
もとは後小松天皇に仕える女官の一人だった。

727 :日本@名無史さん:2009/06/06(土) 20:11:55
>>712
保科正之が処刑されれば保科正之が処刑されたと書かれるだろう。
つまり、生前保科を名乗っていたのに死後徳川正之と記録されることはない。

国松はどう?
当時の史料には豊臣秀頼の実子であることが描かれているが
養父の姓が全く出てこない。
養子縁組がなされてなかったことの表れだと思うけど。
違うというなら、史料を出してほしい。
国松が豊臣氏だと書かれた史料は、徳川実紀なり読んでくれ。

728 :727:2009/06/06(土) 20:14:50
712じゃなくて、714へのレス。

729 :日本@名無史さん:2009/06/06(土) 20:22:41
>>715
むしろ、秀吉の手紙が大量に残っていて、赤ん坊のころから動向がわかる
秀頼のほうが稀だろう。
秀頼には正室千姫がいるとはいえ、千姫は大阪城落城まで結婚後12年あまり、
一度も秀頼の子を懐妊することがなかった。
豊臣家存続のために秀頼の男子はなんとしても不可欠で、
唯一の男子であった国松を容易に他家に養子にやるとは考え難い。
大阪城落城の折、国松が大阪城を落とされ、その行方を徳川方が探したことは
当時の史料で確認できる。
国松が産まれてからずっと大阪城に住んでいた証拠を出せ、
出せないならイコール国松は他家へ養子に出された落胤だと騒いでる人がいるが、
国松が落城間際の大阪城から落とされたことを見れば何を意味するかぐらいは分かるだろう。
勿論、正室千姫に男子が生まれれば国松は庶子にされただろうが
男子を産めない千姫が容易に側室腹の唯一の男子を豊臣家から追ったとも、
徳川家が介入したとも思えない。


730 :日本@名無史さん:2009/06/08(月) 13:23:45
>>729
>> 勿論、正室千姫に男子が生まれれば国松は庶子にされただろうが

正室が産んだ子=嫡子
側室が産んだ子=庶子

国松は千姫に男子が生まれようと生まれなかろうと「庶子」。

そんなことも知らんやつがえらそうに語ってもなんの信憑性もないのだが?

731 :日本@名無史さん:2009/06/08(月) 14:50:50
また争ってるのはこのスレの特性かw

732 :日本@名無史さん:2009/06/08(月) 18:15:32
>>729は嫡子、嫡男、庶子がよくわかってないんだろうなw

それなのに語る語る♪

733 :日本@名無史さん:2009/06/08(月) 20:04:35
>>730>>732
話の流れを全く読んでいない新参者?

>>715 は、国松は秀頼の認知を受けていない落胤だと言っているんだよ。
つまり、国松の母は側室ではなく、国松は豊臣家の庶子ではなかったと。
国松は幼いころから豊臣を名乗ることを許されず
他家へ出されて他家の養子として育ち、
あたかも徳川家とも松平家とも無縁に育った保科正之に相当すると。

おまえらは、国松がとにかく秀頼の正当な側室の息子で、
国松は秀頼から豊臣家の男子として認知を受けており、
処刑される前から世間の人々はその存在を知っていたことには同意するんだな。

715にレスしてるんだから、前の文章読んでからレスしろよ。


734 :日本@名無史さん:2009/06/08(月) 22:03:19
ロムってみたのだが、
>>671は「国松は庶子」だという前提で、でも
「庶子でもしょせん千姫次第でご落胤で終わっていたような」という話を
>>690が「国松はご落胤というのは無理がある」と読み違えてる
ことから、話がこんがらがってるんだな。

同じ人だろうけど、
>>733>>715
>>そりゃ市中引き回しの上処刑されたら誰もが秀頼の子だと認知したろうけど
そうなる前はどうだったの?誰もが国松を認知しているような存在だったかどうかは
例えばなんの史料をみたらわかるの?

をどう読めば、
>>国松は秀頼の認知を受けていない落胤だと言っているんだよ。
つまり、国松の母は側室ではなく、国松は豊臣家の庶子ではなかったと。

となって、いきり立ってしまうのか不思議でしょうがない。
少し思い込みの強い見方をしすぎなんじゃないのか?
否定したいのなら>>715の要望通りに国松生前の史料を提示すれば
いいじゃん。乳母がだれで、側近はだれで、大阪城内で確かに養育され
庶長子として大事にされていたことがわかる史料をさ。

それがないのなら、生母の詳細も不詳である国松のことに関して
いろんな臆測がでて当たり前さ。自分と違う見解があるからって
感情的になる必要はなかろうに、戦国期の歴史検証なんて
100%正しいなんてことないよ。

735 :日本@名無史さん:2009/06/08(月) 22:26:13
保科正之というか、国松はあのままいったら織田信秀庶長子といわれた信広や
信長庶長子といわれた信正のようになっていたんじゃなかろうか。
庶子とする史料があるものの、家系図からは抹殺され、子供の扱いをされないままの
親族からも実は…だけど、これは内緒だよ、と見なされていたような。

736 :日本@名無史さん:2009/06/09(火) 00:17:53
>>729「大阪の役」という桑田忠親と山岡荘八監修の本に国松が
出産間もなく京極家に引き取られ、乳母夫婦の養子になったと
書いてあったし、常高院とともに大阪城に入る時は長持に隠れて
こっそり入城したとか、書いてあったという記憶がある。
参考史料はその本に載ってるかも。
国松の遺骸を誓願寺で弔った時にその墓のすぐ横に松の丸殿が
生前墓を建てたというから国松と京極殿・京極家とのつながりは
否定できないだろうな。豊国神社に移転された二人の墓も
同じ囲いの中にあって、大小仲良くならんで(小さい方が国松)
まるで親子みたい。

737 :日本@名無史さん:2009/06/09(火) 01:30:31
思い出した。
この板は戦国板かは忘れたが、国松が京極家の係累の養子になった
・・・などの説明レスがあったっけ。
しかも今から半年以内の話題だったような気がするので、既視感があるんだ。

その養子の件は京極家の記録にある話なのだ、という記憶も・・・

738 :日本@名無史さん:2009/06/09(火) 10:03:26
>>710
国松の生母といわれている渡辺氏「いちや」と『義演准后日記』に書かれている
女性は、秀頼幼少の頃からの秀頼付きの侍女であったことは間違いない。
『義演准后日記』には側室としての記述はなく、あくまで
秀頼の侍女、淀殿や大蔵卿局付きの上臈として働いていたこと
が記されている。だが落城後の消息などは不明。

天秀尼の生母といわれているのが成田氏という説が事実なら、
東慶寺に姫とともに同行している。
成田一族の甲斐姫殿が秀吉側室で、秀頼の傅役として側にいたことから
その縁で秀頼の側にあがったのかもしれないが、成田氏が大阪城内で
どういう立場だったのかは不明。天秀尼もどう養育されていたのかも不明。

739 :日本@名無史さん:2009/06/09(火) 16:10:46
>>738 秀頼幼少の頃から仕えていた侍女ならすごい年上だろうに…

千姫はまだ幼少だったので、性に目覚めてしまった秀頼の性の指南役だったんだろうなw




740 :日本@名無史さん:2009/06/10(水) 01:44:36
>>738
秀吉の奥向きに「かい」という女性がいたのははっきりしてるけど
「かい」であろう甲斐姫が、>秀頼の傳役として側にいた ってのは、
何の史料に記述なんだろうか? まさか藩翰譜とかじゃないよね。

741 :日本@名無史さん:2009/06/10(水) 11:57:44
秀吉の側室二人が秀頼遺児の後見をつとめたというのも、
側室達と茶々との関係は秀吉戦前から良好だった証拠じゃないかな。


742 :日本@名無史さん:2009/06/11(木) 12:01:08
寶光院という茶々たちの異母姉妹が京極殿の乳母をしていた、という史料が
あるし、淀&龍子が血縁で結束していたのかも。
今まで淀VS京極殿、みたいな図式をイメージしてたけどな。



743 :日本@名無史さん:2009/06/11(木) 15:03:28
>>742
>淀VS京極殿
醍醐の花見の盃争いの与太話からそういう図式が浮かんでくるんじゃないの。
世間は女を対立させるのが好きだしね。


744 :日本@名無史さん:2009/06/11(木) 21:10:12
秀吉が北政所→京極殿と盃をまわしたのなら、秀吉の認識だと
家柄の上下なら京極殿>淀殿だったってことだよね?
下のものの盃を上のものが受けることはできないから、
これにはかなり厳格な序列があった。
いくら世継ぎを産んだおふくろ様であっても、盃の順は別もの。
秀吉生前中ならその序列は守られるべきだと思うのだけど、
淀殿が物言いを言ったというのは本当だろうか?
淀殿だって浅井家は京極家の家臣筋ということは充分認識してるはずだろうに。
加賀藩のおまつマンセー話のネタにされただけじゃないかと
思えるのだけど。

745 :日本@名無史さん:2009/06/11(木) 22:32:44
淀殿は藤原菊子という本姓が伝わっており、位階を受けていた可能性があるんだよね?
位を受けたのが秀吉死前か死後かは分からないけれども、
位階をうけていたのならば京極竜子より上位であることは明白なはず。
京極家が没落した足利将軍家の一族であることなどあまり関係ないと思うよ。
この頃秀吉の寵愛を2分していたのがこの2人だったということが面白おかしく伝わっただけじゃない?
秀吉の明らかな主筋であった織田信長の五女など、
輿の順は淀殿より竜子より後になってる。

746 :日本@名無史さん:2009/06/11(木) 22:50:16
位階を受けていたとしたら、秀吉死後じゃないの?
秀頼は側室腹だから関白生母としての箔付けをしてもらったのでは?

747 :日本@名無史さん:2009/06/11(木) 23:33:00
>>744
だから、盃争いなんて与太話だとw

前田家の家臣がなんでそういう事を書き残すのかと考えると、
やはり、芳春院の美化・持ち上げとしか思えない。

>>745
茶々・淀の方が登場するドラマが放映されると、
必ずや「淀殿の本名は、菊子なんだよ」というレスが書かれるがw
その詳細なんてわからずに書き込んでるんだろうな。

748 :日本@名無史さん:2009/06/12(金) 08:20:40
公家や侍女の日記なんかには生前淀殿が階位を賜ったと記す史料を
みたことないのだけど、元ソースってなんだろう?

749 :日本@名無史さん:2009/06/12(金) 14:11:45
秀吉亡き後の北政所・茶々・京極竜子の交流を見ていると
盃争いはあったとしても側室同士のじゃれ合いとかおふざけ程度のものだったんじゃないかな
それを前田家家臣が芳春院美化に絡めてさも大事のように書き残したと

750 :日本@名無史さん:2009/06/12(金) 18:48:35
>>749 すでに秀吉は失禁や錯乱状態が見られたという
宣教師の記録が残ってるから、老いて病弱な秀吉のために
盛り上げようというのを主旨に企画された花見なんだと思う。
そういう秀吉の面前で側室たちがいがみ合うようなところを
見せるわけないと思う。
あと実際に諍いがあったとしたのなら、淀殿の乳母の大蔵卿局あたりの
物言いだったとかね。大蔵卿の独断の物言いなのに、それが淀殿の意向として
伝わってしまったのかもしれないし、どっちにしても
深窓のお姫様育ちの龍子と茶茶が人前で、それも太閤や北政所の面前で
喧嘩をするような下品なことをするとは思えないよ。

751 :日本@名無史さん:2009/06/13(土) 13:19:02
輿の順では淀殿が北政所の次なのだから、盃の順もそうでなければおかしいよね。
盃の順も上下関係を示す大事なことだけど、輿の順もステータスを示す大事なこと。
そのあたりで盃争いの話は眉唾だと思う。
それに秀頼のお袋様として確固たる地位を築いていた淀殿が
いちいちそんなことで目くじらをたてる必用もないと思う。
相手は子なし。逆立ちしても自分にはかなわない側室の一人。
同じ子なしとか、同じように男子を授かった側室同士なら
バチバチ火花をちらすというのもわかるけど。

それになんでまつが仲裁に入るのかも不思議。
まつは家臣の妻、輿の順なんてずっと後方だったわけで、
加賀殿生母ということもあって招かれたようなもんだろう。
いくら秀吉夫妻と旧知の仲といっても、
妻妾の酒の席にいれたかどうかも怪しいのだが。

752 :日本@名無史さん:2009/06/13(土) 19:47:43
>>751 めでたい酒宴の席だから「無礼講」ということで、多少くだけた
言動が許されたのかもよ。たまたま側にいた京極殿に秀吉が盃を渡したので、
ちょっと茶々がすねたようなことを言ったとか、
それに対して京極殿も気の効いたことを言い返しただけとかね。
それが「淀殿が文句を言っていた」「京極殿がすかさず言い返した」と伝わり
妻妾以外の第三者の立場で同席していたおまつが丸く治めた、みたいに
なっちゃったとか。
北政所と淀の黒百合の話はまったくの捏造話らしいし、
淀を悪者にする風潮は江戸期にあったことは確か。

753 :日本@名無史さん:2009/06/14(日) 18:15:00
>>739 ふと今参局のことがよぎったな。
乳母(実際は養育だけを担当した姥)が年頃の若君の相手もつとめ、
子供ももうけたことから側室になり上がったんだよね。

754 :日本@名無史さん:2009/06/14(日) 21:26:17
父親に早く死なれ、モデルになるような親族の男もいなく、
女どもに囲まれて大坂城で培養された秀頼が立派な武将に育ったとは思えんな。
馬にも自分で乗れないような大デブの巨漢だったというから、
頭もたいして賢くなさそう。
嫁が11才だというのに、年上の侍女に子供を産ませてそっち方面ばかり
一人前、という馬鹿殿のイメージだ。

755 :日本@名無史さん:2009/06/15(月) 00:55:10
>>753
乳母や添いぶしのことなら、今違うスレで話題になっているので
そちらへもどうぞ。

756 :日本@名無史さん:2009/06/16(火) 16:24:31
死後を比較すると、将軍生母、大御所夫人として金をかけ放題
供養してもらった江与が一番だね。
改葬前の墓もでかい供養搭のあるかなり立派なものだったそうだし。
初は小大名の家格にあった葬儀だろうし、
茶々にいたっては自害、遺体は丸こげ…
墓は一応あって、侍女たちなどがずっと供養してくれたらしいけど
生前の権勢に比べたら粗末な墓だし。

757 :日本@名無史さん:2009/06/17(水) 18:50:21
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090617-00000009-oric-ent

再来年の大河は江与姫が主役ですよ!!
江与が主役ってかなり珍しい。
あんなに波乱万丈の人生なのに。

758 :日本@名無史さん:2009/06/17(水) 19:40:34
浅井三姉妹は皆波乱万丈だけど、江与は波乱万丈な割に実に目立たない。
淀殿が秀吉没後の豊臣家の命運を担ったのに比べ、
江与は夫や息子に隠れて特に何の功績を残したわけでもなく、
本人は結構地味な人生だったからな。
永井路子なんかは江与を白痴のように描いているけど。
大河になったら、どうでもいい政治に首突っ込んでくるんだろうか。

759 :日本@名無史さん:2009/06/17(水) 19:43:35
>>747
位をもらったなら本姓が分かっていて当然だが?
北政所は豊臣寧子の名で位を受けてる。
淀殿が無位で本姓を持たなかったという証拠でもあるのかな?


760 :日本@名無史さん:2009/06/17(水) 20:41:25
永井の乱紋を素直にドラマ化したらいいのに
なんでスイーツ田淵のオリジナル脚本なんだよ


761 :日本@名無史さん:2009/06/17(水) 20:59:11
将軍御台所、将軍生母、天皇の祖母という女性として
最高の名誉を得たのは歴史上江与だけだ。

762 :日本@名無史さん:2009/06/17(水) 21:01:38
乱紋のお江を演じられるような若手女優がいないからじゃね?
篤姫のようなスイーツ設定の方が作る方も演じる方も何かと
楽なんだと思われ。

763 :日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:19:43
父と弟を残し母と姉二人と落城、二度の落城、母との別れ、
最初の旦那と死にわかれ、二番目の旦那と無理やり涙の離縁、また再婚
長女を泣きながら手放し、長姉の壮絶な死、長男&乳母との確執
夫にまさかの隠し子が!!

…と小説よりすごいドラマティックな史実ネタはたくさんある。
メリハリのあるドラマになること間違いないっしょ。

764 :日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:23:33
でも脚本家田淵だし

てか製作はNHKだし

765 :日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:36:30

次男を世継にしようとして、家康にやりこめられるところを
田淵がどう欺瞞するか今から楽しみだ



766 :日本@名無史さん:2009/06/18(木) 07:27:48
杉本苑子の「月宮の人」も杉本らしいシビアさがでてて傑作だよ。
でも、杉本さんは大河化拒否派だからw


なんにしろ、ここのスレ住人なら、スイーツ創作にマジにならないで、
「ああ。アレはドラマだし」って突き放して娯楽として楽しむのが
いいんだろうね。


767 :日本@名無史さん:2009/06/18(木) 09:25:02
前半は悲劇の戦国女性の半生、後半は大奥での渡鬼ドラマ、と見てる。
大河は女性の支持が高いと視聴率は高いそうだから、今回もけっこう
いけるんじゃ?女性が共感してみれるところ多そうだしさ。

実際の修羅場・悲劇度は江与>>ねね>まつ
なんだけど、どういうわけかあまり取り上げられない人だよね。
なんだかんだで最後がめでたし、めでたし、だったから?

768 :日本@名無史さん:2009/06/18(木) 10:36:36
>>766 大河は大河版がいくつもあるし、そっちに行ってもらえばいいさ。

769 :日本@名無史さん:2009/06/18(木) 18:50:09
>>767
大原麗子の「春日局」とか、十朱幸代主演の春日局映画に出てくるし、
最近ではフジの大奥で高島礼子がお江与をやってるじゃん。
単独でとり上げられてはないけど、他大河にだって出ては来る。

>最後はめでたし、めでたし
単純にそうとも思えないけどね。
溺愛した次男の不遇に不安をもちながら逝ったのであろうし。

770 :日本@名無史さん:2009/06/18(木) 21:02:05
大河ではちゃんと姉妹愛を描いてほしいな・・・
史実でも千姫の輿入れ時に大阪城までついて行って姉の淀殿に会い、
その帰り道には近江にいるもう一人の姉初に会い、と
江与は2人の姉をとても慕っていたように思える。
淀殿も大河では悪役でばかり描かれることが多いけど、
江与の娘完子を引き取って一人前に育てたりと
妹思いの姉である当たりを描いてほしいな。

771 :日本@名無史さん:2009/06/18(木) 21:08:49
大奥ドラマのお江与は
春日局あってこそのお江与というか
宮本武蔵あってこその佐々木小次郎みたいなもので
春日局を描くための対比としての存在だし。
春日局抜きのお江与をガチで取り上げた作品は少ない。

772 :日本@名無史さん:2009/06/18(木) 21:28:48
>>769 江与が亡くなる頃は忠長は家康縁の駿府城主となり、
55万石の大名、人生最高潮の時だよ。
将軍実弟としては充分すぎる処遇。後水尾天皇の二条城行幸にも随行してる。
江与死後数年経ってからすったもんだがおき、秀忠死後、蟄居→自害。

江与は家光が将軍になり、忠長も家光から厚遇され立派な大名になったのを
見届けて亡くなったのだから、なんの未練も心配もなく亡くなったろう。

773 :日本@名無史さん:2009/06/18(木) 21:42:44
家光の正室を決めたのは江与だし、
江与は家光を嫌いぬいていたわけでもなさそうなんだよね。
最も、春日局に懐いていた家光はこの正室を遠ざけたけど・・・
家光を将軍にしたのは春日局、という美談のために
あまり江与をよく書いた作品はないね。
江与が主人公になったら、脇役春日局は
嫌な女役で出るのかな。

774 :日本@名無史さん:2009/06/18(木) 22:02:24
こんどこそ明智光秀=天海を映像化して欲しい

775 :日本@名無史さん:2009/06/18(木) 23:23:29
>>773 江与が家光の正室を決めたっていうソースは?
将軍の結婚は公武合体というばりばりの政略結婚だもの、
幕府が決めることだと思うけど。

江与がよく書かれないのは、お静の方の「嫉妬のせいで」という手紙のせいで
「三度も結婚した年上女房のくせに、一人の側室の存在も許さず、
子供も庶子として認めない嫉妬深い女」というイメージが定着したのと、
「春日局略譜」に両親から愛されないことを
悲観して幼い竹千代が自害しようとした云々の影響も大きいかと。

776 :日本@名無史さん:2009/06/18(木) 23:32:35
ぶっちゃけお江与は
春日局のライバル役として造形されたキャラクター

777 :日本@名無史さん:2009/06/19(金) 09:04:31
>>769 正月のテレビ東京の半日やってる時代劇でかたせ梨乃が江与を
やってたけど、なかなかよかったよ。かなりクセのある江与様で
裏で天海和尚と組んで家光失脚を画策するような悪女。
梨乃だもの、もちろん色仕掛けありでした♪

778 :日本@名無史さん:2009/06/19(金) 09:21:45
ま、ここで何を論争しても
田淵ドラマは田淵ドラマでしかないわけだ。

みんなが望んでるように、素晴らしい女性に仕立ててくれるさw

779 :日本@名無史さん:2009/06/19(金) 16:34:32
>>775
幕府の公式記録である「徳川実記」を読んでごらん。
家光御台所鷹司孝子は当初お江与の養女として江戸へ下向している。
そののち、家光と婚約し、祝言を挙げている。
御台所は先代御台所の養女にならなければならない決まりがあるわけでなし、
お江与が家光の正室にふさわしい家柄の姫をまず最初に養女という名目で
引き受けたとみるのが自然。
まずは養女の件を調べてみたら?

780 :日本@名無史さん:2009/06/19(金) 20:16:34
>>779 なんでそれが「江与が家光の正室を決めた」ということになるの?

決めたのは幕府の判断で、幕府からそうして欲しいと要請されて
江与が養女にしただけかもしれないじゃん。

それに普通大御所である秀忠が将軍の結婚相手を決めるもんじゃないの?

781 :日本@名無史さん:2009/06/19(金) 23:08:07
>>779孝子は「元和九年十二月廿日家光に入輿。寛永二年八月九日御台成の祝賀」
と『柳営婦女傳系』にあるから、江与の養女→婚約、じゃなくて
初めから婚約者として輿入れのためやってきた孝子を江与が養女にしたんじゃ
ないの?



782 :日本@名無史さん:2009/06/20(土) 12:38:24
養女にしてから御台所になおす、
ということの必要性もあまり感じないんだな。

孝子はその頃すでに婚期を過ぎた印象のある年齢であるしな。

783 :日本@名無史さん:2009/06/20(土) 14:54:57

自分はとくに江与贔屓なわけでも無く、
大河板程度の知識披瀝につっかかるのもおとな気ないのだが
「お江は徳川大奥内の悪人、敗者」レス展開には萎える。

火葬された件をその証拠としているようなのだが、
(要するに、秀忠が居ない間に毒殺された説をとっているらしい)
ここに居る人はどう思う?火葬の件。

784 :日本@名無史さん:2009/06/20(土) 22:05:38
>>783 ここのスレだと思ったけど、江与が亡くなった時
秀忠、家光は京都に行って江戸城を留守にしていたので
家光が帰ってくるまで遺体が安置されたままだった。
防腐処置をしても真夏だったので腐敗が進み、ひどい有様だったので
火葬にしたそうだ。



785 :日本@名無史さん:2009/06/20(土) 23:26:35
>>782 孝子は関白家の姫だから徳川家よりも家格は上だったし、
戦国時代が終わったばかりの頃はまだまだ天皇家も公家も強気だったから、
婚姻後の関係が将軍と対等以下にするために形式的に江与の猶子にされたんじゃないかな?
その後将軍の嫁はみな摂関家からくることが慣習となったし、
天皇の権威が失墜するとともに、公家衆も力を失い将軍家に恭順したので
そんなことする必要もなくなったろうけど。

786 :日本@名無史さん:2009/06/21(日) 12:26:33
>>782 輿入れの時にすでに20才過ぎていたから当時ではかなり晩婚。
結婚適齢期が平均14〜15才だよね。

なんで孝子はその年まで結婚せずにいたのかも不思議だし
将軍の嫁にいくら関白家とはいえ行き送れの姫がえらばれたのも不思議。
将軍家に相応しい公家の若い姫が他にいなかったのか?

787 :日本@名無史さん:2009/06/21(日) 16:18:50
もし和子が後水尾に入内しなければ、年齢的に女御の第一候補だったと思うのでそのお詫びも兼ねているとか?

788 :日本@名無史さん:2009/06/21(日) 16:43:42
>>786
江与は25歳で初婚の秀忠と結婚。
先に2人の夫があり、一児を姉の淀殿に預けていたのに比べればましだが。

篤姫なども初婚で家定の三度目の正室になったとき21歳だったし、それほど不思議な年齢でもない。
それとも、江戸城内には公家の姫を将軍正室に迎えて公家の発言力を恐れる反対派がいるなどして
結婚が遅れ、江与が反対派を抑えるために孝子を養女にしたとか。



789 :日本@名無史さん:2009/06/21(日) 17:06:45
孝子が大奥に住まず、御台とも称されなかったあたりで
公家への見せしめ感を非常にかんじる。
江与の猶子というわりには大奥から大事にされてもおらず、
母親の手前、孝子を大事することもなかった家光の態度から
江与が大きな発言権や影響力があったとは思えんのだが。

790 :日本@名無史さん:2009/06/21(日) 17:25:58
>>789
孝子が本丸大奥を出て中の丸に移ったのはお江与没後。
尚、孝子を本丸大奥から追ったのは秀忠で、
孝子が家光が次々側室に手をつけるのを嫉妬するためらしい。
ホモで変態の家光はお江与の存命中には側室すらいなかった。
お江与の存命中の話ではない。

791 :日本@名無史さん:2009/06/21(日) 18:57:55
側室に嫉妬したということは家光のことが好きだったのだろうに、
大奥を追放され、御台所とも言われず、乳母や側室にのさばられていたというのは
あまりに気の毒だな、孝子。

792 :日本@名無史さん:2009/06/21(日) 20:23:44
家光が側室を次々作ったのって秀忠死後じゃないか?
秀忠没が寛永9年、
家光長女の千代姫が生まれたのが寛永14年、
お万の方の還俗や家綱誕生が寛永18年頃

793 :日本@名無史さん:2009/06/21(日) 20:44:09
>>792
「徳川実記」には秀忠が孝子を中の丸殿に移した理由は
孝子の嫉妬のためだと書いてあったはず。
秀忠生前に家光が女に手をつけていないのだとしたら
嫉妬した相手は男?

794 :日本@名無史さん:2009/06/22(月) 10:41:38
不都合なことはなんでも相手の嫉妬のせいにするだけさ。

保科正之が御落胤扱いになったのは「御台の嫉妬のせい」、
→もともと静の方が江与公認の正式な側室ではなかったので子供は庶子扱いされず

御台所なのに大奥からでることになったのは「孝子の嫉妬のせい」、
→孝子とそのお付の公家衆とが春日局ら大奥の上臈衆と対立、
結果、孝子が家光とも不仲になり、政略結婚上離縁することもできないので、
公家方と大奥の顔をたてて、孝子が大奥をでて中の丸に住むという
特別措置を秀忠が許可しただけ

795 :日本@名無史さん:2009/06/22(月) 12:19:46
春日局が日光東照宮だかに奉納した手紙に孝子の悪口いっぱい書いて
あったんじゃなかった?


796 :日本@名無史さん:2009/06/23(火) 08:51:47
孝子が大奥を追放された、というのが定説だけど、
孝子にしてみれば「大奥なんて、自分からとっととでてやりました!ふんっ!!」
と思っていたのかもしれないし、真相は謎だな。


797 :日本@名無史さん:2009/06/24(水) 00:44:53
>>604
ぎゃーきもー
でもちょっと勃起したw

798 :日本@名無史さん:2009/06/25(木) 20:33:59
>>794
秀忠が春日局ごときの言うことを聞くとはな。
春日がどんなに家光を手なづけていたとしてもさ。
正室より乳母が権力握るって
そんなとこへ行かされた孝子、都へ帰りたかっただろうな・・・

でも孝子って結構長生き。
家綱には大事にされて付け届けをいっぱいもらったりしてたよね。

799 :日本@名無史さん:2009/06/25(木) 20:48:43
>>794
大御台のお江与が若御台の孝子を養女にして
春日の魔の手から息子の正室を守ってやろうとしたが
江与が春日より先に没したことにより春日は勢いを一手に担って
正室孝子を家光と春日の居城本丸大奥から追い払った、でおk?

800 :日本@名無史さん:2009/06/25(木) 21:31:34
>>798 >>正室より乳母が権力握るって

乳母の権勢というより、大奥のしきたりは御台所であっても
守らなければならない、という絶対的な掟があったってことでしょう。
将軍ですら大奥では大奥のルールに従っていたのだから。
結果的に大奥をでた孝子の負けという印象だな。

801 :日本@名無史さん:2009/06/25(木) 21:36:31
>>800
大奥ができたのって、お江与のときでしょう。
それまでのたとえば戦国時代とかだったら、
正室が大奥の権限を握っていた。

というか、春日局がかなり特殊な人だったんだけどね。
江戸時代を通じて、この人ほど権力を握った乳母は他にいない。
大奥では御台所と対立勢力は常にあったみたいだけど、
御台所を大奥上臈が追い出したなんて他に例を見ないし。
御台所と将軍の仲がいい悪いに限らず。

802 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 08:09:52
>>801 >>御台所を大奥上臈が追い出した

この真偽のほどはわかってない。
どの史料にも追い出されたとは書いてない。


803 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 14:52:53
>>802
それは言っちゃダメ!
孝子付公家衆が春日局と対立したかどうかも典拠がないんだからww

江与や和子が孝子の婚姻に一役買ったってのは、新書で出てた徳川将軍家の結婚でも触れられてたね。

804 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 16:01:05
歴史をやたらドラマチックに脚色したがってる人がいるように思う。

805 :日本@名無史さん:2009/06/26(金) 17:00:07
春日局って、実際ものすごい嫌な女じゃないか?

806 :日本@名無史さん:2009/06/27(土) 10:08:25
次男を溺愛して、長男がいじけて「ぼくは自殺する!」
とまで追い込んだ母親のほうがよほど嫌な女に思えるけどなw

といっても、これも戦国特有の相関図。親兄弟も側近次第で敵味方になる。
よくありがちなことさ。乳母が発展をきかすことも、この時代までは
珍しくない。

807 :日本@名無史さん:2009/06/27(土) 10:16:22
その話って本当なの?
春日局のほうが2人の御台所の評判を落としているのだからやな女じゃないか?
もう戦国時代ではなく平和な世の中になっているのだから、昔のように長男を蹴落として溺愛する次男を
跡継ぎにっていうのはお江にだって無理だってわかるもんじゃない?


808 :日本@名無史さん:2009/06/27(土) 12:00:32
どっちがより「嫌な女」かなんて、個人の感じようの違いでしかないのでは。

崇源院と春日局の相克を語る逸話は小説やドラマの格好の題材にもなってて
みなが知ってると思うけど、作り話めいていると感ぜられるものもある。
それらのいちいちを挙げて、どっちが嫌な女か語り合うなんて、
ドラマ板や大河板でもないんだもん、下らないことだと思いませんか?

歴史的にみれば、そんなの決める必要もないよ。

809 :日本@名無史さん:2009/06/28(日) 00:46:43
この際だから聞くけど「春日局は家光の生母」説って全然考慮の余地はないの?

810 :日本@名無史さん:2009/06/28(日) 09:39:04
>>809 ないよ。


811 :日本@名無史さん:2009/06/29(月) 23:54:01
>>801
春日局が上臈だとか、お笑いですか?

812 :日本@名無史さん:2009/06/30(火) 09:12:44
大奥では公家の定義と違うから春日局は上臈でOKですよ?
「奥の女性たち」という広義な意味で正室や側室たちも上臈と称する場合もある。

813 :日本@名無史さん:2009/06/30(火) 17:04:47
城や御殿の奥向きに暮す女主人や妻妾、
またその周辺に侍する地位の高い女性たちも=上臈、なんですか。
広義な意味でそう使うというのは、理解できるけれど
春日局を「上臈」と指したりすることには耳慣れていないので
少々違和感をおぼえるなぁ。

わかりやすく「御台所を追い出した将軍の乳母(奉公人)」と書けば良いんじゃ?
なんてね。




814 :日本@名無史さん:2009/06/30(火) 19:47:11
大奥に公家の定義www

815 :日本@名無史さん:2009/06/30(火) 19:54:22
正室以下、側室から侍女まで女全部ひっくるめて
『女房衆』なんていう表現することもあるよね

816 :日本@名無史さん:2009/06/30(火) 20:22:20
公家とは言い切れない豊臣家にも上臈とかいたしね
ちなみに「大奥法度」が制定されたのは1618年、秀忠の時代で江存命中
孝子を追い出した(?)時の春日局が上臈御年寄だった可能性は高いね

817 :日本@名無史さん:2009/06/30(火) 23:10:51
1618年の大奥法度はただの5か条で、内容も大雑把なものなのに・・・

818 :日本@名無史さん:2009/07/01(水) 00:01:50
流石に制定されてから十年もあれば大奥もそれなりの機関として機能しているだろ

819 :日本@名無史さん:2009/07/01(水) 07:37:28
豆しば

「ねぇ知ってる?「下郎の分際で」の下郎って上臈・中臈・『下臈』の
『下臈』が語源なんだよ」

820 :日本@名無史さん:2009/07/01(水) 08:01:15
春日局が上臈という史料はない。
春日局が上臈であれば祖心尼も上臈か?
そもそも上臈の役割を分かってその発言なんだろうか

821 :日本@名無史さん:2009/07/01(水) 08:58:17
>>820 上臈とは?

822 :日本@名無史さん:2009/07/01(水) 09:13:57
祖心尼は家光にとても重用された人だけど、
ほんとに注目されないよな。

何年か前に新宿区の郷土資料館で「祖心尼と済松寺」の展示があったんだが
いきそびれてしまって、残念だった。

823 :日本@名無史さん:2009/07/01(水) 09:34:23
上臈とは

・上臈女房と同意味で身分の高い女官。

・上流の婦人。貴婦人。

・江戸幕府の大奥の職名。奥女中の最高位。公家出身が多い。


上流の婦人という意味では従二位を賜った春日局は立派な上臈である。
祖心尼も大奥内で春日局や家光に重用されていた頃なら
下の身分のものから上臈と称されてもおかしくない。
ようは上臈の定義を上記のどれにもってくるかってこと。

824 :日本@名無史さん:2009/07/03(金) 02:44:59
お説もっともだが少ししつこい。

825 :日本@名無史さん:2009/07/05(日) 19:16:31
うん、無理がある。

江与付の上臈である按察使は武家出身だったね。
当時の上臈職は公家出身に限られたものではなかったんでしょう。

ただ、奥向を取り締まっていた春日局や、その信任を得ていた祖心尼は奥の役職に任じられてはいなかったんじゃないかな。

826 :日本@名無史さん:2009/07/06(月) 09:34:31
お馬鹿な作家たちが大河便乗で浅井三姉妹ものを新書で書き出すだろうけど
自分のほうが知識があるだろうから、いくらでも書けるんだけど
新人物往来社あたりに原稿でも送ったら読んでもらえるかな。

阿井景子みたいに大河便乗小説までとはいかないけど、
パクリ捲くりの鈴木由紀子の新書とかよりはマトモに書けそうなんだが。

なーんて、昼寝しながら考えたみた。

827 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 03:13:52
>>604
そんな凄いおっぱい持ってるくせに
左翼というのが信じられん。

828 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 07:39:03
>>826 小説ならどんなに妄想膨らまし、時代考証無視ししても
構わないじゃん。読んでるほうもフィクションだとわかって読んでるのだから、
ありえない展開でも読者をひきつけるだけの文章力、発想力が
あれば小説として評価するよ。小説は面白ければいい。

天海和尚のあれこれとか、秀頼生存説とか、家光春日局の実子説とか、
小説としてなら楽しめるネタだ。

829 :日本@名無史さん:2009/07/07(火) 14:09:15
「歴史読本」やら「歴史と旅」やらの女性特集や別冊、
戦国女性史の資料本も山のようにあるから、
確かに、新書の一冊くらいは書けそうな気はするな。

830 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 20:58:32
>>826 
新人物往来社は大学教授や超著名な小説家の原稿ぐらいしか受け取らないよ。
過去の歴史読本を読んで御覧。
その辺の一般人の投稿を載せたって本を買うも信憑性を疑う、
何らかの肩書きのある人に限る。

もっとも小説を書く気があるなら新人物往来社がやってる
歴史文学賞に応募してみると良い。
まあ、万が一、賞が取れれば書籍化の可能性がある。

831 :日本@名無史さん:2009/07/08(水) 21:53:54
>>830
だが、しかし、になるけどw戦国女性の特集なんかを読むと、
かなーり内容の怪しい作家のものを平気で載せる部分もあるな。
たまたま買った「武田勝頼のすべて」のなかの、
周辺女性について書いてた女性作家の知識の貧しさには呆れたが。

また歴史文学賞は応募数も多いしレベルも高いよ。
それなりの習作を書きつづけてるようなレベルでも
最終選考までいくのも大変だろうな。
かえって難関だと思うけどね。

何十年か前の新選組と沖田ブームの頃、
素人さんの書いた沖田小説の写しが隠れたブームになり
新人物往来社が目をつけて単行本化され
てそれなりの部数を売って版も重ねていたけど
あれは昔の事でもあり、また同社がとくに力をいれていた
新選組関係のものだったから特別な事情なのだろう。

832 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 20:21:21
>>831
歴史読本に載せている作家より俺は知識がある!程度では取り上げてくれんだろな。
素人はまず賞を取って作家になること。
その第一関門が突破できない人間が、「俺の原稿出版しろ!」と言っても
どっかのつぶれた自己出版の本レベルだ。
誰も手に取らないしましてや金を払って買わない。
ただの自己満足だよ。

833 :日本@名無史さん:2009/07/10(金) 01:37:03
再来年の大河にあわせ、便乗出版の支度に忙しい歴史作家たちが
山のように居るのだろう。

>>826
阿井景子と鈴木由紀子はたぶん、何かを出して来るだろうね。
加来耕三とかも準備中かw

834 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 16:49:56
あれだけ美味しいネタ満載の三姉妹だから、
林真理子あたりだってかなり俗っぽく仕上げてくれると思うぞ?
瀬戸内寂聴だって艶っぽい作品にしてくれるだろう。



835 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 20:29:50
>>834
林さんは女たちの男社会への復讐といった歴史物が得意だから
浅井三姉妹のようなのは取り上げにくいと思う。
この三姉妹は林さんが好む自己主張の抑圧といった感じではないんだよね。
瀬戸内寂聴が本にするならむしろねねのような女性だろう。
浮き草のように男たちのもとを漂った自己主張の薄い三姉妹は
寂聴の得意とするところではない(何考えているのか分からない女が一番嫌い)。
というわけであまり女性作家が得意とする分野ではないような気がする。
むしろ、男社会をはじめから肯定して、頼る女という図式で描く
永井路子や杉本苑子ら年配の小説家は描いているよね。

836 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 03:07:51
>>834 >>835
林真理子の時代ものは、せいぜい明治大正。
(柳原白蓮とか下田歌子とかね)
そして、内容についても賛否両論。
どちらかというと林作品の中ではあまり良い評価は受けていない。
近代以前の題材は畑違いと自分でもわかっているのだろうと思う。

ちなみに今は『和楽」で源氏物語をやっているけど、評判は良くないよ。

寂聴にはもう長編を書く体力は無いだろう。
また彼女は戦国時代の作を残していないように思うが。
平安(「祇園女御」など)から室町(「幻花」など)までは書いているが
戦国には興味なかったのだと思う。
瀬戸内の作は「女の愛欲や業」が主題になるから、
>ねねのような 良妻型の女性にも食指が動かなかったはず。

浅井家の女が題材の作だと、永井路子「流星 お市の方」「乱紋」
杉本苑子「月宮の人」

837 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 09:24:39
>>604
サイト作ってる奴すげえデカパイだな

838 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 20:09:57
秀吉が名門の姫を側室にしたのは、没落した姫たちの生活を保障するためであって、
言ってみれば秀吉は「戦国のあしながおじさん」だったのだ。
天下人の側室にすることで、没落名家の子女の地位と生活を守ってやっただけのこと。

そう考えれば、お気に入りの淀殿以外に子がいなかったのも納得できる。

839 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 20:39:23
>>838
毎回くだらないコピペを貼るな。

840 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 21:00:21
だが、半分くらいはそういう面もあったろうな。
あれだけの数の妻妾を、晩年の肉体的に衰えた秀吉が全部の側室と関係をこなすことは無理だろう。

最初の何回かは肉体関係持っても、あとは天下人の側室という処遇を与えることがメインだったろう。

841 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 21:13:35
若い側室めとっても老いぼれた秀吉が先に死んで
残った側室は豊臣家を出て里や縁者のもとへ帰されるだけ。
側室たちの生活のことを本気で考えるなら若い養子に嫁がせただろ。
男の性欲は老齢になっても衰えんよ。
体は付いていかないが、若い女を抱きたいという欲求は強い。
それが天下人ならなおさらだ。
徳川家康は60過ぎても孫のような側室を大勢抱えて子供を産ませていた。
子供のない秀吉はあしながおじさんで側室に手をつけなかったが
子供のいる家康はもう隠しようがないわな、側室に手をつけてたことが。
秀吉だけがことさらに性欲が軟弱でない限り、手をつけたって、そりゃもう。
性器がいうこときかないというのはあったかもしれんが。

842 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 16:24:55
秀吉の側室たちって全部が全部没落した姫達じゃないよ。
むしろそっちは少数派。
若い側室たちは親が秀吉に恭順の意を示すために人質代わりの
側室に差し出されたケースがほとんどだろ。

843 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 19:25:32
それこそ人質としての名目的な側室で、
手をつけたとしても最初の一回だけであとは飾り物だったのかもな。

844 :日本@名無史さん:2009/07/22(水) 19:54:49
現地調達でお持ち帰りなしの側室もいたしな

845 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 13:53:10
とにかく秀吉の大のお気に入りは茶々と京極殿の二人だけ。
二人のことは陣中にまで呼び寄せてるし、ねねに
はっきりと「お前の次に気に入ってるのが茶々だ」と書いてる手紙を残してる。

この二人以外の側室たちは、身体をいたわるような文面の手紙などが
残ってるから粗略には扱わないだろうけど、
愛情からというより、姫の家のものへの配慮なんかも大きかったかも。

もっとも京極殿や茶々も実家が没落したとはいえ、
秀吉にとって片腕となっていた近江衆の結束の要となる姫達であったから
そういう政治的な側面もあって寵愛した可能性もある。

846 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 18:16:36
俺が近江衆だったら、猿の愛妾なぞに成り下がった姫など、
もはや忠誠の対象たりえないけどな。

847 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 20:47:10
>>846
主君のご機嫌をとるには
主君が可愛がっている側室から取り入ってもらうのが一番良い
近江出身の三成にとってかつての城主の嫡女である淀殿は
近江出身という点で親近感を持ってもらいやすく
秀吉からの寵愛という点でも群を抜いていた
三成はある意味淀殿を利用したわけだろ
淀殿だって近江衆を頼りにしたからお互い様だが

848 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 22:21:52
茶々が世継ぎを産んだからますます茶々の存在が大きいんだよ、近江衆にとって。
若君の側近になれば、若君が豊臣の当主になったら自分達が台頭できるのが
わかってる。何が何でも秀頼には世継ぎになってもらいたい。
邪魔な秀次は排除しなきゃ、というのは淀も一緒。
両者の利害関係が一致し、ますます主従関係の絆が強まり、
結果的に豊臣への忠誠心も強くなって、秀吉にとってもプラスになる。

849 :日本@名無史さん:2009/07/23(木) 22:53:20
>>846
その姫についていって、家が再興できたり
流浪していた家臣が仕官できればありがたいことじゃん。

>忠誠 も何も、武家は家を存続させなばならんと思うけど?
権力者の後継者を産んだ旧主家の姫をアテにしたって恥にはならん。

ナニに「忠誠」をつくしたいんだか知らんけど、
家族抱えてずうっと浪人してるか、大人しく帰農でもして下さい。

850 :日本@名無史さん:2009/07/29(水) 20:52:02
>>848 秀次事件の背後に近江衆の陰謀ありだな、絶対。


851 :日本@名無史さん:2009/09/06(日) 21:19:20
でも今回の天地人の小栗旬の石田三成、切なかった。

852 :日本@名無史さん:2009/09/06(日) 22:32:28
野心をもって天下分け目の戦の勝負にでた大将なのだから仕方あるまい。

853 :日本@名無史さん:2009/11/05(木) 13:58:26
上げてみる

854 :日本@名無史さん:2009/11/10(火) 02:07:31
小谷城周辺の町では
2年後の大河の主役・お江のキャラ利権争いが泥沼化



855 :日本@名無史さん:2009/11/13(金) 21:29:55
正直、関ヶ原戦後の淀の行動がよくわからない。

もし、本当に子ども(秀頼)のことを愛しているなら、
豊臣家のプライドよりも、
摂河泉65万石の大名に成り下がって、本人が江戸に下向したとしても、
そして、最悪、大和や伊勢に国替えになったとしても、
息子が生き残ることを考えると思うのだが。

芳春院が江戸に行き安堵された前田家のことを知らないわけではないだろうに。
母性愛ってのがないのかな。なんか「プライド棄てて生きながらえるくらいなら、潔く死になさい」って、
男親みたいな考え方してるよな。

856 :日本@名無史さん:2009/11/14(土) 04:03:25
大河ドラマは脚本家が糞篤姫と同じの田淵久美子だけあって
家康や秀吉も怖くないw、やんちゃでお転婆で、
歴史上の事件にしっかり首をつっこんでくるお馬鹿姫になるらしい。

857 :日本@名無史さん:2009/11/14(土) 04:06:27
>>855
そんなん、当時から当人の考えなんて明確に表明されてたわけが無いし、
茶々の本当の心理なんて史料が残っているわけもなく
わかるはずも無いことだ。
すべて推測するしかないこと。



858 :日本@名無史さん:2009/12/25(金) 23:27:00
あざい

859 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 06:27:18
淀とか乳母とかババアたちが闊歩してたから恩顧の大名達も見捨てたんだろうね。
淀のせいで秀頼も情けなくなっちゃったし。
ばばあどもにうんざりしてたし秀頼もこれじゃ無理だわって感じでしょう。
あんたたちだったそうなるでしょ?
秀頼のことを内心慕ってても自分の家が滅びても恭順なんてできないでしょ。
じぶんちだけでなくて家臣もその家族の生活も預かってる身だし。

860 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 06:40:33
どうしようママ〜ンな男がママン共々見捨てられ、滅ぼされ、
妻を殺し孫娘を見殺しにしようとするような男が天下の覇権を獲り磐石なものにしたのは事実。
豊臣にとっちゃ淀は疫病神で徳川にとっちゃ女神。

861 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 10:07:25
>>855
豊臣家が滅びた歴史を知ってるからこそ、こうすれば生き残れたのにとか考えられるが
当時の人たちはそれこそ、日々さまざまに変化する世相の中で生きてきたわけで
徳川家に恭順を示し、大阪を離れたとしても、豊臣家が生き残れたかどうかなんて分からないこと
事実、関が原を生き延び、徳川に恭順を示した加藤、福島は滅びてしまった。
それに、当時の女性を過大評価するのはどうだろう?
前田の松は自ら江戸に下り前田家を救ったと評価されるが、それだって
本人の意思より当主や家臣団の意向、当時の風潮などが大きかったはずだ。
秀頼の生母でしかない茶々にどれほどの政治力があったかなんて分からない
現に彼女の消息を調べてもほとんど分からない。知名度の割に記録はほとんどない。
後世に言われるほど政治力があったならもっと当時の資料に残ってもいいと思うけどね。

862 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 10:59:50
豊臣恩顧の大名たちは秀吉の知略勇気権威カリスマに
従っていたんであって、茶々はただの女に過ぎない。
ただの女に忠節を尽くすなど不可能なこと。
秀頼は秀吉の血を継いでいたので(これすら疑問符が
付くが)カリスマ性はある程度はあったと思われるが、
他が家康に大きく及ばなかった。
家康に及ばずとももう少し人を惹きつけるものがあれば
なと思う。
結局秀吉子飼いの武将達にことごとく見捨てられ、集ま
ったのはギャンブラー浪人たちばかり。
最期まで出陣もさせないところにこの女の問題点が現れ
ている。
秀頼の最期のこれはもはや武士ですらない。
これでは武士は着いていけないでしょう。

863 :日本@名無史さん:2010/01/01(金) 12:12:41
元服して子供までいる秀頼が出陣しないのは母親の意向か?
時代劇の見すぎだろ?

864 :日本@名無史さん:2010/01/09(土) 21:17:51
>>862
秀頼はお公家さんだったんだよ。
秀吉が長生きしていれば摂政・関白を世襲する予定だった。
出陣、出陣って。
秀頼が出陣していたら案外負け戦で
関ヶ原のあたりで首斬られてたかも。

865 :日本@名無史さん:2010/01/09(土) 22:55:10
天下人はよほどのことが無い限り自ら出陣しないものだよ
天下人でありながら自ら出陣した筑前や内府親子のほうが非常識的
鎌倉将軍・鎌倉執権や室町将軍は自ら出陣することなんて殆ど無かった

とくに内府と秀忠は親子揃って大坂の最前線に・・・一体何のつもりだったんだ
なぜ二条城から指揮を取らなかったのだろうか

時代と戦闘の性質が違うから単純に比較できないが、
北条時宗は元弘の際も自ら出陣することは無かったし
足利義教は在京のまま指揮をとって鎌倉公方勢力の壊滅に成功している

866 :日本@名無史さん:2010/01/13(水) 09:00:14
そうだよな。
秀吉ってもとより武士という身分でもなく
知略や人心掌握でのし上がっていった男だし
成功してから授かった秀頼に武人としての教育を受けさす気はなかったろう。
秀吉とて武人として育てたかったのなら、相応の遺言を残すであろうし
自分の子は「天下人の子としてまた摂関を継ぐ者」ではあっても
「馬を駈り采配をふるう武将」たる者ではないという認識だったのだろう。

秀頼の生まれ育った環境や彼の背景をいちいちに考察してみると
「出陣」という語がそぐわないことに気づく。

867 :日本@名無史さん:2010/01/20(水) 23:26:06
お江与は三重県津市で暮らしていましたか?


868 :日本@名無史さん:2010/01/24(日) 00:05:06
淀殿の墓がグソマにあると最近知ったわw
淀殿が織田信長とお市の子だという説最近知ったわw

869 :日本@名無史さん:2010/01/24(日) 23:13:26
茶々が信長とお市の子・・・ってのは、
そもそも「説」ともいえないような与太ネタだろ。

870 :日本@名無史さん:2010/01/26(火) 16:23:54
再来年大河のお江役は上野樹理に決定?

871 :日本@名無史さん:2010/01/26(火) 20:11:16
>>868
それはイカサマだよ。
当時の文献にはどれも淀殿は浅井氏だと書いてある。
織田氏と書いたものは一つもない。
文献無視がネタの素人説ばっかりのせる例のテレビ番組だろ。

872 :日本@名無史さん:2010/01/26(火) 23:48:57
時おり、面白い視点やマジメな研究者が出ることもあるけど、
民放の歴史バラエティ(とくにテレ東w)のテキトーさは酷いもんだな。

873 :日本@名無史さん:2010/01/27(水) 00:15:58
>>872
まともな研究者が懸命に史料を読み込んだり、調査をしているような
ことの中にも、面白いことはたくさんあるのに、トンデモ説をいかにも
事実みたいに放映する安直さはどうにかならんのかな。

こういう番組の自称「歴史研究家」なんてサギ師みたいなもんだよ。
ただ、タマにこのテの番組で研究者が出てたりすることがあるから困るw

874 :日本@名無史さん:2010/01/28(木) 03:43:16
タマに出てくるマトモな研究者の人は、
番組の狙いやとんでも説展開の適当さを教えられずに、
ただ一点の絞った面とか、枝葉的なことを聞かれて
それにノンキに答えてしまってるように思う。

で、その点だけに関しての解釈を番組の都合に向くように
超テキトー展開で編集されて・・・、そんな気がすごくする。

875 :日本@名無史さん:2010/02/05(金) 12:10:01
茶々姫ってものすごく長女気質が強い人だったんだろーなー

>母・市の死後、茶々は二人の妹に
>「そなたたちは名族近江浅井家の姫である。
>見苦しき振る舞いがあってはならぬ」とたしなめたと伝わる。

って自分に言い聞かせていたような気もするな

浅井と豊臣を背負って、ほんとにしんどかっただろうな
合掌

876 :日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:16:29
坂本龍馬


877 :日本@名無史さん:2010/03/11(木) 21:12:07
養父や従兄弟を消した男の妾になった時点で見苦しいも何も・・・

878 :日本@名無史さん:2010/03/12(金) 00:15:07
>>877
いや、父母や兄の仇でもあるから(笑)
一番重要なところが抜けてる・・・。

そして、江は
父と姉を攻めた男の息子と結婚・・・。

879 :日本@名無史さん:2010/03/15(月) 12:36:52
>>878
父と兄は信長主導ということで
父は死後も髑髏を酒肴にされて悲惨な一族だな
そんなことをいちいち気にしていたら生きていけないのかもしれないが

880 :日本@名無史さん:2010/03/15(月) 13:33:06
>>879
確かに、父と兄は信長主導だな。
祖父も死後に髑髏にして飾られるし、祖母も毎日指を一本ずつ切り落とされていくからな・・・。
ほんとに、戦国の世とはいえ、悲惨な一族だ。

881 :日本@名無史さん:2010/03/26(金) 23:47:42
そうかね

882 :美人は氷高皇女:2010/04/13(火) 05:46:03
お初は
潰れかけた平安からの名家,京極家を明治には華族にしてみせたアゲマン
名門が口癖の高次は親方選びで惨敗続き
お初は
ファ-ストレディ淀から金せびり,徳川の世と読んでは,お江にコビり関ヶ原で寝返り
しかし夫は戦下手で適当に止め高野山に出家
しかし,家康から西無双,立花宗茂を大津足止め成果賞を出す
さらに子無しお初は生むわ生むわのお初から「次生まれたら頂戴ね!ヨロピク」とお家継続
大坂落城の交渉で平和の証に堀を埋めさせたり(最後は命がけの脱出だけど)
とことん利用する
美人とかは別にして
物語として1番好きだな

883 :日本@名無史さん:2010/04/13(火) 17:06:04
>>882
三姉妹の中で一番アグレッシブに動いた記録が残っている人だよね。

884 :日本@名無史さん:2010/04/13(火) 21:51:18
882、色んなスレに駄文を載せるな。

885 :美人は氷高皇女:2010/04/24(土) 09:49:51
徳川政権で次期将軍を産んだ正室は,お江だけだからね
母,お市の姉・お犬は信長の戦略で佐治水軍に嫁がされる(当時の水軍大名は海外貿易力があり巨大だった)
旦那の佐治信方が戦死すると,お犬は子・与九郎を残し,信長家の格上げを狙い,室町名門細川管領家と再婚
秀吉も亡きお館に見習い,お犬の残し子・与九郎に,お江をやるんですが与九郎は秀吉の怒りを買い所領を没収され離縁させます(秀吉が村上を潰し後,長崎のみ開港貿易益独り占めの為,海外貿易準備の命を拒んだ為)
次の嫁ぎ先は秀勝(秀吉の姉子で秀吉の養子)その姉(母)が秀吉にオネダリ三昧
秀勝は朝鮮出兵で病死します.哀れな姉の顔が浮かびます
まあ秀吉が徳川の抑え込みにの最後婚で,お江は「災わい転じて福」です
産んだ子には,後の明正天皇の母も入内させた凄腕お江は,大樹晩成型なんですかね

886 :美人は氷高皇女:2010/04/24(土) 12:18:29
淀殿は美貌でプライドが高く,お江の佐治,お初の京極に嫁いだ時,「チッポケな男,惨めな妹達」と思ってたんだろう
が,それが最初から茶久狙い秀吉の手口「オイシイ所頂戴」で,20越えて次第に焦った淀を側室に入れてしまう
秀吉と他の側室に子が出来ず中,淀はヒットします
すると,淀は自信家になり秀吉に無理難題オネダリ三昧,怖い物無し
目障りは北政だけ
秀吉も利口で小田原の役時,ねねを遠して淀を呼び寄せました意外とうまくいってましたが,秀吉が去ると,北政と淀の戦勃発です
淀・秀頼親子で大坂城乗り込み,京都に追い出します(これが淀が最終的に負けた最大の原因でしょう)
秀吉に跡継ぎが出来た時,中小の社長に追いやられた小早川に北政は,そそのかしたのです
秀吉下臣達が皆徳川に抱えこまれても,淀の思い込みはハイパワ-に達します.一種の老化現象です(秀吉も最期は子供にのめり込み老化現象,しかも自分が信長の子達にやった事を忘れ,五大老に「秀頼の事くれぐれも」と頼みむあたりが老化現象)
人間強くなっても相手を思う気遣いが大事と言う事ですね

887 :美人は氷高皇女:2010/04/24(土) 13:05:41
連スマン!誤字で
歴史事なんで誤るとあれなんで
遠して→通して

☆お江=強運で勝札(徳川安泰圏に浅井・織田DNAを流し込んだ:結果,家光のオジサマは長政)
☆お初=世の中を泳ぎぬいたアゲマン(京極救世主)
☆茶久=モンスタ-教育ママ(女のあさはかさ)
って言う所ですか

888 :日本@名無史さん:2010/04/24(土) 23:56:25
>>887
家光のおじい様だろ…。明正天皇の曾祖父でもある。

淀って、意外と教育ママなんだよな…。
なんだかんだ甘やかしても
帝王学はきっちり教えているし。

889 :美人は氷高皇女:2010/04/26(月) 07:47:59
秀秋は,ねね系だからね!養子にしてるし
秀秋を寝返るさせたのは,ねねだと思うよ
ねねを大豪邸から街住まいにさせた時点で淀は負けたんだ

890 :日本@名無史さん:2010/04/26(月) 19:54:05
>>889
釣り?

今更すぎるし、
分かっていると思うけど、
淀と北政所で役割分担していた説が通説だから。

絶対に通説があっているわけじゃないけど、
北政所も淀もそんなに心の狭い女じゃないだろ。

891 :茶々:2010/04/27(火) 02:21:32
おちんちん!おちんちん!おちんちん!

892 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 02:55:06
>>887
ツッコミどころ満載だなあ・・・
誤字の前にもっと直すべきところあるだろうに。
>>882>>885-886
なんかどっかで読んだことあると思ったら永井路子の『乱紋』まんまやん。
小説を史実のように書くのはいかがなものかと。

>ねねを大豪邸から街住まいにさせた時点で淀は負けたんだ

永井も「北政所を追い出したのは淀殿の失策」とか主張してたけど
淀殿が伏見から大坂城へ、北政所が大坂城から伏見(のち京都へ変更)へ
移居したのは秀吉の遺言だからだよ。

893 :日本@名無史さん:2010/05/01(土) 11:09:46
>>892
永井さんも
乱紋より後に出た作品や「歴史をさわがせた女たち」では
淀のことは結構褒めているし、>>887のいうことは今更かと。

乱紋は出来た年代が古いから、
そういう考え方であったのも仕方ないと思うけどね。

894 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 22:12:11
乱紋と流星を読み比べると茶々の性格の変わりっぷりが凄いよね
乱紋では高慢で不器量な妹をいびる嫌な姉ちゃんなのに、
流星だと高慢だけどしっかり者の長女って感じに書かれている(妹いびりはしなさそう)
乱紋→流星の順で書かれているけど考え方が変わったのかな

あと小早川秀秋は北政所の甥だけど北政所から全然可愛がられてなくて
秀吉がそのことについて窘める文を送ったりしていたみたいだね

895 :日本@名無史さん:2010/05/02(日) 22:16:26
>>894
乱紋も初みたいに「あからさまにいびる」は無かっただろ

だから、自分からみるとどっちも
心の中では何か思っていても決してそれを表には出さない大人しいお姉ちゃん

そういう感じのイメージだと思っていたが

896 :日本@名無史さん:2010/05/03(月) 02:17:59
>>893
>乱紋はできた年代が古いから
>そういう考えであったのも仕方ないと思うけどね

>>894
>考え方が変わったのかな

同じ作家が、エッセイであれ小説であれ
同じ歴史上人物をその題材にする場合、
作品ごとの狙いによって「性格設定」を異にして構成する場合も、
時にはあると思う。
これらは連作・・・という場合にはそういう事も無いだろうけど
作品ごとに「物語世界」は違うのだから。
(と、これは自分の考えでもあるのですが)

897 :無双立花宗茂:2010/06/03(木) 08:42:20
おっ!路子知ってる人キタ-!歴史通とみた
立花宗茂を調べてるんだが
碧蹄館の戦で(たしかなる仁)名匠を得
晋州城攻略の評議で貧乏クジをかって出,小早川秀包(ヒデカネ:毛利元就9男・小早川隆景養子)と義兄弟の契りをかわし,連合軍4万を秀包・宗茂4千で撃退[晋州城の戦]

898 :立花宗茂:2010/06/03(木) 08:49:31
石田の城と海路拠点ではあるが,大津攻めなんかより
松尾山には立花・秀包(ヒデカネ)「輝元の祖父・元康」15000が迎えば中立の立場の秀元やら吉川広家も動いたと思う
まあ仕方ない

大津城合戦後,関ヶ原西軍敗退の報に,宗茂は京のねねの兄・木下家定に大坂城へ退却と道中警備を申し出るが,家定は攻撃されると思い拒絶されてる
しかし
立花と3姉妹との資料が無いんだ
路子知ってる人
知らないか?

899 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 10:09:36
小早川の裏切りがねねのさしがねだったら
小早川以外のねねの親族が普通に西軍について戦っているのは
何なのかという話になる


900 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 11:05:16
路子の淀,教育ママ説は疑問がある
旦那が死ぬと,好みの役者に城内の女男事を教えたり
その他モロモロと..
むしろモンスタママだよ
ちなみにモレ,氷高から立花に名前は変えた

901 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 22:07:46
>>900
>,好みの役者に城内の女男事を教えたり
これはどういうことだ?

ちなみに、淀は日野富子なども息子に教えていた帝王学を
秀頼に学ばせているから、教育ママでないと言いきることは出来ないと思う
教育ママかどうかって言ったらそれは別問題

902 :日本@名無史さん:2010/06/03(木) 23:23:13
確かに旦那は学者だし、永井路子も歴史エッセイや評伝的な
書き物を書いてるけど、基本、永井路子は「小説家」なんだけど・・・

903 :無双立花宗茂:2010/06/05(土) 12:36:11
西に加担し柳川城主から浪人になったが
秀忠の相談役に抜擢され,大坂の陣では秀忠の軍事顧問
家光も知恵袋として手放さず,私用でレンチャンで立花下谷屋敷に夜釣りに行ったぐらい信頼していた
西に加担し,再柳川城主になり明治には華族は異例だ
徳川3世代をまたいでいるのに,3姉妹との関係が無いとは思えん

904 :日本@名無史さん:2010/06/06(日) 08:03:58
>>900
>>901
未亡人になってから淀殿は大坂城に役者を連れ込んで色事に耽ってた、
・・・ってこと?
江戸時代以降の怪しげな随筆や草紙ならともかく
同時代の一次史料にそんな記述見たことないけどなあ。
とりあえずソースを教えて欲しい。

>>903
史料がないなら特に関係がなかったのでは?

905 :日本@名無史さん:2010/06/06(日) 21:36:25
>>904
人は下世話な話が好きだからね。
生涯独身だった称徳天皇は自慰のために入れた芋が取れなくなって死んだとか、
30歳で2度目の夫とも死に別れ、以降70歳まで40年間も独身だった千姫は
江戸屋敷に男を引き入れ淫乱の限りを尽くしたとか。
説話集に出てくるやつね。
現代の歴史小説にも相当な「下世話な話」が入り乱れてたりするけどね・・・
永井路子も、男性小説家の先行小説を勉強しすぎたせいか
女性小説家とは思えない下世話な話を書いたりしてるよね。

906 :日本@名無史さん:2010/06/07(月) 01:56:43
>>900
>好みの役者
それって、どういう芸能民を指してるのか意味不明。
変な大奥本の読みすぎじゃないの?

>>905
称徳女帝や千姫の醜聞逸話の根本なんて
ここに書き込んでるような人なら、既に知っていることだと思うよ。

氷高とか立花とか名乗ってた人だろうけど、
本当に恥ずかしい人だね。

907 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 10:16:23
>>905
あーもしかして氷高ナントカ氏は千姫の吉田御殿御乱交ネタを
淀殿と勘違いしてるのかもしれんね。
ソースはなしと見ていいかな

908 :日本@名無史さん:2010/06/08(火) 21:54:26
アーサイサーイ

909 :日本@名無史さん:2010/06/28(月) 14:29:26
マジレスすると淀殿との関係が当時から噂されてたのは大野、前田、徳川なんだよね。
前田と徳川は再婚で秀吉の遺言。

910 :日本@名無史さん:2010/07/16(金) 18:08:45
大河板にいる原作厨によると、糞原作では
本能寺の変後にお江サマが光秀に会いに行くんだとwww

911 :日本@名無史さん:2010/07/22(木) 08:41:36
検知に掛らなくてゴメンネゴメンネ〜
AKB48バリの人気歌舞伎女優グル-プの出雲のお国と共に歌舞伎の始祖・名古屋山三郎だよ
父は信長に使え,母は信長に縁ユカリ・織田刑部大輔の娘,姉は秀長嫡子・小一郎に嫁ぐ
山三郎自信,武勇優れ,蒲生氏郷睦奥名生城攻略で1番槍の勲章
しかも美男子だけど,1608?に没してるし
中出しの仲でも無い歳差.しかも仲も噂?名古屋の存在もアヤフヤ
しかし存在したと思うただ城内話を歌舞伎ネタに運用しただけだゃ

しかし立花んを関ヶ原に配置しなかった石田は,何て?逝くさ下手なんだろう

912 :日本@名無史さん:2010/07/24(土) 07:18:27
>>911
・・・で?
なにが言いたいのかさっぱりわからん

913 :無双立花宗茂:2010/07/24(土) 23:32:55
大坂の陣も真田の親父が生きてたら大坂方の総大将だったし
幸村は静岡に奇襲し誘き寄せだな
堀だって埋めさせないし
物凄い大坂籠城戦だな秀吉,利家,清正,真田の親父が死ぬ迄耐えた家康も我慢強いが運にも恵まれた
立花を家臣に付けて,関ヶ原で遅刻で冷静欠いてる秀忠の軍事顧問にした事も

914 :日本@名無史さん:2010/07/25(日) 05:51:03
電波コテハンはスレタイも読めんのか

915 :日本@名無史さん:2010/07/25(日) 09:56:38
>>910
イケイケドンドンのおGO様だからな

916 :日本@名無史さん:2010/07/25(日) 10:06:01
>>910
いまその原作本読んでるが

>本能寺の変後にお江サマが光秀に会いに行くんだとwww
 
そんな場面ないけど・・・

917 :日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:07:03
大河板には田淵久美子の事務所の人間が毎日書き込んでる臭い。

918 :日本@名無史さん:2010/07/31(土) 16:41:00
千姫の子が夭逝したり流産したりしていたのを、
秀頼の祟りだとして供養願った際に書いた願文の内容が知りたいんだけど、
載っているサイトなり何なり知らないかな?
どうやら、自分を恨まないでほしいというお願いのものらしいけど。
知りたんだよ、本当に。

919 :日本@名無史さん:2010/08/01(日) 11:57:02
「千姫考」という本に載ってるよ


920 :日本@名無史さん:2010/08/01(日) 15:11:00
>>919

ありがとう、捜してみるよ。

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