5ちゃんねる ★スマホ版★ ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50  

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

♪邪馬台国 ドンと来い♪ 33

1 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 01:36:15

  {        .    }
     ',.    (,゚Д゚,)    i   _⊂ ̄ ̄ ̄⊃
    ヽ   ∪ ∪   /  ⊂___⊃ ̄
     `ヽ、_    _ ○
          ̄ ̄ ○ ○
 ∧∧   ∧∧   ○ ○ ○
 (;;;;;;;;゚)  (;;;;;*゚) .| ̄ ̄ ̄ ̄|.   /彡ミ. /彡ミ
 /;;;;; |.i i /;;;;; |  ~| ̄ ̄ ̄|~   /彡ミ. /彡ミ
(;;;;;; /乂(;;;;;; /    .|__( ̄)__|   /    /
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄  ̄
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。

前スレ  ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 32
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1222325505/l50

2 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 01:44:21
弥生時代の人口についてはこれが定番。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/EV_P_NJ1.html

西暦200年頃

九州(筑前・筑後・肥前・壱岐・対馬・豊前・豊後・肥後・日向・大隈・薩摩)
約10万5千人。
畿内および畿内周辺(大和・山城・摂津・河内・和泉・近江・伊賀・伊勢・
志摩・紀伊・淡路・播磨)
約10万人


3 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 07:28:28
なるほど。伊都国、奴国の人口=九州の総人口ってことだな。
北九州以外には人は住んでいなかったんだ。

4 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 07:38:41
邪馬台国は7万戸、1人に1戸の住宅。
なんと素晴らしい国でしょう。

5 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 08:20:39
邪馬台国の七万戸、投馬国の五万戸はおろか、奴国の二万戸でさえ非現実的
ということだろう。

>>3
南九州(肥後・日向・大隈・薩摩) 6万5千人 > 北九州(筑前・筑後・肥前・
壱岐・対馬・豊前・豊後) 4万人

まあ、いろいろ意見もあるだろうが、現実を受け入れることだろうな。

6 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 08:35:44
★近代以前の日本の人口統計
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ウィキでも最長大項目の一つ。
中世史・近世史好きには大いに参考になるようだが、古代はどうも難しいみたいだね。


7 :のんびりひまじん:2008/10/15(水) 08:55:12
慶祝 早々の新スレ。

>>2
上古代以前についてはまるきり推計データ。推計の根拠次第ということに注意!

こういう精度に大きな差のあることを一表にしたときに錯覚しない。限界に注意。

近世の人口変遷はとても参考になる。←各藩から幕府あての報告をまとめたのだろう。

(西南雄藩というのは人口増加という裏付けがあった。政治と人口の相関。)
→近世は別スレ話題だが、幕末期藩政改革で人口増加が起きたとされる。

それを知ったら、弥生時代以前の政治地図すら判ってないままの推計は危険と判断できる。

8 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 09:38:41
推計データは推計者の思惑や判断しだいで大きく結果が違う。
パラメーターの少数点以下の数字を少し変えただけで
ウキの西暦200年頃の推計データでも70万〜200万と推計者によって数値が大きく違う。
割合に精度の高いと思われる700以後のデータを
700年、1200年、1700年と500年ごとのデータを比較してみると
2倍、3倍となり、2000年では300年で5倍となり
時代が下るほど人口の増加率は増してくる。
200年から700年までの500年間の増加率は2倍を越えなかったと推定するのが合理的な判断であろう
700年の人口を400万人とすると200年ころの人口は200万〜300万と判断される。

9 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 10:00:17
32の998
古田説とは違うのですね。

>地形をみればわかります。

地形が分からない人が読む事を前提に倭人伝には書かれています。
地形を見ないと分からない解釈は無理ではないでしょうか。

伊都国の説明に女王国と書かれてあり、伊都国=女王国ではおかしい。
女王国は伊都国+奴国でしょう。

10 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 10:02:40
だから、貴方の説はここでも受け入れられないことを自覚してください。

11 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 10:29:25
>>9

でも実際の地形を比べてみて下さい。
対馬はほぼ南北に1200里
壱岐はほぼ南北に300里、
この違いがあるのは歴然としています。

伊都国までちょうど万二千里ならば、
伊都国は女王国として書いているんだなと思うのは自然です。
あくまで到着地としての女王国です。
つまり、他の国々ももちろん女王に属しているので女王国と呼べるものです。
奴国もです。
何度も言いますが到着地としての女王国です。

古田説は奴国でちょうど万二千里になります。
それでは不弥国までの100里はいったいどういう意味なのでしょうか?





12 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 10:45:53
>>11
行程記事に出てくる○○国というのは、通常はその国の王都を意味する。
したがって、島の長さを足すのは二重計算。

13 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 10:55:37
>>12
島の長さを足さなければ倭国に到着しませんよ。
海を渡距離が全部3箇所とも1000里です。
それが目安になっていますから、
韓国側から対馬の北端までが1000里、
対馬を南に沿岸に沿って南下1200里、
対馬の南端から壱岐の北端に1000里、
壱岐の北端から南端へ300里、
壱岐の南端から博多湾の今津湾(仮定)に1000里です。
海の渡る距離はみな1000里です。
地図にものさし当てて計ってください。
みな同じ長さですから。

全然二重には計算していません。
合計12000里です。
もっとよく他人の書き込みを調べてからレスしたほうがいいですよ。


14 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 10:59:35
>>11
百里に対する計測方法が書かれていなければ、
その百里は地域範囲。
人為的に整備された広さ

15 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 11:01:48
>>13
忘れていました。
今津湾から伊都国まで500里
それでちょうど12000里になります。

16 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 11:05:09
対馬の北端までが千里という計測自体が誤り。私の書き込みを良く読むこと。

17 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 11:20:10
>>16
あなたの書き込みじゃ計算式がでていなし、具体的な
着地点がいちいち書かれていないのでよくわかりません。
対馬、壱岐に一点(王都ですか?)に着いてそのまますぐに海を渡るとしたら北部九州沿岸に着岸するのは
かなり遠いです。
あなたの具体的否定地はどこですか?



18 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 11:43:00
>>17
それぞれ候補地はあるが、具体的にどこに比定するかは問題ではない。
それぞれ、○○国というのは一点で考えるべき問題だということ。

19 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 12:12:57
>>18
○○国というのは一点で考えるべきなのは陸続きの場合だけ。
陸続きの場合は国境線が魏使には認識できなかったので中心都市の位置間しか記せなかった。
対馬や壱岐は島国なので国境線明確であり、方可四百餘里や方可三百餘里と国の範囲が示せ、
国と国の間が千餘里空いているとしているのだ。

20 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 12:27:04
年金受給者による、日中の推測談義にもそろそろあきが来た。

21 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 12:40:24
今日は確か年金受給日だから、嬉しくて書き込んでいるのだろうよ。

22 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 12:55:27
20,21は年金受給者ですかWW
ボケ老人にならんようにね。

>>19の続き
陸続きの場合でも国境線が魏使には認識できれば
「南に接す○○国、方可○○餘里」などと表記され、アバウトな表現である中心都市の位置関係は書かれなかったろう。
対馬や壱岐は島国なので国境線明確であった為により詳しく情報を記すことが出来たと考えられる。

23 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 13:46:45
>>22は年金未納者でしたか。失礼しました。

24 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 15:08:00
>>18
17ですけど、
あなたは女王国が伊都国と奴国であると言った方と同じ方ですよね。
では一点で計算するとしたら伊都国まで
10500里で奴国まで入れても10600里で1400里も足りません。
古田説の言うように400里×2、300里×2を足したら
それこそ二重計算になるではないですか。

それに壱岐に600里も足したら、壱岐をまるまる一周してしまいますよ。


25 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 15:54:31
>>19
屁理屈を言ったところで、所詮は恣意的な数字合わせ。

>>24
私はそんな計算はしない。人違い。

26 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 16:50:58
半島内を陸行するのも古田説の特徴。
数字、つじつま合わせのためなら何でもしちゃう古田説。

27 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 17:04:47
対馬の地形を拡大地図で見ました。
真ん中が離れている。
もしもその間を通ったとしても距離的には同じだった
狗邪韓国(巨済島あるいは釜山、どちらからも距離はほとんど同じ)
から対馬の上県あたりの港に着いて、
沿岸にそって西水道を南下して間を通って東水道に行き
厳原という港に着きます。そこまで約1200里です。
なぜ1200里という計算が出るかといえば、
海を渡る距離が3回とも千里で等しいから、
地図でどのルートをとったらみんな等しくなるだろうかと考えながら
それを元に計算しました。

私は対馬も壱岐も一点しか立ち寄らなかったとは考えないので、
そういう計算結果になります。
一点しかあるいは少ししか立ち寄らないと考えれば
全然比定地も違ってくるし、伊都国までが万二千里には足らないので
伊都国が女王国の到着地点ではなくなってしまいます。
私は伊都国が到着地点であると思っているので。
陳寿の持っていた複数と考えられる資料の一つが伊都国到着
で終わる資料だったのだと考えます。
具体的にはそれは240年の郡使のたどった経路だと
思います。




28 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 18:39:32
女王国が伊都国と奴国であると言ったのは私。
伊都国までは古田説に従う。
奴国までで丁度12000里。
伊都国が女王国の到着地点であることには同意見。
伊都国に女王国の文があることからも伊都国=女王国ではないが、伊都国が女王国の一部であると考える。
皆(倭の国々)は女王国(伊都国と奴国)に統属されていたとみる。
伊都国に丗(魏の治世)、王(女王卑弥呼)が居たとみる。
伊都国と奴国は百里しかはなれておらず、人口も奴国の二万戸と千戸。
伊都国は奴国の一部のようなもの、同一の国と考えてもよい、奴国の王宮や役所のある地区が伊都国。


29 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 19:03:55
>>26
何故に辻褄が全く合わない畿内説が誤まりだと気付かんのかね?

30 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 20:20:01
>>29
>畿内説
なに?それ?

31 :のんびりひまじん:2008/10/15(水) 20:38:05
>>27
>対馬の地形を拡大地図で見ました。
>真ん中が離れている。
>もしもその間を通ったとしても距離的には同じだった

対馬が南北に切れたのは後世(日露戦争のとき)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E9%96%A2%E7%80%AC%E6%88%B8

              〜結論には影響なさそうですが・・・

32 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 21:37:46
>>29
現状を全く理解してないね…

33 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 23:57:40
>>31
ありがとうございます。

地形が変わったと考えると、
方可400里、方可300里を考えないといけないと思いますが、
島の実際の形は三角形もあるし細長い場合もあるし、
単純に2倍にするのは変かなと思います。
やはり正確性は欠きますが現代の地形を参考にして考えた方が
いいかなと思いました。




34 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 03:24:50
中国人が邪馬台国は沖縄っていってたよ。
『太夫』と名乗ってたのは琉球人だと。史書にでてくる薬草はウコンの可能性が高いとさ。

九州沖縄連合軍が倭人で、大和朝廷が弱体化した倭国を倒し乗っ取ったんだろうと言ってた。


35 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 06:49:26
>>33
三国志魏書の読読み手が実際の地形を知っている訳が無い。
方可400里、方可300里とは実際の地形に係り無く一辺が400里、300里四方と見なしたもの。
単純に2倍してよい。方可とは一辺が○○里と推測できるの意味。

36 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 07:42:06
>>35
推測出来ない。

方可四百里の場合、一辺の値は、

最小値 1
最大値 399

方四百里の場合、一辺の値は

最小値、最大値ともに

400

37 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 08:05:42
Pu!

38 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 11:34:54
>>35
>三国志魏書の読読み手が実際の地形を知っている訳が無い。
知っている訳はないけど、知らないからといって、
2倍にするのはへんだ。
方可400里=400里四方はある(可)島ということだから、
島を真四角にたとえた場合。
この場合の記述は島の面積(広さ)を表しているんでしょ。

島の形は具体的に記していない。だからといって
島の面積を表しているのに一辺を2倍にするのはおかしくないですか?

島を実際にたどった里数が示していないなら、
一点通過なのか、長くたどったのか、少しだどったのか実際わからない。

だから一番確実なのは1里が何メートルあるかを計算すれば、
海を渡った距離が1000里であるから、そのキロ数が現代の数値で出る。
そうすれば島のどの辺りに着岸したであろうとかも推測できる。

一番確実な方法は一里が何メートルなのかということ。
今のところいろいろ50〜90メートル位と幅がありすぎる。
でも確実な地点がわからないので、確実な里数も出てこない。

私は伊都国までがやはり万二千里だと思うのでそれで割り出すと
どうしても対馬1200里m壱岐を300里たどったという結果が出る。
そして一里約62メートルという計算になる。


39 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 12:03:19
>>38

魏時、一里=約420m


可は 範囲を把握する。

40 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 12:19:05
言ってることが変わんないなら、名無しにする意味ないじゃんw

41 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 12:21:51
「可」

─ と │ の(┐)二辺を認識し、口(範囲)を把握する
だから

「可」は、二辺の合算

42 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 12:34:58
>>40
2ちゃんは名無しがデフォなんだろう。
今の所、コテで登場する気はないよ

43 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 13:04:50
「可」についていろいろ適当な意味をつけているが、これは推量を表す文字。
方三百里は方三百里なるべしということで、方三百里の正方形に相当する面積
であろうという意味。38氏が言われるとおり、面積だから実際の形とは無関係。

44 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 13:08:53
>>43
2行目の頭 方三百里→方可三百里に訂正

45 :のんびりひまじん:2008/10/16(木) 13:11:15
>>39
>魏時、一里=約420m

いまさら、未証明仮説を言い出すのか?

古田武彦さんが、魏志東夷伝中の韓伝(韓の条)から

韓は方4千里ばかりなり を指摘。

一里=70〜80m つまり短里の存在を指摘。(「邪馬台国」はなかった1971 で始めて。次、安本美典さんも支持。)

魏志倭人伝を、簡単に解釈するとき、
マツラ国に到着までで10000里以上、残り2000里以下 ということが基本。
ここで短里を知ると残りは150Km以下・・・九州中北部の範囲内に邪馬台国は存在と見るしかなくなる。


  〜その他、細かな議論で一々比定したくなるだろう。
      この2ちゃんを読むだけの人たちへ
       細かな議論と私の大枠説明の違いを理解されたい。

議論しているうちに、
○一里=70〜80m
×一里=420m      を証明抜きに出す者がいる。 >>39

46 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 13:29:12
>>45
万二千里は女王国まで。女王国と邪馬台国を混同してはならない。

47 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 13:45:03
>>45
>未証明

なにをおっしゃる兎さん。
魏尺があるだろう。


一里約70mの原器は何だね?
一里約70mの尺の値は
一尺=4pとでも言うのかね?

48 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 13:48:30
>>43

何とかの一つ覚えじゃあるまいに

可が全て推量と思うなかれ。

文字は文章で意味は変わるし、文章の数だけ意味は有る。

49 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 13:56:33
とか言って、妙なこじつけ解釈をしないこと。

50 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 13:57:54
で、なんだ
古田氏は、未だに確定されていない韓の範囲を恣意的に設定し、そこに記された四千の数値を元に
割り算し、短里の存在をしてきした?
ん?

最初の出だしから胡散臭さ満点な指摘じゃないか?

51 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 14:02:52
>>49
何処がどのようにこじつけられているか、説明
してみそ。

52 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 14:15:23
>>45

約4pの曲尺を見せてくれ。

53 :のんびりひまじん:2008/10/16(木) 14:28:13
>>52 いい加減なこと言うもんだな

里系統≠尺系統 

  
     〜2ちゃんねる読者には初心者が多いから気をつけよう

54 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 14:33:32
>>53

それじゃあ貴方の
里系統と尺系統の違いを説明してもらおうか?
私の記憶だと
里系統と尺系統の違いを言い出したのは、貴方で二人目。

じっくり
聞いてあげるよ。



by 元祖

55 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 14:59:55
対馬や壱岐の長さを里程として加えるというのは吉田説だっけ?
もしそのようであるならば、三国志は現在伝わっているような文章では
書かれていないだろう、という推測が簡単に成り立つから間違いは明らか。

あと、方可四百餘里は面積を表しているので
400x400でも800x200でも間違いではない。
これを400x2の距離とするのは算数ができていないだけ。


56 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 15:11:38
>>55

算数云々の話しじゃないだろう。
貴方は単に十六万平方里が言いたいだけだろう?もし
文章がそれを述べたいのであれば
十六万平方里と書けばいいだけで、方可四百餘里なんて書く必要性もない。

57 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 15:14:42
>>56
当時、面積を表すのに慣用された書き方だからね。ほかに書き方があるだろう
と因縁をつけてもなあ。

58 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 15:25:49
>>57

面積を表すのに用いられた表記は
「方四百里」
で、
「方可四百里」
ではありません。が

59 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 15:30:01
方四百里だと書いても、方四百里だろうと書いても、面積であることには
変わりない。

60 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 15:39:04
変わりないとしか認識なければ、変わりようがないな。変わらない人に、変わると解いたところで
変わらないのだから
時間の無駄だな。

61 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 16:47:09
>>55
方可四百里は縦と横の長さが四百里ある広さを示す。
面積は同じでも400x400の場合だけ。
800x200の場合は「東西二百里南北八百餘里」等と表記される。



62 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 16:49:16
>>61
追加
方可四百里は縦と横の長を示しているのであって、面積を示しているのではない、誤解のないように。

63 :のんびりひまじん:2008/10/16(木) 16:54:13
これが短里の根拠(その1)だ:古田武彦さん1971「邪馬台国」はなかった
↑    一里=70〜80mだ。安本美典さんも支持した

韓は方四千里ばかり(魏志韓伝:1968三品彰英さんが東夷伝全体を読むよう提言)


これはウソじゃと主張:山尾幸久さん1972版魏志倭人伝
       近畿説防衛のため、つまり短里を否定するために、文献無視を追加した
文献的には、無視否定読み替えを並べる近畿説がヒドくなって、さらに30年余り
      (南→東、温暖の地、里程無視、銅鐸記述なし、瀬戸内海沿岸記述なし・・・これらに追加が短里無視・・)

それから30年も経過して、まだ、このように文献無視を繰り返す

>>50
>古田氏は、未だに確定されていない韓の範囲を恣意的に設定し、そこに記された四千の数値を元に
>割り算し、短里の存在をしてきした?

この議論の仕方こそ、最初の出だしから胡散臭さ満点な指摘じゃないか?

64 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 16:57:50
>>62
同じ方可四百里でも正方形、丸型、星型、コの字等で面積は異なる。

65 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 17:09:41
>>46
女王国とは邪馬台国の中の首都圏を指す。
女王国の首都圏とは女王の都、伊都国と奴国。

66 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 17:15:03
>>50

古田の示す韓の範囲は妥当でしょう?
あなたの考えの韓の範囲とは違うんですか?説明してください。

67 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 17:29:55
>>66
韓の範囲認識に、妥当も糞もない。
現在のように、地図があったわけでもなく
地面に線を引き、区分けされた訳でもない。
概ねこの辺りが当時韓と呼ばれたであろとするのみ
妥当も糞もない。

68 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 17:35:19
>>66


「韓在帯方之南東西以海爲限南與倭接方可四千里」

これが主観を一切省いた
当時、韓と呼ばれた範囲です。

69 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 17:41:14
>>64
だから
方可四百餘里は、
この場合、縦(南北)と横(東西)の合算値ではあるが、
面積でも長さでもない。
物事の広さを示す、規模だ。

70 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 17:45:27
>>69訂正

物事の広さ……×

物事の大きさ…〇


m(__)m

71 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 17:49:36
古田説はなんぎやな
YAHOOでもリアルに否定されてるわ。
応援行かんでええんか?

72 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 18:05:36
八十万というのはヤトマ、入れ替えるとヤマトと読みますよね。

崇神紀に
倭とと日百そ姫命が
天皇はどうして国が治まらないのを憂いているのか。
もし我を祀ればおのずと無事天下をおさめることが出来るだろう

なんだか倭国大乱の後の卑弥呼の共立にそっくり。

天皇:そうおっしゃるあなたはどちらの神ですか?

倭とと日百そ姫命:わが名は大物主神。倭国の境のうちに住む神だ。

そうそう邪馬台国は倭国の南の狗奴国と仲が悪かった。
邪馬台国は倭国の境である。

景行紀では八女県に行ったとき天皇が筑肥山地をみて
この山にはきっと神がおられるのだろうといったら、
三潴の猿大海が女神がおられます。常に山の中にいらっしゃいます。
といっています。

邪馬台国は熊本と福岡の県境あたりだといことがわかりますよね。


73 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 18:23:41
高天原の八十万の神々って

まあこじつけですけどヤマトの・・・
って読めなくもない。
日本書紀が一番最初に使ったのですかね、この言葉。

74 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 20:41:06
>>69 >>70
方可○○里がそのような特別の意味を有する言葉ならば、漢和辞典などに載っているはず。
載っている辞典は見つけられたかな?


75 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 20:46:27
>>73
八十万の神々? 八百万の神の話かな?

76 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 21:06:06
>>74
>載っているはず

載っているはずとする主観は
どこからくるのかな?

77 :のんびりひまじん:2008/10/16(木) 21:14:23
>>67
>韓の範囲認識に、妥当も糞もない。

近畿説の山尾幸久先生は、このような汚いコトバは使わない。(大化の改新研究のような業績もお持ちだ。)

山尾先生は、魏志倭人伝が連続する同じ文献(韓伝)に書いてあること、

韓は方4千里ばかりなり を 

ウソ とでも主張しなければ、近畿説は苦しいことを明言されただけのこと。

そのことは文献的には昔から、強引だった近畿説にもう一つ 魏志東夷伝の記述を拒否せねば
ならぬことが追加されただけのこと。
短里の存在指摘以来、近畿説の苦しさは、もう30年以上続いた。 

>>50 >>67 のこのコトバの異常さは
短里を否定するための言いがかりであり、この言い方の中に
短里の存在が、近畿説に致命傷であることを、自ら認めている と見える。

78 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 21:21:05
>>77
プは畿内説ではなく、根っからの九州説です。

79 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 21:26:25
>>74

>方可○○里がそのような特別の意味を有する言葉ならば、漢和辞典などに載っているはず。
載っている辞典は見つけられたかな?

動詞として使用されている「ゆるす」
これなんて 正に(範囲を把握する)という意味ですね
「ゆるす」という和語の意味が(範囲を把握する)ということです。

80 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 21:30:18
>>77
更にもう一つ。
自郡至女王国万二千余里。郡から南へ南へと一万二千余里(韓の南で少し東へ
行くけど)、なのに何で会稽東冶の東なのか? 
郡の西、山東半島から一万二千里も南へ行ったら赤道あたりへたどり着くこと
を中国人は知らなかったのか? これも短里ならば不自然はないね。

81 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 21:33:27
>>61
実際の対馬の形をみれば方四百でないのは明らか。
ゆえに方可四百餘里は、その形を表しているのではなく
おおよその大きさ=面積を表している。
よってこれを里程距離に加えるというのは間違い。

島沿いの距離が里程距離に加えるべきならば、あなたの言うように
形のわかる書き方がされていなければならない。

算数ができないとこのような簡単なことも分からない。


82 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 22:31:00
誰かさんが早くコテに戻ってくれないとNG登録が機能しないっす。

83 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 23:34:01
>>81
だから方可四百餘里は面積を表しているのではないのです。
方の字に面積の意味は無いですよ、方は辺と共通義が多い字で、
方・・・架屍の形。横にわたした木に、人を架けて境界の呪禁とする。・・・が方の字の元々の意味。
方可四百餘里は単に縦、横の長さがそれぞれ四百里くらいと推定できるの意味です。
対馬の場合は南だけを方可四百餘里と書いているのでしょう。

これを里程距離に加えるというのは間違いなどとは言えません。

84 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 23:46:22
>>83
何か支離滅裂、・・・大丈夫?

85 :名無し推進委員会:2008/10/17(金) 00:04:15
>>82

名無しバンザーイ(^O^)/

86 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 00:29:52
>>79

日本では「可」は「できる」の意味で使われてるだろう。
例えば「許可」と言う熟語は「ゆるす」を意味するが、「ゆるす」の意味は「許」のイメージによるところが多い。
「認可」「可能」・・・これらの「可」は「ゆるす」じゃなくて「できる」の意味で使われてるでしょう。

「範囲を把握する」と言う奇妙な日本語の意味もナンだが、これと許すの関係もよく解からんな。
「できる」も「許す」も区別がつきませんと脳が言うななら仕方が無いが・・・

87 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 06:25:20
>>86
「できる」も「ゆるす」も『可』と言う文字が
“範囲を把握する”という意味だから
発生するんだよ。

たぶん理解出来ないと思うけど。

88 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 07:13:47
>>87
「可」は、方可四百里などのほかに、可五万余戸などとも使われている文字。
三木太郎らはいずれも「ほぼ」と訳し、山尾はいずれも「ばかり」としている。
推量→やや曖昧だという意味であることはいわば初歩の初歩。

89 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 07:47:13
>>88
それは「ほぼ」や「ばかり」と言う和語のイメージから推測したものであって
本来の文章内での「可」から考えられたものではないよね?
可が推量なら
有〇〇は実かい?

90 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 07:56:52
>>88
貴方の場合、やや曖昧と表現されているようだけど
では、やや曖昧でない
曖昧や曖昧でない正確な数値な場合、可ではなく
いったい
どう、表現しようというんだね?

91 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 09:48:28
>>89
>それは「ほぼ」や「ばかり」と言う和語のイメージから推測したものであって
「ほぼ」や「ばかり」から推量と考えたわけではない。漢文として当然のことだからだ。
私ならば、「なるべし」と読む。「なるべし」の意味もわからんと言われそうだが。

>可が推量なら有〇〇は実かい?
趣旨不明。

>>90
質問の意味がはっきりしない文章だが、曖昧でない正確な数値な場合ということならば、
「可」を入れなければよい。

92 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 10:16:27
>>91
漢文として当然と言われても、可五万余戸と
五万から零れ落ちる余戸分を記載しているのだから
「可」を
「ほぼ」や「ばかり」の推測とする意味合いに
捉えるのは矛盾している。
確実に五万を把握するからこそ、余とする数値を確認出来るのでは?

93 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 10:30:37
>>92
>五万から零れ落ちる余戸分を記載しているのだから「可」を「ほぼ」や「ばかり」
>の推測とする意味合いに捉えるのは矛盾している。
別に矛盾しないだろ。可五万=五万であろう。可五万余=五万余りであろう。
どちらも文章としてあり得る。後者の方が観察の細かさを感じさせるかな。


94 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 10:43:40
>>93

文章で、有り得るとか有り得ないと言う問題じゃないよ。

「五万であろう。」
これは例え実数値が四万九千であっても、五万一千でも
概ね五万とし、成立するが

「五万余」は
そうはいかない。
実数値が四万九千や五万では絶対に使えないもので、最低五万一(50001)把握されていないと使用できない。
つまり
五万と言う塊は、動かすことの出来ない絶対数値

これが「余」の持つ
核心的な意味ですよ。

95 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 10:53:22
ご苦労様。で、五万余りだろうというのは、文章としてあり得ないというわけ?

96 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 11:00:35
>>95

>五万余りだろう。

この場合、「だろう」と言う推測は
「余」とする部分に正確性を伴わないために発生した言葉。
決して五万の部分まで含まれてはいない。
「だろう」は「余」の部分。

97 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 11:17:19
>>84には難しいかな。

方可四百餘里は面積を表しているのではない。
方の字に面積の意味は無い、方は辺と共通義が多い字で、線的なものを表す。
方字の元々の意味は・・・架屍の形。横にわたした木に、人を架けて境界の呪禁とする。・・・です。
方可四百餘里は単に縦、横の長さがそれぞれ四百里くらいと推定できるの意味です。
方可四百餘里ですから対馬国の場合は南だけを書いているのでしょう。対馬の北半分は対馬国ではないと認識されたのだろう。

方可四百餘里は面積でなく島の寸法を記したもの、これを里程距離に加えるというのは間違とは言えません。

ついてに可の字は、漢字の辞書に推測することが可能であるの意味があるとあります。


98 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 11:18:53
訂正
ついでに可の字は、漢字の辞書にも推測することが可能であるの意味があるとあります。


99 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 11:42:02
>>97
それで、方四百里はどう解釈するの? あなたは>>58とは別人かな?

100 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 11:45:47
>>99
別人です。

101 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 12:03:46
>>99
方四百里とは何処に書いて有るんですか?

102 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 12:07:38
>>96
横から
>「だろう」は「余」の部分。
余は前にも話題にしていたけど、
だろうじゃなくて+α
てことでしょう。
辞書に「有余」とはあまりがあること、あまり、以上、と書いてありました。
可○余戸の場合は、有が可に変わったのだから、
○戸余り(○戸+α)あると言っていいだろう、みたいな感じかな。
有の場合ははっきりしているけど可の場合はだろうという意味。
「余り」と「だろう」は一緒にはならない。


103 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 12:49:03
>>102
+αなんて
辞書に書いてあることそのままじゃん
もう少し、見えない部分読み取れないかい?

104 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 13:22:45
>>101
前に方四百里と方可四百里とのちがいを力説した方がいたから聞いてみたまで。


105 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 13:45:00
もしも島を一周した場合は
周旋可五千余里(裸国、黒歯国のところ)
とか書きます。
周囲の長さを現しています。
5千余里の長さの紐をかこんでください。
けれども形によっては面積が違ってきます。
まん丸であるか超楕円形であるかでちがいますよね。
方可四百余里というのは
一辺は四百里余りであろうだから
面積(400余里×400余里)を表しているわけで、

けっして周囲の長さをあらわしているわけではない。
例えば縦が800余里で横が200余里の場合も(800余里×200余里)
で上と同じ面積になります。

けれでも周囲の長さは一辺が可400余里のほうは、400余里×4で1600余里になります。
下の場合は800余里×2+200余里×2で2000余里になります。

ですから周囲の長さは「形」によって同じではなくなるわけです。
であるので方可400里は面積を表しているのであって、けっして長さを表しているのではないから
里程に加えるのはおかしいということになります。



106 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 14:03:18
>>105
もし、島を一周した場合

「周〇〇里」

と、書きますから
貴方の考えは、根本的に間違っています。

107 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 14:20:02
>>106

周旋可五千余里と確かに魏志倭人伝には書いてあります。

確かめてください。



108 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 14:31:03
>>107

書いてあることが
貴方の解釈と同じでないことを知ってください。

島を一周したら

周〇〇里です。

だから
周旋可五千餘里は、べつな意味にナリマス。

109 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 14:34:03
>>108
同じ意味です。
周りは○里ですと、
周りをめぐると○里です、
というだけの違いです。

この日本語の2つも違う意味というならもう説明のしようがありません。

110 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 14:36:33
>>108
それとも就職の周旋なら○里の範囲は可能ですとでも?w

111 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 14:52:24
>>109
十年後も
今と変わらない主張が出来ると自信があるなら
私は
何も言う事はありません。
お好きなように解釈してください。

112 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 14:58:04
>>109

もう面白すぎ!あなたは。



113 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 14:59:29
>>111
もう面白すぎ!あなたは。

アンカー間違えた私も面白すぎ!w

114 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 15:33:53
>>105
>方可四百余里というのは
>一辺は四百里余りであろうだから

ここまでは良いが

>面積(400余里×400余里)を表しているわけで、

となるのか?
方可四百余里というのは一辺は四百里余りであろうだから
縦と横の長さがそれぞれ四百里余りほどであるの意味です。
縦と横の長さがそれぞれ四百里余りほどでも正方形、丸、星型等の地形があるので
面積(400余里×400余里)を表しているわけではないのです。
島の外側の長さを示しているだけです。


115 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 15:54:50
>>114
>縦と横の長さがそれぞれ四百里余りほどであるの意味です。
だったら縦四百余里横四百余里と書けばいいんです。
あるいは縦横四百余里と。
逆にいえば書いてないからこそ面積を表しているといえる。

けっして同じ長さだからという理由で省略したわけではない。

なぜ一辺は400余里ならば、もう一辺も400余里になると決め付けるのだろう。
必ずきっかり400余里400余里と進むはずはない
だったら最初から800余里と書けばよい。
船を停泊させるに好条件な港だってそんなにきっかりあるわけないんだし、
それだったら最初から800里と書けばいいはずだ。
方可四百余里などと紛らわしく書かなくても。




116 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 18:34:45
方可四百余里というのは
一辺は四百里余りであろうだから
もう一辺も同じく四百里余りであろうになる。

>縦四百余里横四百余里と書けばいいんです。
>あるいは縦横四百余里と。

そんな例あるんですか?

>それだったら最初から800里と書けばいいはずだ。

どのように?

>方可四百余里などと紛らわしく書かなくても。

方可四百余里の意味は紛らわしくはない。
問題はこれを行程距離に入れるか入れないか。





117 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 19:32:16
>>116
一辺が400里でもう一辺も400里を通過したよといいたのですか?
であれば陸に沿って水行しながら800里と書いた方がいいではないですか。
循海岸水行暦一大国とか。

島に立ち寄った場合船の停泊できる港に泊まります。
その時何回港を立ち寄ったかはわかりませんが、延べの距離を書けばいいのであって、
なぜ二等分するのですか?
方400里を2倍にして里程に足しているということは、
すなわち800里沿岸を水行しましたよ、ということで里程に足されるわけなんでしょう?
なぜ2で割るのですか?
なぜそんな面倒なことを書くんですか?





118 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 19:37:20
>>116
>問題はこれを行程距離に入れるか入れないか。

今まであなたは入れていたんでしょう?
長さとして認識していたんだから。
今さら何を迷っているんです。

119 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 20:15:34
>>118
あんまりからかわないで、教えてあげたら?

120 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 20:26:09
>>119
118は117と同じです。
からかってはいないです。
正直な感想です。



121 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 20:42:34
>>117
>なぜそんな面倒なことを書くんですか?

面倒ではないでしょう、「循海岸水行 歴對馬國 乍南乍東 八百餘里」と「方可四百餘里」では
前者が数倍面倒で後者が簡潔です。
「方可四百餘里」は行程の距離だけでなく、島の寸法としての情報をも含んでいる。
對馬國がどのような国かの説明の一つとしても書かれているのです。

122 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 20:59:23
>>121
>對馬國がどのような国かの説明の一つとしても書かれているのです。
とんでもございません。
となりあわせる2辺が同じ寸法だというだけで
4角形ということがわかるだけ。
正方形もあればひし形もあるし、2辺が同じ長さであとの二辺が短かったり、
長かったり、あとの二辺もそれぞれ寸法が違っていたり、
いろんな四角形が想定できる。
くの字型もあるかもしれない。
周囲の長さも表さなければ、面積も表さない、
形も表さない、
いい加減な表記ということになります。

123 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 21:10:42
>となりあわせる2辺が同じ寸法だというだけで

形は分からなくとも、縦と横が400里あることが分かれば十分だ。
限られた文章だけで地図が無いんだから。

124 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 21:57:11
>>123

でも普通に考えて方○里というのは4辺がみな等しいと考えますよ。
でその半分の距離を里程に加えるということは島を半周するということです。
なぜきっかり半周するんでしょうか。
もしもひらべったいひし形の島だっとしたらなぜ半周しちゃうんですか。
たとえば、壱岐から目的の北部九州の港に着岸する場合、
半周したら目的の着岸する地点から遠く離れてしまうかもしれません。




125 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 22:06:50

____________
        ■


____________
        ◆


こういう場合もあり得るね。www

126 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 22:07:23
当時の航海が「循海岸水行」だったからでしょう。
海岸に沿って航海し、
島まで最短地点から海を渡り、
島に着いたらまた海岸に沿って島を半周、
次の目的地の最短地点から海を渡った。

127 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 22:09:19
>>125
意味不明?分かり易い説明をして。

128 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 22:09:32
>>125
そんな向きなんかわからないじゃないですか。
たとえば対馬とか壱岐に限らず、
方○里って書いてあったら、
みんな2倍して里程に加えてしまうんでしょ?
みんながみんなそう都合のいい向きにあるはずないですよ。

129 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 22:11:22
>>125の上の図も、海岸に沿って航海してるね。www

130 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 22:17:45
>当時の航海が「循海岸水行」だったからでしょう。

だったら海峡は渡れないね。
ある一部分の記述を、自分の都合の良いように、航海一般にまで広げちゃうんだね。wwwww

131 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 22:19:48
>>129
だから正四角形は、たとえばもっともっと平べったいひし形も考えられる
わけですよ。
もし、それが長い対角線のほうが東西に横たわっていたら、島を半周したら、
目的地まで行くのに無駄じゃないですか?
一辺を通過だけで十分なはず。

132 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 22:44:31
航海術が未熟な時代、外洋を越えるんだから心理として少しでも目的地に近づいて短い距離を渡るのが常識。
北から来たのなら、最北端に着いて半周して最南端から次の目的地に向かった。

「到其北岸狗邪韓國」から「始度一海千餘里至對馬國」だから南に向かったのが分かる。
「又南渡一海千餘里」は南と明記されている。
「又渡一海千餘里至末盧國」は方向は無いが「又」とあるので南と推測できる。
「循海岸水行」なんだから普通に読んで島を半周したと思える。



133 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 22:47:20
>>130
>だったら海峡は渡れないね。

渡ったと書いてあるでしょ。
屁理屈ばかりだなWW


134 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 22:55:56
>>132
ですから何度もいいますけど、島を半周したら遠くなることが
あるわけですよ。
対馬、壱岐の場合はやや都合よく並んではいますが。
でも他の場合みんながみんな都合よくならんでいるとは限らないじゃないですか。
方○里が長さをあらわしているんだったら、4辺が等しい平べったいひし形も考えられるわけです。
でも方○里っていうのは面積を表していると主張しているんです。
すなわち正方形と仮定して面積を表していると言っているんです。

135 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 23:04:03
あのねGPSとか無い時代ですから、海を渡る時は目的地の島影を目標に進むんですよ。
北岸から南下すれば嫌でも島の最北端に着きます、
次の目的地が島の南側なら島を半周しないと島を離れられません。

目的地の島が次々に並んでいる状態を想像すれば、
各島を半周するのは当然と考えられるでしょ。


136 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 23:06:38
>>135
ですからその進む方向がまっすぐの場合でしょ。
南行って東に行く場合は一辺ですむわけですよ。

137 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 23:33:55
>>135

>北岸

どこの?

138 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 00:12:07
>>135
巨済島あたりから対馬の浅茅湾にいきなり入るというコースも考えられるな。
対馬から一支国へも壱岐の最北端を目指すよりは、目的の港を直接に目指すだろう。

139 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 05:54:02
>>138
目的の港を直接に目指しても、港は直接は見えない。
見えるのは島影。
島影に向かって進めば、島の最も近い部分に着く。
次も同じ方向に進むには島を半周して反対側に向かう必要がある。


140 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 05:59:32
>>136
倭人伝の記述では狗邪韓國は到其北岸(倭の北)とされており、
狗邪韓國から末盧國までは南に真っ直ぐ進むと読める。


141 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 06:26:00
>>140
>倭の北

あれ?
到其北岸 じゃなかった?
岸は何処に消えた?

142 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 06:37:51
> 倭の北

「倭から見たら北」と言いたいだけなのでは?

143 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 07:00:18
>>142
まだ倭に着いていないのに、倭から見ちゃうの?
これ、行程文だよね?

144 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 07:04:30
>>142

例え、倭から見たら

と言いたいのであっても
岸がいつの間にか無視されている事には
変わりないよね?

145 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 07:06:45
>>143
行程文だからといって、倭を基準にしてはいかんという理由はないな。



146 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 07:10:07
>>144
倭の北の岸。狗邪韓国は朝鮮半島の岸にあるという趣旨。

147 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 07:36:39
>>146

だから
なぜ、着いてもいない倭を目印にして説明するの?
行程では
まだ倭は登場しないのに
いきなり倭が登場したら、変だろう。

148 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 07:46:54
>>147
行程の前に倭のことを書いている。その倭との位置関係を示したからと
いって変ということはない。狗邪韓国と倭の位置関係が分かって読者も
理解しやすいだろ。 畿内説論者にとっては嫌な言葉になるかな。

149 :どくだみ:2008/10/18(土) 07:49:12
水行している其の海の北岸という意味ですね。

150 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 08:00:22
私もどくだみさんと同じ意見ですね。
視点は水行している
海の上(大海)

151 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 08:03:08
岸っていうのは、陸地側のことなんだよ。けして海側ではない。

152 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 08:06:39
>>147
横からですが
>なぜ、着いてもいない倭を目印にして説明するの?
狗邪韓国の位置を倭を目印にして説明しているのではなく、
狗邪韓国から南の領域が倭であるという説明をしているのです。

其北岸の其は、従郡至倭の倭を指していて、(陳寿の認識では)狗邪韓国は倭なので
目的地の倭である狗邪韓国は倭の北にある岸にあたり、
ゆえに倭はその南に広がる領域である、という説明の文章。


153 :142:2008/10/18(土) 08:09:35
>>141 >>143-144 >>147-148

>>140氏は、狗奴韓國と倭の位置関係を説明をしているだけでしょう。
「倭の北」と言う文字は、>>140氏がその説明の為に補足したもの。
別に原文にある「北岸」の解釈をしてるわけじゃない。
(大海の)北岸から出発するのだから、「倭」は「北岸」の「南」(真南と決め付けるのはどうかと思うが)。
だったら、「北岸」は「倭」の「北」、そう言いたいだけの文章だったのに、
>>141氏が変な噛み付き方をしたので、合いの手を入れてみただけなんですけどね。



154 :142:2008/10/18(土) 08:23:15
>>152

私も横からですが

> 其北岸の其は、従郡至倭の倭を指していて、(陳寿の認識では)狗邪韓国は倭なので
> 目的地の倭である狗邪韓国は倭の北にある岸にあたり、
> ゆえに倭はその南に広がる領域である、という説明の文章。

岸とは水陸の境目のことで、国と国の境目を指すことは無いと思います。


155 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 09:03:14
其北岸の其が倭でも海でもよい、
北岸の反対側の海を渡るのだから、
南に進んだと読める事は違いない。
したがって倭人伝の記載では島の北端に着き、
島を半周し南端に周るのは必然である。

156 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 09:19:22
>>151
そうですね
海の北岸と言うのは変ですね。

ここは
海の北(北側)の岸

157 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 09:22:36
>>153

大海に北岸なんて矛盾も甚だしい。

158 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 09:26:30
参考までに、

倭の北岸は
九州北部沿岸地域、本州日本海沿岸地域、壱岐北部沿岸地域、対馬北部沿岸地域
これ以外考えられません。

159 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 09:31:06
其のが海では変です、其のは倭を指し
「倭の(海の)北(北側)の岸」でしょう。
対馬も壱岐も倭ですから倭の海。

160 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 09:36:27
>>159

未だ見る事もない
倭、対馬、壱岐を目印にするほうが
よっぽど変。

161 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 09:44:06
>>152
狗邪韓国の位置もまだ確定していないのに?
もしや
自分の頭の中のハナシ?

162 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 10:02:05
「…到其…」

其(大海)に到

「…北岸狗邪韓国…」

北に(韓域の国)狗邪の岸。

163 :142:2008/10/18(土) 10:02:18
>>157 >>159

何でさ





164 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 10:14:12
>>163

考えれば分かる事。

岸は陸域の称

北岸は
陸域の北の海岸や川岸の事。

九州の北岸は、九州北部の海岸部の事です。
仮に韓国南部の海岸なら、「九州の対岸」と
表現されます。

165 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 10:28:08
皆さんやっと納得して
静かになったかな?

ヤレヤレ

166 :どくだみ:2008/10/18(土) 10:36:31
>>164
普通、東西に流れている川の北岸と言えば、川の北側にある陸地のことを言います。
南岸と言えば、川の南側にある陸地のことを言います。
つまり、南北の基準点は水の中に有り、水域の北側にある岸を北岸、南側にある岸を南岸と言います。
倭人伝の元資料の記録者は、船に乗って海岸沿いに海を航行しています。
北に岸が見えます。そうしたら、北の岸にある狗邪韓国に寄港します。
そういう文章です。

167 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 10:41:18
>>161
現実の位置とは関係なく、
倭人伝の記述では
狗邪韓國、對馬國、一大國、末盧國は北から南に一列に並んで存在している。


168 :142:2008/10/18(土) 10:44:11
>>164

それは違うよ。
岸は主題の位置によって呼称は変わるもの。
太平洋とユーラシア大陸、アメリカ大陸の関係で考えてみなさい。
太平洋から見れば、ユーラシアは西岸でアメリカは東岸だよ。
そして、同じ海岸線もユーラシアから見れば東岸になる。
現代の日本語でも、古代の漢文でも普通に使い分けられている用法でしょう。



169 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 10:45:10
>>166
東西に流れているものを設定してください。
でないと
貴方のそのレスが無駄になります。

170 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 10:46:42
>>167
勝手に“関係ない”としちゃだめだよ

171 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 10:49:44
方○里っていうのは常識で考えて正方形のこと。
元々の島が正方形の場合は周囲の長さと面積が一致する。
それ以外の複雑な地形の場合、面積を正方形で表すときは
周囲が合わなくなる。
周囲を正方形で表すとしたら面積が合わなくなる。

常識的に方○里というのは面積だけを表しているんだよ。

周囲を書きたいならわざわざ「方」なんて言葉は使って4分の1にしなくてもいい。
漢字の意味も知らないなんてどうかしてる。
だから面積を表す方○里を長さとして捕らえるのは、
理論上おかしいんですよ。
そんなことも理解できないなんてこの板のみなさん、可笑しいよ。
黙って読んでいる人が笑ってるよ。

172 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 10:54:15
>>166
どくだみさんは
はじめから東西に流れる川と設定しちゃいました。
川は
陸地の中に流れるから当然東西南北の二方向に陸域が存在しています。
で、東西に流れていれば
当然陸域は南北に
川は陸地の一部です。
陸地の一部ですから、当然川の北側は北岸。

173 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 10:58:56
>>171
>方○里っていうのは常識で考えて正方形のこと。
>元々の島が正方形の場合は周囲の長さと面積が一致する。
>それ以外の複雑な地形の場合、面積を正方形で表すときは
>周囲が合わなくなる。
>周囲を正方形で表すとしたら面積が合わなくなる。

ここまでは正解。
この後が、
常識的に方○里というのは辺の長さを表しているんだよ。
合わない面積を表すわけが無い。
でしょ。
方に面積の意味は無い、方は辺と近い意味の漢字です。

>常識的に方○里というのは面積だけを表しているんだよ。

方の字の意味を知らない人間の戯言だな。



174 :どくだみ:2008/10/18(土) 11:06:41
>>169>>172
船は陸地沿いに西から東に航行しています。
この航路を解り易いように川に喩えて説明したのです。
西から東に航行する船から北側に岸が見えます。
船に乗っている人は、この岸を「北の岸」と呼びます。「南の岸」とは呼びません。
島に居る人は、島の北側の海岸を北の岸、南の海岸を南の岸と呼ぶでしょう。
その言葉を発した人が何処にいるかで、何の北にあるのか南にあるのかが変わるのです。

175 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 11:07:42
>>173
方というのは面積をあらわすんです。
だから一辺だけで済むんです。
あなた可笑しいですよ。

176 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 11:11:35
もともと面積表す為の方であるのに、
それを距離としてとらえること自体が
理論的に間違っているんですよ。
そんなの常識じゃないですか。


177 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 11:12:02
>>175
キミは頭が可笑しいようだ。
方の字の熟語を考えてごらん。
方法、方向など。
方が面なら意味が通じないだろ。

178 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 11:15:12
>>177
頭が可笑しいのはあなたの方。
日本人じゃないの?
そんなの屁理屈。屁理屈ばかり並べているから
真実から遠ざかるんだよ。

179 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 11:16:40
>>177
方が面てなに。
一辺を二乗すれば面積が出るでしょうに。
どうかしてる。

180 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 11:17:09
ほうほう・・・

181 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 11:22:39
>>178
キミは現実逃避している。
冷静に現実を直視すべきだ。
真実から遠ざかっているのはキミだよ。
漢字の勉強をしなさい。

>>179
>一辺を二乗すれば面積が出るでしょうに。

現実の島は正方形ではないのだ、一辺を二乗しても面積はでない。


182 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 11:29:13
>>181
だから現実的には正方形なんていう島はないって前から言っているのに。
大体の島の面積を表しているのに。
そんなこともわからないんですか?
けっして距離を表しているんじゃないんです。

183 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 11:35:57
どくだみさん

海を川に例えちゃだめでしょ

川は陸地の一部です。

184 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 11:41:16
>>174

>北の岸

この表現は
北以外に「南、西、東」の岸の存在があって
初めて使えるものです。

「北に岸」とは
意味が違いますね?

185 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 11:41:23
>>183
> 海を川に例えちゃだめでしょ
> 川は陸地の一部です。

相手が海だろうが川だろうが岸と呼ぶことに違いも無いだろう。

186 :どくだみ:2008/10/18(土) 11:48:31
>>183
水に船を浮かべて移動するのは、川も海も同じことです。


>>181
尚書・益稷謨の疏
州更方七千里七七四十九得方千里者四十九其一以為圻?餘四十八八州分而各有六

(九)州は方七千里。七×七で四十九。方千里を得る者は、四十九の一を領域とする。
残りの四十八は八州で、分かちてそれぞれ六ずつを有する。

>>184
>この表現は
>北以外に「南、西、東」の岸の存在があって
>初めて使えるものです。

そんなルールはありません。

187 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 11:49:07
>>182
>大体の島の面積を表しているのに。

キミの妄想です。
論理的な説明も根拠も無く壊れたスピーカーのように結論だけ喚いてもダメ。

188 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 12:08:33
「方可四百餘里」の意味は「四方(縦横の長さ)が四百余里ほどと推定される」です。

189 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 12:10:44
>>186
たぶん
どくだみさんのルールブックには 書かれていないのでしょうから、書き加えておいて下さい。

「北の岸」と「北に岸」
では まるで意味が異なると


>>185

単純に岸だけの問題じゃないんだな

190 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 12:12:02
>>187
あなたの妄想です。
妄想から目を覚ましなさい。
186さんをよく読みなさい。
>>188
あなたも、妄想から目をさましなさい。

191 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 12:25:49
陸があるから川があるのであって、川があるから陸があるのではない。

川と岸は一体化
川があれば岸は自ずと存在するもの

しかし
海は陸と一体化ではない。だから
海があっても岸があるとは限らない。
この場合の岸は、海と陸があって初めて存在出来るものです。
だから海に「北の岸」が単独で存在する事は有り得ません。
有るのは「北に岸」です。

192 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 12:32:36
北の岸なら「北岸」
北に岸なら「北」「岸」

この違いでしょう。

193 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 12:40:20
「北岸」なら
(南岸、西岸、東岸)のいずれかが他に存在しますね。 それはどこ?

岸が単独なら
「北岸」なんて書かずに、「岸」で 事が足ります。
だから
ここは北岸では無く「岸」

194 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 12:54:58
>>191

> この場合の岸は、海と陸があって初めて存在出来るものです。
> だから海に「北の岸」が単独で存在する事は有り得ません。
> 有るのは「北に岸」です。

だから陸に「北の岸」が単独で存在する事は有り得ません。
つーとも言うが、だから何のさ?
貴方が何をどう誤解して、「海の北岸」が在り得ないと思い込んでるのかワカランなあ。

例えば「太平洋西岸」と言う文字列でぐぐってみると400,000件ヒットするよ。
これは主題が太平洋と言う海だから、その西側の海岸線を西岸と呼ぶわけだ。
「帶方東南大海」が主題であれば、その渡海点を「北岸」と呼んで何ら指しさわりのないことでしょう。

195 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 12:59:43
謨の疏?
尚書・益稷
http://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=21098&if=gb

196 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 13:02:35
>>193
> 「北岸」なら
> (南岸、西岸、東岸)のいずれかが他に存在しますね。 それはどこ?
> 岸が単独なら
> 「北岸」なんて書かずに、「岸」で 事が足ります。
> だから
> ここは北岸では無く「岸」

「岸」とは水陸の境に存在します。
韓半島が陸であるとの認識は共有してもらえると思うけど、
では「北岸」の南にある存在は何?
もし、「倭」だとしたら「倭」とは水域の呼称になりますね。
だけど、倭人伝では、倭は海中にあっても洲島に存在する「陸」と認識されているのですよ。

「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」

わかりましたでしょうかw


197 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 13:03:23
>>168

単純そのもの

もう少し、ものの道理を考えような!

西岸は東岸があるから西岸と呼称され、北岸は南岸があるから北岸と呼称される。

198 :どくだみ:2008/10/18(土) 13:06:20
>>193
>「北岸」なら
>(南岸、西岸、東岸)のいずれかが他に存在しますね。 それはどこ?

それは、あなたの思い込みですよ。
船は韓半島の南の海上を航行しています。
船に乗っている者同士なら、「岸」で通じるでしょう。
しかし、読者はどの方角に岸が存在するのか、書かれない限り解りません。
「南岸」「西岸」「東岸」がなければ「北岸」と書いてはいけないなら、
読者は一方にしかない岸が、どの方角にあるかを知ることが不可能になります。

>>192
>北に岸なら「北」「岸」

北に岸なら「北有岸」でしょうね。「北岸」にも「北」「岸」にもなりません。
船に乗っている者が「北岸」と言えば、船から見て北の岸です。
「北に岸有り。其の岸に狗邪韓国有り。船は狗邪韓国に到る。」
史書はこんなにもってまわった書き方はしません。
同じことを書いた場合、文字数が少ないほど優れていると考えられていたようです。

199 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 13:07:45
>>196
「もし」いらない。
必要ない。

もしもし亀よ、亀さんよ

200 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 13:42:55
>>198
>思い込み?

どこが?
それはどくだみさんが、そう見ているだけでして。

>舟の上の船員

船員なんて出てきましたか?

201 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 13:50:08
>船に乗っている者が「北岸」と言えば


たぶん
その船員の語学力が足りなかったのでしょう。w
で、その船員の発した「北岸」は
誰が聞いたのです?

202 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 13:56:47
島を半周すれば南の島に行くっていうけどね、
古田説のいう方里を2倍にしたって、島の半周にはならないんですから。
勘違いしていそうなレスがずっと上のほうにあるから念を押すけど。
そもそもそこからして間違っている。
島の面積を正方形で表しているんだから、周囲の4辺の長さを方里の里数×4しても島の実際の周囲の長さと
同じではないですから。
それをですね、方里の400里を使って2倍にすれば、その距離が島の半周だなんて思ったら
大間違いですよ。
方の漢字の意味も知らないなんてなさけない。



203 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 14:14:37
ホクガン君と言うネーミングを賜りましょう。


204 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 14:19:58
半島南部が倭地の古田氏なら

あそこは倭地です。
倭地の海岸です。
とでも言うのかな?

205 :どくだみ:2008/10/18(土) 18:10:04
>>195
>>186の篇名は、中央研究院の検索結果をそのままコピペしたものです。
ご指摘をみて、そう言えば阮元本も益稷だし、益稷謨って言わないなあと思い検索してみると、
益稷謨というのもある程度でてきました。
ですが、もともと益稷謨という呼び方があるのか、それとも中央研究院のテキストが間違いで、
それが広まっているのかはわかりませんでした。

206 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 19:53:41
益稷は偽古文尚書ですね・・・。

>州更方七千里七七四十九得方千里者四十九其一以為圻?餘四十八八州分而各有六

>(九)州は方七千里。七×七で四十九。方千里を得る者は、四十九の一を領域とする。
>残りの四十八は八州で、分かちてそれぞれ六ずつを有する。

信憑性が???

207 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 20:38:01
誰も解けない謎か・・・

でも箸墓古墳なんでしょ?
そうだとしたら、倭人伝の記述とあわない?

208 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 20:51:56
箸墓古墳は箸墓古墳。
邪馬台国は九州。
何の問題も無い。

209 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 22:45:31
もう
・北九州の王=伊都国王
・畿内の王=邪馬台国女王卑弥呼
・北関東の王=狗奴国王卑弥弓呼
でいいじゃん。

210 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 22:52:51
箸墓は4C半ばの古墳だよ。

畿内説は苦し紛れにあれを古くしているけど、みっともないねえ。


211 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 23:04:14
>>210
九州説論者はみなそういうさ。
最新の考古学の成果によって畿内説有利になって来たから
「全て畿内派考古学者の捏造」で済ましたいからね。
…九州説は苦し紛れに古い年代感を振り回すけど、みっともないねえ(笑)

確かに魏志倭人伝には銅鐸祭祀は書かれていない。
だが、銅剣銅矛祭祀も書かれていない。

212 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 23:13:28
>>210
根拠は?
下手すれば伝祟神陵よりも新しくなりそうだがwww

>>211
まあ祭祀ではなく実用品として兵に矛を使うとは書いてあるが
もし当時の日本の様子を忠実に書いた物なら
なんで「戈」が出てこないって話なんだよなwwwww

213 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 23:19:05
>>211
畿内説の学者でも、あの遡上年代を本気で信じている人は1人も居ないだろ。
学界での政治的な面から追随しているだけだろう。
もうこんな茶番で時間を浪費するのは止めにして欲しい。

戦後は左翼全盛の「空白の50年」と言われた時期があったが、
このままじゃあ「空白の100年」になりかねない。


214 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 23:25:29
>>213
日本で約550枚が出土して、国外では1枚も出土していない三角縁神獣鏡を舶載であると
固く信じている人もいるので、トンデモだからといって信者が居ないとは言い切れない。
むしろトンデモだからこそ信者がいる。

215 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 23:32:17
>>210
>箸墓は4C半ばの古墳だよ。

どうやってその年代を割り出したの?
詳しい説明、希望。

216 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 23:33:49
結局、九州説の連中が必死にしがみ付いている古い年代観というのは
祟神陵が伝承通りで崩年干支も正しいと言う仮定に立脚する物なんだよなw
(無論祟神陵の内部の調査がされた訳じゃないw)

まさか小林理論の三角を舶載とした部分を採るわけじゃないだろうしwww



217 :のんびりひまじん:2008/10/18(土) 23:38:24
>>208
>でも箸墓古墳なんでしょ?
短里(一里=70〜80m ∴百余歩<=30m)が存在する。大古墳≠卑弥呼の墓 

>>211
>銅剣銅矛祭祀も書かれていない。
兵(器)は矛・楯・木弓を用いる。
(中略)
宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人有り、兵(器)を持して守衛。   とある。

つまり、婢千人が侍る卑弥呼の宮殿を守衛する人は、矛という兵器も持った と読む。

            〜これしきのこと読めませんか?


☆大古墳は、魏志倭人伝に出てこない。
近畿説者は、魏志倭人伝に書かれていない大古墳を邪馬台国の証拠と主張し続けるが、
文献と照応していない点を無視している。文献を無視する考古学者だけの主張になりつつある。

218 :サガミハラハラ:2008/10/18(土) 23:39:19
箸墓がでている崇神10年は復元日本書紀紀年法では西暦273年秋年前期にあたります。
ただし、邪馬台国とは関係ありません。
畿内には崇神朝があり、北部九州には邪馬台国があったのです。

219 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 23:42:33
>>217 ひまんじ

ヨコからだが…

>>211は「銅剣銅矛祭祀」と書いてある。

祭祀に使われた武器型青銅祭器と実用兵器と分けて考えようぜ?バカw



220 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/18(土) 23:43:02
古事記の崩年干支からの崇神崩御258年説はほぼ正解だ。
倍暦計算でそれとは関係をつけずにやってみて、結果は259年で
ある。つまり古事記の崇神没の干支はほぼ真である。

221 :サガミハラハラ:2008/10/18(土) 23:48:36
太国さん、古事記干支は2倍年暦ですよ。

222 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 23:51:31
>>217
>宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人有り、兵(器)を持して守衛

この部分は明らかに吉野ヶ里のような多重の環濠集落を描写していますね。
これで卑弥呼の時代が環濠集落の時期であると容易に断定できます。

環濠が解体された以降は、楼観(物見やぐら)は作られていない。
環濠に囲まれていたからこそ、外を見るためのやぐらが必要だったが、
環濠が解体されれば、不要となる。

・・・・・たったこれだけのことで、畿内説の年代遡上が論破されてしまう。
それでも一度も検証のない年輪年代とかにしがみつくのは、本当に哀れだよなあ。

223 :サガミハラハラ:2008/10/18(土) 23:51:44
追記、二倍年暦は景行から安康までです。崇神と垂仁は4倍年です。

224 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 23:53:40
前スレの最後でチョコと出したが倭人伝の風俗記事に関してのネタを一つ。
まあ外出じゃないと思うのでwww

潜水漁法について

末盧國では「魚鰒を捕らえる」とあり
倭人一般のものとして「魚蛤を捕らえる」とある。

一見特に違いが無いようだが
前者は「アワビ」で後者は「ハマグリ」で
アワビの方は問題無いがハマグリは潜水漁法に馴染まない。

もし九州でそう言う例があるのなら後学の為に教えてくれwwwwwww

兎に角この板の九州説のの連中は畿内を極寒の地に九州を常夏の地にして
何とか自説を有理にと風俗記事も本当に倭国の事を書いたものかどうかも吟味せず
アホみたく飛び付くから手におえないwwwwww

もっとも広域首長連合体を想定する畿内説にとって
その記事が九州の風俗を表した物であっても何ら不都合は無いのだがwwwwwww

225 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/19(日) 00:01:02
紀無いには女王国はありゃぁしないぜ。wwwwwwwwww
ありゃぁ記紀に卑弥呼の記事が倭人伝以上に満載だ。

226 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/19(日) 00:04:58
三輪山は3倍暦の循環を示唆した山名に想えてならない。
崇神、垂仁の代は3倍暦だ。

227 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 00:11:22
>>213
「空白の50年」の頃の学者は、畿内の後進性を裏付ける「都合の悪いデータ」は
徹底的に無視したが、古墳時代の年代遡上には飛びつかなかった。

彼らは、都合の悪いデータを無視することはしても、積極的にウソをつくような
ことはしないという点で最低限の学者としてのプライドを保ってきたんだろう。
まあ前提からして論外ではあるが。

その「無視」ゆえに、あの時代は「空白」と言われる。
しかし年代遡上は「空白」ではなく「後退」。
学者としての最後のプライドさえもかなぐり捨ててしまったのが、遡上説である。

228 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 00:15:03
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050618/4482.jpg
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050610/2764.jpg
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/090.jpg

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/099.jpg
http://www.sx.xinhua.org/ztjn/2003-08/29/xin_49b7e0a2d93511d7be2c0050ba1967d3.jpg
http://www.shtong.gov.cn/node2/node4/node2250/songjiang/node70313/node70604/images/00004623.jpg

229 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 00:18:01
>>222
>この部分は明らかに吉野ヶ里のような多重の環濠集落を描写していますね。

多重の環濠集落を描写するなら、「濠を二重三重にめぐらし・・・」と書くだろう。
しかし濠については何一つ書かれておらぬ。
すなわち引用箇所は環濠集落ではない、と解釈される。

230 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 00:23:22
つうか弥生末期なら九州でも豪族居館とかが出現し
環濠集落も解体の方向に進んでいた時代だろうに…

多分この板の九州説の連中の頭の中じゃあ邪馬台国は弥生中期頃のお話なんだろうなwwww

231 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 01:28:48
環濠の問題は別の点でも畿内説にはネックになっているね。

弥生末期に各地の環濠集落は環濠を解体して、無防備状態になってしまった。
これは数百年続いてきた環濠集落が終焉するという日本史上の画期的な出来事である。

環濠がなくなれば無防備になる。
それでも環濠がなくなったのは、関東あたりまでの地域が一つの王権の支配下におさまり、
地域間の小競り合いがなくなったからと考えるのが最も自然で合理的である。
誰が考えても最初にこの答えを思いつく。

しかし、畿内説の大多数を占める反天皇制マルクス主義史観の連中は、皇室の権力が
強くなった時期を最大限遅らせて6Cに連合政権から統一政権に変わった主張する。

ゆえに、「なぜ環濠がなくなったのか」と疑問を示すのは彼らにはタブーである。
普通に考えれば、「そのときに日本が統一されたから」という答えになるが、
その答えは神武東征の肯定につながるのである。

232 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 01:37:35
>>231
どうにもこうにも電波がきつ過ぎて良く分からないんだがw

弥生末期に神武が倭国の統一を果たしたと言う話なのか?www

233 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 01:37:41
>>231
なぜ一つの権力が統治する国家では地域間の小競り合いが無いのか、について。

小競り合いをすれば、その地方の勢力は国家権力による制裁を受けるから。
江戸時代では飢饉のときでさえ地域間紛争(隣の藩に攻める)がおきた例が無い。
それをやれば、その藩は取り潰しになることが確実だからである。

奈良・平安時代でも地域が独立性を主張すれば、すぐに「反乱」として制裁を受けた。
この常識があれば、初期王権を「地域連合」などとするのは、言うのも恥ずかしいスーパー
トンデモ学説であることは容易に理解できよう。

しかし、反天皇制で凝り固まった連中には、そんな常識は通用しない。

234 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 01:46:12
反天皇制マルクス主義で思い出したが、直木孝次郎の『神話と歴史』では、
明治時代を<絶対主義の国家>と繰り返し書いているね(49ページとか)。

立憲君主制で議会もあって、天皇が直接統治しない明治時代を「絶対主義」ってのは、
トンデモにしても度が過ぎるね。

まあ、この本は記紀の大部分は天皇正当化の捏造だとか、教科書検定がどうとか、
神話教育(そもそも日本には神話はないそうだ)がなんだとか、極左のアジビラ的な
内容しか書いていないので、学術論文として書いた訳じゃないだろうけど。


235 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 02:11:46
>>234 でちょっと批判したけど、直木さんの本は嫌いじゃないよ。
関裕二とは違った意味で面白みがある。
当たり前のことばかりじゃ世の中つまらないよね。

「直木孝次郎古代を語る」の全14巻も当然買う予定。


236 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 04:10:58
>>231
電波ビンビンの馬鹿げた意見だなw

普通に考えれば
戦いが集落vs集落の構図からより大きなクニvsクニの構図になり
環濠集落の意味が無くなったと介するべきだろう。

首長が良くも悪くも運命共同体たる集落を出て豪族居館に住むようになり
幾つかの拠点集落を束ねるようになった時点で環濠集落の意味が希薄になったとw

あくまで規模の拡充に伴う変化で
「一つの王権の下、争いの無い世界になりました、めでたし」
…なんて一体どんなファンタジーなんだとwww




237 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 07:52:15

>>1
倭人条には『自女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳』
が書かれており、共立の30ケ国のうち女王国より北は戸数や道順、距離
の概略を記述することはできるが、その他女王国の傍らの国々は絶縁の
ため詳細がわからない。と書かれている。
魏国の西側は現在のインド北部・アフガニスタンの国境まで国域があり
カシミールやトルコとも交易を図っていた国である。
そんな壮大な交流交易を行っていた魏の郡使からの報告で『絶縁で詳細得ず』
の記載において、邪馬台国が九州北中部にあったとは考えられない。
こう言えば必ず、邪馬台国以外は関心がなかっただの、正しい報告がなかった
だのとの反論が記載される。一般民による相互交易も相当にあっただろうし
国レベルでの交流も行われていた。
郡使は邪馬台国を訪れていない。九州であれば南部であろう。




238 :どくだみ:2008/10/19(日) 08:39:03
>>206
>信憑性が???

それは全く問題ありません。
まず、僞古文尚書といっても、今でいう輯佚書のようなもので、内容が全く出鱈目ということではありません。
しかし、それすらここでは関係ありません。
尚書の思想を語るのなら僞古文尚書の扱いには慎重にならなければなりませんが、
ここで問題になっているのは語句の解釈であって、尚書の思想内容であはありません。
また孔穎達の疏が現代に偽作されたものなら、漢籍の語句解釈の参考にはなりませんが、
これは偽作ではなく、儒学の正当と見做された伝統的な経義解釈を示しているので、
「方○○里」の語句が、どのように解釈されてきたのかの実例として用いることができます。
益稷が先秦時代に編纂された本物であるか、東晋の梅?が偽作したものかは関係ありません。
それに拠れば、方七千里は七千里×七千里の面積を表す記述方式だということです。

それでも益稷の信憑性が心配でしたら、以前挙げた漢書地理志の顔師古注も再掲しておきます。
これによりますと、方八百里の宗周と方六百里の成周の面積を合算して
方千里と表記することがわかります。
別々の土地にある二つの都市の面積を合わせて、正方形の面積に換算して表記しているのですから、
島が正方形でないからといって、その面積を方○○里と表記してはいけないことはありません。


師古曰:「宗周,鎬京也,方八百里,八八六十四,為方百里者六十四也.
ラク邑,成周也,方六百里,六六三十六,為方百里者三十六.二都得百里者百,方千里也.故詩云『邦畿千里』.」
宗周とは鎬京である。方八百里。八×八=六十四。方百里である土地が六十四である。
ラク邑は成周である。方六百里。六×六=三十六。方百里である土地が三十六である。
二キ(宗周のキと成周のキの両方)で、百里の面積が百個。
(64+36=100 方百里〔100里×100里〕が100個で1000000)
つまり方千里〔1000里×1000里=1000000〕である。
だから詩に「邦畿(ほうき)千里」と言うのである。

239 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 09:48:49
>>219
「倭人は銅剣銅矛で攻撃する」
とも書いてなかったような…

結局、倭人伝には銅剣銅矛銅鐸どれも記されてないんだから
それだけを理由に畿内を抹殺するのは九州説のエゴ。
それだったら北九州も除外される。

>>224
だから魏使は北九州に居る状態で
「邪馬台国は不弥国から水行三十日陸行一月」と書いてるの。
「邪馬台国が北九州にあった」とは書いてない。
大体、北九州のどこかにあるなら不弥国から陸行数日で良いじゃないの。
なぜあんな遠い数字を書く必要が?

>>231
あったとしてもそれは2世紀後半の話で
3世紀後半の東遷は考古学的にも裏づけはないよ。

>>234
確かに明治をそういうのは言いすぎの感がある。
そうなってくるのは1925年、治安維持法が制定されてから。
あそこからどんどん全体主義体制に突っ込んでいく。

240 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 09:56:30
坂田隆の歴史
・独特の邪馬台国東遷説(1975年・邪馬壱国の歴史)
・畿内説(1985年・卑弥呼をコンピュータで探る)
・九州王朝説(1988年・卑弥呼と倭姫命)


241 :のんびりひまじん:2008/10/19(日) 10:30:22
>>239
>倭人伝には銅剣銅矛銅鐸どれも記されてないんだから

(原文に当たってレスしていないのはどっちだ?)

>兵(器)は矛・楯・木弓を用いる。 (中略)宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人有り、兵(器)を持して守衛。   とある。
>つまり、婢千人が侍る卑弥呼の宮殿を守衛する人は、矛という兵器も持った と読む。 >>217

矛 は記載されている! 
 

〜邪馬台国を議論するなら、少なくとも 矛 だけはが書かれていることをジョーシキとしよう。
  (仮に、書いてないことにしたいなら、それを明確に断っておくべきである。)

242 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 10:53:36
矛の材質が書いていない。

243 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 11:11:57
>>241

横レスですが・・・
貴方の書込みを読んで、いつも感じる点について一言。
他人のレスを意図的に外して読むのはやめましょう。

-------------------------------------------------------------------------------------------------

>倭人伝には銅剣銅矛銅鐸どれも記されてないんだから

(原文に当たってレスしていないのはどっちだ?)

>兵(器)は矛・楯・木弓を用いる。 (中略)宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人有り、兵(器)を持して守衛。   とある。
>つまり、婢千人が侍る卑弥呼の宮殿を守衛する人は、矛という兵器も持った と読む。 >>217
矛 は記載されている! 
 
---------------------------------------------------------------------------------------------------

相手の人は、祭祀用銅矛は記述されていないと主張しているだけなのは、
今までのレスの流れから貴方にも理解できていることでしょう。
それを実用兵器としての「矛」が記述されていないと主張しているかのように返すのは如何なものかと。
まあ、相手の方の文章も好戦的な書き方なので、御立腹の感もあるのでしょうが、
議論の中身については、正当な内容で返すべきだと思いますよ。
もともと、相手の方が好戦的なのも、貴方の普段の振る舞いに思うところがあってのことだと思います。
斯く言う私も貴方の書込み態度に反感を持つ一人ですが・・・

> (仮に、書いてないことにしたいなら、それを明確に断っておくべきである。)

相手が書いていないことを書いてあるかのように書くなら、これは私の脳内変換の結果ですと明確に断って下さいね。

244 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/19(日) 11:31:29
この件のことではないが、
故意に、論で焦点をズラす奴っている。揚げ足取りのため等。

245 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 11:46:24
貴方のは「故意」じゃないのねw

246 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 11:51:12
>>243
横レス氏正論!

247 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 12:27:18
>>236
その考えは無理ですね。
畿内説では弥生時代の段階で、すでに地域の首長がいたとしているはず。
しかし、その時代は地域ごとに環濠集落が存在して、地域で独自の防御を
していましたね。

ならば、古墳時代を地域連合とすると、環濠を解体するのはおかしいですよね。
地域ごとに別の権力が統治しているはずだから。

そもそも、日本全国で同じ規格の古墳が作られるのは、一つの権力のもとに
統治されたからでしょう。
それでも「連合」なんてスーパートンデモ説を振りかざすのは、初期の王権は
小さいものに過ぎなかったと言わんが為にするものですね。

「連合」とはっきり書くのは、カルト的左翼学者だけになってきた最近の状況は
健全な方向性であると思います。

248 :のんびりひまじん:2008/10/19(日) 12:30:27
諸君 ありがとう。ところで、
>>224 >>239 の流れはいかが?
>だから魏使は北九州に居る状態で
>「邪馬台国は不弥国から水行三十日陸行一月」と書いてるの。
>「邪馬台国が北九州にあった」とは書いてない。
>大体、北九州のどこかにあるなら不弥国から陸行数日で良いじゃないの。
>なぜあんな遠い数字を書く必要が?

のうち
>不弥国から   という上記の奇妙な読み方はどうなのか?

水行10日陸行一月 の着地は邪馬台国、発地が明記されていない。
こうゆうことも触れずに 不弥国から を前提に議論するのですかね? 

>>244
>焦点をズラす奴

〜今回は焦点を明確化してもらいたいから、質問します。

249 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 13:00:32
>>247
それこそ無理な理屈だな。

そもそも環濠集落の解体は豪族居館の出現等とリンクして
弥生時代既に地域ごとに行われている。

それに初期の前方後円墳の分布は結構「飛び地」に分布しており
お前さんの言う日本全国を統治した王権の形には程遠いw

大体古墳時代にいきなり日本全土を束ねる強力な王権が誕生したなんて
それこそトンデモだなwww



250 :279追加:2008/10/19(日) 13:10:31
それに大和の力が増大し各地の勢力が服従して行く時代になると
むしろ各地の巨大古墳造営は廃れて行き、それは畿内に集中する事となる。

各地域で時に畿内のそれより巨大な古墳が造られると言うのは
それだけその地域の勢力が大きく単純な臣従関係でないことの証左www

ぶっちゃけて言えば
「どっちが王家の古墳か分からん様になる物を造られたら王の面目丸潰れやんけ!」
ちゅうこっちゃねwwwwwww



251 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/19(日) 13:35:23
>>248
貴殿はまじめだが、たまたま主題がズレて行くのは、あとで元に戻ればいいこと
で〜ところがこういうことを〜焦点ズラして揚げ足取りの攻めに使う奴が別に
いるということ。結局以前論で負けた奴が面白くないので、まともにやれば勝て
ないので、そういうズラしでアラを探し、突いて鬱憤晴らしにくるわけ。
貴殿のことではないです。

252 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 13:42:07
>>249
各地に違う権力が存在したなら、環濠の解体なんて絶対ありえんだろ。
その点を認めないから、カルト左翼なんていわれているわけだが・・・
「天皇の権力なんて大きいはずはない」という思想が出すぎですね。

各地で同じ規格の古墳が作られたのは同じ権力で統治されていたからと、普通は考える。
各地で別々の権力が存在していたなら、全く別の埋葬施設になるわな。

>>250
各地の古墳が同時代の大和より大きかった時期などないよ。こんなの基本だろ。
三角縁の分布にしても、別の統治権に配布したなんて無茶な理解はできんよ。

君は発狂すると草を吐き出すんだな。


253 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 13:53:31
>>252
>>252
>各地の古墳が同時代の大和より大きかった時期などないよ。こんなの基本だろ。

はいはい自爆ゴクローサンwww

吉備の造山古墳は?w

http://www.city.okayama.okayama.jp/kankou/midokoro/shisetsu/zouzan/index.html
>造山古墳
>全国でも4番目目の規模の前方後円墳
>古代吉備王国の首長の墓といわれる県下最大、全国でも応神、仁徳、覆中に次ぐ4番目の規模を持つ全長350mの大前方後円墳です。
>造営当時は日本一の規模で、その存在は畿内政権と肩を並べる古代吉備の勢力を物語っています

強固な王権が日本を支配していたならその大きさにも規制がかかるわな普通wwwwwww

254 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 13:59:01
>>252

で・・・

弥生時代から既に環濠集落の解体が始まっていると言う事実に対してどう説明するんだい?wwwww

それとも環濠集落の解体時期=巨大王権の誕生時期 と言う珍説でも出すか?wwwwwwwwww

255 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 14:19:27
横からだが・・・・

>>247
>そもそも、日本全国で同じ規格の古墳が作られるのは、一つの権力のもとに
>統治されたからでしょう。

この前提からして、すでに事実誤認がある。
「日本全国で同じ規格の古墳が作られる」・・・・そんな事実はない。

たしかに古墳時代は、土を高く積んでの古墳づくりが大流行りした時代ではある。
しかし
規格外れの古墳は全国いたるところにあり、「地方色」といったものを感じさせる地域もある。
これ(=規格外れ)は、早期(庄内期)〜前期〜中期〜後期〜終末期を通じ、どの時期にも見られる。

256 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 15:03:56
三角縁については、どうも意図的な作為が感じられてならない。
というのは、景初三年とか正始元年とか銘が打ってある。
それが500枚位あるという。
それに古墳からは決まりきったように銅鏡が発掘される。
何千枚も今までに見つかっている。
単に豪族が使用したものというより、古墳の副葬品としてなくてはならない
お決まりの品であったと考える。鏡は神器の一つなので支配者の証。
それと三角縁は近畿近辺以東しか見られないのも不自然である。
副葬物として大量生産されたのかもしれない。
大量に出土することと、有力者の証として古墳に埋葬されたと考えるとずーっと時代はくだり6、7世紀位になるだろう。
三角縁や銅鐸が2、3世紀のものだと学者がいうが、どうにも信じられない。
6、7世紀くらいの品物だと感じる。青銅器と鉄器を明確に時代区分するのは学者の悪いくせ。
それと古墳は竪穴が古くて横穴が新しいと昔教わった記憶がある。
逆だろうと思う。横穴式のほうが作るのは簡単だ。上に土を盛ればいいだけだ。
時代が下って、古墳の規模が大きくなった時、竪穴式になったと考える。
そこで古墳時代は急速に終焉を迎える。


257 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 15:14:23
>>243
だいたい、銅矛が祭祀用と決め付けるのが良くない。

後期の広型銅矛は武器としては大きすぎる。だから、祭祀用、と考古学者は
言っているのだろうが、これは推測に過ぎないし、仮に祭祀用としても
どういう使われ方をしていたかはわからない。

勝手に、銅矛は祭祀用と決め付け、祭祀用の銅矛は倭人伝には出てこないと
言うのがおかしい。

むしろ、倭人伝に矛が登場するのは重要で、矛から畿内を連想するのは
難しい。九州ならば容易に連想できる。

ついでに、倭人伝には、城柵を厳かに設け、とあるのを環濠とは書かれて
いないという人がいるが、城柵は明らかに防御の厳重な様子を示している。
厳重な防御となれば、環濠を巡らしていると考えるのが普通だと思う。

環濠は残るが、城柵は残りにくい。当時の人には、環濠よりも城柵の方が
ずっと立派で印象に残ったのだろう。

258 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 15:34:26
>>255
>「日本全国で同じ規格の古墳が作られる」・・・・そんな事実はない。

そこまで論外な意見だと、反論するのもバカバカしいけど・・・

纒向型やバチ形といった古い形式からして各地にありますよ。
「規格外のものがあるから規格など一切ない」という理屈が、それじたい論外と
理解できる知能は持ちたいものだね。

>>254
環濠集落の終焉のあとにプレ古墳時代があり、本格的な古墳時代があとに続くわけですが、
環濠集落が全国的に同時期に終焉したということは、そのときに全国に及ぶ統治権が出現
したとみるべきでしょう。


259 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 15:57:33
>>258
>纒向型やバチ形といった古い形式からして各地にありますよ。

きみは最初「全国で」て言ってるじゃん
それがどうして「各地」に変わるの?www
どして
>纒向型やバチ形といった古い形式からして全国にありますよ。

と言って反論しないの?wwwww

バチ形じゃない古い古墳は全国どこにも無いわけねwwwwwww

260 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 16:21:09
>>248
連続式は一番素朴な読み方だと思うが。

261 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 17:25:37
地方に古墳が多くあるっていうことは、
その地域に有力者がいたってことですよね。
東の毛人が首長になるとは思えないので、やはり九州や
畿内から東征した権力者の分家や家来の武人の有力者が
農耕民を連れて地方へ行ってその地を治めたんですよね、きっと。
で、元から住んでいた縄文人は国境を持たず、村に長もおらず、背中に
矢を担ぎ、刀を帯、実りの時期に作物を掠め取っていたと。やたらと逃げ足が早くて
手強かったと。
でも少しづつ西の弥生人(縄文人と渡来人(倭人含む)の混血)と混ざり合い、
今の日本に至のですね。
つまり地方の古墳を作った豪族は元は案外血縁関係が多いと思いますね。
武器や、高い文化を持って財力を持てる環境にあるものは、やはり
貧富の差の激しい社会においては、少数の支配者に牛耳られてしまうかも。



262 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 17:42:25
>>261
会津では富山からの移住が確認できますね。
土器類一式と住居跡がそのまま移転しているので、これは明白です。

連合説に聞きたいんだけど、「連合」ってモノの中身がないよね。
国防、統治、経済などでどんな連合だったとかは一切不明。

特に、統治の中身は全く不明。
細分化された統治権が仲良く連合して民主主義社会を作ったなんて、ソビエトや中国の
建国当初の妄想をそのまま取り入れた香ばしさがありますな。
未だにその香ばしさを保っている学者は少数だけど。

263 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 17:44:54
しかし、相変わらず「連合体」と言う事場に反応する奴がいるがw

前方後円墳を強力な王権の傘下に入った証とするなら
「纒向型」なんかの各地に飛び飛びに散在する事実はどうする?って話でw
(少なくとも畿内を中心に同心円状に分布するわけじゃない、北限は会津だっけ?)

ヤマト王権が「飛び地」で地方を征服して行ったと言うお笑い話www

そもそも日本史を巨視的に俯瞰するのなら…
ヤマト王権は>>253で挙げた力を持ち過ぎて目障りになったNo2の吉備を討ち
独自に半島と外交を結んだ九州の磐井を討ち
最終的には律令制度の完成をもって中央集権がなったと見るのが普通だろうにw

少なくとも古墳時代に入るや否や関東にまで及ぶ強固な王権ができあがったなんて
何処のデンパだっちゅう話wwwwwww

「連合体」と言う語句に反応して反天皇マルキシズム何たら言うが
てめえらこそ変な政治信条を持ちこんでんじゃねえのかよ・・・って感じだなwwwwwwwwwwww


264 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 17:49:17
>>259
反論のつもりなのなか?

「古い型の古墳が全国にある」っていうのは、最近の年代遡上説が全国の三角縁を
3Cに遡上させようとがんばっていることだろうに。
そんな年代遡上はまあむりだけど。

その過程でこれまでは、「ヤマトと類似の古墳が地方にあっても地方のものは1〜2世紀
古い。」という昔の年代観が誤りで、土器形式からは「同型の古墳は地方でも同時期」と
いうことが明らかになった点は評価できる。

しかし、これは大和政権が当初から全国展開していたという裏づけそのものなんだけどね。
それを認めると皇国史観ってのが、サヨクの連中の言い分だが。

265 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 17:51:33
>>263
うんそうだよね。
王権の成立を古くするのは、皇国史観だよね。

っていうことで年代遡上説で「連合」を否定したら皇国史観だわな。

266 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 17:59:28
この板で「連合体」に噛み付いている馬鹿は
ヤマト王権の変質と言う事が理解できない。

いや、”何 ら か の 理 由 ” でしたくないんだろうwww

5世紀後半頃からヤマト王権の変質が始まり
それは古墳の副葬品にも宗教的・呪術的なものから軍事的な物に変わって行く等の変化にも表れる。

…もうこんな事は、それこそ小学生でも読めるような古代史の本にでも書いてある事で
今更説明する必要があるのかと思う今日この頃wwwwwwwwww

267 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 18:31:19

>>257

>ついでに、倭人伝には、城柵を厳かに設け、とあるのを環濠とは書かれて
>いないという人がいるが、城柵は明らかに防御の厳重な様子を示している。
>厳重な防御となれば、環濠を巡らしていると考えるのが普通だと思う。
>
>環濠は残るが、城柵は残りにくい。当時の人には、環濠よりも城柵の方が
>ずっと立派で印象に残ったのだろう。


倭人伝の記事だけでは卑弥呼の居所に環濠が有ったか無かったかはワカラナイ、
卑弥呼の居所が環濠集落か否かを決めることは出来ません、というのが最も正確
な言い方でしょうね。


268 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 18:35:27
>>266
んじゃあ、「連合体」どうしはどんな関係にあったのかなあ。

「とにかく連合体なんだよゴルァ!!」じゃ分かりません。


269 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 19:28:47
私は九州の連合体は、
倭人自ら我々は呉の太伯の末裔であると言った通り、
中国南部からの渡来人で農耕民だと思うんですよ。
韓国南部にも倭人は住み着いていたらしいですけど。
でだんだん農作物の管理とか色んな意味で、村が形成されて村長が出来、
それがまたやや大きい市郡町単位になって、ちょうどその頃が
卑弥呼の時代だと。
だからその時代は血縁関係というより、倭人や半島渡来人の有力者の国々が乱立していた時代だと思いますね。
最初から少数の姻戚関係とは考えられませんから。



270 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 22:23:15
>>260
一番素朴ではあるが、一番素朴な読み方が正しいというわけではない。
古代の史書においては、連続式と放射式が用いられていた。どちらの
方法で書かれているかを見きわめる必要がある。

271 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 22:25:16
>>270
明確に放射式だとわかる例を紹介してくれ。

272 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 23:07:21
「畿内連合体」って、一種の信仰。

こんな思い込みから来た妄想に過ぎません
1:古来、最上位王権といえば畿内天皇家以外ありえない
2:畿内の巨大前方後円墳は当然天皇家=畿内王権のもの
3:だから天皇家は古墳時代から着実に全国支配を広げていったのは明らか
4:しかし漢籍には百余国ないし三十余国にわかれていたとあるから連合体制もあっただろう
5:纏向に各地の土器が出るから連合と言っておいた方が無難だろう

実際は
1:1世紀の畿内国は、その中心部からドカンと殲滅され、他国に取って代わられました
2:3世紀にまた新畿内国がまたまた衰退、纏向の新新畿内国に交代しました
3:纏向では、九州で先駆的に作られていた前方後円墳をマネして懸命に作りました
4:しかしこの新新畿内国には、王都も宮殿も都市も鉄器もなく、インフラが欠乏していました
5:纏向も潰れては乗っ取られるのを繰り返し衰退していきました
6:畿内は他所からやってくる実力者につぎつぎ簒奪されました(例えば継体天皇)
7:九州の天武天皇が壬申の乱で畿内を乗っ取り、またまた畿内国が滅亡しました

273 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 23:07:49
271
榎の邪馬台国に引用されている例
大宛国王貴山城、去長安万二千五百五十里。・・・東至都護治所四千三十一里。
北至康居卑闐城千五百一十里。西南至大月氏六百九十里。

274 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 23:50:43
>>272  
連合という概念は、もともとは記紀や天皇制の否定的解釈から始まったんじゃないかな。

まず、津田や直木のように記紀の大部分は後世の捏造とするのがその大前提。

その上で、王朝交代説を背景にして各地の勢力が王朝交代に参画した前段階として、
各地の勢力との「連合」による政権という概念が出てきた。

このように古代天皇制の確立を可能なかぎり遅くするのが、反天皇制史観の基本方針となり、
そのなかで「連合」という概念がますます重要になっていった。

ただし、今では記紀の史実性を裏付ける資料が増えたことや、王朝交代説の継承者が
いなくなったことから、「連合」という概念を引き継ぐ後継者はすくないね。
もともとトンデモ説だから仕方ないけど。

275 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 23:53:55
>>238
『漢書』 卷二十八下地理志第八下(抄) 自呉至黄支
「自合浦徐聞南入海 得大州 東西南北方千里」

これは一辺が千里だろ。


276 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 00:10:30
>>275

だから何なのさ?

277 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 00:15:53
>>275
一辺が○○里の土地と、一辺を○○里に換算した土地の面積の両方の意味があるようです。
方○○里の意味はその文章の文脈から判断する必要が有り、
倭人伝の場合は旅の行程距離の中に記述されているので一辺が○○里の土地と解釈したほうがよさそうです。

278 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 00:21:57
>>272
ああやっぱり、「連合体」に噛み付いている馬鹿には九州王朝説の馬鹿もいたかw
てかサイキバ君かな?www

後は兎に角「左翼に名を成さしめるのは気に入らない」と言う政治的信条で
噛み付いている奴がいるかw


まあ、「連合体」と言う語句の使用はともかく
じゃあ古墳時代にいきなり強固な中央集権国家ができました。
…なんて事を言っている学者が主流だとも思えないw
どんだけ 馬鹿ウヨ脳 なんですか?って話だなwww


5世紀後半頃からのヤマト王権の変質、画期としては雄略あたりか?
と言うのはもはや常識定説のレベルだと思っていたがwww

279 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 00:29:59
古代の大和盆地は取ったり取られたりだったと思うよ
いきなり強固な中央集権国家が出来たとは思えない

280 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 01:03:47
>>272は自己矛盾のかたまりだな。

畿内が、他の諸国に蹂躙されてばかりのように考えてるようだが、
なぜ、畿内がそんなに他国の干渉にあわないといけないのかという視点が無い。

畿内が古代から蹂躙されるのは、畿内が古代から重要拠点であることの裏返しだという意味なんだけど、
本人は気が付いてないらしい。



281 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 01:30:12
お前らいい加減サイキバ君にマジレスするのやめれwww

282 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/20(月) 01:42:50
>>277
>倭人伝の場合は旅の行程距離の中に記述されているので一辺が○○里の土地と解釈したほうがよさそうです。

「方可四百餘里」は、「可」があるから、「一辺が400里余りとする正方形」(許容)と解釈しなければなりません。
對馬國の形はどうであってもよく、面積が同じならよいのです。
對馬國の形を正方形とした為、道程には2辺の和800餘里を加えなければなりません。
魏の認識では、對馬國の大きさは20餘里×80餘里の矩形であったのでは?

「東西南北方千里」は、一辺が1000里の正方形の意味。

283 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/20(月) 02:23:07
× 魏の認識では、對馬國の大きさは20餘里×80餘里の矩形であったのでは?
○ 魏の認識では、對馬國の大きさは200餘里×800餘里の矩形であったのでは?

284 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 04:29:28
伊都国に何おいたんだっけ?

285 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 06:57:52
>>282
>「東西南北方千里」は、一辺が1000里の正方形の意味。

自然界に正方形の土地など存在しません。

>「方可四百餘里」は、「可」があるから、「一辺が400里余りとする正方形」(許容)と解釈しなければなりません。

魏使は旅の途中で對馬國を見ただけです。
詳しく對馬國を調査したのではありませんから、
魏使には對馬國の形状は分かりません、
對馬國の形状の分からない魏使には對馬國の面積も分かりません、
魏使に分かるのは目で見て分かる對馬國の寸法だけです。
「方可四百餘里」の「可」は目分量で對馬國の寸法を記述したのです。





286 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 07:39:53
>>277
>一辺が○○里の土地と、一辺を○○里に換算した土地の面積の両方の意味があるようです。

これ、数学的に意味を成してないんだが。
「一辺を○○里に換算した土地の面積」というのは、一辺が○○里の正方形の面積の事を言っているんだろう。
ならば、これとは違うという「一辺が○○里の土地」というのは一体どういう意味なんだろうか。
一辺が○○里の土地というのは、一辺が○○里の正方形の土地を意味しない場合、
他の辺の長さを示さないと、どうにもならない。
例えば、一辺が千里でも、他の辺が一里と千里では全く違うし、
正方形とひし形でも全くちがう。
こんな、どうにもならない記述を史書がするはずがないだろう。

287 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 07:41:44
東西南北方千里とは

ある基準点Aから放射的に
東は千里
西は千里
南は千里
北は千里

そういう意味です。

288 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 07:44:23
>>284

思い出。

289 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 07:51:35
>>287
死んでください。

290 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 07:57:56
>>288
一大卒か。サンクス。

291 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 09:09:19
>>289
その「死んで下さい」は、自殺を促すもの?
それとも
第三者に殺人依頼したと言う内容でしやうか?

最近は警察も
荒川沖事件、秋葉原事件以来、こうしたネットへの書き込みに対し
神経質になっています。

292 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 09:11:51
>>286
>ならば、これとは違うという「一辺が○○里の土地」というのは一体どういう意味なんだろうか。

「東西南北方千里」とは、東西が千里の長さ、南北も千里長さがあるの意味。
一辺が千里の正方形の土地の意味ではない。




293 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 09:35:01
「方」とは、直線的に一方向性と言う意味です。
だから
一辺を表示するだけで事足りる正方形は

★方(直線的に一方向性)〇〇里

と、記載すれば
文章内容が面積を必要とする場合に於いて
方〇〇里が 正方形の一辺の長さとされました。

294 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 09:44:22
>>293
じゃあ「東西南北方千里」東西南北に正方形の一辺の長さ千里四方の土地かWW
面積なら方角は不要であろう?

295 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 09:48:55
東西南北方千里

単純にそれだけの意味なら>>287のレス内容です。

しかし文章内容で、範囲を要求している内容なら
東西南北の四辺がそれぞれ千里の長さ。と、言う意味で
この場合、範囲の形に制限はありません。

296 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 09:56:30
>>294

方千里に東西南北の方位を付加するのは
、方千里と表現する視点が方千里の内側にある
と、いうことです。

297 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 10:05:55
>>285
>詳しく對馬國を調査したのではありませんから、魏使には對馬國の形状は分かりません、
使者は島民に南北は歩いて何日か、東西は何日かなどを尋ねて島の面積をだしたんだろう。
だいたい、倭の使者が案内してきたのかも知れんし、そうでなくとも、狗邪韓国あたりで
案内人を見つけてきたのだろう。島民からも島の様子は確かめたに決まっている。
細長い島だということは十分に分かっていたはずだね。


298 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 10:13:25
>>293
日本語でOK?

>だから〜正方形は〜と、記載すれば
>〜場合に於いて、方〇〇里が 正方形の一辺の長さとされました。

「正方形は」という主語に対して「〜と、記載すれば〜場合に於いて」と条件を限定しておきながら、
その場合どうなんだという述語が登場しないまま、「方○○里が」という次の主語が出てくる。
さらに「されました」という述語にたいしては、格助詞は「方○○里は」を用いるのが普通で、
「〜が、〜とされました」という言い回しは日本語として変な感じをうける。
さらに、こういう議論で「されました」という時制が、またおかしな感じをうける。
だから、日本語でおk?
まず最低限、主語と述語はきちんと対応させよう。

299 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 10:30:31
>>298
だから? なに?
変な日本語ならスルーでいいじゃん。

別に無理して読まなくても

300 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 10:32:45
得大州の大州ってのは済州島のことでしょ。
実際の地図をみて考察しなきゃ、
現代の人には正しい答えが導かれないよ。
そういうと反論する人がいるけど、いくら地図のわからない人に説明するからといっても、
それだけで、頭の中で妄想していたら、間違いだらけになる。

済州島は楕円形の島だけど。正方形に換算したら
ほぼ1000里四方、すなわち方1000里になりましたよ。
方1000里とは方千里。

対馬は細長い島だけど、
正方形に換算したら方400里の面積になるということで、
400里を2倍にしても実際の島の半周にはならない。

301 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 10:35:08
だから東西南北方千里とは方千里だけでもいいわけ。

302 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 10:49:24
>>301

方千里は 正方形

東西南北方千里は 形を制限しない範囲(広さ)

303 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 11:00:23
>>302
自合浦徐聞南入海 得大州 東西南北方千里

徐聞という人が済州島に着いてその島まるごと得たという意味だ。

実際の島の形は楕円形。
それを(正方形に成形しなおして)面積に例えれば方千里になるということ。
方千里は1000里×1000里で1000000平方里のこと。

304 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 11:06:01
>>303
その訳では東西南北はどこに行ったんだ?

305 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 11:09:24
>>299
変な日本語でも意味が通じればスルーでいいけど、意味が通じないと議論にならないじゃん。
親切に、何故意味が通じないか指摘してあげているんだから、
素直に反省して、以降正しい日本語を書くようにしたほうがいいよ。

>一辺を表示するだけで事足りる正方形は
>★方(直線的に一方向性)〇〇里
>と、記載すれば
>文章内容が面積を必要とする場合に於いて

の後が気になるじゃん。正方形は、〜とする場合に於いてどうなるの?

306 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 11:10:06
>>304
あえていえば、まるごとという意味。
大海に浮かぶ小さい島ですから。
ここは想像力を働かせましょうね。

307 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 11:28:30
やっぱり魏使は頭いいですね。

実際の島の周囲を現すより、面積で表した方が、
島の概要がよくわかる。
たとえば対馬なんか細長いから、島周で表せば物凄く長くなる。
知らない人が読んだら、物凄い大きい島なのかも、と思ってしまう。

実際済州島(韓国の南のチェジュド)は、対馬とほぼ同じ島周だけど、
面積が1000000平方里。
対馬は160000平方里で大きな差がある。

実際地殻変動とかあって対馬は島が二つにわかれたらしいけど、
もとの形はどれ位だったかしらないけど、
方400里は少し小さく見積もりすぎだと感じる。
方500里のほうがぴったり来る。

308 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 11:33:44
>>303

基本的な数学だよ

正方形に成形しなおせる値は、限られた数値だけが
正方形に成形できる。


わかるよね?


成形し直し、千里の正方形を作るには
面積が百万平方里の場合だけで、百万一平方里では
成形出来ない事も、わかるよね?


その楕円の島は
ジャスト百万平方里だったと言う事か?

309 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 11:43:02
>>308
だから、主語と述語の関係をきちんと対応させろと。
何を言っているのか意味解らんし。

310 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 11:50:33
>>308
良く読んだら、なんとか意味がわかった。

>正方形に成形しなおせる値は、限られた数値だけが
>正方形に成形できる。

これって、

正方形に形成しなおせる値は、限られている。
限られた数値だけが、正方形に成形されうる。

こういう二つの文が、ごっちゃに混じってるわけね。
それにしても、方千里と表記するには、1000000平方里でなければならない。
1000001平方里ではいけないなんて、どんな厳密測量だよw
屁理屈もいいところ。

311 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 11:50:52
>>306
何を言っているのか全然分かりません。
東西南北にまるごとという意味があるなんて聞いた事ありません。
出展を教えてください。

312 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 11:57:55
>>310

何が屁理屈なんだ?

313 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/20(月) 12:05:00
>>285
>魏使には對馬國の形状は分かりません、
>對馬國の形状の分からない魏使には對馬國の面積も分かりません、

魏使(郡使)は狗耶韓國から1000里を渡り、對馬國の北の端の海に着きます。
次に對馬國の西岸沿いに800里南下し、對馬國の南端で東に方向を変え、200里東進します。
ここからそのまま東南へ1000里、海を渡り一大國に着きます。
魏使(郡使)は、對馬國の西海岸沿いであっても東海岸沿いであっても海岸沿いに南下するので、
對馬國の東西の幅が200餘里、南北の長さが800餘里と認識せざるを得ないのです。
高速船で對馬國海域を夜間通過しない限り認識されないことはあり得ません。

對馬國の面積は、200餘里×800餘里で16万餘平方里となるので、
對馬國を正方形とみなして方可400餘里と簡潔(形と面積同時表現)に表現したのです。
對馬國を正方形と見做したので、その結果、その通過距離は400餘里+400餘里とせざるを得ないのです。

314 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 12:10:06
>>310
頭、硬化しすぎ


1000001が厳密で、1000000が厳密じゃないって
何処で区別してるの?
自分のモノサシで世の中見るなよ

315 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/20(月) 12:13:22
>>275
>>238
『漢書』 卷二十八下地理志第八下(抄) 自呉至黄支
「自合浦徐聞南入海 得大州 東西南北方千里(中略)民皆服布如單被 穿中央為貫頭」

済州島には倭人が住んでいたのだ。今まで気がつかなかった。感謝。

316 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 12:18:39
>>313
島周と面積同時表現できるのは島の元もとの形が正方形の時だけです。

200餘里×800餘里は長方形ですから、面積は160000平方里で同じですが、
島の半周は1000余里になります。
島の長い辺の800里だけを通過したというのは、あまりにも都合のよい解釈で、それではぜんぜん理論になりません。

例えば100里×1600里でも面積は同じ。
島の形がほぼ200里×800里の長方形に近いとそういうことをおっしゃいたい
気持ちはわかりますが。
それだったら、三角形の壱岐はどういう解釈をされるのですかということになります。


317 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 12:30:26
>>306
>ここは想像力を働かせましょうね。

他人にも自分と同じ妄想を要求することは無駄だ 。


318 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 12:38:00
>>314
常識的な範囲の論理的思考ができないんだろうか?
1000001と1000000を区別するのが厳密という意味。
1000001と1000000を区別するには、1000001と1000000を正確に測量しなければならないだろう。
1000001が厳密で、1000000が厳密じゃないなんて、ありえないだろう。
どこから出てくるんだろう?不思議な頭を持ってるなあ。
中学校のとき、国語と数学をさぼりまくったつけが来てる感じだな。

319 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/20(月) 13:10:11
>>316
>島の長い辺の800里だけを通過したというのは、あまりにも都合のよい解釈で、それではぜんぜん理論になりません

上記は僕の文を読み間違えていますよ。
對馬國を正方形と見做したので、その論に従い、
その道程も2辺の和800餘里として論を進めているのです。
実際は魏使も1000餘里と認識していた。

一大國も同じ見方。
実際には一大國も近海を半周しているので、
一大國の形状を観察した上で、
一辺300里の正方形と見做しているのです。
ここでも正方形と見做しているが為、道程はその半周の600里となります。


320 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 13:16:41
>>319
その説明でも都合のいい解釈であると感じます。

では対馬が100里×1600里の細長ーい島だったとしたらどうですか?

その場合、面積表示ですから方400里と書きますよ。

実際の半周は1700里なのに800里しか進めません。

どのように説明されますか?

321 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/20(月) 13:56:41
>>320
對馬國を船上から観察すれば200里×800里の矩形の島だと誰にでも判る。
どうしても理解できないのなら、船で対馬に行ってみたら?
机上は空論になるよ。

僕はいつも車で現地をまわる。
現地の気候風土は大きな発見認識を与えてくれる。
昔はオートバイでもまわった。


322 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 14:07:11
>>321
机の空論はどう考えてもそちらだと思います。

島周を正方形にたとえたら面積が実際とあわなくなりますから。
たとえば100里×1600里の島の場合、
島周が3400里。
3400里の長さの紐を正方形に囲ってみてください。
一辺が800里以上の大きな島を表していることになりますから。
そうしたら、地形を知らない人がみたら、この島はさぞかし大きいんだろうな
と勘違いしますよ。

100里×1600里が大げさだというなら、
200里×800里でもいいです。
島周の長さの正方形を作れば一辺が500里になります。

200里の差は大きいですよ。
伊都国から先の2国は100里で表されているんですから。
比定地も違ってきます。

323 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 14:07:39
>對馬國を船上から観察すれば200里×800里の矩形の島だと誰にでも判る。

對馬國を船上から観察しても形や面積は分かりません。
船上から分かるのは島の周囲の距離だけです。
船で対馬の沖を通ったことあります。

324 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 14:55:05
>>318
現代の常識語っても何もならないんだよ
書に記載されている文字は千里であって、それがアバウトであるか厳密か、なんて関係ない。
方千里が楕円から成形された正方形なら、百万平方里から発生したと考えなければ
ならない。

それが
文献を主観を交えず読む
と、言う事ではありませんか?

325 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 15:56:34
>>324

308 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2008/10/20(月) 11:33:44
>>303

基本的な数学だよ

正方形に成形しなおせる値は、限られた数値だけが
正方形に成形できる。


わかるよね?


成形し直し、千里の正方形を作るには
面積が百万平方里の場合だけで、百万一平方里では
成形出来ない事も、わかるよね?


その楕円の島は
ジャスト百万平方里だったと言う事か?
―――――――――――――――――――――――――――――――――――

>書に記載されている文字は千里であって、それがアバウトであるか厳密か、なんて関係ない。

ジャスト百万平方里だったのかと問うておいて、そんなの関係ないですかw


326 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 16:06:50
>>324
>方千里が楕円から成形された正方形なら、百万平方里から発生したと考えなければならない。

正方形は楕円から形成されませんわな。
百万平方里は数値なんだから、何か図形を発生するわけありませんわな。

方千里は千里×千里の面積であって、楕円が変形して正方形になるような事ではないよ。
ドット絵のようなものだね。
その地域がどんな形をしていても、方一里のマス目で1000000個ぶんあるよということ。
島だったら、その島にタイルのような正方形の板(一里四方の板があればだけどw)を何枚敷けるかということだろうと思うよ。

327 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 16:13:55
>>325

関係ないww

328 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 17:06:04
>>326

方千里者、方百里者百。
方百里者、方十里者百
方十里者、方一里者百

329 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 17:26:07
>>328
方千里者、方百里者百 → 方千里=方百里×100
方百里者、方十里者百 → 方百里=方十里×100
方十里者、方一里者百 → 方十里=方一里×100

方千里=方百里×100=方十里×100×100=方一里×100×100×100=1000000×方一里

方千里は方一里が百万個分の面積。

330 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 17:51:11
>>329
それは机上計算。
方千里者、方一里者百万
とはせず

方千里者、方百里者百
と、なっているよね?

331 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 18:24:15
ここは数学板?

332 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 18:36:17
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050618/4482.jpg
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050610/2764.jpg
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/090.jpg

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/099.jpg
http://www.sx.xinhua.org/ztjn/2003-08/29/xin_49b7e0a2d93511d7be2c0050ba1967d3.jpg
http://www.shtong.gov.cn/node2/node4/node2250/songjiang/node70313/node70604/images/00004623.jpg

333 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/20(月) 19:40:30
>>323
>對馬國を船上から観察しても形や面積は分かりません。

君は近視で遠くのものが見えないのか?
対馬近海を船で対馬を半周しながら通過すれば、
対馬の海岸は南北に60km(800里)ほどのほぼ直線であり、
東西方向の島の厚みが15km(200里)ほどであることがわかるよ。
海上では50km位は目視できるのが普通の人だよ。

僕の家の窓から大阪湾を南望すれば、60kmほど彼方に紀淡海峡の友ヶ島が良く見える。

334 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/20(月) 19:53:21
>>322
>100里×1600里が大げさだというなら、
>200里×800里でもいいです。
>島周の長さの正方形を作れば一辺が500里になります。

200里×800里なら、
島の面積(大きさ)の正方形を作れば一辺が400里になります。

335 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 19:59:51
>>334

>作れば

作らない。

レバ、タラ言ったらキリないし、第一誰がそんな正方形作るの?

336 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 20:46:22
>>335
作っていいんです。
島の面積を表すため。
本当は方400里、縦800里横200里が一番親切で。
島を800里通過してから南へ渡海とか書かれていれば一番いいんですけど。
面積だけしか表していないので、
なかなか難しいわけなんです。


337 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 20:57:43
>>336
つづき
ただ面積しか書かれていないから
その方里を2倍して里程に加えるというのは考え方として誤っていると、、、
何度も言いますけど。

338 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 21:10:58
>>336
それって
四世紀の海を知らない洛陽の人に、説明できますか?

339 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 21:22:18
>>338
自分の世界に嵌まった奴の邪魔するな。

340 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 21:24:38
方里を2倍の方法より、一里何メートルになるかを設定するために、
これも確実な方法ではありませんが、
一つの方法として、
対馬と壱岐の渡海が1000里であるから、
昔は最短距離を選んだと思うので、
現代の地図帳でもしょうがないですから
利用して
大体の見当をつけます。
その時、船が停泊できる港を選びます。
そうすると、
対馬の厳原から壱岐の勝本が最短距離ということがわかります。
そこでキロ数が出ますから、
1000で割れば、1里あたりの長さが出ます。
拡大地図で計らないとよくわからないので、
これから計算します。

そうすれば、渡海が3回みんな千里ですから、
みな同じ長さを見当つければ、
対馬に何里渡ったか、壱岐に何里渡ったか、
壱岐から北部九州の沿岸にはどの地域が距離的に一致するかだいたいわかります。


341 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 21:39:02
>>340
>昔は最短距離を選んだと思うので

思いますぅ言いはっても、うちぃかなわんわぁ


>大体の見当をつけます。
その時、船が停泊できる港を選びます。
そうすると、
対馬の厳原から壱岐の勝本が最短距離ということがわかります。
そこでキロ数が出ますから、
1000で割れば、1里あたりの長さが出ます。

自分で勝手に決めたスタートとゴールまでの長さが?


342 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 21:48:46
>>341
だいたいの目安なので、あとは推測するしかないのはしょうがないです。

あとは文献の検討と地名から推測して探すしか。

参考までに1里は55メートルに。

343 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 21:56:23
>>342
>参考までに1里は55メートルに。

あ〜っ、妄想いっぱいカジキマグロの倭人里というやつですね?

344 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 22:01:08
>>343
別に一つの方法ですから。
他にいい方法が見つかれば、そっちを選びますよ。
そんなに人を小ばかにしていないで、自分でもいい方法を提示したらいかが?
みんなで考えた方が、いい案が浮かぶから。

345 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 22:12:19
>>344
魏の時代、一里は約四百二十メートルです。
何処の引き出しから五十五メートルなんて、適当な数字持って来たの?

346 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/20(月) 23:19:17
>>345
東夷では隋書まで1里≒70mの短里が使われています。
参考として随書の半島地図をどうぞ。


「方可○○里」論に参加するのではなかった! ウンザリ! 疲れた!

347 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/20(月) 23:21:57
∵∵∵∵┏━┓∵∵遼東∵┌───┬┬     『女王の都は久留米である』
∵∵∵┏┛〜┗┓∵∵∵┌┘∵∵∵│↑     『卑彌呼の墓は祇園山古墳を追認』
∵∵┏┛〜〜┏┛∵∵┌┘∵∵∵∵││
∵┏┛〜〜┏┛∵∵┌┘○好太王碑││∵∵∵∵┏━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┏┛〜〜┏┛∵∵┏┻┓∵∵∵∵∵││∵∵∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜┏┛∵┏━┛〜┗┓高句麗∵2000里┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜┗━━┛〜〜〜〜┃∵∵∵∵││∵┃〜〜其國東西二千里南北千餘里
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵◎平壌││∵┗┓〜都於平壌城〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵││∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵│↓∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『 随書の半島世界 』 〜│┗━┳──┴┴┐∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜├←1000里→┤∵│∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵高麗∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵支配地│∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃旧百濟領∵│∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜┬─────┠────┐∵│∵∵∵┃〜其國東西四百五十里
〜〜〜〜 450里〜〜〜百濟┃∵◎居抜│∵│∵∵∵┃〜南北九百餘里〜〜〜
〜〜〜〜〜〜┼─────┠────┼─┘新羅國┃〜南接新羅北拒高麗〜
其南海行三月↑〜〜〜〜┏┸─900里 ┤∵∵∵∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
有[身冉]牟 〜│〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
羅國〜〜〜〜│〜〜┏┛∵∵∵新羅國∵∵┏━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜三月行〜〜┗┓∵∵∵∵┏━━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜│〜〜〜┗┓∴┏━┛〜〜〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜│〜〜竹島○━┛〜〜〜〜〜〜〜┃┃都斯麻國〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜↓〜〜├1000里┤〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜┼──┏━━━┓[身冉]牟羅國〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜数百里┴──┗━━━┛〜[身冉]牟羅國南北千餘里東西數百里〜〜〜〜

348 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 23:23:55
地図を読めない馬鹿が地理の議論をしているアホか!

349 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 23:32:29
>>346

>半島地図

四世紀に半島地図があったとは、以外です。
知らなかった!

350 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 23:40:48
『久留米の女王』



蒲地法子

351 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 00:03:12
『宮崎の女王、蛯原友里』

352 :サガミハラハラ:2008/10/21(火) 00:20:28
>>345>>346倭人伝の尺度は、周の時代の尺度がつかわれています。
魏の時代では1里420mです。
魏使は当然魏の尺度をつかったであろうから、倭人伝の行路記事は、魏使の報告書等に
よるものではありません。
そこをまず、しっかりおさえましょう。

353 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 02:23:10
しっかりおさえるべきは、
1里420mをどう測量したのか、測量技術者が倭国にいたのか検証すべきだろうね。


354 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 05:30:14
>>352
1里=420m???
唐津市にあった末盧国から前原にあった伊都国まで500里=30km
1里=60mとなる。
伊都国から博多にあった奴国まで100里=23km
1里=230mとなる。
このように里数と実際の距離が一致しない。なぜ1里=420mになるのか?

355 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 06:03:55
>>352-354

深夜のナントカトリオですか?梅干し食べて、頭の中をスッキリさせて下さい。

356 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 06:24:00
>>352
では、誰の報告か明確にしてください。


>>353
入国管理局で聞けばわかるでしょう。


>>354
あなたは倭国に行って、調べた事があるのですか?
私は洛陽から出た事が無いので
あなたの言ってる事が
チンプンカンです。

357 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 06:52:01
>>353はカジキマグロかな?

358 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 06:55:41
>>355-356
オイ、脳細胞が破裂してるぞ!
サイゼリヤでメラミン入りのピザでも食ったか?

359 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 07:12:56
ここを読むと、当時の中国人は今の日本人より頭が良かったのかと思えてしまうなwww

360 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 07:23:06
>>358
メラミンでは直接脳細胞には影響はない。
尿管結石を誘発する。

361 :どくだみ:2008/10/21(火) 08:59:03
>>275
地東西九千三百二里,南北萬三千三百六十八里.

東西長而南北短,短長相覆為千里.

同じ漢書地理志の二つの例を参考にすれば、
「自合浦徐聞南入海,得大州,東西南北方千里,」は、「東西と南北が等しくて、方千里」
つまり千里×千里の正方形の島という意味に解釈するのが一番適当だと思います。
東西と南北の距離が違うのなら、上記の例のようにそれぞれ○○里と書きますが、
ただ東西南北と書いているので、両者は等しいと考えるのが自然でしょう。
方千里だけなら大きさだけで形状はわかりませんが、東西南北と前につくと、
正方形の島なんだということになります。
変に絡む人がいるので断っておきますが、自然界に真四角の島なんて存在しません。
大体正方形に近い形状ということです。

それから、「天円地方」という言葉があります。
「天は丸く、大地は四角」という中国の古くからの宇宙観で、先秦の文献にも出てきます。
この言葉で解るように、「方」は古くから「四角」という意味で使われており、
「方は直線だ」というのは、何かの思い込みでしょう。

362 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 09:32:14
末盧國に付いて

末・・・ばっ(漢音)
盧・・・Lu る

ばるだと思います。ばるといえば東国原、じゃなかった前原。
前原市の今津湾(博多湾内の西)が末盧國と比定しましたが、何か。

363 :サガミハラハラ:2008/10/21(火) 09:33:03
言葉足らずで誤解を生んだようだ。
倭人伝の尺度は魏の尺度では理解しがたいので、魏の尺度による測定ではない。ということです。
すなわち魏使の報告書からではなくほかの資料から陳寿は採用して倭人伝の行路記事の距離をかいたのであると。

364 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 10:20:40
>>352 >>363
我々が知る魏の尺度でないとしても、魏使の報告書以外に資料があった形跡が
ない以上、魏使の報告書が普通のものとは異なる尺度で表示されていたと考え
るのが素直な解釈だろう。


365 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 10:39:45
>>361
>方は直線だ

何処にそんな事書いてありました?

366 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 10:47:02
>>347
凄いな。
もしや他のAAの作成もしてる?

367 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 11:26:52
>>361

方は 四角以外にも様々な意味に解される。

『東西南北方千里』の方と、貴方の提示された『天円地方』の方
意味解釈に於いて、何処に共通したものがあるのですか?
『天円地方』は
天に対し地…(場所)
円に対し方…(形)
と、
方に「形」以外意味解釈がない、語句構成になっています
が、
『東西南北方千里』
は、どうです?
天円地方みたいに、方を形だけの意味解釈に縛るものがありますか?

368 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/21(火) 11:59:46
〜〜〜〜┗━┓高麗∵∵┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
→→→→→┐┗━┬──┴━┓∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜隋使進路↓〜〜┃∵∵∵∵┃∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓〜〜┃∵∵∵∵┃∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┏━┻━━━┫∵┃∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┗┓◎居抜城┃∵┃新羅◎┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┳───↓〜┃百濟∵┏┻━┛∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜↑〜〜〜↓┏┻━━━┛∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜三〜〜〜↓┗┓∵∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━
〜月〜〜〜↓┏╋━━━━┛〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵
〜行〜〜〜↓┗┛竹島〜〜〜〜〜〜┃┃都斯麻國〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵
〜│〜〜〜└→→→→→→→→→┐┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵
〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜隋使進路〜└→→→→┐〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┏┓
〜┻───┏━┓ タンラ國 〜〜〜〜〜〜┏┓↓〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃┗
〜〜〜〜〜┗━┛(済州島) 〜〜〜一支國┗┛↓〜┏━━╋━━━┯━┛〜
東西方向千里×南北方向数百里〜〜〜〜〜┏○━┛∵∵┗━┓〜↑〜〜┏
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛竹斯國∵∵∵∵┃〜│〜┏┛
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┏┓◎邪靡堆∵┗┓│〜┗┓
タンラ國 :[身冉]羅國 :俀國伝 〜〜〜〜〜┗┓┃┗┓∵∵∵∵∵┃│〜〜┗
〜〜〜〜:[身冉]牟羅國:百濟伝 〜〜〜〜│┗┛┏┛∵俀國∵┏┛五〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│┏┓┃∵∵∵∵┏┛│月〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│┗╋┛∵∵∵∵┃〜│行〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜┃∵∵∵∵∵┃〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜┗┓┏┓∵┏┛〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜┗┛┃┏┛〜〜│↓〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜〜┗┛───┼┷〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┠←──三月行──→┨〜〜〜〜

369 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/21(火) 12:01:22
〜〜〜〜┃◎┃都斯麻國〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
→→→┐┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜經都斯麻國迥在大海中
〜〜〜└→→→→→→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜迥在大海中又東至一支國
〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━┓〜〜
〜〜〜〜一支國┃◎┃↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵┃〜〜
〜〜〜〜〜〜〜┗━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵┃〜〜
〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜〜〜┏━┓〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵┗┓〜
〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓〜〜┏┛∵┗━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓
〜〜〜〜〜〜〜┃唐┃↓〜┏┛∵∵∵∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵∵┗
〜〜〜〜〜〜〜┃津┗↓━┛秦王國∵∵∵∵∵大宰府∵∵∵∵∵∵東至秦王國
〜〜〜〜┏━━┛∵∵◎→◎→┐唐津市浜玉∵◇倭京∵∵∵∵∵∵此地帝都・・・遷京北方
〜〜〜〜┗┓∵∵竹斯國∵∵∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵↓十餘國∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵伊都國◇→→→┐海岸∵∵∵∵∵∵∵∵∵經十餘國達於海岸
〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵佐賀市大和∵∵┏○→→◎邪靡堆(久留米)∵其地勢東高西下都於邪靡堆
〜〜〜〜┏┓┗━┓∵∵∵∵∵∵∵∵┃┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵邪靡堆則魏志所謂邪馬臺
〜〜〜┏┛┗┓〜┃∵∵∵∵┏━━━┛┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜┃∵∵┃〜┗┓∵∵∵┃〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜┃∵∵┃〜〜┃∵∵∵┃〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜┗┓∵┗┓〜┃┏━━┛〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜┗┓∵┗━┛┗━━┓〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜┃∵∵┏━━┓∵┗┓〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜長崎┃◇┏┛〜〜┃∵∵┃〜〜〜〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵∵
〜〜〜〜┏┛┏┛〜〜┏┛∵∵┃〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜┃┏┛〜〜┏┛∵∵┏┛〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜┗┛〜〜〜┗━━━┛〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵┃〜〜〜┏━┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵

370 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/21(火) 12:10:38
魏史倭人傳 [隋書俀國傳] 地図
〜〜〜〜〜〜〜└→→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━┓〜〜
〜〜〜〜一大國┃◎┃↓壱岐〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵┃〜〜
〜〜〜 [一支國]┗━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵┃〜〜
〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜〜〜┏━┓〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵┗┓〜
〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓〜〜┏┛∵┗━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓
〜〜〜〜〜〜〜┃唐┃↓〜┏┛∵∵∵∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵∵┗
〜〜〜〜〜〜〜┃津┗↓━┛[秦王國] ∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵[秦王國]:唐津市玉島
〜〜〜〜┏━━┛∵∵◎→○→→┐∵∵∵∵◇大宰府[倭京] ∵∵∵末盧國:唐津市中心部
〜〜〜 [竹斯國]末盧國∵∵∵∵∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵↓[十餘國] ∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵伊都國:佐賀市大和
〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵伊都國◎┬→→●不彌國∵∵∵∵∵∵∵●印:女王國構成国
〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵│┏┓├┐∵∵∵∵∵∵∵∵∵邪馬壹國:久留米
〜〜〜〜┏┓┗━┓∵∵∵∵∵奴國●┃┃●●邪馬壹國[邪靡堆] ∵不彌國:吉野ヶ里
〜〜〜┏┛┗┓〜┃∵∵∵∵┏━━━┛┃投∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵投馬國:大川
〜〜〜┃∵∵┃〜┗┓∵∵∵┃〜〜〜〜┃馬∵∵┌───────奴國:佐賀城
〜〜〜┃∵∵┃〜〜┃∵∵∵┃〜〜〜〜┃國┌─┘∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜┗┓∵┗┓〜┃┏━━┛〜〜〜〜┠─┘∵◎狗奴國∵∵∵∵狗奴國:菊池
〜〜〜〜┗┓∵┗━┛┗━━┓〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜┃∵∵┏━━┓∵┗┓〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜長崎┃◇┏┛〜〜┃∵∵┃〜〜〜〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵∵
〜〜〜〜┏┛┏┛〜〜┏┛∵∵┃〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜┃┏┛〜〜┏┛∵∵┏┛〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜┗┛〜〜〜┗━━━┛〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵

371 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 12:11:05
>>368-369
丁寧な仕事でスバラシイ。

372 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/21(火) 12:13:53
魏史倭人傳 [隋書俀國傳] 地図
〜〜〜〜〜〜〜〜└→→→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 │
〜〜〜〜〜〜一大國┃◎┃↓壱岐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━┓ │
〜〜〜〜〜 [一支國]┗━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┗ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜┏━┓〜〜〜┏━┛∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓┏━┛∵┗━━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵┗┿┛[秦王國] ∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜[竹斯國] 末盧國◎→○→┐∵∵∵∵∵∵∵倭[俀國] ∵∵ │末盧國:唐津
〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵↓[十餘國] ∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │伊都國:佐賀市大和
〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵伊都國◎┬→→●不彌國∵∵∵∵∵∵ │●印:女王國構成国
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵│┏┓├┐∵∵∵∵∵∵∵∵ │不彌國:吉野ヶ里
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┓∵∵奴國●┃┃●●邪馬壹國 [邪靡堆] │投馬國:大川
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓┃∵∵┏━━┛┃投∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │邪馬壹國:久留米
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛┃┃∵∵┃〜〜〜┃馬∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │奴國:佐賀城
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┃┗┓∵┗┓〜〜┃國∵┌─────── │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┃〜┃∵∵┃〜〜┃┌─┘∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃┗┓┃┏━┛〜〜┠┘∵∵◎狗奴國∵∵∵ │狗奴國:菊池
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵┗┛┗━┓〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━┓∵┗┓〜〜┃∵狗奴連合國∵∵∵ │狗奴連合國(10〜15ヶ国)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┃〜〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┏┛〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━┛〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │

373 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 12:15:15
九州北部に随分といろんなものを詰め込んだものだなぁwww

374 :日本@名無しさん:2008/10/21(火) 12:42:32
>>373
空中帝国や地底国家らも含めているのでせう。



375 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 13:46:48
隋使は、海岸に達してから後10日で邪馬台国へ着いたのでは?
久留米では10日はかからんな。

376 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 14:16:18
九州王朝氏とは異なりますが一応私なりの比定を、あしからず。

前原市糸島半島今津湾(現在福岡市)から東南に約30キロ(500里)→大野城市 大利(伊都国)一大率のたいりににている。おおりと今は読む。近くに白木原 しらきは新羅
大利から東南に約5.5キロ(100里)→筑紫野市 ふつかいち(奴国)
ふつかいちから東に約5.5キロ(100里)→筑紫野市冷水峠宝満川(不弥国)ヒャミ〜フミ 似ている
宝満川を水行南へ20日→端間(久留米の少し北)はしま(投馬国) たんまとも読める タンマ〜トゥマ 昔対馬府中藩の飛び地、朝鮮通信史の立ち寄る場。
あるいは対馬国の飛び地として投馬と異字で?近くは久留米で人口多し。

とりあえずここまで比定してみましたが。。。

377 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 14:26:00
>>372 九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y

まあ幾らAAをコピペして自説をアピールしても
伊都國佐賀市大和に通説の伊都國なら郡使の常駐も思わせる楽浪土器の出土と言った物も無く
不彌國の吉野ヶ里も邪馬台国の時代、環濠集落は解体の方向で衰退しつつあったし
女王國構成国と言ってもそれが存在したと言う事を示す威信財体系や祭祀形態がある訳じゃない

結局、倭人伝等を読んで九州の地図に自分の推理を当て嵌めて見た…と言うに過ぎない。
同様な物は他に幾らでもありこの板の九州説は百家争鳴(どんぐりの背比べとも言うw)の状態となるwww


378 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 14:40:30
>>377
>伊都國佐賀市大和に郡使の常駐を思わせる楽浪土器の出土と言った物も無く
郡使が楽浪土器を運んできたという証拠があったかな?
通説の伊都国=怡土は、地名の類似に飛びついただけの説。怡土ならば、末盧
国で下船するはずなし、玄界灘沿岸から南水行もできない、など不合理が続出
する比定だ。それに、怡土は邪馬台国時代以後、国府が置かれたわけでもなく
衰退の一途。一方、佐賀市は肥前国府が置かれるなど繁栄した地。伊都国があ
ったとみて何ら不自然はない。



379 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 14:54:36
>>376
つづき
端間を水行南へ10日筑後川を南下実際は場南西に近い→三瀦あたりで上岸
三瀦から陸行南へ一月→みやま市山川(邪馬台国)やまかわ〜やまか広志逸文には邪馬嘉国と。

伊都国から南に投馬、邪馬台国と並んでいる、方角的にも一致。

その南には狗奴国の 菊池が。クコチヒク〜ククチ〜キクチ


380 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 14:55:03
>>378
>郡使が楽浪土器を運んできたという証拠があったかな?

蓋然性の問題だな。
後代の「肥前国府が置かれ繁栄した地」などとピンボケ持ち出すより余程説得力がある。
せめて時代が違っても外交上の要衝としての機能とかを挙げてくれw



381 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 15:09:26
>>373
同感。
この図だと投馬國と邪馬壹國がまるで軒を接してるみたいだが、
魏志倭人伝を読むかぎり、投馬國と邪馬壹國は、相当距離が
離れた二つの大国のように書かれてると思う

382 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 15:22:05
大体、女王卑弥呼を共立した30ヶ国と言うのは多分に互恵的なんじゃないのか?


その邪馬台国の目と鼻の先の「不彌國吉野ヶ里」が衰退の一途ってどう言う事よ?wwwwww




383 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 15:24:33
>>378
>通説の伊都国=怡土は、地名の類似に飛びついただけの説。

「だけ」はおかしい。
地名以外の点もいろいろ理由が挙がっていると思う。

本当に地名の類似「だけ」なら、多くの歴史学者も批判を加えると思うし、
通説とはなってなかっただろうと思う

384 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 15:24:55
>>380
楽浪土器と郡使の関連性については、蓋然性はおろか可能性すらないでしょうな。


385 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 15:39:19
>>383
>本当に地名の類似「だけ」なら、多くの歴史学者も批判を加えると思うし、
>通説とはなってなかっただろうと思う
「多くの歴史学者」を信用して、自分で考えないとあなたのような書き方しか
できなくなるんだよ。次の問題についてどう考えるの?
 怡土ならば、末盧国で下船するはずはない。
 玄界灘沿岸からは南水行ができない。

386 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 15:59:02
日本書紀・古事記等にも明確な邪馬台国に付いて書いてない・・

要するに、三輪山周辺であったならば少しは記紀に残るだろう・・

それが残って無い事は、それが大和でない場所であるからである。

若しくは、その地方がの都市が「邪馬台国」を名乗って中国に

貢物を送り、その際にその地方の「邪馬台国」が日本を治めていると

豪語したのだと思う。

場所は、九州の中部・南方辺り・・浮羽の三輪地方や八女・・

宮崎の西都が臭いと思います。

387 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 16:12:36

>>385

>玄界灘沿岸からは南水行ができない。

青森港から横浜港へ南水行はできない・・・・・・・・これは正しい?


>怡土ならば、末盧国で下船するはずはない。

誰が下船するの?
末盧国で、誰が下船したって倭人伝は書いてる?

君もちゃんと答えてね。

388 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 16:13:01
>通説の伊都国=怡土は、地名の類似に飛びついただけの説。怡土ならば、末盧
>国で下船するはずなし、玄界灘沿岸から南水行もできない、など不合理が続出
>する比定だ。それに、怡土は邪馬台国時代以後、国府が置かれたわけでもなく
>衰退の一途。

糸島は遠浅の水道だから大型船は無理だった
結局埋まって田んぼになったんだから港としては衰退するわな

389 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 16:19:50
>青森港から横浜港へ南水行はできない・・・・・・・・これは正しい?
勝手に場所を変えないでね。

> 末盧国で、誰が下船したって倭人伝は書いてる?
陸行した人は下船したんでしょう。船に乗ったまま陸行するの?



390 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 16:27:35
>>389
・末盧国で下船した人
・伊都国へ陸行した人

同一人でなくてもいい

391 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 16:30:14
>>385
>怡土ならば、末盧国で下船するはずはない。

これも根拠無しだな。

無論、一般論として街道が整備されていない古代
陸路より海路が楽だろう言うのは正しいだろうが。

じゃあ弥生時代繁栄を誇った糸島地域から末盧国に行くのに適当な陸路が無かったのか?
それじゃあ陸の孤島だろうにw

一刻を争う程に急いでいた訳でもないなら、
ある程度は常時人の往来があり踏み固められた陸路を通って
何の不都合も無し。

そこらへんは現地の土地鑑のある九州の人間の意見を聞いてみたいところw

…で丁度>>388のレスだが実際水深はどれぐらいだったんだろう?
大型船と言っても所詮準構造船、船底部分は丸木舟と変わらない。
それでも危ないのかな?

392 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 16:32:41
>>390
苦しそうだな。そんな弁解をしないと定説は成立しないのか?

393 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 16:39:52
>>384
>楽浪土器と郡使の関連性については、蓋然性はおろか可能性すらないでしょうな。

「楽浪郡」からやって来た「郡使」の足跡を辿るに「楽浪土器」をその手がかりとする。
…それを可能性すらないってあーた…

ちなみに「楽浪土器」なんてモンは考古学者にとって
遺跡から一つでも出てきたら御の字の貴重品らしいが


で「伊都國佐賀市大和説」の根拠に時代のまったく違う「肥前国府」を出すなんざあ
一体どんだけピンボケしてるんですか?www


394 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 16:52:28

>>392

君は末盧国で下船した人と伊都国へ陸行した人が同一人物だったと証明できる?
できないと思うよ。

これはここだけでなく、倭人伝の地理的記載の全体に言えること。

395 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 16:55:17
>「郡使」の足跡を辿るに「楽浪土器」をその手がかりとする。
郡使を土器承認とまちがえちゃいかんな。

>「伊都國佐賀市大和説」の根拠に時代のまったく違う「肥前国府」を出すなんざあ
惣座遺跡がある、後に肥前国府が置かれている、その間もそれなりに繁栄していたは
ず。こうゆうのを、無理のない想定と言うんだよ。

396 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 16:55:55
糸島付近を伊都国に比定する説は、江戸時代からあるが、これは単純に
地名だけからきている。というのは、大量に鏡が出土した平原遺跡が発掘
されたのは、昭和40年だから。

397 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 16:56:26
>>395 承認→商人

398 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 17:02:58
>>395
で、惣座遺跡に楽浪との強い結びつきを示す物はあるのか?


土器商人の通った痕跡すら無いのなら話にならないぞw






399 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 17:05:29
>>397
>君は末盧国で下船した人と伊都国へ陸行した人が同一人物だったと証明できる?
>できないと思うよ。
違う人物だという証明があったら考えてやるよ。

400 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 17:05:59
>>396
地名による比定が後に考古学的裏付けされたと言う話。

それを言うのなら九州説自体が地名のこじつけからスタートしているwww

401 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 17:07:09
>>394
うーむ
芭蕉の『奥の細道』を読むみたいな気分で魏志倭人伝を読んじゃ
いかんぞ・・・・・つうわけだな、違うか

少し、そうか、なるほど、という気持ち、ある。おれ少し納得

402 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 17:07:46
>>398
畿内説論者に言ってやって。大和まで楽浪土器が続いているかって。
笑われるぞ。

403 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 17:21:35
>>402
マジレスすると畿内からダイレクトに楽浪まで行った。
逆に楽浪から畿内にダイレクトに郡使がやって来たなんて考えている畿内説論者はいないんじゃないかな?

直接的な外交主体は伊都国で何ら問題無し。

で結局『 惣座遺跡 』に楽浪との濃厚な交流の痕跡は無いのかな?

自説に都合の良い適当な遺跡を挙げました…てんじゃあ話にならないぞ?w

畿内説・九州説に関係無く定説になっているものをひっくり返すには
まだまだだなwwww

404 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 17:24:33
いくら唾飛ばして喚いても
言ってることがテキトーな距離だけ
他何も無い
伊都國佐賀市大和説

405 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 18:57:58
>>403

私は畿内説だけど、楽浪系の陶質土器は、
畿内からは4世紀にならなければ出ないと思う。

406 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 19:14:09
>>403
>直接的な外交主体は伊都国で何ら問題無し。
行程記事についての説明は到底できないから、伊都国で応対したことにしようって
話だな。はい、畿内説は脱落。



407 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 19:27:33
>>404
少しは頭を使って書いてみたら? 
伊都国の要件。
 末盧国で下船しなければならない所。
 南水行ができる所。投馬国、邪馬台国の候補地があることも重要。
 末盧国から東南五百里の所。

 




408 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 20:07:30
末盧国ってまさかマツロとか読んでない?
末の字がマツと読むのは不自然。
末は漢音でバツだからバとよむ。
盧はル
だからバルと読むかもしれない。

九州には原 ばるのつく地名が多い。
語源を考えるとかなり多く候補があるらしい。
韓国語で村はマウル→マル→バル
古日本語 墾る ハルと読む 稲作のために開墾した場所
〃  〃 張り出したという意味 山間部から平野部に



409 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 20:13:50
>>396
>糸島付近を伊都国に比定する説は、江戸時代からあるが、これは単純に
>地名だけからきている。というのは、大量に鏡が出土した平原遺跡が発掘
>されたのは、昭和40年だから。

こう書くと、伊都国の比定に重要な役割を果たしている糸島付近の突出した
考古学的状況は、昭和40年以前にはまるで何も知られていなかったかのよ
うに印象づけられてしまう。
が、事実はそうではあるまい。

江戸期に発掘された三雲(中期)、井原(後期)の両弥生王墓の存在は、森本
六爾や中山平次郎や、京大文学部考古学教室などの報告で、すでに戦前か
ら古代史学者の間では周知の事実であった。

しかしそれはともかく、通説である伊都国=糸島付近、奴国=博多湾岸付近
説は、現在は地名だけでなく、今日までの長年にわたる多くの考古学の発掘
成果の積み重ねの上に成り立っているのは間違いない。 このことを無下に
閑却してはならないと思う。

410 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 20:36:08
まあ伊都国や奴国を定説のままにするならば
今度は九州説が持つ最大(?)のアドバンテージたる「方角」が怪しくなってしまうw



411 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 20:51:14
安本美典氏主宰の邪馬台国の会が昨年、畿内説の石野博信氏との間で、
「邪馬台国は畿内か?九州か?」と題する討論会(第257回特別講演会)を
行った。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku257.htm

ここで総括の講演をされた西谷正先生は、とても大事なことを言っておられる
と思う。部分的に引用させて頂く。

>邪馬台国は九州か畿内かという関心で追求していくのもひとつだが、そう
>ではなくて、倭人伝に記されたころの3世紀の日本列島がどうであったの
>かという研究調査も必要ではないか。

>拠点集落では、王墓や大型建物、国を挙げての祭祀を行う祭殿など、巨大
>集落の中に特別な施設がある。

>地域ごとにこのようなことを調査し、相対的に比較することで、邪馬台国が
>絞れてくる。このような地域研究が重要であり、日本列島がどうであったか
>について、日本列島全体の墳墓や鏡などの分布を考えて行く必要がある
>ということである。

>九州を含めて日本列島全体を調べていくことが遠い道のりだが邪馬台国を
>絞っていくための重用な方法である。

最後の2行はとくに心に残る。

412 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/21(火) 21:02:53

惣座遺跡では銀の指輪が3個出土しています。
ここ肥前国府等の地域では弥生後期に(伊都国王のような)伝統ある権力を持った王がいたことを示しています。
又、九州北部沿岸と筑紫平野、有明海を結ぶ通交の要衝であるので、
後世には肥前国府が置かれたのだと思われます。

413 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 21:15:03
>>410
そのとおりですよね。
学者ってなんで倭人伝の記述を無視するんですかね。
方角の東南を無視したりするから、沿岸地を比定したりする。いったい何考えてんの?と思ってしまう。
広い範囲を有していたとしても伊都国は東南500里まで伊都国だったんですから。
1世紀の倭奴国と3世紀の伊都国が混乱しているんでないの?
少なくても3世紀中ごろに時代を統一しないと。
で糸島半島は3世紀ではまだ伊都国に含まれていなかったと思うし。

414 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 21:54:53
伊都が末盧の東南だって?落語のネタですか?

415 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 22:12:41
「東南陸行」

東南に陸行できる。

(何処が?)

南渡一海千餘里して
たどり着いた末盧の港

★最初の上陸地末盧の港は、東南に陸行できる地。



なぁ〜にが伊都国だぁ!
もう少し真面目に取り組め!

416 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 22:18:59
>>409
>江戸期に発掘された三雲(中期)、井原(後期)の両弥生王墓の存在は、森本
>六爾や中山平次郎や、京大文学部考古学教室などの報告で、すでに戦前から古
>代史学者の間では周知の事実であった。
新井白石が伊都国=怡土としたのが1716年、三雲の発見が1822年、井原
が1781年ころだ。白石の比定は地名に頼ったものであり、その後、遺跡を発
見して伊都国の王墓だと思い込んだだけの話さ。

417 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 22:31:27
ついでに言えば、新井白石は大和説だったから、伊都国を玄界灘沿岸に比定する
しかなかったんだな。倭人伝のとおり東南に進んで有明海沿岸に比定したら、そ
の瞬間に近畿大和説は自己破産状態だ。

418 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 22:37:19
>>409
玄界灘沿岸は、棺は出ているが、有明海沿岸のような大遺跡が出ていない。
吉野ヶ里遺跡、平塚川添遺跡、方保田東原遺跡あるいは、うてな遺跡のような。

たとえて言えば、有明海沿岸は大企業。玄界灘沿岸は中小企業みたいな感じ
で、ちょっと違うタイプの文化を持っていたのかもしれない。

これは、平原遺跡と吉野ヶ里遺跡を比べてみたら、一目瞭然だろう。

419 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 22:53:44
>>418

博多やその周辺を地上げし掘ってみな?
それから語ってくれよ

420 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 23:01:57
>>419
博多はこれまで大きなビルをつくったりするのに、あちこち掘り返しているんだぜ。
それでも大したものは出てこなかったんだ。地上げするまでもない話だな。

421 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 23:05:12
>>420

>大したものは出てこなかったんだ

君の大したものとはどんなものだい?
それに、肝心なところを忘れているよ「福岡城跡」

422 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 23:14:37
>>420

>博多はこれまで大きなビルをつくったりするのに、あちこち掘り返しているんだぜ。

その掘り返した所を全て確認したかな?
特にバブル期に出来たものは、遺跡なんて出てきたら工期が大幅に遅れるのを嫌い
なかった事で工事を計画通りに行う所がほとんどじゃなかったのかな?
数日の完成延期は莫大の損失に繋がった時代だったからね

大阪なんて相当数の遺跡が
なんの調査もされずに、またビルの下に埋もれてしまったんじゃなかったかな?

423 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 23:16:48
末盧国 肥前
伊都国 筑前
奴国   豊前
不弥国 豊後
投馬国 吉備(備前備中備後)

424 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 23:25:39
マキムクや吉野ヶ里なんて
発掘調査を五十年かけて行ったところで
日本経済に損失を与えることは、ほとんど無いからね

その点大都市部はそうはいかない
遺跡の調査よりも日本経済に対する影響力を最優先させる

違うかね?

425 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 23:38:18
>>424
サイキバしか遺跡が出ないことに対する言い訳か?

426 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 23:40:54
>>425
発想がユトリそのものですね

427 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 23:46:16
>>418
それは輪郭のはっきりした形の分かり易い
環濠集落の印象に引っ張られていないか?

吉野ヶ里遺跡で40万平方米
三雲・伊原遺跡群で40〜50万平方米
須玖遺跡群で10040万平方米

特に吉野ヶ里は邪馬台国がらみのブームで全面が保存されたレアケースw
そりゃ見た目大きいわなwwwwww

428 :427訂正:2008/10/21(火) 23:48:44
誤)須玖遺跡群で10040万平方米

正) 須玖遺跡群で100万平方米



429 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 23:51:12
こんなQ&Aが載ってた

遺跡が発掘された土地の地代は上がる?下がる?

ttp://oshiete.homes.jp/qa76765.html

430 :どくだみ:2008/10/22(水) 02:08:18
>>367
>天円地方みたいに、方を形だけの意味解釈に縛るものがありますか?

儒教の経学です。

431 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 07:14:09
>>413
>学者ってなんで倭人伝の記述を無視するんですかね。
学者といえどもほとんどは先輩学者の受け売り、先入観でものを考えるからだよ。
まず、畿内説。近畿大和に邪馬台国があったとみる以上、伊都国は玄界灘沿岸で
なければ話にならない。>>417
次に九州説。南九州は熊襲の領域だと思い込み、万二千里に頼って女王国=邪馬
台国と決めつけた。そうなると、伊都国はなるべく北に比定しないと邪馬台国が
万二千里の範囲に収まらない。
要するに、畿内説と北九州説、二大学説(単なる盲信?)がいずれも伊都国=怡
土と言わざるを得なかったということ。どんなに不合理であっても、有明海の沿
岸と言ったときには自説が崩壊するからな。遺跡の話などはしょせん付け足し。

432 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 10:42:08
>>431
北九州説であっても、伊都国を界灘沿岸に比定する人は少ないと思いますよ。
距離と方向が合いませんから。
新井白石は近畿説から九州説に変わって邪馬台国は山門郡、今のみやま市に
比定したらしいです。
だから彼は政治的でもなければ自説を曲げること嫌う学者でもなく、
割合自由にものを考える学者ではなかったんですかね?
よくは知りませんが。


433 : ◆.L.MXSPOgc :2008/10/22(水) 11:04:35
>>410
私の説(2つのルート)なら、九州でまったく問題ないです。
伊都国・奴国を定説のまま、里程を佐賀平野経由のものとなる。

434 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 12:58:42
伊都国は

東南至奴国にあります。

435 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 14:12:22
つまり
伊都国は、東南方向に奴国の中心地が見える場所にあります。
これが
東南至奴国百里

436 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 15:56:45
>>434 >>435
だから何だって言うのかな?

437 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 16:33:47
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050618/4482.jpg
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050610/2764.jpg
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/090.jpg

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/099.jpg
http://www.sx.xinhua.org/ztjn/2003-08/29/xin_49b7e0a2d93511d7be2c0050ba1967d3.jpg
http://www.shtong.gov.cn/node2/node4/node2250/songjiang/node70313/node70604/images/00004623.jpg

438 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 16:43:37

「〇〇国は此処だッ!間違いない! どうだッ!」

ってガミガミ言われたって、ちっとも歴史を勉強した気分にならないよ。 (T儺)


439 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 16:49:59
>>436

だから
伊都は奴(中心的な場所)の北西。
伊都と奴は目と鼻の先。

440 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 18:01:01
Pu臭がするなw

441 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 18:25:14
>>438
激しく同意いたします。
「伊都国はあそこにあった。」「奴国はここにあった。」と言うなら
具体的な遺跡・王墓・出土した遺物を出せ。論より証拠だ!

442 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 19:42:28
>>441
では聞きますが

伊都国にはどんな出土物が必要で、奴国にはどんな出土物が必要なんだ?
そして
それらの出土物で、奴国と伊都国の違いとはなに?
末盧や不彌には
どんな出土物が必要なんだ?

443 :ヨコからだが…:2008/10/22(水) 20:11:12
>>442
とりあえず…
伊都国については
「郡の使の往来して常に駐る所なり」と言う事を示す物だな。

「伊都國佐賀市大和説」では
「銀の指輪が3個」だの
「後世肥前国府ができた場所」とかだったがそんなモンじゃあ定説を覆すどころか
そんなもん証拠能力があるかどうかと言う話でw

あと奴国はその%

444 :443追記:2008/10/22(水) 20:15:30
>>443途中で切れたので以下追記

あと奴国はその戸数「二万戸」とあるんだからそれなりの規模の遺跡が必要なんじゃないか?





445 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 20:28:58
>>444

そもそも、佐賀市大和説なんて相手にしている事自体間違いだな。
それに奴国の二万だが、二万とする範囲によって
遺跡の内容も変わるんじゃないの?
人口密度というやつ

446 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 20:33:57
>>445
とは言っても九州説にとって方角の記述は言わば「生命線」なんだから
なんとか記述の方角通りに比定しようとするのは無理も無いところwww

447 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 20:38:07
>「郡の使の往来して常に駐る所なり」と言う事を示す物だな。
日本国中、どこにもそんなものは出ていないな。楽浪土器もまったく証拠にはならんよ。

>あと奴国はその戸数「二万戸」とあるんだからそれなりの規模の遺跡が必要なんじゃないか?
二万戸が一塊になっていると思ってるのか? そんな調子じゃ奴国の比定などできるはずはない。


448 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 20:47:50

>>372九州王朝大好きの地図

>投馬國:大川
>奴國:佐賀城

嘘だろこれ
大川市や佐賀城のある佐賀旧市街地に、
なんか有力な弥生期〜古墳期の遺跡があるんか?
俺は聞いたことないぞ

449 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 20:57:18
>>447
もういいわお前はw

土器の出土に人の移動を見るのは普通だ。
単に流通でもたらされた物ならもっと拡散して他の遺跡でも出てくるだろうに。

「二万戸が一塊」?
それなりの中心集落としての規模って話だ。
もういい加減アホなことは言わないでくれw

まあケチレスレベルカキコしたいるんなら
さっさと「佐賀市大和説」を補強できる考古資料でも探してきなさいwww

450 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 21:06:40
>>372
>不彌國:吉野ヶ里

改めて言うと、この吉野ヶ里って言うのは蛇足なんじゃないか?w
3世紀頃には衰退してるんだし、そんだけ邪馬台国に近かったんなら
もうチョット何とかなったんとちゃう?w

仮に衰退するにしても祭祀や埋葬の形に何らかの変化が出る。
或いは出土物に何らかの変化が出る等々の事が欲しいなwww

なんとか話にリアリティ持たせようと吉野ヶ里を出したんだろうが
逆効果になっているようなwwwwwwwww

451 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 21:44:17
>>450
九州説では弥生時代は300年過ぎまで続くから、吉野ヶ里は
3世紀後半あたりまで確実に続いていますが何か?

というか魏志に記載のある末盧國も伊都國も古墳時代には見るべき
遺物がないので、魏志の時代をこれらの国の古墳時代とするのは誤り。

452 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 22:14:43
>>451
マジっすか?w

じゃあ 『 九州説 』 では「古墳時代は4世紀から」どころじゃないんだなwwww

「吉野ヶ里は3世期末には姿を消してしまう」と言っている
Mr.吉野ヶ里こと高島忠平先生もビックリだなwwwwwww

453 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 22:43:48
ジョーカー抜きのゲームを楽しんでいたところに、突然ジューカー持参で
ゲームに参加して来た吉野ヶ里厨。
ま、何とか我慢してゲーム参加を許したが
そのジョーカーの裏は
模様違いの別なカード。

454 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 22:52:53
>>453
>ジョーカー抜きのゲームを楽しんでいたところに
行程記事に合わないことを承知の上で儚い夢をみていたのか。
いや、目を覚まさせてしまって悪かったな。





455 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 22:55:25
>>452
高島忠平さんは、吉野ヶ里の望楼に登ると、邪馬台国が見えるといった人だから、
吉野ヶ里と卑弥呼時代は重なると考えている。

確かなのは、吉野ヶ里と纏向が重ならないところだろう。

纏向と卑弥呼を関連付けると、吉野ヶ里は関係ないということになる。
逆に、吉野ヶ里時代と卑弥呼時代が重なると考えると、纏向は邪馬台国と
関係ないということになる。

連敗の畿内説にとっては年代論が最後の砦というべきか。

456 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 23:02:06
>>455
だから吉野ヶ里と邪馬台国は重ならないんだって。
歴史・考古学好きならこれ常識。
むしろ吉野ヶ里は倭の面土国王帥升の時代にあてはまる。
大体、吉野ヶ里と邪馬台国が重ったとして、
何故即纏向は邪馬台国と重ならないことになるの?
大体、伊都国から吉野ヶ里まで水行十日もかからんでしょ。(伊都国からの放射式、陸行一月は架空として)
陸行数日で行ける。

>連敗の〜
どこが?
「畿内派考古学者の捏造」云々言って自分勝手な解釈ばかりやってる人には分からないだろうが、
畿内説はどんどん有利になってきているよ。

457 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 23:03:41
>>454
九州説も相手にしない吉野ヶ里。

458 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 23:14:57
つうかね>>451みたいに四世紀に入っても尚弥生時代とかもうご乱心と言うか
「お前脳味噌沸いてるの?」と突っ込むしかないだろうwww
(いやひょっとしてお笑いに走っている?w)

まあ高島忠平の名前を出したついでに書いておくと…

氏によると青銅鋳型の出土で言えば玄海灘沿岸地域には古い時期の物の出土が少なく
逆に有明に面した佐賀平野の方に古い鋳型が出土するんだそうだ。

「佐賀市大和説」を強弁している連中は恐らくそれと逆の事を考えているんじゃないのかな?


459 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 23:19:38
>>451
>というか魏志に記載のある末盧國も伊都國も古墳時代には見るべき
>遺物がないので、

これは、どうよ?
久里双水古墳(唐津市指定史跡)
http://inoues.net/club/9risousui_kofun.html

460 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 23:24:36
>>456
>伊都国から吉野ヶ里まで水行十日もかからんでしょ。
おい、おい。吉野ヶ里が邪馬台国だなんて誰も言ってないぞ。

>畿内説はどんどん有利になってきているよ。
そういや、木の面が出てきたとか喜んでたな。溺れる者は〜だな。

461 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 23:32:32
>>456
以前は、弥生時代は西暦300年くらいまでというのが定説。
それが100年くらいも遡ったのは、1995年の秋らしい。
まあ、10年ちょっとしかたってしない新しいものだろうな。
その根拠になったのが、年輪年代法。

http://www2.odn.ne.jp/hideorospages/yamatai03.html

ここにこんなことが書いてある。

紀元後1世紀ごろの遺跡と見られていたのが、年輪年代法では紀元前1世紀
の前半と出ました。
当時、定説とされていた年代観とは、大きく違います。
しかし、不幸なことに、考古学者の間には、年輪年代法は日本では無理と
いう考えが、まだまだ根強く残っていました。そのため、当時は年輪年代法
で得られた結果に不信感を抱く研究者も少なくなかった、といわれています。
けれど、翌年の池上曽根遺跡のケースでは、考古学者は色を失いました。

なんかおかしいと思わない?
それまで不信の目で見ていたのが、都合の良い結果が出たら信じるという
ふうにも取れる。

462 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 23:39:38
>>461
>以前は、弥生時代は西暦300年くらいまでというのが定説。

違うと思うね。


463 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 00:46:29
>>459
いわゆる纒向型よりも前方部が発達しているから、最古ってのはトンデモの部類だな。
日本全国にある前期古墳の一つに過ぎない。

>>461
年輪年代法
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1168695342/l50
の391以下参照。

そもそも年輪年代は、その測定値も基準グラフも公表されていない(完全なブラックボックス)。
しかも一度たりとも検証されていない。
これを根拠にする時点で学者としての資格は毛頭ないと断言できる。

464 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 01:15:04
>>462
以前は4世紀前葉(300〜330頃)までが弥生時代とするのが、圧倒的通説であった。
対して、一部に3C末葉(270〜300頃)まで古くなるとする説もあった。
当時の異端説として、箸墓を卑弥呼の墓とする説もあった。

弥生時代の各種出土物の量的比較で、北部九州はヤマトの50〜300倍の量であるため、
邪馬台国が弥生時代に属するとすれば、九州説ですぐに決着するはずであった。

しかし、畿内説はこの「畿内の後進性」を1900年〜1990年頃まで約100年も無視・隠蔽して、
弥生時代に位置する邪馬台国が畿内にあると主張し続けた。
学者の大多数は「畿内の後進性」を言えないという異常な空気が支配していた。

発掘が各地で進み、80年代には畿内説の一部に「畿内の後進性」を認める者が出てきた。
そこで、畿内説は90年頃から邪馬台国を古墳時代にスライドさせてきた。
もちろん年代を100年も古くできる確たる根拠はない。

明治の頃より歴史学界の大多数は畿内説で、九州説は非歴史学者(アマチュア)が主体で
あったため、「畿内説の敗北は学界の敗北」であるとして、100年も年代を遡上するという
暴挙に出たというのが実情である。

465 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 01:28:30
>>464
>以前は4世紀前葉(300〜330頃)までが弥生時代とするのが、
>圧倒的通説であった。


…で、その「通説」の根拠は?


466 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 01:28:59
三角縁神獣鏡が日本で500面以上出ていて、国外では1面たりとも
出土していないという状況であれを国産であるとはっきり言いにくい
空気が支配している時点でアウトだな。

いったいどこの北朝鮮だよwwwwww

467 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 01:38:11
>>464
>明治の頃より歴史学界の大多数は畿内説で、九州説は非歴史学者(アマチュア)が主体で
>あったため、「畿内説の敗北は学界の敗北」であるとして、100年も年代を遡上するという
>暴挙に出たというのが実情である。

嘘っぱちは言わないようにwwww


例えば明治なら内藤湖南が出て文献の徹底比較する前は九州説が優位だったりと
その時代時代でシーソーゲームやっていてと言うのが実情。

468 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 01:39:55
>>465

1、古墳の型式の変遷で時代を遡ると4C前葉移行が古墳時代の始まりとなる。
 →遡上説は初期の古墳規格を数倍の期間とする。
  というか型式の議論そのものを封印してしまった。

2、崇神を4世紀前葉〜半ばとする通説の結論
 →遡上説は初期の天皇稜の大半を無視せざるを得なくなった。

3、その他。

469 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 01:43:13
>>467
しかし、その頃から九州説の支持者は正規の歴史学者ではない者が
主体であったという事実は変わらないね。
とくに昭和〜戦後はその傾向が強い。

戦後に発掘が進み「畿内の後進性」が誰の目にも明らかになった頃には
九州説の大半は非歴史学者で学界の大半は畿内説になっていた。

「畿内説の敗北は学界の敗北」というくだらんプライドが生んだ暴挙だよ。
年代遡上は。

470 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 01:50:00
>>468
1も結局はそのスタートが2と言う事で結局
2の崇神陵と言う一点になる。
(まあ予想通りだったがw)

で、崇神陵はその内部の調査がされた訳でも何でも無い。
実在性にしても所謂欠史八代と比して記述が詳細となると言う事で
雄略みたいに遺物にその名があり実在がほぼ確認できたと言うものでもない。

結局単なる「共通認識」の域を越えない。

その共通認識が理化学的年代測定や編年作業で変わろうとしているのに
「従来の定説が正しい」とばかりにイチャモンを付けるのは噴飯物www

冷静に両者と距離をとってその新説に対し疑問を呈するのならともかく・・・

471 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 01:53:50
>>469
>しかし、その頃から九州説の支持者は正規の歴史学者ではない者が
>主体であったという事実は変わらないね。

明治から?
初めて聞いたなw

後学の為、具体例を挙げてもらえないかね?




472 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 02:26:42
そもそも学問の世界においてある学説に賛同するということは
その学説の結論だけに同意するものではなく
その学説が導き出された論証過程をも含めて同意するってことで
反論する場合もその論証過程を吟味することから始まるもんだ

しかし古墳時代開始年代遡上論を攻撃してる面々は
ただただ旧来の結論である「古墳時代の開始は4世紀だ」と繰り返すだけ
攻撃対象である年代遡上論の論証過程についての知識は
どこぞの同人誌で吹聴されているようなレベルのお粗末なものであるし
何より自分たちが依って立っている古墳時代4世紀開始論に対してですら
どのような論証過程によっているものなのか理解していないことが多い

某掲示板で「現在の邪馬台国九州説論者は勉強不足」との発言を眼にしたことがあるが
全くもってそのとおりだと思う

473 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 02:33:54
>>464

これはネタなのかな?

巧妙にウソをついてるつもりだろうが、
騙さなきゃならない相手にウソだと見抜かれちゃ、無意味だろ。


474 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 02:40:42
>>472
批判するなら、自分のほうからきちんと説明したら?
これこれこういう理由で、古墳時代の始まりは○○だと。

475 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 02:55:54
>>473
「畿内の後進性」を無視してきた100年の歴史には反論しないのか?

476 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 03:09:09
>>472
全くその通りだね
例えばジュラ期やらなんだって言う化石学の地質年代の方法なんてのも酷いもんだし


記期に書いてある内容の解釈も酷いもんだよ
「辛酉年、橿原に天皇が遷都した」
確かに記期に書いてあるように660年の辛酉年にはに天武天皇が橿原に都を遷都し即位してる

それなのに何故か明治維新後は「紀元前の660年前の出来事で初代神武天皇が即位した事だ」って解釈に変わって、その間違った解釈の辻褄を合わせる為に橿原神宮や神武天皇陵まで新しく作ってる(明治維新後に)

因幡の白兎なんてのも書いてあるのは「稲葉の素兎足」であって、白い兎がどうこう言う話じゃないよ(そもそも兎って字も記期では草冠に兎って書く)

いまある記期の解釈に関しては明治時代以降に風説させられた間違った解釈だって理解して無い人が多いすよ

そもそも天皇の血統ですら江戸時代までは北朝系だったのに、明治時代以降では明治政府に南朝系に書き換えられて複数の北朝系の過去の天皇を排除した系譜になってる訳だし


477 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 03:29:29
書物に関して「正史」なんて言葉を持ち出して、「日本書記以外は偽書とする」として、
江戸幕府が使ってた先代旧事記や、それぞれの藩や寺にあった風土記などで伝えられて来てたそれまでの日本の歴史を
「明治の長州政府が日本書記のみからの解釈した歴史以外は一切認めない」
とやったのも明治政府
明治時代に一度日本の歴史(つか歴史書に書かれてる解釈)はあらかさまに書き換えられてるよ(これは露骨だから調べれば誰でもすぐ解る)


いまだに「日本書物と古事記以外の全ての書物は偽物」なんて言うバカもいるし
先代旧事記にはきちんと平安時代に纏めた天皇や他の氏族の1200(ぐらいだったかな?)もの氏神の系譜を纏めた書まで載ってたんだよ
日本人の戸籍は全てそれらの氏神から代々続く血統として平安時代からずっと庚申戸籍(だったかな?)として残ってて日本人なら誰もが先祖を平安時代まで遡る事も出来てた
それらの歴史の積み重ねも廃止し、庚申戸籍を焼き捨てて先祖を辿れなくさせたのも明治政府
「自分は○○が氏神で○○氏族の家系」と名乗る事すら法律で禁止して、寺にあった戸籍を焼き捨てさせたりまでしてたよ

だから日本人は戸籍を見ても自分の先祖が辿れなくなったよ

478 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 03:44:39
ちなみに日本の古歴史書のどこをどう探しても
「弥生時代」とか「古墳時代」なんて言う時代は無いよ

弥生時代だの縄文時代だの弥生人だの縄文人だのって時代の名前や、人種の呼称はそれこそ近代になって日本の歴史を知りもしないアホの学者が勝手に作っただけのもの

そもそも縄文人の骨なんてのは百穴遺跡からしか発見されて無いし、記期にも他の古書物にもちゃんと「岩穴に住む土グモ族」の日本人とは別の種族事が書いてある

百穴遺跡から発見された今の日本人とは違う骨(ちなみに骨は数個の頭蓋骨が発見されてるだけ)を見て「弥生人の前に住んでた人種だ」とかアホですよ
ちなみに縄文式土器なんてのも発見されるのは百穴遺跡からだし
つか期記や他の歴史書や各地の伝承でちゃんと土グモ族が居たって話は書いてある訳だし
なのに「日本は縄文時代があり、、」とか主張してる学者はマジでアホすよ


479 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 04:09:55
百穴遺跡は明治時代以降は「石器時代の縄文人の墓」とアホの学者によって間違った解釈をされてそれが通説となってるけど

あれは江戸時代まで言い伝えられてたように、記期にも記述のある通りに、岩穴に住んでた知能の低い土蜘蛛族(アイヌ語でコロボックル族)の住居だよ

墓でなく住居な訳
・遺跡からは数個の頭蓋骨の骨しか見つかってない
・百穴遺跡からはいわゆる縄文式土器と呼ばれる精度の低い生活に使う土器が複数発見される(ちなみに縄文式土器は百穴遺跡の中から発掘された土器の事)
・百穴遺跡の近くからは貝塚が発見される事が多い

そもそも埋葬された骨なんて1つも見つかってない百穴遺跡を「墓」と主張した学者がただのアホ
縄文式土器やら縄文人の頭蓋骨の骨だのってのは、単に土蜘蛛族の骨であり土器だよ

縄文時代なんていう時代は無いよ


480 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 05:03:10

なりほど、みなさんのおかげで、
邪馬台国は奈良だったことがよくわかりました。


481 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 05:03:24
あと「古墳時代」って言ってるけど
まずそもそもが前方後円墳などの巨大な古墳はそもそも本当に墓なの?
エジプトのピラミッドも遺体や骨なんか何も発見されて無いのに墓だ墓だ言われてたけど、日本の古墳も別にあれは墓じゃ無いかもよ
だいたい「昔は権力を誇示する為に巨大な墓を作った」だなんてのは近代学者の勝手な想像でしかないと思うけどな
あと殉葬なんて文化も本当にあったのかね?
ただの共同墓地を「これは生け贄で埋葬された人だ」って勘違いしてるだけなんじゃね?

482 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 05:10:07

勉強が不足してると、美濃もん太みたいな勘違いをしてしまうわけですね。

よくわかります。

483 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 05:37:37
>>480
仮に奈良が邪馬壹國だったとして
「現在の奈良がその当時の漢書を書いた人から邪馬壹國と表記されてた」
ってだけの話だよ

そもそも魏志倭人伝は本当に漢人が書いた書物であるなら、あれ「ヤマタイコク」とは発音しないから
ちなみに漢人が書いた書物であるなら日本人が「ヤマタイコク」と発音してたので発音から「邪馬壹國」って字を当てたって事も無いよ(大陸では文学の発達した日本と違い、漢字を表意文字でしか使えない)
まあ今の中国人はシナ人であって漢字を作った古代漢人とは違う民族だから古代漢人は日本人と同じように訓読みを付けて表音表記も出来てた可能性はあるけどね


つか魏志倭人伝以外の書物も参考にした方がいいよ
東夷伝とかには同じように倭の女王が治めた土地にあった弥烏邪馬國の事とかが魏志倭人伝よりも詳しく書かれてるよ
倭人が韓半島や遼東半島を統治して開拓してた様子とかさ
まあ別に中国の書物見なくても記期にも神巧皇后の話や国造りの為に、日本から乾国(韓国)の素富里(ソウル)の高千穂に降り立った天孫降臨の話でちゃんと書かれてるんだけどね
そもそも百済や任那や新羅は日本人が統治して建国した国だよ

ちなみに日本人が統治する以前の乾国ってのは乾いた国土地から来た漢人が統治してた国だから乾国って呼んでたんだよ
古代漢人は、当然、朝鮮人でもなければ今の中国人(シナ人や唐人)でもないよ

484 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 06:00:36
>>482
日本の教育で教えてる日本の歴史や、その歴史を主張してきたアホの学者の言う事や解釈を信じる方がアホ


戦後の「日本は縄文人がいて弥生時代になり、、」とか
明治政府の作った「神武天皇が九州から東征して日本を建国し、、」
どっちも違うよ


記期にも日本書記にも先代旧事記にも、日本の歴史を書いたどの古書物にも、そんな事は書いてないよ


「歴史」ってのは近代の学者が考えたり作ったり想像したりするものじゃなく、過去から積み重ねて来た足跡の事な訳だから
全ての日本人(エタヒニン以外)が、江戸時代までは戸籍を見ればどの氏神(氏族)の血統なのか平安時代まで遡れてたのも、平安時代からずっと戸籍を付けてたからだよ(明治政府が廃止したからもうわからなく殆んどなっちゃってるけど)

日本は大半は明治政府に焼かれたけど、それでもまだ日本書記以外の風土記など沢山の歴史書が残ってる国だから、その歴史書を間違った解釈をせずに正しく読めばいいだけだよ
いくら遺跡をほったり土器なんかを発見した所で、そんなものから歴史が解る訳無いんだから

エジプトのピラミッドがクフ王の墓って言われてるのも、ピラミッド内部の落書きが「クフ」って読めるってだけでクフ王が立てたって言われてるだけで、実際に立てた時代や人物なんて解らないんだよ

485 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 06:06:44

うん、邪馬台国は大和だよね。



486 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 06:23:43
つか明治の長州政府はそれまでの日本の歴史を確信的に改ざんしようとしてた意図が見え見えだよ
例えば「神武天皇陵」なんてのは明治になってから明治政府が作ったものなんだから天皇陵でも古墳でもなんでも無いんだよ

宮崎大社なんてのも明治政府が明治になってから神武天皇を祀ったとしただけの神社なんだから、いちいち天皇が参拝に訪れる必要も無い神社だし
だいたい明治時代以前は神武天皇を祀ってた神社なんて1つも無いし
それに日本で初めて「てんのう」の称号で呼ばれた人は「牛頭天王(ごずてんのう)」
牛頭天王は自ら「私はスサノオだ」と名乗ってたとされスサノオと同一神とされる神
天皇や天子ってのはその血統だって事でしょ?
芦原中国を統治したのはスサノオであってホオリの命じゃないよ
記期を読めば書いてあるよ

487 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 07:23:34
ホオリの命じゃなかった
イワレビコだ

488 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 07:34:20
>>472
真理を衝いているな。

489 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 07:56:54

結論から言えば、邪馬台国は大和だよね。

490 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 08:24:00
>>489
「國」ってのは今で言う市町村の意味ですよ
だからそもそも「邪馬壹國の女王、卑弥呼」って言い方が間違いだよ
卑弥呼は邪馬壹國って言う国家の女王だった訳じゃなく
卑弥呼って言う女王がいて、その統治下に邪馬壹國って地域もあったってだけ


まあだから結論を言えば邪馬壹國も奴國も他の○○國も大和ですよ

漢人が邪馬壹國って呼んでた地域が大和の中の何処にあったからと言って、別に大したことじゃないですよ


491 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 08:32:54
江戸時代もそう
江戸幕府が日本を治め
各地域の藩主がそれぞれの藩の地域を治める

大英帝国もそう
イギリス王室を君主とし、オーストラリアや東南アジアの国々を治めてた
だからと言ってイギリス王室を「オーストラリア国王」とか「インド国王」とか言い方はしない
漢人が「卑弥呼」って呼んでた倭人の女王がいて、邪馬壹國も治めてたってだけだよ



だから仮に卑弥呼の墓が見つかったとして、そこが魏志倭人伝に書かれてた邪馬壹國だと言うわけでもない
オーストラリアの君主であったイギリス王室の墓がイギリス見つかったからといって、そこがオーストラリアじゃ無いわけだから

492 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 08:42:17
「九州発祥説」とか「畿内発祥説」って言葉を聞く度に
邪馬壹國が日本の発祥だとか勘違いしてるんじゃ無いかと思うよ



「邪馬壹國と言う國有り、女王の卑弥呼が治めてた」
「札幌と言う市有り、明治天皇が治めてた」
「香港と言う都市有り、イギリス王室が治めてた」


邪馬壹國なんてのは日本の発祥だのなんだのとは関係ないすよ

493 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 09:39:25
これが一人相撲というやつか。

いったい誰と戦ってるんだろう?

494 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 10:02:44
>>492

「邪馬壹国を女王卑弥呼が治めていた」

と、言う事と

「札幌を明治天皇、香港をエリザベス女王 が治めていた」

と、言う事の
何処がどのように例えられるんだ?
後者は過去の史料が存在し、別な支配にあった経緯が分かっているが
前者邪馬壹国については
その経緯が未確認

後者を例えに出すのは、間違いであり 自分の思惑だけを擦り込もうとする

イメージ刷り込み手法そのものだよ

495 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 10:21:24
>>464
基本的にはそのとおり。

496 :のんびりひまじん:2008/10/23(木) 10:23:28
>>479
>百穴遺跡の近くからは貝塚が発見される事が多い

珍説にふさわしい根拠とお見受けします。
私が唯一実見した百穴遺跡は、栃木県宇都宮のものです。
周囲に貝塚は、見当たりません。

497 :のんびりひまじん:2008/10/23(木) 10:29:15
>>496 補足
栃木県宇都宮の長岡百穴古墳(ちょっとした観光地です)
http://odekake.jalan.net/spt_09201af2170018991.html

498 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 10:37:08
百穴が日本全国、同じ思想や目的で作られたり
同じ使われかたをしているわけではないだろう。
ある地では墓として
ある地では住居として
ある地では倉庫兼務住居
ある地では住居と墓の混在型

499 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 10:40:40
>>494
「國」って地域とかって意味だよ
三國志記に「魏國、倭國」なんて書き方はしてないでしょ?
國って国家や朝廷って意味じゃないよ


邪馬壹國にしろ奴國にしろ○○國なんてのは倭の朝廷が治めてた地域の呼称だよ
卑弥呼は単なる國の王だったんかあ?

500 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 10:53:41
>>496
百穴遺跡ってのは特に関東に多いけど日本の西から東まであちこちに沢山あるよ

あれが石器時代の墓だと言うなら全ての穴に遺体が安置されてたのかって話
その全国各地にある百穴遺跡から見つかった骨は僅か数個の頭蓋骨だけだよ
生活に使われてた縄文式の土器ばかりが沢山発掘されてるけどね
そもそも遺体をミイラにもせずにそのまま安置したの?って話にもなるし。腐るよ
つか百穴遺跡が住居跡なのか墓なのか、あとは自分で考えて見れば?

つかそもそも百穴遺跡が石器時代の墓だと言う根拠ってなんですか?
学者がそう主張してるから墓だと思うって事?
その学者が何を根拠にそう言ってるんだろね?

501 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 10:57:19
>>499

もう少し漢字の勉強を

國に決まった意味はない。強いてあげれば
範囲内、そういう意味だ。
國は口の内側に或と書くように、範囲(口)の内側は、様々に変化し
その内側に応じて、範囲の大きさもかわる。

つまり
文章の構成次第で意味も変化するんだよ。

502 :taka:2008/10/23(木) 11:00:19
美濃もん太さん

はじめまして。貴方の意見には大体賛成したいと思います。前方後円墳は墓だと個人的に
は思いますが、墓の為の墓では無く水の為の墓であると地方の発掘調査をしている人は考
えているようです。それは何故かというと、1.古墳の周濠と古墳自体の体積が一致する
事 2.『日本書紀』に実際に周濠の水の権利についての記述がある事 3.周濠がある
古墳は軒並み高い場所にあり、現在でもその水を使った耕作が行われている、

それからすると、巨大古墳は豪族の水利に関する公共事業であり、それを指導した豪族を
祀る物として古墳が使われた、つまり水神的な役割を担っていた可能性も高いと思います。

あと、何々國というのは確かに中国じゃあるまいし、当時の市町村の様な物だったと私も
思います。ですが、邪馬台国女王≠卑弥呼という考え方には賛成できませんし、『日本書
紀』の記述が全て正しいとも思いません。事実、『烏丸鮮卑東夷伝』には「南、邪馬台国
に至る。女王の都とする所」という記述があります。それからすると、邪馬台国は間違い
なく女王が居る場所でしょう。

503 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 11:03:10
>>498
だから土蜘蛛族は俺らと同じ人類じゃないよ
記期→土蜘蛛族
アイヌ→コロボックル
マレーシア→呼び方忘れた(涙)
ハワイ→呼び方忘れた涙
インドネシア→呼び方忘れた涙
西洋→ドワーフ族


共通するのは岩盤の洞穴に住み、夜行性で、頭がでかくて背は低い、体中毛むくじゃらで、岩などを掘る炭鉱能力にたけ、魚や貝などの漁をして暮らしてた

東南アジア諸国に住んでた人間とは別の種族だよ

つか期記にも土蜘蛛族を洞穴から引きずりだして殺して皆殺しにした話が書いてあるでしょ

504 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 11:07:52
>>501
うん。
「國」は戦前では「大日本帝國」って、今の「国」と同じ意味で使われ方してるしね


だから言いたいのは、魏志倭人伝が書かれてる三國志記の中での「國」の使われ方を考えれば解るでしょ?
って話ですよ

三國志記では國って字は魏國や燭國や倭國って言う使い方はしてないよ
国家や朝廷の意味の國じゃないよ

505 :taka:2008/10/23(木) 11:08:34
『隋書』列伝四十六には、裴世清(後、唐太宗 の諱を避けて 裴清)が邪馬台国に来て阿蘇
山を見てビックリしています。そしてそこから宝珠が出る事や、様々な珍物も出る事から
「倭は大国なり」と三韓が発言している事も紹介しています。

それからすると、冠位十二階の制度も隋の使者と会ったのも大和朝廷ではなく邪馬台国で
ある可能性が高いと思います。

506 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 11:27:43
>>502
古墳に関しては公共事業的なものなのかもね
元々「古墳」なんて言葉で呼ばれる前は作山とかって呼ばれてた地域もあるし

あと墓かどうかは中に遺体が安置されてれば墓だろうし、無ければ墓でも古墳でも陵でも無いよ
中には墓として作ったものもあるかもだし、別に墓として作った訳じゃないものもあるかもだし



あと東夷伝では邪馬壹國なんて出てこないすよ
東夷伝では弥烏邪馬國って國はある
ちなみに弥烏邪馬國は倭が朝鮮半島を統治してた時代に朝鮮半島にあった國の名前ですよ
だからもし東夷伝の弥烏邪馬國が邪馬壹國の事なら、邪馬壹國は百済にあった國だよってずっと前から言ってるっすよ

記期にも神巧皇后が朝鮮半島を治めて、百済を海の向こうの屯家(みやけ)としたって書いてあるよ
神巧皇后は百済の屯家と筑紫の宮家を行き来してるし
だから別に九州にも朝廷の宮家はあったにはあったと思うよ
ただ神巧皇后が九州に宮家を置いたのは乾国を統治しに行く為すよ

507 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 11:37:36
>まあ別に中国の書物見なくても記期にも神巧皇后の話や国造りの為に、
>日本から乾国(韓国)の素富里(ソウル)の高千穂に降り立った天孫降臨の話でちゃんと書かれてるんだけどね
>そもそも百済や任那や新羅は日本人が統治して建国した国だよ

民族大移動に時代だから。
日本人は先住民の土ぐもとか毛人とか蝦夷とかですから。
日本人が統治したんじゃなくて、渡来人が一時的に支配しただけだから。
新しい文化はみな半島ルートで渡ってきて九州ルート、
出雲ルートとある。
東の辺境に文化が及ぶのは数百年もかけて。
だからアイヌに刺青の習慣があったっていうけど
あれは倭人の風俗が、鯨面土偶が関東東北でもみられるように
あちらまで5、6世紀には及んでいたという証拠で、
アイヌなどは一番遅くその流行を取り入れたから、
明治になるまでその習慣は残っていたと私は考える。
当の倭人はとうの昔に刺青習慣はやめていたというのに。
そもそも鯨面土偶や遮光器土偶が縄文時代だなどと
年代遡上も甚だしいと私は考える。
文化の伝播を考えれば。


508 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 11:49:39
>>505
どこの阿蘇山の事ですか
阿蘇山って名前の山は日本だけでも数ヶ所あるよ
「阿蘇」って名前は阿蘇氏からでしょ

阿蘇氏が国造りで治めた土地は信州、筑紫、茨木、青森、朝鮮半島、、
阿蘇氏の発祥が何処かってのは置いといて、阿蘇地名は沢山あるよ
朝鮮半島に乗鞍岳や白山って日本と同じ名前や地名があるのも昔統治してた日本人が付けた名前だからだよ

あと当時の倭は大国ですよ
漢や魏や陏なんてのは小国だったからすぐ滅んだんですよ
あと、邪馬臺國、邪馬臺國、烏弥邪馬國、邪馬國、、書物によって微妙に記述が違うけど、同じ地域の事なんですか?
陏書では卑弥呼って名前も違う名前になってたし
まあ邪馬臺國が九州なら九州でも良いけど、どのみち○○國ってのは単なる地域の事すよ

邪馬臺國って言う国家や王国があった訳じゃないすよ

509 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 11:57:03
>>503
>東南アジア諸国に住んでた人間とは別の種族だよ

>つか期記にも土蜘蛛族を洞穴から引きずりだして殺して皆殺しにした話が書いてあるでしょ

土蜘蛛族は後続の人種によって絶滅した可能性もある。
混血が進むとはあまり考えられない。
その点、アイヌにも見られるように、
この人種は毛深い人種ではあるが、
南方系北方系人種と混血しただろう。
だからこそ、今に日本人はいろんな顔、体系がある。





510 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 12:06:06
>>507
いつ何処から移動して来たんですか?

平安時代にまとめ明治政府が廃止するまで続いてた日本人の氏神の戸籍には、渡来人は渡来人としてきちんと区別してましたよ
確か氏族1500氏族(物部、大伴、阿蘇、尾張、、)
渡来人250氏族(秦氏、波多氏、鞍作氏、、)
渡来人は秦系なのか漢系なのとか何処から来たのかも解るようになってたよ
その時に纏められた氏族が氏神で、明治時代までの日本人は全員どの家も氏神を祀り先祖がどの氏族か解るようになってたよ

あと記記には渡来人の秦氏が日本に蚕を伝えた記述があるように渡来したなら渡来して来たと書いてあるよ


つか何を根拠に大陸から来たって言ってるんですか?

511 :taka:2008/10/23(木) 12:08:40
>>508
すみません。倭人伝と言うべきでした。独自の伝は立てられてなく、あくまで
『烏丸鮮卑東夷伝』の中の倭人の条です。

故なく火を噴く、つまり当時も活動している火山は九州の阿蘇山しかありませ
んし、他の地名に火山である阿蘇山はありません。そして、阿蘇の地名は沢山
はありません。

512 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 12:15:06
美濃もん太さん、はじめましてですけど、
明治政府をあれだけ辛口批判していながら、
記紀を参考にしたり、
文化程度の高い先住民が
最初から日本にいたと考えるんですね。
まるで日本人は単一民族ですといった某元大臣のように。
私からみればとても矛盾に満ちていて理解しがたい。

西方の進んだ文化はシルクロードその他をたどって
最終的に進んだ文化が到達するのは日本。
その地理的考察は重要です。



513 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 12:15:30
>>511
阿蘇は中国でも沢山使用されているし、ASOは国内に沢山存在します。

514 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 12:17:05
あそ

515 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 12:27:47
>>513
こいつらにそんな説明したって、馬の耳に念仏。
都合悪い事や、話しの妨げになることは、条件反射のように無視するから。

516 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 12:29:06
>>512
記期は歴史書だから参考にすべきですよ
それから他の風土記などの歴史書も偽書だなんて排除せずに参考にすべきですよ
日本の歴史が書いてあるんですから

明治政府への批判は「歴史書に書かれてる内容の解釈を意図的に長州政府の都合の良いように改ざんして風説してるよこれ」って批判ですよ

神武天皇陵とかわざわざ作ったりアホですよ

517 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 12:31:26
>>516会津厨乙です。

518 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 12:47:45
>>512
文明文化に何処が発祥もクソも無いって話ですよ
約2500年ぐらい前に世界中に一斉に白人黄人とかの人種の壁とか関係なく文明は開花してる訳ですから
例えば文字だって世界各地でいろんな文字使われてるでしょ?
西洋が文明の発祥なら世界中で同じ文字を使ってるよ
お互いの文明文化を取り入れたり、お互いの文化文明を破壊しあったりが文明人の歴史だよ

何処かが文明を持ちその文明を世界中に広めたのが文明じゃないよ
日本が一方的に文明を持たずに、日本の文明は全て大陸からもたらされたなんて事は無いですよ
日本は日本の文明を持ち大陸は大陸の文明を持ち、互いに交流する事でその文明を取り入れたりだよ


519 :taka:2008/10/23(木) 13:24:59
私は個人的には國というのは、陳寿は今の国と同じ意味で使われた物と思います。それは
何故かと言いますと、陳寿が仕えていた王朝にも深く関わる事だからです。

当時、大魏王朝には二人の英雄が居ました。一人は、晋高祖宣皇帝司馬懿、そしてもう一
人は 大司馬の 邵陵元侯曹真 です。太和二年驃騎将軍であった 司馬懿 は新城を陥す功績
があったが、他方当時大将軍であった 曹真 は 諸葛亮 が涼州に進行して来た方を受け、
配下の 張コウ に街亭攻めを任せつつ西域まで足を運んで、その年の年末には 明皇帝曹叡
が長安に行幸出来る様になりました。

そして翌大和三年、この年は 大長秋曹騰 とその夫人に皇帝・皇后を追贈された年ですが、
西が安定した事によって漢から伝えられてる大国 大月氏国の使者が来朝して、親魏大月氏
王の金印紫綬を授けられました。帝の徳を広めるこの行為は、曹真 の地位を不動の物にし
て大司馬の位を受けました。黄金時代が続くと思われた曹家ですが、曹真 が薨去してしま
います。

そして、明皇帝曹叡 も病に陥ります。この時何を思ったかは史には書かれていませんが、
確かな事はこの時 劉放・孫資派 と 燕王曹宇派 の争いで宮中が混乱しており、司馬懿 の
動向を監視出来ていなかった事、ほぼ朝鮮を手中に収めた後景初二年六月に 劉夏 に倭の
使者を送った事、曹叡 がその時から恐らくは会えなかった事(『東夷伝』に記述があり
『本紀』には記述が無い事、貢物が貧弱な事)。

520 :taka:2008/10/23(木) 13:26:17
そして、司馬懿 の功績によって入朝した邪馬台国の位置が、経る國数は大月氏國より多く、
里数は大月氏が万千六百余里に対して万二千余里、戸数が大月氏が十万戸に対して十万余
戸。だが 司馬懿 の計算はあまりにも効果が大きすぎ、廃帝芳 になり 司馬 の上に大がつ
くのは不吉という理由で、当時としては実権が無かった 大傅 に 曹真 の子 爽 の働きか
けによって奉り上げられました。それらの動きからすると、個人的には國というのは西域
の國と一緒の意味だと思います。

521 :taka:2008/10/23(木) 13:36:39
ちなみに現在の 畝傍山東北陵 は、明治政府によって定められたものでは無く文久三年に
宇都宮藩の調査によって『文久山陵図』で確定され、孝明天皇陛下も勅使を派遣していま
す。大造営事業も幕末に一万五千両を投じてなされました。

元禄時代は、現在の綏靖天皇陵が神武天皇陵と思われていたようです。

522 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 13:47:32
>>518
土ぐもっていう種族は日本全国にいて洞窟に棲んでいた種族。
より原始人に近い人種でしょ。
それがまあ世界に広がっていたわけだけど、
それが複数の場所で
高い文化発明が起こり、
その高い文化とともに人間の形状も少しずつ変化して、
その高い文化によって変質した人間がどんどん辺境を侵食していったと。

たとえば、植物の繁殖を想像すればよくわかる。
ある場所にそれより強い種類の種が飛んできて
芽が出て花が咲き、種が出来ると翌年には
その周りが同種の植物でいっぱいになる。
だんだんその植物で覆われてもともの弱い植物は片隅に追いやられてしまう。
あるいは絶滅するとか。
だから太古からそのままの形で種を絶やさず生きてきた動物植物は数少ないが、
その種は最初から優れた種で今日まで残ったといえる。
他の種は進化したり絶滅したりがほとんど。

日本の文明が独自に発達したのは平安以降で、
江戸時代には鎖国政策によって純粋培養された。





523 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 14:09:36
>>522
土蜘蛛族が太平洋諸国以外の土地にいたかどうかは解らないけど確かにもう滅んだすよ
植物の種ってのも例えば農作物は文明人が様々な種類を交配させ栽培方法や環境や気候に合うかどうかを試行錯誤して作った種ですよそうして作られた植物が農作物ですよ
稲なんてその最たるもんだと思いますよ

稲にしろ小麦にしろトウモロコシにしろ大根にしろ文明人が作った植物ですよ

自然界で大根や稲が勝手に育ってるのを見たこと無いでしょ?


524 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 14:16:01
稲を作った文明もあれば小麦を作った文明もあればイモを作った文明もある

また今いるブタやニワトリなどの家畜も文明人が動物を配合させて作ったんですよ
だから野生にニワトリやブタなんかはいないすよ

別に進化なんかなくても人間によって人間の生活に適した新しい種なんて作れますよ
今なお家畜や農産物はどんどん品種改良がされて様々な新しい品種がつくられてる訳だし


525 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 14:18:35
で、人間の人種が白人、黒人、黄色人種に最終的に色分けできるのは、
結局その風土気候に適応した原始人が複数の文明発祥地から変質した人間に侵略あるいは同化していって、その地で培養されてきたから。
原種の原始人は絶滅するか文明の吸収によって原始人自体も変質していったかもしれない。
ヒマラヤの奥深い山地にはまだ雪男がいるって話だけどもしそれが本当なら
大昔の原始人がまだ種を絶やさずにいたってことで何処とも文化交流がなかった証明。

526 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 15:52:53
○○天皇陵とか古墳が本当に墓なのかどうかはとりあえず掘って調べりゃ済む話だよ

遺体が安置されてれば墓、そうじゃなきゃ古墳でもなんでもなく他の目的で作られたものだよ
そもそも「権力の象徴として巨大な墓を、、」なんてのは本当にあったの?
ピラミッドからも天皇陵からも遺骨が発見された事すら無いじゃん




527 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 15:58:38
バベルの塔
エルサレム宮殿
出雲神殿

古代人が権力の象徴として建ててたのはこう言った建造物で墓の大きさで権力誇示なんて無いと思うよ
もう死んじゃってるのに意味ない訳だし
それに日本なら墓なんか立派にするより、祀られる神社を立派に作るような気がするけどな


528 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 16:03:25
始皇帝稜や、サウザーの聖帝十字稜は?
生きている内から作り始められてたって聞くけど。

529 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 16:09:39
・あんどん山
・王之塚

とりあえず景行天皇陵とスイジン天皇陵の名前になる前の呼び方がこれ

山や塚だよ
墓じゃなく単なる作山じゃないの?

530 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 16:14:25
>>528
始皇帝陵も遺体が出てきて始めて墓だよ
遺体もなければ墓以外の目的で作られた物だよ
そもそもあれも「これだけの規模の物は始皇帝の墓に違いない」って理由で始皇帝陵って言われてるだけだし


歴代天皇がサウザー見たいな奴だったら嫌だしなw

531 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 16:18:18
天皇陵が全国に47ヶ所だってさ

江戸時代前までの天皇は京都の寺に墓があるのに仮に○○天皇陵が天皇の墓だったとして47もある訳無いじゃん
まあサッさと掘って調査しちゃうべきだよ


532 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 16:21:58
開拓した際にでた土を積んだだけとか、単にそんなんじゃないの?

明治時代以前まで墓とか陵とかって名前じゃなく塚とか山呼ばれてただけのものだよ。あれ


533 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 16:27:14
>>528
たしか、皇帝が生きてるうちに作る自分の陵を寿陵って言うんだったよね。

534 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 16:32:35
とにかく明治時代以前までは別に「○○陵」とか「○○墓」って呼ばれてた無かった物は全部墓じゃ無いと思うよ

○○天皇陵とか○○古墳なんて名前を付けて天皇の権力を誇示したかったのは、天皇を担いでその権力で政治的統治しようとしたのは単に長州政府じゃないの?


535 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 16:35:07
でも死んだ以上どっかに埋葬するはずで、墓はあるはずだよな。
で、墓はそいつの記念碑みたいなもんでもあるはずだから
そいつの功績が大きかったり権力を持っていればいるほど、立派に作ってやろうとするのが人情。

天皇稜は明治以降になって宮内省が、これは○○天皇の墓らしい・・ってことで認定していったものらしいから、
それがそのまま○○天皇稜に当てはまるかどうかは解らんが、発掘したところで
「ここに埋葬されてるのは○○天皇です」なんて但し書きでも出てこない限りは、結論が出るものでもないんじゃね?

536 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 16:43:52
>>535
本当にそれが墓なら、昔から○○の墓とか呼ばれてると思うよ
○○山とか○○塚って呼ばれてた所みたいだし
あと古代神道見たいに山の中腹に埋めて祀ったとしたら、その山自体が神社で神社や社建てるよ


それが墓かどうかなんて掘ってみりゃ解るよ
遺体が埋葬されてりゃ墓だし、遺体が埋葬されてなきゃ墓として作られたものじゃないよ

街全体を見渡す為の作山だとかそんなんかも知れないしさ

537 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 17:00:07
>>535
あと確か仏教伝来以降の天皇は京都のなんとかって神社の檀家に入って、孝明天皇以前までの天皇や皇室の人達はソコに墓があるよ

これまた明治政府以降の天皇は廃止されて、孝明天皇以降は○○陵って墓を作ってるみたいだけど


538 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 19:08:40
>>536
発掘して、遺体が出てくれば墓で・・ってのは
解りやすいけど、ちょっと乱暴だな。

どこで読んだかは忘れたけど、天皇陵だか豪族の墓に盗掘に入った盗賊の話もあるし。
墓荒らしに入られたら、副葬品は盗まれ、
遺体や遺骨は捨てられてもおかしくない。
天皇の権威が墜ちてた時代は、墓守もいなくて荒れ放題だったらしいよ。

>>537
明治以降天皇陵が復活してたのは、初めて知った。
サンクス。

539 :taka:2008/10/23(木) 19:32:02
えと、質問。代表的な物で良いですから、どの天皇陵が明治以降に復活した
のでしょうか?

540 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 20:18:23
>>529

> スイジン天皇陵

崇神天皇のことであれば、慣例として「スジン」天皇と読みます。

ちなみに「崇」と言う字は「スイ」とは読めない。




541 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 21:50:28
三国志魏書に先立って成立したと考えられる
魏略では行程の説明が有るのは伊都国までで奴国以降の記述はないので、
郡使は伊都国が目的地で伊都国=女王国であるのは明白である。


542 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:26:02
>>541
魏略に伊都国に女王がいたなんて書いてあるのかい?w

そもそも景初3(2)年の女王遣使以降の魏と倭国の交渉について
魏略には無く、別に官府の資料から取ったと言うのが定説。

543 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:50:34
>>541
>魏略では行程の説明が有るのは伊都国までで奴国以降の記述はないので、
現存する魏略は翰苑に残る逸文でしかない。行程記事の一部を抜き書きしたもの
であり、けして全部ではない。奴国、不弥国、投馬国の記載がないのも一部の抜
き書きだからだ。それに、伊都国王らが女王に属している旨の記載からみても伊
都国と女王国とは明らかに別の国。

544 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 05:08:59
>>464
>明治の頃より歴史学界の大多数は畿内説で、九州説は非歴史学者(アマチュア)が主体で
>あったため、

九州説を主張した著名な学者たちを何人か挙げよう。

白鳥庫吉 東京帝国大学教授(東洋史学)
橋本増吉 慶應義塾大学教授(東洋史学)、東洋大学学長
牧 健二 京都帝国大学法学部教授(法制史、法学部長)、
井上光貞 東京大学文学部教授(国史学)、国立歴史民俗博物館初代館長
田中 卓 皇學館大学教授(国史学、学長)
榎 一雄 東京大学文学部教授(東洋史学)

田中卓は皇国史観の平泉澄(東京帝国大学教授、国史学)から薫陶を受けているが、
立場が全く逆のマルクス主義歴史学者、藤間生大(熊本商科大学教授)も九州説だ。

史学以外にも広げるなら、大林太良(民族学、東京大学教授)とか・・・・

実に錚々たるものだ。

545 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 05:18:25







で、今はどこの先生が九州説を主張してるの?










546 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 05:33:59
近畿説を主張している先生ってのも教えて。

547 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 06:56:14
隋国の役人が、「即ち・・」と随書のなかで、ヤマトに関しての
混乱を断定形で正して見解している。

遣隋使の使者や返礼者としてヤマトを訪れた裴(世)清ら一行の報告
をもって、その混乱も解消した。

「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」
(原文=邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)

この裴(世)清の来日の件は日本書紀では、推古天皇16年の条で大唐
とされている。

日本書記の編者らは隋から唐への革命による政権移行が正しく認識で
きていなかったことは事実である。

これをもって、九州説諸氏はこの条項に反論しているが、ヤマト側に
よる中国(隋や唐)の認識よりも、要は隋国の使者が正しくヤマト側の
ことを伝えていればそれでよいのである。

608年4月 裴世清ら隋使一行が筑紫に到着
   同6月 難波津に到着、一行のため高麗館の傍に新館を建設
   同8月 京に到着、大伴連が出迎えて国書を天皇に奏上
   同9月 裴世清が隋に帰国、小野妹子は大使として随行

この行程からも、裴(世)清ら一行のヤマト入りは、九州であった
はずはない。当時の実力者(王)は推古天皇ではなく、実質的には、
嶋大臣の蘇我馬子(天武系の人々に後に卑しい命名がなされた)であった。



548 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 07:28:11
>>547
倭王は600年に随へ使者を派遣しているが、日本書紀にはその記載がまったくない。
裴清が来たときの倭王は男性の阿毎多利思比孤、その時、大和の天皇は女帝推古、
話はまったくあっていない。邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也というのは、九州の
邪馬台国だと言っているんだよ。

>裴(世)清の来日の件は日本書紀では、推古天皇16年の条で大唐とされている。
だいたい、本当に裴清の訪問を受けたら、その記録ぐらいは残しておくだろう。
隋の使者である裴清を唐からの使者とまちがえるはずはないんだ。それが間違って
いるということは、日本書紀が書いている裴世清の来日はまったくのデタラメだな。
隋書が書く裴清の倭国訪問をみて、大和にも立ち寄ってくれたふりをしようとして
でっち上げてみたが、あちこちぼろが出ているということだろ。


549 :taka:2008/10/24(金) 07:29:14
>>547さん
はじめまして。貴方の議論だと以下の疑問点について答えないと駄目ですよね。

1.後の朝鮮半島は、九州を倭、本州を深所倭と称しているのはなぜか? 2.裴(世)清
はまだ活発な活動をしている阿蘇山を見てビックリしており、阿蘇山を祀っている旨が書
かれている。

3.隋側が正しく認識というが、中国が国書を携えて各国に行くには西域諸国だろうと安
南であろうと、国王に謁見して正式に渡す必要がある。その場合、最低限人の名前はキチ
ンと認識出来なければ話しにならない。さて、『隋書』の東夷伝には男王で王の名前が姓
は阿毎、字は多利思比孤とある。

そこで問題、蘇我馬子 はどこをどうすればその名前になるのか? 小コ阿輩臺 というのは
誰なのか? 夷人であるから正確な認識が出来ないという可能性は当然あるが、であるなら
ば後の 朝臣真人・空海・朝臣仲満 といった人々の名前はどうして認識が出来るのか?

最大の問題点は、やはり九州の地名が出てきて大和の地名が出てこない事でしょう。

550 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 08:04:18
>>547
>608年4月 裴世清ら隋使一行が筑紫に到着
>  同6月 難波津に到着、一行のため高麗館の傍に新館を建設

九州から大和まで、
「水行十日陸行一月」にぴったりおさまるな。

邪馬台国は大和なんだよ。
もし、九州なら、九州の地元民が間違いを正すだろ。


551 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 09:06:16
>>543
>現存する魏略は翰苑に残る逸文でしかない。行程記事の一部を抜き書きしたもの
であり、けして全部ではない。

現存する魏略は、一部を抜き書きしたもので全部ではないが、
行程記事を引用する場合は行程記事全部を引用する、
行程記事の一部を抜き書きにしては意味が変わってくる、
三国志魏書の後半の行程記事は別の情報源の記事を独自に追加したものであろうと推測される。


552 :taka:2008/10/24(金) 09:21:21
違うと思う。以前書いた様に、邪馬台国の戸数・日にち・経る国の数は『漢書』の大月氏
国より若干上。つまり 司馬懿 が第一人者となるためには、曹真 の功績によって来朝した
大月氏国の功績を上まわる必要があった。里数や行程はあてにはならない。

事実『隋書』でも、古書では行程にこれほどかかったと前置きしている。

553 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 10:03:24
>>551
>行程記事を引用する場合は行程記事全部を引用する、
そうとは限らない。そのことは廣志逸文をみれば明らか。それも途中までしか
引用していない。

554 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 10:12:33
>>552

大月氏国の功績を上回る。なんていう解釈は、後の世に誤読会の諸氏が勝手に解釈したのであって
、陳寿は一行足りともそのような事を書いていない。 距離に不安を覚えた諸氏が、苦肉の先に編み出したワザ。

555 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 10:21:18
>>550
>九州なら、九州の地元民が間違いを正すだろ。
何をどうゆうふうに?

556 :taka:2008/10/24(金) 11:29:45
>>554
いや、むしろ距離を無理に当てはめようとする学者が居るからややこしくなる。もし距離
が全て正しいと言えるのなら、何故『隋書』でハッキリと九州が出てくる?

当時の政治状況、そして漢人特有の皇帝としての美徳を考えれば大月氏との釣り合いと取
る方が自然だが? それに、陳寿 は晋の史官だからそんな事は書けるわけは無いでしょう。

ちなみにこんな事を主張している学者は見たこと無いが、誰か居たかな?

557 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 11:40:49
>>556
それって全て貴方が描いた主観でしょ?

558 :taka:2008/10/24(金) 11:52:43
逆に言えば貴方だって全て主観でしかないよ。主観を除いたら歴史なんて語る人居ないん
じゃない? じゃあ、貴方は全ての行程を鵜呑みにしてどこにいきつくのか知らないけど、
貴方の想像する場所も主観でしょ?

阿蘇山の記述をスルーするのも貴方の主観でしょうし、畿内に持って行こうと九州に持っ
て行こうとそれぞれその人の主観でしょうね。それこそドラえもんのタイムマシーンでも
無い限り主観から抜け出せないんじゃないかな?

559 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 11:54:25
>>556
>大月氏国とのつりあい

いったい何がつりあうんだい?

560 :taka:2008/10/24(金) 12:08:46
519-520 を読んでください^^

561 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 12:27:13
>>560
何度読み返しても、主観は何処までも主観なわけ
大月氏国までの距離だって、京からの距離
普通釣り合いとるなら
倭までの距離を京から万二千里としないか?

遠く離れた郡から万二千里では、比較も何もあったもんじゃない。

562 :taka:2008/10/24(金) 12:58:24
失礼だが、貴方の意見も言わずに批判をするだけなら誰でも出来ると思いますよ。貴方の
主観もどこまでいっても主観なわけですよ。自分の功績を大きく見せたいのは誰でも一緒。
だから、司馬懿 の政治絡みというのが一番自然だと思ったわけです。

それから一言言っておきますが、私自身主観である事を否定してはいませんし自覚もして
います。と同時に他の説も、その程度の物だと思います。

ところで質問ですが、一里って今でいうと何mでしょうか?

563 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 13:35:15
>>562

魏晋朝里は現在の単位に換算すると約420m

尚、この数値は
尺=約24p
里=1800尺
で、求められた値です。

564 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 13:36:08

はいせいせいが、九州に寄ったとき、
「ばってん、邪馬台国は九州ですたい!」と主張しなかったことは重要だ。

やはり、邪馬台国は畿内だったんだよ。


565 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 13:46:59
>>564
やまったい!て言ったんだよ。邪馬台だよ。九州さ。

566 :taka:2008/10/24(金) 15:40:58
>>563
おお!! ありがとうございます^^ もしかして、563さん は『中国度量衡通史』という
本をお持ちですか? 良く知ってるから、ひょっとしたらと思って^^; 中国の度量衡の
歴史を、計量出版社と北京大学の共同研究の集大成として出版されてます。

それからすると、やはり短里という考え方は少し無理があるのかも知れませんね。

567 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/24(金) 15:50:35
>>550
九州も収まる。遣使を兼ねてのんびり遊覧してたのさ。逆に
台風等天候不順、盗賊、未知の険しい山谷、道間違いもあろうし、
薮蛇も怖い。だから時間がかかっている。
卑弥呼の国が畿内なら記紀に倭人伝以上に卑弥呼の記事が載る。天皇
と卑弥呼の付き合いが満載される。それが倭人伝の神功39年等の猫の
額くらいの記事しか無い。ということは畿内近隣に卑弥呼の国が
なかったから情報が無く、記紀に出てこないわけだ。つまり女王国は
九州にあったのであ〜る。

568 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 15:57:14
国内進化説っていうの?
記紀の不都合な記載は一切無視するっていうか、
明治時代の政策を批判していながら、
皇国史観だというのが不思議なんだけど。
古墳の発掘が進むと、その測定結果から案外古い結果が出るので
3世紀には邪馬台国は近畿なくてはならないと考えてしまうのかな。
あの測定法はまだまだ正確性が疑問視されているんでしょ。
記紀も何度も同じ話の繰り返しが出るし、
国内統一があんなに早かったら、
文字だってもっと早くから普及していてもよさそうなのに、
随書にあるように7世紀近くになってやっと百済から仏教の経典を得て
それで普及したって。
それまでは木に縄を縛って通信していたらしい。
だから記紀は伝説や木簡など風土記もたよっただろうけど、
からしか情報がないから何度も繰り返し同じような話が出てくる。
やっぱり中国文献や風土記や遺跡発掘とかでこうだろうと
考えて行くしかない。







569 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 15:57:18
>>566

短里は
その導き出される課程に問題があるから
今まで誰の支持もうけないだけです。
現代の地図を持ち出したり、古い問題集から机上計算をしてみたりとか

570 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/24(金) 16:02:12
紀元前の始皇帝の時代、徐福が来日してるから、そのとき彼が漢字を
伝えてるよ。だから字が無いというのは妄想だ。

571 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 16:10:17
>>570
ほんの少人数しか、首長クラスやその側近位しか
使えなかったと思うし。
史書があったとしても都合悪いからみんな焚書してしまったんだろうかって
疑ってみたくなる。
だから何度も何度も素人目にみても
同じ内容だろうと推測できる話がいっぱい。
全然面白くない。
古事記は読んだことないですけど。


572 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/24(金) 16:15:05
みんな焚書はしてないだろう。焚書は充分可能性はあろうが、
みんなじゃないから、残って記紀があるんだろうが?

573 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 16:21:51
>>569
で、あなたは、末盧国から南東五百里の伊都国をどこに比定してるのかな?

574 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 17:08:27
>>573

>、あなたは、末盧国から南東五百里の伊都国をどこに比定してるのかな?

私は現在の糸島半島に東南至奴国の起点となる伊都の地点を比定しています。

575 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 17:29:31
◆いとはく秋季特別展

〜伊都国歴史博物館秋季特別展〜
 『玄界灘を制したもの 伊都国王と宗像君』
日時:平成20年10月11日(土)から
           11月24日(月)まで
入館料:大人300円、小中高生200円

 伊都国歴史博物館(いとはく)では、10月11日より、秋季特別展として、『玄界灘を制したもの 伊都国王と宗像君』を開催します。 

 「弥生時代に一大率と呼ばれる今でいう検察機関が設置され、伊都国王のもとわが国随一の交易都市として栄えた糸島。古墳時代にも重要地域のひとつであったが、5世紀以降徐々に軍事拠点的様相を帯びていく。
 律令制下では官による大規模製鉄が営まれ、大宰府防衛の前線基地として怡土城が築造された。
 こうした動きの中で、磐井の乱(527年)後に筑紫君に代わり勢力を伸ばした肥君が糸島でも航海術・軍事力を発揮していった。」

 今回は、特別出品として海の正倉院・沖ノ島の国宝も展示致します。ぜひ、ご覧下さい。

伊都国歴史博物館 前原市大字井原916番地
http://www.city.maebaru.fukuoka.jp/city/bunka/ito-museum/index.htm

576 :taka:2008/10/24(金) 17:34:50
>>575
私が言おうとしていたのに^^; でも面白そうですね。行ってみようかなと思います。紹
介、ありがとうございました。

私も個人的には 宗像氏 が伊都国王家で、阿蘇氏 が祭祀を司る卑弥呼の女王家と思ってい
ます^^;

577 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 17:37:02
■開館10周年記念企画展 「奴国の生産遺跡」 まもなく終了!

 ”春日丘陵周辺の先進技術”
 須玖遺跡群の発掘調査では、青銅器鋳型やガラス勾玉鋳型をはじめ青銅器・ガラス玉類の生産関連遺物が多量に出土しています。
また、生産工房跡の発見も相次いでおり、これらから奴国の先進性と特質をうかがうことができます。
 今回の企画展では、奴国の王都であったとみられる須玖遺跡群から出土した青銅器・ガラス玉類の生産関連遺物を中心に展示し、その先進文化と技術、生産の消長等をわかりやすく解説します。
 入場は無料です。

[期間] 9月6日(土)〜10月26日(日)

[時間] 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)

[場所] 奴国の丘歴史資料館 特別展示室(春日市岡本3−57) 
http://www.city.kasuga.fukuoka.jp/nakoku/event/05kikakuten_nakoku.html

578 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 17:50:04
★末盧館(まつろかん)へどうぞ!

住所 佐賀県唐津市菜畑3359-2

営業時間 9:00〜17:00
休業日 月曜(祝日の場合は翌日)、12月29日〜1月3日休
入場料金 大人200円、4歳〜中学生100円(特別展は別料金)

日本の稲作は縄文時代晩期に九州北部から広まったというのが定説だが、唐津市街の南西部から発掘された菜畑遺跡は日本の稲作発祥の地。
菜畑遺跡に建てられた末廬館(まつろかん)は、遺跡から発掘された炭化した米、稲穂を摘取る際に使用された石包丁など、稲作が行われていたことを証明する貴重な出土品や資料を展示する歴史館。
周辺は遺跡公園として整備され、「出あいふれあいの広場」には竪穴式住居、日本最古の水田、縄文の森などが再現されている。


「末盧」とは魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に「又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之」と記された末盧国のこと。
海を渡って千余里で末盧国に至り、そこには4000戸が海山に沿って住んでいるとある。
唐津市郊外の「松浦」は、その転じた地名といわれ、近年の調査では唐津市の中原遺跡(なかばる)が末盧国の中心地と推測されている。
http://puchitabi.jp/saga/article/post-109.html

579 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 18:25:48
全園入園料・駐車場料金無料!!!
特急「かもめ106号」博多行が吉野ヶ里公園駅に臨時停車!!!!!

▼▼▼▼▼▼吉野ヶ里ふるさと炎まつり▼▼▼▼▼▼

●期間:2008年10月25日(土)・26日(日)
 ※全園入園料・駐車場料金無料(東口駐車場大型・マイクロ車の料金は除く)
●時間:10:00〜20:00

●場所:祭りの広場

●主催:吉野ヶ里ふるさと炎まつり実行委員会
●問合せ先:吉野ヶ里町商工観光課内事務局 0952-37-0350

●内容:幻想的なたいまつ行列(25日)や、送り火のほか、ステージイベントや郷土芸能ステージ、飲食物販など吉野ヶ里町ならではのイベントが目白押し!
25日は「TOSHI Healing LIVE in吉野ヶ里」、26日には1100発の花火も打ち上げられます!

★お知らせ★
25日は混雑が予想されますので、ご来場は公共交通機関のご利用をお願いします。
博多方面のお客さまに特急「かもめ106号」博多行が吉野ヶ里公園駅に臨時停車します。
 吉野ヶ里公園駅 21:04分発  博多駅21:34分

また、25日はJR九州主催のウォーキング大会も開催されます。

※都合により内容等が変更になる場合があります。あらかじめご了承ください。
http://www.yoshinogari.jp/
http://www.town.yoshinogari.saga.jp/uploadlib_city32/bbs/2/2/250/1/吉野ヶ里ふるさと炎まつりチラシ.pdf

580 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 20:47:57
>>569
三国志魏書の東夷伝は一里約420mでは説明が全く付かない。
魏晋朝里の約420m以外に一里90m〜60mの短里があったとしか考えられない。
短里が何なのかはよく分からないが、史書には確かに使われている。


581 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 20:59:01
随書で地名と名前の一致を大野城市で見つけました。

泰王国とはタイオウ→タオ→トヨ 豊国のこと。

泰王国は華夏と同じとあります。
つまり中華と同じ風俗の新羅人の住む地域、ということは→白木原(新羅原)

そして倭王の名が多利思比孤 →大利町

白木原と大利は隣り合った町です。偶然の一致以上のものがあると思います。

つまり隋書にある倭王は大野城市にいたと思います。
ここは以前私が伊都国だと思って比定したところと同じです。

その西の那珂川あたりが(竹斯国)筑紫国になります。



582 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 21:12:28
>>581
>タイオウ→タオ→トヨ


伊都国東京説・・・・・・

イト→イド→エド!

バンザーイバンザーイ

583 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 22:39:32
>>580

>三国志魏書の東夷伝は一里約420mでは説明が全く付かない。
魏晋朝里の約420m以外に一里90m〜60mの短里があったとしか考えられない。

どう考えられないのかな?
もしや貴方も現代の地図を持ち出して、自分が想定した起点と着点間を測り
それを記述された里で割ったのかな?



584 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:10:42
>>580 >>583
580氏の言われるとおりですね。合理的思考ができない畿内説論者には理解できない
ことなのでしょうが。


585 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:18:56
実際問題として、郡使がどうやって距離を測ったかが問題。
特に海の距離。

現代の我々でも、車の場合はオドメーターに頼るくらいで全くわからない。
当時の人も、こんなもんだろうというくらいじゃなかったのかな。

586 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:29:46
>>584
>580氏の言われるとおりですね。合理的思考ができない畿内説論者には理解できない
ことなのでしょうが。

何故そこで畿内説が登場するのでしょうか?
私は九州説ですが

>合理的思考ができない

それを4世紀の洛陽の人に言えますか?

587 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:42:32
>>585
陸上では当然徒歩(歩測)ですね 陸行ですから
陸路が徒歩なら海も当然徒歩ですねw

588 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:43:16
>>586
一部の九州説論者、所謂「アンチ畿内」と呼ばれる人々は
自分の意見に反する人間に対しては
「畿内説」「畿内説」としか言わないのですよ。

589 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:43:36
>>586
あぁ、あなたも合理的思考ができない方ですか?

>>合理的思考ができない
>それを4世紀の洛陽の人に言えますか?
どうゆう意味かな?4世紀の洛陽人に畿内説論者がいたとは思えないが。




590 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:50:56
>どうゆう意味かな?4世紀の洛陽人に畿内説論者がいたとは思えないが。

だめだこりゃ

591 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:54:16
>>588

>一部の九州説論者、所謂「アンチ畿内」と呼ばれる人々は
自分の意見に反する人間に対しては
「畿内説」「畿内説」としか言わないのですよ。

なるほど
何処の世界にも必ずそのような人種はいますからね

592 :すいぜい:2008/10/25(土) 00:55:15
短里なんて妄想w 循環論法だよ。客観的根拠が全くない。
その時代に使われた「度」に合致しない。
おのれの望む比定地に都合の良さそうな度を勝手に作って その勝手な思い込みを根拠にして、
おのれの望む比定地が倭人伝の記述と合うなんて、循環も良いところw
オレは邪馬台国なんてどうでもいいが、こんな幼稚なループ 。
見苦しいねえ。ここ位だろ?短里なんて他じゃあ今頃そんな事書く奴見掛けないね。
恥ずかしくて書けないんだろ?もっともここはhnいらないからな。名無しならダブスタでもわからないからな。
幼稚な連中が集まるの解るよ。




593 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 01:49:49
名無しなら、短里短里と書けるというが、
コテハンでも、倍暦を連呼するやつもいる。

594 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 02:13:14
>>593
某、自称古神道の大家、オカルトマニアの太□さんのことですね、わかります。

595 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 05:59:05
>>592
>短里なんて妄想w 循環論法だよ。客観的根拠が全くない。
>その時代に使われた「度」に合致しない。
では、逃げるなよ。郡から狗邪韓国まで七千余里、実際の距離は650キロぐらいだ。
この関係をどう解釈するのかな?
魏時代にどのような度が使われていたか、何を証拠に認定するのかな?
1里=430が使用されていたといっても、それ一つとは限らないぞ。


596 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 06:28:14

>>549
はじめまして

まだまだ混乱は続くようですが、隋書倭国伝の邪馬臺の説明のなかで、他にも >>547
『王妻號?彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。内官有十二等:一曰
大コ、次小コ、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、
次大信、次小信、員無定數。』とあります。最後の方で順番が入れ替わっていますが後段は
まさしく冠位十二階の制を説明したものとしか理解できません。
聖徳太子そのものが謎多き人物であるけれど、これにかわる痕跡は九州の何かの治世で残され
ていますか? 小学生が普通に考えても冠位十二階の制ですよ。この記載されているものは・・
中国では当時活火山が非常に珍しく、その意味では阿蘇山も倭国の中の山の1つであり
珍しく感じて報告がなされたはず。中国側に風土風習がないものは新鮮なものとして報告が
なされたのでしょう。(他例:好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之)

597 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 06:54:48

>>596

結局のところ、冠位十二階だのなんだのと言ったところで、ケチをつけようと

思えばいくらでも互いにつけられる。

「親魏倭王」の印がたとえ、とこから出てこようと、動産物である以上、人の手により

移動できるので、技ありであっても、一本とはならない。

永遠の謎であるため歴史版で盛り上がるテーマの1つになっているのだが。


598 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 06:55:21
>>596
隋書が書くのは、開皇二十年(600)の倭王遣使の際、使者から聞き取ったもの
だ。しかし、冠位十二階が制定されたのは推古十一年(603)、年代が合わない。
しかも、あなたが言うように、最後の方で順番が入れ替わっている。
中国史書と日本書紀を比べると、この問題に限らず同じことを伝えているように見
えるが微妙に合わないということが頻発する。もちろん、いずれかが不正確なのだ、
同じ話だという理解もありうるが、それにしては微妙にずれすぎる。
したがって、単に不正確なのではなく、日本書紀が中国史書につかず離れず大和の
歴史をでっち上げているという見方もできる。その見方の方がすっきりと理解でき
るということ。


599 :すいぜい:2008/10/25(土) 08:29:16
>>595
> この関係をどう解釈するのかな?

ほら見ろ。解釈だって?何故『解釈』の必要がある?その当時の人々共通に認識されたものがその当時の度だ。

> 魏時代にどのような度が使われていたか、何を証拠に認定するのかな?

文献にあり考古史料で裏付けがとれている。こんなの謂わずもがな。ググってみろよ。

> 1里=430が使用されていたといっても、それ一つとは限らないぞ。

一つとは限れないとしても、1/6〜1/7の尺度、つまり1:7の関係にある里と呼ばれる単位が、同じ史書に混在してるなんて妄想以外の何物でもないよ。
しかもその史書は同一人物の撰だ。短里なんてナイナイw
あるというなら、当時万人が使用していたれっきとした尺度であるという客観的な根拠を書いてみろよ。
自身の比定地に合いそうな度を創作しているダケダロ。循環なんだよ。 又来る。

600 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 09:12:54
>>599
>何故『解釈』の必要がある?
逃げるなって言ってるだろ。なぜ、合わんのかを答えろよ。
あんたの言う「当時の人々共通に認識されたもの」と合わん理由だよ。

>文献にあり考古史料で裏付けがとれている。
短里がなかったなどと書いた古い文献はないぜ(今のアホな学者等が書
いたものはあるだろうが)。
当然、考古史料にもそんなものはない。あると言うなら上げてみな。

601 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 09:15:09
>>589
畿内説論者がいたかどうかは分からないが、
北九州論者は居なかったと断言できる。
当時の中国人は不弥国から水行三十日、
もしくは伊都国から水行十日の所に邪馬台国があったと認識してるわけだから。
北九州にあるなら伊都国から陸行数日ぐらいで行けるだろうが。
これぐらいの事は考えろ。
>>597
つまり九州論者はこの先九州島以外のところから金印が見つかっても
そうやって逃げるという事か。

602 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 09:29:46
>>599
>当時万人が使用していたれっきとした尺度であるという客観的な根拠
万人が使用していたかどうかは関係ないな。地域的なものでも、一時的なもの
でもかまわんのだよ。倭人伝が短里で書かれている。読んだ者がそのことを理
解し、普通の里の5倍ぐらいの数字になってるとか分かればそれで十分。
「れっきとした尺度」? 尺度にれっきとしたとかれっきとしないとかあるか?
読み手に分かればいいんだよ。


603 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 09:34:39
>>601
>北九州にあるなら伊都国から陸行数日ぐらいで行けるだろうが。これぐらいの事は考えろ。
考えてるよ。私は北九州にあったなどとは一言も言っていない。


604 :九州説論者:2008/10/25(土) 09:53:32
>>600
考古資料は魏代の曲尺で、これを現在単位に換算すると
尺=約24 p

尺から里への単位移動換算値は文献に記されているので
これを参照下さい。


で、短里の考古資料と文献資料ってなに?

605 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 09:56:39
古田信者はスルーが適

606 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 10:08:54
>>600
> 短里がなかったなどと書いた古い文献はないぜ

はじめからないものを「ない」って書く文献なんかあるか?(笑)

607 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 10:31:39
>>606
>「ない」って書く文献なんかあるか?
分かればいいんだよ。短里がないという証拠などないんだ。
短里はない、などと勝手に決めつけないこと。それこそ妄想。

>>604
>考古資料は魏代の曲尺で、これを現在単位に換算すると尺=約24 p
それはその程度の尺が使用されていたという証拠になるだけで、それ以外の
尺が使用されていなかったという証拠にはならない。

「当時の人々共通に認識されたもの」と合わん理由がどこにもないぞ。
どうした?回答できないのかな?


608 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 10:48:23
>>607
じゃあ、文献史料と考古史料提示してみろよ。 出来ないんだろ?
だから、「ない証明」なんて無茶苦茶なものを出せって言ってるんだ。
あったって言うならそれを提示しないと。

609 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 10:51:46
古田信者はスルーが適

610 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 11:13:21
>>608
『周牌算経』による計算から古代の1000里が約76kmであることが導かれるそうだな。
それに、魏略、魏志、これもそれ自体、立派な文献史料なんだよ。

611 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 11:18:08
古田信者はループでポン♪

612 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 11:32:47
古田信者かどうかも見分けがつかんとは可哀想な奴らだ。

613 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 11:38:54
自分が古田信者かどうかもワカランとは可哀想な奴だ。
サイキバ君級だなw

614 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 11:56:51
醜いな
資料が無ければ無いと言えば良いのに。
それとも、何が資料かもわからないのか?

615 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 12:00:50
答えられなくなったら、相手にレッテルを貼り、誹謗中傷して逃げの一手
では情けないな。直木孝次郎が「問題はこのような短小な里が、魏代では
一般に使用されていたのか、東夷伝にだけ見える特別な里か、である。・
・・360尺(60歩)=1里という特別な里制があったのであろうか。
今後の研究課題。」としていることぐらい知っておくんだな。

616 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 12:07:08
>>610
> 『周牌算経』による計算から古代の1000里が約76kmであることが導かれるそうだな。

「そうだな」w
孫引きかあ?
じゃあその計算式言ってみろよ。いえるか?(笑)

> それに、魏略、魏志、これもそれ自体、立派な文献史料なんだよ。

その史書に書かれた里について話しているんだろうが!
なんでそれが根拠になるんだよ? しっかりしてくれよ(笑)

617 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 12:14:17
周牌算経かぁ

測量の度に八尺棒勃起させて夏至迄待つのか?
夏至の日が雨だったら、二年越しで測量か?

気の長い話しだなw

618 :すいぜい:2008/10/25(土) 13:36:10
>>600
> 逃げるなって言ってるだろ。

逃げる?出掛けてただけだ。逃げる必要など全くない。


> あんたの言う「当時の人々共通に認識されたもの」と合わん理由だよ。

舞文だからだよ。


> 短里がなかったなどと書いた古い文献はないぜ(今のアホな学者等が書
> いたものはあるだろうが)。

ないものをわざわざないと書く訳ないだろ。

619 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 13:36:16
本当に測量したのはエジプトのプトレマイオスだけどね。

620 :すいぜい:2008/10/25(土) 16:18:45
お〜い!610どうした?返事がないぞ(笑)

621 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 17:08:27
>>620
>お〜い!610どうした?返事がないぞ(笑)

八尺棒勃起させることが出来ないので、自分の8mm棒勃起させて測量してんじゃね


622 :のんびりひまじん:2008/10/25(土) 18:34:17
http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page010.html
http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page003.html


623 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 19:01:28
一里76mで計算すれば、
壱岐から唐津は完全にボツ。
壱岐から唐津まで一番近くて35キロ
一番遠くて50キロ(しかも一点通過で)。
壱岐から北部九州沿岸まで渡海1000里ってことは76キロなくてはならないから。
末盧国を唐津湾に比定したりするから、
方角を無視してでも前原を伊都にしてしまったり、
奴国を博多湾にしてしまったりする。
考古学者の文献軽視って酷いもんですね。
唐津から前原だったら東どころではなく北東に近い。
呼子としても真東。
呼子だったら壱岐からの距離が遠くて40キロ(一点通過で)

それが定説だっていうんだから驚き。
そもそも唐津には壱岐からの距離が近すぎるんだから、学者はどこで船から降りたと考えているのかな。
距離も方角も無視。



624 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 19:09:51
>>622
今時誰も眉に唾を付けながら見ている後世の問題集を、周代に書かれたって設定している自体、相当病んでるなw

625 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 19:19:08
文献誤読の>>623が、文献無視と考古学者を笑ってる。

626 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 19:24:01
>一寸の差は千里に相当する。

じゃあその一寸って、現在の値に換算すると
何pなんだよ?

627 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 20:08:16
概ね2.4cm

628 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 20:48:38
>>623
>壱岐から唐津まで一番近くて35キロ
>一番遠くて50キロ(しかも一点通過で)。

現代の地図を、倭人伝の横に置いて考察してるようだが、
そんな方法で果たしていいのかどうか

そんな簡便なやり方で、当時の中国人の地理認識が判明できるのだろうか
俺には疑問が残る

近代の機器で精密に測量され、航空・衛星写真からの情報までも加味された正確な地図・・・・・

・・・・・・そんなものは、古代中国には無かったはずだ!
魏晋代の中国人・・・・・陳寿とか・・・・・は、我々の手元にある現代の地図を見ることは無かったはずだ!


古田さんにも同じことを言いたい

629 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 20:55:49
>>628

>そんな簡便なやり方で、当時の中国人の地理認識が判明できるのだろうか
>俺には疑問が残る

じゃ、南が東で、水行一月、陸行一月で畿内到着でいいじゃん。

630 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 20:58:57
>>627

>概ね2.4cm

概ね2.4cm なら、里=約430mで、千里=約430km
八尺棒は192cm

631 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 21:12:53
>>628
1800年も経ってないので基本的位置は変わらないよ。
対馬が二つに分かれたのは水位が上がったためか。
裏を返せば、そのくらいの変動しかないってこと。
貴方みたいなやり方こそ、おかしい。
中国人は手元の地図など参考にはしていない。
きちんと里数まで調べている。
方角の知識も船行には必須。
全部実地に調べた結果だよ。
貴方みたいな考え方は幼稚そのもの。

632 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 21:17:02
631だけど、
第一、半島南部から対馬は見えるし、
壱岐も見える、地図などたよりにしなくてもわかりますよ。

633 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 21:35:39
確か、対馬と壱岐間の距離って、最長(対馬北端〜壱岐南端間)
と最小(対馬南端〜壱岐北端間)では約百キロも違うよね
そう考えると、一里あたり約100mも違いが出てくるよ。

634 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 21:48:31
>>633

一点通過であるか複数通過であるかで里数も変わってきます。
最短距離をとる場合は一里55メートルになります。
だから壱岐から北部九州沿岸には最低55キロ以上なければならないということです。

635 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 21:59:43
>>634
>だから壱岐から北部九州沿岸には最低55キロ以上なければならないということです。

それはあくまでも里値が正確という前提が付加された時でしょう?

636 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 22:08:13
>>635
最低でも、ということです。
誤差を考えても最低45キロ以下は完全にボツになるから、
ボツになる地点を削除するだけでも考えやすくなると思います。

637 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 22:11:59

>>632

半島南部から本当に壱岐は見えますか?


638 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 22:14:41
>>637
壱岐はわからないけど、対馬は見えるでしょ。
対馬に行けば今度は壱岐が見えてくる。


639 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 22:17:00
>>633
対馬の最南端から壱岐の最北端までの最短距離を
参考に考えた場合、次の千里は壱岐の最北端から55q以上の地点となりますね?

640 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 22:19:04
ゴメン
アンカーミスった

633 じゃなく
>>636だった

スマソです。

641 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 22:25:07

船で航行した場合、こちらの岸とあちらの岸の間の距離(里数)は
具体的にどのようにして知るのでしょう?

ご存知の方、教えてください。



642 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 22:37:08
>>640
壱岐の最北端でなくても、
少し下がった港からでも半周してからでも、いいと思います。
最北端から考えた場合は唐津湾も着岸地点候補にはぎりぎりなります。

壱岐を半周したと考えれば、逆にほとんど唐津湾は考えられなくなります。

643 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 22:38:59
>>641
>船で航行した場合、こちらの岸とあちらの岸の間の距離(里数)は
具体的にどのようにして知るのでしょう?

時間と速度
陸上で可能な歩く速度と同じ速さで船を進ませ、経過した時間がわかれば
距離を求めることが出来ます。

644 :すいぜい:2008/10/25(土) 22:55:37
>>630
> >概ね2.4cm

> 概ね2.4cm なら、里=約430mで、千里=約430km
> 八尺棒は192cm


はい、短里なんて妄想沈没。自分の出した根拠らしきものすら、反証に過ぎない。
短里なんて無いの気が付いたか?
もっとまともな九州説ってないのか?
アルダロ?短里、短里って言う奴ばかりかあ〜

645 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 23:06:02
八尺棒や、地図の実測なんてするからダメなのよ
短里を主張するなら、俗称長里と同じステージで短里を証明すればいい。

646 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 23:12:08
>>644
九州説にしろ、畿内説にしろ狗邪韓国から対馬、対馬から壱岐が千里余りで
あることは同じ。
対馬から壱岐は最短距離で50km余り。
これをどう説明するか。

647 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 23:13:22

>>643

なるほど。ありがとうございます。

「陸上で可能な歩く速度と同じ速さで船を進ませ」

感想ですが、海上を常に一定の速度を守ってまっすぐ航行するのは
相当な技術が要るように思いました。

648 :すいぜい:2008/10/25(土) 23:17:33
お〜い610君どうした?
返事がないぞ。(笑)人に逃げるなって言っといてなんだよ。短里なんて無いって理解出来たか?できたんだな?

649 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 23:20:15
>>647

動力船で時には潮の流れに逆らって
スクリュー逆に回せば可能なんじゃないのかな?w

650 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 23:24:42
>>647
船を一定の速度で滑らせるプロ中のプロが居たって
何等不思議はないよ。

651 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 23:25:05
>>645
じゃあ、対馬とか壱岐とか具体的な島名もでていて、
現在とも一致しているし、
地形だって昔とほとんど変わらない。
里数と距離の有る程度の誤差はもちろん考慮にいれて計算していますよ。

昔の地形と今の地形はほとんど変わっていないから何も問題ないと思いますが。
1里430メートルで計算すれば対馬や壱岐の位置が合わなくなるけど、
どんな風に考えているのか、逆に質問したい。




652 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 23:28:45
まあ問題はどうやって船の速度を測ったかだなw

周りには何も無い洋上、遠くに見える島影に対し
微妙な角度の変化を計算でもしてたのかな?wwwwww

653 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 23:33:18
>>607
「短里があった」と勝手に決め付けないこと。

654 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 23:35:25
私はその海の距離ってのは何度も渡っていればだいたいわかると思う。
複数回は行き来したと思うから。
それにひょっとしたら倭人から速度と時間を聞いたかも。
現に魏志倭人伝では対馬や壱岐の人たちは韓国や倭国沿岸のほうへ
船で米を買出しに行くって書いてありますから。

655 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 23:38:06
>>651
どうして一里430mや70mをいきなり使うのかな?
順番が違うだろう。

自分達は学校でいきなりkmから習ったの?
短い長さ、そう30pのモノサシから少しずつ単位や位を上げて行き、kmに行き着いたのに
魏尺があるなら短里主張者も長里主張者の様に
魏尺から少しずつ位を上げて里に達すればいい。

656 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 23:43:13
>>652
目で物を見るから錯覚をおこす。
プロは身体にその感覚が染み込んでいるからプロなんだ。目で見るより身体に染み付いた感覚のほうが正確な場合がたたあるよ。

657 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 23:50:31
>>646氏へ。横から。
古田が出した「短里」で説明する考え方も、あるかとは思う。

もう一つ、
 「倭人伝の執筆者は当時、ここがそのように非常に長大な距離(千余里)であるとして執筆した」
という説明もできると思う。

いわば「誤認説」だが、これも分けて考えられ、
 @ 執筆者が誇大に表記した。
 A 執筆者は千余里を真実と認識しており、そう表記した。
との説明も、それぞれできよう。
また、執筆の元になった地理的な資料がどういう性格のものかも問題になってこよう。

どれが最良の説明か、小生は力量不足で、判断できかねる。

658 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 23:58:54
>>656

なるほど 『 心 眼 』 ってやつですね、わかりますwwwwwwwwwwww

659 :すいぜい:2008/10/26(日) 00:00:23
人に逃げるななんて言っといてなんだよ。最低だな、ここの九州王朝信者は。
普通、もっと論戦にナルだろ? しっかりしろよ。
つまらないから寝る。ホントここの九州王朝信者は最低だな。

660 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 00:04:19
>>650,656氏へ。
失礼ながら貴殿の論法だと、倭人伝の執筆者が熟練のプロ船乗りであって
彼が実際に倭まで航海してきたかのように受け取れてしまう。

決してそうではあるまい。

661 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 00:05:57
現在のように機械のない
それこそ人本来が持っている研ぎ澄まされた感覚が頼りな時代の人達ですから、
現在では考えられないような力はあるでしょうね

662 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 00:10:14
>>660

編纂者の陳寿は一度も実際の海すらも見たことがないと思いますよ

663 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 00:16:09
>>657
三国志なんかにも船は出てくるが、あれは河舟らしい。
つまり、海を渡れるような船は持たなかったのではないか。

大陸の人間は、海をこの世の果てと思っている人が多かったらしい。
そういうわけで、郡使は、海を渡るのも初めてで、怖い。
その恐怖心が、実際よりも長い航海に思えたというのはありえるかも。

船で旅したことのある人はわかると思うが、外海は荒れる。波が高い。
小さな船だったら相当に怖いと思う。
大陸とよく行き来していた倭の人間でも、持衰の記述からわかるように、
かなり困難な航海だった。

そういうわけで、郡使は、対馬と壱岐の間を千里余りの距離と認識して
いたと考えるのが妥当かもしれない。
ということになると、倭人伝の距離は、根拠のあるものではなく、郡使の
感覚的な距離ということになるが。

664 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 00:17:50
>>662氏へ。
申し訳ないが同意も不同意もできかねる。
陳寿の年譜でもあれば判明するだろうが、小生は知らない。

665 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 00:21:14
現代でも常識では考えられない行動を
アフリカの子供たちは当り前のようにしていますよ

毎日何時間も掛けて水を汲みに行き
片道何十キロ何時間もある学校まで毎日徒歩で往復しかも裸足の子も
それが現在リアルに行われている。

666 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 00:28:18
>>663

>実際よりも長い航海に思えたというのはありえるかも

貴方の設定は「海を渡るのも初めてで」というものです。
初めての人が実際とか長いとか、何を基準にしているのですか?


667 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 00:28:42
考えてみれば、郡使が船を動かしているわけじゃなく、ベテランの船乗りだと
思うから、
船乗りの感覚で楽に距離は出ると思います。


668 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 00:35:07
>>664

晉書陳壽傳
ttp://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/sin-tiju.html

669 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 00:35:24
>>666
基準はなくても、感覚的な距離は出てくると思うが。
始めて海を渡ったけど、あれは千里くらいだったかなとか。

ついでに言えば、郡使は、倭人の船に乗ってやってきたと思う。

670 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 00:38:59
[千里]は「遠い」という意味しかないのに、あれこれ距離を考えるほうがおかしい。




671 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 00:39:52
>>667
>船乗りの感覚で楽に距離は出ると思います。

船乗りは船を操作するのが仕事
無学の船乗りに距離などはわからない

672 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 00:42:10
>[千里]は「遠い」という意味しかないのに、あれこれ距離を考えるほうがおかしい。

ご愁傷様です。返す言葉もありません。

673 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 00:59:58
倭人(夷人)は里数を知らない。日を以って計ると隋書には書かれているが。

674 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 01:30:35

考えてみれば3回とも渡った距離は1000里だから、
感覚的にみんなほとんど同じだったってことでしょ。
だから対馬から壱岐に渡った距離と壱岐から対馬に渡った距離は大体同じ
ってことですよ。
感覚的にそれは掴めるでしょ、普通。
だから対馬から壱岐の距離の一番短い距離と同じ長さを
(今度は一里何メートルだなどと計算しなくても)、
壱岐から九州沿岸までものさしで同じ長さを測ればいいだけですよ。
一里の計算をわざわざしなくても。
で対馬から壱岐までの一番長い距離も測ってまた九州沿岸部にあててみて。
それで大体の範囲はわかるから。




675 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 03:16:41
>>674
>壱岐から九州沿岸までものさしで同じ長さを測ればいいだけですよ。

どんなものさしで、どうやって測ったんだよ?
「測量」ってやったことある?
ピタゴラスの定理とか知ってる?

676 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 05:13:49
ここの人たちは、当時の魏使が三角測量でもやって距離を出したと思ってるようだけど、どうしてそんなに馬鹿なの?

677 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 07:44:41

>>549
逆にでは、この隋書倭国伝の都を九州に比定する場合、

『内官有十二等』 → 12階級がある官制がしかれる行政組織
『戸可十萬』 → 戸数は10万戸
『敬佛法』 → 仏法を敬い

と記載されている痕跡が7世紀初頭に九州地方にあったのでしょうか。
勉強不足のためお教え願いたい。


なお、畿内に倭国の都があった場合は、九州も倭国の一国であるため、隋には無く
珍しい活火山である阿蘇山の報告があっても何ら問題でないことは付け加えておき
たい。 


678 :のんびりひまじん:2008/10/26(日) 10:16:23
>>677 仏教について、おそらく一番古いという伝承は531年。
http://kamnavi.jp/toyo/hikosan.htm
なんで7世紀なものか・・・

679 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 10:52:50
>>675
>>676
現代だからこそ、正確な地図が使えるんで、ほぼ正確な比定地が求められる可能性が大きいんんだよ。
江戸時代の白石のころは不正確な地図しかなかったから、
距離も方角も無視して地名とか遺跡だけに頼ってでしか
比定出来なかったんだよ。
だから間違いが起こるわけ。
白石だって今の世の正確な地図を使えばへんな方角無視した比定などしないよ。
だって当時だって東西南北も山の位置も海の位置も変わっていないんだから。
変わったって言うならそれでおしまいだけど。

昔は正しい地図は無いけど、方角、土地はそのままだよ。
大事なのは方角土地は今も昔もそのままを伝えているってこと。
郡使はいちいち方角も調べ、伊都国に行くまでは歩いてだいたいの里数を
だしたんだろうから。
そうすれば、あとは文献や遺跡から考察して比定できる。

なんでこんな簡単なことが理解できなんだろう。
三角測量したとか、ものさしじゃだめだとか。
よっぽどそっちのほうが、緻密な正確さを必要としているじゃない。
ばかとしかいいようがない。

680 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 11:10:27
>>679

バカはおまえ。

地図上でA地点からB地点まで直線で南に100kmだったとしても、
途中に山脈でもあれば、「東に行ってから南へ行く(山を迂回するため)」というような表記のほうが古代では現実的なんだよ。
当然この場合距離も伸びるわな。徒歩なんだから。

681 :taka:2008/10/26(日) 11:19:13
>>677
質問の意味が一つ理解出来ない所があります。戸数十万戸の痕跡です。額面通り受け取っ
た痕跡なのでしょうか? それとも当時の史官が邪馬台国に来た時、人が多いのを見て十万
戸位あると思って記述したという前提でしょうか?

前者なら、2〜3世紀当時の人口が多めに見積もっても60〜70万であると推定されて
いるのに、一部分に当時の日本の人口の殆どがそこに居るのか? という問題があります。
後者だと、吉野ヶ里・那珂遺跡・辻遺跡と言えるでしょうか? ま、これにも様々な論はあ
りますが。もっとも、畿内にも全国的に有名な唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡があります。
東海地方には朝日遺跡でしょうか^^

十二階の官制組織の痕跡なんて、畿内でもありますか? 孝徳天皇陛下 が大化の改新を行
って官位制度を整えたのも、痕跡と言えば痕跡と言えますし、真似たと言えば真似たとも
言えるのでは?

阿蘇山についてですが、それは逆に言えば九州の記述はあるが畿内の記述はないって事だ
と私は思うのですが?

仏法の痕跡という事ですが、確かに現代では日本最古の寺院が法興寺であるという事は認
めますが。その法興寺なんですが、残念ながら二つの説があるんですよね。一つは九州か
ら材木を運んで建てさせた、という説。もう一つは、九州にあった寺を移築したという説。

畿内でも九州でも構いませんが、畿内説が大手を振って歩けるという物では無いと思いま
すよ。

682 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 11:28:08
>>676
目測だよ。

@狗耶韓国沿岸から対馬北部の山(約200m)を見た。
山が高く見やすいため近くにあると錯覚する。

A対馬南端沿岸から壱岐島影を見た。
山が100m位で少し見難いので、@より近いのに同じ距離に見えた。

B壱岐南部の壱岐空港沖の位置から上陸地点の鏡山(約300m)を見た。
松浦湾の最奥部で見づらく実際の距離よりはるか遠くに見える。

実際の距離は、@>A>Bであるが、目測感覚では、@=A=B=1000里である。

683 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 11:49:28
>>682の補足

魏(郡)使の上陸地点は松浦川右岸唐津市中原遺跡のあたり、もしくは浜玉町横田。
3世紀には虹の松原は東西に伸びた砂州で、その砂州と鏡山との間は松浦川・玉島川・横田川をも含めて内海となっていた。
たぶん汽水湖。天然の良港である。

684 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 12:08:01
>>680
バカだね。海は平ら。
陸はちゃんと山道だったらそれなりに考えますよ。
アホだねえ。

685 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 12:30:15
>>682
>山が高く見やすい。

貴方の認識の中でどの山と比べて高いと表現されたのか?そしてどのような状況より
見易いと表現されたのか?
普通、比較するものの存在が無い時は「山が見える」ですね。
この文が「高い山が」と形容詞が付加されると、高い山と表現する以前にその山よりも低い山を認識しなければなりません。
で、その低い山は何処に見えたのでしょうか?

686 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 12:38:12
>>685
対馬と壱岐の山の高さの比較。
海面に近い位置のものは霞んで見難いが、高い山ほど遠くから見易い。

687 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 12:44:47
>>685
50km位の距離になると、地球の曲面が影響して低い位置が見えなくなる。


688 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 13:00:12
理論上、対馬の南端から壱岐の最高点(岳の辻・213m)は目視可能であるが、
実際に海岸に立って、それが見えるかと言うと、見えないことがほとんど。

689 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 13:13:03
>>686

>対馬と壱岐の山の高さの比較。

これは>>682で既に「@狗耶韓国沿岸から対馬北部の山(約200m)を見た。
山が高く見やすいため近くにあると錯覚する。」という設定が組まれているので
貴方のいう
「 対馬と壱岐の山の高さの比較。」なんて不可能なんです
半島から対馬なら可能性がありますが、壱岐の山は不可能なんです。


690 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 14:26:43
話の腰を折るようだがw

結局のところ・・・

「じゃあ方角距離が正しいとして、それに従った比定地に蓋然性を担保する遺跡遺物があるのか?」って話で

今日伊都国や奴国が倭人伝の行程記事からすれば方角の合わない地が定説とされているのも
遺跡遺物によるところが大きいだろう。

同じ事は裴世清の件でも言えることで

「じゃあ裴世清が訪れた九州の邪靡堆は何処ですか?」って話で

冠位十二階をを制定し、仏教を積極的に導入し大
寺院が林立し多くの宮が建てられたであろう地
飛鳥 以上の規模を誇る地が当時の九州の何処にあったのか?

…って話で、九州王朝説お特異の
「大和朝廷に徹底的に破壊されたニダ、謝罪と賠償を(ry」
では話にならないwwwww

691 :taka:2008/10/26(日) 14:32:49
↑少なくても、九州の記事は出てくるが畿内の記事は出てきていない。それに記述の名前も
全然違う。それは、畿内説にとってはある意味痛いと思うが。

692 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 14:43:10
>>688-689
実際は、地球の曲率の関係上、対馬の海岸線からは壱岐北部の山は見えません。
見る為には壱岐の山頂が300m以上必要です。
壱岐の北部の山を確実に見るには、対馬と壱岐の中間より壱岐側の海上にいなければなりません。


>>689
文の構成を見て。
@ABの順に論理が展開しているのではありません。
番号を打ったのは3者がお互いに並立の関係にあることを示す為です。


理解しやすいように、説明を簡略化した為の矛盾を突くな。
そんな事はわかっている。
話の本筋には影響ない。


693 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 14:43:35
>>690

>今日伊都国や奴国が倭人伝の行程記事からすれば方角の合わない地が定説とされているのも
遺跡遺物によるところが大きいだろう。

方角が合わないのは
貴方の文章読解力(誤読)からくるものではないですか?
倭人伝に於いて陳寿は伊都国の方角など直接示していません。

694 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 14:49:59
>>692

並列であろうが順列であろうが、貴方の推論からくるものには変わりありませんね。
推論ですので確かに本筋には影響はありませんが


695 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 14:56:36
>>691 taka
>畿内説にとってはある意味痛いと思うが

全然痛くない。

女帝推古でつじつまが合わないのなら該当者を他に探せば良い。
「…だから九州」と言うのは可笑しいw

畿内説(?)が記紀を絶対視する信者でなければならない理由は微塵も無いwww

それに地名つっても別に「阿蘇の麓で王が臨席して祭祀を行った」と書いてあるわけじゃ無し。

それに方法論としてだ…
「それは九州の事です」と言うのなら具体的に九州の何処か?その蓋然性を示す物(遺跡・遺物等)を出すのが筋だろう?w

まあ邪馬台国と違って比較対象が「飛鳥」とはっきりしている分、ハードルは上がっちゃっている訳だがwwwwwww


696 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 16:55:42
>>681
>前者なら、2〜3世紀当時の人口が多めに見積もっても60〜70万であると推定されて
いるのに、

2〜3世紀当時の人口の見積は多目の場合200〜300万と推定される。
60〜70万は少な目の場合の推定値です。


697 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 18:08:57

>>695
そのとおり

畿内説の場合は三輪山麓の巻向地区で合意だろう。
しかし、九州説の場合はピンポイントで特定してくれないから、
個別に突っ込みようがない。その意味で正にハードは上がっているかと・・


698 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 18:21:30
>>697

>しかし、九州説の場合はピンポイントで特定してくれないから、

九州ってピンポイントで語っているのですが、
関東地方をピンポイントでと言われても関東地方としか答えようがないのと同じです。
女王の都があったところは?と尋ねられれば
九州の○○ですと、ピンポイント化できますが

たぶん質問の仕方がまずいのではないでしょうか?

699 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 19:57:58

>>698

じゃあ何処??
 


700 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 20:24:52
>>699

>じゃあ何処??

現福岡県東部周防灘沿岸地域の何処か。(朝日が海から昇ろ)

701 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 20:59:43
>>700
じゃあ、山門とか西都原とか吉野ヶ里とかetc
いうヤツらを黙らせろ

九州説はまとまりがない故に
村興し扱いで終わるんだよ

702 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 21:13:20
>>701

>じゃあ、山門とか西都原とか吉野ヶ里とかetc
いうヤツらを黙らせろ

言論、思想、表現の自由は憲法で保障されている
それを拒むことは誰も出来ない。

>黙らせろ

ゴラァ! ワレ! 誰にモノ言うとんじゃぁ   ん!
シバクぞゴラァ

703 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 21:22:28
↑大阪の河内弁じゃねw

704 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 21:46:35
九州説はまとまりがなく、
言い返しは暴言。信用なし

705 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 22:50:39
>>702
じゃあ「アンチ畿内」の連中が畿内説論者の
言論、思想、表現の自由を妨害しようとしてるのを
止めさせてくれないか。
>>704
本当にその気持ちは良く分かるよ。

706 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 23:02:26
>>705

>じゃあ「アンチ畿内」の連中が畿内説論者の
言論、思想、表現の自由を妨害しようとしてるのを
止めさせてくれないか。


知らんがな
どうしても妨害がひどくなるのなら、一度警察に相談したらどうかな?
ストーカー行為で告訴するというのはどうかな?


707 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 23:30:13
>>697
いやいや、まだ邪馬台国が纏向で決まりと言う訳ではない。
まだまだ詰めなきゃならない事はある。

九州説の場合、ピンポイントで比定地を出せないと言う事以上に問題なのは
もっと広い範囲、言わば”面”で邪馬台国のあった蓋然性を示せないところにある。

2・3世紀の九州に邪馬台国を中心とした30ヶ国と言ったまとまった勢力圏のあった証拠。
独自の威信財体系や祭祀形態…それらが見られないから九州説と言っても、百家争鳴どんぐりの背比べw

まあこの板の九州説の連中はそう言った事を自覚していない能天気なアホぞろいな訳だがwwwwwwww


708 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 23:40:38
>>697
「纏向遺跡」の地域には居住用建物はわずかしかないので、「大和のどこか」
というのが、畿内説でしょう。

弥生集落(環濠集落)ではない人口密集地域は、未だ発見されていないので、
畿内説の場合、具体的な候補地が存在しないとも言えますね。


709 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 23:56:04
怡土が伊都国であった可能性はあるが、

前原はその名の通り、ばる国、つまり末盧国だと思う。
ばるとは山間部から平野部に出たところという意。
前原の南には脊振山地があります。

昔の地勢図では糸島は島であったらしいので
前原あたりに船を泊めることは出来たと考えます。
前原から東南に500里、方角も間違えずに
一大率の所在地は春日大野城あたりになる。
もっと詳しく言えば随書にあったように「そこの人は
華夏と同じ以って夷洲となす」
(泰王国は豊国のこと、なので豊国内に夷洲である外国人居留区があった)
とあるように春日原、白木原辺りが外国人居留区だった、
と考えるのでその辺りが一大率があったところだと思う。

怡土のほうまで伊都国だったと解釈します。

蛇足だけど、
春日とは百済渡来者を意味する。
白木は新羅
また隣町の大利もタラと読めば百済と考えられる。


710 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 23:56:59
>>707
マキムクは年代が合わないだろ。あそこは4世紀の遺跡と古墳しかない。
年輪デンパで頑張っているが、三角縁白菜デンパと同類だろ。

711 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 23:57:59
>>697
>>707

九州説の問題点
@ピンポイントでの比定地が百人百様で、一致する意見がない>>697
A”面”で邪馬台国のあった蓋然性を示せない>>707

俺からももう一つ

B九州以外の遺跡に目を向けようとしない

まあ大和マキムクは当面の敵だろうから、少しは目を向けてるようだが、(とりあえず叩くためか)
出雲、吉備、讃岐、阿波、丹波、河内、近江、越、東海・・・・・、
列島各地、どこも重要遺跡ぞろいなのに、ヤシらは全く目を向けようとしない。
そんなことでは3世紀頃の列島の状況は何も掴めんだろう

712 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 23:58:04
京都の下に埋まっている。

713 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 00:05:01
畿内は拠所が少ないから。ちょっと前は皆が箸墓箸墓っていってたけど、これが卑弥呼の墓ではないという
決定的な結論が出た後は、皆が巻向巻向っていってる、ってのが現状。それ以外になにもないからねw

思考実験的に、全ての比定が間違いであると仮定すると、畿内も愛媛も1つの(まちがった)説であり、
九州の各説も間違った説の1つ1つだが、より説の多い九州に真の説がある可能性が高い、
とみるのが科学的ではないだろうか?w

714 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 00:52:46
>>711
3世紀の日本の状況から邪馬台国の位置を探る
…と言った言わば”マクロ”なアプローチはもっぱら畿内説だからなあw
(無論その手法が唯一最高のものではないが)

つかこの板の九州説の脳内地図では関門海峡から先は真っ白けになってんじゃね?wwwwwwwwwww

715 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 00:54:08
>>710
>マキムクは年代が合わないだろ。あそこは4世紀の遺跡と古墳しかない。

マキムの遺跡・古墳は4世紀のもの、というご意見のようですが、
それを論証してみて下さい。
納得できる論拠を書いてもらえれば、従いますよ。

716 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 00:58:35
上715訂正。
マキムの → マキムクの

717 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 01:00:40
>>710
「古墳時代は3世期末か四世紀初め」と言う年代観は小林理論が基で
その理論の2本柱は先にも出ていた
 ・祟神の実在及び没年干支が正しく伝祟神陵墓の指定も正しい
…と言うのが一つ。

で、もう一つは三角を舶載と前提にした年代の特定。
そのニ本柱で後者を否定するのなら、前者のみでかなりあやふやなものにならざるを得ない。

つうか纏向そのものを四世紀とするのなら伝祟神陵墓の年代をいつにするのか?
無茶苦茶な圧縮かけたサンドイッチになると思うが?w



718 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 01:08:09
まあ、箸休めに一つ話題を振っておくw

今テレビで映画レッドクリフ(赤壁)のCMってやっているが

アレに出てくる川を侵攻する船って見た目、外洋にでも出て行けそうだが
時代考証的に正しいのか?wwwwwwwwww


719 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 01:08:18
>>711
>列島各地、どこも重要遺跡ぞろいなのに、ヤシらは全く目を向けようとしない。
>>714
>つかこの板の九州説の脳内地図では関門海峡から先は真っ白けになってんじゃね?

九州説に何人いるかは分かりませんが、出雲の遺跡は、
気にする人も若干いるようです。
古事記の出雲神話との整合性が気になるのだと思います。

720 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 01:22:04
>>717  マキムクの年代遡上は、確実な根拠が一つもない。

年輪年代なんかも、未だに一度たりとも年輪グラフが公表されたことがないという
致命的な問題点を指摘せずに引用する『人間失格』の学者が多すぎ。
寺澤や石野を見習ってアレは無視するべきだろう。

三角縁を239年頃の製造として年代を決める説や、その年代観に立つ岡村分類を
そのまま使う説なんかも論外。そもそも日本製で確定済み。早く現状を認めろ。
他の学者も「腫れ物扱い」はやめて早く引導を渡してやれよ。

畿内の古墳分布から見ればネコの額のような狭い地域にだけ少数ある纒向型古墳に
数世代分の年代を割り当てるのは、もちろん無理。

庄内式土器の分類の根拠もはっきりと示して欲しいね。型式で分けていないだろww。
共伴する土器のセットが違うから別型式とかは、声を大にして言いにくいのか。
その分類はヤマト以外では通用しないだろ。地方で変遷を確認できるのか?

学者なら学者としてのプライドをもって「学説」を発表して欲しいね。

721 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 02:30:23
>>720

そこまでいうなら、先に邪馬台国の位置を書きたまえよ。

722 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 02:32:28
>>720

の見習うべき 寺澤センセイ でも箸墓周濠出土の土器を
布留0として年代を3世紀後半としているなw

第一、方後円墳をその出現期からいきなり畿内全域に展開せよ
…とでも言う理屈は無茶苦茶だwww

それに三角の製作地と年代の話は別だろうに…落ち着けw

723 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 03:15:26
>>722
最近は地方の古墳でも畿内と同規格のものはほぼ同時代であることが、
分かってきた。

地方でも纒向型が見つかったが、2世代に渡って作られた例はない。
ゆえに、1世代しか存続していない古墳規格と推断できる。


724 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 03:20:59
>>722
三角縁は、文様(デザイン)の変遷も、表現の変遷も短期間(2世代前後)
で生じている(一つの古墳から変遷の半分が確認できるゆえ)。
つまり、三角縁の基本的存続期間は40〜50年。

三角縁の終末期は400年頃。

ゆえに、三角縁を国産とすると、350〜400年が三角縁の基本的流通期間と
断定できる。もちろん、紀年は偽年号。

これがあるから、年代遡上の学者は三角縁舶載説に引導を渡せない。

725 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 03:49:10
>>724
>三角縁の終末期は400年頃。

400年頃ってどうやって割り出すのさ?

それと具体的な古墳名を言えよ
どんな三角縁鏡かこっちで調べるからさ

なにも根拠をしめさない実年代がいきなり出てくると訊きたくなるのは
おれも>>715さんといっしょだなw




726 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 04:06:10
よくみたら>>710>>715にまだ答えてないな
おれからも訊いとこw

おーい、>>710

>>710
>マキムクは年代が合わないだろ。あそこは4世紀の遺跡と古墳しかない。

マキムクが4世紀ってどうやって割り出すのさ?w

727 :722:2008/10/27(月) 04:30:27
>>723-724
>最近は地方の古墳でも畿内と同規格のものはほぼ同時代であることが、
>分かってきた。

スマンがコレ↑だけ根拠を教えてくれないかな?

他の事は「ああ、元ネタはアレか」と大体分かるんだが…
(まあいい加減この話もループしているしwww)


728 :722:2008/10/27(月) 05:01:04
>>725
ヨコからだけど…w

以下の古墳辺りが参考になるかな?
()内数字は三角のT〜Z期編年に基づく組み合せ

岐阜 長塚古墳 (V・X・Z)
奈良 佐味田古墳(T・V・Y)
奈良 新山古墳(V・W・Y)

ただ>>724は恐らく全てのグループを等間隔にしている。
先ずそこがツッコミどころwwwwwwwwwwww

大体において後の時代になるほど組み合わせが”バラけて来る”w
(上記の例でも連続していない)

それに確か5・6世紀の古墳から出てきた例があったはず。
(何処だったか失念思い出したらまた書くw)
無論メインの流通期間から外れるレアケースと言えるが
伝世があった事を認めざるをえない。


729 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 05:17:26
>>726
だいたい、庄内期の始まりを西暦300年頃にすると、これは卑弥呼のあとと
言うことになる。つまり、纏向の誕生は、卑弥呼が死んでから50年ほど後に
なる。これだと、いわゆる邪馬台国の東遷が十分にありうる。

しかし、庄内期の始まりを西暦200年頃にすれば、卑弥呼の時代にはすでに
纏向は誕生していたことになる。大和朝廷につながる古墳時代がすでに
芽生えていたわけで、邪馬台国東遷説の可能性はなくなる。

通説は、西暦300年頃だったが、畿内説の学者はなんとか100年ほど遡らない
ものかとかなり前から考えていた。
昭和55年頃にはその兆候があった。しかし、根拠がない。
さらに、その必要性を痛感したのは、吉野ヶ里ショックだった。
まさに、倭人伝に書かれた国が九州に登場したのだから。

つまり、わかりにくい土器の編年に、実年代を持ち込む必要性があったのは、
畿内説のほうなのである。
考古学的には畿内説、の中核を担っていた三角縁神獣鏡魏鏡説が破綻して、
畿内説にはもうそれしかなくなってしまったのだから。

730 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 05:22:07
電波ばかりだね

731 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 07:08:29
畿内での天皇家の歴史は五世紀末から
それまでは別な勢力がこの地を支配していた。

732 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 07:34:59
>>731
所謂「天皇家」が大和に来たのは2世紀後半ぐらいだろ。

邪馬台国論争の決着がつかないわけ
二大仮説の両方ともが何らかの矛盾を抱えている
畿内説はどうしても「南→東」せざるを得ないし
北九州説にいたってはそうとうに恣意的な解釈・文章の組み換えをやらないと無理と来ている。


733 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 07:44:50
>>732
宋書に書かれる武の上表はかなり広範囲を一つの勢力が支配し終えた証。
五世紀末に重なり終えたと見る可きだろう。
そこから天皇家の歴史が
畿内中心で動き始めたと見る可きではないだろうか。

734 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 09:09:42
>>729

ようするに、おまえは東遷説なんだろ?

だったら、自分で東遷説の証拠を一つでもあげてみたまえ。

マキムクが4世紀からであっても、
九州勢力の東遷を示すような事象は何も無いぜ。


735 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 10:09:30
>>725
椿井大塚山の同型が横穴式から出ている例もあるね。
>>724
柳本天神山に三角縁が含まれないことから、三角縁を国産とすると
三角縁はそれ以降になりそうだね。

736 :709:2008/10/27(月) 10:33:59
つづき
お話の途中ですが、
スルーしてしてください。

ばる国の前にあるから前原。
前とは東側
末盧国ばる国は唐津湾一帯がばる国であったと思う。
唐津の近くには中原なかばる遺跡がある。
ばる国の中間に位置するからなのか。。

漢字一文字に対し一音が3世紀の時点では原則。
末をまつ(呉音)で読むのはおかしい。
「ま」と読んだとすれば、まろ、まる、になる。
漢音のばつのばと読めばばろ、ばるになる。
盧は、る に近い音。



737 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 10:35:34
>>618
誰かのとばっちりで、しばらく書き込み禁止に引っかかっていたんでね。
> 舞文だからだよ。
行程記事の説明はできません、って認めるわけだな。しかし、舞文ならば、いちいち
5〜6倍の里数を書くわけはない。誇大説の方がまだまし。

>> 短里がなかったなどと書いた古い文献はないぜ。
>ないものをわざわざないと書く訳ないだろ。
泣き言を言うな。どんな理由にしろ、証拠もないのに短里がなかったなどと断言
しようというのは間違い。単なる思い込みにすぎん。

>>616
>> それに、魏略、魏志、これもそれ自体、立派な文献史料なんだよ。
>その史書に書かれた里について話しているんだろうが!
>なんでそれが根拠になるんだよ?
魏志が誤記かどうかを議論しているんではないぞ。短里があったかどうかの問題だ。
短里を書いている魏志を除く理由は何もない。
短里を具体的に書いている文書は全て除けってか? アホか。



738 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 11:45:00
>>728
舶載説では、短期間に文様(デザイン)と表現が変遷したから、1〜2年で
数千枚が作られたという岡村や水野の説もあるわな。
まあ、その当時魏で銅が不足して貨幣鋳造さえ停滞していたということからは、
度の過ぎたトンデモ説だといわざるを得ないが・・・

いずれにせよ、舶載説は長くても2,30年間での変遷とするんだよね。
今は国産説で短期編年だと不都合だから、この議論はなしにするのかな。


739 :taka:2008/10/27(月) 13:18:08
>>737
質問、過去の王朝(晋以前)に二重基準の度量衡があった試しがあるのであれば、是非教え
てほしいものです。二重基準の度量衡は、それは儒教の礼に置いて非礼にあたるもの。そ
れこそ机上の空論と言わざるを得ないのでは?

文献に短里があるか? 過去にその様な記述がなされている部分があるか? 中国はどうい
う文化か? それを考えると自ずと解かるかと思いますが?

740 :すいぜい:2008/10/27(月) 15:27:26
>>737
> > 舞文だからだよ。
> 行程記事の説明はできません、って認めるわけだな。しかし、舞文ならば、いちいち
> 5〜6倍の里数を書くわけはない。誇大説の方がまだまし。
やっと書いた返事がそれか?情けない!
時間があったんだから舞文の意味くらいしらべとけ。5〜6倍の里数てなんだ?

> 泣き言を言うな。どんな理由にしろ、証拠もないのに短里がなかったなどと断言
> しようというのは間違い。単なる思い込みにすぎん。

ふざけた事をヌカスナ。俺は無いって言ってるんだ。あるというお前に証明する責任があるんだよ。お前、議論なんてしたことないだろ?

> 短里を具体的に書いている文書は全て除けってか? アホか。

お前はホントのバカだな。いいか、お前の言う短里があったというなら度の変更について触れた文献があるはずだろ?
それを出せって言ってるんだよ。倭人伝の短里を証明するのに当該史料が根拠になるわけないだろ?
そんな事も知らんのか?サイキバ並だぞ。
それと短里を証明する考古史料を提示する事。 駄レスはいらないぞw


741 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 16:11:40
>>740
>5〜6倍の里数てなんだ?
その意味も分からんとは情けないな。

>ふざけた事をヌカスナ。俺は無いって言ってるんだ。あるというお前に証明する責任があるんだよ。
ふざけた事をヌカスナ。無いって言うお前に証明する責任があるんだよ。




742 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 16:14:18

もう二人ともしょうめいしなくていいでつ











トヨタン・・・・・・・・・・・






743 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 16:18:32
>>739
度量衡は権力者が交替するなどして、しばしば改訂されたもの。一方において
それを使用する人々は、一旦覚えた度量衡を切り替えることはなかなか難しい。
その辺を考えると自ずと自ずから理解できるかと思いますが?


744 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 16:28:59
>>739
ところで、あなたは倭人伝の里が短い理由をどう考えるのかな?

745 :すいぜい:2008/10/27(月) 16:40:17
>>741
> その意味も分からんとは情けないな。


お〜!いたのか。
ははは、この件は後だ。後でトコトンかいてやる。

> ふざけた事をヌカスナ。無いって言うお前に証明する責任があるんだよ。

バカもの!何事でもあると言う側に証明責任があるんだよ。
ホレホレさっさと考古史料提示してみろよ。4cm程の物差しでも出たのか?www


746 :taka:2008/10/27(月) 16:50:11
>>743 744

魏に置いて途中で度量衡が変わるという事は絶対にありません。それは『晋書』を読むか
ぎりでは変わった記述はありませんが^^;

私は里数が倭だけ短い等というのは無いという考え方です^^; 一応、どう考えてるか?
は 519・520 に書いてあります^^

747 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 16:52:40
長里も短里も24pの曲尺を使う。
それが共通した基準だよ。

748 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 17:10:36
>>746
>一応、どう考えてるか?は 519・520 に書いてあります^^
読んでも分からないな。誇張説?

749 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 17:19:04
>>748
だから釣り合いはとれないだろう。

大月氏国へは都から
一方
倭へは郡からじゃ

誰が見ても気がつくわ

750 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 17:29:01
>>745
>ホレホレさっさと考古史料提示してみろよ。4cm程の物差しでも出たのか?www
思考力がないってのは仕方ないもんだな。>>615を読んで良く考えろ。


751 :722:2008/10/27(月) 17:32:33
>>724

で、結局…

>三角縁の終末期は400年頃。

と言うのは通説による古墳の築造年代に従ったと言う事か?
そこから「ニ世代40〜50年」を前提に逆算して
三角の流通時期を 350〜400年 としたと…

まあ終末期を400年とするのは良しとしよう
しかし、通説で350より古いとされる古墳があるわけだが?

はっきり言って、あまりに露骨な牽強付会。

うがった見方をすれば、それぐらいの年代に何とか収めておけば
その前に画文を持ってきても畿内説は潰せると踏んでいるのかな?w



752 :すいぜい:2008/10/27(月) 17:34:17
>>750
おいおい、にげるなよ。
あるって言う側に証明責任があるんだよ。頑張って書いてみろよ。皆みてるぞ。

753 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 17:38:02
>>752
何を威張ってるんだ。5〜6倍の意味、分かったのか?
舞文ならば、一定の比率で増やすなんて面倒なことをするはずはないんだ。

754 :722:2008/10/27(月) 17:40:54
>>738
>いずれにせよ、舶載説は長くても2,30年間での変遷とするんだよね。

コレも意味不明だなw

福永伸哉とかだと半世紀って言ってるぞ?www

http://www.let.osaka-u.ac.jp/kouko/980501kuromai.htm

755 :すいぜい:2008/10/27(月) 17:54:12
>>753
> 何を威張ってるんだ。5〜6倍の意味、分かったのか?
> 舞文ならば、一定の比率で増やすなんて面倒なことをするはずはないんだ。

なにも威張ってないぞ。こんなキャラなんだよ。許してくれ。
後でトコトンかいてやるって言っただろ。話を変えるな。
それよか、短里を証明する考古史料提示してみろよ。
度が変更された事を示す史料提示してみろよ。
なにが一寸千里法だ。短里だと一寸3〜4mmかw そんな細い指あるか?まあ、これも後回しだ。
さあ、史料提示が先だ。ホレホレ宜しく。

756 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 18:12:51

こめつぶみたいな一寸法師w

お椀の舟はデカ過ぎじゃねww

757 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 18:21:44
>>1
ふと感じた

△鏡は出土枚数と日本限定版という理由から現在では国産鏡説が主流
だと思う。この場合、4世紀前半の権力者が魏志の倭人条を理解して
いて、『我こそは邪馬台国の宗家本家国である』と、せっせと複製し配
下の地方有力者にさげ渡したものと想像される。
この場合、もし邪馬台国が九州地域にあったのならば、その九州の宗家
本家国は山陰、山陽、畿内、東海、関東地方まで配下にいれていたと考
えなければならない。
わざわざ紀年銘のある△鏡とした意味は、貰う方も渡す方も景初3年の
もつ意味を互いに理解できていた国々であったと。
このような説明に対しては、『畿内の有力者が九州にあった邪馬台国の宗
本家国を名乗り、4世紀以降の支配に△鏡を利用しただけ』と言うだろう。


758 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 18:27:59
>>751
>しかし、通説で350より古いとされる古墳があるわけだが?

それが当てにならないってことでしょう。

>>754
>福永伸哉とかだと半世紀って言ってるぞ?www

半世紀も日本だけのために「特鋳」したとか、そんなデムパを相手にできるかwww


759 :722:2008/10/27(月) 18:36:20
>>758
>それが当てにならないってことでしょう。

だったら通説で四世紀って言うのも当てにならないって話だよwww

開始時期と終末時期、共に従来の年代観に基づく通説で
片方の終末時期だけとって、一方の開始時期だけ否定する。

もうどんだけ自己矛盾してるんだって話だwwwww


760 :722:2008/10/27(月) 18:45:12
ついでだから一つ例を挙げておく

>>728で例に挙げた奈良 新山古墳
七期編年でV・W・Y を出土しており比較的年代の新しいものだろうが
それですら四世紀前半が通説w

この古墳からは帯金具が一式出ており、それが西晋(265〜316)の物とされており
まあ妥当な数字だろう。

761 :日本@名無史さん :2008/10/27(月) 20:11:17
日本書紀もよく読むと参考になることがありますね。
引用(訳はあるHPより引用させていただきます)

「次の妃の襲武媛は水沼別の先祖である国乳別皇子と国背別皇子(宮道別皇子)と
火国別の先祖である豊戸別皇子を生んだ。」

推測だけど、
狗奴国との戦いで投降したトヨ(白旗を掲げて神宝と共に)が、
狗奴国王或いは皇子と結婚して
豊戸別皇子(トヨトワケ)を生んだ。
水沼(三瀦県主)の先祖はクチワケ皇子とクニセワケ皇子(クドワケ皇子)とヒノクニノワケ皇子
が先祖でその先祖がトヨトワケ皇子である。
クチワケ、クドワケから狗奴国が連想できる。
ヒノクニノワケからは阿蘇国が。

猿大海は水沼県主として景行紀に登場。つまり狗奴国の子孫。

つまり北部九州連合は狗奴国の支配下になって、
その時北部九州連合の勢力の一部が東遷したのかな??
後の6世紀前半の盤井筑紫君は狗奴系なのかなと。
隋書ではすでに盤井系は退いて元の邪馬台系の王が
九州の王君になっていると読みましたが。






762 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 20:16:41
>>757

三角縁の紀年鏡は、そうでないものと較べると、圧倒的に少ない。
全体の構成比でいうと1%以下に過ぎない。
年号が後世の偽作にとってだとしても偶然である可能性の方が高い。

763 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 20:31:36
>>762
そうですね。
横山大観とかピカソの絵なんか、真作の何倍もの贋作が出回っているそうです。
贋作紀年鏡が珍重されたのなら、もっとパーセンテージ多くてもいいですね。

764 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 20:32:07
>>760
新山は昔は4世紀後半とされていたはずだが・・・・
あれが4世紀前半というのは、無理。4C後半〜末葉でしょう。
帯金具などの遺物も上限を決めるに過ぎない。当たり前ですが。

例えば、貨泉なんかは中国では300年頃以降の墳墓からも多数出土する。
こういった事実をことさらに無視して偏った年代観を述べる輩が学者には多い。
とくに年代遡上の連中はそんなのの集まり。

765 :すいぜい:2008/10/27(月) 20:40:40
オラオラどうした?>>753返事がないぞ!
短里があったって史料提示してみろよ。ないのか?考古史料。
度の変更について書かれた史料提示してみろよ。いつまでも待たすな。
あるんなら、即答出来るだろ?

766 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 20:41:16
>>759
福永さんはデムパ確定で良いのですね。

魏は銅が不足して貨幣鋳造が停滞して、銅鏡も少なくなり、鉄鏡も出ていたというのは、
中国では定説。この状況が3世紀末ごろまで続きます。

しかし、福永さんは、その銅が不足していた魏が日本に向けて、半世紀もかけて数千枚の
大型銅鏡(呉のデザイン)を日本のためだけに「特鋳」し続けた、なんて言います。

面白い人ですね。

767 :722:2008/10/27(月) 21:00:12
>>766
まあお前が福永をどうカテゴライズしようと勝手だが
福永にしても三角全てを舶載と言っているわけじゃなし・・・

少しは頭冷やせよ・・・w

因みに魏が長年の戦乱で工房が機能しなくなった時分
呉地に銅鏡の製作を委ねたのも考慮してるかな?

まさか呉地の銅は呉を滅ぼして後でないと使えなかったとか言わないよな?

768 :722:2008/10/27(月) 21:06:10
結局、編年に編年を幾ら重ね様が実年代は出てこないわけで
この板の九州説論者はその実年代の根拠を何故か言わない。

ひたすら「以前は…」「昔は…」を繰り返すだけw
三角舶載を否定するのなら、もう記紀の祟神の記述しかないと思うんだが…

何か他にあるのかな????

769 :722:2008/10/27(月) 21:21:54
>>723
>最近は地方の古墳でも畿内と同規格のものはほぼ同時代であることが、
>分かってきた。

そうそう↑コレの根拠が聞きたかったんだ。
てか他の話はどうでも良いぽいw

それが本当なら例えば九州北部にある纏向型も畿内のそれと同時代?
九州北部のものからは三角も出ているが
じゃあ纏向遺跡内のものから三%

770 :722:2008/10/27(月) 21:23:43
>>723
>最近は地方の古墳でも畿内と同規格のものはほぼ同時代であることが、
>分かってきた。

そうそう↑コレの根拠が聞きたかったんだ。
てか他の話はどうでも良いぽいw

それが本当なら例えば九州北部にある纏向型も畿内のそれと同時代?
九州北部のものからは三角も出ているが
じゃあ纏向遺跡内のものから三角が出てこないのは
意図的なものによる結果なのか?

…とまあ色々考えちゃう訳でwwwwwww

771 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 21:23:50
>>755
>後でトコトンかいてやるって言っただろ。
だいぶ前にそんなこと言ってたな。はやく書けよ。5〜6倍の意味も分からん頭で、
どの程度のことが書けるか、見てやろうじゃないか。
話はそれからだ。

772 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 21:28:41
>>764
>新山は昔は4世紀後半とされていたはずだが・・・・
>あれが4世紀前半というのは、無理。4C後半〜末葉でしょう。

4C後半〜末葉。この実年代、どういう方法で割り出した?

773 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 22:59:49
>>768
実年代を言い出したのは畿内説。箸墓を卑弥呼の墓にしたかったんだよ。
だから、実年代の根拠は、畿内説の方がちゃんと説明しなくてはならない。
年輪年代法が根拠というのは、今となってはちょっと薄い。

774 :すいぜい:2008/10/27(月) 23:08:41
>>771
> 話はそれからだ。

バカもの!短里を証明する史料提示してみろよ。イライラさせるな。
まずそれを出せ。俺は約束は守る。っていうか書きたいんだ。
その後で好きなだけ論破したらいい。邪馬台国なんて何処にあっても良いんだよ。
さっさと証明する史料提示しろ。いくらきいても何度同じ事書いても何故答えないんだ?
簡単だろ?難しい事は何一つ言ってないぞ!短里があったって言う事は、証明する史料があるから言えるんだろうが!
考古史料及び、度を変更した事を示す史料。出せ。
何度も同じ事言わせやがって、客観的根拠など無いのか?有るのか?
さっさと証明する考古史料出してみろよ!
お前が短里があったって言ったんだろうが?情けない奴だな。

お〜い。誰か横レスでも良いぞ。変わりに書いてやれ。
コイツは自分が言った事の根拠も提示出来ないアホだ。変わりに書いてやれ!他にも短里があったって考える人居るだろ?


775 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 23:19:59
>>774
お前が書いたら教えてやるよ。

776 :すいぜい:2008/10/27(月) 23:35:40
ふん。やっぱり無いのか。ある訳ないよな短里を証明する史料なんて。
短里、短里と連呼しても所詮、根拠すら存在しない。(あればすぐ書くわな)
短里→根拠なしの妄想だ。

777 :722:2008/10/27(月) 23:36:08
>>773
やれやれ

この板で散々

 「○○は○世紀!」
 「○世紀にするのは無理!」

と自信満万で断言しまくって、その根拠と話を振ったら逃げ口上かよ?w
結局自説に都合が良いから金科玉条としているに過ぎないんだなwww

>箸墓を卑弥呼の墓にしたかったんだよ

それは最近のお話だろうに。
年輪で何とか届きそうになったので欲を出したと言うかwww

そもそも邪馬台国論争自体が倭人伝に書かれた実年代を争うものであって
何を今更言ってんだ…って話だなwwwwwww

778 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 23:36:20
>>767
>呉地に銅鏡の製作を委ねたのも考慮してるかな?

デムパがさらに威力を増したな。
敵対していた呉に何を委ねるのかな。
とうか、それ以前に中国で1枚も出土していないっての!

だからグレートなデムパとレスペクトされてるわけで・・・


779 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 23:37:39
みんな元気〜(フォ‐)

♪冬に咲く薔薇を 貴方にあげるは
今朝窓辺で 咲いてたの

780 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 23:38:36
>>768
じゃあ年代遡上説の根拠はあるのかい?

あれほどの暴論は他の分野ではまれにしか見られないよ。

781 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 23:38:39
ごちゃごちゃ言ってないで速く書けよ。

782 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 23:42:40
>>776

> 短里→根拠なしの妄想だ。


今頃、気が付いた?まともな人は短里なんかスルーしてます。
根拠など全くないからいくら質問しても、絶対まともな回答なんかある訳ないよ。


783 :722:2008/10/27(月) 23:46:31
>>778
>敵対していた呉に何を委ねるのかな。

はいみなさん注目、アホの自爆劇www


赤壁(レッド・クリフw)で同盟組んだ呉と蜀であったが荊州を巡り対立
義弟・関羽を殺された劉備がトチ狂って呉に侵攻。

呉は後方の憂いをなくす為やむなく魏に臣下の礼をとった…

とまあ大まかにはこんな話なんだよwwwwww


参考)Wikiより

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%A8%A9
>荊州の奪取によって劉備と敵対した孫権は、
>死去した曹操の後を継いだ曹丕に接近し、後漢の献帝から禅譲を受けて
>魏を建国した曹丕の皇帝位を承認、形だけ臣下の礼をとって、呉王に封ぜられた。

784 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 23:50:09
>>777
畿内説の方が年代を遡らせたのだから、説明すべきは畿内説の方だろう。
年輪年代法で、池上・曽根遺跡の木材から畿内W期が100年遡った。
ついでに庄内期も100年遡った。
これは、わずか10年ほど前のこと。

だから、庄内期が100年遡った理由を説明する義務は、畿内説のほうにある。
何で、遡ったのと九州説の場合は尋ねているだけ。以前は違っただろうと
言っているだけ。

785 :722:2008/10/27(月) 23:55:43
つうか >>778 はサイキバ君テイストっぽいなwwwwwww


786 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 23:55:56
>今頃、気が付いた?まともな人は短里なんかスルーしてます。

馬鹿だな〜
長里で海や海岸線をどう計測するんだよ  答えてみろ 

アンポンタンども

787 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 00:00:59
>>786

ハァ?

計測?


788 :722:2008/10/28(火) 00:04:13
>>784
俺が言っているのはだな。

小林説をストレートに支持しての年代観をとらないと言うのは
恐らく畿内説も九州説も今や同じ(…だと思うw)

ここで絶対年代の基準なんていったん無くなる。

年輪年代に基づく年代観もまあ一つの仮説だわなw

だがそれに対し九州説が
「自分たちは旧説を固守しているから正しい」
かの如く言うのは可笑しいだろうと言う事だw

はっきり言うと「うらみ節」にしか聞こえないw


789 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 00:05:30
世の中、長里長里とはしゃいでいると、肝心なものがなにも
見えなくなってしまう。
短里短里と騒いでいる連中も、相当頭が逝かれているけどな

790 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 00:08:32
>>786
> 長里で海や海岸線をどう計測するんだよ  答えてみろ 

> アンポンタンども


あ〜腹痛い、面白いw
さすがサイキバ君並。君も同じく九州王朝信者ダロ?
サイキバ臭あるよ。乙。

791 :722:2008/10/28(火) 00:20:14
それに年輪年代以外にもホケノのC14測定による年代とか

時代は違うが雀居遺跡のC14測定で弥生時代そのものの始まりが
800年も早まる可能性が出て来たりとか

…と遡上に対して追い風が吹いているって状況は少なからずあるんじゃね?w

792 :722:2008/10/28(火) 00:36:57
>>783に加えて言っておくと国が対立しているからと言って
そのニ国間の物流が全て止まるなんてアホな話は無い。

事実、魏や呉は蜀と対立していた時でも蜀錦を買い付けていたらしいよwww

793 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 00:59:59
>>788
そうじゃなくて、畿内で極限まで?発展した銅鐸文化の終焉。
それに変わるかのように登場する鏡文化の古墳時代。

以前からある記紀の神武東征の記述。

東遷説を示唆するようなことはたくさんある。

それに加えて、吉野ヶ里の発表。これは、倭人伝にある
「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
の国がまさにそのまま現れたような遺跡だった。

一方で、畿内説の寄りどころだった三角縁神獣鏡は、葬具で国産というのが
一般的になった。

だから、畿内説としては、最後の手段?として年代を繰り上げるしか方法が
なくなったとしか思えないんだな。

794 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 01:07:03
>>783  >>792
あのさあ、魏が呉に頼んで、半世紀にわたって大量の日本向け銅鏡を作らせたとか、
そんなことを書くなよ。
くだらなさ過ぎて、笑いも取れないよう。

そんなことができるなら、銅を輸入して自前でまず貨幣をつくるだろうに。
貨幣経済が崩壊して、絹本位制のようなていたらくだったんだよ。

それでなくとも、魏の領域では呉の画像鏡がわずかしか出土していないのに、
呉に頼んで数千枚の銅鏡を作らせたとか、かなりどの過ぎたデムパなんだから。

呉が魏の年号を使ってたのは、ほんのわずかな時間だし、それを引用して
何が言いたいんだよう。もう眠いなあ。その話も。

795 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 01:09:51
>>791
年輪年代については、いろいろ議論している。
結論としては、誰も確かめることのできないブラックボックスだということ
だろうな。

C14についても、いろいろ意見が出ている。
外国では、誤差が大きいことが認められている。年輪年代で正確性を
確かめているということで、むしろ、外国では、年輪年代の方が信頼性が
高いらしい。

796 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 01:15:58
>>793
そうだよねえ。
普通に考えたら、魏志の記述は環濠集落の時代にしかならない。

しかし、それを認めると畿内説は成り立つ余地さえない。
だから、彼らは古墳時代の開始を100年以上遡らせた。確たる根拠もなしに。

なんかさあ、北朝鮮の瀬戸際外交みたいなんだよねえ。畿内説は。
無理な説にギリギリまでしがみついて、それを捨てたと思ったら、また別の
瀬戸際説に乗り換える。
んで、畿内説という国体護持のために瀬戸際外交の繰り返し。

大本営の意向を忖度しようと、若手までもが政治がらみでしかモノを考えなくなっている。
もうだめだよねえ。
10年前に「プラハの春」が少しあったようだけど・・・

797 :722:2008/10/28(火) 01:16:58
>>795
まあとりあえず年代観は統一して欲しいねw
でないと話がさっぱり噛み合わず進まない。

するとやっぱ弾き出される数字に幅の少ない年輪年代に期待かな?

奈文研のデータが間違っているのならそれでも良いからw
何処か自前でやらないのかねえ?

奈文研ってそんなに恵まれた環境なん?www



798 :722:2008/10/28(火) 01:24:49
>>796
毎度毎度イデオロギー闘争に例えるのが好きだなw

そのうち畿内説に対して
「謝罪と賠償を」
とか言い出しそうだなwwwwww

799 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 01:26:26
>>784
>池上・曽根遺跡

あれもひどい話だねえ。
年輪年代を無批判に前提にする時点でだめだろうに。
しかも、わずかな土器で土器年代を決めて、1本の木材の年輪年代で
それをつぎ足して、しかも、伐採直後に木材を使用したとする。

こんなの、風が吹けば桶屋がなんとかってレベルにさえならんww

学者の多数はこれに乗っかって100年もの年代繰上げに狂奔したんだよなあ。

それを批判することができない「空気」ってのがもっとヒドイ。
まあ、寺澤さんは批判はしたが、それも無視されているなあ。

800 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 01:36:01
ぶっちゃけ、邪馬台国みたいなあるかどうかもはっきりしないような国を、
特定の地域に比定するために、考古学の検証を恣意的に操作する奴は馬鹿だと思う。
各地域の年代を地道に構築していってくれ。邪馬台国なんて忘れて。

801 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 01:38:42
小林の三角縁の研究も、
邪馬台国に引き摺られたところ以外は、
大和政権の発展を基礎づける偉大な研究なのに…

802 :722もう寝るわzzz:2008/10/28(火) 01:46:01

・・・で、結局、九州説の実年代の根拠は誰一人何一つ語られずに終わりかよwww

別に記紀の祟神の記述に基づく仮説でも良いとも思うが

それをはっきりさせず、まるで絶対的基準が自分達にあるが如く喧伝するのは
そりゃ詐欺ですよとwww


あと…

>>723
>最近は地方の古墳でも畿内と同規格のものはほぼ同時代であることが、
>分かってきた。

↑この根拠分かる人、御教示おながいしますwwwwwww

803 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 01:53:24
>>801
小林の表現の分類なんかは今でも通用するとは思う。あれは正しい。
しかし、舶載説ってのがおミソちゃん。

けど椿井大塚山の報告書や鏡の現物がわずかな人しか見れない状況で、40年近く
一人だけ学説を出し続けたのはフェアじゃないよね。

しかも王さんが来日したときはその鏡も全部王さんに見せたってのも気に入らないねえ。
何だようそれは。気に入った人にだけ見せるのかよう。

小林の学説の検討ができるようになったのは、小林が亡くなった年に椿井の報告書が
出た後ってのも、なんかねえ。それがこの世界の当たり前ですか。
その手法を真似したのが年輪年代の人って感じもするねえ。

804 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 01:57:58
>>802
>最近は地方の古墳でも畿内と同規格のものはほぼ同時代であることが、
>分かってきた。

そんなの地方の古墳のことが書いてある本を読もうよう。
シリーズ遺跡を学ぶ、No29の『会津大塚山古墳』なんかは手軽に読めるよ。

そもそも、年代遡上説は地方の墳丘墓を定型古墳より古いとしているんだから、
古墳開始時期も畿内とそんなに変わるわけないよね。

805 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 02:15:35
>>800
それは言えてる。
邪馬台国を離れて客観的にやってこそ、邪馬台国にも参考になる。なんてね。

806 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 02:25:28
吉野ヶ里遺跡の風景が、邪馬台国と同一文化圏であることが、世界中にわかってしまった今、
畿内説はデータを改竄して、地動説を糊塗するかのような、言い訳学問に成り果てた。

807 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 02:29:40
>>806 サイキバちゃん
糊塗するのは天動説の方なんじゃないのかな?

808 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 03:35:58
>>805

やだね。

そんなことしたら、九州説が不利なのがバレるじゃないか。


809 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 05:14:45
>>808
くやしいのうwwwwwwwくやしいのうwwwwwww

810 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 06:07:28
>>806
そして、畿内説論者は、畿内の古墳の年代をいくら遡上させても、それにつれて
国内各地の古墳の年代が遡上するだけで、何にもならんことにも全く気づかなか
った。

811 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 06:48:11

>>810

そして九州説論者は、邪馬台国の位置をピンポイントで示すようなことは

いわず、相手説を否定することで自説を肯定するしか脳がなかった。

812 :サガミハラハラ:2008/10/28(火) 07:35:34
私九州説論者ですが、私の場合、ピンポイントで示しております。
詳しくは、拙書「神功皇后は実在した」の「付録メジャーで辿る邪馬台国 明窓出版 2100円」をおよみください。
図書館では大概リクエストがあって、利用者の希望する本を購入してくれると思いますので、それをご利用するのがよろしいかとおもいます。

813 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 08:16:45
で、今のところ何冊売れたの?

814 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 08:28:12
お〜い!九州説の連中。 短里はただの妄想に過ぎない事認めるんだな?
認めないんなら、客観的根拠を示せ。考古史料だ。度の変更について書かれた史料提示してみろよ。
短里、短里ってよく言ってるんだから、史料提示くらい簡単だろ?

815 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 09:41:23
簡単です
短里が無いなら韓国が半島からはみ出す

816 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 09:58:17
> 短里はただの妄想に過ぎない事認めるんだな?
自分で短里なしの証拠はないと認めていたくせに何を言ってるんだ?>>607 >>618

>考古史料だ。
>>747を読んで良く考えな。理解できるかどうかはあんたの頭次第。

短里で書かれた資料はいっぱいあるぞ。後漢書、梁書・・・。



817 :taka:2008/10/28(火) 10:04:35
>>814
短里というのは、九州説の人だけではないと思います。ま、あとは全く同感で短里があった
なんていう説は、ある意味曹真に対抗するという説よりも説得力は無いと思いますよ。

「短里は何mだった」なんて、それはただ単に「烏丸鮮卑東夷伝」に書かれている里数を自
分が考えた目的地までの現代の距離から割ればそりゃあ解かるのは当たり前ですからね。

短里という説は、二重基準の度量衡があった王朝は晋以前にどの王朝であったか?
他の地名の里数と距離の関係、現在一般の学説で魏晋の里は何メートルか考えればすぐ
解かる事です。

818 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 10:10:08
>>796
>普通に考えたら、魏志の記述は環濠集落の時代にしかならない。

おかしい。
魏志のどこに環濠が書かれている?


むしろ、卑弥呼の墓を百余歩と記載していることから、魏志の記述は
すでに古墳時代に入った(その直後の)倭の状況を描いている、と見る見方だってできる。違うか?
こうした見方は以前からあり、文献史学者にも卑弥呼の墓を古墳と主張する人がいた(三品彰英氏など)。


恐らく君は、吉野ヶ里遺跡が大きく話題になりマスコミが取り上げ(平成元年)、
その後あのように遺跡復元し公園化されたが、あれに多分に影響されているのだろう。
ああした環濠に囲まれた弥生集落の復元を見た目で、先入観にまみれて、物を言っているのだろう。

819 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 10:21:12
>>817
ならば、倭人伝の行程記事やその他の史書が書く女王国までの距離等が実際とまったく
合わないのはどうゆう理由なのか、きちんと説明すべきでしょう。
わざと書いたというのか、まちがえたというのか、それを言わずにただ短里はないとい
うだけでは何を考えてんの?ということになりますね。

820 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 10:41:22
>>818
卑弥呼の居所の部分なんかは、吉野ヶ里の内郭のようだね。
少なくとも古墳時代にあの情景は再現不可能。
これで簡単に確定したね。

各地を「国」するのは環濠が地域ごとにあって独立した外形があったからだろうね。
これで駄目押し。

松浦や伊都が栄えていたのは、環濠集落の時期で古墳時代は凋落傾向だね。
これで再確定。

こんなの分かりきったことだよね。
畿内説は九州のこの時期の話は意図して避けているよね。


821 :taka:2008/10/28(火) 10:51:51
>>819
その議論をする前に、まず当時の文化を知る必要があると思いますね。史書は言うに及ばず
四書五経、それに簡明中国度量衡通史や国家計量総局の中国古代度量衡図史等もお勧めです
よ^^ そこまで読む必要は無いですが^^

それから、私の意見は 519・520に書いています。


822 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 11:14:43
>>821
>私の意見は 519・520に書いています
他人には何を言っているのか分からない書き方だな。

823 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 11:14:48
>>820
あと、畿内では三角縁に先行する画文帯があのあたりではほとんど出土しないね。
つまり、古墳時代初期には威信財を入手できないほどの勢力にまで落ち込んことが
考古学的にも確認できる。

だから、畿内説の学者はこの時期の九州の勢力と邪馬台国との関係に言及できない。

824 :すいぜい:2008/10/28(火) 11:16:22
>>816
> 自分で短里なしの証拠はないと認めていたくせに何を言ってるんだ?

何度言ったら判るんだ。あるって言う側に証明責任があるんだよ。早く史料提示してみろよ。逃げるな。


> 短里で書かれた資料はいっぱいあるぞ。後漢書、梁書・・・。

ほう。その史書の何処に漢から魏に変わる際、度が極端に変更された記述があるかね?

825 :すいぜい:2008/10/28(火) 11:19:53
>>819
そんな事言われなくてもわかっている。
だが、それは後だ。論点が変えるな。短里があったって言うんなら、考古史料提示してみろ

826 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 11:36:22
>>825
「考古資料提示」

魏代曲尺(約24p)

827 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 11:49:24
畿内説の粘着が単利調理うるさいな
韓国から対馬まで1000
対馬から壱岐が1000
壱岐からマツラが1000
伊都から那国が100
総距離12000ちょっと
だいたいこんな比率だよ
どんなにこねくり回してもマキムクまでは行けないってw


828 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 11:50:57
なるほど、
邪馬台国は大和だということがよくわかりました。

829 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 12:01:06
>>820
環濠なんて倭人伝どこにも書いてないよ

830 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 12:02:42
>>827

べつにおかしくないよ?
邪馬台国であるマキムクは九州を支配してたんだから。

831 :ローガン:2008/10/28(火) 12:13:32
短里を示す客観的な根拠となる資料は何処にも見当たりませんね。
しかし、解釈や想像は自由なので、「なかったのを認めろ」と強要するのはどうかな?と思います。

832 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 12:16:44
>>818>>820
百余歩の卑弥呼の墓は古墳でしょうね
吉野ヶ里の北墳丘墓は卑弥呼の墓じゃない、これ確定
弥生時代の中期です
>>824
「短里」ないとおもうよ
「短歩」なんてのも絶対ないよ

833 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 12:21:48
>>831
根拠あるよ

>>826の考古資料が

834 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 12:30:46
>>829
倭人伝には城柵と書かれている。
城といえば、周りからは区切られたものなのが普通。

日本の中世の城にも堀がある。これは大阪城や江戸城を見ればわかる。
これも環濠といえる。
しかし、大阪城を見ても堀にはあまり目が行かない。
天守閣や石垣のほうに注目する。

考古学的に見れば、発掘して出てくるのは環濠なので注目されるが、
実際に見た人にはあまり環濠には関心が行かなかったのだろう。
だから、濠については書かなかった。でも、書かなかったからと言って
なかったとは限らない。城柵の文字から環濠はあっただろうと推定される。

835 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 12:52:00
>>826
考古史料を呈示されてるってことが、すいぜいは理解できないらしい。
>>816に書いたとおり、理解できる頭ではなかったんだ。

長里論者は、長里を裏づける明確な根拠がないことに気づいてないな。

836 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 13:22:44
>>834
そのとおりだね。
高見やぐらなんかも、たんに柵がある状態ではなく環濠があったことを
裏付けるね。

837 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 13:22:59
>>834
>日本の中世の城にも堀がある。これは大阪城や江戸城を見ればわかる。

中世の城であれば、山城を第一に挙げるべきであろう。
現在見る大阪城や江戸城などの堀は、中世の城の典型ではない。

しかし論点は、魏志の記述から、字句に無い環濠が読み取れるか否かということであろう。
ならば魏晋時における中国の城がどのようなものであったかをまずは考察すべきであろう。

838 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 14:21:49
>>837
日本の中世の山城の場合は、戦いのためというのが第一の目的じゃなかろうか。
宮室があるとなれば、いわゆる平城の方が似ているかも。
古代の集落もどちらかというと平地または台地だったし。

山陰の妻木晩田遺跡の場合は、山を利用した弥生集落で環濠はないらしい。
相当に大規模だが、これは城と言うにはふさわしくないような気がする。

839 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 14:33:26
>>838
「妻木晩田遺跡 環濠」でぐぐると1000件以上がヒットする件

840 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 14:44:42
>>839
一応、調べてみたんだが、環濠は、集落の中の住居に一部あるらしい。
集落全体を囲む環濠はなかったと思うが。

841 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 14:48:13
一応、妻木晩田遺跡はこんな感じなんで。
http://www.tms-j.co.jp/iseki/

842 :すいぜい:2008/10/28(火) 14:54:21
>>835
> 考古史料を呈示されてるってことが、すいぜいは理解できないらしい。

出掛けてたんだよ!いつもいつも見てる訳じゃねえ。
曲尺? なんで短里の証拠になるんだよ。何を云いたいのかしらんが、言っとくけど角目だとか魯班尺とか言ってもダメだぞ。
24cmは魏の度だ。1尺=24cmそれだけだ。

あ、俺は邪馬台国なんて何処にあっても良いんだよ。機内説じゃねえよ。

843 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 15:03:15
倭人伝の
>宮室楼観城柵厳かに設け
のところは、女王卑弥呼の居館についての描写でしょう。

大規模な環濠集落、例えば吉野ヶ里、唐古・鍵、池上曽根、朝日などですが
あれは集落全体を環濠で取り囲んでいるので、少し意味合いが違うのでは、と

844 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 15:33:17
>>842
アンタも物証出されてかなり気が動転してるようだな。今言われる一里430mも、
あの魏尺が有るから現在の単位にする事が出来るんだわ。
話しは変わるが、邪馬台国には興味がないんだって?
逮捕された犯人もよく言うぜ「俺はやってない」って。

845 :taka:2008/10/28(火) 16:43:20
>>822
解からなければ質問するか黙っていなさい^^

>>826さん
考古学資料ありがとうございます^^

>>844さん
>あの魏尺が有るから現在の単位にする事が出来るんだわ。

確かに^^ ま、『後漢書』の郡国志を見るだけでも、大まかな単位は求められますけど^^
例えば、河内郡は洛陽を去る事120里とありますね? 杜甫像がある当時の河内郡の端鞏
義市と洛陽市の距離は約50kmですから。ま、ともかくも短里っていうのを証明するの
は難しいかも^^;

846 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 16:46:35
>あ、俺は邪馬台国なんて何処にあっても良いんだよ。機内説じゃねえよ

ようするに畿内説ということを隠したいわけね
くやしいか?くやしいのうw

847 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 16:59:19
「畿内説には問題点がある。だから畿内説は間違い。」
と言う理屈が通用するなら、
九州説なんぞ最初からあるはずないのだが…

848 :すいぜい:2008/10/28(火) 17:08:27
>>845
三國志にもあるよ。夏候淵伝に「反復4000里」だ。1000km位だろ?
東夷伝だと玄莵から夫餘まで1000里、実際400km位だろ。
普通の里だよ、短里も長里もないよ。
>>844 なんで俺が犯人なんだよ?未だ機内とも九州とも決めてねえよ。レッテル貼るな。

けどなんで24cmのさしが短里の証拠になるんだい?

849 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 17:10:54
>>847
畿内説が間違いなのは
魏志倭人伝を読む限りにおいて
魏の郡使が北部九州までしか来ていないのは明らか
魏の郡使が滞在した伊都国の近くに邪馬台国の王都があっと考えるのが合理的
魏志倭人伝には畿内のきの字も書かれていない
と言う事実があるから。
畿内説の成立の余地は全く無い。

850 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 17:13:22
しかし吉野ヶ里の出現が学者達にも大ショックを与えたかの如き書き込みがあるが本当か?

考古学者が楼観・城柵のある環濠集落跡にビックリしたと言うのはどうにも信じがたいw
また例によってこの板の九州説論者がお話作っているんじゃねえのか?www

元々遺跡自体の存在は知られていて、それが工業団地の建設に伴い潰

851 :850:2008/10/28(火) 17:15:31
2重カキコスマン専ブラの調子がおかしい>>850再度…

しかし吉野ヶ里の出現が学者達にも大ショックを与えたかの如き書き込みがあるが本当か?

考古学者が楼観・城柵のある環濠集落跡にビックリしたと言うのはどうにも信じがたいw
また例によってこの板の九州説論者がお話作っているんじゃねえのか?www

元々遺跡自体の存在は知られていて、それが工業団地の建設に伴い潰される予定だった。
である学者が地元の新聞記者に
「この遺跡には魏志倭人伝に書かれた楼観・城柵がある」
とかなんとか教えて記者が記事に、で瞬く間にブームを起こし遺跡も保存となった。
その学者は言わば確信犯的に記者に情報を与えたとも思えるが本人は否定しているw

…とこんな感じのお話ではなかったかな?www


852 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 17:27:30
三国志魏書「韓在帶方之南 東西以海為限 南與倭接 方可四千里」
韓は通常の里で計算すると1辺が16,000kmの土地か面積が256,000,000kuの土地。
現在の韓国98,480ku。
現在の北朝鮮120,540ku。
足しても219,020ku。
256,000,000kuの100分の1にもならない。

古田氏の短里の1里=76mで計算すると92,416ku。
現在の韓国の面積に近い。



853 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 17:27:56
九州説は何とか邪馬台国=環濠集落にしたくて必死だがw

倭人伝の記述では確定でき無いと言うのが実際のところだろう…

「七万戸」と言う数字を実数としてどれくらいに捕らえるか?単なる誇張として問題にしないか?

…によって違ってくるが大型の環濠集落を拠点集落にし
その周辺の集落と言う構成ではチトしんどいのではないか?

…とも考えられる訳でwww

854 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/28(火) 17:39:53
>>845
>例えば、河内郡は洛陽を去る事120里とありますね? 杜甫像がある当時の河内郡の端鞏
義市と洛陽市の距離は約50kmですから。

この例えは、洛陽→河内郡という区間距離ですよね?
この区間距離というのは、洛陽から河内郡へ移動し初めて得られるものであり、
120里のルートは洛陽から河内郡に到着して初めて確定するもので、次も120里という
数値を得られるという保証のない数値であることは 理解できるでしょうか?
洛陽と河内郡を結ぶルートは無数に存在し、
移動してみなければ分からないということです。
そこに示された120里という数値が、最短距離という保証はありません。

だから、移動しながら計測できる「長里」や「歩」という単位が使用されるのです。


855 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 17:41:41
>>852
魏書の地理記載をいくら現代の地図と比較し、これこれこうだと言ったって、
それじゃ「短里」の証明にはならんのだよ。

解らんのかな。

問われているのは当時の「認識」なんだがね。

856 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 17:55:44
>>853
逆じゃないかな。
畿内説の学者は、卑弥呼の時代の九州の状況を語りたがらない。
とくに、魏志のなかでも卑弥呼の居所の部分は避ける。
これが環濠集落であることは、彼らの知能でも理解できるのだろう。

松浦や伊都などは、弥生時代に比べて古墳時代には特に凋落が激しいという
考古学的事実も無視しにくい。

彼らは九州=弥生時代、畿内=古墳時代の二段構成も視野に入れているのかも知れない。
まあ、あの人たちのことは、どうでもいい感じもする。


857 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 18:19:21
>>856
お前さんの脳内設定はいざ知らず

「邪馬台国=環濠集落」が定説だと言う話も聞いた事が無いなあ・・・

もしそうなら年代争いの前に纏向はその候補地から脱落しているだろうがw

それに倭人伝だと伊都国がたったの千余戸、交易工業の比重が大きかった事を考慮しても寂しい数字w
既に凋落傾向にある?

それに比して奴国が二万戸と言うのは突出しているが、その中心が須玖か
(畿内との積極的な結びつきが見られる)比恵・那珂かで話は違ってくるwww

先に「同じ規格の古墳は同時代」なんて話があったが
那珂八幡の古墳がそうなら畿内説に有利な材料だろうなwww


858 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 18:20:25
>>853
>「七万戸」と言う数字を実数としてどれくらいに捕らえるか?

一戸=5人で35万人。
2〜3世紀の日本の人口を200〜300万人と推定して
北部九州35万人は問題ないだろう。
2〜3世紀の日本の人口を200〜300万人と推定は
700年・・・400万人
1200年・・・750万人・・・500年で約2倍
1700年・・・2500万人・・・500年で約3倍
2000年・・・10000万人・・・300年で約4倍
として
300年〜700年を1.5〜2倍と推定。



859 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 18:22:55
>300年〜700年を1.5〜2倍と推定。

訂正
200年〜700年の500年を1.5〜2倍と推定。


860 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 19:31:14
>>854
たまにはお前の言う事信じて考えてみる。
自分なりに納得するし、スルーするにはおしいから

861 :taka:2008/10/28(火) 19:51:46
>>854

お前、俺を舐めてんのか? それともネタか? 例え話で一部の話を取って来ただけだろう
が!! どこに官道があって、どういうルートで中国の道というものは網羅されていたか?
誰がそんな議論してるんだよこのクソボケが!!

大阪へ行く道も複数あるよなぁ〜 北海道周って日本海を通り滋賀県から行くルートや、そ
のまま九州を守って通るルートとかな!!

それとも何か? 俺の例え話で中国の史書の一部分を都合よく取ってると思って気に入らな
いのなら、二十四史全部貼り付けてレス埋めてやろうか? お前に取ったらその方が嬉しい
だろうな。

862 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 19:59:10
>>861
公言した以上、二十四史全て貼付けろよ。

863 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 19:59:25
>>857
考古学的な視点で見れば、松浦や伊都や奴国などの北部九州で出土した他を圧倒する
特定個人墓(王墓)は、全て弥生時代のものだね。

これらの地域は古墳時代になると、その優位性は九州の内部においてもなくなる。
伊都国とかは画文帯の出土は僅少であることから、画文帯が出回る前に勢力が
衰えたというのが、考古学が導き出す結論。

ところで、画文帯はほぼ全部が古墳から出土するよね。
故に、伊都国が勢力を有していたと魏志に書かれた時代は弥生時代となる。

こんなのは、考古学的事実が導き出す、ごく簡単な三段論法だよね。

まあ「畿内の後進性」を100年も無視した連中に、この点を無視するなというのも無理かもしれん。
日本で500面以上出土して、国外からは1面たりとも出土しない三角縁を舶載と主張する知能が
これにドッキングすれば、考古学的事実なんて何の意味も持たない添え物だわな。

864 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:06:31
>>861

舐められてる。
おちょくられてる。
馬鹿にされてる。
さげすまされてる。
コケにされてる。
摘まれてる。

「笑われてる」

舐められてるからおかあちゃんに言い付けてやれ!
それとも学校の先生に言い付けるか!

865 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:08:35
>>863
まあお前さんが自説に自己陶酔するのは構わんが

畿内説だと伊都国の立ち位置は、その持てる外交ノウハウ、地理的条件をもって
半島大陸との考証の窓口だった。

…という事で倭人伝に出てきても何の不都合も無い訳だがw


866 :860:2008/10/28(火) 20:10:58
>>861
河童のレスはアンタを舐めたレスじゃないと思う。

867 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:13:15
>>865は可哀想なヤツ。


868 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:17:12
>>861


>>826は河童だよ。

869 :taka:2008/10/28(火) 20:40:34
>>863
誰が自己陶酔してるよぉ!! あ? >>845で一例を示して里数の事を言っただけだろうが!!
そもそも、俺が今日はいつ邪馬台国の話をした? あ? したと言い張るのならしっかり
ソースを示してもらおうか!!

「ルートは無数にあって」あうわうわう、誰がルートの話しをしてんだよって言ってるだ
けだろうが。俺は九州説だが、それとは関係なくどこに短里があったか? という話題に少
し入っただけなのに、無数のルートがありますとはこれがなめた回答でなくてなんだ?

だから、現代でもルートは無数にあるって言ってんだよ。な? 大阪行くのに新幹線乗って
行く必要も無いわけだ。東山道もあれば、群馬から日本海にも出るルートもあれば、北海
道からグルット周るルートもあるって言ってるだけなんだよ。

人に自己陶酔って発言する前に、お前はまず人に対する口の聞き方を一から学んで来いボ
ケ!!

870 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:44:00
>>869
アンタもな!

871 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:46:06
>>865
魏志の書き方は「たんなる窓口」じゃないよね。
かりに物資の一括受け入れ窓口であったと仮定しても、画文帯が少なすぎるね。
まあ何を言っても、年代遡上の信者には「聞こえな〜い」でしょうけどww

ところで年代遡上説を本気で唱えている学者っているのかな?

本気でやっているなら、不利な事実や論理から目をそむけないよね。
むしろ、積極的に問題点に挑むはずだよね。

872 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 21:06:41
>>861takaちゃ〜ん
>二十四史全部貼り付けてレス埋めてやろうか?

レス二十四史で埋め尽くすのま〜だ〜?

873 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 21:08:55
>>863
伊都国の前期古墳を知ってるだけ挙げてみれ。
でそいつらを、これは発掘済み、これは未調査、と分けてみれ。

874 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 21:08:57
>>871
大体、古墳時代だろうが、いや、中世だろうが半島との交渉の為には
九州の玄海灘周辺地域を通るのは当たり前。

古墳時代以降、半島から或いは壱岐あたりから九州を経ず
いきなり中国地方の何処かを目指したと言う事実でもあれば
伊都国が出てくること自体がおかしいだろうが…

そんな事言う馬鹿はこの板の九州説ぐらいだろうwwwwwww

画文?絶対数も少なく九州まで回せなかったんじゃないのか?
それで何か問題でも?



875 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 21:16:12
まあもし厚遇された結果北部九州地域で画文が豊富に出てきたら
それはそれで
「見ろ!古墳時代になっても尚九州は繁栄している!
 画文帯神獣鏡がその証!」
なんて話になったんだろうなwww

876 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 22:30:39
>>873
自分でやれボケが!!!
後出しじゃんけんしかできねえクズが書き込むんじゃねえ!

877 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 22:42:01
>>874
魏の郡使が畿内を目指しているなら「郡使往來常所駐」は変だろ。
通るだけの玄海灘周辺地域に「常所駐」とは何だ?

878 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 22:46:09
短里を認めない限り方4千里の説明は無理

879 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 23:01:35
>>860
> >>854
> たまにはお前の言う事信じて考えてみる。
> 自分なりに納得するし、スルーするにはおしいから

「河内」の意味でも知らんで・・・哀れやのぉ。

880 :ローガン:2008/10/28(火) 23:03:14
>>863理路整然としたいいレスですね。

> これらの地域は古墳時代になると、その優位性は九州の内部においてもなくなる。
はい、同意。
> 伊都国とかは画文帯の出土は僅少であることから、画文帯が出回る前に勢力が
> 衰えたというのが、考古学が導き出す結論。

これも同意。

> ところで、画文帯はほぼ全部が古墳から出土するよね。
> 故に、伊都国が勢力を有していたと魏志に書かれた時代は弥生時代となる。

ん〜どうでしょう?「伊都国が勢力を有していた」 丗有王皆統屬女王国 とありますね。
「統屬」の用例から考えると 「Aの配下にありかつ、Bに所属する」だと思います。
魏志の当該部分の記述でこの「統屬する皆」とは伊都国の官、副官3、4名の事ではないでしょうか?
伊都王の配下ではあるが、女王国に所属する… 上手く書けませんが魏志からは伊都国の憂色が見えるように思いますがいかがですか?
ま、誤読かも知れませんが

881 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 23:03:45
>>878
>短里を認めない限り方4千里の説明は無理

その前に
正確な韓の位置・範囲は認識出来てるの?
どうせ恣意的にここが韓という設定をするわけだろう

882 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 23:07:07
朝鮮半島とスサノオ 馬韓王統と卑弥呼

883 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 23:13:57
倭人伝が短里であることは自明の理でしょ。
倭人伝で地点間がはっきりしているのは、対馬壱岐間千余里です。
魏の1里は434.16mで千里は434km以上となります。しかるに、対馬壱岐間は45kmぐらいしかありません。
このことだけでも、倭人伝は魏の尺度(長里)ではなくそれよりもぐっと短い尺度であることがわかります。


884 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 23:19:03
>>883
平成に創る倭人伝ですか?

885 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 23:21:12
サイキバ君乙!乙だ!

886 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 23:24:43
馬韓王統は... あれっ、魏も認めてるんじゃん。 退化したのか。

887 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 00:04:31
>>883
それは短里の証明にはならないんだよ。
上の方で何人も言ってるだろ。理解しろよ。

古田はそうやって九州王朝とかいう空中楼閣を築いてしまった。

そんなエセ証明ばかりを何段も積み上げて・・・・
最後は東日流まで引っ張り出して・・・・



888 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 00:31:39
>>880
その部分は「伊都国は女王国と同じ王統に属する王をかつて数名輩出した」と読めます。

魏志のなかで「王」は女王卑弥呼と、狗奴国の王だけ。
ほかの国は王おらず、官がいるだけ。

これを前提にあの部分を読めば、各小国に王が居たという意味で、伊都国にも王が居たとは
読めません。
むしろ、かつて邪馬台国(女王国)の王統に属する王を数名輩出したと読めます。
そのためこの地域は魏志が書かれた当時においても、力のある地域であったと読み取れます。

それゆえ荷物の臨検をしたりすることができたのでしょう。

889 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 00:50:35
>>887やっぱり、1里塚が出土しないと。

890 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 01:16:03
■一支国弥生まつり:初開催、壱岐の歴史や文化発信−−来月15〜24日 /長崎
10月28日14時0分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081028-00000152-mailo-l42

 古代の王都「一支国(いきこく)」の跡とされる壱岐市の国指定特別史跡「原の辻遺跡」を舞台にした「一支国弥生まつり」が11月15〜24日、同市の原の辻展示館周辺をメーンに初めて開催される。
県立埋蔵文化財センターと同市立一支国博物館の開業(10年春)に向けたプレイベント。弥生時代にタイムスリップし、大陸文化の玄関口として栄えた歴史と文化を感じさせる各種行事が催される。

 島民約25人による実行委員会が企画し、総勢200人以上の島民がボランティアで運営する。
メーン会場内を「一支国」に仮想し、スタッフは手製の古代服「貫頭衣」姿で対応。
国内は壱岐近海で採れる「緋扇(ひおうぎ)貝」を通貨(1貝=100円)にするため、「入国」時に両替してもらう。75歳以上からは料金は取らない。
 11月17〜23日は大型バスで島内の自然や社寺を巡る「ワンコインバス」(5貝)を運行。昼時にバスを降り、古代米「赤米」のおにぎりや郷土料理などの食事(5貝)を堪能できるコースも設定する。
また古代人が南方から流れ着いたヤシの実で作った「ココヤシ笛」(土器で復元)の演奏、勾玉(まがたま)作りなど古代生活が体験できる。
 島内には多くの神話が残っていることにちなみ、島民による神話朗読劇創作コンテストを開催。
壱岐神楽など日中韓の音楽を披露する「シルクロードの音楽会」のほか、「市川森一の世界」と題し「月の光」など市川氏の作品4本の無料上映会もある。
 実行委は「壱岐の歴史や文化の魅力を発信し、交流人口の拡大など島の活性化につなげたい」と参加を呼びかけている。問い合わせは実行委事務局(0920・44・5185)。【宮下正己】
10月28日朝刊
最終更新:10月28日14時0分

■長崎県立埋蔵文化財センター・壱岐市立一支国博物館(仮称) 最新情報
http://www.pref.nagasaki.jp/pre-iki/news/081006_3.html

891 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 04:50:13
>>881
では、あなたは韓の範囲をどう理解するのかな。韓伝を読めば、当然朝鮮半島の
帯方郡より南の話であることは明白。少々の誤差はあっても、半島の大きさは客
観的に決まっているのだから、方四千里を1里=435では理解不能なことは明
らかなはずだが。

892 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 05:01:46
>それは短里の証明にはならないんだよ。
>上の方で何人も言ってるだろ。理解しろよ。
上の方に合理的な話は何もなかったように思うが、整理して分かりやすく説明してくれんかな。
狗邪韓国から対馬が千里、対馬から一支国が千里、一支国から末盧国までが千里だ。これを4
35でどうやって読むって?
>>855は「問われているのは当時の「認識」なんだ」と言うが、当時の認識がどうだって言うの
かな?中国人は距離感がなかったとか馬かなことを言うんじゃあるまいね。


893 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 05:05:26
↑ >>887について

894 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 06:39:33
倭人条には『自女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳』
が書かれており、共立の30ケ国のうち女王国より北は戸数や道順、距離
の概略を記述することはできるが、その他女王国の傍らの国々は絶縁の
ため詳細がわからない。と書かれている。

魏国の西域端は現在のインド北部・アフガニスタンの国境まで国域があり
カシミールやトルコとも交易を図っていた国である。
そんな壮大な交流交易を行っていた魏の郡使からの報告で『絶縁で詳細得ず』
の記載において、邪馬台国が九州北中部にあったとは考えられない。

こう言えば必ず、邪馬台国以外は関心がなかっただの、正しい報告がなかった
だのとの反論が記載される。一般民による相互交易も相当にあっただろうし
国レベルでの交流も行われていた。
郡使は邪馬台国を訪れていない。九州であれば南部であろう。

895 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 07:55:00
>>892
なんで435mで読むのか?435mで読まなければならない理由は?
学者が言ったり、市販本にそう書いてあるから、理由も分からずただただ使用しているだけか?

896 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 09:29:58
じゃあアンタは何mで読んでるの?

897 :taka:2008/10/29(水) 09:46:52
>>887

私は九州説ですが、九州説の人も 古田武彦氏 はあまり相手にしていないのでは? 『東日
流外三郡誌』という偽書を最初は疑ってかかっていたようですが、自分の説を裏付けるよ
うな記述を見せられた途端盲目的に信奉していた。

軍中野学校に入学。その後海軍に転籍した。元皇宮護衛官と自称の上に過去無銭飲食で逮
捕された経歴を暴露され、青森県警友会の会員を退会させられた。こんな人物にいっぱい
食わされる様な教授ですから^^;

898 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 11:07:24
>>896
何処をですか?

当時使途によって使い分けられていた。
単純に区間距離を表す場合等には、里=約400m強を用いらねばなりませんが…

899 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 11:22:46
そもそも長里と言われる里=約430mの方が特殊な尺度なのです。
主に大陸内陸部の事情を記載した漢籍を用例に、解釈してきた弊害から
起きてしまった、悲しい誤解釈です。

900 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 11:46:19
都で色々のものを計測し値を出す場合
都から各地方までの距離は長里で計測されますし、都内を区画整理する時も長里です。
しかし
都の周りを囲む長い長い城壁は、例え何千qあろうが長里で計測することは無いし、川の長さや湖の周囲も計測されないし
してはいけません。

901 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 11:59:02
ただ
都からある地方の街への距離も、ルートが指定され
そのルートの長さを計測する場合は、
長里を用いる事はありません。

902 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 12:20:28
さて
>>899-901のレスに対して
周りはどんな反応を示すか?
・スルーを決め込むか?
・これを参考に今一度考えて見るのか?
・ただ罵倒が始まるのか?


反応が楽しみです。

903 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 13:11:38
長文なので丸無視。
が大多数かと。
私なら日本語でおkと書くかな。

904 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 13:26:55
>>903

了解しました。ご意見m(._.)m

905 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 14:17:05
>>902
一字も根拠が示されてないので、スルー以外どうしようもないね。

906 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 14:37:09
誰が書いてるか分かり過ぎちゃうから
スルーするぅです

907 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 14:39:00
>>905

根拠はモノサシ。
モノサシは単なる物であり、そこにモノサシの長さ分だけ、等間隔の目盛りが刻まれているだけてす。

908 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 15:54:03
俺は誰が書いていようと、その中身を重視したいのでスルーしないっす。
少し考えさせられる一文でもあるし、根拠が物差しとは面白いっす。

909 :ローガン:2008/10/29(水) 16:14:51
>>888
> その部分は「伊都国は女王国と同じ王統に属する王をかつて数名輩出した」と読めます。

そうでしょうか?「統屬女王国」ですから女王国に統屬するですね。「同じ王統」とは読めないのではないですか?
この統屬の意味については以前にも書いたのですが、同じ三國志の黄忠伝に用例があります。
「荊州牧劉表以為中郎将與表從子磐共守長沙攸縣及曹公克荊州假行裨将軍乃就故任統屬長沙守韓玄」
黄忠は劉表の中郎将として長沙警護の職でありながら、韓玄に「統屬」しています。

倭人伝では「丗有王皆統屬女王国」ですから「世に王はいるが、皆は女王国に統屬している」(官副官たちは元々伊都国王の配下であるが、女王国に統屬している)
統屬の意味からして、こう読めばいいんじゃないかなあって考えます。


910 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 16:35:54
>>888氏は基本的にまちがっています。国というのは、統治主権、領土、国民から
なるもの。三世紀のころの統治主権はもちろん王です。官は王に任命された者、
官=王ということはあり得ません。王は具体的に書かれていようがいまいが、各国
にいたのです。
「丗有王皆統屬女王国」は、「世々王あり、皆女王国に統属す」。伊都国のみの話
と解されてますが、対馬国から伊都国までの4か国に関する記事と読むべきです。
その読み方は魏略と同じように読もうというもので、学者の間ではそのような読み方
も可能だと指摘されていました(通説とまではなっていませんが)。



911 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 16:36:50
>>888氏は基本的にまちがっています。国というのは、統治主権、領土、国民から
なるもの。三世紀のころの統治主権はもちろん王です。官は王に任命された者、
官=王ということはあり得ません。王は具体的に書かれていようがいまいが、各国
にいたのです。
「丗有王皆統屬女王国」は、「世々王あり、皆女王国に統属す」。伊都国のみの話
と解されてますが、対馬国から伊都国までの4か国に関する記事と読むべきです。
その読み方は魏略と同じように読もうというもので、学者の間ではそのような読み方
も可能だと指摘されていました(通説とまではなっていませんが)。



912 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 16:37:32
2度押してしまった。失礼。

913 :ローガン:2008/10/29(水) 16:39:42
>>900
当時の技術で計測可能なものとそうでないもの。可能なものは公定里と判断。不可能なものは観念的?数字であるため、実際の距離との比較は意味の無いこと。
という意味かな?河童虫さん?

914 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 16:59:59
世有王皆統屬女王國

これは、前の文が「有千餘戸」で、後ろの文が「郡使往來常所駐」なので、
伊都国についてだけ言っているのだろう。

となると、「世有王」は、代々王がいる、で良いのではなかろうか。

また、千戸余の伊都国が、二万戸の奴国、五万戸の投馬国、七万戸の邪馬台国
を統屬するというのは考えにくい。戸数をそのまま信じるわけではないが、
少なくとも伊都国よりはこれらの国の方が圧倒的に戸数が多かったと
思われるので。

だから、この部分は、通説どおり、「伊都国には代々王がいて、みんな
女王国に属している」で良いのではないだろうか。

となると、伊都国がいつから女王国(一応、邪馬台国と考える)に属しているの
だろうか。
倭国の大乱の前か後か。個人的には、帥升の時からと思っているのだが。

915 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/29(水) 17:32:59
>>913ローガンさん

>当時の技術で計測可能なものとそうでないもの。可能なものは公定里と判断。不可能なものは観念的?数字であるため、実際の距離との比較は意味の無いこと

いいえ観念ではありません。
区間、つまりA点とB点の区間距離というのは、最短距離〜無限な距離まで
歩んで行くコースによって様々であり、AからBに到達してみなければ結果は得られません。

城壁などのモノには最初から長さというものが存在しており、単に数値が分からないだけで、区間距離のように
その長さが幾通りも存在するわけではなく、たった一つ
そのたった一つのモノの長さは、目盛の刻まれているモノサシを宛がうことで
その数値が把握できます。なぜかはモノサシ自体がそういう特性だからです。


ここまで分かりましたでしょうか?

だから着点に到達してみないと、その長さが確定されない区間距離には
モノサシを宛がいながら計測する事はその特性が異なるがゆえに、出来ないのです。


916 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 17:57:11
>>909
その説では前提として、「各小国にそれぞれ王がいた」ことが必要です。
しかし、各小国は官の名のみがいちいち書かれています。
これは王いるのにあえて書かず、官の名のみを書いた訳ではないでしょう。

仮に、各小国にそれぞれ王がいるとした場合、「その一つとして伊都国にも王がいた」
と書くことに何の意味もありません。書くまでもないことです。

「伊都国に王がいた」とすることは、少なくとも周辺の小国をいくつか支配する程度の
王がいた、と理解しないとわざわざ書かれた意味が汲み取れません。

その王が魏志の時点で存命していたのであれば、その名が書かれずに、官の名のみが
書かれるという不自然なことはなかったでしょう。

そうなれば、かつて周辺の小国を支配する王を代々輩出したが、今は女王国に属している、と
いう意味が普通に出てきます。
一つの国に一人しか王がいないと考えれば、女王国(邪馬台国)の王をかつて数名輩出した
地域が伊都国であるという意味に理解できます。

917 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/29(水) 17:57:44
>>913ローガンさん  続きです。

 到達してみないとその長さが確定されない区間距離の場合の計測には
モノサシやその代用であるメジャーなどは使用できないことは先ほど説明しました。
では、どのように計測するかというと、進むべき未来がモノサシのように確定されてはいけないのですから
、出来る限り計測範囲が小さければ小さいほどよく、尚且つ移動しながら計測できるもの

それが身体の一部を利用した、最も合理的な移動測量手段「歩測」なのです。
だから地の果てまで「五億歩」などという数値が過去の史料に記載されていると理由です。
この歩測をもっと合理化し、しかもより正確に数値化出来る方法が「記里鼓車」

この計測機器は車輪を利用し、地面との接地面が小さい特性もさることながら、車輪は転がってみないと分からないという
区間距離の特性を十分組み込んだものといえます。


918 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 19:35:11
またκの「記里鼓車」か…

どのみちそんなもん当時の日本に持ち込んで測定したので無ければ意味が無い話だな。

単に度量衡に関する豆知識を披露したいだけちゃうんかと小一時間(ry


919 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 19:55:06
また短里の話か。
短里=小一里=6町のことだろう。ようは京都の一条から二条までの距離だ。

920 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/29(水) 19:55:38
>>918

どう受け止めるかは貴方の個人判断ですのでご自由に

>どのみちそんなもん当時の日本に持ち込んで測定したので無ければ意味が無い話だな

普通もちこまないでしょうし、持ち込んでも使い道がありませんから
考えるだけ無駄な時間です。

921 :ローガン:2008/10/29(水) 20:05:08
>>917
河童虫さん。それが>>899とどう繋がるのでしょう?

922 :ローガン:2008/10/29(水) 20:21:50
>>916
倭人伝の件の記述で、読み手に伝えようとしているのは、「皆が女王国に統屬している」事です。丗有王はそれに纏わる説明で、ことさら「伊都国に王がいた!」と述べたものではないと思います。

又、倭人伝からは各国に王がいたとか居ないとかの記述がありません。
よって一次資料からは判断しかねるので、他を当たる事になりますが…
後漢書に「国皆稍王」とあるので各国に王がいたと考えて良いと思います。

923 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/29(水) 20:32:24
>>921ローガンさん

>河童虫さん。それが>>899とどう繋がるのでしょう?

と言うと、何処がわからないのですか?



924 :ローガン:2008/10/29(水) 20:47:45
>>923

>>899の「悲しい誤解釈」と、起里鼓車の由来が書かれたレスとの関連です。


又後で来ます。

925 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/29(水) 21:39:54
>>924ローガンさん

>>899の「悲しい誤解釈」と、起里鼓車の由来が書かれたレスとの関連です。

「悲しい誤解釈」
とは、魏書内のすべて同じ尺度で考え、
しかも俗称長里という、先ほども説明したような特殊な尺度で。
長里はある限られた条件下でしか使われないのです。

当時の中国で使われた、長さを数値化する方法は二通りしかなく
一つは、度量衡に定められた尺度にて、モノサシを用い数値化する方法。
もう一つは、度量衡に定められた尺度を基準に、区間を測る機械的に導き出される「長里」

926 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/29(水) 21:44:56
倭人伝に記載された里数値を「長里」にて考えるのは、川の長さや城壁
の長さを長里で考えることと同じ、
実に馬鹿げた行為ということです。

なぜか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・だからです。

927 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 22:10:16

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

928 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 22:21:50
>>926 河童
>なぜか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・だからです。


思わせぶりな伏字で相手が食いついてくれるのを待っているんですね、わかります。


929 :日本@名無史さん :2008/10/29(水) 22:30:13
ものさしを使って、云々を言い出したのは私です。
定規でもいいです、同じですけど。
長さが確定されない区間距離といいますが、
ちゃんと倭人伝の中にもあります。
対馬と壱岐の間は最短距離をとるか最長距離をとるかで
その区間が確定できます。
確定できる区間はそこだけしか存在しません。貴重な区間なわけです。
だから基準は最短距離を想定した場合と最長距離を想定した場合の2つの数値の範囲があるわけです。
対馬は縦長の島ですから。
つまり今のところ一里=約100メートル〜一里=約55センチの範囲があります。
でもその先の女王国まで万二千里をどういう解釈をするかで、
一里の里値が確定するわけです。
確定といっても、昔のことで目分量や歩数による里数ですから
里値の平均値とでも言うべきですが。

もともと長里は広大な場所に使った特殊な尺度だと私も思います。



930 :日本@名無史さん :2008/10/29(水) 22:33:22
>>929
訂正
一里=約55センチ→一里=約55メートル

931 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/29(水) 22:40:54
>>929

>思わせぶりな伏字で相手が食いついてくれるのを待っているんですね、わかります。

いいえ
伏せたのは、この部分はしゃべらないという意思表示です。

932 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 22:44:09
長里などというのはあるのですか。
各時代の尺度があって、それより短いとおもわれる里の単位を短里とし、対して、各時代の標準里を長里とよんでいるだけでは。

933 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/29(水) 22:45:15
>>929

それって現代の地図や技術を使わなくてもわかりますか?

934 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 22:49:41
ここを久しぶりに覗いてみたら、「見えない」レスが多くて笑った。

935 :日本@名無史さん :2008/10/29(水) 22:50:04
>>933
昔のいい加減な地図では無理なのは当然です。


936 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/29(水) 22:50:23
>>932

長里は短里があるから存在し、短里は長里があるから存在するものです。
だから、長里や短里が単独で存在することはありません。
いまここで長里という言葉が使われているのは、それより短いとされる尺度とする
説が存在するので、その尺度と区別するため「長里」という言葉が使われています。

937 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/29(水) 23:02:38
さて、また名無しに戻りますか

938 :ローガン:2008/10/29(水) 23:04:04
>>926
了解。気付きました。からかってるだけですね。
云いたい事あるの?それとも無いの?まともな書き込みをしなさい。


939 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/29(水) 23:10:05
>>938

>了解。気付きました。からかってるだけですね。
云いたい事あるの?それとも無いの?まともな書き込みをしなさい。

そう捉えましたか
残念ですね
からかっているならここまで引っ張りませんし、コテ付けてまで登場しません。

ではまた

940 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:21:14
きっと暇だったんだなw

941 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:24:51
ローガンとプラム=河童虫とが、へとへとになるまで血みどろの戦いをしてほしい。
出来れば、美濃もん太と改めドツボも参戦してほしい。

942 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/29(水) 23:34:05
>>941

>ローガンとプラム=河童虫とが、へとへとになるまで血みどろの戦いをしてほしい

それは絶対にない
あるとすれば、実はローガンさんが隠れ九州説だった場合のみ
畿内説であるローガンさんとは初めから水と油
そんな無駄な事はしないよ

943 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 00:06:34
今までも、誰が相手でも「議論」にはならなかっただろうに・・・・

944 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 00:39:36
そうかそうか、河童虫は美濃もん太・改めドツボレベルが、身の丈に合うんだな。
徹底的に、死闘せんかい!!

945 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 01:24:34
つうか河童虫は基本自説の解説と言うか、誰も頼んでいないレクチャーだからw

自説に興味をもって釣り針に食いついてきた奴
(自然、九州説の人間の方が確率は高いかな?w)を相手するだけだから…



946 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 02:01:08
せっかくプラムから改名したのに、河童どころか、蜘蛛かアリジゴクの真似事か・・・

947 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 04:44:56
ところでヤマタイなぞ読み方の言い出しっぺは誰なの?明らかにヤマトと読むのに何故教科書は読み方変えないの?

948 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 05:17:40
だね。トヨはトヨなのに。

949 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 07:19:32

トヨタン・・・・・・・・・・・・


950 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 07:30:53
>>914
>前の文が「有千餘戸」で、後ろの文が「郡使往來常所駐」なので、
>伊都国についてだけ言っているのだろう。
>>911に書いたとおり各国には王がいた。そのことを念頭において読めば、対馬国
一支国、伊都国と王に触れずに官から始まっているので、王についてはどうして
書かないのかなということとなる。そして、「世有王」とくるから、王については
ここにまとめて書いているのだと理解すべき。それに、もし「世有王」が伊都国の
王のみの話とすれば、王の使用人たる官や副官を先に書いてそれから王を書くとい
う不自然な順番となる。そんなことはありえない。
「世有王」は単に王がいるでは意味をなさない。世は世襲を意味する文字。各国に
は世襲の王がいると解すべきである。その点は後漢書が参考となる。
「郡使往來常所駐」は伊都国のみの話と解する説が強いが、邪馬台国への往来に際
して駐する(駒をとどめる)のは伊都国にかぎった話ではない。通過国はすべて駐
する所。つまり、これは対馬国から伊都国までは往来に際しての通過国だと述べて
いるわけで、奴国以下の国が通過国ではないことを示したもの。



951 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 08:00:19
>>950
奴国、不弥国、投馬国にも王はいたんだろうが、それについては書いてない
のかな?
伊都国は、郡使が常に駐まる所なので、比較的良く知っていた。
だから、代々王がいて皆、女王国に統属するとわかったのでそう書いた。
しかし、他の国の王については良くわからなかった。
ということじゃないのかな。

壱岐や対馬には当然、滞在しただろうし、帯方郡からやってくるわけだから、
長い期間がかかり、他のところにも滞在するわけで、これは当たり前。
にもかかわらず、「郡使往來常所駐」をわざわざ書いたのは、郡使が
伊都国にかなり長期間滞在したことを示していると思う。

邪馬台国まで行っているとしたら、目的を達するまで邪馬台国に滞在する
のが普通だと思うので、これは邪馬台国まで行っていないということにも
なると思う。

952 :taka:2008/10/30(木) 10:25:49
だから、短里があったなんていう証拠がどこにあるの^^; そんな事言ってるの、日本の
学界ですら最早反主流でしょうがw 歴史書、読んだことあるのかどうか疑問ですね。

ある意味、色々なルートがあったって人以下の論理だよ。同時代に二重基準の度量衡があ
ったらお目にかかりたいですよ^^ まさに新解釈ですね。

953 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 10:41:15
>>952
河童が昨日、長里が特殊だって言ってたろう。アンタがお目にかかりたいと言っても、アンタ自信が見ようとしなければ
何時になっても見えないんじゃないの?

954 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 10:58:51
歴史書を読んでも読解力が無ければね、>>952は読んだが読解力が
無かった、学者崇拝タイプだなや。

955 :taka:2008/10/30(木) 11:10:09
学者崇拝タイプだと仰るが、学者としてそれなりの地位があるのはそれなりの理由がある
からだろ? それの理由が学術的とは限らないし当然派閥争いとか政治力もあるだろうが、
とにかく地位につくにはそれなりの理由があるという事。

河童さん のは読解力という以前に、想像・空想の世界と言えるのでは? 当然、歴史には
想像も空想や推理力を持つのは必要です。ですが、断定するというのは少し話しが違うの
では? 断定するという事は、それなりの証拠を一部分ではなく全て持ってるのですか?

以前、天智・天武両陛下 非兄弟説を仮にも教授ともあろうお人が延々と書いていましたが、
そりゃあ『本朝皇胤紹運録』と『日本書紀』から別々の年齢を取れば 天武天皇陛下 の方
が年上になりますよね。河童さん はその教授と一緒で、都合の良い一部分だけ取って判断
しているに過ぎません。

人に読解力いうのであれば、まずその前に空想妄想を辞めてはいかがですか?

956 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 11:32:51
>>955
場末の素人河童と、学者で飯食ってるプロを同じレベルで
比較するなよ。w
素人河童があれ以上な理論を展開し、学説がひっくり返ったら
今までの学者は全て詐欺師モドキだわなw

957 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 11:38:48
>>955
彼の空想妄想ではなくて、空想妄想した人の受け売りです。記里鼓車にしろね。

958 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 12:01:24
だから短里が無いなら方4千里はどうやって説明するんだよ
説明できないから、いつも適当に誤魔化してるだけじゃん

959 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 12:07:05
>>957
gengomushiのホームページは繰り返し読んで見たが、
昨日河童が言った事まで、gengomushiは触れていないようだ。

960 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 12:15:14
>>958
そのとおりだな。短里を否定するならば、ではどう読むかということを
答えるべきだが、それがまったくない。

961 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/30(木) 12:15:57
覗いて見ると、なんだか私をネタに盛り上がっているようで、

結構、結構。

で、私のネタは虫さんの受け売り? 当然ダブリますよ(笑)
私の古代史の基礎を築いているのは「言語虫理論」ですから
当然ですね

>>957
2ちゃんまで出張して、名無しでチクリしてないで、ヤフーで直接言えばいいじゃん
女みて〜なチビリだな。

962 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 12:24:38
>>960 それは無理な注文だ。奴らは学者が触れない事には
右へ習えだから、
ここでの言い訳は誇張ぐらいだ。

963 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 12:26:37
>>961
素人のおじさんが自前のトピでゴチョゴチョ言ってるのまで責める気はないよ。
他所のトピや2chには来ないっていうのは、議論を望んでないだろう。
なんでそんな人のところにわざわざ出向いて直接言わなければならないの?
ここに来て自説を展開するのなら批判してあげるけど。

964 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/30(木) 12:32:38
>>963

批判できるほどのネタを持ってるようには見えないけどね。

965 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 12:34:15
>>964
じゃあ、連れて来てみw

966 :日本@名無史さん :2008/10/30(木) 12:35:53

対馬や壱岐の官は卑狗、そして狗奴国の官は狗古智卑狗、
卑狗を尊称している。対馬や壱岐は名は無く尊称だけではあるが。
卑狗は彦のことだと思う。
彦とはヒ=日、太陽、コ=男子の意。
尊称として用いられたが、もとは神の子という意味。
卑狗は神に仕えると代表者に付けた尊称だと思う。
つまり鬼道に関係している人々だと思う。
伊都国は当て字だろうから、委奴国だと思っている。
先祖はかつての倭王。
対馬や壱岐は名前が官も副も書かれていないのはどうしてだろうかと思うに、
中央から(卑弥呼)特別派遣された官であるからだと推理する。

他の国の官はすなわち王を表しているのではないだろうか、
しかも宗教に関係ない王だちだと。世襲だから、昔から鬼道に通じていたとは思えない。
鬼道のルーツは黄巾党の乱に関係する五斗米道のこと。
邪馬台国の官は卑弥呼が大王なのでその次の位置にあると思う。

総合して考えると世有王皆統属女王国郡使往来常所駐の部分は
伊都国のことを指していると思う。
皆というのは皆ではないと思う。せいぜい2、3代前あたりから。
狗奴国の狗古智卑狗も鬼道に通じていたということになる。
で、伊都国の戸数は戸一万戸と魏略には書いてあるので、此方の方が
正しいんじゃないかと思う。

967 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/30(木) 13:42:25
>>965
裁判所からの出頭命令書が有れば
来ると思うから

用意してくれないか?

968 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 14:26:19
>>966
基本的には同意。以下の部分で異なる。

伊都国は当て字であるけれども、怡土でも委奴でもないと思っている。
イトに卑字を使っていないのは、以前のシナの記録では卑字でなかったからであろう。
すなわち、伊都國は帥升の倭國である倭面土國(倭目達國・倭米多國)であったからだと思う。
卑狗は、鬼道に似た倭古来の宗教に関連している人々だと思う。
国々の官は、女王國に統一される前の国々の元王を表しているのではないだろうか、
『世有王皆統属女王国郡使往来常所駐』の部分の皆というのは、皆ではないと思う。
せいぜい2、3代前あたりから。
すなわち、倭国大乱の終わった2世紀末の頃からであると思う。



969 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 14:35:30
自分の車がどこにあるかも分からない。
「私の車があなたの家にあります」

「馬韓が日本にあります」

バカ? 車もーらった。


970 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 14:44:20
>>967
ジョークのセンスが・・・ orz

971 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 19:40:14
>>961 河童虫 ◆EY2wfgakAQ
>私の古代史の基礎を築いているのは「言語虫理論」ですから

・・・・・・・・・。

本を読もうよwww


972 :日本@名無史さん :2008/10/30(木) 19:45:41
>>968
966ですが、
委奴というのは倭の奴国と読むのか倭奴国が一つの名前なのかはっきりしない。
一応私は伊都になぞらえて委奴としました。
もしかしたら倭の奴国と読んで、奴国かもしれません。
57年の太夫と107年の帥升は同じ伊都(倭奴、委奴)或いは奴国の倭王だと思う。
でも奴国は倭人伝には伊都の後にあるので、伊都は倭奴、委奴のことかなと思いました。
私の考えるイト、或いは奴国は博多湾一帯です。

倭面土王はほとんど詳しくないので、どこの文献から見られるのか紹介して
いただけたらと思います。

973 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 19:47:09
車もーらった。

974 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 20:49:18
57年の倭奴国は、238年〜266年の伊都国と奴国。
倭奴=伊都。
王宮の在る部分が伊都国、その他の市街地が奴国。
伊が卑弥呼のこと、伊都で卑弥呼の都。
奴は卑弥呼に従う庶民の意味。

975 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 20:56:10
尼崎電車事故の後に、アメリカで「車はアメリカの象徴なので、、、」
との発言があったなあ。

あんたただであげちゃったよ。

976 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 20:58:32
当時の発音だと、委奴国はイト国と読めないのでは? とくに奴の字。

犬国かもw

977 :ローガン:2008/10/30(木) 21:05:17
>>958
> だから短里が無いなら方4千里はどうやって説明するんだよ

倭人伝以前は如淳注にある「帯方東南萬里」と認識されてたのでしょう。
此に使者来倭で得られた情報「二千餘里」が加えられたと思います。よって二千餘里についてはある程度信用出来る数値。
「萬里」ですが、(「萬里候」等)、元々は実数として10000里ではなく「遠方」を指すものだったでしょう。
この萬里を韓地七千里+3渡海各千里とした。七千里かけて「東南大海中にある倭」の対岸に当たる地点迄海岸沿いに行くには、
1辺4000里正方形の左辺を南下。底辺を東へ3000里行けば、ほぼいい所にくるでしょ?

全て「帯方東南萬里」と言う認識から机上で組立られたものだと思います。

978 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 21:27:50
>>977
>1辺4000里正方形の左辺を南下。底辺を東へ3000里行けば、ほぼいい所にくるでしょ?

帯方郡の距離分は?
これじゃ帯方と韓の境からスタートしたことと、最初から設定し
ていませんか?
帯方郡分は0なの?

979 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/30(木) 21:36:00
>>976
オマエ頭がどうかしてるんじゃないのか?

980 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 21:38:25
>>976
当時の発音だと、委奴国はイト国と読めないのでは? とくに奴の字。

委奴や伊都が全く同じ音である必要はない、
魏の郡使などが耳で聴いて、似た音の漢字を当て字したにすぎない、
音選びには聴いた人の主観が大きい、
厳密に音に合わせて漢字は選べない。


981 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 21:42:53
>>980

訪れた人全てが同じ主観なのか?

982 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 21:48:34
>>980
委奴は、後漢帝国発行の金印に彫ってある字じゃなかった?

983 :日本@名無史さん :2008/10/30(木) 22:01:30
委・・・イ wei
奴・・・ド漢音 ヌ呉音 nu

伊・・・イ yi
都・・・ト漢音 ツ呉音 du dou



984 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 22:07:10
まあ、当時の倭人が発音した言葉を、外国人が文字にするわけだから、
聞く人によっていろんな文字を当てるということはあるだろうな。

倭面土と邪馬台が同じということもあるかも。

委奴国は、一般的には、(漢の)倭の奴国というが。
ちょっと疑問もあるらしい。

985 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 22:14:40
漢委奴国王

漢 カム
委 ヤマト
奴 ノ
国 スメラ
王 ミコト

986 :日本@名無史さん :2008/10/30(木) 22:18:03
倭・・・1)ワ漢音呉音 
    2)イ ヰ漢音呉音 
「倭奴國奉貢朝賀」 後漢書より、57年の太夫の朝賀について。
後漢書の倭奴国も読みようによってはイト、あるいはイツ、イド、イヌと読めます。
金印は人偏が取れて委になっています。



987 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 22:28:26
>>977
使者は倭に来たんだろ? それなのに、何でそんな信用できない数字をもとに机上の計算で
行程を書く必要があるんだ? 実体験をもとに書けるじゃん。

988 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 22:35:11
老眼さんの反撃期待。
がんがってね、老眼さん!

989 :日本@名無史さん :2008/10/30(木) 22:35:18
金印は最初に中国王朝の漢、
次に倭を入れると、倭国と
混同するから、わざわざ委に変えたのかと思うし、又
委が倭国を表すのだったら、委奴国は委(国)奴国となり国が重複する
のでそういう書き方はしないだろうとも思う。

990 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 23:58:27
邪魔台国

991 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 23:59:27
 

992 :ローガン:2008/10/31(金) 00:07:43
>>978
> 帯方郡分は0なの?
ではどこから出航したのでしょうね?二年に帯方奪還したとして、何処を起点にしましょうか。
ま、どこにせよ、方四千里…それに合わせた解釈が不可能だとは思いませんが。
でも仮に出来たとしてもただ『説明可能』って言うだけですね。自己完結したって仕方ないでしょう。

いいたいのは、存在の根拠がない「度」でもって「短里で読めば説明できる。」とか「短里なら上手く納まる」、よって「魏代、短里が使われていた!」なんて前述の『説明可能』と同じレベルでしょう?
違いますか?

993 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 00:27:07
まあ、ローガンの「邪馬台国畿内自生説」より、上手に説明できてると思うが。

994 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 00:30:27
>>992
>自己完結したって仕方ないでしょう。
>よって「魏代、短里が使われていた!」なんて前述の『説明可能』と同じレベルでしょう?
>違いますか?

そだそだ

弄玩さん、がんがれ!玩がれ!

995 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 00:34:56
>>992

倭人伝の「従郡」の起点が、帯方郡治そのものを意味するのか判りませんが、
郡治の所在には、大まかに言って、平壌付近の大同江流域説と京城付近の漢江流域説の二つがありますね。
説によって、千里弱の路程差が出ますよ。

996 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 00:37:08
>>993
サイキバ君かな?

じゃあお前の言うところの「邪馬台国畿内自生説」の定義言うてみ?

もしその自生説の対になるものが”クニ”単位の人口移動があってヤマトを打建てた
…なんてものなら俺も自生説をとるがwwwwwwwwww

997 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 00:39:13
次のスレ立てといた。
♪邪馬台国 ドンと来い♪ 34
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1225381049/l50

998 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 00:43:14
>>996
以前はあったな。
唐子・鍵の人間が纏向に移ったのだと。
石野博信さんなんかもまじめに語っていた。
期待をこめて掘ったけど、何も出てこなかった。
で、あきらめざるを得なかった。

999 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 00:47:57
>>995

> 説によって、千里弱の路程差が出ますよ。
その千里は長里?短里?

1000 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 00:50:28
幻の(如く終わった九州)邪馬台国 (笑

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

396 KB
★スマホ版★ 掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

read.cgi ver 05.04.00 2017/10/04 Walang Kapalit ★
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)