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♪邪馬台国 ドンと来い♪ 32

1 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/25(木) 15:51:45

  {        .    }
     ',.    (,゚Д゚,)    i   _⊂ ̄ ̄ ̄⊃
    ヽ   ∪ ∪   /  ⊂___⊃ ̄
     `ヽ、_    _ ○
          ̄ ̄ ○ ○
 ∧∧   ∧∧   ○ ○ ○
 (;;;;;;;;゚)  (;;;;;*゚) .| ̄ ̄ ̄ ̄|.   /彡ミ. /彡ミ
 /;;;;; |.i i /;;;;; |  ~| ̄ ̄ ̄|~   /彡ミ. /彡ミ
(;;;;;; /乂(;;;;;; /    .|__( ̄)__|   /    /
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄  ̄
邪馬台国畿内説?w、の820の人、使わせてもらったよ。

九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。

前スレ  ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 31
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1220248601


2 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 16:00:49
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050618/4482.jpg
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050610/2764.jpg
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/090.jpg

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/099.jpg
http://www.sx.xinhua.org/ztjn/2003-08/29/xin_49b7e0a2d93511d7be2c0050ba1967d3.jpg
http://www.shtong.gov.cn/node2/node4/node2250/songjiang/node70313/node70604/images/00004623.jpg

3 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 16:27:40
>>1どうもです。
ここは結構、長生きのスレじゃないでしょうか?
ところで、みんな思っていそうなのですが、九州王朝大好きさん独自のサイトはないのでしょうか?

先日九州国立博物館に行きましたら、博物館自体が古典的?土器編年による畿内説だったので辟易しました。
最近、のんびりひまじんさんのレスが面白いので、ときどき遊びに来ます。

4 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 19:04:53
>>1
『歴史読本』11月号が先代旧事本紀の特集だね。

5 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 19:38:40
弥生時代=唐古・鍵遺跡=ニギハヤヒ王権
1〜2世紀=高地性集落=神武東征
3世紀=マキムク=大和王権

↑の図式はハッキリしており、誰も反論できないはずだ。

ならば、3世紀の邪馬台国とは何だ?畿内以外にないだろう。
畿内の大和王権とは別に、九州に邪馬台国があったというのか?
それなら、畿内の大和王権が九州の邪馬台国を滅ぼしたことになる。
しかし、そんな記録は無い。
九州に強大なクニがあるなら、それを滅ぼした大和朝廷はもっと偉大だと、歴史に残るはずである

6 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 19:40:32
古代の奈良を田舎とあなどってはいけない。

神武が東征を始めるとき、「田舎の奈良」に行きたかったわけではなく、
「奈良が繁栄していた」から、神武は進軍を決めたのである。

「奈良が繁栄していた」証拠に、神武は奈良を攻めるのに苦戦し、身内まで死んでいる。
そして、奈良にはすでにニギハヤヒという王がいた。
ニギハヤヒは物部氏の祖と言われるように、全国的に強大な氏族の祖である。
そのニギハヤヒが神武より前に奈良で王国を作っていた。

弥生時代に隆盛していた、唐古・鍵遺跡がその証拠なのだ。
神武は、唐古・鍵遺跡のニギハヤヒ王権を奪いたかったのだ。
そして、1〜2世紀に唐古・鍵遺跡ニギハヤヒを倒し、3世紀のマキムクに邪馬台国を建国したのだ。

2世紀の大和にニギハヤヒ王権があり、3世紀の大和に神武王権があったなら、
この2大王朝の前に、九州が独立して邪馬台国を名乗り魏に朝貢することなど不可能。

事実、九州は景行天皇の行幸をあっさり受け入れ、
九州は大和王権の一部であったと日本書紀は記している。

もしも、九州に邪馬台国があったとしたら、畿内の大和とは大戦争になっただろう。
しかしそうした記録や考古学的物証は無い。
かろうじて、高地性集落がその痕跡と言えるのみ。
つまり、邪馬台国時代では、畿内が主導権を握っており、邪馬台国は畿内ということだ。



7 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 20:18:56
古代の奈良を田舎とあなどってはいけない。
単なる荒廃した湿地だ。

8 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 21:05:27
新しい土木技術を持った侵入者が、古墳を造ったり湿地を新田にかえていったのだろう。
古墳の始まりに西方から畿内に新たな侵入者があった、これが神武かな。

9 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 21:34:18
女王国を宇佐(大分)から日向(宮崎)にかけての九州東南部と比定したい。
畿内説は論外として、北部九州に比定できない根拠として

■計其道里當在會稽東冶之東
郡よりの方向、距離から推測すると、女王国の位置は会稽・東冶(台湾・奄美
大島の西対岸)の真東にあたると認識されるほど相当に倭国の南と理解されて
いた。

■倭地温暖冬夏食生菜皆
倭の地は温暖で、一年中生野菜を食べていると記載されている。意外と北部
九州も雪が多く、冬も寒いが、その点では宮崎は温暖の地です。

■使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚
女王国より北の国々には監察吏員を特別において諸国の皆が畏怖していた。
よって、女王国が北部九州ではありえない。

■女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有朱儒國
女王国の東に海を渡ること千里(対馬から壱岐と同程度の距離)にまた国があっ
て、全て倭人が住んでいると記載されており、四国(伊予)が倭種として比定され
るが北部九州では比定地がない。


10 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 23:15:59
>>9

九州東南部は、畿内並みに絹も鉄器も出てきませんが?



11 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 23:39:12
前スレの>>997

数日前にも書いた。
倭国といっても30国あるのだろう。
潜水漁など、九州北部にあった国の習俗かと思われるが、それが30国全部に共通している保証はないよ。
九州は寒冷地も多いから、冬でも生菜を食って裸足でいられるところなんて、ほとんどないぞ。
真珠・青玉を出す。其の山に丹有り。ともあるが、30国全部で産出されていたわけでななかろう。
30国のうちの一部の国の産物だったと考える方が妥当だ。
つまり、倭人伝に記載されている習俗のひとつひとつは、30国のうちのどれかの国の習俗であって、
全て女王の都の特徴というわけではない。
伊勢湾の海女が観光ガイドに紹介されれば、日本の女性は、みな潜水漁をすることになるのかと。


12 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 23:43:36
>>996
円筒埴輪に死体を入れたという説もありますしね。
箸墓を発掘出来れば、かなりのことがわかると思いますが。

>>997
倭人伝の有棺無槨をどう解釈するかであって。
初期古墳の埋葬形態は、中国人から見ればそう見えたとも言える。

更に言ってしまえば、倭人伝の記述は伊都国に常駐したという中国人が
九州の習俗を記述しただけという説もあります。
そもそも玄界灘は寒くて、あの南方系の習俗自体に無理があるのですが。

>絹を産出し。鉄鏃を使っている。
>これが邪馬台国の特徴。

ふーん。しかしそんなことを言えば青玉を産するのは越。九州ではないですよね。


結局のところ、倭人伝は中国人がいい加減に記述した倭国の伝聞記事と、
魏使が邪馬台(ヤマト)に至った行程記事の混交であるということでは
ないでしょうか


13 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 23:53:38
>>11
>30国のうちの一部の国の産物だったと考える方が妥当だ。

普通に考えて、30国のうちの九州だけを記述するかな?
すべての国のORをとらない?

竹箭或鐵鏃或骨鏃ってところに銅鏃が加わるだけで、
わざわざ九州に合わせて銅鏃を削るかな?


14 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 00:10:30
988 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 00:04:46
纏向古墳群中で唯一詳しい調査がされたホケノ山古墳からは、豊富な鉄器が出土した事実がある。
・素環頭大刀1口を含む鉄剣類約10本、
・鉄鏃60本以上、
・鉄製農工具多数・・・

少なくともホケノ山の埋葬の時点で、ホケノ山の被葬者かもしくは葬儀を仕切ったその後継者は
これらの鉄器を入手し得る状況にあったことは認めざるを得ない。

とすると上で盛んに鉄の九州優位を主張している投稿者は、どう解釈するのだろう?

「ホケノ山の被葬者は九州から鉄を携えて遷って来た王」、とでも言うのか? 答えてくれ。

15 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 00:12:16
879 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 00:01:56
>>875
邪馬台国九州説の人達は恥ずかしい捏造をする。
奈良県天理市の下池山古墳から景初三年に卑弥呼が魏に献上した
絹の斑布と同じ物が出土している。
また奈良県桜井市のメスリ山古墳から大量の鉄器が出土している。
したがって古墳時代前期には近畿地方に絹と鉄器が大量あったことになる。


16 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 00:51:59
>>14
実際、ホケノは阿波の人が埋葬されてそうだしね。
筑紫東遷はいまさら流行らないよ

17 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 01:09:51
>>13

戸数道里だって「其餘旁國遠絶不可得詳」なんだから、30国全部に共通の風俗なんて解るわけない。
つまり、倭人伝の風俗記事は、30国中の一部の情報でしかなくて、30国全部に共通するものではない。
現代日本の我々でも、アメリカの風俗について知っていることといえば東海岸と西海岸のものがほとんど。
大陸の真ん中の州についてなんて、何も知らないに等しい。
3Cの中国人だって、倭については九州北岸地域の情報が一番入りやすいのは当然ということ。
それなのに、冬でも生菜を食って裸足でいられるところなどという条件で邪馬台国を探すのは賛成できん。

18 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 01:11:26
圧倒的な物量である九州の絹・鉄鏃のまえで、畿内の絹はほぼゼロ。
土器編年の偽装・改変が疑われるなか、畿内から出土したたった数十個の
鉄鏃で得意満面になられても、九州の圧倒性は不変だし、いったいどう反応すりゃいいの?
で、相変わらず邪馬台国の最大特徴の絹は出てこないわけだw

19 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 01:16:55
>6
饒速日命は、天神の子となっている。つまり、神武天皇と同族。
高天原から天の磐舟に乗ってやってきた。
記紀によると、神武天皇の方が直系となっているらしい。

出雲の国譲りにしても、三人か四人の神を派遣している。
日向に天下った邇邇芸命も同じような感じにも取れる。

ある時期、恐らく3世紀後半、国家統一を目指した勢力があり、各地に
武将を派遣した。そのように考えると、つじつまが合うような気がする。
その中で、日向の勢力がひときわ力を持ったのではないかと思う。

海幸彦、山幸彦の物語は、邪馬台国と日向勢力の争いのようにも思える。
一般的には、海幸彦は隼人の祖と考えられているらしいが。

20 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 01:22:43
>>14  ここまで正面きって議論のすり替えをされると戸惑うなあ。

(弥生時代、主として環濠集落の終焉まで)という前提で

北部九州>>>>>(越えられない壁)>>>>>畿内

というのが、畿内で鉄が出土しないという議論

実際にも、奈良では魏志に記載のある「鉄鏃」の出土量は、福岡の100分の1。
福岡で約400個、奈良では3〜4個。
古墳時代直前の鉄鏃を加えてなんとか奈良が4個に届くかどうかという状況。

ついでに言うと、肝心の鏡は、(数百) 対 (ほぼ0個)
それで昔の学者は、畿内の鏡は伝世したと大見得を切っていたんだがww
実際は、畿内の環濠集落の墳墓から鏡が出土した例はほぼ0である。
古墳時代直前期のものを入れても大勢は変わらない。

21 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 01:35:18
>>20

弥生時代に畿内が九州より劣り、古墳時代に畿内が優勢になったのは事実。

3世紀に邪馬台国というクニがあった(事実)

4世紀に畿内に大和王権が生まれた(事実)

-----------------------------------------

仮定A、3世紀から畿内に大和王権があり、それが邪馬台国と呼ばれた(畿内説)

仮定B、3世紀に九州に邪馬台国があったが、4世紀に畿内の大和王権に滅ぼされた(九州説)

仮定C、九州の邪馬台国は、畿内の大和王権の下位の同盟国になった

-----------------------------------

なんにせよ、鉄器の多い九州が、鉄器の少ない畿内の統治下に入ったことは間違いない。
九州説を唱えるなら、この事実を認めてからだ。




22 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 01:38:25
では、
「鉄器の多い九州が、鉄器の少ない畿内の統治下に入らなくてはならなくなった」理由を検証しようじゃないか?

そうした理由は、どういう条件で起こりうるのかね?

起こり得るならば、九州の鉄器の優位性というものは、根本的に存在しないわけだがね。


23 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 01:41:26
正解D、九州の邪馬台国は、畿内の大和王権を配下においたが、邪馬台国の後継国は
      壬申の乱を起こして畿内王権を倒し、大和朝廷の基となる天武王国を建国した


24 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 01:46:28
>>23

>正解D、九州の邪馬台国は、畿内の大和王権を配下においたが、邪馬台国の後継国は
>      壬申の乱を起こして畿内王権を倒し、大和朝廷の基となる天武王国を建国した


wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww



25 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 01:50:08
正解E、 畿内王権は、木器とサヌカイト=石器で土木工事に励んでいましたが、
      いつも九州王国の傘下の地位にあり、白村江の戦いでも九州王国が
      畿内から徴兵した兵隊が戦いました。

26 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 02:07:32
>>21
前提を認めたら、古事記や日本書紀や先代旧事本紀や古語拾遺が
書いているように、東遷があったとするのが、一番素直だよね。

東遷があったから、畿内から鏡が出土するようになった。
銅鐸の祭祀が終焉した。
鉄器が畿内に持ち込まれた。

国内統一がされたから、各地の環濠が不要になり埋められた。
環濠を埋めた直後に邪馬台国と狗奴国の対立が始まるとかいう畿内説の
前提はかなり異常だよね。


27 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 02:14:03
>>25
酷い日本の歴史の捏造だ。メラミンを食って脳細胞が破壊された様ですね。
これで邪馬台国九州説の人は在日朝鮮人説が証明されました。

28 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 02:22:10
九州王権の東遷事件を、壬申の乱と申します。

29 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 02:25:08
そんな仮定には意味がない。実際は九州で巨大地震があり、阿蘇山が噴火していっきに衰退したのかもしれないだろ。
現代の我々があれこれ考えるだけ不毛な作業。全部個人レベルの妄想でしかないよ。

30 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 02:31:09
>>28
それを原子力空母ジョージ・ワシントンの艦載機が空爆したんですね。
笑撃!笑撃!大笑撃!

31 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 02:35:27
アッサリ滅亡しちゃった畿内王権。
九州王権は紀元前後から約700年つづき、壬申の乱で畿内へ東遷したのでした。


32 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 02:49:57
>>26
>国内統一がされたから、各地の環濠が不要になり埋められた。

環濠は弥生時代の前期から存在するから、数百年間続いてきた環濠集落が
日本全国で一斉に埋められたことからは、全国に一つの統治が及んだと考えるのが
普通だよね。

年代遡上論では、このことに真っ向から反対して、環濠が埋められてから
狗奴国と邪馬台国が交戦して、魏に援助を求めたということになるが、
荒唐無稽も甚だしい。

33 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 02:50:03
>>26

東遷があっただって?

で、その証拠になるような、生活に直結した遺物はあるの?
九州の土器はほとんど畿内から出てこないよ。

34 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 03:33:20
>>33
完成した土器を長距離運べば割れる可能性もある
現地の生活雑器は畿内原住民の陶工に作らせたと考えるのが妥当。
秀吉も朝鮮でそうしてる。


35 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 03:53:38
土器が移動したというよりも、土器を作る人間が移動したと考えるほうが
自然では?
古代の土器は女性が作っていたといわれる。

36 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 04:05:30
>>34

畿内の庄内土器が九州に運ばれてたことも知らない人ですか?

>>35

土を見れば、どこで作られた土器か、模倣品かはすぐわかります。


37 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 04:29:52
>>36
土器だけ九州に運ぶわけ無いよ。
土器の中身を考えなくちゃ、つまり中身は租税。
畿内は年貢を九州朝廷に運んでたんだろ。
そういう過程を経て庄内土器が普及したんだろう。

38 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 04:40:00
納税用途以外なら、土器は現地調達が一番楽。
九州から空っぽの土器だけを大量に畿内へ運ぶ馬鹿はいない。

39 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 06:27:00

>>25
まじれすスマソ

自昔祖禰 躬?甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國
渡平海北九十五國

西は衆夷を服すること六十六国ですね。九州王朝説の亡霊でも見たか・・ww



40 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 06:44:22
>>39
まじれすスマソ

時代が違うw

41 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/26(金) 07:12:09
>>39
別におかしくはない。倭の五王の先祖は五王の九州でない所にいたということ
だね。朝廷の先祖神武も畿内でない九州にいて畿内に移動したんだよ。同様に
五王の先祖も別の所から九州で来たということだ。

42 :夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/26(金) 07:25:46
畿内大和説の課題…「南」→「東」の正当な根拠の探求
北九州筑紫説の課題…水行十日・陸行一月をいかにゆっくり進むかの探求

43 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 07:38:01
>>42 夏祭
>北九州筑紫説の課題…水行十日・陸行一月をいかにゆっくり進むかの探求
ユウ婁は夫余の東北千余里に在り(魏志東夷伝ユウ婁条)
ユウ婁は不咸山の北に在り、夫餘を去ること六十日行可りなり(晋書列傳粛慎氏)
千余里=六十日
隋書の「其國境東西五月行南北三月行」も参考になるかも。
一月行が大きければ日本におさまりませんよね。
そもそも魏志倭人伝に総里数が書かれているので課題でも何でもない

あとは畿内説論者の課題提出を待つだけですね

44 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 10:10:45
>>42
魏書に書いてある千里と、晋書に書いて有る六十日を=で結ぶな。

貴方のしていることは、
例えば
甲府→高尾と甲府→小岩を、同じ東京と言う事で同じに扱いにしていませんか?

45 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 10:13:24
アンカー>>42>>43の間違い。

46 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 15:35:06
で、畿内説は陸行一月をどう解釈しているんだろうね。

47 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 15:37:31
倭人伝の倭人って、南方人を思わせる。
東南アジア人が台湾沖縄九州へと渡ってきたみたい。
3Cでまだそんな感じだったのだから、従来の弥生人は縄文人と北方人の混血という定説は
間違っているのかも。
北方民族が入ってくるのはその頃から少しづつ始まりその後大量に入ってきたんじゃないかな。
米作も太平洋を通じて伝わった可能性がある、紀元前の遠い昔に。
弥生人は、米作を伝えた東南アジア系人で、石器を使っていた縄文人は
人類が拡散していった時代の未開人ってことかな。

48 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 15:56:10
>>47
青森県の三内丸山遺跡を見るかぎり、とても縄文人が未開人には思えません。
縄文時代は意外と豊かだったようです。

49 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 15:57:07
>>46
適当に

50 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 16:28:04
縄文人って北方の日本に長くいた分、色白で風俗も南方とは違うだろうね。
アイヌはアラスカの方から渡ってきたようだ。
従来縄文人はアイヌとはよくいうけど、これもなんだか疑問。
縄文人は一番古い日本の土着人、当たり前だけど。

51 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 16:30:50
【バ韓国歴史】 「箕子朝鮮はなかった」「チンギス・ハーンも韓民族」〜韓民族史観定立意識改革会

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/asia/1221862505/

52 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 19:53:08
>>44
>魏書に書いてある千里と、晋書に書いて有る六十日を=で結ぶな。
邪馬台国と大和朝廷を=で結んでいる畿内説論者が言うと、
ギャグにしかならない

それにしても、隋書の記述に対する反論と総里数の反論と畿内説の見解がないのはなぜ?
さすがに畿内説でも、こじつけを三つ以上出すのは恥ずかしい?

53 :44:2008/09/26(金) 21:19:06
>>52

私は九州説ですが

54 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 21:36:07
4世紀初頭には消滅したであろう九州邪馬台国よりも、大和朝廷の前身として
魏国からは倭種として理解されていたかもしれないヤマトの大王家の方が私
は関心があります。

だって、鉄鍬を使わずに、4世紀初頭にあのどでかい箸墓を造る権力が巻向の
地に現に存在していたのだから・・・


55 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 21:43:18
>4世紀初頭には消滅したであろう九州邪馬台国

消滅した証拠など、みたことも聞いたこともないが・・・

56 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 22:21:02
宮内庁が触らせもしない西都原古墳群
ここって誰が眠ってるん?大きすぎ、多すぎ。
日本書紀にはかかれてない。こいつら怪しいよね。

57 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 22:36:36
>>56
昔原田常治が男狭穂塚を卑弥呼の墓としたけど、
あれ実際は5世紀中ごろのものだからね。

58 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 23:10:06
西都原は古墳が多数あり、九州最大の古墳もある。
古墳時代直前から、突如として繁栄を始めるのは、神武東征と関係がありそうである。

神武があの地に拠点を置いて、北部九州の王族を打ち倒し、大王となり、本州も制圧した。
それにより、関東の方まで派遣がおよび、一つの権力の下で環濠の解体につながった。
時代の転機がここから始まったという場所だな。

59 :ローガン:2008/09/26(金) 23:11:46
>>20

> 実際にも、奈良では魏志に記載のある「鉄鏃」の出土量は、福岡の100分の1。
> 福岡で約400個、奈良では3〜4個。
> 古墳時代直前の鉄鏃を加えてなんとか奈良が4個に届くかどうかという状況。

その出典はなんですか?

60 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 23:49:50
アイヌ人縄文人近似説が今が主流なんだってね。
8Cころに蝦夷征伐があったそうだけど、その蝦夷こそ縄文人で
北海道に残ったのがアイヌ。
結構縄文人ていい顔していたらしい。
米作を先に伝えて南方の風俗を持つ倭人とは別種。
で、その後北方民族が入ってくる。
のっぺり色白つり目面長の弥生人は主に山口県あたりの遺跡から出土するらしい。

61 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 00:01:11
3世紀、絹も鉄鏃も圧倒的に九州が多い。
根源的に矛盾がある、邪馬台国畿内自生説など、笑止千万。

62 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 00:01:50
>>59
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/datadetail.htm



63 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 00:31:19
武器は最前線に沢山ある!

64 :ローガン:2008/09/27(土) 01:40:40
>>62
ありがとう。やはり安本さんか。
234回の活動記録ですね? 「弥生時代鉄器総覧」 弥生時代を通じて見れば北部九州に鉄器が多いのは当たり前ですね。
しかも、弥生末期頃の遺物…つまり庄内(並行)期を「弥生」でカウントするか、古墳時代のものとしてここではカウントしないかは、各地域の報告者の考え方によるもので川越先生は集計をしただけです。
ホケノ山がカウントされていないのは、古墳時代というくくりに入れたからでしょうね。
つまり邪馬台国時代の鉄器の保有量が福岡と奈良で100:1を示すわけではありません。
川越先生の鉄器総覧は、鉄器の出土集中地域の時代による変化を述べようとしたもので、
安本氏が引用した県別のグラフは畿内の鉄器増加の前の段階の説明でしょう。
それを勝手に「大略西暦300年」とか!!
都合の良さそうな所だけ切り取って、しかも改鼠。安本手法ダメダメじゃん!

65 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 02:18:55
畿内説者の土器編年は、何でも強引に卑弥呼の時代に寄せすぎる作為アリアリだが、
まあ、ローガン氏が察するとおり、安本には別な点でポッカリ穴が開いているところもある。
しかし、3世紀の絹と鉄鏃をみたら、畿内説の勝ち目はない。

66 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 02:21:41
畿内説の学者さんたちも、畿内の鉄は溶けてなくなったとか、再利用が進んで
いたから出てこないとか言ってきたから、畿内の弥生時代の鉄の出土量が
非常に少ないことだけは確かだろうね。

67 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 02:27:33
>>64
ホケノ山を弥生墳丘墓にして弥生時代に入れるわけにもいかんだろ。

古墳時代直前の弥生墳丘墓を区別するために、時代区分の仕方として、
環濠集落の終焉の前後で分けた方が良いとは思うが、そうすると、
九州と畿内の差はより広がるのでは?

68 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 06:18:55

>>58
女王国を宇佐(大分)から日向(宮崎)にかけての九州東南部と比定したい。
魏書にいう「水行十日・陸行一月」と隋書にいう「其國境東西五月行」
の説明がなされない限り筑紫付近はダメダメです。
畿内説は論外として、北部九州に比定できない根拠として

■計其道里當在會稽東冶之東
郡よりの方向、距離から推測すると、女王国の位置は会稽・東冶(台湾・奄美
大島の西対岸)の真東にあたると認識されるほど相当に倭国の南と理解されて
いた。

■倭地温暖冬夏食生菜皆
倭の地は温暖で、一年中生野菜を食べていると記載されている。意外と北部
九州も雪が多く、冬も寒いが、その点では宮崎は温暖の地です。

■使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚
女王国より北の国々には監察吏員を特別において諸国の皆が畏怖していた。
よって、女王国が北部九州ではありえない。

■女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有朱儒國
女王国の東に海を渡ること千里(対馬から壱岐と同程度の距離)にまた国があっ
て、全て倭人が住んでいると記載されており、四国(伊予)が倭種として比定され
るが北部九州では比定地がない。


69 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 06:21:51

>>68
訂正2行目

正…其國境東西五月行南北三月行
誤…其國境東西五月行


70 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 07:22:30
>>68
それで、どのようなコースを考えますか?

71 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 07:29:51
>>68
>畿内説は論外として、北部九州に比定できない根拠として
>■計其道里當在會稽東冶之東

そうそう。ここ重要と思うんだ
計其道里當在會稽東冶之東は、当時の中国側の地理的認識を示してるんだ、ってことで。

だけどね、君のように宮崎にもってきてもさ、根本的な解決にはならないよ
だって宮崎も決して「真東」にはならないから。

そりゃ「温暖」については北部九州よりか宮崎は温暖だろうけど、これは華北との比較だろ
沖縄〜八重山あたりとするなら別だけど、南九州でもやっぱ會稽東冶之東をきちんと説明できてない

つまりね、君は現在の地図を使ってあれこれ考えてるわけなんだろうけど
その方法でいいのかどうか、ってこと。
当時の中国側の地理的認識には一種の先入観からくるゆがみがあったと思うんだよ、
それが「計其道里當在會稽東冶之東」って記述に現れてるわけなんで、
こいつを説明できる地図は・・・・・それは現在の地図そのままじゃないんだと思う


72 :上野彰浩:2008/09/27(土) 07:37:36
宅間守に大阪教育大学付属池田小学校児童を殺させたのは 日本政府だ
しかも大阪人と兵庫人がテレビ局と警察と政治に利用するためと時の総理大臣関係
特に精神科医が儲かった 大阪教育大学名誉教授は俺の祖父の実兄だ
宅間守の事件で大金が動いた しかも宅間守は知的障害者だった
戦後の通り魔事件は犯人が被害者(地域の心ない金のためにしかも裏金によって動かされている)
要するに関西の人間がエリートが憎くて宅間守を利用して長年かけて洗脳して宅間を洗脳して幻聴という名の発音機で
殺させた 町の電気屋さんパナソニック最高最悪工場誘致と心構え良心とのバランスがねー 

73 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 07:50:56
>>71
>宮崎も決して「真東」にはならない
だが、北九州に比べれば誤差は少ないと言える。北九州を会稽東冶の東
というのはおかしいが、宮崎あたりならばあり得るかもね。

74 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 07:54:22
>>71
>当時の中国側の地理的認識には一種の先入観からくるゆがみがあったと思うんだよ、
その証拠は? 一種の先入観に基づいた意見ではないかな?

75 :71だけど:2008/09/27(土) 08:15:49
>>74
>その証拠は?

71だけど通じなかったかな?
証拠は「「計其道里當在會稽東冶之東」。この記述そのものだよ

76 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 08:48:50
ほう。素直に読んで何も問題ないと思うけどね。中国人が、北の帯方郡からどの
程度南下したら自国のどの辺りになるか、という難しい推測をしているのだから
若干ずれるのは当たり前と思ってよいのでは?
帯方郡から万二千里。その中で南でないところを探すと「乍東」と「東南陸行五
百里」のみ。つまり女王国は郡の南およそ一万里から始まるとみたのであろう。
会稽の緯度は郡の南約八百キロ。いわゆる短里で計算するとピタリと合う。
面白いと思わないかな?

77 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 09:15:34
>>76
>若干ずれるのは当たり前と思ってよいのでは?

その通りだよ。ずれてるよね。だからそれが「ゆがみ」なんだよ。

だからさ、もし当時の中国に現在と全く同じ地図があったら・・・それほどの正しい地理認識があったんなら
宮崎と近い緯度なら「建業(現南京市)之東」とでも書けて、そっちのほうがより正確なんだけど、
ところがそうは記述できなかった。
どうしたわけか長江河口よりずっと南へ行ってしまい「會稽東冶之東」になってしまった、ってこと。


78 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 09:24:03
>ずれてるよね。だからそれが「ゆがみ」なんだよ。
ずれてるからといって、一種の先入観に基づいたとは言えないよ。
ずれは、乍東が実際は北東だったことや狗邪韓国から末盧国までが南東だった
ことによる。初めての航路で若干ずれただけとみるべきだ。

>どうしたわけか長江河口よりずっと南へ行ってしまい「會稽東冶之東」になってしまった
それはあなたの誤読。東冶は女王国の終わりを示しているのさ。


79 :夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/27(土) 09:45:52
>>64
いや、お久しぶりです。
安本美典は考古学的には勿論の事、
本職の数理文献学の方でも微妙な人物ですからね。
橋田慶造や坂田隆といった面々から面白いように伸されてますね。
>>68
筑紫説の弱点がよく分かってるじゃないの。
少なくとも当時の中国人の地理感では、邪馬台国は伊都国や奴国より
相当南方にあったと考えられている。
いや、昔は奴国自体南方の国と考えられていた。
南方の国の王に与えられる蛇紐の金印が与えられたのは、そのため。
さも無きゃ「水行十日、陸行一月」何て書かないよ。
まあ、筑紫から日向までそんなにかかるかどうかは別として、
筑紫説よりは遙かに説得力はある。

倭人伝を正直に読んで邪馬台国を奄美大島や沖縄島に持ってくる人間も居るけど、
そこは昔から倭とは別扱いだったから、無理があるね。
宮崎も決して「真東」ではないが、筑紫よりは確かに東に近い。

なお、筑紫を中心に日本列島を90度南に回すと、
畿内大和が丁度「会稽東冶之東」に来る。
まあ、これだけを持って畿内大和説の絶対的な証拠にする事は出来ないのは言うまでもない。

80 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 10:05:38
>>76
>ほう。素直に読んで何も問題ないと思うけどね。中国人が、北の帯方郡からどの
>程度南下したら自国のどの辺りになるか、という難しい推測をしているのだから
>若干ずれるのは当たり前と思ってよいのでは?

「自国のどの辺りになるか、という難しい推測」

天文知識があれば双方の地における北極星の見え方(仰角)を比較すれば簡単かつ正確に分かるが。



81 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 12:44:06
>>80
北極星で緯度を測るには、地球が丸いことを知ってないと駄目では?

82 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 13:06:18
>>81
するどい

83 :のんびりひまじん:2008/09/27(土) 13:31:32
>>81 >>82
平面と考えていたらムリですか?

(周ヒ算経の紹介記事に、大地を平面と考えておった記憶あり。)

84 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 13:48:00
世界的に見れば、地球が丸いというのは紀元前からわかっていたらしい。
遠くからやってくる船が帆先から先に見え、だんだんと下の方が見えてくる
事などが理由とされている。また、アリストテレスなどは、月に写る地球の
影が丸いことから地球は丸いと考えていた。

昔は、人工の光もなく、空気もきれいだったので、星も良く見えただろう。
たとえば、夕方、東に見えたオリオン座が、朝には西の空に見えるという
のは誰でもわかる。同じように動かない星(北極星)があるというのも
誰にでもわかっただろう。

その動かない星が、南北に移動することにより高度が変わるというのも
ちょっと鋭い人ならわかっただろうと思うのだが。

85 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 14:06:53
>>84
魏使が地球が丸いと分かっていたのかという問題。多分分かってないだろ。

魏使の書いた行程記事を足していったら大体会稽郡の東辺りになる、
程度の考えで陳寿が書いたのだろう。

86 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 14:57:17
会稽東治は時代によって変遷したってウィキにある。
例えば北緯30度の紹興市だとしても、
邪馬台国が北九州だとして約3度の違いしかない。
北緯3度のずれは許容範囲とみる。

87 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 15:39:32
水行っていうのは川を行くことだと思う。
他は海渡とか船行とか陸行とかと言う表現だから。


88 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 15:45:19
>>87
>川を行くことだと思う

片思いですか? 秋は別れの季節です。
思い、思われ、ふり、ふられ。

89 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 15:59:09
邪馬台国は大分県

90 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 16:43:05
>>88
そうそう、片思い・・・じゃなくて・・・川を行くんですね。渡らないで。
投馬国は川のそばってことで。

91 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 17:40:51
何処をどう読めば
川になるんだ?

想像を遥かに超えた妄想ですね

92 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 18:53:17
>>87
倭人伝には、まず「海岸にしたがいて水行し」という言葉が出てきます。

93 :サガミハラハラ:2008/09/27(土) 18:58:21
この水行は、郡治を出発して帯方郡の(西)海岸を船で進む(南下)ということです。

94 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 19:38:58
>>93
でも倭人伝には水行20日で投馬国、官を弥弥、副官を弥弥那利、七万戸余りある。
と書いてある。
妙に詳しい記述だ。
それまでの流れからいっても、これは伊都国をすぎて、奴国へ行き、不弥国へ行き、
そこから水行で投馬国に行き、また水行陸行で邪馬台国と考えるほうが自然。
川も蛇行しているだろうし。陸道はぬかるみ、石ころ道、草の生い茂った道、
思いのほか前へ進めないよ。


95 :のんびりひまじん:2008/09/27(土) 19:45:28
山尾幸久さんは、1935年生まれで、文献史家では恐らくサイゴの畿内説者と
お見受けします。
1972(昭和47)年版の魏志倭人伝(講談社歴史文庫284)のP256に、
韓伝の、三韓の地は「方四千里ばかり」の記事の誤り・・・・と書き結びました。

目の前の文献を、誤りだの、ウソだの と主張するなら、邪馬台国はどこにでも誘致可能です。

要するに、明確な短里の証拠に、直面して、「ウソだ」としか書けませんでした。
その前年の1971(昭和46)年に 「邪馬台国」はなかった に、短里説が
主張されたことへの解答が、上記の文献無視でした。

南→東 という強引主張に加えて、さらに、
短里が成立しては、自説というより、自分たち代々の学説の崩壊となる寸前の言い逃れでした。


96 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 20:22:06
>>94
訂正
七万戸→五万戸

97 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 20:40:54
仮説。
伊都国は大宰府でその先東南奴国が東南100里、
その先東100里が甘木、
甘木には筑後川に通じる支流がある。
甘木の支流から筑後川に合流、さらに南下して久留米が投馬国、
さらに筑後川を10日下り上陸して陸行きで一月、
邪馬台国は八女。
戸数七万戸の大きな土地の広い国です。
邪馬台国は連合国の総称ではなく、連合国(倭国)の中の一国。
伊都国は帯方郡使が滞在するところで女王の都の国は邪馬台国。

98 :のんびりひまじん:2008/09/27(土) 21:16:38
>>97
放射状読法を提唱して、注目かつ期待された、榎一雄先生の九州説と同じでしょう。
その行程では、三日で十分ということでキメ手にならない。ただし、有力な九州説と評価ある。

水行十日、陸行1月  

とは、過去にすべての学者が苦労した魏志倭人伝の中の最難解箇所です。
(自分は、一応こう考える とか だれそれ先生の説が 良いのかナ 程度にしかできぬだろう。)

ワシは2ちゃんの諸君を冷やかすつもりで書くのでない。
学生時代、成績優秀だった人が大学の先生になる。その人たちでもというか、
自分は秀才と自慢し続けたいからか、素直に難解だと言わないことを見抜こう。

99 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 21:25:54
>>97
>久留米が投馬国、さらに筑後川を10日下り上陸して陸行きで一月、邪馬台国は八女。
八女ならば唐津から直行すればもっと簡単に行けるでしょう。
戸数的にも、奴国に2万、久留米に5万、八女に7万となれば、北九州のみで人口百万?
多すぎると思いますね。

100 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 21:34:28
>>98
>水行十日、陸行1月とは、過去にすべての学者が苦労した魏志倭人伝の中の最難解箇所です。
末盧国から東南陸行五百里は有明海沿岸の佐賀市付近。伊都国から放射式。奴国、不弥国
は筑後川沿岸。投馬国は有明海を南下し薩摩。邪馬台国は八代付近で上陸、陸行一月で日向。
これで、伊都国は後の肥前国府、投馬国は後の薩摩国府、邪馬台国は後に九州随一の古墳を
残す地域。何も矛盾するところはないと思います。



101 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 21:36:17
>>98
水行十日、陸行一月、ね。
投馬国までと邪馬台国までの水行を三十日、
それを「陸行一月」と表現したという説もあるけど、
それをこんな苦しい書き方するか?
「水行十日or陸行一月」と言う考え方もある。
投馬国を岡山平野に置く畿内大和説には魅力的な読み方だが、
水行と陸行に二十日もの差が果たして出るのか、
岡山平野から奈良盆地まで一月もかかるか、等の疑問も出る。
九州・大和両説に魅力的と感じる人がいる特異な読み方
「一月は一日の間違い」もある。
でもこれ、根拠がない。

まあ、今の所は「水行十日or陸行一月」ぐらいにしとくか。

>>99
そういう疑問を持つのはとても大事な事。
邪馬台国を北部九州に比定して、かつ日程記事を根拠も無く「誇張」「捏造」と扱わない人間は、
「直行すれば良いじゃん」と言う弱点が存在する。
方角を間違う奴は居るかも知れないが、わざわざ回り道して数日で住む所を何十日もかける馬鹿はいない。

102 :のんびりひまじん:2008/09/27(土) 22:04:13
水行十日+陸行一月 と考えるのが普通のはずだが、仮に合計40日として、
九州のどこかの一地点から、40日なら日本列島中にどこでも行ける。
だから難解なのだ。

水行十日or陸行一月は苦し紛れ。それこそ一応そう考えるレベル。

>>100
九州南部説は問題あり。
その1:弥生時代とすると、首都圏らしい出土物(鏡剣玉鉄絹・・)は北部九州が圧倒的。
その2:弥生人の民族移動の主流地でない(このスレでは初出かナ)
http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000176_all.html

付録:追い詰められた縄文人
http://www.isobe.or.jp/column/sanka/s61/s61-2.html

103 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 22:23:24
>>99
唐津から直行はできないんです。
それは伊都国が使者の滞在所でしかもそこは一大卒という司令官がいて、諸国を
監視させている。だから使いの者が必ず通るところであるし、わざわざ女王の都まで
行かなくても伊都国で事足りるのだ。
人口に関しては今のところ何とも。
専門家に聞いてみるしかない。

また難問なのが
「女王国から東へ千里ほど海を渡って行くと、また国がある。みな倭と同じ人種である。
その南には小人の国がある。身長は3.4尺である。
女王国から4千里はなれている。また裸の国や、黒い歯の国があり、
東南の方角に船で一年ほどでいける。
倭の地を参問(人々に問い合わせてみる)と海の中にある島々の上に
絶在していて、くっついたり、離れたりして、周旋すれば
5千里ほどある。」(他より引用)
下5行はおそらく天草諸島だと考える。
でも小人の国や海を東に一千里渡るとというところがわからない。

104 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 22:39:51

>>97

鉄や絹の出土量で九州説優位を誇り、またあるときは、弥生後期の九州の栄華
繁栄を憂い・・

>>94  川も蛇行しているだろうし。陸道はぬかるみ、石ころ道、草の生い茂った道、
思いのほか前へ進めないよ。

倭国には市があって、互いの国にも人的・物的交流もあったろう・・
八女? 勘違いでしょ?


105 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 22:50:42
>>102
問題その1、その2とも行程には関係しませんね。行程には矛盾がないと認めま
すか?これまでの各説は、行程に矛盾が出て解決できませんでした。その点では
大進歩というべきかな。
出土物は、掘らなければ出てきません。北九州とは発掘の度合いがちがいます。
日向に存在するおびただしい古墳、これは九州でもっとも強力な権力が存在した
ことを示します。古墳時代がそうならば、弥生終期にも存在したと考えられます。




106 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 22:57:24
邪馬台国なんてうそ臭せーもん研究する価値ないよ
又聞きの又聞きに色付けたみたいな文章
絶対使いの人間は邪馬台国見てないだろ

107 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 22:58:42
>>103
>唐津から直行はできないんです。
勝手な理由をつくってはいけません。一大率はしょせん女王国から派遣された人物。
女王を訪ねる使者の邪魔をするはずはありません。唐津に出迎え、邪馬台国まで送
ればいいではありませんか。邪馬台国から直接出迎えが来たかもしれませんよ。

>難問なのが「女王国から東へ千里ほど海を渡って行くと、また国がある。
そうですね。八女あたりに比定していたのでは、これは解決できません。
>>100のように素直に解釈すれば、何も問題はないのです。
日向は女王国、東千里の倭種の国とは四国と考えられます。

108 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 23:07:39
久しぶりに覗いて見たら
ものすげーレベルダウン。
結局なんだかんだ言ってても、河童やドツボがスレ引っ張らないとレベル上がんない
わけね。
あいつら現れるまで、参加すんの止しとくよ。

109 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 23:10:04
>>102
>九州南部説は問題あり。
>その1:弥生時代とすると、首都圏らしい出土物(鏡剣玉鉄絹・・)は北部九州が圧倒的。
>その2:弥生人の民族移動の主流地でない(このスレでは初出かナ)
畿内説も北九州説も相手に対しては「到底ありえない」とやり合っているくせに、そのどち
らか以外の説は絶対に許さないってわけね。


110 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 23:16:42
>>107
伊都国に到着とあるから、伊都国で事たりるんですよ。
伊都国は北九州沿岸のどこかに上陸して南東へ500里ですから。
私は地理的条件を考えてやはり大宰府あたりだろうと思う。

111 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 23:25:44
>>110
>伊都国に到着とあるから、伊都国で事たりるんですよ。
意味不明。狗邪韓国も「到る」とありますね。使者は邪馬台国まで行ったと
考えるべきです。

> 地理的条件を考えてやはり大宰府あたりだろうと思う。
単なる思い込み。大宰府では南東ではなく東でしょう。大宰府からでは南水行も
できません。


112 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 23:29:10
個人的な各国比定地
末盧国…名前の名残・松浦郡 首都・桜馬場 魏使が行った所・呼子
伊都国…名前の名残・怡土郡 首都・三雲 魏使が行った所・三雲
奴国…名前の名残・那珂郡 首都・須玖 魏使が行った所・須玖(若しくは行ってない)
不弥国…名前の名残・穂波郡 首都・立岩 魏使が行った所・立岩(若しくは行ってない)
投馬国…名前の名残・鞆の浦、玉島、玉野、詫間 首都・楯築 魏使が行った所・玉島(若しくは行ってない)
邪馬台国…名前の名残・大和 首都・纏向 魏使が行った所・纏向(若しくは行ってない)
狗奴国…名前の名残・毛野 首都・鬼怒川流域
斯馬国…名前の名残・志摩
伊邪国…名前の名残・伊予
都支国…名前の名残・土岐
弥奴国…名前の名残・美濃
対蘇国…名前の名残・土佐
躬臣国…名前の名残・越
巴利国…名前の名残・播磨か尾張
支惟国…名前の名残・紀伊

スマン、今仕事疲れで眠い俺にはこれが限界だ。







113 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 23:38:00
>>111
大宰府から甘木に行くと筑後川に行く支流があるんですよ。
到に関しては確かにそうですね。
大宰府は福岡湾からみれば、南東ですよ。

114 :のんびりひまじん:2008/09/27(土) 23:46:14
>>103  
>東へ千里ほど海を渡って行くと、また国がある。みな倭と同じ人種である。
当時は倭人(=弥生人)の水田農民が、東へ東へ移動中と考えていかが。(150年前のアメリカでは西へ西へ)
そのあとを追って支配者になりたがった人物たちを神武に比定。九州北部には東国熱があった。


>102
弥生農民に素敵な水にめぐまれた平地が沢山、中国地方から関西・東海にあった。
弥生〜古墳時代は、北部九州を出発した弥生人の東国開拓の時代。

>その南には小人の国がある。身長は3.4尺である。女王国から4千里はなれている。
倭人(=弥生人)とは異人種(=縄文人)で、中高地が多くて水田稲作に向かないから、
倭人(=弥生人)は好まない。

>また裸の国や、黒い歯の国があり、東南の方角に船で一年ほどでいける。
・裸人黒歯人が漂着したので裸国黒歯国の所在が分かった(なお、黒歯風習がこのとき、伝承)説
・八丈島あたり(縄文遺跡が存在)説
・エクアドルだという奇説もありました。


115 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 23:53:44
郡から女王国まで12000里ってあるんだから
短里計算で行けば、対馬から壱岐までが千里だからそれを基準にすればいい。
女王国=邪馬台国と考えれば、
7000里+1000里+400里+1000里+300里+1000里+
500里+100里+100里+600里(甘木から八女まで)=12000里

116 :のんびりひまじん:2008/09/28(日) 00:07:43
>>109
>畿内説も北九州説も相手に対しては「到底ありえない」とやり合っているくせに、そのどち
>らか以外の説は絶対に許さないってわけね。
各説、それぞれキメ手がないので、こうして議論になっているのです。
以下(再掲)を見たら、成立しにくくありませんか?
http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000176_all.html

モノ(古墳)ばかりでなく、ヒト(遺伝子)の移動も検討対象でしょう。

重要かも知れない分野を提示しました。
現在こそ、日本列島単一民族神話の状態ですが、日本書紀の時代 つまり
弥生〜古墳の時代には、縄文人(原住民)の居住地に、弥生人が外来し、移動、
定着をした経緯が読み取れるのではありませんか?


117 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 00:39:17
>>116
もう一つ倭人(中国南部、東南アジアから)

118 :のんびりひまじん:2008/09/28(日) 01:13:15
>>105
>出土物は、掘らなければ出てきません。北九州とは発掘の度合いがちがいます。
>日向に存在するおびただしい古墳、これは九州でもっとも強力な権力が存在した
>ことを示します。古墳時代がそうならば、弥生終期にも存在したと考えられます。
どの説も、考古学の成果待ちと言うのが妥当でしょう。
一例として奈良のマキムク遺跡の場合、全体の5%発掘された段階だそうです。
ここで、傾向として吉野ヶ里をしのぐ遺物(鏡剣玉鉄絹・・・)は出そうにない
ようです。そうと確定したわけではありません。
宮崎県でも、今までの発掘物傾向からある程度予測はできませんか?
そうとは言っても、突然、卑弥呼の金印か卒ゼン中郎将の銀印など出るかも知れません。
ただ、印だけではニセ議論も出るでしょう。

縄文人(先住民)の多いところーーー例えば九州南部や四国は、邪馬台国にピッタリではなさそうかナ?
その程度に考えているのです。

119 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 01:49:14
>>118
縄文人てのはもともとは東南アジア方面から来たオーストロネシア系だけど、
またはモンゴロイドだけれども、長い間に日本の気候や環境に順応して独特な
特徴を持ってきた。
そこへ米作を伝えた南方人が中国南部やインドネシアなどから渡ってきた。
九州南部を中国からの隼人族、以北は倭(種)。顔に刺青したり基本言語も南方の発音に
多く一致する。
ところがアイヌの言語は全く基本言語が違う。
だから縄文人と倭人は別。

120 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 04:20:38
地政学的見地から見れば大宰府に一票。

121 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 04:22:44
>>116
どこをどう読んだら日向=邪馬台国が成立しにくいのかな?

122 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 04:26:36
>>118
>縄文人(先住民)の多いところーーー例えば九州南部
単なる先入観でしょう。何の根拠もない話ですね。


123 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 04:32:51
邪馬台国といえば、鏡剣玉鉄絹・・・・日向国へ比定するには無理がある。

124 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 04:34:09
>>113
末盧国は福岡? ならば、まずそのことを言わねば。
川下りはどうかな? 川ならばそのことを明記しそうなものだけど。→海岸に
したがって水行し


125 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 05:36:27
>>123
何も考えないで言ってるな。邪馬台国に剣はあったかな?
鏡は配った先から出ればよし。ほかのものは日向も問題なし。
絹なぞどこも出ていないしね。

126 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 06:06:35
>>105
>日向に存在するおびただしい古墳、これは九州でもっとも強力な権力が存在した
>ことを示します。古墳時代がそうならば、弥生終期にも存在したと考えられます。

そのロジックなら畿内説が最終勝者だなwwwwwwwwww

つうか日向と言うか南九州太平洋側って弥生時代後期のイメージがあまり無い。
有名な大型環濠集落とか・・・

むしろ古墳時代に入って畿内から急激に勢力が伸びてきたって感じだが・・・

127 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 06:14:39
>そのロジックなら畿内説が最終勝者だな
倭人伝の行程に合致しない所は最終勝者になる資格なし。

128 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 06:18:28
>>125
日向には人食い人種の熊襲が住んでる未開地域。
日本は単一民族ではありません。

129 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 06:31:58
>>128
人種的偏見が真実をみる目を曇らせる。

130 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 07:01:10
>>126
>むしろ古墳時代に入って畿内から急激に勢力が伸びてきたって感じだが・・・
畿内勢力が東海地方へ伸びたとか、中国地方へ伸びたというなら、分からないではないが。
近畿勢力が中間を飛ばして熊襲の地、日向へ伸びたというのは不自然では?
それに、日向の初期古墳と大和の初期古墳は相似形。天孫降臨伝説、神武東征物語に何ら
かの真実が含まれるとしたら、日向→近畿が考えられるのでは?


131 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 07:11:29
>>130
まあそう来るとは思っていたよw

でもね古墳の分布を見てみれば分かるが
大和より東で言えば大型の古墳は東海より関東に多い。

ぶっちゃけて言うと勢力拡大の最前線に重点的に配備しているって感じなんだよねwww
(ただし吉備は例外。)



132 :131:2008/09/28(日) 07:24:33
更に付け加えておくと

所謂「纏向型前方後円墳」だとその「中間すっ飛ばして飛び飛びで分布」と言うのが
より一層分かりやすいwww

(北限は会津だったかな?関東なら千葉に集中)

133 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 07:33:04
>>131
>ぶっちゃけて言うと勢力拡大の最前線に重点的に配備しているって感じなんだよね。
そのとおりでしょう。大和は前線司令部、そこからまた勢力を伸ばして最前線は競っ
て大古墳を造らせた。新参者の勢力を削ぐために? あるいは新参者が自己の忠誠心
を示すために積極的に? 
一方、本家本元はそんな必要はない。人民が困らない程度のを造らせた。


134 :131:2008/09/28(日) 07:53:57
>>133
九州王朝説か?
ひょっとしてサイキバ?wwwwwwwwwwwww

まあ日向説なら北九州説よりは行程記事において
距離の解釈が楽になるメリットはあろうが

如何せん弥生時代後期の遺跡・遺物が寂しすぎるのが難点だろうなw

もっとも邪馬台国を「七万戸」の大国とせず
北部九州のすったもんだの末奉りあげられた
形式上の盟主とすればそれもクリアかもしれんがwwwwwwwwww



135 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 08:06:40
>>133
ぶっちゃけて言うと、地方の古墳群に纒向型が同時代に作られているのは、畿内説に都合悪いよね。

まず、古墳時代初頭にすでに、東北の方まで勢力があったら、狗奴国の場所がなくなる。
いったいどこの狗奴国と争って魏に応援を頼んだのやら・・・

次に、地方の古墳群では纒向型から3世代くらい後には、5世紀の古墳になるから、纒向型が
せいぜい4C半ばにしかならないから、年代遡上に都合が悪すぎる。

三角縁国産説では同型鏡は時代が近接するはずであるが、地方の古墳では横穴式石室の古墳から
椿井大塚山の同型鏡が出たりするので、椿井大塚山を4C後半より古くできない。

そもそも崇神稜が纒向型なので、纒向型の同時代性にはもともと限界がある。

136 :のんびりひまじん:2008/09/28(日) 08:15:48
>>128
>日向には人食い人種の熊襲が住んでる未開地域。
>日本は単一民族ではありません。
>>129
>人種的偏見が真実をみる目を曇らせる。
都合で、使い分けされるコトバに気付いておきましょう。
隼人(普通〜かなり尊重)⇔熊襲(敵対〜軽蔑した場合)
毛人(普通〜かなり尊重)⇔蝦夷(敵対〜軽蔑した場合)

137 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 08:16:18
>>135
>地方の古墳群では纒向型から3世代くらい後には、5世紀の古墳になるから
具体的に何処の古墳群?

138 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 08:25:19
>>134
>邪馬台国を「七万戸」の大国とせず
そんな遠慮をする必要はないでしょう。投馬国が5万、邪馬台国は都になったら
人があつまるのは常、7万は当然と考えるべきです。
狭い所に7万を考えるからいけないのです。かなり広かった、邪馬台国の中に幾
つかの都市があったと考えればよい。


139 :のんびりひまじん:2008/09/28(日) 08:37:02
>>130
>日向→近畿が考えられるのでは?
九州宮崎県と近畿地方とでは、人種的な差異:縄文人と弥生人が見える。
http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000176_all.html

日本列島人の単一民族神話は現代のことで、古代を考察するには考慮が必要でしょう。
東西南北縦横無人に移動進出ができるようになったのは、単一民族化以後のこと。

140 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 08:45:06
邪馬台国時代はすでに西は単一民族化していたのでは?

141 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 08:59:21
>>138
大きな都市=拠点集落が幾つもあれば、さらにその周りに衛星集落が多数あったろう。
当然遺跡は確率的に見つかり易くなる道理w


まあ自縄自縛だなwwwwwww

142 :のんびりひまじん:2008/09/28(日) 09:19:59
>>140
>邪馬台国時代はすでに西は単一民族化していたのでは?
朝鮮半島では、統一王権らしき存在あるのは高句麗くらい、百済・新羅・三韓(中に倭の地:コヤ韓国を含む)
などはバラバラ小国の状態。

日本列島では、
関西に列島主要部を統一していたに違いない:近畿説


九州中北部に30国の連合政府女王共立:九州(北部)説



(読むだけの諸君へ 朝鮮半島状況と似ているのが九州北部説と気付きますか?)
( 〃       昭和43年の邪馬台国研究総覧で、魏志倭人伝だけでなく東夷伝全体を読むように
          提言あったのに、魏志倭人伝だけの議論多いって気付いてネ。←読む分量少なくてラク)


143 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 09:33:39
>>135
むしろ周辺部に巨大古墳が多いのは、古墳の意義を考える意味で重要。

つまり、鉄を入手するために地域の首長たちが連合。共同して遠隔地交易の旗頭となる
オウを推戴したということ。
オウは鉄や中国鏡などを配布することで更に権力を強める。
前文字文化でオウの偉大さを民衆に示すには、目で見て分かる巨大な古墳を
造ることが重要であった。

筑紫などは既に鉄が潤沢に行き渡っており、鉄の有難みが薄れ、窓口であった
オウの権威は低下していったということ。


144 :のんびりひまじん:2008/09/28(日) 09:38:28
補足する。こうゆうことに気付いてもらいたい。
>>139
>東西南北 縦横無人に移動進出ができるようになったのは、単一民族化以後のこと。

邪馬台国近畿説とは、
羽柴秀吉の九州征伐直後=服属しないで残るは関東東北のみという状態が、
それより1300年前に存在したというに等しい。

全国制覇スピードの差。
源頼朝・北条たち:関東を固め、承久兵乱後も、すぐに朝廷廃止全国支配をしなかった。
邪馬台国というのは、これより、さらに以前のこと。


(別の参考事項)
戸数について、朝鮮半島と比較議論しているのかしら。
263年(女王壱與在位中)と記憶する、三国のうちの蜀が魏に降伏したとき提出した
戸籍には、蜀の戸数28万。さらにのち呉が晋に降伏したとき、呉の戸数は52万3千。

(現代のゲームにもなった三国志の一部が 魏志 で、その一部に倭人伝がある。)



(上記は、このスレの読者に示す。)

145 :のんびりひまじん:2008/09/28(日) 10:24:54
>>112
>個人的な各国比定地
>末盧国…名前の名残・松浦郡 首都・桜馬場 魏使が行った所・呼子
>伊都国…名前の名残・怡土郡 首都・三雲 魏使が行った所・三雲
>奴国…名前の名残・那珂郡 首都・須玖 魏使が行った所・須玖(若しくは行ってない)
>不弥国…名前の名残・穂波郡 首都・立岩 魏使が行った所・立岩(若しくは行ってない)
>投馬国…名前の名残・鞆の浦、玉島、玉野、詫間 首都・楯築 魏使が行った所・玉島(若しくは行ってない)
>邪馬台国…名前の名残・大和 首都・纏向 魏使が行った所・纏向(若しくは行ってない)
>狗奴国…名前の名残・毛野 首都・鬼怒川流域
>斯馬国…名前の名残・志摩
>伊邪国…名前の名残・伊予
>都支国…名前の名残・土岐
>弥奴国…名前の名残・美濃
>対蘇国…名前の名残・土佐
>躬臣国…名前の名残・越
>巴利国…名前の名残・播磨か尾張
>支惟国…名前の名残・紀伊

>スマン、今仕事疲れで眠い俺にはこれが限界だ。

上記のようなことを最初にやった『ひまじん』は誰か?
答え:京都帝国大学教授 内藤湖南 博士

当時の公式見解:九州南部説に対し、関西と主張しただけでなく、30国比定も試みた。

九州か、関西か 本拠が分からぬというのに、その他の比定が説得的にできるものか?

内藤湖南博士は、当時の残っていた貴重な文献書籍を集めて京都大学に残したという大きな功績が
あるのだそうだが、主張として行ったことを、のちにマネする人びとから判断すると
学ぶべきでない点があることに気付く。

146 :のんびりひまじん:2008/09/28(日) 10:54:24
(地名比定の一般傾向)

関西に列島主要部の統一政権:近畿説⇒比定地名は、分国単位(例 キ→紀伊)


九州中北部に30国の連合政府女王共立:九州(北部)説⇒比定地名は、郡 単位

ここで、異論ない比定地名について見ると
末盧国⇒松浦郡
伊都国⇒怡土郡(のちの糸島郡)

異論のない部分は、郡 の単位である。

つまり異論のない地名状況:郡単位ということは、九州説に、自然に有利といえる。
(ただし、キメ手と言えるほどのことでない。)

近畿説から比定した地名は、郡 の単位で比定を始めて、途中から 分国単位に比定先を変更する。
矛盾した比定に、気付いていないままである。


>>112氏は、上記の議論が昔からあると知らないから意気揚揚と比定作業しているに違いない。)

147 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 11:00:20
>>145
最初にやったのは、新井白石。

新井白石は、最初は、近畿地方の大和に邪馬台国を比定し、のちには
山門郡に変わった。いわゆる畿内説から九州説への変更か。

伊都国を前原市付近に比定したのも新井白石。
白石は、地名の類似点だけに注目して方向は無視した。
でも、畿内説にとっては好都合。北部九州説にとっても都合が良い。
だから、定説のようになってしまった。

本当に東南の方向に行ってしまったら、どちらもアウトになるから。

148 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 11:31:42
伊都国が問題と気づくこと、それが学問の出発点。
@ 方角が合わない。
A 南水行ができない。
B 末盧国で下船する理由がない。
C 放射説にする理由がない。
D 奴国、不弥国がうまく比定できない(5対1にならない)。

149 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 12:49:04
伊都国は有明海沿岸。佐賀市大和付近ならばピッタリ。
@ 末盧国(唐津)から東南40キロ。短里でピッタリ。
 (伊都国を比定するのに、長里で二百数十キロという説はなかったな。なぜだろ) 
A そこならば、南水行ができる。
B 奴国は筑後川左岸、不弥国は右岸でOK。非常に接近しているのも有明海へ出
 る港であればありうる話。
C 放射説で記載する理由も分かる(奴国等へ行く必要なし。伊都国から水行可)。
 伊都国内に港があったから、一大率が港を管理(津に臨み)していたのも当然。
D 有明海沿岸に移動するためには、唐津上陸がもっとも便利。
 伊都国から後は倭の小舟。しかも干満激しい有明海。水行の日数も理解できる。

150 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 12:58:43
2倍暦というのがあるんだって。
1年は6ヶ月、1ヶ月は15日。
距離が短里ならば日数も2倍暦じゃなきゃ整合しない。
つまり水行10日+20日+1ヶ月=1ヶ月

風俗や習慣の観察などをしながらの旅。=1ヶ月で50キロくらいしか進めない。

151 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 13:04:53
>>98
私は放射説じゃありません。やめました。
よく読んでください>97
連続していますから。

152 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 13:06:44
>>150
早くから中国と交渉があった倭が中国の制度にない2倍暦などという馬鹿な制度
をとるはずはない。夏の年と冬の年が交互にくる? アホか。


153 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 13:15:01
>>151
ずいぶん窮屈な比定。そんな小さい国を想定したら、魏が親魏倭王の称号を
くれた理由も出てこないでしょう。朝鮮半島の国々に比べれば倭は大国だっ
たのですよ。北九州だけではない。九州全体をほぼ統一していたとみたら?
あなたは万二千里にこだわったのでしょうね。しかし、万二千里は女王国の
入り口。尽きるところは邪馬台国や南の奴国よりも南。その記述を忘れたの
かな。

154 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 13:26:06
>>153
意味不明。
奴国というのは実は2つ出てくるんです。
2回出てくるのは奴国だけ。
その他の詳しく記せなかった国々の名前の列挙の中に一番最後に出てきます。
その奴国は狗奴国に隣接している、一番南端の国。
先に出てきた奴国は伊都国の次だから、女王国より北。
狗奴国の男王と卑弥呼は仲が悪かったって書いてありますから、
狗奴国と邪馬台国は近い。多分南端の奴国の隣が邪馬台国。


155 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 13:40:41
>>154
訂正。
6行目女王国→邪馬台国

女王国は北九州連合国。

156 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 14:02:01
>>150

「ながらの旅」って?勝手に文章追記しないで下さいね。そして想像を歴史に加えないで。
★来年三月で通期ダイヤから消えてしまう「ながら」を惜しみつつ

157 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/28(日) 14:10:13
>>150
畿内が倍暦をやってはいても、九州とか大陸が倍暦をその当時やって
いたということは云えません。そのころやってたのは畿内だけでは
ないでしょうか? それは何とも?です。

158 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 14:31:49
>>156
普通想像しなくても、
使者にとっては頻繁来れる場所じゃないし、
魏に報告するためにも、
現代人のようにまっすぐ目的地にわき目も振らず直行、
それはないでしょ。
想像して書いたんじゃなく普通の思考だよ。



159 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 15:32:15
>>157
そうなんですか?

で、よく考えたら1日は半分にはなりそうにないです。
できれば、倍暦の詳しい計算方法をお願いします。

160 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 15:32:55
>>135
椿井大塚が4世紀後半より古く出来ないって、めちゃくちゃか。
適当に書くな

161 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 16:12:57
御参考
江戸時代の参勤交代、鳥取⇒江戸、安政6年(1859年)鳥取藩主池田慶徳
日程=21泊22日、行程=約720km、1日平均約32,8km、
街道が整備された山陽道・東海道を使用している。
費用をおさえるために、ハードスケジュールになっている。
ついでに江戸時代に大坂から江戸に荷物を運んだ菱垣廻船は
順調にいけば6日、平均15日で着いたといわれる。

162 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 16:49:07
>>158
史書に、途中いい女がいるから襲って三日費やすとか、生水にあたり下痢をするとか、双六まがいな事を考慮し
書き連ねるのですか?
郡使往来工程文は、人生ゲームではありません。
〇〇里と書けば〇〇日
〇〇日と書けば〇〇里
これが万人に通用する文章です。

163 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/28(日) 16:53:41
>>159
すごい長論でいっぺんで理解は大変です。ジックリとで〜〜
鷲崎弘朋さんの邪馬台国掲示板に50回余で詳説してあります。同板の
「倍暦論説 NO.1」から読み下されたい。
質問はこちらでも同板スレでも受けます。ググると出るでしょう。

164 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 17:02:51
>>162
川ならば小さい舟。倭人の。海を渡った大きな船は港に置いてあるので。

雨の日は水行はお休み。
日にちをどういう基準で書いたか知らないけど、
だからこそ里数で書けなかったのかも。
雨の日は抜いて数えた?
甘木から八女まではちょうど600里くらい。
方里を2倍にしなくても。12000里にぴったり合います。


165 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/28(日) 17:03:30
>>159
ググッてみましたが鷲崎弘朋さんのお名前ですぐ見つかりました。
(改訂版)というやつです。それの過去スレ・ツリーから現ツリー
までに分断で書きこんであります。なかなか一筋縄では行かないで
すし、信じるのも貴方次第ですから説得してもらえるか〜〜?

云いたいことですが、神武即位から幾度の暦法変更をやってるという
ことです。とりわけ倍暦法もだいぶ変更しているようです。古代
ローマ暦からグレゴリオ暦でもだいぶ暦法変更はしていますよ。
2千年余の間、恒久的に暦法を変えなかったと想いこむと〜信じ
る方向には行ってもらえないかも知れませんね? 貴方次第です。

166 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 17:10:01
>>163>>165
どうもありがとう。
さっそく行ってみたいと思います。

167 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 17:37:13
>>164
貴方の主観なんてこれっぽっちもいらない。
舟を置いたとか、雨の日は休みなんて
何処からどう読むのです?文章の何処に天気や体調が書かれているのです。
全ての人が、その場所に来ると
腹痛と下痢に冒されるの?

168 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 17:45:54
>>167
日本も負けずに記録しておけばよかったのに、
なんと最初の歴史書が7Cの日本書紀とは。

169 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 18:49:14
>>137
西都原、会津、群馬、千葉、埼玉・・・どこでやっても年代遡上には苦しい。

纒向型を3C前半とすると、馬具や横穴石室の5C前半まで200年ある。
1代10年とすると、その間に最低でも20基の古墳が必要、一族の分を考えると
その2,3倍は必要になる。

1代15年としても最低13〜14基の変遷が必要になるが、そんな古墳群は地方には存在しない。
実際は、一族全部を視野に入れてもせいぜい5,6基の変遷を考えるのがせいぜい。

纒向型が地方でも同時代に築造されたとすると、年代遡上が地方で破綻する。
ヤマトなら多数ある古墳を適当にみつくろえば何とかなるかもしれんが、地方では
ごまかしがきかない。


170 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 18:55:04
掘っ立て小屋と木器しかなかった纏向は、地方豪族が寄り集まった単なる墓地。
纏向には、巨大国家権力など存在しません。

171 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 19:08:17
>>169
まあ纏向型のヤマトと地方の時間差と言うのはイマイチ分からないところではあるが…

そもそも地方で前方後円墳の造営が一族で代々
連綿と続けられていたと言う保証があるのか?

西都原を例に出しているみたいだが被葬者が一族の人間だと確認できているのか?

>>170
サイキバ君乙




172 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 19:10:41
サイキバといえば論破できちゃったと思ってる畿内説、あわれ

173 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 19:13:33
つうかサイキバ君は論破とかそんなもの以前の問題だからwwww

174 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 20:16:02
聞こえません

175 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 20:30:37

>>170

大仙陵(伝仁徳)は大林組の2002年に公表した試算では、古代工法では
「15年8ヶ月」の歳月と延べ680万7000人、ピーク時1日2000人という
要員を要し、さらに、埴輪の製作や燃料の薪の採取、鍛冶、工具の製作な
ども他に必要であったとされている。
箸墓は300年±50年であり、仁徳陵(大仙陵)は450年前後のもの。規模は
大仙陵>箸墓であるが、約100年以上も前の工事であり、鉄鍬も豊富にあっ
たわけではない。それらを考慮すれば箸墓を造るのに相当な人員の動員が
あったのは事実であり、それができた権力者がすでにマキムク周辺に存在し
ていたのも事実である。三輪山麓西域のマキムクが単なる土地ではなかった
のも明らかです。九州に邪馬台国があっても、それはそれでもういいじゃない
ですか? 九州にあった邪馬台国は4世紀半ばには事実上の終焉を向かえて
いるんだから。(九州王朝説派の方には不満でしょうが・・)


176 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 20:44:30
>>175
その数値は、意図的なものだよ。
平均1000人ではなく、1万人でやれば1年。
2万人でやれば仁徳稜もせいぜい半年で完成する。
5万人でやれば3,4か月。

基礎の数値をいじれば結論は自由に出せる。

177 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 20:48:20
>>176
500万人でやれば1日で完成?

178 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 20:52:43
>九州にあった邪馬台国は4世紀半ばには事実上の終焉

遷都しただけでしょ。畿内でも遷都は頻繁におこなわれたが、別に衰退でも終焉でもない。
隋の煬帝に対等外交をせまったのも、邪馬台国の後継国。九州の終焉どころか大繁栄。

179 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 20:57:21

>>176  >>177

当時の人口はどれくらいいたの?
通常は農繁期を除いて、成人男子が役務として作業しただろう。
どうして、それだけ大量に動員できるんだ?

180 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 21:08:22
仁徳の前の応神が神功の頃には朝鮮に出兵したが、そのときには万単位を海外に
派兵したはずである。白村江の戦いでも数万以上の軍隊を海外に送り出している。

以上から、国内の動員力はその10倍以上であると容易に断定できる。

魏志では邪馬台国の段階から租税を取って、労役税が存在することは確実である。

労役税で集めれば、大王なら数万は余裕で動員できる。

こんなことは、簡単な足し算以前の問題では?

181 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 21:16:17
うむ、>>180はアンチ九州王朝説だな・・・

182 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 21:17:11
>白村江の戦いでも数万以上の軍隊を海外に送り出している。

送り出したのは九州王国。畿内王国は九州王国から要請されて不承不承、援軍を出した。

183 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 21:19:20
>>182は古田信者か・・・

184 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 21:20:03
183はローガンか・・・

185 :183:2008/09/28(日) 21:22:15
残念ww、ハズレ。

186 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 21:29:37

>>182
倭国人のみで数万人の派遣と理解しているの?
百済の老若男女も相当数駆り出されただろう。




187 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 21:33:44
185は夏祭か・・・

188 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 21:41:30
>>169
考え方としては非常に面白いと思うんだが、前提がおかしい。
古墳が首長一代に1基、必ずつくられたかは疑問。一族も含め。

というのは複数の埋葬施設がある古墳が初期からけっこうあるから。
那珂八幡(福岡)、椛島山(佐賀)・・・これらは、たしかマキムク型とする人もいたよな

畿内の大型古墳でもそうした例があるだろう。
島ノ山(磯城郡川西町)、大仙(堺の仁徳陵)は、前方部にも立派な埋葬主体部があった。

189 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 22:31:13
>>187
ドツボかも

190 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 22:55:05
ライ子終了

191 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 14:48:00
時代は違うがどこぞの縄文遺跡で最盛期500人ほど住んでいたといわれているが
ある人物がそれをHPで真っ向否定してたな。
見解はこうだ
便所の後が見つかっていないことからすれば、おそらく野○
500人もの人間が毎日排泄していてそのような大集落が成り立つ
わけがない。よってせいぜい数十人の集落だった筈

ということらしいので邪馬台国七万はせいぜい数百人の村
だったということでどうでしょうか?

192 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 15:48:44
>>191

川で垂れれば一石二鳥。魚の餌にもなるしね

193 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 17:27:02
>>188
その理屈はちょっと無理スジでしょう。
最初は3〜4世代で1個の古墳で、途中から急に1世代1個になってしまう。
最初の部分の年代を広くしすぎているだけでは。

194 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 19:17:35
>>193
188ではありませんが。

そもそもの造墓集団を固定化することに問題があるのでは?
つまり、地方王権って言っても内実は首長層の連合政権であって、
古墳造りも非常に政治的意味合いが強かったものだと。
必要があれば造ったし、必要がなければ造らなかった。

例えば吉備で古墳の嚆矢として楯築墳丘墓が造られるが、
多数葬されているとは言え、その後は吉備地域で王墓造りが一旦途絶える。
何らかの政治的混乱があったためでは?

担がれたオウ権も一つの氏族が世襲したのではなく持ち回りで、
同一地域に連続しないのもそのため。

195 :194:2008/09/29(月) 19:26:42
更に言えば、箸墓以降は、畿内王権より何らかの古墳造りに対する規制が
かかった可能性もある。
箸墓と相似形の古墳が地方に多数見られることや、
弥生終末期に勢力があった筈の河内地域や越で初期古墳が見られないことなど。
河内は畿内王権直轄領(ていうか畿内王権そのものであった可能性が高い)、
越は、瀬戸内海航路安定に伴い、相対的に地位が低下。古墳造りを認められなかった?

196 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 19:40:29
古墳築造開始=王朝の誕生(同一氏族による王権世襲)としているところに無理があるんだよ。


結局のところ「鉄欲しさ」に、遠隔地交易を保障し得るリーダーが、
弥生以来の環濠集落の首長たちによって強引に祀り上げられ、
無理矢理権威を付与するために古墳が造られた。
前方後円墳が各地の葬祭儀礼のパッチワークなのも、新しくオウを創造しようと
手っ取り早く周辺の権威=儀礼を寄せ集めた結果。
先文字文化の民衆にオウの威厳を知らしめる為には、目に見える巨大なモニュメントが必要であったと。


197 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 19:45:25
実際に大王権力が世襲され、一氏族による世襲が行なわれるようになったのは、
4世紀末以降。高句麗南下に挙国一致で向かう必要に迫られたため。
それまでの連合政権では立ち行かなくなったんだろう。

雄略もかなり中央集権を目指し地方王権を圧迫、大悪天皇と呼ばれたが、
最終的に中央集権がなるのは聖徳太子を経て天智・天武政権まで待たなくてはならないだろう。
その意味では九州王朝説も捨てたものではない。

198 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 20:33:47
>>194
「連合」って何、古代に民主主義的な横の「連合」がありうるのか?

環濠集落が終焉して、すぐ後に統一規格の古墳が全国にできるようになったのは、
大きな一つの権力の傘下に入ったからであって、各地の古墳は記紀のいうように派遣された
王族の墳墓であることは、明らかでしょう。

たしかに、皇国史観は日本を再び戦争に導く危険な思想ですがww
普通に考えれば、「連合」なんてトンチンカンなものは思いつかないですよ。

199 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 20:39:30
>>196
各地の勢力が横のバランスを取りながら「連合」したという夢想は、マルキストならではの発想でしょうか?

たしかに天皇の権力が当初から巨大であったことを認める皇国史観は日本を軍国主義化する悪ですがww
だからといって、「連合」なんていう全く証明のないイデオロギーを突然持ち出すのも変ですね。

もちろん埼玉稲荷山古墳の鉄剣銘の「オオヒコ」は8代天皇の御子で四道将軍の一人の「大彦」であるという
のは、皇国史観を擁護するために捏造された遺物に騙された考えなんですよね。

200 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 20:42:17
>>198
いやむしろ、庄内初めに突然列島に巨大王権が誕生したという考えこそ剣呑でしょう。
神武東征のような戦乱時代ではなかったことが考古学では分かってきてます。

高地性集落などの軍事技術の向上が、軍事的解決よりも政治的解決を求めたのではないでしょうか?
それが倭人伝にも見える女王共立なのであって。

天皇位は比較的後代まで、有力氏族たちから推戴されるという形式を取っています。
それは天皇権力は元々連合政権の色彩が強かったことの証左ではないでしょうか?

201 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 20:52:05
                              
 朝鮮最古の歴史書、三国史記=新羅本紀の中に、
「新羅を建国した初代王、キム・アルジが鶏林(ケリン)という林の中で、
 柩(ひつぎ=カンオケ)の中に入った状態で発見された」という記録がある。

 どうやら、新羅本紀の原資料となった古文書は古代日本語で書かれていたらしい。
その古文書には、おそらく、次のように書かれていたのだろう。
「初代王=キム・アルジは、鶏林(ケリン国)において、ヒツギ(日嗣=王の意味)
 になった」

 日本人ならば、ヒツギが日嗣(王)の意味だと理解できるが、三国史記の編纂者=金富軾は
ワイ族なので、日本語で書かれた新羅古文書の「ヒツギ」(比通魏などと書かれていた可能性がある)の
意味が分からず、国語辞典のような古文書を調べて、「ヒツギ=棺のこと」という説明文を見つけたのだろう。
 それで、ヒツギとは棺=カンオケのことだと勘違いして、上記のカンオケ伝説を創作したのだろう。
笑える話である。



202 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 21:04:18
>>199
吉備の造山とか巨大古墳をどう見るかだと思いますよ。
私は大王墓だったと思ってますが。

大王家は複数系列あったという考えが自然でしょう。
桜井茶臼山やメスリ山は、同時代の柳本古墳群と並立した王権だった
という説もありますし。

203 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 21:30:49
ローマ皇帝も持ち回りだったしね。
古代での大王位の持ち回りは、歴史上、比較的よく見られる事象。
珍しくはない。

複数のクランが連合して大王を擁立。
連合にあたり、始祖王伝承や神話を同一化する必要に迫られた。
その結果が神武以降、開化までの欠史八代が創作されたわけで。



204 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/29(月) 21:33:11
妄想!www 乙枯!!

205 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 21:44:07
>>204
記紀信者に分からないでしょうね

206 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/29(月) 21:46:42
>>205
お前は津田病人か〜〜??www

207 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 21:56:29
>>200
君の考えに基本的には賛成。
女王卑弥呼が出る前・・・弥生後期だな・・・は、確かに戦乱や諸国の王同士の対立があったんだろう
男王の時代で、史書にも「倭国乱れ」とあるから。

だがな、その乱の終わり方が問題なんで、
武力に長けた実力者・・・信長みたいなやつ・・・が他族をことごとく撃ち破って制覇した・・・ようには
全然読めないんだよな。文献も、考古も。そうだろ。

倭王になった卑弥呼は女性だし、武人じゃなく宗教者だ。在位が長いから当初は若かった。
そんでもって史書には「共立」とある。

やはり諸国の王たちは・・・狗奴国は除くが・・・連合したんだと思う。
長い戦乱状態続きに嫌気がさし、何とかこれを回避しようとして、共に和平へ動いた

で諸国王から推戴された倭王卑弥呼も、その宗教的権威をうまく使って倭の統治に成功。
狗奴国を除けば、倭国の大半を治めることができた・・・こんな感じと違うか?

208 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 22:12:30
>>207
では、埼玉稲荷山古墳の鉄剣銘はどう読むのですか?

あれを普通に読むと、少なくとも8代以上前から蝦夷を除く地域を支配した王がいたという
ことになり、しかも、記紀と類似の伝承が遅くとも5C末葉には存在したことになります。
倭の五王の中国への上奏文でも類似の内容が残っています。

これと同じことが古事記、日本書紀、先代旧事本紀、古語拾遺に書いてあります。
支配者層の系譜は、新撰姓氏録や、各神社の逸文などによっても裏付けられます。

この状況で皇国史観から捏造された記紀を信用できないとか、「王権」は6Cからとか、
「連合」とかのイデオロギーを主張するのは、なんか空しいですね。

まあ、年代遡上をして王権が3Cに確立していたなんて結論は、皇国史観になってしまうので、
「連合」というのは、軍国主義の防波堤としてやむを得ないのかもしれません。
子供達が戦場に駆り出されるのは、私も反対です。

209 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 22:30:21
>>208
>あれを普通に読むと、少なくとも8代以上前から蝦夷を除く地域を支配した王がいたという
>ことになり、しかも、記紀と類似の伝承が遅くとも5C末葉には存在したことになります。

オホヒコ=大彦命という根拠は?


210 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 22:42:09
>>207
記紀なんかを普通に読むと・・・・

1、倭の王族はもともと九州を支配していた(考古学的裏付けありまくり)。
2、九州の王家と縁戚関係のある出雲の王家は本州(東海あたりまで)を支配していた。
 (出雲の鉄器の多さ、銅鐸等の大量出土で裏付けられる)。

3、最初にスサノウが出雲に派遣される(ヤマタの大蛇=出雲の支配層を宴席に誘い出し虐殺)。
4、次に、オシホミミ、ニニギらを出雲に支配地域をそのまま譲り受けた(国譲り)。
5、ニギハヤヒがさらに天下っていく(物部一族が付いていく)。

6、その後、神武が東征して、ニギハヤヒの支配地域を譲り受けた。
7、ゆえに、神武は河内で抵抗していたナガスネヒコとだけ戦って、広域の支配権を取得。
8、その後、崇神が東国の支配に乗り出す(四道将軍)。

という感じで、九州の倭国が東遷してそのまま発展して、ヤマト朝廷になっていったという理解で
いいんジャマイカ。

211 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 22:47:12
>>209
1、ワカタケル(雄略)から遡っていくと、世代的に「オオヒコ」=「大彦」で適合する。

2、8代孝元天皇の御子という血筋の良さと、四道将軍の一人となったという地位の
 高さからも、系譜の初頭に書かれるに値する人物である。

3、しかも、大彦が派遣された地方の古墳から出土した鉄剣の銘に書かれている。

4、他に適当な人物が伝承の上でも存在しない。

212 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 22:53:29
物部氏の一族の矢作(やはぎ)氏、
先日の洪水で有名になった愛知県岡崎市の矢作川。
矢作という地名を調べると、九州に上陸した弓削・矢作氏が、矢じりという
武器を媒体に物部氏とともに勢力を広げていった様子がよくわかります。

(九州)福岡県久留米市草野町矢作、佐賀県唐津市半田矢作
(東海)愛知県岡崎市矢作町、恵那市上矢作町、
(関東甲信)山梨県笛吹市一宮町下矢作、
神奈川県小田原市矢作、茨城県坂東氏矢作、
茨城県土浦市矢作、千葉県香取市本矢作、
千葉県千葉市中央区矢作町
(東北)福島県郡山市片平町矢作、宮城県柴田郡大河原町小山田字矢作、
宮城県 登米市 石越町南郷 矢作、陸前高田市矢作町、
青森県青森市矢作
(北陸)新潟県西蒲原郡弥彦村矢作、石川県石川郡野々市町矢作


213 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 22:58:10
>>212
出典は谷川健一か鳥越憲三郎あたりかな。

214 :ゴジンム:2008/09/29(月) 23:06:22
神州不滅!

215 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 23:06:47
自分でネチネチ調べました。

216 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 23:06:56
>>211
地方豪族が自らの祖先を大彦に仮託したことは充分考えられる。
しかしただそれだけのこと。

当時の交通事情で四道将軍とかは無理では?というのがまず率直な感想で。

後世、北陸・東海は阿倍氏や膳氏ら大彦後裔氏族が勢力を伸ばした地域で、
そこから四道将軍の説話が生まれた、というのが現在の文献史学の解釈。

217 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 23:09:04
>>210

登場人物に卑弥呼・台与の両女王がいない  ○| ̄|_ ガクッ

ぜひ両女王を入れて再説してくれ  人(^^;) オネガイ

218 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 23:20:28
>>212ニニギに従って渡来したという経津主と香取神社の関係、
    筑紫と三河の関係、
    物部氏の蝦夷支配が見えてくる素晴らしい資料です。

219 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 23:23:28
>>212
大阪府八尾市の矢作神社(ヤハギじんじゃ)もお忘れなく。
八尾市には弓削の地名も現存。(道鏡の故郷?)

ともに庄内期の遺跡の集中地帯だ。

220 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 23:25:12

トヨタン・・・・・・・・・・・


221 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 00:05:40
>>217  では九州編〜を万世一系でてきとうに

1、北部九州の勢力が大陸との交易で力をつけて、その中の奴国が57年に中国に使者を送る。
2、奴国はその前後から支配地域を拡大して、支配下地域に王族を送り込み、「奴」の名称を付けて、
  弥奴国、姐奴国、蘇奴国、華奴蘇奴国、 鬼奴国、烏奴国、狗奴国と名付けていった(根の国々)。

3、九州のほぼ全域を支配下に治めた奴国は、「倭国」と名乗り107年に中国に使者を送る。
4、その後、各地に派遣した王族が力をつけて反抗し、180年頃には王権の承継をめぐって
 戦乱状態に陥った(倭国大乱)。
5、この争いを収めるために祭祀者としての卑弥呼が共立され、「王」の地位はその下位に属する
 として、反乱はおさまった。

6、以後、卑弥呼と王が両立するヒメミコ制に移行したが、4代目卑弥呼が233年頃に即位した
 ときに、王である狗奴国のヒコミコがこれに従わず、その後には内戦状態になった。
7、卑弥呼は魏に援助を求めたが、逆に外患誘致と反発され、支持勢力が離反して、248年に
 病没した。

8、狗奴国の王(ヒコミコ)は自己の縁戚である若年の台与を5代目卑弥呼(日御子)とした。
9、台与を傀儡としたヒコミコは、先代卑弥呼の関係者を粛清し、自分の王宮(宮崎)に戻ったが、
  ヒメミコ両立制の九州では、本当の王になれないと考えて、東征を始めた。
10、ヒコミコは、河内で長洲の根の彦を打ち破り、橿原で即位した。

222 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 00:21:09
>>221
その4代目卑弥呼とか5代目卑弥呼とかはどこから出てきたの?

223 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 00:33:09
邪馬台国九州説の人が世界恐慌で破産しますように。

224 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 00:39:39
>>221の9と10は、記紀に書かれている内容に反しているから、無理なストーリーだ。

そもそも神武は、九州において、王位継承権などない。卑弥呼との姻戚関係もない。
橿原に定着はしたものの、畿内全域制覇どころか、せいぜい百人程度の小集落を占領しただけ。

225 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 01:05:09
>>222
卑弥呼は180年頃に即位して、68年くらい後の248年に亡くなったとすると、
一人では長生き過ぎるので、適当に分割しました。

>>224
記紀の世代数だと、ヒコミコの2世代後くらいが神武ですが、世代の承継を書くのが
面倒になったので省略しました。

226 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 01:37:07
帥升が最初の倭国王。107年に後漢に遣使。
献上した生口の数が160人。相当な権力者と思われる。

2世紀後半に跡継ぎをめぐり、倭国の大乱が勃発。
少女の卑弥呼が王となり、乱は収まる。台与と同じくらいの年齢とすれば、
60年、70年の在位はありうる。


227 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 01:42:53
>>226
「年すでに長大」は共立されたとき長大だったということ。60年、70年
の在位はありえない。

228 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 01:53:00
>>227
卑弥呼の年齢を考える場合の時点は、卑弥呼が帯方郡に使いを送ったとき、
あるいは帯方郡の使者がやってきたときと考えるのが妥当。

「年已長大」と同じところに「自爲王以來少有見者」と書かれていて、
王になってからかなり年月がたっていることがうかがえるから。

229 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 02:15:17
>>225
神武を4世紀にするの?


230 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 02:21:30
漢籍で「長大」というのは、「成人した」という程度の意味なんだが。

成人したけど、その後ずっと引きこもりで独身・・・・
周りの家の人も「彼を見たことがない」と証言して・・・

ただのニートですな。

231 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 07:33:35
>卑弥呼が帯方郡に使いを送ったとき、あるいは帯方郡の使者がやってきたときと
>考えるのが妥当。
180共立との考えが先行しているから、無理な読み方をすることになる。
共立から「年すでに長大」までに年月の経過を示す言葉はない。

>「自爲王以來少有見者」と書かれていて、王になってからかなり年月がたって
>いることがうかがえるから。
これは「年すでに長大」よりも後に書かれているから、これをもって前の「長大」
の時期を決めることはできない。文章の流れを読み取る必要がある。

後漢書は「年長じて嫁せず〜共に立てて王となす」と書いている。
倭国の乱はいつだったのか、使者訪倭の少し前とする「邪馬台国」榎一雄をみる
必要がある。久保田穣、安田哲也らも同じ。







232 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 07:57:34
だいたい倭人伝からは、複数の卑弥呼は読み取れない。
もし、複数だったら、珍しいので特筆されているはず。
だから、卑弥呼は一人と考えるのが普通。

したがって、卑弥呼の在位期間から考えて、台与と同じくらいで女王に
なったと思われる。台与の場合は、13才と書かれているが、当時、0才の概念
があったとは思えないので、昔の数え年と同じ感じだったろう。
つまり、現代の感覚で言えば、11才程度。

この年齢で実質的な権力があったとは思えない。だから、台与と同じように
跡継ぎ争いの末に選ばれたと考えられる。つまり、倭国の大乱は、跡継ぎ
争い。これも千人あまりを殺しあった末の台与の場合と似ている。

そのように考えれば、当然、卑弥呼以前に倭王の存在がなくてはならない。
それが帥升だろう。倭人伝の記述「其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂」
とも一致する。

233 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 08:08:36

トヨタン・・・・・・・・


234 :日本@名無史さん :2008/09/30(火) 08:42:41
>>232
卑弥呼という名は日の巫女で職名なので、卑弥呼は何代かいたと考えてもよいと思う。

垣帝、霊帝の治世の間(146〜189)倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、
何年も王がいなかった。一人の女子が現れた、名を卑弥呼と言い年長で嫁がず、鬼道を
用いてよく衆を惑わした。<ウィキ
もうこの時点で年長を思わせる。
新羅本紀には158年倭人が交際のために訪れた。
173年倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れたと記してある。
これは訪問先は新羅であるが。
つまり最初の卑弥呼だと考える。その同一人物が249年まで長生きしていたとは
昔の平均寿命を考えたら、少し考えにくい。




235 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/30(火) 08:57:33
>>234
考えにくいものは考えなくてもよい。


後漢書共立卑弥呼と魏書の卑弥呼は別人なのだから。

236 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 09:10:58
>>235
後漢書ではないです。
三国史魏志倭人伝と三国史新羅本紀を引用しました。

237 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/30(火) 09:23:10
>>236
そうだったね
ま、年代的には後漢書卑弥呼と新羅本紀卑弥呼は
同一人物だろうから

238 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 09:29:04
>>234
訂正。234の上半分のウイキ引用は後漢書でした。
正しくは三国志魏志倭人伝から以下引用します。
その国(倭国)は元々、男子を王としていたが、70年〜80年ほど経つと倭国は乱れた。
何年も互いに攻め合うに及んで一人の女子を共立とした。名を卑弥呼という。
鬼道を用いてよく衆を惑わし、年長で、夫は無かった。
ほとんど同じです。
後漢書は時代は魏より古いですが書かれたのは、魏書よりも後なので
魏書を参考にしたと考えられるそうです。

239 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/30(火) 09:49:52
>>238
後漢書が時間的後に書かれようと、後漢書は後漢時を書き
魏書は魏時を書きます。
魏書に過去となる後漢時の記録を載せる場合は、必ずその記録が、別の時代である事も
明記されます。
それがなければ魏時の記録。

240 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/30(火) 11:10:15
今朝は9時前後10chで卑弥呼等の特集をやってたな。箸墓と吉野ヶ里と
トンカラリンのところを観たが、とりわけめぼしいモノはなかった。でも視覚で
見られると楽しいものだね。

どうやって平均寿命が出たんだろう?

241 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/30(火) 11:50:12
>>234
>>239 河童虫

「卑弥呼(職名or襲名)は複数であった」
両氏に100%支持。
こんな簡単なことなのに何故か少数派なんだよね。


242 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 11:51:23
>>239
後世の梁書には霊帝光和年中(178年〜184年)と限定的な記述がある。
後漢書の記述とほぼ合っている。
新羅本紀と照らし合わせて卑弥呼の即位した年はだいたいそのころであると
特定してもいいのではないでしょうか。
魏志倭人伝は古い資料をみて書いた可能性もあります。
魏志倭人伝には後漢書にはなかった卑弥呼の死、トヨの記載もあります。

243 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 11:57:07
>>240
板の仮面着ける為にわざわざ顔面矯正してたんだな。あの頭蓋骨の人物はシャーマンなどの特別な人物なんだろな

244 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/30(火) 11:57:51
>>241王朝さん

少数派というより、自分で考える前に
様々な情報に洗脳された人が多いだけ

特に日本人は
質より名を重視する輩が多いから、ブランド品の発言には素直に従っちゃうのさ。
ブランド品が黒いと言えば、一億こぞって黒い。

245 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/30(火) 12:16:31
>>242
参考資料に、当たらしいも古いもないよ
魏書には魏時がかかれ、後漢書には後漢時がかかれる。
ごく当たり前の事。

後漢書に共立あらば、これ即ち後漢時の出来事。
魏書に共立あらば、これ即ち魏時の出来事。

内容を見ればわかるが、二つの共立に至る背景内容は、全く違った内容、起因で書かれているよ

246 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 13:20:55
>>241
>「卑弥呼(職名or襲名)は複数であった」

根拠は?

247 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 13:43:13
>>234
卑弥呼=日巫女で女王は考えられない
日御子なのでは?因に神武は日の御子と呼ばれている

神武東征、前660年とすれば卑弥呼の時代にヤマトが何処なのかなんて明らかですな奈良がヤマト
九州は神武東征の地
それ以前の神々の高天原は愛知

248 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/30(火) 13:44:20
>>246
>「卑弥呼(職名or襲名)は複数であった」
>根拠は?

>>239氏と>>234-236氏が示しています。
壹與も卑弥呼の一人で、壹国の與と中国名を名乗ったものと見ています。

委(ゐ)=倭(ゐ)=壹(ゐ)
委奴國・倭奴國・邪馬壹國

249 :夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/30(火) 14:47:35
>>206
俺はあんたと立場はかなり違うが、
「もう津田式の神話全否定の時代ではない」と言う事については同じだ。
彼の価値は、神話信仰強制の時代の中でも神話に科学的メスを入れたという事で、
神話全否定が正しいと言う意味ではない。
彼が神話を全否定したのは、当時の科学ではそれぐらいしか出来なかったから。
今は科学も進んでいる。一部の科学的な考え方を知らない右翼に怯えることもなく、
神話を科学的・考古学的に検証できる時代なのだが…
それを放棄して根拠もなく全否定するという事は、右翼連中に怯えていると言われても言い返すことは出来ない。


250 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/30(火) 15:07:44
まぁさっきの者は無紀力相撲が好きなんだろう?w

251 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 15:08:22
>>245
後漢書の記述の9割がたが魏志倭人伝と同じです。
言い方は少し違いますが。
逆にいえば、魏志倭人伝が後漢の時代の情報を書いて、
新しい情報は238年〜247年のトヨと張政のあたりが最新情報。
倭奴国は倭国の極南界なり、という言葉は後漢書にでてきますし、
魏志倭人伝にも出てきます。ですから、魏志倭人伝では奴国がダブって出てきています。
著者が前の資料を参考にした跡とみていいのではないでしょうか。

252 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 15:15:13
>>251
訂正します。
後漢書の記述の9割がたが魏志倭人伝と同じです。→後漢書に対応する
文が魏志倭人伝に9割以上存在する。

253 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 15:21:18
>>248
トヨ=豊=豊受大神。ヒミコ=日御子=天照大神。日御子=天皇だろ。

254 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/30(火) 15:29:10
>>252
考えて み?

後漢王朝から魏王朝に禅譲されて支配者が代わったので、「倭」も追従するように
全て一新されるのか?

中国で王朝が代わったから、倭地もそれに合わせ
風俗が変わり、地形が変わっちゃうのか?
倭で変わるのは、時間の流れに伴い、それに携わる人々だけだよ。

だから魏志の内容の大部分を後漢書で使えるんだよ。

255 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 15:40:43
>>254
意味がよくわかりません。
私は最初魏書の内容を後漢書が見た可能性があると書きましたが、
いろいろ資料をみていたら、その逆で魏書が後漢時代の資料を基にした記述を
9割以上していると。
だから魏書の著者と後漢書の著者は同じ資料をみていたんじゃないかと言っているんですが。

256 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 15:43:54
>>254
前漢ー新ー後漢ー三国(魏、呉、蜀)

257 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 15:46:05
>>254
考えて み?

後漢王朝から魏王朝に禅譲されて支配者が代わったので、「倭」も追従するように
全てが一新されるのか?

中国で王朝が代わったから、倭地もそれに合わせ
王が変わり、歴史が断絶しちゃうのか?
倭には倭の事情があって、中国の王朝が変わっても
倭の政治は後漢時代の状況を引きずっているんだよ。

だから後漢書の内容の大部分を魏志で使えるんだよ。

後漢から魏へ禅譲されたからといって、倭国内が同時にガラガラポンで一新されたわけじゃない。
後漢時代末期の政治状況が原因となって魏の時代の状況が生まれている。
しかし、後漢書はまだ存在しない。漢書には東夷伝はない。
だから、それを説明するには、後漢時代のことから説き起こさなければならない。
そうしなければ、なぜそうなっているのかがわからない。
それが、其國本亦〜の部分。
わかった?

258 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/30(火) 16:20:32
>>255
そんな考えしてどうするの?
魏書を書く時、後漢時の記録を見るのは当たり前の事だし、後漢書を
書く時、時間的に前に書かれた魏書を見るのは当たり前。

259 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 16:46:17
>>198
>「連合」って何、古代に民主主義的な横の「連合」がありうるのか?
>環濠集落が終焉して、すぐ後に統一規格の古墳が全国にできるようになったのは

そもそも 連合体(=寄り合い所帯)=民主主義 と言うのが良く分からんところだなwww

それに規格統一と言っても初期は「形」だけで「大きさ」による格付けがされていない。
故に吉備に現在大きさでNo4の古墳があったりするわけでwwwww

260 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 17:17:42
>>258
あなたの言っていることがよくわかりません。
少し前のスレでは卑弥呼は別人だといっていましたよね。
じゃ、複数いると考えているんですか?

魏志倭人伝が後閑時代の資料を参考にしているのならば、
後漢書と魏志倭人伝の卑弥呼の記述部分は同じと考えていいのではないですか?
そうしたら、卑弥呼は随分長生きだなあと思ったんですよ。
本当は没年はもっと早いんじゃないですか?
249年の出所はどこなのか疑問です。
張政の時にすでに没していたのだから、249年ではないはず。
249年ではおそらく、173年で思いっきり若く18歳だとしても(嫁にいかず、だから)
94歳っていうことになる。


261 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/30(火) 17:47:50
>>260
参考にしたと、書いたは違いますよ。
魏書は魏時、後漢書は後漢時の記録。


卑弥呼が何故複数ではダメなの?

262 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 17:56:14
>>248
邪馬壹國は邪馬臺國の書き誤り。
邪馬台国は邪馬臺國の書き誤り。
一大國は一支國の書き誤り。
壹與は臺與の書き誤り。
>壹(ゐ)
「ゐ」は唇を円形にして発音する音。
「壹」は唇を平たくして発音する音。
両者が同音になることはない。
もし邪馬壹(一)國なら
富士山の近くにあった国だろう。

「臺」は現代広東語でtoiと発音する
「壹一」はyatと発音する。

「支」は甲類の「キ」として万葉集や古事記、風土記に表われる。
現代アモイ語(ビン南語)で「支」はkiと発音する。
「支」の異体字は「大」や「丈」によく似ている。
//dict.variants.moe.edu.tw/cutshing/cutshinga/sa01715/a0171526.jpg
//dict.variants.moe.edu.tw/cutshing/cutshinga/sa01715/a0171541.jpg
稲荷山古墳鉄剣銘文の「支」(左上)
http://www2.plala.or.jp/cygnus/R24.html

263 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 17:59:26
>>261
そうなの?
そうも考えられるけど、むしろ定説になっている没年が違うと思うんですよ。
たとえ少しの違いでもその249年またはウィキでは248年と書かれていますが、
その数字は何処から持ってきたんだろうって疑問に思うんです。
少しの違いが大きな誤解を生んでいるかもしれませんから。

264 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 18:13:30
>>263
老婆心ながら、横から失礼。
河童虫という人は、邪馬台国関連スレでは有名なイタイ人だから、
からむならそういう覚悟でやったほうがいいですよ。

265 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/30(火) 18:56:10
>>262
>一大國は一支國の書き誤り。

上記には同意。理由も同じ。

ヰ音については、現代シナ音を論拠にしても無意味。
時代と地域が変われば、同文であっても同音ではありません。

266 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 19:51:17
卑弥呼複数説の根拠。
1.一人だと在位年数が70年近くになってしまう。
2.名前が個人名らしくない。
3.後継者の台与も「卑弥呼」と同じ立場の女性である。

卑弥呼一人説の根拠
A.年が「長大」と書かれているので、長生きした。
B.台与と同じ年齢で即位したなら80歳くらいで死亡ということで、ありうる。
C.記紀でもアマテラスは一人だけ(アマテラス説)。


267 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 20:58:08
河童の>>239は一理ある。しかし、だからといって卑弥呼が二人いたというのは
誤り。倭人伝が伝える卑弥呼と後漢書が伝える卑弥呼は同一人物である。
要するに、倭人伝については、卑弥呼が共立されたのは魏の時代になってからと
読むのが正しい。主な理由は河童が述べるところと「年すでに長大」かな。>>231
ところが後漢書の范曄は、倭国大乱を桓霊の間とみたので、魏時代では遅すぎる
と考えた。そこで彼は後漢の末に共立されたと考えた。それだけのことですね。



268 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 21:14:47
卑弥呼は個人の名前などではなく一般名詞だった。
従って、卑弥呼は日本に数十人、数百人いたかもしれない。
そして、長い年月、その名は引き継がれ、
日輪を祭る巫女、それが卑弥呼の正体だ!

269 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 21:45:44
>>268
卑彌呼が倭国においては職名であった可能性は高い。
しかし、ここで勘違いしてはいけないのは、
例え職名であろうと卑彌呼の名で魏に認識されたのは特定の個人であるということ。
陳寿は卑彌呼を職名ではなく人名として記述している。
だから、倭では職名であり、卑彌呼の名を冠する人物が複数いたとしても、
魏志倭人伝に記載されている卑彌呼は特定の個人である。
その意味で、倭人伝においては、卑彌呼は固有名詞として扱われている。

270 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/30(火) 21:47:15
>>267

>「年すでに長大」かな

「年已長大」ですね
ここの「年」は人の年齢ではありません。「期間」

年=「事鬼道能惑衆」している期間が
已=卑弥呼が共立された時

長く、影響が大

つまり、卑弥呼の共立に至る理由の一つが、「年已長大」となるのです。

271 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 21:55:32
誰か隔離スレを立ててくれ

272 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 22:07:39
>>270
はっきりした証拠を出せないなら、同じことを何度も書き込むな。
書き込むんなら、証拠を示せ。
でなきゃ、またいつもとおんなじ事の繰り返し。

>>271
隔離スレは自分で作ってる。
多分これだったと思う。
「魏志倭人伝」等を読む
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1175779841/

273 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 22:13:17
みんな見よ!プラム=河童虫の>>270レスを!!
漢籍や辞書を勝手読みして屁理屈を捏ね回し、俺様だけが模範だ正解だルールだと
他人を睥睨して悦に入っている傲慢な態度を。

274 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 22:21:03
「傲慢」つーことでは無いと思うよ。
単に勘違いしてるだけだろう。

275 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/30(火) 22:21:34
>>272

証拠根拠を提示しても理解できないのはそちらさん。

どんな根拠証拠が欲しいのか  言ってみなよ
出してあげるから

276 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 22:24:43
さっそく傲慢な態度>>275

277 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 22:33:38
証拠を出せないなら尻を貸せとかいって強引に迫るんじゃないでしょうか?
怖いですね。

278 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 22:38:10
>隔離スレ

もし卑弥呼の人となりを専門に論じるのなら
神奈川県民さん執心の、このスレがありますよ、

【謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!23】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1221483488/l50

まだ40レスほど進んだだけで、たくさん書けます
きっと神奈川県民さん喜ぶでしょう

279 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 22:38:45
>>275
>証拠根拠を提示しても理解できないのはそちらさん。

というが、河童虫が証拠らしきものを挙げたのを見たことがない。
いつも自分はこう読むということしか書かない。
挙げられていない証拠を理解しようがない。

前回、年已長大が話題になったとき、長大は成人の意味だと用例つきで示されたはず。
それに対して、河童虫は自説の根拠を何一つ挙げられなかった。
良い機会だから、証拠を挙げてくれよ。

>どんな根拠証拠が欲しいのか  言ってみなよ

どんな証拠って、自分が証拠になると思うもの全部を挙げればいい。
挙げる挙げないは君の責任。それを理解できるかどうかは、こちらの話。

280 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/30(火) 22:45:39
>>276
>傲慢な態度

何をおっしゃる兎さん。
これっぽっちでガタガタ騒ぐんじゃねぇよ!なぁ

281 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 22:53:13
プラム=河童虫の信条

「俺様の解釈だけが正解です」
「俺様がルールです」
「お前らは全員、俺様の解釈を拝聴し、俺に従え」

282 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/30(火) 22:58:06
>>279

>前回、年已長大が話題になったとき、長大は成人の意味だと用例つきで示されたはず。
それに対して、河童虫は自説の根拠を何一つ挙げられなかった。
良い機会だから、証拠を挙げてくれよ。

成人の意味で提示された「長大」は年已長大の長大だったか?
はっきり言ってみろよ  ん?
長大と書かれたらすべて「成人」の意味に成るのか? ん?
文章を読めよ、文章を
何処に成人を連想させる要因があるんだ  ん?

ここの長大は
「乃共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫壻有男弟佐治國」
という文章から意味を探し出すんだよ


★それに
ここは「長大」ではなく「已長」あるいは「已長大」だ

しっかりしろよ  ねばけてんじゃね〜ぞ

だから「長大」がどうのこうのなんて関係ね〜んだよ

283 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/30(火) 22:59:54
>>281

馬鹿が
なに決まり切った事を言ってんだよ

だまって聞いてろ  

284 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 23:00:46

おもしろくないなあ・・・・・・・・


285 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 23:18:42
倭人伝の逐字解釈の不毛さが出てるな。
文献史学とは、あくまで複数の同時代の文献を吟味することで、
その整合性を高めるのであって。
倭人伝一つ、しかも外国人の伝聞じゃあ甚だ心許ない。

いい加減、考古学>倭人伝>>>記紀を認めようよ

286 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/30(火) 23:23:01
>>285

>いい加減、考古学>倭人伝>>>記紀を認めようよ

文献だって考古学だろう

287 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/30(火) 23:33:42
だいたい
「年」を人の年齢と解している時点でペケ
人の年齢なら「年」ではなく「歳」。或いは「年+数詞」「数詞+歳」で表されるよ。

単に「年」と書かれれば(期間)と解し、「年」は前文(事鬼道能惑衆)に掛る。

288 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/30(火) 23:40:22
>>285
無紀力相撲が好きな奴!w

289 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/01(水) 00:13:32
「年已長大」が(年はすでに長大)で、解されるのなら、
あそこは

「名曰卑彌呼年已長大…」と言う文章になる。

290 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 00:17:09
枝葉末節に突入して本筋の戻らないのが、実りのないプラム=河童虫特有の議論展開。

291 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 00:36:19
漢代の華夷思想の図
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Tenka_Han.png

魏に朝貢した卑弥呼の邪馬台国は九州みたいだね。

292 :のんびりひまじん:2008/10/01(水) 00:41:00
× 後漢書東夷伝⇒魏志 東夷伝(あるいはそれぞれ単独に対等資料)
○ 魏志 東夷伝⇒後漢書東夷伝

(そう主張する理由)
・魏志:タンジ朱ガイに似ている・・・(誤読)・・・>タンジ朱ガイに距離近い
       この誤読の背景:短里に気付かないで南の海南島だか台湾だかに近いと誤判断
・魏志:上戸4・5婦、中戸2・3婦、下戸1・2婦・・・(誤読)・・・>女多男少
       この誤読の理由:奴婢の見落とし(奴:男奴隷多い、婢:女奴隷少ない分は婦つまり2・3・4・5夫人)

つまり、後漢書東夷伝は、魏志 東夷伝の記事(+誤読)と後漢時代独自記録によって成立(女多男少は後世にまで影響)
                              〜いったんここまで

293 :どくだみ:2008/10/01(水) 00:45:51
河童さん、今日はなんだか荒れてるね。

>>287
大漢和からの孫引き
呂氏春秋・下賢「坐必以年(坐するには必ず年を以てす) (注 年、齒(よわい)也)」
他にも「年」を年齢の意味で用いている例はたくさんあります。
>人の年齢なら「年」ではなく「歳」。或いは「年+数詞」「数詞+歳」で表されるよ。
なんていうルールはないです。

年を年齢と考えるにしても期間と考えるにしても、「年 已に長にして大」なわけですよね。
「長にして大」の主語は「年」ですね。
「期間が長い」というのは普通ですが、「期間が大きい」とは言いません。これは漢籍でも同じです。
河童さんは>>270で「長く、影響が大」というふうに、勝手に「大」の主語として「影響」を補っています。
それは、「期間が大」では変だと自分でも思ったからでしょう。しかし、原文に「影響」なんてありません。
年が長く大きいと言っているのです。
さて、年には年齢と期間の両方の意味がありますが、
「大」と表現できる「年」の意味は、「期間」の方ですか?それとも「年齢」の方ですか?

>何処に成人を連想させる要因があるんだ  ん?

年と大の組み合わせで成人だなと解ります。
逆に、この組み合わせで年を期間と読むのは、ちょっと・・・と思います。

294 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 01:32:33
卑弥呼は一人だけで184年頃に即位して248年頃に死亡したとしよう。
卑弥呼の即位が12歳位であるとしよう。

そうすると、卑弥呼を補佐した「男弟」は、70歳以上であったと推測されるが、
それはおかしいんじゃないか。


295 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 02:09:39
考古学は遺跡や遺物を扱う学問だよ

296 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 03:18:35
考古学は古代の文化を扱うもの。

文献の助けがないと、歴史的なことは、な〜んにもわからない。
文献にどっぷりと寄りかかっているのが考古学。

たとえば、倭人伝に卑弥呼は銅鏡百枚をもらったと書かれているから、
もらったのはどの鏡だろうかと推定できる。
倭人伝に、卑弥呼の生きた年代が書かれているから、年代論を展開できる。
すべてがこの調子。

これで、文献よりも考古学の方が優位にあると考えるのは本末転倒。

297 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 04:42:04
>>293
河童さんの期間説に対する反論はそのとおりと思いますね。
まあ、期間説がよくそんな妙な読み方を考えたものだという感じのものですが。

ただ、「年と大の組み合わせで成人だなと解ります。」との点は長大を単に成人
と解しているのならば、賛成しがたい。長じて大となる=成人するという意味で
使われる場合もありますが、倭人伝の場合にはそうではない。長かつ大、いずれ
も老人を意味する文字を重ねたもの、卑弥呼が老人であったことを述べていると
読むべきです。

>>294
よいところに気づかれたと思います。共立2世紀後半説がまちがっているための
矛盾ですね。卑弥呼は、魏の時代になってから共立されたのです。

298 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 07:07:37
女王国を宇佐(大分)から日向(宮崎)にかけての九州東南部と比定したい。
魏書にいう「水行十日・陸行一月」と隋書にいう「其國境東西五月行南北
三月行」の説明がなされない限り筑紫付近はダメダメです。
畿内説は論外として、北部九州に比定できない根拠として

■計其道里當在會稽東冶之東
郡よりの方向、距離から推測すると、女王国の位置は会稽・東冶(台湾・奄美
大島の西対岸)の真東にあたると認識されるほど相当に倭国の南と理解されて
いた。

■倭地温暖冬夏食生菜皆
倭の地は温暖で、一年中生野菜を食べていると記載されている。意外と北部
九州も雪が多く、冬も寒いが、その点では宮崎は温暖の地です。

■使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚
女王国より北の国々には監察吏員を特別において諸国の皆が畏怖していた。
よって、女王国が北部九州ではありえない。

■女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有朱儒國
女王国の東に海を渡ること千里(対馬から壱岐と同程度の距離)にまた国があっ
て、全て倭人が住んでいると記載されており、四国(伊予)が倭種として比定され
るが北部九州では比定地がない。


299 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 07:19:01
>>298
>女王国を宇佐(大分)から日向(宮崎)にかけての九州東南部と比定したい。

その地域に何かそれを思わせる遺跡があったら提示してください

300 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 07:38:26
日向にはおびただしい古墳があります。ということは、古墳を造る習慣ができる
前から多くの人々が住んでいた、そこに強い権力が存在したということはまちが
いありません。

301 :サガミハラハラ:2008/10/01(水) 07:38:48
>>294大変よいところに気が付きました。これはとても重要なことなのですが、今までだれも考えてみたことがないようなのです。
邪馬台国論争の空白というところでしょうか。

302 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 07:40:51
>>296
アホか。
考古学が文献学に付随とか、その逆とか、
そういうもんじゃない。
考古学者は文献学の研究を元に発掘できるし、
文献学者は考古学者の研究によって説を裏付けられる。
互いに互いを軽視してはいかんよ。

303 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 07:45:33
20才位離れているというのも有り得ると思うが。
一夫一婦制ではないみたいだし。

304 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/01(水) 07:46:42
無紀力相撲廃止!

305 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 07:49:32
義理の弟ということもかんがえられる。
つまり、規則では弟が補佐するということになっているので、弟がいない場合、
補佐する人が義理の兄弟になったとか。

306 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/01(水) 07:51:07
>>297
何処が妙なのどしょう?

「長」は
事鬼道能惑衆年がすでに
「大」は
事鬼道能惑衆年已長が

と、言っているのです。

★卑弥呼が共立された時、既に民は、宗教にて惑わされた期間が長く、広く(行き渡る)


広く(行き渡る)=影響大

307 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 08:00:44
>>298
>女王国を宇佐(大分)から日向(宮崎)にかけての九州東南部と比定したい。
>魏書にいう「水行十日・陸行一月」と隋書にいう「其國境東西五月行南北
>三月行」の説明がなされない限り筑紫付近はダメダメです。
>畿内説は論外として、北部九州に比定できない根拠として
宇佐自体が北部九州のように思います。
邪馬台国宇佐説の人はどういう位置づけ?
宇佐説として肯定され、北部九州説として否定される?

308 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 08:48:23
>>286 河童虫 ◆EY2wfgakAQ
>文献だって考古学だろう

>>296
>文献の助けがないと、歴史的なことは、な〜んにもわからない。


・・・なんでこんなアホばかりなのか?

後者も多分九州説論者だと思うが。。

309 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/01(水) 09:11:28
>>293どくだみさん

・衆を鬼道にて惑わす事既に長し
・衆を鬼道にて惑わす事既に大

これが
「…事鬼道能惑衆年已長大…」
の、正しい和訳です。

この場合、「年=期間」は和訳されず省略されます。

310 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/01(水) 09:49:50
>>308

未だに「九州説、畿内説」って

難儀やの〜(>_<)
もう少し大人になろうな!

311 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/01(水) 10:23:41
文脈見れば分かるけど、「年已長大」が「無夫壻」の理由になる事は
断じてない。
「無夫壻」だから「有男弟佐治國」

★卑弥呼は独者だから舎弟が補佐をしていた。

「年已長大」は前文に掛かる。


年已長大で、無夫壻
なんてどう考えても、前後の文に繋がらず浮いちゃうだろう。


「事鬼道能惑衆」が「年已長大」なの。

312 :のんびりひまじん:2008/10/01(水) 12:54:17
>>311
>年已長大で、無夫壻
>なんてどう考えても、

この記事は、
卑弥呼は35歳くらいに見える(魏使が面会)のに、いい年してまだ独身(負け組)という
記述と見るのが素直な読み方ではありませんか?

なお、2倍年暦説は、30年ほど前に安本美典さんが初めて提唱し、古田武彦さんが同調。
たいていのプロ学者はほとんど沈黙した。
その沈黙の意味は、『参った。知らなんだ。』⇒魏志倭人伝についてのプロの議論沈滞 と
全体状況を理解しています。(プロたちの内心:シロウトにやりこめられた)

魏志倭人伝の記事:住七八十年 についても2倍年暦を考慮しておく必要はありませんか?
      
                      〜いったんここまで

313 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/01(水) 12:59:33
衆を鬼道きて惑わす事、既に長で大だったので、男王では纏まらない国政に対し、卑弥呼を立たせる事で共立させ
民を安堵させ、国情を安定させた。

これが魏時の共立。

後漢時の共立は、主不在の混乱を鎮静させるため。

次代卑弥呼は国内に於ける禅譲行為

314 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 13:01:19
>>265
古代の漢字の実際の音を探るには
韻書(切韻系の廣韻)、古辞書(例えば「説文解字」の音注)、
詩経などの韻文の押韻、諧声熟語の研究と
北京官話以外の各地方言及び
日本に伝わった古音を参照するのが一般的。
これは藤堂明保、中国の王力などが採用している手法。

陳寿が正史三国志を完成させた後西晋の311年
永嘉之乱で五胡が中原を蹂躙、難民が大挙南下。

中国大乱、中原の言葉は胡人の言葉の影響を受けて変化。
南に避難した保守的な方言を話す人々が古い発音を今日に伝えている。
「其」は日本漢字音で「キ」、北京語ではqiチーと訛ってるが
アモイ方言ki、客家語ki、広東語keiと古い音を残している。
このうち広東語は母音に比較的複雑な音を残しており
古代音の推定に有益だ。

「支」は「説文解字」によれば頭の子音は「章」と同じで
これは永嘉之乱の五胡蹂躙後の発音。北京語も
「支」「章」の頭子音は同じ。
しかしアモイ方言、客家語は皆頭の子音がKで
万葉仮名の頭子音と一致する。

315 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/01(水) 13:06:45
>>312

全然素直じゃないっす。

火曜サスペンスドラマなら、話しが膨らみそうな内容にはなりますが、


実は愛人が居て……

316 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/01(水) 13:20:40
>>312

年が既に三十路を過ぎ独身だ、というのなら
「既に=已」に対する
理由説明が文中でなされるはずですよね?
それは何処?

どうして三十路を過ぎても独身なのか?

317 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 13:36:58
マキムクの箸墓から
祭り用の最古の木製の仮面が出土だと。

318 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 13:45:23
>>269
日本書記では神武もヒミコだよ。答=日の御子

319 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 13:46:40
>>312
神に使える巫女は、結婚は疎かセクースもダメ。
処女でなければならない。

だかホトを箸でついたとは、
巫女を辞めた証ではなかったか。

箸というのも箸中を連想させるよな

320 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 13:56:43
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050618/4482.jpg
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050610/2764.jpg
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/090.jpg

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/099.jpg
http://www.sx.xinhua.org/ztjn/2003-08/29/xin_49b7e0a2d93511d7be2c0050ba1967d3.jpg
http://www.shtong.gov.cn/node2/node4/node2250/songjiang/node70313/node70604/images/00004623.jpg

321 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 15:17:25
>>317
あそこも痛々しいね。

322 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 15:21:57
>>308
何度も言っているが、考古学は古代の文化を研究するもの。
石碑などの文章が出てこない限り、歴史的なことはわからない。

考古学で歴史がわかるのなら、縄文時代にどんな人がいて何をやったか
考古学で語ってみ。

323 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 16:13:48


324 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 16:37:36
>>322
住居跡から彼らがどんな生活をしていたのか分かる、それも歴史。
遺跡から彼らの宗教観が分かる、それも歴史。
墓の跡から彼らの生死観が分かる、それも歴史。

人々がどうやって生きたかその痕跡、文化を知る事が歴史でなくてなんなんだよアホw
そもそも人物の名前が出てこなければ歴史じゃないのか?カスw
言っている事がサイキバ君レベルwww

邪馬台国論争で頭に血が上って考古学・文献史学のその役割の違いについてすら
分からなくなっているアホが多すぎるwww

325 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 16:42:11
歴史とは語源としては、文字に記されたものじゃなかったか?
つまり文献由来の史。

考古学は原則として文献由来でない史。

>>324は歴史の定義を広義にとっているだけなのだ。

326 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 16:59:36
>>324の考える考古学とは、合法的に行う墓泥棒。

327 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 17:05:20
>>325
手っ取り早くWikiから
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2
>語源
>歴史
>日本語の歴史は、司馬遷の『史記』に由来する。
>前漢の武帝時代、太史令であった司馬遷が記述した『太史公書』がのちに「史記」と呼ばれるようになり、「史」が歴史の意味でも使われるようになった。
>司馬遷は黄帝から武帝までの皇帝の変遷を正統性の概念で記述した。以降、
>「史」は皇帝の正当性を主張する書物として古代中国の各時代で伝統的に編纂されることとなる。
>また正統性の概念は周辺アジア地域においても影響を与え、『日本書紀』等が編纂される動機となった。
>明治時代、"history" の訳語として、もっとも概念的に近いと思われる「史」を元に「歴史」という用語が造られた。

上記の説明で言うとお前が言っている「史」は「歴史」に内包されるものだなw
俺が歴史を広義に解釈しているのではなく、お前が狭義に解釈しているだけwwww


328 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 18:35:03

河童虫氏と同じ

こう言うことだな
「乃they共立一女子who爲王whoese名曰卑彌呼who事鬼道能which惑衆for年已長大,and無夫壻,and有男弟who佐治國」


329 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 19:10:42
>>327

全く違うぞ。「歴」という語に「記録されたもの」という根源的意味があるだろ。
だれが「史」だけの話などしてるわけ?

330 :どくだみ:2008/10/01(水) 20:20:27
>>297
>長かつ大、いずれも老人を意味する文字を重ねたもの、
>卑弥呼が老人であったことを述べていると読むべきです。

長と大が老人を意味するという根拠は何でしょうか。
私が長大を成人と解する理由は三点あります。

理由の1は、?書 諸葛瑾傳
逮丕繼業,年已長大,承操之後,以恩情加之,用能感義.
今叡幼弱,隨人東西,此曹等輩,必當因此弄巧行態,阿黨比周,各助所附.
これは、曹丕と曹叡の即位の状況を比較した諸葛瑾の寸評です。
曹叡が即位したときは幼弱だった(といっても20歳ですが)のに比べ、曹丕は「年已長大」だったと述べています。
この時曹丕は、たしか33歳です。老人ではありません。

理由の2は、漢書 師古注 
師 古 曰 : 「 少 壯 , 猶 言 稍 長 大 . 」
師 古 曰 : 「 少 壯 者 , 言 漸 長 大 也 . 少 讀 如 本 字 . 」
この顔師古の注は、
「少壮とは、稍く長大になったというようなもの」
という意味だから、「長大」を「壮年」=「おとな」という意味で使っている。
では、壮年とは何歳か?
禮記・曲禮「人生十年曰幼學二十曰弱冠三十曰壯有室四十曰強而仕五十曰艾服官政〜」
(十歳を幼学という。二十歳を弱冠という。三十歳を壮という。結婚する。以下百歳までつづく)
つまり、長大≒壮年=三十歳以上四十歳以下
二十歳で即位した曹叡を幼弱と言い、三十代半ばで即位した曹丕を年已長大と評したことと符合します。
つづく

331 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 20:20:55
つづき
理由の3は、年已長大が後ろの無夫壻と対になっているからです。
河童さんは違う意見のようですが、夫壻が無いことと、
弟が治国を助けることに何の論理的脈絡もありません。
夫がいても宰相は別にいても良いですし、夫がいなくても弟が治国を助ける理由にはなりません。
夫がいないということは、幼女や老婆なら不思議ではありません。
結婚適齢期であるのに夫がいないということが記録として意味があるのです。
だから、後漢書もこの二句を一句に約めて「年長不嫁」と言っています。
河童さんは、後漢書と魏書の共立は別事件などとお戯れを仰っていますが、
貴方はそうは言わないでしょうから、後漢書も理由の一つとして挙げておきます。

以上、三点から長大は成人と解すべきで老人と解すべきではないと考えます。
長大を老人と考えるのは、文献的根拠からではなく、
長老という言葉のイメージに引きずられているのではないでしょうか。

332 :どくだみ:2008/10/01(水) 20:41:59
>>309
河童さん。>>306のレス
「長」は
事鬼道能惑衆年がすでに
「大」は
事鬼道能惑衆年已長が

>>309のレス
・衆を鬼道にて惑わす事既に長し
・衆を鬼道にて惑わす事既に大

何が大なのか、わずかの間にころっと変わってます。行き当たりばったりの説と言われても仕方ないですよ。

まず第一に、「何が大なのか」、それを自分で整理して、定見を作ってから反論してください。
反論するたびに変っていたら、相手にできません。

次に
>この場合、「年=期間」は和訳されず省略されます。
何故、年が省略されるのですか?
和訳の際に文字が省略されるには、それが置き字であるとか、それ相応の理由があります。
また、逐語訳すると日本語としてこなれていないので、敢えて省略や補填をすることがあります。
しかし、その場合、こなれていないだけで、逐語訳は可能です。
ところが、あなたの「正しい和訳」は「年」を訳そうとすると訳せない。
「年」を省略することで初めて成立する和訳が正しい理由はなんですか。
「年」を省略する根拠を示してください。
根拠もなしに、都合の悪い文字は省略し、都合のよい言葉を補えば、
原文から遊離して、自分の訳したいように訳を作れます。
また、和訳で省略されたとしても、原文の「年」は消えません。
河童さんがどんな訳し方をしようが、年が長・大と結びついていることは変わりません。
「大」と表現しうる「年」の意味は「期間」でしょうか「年齢」でしょうか?

333 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/01(水) 22:07:09
>>331どくだみさん
>河童さんは違う意見のようですが、夫壻無いことと、
弟が治国を助けることに何の論理的脈絡もありません。

論理的脈絡がないと考えるのは、どくだみさんの認識内での話ですよね
だったら、その認識外の論理的な脈絡が有り、夫壻無いことと、
弟が治国を助けることが関係するのです。

>夫がいても宰相は別にいても良いですし、夫がいなくても弟が治国を助ける理由にはなりません。

いいえ 夫がいないから政務を舎弟が補佐したとかいてあるでしょう
卑弥呼は宗教専門ですから、当然国政は別人が担当するのがあたりまえですよね

>結婚適齢期であるのに夫がいないということが記録として意味があるのです。

火曜サスペンスドラマなら、裏に愛人の匂いがし、物語が広がりそうですね

>だから、後漢書もこの二句を一句に約めて「年長不嫁」と言っています。

関係ないでしょ
別人の記録ですから

>河童さんは、後漢書と魏書の共立は別事件などとお戯れを仰っていますが、

戯れかどうかは記録を見れば明白です。
後漢時の共立は「主」不在のため、魏時の共立は「主」不在なんてどこにも書いてありませんよ



334 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/01(水) 22:25:36
>>332
>何が大なのか、わずかの間にころっと変わってます。行き当たりばったりの説と言われても仕方ないですよ。

言いたい奴は何を言っても粗を探しますからご心配なく
それに、ぜんぜん変わっていませんよ

>何が大なのか

魏時卑弥呼が共立される前、衆を鬼道にて惑わす事長く(時間的)大(広い) だ

つまり、
初代女王卑弥呼(後漢時)が国の頂点にて君臨し、今日まで
卑弥呼が行ってきた、衆を鬼道にて惑わし統制してきた事がいきわたっていた

いわいる
初代女王卑弥呼〜次代女王卑弥呼(親魏倭王)までの
宗教的な彌政権、
この制度が浸透していたので、男王が王として君臨しても衆は従わず
結局三代目卑弥呼を共立することとなった



335 :どくだみ:2008/10/01(水) 22:37:00
>>333
>論理的脈絡がないと考えるのは、どくだみさんの認識内での話ですよね

いいえ。私の認識内ではありません。一般的に
女王に夫がいない   弟が治国を助ける
この両者の間に、必然的因果関係がありますか?
世界中のどの国の女王でも、夫がいないと弟が助けるという法則はありません。
ならば、両者に因果関係があるとすれば、卑彌呼の場合に限った特殊事情ということになります。
その特殊事情は、倭人伝のどこに書いてありますか?どこにも書いてありません。

>いいえ 夫がいないから政務を舎弟が補佐したとかいてあるでしょう

倭人伝に書いてあることは、「夫がいない」 「弟が治国を助けた」の二点です。
両者を繋ぐ「から」は書いてありません。それは、河童さんが脳内で補った言葉です。

>火曜サスペンスドラマなら、裏に愛人の匂いがし、物語が広がりそうですね

儒教社会では、結婚して子孫を残すということが最大の徳であり、子孫がないというのは最大の不孝です。
だから、詩経や儀禮などの儒教経典では、結婚に関することが重要なテーマとして扱われています。
夫がいないというのは、幼女や老婆では問題になりませんが、結婚適齢期の女性では特記すべき特徴です。
火曜サスペンスどころの話ではありません。我が中華の国では考えられないような習俗であるという記録です。
後漢書については、河童さん用のレスではありません。

336 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 22:39:32
みなさん。ぜひ真摯な態度で、お互い古代史に向き合っていきましょう。
真摯な態度が見えない人のレスは、、スルーした方がいいと思うよ。

337 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/01(水) 22:43:41
>>335

>世界中のどの国の女王でも、夫がいないと弟が助けるという法則はありません

ありますよ
現在も日常的に

親分が亡くなり、姉さんが組長代行を務めている時には
必ず舎弟の若頭が組を補佐し、実質的に組を運営していくのは(舎弟である)若頭
しかし、名目的には姉さんが上位です。

338 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/01(水) 22:48:35
>>335

>倭人伝のどこに書いてありますか?どこにも書いてありません。

それが
書いてあるんですよ

339 :どくだみ:2008/10/01(水) 22:49:45
>>334
>それに、ぜんぜん変わっていませんよ
貴方のレスが、他人にどのように理解されるかが解っていないようなので、解説しておきます。
306では、
鬼道で衆を惑わした年が已に「長い」 鬼道で衆を惑わした年が已に長いことが「大きい」
と言っています。「大」の主語は「長い」です。
309では、
衆を鬼道にて惑わす事既に 「長し」かつ「大」
と言っています。「大」の主語は「事」です。
繰り返しますが、
前者は、「期間が長いことが大きい」と言っています(日本語になっていませんが)「大」の主語は「長い」です。
後者は、「惑わす事」が「長く」て「大きい」と言っています。「大」の主語は「事」です。
両者は全く違います。

334のレスを見る限り、河童さんは後者の意味で書いたようですね。
では、そう言う意味だとして、以下レスをいたしましょう。

340 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 22:50:12
夫がいないと弟とやるというのは、現代の常識では
近親相姦だけれど、卑弥呼の時代にはそれが普通
だったのです。
だから、家系図がややこしいことになった。

341 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 22:55:14

>>336
>真摯な態度が見えない人のレスは、、スルーした方がいいと思うよ。

了解。

342 :どくだみ:2008/10/01(水) 23:04:58
>>338
>それが書いてあるんですよ

いよいよ、証拠提示ですか。期待しています。

>魏時卑弥呼が共立される前、衆を鬼道にて惑わす事長く(時間的)大(広い) だ

「年已長大」
長大であるのは「年」です。「年」に「事」という意味はありません。
年は広いとは言えません。年が大である以上、「大」は「広い」の意味にはとれません。
1、あなたのように訳す上で、「年」は何処に消えたのですか。何故省略したのですか。
2、「大」と表現できる「年」の意味は「年齢」ですか「期間」ですか

>親分が亡くなり、姉さんが組長代行を務めている時には
>必ず舎弟の若頭が組を補佐し、実質的に組を運営していくのは(舎弟である)若頭

妙に舎弟という言葉にこだわると思ったら、そんな勘違いをしていたんですね。
弟という言葉は、男女共通で使います。現代で言う妹も弟と表記します。
だから男であるということを明記するために男弟と書いてあるのです。
若頭の意味ではありません。現代語で言う「妹」ではなく「弟」だということです。(この場合異母兄弟やいとこを含む場合もあるようです)
女王を臣下の筆頭が宰相として助けるのは当たり前ですが、その宰相を「男弟」とは言いません。
だから、河童さんが出した若頭の例は当てはまりません。

343 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 23:47:12
>>330
>長と大が老人を意味するという根拠は何でしょうか。
漢和辞典でもご覧ください。

>理由の1は、?書 諸葛瑾傳 曹叡が即位したときは幼弱だった(といっても20歳ですが)
>のに比べ、曹丕は「年已長大」だったと述べています。
>理由の2は、漢書 師古注  師古曰 : 「 少 壯 , 猶 言 稍 長 大 . 」〜
>この顔師古の注は、「少壮とは、稍く長大になったというようなもの」
言葉にはいろいろな意味があります。あなたが指摘する例は、確かに老人という
意味ではないでしょう。しかし、それは文章の流れを読めば、幼弱者との比較と
か、「ようやく」といった言葉から、長じて大になった(一人前になった)とい
う意味であると解釈されるわけです。
しかし、倭人伝の場合はそうではありません。卑弥呼は国々から共立されて王に
なったのです。一人前の人間であることは改めて言うまでもないことです。
ですから、卑弥呼の場合は、長じて大になったではなく、長かつ大と老人を意味
する言葉を重ねてかなりの年齢であることを示したと読むべきです。
倭国乱の時期をどうみるかという問題がありますが、共立されてそう長い年月は
たたないうちに卑弥呼は死亡しています。また、弟は国を治めるを助けています。
卑弥呼が若かったらそんなはずはありません。


344 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/01(水) 23:58:02
>>342

>妙に舎弟という言葉にこだわると思ったら、そんな勘違いをしていたんですね。
弟という言葉は、男女共通で使います。現代で言う妹も弟と表記します。
だから男であるということを明記するために男弟と書いてあるのです。
若頭の意味ではありません。現代語で言う「妹」ではなく「弟」だということです。(この場合異母兄弟やいとこを含む場合もあるようです)
女王を臣下の筆頭が宰相として助けるのは当たり前ですが、その宰相を「男弟」とは言いません。
だから、河童さんが出した若頭の例は当てはまりません。

いや〜
そう誤解されましたか
別に勘違いしているわけじゃなく
複雑な関係を身近な例えで説明したつもりなんですがね
「男弟」は宰相なんかじゃなく、女王と同格でも・・・・

>「年」に「事」という意味はありません。

「事」は「年」の中の事象ですから
「事」は「年」の中の事象であり、「長」はその事象の期間ですから
年を改めて期間と訳さずともいいわけです。
で、「大」は「年」の中の事象「事」

「年」は何処にいっても「期間」です。


345 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 23:58:19
>理由の3は、年已長大が後ろの無夫壻と対になっているからです。
これは何の理由にもなりません。かなりの年だけど夫はいない、そう解して何も
不自然はない文章です。
参考までに、手元の三木太郎編という倭人伝全訳では「すでにかなりの年配であ
るが夫はなく」とされています。また、田辺昭三は、「卑弥呼が王位についた年
齢というのは〜かなり高齢になってからでは〜」としています。

346 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/02(木) 00:24:20
どくだみさん

「男弟」 と 「弟」の違い
「女弟」 と 「妹」の違い

当時使い方として両方存在したので、 弟の「男女」の区別をつけるために「男弟」としたとの
理由では
ちょっと早すぎる決断だと考えます。


347 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/02(木) 00:32:50
「以」は 「以」とする起点から見ると 時間的に未来

「已」は 「已」とする起点から見ると 時間的に過去


「以往」は「以」とする時から 後

「已往」は「已」とする時から 前

どうやら最近は混用されているようである。

348 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 00:38:23
ここは、河童虫=プラムが、字引を勝手読みするだけのスレ

349 :業界人:2008/10/02(木) 07:58:24
やくざの世界では、格下の兄弟分のことは舎弟と呼ぶが、
親分子分の関係では使わない。
若頭と言うのは、子分(若衆)の中の頭と言う意味だ。
なので、ぷが使った若頭の用例は明かな誤用。
意図的に間違えたのでないなら、
ぷは兄弟関係と親子関係の違いも認識出来ない認知症。

350 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/02(木) 10:06:43
>>349業界人さん

おお〜っ

自分で今読み返して見たら「舎弟の若頭」と書いていたは!

これはとんだ失言だった。これは正にm(__)m状態だ


自分では★「舎弟の中の舎弟頭」と書くつもりが若頭に、ついつい若頭の方が
自分の頭の中でメジャーだったので、ウッカリミス。
★指摘かたじけない。



ところで
どちらの組の方でしょうか?

351 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/02(木) 10:39:40
>>349

ところで
話しは変わるが


>認知症

そう貴方が公の場で述べたという事は、脳の損傷を確認した結果だよね
だから認知症と判断できるのであって
という事は、貴方は何らかの医療行為をし診断をしたという事になる。
で、貴方は医師免許をお持ちですか?
万一無免許行為での診断の場合、医師法違反に抵触するのではありませんか?

その場合、立派な犯罪行為となるのではありませんか?

352 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/02(木) 11:39:29
>>河童虫
>>328

楽しいので、少し変えました
『乃the Wi peaple共立一女子whom爲王whoese名曰卑彌呼who事鬼道能which惑衆for年已長大, who無夫壻,and who有男弟who佐治國」


353 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/02(木) 12:25:13
>>352王朝さん

あの部分の読みは
たぶん、私の読みで間違いないと思います。
そしてあそこの記事は、倭人伝全体の中で微妙な位置に記載されており
大変重要な記事なのです。

354 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/02(木) 12:38:47
後漢書倭伝の中の『桓靈間〜』で始まる記事と、
魏志倭人伝の中の『其國本〜』から始まる記事は

一見似たような記事に見えるが、まるで別内容。
対象となる時代も違うし、後漢書は
邪馬台国全体を視野に置いた目線で書かれているが、
魏書は
邪馬台国の中の一部特定地域を視野に置いた目線で書かれています。


この違いを理解できるかどうかで、永久迷路か完全脱出か別れます。

355 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 13:52:58
>>354
他の中国文献をみれば分かるけど使いまわししている。
共立のくだりだけを取っても、微妙に言いまわしは違うが、
魏志倭人伝、後漢書、梁書、隋書、北史列伝にある。
私はみな同じ時代の内容を伝えていると思う。

それに年=暦年と書くべきだと思う。年だけでは歳とみるのが妥当。

356 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/02(木) 13:57:17
>>354
>後漢書倭伝の中の『桓靈間〜』で始まる記事と、
>魏志倭人伝の中の『其國本〜』から始まる記事は
>一見似たような記事に見えるが、まるで別内容。

卑弥呼複数説と卑弥呼地位名(職名)説で、以前から同じ意見です。

僕は永久迷路に入り込みませんでした。

357 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/02(木) 14:26:00
>>314
あなたの書かれている通りです。よく認識されています。

>>248で書かれた内容が間違っていました。
× 壹(ゐ)
○ 壹(い)

耶麻壹國だから、壹を採って壹與と名乗った。(壹國の與)

358 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/02(木) 14:33:00
>>357の間違い
× 耶麻壹國
○ 邪馬壹國

359 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 14:45:41
>>354
補足
魏志倭人伝には、70〜80年ほど経つと倭国は乱れた、と記されてあります。
107年永初元年 倭国王師升、生口160人を献じ請見を願うとあります。>後漢書
この時はまだ平和だった、その後から70〜80年後ということで、170年〜180年の
およそ垣帝霊帝の時代と一致する。


360 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/02(木) 14:58:25
孝靈天皇山陰行幸(孝靈45年=176年:倍暦計算の実年代)は
倭の大乱関係での出向なんだろうな。

361 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/02(木) 15:53:45
>>359

魏書に書かれた「倭國亂」と、
後漢書に書かれた「倭國大亂」は
卑弥呼共立がそうであるように、別物です。

362 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 21:09:21
昔の倭国は、部族間の争いが絶えず、よく乱れました。
そのため、大和朝廷は、徹底した民族融和政策を取った。
それはどういうことかというと、ヤマトタケル(つまり大和軍)が征服した部族は、
強制的に移住させ、しかも、同じ部族の人間は同じ場所に住まわせない。
意図的に民族を分断することで融和と混血を進めた。それが今の日本の混沌
とした状況を生んだのです。
ひと口に日本人といっても、沖縄などの南方系の顔つきの人やのっぺりとした
漢人の顔、朝鮮顔、えらの張ったツングース系、西洋人のようなユダヤ系・・・
そういう顔の人が自分は純粋な日本人だ信じている。

卑弥呼の時代の日本は、今のアメリカのような人種のるつぼだったと思われます。



363 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 21:41:38
せっかくのスレが、アホのプラムによって埋め立てられていくのは忍びない。
アホのプは書き込まないで欲しいものだ

364 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/02(木) 22:28:41
>>363

残念ながら
賢いプラムで、君のアホにはなりきれない。
プラムが居るうちに
しっかり学習してくれ。

365 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 22:58:15
3のつくレスではアホになる世界のプラム

366 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/02(木) 23:03:19
>3のつくレスではアホになる世界のプラム

「三」の意味は (全て)

367 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 23:48:05
ここはプラム=河童虫が字引を勝手読みするだけのスレ

368 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 01:34:24
3のつくレスではアホになる世界のプラム+「三」の意味は (全て)=全てのレスでアホになる世界のプラム

369 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 02:08:59
プラムも河童虫も

  3 文 字

370 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 06:52:40
九州北部説はの方に質問

土地勘がないのですみません。

現在の「小城」「久留米」「大宰府」「小郡」「うきは」あたりは
3世紀半ばでも、そこそこ、倭人条に記載のような 繁栄?はあった
のでしょうか?

2世紀あたりまでは繁栄(考古学見地より)していたかもしれませんが
その後はどうなったのでしょうか。

少なくとも、比定地するならば3世紀半ばまでは7萬戸を擁する繁栄が
必要となりますが・・・


371 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 11:26:28
>>370
3世紀半ばというのが微妙。
どうも、吉野ヶ里あたりが衰退してから、畿内の纏向が誕生したらしい。
となると、纏向の誕生を200年とすれば、吉野ヶ里はそれ以前ということに
なり、卑弥呼時代とは重なりにくいことになる。

しかし、纏向を300年とすれば、吉野ヶ里は卑弥呼時代と十分に重なる。
逆に、纏向の方が卑弥呼時代とまったく重ならない。
吉野ヶ里の発掘に携わった高島氏はこの立場で、吉野ヶ里は、3世紀後半
まで存続していたという。

吉野ヶ里のような風景を倭人伝にいう郡使が見ていないとすれば、倭人伝に
書かれている厳かな宮室、樓觀、城柵などはどこで見たのだろうということに
なるのだが。

372 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 13:20:54
>>371
マキムク。人工的な水道跡が見つかり、
最近では箸中から濠跡と最古の木製の祭用か鬼道の仮面が出て来たそうだ

373 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 14:19:26
私は新参者なんですが、邪馬台国関連のレスを読んで以前から矛盾を感じていたんです。

つまり学会はマキムク年代遡上のように大和中心史観ですよね。
戦前、畿内の鉄器出土量が劣っているのに、学会はこれを拒絶しつづけてきたそうです。
今もずっと。ということは、学会は皇国史観なんですよね。

ところが戦後は教科書では邪馬台国は九州にあると教えました。
九州から畿内へ権力移動したという史観です。
ところが学会は神武東征を認めるから皇国史観であると批判するそうです。

学会自身が皇国史観であるのに、九州説を認めたくないがために相手を皇国史観であると
批判するのはどういうことなのか。
とても矛盾を感じて頭が混乱しました。
学会はいったい何をしたいのでしょうか。
歴史を考古学的見地、文献学的見地から正しく研究することを
妨害していて、これでは日本史の研究は何時になっても進歩しないですよね。
学会は日本書紀をそのまま受け取っているのでしょうか。
それはまさに皇国史観ですよね。
日本書紀は普通の人はなんとなくウソっぽくて信用できないと思っているのに。
感じたまでを。

374 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 14:33:42
>>372
人が少しはいたという証拠にはなるな。

375 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 15:29:28
>>373

君を含めて、このスレの九州説派は、「学会は年代遡上させてる」というが、
「年代遡上」という意味を履き違えている。

悪意ある九州説派が、考古学を曲解してるか、
考古学を理解せずに、ただ畿内説を攻撃してるか、だろうけど。

「年代遡上」の正しい意味を説明しても面倒だからしないが、
とにかく君の認識は間違いだ。


376 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/03(金) 15:36:40
>>370
農業の観点から見ると、3世紀には2世紀よりもより繁栄しました。
と言うより2世紀が最も衰退した時期です。
これは気候の観点から推定できます。
西日本の夏季気候は、寒冷期には多雨湿潤で農業が発展し、
温暖期には少雨梅雨で盛夏には旱魃になり農業は衰退します。
前2世紀の小氷期寒冷期前後には発展しましたが、
後2世紀前半には温暖期のピークになり旱魃による農業不振が原因で衰退しました。
これを示すものが、西日本の高地性集落であり、桓靈間の倭国の大乱です。
2世紀後半には気温の低下が始まり、少し落ち着き始めたことを示すのが卑彌呼の共立です。

弥生中期までの経済力に直結する主たる食料(水稲・里芋)の生産地は河川の山間から平野への出口域でした。
気温上昇による旱魃の進行と共に、食料主生産地は水の豊富な河川の中下流平野に変わっていきました。
そこに2世紀からの気温低下による豊富な水の供給です。
河川の下流域では食料の爆発的増産が可能になりました。
その爆発的食料増産開始が2世紀後半です。

魏使来倭の3世紀中頃には、その食料増産による経済的回復が始まって100年近くなるので、
その100年の期間には急激な人口増があったとみなせます。
急激な人口増があったのは筑紫平野です。
それらは、筑後川と矢部川に挟まれた筑後平野(西部南部:投馬國+北東部:邪馬壹國)、
筑後川中流域の北野地域(邪馬壹國)、嘉瀬川下流域の佐賀平野(奴國+伊都國)、それに六角川下流域の白石地区です。

この時期の吉野ヶ里(不彌國)の衰退は相対的な地盤低下を示すものです。
(吉野ヶ里は背振山地と北に入り込んだ有明海に挟まれた東西に長く南北に狭い平地、北野地域と佐賀平野を繋ぐ地峡)

377 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 16:10:14
>>376

温暖化が農業を衰退させ、
気温低下が、農業を発展させたのか?

そのトンデモなソースを教えてくれ。


378 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 16:20:23
畿内大和説論者による遺跡の年代繰上げが行われているのか、
北九州筑紫説論者による遺跡の年代繰下げが行われているのか。
真実はおのずと明らかになる。

379 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 16:41:16
夏の日照りに不作なし。
一年中通して乾季でない限り、農業の衰退は有り得ないし、逆に
低温多雨による植物の腐りの方が、農業の衰退に繋がる。

380 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 18:32:50
>>373

何で機内説だと皇国史観なのか、貴方の分析では全く説明が無いのだが。
3世紀のヤマトに当時の西日本のリーダー足り得る王権が在ったと言う説が、
諸説ある畿内説の中での最低限の条件だと思うが、
この定義には神武東征も神功の三韓征伐も必要ない。
また、畿内説の説明には日本書紀の記述など必要ない、と言うか、
畿内説と紀の歴史観は整合していない。
紀の歴史観に頼っているのは、九州説の一部の人たち。
多分、貴方は日本書紀も三國志も畿内説の概要もご存知ないのでしょう。

381 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 18:52:55
>>380
>3世紀のヤマトに当時の西日本のリーダー足り得る王権が在ったと言う説が、
諸説ある畿内説の中での最低限の条件だと思うが、

そのように最初から3世紀に求める為に、考古学的、文献学的、そのたもろもろの見地から
正確に割り出した上で、
都合の悪い結果が出るとそれは無視するか、何とか整合させてしまうのではないですか?
一切の偏見を取り払って初心に戻って研究したほうがいいと思います。
畿内説が紀に頼っていないとおっしゃるのなら、安心しました。
紀には参考になる背景が見られることは認めますが、
大和朝廷に都合のよいようにまとめられたのは誰の目にも明らかです、6C以前について。


382 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 19:02:39
>>373
(年代遡上説について)
たしかにより古い時代から日本が繁栄していたと見直すことは、自尊史観の面があります。

(ヤマト中心主義について)
邪馬台国がヤマト朝廷につながるとすると天皇の系譜を長く見ることになり、皇国史観の
側面があることは、否定しがたいですね。

(今の畿内説の考える皇国史観)
今の畿内説は、記紀の記す神武東征が皇国史観であり、九州からヤマトへの権力の移転を
否定することに思想的正当性があるとしています。

また、古い時代に畿内の発展が始まったとしても、初期の権力構造を「連合」として「王権」を
否定することにより、皇国史観ではないと考えているようです。

(学界の意地)
九州の先進性や邪馬台国の東遷を主張する説は、戦前より主として歴史学界の本流でない方が
提唱してきたので、これを認めることは「アマチュアへの敗北」とする学界側の意地もあります。

三角縁神獣鏡が国産という説(事実?)も主として、学界主流派でない方々が主張してきたために
学界ではこれを認めることができないという問題が生じています。

383 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 19:07:50
>>380
これが畿内説の方の認識の典型でしょう。

年代遡上に含まれる自尊史観の側面は、「記紀の否定」により否定されるとします。

そのため、九州の先進性、九州からの権力や文化の移動、初期の天皇の実在、
神功皇后の実在、三韓征伐などを認めることが禁忌とされます。

384 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 19:11:33
九州説+神武東征のほうが、よほど皇国史観だけどな。



385 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 20:03:16
>>374
唐古の事じゃねーよ。
あれは集落だろうが、マキムクは他とは趣が違う。
あの大量の墳墓、整備された水道、濠、
高床式の建物の柱の数、
どれをとっても圧倒してる。

九州説論者はマキムクをなんだと思っているのか聞いてみたい。

386 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 20:07:23
>>382
皇国史観だ、自尊史観だ、学会の陰謀だとか。
なんだか、ひと昔前の左翼学生運動家が、米国帝国主義がどうのこうのとか
脊髄反射でお決まりの文句を並べたチラシを読むみたいだ。
決まり切った言葉を並べているだけだから、
だれが書いても同じで個性の欠片もないチラシだったなあ。
あのころ、与えられた言葉を並べるんじゃなくて、自分で思索しろよと思ったものです。

387 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 20:15:25
http://ytteter.so.land.to/up/up19.jpg

388 :380:2008/10/03(金) 20:38:52
>>381

貴方は>>373氏かな?
違ったらごめんね。

>>380のレスは「新参者」と言う>>373氏が新参なるが言えに犯している誤解を正しているだけ。
何かの議論をする上で、相手の主張を正しく理解できないのであれば話にならないでしょ。
以下、ここで>>373氏の誤解を列挙しておきましょう。

>学会はマキムク年代遡上のように
 今は、実年代の割り振りについての一つの試論。
 C14算定法に関する研究の進捗によりいくらでも変わりうる見解です。

>戦後は教科書では邪馬台国は九州にあると教えました。
 私は昭和30年代の生まれですが、斯様な記載のある教科書を見たことはありません。
 これは、私が知らないだけかも知れませんが、
 邪馬台国にかかる記載があっても所在地について断定したものは無いと記憶しています。

>神武東征を認めるから皇国史観であると批判する
書紀の「神武東征」と言うもの史実として論ずるので有れば、私はそれを皇国史観であると呼び、批判します。
 天孫降臨から神武東征により大和朝廷が成立したと言う主張は、万世一系思想とともに皇国史観の主要テーマです。

>学会は日本書紀をそのまま受け取っているのでしょうか。それはまさに皇国史観ですよね。
 この「学会」と言うのは畿内説の太宗と同意で使われているのかと思います。
 >>380でも書きましたが、畿内説は神武東征も三韓征伐も必要としません。
 そればかりか天孫後継者が支配しているはずのヤマトの地には、遠く中国の王朝に朝貢する緩やかな王権連合しか
 なかったと主張します。

 >>373氏は何故、畿内説=日本書紀妄信=皇国史観などと言う認識を持つようになったのか・・・
私はその理由の方に興味がありますね。

389 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 21:01:44
三河、三重、三野(美濃)・・
三島、三原山、三浦・・
三を聖なる数字とし、異様に執着する部族があったことは確かです。
たぶん、九州の三笠山から畿内の三輪山を経由して移り住んだ
卑弥呼ともに関係のある集団だと思うのだが・・・


390 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/03(金) 21:44:53
>>377
>>379

寒冷期に不作になるのは、東日本。
梅雨前線くずれの雲が覆い夏中気温が上がらなかったり、
やませが吹いたりすると寒い夏となる。

一方西日本では、
寒冷期には梅雨には雨が十分に降り、
盛夏には日照がよく気温が上がり、
水が十分で高温になるので豊作となる。
「夏の日照りに不作なし」とはこのことだ。

温暖期の夏には、梅雨に雨が少なく、盛夏にも晴天が連続し、旱魃となり収穫が落ちる。
又、旱魃であるにも関わらず集中豪雨が多々発生し(積乱雲の多発)、集中豪雨のあった地域では洪水被害で不作となる。

縄文温暖期に西日本の人口が希薄であったのは、上記理由により森の植生も生産力が低かったことに起因する。

391 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 22:06:52
>>388
373,381です。
私は明治時代というのは皇国史観を取り入れて万世一系を協調した教育だったと思います。
そのために戦前の教科書は神話から始めました。
ですから正しい日本史の研究が妨げられたそうです。
畿内説は皇統を日本書紀にみて、それを前提にして何とか古い時代に整合させているのではないかと感じました。
ですから、あのような意見を書いてみました。
そうでないのだったら、安心しました。
しかし、戦後は科学的に基づいた研究であるべきだと思います。
それを持って誰も批判する人はいないと感じます。

私は邪馬台国は九州にあったという認識でした。具体的な所在地は書いてなかったなかったでしょう。
ただ九州にあったとかかれていたような気がします。
それは昔の教科書を調べれば、わかると思います。
残念ながら、当時のものは手元にありませんが、誰かわかる方がいたら
いいと思います。

たとえば古墳の成立年代にしても確定的ではありません。
仁徳天皇陵などは当たり前のように教科書に載っていますが、
調査もしていないのに、なぜ仁徳天皇陵だろうとしてしまうのか。
確か昔の教科書では仁徳天皇陵だと言われているという書き方だったような気がします。
現在の教科書ではどのように書かれているのでしょうか。
古墳の成立年代にしてもそうです。
世界遺産に指定されるかもしれないというのに、
後から新事実が発覚した時にそれを訂正する勇気はあるんでしょうか。
訂正する勇気もないまま整合性だけを求めたら、日本史研究は進歩しないと思います。
それは日本の恥だと思います。


392 :本田:2008/10/03(金) 22:17:10
>>373
>つまり学会はマキムク年代遡上のように大和中心史観ですよね。
>戦前、畿内の鉄器出土量が劣っているのに、学会はこれを拒絶しつづけてきたそうです。
>今もずっと。ということは、学会は皇国史観なんですよね。

邪馬臺國の金看板は、金になるからね。
考古学は、土建屋みたいなところもあるから、
秦王國の遺跡を発掘してます、
より邪馬臺國の遺跡を発掘してます、
のほうが金を集め易いんだろう。

>『北史』東夷傳 倭國
>
> 明年、上遣文林郎裴世清使倭國。度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中。
>又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也。
>又經十餘國、達於海岸。
>自竹斯國以東、皆附庸於[イ妥]。
>[イ妥王]遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角、來迎。後十日、又遣大禮哥多毘、
従二百餘騎郊勞。
>既至彼都。
>其王與清、來貢方物。
>此後遂絶。


>ところが戦後は教科書では邪馬台国は九州にあると教えました。
>九州から畿内へ権力移動したという史観です。
>ところが学会は神武東征を認めるから皇国史観であると批判するそうです。

これは白村江の敗戦後、
倭国が新羅と唐に占領されたことを認めたくないので、
こんなとぼけたことをぬかしてるんだろう。

393 :ゴジンム:2008/10/03(金) 22:17:49
一系ハ無窮ナリ

394 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 22:27:34
今は普通に大仙古墳(伝・仁徳陵)と記載されてるよ。
まずはあなたの古い現実認識を正さないと。考古学の博物館など、実際に足を運ばれたことはありますか?ネット情報だけで判断するなら、そこらのネット右翼と大差ないですよ。

395 :本田:2008/10/03(金) 22:42:10
>>392
14.「倭国」は滅亡していた!! 白村江の戦の結末 (1997.8.23)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/hakusuki.html
太宰府と言うと、皆さんは単に朝廷(政府)の九州に於ける地方出先機関と言ったイメージしか無いのでは無いでしょうか?
 しかし、当時の太宰府と言うのは、現代人のイメージとは全く違った存在でした。
倭国の異称・「九州」の意味を皆さんはご存じでしょうか?
 これは字義通り、「九つの国(州)」の事です。
倭国は九ヶ国で構成されていたので、「九州」なのです。
これは関東地方をかつて「関八州」等と言ったのと同じです。
その九ヶ国の統治を朝廷に代わって代行したのが、太宰府なのです。
これは東北(蝦夷)地方の統治を朝廷に代わって代行した「奥州鎮守府」と同じです。
そして、近・現代史に当てはめれば、「朝鮮総督府」や「台湾総督府」と同じ、
つまり、「新たな領土となった他国(植民地)経営の為の行政機関」なのです。
その様な機関である太宰府が九州に設置されたと言う事実が物語るものは、一つ。
やはり、「倭国は滅亡した」と言う事なのです。

396 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/03(金) 22:54:12
>>395
「九州」の意味をシナ古典で調べ直したら?
九ヶ国の意味ではないよ。

397 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 23:13:03
>>395
サイキバレベルに認定。

398 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 23:38:55
>>397
> サイキバレベルに認定。

いやいや、サイキバ君に失礼ダロW

399 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 00:22:43
白村江の戦いの後、倭国がなんと!降伏!滅亡!占領!笑撃・笑撃・大笑撃!
さっさと倭国に進駐軍が来た物証を出せ!

400 :本田:2008/10/04(土) 00:43:30
>>399
朝鮮式山城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%BC%8F%E5%B1%B1%E5%9F%8E
朝鮮式古代山城一覧
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/yamziro.html

401 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 01:00:49
>>400
これは外国からの侵攻に備えた城塞だ。
桃太郎でも進駐してきたのかな?

402 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 01:05:15
日本の九州の本当の意味は、当時の中国、魏が支配してた九州(厳密には9,2州)を真似たのではと思ってる

403 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 01:09:44
>>403
私もそうかなと。つまり、倭国というのは九州。あとはつけたし。

404 :本田:2008/10/04(土) 01:10:38
>>401
> >>400
> これは外国からの侵攻に備えた城塞だ。

もしそうなら倭國式山城で、朝鮮式山城を造らないはず。

405 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 01:11:14
自分にアンカーしちゃった。>>402ね。

406 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 01:17:46
>>404
朝鮮式山城を造ったのは誰だと思ってるの?

407 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 01:21:53
>>404

朝鮮民族が生まれていったのは新羅統一(670年)以降であり、早く見積もっても8世紀以降。
朝鮮半島には倭人や女真族、ワイ族など、諸民族が混ざって住んでいた。
だから、朝鮮式山城の語から錯覚しそうになる、倭人と対立した朝鮮民族がいるわけではない。
ましてや「敵対的民族固有の築城方法」だなどと思い込んでは大変なマチガイである。


408 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 01:23:03
朝鮮は古代からシナに支えられて成立しました

だから今の朝鮮はシナへの感謝が足りません


409 :本田:2008/10/04(土) 01:25:26
>>406
倭韓を支配する統一新羅の皇帝文武王(倭名:天武天皇)。

410 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 01:26:10
朝鮮式山城でなくて半島式山城と言うべきだな。半島には倭人がいたので

半島倭人式山城かも知れない。

411 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 01:36:17
>>409
どうゆう妄想なのかな?

412 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 01:56:30
>もしそうなら倭國式山城で、朝鮮式山城を造らないはず。

素人的発想丸出しww

413 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 02:10:47
>>409
任那は古くから任那日本府に属していた。したがって全羅南道と慶尚北道は
日本固有領土だ。速やかに返還しなさい。
耽羅すなわち済州島は古くから任那日本府に属した日本固有領土だ。
速やかに返還しなさい。竹島も日本固有領土だ速やかに返還しなさい。
日本海は日本の専管水域だ。李承晩ラインを速やかに廃止しなさい。

414 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 02:17:46
大和は倭人ではなく東是人

415 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 02:19:37
倭人も日本人に、国を返せと言ってくるヨカン

416 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 03:18:11
古代日本人 = 倭人 X

古代日本人 = 奴隷 O

倭人 = 南方モンゴロイドを総称

後代に倭=日本列島 倭人=日本人で意味が縮小

http://www.k3.dion.ne.jp/~hougen/essay/e2/2-1.htm

http://www.kurikomanosato.jp/to-siba-syuhen2.htm

417 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 03:21:11
古代日本人という語自体が、形容矛盾。

古代アメリカ合衆国人といっているようなもの。

418 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 03:34:01
日本人は、倭人と朝鮮人の混血だしな。

419 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 05:17:03
孫呉ワ族→倭国→大倭国→大和国

420 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 05:18:27
早い話が、大和朝廷の時代に朝鮮半島南部に住んでいたのは、九州の
日本人と民族的にはほぼ等質のいわゆる倭人だったということです。
だから、戦ったのは倭人同士。
現在の朝鮮民族が半島南部にまで南下したのは、新羅の半島統一以降
です。そのため、多くの倭人が日本に移住することにります。

421 :380:2008/10/04(土) 06:36:39
>>391

> それは昔の教科書を調べれば、わかると思います。
> 残念ながら、当時のものは手元にありませんが、誰かわかる方がいたら
> いいと思います。

教科書は残っていませんが、昭和42年刊行の中央公論社版日本の歴史の別冊年表が手元にありました。
編集責任者は学習院教授であった児玉幸多氏で、当時の教科書の記述とほぼ同じかと思います。

ここから、弥生時代の記述を引用しておきますので御参考されますように。
前期(BC300〜100)
 北九州に弥生式土器(板付式)が発達する。稲作の技術が普及し米食が広く行われる。
 大陸系磨製石器や鉄製工具が用いられ、機織の技術が発達する。
中期(BC100〜AD100)
 東日本の縄文文化もしだいに弥生文化におおわれる。
 大陸移入の青銅器もしだいに広がり、集落・人工も増大し、共同墓地の経営も盛んになり、
 北九州では甕棺墓が盛行、舶載鏡の副葬など厚葬の一面があらわれる。
 このころ小国家(百余国)が分立し、倭の奴国が後漢より印綬を賜る(志賀島発見の金印はこれとみなされる)
後期
 AD107 倭国王師升、後漢安帝に生口を献ずる(後漢書)
 AD146 このころから倭國大いに乱れる、邪馬台国女王卑弥呼が立つ(魏志倭人伝)
 AD239 卑弥呼が帯方郡に使を送る、魏の明帝が詔書を下し卑弥呼を親魏倭王とする(魏志倭人伝)
 AD243 倭王再び使を送り狗奴国と相更攻伐する状を説く(魏志倭人伝)
 AD248 このころ卑弥呼が没する。
 AD266 このころ倭女王壱与が晋に朝貢する(この後しばらく、倭國の消息は中国の文献に記されていない)

> 仁徳天皇陵などは当たり前のように教科書に載っていますが、

今は>>394氏が書いたように古墳名で呼びます。
また、教科書で取り上げるのは、記紀に登場する仁徳天皇の事績を教えると言う意味合いでは無く、
古墳時代当時にあのような大規模土木工事が行われており、それを可能とした王権が存在していたことを
説明する主旨のものです。築年については、多説あり実年代の比定は行わないのが通例かと思います。

422 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 07:17:00
讃岐富士と呼ばれる香川県丸亀市のシンボル飯野山、
これは間違いなく卑弥呼の墓です。
標高500メートルというとてつもない巨大さのため、まさかこれが
人工的に作られたものとは想像できないでしょう。しかし、これこそ、
古代世界を支配した女王卑弥呼の権力が絶大だったことを示す証拠です。
丸亀市には、この飯野山を始め人工的に作られたピラミッド型の山が
たくさんあって、邪馬台国の中心であったことは疑う余地はありません。

http://mw2.google.com/mw-panoramio/photos/medium/2097292.jpg

423 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/04(土) 07:32:16
まぁ間違いだな。

424 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 07:55:46
>>422
やっぱり倭人伝の行程記事との関係をちゃんと説明できる話をせにゃいかんな。
その点、大和も北九州もデタラメで四国説と大差ないが、南九州ならば何も問題なし。

末盧国で上陸したら南東に五百里(40キロ)。有明海の沿岸にでる、そこが伊都国。
そこから放射式。南水行二十日で薩摩。後に薩摩国府が置かれた川内あたり。
邪馬台国は、伊都国から南水行十日陸行一月だから、熊本県内で上陸して陸行一月、日向
に至る。宮崎平野か都城盆地あたり。日向は九州随一の古墳地帯。
これならば、方角も距離もごまかしなし。倭の地は温暖にも合致する。
記紀が日向に天孫降臨したと書いている理由も分かるな。

425 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 08:05:59
箸墓なんて小さ過ぎて、あんなちっぽけなものが卑弥呼様の墓のはずがありません。
讃岐富士こそが卑弥呼様の墓にあいふさわしいスケールだと思いませんか?


426 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 08:16:36
>>425
誰も思わんね。百余歩では歩けん。

427 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 08:29:59
>>425
>箸墓なんて小さ過ぎて、あんなちっぽけなものが卑弥呼様の墓のはずがありません。
>讃岐富士こそが卑弥呼様の墓にあいふさわしいスケールだと思いませんか?

偉大な女王さまだったとは思いますが、倭人伝の記述では
「径百余歩」ですので、あまり大き過ぎてもダメなんじゃないかと。(笑)

でも香川県には、非常に古い古墳がありますね。
それと、箸墓の主・モモソヒメを祭神としてお祀りしている神社もありますよ。知ってます?

讃岐の古代史も、たいへん興味深いです。


428 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 08:45:02
確かめたわけではないが、讃岐富士の山頂に、一周すると径百余歩の記述に
ピッタリの祭壇があるんじゃないかと思う。
そこに、立石と裂岩があれば、卑弥呼様の墓としては、ほぼ完ぺきではないでしょうか?


429 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 08:47:43
>>428
現在のところ、何もないわけね。

430 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 09:06:16
行ったわけではないけれど、讃岐富士には、おもじょの足跡と呼ばれる
大きな立石があります。これは正にストーンヘンジ。
日の巫女卑弥呼様にふさわしい遺跡があります。

http://www.geocities.jp/qxhtx435/s001_iinoyama/iino_08.JPG

431 :ここが変だよ日向説(笑) soの壱:2008/10/04(土) 09:47:11
>>424
先ず総論として…w

確かに南九州の太平洋側の古墳群は良く分からないと言うか
素人の俺から見れば殆ど手付かずの古代史の謎と言う気がするw

故に想像できる余白みたいな物が大きいので言ったもん勝ちと言う感はあるなwww


432 :ここが変だよ日向説(笑) その弐:2008/10/04(土) 10:01:30
>>424
さて先ずは行程記事の解釈だが、恐らく誰もが思う疑問は・・・

「なんでわざわざ熊本の方から陸行するん?」
「太平洋側(日向灘)から船で近くまで行った方が楽やん?w」

>これならば、方角も距離もごまかしなし。

・・・と豪語するがそれだったら北九州説の連中は余程手前で下船して陸行一月の距離を稼げば良いと言う話だw

畿内説日本海ルートなら原因は諸説あるだろうが瀬戸内の海上輸送の機能低下、
日本海側の隆盛と言う、考古学的に確認できる事実の上に述べられている。

>424で述べられたルート上から遺跡遺物が分布していればともかく
実際そんなルートが存在したかどうかも分からない。


433 :ここが変だよ日向説(笑) そのそのサーン!:2008/10/04(土) 10:12:39
>>424
それにこれは徹底的におかしいのが
弥生時代の日向の隆盛を古墳群の多さに頼ると言う部分w

もう畿内説とか九州説とか関係無しに論法としておかしいwww

まあウリナラ起源説ヨロシク纏向型前方後円墳を日向発祥としたいんだろうが
纏向の場合、葺石とか弧文円板とか前方後円墳の発展の過程が見られる訳で
果たして日向にそんなものが見られるのか?

それにルーツと言うのなら内部の礫郭の構造が同じで
かつ前方部分が末広がりのバチ型でもなくかなり小さい阿波の前方後円墳が
余程有力候補だろうとwww



434 :ここが変だよ日向説(笑) そのヨン(がつく日は冬ソナの日w):2008/10/04(土) 10:16:38
これはおまけだがw

確か串間の璧の事を挙げていたが
アレって出土状況がはっきりしていないだろう?w

だったら考古学的資料としては難があるなwww

435 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 10:25:49
古代日本の讃岐富士(飯山)など神奈備型の山を作る習慣が
エジプトに伝わってピラミッドの原型になった。
朝鮮半島に渡ったものは、小型化して方墳となり、
円墳と組み合わせたのが前方後円墳。
それが里帰りした形で日本各地に作られるようになった。
ずいぶんスケールが小さくなって戻ってきたものです。

436 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 10:29:06
その高い土木技術を持って世界を移動した職工集団が古代シュメール人


437 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 11:23:16
>>395
>つまり、「新たな領土となった他国(植民地)経営の為の行政機関」
>なのです。その様な機関である太宰府が九州に設置されたと言う事実が物語る
>ものは、一つ。やはり、「倭国は滅亡した」と言う事なのです。


理解できません。『朝廷に代わって代行した・・』は納得ですが、だから
何故に倭国が滅亡したのでしょうか。

大宝律令(701年)以前の日本各地には地方行政長官としての大宰府の前身となる
『大宰(おほ みこともち)』が設置されていました。
「筑紫大宰」「吉備大宰」「周防大宰」「伊予大宰」などです。

そして、大宝律令以降は、筑紫大宰のみが残り、大宰府となったもので、他の大宰の
機関よりも半島への出入り口として重要な地にあったのは言うまでもありませんが
だからといって、以前の国が滅亡というのは、この大宰府の設置からでは論証でき
ないのではないでしょうか。

438 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 11:54:36
>>421
>AD266 このころ倭女王壱与が晋に朝貢する(この後しばらく、倭國の消息は中国の文献に記されていない)

この部分に異論があります。
<通典東夷伝>その宗女と台与をたて王となし その後また男王立ち
中国の爵名を受く、晋の武帝の太始初(泰始二年)使を遣わし訳を重ねて人貢す。
梁書諸夷伝も同じ内容です。
中国と書かれているのは後の世で書き直したものだと思う。実際後の世の注意書きが記されている。
しかし、原典を書き写したことは言えると思う。又
<晋書武帝紀>には、
倭人が来てその産物を献上した 南北の郊外で円丘と方丘とを合し
冬至の祭祀と夏至の祭祀とを南北の郊外で合した
とあり、前方後円墳の説明をしています。女王の語は一言もありません。
晋書東夷伝にも遣使重訳入貢とあり、女王の語はありません。
しかし同じ東夷伝の238年の記述には其女王ときちんと記述があるので266年のときに書かれていないのは
女王ではないからだと思います。

また日本書紀には倭の女王が献上したと書いてあります。卑弥呼であるとも
台与であるとも書いてありません。
総合して考えると、日本書紀の記述だけをもって266年の朝貢が台与と決めるのは間違いだと思います。
私は266年は九州の台与の後継者男王が朝貢したと思います。


439 :380:2008/10/04(土) 13:13:57
>>438

>>421の年表は出典を添えてありますので御理解ください。
AD266台与朝貢説は、御推論のとおり通典の記述と矛盾します。
おそらく編者の児玉氏は通典の記事は梁書と晋書の合作による錯誤とみなしたのでしょうね。

で、それは置いておくとして、気になるところが一つ。

>倭人が来てその産物を献上した 南北の郊外で円丘と方丘とを合し
>冬至の祭祀と夏至の祭祀とを南北の郊外で合した
>とあり、前方後円墳の説明をしています。

ずばり山尾幸久氏の旧説ですね。
そう読めば面白いのですが、この「円丘」「方丘」とは南北の「郊」に在るとも記されています。
「郊」とは周制では都城から100里隔たるラインのことで、その内側を国、外側を鄙と言いました。
つまり、円丘方丘は南北に200里離れて在ったわけで、現在の天壇地壇のようなものだと思われます。
それに、前方後円墳の前方部って、バチ型のものが有ったりして、単純に○と□が合体したような
デザインでは無いと思いますよ。

440 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 14:11:12
>>438
台与が女王になり、内部の争いは収まる。倭国内部はまとまる。
しかし、外部の敵、たとえば狗奴国などがちょっかいを出してくると、
10才程度の少女では対応できない。
必然的に、実務担当、軍事担当のトップが必要になる。

梁書などにある「其後復立男王、並受中國爵命」は当然の流れだと思う。

卑弥呼が死んで内乱が起き、台与が女王になる。さらに男王が立ち、
並立する。

記紀にも同じようなことが書かれている。天照大神が岩戸に隠れ(亡くなり)
高天原が真っ暗になる。悪い神様が騒ぎ出す。皆で協力して天照大神を
岩戸から出すと、世の中が明るくなる。高皇産霊尊が登場し、出雲国譲り
などその後の重要な出来事を主導する。

441 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 14:46:52
>>440
外部の敵、狗奴国ってなに?
意味わかりません。

442 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 15:23:04
>>440

>梁書などにある「其後復立男王、並受中國爵命」は当然の流れだと思う。
>卑弥呼が死んで内乱が起き、台与が女王になる。さらに男王が立ち、並立する。

「其後復立男王、並受中國爵命」

「並」と言う字は本来「人が並び立つ」と言う意味を表しますので、
確かに複数の王が並立しているようにも読めますね。
しかし、一つの王朝が別々の人物に同じ爵命を下す(倭王)のは不自然です。
と、言うか余りに無責任で在り得ない話だと思います。

なので、この「並」の意味は、「並び立つ」から派生したもう一つの意味、「同程度」と考えるべきでは?
その後、復男王が立ち、同じく中国の爵命を受けたと読めば、これも又、極普通の解釈でしょう。


443 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 16:10:04
>>442
>>421にもあるように、
AD266 このころ倭女王壱与が晋に朝貢する(この後しばらく、倭國の消息は
中国の文献に記されていない)

つまり、倭女王が遣使した後のことはわからない。中国に記録がない。
したがって、女王の後どんな王が立ったのかはわからない。
となれば、並立していたと考えるのが自然。

もし、そのあとの王が爵命を受けたことを「並受中國爵命」と表現していると
するならば、梁書では、いわゆる倭の五王のあとにこの言葉を入れるべき
だと思う。

ちなみに、記紀では天照大神と高皇産霊尊(高木の神)が並立している。
どちらが上かわからない。個人的には、高皇産霊尊の方が実力者の印象を
受けるが。

444 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 16:14:13
>>441
倭人伝に書いてあるだろう。
卑弥呼は倭王。
奴国が境界の尽きるところで、その南に狗奴国があり、女王に属さずと。
倭王に属さないのだから、倭国に入らないと解釈すべきだと思うが。

445 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 16:23:20
>>439
よく読むと武帝が行った祭祀のことのようです。
たしかウイキにあったのでそのまま受け取ってしまいました。
ウイキでは前方後円墳の起こりを記したものとされていると書いてありましたので。

環濠集落には歴代首長の墳丘を持つ墓が営まれその墓を数百年にわたり祖霊祭祀を行った
状況がかくにんされている>吉野ヶ里遺跡
日本人は他国の文化を取り入れそれを風土にあった文化に変えるのが
昔から得意なので中国の皇帝の祭祀などを取り入れたかもしれない、というのは
推測ですが。

>>440
これまた推測ですが、266年にはすでに北部九州と狗奴国の連合国ができていたと
考えます。
神話にある三種の神器をあっさり敵にわたしてしまうところ、
ありますよね?そこに対応するのじゃないかと思いますが。

446 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 16:39:39
>>443

>いわゆる倭の五王のあとにこの言葉を入れるべき

残念ながら倭の五王は、皆同格と言うわけではないので「並」は使えない。

447 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 16:55:59
>>444
>女王に属さずと

女王に属さずだよ

>倭王に属さないのだから

それは勝手な解釈、倭王に属さないなら「不属倭王」と書くだろう

>倭国に入らないと解釈すべきだと思うが

倭王の解釈で恣意的な考えだから、この「思う」は該当しないよね

448 :どくだみ:2008/10/04(土) 16:58:45
>>443
>つまり、倭女王が遣使した後のことはわからない。中国に記録がない。

中国側に記録がないのに、姚思廉が勝手に並受中國爵命などとは書けません。
つまり、姚思廉がそう書いてある以上、梁書編纂時には中国に何らかの記録が残っていたということを意味しています。
記録がないのは現在まで残っていないだけの話。
逆にいえば、並受中國爵命という記述が、
倭からの遣使があって交流があったことの記録そのものです。
詳細が解らないというだけで、中国に記録がないとは言えません。

>となれば、並立していたと考えるのが自然。

それは、主観的な判断にすぎません。

>もし、そのあとの王が爵命を受けたことを「並受中國爵命」と表現していると
>するならば、梁書では、いわゆる倭の五王のあとにこの言葉を入れるべき
>だと思う。

並受中國爵命までは、魏の時代の記録です。それ以降は、晋の時代の記録です。
姚思廉が元にした記録は、それぞれ別だったはずです。
だから、魏の時代の倭王と晋の時代の倭王をひっくるめて記述する方がおかしいでしょう。

449 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 17:11:26
>>443

> 中国の文献に記されていない)
> つまり、倭女王が遣使した後のことはわからない。中国に記録がない。
> したがって、女王の後どんな王が立ったのかはわからない。
> となれば、並立していたと考えるのが自然。

う〜〜む。
言わんとしていることが解からないな。
「並受中國爵命」は倭國内の政治情勢を中国側が推測している文章じゃないでしょう。
「爵命」とあるからには、中国側から倭王として認められたと言うことですよ。
要するに「並」の意味が「並立(二人の王を認めた)」か「同格(同じ爵位を与えた)」かと言う話なんだけどな。

> もし、そのあとの王が爵命を受けたことを「並受中國爵命」と表現していると
> するならば、梁書では、いわゆる倭の五王のあとにこの言葉を入れるべきだと思う。

倭の五王の場合、五代目の武の時に宋代から・南斉・梁へと王朝側が代替わりしてしまうのです。
武と前代の四人を同列に扱うのは(中国側にとって)憚られるように思います。

> ちなみに、記紀では天照大神と高皇産霊尊(高木の神)が並立している。
> どちらが上かわからない。個人的には、高皇産霊尊の方が実力者の印象を受けるが。

私もこれについては同じ印象を受けますが、台与と天照大神とを結びつける根拠も無いかと思います。


450 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 19:03:22
>>432 無視しても良さそうなくだらない反論だが、一応答えておいてやるか。
>行程記事の解釈だが、恐らく誰もが思う疑問は・・・なんでわざわざ熊本の方から陸行するん?」
>「太平洋側(日向灘)から船で近くまで行った方が楽やん?w」
まず、危険度とどちらが日数がかかるかを考えるべきだね。
玄界灘を関門海峡に至るためには、鐘崎などの難所がある。北九州市付近は果たして邪馬台国勢力下
にあったのか、これも疑問だ。九州東側を南下するのは海流に逆らうこととなる。日時がかかるはず。
都城盆地だったら日向に上陸してからもかなり歩かねばならん。けっして「楽やん」などという状況
ではない。

>これならば、方角も距離もごまかしなし。・・・と豪語するがそれだったら北九州説の連中は余程
>手前で下船して陸行一月の距離を稼げば良いと言う話だw
手前で下船して水行十日の説明はつくかな。どのようなコースを考えてるのか具体的に言ってくれ。
北九州はこれまで、水行十日陸行一月の合理的説明ができてないということを忘れたのかな?

>畿内説日本海ルートなら原因は諸説あるだろうが瀬戸内の海上輸送の機能低下、日本海側の隆盛
>と言う、考古学的に確認できる事実の上に述べられている。
そんなこと、考古学的に誰が確認したのかな?いいかげんな推論で決めつけてはいかん。
確認できるような話ではない。

>>424で述べられたルート上から遺跡遺物が分布していればともかく実際そんなルートが
>存在したかどうかも分からない。
日本書紀も読んでないのか? 景行天皇が人吉から芦北に抜けているだろうが。
ルートが存在したことは文献に残されているんだよ。だいたい、古代でも殆ど今と変わら
ぬルートが存在していたと考えるべきだな。もちろん、トンネルはないが。


451 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 19:21:15
>>433
>それにこれは徹底的におかしいのが弥生時代の日向の隆盛を古墳群の多さに頼ると言う部分w
>もう畿内説とか九州説とか関係無しに論法としておかしいwwwまあウリナラ起源説ヨロシク
>纏向型前方後円墳を日向発祥としたいんだろうが纏向の場合、葺石とか弧文円板とか前方後円
>墳の発展の過程が見られる訳で果たして日向にそんなものが見られるのか?
古墳にだけ頼っている大和説論者らしい的はずれな反論だな。
前方後円墳がどちらで発生したかといったことは、全く問題ではない。大和で大きな墓を造りだ
したからまねてみるか、だってかまわんだろう。
そうゆう墓を造ろうとして造れた権力者が存在したということが大事なのだ。
古墳時代の初期から大きな墓をどんどん造っている、ならばその少し前の時代だって大変な権力
者がいて繁栄していたであろう、それを言ってるだけなんだよ。


452 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 19:47:25
>>434
>確か串間の璧の事を挙げていたが、アレって出土状況がはっきりしていないだろう?w
>だったら考古学的資料としては難があるなwww
王の山がどれか、はっきりしないっていう話かな。この山か、あの山か、1キロ、2キロ
離れていたら何がどう変わるっていうの? そんなこと、どうでもいいだろうが。
書く前に、少しは考えたら?


453 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 20:29:04
>>450
>北九州市付近は果たして邪馬台国勢力下にあったのか、これも疑問だ。

・・・おいおい他スレだが↓これってお前さんじゃないのか?w

>魏に使者を派遣しようと言うのに、瀬戸内海ぐらい押さえられないでどうする?

454 :どくだみ:2008/10/04(土) 20:29:30
>>343「長にして大」と読もうが「長じて大」と読もうが長大は長大で、意味に大した違いは無いと思います。
ただ、文脈によって「長にして大」だったり「長じて大」だったり変化することはありません。
熟語は、熟すときに文字同士の関係が固定されるからです。
例えば「短小」は「短にして小」であって「短くなって小」とはならないでしょう。
だから、顔師古注も呉書諸葛瑾傳も倭人伝も、長大が熟語として使われている以上同じであり、
倭人伝だけ「長にして大」で、顔師古注と呉書諸葛瑾傳が「長じて大」となることはありません。
長大という熟語が先にあって、それを使って「稍長大」と言っているのだから、
「稍」が「長大」という熟語の組成を変えることはありません。
同様に、幼弱者との比較だからといって熟語の長大が「長じて大になる」になることもないと思います。
さらに言えば、ここでの文脈は、幼弱者が長大になる話ではなく、
幼弱者である曹叡と長大である曹丕の比較ですから、
「長じて大になる」というような変化が介在する余地はありません。

次に長大の意味ですが、紹介した呉書諸葛瑾傳では、33歳の曹丕を陳寿は「年已長大」と書いています。
その陳寿が、倭人伝では同じ語句「年已長大」を老人の意味で使うでしょうか。
しかも、顔師古注にしろ禮記にしろ、長大を成人・壮年と解釈しています。
辞書を鵜呑みにするのはいけませんが、大漢和辞典の長大の意味は以下の通りです。
1たけたかくおほきい。また、その者。2、イ 成長する。成人する。ロ すぐれている

一方で、>>343の貴方のレスでは「長」と「大」は「老」の意味だから、
二つを重ねると「老人」の意味だという御意見でした。
しかし「長」にも「大」にも、他に様々な意味があります。
むしろ、「老」はそれぞれの文字の派生的な意味で、中心的な意味ではありません。
それなのに何故、その中で長大が「老人」の意味だと特定できるのでしょうか。
>>343のレスは、貴方が「長」と「大」は「老」の意味だと判断したという意見の表明であって、
何故そう判断したかの根拠が示されていません。その根拠は何ですか?
つづく


455 :どくだみ:2008/10/04(土) 20:47:43
つづき
卑彌呼は武力で王になったわけではないので、
共立されたシャーマンが一人前の大人だという前提はありません。
子供のシャーマンでも、後見人がいれば衆を惑わします。
先にも書きましたが、儒教社会では、一人前の大人は結婚しているのが常識です。
ですから「年已長大、無夫壻」という記述に意味があるのです。

三木太郎氏の本を所持していませんが、
「かなり年配であった」の年配が何歳かは明記されていないのでしょう?
結婚適齢期を基準にすれば、三世紀の三十代は年配です。
いずれにせよ、もし長大を老人と訳したのなら三木氏も田辺氏も誤訳だと私は思います。
初見の時は、私も老人と訳したので、343さんの考えは良く解ります。
しかし、具体的に何歳なのかと調べてみると、老人という根拠が出てこず、
成人という意味しか見出せませんでした。
著名な学者の訳本でも、誤訳は絶無ではありえません。
そういうものであって、部分的に誤訳があったからといって、
その学者がまるきり駄目だということではありません。
(あまり多いのは駄目ですが。)
それに訳本の良し悪しは、公然とは言われませんが、
 口づてに、この訳本は良いけど、あの訳本は要注意だとか囁かれます。
たいていの場合、訳本はすごく参考になるのですが、全てを頭から信じるわけにはいきません。
訳本にしろ辞書にしろ、「尽く書を信ずれば、書無きに如かず」です。

>共立されて早いうちに卑彌呼が死亡している。
>卑弥呼が若かったら、弟が治国を助けるはずがない。

こう判断される理由がわかりません。
ついでに言えば、「年已長大、無夫壻、有男弟佐治国」は、倭人伝の元資料が作成された時点での情報であり、
卑彌呼が即位した当初からそうだったとは書いていません。
その証拠に、直後に「自爲王以來」とあります。即位当初からの様子は、この語句以降に記述されています。おわり

456 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 20:51:43
>>453
畿内説は、東は少なくとも東海地方までは、西は九州全てを支配下に治めているとい
った状況を想定することになるはずだ。しかし、南九州説の場合は、九州をほぼ統一
する段階を想定し、出雲勢力を勢力下においていたとまでは考えない。したがって、
山口県やその対岸の北九州市あたりも支配下にはなかったのでは、関門海峡を使える
状況にはなかったのではないか、と考えることになるんだよ。


457 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 21:25:30
>>454 >>455
>熟語は、熟すときに文字同士の関係が固定されるからです。
熟語だからといって、意味が一つに固定されるということはありません。
長大には、背が高く大きいという意味もあれば、すぐれているという意味
もある。同じように、一人前になったと言う意味もあれば、老人だという
意味もあるのです。
いろいろな意味があるのですから、陳寿がその時々に応じて使用するのは
当たり前です。

>何故そう判断したかの根拠が示されていません。その根拠は何ですか?
共立されたのだから、一人前は当たり前。そう述べたはずですが。
当たり前のことは、わざわざ書く必要がないのですよ。
それに、王と言われたとき、我々読者はある程度の年齢の人物をまず考える
ものです。それに対して、王が普通に想定される年齢より若いということを
説明しようというときには、「未だ」などと書くことになります。
逆に、我々が想定する年齢よりも年を取っているということを書く場合には
「すでに」と書くことが多いといえます。そんなところですね。

学者にも時に間違いはある、それは当然。だから参考といってます。

>「年已長大〜」は、倭人伝の元資料が作成された時点での情報であり、卑彌呼が
>即位した当初からそうだったとは書いていません。
そんな読み方ではだめですね。

 




458 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 21:36:36
>>456
おや珍しいw

この板の九州説だと関門海峡から東を全く考えずオール・オア・ナッシングで
九州邪馬台国は九州全土をくまなく支配していたと考える物とばかり思っていたがwwwwww

山陰勢力が関門海峡越えて来ても南九州邪馬台国は手を出せなかった訳かな?

まあ現実的だね。

弥生末期、鉄も山陰に持っていかれて九州の相対的地位の低下を指摘する学者もいるしw

459 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 21:54:40
>横から
「長大」は漢籍では「成人する」であることは、既に結論が出ています。
「老」の意味を出したいのであれば、「老」と書けば足りることです。
ただし、成人していて、老齢に達していた可能性はあります。

適齢期の女性が「共立」され、その後権力者の一人と婚姻してしまえば、「共立」の意味が
なくなるので、いずれにしても適齢期は越していたと考えるのが、合理的です。

王位承継のすきまを埋める1代限りの即位で、のちの女性天皇と似ています。
モモソヒメが婚姻せず、オオクニヌシの妻となったのは、若い頃から巫女の役割を課せられて、
結婚を許されない立場であったと考えられます。

こう考えていくと、台与が13歳で女王に担がれたのは、異例のことであったと考えるべきです。

460 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 22:03:53
>>457

> 熟語だからといって、意味が一つに固定されるということはありません。
> 長大には、背が高く大きいという意味もあれば、すぐれているという意味
> もある。同じように、一人前になったと言う意味もあれば、老人だという
> 意味もあるのです。

年齢の話をしているのだから、身長や才能は置いといてさ、
「長大」が「老人」を意味する例を提示すれば良いだけのこと。
用例が無いのなら、長大が老人を意味することがあると言うのは貴方の思い込み。
用例が有るなら、どくだみ氏の考え違い、簡単にシロクロが付く話だな。



461 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 22:22:22
まあぶっちゃけ現在九州説といえば北部九州で
もっと言えばツクシが一番人気だろうw

何ゆえ日向とかの南九州説が後塵を拝するかといえば、やはり弥生時代の遺跡遺物の少なさがネックか?

>>424のようなルートを想定するのなら二万戸の奴国も通説のものではなくて
「じゃあ何処なんだ?」と言う話で益々考古学的な裏付けが難しくなるんじゃないだろうか?w

462 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 22:32:12
>>460
>「長大」が「老人」を意味する例を提示すれば良いだけのこと。
無駄でしょうね。どんな用例を出したところで、どくだみさんは、それは「成年」と
いう意味だと主張するでしょうから。(倭人伝が理解できないということは、どんな
例を出してもやはり理解できないでしょう。きっと。)
それに、解釈例を示しましたが、解釈例と用例は基本的に同じです。老人と解釈する
人は、老人という意味で使う、それが用例になるのです。私が解釈例を示したという
ことは、単なる私の思い込みではないことを証明したということですね。



463 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/04(土) 22:36:13
>>459
「長大」は物の大きさなどを表す場合にも使用される。(長く大きい)

464 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 22:44:11
>>461
>二万戸の奴国も通説のものではなくて「じゃあ何処なんだ?」と言う話で益々考
>古学的な裏付けが難しくなるんじゃないだろうか?w
そんなことはありません。邪馬台国が南九州だと言うことは、北九州には邪馬台国
や投馬国はない、すなわち北九州が空くということです。
当然、奴国、伊都国で北九州の大部分を埋めることになりますね。倭人伝にいう奴
国の都は有明海沿岸ですが、奴国の領域は今の福岡県のかなりの部分を占めると考
えることになります。吉野ヶ里がある以上、その対岸あたりも同様に人が住んでい
たはず、考古的な裏づけなど何の問題もないということです。


465 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/04(土) 22:45:28
単一漢字、熟語の意味なんて、文章の数だけ存在する。
用例なんて単なる目安にしか過ぎません。
使用した用例文は、問題になってる文とは「似て異なモノ」
苗字が同じな家族関係程度でしょう。

466 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 22:48:02
>>462

> >「長大」が「老人」を意味する例を提示すれば良いだけのこと。
> 無駄でしょうね。どんな用例を出したところで、どくだみさんは、それは「成年」と
> いう意味だと主張するでしょうから。(倭人伝が理解できないということは、どんな
> 例を出してもやはり理解できないでしょう。きっと。)
> それに、解釈例を示しましたが、解釈例と用例は基本的に同じです。老人と解釈する
> 人は、老人という意味で使う、それが用例になるのです。私が解釈例を示したという
> ことは、単なる私の思い込みではないことを証明したということですね。

「解釈例」と「用例」と言うのは違う意味の様ですね。
「解釈例」と言うのは、一つの文言を誰それがこう思う、と言うことでしょう。
誰それとは、貴方であり、どくだみ氏でもあります。
「用例」とは、その文言が用いられ、同じ解釈が適用される例です。
貴方の解釈が、他の文章でも適用できるかどうか、それを実証するには用例が必要でしょう。
どくだみ氏は、それを既に行っています。

試しに、貴方も他の文章でやってみたら如何ですか?
ネタとして一つ提供します。長大解釈にやや幅が生じそうな例ですので中立的な出題かと思います。

 「受気時、母不謹慎、心妄邪慮、則子長大、狂悖不善、形体醜悪」 (論衡・命義篇)



467 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 22:48:53
帥升の升とういう文字は鳥居だと気がつけば、
当時の神官=帥升だということが理解できると思う。
帥升は、揚子江沿岸地方から移り住んだ倭族の長
のことです。

468 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 22:58:17
>何ゆえ日向とかの南九州説が後塵を拝するかといえば、やはり弥生時代の遺跡
>遺物の少なさがネックか?
小山修三氏の分析によると、筑紫平野と並んで都城市あたりも弥生時代の遺跡密
集地だそうだ。南九州説が軽視されてきたのは、熊襲の地だという暗黙の差別意
識が影響しているのではないかな。



469 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 23:13:09
>>468
それは被害妄想かもしくは弱者を装う事による”逃げ”だなw

筑紫の田油津媛も所詮は「土蜘蛛」だよwwwwww

470 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 23:32:46
>>469
差別意識がなければ結構。行程記事からも、遺跡からも、何の矛盾もない、邪馬台国が
日向にあったことは疑いなしということになりますね。
今まで日向を見過ごしてきた人々がまともな考え方をしていなかったというだけかな。

471 :どくだみ:2008/10/04(土) 23:37:19
>>457
>>熟語は、熟すときに文字同士の関係が固定されるからです。
>熟語だからといって、意味が一つに固定されるということはありません。

意味が固定するのではなく、文字の関係が固定されると言っているのです。
「長にして大」とは名詞である「長」「大」を並置するという関係です。
それに対して「長じて大」は、貴方がどういう意味で用いているのかよく解りませんが、
「長じて、その結果、大である」ならば、動詞である「長」と名詞もしくは形容詞の「大」が
結合して句を形成していることになります。
一つの熟語が文脈によって「名詞+名詞」だったり「動詞+形容詞」だったり、
その成り立ちが変化することはないと言っているのです。
だから>>343の貴方の説は成り立ちません。

>>何故そう判断したかの根拠が示されていません。その根拠は何ですか?
>共立されたのだから、一人前は当たり前。そう述べたはずですが。
>当たり前のことは、わざわざ書く必要がないのですよ。
>それに、王と言われたとき、我々読者はある程度の年齢の人物をまず考える
>ものです。

例えば漢の武帝は四歳のときに膠東王に立てられています。
魏でも三代皇帝斉王芳(後に配されたので王の諡)は7歳で皇帝に即位。
第四代は13歳、第五代は14歳で即位しています。
幼弱の王は枚挙に暇がありません。
王がある程度の年齢の人物というのは貴方の思い込みです。

>そんな読み方ではだめですね。

だめだという理由がないです。

472 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 23:41:14
>>466
>どくだみ氏は、それを既に行っています。
いつ、行ったのかな?

>「長大」が「老人」を意味する例を提示すれば良いだけのこと。
まず、あなたがその用例を探してみて下さい。必ずあると思います。

473 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 23:59:16
>>464
>考古的な裏づけなど何の問題もないということです。

はあ?

奴国の中心は通説だと筑前那珂郡(福岡市・春日市)あたり
遺跡だと須玖岡本か那珂八幡あたりか?

有明沿岸の奴国の中心は具体的に何処の遺跡に比定されるんだよ?って話だよw



474 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 00:07:20
>日向説

じゃあ質問の仕方を変えようw

日向邪馬台国が日向周辺・南九州にもたらした物とは何なんだ?
畿内説なら画文帯神獣鏡と言う事になるんだろうが(無論年代の争いはあるがw)

古墳群が多く築かれるから弥生時代にもそれなりの勢力があっただけじゃあ話にならないなwww

結局現在下火の九州説の中にあって更にマイナーな存在に甘んじている理由の一つだろうwww

475 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 00:08:48
× 結局現在下火の九州説の中にあって

○ 結局現在国民の常識となりつつある九州説の中にあって

476 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 00:19:00
>>475
ケチレスレベルのピンポンダッシュしかできない

サイキバ君はホウ酸団子でも食ってなさいwwwwwww

477 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 00:20:34
>>475
国民の常識は韓国国民のことか?

478 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 00:24:06
いまどき、畿内説マンセーなんて、在日と橿原関係者ぐらいだろ。

479 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 00:35:58
祭器場君乙

480 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 00:40:02
>>471
>一つの熟語が文脈によって「名詞+名詞」だったり「動詞+形容詞」だったり、
>その成り立ちが変化することはないと言っているのです。
あなたの勝手な思い込みですね。熟語の文字を取り出して名詞とか動詞とか言え
るものではありません。

>王がある程度の年齢の人物というのは貴方の思い込みです。
中国歴代の帝が成年だった期間と未成年だった期間の年数比はどのぐらい
になりますか?
>だめだという理由がないです。
一連の文章は共立された卑弥呼についての説明です。共立から時間の経過
を示すことなく「年已長大」とありますから、「已」は共立された時はす
でにという意味に読むべきです。



481 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 01:36:49
「長大」
現代中国語では動詞(成長する)の「長」と形容詞(長さ)の「長」では発音が全く違うね。
前者はzhang3
後者はchang2

件の文章を中国人に読ませたら、ほとんどの人がzhang3 da4と発音するでしょう。
人物についての事ですし。現代でも「成長して大きくなった=成人した、いい大人になった」の意味で普段からよく使いますから。

他已経長大了 彼はもう大きくなった
長得很漂亮 美しく成長した
いずれもzhang3です。

(あくまで現代では状況はどうあれ)老人に意味にはとらないです。
そこまで年食ったのなら「老了」とか「上了年記」とかいうし。

え?現代文と古文は違うって?
そりゃ失礼しました。w

現代中国語が専門で、古文は初めたばかり。
今と昔でいくつか意味の変わった字もあって難儀してますわ。


482 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 02:49:02
>>449
ま、西暦266年に倭の女王が、晋に遣使したときに、男王と共に爵命を受けた
と考えるのが自然だろうということ。

先にも書いたが、このように考えると、倭人伝その他の記述と記紀の記述が
妙に一致しているのがわかる。
天照大神と高皇産霊尊の並立という類を見ない奇妙な状態も、なるほど
有り得たのだなと納得できる。

そうなると、卑弥呼+台与=天照大神となる。
天照大神は、岩戸に隠れるまでが卑弥呼で、そのあとが台与となる。
岩戸に隠れるというのは、尊い人物の死を意味するわけだから。

つまり、記紀の記述はかなり史実を反映していることになる。
となると、そのあとの神武東征も現実味を帯びてくる。

邪馬台国東遷あるいはそれに類似することが現実に起きていたことを裏付ける。
畿内説としては譲れないところだろうな。

483 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 05:48:38
>>482
>そうなると、卑弥呼+台与=天照大神となる。

>つまり、記紀の記述はかなり史実を反映していることになる。


アマテラスが魏と交渉してたんか?ww そう記紀に書いてあるんか?ww

それとな、アマテラスのあと天孫降臨があり、日向三代があり、それからやっとこさ神武東遷だよな。
266年晋への遣使をアマテラスとするんなら、神武の即位はいったい西暦何年ごろになるのだ?



484 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 07:41:51
>>472

> >どくだみ氏は、それを既に行っています。
> いつ、行ったのかな?

>>330で出されております。

> >「長大」が「老人」を意味する例を提示すれば良いだけのこと。
> まず、あなたがその用例を探してみて下さい。必ずあると思います。

え?あると思いますって・・・
貴方は捜す気が無いのですか?

485 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 08:22:34
大きな集団の長になったことにきまっとろうが。
素直に読めよ。

486 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 08:59:55
>>484
>>330で出されております。
それは単なる解釈。証明といえるかどうかは別問題。証明とはなんぞや?

>貴方は捜す気が無いのですか?
分かり切ったことに無駄な精力を使う気にはならんね。


487 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 09:05:16
>>486

> それは単なる解釈。証明といえるかどうかは別問題。証明とはなんぞや?

当時の漢文で30代の人物を「長大」と称した事例です。
これを「解釈」と言うのなら解釈した御当人は陳壽です。
貴方や他の人が解釈したのとはわけが違います。

> >貴方は捜す気が無いのですか?
> 分かり切ったことに無駄な精力を使う気にはならんね。

あー、そうですかw


488 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 10:47:05
>>482
>ま、西暦266年に倭の女王が、晋に遣使したときに、男王と共に爵命を受けた
と考えるのが自然だろうということ。

其後という文があるので、台与の後、また男王がたった。
台与も男王も爵名を受けるがそれは台与が先、次が男王ということではないのかな。
男王と共にではなく。王は一人ですよ。
狗奴国との戦いをしていましたから266年の時点でなんらかの変化があったと見なければならないと
思います。
紀には女王が舟に白旗を掲げて現れ三宝器を掲げて帰順したところが
あるそうです。
白旗とは黄幢のことかなとふと思いました。難升米が頂いたあれです。
三宝器は鏡、刀、玉ですね。238年の朝貢に対する、豪華な返礼の品々がありましたね。
真珠が50斤って、一斤640グラムなので
およそ30キロです。凄いですよね。
狗奴国の男王も宝物を見たいし羨ましいし悔しいし、そんなところが
紀に連想させるところがあります。

489 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 10:52:02
>>58
異説はあくまで一説として存在するなら別に良いんだよ。
頭の固い奴は自分の説こそ完璧で、その他を排除しようとするから困る。


誰だ、戦国時代に騎馬隊が存在しないなんて珍説広めた奴!


490 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 12:01:24
西都原と言うか九州南部太平洋側の古墳群は「東征」の証と言うより
むしろ「西征」の証っぽい気がするw

>>433で言ったように日向の古墳がオリジナルであると言う要素が無いのがその傍証かな?

記紀神話に「東征」が書かれていると言って、実際に勢力の移動が東から西への動きをしたとは限らない。
征服した地を神話の中に組み入れると言う話は普通に有りそうだしwww

491 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 12:45:33
福岡県香春町の一ノ岳、ここはものすごい怪しい地形です。
山を削って広大な平たん地が作られている。
これこそが卑弥呼の祭壇、邪馬台国はこのあたりにあったのではないでしょうか?

492 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 12:48:23
>>491
近代以降のセメント産業のしわざ

493 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 12:57:33
麻生(あそう)orz

494 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/05(日) 14:27:00
>>491
>山を削って広大な平たん地が作られている。
>これこそが卑弥呼の祭壇、邪馬台国はこのあたりにあったのではないでしょうか?

こんなところもあるよ。
八女市
http://maps.google.com/maps?q=33.21583,130.6133&spn=0.0011373,0.014484&t=k&hl=en
那珂川町
http://maps.google.com/maps?q=33.495,130.425&spn=0.0011373,0.014484&t=k&hl=en

495 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 14:36:30
>>490
これも記紀の記述に基づいて考えると一つの筋が現れる。

邇邇芸命は、高皇産霊尊と天照大神の命により高天原から日向に降臨した。
高天原を邪馬台国とすれば、天孫に相当する人物が日向に降ったのは、
卑弥呼のあと、台与の時代と考えられる。

したがって、日向が栄えるのは、早くても西暦260年頃から。
だから、日向は邪馬台国ではないと思う。

>>483
日向三代を考慮すると、神武東征は、4世紀になってからと考えられる。
それでは、初期の天皇が詰まってしまうことになるが、それもありえないこと
ではないと思う。

別の考え方として、神武天皇と崇神天皇を同一視することも考えられる。
いわゆる欠史八代を文字通り架空と考えるわけである。
このあたりちょっと苦しいのだが。

神武東征と布留期を重ね合わせても良いと思っているのだが。

496 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 14:49:15
ついでに言えば、日向は、高塚式の古墳と地下式横穴墓という性質の異なる
墓制が共存している。これは、死生観の異なる人々が共存していた証拠だと
思う。
地下式横穴墓は、従来から日向に住んでいた人。高塚式はよそからやって来た
人々の墓なのだろう。

497 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 15:33:34
>>496
そう簡単には言い切れないな。僅かながら、横穴墓の上に高塚が築かれて
いる例がある。外来者が大きな高塚式を建造するだけの権力を獲得し得たか
となれば疑問が残る。従来から日向に住んでいた人々の間で、高塚式を採用
した人々もいた、と考えることも可能だね。

498 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 18:52:00
>>474
>日向邪馬台国が日向周辺・南九州にもたらした物とは何なんだ?
>畿内説なら画文帯神獣鏡と言う事になるんだろうが
畿内説は、頼るものがないから、妙なものに頼るんだな。画文帯神獣鏡が邪馬台国
に関係するのかしないのか、まったく分かってないだろうが。
仮に邪馬台国に関係するとしたって、九州から配布を命ぜられたという可能性もあ
る。何の証拠にもならんね。
日向には、大昔から人々が住んでいた。弥生時代の多くの住居址がある。中国から
贈られた玉璧や輸入陶器片もでており、早くから中国と通交していたことも明らか。
多くの古墳が弥生時代の繁栄も推測させる。鏡だ何だとくだらないものにこじつけ
る必要はない。

499 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 18:58:50
>>498
要するに日向に邪馬台国が登場して親魏倭王に列せられても何の変化も無かったと言う事だなw

弥生時代の繁栄なら北九州に劣り
古墳時代の繁栄なら畿内に劣るwww

やっぱり…
「現在下火の九州説の中にあって更にマイナーな存在に甘んじる」しかないなwwwwwww

500 :どくだみ:2008/10/05(日) 19:18:32
>>480
>>一つの熟語が文脈によって「名詞+名詞」だったり「動詞+形容詞」だったり、
>>その成り立ちが変化することはないと言っているのです。
>あなたの勝手な思い込みですね。熟語の文字を取り出して名詞とか動詞とか言え
>るものではありません。

傍若無人は、傍若レ無レ人(傍らに人無きが若し)。挙手は挙レ手(手を挙げる)。(レは返り点)
このように、熟語は文字どうしの関係が先にあって出来あがっています。
それが文脈によって、ひょいひょい変わるとは思えませんが、私の思い込みですか?
動詞とか名詞などは、現代の私たちが議論するための便宜的な呼称です。
まあ、あまり一般化しても水掛け論にしかならないし、例外もあるかもしれませんので、この話は措いておきましょう。

>一連の文章は共立された卑弥呼についての説明です。共立から時間の経過
>を示すことなく「年已長大」とありますから、「已」は共立された時はす
>でにという意味に読むべきです。

「自為王以來」とわざわざ断って「少有見者.以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入.」
ということは、「自為王以來」より直前の「有男弟佐治國」までの記述は「自為王以來」ではないことは自明です。
魏人が卑彌呼についての資料を作成した時点での状況を記しているのです。
ですから治国を助けるような弟は成人のはずだから、共立時にそのような弟がいたのなら
卑彌呼も「已に」大人であるはずだというのは思い込みです。

501 :どくだみ:2008/10/05(日) 19:21:09
いってQを見ながら>>500を書いていたら、なんか文章が変ですね。
適宜、修正しながらお読みください。すみません。


502 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 20:22:43
テレビのせいにして・・プッ

503 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 20:34:07
邪馬台国は畿内しかありえないのに、日向について議論されても、
まるで別次元の戯言にしか読めない。

日向なんて鏡すら出土しないのに。


504 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 20:36:11
× 邪馬台国は畿内など問題外であり、北部九州以外ありえないのに

505 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 20:40:15
× 邪馬台国は畿内など問題外であり、北部九州以外ありえないのに
○ 邪馬台国は九州など問題外であり、畿内以外ありえないのに


506 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 20:41:06
○ 邪馬台国は畿内など問題外であり、北部九州以外ありえないのに
× 邪馬台国は九州など問題外であり、畿内以外ありえないのに


507 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 20:52:13
邪馬台国畿内説を語る男前。
邪馬台国九州説を語るキモオタ。

508 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 21:00:59
風土描写が畿内ではありえない邪馬台国。
捏造と改竄を繰り返して、初めて成り立つ畿内説は哀れ。

509 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 21:06:23
伊都国について

伊都国は現在の前原市を中心とした二丈町、志摩町、福岡市西区の一部を含む糸島地方に存在したと考えられます。


510 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/05(日) 21:15:07
伊都國について

伊都國は現在の肥前國庁跡を中心とした佐賀市大和町に存在したと考えられます。

511 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 21:30:00
>>508
風土描写(笑)
誰の脳内の絵見たんだよ(笑)

512 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 21:36:12
○ 邪馬台国は四国香川にあり、卑弥呼の墓は讃岐富士なのに
× 邪馬台国は九州など問題外であり、畿内以外ありえないのに


513 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 21:46:11
>「有男弟佐治國」までの記述は「自為王以來」ではないことは自明です。
自明とは言えないな。「有男弟佐治國」は共立の時点のみの話ではない。
共立されたときから以降、すなわち「自為王以來」の可能性が大きい。

>魏人が卑彌呼についての資料を作成した時点での状況を記しているのです。
それはおかしい。倭人伝はいつの資料を使っているのか、明記していないよ。
資料の作成時期が基準だといわれて、読者はどう判断するの?




514 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 21:49:03
>>513>>500


515 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 21:58:39
ttp://www.nagasaki-np.co.jp/douga/20081004/04.shtml
【動画】主演の吉永さんらあいさつ 映画「まぼろしの邪馬台国」PR

盲目の作家、郷土史研究家で島原鉄道取締役も務めた故宮崎康平氏と妻、和子さんを主人公とした
映画「まぼろしの邪馬台国(やまたいこく)」(堤幸彦監督、十一月一日全国公開)。

作品と連動し長崎の観光振興を目指す「成功させる会」(会長・石田直生島原半島観光連盟会長)が
四日、長崎市茂里町の長崎新聞文化ホール・アストピアであり、
県内の行政、経済関係者ら百二十人が出席。主演の吉永小百合さん、竹中直人さんが花を添えた。

同会は、長崎、諫早、島原、雲仙、南島原市やJR九州、島原鉄道などで構成。
スタンプラリーやラッピング列車の運行、大手コンビニでのチケット発売などを展開する。
発起人の一人、田上長崎市長は「宮崎氏の姿を通し、長崎の風景を全国に届けることができる」と期待。
岡田裕介東映社長は、約五十年前の康平氏の邪馬台国探しは
「観光と農業を主体とした地域おこし」と位置付けを紹介、「全国の人が島原に行ってみたいと思える作品に仕上がった」と語った。

吉永さんは「島原半島の美しさを存分に見てほしい。竹中さんとの道行きはとても楽しい思い出」、
竹中さんも「風も自然も深く美しく、九州最高!という感じ」とそれぞれ感想を述べ、宮崎和子さん(79)=島原市=に花束を贈った。

原案は、第一回吉川英治文化賞受賞の同名著書。
音楽は、長崎市出身の大島ミチルさん。県内では、ユナイテッド・シネマ長崎、TOHOシネマズ長崎、
佐世保シネマボックス太陽、諫早パルファンの計四館で上映される。

http://www.nagasaki-np.co.jp/douga/20081004/01.flv

516 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 22:05:40
>東映社長は、約五十年前の康平氏の邪馬台国探しは「観光と農業を主体とした地域おこし」
>と位置付けを紹介
宮崎康平怒るだろうなあ、「わしは地域おこしのために書いたんじゃねえ、まじめに邪馬台国
の所在を追及したんじゃ」と。

517 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 22:22:04
「まぼろしの邪馬台国を探して人生を台無しにした哀れな男」ならドラマになるが、
「ロマンを求めて夢を追い求めた男の生涯」なら感傷的すぎてドラマにならない。



518 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 22:23:45
>>515
多分、物語りの主眼は九州説の紹介じゃなくて夫婦愛を描く事なんだろうなwww

確か宮崎の説て、博多湾と有明海が水路で繋がっていたって説だっけ?

まあ正直言って古き良き時代の邪馬台国論争って感じだなw
基本ワン・アイデアでそれに肉付けをして比定地を主張する在野の研究家の百家争鳴状態つうかwwwwww


519 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/05(日) 22:26:09
惜しいな。吉永は卑弥呼役にピタリなのに、本物とは全く似ていなく
なった。だいたい美麗すぎだが、映画だから仕方あるまいのう。

520 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 22:44:59
また言い出した(笑)
タイムスリップして見て来たのかと(笑)

もうムーなんか捨てろ
デンパ病が酷くなるだけ

521 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 22:49:19
しかし、自分の地元こそ邪馬台国って主張するのもアレだよな。

522 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/05(日) 23:19:32
ムー誌のマクモニーグル氏の透視の卑弥呼の絵も似てはいないし、
別人だな。

523 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 23:50:53
卑弥呼は弥生人であろう。
マクモ二ーグル氏の絵は縄文人のような顔であるのはおかしい。
通訳したひとはきちんとアドバイスしなかったのだろうか。
結局彼はこの点でも恥をかいたことになる。

524 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 00:18:48
>>523
>卑弥呼は弥生人であろう。
根拠は?

卑弥呼や倭人の風俗は弥生人とは呼べない。
イレズミの風習は縄文人に近い。
鬼道という、中国人には理解しがたい宗教も持っていた。
鏡を欲してたとしても、太陽神を崇めていた様子も無い。
日本人が盲目的に抱いてる卑弥呼のイメージより、
マクモニーグルは的確に卑弥呼像を描いている。

525 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 00:26:54
その時代から新モンゴロイド面ならとっくに完結してるだろがよ。
アフォw

526 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 01:05:22
>>525

みなさん〜ん、アホの登場ですよ。

527 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 01:23:05
おめぇさん穴だらけの万里の長城造っといて俺は龍の子孫だぬかしてる
連中と同族か?w



528 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 01:28:22
卑弥呼が縄文系だと何がマズイの?

朝鮮人と同族でありたいから?

529 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 09:40:59
卑弥呼が縄文系だとまずくはないですか?

530 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 09:55:11
>>510
>伊都國は現在の肥前國庁跡を中心とした佐賀市大和町に存在したと考えられます。
末盧国で上陸したんだから、そうだろうな。問題はその先。
佐賀市の大和ということは、畿内の可能性は100パーないということだが、畿内
説論者は何の反論もしないで白旗でいいのかな?


531 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 10:44:58
畿内説を成り立たせるためにも、東南は東の誤りとか、何十度かかたむいているとか、季節により、方角が違うとか主張しています。
九州説者はなにもそれにのる必要はないのであるから、唐津から記述どおり東南にぬけるのがよいであろう。

532 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 11:45:26
佐賀市大和町在住のバカがいるね。


533 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 13:18:50
畿内説主義者が必死になってきております。

534 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 13:25:02
カキコミを見るかぎり、
九州説の方が必死な長文が多いよな

535 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 13:58:17
畿内説は根拠薄弱なため、長文にならないのです。

536 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 14:04:03
土器編年操作や漢籍改竄までしても、わずかな根拠しか捏造できない畿内説・・・

537 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 14:07:18
>>531
伊都国は>>509が言っておるが、というか通説だが、糸島地方で間違いない。
九州説でも伊都国は糸島地方とする論者が大多数。
べつに畿内説を成り立たせるためではなく、主として次の理由。

@地名の合致
旧怡土郡(いとぐん)の地であり、地名が合致する。
怡土の地名は今も残っており、怡土小学校・怡土郵便局などもある。

A豊富な遺跡や遺物
弥生時代全般を通じ、豊富な遺跡・遺物が出ている。
大陸からもたらされた多くの遺物のほか、西日本地域各方面との交流をうかがわせる土器や木器、青銅器なども多数出土。
とくに三雲・井原・平原の3墳墓は群を抜く内容で、歴代の王墓と見られる。


魏志倭人伝で伊都国には王がおり、また一大率が置かれておったとされ、
地名と遺跡が如上であるがゆえに伊都国=糸島地方と比定できる。これは至極当然であろう。

538 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 14:40:08
伊都国は戸千戸とあります。
遺跡遺物が立派すぎませんか?
伊都は当時イタと発音されていたようです。もっとも訛ってイトとなったといわれればそれまでですが。

539 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 16:21:08
地名と墓、寂しい根拠だな。
@ 地名は伊都と怡土が同じかどうかはっきりしないし、もしそうだとしても、伊都国
 が少し広ければ、佐賀市の方に王がいて、前原の方は単に領土とも考えられる。
A 墓は古すぎるね。平原は意見が分かれるようだが、あとは邪馬台国時代よりもずっ
 と前だ。古代の王都はあちこち動くんだから、古い墓ではだめなんだよ。
B 通説がまちがいだという理由は、まず、末盧国で下船した理由だな。怡土ならば直
 接船で行けばいい。下船したということは玄界灘沿岸ではなさそうだ。
 それに、怡土では南水行ができない。東か西か、それを書かないで、いきなり南水行
 はないだろう。それに、放射式との関係。倭人伝はよく読めば、伊都国からの放射式
 で書かれている。怡土では放射説で書く理由がない。
 となれば、怡土では方向距離が合わない、という理由が明らかだ。まちがいだったのさ。




540 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 17:15:39
邪馬台国は縄文系。

刺青の風俗に驚いてるのがその証拠。
弥生人は刺青はしません。

541 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 17:55:37
呉の太伯が長江の河口付近に移住し、土地の習慣にならって刺青をしたというが、
となると、長江河口の住人は縄文系ということになる。倭の支配層は太伯の後裔であるとなのっているが、
となると、かれらは縄文系ということになる。
となると、弥生系の人とはなにものなのであろうか。

542 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 18:21:09
でっち上げw

543 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 18:49:09
弥生系の人は朝鮮人です。

544 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 19:47:31
弥生人だって入れ墨をしていたんだよ。魏志韓伝によれば、朝鮮半島の人々
も結構入れ墨をしていたとある。

545 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 20:00:28
北九州市小倉にあった不弥国から船に乗って日本海を水行20日366km
進むと鳥取県米子市にあった投馬国の美保関に到着。
投馬国からさらに船に乗って日本海を水行10日165km進むと
兵庫県豊岡市の気比に到着し、その後陸行一月235km、
卑弥呼の後継者トヨの出身地である丹後王国を経由し京都・奈良と進んで
邪馬台国の都である纏向へ到着する。以上のように決定した。

546 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 20:00:48
信長は死せず...、野望は世界に...。

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547 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 20:01:33
>>538
伊都国が邪馬台国の首都なんですよ。

548 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 21:26:12
伊都国とは伊東国。
日の出づる国とは伊豆だとすれば・・全て辻褄が合う。

549 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 21:45:06
>>545
投馬国は朝鮮半島南部の倭地。

550 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 22:07:05
船が北九州か出雲や敦賀のどちらに着いたかで
場所が変わってくるよな。


551 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 23:04:17
伊東に行くなら、ハトヤ。電話はヨイフロ

552 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/06(月) 23:38:46

末盧國(松浦川右岸河口唐津市)の東南500里(40km)が伊都國(肥前國庁跡佐賀市大和)である。
伊都と怡土は単に音のこじつけ。

伊都國は女王國の玄関前。
だから魏使がここ伊都國に留まる。
魏使の女王面会までの時間調整の場所。

女王國の玄関は不彌國の城郭(吉野ヶ里遺跡)。
だから道程記事積算距離の12000余里は、ここ不彌國の城郭で終わっている。

女王國の首都は邪馬壹國の城郭。
邪馬壹國の城郭は、魏使が女王との面会待ちをする伊都國から1日以内の道程の場所にある。
シナ文献から推測すると、面会待ちの場所は女王の城郭へ遠くて3日以内の道程。

553 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 23:43:34
卑弥呼は縄文人。

DNAが証明している。

弥生人の持ち込んだ下戸遺伝子は九州には少ない。

554 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 23:51:19
>>552
あなたが言う城郭って何?

555 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 00:08:02
けど、卑弥呼様は弥生時代の象徴的お方であらしゃりませんでしょうか。
そのようなおかたが縄文系なのですか。

556 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/07(火) 00:18:23
>>554
吉野ヶ里遺跡の様な城砦都市。城砦村落かな?
卑彌呼の城郭は婢だけで千人もいるから城砦都市と言えるかもしれない。

557 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 00:26:36
>>552
>伊都と怡土は単に音のこじつけ。

遺跡や遺物が何も無い場所なら「こじつけ」と言えるだろう。
だが旧怡土郡=現前原市=は全く違う。
遺跡・遺物が目白押しに存在する瞠目すべき地域であり、それは九州の考古ファンなら皆目承知の筈。
「こじつけ」との批判は当たらない。

558 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 00:26:48
>>556
女王国ってのは何? いくつかの国の総称かな?
女王国に含まれる国々はどことどこ? 範囲は?

559 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 00:30:30
>>558
>遺跡・遺物が目白押しに存在する瞠目すべき地域
何のこと? 大した物はないと思うけど。 邪馬台国時代の何があった? 
住居址は出てるのかな?

560 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 00:33:57
>>559
>>558は間違い >>557ね。

561 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 01:08:14
1)倭在帯方東南大海中衣山島以国度海千里復有国皆倭種<魏略逸文>

2)女王国東渡海千余里復有国皆倭種<魏志倭人伝>

よく似ているが魏志倭人伝では帯方東南大海中衣山島以国を省略。
東南が東に。倭が女王国に。
同じ原典によったものだと思うが魏志倭人伝は省略しすぎたのと
倭が女王国になっているので、難しい一文になってしまっている。
魏略逸文を読めば、山島は対馬か壱岐でさらに千里海を渡ると、また国があって
皆倭種である、と。
これで魏志倭人伝の難解な部分の一つが解けましたね?



562 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/07(火) 01:08:31
>>557
偶然に他の遺跡があっただけ。
怡土には委奴國の流れをくむ遺跡があっただけだと思う。
怡土は倭奴とも考えられる。
伊都國は末盧國の東南500里にある。このほうが重要。
末盧國は壱岐から海上1000里だから、候補地は伊万里、前原、博多、津屋崎の4箇所だけ。

563 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 01:15:19
結局のところ、邪馬台国問題は実年代が決め手。
倭人伝の逐字解釈なんかは、延々やってても結論なんて出ない。


564 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 01:17:52
>>559
潤地頭給遺跡。

565 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 01:21:00
>>563
倭人伝を離れては、いくら立派な国があったと言ってみたところで、
それは邪馬台国ではない。倭種の国の一つに過ぎんな。

566 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/07(火) 01:37:03
>>558
女王國は奴國・不彌國・投馬國・邪馬壹國の4ヶ国の総称。
これら4ヶ国は互いに隣接し、里程で郡から12000余里の国々。

女王國の場所は筑紫平野ほぼ全域。
筑後平野・佐賀平野・北野地域は女王國の範囲に入るが、
白石地域(平野)は女王國に含まれない。
3世紀には佐賀平野と白石地域は海(有明海が北に入り込んでいた)で隔てられていたから。
もし含まれるなら奴國の一部になる。

3世紀には佐賀平野と筑後平野・北野地域も北に入り込んだ有明海によって分断されていた。
吉野ヶ里(不彌國城郭)は有明海と背振山地に挟まれ、佐賀平野と筑後平野・北野地域を繋ぐ地峡にあった。

567 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/07(火) 01:49:31
>>562の間違い修正

× 末盧國は壱岐から海上1000里だから、候補地は伊万里、前原、博多、津屋崎の4箇所だけ。

○ 末盧國は壱岐から海上1000里だから、候補地は伊万里、唐津、前原、博多、津屋崎の5箇所だけ。


568 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 03:09:40

>>564

そう。潤地頭給遺跡

それと今宿五郎江・大塚遺跡も挙げるべきだな、所在地は福岡市西区だけど、潤から近い

邪馬台国時代に、糸島の地域が大陸や西日本各地と濃密な交流をしていた事実は
これらの遺跡が明白に示しているんだよ、

無視を決め込んだり、目をそらしたりばかりでは、いけないよな


569 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 03:32:53
佐賀市大和で何か出てきたの?
いくら熱弁奮っても500里だけでは話にならんよ


570 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 03:40:34
東南500里以外に根拠無いの?

571 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 06:39:53
500里といえば2000キロ。
日本列島全体を支配する大きな国があった。それが邪馬台国。
従って、卑弥呼の邪馬台国は津軽にあった。
これで全ての謎が解けた!

572 :のんびりひまじん:2008/10/07(火) 08:43:29
>>553
>弥生人の持ち込んだ下戸遺伝子は九州には少ない。
このデータには、昭和の民族移動も現れている現代のものという点にも注意。
http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000176_all.html
http://homepage1.nifty.com/koutarou/insyuidenshi.html
単一民族化した昭和時代とくに戦後には
辺境→中央部
南部九州→北部九州
東北→関東     という移動も多かったでありましょう。

573 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 09:34:00
又有株儒国其人長三四尺去女王四千余里<魏志倭人伝>
倭南有株儒国其人長三四尺去る女王国四千余里<魏略逸文>

上下ほとんど同じですが魏略の方は倭から南へ約300キロってあります。
短里計算で1里が75メートルとして。
だいたい薩摩半島あたりです。身長120センチ位の小人の国です。

又有裸国黒歯国ー郡から東南に船で一年でいける。
裸国は種子島かと思われる。裸泉水漁が伝統的存在だとかー島の文献目録にあり
黒歯国は屋久島かと思う。ヌルデの木が自生、葉は昔お歯黒に。−ある観光サイトより。
それと二国並べて記述してあるので、二国は近いといえる。

574 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 09:36:03
>>573訂正します。
裸泉水漁→裸潜水漁

575 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 10:12:18
573の続き
参問倭地絶在海中シ洲之上或絶或連周旋可五千余里<魏志倭人伝>
倭の地を人々に問い合わせてみると海の中にある島々の上に絶在していて云々。
573の文に続く文であるから、流れからいって薩南諸島の奄美大島か沖縄のことを
言っていると思う。


576 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 10:43:54
>>575
また訂正します。
又有裸国黒歯国在有東南船行一年可至参問倭地絶在海中洲之上或絶或連周旋
可五千余里<魏志倭人伝>
この一文を一つとみると
種子島と屋久島の周りを周旋すると約五千里あるといっています。
奄美大島沖縄までは説明していません。失礼しました。

577 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 10:46:11
>>575

>人々に問合せ

??
「參問」
なんだから、調査する者が直接赴き自分で調べてる。

578 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/07(火) 11:01:11
>>569
>佐賀市大和で何か出てきたの?

佐賀市大和は、肥前国庁も置かれた交通の要衝。
伊都國がこの地で自生し発展してきたとの前提で考察すべきものではない。

又、嘉瀬川が背振山地から平野部に出て来る場所でもあり、
その流路は平野部で東へ南へと振れてきた為、
弥生中期以前の遺跡は残存していない可能性が高い。
弥生中期以前の遺跡が残存しているとすれば、
佐賀市大和の東、南東、南方向の嘉瀬川下流域であろう。


>>570
>東南500里以外に根拠無いの?

原文を勝手に読み替えることは論外。単なる空想妄想である。
読み替える場合には、一大國を一支國とする様に、
「大」は「支」の読み間違いである根拠を示すべき。

579 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 11:31:07
佐賀市大和の遺跡ですか。
肥前国庁の付近に惣座遺跡があります。
吉野ヶ里のように、出っ張りのある環濠をもっています。


580 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 13:06:36
>>578
交通の要衝だから伊都国ですか
おめでたいですラリパッパー

581 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/07(火) 13:15:42
>>579
惣座遺跡には気づかなかった。
惣座遺跡が吉野ヶ里晩期と同時代遺跡でもあるのなら、
伊都國の城郭は惣座遺跡できまりだ。
地主宮天照宮をも含めて再調査価値あり。

582 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 13:18:19
>>577
参問とはあれこれ問うことです。
参にはむらがり立つさま、たとえば参会とはいろいろなものがまじり集まるという意味。
問とはたずねるの意。

583 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 13:26:20
>>582
補足
参会とは会に出席することの意味だけではありません。
辞書を引用すると
1、いろいろのものがまじり集まる
2、3つのものが一箇所に集まる
3、会に出席すること
その他、
参究とは
1、あれこれと取り合わせて研究する。
2、罪を調べあばいて問いただす。

584 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 13:32:57
>>582

>問はたずねるの意


それだったら「尋」だろう。

585 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 13:47:02
>>584
では逆に質問しますが、なぜ現地に行って自分で調べているという意味なのでしょうか?
参問の字からそういう意味にとれる理由をお願いします。

586 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 13:47:35
>>582

仮に「問」が、たずねるの意だとした場合、その答えは倭人の言葉なのだから「倭人曰」ね。
で、その倭人曰は何処に記されていますか?

587 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 13:54:01
>>585
「參」自ら赴き
そう書いてありますし、>>586もその答えの一つです
これは漢人の史ですよ

588 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 14:10:17
「參問」―といさんす
(漢人)がといさんす。

漢人が未決に赴き(調査)。
(漢人が、まだ解決していない倭地を調査)

589 :日本@名無史さん日本@名無史さん :2008/10/07(火) 14:13:20
>>587
漢字一つとってもいろんな意味がありますから。
倭人曰くにあたる文は後出ですみませんが、
後漢書東夷伝にあります。
使訳が伝えるのはここが果てである、と。

590 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 14:29:07
>>589
後漢書は後漢時の記録、魏書は魏時の記録。
後漢時に赴くことのなかった、周旋可五千餘里の記録が參問の結果です。

591 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 14:32:47
>>589

>使譯

倭人側?漢人側?
普通何も指定がない場合は、漢人側と読むのが普通ですよ

592 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 14:46:44
>>591
倭人だか漢人だか、二国の言葉が分かる人ですよ。
あなた少し頭かたいんじゃないですか。
現地人の倭人の話を通訳が使者に伝えているんです。
これでもわかりませんか?

593 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 15:06:08
>>592
貴方と私では、歴史に向き合う姿勢が違うようです。過去に消化された事象に対し、硬いも柔らかいもありません。
私たちは過去の歴史を
書、伝承、遺物で知るより方法がないので、そこから得た知が、私達のしる歴史全てです。
主観は過去の歴史ではなく、平成に創られた新しい歴史です。

594 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 15:13:03
>>593
アナタは非常に狭い範囲にとらわれていると思います。
総合的に見る目も必要です。
狭い範囲で精査するのもまた良い方法ですが、
同時に広い範囲でも見てみなければなりません。
あなたの考えはどうしても狭い範囲でしか考えてないように思います。

595 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 15:37:29
>>594
過去に消化された歴史に、広いとか狭いがあるのでしょうか?

596 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 15:50:26
>>595
>後漢時に赴くことのなかった、周旋可五千餘里の記録が參問の結果です
>普通何も指定がない場合は、漢人側と読むのが普通ですよ

貴方の言葉です。
狭い範囲でしか考えられないから、上のような書かれてもいないようなことまで
自分で勝ってに解釈してしまうんです。
魏志倭人伝だけ読んでいてはダメなんですよ。

>過去に消化された歴史に、広いとか狭いがあるのでしょうか?
私はそんなこと言っていますか?
なぜそのように取るのか、日本語を勉強したほうがいいと思います。

597 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 16:27:40
>>596
歴史に対する姿勢の違い。私が日本語なら、貴方は歴史を学んで下さい。

598 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 16:45:19
>>596
では貴方は実地に赴いて調査したと今でも思い続けているのですか?
里数計算ならば、後漢書でも株儒国の距離を四千里と書いています。
これも使訳を通じて書かれたものです。
株儒というのは小人の意です。国の名前ではありません。
ですから、次の黒歯国も裸国も国の名前ではなく
その三つの国は使訳を通じて伝えられたものです。
北部九州のその他の女王国に属する国々
でさえも遠すぎて詳しく記載できない、名前だけ書きますと
魏の時代においてでも言っています。


599 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 16:47:07
>>598
アンカー間違えました。>>596>>597

600 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 17:10:16
>>598
かたわらの国が遠いのですか?

601 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 17:30:45
魏使は
・倭の風俗として北九州の風俗を報告している
・邪馬台国は会稽東冶の東にあると報告している
以上から、
・魏使が行ったのは伊都国や奴国や不弥国あたりまで
・魏使は邪馬台国は遠くの方に在ると認識している
というわけで、邪馬台国が伊都国の近くにあるとは思えない。

602 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 18:40:22
>>601
・魏使は邪馬台国の女王卑弥呼と会っている。
・魏使は伊都国あたりまでしか来ていない。
・邪馬台国の女王卑弥呼が居るのは邪馬台国の王都である。
・魏使が邪馬台国の女王卑弥呼と会った場所は伊都国である。
というわけで、伊都国が邪馬台国の王都である。

603 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 20:17:50
>>552

文字通り「吉野ヶ里から邪馬台国が見えた」だなw

まあ現実的に不彌國と女王國の首都をあまりに近くにするのは無理があるだろう。
吉野ヶ里みたいな拠点集落はそれ単独ではなくて周辺集落を持ってクニを形成しているのだろうから・・・

(具体的に言えば野田遺跡群・松原遺跡・志波屋一の坪遺跡…等々と言う事になるかな?)

まあ吉野ヶ里が邪馬台国の女王の都にそんだけ近ければ邪馬台国の繁栄をそのまま映し出している事だろう。
で、吉野ヶ里は3世期末には衰退して歴史から姿を消す。

これは邪馬台国連合自体が3世紀に衰退滅亡したと言う事なのかな?wwwwww

604 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 20:45:32
当時、卑弥呼といえば世界最大の権力者だったはず。
その卑弥呼の墓が箸墓だったなんて考えられません。
やはり、讃岐富士こそ、卑弥呼の墓にふさわしいと、
この記事を読んで考えました。

http://news.nifty.com/cms_image/news/world/yomiuri-20081006-00298/thumb-yomiuri-20081006-00298-world.jpg


605 :603:2008/10/07(火) 20:46:46
それから伊都国に付いて言えば通説でその中心と考えられている三雲遺跡群では
いわゆる「楽浪土器」が集中的に出ていて

(「楽浪土器」ってのは普通なら一点でも出れば御の字らしいがwwwwwwww)

郡使の在中を十分想像させる材料がある。

「惣座遺跡」にそれに対抗できる要素があるのかな?

606 :605訂正:2008/10/07(火) 20:49:49
×郡使の在中を十分想像させる材料がある。

○郡使の常駐を十分想像させる材料がある。

607 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 20:57:50
みんな、遺跡としては小粒すぎるんですよ。
卑弥呼を見下しているのか?>>605

608 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 21:19:38
http://home.b06.itscom.net/kodaishi/index.html
この説はどうなの?

609 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 21:34:03
邪馬台国は日本を支配していた大王ですよ。
ドバイの成金より小さい墓ということはあり得ません。
エジプトのピラミッドより小さな墓ということは侮辱です。
やはり、卑弥呼の墓は讃岐富士ではないでしょうか?

610 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/07(火) 21:39:54
妄想 乙枯! w

611 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 21:57:17
妄想ではありません、事実です。卑弥呼様に謝れ。>>610

612 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/07(火) 22:01:05
乙彼様w

613 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 22:21:12
今でこそ、木で覆われて形も崩れているけれど、
できた当時の讃岐富士は、石積みで覆われたそれはそれは美しい
円錐形の墓だったと思われます。
すばらしい!

614 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 22:52:27
邪馬台国論争とはそもそも、ヤマト王権の成り立ちの議論であった筈。

日本での権力の推移が、弥生後期の北部九州から、弥生終末期の畿内に移動しているのは、
流石に異論がないであろう(近年、出雲、吉備の王権が語られることが多いが、
筑紫や大和の王権と比べると見劣りする。筑紫から大和に権力が移動する際の過渡期、
つまりは倭国乱の時期の一時的な現象であると考える)

つまり、弥生終末期の実年代をいつとするか?がキーになってくる。


615 :614:2008/10/07(火) 22:57:52
もし仮に、弥生終末期を2世紀後半から3世紀初頭とするなら
(近年この年代観が非常に有力であるが)、
邪馬台国はマキムクと考えて支障はない。
しかしヒラバルの王権が、奴国以来の中国王朝との繋がりから、
新興勢力・畿内に対抗する意味で魏に遣いを送ったと考えることは可能。

庄内開始を3世紀後半〜4世紀以降とするなら、
邪馬台国は北部九州にあったと思われる一地方王権であったと。

616 :614:2008/10/07(火) 22:59:23
筑紫東遷説は和辻哲郎以降有力な学説で、特に神武東征伝承と絡められて
魅力的な説ではあった。

しかし現在、考古学の進展で、ヤマト王権は筑紫の影響が非常に少ないこと。
大規模な戦乱を思わせる痕跡が皆無なことから否定されている。

617 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 23:12:24
>>616
>しかし現在、考古学の進展で、ヤマト王権は筑紫の影響が非常に少ないこと。

その事は諸刃の剣で
仮に畿内に邪馬台国があったとしても実際に半島と行き来していたのは北部九州。
(半島から畿内の土器が出ない事等がその根拠)

畿内邪馬台国が北部九州を窓口に半島大陸と交渉を持っていたのなら
もっと北部九州の遺物が出ても良さそうではあるw

この板じゃあ畿内説の端くれの立場とっている俺だがwwwwwww


618 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 23:13:49
>>598
株儒国→侏儒国 しゅじゅこく

619 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/07(火) 23:18:10
>>603
>文字通り「吉野ヶ里から邪馬台国が見えた」だなw

吉野ヶ里(不彌國城郭)から南の方向を見ると、
有明海の対岸に邪馬壹國の城郭がかすかに見えたのです。
もちろん投馬國の城郭は、はっきりと見えたのです。


>これは邪馬台国連合自体が3世紀に衰退滅亡したと言う事なのかな?wwwwww

女王國としての邪馬壹國は衰退し権力は移行しました。
それは狗奴國の後継者が邪馬壹國に入ったことによるものでしょう。
邪馬壹國の権力者交代により、不彌國の城郭の存在価値がなくなり、
吉野ヶ里の城郭は滅亡したのです。

620 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 23:18:29
>>617
ですから、私の言いたいことは、
邪馬台国が北部九州にあった可能性は否し切れないということで。

ただ、「北部九州が東遷して大和王権になった」というのは否定出来るでしょう、
ということ。

621 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 23:54:23
邪馬台国九州説がノーベル妄想妄言学賞を受賞した。

622 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 23:56:53
>>619
>邪馬壹國の権力者交代により、不彌國の城郭の存在価値がなくなり、
>吉野ヶ里の城郭は滅亡したのです。

まあ現時点お前さんの作ったお話の域を出ないんじゃないのかな?w

内郭には首長の居館があり、特に北内郭は北墳丘墓を見渡せる位置にあり
祭祀場の性格も想定できる。
一つのクニの中心集落として完結しており
女王の都を守る防衛拠点であった事を物語る要素は無いと思うが?wwwwww

623 :突っ込み満載:2008/10/07(火) 23:58:07
広開土王碑からも、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅
・新羅を破った事実がほぼ定説化され、また、七支刀の銘文による
秦(和)4年(369年)にあっても百済から倭国にもたらされた貢物
が大和の石上神社から出土したことも事実としてとらえられる。
卑弥呼の時代よりわずか100年後の出来事である。邪馬台国九州説
を考える場合、4世紀中後期にそのような強力な国家が九州に存在し
ていたとは考えられない(考古学的見地)ため、上記の朝鮮半島との
出来事は出土物の物証等からも畿内王朝であったことは、言いがかり
を除いてほぼ断定できるだろう。
九州邪馬台国と畿内王朝が対立していて、4世紀に畿内王朝が九州を
制圧したと考える場合は、九州説が成立するだろうが、そもそも畿内
王朝が短期間のうちに西日本を制圧して、さらに朝鮮半島まで出兵す
ることが可能だったかは疑問です。
よって、3世紀より九州地区も含めた畿内王権国家が邪馬台国連合と
解するのが自然だと思います。


624 :ローガン:2008/10/08(水) 01:04:27
>>617

> (半島から畿内の土器が出ない事等がその根拠)

金海大成洞29号墳とかはどうでしょう?


> この板じゃあ畿内説の端くれの立場とっている俺だがwwwwwww

端くれなんて、トンデモないですよ。



625 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 01:15:43
>>623
>そもそも畿内 王朝が短期間のうちに西日本を制圧して

武力とは限らない。
むしろ宗教的な側面の方が大きいと思う。

626 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 01:23:46
宗教的な側面ねえ。
銅鐸祭祀から鏡信仰への変化を考えると逆なんじゃないかな。

古墳の副葬品も、すっかり、弥生からの九州タイプに変化しているし。
というか、畿内の弥生時代には副葬品の習慣もなかったようだが。

627 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 04:26:33
>>626

九州のカメ棺は畿内からは出てませんよ?


628 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 07:14:48
魏志倭人伝の地理感
・倭の風俗=北九州の風俗
・邪馬台国は会稽東冶の東にあるべきだ
多分、魏使は伊都国、遠くとも不弥国ぐらいまでしか行ってないのでは?
その上で、「邪馬台国は会稽東冶の東」と。
伊都国辺りから相当遠方にあると認識してるようだ。

629 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 07:24:53
>>626
サイキバ君の言うところの「薄葬」でしょ

630 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 08:59:41
副葬が九州化というが、鏡が出るというだけでしょ。
しかもその鏡は画文帯だったり三角縁だったり畿内中心に出土する鏡。
ヒラバルのような破鏡の風習は前方後円墳には採用されてないし


631 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 10:14:13
小氷河期の畿内に、魏志倭人伝の情景描写はありえない。
サイキバ君じゃなくても、これだけは言える。

632 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/08(水) 11:04:03
>>622
>一つのクニの中心集落として完結しており
>女王の都を守る防衛拠点であった事を物語る要素は無いと思うが?wwwwww

不彌國の城郭である吉野ヶ里は、
女王連合国を構成する一つのクニ(不彌國)の中心集落として
完結していなければならないのです。

このクニにも二人の首長がおり、
宗教を司る兄王に相当する多模(固有名)と、
実務を担当する弟王に相当する卑奴母離(職名)です。
(卑彌呼が宗教上の大王であるなら、多模は宗教上の地方王。)
(倭各国の官名分析による結論・・・説明省略)
城郭では宗教軍事統治の要素が完結していなければならないのです。


633 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 11:41:20
「邪馬台国は会稽東冶の東にあると報告している 」・・・

宮崎の西都だろ?
確か戦前に浜田耕作だったかな・・大規模な発掘をオサホ・メサホ古墳で
行っているのも前例が無いと思うが・・両古墳は現在宮内庁管理かな?

634 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 11:48:01
>>630
破鏡の風習? そんなものあったのかな。
敵対する者が墓を荒らしたのでは?

635 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 12:00:17
>>632
なぜ、不彌國と吉野ヶ里が重なるの?
吉野ヶ里から不彌の表札でもでてきたのか?

636 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/08(水) 12:46:07
>>635
>なぜ、不彌國と吉野ヶ里が重なるの?
>吉野ヶ里から不彌の表札でもでてきたのか?

末盧國(唐津市松浦川河口)から東南500里(35km)で伊都國(佐賀市大和)。
伊都國(佐賀市大和)から東100里(7km)で不彌國(吉野ヶ里)。
吉野ヶ里の地勢立地が不彌國の表札です。

又、3世紀には、吉野ヶ里は、背振山地と有明海に挟まれ、
佐賀平野と筑後平野を繋ぐ地峡で狭い回廊となっており、
軍事上の要衝でもあります。
吉野ヶ里は女王國への玄関口として相応しい立地です。

637 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 12:56:29
>>636
なるほどね。
そうすると、吉野ヶ里が発掘されなくても
そこは不彌という事でいい?

638 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 14:01:28
>>636
この吉野ヶ里、不彌であって奴でない理由はなに?

639 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/08(水) 15:00:02
>>637
>そうすると、吉野ヶ里が発掘されなくてもそこは不彌という事でいい?

地形的にそう判断できます。
同様に伊都國の城郭も見つかりそうです。
今まで気づかなかった指摘をこのスレで受けました。
これから調べて見ます。


>>638
>この吉野ヶ里、不彌であって奴でない理由はなに?

伊都國(佐賀市大和町)の東南100里(7km)が奴國(佐賀市中心部)。
奴國の城郭は佐賀城佐賀県庁のあたりと推定できますが、
歴史的に何度も掘り返されているので、遺跡が残存している可能性は少ないと思います。

640 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/08(水) 15:28:58
>>639の追加
奴國の城郭の東側は、有明海に隣接していたと考えられます。
佐賀城より少し東、台地立地の環濠(空濠)ではなく平地の環濠(水濠)集落。

641 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 15:53:29
>>640
妄、想なると
誰が一番頭の中に絵を描けるかの世界ですか?
まるで弥生末期から古墳初期を夢見る
『有明海ファンタジーランド』
構想計画ですね。
お疲れ様です。

642 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 16:05:24
日本書紀を読んだ事ある人は気づいていると思うけど、
景行紀に、
「猿大海が女神がおられます。名を八女津媛(やめつひめ)といい、
常に山の中にいらっしゃいます。 」
というくだりがある。
邪馬台国の卑弥呼は誰にも顔をみせないで宮殿にこもりきりだったので
とてもよく似ている。
猿大海は八女市の約10`西北の三ずま町(日本書記では水沼)の長である。
実際の地名と、さらに土地の女神について奏上したいるところは、
とてもリアルだ。邪馬台国は八女かもしれない。


643 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/08(水) 16:17:57
景行の時代は卑弥呼より少し後だから、それは無関係だな。

 卑弥呼没=247年

倍暦計算にて

 景行即位=293年


644 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 16:44:39
>>643
>景行の時代は卑弥呼より少し後
神功皇后39年から倭人伝が引用されている。景行天皇の時代は邪馬台国
時代よりも少し前でしょう?

645 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/08(水) 16:48:08
>>644
神功39年はみかけであって、そこが239年ではない。真の
239年=景初3年 は崇神即位3年だよ。
だから景行のころは卑弥呼は死んでいてこの世にいない。

646 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 16:59:39
>邪馬台国は八女かもしれない

八女台国?

647 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 17:24:21
卑弥呼の死は249年
魏書三国志にも書かれています。
「卑弥呼以死」と。

648 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/08(水) 17:41:59
あい、わかった。文面を書きこみされたい。参考になる。

649 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/08(水) 17:49:00
卑弥呼が正始八年(248)以前に死んでいるのなら“すでに”だから
「卑弥呼已死」

しかしここは「卑弥呼以死」

650 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 17:49:06
邪馬台国時代が小氷河期という認識が定着してきたようだね。

こうやって少しずつでも現実を見せてあげれば、九州説は消えてなくなる。

651 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 18:08:32
「卑弥呼以死」
卑弥呼はこのような次第で死んだ。
この「卑弥呼」の前には相当脱字があると見られている。

652 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/08(水) 18:43:23
>>651
その卑弥呼の前で脱字したとする語句はいったいなんだったの
ですか?

653 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/08(水) 19:45:50
消えるわけがなかろう。畿内ならば北九州上陸などせず、そこへ
上陸する手前でカジを左に切り、山口県上陸を果たすはずだ。それ
のほうが畿内に女王国があるなら要領がいいはずだ。それをしな
いで北九州着岸ということは、卑弥呼の国が九州のどこかにあっ
たからなのだ。

654 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 19:53:18
もしかしたら邪馬台国は熊本県の山鹿市かも。
近くに狗奴国のククチヒコのいる菊池市がある。山鹿までだったら陸行き1ヶ月でも
あいそう。
近くには大牟田市があるので、当時から人口は多かっただろう。日本書紀
では
天皇:この山の峰は幾重にも重なって大変うるわしいのう。
きっと神がおられるのだろう。
猿大海:女神がおられます。中省略 常に山の中にいらっしゃいます。

ということで山の中をすっと見ていたら山を越えたところに山鹿市があった。それに
広志逸文には邪馬嘉国(やまが)と書かれている。
この文献は魏志倭人伝以前の成立であろうと言われている。


655 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 19:54:46
>>653
アホか?

じゃあ後世、何の為に大宰府なんてものが九州にあったんだよw
もう少し脳味噌使って書きこめよwww

656 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 20:02:56
大体、山口の下関は断崖が多くて着岸出来ん

657 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/08(水) 20:09:56
>>642
その様に思ったことがある。
八女津媛は、景行九州巡幸の時代(九州統一時代)とすると、
卑彌呼(狗奴國と対立九州未統一時代)より後世になる。

しかし邪馬壹國の領域に八女を含むと思う。


>>650
>邪馬台国時代が小氷河期という認識が定着してきたようだね。

弥生小氷期はBC3世紀頃。
邪馬壹國の時代は弥生温暖期から古墳低温期への気温低下し始めた頃。



658 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 21:08:01
邪馬台国の中心が九州にあったか大和に移っていたかはいざしらず、
卑弥呼様の墓は讃岐富士に間違いないと思うのです。
四国は死国。四国自体が卑弥呼様の墓であり、その象徴が讃岐富士
そう考えればすべて説明がつく。
大地溝帯は、卑弥呼のほぞだった。

659 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/08(水) 21:23:22
>>655
オマエどうかしてるんじゃないか? なんで大宰府が出てくるんだ?
そんなことより紀無いだったら山口県上陸のが早くそこへ着く筈。
大宰府んときは後代で、卑弥呼の時代は朝廷の勢力は北九州まで
は届かんよ。朝廷は紀無い周辺とかさらに遠方への偵察をやって
たくらいで、勢力は近畿一巡りだ。wwwwwwwwwwwww
大宰府ができたころは朝廷の勢力は拡大してそろそろ九州支配も
考えてたろうから、九州攻めをも嫌うことからのことだろう。

さて逆に倭人伝に山口県上陸との記述であったのなら女王国が九州
にある可能性は弱まるわけだ。九州にあるならマクモニーグルの好き
そうな山口県に上陸するより北九州接岸のほうが早くて要領がいい。
オマエもう少し頭の回転をよくしろ。wwwww それともオマエは
会社に出勤するのに大回りして電車賃をかけるのか?wwwwww

660 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/08(水) 21:25:58
>>658
妄想 乙彼さん!w

661 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/08(水) 21:29:20
>>656
だったら下関の東に接岸すりゃぁいいことだ。www

662 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 21:44:36
九州の一大率に着岸するだろ普通。
辺鄙な海賊がいるような港にでかい船が着岸できるかよ。アホですね

663 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 21:46:05
>>659 犬国
所詮は準構造船。
壱岐から対岸の九州北岸を目指すのは当たり前。

お前みたいな理由で畿内への航路があり得ないなんて言う馬鹿はいないわアホw
「マクモニーグル」だか何だか知らんがオカルトキチガイはオカ板へ帰れクズwww

そもそも壱岐から山口までいけるのなら南九州へ行く為関門海峡辺りまではいける。
あるいは西に長崎までいける理屈だなw

一回お前の説で末盧國から不彌國までの比定地を言ってみろw

どうせ何も考えてないんだろうがこの馬鹿はwwwwwww



664 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/08(水) 21:56:22
>>663 ジョーカー
孝靈六十一年、月支国船団が出雲海岸へ来ている、(日御崎神社記)
無理をして来たようだが、直接出雲接岸を大陸は意図してる。
だから山口県接岸は紀無いへ行きたいなら要領がよく、北九州着岸
は紀無いに卑弥呼の国があるんなら、これはオマエのように要領が
ワルイ。wwwwwwwwwwwwww
ソレとも大陸遣使は神風がコワイのか〜??ア〜ン??wwwww

紀無いに卑弥呼の国がありゃぁ記紀に倭人伝以上に卑弥呼と天皇
との記事とかが満載されるぜ。妄想ご苦労さん。wwwwww

665 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 21:56:55
>>660
大和に古墳を作るようになる以前は、四国に墓を造っていたことは
間違えありません。
なんで、そんなことまで否定してしまうのか?わからない。

666 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 22:08:42
>>664
>>664 犬国

大宰府の概略 Wikiより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%B0%E5%BA%9C
>外交面では、北九州が古来中国の王朝や
>朝鮮半島などとの交流の玄関的機能を果たしていたという背景もあり、
>海外使節を接待するための迎賓館である鴻臚館(こうろかん)が那津(現在の福岡市中心部)に置かれた。

お前が言うように畿内を目指すなら九州はあり得ないと言うのなら
半島からの玄関口を中国地方に置けば良い。

もう九州説・畿内説とか関係無い。
小学生以下の妄説だアホ。
いやキチガイの言動を年齢で測る物ではないだろうがw

>紀無いに卑弥呼の国がありゃぁ記紀に倭人伝以上に
>卑弥呼と天皇との記事とかが満載されるぜ。妄想ご苦労さん。wwwwww

邪馬台国と畿内ヤマトは別物と言う前提に立っている時点で循環論法の愚。
これも論の体を成していないアホの戯言www

で、毎回毎回誰にも認められないアホ理論を振りかざすが
末盧國から不彌國までの比定地を言ってみろ馬鹿者。



667 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 22:11:35

>>653

太国さんは、何度も言われているようだけど、渡海するには「持衰」を連れていくほど
命がけなんですよね。

帆船か手漕ぎか併用かは不明ですが、大型船ではないので、対馬→壱岐→東松浦と目視
できる対岸に向かうのが普通の航海だろう。

畿内に邪馬台国が比定される場合は、九州北部も完全に連合国の一部となるため、わざわざ
危険を冒してまで、山口県まで直行する必要がない。

668 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 22:12:59
卑弥呼は山口県にいたから、山口で上陸したんだよ。

山口って地名も、ヤマトの入り口って意味だし。

669 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 22:18:43
入口は山口でもいいが、死んだら四国。
卑弥呼様の墓も四国ってことで同意。

670 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 22:44:38
>>651
>「卑弥呼以死」

まあその前段部分に欠落した文章があったとして
それを推測した説で例えば松本清張なんかは

「持衰が航海が失敗した時殺されたように
 クナ国との戦乱を引き起こしたのは
 卑弥呼の力が落ちた為として殺された」

…なんて説を言ったそうだがwwwwwww

ただ現在そこに欠落した文章があったと言う考え自体
あまりされていないんじゃなかったかな?

671 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/08(水) 23:02:20
>>666 ジョーカー
オマエの審判論法はもういいよ。選手で来い。どうだ勝てんのか?
だろうなwww 紀無いに卑弥呼の国がありゃぁ、天皇と卑弥呼女王
のチチクリアイが記紀に倭人伝以上にうんと載る。wwwwwww
それが無いことは、紀無いに女王国が無いからチチクリアイができ
ないわけだ。オマエの豆脳を絞ってカンガエロ!wwwwwwww

紀無いは天皇国だ。紀無いに女王国ができるのは推古の世からだぜ。
数歩譲って女王の身分でない摂政神功を女王と格上して女王だと
主張しても、神功の時代ではもう卑弥呼は生きてはいないし、それ
以前には女王は一人もいないぜ。妄想ゴクロウ、ジョーカーよ。ww

672 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 23:04:14
九州説と大和説の対立を回避するためにも、四国説を用いるべきだよ。

673 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/08(水) 23:08:12
>>667
山口県を通れないなら紀無いに行くのに四国でも上陸して大回り
か〜? それとも直行で若狭湾行きか〜? それとも四国を南下
して太平洋から紀無い行きか〜??www
笑わせるな。山口県に行けないなら大廻りでしか紀無いへ行き
難いぞな。www
そんな状況なら、紀無いに卑弥呼の国はないと〜九州にあったと
考えたほうが合理的。

674 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/08(水) 23:14:24
>>668
紀無いに卑弥呼の国があるんなら〜
山口へ上陸したんならば、なにも遠回りになる北九州へ上陸する
必要もなかろう。必要あるのは大回りで会社へ出勤をしたい、あの
ジョーカーの奇癖なわけだ。wwwwwwwwwwwwww

675 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 23:21:41
所詮、ムー愛読者で現実と妄想の区別もつかないオカルトバカの犬国は
古来より半島からの玄関口が九州に設けられていると言う
それこそ小学生でも知っている事にすら脳味噌が回らない。

現在この板の邪馬台国関連でサイキバと犬国は二大馬鹿、アホの双璧だなwww


676 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/08(水) 23:22:01
>>666 ジョーカー
朝廷の真近の紀無いに卑弥呼の国があるにしては、記紀には卑弥呼
の記事がえれぇオサミシイナ??〜wwwwwwwwwwwwwww
何故か?〜オマエの豆脳を絞ってカンガエロイ〜。wwwww

コタエは簡単だ紀無いに卑弥呼の国が無かったからさ。
妄想 ゴクロウ!!wwwwwwwwwwwwwwwwww

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・

677 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 23:30:28
>676 犬国 ◆yVAs7uaYlY
循環論法。
0点。
やり直せ馬鹿者。

証明すべき命題を前提にすり替えている。

一体今まで何人の人間に指摘されたんだ?アホが。

畿内に女王国が存在していたなら
それはヤマト朝廷の前身と並立していたと言う前提自体
九州説を是として組み立てられた物だ。

…って、これだけ親切に言ってやってもこのリアルキ○ガイは理解しないんだよなwww



678 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 23:30:26
>>663
畿内説に立つならば、伊都国の問題に正面から答えなければいかんな。
これまでの伊都国=怡土という比定はどうみても不合理だ。
@ 方角、距離が倭人伝に合わない。
A 末盧国で下船する必要なし。怡土まで船で直行すればよいはず。
B 怡土からは、どうやっても南水行はできない。
C 奴国、不弥国に立ち寄る必要もない。不弥国に港はあったのか?

投馬国や邪馬台国へはどの船で行ったんだ? 魏の船か?倭の船か?




679 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 23:53:21
日本書紀が神武が東征しはじめて九州から東国までまとめるの早かったです。
たった6年かそこらで。
大国氏は九州説のようだけど、日本書紀の天皇の年代には忠実みたいですね。
私は同じ九州説だけれど、
まだまだ畿内王朝が東国から九州までまとめるのは
もっとずっとずっと時代が下ってから。
だから天皇紀の年号と中国文献の倭人伝の年号と照らしあわせることじたい
違和感がある。
九州王朝と合併したんでしょ。
あくまでも畿内主導で。6世紀ころに。
日本書紀は各地の昔話を集めた作り話でしょ。7.8世紀以前については。



680 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 00:19:17
なぜ畿内王権が3世紀から西日本を制覇していたことを認めたがらないのか?
事実を受け入れられないのか理解できない。

おまえら、朝鮮人か?


681 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 00:28:31
>>680
なんで朝鮮人になるの?


682 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 00:32:28
神武が東征してから、ただちに九州から東国までまとめたわけではありません。
神武が征服したのは、大和盆地の一隅です。しかし、その一隅を照らす光が、代を重ねるに従いあたりを征服していったのです。

683 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 00:41:33
レッドクリフからウィキに飛んで日本の古代史まで飛んだが
なんか結構面白い。
義務教育で習った歴史は証拠があるやつだけなのな。
卑弥呼はギシ倭人伝、仁徳天皇は仁徳天皇陵とか。
その他諸々は確たる証拠がないから証明のしようもないこと
だらけってわけか。

684 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 00:42:16
>>678近頃、伊都国の位置を考えなおす傾向が顕著になってきたようである。
ながらく伊都国は前原と頑迷に信じられていたものであるが、このように柔軟な考えをもち
通説や定説を改めて検討しなおしていくことは、ゆきづまっている邪馬台国論争に新しい視点をあたえるものであると思う。

685 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 00:45:16
>>678
もう個別に書くのがメンドイので書き殴りw

そもそも倭人伝の方角距離には絶対的信を置かない。

末盧國から不彌國までの陸行については

 ・各クニ間の道も当時としては頻繁に使われ割と通行し易かったのではないかと言う推測が先ず一つ。

・それに各クニの思惑で是非に魏使を自国に招きたいと言う事があったのではないか?と言う推測も。
 ちなみに個人的に日本海ルートを推すが、それも山陰勢力の同様の政治的思惑があったのかもと想定する。

不彌國には当然港はあったろう。
もし宇美に港が無いと言うのなら津屋崎でも宗像でも港があった所を比定したいw

大体少なくとも伊都国に付いては>>605で言ったように
楽浪土器の大量出土でその蓋然性は十分担保されていると思う。

逆に聞く。
お前さんの考える伊都国にはそれに比肩しうる材料があるのかい?wwwwww

686 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 00:46:51
>>682
それが6世紀ころでしょう?その後は蝦夷征伐。
明治維新のころは沖縄、北海道、千島列島、小笠原諸島と国境を確定。
つい最近まで続いていたんですから。

いつ九州から東国まで統一されたかどうかは、
はっきりいってよくわからないから、こうやって議論しているんでょ。
なにも大和と名乗らなくてもよかったのに。別政権ならば。
そして日本書紀もなにも中国文献と全然合わない歴史を書かなくてもいいのに
と。九州は九州。近畿は近畿でまとめれば良かったんじゃ?
九州にはちゃんと古い史書はあったはず。
どうしちゃったんでしょうね?とっておけば良かったのに。




687 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 01:09:11
>>678
貴殿の頭脳には
 「倭人伝の地理的記載は、魏使の見聞だけに基づいて書かれている」
とのお考えが居座っており、それ以外の可能性は等閑視しておられるようだ。

688 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 01:26:46
>>685
各国が招きたいというだけならば、末盧国から伊都国、奴国、不弥国と船で
行けばよいこと。下船するというのは、荷物をかついで船は置き去りにする
んだよ。
船の問題に回答がないけど、不弥国から先、何に乗ったのか考えなければ。
魏の船は末盧国に停泊、不弥国から先は倭の船? おかしいだろ。何でそんな
ことを? まだまだ、30日もの航海があるというのに。



689 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 01:28:51
>>687
どんな可能性?

690 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 01:33:54
ここで北海道説浮上

691 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 01:48:29
温暖が特長の邪馬台国は、畿内や北海道ということはない。

692 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 01:50:19
じゃ沖縄

693 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 02:05:16
>>685
楽浪土器が出て喜ぶのは骨董収集家ぐらいのもんだろう。何の役にも立たん。
郡使の常駐に結びつけて考えているようだが、郡使は邪馬台国へ行ったんだ。
伊都国で遊んでいたわけではない。伊都国にずっといたなどと考えているの
ならば大間違い。

694 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 02:21:23
>>693
はあ?

倭人伝の伊都国に
「郡の使の往来して常に駐る所なり」
とあるだろうが?www

ちなみに三雲の楽浪土器から郡使の常駐を想定すると言うのは
俺のオリジナルじゃなくて武末純一と言う学者の著述ねw




695 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 02:26:03
だから糸国どこだよ
場所と理由を箇条書きで述べよ

696 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 06:12:51
だから四国なんだよ。伊都国は伊予にあった。
いよいよ核心に近づきましたね。

697 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 06:28:40

>>691

『倭地温暖冬夏食生菜皆』

倭地→温暖 ○
邪馬台国→温暖 ×

捏造しないように・・

それと、風俗風習などについても全て倭国についての紹介
邪馬台国の紹介ではない・・・

698 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 07:10:58
伊都国は九州大好き氏と同じく佐賀市大和付近。
@ 方向、距離が倭人伝どおり。
A 陸行しなければ行けない所。下船の理由が分かる。
B 南水行ができる。紛れるおそれがないから、倭人伝の簡単な記載も理解できる。
C 放射式記載も理解できる。不弥国は吉野ヶ里、奴国は筑後川左岸。
 それぞれ、有明海に出る港を首都としていたと考え得る(3国が近かったのも分かる)。
D 後の肥前国府付近。惣座遺跡もある。一大率が押さえるべき交通の要衝。


699 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 07:26:09
>>694
「郡使の往来、常に駐る所なり」は郡使が伊都国に常駐していたとか、先へ行かなかった
などということではない。武末純一と言う学者が何を言ってるかは知らないが、学者の言
であってもだめなものは駄目。
伊都国から先に行かなかったとする考え方はあるが、それは誤り。行かずに、倭人伝のよ
うなことは書けない。例えば産物、木の種類。倭人とは名称などがちがうであろう。使者
らが直接確かめなければ書けることではない。また、「倭王に拝仮」とある。


700 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 08:32:04
>>699
もう言っている事が無茶苦茶だなw

郡使がそこから先、行こうと行くまいと、とにかく伊都国には立ち寄った。

で、三雲から郡使の常駐すら想定できる程、楽浪土器が集中して出る。

両者を結び付けるに何の不自然がある?


伊都国から先に行ったか、行かなかったか…なんて関係の無い話だwww





701 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/09(木) 09:35:49
>>700
>>699の意見に、私は同意する。
漢人が直接携わるから漢人の史となり、史書に掲載される。
仮に倭人からの伝聞を情報としたのなら、それは倭人の史
漢人の史とするなら「倭人謂、倭人曰」と前置きされる。

702 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 09:48:52
>>701
また分からん奴が沸いてきたなw

郡使が伊都国から先、行ったか、行かなかったか…なんて関係の無い話だ。

兎に角、郡使が立ち寄ったと記されている場所なら、持ちこまれたであろう土器が大量に出てくる。

実にシンプルな話で、関係の無い話でごちゃ混ぜにするなよwww


703 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/09(木) 09:59:28
>>702
立ち寄ったくらいで土器と結び付けるのはどうかな?伊都は常だから
結び付きが深くなるだけの話し。
だから
現在の前原近辺を伊都とする一つの根拠となっているのだろ

704 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/09(木) 10:13:13
土器は動産。
誰でも持ち運び出来るものだから、単なる目安としかみれない。
例えば
前原辺りで発掘される楽浪式と言われる土器も、
漢人達や半島の人達が運んだとする
保証は何処にもない。
もしかしたら
せっせと倭人達が仕入れたかも?と言う推測も可能で、
これを否定する材料がないことも事実だよ

705 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 10:43:52
おいおい朝から一人相撲してんじゃねーよwバレバレw
なんでいきなり3人も伊都国=佐賀市大和が湧いてるんだよw
何が私は同意する。だよw

706 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 10:49:46
>>705
河童は
「郡使が伊都国から先、行ったか、行かなかったか」
って言う餌にパックと脊髄反射で食いついただけで
「伊都国=佐賀市大和」に同意しているんじゃないだろw

707 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/09(木) 10:51:19
>>677 ジョーカーよ
審判論法なんかやるんじゃねぇ!!
オマエは古代史ボクシングで選手兼審判でオマエは論のアッパーも
フックも出せない野郎なわけだ。オマエの論のパンチの武器は
持ってないから「馬鹿」だと「キタガイ」かのワル語で武器の補充
としてるわけだ。ウヌの論のパンチに替える武器なわけだ。www
無いからだよ、論のパンチがある奴は〜〜ワル語は
使わんからな。wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

それでも勝てんからオマエ自ら審判を兼ねている。勝てんから自分
にそれで加点するわけさ。どうしようもない奴だなぁ。wwwww
うんと鳴け!!!wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

紀無いに卑弥呼の国は逆立ちしても存在しない。ありゃぁ記紀に
倭人伝以上に卑弥呼の記事が満載だ。wwwwwwwww
それが無いんだよ〜〜おん! オイ! 卑弥呼の記事は〜〜
記紀には蚊の鳴き声くらいしかそれが無〜〜いぞぅ。wwwwwww

708 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 11:20:33
>>707 犬国
ボクシングの試合だとかパンチ力とか言う前に
だったらボクシングの試合をしろこのキ○ガイ。

今日畿内説と言われるものは邪馬台国と畿内ヤマトを全く別の物とはみなさないのが
まあ普通だろう(両者に血統的な繋がりがあるかどうかは別にして)

別物と言う前提自体既に事実上畿内説を否定した物だ。

畿内説を否定した前提で畿内説を否定する。
2ちゃんのような掲示板だから書き込めはするが
そんな物世間一般に通用する物じゃないぞ?w


邪馬台国論争に首を突っ込む前にまともな論述の仕方を学習しろドアホ。




709 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/09(木) 11:25:45
>>706

よくレス嫁

アンカーは>>699に同意。
他のレスに興味はない。
それとも
他のアンカーも見えるのか?

私にしたら
「名無し」は全て一期一会だ
他のレスなんて、知ったこっちゃねぇよ

>>699のレスだけに同意だ

710 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/10/09(木) 11:31:02
>>705

何がバレバレだ?
アンタの頭がバラバラなだけ。

私の考える伊都は、糸島半島一帯だ。

711 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 12:11:01
素人の質問で申し訳ないのですが三国志成立時の漢字音ってどんなものだったのですか?
日本語の方も変化があるでしょうし、人名や地名の比定をするにしても
日本語読みではあまり意味がないと思うのですが。
それとも当時の漢字音についてこのスレの暗黙の了解が実はあるのでしょうか?

712 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 13:21:17
>>697

倭地>邪馬台国→温暖 ○

つまり 邪馬台国→絶対に温暖 ○

初歩的なマチガイをしないように


713 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 13:43:46
まずその3世紀中頃の国の大きさがどれ位なのか見当をつけなければならない。
倭人伝の里数と国の記述を考えれば、現在の市郡単位が当時の国になっていると
推測できる。北部九州において現在の地図と照らし合わせても約30位数えられ
ぴったりと一致する。
まずそれが大前提。




714 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/09(木) 14:38:28
>>708 ジョーカー
論をする持ち駒の無いオマエのような奴がキ○ガイ,ドアホのワル語
で論ずる少能力の補充をするわけだ。で、そういう語を使うことは
オマエが遠回しにジョーカーは古代史論を持ち合わせてませんとの
宣言をしたも同然だぜ。Pu! wwwwwwwwwwwwwww
ついでに審判も恣意自力でやって採点を古代史論のパンチの代用を
するのがオマエの猪口才な言動なわけ。wwwwwwwwwww
もっとワメケ、叫べ〜w〜w〜w〜w〜w〜wwwwwwwww

紀無いなんかに卑弥呼の国なんかありゃぁせんぜ。wwwwww
記紀に蚊の叫び声しか無いくらいの卑弥呼の関する記事の少なさを
思えば、いまのうちに余の九州説にクラ替えするのが利口な考えと
いうものだ。wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

715 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 14:55:28
次に人類学的に検証。
これは記紀を参考にできる。
一応自分で下のように5分類してみた。

@倭人・・・ 米 畑作 刺青 呉越から米作を伝えた南方農耕海洋民
@土蜘蛛・国栖・・・西日本山地、アワ ヒエ 焼畑 イモ 根菜
手足が長く背が低い
@東夷・・・木の実 狩 紀によると、凶暴で陵辱もはじず、村に長もなく各境界を
侵し争い山には邪心、野には姦鬼がいて往来が防ぎ多くの人を苦しめている
@蝦夷(東夷に含まれる)・・・木の実 狩 紀によると蝦夷は得に手強い 
男女親子の区別もなく 冬は穴に寝て夏は木に棲む 毛皮を着て血を飲み 兄弟でも疑いあう
山に登るには飛ぶ鳥のようで 草原を走る様は獣のようだという
恩は忘れるが恨みには必ず報いるという
矢を髪を束ねた中に隠し 刀を衣の中におびているという
あるいは仲間を集めて辺境を侵し稔りの時をねらって作物を掠め取る
攻めれば草に隠れ 追えば山にはいる それで昔から一度も皇命に従ったことがない
@半島系北方渡来人・・・鉄器 騎馬


716 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 15:21:53
伊都国から奴国、不弥国については距離からして順番に国を辿ったのだろう。
それからすると、投馬国、邪馬台国もつながっていた可能性もある。
つまり、三潴(みづま)郡あたりが投馬国で、山門郡が邪馬台国。

だいたい、水行で二十日も移動しておきながら、その間の国が全く書かれて
いないというのもおかしい。

これは、水行十日、二十日、陸行一月を無視した場合だが、これらの距離を
少しでも考慮するなら、もっと南になる。

山鹿・菊池あたり、あるいは阿蘇などはそこそこ距離も満足する。
弥生後期の発展具合を考えても納得できる。

最大限に日程を考慮するなら、やはり日向か。
しかし、弥生後期が弱い。

この三ヶ所にだいたい絞られるんじゃないかという気がするが。

717 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 15:39:30
まあ、昔は関門海峡や豊後水道は船で航行はしないって事だ。

その手前の国から陸行が当たり前なんだよ。

尚且つ会稽との何らかの交流があった鹿児島湾等を含めて
また、小規模の古墳の多さと、高千穂を含めてのオオヒルメ
との伝承を考慮すると西都に間違いないだろ?

718 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 15:43:47
ある種の人間には、
福岡は遙か彼方の南の楽園、
奈良が遙か彼方の北の刑務所のように見えるようだ。
実際はそんなに変わらないのに。

719 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 16:35:26
奈良盆地は冬は地獄の寒さ

福岡は対馬暖流が流れ込み暖かい


720 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 17:07:42
>>719
洛陽や郡庁の連中から見たら、日本の冬は常夏状態。ワイキキビーチでサーフィン三昧だな

721 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 18:02:07
海辺の人は冬でも海に入って漁をするよ。
そうしないと飢え死にするから。


722 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 18:54:57
小氷河期の奈良じゃ、真冬に生野菜は食えないだろ。
中国内陸部の夏は暑いから、古代の中国人にとって、
温暖という意味は今日と変わらない。
「氷点下5度10度は温暖」などという判断はダメだろ。

723 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 19:19:05
奈良って氷点下まで下がる日が何日あるの?
一方、福岡でも雪が降るってのに。

724 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 19:27:33
>>722
奈良なんて眼中にもない。

725 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 19:39:06
奈良の気温2007年
ttp://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/monthly_s1.php?prec_no=64&prec_ch=%93%DE%97%C7%8C%A7&block_no=47780&block_ch=%93%DE%97%C7&year=2007&month=03&day=05&elm=monthly&view=p1

平均気温は冬でも氷点下にならないみたいね。




726 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 19:44:54
氷点下に下がりっぱなしの、小氷河期の奈良ね。
邪馬台国は有明海に近いところだろうから、雪の降る博多湾より、
はるかに温暖で、あらゆる柑橘類が良く育つ。

奈良じゃ、ほとんどの柑橘が枯れる。

727 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/09(木) 20:07:19
>>723
雪が降ると暖かい。
奈良は富山より寒い。
奈良は底冷えを自慢する京都よりも寒い。

>>720の言うとおり、奈良では、食べられる柑橘類の木は見たことがない。

728 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/09(木) 20:09:26
修正
× >>720の言うとおり、奈良では、食べられる柑橘類の木は見たことがない。
○ >>726の言うとおり、奈良では、食べられる柑橘類の木は見たことがない。

729 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 20:46:38
1800年前も現在と同じ気象だったと思っているのですか?
おめでたいですね。プッ

730 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/09(木) 21:41:27
>>729
21世紀の現在と同じか少し暖かかった。
違いは、現在は気温上昇期、3世紀は気温下降期。

731 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 22:09:35

>>722
奈良は盆地 冬の寒さは厳しい。但し、洛陽(現在の河南省)や帯方郡(現在のソウル付近)
と比べると冬の寒さがさほど厳しいとは思えない。

九州北部は日本海側の気候ゆえに雪が多く、また鳥栖や朝倉は奈良と同様に内陸ゆえに冬の
寒さは厳しかったろう。

というより、九州の北中部でも霜や雪があるので、冬野菜(アカザ、ヒユ、ナズナ等の野草)
が生育するのなら、奈良盆地でも越冬したであろう。



732 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 22:09:36
>>730

おまえ、気温が下がると豊作になると言ってただろwwww



733 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 22:27:32
>>716
711ですが、投馬は「づま」で、邪馬台は「やまと」と
そうすんなり読んでいいのですか?
漢字音の変化、日本地名の移り変わりと音の変化を考慮しないと
地名比定は意味をなさない気がするのですが。

734 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 22:36:12
>>731

奈良じゃ、中国同様の気候で、特筆しないでしょ。
あらゆる柑橘類が育つ有明海沿岸なら、わざわざ温暖だと特筆する。

735 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/09(木) 22:43:33
>>732
そうだよ、西日本では水稲の豊作になる気候条件がそろう。
現在より盛夏の気温が上がると、葉や茎ばかりが成長して、
実がつきにくくなり収率が下がる。
又、旱魃にもなり、集中豪雨が増える。

736 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 22:47:18
>>733
横からですが
私も素人ですが
中国人が日本語の地名や人名を書く場合、音で聞いた発音を漢字にあてているので
漢字一字に対し、一音が正しいかと思います。
ですから投馬も邪馬台もそれぞれ2音、3音でいいと思います。



737 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 23:08:20
伊都国は金印の漢委奴国王の部分の委奴(いと)ではないかと思います。
倭の人偏がとれたもので倭国の倭というのが通説ではありますが
AD57年、後漢書では倭奴国貢云々と書いていますが、倭は人偏をつけていますが
委であると思います。時々ヘンをつけたりはずしたりしますから。
倭国であるなら倭奴国とは書かないと思います。
奴はのと読むとしてもそれでは倭の国で日本語になってしまいますから。
伊都も委奴も発音どおりに書いたもので同じ国であると思います。


738 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 23:19:57
北九州に伊都国しかないなら誰でもそう考えるだろうが、奴国もあるから
そう簡単には言い切れんな。

739 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 23:30:24
737の続き
なので金印がみつかったところが博多湾の志賀島、
あの辺から内陸部にかけてが伊都国であったと思います。
上陸地が末盧国ですから、糸島半島の芥屋大門あたりに上陸して(というのは
倭人伝に 山麓や沿岸沿いに居住している という文があるので唐津湾を望める
所に上陸したと思います)
そこから東南に陸行き500里だと思います。

740 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 23:40:29
伊都国は佐賀市大和付近。反論できんのなら、畿内説も北九州説もご臨終。
@ 方向、距離が倭人伝どおり。
A 陸行しなければ行けない所。下船の理由が分かる。
B 南水行ができる。紛れるおそれがないから、倭人伝の簡単な記載も理解できる。
C 放射式記載も理解できる。不弥国は吉野ヶ里、奴国は筑後川左岸。
 それぞれ、有明海に出る港を首都としていたと考え得る(3国が近かったのも分かる)。
D 後の肥前国府付近。惣座遺跡もある。一大率が押さえるべき交通の要衝。

前原説の根拠が怡土という音と楽浪土器ではちと寂しいな。
伊都国は大きかったんだよ。佐賀市あたりまで筑紫だったが、磐井の乱の後、
肥の守が佐賀あたりを切り取って肥前にしたそうだ。その時、怡土は小さく
なったんだろう。

741 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 23:56:26
伊都国が有明海沿岸ならば、「津に臨みて捜露し」が分かるだろ。一大率は、伊都
国の港に行って捜露してたんだな。
これまでの前原説では、これが理解できなかったんだよ。一大率は末盧国まで出張
するのか?不弥国の港か?前原にも港はあると言えるが、使者の一行は荷物をかつ
いできた。そして不弥国へ向かう。伊都国の港は関係ねえだろ?
伊都国に南水行ができる港があれば、奴国や不弥国へ回る理由はない。放射説で決
まりとなる。



742 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 00:00:04
>>738
もう一つはそうですね、倭の奴国とも読めます。
なので、本来は委奴だったのが倭奴にかわってしまったために
全く意味が違ってきてしまったのではないかなと思います。
そこでなぞの記述の後漢書、倭人伝の 奴国は倭国の極南界なり と
言う記述が生まれたのかなと勝ってに思います。
委奴(いと)国は中国からみれば遠い絶遠の国、海を渡った倭人(倭種)の極南界だから
だと思います(韓国南部にも倭人(倭種)が)。
もう一つの内陸部の奴国(倭人伝の記述)はそのままド、ナ?国であると思います。


743 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 00:12:38
>>742
極南界というのは、北の奴国と旁国の最後にある奴国とを混同したという説の方が
素直だと思うがね。范曄は馬鹿じゃないんだが、文章の読み方に荒っぽいところ
があって時々間違いがあるんだよ。狗奴国を女王国の東渡海千里の国にするとかね。

744 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/10(金) 00:34:56
>>741
主張が理解できぬ。
何処かに書きミスがあるようだ。
伊都國は大和それとも怡土、どちらなの?

745 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 00:42:36
>>744
どこが? 伊都国=怡土では「津に臨みて捜露」が理解できないという説明を
したつもりだが。大和はまったく関係のない話。

746 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 00:53:48
>>744
いきなり大和ときたから近畿の大和と勘違いして、何の話かなと思った。
私は伊都国=佐賀市大和説。>741の最後の2行は伊都国が佐賀ならば、放射式で
書かれていることが理解できるという話。

747 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 01:10:57
>>713
>北部九州において現在の地図と照らし合わせても約30位数えられ

ああ、それね、同じ事を 高島忠平 もやってたなw
てか 高島忠平 のを参考にして言ってる?

中国文献の地理志や遺跡等を元に北部九州の地図上に○付けて
40ぐらいのクニを表していた。

・・・でもねえ、じゃあそれらのクニグニが連合体を形成していたと言う痕跡を何に見るのか?って事が疑問でw

30ヶ国揃えましたじゃあ話にならんだろうとwwwwww

748 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/10(金) 01:30:32
>>746
伊都國の城郭は肥前国庁址付近で、内陸部になるから、
伊都國の港は城郭から南南西6〜7kmの位置と言うことですね。
それとも嘉瀬川を少しさかのぼったところに伊都國の港があったのかも。

749 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 02:35:21
>>740
通説の伊都国なら三雲・井原、奴国なら比恵・那珂だろうが
佐賀市大和の伊都国が外交窓口であった事の蓋然性を示す物は一体何なんだ?

お前さんの説による奴国が二万戸と記されるに相応しい事を示す蓋然性は何による?

考古学的資料も無ければ(惣座遺跡が三雲・井原に匹敵しうるのか?)
地名の一致すらない。

結局は文献の方向をなぞっただけ。

それも放射説を正解としたいが為の牽強付会に過ぎない。




750 :749訂正:2008/10/10(金) 02:41:30
誤)奴国なら比恵・那珂だろうが

正)奴国なら須玖・岡本だろうが

…スマン、個人的な希望的観測が入っちまったwwwwwwww

751 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 05:00:32

>>712

>倭地>邪馬台国→温暖 ○
>つまり 邪馬台国→絶対に温暖 ○
>初歩的なマチガイをしないように

中国>チベット自治区 → 比較的温暖
つまりチベット自治区 → 絶対に比較的温暖 ×
初歩的なマチガイをしないように


752 ::2008/10/10(金) 06:37:54
>>711
昔の発音については、なかなか研究が進まないらしく、
当時の中国語の発音がどのようなものだったかなども、ようやく分かってきた感じらしいです。

日本語の音の変移もあわせて、以下のサイトが少しは参考になると思います。

http://homepage3.nifty.com/rosetta_stone/wissenshaft/mori3.html


753 : ◆.L.MXSPOgc :2008/10/10(金) 07:16:01
謎の女王卑弥呼は誰か?〜スレにも書いたのでマルチになるかもしれませんが、
1年ぶりに記事を追加したのでよければ読んでください。

http://yamat-2007.blogspot.com/

距離も方位も現時点でもっとも現実的な読み方だと思います。


754 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 08:40:32
惣座遺跡が三雲・井原に匹敵しうるのか、って匹敵しなくたって伊都国の否定にはなりませんよ。
そこが伊都国か否かは遺跡の大小や異物の多寡によるものではありませんよ。


755 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 09:33:28
伊都国・・・伊の都の国。
伊=聖人、呪術者、統治者=卑弥呼。
卑弥呼の都の国。
伊都国が邪馬台国の都。
邪馬台国は北部九州一帯。
魏使も伊都国に常駐し卑弥呼と会談。
帯方郡庁から伊都国までを詳細に距離で説明し、再度水行三十日陸行一日(月)と時間で説明、更に一万二千里と合計で説明。

756 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 11:10:00
>>754
と言ってもだな、現実問題、今日ほぼ定説となっているものを
ひっくり返そうと言うのに、根拠が倭人伝の方角だけじゃあ、あまりにも貧弱www

郡使が頻繁に立ち寄ったと思われる痕跡は欲しいところだなw

757 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 11:29:36
検証3地政学的見地から

Yahooの航空写真を見ましょう。
拡大地図と航空写真を交互み見ます。
するとなんとあるではないですか!
南行き水路が!
筑後川につながります。
大宰府筑紫野春日あたりをご覧ください。
東西の山に挟まれた平地の東側の山から流れる川が。
もう水行は筑後川を南に下ることしか考えられません。

758 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 12:12:05
>>757
筑後川を南下ってことは川を遡るんですよね。
船を綱で引っ張りながら川沿いを歩くんでしょうか?
水行というイメージとは違うような

759 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 12:27:16
>>758
筑後川は南に流れていますから遡ることはありません。

760 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 12:30:52
久留米の辺りを航空写真で見てください。
筑後川に通じる水路が大宰府筑紫野辺りから流れていて
宝満川に合流し久留米で筑後川に合流します。

761 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 12:35:50
もう完全にオカルトの世界でつね。
米袋のなかから不良米を拾う書き込みを見ていると、つくづく感じます。
川下り川遡上ですか?
末期的な投げやり現象ですね。

762 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 12:45:02
>>761
意味がわかりません。
筑後川は南に流れていますよね。
有明海に向かって。そうじゃないですか?

763 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 12:49:59
>>762
意味わからないのは、こっち。
川下りしてどうするのよ?

764 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 12:56:32
>>751

柑橘類のほとんどが育成できる九州は温暖といえるが、
柑橘類のほとんどが育成しない奈良は、温暖ではなく、
絶対に邪馬台国じゃないから、心配するな。

765 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 12:56:43
>>763
邪馬台国へ行くためには魏志倭人伝にあるように南下するんでしょ。
だから行きは川の流れに乗って南に南下、
帰りは遡上することになりますから、歩いたかもしれません。
または伊都国の一大卒のあるところに留まっていて
邪馬台国には行かなかった可能性も。
邪馬台国の様子は倭人から聞いたのかもしれません。
邪馬台国は福岡県山門(ヤマト)郡あるいは熊本県山鹿(ヤマガ)市だと考えます。

766 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 12:56:55
「南至投馬國」
南と投馬の間に移動動詞が存在しないので、南に投馬國がある。
ただそれだけの事。

767 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 13:07:29
>>766
投馬国は久留米か三潴だと思います。
一番後の音が
マ→メ→マ
なので共通項があります。それと川の端に町があるということは
水行20日で投馬国という記述に合致します。

768 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 13:10:27
皆さんは
「南水行二十日至投馬國」と、勘違いしていませんか?

769 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 13:11:15
投馬国は宮崎だとおもいますよ。
久留米あたりまで20日でいくのは大変ですよ。

770 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 13:20:25
>>768
正しくは南至投馬国水行二十日
南へ行くと投馬国に至ります
水行で20日かかります
ということではないですか?



771 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 13:43:30
>>770
>南に行くと

何処から「行く」なんて動詞、見つけてきたのですか?

772 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 13:51:56
行くという行動自体を意味もしていないし指してもいないだろ。
もしも行った場合の仮定を借りて位置関係を表現してるだけだろ。
揚げ足取りで古代史は解明できないだろ。


773 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 13:52:06
>>771
では行かなくても良いです。
中国語は並びが英語と同じですから、
日本語とは違います。
ですから
南に水行20日で投馬国に至る
これでどうですか?

774 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 13:53:25
>>764
>柑橘類のほとんどが育成しない奈良は、温暖ではなく、
>絶対に邪馬台国じゃないから、心配するな。

山の辺の道みかん狩組合では、今年もみかん狩りを始めました。
各みかん園には売店などもあり、食事もできます。
秋の大和盆地を眺めながらいただくみかんの味は、まさに絶品。
どうぞ九州説のみなさま、お誘い合わせでお越しください。
問い合わせはJAならけん纒向支店まで。
http://www.rurubu.com/season/autumn/mikaku/detail.asp?SozaiNo=290001

775 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/10(金) 14:20:57
>>774
このみかん栽培は20世紀末の温暖化が加速されてから始まったもの。
この20年の温暖化で奈良盆地でもやっとみかん栽培が可能になったのだね。
1950年代までの奈良盆地平野部の少なくとも一冬に2回以上の積雪がなくなってからのもの。

776 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/10(金) 14:26:30
>>774
1950年頃までは毎年雪合戦ができるほど雪が積もりました。
ベタ雪で下着まで濡らして雪遊びをした記憶があります。

777 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 14:54:18
>>773

南に=主語

水行二十日で=述語

投馬に至=目的語

「南水行二十日至投馬國」
これが貴方の和訳(南に水行二十日で投馬に至)の漢文です。

778 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 15:05:20
>>777
>南水行二十日至投馬國
こんな中国語ありませんよ。笑われます。

中国語を和訳するときレ点をつけてよんだでしょ?
勉強しましたよね?
南水行二十日至投馬國と書く漢文なんてありません。
南至投馬国水行二十日が正しいのであって、
和訳は
南へ水行20日で投馬国へ至る です。




779 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 15:06:53
>>772
間違いの指摘と揚げ足取りはちがいます。
私は、間違いの指摘をしているのです。

780 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 15:19:31
>>778
>こんな中国語なんてありません。


東南陸行五百里到到伊都國
では、これは何語ですか?

781 :日本@名無史さん :2008/10/10(金) 15:23:27
>>780

では東南至奴国百里は?

結局どちらも同じじゃないですか。

782 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 15:32:24
>>781

東南至奴國は
南至投馬國と同じで

東南陸行五百里到伊都國
とは、まるで違います。

783 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 15:33:54
>>782
さっきから違います違いますとしか言わないで
どこが違うののか指摘しないじゃないですか?
そういうのただ遊ばれているだけみたいでバカらしい。

784 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 15:52:22
>>783
ちゃんと
主語、述語、目的語として指摘しているでしょう。
他に何が必要なのです?


南(主語)+至(述語)+投馬國(目的語)、水行二十日

南は投馬國に至る、水行二十日。

このような和訳も有りますね
この場合、水行二十日の進路が南とは限らず、結果南の投馬に至ればいいのです。

785 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 15:57:44
>>783は指摘されている所も、わからないのか?

786 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 15:57:52
>>784
南は主語にならんだろうw


787 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 16:11:49
南ちゃんが至る

788 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 16:14:43
>>786
「ゆとり」ですか?
南は(視線は南)を一文字で表したもの。

789 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 16:32:07
>>784
南は投馬國に至る、水行二十日。は、
南は水行20日で投馬国に至る?でも同じですよね。

水行なんだからあっちこっち蛇行しながら結局は南の投馬国に着くんでしょ。

なんの違いがあるの?

それに南が主語になるとなんかヘン。


790 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 16:50:46
>>789
南と言う文字に、方位だけしか見出だせないから
「変?」と感じるのです。
「私の視線は南」を
たった一文字「南」で表したと考えれば、何の違和感もありません。

舟の行程に於いて、常に南を意識した行程であるならば
「南水行二十日」で
結果、南に位置する投馬に着いたものとでは、文章表現が違ってきます。
つまり、
「南至投馬國水行二十日」の大部分が、南とは異する行程であったと言う事。

791 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 16:52:02
>>788
視線は南だったら、主語は視線じゃんw

792 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 17:01:26
>>790
なんか、プラム議論になってるなあ。
で、すばり「南至投馬國水行二十日」はどう訳すわけ?

793 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 17:09:01
>>792
南、投馬国に至るには水行二十日。投馬国までの日数を表示したもので、
投馬国に行ったかどうかは明確ではない書き方です。

794 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 17:21:38
>>792
訳すもなにも

南に投馬國、水行二十日。だろ

795 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 17:23:30
>>793

東南至奴国百里
の後
東行至不弥国百里

↑は行くという文字がありますが、
これは実際行ったと取れば文の並びからいっておかしくないですか?
奴国に行っていないなら不弥国にも行く必要ないはず。




796 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 17:53:49
>>790
私は南水行二十日なんて一言もいってないです、いまさらですが。
南水行ではなく南に向かって水行です。
あなたが言わんとしていることは南水行がひとくくりになっていますよね。
そこが違います。
だから最初なにを指摘しているのか分からなかった。
私はあくまでも南至投馬国水行二十日を訳しました。
南へ水行二十日で投馬国に至る、でなにが違うんですか?




797 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 17:57:20
>>779
「仮に南に行けば」という文脈で「誰が何時何分何秒に行ったのか」という議論は
純粋100%の揚げ足取りなわけだが。

798 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 22:43:02
>>795
東南至奴国百里は東南奴国に至るには百里、東行至不弥国百里も東行して不弥国に
至るには百里、いずれも距離の表示。つまり、奴国や不弥国に行ったとは明言して
いない(逆に言えば、行かなかったというわけでもないがね)。
これに対し、東南陸行五百里到伊都国は、東南陸行五百里伊都国に到る、であり、
伊都国に実際に行ったというニュアンスがある。
その違いから、伊都国までは駒を進めた感じがするから連続説、伊都国から先は
駒を進めた感じがないから放射説と言われるわけね。




799 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 23:29:56

>>764
だ〜か〜ら〜、温暖なのは「倭地」であって「≠邪馬台国」です。

800 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 23:42:16
>>798
でもですね、伊都国に一大率があるので、そこに留まったとしたとしても
ですよ(行ったかもしれないですよね、その辺は曖昧)
邪馬台国に行く道のりは書くと思うんですよね。戸数やらなんやら倭人に
聞いたとしても。
で、その説明が放射説とは限らないじゃないですか。
連続しているかもしれませんよ。
私は連続説ですが。

801 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 00:06:05
>>799
だ〜か〜ら〜、温暖なのは「邪馬台国」を内包する「倭地」です。
つまり、寒冷な畿内に邪馬台国は存在しなかったということ。


802 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 00:24:05
>>800
実際に投馬国や邪馬台国へ行ったかどうかと、投馬国や邪馬台国への行程を
どのように表記するかとは別問題だよ。
使者らが奴国や不弥国、そして投馬国、邪馬台国へ行ったことは間違いない
はずだ。しかし、それは寄り道したということで、本当は、邪馬台国へ行く
のに、奴国、不弥国、投馬国は経由する必要がなかった。だから、使者らは
行程記事を書くときに工夫して、放射式で書いたんだ。


803 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/11(土) 00:45:31
>>754
伊都國の城郭と思われる惣座遺跡から銀製指輪が2個出土している。
伊都國王の権力は3世紀には既に小さくなっていても、伝統を持った由緒ある王であったと思われる。

804 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/11(土) 01:00:16
記憶違い
径2cmの銀製指輪3個

805 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 01:05:09
>伊都国=佐賀市大和説

少し弄ってみるw

まあ先にも言ったように
 ・郡使が頻繁に立ち寄った痕跡を示す物が無い
 ・その東の二万戸の奴国を思わせる遺跡が無い。
等々考古的資料に乏しく、しかも地名の一致すらない。

それに加えて、その説では不彌國を吉野ヶ里とするみたいだがクニの規模、人口に関して「?」が付く。

比較対象として島でその輪郭が確実に分かる一大國=壱岐をとると・・・

 壱岐 =三千家
 不彌國=千余家

不彌國は壱岐の1/3しかない。

壱岐の中心は原の辻遺跡で中々に大きい環濠集落ではあるが
それでも吉野ヶ里は超えないw
(それともその時期既に吉野ヶ里は衰微しきったと考える?w)

無論どちらのクニも周辺の集落等あるだろうが1:3の比率は正直しんどいのではないか?wwwwwww

806 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 01:14:09
何が言いたいのやら、趣旨不明ってとこだな。

807 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 01:21:25
>>803
多数のガラス管玉、銅剣の鋳型が出ているようだが。

808 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 01:32:17
>>806
ううむ、、、
大概簡単に書いたつもりだがw

じゃあ更に端折って言えば

壱岐≒原の辻遺跡 が 不彌國≒吉野ヶ里 の三倍の人口と言うのはおかしいだろと・・・


まあ実際は壱岐にもカラカミ遺跡とかあったりするが
島で耕地面積も限られているだろうし漁労や交易で養える人口にも限りがあるだろうと・・

809 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 01:36:31
横須賀や三沢に大勢の軍人がいるのと同様、軍事島=壱岐に大勢、軍人がいるのは当然。

810 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 01:40:19
>>808
国の規模に比例して遺跡も同じ比率で出るはずだと思ってんのかな?
そのうち、七万戸そろわんから邪馬台国とは認められんとか言い出すのかな?

811 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/11(土) 02:09:24
>>805
>・郡使が頻繁に立ち寄った痕跡を示す物が無い
惣座遺跡はまだほとんど発掘されていません。
発掘されたのは国道263号の部分だけです。
肥前国庁跡や地主宮天照宮の部分は手付かずです。

>・その東の二万戸の奴国を思わせる遺跡が無い。
東ではない東南である。
奴國城郭跡は佐賀城と重なる。
遺跡は既に殆ど破壊され今後も遺跡がでることはないであろう。

>壱岐の中心は原の辻遺跡で中々に大きい環濠集落ではあるが
>それでも吉野ヶ里は超えないw
3世紀の吉野ヶ里は最盛期に比べもう既に衰退しています。
吉野ヶ里の最盛期は倭面土國(倭王帥升)の時代。
近くに目達原、米多があり、帥升は米多の湊から漢に渡ったと推測する。
すなわち倭奴國等博多怡土勢力とは敵対する。と言うより傘下に入れた?
安帝永初元年に、獻生口百六十人を獻じ、請見を願うが、後漢と倭奴國との関係上、
安帝には会えなかったようだ。


期待に応えて、さあ、のってやったがこれでいいか?

812 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/11(土) 02:14:50

吉野ヶ里や惣座遺跡は倭面土國の遺構ではないかいな。

813 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 08:33:51
>>802

>>800氏では無いですが一言。
私も伊都以降の記述は放射式であると思います。
ただ、伊都の前後で記述方が変わることの理由付けは少し違いますね。

> 使者らは行程記事を書くときに工夫して、放射式で書いたんだ。

「使者ら」を貴方がどう言う意味で使っているのか解かりませんが、
倭地の風土を記述した人は「一人」だけでは無いでしょう。
倭人伝で書かれただけでも魏の使節は2回来ていますが、
伊都の「郡使往來常所駐」と言う表現を斟酌すれば、
勅使以外の使節、郡使レベルも複数回訪れていたと考えられます。
その都度、倭の風土も記録され、報告も行われているわけです。
伊都前後の変化は、距離・方位の記述方だけはありません。
対馬〜末盧に関しては、「土地山險、多深林」等国ごとの特徴も記述されていますが、
奴以降では記述されていないなど、視点の違いも感じます。
つまり、倭人伝での記述方の錯綜は、それぞれ書き手の異なる複数の資料を基に
編纂されているからなのだと思います。




814 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 09:00:56

>>801

郡使は直接には邪馬台国を訪れていない。冠婚葬祭・風俗風習などは、直接に
見聞している伊都国や対馬国、一支国、末盧国でのことだろう。

郡使が邪馬台国に行っている事実があるなら、あっさりと認めます。
でなければ、>>801は理解できません。

815 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 09:15:16
>>813
>伊都の「郡使往來常所駐」と言う表現を斟酌すれば、勅使以外の使節、郡使レベル
>も複数回訪れていたと考えられます。
「郡使往來常所駐」からそこまで斟酌するのは無理だな。使者は2回とみるのが通説
のはず。仮にそのほかに来た者がいたとしても、報告書などを書いているが、それが
魏の資料室に保存されていたかとなれば、まず可能性はない。
それに、倭人伝の文章は一貫している、複数の資料を寄せ集めたものとは思えんね。

>倭人伝での記述方の錯綜は、それぞれ書き手の異なる複数の資料を基に
>編纂されているからなのだと思います。
このような推測には無理がある。複数の資料を合成するときには、合成する者が記
載を統一する。記載方法が途中から違うから合成などというのは誤った論法。



816 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 09:23:34
>>814
伊都国から先に行かなかったとする考え方はあるが、それは誤り。行かずに、倭人伝のよ
うなことは書けない。例えば産物、木の種類。倭人とは名称などがちがうであろう。使者
らが直接確かめなければ書けることではない。また、「倭王に拝仮」とある。


817 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 09:58:19
周辺の野蛮人の住む東夷は遠いから行かなくてもいいんです。
第一、山賊に襲われたりして危険じゃないですか。
そんなところに、身分の高いお役人様がいくはずがない。

818 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 10:34:18
>>815

> 「郡使往來常所駐」からそこまで斟酌するのは無理だな。
> 使者は2回とみるのが通説のはず。

「郡使」じゃなくて、勅使が2回でしょ。
梯儁・張政以外に誰も来ていないなんて「通説」は聞いたことがない。

> 仮にそのほかに来た者がいたとしても、報告書などを書いているが、それが
> 魏の資料室に保存されていたかとなれば、まず可能性はない。

何故、「可能性」が無いのか?

> それに、倭人伝の文章は一貫している、複数の資料を寄せ集めたものとは思えんね。

一貫していない例は呈示されていますよ。
「思う」「思わない」は勝手だけど、否定するなら何か根拠を併記してくれないとね。

> 複数の資料を合成するときには、合成する者が記載を統一する。
> 記載方法が途中から違うから合成などというのは誤った論法。

現実に記載方が不統一なのだから、御高説の〆の言葉にしては意味が通らない。
記載方は「統一」されている「はず」だから、途中から変わる「はず」が無いと言うことか。
要するに、統一されていなければならないと言う先入観から、
貴方が文章の違いを読み取れないだけなのでは・・・



819 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 10:48:57
>>813
>つまり、倭人伝での記述方の錯綜は、それぞれ書き手の異なる複数の資料を基に
>編纂されているからなのだと思います。

私はこの意見に賛成する。
少なくとも、「倭人伝の地理記載はすべてある年の魏使の実際の旅程・見聞だけに
基づいている」、などと決めつけることはできないと思う。


>>815
>仮にそのほかに来た者がいたとしても、報告書などを書いているが、それが
>魏の資料室に保存されていたかとなれば、まず可能性はない。

どうして「可能性はない」のか。可能性がないとする理由の説明が欠けている。

>それに、倭人伝の文章は一貫している、複数の資料を寄せ集めたものとは思えんね

三国志に限らず、世界中の歴史書や風物記、或いは論文、小説の類を思い浮かべられたい。
たとえ文章は一貫していても、参考となる資料を寄せ集めて書かれたものが大半ではないのか。


820 :819だが:2008/10/11(土) 11:00:37
>>818

819だが、あなたの意見にも賛成する。>>815氏には根拠の提示に欠ける嫌いがあり、
万人を納得させうる論にはなっていない。

821 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 16:33:03
魏使者が王に会うために直接邪馬台国へ行ったかどうか。
倭王に拝仮とありますが、卑弥呼は老齢であるし
政治は弟が行っていたので、240年のあの時の倭王は誰だったのか?
倭王卑弥呼と書いていないだけに疑問が残る。
それだけに、(仮)の倭王自ら伊都国に居たのか、邪馬台国にいたのか?

倭王には会ったと思う。

それは魏皇帝自ら良い物ばかりを与えるのであると言っている豪華な記念品、
を責任を持って届けるのが使者の使命だからだ。
邪馬台国に行ったか行かなかったかを考えるのはただ倭人伝の書き方が変化したとか
遠方であるからというだけの理由では根拠に乏しい。

たとえば、倭からの朝貢だけでも、238年、243年、248年位に
分かっているだけで3回ある。中国の史書には238年の朝貢の後絶えずあったと
書かれている。

一つ気になるのは新羅本紀の249年(または253年)
干老の話。
倭国の使臣が来朝した際、彼は倭に使者に戯れて「近いうちに汝の王を塩つくりの
奴隷にし、王妃を炊事場婦にする」と言った。
なぜなら、倭は長年に渡り韓国に侵攻を繰り返していたからだ。
其の時王がいて王妃がいたならそれは男王であったのかそれとも王妃が台与で倭王であったのか。
卑弥呼は生きていたとしても引退していたのか、などなど多くの疑問がある。


822 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 16:48:25
>>821
訂正
>卑弥呼は生きていたとしても引退していたのか、などなど多くの疑問がある。
卑弥呼は248年のころはすでにいませんでした。
のでこの文は821のレスの上から6行目に置き換えたいと思います。

823 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 17:00:08

ト、トヨタン・・・・・・・・・・・


824 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 17:18:36
>>822
居たよ。

825 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 18:46:18
>>818 >>819
>「郡使」じゃなくて、勅使が2回でしょ。
魏の使者といっても、魏が帯方郡太守に指示し、帯方太守が郡の役人を倭国への使者とした。
したがって、普通は郡使と言っている。

>梯儁・張政以外に誰も来ていないなんて「通説」は聞いたことがない。
梯儁・張政以外にも使者が来たとする説があったら教えて欲しいな。

魏が公孫氏から楽浪、帯方の2郡を接収したのは238年。したがってそれ以前に
魏の使者が倭国を訪れたことはない。239年、卑弥呼が魏に使者を送り、240
年に梯儁が派遣されてきた、次に、247に卑弥呼が郡に使者を送り、そのころ、
張政が派遣されてきた、この2回のほかには、記録はまったくないはず。
山尾もそのことを前提に、「梯儁派遣時の復命報告や見聞の記録類こそ、倭人伝の
最大の情報源である」とする(新版・魏志倭人伝)。
後漢書も57年の奴国朝貢、107の倭国王帥升の朝貢を伝えるだけ。
つまり、中国側からの倭国への使者派遣は梯儁が史上初と解されている。これ常識。

>>> 魏の資料室に保存されていたかとなれば、まず可能性はない。
>何故、「可能性」が無いのか?
上に説明したとおり、倭へ使者を実際に送ったのは帯方郡。したがって、仮に魏の
命令のほかに使者を送ったことがあったとしても、その資料は郡止まりのはず。
魏本国へ報告書が贈られて資料室に入るのは2回の派遣に関するものだけであろう。

826 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 19:09:01
>>818
>現実に記載方が不統一なのだから、御高説の〆の言葉にしては意味が通らない。
>記載方は「統一」されている「はず」だから、途中から変わる「はず」が無いと言うことか。
不統一だというが、里数表示という点では不弥国まで同じ。日数に変わるのは投馬国からだ。
また、方角、距離、国名で書かれているのは伊都国まで、奴国以降は方角、国名、距離。
つまり、里数か日数かと言う点では投馬国から変わり、記載順という点では奴国から変わり、
明確な切れ目はない。したがって、一連の文章とみて不自然は感じない。
投馬国から日数になったのは、遠方で距離の計算が難しくなったから日数表示にしたと考
えるのが合理的。



827 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 19:27:19
>>825

>普通は郡使と言っている。

貴方はそう呼ぶと言うことですね。
私は、たった二回で「常」と言う表現は受け入れがたいので、
「郡使」の往来は多かったと考えます。

>魏の使者が倭国を訪れたことはない。

公孫時代から通交はあったでしょうし、
その記録は魏に引き継がれているのではないかな?
何の情報も無い相手に行きなり親魏倭王などは授けないでしょう。
劉夏の上申に公孫時代の資料が使われていなければ、
まるまる倭側の申し立てを鵜呑みにして、決定が行われたことになる。
私は倭人伝の地理情報は、基本的には劉夏の上申に有ったと思います。
別に同意は求めませんが。
>山尾もそのことを前提に
それって「通説」でも無いし、郡との往来が二回しかなかったとも言ってないですね。

>2回の派遣に関するものだけであろう。

と言うことでそれはありえません。


828 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 20:29:08
>>826

日数表記については、私に違和感はありません。
単に遠いため、あえて里数に換算しなかったように思えます。
しかし、伊都以前には記述順に加えて個別の風土説明もあります。
これは、大きな違和感ですね。

829 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 21:11:50
郡使が確実に2回は来ていたということは、
2回の情報があるということだから、
魏志倭人伝の陳寿は2つの資料を付き合わせた書き上げたということですね。
魏略や広志に無い情報も含まれているのでそう考えられているそうです。
だから書き方が伊都国を境に変わっても別段不思議ではない。
つまり言葉は悪いけどあらゆる情報を集めた張り合わせの記述だから。
なので邪馬台国には行っただろうと思う。得に身軽な張政のときには。
張政は国境警備の属官であるから特に。




830 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 21:31:42
>>829
つづき
でそれがなぜ放射式で書かれていると思うのかよくわからない。
連続しているとも考えられる。
むしろ連続していると思う。
放射説にしては記載がとても中途半端だからだ。

831 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 21:36:25
>>821
>新羅本紀の249年(または253年) 干老の話。

あれの年代はあてにならないだろ。
そもそも、その時点では新羅は国家として成立していないという考えの方が
多数説では?


832 : ◆.L.MXSPOgc :2008/10/11(土) 21:52:34
>>829
そこまで気が付いておきながら、なぜ私と同じ結論に至らないのか不思議でならない。
2人のルートは上陸後、別のものだったのですよ。

http://yamat-2007.blogspot.com/


833 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 21:55:21
宮内庁 箸墓発掘 させてくれ


834 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 21:56:32

>>1
広開土王碑からも、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅
・新羅を破った事実がほぼ定説とされ、また、七支刀の銘文による
秦(和)4年(369年)にあっても百済から倭国にもたらされた貢物
が大和の石上神社から出土したことも事実としてとらえられる。
卑弥呼の時代よりわずか100年後の出来事である。邪馬台国九州説
を考える場合、4世紀中後期にそのような強力な国家が九州に存在し
ていたとは考えられない(考古学的見地)ため、上記の朝鮮半島との
出来事は出土物の物証等からも畿内王朝であったことは、言いがかり
を除いてほぼ断定できるだろう。
九州邪馬台国と畿内王朝が対立していて、4世紀に畿内王朝が九州を
制圧したと考える場合は、九州説が成立するだろうが、そもそも畿内
王朝が短期間のうちに西日本を制圧して、さらに朝鮮半島まで出兵す
ることが可能だったかは疑問です。
よって、3世紀より九州地区も含めた畿内王権国家が邪馬台国連合と
解するのがごくごく自然だと思います。

835 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 22:07:18
魏使は伊都国までしか来ていない。
魏使は倭王卑弥呼と会っている。
卑弥呼は邪馬台国の都に居た。
したがって伊都国が邪馬台国の都。

>>826
>日数に変わるのは投馬国からだ。
日数に変わったのは、里数表示を再度説明したと考えるのが合理的。

>投馬国から日数になったのは、遠方で距離の計算が難しくなったから日数表示にしたと考
えるのが合理的。
伊都国までで最低でも10500里来ている。(実際には方可三百里、方可四百里を加え11900里)
残りは1500里。
伊都国と邪馬台国の都は近い。

836 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/11(土) 22:07:44
>>834
391年の碑文は九州関係の倭兵のことだ。倍暦計算で

 391年=仁徳即位元年

だ。即位のとき半島がどうのこうのは、いそがしくて朝廷は
そんなこと後回しだ。

石上神宮の刀は倍暦計算で

 468年=泰始四年=安康元年

だから、前年の安康即位で、100年前の兼記念のようだ。この件、
愛知県民氏の記念説は正しいようだな。拙者もそこは同意。

837 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 22:12:37
>>832
なんで放射説になるの?
もっと具体的にお願いします。
リンクは私は2チャンネルからは飛ばない主義なもので。

838 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 22:27:33
倭人条には『自女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳』
が書かれており、共立の30ケ国のうち女王国より北は戸数や道順、距離
の概略を記述することはできるが、その他女王国の傍らの国々は絶縁の
ため詳細がわからない。と書かれている。

魏国の西側は現在のインド北部・アフガニスタンの国境まで国域があり
カシミールやトルコとも交易を図っていた国である。
そんな壮大な交流交易を行っていた魏の郡使からの報告で『絶縁で詳細得ず』
の記載において、邪馬台国が九州北中部にあったとは考えられない。

こう言えば必ず、邪馬台国以外は関心がなかっただの、正しい報告がなかった
だのとの反論が記載される。一般民による相互交易も相当にあっただろうし
国レベルでの交流も行われていた。

郡使は邪馬台国を訪れていない。少なくとも九州南部であるならば、いいがかり
を除いては中北部で訪れなかった理由はたたない。

839 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 23:01:20
>>837
つづき
放射説であるならば、それまで連続したいた行程を
いきなりなんの断りも無く放射説に変えるのは普通はしない。
断りの文をいれるはずだし、
もし入れなくても分かりやすいように
自伊都国東南至○国○里とか書かなくては。

840 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 23:03:22
>>835
>伊都国までで最低でも10500里来ている。〜残りは1500里。
>伊都国と邪馬台国の都は近い。
万二千余里というのは女王国まで。邪馬台国ではない。

841 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 23:13:46

>>840
そう、県境の国道では、よくナビが『○○県に入りました』って言うでしょ
でも、県庁まではさらに距離があったりする。


842 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 23:30:42
>>839
そのとおり。断りはあるが、これまで気づかなかっただけ。
「世有王、皆統属女王国、郡使往来常所駐」がそれ。これまでは、伊都国に関する
記事で、郡使がしばらく滞在したとか解されてきたが、倭人伝がそんなボヤッとし
たことをわざわざ記すはずはない。まちがいだったわけね。
これは、対馬国から伊都国までに関する記事(世有王、皆統属女王国については、
そうも読めるという指摘はこれまでもあった)。
郡使往来常所駐は、4か国は倭国への往来にいつも駒を止める所だという意味。つま
り、4か国は往来における経由国だというわけで、伊都国以降については反対解釈で
非経由国だということを示したもの。
これが放射式に読むべき指示文ということ(邪馬台国の暗号・安田哲也の説)。
もちろん、榎が指摘する語順や奴国以降に「又」がないのも、それに合わせたもの。 


843 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 23:43:05
なぜ伊都国に到の字が使われているかといえば、
魏略逸文には伊都国で記載が終わっているからだ。
でその資料は多分240年の悌儁の時のもの。
はっきり言えば伊都国で国王に謁見したことになる。
もしもそれ以上に歩を進めて邪馬台国まで行ったとすれば、
魏略逸文にも必ず記載があるはずだ。
陳寿はその文章をそのまま記載したと思われる。
奴国以降は張政の時の報告書によっていると思う。
そして書き方が変わったのもそのまま記載したから。
到の字があるから、
書き方に変化があるから、の理由だけでは放射説は説明できない。

844 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 23:58:41
到の字は狗邪韓国と伊都国にだけ使われている。
狗邪韓国と伊都国が目的地で残りはたまたま通過した国。
投馬国の中の一つの邑国が狗邪韓国、邪馬台国の中の一つの邑国が伊都国。
狗邪韓国は朝鮮半島南部にあった投馬国の代表的な国。
伊都国は邪馬台国の王都で卑弥呼の居た国。



845 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 00:26:09
>>844その通り。
    邪馬台国(=伊予≒四国全土)の王都は丸亀、卑弥呼の墓は讃岐富士。
    これですべての謎が解けた。

846 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 01:15:46
>>843
魏略ではなく、魏略曰

この違いを
貴方は理解できますか?
しかも逸文。

847 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 01:30:37
>>843
なるほど。

邪馬台国自体が新興国であり
かつ公孫氏が半島の支配をしていた頃は
倭国との直接交渉が無かったと考えれば首肯できる話だな。

848 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 03:06:56
>>838
卑弥呼がどうして帯方郡に使いを送ったのかも考えなくてはならない。
卑弥呼が使いを送ったのは、景初三年(西暦238年)。
その前年に、魏は公孫氏を滅ぼし、帯方郡を手中に収めている。

この時、魏の将軍だった司馬懿は、非常に残酷な男で、公孫氏の成人男子を
皆殺しにし、首を晒したとされている。

一方で、卑弥呼は公孫氏と通じていたとも言われている。

卑弥呼としては、公孫氏の状況を知っていたはず、とすれば、魏が怖かった
のではなかろうか。自分も攻められるかもしれないと。
だから、邪馬台国は遠くにあるということにして、伊都国までしか行かせ
なかった。つまり、邪馬台国の場所を隠したという考えもできる。

そうすれば、邪馬台国は意外に近かったということも考えられる。

849 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 03:09:56
邪馬台国は近畿だと思う。

九州なんてことは無い。

850 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 03:26:15
「やまたい」ではなくて「やまと」と聴いたことがある。なら近畿だね。

851 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 04:52:51
そもそも・・・

「魏使は邪馬台国まで行っていない、卑弥呼に会っていない」
なんて話一体誰が最初に言い出したんだ?

文献史学者?それとも市井のマニア?

国書を携えた遣使が相手国の都に行かず王に会わなかったなんて
およそ考えられる話じゃないと思うがwww

まあ>848やその他理由は色々考えられるんだろうが
所詮推測の域を出ない。

せめて「親魏○王」と封ぜられた他所の国に
そういった事例が確認できるのならともかく…

852 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 05:21:19
>>851
不弥国までは里程で、投馬国からは日程に変わっていること。
隋書にも書いてあるが、夷人は、里数を知らず、日を以って計る。
とあるように、日数で書かれている部分は、実際に行っておらず、
伝え聞いたものと考えられる。

そのほか、倭人伝のあちこちに、郡使は、邪馬台国に行っていないんじゃないかと
思われる部分がある。
例えば、「傳送文書賜遺之物詣女王」の部分。
文書や賜りものを女王のもとへ伝送とあるが、こんなものは普通、郡使が
直接持っていくものだろうに、伝送とはどういうことだろうかとか。

853 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 07:21:45
>>851
>「魏使は邪馬台国まで行っていない、卑弥呼に会っていない」なんて
>話一体誰が最初に言い出したんだ?
安藤正直が「郡使は伊都国に抑留せられた」などと言い出したのが最初かな。
畿内説は行程記事とまったく合わないし、北九州説も日数記事が邪魔なので、
これに飛びついた学者もいた。例えば山尾、榎。
しかし、橋本増吉(東洋史上より観たる日本上古史研究)や謝銘仁(邪馬台
国、中国人はこう読む)など、そんなことは考えられないとする者も多い。

>国書を携えた遣使が相手国の都に行かず王に会わなかったなんて
>およそ考えられる話じゃないと思うがwww
そのとおりだな。邪馬台国まで行かなければ、倭人伝の記事は到底書けない。
倭の地は温暖、冬夏生菜を食すとか、死者に対する習慣、木の種類、こうい
ったことは、倭人からの聞き取りで書けることではない。
「倭王に拝仮」も直接授けたことを意味する。

>>852
>文書や賜りものを女王のもとへ伝送とあるが、こんなものは普通、郡使が
>直接持っていくものだろうに、伝送とはどういうことだろうかとか。
一大率が使者に運搬人を同行させた、遠距離だから途中でその運搬人が交替
したということだろ。使者が伝送の様子をみていたから書けることだな。








854 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 07:36:30
誰か大和説スレ4建ててくれ…
今の俺には建てられない。

855 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 08:36:07
実は、邪馬台国は四国で、九州や瀬戸内海、大和をも支配し、
半島南部にも拠点を置いていた。
魏の使者は、卑弥呼さまに和議を申し入れるために来たけれど、
殺されてしまった。しかし、魏は体面を保つためにその事実を伏
せて、邪馬台国は500里も離れているので行けなかったことにし
た。
これですべての謎が解けた。使者を送った新興国は魏のほう
だったのです。

856 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 09:03:08
富国強兵という言葉の意味からして、
今でも、台風頼みの稲作をしている四国に
諸国を束ねる力などあったはずがない。

857 :832:2008/10/12(日) 09:09:30
>>837
私は放射説ではないですよ。

私の説を簡単に言えば、梯儁と張政のルートが異なる、
それを陳寿が同じルートと間違えて書いた。

というもの。

858 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 09:40:56
張政、邪馬台国の優れた文化を学ぶために魏から派遣された遣倭使。
そもそも魏のほうが文化的に政治的に優れていたという証拠などない。

859 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 11:08:15
>>858
愛国心にも程がある。
得体の知れん国を調査しに派遣されただけ。

860 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 11:26:40
>>858
そもそも冊封関係が対等外交ではないしwwwww

861 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 11:59:16
>>851
>そもそも・・・「魏使は邪馬台国まで行っていない、卑弥呼に会っていない」なんて話一体誰が最初に言い出したんだ?

魏志倭人伝によると魏使は明らかに伊都国付近までしか来ていないが、倭王卑弥呼には会っている。
邪馬台国が畿内にあったとすると、伊都国まで倭王が魏使を出迎えに来たとは考えられない。
伊都国付近が邪馬台国の王都と考えられる。



862 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 12:37:52
>>858柵封関係うんぬんを言っているのは魏であって、
    邪馬台国にはそのような記録は残っていません。
    

863 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 12:52:56
>>862
邪馬台国の記録って何ですか?wwwwww

864 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 12:58:23
邪馬台国には文字がなかったと思っているのですか?


865 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 13:27:52
>>864
話をはぐらかすなよw

じゃあ、あったとして今に伝わるその文献は何なんだよ?www

866 :のんびりひまじん:2008/10/12(日) 16:21:28
>>851
>「魏使は邪馬台国まで行っていない、卑弥呼に会っていない」なんて話一体誰が最初に言い出したんだ?
>文献史学者?それとも市井のマニア?

推理小説家の松本清張さんは、広めた一人。松本さんのオリジナルかどうかは知りません。
(松本さんは、当時最高のベストセラー作家でコワいから名指しでたしなめる人は少なかった。)
松本さんは、ほかに、
一大国=一支国だから一大率=一支率 ∴一大率は、魏軍の一支隊 という珍説もした。

他国訪問中、出合った自国の政府関係責任者が名刺交換・情報共有しないはずない。
(松本さんは上等兵止まりで、高官のビヘイビアへの理解がない)

アマチュア考古学者の原田大六さんも魏使が出張日当を水増し請求したという奇説がある。

>国書を携えた遣使が相手国の都に行かず王に会わなかったなんておよそ考えられる話じゃないと思うがwww

その通り。女王に拝仮とは、直接面会のうえ渡す意味でしょ。

867 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 17:55:47
邪馬台国の様子が書かれていない。
実際に行ったとしたら、詳しく書かれているだろう。
卑弥呼の印象も書かれていない。
実際に会ってはいないと思うな。

邪馬台国まで行き、卑弥呼に会ったとしたら、これについて一番多く書かれて
いるのが普通だろう。

868 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 19:04:41
邪馬台国は大和だったと確信してます。

否定論者の言動には陰謀めいたものを感じます。

869 :のんびりひまじん:2008/10/12(日) 19:08:23
>>867 卑弥呼(=君臨王)の
個人描写:年すでに長大 は、
魏の使者が実見して35才くらいと判断したもの と考える。(この場合、男弟は30代前半=執政王)

もし、倭人から卑弥呼の年齢を聞いたなら、70前後を答えたであろう。(←二倍年暦)

・倭人が答える卑弥呼の年齢が、35(2倍暦)とは考えにくい。←弟王(執政王)は実年齢で何歳?と疑問する。

つまり、年すでに長大 という表現自体が、実見を示すと考える。

 〜松本清張さんが元気なころ=安本美典さんが二倍年暦を言い始めたころ、この話題があったのでは?

870 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 19:19:24
しかし、今どき二倍歴を口にする人もいないし、
時代は変ったなと思うのです。

871 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 22:18:43
太国が一言


872 :犬国:2008/10/12(日) 22:25:11
ボクちゃん
『二倍』と言う言葉の意味は辛うじて解るんだけど
『暦』の意味はじぇんじぇん解かりましぇーん。

873 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 22:32:39

映画、見に行く人いますか?
ノシ

874 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 23:33:05
盲目の九州説論者とその妻の物語だろ。
邪馬台となんの関わりも無い

目が見えない分、妄想は膨らんだんだろうな

875 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 00:01:04
>>867
>邪馬台国の様子が書かれていない。実際に行ったとしたら、詳しく書かれているだろう。
「男子は大小となく〜」以下の記事は、邪馬台国を中心とした女王国についての
説明だ。邪馬台国だけではない部分は確かにあるが、邪馬台国のことが詳しく書
いてあることにはまちがいないぞ。
>邪馬台国まで行き、卑弥呼に会ったとしたら、これについて一番多く書かれて
>いるのが普通だろう。
使者が一大率に会っていることはまちがいない。その一大率についてほとんど何
も書いていないのに比較すれば、「鬼道に仕え」以下は多く書かれていると言う
べきだろ。



876 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 00:01:49
>>852
魏の使者が卑弥呼に会っていないという根拠として、他にもいくつか・・・

九州でも冬は寒いが、魏志の記事は秋〜冬の描写がない。秋以降は海が荒れるので、
海の穏やかな初夏に来て、伊都国まで行って夏のうちに帰ったと考えられる。

魏志の記事には、卑弥呼に直接渡したと書いていない。逆に、「卑弥呼はこんなに
遠くににいて、しかも誰にも会わない」と言い訳がましく書いている。

伊都国で荷物の検査をすると書いてあるが、これは「伊都国で責任ある役人に引き渡した
ので、卑弥呼に直接渡さなくても大丈夫」という言い訳である。


877 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 00:04:15
>>876
あと、卑弥呼の居所のすぐ近くに対立する狗奴国があるという部分も
卑弥呼に会わなかった言い訳になる。

878 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 08:31:30
>>876
四季を描写した記事なんてあったか?

879 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 08:37:20
倭地温暖、冬夏食生菜

880 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 09:01:59
>>879
冬夏食生菜が四季の描写なら、>>876が言う
秋〜冬の描写がないという考えは、間違いだといえる。

881 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 10:11:24
悌儁の時は伊都国で倭王に会ったと思う。
倭王が卑弥呼とは限らない。
というのは郡使でいえども、国書を携えた者。
倭国は朝貢国、立場的には倭国の方が下になる。
中国の大河ドラマとも言うべきものを見たことがあるが、
いかに皇帝の使者であっても、
詔書を持って来た場合は相手が豪族の王であろうとも
使者の方が前に立って高々と詔書を読み上げる。豪族の王は跪き
ありがたく其の言葉を受ける。
わざわざ山奥の邪馬台国まで足を運ばせるのは失礼というものだ。
お出迎えが普通だ。
それに伊都国の戸数は千余戸ではなく一万戸。>魏略逸文による
辺鄙な街ではなくそこそこ発展した街だ。

張政の時には邪馬台国まで出かけたと思うので、伊都国以降の
道のりを記すことができたのだと考える。


882 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 11:07:34
>>881
>倭王が卑弥呼とは限らない。
伊都国王が代理したとか?

>お出迎えが普通だ。
卑弥呼が山から出てきた?

なんか首尾一貫しない話だな。



883 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 11:35:15
>>882
卑弥呼は山からは出ないでしょう。
伊都国の国王だと思います。

ちゃんと書いてあります。
倭王が拝仮と。
そのために伊都国には代々王がいて皆女王国に属していると前置きがあるのでだと思う。

884 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 11:50:21
>>883
>ちゃんと書いてあります。倭王が拝仮と。
確かにそう書いてある。しかし、伊都国王は倭王ではないね。
梯儁は倭の女王の遣使に対するお返しとして派遣されてきた人物。その人物が
拝仮(直接に会って授与すること)する相手は卑弥呼しかいないはずだが。


885 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 12:10:37
>>884
伊都国王なんていない。

886 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 12:16:16
>>884
>拝仮(直接に会って授与すること)
拝仮ってそういう意味でいいの?
辞書に書いてありますか?


887 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 12:22:12
>>876

> 伊都国で荷物の検査をすると書いてあるが

「臨津搜露」のことを言っているのだろうが、これは直前の一大率の記事とは関係無い。
一大率の職務の説明で「檢察諸國」と言う言葉が使われているが、
これは、刺史の職務の内、州内の巡察をイメージしたもので、
文脈的には「〜如刺史。」までで、一大率の説明は終了している。
故に一大率が常治したという伊都とも関係ない。

ただし、「臨津搜露」の場所がどこであるかは、倭人伝では明記されていないが、
「津に臨みて」とあるので、水路かろ陸路への転換点でのことであるのは間違いない。
なので、伊都を前原と考えるのであれば、伊都でも「臨津搜露」は行われていたかも
しれないが。

888 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 12:57:45
>>880
冬でも環頭衣1枚で生活していたわけではあるまい。冬の衣服の描写はない。
九州でも北岸の冬は寒い。
温暖としか書かれていないのと、海南島あたりと同じと考えているのは、
夏に来て、常夏の国と勘違いしたのであろう。

なお、魏の使者は100〜200人の規模(荷物の運搬だけでも100人以上が必要)
なので、冬まで居たとは考えにくいというのもある。


889 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 14:04:03
妄想コンクール発表会みたいだな

890 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 14:24:46
邪馬台国九州説は、嘘!大袈裟!紛らわしい!

891 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 14:34:52
倭人伝を基に話を進めるのであれば、先ずは倭人伝の記述をちゃんと理解しよう。
いくら白文が読めないからと言って、都合好くテキトーに読んではいけない。
恥かしいだけ。

892 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 15:20:22
梯儁時の女王国というのは女王に属している国という意味で伊都国を指していると思う。
だから自女王国以北・・・
は伊都国以北は略載ができるとほかは遠絶であるから詳しく書けないと。
以下の国名の羅列の中には最初は
きっと不弥国も投馬国も奴国も邪馬台国も本来は書いてあったと思う。
陳寿はその後の最新の資料(張政)も持っているので、
そこから不弥国、投馬国、邪馬台国、を抜いて書き出した。
でも奴国だけは、抜かなかった。
奴国は後漢書では倭国の極南界という記述に惑わされたと思う。
後漢時代は倭国は伊都国の次の奴国が境界だったのだ。
奴国のダブったナゾが理解できる推測の一つだ。

邪馬国はもしかしたら八女国ではないだろうか。

893 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 17:13:35
>>886
「倭人伝私注」とかに、要領よくまとめられている。
佐伯によれば、『拝仮』は仮に、または、臨時に任命すること。ただし、単に任命する
という意味もある。三木太郎は、拝は下位者が上位者をふしおがんで受けること、仮は
上位者が下位者に授けることとし、また、拝仮は天子の専権事項であるとする。三木に
したがえば、ここでは卑弥呼が勅使である梯儁をふしおがんで金印紫綬を受けたことに
なり、二人は確実に対面していることになる。

拝仮とか仮は何度か出てくるが、仮に〜ではどうみてもおかしい。辞書を引くと、「給
与する」という意味がある。拝は授けるという意味が示されているが、もともとはお辞
儀をするという意味からそこで行われる授与に転化したもの。直接に授けるという趣旨
がある。よって、三木説に従うべきであることが分かる。

894 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 17:33:38
>>888

>夏に来て、常夏の国と勘違いしたのであろう。

魏志倭人伝で、冬に生の菜を食うと断定してるのに、
自説に都合の良いところだけはなんでも勘違いで無視していくのは、まずいだろ。

895 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 17:42:54
>>888
>九州でも北岸の冬は寒い。
風俗記事は女王国に関するもの。北岸について書いているわけではない。


896 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 18:00:59
奈良の冬は地面は凍りついて、生菜など食える可能性はない。
有明海を望む北部九州は、雪が降っても奈良の厳冬とちがい、果物も生っているような冬だ。
邪馬台国を畿内に持っていくのは無理ってこと。

897 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 18:02:49
女王國についてとも書いて無いだろう。
単に倭地のこととして書かれている。
ついでに、何月何日だれそれの見聞とも書いてないので、
ヨロシク。

898 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 18:19:50
>>896

邪馬台国でとれる果物って何よ?www

899 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 18:21:10
まあ、

>夏に来て、常夏の国と勘違いしたのであろう。

なんていう>>888の身勝手な思い込みは要注意だ。自説に引きずり込む勝手読みだからな。

でどちらにせよ、奈良や畿内の厳冬は、倭人の住む領域でないことは、明らかだ。
邪馬台国は倭人の住む領域であることも、間違いないな。

900 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 18:22:16
>>897
>単に倭地のこととして書かれている。
どこにもそんなことは書いてない。倭地温暖とごっちゃにするな。

901 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 18:22:46
>>899

21世紀に有明海を望む北部九州で採れる果物のことだぞ。
農協に問い合わせて聞いてみたらいい。

902 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 18:41:14
>>899
くだらない妄想に、一々目くじらたてる事もなかろう。
ただの感想文に釣られるヤシはいない。

903 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 18:41:53
>>901

21世紀だってwwwwww

904 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 18:50:50
倭王(倭国の王 はっきりしない)・・・魏志倭人伝
倭女王弥呼(卑弥呼)・・・魏志倭人伝
倭女王(卑弥呼)・・・魏志倭人伝
親魏倭王卑弥呼(卑弥呼)・・・魏志倭人伝
大倭王(卑弥呼)・・・後漢書
弥呼宗女壹興(壹興)・・・魏志倭人伝


905 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 19:47:44
>>903
いろんな果物について、陳寿に聞いて来いよ

906 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 20:02:14
21世紀梨

907 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 20:47:34
「倭女王」遣使…
倭女王だって、誰も何も気付かないのかな?
この「倭女王」三文字だけで、沢山の情報が詰まっていることに。

908 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 20:53:06
>>892
女王国とは伊都国と奴国のことだ、女王を共に共立した二国。
伊都国に倭王卑弥呼の都があった。
伊とは卑弥呼のことだ。
奴国とは伊都国に従う国の意味だ。

邪馬台国は女王国の勢力圏、北部九州一帯。

投馬国は朝鮮半島の倭地。

909 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 22:25:39
伊都国までが万二千里だと仮定したらぴったりでした。

今まで対馬の縦長の距離を実測しなかったからだと思いました。
文献だけに頼っていたので。

対馬の沿岸に沿って水行の長さは約1200里(短里)ありました。
壱岐は約300里(短里)でした。

全部を足すと
7000里+1000里+1200里+1000里+300里+1000里+500里=12000里
になります。


910 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 22:34:07
魏志倭人伝を読む限りでは、邪馬台国が伊都国の近くにあるとは思えないし、
魏使が邪馬台国まで行ったとも思えないのだが。

911 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 22:42:24
邪馬台国は熊本と福岡の県境付近だと思います。
張政は国境警備の属官だから、行ったと思います。
広大な中国の大地からみれば、国境警備員にとっては北部九州などそれほど苦ではないと思う。


912 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 22:46:17
悌儁は行かなかったと思います。
だから伊都国で到着で、女王国(伊都国)まで万二千里(上の計算)に
なります。

913 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 22:48:35
大勢の関係者が何度も往復してるから心配するな。

914 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 22:52:14
魏志倭人伝は偽書。
そう結論付ければすべてが解決するのに・・・


915 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 22:53:13
>>900
> >>897
> >単に倭地のこととして書かれている。
> どこにもそんなことは書いてない。倭地温暖とごっちゃにするな。

何でさー

916 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 22:59:52
>>893
「拜假」は、単に授けるくらいの意味ではないかと思う。
だから、直接、渡したという意味までは含まれていないのではないだろうか。

倭人伝には、「傳送文書賜遺之物詣女王」というのが出てくる。
文書や賜りものを女王のもとに送り伝える。
つまり、文書や賜り物の乗った船が出て行くのを見送ったという風に
思えるのだが。

917 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 23:08:43
>>894
>冬に生の菜を食う

それは伝聞で書ける。
日本で冬を実体験したなら、温暖で終わるわけはなかろう。
日本にもちゃんと冬があることが書かれるはずである。

918 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 23:12:45
どうして秀真が偽書で、魏志倭人伝が真実なのか・・それを聞きたい。
邪馬台国の記述、全くのインチキではないか。

919 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 23:28:13
>>916
>文書や賜り物の乗った船が出て行くのを見送ったという風に思えるのだが。
使者が文書や賜り物を他人に託すなどということはありえない。使者が赴く
際、一大率が手配した運搬人も同行した、それが途中で交替したということ
だな。


920 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 23:29:19
>>918
本物とインチキをどうやって区別する。

921 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 23:30:18
>>917
>日本にもちゃんと冬があることが書かれるはずである。
書いてるじゃん。 冬に生の菜を食うと。



922 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 23:38:48
>>918
秀真って誰がいつ書いたの?

923 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 23:45:59
誰かスレ立てしてくれないかな?><

スレタイ

 なぜ邪馬台国を大和と認めないの?4

テンプレ

 前スレ
 なぜ邪馬台国を大和と認めないの?3
 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1219593915/l50


924 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 00:52:23
>>917

そんな奇妙な質問を、わざわざしないものだ。

925 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 03:14:08
>>923
立ててやろうと思ったが、立てられんかった。

926 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 08:25:49
>>910
下記のように考えれば問題は全て解決。

女王国とは伊都国と奴国のことだ、女王を共に共立した二国。
伊都国に倭王卑弥呼の都があった。
伊とは卑弥呼のことだ。
奴国とは伊都国に従う国の意味だ。

邪馬台国は女王国の勢力圏、北部九州一帯。

投馬国は朝鮮半島の倭地。

927 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 08:53:43
>>926
何度コピペしても、受け入れられないものは、受け入れられない。

928 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 08:59:09
>>917
>それは伝聞で書ける

書かない。
史記は、該当時代の中国人の歴史。役人が見、調べ、携わったものを記する。
だから史記としてなりたちます。

929 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 13:38:17
>>915
習俗記事はどこについて書いているのか?
倭の全体についてではない。そのことは、対馬国、一支国などについて個別に記載
されていることから明らかである。倭地温暖も対馬や壱岐を含むはずはない。
どこについて書くのかが明記されていないのか?それもおかしい。
史書の生命は正確であること。その史書が対象を明らかにしないで、記事を書くは
ずはない。となれば、自郡至女王国万二千余里こそがその対象を明らかにした文章
と解することができる。つまり、習俗記事は、万二千余里から始まり、邪馬台国の
南で終わる広大な女王国について記したもの。けして北九州諸国について記したも
のではないということである。

930 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 13:49:32
>>929
〜はずはない。〜それもおかしい。〜はずはない。〜解することができる。つまり、〜ということである。

揚げ足取りのようで恐縮だが、推測に推測を重ねて結論に至っている。
倭人伝解釈のほとんどがこればっかり。
解りっこないことを無理に結論出そうとしすぎるんだと思うよ。
邪馬台国って何所?わかんない。それでいいじゃん。

931 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 14:05:33
夏休みは終わったのだから、いい加減
感想文は止せ。
自分の主観中心に述べられても
周りが迷惑するだけだ。

932 :サガミハラハラ:2008/10/14(火) 14:07:15
推測がどれだけ科学的で合理的であるかによって判断が正しいものとなります。

邪馬台国の都は佐賀県小城市甘木です。

933 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 14:26:40
>>930 >>931
では、簡単に書こう。
習俗記事は、冒頭に自郡至女王国万二千余里とあるとおり、女王国について記したもの、
倭の全体について記したものではない。


934 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 15:19:28
>>933
中国人が認識する範囲の様子を記したもの

935 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 15:35:44
>>932
何が科学的、合理的だよ
。笑えるよ

936 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 15:59:34
朱涯・たん耳の東と聞いて、漢書地理志から朱涯・たん耳の風俗記事をそのまま借用

937 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 16:07:54
>>936
根拠のない邪推だな。

938 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 17:40:42
>>932
日教組に所属していたおっちゃんに言われてもなあ(棒

939 :サガミハラハラ:2008/10/14(火) 17:42:28
>>935推測がですよ。
物事を四港するときは大概推測や憶測からはじまり、おおくの物証や
推論を淘汰して正しい結論にたっします。

940 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 17:45:55
>>1  他所レスだけど此の説はどよ。

94 名前:日本@名無史さん :2008/10/14(火) 16:53:36
さつま、いづも、の「つま、づも」は投馬と同じ意味で、「泊、止、留、停」は「とま」り
「つまり」も同意か?、古代船泊まりと言うのは大事で、高速道のインターチェンジ。

「さつま」とは熊襲の襲の泊の事で古代そ「襲」のつまが「そつま」と思われる。
では「つま」と「とまり」が何故同じ意味かと言うと古代の通い婚と関係が
有るのでは、妻の元に通い数日泊まる事から妻=御泊りに成ったのでは。

そこで一大率の伊都国より水行10日、陸行1ヶ月で日向「邪馬台国」に着き
伊都国より水行20日で襲の泊、さつま「投馬国」に着く、航路は熊本県南部辺りの狗奴国と
対立状態なので西回りは使えず東回りの航路、だから投馬国の方が2倍の日数がかかる。


941 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 17:48:17
魏志倭人伝を読んだら、
魏使が北九州に居る状態で
「邪馬台国は物凄い遠くにある」と認識していることぐらい分かりそうなものだが。

942 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 17:49:02
頭のおかしな人には気をつけましょう http://www.2ch.net/before.html

利用者が増えるに従って、頭のおかしな人もそれなりに出没するようになって来ています。
頭のおかしな人に関わるとなにかと面倒なことが起こる可能性があるので、注意しましょう。

頭のおかしな人の判定基準

・「みんなの意見」「他の人もそう思ってる」など、自分の意見なのに他人もそう思ってると力説する人
 他人が自分とは違うという事実が受け入れられない人です。自分の意見が通らないとコピペや荒らしなど
 無茶をし始めるので見かけたら放置してください。

・根拠もなく、他人を卑下したり、差別したりする人、自分で自分を褒める人
 他人を卑下することで自分を慰めようとする人です。実生活で他人に褒めてもらう機会がないが
 プライドだけは高いとか、匿名の掲示板しか話し相手のいない人です。可哀想なので放置してください。

・自分の感情だけ書く人
「〜〜がムカツク」とか自分の感情を掲示板に書くことに意味があると思っている人です。
何がどのようにムカツクのか論理的に書いてあれば、他人が読んでも意味のある文章になりますが、
そういった論理的思考の出来ない人です。もうちょっと賢くなるまでは放置してあげてください。

943 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 17:54:47
仮に倭人伝の風俗記事が九州のそれだとしても
広域首長連合を想定する畿内説には、何の不都合も無いわけでwww

風俗も良く観察されクニ間の距離も分かっている九州から水行陸行を合計2ヶ月かけた
遠隔の地が邪馬台国と言う事で無問題wwwwww





944 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 17:55:40
一番危ないのは、改めてそんな書き込みをする>>942だよ

945 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 17:59:16
>>941
>魏志倭人伝を読んだら、
魏使が北九州に居る状態で
「邪馬台国は物凄い遠くにある」と認識していることぐらい分かりそうなものだが。


洛陽から帯方郡の距離を考えれば、帯方郡と列島の距離なんて・・・

946 :943:2008/10/14(火) 18:03:51
まあ>936の言うように倭人伝の風俗記事には
「前漢書」の地理志の粤地条や擔耳朱崖郡条とほぼ同じ物があり
結構やっつけ推測が入っていると思われる部分もあるしwwwwwwwwww

てか倭人伝の風俗記事に関して書かれた本なら
その程度の事は大抵触れていると思うのだが…

この板の九州説の連中ってその程度の事も知らない?
いや、知っていても何とか自説に有利にしようと知らん振りを決め込んでいる?

デフォでサイキバ君脳ですか?wwwwwwwwwwwwwwww

947 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 18:08:01
遠絶(近畿地方と思われる)の国々には戸数や人口が書かれてないが
魏使が居る伊都国の回りの国々には戸数、人口が記入されている。

むろん邪馬台国も戸数、人口、国内事情も詳しいので九州だと思うよ。



948 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 18:39:19
邪馬台国は近畿だろう。

丹波、畿内、東海の人口は九州よりも多いからな。

949 :のんびりひまじん:2008/10/14(火) 18:45:23

・後漢書・・・チャイナ南北朝時代成立 編者:はんよう(398−446)

・魏志倭人伝(を含む三国志)・・・魏滅亡直後の晋時代成立 編者:陳壽(233−297)

以上、単純な事実から知れること

魏志倭人伝は卑弥呼と同じ時代の人が書いた。∴信頼度高い

もし後漢書東夷伝と魏志倭人伝に類似異同記事があるならば
○魏志→後漢書
×魏志←後漢書   と考えて当たり前。

実は、魏志倭人伝を後漢書東夷伝が致命的誤読している。
・魏志:有るもの無いものの状況は擔耳朱崖に近い(=似ている)→後漢書:擔耳朱崖に地理的に近い
・魏志:上戸4・5婦、中戸2・3婦、下戸1・2婦→後漢書:国多女子

こうゆう誤読を知らないままの意見は叱ってやらないと分からぬらしい・・・

950 :のんびりひまじん:2008/10/14(火) 19:10:29
>>949
(誤読の連鎖)
後漢書東夷伝:国多女子・・・魏志倭人伝の奴婢(男の奴隷<恩の奴隷)見落とし

晋書倭人伝:国多婦女

梁書倭伝・隋書イ妥国伝・南史倭国伝・北史倭国伝:女多男少

旧唐書倭国伝・新唐書日本伝:多女少男       ここまで続いた。

以上トンデモ誤読の実例。諸君も同様の誤読しているかも知れぬ。
(想像→結論を振り回すのはほどほどに。論拠とする事実を尊重していたほうが良いと思う。)
         
          
        〜なお、この誤読連鎖が解消するのは、宋史日本伝以後のこと

951 :のんびりひまじん:2008/10/14(火) 19:12:08
>>950 訂正
×男の奴隷<恩の奴隷
○男の奴隷<女の奴隷

952 :946:2008/10/14(火) 19:14:32
>>949 ひまんじ
念の為に言っておくが俺が言っているのは『 前 漢書 』だからなwww

953 :のんびりひまじん:2008/10/14(火) 19:14:57
>>950 >>951 訂正が逆だ
×男の奴隷<女の奴隷
○男の奴隷>女の奴隷

954 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 19:36:24
946はトンデモ夏祭か?

955 :のんびりひまじん:2008/10/14(火) 19:37:07
>>952
はんよう はもともと蜀の史官。それが蜀の滅亡後、
倭の女王壱與の晋への遣使の266年の直後ころ、晋に仕えるようになった。

推察できることは、出来たばかりの倭国巡歴報告を読んだだけでなく、倭国訪問使者に
直接のインタビューくらいできたであろう。(それができる位時代は近接している。)

魏志倭人伝:有るもの無いものの状況は擔耳朱崖に近い(=似ている) というのは
それらの報告と(前)漢書地理志との比較から判断したものと考えられる。

>>936
>朱涯・たん耳の東と聞いて、漢書地理志から朱涯・たん耳の風俗記事をそのまま借用

こうゆうのがダメなのです。

956 :946:2008/10/14(火) 19:46:11
>>955 ひまんじ

では具体的に聞こうw

お前さんは九州で 『 ハマグリ 』 を潜水漁法で採っていたと言う事例を知っているのかい?wwwwwwww


>>954
違うわドアホwww

余程夏祭りに痛い目にあわされたんだなwww

もう夏祭りと言う季節でもないから
恥ずかしい過去は忘れたまえwwwwwww

957 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 19:46:37
>>948
3世紀は九州の方が人口が多かった。
邪馬台国は九州ですね。

958 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 19:53:06
>>927
「東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
上記のように魏の郡使は2度の来日(正治元年(240年)と正治八〜十年(247〜249年))の際、伊都国に滞在しそこより先へは行っていない。

「正治元年 太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國 拜假倭王 并齎詔賜金 帛 錦□ 刀 鏡 采物 倭王因使上表答謝恩詔」
上記のように魏の郡使は直接倭王(卑弥呼)に会っている。

つまり、魏の郡使は伊都国で倭王(卑弥呼)に会たと考えられる。
倭王(卑弥呼)が遠路遥々、魏の郡使に会うために伊都国まで来たとは考えられない。
倭王(卑弥呼)は伊都国の直ぐ側か伊都国に住んでいたと考えるのが当然であろう。




959 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 20:01:10
>>948 >丹波、畿内、東海の人口は九州よりも多いからな。
>>957 >3世紀は九州の方が人口が多かった。

どっちもどっちだなww
根拠も示さずただ、「こっちの人口が多い」、「いや多いのはこっち」
では、まるで幼児の喧嘩みたいだww

960 :のんびりひまじん:2008/10/14(火) 20:06:48
>>949 >>950  誤読の連鎖(続編)
はるか南の島。女ばっかり。(オレもそんな島へ行って王様になりたい!)
ところが王様までが女。   と変形して

女護が島 伝説に成長しました。

井原西鶴の好色一代男の主人公は、年70にして日本の女に飽きて南へ船出後、消息不明。
さて、いずこへ行ったものやら?  と終わる。

井原西鶴も読者たちも、この主人公が目指した島が邪馬台国の誤読からの伝承と知らぬ。

われわれも、こうゆうことにならぬようにしたいものだ。>>946 >>956

961 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 20:16:28
>>956は電波ローガンだったか〜〜〜

962 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:10:37
>>949

>実は、魏志倭人伝を後漢書東夷伝が致命的誤読している。

アホか?
あんたより何倍も范曄は賢いわ
あんたの誤読を范曄のせいにしたらアカン。

963 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:15:41
少なくとも962より、のんびりひまじん氏のほうが賢いだろ。

964 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:22:35
>>958
「丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」は、魏の郡使が邪馬台国への往来に際し、
常に駐まる所だった(宿泊する所だった)、というだけで、伊都国より先へ行って
いないという意味ではありません。




965 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:27:01
>>949 >>962
のんびりひまじん氏の指摘のとおり。范曄は文章はうまいが、資料の読み方は
しばしば間違いがあります。

966 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:35:42
九州説論者が主張する「畿内信者の捏造」とは何か。
単純なことで、
考古学的発見の結果畿内説有利になってきたのに危機感を覚えた九州論者が、
畿内説有利の考古学発見は捏造だ、だから九州説こそ真理、と唱えているだけ。

967 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:40:01
>>965

>のんびりひまじん氏の指摘のとおり。范曄は文章はうまいが、資料の読み方は
しばしば間違いがあります。

自分の誤読を范曄のせいにしたらアカン。

968 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:41:54
× 考古学的発見の結果畿内説有利になってきたのに危機感を覚えた九州論者

○ 考古学的発見の結果畿内説絶滅になってきたのでいままでどおりの九州論者

969 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:48:26
三浦は、、本当に世界一の卑怯者、、、卑怯者、、、、地獄へ、、落ちろ。。

こんな野郎を、、無罪にした、、日本の裁判は、、最低、、、

日本は、、、長引くと、、、みんな無罪にする、、、大勢の弁護士は無駄、、

千鶴子さんと、、一美さんの、、霊に呼ばれた、、、ロスで、、

三浦は、、もう刑務所から出れないと、、、察した。。。死ぬしかない。。。

アメリカは、、たいしたもの。。日本の裁判は最低、、、


970 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:52:34
>>965の続き
范曄の最大の罪は倭国の乱の記事を正しく読むことができず、倭国大乱を作り出したこと。
彼は「住七八十年」を乱の期間とまちがえた、そして、「更に相攻伐暦年」で卑弥呼共立
に至ったと解した。それが倭人伝の読み方を混乱させる大きな原因になっている。

971 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:54:05
>>970

自分の誤読を范曄のせいにしたらアカン。



972 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:56:22
971の読みが浅いだけ

973 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:58:40
>>959

どう考えても、九州の人口より、近畿の人口のほうが上です。

なかでも東海の人口が突出してたのは考古学の常識ですが。


974 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:01:20
船を津に着けて内陸部へ東南約37キロ進んだところが伊都国。
それより南にある邪馬台国へは水行30日と陸行1ヶ月もかかる。

荷物の多さからいっても陸行1ヶ月だけをとってもみても
至難の業。
帯方郡から倭の津まで船行で来て荷物の運搬はしなかったので比較的
楽だろうけど、陸行きは荷物を持たなければならない。
しかも倭は牛馬を使わない。
水行も小さな舟で運んで反物が水に濡れてしまったら台無しだ。
私は1回目の郡使の来倭時は伊都国止まりだと思う。

反物の匹とは2反、1反は10mなので匹は20m。
赤いつむぎの布、二頭の竜を配した絹織物5匹(100m)
赤いちぢみ毛の織物10張
茜色のつむぎ50匹(1000m)
紺青の織物50匹(1000m)
紺地の模様のついた綿3匹(60m)
班模様の毛織物5張
白絹50匹(1000m)
金八両8両(320グラム)
五尺刀2口(長さ約150cm)
銅鏡100枚
真珠50斤(32kg)
鉛丹50斤(32kg)
青い組みひも
金印
詔書
これだけの荷物ですから山奥まで運ぶことはまずしない。
一大率のあった伊都国は国中を監視する要所であるので
そこがお出迎え場所になって郡史の到着地だったのだと考えます。


975 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:07:09
>>972

>971の読みが浅いだけ

おめでたいよ
何時までも夏休み気分ですか?

976 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:08:09
>>973
そういう書き方はなくて
「これは〇〇先生が研究され、論文『〇〇』で論及されてます」
「人口推計の方法はこうです」
ぐらいのこと、レスできないかな

977 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:09:06
ここには范曄を評価しちゃう
ものすごいヤシがいるようだな  まいったまいったwwwwwww

978 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:22:15
>>974
使者の役目は卑弥呼に会うことです。大勢で来ているのですから、インチキは
できません。伊都国辺りで止まっていて、邪馬台国まで行ってきたなどと偽り
の報告をしたら、打ち首ものですよ。

979 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:26:34
>>978
郡使は皇帝の使いなので、
卑弥呼より上位者なんです。
その郡使を山奥まで行かせるのは礼儀に反しています。
それこそ、罪を負うのは卑弥呼のほうになります。

980 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:33:56
>>978
考えが甘いと思います。
昔は上位者、下位者に関しては厳しいのです。
そのころはもう孔子の教えは中国では広がってしたでしょうし、
儒教というものは階級の上下を重んじるんです。

981 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:35:48
郡使は皇帝の使いだから、皇帝の命令を守るのです。
卑弥呼がいくら恐縮しようが、罪を感じようがそんなことは知ったことでは
ありません。皇帝に正々堂々と報告できるように行動するだけです。

982 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:39:41
>>981
伊都国は女王国なのであるから、国の代表者がそこで
慰労し記念品を受け取るのはあたりまえの話です。


983 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:41:32
>>982
伊都国は女王国ではありません。女王国は伊都国が統属する相手方です。

984 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:46:19
>>983
魏志倭人伝では女王国に属しているとありますが、
ほかの文献は女王に属しているになっています。
そして伊都国を女王国として扱っています。
そして邪馬台国は女王の居する都のある国として別扱いになっています。
倭人伝も別扱いです。

985 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:50:07
>>984
>そして伊都国を女王国として扱っています。
そんな文献はありません。あるというなら、具体的に指摘して下さい。

986 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:50:31
>>984
女王として扱っているのは、魏略じゃなくて「魏略曰」しかも翰苑の中で
と、言ったところで理解出来ないだろうな

987 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:51:49
女王国は皆(倭の国々)を統属していたのだ。

988 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:52:21
補足 もちろん、邪馬台国も女王国ですが
伊都国も女王国の一つなので、
魏志倭人伝では女王国は伊都国を指しています。

989 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:52:59
>>976

少しは、ググれば?

990 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:55:42
いいや、魏志倭人伝では女王国は伊都国と奴国を指している。

991 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:57:53
女王卑弥呼を共立した国が伊都国と奴国だと考えられる。

992 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:58:25
>>990
妄想はYAHOOでやってくれ

993 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:59:31
奴国までで丁度一万二千里だ。

994 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 00:02:32
わかったわかった。
わかったからYAHOOに帰ってくれ

995 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 00:03:14
>>990
伊都国だけです。
到着したところが伊都国で
郡から女王国までが万二千里。
郡から伊都国までが万二千里です。
今まで対馬の長い距離を足さなかったからです。
対馬の長さは1200里もあります。
ですから方400里を2倍にしても800里ですから、
あと400里も足らなかったわけです。
そのかわり壱岐は300里だけです。2倍にしない。
地形をみればわかります。
それで伊都国まで万二千里になります。

996 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 00:04:40
>>988
>伊都国も女王国の一つなので、
かってな思い込みを書かないで、文献にそのことが明記されているならばその箇所、
そんな解説書があるのならばそれを指摘して下さい。

997 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 00:08:04
>>995
その計算では伊都国まで万二千里に百里たりません。
奴国までが丁度一万二千里です。
伊都国の説明に女王国と書かれてあり、伊都国=女王国ではおかしい。

998 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 00:09:02
>>997
いいえ、計算しなおしてください。

999 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 00:11:36
>>997 >>998
どっちもしょせん数字合わせ。

1000 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 00:11:52
畿内説の負け

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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