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老中

1 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 01:59:55
白河楽翁が最高の老中

2 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 02:03:52
老中?

加判の列だろ?

3 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 13:14:53
将軍がバカ殿で老中もバカ殿しかいなかったらどうするの?

4 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 14:33:07
老中についてなら、この本が面白い。
http://www.amazon.co.jp/dp/4106035855

5 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 16:48:28
幕末の老中は、やたらと就任期間が短いし、コロコロ変わる…。まるで平成になってからの日本の総理大臣みたいに…(^-^;)。

6 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 16:53:50
幕末は荒れていたなし仕方ない。
暗殺があったし
恐ろしい時代

7 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 18:25:49
入り譜代、外様から願って譜代格にされた龍野藩の寺社奉行脇坂中務大輔安董は仙石騒動の裁許を賞され、譜代格から正式な譜代に改められ、西丸老中格に昇格している

水野忠成に多額の賄をおくった高崎藩主・大坂城代の松平右京太夫輝延は、大坂城代を辞任され、雁間席、辞任後の伺候の際には溜間詰次席とされ、阿部備中守正精の後任に老中に昇格した

8 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 20:23:23
>>3 現在の行政とよく似たように、優秀な?高級官僚群(奉行・目付クラス)が実際に政策を立案するから、将軍や老中がバカ殿でも盲判さえ押せれば特に支障は無いと思う。

9 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 20:34:25
幕府初期の本多正信・本多正純・大久保忠隣が年寄(後の老中)ならば、井伊直政・本多忠勝・榊原康政の徳川三傑は、幕府の役職でいえば何に相当するかな?。後の大老もしくは溜間詰かな?。

10 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:05:54
老中ではないが、大老は将軍が病弱・幼少な時や重大事が勃発した時に任命される臨時職だが、それらに該当しない平穏な時期にも任命されている…。平穏な時期に大老に任命するメリットは何ですか?。

11 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:39:21
平時の大老は、現在でいえば衆議院議長とでもいうべきであろうか。実権はないが名誉はあるので、井伊直幸、井伊直亮らは大老になるべく、老中や側用人、御用取次、側衆らに金をばらまいた
平時に大老になりたがるは、たとえば、外様大名が侍従や少将の官位をほしがる光景に酷似していよう

12 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:55:34
井伊直弼は文字通りに非常事態勃発(条約問題と将軍後継問題)で大老に任命されたが、やはり直弼といえども大老就任の工作の為に、幕閣や将軍の側近達に賄賂を贈っていたのでしょうか?。

13 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:05:59
直弼からではなく、大奥、老中松平忠固、紀伊藩家老水野忠央、御用取次薬師寺元真らが公方に働きかけた結果と承知しておる

14 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 00:24:56
●井伊直弼の生前最後の手紙発見。
貴重な資料として注目 字に乱れ、「安政の大獄」で疲れていた様子。

幕末の大老、井伊直弼が生前最後に記したとみられる手紙が見つかり、貴重な
資料として注目されています。手紙を調べた井伊美術館では、今後この手紙を
一般にも公開したいとしています。

これは、井伊直弼の地元彦根藩の家老だった三浦内膳の家に伝わる手紙を
京都市の井伊美術館が調べてわかったものです。手紙は直弼が三浦にあてた
もので、書かれた日付は万延元年、1860年2月25日で、直弼が江戸城の桜田
門外で暗殺される8日前でした。
これまで確認されている直弼の直筆の文書は2月22日が最後とされていたため、
今回見つかった手紙が生前の最後の文書とみられるということです。手紙の内容は
火事で焼けた江戸城本丸の修復をめぐるもので、やや乱れた字で書かれていて、
指揮・監督に当たる「頭取」や「奉行」などの人選について細かく記し、修復に当たる
職人の選び方にも言及しています。
井伊美術館の井伊達夫館長は「字の乱れ方から安政の大獄などを行って疲れていた
当時の直弼の様子がうかがえる。本来は藩主が直接指示をしなくてもいいようなこと
まで繰り返し書いてあり、非常に神経質だった性格がうかがえる」と話しています。
井伊美術館では、今後、この手紙を一般にも公開したいとしています。


15 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 00:54:53
花の生涯

16 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 06:40:50
>>11 なるほど、では大老職は、井伊家(直弼を除く)の場合は家格の上昇の為の役職、井伊家以外の大老は老中の延長線上の役職というふた通りの解釈が出来ますな?。

17 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 08:00:34
それにしても、井伊家の官位は他の譜代大名と比較すると傑出し過ぎてる…。世子の段階で、老中と同じ従四位下侍従に叙任して溜間に列し、家督相続と同時に大老と同じ少将に昇進するんだから、まるで藩主=大老のようなもんだ。

18 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 09:54:21
>>17 他の譜代大名がしゃかりきになって工作等をしても、老中と同じ官位に昇る者は稀なのに、井伊家だけは世子の時期から老中と同じ官位だから、他の譜代大名の井伊家に対する羨望・嫉妬心等は相当なものだったろうな。

19 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 10:55:48
老中になるには相当な出費にそうだ。寺社奉行(毎年当座の費用として新規に約2万両)→大坂城代(国替えするぐらいの出費)→京都所司代(国替えするぐらいの出費)→老中で、借金とその利息で負債30万両に達する話を聞いた事がある。

20 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 11:06:09
>>19 老中に就任しても、交際費や役務上の出費等は全て自身の持ち出しだから、とても方々からの賄賂や贈答品等では負債を返せないのでは?。そこまでして老中になるメリットってあるんかな?。

21 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 11:34:55
キーワード 名誉職 老中になれば歴史に名前が残る

22 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 11:38:41
>>21 まるで大臣病に罹っている現在の永田町の政治屋と同じだ…(^-^;)。

23 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 11:40:26
徳川家の筆頭家老は井伊家ということでいいのかな?

大老や老中を途中で投げ出した無責任な政治家は江戸時代にもいたのだろうか?

24 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 11:43:35
譜代筆頭は井伊家 官位では家門筆頭の越前、会津すら凌ぐ正4位上中将。
この官位は御三家、前田家以外の全ての大名よりも上。

25 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 11:58:48
幕末には三池藩一万石の立花なんていう外様も老中になってるんだな

26 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 12:02:24
ところで、松平定信が就任した将軍補佐と大老ではどちらが上ですか?。官位で見る限りでは定信は従四位下侍従(彼が少将に昇進したのは老中を罷免された日)で、大老は従四位下少将相当の役職だから、大老の方が上のような気がしますが…。

27 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 12:09:21
大老

28 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 12:54:05
譜代大名の序列は、井伊家が筆頭ですが、井伊家の後の序列はどうなのでしょうか?。

29 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 13:14:34
将軍と大老が政策上で対立したらどうなるの?。建前上、大老が決裁した事項は将軍といえども変更出来ないそうですが…。もっとも、赤鬼と下馬将軍以外の大老は、老中に丸投げしていたようなものだったのでそんな事態はなかったと思いますが…。

30 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 14:02:13
たった3日でも奏者番を勤めないと老中に就任出来ないらしい…。奏者番になって先任(或いは肝煎り)の奏者番から徹底的にしごかれて殿様風の生活様式を叩き直して、将軍の御前に出た時に失敗しないように…。

31 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 14:18:07
老中も時代を経ると、勝手掛や外国掛等の専任老中が出来て、老中首座がそれ等の掛を兼任しまくって老中首座とそれ以外の老中との格差が大きくなった。さしずめ現在でいえば、総理大臣と伴食大臣ってくらいに…。

32 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 15:00:26
井伊の次は酒井だな。


33 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 17:16:34
筆頭が彦根の井伊。
次席が酒井雅楽頭家。
その次は「譜代侍従の上首」の家柄を誇る鶴岡藩酒井家。

34 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 17:27:55
【韓国】日本人を「チョッパリ」と呼ぶのは何故なのか、あなたは知っていますか?★3 [09/21]
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1221984268/

代表的なのが、私たちが日本人を卑しめて呼ぶ「チョッパリ」だ。ネット上には「チョッパリ」以外
にも「沢庵国」「寿司国」という新造語もあるが、何といっても日本に対する蔑称は「チョッパリ」
だ。アメリカの場合、第二次大戦当時に日本を称する蔑称は「Jap」「monkey」だった。まさに
日本猿というわけだ。
(中略)
この伝統的な日本の履き物を「地下足袋」と言う。日本の忍者映画が好きな人は、もしかしたら
見たことがあるかもしれない。この履き物を見れば、目ざとい人は「チョッパリ」がそういう意味
なのか分かるはずだが…。形がまさに豚足 kkk
(中略)
平安神宮の前で人力車を牽くバイトをする学生だ。炎天下で二人一組で外国人を相手にバイトをする学生だが、
私はなんだか申し訳なくて乗らなかった ^ ^
豚足みたいな日本の履き物「地下足袋」、そこから私たちが日帝時代に日本人を卑しめて呼ぶ
ときの「豚足(チョッパル)」が「チョッパリ」になったのだ。
(中略)
夏に私たちが好んで履く「ジョーリ」(訳注:日本語の「草履」が転訛した語)。その起源は日本
の履き物だと分かって履こう。^ ^ ソウルの奨忠洞の豚足料理店で豚足(チョッパル)を食べるとき
は、「チョッパリ」を齧る気持ちで食べればもっと美味しいかもね?^ ^ 【鄭ジェハク編集委員】

▽ソース:デイリアン/Yahoo!Koreaニュース(韓国語)(2008-09-21 11:18)
http://www.dailian.co.kr/news/n_view.html?kind=culture&id=126755
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?linkid=13&articleid=20080921111843783h4&newssetid=85

35 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 17:44:38
>>33 そういえば普通、老中首座は最先任者が首座になっていたが、酒井雅楽頭家が老中に就任したら、直ぐに首座になり、酒井左衛門尉家が老中に就任したら、直ぐに次席になっていた。その点から考えて、酒井家もかなり優遇されていたようですね。

36 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 18:06:23
ところで、井伊家の当主(直弼を除く)は大老に就任する前に、御用部屋入りとかいうものを将軍から命じられるが、この御用部屋入りというのはどういう位置付けなのか?。
井伊家の大老就任への道
溜間詰(常溜)→御用部屋入り→大老。

37 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 18:17:17
それにしても井伊家の場合は老中職を経由せずにいきなり大老職に就任出来るのに、酒井家の場合は老中職をステップにしないと大老職に就任出来ない…。この違いは何なの?。

38 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 00:47:08
酒井がというより井伊の規模がでかくなりすぎたから

39 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 02:53:13
一人で回してんの?このスレ。

40 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 10:02:10
江戸時代も時が経つと、諸大名が幕閣に工作するのに、老中よりもその秘書的な役職の奥右筆組頭や、奥右筆、将軍側近の御用取次等の方に重点を置いて工作していたそうだ。…老中の権威がいかに形骸化して行ったかがわかる…。

41 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 11:37:01
へえ

42 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 12:35:05
>>40
若年寄以下の部下達も無能な老中のことを影で悪口言ってたらしいね。

43 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 13:21:56
確かに老中にこれといった人物がいないと、内閣官房秘書官グループとでもいうべき奥右筆、側衆らが政策を実質的に牛耳るようになり、大名らも賄送って官位や地位昇格を頼んだり、未発表の御手伝普請の裏情報を彼らから得ていた。

44 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 14:59:00
老中に就任した大名の殿中席の出身をみると、雁之間詰の大名が、帝鑑之間詰の大名よりも多く老中を輩出している。雁之間詰と帝鑑之間詰の違いはどういうものなのでしょうか?。

45 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 15:19:26
一部例外もあるが、帝鑑間席は関ヶ原以前から徳川に仕えていた大名が、雁間席は関ヶ原以降新規取り立て譜代大名が詰める
雁間をみると、徳川初期に大名となった板倉勝重、松平(大河内)信綱、阿部正次、稲葉正則、間部詮房ら武よりも文をもって将軍家に奉公した下級幕臣からの登用組だが、
帝鑑間は酒井家次、本多忠政、大久保忠隣、松平(大給)家乗ら武官の家計である

かように、帝鑑間は徳川創業の功臣、一方、雁間は徳川治世の使用人らが詰めるわけであり、やはり将軍家としては、使用人が使いやすいだろう
又、帝鑑間大名と違って、雁間大名は毎日登城するので将軍家や幕閣に留まりやすいこともメリットにあげられる

46 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 15:30:45
松平定信はよくよく運の無い奴だ。普通なら将軍後継候補の筆頭だったのに、一橋と田沼の策謀で白河藩に養子に出され、行き着いた先がライバル家斉の下で老中首座なんだからな。親藩なのに家来筋の老中にされたんだから屈辱モンだったろう。

47 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 15:59:08
城内での老中の勤務時間ってのは結構短いな。登城から下城までの間が大体4時間ぐらい。その4時間のうち昼食時間で1時間費やし、残りの3時間で書類の決裁、閣議、将軍に政務の報告、諸大名や役人との面会等を熟すんだから、かなりの激務だったのでは?。

48 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 16:22:54
溜間詰=井伊家のイメージがあるからですが、溜間詰大名から老中になるのは、ある意味格下げなのでしょうか?。溜間詰の大名は相当格式が高いらしいから…。

49 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 16:26:33
溜間は公方の最高顧問であり、溜間から老中になるのは形式的には格下げなんだよ
いってみれば党最高顧問が党国対委員長やるようなもんだ

50 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 17:11:59
>>49 なるほど、じゃあ松平定信や堀田正睦(再任前は溜間詰)は、溜間詰だったのにわざわざ格下の老中(首座)にされた訳や。一旦、溜間詰になれば、老中よりも寧ろ大老クラスに就任するのが相応と思いますが…。

51 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 17:32:16
溜間は権威だけはあった名誉職だが、実質的な権限があまりないから、格下でも老中のほうがよかったのである

52 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 17:39:21
>>49 現代風で言えば、さしずめ首相を辞めた中曽根や竹下といった自民党の最高顧問が、自民党の国対委員長に就任する訳ですな。確かにそんな光景は到底想像出来ん…(^-^;)。

53 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 17:48:48
溜間詰といっても、その中で常溜(井伊家・会津松平家・高松松平家)、飛溜(忍松平家・桑名松平家・松山松平家・酒井家)、溜間詰格(功労のあった老中一代限り)の三種類の格式があるようだ。

54 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 18:14:23
幕府の政策運営は、一応老中の合議が中心らしいですが、実際にはどういった具合に政策が決まって行くのでしょうか?。

55 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 19:53:51
幕政改革を行うにも、将軍自身が陣頭に立つのと、老中がやるのでは効果がかなり違う。将軍ならば権威がありそれなりに抑えが効くが、老中だけでは将軍の信任を得ているとはいえ、元々は少身大名だから中々抑えが効かない…。この点でも老中単独での権威は軽い。

56 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 20:36:31
天保の改革の水野忠邦は、権力基盤からして無理がある。自身は老中になる為に権門家へ莫大に賄賂や贈答品を贈って老中の地位に就いたが、改革政治で役人や庶民に綱紀粛正を唱えたり、倹約を押し付けても事情を知っている者にとっては説得力が無い。

57 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 20:39:32
賄賂政治で有名な?田沼意次は、実際にはどのくらいの賄賂や贈答品を貰っていたのでしょうか?。

58 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 00:20:59
松平定信入閣事情 なる本によると松平越中守は田沼意次の家督を継いだ田沼意明に対し6万両の上納を命じ、田沼家は泣く泣くこれを納めたとある。ため込んだのかね

59 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 08:58:34
田沼の時代には、役職に就く為の(賄賂の)相場として、目付→千両、長崎奉行→二千両等といわれた。彦根の井伊直幸は、田沼に数千両の賄賂を贈って大老の地位を得たし、松平定信は、溜間詰に昇格する為に田沼に賄賂を贈ったそうだ。

60 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 09:04:02
戦の経験のある老中は知恵伊豆が最後?
島原の乱を平定。

幕末除きで

61 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 09:19:41
>>58 6万両はその時点で遺っていると思われる額で、田沼は大奥や将軍側近等への工作費用や、城主に昇格して相良城築城費用等に費やしたので、実際に貰った額は、とても6万両ごときでは済まんと思うが…。

62 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 09:28:10
幕末の分久の改革の時、幕閣への贈答品等を廃止する案が出た時に、老中や若年寄等は猛烈に反対したそうだ。老中→年約二千両、若年寄→年約千両の臨時収入が無くなるかららしい。慶喜や慶永は、幕閣のケチぶりが嫌になり、登城ストライキをしたぐらいだ。

63 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 09:44:09
>>60 幕末までは、松平信綱が戦場に出た最後の老中だったと思う。でも平穏な時代で、もし老中が出陣しなければならん事態が生じた時に、ボンクラな老中ばかりだったら、想像するだけで背筋が寒くなりそうだ…。

64 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 09:47:58
>>63 全くだ。まるで平和ボケした今の政治屋が、戦時に軍事指導をするのを想像するようなもんだ…。

65 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 09:56:58
一応口だけは骨のある奴はいたようであり、徳川家継の側用人を務めた間部詮房に関し、宿老土屋相州は、「万一天下に事ある時、幼沖なる公方様に代わり、かの猿楽師上がりが采配を取るのか。例え相州が身にかへてモ争はでや。我ら断じて猿楽師の指揮を受けるわけには参らぬ」
として紀州からの将軍継嗣に走ったので有り

66 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 10:16:42
>>66 紀州擁立に動いた土屋相模守ごとき老骨に出陣させるなら、紀州藩から徳川宗家を継承した徳川吉宗が自ら出陣しそうだが…。

67 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 10:20:57
>>66 ×>>66>>65の訂正で深く陳謝するスレに書き込むのに不慣れな老中。

68 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 10:40:33
薩摩の島津斉彬が率兵上洛を断行していれば、当時の幕閣の最高権力者である、大老井伊直弼が自慢の井伊の赤備を率いて出陣する光景になるのだろうか?。他のボンクラ老中達は、井伊直弼の用人のような存在だったし…。

69 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 12:25:45
>>61 外国では、賄賂の取り込みで国家財政を上回る財産を築き上げた者もいるくらいだから、賄賂政治家として名を売った田沼意次ごときは、世界の賄賂政治家と比較すれば可愛いもんだな。

70 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 14:57:54
老中や若年寄クラスは、貰い物も多いが、自身の持ち出しも多いから、トータルではそんなに潤っていなかったのでは?。正直、老中や若年寄よりも実入りが良さそうな役職は、どれくらいあるのかな?。また、どんな役職かな?。

71 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 15:27:32
大正時代に、徳川十六代家達が元老会議で総理大臣に推挙されたが、家族会議で一族から猛反対を受けて固辞したそうだ。他に理由はあるのだろうが、徳川家にとっては総理大臣=江戸幕府の老中というイメージだったみたいだ…。

72 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 15:35:47
>>71 最後の将軍慶喜に至っては、静岡で居住している時に静岡県知事に推挙された事があるが、その時に「俺を町奉行にするつもりか!」と言って断ったそうだ。徳川家にとって知事=町奉行のイメージだったみたいだ。徳川家のプライド恐るべし(^-^;)。

73 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:30:46
>>72
正確には「老中には譜代大名しかなれない」ではなくて「老中には譜代大名しかなり手がいない」なんだよね。
老中っていわば徳川宗家の番頭だからね。
室町幕府の管領に斯波義将が任命されたら、父親の高経が激怒したという話もあるからね。

74 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:10:28
>>73 室町幕府の管領は、従来の執事職・引付頭人・侍所頭人等の主要機関の長官を管領と呼んでいたのを、幕府の支配機構を一元化する為に、執事の地位・権限を強化して他の部局の長官に優越する幕府の最高官に昇格させた産物だそうだ。

75 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:16:02
>>74 その最高官である管領に、足利一門の斯波義将を充てることにより、管領の地位の強化、ひいては将軍の権威・権力の強化に役立てようとした訳です。勿論、斯波氏を足利一門から足利譜代の家来並に扱おうという狙いもあったがな…。

76 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:23:49
徳川幕府の老中は、将軍の権威が高かった頃は、将軍の御威光を背景に権力を振るえたが、将軍の権威が低下すると、元々は少身大名なのでなかなか諸大名(特に有力大名)に対して抑えが利かない哀れな存在だ…(T-T)。

77 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:37:01
老中は、幕末の最末期に総裁制が採られ、国内事務・外国事務・陸軍・海軍・会計の五局が設置されてそのトップに老中格の総裁が置かれたが、時期が遅すぎたし、いくら組織を弄っても人材がボンクラばかりでは機能しないのと同じだ。

78 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:42:03
>>77 先例を大いに破って、思い切って小栗上野介や勝海舟等の旗本の優秀な人材を総裁(老中)に起用すれば、もう少し違った結果になっていたろうか?。

79 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:50:26
>>76 江戸時代も時代が経つ程、老中は奉行・目付等の実務官僚層の言いなりになっていき、実務官僚層の実力向上と老中の形骸化がより進化して行ったようだ。

80 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 00:07:04
今と同じだね


81 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 06:53:58
老中昇進コース(江戸時代初期)
宿老→老中
将軍側近→老中
小姓→六人衆(後の若年寄)→老中

82 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 06:57:16
老中昇進コース(江戸時代中期)
奏者番→寺社奉行→大坂城代→京都所司代→老中

83 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 07:01:19
老中昇進コース(江戸時代後期)
奏者番→寺社奉行→大坂城代→京都所司代→老中。(正統な譜代大名からの昇進コース)
御側御用取次→若年寄→側用人→老中。(将軍側近からの昇進コース)

84 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 07:23:34
一度老中に就任すれば、その家は老中を輩出した家となり、後々の老中昇進レースにある程度、有利に働くようだ。

85 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 08:37:21
>>79
老中の松平信明なんかは下役に陰でボロクソに言われてたらしい。

86 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 09:04:07
幕末の老中は、在職期間が短い上に、何回も再任してる輩が多い…。いくら政局が混迷している時期とはいえ、老中のなり手がそんなに少なかったのかねぇ〜っ?。

87 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 09:16:28
幕府初期の老中の地位はそんなに高いものでは無かったらしい…。老中を経て大名(この場合の大名とは、国持大名に準ずる所領を持つ大名の意味)になるのが譜代大名の上がりらしい。この頃の老中は、将軍の手足となる側近が任じられる役職だったようだ。

88 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 11:32:42
大老は名誉職とはいえ、権威は相当なものだったらしい。大老が登城すると、老中一同が揃って平伏して挨拶するし、老中を呼ぶ時は、将軍と同じく官名を呼び捨てにしたという。また、大老が決裁した事項は将軍といえども変更出来なかった程の権威を持っていた。

89 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 13:36:04
老中とは言っても所詮、徳川家の家老に過ぎないからな。


90 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 18:15:45
一大名家からの老中就任者の最大数は、阿部豊後守家の六名、次が酒井雅楽頭家・大給松平家・阿部対馬守家・井上家の五名、四名出した家は七家ある。歴代の老中就任者(西丸老中も含む)136名中、先に挙げた十二家(合計54名)から老中の約40%輩出している。

91 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 18:18:13
>>90 一度老中を輩出すれば、結構立て続けに老中を出しやすい傾向にあるようだ。

92 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 19:49:57
>>42 新聞や週刊誌等に写真や言動が逐一報道される現在の大臣と違って、城中で勤務する役人等に無能ぶりを馬鹿にされる程度で済んだ老中は、世間にその無能ぶりを知られないだけまだましだったろう。

93 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 20:50:32
選挙のたびに土下座選挙で不特定多数の有権者に愛想ふったり絶叫したり、
テレビでお笑いタレント相手に馬鹿話しなければならない今の政治家より、
老中の方がはるかにマシだな。

94 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 21:45:04
もし、今の日本の政治情勢を歴代の老中達が見たら、どんな感想を持つだろうか?。

95 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 23:11:39
そもそも老中って政治家じゃ無いしw
将軍家の執事に過ぎない

96 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 00:36:42
元は将軍と諸大名の取り次ぎ役だからな。

97 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 00:43:41
執事が事実上トップになった例 北条執権
執事がトップに準じた例 摂関政治
江戸老中は一部の例外を除き、大部分は執事「家老」だろう。
江戸幕府程、権力がどこにあったのか分からない政権ってなくなくない?

98 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 00:44:54
そうだよね。
将軍だったり老中だったり大老だったりで訳分からないね。

99 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 01:32:13
老中への出世コースって
大阪府警本部長→警視総監→警察庁長官みたいなもんか

100 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 01:46:54
>>99
ぜんぜんちがうよ

101 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 13:53:21
老中在職期間ベスト3。
一位 松平武元 32年
二位 阿部忠秋 31年
土屋政直 31年
…歴代内閣総理大臣も遠く及ばない程の長期在職期間だ…(^-^;)。

102 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 15:17:31
政治制度自体が違うのに比較して何の意味があるというのか。

103 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 15:58:32
老中の就任年齢は、家柄が良い大名は30歳代後半ぐらい、それ以外の大名は40歳代後半ぐらいが多かったらしい。家柄が良い大名家はそれなりに優遇されていたようだ。

104 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 16:30:00
幕府初期の井伊直孝や保科正之とどういう位置づけだったんですか?

105 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 17:33:25
>>104
ウホッいい稚児。

106 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 19:37:17
>>104 井伊直孝と保科正之の両名は、当時の幕閣(大老・老中)の上位に位置付けられており、幕閣(或いは将軍)の後見人的存在だった。両名の果たした役割は、後の溜間詰大名に受け継がれ、溜間詰の原型を築いたといえる。

107 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 22:18:54
大老は、就任した人物によって井伊直政系の後見型大老(執事)と、酒井忠世系の政務型大老(現在の我々が言う大老)の二系統に分ける事が出来るらしい。

108 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 11:48:35
名誉職的大老(江戸中期の井伊氏)と実質的大老(酒井忠清、井伊直弼)の区分の方がより有意義ではあるまいか

109 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 12:17:02
政治史(政局史)的には>>108の区分が有意義で
制度史的には>>107の区分が有意義

110 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 13:35:18
>>107 後見型大老(執事)に分類される面々。
井伊直政、本多忠勝、榊原康政、井伊直孝、松平忠明、保科正之、榊原忠次、井伊直澄、井伊直興の九名。

111 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 13:41:50
>>107 政務型大老(家老、元老)に分類される面々。
酒井忠世、酒井忠勝、土井利勝、酒井忠清、堀田正俊、(柳沢吉保)、井伊直幸、井伊直亮、井伊直弼、酒井忠績の十名。(柳沢吉保は大老格として数に入れる。)

112 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 15:44:09
>>9 >>110の区分からすれば、大老に相当する地位(或いは格式)にいたのでは?。実質的役割からすれば、溜間詰的な存在とも言えるかも…。

113 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 16:09:29
保科正之、井伊直該、大須賀忠次、奥平忠明は正式な大老ではないが、元老とか宿老と呼ばれたからこれが溜間の原型とすることができよう

114 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 17:14:25
>>110の面々をみると、譜代大名の中でもかなり大規模な所領持ちで、軍団長的な大名が多く見受けられますな。後見型大老=溜間詰大名=軍団長の集まりっていうところですかな?。

115 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 17:46:29
後見方大老(井伊、本多、榊原、奥平)たちから、家光のもとで育ってきた文治方官僚(松平信綱、阿部忠秋ら)への政権移行こそ、武断政治から文治政治への転換期とみることができよう
幕府政治を是とする儒学の大家・林家の家政が整い、学問の体系化がなされたことも大きい

116 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 18:38:45
>>115 しかし、その儒学(朱子学)の普及が、まさか幕末に徳川幕府の倒壊を招こうとは、儒学(朱子学)の奨励を図った家康も夢にも思って無かったろうて。

117 :安藤対馬守信行:2008/09/27(土) 19:19:10
幕府朱子学は朝幕関係の大義名分論には終始沈黙していたからな。
それに飽き足らない連中が幕末に決起を起こし、私は、怪我を負い、老職から溜間詰格に敬遠された

118 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 20:18:56
>>117 対州殿は、井伊大老が取り立てた数少ない有能な人材の一人で、外交面や公武合体等の内政面で力を尽くし、井伊大老亡き後の幕政運営を主導したが、一橋派が復活すると同時に、故井伊大老と共に処罰の対象にされた不運な老中だった…。

119 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 01:30:04
中二病っぽい区分をすることって、
かなり無意味だと思うよ。

120 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 07:51:27
勝手掛老中を兼任しない老中首座は、幕府の役人達から単なる飾り物扱いにされる哀れな存在らしい…。

121 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 17:48:15
老中は、月番制で政務等を処理していましたが、非番の老中も、江戸城に登城して政務を執っていたので、月番も非番もそんなに変わらないと思いますが…。

122 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 19:22:06
組織の一員として働いたことがないのか?
月番はアホな上司が頻繁に呼びつけてきてアホな雑用を次々に寄越す状態。
非番はアホな上司が出張か休むかおのれの能力のなさを恥じて夜逃げするかして
のびのびと溜まった業務をこなす状態だ。

なお、上司がアホだった場合、そいつが辞めても宛がわれる代わりもまたアホである
可能性は高い。より上層のアホが優先順位の低い部署と判断しているために必然的に
そうなる。

能無しどもめが。

123 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 19:27:23
追加。

辞めて欲しい上司に限ってなかなか辞めない。たとえ辞めても家斉様は大御所様だ。

124 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 20:07:08
>>123 家斉といえども、家康や吉宗の時と違って、幕閣(松平定信や水野忠成等の老中)や水野忠篤、中野清茂、美濃部茂育等の将軍側近にいいように扱われていたのでは?。もっとも、資質は暗愚な将軍よりは多少マシな?将軍だったかも…。

125 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 20:26:47
普通なら、大奥にはまっていただければ勝手向きに口を出いとまもなきところを、かえって
難問を量産してくださいますた。公方様の胤数十人どうしませう。

126 :松平三河守:2008/09/29(月) 20:36:12
わが津山藩が一人貰ってあげるからその代わり五万石加増、十万石にしてください

127 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 21:13:34
>>126 家斉の頃には、倅や娘を貰ったところで、貰った大名に加増する程、幕府直轄領や幕府財政に余裕が無かったのでは?。せいぜい、官位の昇進か格式の上昇ぐらいが関の山と思いますが…(T-T)。後は、化粧料が支給されるぐらいかな?。

128 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 21:22:21
それにしても、家斉が五十五人もの子供を産ませたお陰で、産まれた子供の嫁ぎ先や養子先を捜し出すのに、老中の水野忠成等は随分骨を折ったのではないですかな?。これではまるで水野老中の仕事は、家斉の子供の後始末ばかりになりそうだな…。

129 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 21:29:01
>>120 水野忠邦が老中首座に再任した時に、勝手掛老中には再任されなかったから(勝手掛老中は阿部正弘だったかな?)実権は殆ど無く、飾り物同然だったので本人もやる気が無く、欠勤がちになり、再任してから八ヶ月で老中を辞めたそうだ。

130 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 07:12:19
やる気がない割には報復人事はきっちりとやってるよな。水野が辞めた後も
妖怪は四国に島流しのまま?

131 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 07:13:53
明石藩は家斉の子を養子にもらって二万石加増。

132 :池田因幡守:2008/09/30(火) 08:31:40
うちも一件もらうから官位を侍従から少将にあげてくださいよ

133 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 10:17:15
それにしても、家斉を輩出した紀州血筋の一橋系の血の威力は相当なものだったな。将軍家はもとより、将軍継承権のある水戸を除く御三家(尾張・紀伊)・御三卿(田安・一橋・清水)を全て一橋系の血筋で乗っ取ったんだからな!。

134 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 10:26:40
徳川家斉は何の功績があって、過去に前例の無い現職の征夷大将軍にして太政大臣の極官に昇進したんかねぇ〜?。隠居してからの太政大臣昇進なら徳川家では家康・秀忠の二人いるが…。現職のままで太政大臣昇進するって事は、朝廷に対して相当にヨイショしたのかな?。

135 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 10:27:02
竜頭蛇尾とは家斉系血統のためにある言葉。

136 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 10:48:36
家斉には自制心なるものが無かったのかね?。あ奴が阿呆ほど餓鬼を産ませたから大奥の経費が莫大になり、幕府財政を危機に陥らせ、そのツケを幕閣は専ら貨幣改鋳(悪鋳)によって誤魔化し、インフレによる物価の上昇で庶民を困窮させた。

137 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 10:58:36
>>128 養子を押し付けられた大名家はいい迷惑だったろうな。これによって、尾張藩は幕末期に幕府に非協力的になり、養子を押し付けられそうになった水戸藩は幕府の足を引っ張る事ばかり仕出かした。幕府倒壊の遠因の一つは、家斉の子作りが過ぎた事にあるな…。

138 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 11:17:15
ところで歴代の大老・老中の中で、一番権力を振るった人物は誰ですかね?。

139 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 11:46:34
>>130 平成の妖怪ならぬ天保の妖怪は、自身の権勢欲の為には平気で時の権力者を裏切り、他人を陥れて昇進してきた人物だから、復活させると機密情報を握っているだけに何を仕出かすか分からんが、流石に始末する訳にもいかんから、飼い殺しっていうことか…。

140 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 12:24:53
超優良スレ

141 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 13:45:00
江戸中期の田沼意次は、歴代老中の中で、老中と側用人を兼任した唯一の老中だった。江戸城の表と中奥の長官を一身に帯びていたので、その権勢は凄まじい程だったろうな。大老の井伊直幸ですら、田沼には頭が上がらなかったらしい。

142 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 14:32:06
儒教(貴穀賎金主義)に染まっている?老中等に期待するのは無理があるが、もし歴代の大老や老中が田沼並の経済感覚があれば、重商政策を採用し、苦しい幕府財政の構造を根本から変えて行くチャンスだったのだが…。

143 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 15:01:04
>>133 将軍継承権のある家を自身(一橋系)の血統で独占したまではよかったが、子が次々に死んでしまい、最終的には継承権の無い水戸血筋の慶喜をもって来ざるを得なかったのは哀れだ。水戸は尊王攘夷に染まった藩だから、朝敵にされては逆らえん…。

144 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 15:06:06
それにしても、紀州血筋の一橋系の血の脆弱さはどういう事なのだろうか?。あれだけ数多くの子供がありながら、生き残っているのが殆どいないし、生き残っている小伜もロクなのがいない…(T-T)。

145 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 15:06:57
連投はともかく、改行くらいしろよ。

146 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 22:18:54
>134
長期間在職したという実績に対してじゃないでしょうかね。

147 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 23:33:59
>>138
土井利勝か井伊直弼じゃない?

148 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 23:38:15
上州高崎藩主松平右京大夫輝延は、水野忠成や青山下野守忠良よりも先輩で、水野、青山が寺社奉行だったころは、寺社奉行肝煎(同役中で一番の先輩)として、なにかと面倒をみていた
松平はその後、大坂城代として長く足踏みしていてそのうえに昇格できず、一方水野、青山は老中に昇格していた
松平は、出費ばかりで役得の少ない大坂城代に音を上げ、水野に泣訴して大坂城代免官、江戸に戻って、
雁間席、将軍伺候して辞任挨拶後は溜間詰次席を命じられ、老中阿部正精死後、京都所司代の内藤信敦を通り越して、溜間詰次席、元大坂城代の松平輝延が宿願の老中職を手に入れた

149 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 11:01:46
享保期の松平乗邑は、これまで幕府の役職を経験する事なく、老中に就任する前に、半年程大坂城代(代理)を務めただけで老中に抜擢された。
しかも、老中就任発令に際して、将軍吉宗はわざわざ使者を派遣して、御三家の了解を得た上で、就任発令を出したそうだ。省11
それだけ、将軍吉宗の乗邑に対する期待が相当大きかったのだろう。

150 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 11:13:26
>>149 松平乗邑の異例の老中就任で、煽りを喰ったのは京都所司代松平忠周だ。
彼はその当時、老中候補の筆頭だったが、安藤信友・松平乗邑の二人の大坂城代に先を越された。
過去に老中を輩出している家と、そうでない家の差が出たのだろうか?。

151 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 00:25:50
老中の会議は、通常は老中御用部屋での書類による稟議が主だったそうです。

152 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 09:36:39
他レスにあったけど、老中ってホント就任しても手当てとか貰えないの?
他役職は役料支給されてますよね。

153 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 09:45:53
老中は参勤交代が無くなるから、それだけでも支出は減るでしょう

154 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 09:46:28
老中にはそうものがない。死ぬ間際に1万石加増とか、世嗣につき3万俵支給とか、溜詰格にするとか、せこいのばかり。
そこで非難される賄賂や付け届け、役得だが、老中にしてみれば賄賂という認識がなく、歳費の一部という感覚に近かったんじゃないかな

155 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 10:13:00
経費は受益者負担と考えれば、見方が変わってくるか。
図々しいやつはそのような論理で自分の無茶な行動を正当化するだろうけど。

156 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 12:39:00
>>153
定府の方がカネがかかるのは常識。
江戸は消費都市だから物価が高い。
大名同士の交際費もかかる。

157 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 13:10:04
>>153
鶴岡藩は、酒井忠寄が老中になったことで財政が逼迫した。

158 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 13:18:56
水野忠邦は老中になりたいがために貧乏な藩に引っ越しを希望


159 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 15:11:21
老中や若年寄等、幕府の要職にある者達は、諸大名や旗本、豪商等から様々な献上品や贈物が来ますが、これらの品々はどのように処理されていたのでしょうか?。

160 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 15:24:48
無改行質問厨ウザいな


161 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 19:51:53
老中の罷免って、当人がいる席で合議して決めるのかな?
そうなら後々遺恨が残りそうだね。

162 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 19:56:53
>>159
献残屋

163 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 22:52:49
>157
お孫さんが、初の国入りの時に旅費が調達できなくて福島に逗留する羽目になり、
情けなさに涙したという話ですね。

164 :日本@名無史さん:2008/10/02(木) 23:05:08
>>157
本来庄内藩は幕府東北方面軍司令官の役回りで、老中とかには就かない
家柄だったんだけど忠寄は若年寄などを輩出した支藩出身なので、
役不足(←本来の意味)の老中をやらされた。

>>163
そこで本間家が藩政に参与して財政再建することになる。

165 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 09:11:35
本間家は、天保の頃の三方領地替の反対運動の影の首謀者として暗躍し、
また、戊辰戦争の折りにも庄内藩の軍制改革に伴う軍資金調達にも一役買い、
揚句の果てには、戊辰戦争後に、庄内藩が新政府に賠償金を支払う分の肩代わりまで請け負った。
本間家の財力は底無しか…。

166 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 09:22:32
幕府の政策決定のプロセス。(その一)
評定所一座(三奉行・大目付・目付)等の実務官僚 → 御用取次 → 将軍 → 御用取次 → 評定所一座等の実務官僚。
−ここまでが、実質的な政策審議−。

167 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 09:26:27
幕府の政策決定のプロセス(その二)。
評定所一座等の実務官僚 → 老中会議 → 御用取次 → 将軍。
−ここまでが、正規の政策審議ルート(形式的な政策審議)−。

168 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 09:32:24
幕府の政策決定のプロセス(その三)。
将軍 → 御用取次 → 老中 → 評定所一座等の実務官僚に下達。
−幕府の政策決定−。
…もっとも、将軍或いは将軍側近の勢力が強ければ、
老中会議を飛ばして、実務官僚 → 御用取次 → 将軍で政策決定する事もしばしばある。

169 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 09:43:22
老中に就任しても油断は禁物。
円満に老中職を勤め上げれば、
領地の加増・格式の上昇(雁間詰・帝艦間詰→溜間詰格)等優遇されるが、
途中で失敗して、失脚、老中職免職に成ったものの場場は、
本人は、隠居謹慎(或いは蟄居)、
その家は減封・僻地(棚倉や山形等)への転封等が待っている…。

170 :小笠原忠固:2008/10/03(金) 13:10:27
おいも老中になりたいけん。

171 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 13:11:52
>>169 場場は、→場合は、に訂正。
スミマセン…。

172 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 16:08:32
老中に就任すれば、関東地方に領地替されるケースが多いが、
関東地方はローム層が多い為に、領地からの実収入に関しては、
余り旨味がなさそうだ…。
老中就任=関東地方に領地替=藩の財政再建に逆効果…。
…自分で自分の首を絞めるようなものだ…。

173 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 16:39:11
老中御用部屋には、若年寄・奥右筆組頭・同朋頭・御用部屋坊主以外には、
入室出来ないそうだ。

若年寄(老中の補佐)

奥右筆組頭(老中・若年寄の政務補佐官兼秘書官)

同朋頭(老中と諸役人との取次役)

御用部屋坊主(御用部屋内の雑務)

こういったところは規則が厳重だったようだ。
万が一、間違えて御用部屋に入室しようものなら厳しく処分されるそうだ…(^-^;)。

174 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 16:51:13
老中在任中は付け届けで潤う。在所が江戸に近くなれば参勤交代の費用が浮く。
更に、老中に上がるまでに京都所司代や大坂城代を歴任することが多いから、
肥沃な近畿に飛地が持てることも多い。

175 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 17:10:23
>>165 庄内藩(酒井左衛門尉家)藩は、本間家という豪商がバックに控えて資金の融資等を受けていたが、
他の老中等に就任出来そうな有力譜代大名(例えば、彦根井伊家、酒井雅楽頭家、土井家、堀田家等)達には、
どんな豪商達がバックに控えて資金の融資等を受けていたのだろうか?。


176 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 19:48:38
老中の前段階の大坂城代や京都所司代になれば、京大坂の
三井住友鴻池あたりがせっせと挨拶にやってくる。

177 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 20:45:40
>>176 なるほど。
さしずめ、現在でいうところの有力政治家に対して大企業等が、
政治献金のスポンサーになるような感じですな。

178 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 20:55:15
それにしても、集金能力が秀でている事と、
強力な人脈の形成が権力のバロメータを計る上で重要なウエートを占めるとは、
現在の永田町の政治屋と余り変わらんな…。
こういう事は今も昔も変わらん法則のようだな…。

179 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 21:11:14
前近代なら主君や上役からの引きが重要なのは当たり前。封建社会とはそういうものだ。

180 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 21:11:55
悲惨なのは浜田の松平周防

181 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 22:13:24
>>180 松平周防守康任は、自分の藩(浜田藩)の藩財政を再建する為に、
竹島で海外との密貿易(竹島事件)を仕出かした上、
仙石騒動で、悪家老仙石左京等に加担して、
不正な取り計らいをした事で老中職を辞任に追い込まれ、
自身は永蟄居させられ、
その家は僻地の棚倉に転封の憂き目を見た。
彼も賄賂には目がなく、
ある意味、典型的な悪老中の一人だったとも言えるな…。

182 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 22:40:58
天保期の水野越前守忠邦も、ある意味悲惨な運命を辿ったな…。
老中に就任したい為に、わざわざ唐津から浜松への転封を画策し、
幕閣に賄賂を贈って老中職にまで辿り着いたのはいいが、
天保の改革政治に失敗して失脚し、老中職を罷免され、
再び老中首座に返り咲いたものの、幕閣での実権が無い上に、
今度は天保の妖怪(鳥居甲斐守)の不正に関する咎で連坐し、老中を辞任した上で、
自身は隠居・蟄居を命じられ、
水野家は2万石減封の上、僻地の山形に転封の憂き目を見た。

183 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 22:54:24
享保の改革期の水野和泉守忠之・松平左近将監乗邑の両人は、
将軍吉宗によってトカゲの尻尾を切るかの如く、
老中職を罷免された哀れな老中だったな…。

184 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 23:03:49
譜代大名の中で、領地にかなり旨味がある藩(所謂、表高よりも実収入が多い)と、
領地に旨味が全く無い藩(所謂、表高よりも実収入が少ない藩)を知りたいのですが…。

185 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 23:12:42
俺実は山形出身なんだが、江戸時代政治史においては
山形は棚倉と同等のへき地だと知ってへこんだ(w

186 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 01:56:31
>>176 さすがは豪商だな
   偉くなる奴にはあらかじめ手を付けておくのか

187 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 02:28:11
>>184
三百諸候スレ池

188 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 05:18:42
>181
仙石騒動に関してはどっちが良いの悪いのということでもないと思うけど。
単に負けた側が「悪人」に仕立て上げられただけで。

どちらかというと、水野越前の引き下ろし工作にしてやられたという感じ
じゃないのかな。

189 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 07:31:59
>>185
最上義光がいた頃は輝いてたのにな山形

190 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 13:59:39
>>188 役職や地位が上に行くほど、他人の足を引っ張り合い、
他の上司や同輩、反対派等を蹴落とす為の派閥抗争に明け暮れ、
揚句の果てには組織そのものを衰弱させてしまう…。
古今東西、組織が崩壊する法則をそのまま地で行っている感じですな。

191 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 14:25:32
幕末期ともなると老中程の地位にある者でも、
雄藩の陪臣共に良いように掻き回されたようだ。

老中板倉勝静は、第二次長州征伐の時に薩摩藩に出兵を要請したが、
大久保一蔵等に軽くあしらわれる有様だったし、

小笠原長行も長州処分問題で広島まで出向いたものの、
長州藩の輩に全く相手にされない有様だった…。
また、諸藩の陪臣達が老中に対して色々と政策の建言をしてきたりと、
老中の権威も全くの底無し状態になってしまった…。

192 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 14:34:24
>>101 老中就任期間の最短記録は、
どんな輩がどれだけの短期間勤めたのかねぇ〜?。

193 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 15:12:08
>>192
最短はおそらく、大久保常春(下野烏山藩主)の四ヶ月だと思う。

194 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 16:25:19
>>193 若年寄を長年務めてようやく将軍吉宗によって老中に昇進したが、
四ヶ月にして死んでしまったので、
結果的には、御情け大臣ならぬ御情け老中っていう感じですか…。

195 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 16:45:41
慶応3年の松平定昭(伊予松山藩主)の一ヶ月が最短。

196 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 17:22:33
>>195 在職一ヶ月の老中では、
老中の仕事を何も出来ないまま終わってしまったのでは?。

197 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 17:27:55
>>196 まるで現在の金銭スキャンダルや、
失言・暴言等で入閣して直ぐに辞めていく(もしくは辞めざるを得ない)大臣のようだな。

198 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 18:48:48
>197
入閣直後に総理が「やーめた」と投げ出したケースの方が近いと思うけど。

199 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 20:16:01
>>198 確かに >>195の在職一ヶ月だけの老中の場合は、
幕府の大ボスである将軍慶喜が朝廷に大政を返上したから、
今風に言えば、徳川慶喜(改造)内閣が発足してから直ぐに(改造)内閣を投げ出すような感じですね。
…でも、松平定昭を老中に任命してから直ぐに大政奉還するんだったら、
慶喜は何の為に松平定昭を老中に任命したのだろうか?。

200 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 21:21:55
久松定昭 27日 慶応3年9月23日〜10月19日
諏訪忠誠 25日 元治元年6月29日〜7月23日
太田資始 18日 文久3年4月27日〜5月14日
大老酒井忠世 8日 寛永13年3月13日〜19日

201 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 21:23:03
幕府という名義がなくなっただけで、実際には徳川政権は存続している。
大政奉還は徳川政権存続のための方便だから、その後も幕閣人事は行われており、
若年寄の立花種恭が老中格に昇進している。

実質的な首相は板倉勝静だし、松平定昭の任命は家門からの箔付け人事だろうな。

202 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 21:28:07
大河内正質、酒井忠惇も王政復古の大号令が出たあとの老中任命。

203 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 21:38:24
…大政奉還前後も老中(格)を立て続けに任命していったら、
老中の定員を遥かに越えてしまうのでは?。
大政奉還前後の老中・老中格って何人ぐらいおったんかな?。

204 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 22:14:01
>>200の中の太田備後守資始は、確か老中を三回も勤めた老中だったな。
確か、天保期・安政期・文久期の三回だったかな?

しかしこの太田備後守資始も、時の権力者である老中首座水野越前守忠邦や、大老井伊掃部頭直弼と衝突して、
その度に老中職を罷免された人物だった…。
しかし、隠居してる身でありながら、二回も老中に再登用されるなんてかなり異例の事だったのでは?。
幕末期には、よっぽど老中のなり手が居なかったのかねぇ〜。
隠居してる人物まで引きずり出すんだから…。

205 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 02:03:06
よっぽど才覚や人望があった、となぜ考えない。

206 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 10:03:57
ぼしん戦争直前の老中、老中格の人数は定員を大幅に超過していたのは確か

207 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 10:26:03
>>205 才覚や人望等があれば、
寧ろ、長期間に渡って老中職をつつがなく勤め上げる事が出来たのではないかと思いますが…。
…もっとも、世渡りが下手な人物であったと言う事であれば、また話は別ですが…。

208 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 10:38:20
大政奉還前後に老中に登用された人物は、
殆ど在京もしくは在坂老中(慶喜付き)だったようですね。
江戸で留守番の老中は、
どのくらい居たんですかねぇ〜?。

209 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 11:40:28
無任所で首相格の板倉勝静、外国事務の小笠原長行が在坂。上記の酒井、大河内も。
国内事務の稲葉正邦、会計の松平康英、陸軍の松平乗謨、海軍の稲葉正巳は江戸。

210 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 11:51:24
訂正

在坂
無任所で首相格の板倉勝静、酒井忠惇、大河内正質。

在江戸
外国事務の小笠原長行、国内事務の稲葉正邦、会計の松平康英、陸軍の松平乗謨、海軍の稲葉正巳。

211 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 11:57:42
大政奉還前後に松山藩主の松平定昭と姫路藩主の酒井忠惇が老中になったのは、
家門の久松家や譜代門閥の酒井家からの任命で老中の権威を高めようとしたのだろう。

まず、家門の松平定昭を板倉老中より上席で任命したが、わずか一ヶ月で辞任したので、
大老を出す家柄である酒井家から忠惇を任命したのだろう。

212 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 13:55:16
>>210 …なるほど。
五局(陸軍・海軍・国内事務・外国事務・会計)担当の総裁(老中もしくは老中格)は、全員江戸で留守番してた訳ですか。
京・大坂方面は、慶喜側近の首席老中板倉勝静だけなので、
京・大坂方面の政局を担わせる人材が不足していたから、慶喜が次々に家門大名や譜代の重鎮を老中に登用して欠員を補っていたんですね。

213 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 14:14:53
徳川慶喜政権下の幕府の組織。

五局(陸軍・海軍・国内事務・外国事務・会計)のトップが総裁(老中もしくは老中格相当)。
首席老中板倉勝静は、五局の上に立つ?事実上の首相格。

その次が、総裁を補佐する総奉行もしくは奉行(若年寄もしくは若年寄格相当)。
若年寄(格)は、旗本からでも登用可能。

その下が、実務上の元締と言える奉行もしくは奉行並クラスの役職(旗本クラス)。


214 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 14:25:43
>>213 若年寄(格)は、旗本からでも登用可能ならば、
何故、能力抜群の勝海舟や小栗忠順等を若年寄(格)に登用しなかった?。

215 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 14:36:02
>>214

(老中としての)能力が抜群じゃ無かった(と判断された)から

216 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 15:06:57
勝とか小栗はどっちも敵をつくりやすい性格だったからな。
慶応3年に任用された旗本出身の若年寄(格)の面子と比べたら、
小栗も若年寄になっておかしくないのに、そうならなかったのは、
やはり人徳のなさとしかいいようがない。

217 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 16:05:40
氷川清話でも小栗については才能も熱意もあり
飛び抜けた人材であることを認めつつも了見の狭さを
幕閣参政に挙げられなかった理由にしてるね

218 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 16:06:30
>>216 小栗忠順の盟友、栗本鋤雲曰わく。
「これ(物事をはっきりと言う癖が)、上野介(小栗忠順)が材力(能力)ありと雖も、終身参政に躋る能わず、その下にある者、陸続越えてその上に至るの因なりしと。」

219 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 16:13:39
逆に言うと、文久年間に旗本(側衆)から若年寄に任用された平岡丹波守は、
相当世渡り上手で敵の少ない人物だったんだろうな。

220 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 17:03:22
>>219 平岡丹波守道弘と言えば、たしか将軍後継問題で紀州慶福を推す、
井伊直弼を中心とする南紀派の主力として活躍した将軍側近(側衆)の一人だったな。
それにしても、井伊直弼がテロられた後に復活した一橋派からよく報復人事を受けずに済んだな。

ちなみに、もう一人の将軍側近(御用取次)で南紀派の主力の一人として活躍した薬師寺筑前守元真は、
井伊直弼がテロられた直後に平側衆に左遷?されたのに…。

221 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 17:12:24
大老井伊直弼が桜田門外でテロられた後に復活した一橋派は、
文久年間に、井伊派にかなりの報復人事や処罰等をしたそうだが、
どのような面々が処罰の対象になったのかな?。
また、処分の内容はどんな物だったのかな?。

222 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 19:35:48
処罰者
井伊直憲(彦根藩主。井伊直弼の子)…10万石減封
安藤信正(磐城平藩主。公武合体を推進した責任者)
…1万石減封
久世広文(関宿藩主。安藤と同じ)…加増1万石、本秩1万石、計2万石減封
脇坂安宅(龍野藩主。安政大獄当時の老中)…蟄居
間部詮勝(西鯖江藩主。脇坂に同じ)…1万石減封
松平乗全(西尾藩主。脇坂に同じ)
九条尚忠(関白。南紀派公卿)
福本清三郎(但馬浪士)

223 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 20:12:45
>>222の中の間部下総守詮勝という老中は、よくよく運の無い人物だったな…。
たしか天保の改革期に、老中首座水野越前守忠邦と対立して老中職を罷免され、
また、安政期に大老井伊掃部頭直弼に再登用されて、安政の大獄では京で弾圧を主導して井伊に尽くしたものの、
大獄の後始末等を巡って井伊と対立して老中職を罷免され、
揚句の果てには、井伊がテロられた後に復活した一橋派に、安政の大獄の当事者として処分の対象にされたんだからな…。

224 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 10:12:36
時代劇の影響が強いだけかもしれないけど、歴代将軍治世の中で家光時代の老中に粒揃い多数かと

225 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 21:05:48
世襲みたいになってくれば質は落ちるから。
能力実力のある大老格が2人も後にいたしね。

226 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 22:40:12
>>224 家康や秀忠の家臣教育が、うまく機能している証ですかな?。

227 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 22:47:23
家康の影響を直接受けた組織は良い人材も輩出してるってことだね。
家康は、本当に凄い人物だと思う。

228 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 23:02:32
家康秀忠の時代はまだ,豊臣,外様,朝廷と,外部に敵がいて,自らが属する
徳川家の天下取りという目標もあった。
それが,いったん天下を取ると後は内輪での権力闘争と,争いのスケールは小
さくなるし,小粒に見えるのは仕方ないんじゃないかな。
権謀術数も武将というよりも,官僚的になるし・・・





229 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 01:06:50
まあ、家光期の幕閣は、結構バランスが取れていたのではないかと思います。
松平信綱・阿部正次・阿部忠秋・堀田正盛等といった家光の近習上がりの新進気鋭な人材に、
先代からの重臣、酒井忠勝・土井利勝といった幕閣の重鎮、
さらにこれらの人材を、幕閣外からバックアップする井伊直孝・松平忠明といった元老が控えていたんだからな。

230 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 01:17:51
幕府初期に知謀の塊といわれた、本多佐渡守正信・本多上野介正純・土井大炊頭利勝の三人を、
知謀の高い順に並べたらどういう順番になるかな?。

231 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 02:09:12
そういう発想を「中二病」って言うのですよ。

232 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 09:35:20
徳川幕府を通じての幕閣の権力抗争史を、
かい摘まんで御教示賜りたし。 m(._.)m

233 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 09:56:05
図書館へ逝け


234 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 16:35:15
田沼意次と松平定信との権力抗争は、
両者共、一橋治済の掌の上で踊らされた感じがしますが、
どんなもんでしょうか?。

235 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 05:07:14
>>234
同じ話を何度も振るなハゲ!

236 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 06:25:07
↑なんでヒス起こしてんだ?

237 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 06:49:37

>>229
まさにそのとおりだと・・
でも、幕僚ではないけど、「保科正之」の存在も大きかったかと。
正之は家光の7歳下の義弟で将軍後見的な存在だったけど、きちっと
した役職であったかどうかは分からないらしいですね。

238 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 08:41:06
正之は家光の異母弟
将軍家綱の時代に活躍した

239 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 09:17:55
家綱期の幕閣は、前半は家光期の幕閣の生き残りによる集団指導体制で推移したが、
後半は、下馬将軍酒井雅楽頭忠清が大いに権勢を振るった。
その下馬将軍は、何故、将軍家綱の後継候補に、犬公方綱吉を推す事を嫌がっていたのかな?。

まさか、自己の権勢を揺るぎないものにする為に、宮将軍構想や綱重の小伜(後の家宣)を推していた等という俗説ばかりとは思えませんが。
…もっとも、将軍家綱が綱吉を後継にする意志をはっきり示したら、
忠清は素直に従ってはいるが…。

240 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 13:03:27
>>239 当時の大老酒井忠清や老中達は、
綱吉の器量をかなり危ぶんでいたそうです。
…それが、当時の幕閣の共通した認識だったようです。
…もっとも、血統に関しては、綱吉が最有力候補ではあったが…。

241 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 14:05:59
諸藩の主君押し込めみたいに
老中が将軍を選べるのかい?


242 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 16:23:28
選べないから酒井も柳沢も間部も乗邑も失脚したのであり

243 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 18:08:58
逆に選べたからこそ大老井伊直弼は好き放題やったわけだ。

244 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 18:22:02
老中と大老は違うだろう
また井伊は溜の間の筆頭だから役職以上の発言力がある



245 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 19:56:09
将軍後継問題は、時の幕閣にとってはある意味、最大の鬼門とも言えそう…。
自分が擁立した人物が後継になれなかった場合は勿論、早晩失脚の運命を辿るし(酒井忠清・間部詮房・松平乗邑等のケース)、
擁立に成功しても、ろくに良い事が無い(堀田正俊・田沼意次・井伊直弼等のケース)。

246 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 21:02:01
老中とすれば、将軍後継問題には沈黙を守り続けるのが生き延びる要諦である
綱吉、家宣、家継、吉宗の四代に渡って老中の座にあった土屋政直は、その典型

247 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 23:27:24
将軍後継問題を制するには、
やはり、将軍に直接影響を与える事の出来る大奥や、将軍側近(御用取次・側衆・小姓頭取・小納戸頭取等)の支持をいかに早く固めるかに掛かっているのではないかと思います。

248 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 23:36:19
>>247
将軍継嗣は,幕閣の実力者の意向じゃなくて
結局は,将軍の胸先三寸てとこ?



249 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 23:41:30
いや。大奥のご意向と申したはずだ

250 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 23:54:54
>>247には「将軍に直接影響を与える事の出来る大奥」云々と書いてあって,大奥の意向で決まるとは読まず,単に将軍に影響力を行使できるとしか読めないようなんですが。



251 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 02:57:46
井伊家は大老老中である以前に、
幕政参加してたようなもんだから。

252 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 08:29:16
井伊家を初めとする溜間詰大名は、幕閣(或いは将軍)の最高顧問的な存在だったが、
実際に溜間詰が幕政に影響力を与えたのは、幕末の政局ぐらいだったのでは?。

253 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 08:35:27
>>247 ついでに言えば、老中(大老)の地位を盤石な物とする為には、
大奥や将軍側近の支持を獲得する事も肝要かと。

特に、大奥を敵に回すと後々自分にどう跳ね返って来るか…(^-^;)。

254 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 08:56:07
>>252
下馬将軍

255 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 11:07:49
>>253 大奥を敵に回して失敗したケース。
…松平定信・水野忠邦・幕末の一橋派等。

大奥を味方に付けて成功したケース。
…田沼意次・水野忠成・井伊直弼等。

256 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 01:40:27
>>252
御三家や有力親藩、井伊を筆頭に譜代大手、
時には外様の有力家だって、幕政には口出しまくりです。

257 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 10:54:09
特として
しかるべき地位にありながら
幕政に最も関心のないのが将軍だったりする。

258 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 13:39:07
>>256 黒船来航時の老中首座阿部正弘が、
幕府の専断で政権運営を出来なくなって、
諸大名を初めとする各方面に政策等の提言を求めたのがきっかけで、
御三家や外様の雄藩等が幕政に口を挟み出し、
それと比例するかの様に、井伊家を筆頭とする溜間詰大名や他の譜代大名達も、積極的に幕政に口を挟み出した。

259 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 15:20:17
そんなの幕末の一時の現象にすぎんよ。
265年の歴史の中でほんの一期間。

260 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 18:48:08
>>36 井伊家の当主(直弼を除く大老就任者)が大老に就任する前に、
1,2年程御用部屋入りをしているところをみると、
御用部屋入りは、事実上の大老職見習いの位置付けになるのではないかと。
…というのは、老中と違って、大老は常時置かれている職ではなく、
大老に就任しても、師匠格になる人がいないから、大老就任前に御用部屋入りさせて、
幕府の政治運営の仕方等を学ばせた上で、
大老に就任させたのではないかと思います。

261 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 19:10:49
>>258 老中首座阿部正弘の情報公開と、各方面からの政策提言を求めるやり方は、
幕府崩壊の導火線に火を点けた感じだな。
これだけ幕府の政治が長続きしていたら、幕府に対する批判のネタ等は、
沢山あるからな…。
これらをネタに、処士横議が盛んになり、燻っていた幕政批判を大いに盛り上げる事になる。

また、条約調印の為に朝廷にお伺いを立てるのは、とんでもない失策だったのではないかと…。
勅許など求めずに、幕府の専断で条約調印をすれば、違勅調印だのやいのやいのと批判される事もなかったろうに。
「幕府が全責任を負って決断したのだから」、という理屈が立つからな…。

262 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 19:16:10
>>261 歴史にレバ・タラ等は禁物ではあるが、
阿部正弘と井伊直弼の登場の順番が逆であれば良かったのではないかと…。


263 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 22:49:30
>>262
阿部があのような政治スタイルをとったのは本人の資質もあるだろうけど
前任者が独裁者タイプの水野忠邦だったことが大きいと思われ。

実際の歴史も硬→軟


264 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 23:59:01
>>263 老中首座阿部正弘の良い面では、
従来からの有能な人材抜擢をさらに拡大して、
有能ならば、さらに少身の者や部屋住みの者からでも抜擢した事だろう。
ただ、阿部老中といえども、そこまで人材の眼が届いていたとは思えんが、
誰か、阿部老中の参謀やブレーンを勤めていた人でもいたのかな。


265 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 00:08:01
いわゆる海防係

266 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 11:07:36
プレーンは林衡(大学頭)と筒井政憲(大目付)、水野忠徳(外国奉行)

267 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 20:37:23
お側用人の登場で、老中の権威は半減しました。
老中の権威低下がハッキリしてしたのは、綱吉以降からな吉宗以降かな?

268 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 09:42:15
三大改革のうち2つは老中主導によるものですが、なにか?


269 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 10:47:27
>>268
三大改革ですか。
確かに後世の文部省がそのようなまとめ方をしてますね。
定信も忠邦も改革半ばに罷免され頓挫してますが何か?

270 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 20:39:08
>>269
罷免され頓挫してようが老中主導であったことは間違いない。
黒船来航のころに側用人がいたのかね?

271 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 09:31:01
>>270
お側取次でもいいけど、お側用制度化で老中の権威が低下したのは事実。
綱吉が評価されるとしたら、老中と将軍の間に側用人を介在させたた政策を実行したこと。
将軍主導の権威を維持させる狙いだよ。綱吉代以降、多少の名前が変わってもずーと続いてるよ。
調べてみ。
そもそも、頓挫罷免された事項を実績とは言わない。
罷免より意志が反映される辞任だよね。
例えば昨今の福田前総理の消費者政策案の方がまた首を切られた定信や忠邦よりマシ。
消費者庁構想が現内閣に引き継がれてるもんな。
定信や忠邦の次代の老中が、目玉政策を引き継いだかい?

幕末厨は幕末だけをとらえて徳川幕府260年を語ろうとするから近視眼なんだよな。


272 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 15:24:07
>>271
福田の例がめちゃくちゃ
政治体制の違いわからないようだ


273 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 16:18:16
>>272
子供か(笑)

274 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 18:06:40
ところで、九代将軍家重は正直なところ、
頭脳の方は明晰だったのか、それとも本当にバカ殿だったのかどっちかな?。
自分は、頭脳の方は案外良いのではないかと思ってるんですが…。
バカ殿ならば、何もいちいち大岡忠光を側用人に昇格させたり、
田沼意次を側衆に取り立てたりして重用せずとも、老中のいうなりにしていれば済む筈だが、
大岡忠光や田沼意次を重用したって事は、
すなわち、自身で政務を親裁して行こうという表れではないですかな?。

しかも、米公方がわざわざ側用人を廃止したにも拘わらず、
家重の代に再び復活させたのは、将軍自身はかなり?政務に意欲があったのでは?。
徳川宗家継承とほぼ同時に大物の老中松平乗邑を罷免したし…。

275 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 22:22:31
>綱吉が評価されるとしたら、老中と将軍の間に側用人を介在させたた政策を実行したこと。

なだかねえ。
家康や秀忠がダメな政治体制を敷いたみたいな書きようだ。

276 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 21:46:34
勝はなんで、そこそこ出世できたんだ。
幕引きには大役を務めているし。

277 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 21:49:11
陸軍総裁といっても、譜代大名が逃げ出したあとの崩壊直前の幕府の重臣だぞ。

278 :日本@名無史さん:2008/10/20(月) 22:34:24
なり手がいないから1万石くらいの大名が老中格に、旗本が若年寄格になって、崩壊する幕府を介錯した

279 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 13:33:37
そこらの大名は自藩の生き残りに必死だったからね。
それで旗本が残った。


280 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 17:13:06
高家今川が若年寄やったんだよね。

281 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 00:53:43
元大坂東町奉行跡部遠江守も若年寄兼菊間縁頬詰

282 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 22:23:23
>>252
吉宗の時代に溜間詰だった酒井忠挙(忠清の息子)は、吉宗に色々と意見したらしい。
足高の制は忠挙の進言がきっかけで成立したそうだ。

283 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 02:16:31
そうだな。
逆に幕府から諸大名に意見を聞くこともあったし。
幕末だけじゃないんだよ。

284 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 14:26:03
河津伊豆守

285 :日本@名無史さん:2008/12/17(水) 20:05:48
元祖ご意見番大久保彦左衛門

286 :日本@名無史さん:2009/01/07(水) 16:16:54
1万石の稲葉兵部大輔、立花なども老中格

287 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 17:16:41
老中なんかよりも、
奥右筆や町与力の方が、
たんまりと金が稼げそうな気がするが…。

288 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 02:51:39
おまけに大名の跡継ぎというだけで、老中格というのも現れた。

289 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 23:39:32
日本社会のバランス感覚は徳川時代に培われた、あるいは家康公が種を撒いたと
思う。
幕府で政治の実権を握るのは明らかに老中だが、絶大な権限を持っている訳ではなく、
政治は使用人にやらせるものとして、あえて小大名達にやらせた。
徳川家以外に対してはどんな外様の大大名に対しても老中は極めて強く出れるが、
徳川家中では、親潘、譜代の大大名に大しては遠慮せざるを得ない。
権威と権力を極力分離し、絶対的な権限がどこかに集中しないような体制を
築き上げた所が家康公の優れた着眼点だと思う。



290 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 21:36:49
阿部忠秋って同僚に比べると地味だね。
なんで?

291 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 16:42:43
>>287
町与力は役職柄付け届けが多くて本来の石高より裕福な生活をしてたそうだからね。
逆に老中は役職上かかる費用は基本的に老中の家中の藩が担ったようだから
権力はあるが金がかかる仕事だったとか・・。

292 :日本@名無史さん:2009/04/19(日) 16:44:41
金を賜るんだけどね

293 :日本@名無史さん:2009/04/21(火) 21:03:48
老中在職が,>>101のように長期に渡る大名家では,家政や領国経営はどうしてたんだろう?
在職期間中はお国入りなんて無理だろうし,譜代大名とはいえ,証人の嫡男が帰国するわけにもいかないだろし。




294 :日本@名無史さん:2009/04/21(火) 21:32:02
長きにわたり老職を勤めたお大名の国おもては磐石ですよ!

295 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 14:05:23
>>293 老中(まあ、老中に限らず幕府の役職に就いている大名)在職中の大名は、
幕政に専念していて多忙だったから、
藩政までは手が回らない状態だったと思われ、

藩政の方は、城代家老や国元の仕置家老等が
合議で藩政を運営し、

藩主には、藩内の状態を
定期的に報告していたのでは?

…また、江戸詰めの要職にある者は、
老中(幕府の役職にある大名)の仕事をバックアップしていたのではなかったかな?

296 :日本@名無史さん:2009/04/28(火) 22:09:18
>>295
家臣がしっかりしていれば,殿様はいてもいなくても一緒ってことですか。
で,殿様も家臣も駄目なら改易へと。


297 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 20:42:58
age

298 :日本@名無史さん:2009/07/31(金) 23:46:03
吉宗は綱吉時代の側近を積極的に老中に起用してるけど何故ですか?
黒田直邦や松平忠周など。松平輝貞なんかはかなり食わせ者だったらしいけど。

299 :日本@名無史さん:2009/11/16(月) 23:29:24
なぜ

300 :日本@名無史さん:2009/12/14(月) 23:53:09
松平武元の在任期間は凄いよな。いかにも仕事が生きがいって感じだ。

301 :日本@名無史さん:2009/12/26(土) 21:50:12
老中に就任した当人は、付届けやら役得等で、
多少は懐具合が暖まるだろうけど、

余りに賄賂やら役得等をせしめ過ぎると、
次の代になると、御手伝い普請やらの名目で、

公儀からたんまりと負担させられるから、

老中を目指すのも考えものだな…。

302 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 03:36:26
[1]島津家に対する濃尾河川改修工事を決定した老中首座堀田相模守正亮の佐倉藩は、
次の堀田相模守正順の代に日光東照宮改修工事を命じられておる。
[2]田沼主殿頭意次の跡を継いだ、孫の田沼淡路守意明は、後を次いだ幕府執権松平少将(白河侯)の命で、
治山治水工事の名目で6万両の献金を命じられ、藩財政は破綻した。しかも、相良藩の城は破却された。
[3][2]で、嫌がらせをした松平の子・松平定永は、実父が決定した羽田沖警備に借り出され、
当時の水野忠成に、陳情して勘弁して欲しいと言ったが、「あなたの父が決めた事でしょう。
あなたがそれをやるのは、親孝行だ」と切り替えされて、羽田沖警備のために多額の金を出す破目になった。
[4]文化・文政時代に散々賄賂を取り込んだ林肥後守忠英と水野出羽守忠成の子は、
それぞれ、印旛沼開削工事を命じられ、財政は破綻した。

このように、一世風靡の権門の老中や側用人の子々孫々は、やはり嫉妬からか帳尻を合わせられるのである。


303 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 19:10:09
松平定信は、老中(首座)に就任して僅か二ヶ月で、
二千数百両もの余計な出費が掛かったそうだが、
(もっとも、彼が賄賂等の取り込みをしなかった事もあるが…。)

老中って、そんなに多額な出費が必要な役職だったんかな?

304 :日本@名無史さん:2009/12/27(日) 21:35:12
藩主としての領主権を持たない隠居や世子が老中になると三万俵が支給されたそうだから
やはり持ち出しは必要だったはずだ

305 :日本@名無史さん:2009/12/28(月) 05:54:15
老中は毎年2回くらい各藩から付け届けがあったような?
あと各大名の参勤の時も…将軍程豪勢な送りものではないにしろ、そこそこな実入りだったんジャマイカ!?

306 :日本@名無史さん:2010/01/25(月) 14:03:13
★幕府の実力者に働き掛けた際の工作費。

(例)、岡山藩池田家の官位昇進に関わる主な贈与先。

☆文化十三年(1816年)
・徳川治済(将軍実父) … 金100両程。
・丸山勝五郎(同御附御用扱) … 金30両程。

・松平信明(老中首座) … 金100両程。
・新藤右兵衛(同公用人) … 金40両程。

・水野忠成(側用人) … 金50両程。
・土方縫殿助(同家老) … 銀30枚。

・高井清寅(御側御用取次) … 金100両程。
・沼田作左衛門(同用人) … 金30両程。

・林忠英(御側御用取次) … 金100両程。
・大野勘平(同用人) … 金30両。

・秋山惟祺(奥右筆組頭) … 金100両。
・池十郎兵衛(同用人) … 1000疋(2両2分)

…これを見ると、将軍実父・老中首座・側用人・御側御用取次・奥右筆組頭が工作の対象となっており、
また、実力者の用人にも相当な金額が贈与されている。
(実力者に物事を依頼する際、秘書的業務を担う用人に取り次いで貰うのが一般的だったから。)

307 :日本@名無史さん:2010/01/25(月) 14:18:42
>>306の続き。
☆天保七年(1836年)
・大久保忠真(老中首座) … 金9両。

・水野忠邦(老中) … 金122両2分。

・土岐朝旨(御側御用取次) … 金627両2分。
・梅原十右衛門(同用人) … 金215両。

・水野忠篤(御側御用取次) … 金217両2分。
・黒田仲左衛門(同用人) … 金45両。

・大沢直行(奥右筆組頭) … 金327両2分。

・田中吉蔵(奥右筆組頭) … 金335両。

…この場合は、老中・御側御用取次・奥右筆組頭が工作の対象になっているが、
老中よりも御側御用取次と奥右筆組頭に集中的に多額の金品が贈与されている。

これは、御側御用取次(将軍の政務補佐官)・奥右筆組頭(老中の政務補佐官)に、
幕府政治の実権が移りつつある傾向が読み取れる。

308 :日本@名無史さん:2010/01/25(月) 14:38:48
★田原藩三宅家の大坂加番就役の為の献金品。

☆嘉永五年(1852年)
・荒井甚之丞(奥右筆組頭) … 肴料金50両。
・荒井甚之丞用人 … 金2000疋(金5両)。

・黒沢正助(奥右筆) … 肴料金70両。
・黒沢正助用人 … 金3000疋(金7両2分)。

・阿部正弘(老中) … 肴料金2000疋(金5両)、唐琥珀袴地2反。

・牧野忠雅(老中) … 肴料金1000疋(金2両2分)、袴地5反。

・松平乗全(老中) … 肴料金1000疋、袴地5反。

…この場合、老中と奥右筆組頭、奥右筆への金品の贈与額からみると、

大坂加番就役に関しては、事実上、担当の奥右筆、奥右筆組頭によって決められていたようだ。

(老中の決裁に奥右筆(組頭)が大きな影響力を持っていた事がわかる。)

309 :日本@名無史さん:2010/03/09(火) 18:02:47
老中

310 :日本@名無史さん:2010/04/01(木) 18:59:47
保守

311 :安中藩主・板倉佐渡守勝清:2010/06/14(月) 00:48:18
あげ

312 :日本@名無史さん:2010/06/14(月) 05:48:34
日本の贈答品文化というのは賄賂が制度化してたようなものだな。

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