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謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!23

1 :神奈川県民:2008/09/15(月) 21:58:08
三國志卷三十 魏書三十 東夷傳 倭人伝
其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑彌呼
事鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國
自為王以來少有見者 以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入
居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛

謎の文献 魏志倭人伝に記された、
女王 卑弥呼 とは誰だったのか?
又、邪馬壹國 とはどこだったのか?
天皇家の祖や日本建国との関わりは? 古代最大の謎に挑戦しよう!


2 :神奈川県民:2008/09/15(月) 21:59:03
こちらが終わり次第書き込んで下さい


謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!19
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1209995649/

3 :神奈川県民:2008/09/21(日) 08:04:43
ここのスレへは19が終了してから書き込んで下さい


謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!19
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1209995649/


4 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 19:54:58
邪馬台国は朝鮮にあった!

5 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/25(木) 21:00:02
おかえり〜。
今度 「住七八十年倭國亂」から 私論を書くから 楽しみにしていて。


6 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 22:21:30
邪馬台国畿内大和説における卑弥呼候補
・物部氏の女王
・倭迹迹日百襲姫命
・倭姫命

今頃はこの3つが主流か。

7 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 07:22:00
豊浦とか甘橿丘って九州にあるの?

8 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 11:24:44
>>7
有るか無いかぐらい、自分で調べればわかるだろう。つまらんレス入れるな!

9 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 19:27:20
>>8
九州王朝説の人の
答えがそれだったら、笑えるね。

10 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 12:37:00
>>8
アホだコイツwwwww

11 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/27(土) 21:08:55
曲学の徒さんへ曲学の徒さんへの質問ですが 県民さんは、”曲学の徒”を買っている そこで
@ 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
A 泰和四年五月十六日丙午正陽、百練の鉄の七支刀を造る。
B 泰和四年は東晋の大和四年と解釈され、西暦369年のこととされる。

下記の文章に大きな誤りが有ります。
西暦369年=泰和四年五月十六日丙午 
十六日丙午=辛卯朔になります。 西暦369年に辛卯朔が有ったことを証明してください。
1を満たす西暦は、326年3月辛卯朔 
東晉明帝太寧元年 ?次:癸未 生肖:羊 西元323年4月22日(星期一)起 12月甲辰朔より数える、
東晉廢帝太和元年 ?次:丙寅 生肖:虎 西元366年1月28日(星期六)起 12月甲午朔。

B 東晉廢帝太和4年 を主張するには 読めない文字を読み、読める文字を読まない
事で成り立っている。
C 神功五十二年秋九月丁卯朔丙子 久氐等從千熊長彦詣之 則獻七枝刀一口・七子鏡一面
上記に同じ事を書いた。
これが 西暦326年なら 326−51=神功元年は275年
神功即位前の日食は、273年 ほぼ合いますね。
つまりこの時代を 書紀編纂者がどう捉えていたか? 暦の伸長の事です。


12 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/28(日) 09:42:10
>>11
唐松山さん
「五月丙午」は東大寺山古墳の中平刀など多くの実例があります。

「五月丙午(へいご、ひのえうま)」とは、盛夏を意味し、刀剣や鏡などの金属器を造る時、太陽から火を採る最適の日と考えられている。
実際の日の干支とは関係なく刻まれる。
これは、めでたい文句・吉祥句であり、常に用いられる言葉・常套句である。
(Wikipedia「鉄剣・鉄刀銘文」)

五月十六日は、夏(四月〜六月)のど真ん中の日ということでしょう。
ただ細かく言えば、何故十五日でなく十六日なのか?が問題です。
宮崎市定氏は「謎の七支刀」で、宋の泰始四年(468)なら4月小、5月大、6月大で合うが、
東晋太和四年(369)では4月大、5月大、6月小で真ん中は五月十五日となり合わないと述べています。

13 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/28(日) 10:07:31
唐松山さんへの続きです。
「泰■四年」の■を「寧」と読むのは無理でしょう。
宮崎氏の「泰始」説は七支刀最初の研究者、菅政友の読み方に従ったもので、菅は銘文を傷つけた責任はあるが、
傷つく前の銘文を見た唯一の人物であるから、その解釈は尊重すべきとしています。

14 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 10:12:57
投馬国は朝鮮にあった!


15 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/28(日) 10:38:44
1ヶ月が15日制の2倍暦ならば、16日は月の初日ということがありうる。
しかし中平年間は孝靈の末期ならば3倍暦時代だが、当時は3倍暦に加えて消極的
には2倍暦(さらに通常の暦法も)も影で並行してやっていたもようである。2倍
の場合1ヶ月が14日間の2週間制の時代であり、どうやら15日間制ではないよう
で、14日制ならば第二の月の2日だということになろう。孝元の后、欝色謎命
は2/2立后だ。だから東大寺古墳は孝靈崩御の後の孝元の后の同女と関係があり
うるということになる。2/2ならば、すでに崩御している細姫の遺跡の為、次后
の立后日にあわせての作刀の模様か? 作刀がその事由からでないとしても、細媛
は4/21崩御だから5月と辻褄が合う。しかし欠史八代間で今のところ唯一の月後半
崩御であるから、やはり倍暦行使に兼ねて、便利な通常暦法を影で行っていて
それが記録に残ったものか、あるいは孝靈吉備行幸での朝廷から離れた地域の
事象からか、通常暦での記録となったものであろう?

16 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/28(日) 11:00:15
>>15
倍暦計上で実年代は

 欝色女命立后=190年=中平7年(初平元年)

「孝元天皇」の号は「孝献皇帝」のと似た音韻であり、これに合わせ
て名付けたのかも知れんぞ?

17 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/28(日) 11:12:16
>五月丙午(へいご、ひのえうま)」とは、盛夏を意味
太陰暦では、1ヶ月の変動が有ります。
>太陽から火を採る最適の日
この様な 採火を文献等で表示できますか?
>これは、めでたい文句・吉祥句
(Wikipedia「鉄剣・鉄刀銘文」) の為の 作為。

太国さん 稲荷山鉄剣名文は、百済より頂戴した鉄剣に 晋の年号と、倭の日にちを
刻んだとお考えですか?



18 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/28(日) 11:16:59
>>16
「孝靈天皇」は「孝靈皇帝」と、「孝元天皇」は「孝献皇帝」とほぼ
時代が合うということで、天皇号を同等、似た号に合わせたと考えら
れる。そうなると拙者の倍暦編年が殆ど合っているという証左の補強
になる。八代間は欠史となっているが、天皇の号を付けた者はかよう
な欠史とせざるをえない事由と当時倍暦を行使していたことを、
すでに知っていたんであろうとそう想う?

19 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/28(日) 11:22:48
その■を「寧」としていいんですか? 何でも■はX線検査で
ノギヘンだそうだということですが? w

20 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 11:49:31
欠史時代は葛城王朝の時代だから、
王族の末裔の蘇我が滅んだ時に
鎌子の息子の藤原不比等が改編したと思う。
豊浦屋敷にあった、蘇我の王族の末裔だった証である天皇記を灰にしたのはそのため。

雄略は最後の葛城大王だからか、酷い大王だったと書いているしね。

21 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/28(日) 12:31:36
>>19
X線検査をしても、菅政友氏が傷つけた状態が見えるだけでは?


22 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 12:36:25
愛知県民さん、それは苦しいですよ

23 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/28(日) 13:24:06
11月1日甲子朔が朔旦冬至なら 非常に目出度いは、解る
この数字からしても5月15日、16日でもかまわないが 
丙午が夏至となる確率は、非常に低く甲子朔が朔旦冬至と同等
”五月丙午(へいご、ひのえうま)」とは、盛夏を意味”とするには、故事来歴謂われ
が無いと信用できない。
半島や大陸にその様な文章等が有りますか?
326年5月辛卯朔 なら1日の違いで あり得る。
(326年3月辛卯朔は、私の計算の為、計算値であり実際の運用日と時々ずれる
暦法とは関係無い数字)
ここから計算した 275年神功元年も私の編年と1年の狂い 此方も
半島の資料の”1年の狂い”と見る事も出来る。
”1年の狂いあり”=正しい、と認めないと倭人伝も読めない。

県民さん 他人の意見にオンブにダッコで !を打つつもりですか?
太国さんも 5世紀は、倭の敗退の時代 ここに稲荷山鉄剣を持ってきても 
有難みが無い。
ノギヘンも含めて「我田引水」その為の読み下し、
そんな日本の歴史に”?”が有るから スレも成立する。


24 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/28(日) 13:48:12
>>21
そんじゃ検査でノギヘンだというのは改ざんですかね?

25 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/28(日) 13:55:10
>>23
X線検査でノギヘンだったとは、ローガン氏が強く得意がって拙者
が教えてもらいましたが、あの検査はイカサマだとかもともと現代人
が刻みを入れたとかなんですかね? ならば拙者も検討し直しを余儀
なくされますが?

26 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/28(日) 14:17:53
>>23
!を打とうなんて思ってないですよ。打てるわけもないし。
独自性を出すのも大事ですが、真実を知るほうが大事かと思います。

>>25
確実な証拠はないですが、宮崎氏によると菅政友は「錆落とし」をしたと告白しており、
昭和の研究者でも末永雅雄氏、福山敏男氏が「後人による損傷」を明記しているそうです。
「泰■四年」の■が最も損傷が激しいと。

27 :ローガン:2008/09/28(日) 14:23:47
も〜何?得意がってとか…1971年のX線撮影と拡大顕微鏡調査で
表2文字目の「禾」、5文字目の「一」、裏13文字目の「一」が確認されてます。(一は字中の横棒)
これを否定し、菅宮司がつけた傷であるとする、それなりの根拠がおありになるのでしょうか?愛知県民さん。

唐松山さん
抱朴子十七登渉「金簡記云 以五月丙午日日中…(中略)銅成以剛炭錬之令童男童女進火取牡銅以為雄劍取牝銅以為雌劍」

28 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/28(日) 14:34:26
>>23
ttp://blog.livedoor.jp/myokasyo/archives/2007-07.html
後漢の『論衡』率性第八に
「陽遂取火於天、五月丙午中之時、消錬五石、鋳以為器、磨礪生光、仰以嚮日、則火来至、比真取火之道也」
(陽遂をもて火を天より取るに、五月丙午の日中するの時、五石を消錬し、鋳を以って器と為し磨礪して光を生ぜしめ、
仰いで以って日に嚮[む]かえば、則ち火来る、此れ真に火を取るの道なり)
とあるそうです。

29 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/28(日) 14:39:46
>>27
ローガンさん、久しぶり!
菅宮司自身が告白しているのだから確かだと思いますよ。


30 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/28(日) 14:41:57
>>29
それは故意ですか過失でしょうか? 身分が宮司さんなら過失の
ようですね?

31 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 14:46:42
ほう…管宮司が、のぎ偏を掘ったなら大事件ですね。
愛知県民さん、それは自分で自分のケツを拭ける
だけの確たる証拠なんですかね?

32 :ローガン:2008/09/28(日) 14:49:23
>>29
はい、しばらくです。
いや、錆落としの行為があったかなかったではなく、調査結果を踏まえた上で「和」以外に読めるという根拠です。

又後程です。

33 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/28(日) 14:58:07
>>31
別に私独自の説ではありません。

私がもっとも不安を感ずるのは、菅政友が確かに「イ」の形だと言っているのに
後の観察者が「ネ」もしくは「禾」だと、筆画が増えてきた点である。
もちろん下から地金が現れてくる場合もあろうが、この場合は、擦り足りなくて下地が見えなかったというよりは、
擦り損ねて壊してしまったから、あわてて中止したのではないかと思う。
そしてこのような秘密を握っているには、菅政友の右に出る者がない。
第二字がことにはなはだしく損傷されているという証言は重大である。
レントゲンのような近代武器を用いようが、結局損傷された状態がよりよく見えたというにすぎない。
(宮崎市定「謎の七支刀」より要約)

34 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/09/28(日) 15:16:47
世代論なども書きたかったが、時間なし。
また来週です。
ZZZ・・・・


35 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/28(日) 15:28:20
以「五月丙午日日中」を寿ぎの文としても良いがそれでは、
16丙午と言う ウソを書き込んだ物を有り難がった となる。
倭においても百済の暦を知っていたで有ろうから、「16丙午」と
「5月丙午日」では重みが全然違う。
実際に5月16丙午日に正直に造った物なら、有り難みが違う。

ではこの記事が、神功52年の所に載っている、この意味は?
この年の干支は、皇暦52壬申年5月己亥朔?であり 366丙寅年と合わない(329年の干支とも合わない)
神功39年から 皇紀干支と倭人伝の年の干支は、同一
「書紀編年時の年代決定に違いがある」この辺の考察は? もし有ったら
日食も七支刀も神功の身の内に起こったことですから。私としても
簡単に取り下げるわけにもいかない。



36 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/28(日) 15:45:14
象眼とは、溝を掘って そこに金など別の金属を埋め込む
X千検査は、この金の形を写した物

もしこの金が磨き等ではがれて別の溝に嵌って仕舞ってもそれをX線で見ても
素の字に変換出来ない。
現在解るのは、初めに埋め込まれた位置から移動した?残骸の形。


37 :ローガン:2008/09/28(日) 16:24:45
>>35
> 以「五月丙午日日中」を寿ぎの文としても良いがそれでは、
> 16丙午と言う ウソを書き込んだ物を有り難がった となる。

呉の平縁神獣鏡の銘文で「赤烏元年五月廿五日丙午」とあります。
238年の5月は辛酉からではなかったですか?とすれば25日は乙酉…
丙午は月内にはありませんね? まあ一例だけですが、探せばほかにも有りそうです。
16日と丙午にさほど拘らなくても良いように思います。

38 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/28(日) 16:46:22
作刀月日を故意に吉日にすることはあるだろうが、干支が合わない
ようにそこまでゴマをやるかは疑問だな?

やはり何らかの事情があるということだ。唐松山さんは1年365日に
於いて、全ての日が充填されてるとの堅い困った信念が空白虚無日の
事例をあげても変えることをしようとせず〜だからいっこうに干支
が合わないわけ。それにどうやら当時の古代にては暦法の並行行使
をしていた可能性が観られ、そのうちどの暦法でやったのかによって
干支が違う場合があろうから、合わないから間違いだは早計だ。
それでも唐松山さんは顧みようという考えはうすく、いつまで経って
も迷宮の中に気持ち良さそうに〜居座る。w

石上の七支刀はやはり安康世の刀だよ。

39 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 13:12:33
調査中の箸墓から
日本最古の祭ヒ用の木製の仮面が出土したらしい

世界規模で
奈良桜井が最有力候補地になったそうな。

40 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 13:34:52
百襲姫命と豊鍬入姫命は、同じ皇族出身の巫女であり、百襲姫命と豊鍬入姫命の年齢差、また二人の名前の発音から考えて、中国史書に登場する卑弥呼と台与に当てはめられると思う

41 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/10/01(水) 00:34:33
最近、仕事のほうで管理職することになり、
引き継ぎやら〜忙しくてなかなか来れない。

よって、みなさんでスレまわしてちょーだい!河童さんもが居るか!
まあ、引退&休暇も考えてるが、たまには来るかも。
あくまでも仕事優先つーことよ。   zzzzzzzzzzz

42 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 13:18:24
お前なんか、どうでもいいわ

43 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 13:57:33
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050618/4482.jpg
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050610/2764.jpg
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/090.jpg

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/099.jpg
http://www.sx.xinhua.org/ztjn/2003-08/29/xin_49b7e0a2d93511d7be2c0050ba1967d3.jpg
http://www.shtong.gov.cn/node2/node4/node2250/songjiang/node70313/node70604/images/00004623.jpg

44 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/04(土) 10:00:54
 AD266 このころ倭女王壱与が晋に朝貢する。

このポイントを畿内の何処に置くか? それによりその後の歴史が
見えるか見えないかの接点となる。



45 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/04(土) 10:37:08
AD263 若帶日子命/成務L 崩御 庚午年6月11日45 ?
AD265 大帶日子命/景行K 崩御 戊午年11月7日86
AD266 百済 新羅を攻めるも敗退= 新羅266 百済侵入
AD266 倭女王壱与(五百野姫)が晋に朝貢する。
AD272 帶中日子命/仲哀M 崩御 己卯年3月15日52 
AD273 日食
AD274 神功元年
AD279 香坂王/仲哀子 死亡 丙戌年12月9日30 
AD280 忍熊王/仲哀子 死亡 丁亥年7月15日28
AD285 五百木入日子命/景行子 死亡 戊寅年6月3日46
AD286 百済 新羅と和親を求める=新羅286 百済が講和を求める
AD287 新羅 倭人が侵入 292,294も同様
AD295 新羅 倭人討伐を議するも水上戦闘不慣れにより中止
AD297 新羅 北方の伊西国が侵入したが神兵が現れて撃退 神兵=倭
AD300 新羅 倭国と国使を交換
AD312 新羅 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
AD312 若建王命/小碓子 死亡 戊寅年11月6日55
AD329年 神功52年 七支刀

これで 壱与(五百野姫)以降が読める。



46 :日本@名無史さん:2008/10/04(土) 10:54:04

イヨタン・・・・・・・・・・・・


47 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/04(土) 15:12:48
>>35
>ではこの記事が、神功52年の所に載っている、この意味は?

唐松山さん
七支刀は468年(泰始四年)、倭と百済の修好百周年を記念して贈られたと考えます。
それが修好時に贈られたように変えられたのではないでしょうか。
適切な例かどうか分かりませんが、ニューヨークの自由の女神像はアメリカ合衆国の独立100周年を記念して、
独立運動を支援したフランスから贈られたもの。
今では建国以来のシンボルであったかのように見られています。

48 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/04(土) 15:15:24
繼體天皇在位は507〜531年、明治天皇在位は1867〜1912年。
その差は50世代、1世代平均年数は27年半、約1万日。
那珂通世が既に言っていますが、これで計算すると繼體天皇より10世代前の崇神天皇は西暦245年ごろ。
さらに9世代前の神武天皇は西暦1年ごろとなります。
太国説はこれに符合し、唐松山説は1世代長過ぎ?
ただし、記紀の世代数の信憑性が問題です。
稲荷山鉄刀銘文によれば、大彦命は雄略天皇より9世代前ではなく、7世代前のようです。
武内宿禰は孝元天皇の曾孫(古事記では孫)なのに成務天皇と同日生まれという。
ここをどう見るかですね。


49 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/04(土) 16:16:13
>武内は孝元天皇の曾孫 後の オシマコト 改名しています。(ホツマに書かれている。)
武内宿禰は もう一人 景行の子供で成務と同年代。

大彦命の孫=六雁は景行に仕え高橋神社に祀られている。
ここから数えても 雄略天皇までたどり着けない。

>崇神天皇は西暦245年ごろ 外国の記事と合わせることが出来ない。
そして 神功の三韓
三世紀中葉に魏が滅ぶ 四世紀中葉まで半島は、政治体制に変化なし
鉄の生産は、非常に多かったが任那他、新羅と百済が領土争いをする中 
この地は小国のまま 存続できた?
そして 鉄で見た倭は 明らかに半島より後進地域 その地で巨大古墳が築造去れ始める。
まさか 木製の鍬で造るわけにもいかない。
神功渡海時の半島情勢は、神功を受け入れられる情勢でなければ成らない。
神功渡海時の半島情勢を 私より理を持って 考えられますか?


50 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/04(土) 17:11:50
>>49
>武内宿禰は もう一人 景行の子供で成務と同年代。

「景行の子供」とは・・・?
成務と双子ということになり、オオウス・オウスと双子二組ですか。

武内宿禰が二人いたとするより、記紀の天皇世代数が2世代多いと考えれば大彦命の件も解決。
しかし、何処がどう違っているのかは難しい・・・

51 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/04(土) 19:18:43
「曲学の徒」氏によると、天皇家以外の諸氏の系図は神武〜崇神間で7世代(6世代差)で一致しており、
これを史実と見なすべきという。
そうすると崇神は繼體から8世代前で300年ごろ、神武はさらに6世代前で135年ごろか。
サガミハラハラ氏の編年に近い?

52 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/04(土) 19:37:12
孝元天皇に出てくる タケウチ
ホ32183 ヤマトカゲ めとりうむコは タケウチぞ 
景行に出てくるタケウチ
ホ38031 ヤマトカゲ めとりてうむコ タケウチぞ 
ムネノトミ ミコとタケウチ ヲナヒドシ 
ミコ=成務と武内宿禰は同じ年 景行4,5年の生まれ。



53 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/04(土) 19:47:48
>>47
468年説が正解だと想う。つまり泰始四年だな。X線検査で■が
ノギヘンでもおかしくはない。
468年は倍暦計算にて安康元年だ。安康天皇は石上宮にいたから、
石上神宮に七支刀があるのは理の当然であり、遠回しに拙者の倍暦
計算が合っていることを物語る。

54 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/04(土) 19:54:52
338出雲辛未年 皇963 癸亥 建内宿禰  辛未年7月4日106 232生 106才
建内宿禰は景行4年生まれ=244年生まれ
死亡が338年 没年齢96才

まだ長すぎるが 建内宿禰の活躍した時代をこれ以上圧縮出来ない。
この長さを4代で埋めると7代目オワケとなる。
…テヨカリ(六雁と兄弟)、タカハシ(六雁を高橋神社に祀る、茨城県?)、
カザハヤ(伊勢、伊賀の地)、ハテヒ(?)、オワケ



55 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/04(土) 20:06:11
>>48
大陸の孝靈皇帝と日本の孝靈天皇とが同時代となるのが、どうやら
正解だろう。在位は、日本が倍暦として計上すると、孝靈皇帝と
孝靈天皇の年代がほぼピタリと合う。以下のとおり

孝質皇帝 145〜146
孝昭天皇 100〜127

孝桓皇帝 146〜167
孝安天皇 128〜161

孝靈皇帝 168〜189
孝靈天皇 162〜187

孝献皇帝 189〜220
孝元天皇 188〜206


コウシウとコウショウは年代が合わず、相方別年代の人物で、諡号の
読みもシ音までは合うが、あとは合わない。コウカンとコウアンとは
アとカの違いで、読み下しがなんとなく似ている。年代もだいぶ合っ
いる。孝靈同士はほぼ年代が合致。読みも一致。孝献と孝元は濁音を
除けば読みが一致する。年代も非常に合っている。各々両者の号の
読みでの合致度が各年代の合致度合いを反映しているようだ。

56 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/04(土) 20:15:48
私の編年では、考昭は、懿徳の弟
旧事記に見る考昭即位頃 考昭は后に仕えて政務を見ない とは 幼いと言うこと
ホ31347 フソコトシ キシヱハツミカ キサキたつ ヨソタリヒメの トシソヰぞ 
29年に后を娶る=即位時考昭が幼かった事を裏付け。

太国さん
468年説では”16日”に対し 失礼が有る。
この説で最も支持出来ない理由は、半島と倭の技術格差 この格差を持って半島人が
「天皇は、百済人」等言いたい放題。 
太国さんは、これを認めるのか?
私の編年を信じれば 百済は倭があって 初めて存在できる?


57 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/04(土) 20:19:39
技術格差は関係ないでしょう。

58 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/04(土) 20:31:40
>>55
太国さん、研究されてますね!
ただ、完全な一致は孝靈のみなので、どうでしょう?
孝安皇帝 106〜125
孝明皇帝 57〜75
この辺りは関係無さそうですね?
「神武皇帝」も中国史に何人かいるようです。

59 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/04(土) 20:57:40
考昭から孝元までの 西暦への合わせ場所が 書紀編纂者に意識されていたのなら

AD266 イヨの朝貢から 神功時代も説明してください。
特に神功の渡海 
太国説で三韓支配は、出来るか?


60 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/04(土) 21:41:17
>>53
参考情報有難うございます。中国史のほうはそんなに詳しくないもの
でして・・・。w
孝安皇帝がその時代にいたのに、この号を天皇に命名したのは、他に
何らかの意図があるのでしょうか? まだ分からんです。

>>54
紀の編纂者というより、すでに8年前成立の記で号は使用されて
ますから、紀の編者らとは直接命名は無関係でしょう。

61 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/04(土) 22:10:38
>>49

サイト?「ことばの溜め池」から

『「琴」の語注記
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 農具
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 促(ウナカシ)鋤鍬(クワ)犂等ノ農具|日本ニハ仁王第ニ
   綏清天王始作也田畠等己下皆々於綏清之代|何モ始也。』
                      謙堂文庫蔵

62 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/04(土) 22:23:13
>>58
年代は在位ですな? それぞれ在位初年ころが
孝明皇帝は金印の57年に合致
孝安皇帝は帥升の107年にほぼ合致していますね。(1年違い)


63 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/04(土) 22:29:02
>>55
この表が有力となれば、倍暦計算結果での

 237年=崇神即位元年=景初元年

は正解と想えますから、崩御は259年であり、古事記の崩年干支

 崇神崩御年=258年

に関しては、ほぼ正解でしょう。

64 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/04(土) 23:11:06
>>62
日本の孝明天皇は明治天皇の父上。
孝明皇帝から1800年も経って意識されていたとは思えませんが・・・

65 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/04(土) 23:34:47
>>64
その件同意です。
「孝」の号のつく天皇世は3倍暦行使の時代と観ています。しかし
孝徳天皇世は通常の暦法の時代のはずです。古事記が33代推古で
終わっているところ33の号を紀のほうも継承しているわけで、紀
の編者らが号名をつけたのではなく、33代以前は記の関係者かもしく
はそれ以前の某人による命名となります。ということは孝徳の号を
つけたものと欠史八代の「孝」の付く天皇の名付け人は別人だと
いうことになりますので、3倍暦に未知の人物が孝徳の号をつけたと
いうことになります。同様に孝明天皇は後代ですから、孝明皇帝との
何らかの暦法での関連、関係とかは無いと思います。

66 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 00:13:35
いいぞ。もっとだ。太国!

67 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 03:13:20
『考』のつく大王は奈良の西南部、葛城地方に墳墓が集中しているのはなぜだろう?
葛城王朝が全盛期だったのかも。

68 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/05(日) 09:04:50
>67「考」の付く字が葛城地方
考昭の后の4代前 イスキヨリヒメが久米の出身だからでは無いか。


69 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 09:11:30
孝の字のつく天皇。漢風シ号は6世紀だかに淡海三舟がつくったものです。

70 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/05(日) 09:28:53
>>69
淡海三船は8世紀の人。

淡海三船(おうみのみふね、養老6年(722年) - 延暦4年7月17日(785年8月30日))は、
奈良時代後期の文人。天智天皇の皇子大友皇子の曽孫。父は葛野王の子池辺王。
はじめ御船王。天平年中に出家して元開と称す。天平勝宝3年、勅命により還俗、淡海真人の姓を賜る。
(中略)
『釈日本紀』所引「私記」には、三船が神武天皇から元正天皇までの全天皇
(弘文天皇と文武天皇を除く)の漢風諡号を一括撰進したことが記されている。
(Wikipedia「淡海三船」)

71 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/05(日) 10:02:08
漢風諡号を一括撰進した時 
何を基に撰進したか? と言うことですよ
サイコロの目で決めたか? 出身で決めたか?実績で決めたか?

72 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/05(日) 10:32:29
金印時の57年からの在位始めの皇帝と帥升107年前年での在位始めの皇帝とに
「孝」の字があって、このことと記紀の四代「孝」字ある天皇とで、とくに孝安
のみ大陸と日本との時代離間があることを思考すれば、天皇の号の名付け人は
歴史上の漢倭奴国王金印と帥升生口の件を熟知しており、そこから孝安の坐す
朝廷と漢倭奴国王と帥升とは直接の関係が無いことを確実に把握していたんでは
あるまいか、それを孝安天皇命名で示唆したかと、こう考えております。
ということは、漢倭奴国王も帥升も畿内の天皇ではなく、別の所〜九州の王ら
だということを暗に仄めかしているのだということになります。

73 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/05(日) 13:17:36
太国さん
稲荷山鉄刀銘文に記された「意富比[土危]」」(大彦?)の件はどうですか。
唐松山さんから問われていましたが、前スレの883で答えて
(471−237+1)/8≒29.37
この計算はおかしくないです?
乎獲居臣は「8世代目」であって、差は7世代ですから。

辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弓已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比(表)

其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也(裏)

(471−237+1)/(8-1)≒33.57

これはちょっと気になる長さです。
「曲学の徒」氏が言うように、勘注系図でも7世代差になるようです。

74 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/05(日) 13:26:19
>>74 追伸
237年は倍暦計算での崇神天皇即位年ということですが、年数も差を取って計算すればよいので、1を足す理由が分かりません。
(細かいですがw)
それに大彦命は開化天皇と同世代ですから、開化天皇と差を取るべきでは?
さらに長くなります。

75 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/05(日) 14:51:45
県民さんも やっと 日本史の設定異常に気が付きましたか。
私の 飛ぶのは4世紀。


76 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/05(日) 14:57:28
>>75
直ちに唐松山説が正解とは言えないとは思いますが。
太国氏の反論に期待。
ではまたZZZ・・・・

77 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/05(日) 15:08:25
>>73 >>74
七支等は468年の泰始を太和に見せかけて未来人の私どもに謎かけを
やって真相を当ててみろと云わんばかりに、故意に銘文をヒネったり
しています。隅田八幡鏡もそんな具合で八月十日を八月日十とヒネっ
て日十大王を当ててみろと云わんばかりに文字のヒネリをやって
います。こんなことで稲荷山鉄剣も年代を彼らの痛面で謎かけらしく
くらまして、未来人の我々に故意でうんと思考させて当ててみろと
云いたいわけなんですよ。だからそれ、どこかに矛盾を解消すべき
何らかのXがヒントとして残しているはずです。
倍暦計算は間違いないと思います。ところが割り算をやると1代が
30余年だとかになって不審が出てくるのですが、孝元の婚姻が
倍暦から190年となりその年に開化が生まれていますので、どうやら
大彦誕生は孝元即位の188年ころではないか?と想うことになります。
すると辛亥年雄略元年=471年かその翌年あたりかで作刀したと
すると。割り算で1世代が40年ばかりになり、疑問がさらに深ま
ることとなります。
ところが銘文には鉄剣切れ味分断の折半を臭わす「半弖比」(表)
と、其児「加差披余」(裏)の記載があります。
『加』は足し算+の意味を持つ字で、『差』は引き算−の意味の字
であり、『披』は開平でその逆は乗数で単純には掛け算×と開くの
意味で割り算÷/の意味も含むとみなすべきです。さらに『余』は
割り算の剰余、余りの意味となり、結局「加差披余」には四則演算
と『余』から割り算での余りが強調されています。言い換えれば
平均での世代割り算をすると計算結果が過剰になることを暗黙のうち
に教示していることなのだと思考します。
ということは「半弖比」(表)と「加差披余」との間が分断にで
数世代がカットされてるとかの黙示ではありませんか? 拙者はそう
想うのであります。例えば以下のような系譜ではないでしょうか?

 A−B−C−D−E−□−□−□−□−F−G−H−I


78 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/05(日) 15:13:52
>>74
あれは即興での計算式ですので暫定のものです。確か夜がふけて
いたから時間がなく、単純即興をやったまでのことです。
+1は崇神即位からの場合は1年手前の開化崩御年を0と見立てて
ますから、A年からB年の差では1を足すこととなります。

79 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 16:07:51
>>70
淡海三船の漢風諡号で徳の付く者はシナ王朝に朝貢した者

懿徳 前漢 帥升
仁徳 宋   讃
聖徳 隋   阿毎多利思比孤

神は金印

神武 漢委奴国王
崇神 親魏倭王
応神 東晋

80 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/05(日) 17:33:25
奴国は北九州博多あたりでないの? 神武は畿内にいて、当時北九州まで勢力を
伸ばしてないから「漢倭奴国王」金印は57年時点での北九州の王だよ。
倍暦計算で

 神武天皇崩御=西暦26年

だから57年に死者の王に金印を贈ることはあるまい。だからその国王は神武では
ないことになる。

81 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 20:03:51
漢委奴国王

漢 カム
委 ヤマト
奴 ノ
国王 スメラミコト

漢委奴国王の金印は安徳天皇が壇ノ浦まで運び紆余曲折を経て黒田家へ

82 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/05(日) 21:59:22
委奴はイト国でも奴国でも伝にあり、北九州だ。そのころ神武自身
は北九州ではなく畿内にいた訳で、金印の国王は神武に非ずだな。

83 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 22:10:05
伊都を北九州にしてしまうと、
邪馬台が北九州ではなくなるなw

九州説は全く統一感が無い。物的証拠がないからか?

84 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/05(日) 22:14:39
北九州は考えにくい。そこなら畿内に女王国の情報が届くから、
記紀に関係記述が独立して少しでも載る。ただし北九州でも遣使の
道筋からかなり離れた盲点の地域なら女王国もありうるがね?
だから北よりもっと南だな。譲っても北九州のいささか奥だろう?

85 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 22:55:49
卑弥呼って美人だったの?

86 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 23:12:53
>>85
蛯原友里ちゃんにたいへんよく似ていたらしい。

87 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/06(月) 08:00:45
ムー誌の連中は畿内説の集まりじゃないのか? その先入観からの
誘導によりマクモニーグル氏の透視の効果が散逸したとか、そんな
状況だろう?

88 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 09:36:52
散逸したとかそんなんじゃなくて、インチキだということですよ。

89 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 09:54:21
遷都したって説もあったしね

90 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 13:23:25
おまいら、もしマクモニーグル氏が
九州にあったとか言ったら、マクモニーグルマンセーなんだろwww?

勝手な奴らだよな。自分の意見と違う人間はアホで
自分達は賢いとでも言いたいのか?

91 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/06(月) 13:29:40
山口が一点根城なら、半島から北九州へ来るときに、左折して山口県上陸を
するのがよく、手間かからんだろう。それをしてないのはそっちには女王国は
ないということだ。

92 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 13:56:41
いいですか。邪馬台国は北部九州なのですよ。もし彼が九州にあったといったらマクモ二ーグル氏の透視能力は当をえているということになり、
かれの透視能力は事実かもしれないということになります。
しかし、あくまでもかもしれない、です。

93 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/06(月) 13:58:47
可能性はあろうが、どうして北部九州なのか?

94 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 17:58:22
現在の邪馬台国論争は、邪馬台国は北部九州であろうということに固まってきています。

95 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 18:35:00
日本の都は昔から京都どすえ〜。
九州なんかにありまへん。

96 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 19:28:29
四国だったかもってこの前テレビでやってたお

97 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/06(月) 20:12:39
北部九州でも沿岸に近いとすると、女王国の情報が畿内に流れる為、
そんな所に勢力がある女王がいたんなら半島から来る遣使らが畿内に
情報を持ちこむことは固いから、ま〜ず記紀に女王国の情報が独立
して載るはずだ。それが全く無いんだから九州北部で沿岸に近い所
には女王国はあるわけがない。北部だとしても奥九州にかなり近い
所だとしか考えられない。
また京都だというなら直接若狭湾あたりにでも着岸すればいいし、
それが台風、海賊等で困難だというなら、北九州真近かに船が
来たあたりで左折して山口県にでも着岸したほうが京都、畿内に行く
のに要領がいいはずだ。それをしないで北九州に着岸してということ
は、畿内、京都に女王国が無いことを意味している。

98 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 21:39:10
倭人伝は素直に読もう。
末盧国で上陸したら南東に五百里(40キロ)。伊都国は、有明海の沿岸。
そこから放射式。南水行二十日で薩摩。後に薩摩国府が置かれた川内あたり。
邪馬台国は、伊都国から南水行十日陸行一月だから、熊本県内で上陸して陸行一月、日向
に至る。都城盆地あたりかな。日向は遺跡も多く、九州随一の古墳地帯。
これならば、方角も距離もごまかしなし。「倭の地は温暖」にも合致する。
記紀が日向に天孫降臨したと書いている理由も分かる。



99 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 21:50:48
倭人伝は素直に読んだら、放射式なんてありえない。
距離の里数分を再度、時間の日数で説明したと読むのが一番素直な読み方。
12,000里=水行三十日、陸行一日(月)。



100 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 22:06:00
北九州市小倉にあった不弥国から船に乗って日本海を水行20日366km
進むと鳥取県米子市あった投馬国の美保関へ到着。
投馬国からさらに船に乗って日本海を水行10日165km進むと
兵庫県豊岡市の気比に到着し、その後陸行一月235km、
卑弥呼の後継者トヨの出身地である丹後王国を経由し京都・奈良と進んで
邪馬台国の都である纏向に到着。以上で決定した。

101 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/06(月) 22:11:21
そうなら最初から北九州上陸なんぞせず、接岸手前で山口県上陸をしたほうが
要領がいい。そうでなかったのは畿内に卑弥呼の国が無いということだ。

102 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 22:11:33
>>98
最初に「素直に〜」で始める
小説や読物はデンパが多いから気をつけて

103 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 23:01:20
>>98

ごくごく初め、皆、君と良く似た事を考えるんだよ。
そこからさ。

104 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 23:23:16
>>99
女王国への距離と邪馬台国への日数とを=で結んでどうする気?

105 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 23:30:14

>>101
以前にも太国さんに言ったけど、昔はそんなに安定した船ではなかった。
潮流など他の要因がない限り、目視できる最短の陸地に向かうのが常識
命がけで渡海するんですよ。



106 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 23:39:51
>>105
それなのに、何で末盧国で船を下りるのかな?
不弥国からは倭の船? 魏の船の方が安心ではないの?

107 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/06(月) 23:42:42

末盧國(松浦川右岸河口唐津市)の東南500里(40km)が伊都國(肥前國庁跡佐賀市大和)である。
伊都と怡土は単に音のこじつけ。

伊都國は女王國の玄関前。
だから魏使がここ伊都國に留まる。
魏使の女王面会までの時間調整の場所。

女王國の玄関は不彌國の城郭(吉野ヶ里遺跡)。
だから道程記事積算距離の12000余里は、ここ不彌國の城郭で終わっている。

女王國の首都は邪馬壹國の城郭。
邪馬壹國の城郭は、魏使が女王との面会待ちをする伊都國から1日以内の道程の場所にある。
シナ文献から推測すると、面会待ちの場所は女王の城郭へ遠くて3日以内の道程。


108 :日本@名無史さん:2008/10/06(月) 23:46:23
>>101
伊都国には大率か駐在している、無視してどうするんだ。
伊都国を飛ばすことは太宰府を無視して直接難波まで来るほどの暴挙だ。
外交儀礼を無視する愚か者の中国使節はいない。命が大事だからな。

109 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 00:10:14
>>100
>北九州市小倉にあった不弥国から船に乗って日本海を水行20日366km
>進むと鳥取県米子市あった投馬国の美保関へ到着。
伊都国はどこかな? そこから連続説でも不弥国までは二百里。距離は合ってるかな?
不弥国からは南へ水行するはずでは? 日本海では東北だぞ。


110 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 01:06:07
>>109
伊都国は前原、奴国は博多、不弥国は小倉、奴国と不弥国の国境が宗像あたり
距離的にはピッタリ。投馬国から邪馬台国への陸行は南だから方角もピッタリ。
なにか日本海ルートで都合の悪いことでもあるのか?

111 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 23:24:54
>>110
連続説のようだが、末盧国から伊都国、伊都国から奴国、奴国から不弥国は
5:1:1だ。奴国=博多、不弥国=小倉ではとうていその比率にはならん。
>なにか日本海ルートで都合の悪いことでもあるのか?
不弥国からの水行は南のはず。日本海ルートでは東北になってしまうな。


112 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 02:29:49
>>111
唐津市にあった末盧国から前原にあった伊都国まで500里、実際は30km。
伊都国から博多にあった奴国まで100里、実際は23km。
500里=30km、100里=23kmでは距離の計算が合わない。
奴国から小倉にあった不弥国まで67kmだが、間に不弥国領の宗像がある。
奴国から宗像まで28kmだから特に問題はない。
対馬→壱岐は南、実際は南東。末盧→伊都は東南、実際は東北東。
伊都→奴は東南、実際は東。南が北東になっても特に問題はない。
魏の使節は距離感のない方向音痴だったようだ。

113 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 06:53:03
距離感ない方向音痴ならもうどこでもいいじゃん

114 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 07:10:57
>>94
ないない。
むしろ考古学界では畿内大和に固まってきてる

115 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 07:17:44
2ちゃんだけ九州説が強いwww

116 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 16:44:49
>>115
アンチ畿内の罵倒攻撃が執拗に行われてるからそう見える。

117 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 20:00:44
2ちゃんねらーは反体制が多いのか、
自民より民主、畿内より九州、任天堂よりXbox、
肯定より否定が圧倒的に多い。

118 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 21:03:28
>>115-116
九州説が細分化していて、各論者はさまざまな候補地を挙げる。
邪馬台国だけではなく、伊都国、奴国なども異説だらけ、の印象。
だから九州説同士でもっと厳しい相互批判をやればいいと思うが、
なんとなく皆「アンチ畿内」ということで治まってしまうのがよくない。

119 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 23:17:11
>>112
>対馬→壱岐は南、実際は南東。
これは海の話だ。南の方を見れば、他に島がないのだから、東南などと細かい
ことを言う必要はない。だから、南とあるのをみて不正確だというのは間違い。

>末盧→伊都は東南、実際は東北東。
これは伊都国の比定が問題なのだ。間違っていることに気づかなければ。

今までの伊都国比定は、怡土の名前に飛びついただけ。あとはさしたる理由なし。
これまでの伊都国比定はどうみても不合理なんだ。
@ 方角、距離が倭人伝に合わない。
A 伊都国=怡土ならば、末盧国で下船する必要なし。
B 同じく怡土ならば、南水行はできない。
C 怡土ならば、放射式で書く理由がない。

伊都国=佐賀市大和ならば、上の疑問が全て解決するだろ。
魏の使節が方向感覚欠如などということはありえんのだよ。


120 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 01:03:50
>>119
>今までの伊都国比定は、怡土の名前に飛びついただけ。あとはさしたる理由なし。

ドン来いスレで答えておいたが「楽浪土器の出土」と言う事があるw
反論はドン来いスレで聞くwww


121 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 01:16:04
>>119
伊都国が佐賀市大和?脳減る賞ものだな。
伊都国が佐賀市大和だと距離が500里=47kmになってしまう
前原にあった伊都国の500里=30kmと大差はない。
なぜ末盧国で下船したか、東松浦半島が天然の良港だったからだ。
だから名護屋城もここに築かれた。伊都国の糸島半島が不良港だっただけだ。
伊都国から南水行など魏志倭人伝のどこにも書かれていない。
もちろん放射式にも書かれていない。
邪馬台国九州説は、アホ・馬鹿・間抜けな愚か者の説だ。

122 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 01:49:12
>>121
>伊都国の糸島半島が不良港だっただけだ。
だったら、博多でもよいだろう。末盧国に船を置き去りにしたのはなぜだ?

>伊都国から南水行など魏志倭人伝のどこにも書かれていない。
奴国、不弥国だって同じだ。玄界灘沿岸から南水行はできない。東か西か
それを言わないはずはないんだ。→歴韓については乍南乍東と書いてるぞ。

>もちろん放射式にも書かれていない。
榎の「邪馬台国」でも読んでみること。だいたい、もし九州説が正しいとすれ
ば、連続説では九州に収まりそうにない、残るは放射説しかないはずだろ。





123 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 02:31:38
馬鹿はオナニーして寝ろよ

124 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 03:26:18
>>122
博多にあった奴国で下船したら大率のいた伊都国を飛ばしてしまう。
末盧国に船を係留しておかないと帰国する時に困るだろう。
魏志倭人伝によると乍南乍東は日本の事ではない朝鮮半島での出来事だ。
小倉にあった不弥国からは邪馬台国の大船団で日本海を東へ進んだ。
邪馬台国は不弥国から水行合計30日、陸行1月で奈良県纏向にあった。
榎の放射説など愚か者の考えだ。

125 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 05:50:34
>>122
昔は糸島半島は海峡を隔て島だったんだよ、その名残に今津湾があってさ、地図で見てみ
今でも干潮時は湾が干上がる位すげー遠浅なんだよ、大きな船は糸島の水路は通れなかっただろうね。

>もし九州説が正しいとすれば

あんた畿内説だね、九州説まともに知らないし、本音が見え隠れしてるよ。
九州説ごちゃごちゃにしてなんだかんだでマキムクにもっていきたいんだろw

126 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 06:23:13

>>125

隋国の役人が、「即ち・・」と随書のなかで、ヤマトに関しての
混乱を断定形で正して見解している。

遣隋使の使者や返礼者としてヤマトを訪れた裴(世)清ら一行の報告
をもって、その混乱も解消した。

「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」
(原文=邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)

この裴(世)清の来日の件は日本書紀では、推古天皇16年の条で大唐
とされている。

日本書記の編者らは隋から唐への革命による政権移行が正しく認識で
きていなかったことは事実である。

これをもって、九州説諸氏はこの条項に反論しているが、ヤマト側に
よる中国(隋や唐)の認識よりも、要は隋国の使者が正しくヤマト側の
ことを伝えていればそれでよいのである。

608年4月 裴世清ら隋使一行が筑紫に到着
   同6月 難波津に到着、一行のため高麗館の傍に新館を建設
   同8月 京に到着、大伴連が出迎えて国書を天皇に奏上
   同9月 裴世清が隋に帰国、小野妹子は大使として随行

この行程からも、裴(世)清ら一行のヤマト入りは、九州であった
はずはない。当時の実力者(王)は推古天皇ではなく、実質的には、
嶋大臣の蘇我馬子(天武系の人々に後に卑しい命名がなされた)であった。



127 : ◆.L.MXSPOgc :2008/10/09(木) 09:22:28
私も九州説者なのだけど、1年ぶりに記事を追加したのでよければ読んでください。

http://yamat-2007.blogspot.com/

ブログなので記事が逆順に表示されて読みづらいと思うけど。
私の説の信者、増えないかな♪


128 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 10:28:08
>>127
「陳寿の勘違い」を問う前に、自分の勘違いの確率の方が、高いんじゃないの?

129 : ◆.L.MXSPOgc :2008/10/09(木) 15:03:14
>>128
いろいろ妄想は入れてるけどねw
でもどこが私の勘違いなのか具体的に指摘してみてくれないかな?

130 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 15:39:42
>>118
真面目に自説を述べている奴とは別に、
ただただ畿内説を罵倒するだけの人間がいる。
よく「畿内説涙目w」とか言ってるだけの連中な。

131 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 17:21:42
>>124
>博多にあった奴国で下船したら大率のいた伊都国を飛ばしてしまう。
五百里離れた末盧国に上陸するより、百里離れた奴国に上陸して伊都国に戻る方が
楽に決まっているだろ。

>不弥国からは邪馬台国の大船団で日本海を東へ進んだ。
日本海を東北だろ? それがどうして南と記されているんだ? 使者も大船団の者も
皆方向音痴かね?

小倉から大和へ向かうのに日本海とは、愚か者の考えだ。

132 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 19:43:18
>>131
末盧国→伊都国→奴国=53km。
奴国→伊都国→奴国=46km。
たいして距離が変わらんじゃないか。
魏志倭人伝の作者は距離感のない方向音痴。知らなかったのか?恥ずかしい。
邪馬台国九州説を語る人は地図が読めない読解力もない間抜けだ。

133 :日本@名無史さん:2008/10/09(木) 22:51:56
>>132
>魏志倭人伝の作者は距離感のない方向音痴。
畿内説は、方向も距離も合わせることはできんということな。

134 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 00:23:02
>>133
魏志倭人伝の距離と方向に合わせたら邪馬台国に到着する前に
太平洋に沈没するのは一般常識だ。魏の使節は愚かにも遭難しましたとなる。
魏志倭人伝の距離と方向は考古学的成果を元に大幅に修整する必要がある。
これで邪馬台国九州説は太平洋上において撃沈されました。

135 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 00:31:42
>魏志倭人伝の距離と方向に合わせたら邪馬台国に到着する前に
>太平洋に沈没するのは一般常識だ。
そんなことを言って、これまで行程記事をまともに読もうとしなかったのが間違い。
末盧国で上陸したら南東に五百里(40キロ)。伊都国は、有明海の沿岸。
そこから放射式。南水行二十日で薩摩。後に薩摩国府が置かれた川内あたり。
邪馬台国は、伊都国から南水行十日陸行一月だから、熊本県内で上陸して陸行一月、日向
に至る。都城盆地あたりかな。日向は遺跡も多く、九州随一の古墳地帯。
これならば、方角も距離もごまかしなし。「倭の地は温暖」にも合致する。
これまでの一般常識なんて何の根拠もない。


136 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 00:35:22
>>134
>魏志倭人伝の距離と方向は考古学的成果を元に大幅に修整する必要がある。
倭人伝は無視しようって話ね。さすがに、修正とは書けなかったか。

137 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 01:39:13
>>135
なんと!邪馬台国が人食い人種の熊襲とな!!
笑撃・笑撃・大笑撃!すばらしい自爆ですね。

138 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 01:54:17
>>136
魏志倭人伝を無視するのではなく大いに参考にして考古学的成果を上げるべき。
奈良県纏向は数%しか発掘されてません。
纏向豊田遺跡、纏向箸中遺跡、纏向太田遺跡、芝遺跡の周辺はまだ未発掘です。
北朝鮮の主体思想の様な魏志倭人伝原理主義では成果は出ない。

139 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 07:14:59
>>135
隼人をなんだとおもってんだ!

140 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/10(金) 10:36:54
>>134
遭難したんなら卑弥呼の国に行けまい。www 倭人伝は女王国に行ったと
ある。それとも遭難して九死に一生で卑弥呼の国に着いたんなら、陸行一月は
なおさらおかしくはなくなる。
あんたの考えは組み立てがいい加減滅茶苦茶であり、あんたのは完全沈没だな!

141 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 13:03:25
だから沖縄だっての

142 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 13:06:52
>>137
それが相対的な証拠だろうな
倭(邪馬台国)に対する強い妬みから、書物に手を加えたと・・
日本国家に決定的な役割をもたらした、陰陽五行的にな
南に隼人と熊襲、疎らに土蜘蛛、北に底辺の蝦夷と配置してね


143 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 17:38:11
>>140
魏志倭人伝原理主義者の人こんにちは。
魏志倭人伝の距離と方向を検証すると太平洋の洋上になることは事実だ。
だから邪馬台国九州説を語る人は無理やり九州内におさめようと偽装した。
井上光貞氏の山門説、榎一雄氏の御井説、安本義典氏の甘木説は
どれも邪馬台国九州説を語る人の妄言・妄想・捏造である。

144 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/10(金) 17:56:20
>>143
お前も単純だな。遣使は九州巡りを遊覧してたんだよ。停泊とか盗賊
の危険、道の迷い、過労とかで、巡りながらそれだけかかったわけ
の時間だ。だから倭人伝のそこには矛盾はない。
現今の黒部の奥地にはプロでさえも200m進むのに5日もかかると
かいう難所がある。九州はそれほどでもなかろうが、地理的慣れの
ない場所では時間もかかる。倭人伝は合理的説明に終始している。

145 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/10(金) 18:14:54
畿内に卑弥呼の国があったんなら記紀に倭人伝以上に卑弥呼の記事が
満載される。それが伝からの借り物たる神功39年等の蚊の鳴き声位
の、根子の額ほどの記事しかなく、卑弥呼の独立した記事は全く無
に等しい。これは朝廷の真近に女王国が無かったため情報の保有が
無く、卑弥呼の国が紀無いから遠隔の地にあり、しかも大陸に情報
が稀に届く所にあったのだということになる。ということは、
卑弥呼の国は朝廷から離れた九州の地にあったのだということが歴然
だ。紀無いならば北九州上陸直前で船のカジを左へとり、山口県上陸
を果たすはずである、それのほうが早く畿内に到達できる。それが
北九州へ接岸したということは、九州のほうに船の目的があったわけ
で、卑弥呼の国が紀無いには無かったから山口県着岸をしなかったと
いうことだ。紀無い説は妄想なのである。畿内へ行くのに山口県上陸
をしないで北九州上陸を敢行するのは要領がわるく、到底女王国が
紀無いにあったとは云えない。
三角縁神獣鏡も中国で全く出たことはなく卑弥呼の鏡ではないわけ
で、崇神天皇の同床共殿策の一般人民への右へならえ式の行事から
の鏡であって、卑弥呼とは無関係だ。なお倍暦計算から

 景初元年=237年=崇神即位元年

は堅い。

146 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 18:24:37
邪馬台国が大和王権かどうかは別として、
少なくとも伊都国付近には無い。
魏志倭人伝を読めば分かる。

147 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 20:01:13
                         
第10代・崇神天皇
(在位:224年〜258年1月9日=34年)

第11代・垂仁天皇
(在位:259年〜275年=16年?)[日本書紀の記録では在位49年。しかし、崇神の没年がAD258年ならば、]
                   [垂仁の即位は、翌259年となり、在位期間は16年となる。]

第12代・景行天皇〔ヤマトタケル〕
(在位:276年〜305年12月24日=29年)〔享年・72歳〕

第13代・成務天皇
(在位:306年〜316年7月30日=10年)〔43歳で即位。景行が亡くなった時は42歳。享年・53歳〕
                       〔景行天皇が30歳の時に生まれた皇子か。〕

             〔空位:2年間〕
第14代・仲哀天皇
(在位:318年〜322年3月8日=4年)〔享年・26歳〕〔景行天皇が63歳の時に生まれた皇子か〕




 景行天皇がヤマトタケルならば、成務天皇と仲哀天皇の関係は、叔父と甥ではなく、歳が離れた兄弟ということになる。
仲哀天皇(タラシナカツヒコ皇子)は、九州におけるクマソとの戦で、26歳で戦死している。
 したがって、没年322年から26を引くと296年、この年に生まれたということだ。


148 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 20:03:09
<続き>                                
 日本書紀=仲哀天皇紀によると、仲哀天皇は即位後、
群臣の前で「父である王は、私が20歳(2倍年暦の記録なので、実際は10歳)になる前に無くなった」と、
語っている。
 ということは、景行天皇(ヤマトタケル)は、タラシナカツヒコ皇子(仲哀)が9歳の時に亡くなったのかもしれない。
296年に9を足すと、305年。これが景行天皇の没年か。
 その翌年、306年に成務天皇(ワカタラシヒコ皇子)が即位する。成務の没年は316年なので、
その在位期間は10年となる。

 成務天皇と仲哀天皇の年齢差は、33歳である。仲哀天皇は26歳で戦死しているが、
景行天皇の皇子・オウス命(別名=ヤマトタケル)は、30歳(2倍年暦なので実際は15歳)で伊吹山において、
亡くなったという。
 もし、仲哀天皇の父親が景行天皇ではなく、オウス命だとしたら、オウスが亡くなった時、仲哀(ナカツヒコ)は9歳であり、
オウスが6歳の時に生まれたことになる。これは有り得ないであろう。
 だから、仲哀天皇の父親はオウス命ではなく、景行天皇であると考える方が合理的なのである。




149 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/10(金) 20:44:10
なぜ 崇神即位=224年 なんですか?


 景行天皇≠ヤマトタケル

150 :サガミハラハラ:2008/10/10(金) 21:13:54
景行紀では、年齢等が2倍年暦と普通年暦がいりまじっています。
ヤマトタケルの没時の年齢は30歳で普通暦です。

151 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 22:08:29
誰か思い出せよ数学者橋田慶造を…
色々誤りの多い安本数理をかなり早い時期に批判した人間なのに
Yahooで調べてもどこにもねえ…
ググッたら2ちゃんの俺のレスがある所のみ…

152 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/10(金) 23:21:29
>>150
本件正解の可能性がある。

153 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 23:27:15
>>144-145
あんたは、アホですか?馬鹿ですか?間抜けですか?それとも愚か者ですか?
魏の使節が九州遊覧などするわけないだろう。
敵国の狗奴国もあるし熊襲の住む未開の南九州を進むことになる。
大軍団と大艦隊の遠征軍が必要だな。
200m進むのに5日かかることはない。魏の使節はエベレスト登山隊か?
邪馬台国のことが古事記・日本書紀に書かれてないのは天皇記・国記が
大化の改新の戦乱で焼失し、これまでの歴史記録が失われたからだ。
現在の入国監理局にあたる伊都国にいた大率を無視するな。
ここは帯方郡からの使者が往き来する場合の要衝地・滞在地でもある。
なぜ邪馬台国九州説を語る人は大和朝廷の崇神天皇の方を見るのか?
邪馬台国九州説には何の関係もない話だ。
薄汚い朝鮮人みたいに気持ち悪い。こっち見んな!

154 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 23:46:48

>>144
九州はそれほどでもなかろうが、地理的慣れのない場所では時間もかかる。

えっ! もしかして郡使が倭国の人々の随行なしで移動していたと見込んでいるの?
夢先案内人が先導していたはずだよ。しかも、倭国には市が開かれそれぞれ不足するものを
補っているとかかれている。
共立30ケ国ではある程度自由に人・物・金が行き来していたでしょう。


155 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 23:53:30
>>137 >>139
この単純さとそれからくる偏見とが邪馬台国の所在を見失わせていたんだよ。
記紀が描く熊襲は邪馬台国を一ひねりして描くために創り出された架空の種族。
単なる物語ってことだな。だいたい、九州に熊がいるか?熊がいないところに
熊襲なんて種族がいるわけがない。

156 :ローガン:2008/10/11(土) 00:01:15
>>151

> 誰か思い出せよ数学者橋田慶造を…


橋田啓造かな?

157 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 00:09:40
>>143
>魏志倭人伝の距離と方向を検証すると太平洋の洋上になることは事実だ。
ほう、どうやって検証したのかな? 倭人伝には日数しかない、一日の進行距離
が分からないのに、どんな検証をしたのか、聞かせて欲しいな。

158 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 00:11:23
>>153
アホ馬鹿はやめれ
その他の悪態もな

>なぜ邪馬台国九州説を語る人は大和朝廷の崇神天皇の方を見るのか?
>邪馬台国九州説には何の関係もない話だ。

多元説とか東遷説とかあってな、そればかりではないんだが、日本史研究で記紀は無視できんよ

159 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 01:27:40
>>155
日本は単一民族だと言ったアホ大臣は九州宮崎県でしたね。
「日本は単一民族国家ではない!」

160 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 01:56:15
仲山「日本は単一通貨!ぐらいにしとけばよかった」

161 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 02:24:34
>>157
鳥取藩の参勤交代、鳥取から江戸へ
安政6年(1859年)藩主池田慶徳
日程=21泊22日、行程=約720km、1日平均=約32,8km。
1日に32km進む、費用を抑えるためにハードスケジュールになっている。
街道が整備された山陽道・東海道を使用している。
古墳時代は街道が整備されていないが1日10kmは進んで欲しい。
大坂から江戸に荷物を運んだ菱垣廻船は平均15日で着いたといわれる。
行程=航路847km、1日平均=56km、だから
帆船と人が漕ぐ船のちがいがあるが1日20kmは進んで欲しい。
以上の理由から魏志倭人伝の行程どうり進むと太平洋の洋上で沈没となる。

162 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 02:33:55
>>158
邪馬台国東遷説などと言う日本民族大移動の物証はどこにもない。
古墳時代の歴代皇后で九州出身者は1人もいない。

163 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 04:22:28
今の奈良県をみればわかるんじゃな〜い
で倒れ掛かって、何とか杖持って
ボロになった体裁を作ってるのが京都県(笑)


164 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 06:15:29
>>162
東遷を民族大移動のように考える必要はないと思うが。
源頼朝が鎌倉幕府を開いたときのようなものなのだろう。

165 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 06:34:52
>>163
京都県(笑)って大笑い!
日本語が不自由みたいですね。半島に帰られたらいかがですか?

166 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 07:51:44
そいや九州って県しかないな

167 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 08:43:17
>>161
>古墳時代は街道が整備されていないが1日10kmは進んで欲しい。
>帆船と人が漕ぐ船のちがいがあるが1日20kmは進んで欲しい。
条件が全くちがう例から導いた願望を並べて検証したなどとはおこがましい。
そんなことでは、倭人伝の行程どおり進んだとは到底言えんな。
はっきり言って、「検証」などというほどのことは不可能。コースが不明(潮流に
逆らうのか否か、平地か山道か)、一行の状態が不明(何人か、老人は?、荷物は
どれだけ、誰が運ぶ?)、進める時間が不明(宿探し、食料の確保、現地豪族との
交流)。船の大きさ、数すら分からない。全てが不確定要素だ。
使者らがどの程度の速度を考えてるのか、参考になりそうなのは、隋書の「東西五
月行、南北三月行」。九州の南北は三百キロたらず。近畿の南北も同様。九州説を
とっても畿内説をとっても最長の南北はせいぜい三百キロだ。してみると、1月の
陸行距離は百キロ程度ではないか?ということになる。これも一つの可能性。







168 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 09:29:56

>>167

隋書の「東西五月行、南北三月行」

この内容では九州はありえない。形的だけで想像すれば四国


169 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/11(土) 10:07:02
銘入りの鏡の幾つかは、日本で鋳造された可能性が高い。 当時のレプリカ
七支刀は、半島の王による製造。 真摯な造作物



170 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 10:11:01
>>168
四国の南北は九州よりも短くなるな。

171 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 10:17:47
>>163
>京都県(笑)


 ま た サ イ キ バ 君 か ! !



172 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 10:37:12
>>169
可能性が高いだけじゃ、無罪だな。

173 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/11(土) 10:46:34
日本の歴史を 倍暦で説明しようとすると、
サガミハラハラ、太国両氏の言うように 景行1代を見ても 倍数に”ゆらぎ”が出る
是を合理的に解決するのが、”増し暦”
古事記の干支は、書紀の干支と違う暦日で伸長されていない。
書紀の履中元年の干支(朔を含む)は、西暦400年の干支である。
この位は、合理的説明が出来ないと 正しい編年の説明に成らない。

魏が滅んで40〜60年後が神功元年だと その間半島情勢の変化、神功渡海の倭と半島の
軍事力の差 つまり 鉄器が誰の時代にどの位倭に輸入されていたか?
古墳時代=鉄器の増加であろうから それはいつ頃 どの様にして輸入されたか?対価は?

どうも文章になっていない。
 

174 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/11(土) 11:13:41
>>153
お前はボルト選手が100mを9秒余で走るから、マラソンの42.195kmを単純
計算で掛け算をやって、その計算で結論を正解としてるようなものコッケイだ。
計算が面倒だから、たとえば同選手が100mを10秒でやって42km走るのに
お前の大好きな単純計算だと

10秒×420=4200秒=70分=1時間10分

だと計算して、ゴールに到達するのを2時間10分余あるいは2時間20分余
かかるのはゴールからほぼ倍の距離にはみ出してるから2時間以上の記録は
おかしいとか主張してるようなもので、お前の短絡的単純な豆脳の結論が
デタラ目である小賢しいものだということを内外に宣言してるようなもので、
wwwwwwwwwwwwwwと言う他はない。wwwwwwwwwwwwww

遣使は今の公務員の出張でこっそり観光を兼ねてる事実がよく報道されて
るように、当時もお役目を兼ねて遊覧、観光をやってるぜ。www
お前は人生経験が薄いから、単純計算とか表面的とかだけで物事を即断するクセ
があるようで、もっとうんと経験をツムんだな。wwwwwwwwwwwww

175 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/11(土) 11:18:04
>>173
増しをやればどんな極端な説でも都合よくあう。笑われるぜ。唐松山さんよ。

176 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/11(土) 11:23:41
>>153
陸行一月などは、遣使らが疲労回復のため遊覧を兼ねてのんびり周遊して
いたもので、太平洋にははみ出しはしない。お前の軽率な単純計算での結論
だから、失敗をするわけだ。失敗は成功の元。それがしも昔は経験不足で、
こういう失敗をやっている。だから自説が間違いがないかか、うしろを振り返っ
てバックし、慎重に結論を出すべきだ。それでもまだまだドジを踏むものだぜ。
用心すべきだぞ。お前の脳内点検をするんだな。www

177 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 12:14:34
>>176
疲労回復のための遊覧って、いい加減な解釈しないでください。
何処で疲労が読み取れる?
下手な例えや、当て字はしないで下さい。

178 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 13:11:12
途中センズリしていて長引いてしまったかも?
あるいは、途中浜辺で仔犬と遊びすぎか、ゲーセンに夢中になったとか
観光シーズンで、道が渋滞していたとか

179 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/11(土) 14:02:38
>>168
>隋書の「東西五月行、南北三月行」

引用間違い。読み違い。

隋書の「國境東西五月行、南北三月行」
東西の国境の長さが五月行で南北の国境の長さが三月行。
これが正しい読み方。
現代の地図上では、縦長の長方形になる。

ちなみに、一月行≒千里(短里)≒70km。
210km×350kmの縦長長方形は九州島に該当する。

随書百済伝に斎州(チュジュ)島『タ牟羅國』の形状表記がある。
それを読んで学びなさい。
「タ牟羅國、南北千餘里、東西數百里」


180 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/11(土) 14:45:16
>>177
あ〜ん 遣使はエイトマンではないぞ。ならオマエも42.195kmを1時間10分
とは云わないが、2時間で到達してからそんな口をたたけ。ww

181 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 15:58:51
>>180
必死でごまかしてるの?

182 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 17:03:12
>>179
もう少し解説を OTL

183 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 17:14:27
>>179
以前プラムに否定されてた説だな。って
一月=70qって
一日2q強かよ。マジで

184 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/11(土) 17:24:14
>>55
太国さん
この表はあまり参考にならないかと。
孝昭皇帝(前漢)在位:紀元前87年 - 紀元前74年
孝元皇帝(前漢)在位:紀元前49年 - 紀元前33年
また、後漢の孝靈皇帝は祖父の劉淑(帝位につかず)を「孝元皇」と諡しています。


185 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/11(土) 17:46:56
>>77
ふうむ、「謎かけ」ですか?
私は寧ろ、5世紀の貴重な証言として、大彦の年代を修正すべきではないかと考えます。
2世代はほぼ60年ですので、崇神天皇没=318年となります。
すると、次のようなことも考えられる。

卑彌呼は海部氏勘注系図の宇那比姫命(うなびひめのみこと)日女命(ひめみこと)など多くの別名あり。
臺與は姪の大倭久邇阿禮姫命(おおやまとくにあれひめのみこと)別名・豊玉姫
古事記の意富夜麻登玖邇阿禮比賣命は孝靈天皇の妃で和知都美命(わちつみのみこと)の娘であり、
ワチツミ=ワタツミとすれば「豊玉姫」という名も分かる。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は臺與の娘ということになります。


186 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 17:49:04
>>167
東西5月行=佐世保から仙台くらい。
南北3月行=九州と四国と屋久島・種子島を合わせたくらい。
中心が奈良県だから邪馬台国は纏向にあったに決定しました。

187 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 18:25:39
>>174
日本一の愚か者、太国!
江戸時代に全国を巡り日本地図を作製した伊能忠敬の測量隊。
第8次測量、文化8年(1811年)8月27日〜文化11年(1814年)
5月23日まで、測量場所=九州・中国地方、旅行距離=13083km。
日程=917日の長期にわたる。悪路を1日平均14km進んでいる。
太国の大好きな熱烈歓迎の宴会もあっただろう。

188 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/11(土) 18:52:05
>>162
>古墳時代の歴代皇后で九州出身者は1人もいない。

皇后はともかく、妃はいますよ。
オホヤマトクニアレヒメの出自は古事記と海部氏勘注系図で異なり、丹波・淡路、それ以外かもしれません。
阿波国・豊国(豊後国)にも海部郡があるので、九州・四国の可能性もあると思います。


189 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 19:36:31
>>179
>随書百済伝に斎州(チュジュ)島『タ牟羅國』の形状表記がある。それを読んで学びなさい。
>「タ牟羅國、南北千餘里、東西數百里」
それは伝聞であるがために、東西と南北を取り違えただけだね。
同じ百済伝は、百済の大きさを「其國東西四百五十里、南北九百餘里」としている。
東西と南北を入れ替える手品が通用するなら、百済は横長の国になってしまうな。


190 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/11(土) 20:09:38
>>182

@ 『其南海行三月、有[身冉]牟羅國、南北千餘里、東西數百里』 隋書百濟伝
A 『度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國』 隋書俀國伝

[身冉]牟羅と[身冉]羅は音が同じであるので、表記が異なるが両者は同一国である。
[身冉]牟羅:tammura [身冉]羅:tamra 後世にも耽羅:tanraと表記されている。
Aより[身冉]牟羅國は済州島であることがわかる。

@より済州島([身冉]牟羅國)は百濟より南方に海行三月(三月行)の島である。
百濟の南方200km強の海に済州島がある。
三月行は凡そ200km、すなわち一月行は凡そ70kmである。(凡そ70kmは短里1000里)

@より済州島([身冉]牟羅國)は、南北千餘里(70km)、東西數百里(数十km)である。
実際の済州島は、南北間が約35km(短里500里)、東西間が約70kmである(短里1000里)。
『南北千餘里、東西數百里』は、
「国の南北を東西に走る境界長が千餘里、国の東西を南北に走る境界長が数百里」を意味し、
現代語の様に、それぞれ東西間の距離、南北間の距離を意味しない。


上記結論を下記文に当て嵌めると、
"『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海』 隋書俀國伝
"
俀國は島国であって、その島の大きさは、
南北間の距離は5月行(5000里≒350km)、東西間の距離は3月行(3000里≒210km)である。
以上の様な理解が成り立つ。

俀國の範囲は九州島であることを随書には書かれているのである。


191 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/11(土) 20:12:25
>>184
参考情報感謝。神武在位は紀元前ではないし、そのへんの同名号
は先の孝明皇帝孝明天皇同様、天皇の号を付けた者は重視しては
いないと思いますがね。

>>185
稲荷山鉄剣銘文に

 「其児名多加披」

とありますよ。『名』字を「〜多加披」にかけると、ここのへんの
系は児が多数いたことを略書きで「名多加披」としたもので、タテ
の計がこの名で一括書きをしてるんだと考えますね。すなわち複数名
をこれで縮め名としてるものです。だから代数はもっとあったわけ
で、それがしの倍暦計算に不具合はないと考えます。

ほかにも 「其児名多加利足尼」〜これは女系の示唆かね〜?
獲加多支鹵大王も 多加 がついてるね。

192 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/11(土) 20:14:29
>>187
お前のほうは世界一!か〜?wwwwwwwwwwwwww
伊能は日本人でかつ地図があるんだから早く行けるだろう?
参考にしかならん。

193 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/11(土) 20:19:55
>>189
>それは伝聞であるがために、東西と南北を取り違えただけだね。

『其國東西四百五十里、南北九百餘里、南接新羅、北拒高麗』 随書百濟伝
上記表現は長里でなされているので、東西、南北の表記方法は現代と同じ。

194 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/11(土) 20:26:58
>>185
318年説でいかように編年しますか? 崇神以降〜仏伝まで合わ
ないとダメですがね。
日女命は卑弥呼ではないと思いますね。

195 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/11(土) 20:30:27
>>183
>以前プラムに否定されてた説だな。

それは「州胡」のこと。
言語蟲氏は説得できない。
自分が疲れるだけ。
州胡=済州島説は間違い。
州胡=徳積群島です。

196 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 21:28:21
>>156
その名前で調べてもそれらしきものは何もヒットしない。
その人物について詳しいことを知ってるなら詳細を。

197 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 21:50:29
>>192
伊能忠敬は海岸線を細かく測量しながら
進んだということは知っておいた方がいい。
衛星写真も無い時代に日本地図を
ほぼ正確に測量したことは知っておいた方がいい

198 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/11(土) 21:57:55
>>197
そんなこと得意げに云うな。TVの某特番でそんなことをやってたぜ。
知らんのか?w

199 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/11(土) 21:58:28
>>191
>「其児名多加利足尼」〜これは女系の示唆かね〜?

「足尼」(すくね)は「宿禰」の古い表記で、先代旧事本紀や神社伝承にもありますが?

>>194
>318年説でいかように編年しますか?

没年干支で意見が分かれるのは崇神天皇のみで、成務天皇(355)以降は
意見の相違は無いですね。
仲哀天皇362年没、この頃神功の新羅遠征→百済・近肖古王との修好(367)で
大きな狂いは無いと思いますが?
神武〜崇神は、尾張氏・物部氏・大三輪氏など諸氏の世代数が7世代で一致していることから
神武没年は318−27.5×(7−1)=153年ごろと推定。


200 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/11(土) 22:14:32
>>199
結局名が多数あるという示唆でしょ?
ということは、児系の一括略書き名ですよ。

201 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/11(土) 22:57:25
>>199 追伸
古事記の應神天皇没(394)はやや不審です。
日本書紀ではこの頃が神功皇后没年になるので、古事記は神功と應神の没年と取り違えているようです。
應神没年は東晋?遣使の413年ごろと推定。
仁徳没以降は、古事記没年で大きな狂いは無さそうです。
允恭天皇になると、記紀の没年がほぼ一致してきます。
それ以後も細かい相違はずっとありますが・・・

202 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/12(日) 06:25:19
>>200
「名が多い」=「1人の児に多くの別名がある」

203 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/12(日) 09:54:56
>>202
見解の相違でしょう? 1人の児に見せて、実は多人数の子がいたという解釈
が残るでしょう。こういうことで拙者の倍暦紀年は不合理に見えてても不合理
ではないようです。

204 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 11:05:10
『拙者』とかキモい…

205 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 11:30:53
卑弥呼はハイキングウォーキングのキモい方のことです。

206 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/12(日) 14:42:20
>>151
橋田慶造氏は
「神武即位127年説」「雄略天皇以前平均在位16年説」を唱えているようですね。
結果として私の考えに近い(同じではない)ので、詳細を私も知りたいです。


207 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/12(日) 14:57:39
愛知県民さん
孝靈皇帝の祖父を孝元皇とか呼んでたのなら、日本の天皇(但し
推古前)の号の名付け人はなおさら孝靈天皇に隣接して前後は違え
てはいるが、孝元天皇としたんではありませんかね。それがしは
そう考えますよ。そしてそこの四人の天皇の号は、皇帝と在位が
似た状態に比例して名をそっくりの手前に、あるいはそっくりに近く
またそっくりに号をつけたと、そのへんが真ではないですかな?

208 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/12(日) 15:16:40
>>207
太国さん、それが・・・
関係無いと思って書かなかったのですが、
孝靈皇帝の父は「孝仁皇」なんですよw


209 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/12(日) 15:32:07
孝桓皇帝も帝位につかなかった父・祖父を追尊しています。
父は「孝崇皇」祖父は「孝穆皇」


210 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/12(日) 15:34:48
>>208
日野郡誌によると、孝靈45年山陰行幸の記述があります。これは
それがしは自分の倍暦逆算で176年の計算結果を得ています。つまり
桓靈年間ですから、孝靈天皇は倭国大乱の関係で山陰に行幸したん
でしょう。そうならば、まずそれがしの計算は合っているという
ことになりますし、先の「孝」字の四人の天皇の年代もおかしくは
ないと思います。

211 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/12(日) 15:42:33
日御崎神社社記によると、孝靈六十一年、月支国の船団が出雲侵攻を
企てています。この年は倍暦計算で182年で、これも桓靈年間です。
つまり倭国が戦乱の最中に乗じて領土拡大のためか、出雲を攻めよう
と思ったのでしょう。神風にてか、軍船は沈没したそうです。

212 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/12(日) 16:07:21
愛知県民さん 倭人伝によると、おなじみの記述

「其国穂本亦以男子為王 住七、八十年倭国乱攻伐歴年乃共立一女子
 為名曰卑弥呼」

ここに男子為王とあります。107年の帥升生口の史実から、倍暦で

 107年+70=177年 ←孝靈天皇 山陰行幸176年 の翌年
 107年+80=187年★←孝靈天皇 崩御

崇神天皇の御名は五十瓊殖尊と申し、垂仁天皇の御名は五十狹茅尊
と称されますが、なぜ五十という数字が御名にあるのか? これを
考えたとき、ある年代を意味する数字ではあるまいかと思って
みました。倍暦にて

 崇神天皇誕生→ 211年−50=161年 ←孝安天皇崩御
 崇神天皇即位→ 237年−50=187年★←孝靈天皇崩御
 垂仁天皇誕生→ 246年−50−1=195年 ←開化天皇立太子
 垂仁天皇即位→ 260年−50−1=209年 ←開化皇后立后

垂仁天皇のみ1年ずつ、少ないが崇神天皇に準じて49のところ五十
の付く御名としたんでしょう。上記は全て重要史実であります。
以上から拙者の倍暦紀年は合っており、記の258年説が合だと観ます。

213 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/12(日) 16:11:00
>>212 訂正

× 49のところ五十
○ 51のところ五十

214 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/12(日) 16:14:25
>>210 >>211
「桓靈之間倭國大乱」は後漢書の記事ですが、魏志の狗奴國との戦いや卑彌呼の死後の争乱も
「倭國大乱」と言ってよく、後漢時とは決められないのでは?


215 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/12(日) 17:32:35
>>211
>倭国が戦乱の最中に乗じて領土拡大のためか、出雲を攻めよう
>と思ったのでしょう。神風にてか、軍船は沈没したそうです。

これは証拠にならないでしょう。いろいろなケースがありえます。
元寇の時も、刀伊の入寇の時も日本で大乱などありませんでした。

216 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/12(日) 17:40:09
>>212
私は神武東征こそ、倭国大乱の中の出来事ではないかと考えています。

こんな説もあるようです。
宝賀寿男「神武東征の原像」・・・神武東征開始は175年頃、崇神没330年頃
高城修三「神武東征」・・・東征の時期は150年頃、崇神没290年頃
書評を読んだだけですが(汗)

217 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/12(日) 17:52:23
>>215
それがしの論では 237年=景初元年=崇神即位元年 ですから

 239年=景初3年=崇神即位3年

となります。畿内で三角縁神獣鏡が多々出土するのもこの年代なら
不自然ではありません。これらの鏡は崇神天皇の同床共伝策の、
当時の一般人民への右へならえ式による物で、断じて卑弥呼の鏡
ではないでしょう。同床共殿はぞの前年の 景初2年=238年 の時に
相当し、時期的に景初3年はその翌年になるからピタリですよ。

だいたい△は全然中国本土から出ないんですから、これは朝廷側に
関わっている鏡であり、卑弥呼の鏡ではないし、鏡が崇神のその策
からの物となると、当然遠回しに同崩御は記では258年説ということ
が真だとなります。

218 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/12(日) 18:52:52
>>217
あれ? 崇神天皇は皇孫以来の同床共殿を廃止した天皇ですよね?

日本書紀卷第五 御間城入彦五十瓊殖天皇 崇神天皇
六年。百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之。是以晨興夕■。請罪神祇。
先是。天照大神。倭大國魂二神。並祭於天皇大殿之内。
然畏其神勢共住不安。故以天照大神。託豐鍬入姫命。祭於倭笠縫邑。仍立磯堅城神籬。神籬。此云比莽呂岐。
亦以日本大國魂神。託渟名城入姫命令祭。然渟名城入姫命髮落體痩而不能祭。

太国さんの説だと、崇神天皇は景初よりずっと後になりますよ?


219 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/12(日) 19:22:13
>>218 失礼
大ポカやりましたか。目がもとから悪いもので、史書の読みで
欠があったようです。要するに笠縫邑での祭祀からの人民への
右へならえですよ。さらにガチャ目でして、そういう書っを読む
とき文字読みの抜けが出来ちゃうんです。別に模した剣鏡の同床
共殿と読んで下さい。
指摘に感謝!

220 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/12(日) 20:14:01
>>215
艮神社(広島県沼隈郡沼隈町下山南1126)の伝承に

 孝靈天皇皇子 吉備武彦が開化十年に熊曾新羅王と戦い、同王の
 左眼を射た。

とかあるそうで、これも倭国大乱の残党狩りではありませんかね?
それがしの倍暦計算では 開化十年=211年 崇神誕生年です。
あなたの大乱が神武のころ説で辻褄が合いますか?


221 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/12(日) 20:40:19
>>220
倭国大乱というより、臺與東遷後の狗奴国→熊曾と関係がありそう。


222 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/12(日) 21:04:13
>>220
艮神社の住所は古いようですね。
沼隈郡沼隈町は合併により2005年2月1日から福山市に編入され、町も郡も消滅しました。


223 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/12(日) 21:11:22
愛知県民さん 先は失礼しました。
>>217の件は摸の同床共殿として下さい。

>>211 >>215
証拠にならんとおっしゃりますが、参考になると思いますが?
日御崎神社社記によれば

「孝靈六十一年に半島の月支国王彦波瓊王らが多数の軍船を連れて
 出雲侵攻のため襲来したが、神風か、暴風で退散した。」

旨あるそうです。それがしは孝靈同年を182年と倍暦計算して
います。この年は

 皇紀431年=(みかけの西暦)前230年=(同)前229年※

であり、※右辺の1年少ないのは紀元元年の前年に紀元0年が挿入
されてのみかけ年代です。ところが魏の年代、大月氏王波調が魏に貢
したので、彼に親魏大月氏王に任じたとあり、その年が229年だそう
です。だから神社記の中身は、暦に詳しい者が半島と日本の年代が
合わないので、前229年に修正して都合をつけたんでしょう?
これは倍暦で  魏建国220年=崇神天皇立太子

224 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/12(日) 21:20:45
>>223
このように前229年※が拙者の倍暦計算での結果ですから、神社記を
書いた側に暦に詳しい者がおり、これが魏からの229年にて両者が

 ±229年

たることは、結局それがしの計算が合っていると思われます。この
ことは神武のころに大乱とはなりにくいでしょう?
真の229年は倍暦で開化年代と観てますから・・・。>>223の229年※
は皇紀からのみかけの年代です。

225 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/12(日) 21:35:20
>>224 訂正
× このように前229年※が拙者の倍暦計算での結果ですから
○ このように前229年※が社記の孝靈六十一年、倍暦での実年代
  182年相当のことから

226 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/12(日) 21:50:06
>>223
太国さん、これはまた壮大な・・・
大月氏王波調は朝鮮半島ではなく、インドから中央アジアにかけて栄えたクシャーナ朝のヴァースデーヴァ1世です。
月支国とは全く別の国ですが、神社記を書いた人は同一と思っていたのでしょうか?

227 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/12(日) 22:53:11
>>189
>随書百済伝に斎州(チュジュ)島『タ牟羅國』の形状表記がある。それを読んで学びなさい。
>「タ牟羅國、南北千餘里、東西數百里」
>それは伝聞であるがために、東西と南北を取り違えただけだね。
>同じ百済伝は、百済の大きさを「其國東西四百五十里、南北九百餘里」としている。
>東西と南北を入れ替える手品が通用するなら、百済は横長の国になってしまうな。

君の「百済は横長の国になってしまう」で、たいへんな事に気づいた。

「百済は横長の国」が正しいようだ。

7世紀初頭の百濟は、2000〜2500km2の小さな地域で、隋が認める「國」ではないようだ。
それと、『隋書』東夷傳は全体が短里表記のようだ。

これから確認作業を始める。

228 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/12(日) 22:55:28
そう云われると思ってましたが、可能性があるかなと思いました。
妄想かも知れませんと? ただ社記の暦を編んだ者の具体性はとれ
ませんから・・・。

229 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 08:30:30
あら、論破?

230 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/13(月) 11:02:26
>>221
住吉大社神代記によれば

 崇神没年 戊寅
 垂仁没年 辛未

となっています。上から崇神没年は258年説と318年説が出るわけ
ですが、それがしの259年説は後代からの倍暦逆算により出た数字
であり、崇神〜後代の間の積み上げからの帰着であります。

古事記と神代記はともに崇神没年を戊寅としてあり、拙者の259年説
は両書が258年を示しているにならば1年違いであり、先の日御崎
神社社記の論での暦者が紀元0年を設定したのかの話の如くここでも
紀元0年を設定してあるならば(こちらはみかけの年代ではなく
実年代)、結局先代から降下しての計算のとき何らかの事情で0年
挿入での1年違いをやったために1年のズレが258年と259年にて
出来てしまったのかと思うわけです。258年は戊寅で259年は次の
干支(倍暦で)己卯になります。何らかの場合とはやはり当時暦法
計算が細かくやれた人物がいたんだろうと思います。

あるいは倍暦では2倍暦ですと当時の2年が現今の1年であり、
通常は後者が当たり前ですが、このとき倍暦を看過すると2年を1年
で計算する誤が生ずる場合があり、このことから局所的に1年年代の
ズレが出たのだということも十分ありえるということです。


231 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/13(月) 11:15:47
>>212
「七八十年」は、57年の「倭奴國」から数えるべきでしょう。
57+70=127
57+80=137
後漢書は「桓靈間」としますが、桓帝・靈帝時代はすっぽり入る意味?
在位の短い質帝・冲帝、その前の順帝(在位125 - 144)在位中から乱は始まっていたようです。
乱の終わりも、魏志では「歴年」とあるだけですが、在位の短い少帝(弁)を経て
献帝(在位189 - 220)在位中までと考えられます。

梁書の「靈帝光和中」については、次の二つの可能性があるのではないか?
@太国氏のように107年から数え、177年と187年の間にすっぽり収まる年号(光和のみ)とした。
A後漢書・鮮卑列伝で、檀石槐が光和年間に倭人國を攻撃したという記事から推定した。
この記事も問題になりそう。日本列島の倭人ではないと思いますが?

光和元年冬 又寇酒泉 縁邊莫不被毒 種衆日多 田畜射獵不足給食
檀石槐乃自徇行 見烏侯秦水廣從數百里 水停不流 其中有魚 不能得之
聞倭人善網捕 於是東撃倭人國 得千餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食

232 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/13(月) 11:17:12
>>230
住吉大社神代記には垂仁崩御が辛未年とあり、皇紀728年=垂仁崩御
が紀の記述ですが、3倍暦の場合は当時の3年が現今の、通常の
1年に相当することを考慮すると、皇紀728年〜730年が3倍暦での
1年であり、翌731年(紀では景行即位年)は辛未年であり、
皇紀728年→皇紀731年 で実年代1年分のズレで神代記は合って
いることとなります。このことは倍暦での1年計算ズレとも云え
るわけであり、皇紀731年は倍暦では293年(景行即位)であること
で318年よりも景行即位年(1年差で垂仁崩御=292年)が古いこと
になってしまい、318年説は成立し難いと考えざるを得ません。

233 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/13(月) 11:21:44
>>232 訂正
× 皇紀728年〜730年が3倍暦での1年であり
○ 皇紀728年〜730年が3倍暦では現今での1年分であり

234 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/13(月) 11:45:27
>>230
「住吉大社神代記」!これは不勉強で知りませんでした。ありがとうございます。
戊寅から53年後が辛未なので計算は合っていますね。
また調べてみます。


235 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/13(月) 12:19:00
>>231
桓靈年間以前でも乱の始まりというか兆候はありえたでしょう。しかしその
127年、137年計算ですが、そんな国乱の最中となる107年に、のんびりと帥升
が生口を大陸に届ける算段などやってたヒマがあるんでしょうか? 疑問です?

236 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/13(月) 12:29:04
>>235
なぜ、107年が「国乱の最中」ですか?
乱の始まりが127年、または137年ということです。

237 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/13(月) 13:13:10
>>232
日本書紀卷第六 活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇は「庚午」でなく「辛未」年で終わっています。
(田道間守の帰国・殉死の記事があるため)
・・・案外、こういう事情ではないでしょうか?

238 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/13(月) 13:37:18
>>236
あぁそうですか、その件分かりました。貴殿はえらく大陸文献に
詳しいので脱帽ですよ。大学の教授さんとか講師さんとか、そのへん
の方かと思ってました。それがしはそちらの文献は詳しくはあり
ませんので、いろいろと貴殿に教えられます。

帥升は九州の人物であり、畿内の人ではないと考えています。
107年の手前たる西暦100年に孝昭天皇が即位したとの倍暦計算
結果を得ています。だから107年のころは畿内は孝昭の時代に相当
していると思いますね。

 孝昭即位年=100年=皇紀186年

ですが、孝昭の代は3倍暦法を行使してまして、皇紀187年も実年代
100年に入ります。皇紀187年の干支は丁卯ですが、この天皇は崩御
の計算となる実年代西暦127年の(倍暦での)干支も同じく丁卯なん
ですよ。(皇紀186年〜188年は3倍暦で全て西暦100年となる。)

孝昭天皇の葬儀は皇紀307年丁卯の前年の皇紀306年であり、同307年
も306年も3倍暦では同年(実年代140年)扱いですから、皇紀が
1年ズレてても丁卯を含んでいるとみなせるのです。
ここに三者が全て丁卯ということになり、孝昭葬がグズグズして崩御
から38年後(実年代計算では13年間)も経過してから行事をしている
理由がここにあるようです。
実年代127年崩御が倍暦計算での干支丁卯ということ等は、それがし
の倍暦計算が正確である公算が強まるものです。

239 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 13:38:29
邪馬台国九州説の人が大和朝廷の天皇の話をしている。
キモイよ〜〜っ!

240 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/13(月) 13:52:35
>>239
記の崇神崩御年が318年か258年かとの論争は、卑弥呼の実年代を
特定するため重要です。

 239年=景初3年=崇神即位3年

を算出しています。

241 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/13(月) 14:19:33
>>238
太国さん、買いかぶりすぎ。河童さんに笑われますよw
今はたいていのことはネットで調べられますので。
改めさんも偉くなって引退? 私はまだまだかも。

どうもよく分からないのですが、干支が一回りするまで葬儀しないというのは
孝昭天皇だけ、即位と崩御が同干支だったからですか?
それなら崩御年に一緒に済ませたほうがよいと思いますが?
38年とか13年とか、藤原三代のようにミイラにしたんですかね?

242 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/13(月) 14:49:08
>>241
紀ではそういう記載ですよ。ミイラしてたのか火葬か?それとも他の何かか?
葬儀といっても骨だけで陵ができたあとで干支にあわせたのか? それは
わかりませんが、いずれにしろ遅くやってるということですよ。笑うなら、
あなたは説明できるんですか? ミイラとか骨だとか、それもいいでしょうが紀
の記述を説明して下さいよ。うまい合理的説明が神武から後代まであなたはやれ
ますかね? 編年者はみんな苦労してるんですよ。

243 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/13(月) 15:13:01
太国さん、落ち着いてくださいよ。
笑われますよ云々は、私の素顔に言及されたのでちょっと突き放したまでのことです。
嘲笑する意図などありませんので、誤解なきよう・・・

244 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/13(月) 15:22:37
今週はちょっと時間がないので・・・
日本書紀スレが立ったら、そちらにも行かせていただきたいと思います。
ではまた。ZZZ・・・・

245 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/13(月) 15:29:38
>>238 >>241
表がないと分かりにくいでしょうから、書きこみます。
干支は皇紀での干支です。西暦は倍暦計算からの実年代です。倍干
は倍暦計算が関わる実年代での干支です。逆算ですから、下が古い
年代となります。

皇紀 干支 西暦 倍干
307 丁卯 140 庚辰
306 丙寅 140 庚辰 孝昭天皇 葬(8/14)
305 乙丑 140 庚辰
・・・・・・・・・・・・・
269 己丑 128 戊辰
268 戊子 127 丁卯 孝昭天皇 崩御(8/5)
・・・・・・・・・・・・・
188 戊辰 100 庚子
187 丁卯 100 庚子
186 丙寅 100 庚子 孝昭天皇 即位(1/9)


246 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 17:58:38
倍暦って言うから2年分を1年だというのかと思ったら、3年分が1年になるの?

247 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/13(月) 18:33:11
>>246
それは3倍暦をやってたんですよ。
>>245では皇紀305年から同307年までを見ると、3番目の307年が
丁卯となることは、逆に云えばこの時代3倍暦をやっていたという
ことになります。2倍暦ならば3番目は次の年になり、丁卯ははみ
出してしまいますから・・・。

またそれ以前に神武も3倍暦をやってます。但し即位〜崩御まで
ですよ。即位前と崩御直後は通常の暦法のようです。ですから神武紀
は即位〜崩御までは1月〜4月までしか記述が無く、5月〜12月は
ありません。神武が5月以降のカレンダーを抹殺して1年を1月
〜4月までの4ヶ月間としたからです。これは3倍暦を行使して
いたものです。ただし3倍暦でも神武の代を後代の3倍暦はやり方
が異なるもようです。

248 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 21:40:14
都合合わせにしか見えん

249 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/13(月) 23:18:52
>>248
お前は面喰いだな? 都合つけるためやってるんじゃない。
紀年が確定すれば、卑弥呼がどの天皇の時代は判然そするわけで、
重要なものだ。だから研究してるんだよ。

250 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 23:33:12
場合によっては、13年が1年になったり、13日で年が明けたり、いろいろですよ。
なんたって、朝廷の都合で年が変わるわけだし、疫病がはやれば、1年に何回も
改年する必要があったし、すべて天皇の気持ち次第です。
倍暦、まるで魔法の杖みたいですね。
(※倍の前に2とか、0.5とか3.14とか自由に入れられます。)

251 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 01:53:59
数字遊び、まだやってるのかw

252 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 02:43:55
徒労なのにな。ご苦労なこった。

253 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/14(火) 14:22:44
江戸時代なんかしょっちゅう年号を変えてたんだろう? 古代はずっと恒久的に
同一暦法をしていた訳ではなかろう。勿論ある程度長く続く時もあったろうがね。

254 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 15:48:03
>>253
江戸時代の年号改元と、古代の年号改元は
どのように結び付き、例え話として持ち出せるのかね?

255 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/14(火) 16:36:55
国家権力を握る側は容易に改元とか暦法変更は出来るということだな。勿論例外
もあろう。

256 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 16:48:52
改元と暦法を変えるのは、全然次元が違うはなし。
元号は比較的簡単に変えられるが、暦法を変えるのは大変な労力が必要。

257 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/14(火) 16:55:42
それは見解の相違だな。全然ではないだろう。
2段目はそのようだな。

258 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 18:16:43
>>255

>国家権力を握る側は容易に改元とか暦法変更は出来るということだな。

だから、その江戸時代の年号改元と、古代の年号改元は
どこでどのように結び付くのかと聞いているんですが?
日本語わかりますか?

259 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 20:57:17
林淳著「天文方と陰陽道」(山川出版)によると、
『三世紀ころの日本には暦はまだなかった。』とある。
『魏志倭人伝につけられた注釈に、「其の俗、正歳四時(暦のこと)を知らず、
但、春耕秋収を記して年記となす。」とあり、中国の暦はまだ伝来していなか
った。』ことになっている。
しかし、ここで注目したいのは、「春耕秋収を記して年記となす」という文言で
あり、九州、四国地方では二毛作、二期作を行っていたことを考えれば、
収穫ごとに一年と数えた倍暦の考え方と一致することになる。


260 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 21:28:34
二期作だって?
笑わしちゃいかんよWW
ひこばえ程度で、何が二期作だよ。

261 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 21:47:54
収穫のたびにというのなら、3毛作も4毛作もあり得ます。

262 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 21:59:40
春→夏→(秋・春)→夏→(秋・春)→夏→(秋・春)・・・・

冬がなくなってしまいますし、最初の夏と二番目の夏は
気候がまるっきり反対の気候に
それでも両方夏?


263 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/14(火) 22:00:49
>>258
あれは喩え話だよ。そういうことは参考になるだろうが。
古代の改元を真似てもいいし、それを見本にしてやるのも構わん
ことだよ。それでもうるさい云うなら、相方年号改元で結びつく
ではないか。お前が自ら答えをだしてるぜ。w

264 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:03:56
「今日は何月何日」の決まりはないけど
「自分は生まれてから何年記」かは言えたわけだ。

天然自然には、春の収穫と秋の収穫が存在するので、
農業が存在しなくとも、一種の半年年記法があったようだね。

265 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/14(火) 22:12:23
半年分割だと、前半(2倍暦での1年)は6月末で区切りとなり、
後半の半年(2倍暦での1年)の始まりは 7/1 となる。
ところが紀には神武以降初めてらしい農耕の勧めの記事が
崇神六十一年7/2のところにある。これは2倍暦では新年の2日だと
いうことになり、崇神の先帝開化の時代は2倍暦法を行使して
いたから、崇神の代は3倍暦行使なるも、影で先帝の倍暦を2次的
に併用、使っていたことになるのだ。

266 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:14:06
>>263
あまりにも苦しすぎる言い訳ですね。
結局貴方の例えは適当にみつくろったもので、大した関連性もない
とんだ山師的な例えということで
一件落着しました。  お疲れ様。

267 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/14(火) 22:23:19
言い訳もクソもない。冷静な参考、喩えだよ。なにも江戸時代の
暦法まで詳細に馬鹿になってお前の要求のセメダインをするまで
もなかろう。セメダインまでくっつくくらい強力な関連はなか
ろうが、政権を持つ者が年号を容易に変更できるように、暦法も
それができるということだよ。焦点はお前は江戸と古代の
チチクリアイなんだろうが、こちらは容易に取替えが可能だという
ことを云えばいいことだ。ソコがこちらの焦点だぜ。
だいたい〜古代からまったくそういうものがだ、変更なしに現代
まで続いてはいないということを云ってるんだよ。
まぁお前の顔でも洗うんだな。wwww

268 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:32:16
>>267
くだらない言い訳が続いているけど
どんなに言い訳したって、山師的な例えに変わりないんだな

269 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:44:33
横槍失礼します。
時折ロムらせて頂いていた只の素人ですが、
ともすれば潰し合いになりがちな邪馬台関連スレにおいて
ここ暫くの太国さんと愛知県民さんのお互いの知識を補完し合っている様なやり取り、とても建設的で見応えが有りました。
最後の方やや太国さんが不愉快になられた様なのが残念でしたが、
県民さんは頭から否定せずに純粋に疑問点を質問する様な姿勢が好感が持てました。
とても熱心に研究してらっしゃるお二人の真摯なやり取りまた期待しています。

九州派

270 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/14(火) 22:55:27
>>268
焦点をズラすこたぁ〜あないんだよ。書きこんだ焦点を外して
能書きを云ううんでは能がない。焦点は権力者は勝手に暦法の変更
ができるということだぜ。年号もやろうと思えば思いのママだ。
それがどう江戸と古代がつながるなどと〜お前のチチクリアイの凄さ
は呆れるばかりだな。wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

271 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/14(火) 22:57:28
>>269
感想、感謝!

272 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:05:22
>>270
何をくだらん事をもごもごと
古代の例えに江戸を出したのはあんただぜ
その江戸の例えがどのように古代と繋がるのか聞いてるだけだが

その答えを何一つ提示しないで、関係ない説明ばかり
そのへんが山師と言われる所以

273 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:14:03
>>272
もう可哀想だからこれ以上絡むのはよしなさいよ
老い先短い人生を、楽しく過ごせる環境を作ってあげるのも
残されたものの宿命だと我慢し、一歩譲るもんだぜ

274 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/14(火) 23:16:53
じゃぁお前江戸と古代の連絡が無いことの詳しく説明しろ。
山師がどうのこうのでなく、そんなことはどうでもよい。焦点を外し
たオマエがその具体的能書きを垂れなきゃぁしようがない。
今夜は遅いから、明日でも説明しろ。どのように連絡船が到着
できないのか? 知りたいもんだ。オマエは自信がありそうだから
全然暦法と年号が次元が無いかをも、ついでにノウノウと書いて
みろ。wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
そこで〜〜
オマエの豆脳の適否の判別式は余が確認してやろう。wwww

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・

275 :日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:24:11
>>247

>じゃぁお前江戸と古代の連絡が無いことの詳しく説明しろ。

何をボケた事を言ってるの?
あんただよ。古代の事を江戸の例えで説明していたのは
だからこっちは
その江戸と古代がどのように関連し繋がりをもって、例えとして成立するのか
尋ねている。
私にその関連のなさを説明させてどう評価するっていうんだね
話をすり替えてはいけませんよ。

276 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 00:18:27
ドンと来い998
古田説とは違うのですね。

>地形をみればわかります。

地形が分からない人が読む事を前提に倭人伝には書かれています。
地形を見ないと分からない解釈は無理ではないでしょうか。


277 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 01:33:13
そう。島の回りとか言うのは、不自然だと思うな。

278 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 02:49:37
それを言ったら、天然自然に正確な正方形や長方形、純粋円形の土地などないから、表現法がなくなる。

279 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/15(水) 11:06:55
>>275
あまりにも苦し過ぎる抗弁だな。結局オマエのそのいけませんというのは適当に
みつくろったもので、大した〜連絡の無いという説明の無いとんだオマエの
豆脳による〜昔余の論に負けたくやしさの吐露にすぎな〜い。wwwwwwww
それはスリかえていいんだぜ。オマエも焦点をスリ替えてるわけだから、
当然それでいいわけだ。それにその答弁ではオマエのスリ替えダメは自語相違
ではないか。オマえこそスリ替えているわけだからな。wwwwwwwwwww

280 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 13:07:25
都合合わせだけでなく、言い訳もするんだな

281 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/15(水) 14:25:33
>>280
オマエも編年やってみろ。容易ではないぞ。それが簡単正確に出来てからそう
いう口をたたくんだな。

282 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 16:56:43
黙ってコツコツ編年でも何でもいいから
やってなさい。
ここに書き込んでも邪魔されるだけだから、一人静かに編年していなさい。
誰も邪魔しないので。

283 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 20:41:07
>>259
同感です。
卑弥呼の時代には邪馬台国に暦はなかった。
中国の暦が日本に導入されたのは、ずっと後の時代だとすれば、
倍暦4倍暦などといったものは、もともと存在しなかったことが理解できます。

284 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 21:25:36
古代史って限られた文献しかないから、アマチュアが好き勝手に論じることができる。
記紀の記述を無批判に盲信して、数字遊びじみた年代論をやっても砂上の楼閣にすぎない。

大前提となる数字や記事自体が記紀編者の述作や修飾なのに、いくら細かい考証をしても、
それは徒労であり、お遊びにすぎない。

285 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 21:33:10
話題がスレタイの趣旨から離れて久しいのでここらで軌道修正を。
みなさん卑弥呼の人物像についてどう考えているか知りたい。

286 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 21:36:42
世代的に百襲姫とか倭姫とかのあたりじゃない?
神功皇后や天照ではないと思う。

287 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 21:47:12
>みなさん卑弥呼の人物像についてどう考えているか知りたい。

卑弥呼は人物ではない
職種

288 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 21:48:31
PU

289 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 22:01:17
鬼道の達人でした。神がかりしてお告げを言う人だったと思います。
でも、卑弥呼のお告げは案外理にかなったものも多かったと思います。
理不尽なお告げばかりでは、人心は離れていくでしょうから。

なにしろ倭の女王を長く務めたようですから、人望はあったし敬愛もされていたと思いますよ。

290 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/15(水) 23:14:07
>>283
佛伝前に朝廷は倍暦をやってますよ。当時の日本は九州と畿内とは
別国ですから、卑弥呼のいた九州は暦法はどうだったんだかそれがし
は分からんですが、無かったとしても別国畿内が九州と同じ無いとは
云えないですね。

291 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 21:51:00

ロムさせてもらってる素人です。九州説、畿内説どちらも信憑性もあるし、まだ信じきれない部分も残るっていうのが正直な感想です。

ネット検索してたら以下のような説もありました。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=184427

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=184428

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=184430

一般的にはこのような説はどうなんでしょうか?教えていただけたら幸いです。

292 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 21:55:36
盛んに書き込んでいるプロの人とかもいるんでしょうか?

293 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 21:59:04
>>291

そのサイトに対し
ALEX氏のサイトの一部を紹介しておきましょう。

http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/shosai/netu-menu.html#kouson

294 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 21:59:07
結論を出さずに「終結宣言」を出している時点で、欠陥論だと思う。
魏志倭人伝の描写と出土物を対照すれば中部〜北部九州以外にありえない。

295 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 22:14:26
>>293
>>294

早速のお返事、感謝です。
そうですか、珍説なんですね。

卑弥呼が公孫氏っていうのは確かに???ですね。
邪馬台国が朝鮮にあったっていうのは面白い説ではあると感じたのですが。。。
(すいません。素人なんで)

296 :293:2008/10/16(木) 22:32:07
>>295
お役にたてましたでしょうか?

もしこれから邪馬台国について研究したいのであれば、いっさい在野に出回る
著書等を見ないで、一文字ずつご自分で白文を訳すことです。

297 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 23:01:36
>>295
まったく関係ないですが、
私の説も読んでもらい、感想などいただけると嬉しいです♪

http://yamat-2007.blogspot.com/

298 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 00:21:27
>>297
意味がよくわからない。2回の使者の報告書を適当に混ぜ合わせた?
しかし、1回目と2回目の報告が違うならば、2回目の報告は1回目の報告の
誤りを指摘するはず。結局、2回目の報告のみが倭人伝に生かされるはずだ。
少しちがった報告が併存したことを想定するのは、結局のところ無意味。

299 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 00:39:42
すくなくとも、倭に20年もの長期間滞在した張政の報告で、
倭の地理が正確に把握されないはずはない。

300 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 05:19:00
>>298
2回目の張政が、梯儁の読んでいたのか、違う経路だと認識していたのか、
言われるように誤りを指摘していたのか、今となっては不明ですが、
陳寿が2回目の報告書のみを参考にしたのではないのは確かなこと。

また2回の使者があったのに2つの報告書が存在したと考えないのは不自然ではないでしょうか。

>>299
残念ながら三国志に書かれている倭の地理は正確に記述されているとはいえないですね。
そのため今だに邪馬台国論争が終わっていないのですから。
20年もいたのに経路上の国のことにしか記述がないのは、むしろ本当に20年居たのだろうかと
疑問に思えませんか?

301 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 07:28:45
>>300
>2つの報告書が存在したと考えないのは不自然ではないでしょうか
二つの報告書がいずれも行程記事を書いているか、は問題。1回目と同じならば2回目の
報告書は行程を省略することも多々あるであろう。
2回目の訪問者が1回目の資料を参考にすることは当然考えられるところ。
その資料が誤っていたら自らの報告のときに訂正する、これも当然。両者を見比べれば
普通は正しい行程を把握できるはず。

>残念ながら三国志に書かれている倭の地理は正確に記述されているとはいえないですね。
>そのため今だに邪馬台国論争が終わっていないのですから。
皆が出発点からまちがった解釈をしているからだね。伊都国の位置を見直すことが必要なのだ。


302 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 08:46:48
>>301
>2回目の訪問者が1回目の資料を参考にすることは当然考えられるところ。
あたりまえです。

>その資料が誤っていたら自らの報告のときに訂正する、これも当然。
しませんw
張政は張政の報告書を書くだけです。
梯儁の報告書のどこそこが誤りだ、などということは普通書きません。
逆にそれまで得られていた情報と異なることがあったなら、特記事項として
それらが書かれることになります。(いっている意味がわかるかな・・)

>皆が出発点からまちがった解釈をしているからだね。伊都国の位置を見直すことが必要なのだ。
出発点の解釈?
伊都国はどこと考えているのでしょうか?


なんとなく、小学生と話してる感じがするのですが、
もう少し思い込みではなく、考えてから文章を書かれてはどうでしょうか?

303 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 10:02:46
私の方が小学生と話してる気分になるな。
>それまで得られていた情報と異なることがあったなら、特記事項として
>それらが書かれることになります。
それが私のいう「訂正」。他人の文章を直接書き直すはずはないんだから、
そのぐらいは理解すること。

>出発点の解釈?伊都国はどこと考えているのでしょうか?
私の文章が出発点=伊都国という趣旨であることは明らかでしょう。
郡から伊都国までは問題がないということを前提に書いているだけですよ
(韓国内陸行とかのトンデモは論外としてね)。


304 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 10:05:49
>303 郡から伊都国→郡から末盧国に訂正。

305 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 13:43:51
>>300

張政の報告が正確だったわけなので、陳寿の記述が言い足りていない、上手く言い尽くしていないと理解すべきで、
「中国人の虚言癖によるもの」だとか「古代の記述など信用するに足らない」「中国の使者が誇大申告をしたんだろう」
などという前提で読む風潮があったが、これはマチガイだと思う。

306 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 14:17:18
>>305
書き手の言葉足らずをいうのではなく
読み手のふがいなさを先ず、反省すべきでしょう。

307 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 16:54:50
>>305
>陳寿の記述が言い足りていない、上手く言い尽くしていないと理解すべきで、
陳寿はちゃんと書いてるんだよ。読み手が倭人伝の方角や距離を無視して、伊都国を
怡土に比定したのが問題なんだな。そんなところに比定したら、南への水行が理解で
きるはずはない。あとは、大和だ、北九州だと妙な先入観でかってなことばかり言っ
てるんだからどうしようもない。



308 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 18:40:44
臭い!汚い!見っともない!邪馬台国九州説!
肛門より汚い邪馬台国九州説!

309 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 18:44:52
>>306>>307

おいおい、読解力のない>>300のこころを傷つけないように、せっかく婉曲表現してやったのに、
せっかくの思いやりを無視して、本当のことをズバッと言ってしまっては台無しじゃないか。


310 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 18:52:18
>>307
>陳寿はちゃんと書いてるんだよ。

其の通り、陳寿は旅の最終目的地は伊都国であるとちゃんと書いている。
女王国は伊都国+奴国である。
女王国が邪馬台国の中心である。
女王卑弥呼は伊都国に居たのである。
その証拠に魏使も伊都国までしか来ていない。
郡庁から奴国までの行程を合計すると丁度一万二千里となり、郡から女王国までの距離と一致する。
水行二十日、水行十日陸行一日(月)は一万二千里の旅に要した日数である。

311 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 19:54:45
>>310
ハイハイ。ご苦労様でした。
では、次の方 どうぞ!

312 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 20:10:02

ヒミコサマ・・・・・・・・・・・・・・


313 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 20:48:54
>>311
何の反論も出来ないの?


314 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 21:52:28
311ではないが、気になったので横レスさせてもらうよ。

ちょっとにぎやかになるが、魏志倭人伝中の登場人物から
次のものをピックアップしよう。

・卑弥呼
・卑弥呼を補佐していた男弟
・千人の婢(卑弥呼に侍っていた)
・ひとりの男子(卑弥呼に飲食を給し辞をつたえていた)
・卑弥呼の宮室等の守衛兵
・伊支馬(邪馬台国の官)、弥馬升・弥馬獲支・奴佳テ(次官たち)
・爾支(伊都国の官)、泄謨觚・柄渠觚(副官)
・一大率

そこで質問だ。まずこの答えを聞いてから反論しようと思う。
>>310
>女王国が邪馬台国の中心である。
>女王卑弥呼は伊都国に居たのである。

きみはこう解釈しているが、そうすると上に挙げた卑弥呼以下の人々もまた
すべて伊都国に居た、と解釈せざるを得なくなるが、それでよいかね?

「いや違う、この人とこの人は伊都国以外に居た」というものがあれば、
理由を書いて、それらを挙げてみてくれ。

315 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 22:14:15
そうです伊都国に居たんです。
ただし、全員が住んでいたかは分からない。
隣の奴国や近隣の村からの通い組みもいたかもしれない。


316 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 22:50:40
>>303
「訂正」なんていうのは、答えが用意されてる小学生の発想だというのですよ、分かってないようですがw
どのような状況で、あなたは前報告者が間違い、だの、訂正、だのといえるのか、具体的に考えてみてください。

>私の文章が出発点=伊都国という趣旨であることは明らかでしょう。
残念ながらあなたの文章は日本語として非常に幼稚であり、そのように読めるとはいえません。
304で訂正が入っていますが、出発点は末盧国ですか?
出発点自体が間違えてるということは置いておくとして、その出発点が間違いというのなら
どこに末盧国を比定するというのでしょうか?

#なんとなく日本語の不自由な方のような気がしてきたのですが、ゆとりですか?

317 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 23:01:19
>>305
私へのレスなので答えておきます。

>「中国人の虚言癖によるもの」だとか「古代の記述など信用するに足らない」「中国の使者が誇大申告をしたんだろう」
>などという前提で読む風潮があったが、これはマチガイだと思う。
私の説は決してそのような読み方をするものではありません。
むしろその逆で陳寿の書いた三国志の内容を一番素直に解釈できる説です。
詳しくは下記をお読みください。

http://yamat-2007.blogspot.com/

>>306
ふがいないのはむしろ貴方です。

>>309
上記のどなたかの自演のようですが、文章を正しく読めていないか、アンカー間違えのようです。


318 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 23:20:03
>具体的に考えてみてください。
何が言いたいのかな?

>出発点が間違いというのならどこに末盧国を比定するというのでしょうか?
末盧国までは問題なし。伊都国は、怡土ではなくて佐賀市付近。


319 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 23:50:51
>>318
佐賀県の観光協会の方ですか?
夜遅くまでPR活動、ご苦労様です。

320 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 07:23:39
>>318
自分で考えてみよう、というのは本当に小学生の課題だったか。
ま、ここはもういいか。

>末盧国までは問題なし。伊都国は、怡土ではなくて佐賀市付近。
私の説の片方のルートと似たような行程ですね。もっとも私の説では、伊都国は前原市あたりですが。
しかし「伊都国の位置を見直すことが必要なのだ。」と言われるわりには、
違わなすぎで面白みにかけるというか・・

貴説の勝手な予想としては、
1、この後、放射説をとる。
2、奴国は伊都国の西、などと方向を無視した説を出す。
3、放射説なのに邪馬台国は(伊都国の東の)不弥国の南、とする。
4、邪馬台国は佐賀平野とする。
のうちの幾つかでしょうか。


321 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 07:59:20
>「伊都国の位置を見直すことが必要なのだ。」と言われるわりには、
>違わなすぎで面白みにかけるというか・・
私は通説とのことを述べただけで、あなたの説のことを述べたわけではない。

>貴説の勝手な予想としては、
>1、この後、放射説をとる。
これが正解。行程記事どおりで何ら問題ないね。
2、3、4は、どこからそんな話が出てくるのかな。



322 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 09:20:33
>>315
314からの反論は無いのかな?

323 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 09:39:07
卑弥呼の時代は、結婚しても同居はしない通い婚だったから、どこの村の門(鳥居)にも
男根と女陰の偶像が置いてあった。
子供がほしい年頃の娘は、家族と離れて高床式住居の軒下で寝て男が来るのを待った。
したがって、相手の男は村の外のものだし、それが卑弥呼の子供の父親が三輪山から
通ってくる蛇の神だったとするなら、箸墓あたりがちょうど良い距離。

324 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/18(土) 13:37:21
>>269
どうも、ありがとうございます。
乱入、歓迎しますよ・・・と言おうとしたら、すでに乱入されているもよう?
太国さんに屈服したわけではないですが、崇神258年没も有り得るように思えてきました。
また書き込みます。

325 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/18(土) 14:08:41
住吉大社神代記によると、垂仁天皇は辛未(311)年没。
三国史記 新羅本紀
基臨三(300)年 興倭國交聘
訖解三(312)年 倭國王遣使為子求婚、以阿[ン食]急利女送之
日本書紀卷第六 垂仁天皇
九十年春二月庚子朔。天皇命田道間守。遣常世國。令求非時香菓。香菓。此云箇倶能未。今謂橘是也。
九十九年秋七月戊午朔。天皇崩於纒向宮。時年百四十歳。冬十二月癸卯朔壬子。葬於菅原伏見陵。
明年(景行天皇元年辛未七一)春三月辛未朔壬午。十二田道間守至自常世國。則賚物也非時香菓八竿八縵焉。

326 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/18(土) 14:29:49
三国史記 新羅本紀
訖解三五(344)年 倭國遣使請婚、辞以女既出嫁
訖解三六(345)年 倭王移書絶交
訖解三七(346)年 倭兵進囲金城、急攻
日本書紀卷第七 景行天皇
五十八年春二月辛丑朔辛亥。幸近江國。居志賀三歳。是謂高穴穗宮。
六十年冬十一月乙酉朔辛卯。天皇崩於高穴穗宮。時年一百六歳。

慣れ親しんだマキムクを捨てて近江国へ?
近江遷都で思い出されるのは、天智天皇の大津宮、淳仁天皇の保良宮。
ともに新羅との緊張が高まった時でした。
「軍事的な緊張が高まったときに回顧されるのが近江国であったといえよう」(村井康彦「律令制の虚実」)
成務天皇も引き続き近江で国造・県主を定めるなど地方行政機構を整備し、364年の神功遠征を準備した?
奈勿九(364)年 倭兵大至

327 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 14:54:37

邪馬台国はどこなんだぜ?

328 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 15:04:11
>>327

魏の時代(九州、淡路を含む四国)

329 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/18(土) 15:33:29
ウィキペディア「大彦命」を見ると、大彦は崇神より一世代後という説があるようです。
それなら、稲荷山鉄刀銘文とも整合する。
やっぱり崇神没は258年か?

大彦は、崇神の皇后御真津姫の父と記されているが、古事記の崇神の条には、崇神が大彦の叔父と読める部分があることから、記紀系譜に対する疑問を呈した異説がある。
その説によると、景行紀53年に登場する大彦の孫磐鹿六雁の存在、あるいは埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣銘文に記された系譜の代数からも、
大彦の活躍した時代は3世紀末から4世紀初頭と推定され、崇神より一世代後と考えるのが妥当である。
その一世代後、すなわち垂仁の条には、沙本毘古の乱が記されているが、それと大彦の関係した武埴安彦の乱とは地域の重なりなど類似性が高い。
大彦の父とされる孝元については、武内宿禰(成務と同じ日に生まれたとされる)の祖父あるいは曽祖父とされる。
このことも、大彦が垂仁の時代の人物である可能性の高いことを示している。


330 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 16:22:14
■韓国人の先祖=ワイ族とは何か
                                 
 ワイ族は、古代カラ半島東北部に居住していた北方アジア系=狩猟民族である。
 もともとは、シベリアの山岳部や森林地帯で生活していたツングース系民族の一派であり、現在の朝鮮民族の
直系の先祖である。『東ワイ』とも呼ばれた。
 ワイ族は、古代の半島南部に住んでいた倭人系民族のシラキ人、ミマナ人、クタラ人などと敵対関係にあり、
倭人系民族を相手に「領土戦争」を繰り返していた。
 ワイ族は3世紀初頭から、まずシラキを侵略し、シラキ領北部にケリン国(鶏林)を建てた。
3世紀後半にはシラキ南部にまで軍事侵攻し、4世紀前半にはカラ半島東南部を完全に乗っ取った。
 ケリンの軍事的圧迫を受けたシラキは、3世紀中期には領土が西方に移動した。その時代にシラキは
国号をミマナに改めた。
 そして同じ時代に、ケリンは、国号を『新羅(シンラ)』に変えた。新羅とは「シラキ」の意味である。
つまり、ケリン王家の金氏は、シラキの国号を盗んだのである。
 新羅(ケリン)の軍事的脅威に対抗するために、ミマナ(弁韓)とクタラ(馬韓)は、ヤマト朝廷の指導下で
合併した。こうして誕生したのが『大ミマナ』である。
 『大ミマナ』の領土は、東は現在の韓国・慶尚南道から西は全羅道一帯まで、北は忠清道全域という
広大なものであった。新羅(ケリン)の軍事的脅威が、半島南部の倭人系民族を連合させたのである。
 新羅(ケリン)は、半島東南部を拠点にして、西側に隣接する日本領=ミマナに対する侵略を
何度も仕掛けた。
 そして、6世紀前半にはついにミマナを滅ぼし、新羅に併合した。
 7世紀の『白村江戦争』では日本と百済を相手に戦争し、百済を滅ぼして、半島の南北地域の大部分を
支配下においた。この新羅こそが、現在の韓国の原型国家であり、新羅を建てたワイ族こそが
現在の韓国人の先祖なのである。


331 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/18(土) 17:52:18
銘文「景初四年五月丙午之日」

 魏明帝景初元年 ?次:丁巳 生肖:蛇 西元237年4月13日(星期四)起は、
魏景初元年四月戊戌朔。
 魏高貴?公甘露元年 ?次:丙子 生肖:鼠 西元256年7月10日(星期四)起は、
甘露元年六月丙午朔。
甘露元年は景初元年より1月遅れの暦法。
景初4年6月丁酉が、正解。
危うくローガンさんに欺されるところだった。

ところで 私は 「都市牛利」は、「タジマモリ」説を提唱しています。
タジマモリが洛陽でヤマトの長の名前を喋って居ます。
南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。
官に伊支馬有り。

伊支馬=イクメ=垂仁です。

332 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/18(土) 17:58:28
垂仁じゃぁないよ。

333 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/18(土) 18:13:05
前スレにて、太国・サガミハラハラ両氏の書き込み発見。

56 :サガミハラハラ :2008/08/15(金) 22:43:30
312年は垂仁天皇の末期です。344年は景行天皇の没年です。
三国史記に1年のずれがあり、この項もそうだとすれば、倭国遣使請婚はセイム天皇が即位して女をもとめたことになります。
312年のほうは、垂仁天皇が息子のために女を求めたことになります。

58 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/16(土) 07:29:48
>>55
倍暦計上で

 訖解三(312年)仲哀天皇 誕生
 訖解三五(344年)仲哀天皇即位元年
 訖解三六(345年)神功皇后立后 應神立太子
 訖解三七(346年)仲哀三年

参考にされたい。合えば記紀の記事。合わないなら九州関係の王等の記事。
「為子」っていうのは、生まれた仲哀かな? 絶交時は仲哀崩御の翌年。

サガミ氏は、今の私の考えに近い。
太国氏は、340年代に神功遠征という考えのようです。
唐松山氏は270年代としていますが、該当記事はありますか?

334 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/18(土) 19:05:50
神功が 270年代に渡海でないと
半島南部に前方後円墳を持ち込んだ人物は?
前方後円墳の発祥地が大和なら 書紀等で確認できねば成らない。
>330さんの言う所の年代が、新羅本記の 3世紀末。

私は、全て文献で編年しています。…ほんとうかな?
編年が正しければ其処に各文献の接点が有る。

書紀と新羅本記と倭人伝の三書に 接点が有るのが 私の編年。


335 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/18(土) 19:13:24
ホ34002 ミマキのミヨミマナのアヤ 御真木の御代、任那の章
ほつま伝に崇神は、ミマキと呼ばれている
垂仁がイクメと呼ばれていても、何ら問題は無い。


336 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/18(土) 19:32:22
>>334
朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したものであり、
百済の国境沿いに近い伽耶の地のみに存在し、墳丘長は80メートルないし100メートル規模で、
円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている。
(Wikipedia「前方後円墳」)
これが現代考古学の認識と思っていますが?


337 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/18(土) 19:58:19
>>330
>■韓国人の先祖=ワイ族

○ 韓国人の先祖=挹婁族
× 韓国人の先祖=濊族

濊語≒高句麗語≒夫餘語
高句麗語≠新羅語
新羅語≒朝鮮語
夫餘語≠挹婁語
故に、韓国人の先祖≠濊族
韓国人の先祖=挹婁族

傍証として、韓国人は挹婁族の風俗をよく伝えている。

魏志東夷伝と後漢書東夷伝の夫餘・高句麗・濊・挹婁を参照のこと。
魏志挹婁伝
『挹婁在夫餘東北千餘里、濱大海、南與北沃沮接、未知其北所極。
其土地多山險。其人形似夫餘、言語不與夫餘、句麗同。
有五穀、牛、馬、麻布。人多勇力、無大君長、邑落各有大人。
處山林之間、常穴居、大家深九梯、以多爲好。土氣寒、劇於夫餘。
其俗好養豬、食其肉、衣其皮。冬以豬膏塗身、厚數分、以禦風寒。夏則裸袒、以尺布隱其前後、以蔽形體。
其人不求A作溷在中央、人圍其表居。其弓長四尺、力如弩。
矢用[木苦]、長尺八寸、青石爲鏃。古之肅愼氏之國也。
善射、射人皆入(因)目。矢施毒、人中皆死。出赤玉、好貂。今所謂挹婁貂是也。
自漢已來、臣屬夫餘、夫餘責其租賦重、以黄初中叛之。夫餘數伐之、其人衆雖少、所在山險、鄰國人畏其弓矢、卒不能服也。
其國便乘船寇盜、鄰國患之。東夷飮食類皆用俎豆、唯挹婁不、法俗最無綱紀也。』


338 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/18(土) 20:12:37
>>337
周辺言語との比較研究の結果、最も共通性が高いのは古代日本語であり、
次いで中期朝鮮語が近く、地理的に近いツングース諸語とは共通するものが少ないという結果が出ている。
中でも日本語は、高句麗語で判明している数詞4つすべてにおいて日本語との間で一定の音韻的共通性が認められており、
日本語の起源を考える上で無視できない存在となっている。
(Wikipedia「高句麗語」)


339 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/18(土) 20:24:50
>>335
伊支馬がイクメイリヒコなら、後者の垂仁は畿内にいたんだから、
あなたの説での、畿内の某女が景行世の頃畿内から九州へ旅立って
女王卑弥呼になったというのは場所的一体性がなく、もう滅茶苦茶
という他はないです。倭人伝では卑弥呼と伊支馬が畿内と九州に
離れていたなどとの特別事情の記載はしてありません。畿内説なら
同一場所の国内になろうからそういう説でイクメイリヒコだと主張
しても目前の矛盾は見えないでしょうが、貴方の説では表見的にもう
おかしいでしょう? それとも垂仁はその某女と九州行幸して卑弥呼
の官になったとでも云うんですか?w

340 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 20:31:02
そもそも崇神天皇の実在を裏付ける証拠は何ですか?

341 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/10/18(土) 20:33:15
>>338
そうです。
高句麗語と日本語が似ている故に、
朝鮮語≠日本語

夫餘語≒高句麗語≒百濟語
故に日本語≒百濟語
も隋書東夷伝から推察されます。

342 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/18(土) 20:34:19
韓国の古墳は、3世紀末より造られる。卑弥呼の墳墓より後。
大和の古墳が大きくなるのは、ホツマ伝を信用すれば、垂仁時代。

現崇神稜などを否定しないと成り立たないが、書紀でも埴輪は、垂仁時代。
(書紀に古墳の大型化は、書かれていない。)
韓国の古墳は、これからの韓国考古学の課題でもある。まだ任那を認めない国ですから。

神功の渡海を4世紀中葉とすると、3世紀半ばに半島から大陸の干渉が無くなる。
それからの100年、ほぼ同じ政治体制が続かねば 神功渡海が成立しない。
その間、倭に如何にして「鉄」の供給が成されたか?
古墳の大型化は、鉄の輸入量の増大とセットですから、
崇神18年初めて造船と書かれている書紀まで書き直し?


343 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/18(土) 20:38:22
私は、邪馬台国=卑弥呼の(頼りとする)景行の都。と言っています。
「7,80年」から説明しないと だめか?

344 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/18(土) 20:40:49
記紀は文証ですよ。稲荷山鉄剣の銘文のオオビコと崇神のシキ宮から
間違いないですよ。それに日本各地に崇神の神社等の伝承からも
それが云えます。崇神が非実在だという奴がいますが、もしそう
ならば、日本各地の多数の神社の由緒、伝承を隠匿、抹消するため
に朝廷が多数の官を派遣し、これらの伝承、由緒、神社記等をも
ことごとく焚書等にして破棄しに派遣に出かけて、さらに神官等の
口封じも厳重にしなければなりませんが、そんなことは絶対的に近く
無理だということになります。そういうことをやり遂げるのは不可能
に近いということでしょう。

345 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/18(土) 20:45:27
>>343
その景行の都っていうのは畿内だというんですか、それとも九州
だというんですか?

346 :ローガン:2008/10/18(土) 20:50:32
>>331
> 景初4年6月丁酉が、正解。
> 危うくローガンさんに欺されるところだった。

もう、なんですか?人聞きの悪い!
確かに景初三年に殷暦から夏暦へ戻りますが。景初四年に五月も六月も…
吉祥句ですよ。


347 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/18(土) 21:00:53
日本武尊に関係の有る土地に河内?に「シキ」が有る
其処を稚武(ワカタケル)が引き継いだら?
景行の都は、書紀に書かれている大和
此所に卑弥呼を探しても居ません、イヨ=五百野姫は居ますが、
卑弥呼は九州。
海上に卑弥呼の都を探すより、妥当性が有る。


348 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/18(土) 21:02:50
>>347
そうすると倭人伝に垂仁がいたことは書かんでしょうが?
妄想ですよ。

349 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/18(土) 21:05:14
>>342
>韓国の古墳は、これからの韓国考古学の課題でもある。

さらに問題なのが北朝鮮。
中国も研究の自由がどの程度あるか?

>それからの100年、ほぼ同じ政治体制が続かねば 神功渡海が成立しない。

新羅本紀を読むと、5世紀まで倭人は新羅を襲ってばかり。
政治体制は余り影響していないように見えます。

350 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/18(土) 21:29:12
中国暦日
http://www.sinica.edu.tw/~tdbproj/sinocal/luso.htm
台湾の電子文献で調べました。
景初4年6月丁酉
景初4年は無いがもし景初3年の翌年に景初4年が有れば「景初4年6月丁酉」
に成ります。「景初4年5月丙午」は暦日で計算できる日付
有りもしない景初4年ですが、もし有ればの話です。
吉祥句と言えども 暦を無視していない。

太国さん 田島守が誰の命令で海を渡ったか知っているでしょ。
乱れた倭国を平定するためには、垂仁(死亡の為景行)を頼る その間8年?は
卑弥呼も必死で平定に当たったが結局景行に出兵を要請 景行の九州平定。
観光旅行説の太国説とは大違い。
サガミハラハラさんは、この景行8年辺りまでは1倍暦を支持しています?が、
非常に難しい編年と成ってしまう。

351 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 21:37:25
>>350

>景初4年は無いが

記録上は無いが、実質あります。

352 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/18(土) 21:40:44
>5世紀まで倭人は新羅を襲ってばかり。
これが現実です。
倭は、半島に出兵、大量の捕虜を連れ帰り 陵墓建設の人足に充てる。
書紀では仁徳、墓標では履中 此所までが4世紀
この後倭は、半島で大敗 陵墓のサイズが、小さくなる=人足の不足。
倭国は、足場を半島から大陸へ移す(倭の5王)


353 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/18(土) 21:55:52
書き込めなかった?
>5世紀まで倭人は新羅を襲ってばかり。 政治体制は余り影響していないように見えます。
是が現実です。
半島で捕虜を得、陵墓築造の人足にする。
書紀で仁徳、墓標で履中。此所までが4世紀。
5世紀初め倭国は、大敗=陵墓が小さくなる=人足の不足=鉄の不足
鉄の国産化と足場を半島から大陸へ移す=倭の5王。


354 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/18(土) 22:15:09
魏高貴?公甘露元年 ?次:丙子 生肖:鼠 西元256年7月10日(星期四)起
蜀後主延熙19年6月1日起 ?會稽王五鳳3年6月1日起
この辺までが1月早い編年。


355 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/18(土) 22:16:14
倭人伝を読むと、どうやら当時の日本は似た名前をつける風習でも
あったかそれに順ずる状況があったようで、国名にしても「邪馬」
の二字を少ないとはいえど複数で使っていたようで、『邪馬壹国』に
対して『邪馬国』がある。
また人名でも『弥馬升』と『弥馬獲支』とか『弥弥』と『弥弥那利』
とかあるわけで、同じ音韻が先頭二字にあって、名に共通の読みと
なることがある程度あると云える。
だから他でもこういうことはあるわけで、伊支馬とイクメが読みに
似てる状態だからといって、これだけで相方が同一人物になるとは
云えない。つまり垂仁は伊支馬ではないと観るべきであって、
唐松山氏の主張はマズイに尽きる。妄想である。

356 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 22:17:30
>>355 訂正
× 順ずる   ○ 準ずる

357 :日本@名無史さん:2008/10/18(土) 22:49:48
崇神は存在しなかったとすればすべて解決する。

358 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 00:19:18
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050618/4482.jpg
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050610/2764.jpg
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/090.jpg

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/099.jpg
http://www.sx.xinhua.org/ztjn/2003-08/29/xin_49b7e0a2d93511d7be2c0050ba1967d3.jpg
http://www.shtong.gov.cn/node2/node4/node2250/songjiang/node70313/node70604/images/00004623.jpg

359 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 09:19:13
卑弥呼は男を差し置いて王を僭称したフェミニストであり
中国から親魏倭王などという称号を受け日本を中国の属国
に貶めた売国奴。

360 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 09:33:23
>>359
この観念から九州説は始まった

361 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 09:45:51
>>359
奴は男だから売国婢かww

362 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/19(日) 14:11:12
日本書紀で、神功皇后遠征は表面上、西暦200年に当たります。
新羅王は「波沙寐錦」と書かれている。
一方、三国史記・新羅本紀では「婆娑尼師今(婆娑王)」在位80〜112年。
この頃の新羅本紀の年代は、世代数から見て明らかに延長があります。
仮説ですが、200年が婆娑王の在位期間の中間年と見て、二倍年暦のために延長されたとすると

婆娑王 80〜112年 → 192〜208年
祇摩王 112〜134年→ 208〜219年
逸聖王 134〜154年→ 219〜229年
阿達羅王154〜184年→ 229〜244年
伐休王 184〜196年→ 244〜250年
奈解王 196〜230年→ 250〜267年
助フン王230〜247年→ 267〜275年
テン解王247〜261年→ 275〜282年
味スウ王261〜284年→ 282〜294年
儒礼王 284〜298年→ 294〜301年
基臨王 298〜310年→ 301〜307年

4世紀初め(307年、新羅国号制定)ころまで倍暦?
阿達羅王20年(173)年の卑彌呼遣使の記事は239年ごろとなります。
数字遊びですが、ちょっと面白いかも。

363 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/19(日) 14:50:16
今週はこれにて。
ZZZ・・・・


364 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 17:31:42
新羅の阿達羅王は漢に滅ぼされたのち日本に亡命、
東北南部に移り住んだ。今でいうところの安達太良です。
だから今でも「ふぐすま」あたりはフン族訛りが強いのだと思います。
ちなみの伊達氏も阿達羅王との関係が推測されます。

365 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/19(日) 18:48:59
改訂
銘文「景初四年五月丙午之日」
これまで私の思考にも間違いがありましたので やり直し。
魏明帝景初3年12月の翌月は、「?年?月」その翌月が正始元年1月
これで1月遅らす事が出来る。
改元をせずに暦法を改める事がないとしたら「?年?月」=景初四年1月
その翌月が正始元年1月となる。
景初四年五月は、正始元年4月である。依って「景初四年五月丙午之日」は
正しい暦日でもある。


366 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 07:36:14
卑弥呼を倭迹迹百襲姫とすると、
考霊天皇は少なくとも184年には即位していたことになる。
その辺りから台与を探ると、
年齢的にはやはり豊鋤入姫になる。

367 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 07:52:15
>>365
明帝の法要は何時やるの?

368 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 11:40:06

トヨタン・・・・・・・・・・


369 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/21(火) 23:41:24
邪馬臺國は烏弥邪馬國だってば

百済にあった国だよ

370 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 00:00:16
美濃もん太と河童虫はスルー

371 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 10:23:41
>>337-338

 数詞対照表の最新版 (娜々志娑无氏提供) 2007/10/25

  古代日本語 高句麗語 新羅語 高麗語 中期朝鮮語 現代朝鮮語

1   Φi1to2    −−  hっtっn hっtっn   hΛnah    hana
                 (一等)  (河屯)
2   Φuta    −−  tu¨pっ¨l tuβっr   tulh      tu:l
                 (二尸)  (途孛)
3    mi1     mil    siet    sei     s∂ih     se:s
            (密)    (悉)   (洒)
4    'jo2     −−   −−   nei     n∂ih     ne:s
                       (廼)
5    'itu     'utsu   −−   ta∫us   tasΛs    tasっs
           (于次)        (打戍)
6    mu    −−   −−  'jul∫us  'jっsΛs    'jっsっs
                       (逸戍)
7   nana    nanun  −−  'ilkup    nilgub    'ilgob
            (難隠)        (一急)
8    'ja     −−   −−  'jultap   'jっdщlp    'jっdっl
                       (逸答)
9  ko2ko2no2  −−   −−  'ahop    'ahob     'ahob
                       (鴉好)
10   to2'wo    t∂k   −−   'jっl     'jっlh     'jっ:l
            (徳)         (噎)

※古代日本語の[i1]はイ列甲類、[o2]はオ列乙類。[っ]は母音[?]の代用。
 高句麗語の数詞「5」については村山説を挙げたが、李基文や板橋義三は
 再構語形を[uc]としている。

372 :ローガン:2008/10/22(水) 15:38:10
>>367

> 明帝の法要は何時やるの?

12か月後でしょう。

373 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 15:53:51
>>372

十二ヶ月後だと
後十二月に法要を?
亡くなったのは春正月なのに?

374 :ローガン:2008/10/22(水) 16:30:50
>>373

> 亡くなったのは春正月なのに?

景初で使われたのは殷暦ですね。 正始からは夏暦。
殷暦のまま景初四年一月を迎え、法要後に改元を実施した…
改元後は夏暦なので法要のあった月は後十二月になりますね。


375 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 16:33:01
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050618/4482.jpg
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050610/2764.jpg
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/090.jpg

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/099.jpg
http://www.sx.xinhua.org/ztjn/2003-08/29/xin_49b7e0a2d93511d7be2c0050ba1967d3.jpg
http://www.shtong.gov.cn/node2/node4/node2250/songjiang/node70313/node70604/images/00004623.jpg

376 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 17:01:12
>>374
殷暦使用時に
皇后の我が儘で正月に法要をしたくないと、言ったのだから
景初四年であろうが、五年であろうが
正月に法要をしたら
何の為の後十二月をもうけての改元だったのか?

それに、
小月法要は、月の計算ではなく亡くなった月と同じ月に行うものだよ
景初四年正月に法要を行えば、次の正始に成っても
法要は正月。

377 :ローガン:2008/10/22(水) 17:38:52
>>376
だから、建丑の月…つまり、12か月後に法要を実施した。
建丑は殷暦時の正月。

378 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 18:11:28
>>376
『三国志』「魏書」に
「永く忌日の哀をおもい、そこでふたたび夏正を用いる。」とあります。

379 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 19:24:11
>>377

だから、
法要は十二ヶ月後ではなく、亡くなっ同じ月に実施する。それが例え十三ヶ月後であっても。

380 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 19:36:47
>>378
殷正から夏正に暦が移ろうが、春正月にに亡くなれば、次の年の春正月に法要を行う。

でも、皇后がゴネた。
皇后の意向もくみ、尚且つ正月法要も営む。

381 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 21:02:11
>>380
殷の正月は12月、夏の正月は1月、周の正月は11月からはじまる。
明帝は殷暦の景初4年正月に没した。
そして正月の死が後に永く忌日となることを避けるために夏暦に改めた。
したがって明帝は夏暦の景初3年12月に没したことになる。
ようするに閏12月があるわけだ。

382 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 21:10:46
倍暦ならば正月は年2回。めでたいではないか。

383 :ローガン:2008/10/22(水) 21:17:35
>>378
三年十二月の詔ですね?
「烈祖明帝以正月棄背天下臣子惟忌日之哀其復用夏正雖違先帝通三統之義斯亦礼制所由変改也又夏正於数為得天正其以建寅之月為正始元年正月以建丑月為後十二月」
「変改」の理由として永く正月に臣子が哀しむ事、を書いていると思います。
改暦の目的は忌日と正月を分離する事。しかし忌日は一月一日…
よって殷暦の一月一日に法要を行い その後 夏正への改暦。夏正改暦後に前月を後十二月とした。
三統之義…周暦への改暦ならこの一ケ月は生まれない。ついこの間迄使っていた夏正への改暦にはこういう事情によるものではないかなあって考えます。

384 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 21:40:58
>>380
>殷の正月は12月、夏の正月は1月、周の正月は11月からはじまる。
明帝は殷暦の景初4年正月に没した。

殷の正月は建丑(冬至は12月) 夏の正月は建寅(冬至は11月) 周の正月は建子(冬至は正月)
明帝は景初三年正月(殷暦建丑)に亡くなった。

>そして正月の死が後に永く忌日となることを避けるために夏暦に改めた。
したがって明帝は夏暦の景初3年12月に没したことになる。

暦を改めるのは
景初三年12月以降(殷暦の子) 景初三年後12月が(夏暦の丑)
忌日を調整するのではなく、後に影響する法要

>閏12月があるわけだ

閏は殷暦の子(12月)から夏暦の建寅(正月)に移るのに 丑の月が飛んでしまうために 後12月(丑の月)を設けた



385 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 21:46:33
>>383

>よって殷暦の一月一日に法要を行い

殷暦の一月一日に法要を営んだら、それは景初四年一月一日
いくら夏正に暦を移し
後十二月を設けても、次の法要は

正始元年春正月 

386 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 21:50:30
woooo

河童puとローガンのバトルか?

387 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 22:13:07
4倍暦なら、正月は年に4回じゃないですか?おめでたいですね。

388 :ローガン:2008/10/22(水) 22:21:55
>>386

> 河童puとローガンのバトルか?

え?河童虫さんなの?解らなかった。

389 :日本@名無史さん:2008/10/22(水) 22:36:57
>>388
たまには真面目にね


「正月に臣子が……」
これはどう考えても建前。
こんな事態がくる事は、明帝が正月に亡くなった時にわかるもの
それから一年弱何も手を打たずに、年も暮れようとする
法要前十二月に 詔だなんて 臣子を哀れむなんてちゃんちゃら可笑しくて。

390 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 00:05:30
今日日、畿内自生邪馬台国説を信じちゃってるローガンなど、相手にしちゃダメ。
プラム=河童虫、美濃もん太、改めドツボも同様。

391 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 06:52:42
梅毒が名無しで戻ってるなw

392 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 12:39:04
>>391
誰でも自由に書き込みの出来る掲示板なんだし、戻ってきてても
別に不思議じゃない。
昨日のように内容あるレスなら、誰でも歓迎です。

393 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 13:44:16
>>389
先帝崩御&新帝即位の年は先帝の元号のまま。
その翌年正月から新帝の元号に改元される。
だったら12月に改元の詔が発されるのは当たり前です。
これは法要の詔ではなくて改元の詔だということを認識してないのでは?

394 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 14:21:01
>>393
殷暦から夏暦に、そして後十二月の制定までした改元。
して、その理由は?
何故殷暦ではダメなのか?
ただの改元ではないわな。

395 :taka:2008/10/23(木) 14:37:07
横レス失礼、魏は殷暦を使ってたというのはどこに記述があるのでしょうか? 古四分暦の
一つである殷暦は、甲骨文字とも合わないことから実際は戦国時代に生み出されたという
のが通説です。

それにそもそも、魏は 楊偉 によって作られたといわれる 太陰太陽暦 である 景初暦 を
使っていたはずですが?

396 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 14:37:29
>>376
>小月法要は、月の計算ではなく亡くなった月と同じ月に行うものだよ
>景初四年正月に法要を行えば、次の正始に成っても
>法要は正月。

これが間違ってる。
建子・建丑・建寅の月は動かないが、どの月を正月と呼ぶかは暦によって変わる。
明帝が崩御したのは建丑の月だから、
同じ月というのは、次の年の建丑の月でなければならない。
それが正月かどうかは、暦法次第だから、暦法が変われば命日は正月ではなくなる。
正始元年正月に祭祀を行っても、明帝はあの世で「俺の命日はこの月じゃない」という。

397 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 15:02:03
>>396
夏暦の建寅も春正月
殷暦の建丑も春正月
周暦の建子も春正月

夏であろうが、殷であろうが、周であろうが、
春正月に亡くなれば春正月に法要なの
そうでなければ、閏の度に法要月がずれる。

三月一日に亡くなった人は、次の年閏年で二月二十九日があったら
命日や誕生日は
二月二十九日なのか?

398 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 15:15:43
>>394
>何故殷暦ではダメなのか?

殷暦から夏暦になったのではなくて、殷正から夏正になった。
景初三年が終われば、新帝の元号に改めなければならない。
だから、景初三年十二月に改元の詔が発される。
これは、皇帝の代替わりに伴うごく一般的な事象。
普通なら、翌月が改元後の元年正月になるのだが、
ここで、正月と忌月が重なり続けるのを避けるため、
改元を翌々月の建寅月に延ばして翌月の建丑月を後十二月ということにした。

それまでは建丑月を正月をする殷正を採用していたが、
これで建丑月の翌月の建寅月を正月とする夏正になったわけ。
殷正から夏正にすると、建子月の十二月から建寅月の正月の間に、建丑月が一ヶ月余ってしまう。
だから、それを後十二月と名前をつけて閏月扱いにした。

      建子月       建丑月     建寅月
景初三年十二月 景初三年後十二月 正始元年


     建子月  建丑月  建寅月
夏正  十一月  十二月  正月
殷正  十二月  正月   二月
周正  正月    二月   三月

>ただの改元ではないわな。
歴史のロマンもいいけど、勘繰りすぎ。

399 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 15:20:29
>>397
春分の日に亡くなった人の命日は、常に春分の日。

>三月一日に亡くなった人は、次の年閏年で二月二十九日があったら
>命日や誕生日は二月二十九日なのか?

この正始の改元は、まさにそれをやたんだね。
閏月と呼んでいいのかどうかはわからないけど、後十二月を入れることによって、
明帝の忌月は正月ではないということにしちゃった。

400 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 15:20:36
>>398
天皇の死や即位によって元号を改めるようになったのは明治時代以降の事だよ
元号ってのは災害で橋が流されたから縁起が悪いから1年で変えたりとかもあるよ



401 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 15:28:46
>>398
どんな暦に変えようが、春正月に亡くなった人の法要は
春正月。

殷正の建丑に亡くなれば、例え夏正に変えようが、命日は夏正建寅
正月に法要をする事には変わらない。


>ロマン

何処が?

402 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 15:51:29
細かいところでの指摘を省く為に
先程から使用している「改元」は「称元」も含め使用しています。

403 :taka:2008/10/23(木) 16:08:48
誰も答えてくれないの? 景初暦=殷暦だから殷暦が使われたと思っているのか?それとも、
魏王朝は殷暦を使っていたと記述があるのか? それとも、ただそれは自分達の推測なの
か? 良く解からないんだけど。

404 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 16:12:04
>>401
>殷正の建丑に亡くなれば、例え夏正に変えようが、命日は夏正建寅
>正月に法要をする事には変わらない。

という根拠は何だ?

405 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 16:22:17
>>403
殷暦ではなくて殷正。夏暦ではなくて夏正。
夏正は建寅の月を正月として人統(じんとう)。殷正は建丑の月を正月として地統。
周正は建子の月を正月として天統。
王朝が交替すると、人統→地統→天統と循環するという三統(さんとう)という考え方があった。
だから、「本来王朝の途中で殷正から夏正に移るのはおかしいのだけれど(雖違先帝通三統之義)」と
詔の中でも断っている。
三統とか三正とかでググって調べてみるよろし。

406 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 16:44:39
>>404
ごねる理由が分からん?
さっきも閏の日を挟んだ命日と誕生日で
説明しただろう。

407 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 16:57:44
>>404

祥月命日法要とは、亡くなった次の年の同じ月日

408 :taka:2008/10/23(木) 16:58:01
>>405
ありがとうございます。三正は当然知っています。ただ、>>385さんが 殷暦云々と仰って
ましたから、殷暦が使われてたという議論なのかと^^;しかし、その説明は少し違うよ
うな。三統説は 天統=夏、地統=殷、人統=周 であったと思います。

それから、王朝の途中で正が変わるのは珍しいですが前例はありますよね^^ 確か前漢太
宗孝武帝の太初の改暦で夏正になった事が『武帝紀』に書かれてますね。三国時代も戦乱
の連続ですから、改暦も出来なかったから無理は無いでしょうね。

ただ、魏王朝がいつ殷正に変わったかが不思議なんですよね。例えば太初暦以後新王朝の
三統・後漢の四分、景初と変わっていますが建寅月以外を正月としている記述は無いんで
すよね。ですから、井波律子氏 もこれはどういう意味があるのか不思議がってますが。

409 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 17:39:05
>>408

>ないんですよね

目の前にありますよ。
「其復用夏正」
前回の正月(明帝崩御)に夏正建寅を使用していたのなら
この文言は必要ありません。

410 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 18:07:39
景初三年に亡くなった人の一周忌法要は
景初三年には行えないので、例え建丑を後十二月、建寅を正始元年正月としようと、法要は正始元年正月。
でも、これはイクナイ。

411 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 18:10:28
>>407
それは、現代の日本人の仏教的習慣。
3世紀の中国で、同じように祥月命日の法要を行ったという証拠は何処にあるのかということ。

>>408
三統説はご存知でしたか。
私は385さんではないのでわかりませんが、たぶん殷暦と言いながら殷正を指しているんだろうと思ってレスしてました。
改めて調べましたが、やはり三統は
周以建子為天統,殷以建丑為地統,夏以建寅為人統也.
のようですね。
漢が夏正なら、漢の次の魏が殷正に改めたというのは不思議ではないと思います。
武帝の改暦が王朝の途中といっても、そもそも漢の制度が武帝以前にはそれほど整っていませんよね。
だから、武帝の改暦は新たな王朝の制礼作楽と考えられるけれど、
正史元年の夏正への移行は、明らかにそれとは異なるんじゃなかなというのが私の感想です。

412 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 18:16:27
>>408
『三国志』「魏書」の巻三明帝本紀景初元年春正月の条に
「太和暦を改めて景初暦とする」があって
青竜五年三月を景初元年四月と改めたとあります。
これが何か関係があると思います。

413 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 18:27:16
>>411
法要と言ったのは
現代人にわかりやすく言ったまで
祥月命日で通せば納得するの?

祥月命日に
故人を思い出すだけでも法要ですが、 なにか根拠が必要ですか?

414 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 18:45:33
>>411

景初三年春正月朔(建丑)に亡くなった明帝の祥月命日は、暦をどんなに弄ろうが
景初三年には行えないし、祥月命日はおとずれない。
景初三年春正月朔に亡くなった人の祥月命日は 景初四年春正月朔(建丑)か、後十二月を設けても景初三年後十二月なので、改元(称元)後の正始元年春正月(建寅)



415 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 19:19:01
河童puにしては、珍しくまともな事言いながら粘るねえw

416 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 19:21:29
>>415


何時もマトモだよ!

417 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 19:24:30
河童puと改めドツボと美濃もん太は、どっこいどっこい

418 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 19:32:23
>>414
>景初三年春正月朔(建丑)に亡くなった明帝の祥月命日は、暦をどんなに弄ろうが
>景初三年には行えないし、祥月命日はおとずれない。

これが君の思い込み。
例えば、現行の八月を正月にすると政府が決めると、真冬の一月一日に生まれた人が、真夏に誕生日を祝うのかい?
明帝は建丑の月に崩御したので、祭祀は建丑の月に行われる。
明帝の祭祀が行われる建丑の月が正月でなくなるように夏正に移行した。

419 :taka:2008/10/23(木) 19:50:17
あまり時間が無いので

>>411さん
ありがとうございます。一度三統についてもう一度調べて行きたいと思います。

>>412さん
ありがとうございます。私もそれについては考えてみたのですが、専門書を読んでもそこ
の所は軒並み不明でして^^;

葬儀に関してですが、『礼記』によれば場所や吉凶の占いを行った後、天子は七ヶ月目・
士大夫は三ヶ月目に葬ります。そして、十三月の祭を「小祥」(一周忌)・二十五月の祭
を「大祥」(三回忌)というそうです。

また儒教の書物から、『烏丸鮮卑東夷伝』倭人の条に書かれている卑弥呼の棺があって槨
無しというのは、現代考古学上の槨では無く国君の3重で、外の棺は厚さ8寸、中間の棺
は厚さ6寸といった物が無いという記述である事が解かります。

420 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 20:06:07
>>418

>これが君の思い込み。
例えば、現行の八月を正月にすると政府が決めると、真冬の一月一日に生まれた人が、真夏に誕生日を祝うのかい?


例えば
景初三年八月に改元すると詔を出しても
記録上は景初三年正月〜七月を正始元年正月〜七月と記録される
または
記録上景初三年を消化してから正始元年とするので

無問題
一般的には前者がデフォのようだが



確か青龍元年春正月が確かそうだったのでは
太和七年春正月は存在したのに、二月に改年したため
記録上は太和は六年十二月までで、太和七年春正月は青龍元年春正月になっているよ

421 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 20:19:45
>>414

付け加えれば

八月を正月にするなんて有り得ないし、そんな事したら改元どころか
暦の根本的な大改革だから、それはそれで別問題。
冬至が春に訪れる事になるのだから

422 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 20:46:27
結論から先に言っちゃえば

明帝の祥月命日法要は、景初四年春正月朔(建丑)に行われた。

423 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/23(木) 20:56:11
>>421
8月が正月になるのは、倍暦行使をしている時代ではありうる。
ただし古代中国のその時代あたりはあちらは倍暦はやってないと
思う?

424 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 21:00:45
素人です。

卑弥呼とはだれか?というスレタイトルですが、卑弥呼がだれだれという説はどういうものがあるのでしょうか?

425 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 21:09:38
>>420
>例えば景初三年八月に改元すると詔を出しても

これは、単純な改元の例。
正月を移動させる景初三年から正始元年への変化とは全然別の例だよ。

>八月を正月にするなんて有り得ないし、そんな事したら改元どころか
>暦の根本的な大改革だから、それはそれで別問題。
>冬至が春に訪れる事になるのだから

正月を移動させても冬至は移動しないよ。
冬至を含む月は常に建子の月で、これは移動しない。
建子・建丑・建寅のどれを正月と呼ぼうと、建子の月に冬至を迎えることは変わらない。
冬至も建子・建丑・建寅も天体現象だから、人間の都合で変わらない。
正月という呼称は人間の都合だから、人間が好きなように変えられる。
三正とか三統説というものを、ちゃんと理解していないようなので、
もう一度調べなおしてから考えてね。

>>422
景初三年十二月に「建丑の月を以て後十二月と為す」との詔をだしているから、
建丑の月は景初三年後十二月であって、景初四年春正月ではない。

426 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 21:13:24
>>424
ウィキペディアにいくつか紹介してあるよ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC

神功皇后説
熊襲の女酋説
筑紫君の祖、甕依姫(みかよりひめ)説
倭姫命(やまとひめのみこと)説
倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)説
日女命(ひめみこと)説
天照大神=卑弥呼説
卑弥呼=卑弥呼説

427 :ローガン:2008/10/23(木) 21:14:27
>>422
> 明帝の祥月命日法要は、景初四年春正月朔(建丑)に行われた。

そうですよ。昨日からそういってますが。
「三年服喪」(かぞえ25ケ月)が形骸化していたとすれば、一周忌法要のみを済ませれば良い。
詔の施行を少し遅らせれば、済む事。漢武帝元封七年や、魏明帝太和七年と良く似た状況だったと思います。


428 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 21:21:09
>>426

ありがとうございます!勉強になります。

たくさんの説があるんですね。
一体どれを信じてよいのやら、混乱してしまいそうです。。。

http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=183555

↑検索してたら、こんな記述があったのですが、これもあくまで一つの説ということなのでしょうか?




429 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 21:22:40
>>424
おつむの弱いスレ主が命名したから、真剣に考えないでね。
もし卑弥呼が「あいうえお」という人でした、とわかったとして、
当時の倭人の個人情報データベースがないので、ほとんど意味がない。

430 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 21:40:58
>>425

確かに冬至は勇み足だったよ

しかし

>三正とか三統説というものを、ちゃんと理解していないようなので、
もう一度調べなおしてから考えてね。

と言っているわりには

>景初三年十二月に「建丑の月を以て後十二月と為す」との詔をだしているから、
建丑の月は景初三年後十二月であって、景初四年春正月ではない。

とはなんなの?
後十二月は閏の月であって正の月じゃないから、計算上は入らない(これは秦歴が三統に含まないのと同じ理屈)
だから 小称月はかぞえ13か月目の同月同日は正始元年春正月となってしまい
それだけでは単に一月増やしたに過ぎないんだよ

そこに>>427ローガンさんのレス内容が大事になってくるわけ(これでもまだ説明不足だから横ヤリ入れたんですけど)


431 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 21:58:33
>>425

>正月という呼称は人間の都合だから、人間が好きなように変えられる。

これも微妙な間違い
年始は都合で移動したけれど、秦歴(建亥)でも正月を十月や四月にすることはなかった

微妙にたがえた三つの夏、殷、周の各暦ではあっても必ず季が重なるところが存在し、正月は三か月の範囲でしか動かない。
だから、正月を八月に位置づけることはありえない。 

432 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 22:08:33
24倍暦を使っていた崇神の時代には、
毎月2回正月の祝いごとを行っていた。


433 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 22:13:52
365倍暦の垂仁では毎晩姫初め

434 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 22:14:34
>>427

>そうですよ。昨日からそういってますが。
「三年服喪」(かぞえ25ケ月)が形骸化していたとすれば、一周忌法要のみを済ませれば良い。

これは申し訳ありませんでした
普通だったらそれでお仕舞にしたのですが、丁度いい機会だったので
細かいところで粘ってみましたし、これは後ほど
景初四年鏡のところでも触れるであろうからと判断し

因みに
景初四年春正月(建丑)に小称月を営むことで、大称月は正始元年十二月に無事営めます。
これで称月命日法要が年号を変えてかぞえ13か月ごとに行えます。

これでもまだ 詔、施行の説明が残っているのですけれどもね

435 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 22:22:22
>>430
後十二月は暦と季節のずれを調節するための閏月とは違って、
殷正から夏正に移行するのに一ヶ月ブランクが出来るので設置したもの。
だから、これを閏月と扱って良いのか疑問だと思う。
すくなくとも、通常の閏月ではない。

>だから 小称月はかぞえ13か月目の同月同日は正始元年春正月となってしまい

主語が小称月と同月同日の二つになってて、意味解らん。

>それだけでは単に一月増やしたに過ぎないんだよ

まさに、単に一ヶ月増やしただけのこと。その理由づけとして殷正から夏正への移行が言われただけ。

436 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 22:41:45
>>431
>微妙にたがえた三つの夏、殷、周の各暦ではあっても必ず季が重なるところが存在し、正月は三か月の範囲でしか動かない。
>だから、正月を八月に位置づけることはありえない。 

それは、正月は春だという観念があるから当然。
建丑の月の命日を建寅の月に移動させるというのは、冬の誕生日を夏に移動させるようなものという例で言ってるの。
解りやすいように持ち出した極端な例だから、本気であり得ないとか言われても、そりゃあないよとしか言いようがない。

>秦歴(建亥)でも正月を十月や四月にすることはなかった

これは、ちょっと疑問に思ってるんだよね。
十月歳首といっても、太初に採用された夏正で建亥の月を十月とよぶだけで、元封以前に歳首を十月と呼んでいたのかね?
建亥の月を正月を呼んでいたのじゃないかと、私は疑っている。

437 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 22:43:16
>>435
>主語が小称月と同月同日の二つになってて、意味解らん。

は・・・×   で・・・・○

>後十二月は暦と季節のずれを調節するための閏月とは違って、
殷正から夏正に移行するのに一ヶ月ブランクが出来るので設置したもの。
だから、これを閏月と扱って良いのか疑問だと思う。
すくなくとも、通常の閏月ではない。

正常であろうが、異常であろうが
閏月には変わりなく、正の月ではないよ

閏月の前借りと考えればいいんじゃないかな?
ひと月増やしたまま放置しておけば、何処かで必ず調整しなくてはならないから


438 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 22:46:31
妄想スレ乙。


     終了!

439 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 22:48:18
>>436

>これは、ちょっと疑問に思ってるんだよね。
十月歳首といっても、太初に採用された夏正で建亥の月を十月とよぶだけで、元封以前に歳首を十月と呼んでいたのかね?
建亥の月を正月を呼んでいたのじゃないかと、私は疑っている。

私も疑っているところがあるけれども、否定する材料が見つからない以上
今のところそう考えています。
ただ、ここは後に考えが変わる余地は十二分にある箇所と、断り書きを添えて

440 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 23:07:15
>>437
の閏月に違和感があるのなら 別の名前に変えちゃうのはどうかな?

「我儘月」とか秦の「我儘位」とか

441 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 23:09:37
Pu!の書いていることは誰か(Y!のT氏)の文章の受け売り。
Pu!自身、その中身を理解しているわけでは無いから、反論されるとワケワカメ状態の答えしか返せないw
相手にするだけ時間の無駄。

問題の「後12月」は正月(せいげつ)なのであって閏月ではない。
新暦の「景初3年後12月」とは、旧暦の「正始元年正月」に相当する月で、
改暦の詔によりと特設された月名称。
詔の「其以建寅之月爲正始元年正月、以建丑月爲後十二月。」のとおりである。

また、改暦によって、節気のサイクル自体も(閏月のサイクルも)変わってしまい、
命日の算出方法も変わって当然。

「烈祖明皇帝以正月棄背天下、臣子永惟忌日之哀、其復用夏正、雖違先帝通三統之義、斯亦禮制所由變改也。」
 
烈祖明帝、正月を以って天下に棄背し臣子は永く忌日之哀を惟う。
それ復夏正を用いれば先帝が三統之義を通せしむに違うと雖もすなわち禮制の變改の由る所なり。

正月と忌日が重なることを避けるため、ちゃんと理由も書いてある。




442 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 23:35:30
>>441

なんとでもご自由に。

443 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 23:35:38
横からですが失礼します。

>>441 >Pu!の書いていることは誰か(Y!のT氏)の文章の受け売り。
Pu!自身、その中身を理解しているわけでは無いから、反論されるとワケワカメ状態の答えしか返せないw
相手にするだけ時間の無駄。

小生は相当勉強していると見ましたがどうでしょうか。
中途半端な生かじりの受け売りでは、決して真似の出来ない内容でもありますし、多少荒削りではあっても
久しぶりに迫力を感じました。



444 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 23:41:11
>>443さん

ここでは私に対して貴方のようなレスが返って来る事は皆無。

今後の励みになります。

445 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 23:46:14
>相手にするだけ時間の無駄
ならさぁ >>441
 そんなレス書く事も無駄じゃねえかなと、俺は思う。


446 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 23:47:55
こんばんは 日本史スレにはじめてきました

ど素人ですが 教えてください

先日伊勢神宮にお参りに行って思ったのですが
何の歴史的知識もなく、内宮、外宮を見て特に建造物から
ここは大和を感じました。オカルトチックですが
中国、朝鮮の影響をまったく受けてない原始の大和のイメージです
そしてここは邪馬台国の痕跡ではないかとイメージを飛躍させました
天照=卑弥呼 外宮の豊受とは魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の後続者のとよ
ではないかと、近くに倭姫神社というところもありました
伊勢が邪馬台国の場所とまでは思いませんが、伊勢神宮が邪馬台国を祭っている
というような説はあるのでしょうか?


447 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 23:50:42
>>446

>伊勢が邪馬台国の場所とまでは思いませんが、伊勢神宮が邪馬台国を祭っている
というような説はあるのでしょうか?

聞いたこともないし、中国の書物にしか登場しない邪馬台国を祭ることはないでしょう。

448 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:00:12
>>437
>>主語が小称月と同月同日の二つになってて、意味解らん。
>は・・・×   で・・・・○

両方「は」を「で」に変えたら、今度は主語がなくなって意味解らん。
ちゃんと書きなおそうね。

>後十二月は閏の月であって正の月じゃないから、計算上は入らない(これは秦歴が三統に含まないのと同じ理屈)
>だから 小称月はかぞえ13か月目の同月同日は正始元年春正月となってしまい
>それだけでは単に一月増やしたに過ぎないんだよ

この部分に根本的な認識の誤りがあるね。
計算上は入らないって、何の計算に入らないの?というのが一点。
それから「小称月はかぞえ13か月目の同月同日は正始元年春正月となってしまい」が意味不明なのが一点。
この二点を明らかにせよということで、今日はお休み。

449 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:07:56
オレ河童pu好きじゃないけどさあ、>>441は間違っていると思う。
全部は理解出来なかったけど結構勉強になった。

450 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:14:35
>>446
邪馬台国論争というのがあって、たとえば、九州説、畿内説と分かれて
論争が繰り広げられています。
卑弥呼=天照大神というのも有力な説だけど、これは九州説の中でも東遷説と
結びつくわけです。東遷説は、畿内説としては絶対に容認しないでしょう。

だから、天照大神=卑弥呼は有力な説だけど、絶対ありえないという人も
います。
というところでしょう。

451 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:16:09
>>448

もう疲れたから今日は書かないし、直さない。

またボルテージが上がったら書き直しておくよ
頭使う内容は、脳内アドレナリンが大和の波動砲くらい溜まらないと発射出来ない。

452 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:22:44
>>447 >>450レスありがとう

なんの歴史的知識はない私だけど
なぜか伊勢神宮に邪馬台国を説く鍵があると感じました



453 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:30:52
>>450
>だから、天照大神=卑弥呼は有力な説だけど、絶対ありえないという人も
>います。

ありえないし、だいたい有力な説と言うのもおこがましい。

454 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:30:54
>>452

あるよ

455 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:35:05
>>453
何であり得ないと言えるんだ?
そもそも現時点で「有力な説」自体ないだろ。

456 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:36:25
>>452

>なぜか伊勢神宮に邪馬台国を説く鍵があると感じました

そもそも伊勢は、糸島半島の地名。
「撃ちてし止まん」を歌った神武の故郷。
ただし、畿内王権と邪馬台国との関係はあまり濃くない。

457 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:48:54
日本史スレはIDがないので誰が誰だか分からないですねw

(卑弥呼の時代に日食があったとそこから)豊受=トヨ
天照大神=卑弥呼と仮説を立てる
(神社、仏閣はゆかりのある方を正面に立てる傾向がある)
伊勢神宮の内宮=天照大神の向いている方向を見れば
邪馬台国の位置を示すのではないかと
歴史に詳しくない私の推理です
伊勢が邪馬台国であると言っているわけでないですよ 


458 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:51:52
>>456
「無い」ではなく「濃くない」ってことは少しはあるってこと?
例えば本家と分家みたいな。

459 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:52:04
>>453
では、3世紀に間違いなく実在し、魏に使者を送り、倭王と呼ばれた人物は
はたしていったい誰でしょう。
全く痕跡を残していないのでしょうか。
それとも、記紀にその痕跡が残っているのでしょうか。
残っているとしたら誰でしょう。

記紀と倭人伝を読み比べたとき、卑弥呼と天照大神の類似性がもっとも
高いのは明らかでしょう。
倭迹迹日百襲姫、倭媛なんかは全く似てませんね。

460 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:57:25
天照大神は人間じゃないんじゃまいか?
http://www7a.biglobe.ne.jp/~dansan/main1-1/frame2.html

461 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:00:14
要するにオオヒルメが卑弥呼で、太陽神の天照御魂神と習合して天照大御神になったってことじゃね?

462 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:01:39
卑弥呼は日巫女であるという説はどうなんですか?

463 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:04:44
>記紀と倭人伝を読み比べたとき、卑弥呼と天照大神の類似性がもっとも
>高いのは明らかでしょう。

天照大神は紀元100年ごろの対馬の女王。
卑弥呼は紀元250年ごろの福岡県博多湾内陸部在住の女王。

>倭迹迹日百襲姫、倭媛なんかは全く似てませんね。

もちろん、全くの別人です。

>要するにオオヒルメが卑弥呼で、太陽神の天照御魂神と習合して天照大御神になったってことじゃね?

全くの別人です。

464 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:19:40
>>452
>なぜか伊勢神宮に邪馬台国を説く鍵があると感じました

伊都国の王墓と思われる平原1号墳を発掘調査した原田大六は、
あの平原の超大型鏡と同型の鏡が伊勢神宮の御神体の八咫鏡だろうと推測した。
これには森浩一や奥野奥野正男も賛意を表明している。

ただし誤解の無いよう言っておくが、原田大六は邪馬台国大和説だ。
卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命説で、卑弥呼の墓は箸墓古墳説。

考古学者で箸墓古墳を3世紀中葉まで遡上させたのは恐らく原田大六が最初の人だ。
原田には批判されるべき点もあるが、アカデミー学者の上を行く鋭いところあった。

465 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:25:41
そもそもなんで伊勢に神教の最高神の神宮があるの?
九州や奈良になぜ建てなかったのか?

466 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:38:27
>ただし誤解の無いよう言っておくが、原田大六は邪馬台国大和説だ。

初めは九州説だったんだが、学者がこぞって畿内説だったので、寄り添ってしまい堕落した。

467 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:43:29
>>465
政教分離ですよ。

468 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:45:31
>>465
九州にないのは一族こぞって大和に移ってきたから。
で、初めは宮中、崇神朝に奈良に祀った。
ただ奈良は内陸なので、もっといい場所を探してるうち、海からの日の出を拝める伊勢に落ち着いた。

469 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:46:41
>>465
これは確か日本書紀に書いてあった。
天照大神は、神様だから死なない。で、鎮座する。
その場所を探して方々を旅したのが倭媛。
天照大神が、伊勢の地で、この美しい場所に鎮座したいと言ったらしい。

470 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:51:51
>>463
>天照大神は紀元100年ごろの対馬の女王。

根拠は?

471 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 02:05:27
>>466
>初めは九州説だったんだが、学者がこぞって畿内説だったので、寄り添ってしまい堕落した。

原田大六が九州説だったことは一度も無い。
また畿内説(自生説)の考古学者小林行雄に対しては、その伝世鏡論を舌鋒鋭く批判した。

まともな本も読まずデタラメな学説史を捏造し、言いふらしている>>466よ。
全くもって見苦しい。

ともかく一冊ぐらいは原田大六を読め。


472 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 02:07:30
>>468 伊勢の天照大神からは海は見えないですよ



473 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 02:08:27
>原田大六が九州説だったことは一度も無い。

嘘つくんじゃない。原田大六が公言していることだ。まじめに調べろ。

474 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 02:09:58
>>470
九州地方における出土物の急変期。

475 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 02:11:47
>>474
それだけじゃね。

476 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 02:19:43
三重県の伊勢は交通の要衝だから、軍事的には大事なところだったのかもしれない。

そのうえに、神武東侵説話の縁があって、

福岡県志摩町の夫婦岩  とともに
三重県伊勢市の夫婦岩  などが大事にされたのだろう。

477 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 02:25:32
>>475

天照大神が孫の瓊瓊杵尊に北部九州を攻略させ、見事征服したには知ってるよね?
北部九州の古代にたった一度だけ、出土物が一変したのが100年ごろ。
なぜこのときに出土物が一変したの?
吉武高木遺跡では、すでにこのころ稲作をやっていた。
天津罪として田の畦を破壊する罪が出てくるには、稲作が不可欠だが、まさにズバリだ。

478 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 05:17:18
天照大神が孫の瓊瓊杵尊に北部九州を攻略させ、見事征服したには知ってるよね?

479 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 05:45:03
しらんがな

480 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 06:06:50
スマソ。>>478は書き損じ。
で、
>>477
>天照大神が孫の瓊瓊杵尊に北部九州を攻略させ、見事征服したには知ってるよね?

知らないね。

>北部九州の古代にたった一度だけ、出土物が一変したのが100年ごろ。

100年ごろ北部九州の出土物がどう一変したのか、書いてくれ。

>天津罪として田の畦を破壊する罪が出てくるには、稲作が不可欠だが、まさにズバリだ。

なにがズバリかさっぱりわからんが。
それに、スサノヲが畦を破壊した田んぼは、姉天照大神のいる高天原の田んぼだろ。
あんたは>>463で、「天照大神は紀元100年ごろの対馬の女王」と書いてるよな。
だったら対馬の田んぼか?
はて、倭人伝には3世紀の対馬国を「良田無し」と描写しているのだが。
それと、馬が100年ごろの対馬に居たのか? 皮剥いで放り込んで姉さんの邪魔したんだろ、スサノヲは。

481 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 06:32:12
スサノヲは、自慰に夢中な姉の姿を哀れみ、自らの皮の被った馬並を無理矢理皮を剥き、目の前に突き出した。

482 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 07:00:20
>>430
小称月とは何ですか。聞いたことない言葉ですが。

483 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 07:37:47
>>473
せめてその発言がどの本に出てくるのかぐらい教えてくれ。
手がかりが少なすぎる。
俺は彼の「日本古墳文化」(処女作)読んだことあるけど、
そのころにはすでに畿内大和説だったよ。

484 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 07:43:26
>>482
中国で、先祖が亡くなった日からかぞえ十三ヶ月に行われる祭を小祥忌、二十五ヶ月に行われる大祥忌
と言い、小祥月は小祥忌に当たる月と考えれば
いいかと思います。

485 :taka:2008/10/24(金) 07:48:25
>>483
九州説になるかどうかはともかく、『日本書紀』に書かれている記述が自分の出身地の糸
島郡の話だと主張していたみたいです。伊都国の研究も行っていますね。彼の『日本の古
墳文化』を見ても、邪馬台国の研究というよりは『日本書紀』の研究かも。

486 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/24(金) 10:36:31
>>455
アマテラスが卑弥呼だとすると、皇祖がアマテラスで皇宗は神武だから当然
アマテラスは神武より古い時代の女性だということになる。ということは、
卑弥呼の生きていた 237年=景初元年 の年代が神武以前になることになる。
そうだと神武以後の天皇の在位がスシ詰めとなる不合理が出る。だから卑弥呼は
アマテラスではない。

487 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 11:00:46
>>486
それは神武以降に書かれている天皇が、全て神武以降に実在する場合の設定。

488 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 11:10:20
ましてや神武なんて言うのは、その陵墓は明治の世までほったらかし、その存在すら忘れ去られている。

489 :taka:2008/10/24(金) 11:39:02
神武陵が明治の時代までほったらかしというのは少し誤解です。元禄十年の幕府の調査で
は、現在の綏靖天皇陵が神武天皇陵と推定されて朝廷より勅使が派遣されています。その
後、幕命により宇都宮藩が正式に再調査して神武天皇陵が現在の地に推定され、文久の修
陵で一万五千両が投じられて古墳が造営されました。

その後、孝明天皇陛下 も今の陵に勅使を派遣しています。確かに明治三十一年に大造営さ
れましたが、明治までほったらかしではありません。

490 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 11:45:27
>>489
それだって元禄だよ。
神武は皇室の祖とされているにもかかわらず、元禄までスルーされ続けられた事にかわりない。

491 :taka:2008/10/24(金) 12:12:10
>>490
言ってみりゃそうなんだけどね。ただ、明治の時代に急にっていうのは違うと
言いたかっただけですから^^

ちなみに、『延喜式』でも近い時代の天皇陵も行方不明になってます。

492 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 12:20:56
>>491
明治にしろ元禄にしろ
政治色がプンプン臭うわけよ。
綱吉が朝廷にゴマスルのも、見え見えの官位絡みだろうし、純粋に陵墓整備なんて有り得ない話し。

493 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 13:56:54
官位はすでに征夷大将軍なのだが。

494 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 14:08:43
>>493
桂昌院。

495 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 14:36:21
征夷大将軍は役職で、官位ではない。

496 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/24(金) 15:32:06
>>487 >>488
だから忘れないように記紀があるんだ。ちゃんと陵と天皇の数字が
ほぼ一致してるから、津田病は早く治療して津田説の妄想を祓わね
ばならんて。www それは少しは入墓者の御名を隣りとか逆に
定めたりすることはこれはありうるが。他に大王が皇統の数だけ別に
いたんならお前の主張は研究せねばならんが、そんな数の大王が天皇
以外に畿内にいたとは到底考えにくい。それに各地に天皇の伝承、
由緒書き等に当時の天皇の話があるんだから、いないんなら全国各地
の神社等の連中が全員的に記紀の編者らとは別に、格別に創作した
ことになる。そんなはずはないだろう。wwwwwwwwwwww
だからそういう可能性は0に近い。それでもお前創作だというなら、その天皇の数字分の陵、古墳は誰のなのか? 一基古墳を作るのに十年
も二十年もかかるだろうに、天皇を無として、一介の百姓のために
そんなドデカイ墓を大汗かいて十年、二十年と造るアホが過去に
いるわけがなかろうが。Pu!! wwwwwwwwwwwwwww


497 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 15:41:29
>>496
天皇の数と陵の数がほぼ一致するのは、天皇の数と陵の数を合わせればいい
だけの話しでしょ。
中身の問題ではなく、そこに目に見えるシンボルがあればいいだけ
シンボルが目に見える事が最も大事な事なんだ
極端な話しをすれば、陵らしき物をこしらえて
ヘイソクや札でも、中に埋め込んで置けば言い訳だし。

498 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 15:43:23
皇祖を祀るなんてのは天武の時代に初めて出てきたのでは?

499 :taka:2008/10/24(金) 15:48:09
大型古墳というのは水の為に造られたという可能性を、地方の教育委員会が考えている場
合もあります。川の段丘等で田畑に水が引きにくい土地の場合、周りの周濠から水を引い
ています。事実『日本書紀』の中でも周濠の水利権に関する記述がありますし、『市町村
史』等にも周濠の水利権に関する記述もあります。

それから、少なくても神武天皇陵は幕末に大造営事業が行われていますから、造られた古
墳が全く無いとは言い切れない部分もあります。天皇とかそういう特別な位、というより
は豪族の公共事業的な性格でしょうね。

500 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/24(金) 15:59:20
>>497
だからあわせたというなら、そのほぼ同数字の古墳、陵はだれの
墓なんだよ? お前とか百姓とかの墓にするなら、十年、二十年
かけて大労働で汗を流す必要はな〜い。
他に畿内に天皇以外となる大王墓が数十基もありゃぁ、記紀に天皇
とそれらの大王との付き合い、戦争等がうんと書かれる。そんな
天皇級に近い大王が同数だけ畿内に別にいたなどとなるお前の考え
は妄想のマルチであり、津田病に侵されている程度が相当
重症カルテであろう。www

501 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 16:15:11
百舌鳥・古市古墳群

502 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 16:23:08
>>500
皇族の墓。神功皇后陵とか聖徳太子の墓とかもあるし。
箸墓は、皇女である倭迹迹日百襲姫の墓といわれるし。

503 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/24(金) 16:27:37
フンフン! とにかく比定の間違いはある可能性は言える。

504 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 17:04:24
>>500
津田病、津田病と発作をおこさず冷静にしていただけませんか。
>お前とか百姓とかの墓にするなら、十年、二十年
かけて大労働で汗を流す必要はな〜い。

なんて、全く関係のない話などせずに冷静にお成りくださいませ。

>他に畿内に天皇以外となる大王墓が数十基もありゃぁ、記紀に天皇
とそれらの大王との付き合い、戦争等がうんと書かれる。そんな
天皇級に近い大王が同数だけ畿内に別にいたなどとなるお前の考え
は妄想のマルチであり、津田病に侵されている程度が相当
重症カルテであろう。www

キキが編纂される数百年前に亡くなられた人の墓なんてどうにでもなります。
例え天皇でなくても、同じような規模の古墳なんてゴロゴロしていますし
名無しの墓や、それに類似した造形物に天皇を上書きすればいいのですから

505 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 17:10:24
うおっ
今日は太国さんが絡まれていますね

506 :taka:2008/10/24(金) 17:30:30
>>504
いや流石にどうにもはならんぞ^^; 記紀の各天皇の記事も、やはりそれに関連した豪族
の意向は無視できないから。例えば、応神天皇陵なんて『日本紀』編纂から大分経ってる
けど、じゃああんな大規模な古墳でもどうにでもなるのか? と言われればならないでしょ
うね。

「古代の天皇なんて全部空想。後の権力者が勝手に作って、比定しただけ」というよりは、
まだ「古代の天皇は、統一政策の為に各地の豪族の伝承を一本化したもの」と言う方が説
得力はあると思う。

507 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 17:45:23
>>506
誰が何処ぞで天皇を皆架空になさったのでしょうか?不思議な話しですね。

508 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 18:25:39
>>486
> 卑弥呼の生きていた 237年=景初元年 の年代が神武以前になることになる。
> そうだと神武以後の天皇の在位がスシ詰めとなる不合理が出る。

出ない。
卑弥呼の没年が248年で、雄略天皇の崩御年を、計算をしやすくするために488年とすると、
その間240年24代、1代平均10年となり、清寧天皇から聖武天皇までの平均在位年約10.9年と比べて特に短いということはない。
確かに仁徳天皇まで連綿と父子継承が続いたという記紀の記述を信じる限り不自然だが、
履中朝以降の兄弟相続及び在位年数の短さと、仁徳朝以前の父子相続及び在位年数の長さを比べた時の不自然さを鑑みると、
仁徳朝以前の父子継承は実態を表していないと見るのが妥当である。
従って、卑弥呼=天照大御神はあり得る。

>>504
応神陵仁徳陵クラスの古墳がそうそうゴロゴロしてるわけではないぞ。

509 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 18:44:58
>>508

卑弥呼も在位10年ぐらい、というわけか?

イザナキも2、3世紀ごろの「人」、というわけか?

後漢に遣使(57、107)した倭の王ふたりは、記紀の中の誰にあたるのか?


510 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 18:58:58
>>509
平均は上限ではないし、イザナキのことなど一言も言っていない。
ま、イザナキは当時から信仰されてた神様だろうね。
57年と107年の遣使は、それぞれ別個の政権で、記紀以前の出来事。

511 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/24(金) 19:25:20
>>504
口は重宝だとはよく言ったものだ。そんなことはどうでもいい。
そういう天皇とほぼ同数の古墳、陵が他の者らの墓だとして、
いったいどの日本の古文献と大陸の古文献にその者らの陵だとかの
記述、いたとかの記載があるのか?
全然に近くそんな文はなかろう。一基造るのに十年、数十年
かかる古墳を、お前のような輩のために作るアホが古代にいるのか?
と聞いてるんだよ。造るのに多量の人数を導入してだ、それが古代
のお百姓さんの墓ではないことが自明だろ。なると天皇とほぼ同数
の別王らの陵が畿内にあったこととなり、そういう大王が天皇とは
別にうんと紀無いにいたこととなる。陵は現にあるんだから〜

かように天皇の墓でなくでほぼ同数の大王が畿内に陵建造年代に
天皇と隣り合わせにいたことになるというのがお前の遠回しの主張
だとなるのも同然である。が、そんな大王が天皇とほぼ同数畿内に
いたんなら、そういう十数代とか三十数代とかの大王が天皇らの
生存中、天皇と目と鼻の先に彼ら大王が王統を連ねていたことに
なる。何となれば、今申したとおり、現に古墳が数十基とか存在して
いるのは間違いない事実だから。

これら架空の天皇を多数こさえるために、一基が十年、数十年も
かかる大量の人数を動員して苦労し初めて出来うるモノであるから
して、しかもそれが数十もあったとなれば、創作のためにだ、百年も
三百年も創作のために、多量の人民を働かせてやってたと遠回しに
主張したことになるわけで、お前の豆脳は重症の津田病に罹患して
いるとからかわれても、本気で言われても仕方あるまい。Pu! ww

512 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/24(金) 19:29:55
>>508
ほうら不自然だよ。神武から仁徳までは父子継承だから、それは
やはり不合理だ。だから神武以前に 237年 が位置するのは無理だ。

 卑弥呼≠天照大御神

513 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 19:34:38
>>512
よく嫁。
仁徳朝以前が父子継承一本なのは不自然で、その記述は信用できない、
故にそれを理由に卑弥呼=天照大御神説は否定できないと言ってるんだよ。

514 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/24(金) 19:42:09
>>513
ひとつも不自然でない。それに記紀のどの文も不自然だと誰でも
言える。実際記紀のどこもかしこも一箇所を引っ張り出して不自然
だと日本国中、そういうことを言い出すが連中大した根拠も無しに
言い出すことが蔓延している。だったら神武以前に生存してたこと
になるアマテラスがいたこと自体不自然だとの糊塗、レッテル張り
はいくらでも言い出せる。そうするとお前の等号はお前の言い分と
似た言い分で成立しないこととなる。w
父子継承が合ってないということは、お前の論が不自然だという
ことだぜ。

515 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 20:04:31
>>510

>ま、イザナキは当時から信仰されてた神様だろうね。


アマテラスも神様だと思うのだが。

アマテラスを実在の人物(卑弥呼)とし、一方アマテラスを生んだイザナキは神様だ、
と言い張るのでは、それはあまりにも自分の都合だけの、身勝手で恣意的な解釈というものだ。


ついでに聞く。

スサノヲは実在の人物か? それとも「当時から信仰されてた神様」か?

イザナミは、どうだ?


516 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 20:53:32
>>514
誤解をしてもらっては困るが、俺は卑弥呼=天照大御神説はあり得ないとは言えないという、ただそれだけのことを言っている。
古代天皇の父子継承一本は不自然だと書いたが、それはそれまで父子継承一本で来て、いきなり兄弟継承になるなんていかにも不自然だってことだ。
それ以前にも兄弟継承があったが、父子継承に記述を単純化していると見る方が自然だろ?だとすれば、卑弥呼=天照大御神もあり得るってことだよ。
記紀は大筋では信頼できるにしても、一字一句信頼できるとは言えないと考えるのが妥当ではないかい?
在位年数や宝算にしたって、履中朝以降はあり得る長さだが、仁徳朝以前は生物学的にあり得ない長さになっている。
記述のスタンスがはっきり分かれてるんだよ。

>>515
イザナキは創造神だし、イザナミに至っては他の地域の大女神とも共通の特徴を持つ大地母神だよ。
ついでに言うと俺の考えは、卑弥呼=天照大御神ではなく、卑弥呼=オオヒルメ、天照大御神=オオヒルメ+太陽神(アマテル神?天照御魂神?)だ。
だからスサノヲにしても、実在した卑弥呼の弟と神様の合体かもだな。

517 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 21:00:22
>>511
天皇の墓、天皇の墓と言ってるようですのでお聞きいたしますが、
墓の中に遺体はあったのでありましょうか?
仮に全部の陵に遺体があったとして、その陵の主は埋葬された時天皇として埋葬されたのでありましょうか?

ついでにもう一つお尋ねすれば、各天皇陵は
考古学的に神武の陵が一番古く、二代三代と順次新しくなっているのでありましょうか?

518 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 21:19:54
卑弥呼=天照大御神説はあり得ない

出身地・活躍地も時代も違うからあり得ない

アレキサンダー大王とジンギスカンが別人なのと一緒

519 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 21:26:02
>>511さんが神武天皇崩御を、何時の年代に想定しているかは私にはわかりませんが
仮に神武天皇の崩御が紀元前だと言うのであれば
当然陵も紀元前の貴重な遺跡となり、
それに続く各天皇陵は、その時代年代を代表する埋葬施設となり、
各遺跡の年代指標にもなりうるのではないでしょうか?

520 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/24(金) 21:28:59
>>516
そんなものは不自然ではない。お前が勝手に疑念を糊塗してるだけの
ことだ。むしろお前の自説が不自然なんだよ。
不自然だというのは在位年数より宝算のほうだよ。そこんところは
お前の言い分の不自然だは当然だろう。何となれば、現今でそんな
百数十歳の超長寿が十数代もそこんところの時代だけ長いというのは
不自然に思って当然だろう。
がしかし、それも見かけであって、実際は当時は倍暦を行使して
いたかろ、数字上は不自然でも現今の我々とあまり変わらないごく
通常の寿命えあったわけで、結局不審は解消される。

521 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/24(金) 21:38:22
>>511
それは入れないんだから、質問するまでもなく君も分かるだろう?
入れっこないということは遺体なんか見られるわけがないだろうと
いうことだよ。だからこんな質問はするなよ。分かりきったこと
だろうが〜。

後文もこちらは考古学者ではないし、そこまで追究などしては
いないよ。天皇が創作の架空だとすると、こういう十年、数十年も
かかる造成物が目的もなく漫然と万の労働者を使ってこさえるわけ
がななろうから、それに見合った天皇以外の大王クラスの人物が
当時のい天皇の数だけ畿内にいなければおかしいわけで、その大王
が天皇以外に十数人とか数十人とか、ほぼ天皇と同数いなければ
ならないから、そういう伝承、由緒書きとか、古文献がなければ
そういう主張はとても成立し難いと言いたいわけ。

522 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/24(金) 21:40:53
>>521
>>511>>517の間違いです。訂正します。すみませんでした。

523 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 21:44:49
>>520
倍歴というのは俺も同見解だよ。
俺が言ってるのは、仁徳紀以前と履中紀以降ではスタンスが違う、
仁徳紀以前の記述は、そういった解釈を加えなければそのまま採用はできないってことだ。

524 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/24(金) 21:45:04
>>519
倍暦計上で

 神武天皇崩御年=西暦26年


525 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/24(金) 21:47:46
>>523
同意に近い。
仁徳以前の世は3倍暦が多い。履中と反正の代は2倍暦。

526 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 21:48:18
>>521
でも各天皇と陵の数の一致をおっしゃる以上、避けては通れない問題ですし、各天皇の生きた時代の編年を
する場合も避けては通れない問題と思いますわ。
じゃあ誰の墓なのかなんて話しは、関係のない話しかと

527 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 21:53:19
卑弥呼=天照大御神説はあり得ない

出身地・活躍地も時代も違うからあり得ない


この根拠を教えてくれ

528 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/24(金) 21:59:48
>>526
関係はあるよ。あんなデカイ墓がだ数十もあって、大王とか、一歩
譲って大臣だとかでない〜百姓の墓ではなかろうが。たまには大臣、
皇后あたりで大王級の墓をこさえることはありえようが、うんと
あれば大半が大王の墓群と観てよい。現にそれが畿内にあるん
だからね。

そうなると、当時の天皇が創作ならば、代替的大王が十数人とか
数十人とか同数に近くいたことは堅いということになる。ところが
そんな大王が天皇以外にほぼ同数いたような神社とか墓標、伝承、
由緒書きとかでうんといたなどというブツは見聞したことがない。
だから創作というならば、そういう大王が同数に近くいた根拠、
資料、文献を出さねば、0では創作論は妄想だということになる。
それともお前はその持ち合わせがあ〜るのかい?ww

529 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 22:19:55
>>524
神武天皇陵が比定され現在のように整備されるまでは
その墳形も田んぼの中の土饅頭と形容されています。
それをどのような根拠で神武天皇陵と比定したのか謎ですが、
その田んぼの中の土饅頭がAD1C半ばの墳墓の形態ということにも注目すべきでは
ないでしょうか?
そして四代の懿徳天皇陵は全長30mの前方後円墳
神武の崩御がAD26年ということから推定すると、懿徳天皇崩御はAD2C前半でしょうか?
すると、マキムクの前期古墳どころかAD2C前半には既に前方後円墳が存在していたこととなり
これは凄いことではないでしょうか?

530 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 22:34:32
実在する天皇もいれば、辻褄合わせ的に創作された天皇もいるということ
辻褄合わせ的に創作された天皇の陵なんて
既存の墳墓に重ねて天皇陵と記録に残せば出来上がるわけよ

墳墓も神社も同じこと
神社だって、なんの関連性もない神様を幾柱も同じ場所に奉っているわけで


531 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 22:35:31
>>529
現在の神武陵は比定が間違ってるって意見もあるよ。

532 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 22:37:07
>>530
そう思うならその根拠を示せよ。

533 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 22:39:18
>>514
古代に父子継承がずっと続くのはやはり不自然だと思う。

たとえば、鎌倉幕府の場合は、3代目にしてもう兄弟の継承になっており、
4代目は遠い親戚になっている。
室町幕府にしても、6代目で遠い親戚になっている。
徳川幕府もあれほど跡継ぎに気をつかったにもかかわらず、紀州家などから
将軍を迎えたりした。

10代も15代も子供が生まれ、しかもそれが男子というのは、絶対にないとは
言えないが、かなり無理がある。これは、記録の信頼性が比較的高い
第17代履中天皇以降をみればわかるはず。

534 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 22:47:36
>>532

>そう思うならその根拠を示せよ。

すでに天皇陵は宮内庁という政府の機関が管理しており、お上公認なわけ
そんな公のものに対して、それを覆す根拠などあろうはずがないだろう?
他の人が認めても、お上は絶対に認めない不動の設定なのよ

535 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/24(金) 22:59:50
>>529
倍暦計上では

 懿徳天皇崩御年=西暦 98年
 孝昭天皇即位年=西暦100年

と判明。

536 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/24(金) 23:08:31
>>530
どの天皇が創作なのか? して、創作した理由とは何か?
創作すれば舎人親王らは公文書偽造罪で島流しとかそのへんの罪状
で刑に処せられているはずになろうが、その白州的判決とか処刑
の罪状とかの記録はどのへんにあるのか?

なぜ創作するならば武烈天皇とかの大悪的天皇とかが記紀に載って
るのか? それとも武烈は創作の架空なのか? そうならば武烈陵
でも造成するのに大変なのに〜明治政府の取り違えだというのか?
武烈という大悪人を創作で記紀に載せるより大善人として創作
したほうが都合いいはずなのに、何故彼らはそうしなかったのか?

537 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:09:26
神武陵が現在地に治定された根拠のひとつは
「神武田」という地名

しかし神武田に存在していた小墳丘については
・古墳時代後期の小方墳
・もっと新しい寺院の基壇跡
という2説が有力視されており
AD1Cの墳墓であると考える研究者は皆無

現懿徳陵についてはそれを前方後円墳と考えている考古学者も皆無

それよりも,
現実に存在している古墳に対しては
被葬者の伝承なんていくらでも後付することが可能である
ということに気付いて欲しい
現在の陵墓のほとんどは中世に一度所在不明となっているので
・現○○天皇陵の被葬者は○○天皇
あるいは
・○○天皇の崩御は●年ごろだから現○○天皇陵の築造年も●年ごろ
などと簡単に言い切れるものではない

つまり
>神武の崩御がAD26年ということから推定すると、懿徳天皇崩御はAD2C前半でしょうか?
>マキムクの前期古墳どころかAD2C前半には既に前方後円墳が存在していたこととなり
これは凄いことではないでしょうか?
なんて話にはならない


538 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:15:39
>>535

>懿徳天皇崩御年=西暦 98年

懿徳天皇陵が懿徳天皇存命中からの造成としたら
あの30mの前方後円墳はAD1Cの前方後円墳となりますし
もし崩御後からの造成であってもAD2C前半の前方後円墳となりますね?


539 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/24(金) 23:18:32
>>533
そんなことくらいでは記紀を不自然とするにはまだ早い。記紀
揃ってほぼ同一的皇統系譜だし、古史古伝も誇張はあるとはいえ、
殆どかわらない。旧事紀でさえだいたい同じだろう。

お前さんも死ねば、相続は(細君は別として)お前さんの子供に
相続するだろう? それがいない場合は兄弟だろうがね? 父子が
絶えなければ、そのとおり即子供で行くよ。それともお前さんはお前
さの子がいるのにそれを差し置いて兄弟に財産をやるのかね? それ
とも従兄弟にやるのかね?www 兄弟とか従兄弟に平気で財産を
渡し、不仲でもないのにお前さんの息子らに財産を行かせないほうが
よっぽど不自然だと想うがねぇ〜?w

それを考えたときに、記紀の記載は必ずしも不自然とは言えない。
つまりお前さんの考えすぎなわけ。

540 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:20:13
また犬国のキ○ガイが暴れているのかw

まあ記紀の陵墓の記述に関しては以外と正確で
むしろ後世の延喜式の方が間違っていると思われる例もある。

具体的に言えば百舌鳥古墳郡で誰が見ても大王クラスの前方後円墳の
「土師ニサンザイ」では無く小型の田井出山を反正の陵墓にしているのは
仁徳・履中・反正の墓が南北に並ぶと言う延喜式の記述に引っ張られているからだと言う。



541 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/24(金) 23:21:27
>>538
まぁそんあところだろう。明日以降〜〜
ZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・・

542 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:24:02
>>539
第16代仁徳天皇までは、記紀によると父子継承になっている。
ところが、第17代履中天皇以降は次の通り。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Emperor_family_tree15-26.png

あまりにも変わりすぎている。

543 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:25:01
だが、フトクニの記紀盲信はちょっと引くものがある。
ほとんど信仰に近いほどの無謬論者だし。

544 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:25:54
さてさて纏向の箸墓以前の初期前方後円墳は一体誰の墓なのか?

記紀には纏向には宮があったと書いてありその纏向に当時としては巨大と言って良い規格の古墳がある以上
大王クラスの墓とするのが自然だろう。

それらについて記述が無いのは如何にも不自然www

結局記紀編纂時には既にそれらの墳墓自体が分からなくなっており
伝承も消えていたんだろう。

545 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:34:55
>纏向の箸墓以前の初期前方後円墳は一体誰の墓なのか?

歴史に名を残さなかった人物だから、超能力者に正解をおしえてもらったところで

     「はあ?その人って誰?」で終わる。

546 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:38:25
>>545
名前が分からなかったとしても
大王とするに十分な権力を持っていたと推定できる。

記紀にその記述が無ければ記紀の天皇以外に大王がいたと見るのが自然。

547 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:43:39
宮殿も王宮もないから、大王と呼称するほどの人物じゃないと思うが。

548 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:49:25
結局、犬国の理論wでは要するに

『 古代の天皇の数は古墳が揃っているんだから記紀の陵墓の指定は正しい
  捏造を湖とする為あれだけの巨大墳墓を後から造る馬鹿はいない 』

…って事なんだろうが

元々古代に大王が記紀の記述以上に存在しており
記紀がその数多の墳墓の中からチョイスした可能性を完全に失念しているw

むしろ 万世一系 を盲信する馬鹿にとって
天皇以外の大王の存在をうかがわせる古墳は邪魔だろうにwwwwwww

549 :日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:54:43
>>547
まあ纏向の初期型古墳が四世紀以降と言うのならそれもあるかもしれんがwww

流石に考古学者でそんな事を言っているのはいても少数派なんじゃないかな?wwwwww


550 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 00:02:57
木器しかないような国家の首長が、大王とは大袈裟だな。

551 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 00:04:19
>>550
サイキバ君こんばんわ

552 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 00:04:28
津田病だか水俣病だか知らないが、まさか
こんな所で
「天皇陛下、万歳」
なんて突如言いださないよね?

553 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 00:09:10
>>552
すくなくとも 犬国 にとって万世一系は絶対真理じゃね?w

もし古代に記紀の天皇以外の大王がいたなら
その治世を連続させるための倍暦理論も用無しになるからなwwww

554 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 00:48:42
>>551
何とち狂ってるんだよ。事実だろw
それともサヌカイト=石器か?

555 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 01:03:07
>>549
その年代観の根拠は?もしかして年輪?

556 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 01:14:46
>>554
流石カルト集団の九州王朝説にあってすら最下層のアホのサイキバ君w

古墳時代初期においてすら鉄器の保有は北部九州が上回っており
鉄器の保有数がイコール勢力の大きさで無いと言う事はアホでも分かる事wwwwww

557 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 01:16:17
2010年。
奈良県が重大な発表をする予感・・・

558 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 01:30:26
>>556

妄想君!

559 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 08:06:41
>>557
奈良遷宮かな?
東京みたいなごみごみしたところに都があっても
何もいいことはない。


560 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/25(土) 09:52:30
>>548 ジョーカー
大王が記述以外にいるだと〜?wwwwwwwwwwwwwww
Pu!pu! 笑わせるな。wwwwwwwwwwwwwwwww

そんな大王いるんなら記紀にそいつらの大王をやっつけたとかいう
記述が載る。隠す必要もあるまい。朝廷側の皇統は残ってるん
だから、滅亡した大王はオマエ朝廷側が攻め滅ぼしたとかの記述を
必ず行うに決まっている。退治すればそんな古墳を破壊するのは
造るよりは簡単だ。邪魔にもなるまい。
そんな大王を滅亡させたことを記紀に柿渋るなら、武烈の大悪ぶり
でも抹消したほうがよっぽどマシだぜ。つまりそんな大王なんか
紀無いにはいるわけがないということだ。そんな大王はオマエの創作
なわけだよ。ww

561 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 10:37:15
>退治すればそんな古墳を破壊するのは造るよりは簡単だ

見瀬丸山は?

562 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/25(土) 10:49:58
細かく調べりゃぁ、なんでも例外はあろう。
だいたいそんな大王が天皇のわきの地域にいて、記紀に載らないのは
おかしいと言ってるわけだ。隠したとかなら、武烈の大悪を隠し
たほうがマシだろうが〜。それにそんな大王の王統がずっと続かず
もう無いんだから、仮にいたとしてもだ滅亡なんだから、滅ぼしたと
か類似の内容で記紀に天皇との葛藤とかが載るし、各神社の伝承とか
由緒書きにも残ってもおかしくはない。ところがそんな王統の活動等
とかの伝承等はないだろうが〜。だからジョーカーの豆脳の妄想。


563 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 11:09:50
>そんな大王が天皇のわきの地域にいて、記紀に載らないのはおかしいと言ってるわけだ。

自分で自分の頸絞めてどうするの?
だから、見瀬丸山が記紀に載ってないのは「おかしい」と言ってるわけだ。
犬は知らないことだろうが、これは全長318m、高さ21m、奈良県最大の古墳だよ。
何で記紀にこの墓のことが書いてないのさ。
「例外」とか言って誤魔化せるものじゃないでしょ。

>隠したとかなら、武烈の大悪を隠し

記紀なんて中国の史書のパクリ、猿真似なんだからさ、
そのためには、愚帝・賢帝取り揃えておかなけりゃならないのだよ。
フィクションはフィクションとして楽しめ。

564 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/25(土) 11:30:05
>>563
それくらいじゃフィクションにはならない。お前こそ、都合の悪い
武烈の記事があるのが〜取り揃えるなどと言い訳にもならないぜ。
そういう武烈の大悪が書かれているということはだ、フィクション
ではない。創作ならば取り揃えるとは逆をするぜ。抹消するさ。
刑事犯の大悪を犯した未知の犯人が、それを隠し、分からないように
くらますためには、自己の大悪を取り揃えて公表しておくなどとは、
交番の前で逃げるために「俺は大悪をしました」などと言うはずが
ない。稀には自首であろうがねぇ〜。www
職務質問されて、大悪を隠して「やってません」と否認するのが
常だぜ。ハハッ、オマエの豆脳は簡単に交番の前で大悪を自供
するのか〜〜?? これならケーサツも苦労はしな〜い。みんな事件
が軽く解決してしまう。まぁオマエは例外か〜?素直でいい。Pu!

結局〜お前の豆脳の妄想なwaけだ。wwwwwwwwwwa!

565 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 11:36:54
>都合の悪い武烈の記事がある

どこが都合悪いの?
愚帝・暴君が居ない王朝なんて国際標準じゃない、と思っていれば、これは都合の良い記事だろ。
都合が悪いと思ってるのは犬君の方だろう。

で、奈良県最大の前方後円墳の主はダレなのか、記紀には書いてないのは何故?



566 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/25(土) 11:40:14
>>563
オマエも人がいいなぁ〜。仮にだ、オマエの両親が大悪でムショに
入ってたなら、オマエは公表するのか〜? まぁそうでないだろ
うし、未経験なことだろうから、分からないんだろうがね?
通常だったら、こういうことは家の恥でヒタ隠しにするぞ。それを
オマエは取り揃えて公表できるようにしておくなどと〜そんなこと
はアホ等でない限り、知られたら不利益になるので隠すのに必死に
なる。それをお前は恥を公表、取り揃えて開示するなどと言って
いるのだ。wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
家族に殺人を犯した奴が出たら、通常は夜逃げの悲劇だぞ〜。

567 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/25(土) 11:53:56
>>63
オマエは仮の話だが、創作をオマエが行い、大悪をしてもないのに、
うちの家の某が昔殺人犯ですなどと、創作を実話のように言いふら
すのか〜?? いい加減なことを言うなよ。
そうれをOmaeは平然とその創作を友人に言えるなら、やってみると
好都合に行くか? むこうは本当かかと言って、お前が創作を隠し
実話だとか言えば、もう友人はあおい顔をしてあとでトンだ事柄
が起きるだろう。時代が近ければケーサツに通報されると大騒ぎに
なろう。そんなことはお前だってするはずがないぜ。だからお前の
言い分は、遠回しに自語相違だってことだよ。つまり武烈の大悪は
朝廷にとって都合の悪い記事なのだ。取り揃えなどはお前の空想
なのだ。それも即興のいい加減な抗弁だよ。w
だから記紀のそこは事実をありのままに後世に伝えたのだ。断じて
お前のいう創作ではないぜ。〜もう妄想は止めようよ。

568 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 12:22:36
都合の悪いことも書かなきゃリアリティが無いだろう。
一番大事なことは、自分の家が古来連綿と続いていたと読者に認めさせること。

犬的には史実であれば「都合の悪い」ことも書かねばならぬわけだろ。
だったら、フィクションでも同じことだ。
もっともらしく話を進めるには、都合の悪そうなことも散りばめなきゃならんだろう。

だいたい、愚帝がいなけりゃ、賢帝の賢さが目立たない。
そして、その損な役回りは、直系ではなく傍系に押し付ける。
だから、安康とか武烈とかは、そこで系譜がちょちょぎれるわけだ。

で、奈良県最大の前方後円墳の主はダレなのか、記紀には書いてないのは何故?
例外などと言って誤魔化さずにちゃんと答えろw

569 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 12:22:43
>>567
遂にお迎えがきたようで。
自分のレスにアンカー打っての一人芝居は、観ている者に哀しみを与える光景
かと

570 :568:2008/10/25(土) 12:26:54
いかん、ちょいと書きすぎた。

>安康とか武烈とかは

俺は、記紀のどの部分が史実でどの部分がフィクションなのか突き詰める必要は無いとする立場なので、
このあたりはどうでもよいことだった。

571 :出羽蝦夷:2008/10/25(土) 12:27:34
「卑弥呼は邪馬台国の女王ではなかった?」という内容の本が出るそうですが、本当でしょうか?
http://d.hatena.ne.jp/emiyosiki/

以下、一部引用
>秘密その2 卑弥呼は邪馬台国の女王ではなかった?!
> 卑弥呼は倭国の女王であって、邪馬台国の女王とは限りません。どんな辞書にも卑弥呼は邪馬台国の女王と書かれていますが、実は原典である『魏志倭人伝』には、そんなことは一言も書いていません。

572 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 12:42:40
>>571

>卑弥呼は邪馬台国の女王ではなかった

卑弥呼は「倭王」、邪馬台国は「卑弥呼の都」、そんなの当たり前の話でしょうw
その本を読むくらいなら三国志そのものを読みなさいよ。

>どんな辞書にも卑弥呼は邪馬台国の女王と書かれていますが、

これウソ。
ちなみに手近なWIKIに頼ると

 卑弥呼とは「倭国の女王(倭王)。邪馬台国を治めた。封号は親魏倭王。」

 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC

573 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 12:45:15
>>571

卑彌呼宗女壹與と書かれているように、壹與は卑弥呼の中から選ばれた。
卑弥呼は単独ではなく、常に複数な訳よ、そしてその中から女王が誕生するので
貴方の問題提起は
根本的におかしい。

574 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/25(土) 13:11:33
>>568
妄想の防衛、乙彼さん。
そこまで張り巡らして紀をこさえはしないぜ。www
そういう操作、小細工うをやるなら、そういう事実を隠して奇麗事
のみ書くのが創作の可能性が出て来ると観るべきだ。その逆の
大悪が書かれてるんだから、他ならぬお前の操作苦だと観るべき
だ。wwwwwwwwwwwwwwwwww だいたい〜
そんなことをすれば舎人親王らは公文書偽造で流罪等なる。そういう
彼らが処刑された古文書や資料があるのか? あるんならまた考え
てやろう。wwwww
お前の家系はイカサマはないのか? そのようにお前んところも
大悪を、大悪が無いのに有ったことにする張り巡らしはやって
たのか? オマエの親はそんなアホではなかろう?

575 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 13:22:00
>>574

>舎人親王らは公文書偽造で流罪等

何でさー

で、奈良県最大の前方後円墳の主はダレなのか、記紀には書いてないのは何故?
早く答えろ


576 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/25(土) 13:22:12
>>568
>古来連綿といていたと読者に認めさせる
当たり前だ。あったから認めさせるわけだ。無かったことを認め
させるために、いちいち数十の陵を十年も数十年も万の労力を駆使
してやるわけがなかろう。天皇の陵でないと頑張るなら、あの位の
大規模の古墳は大王クラスなんだから、おおむね同数の大王が天皇
とは別に当時紀無いにいたことになるが、そな伝承、由緒が古い
神社にもなかろうし、記紀にも天皇と大王が交戦したとかの影響力
を及ぼしたような記事も全く無い。ということは、そんな天皇以外
の大王が同数的に畿内にいた論こそお前らの操作苦、津田病のお前の
豆脳の、所作、考察だということにな〜る。wwwww

577 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 13:30:01
>>576

> いちいち数十の陵を十年も数十年も万の労力を駆使 してやるわけがなかろう。

ダレが、そんなもん作るかw

> 天皇の陵でないと頑張るなら、あの位の 大規模の古墳は大王クラスなんだから、
> おおむね同数の大王が天皇とは別に

「別に」?
て、記紀の天皇が「存在」したこと証明として「記紀の天皇の存在」を使うのかよw
こりゃ、循環論法以前の犬論法だなw
まあ、犬にはこの矛盾も理解できないだろうがw

> 当時紀無いにいたことになるが、そな伝承、由緒が古い
> 神社にもなかろうし、

三世紀から続いている神社ですか?
何処に有るの?
三輪ですか?阿蘇ですか?出雲ですか?

> 記紀にも天皇と大王が交戦したとかの影響力
> を及ぼしたような記事も全く無い。

またまた、循環以前の同文内証明かよw
「AはAだからBでない」これを犬論法と名づけよう。

で、奈良県最大の前方後円墳の主はダレなのか、記紀には書いてないのは何故?
なぜ、答えないのかな?

578 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/25(土) 13:34:42
>>561
見瀬丸山古墳は欽明天皇の真陵説が有力ですが、蘇我稲目説もありますね。
蘇我氏なら、書紀が無視している理由も分かるかと・・・?

579 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/25(土) 14:06:51
>>577
いいんだよ、そんな選手兼審判論法でお前が能書きを垂れる必要は
ない。選手で審判も兼用なら、それこそお前の都合のいい採点操作苦
がいくらでもできる。
そんなことより選手のみの論法でやってこい。それにあまり関係の
薄い話を大げさにどうのこうのとしゃべりまくるのも、その件に
関してまっとうな論述が出来ないのかということを内外に示すような
ものでお前の言う取り揃えをやってるような所作なわけで、そういう
小細工はもういいから、焦点をもっと絞って言ってこい。

お前の妄想の防衛をどんなふうに言い出すのか、オモシロイ。ww

妄想なんだよ。お前の論は〜〜。つまり津田病の重症症状が出て
るわけで、早急にお前の脳内の点検を始動するのが第一だ。ww
武烈が創作だとよ〜。ww お前の話が操作苦だろう?ww

580 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 14:44:05
>>579

> いいんだよ、そんな選手兼審判論法で

誰が審判なんだよw
「〜のわけがない」「〜するわけがない」と勝手に判定を下しているのは自分自身だろう。
まさに審判兼任の御犬様論法じゃないかw

> そんなことより選手のみの論法でやってこい。

それは、犬が先ず実践すべきこと。
先ずは、コツコツと記紀の記述のどこそこが史実であると実証しなさい。

> 小細工はもういいから、焦点をもっと絞って言ってこい。

じゃ、絞るよ。
記紀は、奈良県最大の見瀬丸山古墳の存在に何故触れないのか?
記紀の大王達より立派な墓を作るなんて、もの凄い大工事だろう。
何で、一言も触れてないのかな?

この件についてオマエの見解を知りたい。

581 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 14:53:36
>>576
一々何百もの社を建てる行為と変わりはない。
社はOKで陵は×かい?
社は幾柱も神様重ねてるのだから、過去に造られた墳墓に天皇の名義だけ重ねても
不思議じゃないぞ

582 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 14:59:08
横レス、スマソ

>>580
>記紀は、奈良県最大の見瀬丸山古墳の存在に何故触れないのか?
>記紀の大王達より立派な墓を作るなんて、もの凄い大工事だろう。
>何で、一言も触れてないのかな?

日本書紀が触れてる可能性はあるんじゃない?
なぜ「一言も触れてない」と?

でもこの話題は卑弥呼から遠いし、
別スレ立てて議論したほうがいい希ガス


583 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 15:11:38
>>582

> 日本書紀が触れてる可能性はあるんじゃない?
> なぜ「一言も触れてない」と?

例えば何処あたりに出てきます?

584 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 15:17:08
まあ犬国にとって『 万世一系の皇統譜 』は倍暦の大前提だからなw
何が何でもその血統・治世は記紀に書いてある通りで無いと倍暦理論その物が無意味に成ってしまうwww

纏向の初期古墳、いわゆる纏向型前方後円墳の話で言えば
その実年代をどう見るかは置いといても箸墓より後の物とする馬鹿な考古学者はいないわけでw
築造当時は当然国内最大級の古墳。

そんなシロモノがヤマト王権の中枢も中枢、三輪の麓、纏向遺跡の中にあるのに
「記紀に書いてないから関係ありません」じゃあアホの戯言以下wwwwww

…しかし犬国に限らず、この板の九州説と万世一系、皇国史観の親和性の高さは異常wwwww


記紀神話を元ネタにしちゃっている以上当然の帰結なんだろうがwwwwwwww


585 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 15:36:23
>>578

欽明の陵は「檜隈の坂合」にあるとされていますが、見瀬丸山は「檜隈」よりもずっと北の「軽」にあります。
古代の檜隈は、現代のそれより広かったのでしょうが、軽も広かったでしょうからね。
稲目の墓かどうかは、何とも申し上げようがありませんが、当時の蘇我の勢力地(飛鳥)からも離れているかと。
かと言って、三輪の圏内かと言えばそことも少し離れていて、何とも微妙な位置に奈良県1は存在します。

586 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 15:36:59
>>580

まあ犬国が「審判論法」なんてアホ丸出しの造語
( 本人は 「循環論法」に対抗しているつもりらしいがw )
を出した時点で 犬国ちゃん 発狂 M A X ! だからwww

要するにこのアホにとって記紀の内容を絶対とするのがルールで
それを弄るのはルール違反。

故に・・・
 
 「お前は審判を兼任してルールまで変えてしまっている!」

などとアホの戯言を叫び出すんだよwwwwww

587 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/25(土) 15:50:48
>>580
お前の妄想だ。つまりお前の論は0点。マイナス点をつけないだけ
有りがたいと思え。wwwwwwwwwwwwwwwwwwww

あ〜ん? だいたい数十基あるとしてそれが天皇の墓でなく紀無い
に別の大王がわんさといたのなら、日本の古文献にこれでもかとの
記述が載る。それがからきし存在しないのであれば、そんな大王の
王統が天皇らとは別に紀無いにいたことにはならない。つまりだ、
お前の主張する天皇でない大王とは、オマエの豆脳の副産物な
わけさ。wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
そんな大王なんかお前の創作なわけで、それこそ架空の人類だな。w
現に数十も陵があるんだから、そんな大王がオマエのロボットなら
記紀等の古文献にこれでもかと記載が残る。wwwwww

588 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/25(土) 15:54:51
>>585
そうですね。
ただ、時期は6世紀後半と見られ、卑彌呼の時代とは関係無さそうです。

589 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/25(土) 15:59:12
>>581
その神社の神名が創作ならば、当然記紀の編者連とか朝廷が全国に
配下を出張させて創作神を造れとのおふれを行き届かせ、彼らの
反対を押し切って万の社の祭神作りを偽作するために行政代執行を
敢行せねばならない。そんな労力は朝廷はするわけがなく、お前の
言い分は砂上の楼閣をさも堅牢のように言ってるにすぎず、利口
な奴らはお前に騙されるほど愚かではな〜い。ww
仮にできたとしても、いずれは神官から虚偽をしたとの口が漏れ
れて、コトは失敗に終わる。つまりお前の考えすぎなわけ。


590 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/25(土) 16:03:06
>>584 ジョーカー
それはあるから心配はない。また余は津田病患者ではない。それより
ウヌの豆脳のほうが心配だ。wwwwwwwwwwwwwwwww
大王が天皇以外に紀無いに大勢いたというなら、その古文献、資料
をうやうやしく出してみろ。wwwwwwwwwwwwwwww

591 ::2008/10/25(土) 16:04:47
>>586 ジョーカーよ
ウヌの豆脳もそろそろ支離滅裂になってきたようだな? 大丈夫か?
あまり興奮するなよ。wwwwwwwwwwwwwwwww

592 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 16:14:02
籠神社の勘注系図にはいくつもの国府の印が押されてるのは、
政治的干渉があった証拠だね。

593 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 16:15:32
見瀬丸山古墳についてはこのページが参考になるよ
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2005_06_29.htm

このように現在でも学者間でいろいろ異論あるわけで、
議論したいんだったら、
「見瀬丸山古墳ドンと来い!」
みたいな新スレ立ててそっちでやったほうがいいと思うね

594 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 16:22:37
>>590-591

まあ「太」の一字でもキサマって分かるけどなwwwww

文献なんざあ無いね。

ただ纏向の初期型前方後円墳が

  動かぬ 「 物証 」 だよwwwwww

その大きさ、及び場所、大王以外の何に考えますか?

って話でwwwww

世の中お前みたいな皇国史観、記紀原理主義丸出しで
  
 「記紀ウソつかない」

を繰り返してりゃ納得してもらえるほど甘くないぞ?wwwwwww

595 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 16:48:47
そもそも現在指定されている欠史八代の陵墓って
年代は置いといても墓としての実態あるのか?

…まさか中には単なる丘陵地を指定してしまってるなんて事は無いよな?wwww

参考) 天皇陵
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/index.html

596 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 17:04:54
>>589
>その神社の神名が創作ならば、当然記紀の編者連とか朝廷が全国に
配下を出張させて創作神を造れとのおふれを行き届かせ、彼らの
反対を押し切って

アンタ相当な詐欺師だね。
話の内容をいつの間にか「反対を押し切って」というような内容に作り変えて
自分の方向に持ち込もうとしている。
そうしないと、これから組み立てようとするアンタの考えるような内容にならないから
アンタにしたら当然の誘導だわな。

アンタが適当に話を作ったために、アンタの

>万の社の祭神作りを偽作するために行政代執行を
敢行せねばならない。そんな労力は朝廷はするわけがなく、お前の
言い分は砂上の楼閣をさも堅牢のように言ってるにすぎず、利口
な奴らはお前に騙されるほど愚かではな〜い。ww
仮にできたとしても、いずれは神官から虚偽をしたとの口が漏れ
れて、コトは失敗に終わる。つまりお前の考えすぎなわけ。

という発言は、何の意味も持たないただの落書きという
結末を、自ら作り出してしまったわけだ

597 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 17:10:50
>>584
>纏向の初期古墳、いわゆる纏向型前方後円墳の話で言えば
>その実年代をどう見るかは置いといても箸墓より後の物とする馬鹿な考古学者はいないわけでw

いるよ
「馬鹿」かどうかは知らないけどね


598 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/25(土) 17:34:14
>>594 ジョーカーよ
よくそな口をたたけたもんだ。お前は自分で津田病患者だと公言
したも同然だな。稲荷山鉄剣の雄略の大彦の銘文が出てきても、
お前はま〜だ自分が妄想だなと感づかないお前の豆脳が哀れでしよ
うがな〜い。古事記の太の墓誌も出てるんだから、どうせお前の言う
架空論はいずれは沈没で大恥をくのがオチ。PuPu!wwwww

古代エジプトにも王妃のほうをかわいがって、王が彼女のために
ドでかく神殿を建造した事例もあるし、すこしばかりは大王でない陵
があってもそれはおかしくはな〜い。いずれまたブツが出てなおも
記紀にある人名が出て愕然とするのがお前らの豆脳、精神状態の
ベクトルの末蕗なわけさ。wwwwwwww

599 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/25(土) 17:42:28
>>596
おフザケは止めたほうがいいぞ。余がどこで他人を欺罔し錯誤を
与えて金とか財産上不法の利益を得たというのか?NNN・・・
根葉もないことを言うな。


600 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 17:45:13
>>598 犬国

おい犬、俺がいつ記紀の全てがデタラメって言った?

>>540 は俺だが、お前みたいな

 『 記紀の丸呑み or 全否定 』

の如き馬鹿丸出しの二択をしないと言う事だよアホw


仮に記紀の古代の天皇が全て実在していても
それが連続しているのか?
他に王がいなかったのか?
・・・とは別問題だ。

まあこのキ○ガイに何処まで日本語が通じるのか分からんがwwwwwwww


601 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/25(土) 17:50:15
>>600 ジョーカー
そこまで自信があるなら、早くそういう大王の活躍が多々書かれて
いる古文書とかをうやうやしく提示するんだな。できないとなりゃぁ
お前の妄想がエイトマンのように先行してることを物語ることに
なる。もう妄想は結構ザンス。wwwwwwwwwwwwww

602 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 17:55:25
>>601 犬国

馬鹿か?

世界中の古代遺跡全てに文献が付属しているとでも言うのか?

少しは考えて物を言えアホwww

お前の如きオカルト○チガイに言っても理解しないだろうが
記紀は別にアカシックレコードってわけじゃあないんだぞ?www





603 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/25(土) 18:04:07
このサイト面白い。
ttp://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jimukita/jimkita7.html

「作為」「創作」という安易な逃避ではなく、欠史八代の謎について真摯に説明していると思います。

実際は、神武の奈良盆地侵入は「神武東征」ではなく「神武東侵」であって、
畝傍山周辺を中心とする「磐余(いわれ)」と呼ばれた地域の主になったに過ぎませんでした。
そしてこのような事情を物語る伝承も語り継がれてきたと思われますが、その伝承をそのまま記述すると、
天照大神の意思による「神武東征」と「天(あめ)の下(した)治らしめしき」いう大義名分が成り立たなくなります。
二代綏靖以降の奈良盆地平定の経過は一豪族の成長過程に過ぎず、その過程をそのまま記述することは、
近畿天皇家こそが「天の下」を支配する唯一無比の血統を継いでいるのだ、という大義名分を主張する根拠を失ってしまうことになります。
近畿天皇家こそが日本列島を支配する唯一無比の正統な血筋であることを主張するために、
奈良盆地平定に奔走した二代から九代までの伝承を説話として敢えて記述しない道を選んだのでしょう。



604 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 18:12:50
津田が得意満面で大騒ぎした「欠史八代」のアジ・コピーに
みんなで踊らされる必要など、芥子粒ほどもない。

605 :ローガン:2008/10/25(土) 18:15:49
>>434
> 普通だったらそれでお仕舞にしたのですが、丁度いい機会だったので
> 細かいところで粘ってみましたし、これは後ほど
> 景初四年鏡のところでも触れるであろうからと判断し

河童虫さん。どういう意味ですか?議論が賑かだったのでききそびれた…。

この話しの発端は唐松山さんでしたね。
「景初四年五月丙午之日」 ひと月の内に丙午が出てくる確率は1/2?
とすれば単なるお約束の吉祥句だったとしても、半分は整合しますね。
これでは景初四年鏡銘文の丙午が月内のものであると言えても、「七支刀銘文の丙午が単なる吉祥句ではない」という根拠にはならないのではないですか?
赤烏元年五月廿五日丙午は先日書きました。
黄武七年銘鏡には「七日甲子」とありますが、吉祥句として丙午も使われているそうです。(孫引きですが)

606 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 18:26:12
問題は纏向の前方後円墳の位置付けで
欠史八代を実在とするのなら、もう葛城朝と三輪朝の並立時期があった
…としか考えるしかないんじゃないかな?wwwwww



607 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/25(土) 18:30:44
>>606
磯城県主(しきのあがたぬし)など、該当しそうな伝承があります。

608 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 18:32:39
>>599
話しを「詐欺師」にピンポイントさせ、以下の話題に触れないよう努力していますなあ。

609 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 18:58:51
>>605
河童puが言いたいのは、景初四年鏡が国産か舶来かの関連性じゃねえか?

610 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 19:45:13
キキに書かれている実在天皇なんて半分以下だろう。
半分以下の天皇を飛び地にし、間に神武以前の人物を天皇にし挿入組み込めば、いくらでも古く長い天皇の歴史が出来上がる。
陵墓なんて
その辺に散在する墳墓に名義だけ重ねればOKなんだから。

611 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/25(土) 19:58:25
日本書紀・神功皇后紀の新羅王「波沙寐錦」西暦200年に登場。
三国史記・新羅本紀の「婆娑尼師今(婆娑王)」在位80〜112年。
300年前後を起点として、三国史記は2倍に延長されていると仮定すると

阿達羅王20(173)年の「卑彌乎」遣使の記事は237年ごろ
伐休王10(193)年の倭人飢饉「千余人」渡来は247年ごろ

となり、面白いと思います。
247年は崇神初期の國内多疾疫、百姓流離に当り、九州の邪馬台国・韓国にも
影響が及んだのではないでしょうか。


612 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 20:24:32
>>610
陵墓の方がはるかに多いわけだから、天皇の数はもっと多くなきゃおかしいよね?

613 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/25(土) 20:28:10
>>602
天皇でない大王が畿内にゴマンといるんなら、少しはその影響力
からの情報が記無いに入りこみ、記紀に載るに違いない。
そういう文が一切無く、天皇のではないという巨大古墳の陵が数十
とかあるんなら、かたや文献にもそれに比例したくらいの大王らの
文があってもよさそうではないか? それが全くと言ってよいほど、
根子の額ほどの記載も記紀に無く、かたや神社の伝承、由緒書きにも
それらしき記事が無く、あるのは天皇の伝承とそういうものしか無い
だろう。
だからジョーカーさまの言い分は、妄想のビッグ・バンたる哀れな
ジョーカーさまの豆脳の活動以外の何物でもな〜いのだ。www

614 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 20:28:12
陵は別に天皇用だけじゃあるまいに。

615 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 20:29:43
>>613

だから見瀬丸山は何なんだよw

616 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/25(土) 20:33:13
>>610
その組み込んだということでの公文書偽造罪で、舎人親王は流罪
くらいの処刑はあろうから、その判決と処刑の様子はどの古文献に
記載が残されているのか?

617 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 20:34:19
意味ワカンネw

618 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/25(土) 20:34:47
>>614
じゃぁ百姓の墓なのか?

619 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 20:42:28
> 618 名前:犬国 ◆yVAs7uaYlY [] 投稿日:2008/10/25(土) 20:34:47
> >>614
> じゃぁ百姓の墓なのか?

コイツ、日本書紀がどうのこうと言ってる割にはさw
「陵」の定義も理解してないのなwwwwwwwwww


620 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 20:46:44
>>616
>その組み込んだということでの公文書偽造罪で、舎人親王は流罪
くらいの処刑はあろうから

起訴されていればなんらかの結果がうまれるでしょが、起訴されなければ
何もありません。


621 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 20:49:41
デブ国は自分でも何書いてるか、わかんなくなってるよ。
支離滅裂

622 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 20:50:46
だいたい記紀の皇統譜は、日本書紀編纂以前の成立だろう。
何で舎人親王とか出てきちゃうわけ?
どうでもいいけど。

623 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 20:51:13
>>613
>天皇のではないという巨大古墳の陵が数十
とかあるんなら、かたや文献にもそれに比例したくらいの大王らの
文があってもよさそうではないか?

「あってもよさそう」と考えるアンタの個人的な疑問には、「なくても一向に構わない」という
一文を以て答えてみましょう。

624 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 20:52:20
>>621

へー、アイツはデブなのか。
そういわれりゃ、そんな気もしてきたぞw

625 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 21:01:40
>>622
舎人親王は書紀編纂の責任者ですが・・・出てきちゃいかんの?。・゚・(ノД`)・゚・。

626 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 21:05:54
だって、舎人親王が皇統譜を作ったわけじゃないだろう。
犬国本人は、そう思い込んでるみたいだけどさww

627 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 21:37:54
犬は遂に尻尾巻いて逃げ出したのか?wwwwwwwwwwwwww

628 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/25(土) 22:58:08
>>619 ジョーカー
もういい加減に津田の妄想に目を覚ますんだな。www
それがひどくて治らんとなると、だいぶ>>621 >>626 >>627ととも
に相当左党を舐めてるということになり、まぁ奴らとともに可也の
重症だろうなぁ?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

お前の餌舐める質も象牙質もかなり欠歯八代となってスッカラカン
か〜??wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
そのうちオマエの神敬質もイカレる時間が相当切迫の危機にあるよう
だ。これおがやられるともう救いようがない。wwwwwwwww
象牙の塔にいる奴らは相当左党を舐めている連中が多在している。

早く妄想から脱出したほうがいい。お前の津田歯の断面は非常に
危険な歯層の状態にある。津田の左党紀備をたらふく舐めてるから
そういう武烈が無いなどと妄想を欲しいままにすることになるのだ。
オマエの豆脳は歯科医糖と強酸糖の蔓延で危険な歯層の状態にある。

629 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 23:19:16
右や左の旦那様…か?
バッカじゃねえの?





頼むからここで「天皇陛下、万歳」しないでよ。

630 :日本@名無史さん:2008/10/25(土) 23:20:54
>>628
> >>619 ジョーカー

前から聞きたかったんだが、「ジョーカー」って何の意味で使ってるんだよ?

> もういい加減に津田の妄想に目を覚ますんだな。www

何で津田が出てくるんだよw
現代の学術用語としての「陵」の話なんかしてないよ。
日本書紀で使われている「陵」が何を指しているのかって話だ。
それも知らんくせに記紀がナンたらとか語られてもなあw
自分の思い違いを自ら正す気があるなら、もう一度だけチャンスをやろうか?

> それがひどくて治らんとなると、だいぶ>>621 >>626 >>627ととも
> に相当左党を舐めてるということになり、まぁ奴らとともに可也の
> 重症だろうなぁ?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
> お前の餌舐める質も象牙質もかなり欠歯八代となってスッカラカン
> か〜??wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
> そのうちオマエの神敬質もイカレる時間が相当切迫の危機にあるよう
> だ。これおがやられるともう救いようがない。wwwwwwwww
> 象牙の塔にいる奴らは相当左党を舐めている連中が多在している。
> 早く妄想から脱出したほうがいい。お前の津田歯の断面は非常に
> 危険な歯層の状態にある。津田の左党紀備をたらふく舐めてるから
> そういう武烈が無いなどと妄想を欲しいままにすることになるのだ。
> オマエの豆脳は歯科医糖と強酸糖の蔓延で危険な歯層の状態にある。

全く日本語になって無いぞw
それにオマエさん、実際のところ記紀なんて読んだこと無いだろう。
記紀の内容の話になると余りにレベルが低すぎる。
電波系のネタ本に出てる現代語訳の抜粋くらいしか見ていないと思うのだが。


631 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/25(土) 23:33:38
>>630
どうだだいぶオマエの豆脳は史想脳露雨の状態になっていないか?
あ〜ん?どうだ〜?ジョーカーよ。wwwwwwwwwwwww
オマエ相当左党が好きだろう?wwwwwwwwwwwwwwww

余は記の前文はすべて暗記済みだ。読んでないなどと、墓が天皇ので
ないなどと、オマエの話は相当史離滅裂である。オマエ、明日でも
精神科へ行って、豆脳を診てもらったほうがいいぜ。

相当オマエは歯科医糖と強酸糖が歴歯の中に発生していて、もはや
手遅れかも知れないぞぅ?? 左党を舐めるのもホドホドだぜィ。

ZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・・・・・

632 :↑ :2008/10/25(土) 23:54:48
>>631
発狂して

電波撒き散らして

犬国の一日は終わるのであったwwwww

633 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 00:22:36
>>631

> 墓が天皇のでないなどと、オマエの話は相当史離滅裂である。

俺はそんなことは一言も言っていないがw

> 613 名前:犬国 ◆yVAs7uaYlY [] 投稿日:2008/10/25(土) 20:28:10

>そういう文が一切無く、天皇のではないという巨大古墳の陵が数十
とかあるんなら・・・・

> 614 名前:日本@俺様[sage] 投稿日:2008/10/25(土) 20:28:12
陵は別に天皇用だけじゃあるまいに。

> 618 名前:犬国 ◆yVAs7uaYlY [] 投稿日:2008/10/25(土) 20:34:47
>>614
じゃぁ百姓の墓なのか?

この流れを見て、己の浅慮に気づけば許してやってもいいけどな。

634 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 00:33:41
犬は毎日街宣車に乗り込み、同じセリフをエンドレステープのように
垂れ流しているだけだから
「津田病」が飽きたら「北方領土」を言い続けるんじゃないの?

635 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 02:02:30
御陵の話がひと段落ついたようなので、>>430の景初三年後十二月のことについて。

>後十二月は閏の月であって正の月じゃないから、計算上は入らない(これは秦歴が三統に含まないのと同じ理屈)
>だから 小称月はかぞえ13か月目の同月同日は正始元年春正月となってしまい
>それだけでは単に一月増やしたに過ぎないんだよ

上記のレスは、三統説と置閏の違いが解っていないので、両者を混同した結果だというのがようやくわかった。
それを説明しようと思う。僕も暦法を完全には理解できてないので、間違いがあれば指摘してくれ。
まず、一年は12ヶ月ではなくて、端数がある。
一年=12か月+7/19
閏月というのは、年々たまっていくこの端数「十九分の七」の部分によるズレを解消するために置くもの。
一年を十二ヶ月として人事を回しているんだから、本来存在しない月が閏月とも言える。
>>430が言う計算上は入らないというのはこのことだろうね。
これに対して、景初から正始に移るときの後十二月は、これとは本質的に意味が違う。
月建というのは、建子・建丑・建寅〜建亥で、十二支を12ヶ月に配当したもの。
建子の月が冬至の月になるのは動かないけれど、どの月を正月と呼ぶかは夏正・殷正・周正で変動する。

景初から正始への変わり目で、正月が建丑の月から建寅の月に移動して、
そのため建丑の月の呼び名が無くなってしまったので後十二月と名付けたというのは、
端数「十九分の七」の問題ではなく、12ヶ月の部分の呼び名の変更の問題。
後十二月となった建丑の月を閏月と勘違いして計算上に入れないと、
地球は十一ヶ月で公転することになる。
呼び名は歳末置閏法と同じ後十二月だから、それだけ見ると閏月かと勘違いするかもしれないけれど、
本質は閏月ではないし、建丑の月は無くならないので、
明帝崩御から13か月目は景初三年後十二月になる。
詔で建丑の月を後十二月、建寅の月を正始元年正月とした以上、景初四年正月が存在する余地はない。

後十二月が計算上に入らないから、13ヶ月目が正史元年春正月になるというのは、
三統説での正月の移動と端数処理の為の置閏とを混同したために起きた勘違いだということが、
この説明で伝わったかなあ?

636 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 05:11:42
>>635
暦の移動で丑が無くなり子から寅に移ってしまう為に、景初三年後十二月を置き丑を
間繋ぎにしたことは
かなり前のレスで説明済みだったけどね

637 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 05:39:05
しかし、どんなに暦を変えようとも亡くなった日は
ずらせない。
景初三年春正月朔に亡くなった人の小祥忌は同じ年には行わず
年が変わりかぞえ十三ヶ月同月日に行う行事。
行事は天体周期で行われるわげでなく、暦日に沿うから建丑が重なっただけではダメなの
詔で、小祥忌を建丑にとしない限り後十二月には行わず、正始元年春正月朔に

これは天体周期の閏じゃなく、行事的に閏なんです。三月一日に亡くなった人の法要は二月二十九日ではなく三月一日

この二月二十九日は
天体周期で366日目だが、行事周期では三月一日が366日目なんです。

638 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 06:43:36

>>1

ふと、感じたこと。

△鏡は現在では出土枚数と日本限定版という理由から現在では国産鏡
説が主流だと思う。この場合は、4世紀前半の権力者が魏志の倭人条を
読んで我こそは邪馬台国の宗家・本家であると、せっせと複製し配下の
地方有力者にさげ渡したものと想像される。

この場合、もし邪馬台国が九州にあったのならば、その九州の相続国の
本宗家国は山陰、山陽、畿内、東海、関東地方まで配下にいれていた
こととなる。わざわざ紀年銘のある△鏡とした意味は本宗家であると
主張したかったからだろう。

このように説明しても畿内の有力者が九州にあった邪馬台国の本宗家国
と名乗り、4世紀以降の支配に△鏡を利用しただけと言うだろう。ww


639 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 06:56:31
景初三年十二月(建子)に詔が発せられ、同時施行となれば
二ヶ月後には夏正正始元年春正月(建寅)に改まり、来月は景初三年後十二月が間に入り(建丑)を補う。が、行事は暦日に沿うからいくら後十二月を設けようが小祥忌は正始元年春正月に、これでは暦を変えた意味がないし
年を変えしかも建丑の春正月朔に行事を行わなければならない。
そこで行われた方法が、先日ローガンさんが言われた“やり過ごす”と言う方法だ。
建子に発せられた詔をバックレて、そのまま景初四年春正月朔建丑を向かえ、小祥忌を無事済ませ
次の日に詔を施行し後十二月とすれば、記録上は景初四年は闇に葬られ後十二月に小祥忌を行った事となり、大祥忌も春正月ではなく正始元年十二月に無事行う事が出来る。

記録上は
絶対に残らない、隠れ景初四年春正月朔(殷正建丑) なわけ

640 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 07:42:18
だから、日本最大の古墳は讃岐富士なんですよ。それが卑弥呼さまの墓。
それに比べると仁徳天皇稜も神武天皇稜もいささか規模が小さすて、
権力を持たない小王の墓にすぎなかったことが分かる。


641 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 09:26:15
景初四年があったから景初四年の銅鏡があっても問題なし。

642 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/26(日) 09:38:00
>>634
オマエもだいぶ左党をたらふく舐めてるんでないのか?ww
あまり舐めすぎてるとオマエの脳歯は紀見な歯層の状態に陥る電蛇の
状態となる。歯科医糖と強酸糖にやられて、オマエも欠歯八代が
スカスカ、フガフガのジョーカーの豆脳と同様になっては
いないか〜? あ〜ん? wwwwwwwwwwwwwwwwwww

歯科医糖と強酸糖でお前の危険な歯層はリトマス歯見史が相当赤化
の検体を示しているらしいぞぅ〜? あ〜ん,どうだな〜?ww

643 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/26(日) 09:58:54
>>640
妄想 乙枯さん!

644 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/26(日) 11:12:44
太国さんは欠史八代については、日本書紀編者が倍暦の編年に困ったから書かなかった
という解釈でしたね?
しかし、それなら具体的な記事でなく、年月日を省略するはずではないですか?
神代のように、古事記のように年月日を省いて書けばよいと思います。
ところが欠史八代には即位・崩御などの年月日が明記されております。
>>603 の説明のほうが合理的だと私は思いますが。

645 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 11:17:37
倍暦=馬鹿暦。

646 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/26(日) 11:56:51
>>644
だから八代の間、片方(大陸半島)のほうの年代が無いでしょう。
大陸の年代とか倭国大乱の年代が合わなくなるため片側を落として、
日本側の原書群の信用性大なるものを選択して書いたということ
ですよ。大陸半島の記事を入れれば、もう明確に不合理がはっきり
してますし、日本の年代を削ればもう神武から八代間の年代は
まるっきり不明となりますよ。日本書紀ですから主体は日本の古史
にあるわけで、特に神武の即位年代は絶対、何が何でも原書群のを
採りこんで記載は外しませんよ。即位、立太子、崩御等位は最低でも
記載は外すわけには行かないでしょう。あなたの言い分の採用を
すれば、皇統の年代が永遠にわからなくなりますよ。神代と同然
伝説になってしまいます。そうなるとここのジョーカーのように架空
創作だと言い出されて軽視、あしらわれますからね。それこそ神武
は伝説上の人物にされることが当選確実化される運命となります。

647 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 12:22:15
>>635

> 景初から正始への変わり目で、正月が建丑の月から建寅の月に移動して、

ここ、ちょっとカラみます。

確認しますが、改暦は「景初」中のことですよね。
なので、景初3年12月までは旧暦殷正の月建、
翌月(旧暦の景初4年正月)からは夏正なので、
その月称は新歴による「景初3年12月」。
同じ月称が続いては混乱するので、
これを「景初3年後12月」と呼びましょう、と。
ここまでは異論が無いです。

で、次の点が言いたいこと。
この時の称元(代替りに伴う改元)は踰年法(立位の翌年正月)で行われていますので、
『年号が正始に変わる』のは『改暦(景初3年後12月朔日)の翌月』からです。
細かいことですが、ちょっと拘りました。

称元により、新暦「景初4年正月」は鼻から存在し得ないこと等、後の論旨に依存はございません。


648 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 12:27:50
>>642

具体的な指摘のレスについては全てスルーする犬国であったw

犬は 所詮 犬 「遠吠えしか出来ない」

649 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/26(日) 12:30:11
>>646
お話はよく分かりますが、神功皇后紀では明らかに時代が違う魏志倭人伝の記事を引用していますし、
神功・應神紀でも三国史記・百済本紀の記事を120年繰り上げて引用しています。
その結果、仁徳〜安康間では百済王の記事が全く無くなり、雄略から次の百済王が出てきます。
こうした不自然なことを崇神以後ではやっていますから、開化以前でもやれたはずです。
それがやってないということは、別の意図があったと見るべきだと思います。

650 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/26(日) 13:27:19
>>649
意図は何が何でも神武即位にこだわっていたということだと想い
ますがね? 開化以前が欠史なのは恐らく年代の断層が歴然として
いたからだと推測に留まりますが、そう考えています。

貴殿の言う年月日を書かないとかのやり方は紀の編者連もそれに
近いことをやってる個所はあります。それは允恭即位が12月しか
書かれておらず、日数がありません。故意に日数の記述を敬遠したと
いうことだと思います。宣化もそのようです。ここでも日数が抜けて
いますよ。抜かした事情は当時即位日の記述が個別に複数あって、
いずれが正か判断を保留というか逃げたというか、確定ができなかっ
たということですね。何故かというに、当時通常暦法と倍暦法との
古文書があったのでしょう? 後者の書の記載が倍暦だとはつゆにも
知らず、どっちの日が正解か困って紀の書きこみをためらったという
ことでしょう? 一書に曰く式に別伝を入れておけばよかったのにと
考えますが、そこんところは何らかの事情があったと推察してます。
豊受大神宮成立年でも9月までは判明してますが、何故か日数が
分かっていませんし、暦法の重複的行使のため混線が相当あったの
でしょうか? そのへんですよ。
允恭も宣化も12月即位ですから、相方日数の無記載の事情は同じの
可能性が認められますな。

651 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 13:41:48
>>637
> しかし、どんなに暦を変えようとも亡くなった日はずらせない。

確かに亡くなった日(これは自然日だから)はズラせないが、弔日(観念日)はズラせるんだよ。

> 景初三年春正月朔に亡くなった人の小祥忌は同じ年には行わず
> 年が変わりかぞえ十三ヶ月同月日に行う行事。

だから、13ヶ月目は夏暦景初3年後12月でしょ。
忌日の算定上では、皇帝の亡くなった年(旧暦景初三年)は、旧暦景初3年正12月で終わっているんだよ。
新暦の後12月は翌年に属する月なの。

> 行事は天体周期で行われるわげでなく、暦日に沿うから建丑が重なっただけではダメなの

だから、暦に従がってます。そのために改暦したんだから。

> 詔で、小祥忌を建丑にとしない限り後十二月には行わず、正始元年春正月朔に
> これは天体周期の閏じゃなく、行事的に閏なんです。

詔で景初3年(新暦のね)12月を後12月としてるじゃないの。
改暦の意味が理解できないんでしょうね。

> 三月一日に亡くなった人の法要は二月二十九日ではなく三月一日
> この二月二十九日は天体周期で366日目だが、行事周期では三月一日が366日目なんです。

ハア?夏暦でも殷暦でも3月1日の366日後は2月29日にはならないよ。
一暦年は354日又は閏月を含む場合は385日だが・・・何を説明したいのかも全くワカランがw
誰かの受け売りの結論部分だけ連呼してても他人には通じないよ。
ましてや、その売り元自体が、答えを間違えているんだからさ。

652 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/26(日) 13:43:29
>>649
卑弥呼を神功紀に入れた事由は大陸文献でもあまりにも周知の女性
とか、あるいはどうみても卑弥呼が神功に思えて、参考に挿入
したのでしょう? 120年のズレは干支数2回分であり、当時の暦
では干支記載がまかり通っていた関係上、誤差は1年でも違えば、
干支はイカメシイ漢字二個でできているため、えらく年代の記載が
間違って見えることから問題になったのだと思いますよ。現代の
ようなアラビア数字ならば1年違ってても違いはあるが大きな誤差
には視覚上感じにくく、干支の漢字では1年ズレててもすごく誤差
があるように見えるわけで、また両女が同一人物の思いがあってか、
干支の倍数ならば二個の漢字が巡って同一になるわけで、同干支を
選択できるわけで、それで120年ズラして出来て紀が成ってるわけ
ですよ。その120年の段差は元々大陸半島の暦法が通常暦であったの
に対し日本側が倍暦という特殊な暦法を行使していたための断層
なわけで、紀の編者らは倍暦を知らずか、通常暦であちらとこちら
の年代を見ていたから、その大幅な落差に困惑していて、とりわけ
八代間がひどいのでそこは当たらず触らず敬遠したものと想います。

653 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/26(日) 13:48:28
>>650
古事記の没年干支でも、15天皇のうち崇神の戊寅年十二月と反正の丁丑年七月は日付がありません。
残りの13天皇は全て15日以前で、倍暦によるのかもしれません。

三国史記はほとんどの記事が月までしか書いてなく、史料として不備だとも言われますが
これも何かの事情がありそうです。

654 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/26(日) 13:53:35
>>653
その辺の天皇世は殆どが倍暦を行使しているもようですね。ただ
通常の暦法を行使した天皇の代もあると観ています。その判断は
相当考究が必要になりますよ。

655 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 14:01:44
倍暦=馬鹿貝。

656 :taka:2008/10/26(日) 14:08:30
質問♪ 太国さん や他の人に。結局、『日本書紀』が別の国の女王卑弥呼を=天照大神に
したと思っているのか? それとも本当に子孫だと思っているのでしょうか?

それから欠史八代は年月日が省略されてると言いますが、例えば綏靖紀には元年春正月壬
申朔己卯日(8日)、天皇位に即き葛城に都とすという記述があって別に省略はされていな
いはずですが?

>>649さん
仁徳四十一年に、百済王阿辛王が紀角宿禰等に問責されている記事が出てきますよね? そ
れに蓋鹵王が貴須王の次の王ではなく、辰斯王〜比有王まで四代へてるんだが。

657 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/26(日) 14:13:07
>>652
>紀の編者らは倍暦を知らずか、通常暦であちらとこちらの年代を見ていたから、
>その大幅な落差に困惑していて、とりわけ八代間がひどいのでそこは当たらず触らず敬遠したものと想います。

そこは敬遠せずに書いてほしかった!
編年作業がどれほど楽になったことか・・・
魏志倭人伝でも壹與が十三歳で即位とあるのに、卑彌呼の享年が書いてない。
おそらく「百〜歳」で陳寿が却下したのでしょうが、惜しいことです。


658 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 14:14:27

イヨタン・・・・・・・・


659 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/26(日) 14:28:36
>>656
>『日本書紀』が別の国の女王卑弥呼を=天照大神にしたと思っているのか?
日本書紀は卑彌呼=神功皇后ですよ。

>欠史八代は年月日が省略されてると言いますが
欠史八代は年月日が省略されてるとは言っていません。

>仁徳四十一年に、百済王阿辛王が紀角宿禰等に問責されている記事が出てきますよね?
>それに蓋鹵王が貴須王の次の王ではなく、辰斯王〜比有王まで四代へてるんだが。
仁徳四十一年の記事では「百済王」とあるだけで、王名は書かれていません。
蓋鹵王は應神紀の久爾辛王から2代後なので、1代飛んでいますね。失礼しました。

660 :taka:2008/10/26(日) 14:39:21
>>659
>日本書紀は卑彌呼=神功皇后ですよ。

ようするに、あなた方の主張は『日本書紀』の記事の中で 卑弥呼 に該当するのは、神功
皇后 か 天照大神 か? を議論しているのでしょ? 私が質問したいのは、多少のズレはあ
ったとして本当に 卑弥呼 の子孫と思っているか? というものです。

>欠史八代は年月日が省略されてるとは言っていません。

それは、太国さん が日付の記述が無いと言ってたもので^^;

661 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/26(日) 14:53:53
>>660
>ようするに、あなた方の主張は『日本書紀』の記事の中で 卑弥呼 に該当するのは、神功
>皇后 か 天照大神 か? を議論しているのでしょ?

それは単純化しすぎ。
卑彌呼が(書紀だけでなく、日本の古文献で)誰に当たるか、他にも多くの説があります。
(該当者無しも含めて)

>>私が質問したいのは、多少のズレはあったとして本当に 卑弥呼 の子孫と思っているか? というものです。

文に主語が無くて分かりませんが、「天皇家は」ですか? 
違います。
そもそも卑彌呼は独身だから子孫はいないでしょうし。
景行紀の八女津媛とか、神功紀の田油津媛は邪馬壹國の末裔かもしれないとは思います。

662 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 15:03:26
>>660
日本書紀では、天照大神の子(忍穂耳命)と高皇産霊尊の子の間に生まれたのが
高天原から日向に下った天孫・瓊瓊杵尊となっている。

では、天照大神=卑弥呼(+台与)という風に考えた場合はどうなるか。

卑弥呼には子はいない。では、台与はどうか。台与については子が
いたかどうかはわからない。しかし、巫女的な立場だったことを考えると、
卑弥呼同様に子はいない可能性が高い。

このように考えると、実際に血統ということよりも、むしろ権力のあとを
継いだものを「子」という風に象徴的に表現したものではないかと思う。

卑弥呼と台与の関係も「宗女」とあるが、直接的ではないし、卑弥呼・台与と
次の男王も血縁の関係は書かれていないのでないと思うし。

663 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 15:04:50
>>649>>659愛知県民氏へ横レス

>お話はよく分かりますが、神功皇后紀では明らかに時代が違う魏志倭人伝の記事を引用していますし
>日本書紀は卑彌呼=神功皇后ですよ。


愛知県民氏のみならず、2ちゃんに集う古代史ファン全員に告ぐ!

日本書紀神功皇后紀に倭の女王の件が引かれており、ゆえに
書紀選者たちは卑彌呼=神功皇后と考えていた、というのは
全くの誤りである!

日本書紀神功皇后紀に引かれている倭の女王の件は、後世の加筆である!

このことを2ちゃん古代史ファンはなぜ議論しないのであろうか!

諸氏にお願いする!

どうかこの際、國史大系本日本書紀の黒板勝美博士による凡例と頭注(校異)をよく読んで
「日本書紀は卑彌呼=神功皇后ですよ」などという誤った先入観は払拭していただきたい!


664 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 15:08:44
>>661
横から失礼しますよ。

>文に主語が無くて分かりませんが、「天皇家は」ですか? 
>違います。
>そもそも卑彌呼は独身だから子孫はいないでしょうし。

ええ?それはおかしいでしょ。

>日本書紀は卑彌呼=神功皇后ですよ。

と書いたのはあなた自身ですよ。皇室は神功皇后の子孫ではないのですか?


665 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/26(日) 15:13:41
>>663
確かに「後世の加筆」説はあります。
後世といっても、晋の起居注が引かれているので、それほど後ではないでしょうが・・・
加筆でないとしても、「卑彌呼=神功皇后」を明記してはおらず、暗示しているだけですね。
ご指摘ありがとうございます。

666 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 15:15:59
>>662
台与自身が宗女、つまり一族の娘であったように、一族の誰かだろうね。

667 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 15:19:00
>>664
横レス。
倭人伝には、3世紀前半に卑弥呼という女王がいたことが書かれている。
日本書紀の編者は、それを読んで日本書紀の年代観に当てはめたのだろう。

日本書紀の年代観では、神武天皇が即位したのが紀元前7世紀くらいになるの
だから、卑弥呼の時代には、大和朝廷はとっくに存在していた。

神功皇后と卑弥呼の時代が重なったので、卑弥呼=神功皇后とした。
あるいは、卑弥呼に合わせて、神功皇后を創作したということも考えられる。

どっちにしろ、現代の年代観からすると、日本書紀の年代設定は間違っている。

668 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/26(日) 15:19:35
>>664
>>日本書紀は卑彌呼=神功皇后ですよ。
>と書いたのはあなた自身ですよ。

「日本書紀は卑彌呼=神功皇后」と書いただけで、私はそうは考えません。


669 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 15:24:00
「魏志」は卑弥呼が年たけても未婚だといっているのだから
明らかに神功皇后ではないだろうね
大和朝廷は世襲の天皇家で未婚の皇女が即位した例はそれまでなかった
(これより後、奈良時代にはあるんだけど)
それで苦しい解釈が前天皇の皇后が称制として政治をとっていたというものだった
そこで生まれたのが神功皇后
邪馬台国=大和朝廷ではない以上そうするしかなかったと

670 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/26(日) 15:24:06
とにかく神功皇后は卑弥呼の時代より後だよ。120年の断層は確か
だね。

671 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 15:29:47
その通り。
卑弥呼さまは古墳時代以前の女王。
したがって卑弥呼さまの墓はちっぽけな古墳ではありえない。
讃岐富士こそ卑弥呼さまの墓です。

672 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 15:30:38
日本書紀でも神功皇后は,実権を握っていたときは九州在住になっている。奈良時代の人たちも卑弥呼は九州在住が妥当と考えて神功皇后を卑弥呼に当てはめたのではないか。他にも九州のクマソが神功皇后の名を借りたともある。

673 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 15:31:36
>>669
魏志は「年已長大、無夫壻」と言っているだけで、生涯独身とは書いていない。
未亡人でも魏志の記述に適合する。

674 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/26(日) 15:32:49
>>671
重ねて妄想 ご苦労さん。

675 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 15:33:36
>>670
じゃあ誰なのさ

676 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/26(日) 15:35:44
>>675
どっちなの? 意味不明?

677 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/10/26(日) 15:36:05
>>671
>讃岐富士こそ卑弥呼さまの墓です。

どうせなら「富士山」にしては?

今週はこれで逃亡します。
ZZZ・・・・

678 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 15:39:22
>>676
卑弥呼が

679 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/26(日) 15:41:23
>>678
だから237年頃九州にいた女王だよ。

680 :taka:2008/10/26(日) 15:48:15
愛知県民さん

1.あなた方というのは、あなたと太国さんのやりとりですよ。多くの説がある事をあげ
たのではありません。私は他の説ではなく、あなた達の見解を聞きたいだけです。2.主
語が無くても天皇家の事を聞いてるという事は解かると思いますが^^;

662さん

はじめまして。かなり説得力ある論調ですね。反論する余地も無さそうな^^; この文面
からすると、恐らく邪馬台国畿内説だと思うのでそれを前提で質問したいのですがよろし
いでしょうか?

権力を継いだ物、つまり祭祀を継ぐ物という感じである事は私としては同じ意見です。で、
『隋書』東夷伝にはこういう記述があります「王は天をもって兄とし、日をもって弟とす
る・・・・・中略・・・・これ大いに義なし」

天照大神 は一応は天皇家の祖であり太陽神でありますが、この記述から邪馬台国というの
は明らかに文化が違う物であります。この宗教文化の違いについて、662さん はどう思わ
れますか?

>>663さん

はじめまして。
全く同感ですね。ちなみに、663さん はいつの時代に加筆された物と推測していますか?
それから、そもそも『日本書紀』は『続日本紀』に記述されている『日本紀』だと思いま
すか?

681 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 15:59:05
>>679
つまり朝廷とは別って考えなわけね。
でもそんな「九州王朝説」とか「多元的古代」みたいなことを認めるわけ?

682 :663だが:2008/10/26(日) 16:02:49
663だが

>>665愛知県民氏へ

ご理解いただければ恐悦至極。


>>667氏へ

>倭人伝には、3世紀前半に卑弥呼という女王がいたことが書かれている。
>日本書紀の編者は、それを読んで日本書紀の年代観に当てはめたのだろう。

そうではない!、と私は>>663で指摘したのである。

奈良時代初め、修史を終え元正天皇へ選上された日本書紀の原本には
倭女王の件など一行たりとも記述しておらなかった可能性が極めて高い、と
私は申しているのである。



683 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/26(日) 16:11:31
>>681
そのとおり、朝廷とは別だよ。当時の畿内はやっと勢力の基盤が
確立したころの時代で、その周辺の事情を知りたいため崇神天皇は
四道将軍を派遣したりしている。まだ畿内の外周は朝廷に把握が
出来ていないことからの調査だよ。そのころが237年あたりの時代
で、朝廷は九州を握っていないし女王なんかも畿内には在位した
ためしはない。そのころ九州には九州王朝の兆しが出来始めたころ
であり、まだまだ王朝とは言い難いもののその幼児みたいな時代
が卑弥呼の時代であり、九州にこそ卑弥呼がいた場だということだ。

684 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 16:20:14
>>683
あ、認めちゃうんだ九州王朝。
でもそれって東征と矛盾しない?

685 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 16:23:50
みなさん、卑弥呼さまの権力をみくびっていませんか?
四国を中心にインドネシアから中国、ロシア東岸まで支配した
女王の権力は、オイルマネーに沸く現在のアラブに匹敵し
その墓は、バビルの塔のようだったと考えられます。
富士山は、墓ではありません。しかし、別荘がありました。

↓参考URL

http://f.hatena.ne.jp/images/fotolife/a/active_galactic/20080824/20080824104158.jpg
http://d.hatena.ne.jp/active_galactic/20080824


686 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/26(日) 16:25:15
>>684
矛盾はしないよ。神武東征は1世紀、卑弥呼は2〜3世紀だから
神武のほうが古く、この世で相方は合ったことはない。

687 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 16:30:51
>>686
そうじゃなくて、朝廷の故地である九州に別勢力があり、それを朝廷が知らないってこと。

688 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 16:31:35
>>680
662ですが。
いいえ、畿内説ではなくて九州説。
立場としては、天照大神=卑弥呼+台与。

これは、倭人伝と記紀の記述が非常に類似していると思うから。

まず、卑弥呼は女王。天照大神は高天原の主宰者。どちらもトップであること。
共に女性であること。また、共に独身であること。

卑弥呼は、狗奴国との争いの頃に亡くなった。天照大神は須佐之男命の
乱暴に怒って天の岩戸に隠れた。

卑弥呼が死ぬと、跡継ぎをめぐり争いが起こり、千人余りを殺しあった。
台与が女王になると平和になった。
天照大神が岩戸に隠れると、高天原は真っ暗になり、悪い神様が騒ぎ出した。
天照大神が岩戸から出ると、高天原は明るくなった。

台与が女王になった後、さらに男王が立ち、晋から共に爵命を受ける。
天照大神が岩戸から出ると、高皇産霊尊が登場し、出雲の国譲り、天孫降臨を
主導する。

天照大神と卑弥呼を同一視すると、当然、東遷説ということになります。

卑弥呼は、魏から百枚の鏡をもらった。天照大神も岩戸の場面で鏡が
重要な役割を果たす。だから、文化的に似ていると思うのだけど。
卑弥呼を日御子と考えると、天照大神とも共通するかも。

689 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/26(日) 16:41:19
>>687
だから九州といっても各所ある。まず北九州説は考えにくい。そこ
に卑弥呼の国があったなら、当然半島からの遣使等の通り道となっ
ており、女王国はその途中の地だから卑弥呼の情報が畿内朝廷に
入る。ところが記紀にはそういう独立した卑弥呼の記事がない。

ということは九州でも朝廷側に情報が届きにくい地に卑弥呼の国が
あったことになる。すなわち中九州以南とかになってくる。奥九州
とかだな。それもいい道が通っていない半島からも畿内からも到達
がちょっと面倒なそういう九州の奥にあったということだ。それ
がたまたま女王国に運良く行った大陸の奴が大陸へ情報をもたらし
たということになる。遣使といっても、観光を兼ねてるから九州で
ゆっくり各地を見物してたのさ。

また北九州も広い。もしも朝廷と半島との通り道から離れて畿内に
情報が行きにくいそういう土地がまだ残っていたとしても否定はでき
ないから、そういう所なら北九州説も可能性は残る。

690 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 16:44:30
有明海に近い場所だろう

691 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 16:44:30
>>688
>卑弥呼は、狗奴国との争いの頃に亡くなった。天照大神は須佐之男命の
>乱暴に怒って天の岩戸に隠れた。

卑弥呼の男弟のこと、なぜ書かないの?
ゴマカシしてるんじゃない?w

692 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 16:49:51
>>689
神武天皇の祖先は南九州にいたんですが・・・

>>691
つツクヨミ

693 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/26(日) 16:55:32
>>692
それはまだどうだか知らんね? そうかも知れないし・・・。
ただ当時中九州あたりにいたんじゃないの? いずれにしろ神武が
卑弥呼のこと、生まれてない女のことなど知るよしもないだろう。
またあとで・・・。

694 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 17:05:40
>神武天皇の祖先は南九州にいたんですが・・・

筑紫国の日向地方だから、南九州ではなく北部九州。
ただし神武が一時的に南国たる日向国にいたことはある。

695 :663だが:2008/10/26(日) 17:22:27
663だが

>>680taka氏へ

難しい問題で、加筆がなされた時代をピンポイントで特定するのは、残念だができない。

漠然と平安期を考えているのだが、貴族達が日本書紀を読む講座は
完成後からよく行われていたゆえ、写本も結構多くつくられたであろう。

そうすると奈良朝にすでに加筆があったかもしれない。よく判らない。


名前を忘れたが、大阪市立大学の先生が、こうした書誌写本の分析的研究に
お詳しいと聞く。今度図書館に赴く機会があったら調べてみよう。


>それから、そもそも『日本書紀』は『続日本紀』に記述されている『日本紀』だと思いま
>すか?

異論あるらしいが、私は『日本紀』=『日本書紀』と思っている。



696 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 17:44:32
>>694
天孫降臨は日向の襲の云々とあるから、南九州の日向の襲の国(鹿児島県曽於郡)に近いところ。。

697 :663だが:2008/10/26(日) 18:55:09
663だが>>695

>名前を忘れたが、大阪市立大学の先生が、


云々、と書いたが、大学名も自信がなくなった。すまぬ。
或いは別の大学の先生だったかもしれない。


史書写本の書誌学的研究をなさっておられる方だから
そんなに多くの先生がいらっしゃるわけでもないと思い、
先程来ネットで調べて思い出そうとしてみたのだが、今のところうまくいかない。

まことに相すまぬ。どなたかご存知の方がおられるなら、お教えを請う。


698 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 19:35:10
>>697

その条件で考えると分野の第一人者かどうかは別にして、皇学館大学の遠藤慶太氏かな?
確か、大阪市立大学の御出身、同校での教員経験が御有りかどうかは判りませんが。
専門は六国史や正倉院文書の研究で、著書に「平安勅撰史書研究」 (皇學館大出版部 、H18年 )が有ります。


699 :taka:2008/10/26(日) 19:57:08
662さん 663さん

拙い質問に答えていただいて恐縮です。662さん、鏡は確かに岩戸の場面では重要な役割を
果たしますね。仲哀天皇陛下 の八年には熊襲を討伐する為に船の舳先に鏡を掛けたという
記述もありますが、実際は銅鏡百枚というのが光を利用した 邪馬台国 承認の大陸との交
易の許しとかそういうものか、ともかく鏡が重要であった事は確かみたいですね。

しかし、天や日と兄弟という宗教観は面白いなと思っています。

663さん、丁寧な解説ありがとうございます。一応別本と主張している人は、書とは紀伝体
で紀とは皇帝の治世を編年体とした書物で明確に違うという説みたいですね^^ ここは邪
馬台国論でスレ違いになりますからこれ以上は控えます。

で、私が『日本書紀』の事を訪ねたのは、いつの時代に書かれいつの時代に注釈として倭
国の事が書かれたか? というのが重要になってくると個人的に思ったからです。例えば乙
巳の変では蘇我蝦夷が殺害され、天皇記国記が焼かれたという記述があります。それは恐
らく排除してもよいでしょう。

問題は白村江で唐の軍と日本(倭)軍との戦いの傷跡がまだ残り、劉仁軌が度々畿内まで来
ていた外圧や壬申の乱等の内部抗争が一段落した、持統天皇の時代のこの記述です。持統
五年に何の前触れもなく、筑紫史が官位と賞を貰っている所です。筑紫史は長年仕えて来
たそうですが、何を持って長く仕えて来たのでしょうか?

そう考えた時本当は天皇記国記に 神功皇后 の記事があり、『日本紀』の記述においてそ
の年号の記述が削除され、邪馬台国の女王の記述を注釈として入れたのでは無いか? と思
っていますが^^

700 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 20:33:49
>>696
阿多(現・鹿児島県加世田市)の笠沙の岬も謎ですね・・

701 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 21:21:56
邪馬台国など九州でも沖縄でも北海道でもいいが、
卑弥呼さまの墓は讃岐富士。
これだけは忘れないように。

702 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 21:46:19
>>696
天孫降臨は、筑紫国の日向の高千穂のクシフルの峰で、
この場所は糸島郡史に記載されているとおり、福岡県の高祖山連峰。


703 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/26(日) 21:48:59
>>701
妄想 ごコロウさん。

704 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 21:50:04
>>702
古代は九州全体を筑紫国の名称でくぐってたんじゃね

705 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 21:55:34
畿内説は巻向でほぼ意見一致だが、
九州説は比定地に統一感がないな。
まぁ、それだけの証拠が見つからないからだろうけど

706 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 22:01:19
遺跡が多いからだろ

707 :のんびりひまじん:2008/10/26(日) 22:03:08
>>699 >筑紫史は長年仕えて来 たそうですが、何を持って長く仕えて来たのでしょうか?
九州王朝説者のうちの一人は→ http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin06/maeda01.html



708 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/26(日) 22:03:56
巻向なんか証拠にもなるまい。

709 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 22:06:26
>>1
遥か昔、紀元前200年頃に、秦の始皇帝は臣の徐福に命じ、東の海に蓬莱・
方丈・瀛洲という三神山があって仙人が住んでいる国にある不老不死の薬を
求めて、3000人もの老若男女の大集団を派遣した。しかし、船は難破し
『倭の国々』の各所に漂着し、地方各所で族長(弥生人)となり、原住民であった
一般住民(縄文人)と混血する。そして、大陸との交易は北九州の国々を介して
継続されていたが、後漢王朝混乱期の2世紀中頃以降から朝鮮半島を通じて
大陸より多数の避難民が倭国に移住してきた。その中の一人に物部の祖饒速
日尊が居た。彼らは北部九州に一定期留まっていたが、大乱に明け暮れる土地
に嫌気をさし、移動を決意して東へ東へと進み、そして安住の地であった河内・
大和の地にたどり着く。そこで地の神であった長髄彦の妹を娶り、纒向の地に
物部政権(三輪王朝)を確立させる。その頃、また一方で倭国大乱の際に中部
九州(筑紫平野)にあったヤマト軍(邪馬台国)は南の熊本平野にあった狗奴國軍
に破れ、ヤマト軍は大きく東南方面に逃亡し日向国(高千穂久士布流多気)に
移動し第二次邪馬台国を樹立させる。そこで、国力を附けて再度北上し、宇佐
(中津)に至り第三次邪馬台国を樹立させる。そこで国力を益々増強させ、兄弟
と多数の兵士を従えて、筑紫国岡水門・吉備を経て、数十年の歳月を費やし、
その子孫となる神宮皇后と武内宿禰夫妻は遂に畿内に至る。しかし、そこには
先住者であった饒速日尊の子(子孫)である宇摩志麻遅命(事代主)が待ち受ける。
そこで、九州にあったヤマトは国譲りを談判し成功を果たし、物部一族は大和の地
から追放され出雲や諏訪地方に落ちていく。九州ヤマト軍の強引な談判による敗北
に深く恨む三輪にあった物部氏を出雲や三輪山で厚く祀ることで、その後は大王家
(ヤマト朝廷)の平穏が願われた。

710 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 22:29:51
>>704
日本書紀等で、九州王朝を隠蔽する都合上、筑紫=北部九州ではつじつまが合わないため、
筑紫=九州島という解釈を横行させた。

711 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 22:33:20
>>708
お前の都合合わせの倍暦よりマシ

712 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 22:44:41
× 畿内説は巻向でほぼ意見一致だが、

○ 畿内説は王宮も宮殿もない点でほぼ意見一致だが、

713 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 22:48:19
邪馬台国論争と言うのは、
真実は結局どこか一箇所だけなワケで。
九州のどこかに邪馬台国があったとしても、
それ以外の比定地で盛大なるウソ比べをやってる。

714 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/26(日) 23:03:20
>>711
マクムクは垂仁、景行の宮の関係地だ。景行の時代までそのへん
に女王の在位があったことはない。つまりオマエの妄想。ww
倍暦計上でその直前の

 崇神崩御=259年

だ。これは記の崩年干支からの258年説が正解であることを物語って
いる。1年違いは倍暦での1年が当時は2年とかで、天皇の崩御、
次帝即位の狭間での1年とみなしてのでの計算等、何らかの事由から
の誤差であり、余の計算と記の同干支は一致していると観てよい。

断じてマキムクは卑弥呼と無関係だ。紀無いに卑弥呼の国があったん
なら、天皇と卑弥呼女王の交流が近隣に二王国(天皇国と女王国)が
ピッタリとチチクリアイしてるから、その歓喜天のサマがうんと
記紀に載る。w それが無いということは、卑弥呼の女王国は紀無い
にはなかったことを意味する。つまり卑弥呼は九州にいたんだと
いうのが正解なのであ〜る。

715 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 23:04:50
>>708
おいおいwww大和朝廷の中心地だろwwwww

716 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 23:10:51
大和に朝廷ができたのは、文武以降。それ以前に朝廷があったのは、北部九州だけ。

717 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/26(日) 23:15:49
>>715
>>711は盲象マンであり、やつの脳内が酔象の状態にあ〜る。w

>>716
便宜上朝廷の語としてるということ。他の方々もそのはず。

ZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・

718 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 23:29:07
>>716
>大和に朝廷ができたのは、文武以降。それ以前に朝廷があったのは、北部九州だけ。

こういうのは古田シンパだろうね。
安本派は決してこうは言わないよね。

719 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 23:29:45
>>705
昔は辺鄙な所だったろう京都県は絶対に話題にものぼらないなw

720 :日本@名無史さん:2008/10/26(日) 23:34:00
サイキバクン・・・・

721 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/26(日) 23:37:46
目が覚めてしまった〜。いま一度!

天皇と卑弥呼のチチクリアイを何が何でもさせたいのが畿内論者
なのである。とくにジョーカーがそれをさせたがっている。ww

そしてあるわけもない卑弥呼の陵が紀無いにあるとし、天皇の陵
が紀無いに多くあるのを天皇を創作としてありもしない架空の大王群
を勝手に創作して盲象のチチクリアイの目的を達成しようと目論んで
いる。まことにナゲカワシイ論での酔象の遠吠えを叫んでおり歓喜天
のエッチをさせようと堂々を盲象している。それを敢行したいこやつ
があのジョーカーさまなのであ〜る。wwwwwww

今度はホントに寝るか〜。

ZZZZZZZZZZZZZZZWWWWWWWWWWWW・・・

722 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 01:10:15
そもそも、8世紀まで宗主権のない畿内に、
やれ天皇陵だとか、やれ王宮だとか、笑わせるわw

723 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 01:19:52
>>721 犬国

おーい誰か、このリアルキチ○イなんとかしろよw

畿内説と言っても色々あるだろうが
少なくとも俺は2ちゃんのこの板ですら
「ヤマト王権と邪馬台国は畿内に並存していた」
…なんて言っている奴見た事が無いwww

無論まともな学者でそんな事を言っているのは知らないwwww
(まあ、広い世の中何人かはいるんだろうがw)

犬国の脳内ではヤマト王権と邪馬台国はあくまで別物と言う電波設定が絶対で
そのドクマというか狂信から抜け出せないんだろうがwww

もうここまで来ると、こいつリアルで痴呆性老人なんじゃないか?
とマジに思う今日この頃wwwwww

724 :taka:2008/10/27(月) 10:22:25
のんびりひまじんさん

ご紹介いただきありがとうございます^^; 前田博司さん はほぼ私の考えと同じ意見で
すが、冒頭部分を読んだだけでも何ヶ所か異論がありました。読応えはありましたから
のんびりひまじんさん には本当に感謝です。

725 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/27(月) 10:33:51
>>723 ジョーカーよ
紀無い説では結局遠回しにヤマト王権と卑弥呼の国の並存となるの
が、卑弥呼が神武より後代の女ならそういうことになるでないか?
それとも神武以前のナオンか〜?wwwww

ヤマト朝廷は神武以後にあったんだから、王権と朝廷とは意味が
いささか違うだろうが、そんな細かいことはいいとして、まさか
お前は ヤマト王権=卑弥呼の女王国 の等式を言いたいのか?
そうならば並存ではなく一存だ。PuPu! wwwwwwww

そうならば崇神の手前に女王が畿内に在位してるはずだが、そんな
形跡はまるで見られない。それに神武以前のナオンなら239年が
神武以前に位置することになり、これじゃー後代の天皇の在位が
スシ詰めになって不合理極まりないから、彼女は神武以後の人物だと
いうことは動かない。動かないのはオマエの歓喜天好きの盲象脳だ。
それとも動いて大暴れの酔象さまか〜? wwwwwwwwwww

726 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 12:30:57
>>725
>後代の天皇の在位がすし詰め

神武以降の天皇継承を、キキと同じに見ている人だけの話しでは?
アンタ、キキを尊重し真っ直ぐ見ると言うなら、倍暦なんて小細工せずに直視しなよ。

727 :taka:2008/10/27(月) 12:36:06
前田博司さん の冒頭部分ですが、筑紫史益 が倭国(邪馬台国)の有力な史官である可能性
が高い、というのは同意見です。

ただ西暦701年に初めて日本国が認められ、それまで日本国は唐を欺き倭国に傀儡の王
を建てて支配したという主張は少し奇異が感じられます。まず第一に、前田さん 自身も発
言しているように『新羅紀』には 文武王十年 に日本と号したと記述されており、百歩譲
って遅めに設定するのなら『旧・新唐書』に記述されているように長安元年(704)に設定す
る方が自然だと思います。

それに『新唐書』列伝145東夷伝には、唐の咸亨元年(670)に高麗平定の祝賀に使を派遣
していて自ら日本と改号したと記述されてもいますから、どうしても701年という年号には
矛盾があります。

また、彼は唐の手前傀儡の倭王を立てて支配していたという論ですが、たまたまか『日本
書紀』には白村江の翌年、天智三年には 劉仁願 が献上物を持参して参内し、郭務そう に
至っては五ヶ月も居座っています。九月には 劉徳高 が大和まで来て、その翌月には何故
か誰がという記述も無しに突如として宇治道で閲兵したという記述も現れています。ちな
みにこの歳は、『旧唐書』列伝三十四「劉仁軌伝」によると彼は新羅及び百済・耽羅・倭
の四国を領し、その四国の酋長を連れて封禅の儀の場に行った、という事も書かれていま
す。

六年には、筑紫都督府に 劉仁願 等を遣わすという記述があり、これは素直に読むと中国
の名称である可能性が高いと思います。この事からすると、日本国は倭国の傀儡の王を建
てる所か倭国が占領状態であり日本国そのものが危険であった可能性もあると考えます。

728 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 13:25:42
皆の衆、>>719を見てくれたまえ。
この国に、京都『県』なんてあるだろうか?
こんな学のないヤツが、九州説を雄弁している。
これは九州説論者にとっても恥ではなかろうか?

なんと恥ずかしい。。こんなにも、ゆとり被害者が多いのか。。

729 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 13:33:25
>>726
はいって何だよ。出来んのかよ。さっきから何度も。何がはいなんだよ。
出来もしねえ奴が軽々しくはいなんて言うんじゃねえよ。
わかってんのかよ。はいって言う事の責任の重さを。
社会勉強のつもりでやってんだったら辞めろおまえ。

730 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/27(月) 14:24:27
>>726
じゃぁオマエも論理的に編年をしたらいいだろう? そういうこと
をやって、卑弥呼の年代がどの天皇の時代だったのか? それを
オマエは合理的、具体的に能書きの披露を言って、それからそういう
大口をたたくんだな。

731 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 14:32:17
>>729 >>726だが


なんか用事か?
「はいって何だよ?」

732 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 15:12:10
>>730
>卑弥呼の年代が、どの天皇の時代に

おっちゃん。頭大丈夫か? どの天皇の時代と、何て聞かれても、天皇号なんて持統のオバハンの時代に成っても定まらなかったって
言うし
卑弥呼は魏代に名を残す。八世紀と三世紀をどう整合させるんだよ?

733 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/27(月) 15:28:48
>>732
そんな言い逃れなんかしなくていい。みな便宜上天皇号で論じて
るんだから、そういう言い方で通るんだ。いまどきカネのことを
いちいち「日本銀行券」だとか言い出すなんか滅多にいない。
オマエくらいか〜?ww
編年できないいなら、デケェ口をたたくな!

倍暦否定で合理的、編年ができるんだったら、聴いて野郎。w

734 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 15:36:56
日本書紀と古事記で神武天皇の埋葬地が違うのに年代なんか判るわけ無いよ。

735 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 15:40:21
>>733
爺さんが例えた日本銀行券と天皇号は、何処でどのように共通すべき点があり
例えられたんだ?
ただの思い付きか?

736 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/27(月) 18:15:34
>>735
>>732に聴け。
〜たとえがわかるなら、なんとなくでも分かるだろう。w

737 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 18:56:36
>>736は、自分が書いた例えも分からんのか?w
相当頭が膿んできたなw

738 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 19:01:10
>>728

「 京 都 県 」…前にも見たなw

恐らくサイキバ君ではないかと思っているのだがw

739 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 19:05:44
ここは喧嘩腰のスレだな
卑弥呼ちょっと興味あるが
退散退散

740 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 19:17:59
京都郡なら在るのにね

741 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/27(月) 19:21:09
「景初四年五月丙午之日」の続き
景初元年5月=蜀?年4月=237年5月戊辰この朔は正しいとして
ここから1年後(354日後)は壬戌朔
景初2年5月壬戌朔は、呉、赤烏元年4月壬戌朔になります。
呉赤烏元年五月壬辰朔になり 赤烏元年五月廿五日丙午は、
赤烏元年五月十五日丙午の 誤り。
黄武(222年-229年)
228年黄武七年銘鏡には「七日甲子」=庚申朔は
呉赤烏元年五月壬辰朔より10年3632日前となり
暦日で計算できます。
249年 蜀後主延熙12年4月1日起 ?大帝赤烏12年4月1日起
4月戊午朔=5月丁亥朔(←この朔は正しい)から計算しても1日の誤差(私の計算)。

これで この3点の年代は、暦日で正しい。


742 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/27(月) 19:28:26
太国さん そろそろ 「私の倍暦計算で正しい」から
「私の倍暦計算の○○は、対外資料の○○に当たる。」
とか 「私の倍暦計算の○○は、考古学の○○に当たる。」
に変えませんか?

743 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 19:43:41
神武の陵は、倍暦で一世紀の考古資料になります。

744 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/27(月) 20:00:49
>>737
オマエの豆脳がグズついて超鈍感だから分からないわけだ。ww
分かるまで一生考えろ!

745 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/27(月) 20:07:21
>日本国(大和)は唐を欺き倭(九州)国に傀儡の王を建てて支配した

景行が”イヨ”(五百野姫)を筑紫に派遣して以来
九州王朝は、大和の傀儡。


746 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 20:33:15

  (U^ω^) わんわんお!
C/ 犬国l
 し−し−J


747 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 20:58:35
>>744太国氏、>>737氏の質問に答えてあげたらいかがですか。
例え話をしたのは太国氏でありますし、氏の説明があれば>>737
も納得するでしょうし。

748 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/27(月) 21:40:19
>>747
奴は知ってるんだよ。とぼけているわけ。そして教えると虚をついて
あげ足をとりたいから下手な要求をしてくるわけ。お前もそのくらい
わからんのか〜? お前、ヒトがいいな?ww

749 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 22:14:32
>>748
>奴は知ってるんだよ。とぼけているわけ。そして教えると虚をついて
あげ足をとりたいから下手な要求をしてくるわけ。お前もそのくらい
わからんのか〜? お前、ヒトがいいな?ww


上げ足の取られない説明をしてあげればいいのです。

750 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 22:40:13
>>748

俺もわからんから解説してくれ!
何か、とても意味のある喩えのように感ずるのだが、全く理解できないのだ♪

751 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/27(月) 23:08:34
じゃ〜 死ぬまでオマエ考えてろ。wwwwwww

752 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 23:34:03
邪馬台国も大荒れだなw
退散退散

753 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 07:21:11
改めドツボ→梅毒河童→そしてデブ国か。

バカは輪廻するんだな

754 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 12:15:07
>>753

未納税者が納税者を馬鹿呼ばわりとは


情けない世の中になったもんだ。

755 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 13:35:17
納税www
脊髄反射wwwやはりバカだwww

あと、美濃もん太が来たら揃うのにw

756 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 14:15:34
三大電波

プラム=河童虫 美濃もん太 改めドツボ

757 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 14:39:42
>>756
簡単な引き算で、あなたの正体も判明するなwww

758 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 14:47:10
>>755は携帯から。
固体認識GETしました。

759 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 14:53:23
>>757は、ローガン

760 :758:2008/10/28(火) 15:13:38
>>759
残念だがローガンではない。

761 :ローガン:2008/10/28(火) 15:15:39
>>741
唐松山さん。
> 228年黄武七年銘鏡には「七日甲子」=庚申朔は

銘文の日付の正否ではなくて、この鏡の銘文には「丙午」ともある様です。
よって、七日甲子が製作日付だとすれば、丙午は吉祥句になると思います。


762 :ローガン:2008/10/28(火) 15:16:52
>>759
>>757は、ローガン

違います!違います!私ではありません。

763 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/28(火) 17:23:15
>>742 唐松山どの
隅田八幡人物画像鏡も考古と有関係でしょう。

鷲崎弘朋さんの「邪馬台国についての掲示板(改訂版)」に同鏡と
倍暦とに関する論文を二分割で書きこんでありますから読まれたい。

764 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 21:07:21
倍暦を使っていたのは二期作発祥の地、讃岐。
瀬戸内海の温暖な気候があってこそ可能だった。
そしてその女王卑弥呼さまの墓は讃岐富士。
これで確定ですね。


765 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/28(火) 21:28:27
>>764
上段は冗談? 妄想乙彼!

766 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 21:33:26

   犬国
  (U^ω^) わんわんお!
C/    l
 し−し−J


767 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/28(火) 21:40:47
「まぼたい」のTV特番が10ch 11/3の午前中にあるらしい。
見るとするか。テレビ朝日だったっけ??

768 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 23:13:07
>>767
神武の陵は、一世紀の考古遺跡(墳墓)なのか?
で、懿徳陵にある前方後円墳は二世紀の遺跡?

神武の陵は懿徳の陵よりも古いのか?

769 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/28(火) 23:22:09
>>768
そこまでは分からんよ。崩御と造陵は時期はある程度違うだろうし?
崩御年は、倍暦計算では

 神武天皇崩御=A.D.26年
 懿徳天皇崩御=A.D.98年

ZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・

770 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 23:37:10
>>769
崩御から百年や二百年も
経ってから御陵造営はないだろ?

771 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/29(水) 10:51:31
>>770
ただ〜 修理等あるやも知れないし、極端な例ではエジプトの某大神殿なんか
国家事業でダム建設のため移動したこともあるし、後者の例は古代では無理で
あろうが、決めこみは保留の態度がいいでしょう。
>>669から神武崩御は1世紀、懿徳は同末だから、懿徳の陵は通常の考えでは
2世紀前半だろうな?

772 :taka:2008/10/29(水) 11:43:06
>>768

神武天皇陵 が築造された年代って、現在の? それとも元禄時代の? 現在の 神武天皇陵
って、築造年代は不明だよ。貝原益軒 の書物に神武田という塚が有るからこの地だと断定
している記述があって、元禄十一年には 柳沢吉保公 が奉行となって現在の陵の基礎を築
いたのですよ。

その後、文久年間に現在の陵を正式に 神武天皇陵 であると断定され、一万七千両を投じ
て大築造されてます。

元禄時代には、神武天皇陵 は現在の 綏靖天皇陵 であるとされてました。まあどちらにし
ても築造時期はわからないんだけれどw

773 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/29(水) 14:03:24
>>771
訂正 >669→>>769


774 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 14:55:00
× 神武天皇陵

○ 神武天皇仮託捏造陵

775 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/29(水) 15:11:01
>>774
捏造したのは誰か? 随分膨大な金をかけてか〜?
人数は万の労力でか〜? それとも他の天皇陵なんかね??

776 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 17:40:37
@神武が実在しなかったのなら現神武陵は偽陵となる。(空陵でも何か埋葬施設があっても、だ)

神武が実在なら二つの場合があり

A神武実在、しかし現神武陵は偽陵
B神武実在、そして現神武陵は真陵

@ABどれを主張するにしてもちゃんと根拠は述べる必要があるだろうな、

あ、俺は分からん、と言っとく。

777 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 20:13:12
>根拠は述べる必要があるだろうな

土盛りのある古墳様の神武陵があったかどうかも不明だった江戸期に、
にわかに無理矢理「神武陵がなければならない」として、
記紀にみる橿原の字地名を無理やり探し出し、古墳にしてしまった。
当時ほんとうに橿原という字地名があったのかどうか知らないが、怪しい感じだ。
しかも、今日見ても古墳というより、平地の木立を囲って立ち入り禁止にしただけ。

神武の時代に、果たして古墳的盛り土墓を作るのが、どれだけ一般的だったのか疑問。
まして神武は、畿内に大勢いた権力者の一人に過ぎず、神武の死後の王位継承もゴタゴタ。
風葬・鳥葬か、よくて土葬だった可能性もある。

そもそも日本書紀に神武を無理矢理登場させた目的は、アマタリシホコやら倭の五王やらの
中国北朝敵対王統の隠蔽・排除と、天孫王統の継承の両立にある。
神武らは九州で食いっぱぐれて大伴や久米のわずかな部族を率いて流浪したあげく、
畿内に乱入し、ひどい痛手を受けながら、辛くも定着しただけの、いわばならず者集団。
神武が死んだときの領土も非常に小さかった。そんな立派な墓などなかっただろう。

778 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/29(水) 20:20:23
>761ローガンさんへ
吉祥句としての”丙午”は理解しました。言いたいのは、
228年黄武七年銘鏡には「七日甲子」正しい日付を表示した後の 吉祥句ということで
 ”黄武七年五月丙午”とウソを書き込んだ訳では無いので、
”黄武年五月丙午”と年度を特定できなければ、吉祥句で異論は有りませんが
”黄武七年五月丙午”とウソの日付であれば 吉祥句として どうかな?と。




779 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 20:32:12
卑弥呼さまは、朝鮮半島からの渡来系の女王ではなく、
縄文時代から日本列島を支配していた縄文人の女王だと思います。
ですから、その墓は前方後円墳だったはずがない。
やはり、卑弥呼さまの墓は、讃岐富士だとする方が理にかなっているます。

780 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/29(水) 20:33:15
太国さんへ 彼鷲崎弘朋氏は、書紀を西暦に直してない。
直ちにダメとは、言わないが この状態では歴史を”細切れ”にして
一つ一つは正しく見えても 繋いでみたら…? と成りそう
太国氏もハラハラ氏も 神功皇后の渡海がどの様な物か 私には理解できません。
多分鷲崎弘朋氏も同様?


781 :ローガン:2008/10/29(水) 20:40:26
>>778
> ”黄武七年五月丙午”とウソの日付であれば 吉祥句として どうかな?と。

嘘の日付つまり合わない干支なら、「吉祥句だから」と考えるべきだと思いますが。
仮に「黄〇七年五月丙午」だったとして、五月丙午を根拠に「黄〇」を読むのはどうかな?と思います。

782 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 20:48:04
三輪山に昔から住んでいた卑弥呼がどうして前方後円墳に
葬られないといけないのでしょう?チャンチャラおかしいですね。

783 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 21:34:09
>>777
昔の畿内(特に山奥の山城こと山背)など文化生活などと
呼ばれるような代物を生み出せる所じゃなかったはず。
訳もわからぬ他所から人間が流入しだして、
畿内つーか大和地方に文化が生まれただけだろうな(笑)

784 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 21:49:50
>>777
記紀によれば、初期の天皇陵は、丘や尾根などの自然の隆起を利用していた。

785 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/29(水) 23:08:57
>>779
妄想復唱 オツカレ!w

>>780
鷲崎さんの論文をけっこう読んでるわけで・・・?

786 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 03:13:04
>太国氏もハラハラ氏も 神功皇后の渡海がどの様な物か 私には理解できません。
>多分鷲崎弘朋氏も同様?
趣旨不明。

787 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 05:23:17
倭人伝に出て来る
国が日本に関係ない国の話だったら笑う

788 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 17:46:06
>>782
葬られてはいけないと言う根拠は?

789 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 18:39:52
>>788
その前に、葬られてはいけないかどうかを782が問題にしているはずだと788が判断した根拠は?

790 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 19:18:36
それより、卑弥呼が三輪山に住んでたことはないよ。

791 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 19:19:36
馬韓

792 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 19:25:49
卑弥呼がいたのは、博多湾〜有明海の間

793 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 19:39:14
馬韓

794 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 20:34:21
もう一つ、卑弥呼さまの墓を発見しました。
こんな立派なモノを立てたのですから、
卑弥呼さまもきっとご満足でしょう。

http://baixaki.ig.com.br/imagens/wpapers/BXK13924_13.-pao-de-acucar-mirante-800.jpg



795 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 20:37:21
>>793
> 馬韓

バカの語源だな

796 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 20:39:57
×邪馬台国=ヤマタイ
○邪馬台国=ヤマト

797 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 20:40:23
>>701

四国の何処かと聞いた事あります。


798 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 20:40:42
邪馬台国は、九州で他の国々を納めていったんでよいのやね

799 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 20:42:28
馬韓

バカの語源だな

ほう、朝鮮民族を馬鹿といいましたねえ。これは大きくでましたねえ。




800 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 21:27:51
>>794大きな岩倉ですね。びっくりしました。

801 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 21:40:19
>>798
卑弥呼はブラジル育ちのキリスト教徒?

写真はポン・ジ・アスーカルですか?

802 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 21:44:45
798のアンカーは間違えで、>>794が正しいアンカーです。
須磨祖です。

803 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 21:58:52
>>801スペイン語でmorroは丘、てっぺんはpico
morroは御諸山と同じ意味、平安時代の名前に使われた「麿」(マロ=マラ)と起源は同じ。
picoは英語でいえばピーク、猿田彦、大彦の「彦」の語源かと思われます。

http://spintravel.blogtv.uol.com.br/img/Image/Spintravel/2008/Abril/Morro-do-Pico-fernando-de-noronha.jpg


804 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 22:18:30
要するに、縄文人は、世界を股にかけて活動していた言うことで、
卑弥呼さまが、ちっぽけな前方後円墳で満足したはずがないのです。


805 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 22:23:49
>>798
北九州の国々を統率していたのは伊都国王で、
それをどっか遠方から邪馬台国が支配していた

魏志倭人伝を読んだ限りではこういう風に感じるのだが

806 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 22:26:37
マジレス

邪馬台国=ブラジル説のようだが、疑問なしとしない。
倭人伝を読むかぎり、投馬国まで水行二十日、邪馬台国まで水行十日(プラス陸行)。
水行に費やされる日数は、計三十日程度だったと思われる。
果たして当時、南米までそのように速く行き着ける船や航海法があったのであろうか?

807 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 22:30:47
>>806あったとするのが妥当
    現在の常識にとらわれたら、あんな大きな岩が立つはずがありません

808 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 22:49:51
>>803
因みに、ブラジルはスペイン語ではなくポルトガル語

809 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 22:51:25
>>806
>果たして当時、南米までそのように速く行き着ける船や航海法があったのであろうか?

ワープ

810 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 22:55:52
>>806

ブラジルまで1月なら、船行1年の裸國、黒齒國の立場が無いよなw

811 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 22:57:21
>>809
現代の常識にとらわれては、判断を誤ることになります。
>>808
スペイン語ではなく、起源は縄文語です。
西洋人が南アメリカに来たのはコロンブスがアメリカ大陸を発見した後の話。
しかも、コロンブスを案内したのは縄文人の子孫である漁民だったのです。


812 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 23:33:50
>>809>>811
ワープできるんだったら30日も要らないよ。一瞬で行ける。
・・・・・これが「現代の常識」だろう?

813 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 23:36:14
>>812SFの読みすぎ。スタートレックの世界と混同してはいけない。

スペインのバスク地方にも立石があります。
http://mw2.google.com/mw-panoramio/photos/medium/9889919.jpg

814 :日本@名無史さん:2008/10/30(木) 23:41:41
>>812
ワープは速いが、行き過ぎるのが難点なんだ
だからなんども調整する

815 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/31(金) 20:20:10
>786さんへ
神功皇后元年は、西暦274年
この辺で読まないと、渡海が読めない。
その証拠 神功52年七支刀に刻まれた年度は 326年(ほぼ神功52年)の
朔がぴったり合う。泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
AD326年の太陰暦5月16日丙午は、存在するその日は東晉明帝太寧4年。
この年以外なら ウソの日付であり、吉祥句と考える。
ウソを織り込んだ吉祥句を刻んだ方も方なら、もらった方も方。






816 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/31(金) 20:27:35
唐松山さん
そんじゃぁ 泰■四年 っていうのは、X線検査で■の字はノギヘン
だという話ですが? 「寧」にはノギヘンなんぞないし・・・?

817 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 21:39:54
>>794さん、すごいです!びっくりしました!
ブラジルのサンパウロなんですか?行ってみたいです。
でも、こんな大きな岩を立てるのは人の力では無理だし、
縄文人は、重力を操ることができたのかもしれませんね。

818 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/31(金) 22:04:38
七支刀をX線で見る。
泰■の解らない文字が現在”ノギヘン”に見える。と言う事ね
これを 正しいとするためには、”ノ”に見える金が象眼の底に埋まっていなければ成らない
しかも 象眼したときにきれいに見せるため 象眼の山をつぶして金を奥に埋め込んでしまった
物でないことも証明されなければ、正しくない。
とりあえず立体でX線撮影しその分析結果が”ノギヘン”なんですか?



819 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 22:27:16
すぐれた文化を誇った縄文人が、遅れた弥生人に征服されたのは、
生殖能力が衰え、人口が減少したためだと推測されます。


820 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/31(金) 22:54:29
太国さん 私とて 神功69年を支持している訳では無い。
とりあえず 書紀の神功時代が、どの様に編纂されているか?の
編纂資料として「七支刀」を神功五二年に記載された訳を分析したんです。
その分析結果がAD326年だと 「伸長されずに記載された数字である」と
読むことが出来る。
それに対しAD366年?などを主張するには、ウソの年号を”吉祥句”として
有り難く頂戴しなくてはならない。
百済と倭の平和のために成るのか?との問いかけに
ローガンさんなどは それで正しいとの回答
太国さんは、どちら?


821 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/31(金) 23:00:30
唐松山さん
X線検査はローガン氏に教えてもらったこと。彼がそう言って
るんで、本当だと思いますよ?
あとはいずれ・・・。

822 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/31(金) 23:20:00
ローガン氏はウソの混ざった”吉祥句”を有り難がる人。


823 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/10/31(金) 23:31:12
追加
神功39年以降の魏書の記事は年度干支が西暦と皇暦を合わせているが
52年七支刀は、西暦にも朔にも合わない所。
何故?此所なのか?  ですよ。

824 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/01(土) 10:12:33
>>822
嘘はつかんでしょう? 彼はなかなか博識だから、そういう点は
それがしとは違いよく考古の情報を把握してるはずです。彼の
惜しい点は、まだ妄想の卑弥呼紀無い説の強信者だということです。

とにかく彼を2ちゃんのこのへんに呼び出して詳細を聴いて、真偽の
確認を判断すべきでしょう。

825 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 10:17:48
ローガンの欠点 → 視野が狭隘で総合的な判断力・構想力が無いこと

826 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 10:54:08
スレ違いやが、邪馬台国があった当時の巍王って 曹否?それとも、曹叡

827 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 11:19:21
垂仁天皇(紀元前69年-70年)の皇女倭姫命が天照大御神を鎮座する地を求め旅をした。
倭姫命は倭国から丹波国、倭国、紀乃国、吉備国、倭国、大和国、伊賀国、淡海国、美濃国、
尾張国、伊勢国の順に移動し、伊勢国内を移動した後、現在の五十鈴川の畔に五十鈴宮と
いう名で鎮座した。移動中に一時的に鎮座された場所は元伊勢と呼ばれているが、記紀神話
に従った伝説であるけれど、この倭姫命こそが卑弥呼ではないでしょうか?
ただし、垂仁の時世では、年代が合わないけれど、これはどう解釈したらよいのやら・・

828 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 11:54:00
>ローガンの欠点 → 視野が狭隘で総合的な判断力・構想力が無いこと
誰にも当てはまる批判のようだが。


829 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 12:01:56
>>826
邪馬台国の卑弥呼が190年頃女王に即位したと仮定したら曹操の時代から。
卑弥呼は長生きだったので魏の曹丕(文帝)、曹叡(明帝)と続き
卑弥呼の使者、難升米を謁見したのは8歳の皇帝曹芳(斉王)だった。
卑弥呼は曹芳の時代に亡くなったらしい。その後卑弥呼の一族の台与が女王に。
晋の司馬炎(武帝)の時代に台与が遣使したのを最後に記録がなくなる。

830 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 12:03:26
>>827つまり、卑弥呼は自分の支配する地域を巡幸していたということですね。
秦の始皇帝も巡幸の途中で病死しているように、天下を支配するということは、
各地に自分の宮を作って回ることだったというのが真相。

831 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 12:20:17
>>828
基本的に考古学をバッサリ無視するのは、ローガンの専売特許でしょ

832 :ローガン:2008/11/01(土) 14:37:05
唐松山さん。 太寧ですか?とすれば、比流王ですね。世子とは?
契王ですか?(次の近肖古王は息子ですが…)
ところで、比流王の時はほとんど外交がなかったようですが、いかがでしょう?

833 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/01(土) 16:07:42
>>827
倍暦計算から卑弥呼の活躍年代は崇神天皇の御世。そして

 237年=景初元年=崇神即位元年
 259年=崇神天皇崩御

であって、これは古事記の崇神の崩年干支258年からもほぼ合致、
肯定されるべき年代である。
卑弥呼没年は247年ころであり、倍暦の計上で

 垂仁誕生=246年

であるから、卑弥呼が死んだころは垂仁天皇は2歳前後であるから
垂仁の子孫はまだ生まれておらず、倭姫が卑弥呼であることには
ならない。つまり両女は別人なのである。

834 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/11/01(土) 16:11:08
おや、また皆さんで七支刀談義ですか。

七支刀について、ちょっと疑問点があります。
そもそも、百済で中国の元号を使用していたという証拠はあるのだろうか?
ウィキペディアで「元号」を引くと、百済については記述がなく、はっきり分からない?

『朝鮮半島では三国時代の高句麗の広開土王が西暦391年に「永楽」という独自元号を使った
という記録が一番古いものであり、その後も複数の元号を使った史料がある。
新羅でも650年までは独自の元号が用いられていた。』

「太」と「泰」もしばしな混用されますが、金石文にわざわざ難しい字を彫るでしょうか?
太国さんを「泰国」と彫るなど、失礼千万。
百済独自の元号かもしれません。


835 :ローガン:2008/11/01(土) 16:29:58
>>834
> 百済独自の元号かもしれません。

そうかも知れませんが…
ただ武寧王陵にあった買地券(552年)ですら、干支表記なので百済独自の年号は?ですね。


836 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/11/01(土) 17:54:33
>>827
垂仁天皇当時のヤマト支配地域を表しているような気がします。
東海・吉備・丹波など、崇神の四道将軍伝説とも一致するようです。
纏向遺跡の搬入土器もこの範囲で、九州や海外とのつながりは薄く、
魏志倭人伝にいう「女王國東渡海千餘里」の国々に当たるのでしょう。

837 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/01(土) 18:09:55
唐松山さん
隅田八幡鏡銘文「癸未年八月日十大王年男弟王在・・・」の日十大王
とはヒト大王と呼んで間違いはない。八月十日を八月十日と逆さに
銘文記載者が書いたことは、ヒトを逆さにした大王つまり逆さづり
させた人間虐待の天皇だよということを黙示してるわけである。その
天皇は年代からして 日十大王=武烈天皇 である。

このことから、七支刀の銘文の「旨王」とは『旨』をヒ(日)の王
と読むべき黙示であり、半島的には日皇(=日本も天皇)を示唆
した王の御名であろう。さらに候王とは「候」のツクリに『矢』の字
があり、かたやニンベンの『イ』は矢印↑の略書きであり、その脇
の 『|』は矢の飛ぶ進路線を意味し、ツクリの上部『ユ』はタテ
に見たとき、七支刀の幹刃と枝刃の略形を見事に表現している。
だから「候王」とは『候』の意味を考えたときに、矢的(=ヤマト)
を示唆したもので、ヤマトの王即ち日本の天皇を一字で表現
した王名だということになる。だから恐らくは石上とは五十ノ上
(=イソの上)から、当時半島側で五十音の片仮名を認知していた奴
がいたことを予想できうるのだ。片仮名の成立がもっと後代でない
ような気がして来たよ。

838 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/01(土) 18:14:26
>>837 訂正
× 日皇(=日本も天皇)
○ 日皇(=日本の天皇)

839 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/01(土) 18:17:10
近肖古王とは、肖古王が2名いたのでは色々都合が悪いので
名前の前に”近”を付けて区別しているだけ。
こんな百済記をそのまま歴史に乗せられない と言うのが私の見解。


840 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/01(土) 18:28:55
太国さん 古事記の干支に関して 見解を。


841 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/11/01(土) 19:00:20
>>837
横レス失礼。
太国さんは、隅田八幡鏡銘文の「斯麻」=百済武寧王とお考えですか?
それなら七支刀との関連も強まるわけですが・・・

842 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 19:14:09
>>833
>卑弥呼没年は247年ころであり、倍暦の計上で

> 垂仁誕生=246年

そうすると倭姫命は、卑弥呼の娘か後継者である可能性も高いですね。
とすると、卑弥呼は支配地を転々と移動し、遷宮していたとは考えられま
せんか?
つまり、卑弥呼の移り住んだ宮は、九州であり讃岐であり吉備でも
あり、そして、最後は倭姫命の最初の宮でもある倭国から丹波国だと
するのが妥当かと考えます。

それが京都府加佐郡大江町元伊勢にある御室ヶ嶽、これです。

http://sannenzaka.com/image8/P1020115.JPG



843 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/01(土) 21:15:24
>>840
記の崩年干支は、稗田阿礼のバラバラの情報入手からの集合やも
知れない。成務以後のそれは誤差が多くなっていて、崇神は誤差が
殆どないようだから・・・。
>>841
そのとおり、銘文の「斯麻」が武寧王と観て不合理はないです。
>>842
百襲媛なんぞは卑弥呼とほぼ同時代の女性ですが、年代とか神がかり
的に両者に共通点が多く、同一人物すなわち 百襲媛=卑弥呼 だとの
主張者もけっこういるようですが、朝廷の神道と卑弥呼の鬼道を
比較して考察するに、鬼道も古神道の特殊なものと考えていいで
しょうが、朝廷のそれと鬼道とはかなり隔たりある信仰と感じるし、
これを想えば、卑弥呼は朝廷の女とは肯定し難いと観るべきです。
とにかく倭姫の母だとか、卑弥呼はその関係じゃぁないですね。

844 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/01(土) 21:19:58
>>837 訂正 まだ間違いがありました。すみません。
× 八月十日を八月十日と逆さに
○ 八月十日を八月日十と逆さに

845 :日本@名無史さん:2008/11/01(土) 22:22:16
「日十大王」は日本王を分解したんじゃねえか?

846 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/01(土) 22:26:32
>>845
そのとおり。その意味も銘文作者は含んで書いている。つまりだ、
日本王の場合は清寧天皇(=白髪大日本根子尊)の御名の中の
「日本」を指して、清寧天皇を示唆している。

847 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/11/02(日) 00:04:18
「男弟王」は仁賢の弟である顕宗天皇?
それとも、音の類似から繼體天皇?

848 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 00:50:03
癸未年銘画像鏡の「男弟王」なら継体天皇が有力な説で503年らしい。
また癸未の年が443年の説もある。

849 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/11/02(日) 01:13:29
日本書紀が百済本記から引く「大歳辛亥(531年)日本天皇及太子皇子倶崩薨」
「後勘校者知之也」と、書紀編者が謎をかけています。
これも大きな問題。

850 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 01:16:50



卑弥呼は吉永小百合だったのさ

851 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/02(日) 08:09:37
「男弟王」は「意富富杼王命/若沼毛王子」とすると
継体の祖父さん? 又は応神の孫?


852 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 08:18:40
しかし5世孫と言ったらその出自すらあやしい。
男のこができなかったため妻方の甥を養子に迎えて
家督を継がせていてもわからないからな。


853 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 08:27:34
>>815
>神功皇后元年は、西暦274年、この辺で読まないと、渡海が読めない。
神功皇后と卑弥呼は切り離して考えるわけね。しかし、3世紀の神功皇后は
何の意味ももたない。そんな時代の人物の記録が残っていただろうか?
神功皇后を3世紀の人物とみると、その後の世代数が少なすぎるのでは?
倭国が3世紀に渡海する実力をもっていたか?

854 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/02(日) 08:37:41
503 癸未
523 百済武寧王墓誌 癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到。
531 袁本杼命/継体天皇26 辛亥年2月7日82


855 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 09:21:55

神功皇后の新羅出兵(三韓征伐)は

391 広開土王碑 「倭以辛卯年来渡海破百残加羅新羅以為臣民」

この有名な碑文が見事に対応する。
ゆえに神功は高句麗広開土王と同時代であり、4世紀後半の人と考えられる。

卑弥呼より百数十年も後の時代であり、したがって、邪馬台国や卑弥呼と
神功皇后とは、まったく重ならない。

856 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/02(日) 09:47:19
>>847
男弟王は主体は繼體ですが、兼ねて顯宗も示唆してますよ。顯宗は
雄計尊という御名ですが、ここの「雄」は男弟王の「男」と同意味
の字ですし、日十大王の「十」は尊の「計」の字のツクリですから
顯宗も含んでのものです。
>>852
そうなら取り巻きがいずれ真相をこっそりと話すから、バレること
が必至。

857 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/11/02(日) 09:49:04
>>853
>神功皇后を3世紀の人物とみると、その後の世代数が少なすぎるのでは?

繼體は神功から6世、230年も離れてしまう?
唐松山さん、ご説明を。

>>855
碑文の391年は、書紀の應神3年(272→修正392年)百済出兵の記事に対応すると見ます。
神功遠征は、三国史記・新羅本紀の奈勿9年(364)年「倭兵大至」でしょう。


858 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/02(日) 09:50:30
>>855
重ならないのは同意。だから卑弥呼は神功ではない。その碑文は神功
の関係ではなく、当時数十とかあっただろう九州小国か九州王朝の
兵の内容文だ。

859 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/02(日) 09:54:44
倍暦計算で

 391年=仁徳即位元年

であり、即位のめでたい年に遠い半島まで戦いをやるなどとは、
よっぽどのことがない限りやらないし、それでもそうだというなら、
記紀に仁徳元年の条に出兵の記載があってもいいはずだ。が、そんな
記載はなかろう。つまり碑文は九州関係のこと。

860 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/11/02(日) 10:01:24
太国さん、書紀の應神三年の記事はどう解釈します?

是歳百濟辰斯王立之失禮於貴國天皇。故遣紀角宿禰。羽田矢代宿禰。石川宿禰。木菟宿禰。
嘖譲其无禮状。由是。百濟國殺辰斯王以謝之。紀角宿禰等便立阿花爲王而歸。


861 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/11/02(日) 10:12:44
三国史記・百済本紀では392年辰斯王が薨去し、阿シン王即位。
日本書紀と合っているようです。

862 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/11/02(日) 10:21:20
咸平本についてみなさんの考えをお願いします。

yahooの人等、いろいろ詳しいですよね...。
ちなみにわたしは、「咸平本」なんて知らなかった。

863 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/11/02(日) 10:42:49
>>862
改めさん、久しぶりですね!
私も「咸平本」知りませんでした。
三国志最古の版本ということですね。
しかし、魏志が残っていないのではちょっと・・・。


864 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/02(日) 11:28:29
>>860 愛知県民さん
なんだか倉西裕子女史もそんなあたりをほじくってまいしたがね。w
紀の應神三年は壬辰年であり、そこの記述は倍暦計算で、実際は

 仁徳2年=実年代392年(倍暦での干支 壬辰年)

となります。紀の應神三年の干支と倍暦実年代計算の392年の干支
とは同一干支の壬辰です。だから紀の編者らが倍暦を知らず、
苦心したでしょうが、紀の應神三年に挿入したと観ていいでしょう。
だからその辰斯王死というのは392年ですよ。王名と干支の「辰」
が同じですね。

865 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/02(日) 11:33:59
とにかく当時の古記録を考えるときは、畿内関係か九州関係かを
見極めてかからないと混線します。半島のほうはいずれも倭とかで
一緒に考えちゃうんでしょう?

866 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 11:38:00
>>862
急にやって来てスレの流れなんか全然無視。
無頓着に勝手な話題を振っていくドツボ・・・・・
www

867 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/11/02(日) 11:43:52
>>865
紀角宿禰。羽田矢代宿禰。石川宿禰。木菟宿禰
これだけのメンバーを送っているのに九州ですか?

868 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/02(日) 11:50:52
>>867
そこまでは考えてはいません。ただ仁徳2年は應神崩御から間が
ない年代ですから、應神の代の人物でもまだ彼らは生きて
るでしょう? だからその点は不合理はないはずです。

869 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/02(日) 11:55:11
即興で考えるに、仁徳2年時、半島に文句をつけに云ってるん
ならば、まだ戦争までは至らんのではないでしょうか?
それで云うことを聞かないならばイクサとなりうるでしょうが?
仁徳即位年は先帝崩御では凶事ですが、即位において吉事でしょう?
となればその年に戦争は早計でしょう?

870 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/02(日) 11:57:07
書紀の 履中天皇元年春二月,壬午朔は、西暦400年の干支
だからこれ以降は、暦法で読める。
これ以降書紀から海外の記事が無くなり「倭の5王」の時代となる。

4世紀に考えなくてはならない物
大量の古墳と鬼の城 4世紀を圧縮するとこれらの築造年代も圧縮しなくては成らない。
崇神を3世紀(古墳時代の幕開け)とすると、人と鉄をどのように調達したか?。
神功の渡海は、この”人と鉄の確保”だと思います。
百済亡国により大量の半島人が流入では遅すぎる。

倉西裕子女史は、編年に暦を持ち込まなかった、その非を悟り2CHより撤退。


871 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/11/02(日) 12:20:51
>>869
百済が倭の云うことを聞いたということは、高句麗から見れば倭の「臣民」となったということ。

>>870
>崇神を3世紀(古墳時代の幕開け)とすると、人と鉄をどのように調達したか?。
>神功の渡海は、この”人と鉄の確保”だと思います。

神功以前から大古墳はありますが?

>百済亡国により大量の半島人が流入では遅すぎる。

ん? いつの話でしょうか?
475年の長寿王の南進か、663年の白村江後?
そんなに後だとは言っていません。


872 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 12:24:26
鉄に関しては丹後・近江がカギだな

873 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/02(日) 13:09:00
ほつま伝に古墳の大きくなるのは、垂仁時代216〜238と書かれている。
古墳の築造は、畿内程度

全国各地で大型古墳が造られ始めたのは?
此所の年代と背景を読まないと。鬼の城、コウゴ石も畿内より各地。


874 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/02(日) 13:14:16
唐松山さん
ホツマには年月日の記載のところに、春×月×日とか秋×月×日
とか、ほぼ全部に季語がついてるんですかね?

875 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/02(日) 13:34:16
半島の古墳は3世紀半ばより
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=44
半島の古墳と日本の古墳は時を置かずに反応している。
魏の滅んだ3世紀中葉 日本の政治はどの様に反応したか?



876 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/11/02(日) 13:39:27
>>873
>全国各地で大型古墳が造られ始めたのは?

3世紀の後半から奈良盆地に王墓と見られる前代より格段に規模を増した前方後円墳が出現し、
4世紀の初めには河内平野に巨大古墳が築造され、この世紀の終わり頃には畿内の一部に先進的な群集墳が現れる。
つづく5世紀の半ばには、各地に巨大古墳が築造されるようになる。
(ウィキペディア「古墳時代」)

877 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/02(日) 13:52:53
>>864
かように干支壬辰が倍暦計算で一致し、392年←→應神三年が同干支
が出るということは、それがしの倍暦計算がそこまで合っていると
いうことになる。
梁書の499年が乙祁(=顯宗天皇)即位年と一致し、隅田八幡鏡の
癸未年が倍暦での503年で武烈天皇(日十大王)誕生年となることは、
顯宗、武烈の時代では(繼體世以降の2倍暦)の関係で14年(唐松山
さんは15年だと云っていた)年代がズレていることが正しいという
ことになる。

878 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/02(日) 13:53:44
ホ35003 トキアスス ムオヤソコトシ ネヤヱハル ムツキツアトハ
オミヱミコ イムナヰソサチ トシヨソフ
ホ35012 ミヨのハツ アキアにをくれ フユおさめ
垂仁元年 秋太陽に遅れが目立つので 冬(冬至)に修正。

太陰暦の証拠ですよ。
太陰暦で書かれた日本書紀は、年代修正後も太陰暦で読めなくては成らない。


879 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 13:58:07
>>876

>4世紀の初めには河内平野に巨大古墳が築造され、

これは間違い。
ウィキにはいろいろアヤシイ記述がある


880 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/02(日) 14:03:04
>>877
ということは、繼體以後宣化まで2倍暦を行使し、それより前の
顯宗〜武烈までの代は通常暦法をやっていたことはほぼ間違いない。

881 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/11/02(日) 14:06:30
>>879
ご指摘の通りですね。
ウィキもとりあえず便利ですが、妄信は禁物。

882 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/11/02(日) 14:15:57
ん?ウィキの話題かな?

愛知県民さんお久し振り。
パパ氏によると咸平本は最古の版本で宋第三代真宗の咸平五年(1002)に
「三国志」は初めて刊行。この「咸平本」というものが実は、我が国の「静嘉堂文庫」に蔵されているという。
らしいです。

話変わるが、今月から上映の映画「幻の邪馬台国」はもう観にいかれた人はこの中にいますか?
ちなみに自分は本日、行こうかと....


883 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 14:24:44
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!

884 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/11/02(日) 14:24:46
>>882
「咸平本」残念ながら、「呉志」しか残っていないようです。

「まぼたい」?
太国さんは興味ありそうですが・・・映画はしょうもないのでは?


885 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/02(日) 14:37:01
>4世紀の初めには河内平野に巨大古墳が築造され、
つまり 4世紀初めには、河内平野に”鉄と人の集積”が有ったと読まねばならない。
274年神功元年、新羅本記は正しい。と読めばクリアー出来ます。
日本書紀では、274〜300年頃までの出来事を神功元年辺りに纏めて書かれている。

この辺から私は空白の4世紀を飛ばねばならない。

886 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/11/02(日) 14:46:22
>>885
唐松山さん、だから「4世紀の初めには河内平野に巨大古墳」はウィキのミスですよ。
私も不注意ですみません。
ウィキでも、後の文章では正しく書いています。

5世紀の初頭、王墓クラスの大型前方後円墳が奈良盆地から河内平野に移り、さらに巨大化し、人物埴輪が現れた。
5世紀半ばになり、畿内の大型古墳の竪穴式石室が狭長なものから幅広なものになり、長持ち型石棺を納めるようになった。
各地に巨大古墳が出現するようになり、副葬品に、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなった。

887 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 14:57:57
那珂八幡古墳最高にシュール

888 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/11/02(日) 15:06:47
>>885
>日本書紀では、274〜300年頃までの出来事を神功元年辺りに纏めて書かれている。

おや? 272年の「日食」ではなかったのですか?
287、289、292、294年あたりの倭人との戦いであると?
私はこの辺りの倭は伊都国と考えます。

889 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/02(日) 15:16:22
「幻の邪馬台国」はこの1月位の間に初めて読んだ。
非常に真摯な態度で”?”に挑んでいるが 惜しむらくは、崇神=卑弥呼で有った。
松本清張も此の1月の間に読んだ。
皆さんが 初めに読んだ本なのだろうが、私には…今が初めて。

890 :愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2008/11/02(日) 15:22:21
残念ですが、今週はここまで。
ZZZ・・・・

891 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/02(日) 16:09:55
前方後円墳は、3世紀末
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2%EF%BD%A53-01-01-01-02.htm

畿内古墳の年代は、応神陵等現在言われている年代を正しいとして
編年した物。


892 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 17:54:15
誤字、誤写、版ミス、・・・etc
その疑惑は余計な知識を持ってしまったからこそおきる弊害。

他の書物を知らずして紹煕本や紹興本の邪馬壹國の文字を見、これは邪馬臺國の間違いではないかと
はたして気付くだろうか?
情報は有って不便なものではないが、情報知識が逆に余計な迷いを生むこともある。





893 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:00:35
893な俺様が邪馬台国は九州とだけ言っておく。

894 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:04:14
紳士な俺様が邪馬台国は奈良県にあったとだけ言っておく。

895 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:08:37
>>894
君!邪馬台国は奈良県にあったと思ってるんだね!珍しいよ!


896 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:33:08
>>895
九州の朝鮮土人の方、こんにちは。あなたの国では珍しいでしょう。
韓国が国家破綻しそうです。祖国に帰られたらどうでしょうか?

897 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:38:14
896は、被差別の白丁

898 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:39:03
>>896
もうチョット勉強すれば畿内説の輩が朝鮮人だということが解ってくるよ
でもこれは大人にならないと解らないだろうな
まず君は小学校を卒業しよう。

899 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:43:27
>>896
君のような小学生はヤマタイとヤマトが似ているから畿内説っての多いけど
ヤマタイって読み方から違うからね、コレ初歩だよ?


900 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:44:14
馬韓。

親日白丁出身者 = 日本人 

親日白丁出身者 > 反日    反日 = 超賎人    

901 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 20:16:37
邪馬台国九州説の人は脳細胞が破壊されて少ないようです。
脳細胞が栄養不足でしたらカボチャの中身を食べて頭にかぶったらどうかな。
そしたら愚かな九州説の主体思想が治るかもね。

902 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 20:50:42
畿内説なら少しはマキムクの素晴らしい点でも上げてみなよw
倭人伝方角は90度間違ってるだっけ?畿内の鉄はリサイクル?
畿内東海大連合国だっけ?w
ほかに笑わせてくれるネタはないの?

それともマキムクは諦めたの?次は畿内のどこ?


903 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 21:48:01
17世紀に「邪馬台国はヤマトって読めば万事解決」って、とんだ思い込みをしちゃった松下見林。
21世紀になっても馬鹿の一つ覚えで、ず〜〜〜〜〜〜〜〜とおなじ思い込みをしてる畿内説。
考古学も文献学も捻じ曲げて、土器編年を改変し、箸墓の年代を改竄し、
嘘を嘘で塗り固め、真っ赤なウソを堂々と糊塗する400年の伝統は、天晴れ天晴れ、畿内説!!

904 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 21:53:44
>903
山門=ヤマトだの、地名が似ていることを根拠の一つにしているのは
九州説でも全く同じだろうが、お前。
畿内説が有利なのは3世紀の古墳に恵まれていること、
三角縁神獣鏡などの発掘により畿内で作られたものが
本州各地に分散していることが確認できるからだろ。
煽りはやめよ。

905 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/11/02(日) 21:58:29
今上映中の「幻の邪馬台」国みてきたが、吉永小百合と竹内直人の人間ドラマ
プラス部分的に邪馬台国がでてくるってかんじ

まあ、そんなもんか

906 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 21:59:25
>>904
> 三角縁神獣鏡などの発掘により畿内で作られたものが
> 本州各地に分散していることが確認できる

そりゃ大和朝廷の証拠であって邪馬台国とはイコールじゃないぞ。


907 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 22:10:49
>>906
三角縁神獣鏡が3世紀の制作であることに異論がなければ
(年号も入っているしね)
3世紀の畿内に巨大王権があったことは確実。
魏が30カ国の宗主国だと記す邪馬台国が畿内にあったことの有力な根拠。
なお、3世紀当時の畿内王権=大和朝廷ではないからね。

908 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 22:20:36
邪馬台国の時代にそんな国産境を大量に作って配ってたんなら、わざわざ輸入する必要ないだろw

909 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 22:21:22
馬韓

910 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/02(日) 22:22:23
△は中国から1枚も出てないんだろう?
となれば卑弥呼の鏡でない。
記紀には1行も卑弥呼の記事が倭人伝からのわずかな借り物文以外
無い。つまり畿内に卑弥呼の国がなかったというのが合理的考察だ。

911 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 22:24:42
>>907
そうはならない
伊都国や那国が大阪湾にあったのならわかるが
残念ながら邪馬台国に含まれるこれらの国は九州にある。

三世紀以前から卑弥呼以前代々男の王が治めてる西日本全部を納める超巨大国家はおかしいだろ。

912 :日本@名無史さん:2008/11/02(日) 22:31:06
馬韓

913 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 09:58:41
倭国は30か国。そのうち、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国
で6か国。いずれも北九州であることは明白。残りの24か国(投馬国、邪馬
台国、その他旁国)で九州中南部、四国、本州を全部カバーできるはずはない
な。ということは、畿内説の考え方は根本からまちがっているということ。

914 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 10:01:54
瀬戸内海を河とする学者も居てだな・・・

それよりも誰だよ?郷土愛と巨乳愛がすご過ぎて
畿内説の俺が泣いた

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915 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 10:07:24
>>908
今の日本じゃ革のバッグつくる技術あるのに、わざわざ外国産のグッチ輸入する必要ないだろ。

916 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 10:08:31
卑弥呼=巨乳説
これは初耳ですが何となく納得
三輪山の主も巨根だったらしい

917 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 10:20:50
(;´Д`)ハァハァ

918 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 11:00:59
不弥国から水行十日陸行一月、
もしくは伊都国から水行十日陸行一月かかるのが邪馬台国。
…この時点で北部九州でないのは分かるはずなのだが…

919 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 11:24:45
>>918
奴国が女王国の中心地、伊都国が女王国の王都。
帯方郡庁から水行二十日で投馬國(狗邪韓国)、そこから水行十日陸行一日で邪馬台国(女王之所都、伊都国、奴国)。
帯方郡庁より女王国(女王国の中心地奴国)に至るには一万二千余里。

920 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 11:30:19
まあぶっちゃけどうしても畿内に邪馬台国がないとヤダヤダ!というウヨがいっぱいいるのは事実

921 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 11:34:00
>>918
伊都国は和歌山県五條市の伊都にあった。
伊都国とは、徐福の子孫紀氏(姫氏)の都のこと。
これでまた一つ謎が解けた。

922 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 11:42:31
五條は奈良県だよ。
御所市の南、橋本市の北だよ。

欠史八代の古墳なり伝説が多い葛城。
最近見つかった室大墓もまだ調査は手付かずのまま。

その葛城は高天の狩猟民族だったとか。
蘇我も先祖武内スクネの時代から、葛城が本拠
関連性は…?

923 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 12:22:50
>>919
なんと!投馬国が狗邪韓国だって!これは大変。
慶尚南道と全羅南道は日本固有の領土となる。韓国は今すぐ返しなさい。

924 :黄門:2008/11/03(月) 12:33:25
記紀にはなぜ邪馬台国の記述がほとんどないのか?
もしも、大和朝廷の先祖が邪馬台国なら詳しく述べるはずだ

925 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/03(月) 12:38:09
>>924
畿内朝廷の近隣に卑弥呼の居場所がないからだ。卑弥呼と朝廷とは
まったく別物的関係の無関係。つまり卑弥呼の国は九州にあっ
たわけだ。

926 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 12:47:07
大和朝廷を中国は『ヤマト』とは書いてないはず。
当て字かそれに近い感じを用いたはずだ。

邪馬台

927 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 13:13:04
大倭→大和(音を同じく、文字を換えた)→ヤマト(大和の意味が地名に)

928 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 13:35:40
大和朝廷の大和は仮冒。
大和に移ってもとの住民が使っていた地名邪馬台から
大和と名乗った。邪馬台国の女王は三輪山に住んでいた
縄文系の女王。

929 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 14:04:44
>>928
元の住人が使用していたなんて、頭の中からでてきたもの書くなよ

930 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 14:21:14
>邪馬台国の女王

928は意味不明だがこの表現はおかしい。これ、さんざん言われてきたこと。
卑弥呼も台与も倭王、すなわち倭の女王だ。
邪馬台国というのはその女王の住まいするところ。

931 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 14:23:25

トヨタン・・・・・・・・・・


932 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 14:40:45
>>930
じゃあ邪馬台国には王はいなかったのか?

933 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 15:12:21
実はいなっかった。w

934 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 15:19:11
>>930
住まいする所と
居する所は違う。

分かってねえだろう?

935 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 16:37:22
倭という島の邪馬台という地名のクニ(今で言う都道府県)のこと。

廃藩置県まで土地の人はクニと読んでいた。
「あなたのおクニは何処ですか?」
「私のクニは三河の国です」てなもんで。

936 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 16:49:43
>>935

同じクニでも「國」もあれば「国」もあるし、「圀」もある。

貴方のいっているクニはいったいどのクニでしょうか?

937 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 16:55:03
今日で連休も終わるし、もう夕方だ
学生さんはそろそろ明日の準備したほうがいいんでねぇかい?

938 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:14:15
>>936
こういう屁理屈な奴がいるから
九州説の人間はまとまりが無いんだよな。

相手が畿内説となると、一枚岩になり叩き始める。
しかし否定地は別々で自分は正しくその他は糞だとしか考えていない。

全く町興しも大概にしていただかないと、
学会には益々無視される存在になるだろうな。

今現在も無視されている。無視されている理由は簡単。
畿内説を吹き飛ばすような証拠が何一つ無く、
妄想やでっち上げばかりで小説の粋を出ないからである。

939 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/03(月) 17:32:48
やっぱ 折衷案。

@南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り。
A女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、
B景行十二年秋七月、熊襲反之不朝貢。○八月乙未朔己酉、幸筑紫。○九月甲子朔戊辰、到周芳娑麼。
C景行廿八年春二月乙丑朔、日本武尊、…唯吉備穴 濟神 、及難波柏濟神 、皆有害心、以放毒氣、令苦路人。並爲禍害之藪。故悉殺其惡神、並開水陸之徑。

@からBは九州と畿内の話とする @で水行十日と陸行一月の行程がBでは、20日で移動
この2つが可能である読み方
@は、軍隊の移動であり難波から九州までの大量輸送に船舶では対応出来ず、途中まで陸路を採った。
又は、Cに示したように難波と吉備の渡しが軍の輸送を拒んだため途中まで陸路を選んだ。
Bは、難波から九州まで船舶を使用。


940 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:33:00
>>938
自分のしくじりをごまかすためめに、屁理屈として
片付けるな。
自分の何を指摘されたかも分からないのか?

941 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 18:46:33
>>919
「韓在帶方之南 東西以海為限 南與倭接」とある。

942 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 18:50:56
>>941
狗邪韓国が後の任那日本府で、投馬国は半島の倭地であろう。

943 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 19:03:07
>>940
今日初めてのカキコミだが。
何いってんだ?

944 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 19:25:06
>>943
>何いってんだ?
「何いってんだ?」

>今日初めてのカキコミだが
「初めてのカキコミだと何か意味あるのか?」

945 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 19:46:51
比定地争いばかりだな
もすこし卑弥呼の人間像とか鬼道のこととか論じてくれ
そういうレスを読みたい

946 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/03(月) 20:09:42
卑弥呼はジッと人の奥底を見据えたような丸顔、太めの女だよ。
吉永の卑弥呼と本物の卑弥呼は残念ながら似てはいないな。マユは
下がりぎみで薄く、額は丸い。ムー氏のマクモニーグル氏の卑弥呼像
はいい女の感じだが、これも本物とは似ていないな。映画のは美麗
であればいいから、それはそれでお楽しみでやむを得んだろう。

947 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 20:23:49
>>946
おk。ルックスはわかった。

あと、身長体重、3サイズ、髪型、好みの服装・・・・
それから、好きな食べ物、キライな食べ物、趣味特技、
好きなペット、好きな男性タイプ・・・・など、なにか推定できることあれば頼む。

948 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 20:35:12
>>946
お前はメタボのハゲだからな。

949 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/03(月) 20:45:12
>>947
わかることとわからんこととある。これはウラゴト(卜事)によって
判断できうるのだ。
髪型は平安絵巻より短いが両肩に乗るくらいだ。両眼は準パッチリ
目かな? アマテラスのほうがやせていて面長かな。吉永の場合は
肩下に真っ直ぐ髪がのびてて面長に見せているが、もっと両肩に髪を
載せ、丸顔にすればなおさら似てきたろう? が、映画なら美麗が
第一だろうから、しようがない。 

950 :三重県民:2008/11/03(月) 21:06:50
次スレ

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!24
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1225463504/


951 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 21:30:13
>>949
イタイタしいから止めたら?

952 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 21:52:06
服装と髪型やsクセサリーだが、卑弥呼と台与の二代の女王は
どこの誰よりも色彩やデザインが派手ではなかったかと思う
めったなことでは人に会わなかったらしいが
宮殿の中でも常に最高のおめかしをしていたと思う

953 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 21:54:44
白装束軍団の代表みたいだったんだよ

954 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 21:59:31

トヨタン・・・・・・・・・・


955 :日本@名無史さん:2008/11/03(月) 22:51:13
>>945
真面目に考えるならば、倭国大乱がいつだったのかを検討する必要がある。
2世紀後半に共立されていたのならば、248まで王を務めていたというのは
不自然。2世紀後半説はまちがいではないのか?榎など何人かが230年代だ
という説を出している。それが正しいとすれば、共立されたとき卑弥呼は婆さん。


956 :サガミハラハラ:2008/11/03(月) 23:39:54
倭国大乱は157年頃始まり、183年の卑弥呼共立をもって終息しています。


957 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 00:19:08
>>956
そのような考え方は、まず間違い。

958 :サガミハラハラ:2008/11/04(火) 10:19:37
えーっ、どうして!理由おしえてください。

959 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 11:22:22
なんで卑弥呼が美しく聡明に生まれてきたのかっていうと父親と母親の
遺伝子プールがあまりにもかけ離れていたから、母親は韓国人だったと思いますが
父親は外国人だったのです。卑弥呼の父の公孫度は公孫家に養子として育てられました。


遊戯王GXはマクモニーグル以外の霊視を元に作られているそうです。
公孫度が何者だったのか?ファラオ王の子孫ともイスラエル人の子孫ともいわれていますね。


ニギハヤヒ=斎王琢磨(さいおうたくま)=太陽アマテラス
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4717907

卑弥呼=斎王 美寿知(さいおうみずち)=水蛇ミズチ
http://image.blog.livedoor.jp/lovealisa/imgs/0/d/0d5ef871.jpg

ニギハヤヒと卑弥呼が一体となった姿
http://image.rakuten.co.jp/jigsawclub/cabinet/shohin_0007/ap1000-355.jpg

あまりにオカルト過ぎますね。自重します(=´Д⊂)

960 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 12:27:29
>>956
終息したのは相攻伐。
歴年主不在な状況を、卑弥呼を共立する事で鎮静化させた。
倭国大乱は、相攻伐となった要因

961 :サガミハラハラ:2008/11/04(火) 13:11:17
いや、相攻伐の状態が倭国大乱です。

962 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 15:20:29
>>961
倭国大乱の文字から規模と、相攻伐の文字から規模は
当然
倭国大乱>相攻伐
記載順も倭国大乱→相攻伐。
ここは、相攻伐は倭国大乱が要因或はきっかけに起きた出来事です。

963 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 16:17:36
>>961
相攻伐の状態が倭国大乱なら、文章に同じ内容の言葉を二つ並べた事になります。
それでいいのですか?

「倭国大乱倭国大乱」
「相攻伐相攻伐」
というように。

964 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 16:56:44
>>956がなぜまちがいか。
倭人伝の住七八十年は男王が続いた期間であって、倭国乱の時期には関係していない。
倭人伝は、倭国乱の時期については何も明言していない。
すなわち、倭人伝からは、「157年頃始まり、183年の卑弥呼共立をもって終息」などと
いう読み方はまったくできない。
後漢書や梁書を参考にしたというのであろうが、それらは倭人伝の記事を誤読したもの
にすぎず、独自の資料があったとは認められない。

965 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 17:04:44
サガミ氏の倭国乱と相攻伐は同じことだというのは、倭人伝の解釈としては正しい。
しかし、後漢書の書き方は、960氏の言うとおり。
つまり、范曄は倭人伝を読み間違え、七八十年を大乱の継続期間と考え、大乱後更に
相攻伐暦年を経て卑弥呼共立と考えた。そのことは、後漢書を丁寧に読み直せば分か
るはず。梁書はそれをおかしいとみて、七八十年を倭面土国王朝貢の時から数えたよ
うである。しかし、それもしょせん誤読。

966 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 17:08:42
なるほどなるほど

967 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/04(火) 17:16:32
倍暦計算にて

 107年+70年=177年=孝靈天皇吉備行幸の翌年
 107年+80年=187年=孝靈天皇崩御

光和年間178〜185年だったな? 倭国大乱
孝靈天皇吉備行幸は倭国大乱のためだろうな?

968 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/04(火) 17:28:12
となると、奈良東大寺古墳の中平刀だが、これは倭国大乱で
亡くなったお方の墓にそういう関係で一緒に入れたものかな?

969 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 17:39:46
太国さん
乱が大和や吉備も巻き込む広域なものだった、などと考えているのか

他の九州説論者にしてみれば、それは認め難いのと違うか
ほとんどの九州説論者は、この時期の倭とはほぼ九州島限定と捉えている筈だからな

970 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/04(火) 19:38:24
まだ確定的とは云えないがね? 可能性があるかなと思うわけ。
中平刀は中平年間を意味してるわけで、かつ記紀は欠支八代に殆ど
記載がないところ、孝靈天皇吉備行幸は時代がだいたい合って
いるしね・・・。いまのところ説に留まるわけだが、そんな感じが
ぬぐえない・・・。

971 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 19:43:06
>>965
>范曄が誤読

自分達の誤読を范曄にすり替えるな。
范曄のは、後漢時の記録を書いたから後漢書
陳壽のは、魏時の記録を書いたから魏書
范曄は後漢時に起きた倭国乱、そして共立を記録し、陳壽は魏時に起きた倭国大乱、そして共立を記録。


間違って解釈しているのは、当該記録から約二千年弱未来のアンポンタン現代人です。

972 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 19:46:19
逆になってしまった。

後漢書が倭国大乱
魏書が倭国乱

だな。


m(__)m

973 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 22:11:05
>>971
後漢書は後漢時代のことを書き、魏志は魏時代のことを書いているはずというのは、
一応は筋が通った話だが、後漢書の倭国大乱から卑弥呼共立に至る記事と倭人伝の
倭国乱から卑弥呼共立に至る記事とを見比べれば、同じ話を書いていることは明白。
卑弥呼が二人いたなどという漫画チックな説は、学者は誰も述べていないと思います
が、誰かいましたらお教え下さい。

974 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 22:29:12
倭国乱に関する後漢書、梁書の記載が信用できないとすると、倭人伝はどう読むべきか?
ここで、>971氏の言う「魏志は魏時代のことを書いてるはず」という考え方が出てきます。
榎一雄は次のように言ってます。(「邪馬台国」222頁)
  乱れたのは卑弥呼即位の直前で、それは卑弥呼が最初に魏に通貢した景初3年6月よ
  りやや以前のことであったのではあるまいか。
180年代に共立されたとみれば、卑弥呼は6、70年女王だったという不自然な話とな
が、榎のように解せば不自然はないですね。



975 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 22:41:19
>>973
学者がどう解釈しているかなんて関係ない。
そんなのどうでも良いじゃん。ようは自分がどう忠実に読み取るかなんですよ

書かれている対象時代が違うのに、それを同じと判断する事は出来ない。
後漢書では元号まで入れ特定しているモノを誤認とする事は出来ないし、魏書で元号特定されていない
事象を別時代と判断することも出来ない。
これらを少しでも弄れば、それは恣意的に作られた平成の歴史書としか判断できません。

976 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 22:46:54
>>974
それは
卑弥呼を一人の人間、一人の個人名詞と考えるが故に起きる疑問です。

977 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 22:47:07
>>975
>ようは自分がどう忠実に読み取るかなんですよ

何に忠実なんだYO

978 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 22:52:44
>>977
そういうレスは書かずに、自分の心に留めて置いて下さい。
もしどうしても書きたくなったら、「ニュース速VIP」にでも書いて下さいな。

979 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/04(火) 23:32:47

>>971氏の書いてある通りですね。

後漢代AD220年以前の倭の大乱後の卑彌呼がおり、
魏代AD220年以後の倭の乱後の卑彌呼がいる。
当たり前のことですね。

卑彌呼は普通名詞です。卑彌呼は日巫女のことでしょうね?
なお後漢代の卑彌呼は2人以上いたでしょうね。
壹與も卑彌呼の一人ですよ。

980 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 23:49:23
>>979
倭人伝によれば、あなたの言う「魏代AD220年以後の倭の乱後の卑彌呼」の
前は、男子の王の時代が7、80年続いたとなっていますが、その男子の王と
「後漢代AD220年以前の倭の大乱後の卑彌呼」とはどうゆう関係になるので
しょうか?

981 :日本@名無史さん:2008/11/04(火) 23:57:53
>>979

>壹與も卑彌呼の一人ですよ。

「卑彌呼宗女壹與・・・」(壹與は卑弥呼の中から選ばれし女)

982 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 00:11:13
>>980
>男子の王の時代が七八十年続いた。

じゃあ
九十年、百年前は男子は王でなく女王の時代?それとも
突如七八十年前に男子が王に?

983 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 00:23:07

イヨタン・・・・・・・・


984 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 00:28:53
邪馬台国の卑弥呼一族の台与(豊受大神)は丹後王国の大宮売神社の出身です。

985 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 00:30:00

ト、トヨタン・・・・・・・・・・


986 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/05(水) 00:48:17
>>980
後漢代に卑彌呼と共立した男王とそれ以前の倭國王です。

具体的には、伊都國(惣座遺跡)の前身国すなわち倭面土國(吉野ヶ里遺跡)の歴代王と推定されます。
(最盛期の倭面土國国王は帥升。)

987 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 00:50:33
>>971
景初二年に倭の女王が遣いを送っている。卑彌呼の共立は景初二年(238年)より下ることはない。
卑彌呼共立より70〜80年前は、遅くとも238−70=168年。これは、後漢の時代。
つまり、「其國本亦以男子爲王住七八十年」という一文は、間違いなく後漢時代のことを書いている。
魏書だから何でもかんでも魏の時代というのは間違い。

988 :サガミハラハラ:2008/11/05(水) 00:53:32
男王の住七、八十年は二倍年暦であるとみます。
120年頃から35〜40年してです。120年ころに倭面土国が邪馬台国にほろぼされます。
123年には神武の東征が始まります。

989 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 00:55:00
1000!

990 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 01:12:13
>>984
丹後の考古学を知らない人にはトンデモ説に映るだろうが、
少々その辺りをかじった俺的には、聞き流せない。

面倒かもしれないが>>984氏よ、かいつまんで理由を述べてほしいのだが

991 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/05(水) 01:16:21
>>987
「其國本亦以男子爲王住七八十年」には「本」を入れ、
これは魏代の事ではないとことわりを入れています。

992 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/11/05(水) 01:26:09
>>987
>景初二年に倭の女王が遣いを送っている。卑彌呼の共立は景初二年(238年)より下ることはない。

魏代の卑彌呼の共立は220年代から237年のことになります。

具体的には倭面土國が移転して伊都國になってからです。

993 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 06:17:59
>>992
卑彌呼が220年から238年の間に共立されたとすると、以下の矛盾が生じる。
まず、時間経過を確認しておく。
桓帝在位146〜167年(21年間) 霊帝在位167〜189年(22年間) 魏建国220年 卑彌呼遣使238年
共立以前に「相攻伐歴年」(期間A)と男王による統治七八十年(期間B)がある。
Aを1年、Bを70年と、最も小さく見積もると、共立の前年から71年前までの期間は倭は男王の治世。
共立を238年とすると、71年前は167年。霊帝即位の年で、霊帝の在位期間、倭は男王の治世。
共立を220年とすると、71年前は149年。桓帝の四年目で、桓帝・霊帝の在位期間の大部分、倭は男王の治世。

期間Aを5年、期間Bを80年と、もっと大きく見積もると、
共立が238年なら、153年、桓帝8年目から霊帝の後まで男王の治世。
共立が220年なら、135年、桓帝即位前から霊帝の後まで男王の治世。

期間A+Bを最小に見積もっても霊帝の在位期間、倭は男王の治世に当たる。
最大に見積もれば、桓霊の間はまるまる男王の治世になる。
後漢書では桓霊の間は、歴年無主の倭国大乱があったことになっているが、
卑彌呼の共立を220年〜238年とする限り、どうしても霊帝在位期間は男王の治世にしかならない。
場合によっては、桓霊の間全部が男王の治世に当たることになる。
つまり、卑彌呼の共立を220年〜238年ならば後漢書の記述が誤り。
後漢書が正しければ、卑彌呼の共立が後漢末のどちらか。
後漢書も正しく、魏の時代にも卑彌呼の共立があって、
後漢書の倭国大乱→初代卑彌呼共立→魏の時代の倭国乱→二代目卑彌呼共立
というのは、物理的に不可能。
これを避けるために七八十年を「七年八年あるいは十年」の意味に無理読みする人もいるが、相手にするまでもない。

994 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 07:03:38
>>991
「其“國本”」で、「其國、本」ではありません。

そして
この「本」を理由に魏代以外と解釈するならば、貴方の言う七、八十年前とする
七、八十年間全て魏代以外の物語となり、一切魏代を含まないと


國本=國を形成する根幹(本国)

995 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 07:23:13
それに、
当該記録を読むに、約二百後に執筆される後漢書の内容と
照らし合わせ読む事の馬鹿馬鹿しさ
魏書からどう桓、霊帝期を読み取り、いちいち計算しなければならないのか?
当該記録書は、当該記録書の中だけで全て事足りる。

996 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 09:40:53
当該史書だけで時間を一目で把握出来るように
当該対象記録以外には
〇〇間
〇〇中
至〇〇
などなど 文頭に表記される 紀伝体の形なら尚更に。

997 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 09:52:16
史書の矛盾を問う前に、先ずは自分の脳を疑え!
史書に矛盾を感じるのは、自分の脳内に不備があるからだ。

998 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 10:23:38
「其國本」
其=邪馬台国三十国体制

国本=根幹(本国)

★邪馬台国の本国では

亦=並列


つまり、
この文章は、邪馬台国全体を記載したのではなく
その中枢を担う本国の記録記載文章です。

999 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 10:36:21
999

1000 :日本@名無史さん:2008/11/05(水) 10:37:38
1000

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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