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【モンゴル】 元寇 4 【高麗】

1 :日本@名無史さん:2008/09/09(火) 21:53:59
前スレ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1193354622/

2 :日本@名無史さん:2008/09/09(火) 23:36:14
前スレが採り上げられてたので
ttp://teitodennoumou.blog84.fc2.com/blog-entry-28.html

3 :日本@名無史さん:2008/09/10(水) 09:24:05
そこの管理人典型的なネトウヨじゃんw

4 :日本@名無史さん:2008/09/10(水) 09:25:12
宣伝が出たんでしょっぱなからウザったくなったな。

5 :日本@名無史さん:2008/09/10(水) 09:30:21
ネトウヨは事実がまるきりねじ曲げて見えてるから話にならない。どんな不利な日本を提示しても、超〜プラス思考で捉え、なんでも日本の武勇伝にし、ある意味ポジティブの度が過ぎた厨的発想力なのでイタい

6 :日本@名無史さん:2008/09/10(水) 10:12:57
孤立している感を演出

7 :日本@名無史さん:2008/09/10(水) 10:18:16
実際、孤立しているんだからねぇw
過去スレみたけりゃ方法はいくらでもあるのに、よりによって……。

8 :日本@名無史さん:2008/09/10(水) 11:11:02
横道や宣伝はいいから、本題にはいろうよ。
鎌倉武士自体の弓矢に関する史料がまったく出てないわけだが、これは適当なのが無いってことでいいの?
蒙古側は西洋人の第三者記録、というはっきりしたものがあるけども。

9 :日本@名無史さん:2008/09/10(水) 13:01:39
前スレ999に蒙古兵の弓は殺害可能圏300フィートって書いてあるけど、
300フィートってことは90メートルくらいだね。

10 :日本@名無史さん:2008/09/10(水) 13:09:14
>>9
ヤードの書き間違いと思われ

11 :日本@名無史さん:2008/09/10(水) 13:14:33
>>9
それはヤードと書き間違えたんだろ。
修道士カルビニの記録には蒙古兵が携行する矢の数まで記録されているが、その殺傷距離は200から300ヤード。
ざっと270メートルに達する。
引き重量も166ポンド=約75キロ。
いずれも江戸時代の和弓と比べても数倍。

12 :日本@名無史さん:2008/09/10(水) 13:22:22
一応付け加えておくが、引き重量30キロ程度の和弓でも、厚さ一ミリ半かそこらの鉄板を十分ぶち抜ける。弓は基本的に威力が大きく、射程も長いものだから、蒙古兵が優れている、とはいえるが別段武士が劣っているともいえない。

13 :日本@名無史さん:2008/09/10(水) 13:36:41
「日本大将には少弐入道覚恵の孫、纔かに十二三の者、箭合の為とて小鏑を射出たりしに、蒙古一度どっと咲くひ、太鼓をたゝき、どらを打て時を作すおびただしさに、
日本の馬共驚躍て刎狂ふ程に、馬をこそ刷しが、向んと云事も忘れ、蒙古が矢短しと云とも、矢根に毒を塗たれば、ちとも当たる所毒気にまく。数万人矢崎を調て雨降る如く射ける上に、
鉾長柄物具あきまを指して弛まず。一面に立双て寄する者あれば、中にして引退く。両方端をまわし合て取篭て皆殺ける。能振舞て死ぬるをば、腹をあけ肝を取り之を飲む。
元より牛馬美物とするなれば、射殺せらるゝ馬を以て食せり。冑軽く馬には乗り、力強く命は惜しまず、強盛勇自在無窮に馳せ引くを、大将軍高き所に居上り、
引くべき所には逃鼓を扣に随て夫寄引き、逃る時には鉄鉋を飛ばし暗くなし、鳴り高ければ心を迷い肝を失し、目くれ耳塞て忙然として東西を知らず、日本軍の如く相互に名乗合い、
高名不覚は一人宛の勝負と思ふ処、此の合戦は大勢一度寄合て、足手の動く処に我も我もと取付て押殺し生捕けり、是の故に懸入る程の日本人として漏るる者こそなかりけれ」
(八幡愚童訓)

14 :日本@名無史さん:2008/09/10(水) 13:58:37
保元物語には遠矢八町指矢三町の強兵とかが登場するが。
これだと最大射程880メートル、有効射程330メートルくらいかな。

15 :日本@名無史さん:2008/09/10(水) 14:26:58
>>14
ないないwそれじゃ大砲だよ
大砲で思ったんだけど、日本の矢って長くて鏃デカくてまるで大砲みたいな重厚さがあるよね

16 :日本@名無史さん:2008/09/10(水) 21:16:29
>モンゴルの矢の射程は日本のそれより三倍から四倍に達するが、矢もモンゴルのほうが重い。

物理的には飛距離は初速の2乗に比例するから飛距離が4倍なら初速は2倍。
2倍の初速を得るには8倍のエネルギーが必要になる計算。
さらに空気抵抗は速度の2乗に比例するから、実際により重い矢を4倍の距離飛ばすには10倍以上の
張力が必要になるだろう。
こんな事が物理的にあるわけがない。

もしモンゴルの矢の方が遠くまで飛んだなら、それは単にモンゴルの方が軽い矢を使っていただけの
事だろう。

17 :日本@名無史さん:2008/09/10(水) 21:28:53
948 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2008/09/08(月) 12:52:57
蒙古の弓術は、清朝支配下で危険として禁止され、祭礼の弓比べすら制限を受けたから現代のそれと同一なのかはわかんない。このあたり歴史の霧のむこうやね。
グユク時代のモンゴルを旅した西洋の修道士の記録だと、
・蒙古兵は二種類の矢、二種類の弓を常に携帯して使い分けていた
・殺傷可能な距離は200から300ヤードに達する
と、かなり優れていたものだとあるが。
使い分け、というのがミソかも。

950 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2008/09/08(月) 13:02:23
蒙古兵 200から300ヤード=だいたい180メートルから270メートル前後(殺傷距離)
日本武士 七、八段=70メートル、一説には20メートルぐらい(しかも実戦殺傷ではなくて)

ああ、アウトレンジされたってのは別におかしいことでもなんでもないのか。

986 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2008/09/09(火) 12:51:27
第三者も記録する300ヤードの蒙古兵の射程距離、しかも当てて殺傷できる距離。
大して一人のねらーの脳内妄想に過ぎない武士の四町(笑)。
お話にならないな。

18 :日本@名無史さん:2008/09/10(水) 21:33:07
根拠もない妄想レスのコピペしか貼れないブサヨ哀れw

19 :日本@名無史さん:2008/09/10(水) 21:56:08
そもそも直接照準で狙った標的にピンポイントで当てるのと、矢ぶすまを作って遠矢の間接照準で面制圧をする
のでは、同じ「有効射程」でも全く違ったものになるのだが (もちろん遠矢で打つ方がはるかに「有効射程」は長く
なる) こんな基本的な事さえ理解していないんだから話にならない。

20 :日本@名無史さん:2008/09/10(水) 22:28:32
「蒙古襲来絵詞」の記述でも、竹崎季長は先に蒙古の矢ぶすまを受けている節がある。
だが竹崎は何本か矢を受けながらものともせず敵陣に突っ込んだ事になっているし、一方、少弐景資は
敵の副将・劉復亭を一撃で射倒している。
やはり蒙古側は射程と発射速度で勝り、日本側は威力と命中精度で勝ったというイメージがあるな。

21 :日本@名無史さん:2008/09/10(水) 23:07:14
多分弓そのものには差がさほど無かったと思う。
ただモンゴル側は毒塗ってたから武士側は動揺はしたと思う

22 :日本@名無史さん:2008/09/11(木) 20:54:58
これ面白い

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1871857.html?ans_count_asc=2

高麗軍だけでなく元軍も兵のかなりが高麗兵(帰化人や二世等)だったことを考えると
彼らの使ったのは半弓で速射は効くが威力も射程も不足で当然だと思う
後年の秀吉軍との戦いでも半弓の射程と威力不足が問題になってる

23 :日本@名無史さん:2008/09/11(木) 20:59:10
>少弐景資は敵の副将・劉復亭を一撃で射倒している

彼は女真族だけど何かの武器図鑑で
「金の兵が使った弓は威力が不足であり宋の鎧には効果がなかった」
と書いてあったな
女真の弓も威力と射程が劣ってたのは確かだと思う

24 :日本@名無史さん:2008/09/11(木) 21:01:51
>>22のリンクには
>それで蒙古襲来のときは速射できる小さいモンゴル弓に衝撃をうけた
と書いてあるが、たぶん大多数は半弓や短弓の類だったのだろう

25 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 00:52:30
もののふは先駆けを以て賞とす
ただ駆けよ

26 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 00:22:07
台風が上陸するような季節の日本で
湿気に弱い合成弓をメインアームにするのはまずいんじゃないか。
(湿気で素材を固定するノリが腐ったりするらしい)

高麗兵の弓も元軍のと同じような合成弓だったのかそれとも
単なる短弓だったのか。

27 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 21:30:31
日本の武士が使った弓は普通二人張りとか三人張り(弓の弦をかける時必要な人数)とかじゃないの?
これだと引き重量は最低でも100〜150キロ(一人50キロとして)

28 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:22:35
朝鮮軍が室町の頃の日本船と交戦した記録があるが
そこには朝鮮軍の矢を全身に受けハリネズミのようになりながらも
平気で動きまわる日本武士の様子が出てくる(文禄・慶長の役での記録にも
似たようなものが出てくるね)

一応、朝鮮の弓も世界基準では結構優秀なレベルだから(他の武器はしょぼいけど)
やっぱり日本の甲冑の矢に対する防御力は別格じゃないかな

29 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 02:53:37
まあ優先して守らなきゃいけない部分はかなり頑丈だったんだろうねえ。
そんな中で鎧の隙間を狙う介者剣法なんてのが生まれたんだし

30 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 14:09:32
>一応、朝鮮の弓も世界基準では結構優秀なレベル

これって根拠がウリナラファンタジーじゃなかったけ?

31 :名無しさんの次レスにご期待下さい :2008/09/15(月) 16:08:50
943 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2008/09/08(月) 12:24:17
>>940
世界・ふしぎ発見のミステリーハンターが韓国に行ったとき
現地のガイドさんが穴のたくさん開いた岩を指して
「この穴は三別抄が弓の訓練をしていたときにできた穴です。あの丘の上からこの岩めがけて矢を射ったのです。
わが国の伝統的な弓はおよそ300メートルほど飛ぶので、これほどの距離があっても穴を開けてしまうのです」
って言ってた。参考になるかな

32 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 20:38:59
つまり、きちとしたソースは無いということなのね。サンクス。

33 :31:2008/09/15(月) 21:08:32
あれ?名前欄空白にして書き込んだのに

34 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 11:39:09
なるれす

35 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 22:00:42
弓道研究の筑波大の森俊男教授によればモンゴルの短弓の威力は
それ程でもないとのこと。

http://www.restspace.jp/cgi-bin/orz/img-box/img20080917215749.jpg

36 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 23:17:03
http://jp.youtube.com/watch?v=okCtwtCIukQ

37 :日本@名無史さん:2008/09/18(木) 00:43:35
207 名前:世界@名無史さん 投稿日:2008/09/17(水) 22:02:00 0
弓道研究の筑波大の森俊男教授によればモンゴルの短弓の威力は
それ程でもないとのこと。

http://www.restspace.jp/cgi-bin/orz/img-box/img20080917215749.jpg



38 :日本@名無史さん:2008/09/18(木) 14:58:19
結局参加した多くが高麗や金の漢兵だから
そういうプアな弓がほとんどだったのだろう

39 :天照大神:2008/09/20(土) 03:18:54
サンドイッチマン

40 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 13:18:56
518 :名無し三等兵:2008/09/26(金) 01:41:26 ID:???
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-42.html

41 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 19:50:48
蒙古兵と高麗兵は強姦マシーン揃い
よって捕虜になった蒙古兵(漢人や金人も含まれるが)と
高麗兵は打首

旧南宋兵は放免

42 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 00:12:55
敗戦直後の日本女性強姦についてはソ連兵が悪名高いが、実際には
朝鮮人によるものがダントツで多い。

「水子の譜(うた)」上坪 隆
----- ドキュメント引揚孤児と女たち -----
ttp://www.ebookjapan.jp/shop/book.asp?sku=60009096&genreid=10010

二日市保養所の資料は、六月十日の報告書
183 ページ "地域別と加害者"
これは、2ヶ月分だけの記録
加害者の6割が朝鮮人だと示しています。

43 :大韓民国民&朝鮮民主主義人民共和国公民:2008/09/27(土) 01:03:14
強姦であれ赤ちゃんは愛の結晶なのだから、産めばよかったのにね

44 :黒田福美:2008/09/27(土) 01:37:40
コリアンによる強姦?冗談じゃありません。

コリアンとジャパニーズ・ウーマンが平和を祝って愛し合ったのが真相です。

その結晶が韓日混血の赤ちゃんたち。

その子たちが水子にされなけれれば日本はもっと発展していました。

堕胎した日本女性たちは恋人(美しきコリアン)を裏切り、赤ちゃんをDしました。

同じ日本人として、女性として恥ずかしいです。

また、ロシアン・ベビー、チャイニーズ・ベビー、マンチュリアン・ベビー、

ウズベク・ベビー、カザフ・ベビー、グルジアン・ベビー、アフロ・アメリカン・ベビーも沢山誕生していれば日本は開放的で明るい社会になっていたのです。

45 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 06:57:50
荒らしども反応速すぎ
毎日チェックしてそうだな

46 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 22:12:32
453 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/10/03(金) 13:32:03 ID:???
文永の役のことらしいのだが・・・・

634 名前:名無し三等兵 本日のレス 投稿日:2008/10/03(金) 03:18:33 ???
今日の歴史(10月3日)
ttp://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2008/10/03/0200000000AJP20080911002900882.HTML

>1274年:高麗・元の連合軍が日本撃退


  _, ._
(;゚ Д゚)

454 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/10/03(金) 13:35:33 ID:???
>>453
    _, ._
  ( ゚ Д゚)
  ( つ O   ガシャ
  と_)_)  __
       (__()、;.o:。
         ゚*・:.。


47 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 23:35:34
【元寇・文永の役】 <*`∀´>「今日は高麗・元の連合軍が日本を撃退した歴史的記念日ニダw」
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/news/1223043311/

48 :日本@名無史さん:2008/10/07(火) 21:29:57
ところでお薦めの本ってなんかある?

49 :日本@名無史さん:2008/10/08(水) 11:54:44
>>44
死ね

50 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 11:10:00
>>48
非売品なんで入手困難だが「本土防衛戦史 元寇」。日本の古本屋とかで検索すると時々ひっかかる。
昭和38年に陸上自衛隊の4だったか8師団だったかの有志が元寇を戦術的に分析したもの。
伝承のみで、史実としては否定されている地域への侵攻をあったとして記述したりとか、専門家から見たら
ちょっとの部分があるが、逆に歴史の専門家が疎い戦術的分析は見るものがある。
元寇全体を知るための本ではなく、副読本的に使うのにオススメ。

51 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 12:27:31
>>35
この森さんという人の研究は信頼できるものなのか?
大きさの記述があるようだが、質量とか張力も書いて欲しいものだな

52 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 15:58:30
> 伝承のみで、史実としては否定されている地域への侵攻
もしや元軍長門侵攻説?

53 :日本@名無史さん:2008/10/16(木) 07:48:44
>>52
>>50のさすのが何かはわからんが、ぐぐると確かにその本は長門侵攻説を採用してるようだ。

54 :日本@名無史さん:2008/10/17(金) 10:45:41
元が長門に侵攻したってトンデモなの?

55 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 20:56:51
日韓混血児なんかおぞましい

56 :日本@名無史さん:2008/10/21(火) 23:56:43


大爆笑!韓国政府が自爆!慰安婦の正体を暴露!(最悪)wwwwwwwwww
http://photo.jijisama.org/ianfu.html

うそつきw

朝鮮人謝罪しろ
ゴミ民族w



57 :日本@名無史さん:2008/10/27(月) 20:35:25
気になるんだけど、日本軍はあんな重たい甲冑つけてよく元船に乗り込んで海兵戦できたな。
じつは最低限の装備を着て乗り込んだのでは?

58 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 00:06:37
古式泳法に鎧着たまま泳ぐのがあるからね。

59 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 19:50:14
乗込む時に着替えたんじゃない?

戦国時代だって合戦場が近くになってから甲冑を着たそうだし。

60 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:10:28
過去には日本に酷いことをしてたのはちょんだった件
謝罪しろ朝鮮人

61 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:14:30
「元寇はモンゴル来襲じゃなく高麗来襲だった」

元寇は無かったってそういう意味か

62 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:18:44
元寇が元の意思じゃなかったからって『元寇は無かった』って表現はどうかと思うが…。

63 :日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:20:10
>>60
今も昔もそうだ。
朝鮮人なんか凶悪犯罪民族だろ。
関わってるだけでこっちが病気になる。

64 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 11:38:53
実質せめてきたのは高麗軍なんてもう常識なんだけどな。
あと提案したのが高麗でも元も一応一枚噛んでるわけなんだから元寇はなかったなんて表現はちょっと。

65 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 16:46:44
674 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/10/29(水) 16:34:17 ID:???
>>673
日本には幕末まで騎馬武者はいたが、騎兵「隊」はなかった
長篠の武田軍は騎馬武者一騎に徒兵(歩兵)数名が随伴する混成の部隊
日本は幕末に英仏の騎兵技術を享受される以前は
騎兵に絶対不可欠な去勢技術、蹄鉄が存在せず
またハミなど馬具も騎兵用には作られていない
しかも馬の平均体高は130-140cm
蒙古襲来時の騎馬武者は全て弓射騎馬兵で打物騎馬兵は存在しない
なぜなら馬上槍はおろか長物は薙刀しか日本には存在しておらず
そもそも馬上で打撃戦を行うことは悪しき行為とされていた
従ってほんとに日本武士が蒙古軍に戦って勝ったか疑わしいという意見もある
日本に打物騎馬兵が現れるのはなぜか蒙古襲来後の南北朝時代である
蒙古軍には戦いで敗れたことがきっかけで兵制改革なされたとしか思えない

66 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 22:00:11
>65
コピペに返答するのもだるいが、兵種としての騎兵が無いことと
戦争の勝敗には何ら関連性がない。馬格の話に至っては、モン
ゴルも大差ないという説もある。

要するに、知識があるように見えてその実なにも中身のない愚説
としか言いようがない。軍板のレベルも落ちたものだな・・・

67 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 22:10:05
>>66
>>65がコピペ元本人なんじゃね?軍板でフルボッコされて逃げて来たと予想w

68 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 22:43:29
>>65
馬上での打撃戦が勝敗を決める?・・・

69 :日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:23:37
「鹿が降りれるなら馬も降りれるはずだ」
と言って一ノ谷に突撃した源義経の70騎は騎兵とは違うの?

70 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 19:50:08
2008年10月12日  「元寇」を教えない対馬と九州の教育

賭人の独り言から転送します。ご参照いただければ幸いです。

8月の対馬視察では意外な事実を知らされた。対馬の小中学校ではだいぶ前から、歴史の授業で『元寇』に
於ける対馬侵略が教えられていない…と云うのである。

対馬だけではなく、福岡県太宰府市の「九州国立博物館」常設展示でも「蒙古襲来」に関する展示が極端に少ない。
私も何度か見学したが、どうやら意図的に「蒙古襲来」を避けている節がある。

この話は複数の議員が現地の人と接触して確認している。ある対馬市民などは「元寇は福岡の話でしょ?」と
軽く言ってのけた由。次回の対馬視察では、『蒙古襲来』に関する歴史授業の実情について調べてみる必要がある。
対馬だけではなく、福岡県太宰府市の「九州国立博物館」常設展示でも「蒙古襲来」に関する展示が極端に少ない。
私も何度か見学したが、どうやら意図的に「蒙古襲来」を避けている節がある。
特に酷いのが『蒙古襲来絵詞』複製展示の解説文。「蒙古襲来」とか「元・高麗の侵略」という言葉が全然無く、
「対モンゴル戦争」(?)という珍妙な用語なのである。

これでは文永・弘安の役がまるで日本によるモンゴル侵略と勘違いするよう、児童・生徒を誘導しかねない表現ではないか。

この「九州国立博物館」はオープン以前の8年前、常設展示案が報道された時分から「九州と云う地域の特性を
生かした内容にする」方針にも関わらず「蒙古襲来」展示が無く、問題視されていた。
つまり元(=中国)が日本を侵略した事実を隠したいという思惑があるのだろう。

これは展示監修の歴史学者が親中派だった為か、中華人民共和国駐福岡総領事館の圧力があったのか、よく判らない。

草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN


71 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 19:50:47
元寇」を教えない対馬と九州の教育 2008/10/06

また『元寇』自体の教え方にも問題がある。元の侵略は鎌倉幕府側に責任がある…という馬鹿げた論説が
罷り通っているのだ。

モンゴル(1271年より元)の意図は日本に朝貢させて(つまり臣下の礼をとらせて)服属させるものだった事が
明らかなのに「元の国書は通商を求めたに過ぎない」とする解釈だが、これは日本を貶める偏向解釈以外の
何物でもない。NHKなどもそんな邪説に与した番組を流しているのだから問題外である。

そしてどんなに事実を捻じ曲げようと、文永11年(1274年)10月5日に来襲した元・高麗軍が対馬西海岸の
各所で一週間に渡り一般島民を虐殺・拉致し、児童200人を奴隷として高麗に連行する等、暴虐の限りを
尽くした事実は消しようがないのだ。

・もう一つ悪意の感じられる論説もある。当時の鎌倉幕府が対馬や壱岐などの離島防衛を初めから諦めていた、
つまり見捨てたというもの。

この論説を唱える者の視野には、明らかに「沖縄」が入っている。

「沖縄は先の戦争で本土に見捨てられた」と主張し、被害者意識を増幅する。
その感情の先に「米軍追い出し→沖縄独立論→中共支配」が繋がっている。沖縄タイムスに出てきた金城信一氏が
喜びそうな論説と云えよう。

しかし史実では、文永の役において対馬で玉砕した宗助国の軍勢の中に肥前(佐賀・長崎県)や阿波(徳島県)の
御家人がいたことが記録されている。本土からの増援兵力が僅かながらも差し向けられていた訳である。
また弘安の役では、事前に派遣されていた「武幹の士」が島民と共に粘り強く戦っている。出身地も広範囲で、
陸奥・出羽(東北地方)、上野(群馬県)、下野(栃木県)、信濃(長野県)、三河・尾張(愛知県)、遠江(静岡県)、
近江(滋賀県)、丹波(京都府)、備前(岡山県)、筑前(福岡県)、日向(宮崎県)、肥前(佐賀・長崎県)、豊後(大分県)と、
日本全土に及んでいる(『対馬島誌』)。

賭人の独り言
http://tafu.iza.ne.jp/blog/entry/744565/


72 :日本@名無史さん:2008/10/31(金) 19:57:25
なぜ朝鮮人は嘘をつくのか Why does the Korean tell a lie?
http://jp.youtube.com/watch?v=9ATZG6pyY88
http://jp.youtube.com/watch?v=jbgbbXk0n1k
http://jp.youtube.com/watch?v=M04w5qer9DM


73 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:32:33
>>66
> 軍板のレベルも落ちたものだな・・・
ヒント:軍板のカテゴリは「趣味」

74 :日本@名無史さん:2008/11/12(水) 21:27:56
まあ戦国時代板がゲーム厨と腐女子だらけなのと一緒ってわけだな

75 :66:2008/11/12(水) 22:42:07
>>73
一応元軍板住人として言い訳させて貰うと、昔はもっとレベル高かったんだぜ?
昔なら>>66程度のツッコミは瞬時に入ってたわ。

76 :日本@名無史さん:2008/12/17(水) 19:31:04
日本史の研究でもまだまだ実証的な物が少なくな。
変ななんとか史観による色づけめいたものばかりだから。
という愚痴はともかく、
この間出た元寇の歴史シリーズのものを読んだのだが、
このスレで問題になっている弓については疑問がある。
あまり納得できるものではなかった。もっともっと実証的な研究でないと。
弓の飛距離ということに関してはモンゴル系の弓の方に分があるんじゃないか。
というのも見渡す限りの大平原で戦っていたら飛距離がある方が有利だろう。
それに引き替え木々や建物などの障害物が多い日本なんかは命中精度が高い方が有利になるはずだ。
だから、遠方で戦っている時には元軍がやや優勢だったのではないか。
しかし、弓だけでサムライたちを蹴散らすことはできなかった。
そこで接近戦になって俄然日本の弓の方が有利になり、
かつ白兵戦になった時には、
元、南宋、高麗の寄せ集め兵では屈強な鎌倉武士の敵ではなかった、
という状況ではないか。
だから、上陸し背後に大船団が控えているにもかかわらず、
元軍は(船に)撤退したのだろう。
昼でも怖いサムライたちの夜襲をさらに怖れたということだろう。

77 :日本@名無史さん:2008/12/20(土) 00:13:21
日本の地形が複雑っても見通しで云kmくらいの地形はざらにあるだろ

78 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 20:58:43
先日、元寇のころの話をしていたところ、三別抄が済州島を根拠地にしたが結局やぶれて、
済州島の男子は皆殺しにされたとききましたが、この話ご存知の方おしえてください。

79 :日本文尊 ◆m0yPyqc5MQ :2008/12/21(日) 21:18:59
自己紹介として俺の写真を貼っておきます。街で会ったら声かけてね。

http://imepita.jp/20081202/694820

80 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 21:44:06
彼女のも貼ってくれ。

81 :日本文尊 ◆m0yPyqc5MQ :2008/12/21(日) 21:47:23
いや自分童貞ですから…

82 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 22:26:31
チョンどもが対馬の領有を主張してるが
かつててめえらが対馬で何やったのか覚えてんのかよ。

83 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 11:17:28
室町時代、李氏朝鮮軍が和冦討伐を名目に対馬へ侵攻。
応永の外冦と呼ばれるこの事件は、対馬島民が李氏朝鮮軍から虐殺されるなど
残酷な仕打ちを受けた。

しかし、対馬島民のレジスタンス勢力が李氏朝鮮軍を次々に攻撃。
対馬島民の義勇兵によって大打撃を受けた李氏朝鮮軍は
逃げるように対馬から撤退した。

84 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 19:23:19
けしからん本を発見しました
中村直勝とかいうヤツが主婦の友社から出してる日本史裏読みの本
元の目的が平和外交だと断言し、
使者を斬った幕府の毅然とした対応を非難しとる
こいつはどこの国の人間なんだ?

85 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 20:08:41
WW2と組み合わせて日本人論
これ重要

86 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 00:40:50
元の世界征服を食い止めた意味で
人類史上かなり重要だと思うが盛り上がらんね
内容的にも日露戦争より凄い

87 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 00:57:42
ほかにモンゴル軍破ったのってマムルーク朝エジプト、ベトナム、
インドネシアのシュリービジャヤ王国くらいしかないな。

88 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 02:53:35
普通に勝ってしまったから盛り上がらない

89 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 03:22:29
昔ジンギスカンのシミュレーションゲームで
北条政子からイングランドの王妃までオルドしまくった

90 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 16:39:21
>>87
インドもモンゴル軍を撃退してるよ。

91 :日本@名無史さん:2009/01/04(日) 17:48:35
文永の役の際にせっかく上陸した元軍がその夜船に戻ったのは
日本側の粘り強い反撃、夜襲が激しかった為と想像できない不思議

ちょっとでも戦国もののゲームやれば分かるが上陸作戦というのは大変で
もし陸上で圧勝、制圧できてたのならそのまま陸で拠点を築くはず

92 :日本@名無史さん:2009/01/05(月) 01:46:02
高麗、ヴェトナムの抵抗が日本へ影響したって話はよく聞くけど、
日本の勝利の影響はあまり聞かないなあ

93 :日本@名無史さん:2009/01/05(月) 12:20:34
>高麗の抵抗
かの民族特有の妄想です
そういった事実はまったくありません

94 :日本@名無史さん:2009/01/05(月) 16:48:53
>>93
では高麗はすんなりとモンゴルの属国になったわけ?
いい本あれば教えて下さい

95 :日本@名無史さん:2009/01/05(月) 17:54:15
すんなり属国になりました。
というか、自ら蒙古の俗を真似て恭順を示し、虎の威を借りた王族もいましたとさ。

おわり


96 :日本@名無史さん:2009/01/05(月) 19:53:43
>>マムルーク朝エジプト、インド
こっちのほうが地理的にまだ先がある分
どんずまり的な日本、インドネシアより世界史的意味があるよな

インドは後代ムガル王朝にやられるが


97 :日本@名無史さん:2009/01/05(月) 23:30:05
日本の抵抗のお陰で東南アジアは助かったな

98 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 06:43:08
軍板のスレは落ちたか

99 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 23:00:27
アイヌの抵抗も忘れないで!

100 ::2009/01/07(水) 00:18:45
強硬外交を見習え

101 :YAP?:2009/01/07(水) 01:03:18
 高麗が日本侵略に意欲的だったのは、日本を占領すれば、出兵した見返りに、日本内に高麗王家の
所領がもらえるからだ。
モンゴルの風習で、外国や敵を征服したとき、参加・出兵した諸王族、部族などに、占領地の一部が
分け前として分与される。

 元朝が支配した中国に、ジュチ家(金帳汗国、一般にはキプチャック汗国といわれているが)の
領地が存在していた事実があるが、高麗王家は、当然そのつもりだったのだ。
井上靖は、ちゃんと歴史を勉強していたとはとても思えないな。まあ、サボりまくっていたのだから
当然だろうが。

102 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 11:07:35
優勢な側が、わざわざ船に戻ったって戦史は存在しない。

モンゴルにせよ元にせよ、帝国の威信の維持は他国の服従を前提とするので
平和外交なんてことはありえない。
そもそも日本へ使者が立てられた当初の時期には南宋が、まだ江東の地に寄って
抵抗しており、あまつさえ対外貿易で国力の増加に成功しかけてただろ。
対日交渉の主眼は南宋の貿易相手である日本への示威と見る向きもあるのに、
なんで平和外交って言えるのか意味ワカンネ。

103 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 19:19:46
255 名前:名無しさんの野望[sage] 投稿日:2009/01/10(土) 19:14:44 ID:0aU6IgvJ
元寇の役で動員された頃の武士なんて貧乏のどん底にあるんで、
馬なし、鎧なし、従者なしで無問題、弓と兵仗(刀)があればおk
って発令が出ていたぐらいで、出陣の記録なんか見ると、
大半が単身徒歩武者で参陣している有様だったわけだし。

104 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 20:14:47
何故多くの歴史家は優勢な元軍が船に戻ったと考えたのだろう?
端からモンゴル兵と武士とでは武士が不利と決め付けているのか

105 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 20:47:05
よく威力偵察とか言う人がいるけど、威力偵察の定義を
わかって言っているのかねぇ。

106 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 04:11:17
そうあるべき日本ってのがあんだよなー

107 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 15:20:04
文永の役において元は4万人を動員して日本に遠征し、1万3500人が
還ってこなかったという。他に負傷した者も多数いたはずだから、損害は
全軍の3分の1以上。こういうのを軍事の世界では「全滅」という。
日本軍はムチャクチャ強かったのだ。



108 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 20:26:53
歴史化には変にブサヨク思想に凝り固まった奴が軍事の常識に真っ向から矛盾する科学的根拠
のないことをしゃあしゃあと流しまくるからな。そいつらの仲間が国会に議席を持つと空母からB52
が発着艦出来るとテレビカメラに向かって堂々というから、これまた恐れ入る。

109 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 22:25:17
>>107
その強さの基盤となるのは
日本社会にしっかり根差した封建制だと言われています

110 :日本@名無史さん:2009/01/11(日) 23:40:33
ところで、前から気になってるんだが、日本では元軍は毒矢を用いたことに
なってるだろ。でも、毒って希少な物質だろうし、元軍が一度の戦争で使う
矢の数は膨大だし、全部の矢に毒を塗るのは難しいんじゃないか。
そもそも外国の史料にモンゴル軍あるいは元軍の毒矢についての記述って
あるのか?誰かおしえて。


111 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 00:35:48
>>110
モンゴル族は遊牧狩猟民族だから、狩った獲物を食うから毒矢は普通は使わない。また、騎射の名手
そろいだから、弓の腕だけで普通は相手を倒す。モンゴル族は指揮官クラスの少数のみで、元軍ですら
女真族や漢族が多数だったわけだろう。そうなると、牧畜狩猟民族の女真族は別として、漢族は弓の腕
だけでは、遊牧民族や牧畜狩猟民族の様に相手を倒せないので毒矢を使ったんだろう。武器に毒を塗る
のは漢族の弱い兵士が効率よく、相手に大した傷を与えなくても倒せるように、春秋戦国の古からよく使っ
た方法ではあるな。

112 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 09:54:03
>>110
文永の役の時に蒙古軍が毒矢を使ったって話は、14世紀初頭前後に成立したらしい『八幡愚童訓』
という八幡大菩薩の威徳を称揚した縁起集に出て来る話。

チンギス・カンからモンケ時代にかけての中央アジアから西アジアへの諸遠征については『完史』、
『ジャラールッディーン伝』(ホラズム・シャー朝最後の君主の伝記)、『ナースィル史話』、
アルメニアやグルジアの年代記、バトゥのヨーロッパ遠征についてはルーシの『ガリーチ・ヴォルイニ年代記』、
ポーランドやハンガリー、ドイツの各年代記や教会の報告書など色々ある。モンゴル側の記録としては
『世界征服者史』、『集史』があるが、モンゴル系やテュルク系の遊牧民からなるモンゴル軍が毒矢を使った
という話はまず知られていない。

バトゥの遠征の時に、ポーランドだったかオーストリアのある城塞がモンゴル軍に包囲されたそうだが、
城壁に立った兵士はことごとくモンゴルの矢で射殺されるので、衣服をつけた案山子のようなものを城壁の前に
立たせたらすこんすこんと正確に矢が当たって案山子は矢でハリネズミのようになったとかいう話があるそうだ。
あるいはグユクの即位式に参列した教皇使節プラノ・カルピニのジョヴァンニはモンゴル人の兵士はやすりを
常備していて矢尻をナイフのように研ぎすませて殺傷力を高めるよう常に勉めている、という話しは報告して
いるが、やはり毒矢の話しは載せていない。

『完史』『ジャラールッディーン伝』『ナースィル史話』の著者はいずれも中央アジアや西アジア周辺で
モンゴル軍に敵対したか攻撃を受けた側の記録だが、モンゴルの殺戮や掠奪については言葉を極めて
非難しているが、毒矢を使ったという話は聞かれない。
『世界征服者史』、『集史』、『元史』、『元朝秘史』などはモンゴル側の記録だが、モンゴル人に毒矢を
使う習慣があったような記録は無い。モンゴル宮廷を訪れた南宋の使節の記録『蒙韃備録』や『黒韃事略』が
あるが、やはり毒矢云々は聞かれない。

>>111の人が指摘するように毒矢云々は高麗側か、華北から高麗領北部に駐留した女真、漢族軍閥あたりの
兵装なんじゃないかと個人的には思うんだが、ちゃんとした考察はまだされてないように思う。

113 :110:2009/01/12(月) 11:48:48
皆さんの回答に感謝します。
元軍は多民族混成部隊だから、一部に毒矢を使用する者たちがいた可能性は
あるわけか。勉強になった。


114 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 13:48:15
>モンゴル族は遊牧狩猟民族だから、狩った獲物を食うから毒矢は普通は使わない。

南米の狩猟民はヤドクガエルの毒を矢の先に塗って狩りをしてるからその論理は成り立たない。

ヤドクガエル 毒 狩 で検索してみ。

115 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 13:51:34
ヤドクガエル科のカエルの中には地球上で最も毒性の強い種がおり、モウド
クフキヤガエルは1匹で、成人10人の致死量に十分な毒を持つ。コロンビアの
先住民族、エンベラ族の人々は何世紀もの間、吹き矢の先にその強力な毒液
を塗って狩りを行ってきた。モウドクフキヤガエルの名はその風習に由来する。
http://www.nationalgeographic.co.jp/animals/amphibians/poison-frog.html?PRINTABLE&VignVCMId=dc90220789022110VgnVCM100000f102a8c0RCRD

116 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 14:39:33
>>114
狩猟民≠遊牧狩猟民族

117 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 14:53:18
カエルの毒だと量も少なそうだし、取り扱いも難しそう。狩猟や暗殺には
使えるが、大規模な戦争での使用には向いてないな。


118 :日本@名無史さん:2009/01/12(月) 14:58:03
アフリカの乾燥地帯に住んでる部族は
ある植物の根から出る汁を煮詰めて毒を作り
それを矢に塗って狩りに使ってる

119 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 21:09:00
毒草を栽培すれば、ある程度まとまった量の毒を確保することが出来る。
軍事利用も可能。当時どこかに、薬草園ならぬ毒草園があったのだろうか。

120 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 21:49:50
フビライなら高麗、華南、中東、欧州の美少女を集めて
アヘン宴催せる

121 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 00:19:09
>>120
ネタにマジレスなのも野暮なことだとは思うが・・w

基本的にモンゴル帝国の後宮は、日本の前近代の皇室や徳川将軍家の大奥と性質は同じ。
コンギラト部族やケレイト王家など、自政権下のさまざまな有力諸侯家の子女が正妃・正室として
選ばれ、そういった王家へ嫁いだ良家の姫君や未婚の皇女について、養育係りとか身の回りの
雑務などを任された女官や下女などがとりまいて、後宮(オルド)というものが形成された。

クビライの子供(男子)は『元史』宗室表では10人、『集史』クビライ・カアン紀では12人を
数えるが、『集史』クビライ・カアン紀に載る順番をあげると、
そのうち夭折した長男ドルジ、チンキム、マンガラ、ノムガンの4人はコンギラト部族の宗家筋だった
アルチ・ノヤン家出身の大皇后チャブイの子供達。五男コリダイはメルキト部族のトゥルギチン皇后の子供。
六男フゲチ、ウグルクチ兄弟はドルベン部族出身のドルベジン皇后の子ら。同じく八男アバチ、ココチュ兄弟は
フウシン部族のフウシジン皇后の子供達。他にも十一男トガン(例のベトナムの陳朝征伐のために派遣された皇子)
はバヤウト部族出身のバヤウチン皇后。十一男は、大皇后チャブイの妹でチャブイの死去の後に彼女の地位を継いだ
ナンブイ皇后の息子で、資料の一部では名前は「不明」とする場合もあるが、一部では「ウグルグチ」とする。
母親の氏名が不明な皇子は、十男クトルグ・テムルのみで、クビライとアリクブケが帝位を争っていた時期に生まれた
そうだが、二十歳で亡くなったらしい。


122 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 00:25:52
>>121の続き。
『元史』后妃表には皇后側室が十名列記されているが、それぞれがクビライの4つのオルドに配置されているので、
それぞれのオルドに2名づつくらい。チンギスの後宮は『元史』后妃表でも4つのオルドに三十四名程載せている
から、それに比べればやや少ない。もっとも他のモンゴル皇帝たちの后妃表に比べると、チンギスの次くらいに
詳しいが。

征服した地域の王族を扶養する、という事例ならクビライ時代にも南宋の皇族を大都に招致したことなどがあるが、
これも政治的な措置。というか、後宮というものは(日本の大奥でもそうだが)皇族の家政機関ではあるが極めて
政治的な装置・施設であるため「高麗、華南、中東、欧州の美少女を集めて」みたいな幻想は、実際問題と
比べたら幻想止まりだろうから、まあ、あんまり抱かない方が良いと思うw

あと、この時代にアヘンは無いだろう。むしろ、当時のモンゴルの王侯貴族は葡萄酒やアルヒなどの高級かつ
アルコール度数の高い酒類を特に愛好していたので、後宮の妃子が嗜好するならこちらだろう。
(だから、モンゴル王族同士や諸侯のあいだで宴席での振る舞いが原因で関係がこじれたなんて話も多い)

123 :日本@名無史さん:2009/01/14(水) 16:13:25
アヘンは紀元前からあるよ

オルド以外の性的遊戯としてだよ

124 :日本@名無史さん:2009/01/15(木) 23:10:43
>>121ー122
まあ蘊蓄語る自由は保証する

125 :日本@名無史さん:2009/01/16(金) 20:21:57
www

126 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 20:59:17
日本のサムライは元の集団戦術に苦戦したと言われるが実際は直ぐに対応して互角とまではいかないが、
元軍の一方的な優勢ではなかったらしい。

127 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:50:49
「文永の役」で日本に侵攻した元軍は約4万。うち戦闘員は2万5千で残りは
非戦闘員の船員だという。一方、博多で元軍を迎え撃った日本軍は急いで
駆け付けた九州の武士だけなので、せいぜい1万。教科書等ではあまり
指摘されないが、「博多の戦い」時点での両軍の兵力には、圧倒的な差が
あった。にもかかわらず、日本軍は元軍を撃退している。これは本来驚くべき
ことだ。




128 :日本@名無史さん:2009/01/17(土) 23:57:30
元軍アヘンでもやってたんかなあ

129 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 00:13:01
俺の母校のすぐそばに元寇防塁の石碑があるんだが
その対面に「倭寇」って名前の飲み屋があるの

130 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 00:20:20
>その対面に「倭寇」って名前の飲み屋があるの

経営者が朝鮮人なんだろw


131 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 00:34:00
修猷館だね

132 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 00:39:48
>129ー130
元寇の被害者達が、報復の意味を込めて倭寇として暴れたのを
知った上である種の誇りを込めてそういう店名にしたのかもしれず。

まあ可能性は低いだろうけどね。

133 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 00:42:31
ググったらホントに倭寇って居酒屋があった

134 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 00:51:34
で、アヘンはいつからあるの?

135 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 03:43:57
>>127

> 駆け付けた九州の武士だけなので、せいぜい1万。

当時の日本の人口と交通の発達状況では、5千弱程度だったみたいだよ。

136 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 12:59:35
文永も弘安も元軍が撤退してる最中も
東国からは続々と援軍が駆けつけてたしな

137 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 15:22:34
明日、居酒屋倭寇に行ってくるわ

138 :YAP?:2009/01/18(日) 22:40:45
 その居酒屋「倭寇」の経営者が、「真倭」か、それとも「偽倭」だったのか、
是非とも報告して欲しい。

139 :日本@名無史さん:2009/01/18(日) 22:45:23
フビライが東欧や中東、中国の美少女を毎日手込めにしてたと
想像するだけで某の一物は

140 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 02:22:56
女体盛りには


エビフライ載っけてたんだよ、きっと

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/19(月) 11:43:55

「醜い韓国人」朴泰赫

韓国の歴史とはただ強い者に媚びへつらい、弱いものを
圧殺するというそれだけの歴史である。
大陸の宗主国の力が弱まれば新興の宗主国にくっついて旧宗主国をたたく。

これが韓国の「真実の歴史」である。

元寇のときは元にくっついて壱岐、対馬の善男善女を虐殺しぬき、
日本が宗主国となると旧宗主国である満州人をいじめ抜き、
日本が敗戦すると日本を見下し、恐喝、強盗まがいのことを平然として、
アメリカにくっついて武器も持たぬベトナムの女子供をなぶり殺しにする。
これが韓国の歴史である。

こんな歴史しかないくせに「五千年の偉大なる歴史」とは笑止千万!

卑怯者とは韓国人のためにある言葉だ


142 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 13:17:38
船が難破して捕虜になった者のうち、モンゴル人は斬首、宋と高麗の捕虜は助命したらしいけど、見分け方はどうしたのかな?
言葉か、軍装の違いか?
モンゴル人は士官クラスが大多数だろうから。

143 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 14:40:42
秀吉の朝鮮出兵でも明兵が毒矢をつかったとある。

144 :日本@名無史さん:2009/01/19(月) 19:35:38
>>142
助命したのは旧南宋人だけじゃなかったかな。
見分け方だが、結構見た目で分かったんじゃないか。軍装とか顔つきとか。
あと、当時の日本には亡命南宋人がたくさんいたから、彼らに選別に協力してもらえばOKかと。

145 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 00:33:11
賄賂としてアヘンを渡して命拾いしたんじゃないか?

146 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 17:59:59
>>107
こりゃ船にもどって再編成してまた戦うなんてできないね
矢も尽き、確か鎧まで捨ててたんだよね

147 :日本@名無史さん:2009/01/21(水) 21:40:47
というか、もし仮に台風での水没死のが多かったとしたら、本来は
そっちのが恥になるはずなんだけどね、軍事的に考えて。

旧日本軍なんか非戦闘損耗のが多かったとか叩かれまくりじゃん。

148 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 11:58:43
季節的に予想できない台風だったら恥にならないよ

149 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 15:18:22
実は大戦中でも神風吹いてるんだけどね。
ハルゼー艦隊大打撃

150 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 17:13:49
一方日本海軍は、復元性や船体強度を改善していたので、大戦中台風で大きな損害は出していない。
日本の軍艦の方が台風には強かったのだ。


151 :日本@名無史さん:2009/01/24(土) 19:54:07
ということはやっぱり台風は予測できないのか

152 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 08:35:06
今でも予測できない


今でもmorphineに勝る鎮痛剤なし

153 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 11:03:38
朝青龍をちゃんと教育しろよ

154 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 12:24:55
日本近海の台風被害 米第三艦隊

ハルゼー提督のアメリカ第三艦隊が昭和19年12月18日、ルソン島東方500カイリ
附近で駆逐艦三隻(スペンス、モナガン、ハル)が転覆沈没、
改装空母5隻(モンテレイ、サンジャシント、カボット、ラングレー他) 重巡2隻
(マイアミ、ボルチモア)護衛空母3隻(ケープエスペランス、アンジオ、オルタマハ)
駆逐艦8隻が大損傷ほかに、飛行機損失146機、死者790名、重傷84名という
重大な被害を受けた。

また昭和20年6月5日第三艦隊は沖縄沖で台風におそわれ
戦艦4隻(マサチューセッツ、アラバマ、インディアナ、ミズーリ)
空母2隻(ホーネット、ベニントン)改装空母2隻,護衛空母4隻、
重巡3隻、軽巡4隻、駆逐艦14隻、雑船12隻に大小の被害を受けた。
とくに重巡ピッツバーグの艦首が切断されたのは、拡大された第四艦隊の
アメリカ版であった。

155 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 21:54:08
ハルゼーって猛将として知られているけど、結構抜けたところがある提督だよな。
台風で大損害を被ったり、レイテ沖海戦では日本の作戦にまんまと引っ掛かって囮部隊に釣り出されたり。
まあ、太平洋戦争の話題はこれくらいにしとくか。

156 :日本@名無史さん:2009/01/27(火) 23:59:28
日露戦争・太平洋戦争あたりのイメージから一般的には日本はずっと海軍国、海軍が強い国だったと思われがちだ。
また逆に元・モンゴルは大陸勢力で海軍は弱いというイメージがある。しかし、本当にそうか。
「文永の役」において日本軍は兵力において劣勢であったにもかかわらず、陸戦によって元軍を退却に追い込んでいる。
「弘安の役」では日本は元の艦隊を攻撃しているが、「蒙古襲来絵詞」を見る限りでは、小舟で大型艦にゲリラ的に切り込みを
かけているだけのように思える。さながら大英帝国海軍にUボートによる非対称戦を挑むドイツ海軍といった感じだ。正面から
艦隊決戦を挑むのは難しかったのだろう。
実は元寇においては陸戦では日本有利、海戦では元有利だったのではないか。だからこそ、「弘安の役」の神風によって元の海軍が
大打撃を受けたことが日本勝利への決定打だったのではないか。元軍は鷹島にすでに拠点を築いていた。しかし艦隊を失った後は
退路を断たれ死にものぐるいで抵抗したにも関わらず、日本軍の攻撃にあえなく壊滅している。
陸戦が強い日本軍と海戦が強い元軍というのは一般の常識には反するかもしれないが私はこれが事実だと思う。

157 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 14:20:25
海戦と言っても火器がないんだから
弓矢と接近してからの白兵戦だよ
日本の鎧兜が優秀だったのだと思う
ハリネズミ状態になっても致命傷を負わず戦闘できた
防御力が高いから勇敢に闘えるのはドラクエでもはっきりしてる

158 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 18:22:42
そもそも中世の戦場では海戦なんて殆どの場合陸戦の延長でしかないんだがな。

159 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 22:02:07
>>157
火器については知らないが、元軍は海戦で投石機を使用したらしい。また、弓矢の戦いでも
高い位置から攻撃できる大型艦の方が有利。夜襲以外では日本側が白兵戦に持ち込むこと自体が
困難だっただろう。
日本の鎧兜の優秀さについては同意。特に矢に対しては高い防御力を発揮したと思う。武士の
強さの理由の一つといえる。

160 :日本@名無史さん:2009/01/28(水) 23:58:48
アメリカのTV番組で元寇を題材にしたのがあったが、日本刀でその当時の中国やモンゴルの鎧を
切ってみせているのがあった。一方、日本の鎧は日本刀では切れなかった。その番組では、
「完全防備のサムライ」と白兵戦やったらモンゴルも敵わんだろうと結論付けていた。

161 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 00:01:58
>>160
ヒストリーチャンネル?

162 :正史 ◆QNgpy.EHRU :2009/01/29(木) 00:29:44
>>129
豚カツ屋だろ

163 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 00:29:48
仮に元の国書を素直に受け取り、国交を開いたら属国にされたのか?
サムライの政府だから今の自民党と中共よりは対等な国交が出来たかも。

164 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 01:51:17
元に屈した後の高麗みたいにモンゴルの風俗がなだれ込んでくるのがまず確実。
次に天皇の皇后にハーンの親族の娘を押しつけられ、
鎌倉幕府は元の官庁の行省に組み入れられる。
元軍に編入されて中央アジアやベトナム、
果てはペルシアまで従軍を強いられる御家人もいるかも。

165 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 02:07:08
じゃあ今頃は中国の日本省か

166 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 02:42:07
フビライから時宗にパンダの貸与が有ったりしてw
1年につき金千枚とかでw

167 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 07:08:07
また蘊蓄おぢさんが
「当時、ジャイアントパンダはまだ支配層には発見されてない。」
とか長々と寄稿してくれるぜ

168 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 08:50:23
海を越えての元の侵攻を防いだのは日本だけと思いがちだが、ベトナム人も
元の船隊を壊滅させているよ。
河に誘い込んで、水中の杭に引っ掛け、動きをとれなくしてからやっつけた。

169 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 11:01:13
>>166
ってか、黄金の国とか噂されてたし、大量の金銀を略奪されてたのは確実。

170 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 12:23:54
ぢゃあ北条家や貴族のお姫様達も献上されて
フビライのビラビラ阿片遊戯の餌食に……

171 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 16:10:42
>>166
元の対外政策に対等の国交なんて選択肢は無い。
服従か征服かの2択だ。

172 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 18:50:58
下手すると日本なんて民族自体が消滅したかもね。
島国は一度侵略者に足場を固められたら終わりだから。

173 :日本@名無史さん:2009/01/29(木) 19:55:16
>>167
ちっ、先手打たれたかw

>>170
美女はみんな連れ去られて
現代の日本の女はもっと悲惨な顔になってたかも。
いやあ鎌倉武士は偉大だなあ。

174 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 02:28:21
教科書は今でも、文永の戦いでモンゴルの集団戦法や火薬に苦戦した、と教えているのか?
実際は日本軍は直ぐに対応して互角以上に善戦したらしいけど。

175 :日本@名無史さん:2009/01/30(金) 02:35:43
【朝鮮日報】対馬を征伐、崔潤徳将軍がドキュメンタリーに/昌原[01/29]
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1233197666/
【韓国】対馬を征伐、崔潤徳将軍がドキュメンタリー番組で復活★2[01/29]
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1233220306/
(朝鮮日報 2009/01/29 10:57:46)
ttp://www.chosunonline.com/article/20090129000036

176 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 18:35:17
>>174 約10年前の高校日本史B(山川) P108,110

1274(文永11)年,元は徴発した高麗の軍勢をあわせて対馬・壱岐をおかし,九州北部の博多湾に上陸した。
太鼓やどらを打ちならし,毒をぬった矢や火薬をこめた武器を手にして,集団でおしよせる元軍の戦法に,一騎討ちを得意とする御家人たちは苦戦の連続であった。
このため日本軍の主力は大宰府にしりぞいたが,元軍はおりからの風雨や,海を渡っての不慣れな戦いによる損害から,兵をひきあげた(文永の役)。
 2度目の襲来は1281(弘安4)年のことである。その間に南宋をほろぼしたフビライは,元帝国の威信をかけて前回に数倍する大軍で博多湾におしよせた。
しかし元軍は,博多湾一帯にきずかれた防御用の石塁と,大量に動員された武士の抵抗になやまされたうえ,そこを大暴風雨におそわれ,大損害をうけて敗退した(弘安の役)。
この2度にわたる元軍の襲来を元寇(蒙古襲来)という。
 元の2度にわたる失敗の理由は,経験のとぼしい海をこえての戦いと,元に征服された高麗や南宋などの人々の抵抗にあった。
しかし日本軍の勝利の原因には,それにもまして,まずこの大軍をよくふせいだ御家人をはじめとする武士の活躍があげられる。

日本の歴史 改訂版

2001年3月1 日 印刷
2001年3月5 日 発行
1997年3月31日 検定済

著作者
児玉 幸多  学習院大学名誉教授
五味 文彦  東京大学教授
鳥海  靖   中央大学教授
平野 邦雄  東京女子大学名誉教授


177 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 20:42:40
文永の役は「威力偵察」だったとも考えられるな。
元軍はヨーロッパを攻めた時も同じようなことをやっている。

178 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 21:13:04
はい

179 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 21:49:37
太宰府どころか水城にすら達しない「威力偵察」。
いったい何を偵察したのか。
しかも次の侵攻まで何年もかかっているので、博多湾には延々と石塁を作られるし。



180 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 21:50:18
苦戦と善戦はそんなに矛盾しないような気がしてきた

181 :日本@名無史さん:2009/01/31(土) 21:52:42
>>177
威力偵察というのは、その実行部隊が独力で敵に対処できることを前提とする。
敵情も把握できてないの出兵するのは威力偵察などと言わんw

182 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 20:00:44
文永の役で日本に侵攻した元軍は約四万。当時の人口をざっくり今の十分の一と
仮定すると、これは現代の感覚では約四十万・・・。
「威力偵察」にこれだけの人数を動員するとは、さすがフビライ、スケールがちがう!

183 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 20:14:47
文永、弘安の役の大失敗は元、フビライの権威に傷がつかなかったんだろうか

184 :日本@名無史さん:2009/02/01(日) 22:01:21
攻めた兵を引いただけだから、権威が傷つくというほどでもないだろう。
日本の報復軍が大都を炎上させていたら話は別だが。

185 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 09:04:44
>>181
>威力偵察というのは、その実行部隊が独力で敵に対処できることを前提とする。

その通りだ。だから部隊の規模はそれなりに大きくなる。

>敵情も把握できてないの出兵するのは威力偵察などと言わんw

ん? 敵情の把握が十分でないから「偵察」するんでないの?

>>182
>文永の役で日本に侵攻した元軍は約四万。
>「威力偵察」にこれだけの人数を動員するとは、さすがフビライ、スケールがちがう!

モンゴルの第1回のヨーロッパ侵攻について威力偵察説があるが、このとき
カルカ川の戦いで、6万とも8万とも言われる東欧連合軍を、ほぼ同規模の
モンゴル軍が打ち破っている。

186 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 13:33:16
リーグニッツの戦いか?

187 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 14:06:32
いや、カルカ川の戦いだ。
「カルカ川の戦い」で検索すれば資料は多いよ。
中世ヨーロッパの騎士団とモンゴル騎馬軍団の、最初のぶつかり会いだ。

188 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:16:29
元寇は、日本の自虐史観にそまったブサヨク学者は鎌倉武士の善戦は評価
しないが、欧米の研究家は素直に評価しているのが多いね。ディスカバリー
チャンネルやヒストリーチャンネルの番組なんて、エリート戦士の武士が居る
日本を他の国と同じに考えて攻めてきた元がアホと言わんばかりの内容だった。

189 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 22:41:33
サムライは木偶の坊じゃないから、集団戦法や火薬に戸惑ったのは初めだけで、直ぐに対応したんだろう?

190 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 00:43:22
>>188
欧米人は攻め込まれた悔しさから元を低く見たいんだよ
鎌倉武士は確かに素晴らしかったが
白人の元に対する敵対心は異常
以前スタートレックでチンギス・ハンが出てくるエピソードあったが
その外見の薄汚さには度肝を抜かれた

191 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 11:03:21
スタートレックは、黒人を擁護するとどんな危害が自分や家族に及ぶかわからない社会情勢で、
人種差別の愚かしさを繰り返し問うたり、先進国と途上国との問題、ベトナム戦争への批判とか、
社会問題を好んで扱っていたのは製作された年代を考えれば秀逸なんだけど、
無駄に古代ギリシア・ローマ人を称揚したり、一神教が至上であるとか学術的にはかなり偏っているからね。

192 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 16:21:21
蒙古軍は4万もいたっけ?
2万6千くらいだと思ってたが。



193 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 19:59:23
>>190
ということは、逆に言うと日本ではモンゴルやチンギス・ハンのイメージは結構いいってことか。
皮肉なものだな。モンゴルに負けひどい目にあった者が悔しさから彼らを低くみて、撃退し勝利した
者の方が高く評価するとは。

194 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 21:20:40
>193
世界史板に最高の軍事指導者をあげるスレがある。

チンギス・ハーンが世界最高ランクってのには誰も異存が無いようだ。

195 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 00:14:53
>>193
別に皮肉でもなんでもないでしょ
日本は元にヤラレなかったから劣等感がない
ジンギスカン料理とかモンゴルに対する国民感情とか
まあ日本は特殊な国なので何とも思ってないのが正確な所か
普通は大帝国の侵略を退けたんだから記念日として祝日を設定するべき

196 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 03:32:20
北九州の御家人が一所懸命の精神で戦っただけの話やからな。
日本全体で盛り上がれといわれても無理な話。

197 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 07:14:06
万物一体の仁の精神で考えれば九州も東京も日本人の故郷だよ

198 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 09:40:16
>>196
いや、国家意識芽生えてた

199 :日本@名無史さん:2009/02/04(水) 11:47:24
武家政権か普通に勝った

これは評価されないわw

200 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 13:28:48
>>184
元って日本の報復軍に明州城を炎上させられてるでしょ

201 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 18:38:11
>>200
その話、詳細を知りたい。

202 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 20:06:01
>>201
元寇で日本に負けた後、元って報復に怯えて海防強化に躍起になるんよ。
一方で元を訪れる日本の商船はどんどん重武装化。
ついに1309年、明州城内に乱入した日本の武装商人によって、官府・故家・民居のほとんどが焼き払われる。
元代の文献の日本についての記事って、その強さや恐ろしさを嘆くものが大半。

203 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 23:03:29
>>202
詳細の書き込みサンキュー。

204 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 01:38:45
>>202
明州って今の寧波でしょ。旧南宋領で住人も漢族ばっかりだから、めちゃ弱だろう。
官府つったって、モンゴル族か色目人の幹部が少数居るだけで、警備の兵士だって
漢族の木偶の坊ばっかりだろう。
どうせなら、華北のモンゴル族の多いところを襲えばもっと面白かっただろうな。

205 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 01:51:13
>>204
さすがにゲーム感覚で戦争しないだろ

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/06(金) 05:27:17


■ベトナム人虐殺を誇らしげに展示する韓国の記念館
http://killkorea.iza.ne.jp/blog/entry/766367





207 :日本@名無史さん:2009/02/06(金) 23:55:12
>>188
日本人が、実際には街はウンコまみれで軍隊は幼稚な戦術しか持たなかった
中世〜近世初期のヨーロッパに対して華やかな城下町&洗練された精強な騎士達
って幻想を抱きがちなのと同じように
向こうの人達は向こうの人達でサムライ最強神話をガチで支持したり
日本刀は何でも切り裂く神秘の刃みたいな幻想を抱きがちだからw


>>193
どっちかというと瞬く間にあらゆる国を打ち破って
傘下におさめたモンゴルやチンギスに対して一種の憧れの念を抱いてるな。
日本人は昔から所謂覇王タイプの人物に憧れる傾向にあるんだよ。
日本の歴史上にはそういう人物が少ないから余計に。
日本の人物でも豊臣秀吉や徳川家康より織田信長の方が人気あるし。
日本人が好きな偉人ランキングとかでも常に上位には
チンギスハーンやナポレオンやアレキサンダーやカエサルが来るだろ?

208 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 01:03:24
>日本の人物でも豊臣秀吉や徳川家康より織田信長の方が人気あるし
信長人気は戦後に出来たものだよ。
江戸〜戦前までは圧倒的に秀吉人気の方が上で、
信長は「秀吉の主君」としての扱いしかされてない。

209 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 02:57:50
>>207
覇王が好まれるというのはあくまでも戦後日本でしょう。
古事記の仁徳天皇の逸話、平家物語に見える恩義の思想を見ても日本人が義ということを大切にしてきたとわかる。
戦前の楠木正成の人気。
そして明治新政府では西郷隆盛が一番人気があったというしね。
両者とも覇者ではない。義の人だ。

210 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 07:15:08
>>205
http://www.zdrbs.com/japanese/book/nihonzo/06/2.htm

シリーズだが、上記のページに始まる、元寇以後の日本人観は面白いよ。
倭寇はまさにゲーム感覚で戦争をやっている。
フビライが第二次遠征失敗後、融和的な国書を送っていることははじめて
知った。
元寇以後に倭寇が盛んになったのは、元が海軍力を失ってしまったことも
原因だという。

211 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 20:13:53
今再放送で元寇の話やっているけど
高麗が元に日本侵攻を進めたとか
若狭の比企一族が高麗と共謀した陰謀だとか
言っているね

212 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 22:46:43
幕府が恩賞を十分に与えられなかった事が家来の信頼を失う原因と言われるけど、幕府は直轄領を削って与えたり米や現金を与えたりはしたんだろう?

213 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 22:48:28
むしろ統制強化を試みてるよね

214 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 00:48:06
外国の侵略があったんだから、それに対抗するため挙国一致のムードが生まれ、
執権北条氏に権力が集中する。短期的にはむしろ幕府の力は強まる。
しかし長期的に見ると、小規模な御家人が没落するとともに北条氏独裁への批判が
高まり、幕府の体制は不安定化・・・。
俺はこのように見るが、どうか。

215 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 19:25:59
>>214
概ね同意。
俺の認識もそんなもん。

元寇前には、しきりに土地を巡っての御家人同士の争いが起きて
幕府の権威が揺らいでいたということはあったらしい。
鎌倉幕府の根本は土地争いの調停機関であるとする説があるくらいだからね。

それが元寇を機に一時的に権威の上昇を見るも、やがては・・・。



216 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 15:06:41
教科書にすら書いてるよな。>防衛強化口実に幕府の支配力強める

217 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 19:18:33
>>216
その書き方はおかしいね。
戦時に上意下達を徹底させるのは常道だろ。
結果、支配が強まったならわかるが、
口実ではなく非常時だからそうしたわけだから。
なんというか左チックな記述のしかただ。

218 :日本@名無史さん:2009/02/09(月) 20:19:14
>>210
マルコポーロの「東方見聞録」にも、元寇の話があって
ジパングは大きな島で、莫大な量の黄金や真珠などの財宝があると聞いた
大汗、皇帝クビライがこの島を征服しようと思い立ったと出てくる。

また、ジパング諸島の偶像教徒は自分達の仲間以外の人間を捕らえてくると
身代金を払えない場合は、うちで食事をしましょうと誘ってみんなで
その捕らえた男を食べる、とも出てくるけど、

どこまで本当なのかな?

219 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 03:59:00
>>218
全部嘘w
日本の存在は、中国には元以前からはっきり認識されていた。
ジパングかどうか知っているのに、そんな風聞で出兵するはずあるかよ。

南宋の貿易先である日本への威圧がそもそもの発端。

だいたい中国と違って日本に食人文化は無いだろ。


220 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 11:00:32
>>217
まあそうですね
そしてそれだけ上意下達が徹底できたのは
元々日本にしっかりとした封建制が根付いていたからでしょう

左の人は封建的な事が優秀さに結びつくのを認めたがりません

221 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 12:06:44
>>220
中世封建制度のもたらす多元化を克服するための得宗専制政治だったのだから、
元寇撃退は中央集権政治の優秀さの擁護にしかならないぞ。

222 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 15:07:39
>>95
遅レスで申し訳ないが、高麗は属国になる前に30年くらい抵抗している。

223 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 16:06:32
>>221
あなた封建制の意味を誤解してますね

224 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 16:30:03
>>223
意味不明。

225 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 16:37:31
>>222
高麗はね、一部の為政者だけが安全な孤島に引き篭もり、30年間モンゴル軍が半島全土で
好き勝手に略奪したり、奴隷狩りしたりするのを放置していただけ。
抵抗なんて立派なものではなく、単なる無責任の極み。

226 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 19:26:09
>30年くらい抵抗

日本人ならこんなこと恥かしくてよう言えんけど
頭の可哀相な222をあまり虐めないであげてください

227 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 20:44:15
封建制が根付いてたから中央集権が機能したんだよ

分かりやすい書き方出来ないのは大体ダメだな

228 :日本@名無史さん:2009/02/10(火) 20:48:52
>>219
レスありがとう

けど、フビライのことを大汗というくらいに
いい加減な漢字を当てはめる連中が
>汗臭かったのかよw
征服王朝である蒙古に正確な情報を与えるかどうかは、疑問。

食人文化については、100%嘘だと思うけど
Wikipedia の「東方見聞録」のところに
それがあたかも事実であったかのように書き込まれて、
不愉快!!!

但し、黄金の国ジパングの話がヨーロッパまで伝わったのは確かだし

いい人ばかりだということだと、
世界中から更に多くが、こちらへ征服しようと来たかもしれなかったし、
そのくらい書いておいてくれてもいいかも、
と思ったけど、どう?

229 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 02:44:36
>>228
ちなみに元朝時代に編纂された『宋史』日本伝には神武天皇から守平天皇こと円融天皇まで
64代を載せている上、山城国はじめ畿内五州に東海道、東山道、北陸道(北六道)、
山陰道、山陽道(小陽道)、南海道、西海道(筑前など)など地理についてはほぼ正確な
情報を載せている。他に、四季の寒暑があり糸蚕から絹を織り黄金や白銀を産出すると
いった産物や、五経や仏経典、『白居易集』が読まれているなど仏教関係の記事を含め
割と正確な情報が載せられている。

なのに「犀・象多し」とかどう考えてもあり得ない情報もあって、マルコポーロよりは
かなり正確だけど、やはり正史といえども国外については誤情報もそこそこ見られる。

230 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 10:36:56
>>228
東方見聞録というタイトルからして既に偽りなのでなw

当時の技術レベル等を鑑みるに、征服を前提とした出兵を為しえるのは
蒙古しか存在しない。
単に偏見と妄想の入り混じった不愉快な記述に満ちた書物でしかないだろw

231 :日本@名無史さん:2009/02/11(水) 21:03:30
>>228
元朝時代にはモンゴル皇帝であるカアン Qa'an〜Qaγanを漢字表記するとき、
「大汗」という表記は少なくとも正規の記録では全く使われていない。

突厥時代以降に北方の遊牧民系の君主たちは柔然や突厥などの君主の称号Qaγanの
漢字音写である「可汗」で書かれていたが、明朝や清朝ではこの略である「汗」を称号として
つけていた。例えば16世紀後半に活躍したアルタン・ハーン Altan Qaγan は漢語資料では
「俺答汗」などと書かれている。

実際に元朝時代にクビライなどの歴代モンゴル皇帝は「〜皇帝」と呼ばれるのが普通で、
『元史』などはオン・ハンは「汪罕」(『元朝秘史』では「王罕」)、チンギス・カンの場合は
『元朝秘史』では「成吉思可罕」とか書かれているが、モンゴル王族の称号として「罕」や
「可罕」が通常の漢字文献で出て来るのは稀、というか殆ど無かった。

歴代の元朝皇帝が出した漢文の聖旨ではチンギス・カンは普通「成吉思皇帝」か「太祖皇帝」で、
クビライも尊号だったセチェン・カアン(Secen Qa'an)を音写した「薛禪皇帝」か「世祖皇帝」
の方で呼ばれている。この書式は他の皇帝たちも同様で、元朝末期まで守られている。
元朝末期に江南の陶宗儀によって編纂された類書、『南村輟耕録』でも冒頭の歴代皇帝たちの
リストで、イェスゲイの烈祖神元皇帝にはじまってチンギスの太祖應天啓運聖武皇帝やら、
クビライの世祖聖徳神功文武皇帝やら、イリンジバルの寧宗冲聖嗣孝皇帝、『輟耕録』が
編纂された時期に在位し漢地を領有した最後のモンゴル皇帝トゴン・テムルも今上皇帝と
呼ばれ、「罕」や「可罕」、ましてや「大汗」などとは書かれていない。

マルコ・ポーロはクビライのことを Grand Can 、クビライが没した1294年に大都を訪れた
モンテ・コルヴィノは年代的にいって成宗テムル(在位1294-1307)のことだろうけど、
「カタイを統べるタタルの皇帝」を Grand Cham と呼んでいる。
多分、「大汗」というのは元朝を訪れたヨーロッパ人の資料に出て来る「グラン・カン」を
近現代に漢字表記に直したものだろうけど、「大汗」という漢字表記それ自体に「可罕」や
「世祖聖徳神功文武皇帝」みたいな同時代性のような歴史的根拠がある訳ではない。


232 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 19:15:48
>>231
「大汗」の2文字に、まさかの長文の寄稿。意表をつかれた。
でも勉強になるんで今後ともよろしくお願いします。

233 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 23:07:37
ぢゃあ「阿片」の2文字は?

234 :日本@名無史さん:2009/02/12(木) 23:29:30
アヘン戦争前夜まではアヘンなんて今の煙草みたいな扱い

235 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 01:22:40
>>233
中国方面でアヘンやケシの記述(主に本草書)が出て来るのは明代も中頃過ぎの15世紀後半
くらいから。16世紀後半に編纂され江戸時代には日本の医学界にも多大な影響を及ぼした
李時珍の編になる大部の本草書『本草項目』穀部第二十三巻の末尾にケシは罌子粟、アヘンは阿芙蓉と
呼ばれ各々項目が立てられている。罌子粟の項目で「本草には記載がないため、古代には用いられて
いなかったのだろう」というような事も書かれている。

元朝後期、文宗トク・テムルの時代に皇帝の飲食全般を司った飲膳太医、忽思慧の編になる『飲膳正要』の
第三巻は本草で、米穀品には稲米や粟などの他、大豆や小豆、胡麻、栽培されて間もないひよこ豆なんかも
出てくるが、ケシについては全く出て来ない。金代や南宋時代もとより元朝時代にも医学書や本草書は
多く編纂されたが、自分が見れた限りではケシらしいものは確認出来なかった。

明代に書かれた本草書は『本草項目』を代表にまた色々編纂されているからそれらを見れば、何時ぐらい
から中国に移入されたか追跡出来るのだろうが、流石に息が切れたの諦めた。1980年代後半くらいに
『現代東洋医学』という雑誌で小曽戸 洋という先生が「漢方古典文献概説」という連載で、金朝や南宋、
元朝、明朝での医学書や本草書の資料解説を行っているので、興味の有る人はその中のいくつかを
ピックアップして確認するなどして貰いたい。

ペルシア語やアラビア語の本草書ではディオスコリデスやプリニウスなどのギリシア・ローマ時代の
本草関係の記事が受継がれさらに独自の処方や情報が多く載せられているが、アヘンはアラビア語で
アフユーン afyuun と呼ばれていて、手術の時の鎮痛剤や頭痛の時、額に湿布すると痛みが和らぐとか
出て来る。ただ、ケシは元々アナトリア周辺や地中海岸が原産らしいが、イラン系の人々が書いた
13世紀頃までのペルシア語の類書にはケシは記載があったりなかったりで、どのくらいメジャーな
薬物だったか謎。第一義に「眠りを誘う」とあるようだが、アヘンは特に少量でも致死性が高いことが
注意をされており、手術時などで摂取するときはシャーベットにレンズ豆ほどの微量を添加して食する、
とかいう記述もある。

>>231
長文失礼&どういたしまして。

236 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 01:57:14
>>235 どのくらいメジャーな 薬物だったか謎。

一文入れ忘れていてので↓に訂正。
> 効能について特にエジプト産のケシについて言及があるが、13世紀当時ケシ自体がイラン高原以東で
> どのくらいメジャーな薬物だったか謎。

237 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 10:51:10
効能についての文献があるのなら
フビライのアヘン使用を否定する考えは間違いだな

238 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 15:54:15
72 世界@名無史さん sage 2008/10/26(日) 23:43:42 O
ベトナムの場合は元の侵略を3回も撃退してるからな
それに対日侵攻のようにどこの馬の骨ともわからぬ司令官が指揮して
モンゴル本隊がほとんどいない戦意のない高麗兵や南宋の老兵が主体ではなく
対ベトナムではウリャンハダイやトゴンのような有名な将軍が指揮していたからな
特に第3回の侵攻では対日侵攻に予定されていた部隊艦船まで投入した
日本に三回目の侵攻がなかったのはベトナムのおかげ

それにしてもベトナムは元の指揮官サガトゥを戦死させたり
同じく指揮官のウマルを捕虜にしたりしている
逃げ場が海上しかないにも関わらず将軍どころか高級指揮官を一人も捕虜に出来なかった
ほんとに戦って撃退したのか疑わしい鎌倉武士とは段違いだわ

239 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 16:06:58
一度は占領、属国化しながら耐えかねて反抗はじめた占城とかの戦いも、鎌倉武士マンセー君の脳内では消去されてるんだろうなぁ
「日本を貶めるのは自虐史観だ」と怒号しながら、代わりに出したのが「他国を貶めることで日本を偉く見せようとして失敗」した自称自由史観な連中の残党に何をいっても無駄だろうがw


240 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 16:07:19
531 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2008/07/22(火) 08:51:17
安南軍が取った戦術は、後退して敵を引きずり込み疲弊させたところを撃つ、というパターンですね
古くは呉権、現代のベトナム戦争でも用いられました。かならずしも狙って後退したケースばかりではないですが
特に有名なのが日本が明治維新初期だった頃のフランス軍との戦いで、漢人の傭兵将軍・劉永福が二度にわたってフランス軍を撃破(いずれも司令官を戦死させています)したもので
数だけでなく火力の差にも有効だと証明されました
このとき、一度も外国に勝てたことが無かった日本は、劉永福を「楠木正成と諸葛孔明をあわせたような名将」と絶賛しております
他国を貶めて自国を誇るのとは無縁の、古き良き時代のことでした


241 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 16:58:51
で、博多は誰が焼いたの?

242 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 17:06:09
>>238
これって他国を持ち上げて自国を貶めているんじゃないの?

243 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 17:08:46
その「鎌倉武士マンセー君」とやらが来たらちゃんと議論してね

244 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 21:56:56
自称・高麗の子孫君たちが沸いてきたw

245 :日本@名無史さん:2009/02/21(土) 21:59:25
韓国人がベトナムを引き合いに出すのは
高麗の王だか李朝の王がベトナム人の女性と結婚したからじゃまいか?

246 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 10:38:55
>>238
>>2340
いつも議論になる度に論破されてるくせに、相変わらずそんな嘘八百のコピペ貼ってるのか。

1回目は撃退なんかじゃないぞ。
全く逆で、僅か3000人のモンゴル軍に首都破壊され、その後属国化している。
2回目は占城攻撃のついでに攻撃されただけだし、3回目助かったのは日本のお陰だ。

ベトナムなりには頑張ったけど、モンゴル軍を全く寄せ付けずに完勝し、最後まで完全独立を維持した
日本と比較すれば、あきらかに見劣りする。

247 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 10:45:08
色々条件が違うんだからそこまで言うこともないだろ

248 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 10:50:20
>>247
当時のベトナムが日本より劣るのは事実なんだからしょうがないだろ。
わざわざ日本史板の元寇スレでベトナムを持ち出したのは、比較して日本の凄さを際立たせようってことじゃん。



249 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 11:15:18
この時代になればそりゃあもう克明に色々記録も絵も防御壁も残っていて
議論の対象はないから気楽だね。

チンギスハンの孫フビライが都を今の北京に移し、国号を元と名乗る。
高麗を服属。
そして日本に対して朝貢を求める。
日本(北条時宗)はこれを拒否。
すると、1274年に高麗も引き連れて対馬、壱岐おかしたあと大挙して博多湾上陸。
幕府は九州所領の御家人で一騎打ちを挑むが飛び道具の元軍に苦戦。
一方元軍の損害も大きくいったん船に引きあげたが、その夜大風雨によって
そのまま撤収。2度目の1281年には南宋を滅ぼしてパワーアップ
してやってきたが、2ヶ月にわたる日本軍との攻防戦では上陸さえ出来ず
そうこうしているうちにまた大暴風雨によって船が大きな損害を受け
敗退。ちょろいちょろいw




250 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 11:29:41
>>249
文永の役に関する部分が間違い。
九州所領の御家人は一騎打ちを挑んだりせず、普通に集団戦法で元軍を圧倒してる。
それに、元軍は「いったん船に引きあげた」わけじゃない。
高麗史にちゃんと「敗戦濃厚だから撤退するために引き上げた」と明記してあるんだよね。

251 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 11:41:16
>>250
これは有名な絵でしょ
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/graphics/photo/mouko_shuurai_ekotoba.jpg
騎馬武者は当時29歳の竹崎季長

252 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 11:55:58
>>251
蒙古襲来絵詞は、集団戦法で元軍を圧倒する武士を描いた絵巻だよ。
だから、その画面の外には集団で陣形組んで突撃する武士団や、敗走する元軍が描かれてる。
それを歴史教科書とかは、あたかも武士が苦戦しているかのように見える部分だけをくり抜いて、
まったく正反対の説明をしているわけ。
つまり、意図的に嘘を教えているんだよ。
戦後今まで元寇については、そういうインチキが堂々とおこなわれていた。

http://www.museum.pref.kumamoto.jp/education/kyouzai/report/kaitou/01/index.html

253 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 12:58:31
>>252
日本軍の矢、元軍の盾を貫通してるな。

254 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 13:15:25
何故これほど国家の為に働いた人物が英雄視されてこなかったのか…
やはり不思議の国だな、普通なら竹崎姓はメジャーになってるよ

評価すべきをせずに財務相は非難しても何も生まない

255 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 13:32:34
竹崎季長は絵詞が残ってなかったら無名の田舎御家人だから
自分を引き立ててくれた少弐も安達泰盛も内乱で死んでしまったし

256 :日本@名無史さん:2009/02/22(日) 13:33:35
>>252
画面の下ってなんだ?

257 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 09:52:33
絵7で、真ん中の弓を射る3人の蒙古兵は後から書き加えられたという
考証を新聞で読んだ。他の兵士と描き方が違うとか、紙の継ぎ目と合わない、
とかいうのが理由だった。
そう言えば絵6のように真中に余白があるほうが戦闘の表現として自然。

それは別として、絵7で馬を射られている武士は一騎打ちでないに
しても、先駆け、単騎突入ではないか。
確か竹崎も「先駆け」を我が功績として幕府と交渉したはず。

258 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 10:37:43
逆に朝鮮にリベンジに行くという動きもあったんでしょ?

259 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 12:10:07
>>257
蒙古襲来絵詞で絵だけでなく、詞という部分に文章で詳しい状況説明も書いてある。
絵7で馬を射られている武士(竹崎季長)は一応主従5騎で戦いを挑んだとされており、単騎突入ではない。
それに、組織戦において「先駆け」を重視するのは古今東西共通だよ。
竹崎季長は勝手に「先駆け」したわけじゃなく、大将の許可を得た上でやったんだから、我が功績として幕府と
交渉するのは当然。

260 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 14:51:02
許可を得ようと、主従5騎であろうと、最終的には「先駆け」をやり、
それが「単騎突入」であるかるこそ先駆けであり、その時点では
「集団戦法」でないことは明らかだ。

それにたった5木騎を「集団戦法」と言うのかな。

261 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 16:56:09
モンゴルみたいに正式に組織立った指揮系統があったわけじゃないんだから
「集団戦法をとっていた」とは流石に言い難いでしょ。
しかし、だからといってアホなサヨが言ってる
「日本は一人ずつ名乗って一騎打ちなんて幼稚なことして
他国とは比較にならないほどレベル低い戦争してました」なんて事は断じてないけどね。
そもそも「日本が元冦で元軍にボコられて涙目になったけど台風さんのおかげで運良く助かりました」
って話のソースの八幡愚童記って元々神社仏閣関係の人が
「俺らが一生懸命神頼みしたおかげで、日本は救われたんだぞ」
って主張するために書いたようなもんようなもんなんだっけ?
まあそれを言ったら蒙古襲来絵詞も竹崎が自分の武功を誇示するために
描かせたんだから捏造でしょって話になるが、それならわざわざ
他の武士達も後ろから続々と攻めかかってるとこなんか描かず
竹崎が敵陣で無双乱舞してる絵を描いた方が効果的だと思うんだよな。

262 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 17:48:11
少なくとも最初は「一人づつ名乗って」をやったのではないか?
蒙古軍の鴨にされて中止したにせよ。
名乗るということは後に手柄を主張する前提であり、
当時の武士は手柄によって恩賞を得ることが戦いの目的でも
あったのだから。

一騎打ちというのはなにも日本だけではない。
三国志を読めば中国にもあったことがわかる。
合理主義に徹した蒙古軍になかったというだけ。

263 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 18:14:00
>>262
遭遇戦とかで一騎打ちになる展開はあるだろうけど、光栄三国志みたい
なのは創作だろw

264 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 19:48:19
三国志で悪ければヨーロッパの中世にもある。
騎士のトーナメントはそれをルール化したものだ。
国は違えど、戦士が自分を売りこんで利益につなげようとする目的は
共通する。

265 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 22:05:30
>>262
そもそも当時の武士には蒙古に対して「一人づつ名乗って」をやるような習慣はない。
それに、元寇で武士が蒙古に「一人づつ名乗って」をやったということを裏付ける資料も存在しない。
だからその可能性はゼロだ。

だいたい文永の役は蒙古軍が鎌倉武士に鴨られた戦い。
現実に何の戦果もないままわずか1日で敗退し、1万3500余人の人的損害をこうむってる。
つまり当時の集団戦法のレベルは、武士の方が蒙古よりも高度だったということ。

266 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 22:11:28
オゴタイがあと10年生きてたらヨーロッパは
イングランドと北欧以外はモンゴルになってただろうな。

267 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 22:58:14
>>265
>そもそも当時の武士には蒙古に対して「一人づつ名乗って」をやるような
>習慣はない。 それに、元寇で武士が蒙古に「一人づつ名乗って」をやった
>ということを裏付ける資料も存在しない。 だからその可能性はゼロだ。

八幡愚童訓:
『日本ノ戦ノ如ク、相互二名乗リ合テ、高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処、
此合戦ハ大勢一度ニ寄合テ、足手ノ働ク処ニ我モ我モト取リ付テ押殺シ、
虜リケリ。是故懸ケ入ル程ノ日本人漏レル者コソ無リケリ』

日本の戦いのように、相互に名乗り合って、一人づつの勝負で名を上げるものと
思ったところ、今度の合戦は大勢が群がって、我も我もと手足に取りついて、
押し殺し、捕虜にするものだった。だから駆け入った日本の武士は一人残らず
やられてしまった。

268 :日本@名無史さん:2009/02/24(火) 23:23:36
>>267
それ、単なる書き間違いだから。
八幡愚童訓系統で一番成立時期が古いのは、正応2年成立の「八幡ノ蒙古記」なんだけど、そこでは

『相互二名乗リ合テ、高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処』

ではなく、

『日本の軍の如く、相互に名のりあひ、高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に』

もともとの文は、「高名のため日本の武士は命がけで戦おうと思った」ってだけの話。
それにそこには「相互二名乗リ合テ」と書いてあるだけで、蒙古に名乗りを上げたとは一言も書いてない。
つまり、元寇で武士は蒙古に名乗りを上げたなどということを裏付ける資料は存在しないし、
一人づつ戦ったなどということを裏付ける資料も存在しないということね。


269 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 01:59:24
各戦線で最初の一人くらいはやった奴がいるかもしれないが、
そいつが殺されたらもうやらないだろ。
源平の合戦だってやらなかったしな

270 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 02:07:08
対馬壱岐の状況が知れ渡ってる状態で、一騎討ちなんか挑む方がどうかしてるかも。
それでも一騎討ちを挑みに行った奴が射殺されたらブチギレですよ。

271 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 02:28:14
もともと、鎌倉武士に一騎打ちを挑むなどという習慣がないんだから、蒙古に対して一騎打ちを挑んだ奴なんて
当然一人もいない。
文永の役は、普通に「集団戦法」対「集団戦法」の戦い。
で、結果は元軍が1日で敗退し、死者行方不明者1万3500余人なのに対し、日本軍の戦闘員の損害は
わずか数100人。
キルレシオ10倍以上。
元軍の集団戦法よりも鎌倉武士の集団戦法の方が、圧倒的に勝っていたこと証明した戦いだよ。

272 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 02:56:00
それ以前に>>240って電波作家田中芳樹のエッセイの一部のまるまる写しなんだが・・・
一言一句とまでいわずともほぼそのまんま

273 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 03:26:51
ちゃんと調べるの面倒だし、とりあえず自国を卑下しときゃ間違い無いだろう

274 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 05:04:36
みんな頭大丈夫?
集団戦法とか本気じゃないよね?
鎌倉武士が圧倒的に強いとか、まぁ、ネタにマジレスすんのもアレだよねぇ。

275 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 06:10:27
>>274
元軍と鎌倉武士、
戦って勝った鎌倉武士の方が強いというのは当然だと思うけど、
どの辺がネタ?

276 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 08:55:14
>>268
>『日本の軍の如く、相互に名のりあひ、高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に』
>「高名のため日本の武士は命がけで戦おうと思った」ってだけの話。

言っていることは同じだ。「思った」というのは「予期した」ということで、
それが予期に反したということで次の戦いの実相(集団戦法)に続くのだ。

>「相互二名乗リ合テ」と書いてあるだけで、蒙古に名乗りを上げたとは

それは日本の武士同士が後の証人として確認し合ったとも取れる。
しかし問題は単騎突入をやったかどうかだ。そして、それをやった複数の
武士がいたことは後に続く文章でわかるのだ。
さらに言えば、単騎突入のときには自分の名前をわめきながら突入したで
あろうことは想像できる。なにしろ「高名」のためにやるのだからね。

277 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 09:00:39
>>269
>各戦線で最初の一人くらいはやった奴がいるかもしれないが、
>そいつが殺されたらもうやらないだろ。

その通りだと思う。戦のプロなんだから、戦法の切り替えは柔軟にやった
だろう。要するに単独戦法も集団戦法も両方存在したといういことだ。
それは国内の戦いでもそうであって、一騎打ちは一種の儀式だ。

>源平の合戦だってやらなかったしな

熊谷直実と平敦盛は何をやったの?

278 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 09:20:03
>>276
言ってることは全然同じじゃないぞ。
「一人宛ノ勝負」と思ったのなら、それは単騎突入を裏付ける資料だろう。
でも、「一命かきり勝負」と思ったというのは、死を恐れずに戦ったという意味にすぎない。
武士が単騎突入したなどということの裏付けにはなっていない。
死を恐れず勇敢に戦ったから損害も多かったわけで、その後に続く戦いの実相は武士たちの
予期に反したことじゃないじゃん。

>さらに言えば、単騎突入のときには自分の名前をわめきながら突入したで
>あろうことは想像できる。

そういうことを勝手に想像しちゃダメだろ。
蒙古襲来絵詞の中で武士たちは相互に名乗りあっているけど、それは戦いの前後に支障にないように
名乗りあってるのであって、その想像は完全に的外れだ。


279 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 09:40:02
そもそも八幡愚童訓は清水八幡宮の霊験記として書かれたもの。
その目的は八幡宮の霊験や神威をお子ちゃまにもわかりやすく書きましょうってところ。
だから元冦の記述なんかは鎌倉武士達はなすすべなく元軍にボコられたけど
私達が神頼みしたおかげで日本は救われたんですよって言いたいわけ。
実際、全国の神社や寺や貴族が同じような事言って
図々しくも幕府に恩賞よこせとかぬかしてたんだわw
幕府もこんな奴ら全員滝ノ口で首チョンパすればよかったのにw
尤も元冦に関して今日まで残ってるほぼ唯一の資料だから
ソースとして重要視されるのはしゃーないが。

280 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 09:40:10
>>278
> さらに言えば、単騎突入のときには自分の名前をわめきながら突入したで
> あろうことは想像できる。なにしろ「高名」のためにやるのだからね。

これは確実だろ。妄想で決め付けてんのお前だろカス

281 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 09:46:51
一騎がけだってやったと思う。
「名こそ惜しけれ」なんてことを至上の美学としている人たちだ。
得体の知れない相手だからといって下を向くようなメンタリティなんかない。
花の慶次みたいなやつばかりだったんだよ。
目だってなんぼってとこでしょ。
小船で元の大船に切り込みかけたりするような危ない人たちなんだから、一騎がけ
くらい当然やると思う。一人やられても、あいつが行くなら俺も我もという感じで
殺到していったに違いない。

282 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 09:56:34
戦いの実相なら敵側資料である高麗史にも書いてある。

「倭兵、突き至りて中軍を衝き、長剣左右に交わる」

単騎突入とかじゃない。
普通に一方が中央突破を目指して突撃し、もう一方が包囲殲滅を狙う、古今東西よくある
「集団戦法」対「集団戦法」の図式じゃん。

283 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 11:38:15
じゃあ中央突破を図った日本VS包囲繊滅しようとした元でおk?
仮にワールシュタットみたいに平原に誘い出されてたら危なかったな。
尤もランスチャージ主体の騎士と違い武士は飛び道具メインだから
距離を取られても対応は出来ただろうけど

284 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 13:39:50
>>283
ユーラップ並のほとんど起伏のない平原が、吸収のどこにあるのかと(ry


>武士は飛び道具メインだから

そこで再び和弓VSモンゴル弓論争ですよ

285 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 14:08:55
>>278
>、「一命かきり勝負」と思ったというのは、死を恐れずに戦ったという意味にすぎない。
>武士が単騎突入したなどということの裏付けにはなっていない。

なんでその文章に止まるのか。
それに続く文章に、複数の単騎突入を示唆することが書いてあるではないか。

286 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 14:35:26
とりあえず>>279>>282読め

287 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 14:51:09
>>286
なるほど、続きの文章に進んだらおしまいだから、取りあえず
他のものを読ませるわけか。

288 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 14:58:24
>>287
続きの文章が示唆してるのは、あきらかに日本軍の集団での突入ですな。

289 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 15:15:43
>>288
何言ってんのこのカス


290 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 16:38:30
普通に議論しろ

291 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 16:44:13
統一的な指揮系統のない集団を軍隊とは言わない。
ま、ぶっちゃけソマリアに派遣されたアメリカ軍みたいなもんで
散発的な攻撃に悩まされて、一時船に撤退したら台風であぼ〜んってのが正しい。

292 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 16:48:27
それはいろいろとダメだなw 元軍

293 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 16:56:43
>>291
当然日本軍は統一的な指揮系統のもとで戦っていた。
だから元軍に圧勝したんじゃん。
元軍は一時船に撤退したわけじゃない。

『忽敦、曰く「兵法に「小敵の堅は、大敵の檎なり」と。疲乏の兵を策して、日ごとに滋すの衆に敵するは、
完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と。〔劉〕復亨、流矢に中る。先に舟に登り、遂に兵を引いて還る。』
(高麗史)

史料にハッキリと、このままでは全滅だから撤退するために乗船したと書いてある。



294 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 17:10:40
>>288
>続きの文章が示唆してるのは、あきらかに日本軍の集団での突入ですな。

じゃあ、「漏れるものこそ無かりけれ」なんだから、集団で突入しても
蒙古軍にかなわず、全滅したってこと?



295 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 17:46:08
>>293
統一的な指揮系統があったって言う日本側の資料をだしてくれ。
そして、その戦いの両者の兵数と指揮者の名前を頼む。

296 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 17:48:02
>>294
元軍の上陸地点付近の百道原あたりでは、突入して全滅した部隊もあっただろ。
で、その後元軍は赤坂で菊池氏の集団戦法に敗北。
博多や大宰府を占領できないまま、夕刻に松原から撤退したってことだと思う。

297 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 18:03:35
>>295
例えばこんなの。

鎌倉遺文11743「関東御教書(長府毛利家文書)」
「蒙古人襲来対馬・壱岐、既致合戦之由、覚恵注申之間、所被差遣御家人等也、早来廿日以前、下向石見国所領、
彼凶徒寄来者、随守護人之催促、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依執達如件、
文永十一年十一月三日」

これは、文永の役で幕府が御家人に石見国へ下向して防戦に当たるように命じた書状な。
ちゃんと守護人の指揮下で戦うように命じてるだろ。
あと、正嘉三年二月九日に九州の守護と御家人に発せられた新御式目にはこんな項目もある。

「一、寄役所致自由合戦、
  縦雖抜群之忠、不可被行其賞、所詮随大将命、可令進退由厳密可被相触九州守護並御家人
  以下輩也、」

大将の命令に従って行動し、それ以外はどんなに手柄を立てても恩賞の対象としないことを厳命してる。


298 :日本@名無史さん:2009/02/25(水) 18:26:13
>>295
元軍の指揮官は忽敦、副指揮官は洪茶丘と劉復享で兵数は2万5000。
それプラス、指揮官・金方慶の高麗軍8000と水夫6700。

日本軍の指揮官は少弐景資で兵数は推定で5000騎程度ってことになってる。

299 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 10:48:36
まあなんだな。
日本軍も最後は「水城に立てこもって鎌倉からの援軍を待つ」という方針で
大宰府に引き上げたのだから、戦闘は引き分けだな。
その上で蒙古軍が勝手に撤退した。
だから戦闘は引き分けで、戦略的には日本軍が勝った。

300 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 11:40:03
「引き分けにしておいてやるぜ」

負け犬の捨て台詞ですね。わかります。

301 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 11:40:44
コピペしたり、独り言したり、途中で居なくなったりしちゃ駄目

302 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 11:52:57
日本側は大宰府防衛に成功し、元軍はわずか1日で敗退。
戦術的にも赤坂で菊池勢が元軍を蹴散らしてる。
文永の役は普通に日本軍の圧勝です。

303 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 12:08:52
戦闘と戦略のオカシナ区別のつけかたをしたり
威力偵察とか言ってる奴らは一体何なの?

銀英伝で戦争語ってるバカ?

304 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 12:44:06
ヨーロッパ遠征軍ですら15万なんだから
ただの武力偵察で4万もの人員よこすかっつーのw

305 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 14:29:28
威力偵察だとしたらなんで七年もあける必要があるのかまったくわからんな
そんなんで偵察とか言えないよ

七日とか、七週間ならまだわかるが七年w
単純に四万も出しといてぼろ負けしちゃっただけですな

306 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 15:40:17
日本はシンガポールで英軍を、フィリピンで米軍を降伏させ、
しかも本土防衛に成功したから、
太平洋戦争は日本の圧勝だな。

307 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 15:56:17
よく戦略と戦術の違いを野球にたとえて、一試合一試合で勝つ方法を
考えるのが戦術、シーズン通して優勝するための方法を考えるのが
戦略って言ったりするけど、これに合わせて「威力偵察」をたとえると
「そのときそのときの場面で、敵が今何を狙っているか」を探るもの
なんだよ。「そのチームがどの程度の能力か、どんな戦法が得意か」
を探るものではない。
具体的には、臭いコースをついて打者の出方を探ったり、牽制球投げ
たりして、敵がエンドラン狙いか盗塁狙いか、バントをするのかを色々
と探るわけだ。敵だって、足を使った戦法が得意だからと言って、常に
足を使った戦い方する訳じゃないからね。
で、この過程でカウント稼いだりしてアウトを取りやすい状況を作り出し
たりするんだが、現代の戦闘においても、威力偵察に任ずる部隊は
主力の戦闘のための条件作為も任務として持っていたりする訳なんだな。


どういう意味合いで「威力偵察」って言葉を使っているのかはわから
ないが、現代戦における戦術用語としては意味合いが確定している
んだから安易な使い方は避けるべき。

308 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 16:25:09
>>305
威力偵察説があるモンゴルの第1回ヨーロッパ遠征から、本攻とされる第2回の
ヨーロッパ遠征までは、ヨーロッパ到着ベースで約14年の間隔がある。
現在とは時間のスケールが違うよ。

309 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 17:18:09
韓国的には「日本征伐」
向こうからすれば愚昧な野蛮人を調教し恭順させたかったのだろう

310 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 17:31:17
四万という数字、武力偵察にしては規模が大きすぎるし元側の被害もデカすぎる。
かといってたった四万で征服しようとしたんなら日本舐めすぎだろ

311 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 17:36:43
>>310
九州あたりは制圧できると踏んでいたんじゃないかな。
とりあえずそこを拠点にして、第二次攻撃を企画していたのかも。
鎌倉の統治力を甘くみていたんだろうね。

312 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 19:08:42
文永の役当時の元にとって主攻方面はあくまで南宋。日本侵攻は南宋を孤立させるための
助攻だろう。完全に征服できなくても、ビビらせて南宋との貿易をやめさせることが出来れば
いいと考えたのかもしれない。
結果は日本をマジギレさせただけだったけど。


313 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 19:56:50
世界史板の某スレで論破されそうな詭弁ばっかだな

314 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 20:08:08
文永の役でクビライがかなりマジだったことは、作戦時期に合わせて自分の娘を高麗の忠烈王へ
嫁入りさせていることからもわかる。

1274年5月、クビライの娘トゥルク=ケルミシュが元滞在中の忠烈王と結婚。
1274年8月、忠烈王が高麗王位に就く。
1274年10月、文永の役。
1274年11月、トゥルク=ケルミシュがソウル到着。

クビライの予定では娘の嫁入りを日本遠征の勝利で飾るつもりだったんだろ。
実際には遠征大失敗で面子丸つぶれだけどな。

315 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 20:16:14
>>313
そのスレ教えて

316 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 20:22:44
フルボッコにできたけど、調子こいて「向こうに防衛拠点作っちゃおうぜ」計画を
やってたら、さすがに日本側がフルボッコされてたろうなw

317 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 21:21:08
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1232724639/l50

318 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 21:24:40
>>314
公主の名前は「トゥルク=ケルミシュ」じゃなくて
クトゥルク=ケルミシュ(忽都魯掲里迷失)。

319 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 21:44:56
フビライってあの顔だろ?その娘を想像すると…。忠烈王さんちょっと気の毒。

320 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 21:58:55
谷亮子さん

321 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 22:18:17
>>320
うわ、リアルにそんな感じだったろうな。しかも絶対断れない結婚だし。
高麗の王様するのも大変だな。

322 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 22:53:47
谷と小作りするのはは嫌だな
佳くんは勇者

323 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 23:09:04
二人目出来たのかよ
よしくんは勇者てゆうか神

324 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 23:18:28
>>319-321
いや、父親の元宗が権臣林衍に一時廃位された時に、太子時代の忠烈王が
クビライに公主を降嫁させてくれ、って頼んだようで、その後クビライからの
助勢を受けて元宗は復位。元宗の方からも公主降嫁を要請している。

降嫁の条件としてクビライ側からダルガチや屯田の進駐、江華島から開京への遷都、
ジャムチの設置など色々と注文をつけられ、一応それらが充足させると、
1271年正月に再び降嫁を要請。今度は許可下り、ようやく公主のクトゥルク=ケルミシュが
嫁ぐことになった。ただ、実際に公主が嫁いで来たのは許可が降りてから三年半近くたった
1274年6月になる。

(『元史』では至元十一年五月丙申(1274年6月26日)としているが、『高麗史』
 では元宗十五年五月丙戌(1274年6月16日)としている)

クビライ側は最初あまり乗り気ではなかったらしいけど、高麗側からの強い要請に
結局許可を出したらしい。一応、忠烈王はこのクーデター事件の以前にクビライの
宮廷にケシクとして仕えていて、高麗とクビライ宮廷を往復しているので、
もしかしたらクトゥルク=ケルミシュとは降嫁の要請を出す前後に面識があった
かもしれない。

325 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 23:39:12
高麗って都合よく使われるな
弱い高麗兵だから勝てた、船大工の手抜き、やる気がなかったとかさ
高麗を馬鹿にしすぎ

326 :日本@名無史さん:2009/02/26(木) 23:47:14
>>324
なるほど。忠烈王の方から頼んだのか。面識もあったかもしれないと。
谷亮子にも二人目出来たし、女の好みは人それぞれだな。

327 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 06:13:45
当時の高麗王の立場っていうのは、
後漢の献帝的というか、武臣たちの方が発言力が強くて
元の威光無しには王としての立場すら守ることが出来ないような状態だったって
うちの犬が言ってました

だから忠烈王は、元の威光の権化みたいな公主を降嫁してもらうことで、
自国内の自分の立場を確かなものにしたかったという
悲壮な決意があったのだと思います。

「俺に手を出したり、俺のことうっかり暗殺したりしたら、元が黙っちゃいないよ?」みたいな。

328 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 10:07:45
>>313
武士スレ?それともモンゴルに支配〜スレ?
いずれにせよ、文永の役の使者首チョンパしたって勘違いしてたり
未だに教科書の武士達は一騎打ち挑んでボコられて
涙目になったけど台風のおかげで助かりました説信じてたり
本当は征服されて朝貢までしたし、首都もたった三千で落とされてるのに
ゲリラ戦法で三度も完勝してるベトナムのがずっと凄いとかぬかしてたり
今時、元冦は殆ど朝鮮の兵だったとか、弘安の役は一種の棄民政策だっただなんて
20年ぐらい前のトンデモ説をさも最近の定説であるかのように語ったり
力学や運動量の事なんて全く考えず、ただただ胡散臭い文献をソースに
「日本の弓は100メートルも飛ばなかったし威力も全然無い」
だなんて主張してるバカばっかりのスレだろ。
むしろこっちが片腹痛いよ。

329 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 21:12:14
神風というのは不思議だ。
第1回のときは、日本側の同時代資料に、台風の記述が全くない。台風の
ことを言っているのは元/高麗側なのだ。つまり日本の預かり知らぬところ
で台風に逢っていたということか?

第2回のときは台風が来なくても元軍は長期の滞陣で損害と疫病・補給不足
のため敗退寸前だった。むしろ鎌倉武士たちはもっと功名が上げたかった
のに拍子抜けしたのではないか?

結局のところ、神風は勝敗と関係なかった。

330 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 23:10:32
>>329
文永では日本を離れて帰る途中で台風か、それに準ずる嵐にあった。
日本が知らないのは当然。

331 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 01:05:30
>>306
>日本はシンガポールで英軍を、フィリピンで米軍を降伏させ、しかも本土防衛に成功したから、
太平洋戦争は日本の圧勝だな。

旧陸軍は日本が降伏する寸前までマジでこう言ってた。確かに開戦時より多く領土を持っていたから。

332 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 03:25:04
>>331
実際ソ連に渡航能力は無く、アメ公はヘタレなんだから、一撃講和論にも説得力はあった。
アメ公最大の懸念材料である支那派遣軍も健在だったし。


333 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 04:41:43
何いってんだこのカスども
元寇は日本の圧勝というなら>>306のようなことが言えてしまうという皮肉だろうが
日本の勝利なんて幻なんだよ

334 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 04:45:43
≫322まあ、昔から戦術のよさの割には政治力が欠如してるのが日本だからな。占領地の人心掌握が出来ないようなら
劣勢を跳ね返すのは厳しいだろうね。

335 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 05:01:31
戦闘に強くても戦争に弱い弱小国日本ww
アメリカなどの一等国は戦争が強いのになww
戦闘に勝っても戦争に勝てないと意味ねえのにwwwバカスwww

336 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 06:36:06
>>333
元寇は日本の圧勝だが、>>306のようなことはいえないよ。

337 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 09:15:48
終戦のドサクサに日本女性を強姦しまくった朝鮮人
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1235728354/

338 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 09:51:14
>>333
>>306は全然皮肉になっていない。
むしろ太平洋戦争に例えると分かりやすい。
太平洋戦争の日本はシンガポールで英軍を、フィリピンで米軍を降伏させるなど、
あきらかに元寇の元軍よりも戦果をあげている。
それにもかかわらず、現在太平洋戦争を日本の惨敗、アメリカの圧勝とすることに異議を
唱える者はいない。
同じ基準を適用すれば、九州の寸土も獲得できないまま元兵10万以上の人的損失を出した元寇は、
元の惨敗であり、日本の圧勝とするしかない。


339 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 11:25:40
博多から大宰府までは15kmもあるのだ。
そこへ後退したということは、もはや周辺の平地は放棄して敵の蹂躙にまかせ、
水城で持久戦を図るという方針に転換したことを意味する。
大宰府攻防線になる前に敵が勝手に撤退したことを「大宰府防衛に成功」
と言うならば、太平洋戦争で本土上陸に至らなかったことをもって
「本土防衛に成功」と言ってもよいのだ。

340 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 12:25:08
太平洋戦争では日本は降伏してるんだから「本土防衛に成功」もクソもない。

341 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 12:39:13
いい加減、八幡愚童訓ソースにすんのやめようよ。

342 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 12:40:34
>>340
講和したんだよ。現にサンフランシスコ講和条約を破棄したら第二次世界大戦は再開される。


343 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 12:56:33
大東亜戦争は日本の大勝利!
マンセー!マンセー!

344 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 13:26:18
>>343
だから>>306は皮肉になってないぞ

345 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 15:03:10
>>339
夜になったから撤退しただけ。
元も船まで撤退している。

元が橋頭堡を築けていればそこに撤退しただろうが
そんなものなかったから船まで撤退する羽目になった。

346 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 15:26:18
だからといって、元軍をその点で批判することはできない。
海岸からたった15kmのところに大宰府があるわけで
その間に出来合いの陣地を築いても
あたら日本軍の夜襲の好餌になるだけだったろう。

おそらく元軍としては大宰府をさっさと攻め落として、
そこを橋頭堡にするつもりだったんだろう。
ところが大宰府への進路を巡る戦闘でことごとく敗北した。
元軍は決定的な損失をこうむったわけではない。
日本側も、水城への後退は明日の戦闘への準備と見ることができるし
元軍の消滅が唐突だったことは記録にもある。
元側の敗退は元軍の以下の判断が根本があると思う。
1.全般的な見通しが非常に甘かった。全くの間違いだった。日本兵が強すぎる。
2.負けてるのに空気よめないチョン。基地外すぎてコントロールできない。
3.総じて日本軍に対抗できる体制ではない。一回戻ってやり直さないと壊滅も有り得る。

347 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 17:11:35
万単位の軍を一夜にして撤退させた元軍の逃げ足の速さはもっと評価されるべきだ。
正に、「疾キコト風ノ如シ」。

348 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 17:13:39
347補足
「三十六計逃ゲルニ如シカズ」

349 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 17:29:32
>>339
たった15kmというのは自動車の感覚だ。
徒歩の兵もいるのだよ。15kmというのは早足でも3時間だ。
翌朝3時間かけて博多へ通勤するのならば、蒙古軍は敵のいないところで
橋頭堡を築く時間を十分に貰えるではないか。

350 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 17:35:12
>>339
大宰府攻略が目的で日本へ攻め込んだ元軍に対し、水城で持久戦を図るというのは、
方針転換でも何でもなく、普通に博多湾有事の際の基本ドクトリンだよ。
ところが元寇では武士が強すぎたから、そこに至る手前で、元軍が敗退しちゃった。
日本も元も大宰府攻防戦を想定していたのに、そうなる前に日本が勝っちゃったんだから、
どう考えても元寇は日本の圧勝じゃん。

それから、武士が水木へ引き上げたのは、元軍が日本から撤退した後ね。

351 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 18:56:16
>>350
馬鹿かお前。お散歩じゃないんだぞ?
隙を見せたら50分で前進部隊、3時間で敵の本隊が現れるのに
構築の手間なんて取れるわけないだろう。
材料集めてる間に敵が来るわ。

352 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 20:04:53
ごめん、349は >>339ではなく>>346へのコメント

353 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 20:15:04
>>352
文永でも、長く続いた弘安でも一箇所にこもって持久戦なんてやってないけど?
積極攻勢に出て敵を撃破している。
弘安なんて石垣築いておいて全く利用しなかったからね。

間接的には、上陸地の選択肢を狭める効果があったけど。

白村江の後に水城が作られた当時の日本のドクトリンだろ?持久戦は。
鎌倉と混同しちゃ駄目だよ。背景にある軍事力が全く違う。

354 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 20:56:57
>>351
>馬鹿かお前。お散歩じゃないんだぞ?
>隙を見せたら50分で前進部隊、3時間で敵の本隊が現れるのに
>構築の手間なんて取れるわけないだろう。

馬鹿かお前。お城を築くんじゃないんだぞ?
3時間で橋頭堡が築けなかったら、どんな上陸作戦だってできんわ。
それに普通、橋頭堡ってのは敵の面前で築くものだ。
それに対し、この場合は全くフリーの3時間だ。



355 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 21:44:47
>>350
>それから、武士が水木へ引き上げたのは、元軍が日本から撤退した後ね。

日本軍が水城に引き揚げたのは元軍が撤退した後だって?
そのソースは?
併せて、合戦の日の夜、日本軍はどこにいたのかも教えてくれ。

356 :日本@名無史さん:2009/02/28(土) 23:28:17
元軍は博多のいくつかの神社を焼き、民家を略奪し、多数の住民を拉致した。
その結果は200人の童男童女という「戦利品」だ。
日本軍は博多の住民を守れなかったのは確かだな。

357 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 00:04:27
枝葉末節を論じてる人は何がしたいの?
詭弁の大会にでも参加してるつもりな訳?

358 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 02:41:02
>>351
大宰府の城郭構築なんて元寇の何年も前に完了してるんだよね。

正嘉三年の新御式目
「一、城郭事、
  次岩門并宰府構城郭之條、為九州官軍可得其構云々、早為領主所之沙汰可致其構云々、」

>>355
高麗史金方慶伝や八幡ノ蒙古記によれば、文永の役で元軍が撤退したのは夕刻。
八幡ノ蒙古記の記述では、その時刻には日本軍がまだ博多に駐屯していたことになってるから、
当然日本軍が水城に引き揚げたのは元軍が撤退した後ってことになる。

359 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 07:38:12
>>356
文永の役って元軍が4万の大軍を投入し、1万3500余人の人的損害を出した戦いなんだよ。
それだけのコストを払って戦果は200人の童男童女・・・
数字が二桁も違うだろーが。
日本軍が圧勝したから住民の損害がその程度で済んだってことじゃん。

360 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 08:46:01
>>358
>当然日本軍が水城に引き揚げたのは元軍が撤退した後ってことになる。

それは「撤退」をいろいろに使った詭弁だ。
>>350で君は「元軍が日本から撤退」と言っている。
八幡愚童訓で「彼方ハカナタニ、此方ハコナタニ相落」と言っているのは
元軍は上陸地点の方向に、日本軍は水城の方向に引き揚げた」と言うこと
だろう。だから当然、日本軍は元軍が船に乗ったことは知らない。
君の言い方だと日本軍は博多にとどまって、元軍が「日本から撤退」する
のを見届けたことになるではないか。

>>359
>戦果は200人の童男童女・・・
>日本軍が圧勝したから住民の損害がその程度で済んだってことじゃん。

200人も一桁違う。元軍は1000人だか2000人だかの住民を狩り集めた
となにかに書いてあったのではないか?
恐らく軍用の使役か、人盾かに使うつもりだったのだろう。
そして撤退がきまったとき、童子を除く人たちは殺されたのだろう。



361 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 09:18:12
>>360
八幡ノ蒙古記に、
「夕過る比、白装束の人、三十人計、筥崎宮より出て、矢さきを、そろえて射ると見えしは、
神の降伏し給ひしななり、此降伏に、へきえきして、松原の陣をにけ、海に出るけるに」
という記述があるの。
だから、元軍は夕刻に日本から撤退。

まあ、松原は博多から10キロ近く離れているから、博多に布陣していた日本軍は蚊帳の外で
元軍撤退を見届けたわけではないだろうが、最前線で元軍と戦って麁原まで追い詰めていた
竹崎や白石は当然見届けていただろ。

362 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 12:54:39
調子扱いて日本を侵略にきたが返り討ちにあってズタボロになって逃げ帰った元ざまぁ
ネット反日ざまあ

363 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 14:48:09
>>360
対馬や壱岐での平民虐殺とごっちゃになってないか?



364 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 16:26:19
ところで連中は何しにきたの?

365 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 16:35:13
>>364
太宰府を攻略し、そこを日本征服の橋頭保にするつもりだったんだろ

366 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 16:55:09
>>365
じゃ失敗だし、負けなんじゃないの?

367 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 16:58:33
勝てると判断し抗戦した幕府
勝てないと判断しサッと引き揚げた元
どちらの判断も見事だ

368 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 17:02:14
>>367
二度目は一ヶ月かそこら海岸に釘付けだったんでしょ。
上陸すらできなきゃ帰るしかないんでは?

369 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 17:05:23
>>366
もちろん元軍の負けだよ。
だから元や高麗、鎌倉幕府の史書に「元軍が戦って負けた」と書いてある。

『元史』巻一百五十二 列伝第三十九 劉通
「十年、遷征東左副都元帥、統軍四萬、戰船九百、征日本、與倭兵十萬遇、戰敗之。」

『高麗史』八十七巻
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人。」

『鎌倉年代記裏書』
「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北、」

370 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 18:04:13
>>361
>だから、元軍は夕刻に日本から撤退。

21日朝にはもういなかったのだから、いずれにしても20日夕刻から夜までの
間であることは間違いない。だれもそんなことは議論していない。

>最前線で元軍と戦って麁原まで追い詰めていた竹崎や白石は当然見届けていただろ。

負傷した竹崎季長が麁原に踏みとどまって元軍の撤退を見届けたという話も
はじめて聞いたが、
いつの間にか個人やグループの話に切り替えたな。
君は「武士が水城へ引き揚げたのは(元軍撤退より後)」と言ったのだ。
「武士は」と総称で言えば「日本軍は」ということになるではないか。
はっきりして置きたいが、日本軍が(元軍撤退の後に)水城へ引き揚げた
というのは、
合戦のあった20日夕刻のことか? それとも翌21日朝以降のことか?


371 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 19:08:52
>>370
全部20日のことだよ。

それにしても、どうでもいいことに拘るな。
>>361に元軍が夕刻に松原から撤退したと書いてあるだろ。
その遥か後方の博多は、そもそも戦闘とは無関係。
博多へ避難していた住民も無事。
これで何の不満があるのさ?

372 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 19:46:59
議論が拡散しがちなんで、みんなが「橋頭堡」と呼んでいるものと、
(表現の正確性を期するなら「海岸堡」とすべきだな。以下そのように
表記する)上陸/対上陸作戦について説明しておくか。

現代戦術における上陸側の目標線は、大きく分けると2つ、細分化する
と3つに分かれる。
前者の分類で行くと、敵の火力を排除しうる線と、上陸地点に至る緊要
地形を結んだ線の2線、後者の分類では、敵直射火器の射撃を排除
しうる線(通称O−1ライン)、敵曲射火器の観測射撃を排除しうる線
(O−2ライン)、最後は同じく上陸地点に至る緊要地形を結んだ線(O−3
ライン)となる。
元寇当時の戦闘に当てはめると、O−1ラインは弓の有効射程+互いに
目視しつつ機動する距離を考えると、上陸地点の500m以内程度から
敵を排除、O−2ラインは曲射火器に相当する兵器が当時はないから
(厳密に言うと「間接照準火器」とすべきか?)、見張り等が上陸部隊の
動向を察知し、我が部隊にそれを伝えて接敵機動に資することが出来る
距離の2km前後、最後のO−3ラインは現代戦も当時も同じで、沿岸
地域に戦力を推進する際の隘路となる今宿〜水城〜和白を結んだ線
辺りであろう。特に、水城一帯は九州防衛の拠点である太宰府が隣接
しているとともに、内陸侵攻する際の経路を直接制しているから最重要
となる。

この水城を上陸側が奪取した場合、内陸侵攻のための足がかりを確保
すると共に、沿岸部〜水際への日本側の戦力推進を困難にして上陸時の
安全を確保することが出来るし、逆に対上陸側は主力を沿岸〜水際に
推進して決戦を行うための足がかりとすることが出来る。

373 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 19:56:26
では、元軍の上陸に際してそれぞれの線がどのような
意味合いを持っていたか。
作戦の期区分で考えると、水城一帯の確保をもって上陸
作戦の段階を完了し、内陸作戦に至る段階である点、
太宰府の政治的価値の観点から、ここの攻略をもって
当初の作戦目標を達成し、日本側との政治的交渉に移る
と考えるのが妥当ではないか。(もちろん、日本側が予想
以上に弱かった場合には、内陸侵攻に至ることは十分に
考えられる)
だから、上陸当日中に水城一帯を攻略できなかったから船に
戻ったと考えるのは無理がある。
一方、O−1ラインすら確保できない場合、組織だって船に
戻ることすら出来ないから、この時点で日本側の圧勝と
考えるのも無理がある。

よって、元軍はO−2ラインを確保して、日本側の夜襲に
備えるための警戒線を構築することが出来なかったため、
陸上での野営を断念して船に引き上げた、と考えるのが
一番妥当性ある状況なのではないだろうか。

374 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 20:05:08
>>373
完全に同意する。
分かりやすく、かつアカデミックで優れた説明だった。

問題はその後、なんでおうちまで真っ直ぐ帰っちゃったんだろう。

375 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 20:06:39
>よって、元軍はO−2ラインを確保して、日本側の夜襲に
備えるための警戒線を構築することが出来なかったため、
陸上での野営を断念して船に引き上げた、と考えるのが
一番妥当性ある状況なのではないだろうか。

それって確保できてないんじゃないの?

376 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 20:11:44
>375
誤解されやすい書き方だったかな?

元軍が日本軍の夜襲に備えるための警戒線を構築
するためには、O−2ラインの確保が必要であったが、
日本側の奮闘によりこれを達成することが出来なかった
ため、陸上での野営を諦めて船に戻った。

これだとわかるかな?

377 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 20:23:10
日本側も水城まで撤退したのは
元に決定的な損害はなかったと見ていいかな?

大損害を与えていれば、日本側も夜を徹して掃討するはずだし。

378 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 20:35:44
いや、やっぱそれは関係ないか。
掃討すると言っても死に物狂いの敵兵を相手にするから
明るいほうがいいのも確かだし。

いずれにせよ元軍の敗北と同様に
損害はそれほどでもなかったのもまた確かだろう。

379 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 20:35:56
>377
防御の本質は、敵の撃滅ではなく敵の攻撃の破砕だから、
極端な話攻撃側に1名の損失もない状態でも、敵の攻撃が
頓挫したら成功となる。

ただ、最終的には攻勢転移して敵を撃滅するのが戦理の
示すところだから、当初は決戦を避けて敵の上陸〜戦力の
組織化を遅滞し、我が方の戦力が整った時点で攻勢転移し
決戦を挑む考えだったのではないかと思う。

結論から言うと、元が完全撤退を決心するほどには大打撃
を与えたが、日本側が攻勢転移を決心するほど戦力比の
逆転が起こるような大打撃ではなかった、というところでは
ないかな。

380 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 20:47:31
>>379
弘安の役では志賀島で一度上陸に失敗し、
その後も場所を変えて果たせず、
ひたすらボコられてかつ病気も蔓延してかなりの打撃を受けていたと思うが
結局一ヶ月間だらだら洋上を彷徨っていたよね?

文永では一日で帰っちゃったけど、この違いは何でなんだろう?

文永の一日で受けた、
日本側に攻勢転移を決心させるほどではない打撃が
即、元が完全撤退を決意するほどの打撃にはつながらないと思うんだけど。

381 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 21:08:57
俺は「官軍相整わず」とあるように
体制の不備が撤退の原因で、
このままでは大打撃を受けるという予想はあっても、
実際にはまだ大打撃は受けていなかったと見る。

この期に及んで口先だけ威勢のいいことばかり言う高麗の将軍の当てにならなさや
そもそも事前の大宰府の戦力評価、計画の出発点自体が間違っていた、
現場の俺達のせいじゃない!と言い訳できたのが根底にあると思う。

弘安では文永での直接対決の反省の元に計画を練り直し、
南宋も征服して磐石の体制のもとに、14万という大軍も動員したため、
負けても帰るに帰れず、長期間無駄に放浪する羽目になったのでは。

382 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 21:10:52
殲滅目的の追撃が行われるようになったのって割と最近よね

383 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 21:27:07
>>382
頭大丈夫?最近は紳士的になったほうだろ。
弘安の役では生き残った蒙古兵は一匹残らず狩り出され皆殺しにされてるぞ。

384 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 21:29:40
>>383
朝鮮人もな。

385 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 21:29:49
>>383
> 日本側が攻勢転移を決心するほど戦力比の逆転が起こるような大打撃ではなかった

386 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 21:39:59
>>385
何を言いたいんだ?

387 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 21:41:08
>>385
全く意味不明。
攻勢転移して決戦して勝ったあとに初めて追撃するんだけど。今も昔も。
お前、大きな勘違いしてないか?

388 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 21:43:37
>>371
>全部20日のことだよ。
>それにしても、どうでもいいことに拘るな。

20日のことを言っているのか。じゃあ元軍より後か先かは別として
日本軍が水城に引き揚げたことは認めるのだな。元軍撤退の後と言って
いるのだからな。
で、後か先かだが、そんなことは決められない。
元軍は広い範囲にちらばった軍隊を集めるのと、全員が乗船するのに
時間がかかる。それに撤退を決める前に軍議をやっている。
日本軍もまた小集団でばらばらに、15km離れた水城をめざしたのだから
時間がかかる。後か先か決められないし、それこそどうでもよいことでは
ないか。

>その遥か後方の博多は、そもそも戦闘とは無関係。
>博多へ避難していた住民も無事。

そんなことを言ったら博多の住民に失礼だ。
もはや日本軍の抵抗がなく、博多が戦闘に巻き込まれたからこそ元軍の
放火、略奪、拉致があったのだ。

389 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:01:06
>382
そうでもない。古代戦史から紐解いても追撃って概念は存在する。
ただ、攻撃ってのは「敵を戦場に捕捉してこれを撃滅する」ことが
主眼だから、(古代〜中世の会戦は、現代戦における遭遇戦に
近い特性を有するから、彼我共に攻撃に近い感じ)当初の段階で
敵を捕捉・撃滅することが出来れば追撃は発生しない。
追撃ってのは「後退した敵を追いかけて捕捉する」行動だからね。
彼我が一望できる範囲で戦闘を行う事が、現代戦に比べて比較的
多い古代〜中世ではあまり目立たず、いきおい「落ち武者狩り」の
様相を呈するのはしょうがない部分ではある。

390 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:02:58
なんかループしてんな

391 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:15:00
日本はベトナムと違って元に対して攻勢転移できないようなクズだってことだ

392 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:29:15
>>391
またオマエかw

393 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 23:09:22
そんかわしベトナムみたいにたった三千に首都落とされたり
一旦降伏して朝貢もしてないがな

394 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 23:21:23
ベトナムってむしろ日本のお陰で助かってね

395 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 23:26:53
>>379
「武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。
小勢は別府の塚原へ退く。」
(蒙古襲来絵詞詞書)

資料では完全に攻勢転移して日本軍は追撃を行ってる。
元軍が海上に逃げてしまえば、あらかじめ大規模な船団を用意してない限り、
それ以上敵を撃滅を目指すのは無理だろ。
それから元軍は1万3500余人が帰還できなかったわけで、あきらかに大打撃を
受けているが。

>>388
だから、博多では放火、略奪、拉致は行われていないんだって。
資料では文永の役の後も博多は無事な状態だったんだよ。

396 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 23:38:00
>>395
それは
>敵の上陸〜戦力の組織化を遅滞
の部分。

他に例を出すと長篠の合戦の前段階の鳶ヶ巣山攻防戦にあたるのが
あなたが引用した戦闘。

元軍が被害を受けたのは負けて帰る途中の大嵐。
これは元史にはっきり書いてあるはずだけど。

397 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 23:40:28
>395
それは局地逆襲か、よくても主逆襲に類するもので
攻勢転移とは言えないレベルと考えるべき。
攻勢転移と言えるレベルになると、元軍が主力を全て
揚陸した後に攻勢限界点に達し、その後日本軍が
元軍主力の捕捉・撃滅を企図するって所まで
いかないと。

勘違いされやすいが、上陸/対上陸作戦は
戦闘様相が激甚になりやすい割には、決戦に
陥りにくいものだよ。理由は、上陸側が主力の
戦闘力を組織化する段階では、対上陸側の
組織的抵抗が破砕されているから。
この段階以降の決戦となると、上陸/対上陸戦闘
と言うよりは、沿岸部における決戦と言うべきものだ。

まあ、日本軍が、元軍が主力の戦闘力を組織化する
前の段階で水際防御に成功した時点で、世界に誇れる
レベルの対上陸作戦ではあるんだが。

398 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 23:40:55
>>393
ふーん。じゃ日本は元に対して攻勢転移もできないヘタレだってことは認めるんだ

399 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 23:48:52
>398
逆だよ。攻勢転移するような状況も生起しないほど、元軍の
上陸作戦を徹底的に破砕したって事。
攻勢転移するには、最低限元軍が海岸堡の確保(先の説明で
行くと、O−3ラインの確保)まで行かないと生起しないからね。

強いて言えば、渡洋して敵策源地を叩くべきって話が後に出る
けど、これが攻勢転移に相当する部分だね。日本が洋上決戦
するだけの海軍力を保有してれば、洋上決戦の部分が攻勢
転移にあたるけど、さすがにそれを求めるのは酷な話だ。

400 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 23:55:14
>>399
> 日本側が攻勢転移を決心するほど戦力比の逆転が起こるような大打撃ではなかった

401 :日本@名無史さん:2009/03/02(月) 00:05:20
>>400
何を言いたいんだ?




402 :日本@名無史さん:2009/03/02(月) 00:38:17
>>401
もうほっとこうよ

403 :日本@名無史さん:2009/03/02(月) 01:35:55
モンゴリアンチョップって
元寇の時、伝わった中国憲法が元って本当?

404 :日本@名無史さん:2009/03/02(月) 01:40:31
キラー・カーンの悪口はそれまでだ

405 :日本@名無史さん:2009/03/02(月) 02:15:55
結局元って何で一日で帰ったの?
弘安では文永以上にぼこられながら一ヶ月も長居したのに。

元の負けっぷりをアカデミックに説明してくれたのはありがたいけど、
ぶっちゃけ一度でいいわ。
一部の基地外以外は、元が負けたって事実そのものは
一次史料に基づいたことで、みんな同意してるし。

406 :日本@名無史さん:2009/03/02(月) 02:27:50
服属させようと二回も軍事侵攻して失敗したら、個別の戦闘での犠牲者数に関係なく、軍事的には
侵攻失敗した側の負け以外の何物でもないだろう。

407 :日本@名無史さん:2009/03/02(月) 02:31:29
>>404
こんなところに兄貴を知っている人がいるとは

408 :日本@名無史さん:2009/03/02(月) 15:39:01
最近のプロレスファンならキラーカーンより天山連想するかな?>モンゴリアンチョップ

409 :日本@名無史さん:2009/03/02(月) 17:52:02
>>405
九州に到達してから一日で帰ったとはいえ
対馬や壱岐では何日もホルホルしとるよ

結局のとこなんで一日で帰ったのかを彼らの言い分で額面通りにうけとれば
「思ったより武士が強すぎて長居しても勝てそうにないから」ということになるな

「矢が尽きて戦えない」
「船を焼いて背水の陣で玉砕すれば勝てる」
「お前アホかそんな作戦却下だ。」
「日本軍の援軍はどんどん増える。これ以上はジリ貧だ」

で帰ったわけだから

410 :日本@名無史さん:2009/03/02(月) 20:18:28
文永の役・・・元軍4万で侵攻。博多で阻止される。損害、全軍の約3分の1。
弘安の役・・・元軍14万で侵攻。洋上で潰滅。損害、全軍の約3分の2。

あらためてまとめてみるとスゲーな。日本の武士は化け物か。

411 :日本@名無史さん:2009/03/02(月) 22:57:38
>>409
馬鹿かお前は。んなこた分かっとるわ。
だからいちいち弘安と比較してかいとろーが。

勝ち目なかったのは弘安も同じだろ?
何でこの違いが生じたんだ?

まさかほんとに一日で矢が尽きたと思ってるんじゃないだろ?

412 :日本@名無史さん:2009/03/03(火) 08:53:26
風が吹いて相手が仕方なく撤退したからどうにか難を逃れた、ズルいマグレ勝ちをやたらと喧伝する劣等民族の歴史の貧困さ

413 :日本@名無史さん:2009/03/03(火) 12:21:13
>>412
こんなスレで釣りとは風流ですね^^

414 :日本@名無史さん:2009/03/03(火) 14:37:52
>>411
脊髄反射は結構だが>>409をもう一度読むべきだろう

>>405
九州に到達してから一日で帰ったとはいえ
対馬や壱岐では何日もホルホルしとるよ

結局のとこなんで一日で帰ったのかを彼らの言い分で額面通りにうけとれば
「思ったより武士が強すぎて長居しても勝てそうにないから」ということになるな

「矢が尽きて戦えない」
「船を焼いて背水の陣で玉砕すれば勝てる」
「お前アホかそんな作戦却下だ。」
「日本軍の援軍はどんどん増える。これ以上はジリ貧だ」

で帰ったわけだから

415 :日本@名無史さん:2009/03/03(火) 19:03:14
>>414
君は脳みそがないんだね。

弘安の役では一ヶ月間ボコられ続けても居残った。

文永では壱岐や対馬で多勢に無勢で圧勝し消耗してないのに
九州本土で負けたらたった一日で帰った。
負けたのは確かだが継戦不能なダメージでは明らかにない。

ここまで書けば分かるかな?じゃあもう一度。
>勝ち目なかったのは弘安も同じだろ?
>何でこの違いが生じたんだ?

416 :日本@名無史さん:2009/03/03(火) 20:29:46
ずっと前の三十三間堂の件といい少し前の博多の件といい
この件といい細かい事でしつこい人が多いスレだな

417 :日本@名無史さん:2009/03/03(火) 22:40:49
何でたった一日で帰ったのかってところは重要なポイントだろう。
それを説明しようとしたのが、あの威力偵察説。
少し考えればおかしいことは分かるのに広まったのは
みんな不思議に思ってるからだろう。

418 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 00:08:43
まだ威力偵察とかいってるのか

419 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 02:02:06
>>417は別に威力偵察が正しいとは言ってないだろ。
まあ南宋滅ぼした後の本気モードの時ですら14万なのに
たかが威力偵察で4万もよこすわけないだろと

420 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 02:12:57
4万といえば他の地域のモンゴルの遠征軍としては平均以上の兵因数だな。実際の戦闘員が
2万5千としても同じこと。

421 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 03:30:41

当時史上最強将軍であった郭侃がやってきたらやばかった。

422 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 12:40:49
むしろバヤンが来たらヤバかった

423 :日本@名無史さん:2009/03/04(水) 14:02:09
>>415
やれやれw
ヒント:東路軍・江南軍


424 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 12:34:57
>>416
慨略の話をしたらどうやっても武士有利の話になっちゃうから細かいとこほじるしかないんだよ
彼らもかわいそうなのさ

425 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 18:18:32
細かいところは資料の関係もあって難しいけど、「戦争」に勝った
のはどちらか、なら判定可能だよね。

つまり、元の国書に示された事項を日本は全面的に飲んだのか、
部分的に飲んだのか、それとも何一つ飲まなかったのか。

426 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 19:15:52
何一つ飲まなかった。ただし民間レベルで元との貿易はしてたけどね。

427 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 19:46:40
朝鮮の国史も元の国史も、宋人の日記も、
全て「元が敗北した」と明言している。

428 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 19:55:25
大陸からの本格的な侵攻ってこれだけ?
考えたら平和な島だよね。

429 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 19:58:36
まあね。明の乞食がやりかけたけど、
「元がボコボコにされたのに俺が勝てるわけないじゃん・・・」
ということで諦めている。

430 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 20:39:24
>>428
本格的な侵攻はね。
これ以外だと刀伊の入冦とか応永の外冦とかがある。
でもどっちも地元の武士だけでコテンパンにしてる。室町中期以降はそういうの無いな。
明では「あの国ヤバすぎる。絶っっっっ対に手出すなよ。」みたいな見られ方してた。

431 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 21:42:51
そりゃこんな戦闘民族がいる国に手出したくないだろ・・・



このように、地理に詳しい中国人の内応をえた倭寇はしばしば内陸部にふかく侵入し、略奪・殺傷・放火などをほしいままにした。
たとえば、嘉靖三十三年(一五五四)「紅衣黄蓋」の倭寇はわずか六、七十人に過ぎないのに、
「数千里を経行し、殺戳し戦傷する者は四千人」に近いという有様で、
その「縦横に往来し、無人の境に入るが如」き跳梁ぶりは中国の朝野を落胆させた。(『明史』日本伝)

http://www.zdrbs.com/japanese/book/nihonzo/07/2.htm

432 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 22:28:46
サイヤ人かよ昔の日本人w
てか中国人弱すぎだろww


433 :日本@名無史さん:2009/03/05(木) 22:32:04
いや、後期和冦は殆ど中国人だったんだろ。
まあ秀吉の唐入りでも武士達が武双乱舞かましてるけど

434 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 05:43:04
長刀解
此自倭犯中國始有之。
彼以此跳舞、光閃而前、我兵已奪氣矣。
倭善躍、一迸足則丈餘、刀長五尺、則丈五尺矣。
我兵短器難接、長器不捷、遭之者身多兩斷、縁器利而雙手使、用力重故也。
今如獨用則無衛、惟鳥銃手賊遠發銃、賊至近身再無他器可以攻刺、
如兼殺器則銃重藥子又多、勢所不能、惟此刀輕而且長、以備臨身棄銃用此。
況有殺手當鋒、故用長刀備之耳。

此は日本の武士が中国に攻めてきた時初めてわかったことである。
彼らは舞うような歩法を用い、前方への突進力は光が閃くようで我ら明の兵は気を奪われるのみだった。
日本人はよく躍動し、一度動き出せば丈あまり、刀の長さは五尺なので一丈五尺の間合でも攻撃される。
我が兵の剣では近づき難く、槍では遅すぎ、遭遇すればみな両断されて殺される。
これは彼らの武器が鋭利であり、さらに両手で振れるため強力で重い刀を自在に用いているためである。
こちらもただやられてばかりではない。
武士には遠くからの鳥銃が有効である。
だが武士は全く臆せず攻めたり刺したりできる至近まで突っ込んでくる
兼ねてよりこの銃手が弾を込める間に時間を取られて接近を許すことが多い
その勢いを止められない
武士の刀捌きは軽くて長く
接近を許した後の我が軍の銃手の動きは鈍重すぎる。
われわれの剣は銃を捨てて即座に対応するための有効な武器ではないのだ。
それゆえ我々も日本式の長い刀を備えるべきだ。

戚継光 「紀効新書・長刀解」

435 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 06:06:17
>>434
さすがに戚継光はよく調べてるなw
だが、

> それゆえ我々も日本式の長い刀を備えるべきだ。

中国でこれをやろうとしても、資金が横流しにあうだけだろwww
特に明代なんて、中共を除けば、
中国史上もっとも汚職が激しかった時代だろw

436 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 11:29:14
でも実際、倭刀っつって日本風の刀が向こうでも作られてる。
るろ剣で雪代縁が使ってたあれね。

437 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 22:21:43
>>434
日本刀が戦場でいかに有効だったかよく分かる。役に立たなかった説はウソだな。

438 :日本@名無史さん:2009/03/06(金) 22:28:45
>>437
これは明らかに野太刀で、打刀とはまた異なる。

一応言っておくけど俺はどっちも使えた側だからね。

439 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 03:28:12
つまり
野太刀=玄人好みの接近戦での超強力武器
打刀=首を取るときや他に武器が無くなった時に使ったサブウェポン

でおk?

440 :日本@名無史さん:2009/03/07(土) 12:45:36
中国人も罪な文献を残したものだな。

441 :日本@名無史さん:2009/03/08(日) 13:20:50
>>439
首を取るのは短刀や脇差でしょう常考



442 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 00:52:25
レスの流れが緩やかな頃合を見計らい、以前から話題になってる『八幡ノ蒙古記』の
文永の役部分を可能な限りこっそり全文うpしてみる。

『八幡ノ蒙古記』
いわゆる『八幡愚童訓』諸本のうち甲類に分類される資料の一つ。対馬や壱岐の攻略も記されている。
跋文に「正應二年己丑八月 イ筥崎宮社官 圖書允定秀誌 (花押)」とあり、正應は弘安の
次の年号で、正應二年(1289年)は弘安の役(弘安四年、1281年5月〜7月)から8年、
文永の役(文永十一年、1274年11月)からだと15年しか経っておらず、しかも戦場となった
博多の箱崎八幡宮の社官の手になる資料であり、『八幡ノ蒙古記』が最初に編纂されたのはほぼ
同時代と呼んで良い時期になる。

ただ、現存する『八幡ノ蒙古記』は近世中期に書写されたものであるらしい。江戸時代後期の国学者、
橘守部(1781-1849)が編纂した『蒙古諸軍記弁疑』の巻二にこの『八幡ノ蒙古記』が収められていて、
守部による自筆稿本が現存し、慶応義塾大学付属研究所斯道文庫と天理大学付属天理図書館の二ケ所に
分蔵されているんだそうな。

橘守部は『蒙古諸軍記弁疑』で群書類従に収められている『八幡愚童訓』の記述を、この『八幡ノ蒙古記』
の文と比較してと思われるが、『太平記』からの影響や『元史』あたりからの引用と思われる元朝からの
牒状が挿入されるなど、後代に潤色された部分があると批判も行っている。

とりあえず、蒙古軍が博多に上陸する文永十一年十月二十日の部分の本文を、以下の本からの抜粋。
一応ひととおり確認はしたけど、脱漏誤記などがあったら勘弁願いたい。(4オ6行目〜18オ末尾まで)
(小野尚志「橘守部旧蔵の「八幡ノ蒙古記」(八幡愚童訓)について」
 『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店、2001年9月。179-205頁。)


443 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 00:55:16
>>442の続き。橘守部旧蔵本『八幡ノ蒙古記』より

(前略)
其中に、太宰小貳三郎左衛門尉景資殿を、日大
将軍として待かけたるところ、十月廿日
未明より、蒙古陸地に、おしあかり、馬にのり、旗
をあけて攻めかゝる、こゝに前小貳入道覺慧孫」(4オ)
わつかに十二三なるか、矢合の為とて小鏑を
射出したりしに、蒙古一度に、とつと笑ひ、大皷
をたゝき、とらを打て鬨をつくる事お
ひたゝし、日本の馬とも、これにおとろき、をと
り、はねくるふほとに、馬をこそ刷ひしか、
向はんとする時の、おくれけるうちに、射かけらる、
蒙古か矢、みしかしといへとも、矢のねに
毒をぬりたれは、ちともあたる処、とくに氣に
まく、かくて敵より数百人、矢さきを、そ」(4ウ)
ろへて雨のことくに、いけるに、向ふへくもあら
す、楯、鉾、長柄、物の具の、あき間をさして、
はつさす、一面にたちならんて、もし、よする者
あれは、中に包て引退て、左右より端を
まはし合せて、とりこめて、皆ころしける、其
中に、よくふるまひ死したるにをは、腹をさ
き肝をとりてそ、のみにける、もとより牛
馬の肉を、うまきものとする國なりけれは、
人のみならす、いころさる□馬をも、とりて」(5オ)


444 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 00:57:10
>>443の続き。橘守部旧蔵本『八幡ノ蒙古記』より

食とせり、鎧かろく、馬に、よくのり、ちから、つ
よく、命をします、豪盛勇猛、自在きはまり
なく、かけ引せり、大将は高き所にあかり
ゐて、引へき所は、逃皷をうち、駈へき時には
攻皷を鳴し、それにしたかふて、ふるまへり、
その引とくに、てつはうとて、鉄丸に火を包
て烈しく、とはす、あたりおちて、わるゝ時、四方
に火をとはし、火烟を以て、くらます、又、
其音、甚高けれは、心を迷はし、きもをけ」(5ウ)
し、目くれ耳ふたかりて、東西をしらすなる、
これかために、打るゝ者、多かり、日本の軍の如く、
相互に名のりあひ、高名せすんは、一命かきり
勝負とおもふ処に、此合戦は、大勢一度に、
より合、足手のうこく所、われもゝゝと取つき
て、おし殺し、又は生捕けり、この故に、かけ入
ほとの日本人に、一人として、もれたる者こそ
なかりけれ、其中にも松浦いさみたりし故、
おほく打れぬ、原田一類、澤田に、おひこまれ」(6オ)
て、うせにけり、日田、青屋二三百騎はかりにて、
ひかへたり、青屋かのりたる馬、口つよくして、
しねんに敵陣にそ引れたる、主人入しかは、
かの手に、したかふものとも、つヽいて、かけ入たり
けるに、ひしゝゝと巻こめられて、残りすく
なく打死にす、主人ののりし馬、御方の陣、
へ歸しにこそ、青屋伐れたりとは、しら
れたれ、肥後國御家人、竹崎五郎兵衛尉季長、
天草城主矢野種保兄弟、船にかゝりしほ」(6ウ)


445 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 01:00:18
>>444の続き。橘守部旧蔵本『八幡ノ蒙古記』より

とは、よくふるまひたれと、此所にいたりて、
得かゝらす、白石六郎通泰も、えすゝます、こゝに
山田か若者五六人、蒙古に、おひたてられ、赤坂
をくたりて、のけ兜になりて、にくる処に
蒙古三人、もみにもみてそ、おひかけたる、
されとも、とくにけ延し事、一町あまり
なりしかは、蒙古ちからなく、せめての事
にや、尻をかきあけて、此方へむかひてそ、を
とりける、この時、山田の逃武者とも、口をし」(7オ)
き事かな、奴原に、かく追立らるゝ事よと、精
兵を、えらひて、いあつへきには、あらすとも、遠矢
射て見む、南無八幡大菩薩、此矢、敵に當させ
給へとて、何にあつよもなく、はなちけるに、
あやまたす、かの二人とも射殺しつ、此とき、日本
人は一度に、とつと、わらへとも、蒙古は音もせす、
手負を掻具して、にけさりつ、大菩薩の御
罸にあらさるほか、いかにして、かの矢の、あたる
へき事あらんと、貴はさる人なく、うれし(7ウ)
さ、はかりなかりけり、されとも蒙古、次第に
つよく、かちに乗じて攻来、今津、佐原、百
道、赤坂まで乱入して、松原の中に陣を
取てそ居たりける、かほとの事あるへし
とは、兼ては、おもはさりけれは、妻子眷属を
かくしもおかすして、数千人そ捕られに
たる、はしめより軍立、思ひしにたかひて、おも
てを、むくへきやうもなく、御方追々に
引退て一人も、かゝる者こそ、なくなりに」(8オ)


446 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 01:03:37
>>445の続き。橘守部旧蔵本『八幡ノ蒙古記』より

けれ、こゝに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかり
を二手に分て、おしよせて、さんゝゝにかけち
らし、上になり下になり、勝負をけつし、
家のこ、らうたう等、多くうたれにけり、いかゝ
したりけん、菊池はかりは、うちもらされて、
死人の中より、かけいて、頸とも数多とりつけ、
御方の陣に入しこそ、いさましけれ、是偏
に、大菩薩を深く信して、もし、勧賞ある
ならは、賜ひたらん一はんの物を、手向奉らん」(8ウ)
との立願なりし故なりとて、後に太宰府よ(ママ)
より注進して、京都より賜はりし甲冑
を當社へそ納めける、小貳入道か子息、大将
三郎左衛門尉景資、并、平四郎入道子、小太郎
左衛門等を始として、大矢野、竹崎、白石等、
更により合て、さんゝゝに戦ふ、此外、名ある
者、恥をおもひ、大事をなけく者あつまりて
攻しかとも、物のかすともせす、蒙古ひたや
ふりに破て、佐原、筥崎、宇佐まてこそ乱れ入」(9オ)
たりけれ、異國かせん、何ほとの事あらんと、あな
つりて、妻子、老人を隠しおかさりしよと、な
けくも、かひなし、在々所々に、おし入て、いく萬
人を奪取けん、みな人々(カ)、はしめは、ふんとりせんとするに、
御方多くして、一人に一人は當つかすあるへき
にやなと、いさみ進みしに、たゝ一旦の戦ひに、
あきれさわきて、いふかひなく、軍、辰刻より、は
しまりしか、日もくれかたに、なりしかは、
あなたこなたに、さヽやき事こそ、多くなり」(9ウ)


447 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 01:31:33
>>446の続き。橘守部旧蔵本『八幡ノ蒙古記』より

にけれ、何事にかあらんと、あやしみしに、しよ
せん武力及はす、水木城に引こもり、さゝへて
みんと、逃したくをこそ、かまへたりけれ、これ
をきくより、おそしやとて、われさきに
落ゆくか、多かりけれは、いよゝゝおくひやう
神にさそはれて、今は一人も戦はんとおもふ
者こそ、たえにけれ、爰に大将小貳景資、蒙
古の大将とおほしくして、長七尺はかりの大男、
ひけは臍邊まて、おひさかりたるか、」(10オ)
あか(カ)鎧に、あし毛なる馬にのり、十四五騎うち
つれ、徒人七八十人あひ具して、おひかくる、その
時、景資か旗の、せみくちを、鳩かけりしかは、
八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、究
竟の馬廻に、弓の上手かありしかは、それに下
知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ
出させたり、かの奴原を見かへりて、よつひき、
はなつ矢、一はんにかけたる大男の、直中を
射つらぬき、逆にこそ、おちたりけれ、つきそひ」(10ウ)
たる郎等とも、これをおとろき抱へ入ける紛
れにそ、景資、水木城の方へ引きかへす、その時、同
し、あし毛馬に金作のくらおきて、馳出たる
異敵を、おひ廻し捕へたり、此者に、かの大男を
尋ぬれは、蒙古一方の大将、流将公と云うものな
りとそ、又申けるは、出たつより、あやしや、鳩、翔
りて、既に吾か大将軍を、うちてけりと云
にそ、八幡宮の降伏、めてたく、たふとき事
を知て、皆人かんしける、さて、水木城と」(11オ)


448 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 01:44:05
>>447の続き。橘守部旧蔵本『八幡ノ蒙古記』より

申すは、前は深田にて、路一すちあるのみ、う
しろは野原ひろくつヽきて、水木おほく、ゆた
かなり、馬蹄、飼場よく、兵粮潤澤なり、左
右、山あひ、三十餘町をすかして、石もて高く
きひしく筑たり、城戸口には、磐石門を立
たり、今は礎石はかりになりたり、南山近
くて、あひそめ川なかれたり、右山の腰には、
深くひろく堀を、とほして、二三里廻れり、
これ、いにしへのみよゝゝ、異賊をふせかんた」(11ウ)
めに、帥の大将を、おかれたりし、大城なり、かくゆゝ
しき古城なれとも、あまたの軍勢、一日の戦
に、たへかねて、博多、筥崎を、うちすてゝ、おち入け
れは、末は、いかになり行ものかと、あやしの
賤山かつまて、泣まと(カ)ひ、かなしまさるそ、な
かりける、つかの間も、をしき、いのちとて、妻子を
引具し、老幼を扶け、いつちともなく落ゆくな
るは、中有の旅に迷ふ(カ)も、かくやと、見るにたへす、
なかぬ人こそ、なかりけれ、筥崎宮の留主を」(12オ)
はしめとして、僧俗、社官、固め居たりしかとも、
たのむ所の軍兵の、皆おちぬるうへは、かくても
いかヽ有へき、たとひ、身は遁れなんとも、神體を
すておき奉り、今忽ち異賊等に穢させ奉
らん事こそ、かしこくも悲しけれ、いのちあらん
かきり、いつまても御供して、いつき奉らんとて、
なくゝゝ宮にいつ、あまり火急の事なれは、神輿
にも、のせたてまつらさるこそ、恐く、かたしけな
けれ、御供には、留主左衛門尉定重、平左衛門尉景」(12ウ)


449 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 01:45:32
ありゃりゃ、どう見ても武士の惨敗じゃんw

450 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 02:02:41
>>448の続き。橘守部旧蔵本『八幡ノ蒙古記』より

親、同景康、圖書允定秀以下の社官とも、少々参て
けり、産宮へとて、いそきし処に、彼宮にも、はや落
はてゝ、一人もなく、扉をかたく閉て、いれ奉るへき
やうも、あらされは、せんすへなくて、上山の極楽寺
にそ、いれたてまつる、をりふし、ふるあめに
涙おちそひて、いとゝ袂そ、ぬらしける、逃来
しあとを、かへり見れは、在々所々、猛火おひ
たゝしく、もえあかりけり、これまさしく、賊
のしわさと見る、おそろしさ、いはんもおろ」(13オ)
かなり、よきをりにしも、ゐてたてまつりこしと、
皆人々(カ)、なけきの中にも、よろこひあへり、こゝの
みね、かしこの谷に、かくれたる、おちうとゝも、夜あけ
て、押よせ、さくられなは、今は何方へか逃ぬへき
と、なけき、かなしみけり、かゝるさわきの中
なれと、いかなる者か、したりけん、三首のうた
をそ、詠したる、
前小貳入道覺慧の事を
 臆病を いかゝはせうに 入道か はちをかくえの名」(13ウ)
 に落にけり
大友頼康を
 大ともは 子ともうちつれ 落行て 方々にこそ
 よりやすみけれ
筥崎留主の子息、紅葉を縫たる直垂を着て落け
るを
 直垂に ぬるもみち葉も 落にけり はけしき
 敵や 木枯の風
さる程に夜も明ぬれは、廿一日なり、あしたに松原」(14オ)


451 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 02:17:01
>>450の続き。橘守部旧蔵本『八幡ノ蒙古記』より

を見れは、さはかり屯せし敵も、をらす、海のおもて
を見わたせは、きのふの夕へまて、所せきし賊船、一艘
もなし、こはいかに、いつくへは、かくれたる、ようへ
まて、いねもらやれす、かくては九國に、みちたる
人たねは、つきはてなんと。よもすから歎きあか
しつるに、何とてかうは、かきけちて、失にけんと、
たヽ、ゆめかとはかり、たとらるゝ、ありさまなり、此
ありさまを見る人々(カ)、けさまて泣まとひけるも、
やうゝゝ人こゝろ、つきそめて、よはかり出来(カ)て」(14ウ)
よくゝゝ見れは、異賊の兵船一艘、志[賀]嶋にかヽ
りて、逃のこれるも見え(カ)にけり、さりけれと、あ
まり恐れて、さうなく、むかふ者しもあらす、かの
陣とりし跡所の、いとあやしく荒れたるを見
つゝ行に、こは、たゝ事なたしと、おもへと、なを、
さても、おちをのゝきたる、心くせの、はなれぬは、
蒙古か方より手をあはせて、をかみけれと、
我ゆかんというふ人なく、たゆたひてあるに、
賊とも、助船もよせこさるは、降るをたにも」(15オ)
ゆるさゝる心にこそと、おもひ切て、その中の大
将、海に入てそ、うせにける、のこる敵とも、御方の
地に、わたりきて、弓箭をすて、兜を脱く、其時
はしめて、われもゝゝと、おしよせて高名か
ほに生捕にける、残る賊ともを水木岸に、引
ならへて、二百二廿人、斬てけり、やうゝゝこれを、見
きヽて、蒙古退散しにけりと、こゝかしこより、
つとひあつまる人々、親は子をたつね、夫は婦を
まとはし、宿所はやけ、資財は盗みと□(らカ)[れ]、身を(カ)」(15ウ)


452 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 02:28:43
>>451の続き。橘守部旧蔵本『八幡ノ蒙古記』より

所もなしとて、なけきは猶も、やま[さり]けり、
をりしも、すこう見わたさるゝは、消亡の灰、浦
風に吹上られて天にふたかり、國にみち、目も
あてられぬ、ありさまなり、たゝ、はうせんと
して、おもふに、落にし事は昨日そかし、一夜
のほとに、かくも、かはりはてぬるものかなと、
うちうめかるゝ程に、博多に迷ひし、おちうとゝも、
一夜過て、かへり来しに、是も住し家々、あと方
もなく、あさましう(カ)、同し思ひになけく中に、」(16オ)
語りあへるは、こたひすてに武力つきはてゝ、
かかる大勢、敗北して、にけうせにしは、國の危き
かきりなりき、今はかうと見えし、夕過(カ)る比、
白装束の人、三十人計、筥崎宮より出て、矢
さきを、そろへて射ると見えしは、神の降伏
し給ひしなり、此降伏に、へきえきして、松原
の陣をにけ、海に出けるに、あやしき火もえめくり、
船二艘、顕はれ出て、皆うたれ、たまゝゝ沖に、にけたるは、大
風に吹しつけられにけり、此事さき□(にカ)生捕[た]」(16ウ)
る日本人の、其夜歸来て、かたると、今朝生捕
たる蒙古か云と、同し事なりけれは、更に、あや
まり有へからす、もし、此時、日本の軍兵、一騎な
りとも、ひかへたりせは、大菩薩の御戦と、いはれ
すして、わか高名にて、おひ返せしとも、申なさ
ましを、一人もなく落失てのち、よるになりて、
さはかりなる異賊ともの、おち恐れて、あるひは、
つふ(カ)れ、あるひは、逃かへりしは、偏に神軍の威
徳厳重にして、不思議、いよゝゝ顕然とあらはれ」(17オ)


453 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 02:51:08
>>452の続き。橘守部旧蔵本『八幡ノ蒙古記』より

たまひけりと、ふしをかみ貴はぬ人こそ、な
かりけれ
 建○○○
    此下、紙四五枚うせににけり」(17ウ)

又、建治元年正月廿三日、高麗人、蒙古使を率
て来にけり、徒類七十餘人、太宰府に留めて、
杜世忠と云ふもの、供二人をつれて牒状を奉る
とて、関東へ赴きぬ、筑紫の武士等きひしく
番して、こたひは、かの徒類の者とも一人も、う
こかさす、○○○○○、もはら咎人の如し、○○○○
   此間、紙六七枚うせたり」(18オ)

-----------

以上抜粋終わり。
次の(18ウ)の冒頭から弘安の役の記事が始まる。
こんな大量投稿したのはいままでで初めてだったから連続投稿の警告にガクブルもん
だったが取り敢えずノルマは達成。この『八幡ノ蒙古記』は>>442に書いたように

「正應二年己丑八月 イ筥崎宮社官 圖書允定秀誌 (花押)」(26オ)

とあって、(26オ)まで弘安の役についての記述が続く。文永の役の記述に比べると、
半分以下くらいの分量。ぱっと見ても、大抵は漢文にカタカナ交じりの文だが、この
『八幡ノ蒙古記』はひらがな交じりの文で書かれていて、群書類従本などの諸本と
比べると違っていてなかなか興味深い。

それにしても疲れた(汗

454 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 06:48:30
ありゃりゃ、どう見ても武士の惨敗じゃんw

455 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 10:33:16
こう言う「白装束の神様が神社から出てきて元軍を撃退しました」なんて書いてある
オカルト文献を根拠に、戦後の歴史研究者どもは武士の惨敗とか言い張ってたんだぜ。
ありえなさ過ぎだろ。。。
明らかに武士の圧勝を描いた蒙古襲来絵詞の方が、資料としての信頼度が高い。

456 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 11:00:07
だから何度も言ってるように向こうの史書には普通に
「征服しようとしたんだけど戦って負けたんで帰って来ました」
って書いてあるじゃん。あと日本国内でも八幡愚童訓以外の史書には
普通に武士達が圧勝したと書いてある。なんで八幡愚童訓みたいな
胡散臭いオカルト本を唯一無二の信憑性のある資料として扱い
そこにある武士フルボッコ説なんてナンセンスな俗説をさぞ史実であるかのように
扱っているのかが理解できない

457 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 12:13:08
ありゃりゃ、どう見ても武士の惨敗じゃんw

458 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 13:52:11
>>434を流したかったんだな

459 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 13:57:27
元は戦略目標の太宰府どころか水城にすらまったく届かず、夜逃げしたけど
武士の惨敗ねぇ

460 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 15:32:04
鎌倉時代にモンゴルが攻めて来たように、弥生時代末期にユダヤ人が攻めて来て弥生人を奴隷にして古墳時代が始まったんですよ

461 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 15:40:31
普通、勝敗は目標を達成できたかどうかで判定するものであって、払った犠牲で判定するものではない。
事実として、鎌倉幕府は蒙古軍を退却させ、その目標を頓挫させたのだから勝ちであることに間違いない。
しかし、犠牲は大きかった。

462 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 16:20:45
まあ犠牲面でも元軍のほうがひどいけどね

463 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 17:44:58
しかも4万対5000だからね

464 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 18:21:49
具体的に鎌倉側って5000人中何人死んだんだろう。

465 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 22:22:38
だから予定の撤退、威力偵察。

466 :日本@名無史さん:2009/03/09(月) 22:45:09
>>465
いい加減釣りはやめろや。
俺何回このスレに威力偵察の説明書けばいいんだ?

467 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 02:38:43
東亜板あたりにリンク貼られてんのかな?
レス乞食っぽいのが多い

468 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 02:44:30
>>463
ん? 25000ぐらいじゃないの?

469 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 04:21:23
威力偵察ってw
それじゃ七年もあける必要があるのかまったくわからんな
そんなんで偵察とか言えないよ

七日とか、七週間ならまだわかるが七年w
単純に四万も出しといてぼろ負けしちゃっただけですな

470 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 09:51:32
>>464
日蓮の書状によれば、九州における日本側の戦闘損失は松浦党数百人。
非戦闘員も含めた数字だと、文永の役と襲撃された地域がほぼ同じ刀伊の入寇の人的損失が
全部で1650人だから、その数字を大幅に上回るということはないはず。

471 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 10:23:08
>>469
兵力が4万だから威力偵察でないとか、間隔が7年だから違うとか言うやつは、
世界史を勉強したほうがよい。

1223年に、モンゴル軍がロシアの騎士団を壊滅させたカルカ川の戦いは、
第1次のヨーロッパ遠征の過程で起こった。
kalka river, battle でぐぐれば英文資料がたくさんあるが、その殆どが
このときの遠征を威力偵察と見なしている。そのうちの一つは、ジンギスカン
自身がこれを威力偵察と見なしていた、と言っている。
この第1次遠征の総兵力がまさに4個軍団、4万人であった。

その18年後の1941年、モンゴル軍は本攻撃とされる第2次のヨーロッパ遠征
において、ポーランドとドイツの連合騎士団を、リーグニッツの戦いで壊滅
させた。この第2次遠征の総兵力は15万であった。

第1次ヨーロッパ遠征が4万、18年おいて第2次が15万。
文永の役が4万、7年おいて弘安の役が14万。

間隔だけちょっと違うが、よく似た関係だ。
(もっとも第2次は1236年に発起しているから、発起ベースではもう少し短い)

472 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 10:40:12
>>471
4万で威力偵察にでかけてロシア軍を壊滅させ、本番では15万。
4万で大宰府すら占領できずに追い返されて、本番では14万。
威力偵察の手ごたえが全然ちがうのに、なぜ本番では同程度の
兵力なの?

473 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 10:46:13
>>471
カルカ川の戦いと文永の役を一緒にするようなやつは、世界史を勉強したほうがよい。

第1次のヨーロッパ遠征は、チンギス・ハンの中央アジア遠征のついでに行われた作戦。
文永の役は全く独立した作戦として何年も前から準備された作戦。
さらに、チンギス・ハン自身がこれを威力偵察と見なしていた、と言っている第1次のヨーロッパ遠征と異なり、
文永の役を威力偵察などと言っている資料は存在しない。

全然似てないだろーが。

474 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 11:31:15
>>471
完全に同意する。
分かりやすく、かつアカデミックで優れた説明だった。

475 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 11:40:34
仮に文永の役が威力偵察だとしても、元軍が鎌倉武士に大惨敗し、全く目的を達成できないまま、
大損害受けて逃げ帰ったという事実に何の違いも生じないんだけど・・・

476 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 12:35:52
あんだけ大規模に威力偵察したのに本番でボコられてちゃ世話ねえな

477 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 14:51:33
>>471
そういうのはそもそも「威力偵察」とは呼ばない


478 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 15:07:05
第二次侵略まで七年あけちゃいましたけど威力偵察です
偵察した割には全く武士への対策がなく無策できちゃいましたけど威力偵察です
チンギスハーンは偵察だとか全く言ってないですけど威力偵察です

こんなこと大真面目に言えちゃうんだから…
あきれるよ

479 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 15:27:33
金方慶は洪茶丘になんと言ったか?
「我々は劣勢と言ってもすでに敵を目の前にしている。
乗ってきた船をすべて焼き払い、背水の陣で戦えばなんとかなるニダ」

最初から偵察の予定できているならこんなセリフは出てこない

480 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 17:46:31
八幡ノ蒙古記はなかなか具体的で面白い。
載せてくれてありがとう。
翌朝、逃げ遅れて難破した船の蒙古兵が手を合わせて命乞いしているのに、
恐れてだれも近寄らない。そのうち蒙古の大将が入水自殺(?)し、残りの
兵どもが上陸して自ら武装解除してから、はじめて近寄って蒙古兵を生け捕り、
200人ほど首を切った、
というのは、前日の戦いでよほど怖気づいていたのだろうな。
こういうところに真実の姿が現れる。

481 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 19:25:02
「俺らが神頼みしたおかげで日本はなんとか助かったんだぞ」
とかぬかして恩賞求めてきたアホ貴族や胡散臭い神社仏閣関係者の奴らなんて
「てめえら武士を侮辱すんじゃねえよ!」とかなんか理由つけて全員殺して財産没収すりゃ良かったのに。
そうすりゃそいつらから没収した財産や土地を、武士達の恩賞に当てることが出来るし
八幡愚童訓だなんてバカサヨ教師達の珍説のソースになってるオカルト本もこの世に残らなかったのに。

482 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 19:28:16
>>481のような過激派は当時いたのだろうか?

483 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 19:53:33
>大菩薩の御 罸にあらさるほか、
いかにして、かの矢の、あたるへき事あらん

>八幡宮の降伏、めてたく、たふとき事 を知て、皆人かんしける、

>異賊ともの、おち恐れて、あるひは、つふ(カ)れ、あるひは、逃かへりしは、
偏に神軍の威徳厳重にして、不思議、いよゝゝ顕然とあらはれ

語るに落ちたとはまさにこのこと。

484 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 19:56:08
ま、負けは負けだな。
元の。

自分で「負けた」って記録してるもんな。
な?

485 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 19:56:38
さらに言うと、こういうのはどこまで信憑性があるのか、
はなはだ疑問。
資料というよりはプロパガンダの類でしかない。

486 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 20:04:17
>>481
時宗や貞時が足利義教や織田信長みたいな人物だったらそうしてたかもねw

487 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 20:20:02
前小貳入道覺慧の事を
 臆病を いかがはしょうに 入道が 恥をかくえの 名に落ちにけり
大友頼康を
 大ともは 子どもうち連れ 落ち行きて 方々にこそ 寄り休みけれ

いかにも見捨てられた博多市民が詠みそうな狂歌だ。
(歌の文字は現代仮名遣いに直した)

488 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 20:31:57
結局元軍は撤退したけどね。

489 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 20:34:46
>>487
なんだ。やっぱり偵察部隊にボコられてるじゃん鎌倉武士(笑)

490 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 21:37:56
その偵察部隊は撤退したけどな(笑)
負けは負けww

491 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 22:41:12
世界史板の塩野七生スレ荒らしてる奴らの本拠地はここかw
他スレ荒らしてる暇あったら蒙古襲来絵詞でも見てシャドーボクシングしてろやw

492 :日本@名無史さん:2009/03/10(火) 23:36:06
見てきたよ。
このスレや世界史板の武士スレで散々論破された
あほな自説振りかざしてるアンチ日本厨が必死なスレでしたねw

493 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 00:38:13
世界史板の多数を占める白人史上主義の欧州マンセー野郎共は
自分達は武士厨や日本史板住人より遥かに歴史を知ってるなんて思い上がりがあるからな。
だから日本史や東洋史においては二十年以上前に出てきたような
トンデモ説やガセネタをさぞ近年の通説であるかのように得意気に話すんだよ。

で、反論出来なくなったらネトウヨだのニートだのチョンと同レベルだのとレッテル貼り。

494 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 01:43:31
元寇は鎌倉武士の圧勝
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.html
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。



495 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 01:43:42
ここのネトウヨどもは世界史板どころかVIPやニュー即民にすら論破されるレベル

496 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 01:48:31
問題は、
鎌倉武士圧勝→国威発揚
ってなるウヨの低脳ぐあいだな。


497 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 01:57:06
>>495
レス乞食してコピペブログでもしてんのか?

498 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 02:20:21
>>495
元寇の話しないなら帰れば?

499 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 02:21:06
>>494
リンク先見てないけど、URLから見て九大の史学関係?
最近の元冦関連はようやく皇国史観からも自虐史観からも解放されて
まともに研究できるようになったんかねえ?

500 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 08:05:32
>>490
偵察部隊は撤退して報告するのが仕事だ。

501 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 09:33:18
>>490

四万の偵察部隊www
さんざん矛盾を指摘されてまだほざくか?ww

502 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 10:23:09
>>500
で、報告した情報を元に編成強化し南宋軍も合流した本番で
ボッコボコにされましたとさ、めでたしめでたし。

503 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 10:30:58
威力偵察
敵の勢力・編組及び配置を暴露させるとともに、その反応を
見るために行う、限定目標の攻撃による偵察を言う。
(米)reconnaissance in force
出典:陸上自衛隊教範「用語集」

kalka river, battle の検索結果 約 3,060 件中 1 - 10 件目 (0.21 秒)
kalka river, battle,reconnaissance in force の検索結果 約 391 件中 1 - 10 件目 (0.12 秒)

日本の翻訳者が超訳して、無理矢理に「殆どが威力偵察と見なしている」
って言ってるようにしか見えないな。

まあ、仮に威力偵察だとしてだ。その場合には、元は文永の役、弘安の役を
「一つの作戦」として見ていたことになる。となると、日本側が「文永の役」と
呼んでいる「威力偵察」は、これまた日本が「弘安の役」と呼んでいる「主力
の作戦」のために「敵情(日本側の情報)」を収集することが目的な訳だ。
(あくまでも敵情の解明が目的なので、限定目標の攻撃は必ずしも成功
(奪取)する必要はない。)

で、その「威力偵察」は目的達成、つまり敵情を解明して、主力の作戦成功に
寄与することができたの?このときの情報による主力の作戦計画の変更は
どのように行われ、どのような効果があったの?

いずれにしても、威力偵察説が「仮に」正しかったとしても、「2度の侵攻を撃退」
が「7年に及ぶ大規模な一度の侵攻を撃退」になるだけなんだけどね。
つまり「主力の作戦が2回も失敗した」が「偵察部隊の情報を生かすことが出来ず
主力の作戦が失敗した」になるわけだ。どちらかというと、後者のが情けない気がする。

504 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 11:45:45
>>503
reconnaissance in forceで検索するのはフェアでない。
なぜなら、in force をつけない単なるreconnaissance 、つまり
単なる偵察隊と記述している文献もあるからだ。

本題に移って、ヨーロッパ遠征と元寇を比較すれば、威力偵察と
主力作戦との関係は同じではない。
一つには、ヨーロッパ遠征のときはモンゴルはまだ興隆期にあり、
その戦力と軍事技術は発展過程にあった。これに対して、カルカ河の
戦いとリーグニッツの戦いの間で騎士団の方は全く教訓を生かす改善が
見られなかった。相も変わらず統一のとれない軍隊で、相も変わらず
モンゴルの使い古した偽装退却に引っかかった。

一方、元寇の時代はモンゴルは中国化の過程にあり、その戦力は下降
しつつあった。それは同じ時期のベトナム侵攻にも見て取れる。
中国化すれば必ず弱くなるのだ。
それに対して日本のほうはヨーロッパと違って、主力作戦の際は威力偵察
の時の教訓を十分に生かした。
このような柔軟性は、民族の特質と言ってもいいだろう。

かくしてモンゴルは、文永の役では大きな犠牲を払いながら威力偵察の
目的を達したが、主力作戦たる弘安の役ではみじめに敗退した。


505 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 12:15:53
>504
kalka river, battle,reconnaissance の検索結果 約 487 件中 1 - 10 件目 (0.14 秒)

殆ど増えないが?少なくともkalka river, battleの検索結果3000件以上と比べると、主流とは
言えない。本当に自分でぐぐって確認したの?

で、だ。威力偵察だとして、主作戦が失敗してるのに威力偵察は成功って馬鹿も休み休み
言え。この理論が成り立つなら、主作戦全体は失敗でも、一部地域の確保に成功したら
「この正面では成功だ!」ってのも認めることになるぞw

もっと言うと、前にも出た野球にたとえると「バッターにヒットを打たれて走者がホームを
踏んで、その得点が決勝点になり試合に負けたけど打者はアウトにしたからピッチャーは
勝ってる」って言ってるのと同じだ。

まあ、あくまでも「威力偵察」ならな。

506 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 12:51:08
>>504
だから元冦の時の元軍は戦力下降気味で雑魚だったってのは俗説だっつーの。
むしろ南宋との戦いで城攻めも数多く経験して水軍、海軍も獲得し国力も軍事力も最盛期の頃だ。
しかも第二次日本遠征はヨーロッパ戦線と違い、日本一国だけに焦点を絞った作戦だぞ。
ベトナム攻めたりハイドゥと再びドンパチやり始めたのは弘安の役の後だ。
そもそも日本にせめてきた時はフビライが大都に都移してから
たった10年ちょいだぞ?中華化も堕落も糞もねえっつうの。

あと「バトゥやスブタイみたいな名将が率いてなかったから日本を攻めた元軍は雑魚」
って言う奴もいるがそいつは光栄ゲーのしすぎ。
じゃあ同じように有名な武将がモンゴル側にいなかった
バイバルスやハルジーや陳興道も大したことないのかよ?
仮に当時の元で随一の名将だったバヤンが率いていても結果は一緒だよ。

507 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 13:37:20
南宋を征服したバヤンが名将で、元寇の将軍が二流ってのは、あくまで結果論だからな。
バヤンだって対南宋戦に抜擢されるまでは全く無名の存在だったわけで。
洪茶丘や劉復享だって元寇以外の戦績は素晴らしいの一言。
二流の将軍だから日本に負けたのではなく、日本に負けたから将軍たちの評価が二流扱いになってるんだよな。

508 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 13:51:08
>>500
文永の役が威力偵察なんかじゃないってのは、投入された900隻の艦隊が当時の元の外洋艦隊の
全てだったことからもあきらか。
持ってる戦力を100パーセント投入した偵察作戦なんかありえない。

509 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 14:25:56
900隻は弘安じゃなかったっけ?

510 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 15:32:21
>>507
> 洪茶丘や劉復享だって元寇以外の戦績は素晴らしいの一言。

どんな戦績が残っているのかソースくれ

511 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 15:36:52
そもそも威力偵察に農具なんて持ってこないだろ?
兵力が少ないのは、あからさまに日本の武力を舐めてただけ。
んでボコボコに返り討ちにあったという事さ。

512 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 16:31:49
>>510
劉復亨
モンケ・ハーンの南宋遠征では、ハーン直属部隊として釣魚山攻防戦に参加。
戦功によって徳州軍民総管に昇進。
その後フビライ参加に加わり、モンゴル帝国のハーン位を賭けた対アリク・ブケ戦でカラコルムを守るという
重要任務を任されてる。

洪茶丘
三別抄の乱で珍島、耽羅への渡海作戦に加わり勝利。
フビライの最大のピンチだった帝国内の内乱ナヤン・カダアンの乱でも、カダアン降伏につながる決定的な
戦功をあげている。


513 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 16:55:26
南宋兵高麗兵ってなんで雑魚扱いされてんの?

514 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 17:50:05
>>505
3000件中に500件も出れば十分ではないか。
kalka river, battleなら、他の主題で単に引用しただけのものも
含むのだからな。

>威力偵察だとして、主作戦が失敗してるのに威力偵察は成功って
>馬鹿も休み休み言え。

馬鹿も休み休み言え。
威力で敵の領域に入って、地勢や敵戦力などの情報を持ちかえることが
できたら、それが威力偵察の成功だ。
その情報を生かすことができず、あるいは敵の対応が上回って、
主作戦が敗北に終わったとしても、それは偵察隊の責任ではない。

例えばヨーロッパの騎士団がカルカ河の教訓を生かして、18年の
うちに完全にモンゴルの戦法に適応し、リーグニッツでモンゴル軍を
壊滅させたとしたら、
同じ一つながりの作戦だからカルカ河も完全な失敗でした、
と言うのか?

515 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 18:08:36
>>514
>地勢や敵戦力などの情報を持ちかえる

へぇ、どんな情報を持ち帰ったの?
大宰府どころか水城にすら達することもできず、
5000人という不十分な動員体制の敵にすら惨敗して一日で撤退し
敵の動員能力すらまともに探ることもできなかったんだけど。

516 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 18:14:15
>>505
「殆ど」について説明して置こう。
カルカ河の戦いのことを知ろうと思ったら、kalka river, battle で
検索して、その1ページ目ないし2ページ目に出てくる文献を当たろうと
するだろう。
そうやって出てくる中で、単なる引用でない、まともな解説は2ページで
5件から10件くらいのものだ。それらを全部読んで、その殆どがreconnaissance
と称している、という意味だ。

517 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 18:19:13
そもそも、文永の役を威力偵察とする根拠が何一つないじゃん。
最初に根拠となる資料なりを出さなければ、それって唯の妄想でしょ。

518 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 18:32:28
武威偵察かどうかはさておき
いずれにしても四万も兵隊よこして足かけ7年の壮大な遠征計画立てて
14万の精鋭と900隻の軍艦で、万全の態勢で臨むほど本気モードだったにも関わらず
武士達にあっという間に対応されて虐殺されちゃいました。

どう見てもサヨ教師やオカルトインチキ本八幡なんたら記や
鈴木某の主張すり武士弱い子説は間違いです。本当に(ry
てか鎌倉武士レベルの圧勝劇ってあとバイバルスとインドぐらいなもんだろw

519 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 18:44:43
>514
で?結局3000件ちょっとの検索結果中何件がまともに
カルカ河の戦いを解説しているページ数で、内何件が
これを「威力偵察」であると解説しているの?
詭弁もいいところだよ。

あと、カルカ河の戦いは、第一回目の戦果が、威力偵察
目的であるにもかかわらず、決定的戦果=敵主力を撃破
してしまったが故に二回目との連続性を云々出来ない物に
なってしまっているんだよ。
言ってみれば、マレーで佐伯支隊がジットラ・ラインどころ
かシンガポールまで奪取してしまったようなレベル。

520 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 19:10:42
第二次大戦中に本当に威力偵察のために実施された上陸作戦がある。
連合軍の「ディエップ上陸作戦」ね。
この作戦に投入された上陸戦力は、カナダ第二師団約6000名を中心にイギリス海兵隊三個コマンド大隊と
アメリカ軍レンジャー部隊一個大隊。
作戦の目的は単に威力偵察だけでなく、可能ならディエップ地方の砲台や飛行場の一次的占領と完全な破壊。
で、結果はどうなったかと言うと作戦は完全な失敗で、上陸部隊の内カナダ軍3363名とイギリス・アメリカ軍247名が
死傷あるいは捕虜となっている。
ディエップ上陸作戦は戦史に残る連合軍の敗北・汚点とされているし、逆に迅速に対応したドイツ軍は高く評価されている。

仮に、仮に文永の役が威力偵察作戦だったとしても、ディエップ上陸作戦を遥かに上回る4万名もの大戦力を投入し、
目的の大宰府の占領・破壊どころかそこに辿り着くことすらできず、1万3500名の人的損害をだしたら、それは普通に
戦史に残るモンゴル軍の大敗であり、汚点なんだよ。
鎌倉武士がモンゴル軍よりも圧倒的に強いことを証明する戦いであったことに何の変わりもないの。

521 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 19:50:37
>>520の言うとおりだし、それに、
仮に威力偵察だとしても、海峡で隔てられていて、
本隊が来るまで時間がかかるわけだから、
大宰府制圧くらいせんと意味がないだろう。
本隊の上陸地点を確保しつつ、本隊が遅れても、
敵の主力にある程度対抗できる拠点ということで。
それが4万人という数にも現れてるわけで。

4万人も海を越えて連れてきて、
海岸から10kmも入れずに一日で撤退するのが予定どおりって有り得ない。

522 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 21:02:27
>>519
>で?結局3000件ちょっとの検索結果中何件がまともにカルカ河の戦いを
>解説しているページ数で、内何件がこれを「威力偵察」であると解説しているの?
>詭弁もいいところだよ。

お前の言っていることこそ詭弁だ。
だいたい3000件に全部当たることは不可能であることはわかるだろう。
で、ぐーぐるの配列順序は閲覧件数によるのだから、当然、良い解説は
トップのほうに集中するのだ。それでも役に立たぬものが多い。
例えば"battle of kalka river"という本の広告が出てもダメなのだ。
そこで、初めの2ページで例えば10件のまともな解説が出て、そのうち
例えば8件がreconnaissanceと言っていれば「殆ど」と言っていいのだ。
屁理屈こねるのもいいが、まず英文資料を読んでからにしてくれ。

523 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 21:14:59
>>519
>あと、カルカ河の戦いは、第一回目の戦果が、威力偵察目的であるにも
>かかわらず、決定的戦果=敵主力を撃破してしまったが故に二回目との
>連続性を云々出来ない物になってしまっているんだよ。

「威力偵察目的」であることを認めてくれたようだな。
それで「出来得べくんば」のほうの二次的目的、「敵主力の撃破」まで完璧
にやったのだから、これ以上の成功はない。
解説してくれて有難う。


524 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 21:18:29
>522
サンプリングの手法が全然なってないがw

1 「いい解説はトップに集中する」の根拠が全くない。
 例えば、「良くない解説」が祭りになってアクセス集中
 する事が往々にしてある。単なる妄想だな。

2 全3000件以上のサンプリングが最初の2ページ?
 高校レベルの確率・統計でもこんな無様なこと教え
 ないよ。

というか・・・
> 屁理屈こねるのもいいが、まず英文資料を読んでからにしてくれ。
お前自体が英文資料を読んでいるようには見えない件。

525 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 21:23:27
>523
うはwwwww誰もカルカ河の戦闘が失敗だったなんて
話してないが?

失敗したのは文永の役・弘安の役の二つだよw
これが「独立した二つの作戦」だろうと、「一連の
作戦(文永の役が「威力偵察」だって説を仮に
採用したとしての場合な)だろうと「元はボロ負け」
だった。そういう話だよ。

一応逃げ道塞いでおくと、カルカ河一回目は所謂
「達成することが望ましい目標」まで達成して
しまってるのに対して、文永の役は「必ず達成
しなければならない目標」すら達成していない、
そういう事だよ。

526 :日本@名無史さん:2009/03/11(水) 22:16:16
>>523

ねーねー?
元や朝鮮が「敗北した」って記録してるのはどうコメントするの?


527 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 09:59:50
>>524
サンプリングの手法が全然なってないが

ではこの場合、お前はどのようにサンプリングするのか?
3000件全部に当たるのか?
それとも無作為に抽出するのか? 
「英文のほとんどの解説は第一次遠征をreconnaissanceとしている」
ということを言うためにそれだけの労力が必要なのか?
現にお前自身がそれだけの労力をかけずにreconnaissance前提で話を
しているではないか。

>お前自体が英文資料を読んでいるようには見えない件。

ではお前はどの英文資料を読んだのか。
ぐーぐるの2ページ目まででよいから挙げて見よ。



528 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 10:13:25
>>525
>文永の役は「必ず達成しなければならない目標」すら達成していない、

「必ず達成しなければならない目標」とは大宰府の占領だと言いたいのだろうが、
それが「威力偵察」の目標か?
威力偵察だろうと、偵察は偵察だ。占領や撃滅が目的なのではない。
偵察という目的を達成するのに威力が必要だから威力を付与するのが
威力偵察だ。

ついでに言えば蒙古は大宰府まで来て帰った使節がいるから、大宰府の
位置や上陸地点などはすでに分かっている。だからこそ間違えずに
上陸した。
わからないのは敵の戦力、戦法だ。そしてそれこそが威力偵察でないと
わからないことだ。

529 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 10:35:34
4万人も動員するなら敵拠点の占領や撃滅も狙うのはごくごく当たり前。
WW2の例が上で挙がってたし、黒溝台会戦のロシア軍騎兵隊の活動もそうだ。
それくらいのやる気でかからないと偵察の目的すら果たせないよ。
及び腰でかかったら敵も小手先しか見せず
いくら偵察でも、千や万単位の部隊を使う意味がない。
また、そんなに動員してちょろっと見学して帰るような
金のあり余ってる軍隊はこの世に存在しない。

さらに言えば文永では戦力は全く読めてないわけだがね。
間に合わせの五千人にボコられて逃げ帰ったから。
本州から移動中の御家人がまだ腐るほどいたよ。

530 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 10:41:17
それにしても教科書では
太宰府すら落とせずに武士にボコられて撤退した元冦→武士惨敗。戦闘自体は元の勝ち。まぐれの台風のおかげで助かる。

半島全土攻めとり明の国境内まで進軍、ついでに女真もボコったが秀吉が死んだから撤退した唐入り。→武士は朝鮮と明の連合軍にフルボッコにされて大失敗。

と、なってるのはなぜ?

531 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 10:49:20
最近の教科書では元冦が失敗したのは高麗のおかげということになっているからなw
わざとショボイ船を造って援護してくれたらしい
自分達の同胞が乗り込む船なのにw

532 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 12:02:18
>>528
だから、文永の役が偵察だという根拠の資料出せよ。
それが無いのなら、そんなの全部単なる妄想じゃん。
歴史的事実として確定してるのは、文永の役で元軍は持てる限りの海軍力を投入し、
鎌倉武士に空前の惨敗したということだけ。



533 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 15:18:43
>>530

教科書作ってる人たちが日本が大嫌いで中国や朝鮮が好きな人達だからだお(´・ω・`)

534 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 18:30:43
>>528

ねーねー?
元や朝鮮が「敗北した」って記録してるのはどうコメントするの?

535 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 19:08:49
世界史板の住人の殆どは>>530の教科書の定説が正しいと思いこんでるようだ

536 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 19:18:11
日本人は自らの謙虚さをアピールする為に自国のみならず外国まで馬鹿にするんだな

537 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 19:31:40
どゆこと?

538 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 19:47:58
というか元は渡海作戦はことごとく失敗してるんだから
別に日本軍が強かったわけじゃないな

539 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 20:26:27
渡海作戦どころか、陸上でも侵略の限界点がある。
ま、どちらにせよベトナムやエジプトや日本がモンゴル軍を撃退した事実は変わらんわけで。



540 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 20:40:53
>ベトナムやエジプトや日本

湿地密林と砂漠と海洋が元の進軍を止めたんでしょう
それはベトナムやエジプトや日本が強かったからとは言えないのでは?


541 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 20:50:48
すでに南宋からして騎兵戦術の通しにくいクリークだらけの国土でしたが何か?
ロシアなんか森だらけでしたが何か?
彼らの強さの所以は各地の戦術を取り込むことにある。
「モンゴル最強ー!!」って言うだけじゃ彼らを正確に理解したとは言えんよ。


542 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 21:04:23
南宋は損害を度外視した属国兵と調略で滅ぼした
ロシア攻略はステップ地帯で戦闘が行われた

543 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 21:06:29
ここでも世界史板から乗り込んできた騎士マンセー厨が、日本史板の武士たちに
返り討ちにあってるわけですね。

544 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 21:14:16
いやまあそれでも他の地域も地の利で勝ったと言ってるんだから
この手のスレでしょっちゅう沸く「ベトナムと比べたら全然大したことない」とか
「騎士たちが相手に全盛期のモンゴルとチョンばっかだった元軍一緒にすんな」
とか抜かしてるボケどもよりは遥かにマシだろ。

545 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 21:25:23
>>541
>彼らの強さの所以は各地の戦術を取り込むことにある。

その通りだね。第一次ヨーロッパ遠征のモンゴル軍は、伝統的な軽騎兵だけ
でなく、すでに重騎兵も持っていた。
これはモンゴルがヨーロッパに到達するまでの過程で、他民族から取り入れた
ものだ。しかもそれを軽騎兵と組み合わせて有機的に活用する戦術を編み出した。

ヨーロッパの騎士団は、想像されるように軽騎兵に翻弄されて負けたのではない。
まず軽騎兵が遠くから弓で騎士団の馬を射て、騎士団を単なる鈍重な歩兵と
化せしめた。その上で重騎兵が突撃して、接近戦で蹂躙した。

546 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 21:26:40
騎乗槍すら存在しない時代なのに草履もどきを蹄鉄代わりに履いた極めて小型のポニーに乗った重武装の騎馬武者が
発射速度が緩慢な騎射だけで外国の軍と対等に戦うことが到底出来ないと思うんですがね
騎馬武者が打物するときは殆どの場合下馬してから行うんですけどね

547 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 21:57:35
>>546
つまり、鎌倉武士の強さの秘密は騎射ではなく、下馬しての打物にあったというわけですな

548 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 22:02:52
>>546
すると、蹄鉄を履いた大きな馬に乗り騎兵槍を装備したヨーロッパの騎士は無敵のはずなんですがね。
少なくとも、蒙古種の小型の馬に乗り弓騎兵主力のモンゴル軍に負けるはずはないですよね。

549 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 22:03:52
という事は、技術の差をカバーして勝利した鎌倉武士が最強ってことだな。
>>546はこのことを言いたかったのか。

550 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 22:31:16
>>547
強かったんじゃなくてそういう稚拙な事しか出来なかったと言っている

>>548
最高の機動力を持ってたモンゴルと鈍足鎌倉武士を一緒にしてはいけない。
武士は騎士とモンゴル双方のデメリットを持った世界最弱の職業軍人だったのだ。


551 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 22:34:16

>>549
武士は勝利したという前提が間違い。
まず文永の役では、壱岐や対馬では散々に敗北し撤退
続く博多での戦いも一人ずつ名乗りを上げている間になぶり殺しにされた。
そして博多は炎上し、這々の体で逃げた。
元軍はそれ以上攻める予定は無かったので撤退した。
続く弘案の役では、防塁を築いたのはいいが
それでも学習能力のない者たちは一騎打ちを挑んでは討ち取られている。
海上での奇襲も、むしろ被害が大きかったのは日本側の方だ。
一応防塁が働いてなんとか互角ぐらいには持ち込んだようだが
移住目的の非戦闘員が多かった相手にそれじゃ話にならない。

一応、最終的に元は日本征服を諦めているので勝ちと言えば勝ちだが
限りなく負けに近い、いわば試合に勝って勝負に負けたようなものだ。
そもそも完勝というのは平原での戦いで堂々とモンゴルを打ち破ったマムルーク朝や
三度にも渡る大軍、しかも名将が率いる軍を寡兵で打ち破り多くの捕虜と司令官をとらえてるベトナムみたいなのを言うのだ。

552 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 22:36:49
いいかげんにしてくれよ
荒らしだぞ
それは

553 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 22:47:32
今思ったんだがこのスレ住人で武士の戦術や装備、
実際の他民族との交戦結果などに関するwiki作ったらどうだろうか?
正直もう>>551みたいなのや白人厨、アンチ武士厨が沸いた時に
反論→ソース出せ→で、いちいち一次史料引っ張り出してきて貼り付けるのいい加減面倒なんだよね。
まあ、それもこれも日本の戦史研究、特に蒙古襲来に関するそれがすんげーお粗末なのが原因なんだがな。
ウィキペディアの記事修正しても編集合戦見りゃわかるが、すぐ書き直されるしな。
あそこはどの分野も特定の工作員がいるんだよなあ。有名なのはhydeの身長は156cm

554 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 23:35:37
>>551
可哀そうに。
今まで知ってるつもりになっていた歴史が全部嘘八百で、自分は洗脳されていただけだという現実から
逃避することしかできないんだね・・・

555 :日本@名無史さん:2009/03/12(木) 23:37:43
かと思えば打撃戦を重要視する>>65みたいなのもいる

556 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 00:36:10
確か日本での槍に関しては南北朝の頃に九州のある武将が
長刀の代用で竹の穂先に刃をつけて使ったたら「お、これ結構強いじゃんw」
ってなって日本式の槍が生まれたんでしょ?モンゴル全然関係ないじゃん

557 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 15:24:05
>>529
>4万人も動員するなら敵拠点の占領や撃滅も狙うのはごくごく当たり前。
>黒溝台会戦のロシア軍騎兵隊の活動もそうだ。

ほほー、黒溝台会戦の前のミシチェンコ騎兵団は、どこを占領し、何を
撃滅したのかな?

ミシチェンコ騎兵団は兵力1万の大騎兵集団だが、その作戦期間は
10日間ときまっていた。だからそれに見合う食料しか携行していない。
つまり「占領」ははじめから眼中になかった。
その目的は「敵情偵察」と「補給線破壊」にあった。

後者の最終目標は営口の日本軍糧秣倉庫を焼くことにあった。
これは一部成功しただけで引き揚げた。すなわち破壊工作は
たしかに目標にあったがその達成は極めて中途半端だった。

一方、偵察の方は日本軍前線の弱点が左翼にあることを発見した
と言われる。おそらくその報告によって黒溝台/沈旦堡の重点突破作戦
が実施された。これはほとんど成功したが、ロシア軍の内紛によって
中止された。成功していれば日本軍前線は寸断され、偵察に成功した
ミシチェンコの名が世に残るはずであった。
ミシチェンコ騎兵団は典型的な「威力偵察」の例だが、「撃滅」や
「占領」とは関係なかった。

558 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 15:37:05
八幡愚童記は信じないが、蒙古/高麗側の記録は信じるというのが流行り
らしいが、それなら
「高麗史節要」の「倭兵大敗伏屍如麻」も信じてくれなきゃな。
ちなみにこの言葉は例の撤退を決めた軍議の記事の前にある。

559 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 17:22:14
もしかして僅かな守備兵しかいなかった対馬や壱岐で
民間人を日本兵と勘違いして虐殺しまくって大勝利!ってアレ?
それとは別に、九州上陸後に武士達との戦闘に勝利したみたいな記述あるの?
あるのなら見てみたい。興味ある。

因みに八幡愚童訓を何故信じないのかというと
何度もいうが、あれは清水八幡宮の霊験が如何に凄いかを説明するのが目的。
だから元冦も武士達がボッコボコにされたということにしといた方が都合いいわけ。
てか、元が撤退する時の記述読んだことある?
「清水八幡宮から白い神様の軍隊出てきて蒙古軍を散々に打ち負かしたよ!
さらに海から出てきた龍が蒙古の船沈めたよ!やっぱり八幡宮の神様凄い!武士と日本人は感謝しる!」
なんて電波が書いてあるんだぞw

560 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 17:33:10
元軍は対馬や壱岐占領で満足すれば良かったのさ
あとは防備に徹すれば朝鮮経由で補給も来る

そうしたら今頃日本海の国境はスゲー狭かった

561 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 17:59:28
元軍は撤退する時に対馬・壱岐を占領していた部隊までも撤収させたのか。

562 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 19:52:07
>>559
倭兵大敗伏屍如麻、忽敦曰、『蒙人雖習戦、何以加此。』
諸軍終日戦、及暮乃解。方慶、謂忽敦茶丘曰、
『我兵雖少、已入敵境、人自為戦、即孟明焚船、准陰背水者也。請復決戦。』
忽敦曰、『小敵之堅、大敵之擒、策疲兵戦大敵、非完計也。』
而劉復亨中流矢、先登舟。故、遂引兵還。
会夜大風雨、戦艦觸岩崖多敗」

私の言った文章が、撤退の作戦会議の記述につながっていることが
わかるだろう。
つまり、夕方、大敗した倭兵の死体が麻のごとく散らばる戦場を眺めて
蒙古の主将が感慨にふけり、そのあとおもむろに金包茎らと作戦会議に
移ったという描写だ。

ただし、忽敦の感慨、『蒙人雖習戦、何以加此。』
というのはよくわからない。「蒙人戦いに習れたりと雖も、何を以て
此に加えん」というのが、自分の戦果を称えたのか、倭兵の勇戦を
称えたのか、戦いの激しさに感じたのか、
私にはわからない。



563 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 20:08:30
となると益々高麗の武将が言った「船焼いて背水の陣しいて徹底抗戦ニダ!」
って台詞が唐突になるな。散々に打ち破ってるんだから
普通に「あいつら這々の体で逃げたんだからこのまま一気に叩き潰せばいいニダ」
って言うならわかるが。

564 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 20:17:47
>>562
どっちにしろ取り合えず駆けつけてきて、迎撃態勢すら整っていない
武士にそんだけ苦戦していたら、そのあと陸続と日本全国からやってくる
主力部隊が到着したらどうなったことやら。

565 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 20:21:47
>>562

武士は大敗して屍が麻ののように伏していた。
兵を引き上げたのは大風雨にやられたからだ。

典型的な言い訳だな、

別の文献では倭兵は強いともある。
「元史」日本伝でも、
最終的には武力侵略を諦めて、日本は仏教が盛んだから、
平和的な外交でいこうと僧侶を送ろうとしている。

後の時代でも倭兵は死をも怖れずに戦い、精強だ、というのは定評。
いろいろ文献はあるよ。
教えてあげないけど。
もっと勉強しないと、そんなもんじゃ反論にもならんよ。





566 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 20:56:39
上陸後、両者の間で激しい戦闘が行われる

日本側、かなりの死者を出した為、味方の援軍と合流する為に一旦引き下がる。

一方の元側もかなりの死者を出した為、日本軍を深追いせずに一旦引き下がる。

その晩の軍議にて高麗の武将が被害は甚大だが背水の陣で行けば勝てると強硬論を主張

元の武将は冷静に戦況を見極め、これ以上戦えば拠点を築く前に全滅も有るうると判断し撤退。


こう考えれば自然だと思うがどうだろう。

俺も「倭人大敗」としっかりあるのにも関わらず
高麗の武将が「背水の陣」とか「船を焼く」とか言ってて
元軍がかなり切羽詰まった状態になってるのがどうも引っかかるんだよなあ。
だから緒戦は双方ともそれなりの被害を出して一旦戦闘中止。
鎌倉方は援軍と合流のち反撃に打って出る準備をする一方
元軍はこれ以上の作戦実行は不可能と見て撤退。こんなとこじゃね?
ここは5000で4万の軍相手に奮戦した少弐も
冷静に戦況見極めて撤退したモンゴルの武将もどっちも名将ってことでどうだろう?

567 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 21:01:23
「倭兵大敗伏屍如麻」とはっきり書かれてるのに、武士の圧勝とか言ってる奴がいて笑えるww
自分に都合のいい文章しか読まないんだな

568 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 21:07:22
>>567

アホか。
「元兵大敗伏屍如麻」
と書いてあっても、鎌倉武士の大勝の証拠にはならないのと同様のこと。

元軍マンセー、ベトナムマンセー厨はほんとアホばかり。
もし、バカサヨだったら、だからサヨク思想はカルト宗教になっちゃうんだよ。
チョンなら言うに及ばず。

569 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 21:11:45
>>567
>>563

570 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 21:15:51
>>568
ああ?大敗って書いてあるのが読めないのか
八幡愚童記は信じないが、蒙古/高麗側の記録は信じるというのがお前らの流行りなんだろ?
大敗って書いてあるのも信じてくれなきゃな

571 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 21:28:08
>>570
見苦しいまねはいいかげんにしな。
アホを相手にするのは最後。
絶対的に正しい文書なんてこの世には存在しない。
どちらがより信憑性があるかが問題。


572 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 21:28:41
>>566
大敗って漢字も読めない文盲なの?w
あと博多焼かれて逃げ帰ってるし文献の上で検証してもやっぱり武士の惨敗なのに
なんか互角だったみたいな印象操作は何?まだ武士完勝とか言ってるアホどもの方が可愛げあるわw

結局このスレの武士厨のいう武士勝利説って都合のいい情報だけ
かいつまんでねつ造してるんだよねwベトナムマンセー厨?
史料をちゃんと読んで考察すれば武士惨敗、ベトナムでは元軍敗退
って考えるのが自然なんだよ。文献は読むだけじゃダメ。
ちゃんと考察しなきゃダメよ僕ちゃん達。

573 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 21:42:48
>>史料をちゃんと読んで考察すれば武士惨敗
詳しく
議論が深まるかも

574 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 22:00:37
×史料を読んでちゃんと考察すれば
○史料を読んでちゃんと妄想すれば

575 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 22:27:17
少なくとも「大敗」の二文字をだけ取り上げて
惨敗惨敗騒いでる人よりは>>566のがちゃんと考察してると思うのだが・・・。

576 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 22:40:30
考察じゃなくてただの妄想ww

日本側が大敗した事実は無い。
蒙古襲来絵詞に見える戦闘の経過からも言えるし、
被害は松浦党数百人という鎌倉への報告からも言える。

さらに厳然たる事実として元は海岸からたった10kmの水城にすら到達してないしなww
日本側主力は数的劣勢から水際防御を放棄して福岡平野での決戦を選んだ。
松浦党は海岸部に根拠地があったためにこれに従わなかった。
福岡平野での決戦では日本が勝利(蒙古襲来絵詞に描写される戦闘)。
しかし数的劣勢のため深追いは避けた。
元軍は腹いせに博多を焼き討ちして民間人を虐殺しながら撤退。
チョンが描写している死体の山は民間人と松浦党の惨状を
大げさに描写したもの。

577 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 22:58:52
あれ?引き返す途中で博多焼いたの?
そうなると今度は何故来る途中で元軍は博多を襲わなかったのか。
また結果的に鎌倉武士は博多の住民が虐殺されるのを放置してたのか。
というか元軍が間近に来てたし
対馬や壱岐での虐殺も知ってただろうになんで博多の住民は避難しなかったのか。
そもそも博多は本当に炎上したのかってかこれは上でも議論になったね。
と新たな疑問点がわいてくる。

578 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 23:00:59
>>577
君は日本語読めないの?

>日本側主力は数的劣勢から水際防御を放棄して福岡平野での決戦を選んだ。

579 :日本@名無史さん:2009/03/13(金) 23:05:11
戦争というのはきれいごとではない。
元軍の壊滅はこの場合、博多、壱岐、対馬の防衛に優先される。
あの辺の防衛に拘泥して、かえって戦力をすり減らせば、
大宰府陥落→九州占領まで一息につながるからね。

580 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 05:18:45
日本軍が蒙古軍に勝ったという点では、双方とも同じ意見で、
それが鎌倉武士の実力なのか、嵐(古風に言えば神風)によるものなのかで対立してるわけか。

蒙古軍が敗北して多大な損害を出している以上、威力偵察かどうかにそれほど意味があるとは思えないが・・・。

>>579
結局、軍隊なんてそんなもんだよな。
第一次世界大戦のドイツ軍は、シュリーフェンプランを自軍自領の損害が少なくなるように改変した。
その結果、タンネンブルクの大勝利になり西プロイセン地方は守られたが、西部戦線での決定的な勝利は永遠に逃された。
勝利を得るためには、犠牲はつきもの。だが、犠牲になるのは常に弱いものだ。

581 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 05:33:32
だから武士は大敗したんだってば

582 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 05:40:01
>>581
詳しく

583 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 08:28:27
>>576

> 元軍は腹いせに博多を焼き討ちして民間人を虐殺しながら撤退。
> チョンが描写している死体の山は民間人と松浦党の惨状を
> 大げさに描写したもの。

ベトナム戦争のときにも、韓国軍はべトコンや北ベトナム軍兵士よりもベトナムの一般民間人の村落で
虐殺しまくって戦果を水増ししていたよな。

584 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 11:46:31
>>580
弘安の役は武士達の実力での完勝でほぼ結論が出てる。
よほどのバカで無い限りこの結論に異議を唱える人はいないよ。
今このスレで議論になってるのは

・文永の役での「戦闘」はどちらが勝ったと言えるのか。
・モンゴル軍は最初から征服する気だったのかそれとも威力偵察か。
・双方の戦術、あるいは弓や刀はどのようなものだったか

主にこの三点について。

585 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 15:27:53
八幡愚童記を信じない理由がいろいろ言われるが、しかしあれだけの具体性は
でっちあげようとしてなかなかできるものではないと思う。
ただ、箱崎の宮から30人ほどの白装束が出てきて、海に向って矢を射たから
蒙古軍が壊乱したという、あのくだりだけが霊験記風でダメだ。
ほかはどうってことない。
武士をくさせば八幡宮と幕府の両方の利益などと言うが、それなら弘安の役
まで一貫してくささなければならない。

586 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 16:57:44
Xベトナム戦争のときにも、韓国軍はべトコンや北ベトナム軍兵士よりもベトナムの一般民間人の村落で
 虐殺しまくって戦果を水増ししていたよな。

○ベトナム戦争のときにも韓国軍は太平洋戦争時の朝鮮人と同じく前線勤務を嫌がり
後方で民間人の村落にて虐殺しまくって戦果と称ししていたよな。


587 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 17:46:03
で、>>585への反論は無いんですか武士厨のみなさん

588 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 18:22:33
八幡愚童記は信じないが、蒙古/高麗側の記録は信じるというのが流行り
らしいが、それなら
「高麗史節要」の「倭兵大敗伏屍如麻」も信じてくれなきゃな。
ちなみにこの言葉は例の撤退を決めた軍議の記事の前にある。

589 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 20:10:48
「日本軍は大敗して俺達がフルボッコしました」
「だから船を焼いて決死の覚悟で戦えば勝てます」

なるほど、チョンは昔からバカだったわけだ。
勝ってるならわざわざ船を焼く必要も無いと思うけどなあ〜
モンゴル人も度肝を抜かれたろうよ。

590 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 20:29:01
>>585
確かに詳しく書かれてるけど
同じく詳しく書かれてる蒙古襲来絵詞とは激しく食い違ってるんだよね。
これはどっちかが嘘ついてるってことになるしもしかしたら
どっちも誇張表現使ってるかもしれない。
でも史料としての信憑性云々はわからなくても
戦場に関する描写なら、常識的に考えたら戦になんて出たこともない神官の記述よりも
実際に現場で奮戦した武士の証言を元にしてるものの方が信用できるだろって話。
仮に八幡記が実際に参戦した武士の関係者
あるいは参戦した武士の証言を元に書かれてるんなら話は別だがね。

ついでにいうと八幡記は国の内外問わず当時の他の史書とも著しく食い違う。
矛盾してないのは精々高麗史の「倭兵大敗」の部分ぐらいかな。
尤もその「大敗」の直後の記述が激しく矛盾してるんだけどね。

591 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 22:02:17
倭兵が麻のごとく倒れているのは合議をやってる海岸あたり。
そんなとこまで日本軍本隊は進出してないから
そこに倒れてるのは日本側が言うところの松浦勢数百でFA。

592 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 22:04:43
でも元冦やそれ以前の日本の戦い方って八幡記に書かれてるような感じだったんでしょ?
同時代や平安期の他の合戦の記録の殆どが
武士達は一騎打ちしかしてなくて集団での騎馬や弓兵の運用なんて
やってなかったことを裏付けてるじゃん。
第一一騎打ちがメインじゃなきゃいくら創作性が強いとはいえ
軍紀物であんなに頻繁に一騎打ちの描写が出てくるわけないと思うんだが

593 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 22:17:57
他の合戦の記録のほとんどが、夜討ち朝駆け、柵(=城、陣地)攻めの記録ですが何か。

594 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 22:35:03
>>592
何故軍紀物に一騎打ちのシーンがやたら多いのかって?
そこら辺は今の漫画やアニメと一緒だよ。
ただの兵卒達が集団戦術でわーわー戦ってるのを延々と描くより
人外レベルの奴が無双乱舞やってたり、
超人同士がタイマンで異次元バトルやる方が描写として盛り上がるだろ?
文章だと尚更そうだ。洋の東西問わずこの手の戦記ものは
タイマンシーンをやたら見かけるぞ。
それこそ三国志演義なんて、孔明だの仲達だのが計略用いる場面以外は
張飛や呂蒙みたいな豪傑が名乗りを上げて一騎打ちする場面が多いだろ。
でも漢、もしくは演義が書かれた明代の戦争は一騎打ちがメインだったか?
全然そんなことないだろ。それと一緒だ。

595 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 22:49:09
そういや西洋ではそういう
「人外レベルの豪傑がタイマンで異次元バトルをする」
騎士物語に貴族達が憧れて自分達も戦争でそういう真似してたんだが
日本ではそういう現象は起こらなかったんかね?

いやまあ両者のモンゴル軍との戦闘を見比べれば
聞くまでもないことなんだけどw

596 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 22:53:41
> 騎士物語に貴族達が憧れて自分達も戦争でそういう真似してたんだが
妄想乙
ソース出せ

597 :日本@名無史さん:2009/03/14(土) 23:32:27
>>596
ラ・マンチャの男

598 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 00:08:18
>>596
シャルル突進公が、スイス人の槍衾に突進して討ち死にしてます。

599 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 08:05:22
そう言えば、八幡愚童記を見れば武士たちは、個人単位ではなくても
「家単位」で戦争してるな。
「誰も行かないのか? じゃあ仕方がない、俺一家が行くぞー!」
という感じ。
個人であれ、家であれ、功名争いであることに変わりはない。

600 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 13:49:37
>>590
>同じく詳しく書かれてる蒙古襲来絵詞とは激しく食い違ってるんだよね。

食い違っているとは思わない。だいたい、八幡愚童記に竹崎季長の働きは
ほとんど書かれていない。2か所、他の人に並んで名前が出るだけだ。
それもそのはず、竹崎は数人で突撃して、敵に達する前に負傷したという
だけだから、愚童記の短い文章のなかでは書きようがない。
それでも、赤坂で激しい戦いがあったこと、菊池勢が奮戦して敵を押し返し
たこと等はちゃんと書いている。
その上で、夕方頃にはもう向かって行くものもいなくなって水城へ退却した
と言っているのだ。
これに対して絵詞のほうは、いわば小隊長クラスの人が自分の身の周りで
起こったことを書いたのであって、戦いの全体像を描くことははじめから
意図していない。
だからその記述が愚童記と一致しないというか、「同じではない」ことは
当然だ。

601 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 14:35:49
こうやってみると如何に武士厨が自分にとって都合のいい部分だけ取り上げてるかがよくわかるね。
結局モンゴルと高麗になすすべなく大敗を喫したのが真相なんだね。

602 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 14:49:45
荒らしはやめてね

603 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 15:24:29
荒らし?反論できなくなるとすぐこれだ。
ほら、>>600に反論してごらんよ。

604 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:02:06
日本軍は一騎打ちでフルボッコにされた!!
→一騎打ち戦法なんて同時代の史書にはありませんが?

「高麗史節要」に「倭兵大敗伏屍如麻」てある!!!!!!
→じゃあ何で「船を捨てて背水の陣で戦おう」なんて言ったの?

防塁築いたけど意味がなく日本軍フルボッコ!!
→元軍は上陸できませんでしたが何か?



605 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:02:20
>>600
八幡愚童記と蒙古襲来絵詞は180度食い違ってるじゃん。
八幡愚童記、というか八幡ノ蒙古記では菊池勢は100余騎で戦いを挑みながら、家の子郎党が多く討たれ
菊池だけが討ち洩らされた状態、つまりほとんど壊滅状態だったと書いてある。
ところが蒙古襲来絵詞では、戦闘を終わった菊池が100余騎の手勢を従え、涼しげな状態だったと書いてある。
更に蒙古襲来絵詞では、戦闘の後蒙古が敗走したと書いてあるが、そのことに八幡ノ蒙古記は一切触れていない。

要するに、八幡愚童訓や八幡ノ蒙古記は、菊池の圧勝に終わった赤坂の戦いを、苦戦だったかのように
印象操作しているわけだ。
まあ、所詮は八幡信仰布教のための宗教書なんだから、この手の捏造は当然だが。
比較すれば、八幡愚童訓に書いてある武士が苦戦したなんて記述に全く史料価値が無いのは明白。

606 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:10:53
http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/gen/nihon.htm

十一年三月,命鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘,以千料舟、拔都魯輕疾
舟、汲水小舟各三百,共九百艘,載士卒一萬五千,期以七月征日本。冬十月,
入其國,敗之。而官軍不整,又矢盡,惟虜掠四境而歸。


普通に読めば、「日本軍に負けたのは遠征軍の態勢が整わなかったからです」の意味だと思うんだが?

命阿塔海代總軍事。八月,諸將未見敵,喪全師以還,乃言:「至日本,欲攻太宰
府,暴風破舟,猶欲議戰,萬戸囚コ彪、招討王國佐、水手總管陸文政等不聽節制,
輒逃去。本省載餘軍至合浦,散遣還郷里。」

弘安の役では敗軍の報告しか無いけどね。


607 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:14:36
で、当の中国人はどう見てるかと言うと…

http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%B0%B8%E4%B9%8B%E6%88%98
日軍腹背受敌,死伤惨重,餘部向太宰府水城(前代建築的一座巨大水壩)方向撤退。此時天色已晚,副帅劉復亨中箭受傷,元军停止进攻。

優勢な戦いをしたけど圧倒的な勝利とは言ってない。

で、弘安の役には
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E5%AE%89%E4%B9%8B%E6%88%98
竟找不到登陆的地点。在停泊于海上的一个月里,元军舰艇进行的几次强行登陆作战均告失败,

元寇防塁で上陸できなかったと言ってる。

608 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:16:12
普通に考えれば。高麗が「日本フルボッコにしますたww」って言ってるのは
提案した当事者の立場からすれば当然だと思うんだよね。

「武士をフルボッコにしたんだ!!台風のせいで負けたんだ!!」
って事にしたいだろうから。

609 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:25:30
>>592
まったく逆。
平家物語などの当時の文献すべてが、当時の武士の合戦が集団戦法 対 集団戦法の戦いだったことを
裏付けてる。
軍紀物の一騎討ちの場面は、「合戦の中でたまたま1対1の局面が発生した」というだけで、そんな状態なら
現代の戦争でも普通に発生する。
そもそも、平家物語には騎射による一騎打ちの場面など一例も存在しないし。
だから、源平合戦の研究でも最近の定説は、「勝利のためならどんな手段でも正当化され、合戦に
ルールなんて無かった」というもの。

610 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:31:55
>>606
元史だって、副司令官として文永の役に参加した劉復亨の伝に、ちゃんと戦って負けたと書いてある。
だから文永の役は普通に戦闘による元軍の敗北。

『元史』巻一百五十二 列伝第三十九 劉通
「十年、遷征東左副都元帥、統軍四萬、戰船九百、征日本、與倭兵十萬遇、戰敗之。」
http://www.hoolulu.com/zh/25shi/23yuanshi/t-151.htm



611 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:34:52
しかも蒙古襲来絵詞とも食い違ってるしね。

>>604
これも追加。

モンゴルなんていうけど実際は殆ど士気の低い高麗軍だったんだぞ!→確かに高麗人もいたが割合ではやっぱりモンゴル人が一番多かったんだが。あとヨーロッパ遠征でも現地から徴収した兵もある程度いたよ。

日本を攻めた時は元軍は軍事的には衰退期→むしろ城攻めや海戦も経験して最盛期だったよ

他の方面と違って元軍を指揮した武将は無能だった→逆。名将が大敗喫して後世から無能のレッテルを貼られるのはよくある話。日本史だと武田勝頼とかがそうだね。

鎌倉武士よりベトナムの方がずっと凄いんだぞ!→首都をたった三千で落とされたり攻められる度に従属したりしてるのに?

対馬や壱岐や博多の住民見捨てて「大勝利」ですかw→綺麗ごとでは戦争はできません。

使者の首斬ったり捕虜皆殺しにするなんて日本人は野蛮!→壱岐、対馬で虐殺エンジョイしたお前らがどの口でほざくか。

元軍は船旅で疲れてたんだぞ。他攻めた時とはコンディションが全然違う!→壱岐、対馬で(ry

武士マンセー厨って自分に都合のいいとこしか見てないねw→お前がいうな

612 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:37:21
×蒙古襲来絵詞とも
○蒙古襲来絵詞以外の当時の資料

613 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:40:34
>鎌倉武士よりベトナムの方がずっと凄いんだぞ!

なあ、もうベトナムをダシに使うのやめねえ?
「ベトナムマンセー!」も「ベトナムフルボッコw」も聞きあきた。

大体何で元寇に第三者が入ってくるんだよ。
ベトナムはベトナム、日本は日本で良いじゃねえか。

どっちも最終的には元軍を追っ払ったんだしさ。

614 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:50:19
うん、それでいいのにいちいち比較する基地外がいるからねえ・・・

615 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:03:57
>>614
だよね。ベトナムは凄いけれど、持上げすぎてる人がいる。
ベトナムと比べると日本はしょぼいとか言うのはやめてほしい。
ひいきの引き倒しだから。

616 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:12:09
ベトナムでゲリラ戦で元軍を散々打ち破り
日本は真っ向勝負で元軍を撃退した。
どっちもなんていうかお国柄みたいのが出てて面白いと思うな。
その後の両国の戦史見てても割と元冦の時と似たような方針だし。

617 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:17:07
強い国と弱い国の差か

618 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:30:46
ベトナムマンセーして武士を貶すのはよく見るが、
その反対はほとんど見ないな

619 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:40:29
なぜエジプトが話題にならないの?

620 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 19:31:39
バイバルスって物凄いゲーム向きな経歴持ってるのに日本じゃマイナーだよね

621 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 20:54:14
>>605
>八幡ノ蒙古記では菊池勢は100余騎で戦いを挑みながら、家の子郎党が多く
>討たれ菊池だけが討ち洩らされた状態、つまりほとんど壊滅状態だったと書いてある。

「こゝに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分て、おしよせて、
さんゝゝにかけちらし、上になり下になり、勝負をけつし、家のこ、らうたう等、
多くうたれにけり、いかゝしたりけん、菊池はかりは、うちもらされて、死人の
中より、かけいて、頸とも数多とりつけ、 御方の陣に入しこそ、いさましけれ」

菊池が首を多く取ってもどって勇ましかったと、ちゃんと書いている。
たしかに菊池だけが生き残ったように書いているが、それは筆の走りだろう。
しかし100人から1人も損害が出ないわけもない。100人から帰ったのは
八幡の言う菊池1人だけか、絵詞の言う100人か、真相はその中間にあるだろう。

>更に蒙古襲来絵詞では、戦闘の後蒙古が敗走したと書いてあるが、そのことに八幡ノ蒙古記は一切触れていない。

「散々に駆け散らし」というのは敵を敗走させたという意味じゃないの?

622 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 21:08:34
>>609
>そもそも、平家物語には騎射による一騎打ちの場面など一例も存在しないし。

平家物語に一騎打ちの場面が一例もない?
騎射かどうかは別にして、熊谷直実と平敦盛の一騎打ちは平家物語の
ハイライトの一つだが。

>>606
>普通に読めば、「日本軍に負けたのは遠征軍の態勢が整わなかったからです」の意味だと思うんだが?

「冬十月,其國(日本)に入り,之を敗る」は普通に読まなかったのだろうな。

623 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 21:12:06
まーだ言ってるよ
これだけ証拠がありながら
「武士はフルボッコされたニダー!!」

悔しいのはわかったから、事実を認めろ。

624 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 21:23:32
>>622
あんたも人のレスの一部分しか読んでないな。
>>609は偶々鉢合わせして一騎打ちが起こるとも書いてある。
ニュアンスとしては教科書に書かれてるように戦闘の最初から
1人ずつ進み出て〜みたいな例は無かったってことなんじゃない?
平家物語の熊谷直実は一の谷の戦い後、敗走していく平家方の武士達の中に
身分の高そうな武士を見つけたからこいつを打ち取って手柄にしようと
挑発して一騎打ちになってる。

625 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 21:39:35
>菊池が首を多く取ってもどって勇ましかったと、ちゃんと書いている。

菊池は二つしか首は取ってません。全然ちゃんとは書いてないねww
地形が分からず及び腰の戦闘を強いられる元軍との小競り合いと
双方とも多大な被害を出す映画のような戦い。
どっちが真実味があるかは言うまでもないなww

>「散々に駆け散らし」というのは敵を敗走させたという意味じゃないの?
全然違います。菊池はターミネーターのような活躍はしたけど
仲間を全員失って後ろの陣まで戻ってきちゃった!
元はさらに前進してきたよ!としか読めません。

しかも
>肥後國御家人、竹崎五郎兵衛尉季長、
>天草城主矢野種保兄弟、船にかゝりしほとは、よくふるまひたれと

既にここで間違いがあるね
季長はこんなとこでは戦ってねーよww

626 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 23:05:02
船が沈んだ原因として、「高麗では、急な造船のために手抜き工事が会った」という説があるけど、
実際「手抜き工事があった」という記述は残っているのでしょうか?それとも誰かの想像なのかな?
そもそも、手抜き工事などしてもし船が沈んだらフビライが怒りそうだから、手抜きなどするだろうか?
船が足りないので老朽船も集めた可能性はあるけど

627 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 23:38:43
>>625
だから、それは全部捏造ってことでしょ。

628 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 09:26:09
>>625
>菊池は二つしか首は取ってません。

それは「くひ二たちとなきなたのさきにつらぬきてさうにもたせて」すなわち
「首二つ太刀と長刀の先に貫きて左右に持たせて」のことだろうが、これは
季長が武房一行と会って、まず武房のいでたちを述べた後に続いているのだから
武房個人についての記述だ。つまり武房個人が得た首を左右の従卒に一個ずつ
持たせているのだ。
100人が敵を追い散らしていて首二つだけのはずがない。
武士の戦いの目的は首を取ることなのだから、菊池勢の他の武士も
当然首を取っているはずだ。だから「首どもあまた取り付けて」なのだ。

>地形が分からず及び腰の戦闘を強いられる元軍との小競り合いと
>双方とも多大な被害を出す映画のような戦い。

菊池は敵を分断したのだからもはや「小競り合い」のレベルではない。
現に竹崎も救援が来なかったら死んでいた、と言っている。
これは矢傷の意味ではなく、馬を失った後包囲殲滅されただろうと
いう意味だ。

>仲間を全員失って後ろの陣まで戻ってきちゃった!

その通りだ。菊池は戻ってきたからこそ本陣で竹崎と出会った
のだ。ひと暴れしたあと「戻った」という点において愚童記と絵詞は
一致しているではないか。

629 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 11:01:29
>>625
「散々駆け散らし」についてもうすこし書いて置こう。
もちろん、これは「敗走させた」の意味だ。君は、菊池が戻ってきた
のなら敵はまた追って来たのだから敗走させたことにならない、という
意味で言っているのかもしれない。

しかし菊池の活躍によって敵が後退したということは、竹崎も記録している。
竹崎はその後に、まだ敵が以前の陣地に戻る前に突撃したのだ。

つまりこういうことだろう。菊池勢100騎が二手に分かれて突撃した。
敵は分断され、赤坂の陣地を捨てて後退した。
しかし菊池は追撃、あるいは陣地確保のための兵力は持っていないし、
損害も出たので、休息のため本陣まで引き上げた。
そのあとに、下がった敵に向って竹崎が突撃して馬を失い、さらに負傷した。
そこへ救援の白石が駆けつけて竹崎は助かった。

630 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 11:02:56
>>628
蒙古襲来絵詞の菊池は、手勢が多く討たれてなんかいないだろ。
明らかに八幡愚童訓は捏造文献じゃん。
大体、まともな資料批判が行われていたら八幡愚童訓のようなオカルト文献が根本史料なんてありえない。
それが世界の歴史研究における常識。


631 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 11:06:00
>>629
そんで、菊池に敗走させられた元軍は、「このままじゃ全滅だ」と言って、そのまま日本から撤退したってワケだ。

632 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 12:09:11
>>629
あれ?その書かれ方だと結構善戦してたんじゃね?
八幡愚童訓にすらそう書かれてるんなら
じゃあ教科書や多くの歴史専門家には常識のように語られてる
モンゴルにフルボッコにされた説は一体どっから出てきたの?

633 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 12:16:38
当時の武士は、恩賞はまず土地、なんだよね。
でも防衛戦なら恩賞あてがいは難しい。
ここで武士のシステム自体を変えよう、とか考えた人はいなかったのかな。
後年になると信長とかが茶器等を恩賞代わりにしているけど、武士自体は幕末までやっぱり土地第一。

634 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 12:17:53
菊池氏自身の家伝でも相当当時討死があった記録がある。
むしろ蒙古襲来絵詞は、竹崎が恩人や同胞を供養するために作ったもんだからそっちのほうが脚色入りなのでは?

635 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 12:25:11
日蓮註画讃でも相当の討死がでたことがあるしね。
(もっともこっちには詳しい戦況はほとんどのってないが)
どっちかが圧倒的勝利した、とかはあまりないだろう。
日本も元も、結局それぞれ引き上げ、しかし総崩れまではいかずだし。
仮に通説どおり元軍優勢でも、船に補給頼る以上は一日中戦ってたらどんどん物資は目減りする。
優勢でも引き上げざるを得ない、というのが兵站に劣る側の弱点なのはどの時代も同じ。

636 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 12:31:19
反撃に出ようとしたらもう戦が終わっていたでござるの巻

637 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 12:36:28
日本本隊は、総大将自らが殿軍になり退却しないといけないほどだったしね。まぁ元側も日本側も指揮系統がアレだったから、兵力の粗密がかなりあったんだろうけど。
元側は元生粋と征服民の武将の温度差。
日本側は内戦時代の慣習まんま。

638 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 12:44:33
日本の武士は恩賞のために戦ったんだから我が身のことだが。
元軍の兵士は殆どが無理やり動員されたものたちだからな。
(首脳部は違っただろうが)
そもそもモチベーションが違いすぎるだろ。
日本側はただでさえ背後に(当時のことだから国、ではなくそれぞれの所領だろうが)大事なもの抱えた精神的背水の陣だからな。
よほどの劣勢でも逃げるところはない。

639 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 12:52:22
やる気ゼロとかwwwww
対馬や壱岐で散々虐殺略奪レイプエンジョイしてた奴らがどの口でほざくかw

640 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 12:54:13
ループきたーー

641 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 12:59:36
>>637
日本本体って、はるか前方の赤坂で元軍が敗走してるんだから、そこから何キロも後方の博多なんか
まったく無傷。
あきらかに日本軍の圧勝。

642 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 13:06:22
>>635
日蓮が、九州における日本軍の戦闘損失として挙げてるのは松浦党数百人だけ。
対する元軍の損害は1万3500余人。
元軍は絶望的に劣勢だったから撤退したんだよ。

643 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 13:42:36
知れば知るほど教科書が嘘ついてたことがよくわかるスレ

644 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 13:44:21
>>632
>あれ?その書かれ方だと結構善戦してたんじゃね?

その通り、善戦だ。ただし、ある時点、ある地域での善戦。
八幡愚童記(八幡の蒙古記)はそのことをちゃんと書いた上で、夕方には
力尽きてしまって、「水城へ・・・」とささやき合って後退したと書いている
のだ。


645 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 13:50:22
>>644
それは間違い
その証拠に、夕方には元軍が「このままでは全滅だ」と言って日本から撤退してるんだから。


646 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 14:34:32
>>644
つまり双方とも被害を出したから一旦引き上げる。
日本側は味方の援軍を待ちつつ反撃に向けて準備を整えていたが
元側は補給の面でも残りの兵力的にもこれ以上の作戦続行は不可能と判断して早急に撤退

とこんなところ?

647 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 14:53:07
地の利を得ない元軍側に、水城まで押し込まれたわけだからね。
相手の継続戦力の低さに日本軍は命拾いしたってところかな。
当時の日本軍の軍制だと、一騎しかない部隊でも武士として家をせおってたから、損害一でも家の大事、として大げさに伝えられた可能性もあるが。

648 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 14:56:33
博多や箱崎では、今でも当時の大損害が言い伝えられているしね。
日本軍を救ったのは防衛戦という条件と、弓矢の装備率の高さだろうね。
中国風の編成だと、弓矢はその役目の兵士しか持ってないけど。
日本側は武士は弓をまずデフォで携帯していた。
押し込まれようが、相手の矢玉撃ちつくさせればそこで終わり。
狙ってやれることじゃないが。

649 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:03:25
日本側の戦意って高かったのか?
幕府から、「前にでず、守るといって出ない不忠者が多いと聞いたぞ。名前あげろ」とまで文書で警告がだされているぐらいなわけだが。

650 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:14:06
どんだけ武士強いんだよ

651 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:17:18
一日で弓矢を撃ち尽くしって記述は敗退を正当化するための言い訳と見ていいの?
そういった負け戦を同じような理由で撤退してる記述って他にもある?

652 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:17:34
むこうは略奪だけが楽しみの、被征服民が無理矢理徴兵された部隊。
こっちは小でも領主である武士。
量的にはともかく、個人戦になればそりゃ日本側有利だろう。
あとは、幕府が後に公認したように武士階級以外が、我が身に迫った危機だとゲリラ的に戦った件もあるし。

653 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:19:54
武士の強さ、とかはあまり関係ないだろう。
戦争というのは兵の強弱では決まらない。
諸条件が決定付ける。
それが不利なら精兵でもどうにもならん。
博多周辺略奪しただけで満足するような元軍の状況は、逆に言えば略奪しても補給のめどが立たない程度の準備できたっていう失敗の裏返しだし。

654 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:23:15
>>628
失笑ww
>左右に持たせて
武房個人についての記述じゃ全然ないじゃんww
妄想乙ww

>100人が敵を追い散らしていて首二つだけのはずがない。
要するに、元側も愚童訓の武房勢のように奮闘して
100人くらいは首を献上したはずだ!と(笑)
馬鹿げてるww劣勢になったら人間なんてすぐ逃げ腰になるよ。

>菊池は敵を分断したのだからもはや「小競り合い」のレベルではない。
白石がきたら元側はすぐ逃げ出してるねww
戦闘というのは普通こんな感じ。
竹崎がおかしいだけ。
つか彼は援軍を待とうというまっとうな助言をことわって
数騎で先駆けしてるわけでね。

655 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:23:42
満足したのか

656 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:25:14
威力偵察と言って悪ければ「示威」だったのではないか。
つまり、外交交渉ではウンと言わないので、痛い目に合わせれば恐れ入って
朝貢するのじゃないか、という。
ちょうど、中共軍がベトナムを攻めたときのようなものだ。
いずれにしても限定作戦だな。
で、その切り上げ時は総司令官に一任されていると。

657 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:25:20
守護代 小田原景泰文書だと、「理由も無く任地の要害離れて逃げちゃだめ」という当たり前の注意さえしないといけない状況だったからね、武士側の緊張感は。
さすがに壱岐対馬の被害が伝わると明日は我が身、と引き締まっただろうがそれでも……だしな。

658 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:26:23
>しかし菊池の活躍によって敵が後退したということは、竹崎も記録している。

八幡愚童訓の話をしてるのに何故いきなり蒙古襲来絵詞の話が出てくるのかな?
相当錯乱してるねww

八幡愚童訓を読むと、菊池氏は手勢を全て失って帰還し、その後敵が
赤坂を過ぎてさらに前進してきたことが記されている。
後退とは逆方向じゃんwww

659 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:29:07
>>648
弓矢の装備率が低いならむしろ矢の消費量は少なくなるだろう?
君は馬鹿じゃないの?

大体、4万も動員する大遠征で、たった一日で撃ちつくす量の
矢しか持ってこなかったとかいう戯言を本気で信じてるの?
馬鹿馬鹿しいね。

660 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:29:23
竹崎のような小身武士さえ勝手に進退して大雑把な指示しか聞いてくれないから、統制する側は大変だっただろうな。
小弐の殿軍を大将自らやった、も聞こえは勇壮だが異例のことだし。
大将が打たれたらそれまで。

661 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:29:25
たしかにまとめサイトが必要かもしれないなw

662 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:30:35
>>659
少ない弓矢で、多数の弓矢と対峙するんだぜ?
少ないほうは手持ちを打ちつくすしかないじゃないか。
思い込みだけで資料を無視できるのなら、そりゃ歴史なんて楽だろうがねぇw

663 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:32:06
そういえば先駆けはたとえ敵討ち取れず傷ついただけでも手柄になるそうだが(竹崎なんてもろそれを主張)
殿軍はどうなるんだろ?
小弐景資には恩賞でたんだろうか?

664 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:34:52
小弐の三男坊は恩賞不満で一族の内紛おこしたんじゃ?

665 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:48:04
「対馬で民間人虐殺してレイプするのは楽しくてしょうがないニダ。」
「でも鎌倉幕府の正規軍と戦うのは嫌ニダ。怖いニダ。」
「ウリはモンゴルに無理矢理参戦させられた被害者ニダ!」

    ↓ 700年後。

「ベトナムで民間人虐殺してレイプするのは楽しくてしょうがないニダ。」
「でもベトコンと戦うのは嫌ニダ。怖いニダ。」
「ウリは米帝に無理矢理参戦させられた被害者ニダ!」

666 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 16:42:10
>>648
博多が被害を受けたと言い張るのなら、当然それを裏付ける同時代資料を出すべきだな。

667 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 17:18:06
馬鹿かお前ww
手持ちだけで戦争にでかける馬鹿がどこにいるww

668 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 17:19:37
>>654 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 15:23:15
>左右に持たせて
>武房個人についての記述じゃ全然ないじゃんww

よく考えたら意味がわかった。左右の従卒を入れて3人だから「個人」じゃ
ないと言う意味か?
だが「なぎなた」を持ってるんだから徒歩の従卒だろう。
徒歩の従卒は普通、100騎とか言う〜騎に数えないのだ。
疲れるな。


669 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 17:24:34
>>662
少ないからといって弓を引く回数は多い方と変わらない。
一張りの弓を引くのはどっちも一人だから。
結局単位時間あたりの消費量は
弓兵の総数が少ないほうが抑えられる。
これは現代の弾薬消費量と同じ考え方。

さらに言えば弓兵の数が元のほうが少ないというのは君の完全な妄想。
蒙古襲来絵詞を見ると相手は弓兵ばっかり。
君は史料批判が全くできてない。

670 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 17:42:15
>>658
>八幡愚童訓の話をしてるのに何故いきなり蒙古襲来絵詞の話が出てくるのかな?

お前は資料の「突き合わせ」の意味がわからないのか?
両方で同じことを書いていればそれだけ信憑性が高くなるではないか。

>八幡愚童訓を読むと、菊池氏は手勢を全て失って帰還し、その後敵が
>赤坂を過ぎてさらに前進してきたことが記されている。
>後退とは逆方向じゃん

それは時間の経過だ。
菊池ら武士の奮闘で愚童記では「散々駆け散らし」絵詞では敵が赤坂を捨てて
退いたと書いてある戦闘の後で、それにも拘わらず蒙古がじりじり前進して
遂に箱崎、宇佐にまで乱入した、と言う経過を書いているのだ。
お前は(私と同様)それを信じるのだから、「博多は無傷だった」などと
言う狂信者によく説明してやってくれ。

671 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 17:46:22
>>670
だったら博多が被害を受けていたことを裏付ける同時代資料を出そうね。

672 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 17:59:56
ここは学術板なんだから、博多が被害を被ったと主張するのなら、それを裏付ける資料を出す。
これ、当たり前の話。
博多が被害を受けたのに、文永の役を記した同時代資料全部がスルーするなんてありえないからな。
狂信者とは一切資料的根拠のないことを主張する奴のことね。

673 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 18:17:48
>>672
じゃあお前がさっさと博多が被害を受けなかったという証拠を出せよ
そこまで言い張るからには根拠があるはずだからな
あ、狂信者の方でしたかサーセンww

674 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 18:20:32
>>673
アホか。
博多の被害を裏付ける資料が一切ないことが、博多が被害を受けなかったという証拠じゃん。

675 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 18:25:58
>>673
悪魔の証明かよw

676 :日本@名無史さん:2009/03/16(月) 18:54:46
>>667
戦争しようと街まで〜でーかけたーらー♪
戦車を♪忘れて♪三輪車で突撃♪
あっちはバズーカ砲ー♪こっちは水鉄砲ー♪
るーるるるっるー♪今日もいい天気ー♪

677 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 11:19:15
ここ200レスぐらい話がループしてやがるな。
まとめサイトとまではいかなくてもマジでテンプレ作った方がいんじゃね?w

678 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 12:40:04
近代以前の海運と通信力で、海を隔てて支配って最初から無茶でしょ。
逆に日本側から影響力もたせようとした白村江だって攻めた側の日本の敗戦だし。
これが平原続きなら、日本とよく似た封建体制プラス重装騎兵主体のヨーロッパが蹂躙されたような結果になっただろうけども。
文永での元軍の優勢での撤退、は当然の帰結。

679 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 12:42:24
同時代っつーのがよくわからん。
愚童訓にしろ、絵詞にしろ大抵は後年書かれたもんだぞ。
同時代の公家の日記とかもまず伝聞だし。

680 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 12:48:27
博多の祇園山笠祭りで有名な櫛田神社も、元寇のとき焼かれて再建されたと神社文書で伝わっているしね。

681 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 13:43:55
>>678
山岳でゲリラ戦やられてモンゴルあぼーんだろ。
一騎打ち幻想にとらわれすぎ

682 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 16:50:30
>>678
何度も言われてるが、近代以前の海運と通信力で、海を隔てて支配なんて何の問題もない。
世界中で普通に行われてる。
海を隔てたイングランドを征服したウィリアム征服王の数倍の規模の兵数を投入しながら、
元軍が博多や大宰府にかすり傷一つつけられないという惨敗を喫したのは、単純に鎌倉武士が
モンゴル軍よりも強かったから。

683 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:31:26
「元史」は弘安の役については「十万人より還るもの三人のみ」などと
おおげさに敗戦を認めながら、
文永の役については「其の国に入り之を敗(やぶ)る」と書いているが?

684 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:42:26
「其の国に入り之を敗(やぶ)る」じゃなくて
「其の国に入り之に敗(やぶ)る」じゃないの?

日本語訳どこから引用した?

685 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 21:08:56
>>683
高校の古典からやり直せバーカ

686 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 21:11:59
>>682
地中海や北海の波の穏やかさと世界でも有数の難所と言われる
日本近海の荒波を同列に語っちゃいかんよ。

とはいえ元軍の奴ら本戦の前に民間人狩り楽しんでるから
コンディション云々は言い訳以外の何物でもないがな。

687 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 21:56:33
> 日本近海の荒波
季節によっては結構凪いでるようだよ
その凪いでる時期を利用して古来より環日本海交易が行われてた
海から見た世界史って本の引用ですけど

688 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 22:27:47
>>686
文禄・慶長の役の7年間、日本近海の荒波はまったく問題にならなかったよ。
同じ時期に行われたアルマダ艦隊の遠征が荒波に阻まれて大失敗に終わったのと対照的にね。
海のコンディションなら日本近海よりもイギリス近海の方が難易度が高い。



689 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 08:19:41
>>684 >>685
「冬十月, 入其國,敗之。而官軍不整,又矢盡,惟虜掠四境而歸。」
「冬十月、其の国に入り、之を敗(やぶ)る。しかるに漢軍整わず、
また矢尽く、ただ四境を虜略して帰る」

「敗」は英語のdefeatと似ている。
defeatは名詞としては「敗北」の普通は意味だが、動詞だと他動詞で、
A defeated B でAがBを敗北させた、すなわちAがBを破った、
という意味になる。
AがBに敗けたの意味ならA was defeated by B としか言えない。

「敗」は漢和辞典を引けば自動詞と他動詞があり、「敗る」にも「敗れる」
にもなり得る。
しかし「敗之」なら他動詞で、「之を敗(やぶ)る」としか読めない。
「之に敗(やぶ)れる」なら「由之敗]などと書かなければならない。

690 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 08:23:20
>>689
訂正
「敗北」の普通は意味だが → 普通は「敗北」の意味だが  

691 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 13:15:03
近代になって日本が大陸進出に沸きかえっているとき、
日露戦争に参加した軍人で戦史家の佐藤鉄太郎は、
「歴史的に見て大陸進出は失敗する」と事前に判断していたし。
逆に大陸側から出張るのも難しいだろう。>>678

692 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 13:21:00
モンゴル軍は陸戦では世界最強だが渡洋作戦は素人同然だしね。
(まぁ大抵の民族はそんな経験ないんだけども)
陸戦でもモンゴル軍は最初から強かったわけじゃなくて、敵陣水攻めしようとしたら自分ところが水浸し、とかのコントみてーな失敗(ホラズム戦)を経験して強くなっていったわけで。
城塞都市防衛の南宋征服だってムンケが戦死するほどの苦戦して、何十年も無数の猛攻かけてやっと。
日本なりベトナムなりに継続して攻撃を集中すれば一箇所でも継続支配できたかもしれんが、何を考えてたのか元はあっちこっち同時に手をだしてたし。

693 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 13:32:24
第三次日本攻撃軍もベトナムに転用したから、いい加減分散の愚に気づいたんじゃ?
そのベトナム攻めでかの国最大の英雄・陳興道らに大敗しておじゃんだけども。

694 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 13:36:41
>>680
箱崎神宮も同様だよね。
「本宮も兵火によって、焼失」といってるし。

…確か過去スレでも似たような流れになって博多箱崎の被害を立証されたら、
「それは日本兵が自分達で焼いたんだよ」といったトンデモ武士マンセー君が出たっけ。
彼は今でもこのスレに残存しているのかな? この流れは。

695 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 16:15:51
>>693
一方日本では、北条時宗や現地指揮官は日本史上有数の英雄扱いさえされてないな。

696 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 16:40:17
日本ボロ負けして博多焼かれてんじゃんww
>>671>>672涙目ww

697 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 16:53:01
>>695
それどころか
時宗=宝くじに当たったラッキーボーイ、国際情勢に疎く元に喧嘩売ったバカ殿

現地指揮官=幼稚な戦術で元にボコられたアホ、高麗の捕虜皆殺しにした鬼畜

って中学の時歴史の授業で習ったわw
そういや小学校や中学ん時は日教組系の教師多かったな。

698 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 18:17:33
>「之に敗(やぶ)れる」なら「由之敗]などと書かなければならない。

由は「〜により」「〜によりて」という場合「〜の理由で」と訳す。
「之ニ由リテ破ル」とは読まない。
どちらかといえば「破於之」が正しいが、基本「破之」は受け身でも訳すことはできる。

が、敵を破って悠々と撤退したと言うなら「台風」どうのこうのは資料に無いわけで。
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%B0%B8%E4%B9%8B%E6%88%98
>元军召开军事会议,由于后援不足,多数将领主张撤退。
なんてやらないわけ。

大体、ここで悠々と帰還したなら「

699 :↑訂正:2009/03/18(水) 18:20:53
大体、ここで悠々と帰還したなら「 高麗史」「金方慶伝」に

「背水の陣を引いて戦うニダ!!」
「バカかお前?ここは撤退すべきだろ」

って言うやりとりが記載されるわけがない。

700 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 18:22:42
>>697
ついでに対馬の虐殺には全然触れられないよね。

701 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 18:42:55
モンケって戦死だっけ?
病死の間違いじゃないのか?

702 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 18:46:29
>>701
南宋遠征中に病死。
因みにその前のハーンのグユクはバトゥに暗殺されたって説もある。

703 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 18:52:06
博多が燃えてないとか言う奴には笑わせてもらったww
俺たち大勝利www

704 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 20:43:44
>>698
「由」は「於」の間違いだった。訂正する。
ところで君は「敗」を自動詞と取って「敗之」を「之に敗れる」と読む、
と言いたいのか?
それならそう読んでいる訳を示して貰いたい。
こちらは他動詞と取っている訳を示して置こう。岩波文庫の訳だ。

「十一年三月、鳳州経略使忻都・高麗軍民総管洪茶丘に命じ、千料舟・抜都魯
軽疾舟・汲水小舟各々三百、共に九百艘を以て、士卒一万五千を載せ、期する
に七月を以て日本を征せしむ。冬十月、その国に入りこれを敗らんとするも、
官軍整わず、また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る。」

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8071/genko/s_7/gensi_1274.html

ただし、「(敗)らんとするも」などというのは、原文に「欲」などの文字は
ないから全く訳者の恣意的なものだ。これは単に「敗る」としたほうが自然だ。

705 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 20:50:32
>>698
>http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%B0%B8%E4%B9%8B%E6%88%98
>元军召开军事会议,由于后援不足,多数将领主张撤退。

私は元史日本伝の話をしているのだが、君は何を引っ張って来たのか。
これは現代中国語で書かれた、現代中国の解説書ではないか。
恐らくその底本は、かなりの部分日本の資料だ。
こんなもの持って来てもなんの意味もない。

706 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 21:22:42
>>698-699
『元史』太祖本紀の太祖二十一年冬十一月(1226年)の条の西夏遠征の件で、

「冬十一月庚申。帝攻靈州。夏遣嵬名令公來援。 丙寅。帝渡河撃夏師、敗之。」
(冬十一月庚申(1226年11月29日)。帝、靈州を攻む。夏嵬名令公をして來り援けしむ。 
 丙寅(1226年12月5日)。帝、河を渡り夏の師を撃ちて、之を敗る。)

とあるが、基本的にここの「敗之」も>>689の『元史』日本伝の「敗之」と構文的に同じもの。
チンギス・カン最後の西夏親征にあたる記事だが、この時、モンゴル軍が西夏軍に負けたという
記録ではなく、他の資料(『集史』にも出て来る)からも西夏の軍をチンギス・カンの親征軍が
撃ち破った、という内容なので「之(これ)を敗(やぶ)る」と読むべきもの。

他にもいくつか「〜して、敗之。」という文は『元史』でも良く見られるようだが、普通の訓読では
いずれも「〜して、之(これ)を敗(やぶ)る」と読んでいたはず。
この『元史』日本伝の「冬十月, 入其國,敗之。」の部分のみ受動態で読むべき必然性があるとは思えない。

> 大体、ここで悠々と帰還したなら「 高麗史」「金方慶伝」に
飽くまで漢文というか『元史』のなかでの構文上の問題なので、『高麗史』の記述から受動態で解釈し
直そうというのは実際の戦闘の経過は置くとして、『元史』本文の文意を曲げることになるのではないか?

よほど難解な言い回しをしていて、他の資料の記述から文意を類推するというようなことは、文献を
読む上でままある話だが、特にここではそれを必要とする程の文とは思われず、素直に『元史』の
他の箇所での読みと同じように「敗之」は目的格の文として読むべきだと思うが。

707 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 22:06:42
>「由」は「於」の間違いだった。訂正する。

そうだとしても由破之では意味が通りません。
漢文のお勉強をもっとしましょう。

>それならそう読んでいる訳を示して貰いたい。

あるじゃん。
「而官軍不整,又矢盡,惟虜掠四境而歸。」
一度対馬と壱岐を略奪して、帰り際にもう一度やったのかい?

>全く訳者の恣意的なものだ。

ものごとを自分の都合のいいように考えないようにしましょう。

>基本的にここの「敗之」も>>689の『元史』日本伝の「敗之」と構文的に同じもの。

何を以て「構文」とするのか?
上述したように捕捉説明があるじゃないか。

>恐らくその底本は、かなりの部分日本の資料だ。

何でそう決めつけるの?
日本に都合が良ければ悪なの?

708 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 22:07:58
君の言うとおりならば、4万の兵で10万の日本軍を破ったことになるね。
この「元史」の記述は。


610 :日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:31:55
>>606
元史だって、副司令官として文永の役に参加した劉復亨の伝に、ちゃんと戦って負けたと書いてある。
だから文永の役は普通に戦闘による元軍の敗北。

『元史』巻一百五十二 列伝第三十九 劉通
「十年、遷征東左副都元帥、統軍四萬、戰船九百、征日本、與倭兵十萬遇、戰敗之。」
http://www.hoolulu.com/zh/25shi/23yuanshi/t-151.htm

709 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 22:26:09
「冬十月、其の国に入り、之を敗(やぶ)る。」じゃ、入と敗で述語が二つになっちゃうだろ。
「入」が述語で「敗之」は目的語。
だから岩波は、「その国に入りこれを敗らんとするも」と訳してるの。
それから「戰敗」は「戦いに敗れる」という熟語。

710 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 22:37:29
>>708
これも「戦敗之」だから「戦ってこれを敗(やぶ)る」だな。
しかも幸い「而」などが続いていないから、「敗(やぶ)らんとして」などと
「恣意的」に訳する余地がない。
だからひるがえって元史日本伝も「これを敗(やぶ)らんとして」ではなく
単に「これを敗(やぶ)る」であることを証明してくれる。

もしあくまで「これに敗れる」だというのなら、そのように訳している
訳文を紹介してくれ。
「これを敗る」の訳文はすでに私は紹介した。

711 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 22:45:26
>>709
動詞(述語)が二つ続いちゃいけないのか?
>>706の例では
「帝渡河撃夏師、敗之。」
帝、河を渡り、夏師を撃ち、これを敗る。
と、三つ続いているが?



712 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:02:11
>>711
だからそれも「これを敗らんとす」だよ。

713 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:31:16
>>708
てか当時の鎌倉幕府に短期間で10万も兵を動員する力あったん?
軍記ものは大抵誇張使ってるからあてにならんし。

714 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:35:56
>>711

何でそんなに必死なの?
負けは負けじゃん。

715 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:37:22
あ、軍記もの云々は「奥州攻めで頼朝は21万の軍勢動員してる」とかそういう意味の

716 :日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:38:24
>>714
>>712への誤爆?

717 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 00:59:05
>>710
【戦敗】センパイ 戦いに負ける。〈国策・魏二〉 (『全約漢辞海』三省堂)

例としては、
『高麗史』八十七巻・表
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人。」
「十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人」
岩波文庫『高麗史日本伝 』


718 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 08:44:05
>>712
>だからそれも「これを敗らんとす」だよ。

そう読むのか?
それならば「敗」は敗北させるという意味の他動詞であり、「之」は
目的語だ。「之に敗れる」すなわち西夏に敗れたのではない。
それなのに文永の役の「敗之」は「之に敗れる」と読むのか?

>>717
>至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人。」

それは目的語がないから自動詞の例だ。自動詞なら「敗れる」でいいのだ。

私が紹介してくれと言っているのは、元史の文永の役の「冬十月、入其国、敗之」
そのものを「これに敗れる」と訳している例だ。
がんばって見つけてくれ。

719 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 10:14:54
>それなのに文永の役の「敗之」は「之に敗れる」と読むのか?

ねえボク?
中国語は全て構文でできてると思ってる?

>それは目的語がないから自動詞の例だ。

だから>>717は熟語だって言ってるじゃん。
自動詞である根拠は?
そう訳している例は?
「恣意的」な解釈はやめようね。

>そのものを「これに敗れる」と訳している例だ。

そもそも、君が「「これを敗る」の訳文はすでに私は紹介した。」と言ってるのは
全く別の状況下での別の戦いを「恣意的」に元寇と同じ「構文」にして「同じだ!!」と強弁
してるだけじゃないか。
言いわけを長々と書き連ねているが、「これを敗る」という和訳が存在しない事自体、君の言い分
が通らないことを意味してるよ。

720 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 11:32:39
多分英語と同じような感覚で読んでるんだろうなあ

721 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 15:01:32
トンデモ訳文で「元が破れたと認めたんだ」と主張している連中の次の手は、
相手方の言うことなんか信用できない、糊塗したんだろう、という
「矢が尽きたので帰りました」というのを認めないのと同じ論法かな?

722 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 16:01:58
>>719
君たちの頭が混乱しているようだから、もういちど整理して置こう。

元史日本伝の、文永の役のくだりで、
「冬十月、入其国、敗之。」という文章がある。
私が挙げた訳文の例、すなわち岩波文庫は、これを
「冬十月、その国に入りこれを敗らんとするも」と訳している。
つまり、素直に「これを敗る」とは訳していないが、「敗」を、「之」を
目的語とする他動詞とする点では「これを敗る」と同じだ。
すくなくとも蒙古が敗北したという意味ではない。

これに対して君たちは、「敗」を自動詞あるいは受動態として、
「これに敗れる」、すなわち蒙古が敗北したと訳するべきだと言っているわけだ。
それならば、元史のまさにこの文章、「冬十月、入其国、敗之」を
まさに「冬十月、その国に入りてこれに敗れる」と訳している訳文があるのだろうから、
それを紹介してくれ、と言っているのだ。

念のためだが、その他の資料の訳文は要らないよ。
元史日本伝の、文永の役のくだりの、「冬十月、入其国、敗之」の訳文だ。


723 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 16:08:17
南宋と日本の連携を元は警戒したんで日本を攻撃したって説あるけど。
当時の日本にはその気も能力もなかったわけだから、余計な手出ししただけだよな。

724 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 16:20:51
南宋からきた坊さんたちが、幕府首脳の側近とかになったからでは?

725 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 16:22:10
トンデモ訳文で「元が破れたと認めたんだ」と主張するというのが流行り
らしいが、それなら
「矢が尽きたので帰りました」も信じてくれなきゃな。

726 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 16:25:21
このスレで一人称が「私」の文章を抜き出して読んでみると
むむむ・・・

727 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 16:43:07
>>722
だから、「敗之」の訳は「これを敗る」で問題ないの。
でもそれは目的語。
つまり、元軍は威力偵察なんかじゃなく、「これを敗る」目的で「その国に入った」という文なんだよ。
だから岩波は「冬十月、その国に入りこれを敗らんとするも」と訳してるんだろーが。


728 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 16:52:23
>>727
見苦しいよトンデモ君

729 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 18:20:29
侍ジャパン、高麗チームに敗れる

730 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 21:46:21
>>727
「敗之」は「之を敗(やぶ)る」でいいのだな?
では、>>708が紹介した次の劉復亭の記事を、君の伝で解釈してくれ。

「十年,遷征東左副都元帥,統軍四萬、戰船九百,征日本,與倭兵十萬遇,戰敗之。」

面倒なら「與」以下でいいよ。

731 :日本@名無史さん:2009/03/19(木) 22:03:20
もうどーでもいいお。
武士が強いと思う人はそう思えばいいし
武士が弱いと思う人はそう思えばいい。
川中島みたいなもんだ。

732 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 00:59:09
うーん強いて言えばタンネンベルクかな?
鎌倉武士の状況は、戦場でボコボコにされたけどポーランドが刈り入れの為に
引き上げたおかげで助かったドイツ騎士団みたいな感じかな?

733 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 01:34:26
大宰府はおろか水城にすら元軍が到達出来なかった、これが全て

734 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 01:42:48
当時日本最大の貿易拠点の博多は大炎上し、元側にも日本側の
資料にもはっきり「日本が大敗」と書かれてる。これが全て。

735 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 09:39:14
だから元の史料には「元が戦って敗れた」としか書いてないって

736 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 10:46:07
古文訳の基本から丁寧に教えてもらってるのに連日粘着するほど意地になるトンデモ訳文君かっこ悪いw

737 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 11:21:53
大規模渡洋作戦初心者の元軍の弱みだな。
継続補給が困難なため、戦術的勝利が戦略的勝利に結びつかない。
弘安の役じゃそれを認識したのか、多数の屯田兵を用意していたようだが、
こちらは日本側の学習が勝ったゆえ戦術的にも日本勝ったしね。
やはり海という防壁があるから、守る側有利。

738 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 11:27:45
約1名どうしても元が勝ったことにしたい粘着、デムパがいる。
勝ったら占領するのが自然。
そうでないから、その不可解な理由を
示威行動というようなこれまたトンデモ説を繰り返すだけ。
これを負け犬の遠吠えという。
之を敗る、という言い訳と同じ事。

なお、元寇後も日本と元との私的な貿易は行われていて、
何かのトラブルで日本側がと元の役人を殺し、
どこかの港町を焼き払ったという記録がある。


739 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 11:30:06
>>738
勝っても占領しない例なんて、戦史上いくらでもあるぞ。
日本の内戦でさえ、姉川合戦のように勝っても占領にいたらず引き上げたケースはあるし。
だいたい論点は訳の正確さ、だろう。
わかっててやってる話逸らしですか?

740 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 12:23:03
姉川の戦いの当初、信長が横山城を包囲して
援軍として駆けつけてきた浅井長政の
本隊を一気に片付けるという作戦
戦後、実際に信長は小谷城まで追撃して城下に火を放ってる。
まあ結局小谷城の守りは堅いので信長は追撃を諦めたが
それでも横山城はじめ多くの支城、砦を落とし
浅井の首根っこを掴んでる。

二度とも拠点すら落とせず引き上げた元冦に例えるには説得力にかけますぜ。

741 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 12:25:19
>>740
勝っても引き上げた、という大筋はかわらないし、
しかもやはり訳が適当か、という話とは無関係。
意地になっての話そらしもいい加減にしてねw
そのうち、また日本側被害は日本軍が自分でやったんだ、とか言い出すのかい?

742 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 12:32:00
まぁ、日本「に」敗れたという訳が正確だ、という自信があるならこんなあからさまな話逸らしはしないだろうしな
わかってて、レスがくるのが面白くてやってるんじゃないの?

743 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 12:39:18
元軍総司令官の忻都が退却を決定した発言を見ると、矢と並んで食料にも問題があった。
実戦の動向で消費量が変わる矢はともかく、食料さえ問題だということはやっぱり経験不足からくる準備ミスがあったのかな。

744 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 12:43:06
話を逸らすも糞も、あんたが姉川の戦いを引き合いに出すから
いやその例は流石におかしいだろと指摘したまでだが。
それでも状況が一緒だの反論出来ないから
話題逸らしただのと言うならもう何も言わんわ。
あんたがそう思うんならそう思えばいいさ。
あんたの脳内だけでな。

745 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 12:49:01
「倭兵大敗、伏屍如麻」と金方慶伝にもあるしね。

>>744
自分が、勝って小谷まで攻めたが占領せず引き上げた、と認めてるじゃんか。これ以上負け惜しみレスするなら、鳥つけてくれない?あぼんが楽だから。


746 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 13:04:08
>>743
モンゴルは遠征慣れしてるんだし、矢や食料の必要量くらい見当つきそうに
思うんだけどね。

747 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 13:15:43
>>746
日本海またいでの作戦は初体験だからじゃない?
高麗攻めのときも、対して遠くない位置の江華島に拠った程度の高麗軍を攻めあぐねて、服属させるのに時間かかったぐらいだし。
やっぱり海は苦手だったんだろ。
南宋の水軍を滅ぼしたのだって、かなり手間かかっているし。

748 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 13:17:15
>>747
でもその二つの戦いを経験した上での日本遠征なんじゃないの?

749 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 13:20:40
>>748
大陸近海での戦いと、海一つ渡る作戦を同一視するのは難しいだろう。
まず船団を仕立てるだけで一苦労。
南宋攻めのように、既にそこらへんの行動での経験豊富な南宋所属の水軍や海運握ってた蒲一族の寝返り、とかの幸運があれば楽になるだろうけど。

750 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 13:24:37
今思ったんだけど、鎌倉武士に圧勝したけど兵糧と矢が足りなくて撤退したんなら
15000の死者はどっから出てきたの?これもデタラメなのかな。
もしこれが本当なら、戦闘以外がメインでこんだけ死者が出るってことは
遠征に参加する兵達にとっては地獄みたいな状況だったんだろうなあ。

751 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 13:35:22
普通に負けたんだろ

752 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 14:03:32
>>743
あるいは軍幹部の発言のあるとおり、相手の増援がどれぐらいくるかわからない、というのも大きかったかもね。
元軍が日本の戦力を低く見積もってたが、ぶつかってみたら存外数が多かったんで物資の消耗が予想以上だった、とか。
敵を破って面子も立てたことだし、無難な退却をしようってことになった。
安全策とったところで日本側記録にもある「大風」を食らったのはもう不運としか言いようがないが。

753 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 14:17:32
どんだけアホなんだよ
元軍は

754 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 14:28:13
アホじゃなければ日本は元の属国だよw
国力みれば圧倒的差があったからだから。
逐次投入、戦力分散というポカやってくれたから日本は助かった。

755 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 14:35:17
そして武士はベトナムへw
ベトナム涙目ww

756 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 14:38:47
そして日本攻撃の兵力まで使ったベトナム遠征は、それまで不敗だった元を代表する名将・李恒が戦死し壊滅するほどの大敗。つか軍事力使いすぎだろ。

757 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 14:51:09
>>756
やっぱベトナムのが遥かに凄かったんだな。
勝手に敵が引き上げただけで勝利と言ってる日本人は恥ずかしい

758 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 14:59:01
ここまでをまとめると

・やっぱり武士達は一騎打ちやってた
・やっぱり武士達はコテンパンにやられた
・やっぱり元は余裕があったが準備不足、もしくは予定通りの撤退だった。
・やっぱり一回目も神風は吹いた(ただし元が引き上げた後)

ちなみに外国の人が歴史上の世界中の戦争をまとめた
凄く分厚い本があったけど、それにも武士達は大敗したが台風に助けられたと書いてある。

結論:やっぱり従来の説が正しかった。

武士が強いとか言ってるのはネトウヨだけなんだよ

759 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 15:01:47
>>758

このスレをざっと見返しただけでも
幕府大敗派の方がちゃんと史料提示して
しっかり論理的に展開してるしね

760 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 15:06:05
日本と大陸の関係は、仕掛けたほうが負けるというのは古代からかわらない。海の存在は大きいね。

761 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 15:15:51
だから負けるのは日本側から仕掛けた時だけだっつーの。

762 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 15:20:25
>>750
>鎌倉武士に圧勝したけど兵糧と矢が足りなくて撤退したんなら
>15000の死者はどっから出てきたの?これもデタラメなのかな。

15000のうち何人が戦闘による死者で、何人が海難による死者なのか、
わかるのか?


763 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 15:22:20
唐時代にそうだったように、相手国にいった使節だけは服属しているフリして、内側じゃ自分らがかってにやっている腹芸外交していればわざわざ元に攻められずにすんだような?
黙殺、とか使者殺害とかちと野蛮だったな日本は。

764 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 15:26:07
ホラズムとかも野蛮だったね

765 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 15:30:22
>>727
どうした? こんな簡単な文章が解釈できないのか?
じゃ代わって解釈してやろう。
いや、解釈なんてもんじゃない。ただ日本語をあてはめるだけだ。

「與倭兵十萬遇,戰敗之。」

「倭兵十万と遇(あ)い、戦って之を敗る。」

簡単だな。恣意的解釈の余地もない。
だいたい、考えて見よ。送りがなを持たない中国人は、どうやって
漢字で書いてある以上の意味がわかるのか。



766 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 15:34:55
>>764
ホラズムは、使節の財宝に目がくらんだ総督が勝手に殺したという話だけどな。
意図して政権が黙殺と殺害決めた日本とは違う。

767 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 15:41:08
ニート酷使様ばっかりの普段と違い
やっぱり休日や夜になるとまともな書き込みが増えるな

768 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 15:44:14
>>765
今ちょっとその文章見て思ったんだが
当時の鎌倉幕府って短期間に10万の兵を
九州に集められるほど、国力や補給が充実してたの?

769 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/03/20(金) 15:50:03
>>727
『征日本 與倭兵十萬遇 戰敗之』
元は日本に負けたんだな。

元が日本に勝ったのなら、
『征日本 與倭兵十萬遇 戰破之』
と書かなければならない。

770 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 15:51:16
>>768
弘安ではそれぐらい集めている。
関東から召集した予備兵力もさらにいたし。
すべてが武装した実戦要員じゃないだろうけどな。

771 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 15:52:53
>>766ただ、兵站はどうなのかな?
文永の役の短期間でさえ、戦陣の兵糧のために京方面の米まで徴収して混乱が起こっている。
幕府に機構的な補給部署があったわけでもないし……。

772 :771:2009/03/20(金) 15:53:32
アンカーミス。すまん

773 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 15:58:41
>>770
あんがと。単に兵を集めるだけなら、鎌倉幕府も結構動員力あったんだね。

774 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:04:00
また質問してすまない。このスレ初めて知って興味わいたので

>>769
つまり、敗=lose、破=defeatって事か?
でも上で長文書いてる人はそうじゃないみたいな事言ってるが。

775 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:08:05
>十万

これは多数の相手、程度の意味じゃないの?
総数ならそれぐらいいくかもしれんが、実際に元と戦うために展開していた兵力は弘安でさえ四万かそこらでしょ。
元軍が、来てもいない敵後詰まで把握して、しかもそれも破ったというのはありえないだろうし。

776 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:12:04
>>765
『與倭兵十萬遇 戰敗之』 なら普通に「倭兵十萬と遇い、これに戦敗す」だよ。
なんども言ってるように、戰敗は「戦って負ける」という意味の熟語だから、
「戦って之を敗る」なんて訳したりしない。


777 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:15:57
>>776
いや、之があるからどうみても
「之を戦で敗る」としかならんが

778 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:19:05
別の本の三国史記、でも

王怒率勇士五千 出戰敗之 虜獲甚多

としているからね。敵を破って捕虜をたくさんとった、と。
本当にそうだったかは別として、文章の訳でいえば「日本兵十万、これを破った」でいいだろう。

779 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:26:21
>>775
となると文永:五千〜一万、弘安:3〜5万ってとこ?
一方の元軍の四万や十万は確かな数字なんかな?
いやまあ流石にこれより少ない兵力で日本攻めようとしたんなら
馬鹿としか言いようが無いが。補給や他の戦線から考えると
この動員数は元側は本気モードだったんかな。

780 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:26:30
>>777
之があるからとか関係ない。
戦敗には戦って負けるという意味しかない。


781 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:30:01
どっちの言い分が正しいのかわからない。
誰か最終的に元が作戦失敗して引き上げた
って事以外で今んところほぼ結論が出てる事まとめて

782 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:30:47
>>779
旧南宋兵の多くは、実戦要員じゃなくて屯田兵だったらしい。(農具を携帯し、現在も博物館に実物残っている)
兵站を重視する、というのは文永の失敗からよく学習しているが、肝心のそれが生きる前に今度は上陸自体を阻まれたからな。
文永はともかく、弘安は日本のほうが戦訓からの学習が勝ったな。

783 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:31:34
だから元史には「元軍が戦って負けたと」しか書いてないってこと

784 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:34:45
>>783
負け惜しみはいいから、そろそろトリップつけてくれ。あぼんが楽なんで。
訳を丁寧に説明され、他の本の例まで出して否定されているのに何を無駄なレス資源浪費し続けているんだ?

785 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:54:21
ほれ、他の本の例。

『高麗史』八十七巻・表
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人。」
「十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人」
岩波文庫『高麗史日本伝 』



786 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:59:32
>>782
なる程。じゃあ実質的な戦力は文永の役とそれほど変わらなかったのか。
いずれにせよ上陸させずに海岸際から集中砲火浴びせた
日本側の選択は正しかったわけか。

787 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 17:03:48
それが台風という自然災害なのか、
鎌倉武士の抵抗のためなのかは、
別にしても元が敗退したのは確か。
元は日本から外交的譲歩、たとえば今後は朝貢貿易を行います、
とか言ってきたわけでもない。
何を一人でとち狂っているのやら。

788 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 17:06:01
どっちにしてもマムルーク、インド、ベトナムみたいに
「モンゴルを打ち破った」とは到底言い難いね

789 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 17:19:02
>>788
寸土たりといえども与えなかったのに何を言ってるんだかw

790 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 17:39:26
>>789
>>745あたりのやり取り見た?
戦闘で圧勝しても占領せずに引き上げる例なんて
世界史上いくらでもあんの。日本は運が良かっただけ。
いい加減負け惜しみで荒らすのやめたら?

791 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 17:50:03
姉川で織田軍は小谷周辺の支城を取ってるよ

792 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 17:58:03
敵の本城落としてないと「占領せずに引き上げた」
だなんて考えてるゲーム厨に何言っても無駄

793 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 18:28:40
姉川の戦いなんて結果的には小競り合いに毛の生えた程度。浅井に裏切られた懲罰と復讐戦の意味合いが強い。
当時の信長には浅井朝倉だけに構っている暇無し。後に徹底的に壊滅させている。
浅井長政の髑髏(金粉塗り)で酒を飲んだ話くらい知っているだろう。
元寇と同じレベルで論じるなんて、どこまで無知なのか。
元寇は元(高麗軍、南宋兵含む)と日本の一騎打ち。
元からすれば大元帝国の申し出に蛮夷を従わせるための出兵。
そのためには占領できなくとも、明白な勝利の証が必要。
それは外交的な譲歩。日本が朝貢貿易に応じること。
で応じたのかな。
1と10の違いも未明の坊や君はこれ以上無知と馬鹿さ加減をさらさない方がいいよ。

794 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 18:58:57
最近、変な書き込み増えたな。そうか春休みだからか。

795 :日本@名無史さん:2009/03/20(金) 22:38:55
威力偵察、予定の撤退

796 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:55:05
>>793
>>元寇と同じレベルで論じるなんて、どこまで無知なのか。

文章が解りにくいためか、「同じレベル」という言葉の意味が解らない。
もし、戦争の目的が違うという意味なら、姉川合戦も元寇も懲罰的意味合いがあった。

そもそも、なぜ姉川の戦いを引き合いに出すことに拘るのか?
内戦と対外戦争では性質が違う。また、野戦には勝利したが占領は出来なかった戦いなどいくらでもあるはずだが。

797 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 08:29:57
なんで変なのはここまで粘着してるんだろう?
ブログで、他のスレで「武士負けたー」と喚いてればいいのに

798 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 14:01:52
>>797
それは武士マンセー君にいうべきでは?w
漢文の「戦敗」と「之戦敗」の区別もいまだにつかず、矛盾や神社自身の記録無視して日本軍が自分で博多や箱崎を焼いたんだ、なんて火葬戦記いってるんだから。

799 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 14:36:09
>>786
>なる程。じゃあ実質的な戦力は文永の役とそれほど変わらなかったのか。

十月金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本至一岐戰敗軍不還者萬三千五百餘人

は文永の役の記事だよ。
壱岐では軍民皆殺しで、彼らの感覚では大勝利のはずなのに、この記事は
どうもおかしい。
ただ、上記のようにひとつづきだから、どこで切るかは解釈次第。
ひょっとしたら「軍」が「敗」の目的語で、次の文章は「不還者」から
始まるのではないか?
それなら「戦って軍を敗(やぶ)る」となる。

800 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 14:41:33
つづき。
前に(>>706)「撃夏師、敗之」というのがあったよね。
「之」は「夏師」を受けるから「敗夏師」もなりたつわけだ。
kの「夏師」のかわりに「軍」があると考えれば良い。

801 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 17:21:43
南宋兵の多くが屯田兵だったっていうのは本当?

802 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 18:01:50
>>800
訂正
kの → この 

803 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 19:29:25
しかしネット専門右翼ってのはすごいな
口では日本の武士や武士道はサイコーだとか言ってるくせに
自分たちのやってることは、ネットに隠れてチョンだのチャンコロだの他人の陰口ばかり
日本人の中で、最も武士道からかけ離れた連中こそネット専門右翼だろうに
西村のような街宣右翼のほうが、よっぽど正々堂々としている


804 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 19:59:56
荒らすな

805 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 20:55:51
まるで元軍の負け惜しみみたいだ。


806 :日本@名無史さん:2009/03/21(土) 21:19:42
日本の神職が書いたトンデモ本以外、関係国の国史が全部「元の敗北」
と記してるのに、未だに「武士はボロ負けだけどねw」とか言ってるキチよりマシだろ

807 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 04:41:15
高麗史なんて半島の史料は
信用できるのかね?

808 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 07:57:30
八幡の蒙古記に描かれた文永の役の蒙古兵の姿は、戦意にあふれた、颯爽と
したものだ。
それに比べたら弘安の役の蒙古軍はまったく戦意が感じられない。
この7年間のなかで、やはり蒙古自体の戦力低下があったのだろう。
中国人部隊による水ぶくれも含めて。

809 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 10:09:47
最初蒙古の使者が来たときに何の返事もなく帰したのはどうしてだろう?
国書の最後に「兵を用いるに至るなど、誰がそれを好もうか。」と無礼な言葉があったにせよ
返事ぐらいしてもよかったのでは?
もしかしたら段々元の要求がエスカレートしていきそうだけど

810 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 10:57:37
ロシアは、カルカ川の戦いの前に来た蒙古の使者を殺してるよ。
日本だけが異常なのではない。

811 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 11:55:51
マムルーク朝も使者処刑してるよ。

812 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 13:06:18
使者涙目w

813 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 13:59:35
つーか使者ってスパイや調略の役目も兼ねてたんだから
徹底抗戦決めたら斬首して首を送り返すのは別に普通の対応なんだけどな。
それでも鎌倉幕府は一度目の使者は生きて返してるし。
まあ俺も黙殺するぐらいなら「だが断る」ぐらいの返事は
別にしても良かったんじゃね?とは思うが。

上の方でホラズムの例上げて、同じ対応でも
正式に国のトップが使者斬首した日本のが野蛮と
書いてる奴がいるが、むしろ役人が欲に目を眩ませて
戦争の火種作ったホラズムや高麗のがよっぽど最悪だと思う。

814 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 14:02:25
>>808
そこら辺から一回目は武威偵察で二回目は棄民政策なんて説が生まれたが
本当ん所はどうだったんかねえ?本当だとしたら随分無駄な事してるなあとは思うが。

815 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 16:27:45
まぁ文永の負けからしっかり学習して、上陸してからの相手とガチで戦う愚を避けた鎌倉武士は同じ失敗繰り返した昭和あたりの日本軍よりはまとも。

816 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 18:15:16
はい、スレが加速しそうなレスが来たので上げますね

817 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 19:21:41
久々に来たんだが1ヶ月そこらでスレ伸びすぎだろ。過疎板なのに。

818 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 19:49:16
さて、反論出来なくなった粘着武士マンセー君が
消えてスレがやっと落ち着いたところで、>>604>>611のアホを論破するか。
難癖つけられないために資料とか改めて提示するからちょっと待ってな。

819 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 20:09:58
>>795
マジで?

820 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 21:40:17
高麗史の原文を見た。
「十月金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本至一岐戰敗軍不還者萬三千五百餘人」
は確かにある。しかしこれは「表」すなわち年表のコメントであって、非常に
切り詰めた文章だ。で、その切り詰める前の元の文章はなにかというと、
それは忠烈王の「世家」すなわち治世記だ。その原文を示す。

[高麗史巻28、忠烈王1]
[世家078]冬十月乙巳、都督使金方慶将中軍(中略)与元都元帥忽敦
右副元帥洪茶丘左副元帥劉復亨、以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海
水手六千七百、戦艦九百余艘、征日本、至一岐島、撃殺千余級、分道以進、
倭却走、伏屍如麻、及暮乃解、会夜大風雨、戦艦触厳崖多敗、金[イ先]溺死。
[世家079]巳亥、東征師還合浦、(中略)軍不還者無慮萬三千五百余人。

821 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 21:53:02
続き:
これを見ればわかるように、日本軍との戦闘に関する文字は壱岐で
「撃殺千余級」、本土で「倭却走」「伏屍如麻」、これだけだ。
日本軍は壱岐で千人余り殺され、本土では麻のごとき死体を残して退却
した、と言っているわけだ。
つまり文章全体としては、戦いでは勝ったが嵐に会って損害を出した、
と言っているのであって、決して年表の文のように「戦い敗れた」とは
言っていない。

822 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 22:51:52
>>820-821の人の補足的なことになるが・・

明治の末に刊行された『高麗史』の刊本(三巻本の第二巻)では件の部分を写すと、

『高麗史』巻八十七 表巻第二

    │ 上  國    │ 高 麗
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ──┼───────┼─────────────
    │          │ (元宗)十五年 五月世子尚元
  甲 |          |      帝女安平公主 六月
    |          |      元宗薨八月世子還國
    |宋咸淳十年   |      即位 十月金方慶與
    |元至元十一年  |      元元帥忽敦洪茶丘等
  戌 |          |      征日本至壹岐戰敗軍
    |          |      不還者萬三千五百餘
    |          |      人」

(「[上国]甲戌、宋の咸淳十年、元至元十一年(1274年) 
  [高麗・元宗]十五年 五月、世子[後の忠烈王]、元帝の女・安平公主を尚(こいねが)う。
  六月、元宗薨ず。八月、世子、還國して即位す。十月、金方慶、元の元帥の忽敦・
  洪茶丘等と与(とも)に、日本を征す。壹岐に至りて戰い敗れ、軍の還らざる者、
  萬三千五百餘人。」

と書かれている。
「上國」の部分で宋や元朝の年号を附し、「高麗」の部分でその年の高麗国王の治世と
高麗関連の事蹟が書かれている。

823 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 23:03:04
>>822の続き。
六月の元宗の逝去や、それに続く八月の世子こと忠烈王の高麗への帰国と即位の部分は問題ないが、
この元宗十五年(1274年)の表で「五月世子尚元帝女安平公主」と書かれているが、この
「安平公主」とは例のクビライの皇女・忽都魯掲里迷失(クトゥルク・ケルミシュ)のこと。

ただし、この頃クトゥルク・ケルミシュは「安平公女」とはまだ呼ばれていない。
この時はまだ「齊國大長公主」と呼ばれており、この翌1275年に高麗で元成公主、1294年に
元朝から「安平公主」の冊封を受けている。要するに「安平公主」と呼ばれるのは降嫁の年から
二十年後のことになる。

『元史』の本文などでも、まだ即位していないクビライも『元史』世祖本紀では「帝」と呼ばれて
いたりするから、この程度は表の表記の上ではまあ問題ないのかも知れないが、クトゥルク・ケルミシュは
『元史』の諸公主表や『高麗史』の列伝でも「齊國大長公主」でまず呼ばれているので年表としての正確さ
から言うとちと微妙というか、記述の正確さにややいい加減な印象を受ける。



824 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 23:12:16
ということはやっぱり>>373は嘘ついてやがったんだな
日本は元軍の上陸作戦を徹底的に破砕したとか大ぼら吹きやがって
あーすっきりした

825 :日本@名無史さん:2009/03/22(日) 23:48:42
>>823の補足。
>>324でも触れたが、元宗十年に権臣林衍のクーデターで一度元宗は廃位され、
これを通報した後の忠烈王が元朝側にクビライの皇女の降嫁を要請したらしく、
復位した元宗も皇女の降嫁を重ねて要請しており、文永の役の四年前、
1271年正月(至元八年、元宗十二年)に許可が降りているが、そのことは
いずれも『高麗史』の表には出て来ない。

また、表では金方慶や洪茶丘とともに三別抄を討伐した元朝から派遣された司令官、
忻都についても記されているが、表では何故か「蒙古元帥忻"篤"」と書かれている。
(「(元宗)十二年 五月金方慶與蒙古元帥忻篤洪茶丘攻破珍島…」
 「(元宗)十四年 四月金方慶與忻篤等討三別抄…」
 「(忠烈王)七年 五月金方慶與忻篤茶丘征日本至覇家臺戰敗不還者十萬有奇 」

「忻都」とは『元朝秘史』にも出て来る地名で、ペルシア語の「ヒンドゥー(hindu)」の
からの借用語・漢字音写、つまり「インド」のこと。フレグの遠征軍に加わった部将に
ヒンドゥー・ビチクチという人物がいるので、当時のテュルク・モンゴル系の人物の
人名としては普通にいる部類だろう。
勿論『高麗史』の世家や金方慶伝をはじめ、『元史』でも「忻都」で統一されている。

826 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 00:37:14
http://blogs.mobile.yahoo.co.jp/p/blog/myblog/list?bid=sa341gazelle

ここだろ。武士マンセー厨がソースにしてるブログ。
自分にとって都合いい資料ばっかり取り上げてる。

827 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 02:23:49
気持ちわる

828 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 02:32:05
だろ。結局二回とも従来の武士惨敗でまぐれで助かった説が正しいんだよ。

829 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 02:36:04
>>826のURLが見れないんだが

830 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 04:31:37
携帯でしか見れんやん

831 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 05:46:49
>>828
いや、二回ともではない。
高麗史は、弘安の役については「敗績」という言葉を使って敗戦を
認めている。この原文は後で載せよう。

832 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 06:03:37
>>828
いや気持ちわるいのはあんた

833 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 10:16:13
いちいち煽ってる人は文永と弘安の違いすらわかってないだろ。
てか>>373にはどこにも武士が圧勝したとか書いてないだろ。

834 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 10:43:42
>>826
貼るならちゃんとPCでも見れるように貼れよ。
これだから電話は・・・。

http://blogs.yahoo.co.jp/sa341gazelle

835 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 13:26:17
文永の苦戦でまともにやりあえば元はやはり強敵だとわかったから、石塁で浜辺を防護してそもそも上陸自体を制限する。
この方針転換を発案したのは誰なんだろうね?
文永の苦戦を理解し、かつそのときの戦術の穴を埋める手段だが、同時の莫大な費用と手間がかかる。
幕府首脳を説得できた人物じゃないとちと困難だろう。

836 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 14:06:04
大河ドラマの時は北条実時が発案したことになってたが真相は如何に?

837 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 15:24:06
>>796
野戦で勝ったけど、城の守りが堅くて落とせなかった戦いって結構あるよね
文禄の役での晋州城の戦いとか


838 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 15:27:11
>防塁

海岸をぐるりと囲む、なんて日本人の発想じゃない気もする。
南宋からきて、元軍のことをよくしっている南宋人がアドバイスしたんじゃ?
どっちかというと万里の長城的発想。

839 :837 :2009/03/23(月) 15:27:54
晋州城の戦いは第一次のほうね。

840 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 15:41:03
>>838
てことは無学祖元かな?

841 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 15:45:57
幕府の公式記録とかには残ってないの?>防塁発案者

842 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 19:23:06
お約束の弘安の役の記録を載せる。>>820に載せた記事は忠烈王一年の記事で、
これはその後の忠烈王七年の記事だ。

[世家142]六月壬申、金方慶等、與日本戦、斬首三百余級。翼日復戦、
茶丘軍敗績、范文虎亦以戦艦三千五百艘、蕃軍十余萬来、会値大風、蕃軍
皆溺死。(以下略)
[世家143]己酉、王至自合浦。元帥金方慶使中郎将朴[囚/皿]奏、
諸軍至太宰府、累戦交綏而退、蕃船随至、復向其城、因献所獲甲冑弓矢
鞍馬等物、拝[囚/皿]摂将軍。
[世家144]己卯、別将軍金洪柱、自合浦至行宮、告東征軍敗、元帥等
還至合浦。壬午、遣将軍李仁如元。
[世家145] 閏月甲午、金方慶等、来謁行宮。(中略)是月、忻都
茶丘范文虎等還元、官軍不返者無慮十萬有余。

斬首三百とか、戦利品を王に献じたとか、景気のいい話もあるが、
[142]に「茶丘軍敗績」とある。敗績とは大敗の意味だ。
決定的なのは[144]で「東征軍敗れ、云々」と王に報告して
いる。
高麗史はこのようにわりあい客観的だから、逆に文永の役の戦勝記事も
信憑性が生じるのである。

843 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 20:10:35
つまり文永の役で鎌倉側は戦術面、元側は補給面において
反省点があった。双方ともそれらの反省点を踏まえ
次なる戦いに備えたが、結果は鎌倉側の作戦が功を奏したわけだな。
鎌倉側が動員数が増えてるとはいえ、前のように
平原での決戦に望んでいたら大宰府は危なかったかもね。

844 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 21:11:00
だけどなあ。
堀もない、たった2メートルの石垣だ。普通に戦意のある軍隊ならどこか
一か所ぐらい突破できるはずだ。
弓隊を横に並べて日本軍の射手を制圧しておいて、土嚢とか梯子を持った
突撃隊が一斉に突っ込めば、簡単だと思うな。
少なくとも、蒙古軍が西アジアで経験したどんな城よりも弱いはずだ。
よっぽど、蒙古軍の戦意が低かったと思わざるを得ない。

845 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 21:20:35
>戦意が低かった。
またそれかよ。

846 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 21:50:06
>>844
博多市の元寇防塁発掘調査のいつの号だったか忘れたけど、
防塁こと石築が建設された当初は、石築はもとの波打ち際から大きく博多湾側に迫り出して
築かれたそうで、石築の内陸側は石築の上限あたりまで全部埋め立ててたそうだ。

石築の波打ち際も水深は1〜1.5mくらいはあったとかで、大型艦船は侵入出来ない深さだし、
海から石築まで行くにははしけでも使うしかないけど、これで防塁の真正面から上陸するとなると
元軍側は底の浅い小さな船で海上から矢戦を行いつつ石築の下まで接岸せざるを得ない状態だったらしい。

石築が建設された当初の状態だと、上陸するだけでも凄まじい被害を出すことを覚悟しないと駄目だった
みたい。


847 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 21:59:42
プールから上がろうとする度に他の芸人達に落とされる出川先生のごとし。

848 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 22:21:10
出川は一流や!

849 :日本@名無史さん:2009/03/23(月) 23:05:37
だいたいね
日本に馬乗槍が現れ、打物騎兵が現れるのはなぜか元冦の終わった後の南北朝時代
これは元冦での敗北を教訓にした兵装、軍制の改良だろう
もし元冦の戦闘で日本側が勝利とするなら南北朝期でもこんな大規模な兵装や軍制改革する必然性が全くないでしょうがw

850 :アウトロー板住人:2009/03/24(火) 03:52:52
寄せ集めの大軍って弱いんだぜ。

851 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 04:33:15
鎌倉武士のことですねわかります

852 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 08:34:56
また日本の勝利が証明されたか

853 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 08:37:34
>>851
大軍だったから負けたなんてのは言い訳にならないよ武士厨君www
元には実力でかなわなかったんだよ?そんなことも分からないの?

854 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 08:38:54
↑アンカーすらマトモに出来ないんなら荒らすのやめたら?

855 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 09:02:18
一人ずっと粘着荒らししてんのなw
武士が強いとそんなに都合が悪いのかねぇ

856 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 09:40:00
強いんなら>>849みたいな事にはならんと思うよ

857 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 11:26:01
改良すると弱いことになるのか

858 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 11:27:37
>>843
日本の都市は、南宋のそれとは違って城砦都市的に周辺を壁で囲ったりしてないからね。
大陸での戦いだと一つの都市落とすのに年単位でかかることも珍しくないが、日本では……。
上陸自体を制限する石塁建設は、ほとんど唯一の対抗手段だったんじゃないかな。
武士・寺社区別なく建設が割り当てられたほど。

859 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 11:39:37
つーか日本で戦の様相がガラリと変わるのは応仁の乱で戦の規模が大きくなって
戦場の主役が騎馬武者から足軽に変わる辺りからなんだが。
南北朝はそんなにいうほど鎌倉期と変わらんよ。
楠木とか赤松のイメージにとらわれすぎ

860 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 11:50:07
南北朝期の戦闘を見ると、それまで騎馬武者のお供に過ぎなかった歩兵が主力として投入されるケースが増大しているね。
それまで歩兵が主力として働いたことを伺わせる話は、「坂東武者は供の徒歩でさえ弓を持っていてくる」と鎌倉方勝利を源平合戦中予見した発言での、関東ローカルの兵備がいわれるぐらいだったのに。
これが元寇の影響かどうかはわからないが。

861 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 11:57:16
他にも元寇を機会とされる日本刀の改良、
それまでの太刀と弓主体の装備に加えて、徒歩者も使う長刀などの長柄物の重要性の増大。

862 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 12:06:04
一つ思ったんだが霜月騒動や平頼綱の乱なんかではそういう記述無かったの?

863 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 12:09:57
そういえば応仁〜戦国期では騎馬武者すら主武器とする槍は、源平〜元寇迎撃期では見られないな。

864 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 12:38:28
やっぱり戦闘では大敗北だったと見るのが妥当だね

865 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 15:49:28
俺も>>862と同じ疑問がわいた。
もし蒙古襲来がきっかけなら、南北朝までの戦闘の記録にも
残ってるはずだと思うが。なんだかんだで南北朝の時代まで
半世紀以上間があるんだしその間に一つくらい
それらしき記録が残ってると思うんだが
そこんとこどうなん?教えてエロい人

866 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 16:10:14
元寇まで太刀の主流だった猪首切先が、丈夫なのはいいが一度破損したら修復困難、という理由で廃れたりとか日本刀の製造にも影響与えたそうだからな。

867 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 21:15:20
鎌倉期の重ねの厚い猪首切っ先の太刀が
南北朝の頃にはより長く重ね薄く身幅広く大切先になるわけだが
これを二回しかなかった元寇と結びつけるのは短絡的でしょ
むしろ悪党・足軽の台頭によって増大した軽装歩兵に対するものと考えた方がいい

868 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 21:17:47
というか一つの変化には一つの原因しかないと考えるのがおかしい

869 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 21:27:52
そもそも蒙古襲来から南北朝の時代まで
60年近い隔たりがある点については誰も突っ込まんの?

870 :日本@名無史さん:2009/03/24(火) 22:35:47
冷静に見たらリーグニッツの会戦で負けたけど
国自体は滅びなかったポーランドやハンガリーと酷似してるよな。
戦いで負け、街を焼かれ、モンゴル側の都合で撤退した。
それで撃退だの勝っただの言ってるから恥ずかしいもんだよ。

871 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 01:26:07
>>867
騎射メイン→騎射しか能がない→対外戦争で勝てるわけない
って考えるのもまた然り>短絡的

872 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 04:12:54
バイバルスは過大評価
アイン・ジャールートなんて1万しかいないモンゴル軍を7万で叩いただけ
寡兵で勝利した武士こそ最強

873 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:05:18
だから文永の役は勝利とは言えないってば。
まあ惨敗とまでは言わんけどさあ。
弘安の役に関しては武士の作戦勝ちでおkだけど。

ただアンタが言ってるように日本以外のケースが過大評価されてるのには同意。
バイバルスの場合は他にもフラグが病死した後ってのもプラスに働いた。
いや、勿論バイバルスが中世イスラムを代表する傑物なのには変わりないよ。
ただ日本の場合だけ「運が良かった」だの「武士は弱かった」だのケチつけて
ベトナムやマムルークは手放しでマンセーして
「こいつらのが遥かに凄い」ってのはちょっとおかしいんじゃね?って話。

874 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:34:18
戦略的勝敗と、戦術的勝敗はかならずしも一致しないもんだしね。

875 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:36:32
武士最強と連日粘着し、日本側被害なんて当事者の記録すら認めず日本が自分で傷つけた、とかいってるアホは論外としても、酷すぎるなw

876 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:41:35
↑お前も同レベルだからもう消えろよ

877 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:47:13
>>870
えーっとアンタは何が言いたいん?
日本はポーランドみたいに首都をはじめ国土の八割火の海にされたり
国の有力者が殆ど死んだわけじゃないし
ハンガリーみたいに国のトップが尻尾巻いて逃げて、国土を焼け野原にされたわけでもないんだけど。
もちっと具体的に言って。俺バカだからわからん。
要は戦況から見て仮に日本が陸続きならこの2国みたいになってたと言いたいん?

878 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 16:48:33
日本は負けたが、相手のミスで拾った幸運を生かして次には勝った。
こういうことだね。
十分上等じゃないか。
なんで無謬・無敵にしたがるんだ?
日本側自身の寺社の記録や主張すら無視して損害が日本武士自身の手でやったこと、とかバカかと。

879 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 17:35:53
というか武士最強だの言って極端に武士マンセーしてる奴と
ただのまぐれだの何だので武士貶めてる奴って
同一人物だろ。他でも同じように武士最強だのまぐれ勝ちだの言ってる奴見かけるから
単にスレ荒らしたいだけの愉快犯だ。ほっとけそんなバカ。

880 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 17:45:04
高麗史にある文永の役の記録として「表」と「忠烈王世家」を載せたが、
もうひとつ、「金方慶列伝」がある。これも載せる。

[高麗史 巻104、列伝17]
[列伝010]金方慶 十五年、帝欲征日本、詔方慶與茶丘、監造戦艦、造船若依蕃様、
則工費多、将不及期、一国憂之、方慶為東南都督使、先到全羅、遣人咨受省檄、用本国
船様督造、是年元宗薨、忠烈即位、方慶與茶丘、単騎来陳慰、還至合浦、與都元帥忽敦
及副元帥茶丘劉復亨閲戦艦、方慶将中軍、朴之亨金忻知兵馬事、任ト為副使、枢密院福使
金[イ先]為左軍使、韋得儒知兵馬事、孫世貞為副使、上将軍金文庇為右軍使、羅祐朴保
知兵馬事、潘阜為副使、号三翼軍、忻即綬也、以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手
六千七百、戦艦九百余艘、留合浦、以待女真軍、

[列伝011]女真後期、乃発船、入對馬島、撃殺甚衆、至一岐島、倭兵陳於岸上、之亨
及方慶婿趙卞遂之、倭請降、後来戦、茶丘與之亨卞、撃殺千余級、捨船三郎浦、分道
而進、所殺過當、倭兵突至中軍、長剣交左右、方慶如植不少却、抜一[ロ高]矢、励声
大喝、倭辟易而走、之亨忻卞李唐公金天祿申奕等力戦、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、
蒙人雖習戦、何以加此、諸軍與戦、及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、兵法千里懸軍、其鋒
不可當、我師雖少、已入敵境、人自為戦、即孟明焚船淮陰背水也、請復戦、忽敦曰、兵法
小敵之堅、大敵之擒、策披乏乃兵、敵日時之衆、非完計也、不若回軍、復亨中流矢、先
登船、遂引兵還、會夜大風雨、戦艦触岩多敗、[イ先]堕水死、到合浦、以俘獲器杖、献帝
及王、王遣枢密副使張鎰慰諭、命方慶先還、加上柱国判御史臺事、

881 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 17:58:32
「表」をA、「世家」をB、「列伝」をCとすると、BはAの文字をほとんど
含んで、それより詳しく、CはBの文字をほとんど含んでそれより詳しい。

また、Aは壱岐に至るとたちまち「敗」れたり、Bは壱岐で千人を撃殺した
と思ったらいつの間にか本土での戦いになったりと、不自然なところがある。
これに対してCは壱岐の戦いの後に「捨船三郎浦」があって、これが上陸に
あたり、「分道而進」は本土の陸上のことだと分かる。

こう見ると、Cの「列伝」がオリジナルと思われる。だから高麗史で文永の役
のことを見るなら、「列伝」を読めばよいのである。

ついでだが、「列伝」を見ると「倭兵突至中軍」とあって、日本軍が中央突破
を図っている。これが菊池勢の奮戦に当たると思われる。しかしその後、高麗軍
がよく戦って日本軍を「走」らせたのである。

882 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 18:05:32
またまたありがとう。ここで一つ質問なんだが
確かにその文だと元軍は日本を大いに打ち破って、日本側が敗走しているが
ここで一つ気になるのがその後の元の武将達のやり取り。
なんで圧倒的に優勢に戦い進めてたのに、高麗の武将がいきなり
「船を焼く」だの「背水の陣」だの物騒な事言い出したのかなと前から気になってた。
まさかこの人は戦いのストレスで火病起こしたの?wと冗談はさておき
つまり軍議の席で「思ったより物資がいるみたいだからこんくらいで引き上げるか」
って流れになったから、高麗の武将が「嫌だ嫌だ!戦いに勝ったんだから一気に征服したいんだい!」
って当初の作戦無視して駄々こねたって事かな?そこんところ教えて。

883 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 18:15:28
バイバルス過大評価は同意
陳興道のほうが凄い

884 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 18:32:22
いや、だから陳興道も過大評価だってば。誰が一番凄いだの強いだの小学生じゃないんだからさあ。
結論から言えば、日本にしろベトナムにしろエジプトにしろ
モンゴルが征服に失敗した地域は言ってみればその辺りまでが
モンゴルが版図を拡大できる限界だったって事さ。ゲームじゃないんだから
どんなにやったって当時の社会じゃあれ以上は無理。
まあサムライもマムルークもベトナムのゲリラ達もみんなよく頑張って
モンゴルの侵略から守ったと思うよ。

885 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 18:33:12
バイバルスは名前がカッコイイ
ちん○うどうwwシモネタww

886 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 18:48:49
>>884
そうそうどの国が一番強いだとかどっちが強いかだなんて
小学生みたいな比較は止めないとね。

>>885
バカやろう!金方慶なんて下の名前が包茎なんだぞ!
きっと同僚達から「あの包茎野郎」だなんてバカにされてたに違いない。
そんな鬱憤が彼を二度に渡る日本侵略へと駆り立てたんだよ。
親も何考えて息子に包茎だなんて名前をつけたんだか。

887 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 18:56:44
>>884
だな。
決してバイバルスや陳興道がしょぼかったなんて評価になるわけはないんだから、
持ち上げてる人には納得してもらいたいところ。

888 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 19:05:50
圧倒的に優勢に戦い進めてたのに、高麗の武将がいきなり
「船を焼く」だの「背水の陣」だの物騒な事なんで言い出したの?

889 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 19:07:59
>>888
>>882

890 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 19:42:31
>>886
一番小学生みたいな事言ってるのてめえだろうがwwww

891 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 19:49:51
>>882
単なるかっこつけの勇ましがりだと思う。焚船などは古典から引っ張ってきた
修辞であって、ポイントは戦闘継続にある。
それには理由があって、洪茶丘は高麗人のくせにモンゴル軍の将軍になって
祖国をいじめる裏切り者だ。
それに対して、金方慶は総司令官の忽敦の前で功績をあげて茶丘を見返したい。
そのためのチャンスがもっと必要だった。つまり戦闘が続いて欲しかったのだ。

892 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 20:34:09
なるほど、そういう事情があったんね。

893 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 21:42:26
岩波の高麗史日本伝立ち読みしてきたお( ^ω^)
元寇のちょっと前に倭寇の記述があったお
倭寇がヒャッハー!して困るから日本に米や金を送って止めてもらおうって案に
偉い人が「ちょwwwwねーよwww」って言ってやめになってたお
このころから倭寇いたんだNE!( ^ω^ )

894 :日本@名無史さん:2009/03/25(水) 22:16:54
えーと1226年頃の奴だね。
ただ本格化してくるのは14世紀中頃からだね。

そういや一回目は偵察またはただの脅し、二回目は邪魔になった旧南宋兵を処分する為で
二回とも元は全然本気じゃなくて、兵士達もみーんなやる気ナッシング
だったんだよーんって説はどうなったん?
ウィキペだとまるでこれが近年の研究で明らかになった正しい説ですと言わんばかりに書いてあるが。
もっともあらゆる分野でウィキペが嘘八百なんは百も承知なんだが
本当のところはどうだったん?

895 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 01:20:21


896 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 01:35:46
>>887
マムルークとベトナムは甲乙付けがたいが
それに比べると鎌倉幕府は明らかに2ランクぐらい劣るわけで。

897 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 02:00:15
>>896
>>613

898 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 02:01:06
大体、大元帝国と大高麗帝国の連合軍に倭奴が勝てるわけないだろ。
軍事技術も士気も錬度もケタ違いに高かったんだし。

マムルークとベトナムは元を撃退したけど、倭奴は台風で助かっただけじゃん。
そもそも、台風で沈むような船を作ってあげたのは大高麗だし。
倭奴は軍を引き上げてやった高麗に毎日礼拝すべき。

899 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 02:27:51
>>897
比較するなも糞も事実じゃん。
相手は凡将が指揮する士気が低い寄せ集め。しかも本気で侵略する気0の軍隊に
一回目は負けて二回目は直接やり合ったら負けるからって
ちまちましたセコ〜い戦い方して台風の助けでやっと勝ったんだから。
しかも海があるって地の利もあってそれだから。
あと元側にとっちゃ旧南宋出身の役立たずの老兵の処理ご苦労様って感じだから。
平原での騎馬戦で何度もモンゴル打ち破ったマムルークや
陸続きで大軍で攻めて来たのに三度も撃退。それもイスラムやヨーロッパの遠征で
多大な戦果上げた将軍達に完勝してみんな捕虜にしたベトナムに比べたら
明らかに劣るでしょ。てか純粋な軍の強さで言えば
むしろスブタイに撃破されたロシアやバトゥに撃破されたポーランドやハンガリー以下。
あれは相手があまりにも悪すぎたからね。
仮にバヤンか郭●が率いて士気が高いモンゴル人中心で江南軍も実戦部隊で
台風が来る時期以外だったら間違いなく蹂躙されてた。

900 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 02:31:22
そうそう、大高麗が慈悲を示して引き上げてやったから軟弱な倭奴は助かったわけだしねwww
そもそも「倭兵大敗、伏屍如麻」で高麗軍の強さがわかるよねwww
世界中を征服した元軍に30年も抵抗した韓民族と比べるとどんだけ弱いんだよって話wwww
WBCもまぐれだし、ほんと倭奴は運だけ良いよなあww

901 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 02:33:14
倭奴反論できず涙目www
俺達大勝利wwww

902 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 02:34:16
>>898
大高麗「帝国」??? どーしたらそんなあり得ない単語が捻り出せるんだか(汗

高麗王家は大元朝時代は「附馬高麗国王家」と呼ばれたが、それもクビライの公主
クトゥルク=ケルミシュの降嫁のしばらく後だし、高麗はそれまで世継ぎを「太子」と
呼んでいたが、クビライに臣従する時に「世子」と呼ぶように勧告を受けて以後、
高麗国王の世継ぎは「世子」と呼ばれるようになった。

モンケの時代まで高麗はモンゴル帝国軍の侵攻にワンサイドでフルボッコ状態で、
クビライの時代にモンゴル帝国に参与する臣従政権としての地位を向上するよう
色々と努力を続けて来たが、その中で名称の問題が即政治的立場を反映するので
すこぶる重要だ。そもそも、高麗国王が皇帝を名乗ったことは無いし、文永・弘安の
役の時ならばなおさらだ。

釣りとしたっても、なんぼなんでもこれはないだろう・・・

903 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 02:37:05
だったらわざわざ元が婚姻関係結ぶわけねーだろww
どちらにせよ高麗軍に倭奴が完敗した事実は変わらないわけでww

またまた俺達大勝利w

904 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 02:39:08
>倭兵大敗、伏屍如麻

倭奴完敗wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
倭奴完敗wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
倭奴完敗wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
倭奴完敗wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
倭奴完敗wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

俺達大勝利ww

905 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 03:09:14
>>898
>軍事技術も士気も練度も桁違いに高かった
>>899
>凡将が指揮する指揮の低い寄せ集め




 ど っ ち だ よ w

906 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 11:21:04
元って何でわざわざ文永の11月とか弘安の6月とかに来たんだろうか
金の海軍を手に入れて高麗の助言で来たから特に11月とか台風発生率が高い事とか分かってそうなもんだけど
弘安は上陸が出来ずに6月から一月以上海上に居たから仕方ないかもしれないけど

907 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 11:36:05
捕虜になった旧南宋兵は奴隷扱いとはいえとにかく生かされたわけだから、彼らから大陸の兵備の情報を仕入れた者達がいて戦術や兵装に変動の影響がでたのかな?>元寇以前と以後の戦いの違い

908 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 12:20:01
うーん、どうだろうねえ?
大体蒙古襲来から南北朝まで50年近く経ってるんだし
戦術の変化は蒙古襲来が主なきっかけとするのは少し短絡的かも。

909 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 12:25:44
後の室町から戦国にかけての鉄砲の異常な普及にみられるように、
日本の武士は保守的な反面、一旦有用性みると貪欲なぐらいだからな。

910 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 13:12:39
その元を倒した明からの日本への使者が、姓が同じだったというだけで元の使者の子孫と間違えられてしかも殺されかけた事件さえ起こったからな。
当時の脅威がそれほど残っていたんだろう。

911 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 13:16:47
>>908
戦術の大きな変化は戦闘で大敗を喫した時とか自営農民の小作人化など社会体制が根本的に変化したときにしか変わらんよ
だいたい元に勝ったと主張するのであれば、それ以後断続的戦いがなかったなら例え50年経とうが100年経とうが
戦術の大幅な変更する理由なぞないはずだ

つまるところ元に戦闘で敗れて、それを戦訓に戦術を大幅に変更した以外の理由を想起できないし
断続的戦いがなかったのに戦術を変更するという必然性も見出だせない

912 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 13:20:05
>>909
だぶんヨーロッパ人に鉄砲で大敗したんじゃないか?

913 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 13:30:43
>>912
大敗かはともかく、実物見て種子島の領主以下がぞっこんになって、鍛冶師は娘をヨーロッパ人に差し出してまで製法聞きだしたほどだったのは確かだな。
もっとも、別ルートで既に日本に入っていたという説もあるようだが。
あと、中国製の青銅製鉄砲はそれ以前から入っていたとも。

914 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 13:42:26
そういえば日本が撃退したと誤った解釈をしている出来事に刀伊の入寇がある
これも日本の武士たちが撃退したと書かれているものがあるが
実際は掠奪拉致を終えた女真族が悠々と帰還しただけの事
一説には1300人以上の日本人を拉致され壱岐には35人しか島民がいなくなったという
むしろ女真族に勝ったのは高麗の水軍
日本の掠奪拉致を完了した女真族の船団の一部が高麗に来襲したが、高麗水軍に撃破され
船にいた拉致された日本人200人以上を解放し帰国させた

915 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 14:53:48
>>911
つ霜月騒動。
元軍との戦いで日本側指揮してた少弐さんも関係してるし
なんかそういう記述あってもいい気はするが。
あと蒙古襲来以降は南北朝期までずっと平和だったわけじゃないよ。
それに南北朝期の社会情勢の変化も無視しちゃいかんよ。

>>913
なんか北条氏康が幼児期に火薬の音に驚いて泣いたっていう記録があるらしいね。
他にも室町中期の戦いで「これ火薬使ってたんじゃね?」
と思わせる記録が残ってるとか残ってないとか。

>>914
藤原隆家「俺の存在は無視ですか。そうですか。」

916 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 15:06:30
入れ墨って面白いね

http://www.geocities.jp/timeway/kougi-42.html

917 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 15:42:11
幕府・御家人体制が崩壊して、新たな時代の戦術が要請された。
そういうえばこの前攻めてきた手ごわい連中がこんな手使ってたな、ちとためしてみるか、程度はあっても不思議じゃないだろうがな。
当時の日本の記録が、軍記物語主体であまり信憑性無いという欠点あるし。

918 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 16:27:09
鎌倉末期の天王寺の合戦では、楠木正成が騎兵を囮にして幕府の騎馬武者を歩兵の集団で叩いた例があるが。
それ以前となるとちと見当たらんような。
(ちなみに楠木方の一方的勝利とはならず、損害も蒙って後退している)

919 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 17:12:21
そもそもモンゴル自身が征服した土地の戦術や兵器を
次々と取り入れてはパワーアップしてるんだが。

それともモンゴルは主力部隊たる騎兵の戦術そのものは
変わってないから違うとでも言いたいの?

920 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 17:15:06
>>915
だからそれがどれだけの規模よ
小規模で局地的、合戦数だってたいしたことないだろう
インパクトのある外敵の侵入や断続的全国的内戦がなければ大変革なんてあり得ない

今みたいにマスメディアが発達していない時期に局地的な小規模な戦いがあっても関連のない地域では詳細すら判らず何の影響もない

921 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 17:15:35
>>916
入れ墨で思い出したがジャワではモンゴルの使者に
入れ墨いれて叩き返したそうな。
モンゴルを撃退した国は何処も強気な態度に出てるね。
マムルークは使者いきなり処刑してるし(日本は一度目は生きて返した)
ベトナムは拷問にかけてなぶり殺してるし。

922 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 17:23:13
やっぱりモンゴルは日本に騎兵を沢山連れて来たのかな

923 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 17:26:55
えーっとさっきから必死な人は弘安の役でも武士達が大敗したと言いたいん?
文永の方はまあ武士達の負けでほぼ結論出てるが。

924 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 17:31:00
戰敗之の話は決着ついたのか

925 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 17:31:33
>>922
渡航作戦だとウィリアム一世や十字軍が
大規模な騎兵を動員した例があるがどうだったんかな?
確か前にモンゴル側にも騎兵がいたっていう史料提示してくれた人がいたがどこだったかな?

926 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 17:35:44
>>924
元史と高麗史の史料提示して敗北説唱えた人への反論無いみたいだから
武士が負けたのが正しいでほぼ決着ついたっぽい。
個人的には大敗というより惜敗って印象も無きにしもあらずだが。

927 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 17:38:26
倭奴大敗北wwwwwwwwwwwwwww
倭奴大敗北wwwwwwwwwwwwwww
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倭奴大敗北wwwwwwwwwwwwwww
倭奴大敗北wwwwwwwwwwwwwww

俺達大勝利www
武士厨涙目wwwwwwwwwwww

928 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 17:47:27
↑人はこういう民族を虎の威を借る狐という。

929 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 18:46:17
元の日本侵攻は本気でないのは攻城兵器を一つも持ち込んでいないことでもわかる
対金、対南宋、対ベトナム、西アジア、対キエフルーシ
必ずといってよいぐらい常にモンゴル軍は攻城兵器を随伴していた
日本の太宰府を攻めるつもりなら攻城兵器があって当然だが

930 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 19:13:29
手加減してやったのに倭奴大敗北wwww
高麗軍最強!!!!!!!!!!

931 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 20:15:57
>>929
そのとおり
兵の質も装備もろくなもんじゃないと思う
ただし弘安では大型投石器は到着はした
した途端に全て台風で沈んで戦局には影響しなかったオチ

>>930
いい加減にしろよ
反日っぽく取られそうな書き込みが全て胡散臭いものに見られて迷惑だ

932 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 20:18:47
2ちゃんでは春休みに入るとどういう現象が起こるのかというのがとてもよくわかるスレだな

933 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 20:19:32
元にとって日本なんてどうでもいいことは
第三回侵攻用の船舶全力を対ベトナム侵攻用に投入したことでもわかる
この時のベトナム侵攻には海路だけでなく陸路からも日本侵攻では僅かにしかいなかったモンゴル本隊を含む大軍を送った
結局、元は高級将官の一人トゴンを含む多数の将兵が捕虜になる大敗を喫した

敵の退路が海しかないはずなのに高級将官はおろか敵をたいした数も捕虜に出来なかった日本とはわけが違うな
日本はベトナムに感謝すべき

934 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 20:38:10
ベトナムの場合はロシアの冬将軍の南国版って感じだね

935 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 21:00:03
日本に攻城兵器を持ち込んで何に使う気だよ?
城壁なき国で何を破壊する気かとw

日本の城は堀切と土塁(後世は石垣)が防御の中枢。




936 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 21:10:41
元にとって日本遠征が本気かどうかどうでもいい。
日本にとっても文永の役も弘安の役でも結局九州御家人だけで撃退して
局地戦で終わった。
武士の本場関東からはるばる進軍してき御家人は出番なく終わった


937 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 21:17:31
やたらベトナムマンセーしてるけどベトナムの場合は

首都落とされる

モンゴルが国土を蹂躙

モンゴルが粗方盗み尽くして暑さでバテてきたとこで反撃

ってのが常套手段だから。一回目は三千で首都落とされてるし。
無論焦土作戦も立派な作戦だけど過大評価は禁物。
あと弘安の役は司令官達の船はじめ三割ぐらいは沈まなかったけど
そいつらは残された味方見捨ててさっさと逃げて帰ったんよ。
当時の日本には航海技術あんまないから逃げる奴は追っていけないしね。
で、残された奴らはモンゴル人と高麗人は皆殺しにされたわけ。


他にも山ほど突っ込み所あるけど春休み満喫中の子相手すんのも面倒臭いからいいわ。
論破されたから反論出来ない言って勝利宣言するなら勝手にどうぞ。

938 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 21:38:48
>戰敗之の話は決着ついたのか

片方は逃亡したから完全に終わった

939 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 21:50:15
>>935
アホですか?

城壁がなくなったイタリア式築城法で作られた城塞に対しても攻城兵器は使われている
要は城内施設に損害を与え、城内の敵兵の士気を削ぐため
他にも例を出すと
クリミアのジェノバの拠点城塞カッファをモンゴル軍が攻めた時
モンゴル軍はペストに感染した人間を次々投石器で城内へ射出
ペストの知識のなかったジェノバ人はそれがもとで感染した人間を欧州へ帰し
それで欧州全体にペストが拡散した

投石器では人間の他に炭疽病に感染した馬や家畜も射出した例もある


まあ基地外に何を言っても無駄かも知れんが

940 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 22:03:45
>>937
日本も陸続きだと簡単に落ちただろう
なんせ日本の騎馬武者は重装備のくせに蹄鉄もせず草履を履いた非常に小さい馬に乗ってしかも弓射しかできない
しかもこの時代の日本には馬上槍すら存在しないし、日本の騎馬武者は騎乗で直接攻撃をするのはごく稀で通常は下馬して直接攻撃する
これでは勝てる要素が全くない


もともとベトナムは日本の武士のような専業傭兵なんてほとんどおらず
戦闘にはズブの素人の農民を武装した民兵が中心
当然準備と訓練のための時間稼ぎと譲歩を引き出すために交渉するのは当たり前
首都放棄は予め予定されていたし、そのため住民や食糧の多くを残さなかった

941 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 22:05:44
もし日本が陸続きだったら落ちた、というが、モンゴルが島国だったら騎馬民族なんて無駄。


942 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 22:22:37
>>941
頭を豆腐の角にぶつけて発狂したかw

943 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 22:33:46
日本が元寇までに対外戦闘で戦った海戦は唯一白村江
その白村江で僅か兵7000の唐軍に大惨敗w

944 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 22:47:34
お願いだから巣に帰って

945 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 22:59:26
倭奴大敗北wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
倭奴大敗北wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
倭奴大敗北wwwwwwwwwwwwwwwwwww
倭奴大敗北wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
倭奴大敗北wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
倭奴大敗北wwwwwwwwwwwwwwwwwwww

俺達大勝利w



946 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 23:02:15
やっぱりずっと張り付いてんだな

947 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 23:35:58
ずっと同じこと言っているんだなこいつは

948 :日本@名無史さん:2009/03/26(木) 23:58:24
>春休み満喫中の子相手すんのも面倒臭いからいいわ。
>論破されたから反論出来ない言って勝利宣言するなら勝手にどうぞ

正解。高校生程度の論述能力でがんばって連レスしているのは多分1〜2人。
ただ(おそらくは世界史板の某コテ臭い奴が)ミョウな知恵を附けてるね・・・
当人に主張すべき事があるならともかく面白がってスレを荒らしている姿勢が行間から読めるのが気にいらない。

こんなスレがどうなろうと漏れの知ったことではないが(バカの相手をしてもしょうがない)、
この板の複数スレでバカを助長するようなことを某が今後も続けるようなら、
漏れも世界史板を引っ掻き回してやろうかとは考えている。

世界史板の(時間を持余している)中年コテにとっては壺は有用なコンテンツなんだろうが、
漏れには只の暇潰しの場だから(苦笑

949 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 00:48:41
高麗史日本伝では
文永の役では勝ったと書いてあるけど
弘安の役では日本軍に追い立てられて
洪茶丘が馬を捨てて逃げて危うく死ぬとこだった
とか書いてあるんだけどそっちも話題にしようぜ

950 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 03:51:14
>>940
日本の馬は小さいだのポニーだ、だのよく聞くんだけど
蒙古襲来絵詞とか騎乗してる当時の絵とか見ても言うほど小さくは見えないんだよな
今のサラブレッドみたいな大きさは無いにしろある程度の大きさはあったと思うんだけど
競走馬と軍馬と比べるのはどうかと思うけどさ

951 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 03:53:02
> クリミアのジェノバの拠点城塞カッファをモンゴル軍が攻めた時
> モンゴル軍はペストに感染した人間を次々投石器で城内へ射出
> ペストの知識のなかったジェノバ人はそれがもとで感染した人間を欧州へ帰し
> それで欧州全体にペストが拡散した
>
> 投石器では人間の他に炭疽病に感染した馬や家畜も射出した例もある

そりゃあくまで副次的な使い方だ。それを主目的にした戦例があるなら教えてくれ。

952 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 04:56:29
>>898
属国の方々には… 最近は一応独立してるか

953 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 11:15:17
えーと文永も弘安も高麗は罪人と船頭がメインだったんですけどねえw

954 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 11:22:05
>>952
というか応永の時は一万以上の正規軍送りこんどいて
千人足らずの対馬武士にボッコボコにされてるし
秀吉の時は、明が助けにくるまでは1ヶ月で国土全土を蹂躙されてるし
所詮単独ではこんなもん。人それを虎の威を借る狐という。

>>953
kwsk

955 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 11:24:54
まあこういうと、「対馬のあれは脅しだったんです。本気じゃないし戦闘目的果たしてます」だの
「戦国武将の皆さんは明が地方軍出しただけで戦線が後退しましたよねw」だの
厨房らしい反論するんだろうけどねえ

956 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 11:30:14
よくわからんなぁ。
武士が戦術的敗北をしても、結局戦略的勝利を得た文永の役。
日本側が戦術的勝利しても、結局戦略的敗北で総退却に追い込まれた朝鮮出兵。
いずれも相手方の事情が主だが、結果は結果。
主客転倒しているだけで実態は同じじゃん。
なぜ一方だけあげつらおうとする?
蔑視主義者は他人に吐いてるつもりで自分に唾吐きかけるのが趣味ですか?

957 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 11:57:54
>戦略的敗北で総退却に追い込まれた朝鮮出兵

秀吉が死んだことが戦略的敗北?
坊や、大人の話に黄色い嘴を突っ込んではいけませんよ。チョメ。

958 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 12:10:40
お前らとりあえず落ち着け。
そろそろスレも終わりに入ってるし
ここでみんなの文永の役、弘安の役についての見解を
それぞれ根拠を上げた上で述べてくれ。


てか2ヶ月ぶりぐらいに来たんだがなんだこのスレの消費速度w
過疎が売りの日本史板なのに有り得ねえよw

959 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 12:45:34
そりゃ東亜板あたりにいるクズが来ているからな

960 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 13:36:29
蔑視感情のために歴史を利用する奴が一番迷惑かつ醜悪だよな。
そういう奴に限って、「日本側完全勝利・被害は日本兵自身がやったこと」というそれこそ正気とも思えんことをのたまうわけだし。

961 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 13:39:43
>>957
敗北だろ。秀吉が死んだ、というのは日本側の事情だが、何年も兵を出したのに益なく総退却した結果はかわらない。
子供の「日本は常勝であってほしい」という無敵願望はいい加減迷惑だから。ウヨの隔離板に帰ってくれw

962 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 14:03:34
960=961

この板で語るべき能も無いのに日本を貶めたいという願望だけで居ついているオコチャマの自分語りですね分かります

963 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 15:03:48
ウヨもサヨも等しく邪魔なわけだが

964 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 15:54:16
大体倭奴は古来から大韓国に勝ったためしがないじゃんwww
必死に歴史をねつ造しようとするウヨ涙目www

倭奴征伐は台風のせいで頓挫しただけで台風が来なかったら大高麗軍が倭奴を
完全に征伐してたwww


965 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 16:03:22
李朝は清朝や江戸時代と異なり、技術革新を嫌い、低レベルの実物経済で500年もの統治を可能にした
のであり、どこに似ているかといえば、いまの北朝鮮に似ている。19世紀初めの朝鮮の儒者が、「(我が国
の拙(つたな)きところ)針なし、羊なし、車なし」(鄭東ユ『晝永編』)といっている。

針は粗雑なものがあったが、ちゃんと縫うには中国から針を買わねばならなかった。当時の中国針は優秀で、
日本も輸入している。羊はモンゴルに征服された高麗にはいたが、いつの間にか滅びた。車は西洋文化が
流入するまではない。木を曲げる技術がなかったからである。だから李朝には樽(たる)もない。液体を遠方
に運ぶことすらできなかった。かつて日本が保護したとき、韓国はそのような国であった。

大韓民族(朝鮮民族)の文化の特色は、「常に退歩しつづけること」だ。
コピーはできる。しかし、劣化コピーだ。
創意工夫が無い。本質的な理解もしない。だから、進歩することはなく、劣化コピーのみ。
元祖や起源に近いことをありがたがるのも、コピーが世代を経るごとに劣化するからだ。
立地条件のおかげで、常に近隣文化圏から文化文明の供給があったから辛うじて国の体裁を
保つだけのものは確保できた。劣化すれば隣を模倣すればいい、の繰り返しだ。

966 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 16:11:21
もうウヨウヨ言ってる荒らしに触るのはやめようぜ
こんな妄想だけで騒ぐような奴はうざいだけだ

967 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 16:15:05
評価おながいします。(おいらもさっき済ませました)

一番変わらなければいけないのは貴方です

活動内容については、全国会議員の中でもトップを誇る欠席率。この時点で非常に悪いと言わざるを得ません。
更にインドのシン首相との会談を体調不良を理由にドタキャンしたくせに、その当日に地方遊説を行っていたことを
私は知っていますよ。これは余りにも失礼です。インドとの安保理は日本の生命線であるシーレーンの防衛上、
欠かすことが出来ず、インドを蔑ろにするなど以ての外なのですが、貴方はそれを理解した上でやっているのですか。

西松建設の件については、呆れて物が言えません。この件は特に鳩山さんに失望しましたけどね。与党議員に
「疑惑の段階で辞職されるべきだ」と仰っていた気勢はどこへいったのでしょうか。身内になると手の平を返して国策
捜査に陰謀ですか。ジョークにはもっとユーモアが必要ですよ。

この評価を支持:229人中39人  ←w

http://seiji.yahoo.co.jp/giin/rev/detail/index.html?g=2009000340&s=0&d=2&r=1201



968 :日本@名無史さん:2009/03/28(土) 02:34:54
>>963>>966

969 :日本@名無史さん:2009/03/28(土) 10:28:28
朝鮮の役では、日本や朝鮮の捕虜双方が、本国に帰れる時代になっても帰らずその地で相手の家臣になったりとかしているけど。
元寇ではそういう事例はなかったの?

970 :日本@名無史さん:2009/03/28(土) 11:32:31
>日本や朝鮮の捕虜双方

?同一に括られてもね・・・
日本人の捕虜もいたろうが記録に残ってる人物がいないのだから推察のしようが無い。
沙也可の慕夏堂文集は偽書が粗確定済みだよ。

971 :日本@名無史さん:2009/03/28(土) 11:47:46
「日本人が朝鮮人に、どんな形であれ屈服するわけない」という妄想もってそうな奴が煽るぐらいで、まともな回答は期待しないほうがいい。
少なくとも今の流れではな。>>969

972 :日本@名無史さん:2009/03/28(土) 11:54:02
朝鮮の役では、捕虜になった日本兵が後に朝鮮王朝の家臣になり、北からの侵攻である女真族の攻撃撃退に功があった、という皮肉な記録もあるが。
元寇ではきかないな。
日本側捕虜は、王に献上されたあとどうなったか不詳だし。
日本に捕虜にされた側も、元人と高麗人は殺され南宋人だけが助けられた、という話はあるが、じゃあ生き残った捕虜がどうなったかは不明だし。

973 :日本@名無史さん:2009/03/28(土) 12:06:28
朝鮮の役か。
日本側の『大河内秀元朝鮮記』によると、加藤家家臣だった岡本越前守、と称する人物が明・朝鮮側に投降、数千の兵の将となりまた使者として篭城する日本軍の元にきたり、とあるな。

でもそれは何年も戦ったりしたからじゃ?
元寇の場合、捕虜自体これに比べれば総数少なかっただろうし、そのうえで元敵という立場でも名が歴史に残るほどの人材、となるとまず無いだろう。


974 :973:2009/03/28(土) 12:10:49
訂正。越前守→越後守

975 :日本@名無史さん:2009/03/28(土) 13:05:46
南宋兵を元に帰すとは思えないしやっぱ定住して唐人町が出来たんじゃないのか?

976 :日本@名無史さん:2009/03/28(土) 13:29:24
加藤家家臣団の大身武士から寝返った、という記録はないから、
朝鮮側にも名の通った加藤清正の家臣だったことにすれば投降しても箔がつく、と思って他家の武士が自称した可能性のほうが高いだろうけどな>朝鮮についた日本武士

977 :日本@名無史さん:2009/03/28(土) 19:46:48
南宋兵は奴隷にされて売り飛ばされたとか聞いたな。

978 :日本@名無史さん:2009/03/30(月) 09:51:26
>>961
戦略的には負けだろうな
日本て戦闘では強いのに、戦争には負けるんだよな

979 :日本@名無史さん:2009/03/30(月) 10:42:47
日中戦争みたい

980 :日本@名無史さん:2009/03/30(月) 11:26:06
4万の大軍で攻めに来る→九州で少し戦闘した後に1日で引き返す→
帰り道に台風にあう→大勝利?

こいつら何しに来たんだw?
偵察とか言うのならあまりにも無能としか言いようが無いなw

981 :日本@名無史さん:2009/03/30(月) 16:36:20
日中戦争でも中国側に寝返った日本兵は少なからずいたしな。
逆に日本側に寝返った中国兵も(日本がたてた傀儡政権の兵士になったり)

982 :日本@名無史さん:2009/03/30(月) 22:39:29
日中戦争も戦闘には勝ったけど、
戦争には負けた感じがする。
スレ違いでスマン


983 :日本@名無史さん:2009/03/30(月) 22:56:12
考えて見ると、劉復亨が矢傷を負ったことは相当に応えたのだろうな。
これがなかったら、あるいは蒙古軍は戦闘継続したかも知れない。
とすれば、少弐景資は一人で蒙古軍を撤退させる偉業を成し遂げたわけで・・

984 :日本@名無史さん:2009/03/30(月) 22:57:42
妄想が妄想を呼ぶね!
わくわくするわ〜

985 :日本@名無史さん:2009/03/31(火) 02:42:14
急に過疎ったのは、沙也可しか知らないウヨを尻目にスレ違いとはいえまじめな話が展開されたからか?w
今頃極東板にお帰りかな。

986 :日本@名無史さん:2009/03/31(火) 07:56:57
少弐景資は、WBC決勝戦の最後にヒットを打ったイチローのような
ものだな。

987 :日本@名無史さん:2009/03/31(火) 12:06:00
【文永の役】
元は日本への使節だった趙良弼の帰還と共に彼から日本の情報を仕入れ日本制圧(正確には九州の大宰府という街の制圧)
には3万の兵があれば足りると読みます。
最終的に蒙古軍2万5千、高麗軍8千が日本の博多湾へと殺到しました。
百道原というところから進軍した高麗軍は小規模な戦闘で勝利しますがその先の赤坂というところで菊池武房という武士の率いる武士団の手痛い反撃にあい撤退します。
また博多へ進軍した蒙古軍は日本軍にかなり優勢に戦いましたが、劉復享という総大将が少弐景資率いる武士団に狙撃され重傷を負い、軍がみだれてしまい撤退します。
おりしも夕刻が迫ってしまい。元軍は夜襲を恐れ船へと撤退してしまいました。
翌日からも戦闘を続けるかを合議した結果、日本軍の援軍はこれからもっと増えるだろうこと、元軍は消耗が激しいことを理由に撤退を決めます。
そして武士が水城という日本の拠点にいる夜の間に博多の市内に火を放ち、女子供を200人誘拐しそれを手土産に日本を後にします。夜逃げですね。
ところがその帰路にて日本海の荒波に揉まれ、大損害を受けてしまいます。
結局元の目的である大宰府占領どころか手前の水城すら攻略できず撤退するという元軍にとっては悲惨な結果になってしまいました。


988 :日本@名無史さん:2009/03/31(火) 12:10:36
【弘安の役】
前回の戦いから6年後のことになります。
今回の戦いでは日本側も準備万端で迎え撃ちました。
幕府は倭寇と呼ばれる松浦党を中心とした武士団による海賊たちや南宋の亡命者、僧侶、商人達などから情報を集め
元軍がどのくらいの規模の軍隊を何月ごろに送ってくるのかも把握していました。
今回の元軍はまず先鋒隊である東路軍(高麗兵を中心とした合計四万の軍)と後発の江南軍十万で構成されていました。
日本軍は防塁といって要は石垣のようなものを博多湾全域に張り巡らし、元軍が無傷で上陸することの出来る場所をなくしてしまっていました。
どこに上陸しようとしても防塁の上に待ち構える合計四万の武士軍団の矢の雨の中上陸しなければならないようになっていました。
仕方が無い元軍は志賀島という陸繋島に上陸しますが、志賀島はほとんど切り立った崖と起伏と森しか無い上、元軍が上陸した反対側には海ノ中道という地続きの部分がありここから武士が攻め込み上陸しようとする元軍を悩ませます。
そして夜になっても武士の攻撃はやまず今度は海から小船で元の船に乗り込み白兵戦で散々に元兵を殺します。
結局耐え切れなくなった元軍は二日間で3千人の被害を出し上陸を諦め海上へ撤退します。
元軍には少し遅れて援軍が到着する予定でした。
ところが予定の日になっても援軍が到着しません。元軍内部でもここで撤退論が出ますが結局追いすがる日本軍から逃げながら援軍を待つことになります。
多少の小競り合いもあるものの約一ヶ月近く海上での追いかけっこの後、ようやく江南軍と合流しますが
残念ながらこのとき元軍にはほとんど士気らしいものは残っていませんでした。
やがて運命の日、元軍を台風(後の神風)が襲います。
台風が去った後総崩れになった元軍指揮官達は動けなくなった自群の船団を見捨て動ける舟だけで逃走します。
日本軍は逃走した船を追わず、平戸・鷹島を中心に現場に残された残党狩りを行い。5日後、完全に掃討しました。
なお今回の説明は高麗史という高麗の歴史書の内容をメインに述べられています。

989 :日本@名無史さん:2009/03/31(火) 12:30:39
>>950
そうそう。ポニーってのを誤解してる人って多いんだよね。
ちっちゃい馬は「ミニチュアポニー」だけど、ポニーと聞くとこのミニチュアポニーを思い浮かべる様だ。

単にポニーと言うと、体高(地面から肩まで)が160cm前後の普通馬を指すのにね。

日本馬が欧州馬やアラビア種に比べて体格が劣っていたのは確かな様だけど、だからと言ってミニチュアポニーだったわけじゃないのにね。

990 :日本@名無史さん:2009/03/31(火) 12:35:02
>>961
まあポルトガルが日本にビビッて明をあきらめただけでも日本にとっては収穫なんだけどね


991 :日本@名無史さん:2009/03/31(火) 12:44:35
スペインと間違えた

992 :日本@名無史さん:2009/03/31(火) 12:55:24
日本は大陸侵略をするとろくなことにならない、というのは古代からだな。

993 :日本@名無史さん:2009/03/31(火) 12:58:51
パステルス「日本スペイン交渉史」
ルソン提督がスペイン王フェリペ2世に宛てた手紙
「コーチシナ、ここは1000人で征服できます。
カンボジア王国、ここは我ら(スペイン)の生活の面倒をみてくれています。
シャム、ここは1500人で征服できます。
いずれも偉大なスペインの旗を立てるのは容易ですが・・・・・
日本が攻めて来れば、ルソンは壊滅します。」

994 :日本@名無史さん:2009/03/31(火) 13:04:44
どっちかというと大陸や半島が日本に侵攻するとろくなことにならない
といったほうが



995 :日本@名無史さん:2009/03/31(火) 14:00:29
すべての準備が整った西暦202年10月、
この勇猛な女王は肥前の海岸から出航し、無事に新羅の海岸に上陸した。
新羅王はこの東国から来た精強な軍隊と巨大な船団を見て大いに驚愕した。
恐れおののいた新羅王は、直ちに服従の意を示した。
彼は自分の手を縛って女王に拝謁し、自分は日本の奴隷であると宣言した。
神功皇后は自分の矛を王宮の門に立て、新羅王の服従のしるしとした。
彼女は門に「新羅国の大王は日本の犬なり」と書いたとさえ言われている。

ウィリアム・グリフィス『隠者の国・朝鮮』より



996 :日本@名無史さん:2009/03/31(火) 17:18:36
>倭兵大敗、伏屍如麻

倭奴完敗wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
倭奴完敗wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
倭奴完敗wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
倭奴完敗wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
倭奴完敗wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

俺達大勝利ww


997 :日本@名無史さん:2009/03/31(火) 18:50:20
あと一週間もすれば春休みも終わってスレも落ち着くかな?
それまで次スレは立てない方がいいね

998 :日本@名無史さん:2009/03/31(火) 19:28:02
てか次スレもう要らんだろ。ずっと話が平行線だし。

999 :日本@名無史さん:2009/03/31(火) 19:29:29
埋め

1000 :日本@名無史さん:2009/03/31(火) 19:31:10
過疎板だから余裕で1000ゲット

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

336 KB
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