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鎌倉幕府 設立の理由

1 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 22:11:48
鎌倉幕府設置の理由、意味についての質問です。
平氏政権の打倒後に源頼朝が後白河上皇に征夷大将軍
に任じさせたことで鎌倉幕府は設置されました。氏姓
制度以来、政治的権力を集中させた豪族から平清盛ま
での権力者は天皇の貴種性を利用して政権を獲得して
きましたが、なぜ源頼朝は朝廷とは独立した政権を立
ち上げたのでしょうか。確かに朝廷側に「任命」され
るので、その貴種性を利用してはいるのですが、二元
的支配に移行した点でそれまでの政権とは大きく異な
るように感じます。
また、そのように朝廷からの独立を考えるに至った背景
はどのようなことがあったのでしょうか。


よろしくお願いします。


2 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 23:11:55
設立ってw

3 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 23:20:18
私には関東の武装農園領主の庇護政権成立に思えます。
発起が在野にあるので、朝廷外にあって当然だと思います。

4 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 00:39:11
農園領主w

5 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 00:49:52
荘園領主と書けば名目上の所有者(本家)は中央貴族階級にあるので
在地の実質所有者のいみで農園領主と書いた

6 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 00:57:28
農園領主ワロタ

7 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 01:21:44


8 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 07:13:25
最初期の武士を「武装した大農園主」と定義する見解があるらしいが
猟銃担いで労働者を脅し上げる南米プランテーションの所有者を連想してしまう

9 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 13:34:45
「幕府」という概念自体が成立したのは、江戸時代も半ばと言われている。
後付けの名前として、「鎌倉幕府」とか「室町幕府」とか呼ばれるがそれらが
同一の本質と実態を備えたシステムだったかといえば疑問だ。
また1192年鎌倉幕府成立などと暗記させられたものだが、ぽっと突然できあがった
ものではなく、少しずつ、段階的に組み上げられていったものだろう。
そもそも「幕府」の本質とは何か。
平安末期に確立する荘園公領制と、幕府支配とはどう浸透しあったのだろうか。

10 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 13:38:57
唯物史観っぽいが、自分らの階級(武士)の利益代表でしょやっぱり

11 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 14:12:41
>>10
問題は、「利益」をどこからどのように得ていたかだよ。


12 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 19:25:25
前九年、後三年の合戦を見れば、何故?頼朝は幕府を開いたか解ると思うよ!!

13 :日本@名無史さん :2008/09/05(金) 19:51:29
武装牧場領主

14 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 22:33:33
最近は「1190(いいくれ)過ごそう鎌倉幕府 」と教えるらしい。
頼朝が上洛して右近衛大将に任じられた年だ。
頼朝は任官してすぐに返上し、鎌倉に帰って先の右大将家政所の名前で安堵状を出しはじめる。
安堵状は領地の所有権を頼朝の名において認めるという、封建制度の根本となるもので(御恩)、これが武家政権の実質的開始とみるのが今の歴史教科書。
それまで国司権限だった領地所有権の認定、その行政行為を、関東限定ではあるが頼朝個人に移管されたと見れる(朝廷は命じてもいないし、公に認めてもいない、黙認)時点をもって幕府成立ということ。

15 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 00:27:29
>>14
わからんな。全国の土地は公領と荘園に分れていてそれぞれ厳格な
支配をうけていたはず。
荘園にはそれぞれ所有者がいた。どこに頼朝が勝手に与えたり
奪ったりできる土地が余っていたというのか。

16 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 00:29:55
そもそも「武士」という存在もその実体がなんであったのかがあいまい。
源氏も平氏ももともと皇族だからね。各地の荘園の武装団と説明されるが、
それでは説明しきれない。

17 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 02:17:13
>>16
一応突っ込んでおくと、源氏や平氏は天皇の息子を祖とするけど、
皇族ではないよ。源、平といった氏姓を与えられた時点で
臣籍に降下してますな。

18 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 03:55:21
http://bbs.koeicn.com/forum-42-2.html
中国人は日本史に詳しい。

19 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 07:44:36
>15
いや既に領主がもっている土地の所有権を頼朝が追認した(本領安堵)ということ。
領主は頼朝の名前で所有権を守ってもらったと言うこと。土地を守る為にね。
新しい領地は、平家の旧領、続いて奥州、承久の乱後は西国にも拡大した。

20 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 15:09:12
内裏中心の政治から、武家による武士団の統治とその現実的な支配体制を朝廷は認めざるを得ない時代背景があり、更には多くの関東武士団と豪族達が頼朝を武士の棟梁と認める事により自らの権利を保証できる括弧足る武家政権を確立できたのである。

21 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 20:46:43
>1
わかったか?

22 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 00:05:39
>>19
領主ってなんだよ。
平安末期には、荘園か、公領かのふたつしかない。荘園なら
京都の「本家」が土地の所有者だし、公領は天皇が所有者だ。
受領階級は、「本家」から権限を与えられて土地管理を行っていた。
土地の所有権を頼朝から認められたというのは、理解に苦しむ。

23 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 00:10:12
>>1
簡単にわかる話ではない。わかった気になっているだけ。
特に鎌倉時代において「幕府」って概念は、本当にわかりにくい。
日本以外に例がないし、江戸時代のようにシステムとして完成されていないから。
それは近代的な意味で「政府」に相当するものなのか。
律令制は、明治維新まで廃止されたわけではなく、天皇から任命された国司が
各国に派遣されていた。朝廷が「政府」としての機能を完全に失っていたわけではない。



24 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 00:19:32
>>22
>京都の「本家」が土地の所有者だし
それだって在地の領主が寄進と称して、上がりを献上して保護してもらうわけだろ。それを頼朝との
御恩と奉公って関係に変えたわけだろ。

25 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 00:19:43
運が良かったとはいえ、一介の清和源氏に過ぎない頼朝がユニークだったのではなく、後白河法皇が政治政策的にたいへんユニークであられたということ。

26 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 00:22:59
>>24
本家の荘園所有権を破棄したり、関係を解消できなければ、
頼朝と新しい関係むすべないだろ?
頼朝自身が、本家から土地を簒奪しないかぎり、下っ端がそんなこと
できないよね。

>>25
平治の乱で、功績をあげた平氏で痛い目にあったので、
源氏をそばにおいておきたくなかったんだろう。
遠隔地に隔離しておきたかった。両者の利害が一致したんだよな。

27 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 00:30:32
坂東武士団というのは、今でいえば地回りのヤクザ組織のようなものだ
ということをお忘れなく。


28 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 00:31:54
>>24
>上がりを献上して保護してもらうわけだろ。

上がりを献上したのではなく、土地の所有権を「本家」に寄進して
土地の管理権を認めてもらった。
それが「寄進地系荘園」のシステム。



29 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 00:33:37
>>26
そんなに単純じゃないよ

30 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 00:42:00
西欧でもブルジョワが土地を協会に寄進して徴税逃れしていたという
ような話があったな。

 信託制度の起源だったかな。


31 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 00:44:06
 鎌倉幕府は土地信託の受託者だったということか。


32 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 00:46:11
>24
設けられた役所が鎌倉幕府というものの性格を良く現している
政所  御家人の所領の認定(安堵状の給付) 安堵状=将軍家政所下文という証書
問注所 所領の争いを仲裁
侍所  戦功に基づく新領給付
なんの事は無い、つまり所領に関わる行政が鎌倉幕府の実態なのだ
それまでの中央貴族が上手くやれなかったから、朝廷外に新たなボスを求めただけ

33 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 01:12:14
・・・任那が6世紀のはじめに衰弱し、ついに日本の大和王朝と同盟関係にあった百済に一部を割譲し、
さらに新羅にすべてをとられてしまった・・・。くだって7世紀の後半、朝鮮半島の情勢変化とともに百済の
国運があぶなくなった。この「朝鮮半島の情勢変化」というのが、武蔵の国にひびくのである。

百済人がその故郷にあったころ、戦闘にあけくれていた。北は高句麗の圧迫をふせぎ、東は新羅と戦い
つづけていたから、かれらは日本地帯のひとびととはちがい、戦闘に習熟していた。
しかも百済人は、北方の高句麗騎兵になやまされつづけていたから、当然、騎射には習熟していたにち
がいない。
このころの大和から西日本一帯は、瀬戸内海があるため船には長じていた(白村江の海戦で敗れたも
のの)。しかし馬にはきわめて不熟練であり、第一馬そのものがあまりいなかった。

そういう日本列島にあって、その東の辺陬に突如馬文化が成立するというのは、百済人二千の入植とい
う事実をはずしては考えられない。
この集団が、日本史上、われわれが誇る、もっとも典型的な日本人集団とされる坂東武者に変わってゆ
くことを思うと、東アジアの人間の交流や、文化の発生にかぎりないおもしろさを覚える。

開墾地主が、簇生した。その開墾地主が、つまりは武士である。これが荘園制度とからんでいわゆる坂
東武士団がつくられてゆく。
かれらは自分の開墾地の擁護をたのむために京都朝廷に口きき役として源氏や平家などといった筋目
の京都人を棟梁に押したて、みずからの家系をも源平籐橘に系譜にあわせて創ってゆき、つまりは系譜
の上からいえばたれもが桓武天皇や清和天皇の子孫になりおおせて、たれもが百済人と土着人の子孫
といわなくなる


34 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 01:21:24
坂東武者はそんなに特殊かな
平均的な西国人にくらべて

35 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 01:22:19
不輸不入の権は生きている。潰滅するのは、応仁の乱などずっとあと。最終的には家康以降武家公家社寺禰宜諸法度などの権限で石高(貫高から変えられた)を規定されてしまうのです(体制一変)。家康は鎌倉室町の欠陥は徹底的に乗り越えた

36 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 01:22:32
>>33
韓国の教科書には、そう書いてあるの?

37 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 01:27:59
>>33
開墾系荘園は、平安初期の形態で、末期は寄進地系荘園として中央集権化した
体形が作られていくというのは、どの日本史の教科書にも書かれていることです。
武士が勝手に土地を簒奪する余地がどこにあったのか?

38 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 01:28:42
>>33の元ネタ探したら司馬遼太郎だった
http://www.kurikomanosato.jp/to-siba11-kodai.htmの一番下

39 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 01:30:24
たしかに、埼玉かどこかに、百済神社ってのがあるよね。

40 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 01:32:15
>>1
朝鮮人の反乱

41 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 01:34:56
武士の世になったのは、朝廷によって長く崇徳天皇の呪いであると信じられていた。
崇徳天皇は、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と
呪って死んでいった。
大和民族が朝鮮民族によって支配されていったのが、鎌倉時代から江戸時代までの
歴史だったのだ。

42 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 01:49:53
>37
「武士が勝手に土地を簒奪」とはどのレスに対する反論か?

43 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 02:04:32
>>42
御恩・方向の関係で、土地を与えられたり、授けたりする
その土地の所有権がどこから湧いてきたかということです。

44 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 02:11:03
武士は授けられる所有権の由来は気にしません。守ってくれる実力を持ってるのは誰か、と
云う事が大事なのです。

45 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 02:18:50
>43
実体としての土地は平家追討〜奥州征服〜謀反人の討伐などで随時手に入ったろうが
それよりも
 幕府が御家人の所領支配を保証することを本領安堵(ほんりょうあんど)といい、
 幕府が新たに所領を与えることを新恩給与(しんおんきゅうよ)というが、
 いずれも地頭職への補任という手段を通じて行われた。
 地頭職への補任は、所領そのものの支給ではなく、所領の管理・支配の権限を認めることを意味していた。
という事です。
実体としての土地ではなくて、つまりピンはね権限を与えた訳だね。

46 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 02:25:44
>>45
なるほど、それならわかりやすい。
律令制にもとづく租税と地頭たちへの年貢と
農民たちは二重にしはらわなければならなかったという
ことでしょうか。

47 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 02:27:09
地頭というのは、既得権益である中央(京都・奈良)権力筋の荘園以外の、不明瞭な田畑ないし、反朝廷的やから(源平に敗れた武士たちなどの一部)の資金源たる土地を押さえる、後白河の策であり、頼朝はそのしもべ。
幕朝関係が逆転するのは、桓武平氏とも言われる執権北條家が事実上鎌倉の権力者仁なってから。後鳥羽上皇が屈服されてから。

48 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 02:28:52
>>47
後白河が出した荘園整理令と地頭職との関連はある?

49 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 02:36:18
>46
ちがう、公地公民なんてとっくに崩れている
農民達は荘官(中央筋配下の従来からその土地にいる領主)と地頭(鎌倉配下の新領主)の二重支配を受けたのだ
>47
頼朝は後白河のしもべだったのか・・・・

50 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 02:53:55
>>49
くずれちゃいない。
律令制は、明治維新までつづいた。
天皇の任命する国司は、江戸時代の最後まで派遣されつづけた。

51 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 03:09:32
>>49
二重支配地は、朝廷ないし北條家に反対反抗する勢力が中心、ただし執権と国司の対立は巧妙に回避されていたが、実力は鎌倉方の御家人(源氏末流、
のちの足利将軍家の先祖や平家で主流でなかった傍流平氏たち)が上。中央派遣(ないし委託)国司体制は、鎌倉方(地頭と御家人)の圧倒的パワーのもとに事実上潰滅する命運。ただし元寇による疲弊(土地から上がる財政力)で、やがて朝廷方には神風となる。

52 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 10:54:42
鎌倉のクラは、古代朝鮮語。
カマの語源も、コマ。
実際に、高倉福信のような高句麗人は、名前、地名にコマやクラをつけたがった。
コマのつく地名は、関東の至る所に現存する。
関東人は、朝鮮の直系だったのだ。

53 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 13:13:40
高句麗人 新羅人 百斉貴族 加羅人 の末裔たちは今だに韓流、カッコイイか頭はいいよ。他の土着のユーラシア系や、南方系と違う素敵さ(魅力)もそれなりにあると思う 今でも日本でお客さんて感じで生きれてるみたい

54 :日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:42:53
>48 について誰かレスを

55 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 11:37:29
大磯町高麗の「高来神社(高麗神社)」は、東海道がまだない頃、関東地方(武蔵国など)へ
高麗人が船で渡来した所と言われている。つまり、大磯あたりは、関東地方(武蔵国など)の
歴史の始まりであると言われている。

高座郡は、高句麗系渡来人が切り拓いたところといわれており、武蔵国の新座郡もまた新
羅からの渡来人を中心に設置された郡である。

湘南の大磯町高麗にある「高来神社」はもと「高麗神社」と呼ばれていた。

56 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 17:17:18
摂津国百済郡

57 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 17:57:32
東日本には高句麗からの渡来人に関する遺跡が多く残り、高句麗の墓制である
積石塚が長野県や山梨県、群馬県に多く見られる。特に長野県の大室古墳群は
積石塚の一大集積地である。東日本は大和朝廷から命ぜられて渡来人が開墾し
たところも多い。埼玉県には716年に高麗郡が作られ高麗神社、聖天院(高麗王
若光の墓)などが残る。また、神奈川県にはその高麗王若光が上陸したとされる
高麗山、高来神社がある。関東南部の古墳からも高句麗系の遺跡が多く出る。そ
のような遺物の出た東京の狛江という地名は「高麗(こま)=高句麗」から来ている
とされ、調布市深大寺周辺には高句麗にまつわる伝説が多く残されているし、あき
る野市の瀬戸岡古墳群には積石系の古墳群があるなどその影響は大きい。

58 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:02:25
いつ頃の渡来だろうか?

59 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 10:51:17
千葉常胤「京都なんか行かなくてよくね?」

60 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 17:50:13
頼朝「まあまあ、京都とのバランスも大事ですから」

61 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 18:34:35
ヘイシ政権って、あったの?
鎌倉幕府って呼び名は当時あったの?

62 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 23:16:42
鎌倉幕府が坂東武者の代表なら
平家はどんな人達の利益を代表していたのだろう
西国の海賊を討ち、日宋貿易を行い、兵庫に港を造った → 西国の水軍代表だろうか?

63 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 23:43:28
平氏は代表という感覚でないだろ。

武士の貴族化。
初期は武士の権益代表だったかもしれないが、貴族化し変質していった。
平氏末期は、公武両方から支持がなくなった。

64 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 23:47:13
武家政権を作るため

65 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 19:43:39
「倉」「座」=「クラ」について

■ 『神奈川県史』は、『地名語源辞典』(山中襄太)を引用して、「倉」「座」=「クラ」についてまとめている。

■ 『地名語源辞典』では……「たかくら」の項で高倉・高座・高蔵・高鞍の例をあげ、「倉・蔵・鞍・座などは
当て字で、本当は、峨・ー・岩などの字をクラと読むので、その意味は、谷、ガケである。すなわちタカクラとは、高いガケの意」としている。
  さらに、「くら」の項では、倉・蔵・峨・ー・岩・座・鞍・闇の字をかかげ、「これらの字を書いてクラと読む地
名がたくさんある。クラは谷、ガケを意味する古語や方言で、これらの地名は、深い谷や絶壁、それから転
じて絶壁のある山などの名になっている」ということである。

■ しかし、『神奈川県史』は、高座郡の地域がその地勢から見て「クラ」の意については合致しないとして、
その地名の由来をこの地方に正倉が置かれていたことから、「高い倉」のあるところと解釈している。確か
にこの地域は相模平野の中心地で、歩いてみていわゆる「がけっぷち」は見かけなかった。

■ ところが逆に、高座郡を訪ねてみて、この 『地名語源辞典』によって新しい発見をした。それは、新座郡
のあった地域、とくに埼玉県志木市から朝霞市、和光市にかけて、武蔵野台地が荒川流域に落ち込む地
形が「高いガケ」そのとおりだからである。
  もし、この「クラ」=「高いガケ」がこの地域に当てはまるとすると、まさに「新座」の地名そのものではな
いだろうか。

66 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 19:45:06
武蔵國「新座」と相模國「高座」の地名の共通性

■ 「新座」と「高座」の共通性について考えてみたい。
  武蔵の新座郡は、新羅人を中心に758年(天平宝字2年)に郡が置かれた当時は、新羅郡であった。理
由はわからないが平安時代に入って新座郡に変わり、「にいくら」と呼ばれた。中世になって新座郡は新倉
郡と書き、同じく「にいくら」と呼ばれた。そして近世に入ってからは「にいざ」と呼ばれるようになった。
  相模の高座郡は初め高倉郡と書かれていたが、高座郡に変わり、いずれも「たかくら」と呼ばれてきた。こちらも「こうざ」と呼ばれるようになったのは近世になってからである。

■ こうしてみると、相模の高座は高句麗系渡来人の地域として、高句麗をあらわす「高倉」「高座」(たかく
ら)という地名となったことがわかる。一方、武蔵の新座は新羅人を中心につくられた郡が、新羅の「新」を
残して「新座」「新倉」(にいくら)という地名となったのではないだろうか。

■ 「高句麗」はKo-kor´、「高倉」もKo-korと発音し、それぞれ大国・大部落・大郡という意味の朝鮮語だと
いう説がある(中島利一氏の引用…『寒川町史』より)。高句麗(コクリ)は、「高」(大の意)が国名、「句麗」
(クラ)は「倉」で、「座」も「倉」と同じく「くら」と読む。

■ このようにみてくると、高句麗系渡来人が住んだ相模の地域が「高」座で、新羅人を中心に郡が置かれ
た武蔵の地域が「新」座となったものと思われる。


67 :日本@名無史さん:2008/09/18(木) 12:45:58
一介の武士が堂上貴族になるには余程力が無いと無理なはず
力の源は? 背景に何があった?

68 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 23:09:51
通名

69 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 00:21:46
家系図ロンダリング

70 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 00:40:41
ヒント: 頼朝は平家討伐に弟達を使って自らは動かなかった

71 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 00:00:56
開墾地主が、簇生した。その開墾地主が、つまりは武士である。これが荘園制度とからんでいわゆる坂
東武士団がつくられてゆく。
かれらは自分の開墾地の擁護をたのむために京都朝廷に口きき役として源氏や平家などといった筋目
の京都人を棟梁に押したて、みずからの家系をも源平籐橘に系譜にあわせて創ってゆき、つまりは系譜
の上からいえばたれもが桓武天皇や清和天皇の子孫になりおおせて、たれもが百済人と土着人の子孫
といわなくなる

72 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 00:05:39
藤原氏を自称してるケースのほうが多いと思うが?

73 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 20:35:39
>71
頼朝の御家人になるときに、名簿(みょうぶ)を作って差し出したらしい。
要は家系図と一族の氏名官位の一覧を差し出したわけだ。
侍所には名簿が記録されるから、そこに書かれた氏素性が幕府に公認される事になる。
“なりおおせる”事は可能だったんじゃないかな。
自墾地系荘園の保護ならびに氏素性の認定、どこまでも鎌倉幕府は関東武士団の庇護機関だね。


74 :日本@名無史さん:2008/11/27(木) 02:09:24
そろそろ紅葉でも見に行こうかな

75 :日本@名無史さん:2008/11/28(金) 22:18:55
東国武士団は本所から荘官に任じられていたが、治承・寿永の乱に乗じて年貢横領など荘園侵略を進めた。
頼朝は彼らを御家人に組織して武家政権を樹立し、彼らを地頭に補任すると共に本所への年貢納入を義務づけた。
その結果、東国武士団の在地領主権が保障される一方、彼らの侵略行為は抑制され、荘園制の安定が確保された。

76 :日本@名無史さん:2008/11/29(土) 10:39:56
つまり日本国総地頭

77 :日本@名無史さん:2009/04/27(月) 21:49:32
でも後の戦国武将は源氏の末裔ばっかり。

78 :日本@名無史さん:2009/05/10(日) 00:20:03
んなあこたあない。

79 :日本@名無史さん:2009/05/20(水) 01:48:51
源頼朝が裁判所を作ったのって、
自分で考えたの?
それとも,誰かふきこんだやつがいるの?

それとも、中国から制度をぱくってきたの?

80 :日本@名無史さん:2009/05/20(水) 22:09:07
>>79
家臣への検断権を行使しただけ。
だから頼朝の家臣となっていない公家や寺社、非御家人はあまり意味がなかった。
ただし、文治元年に「日本国守護権」を認められてからは公権力として、それらも超越する。

81 :日本@名無史さん:2009/05/20(水) 22:11:58
>>1
決まってるだろ

「諸般の事情により」だよw

82 :日本@名無史さん:2009/06/03(水) 23:59:36
>>50
>天皇の任命する国司は、江戸時代の最後まで派遣されつづけた。

?????

83 :日本@名無史さん:2009/06/05(金) 07:17:03
京の朝廷と、鎌倉の幕府、ふたつの国家が並存したと考えるほうが分かりやすい。
頼朝が鎌倉独自の暦を制定しようとした(結局は断念したが)ことからも、頼朝がそうした意識を持っていたことが伺える。

84 :日本@名無史さん:2009/06/05(金) 07:53:03
>>83
信長じゃなくて?
その話のソースは?

85 :日本@名無史さん:2009/06/05(金) 13:28:43
>>84
常識。

86 :日本@名無史さん:2009/06/05(金) 20:15:13
>>85
明日のトンデモ本大賞を受賞するといいな

87 :日本@名無史さん:2009/06/06(土) 06:11:00
>>86
お前がな。

88 :日本@名無史さん:2009/06/06(土) 20:13:21
>>87
東国独立説論者でもそんなことを言っている学者はいないし

89 :日本@名無史さん:2009/06/06(土) 22:07:41
>>88
お前が知らないだけじゃねぇの?

90 :日本@名無史さん:2009/06/06(土) 22:27:08
朝廷→幕府→地方の平定→荘園の回復→都の上皇・貴族・寺院の収入確保
という構図
幕府にも地頭権を与えて、荘園から上る年貢の一部をくれてやる
朝廷と武家の妥協の産物が幕府

91 :日本@名無史さん:2009/08/14(金) 11:49:14
>>1
素朴な疑問。
頼朝を征夷大将軍に任命したのって後白河上皇だっけ?

92 :日本@名無史さん:2009/08/14(金) 12:17:51
鎌倉幕府は東国政権。
平将門と同じ。彼は新皇を名乗り朝廷と直接対決したが、
頼朝(北条氏)はそうしなかった。

江戸幕府も東国政権、足利は東西分裂政権。

日本史上では対外憂慮もあるので、
二政権の考え方は出来るだけ否定するが実態は東西二つ。

頼朝の頃には平泉・鎌倉・平家の三つ巴の関係もあり、
頼朝が政権を分けて東へ持っていったのではなく、
関東・奥羽・近畿の土豪の覇権争い。源氏や藤原は名目上の御輿。

93 :日本@名無史さん:2009/08/15(土) 20:39:58
>>92
そのとおり。

94 :日本@名無史さん:2009/08/15(土) 20:53:34
東国の独立というより、全国レベルの階級闘争と言ふべきか

95 :日本@名無史さん:2009/08/15(土) 21:54:30
今さらだけど、このスレは宿題じゃないの?

96 :日本@名無史さん:2009/08/23(日) 01:13:54
衆院選、民主勝利後の最悪シナリオ

民主が国政第一党になる

公明「外国人参政権などの党としての本懐で民主党と一致した」
民主、公明の連立政権成立

国政での外国人参政権が成立
国政選挙で民主、公明、社民更なる躍進

人権擁護法が与党の賛成多数により成立
行政、在日朝鮮人、中国人、宗教法人を批判すると罰せられる様になる

国籍法の更なる緩和
日本国籍と生活保護資格だけ持つ、日本人の血が一滴も入ってない中国人が急増

在日朝鮮系、中国人系の国会議員も出現
親中国の自民議員が民主に寝返る
自民党完全無力化、または解散消滅

日本乗っ取り完了

 「民主党の正体」 「ミコスマ」 「韓国は“なぜ”反日か?」で検索

97 :日本@名無史さん:2009/12/28(月) 00:13:25
せいいたいしょうぐん

98 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 02:30:42
>>1
鎌倉幕府は朝廷から独立した政権ではありません。
京都の政府の担当する様々な仕事のうち、武家に関する一部を担っただけです。

鎌倉殿と主従関係を結んだ武士は一部に過ぎません。
あくまで京都政府の下部機関の一つなのです。

99 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 02:35:49
>>武家に関する一部を担っただけ
でも無いんだよな
地方行政権の一部も担ったのは事実です
だいいち、謀反人の追捕とか兵糧の徴収権とか、本来は国府の所管でしょ?
「武家に関する」に留まりませんよ、朝廷の地方官や荘園領主にも影響を与える、とても大きな権力を鎌倉幕府は当初から与えられていたのです

100 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 15:25:17
>>99
98の者ですが、おっしゃるとおりです。極端に書きすぎました。
関西者なのでどうしても鎌倉幕府成立より南北朝内乱を重く見る癖があり、
最も「関西的」な考え方を誇張して書いてしまいました。

ご勘弁下さい。

101 :日本@名無史さん:2010/01/10(日) 19:01:07
>>1
源頼朝の征夷大将軍任命は後白河法皇崩御後だとおもうが

102 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 17:35:40
東国武士の東国武士による東国武士のための政権 鎌倉幕府

朝廷の下部機関ではあるが守護地頭の人事は幕府が担当しており
後鳥羽上皇の人事干渉すら撥ねつけた
幕末に老中2名が勅命で罷免されたことで将軍が怒りの辞表出して江戸へ帰ろうとした
ことをみても、幕府は一定の独立性があったとみられる

103 :日本@名無史さん:2010/03/05(金) 22:08:36
摂家皇族将軍はいただけない。

104 :日本@名無史さん:2010/03/10(水) 11:53:46
鶴岡八幡宮の大銀杏が倒木した

105 :日本@名無史さん:2010/03/10(水) 12:38:41
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100310-OYT1T00422.htm
実朝暗殺を目撃?鶴岡八幡宮のイチョウ倒壊

10日午前4時40分頃、神奈川県鎌倉市雪ノ下の鶴岡八幡宮で、
同県指定天然記念物の大イチョウが根元から折れて倒れているのを男性警備員が発見した。
鶴岡八幡宮では、老木の大イチョウが強風で倒れたとみて原因を調べている。

同八幡宮社務所によると、大イチョウは高さ約30メートル、幹回り約6・8メートルで、樹齢1000年以上。

鎌倉幕府3代将軍の源実朝を暗殺しようと、おいの公暁(くぎょう)が隠れたという伝承で知られている。

10日午前4時15分頃から断続的に「ドンドン」という音がし、同40分頃に大きな音がしたため、
警備員が見に行ったところ、柵にもたれかかるように木が倒れていた。
横浜地方気象台によると、当時、現場から最も近い辻堂観測地点(藤沢市)で瞬間最大風速11・2メートルを記録した。

鶴岡八幡宮の橋本篤権禰宜(ごんねぎ)は「心から衝撃を受けている。残念でならない」と話した。

(2010年3月10日11時27分 読売新聞)

ttp://www.yomiuri.co.jp/photo/20100310-012898-1-L.jpg

106 :日本@名無史さん:2010/03/28(日) 12:36:07
残念やな

107 :日本@名無史さん:2010/03/30(火) 15:14:15
御家人の労働組合

108 :日本@名無史さん:2010/07/15(木) 22:09:29
でも本当に一幡の殺し方は鬼畜すぎる・・・。
生きたまま焼殺するとか・・・。

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