5ちゃんねる ★スマホ版★ ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50  

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

♪邪馬台国 ドンと来い♪ 31

1 :日本@名無史さん:2008/09/01(月) 14:56:41
  {        .    }
     ',.    (,゚Д゚,)    i   _⊂ ̄ ̄ ̄⊃
    ヽ   ∪ ∪   /  ⊂___⊃ ̄
     `ヽ、_    _ ○
          ̄ ̄ ○ ○
 ∧∧   ∧∧   ○ ○ ○
 (;;;;;;;;゚)  (;;;;;*゚) .| ̄ ̄ ̄ ̄|.   /彡ミ. /彡ミ
 /;;;;; |.i i /;;;;; |  ~| ̄ ̄ ̄|~   /彡ミ. /彡ミ
(;;;;;; /乂(;;;;;; /    .|__( ̄)__|   /    /
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄  ̄
邪馬台国畿内説?w、の820の人、使わせてもらったよ。

九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。

前スレ  ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 30
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1214327522/l50

2 :日本@名無史さん:2008/09/01(月) 14:59:47
>>1

3 :日本@名無史さん:2008/09/01(月) 18:07:06
>>1
                      ___, -一ァ ̄ ̄ ̄ `ヽ、
                ,-‐¬  ̄---┘'7        `ヽ.
          , -‐ ''"  し' '´_ /,ィ ̄           ヽ_
       ,r/      __   ,イ::             ゙) 7
      / ||ヽ  -'     / ̄ )::             /ノ )
    ,r '   ヾ、  ,-、____ , イ  ::       ェ==-   ヒ-彡|
  / ヽ    `ー−ソ  .| ヾミ,l _;;-==ェ;、   ト,ィ⌒ヾ,,_ r';' }   >>1
. /    \_   /    〉"l,_l "-,r==- ;::)  f';|ヒノ:} '`ニ゙レr-{    乙であります!
         ̄/      | ヽ"::::''   ̄´.::;i,  i  ==-'    r';' }
        /     . ゙N l ::.  ""..:;イ;:'  l 、  ""  ,l,フ ノ
       <        . |_i"ヽ;:...:::/ ゙'''=-='''´`ヽ.  /i l"
     /           .| ::゙l  ::´~ 、  ' '__. ィ  ''` ,il" .|'"
                 {  ::| 、 :: ヾ三ニ‐':"  , il   |
\               /ト、 :|. ゙l;:        ,i' ,l' ノト、
               / .| \ゝ、゙l;:      ,,/;;,ノ;r'" :| \


4 :日本@名無史さん:2008/09/01(月) 22:55:05
天照大神=卑弥呼とすれば、畿内説には不利になる。
天照大神の後に神武東征があり、畿内に政権が移るから、邪馬台国は九州と
言うことになるからである。

しかし、これを受け入れることが歴史を正しく認識することになるかも。
記紀が、いわゆる謎の時代を説明してくれるからである。

台与の頃から、出雲の国譲り、天孫の日向降臨があり、勢力の拡大が説明
できる。さらに神武東征が続き、近畿地方の支配が見えてくる。
こう考えると、神武東征に相当する時期は、4世紀に入ってからと考える
られる。考古学的には布留期に相当するか?

神武に先立つ饒速日命を庄内期と関連付けることもできる。

5 :日本@名無史さん:2008/09/02(火) 00:41:19
>>4
大和国(邪馬台国)の日御子(卑弥呼)は天照大神です。
その後継者の豊(台与)は豊受大神です。
古墳時代の歴代天皇の配偶者に九州出身者は1人もいないことから
東遷説は完全に否定されます。
古墳時代の日本民族大移動の証拠はどこにもありません。

6 :日本@名無史さん:2008/09/02(火) 00:56:43
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050618/4482.jpg
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050610/2764.jpg
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/090.jpg

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/099.jpg
http://www.sx.xinhua.org/ztjn/2003-08/29/xin_49b7e0a2d93511d7be2c0050ba1967d3.jpg
http://trade.socang.com/sell/view_img.asp?title=%BA%BA%A1%A3%CC%D5%B6%A6%D0%CD%B8%AA&img_url=../img/trade/2007115222431.JPG

7 :日本@名無史さん:2008/09/03(水) 14:57:41
邪馬台国畿内説?wの936以降から

纒向型を言い出したら、崇神稜も規格は纒向型なんだよねえ。
これは、荒木雅博みたく古墳は寿陵(生前に築造する)と考えればOK。

つまり、纒向型が作られた時期と被葬者が葬られた時期とのタイムラグが
遺物の違いになる。
纒向型で築造直後に埋葬されれば、三角は出土しないが、被葬者が
長生きすれば三角が出土する。

この考えでは、古墳規格の存続期間が1世代どころか10年ほどになるので、
年代遡上説が正面から否定されます。

・・・・・に対して
古墳を生前に築造すると、年代遡上説が正面から否定されるという因果関係がわからない。

とのことなので以下、議論を続けます。
同じ規格の古墳が同じ頃に築造されたとして、副葬品の違いは被葬者の死亡時期の
違いとすると、同じ規格の古墳の副葬品の幅を見てみることになります(以下、あとで)。


8 :日本@名無史さん:2008/09/03(水) 15:31:22
>>7  つづき
基本的な前提として、年代遡上説は古墳の1規格の存続期間を長く見るのに
対して、反対説では10年前後とします。

例えば、年代遡上説ではホケノや石塚などの纒向型を230〜280頃とします。
つまり初期の古墳規格に対してのみ1規格に50年位を割り当てます。

しかし、古墳を寿陵であるとして、同じ規格の古墳が同じ頃に作られたとした場合、
崇神稜は、纒向型でありながら、その後のバチ形やバチ形後の規格と同じ頃に
埋葬されております(円筒埴輪が出土)。

これは1規格を50年とすると被葬者が古墳築造後100年以上生存したことになり
説明が説明不可能となります。
逆に1規格を10年ほどとすると、その後2規格経過した古墳と同じ頃に埋葬された
としても問題は生じません。

このように寿陵という視点で見ると、同規格の古墳の副葬品の違いなどが説明可能に
なりますが、年代遡上説には正面から反することになります。

9 :日本@名無史さん:2008/09/03(水) 17:53:54
土器層からみて石塚とホケノでは一世代以上の開きがあるから、
寺沢用語の「纏向型」で一くくりにするのはおかしい。
纏向型とは「定型化」前のプロトタイプくらいの意味でしょう。
箸中山や行灯山を無理矢理三世紀中葉に押し込まなくても、
古墳タイプの空白は生まれないよ。

10 :日本@名無史さん:2008/09/03(水) 18:21:34
>>9
それを逆に見るんですよ。
土器の違いはそれほどの期間のものではないと。

現に纒向石塚の盛土は庄内初期なのに、周濠の土器は布留0ですね。
これは、築造は庄内初期で祭祀は布留0ということになります。
つまり庄内の期間は2、30年程度であったということになります。

ヤマトでの庄内式は320〜350頃ではなかろうかと思います。
これは、年代遡上が始まる以前の見解に近い考えですね。


11 :日本@名無史さん:2008/09/03(水) 19:19:52
>>9
寺沢の提唱した纒向型古墳というのは、

 全長 : 後円部径 :前方部長さ = 3 : 2 :1  

という規格の古墳のことです。
原初期の古墳にはこの規格のものが多く。
時代が下るにつれて、後円部の比率が低下していきます。

纒向石塚、ホケノ山などのほか、記紀では最初に古墳に葬られたとする
崇神天皇の陵もこの規格です。
つまり、崇神天皇の御世に古墳築造が始まったとする伝承はかなり信頼できる
ということになります。

崇神天皇は在位が長かったため、築造直後に葬られた人たちとは副葬品が
違うのでしょう。
また、先に亡くなったモモソヒメの箸墓(特殊器台)よりもあとで埴輪という
ことも伝承のとおりです。



12 :日本@名無史さん:2008/09/03(水) 19:21:54
>>11の訂正。
崇神稜の副葬品は不明です。
しかし、埴輪から箸墓より後の時期であることが判明しています。



13 :日本@名無史さん:2008/09/03(水) 21:16:55
>>1  ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 31

おめでとう、しかし此のスレは人気有るな日本人にとって最大の関心事だね。


14 :サガミハラハラ:2008/09/03(水) 22:39:21
中小路遺跡の調査がおわりました。明日九州を引き払い、大阪に寄り帰郷します。
報告は帰郷してからいたします。

15 :日本@名無史さん:2008/09/03(水) 22:52:23
当時の朝鮮に倭っていう地名があったらしいし邪馬台国もその辺りにあったんじゃないかと思う
金印は家宝として開拓者もしくは百済滅亡時受け入れで持ち込まれたものではないかと

16 :日本@名無史さん:2008/09/03(水) 23:41:18
>>10
それは祭祀が埋葬直後の1回きり執り行われたと言う前提だね?

平たく言えば庄内初期に築造
布留0に「お葬式」・・・とw

しかし気になるのは石塚の周濠って確か前方部分の手前が極端に狭く造られていて
後円部の周りで20m以上あるのにその部分が4mぐらいしかなかったはず。

橋でも渡せば中に入って行ける。
ある程度継続的に祭祀を執り行うのを前提としたとすれば理解しやすいんじゃないのかな?

何れにせよ祭祀が1回きりと言うのは根拠が無いと思うが?



17 :日本@名無史さん:2008/09/03(水) 23:48:33
>>16
逆に祭祀が複数回という証拠もないですが・・・
まあ、完成したときに落成式をしたら複数回かも知れませんが。

18 :日本@名無史さん:2008/09/03(水) 23:53:37
まあ>>7-8の説明だと

纏向の纏向型とされている古墳の被葬者は揃いも揃って早死にしたか
古墳築造開始時には、皆がある程度の年齢だったと言う事になる。

あり得ない話ではないが蓋然性と言う点から疑問だw

それに「纏向型」なんてのは後世の我々の便宜上の分類で
後円部が綺麗な円なのか?等々分類の基準は多々あるわけで
「1つの規格」とするのに合理性があるのかも疑問。

逆にそうすれば三角を出した九州の初期型前方後円墳も畿内のそれと同一規格に入れる必要も無いがw



19 :18:2008/09/04(木) 00:14:53
>>18
>纏向の纏向型とされている古墳の被葬者は揃いも揃って早死にしたか

・・・と言うのは三角が出ていない事についてね。。

20 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 00:42:23
そもそも>>7-8の言うように行燈山古墳(伝・崇神天皇陵)を纏向型として
纏向の古墳と築造時期をほぼ同じにすると

あのような巨大古墳が、ある時代に いきなりドン! と現れた事になるw

かつて小林は、あのような古墳が出現する前には
先行するプロトタイプとも言えるような物があったと想定したわけだが
それをも、はしょってしまうwww




21 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 01:10:16
>>18
纒向型の前後に帆立貝形がありますが、それとの区別が微妙かというと
そうでもないですよね。規格も3:2:1という分かりやすい指標です。

西都原の纒向型とされる古墳もそこでの最古と言われるように、纒向型が
原初期に位置づけられることは、疑いないところでしょう。

今城塚と岩戸山のように距離が離れていても、規格の類似する古墳は
同時代とされることが多いのも事実です。

そうなると、規格が類似するのに副葬品や埴輪などが異なるのはどうしてか
という説明が必要ですが、寿陵というのは一つの回答になります。

22 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 01:37:33
>>20
崇神稜よりも前に、ホケノ山や石塚が築造されたとすると、まず、これと同時代の
古墳がほとんど存在しないという致命的な問題が生じます。
ヤマトでのみポツリポツリと10〜20年おきに古墳が1個ずつ作られたという状況は
想像しにくいですね。

雄略天皇の伝承では、庶民が自宅に鰹木をつけていて責められるという事件が
書かれていますが、最高権力者でない者があの土地に単独で古墳を作ったとは
考えられないので、ホケノ山などはその当時の大王墓であったことになりますが、
そうなると、他の王族はなぜ古墳を作らなかったのかも問題となります。

崇神がハツクニシラスとされる有力な大王で、その前の大王が古墳に葬られたとする
伝承がないことは、無視できないですね。

纒向型のほかの古墳と崇神稜の祭祀の時間差はせいぜい10〜15年程度でしょう。
まあ、こればっかりは崇神稜の本格的調査がされないと何とも言えませんが。

ただ、画文帯と三角との間に別の鏡の期間がないことや、特殊器台のある古墳が少なく、
しかも箸墓に複数の種類があることからは、その期間は長くないであろうとの推測は
成り立ちます。

23 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 01:50:52
>>21
>今城塚と岩戸山のように距離が離れていても、規格の類似する古墳は
同時代とされることが多いのも事実です。

今城塚と岩戸山が規格が同じという根拠を教えてください?

24 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 02:09:09
>>22
>崇神稜よりも前に、ホケノ山や石塚が築造されたとすると、まず、これと同時代の
>古墳がほとんど存在しないという致命的な問題が生じます。

問題でもなんでも無いw

全長200m超級の墳墓と100未満の墳墓
それを作った権力の大きさ違いを考えればその分布に違いがあるのは当然。

それでも纏向型は九州から関東、北限は会津だったかな?にまで広がっているぞ?

ただ、どれくらいのタイムラグがあったかは良く分からないが・・・



25 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 02:16:10
>>22
>ホケノ山などはその当時の大王墓であったことになりますが

おいおい、崇神と同時代(10年ぐらいの間)の大王ってのがお前さんの主張だろう?

偉く規模に差がありすぎるなw

それに10年程度で一体何人の大王がいたんだよ!wwww

26 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 02:24:27
>>25
ホケノ山が大王墓というのは、年代遡上説ではそうなるはずということです。
年代遡上説では、ホケノ山は230年頃、石塚は250頃といった感じで
その時代の古墳は1個しかないので、それは必然的に大王墓になります。

あれを大王墓とみると、発展性のないショボイ古墳だなあという感じがします。
陪塚もない突出した1個だけの墓ならば、巨大権力者の墓ということになりそうですが
それにしてはショボイですよね。

27 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 03:09:59
>>26
200m超級の古墳と比べるとショボイって事になるんだろうがw

吉備の楯築遺跡が両端突起の先から先までが72mだから
十分に大きいと言えると思うが・・・

お前さんの主観だからどうとも言えないなあ・・・

まあそう言う「ショボイ」墳墓築造の時期をはしょって
いきなり200m超級の前方後円墳の時代が始まる・・・なんてチョット無理だろうwwwwww



28 :27:2008/09/04(木) 03:16:45
一応ホケノの大きさだけじゃなくて他の点についても言っておくと
朱で真っ赤に塗られた槨や壷型土器、中にあった画文帯・・・と中々に画期的要素があると思うのだが・・・

29 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 07:47:07
>>26

ホケノ230年、石塚250年つーのは、書き間違いだよな。
でなけりゃ、そのデムパの出どころを教えてくれ。

30 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 16:42:28
箸墓と崇神天皇陵、どっちが古い?


31 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 17:39:09
>>29
ああ、そうか・・・
年代の数値じゃなくて「後・先」の問題つうことねw

32 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 18:55:50
>>28
ホケノを3C半ばあたりにする説だと、同時期の古墳が少なくなりすぎるよね。
同時期に王族がいたなら、一族で10個くらいは各地にあるはずだけど、
ホケノには同時期の古墳がほとんどなくて、陪塚もないというのは
ちょっとおかしいですね。

33 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 19:25:59
>>30
箸墓

34 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 20:43:06
>>33
古墳の規格では、     崇神稜(纒向型)  →  箸墓(前方部が発達)

祭祀の痕跡からは    箸墓(特殊器台)  →  崇神稜(円筒埴輪)

つまり、崇神が即位後まもなく崇神稜を築造し、その在位中に功績のあったモモソヒメの
墳墓を築造し、先にモモソヒメがなくなり、後で崇神が崩御したということで、概ね記紀の
記述に沿う事実が考古学的にも確認できるということ。


35 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 21:05:23
>>32

意味がわからない。

「各地」ってどう言うこと?
全国にと言うことか?
何で10個くらい必要なのか?
ホケノと同時期に比定できる古墳を知らないのか?

何の説明も無く「はずだからおかしい」みたいに言われてもな。

それと貴方はホケノより石塚の方が新しいように言ってた人?
だとしたら、その根拠も教えて。

36 : サガミハラハラ:2008/09/04(木) 21:17:08
大阪によらず本日帰宅いたしました。
結果は小城甘木説のところにあしたから書きます。

37 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 21:33:59
>>35
ホケノと石塚の順序は適当に書いただけ、遡上説をとらない立場から見ると
あの時代にした時点でその先はどうでも良いんだけどね。

自分の考えでは、築造の順では、(石塚、崇神稜)、ホケノ、箸墓なんだけど。
330〜355頃のなかでの出来事と考えています。
崇神の即位が335〜340頃で、崩御が355〜360頃。

38 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 21:36:11
>>35
>ホケノと同時期の古墳

例えば?

39 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 21:43:59
年代遡上説で一貫しようとすると、須恵器の開始が400年ごろでは都合が
悪そうだけど、須恵器を4C初め頃まで遡上させる動きはないのかな。

最終的には関が原の戦いを1500年頃にすれば完了かな。


40 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 23:13:09
>>37

>どうでも良いんだけどね。

要するに鼻から気に入らない説は、その内容も理解せずに
「批判」だけしてるわけね。

41 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 23:50:09
>>38
> >>35
> >ホケノと同時期の古墳
> 例えば?

庄内
 石塚・矢塚・勝山・東田大塚

庄内末〜布留0初頭 
 ホケノ山、中山大塚、下池山

布留0
 箸中山・黒塚・柳本大塚

42 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 01:17:46
箸墓を卑弥呼の墓に比定し、崇神天皇陵が箸墓より古かったら、
崇神天皇陵はいったい誰の墓だということになるからねえ。

43 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 01:47:17
>>32
”纏向型”と言う「形」から今度は「数」のお話なのねw

要するにホケノの周りに陪塚やら群集墳でもあれば
ホケノの被葬者を頂点にしたヒエラルキーがそこに見る事が可能だが
単独でポツンと言うのはおかしい。

だから崇神陵を頂点にしたヒエラルキーを作っちゃいましょう!

・・・ってお話な訳ですか?w

これまた壮大なお話www



44 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 02:00:02
>>40
正直いうとそういう面はあります。
ホツマ伝や東日流なんかを全部読んでから批判しようという気に
ならないのと似たような感じです。


45 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 02:02:31
>>41
それを同時代=10年位の幅とすると私の考えと基本的には
変わらないですね。

庄内時代の古墳から布留0の古墳まで10〜20年というのは、
基本的に私も同じ考えです。

46 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 02:17:02
>>43
まさにそんな感じです。
あの古墳群は基本的に  山側 > 平地
でより高い位置にある方が、見下ろされる側より地位が高かったのでは
ないかという考えもあります。実際、天皇稜は山側にあります。

崇神稜、櫛山が上位の王族側 > 石塚、勝山、矢塚は下位の王族の側
     (原則として)1世王  >  2世以下の王

箸墓のモモソヒメは天皇の子なので上位の王族側だが、女性でかつ皇后でも
ないのであの位置になった。ホケノはその陪塚。

47 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 03:11:34
つうかだな・・・
纏向の墳墓は何も100m前後の前方後円墳だけじゃなくて

従来の方形周濠墓も10基以上見つかっている。
(最大の物がメクリ1号墳)

他にも木棺墓や土器棺墓も。


48 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 03:23:00
>>46
>より高い位置にある方が、見下ろされる側より地位が高かったのでは
>ないかという考えもあります。実際、天皇稜は山側にあります。

つうか箸墓以降とされる西殿塚・行燈山・渋谷向山は丘陵を利用して造っていて
実は見かけよりは労力がかかっていないwww

わざわざ丘陵地に土を運んだんじゃなくて丘陵地を利用して造ったんだなwww

49 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 03:46:02
>>47

土器棺墓って、北九州のカメ棺墓のこと?


50 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 03:51:59
>>48
だから、山側にある古墳の方が古く、時代が下るにつれて平地の方に、
降りてきたといわれてきたのだが。

51 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 04:05:19
>>50
丘陵を利用して造る場合「くびれ」が太い方が労力が少なくて済む。

で「釣鐘型」がデフォになり後に引き継がれて行くとw

形の変遷からだと、こう言う説明になるのかな?wwwwwwww

52 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 07:46:10
新しい古墳が山側に作られたと言うのには、
築山用の土砂の入手が困難になったからではないか?
大溝などの大規模土木工事の廃土を転用していた墳丘づくりも、
箸墓あたりで限界に達し、
その後は尾根筋を改造する方式に変更したと言うわけ。

53 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 10:35:11
墳墓の大きさだけで権力の大小を決めようというのが間違いなんだな。

54 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 12:46:15
大きさだけで評価するものでは無いが、
一つの目安ではある。


55 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 12:55:45
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050618/4482.jpg
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050610/2764.jpg
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/090.jpg

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/099.jpg
http://www.sx.xinhua.org/ztjn/2003-08/29/xin_49b7e0a2d93511d7be2c0050ba1967d3.jpg
http://trade.socang.com/sell/view_img.asp?title=%BA%BA%A1%A3%CC%D5%B6%A6%D0%CD%B8%AA&img_url=../img/trade/2007115222431.JPG

56 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 13:39:07
古墳の形で編年してるの宮崎大学の柳沢一男教授だったんだね

57 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 15:02:26
古墳の年代は、まず埋葬施設を確認し、形や大きさを加味して決めるのが
基本。これらは動かしがたいものだから。

周辺から出てきたもので決めるとなると、その出てきたものと古墳との
関連がわかりにくい。

極端な言い方をすると、自宅から小判が出てくることもあるし、掘ったら、
室町時代の木材が出てきたということも考えられないわけではないから。

58 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 17:00:17
>皆さん三足土器は東北,九州地方を中心に、数多く出土してるよ土器人に騙されないでね。
 北方沿海州だの九州から出てこないだのとワメキ騒ぐので要注意!!!

1. PDF] 縄文土器は、多種多様で彫り刻む文様が組み合わさり、世界的にみても ...
ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat
漆塗り皿形土器〔大洞式土器〕/. 青森県重宝. 024. /注口形土器〔大洞式土器〕
/風韻堂コレクション. /鬲状三足土器〔大洞式土器〕. /漆塗り壺形土器〔大洞式土器〕
/重要文化財. /漆塗り壺形土器〔大洞式土器〕/重要文化財 ...

1. [PDF] 青森県虚空蔵遺跡出土土器の共同研究
ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
六ヶ所村富ノ沢遺跡と、相次いで縄文晩期の大洞式に伴って三足土器が発見されることになる。
いずれも青森県埋蔵文化財センターの正式調査による出土であり、ことに今津例はポジの雲形文
’. とネガの工字文からなる大洞C2式ないしは聖山式特有の文様を ...


59 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 17:02:06
1. [PDF] 岩手県川目遺跡調査概報 草間俊一 ...
ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
にほ縄文式晩期の大洞式のものが多く,第1区にほ晩期のものが僅か混入する程度で,
後期のもの .... この類の土器では図版第2図の2の如き三足土器が. 損土している.
この土器の文様ほ,胴部全体を縦に六つに区劃し,その区劃は2条の沈腺によって ...

1. [PDF] 青森県虚空蔵遺跡出土土器の共同研究ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
九州の一部で発見される三足土器について、賀川光夫氏はそれらが黒陶類似の黒色土器.
と共伴することに注目し、大陸との交渉を肯定的にとらえた(賀川 1961)。この説を
支持した. のは、梅原末治氏で、瑛状耳飾りや大分県秋葉遺跡の有足土器をもとに、 ...
dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/8557/1/80466_42.pdf


60 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 17:04:17
一九七〇年、大分県の国東半島にある重藤遺跡から鉄製の剣が木炭とともに出土した。
これをC14年代測定法で分析したところ「紀元前六九五年プラスマイナス四〇年」
という結果が出た。しかし考古学界はこれをほとんど黙殺。「鉄は弥生時代」との通説
と合わなかったからだ。
縄文式とも弥生式とも異なっていて、中国大陸最古の王朝「殷(いん)」のものと
よく似たトウテツ紋様の土器片が数多く出土している。

伊木力遺跡からは、瀬戸内海沿岸特有の船元 U 式土器が出土した。 それによって、
そこの住民が瀬戸内海沿岸まで交易に出かけたありさまが伝わってくる。
大分県豊後大野市「秋葉遺跡」で、中国の青銅器そっくりによく似た三足土器が出土し ...


61 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 17:06:08

陝西龍山文化系三足土器は何と無く弥生っぽく親しみ湧くね。

紅陶雙耳鬲(陝西龍山文化系、BC2500〜1500)
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/gallery-576.html


62 :日本@名無史さん:2008/09/05(金) 23:40:50
『三輪山の古代の神まつり』(20.8.30初版)で河上邦彦が
年代遡上説で色々書いておりますな。

ホケノ山から出た画文帯について、「そっくりな鏡」が中国で3枚出土と
書いてあるが、王仲殊が別型とする平縁画像鏡のことかな。
あの画文帯は日本で30枚近く同型が見つかっていて、中国では同型の
出土のない典型的な国産鏡だろ。

しかも、河上はそれを「後漢でのみ製造」とするが、画文帯は魏晋の時代の
出土もある、というか北方での流行は魏以降というのが中国での定説。

さらに後漢で作られてすぐに日本に持ち込まれたはずとか書いているが、
じゃあその同型はどうなるんだ?5Cのは伝世?
しかも、日本に持ち込まれた翌日に墓に入れられたかも、とかもう・・・。

布留0のホケノ山が3C後半には「決して下らない」とか、ちょっとそこまで
断言する人は遡上説でも少ないのでは。
なんかもう読んでいて悲しくなったよ・・・

63 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 00:00:13
>>62
日本で500面以上出土して中国、朝鮮で1面も出ない三角縁を
舶載鏡とする説とかもあれだが、こういうことを続けていると
考古学や古代史に対する信頼が根底からなくなるよ。

古墳や遺跡の報告書を読んでいて、ホントに出土したのか、とか
本当は別のものが出ているのではないか、と疑念を感じる部分が
生じたときに、彼らの日頃の言動からその疑いが払拭できないと
なると、もう終わり!

64 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 00:24:04
古田や安本に言われたくないけどな。

65 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 00:31:48
橿原の連中よりマシだろ

66 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 00:47:05
古田・安本信者にとって橿考研は悪の要塞www

67 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 00:49:02
畿内説の学者も、実は結構言葉尻に気を使っていたりするね。

河上は、纏向を「都市遺跡」とはっきり書いちゃったけど、他の人はこれを
はっきり書かずにニュアンス的に書いてお茶を濁す。

まあ、出土状況からは都市とは程遠いし、都城制の何百年も前に都市とか
いうのは元々無理だし、都市がないからその後の時代でも王宮は頻繁に
移動しているわけだから、「都市」という言葉はちょっとヤバイというのは
普通に理解しながら、都市的なニュアンスを書くというのが彼らのテクニック。

河上はそういうのが分かっていない。

68 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 01:28:04
王宮も宮殿もない巨大国家連合の王都=纏向・・・なんてありえないよね〜

69 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 01:38:01
建物の密度が低く、炊飯の痕跡も皆無だったりするので、
「水路などの都市機能が整備されている」とは書いても、
「都市」とはっきり書くのは、ちょっとアウアウ。


70 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 01:43:17
まあ「都市」の定義によるって話だろうなw

この板で
「纏向なんか都市じゃないやい!」
と噛み付いている九州説の連中が問題にしているのはその人口・人口密度だろう。

まあそこに造られた巨大墳墓や大掛かりな土木工事が
その人口に不釣合いな物であればあるほど巨大な権力が発動したと見るべきなんだろうがwwwww





71 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 01:47:31
>>70  
そうそう。
こんな風に書かないといけないのに、河上さんときたら・・・・


72 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 01:59:49
纏向のあの場所は古代の湖が縮小していく過程でできた湿地帯と
地盤のゆるい堆積地の地域だから、都市というのはまあ無理。
水田の痕跡もなければ、環濠集落の痕跡もない。

竪穴式住居がないのは掘ったら地下水が出てくるからだろうし、
それで掘っ立て建物がポツリ、ポツリとあるだけという地域。

所々にある少し高い場所に人が住んでいた可能性は否定しないが、
都市というのはちょっとあれだな。

記紀によれば「大市」という場所らしいから、市場でも作ったのだろう。
水路の掘りやすさと水上交通の利用で合理的ではある。
居住の痕跡がなく、土器と水路だけの場所だし。

73 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 02:19:40
>>72
>記紀によれば「大市」という場所らしいから、市場でも作ったのだろう。

この板の九州説論者は纏向を市場として搬入土器の多さ等を説明しようとするが
各地から直接に纏向にそれが運び込まれたなら、それは経済以外の求心力=政治や宗教が働いたのだろう。

もし直接的に持ち込まれた物じゃなくていろんな地域を経由したものだとするのなら
同時代に同じような市場が各地にあり物流が盛んになったとしなければ不自然。

まあ市場に寄った人々がボランティアで巨大墳墓や大溝の工事をやってくれる訳も無いんですがwwwwwwwwwwwwww



74 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 03:55:37
>>

おまえ
何でもかんでも政治力とか自分に都合の良いように結び付ける典型的おめでたい関西説だな
築地魚市場に創価学会や国会議事堂があるのか?

75 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 04:06:32
>>74
>築地魚市場に創価学会や国会議事堂があるのか?

あるだろ?

76 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 04:57:22
>>74
馬鹿はもう少し考えてからレスしようなw
(てか創価学会?学会員の方ですか?www)

例えば日本に入ってくる最高のマグロを仕入れようとしたら
やっぱり築地にいかにゃならんだろう。
(まあスーパーのキハダ食っている俺には縁の無い話だがw)

何故に築地に最高の物が集まるか?
言わずもがな日本の首都最大の都市東京にあればこそだ。
当然そこに巨額の金が動くから。
モノが集まるのは金や人がいる証拠。

この板の九州説のアホが言っている纏向の市場のモデルは
人のいない奈良盆地の僻地に何故か人が集まって市が立つ。
・・・と言う摩訶不思議なお話wwww


で、巨大墳墓や大溝は誰がどう言う理由で造ったんだ?w


77 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 10:39:55
>>72
纏向に隣接して南には芝遺跡、初瀬川を挿みその又南には坪井・大福遺跡がある。
纏向を含めて全体で半径2〜3キロの圏内に収まる集落群だよ。
各遺跡とも河川の流路変更に伴う断絶や移動があるが、
この地域全体を見れば縄文期から連綿と続く居住域だね。
縄文〜弥生前期は河川原近くの微高地が中心かもしれないが、
治水事業を繰返しながら徐々に居住域を拡大していたものと思われる。

>水田の痕跡もなければ、環濠集落の痕跡もない。
>竪穴式住居がないのは掘ったら地下水が出てくるからだろうし、
>それで掘っ立て建物がポツリ、ポツリとあるだけという地域。

この地域全体を見れば、貴方の例示したようなものは全てそろっていますよ。
貴方の視点は纏向の既調査地域の結果からしか見ていないものでとても偏狭。
例えば、那珂・比恵遺跡群がそれぞれ単独で完結する遺跡の集合では無いのと同じことでしょう?

78 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 12:52:56
>>77
>この地域全体を見れば

そうそう、こんな感じで書かないとダメなのに河上さんときたら、
纏向遺跡を「都市遺跡」なんて・・・


79 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 12:55:27
魏の国は薄葬だったので、魏に柵封された以上、おおくの盛り土型巨大古墳は作らない。
畿内マキムクが邪馬台国ではなかった証拠。

80 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 13:03:58
卑弥呼の墓は径百歩と実際に書かれてるんだから説得力の無い論だな。

81 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 13:05:56
んで、河上さんの部分を読んでいくと、ホケノ山の石囲い木槨と
「そっくり」なのが綾部山39号墳で、これも3C前半とある。

しかし、「そっくり」じゃないという突っ込みはあるだろうし、
綾部山古墳群は5〜7Cの古墳群だから、このなかに1個だけ
3C前半の古墳があるってのはあれだな。
一番古い古墳よりさらに古い古墳が見つかったってのなら、
4C末葉あたりにするのが普通じゃないかな。

あれを3C前半にするなら、須恵器を300年頃にして、横穴石室を
350年位に遡上させないと苦しくなる。
まさに地方の古墳群の古墳を1個だけ遡上させられない典型例だから
他の学者はあまり言及しないのに、ちょっとKYなんだよねえ。

ホケノ山と同じ画文帯が出ているから古いってのもあれだな。
ホケノ山は19cmの同向式で、綾部山39号墳は10cmの環状乳だし、
画文帯は5Cの古墳からも出ているわけだし。

82 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 13:25:17
>>80
邪馬台国の墓は土盛りや石室がないが特徴だから、
卑弥呼の墓にも石室や土盛りがないんですよ。
土盛り古墳だらけのマキムクは邪馬台国じゃないんですが。

83 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 14:17:56
卑弥呼の墓に土盛りや石室が有ったらまずいのですか?
つーか、日本のどこに径150mくらいの丸くて平べったい墓があるのですか?

84 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 14:19:26
>>82
> 邪馬台国の墓は土盛りや石室がないが特徴だから、
> 卑弥呼の墓にも石室や土盛りがないんですよ。
> 土盛り古墳だらけのマキムクは邪馬台国じゃないんですが。

さすが2ちゃん。まだこんな事平気で書ける程度の低いバカがいるんだね。


85 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 14:31:55
>>82がどうやって「邪馬台国の墓の特徴」を知り得たのかはわからんけど、
倭の墓制についてなら8文字の記載が有るね。
まあ、これを珍読した結果の迷解釈なんだろうな。

86 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 14:47:00
河上さんは年輪年代にも言及しているが、検証の問題に触れつつ
結果を参照するような形で書くくらいの慎重さも欲しいところ。

ホケノ山のC14もちょっと扱いにくいのだが、年輪年代で補正した
結果だけを引用するの不用意だなあ。
年輪年代で補正しないとどうなるかってのも問題だし。

地雷原を全力疾走する爽快さはあるかもしれんが・・・

87 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 15:51:45
卑弥呼の鏡は三角縁神獣鏡。
卑弥呼の墓は箸墓。

と来て、

卑弥呼の国は纏向、とくれば、なんか怪しげでもある。

畿内説は、卑弥呼の鏡はなんだったのか。卑弥呼の墓はどこにあるのか、
について結論を出すべきだろうな。

88 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 15:53:32
>>79
サイキバ君 乙

89 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 16:59:53
年代遡上説の急所は、布留1、2式と須恵器なんだよね。
布留0を280年ころまで遡上させたのはいいが、布留1と布留2は
どうするのかという問題がある。

布留1を4C前半くらいに布留2を4C末位にしないとつじつまが
合わないのだが、さすがにそれをはっきり書くのはヤバイ。
須恵器も4C前半まで遡上させたいが、400年頃への遡上がやっとで
しかも「新たな型の須恵器」で遡上させたから、基本的な年代は動いて
いないので、4C前半は途方もなく無理。
しかし、それをやらないと>>81のように遡上説が地方で破綻する。

とりあえず布留を5式くらいに分ける方向でやっているのかな。
形が変わらなくても伴出する遺物が違えば、型式は別だとかの理屈が
ここでも威力を発揮するのかな。

90 :紫眼の黒猫 ◆rGFIQJavMM :2008/09/06(土) 18:16:17
失礼します♪失礼します♪

邪馬台国=日本全土(いちを本州、四国、九州)のことを指してると
いうような説ってないのですか?

91 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 18:55:39
ないです

92 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 20:10:04
>>90
古代の国は統合されてだんだん大きくなっていったと考えるのが普通。
その意味じゃあ、邪馬台国を後の国よりも大きく考えるのは難しい。
たとえば、畿内説をとると、大和朝廷のお膝元である大和国よりは
大きくないだろう。
九州説を取っても、今の県よりも大きく考えることはできないんじゃないかな。

93 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 20:18:24
邪馬台国は連合国であって、一国ではないだろう。
倭人伝を読む限り。
邪馬台国連合の中の女王国が、卑弥呼のいる一国であって。

だから、>>90の認識で合ってるはず。畿内説でも。


94 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 20:44:23
日本アルプス以東は、毛人の国だから、そこが合っていません。

95 :夏祭:2008/09/06(土) 22:29:31
>>90
そういうのは中々無いね。
そういう意味なら「倭国」で事足りる。
>>93
勝手に決め付けるんじゃないよ。
畿内説が全て「邪馬台国=倭国の全体」なんて言ってる訳じゃない。
むしろ、「倭国の中の一国邪馬台国(女王国)」の解釈の方が多い。

96 :ローガン:2008/09/06(土) 23:30:22
>>95

>>90
> そういうのは中々無いね。
> そういう意味なら「倭国」で事足りる。
>>93
> 勝手に決め付けるんじゃないよ。
> 畿内説が全て「邪馬台国=倭国の全体」なんて言ってる訳じゃない。
> むしろ、「倭国の中の一国邪馬台国(女王国)」の解釈の方が多い。

97 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 23:31:39
>>96
ご老体。何が言いたい?

98 :ローガン:2008/09/06(土) 23:34:37
>>95

> むしろ、「倭国の中の一国邪馬台国(女王国)」の解釈の方が多い。

どのくらいの地域をお考えになりますか?
私はX期の出る所と考えますが。 七万戸ですから…

99 :ローガン:2008/09/06(土) 23:35:53
>>97

> ご老体。何が言いたい?

し、失礼しました。

100 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 23:45:05
えー実況中継します。

A夏祭氏・・・邪馬台国は九州から東遷してきた勢力が畿内で興した国とする、邪馬台国東遷畿内説

Bローガン氏・・・邪馬台国は畿内で自生したものとする、邪馬台国自生畿内説

このお二人が、ただいま邪馬台国の場所について語ろうとしています。

101 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 23:48:58
>>93
つうか倭国が連合国で
女王の都するところが邪馬台国だろ?

「邪馬台国女王卑弥呼」ではなくてあくまで「倭国女王卑弥呼」

102 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 00:21:32
倭国は国々の集まり。邪馬台国は一つの国。倭人伝を読めばそんなことは明らか。

103 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 00:26:16
三重構造だったかも。

倭人の首長国群=倭国
倭国の中の主要国=邪馬壱(台)国
邪馬壱(台)国の中の特殊機能国=女王国

104 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 00:28:22
後世では、倭国=ヤマト国=日本国なわけだから、あの時代でも
対外的に国名を「ヤマト」と自称していた可能性は高いわな。


105 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 00:36:56
その可能性はないね。旧唐書のとおり、2つの国が別々に自国名を名乗っていたでしょ。
九州を「扶桑」、畿内を「扶桑の東」、関東を「扶桑の東のそのまた東」とも呼んでいた。
畿内を「日下」とも「日本」とも呼んでいた。


106 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 00:37:19
>>103
そのとおり。しかし、倭国は最大。その次は、女王国(邪馬台国を中心とした
国家群)。邪馬台国は単一の国。

107 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 00:40:32
古墳時代の大和朝廷の皇后で九州出身者は1人もいない。

108 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 00:47:45
>>100
>A夏祭氏・・・邪馬台国は九州から東遷してきた勢力が畿内で興した国とする、邪馬台国東遷畿内説

東遷は無いだろ。九州の痕跡は畿内にない。
せいぜい、吉備から東遷した可能性があるくらい。


109 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/09/07(日) 04:37:56
>>105
扶桑は美濃だっての
蓬莱は尾張だよ


ちなみに扶桑略記に出てくる宇佐宮の弥勒山の弥勒寺ってのも愛知県にあるんだよ
沢山の岩盤(イワクラ)が存在する山が弥勒山だよ

110 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/09/07(日) 04:44:08
つか倭人の女王が治めてた烏弥邪馬国のあった場所なら、大陸の書物にも書かれてるから特定出来るよ

つか邪馬壹國ってのは単に烏弥邪馬國の事じゃないの?



111 :夏祭:2008/09/07(日) 09:49:07
>>98
奈良県と、少なくとも大阪府は邪馬台国に含まれていたでしょうね。
もし邪馬台国の版図が大和国だけなら、今の大阪は別の国になります。
すると、それも記録されてなければおかしいわけですから。

112 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 15:14:24
>>109
扶桑の語が示す地域は時代と人によってまちまちだから、何時誰が言った扶桑かによる。

113 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 21:23:49
遥か昔、紀元前200年頃に、秦の始皇帝は臣の徐福に命じ、東の海に蓬莱・
方丈・瀛洲という三神山があって仙人が住んでいる国にある不老不死の薬を
求めて、3000人もの老若男女の大集団を派遣した。しかし、船は難破し
『倭の国々』の各所に漂着し、地方各所で族長(弥生人)となり、原住民であった
一般住民(縄文人)と混血する。そして、大陸との交易は北九州の国々を介して
継続されていたが、後漢王朝混乱期の2世紀中頃以降から朝鮮半島を通じて
大陸より多数の避難民が倭国に移住してきた。その中の一人に物部の祖饒速
日尊が居た。彼らは北部九州に一定期留まっていたが、大乱に明け暮れる土地
に嫌気をさし、移動を決意して東へ東へと進み、そして安住の地であった河内・
大和の地にたどり着く。そこで地の神であった長髄彦の妹を娶り、纒向の地に
物部政権(三輪王朝)を確立させる。その頃、また一方で倭国大乱の際に中部
九州(筑紫平野)にあったヤマト軍(邪馬台国)は南の熊本平野にあった狗奴國軍
に破れ、ヤマト軍は大きく東南方面に逃亡し日向国(高千穂久士布流多気)に
第二次邪馬台国を樹立させる。そこで、国力を附けて再度北上し、宇佐(中津)
に至り第三次邪馬台国を樹立させる。国力を益々増強させ、兄弟と多数の兵士
を従えて、筑紫国岡水門・吉備を経て、数十年の歳月を費やし、その子孫となる
神宮皇后と武内宿禰夫妻は遂に畿内に至る。しかし、そこには先住者であった
饒速日尊の子(子孫)である宇摩志麻遅命(事代主)が待ち受ける。そこで、
九州にあったヤマトは国譲りの談判に成功し、物部一族は大和の地から追放され
出雲や諏訪地方に落ちていく。強引な談判による敗北に深く恨む物部氏を出雲や
三輪山で厚く祀ることで、その後は大王家(ヤマト朝廷)の平穏が願われた。


114 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 23:39:18
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050618/4482.jpg
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050610/2764.jpg
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/090.jpg

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/099.jpg
http://www.sx.xinhua.org/ztjn/2003-08/29/xin_49b7e0a2d93511d7be2c0050ba1967d3.jpg
http://trade.socang.com/sell/view_img.asp?title=%BA%BA%A1%A3%CC%D5%B6%A6%D0%CD%B8%AA&img_url=../img/trade/2007115222431.JPG

115 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 23:43:01
>>113
>大和の地にたどり着く。そこで地の神であった長髄彦の妹を娶り、纒向の地に
>物部政権(三輪王朝)を確立させる。

大ウソですねえ。
神武が娶った媛は葛城のコトシロヌシやカモ王からもらってますからねえ。
いったい、どこに物部政権なるものがあったのやら。


116 :紫眼の黒猫 ◆rGFIQJavMM :2008/09/08(月) 00:09:20
>>113
それ竹内?

117 :日本@名無史さん:2008/09/08(月) 06:32:57
>>74
領内でこの地区は町人町、武家町、寺社町などときっちりと分離させたのは
信長・秀吉あたりでしょう・・

そんな昔の纏向でシステムが確立しているわけが無い。ある程度、味噌糞一緒
の状態であったはず。

118 :日本@名無史さん:2008/09/08(月) 06:58:02
>>117
九州から関西までの巨大連合国家が関西説なんだろ?
クソ味噌一緒の首都が纏向なんですか?

119 :日本@名無史さん:2008/09/08(月) 07:59:39
>>117
そうなると宮も何処かにあると言う事になるんだろうが・・・

既に一次産業従事者がほとんどいない(つかあの扇状地は水田には無理)ってのがあるからなあ・・・

「祭祀の為だけの都市」と言う可能性すらあるのでは?


120 :日本@名無史さん:2008/09/08(月) 11:03:01
長脛彦の妹を嫁にしたのはニギハヤヒだな。

121 :日本@名無史さん:2008/09/08(月) 23:55:11
神武の前にニギハヤヒ王権があったというのも大ウソで、
ニギハヤヒの後裔より、カモ王のほうが優遇されていました。
物部氏が外戚に割り込んできたのは、ずっと後のことですね。


122 :日本@名無史さん:2008/09/11(木) 16:46:53
南九州なら分からんでもないが、
北九州から親魏倭王印が発見されたら
俺は一生陳寿の文章センスを疑って過ごすだろうよ。

123 :日本@名無史さん:2008/09/11(木) 18:37:41
陳寿から読み間違いを笑われるだけでしょ。

124 :日本@名無史さん:2008/09/11(木) 18:59:59
ひのくに熊本が一番妥当だと思うな。
まあ、狗奴国の存在がネックなのかな。

重要な鉄器の豊富さ、おそらく農業生産力の高さ、当時の人口の多さ。
古くから北部九州と同じ文化圏であること、確実に女王と見られる存在が
確認されていること。
一大率の意味も理解できること。日向との関係も理解しやすい。

とにかく、重要な候補地であることは確かだと思うのだが。

125 :日本@名無史さん:2008/09/11(木) 19:02:16
倭国の中心は、福岡から熊本に移動したことは確か。
卑弥呼の時代は福岡。
倭の五王の時代は熊本。

126 :日本@名無史さん:2008/09/11(木) 19:26:46
>>125
脳波が乱れているぞ!汚染米でも食ったか?

127 :日本@名無史さん:2008/09/11(木) 19:34:24
畿内説の諸君126が呼んでるぞ!
あ、126自身か。

128 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/11(木) 19:56:18
倭の中心地
倭奴國の時代以前:九州北岸(福岡市・前原市)
帥升(倭面土國)の時代:佐賀平野(吉野ヶ里・目達原・米多・佐賀市大和)
卑弥呼の時代以降:筑後平野(久留米市)
618年〜697年:大宰府
698年〜700年:大隈or薩摩(霧島市)

129 :日本@名無史さん:2008/09/11(木) 20:01:07
>>127
脳みそヘルニアの愚かな九州説の人、こんにちは。
人食い人種の熊襲が住んでる九州に邪馬台国はありません。

130 :日本@名無史さん:2008/09/11(木) 20:06:11
熊襲が住んでいる地域の証明をしてから言え>129

131 :日本@名無史さん:2008/09/11(木) 20:33:58
邪馬台国九州説はスーパーで半額シールを貼られた消費期限寸前の食品だ。

132 :日本@名無史さん:2008/09/11(木) 20:36:34
こんな馬鹿に限って、九州説の対極に陣取り、九州説を攻撃するのが定番。

133 :夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/11(木) 22:19:55
>>128
>帥升(倭面土国)の時代:佐賀平野(吉野ヶ里・目達原・米多・佐賀市大和)
あなたとはたまに考えが一致するから面白いですね。
私も倭面土国はその辺りにあったと考えてますよ。
ところで、その辺りに倭面土国があったと言う説の恐らく元祖が原田大六なんですが、
彼が三田川町(当時)を中心として倭面土国が存在したと言う結論を出したのは、
まだ吉野ヶ里遺跡が発見される前の事なんですよ。
その他邪馬台国以前に存在した筑紫倭国について彼の見解を記した「悲劇の金印」も最後まで書かれることはなく、
原田氏は1984年に他界。
その翌年なんです。彼の倭面土国比定を裏付けるような吉野ヶ里遺跡の発見があったのは。
ところが、彼は既に他界していて、死人に口無し状態ですから、
大多数の九州説陣営やマスコミは「これぞ邪馬台国だ」と騒いで、
三田川倭面土国説は忘れられたまま…
この事は後に「悲劇の金印」が彼の後継者達によって発刊され、明らかになりましたが。

134 :日本@名無史さん:2008/09/11(木) 22:24:59
× 大多数の九州説陣営やマスコミは「これぞ邪馬台国だ」と騒いで、

○ 大多数の九州説陣営やマスコミは、畿内より邪馬壱国の記述に近いと冷静に判断して、
   大多数の畿内説陣営は、利権を失う危機を感じて

135 :日本@名無史さん:2008/09/11(木) 22:38:19
畿内説陣営の利権ってなんだ?

畿内説の誰も儲けてる気がしないが。
九州説の本出してるやつは儲けてるだろうけどな。


136 :日本@名無史さん:2008/09/11(木) 22:43:43
>>135
>畿内説の誰も儲けてる気がしないが。

畿内説で給料を貰っているだろうが。

137 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 00:12:11
石野なんて書きまくりだろ。
畿内説で適当に書いてりゃ、そこそこ売れる。
シンポでの発言を他人が書き起こして振り込んでくれる。
ポストが欲しけりゃ畿内説。
魂売るなら畿内説。

九州説なんて、シンポにも呼んでもらえん。
ポストももらえん。

138 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 00:46:58
畿内の考古学研究所は
スーパーアイドル卑弥呼がいなければ新たな発見してもニュースにもならん
だから馬具が出てくるお墓を邪馬台国に関連付けようと
小出しにどうでもいい発見を発表している

139 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 00:51:09
そのうち、箸墓や大和三山を背にして、三角縁神獣鏡を手にして
馬に乗っている卑弥呼の絵が、博物館に大きく展示される予感。

140 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 01:31:51
>>137

九州じゃ、利権にあずかってるのは九州説だろ。
映画まで作ってもらって。

畿内説の映画なんて過去に一度も無いぞ。


141 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 01:35:31
掘建て柱の土間も囲炉裏もない狭い空間に人がすし詰めの
「王都纏向の生活展」とかもイナバ物置の協賛でやりそうだな。

142 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 01:42:40
>畿内説の映画なんて過去に一度も無いぞ。

研究室や博物館が占拠されているから、畿内説の映画は不要だっただけ。
不当占拠に抗議が必要な場合に、映画を作る。

143 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 02:30:21
>>142
おまえはバカか?

映画制作会社も、金になるなら映画を作る。
九州説の映画は作っても畿内説の映画はつくられない。
畿内説に利権があるなどと、バカな妄想はやめろ。


144 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 03:17:08
それは真逆。

畿内説の破綻が世間には浸透しつつあって、日本人のほとんどが
九州説が真実だと見抜いているから、広く受け入れられ、客も付く。

しかし、人事権、任免権のある象牙の塔の上層部は畿内説のままだから、
業界関係者は必死に畿内説を維持している。

こういったお馬鹿な構図になっている。

145 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 03:38:08
オナピって誰のことなの?

146 :夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/12(金) 06:55:32
>>144
×畿内説の破綻が世間には浸透しつつあって
○畿内説=皇国史観だと言うプロパガンダが世間に浸透していて

×九州説が真実だと気付いているから、
○なんか畿内説が皇国史観ぽいと思っているから、

147 :夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/12(金) 06:59:09
実際の所、九州説はむしろ保守層に人気があるようだがな。
安本美典、井沢元彦はその典型。

148 :サガミハラハラ:2008/09/12(金) 08:17:29
安本さん井沢さんが保守層ですか?
革新層かとおもっていましたが。

149 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 13:28:23
吉野ヶ里遺跡が見つかったとき、軽薄なマスコミが考古学者から
「ここが卑弥呼の国ですというお墨付き」を貰おうと必死になった。

しかし、あきらかに畿内より魏志倭人伝の風景に近似していたものの、
軍事的駐屯地のような特殊性が目に付いて、またそれらしき王宮が
見つからず、学者はけっして肯定しなかった。

九州説の人々は、畿内をいくら発掘しても魏志倭人伝の風景が現れず、
吉野ヶ里には見られることから、卑弥呼の国は吉野ヶ里と同じ九州の
文化圏であると確信した。

夏祭はそれを知らずに、

  × 「九州説陣営は吉野ヶ里を邪馬台国と断定した」

といまだに妄想している。

150 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 14:44:15
吉野ヶ里の風景は
確かに邪馬台国の特徴を備えている。
しかし「違う」と認定されてるのも確か。
邪馬台国九州説の補強にはなった、ってのが評価だろうね。

151 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 16:55:24
>>148
どこが革新だよ。

天皇の祖をアマテラスとして実在したとし、神武東征からなにから、
記紀神話は全部真実だって言ってるのは安本だろ。
皇国史観そのままじゃないか?



152 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 17:19:30
しかも、安本は先代旧辞本紀も事実だとして、
物部氏をニギハヤヒの末裔として、物部氏も九州から東遷したとか言ってるが、
海部氏系図については一切論評を避けている。

新選姓氏録ではどうかというと、ニギハヤヒと天火明は別系統。

天火明=天孫系=尾張氏
ニギハヤヒ=天神系=物部氏

物部氏は、先代旧辞本紀で「ニギハヤヒは天火明と同一で、物部氏は天孫ですよ」と言ってるわけだが、
天火明の系譜を伝える海部氏系図では物部氏は出てこないのである。
そのかわり、海部氏系図には天火明の子孫は海部氏、尾張氏だと書いてあるわけ。

さて、安本先生はどう辻褄を合わせてくれるのかな?

153 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 17:28:43
>皇国史観そのままじゃないか?

それは、ローガン。

154 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 17:30:57
夏祭は、時代を繰り下げただけの皇国史観。

155 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 18:56:26
古代の人は神武の東征を史実と考えて記紀を作ったことくらいは、
認めても良いんじゃないの。
同じ伝承を古語拾遺も旧事本紀も書いているわけだし。

それを現在の反天皇制左翼思想から皇国史観というのはナンセンス。

156 :サガミハラハラ:2008/09/12(金) 21:16:36
現在の歴史学会をみるに、まだ主流は津田史学であるといってよい。戦後は左翼陣営の歴史観が主流であり、以外は反動とかいわれ、社会のかたすみにおいやられていた時代が永く続いた。
そして、現代でも主流派ですべて固め、他説のはいることを固くこばんでいる傾向が強いようである。
これは保守である。つまり、保身を図る主流派はもはや保守なのである。
そして、この状況を打ち破り、新しい歴史観をうちたてようとする輩は革新なのである。
戦後、旧来の史観をうちやぶることにより革新とみられていた人々は、地位の安定により、保守となっていることを自覚していないといえよう。
その左翼歴史観を批判し新しい歴史観(それが皇国史観であっても)をうちたてようとする行為は革新なのである。
よって、安本美典や後藤幸彦は革新派なのである。

157 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 22:00:57

安本は革新とも呼べない、ただの咬ませ犬だよ。




158 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 22:45:25

安本の言ってることは「革新」じゃないね。

復古・反動と革新は全く違う概念だろう。

159 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 04:31:07

[保守]
遺跡や出土物が発見されるたび、ひたすら畿内説を前提にした解説をして報道に流す。
天皇―邪馬台国―畿内を軸にして、天皇ゆかり、畿内王権ゆかりの遺跡や出土物として
解説し、疑うことがない。

[革新]
魏志倭人伝の描写に近いのは、纏向より北部九州であることを念頭に、天皇≠邪馬台国
≠畿内であることを踏まえて、遺跡や出土物を分析、解説する。遺跡や出土物を何でも
天皇ゆかり、畿内王権ゆかりの解説をしない。

160 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 09:01:50
>>155
> 古代の人は神武の東征を史実と考えて記紀を作ったことくらいは、
> 認めても良いんじゃないの。
> 同じ伝承を古語拾遺も旧事本紀も書いているわけだし。
> それを現在の反天皇制左翼思想から皇国史観というのはナンセンス。

近代天皇制成立後において、万世一系や神武東征を史実として
頑なに主張する人たちの歴史観を「皇国史観」と呼ぶ。
この言葉は近代の史学用語なので、古代の人たちの思想とは関係無い。

161 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 12:41:59
[保守]
九州からの出土物を邪馬台国と関連付け、
卑弥呼をアマテラスとし、神武東征を史実として、
邪馬台国東遷によって大和王権が生まれたとする。
アマテラス(卑弥呼)から現天皇まで万世一系とする。

[革新]
出土物から純粋に王権のあるなしを観察する。
記紀神話を念頭に考察しない。
万世一系や神武東征を肯定せず、畿内王権は畿内を中心とした勢力から生まれたとする。
天孫降臨神話は完全否定。アマテラスは卑弥呼にあらず。


162 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 13:09:12
[保守]
学会の重鎮が伝統的に依存してきた畿内説を、自己保身から擁護し、あるいは無批判に信じ、
目先の食い扶持を確保し、生き延びようとする立場。

[革新]
保守の立場をすてて、理性と科学を優先し、学問として研究し発表していく立場。

163 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 13:33:10
結局、記紀が書かれた当時にどこまで古い伝承が残っていて、
どこからが付けたしなのかという問題だよね。

津田は、応神以前の伝承は残っておらず、それは創作であるとして、
現在の多数説も応神の母の神功皇后の実在を認めない。

しかし、稲荷山鉄剣は「オオヒコ」までの系譜が載っている。
記紀の内容に不満があって書かれた古語拾遺や旧事本紀も、
骨格は記紀と同じで細部への強いこだわりでしかない。

神武東征を民族全体の集団催眠とするか、史実に基づいた伝承と
するかで、前者を取るのが今の畿内説。

164 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 14:11:54
>>163
>神武東征を民族全体の集団催眠とするか

むしろ、南九州は政治的空白地帯だったから、
どこの豪族も「大王は南九州からきた」という設定を受け入れやすかったのだと思われ。


165 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 15:28:15
>>164

対熊襲の前線基地として軍事的には重要だったけどな。

166 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 15:56:36
皇室の祖先は日向からやってきた。
これは、記紀の重要なモチーフになっている。

果たして事実なのか、それとも違うのか。
もし、違うとしたら、どうしてそのようなことが書かれているのか。

以前、継体天皇のときの磐井の乱に関連付けてみたことがあった。
磐井の地域が皇室の出身母体だとして、ここと争ったとすれば、
継体天皇はいかにも、皇室を乗っ取ったという印象を与える。
だから、日向にしたのかと。

しかし、本当に乗っ取ったのなら、越前中心の神話を作ればいい。
ごまかそうとする必要はなく、自分の都合の良い物語を作れるはずだろう。

にもかかわらず、継体天皇は、日向出身の皇室の系譜にちゃんと乗っかって
いる。
皇室の出身地が日向でないのに、記紀が日向にする理由を見つけることは
できないような気がする。

例えて言えば、織田信長から南九州制圧のために日向に派遣された豊臣秀吉
が力を蓄え、やがて全国を征服していき、正統な後継者を名乗ったという
ようなことが考えられるのではないかと思うのだが。

167 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 16:41:38
>>166
西都原などは、仁徳あたりの時期に最盛期になり、九州最大の古墳も
この頃のものとされていますね。
この時期に日向の系列の王統が有力だったので、日向を皇室の発祥地に
定めたという説もあります。

しかし、古墳時代の直前から日向が九州の重要拠点の一つになったことは否定できず。
それは神武東征を裏付ける関係にもあります。
まあ、その方向に考えることは「皇国史観」とされるのでしょうが。


168 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 16:54:20
畿内説によると184年頃に卑弥呼を共立した勢力には九州は含まれないと
いうことだが、弥生後期〜末期の出土品で九州は畿内の10倍以上あるよね。

有力な地域がひしめく九州を除外して、へき地の畿内でいきなり「共立」という
のも変じゃないかな。

169 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 16:54:30
>>167
>しかし、古墳時代の直前から日向が九州の重要拠点の一つになったことは否定できず。

北九州でなくて、日向なのはなぜ?

170 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 16:56:40
>>168
>有力な地域がひしめく九州を除外して、へき地の畿内でいきなり「共立」という

有力な地域がひしめく「北九州」を除外して、へき地の「日向」なのはなぜ?


どっちにしろ、繁栄してたから、そこに王権の中心があったなんて説は成立しないよ。


171 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 17:00:45
>>168
畿内説じゃ、おかしいよね。
絹の女王=卑弥呼の地から絹が出ず、福岡県ばかりから出るのも変。

172 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 17:03:25
>>171

> 畿内説じゃ、おかしいよね。
> 絹の女王=卑弥呼の地から絹が出ず、福岡県ばかりから出るのも変。

何でさ?

173 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 17:11:59
>>168
畿内説をとる場合は九州まで含めた共立国家群です。
だから、九州で絹や鉄剣が多数出土しても畿内説には
影響ありません。



174 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 17:32:49
23世紀人「20世紀の百科事典には日本には阿蘇山があると書いているのに
       東京が首都だったと言うのはおかしい」

175 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 17:35:55
>>173
それを認めると、勢力で圧倒する九州主体の共立となり、「神武東征」を
認めるのと変わらなくなるから、九州を除外するのが、畿内説の主流。

マキムクでは九州の土器は出ないとして、九州を除外します。

マキムクは住居の痕跡がなく、倉庫のような小規模建物しかないことから
市場(大市)でほぼ確定で、近隣地域の土器しか出ないのは当然ですが、
それを認めると、九州除外もマキムク王権も消し飛ぶという問題があります。

176 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 17:38:43
31世紀人「21世紀の日本の特産品はトヨータジドーシヤだったらしいので
       日本関東説は否定される」

177 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 17:41:02
人口で邪馬台国と投馬国が28カ国を圧倒してるのに、九州が勢力で圧倒(失笑)

178 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 17:43:27
32世紀人「日本関東説では、東海地方以西は日本ではないと言う学説が一般的だ」

179 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 17:44:14
北部九州だけは無い。
だって、…余にも近すぎる!

180 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 17:50:07
九州厨は出鱈目な畿内説をデッチ挙げてるだけだな

181 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 17:51:33
無知だからね。

182 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 17:53:53
畿内説では、3世紀の卑弥呼の国は、すぐに滅亡することになる。
畿内一帯を支配していた銅鐸国家は、突然4世紀初頭に滅亡している。
漢籍ではその後もずっと連続国家だ。これじゃ滅茶苦茶だろ。

183 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 17:55:38
絹は福岡県ばかり圧倒的な量が出る。
卑弥呼の国は世界でも稀な絹の産出国。
畿内からはほとんど出ないから、卑弥呼は九州しかありえない。

184 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 18:00:37
ずっと連続国家www

21世紀まで万世一系の九州王朝www

185 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 18:04:27
>>184
漢籍って日本語わかる?

186 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 18:06:50
ずっとって何時までなんだよwww

どうせお前古田厨だろwwwwwwww

187 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 18:12:55
>>186
お前、隋書読んでないだろ。

188 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 18:28:01
>>183
邪馬台国が九州にあるってのは、みんな分かっています。
それを畿内にもってくるレトリックを競うのが畿内説の醍醐味。
正論なんてつまらない。

189 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 18:31:57
>>188
それもそうだな。
よし、アトランティス大陸畿内説、徐福蓬莱畿内説もはやらせよう。

190 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 18:49:55
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050618/4482.jpg
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050610/2764.jpg
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/090.jpg

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/099.jpg
http://www.sx.xinhua.org/ztjn/2003-08/29/xin_49b7e0a2d93511d7be2c0050ba1967d3.jpg
http://trade.socang.com/sell/view_img.asp?title=%BA%BA%A1%A3%CC%D5%B6%A6%D0%CD%B8%AA&img_url=../img/trade/2007115222431.JPG

191 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 20:44:55
鼎(テイ)はナベのこと。

192 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 20:59:08
>>175
>マキムクは住居の痕跡がなく、倉庫のような小規模建物しかないことから
>市場(大市)でほぼ確定で、近隣地域の土器しか出ないのは当然ですが、

近隣地域ねえ・・・

多い順に言えば

 東海・山陰・北陸・河内・吉備・関東・近江・西部瀬戸内・播磨・紀伊…

で胎土の違いに基づけば26%が非在地系(一般的には精々2・3%)


 え ら く 広 い 近 隣 地 域 だ な お い wwwwwwwwww

出なおして来いバカwwwwwwww

193 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 21:05:24
「纏向=市場」説を必死に言っている奴がいるが

まあ、纏向に市場としての機能があったとするのは良いだろうが

じゃあその市場に巨大古墳や大溝のような大規模土木工事が何故必要だったのか?

それにまともに答えたためしがないwwwwwwww



194 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 22:31:07
>>192
それは九州に比べて「近隣」でくくって構わないのでは?

マキムクでは住居と確定できる建物が皆無というのは厳然たる事実です。
それを正面から認めて、出発点にするべきです。
王宮どころか豪族の居館も未発見で鉄器なども皆無。
しかも、倉庫にしかならない小型建物の密度も低いため都市ではありえない
ことも判明していますよ。

「古代都市」とかの寝言は、発掘に税金が投入されていることからは、悪質な
言説です。ただの詐欺と言われかねないですね。


195 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 22:37:54
畿内大和の仏教初伝は、6世紀後半、播磨国から。
大和から播磨に逃亡すると、追っ手に捕まらないことも記録でわかる。

6世紀後半ですらこの有様だから、3世紀の時点で九州領有は無理でしょ。

196 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 22:40:33
>>193
基本的には>>72に書いたとおりです。
広域論でごまかせば、>>77のようにも言えますが、それは纏向遺跡とは
無関係な話ですね。

あの地域に古墳が多く作られたのは、人が居なかったからでしょう。
立ち退かせる手間が省けます。

あの土木工事を針小棒大に取り上げざるを得ない精神状況には同情すべき
かも知れないが、基本的には内海との水上交通のためのものでしょう。


197 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 00:35:08
>>195

大和から葛城に逃げただけでも追っ手につかまりませんが、何か?

198 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 00:46:05
別な国だったわけですね。それなら同じ意見です。
これで、3世紀の畿内は、九州などまったく領有していないと証明できました。

199 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 00:51:53
>>198
畿内説は領有なんてことを言ってないよ?

九州が畿内に頭下げて、連合国に入れてくださいって言ってきたから、
しぶしぶ仲間にしてやっただけですが。



200 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 00:59:08
遅れた文化圏=畿内がふんぞり返れるわけないだろ。


201 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 01:02:02
>>194
>鉄器なども皆無

あ〜、そこそこ、あまり堂々とデタラメを書かないようにw

ホケノの素環頭大刀を含む鉄剣等出ている。
加えて鍛冶遺構もある。

全体的に少ないと言うのなら同意もするが「皆無」と言うのは日本語を十分理解していない
他国の人なのかな?

それに竪穴式住居も皆無ではない。

人口密度云々で都市ではないと言うのは都市の定義付けの問題。

そもそも別に纏向が都市であろうが無かろうが
それで税金の無駄遣いと言うそしりを受ける物ではないだろうに、アホか?www

九州以外を近隣で括ったりと無茶苦茶書き杉だw

一からやり直しなさいwwwwwwwwwwww





202 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 01:08:21
九州の圧倒的優位が全然崩れていない件について

203 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 01:15:57
素環頭大刀
ttp://home.b06.itscom.net/kodaishi/page015.html

ほぼ福岡からしか出てないみたいだけど、
邪馬台国は福岡ってことでいいってことだね?

204 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 01:17:40
そもそも纏向の人口密度が異常に低かろうがそれで畿内説が不利になる事は無いw

(まあ個人的には 纏向=邪馬台国・卑弥呼いたの都 とするのには保留する立場だが)

要は九州説の連中は邪馬台国を巨大な環濠集落と言う風なモデルを想定しているだけの話www

纏向に市場の機能があった事を認めるに吝かではないがそれだけでは古墳・大溝の大規模土木工事を説明できない。
(あれらが「大した事は無い、過大評価しすぎだ」と言うのなら
同時代の土木工事でそれを上回る物が幾らでもあるのか?)

むしろ近くに大型の環濠集落が幾つかあれば労働力はそこから…と言う事になるだろうが
そうでないのなら労働力を引っ張ってきた権力があったと言う事に他ならない。

まあここの九州説の人間は権力の存在を認めたくないから「市場」1本で物資の集中を説明してお茶を濁す気だろうがwww



205 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 01:25:55
>>199
結局、九州説の連中はそう言った連合体のモデルを想定できない。
(この板の九州説に鬼の首をとったかの如く
喧伝される門脇の場合もそんな感じだったがw)

征服者・被征服者のモデルしかねwwwwww

合従連衡の例えではないが国と国の結びつきなんて色々あると言うのに・・・

まあそこらへんが九州説論者の限界かな?wwwww


206 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 01:31:31
九州に鉄砲が伝来したとき、
その気になれば九州は武力で畿内と戦争できただろうが、そう出来なかった理由を考えればいい。

バカには無理だけどな。

207 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 02:44:54
>>201
古墳の遺物は数に入れんだろう。
古墳時代に入って鉄が増えたことは誰も否定しない。

竪穴式は1、2個だったか。年代がはっきり分からんが。
居住の痕跡に比べて土器が多すぎることと、「大市」という伝承が
あることを普通に直視すれば、「大きい市場」だろう。

都市でないのに、都市といって税金を投入させたら問題あるよ。
掘れ掘れなんとかだし、効率的な発掘とは程遠い。

208 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 02:51:06
>>207は、なぜ古墳時代に鉄が増えたと思ってるんだ?
九州がタダで鉄を畿内にくれてやったとでも思ってるのかな?

209 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 03:14:46
>>207
>古墳の遺物は数に入れんだろう。
で今度は年代観の争いに話を逸らすのか?w
元々時代の区分をせず「纏向」というお話だからなあw

そもそも纏向の発掘に「纏向=都市」と言う事で予算がおりたなんて事実があるのかよ?w
あるならソース出してみろwwwww


ホレホレ詐欺と言うのならむしろ吉野ヶ里だなw

元々工業団地を造る予定地だった物が「すわ邪馬台国か?」と言うマスコミの勇み足で
それが凍結した経緯があるのだからwwww




210 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 04:12:48
畿内に
圧倒的量の鉄器
最大の鏡
環濠集落物見やぐら
大量の絹製品
その代わり九州からは馬具付き前方後円墳と少々の倉庫

異次元の別世界を想像してみた
関西説のみなさん相手の立場になって自分の姿を想像してみよう
いかにキチガイの狂言かがわかるとおもうよ


211 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 05:10:48
>>210

ぷぷ。自分の浅知恵をひけらかせてどうするんだろうね?

土器についても考察してみてね。バカには無理だろうけど。


212 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 05:11:21
>>210  馬具は決定的だね。

最古の古墳のはずの箸墓の周濠から馬具が出たのは、まずいわな。
馬具は400年以降というのが定説で、それ以前はまあ無理。

箸墓は布留0に建築で、馬具は布留1の層から出た。
これで布留0が4C前半に遡らないことが確実になった。
年代遡上の畿内説のいう3C半ばとか酷すぎだなあ。

畿内説は馬具を中国より古くするつもりかよww
東スポ伝説なみの畿内説の学説史に新たな1ページだな。


213 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 05:15:29
>>212

>畿内説は馬具を中国より古くするつもりかよww
かまわないんじゃないの?
最古の馬具は日本で発明されたとしても。それが事実なら。

それよりも、土器といったらバカのひとつ覚えみたいに、
布留とか庄内とか言ってる頭じゃ、自分の浅知恵は自覚できまい。


214 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 05:25:47
>>211
土器を言い出したら、畿内説は終了だろう。
昔は4C後半からとされていた布留式に布留0創設してなんと3C半ばにした。

じゃあ、布留1、布留2はいつからいつまでか。誰も明言できないよね。

布留1を最近は300年頃にしようとしているが、4C後半の遺物の古墳から
布留0とか布留1が出る始末ではもう終わりだわな。
ノムギ古墳とか、4C後半の埴輪があるのに布留0だが、どうするんだ。
埴輪も遡上するしかなさそうだが、だれも特攻隊に志願しないぞww

いっそのこと布留1を3段階くらいに分けたらどうだ。
どうせ学問の一線を越えたんだから、行く付くところまでやるしかないだろう。

布留2は須恵器と並行で5C後半まで続いているが、須恵器出現の400年頃で
終わったかのようなニュアンスでごまかすという方法もあるぞ。
というかそんなのもいるな。

215 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 05:59:13
>>214

やっぱり、布留しか頭にないのか。

浅い。あまりにも浅い。悲しいほど浅い。


216 :夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/14(日) 07:01:46
邪馬台国の名産は倭錦だから邪馬台国は北九州だ(21世紀の言葉)
日本の名産はトヨタ自動車だから日本の首都は旧愛知県だ(30世紀の言葉)

こんなのを誰かが言っていた。
…なるほどね。

217 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 07:22:01
其地無牛馬虎豹羊鵲

馬が無いとあるに馬具とはこれいかに?

218 :ローガン:2008/09/14(日) 08:56:32
>>212
> 馬具は400年以降というのが定説で、それ以前はまあ無理。

なんで?

> 畿内説は馬具を中国より古くするつもりかよww

中国で鐙の見える遺物の紀年は永寧二年。俑であるゆえ、現物の存在は当然これを遡りますね。
400年以降が定説とは、誰が言っているのですか?

219 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 09:55:48
>箸墓周濠出土の鐙

そもそも「自重による沈み込みは無い」と言う事だが

馬ごと濠に落っこちて周濠底の堆積物を掘り返した状態で鐙をそこに落とした
・・・なんて事も考えられないのだろうか?

それに恐らくこのネタを引っ張っている九州説論者は
我国の馬や馬具の伝来は半島で十分普及後と言う筋書きを思い描いているんだろうが

実際の導入は百済・カヤの地から言わば「官主導」で行われており
高句麗の南下と言う半島の状況の反映とも言われる(主に軍事目的か?)

それに先駆けての実験的な導入と言う筋書きもありうると思うのだが・・・

何れにせよこの鐙一個で年代決定の材料にすると言うのは
例え九州説の立場に立つ学者でもいないんじゃないかな?w

まあ安本センセイは別としてwwwwwwwwwwwwwwwww


220 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 10:02:30
馬がないとなれば、スサノオノミコトが天斑馬を逆剥ぎに剥ぎた場所が高天原
だから、女王国は高天原ではなく、またアマテラスは卑弥呼ではないな。

221 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 10:06:47
>>220

馬鹿だな・・・
今話題になってる場所は、邪馬台国じゃなくて大和の箸墓の周濠だろうw
高天原とは全然関係ないじゃないかw

222 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 10:09:59
だから九州説で アマテラス=ヒミコ は成立しないだろうと言ってんだよ。
話題は九州もいくらでもある。お前は早トチリの王者か〜?

223 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 10:13:37
>>222

>九州説で アマテラス=ヒミコ は成立しないだろう

意味がわからんがなw
アマテラスが何で卑弥呼で邪馬台国が九州なんだよw
それに高天原と邪馬台国と何か関係あるのか?ァン

224 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 10:19:20
だから箸墓のバグのこと言ってんのは分かっているが、九州に馬が
いないということを言い出す説の場合は、さっきの等式は成立し
難いだろうと言ってるわけ。こっちは卑弥呼がアマテラスという説
は否定している。高天原と女王国とは直接の関係は無い。
まぁ、中には畿内に神武以前卑弥呼がいて、アマテラス=ヒミコ
だとか考えてる奴もいようし、書きこみは悪くはないだろうが。

225 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 10:23:32
>>224

つまり、脊髄反射で意味不明のこと書いちまったつーことね。
もう一回寝ろや。
一生寝ててもいいぞw

226 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 10:31:18
お前の豆脳の考察が狭小だから困惑するわけだ。ww

227 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 10:43:57
戯言はいい加減にして、今日は一日不貞寝してなさいな。

228 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 10:50:51
お前は史離滅裂だからこっちへ文句をしこたま垂れてくるわけだ。もっと広く
考察意識をもたないと、短絡的思考でお前の豆脳は四苦八苦するぞ。ww

229 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 10:56:21
統合失調の症状がでてるぞw

230 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 10:57:46
お前はよくお前の豆脳と向き合って相談でもしてろ!ww

231 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 11:09:23
犬国の言う事にまともに付合っちゃダメ!www

つうか要するに高天原でのスサノオのDVは
かなり後になってからの付け足しちゅうこっちゃねw

実際の日本の何処にそれがあったかなんちゅうのはナンセンスも良いところとwwwww

232 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 11:11:30
何の相談?
俺の「豆脳」?
あーそうか、俺のパソコンのマイクロプロセッサのことか!

で、相談つーのは何だ?
俺はオマエと違ってさ、パソコン画面に話しかける趣味は無いぞ。
あーそうか。検索しろと言うことだな。

「太国」「統合失調」でぐぐったら、14件ヒットしたぞw

太国 統合失調 の検索結果 14 件中 1 - 14 件目 (0.16 秒)
http://www.google.co.jp/search?num=100&hl=ja&newwindow=1&q=%E7%B5%B1%E5%90%88%E5%A4%B1%E8%AA%BF%E3%80%80%E5%A4%AA%E5%9B%BD&lr=

233 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 11:33:45
邪馬台国が九州にあったのか畿内にあったのかは永遠の謎
親魏倭王の金印が何処から出てこようが、略奪し継承されたものと
主張する者がいるはず。

個人的には、大分(宇佐)から宮崎(日向)の九州の東南海岸部が
女王国のエリアと解しています。

234 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 13:33:51
>>232
オマエは妄想が激しいなぁ〜〜。www  勝手にやってろい。

235 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 13:55:28
・チョット前に那国が金印貰ってる
・女王国が代々統治

この二点だけでも邪馬台国は九州だな
畿内説は政治中枢の連続性が無い
土器をいくら古くしてもそれよりさらに古い遺物との連続性が無いと歴史を組み立てられない

畿内説は今のところ卑弥呼の時代突如として現れた超巨大連合国家邪馬台国て感じだよ

236 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 14:13:43
那国が女王国だってよ

237 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 14:31:13
>>235

土器の古い新しいしか発想が無いのは哀れだね。

土器の持つ意味は「拡散」なのに。

238 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 14:49:26
つーか、布留以降になるとよほど特徴のある器形でないと、
編年は難しいんだろう?

239 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 15:04:22
>>215
反論できないのですね。分かります。

>>218
日本では、馬具の確認できるのは5C以降だから。
たまたま箸墓の周濠で見つかった馬具が、たまたま最古と考えて、
しかも他の馬具より100年ほど古いという想定は無理でしょう。

>>219
『大和・纒向遺跡』に記載の発掘報告によれば、周濠の土層は明確に分かれて
いるので、かくはんされて混入したとするのは、難しいでしょう。

いずれにせよ、年代遡上説が布留、須恵器、埴輪をどう扱うのかは、見ものですね。
全部遡上させるしか手はないので特攻隊に道を開いてもらうしかないでしょう。

240 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 15:15:33
>>238
それで椿井大塚山は、布留1〜2を布留0〜布留1に変更させましたねw

須恵器や埴輪の遡上にはやはり限界があるし、5C以降の古墳の遡上も
なかなかやりにくいよね。

そうなると方向としては、布留0を2段階に分けて、布留1を3段階に分ける位の
ことをしないと年代遡上は維持できないよね。
微妙な形の変化を「職人の目」で見分けていくという方向になりそうだ。

それでもダメなときは、共伴する遺物の違いとかでごまかしながら分けるという
奥の手もあるよね。小型の別の土器が伴わない特徴があるとか言い出せばOK。
というか庄内の細分化はこれだもんね。

241 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 15:17:06
>>239
>>215
>反論できないのですね。分かります。

面白いやつだな。やっぱり、理解できてなかったか。

もう一度言うよ? 

土器の持つ意味は「拡散」。




242 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 15:20:29
まあ、あれだろ。2〜3千円で買える九州説の本で、
畿内説批判してる内容を鵜呑みいしてるから、実年代という発想しかできないんだろうな。
もう少しバイトして、5千円以上の本が買えるようになりなさい。


243 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 15:24:20
>>241
謎かけして相手に下駄をあずけるのですね。分かります。

>>242
5千円以上の本ってなに?値段で中身が決まるのかな。

244 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 15:27:46
5千円以上の本って、古田武彦が最近出した本だと思います。

245 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 15:34:31
3世紀の畿内に邪馬台国があったならそれは銅鐸国。
銅鐸国=邪馬台国は4世紀初めに滅亡してる。
魏志倭人伝に短命国家=邪馬台国など載っていない。

246 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 16:00:21
邪馬台国畿内説は正論。
邪馬台国九州説は暴論。

247 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 16:20:45
邪馬台国の後継国に、阿蘇山あり。
  →×畿内 ○九州

248 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 16:25:53
紀無いにあれば、記紀に卑弥呼の記事が満載されるよ。

249 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 16:39:07
卑弥呼の時代、中国と卑弥呼の国だけが絹を産出していました。
絹が出るのは90%以上福岡県。
   →×畿内 ○九州

250 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 17:11:03
そうねえ。九州は絹もあるし鉄もあるし、阿蘇山もあるねえ。
で、魏志倭人伝の国々、邪馬台国は九州の中で完結と。

裏を返せば、その頃、九州以外の、
瀬戸内〜畿内〜東海・越では広域首長国連合があったことになるね。
土器の流通・拡散ルートによって証明済み。

邪馬台国は九州でもいいけど、所詮は4世紀までには畿内王権が出来上がり、
九州は泣く泣く畿内の大和王権に参画しなくちゃならなくなるわけよ。

これが、九州にあったとされる邪馬台国の可哀想な姿であったwwwww



251 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 17:40:12
>250
畿内にはそれ以前から銅鐸国がありましたが何か?

663年白村江の戦いでは、九州王朝の命令で畿内が半島戦に参戦させられてます。
671年唐軍2千人が九州王朝に来たとき、九州王朝の一派を率いて兵を起こし、
畿内王権を倒したのが天武天皇です。ここで畿内王権は滅亡しました。

252 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 17:45:54
>>251

美濃で挙兵した天武天皇が、九州王朝一派を率いたとは片腹痛いわ。
古田も、そんなおバカな発言してないんじゃないの?


253 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 17:49:34
252は戦時中の国史でも読んでオナニーしとけ。

254 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 18:04:18
>>253

いいから、「天武天皇が、九州王朝一派を率いた」という出典を教えて。


255 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 18:42:53
文献としての出典があると信じている根拠を教えて。

256 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 19:11:06
じゃ、貴方はどうやって九州王朝の存在を認知したの?

257 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 19:19:42
発掘調査と漢籍と記紀・続日本紀等の矛盾無き総合的解釈。

258 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 19:36:25
すなわち妄想によって九州王朝説を導き出したのです。

259 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 19:48:10
矛盾だらけの畿内説の完全破綻を証明できました。

260 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 19:59:50
>>239
>『大和・纒向遺跡』に記載の発掘報告によれば、周濠の土層は明確に分かれて
>いるので、かくはんされて混入したとするのは、難しいでしょう。

はあ?w

鐙一個を混入させる為の攪拌が
周濠土層全体をどうこうする訳じゃないだろうにwww

>特攻隊に道を開いてもらうしかないでしょう。

特攻隊ってのはこの鐙一個で年代がどうのこうの言っている奴だなwwwwwwwww





261 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 20:05:22
>>251
>銅鐸国

うーん、「祭器場」と同じく俺自身聞いた記憶の無い言葉だがwwwwwww

具体的に…

(1)その中心は畿内の何処か?できれば遺跡名で
(2)その勢力の範囲及び実在した年代

とりあえず上記を教えてもらえると助かるwwwwwww


まあ「銅鐸国」があるんなら「銅矛国」もあるんだろうか?wwwwwwwwww













262 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 20:52:22

>>251
九州王朝説

現在、本説は、井上光貞、榎一雄、山尾幸久を始めとする複数の東洋史・日本
史学者等から批判されており、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書
においては記載されずに無視されている説であることに留意する必要がある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


263 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 20:57:01
もう年号で決まりだ。

264 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 20:58:46
>九州王朝説

キ○ガイだと思っておけばほぼ間違いないwww

265 :ローガン:2008/09/14(日) 21:05:13
>>239
> 日本では、馬具の確認できるのは5C以降だから。
> たまたま箸墓の周濠で見つかった馬具が、たまたま最古と考えて、
> しかも他の馬具より100年ほど古いという想定は無理でしょう。

貴方は箸墓馬具の年代観は、4世紀初めに遡るのは無理だろうと言う事ですね?
仮に貴方が勝手に無理だという4世紀を論点においたとして…

私は馬具が中国において3世紀に遡る旨を書きました。

>>212畿内説は馬具を中国より古くするつもりかよ

ほらおかしいでしょ?そんな誰も言ってない事を勝手に反論して。
誰が中国より古いと言いましたか?

266 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 21:11:03
箸墓等纏向の古墳は、石室がある古墳だと思う。
卑弥呼の国は、石室のあるような古墳は作らず、塚しか作らないんだよ。

267 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 21:22:15
ははは、老顔、ムリムリ。サイキバ君に答えられる訳がないよ。

268 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 21:35:23
箸墓と魏志倭人伝の記述が一致しないから、ダメ。

269 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 21:43:02
>>265
300年頃とすると鐙(あぶみ)の出土例としては最古になるが、
それが何か?

日本出土のほかの馬具は全て400年以降という状況で、箸墓の周濠から
出土した馬具だけは、「箸墓は古いから最古の馬具」という理屈はおかしい。
むしろ、逆に箸墓は4C後半以降と考える方が素直では?

まあ年代遡上説には何を行っても聞こえなさそうではあるが。
あれは学説史上の汚点だよなあ。

270 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 21:46:47
年代遡上説の連中も弥生時代の出土状況でみれば

九州 >>>越えられない壁>>>>畿内

という状況は理解しているんだよな。

ならば、古墳時代を3C初めとすると、卑弥呼を共立した勢力は
九州が主体ということになるんじゃないのか?

どうせなら、古墳時代を150年頃まで遡上するくらいの特攻精神を
見せないと何ともならないだろう。
まあ、そんなバカも既にいるがww


271 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 21:47:31
もう箸墓は、4世紀しかありえないな。
卑弥呼とは一切関係ないな。

272 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 22:00:40
>>266
だから

倭地温暖・・・其死有棺無槨封土作冢 だよね。
邪馬台国に何故限定するの。少なくとも、30ケ国もあるんですよ。
郡使は邪馬台国には足を踏み入れてなさそうだし。


273 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 22:02:04
年号という証拠は動かせないよ。あとは反論者はイカサマだとか
私年号だとか、強引に信用度を落とす策謀で葬ろうとするわけだ。
だがあんなに出てればもう不動だ。それは「台馬」の副流煙では
な〜い。主流年号だ。

274 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 22:02:08
>鐙
まあ混入が一番可能性が高いだろうw

普通に考えて馬を輸入したのなら繁殖可能な頭数を揃えただろうから
鐙一個だけじゃあなんとも…w

じゃあ他の馬具や馬自体の骨は何故でない?




275 :ローガン:2008/09/14(日) 22:02:36
>>269
イエイエそらさないように。
>>212 畿内説は馬具を中国より古くするつもりかよ

誰がいつ言ったの?



276 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 22:06:13
<畿内説・汚辱まみれの学説史>
1、「畿内の後進性」を約100年間も無視、否定し続けてきた。
 その間にヤマト(奈良)と福岡の出土量の差は50〜100倍にもなった。
2、環濠集落の時期に確実に遡る鏡が畿内では0面という状況をいまだに明言しない。
3、魏志に記載のある「鉄鏃」の出土は、奈良は福岡の100分の1という事実を認めない。

4、日本で500面以上出土、中国、朝鮮で0面の三角縁を舶載とするのが主要勢力。
5、日本以外ではほとんど出土しない踏み返し鏡については、かたくなに国産と認めない。

6、鏡に含まれる鉛の同位体比の論文は30年も無視し続けて今日に至る。
7、しかし、データが一切開示されていない年輪年代を即時に採用するダブスタ。

8、「畿内の後進性」を認め始めると同時に、100年以上もの急激な年代遡上を敢行して
  まで畿内説にしがみつく。
9、地方の古墳群では、年代遡上は破綻しているが、無視し続けている。
10、三角縁を国産とすると、同型鏡出土の古墳が遡上できないから、舶載と言い続ける。


277 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 22:14:29
「畿内の後進性」を否定して、無視して、ごまかし続けてきた畿内説の100年って
何だったんだろう?

鉄の出土量が福岡の50分の1以下とはっきりしていたのに何十年も無視してきて、
恥ずかしくないのかなあ。畿内の鉄はよく溶けるとか、アイスじゃないんだよ。

鏡なんて、環濠集落の時期と断定できる鏡が1枚も出ていないのに、古墳から出た
三角縁を卑弥呼がもらった舶載と叫び続けてきた恥ずかしい歴史がある。
伝世とか、特鋳とか、ストリーキングなみのハズカシさがあるよね。

それが破綻して、年代遡上に急に飛びついている様は、竹やり片手に精神論を
唱える終戦末期の大本営そのものだよね。哀れすぎる。

278 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 22:21:01
そうねえ。九州は絹もあるし鉄もあるし、阿蘇山もあるねえ。
で、魏志倭人伝の国々、邪馬台国は九州の中で完結と。

裏を返せば、その頃、九州以外の、
瀬戸内〜畿内〜東海・越では広域首長国連合があったことになるね。
土器の流通・拡散ルートによって証明済み。

邪馬台国は九州でもいいけど、所詮は4世紀までには畿内王権が出来上がり、
九州は泣く泣く畿内の大和王権に参画しなくちゃならなくなるわけよ。

これが、九州にあったとされる邪馬台国の可哀想な姿であったwwwww



279 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 22:21:06
>>275
そのときの新聞発表を忘れたの?
「最古の馬具発見!」と大々的に報道されていただろ。

http://www2.begin.or.jp/sakura/topix10.htm
畿内説が東スポを超えた瞬間w


280 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 22:30:19
弥生時代終末期の土器の流通範囲は、近畿から北関東まで及んでますね。
だから、古墳時代になるとほぼ同時期に毛野国でも古墳とかが作られ始める。
弥生時代後期に、前方後円墳体制に順ずる首長国連合の枠組みが近畿〜北関東まで形成されてたのだよ。

ちょうど、崇神天皇の子が毛野国を治めてたりして、面白いように史実と一致する。

九州?知らんがなw 邪馬台国でもあったんだろwwww


281 :ローガン:2008/09/14(日) 22:33:35
>>279
> 「最古の馬具発見!」と大々的に報道されていただろ。


「国内最古」ですね。では何故 >>212 畿内説は中国より古くするつもりかよ

になるのですか?

282 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 22:37:10
邪馬台国は九州にあったらしくて鉄器をいっぱい抱えてて、
九州と機内は鎖国状態で、鉄や絹は近畿に流通させてなかったみたいだけど、
その鉄器は4世紀には畿内にどっさり献上せざるをえなくなったね。
どうして、ぺこぺこ畿内の大王様に頭下げて鉄器を差し出すハメになったのか、
誰か説明して欲しいものだわwwwww

東遷? まさかね〜プゲラ


283 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 22:39:00
>>281
まあまずリンク先嫁よww

「日本に騎馬文化が到達したのは地形や歴史から東アジアで最後というのは
自明だが、そこで現存品として最も古い鐙が見つかったということは逆に、
鐙の起源はもっと古いということを意味する。」

ようするに、「日本で出土した鐙が一番古い」ってことをオブラートに包んで
さりげなく書いているわけよ。
「東スポ越え」の賞賛の嵐に少し照れたかどうかは知らんがww

284 :ヨコからだが・・・:2008/09/14(日) 22:42:56
>>283
>ようするに、「日本で出土した鐙が一番古い」ってことをオブラートに包んで
>さりげなく書いているわけよ。

バカか?w

「大陸→日本」の流れ全体が今考えられているより、もっと古くに遡ると言う事であって
その順序が逆転すると言うわけじゃないだろうに…

日本語の不自由な人かな?www

285 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 22:44:28
ここで必死に年代遡上批判してる人って、
ようするに、九州という弱小国が、4世紀に入って滅亡する寸前に、
卑弥呼を擁立して邪馬台国という最後の火を灯した、ってことを言いたいわけですよね?

それならそれでいいんですよ。
あくまでも、考古学的知見からの考察によったもので、
実年代の捉え方に相違が出てくるのは、それはそれで拝聴し議論できる。

ただ、まさか、4世紀以後も九州が邪馬台国として独立した王朝を保てたとか、
九州の王朝が畿内に東遷したなんてことは考えていないよね?

286 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 22:52:36
漢籍を何度読んでも、九州だ。
邪馬台国って、漢籍にしか出てこないんだよ。
>>276-277で、畿内説死亡。

287 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 22:54:35
「年代遡上には布留式がネック云々」言っている奴がいるが…

要は0・1・2式と各様式の流通期間が最大でも○年と想定しての話だろ?

しかしそんな事に固執する必要があるのか?
弥生土器から土師器になりローカル色が無くなり斉一的な物になって
変化の要因も少なくなっただろし

そもそも土師器自体は平安時代の12世紀ごろまで使われており
更に言うならその後近世まで造られた「かわらけ」も土師器w

そこまで数十年(想定しているのは十数年か?)毎に様式の変化を認められるのか?wwww




288 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 22:59:23
>>286

九州の邪馬台国は4世紀に滅亡したことは認めるんですね?




289 :ローガン:2008/09/14(日) 23:00:01
>>283

> まあまずリンク先嫁よww

ハイハイ。

> ようするに、「日本で出土した鐙が一番古い」ってことをオブラートに包んで
> さりげなく書いているわけよ。

そうは読めませんが


290 :ローガン:2008/09/14(日) 23:02:16
>>284さんが、先に書いてましたね。失礼

291 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 23:46:38
[九州の邪馬台国は4世紀に滅亡したことは認めるんですね? ]

さあ、どうですか?みなさん。
九州説の人は、この質問に誰も答えようとしませんね?

所詮、九州説の本質というのは、
「九州に邪馬台国があった」ということではなく、
「九州の王権が4世紀に畿内に東遷して大和王権になった(安本)」
「九州の王権が7世紀に畿内に東遷して大和王権になった(古田)」
ということを言いたいがための枕にすぎないわけですよ。

その証拠に、九州説を唱えてる人で、
「九州の邪馬台国は、4世紀以後、どのように滅亡したか?」を研究してる人は皆無なわけです。

九州説というのは、「九州の民族は、弥生時代から現代までずっと政治の中枢だった」と言いたいわけ。
これが、邪馬台国論争の本質ですよ。



292 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 23:49:50
はあ?畿内の銅鐸国が4世紀初頭に滅亡しましたが何か?
九州王国は、ドンドン栄えて九州王朝に発展していきますが何か?

293 :サガミハラハラ:2008/09/14(日) 23:52:47
私は邪馬台国の名実共の滅亡は290年代のことだと思います。
288年に東夷30カ国が中国に貢献しています。その後ぷっつりととだえてしまいます。
この貢献は西進してくる大和王朝の脅威から逃れるために中国の力を借りようとしたが失敗、
その後大和の軍門にくだったものとかんがえます。
時代は垂仁天皇の時代です。

294 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 23:54:26
私は九州王朝説ですが、東遷など認めておりません。

なぜなら、東遷の意味する内容が
「国家の東遷」
「国民の東遷」
「国王の東遷」
のどれかであり、どれもそんな事実がないからです。

ただし、九州王朝の主流派を率いた大海人皇子が、
畿内王権を滅ぼして天下を取っただけです。

295 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/14(日) 23:56:46
滅亡時期はわかれば尚可だが、そんなことは不明でも構わんわけ
だよ。言えることは、女王国が九州にあったことだぜ。これが確か
なら別に滅亡時期がわからんでも九州説にゆるぎはな〜い。

紀無い説が正解なら記紀に卑弥呼の女王国の記事が主流煙的に満載
される。ところが「台馬」の記事は紀には神功39年等のごく僅かな
副流煙しかない。これは紀無いには「台馬」が九州されていない明確
な検査結果なのであ〜る。

文句があるなら、明日聞いてあげるから書きこんでおけ。
ZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・・・、

296 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:04:28
>>292
カエレ

>>293
まあまあだな。
4世紀に倭国が歴史から消えるのは、政治的混乱があったことを匂わせることは認められる。

>>294
大海人皇子が美濃で挙兵したことも知らんようでは話にならん。

>>295
いずれかの時期に九州の滅亡を事実として受け取るのであれば、まだ救いがある。


297 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:11:36
さて、残るは年代遡上くんだが、
年代遡上くんは、九州の邪馬台国が4世紀に滅亡したことは認めるのだろうか?

今度出てきたら、ゆっくりお話を伺うつもりだからそのつもりで。


298 :サガミハラハラ:2008/09/15(月) 00:14:05
邪馬台国の滅亡は3世紀だってばあ。

299 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:24:16
>>292
>銅鐸国

うーん、「祭器場」と同じく俺自身聞いた記憶の無い言葉だがwwwwwww

具体的に…

(1)その中心は畿内の何処か?できれば遺跡名で
(2)その勢力の範囲及び実在した年代

とりあえず上記を教えてもらえると助かるwwwwwww


まあ「銅鐸国」があるんなら「銅矛国」もあるんだろうか?wwwwwwwwww

300 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:24:55
>>296
九州王朝が関東まで制圧していたことを知らないのは無知。

301 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:26:31
邪馬台国は大和朝廷ことです。滅亡などありえない。

302 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:26:41
>>299
銅鐸国は畿内を制圧した国。畿内国=銅鐸国は4C初に滅んだね。
この国が邪馬台国のわけが無いでしょ。

303 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:28:11
九州王権も遷都をするわけで、滅亡と信じちゃった畿内馬鹿はお粗末な発想。

304 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:30:36
>>303

そうだね。遷都は2世紀ということでいいかな?

305 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:31:22
>>302
お前バカだろ?w
てかサイキバ君だな?ww

じゃあ九州の銅矛国も滅ぼされたんだな…っちゅう話だよアホwwwww

てかきちんと「銅鐸国」なるものの中心地を言うてみ?www



306 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:34:57
>304
何度も小移動してると思うが?

307 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:41:36
>>305
畿内一円が銅鐸国家だろ。
それとも邪馬台国を小集落=ピンポイント国家を想定しちゃったの?
それじゃあ、魏志倭人伝の倭人国家じゃないでしょ。

308 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:43:23
>>307
畿内って九州も含むの?

309 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:44:35
>>303
そう、7・8世紀頃までには何度も遷都しているだろうから
九州王朝の都は一つや二つであるはずが無い。

なのにいまだに「ここが九州王朝の都!」と断定できる物が出てこない。

九州王朝説論者の脳内では
大和朝廷が完全に破壊し尽くしてその痕跡が無いと言う理屈だが

 … 大 和 朝 廷 凄 杉 wwwwwwwwwwwwwwwwwwww


310 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 00:55:17
>>309

いやいや、九州王朝説論者の脳内では、
大海人皇子が九州の兵士を美濃に集めて畿内王権を剥奪したことになってるらしいよ。

311 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 01:00:30
>>307
>畿内一円が銅鐸国家だろ。

そんな巨大国家、何処の誰がどうやって滅ぼすんだよ?ドアホウwwwwwww

そもそも銅鐸の埋納は弥生中期末頃から始まっており
ある日突然に始まった話でもないwww

複数出土の銅鐸の形式の組み合わせを見れば尚明らか。


「祭器場」に続くアホ丸出しの造語「銅鐸国」

サイキバ君の恥の上塗りはまだまだ続く。
ひょっとしてエンドレスかな?wwwwwwwwwwwwwwwwww


312 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 01:41:20
>>289
ありゃま、じゃあどう読むんだ。
否定するときは、自分の意見を言うもんだぜ。

まあ、論点逸らしのための粘着だろうけど。
あの馬具は普通に考えれば400年前後だろうね。
他の馬具は400年以降であれだけは、300年頃って駄々をこねるのは
みっともないよ。

三角縁が日本で500面以上で中国で0面でも舶載と駄々をこねる幼児と一緒だな。

313 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 02:00:34
>>312

よお、年代遡上くん。

おまえは、邪馬台国が九州にあったとして、
4世紀以後、九州の邪馬台国が独立を放棄して畿内王権連合に参画したことは認めるのかい?




314 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 02:09:14
年代遡上くん=安本な人=九州ですが ???


315 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 02:21:39
>>313
年代遡上くんはそっちでしょww

遡上シャケ君=土建屋=老教授=老教授の従者=その他、いろいろww
評論人とか、橿考研賛助会員なんてのもあったか・・・六合も君だよね。

この手の過疎スレでコテ使ったら目立つだろうに・・・
2chやり始めてから人格崩壊起こしていないかな。
最近は草をはやしすぎだし、適当に煽りあう程度でいいじゃんか。まじめすぎ。

九州ですがさんは最近見ないなあ。

316 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 02:30:07
>>315

おまえ、そんなに大勢のコテハンから虐められてたのかwwww

老教授は覚えてるが、他は知らんな。
どんだけ粘着してたんだよ。

317 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 02:42:51
>鐙

つうかさあ…
普通に考えて人為的要因による混入を先ず疑おうよwwwwwww

仮に件の鐙を400年前後とすれば
古墳への馬具や馬型埴輪の副葬がもっと早まらなきゃならんだろ?w



318 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 04:00:03
箸墓が崩れれば、畿内説は崩壊か・・・

  なんて脆弱な学説だろうか・・・

319 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 04:43:11
鉄が無いのに箸墓はどうやって作られたんだろう?
石のスコップでもあったのかな?畿内土人が木の棒で掘ったのかな?
でも馬はいたんだよね?不思議な古墳だね。

320 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 07:20:41
隋国の役人が、「即ち・・」と随書のなかで、ヤマトに関しての
混乱を断定形で正して見解している。

遣隋使の使者や返礼者としてヤマトを訪れた裴(世)清ら一行の報告
をもって、その混乱も解消した。

「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」
(原文=邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)

この裴(世)清の来日の件は日本書紀では、推古天皇16年の条で大唐
とされている。

日本書記の編者らは隋から唐への革命による政権移行が正しく認識で
きていなかったことは事実である。

これをもって、九州説諸氏はこの条項に反論しているが、ヤマト側に
よる中国(隋や唐)の認識よりも、要は隋国の使者が正しくヤマト側の
ことを伝えていればそれでよいのである。

608年4月 裴世清ら隋使一行が筑紫に到着
   同6月 難波津に到着、一行のため高麗館の傍に新館を建設
   同8月 京に到着、大伴連が出迎えて国書を天皇に奏上
   同9月 裴世清が隋に帰国、小野妹子は大使として随行

この行程からも、裴(世)清ら一行のヤマト入りは、九州であった
はずはない。当時の実力者は推古天皇ではなく、実質的には、嶋大臣の
蘇我馬子(天武系の人々に後に卑しい命名がなされた)であった。


321 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/15(月) 07:32:40
裴世清のころは女王国の詳細は隠没していて日本人でも正答できず、日本人から
して間違いを思いこんでいたから、調査をやってたとしても裴世清でも誤解
した結果を得たに過ぎないから、これを信じてる奴は妄想を自己の脳内に居座ら
せたことにな〜る。用心がないな。

322 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 08:05:18
まず北九州説だけはない。
余りに距離が短すぎて、論者は最早パズルのプレイヤーと化している。

323 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 10:01:40

>>321
裴世清のころは女王国の詳細は隠没していて
 ↓
調査をやってたとしても裴世清でも誤解した結果
 ↓
これを信じてる奴は妄想を自己の脳内に居座らせたことにな〜る


 こんな展開ってありなん?




324 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 10:38:50
>>319
アホの九州説論者にお情けでマジレスしてやると
木製の鋤等。
濠の中に大量に投棄されてたりする。

逆に言えば木製の土木工具でもあれだけのものができる。
鉄器保有のアドバンテージの過大評価を見直す材料の一つにはなるなwwwwwww

325 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 12:36:01
ふんっ…

愚昧なる畿内論者よ

真実への謀反ッ!

まずは笑殺してやる

326 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 12:52:56
魏志倭人伝に出てくる絹や鉄製の鏃が、畿内空はほとんど出ず、
北部九州からは大量に出る。

もう、この時点で、畿内説は死んでます。

327 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 13:40:20
>>324
>鉄器保有のアドバンテージの過大評価を見直す材料の一つにはなるなwwwwwww

鉄器がなきゃ、水田も作れないなどとアホなことを言うやつもいたなwwww

>>326

古墳時代になると、九州は死ぬわけですねwwwwwwww

328 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 13:48:42
>>327
魏志倭人伝の記述に鉄鏃と絹がでてくるのだから、
水田の君の思い込みなどは、一切関係ありません。

古墳時代の九州王朝遷都による、都市の栄枯盛衰が、何か?

329 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/15(月) 13:49:29
記紀を見れば、本文中に卑弥呼の「台馬」の文が神功39年等のわずかな副流煙
しか存在せず、主流煙は全く検知されない。ということは紀無いには「台馬」は
九州されていないことが証されたも同然であ〜る。

330 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 14:10:36
>>328

おまえが、「鉄器が無いと水田が作れない」と言ってたアホか?wwwww

簡単に釣れる九州王朝説ってアホばっかりなの?



331 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 14:23:12
>>330
畿内は木製の鍬で耕して木製剣とかで戦ってたの?
服装は裸族?原始人のような裸族が日本を支配してたの?

332 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 14:29:57

 邪馬台国って、30余国を木器で服従させてたのか!!

 九州や半島じゃ鉄器をバンバン生産してるのに?

 魏志倭人伝には倭錦や鉄鏃が出てくるぞ、それって九州ばかり出てくるのはなぜ?

 「畿内説」って魏志倭人伝を完全無視しちゃうのかよw

333 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 15:08:53
いい感じに殺伐としてますね

334 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 15:11:26
4世紀になると、鉄剣をいっぱい保有してた九州の邪馬台国は、
木器や銅器しかない畿内に征服されたんですよね。

邪馬台国ってよわっちい国だったんですね。




335 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 15:28:22
まー、なんというか、九州は鉄器が多いから邪馬台国は九州だと言ってる輩には、
>>334みたいな返しをすれば、簡単に黙る。

いくら、九州に鉄器や絹があっても、政治とは全く無縁で、
4世紀には、九州は畿内に征服されてることは証明済みだからな。

鉄器や絹が政治と無縁なら、いくら九州が物量で勝ってても、
畿内に卑弥呼がいてもおかしくない。

九州王朝説は無理。
だって、4世紀以後、わざわざ畿内に鉄をくれてやる理由が無い。
前方後円墳を九州で作る理由も無い。

残る辻褄合わせはやっぱり東遷説だけど、
東遷説はどうして黙りこくってるんだろうか?
年代遡上で批判は出来ても、自分が批判されることには耐えられないのかな?



336 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 15:58:28
>>335
>4世紀には、九州は畿内に征服されてることは証明済みだからな。

脳内証明?

337 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/15(月) 16:05:36
年号が多々出てれば、もう動かない。あとはイカサマとか誌年号とか、証拠を
低落させる行為をして来ようが、そんなことに走るより、否定説が間違いだと
いうことを強く思い知るべきだな。

338 :ローガン:2008/09/15(月) 16:34:27
>>312
> ありゃま、じゃあどう読むんだ。

ご紹介のサイトに「鐙の起源はもっと古いということを意味する」とありますね。
鐙の起源を箸墓馬具に求めているわけではありません。
現在中国で確認出来る遺物から得られる最も古い年代…
つまり湖南省長沙金盆嶺の「永寧二年銘」磚。
この年代に「起源」を求めるのではなく、大陸→日本のタイムラグを考え、「鐙」自体の登場を古く考える必要がある、という意味です。

よって>>212畿内説は馬具を中国より古くするつもりかよ
は、誰も言っていないし、貴方が「読んでみろ」、と紹介されたサイトにも書かれていない。

勝手な思い込みだという事です。

339 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 16:39:17
>>336
4世紀に九州が機内を征服したと唱えてる人は誰もいませんよ?

九州王朝説は、九州と畿内は別だと言ってるが、これは完全な妄想。
東遷説でも、東遷後に畿内が九州を支配していることになってる。

4世紀に、九州が畿内を征服したわけでもなく、九州が独立してたわけでもないなら、
畿内が九州を征服したことになるわけ。

後は、九州を畿内が制した時期の問題になるが、
3世紀から支配してたとするのが畿内説。
3世紀まで九州が独立してたとするのが九州説。
ここまで、話は絞れている。

さて、困ったのが、3世紀末に邪馬台国が滅んだというサガミ説だが、これは否定が困難。
武光誠も、基本的には3世紀末に九州の邪馬台国が滅んだとしている。
畿内説にとっては、一番やっかいな九州説なのだが、
幸いなことに、「3世紀末に九州の邪馬台国が滅んだ」という説を支持する九州説の人は少ない。
と、なると、九州説とは「東遷説・九州王朝説」が残り、トンデモ臭が漂う。
おかげで畿内説は安泰となる。


340 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/15(月) 16:43:46
紀無いにあっるんならw記紀に女王卑弥呼の記事が満載されるよ。

341 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 17:08:44
>>340

日本書紀は神功皇后の時代に魏志倭人伝を引用している。
その頃、九州を平定してるが、卑弥呼を討伐したという記事は無い。

日本書紀が書かれた頃は、中国とは対等の外交関係を持とうとしていたわけだから、
もし、邪馬台国が九州にあって、魏に朝貢していた卑弥呼を討伐したなら、
その記事を大々的に書ける(捏造してでも)はずだよね?

でも、大和朝廷による卑弥呼討伐の記事は書けなかった。なぜか?
邪馬台国は、大和朝廷と同一政権だってことを中国も日本も知ってたからだよ。



342 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 17:27:27
日本書紀というのは、「一書に曰く」という形で、多くの記事を載せている。
魏志倭人伝も引用されてるくらいだから、当然、日本書紀編纂者は「卑弥呼」を知ってるので書けるはず。
でも、倭国に卑弥呼という女王がいたことを、日本書紀は書けなかった。

もし、卑弥呼が大和朝廷とは無関係なら、邪馬台国が九州なら、討伐したと記事にすればいい。
それが出来なかったということは、卑弥呼と邪馬台国は大和朝廷と同一だったという認識からだよ。

九州説で、辻褄を合わせようとすれば「東遷説」となるわけだが。
誰か東遷説な人はいないの?

さて、大和朝廷が邪馬台国で、卑弥呼が皇族の誰かなら、なぜ記紀に書かれて無いか?
理由は簡単で、「万世一系」という図式を作るためだよ。
卑弥呼が死んだ後の混乱で、大和の王統が入れ替わったと考えれば、そのほうが簡単に辻褄が合う。
無論、九州からの東遷を考える必要はどこにもない。

343 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 17:39:07
魏書には東夷伝の他にも西域伝などがある。東夷伝が特別ではなく、他の伝紀
も含めて勘案して倭人条を解釈していく必要がある。少なくとも、西域伝には
鮮卑国の説明もあり、鮮卑の東西の範囲を14000里として説明している。

東夷伝による倭国12000里に対して鮮卑の範囲が14000里である。
知ってのとおり、鮮卑は旧の匈奴の範囲で今のモンゴル程度はあったとされる
くにである。

九州説派による短里による行程解釈は、東夷伝に限定した解釈にすぎない。
三国志全体から読む必要があり、伊都国からの放射状行程なんかは結論
ありきで愚の骨頂

344 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/15(月) 17:56:29
>>341
>大和朝廷による卑弥呼討伐の記事は書けなかった
当たり前だよ。畿内朝廷が九州の卑弥呼の討伐なんぞやっては
いないだろうが。あんな九州の遠方の女王国に同時代の崇神が、まだ
勢力が畿内に留まっているのにそんな遠方まで討伐なんかやるヒマ
も勢力なんかそんなになかろうが。w

345 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/15(月) 18:05:28
>>342
王統を入れ替える? 妄想だな。そうじゃないよ。女王国が紀無い
になかったから遠方の九州の女王国の情報が殆ど来ないわけで、
それで記載が無いんだよ。当時崇神のころの時代、まだ畿内一円
の勢力しか無いわけで、九州は紀無いとは異なる別国だから本国の
記事だけ書けばこと足りるわけで、さらに情報が取れないんだから
記紀に記載が殆ど無いわけだよ。
入れ替えたと言うなら、入れ替えのみの女王が倭人伝に乗るという
よりも、その前後の皇統の記事も倭人伝に明確に書かれていいはず
だ。壱与まで入れ替えか〜?ww だいたいイキマなんて王とかで
ないんだから垂仁天皇イクメイリヒコのはずはない。

346 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 18:08:07

>>344
大和朝廷の大王(連合王国の王)も、朝鮮半島に派兵する場合は、九州
北部の国々を服従又は同盟国としていなければならなかった。

「…まっているのにそんな遠方まで討伐なんかやるヒマ
も勢力なんかそんなになかろうが。w」って言われてますが、それが
あったんですね。

まさか、大和朝廷は実は九州王朝であったとは言わないでしょうね。ww

347 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/15(月) 18:24:02
>>346
当たり前だ。大和朝廷は九州王朝ではない。別に卑弥呼が畿内へ
イヤガラセしたことなどなかろう? 当時自分の所でせいいっぱい
だぜ。朝廷が半島へ働きかけたのはあろうが、それは半島からの朝貢
途中駅で北九州はある程度畿内に情報が入っている。いま余の解説
は九州の以南、とくに奥九州という地理的の北よりも知悉はされて
ない場所だ。だから北九州と奥九州とは情報の流通においては全然
異なる。奥のほうは畿内に情報は殆ど行ってない、神武あたりは
別として以後の朝廷の臣下にとっては前人未踏の地なんだよ。逆に
女王国からも朝廷には行ったこともない連中ばかりで、両者は外国
と観てよい無関係に近い間柄だったということなのさ。

348 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 18:37:32
>>339
畿内王権は数百年間、九州王朝の傘下で運営していただけなんですが。
九州王朝の一派が畿内王権を征服したのが7世紀後半。
九州王朝の少数派は、在畿内九州王朝に追われました。

349 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 19:43:51
>>348
>九州王朝の一派が畿内王権を征服したのが7世紀後半。

岐阜県の美濃で挙兵した大海人皇子のことですか?wwwwwwwwwww



350 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 19:49:30
美濃勢力を味方にしていた九州王朝一派が挙兵しましたが、なにか?

351 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 20:26:35
美濃勢力の誰と九州王朝一派の誰が接点を持ってたの?

352 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 20:30:35
倭人伝に銅鐸の記載が無い
これだけでも畿内が海を隔てた倭種ということがわかる

353 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 21:56:52
>>338
>鐙の起源を箸墓馬具に求めているわけではありません。

おいおい(#^ω^) そんなことは一言も主張していないぞ。
みっともない曲解はやめなさい。
年代遡上の連中の言い分にしたがうと、現存する鐙のなかで
日本のものが最古になると繰り返し書いているだろうに・・・


354 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 22:52:28
なんにせよ、馬具の出土は九州より古そうだな。

先進国の九州では、馬具はいつ頃出土してくるんだい?


355 :ローガン:2008/09/15(月) 22:56:06
>>353

> おいおい(#^ω^) そんなことは一言も主張していないぞ。
> みっともない曲解はやめなさい。

あ、そうでしたか。ごめんなさい。みっともなかったですか。(笑)

> 年代遡上の連中の言い分にしたがうと、現存する鐙のなかで
> 日本のものが最古になると繰り返し書いているだろうに・・・
布留式土器の年代観が共有出来ないと言う認識で良いでしょうか?
下世話な事をききますが、安本先生支持ですか?


356 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 23:04:00
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050618/4482.jpg
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050610/2764.jpg
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/090.jpg

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/099.jpg
http://www.sx.xinhua.org/ztjn/2003-08/29/xin_49b7e0a2d93511d7be2c0050ba1967d3.jpg
http://trade.socang.com/sell/view_img.asp?title=%BA%BA%A1%A3%CC%D5%B6%A6%D0%CD%B8%AA&img_url=../img/trade/2007115222431.JPG

357 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 23:05:03
言論の自由が存在し、科学も発達した戦後において、
津田左右吉を引きずり、根拠も無く「神話は虚構、従って神武東征は嘘」
と主張した小林行雄、田辺昭三等のかつての主流畿内説の考古学者。
2世紀畿内の石器文化の隆盛をもって畿内優勢の証拠にしようとし、
高地性集落の分布から読み取れることを勝手に改竄し、
畿内石器勢力の筑紫青銅器勢力征服を捏造。
更には上の連中を批判することにより、7世紀までの筑紫勢力の優勢を捏造する古田武彦。
やっとることは変わりませんな。
古くからの畿内の優勢を捏造する小林・田辺、遅くまでの筑紫の優勢を捏造する古田。
彼等に中山平次郎・和辻哲郎・原田大六は笑えまい。

358 :ローガン:2008/09/15(月) 23:18:01
質問ばかりではなんですから、自身のスタンスもあげておきます。
邪馬台国は畿内、王都として最も蓋然性の高いのは纏向
卑弥呼の墓は箸墓。魏志倭人伝にある「銅鏡百枚」は △

ただ、間違いにきづいたらいつでも撤回します。
ZZZZ…


359 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 23:43:38
>>358
じゃあ即時撤回しそうだね。かわいそうに、でも自分で言ったんだからな。

360 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 23:53:34
>>357

まわりくどいけど、安本支持ってことだろ?

かわいそうに。

361 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 00:00:10
全然スレ読まないで書きますが邪馬台国には馬はいなかったんですよね?

362 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 00:23:23
倭国に馬がいないことを知ってる中国の役人は、
当然、歩くのいやだから、馬を連れて行っただろう。
鐙付きの馬をね。

363 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 10:17:50
>>355
争点が多いから一概に安本支持とか言えないよ。
ほとんどの争点で彼とは少し考えがずれる。ピントの合わせ方が違うのかな?

大和の庄内は4C初頭とする関川説を支持。安本は九州を古くしすぎ。
三角縁が国産であることは森浩一を支持。安本も同じ。
布留の開始が350頃であるのも関川説を支持。安本も同じ。

364 :夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/16(火) 10:32:52
>>357はたまたまコテ外してた俺だよ。違う板ではこのコテは使ってないから、
ついここでも付け忘れることがある。
本当に安本支持者なら畿内説の原田大六の名を持ち出すわけは無い。
安本の「邪馬台国東遷説」は、何とかして邪馬台国を九州に持っていくために考えた、
考古学を無視した妄説に過ぎない。
筑紫東遷は起こったのなら2世紀中ごろ。高地性集落の分布から。
これを畿内勢力の西遷とする奴も居るが、それこそ妄想だ。
邪馬台国以後に起こったのは、吉備東遷だ。
一口に東遷と言ってもいろいろあるんだ。

365 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 11:51:54
「東遷」という語を使とことが、大きな間違いだと思う。

その理由
1:東遷というと、もともといた場所が空っぽになったのが条件になってしまう。「うつる」とは
  移動することなのだから、移ってしまったあとは、いなくなるのである。
2:「神武東遷」説話を前提にしているように解釈される(本人が望んでいようといまいと)が、
  神武東遷譚中の神武は、東遷前に王様ではなかったし、国家を率いて東遷したわけでもなく
  畿内乱入の様子(兄の戦死や熊野遡上など)から考えて、単に久米族(大伴も?)を連れた
  だけというのが実態。各地の豪族に身を寄せてから畿内に侵入したのも、巨大勢力でなかった
  証拠。こんな説話をベースに「東遷」の語を使って誤解を誘導してはいけない。
3:九州から畿内には常時というか、波状的常時に人や物、文化が流入したのであって、
  一回ないし二回だけ流入したような「東遷」の語は不適切。

だから、「東遷」という語は非常に問題があるので、「流入」でいい。

366 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 14:05:07
>>365
>3:九州から畿内には常時というか、波状的常時に人や物、文化が流入したのであって、

残念ながら、そういう証拠も無いよね。

367 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 14:14:40
それだと、東遷の証拠もなくなっちゃうな。 → 夏祭涙目

368 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 14:26:46
>>365
1、いなくなる必然性はない。その意味での遷都は後世にもない。
2、論外、旧事紀によれば物部だけでも大集団となっている。
  アメノヒボコ伝承でも1人が来たと考える者はいない。
3、権力の移動は1回だけである。文化交流とはレベルの違う話。

369 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 14:33:34
>>368
銅鐸が次々に破壊され国家が崩壊したり、吉備から流入があったり、
畿内王継承が崩れたり、畿内の国家は波乱万丈、ズタズタなんですが。

「一度だけ東遷がありました」なんて生易しい状態じゃないでしょ。

370 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 14:37:54
纏向もなにやら突然放棄された様子。
一回限りの東遷→邪馬台国成立なんて理論は無茶でしょ。

371 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/16(火) 14:51:46
邪馬台国東遷っていうのは、結局畿内説の者が九州説がいろいろの面で都合が
合うことを認識しながらまだ畿内説が真だとの想いが基底にあって、九州説が真
だという鞍替えを行わず従来のご自身の説を保持するためには、九州からの畿内
東遷とすることで、畿内説の矛盾を解消できるとかの強い考えがあることからの
主張なんでないの?

372 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 15:01:56

  国史の教科書に、墨を塗らなかった夏祭の妄想

「神武天皇が日向から畿内に東遷し、邪馬台国を建国して天皇家が始まった」

373 :夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/16(火) 15:11:21
>>371
文章は分かりやすく書け。
んでもってええとなになに、
邪馬台国東遷論者は、九州説に屈服しながらもまだ自説を捨てられない畿内論者だと?
馬鹿を言うな、じゃあ東遷論者の奥野正男や安本美典も心の奥底で畿内説が真実だと考えてるというのか。
なら何で彼等は畿内説に対する激烈な批判を行ってるんだ?
彼等は佐賀の吉野ヶ里や福岡の朝倉甘木に邪馬台国を置いて、畿内説を徹底的にやっつけようとしているのに、
それでも畿内説だってか?
つまり、九州王朝説こそが真の九州説で、それ以外は皆畿内説、つまり皇国史観なので
唾棄せよ、と?
気が違ってるな。

374 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 15:14:10
毎日、奉安殿で御神影を礼拝している夏祭の説。

「神武天皇が日向から畿内に東遷し、邪馬台国を建国して天皇家が始まった」

375 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/16(火) 15:14:21
そんなに慌てるな。全部がそうだとは言っていない。

376 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 15:56:12
>>368
>2、論外、旧事紀によれば物部だけでも大集団となっている。

旧事紀を信じるほうがアホ。
物部王国とか、ニギハヤヒ王国なんてものは存在しない。

神武以前にはニギハヤヒがいたというが、
神武以後の天皇家の外戚になったのはカモ氏である。
ニギハヤヒ王国があったなら、その後裔のウマシマヂとかはいったいどこへ消えたのか?

また天火明命がニギハヤヒと同一としてるのは物部氏だけの主張であり、
天火明命の正式な後裔である海部氏・尾張氏は、物部氏なんぞ無視してる。

新選姓氏録でも、明確に区別されている。
天火明命=天孫=尾張氏
ニギハヤヒ=天神=物部氏

377 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 16:04:22
物部王国とかいいだしたのは、安本が最初だろう。
本当にこいつは史学者の皮をかぶったサギ師。
素人歴史マニアを相手にセンセーショナルな話題をふって注目を浴びたいだけ。
おかげで、真面目な研究が妨げられる。

本当に、奈良に物部王国があったなら、物部氏にまつわる神社が近畿に山ほどなくてはならない。
しかし実際はそんなことは無いわけで、物部氏の拠点とされる八尾なんかは、奈良盆地の外にある。
あげくに大物主がニギハヤヒなどと根拠の無いデタラメを言い出すから始末が悪い。


378 :ローガン:2008/09/16(火) 16:18:24
>>363
> 争点が多いから一概に安本支持とか言えないよ。

そうでしたか。失礼しました。


> 大和の庄内は4C初頭とする関川説を支持。安本は九州を古くしすぎ。

関川尚功、彼の編年では確か須恵器が5C半ば?全体に50年遅いですね。しかもX様式が異常?に長い…
誰の編年案が正しいか迄は分かりかねますが
関川編年を支持する人は殆んどいないのでは?

> 三角縁が国産であることは森浩一を支持。安本も同じ。

△は新井さんが「花輪鏡」だと書いてましたね。私も殆んどが(副葬の為の)国産の踏み返し鏡だと思います。
しかしそれら踏み返しの親となる△は伝世した魏鏡だと思います。


379 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 17:32:44
「古事記はモンゴル語で書かれている」東大教授が新説発表
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/kobun/1221500761/

380 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 20:35:54
>>377
最初は鳥越だろ。
その次が谷川健一かな。
安本はその部分は鳥越の引用が多い。

381 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 21:10:55
鳥越って、テレビ朝日の?

382 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 23:58:29
>>378
ほんの20年前までは、古墳時代は4C以降で庄内が4C初めからで
4C前半〜半ばの布留のときに古墳が始まるとされていました。

その頃は庄内の時期に遡る古墳はないとされ、庄内の時期は2、30年の
短期間と想定されていました。庄内を二つに分けるべきではなく、分けることも
できないとされていました。

庄内を3期に分ける学者のいる現在でも土器の変遷ではなく、土器の組合せの
変遷で分けて、無理をして長い期間を与えているというのが実情ですね。
その区分が地方では成立するわけでもなく、むしろ、大和型、河内型の並行と
する考えもあります。分布域の狭さからも長期間の流通はありえないでしょう。
また、庄内式の墳墓群もない状況で数世代分の長さを与えるのは無理です。

庄内式は310〜320頃に始まり350年頃までと見るべきですね。

383 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 00:06:06
>>378
須恵器の開始が400年頃になったのは、より古いとされる新種の須恵器が
複数発見されたからであり、関川の編年が否定されたわけではありません。

従って、須恵器は布留式と並行して5C後半〜末葉まで続くという結論にも
変更は生じません。

これに対しては、白石は須恵器が4C後半まで遡るとして、その頃に布留式が
終わるかのようなニュアンスを述べますが、須恵器を古く見すぎで、布留式との
並行を否定する暴論も支持できません。

384 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 00:09:10
>>382-383

仮に、庄内が310年からでも、
邪馬台国が畿内でない論拠になるかどうか?

どうして、庄内が310年からで(古墳時代も4世紀から)だとすると、
邪馬台国が畿内でないと言えるんですか?


385 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 00:24:40
>>377
>本当にこいつは史学者の皮をかぶったサギ師。

つうか元々本職は心理学者ですから〜っ!w


386 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 00:34:56
>>364 夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU
>筑紫東遷は起こったのなら2世紀中ごろ。高地性集落の分布から。

そもそもこれが無理っぽいw

高地性集落が西から徐々に東に移って行ったと言う事実でもあるか
もしくはそれらの高地性集落から九州の勢力が東進してきたと言う明確な痕跡が出るかでもしなければ・・・

考えても見れば良い。
準構造船にしこたま水や食料を積み込んで九州を出たとして
瀬戸内海を東に何処まで行けるか?

ダイレクトに畿内に行けるわけねーダロwwww

結局、足場を徐々に東に移して行くしかないわけでwwwwww

387 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 01:02:48
>三角縁が国産であることは森浩一を支持。

森浩一かあ・・・そろそろお迎えが来そうだなw

いや、本人がある本で
「ぼくの古代史に関してのまとまった発言はこれが最後になるだろう」
みたいなことを言ってますたwwwwww

で、紀年鏡については後世の日本人が日本にとって由緒のある年号を採用して
国内で作ったと言うのが彼の説だが

本人も「困った事だ」とぼやいているようにw
「青龍」だの「赤烏」だのの年号についてはそれでは説明できない。

「景初」の年号を見て邪馬台国の朝貢の年と見るのは
後世の我々の後知恵ではないのか?

そもそも「景初」の年号に続けて「卑弥呼」や「邪馬台国」の文字が出る訳じゃない。

「景初」の年号を見て直ちに卑弥呼の鏡と見たり
後に文献から邪馬台国の朝貢の年を採ったと見たり
何れも思い込みに過ぎないのでは?wwwwwwwwwwwwwwwwwww

388 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 01:34:58
>>386
同感、同感!

「神武東遷」を「神武国王率いる国家国民大移動」なんて記紀に書いてない妄想を信じて、
無理やり2世紀中ごろに当てはめちゃったのが、夏祭の畿内説。

記紀に載ってるのは、九州において王様ですらなかった神武らが、熊野の獣道を細々と
登ることのできる程度の小集団を率いて、畿内に乱入した話。「神武大王国の国家移動」
なんて大きな話じゃありません。

徳川家発祥の話も、似たようなもの。若い僧がある家(松平家)に流れ着いた。この家では
僧を暖かく迎えたので、松平家に定住するようになった。この僧が徳川家の始祖。
非常にささやかな話であり、夏祭のように「神武東遷」の誇大妄想にふけってはいけない。

389 :ローガン:2008/09/17(水) 01:40:14
>>383
それはある程度の実年代を考えうる方法が反映され始めた事によるものではないでしょうか?
関川氏はC14と年輪年代と土器編年によるクロスチェックとかどのように言及されているのでしょうか?



390 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 02:48:24
>>389
>それはある程度の実年代を考えうる方法が反映され始めた事によるものではないでしょうか?

平城京 朝堂院東朝集殿 下層 より発掘の高蔵73型式の須恵器と共伴した木製品が
年輪年代によって412年伐採と言う数字が出ているそうなwwwwwwwwwww


391 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 02:59:49
>330
>おまえが、「鉄器が無いと水田が作れない」と言ってたアホか?wwwww

そんな事を言うのはやっぱサイキバ君かな?

サイキバ君すげええええええっ!!wwwwwwwwwwwwww

弥生時代の始まりが500年とか600年遡るなんて話がある昨今。
サイキバ君にかかったら、んなもん木っ端ミジンコっすねwwwwwwwwwwww

392 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 03:16:51
>>391
唐・新羅と木器で戦ったと信じてる馬鹿はお前かw
小氷河期の冬の畿内で、ふんどし一丁で生野菜食ってろよ。死んじゃうぞw

393 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 03:36:18
>>>392
はあ?何それ?
また九州王朝説のアホ連中が白村江の戦いに関して珍説を披露したのかい?

てかお前サイキバ君?

笑えるネタなら詳細キボンヌwwwwwwwwwwwwwwwwwww


394 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 03:40:43
>>392
日本古来の伝統漁法である海人は冬でもふんどし一丁で海に入ってたことを知らんようだ。
さむいからって漁を休んだら飢え死にするわなw

海岸に暮らす近畿の倭人は冬の間は冬眠してたとでも思ってるのだろうか?

395 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 03:40:44
せめて、サヌカイトぐらい使えや、この原始人!>393

396 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 03:42:33
>394
小氷河期、ふんどし一丁で畿内の冬山に入って、凍え死んでこい。

397 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 03:50:39

邪馬台国は奈良でしょ?


398 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 04:05:55
奈良には、漢籍にある邪馬台国の特徴なし。

399 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 04:08:20

九州王朝説(笑)

400 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 04:10:37
>>399
つうかこう↓だなwwwwwww

 九州王朝説(狂)

401 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 04:20:28
掘っ立て小屋と、木器しかない纏向王国(笑)

402 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 04:22:45
内陸部なのに、海に沈没して潜水漁をするのが邪馬台国の特記事項(笑)

403 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 04:35:05
>>394
そう言えば海人の北限って何処らあたりかねえ?
今でも伊勢に海女がいたと思うが殆ど観光向けだったかな?
日本書紀にも允恭天皇紀に明石の海で真珠を採って死ぬ海人の話があったが・・・

まあどうせサイキバ君はじめ九州説の連中が
「大和盆地には海が無いだろ!」
って言うのは容易に想像できるんだがwww

そもそも倭人伝の風俗記事に拘泥する必要は無いw

元々他の地理誌のタン耳・朱崖の記事との酷似は良く指摘されている所だし
実際に倭人の風俗を検分しての記事かどうかも分からない。

そんな俺みたいな初心者が手に取る本にすら書いてある事を
漢籍に精通していることを誇る九州説のアホ・・・もとい・・・お歴々は知らないとでも言うのだろうか?w

よしんばそれが九州の風俗だと証明できても
別に邪馬台国の人間が海に潜ったと書いてあるわけじゃ無し
「広域首長連合国」の畿内説には無問題wwwwwwwwwwwwwwwwwww

404 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 07:07:33

魏志倭人伝といわれているものは、倭人条の1つであって、その記載前には、
当時の近隣国の記載がある。扶餘もその1つであり、戦前の満州国の範囲であった
国である。魏志東夷伝の扶餘之条で其国は、万里の長城より北、南は高句麗に、東は?婁に、
西は鮮卑に接し、方約二千里の範囲に及んだと記載されている。
満州国が方2000里と明記されているんです。郡から12000里でなんで北部九州なんですか?
なぜ、三国志全体から、倭人条を解析しようとしないの??
西域伝の鮮卑(現 モンゴル)にあっては、東西14000里と記載されています。
やっばり、結果ありきで 検証するのは ダメダメです。


405 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 07:12:21
修正

魏志倭人伝といわれているものは、東夷伝の1つであって、その記載前には、
当時の近隣国の記載がある。扶餘もその1つであり、戦前の満州国の範囲であった
国である。魏志東夷伝の扶餘之条で其国は、万里の長城より北、南は高句麗に、東は邑婁に、
西は鮮卑に接し、方約二千里の範囲に及んだと記載されている。
満州国が方2000里と明記されているんです。郡から邪馬台国が12000里で、なんで北部九州
なんですか?
なぜ、三国志全体から、倭人条を解析しようとしないの??
西域伝の鮮卑(現 モンゴル)にあっては、東西14000里と記載されています。
やっばり、結果ありきで 検証するのは ダメダメです。

406 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 10:31:50
楽浪郡からの距離だから、12000余里。北部九州が正解。
倭人伝にみる絹の鉄鏃の出土状況もこれにぴったりで、畿内からの出土は僅少。
漢籍と考古学の一致は北部九州のみ。

407 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 13:02:23
九州は畿内の邪馬台国の管轄だから当然。


408 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 13:43:47
畿内からほとんど出土しないから、邪馬台国は畿内ではありえない。
すっぽんを月と言いくるめる畿内説の典型が>>407

409 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 14:03:07
>>卑弥呼の「親魏倭王」の金印は古墳には無い。!

印鑰神社(いんやく*いんにゃくじんじゃ)

印鑰とは、国衙の印やその不動倉などの鑰(かぎ)または神社・神主家の印
などで、それらの印は国衙領や神領文書に捺され、その鑰は穀倉開閉に重
視された。そのための印鑰を印殿に祀る印鑰神社が国府近くに建立されて
おり、本社もその一つである。


410 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 14:05:05
『海神宮訪問神話の研究』(宮島正人著)に、興味深い見解があります。
『万葉集 巻七 一二三〇』
【ちはやぶる 金の岬を 過ぎぬとも 吾は忘れじ 志賀の皇神】

この金の岬の場所として、宗像郡鐘ノ岬を比定する説が多い中で、志賀島
に「金之三埼」が存在していることから、志賀島説を主張されるのです。金印
発見の口上書に「叶の岬で・・石の間に光る物云々」と記されていることを根
拠にされています。他に、宗像郡鐘ノ岬では特段に志賀の皇神を拝む場所
でもないこともあるようです。
志賀島の叶の三埼(金の岬)は金印発光碑の西300mの南の浦崎で、叶
の浜の南端。志賀海神社の磐座に金印が奉納されていたとの伝承があっ
たのではとの推定があります。 摂社に印鑰神社があり、船玉社と呼ばれて
いる。


411 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 14:10:48
>>409
印鑰神社って九州に多い神社だが。


412 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 14:36:48
九州王朝が朝鮮出兵なんてことをしたら、
畿内から攻め込まれるだろ。
九州なんて、朝鮮や畿内を敵にしたら、ただ敵に囲まれた脆弱な島でしかない。

朝鮮出兵が出来たということは、九州と畿内は連合していたということであり、
九州王朝説は成り立たないのである。


413 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 14:45:53
だから、九州王朝が畿内に命令して、援軍を出させましたが何か?


414 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 14:52:45
というか畿内って植民地か開拓地
銅鐸を崇拝していた畿内人は皆殺しか奴隷にされてたんだし
土人の分際で九州と畿内の連合とかw対等に考えたらいけないよ




415 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 16:02:28
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050618/4482.jpg
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050610/2764.jpg
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/090.jpg

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/099.jpg
http://www.sx.xinhua.org/ztjn/2003-08/29/xin_49b7e0a2d93511d7be2c0050ba1967d3.jpg
http://trade.socang.com/sell/view_img.asp?title=%BA%BA%A1%A3%CC%D5%B6%A6%D0%CD%B8%AA&img_url=../img/trade/2007115222431.JPG

416 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 17:01:25
>>413

どうやって九州が畿内を援軍にできたんだ?
そんな兵力が畿内にあるなら、九州を制圧するわさ。

417 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 17:09:31
>>416
近畿対九州などという考え方では駄目です。発想を根本から変えましょう。
九州が本店で、近畿にその支店があったのです。倭国内を統一したからこそ、
本店は倭国全土に号令をかけて兵を出させ、朝鮮半島に進出したのですよ。

418 :夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/17(水) 17:18:36
>>414
これではっきりした。
結局九州王朝説なんてのは、
かつて考古学に蔓延った「全てが畿内から始まった」と言う
筑紫蔑視史観の裏返しに過ぎない。

419 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 17:24:03
畿内天皇が真人を賜姓されてるのはおかしいでしょ。
格が上の九州王朝から賜姓されてるんだから、仕方がないわけです。

420 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 18:18:44
>>419
祗園祭のお稚児さんより格下の幻想妄想九州王朝。

421 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 19:37:37
>>406

世界地図を見てください。
扶餘(凡そ満州国の範囲)が2000里であれば、帯方郡(現在のソウル付近)から
北九州までは同じ2000里程度です。
gooマップのアドレスは以下のとおり
ttp://maps.google.co.jp/

422 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 19:56:38

>>421
こんなのもあるよ。
ttp://www.ugoky.com/chizu/ugoky_chizu.swf

東アジアの2000年来の勢力エリアがビジュアルで楽しめます。

鮮卑は14000里と西域伝で記載されています。扶餘は2000里
なのに、郡から邪馬台国が12000里です。

少なくとも北九州ではありません。




423 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 20:05:05
そりゃ、見方がおかしい。北部九州で12000余里。

424 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 20:18:02
伊都国までが万五百里。万二千里は熊本県に入ってますね。

425 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 20:23:24
北九州は、畿内の邪馬台国傘下に入ってたので、OKです。


426 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 20:24:48

>>423
であれば、扶餘の方2000里や西域伝の鮮卑の東西14000里が
短すぎで間違いの記載ということですか?
あくまでも倭人条のみが正解であるということですね。www

427 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 20:31:09
意味不明>426

428 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 20:39:15
>>427

405以降で問答しているので426だけ読んでも理解しずらいですね。
失礼しました。

倭人条は魏書の東夷伝の一部の記載事項なので、三国志全体をまた西域伝を
また東夷伝の他国の記載についても、特に行程の箇所で検証する必要ががある
のではと説明しました。

このスレも学問板なんでこの程度の説明でOKの方が来られていると理解してい
ます。

429 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 21:24:03
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1221653601/14

430 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 22:34:04
  金印>銀印>銅印>泥印

日本は古代より金印(公印)>韓国は泥印(公印)銅印(私印)であり
中世の地位は琉球(金メッキ銀印)>朝鮮,銅印(公印)でしたとさ。
哀れ韓国。
http://www.geocities.com/lookeast20022002/wa.html
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pfriend&page=13&nid=50586

「倭国」・・「漢委奴国王」・金印
「邪馬台国」・・「親魏倭王」・卑弥呼,金印紫綬
「クシャン朝」・・「親魏大月氏王」・ヴァースデーヴァ(波調)金印紫綬
「雲南,滇王」・・「滇王之印」・金印
「光武帝の子」・・「廣陵王璽」・金印


431 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 22:39:30
>>429
>福岡の人間はガサツだから こんな奴大勢居るぞ
>俺は福岡に住んでるが もう慣れたが やはり耐えられない韓国の臭いが凄くする
>韓国みたいに凄く強引なのが、北部九州の人間に多いと思うのは俺だけかな?

w

432 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 23:02:20
朝鮮総連青年部情報委員会通達 第98-09-02号
インターネットでの協力者育成ならびに、反動的人物・団体の調査について。
1.指示者
   在中2等書記官 李 明善
2.概要
   先の通達(第98-08-13号)のとおり、インターネットにおいて祖国に対する
   卑劣な誹謗・中傷がおこなわれている。特に先月実施された祖国による通常の
   軍事演習に対し、米帝国主義者および南朝鮮反動分子による祖国への敵視政策
   の強化を目的とした宣伝活動が活発化しており、日本における思想戦に勝利す
   るため、青年部有志による祖国への貢献を以下のとおり要請する。
3.行動内容
  1)日本語を常用語とするインターネット上コミュニティーにおいて、米帝国
    主義者および南朝鮮反動分子らの活動から祖国を防衛し、金日成主席が創
    始し、金正日将軍閣下が発展された主体思想を流布するため、協力者の育
    成ならびに反動的人物・団体の調査をおこなう。(以下略)


433 :日本@名無史さん:2008/09/18(木) 01:42:14
後漢光武帝の建武元年(25年)に復設された制度として、諸侯王には金璽綟綬(きんじれいじゅ)、
公候には金印紫綬、九卿などの中二千石・郡太守などの中二千石・校尉や中郎将などの比二千石には
銀印青綬、以下は銅印黒綬、銅印黄綬が与えられている。

「倭韓遂屬帶方」倭韓は
帯方太守の管轄下にあったはずであるが、太守の銀印青綬より位の高い金印紫綬を卑弥呼は得ており、
「難升米を以て率善中郎將となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し」ということで、彼等が
同等となり、太守の心境は複雑であったろう。

使いの者と帯方太守が同等とは、倭国の評価がそれだけ高かったと言える。


434 :日本@名無史さん:2008/09/18(木) 17:42:30
弥生時代後期の筑紫蔑視史観論者…梅原末治、小林行雄、田辺昭三
7世紀以前の大和蔑視史観論者…古田武彦

結局、裏返しに過ぎない。

435 :日本@名無史さん:2008/09/18(木) 17:58:22
>>343
そんな事ばかり詳しくて、自分のオリジナルはないの?

436 :日本@名無史さん:2008/09/18(木) 18:11:19
>>343>>434の間違い。

437 :日本@名無史さん:2008/09/18(木) 19:52:23
>>343鋭い指摘をしている。魏志倭人伝だけではなく、三国志全体を
    読み解いて、倭人伝がどの程度の正確性を持って書かれてい
    るか判断すべきです。

438 :日本@名無史さん:2008/09/18(木) 19:54:35
魏志倭人伝全体に短里と長里がまざっていることが証明できているから、
北九州にしか着かないわけです。

439 :日本@名無史さん:2008/09/18(木) 20:27:11
>>437
矛盾した話ですね

440 :日本@名無史さん:2008/09/18(木) 20:46:19
>>438

> 魏志倭人伝全体に短里と長里がまざっていることが証明できているから、
> 北九州にしか着かないわけです。

証明されてるの?
具体的にどれが短里でどれが長里?
又、何故「まざった」の? おせーて! 言っとくけど、「はじめに比定地ありき」は駄目だからねWW

441 :日本@名無史さん:2008/09/18(木) 22:04:42
韓伝、倭人伝は明らかに短里。

442 :サガミハラハラ:2008/09/18(木) 22:12:11
倭人伝は周里67.5mです。韓伝もおそらくそうでしょう。

443 :日本@名無史さん:2008/09/18(木) 22:21:38
>>441

> 韓伝、倭人伝は明らかに短里。

え?倭人伝全体だろ?韓伝はきみのレスに関係ない。 倭人伝全体で短里とか長里とかまざった事について証明されてるんだね?
その事を聞いているんだよ。


444 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/18(木) 22:29:20
東夷伝全部が短里であることは明らか。
長里ではつじつまが合わなくなる。

445 :日本@名無史さん:2008/09/18(木) 22:56:54
逆に言えばつじつま合わせで短里にしたってことか

446 :日本@名無史さん:2008/09/18(木) 23:01:17
>>444

> 東夷伝全部が短里であることは明らか。
> 長里ではつじつまが合わなくなる。

同意。大好きさん乙。言う通りだとおもう。
>441のバカいい加減にしてほしい。倭人伝全体に短里と長里がまざっているって?
アホ。さっき聞いたのオレだけど、答えてみろよ!
さっさとコタエロ!この屎バカ。 お前は迷惑なんだよ。前にも言っただろ!
屎畿内の奴等に馬鹿にされるんだよ。お前のせいで!

二度とくるな!出ていけ!屎バカ野郎!

447 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/18(木) 23:22:40
>>444王朝さん

古代史は
現代人を納得させるつじつま合わせゲームですか?

448 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/18(木) 23:45:33
>>447
古代史は、ゲームじゃないけど、現代人を納得させるつじつま合わせ。
でもゲーム要素が強いね。
だから古代史は面白いのだ。

449 :ローガン:2008/09/18(木) 23:57:15
>>438

> 魏志倭人伝全体に短里と長里がまざっていることが証明できているから、
> 北九州にしか着かないわけです。

サイキバ君こんばんは。 私は短里も長里もなかったと思いますが、
ただ浅学なもので魏志倭人伝の中で、短里なるものと長里なるものがまざった状態で書かれているとは知りませんでした。
しかもそれが証明されているのですか?
結論だけの書き込みはもう不要ですので、仰るところの「証明」について其処に至る経緯などをお聞かせください。


450 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 01:41:49
大体、狗邪韓国から対馬が千里あまりで、対馬から壱岐も千里あまり、さらに
壱岐から末盧国も千里あまり。
少しでも距離を測る気があるならこんな数字が出てくるはずがない。
適当に決まっている。

451 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 01:44:15
そうだそうだ

452 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 02:17:42
1日で渡海できる距離を千里と表現してただけだよ。


453 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 02:30:38
呉から狙われていた魏と邪馬壱国。国防的軍事的な観点からも
デタラメな距離は中央政府に報告できないし、してはならなかったはず。

454 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 02:31:37
>>452
それはどういう根拠で?
辻褄が合わせができるから?

455 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 02:42:21
>>454
有名な説ですが?
ググれば?

456 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 08:01:55
魏志倭人伝は認めてはならぬと必死の畿内説が面白い

短里はあるでしょ?

東夷伝を紐解いて計算すれば、誰だって確認することが可能です。

畿内説を主張するという陳腐な理由の為に事実から目をそむけ、
わざわざ辻褄の合わない選択するとは哀れ!

目を瞑っても、短里で計算できるという事実は消えません。
論より証拠で、屁理屈ならべたところで黒を白にはできません。

457 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/19(金) 10:13:40
>>454
魏志東夷伝の位置関係記事と活動記事を旧満州・沿海州・半島の地図にプロットしてごらん。
長里では収まりガつかなくなる。
短里なら全記事がうまく収まる。

この事をよくご存知のローガン氏は「私は短里も長里もなかったと思いますが」と言わざるを得ないことになる。


458 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/19(金) 11:07:38
>>457

>短里なら記事がうまくおさまる


それじゃまるで、平成に創った新しい歴史ですよ。本当の歴史は、何故その部分だけ短里を用いたかの理由があるでしょ。
それが無ければ、単なる歴史の捏造です。

459 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/19(金) 11:21:34
>>458
短里なら記事が巧く収まることは、東夷で短里が使われていたことの証拠でです。

460 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 11:40:36
倭人伝に書かれている東南五百里、万二千里、周旋五千里などの意味が分かれ
ばよいのですよ。それが周の古尺か東夷における慣習かなどは、分かれば短里
につき自信を深めることができるとは言えますが、分からないからといって特
段支障はないと考えます。


461 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/19(金) 12:23:20
>>459
それは証拠ではなく、昭和平成版歴史ですよ。


当時短里にした理由が、『昭和平成の世につじつまが合うように、短里で記載した』じゃ、笑い話ですよ

462 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 13:36:50
それはプラム=河童虫がへそ曲がりだという証明にはなるが、
短里の否定証明には、まったくなっていない。

463 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 13:37:30
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050618/4482.jpg
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050610/2764.jpg
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/090.jpg

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/099.jpg
http://www.sx.xinhua.org/ztjn/2003-08/29/xin_49b7e0a2d93511d7be2c0050ba1967d3.jpg
http://www.shtong.gov.cn/node2/node4/node2250/songjiang/node70313/node70604/images/00004623.jpg

464 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/19(金) 13:56:27
>>462

誰が短里の否定証明してるんだよ
ズレてるよ

465 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 14:03:51
論点がずれてるのは、昔からプラム=河童虫。

466 :ローガン:2008/09/19(金) 14:19:28
>>457王朝さん。しばらくです。

> この事をよくご存知のローガン氏は「私は短里も長里もなかったと思いますが」と言わざるを得ないことになる。

通常の里だけです。仮に1里=70m(位かな?)が魏の公定里であると証明されていれば、貴説に対して異論はありません。
まあさておき、>>438でサイキバ君が書いた「魏志倭人伝全体に短里と長里がまざっていることが証明できている…」
については初耳です。是非ともその証明に至る経緯を聞いてみたいと考えます。

467 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 14:30:04
そこで、すでに短里が証明されたわけです。
証明されていないとダダをこねるのは、学問じゃありません。

468 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 14:33:06
>>466
魏志倭人伝全体じゃなくて三国志全体の書きマチガイだろうね。
それ以前の長里引用例がみなそうだったから。

469 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 15:05:07
>>467

> 証明されていないとダダをこねるのは、学問じゃありません。

鵜呑みにするのがサイキバ学問?ワラワセルナ!屎バカ野郎!


470 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 16:35:45
お前ら、もうジャンケンで決めたら。

471 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 16:38:11
まあ、ローガンの畿内邪馬台国自生説は、完全破綻しちゃってることが確実。

472 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 17:30:21
>>468案外魏・呉・蜀なんて国はなかったのかもね。


473 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/19(金) 19:27:04
>>466
魏の公定里がどんなものであるかは関係ありません。
魏志ではその地方で使われていた「里」を使っていたのです。
東夷地区で使われていた「里」が短里と呼ばれるものであっただけです。

同様のことが、隋書百済伝でも見受けられます。
百済の大きさは長里で表現し、百済の附庸国であるタ牟羅國では短里で表現しています。

474 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 19:33:04


測量技術も無い古代人が適当に表記した距離を、
現代人が長里、短里に区分して辻褄を合わせようとしています。




475 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 19:49:07
>>474
魏の時代には測量技術くらいある。
無知現代人がバカなことを言っています。

476 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 19:50:34
>>475

その後の時代になっても、日本列島は台湾の東に縦に描かれてましたよね?


477 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/19(金) 19:55:05
孫悟空の金箍棒は、大禹が治水した時の河海の深さを測った重りの
神珍鉄だそうだ。

478 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/19(金) 19:58:43
そういうおかしな地図は今でもある。逆さの世界地図もあるし、
日本を裏返しにした地図もあるし、そういう類のは当時もあっ
たろう。伊能の日本地図も九州中部が長い。こんなもんだ。

479 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 20:53:08
太国氏の頭の中の地図のことでしょう?

480 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 20:54:16
>>476
日本列島全体は分からなくても、実際に訪れた韓や北部九州までの距離は把握していない方がおかしい。
文献と現地を比較くすれば短里は間違いなく存在した。


481 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 21:04:38
>>480
では、具体例を列挙したまえ。
>文献と現地を比較くすれば短里は間違いなく存在した。

現在の地理上のどこからどこまでの地点と、古代の短里で記された距離を列挙してみなさい。





482 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 21:35:46
>>481
他人に問う前に、先に自分の研究結果を言えよ。

483 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 21:47:15
>>482

俺は、古代の測量技術なんてアテにならないと思ってる。
いいかげんな地図がその証拠。
短里、長里なんてものは無い。
そもそも、「里」という単位が、どれくらい正確に測られていたのか?
測量する方法は、三角法か?歩いた歩数か?日数か?で、全く違う実測距離を出すだろう。

仮に、1000kmを1里としたとき、
古代人がいいかげんな距離感で、800km,1200km,600kmをそれぞれ1里と記録したとしよう。
1200km,600kmでは倍違う。
つまりここで、現代人は短里、長里なんてものを空想してしまうわけだ。

違うというならば、どれくらい「里」が現代の地図上で、正確性をもった距離単位か、
測量方法はなんだったのか、まずそこから実証してくべきだろ。

さあ、説明しろ。


484 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 22:06:13
魏と呉は戦争をしている。
「古代の測量技術なんてアテにならない」というなら、呉が朝鮮半島に手を伸ばし、
魏を抑えようとした軍事行動をどうやって実現していたというのか。
アテにならない測量技術では到底、不可能である。

485 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 22:14:42
魏の使者は、自ら舟を漕いでやってきているわけではないことに気がつけば、
話は見えてくる。朝鮮海峡を渡るには、揚子江流域から東シナ海を支配して
いた海族の助けなしには到底不可能。内陸にある魏の国に高度な航海術や
測量技術があったわけではないのです。


486 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/09/19(金) 22:20:00
>>479
いや、実際そういうのを見てるよ。時計の針回転だって、通常12時間
で短針は一周するが、短針を24時間=1日で1周させている腕時計
だってある。いつの時代でも風変わりな物があるんだよ。

487 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/19(金) 22:20:31
>>483
短里と長里では長さが約6倍違うんだぞ。
誤差を超えた間違えようもない差だね。

488 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 22:28:16
>>487

6倍も誤差の範囲と言える。

平原の直線距離か、山道のうねうね道を歩数で数えたかで、6倍くらいは軽く変わる。
だから、どことどこの地点の距離を何里で示してるか、例を出せと言ってるのだ。

平原と山道で、同じ直線距離を同じ里数で記録されていたら、
三角測量技術が普及されてたとわかるからな。


489 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 22:32:47
俺の予測では、大陸内部の平らな平原では「長里」
朝鮮半島など、山道の多い地方は「短里」と言われてるのではないかな?

だが、それこそ、現代人の錯覚にすぎない。
歩いた歩数で里を計れば、山道のほうが当然実測で「短里」となる。



490 :ローガン:2008/09/19(金) 22:33:49
>>473
> 魏の公定里がどんなものであるかは関係ありません。

そうなんですか… ならこの件についていくら話しても仕方ないですね。
時間の無駄ですね。お互い疲れるだけですから。


491 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 22:36:22
「デタラメ1里」などあるわけがない。それでは軍事行動ができない。
司令官が交代したときに、以前の報告者は処罰されるだろう。

492 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 22:37:58
>>490
事実から目を逸らしたいのですか、そうですか。
敗北宣言はご自由に。

493 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 22:41:40
>>491

測量方法が何なのか?ということだよ。

歩いて1000歩を1里とするか。
馬が野糞をするまでを1里とするか。
夜明けから日暮れまで歩いた距離を1里とするか、
測量方法が同じで、同じ地域なら同じ距離として通用するが、
他の地域では通用しない。

494 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 22:44:52
というか、君たち、古代人の測量方法も検証せずに、
長里だ短里だとか言い合ってたわけ?


バカじゃないの?





495 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 22:51:17
古代人ってバカにしてるけど、漢代にはすでに都市を見ても分かるように高度な測量技術があったんだけどね。


496 :夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/19(金) 22:52:45
>>492
>>473の「事実なんかどうだって良い」的発言に突っ込みを入れると「敗北宣言」になるのか。
これって「突っ込んだら負け」とか、そういうルールだっけ?

497 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/19(金) 22:58:37
>>488
>平原の直線距離か、山道のうねうね道を歩数で数えたかで、6倍くらいは軽く変わる。
>>489
>大陸内部の平らな平原では「長里」朝鮮半島など、山道の多い地方は「短里」

夫餘方可二千里は内陸平原だよ。
夫餘が長里なら、その隣国である海岸に面した挹婁とその近隣諸国を何処に置くのかね。

498 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 23:03:16
>>497

一例だけじゃなくて、列挙しろといってる。
一例だけなら、「二千里」は、「ほどほど遠い」という意味でしかないかもしれないだろ?


499 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 23:11:35
列挙する必要以前だろ。
誰に伝えても、きちんと伝わる単位表現でなければ、軍事行動など取りようがない。

500 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 23:13:37
「三百歩為里」

501 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 23:20:37
>>499

軍事行動ほど大雑把なものは無いだろ。
目的地まで、軍を移動させるのに必要な単位は、「馬で半日」「馬で4日」くらいで十分足りる。
それをいちいち「834.58里」と記録するか「千里」と記録するか。

>>500
平原と山道では、完全に距離感が狂うな。


502 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 23:33:34
>>501
「広大な原野に山一つ」ならいいだろうが、半島〜九州の軍事行動では、そうはいかない。
精密でないと無理。

503 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 23:33:40
>>494
>というか、君たち、古代人の測量方法も検証せずに、
>長里だ短里だとか言い合ってたわけ?
書かれた結果を見れば明らかなのに
その事実を観測できないというのは能力不足です。

重力の仕組みが完全に証明されなければ、
重力は存在しないというのと同じ。

もう少し、事実に目を向けなさい。論より証拠ですよ。
屁理屈並べても事実は覆りません。

504 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 23:33:55
>>501
>軍事行動ほど大雑把なものは無いだろ。

その根拠と誰がそのようなこと言っているのか?


>目的地まで、軍を移動させるのに必要な単位は、「馬で半日」「馬で4日」くらいで十分足りる。

十分足りると誰が言っているの?

>平原と山道では、完全に距離感が狂うな。

だから、誰が狂うのか?

505 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 23:34:23
>>495
自国内の都市の測量はしっかりやるだろう。いい加減だったら、自分たちの生活が不便になるから。
同じだけの情熱をもって、東夷の国の測量をするかね。

隋書に「夷人不知里數,但計以日」とあるのに、倭人が独自の里の単位を持っていたら、隋書は嘘を書いたことになるわな。

506 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 23:35:47
>>503

>もう少し、事実に目を向けなさい。論より証拠ですよ。
屁理屈並べても事実は覆りません。

手本を示してやればいいだろう

507 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 23:40:14
魏志倭人伝ほど里程が充実している箇所も珍しい。
これが「デタラメ」だとか「いい加減」だというなら、初めから書かないだろう。
木を見て森を見ない人間のいうことは、トンチンカンで全く信用できないね。

508 :ローガン:2008/09/19(金) 23:40:40
>>492
> 事実から目を逸らしたいのですか、そうですか。
> 敗北宣言はご自由に。

ははは、ごめんね。あんまり馬鹿馬鹿しくて…魏朝の「里」などどうでもいいなんて。いろんな人といろんな所で話したけど初めて聞いた。
魏代の事を書いた史書にある距離の記述が、魏朝で使われた距離の尺度とは全く関係ないなんて。正直びっくりです。
まあ、これ以上お話しても、「関係ない」んですから、徒労でしょうね。
それはそうとサイキバ君、君には質問をしていたはずだが。
どうして答えないの?

509 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 23:43:23
>>500に「三百歩為里」 って例が出てるジャン。

ようするに、三角測量じゃなくて、何歩歩いたかで里数が決まってるはず。
ならば、平原ばっかりの大陸より、
山ばっかりの半島や日本のほうが「短里に見える」のは当然。

ようは、その土地で実用的な単位であればいい。
大陸と、日本で、里の実測距離が異なっていても不都合がなければいいわけ。

結論でいえば、古代人は「長里・短里」の区別をした自覚は無かった。
現代人は、見かけ上、「長里・短里」が区別されてたように見えた。
それだけのこと。

つまり、山道の多い日本では「短里」と考えて計算すればいいことになる。
何か問題が?


510 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 23:44:13
>>505
>隋書に「夷人不知里數,但計以日」とあるのに、倭人が独自の里の単位を持っていたら、隋書は嘘を書いたことになるわな。

不知里 と 不知里数 
の区別ぐらいはしような

511 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 00:12:49
必要があれば、平地だろうと野山だろうと、「足測量」をするのが当然。
軍事的な必要性からも、担当者は歩幅を非常に正確に歩む訓練を受けるものだ。

512 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 00:53:27
>>509
>大陸と、日本で、里の実測距離が異なっていても不都合がなければいいわけ。

国土の広さ、農産物の収穫量とか、国力の判断基準になるものが、大陸と日本で異なっててもいいなんて、そんなアホな。
中国人が「倭はエライ大国やなあ」と思ってたら、実測の倭はちっちゃな国でしたってことになるよ。

>>510
里を知ってることと、里もて数うるを知ってることは同じだよん。
ちなみに「不知里 と 不知里数 」はどう違うか説明してみて。

513 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 02:00:31
>>512
農作物の収穫量なんて誰が問題にした?

ここで問題になる里数というのは、現代でいう実測距離は関係ない。
あくまで、古代人が自分の足で歩いて目的地までどれくらいかかるかが解れば済む話。

さらに付け加えれば、1000里、2000里なんてのは、「ちょっと遠い」、「やや遠い」くらいの意味合いで使われてたものだろ。
どこそこまで1274里とか、具体的な数値が書かれてる資料があるのか?



514 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 02:23:21
しっかり測って、中央政府に報告し、軍事的にも十分実用になる里程が書かれているんだから、
千分の一の正確さを求めるのは無茶だし、おかしいだろ。

515 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 03:31:20
倭人伝が書いている里は、我々が知っている魏の里とはちがうということは意識すべきだ。
測り方でちがったなどというならば、1里が400とか300とかいろいろあるはずだが、
そうではない。だいたい、7、80で一定している。伝わっていない何かがあったと考える
べきだ。

516 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 05:27:37
邪馬台国九州説を語る人は極左暴力集団だ。

517 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/20(土) 07:38:52
>>515
三百歩為里、これが魏公認だ。
それ以外はない。
例えあっても、魏書とは関係の無い単位であるし、掲載する意味も必要もない。

518 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/20(土) 07:57:49
>>513

現代人が歩こうが、魏代の人が歩こうが、魏書に記録を残す場合
魏公認の長さに換算し掲載する。

これが常識。
晋は魏のすべてを禅譲する。

519 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 10:22:21
>>517 >>518
それで、韓は方四千里というのはどうゆうふうに理解しているのですか?

520 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 10:46:31
>>519
韓伝に書かれし方可四千餘里は、魏時に通用した「方可四千餘里」と認識しています。
つまり韓域は魏時、方可四千餘里と言う規模が認識され公認されたと言う事です。

521 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 10:55:00
>>520
意味不明???

522 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 10:55:53
>>520

どこが?

523 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 11:13:58
アンカーミス

>>520と入れたアンカーは>>521の誤りです。

524 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 12:10:39
>韓域は魏時、方可四千餘里と言う規模が認識され公認されたと言う事です。

まさか長里で方可四千餘里?韓が1600km四方の大国と認識され公認されたと?バカなOrz

525 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 12:16:53
>>524
魏里に短里、長里の区別はない。
あるのは「三百歩為里」
区別したのは昭和のお馬鹿さん達。

526 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 12:18:50
>>524
それに何だい?1600q四方って?
意味わからん。

527 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 12:24:13
>>517
>三百歩為里、これが魏公認だ。

春秋に「古者三百歩為里」とあるけれど、春秋編纂時、すでに「むかしは三百歩が一里だった」と言われているので、
もっと時代の下った魏の時の話ではなく、これが根拠とも思われない。
魏が三百歩為里を公認したというのは、どの文献で確認できるのか、教えておくれ。

528 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 12:35:16
>>527
司馬法を何故無視する?

529 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 12:45:11
>>524
まあそういうことだろうな

530 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 12:53:24
平成版魏志倭人伝ですか?くだらね。

531 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 13:06:52
魏代までに司馬法を受け入れず、各王朝独自のものを作りだし、採用した
などという一文、何処にも書いてありませんが
>>527
魏代に三百歩為里はローカルルールだと言うのですね。
私は王朝が正当なる禅譲で有る限り、当然先史を受け継ぐと考えています。

532 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 13:10:06
ポールシフトで地軸が入れ替わって、アトランティス大陸が南極になったって
書いたのは、フィリピン人の嫁さんをもらったアメリカ人。(名前忘れた)
この原理で東と南が入れかわったのだ。




533 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 13:31:19
卑弥呼の血は、傍系で現天皇につながっている可能性がある。
傍系とは宗女トヨ。
トヨがのちに神功皇后となった。
しかし、こののち、ユダヤ系の男が天皇家をのっとり、以降、男系でのみ
皇位を相続することにしてしまった。

もし、天皇家がフヨ族なら、藤原などフヨ族と皇位を争っても不思議ではな
いが、そうなっていない。天皇の男系の血だけはなぜか別格扱い。



534 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 13:33:49
陰謀です


535 :527:2008/09/20(土) 14:27:07
>>531
司馬法を無視したのではなくて、そういう文があるとは知らなかっただけ。
司馬法を持ってないので、司馬法の原文もしくは佚文が引用されている書物の原文を紹介してくれるとありがたい。
掲載しているホームページでもかまわないけど。

536 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 14:35:47
>>535
「司馬法」でググれば沢山ヒットしますから、お好きなものを
西周時代に確立された兵法です。

537 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 14:52:18
>>536
さっきからググってるし、司馬法が掲載されているサイトもあるけど、
三百歩為里に類するような文が見つからないから、どの文を根拠にしてるのかわからない。
それを教えておくれ。
西周時代の兵書が、魏の時代の行政の根拠になるとも思えないけれど、
何にしろ、原文を読まないことには議論もできんので。

538 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 15:02:06
>>537
以前、詳しく原文が掲載されたサイトがあったけど、最近移動したのか?アクセス出来ない。
あの時たしか?「三百里為歩」でググったら
偶然そこにヒット。ブックマークしていたが
最近消えた。
今夜また挑戦し、見つけたら
ここに住所、掲示しておきます。

539 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 15:13:27
>>538
お手数をおかけします。みつかったら、よろしくね。

540 :ローガン:2008/09/20(土) 15:29:04
>>539

よこからですが。
論語學而篇ではないですか?

541 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 15:48:57
>>540
論語・学而篇「子曰道千乘之國」の部分に対する何晏の集解が引いている司馬法のことでしょうか。
それだと、
司馬法、六尺為歩、歩百為畝、畝百為夫、夫三為屋、屋三為井、井十為通、通十為成、成出革車一乘
というもので、三百歩為里とは違いますね。

542 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 15:54:37
あまり、プラム=河童虫の

   「俺様が基準だ、俺様が辞書だ、俺様が法だ」

なんて主張をほじくっても、たいした意味はありません > all

543 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 15:55:52
三百歩為里は、司馬兵法など引っ張り出さずとも、「大唐六典」だけで十分ではありませんか?

544 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 16:01:24
>>542
でもそこまで言える自信はある意味凄い。
>>543も以前プラムからの引用ですが、偽物?

545 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 16:12:39
>>544
だから、司馬法とか大唐六典とか書名だけ貼られても、何とも言いようがない。
司馬法にはこう書いてある。大唐六典のこの部分にこうある。
というふうに書いてもらわないと、さっぱり。
ちなみに、いま大唐六典と三百歩でググったら、河童の師匠のページだけヒットした。
543も、ちょっと眉に唾付けて見といた方がいいかもね。

546 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 16:43:51
「大唐六典」なら京都大学附属図書館のHPで見ることできないかな?
国会図書館は?
眉唾は検索してからでも遅くない。

547 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 16:52:02
>>546
京大付属図書館のHPで見ることはできるけど、河童の言を確かめるためだけに
大唐六典を全部読めなどと、御無体な事は言わないでね。
電子テキストで検索できるサイトでもあれば、ご紹介ください。
眉唾を洗い落とすのは、検索してからでも遅くない。
そもそも、大唐六典が根拠になるという人が、根拠となる部分を提示するべきで、
私が探さなければならない言われもなかろうと思うのですが。

548 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 17:00:35
>>547
こんな機会でもない限り読む事がない大唐六典、読んで見てはいかがですか?
別に河童は関係ないでしょう。
読んで損するわけでもないし、別な発見があるかも。

549 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 17:14:59
ここは論文発表の場ではなく、学問の場と言われています。
「大唐六典」が提示されたのなら、皆がそれについて学問すべきではありませんか?学べば自ずと結果の判別が出来るはずです。

550 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 17:53:43
>>548
ここにこう書いてあると言えば済むことなのに、なんで誰も書かないのかなあ。
もしかして、誰も原文を確認してないんじゃないか。

>>549
それ、なんか的外れ。
オレが山海經ってひとこと書き込めば、君は山海經を読破するのか。
次に別の人が、日知録と書名だけをかきこんだら、やはり日知録を読破するのか。
結局、説の根拠は、提唱者が出所を明らかにするようにしないと収拾がつかなくなる。

551 :河童虫 ◆l5VkvJO3Rk :2008/09/20(土) 18:21:46
んんんんんん?

三百歩為里は唐六典ではなく 宋史 記里鼓車ではありませんか?

552 :河童虫 ◆l5VkvJO3Rk :2008/09/20(土) 18:26:33
>>550
一言

>オレが山海經ってひとこと書き込めば、君は山海經を読破するのか。
次に別の人が、日知録と書名だけをかきこんだら、やはり日知録を読破するのか。
結局、説の根拠は、提唱者が出所を明らかにするようにしないと収拾がつかなくなる。

収拾がつかなくなるかどうかは知らないけれど、興味ある人は読破すればいいんじゃないのかな?
興味のない人はなにがあろうと読まないだろうし

553 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 18:45:28
>>552
>収拾がつかなくなるかどうかは知らないけれど、興味ある人は読破すればいいんじゃないのかな?

結局、そういうこと。興味ある人が読破すればいいのであって、
ここで議論するために書名だけ示されたものを読まなければならない理由はない。
だから、自説の根拠の出所は明らかにしてね>all

554 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 20:22:09
プラム=河童虫は、「俺様がルールです」っていう考えだから、まじめに相手にしても虚しい。

555 :河童虫 ◆l5VkvJO3Rk :2008/09/20(土) 20:28:55
>>554

>プラム=河童虫は、「俺様がルールです」っていう考えだから、まじめに相手にしても虚しい。


と、いうか
まじめに相手できるの?
その台詞はまじめに相手出来る人が語るものです

それに「俺様がルールです」と考えているから、ここにカキコ出来るんだよ
じゃなければ
恥ずかしくて自分の考えなんか世界に発信できないよ

556 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 20:35:21
この激しい敵愾心と興奮。レスは、ただ辞書を引いてくるだけのレス。プラムが馬鹿にされていた所以です >>555

557 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 20:36:43
方向・行程・距離・到・国名・・・距離・行程・日程・・・・・・・戸数


・・・・・・・・・・・・・・・(七千餘里)
方向・行程・・・・到・狗邪韓国・距離


・・・・・(千餘里)
・・・行程・距離・至・対海国・・・・・・・・・・方可四百餘里・有千餘戸
・・・・・(千餘里)
方向・行程・距離・至・一大国・・・・・・・・・・方可三百里・・有三千許家
・・・・・(千餘里)
・・・行程・距離・至・末盧国・・・・・・・・・・・・・・・・・有四千餘戸
・・・・・(五百里)
方向・行程・距離・到・伊都国・・・・・・・・・・・・・・・・・有千餘戸

・・・・・・・・・・・・・・・(百里)
方向・・・・・・・至・奴国・・・距離・・・・・・・・・・・・・有二萬餘戸
・・・・・・・・・・・・・・・(百里)
方向・・・・・・・至・不弥国・・距離・・・・・・・・・・・・・有千餘家


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(水行二十日)
方向・・・・・・・至・投馬国・・・・・行程・日程・・・・・・・可五萬餘戸
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(水行十日陸行一月)
方向・・・・・・・至・邪馬台国・・・・行程・日程・・・・・・・可七萬餘戸

自郡至女王國萬二千餘里


558 :ローガン:2008/09/20(土) 20:44:55
>>541

> 論語・学而篇「子曰道千乘之國」の部分に対する何晏の集解が引いている司馬法のことでしょうか。

ごめんなさい。集解ではなく義疏になかったでしょうか?時代は下りますが、まあ唐六典よりは魏代に近いものですね。

記憶違いでしたらスミマセン。

559 :河童虫 ◆l5VkvJO3Rk :2008/09/20(土) 20:45:05
>>556

>レスは、ただ辞書を引いてくるだけのレス。

アホじゃん
俺ほど辞書引かない奴他になかなかいないと思うし、
だいいち、辞書を絶対視していないし

560 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 20:54:38
方向…行程…距離…到…国名………距離…行程…日程…………………戸数


………………………○……………(七千餘里)
方向…行程…………到…狗邪韓国…距離


……………(千餘里)
………行程…距離…至…対海国…………………………方可四百餘里…有千餘戸
……………(千餘里)
方向…行程…距離…至…一大国…………………………方可三百里……有三千許家
……………(千餘里)
………行程…距離…至…末盧国……………………………………………有四千餘戸
……………(五百里)○
方向…行程…距離…到…伊都国……………………………………………有千餘戸

………………………………………(百里)
方向…………………至…奴国………距離…………………………………有二萬餘戸
………………………………………(百里)
方向…………………至…不弥国……距離…………………………………有千餘家


………………………………………………………(水行二十日)
方向…………………至…投馬国……………行程…日程…………………可五萬餘戸
………………………………………………………(水行十日陸行一月)
方向…………………至…邪馬台国…………行程…日程…………………可七萬餘戸

自郡至女王國萬二千餘里


561 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:00:19
>>560

この行程を見れば、邪馬台国は畿内なのが一目瞭然じゃん。



562 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:01:15
>>559
で、結局、
>三百歩為里、これが魏公認だ。
の根拠は、大唐六典は関係なくて、宋史ということですか。

563 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:06:38
>>560

九州に着いてからの水行二十日とか、水行十日は、
あきらかに日本海か瀬戸内海を渡ったということだな。

564 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:23:27
単独行ではなくて組織集団の行列行だから、水行十日ではいくらも進まない。
ましてや帯方郡から北部九州までは、非常に時間がかかる。

565 :河童虫 ◆l5VkvJO3Rk :2008/09/20(土) 21:29:48
>>562

>の根拠は、大唐六典は関係なくて、宋史ということですか。

さ〜っ?
ただ、唐六典は一日の進む距離について説明してある文献で
   宋史は三百歩為里の説明が書いてある文献じゃないかと>>551で述べただけですが

566 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:37:38
>>565
結局、文献的根拠はなかったわけね。じゃあ、いいです。
何か自分の知らない資料があって、それで断言しているのかと興味をひかれただけだから。

567 :河童虫 ◆l5VkvJO3Rk :2008/09/20(土) 21:43:09
>>566

>結局、文献的根拠はなかったわけね

十分すぎるほどあるじゃん

ないと主張する人にとっては何を提示しても認めないのが常だけど



568 :河童虫 ◆l5VkvJO3Rk :2008/09/20(土) 21:47:37
あ、それに
過去に営まれ消化された歴史を語る場合、肯定か否定かの(断言)だけね
可能性なんて曖昧なんてない


569 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:50:02
河童虫、取り柄といえば、減らず口

570 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:51:14
低俗の、見本我なり、河童虫

571 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:51:45
【韓国】Rain(ピ)『倭色物議?』〜「日本伝統の忍者ではなく、アジア的カラーの忍者を見せます」★2[09/20]
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1221895205/

忍者の起源は韓国だってww

韓国人歌手のRain(ピ)によると、忍者は韓国武術の一派なんだってさww
スルサ道場の主張によると、忍者の起源は新羅軍「花郎」の特殊部隊「スルサ」にあるんだってさww
韓国人ファッション評論家によると、忍者の起源は高句麗にあるんだってさww

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E8%B5%B7%E6%BA%90%E8%AA%AC

572 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:51:58
プライドで、指図横柄、河童虫

573 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:52:27
河童虫、いつになっても、まだプラム

574 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:55:13
>>567
>>527でオレが質問してから、キミから答えをもらってないんだけれどね。
司馬法・大唐六典を持ち出した人は名無しだから、別人と考えるよ。
すると、キミのレスは>>551
>三百歩為里は唐六典ではなく 宋史 記里鼓車ではありませんか?
これだけ。
それで>>567で十分すぎるほどあるじゃんとなれば、宋史が十分すぎるほどの根拠だと考えて良いわけ?

それはそうと、551というと蓬莱を思い出すのは、関西だけかな。やっぱり。

575 :河童虫 ◆l5VkvJO3Rk :2008/09/20(土) 22:07:10
>551というと蓬莱を思い出すのは、関西だけかな。

http://www.551horai.co.jp/

これ?  私はよく知らない(茨城)


>宋史が十分すぎるほどの根拠だと考えて良いわけ?

わたしには十分すぎるほどの根拠
周りがどう判断するかは知らないけれど

576 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:12:55
>>519に対する河童虫さんの答はまだ出ていないようですね。
>>520と同じように、韓は1600キロ×1600キロの大きさと認識されていた
という考えですか?

577 :河童虫 ◆l5VkvJO3Rk :2008/09/20(土) 22:23:04
>>576

> >>519に対する河童虫さんの答はまだ出ていないようですね。

えっ?
答えなくちゃいけないの?

> >>520と同じように、韓は1600キロ×1600キロの大きさと認識されていた
という考えですか?


いや、方里という面積に匹敵するものが4000個分という認識ですが


578 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:46:03
同じ邪馬台国畿内説論者の中でも
・北部九州蔑視史観論者…梅原末治・小林行雄・田辺昭三
・北部九州直視史観論者…中山平次郎・原田大六・柳田康雄

579 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 22:57:24
>>560
………………………………………(百里)
方向…………………至…奴国………距離…………………………………有二萬餘戸
………………………………………(百里)
方向…………………至…不弥国……距離…………………………………有千餘家

この部分は行程が無い、到で目的地の伊都国に到着しているので伊都国で知りえた情報を書いたもの。


………………………………………………………(水行二十日)
方向…………………至…投馬国……………行程…日程…………………可五萬餘戸
………………………………………………………(水行十日陸行一月)
方向…………………至…邪馬台国…………行程…日程…………………可七萬餘戸

この部分は「到狗邪韓国」と「到伊都国」を再度、日程で説明したもの。
「水行二十日」+「水行十日陸行一月」が距離の「萬二千餘里」を旅するのに掛かる日数。


580 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:04:52
>>577
>方里という面積に匹敵するものが4000個分という認識ですが
この大きさがどの程度か考えてみられましたか?
50里×80里=4000平方里 20キロ×30キロ程度のものですよ。

581 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:05:24
>>575
http://www.551horai.co.jp/

>これ?  私はよく知らない(茨城)

そう、それ。冬は肉まん。夏はアイスのCMをやってるよ。
いつもテレビで見てると、なんか全国の人が知ってるような錯覚に陥るなあ。

>わたしには十分すぎるほどの根拠

なるほど。最初から、宋史が根拠ですと言ってればそれですんでたのにね。
ちなみに宋史は「以古法六尺為?,三百歩為里,用較今法五尺為歩,三百六十歩為里.」
三百歩を里とするのは古法だとしか書いていない。時代が解らない。
儒者が古法というとき、儒教の経典に拠っていることが多い。

三百歩為里は春秋穀梁伝に出てくるけれど、先秦の事情を記述した穀梁伝ですら古法扱いされている。
しかも、先秦時代にバラバラだった度量衡は、秦によって統一されている。
秦が滅んでから、前漢後漢で四百年の歳月が過ぎている。
さらに、春秋穀梁伝と宋史の間で、三百歩為里という記述はオレは知らない。

結局、先秦時代に古法であった三百歩為里が秦の度量衡の統一にも負けずに復活して、
前漢後漢四百年の歳月を生き延びて魏の制度として採用されていた。
しかも、それに関する記述はない。
という説を、宋史の記述だけで証拠十分と判断する気には到底なれんなあ。


582 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:12:16
>>579
>「水行二十日」+「水行十日陸行一月」が距離の「萬二千餘里」を旅するのに掛かる日数。
万二千里は女王国までの距離。女王国と邪馬台国は別ですよ。


583 :河童虫 ◆l5VkvJO3Rk :2008/09/20(土) 23:25:43
>>581

>三百歩を里とするのは古法だとしか書いていない。時代が解らない。

時代を区切らないからよけい信憑性が増すのですよ
「位古法」=三百歩為里と制定されてから起点の昨日までが全て対象となるので
少なくとも宋以前までは三百歩為里という換算値が続いていたと、

>三百歩為里は春秋穀梁伝に出てくるけれど

知っていますよ
だからよけいに自信がもてるのです。
ま、これは別な内容で触れる機会があると思いますので、ここではノーコメントと
しておきます。

当然宋史一つだけではここまで断言はしませんよ

584 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:32:43
なんだ、邪馬台国は大和だったのか。

585 :河童虫 ◆l5VkvJO3Rk :2008/09/20(土) 23:37:45
>>580

>この大きさがどの程度か考えてみられましたか?
50里×80里=4000平方里 20キロ×30キロ程度のものですよ。

私にはその計算がどのように導き出された計算なのか?よく理解できません。
なぜ50×80になるのか?


586 :河童虫 ◆l5VkvJO3Rk :2008/09/20(土) 23:41:52
>>580

因みに 1×4000 も 方里が四千個ぶんですよ

587 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 00:23:56














          もういいわ。結構。

588 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 00:45:27
>>585 >>586
50×80は分かりやすい数字にしただけですよ。1×四千でも結構。
しかし、435b×1700キロといっても大きさはイメージしにくいでしょう。

589 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/21(日) 00:56:16
>>588
別にイメージする必要なんてないのでは。
韓域の形なんて設定ないんだし、掛け算する必要性もない。
方里四千個分
ただそれだけですよ

590 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 01:14:08
へぇ、20キロ×30キロぐらいの中に韓伝に記された多くの国々が入っていたとでも?

591 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 01:19:32
蛙の、いや河童の面に小便

592 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/21(日) 01:41:47
>>582
>>579の説はその通り。僕と同じだ。

僕なりの補足を入れると、
女王國は、奴國・不彌國・投馬國・邪馬壹國の4ヶ国。
その4国は隣接している。
里数による道程記事は、不彌國で万二千餘里となり女王國に到着したから、不彌國で完了。
投馬國と邪馬壹國は女王国内記事であるから、投馬國で道程記事は一変する。
「至投馬國水行二十日」と「至邪馬壹國水行十日陸行一月」は改めて再度「従郡」を受けている。


593 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/21(日) 05:40:33
>>590

>20キロ×30キロのなか


言ってる意味
分からん??

594 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 07:33:03
邪馬台国を北部九州に比定しようとしてるそこの君。
伊都国から邪馬台国まで
・水行十日or陸行一月(伊都国基点の放射式読み方説1)
・水行十日と陸行一月(伊都国基点の放射式読み方説2)
・水行三十日と陸行一月(連続式読み方説1)
・水行二十日と水行十日or陸行一月(連続式読み方説2)
このどれかをせねばたどり着けん。
そんな近場には押し込められんよ。

595 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 08:06:41
>>593
どこが分からないのですか?
あなたは韓が方里四千個分の大きさだという。それは4000平方里ということです。
1×四千ではやたら細長くなるから、50×80を考えただけのこと。
40×百でもよいですね。これも四千平方里。この場合ならば、17キロ×43キロ。
韓の広さがそれだけと言うのは、小さすぎると言ってるだけですが。

方四千里というのは、一辺の長さが四千里の正方形に相当する面積だという意味です。
つまり、十六万平方里。あなたはたった四千平方里と思いこんでおられるようですが。

596 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/21(日) 10:24:50
>>595

>韓の広さが小さすぎる。
先入観のモロダシですね
何と比べて小さいと?

597 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 10:41:59
>>596
韓伝によれば、韓には馬韓、辰韓、弁韓が属しています。
馬韓だけでも五十余国、戸数十余万戸とあります。それをみれば、四千平方里が小さすぎる
ことは明らかだと思いますが。理解できないのですか?
なお、17キロ×43キロというのはいわゆる長里で計算したものですよ。念のため。

598 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/21(日) 10:52:33
>>597

大きい、小さい
狭い、広い
高い、低い

等などは、基準があってはじめて主観を交えず語れるものです。
魏書では
何を基準に語れと陳寿は述べているのですか?

599 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 11:09:30
>>598
別に基準などと言わなくても語れます。
千人の人が住むのに、六畳一間のアパートでは小さすぎる。
誰でも理解できる話だと思いますが。

600 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/21(日) 11:15:48
>>599
四世紀の洛陽の人に、アパートの例えですか?
平成版倭人伝はこのくらいで、三世紀に

601 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 11:46:28
>>600
四世紀の洛陽の人と平成の世の人では、居住に必要なスペースが極端に変わるのでしょうかね?
現今六畳のスペースは、四世紀でも同じ広さ。時空に歪みがない限り面積は時代で変化しません。
現今六畳のスペースに四世紀の人が千人住むのが狭いか広いか、想像もつきませんか?
そうなると、もはや、四世紀の洛陽人と現代の日本人では、生物としての種が違いますなあ。

602 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/21(日) 12:20:28
>>595

方4000里=4000里平方=16,000,000平方里
1里=75mとして
方4000里=方300km=300km平方=90,000平方km(km2)

603 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 13:04:56
>>602
どうも。大きな数字なので位を間違えてましたね。

604 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/21(日) 13:33:40
>>602
それは平成の魏書韓伝

当時は
形を示さず方可四千餘里
方里が四千個分の規模です。

605 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 13:37:18
>>560
………………………………………………………(水行二十日)
方向…………………至…投馬国……………行程…日程…………………可五萬餘戸
………………………………………………………(水行十日陸行一月)
方向…………………至…邪馬台国…………行程…日程…………………可七萬餘戸

他の国が「有」と断定しているのに対し、投馬国、邪馬台国について戸数を「可五萬餘戸」「可七萬餘戸」と推測値であることを示す「可」を使っている。
魏使は旅の目的地である伊都国までしか来ていない。
投馬国、邪馬台国について戸数を推測することが出来たのは魏使はが投馬国を通って邪馬台国の都である伊都国にきたから、戸数を推測する事が出来たのだ。

606 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 13:45:24
>>605

つまり、邪馬台国は畿内だったわけだ。

607 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 15:13:05
伊都国が都なら九州じゃん

608 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 16:00:23
絹と鉄鏃も九州>>>>>>>>畿内。
こりゃきまりだな。

609 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 16:02:53
和辻哲郎は「日本古代文化」で神武東征を2世紀の事としているのか
邪馬台国以後の事としているのかどっちだ?

610 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 16:24:10
>>609
多分、邪馬台国のあとだろう。

かつて、盛大であった邪馬台の征服を思わせる伝説はどこにも存在しない。
邪馬台の国は突如として消えた。が、そこにはもう全国を統一する大和の
勢力が現れている。

と書かれている。

また、「統一の力が九州から動いた。これは否定しがたい伝説であったろう。」
とも書かれている。

611 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 16:35:11
>>610
彼は後に大和説に移ったそうだが、
その大和説は筑紫勢力の東遷を前提としているのか?
調べてるんだが、情報が少ないんだ。

612 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 17:45:50
>>611
>彼は後に大和説に移ったそうだが、
そのソースの中に経緯は示されていないの?

613 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 22:01:54
今年も彼岸花の美しい季節となりました。
南無阿弥陀仏

614 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 09:54:28
魏志倭人伝は大げさに書いてるけど
結局のところ邪馬台国って九州の地方国家
にしかすぎなかったってことだろ

615 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 09:54:42
韓域を「方可四千餘里」を以って、一辺四千餘里の範囲と解す方がいるようだが、これはとんだまちがい。「方〇〇里」とは
自然が作り上げた範囲ではなく、人為的に一辺を〇〇里と区切り、その区画範囲を線引きする人工的な割り振り、決して自然造形物に用いるものではない。
これを韓域方可四千餘里に持ち込んでしまうと、韓域は全て(四方)を
人為的に区画線引きされた一辺四千餘里の方形となる。


『んなワキャねぇ‐だろ!』

616 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 10:43:17
>>615
>『んなワキャねぇ‐だろ!』
自分で書いたことのあまりの馬鹿馬鹿しさに気づいたのかな?



617 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 10:49:37
千里の支配地域を有する者と、方千里を有する者の格差を理解出来なければ、決して>>615を理解できないだろう。

当然、千里の支配地域を有するものが、単純比較では上位にくる。

618 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 11:02:36
あてにならない「里」の解釈はやめようね
戸数にしてもしかり、一歩譲っても話半分

619 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 11:10:52
>>618

あてにならないとする、平成の判断は知らない。

620 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 11:12:38
>>619
一家族4人とかで計算してるんじゃないだろうな?www

621 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 11:24:47
>>620

言ってる意味がわかりません。

622 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 11:28:41
倭人伝に書かれている邪馬台国や投馬国の規模は誇張だってことさ

623 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 11:32:52
>>622

誇張である事を記載する文章が見つかったのでしょうか?
私は未だに目にしていませんが。

624 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 11:37:59
邪馬台国に七万戸も本当にあったと思ってるのかい?

625 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 11:47:03
>>627
本当にあったのではなく、本当に書いてあった史実に対して述べているのですよ。
本当に有った、無かったなんて二の次三の次
今、結論を出せる問題ではありません。
「戸七万」と書いてあるものを、個人的に改編するわけにはいきません事を理解下さい。

626 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 11:49:02
>>627と記載したアンカーは、>>624の誤りです。


m(__)m

627 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 12:00:14
その個人的改編が放射説ではないのか?

628 :どくだみ:2008/09/22(月) 12:05:10
>>615
貴方の主張が正しいとすると、方○○里と表現されたものは、みな、四方を人為的に区画線引きした、一辺が○○里の方形ということになる。
以下の例を見てみよう。江東の地も戦国期の魏の地も、方千里と表記されている。
しかし、江東や魏が一辺千里の方形をしているとは聞いたことがない。
つまり、方○○里がいつも一律に一辺○○里の方形を表すのではない。
不定形の国の面積を表す表記法であるということがわかる。
まあ、いつもの流れだと、方○○里と地方○○里は違うとか言いだしそうだね。

史記・項羽本紀
烏江亭長?船待,謂項王曰:「江東雖小,地方千里,衆數十萬人,亦足王也.」

史記・蘇秦列伝
又?魏襄王曰:「大王之地,南有鴻溝、陳、汝南、許、?、昆陽、召陵、舞陽、新都、新?,
東有淮、潁、?棗、無胥,西有長城之界,北有河外、卷、衍、酸棗,地方千里.


629 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 12:11:54
>>627
放射説なんて、未だ存在していたの?

630 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 12:28:52
>>628
何か(方形を強調し)誤解していませんか?

631 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 12:30:23
>>624
『可七萬餘戸』と書かれているから、魏使は邪馬台国について七万戸ぐらいであると推定出来る根拠を何か持っていた。


632 :どくだみ:2008/09/22(月) 12:33:21
>>630
久しぶりに見ました。河童さんの誤解節w
私が誤解しているとすれば、>>615の貴方の書き込みが不明瞭なのでしょう。
誤解が生じぬように書き直してください。

633 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 12:39:56
どくだみさん

江東の地、戦国魏の地は、自然が作り出した範囲ですか?
違うでしょ
人為的に決められた範囲と、私は考えていますがちがいますか?

しかし、韓域は
記載されているように、明らかに東西(南は今は別問題で触れない)は自然造形

634 :どくだみ:2008/09/22(月) 13:06:20
>>633
>これを韓域方可四千餘里に持ち込んでしまうと、韓域は全て(四方)を
>人為的に区画線引きされた一辺四千餘里の方形となる。

方○○里と書いても、別に方形とは限らないので、この書き込みはちがいますね。

さて、江東は長江下流域南岸の地域を指すのであって、北は長江に区切られています。
文化・風俗的に同一の伝統を持つらしい民族が住んでいる地域で、
長江という自然物を境としています。
東西を海に限られ、似た種族が住まう韓という地域と何が異なるんでしょうね?
逆にいえば、韓という地域は、自然が意志を持って、ここからここまでは韓ですと作ったんですか?
人為的に定めた、特定部族の居留地域ではないですか?

魏は戦争によって人為的に区切られた国境もあるでしょうし、
その際、山や川などの自然物を国境線として使ったかもしれません。
江東にも魏にも使える方○○里という書き方。
さて、>>615のように、自然物だ人為的だ方形だと割り切れますか?

635 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 13:28:27
>>634

方〇〇里
つまり、方里は一辺が一里の方形ですよ

申し訳ありません。
どくだみさんの言葉ではなく、それぞれの範囲を文献にて表示願いませんか?
解釈の違いで、個人差があると思いますので。

636 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 13:39:57
>>634

地理記事は割り切りがだいじですよ
曖昧はいけません。
知らないものは知らない。知ってるものは数値や文字で表す。
私達の思惑なんて、一切いりません。

637 :どくだみ:2008/09/22(月) 14:09:55
>>635
>どくだみさんの言葉ではなく、それぞれの範囲を文献にて表示願いませんか?

私の方が、江東と戦国の魏がともに方千里と記述されていることを文献で示しております。
貴方の方が、>>615の主張を文献で示す必要があると思うのですが、どうですか?


>地理記事は割り切りがだいじですよ
>曖昧はいけません。

曖昧がいけないからといって、よく知らないものを勝手に割り切ってはいけません。

>知らないものは知らない。知ってるものは数値や文字で表す。
>私達の思惑なんて、一切いりません。

文献的な根拠もなく、勝手に「これは自然造形物で、こっちは人為的な区切り」
「これは自然造形物用の表現で、こっちは人的な区切り用の表現」というふうに
割り切ることこそ、貴方の思惑だと思うのですが、どうですか?

638 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 14:35:39
>>637

それはどうでしょうか?
考え方の違いではありませんか?

639 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 14:44:26
どくだみさん
文献的な提示ですか?


『韓在帯方之南東西以海爲限南與倭接方可四千餘里』

私の主張が明確であることがわかりますよね。

640 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 15:05:54
ヤマタイ国のヒミコは、土着の霊能者だ。
その超能力がすごいので、尾ひれがついて畿内にまで名声は聞こえてい
た。彼女の晩年には、すでに全国で伝説的存在だった。

彼女が死んでのち同国に争いが起きたとき、この機に乗じた畿内の一豪
族がヤマタイ国を攻め、勝利した。
ヤマタイ国を僭称するというより、伝説的なヒミコとヤマタイ国の高名
を引き継ぐという意味で、同国の名を名乗ってを治めはじめたのが、大
和朝廷の始まり。


641 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 15:36:50
>>640
とりあえず、トンデモの九州王朝説はないなw

642 :どくだみ:2008/09/22(月) 15:43:56
>>639
>『韓在帯方之南東西以海爲限南與倭接方可四千餘里』

>私の主張が明確であることがわかりますよね。

何が言いたいのかさっぱりわかりませんが。

根拠を示さなくてよいなら、「方は四千里を可とせられる」と読むんだ、
韓は中国の皇帝から四千里四方の国を領有することを許可されたのだ、
と主張してもいいわけで、何でもありです。
私が文献的根拠を提示するようにと言ったのは、
方可四千里という原文を一里四方四千個という意味に読む根拠を提示してくれと言ったのであって、
解釈すべき原文を示せとは申しておりません。

ついでに申しますと、私の持っている中華書局版三国志では方可四千餘里ではなく方可四千里となっていますが、
貴方の使われている底本とは違うのですかね。
中国製の書物が完全に信頼できないのは食品と同じなので、ちょっと確認しておきたいです。

643 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 15:45:39
九州王朝説は正しいのだが、
河童虫の論理・議論が何を言おうとしているための前提話なのか、
それがさっぱりわからない。
帯方郡から北部九州の邪馬壱国まで12000余里でいいんでしょ?


644 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 15:50:06
まだ理解できないのかな?
方四千里(可を省いて考える)と書かれているものに対して、四千里×四千里と言う計算は出来ないと言う事。
四千里×四千里というものは、既存の物に対して、一辺を四千里で区切ると言う人為的な行為。
この場合、面積に対して定められた単位(井、通、成…)が割り振られる。

一方、方四千里と書かれているものは
既存の物を測る行為であり、結果四千里
(既存物は測量に対して自然発生的な造形物)
だから
四千里×四千里と言う計算は、絶対に成立しない。

方四千里とは
方里が四千個分に相当する規模。と読む。
だからと言って、韓域の面積が、方里が四千個分とはならない。

方〇〇里は「積」ではなく「加」

645 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 15:58:33
どくだみさん


四千餘里は私の携帯からのタイプミス、四千里でOKです。


m(__)m

646 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 16:02:30
方四千里の一辺は√四千里だという屁理屈?それならもう、聞きたくないんですが。

647 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 16:03:55
>>643

最高にウケた(爆笑)

貴方は吉本の芸人さん?

648 :どくだみ:2008/09/22(月) 16:05:56
>>644
河童虫さん
申し訳ありません。
河童虫さんの言葉ではなく、その主張の文献的根拠を御提示願えませんか?
貴方の主張は、良く理解しております。ただ、それが正しいという根拠が示されていないのです。
私が言っているのは、貴方の説が理解できないというのではなく、
貴方の説には根拠が示されていないということなのです。
根拠が提示できないのなら、「方は四千里を可とせられた」説と同レベルですよ。

四千里の件、了解しました。
中国も、もっと信頼できる国になってほしいものですね。
実際、同じ版本を使って景印したはずの書籍が、
出版社が違うと文字の異同があったりして、
何やってんだ中国人?と首をひねることもありますから。

649 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 16:09:00
正確じゃない中国もあれだけど、
最も罪なのは邪馬台国を詳しく文献に残さなかった日本の後世権力者じゃない?

650 :日本@名無史さん ::2008/09/22(月) 16:19:38
後世の権力者は残さなかったのでなく、残せなかったと理解する方が
正解かもしれない。

万世一系の天皇の系譜とするために、編纂したのが日本書記だから。
ただ、それでも各地に残る伝承・風土記と中国に記述してある卑弥呼
は、全く記述しない訳にはいかないから、ますます中途半端な記述
と初代天皇以降の年齢の不適合が発生したのではないでしょうか。

651 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 16:21:34
>>648

どくだみさん「参った」
ギャハハハハ(爆笑)


まさか
その手が有ったとは
一本とられました。

652 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 16:40:24
プラム=河童虫は、自己顕示欲を満足させんがために、2chで粘着カキコしてるだけ。

 プラム=河童虫の手口

だから先ずスタンドプレーとして相手の説をバッサリ斬る。
その根拠として、わけのわからぬ枝葉末節を語り始めて、検証のしようもない珍説を主張。
わけのわからない検証しようもないネチッコイ珍説だから、普通の人は論破などするヒマも気力も起きない。
論破されないから、完全制覇し勝ち誇った気分で得意満面。

・・・あ〜あ、どくだみさんにアッサリ論破されちゃったね!

653 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 16:55:45
>>650
もっともですね。
昨日テレビで櫻井よしこさんが日本の歴史を知らない者は日本人じゃないと力説してましたが
日本の歴史の走りである邪馬台国からして正確な歴史を学べないのであれば
日本の歴史に興味を抱く人も今後ますます少なくなるでしょう。
権力、政治力に左右されない草の根の歴史研究家さんたちに
真実の歴史を紐解いてもらえるよう頑張ってもらいたいものです。

654 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 17:07:17
>>652
おまえは本当に情けない奴(まだハウスしていなさい)
それを書きたくて、今まで黙ってROMっていたのか?
で、今時「論破」だって?ま、一人しかいないわな〜

今晩登場する為の予行練習にしては情けない現れ方だとは思わないか?
「ヨシ」というまで「ステイ」していなさい

655 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 17:14:47
>>652
今暇だし、オマエの折角の投稿にコメントしてやるから正座し拝見するように(返事は?)

>先ずスタンドプレーとして相手の説をバッサリ斬る。

お前には出来ない行為だな

>その根拠として、わけのわからぬ枝葉末節を語り始めて、検証のしようもない珍説を主張。

単なる勉強不足を、自ら宣伝している行為に気づかないのか?

>わけのわからない検証しようもないネチッコイ珍説だから、普通の人は論破などするヒマも気力も起きない。

オマエにはまだ無理だ

>論破されないから、完全制覇し勝ち誇った気分で得意満面。

羨ましいか?

656 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 17:17:59


    河童虫が、のた打ち回るのを、観察中




657 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 17:20:39
>>656

またおバカな書き込みがあったら登場してあげるから
それまで お利口にしていなさい。

658 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 17:23:19
麻生新総理は迫害され続けてきた朝鮮総連を救え!http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/asia/1222068882/l50

麻生新総理は迫害され続けてきた朝鮮総連を救え!http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/asia/1222068882/l50


麻生新総理は迫害され続けてきた朝鮮総連を救え!http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/asia/1222068882/l50

麻生新総理は迫害され続けてきた朝鮮総連を救え!http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/asia/1222068882/l50




659 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 17:28:40
>>646

>方四千里の一辺は√四千里だという屁理屈?それならもう、聞きたくないんですが。

全然理解できていなかったのですね
もう一度>>644を読み直して下さい

660 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 17:36:13
>>653
櫻井よしこさんは、フランス語で歴史は物語りと同じだと言っておられたが、
通説の日本古代史は物語りになっていない。
話が切れて繋がらない、バラバラで支離滅裂。
記紀だけに頼らず広く資料を集め分析し、筋の通った物語りを完成させてほしい。

661 :どくだみ:2008/09/22(月) 17:55:37
>>649
邪馬壹國も卑彌呼も中国の勝手な当て字なので、同じ名前がないのは日本人のせいではないと思うよ。
それに、8世紀成立の最古の歴史書・古事記でさえ口承を記録したもので、
卑彌呼の時代からおよそ500年の歳月の伝言ゲームなんだから、
記紀編纂者も良く解らなくなっていたとしても、仕方ないと思うんだけどなあ。

662 :日本@名無史さん ::2008/09/22(月) 18:30:16
日本書記編纂時に過去の書物がなく、口述のみを記録したと解釈するのは
乱暴すぎます。

当時は各部族毎にそれぞれ、蘇我氏、物部氏、葛城氏等の編纂本や歴史に関する資料
や氏族の出生に関する記述本はあった筈ですが、各部族を滅亡させた後、その本を
 焚書した権力者が「古事記」「日本書記」の編纂をやった可能性も否定できない。

だからといって、当時の権力者が過去のその部族の資料を全く無視すると
日本書記そのものが歴史書としては、価値をもたなくなる。
天孫降臨が畿内の山でなく、九州の山である理由はそこにこそ意味がある
気がいたします。

畿内の部族の出身地の9割以上が九州出身である事実と符合します。

663 :どくだみ:2008/09/22(月) 18:40:30
>>644
ちなみに漢書地理志の顔師古の注に、こういうのがあります。
師古曰:「宗周,鎬京也,方八百里,八八六十四,為方百里者六十四也.
ラク邑,成周也,方六百里,六六三十六,為方百里者三十六.二都得百里者百,方千里也.故詩云『邦畿千里』.」
宗周とは鎬京である。方八百里。八×八=六十四。方百里である土地が六十四である。
ラク邑は成周である。方六百里。六×六=三十六。方百里である土地が三十六である。
二キ(宗周のキと成周のキの両方)で、百里の面積が百個。
(64+36=100 方百里〔100里×100里〕が100個で1000000)
つまり方千里〔1000里×1000里=1000000〕である。
だから詩に「邦畿(ほうき)千里」と言うのである。

周の天子の領土を邦畿千里と言い慣わすのは、
宗周と成周の面積を合わせると方千里であるからだというわけです。
方八百里は、方百里が六十四個とはっきり書いてあります。
つまり方八百里と書かれているものに対して、顔師古は
堂々と八百里×八百里という計算をしています。
それに、邦畿千里という言い方で千里×千里の面積を表しており、
別に(井、通、成…)などの面積専用の単位を使用しなければならない決まりはないということもわかります。
河童さんが、都は人為的な区切りだと言うだろうと思って書かなかったけれど、
一応参考までにどうぞ。


664 :どくだみ:2008/09/22(月) 18:50:55
>>662
各氏族や地方に、体系的な歴史を漢字で記述する文化があった時に、
稗田阿礼の暗誦で歴史書を編纂しましたっていうのは、
私たち文化的に遅れてますと宣伝するようなものでしょう。
だから、簡単な記録くらいはあったかもしれませんが、漢字で書かれた体系的な史書が存在したとは考えにくいですね。
文字が無かったなどというと、太国大先生が青筋立てて書き込んできそうなので、
漢字に限定させていただきます。

歴史は勝者のものというのは、一面の真理ではありますが、
どこか衒学的な臭いがして、あまり好きになれません。
私は、権力者の都合で真実が抹殺されたというより、
漢字文化の浸透が間に合わずに失われたと考える方が自然のような気がします。

665 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 19:06:21
>>663どくだみさん

ありがとうございます。 

>別に(井、通、成…)などの面積専用の単位を使用しなければならない決まりはないということもわかります。

当然決まりはありません。だからあそこで「決められている」とは書かず「割り振られる」と書いたのです。


で、あの>>644のレスにも

>師古曰:「宗周,鎬京也,方八百里,八八六十四,為方百里者六十四也.
ラク邑,成周也,方六百里,六六三十六,為方百里者三十六.二都得百里者百,方千里也.故詩云『邦畿千里』.」
宗周とは鎬京である。方八百里。八×八=六十四。方百里である土地が六十四である。
ラク邑は成周である。方六百里。六×六=三十六。方百里である土地が三十六である。
二キ(宗周のキと成周のキの両方)で、百里の面積が百個。
(64+36=100 方百里〔100里×100里〕が100個で1000000)
つまり方千里〔1000里×1000里=1000000〕である。
だから詩に「邦畿(ほうき)千里」と言うのである。

という文が内容に組み込まれているということを追記させてもらいます。

666 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 19:24:51
いままでムズそうだった古漢籍の文章も、一度道理を覚えてしまうと
結構スムーズに解釈できるもんですよ
特にこのような数値の絡むものなんかは

人間の作り出した道理なんて、いつの時代も基本的なものは変わりませんから
ただ、現代人は余りにも便利になってしまい、考えることをしなくなり
基本的な道理を忘れているだけなんです。

667 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 20:51:30
>いままでムズそうだった古漢籍の文章も、一度道理を覚えてしまうと
>結構スムーズに解釈できるもんですよ

河童虫の身勝手理解にだけは、道理もスムーズさもありませんが。



668 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/22(月) 21:15:02
>>667

そうだね、そうだね、笑えるよ(座布団2枚)

669 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 21:29:29
>>662

>畿内の部族の出身地の9割以上が九州出身である事実と符合します。

そういう事実は無いけどね。
どこの幼稚園で聞いたデマ?


670 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 02:15:23
>>665
意味不明。それで、何で>>644のような話になるの?

671 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 03:06:23
プラムの考えてることだから大した意味は無いよ。
取りあえず、戦線縮小して、トンズラします、くらいの意味に理解しておけば?

プ流の珍読により、魏志の韓地は済州島より小さかったのだ、と判明したのが今宵の成果w

672 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/23(火) 08:32:23
>>671
おいおい

規模と面積の区別がつかないのか?
小学校で習わなかったのか?
誰が面積の比較をしているんだ?

規模の値を単純に面積に換算する馬鹿は居ないからな

673 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 08:49:34
>>672
規模の値? いつまでたっても意味不明。
結局、>>671のようなところかな?

674 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/23(火) 09:05:43
>>673

1億2千万分の君を救済するための書き込みではないので  意味不明ならゴメンね
せめて どくだみさんぐらいからんできたら?

675 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 10:23:25
河童無視

676 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 10:34:29
末慮國から奴國までの書かれた方位と、そうであろう遺跡の方位のずれについて誰か説明してよ。

677 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 10:49:37
>>676
そうであろう遺跡というのは、従来の定説?のことね。使者が倭に来た季節を
考えないで方角をまちがえた、とか。
しかし、そんなことはありえない。ン千年の歴史ある中国の知識人を馬鹿にし
てはいけない。となると、伊都国や奴国の比定がまちがっているということで
すね。なぜ、末盧国で船を下りたのか、船で行けないところだからです。伊都
国は有明海沿岸。そこからならば、南水行のひとことで誰もコースをまちがえ
たりはしない。そもそも玄界灘沿岸で南水行などと書くはずがないということ。

678 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 10:55:13
>>677の追加
つまり、方位はずれていない、従来の比定がずれていたということ。
遺跡というものはあてにならないのです。
墓を見つけてその近くに主要な国があったと思い込んでますが、毎日見える所に
墓を造るのかなと疑ってみることもひつようですね。

679 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/23(火) 11:04:24
>>676

>末慮國から奴國までの書かれた方位と、そうであろう遺跡の方位のずれについて誰か説明してよ。

「東南陸行五百里到伊都國」という文面は、末慮國の港から東南方向に伊都があるという文面ではないから、奴國もまた同じ
ここは又渡一海千餘里至末盧國の着点となる末盧國の港の位置(上陸地点)を明確に確定する文が「東南陸行五百里到伊都國」
船で南下した上陸地点は
東南に延びる道が確保できる地形の地に港が存在したことを示している
決して
港の東南方向に伊都が存在していたわけではない。
港の東南方向に伊都が存在しているのなら、東南至伊都国陸行五百里という文面で十分意味を成しますので


680 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 11:13:20
>>679
相変わらずの河童読み。

681 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 11:15:18
出てくる国で場所が確定できるのは対馬と一支国だけってこと?
そこから先は学者や皆さんの想像と持論のみってことか
物的証拠がどこかから出なければ単なる水掛論って感じですね

682 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 11:25:29
>>680
河童氏であろうと誰であろうと、折角の投稿に水を差す行為は感心しない
寄せられた内容は各自が判断し選択すれば済む事です。

683 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 11:53:53
定説に囚われない持論をお持ちの方で、魏志倭人伝に
書かれている国々の大よその位置の予想をお持ちの方
お話を聞かせてください。そう思う根拠、証拠、実証があれば
それも聞かせていただければ幸いです

684 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 12:44:41
朝鮮半島から対馬、壱岐を経て九州の末盧国に到着。
そこから東南に陸行で伊都国。奴国を経て、不弥国から南に水行。

先入観なく読めば、誰が見ても有明海を水行していると思うだろう。
しかし、昔から九州説なら北九州という先入観があった。
だから、何とか北部に持っていけないかと知恵を絞った。
ということじゃなかろうか。
その意味では、畿内説も同じようなものかな。

ぎりぎりセーフは八女。久留米以北はかなり困難。甘木も難しい、と思うが。

685 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 12:50:51
>>682

>寄せられた内容は各自が判断し選択すれば済む事です。

ふーむ、私はちょっと違う見解ですね。
下にコピった文章を読んで、その内容を理解できる人はいないでしょう。
しかし、これを書いた本人には何らかの裏づけもあるのでしょう、論理として成立していると認識しているらしい。
だから、私はこの文章を書いた人の脳内が、どういう構造になっていてるのかとても興味があります。
それには、何か、刺激を与えないと反応しないですから、スルーすることなく、
相手の脳ミソを突っついたり、擦ったりして、「裏づけ」なるものがこぼれ出てくるのを待つしかない。
まあ、怖いもの見たさが100%なんですが、この人に絡む人の大半は同じ気持ちだと思う。

>644 名前:河童虫 ◆EY2wfgakAQ [] 投稿日:2008/09/22(月) 15:50:06
>まだ理解できないのかな?
>方四千里(可を省いて考える)と書かれているものに対して、四千里×四千里と言う計算は出来ないと言う事。
>四千里×四千里というものは、既存の物に対して、一辺を四千里で区切ると言う人為的な行為。
>この場合、面積に対して定められた単位(井、通、成…)が割り振られる。
>一方、方四千里と書かれているものは
>既存の物を測る行為であり、結果四千里
>(既存物は測量に対して自然発生的な造形物)
>だから
>四千里×四千里と言う計算は、絶対に成立しない。
>方四千里とは
>方里が四千個分に相当する規模。と読む。
>だからと言って、韓域の面積が、方里が四千個分とはならない。
>方〇〇里は「積」ではなく「加」

>672 名前:河童虫 ◆EY2wfgakAQ [] 投稿日:2008/09/23(火) 08:32:23
>おいおい 規模と面積の区別がつかないのか?
>小学校で習わなかったのか?
>誰が面積の比較をしているんだ?
>規模の値を単純に面積に換算する馬鹿は居ないからな

686 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 14:39:44
>>684
すんなり考えるとたしかにそうなんですが
女王の国の東側に海があるって記述がね〜・・・

687 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 14:40:40
>>685
私は>>644に、なるほどと言う感想を得たが、どうだろう。
別に新しい発想でもなく、私達が普段忘れていることを彼は述べているだけに過ぎないことを、あのレスにて気付かされた感じ。

688 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 14:47:31
>>686
読みが根本的に間違っているからだろう。
漢後から日本語に変換された時、既に。

689 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/23(火) 15:10:37
>>686 弄って、摩って、つっつくなんて止してくれないかなぁ〜。そんな事しても何にも出てこない。
ましてや
無料の掲示板に、何が悲しくて全て晒さないといけないのよ(-.-;)
何ヶ月も考えたモノを。

690 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 15:15:59
>>687さんは凄いな。
御見それいたしました。

あの文章は本人以外に理解できる人はいないと思ってた。
出来たら、御本人に代わって判り難い部分を解説してくれると有りがたい。
取りあえず不明の部分をあげれば以下のようになりますが・・・

>方四千里(可を省いて考える)と

これは「方可四千里」と同じということか?

>方里が四千個分に相当する規模。と読む。

「方里」とは、一里四方の面積の広さと同等なのか?
「規模」とは何か?

>だからと言って、韓域の面積が、方里が四千個分とはならない。

一「方里」の「面積」とは一平方里ではないのか?
「方可四千里」と表現される地域の「規模」を面積で表現することは出来ないのか?

>方〇〇里は「積」ではなく「加」

「積」って何?
掛け算(乗算)の結果のことか?
「加」って何?
足し算(加算)のこと?結果なら「和」だよね。
何で性質の違うものを並べて比較するのか?

691 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 15:22:33
要するに、>687=プラム=河童虫ってことでしょ。

ほかの誰にも意味不明。さらに、何を証明したいから起こしている議論なのかも不明。
これは、河童虫が他人を馬鹿扱いして優位に立ったつもりになって有頂天になり、
自己中の快感に酔いしれんがための、いつもの禅問答でしょう。

692 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 15:53:15
>>689
なに言っての?

693 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 16:23:32
おーい、687さーん。690さんの質問に答えてあげてよ。オレも期待して見てるよ。

694 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 17:03:22
>>690>>693
どうやら本人も覗いているようなので、直接
本人に尋ねてみたらいかがかな?

695 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 17:10:20
>>691
2ちゃんで河童氏は静かな方だろ。
気にもならんよ

696 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 17:20:51
倭国に至るには、帯方郡が出発点だとすれば、船で韓国を経て7,000余里で倭国の北岸の狗邪韓国に到着する。
そこから海を1,000余里渡り、対馬国に着く。
瀚海と呼ばれる海を南に1,000余里渡ると一大国(一支国)に至る。
また海を1,000余里渡ると末盧国に至る。
東南へ500里陸行すると伊都国に到着する。東南へ100里進むと奴国に至る。
東へ100里行くと不弥国に至る。南へ水行20日で投馬国に至る。
南に水行10日陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。
帯方郡から女王国までは1万2,000余里ある。

簡単ですよ。
要するに女王国と邪馬台国は別。
計算してみて、7000里+1000里+1000里+1000里+500里+100里+100里=約12000里。
よって女王国は九州。
邪馬台国はヤマト国と読む=大和国のことだ。畿内の大和王朝だろう。



697 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 17:59:10
>>696
>計算してみて、7000里+1000里+1000里+1000里+500里+100里+100里=約12000里。
計算を誤魔化して1300里を抹殺しようとは不貞やつ!

698 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 18:15:14
>>697
1300里じゃなくて300里。
不弥国とは福岡飯塚あたり。
なんで不貞なんていうの?
理由は?

699 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 18:30:15
>1300里じゃなくて300里。



700 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 18:30:25
>>698
ごめん、1300里でした。訂正。
それにしても壱岐から唐津までが1000里なんだから、
あと1300里なんて少ない。
甘木あたりだという説もある。
少なくとも古い文献を調べれば、いろんな説がでるし、それは
年月がたてば少しずつ解明されていくもんでしょうが。
世の中って。

701 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 18:30:26
>>691

プラム河童は「他人と違うことを言ってみたがり屋」なので、
思いついたことは何でも自説に取り入れる。
しかし、基本的な事項の検証はしない(余計な部分については熱心だが)。

東夷伝の韓地の巨大さの問題について「方可四千里」は「一平方里」4,000個分のこと
とすればよいと「思いついた」のはかなり前のことだと思うが、
その間、数値的な検証は一度もしていないのだろう。
大まかな面積で4000里の二乗よりかなり少ない、
だから「巨大さ問題が解決!」くらいとは認知できても、
その大きさが、正方形にすれば僅か64里弱の二乗に過ぎないとは思いもしなかったのだ。

現在は>>580氏の放った致死性の指摘を、1里×4000里でもとか、
面積と規模とは違うとか全く小学生じみた論法で誤魔化そうとしている。
挙句には懲りもせずに又もジエンで話題をずらそうとしてみたりと
何時も何時も恥を掻くためだけに登場してくるように思えるのだが・・・・
傍から見てるととても面白いw




702 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 18:33:38
>>696
對馬国の方可四百餘里と一大国の方可三百里を忘れてるんだな。

703 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 18:35:32
>>696
女王国と邪馬台国は別の概念だが、まったく別の国とするのは無理でしょう。
万二千里は女王国の始まり、女王国の終わりは「女王の境界の尽きる所」。
女王国(複数の国の連合体)の中に邪馬台国があったと考えるべきです。

704 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 18:41:48
>>703
696です。ありがとう。
そうです、そのとおりだと思います。


705 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 18:42:56
>>701
そのような単純な事ではないと思います。私は彼の>>644にて、目から鱗な感覚を覚えました。
なかなか言える事ではありませんし、かなり勉強もしているようです。

706 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 18:49:59
ワラ

707 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/23(火) 18:57:21
>>704
修正しときますね。

計算してみて、7000里+1000里+400里×2+1000里+300里×2+1000里+500里+100里=12000里。

郡から女王國(不彌國)までぴったり12000里になりましたね。

708 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/23(火) 19:02:24
修正

郡から女王國(不彌國と奴國)までぴったり12000里になりましたね。

709 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 19:22:49
邪馬台国は大和。

ヤマタイと、ヤマトは似てるし、
1000年以上、奈良が日本の中心だった。

710 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/23(火) 19:27:46
>>701

恥ずかしいから自分のレスは、自分で削除依頼してこい。孫の代まで笑える内容だよ

マジ
笑わせてもらったよ

無知は地球を救うか?

711 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 19:45:24
>>708
郡から女王國(奴國)までがぴったり12000里、(不彌國)までは12100里。

712 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/23(火) 19:48:19
>>705さんはどうやら
読み取れた見たいですね。
しかしまだ、
それでは半分、方四千里ではなく方可四千里だから
これからが核心です。
韓域を都の区画と同じような感覚で捉えている方々には、とてもとてもです。

713 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 19:50:35
>>703
万二千里は帯方郡庁から女王国の中心地(奴国)までの距離。
女王国(複数の国の連合体邪馬台国)の中心都市(国)奴国がと考えるべきです。
女王国の都は伊都。

714 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 21:20:08
魏志倭人伝より
>南へ水行20日で投馬国に至る。
>南に水行10日陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。
 
素直に読めばですよ、女王国のあたりの不彌國から更に水行20日で投馬国(岡山あたり)、
更に水行10日陸行1月で女王の都のある邪馬台国に着くというのだ。
南とは実際は南東の方角にあたる。
よって邪馬台国とは畿内ではないかと思う。
でもここで要チェックは、女王の都、と陸行1月の2点。
大阪辺りから陸行でナラまでは1ヶ月も掛からないだろうと思う。

715 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 21:44:42
>>707
古田某氏の説ですね。しかし、対馬国の方四百里、一支国の方三百里は面積表示です。
ということは、対馬国の2辺の和が八百、一支国の2辺の和が六百というのは必ずし
も沿うではありません。対馬国は細長い、八百×二百とみれば2辺の和は千里となり
ます。つまり、島の形をどのように想定するかでどのような数字でも作れます。
島の2辺を足すという計算は、数字合わせに過ぎません。


716 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 21:47:55
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050618/4482.jpg
http://infoimages.nmgnews.com/information/20050610/2764.jpg
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/090.jpg

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
http://www.ccnt.com.cn/antique/zhiliaoku/wenwujingcui/crockery/introdution/099.jpg
http://www.sx.xinhua.org/ztjn/2003-08/29/xin_49b7e0a2d93511d7be2c0050ba1967d3.jpg
http://www.shtong.gov.cn/node2/node4/node2250/songjiang/node70313/node70604/images/00004623.jpg

717 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 21:48:47
そうやって、倍暦、短里、面積表示・・・
自説を証明するためには手段を選ばない貪欲さ、
これはもう、学者のやり方ではない。事実を追い
求めるなら、物事はよりシンプルに考えないとい
けない。

魏ミックは排除しよう!

718 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 22:15:07
簡単に考えれば、邪馬台国は畿内なのになあ。


719 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 22:20:25
>>714
それで勘違いされちゃ困るんだけど、私はいわゆる畿内説派じゃない。
女王卑弥呼は九州にいて九州連合国の女王だったと考える。
卑弥呼の名前は倭人伝にも記述があります。
邪馬台国がもともとは卑弥呼の国の九州発祥なのか、ナラ発祥なのかそれが不明なんだと考えます。
倭人伝では卑弥呼の国を倭国としか言ってない。
多分、その帯方郡から女王国までの道のりと邪馬台国までの道のりが記載してあったので、
邪馬台国には卑弥呼がいる、という説がでてきたんじゃないかな。
本居宣長なんかは卑弥呼は九州のクマソの女首長だといいのけた。
理由は天皇が大陸の王朝に朝貢などするはずないからという理由。
私はそこまで極端じゃない。卑弥呼はなんらかの関係で邪馬台国と関係あるよ。
それは意外と神話なんかに隠されているんだと思うよ。

720 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 22:57:10
『邪馬台国の考察』

◇男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。
◇男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
◇着物は幅広い布を結び合わせているだけである。
◇土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。
◇兵器は矛、盾、木弓を用いる。
◇盗みはなく、訴訟も少ない。
◇女は慎み深く嫉妬しない。
◇長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
◇宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。
◇法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
◇人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。
   他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
◇倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。
   持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食せず船の帰りを待つ。
   船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。帰船に災難があれば殺される。





721 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 23:12:16
倭人伝の風俗記事で気をつけた方がいいと思っていることがある。
オレは九州人だが、山育ちなので海では怖くて泳げない。
しかし、博多湾岸や長崎の人は泳ぐのが得意なのではないかと思う。
九州は一般に温暖と思われているが、高冷地も多く、そこでは東北に負けないくらい寒い。
九州の中だけでも、かなり気候・風俗が違う。
倭人伝の記されている風俗が、倭国全てに共通すると考えるのは早計ではなかろうか。
例えば、伊勢の海女は珍しいので外国に紹介されたとする。
外人が、日本では女性が素潜りで漁をしていると記録するのは間違いではないが、
それを日本全国共通の風俗としてしまうと間違いになる。

722 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 23:15:22
福岡等北部は「セミ豪雪地帯」だが、佐賀〜有明湾は暖かい。

723 :日本@名無史さん:2008/09/23(火) 23:39:29
>>714
魏志倭人伝より
>南へ水行20日で投馬国に至る。
>南に水行10日陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。
もう一つ仮説なんだけど、単純に投馬国は対馬国の書き間違えが見間違えで、
この記述は前の記述が距離だったのに対し、要する日数
をいったのかなって。
そうなれば、邪馬台国=卑弥呼になりますね。これは九州王朝大好きさんと一緒ですね。
1月も一日の書き間違えか見間違えかな?


724 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 00:08:39
邪馬台国は畿内だよ。

もちろん大和国のこと。

どうして違うとかいう発想が生まれるのかわからん。


725 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 00:16:08
別に畿内でもいいんだけど、そうすると矛盾山積するのが困る。

726 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 00:20:12
別に南を東も間違いでもいいんだけどさ
そうすると海千里渡った東の倭種が北の倭種になっちゃう

727 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 00:21:48
>>725
まるで九州だと矛盾が無いみたいだな。

九州説だけでも、甘木・宇佐・日向と定まってないのに。
(矛盾があるから)


728 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 00:30:45
>>727
畿内説だとマキムクに定まってるの?矛盾は無いの?

729 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 00:41:50
>>728
別にマキムクに限らんだろう。
例えばの話、大阪市の地下に卑彌呼の都があったら、発見は絶望的じゃないか。
発見・発掘されなくて消えていった遺跡の方が圧倒的に多いはずだし、
知られていても宮内庁の管轄で掘れないところもあるし。
たまたま今掘れてる遺跡に卑彌呼の都や墓を無理矢理比定する必要はないだろう。
まだ発見されてないか発掘されてない遺跡なんじゃないかと思う。
思うだけだけど。

730 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 01:08:48
>>729

大阪市は海でした。

731 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 01:12:37
>>729
大阪市説?邪馬台国の時代は海進かなんかで海の底だったんじゃないかな?
どうして自説を希望的憶測から始めるのかな?
だから宗教と言われるんだよ?
君の深層には大和とヤマタイが似ているという幼児的憶測のみが支配しているようだよ。
畿内じゃなければ邪馬台国なんて無かったことにしたいよね。ちがう?


732 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 03:08:46
>>730
だから、例えばの話。住宅密集地、商業施設の下の遺跡が発掘される可能性は限りなく低いだろうと思う。

>>731
>畿内じゃなければ邪馬台国なんて無かったことにしたいよね。ちがう?

全然ちがうよ。なんでマキムクにこだわるのかなあという疑問。
なんで、今掘れてる遺跡に候補を限定して邪馬台国探しをしなきゃならんの?
高度経済成長期のころ、建設現場で遺跡が見つかると、工期が延びて都合が悪いから、積極的に申告したがらなかったというような話も聞いたことがある。
うろ覚えの話だから、確度は保証できないけど、邪馬台国の遺跡が、そうやって消えていった可能性も否定できないということ。

733 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 07:13:17
>>728
一つの県だけとってもあちこちばらばらになってる九州各説よりゃマシでしょ。
ありゃ盛大な嘘比べだね。
>>731
自説を希望的観測から始めるのは北九州説諸君の最も得意とする事じゃないの。
あんな近場に持っていくためにはどれだけの恣意的な解読の数々が行われたか…
「南→東」の比じゃないよ。

734 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 07:58:08
南を東にしても関西説は成り立たないのですよ。

735 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 08:00:42
>>733
>自説を希望的観測から始めるのは北九州説諸君の最も得意とする事じゃないの。
九州説を畿内説と同列に扱おうとは失礼極まりない
九州説は魏志倭人伝に制約されない畿内説とは別物だよ

>「南→東」の比じゃないよ。
南→東がひどくないって? 神経どうかしている

>一つの県だけとってもあちこちばらばらになってる九州各説よりゃマシでしょ。
比定地が分かれているのが結論が先にない証拠。
魏志倭人伝を信用できないとしながらも結論だけは一点。寧ろ、それが異常でしょう。

736 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 08:54:31
「南至投馬國水行二十日」
  「東南至奴國百里」
この部分だけ書き方が違うらしい。
あと前に私は南を東南と書いたけど、地図みたら北部九州から畿内までは
東だ。南とま東の間違いはしないだろうと思った。
素直に南だとすると投馬国は日向あたりかなと考えた。戸数が7万戸もあったなかなあという疑問はあるけど。
仮説だけど。
で単独に南に水行10日陸行1月で邪馬台国、は日程と考えれば、九州説になる。
ただ1月が問題。

737 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 09:10:53
>ただ1月が問題。

畿内説にしろ九州説にしろ日本国内では陸行一月する所はない。
陸行一月は、陸行一日の誤りか古田説の朝鮮内陸行しか考えられない。

738 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 09:21:44
>>737
いいきれるか?

739 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 09:25:20
じゃあ日本のどこを陸行一月するの?

740 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 09:33:31
文章的にも水行十日の次と陸行一月は変、陸行一月なら陸行三十日と書きそうなもんだ。

741 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 09:38:46
>>644を解説してみよう

四千×四千は四角が全て90度の正方形の面積を求める時の式、
そしてこの式を用いる事が出来るのが、都市等の改めて方形に区画整備された場所だけだということだよ。
これを形が疎らな地域に用いる事は、きわめてナンセンスな行為だと述べている。当たり前の事
まさか、韓の四辺は全て等しく、角は90度と言う馬鹿はいないだろうから
形が少しでも歪めば、方形の式は当て嵌まらない事ぐらい、当時の漢人だって知ってる事。

742 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 09:56:17
仮に陸行1日として
博多湾から歩いて南に1日で行ける距離はせいぜい大宰府か大野城。





743 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 09:58:22
そんなもんだろ。

744 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 10:00:57
では邪馬台国の卑弥呼の都は大宰府で決まりました。


745 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 10:02:30
>>741の続きだが
「方里」とは、土地の面積ではなく、土地の広さに里を用いて表す最低単位と言う事。ここを
「井」としてしまったら、一辺が一里の区画された正方形の面積単位となってしまう。

だから「地方里為井」と、方里から井への単位変換が行われている。
方里と井は実質的に広さは同じでも、全く意味が異なるので
こうした改め書きが必要となってくるわけだよ。

その辺の事情を加味して書かれているのが>>644と言う事になる。

746 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 10:07:44
>>744
当時、大宰府あったの?

747 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 10:18:59
>>764

し-っ





どうせ昔の都の後に太宰府が出来たと言い出すだけだから。

748 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 10:20:02
>>746の間違いだ。しくじったスマソ

749 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 10:27:34
上陸地点は博多湾ではない、たぶん呼子だ。
目的地は博多湾と呼子の間にあった伊都国だな。
伊都国には至ではなく目的地を指す到が使われているし、
都の文字も使われ、伊も呪術者の意味がある。
呪術者=卑弥呼、の都だな。


750 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 10:40:27
>>644で「規模」を用いたのは、物事の広さ、大きさという意味から
実際、面積として表せないものに対し「規模」と表現したにすぎない。当然の処理
方四千里と書かれた韓伝に、韓の面積など存在しない。と、いうより
面積を割り出す事など出来なかった。
だから、当時の人は異地に対し規模という広さを表す方里を用いた。
方里と書けば二通り、区画されその面積を把握できるものと、おおよその規模(広さ)

韓の広さは計測するに、計測した部分で方里を四千個分示す事が出来る広さだと。

751 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 10:43:43
>>724
実は邪馬台国の南にあった狗奴国が神武東征で出来た国。
で、結局狗奴が邪馬台国を吸収合併って説は?

752 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 10:55:58
>>727
日向だったら何も矛盾はないよ。何かあったら言ってみな。

753 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 11:03:10
>>749
到の字、そうですよね。
目的地伊都国の先東南に100里で奴国(戸数2万戸)
2万戸は結構大きいので現在の大都市と当てはめてもよさそう。
そう考えると1里が75メートル位だとして、
私は着いた港は唐津だと仮定してそこから正確に東南へ37キロ付近が伊都国で、
その先東南5キロが大きい町奴国になる。
伊都国は三日月かな、その先には佐賀市がある。

754 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 11:17:57
>>750
書いていて自分で意味分かってるの?

755 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 11:29:04
>>741
>形が疎らな地域に用いる事は、きわめてナンセンスな行為だと述べている。
>当たり前の事
対馬国にも方四百里、一支国にも方三百里という具合に用いているけど。

756 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 11:29:45
>>753
つづき。
でも邪馬台国が7万戸だから、ちょっとおかしいな。
帯方郡から邪馬台国までの延べ数かな、なんて。
あと投馬国ってなんだろう。
発音の当て字だったとしたら、對海と投馬は書き違える可能性ある。
当時の船が10日でどの位進むんだろう。


757 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 11:31:41
>>755
韓と同じ。
壱岐や対馬は方形に仕切られた島じゃないから

758 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 11:34:35
>>739
大阪に上陸して東海地方に向かって歩く。1か月歩けないかい。
山口に上陸して近畿地方に向かって歩く、でもいいよ。

759 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 11:40:19
>>757
それで、具体的にはどうゆう意味だというの?

760 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 11:45:31
>>753
問題は三日月や佐賀市に対応するような遺跡があるかだな。

761 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 11:45:31
>>759
どう言う意味って、
壱岐は方里三百個を計測出来る広さだし、対馬は方里四百(餘)個分だろ

762 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 11:47:52
>>761
方里三百個を計測できる広さって具体的にはどの程度のこと?

763 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 11:49:11
>>761
方里一個の大きさは?

764 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 11:55:05
>>756
邪馬台国、7万戸は一支国、対馬国、伊都国、奴国等の北部九州の連合国家。
投馬国は邪馬台国の手前にあるから朝鮮半島南部の倭地。


765 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 11:57:25
>>764
誰も同意しない説だろうね。

766 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 12:00:14
>>758
大阪に上陸して東海地方に向かって歩く。

邪馬台国関東説ですか?

>山口に上陸して近畿地方に向かって歩く、

山口に上陸する意味がわからん?今まで危険な外洋を航海してきたのに、船の航行が便利な瀬戸内海を船があるのに歩く?

767 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 12:00:43
765

768 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 12:01:09
>>765
何故?

769 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 12:01:20
>>762-763
具体的に表せたら、それは区画された土地を計測した面積でしょ
方里とは
一辺が一里の方形です。

770 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 12:28:56
区画された方形な土地の広さに対する式は
辺A×辺Bで、面積は求められるが

様々な形が想定される土地の広さは
概略、方形の面積A+三角形の面積B

771 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 12:35:30
12000余里だから、余の字があるからおよそ12000里で良いんだと思う。
きっちり12000里にならなくても。
方里って実質半円周のことでしょ。

772 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 12:40:41
>>771
餘が「おおよそ」だって?
そんな意味、何処にも無いから

773 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:04:36
餘は「余る」の意味でしょうか?12000里に余る。

774 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:08:31
>>773

「余る」という表現よりも
12000里に+αが加わると考えた方がいいかも

775 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:08:41
>>769 >>770
ふーん、ということは、一辺が1里の正方形300個がすっぽりと入る島、
一支国はその程度の島だということになりますかね。

776 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:12:56
>>773
余りがあるということです。万二千余里といえば、
一万二千里よりも少し多いということ。

777 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:13:34
>>774
反対でしょ、12000里に−αが足らない。
+αは有三千許家の場合でしょ。

778 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:19:56
>>777
許は「ばかり」。やや曖昧な意味を示しています。多い(+α)という意味
ではありません。

779 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:25:05
>>775
いいえ違いますね

計測出来た(した)ものが三百と言う事です。
方可三百里ときすれば、壱岐の概略が把握できる
そういう内容です。

例えば舟で、南北、東西を計測した時に
方里で三百個分確認する事が出来たというように

780 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:33:02
昔は船で陸伝いに進むから一支国(一大国)方可300里って
単に陸伝いに船をはしらせた距離なんじゃない?
島を半周したってこと。

781 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:37:04
では、計測できなかった方里はいくつあるか分からない?
方里で三百個分確認できたという意味がよく分かりませんが。
断崖絶壁で海岸からの奥行きが分からなければ、方里は確認できなかった
ということになるのかな?
何で、南北何里、東西何里と単純に距離で示さないのですか?

782 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:42:22
「方可三百里」 = 「正方形換算にすると、面積や大きさが、一辺の距離が三百里相当になる計算だ」



783 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:44:15
許に「ばかり」の意味があるんですか?

784 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:48:42
この壱岐を単純に面積に換算してみると

最低(1×300)平方里
最大(150×150)或は(150×151)平方里
までの広さとなるでしょうね


飽くまでも単純な計算ですので、参考にはしないように。

785 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:50:40
やれやれ、九州説は矛盾ばっかりだね。

どう考えても畿内説で決まりだよ。



786 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:52:17
>>784
説得力0。
784さんは恥かしい。

787 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:53:13
>>785
突然に意味不明?

788 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:57:00
>>782
それは区画を方形に定めた場合の計算方法。
既存物に対し、後から測量したモノが必ずしも正方形とは限らないので
その考えは採用できません。

789 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 14:01:39
水行十日とか、水行二十日とか魏志倭人伝に書いてあるのに、
それを無視して九州内部に邪馬台国があるなんてムチャクチャすぎる。

根本的に九州説は論法がおかしい。



790 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 14:05:21
>>781
そんな事、知る必要性が何処にあるのです?
計測部分では把握しきれないところがあれば、餘で片付くはずです。

791 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 14:11:15
>>786
説得しているのではなく、説明ですので0で結構です。
貴殿は生命保険の約款に対し、毎回いちいちそんな事言っているのですか?

792 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 14:12:46
水行十日がどれくらいの距離かというのが問題。
この時代の船が、一日にどれくらい進むのかはわからないわけだから。
船の大きさも良くわからないらしいし。

夏にやってきて、南風を受けて進むんだったら、帆は役に立たないだろうし、
手漕ぎでも相当きつい。

793 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 14:15:36
>>789
>水行十日とか、水行二十日とか魏志倭人伝に書いてあるのに、

行程の説明が、距離の里数記載から時間の日数記載に変わった処で、
同じ行程を距離と時間で2度説明している事に気付いてください。
距離と時間をゴッチャにした説明では意味が通じない、
連続して読んで畿内に邪馬台国があるなんてムチャクチャすぎる。

根本的に畿内説は論法がおかしい。



794 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 14:24:32
>>793
>同じ行程を距離と時間で2度説明している事に気付いてください。


あまりに苦しい言い訳。
他の古文書で、同じ行程を距離と時間で2度説明している箇所があったら引用してくれ。




795 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 14:26:28
一人の旅人なら一日に30kmの移動。
国家派遣の大使節団は、常時伝令を行き来させながら、各種補給および敵からの防衛をはかりながら行進する。
ローマのように道が整備されていればともかく、半島や列島内では道の出来が悪かっただろう。
魏志倭人伝のとおり、一日に数kmの移動しか出来なかったために、短距離でも日数がかかりすぎている。

796 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 14:31:27
>>795
そんな事何処に書いてありますか?

797 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 14:36:16
>>796
そんな常識すら、お持ちじゃないんですか?

798 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 14:36:29
>>794
じゃあ、他の古文書で、目的地までの行程を距離と時間で説明している箇所があったら引用して。


799 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 14:49:37
>>797
歴史小説まがいの常識なんて関係ないね
当時、途中野糞たれようが、オナニーしようが関係ないのだよ。

800 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 14:51:11
>>794
他に例がない書き方だから皆が苦労してるんだろうが。

801 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 15:01:32
それは異常な判断しか出来ない>>799のたわごとだから、無視しますが。

802 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 15:05:10
>>801
逃げの口実ですか?
当然脳内から来る発想じゃ、説明は無理でしょうから、そうしたいその気持ち分かりますよ。

803 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 15:12:19
距離が分かる所は距離で示し、距離で示すことが難しい所は日数で示しただけですよ。
けして、距離で示した所を日数で書き直したなどというものではありません。
ただ、一日の進む距離は、倭人伝はどこにも書いていません。それを伝令が急いで
進むような距離を考えるからおかしくなるのです。使者の一行は倭国の中を大勢で
荷物も運びながら進むです。行く先々でその地の豪族の接待もあるでしょう。
ですから、倭人伝どおり進んで、九州を突き抜けるなどということはないのです。

804 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 15:20:06
>>802
呉軍が海上封鎖を狙って東シナ海や朝鮮半島に出没している最中、
魏の使節団が軍備に身を固めて警戒しながら、遅々たる行軍しか出来なかったのは
世界の常識だと思いますが、それほど世界の非常識がお好きなら、
1日数千キロ進んだ計算でもしたらいかが?

805 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 15:22:56
>>803
根拠無い思い込み。

距離で示した所を最後まで距離で示す、
既に旅を続けてきたのだから、一日の進む距離は本人ならだいたい分る。
日数を距離に換算することは容易い。
距離で示すことが難しい所とはなんですか?



806 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 15:24:40
方○○里の考え方は、>>782の考え方が正解。あくまでも面積の表示ですから実際の
形が正方形かどうかとは関係ありません。
考え方としては、壱岐を例にとれば、島の周囲に正方形を想定するわけです。
島の形は不規則ですから、正方形から出る部分と出ない部分(正方形の中に海が入
る部分)とができます。出た部分を削って正方形の中の海を埋める、釣り合いがと
れれば、それが島の大きさと一致するはずです。そうやって、どの程度の正方形に
なるかを考え、方三百里とか表示するわけです。したがって、広い土地の概算を示
すのに良く利用されるわけです。このことは、出典は今手元にありませんが中国の
文書に解説されています。


807 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 15:33:37
>>805
比較的短い距離ならば大体何里と出せますが、何日も進んだ距離を合計しよ
うとすれば、誤差が大きくなります。
水行の時には、水の流れがなければ時間で推測しやすいでしょうが、潮流が
あれば不正確になります。また、陸行では平坦な道を歩くだけならばこれも
時間で算出しやすいでしょうが、山道などでは何時間歩いたから何里と計算
することは簡単にはできません。
困難に

808 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 15:40:19
他の漢籍では同じような山道などででも簡単に計算して出してるんですけど。
水行などは魏志倭人伝の前の部分の方が外洋で推測が難しいですけど、距離が里で記載されていますよ。

809 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 15:41:11
>>806
その方法は八尺棒と同じ、机上の空論なのですよ
島の高さや面積を計算する問題集が有りましたね

土地の凹凸を埋める作業なんて、後日かなり正確な地図でも作らないかぎり出来やしませんよ
ペーパー上でする作業と、現場作業の違いを混同しないで下さい。

810 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 15:48:38
>>809
概算といってるでしょう。そんなに細かく考えなくてもいいのです。
対馬ならば、南北は歩いて何日かかるか、横断するには何日か、大きな湾は
どこに、どの程度のものがあるか、そんなところからざっと見当をつけるわ
けですよ。

811 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 15:49:06
方形の縦×横の求め方は、四つの角度が直角だから可能なのです。
故意的に作り出したものに対してのみ使用できる
計算です。
実際の島などに、故意的正方形を作り出す事なんて不可能ですから


そのくらいの事、当時の漢人だって知っていますよ

812 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 15:56:23
>>808
難しいと判断した理由はなんですか?

813 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 16:01:45
>>808
山道でも何度も通行して距離がわかってくれば何里とかで表示するでしょう。
また、外洋でも見通しがきく距離だとか、情報が豊富ならば距離で表示でき
る場合が多いでしょう。しかし、初めてのコースで、倭人が距離で説明でき
ないときは、正確な距離は分かりにくいでしょう。

814 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 16:19:27
>>812
外洋には海流もあるし、波、風も強い。

815 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 16:36:12
>>814
まるっきり日本人目線ですね。海とは縁のなさそうな洛陽の人に、それをどう伝えているのでしょうか?

816 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 16:50:24
>>813
魏使は伊都国にいて、邪馬台国の女王には何度も会いに行っている。
距離で説明できないはずはない。

>>815
815の文は何を言わんとするかわかりません?

817 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 17:10:49
伊都国をすべて基点に考えればいい。
その後の文は。
水行南へ20日は唐津から北九州をまわって南に。
日向になる。
水行10日1月は同じく北九州をまわって南へ。
1月は1日の過りと考えて、目星をつけたところは宇佐。

818 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 17:16:21
>>816
>魏使は伊都国にいて、邪馬台国の女王には何度も会いに行っている。
そんな資料はどこにもありませんよ。
使者が邪馬台国を訪れたのは2回。倭人伝の主な資料は第1回の時の使者の報告書と
私はみています。


819 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 17:43:03
>>741
>「方里」とは、土地の面積ではなく、土地の広さに里を用いて表す最低単位と言う事。

これ、重層的に間違っている。まず単位というものの概念が解ってない。
土地の広さのことを「面積」という。土地の広さを表す単位は土地の広さ=「面積」でなければならない。
たとえば1gが百個分あれば100g。1uが百個あつまれば100u。
つまり、重さを計る単位gは重さ。広さを計る単位uは広さ。
重さを計る単位は重さであり、広さを計る単位は広さであり、電流を計る単位は電流であり、
別の物で計る事はできない。
方里が、土地の広さを表すための単位なら、方里も土地の広さを表すものでなければならない。
そして、土地の広さの事を「面積」と呼ぶのです。
つまり、方里が土地の広さを表す単位なら、それは面積そのもの。

次に方里は単位ではなくて「方一里」の略記。
倭人伝にも自郡至女王國萬二千餘里とある。一萬二千餘里の一を省略している。
方里も同じこと。このことは河童さん自身も635で
>つまり、方里は一辺が一里の方形ですよ
といっている。一辺が一里の方形の土地が方里。

>だから「地方里為井」と、方里から井への単位変換が行われている。

これは、一辺が一里の方形の面積の土地を一井と数えるという意味で、
方里という単位から井という単位への換算ではない。

820 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 18:14:06
>>819
方形の面積A×Bは常に四角が直角の場合と言う大前提が抜けてる。
これは人為的区画だから可能な事

821 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 18:31:06
>>800
>他に例がない書き方だから皆が苦労してるんだろうが。

邪馬台国は大和だと素直に認めればいいだけだろ。

水行十日、水行二十日、という記載は、九州の外に邪馬台国があるという意味にしか取れないね。



822 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 18:47:43
>>821
基本的には連続読みでよいのだが、
行程の説明が、距離の里数記載から時間の日数記載に変わった処で、
同じ行程を距離と時間で2度説明しているのだ、
距離と時間を連続読みしてしまっては目的地が何処だか分からない。
到で示された狗邪韓国と伊都国が、それぞれ投馬国と邪馬台国に対応しているんです。
邪馬台国の都が伊都国です。

823 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 18:49:38
伊都国に『郡使往來常所駐』と書かれているのも当然と言える。

824 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 18:50:39
>>819
土地の広さ=面積、という事を知ってる河童さんは、
方里=規模
方里=面積
と区別しているのではないでしょうか?
確かに韓を都と同じ感覚で扱えないことは納得出来ますし。

825 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 18:57:44
道路標識を考えればいい。
どこどこまでは何キロ、どこどこまでは何キロって書いてあるでしょ。
だからそれと同じに考えて、伊都国に到着したら、その後の文は
みんな一つ一つ独立しているんだよ。
だから水行20日+10日=30日ではないと考える。

826 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 18:58:39
>>822
距離が時間になっても同じだろ
距離と時間と速さの関係をバランスよく保てばいいだけだから

時間で書かれているところは、距離で計測するより合理的だったからそうしたまで
時間で書いてあれば、距離で書かれているところより、地形的に複雑だった事も示せるしね。

827 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 19:03:21
>>826
でもそれは、道路標識があるからそう説明出来るだけだろう?
当時道路標識なんてあったのか?

828 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 19:04:53
アンカー>>826>>825の間違いね

829 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 19:08:51
郡−−→狗邪韓國−−−→対馬国−−−−−→一支国−−−−→末盧国→伊都国→奴国
7,000余里+1,000余里+(800里)+1,000余里+(600里)+1,000余里+500里+100里=120,000余里

12000里が終わったから時間で再説明。



830 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 19:10:32
九州説がどんなに都合の良い解釈をしたところで、
水行十日、水行二十日、という記載がある以上、
九州の外に「十日以上水行した」ということであって、
九州説は根本的に成り立たないんだよ。






831 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 19:11:54
>>828
道路標識はたとえばの話。
でもあったんじゃない?
道しるべぐらい。
あくまで伊都国の位置的な説明だから、詳しく表記したんだよ。

832 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 19:12:30
>>829
一万二千里が出て来るのは、もっと後の文ですが?

物凄くイヤラシイこじつけですね。

833 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 19:18:13
古田説特有の
「説に矛盾がでたら、なりふり構わずこじつけろ」
ですね

・半島徒歩の旅
・里数足らずは島から貰え
・表記違いは後文にこじつけろ


列記してたらキリないですね

834 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 19:21:31
>>830
意味不明な言い分???

835 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 19:22:06
>>831
文字との絡みを考慮していますか?

なにげですが
凄い広がりを見せる発言ですよ。

836 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 19:23:00
九州説は矛盾ありまくりだろ。

頭おかしい人?


837 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 19:25:00
>>822のどこがこじつけ?
矛盾の無い解釈をしているだけです、矛盾の無い解釈が一番真実に近い。
矛盾だらけの畿内説は一番真実に遠い、それだけです。

838 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 19:25:56
822の矛盾点を指摘しみて。

839 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 20:40:19
隋国の役人が、「即ち・・」と随書のなかで、ヤマトに関しての
混乱を断定形で正して見解している。

遣隋使の使者や返礼者としてヤマトを訪れた裴(世)清ら一行の報告
をもって、その混乱も解消した。

「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」
(原文=邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)

この裴(世)清の来日の件は日本書紀では、推古天皇16年の条で大唐
とされている。

日本書記の編者らは隋から唐への革命による政権移行が正しく認識で
きていなかったことは事実である。

これをもって、九州説諸氏はこの条項に反論しているが、ヤマト側に
よる中国(隋や唐)の認識よりも、要は隋国の使者が正しくヤマト側の
ことを伝えていればそれでよいのである。

608年4月 裴世清ら隋使一行が筑紫に到着
   同6月 難波津に到着、一行のため高麗館の傍に新館を建設
   同8月 京に到着、大伴連が出迎えて国書を天皇に奏上
   同9月 裴世清が隋に帰国、小野妹子は大使として随行

この行程からも、裴(世)清ら一行のヤマト入りは、九州であった
はずはない。当時の実力者は推古天皇ではなく、実質的には、嶋大臣の
蘇我馬子(天武系の人々に後に卑しい命名がなされた)であった。


840 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 20:53:43
気づけば、畿内説だけが何一つ説明をしていない。

水行十日、水行二十日をいったい何里と換算しているのだろう?

841 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 21:09:13
昨日(秋分の日)に、某所にある春日神社に行ってきました。
春分の日(秋分の日も)には、春日山の山頂から日が登るこ
とを確認しました。
古代から、太陽の動きを観測して、日食まで予測していた
卑弥呼の集団が、南を東といったはずがありません。
それでも、東にあったというのであれば、魏の侵略を恐れて、
聖なる土地「邪馬台国」の場所を魏の使者に隠匿するために、
嘘をついたとしか考えられません。
(たぶん、そうなんじゃないでしょうか?)


842 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 21:13:47
>>822 >>838
>同じ行程を距離と時間で2度説明しているのだ、
それならば、距離の国名と日数の国名とが同じになるのが当然です。
例えば、自郡至伊都国、水行十日陸行一月とかね。


843 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 21:15:04
畿内説の歴史自体が、言い逃れの歴史。

844 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 21:15:36
>>839
では、隋書と日本書紀の記述に大きな相違がみられるのはなぜですか?

845 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 21:19:38
>>830
近畿説がどんなに都合の良い解釈をしたところで、
南水行十日、南水行二十日、という記載がある以上、
九州本島に沿って「十日以上水行した」ということであって、
近畿説は根本的に成り立たないんだよ。


846 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 21:22:46
>>839
魏志倭人伝が編纂されたのが確か2Cだから、
その近畿または関東から九州までの大和朝廷はできていなかった。
推古天皇のころはもっと時代が下った7Cのことでしょ。
要は邪馬台国とは2Cのころどこにあったの?っていうこと。

847 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 21:24:57
>>824
何言ってるのか、意味不明だね。

848 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 21:25:10
>>845
南水行十日、南水行二十日
九州本島って、そんなに南北に長かったか?

849 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 21:27:37
魏志倭人伝は偽書。ホツマのほうが信頼しうる資料です。

850 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 21:28:02
>>847
ほんとに意味不明だね
方里=規模
方里=面積
なら方里=規模=面積じゃん
規模と面積は違うと力説してたのはどうなったんだ

そもそも方○○里というのを正方形と思い込んでる固い頭をなんとかしないとどうにもならん

851 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 21:29:53
ほんとに、自説を貫くためには、どんな汚い手でも使うからな。


852 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 21:35:22
>>846
2世紀に大和朝廷が存在していたから魏志倭人伝に書かれている。

853 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 21:39:42
>>848
水行二十日をどう考えてるのかな? 船(舟)で二十日進んだというだけで
距離はまったく書いてないんだよ。

854 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 21:42:52
>>852
でもナラ王朝は確かにあったと思うけど、
女王の都のある、って言うんだから、2Cの頃は
まだナラの方まで行ってないんじゃない。
神攻東征はもっと後だと思う。

855 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 21:43:20
邪馬台国って本当に2世紀ころの話なのか?
その辺から調べなおす必要がありそう。

856 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 21:59:34
>>842
>それならば、距離の国名と日数の国名とが同じになるのが当然です。

距離の国名は戸数が少ないことから分かるように都市国家、途中に通過した国も至で書いて有る。
日数の国名は戸数か多いことから分かるように領域国家、距離の国名とは到でリンクしている。
距離の説明で細かく説明したので、日数の説明では概要の説明となっている。

>例えば、自郡至伊都国、水行十日陸行一月とかね。

自郡至伊都国???自狗邪韓國至伊都国が水行十日陸行一月です。(5000里)
自郡至狗邪韓國は水行二十日です。(7000里)

私の説の陸行一月が唯一の矛盾点です。(陸行一日の誤りと考えています。)

数多くの矛盾を抱える畿内説より正しいと考えています。

857 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:14:33
>>856
>数多くの矛盾を抱える畿内説より正しいと考えています。
それでは畿内説と大して変わらん。畿内説と同じレベルです。

858 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:15:59
根幹的な矛盾がある畿内説。それがない九州説。

859 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:21:40

>>844
記紀は天武・藤原系の人々により歴史改ざんされた書物であり、現に、
天皇家と密接な関係があった蘇我氏(宗家)が記紀には ほとんど登場せず
「蝦夷」「入鹿」「馬子」と蔑まれた銘銘で伝えられている。

方や隋書では、謝った報告や正確ではない内容が記載される可能性も否定
できないが、あえて倭国の状況を意図的に修正して正史として記す理由も
ない。

両者の記載が異なる背景を考えましょう

860 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:33:06
>日数の説明では概要の説明となっている。
国名を替える理由はまったくありません。

>私の説の陸行一月が唯一の矛盾点です。
何よりも、行程記事の読み方がでたらめです。あなたは、あなたが解釈したような
ことを書くのに、倭人伝のような書き方をするのですか?
もし、そうだとしたら、あなたの文章は意味不明、といつも言われるでしょうね。





861 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:36:36
矛盾がない場所といったら、昔、九州と陸続きだった沖縄付近。

862 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:37:23
>>857
現在までの説で全く矛盾の無い説はない、
1コの矛盾は最小のものでしょう。

三國志/卷25
楊阜
異復與昂保祁山,為超所圍,三十日救兵到,乃解

三國志/卷27
王基
軍宜速進據南頓,南頓有大邸閣,計足軍人四十日糧

三國志/卷29
硃建平
三十日日昃,請紀綱大吏設酒

魏書では三十日の使用例も多い。
水行十日の次だから普通なら三十日と書くはず。
一月は一日の誤りの可能性高し。

863 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:38:44
>>845
>南水行十日、南水行二十日、という記載がある以上、

ほらごらん。
九州説のウソつき捏造体質がよくわかる。
どこに、「南水行十日、南水行二十日」なんて記述があるのかね?

とにかく、「水行十日」という記載がある以上、九州では無い。


864 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:40:53
>>859
隋書がより正しいと言うわけですね。
では、抽象的にごまかさずに、隋書と書紀の違いについて具体的にどのような
意図で違うことを書いたのか、説明して下さい。

865 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:41:29
>>826

その三国志に、距離を「一日」とした記載例があるか?

普通、1日で着くような距離をわざわざ書かないと思うがね。
黒を白と言い換える九州説の捏造体質がどんどん露見するな。





866 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:43:00
女王国を宇佐(大分)から日向(宮崎)にかけての九州東南部と比定したい。
畿内説は論外として、北部九州に比定できない根拠として

■計其道里當在會稽東冶之東
郡よりの方向、距離から推測すると、女王国の位置は会稽・東冶(台湾・奄美大島の
西対岸)の真東にあたると認識されるほど相当に倭国の南と理解されていた。

■倭地温暖冬夏食生菜皆
倭の地は温暖で、一年中生野菜を食べていると記載されている。意外と北部九州も雪が
多く、冬も寒いが、その点では宮崎は温暖の地です。

■使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚
女王国より北の国々には監察吏員を特別において諸国の皆が畏怖していた。よって、
女王国が北部九州ではありえない。

■女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有朱儒國
女王国の東に海を渡ること千里(対馬から壱岐と同程度の距離)にまた国があって、全て
倭人が住んでいると記載されており、四国(伊予)が倭種として比定されるが北部九州で
は比定地がない。



867 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:46:59
>>860
>>日数の説明では概要の説明となっている。

>国名を替える理由はまったくありません。

理由は別の情報も記載し、より多くの情報を知らせたかったから。


>>私の説の陸行一月が唯一の矛盾点です。

>何よりも、行程記事の読み方がでたらめです。あなたは、あなたが解釈したような
ことを書くのに、倭人伝のような書き方をするのですか?
もし、そうだとしたら、あなたの文章は意味不明、といつも言われるでしょうね。

畿内説の距離と時間を連続的に読む方が奇怪な読み方です、正常な神経の人は続けては読みません。
あなたの文章の方が意味不明ですよ。



868 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:48:41
>>863
>「南水行十日、南水行二十日」なんて記述があるのかね?
要約したまで。畿内説論者は南水行が説明できずに苦しんでいるのではなかったかな?


869 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:50:12
>>867
単なる屁理屈。

870 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:50:18
>>865
水行十日、水行二十日してきたのだから、一日と言えども陸行があればかかねばなるまい。

871 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:50:32
>>863
全くだ。
原文を引用するなら忠実にやらないと。

畿内説には確かに矛盾が存在する。
しかし、だからと言ってそれが北九州説の証明にはならない。
むしろ、北九州説には畿内説よりも更に多い矛盾が存在する。
北九州説の魏志倭人伝の恣意的解釈と改竄と無視は膨大なものがある。
「南→東」のレベルではない。

872 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:50:56
>>868

どこに、「南に水行」って記載があるのか?って指摘してるのに、
居直る九州説バカ。

とにかく、「水行」するんだから、九州ではないってことだよ。
畿内がイヤなら、沖縄ならいいのか?




873 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:53:14
>>870

三国志の中で「一日」と距離を表現した箇所があるのか?どうなんだ?



874 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:54:20

>>864
いつもの展開です。
相手方に具体的な説明を求めて解説がなされない結果を得ようとする。
ゆえに畿内説はトンデモ説と・・

あくまで抽象的ではあるがその両者の違いを分かりやすく説明してあげて
いるだけです。両者の具体的な違いを説明する必要もない。

日本人による日本の伝承と中国人による日本の伝承
これだけでも、書かれている土俵が違うことに気づくはず
どのような意図で両者が違うことを書いたのかを説明する必要もない



875 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:54:49
古代九州内で、陸地に道がない場所も多かろう。当然水行するしかないわな。

876 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:55:50
>>871
畿内説の場合は矛盾のレベルではない。
畿内説そのものが始めから破綻している。

>北九州説の魏志倭人伝の恣意的解釈と改竄と無視は膨大なものがある。
↑自らの説の幼稚さを誤魔化す為の詭弁。

北九州説の魏志倭人伝は気本的に辻褄が合っている、辻褄も合わない畿内説はカス。





877 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:55:57
>>871
アンカーを伝って>>863だけでなく >>830まで読むこと。原文を引用したのではない。

878 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:58:34
>>873
ありますよ。

879 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:01:06

>>875
少なくとも倭国の大陸までの玄関口であった伊都国〜邪馬台国までは民間の交易
も相当に行われていただろう。
30ケ国の一国が陸の孤島になっていたとは考えられない。

880 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:03:02
>>878

どこに?

さ、あると言ったからには、証拠を出してもわらわないとな。
九州説が本当に捏造体質かどうか、これではっきりするぜ。

さあ、引用してみろよ。
三国志のどこに、所要距離を1日と表現した箇所があるんだ?
え?どこにあるんだ?
どこだよ?
どこだよ?


881 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:03:19
>>871
>北九州説の魏志倭人伝の恣意的解釈と改竄と無視は膨大なものがある。

そこまで言うなら、魏志倭人伝で畿内説に有利な記述を一つでも挙げてみなさい!

まっ 一つも挙げられないのが畿内説ですけど

882 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:05:03
>>881
>そこまで言うなら、魏志倭人伝で畿内説に有利な記述を一つでも挙げてみなさい!

邪馬台国は、「ヤマト」と読みます。



883 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:06:48
海西有遲散城,從國下直北至烏丹城,西南又渡一河,乘船一日乃過

884 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:09:03
海西有遲散城,從國下直北至烏丹城,西南又渡一河,乘船一日乃過。西南又渡一河,一日乃過。凡有大都三,卻從安穀城陸道直北行之海北,復直西行之海西,復直南行經之烏遲散城,渡一河,乘船一日乃過

885 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:10:35

>>881
俺は邪馬台国、東南九州説を支持しており、同じ九州説でも、全く異にする。



886 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:12:05
そうです。畿内説にゆうりなのは邪馬台国をヤマト国とよんでいただろうという一点だけです。
倭人伝の行路記事などどうでもよいのです。

887 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:15:08
>>884

これは、現在でいうところの、どこからどこまでの行程なの?



888 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:17:29
九州説は全然根拠が無いな。

みんな畿内説に流れるわけだ。


889 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:18:26
>>886
行路記事がどうでもいいわけではありません。重要なことはもちろんですが、
どうにも説明がつかないから何も言えないのです。

890 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:19:48
>>888
何も言えない者の捨てぜりふ。

891 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:27:18
>>885
どんな説ですか?

892 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:28:05
>>882
>邪馬台国は、「ヤマト」と読みます。
畿内説の唯一の根拠がそれじゃ、呆れかえられても仕方がない

旅程記事においてちっとも合致せず、地名だけが同じだけなら、
それは普通に考えて単に同一地名ってことになるだけでは?


893 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:31:41
オマエら引っ込めよ!


俺は昼間の面積談義が見たいんだよ。

894 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:34:21
論点を交通整理する人が欲しいなあ。
畿内説と九州説の罵倒合戦になってて、
何が今の論点になってるのか、よくわかんなくなっちゃった。

895 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:37:55
>>846
訂正。
魏志倭人伝は3C末でした。ごめん。
卑弥呼の姪のトヨが王についたという記述があります。
神攻東征はあった可能性は不明。


896 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:41:51
>>892
>それは普通に考えて単に同一地名ってことになるだけでは?

頭いいねw

897 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:45:57
邪馬台国を普通に読めば「じゃまだいこく」。ヤマトとは読めないな。
委奴国、邪馬壱国、倭国、イ妥国・・・・どれをとってもヤマトとは読めないな。

898 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:46:34
ここまでの流れは>>892の説明のほうが筋が通って理解できるな。

899 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:49:39
畿内説の人は何言ってるのか分かんない。


900 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:53:45
畿内説派は起死回生として、九州の山門(やまと)を比定すればいいやん。

これで、九州説(比定地思案中)論者VS山門説(旧畿内説派)の論争になるわけで一歩前進。

901 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 00:04:50
>>892

つまり邪馬台国は大和だってことだね。

地名の一致こそ重要なものはない。
対馬だって地名の一致から、対馬だとわかる。

九州のどこに邪馬台という地名が残ってるんだ?どこにもないね?
古代では栄華を誇ってたわけだから、後世までそれなりに繁栄していたはず。
それは奈良の大和以外には考えられない。

どんなに九州説がこじつけようが、地名の一致は重要なんだよ。




902 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 00:08:12
>>901
耶馬溪がある。

903 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 00:08:37
奈良県は日本の中でも飛びぬけて田舎ですが

904 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 00:08:47
九州の山門なんて、どうやって水行するんだ?

九州説は論理破綻のバカばっかりじゃないか。


905 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 00:10:27
>>903
藤原京も知らないおばかさんは、幼稚園からやりなおしてください。




906 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 00:15:04
>>902
その余の旁国に邪馬国というのもあるし、渓の音ではヤマトと繋げるのはちょっと弱いな。

907 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 00:21:29
>>906
渓って渓谷の渓なんだから、その指摘はどうかなあ。

908 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 00:38:51
>>905
>後世までそれなりに繁栄していたはず。
を現在にまで遡るのは奈良の鬼門でしたね。

909 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 00:42:47
>>907
邪馬国もあるんだからヤマの音だけ合ってるんじゃあ弱いってこと。
壹もしくは臺の音まで含めて合わないと説得力もうひとつ。
耶馬○渓という名前で、○に何かそれらしい字が入っていたら良かったんだけど。

910 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 00:43:30
耶馬溪はやまとの渓谷って意味にもとれるな
要するにその程度の内容を畿内説は必死に語ってるわけで

911 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 00:49:16
耶馬渓は後世に付けられた常識
地名として確実なのは八女


912 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 00:57:08
>>910
>耶馬溪はやまとの渓谷って意味にもとれるな

そりゃあ無理がある。
何度も言うけど、邪馬壹國と邪馬國があるのだから、別の土地がヤマという音を共通して地名に含むことがわかる。
だから耶馬渓の耶馬をヤマと読むとしても、邪馬壹國と直接関係がある証拠とはならない。
むしろ壹に相当する音を含んでいないから、別の土地であったと考える方が妥当じゃないか。

913 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 01:02:20
邪馬壹國の呼び名がいつやまとこくになったの?

914 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 01:03:28
>>911
ということは、水行って川を下って有明海の方に出たのかもしれないね。

915 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 01:15:50
読みは やめい が近い

916 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 03:03:47
>>911

八女ということは日本書紀に出てくる八女津媛が卑弥呼ですね。

邪馬台国は、大和朝廷の軍門に下ったわけですね。



917 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 03:13:10
その大和朝廷の天皇が、他から賜姓されていた件。

918 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 03:15:20
>>917

なにそれ?脳内妄想かwwwww


919 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 04:15:13
はははは、天皇が「真人」だってさ。
こんな天皇、王様じゃないじゃん。

920 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 05:25:05
>>919
なにを言いたいのかまったく不明。

今の天皇だって、他人から名前をもらってるが、
それがなんだっていうの?

921 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 05:53:22
>>916
八女津媛は卑弥呼の数世代後の邪馬台国の女王かなんかだろう。

922 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 06:24:30

>>876

魏志倭人伝の記事に関しては、九州説>>>畿内説に相違ない。

所詮、畿内説の優位な点は「大和(ヤマト)」の地名と邪馬台(ヤマト)の国名の一致や

崇神天皇以降、畿内ヤマトでは有力豪族たちによる連合政権が樹立され大和朝廷として

4世紀初頭から開始されたことが定説(文科省が認めた歴史認識)とされ教科書に掲載

されており、記紀による日本現存最古の正史が畿内の王権国家によって残されていて、

古墳時代の初期より大規模墳墓がごろごろ残されていて、隋書にもはっきりと、隋国

役人が、「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」と、ヤマトに関しての混乱を断定形

で正して見解している程度です。かなりその差はショボイです。


923 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 06:37:35
邪馬台国九州説の人は朝鮮人みたいな考え方をしている。
なんで九州説の人は、朝鮮人みたいに歴史を捏造するの?

924 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 06:41:18
>>922
つまりそれが大和朝廷なんだよ、倭人伝の邪馬台国ではないんだよ
勉強になった?

925 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 07:08:55
大和という名前はいつから使われていたのか?
奈良に「やまと」という音がいつからあったのか、まったく分からないのでは?
九州の地名が奈良周辺に引き継がれたという。もし大和もそうであるならば、何
の手掛かりにもならないな。

926 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 07:09:25
>>922
確かに畿内説に有利な点って何もないですね。直接的な根拠が一つもない。

少々の誤差ならともかく、あれほどの所在地の不一致を地名の一致で誤魔化すことには無理があるし、
邪馬台国と大和朝廷の関係を勝手に想像して、その想像を証明しないまま根拠にすることには問題があるし、
記紀に書かれた邪馬台国の情報(神功皇后?)は明らかに胡散臭いし、
その胡散臭さを見れば、当時の大和朝廷が邪馬台国を知っていたとは到底思えないし、
その点をちゃんと考えれば「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」には意味がないし

いっそ、邪馬台国は大和朝廷でないの一言ですべてがすっきりするように思える。


927 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 07:26:53
>>922
>隋書にもはっきりと、隋国役人が、「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」と、
>ヤマトに関しての混乱を断定形で正して見解している程度です。
隋書が「大和=邪馬台」とコメントしてくれていると思っているのかな?
そこが畿内説論者の勝手読みなのだよ。隋書が書いている倭国王朝は、竹斯(福
岡市)から東へ行って海岸に出たら「後十日」で到達した所だ。ところが日本書
紀が書くところをみると、使者は4月に九州に上陸、天皇に会ったのは8月とい
う。しかも、隋書が伝える倭王は男、書紀が伝える天皇は推古。隋書が伝える倭
国王朝はあくまでも九州の中、それを、「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」
とコメントしただけだ、という見方も有力に主張されている。畿内説論者はそれに
対するまともな反論はまったく出せていない。

928 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 07:32:46
北九州説は邪馬台国をあんな近場に持っていくために、
ありとあらゆる恣意的な解釈・改竄・無視を行っている。
「南」→「東」の比じゃないんだけどね。

929 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 07:34:41
>>928
どっちもどっちというやつだな。問題は南九州。

930 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 07:40:57
>>928
>北九州説は邪馬台国をあんな近場に持っていくために、
>ありとあらゆる恣意的な解釈・改竄・無視を行っている。
総里数の12000里を恣意的な解釈・改竄・無視しているのは畿内説かと思ってました。
それに加えて、「南」→「東」ですよね。
それに加えて、畿内では鉄器が溶けてなくなるですよね。

931 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 08:07:29
邪馬台と大和の国名が似ていることが、東遷説の根拠にもなっている。

932 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 10:17:55
二日程前から始まった面積の事ですが、あれから自分なりに考えて見て
、河童虫さんの意見も
失笑し片付けてしまうのは勿体ないと、今になって思っています。
周りの方が言ってるように文章は目茶苦茶ですが、内容は光っています。

933 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 10:26:39
>>930
>総里数の12000里を恣意的な解釈・改竄・無視しているのは畿内説かと思ってました。
総里数と思い込むのが間違い。万二千里は女王国までで、邪馬台国までの距離ではあり
ません。

934 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 10:50:04
>>929
方向も距離も倭人伝どおりで次のようになります。
末盧国(唐津)で上陸したら、伊都国は東南五百里(約40キロ)。有明海沿岸の佐賀付近。
伊都国からは放射式で進む。奴国、不弥国は筑後川の沿岸ですな。
そして、投馬国は水行二十日だから薩摩川内、邪馬台国は熊本で上陸して陸行一月、日向で
す。これならば、方角のごまかしも日数のごまかしもありません。
伊都国は後の肥前国府付近、投馬国は後の薩摩国府付近。日向には九州最大の古墳を始めと
する無数の古墳がある。しかも、日向は記紀も天孫降臨の地とするところ。
この南九州説に対して何か反論はありますか?

935 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/09/25(木) 11:08:30
>>932
ありがと


>>933
帯方郡から邪馬壹国までの行程距離は、七千餘里

936 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 11:44:01
>>934
一月はそのままでいいかもしれないですね。
有明海側で上陸して陸を東へ横断。
でも、戸数が気になる。邪馬台国は7万戸だから。
結構大きな町と見なければ。
それに畿内方向の国々と対峙するためにも、太平洋側より瀬戸内側にでたほうが
良いと思う。

937 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 13:16:15
頭が混乱しているんだけけど、
教科書では邪馬台国も卑弥呼も九州にあって金印がみつかったのも九州で、
って昔教わったんだけど、なんで最近急に畿内説が言われるようになったの?
皇国史観ってどっちなの?
さっぱりわからないんだけど。

938 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 13:30:59
>>936
今の宮崎市とすれば、確かに船で直行した方が良いか、といった考え方もできますが、
都城盆地あたりならば八代あたりから陸行というのが合理的です。


939 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 14:09:40
>>938
八代ではなく、芦北かな。ここが古くからの港町らしい。
景行天皇が熊襲征伐を終え、日向から帰るときもここから船に乗った。

景行天皇の場合、日向を発ったのは、春三月とだけ書かれている。
四月三日に熊県(人吉市付近)に到着、芦北に着いたのは四月十一日。

940 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 14:29:42
魏志倭人伝をよむかぎり、
「水行」という行程が出てくるので、これは九州の外へ渡ったと考えるのがスジだろう。

邪馬台国が九州でないならば、
考古学的に優位になる場所は、奈良のマキムクしかない。
前方後円墳墓も畿内から始まっているし、
箸墓古墳が巫女の墓だったという伝承もある。
これが卑弥呼の墓なのだ。

あらゆる観点から見ても、邪馬台国は畿内しか考えられない。



941 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 14:30:14
>>937
邪馬台国九州説がウソである事がバレてしまったからです。

942 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 14:31:23
水行何日というのは倭人から聞いたことだと思うから、
当時あまり距離的に進めないだろうと思う。
大牟田から阿蘇山の北側えお通って宇佐っていうルートはどうですかね

943 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 14:35:44
台与がトヨなら 邪馬台はヤマト

トヨは、日本の女性によく使われる名前。
ヤマトは畿内の大和以外に無い。

地名の一致というのがもっとも重要な観点であり、
奈良に大和があるのに、ヤマトの無い九州に邪馬台国があったという説は無理がある。

九州の地名が奈良に移ったという人もいるが、これは逆のケースも考えられることを忘れてはならない。
九州に大宰府が置かれたとき、奈良の地名が九州に移ったとも言える。

そして、奈良の地名の方が古いという根拠は、三輪の大神神社が奈良にあることである。





944 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 14:39:09
神武東征は、記紀神話では紀元前の話である。

神話から史実をよみとり、天皇の実年代を計算すれば、
神武はおよそ1〜2世紀の人物となる。
そのころ、高地性集落が瀬戸内海につくられ、
九州から機内へと広がっている。
これを九州勢力の東征=神武東征とみなせば、
神武東征は2世紀であり、3世紀には大和朝廷が畿内に築かれた。

つまり、邪馬台国は畿内なのである。


945 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 14:45:26
古代の奈良を田舎とあなどってはいけない。

神武が東征を始めるとき、「田舎の奈良」に行きたかったわけではなく、
「奈良が繁栄していた」から、神武は進軍を決めたのである。

「奈良が繁栄していた」証拠に、神武は奈良を攻めるのに苦戦し、身内まで死んでいる。
そして、奈良にはすでにニギハヤヒという王がいた。
ニギハヤヒは物部氏の祖と言われるように、全国的に強大な氏族の祖である。
そのニギハヤヒが神武より前に奈良で王国を作っていた。

弥生時代に隆盛していた、唐古・鍵遺跡がその証拠なのだ。
神武は、唐古・鍵遺跡のニギハヤヒ王権を奪いたかったのだ。
そして、1〜2世紀に唐古・鍵遺跡ニギハヤヒを倒し、3世紀のマキムクに邪馬台国を建国したのだ。


946 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 14:46:47
7行目まではいいとして、それでなんで邪馬台国は畿内なになるの。
結論とんでいませんか?

947 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 14:54:02
畿内説は、所詮単純な発想を捨てきれないだけ。

・邪馬台国を無理してヤマトと読めそうだ
・古代日本に、畿内の天皇以外の最高権力者などいるはずがない

だから、あとは屁理屈の数を重ねるだけが、畿内説の議論展開となる。

948 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 14:56:50
2世紀の大和にニギハヤヒ王権があり、3世紀の大和に神武王権があったなら、
この2大王朝の前に、九州が独立して邪馬台国を名乗り魏に朝貢することなど不可能。

事実、九州は景行天皇の行幸をあっさり受け入れ、
九州は大和王権の一部であったと日本書紀は記している。

もしも、九州に邪馬台国があったとしたら、畿内の大和とは大戦争になっただろう。
しかしそうした記録や考古学的物証は無い。
かろうじて、高地性集落がその痕跡と言えるのみ。
つまり、邪馬台国時代では、畿内が主導権を握っており、邪馬台国は畿内ということだ。



949 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/25(木) 14:58:58

芦北は湊としては優れた立地であるが、後背平地が狭いので古代の湊としてふさわしくない。

950 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:06:42
もし、九州に邪馬台国なる強大なクニがあったなら、
民間伝承にその記憶が投影されていることだろう。
しかし、九州のどこにも、そんなクニを思わせる伝承は無い。

そのかわり、景行天皇を歓迎したという記録はある。
もしも九州に邪馬台国があったなら、畿内の景行天皇を歓迎するわけがない。
畿内大和王権は支配者となるのだから。

つまり、九州には、畿内大和王権と対立するような邪馬台国なるクニは無かったことになるのだ。

魏志倭人伝だけにしがみつき、他の事実に一切目を向けず、
邪馬台国は九州だと主張しても、
いくら素人は騙せても、専門家は騙せない。




951 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:08:09
九州では、たくさん伝承されているわけだが。
たとえば、君が代の歌詞は九州固有のもの。

952 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:08:54
九州由来の筑紫舞も、九州説以外では説明不可能。

953 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:16:46
邪馬台国と関係ない話>>951-952

954 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:21:34
弥生時代=唐古・鍵遺跡=ニギハヤヒ王権
1〜2世紀=高地性集落=神武東征
3世紀=マキムク=大和王権

↑の図式はハッキリしており、誰も反論できないはずだ。

ならば、3世紀の邪馬台国とは何だ?畿内以外にないだろう。
畿内の大和王権とは別に、九州に邪馬台国があったというのか?
それなら、畿内の大和王権が九州の邪馬台国を滅ぼしたことになる。
しかし、そんな記録は無い。
九州に強大なクニがあるなら、それを滅ぼした大和朝廷はもっと偉大だと、歴史に残るはずである。


955 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:24:55
畿内説をとる人っていろいろ。
943の人と944の人と948の人じゃ、同じ畿内説なのに。
じゃ天孫降臨の神話は九州説なのかな、畿内説なのかな?
畿内説論者さんたちはどっち?
物凄く混乱しているんだけど。


956 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:32:52
>>955

天孫降臨は紀元前だから、邪馬台国とは関係ないですよ。

天孫降臨(九州)紀元前
ニギハヤヒ東征(唐古・鍵)紀元前
神武東征(九州→畿内)1〜2世紀
大和王権(畿内・マキムク)3世紀

で、邪馬台国は畿内の大和王権のことになる。



957 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:34:16
>>951
国歌に対する暴涜だ!キムチ臭いぞ、あなた国籍はどこですか?

958 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:36:36
ようするに、九州の王権が畿内に東遷したのは事実だし、
その時期は高地性集落の推移から1〜2世紀。

だから、九州〜畿内を領域とした邪馬台国連合の主体は畿内なんだよ。



959 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:41:11
>>956

その、神武東征なんだが、記紀によれば、非常に些細な行軍だったでしょ。
神武軍は千・万単位ではなく十・百人単位としか読みようがない。
その神武軍が、畿内全域を支配した様子もまったくない。
いわば盗賊居座り事件でしょ。伝承なら妄想で膨らませるけど、
伝承自体が矮小な事件なんだから、こんな神武東征を畿内の
歴史に組み込んでかたっても、現実・事実と乖離するだけ。

960 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:43:16
でも藤原不比等が書紀を書いた時、神話も書いて天孫降臨から
天皇家は始まったって書いたですよね?
九州でもいいんですか?

961 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/25(木) 15:44:07

ようするに、九州の王権が畿内に東遷したのは事実だし、
その時期は唐軍占領駐留後の7世紀末。

962 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:45:12
で、神武東征したら、九州には誰もいなくなっちゃった可能性はゼロ。
十・百人単位の人間が九州から流出しても、九州の人口はほとんど
変わらない。だから「東遷」などという「巨大国家大移動」「帝国移転」
みたいな思い込みとは全く違う事件なんだよ。記紀にそう描いて
あるのだから、仕方がないよね。

963 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:46:04
誰か次スレ立ててほしいなあと、刈り入れの田圃を眺めながら思う秋の日であった

964 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:47:02
>>957
アナタバカアルネ
ワタシ、バチカンジンアルヨ。

965 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:47:24
さらに、大好きさんの指摘するような、壬申の乱以降の東遷ならばっちり
矛盾なく歴史と符合する。神武東征はあまりにも小事件すぎる。

966 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/25(木) 15:54:50

新スレたてました。
ココが終わったらどうぞ。

♪邪馬台国 ドンと来い♪ 32
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1222325505/l50

967 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 15:58:24
>>964
「お前は破門だ!」ローマ教皇庁教理省

968 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 17:15:33
>>967

>「お前は破門だ!」ローマ教皇庁教理省

ワタシ、ハモンアルカ?
シカタナイアルカラ、
ワタシアシタカラ、モナコジンアルヨ。

969 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 17:19:23
>>934に対する特段の反論はないようですね。
倭人伝と整合する唯一の論ということで御了解いただけますかな。

970 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 17:21:32
>>956
俺の場合、紆余曲折を経て

57年…奴国王、伊都倭国王に無断で漢と交易、伊都倭国の怒りを買い出雲へ逃げる(スサノオ出雲行き)
60年代前半〜70年代後半…伊都倭国王、出雲を攻め、征服する。出雲勢力大和へ逃げる(国譲り、ニギハヤヒ東遷)
70年代後半〜90年代前半…伊都倭国、肥国の領域を勢力下に治める(天孫降臨、日向=建日向=肥国)
90年代前半〜100年代後半…面土国王帥升、伊都倭国の断りなく漢と交易(海幸彦山幸彦)
120年代後半〜180年代前半…伊都倭国、大和を攻め、最終的に遷都する(神武東征)

こういう結論に至ったのだが、いかがなものか。

>>957
何を言う。君が代はまだ神武天皇陛下が高千穂宮に居られた頃から存在していたのだ。
>>951はこういいたかったのに、勘違いするなよ。…なんてね

>>962
記紀原理主義もいい加減にしろ。
象徴とモデルの区別もつかんのか。

971 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 17:32:35
>>940
>魏志倭人伝をよむかぎり、「水行」という行程が出てくるので、これは九州の
>外へ渡ったと考えるのがスジだろう。
逆に「水行」は九州の沿岸を航行していたと考えるべきです。朝鮮半島の場合も水
行ですからね。九州から外へ渡ることを表現するには「渡海」が使われるようです。

972 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 17:38:14
>>969
奴国は倭国の極南界なりと倭人伝に書いてあるから、
少なくても3Cのころは、北九州連合国だった。
奴国とは佐賀あたり。
奴国の南に狗奴国(クナ国)、ともある。
クナ国とは熊本。
日向は倭国の外だった。


973 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 17:45:28
>>968
「お前は減給だ!」パチンコモナコ。

974 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 18:13:11
>>971
九州から瀬戸内海を航行するのに、渡海と表現するほどの海峡はないと思います。
沿岸航行で行けるのではないでしょうか。漁師ではないので、衛星写真で見ただけですが。

975 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 18:15:24
>>969
放射説という段階で、もう何かね。
それで熊本から日向まで陸行一月もかかるかね?

976 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 18:43:49
水行は出発地と目的地が陸続きの海岸線或いは河川を上りくだりする行程を指すと思うね。

977 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 19:08:42
>>954
そんなもん簡単
大和王権などとと、さも一大勢力なごとく表現してるが実態は関西地方にある小さな一部落で
とても邪馬台国や投馬国レベルの規模じゃない、同じ関西地方でさえ存在が知れ渡っていたのか疑問
だから、倭人伝にも大和王権なるものは記載されずそこに行く行程も記載されてない、当時誰も知らないから
必死に2〜3世紀の一大勢力と主張して邪馬台国は畿内、畿内以外に一大勢力は存在してないと決めるのはあまりにも暴論
誰も受け付けない

978 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 19:30:30
其国境東西5月行南北三月行各至於海

この記載からすれば南の海は有明海だとして、
予想外に多くの月日がかかることがわかった。
当時倭人は里数を知らなかったので日数で計算していたという。
そうなると女王の都は八女だね。

979 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 19:36:48
弥生時代=唐古・鍵遺跡=ニギハヤヒ王権
1〜2世紀=高地性集落=神武東征
3世紀=マキムク=大和王権

↑の図式はハッキリしており、誰も反論できないはずだ。

ならば、3世紀の邪馬台国とは何だ?畿内以外にないだろう。
畿内の大和王権とは別に、九州に邪馬台国があったというのか?
それなら、畿内の大和王権が九州の邪馬台国を滅ぼしたことになる。
しかし、そんな記録は無い。
九州に強大なクニがあるなら、それを滅ぼした大和朝廷はもっと偉大だと、歴史に残るはずである

980 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 19:42:19
2世紀の大和にニギハヤヒ王権があり、3世紀の大和に神武王権があったなら、
この2大王朝の前に、九州が独立して邪馬台国を名乗り魏に朝貢することなど不可能。

事実、九州は景行天皇の行幸をあっさり受け入れ、
九州は大和王権の一部であったと日本書紀は記している。

もしも、九州に邪馬台国があったとしたら、畿内の大和とは大戦争になっただろう。
しかしそうした記録や考古学的物証は無い。
かろうじて、高地性集落がその痕跡と言えるのみ。
つまり、邪馬台国時代では、畿内が主導権を握っており、邪馬台国は畿内ということだ。



981 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 19:43:28
古代の奈良を田舎とあなどってはいけない。

神武が東征を始めるとき、「田舎の奈良」に行きたかったわけではなく、
「奈良が繁栄していた」から、神武は進軍を決めたのである。

「奈良が繁栄していた」証拠に、神武は奈良を攻めるのに苦戦し、身内まで死んでいる。
そして、奈良にはすでにニギハヤヒという王がいた。
ニギハヤヒは物部氏の祖と言われるように、全国的に強大な氏族の祖である。
そのニギハヤヒが神武より前に奈良で王国を作っていた。

弥生時代に隆盛していた、唐古・鍵遺跡がその証拠なのだ。
神武は、唐古・鍵遺跡のニギハヤヒ王権を奪いたかったのだ。
そして、1〜2世紀に唐古・鍵遺跡ニギハヤヒを倒し、3世紀のマキムクに邪馬台国を建国したのだ。


982 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 19:55:33
筑前と筑後の間には大宰府がある。まとめて筑紫国
豊前と豊後の間には宇佐神宮がある。まとめて豊の国

肥前と肥後の間には…?、まとめて肥の国?
どういうまとまりなんでしょうか?

983 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 20:17:45
>>934は絹と鉄が北部九州と比べて全くでてこないので、
考古学があっさりと否定しているから、人間が否定する必要すらない。


984 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 21:07:03
>>950
あははは〜 おもしろいね〜 もっとやってよ。

985 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/25(木) 21:14:50
ホ27053 ハラミヤの クニテルをつぎ アマテラス ニギハヤヒキミ

ハラミヤは 筑紫に有った。

986 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 21:19:54

>>927

・・・という見方も有力に主張されている。畿内説論者はそれに
対するまともな反論はまったく出せていない。

・・という見方は、もしかすれば、九州王朝説支持者ジャマイカ?


987 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 21:24:55
このスレみてると、九州や畿内ついでに四国以外から
邪馬台国関連の遺物がでたら全力をあげて否定するか、
「畿内から伝わった」とか「九州王朝が下賜したもの」
なんて屁理屈こねだすのが目に浮かぶ。

もう発掘結果すら捻じ曲げられそうで怖いよ。

988 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 21:46:09
>>987
>もう発掘結果すら捻じ曲げられそうで怖いよ。
畿内では鉄が溶けてなくなる、三角縁神獣鏡は中国鏡、箸墓古墳は円墳など、
すでに捻じ曲げられているよ

畿内説の人に注意してあげて!

989 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 22:30:28
九州説も畿内説も神武の出自が九州だって認めているってことでいいね。
それじゃどうして畿内説、九州説がそんなに論争するの。
同じ民族で同じ出身地ならば論争などしなくても。
ヤマトという名前の本家はどっち?という話のレベルだったの?
ヤマト王権と九州王権は全く出身が違うので言い争っているのかと思っていたら
そうじゃないんだね。

990 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 22:41:59
>>987
俺は畿内大和説だが、親魏倭王印のような決定的な証拠が見つかったら
俺は負けを認めるよ。
「九州から伝わった可能性もある」と主張する九州王朝論者を尻目に。
>>988
九州説の面々は何とかして遺跡の年代を繰り下げようと必死だね。
>>989
邪馬台国論争に参加してるのは
奴・伊都国東遷派と邪馬台国東遷派だけじゃないから、
そこを勘違いしないようにね。
強固な畿内自立派と九州王朝派、
3世紀の大和王権を認めたうえで邪馬台国を九州の部族国家連合の長とする派等色々あるから。
「神武東征は何時ごろか?」だけの問題じゃないよ、邪馬台国論争は。



991 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 22:46:04
磐余彦はシュメール人。
出身は、ずっと西です。中東です。
東遷に次ぐ東遷で日向に来ました。
そしてまた、エデンの東に旅立ったのです。

992 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 22:49:11
>990

>畿内では鉄が溶けてなくなる、三角縁神獣鏡は中国鏡、箸墓古墳は円墳など、
>すでに捻じ曲げられているよ
って指摘に対する反論が
>九州説の面々は何とかして遺跡の年代を繰り下げようと必死だね。
ってのは、やっぱり畿内説って馬鹿なんだと思ってしまう。

九州説論者への非難が、九州説論者の発言とは関係なしってところが
捏造体質を感じてしまう


993 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 22:57:47
親魏倭王印は偽書に乗ってる空想じゃん

994 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 22:58:53
age

995 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 22:59:10
>>992
しかしまあ、径百余歩の円墳が日本列島に存在しないのも事実で。
短里説とか中国では相手にされないような説を唱える九州説も五十歩百歩かと。

少なくとも箸墓が漢尺を用いて設計されているのも事実で、
マキムク王権が中国皇帝を意識した王権であることは間違いが無い。

996 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 23:02:34
>995
せめて箸墓古墳から奴婢百余人の墓が見つかれば、
畿内説にも一点くらいは根拠があったということになったでしょうに
残念ですね


997 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 23:15:12
石室のあるような墓は邪馬台国には存在しない。
しかもその地は潜水漁をしていてかつ温暖。
絹を産出し。鉄鏃を使っている。
これが邪馬台国の特徴。

畿内だけは、この条件に失格。

998 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 23:18:59
>>996
>奴婢百余人

これ自体が倭人伝のウソ。
どこの古墳でも奴婢が埋葬された例は無い。


999 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 23:22:33
>>998
>どこの古墳でも奴婢が埋葬された例は無い。
確認された例がないと言うのと、埋葬された例がないと言うのを混在させている?
また事実を捏造?

1000 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 23:23:08
都合の良いところだけを採用
都合の悪いところは切り捨てる

・・・畿内説の誕生です。

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

332 KB
★スマホ版★ 掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

read.cgi ver 05.04.00 2017/10/04 Walang Kapalit ★
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)