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【大魔王】崇徳院について語ろう【悲劇の天皇】

1 :日本@名無史さん:2008/08/31(日) 11:43:12
日本の歴史をある意味大きく変えた呪い
(天皇家と武家の地位の逆転)
をおこなった
日本の大魔王崇徳上皇について

2 :日本@名無史さん:2008/08/31(日) 12:23:08
崇徳天皇の子孫て重仁親王の代で絶えたの?

3 :日本@名無史さん:2008/08/31(日) 12:26:10
>>2
享年が23歳で出家されたから
子供もいなかったみたいですね。やはり途絶えてしまったのでしょう

4 :日本@名無史さん:2008/08/31(日) 12:44:17
本当の両親は自分の祖父と母の不倫の子で
母は美福門院の策謀で御所から追い払われわびしく死に
自分の父から叔父子と言われ拒絶され
無理やり退位させられ葬式にも出してもらえず

せめて息子の重仁親王を天皇に望んでも後白河に天皇がなり
きれた上皇が保元の乱をおこすが敗北
自身は讃岐に送られ粗末な小屋と召使数人を与えられた幽閉生活
息子も出家されられ病死
世をはかなみ自分の罪を反省し、自分の血で経典を書き
世の安定を祈り朝廷に献上するも拒絶されあまりの怒りに
ついにこの世を呪う魔王になると決意
以後は爪も髪もきらず天狗のような顔となる
そして最後は天皇家が送った三木という武士に暗殺されたという
説もある。葬式も簡単にすまされ空前の祟りがおこるまでは
追号すら与えられず墓も放置された。

本当にやりきれないよね

5 :日本@名無史さん:2008/08/31(日) 12:47:28
    /   __`ヾ),_
   /〃 (⌒゛`ヾv"ヽミ、
  i / /´ _障害者.i l|
  | 彳  〃_.   _ヾ!/   
  | _ !"  ´゚`冫く´゚`l   
  (^ゝ "  ,r_、_.)、 |,,.. -─‐\___
    ヽ_j   、 /,.ー=-/ : : : : : : : : ::)ノ: : ヽ
     \_ "ヽ  ^/ : : : : : : ソ⌒売春婦、 : :ヽ
  /⌒  - -  ! : : : : : : ) ⌒   ⌒ヾ :(_,
/ /|       | : : : : :(,  _ )  __ )!:_ノ
\ \|≡∨ 包茎 ヽ (aイ  ´゚   i | . ゚`〈   
  \⊇  池沼   \:_|  " . ノ 、_)、 ゙.ノ  
    |        (_ソ人   l ー=‐;! ノ    
    ( /⌒v⌒\     \ヽ__,ノ
パンパン|     丶/⌒ - - \
    / \    |  |売春婦  / |
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   /  /パンパン|  |      |  |
  /__/     |  |      |  |
          ⊆ |     | ⊇



6 :日本@名無史さん:2008/08/31(日) 13:04:43
重仁親王の他にもう一人皇子いなかったっけ?

7 :日本@名無史さん:2008/08/31(日) 13:53:59
>>6
調べてみた限り皇子も皇女も他にはおられないようです


8 :日本@名無史さん:2008/08/31(日) 13:57:47
ペテンでもいいから崇徳源氏を名乗りたいもんだな

9 :日本@名無史さん:2008/08/31(日) 14:12:18
死後は本当に恐ろしいお方なんだけどね

生きている頃から鵺が京都に現れ災いをもたらしたり
暗殺したとされる二条天皇が重仁親王と同じ23歳で病死
何度も京が火災に襲われ
平清盛も何度か髑髏の群れを目撃しているし
その後熱病にかかり死亡


宮内庁書陵部にある「崇徳院御託宣」の記述では
崇徳上皇は
九万八千五百七十二の神とその眷属である九億四万三千四百九十二の鬼
を配下としているらしい。


10 :日本@名無史さん:2008/08/31(日) 15:55:07
>>7 ウィキに覚恵とかいう生没年不詳の人が載ってるがガセかな?

11 :日本@名無史さん:2008/08/31(日) 16:20:40
>>10すいませんどうも見落としていたようです

覚恵(かくえ、生没年不詳)は、平安時代末期の皇族・真言僧。
崇徳天皇の第2皇子で、母は三河権守源師経(村上源氏)の娘。
重仁親王の異母弟。宮法印と呼ばれた。

出家の時期は不明だが、法名は初め元性と称し、その後覚恵と改めた。仁和寺華蔵院に住し、法印に叙された。



12 :日本@名無史さん:2008/08/31(日) 22:28:18
近衛天皇は崇徳天皇の中宮藤原聖子を養子となって即位した
ところが近衛天皇は妻の養子でありながら
夫の崇徳天皇の養子にはなっていなかった(これでは院政が取れない)
近衛天皇の即位に伴い、聖子は近衛天皇養母としてそのまま内裏に残ったが
退位した崇徳上皇は内裏を去り、院御所へ

崇徳天皇の敗因って、やっぱり愛人におぼれて
中宮聖子を大事にしなかったことが原因なの?
聖子の実父関白藤原忠通は岳父として崇徳上皇を後見するはずなのに
逆に後白河天皇方について崇徳上皇左遷に協力したし

13 :日本@名無史さん:2008/08/31(日) 23:30:01
崇徳高校とは関係ないの?荒れてる高校なんだけど

14 :日本@名無史さん:2008/09/01(月) 05:43:05
>>6 >>11
「覚恵」第2皇子の典拠が分からんな。

『仁和寺諸院家記』には「五宮元性」として見えているので、
これを信じれば、皇子某が少なくとも3人はいたはずだが・・・

15 :14:2008/09/01(月) 11:18:00
あと、覚恵は生没年不詳じゃないね。
『血脈類集記』に没年月日が載ってる。

wikipedia修正しといたわ。

16 :日本@名無史さん:2008/09/01(月) 13:17:07

            ○
            ┠〜〜〜┐
            ┃  ●  ∫  
            ┠〜〜〜┘   
            ┃          
            ┃              
            ┃__,,,
            /´      ̄`ヽ,
            / 〃  _,ァ---‐一ヘヽ
         i  /´  池沼   リ}
          |   〉.   -‐   '''ー {!
          |   |   へ  くへ |
           ヤヽリ ´゚  ,r "_,,>、 ゚'}
         ヽ_」     ト‐=‐ァ' !   <貧民愛国者は死ねwww
          ゝ i、   ` !|u |' 丿
              r|、` ''ι! .| -‐f´
         _/ | \   ;:i;l 。_
       / ̄/  | /`又´i:i;l 。゚  |  ̄\



17 :日本@名無史さん:2008/09/01(月) 20:31:51
天狗ってその正体は山伏集団だったみたいだけど
相模坊はわざわざ大山から崇徳上皇の霊を慰めるために
来ているんだよな
後、気になるのはどうして崇徳上皇が白峰に陵墓が作られることに
なったか五色台は空海が五行にちなんで名前をつけたようだけど
白は五行だと西で金の属性そして金は天狗の属性でもあり
崇徳上皇の化身も金の鳶へと転じた。
どうもここらへんに呪術的なものを感じる

18 :日本@名無史さん:2008/09/01(月) 20:58:20
後調べてみると
ヤマとタケルの息子の88人の部下が過労で倒れたとき
に霊水で癒した泉があり、そこに朝廷からの使者が来るまで
何十日も上皇の体を浸したとか
空海が白峯に如意宝珠を埋めたとか曰ありげな伝説が出てきている
古くは旧石器時代から人が住んでいたみたいだし
牛鬼や大和タケルの息子が戦った悪魚など妖怪伝説もあるし

19 :日本@名無史さん:2008/09/01(月) 22:35:15
>>4
×自分の祖父
○自分の曽祖父

20 :日本@名無史さん:2008/09/01(月) 23:07:56
>>4
かなり偏ってるな
「叔父子」の記述は現在では否定されているが平清盛は白河天皇の落胤だとしている
「平家物語」にしか見えない。つまり、信憑性が薄い。
鳥羽天皇の第一皇子、しかも中宮腹の生まれながらの天子ということで妥協を知らない自信家だったんだろうな
まあ、味方もいないのに天皇に戦を吹っ掛けた時点で判断能力がなかったということ。
配流に従ったのは召使数人の幽閉生活というが愛妾の同伴も認められているよね。
讃岐にいてもしぶとく弟の後白河天皇に対し自分の帰京と重仁親王への譲位をしろと
手紙を書いている。


21 :日本@名無史さん:2008/09/02(火) 21:59:56
>>15 参考になりますた。
五人の皇子で成長したのはこの二人だけか

22 :日本@名無史さん:2008/09/02(火) 22:03:48
なんか現地でも愛人が出来て
子供がいたっていう説もあるね

23 :日本@名無史さん:2008/09/03(水) 02:52:44
綾局〜

24 :日本@名無史さん:2008/09/03(水) 19:22:58
待遇が良かった土御門上皇は配流先でたくさん子作りしたよな

25 :日本@名無史さん:2008/09/03(水) 20:06:06
その土御門上皇が崇徳上皇のために琵琶を鳴らしたら
夢に現れてお礼をするって言って
息子が天皇になったんだよね

結構義理がたい面もある

26 :日本@名無史さん:2008/09/03(水) 20:20:23
重仁親王の母で崇徳上皇の愛妾だった
女官の兵衛佐は都から崇徳上皇の配流に同行しているね
土御門天皇の配流にも愛妾が同行している
土御門天皇は配流先でも子供を作っているが
母親は都から下向した愛妾
ぱっとはしないが一応貴族の娘だ
もっとも土御門天皇の中宮だった大炊御門麗子や
後嵯峨天皇の生母土御門通子などの
有力な妃たちはみな都に置いていっている
(土御門通子は承久の乱の同年死亡している)
上皇が配流先で現地調達の女に子供を産ませたというのは聞いたことがない

27 :日本@名無史さん:2008/09/03(水) 21:52:33
崇徳上皇よりも順徳上皇の方が悲惨じゃない?
冬寒いし
やることといったら夜の営みしか

28 :日本@名無史さん:2008/09/03(水) 22:16:00
千歳宮ですね、分かります

29 :日本@名無史さん:2008/09/03(水) 23:43:55
順徳上皇の場合はどうも地元の人と結構交流があったみたいだからね
父の後鳥羽上皇は太平記の崇徳院率いる魔王の列に参画しているけど
順徳上皇はどうだったけ

30 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 19:53:49
順徳天皇は学問に秀でていた
有職故実や歌に関する書物を残している
父の後鳥羽上皇が最も愛し期待をかけた皇子だったから
父への孝行心が厚くなければ賢帝だったのに

31 :不逞倭人:2008/09/04(木) 20:12:11
【人でなし】人肉喰ってた天皇【真の自虐】



32 :日本@名無史さん:2008/09/04(木) 21:12:17
そういえば崇徳上皇も短歌の名人だったね
悲劇の人って自分の不幸な一生を思いつめて考えるから
上手くなるのかな

33 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 19:08:19
崇徳帝には中宮、更衣、典待の三人しかいないし子供も二人。
父や弟と違って女に興味なかったのかな?

34 :日本@名無史さん:2008/09/06(土) 21:19:53
というよりは、近衛天皇を鍾愛する鳥羽上皇の意を汲んだ家臣達が
崇徳は一代限りと見限ったような感じがする。
重臣の娘で正式に入内したのが藤原聖子だけで、院近臣子女を侍らず
天皇としては異例な方かと。

>>12
もしも中宮聖子に男児がいたら、保元の乱は必然であっても
藤原家の歴史は大きく変わっていたかも。

35 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 07:46:18
>>33
有力な家の息女が入内すると正式な妃は一人だけということはあるからね。
関白藤原忠通の息女中宮聖子がいたために他の貴族は遠慮したとか。

また、この時代、天皇が女官との間に隠し子を作っても
認知されなければ皇子女としては認められない。
崇徳上皇については他にも子がいた可能性はある。

36 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 07:55:13
>>34
中宮聖子に男子があったらいかに鳥羽法皇といえど
これを無視して庶子の近衛天皇を即位させるに及ばなかっただろう

むしろ崇徳上皇の敗因は中宮聖子とその父忠通に見限られたこと。
卑母の近衛天皇は聖子の養子にならなければ即位できなかったし、
(近衛天皇即位後、鳥羽上皇の愛妾にすぎなかった長子は美福門院となるけどね)
忠通は崇徳上皇を見限ったことにより鳥羽法皇の意向を受け入れ
近衛天皇を聖子の養子として後見していくことを選んだ。
崇徳上皇にもうちょっと能力があり聖子を大事にしていれば
聖子や忠通にどのように頼み込んででも
異母弟近衛天皇即位阻止のために
庶子の重仁親王を聖子の養子にして聖子に後見を頼んでおいただろうに

37 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 11:10:25
>>36
どうだろうね。
聖子所生の親王がいたとしても、藤原忠通と鳥羽天皇の力関係次第ではないかと
>近衛天皇が即位できたかどうかは。

白河上皇辺りから上皇が権力を掌握するようになったし、鳥羽上皇も手放すとは思えないから
かつての摂関政治復活キボンの藤原忠通とは利害が対立し、真っ正面から対立すると思うけどな。

崇徳上皇が表面上でも聖子と藤原忠通を大事にすれば、多少未来は異なったかも?というのは認めるw

38 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 19:43:52
>>37
鳥羽天皇には15歳の時に迎えた2歳年上の中宮璋子があった。
璋子は白河法皇の養女にして、藤原北家閑院流の出身。
鳥羽天皇自身も閑院流の母親を持ち璋子とはいとこ同士、
閑院流は白河天皇、堀河天皇に続き3人目の閑院流の天皇を出すことになり、
鳥羽天皇の御世に閑院流は大いに発展した。
これに水を指そうとしたのが摂関家の藤原忠実。
白河天皇の中宮、堀河天皇の中宮は摂関家の養女だったが
いずれも天皇の外戚にはなれずに終わっていたため盛んに運動。
途中で白河法皇の横槍が入ったものの
忠実は娘の泰子を鳥羽上皇に入内させることに成功した。

ここで重要なことは、鳥羽天皇の時代の天皇の出自。
白河上皇から院政がはじまり上皇が政治の実権を握るようになったとはいえ、
依然として天皇の外戚は摂関家か閑院家に限られていた。
閑院家は(分かっていると思うが)道長の叔父太政大臣公季を祖とする家系。

つまり、院政がはじまったからと言って、
鳥羽上皇院政期まで美福門院のような
女御ですらない女性を母親に持つ皇子が即位したり、
そんな女性が女院になったりということはなかったんだ。


39 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 19:53:03
38の続き。

鳥羽上皇はこっそり召しだした藤原長子を寵愛し始めると、
摂関家の打倒閑院流の動きに便乗する。
長子が最初に産んだ皇女を忠実の娘で妃の高陽院(藤原泰子)の養女にするように頼みこむ。
高陽院と忠実は打倒待賢門院の立場からこれを受け入れた。
長子はのちのちまで鳥羽上皇と高陽院の行幸には一緒に付き添って世話をしたりと
高陽院や忠実に気に入られるように振る舞っている。
一方、実父、義父白河法皇をなくしていた待賢門院は長子を呪詛したとの疑いをかけられて失脚、出家。
美福門院は鳥羽上皇の寵愛だけでのし上がれたわけでも、
鳥羽上皇は自身の独断で卑母を持つ近衛天皇を即位させたわけでもない。
美福門院を忠実の娘高陽院に庇護させ、
近衛天皇を忠通(高陽院の実弟)の娘聖子の養子にする。
貴族達との軋轢を避け、政務を混乱させないために、
摂関家との協調のうえで近衛天皇即位を成功させたんだ。
摂関家も閑院家も無視して独裁ができるほど
院政が成熟していたわけではない。

40 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 20:54:39
一瞬、女院皇后スレッドかと思った。
スレタイの崇徳天皇だが、マザコンで自分の母の待賢門院から長子に
寵が移り始めたとき、長子の弟に難癖つけて解任させたのが不味かったと思う。
長子にしてみれば、そのころは父も死んでるし、あんまり頼れる親戚もいないのに弟まで
そんな目にあったから、ものすごく怖い思いがしたんじゃないかな。
もちろん、鳥羽上皇もいやーな息子と思っただろうし。
美福門院となった長子は、そのことを根に持って百倍返ししてやったんじゃないかと。
あと卑母というけど、重仁の母と長子で比べるとやはり権中納言の娘である
長子の方がちょっと上だと思うが。


41 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 20:59:40
>>38-39
大方同意。

補足すると、私には鳥羽天皇が年齢的に出産が厳しい高陽院を表向き立てて
長年正妃だった待賢門院を排除する方針にしたのは、
鳥羽上皇と待賢門院の後見人であった白河院への否定だと思えるのです。

高陽院の出産は難しいという前提が当時からあり、
待賢門院腹の崇徳天皇以降は寵妃美福門院所生の子達が皇位を継承していく。
これが鳥羽上皇主導の案で、見返りとして摂関家は近衛天皇の后妃として
娘(養女)を入内させていくことにしたのでは?と考えています。

鳥羽上皇の独断ではないけれど、待賢門院所生の皇子達を皇位から
遠ざけたいという上皇の強い意志があるからこそ、近衛天皇亡き後
同母姉である(後の)八条院の女帝即位案が浮上し、
仕方なく中継ぎにした後白河天皇の即位にも難を示したのでは?と思います。
摂関家的には英明な天皇よりも、操りやすいボンクラ天皇の方が好ましいでしょうけれども。


後白河天皇の常軌を逸した遊び好きを見て、不安に思うのは無理無いとも思いますw

42 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 21:27:51
>>40
同意
方や左大臣の孫娘(母方の祖父が源俊房)。
方や三条天皇の曾孫の養女だから、血筋的には長子の方がやや上。

>>38
待賢門院の父が正二位権大納言だから、正三位権中納言の父を持つ美福門院は
明らかに格下。
しかし、鳥羽天皇が美福門院の父に太政大臣を追贈して無理矢理格上げしたり、
近衛天皇の立太子によって女御にさせ、天皇の即位後は母后として皇后に冊立したから、
美福門院を卑母とは言いにくいかな。

43 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 21:30:25
ところで、美福門院は得子じゃなかった?
コピペした時は気づかなかったけれど。

44 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 21:44:42
>>41
近衛天皇没後の鳥羽上皇と美福門院の本命は後白河ではなくその息子二条天皇。
二条天皇の母は二条天皇を産む際産で亡くなっており、
美福門院はこの皇子を引き取って猶子にしていました。
鳥羽上皇の血を引く皇子たちで当時候補だったのは
二条天皇と重仁親王の2人でいずれも美福門院の猶子になっていました。
二条天皇の外祖父大炊御門経実は関白忠実の叔父、外祖母は待賢門院の実姉公子で、
崇徳上皇の野心への警戒もさることながら二条天皇のほうが重仁親王より出自ははるかに良く
待賢門院の血を引いているということを考慮してでも最有力の皇子でした
当時から賢君だと思われていたようで、鳥羽上皇は美福門院との皇女と結婚させます
後白河は二条天皇の父親であるという理由からしばらく天皇をやることになりました
もともと近衛天皇よりも12歳も年上の異母兄である後白河天皇は
近衛天皇の次代を継ぐには年を取りすぎていましたし
美福門院の本命が二条天皇であることは
保元の乱の直後、乱に勝利した後白河天皇に対し
美福門院が譲位を要求して二条天皇を即位させていることからも分かります

45 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 21:50:57
>>42
この時代は血族結婚だから何代かさかのぼれば
身分が高い人がいたというのはよくある話。
ただ美福門院は女御でも中宮でもなく鳥羽上皇にこっそり召されたというが
卑母たるゆえんなのであって、
何代か前なら女御になれたのに、と主張しても仕方がない。

ちなみに女御になるには権大納言以上の父親(あるいは養父)を持つこと、
中宮になるには大臣以上の父親(あるいは養父)を持つことが道長の頃の不文律であり
これに従えばもし父親が生きていても女御にはなれなかったことになる。

美福門院が女御になり、女院になれたのは近衛天皇が即位でき
母后にふさわしい地位を与えられたからであって
ここでは近衛天皇がなぜ即位できたのかの話をしているんでしょう?

46 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 19:47:49
鳥羽天皇と待賢門院の生んだ皇子四人のうち、崇徳・後白河を除く二人は盲目と聴覚・身体障害があるね。
また美福門院との間にできた近衛天皇は目の悪性腫瘍という遺伝的要素の強い病気で崩御している。
これは近親婚による弊害と見ていいの?

47 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 20:19:35
奇形や目の悪性腫瘍は遺伝病ではないよ
参考までに

734 名前:日本@名無史さん :2008/09/09(火) 21:39:28
ソースはぐぐればいくらでも出るが例えばこんなの
近親婚で影響が出るのは「劣性遺伝病」のみ
普通の結婚では遺伝病遺伝子を持っていても病気が出現しないことが多いが
その病気の遺伝子ばかりを受け継ぎすぎると現れる可能性が高いもの
そして劣性遺伝病以外では近親婚の影響は一切出ない
http://www.primate.or.jp/PF/yasuda/11.html
http://health.goo.ne.jp/medical/read/genetics/0306.html

奇形児や知的障害は遺伝病ではない
(親から子へ受け継がれる遺伝子が原因で発病する病気ではないということね)


735 名前:日本@名無史さん :2008/09/09(火) 22:15:55
「劣性遺伝病」参考までに
http://www.oguradaiclinic.jp/page1316.html

48 :47:2008/09/12(金) 20:21:18
鳥羽天皇の皇子たちの中には
先天的に身体的異常のある人もいたけどいずれも遺伝病ではない
近衛天皇は先天的な病気ではない
鳥羽天皇と美福門院は別に近親婚ではないしね

49 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 20:22:06
>>47 ふむふむ、参考になり申した

50 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 21:17:29
近衛天皇の死因と推定される網膜芽細胞腫は遺伝的なガンで極めて稀
と「天皇のカルテ」に書いてあったが

51 :日本@名無史さん:2008/09/12(金) 21:32:13
>>50
網膜芽細胞腫は親の精子か卵子の遺伝子に異常があると発病する。
発生率は一万五千人に1人
ただし、この病気は「優性遺伝」。
つまりこの遺伝子をもった人が片方の親だったとすると、
もう片方の親の遺伝子に関わらず、もう片方にたとえ異常がなくてもで必ず発病する。
つまり近衛天皇がこの病気だったのならば、
鳥羽天皇か美福門院、あるいは両方がこの病気を発病していることになる。
また鳥羽天皇が発病しているのならば近衛天皇に限らず鳥羽天皇のすべての子供が、
美福門院が発病しているのならば近衛天皇に限らず美福門院のすべての子供たちが発病することになる。
ちなみに片親でもこの遺伝子を持っていれば必ず発病する「優勢遺伝」は
もう片方の親の出自を問わず、近親婚の影響では全くない。
鳥羽天皇、美福門院には後白河法皇や上西門院、八条女院のように長命な子供たちも多かったので
優勢遺伝であるこの病気が兄弟に現れず近衛天皇ただ一人に現れることは考えられず
近衛天皇がこの病気であった可能性は低いと言わざるを得ない。

http://ganjoho.ncc.go.jp/public/cancer/data/retinoblastoma.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B2%E8%86%9C%E8%8A%BD%E7%B4%B0%E8%83%9E%E8%85%AB

もともと鳥羽天皇と美福門院はもともと血縁近くないけどね

52 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 12:49:37
重仁親王は足の病で死んだらしいが、足の病って何だ?

53 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 19:37:31
今度アニメ化される作品のラスボスっぽいな。
アニメに出て来れるかは、疑問だが。


54 :日本@名無史さん:2008/09/13(土) 21:38:53
>>52 骨肉腫とか破傷風とかかな?

55 :天照大神:2008/09/14(日) 05:05:12
サンドイッチマン

56 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 11:00:40
>>53-54 重仁親王は頭痛持ちだったんだろ?
薄幸な人生だな

57 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 11:02:13
>>53
何?

58 :日本@名無史さん:2008/09/14(日) 20:18:38
屍姫


59 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 16:58:54
待賢門院と美福門院どっちが美人だったんだろ?

60 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 19:55:13
イメージ的に待賢門院は半井小絵、美福門院は長澤まさみ

61 :日本@名無史さん:2008/09/16(火) 21:44:47
待賢門院は10年間に7人、美福門院は6年間に4人の皇子女を生んでいる。
寵愛されたんだなぁ

62 :日本@名無史さん:2008/09/17(水) 17:26:10
祖父(白河法皇)、妻(待賢門院・美福門院)、子(崇徳・後白河・八条院)
側近(忠実・頼長・信西・忠盛)に比べると、鳥羽院は影が薄いですね。

63 :日本@名無史さん:2008/09/18(木) 22:54:52
閑院流藤原氏で保元の乱で唯一崇徳方についた藤原実清が何か気になる。
きっと傍流から一発逆転を狙っていたんだろうな。


64 :日本@名無史さん:2008/09/19(金) 20:38:03
崇徳院は病死?暗殺?

65 :とリッピー:2008/09/19(金) 22:36:29
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66 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 02:35:19
>>64
状況から見て暗殺は無いんじゃない?
崇徳を担ぐ勢力もなさそうだし、慈悲を乞うような人物に政治的な野心が残ってたとも思えない。
この人が怖くなるのは死んでからで、死ぬ前はただの人だからw

67 :日本@名無史さん:2008/09/20(土) 17:19:51
毎日ドンチャン騒ぎの後白河だったが一応兄の崇徳に遠慮していたらしい

68 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 08:41:02
>>66
崇徳は配流先の讃岐からでも
後白河に退位を迫ったり息子の重仁親王を帝位につけるよう迫ったり
自分の帰京を迫ったり
後白河にあれこれ要求を突きつけているけどね
かつては自分の屋敷に居候として住まわせていたころの
同母弟後白河の姿が忘れられなかったせいかもしれんが

崇徳が政治への野心を完全に失っていたのならば祀られることもない
政治への野心がなかった土御門天皇が怨霊にならなかったように
帝位への執念を最期まで燃やし続け
後白河の子孫に代々祟ると信じられたからこそ
崇徳は死後荘厳な名を贈られ祀られることになった

69 :日本@名無史さん:2008/09/21(日) 17:46:07
>>68
最後のほうは帝位なんてどうでもよくて帰京だけが願いだったんじゃない?
慈悲を乞うて帰京を願ったものの、それすら無視されて怒り狂ったという印象なんだが。
帰京が最大の願いだったから明治天皇が勅使を遣わして帰京を願ったわけで。

70 :日本@名無史さん:2008/09/22(月) 22:11:34
>>69
頼みにしていた重仁親王も若くして先に死んでしまったし
もはや帝位を譲るべき息子もいなくなってしまったのだから
(仏門にいれた期待していない息子はいたみたいだが)
仕方がないといったらそれまでだろうが
都に帰ったら帰ったで相応の生活を要求しただろうし
今までの近臣たちを屋敷に呼び集めてまた楽しくやりたいと思うだろう
後白河にとってはどっちにしろうっとおしいだけだったし
貴族たちにも崇徳を都に呼び戻そうという動きはなかった

71 :日本@名無史さん:2008/09/24(水) 07:06:52
九条兼実は、「太上天皇への贈号は先例がない。崇徳院の名も気に入らない。
土御門院とすべきだ」(『玉葉』安元3年(1177年)7月29日条)と言ってますね。


72 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 22:15:21
>>68 後白河は居候のくせに毎晩今様でドンチャン騒ぎですか
兄弟仲はもともと悪かったのかな?

73 :日本@名無史さん:2008/09/25(木) 22:43:25
崇徳上皇は鳥羽天皇の中宮待賢門院(璋子しょうし)を母として生まれた。
幼名は顕仁親王。
璋子は権大納言藤原公実の娘だったのを、白河法皇が養女として育て、十八歳のとき鳥羽天皇の中宮待賢門院として入内させた。
このとき鳥羽天皇は十六歳。
そして翌年、顕仁親王が誕生したわけだが、実は鳥羽天皇の子供ではなく、実の父親は祖父にあたる六十七歳の白河法皇であった。
悲劇のそもそもの原因は、ここに始まったといってよい。

74 :日本@名無史さん:2008/09/26(金) 18:55:33
叔父子

75 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 10:42:49
上皇は讃岐府中のボロ家で五部大乗経の写経に励むことで、諦観の境地にはいろうと努められた。
そのうち保元の乱で出家させられ空性と名乗っていた御子重仁親王が、自分に先立って逝ったという知らせをきく。
三年余かかって心血を注いだ写経が完成したので、父鳥羽法王の永眠する京都の安楽寿院へ奉納すべく仁和寺へ送られた。
そしたら少納言信西がこれを後白河上皇を呪詛するものとして却下した。

臨終の床への見舞いも許されなかったし、写経の奉納までも拒絶された。

上皇はこれを聞いてブチキレた。

「われ魔性とならば、王を奪って下民となし、下民をとって王となし、この国に世世、乱をなさん」
と、みずから舌を噛み切り、血をもって経巻の奥に誓言を血書して海中に投じさせ、髪も剃らず、爪も切ることなく、柿色の御衣もほころびるにまかせ、ただ悪念三昧に都のほうを呪い
大魔王になって朝廷の輩に思い知らさんと、祈りに祈られたという。

76 :日本@名無史さん:2008/09/27(土) 19:12:50
崇徳院て坂出の白峰御陵近辺に住んでたの?

77 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 17:00:18
どちらかと言えば当時の国司庁(国府)近辺かな。
阿野郡甲知郷(坂出市府中町)国道十一号線鼓岡参道バス停付近に標柱が立っている。
ここが平安時代は讃岐の中心地。
後に国府のど真ん中だから府中という地名がついた。
一一五九年のころ、崇徳院の配所は府中の長命寺から鼓ガ岡に移された。
ここは国府庁の南にある丘で、監視はさらに厳しくなった。
長命寺は仮配所で鼓ガ岡は恒久的な牢舎として新しく建てられたものである。
丘を背に柵をめぐらし、出入りは木戸一つ、中に池をたたえ、池の向こうに風雨をしのぐばかりの黒木造りの板屋葺。
里の人たちは木の丸御所と呼んでいた。




78 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 19:36:14
>>77 詳しくありがとう。
相当厳しい環境だったようだね。

79 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 21:19:27
白河・鳥羽・崇徳3代の関係って、「華麗なる一族」の
万表家の関係とそっくりだなあ。

白河天皇=万表敬介
鳥羽天皇=万表大介=北大路欣也
崇徳天皇=万表鉄平=木村拓哉
待賢門院=万表寧子=原田美枝子ってとこか。

山崎豊子はこの3天皇の関係を参考にしたかもしれん。

80 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 15:03:32
崇徳院の読んだ歌って全部でどれくらいあるの?

81 :日本@名無史さん:2008/09/30(火) 19:46:17
>>79 趣味に生きた堀河天皇をお忘れなく!

82 :日本@名無史さん:2008/10/01(水) 20:43:32
堀河帝の中宮篤子内親王は堀河帝より19才年上。
しかも甥と叔母。
なんで?

83 :日本@名無史さん:2008/10/03(金) 22:38:45
高倉天皇は乳母との間に15才で子供をつくっている。
この時代は乳母自ら子作りの指導をしたのかえ?

84 :日本@名無史さん:2008/10/05(日) 14:57:11
>>82
『今鏡』(すべらぎの中 たまづさ)には、「をさなくよりたぐひなくみとり
たてまつらせ給て、ただ四の宮をとかやおもほせりけるにや侍けん(幼い頃より
この上なく素晴らしい方と憧れ、四の宮をとお思いになられたようだ)」と
堀河天皇の希望だったとしていますが、13歳の天皇の意思が婚姻に反映したかは
かなり眉唾。陽明門院・白河上皇・関白師実の三者による調整の結果でしょう。

服藤早苗編『女と子どもの王朝史-後宮・儀礼・縁-』の中にある栗山圭子氏の
「篤子内親王論」がすごく丁寧で、読む価値ありです。

85 :日本@名無史さん:2008/10/12(日) 17:53:19
>>84 その篤子内親王論の要約をお願いします

86 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 09:20:41
>>83
乳母が天皇に性の手ほどきをした。
「とはずがたり」でも主人公の二条が初体験の相手後深草上皇から
「私の初枕の相手はおまえの母上(二条の母親は後深草の乳母)だったのだよ
それ以来(乳母のことが)忘れられなくてせめて(娘の)お前のことは我がものにしようと決めていたのだ」
と告白されている。
この時代の「乳母」は複数つけられ、乳をやる乳母のほか、
天皇の後見人となる親族出身の乳母、
さてまたこのように手ほどきをするお姉さん的年上の乳母などがいた
後深草院は中宮西園寺公子を迎えるにあたりスムーズに性交できるよう
大納言局という「乳母」が手ほどきしたし、
高倉天皇も中宮平徳子を迎えるにあたり、帥局というこれまた「乳母」が手ほどきした。
おそらく手ほどきは正式な妃が迎えられる前の期間に限られ、回数も多くはなかっただろうが、
高倉天皇乳母はそのたった数回の手ほどきで妊娠したものか。

87 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 09:39:06
>>82
白河天皇は父後三条天皇より生前、2人の異母弟に帝位を譲るように命じられ、
一代限りの帝位を運命づけられていた。
ところが、父の死後、皇太弟だった異母弟実仁親王が没し、俄かに
我が子である堀河天皇擁立に動く。
堀河天皇の母賢子の養父関白藤原師実も堀河天皇擁立を熱望、白河に協力した。
ところが実仁親王は没したものの、もう一人の異母弟輔仁親王はいまだ存命していた。
村上源氏は堀河天皇ではなく輔仁親王の擁立を主張したというし、
なにより白河の祖母陽明門院は後三条の意思を継いで輔仁親王を庇護していた。
白河は天皇家の尊母である祖母陽明門院だけは味方につけなければ、
これ以後自身の子孫のみに帝位をつがせることは困難であると考えた。
陽明門院は息子の後三条が愛した孫輔仁親王を庇護していたが、もう一人大変身近な孫があった。
それが、白河の同母妹の篤子内親王だった。
篤子内親王は賀茂斎院を勤め、父後三条の死により退下したが、
このときまだ十代であったこともあり、祖母の陽明門院が手元に引き取った。
以来、篤子内親王は祖母陽明門院と同居し、陽明門院はこの孫娘のために白河天皇に願って
篤子内親王を三品にするなど大変なかわいがりようだった。
白河天皇と師実は陽明門院を味方につけるために、
堀河天皇即位なら篤子内親王を堀河天皇に入内させ中宮に立てる(師実の顔を立てるため師実の養女として)
という筋書きを立て、陽明門院を説得したといわれている。
年の差はあったものの、天皇に入内し后に立つということは女性最高の栄誉、
篤子内親王入内後は陽明門院も頻繁に参内して篤子内親王に会っており、
孫娘の栄華を喜んでいたようだ。

88 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 20:19:47
>>85
栗山圭子氏によると、この時期は輔仁親王支持派が依然として勢力を保ち
白河上皇の発言力は大きくなく、後三条の死で摂関家も勢力を盛り返すなど
政界はかなり流動的だったようです。

『後二条師通記』『為房卿記』『中右記』などの諸記録からは、篤子が関白の
養女となり、入内に関して摂関家が全面的にバックアップしていることが確認
できるそうで、師実による養女入内作戦第二弾だったとしています。

89 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 18:54:26
何で流されたのが讃岐なんだ?
隠岐や佐渡やなどと比べて待遇いいじゃない

90 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 21:37:26
>>89
上皇が隠岐や佐渡に流されるのは、朝廷が幕府と争って敗れた承久の乱以降。
配流先を隠岐や佐渡に定めたのは鎌倉幕府。
それまで天皇経験者が流罪になること自体、先例がなかったんだよ。
配罪になった皇太子では早良親王があるが、これも配流地は淡路島で讃岐より近いし。

91 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 22:00:49
>>90
淡路島だけど淳仁天皇を忘れてないか?

92 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 22:12:06
いいれす

93 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 22:19:29
淳仁は歴代に数えられてなかったんじゃ。

94 :日本@名無史さん:2008/11/08(土) 22:24:38
>>93
廃帝だから歴代に数えられてなかったが、三種の神器を継承
して正式に天皇に即位したから天皇経験者だったことには
間違いない。

95 :日本@名無史さん:2008/11/09(日) 23:55:29
>>62
父(堀河天皇)、孫(二条)、曾孫(六条)よりまだまし。
皆、鳥羽院より寿命はるかに短いし・・・


96 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 03:54:45
別スレにも書いたが白河院の政治力はスゴイ
でも子孫にとってその遺産は重すぎたかなあ?

同じ事は後醍醐にもいえる

97 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 06:22:15
崇峻天皇様と崇徳天皇の崇は皇室と政治における祟りタタリの当て字

98 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 19:49:40
崇道天皇は?

99 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 20:25:25
崇光天皇も例外じゃまいか?

100 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 21:38:44
崇神が、現天皇家の直接の先祖と言われているのに。

101 :日本@名無史さん:2008/11/10(月) 21:48:30
夕方に白峰御陵にお参りに行ったらいきなり暗くなって雨降って俺涙目
先月だが

正直ビビッた

102 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 05:33:57
崇はタタるので崇高
崇神の場合はタタらなかったかしら

103 :日本@名無史さん:2008/11/11(火) 21:09:40
崇と祟の文字は全く違う
崇に祟り(たたり)という読みも意味もない
あがめる、というのが崇の訓読み
皇室の先祖をあがめる、
祟らないようにあがめる、
別に悪い意味の文字ではないよ

104 :日本@名無史さん:2008/11/16(日) 23:42:24
兄がアキヒトで弟がマサヒト。これって現天皇と同じなんだよね。

105 :日本@名無史さん:2008/11/17(月) 10:31:13
でも、今のマサヒトは、このマサヒトほど旺盛じゃないな。

106 :日本@名無史さん:2008/11/17(月) 12:05:57
さらに、アキヒトの皇太子(崇徳院は皇太弟だが、年は親子ほど離れている)がナリヒト(近衛院)、平成のアキヒトのがナルヒト。
ここまで共通するのも珍しい。
父親の宗仁(鳥羽院)、ムネヒトだが、読み方によっては、ヒロヒトとも読める。
お祖父さんが善仁(堀河院)、タルヒトだが、読み方によっては、ヨシヒトとも読める。
さすがに貞仁(白河院)は、ムツヒトとは読めないが、ここまで共通している。

他では、憲(ノリ)と守(モリ)が割と対。
憲平(冷泉院)と守平(円融院)、守仁(二条院)と憲仁(高倉院)、字は違うが、護良(モリナガ、モリヨシ)と義良(ノリナガ、ノリヨシ・後村上院)

107 :日本@名無史さん:2008/11/18(火) 00:46:52
叔父子って、大室云々は抜いて考えると、今で例えれば、今上が明治天皇の子供だって感じか。

108 :日本@名無史さん:2008/11/18(火) 19:09:18
今上が香川県に移住することをイメージすると良いな。

109 :日本@名無史さん:2008/11/19(水) 00:07:41
つまりは、徳仁が裕仁の末っ子で、
明仁が睦仁の子供で、睦仁が裕仁から無理やり皇位を譲らされて、
睦仁が死んだ後に、裕仁に明仁をたぶらかして、
徳仁に皇位を譲らされたが、徳仁が子をなさずに死んで、
正仁が皇位について、
裕仁が死んだ後に、正仁は近衛と、明仁は九条と組んだ。
そんな感じかな。

110 :日本@名無史さん:2008/11/19(水) 04:41:43
出直してこよう

111 :日本@名無史さん:2008/11/21(金) 22:09:24
何で崇徳院って退治されなかったのかな?
皇家や国に祟る大魔王でしょ?
そんなモノにひたすら平伏して情けを乞う天皇って威厳もなにもないよね。
霊的な守護を司る武家もいたんだから、退治して英雄譚になりそうなもんだけど。

井上内親王にしろ道真にしろ似たような扱いだから日本では退治しないのが普通なんだろうけど
欧州なら多分退治されるだろうし、今の感覚からしても変じゃない?

112 :日本@名無史さん:2008/11/21(金) 22:22:39
ゆとりktkr

113 :日本@名無史さん:2008/11/23(日) 12:03:58
「右中弁光雅、院の御使となり来たる」〜中略〜「光雅仰せて云はく、天下の乱逆、
連々了る時無し。これ偏に崇徳院の怨霊たる由、世の謳歌する所なり。仍つて神祠を
成勝寺中に建つべき由、叡慮これあり」(『玉葉』寿永2年(1183年)閏10月2日条)

後白河に、兄を退治する発想はなかった模様。

114 :日本@名無史さん:2008/11/26(水) 00:50:04
顕仁と雅仁は意外と仲が良かったんだろ。

115 :日本@名無史さん:2008/11/26(水) 20:41:24
後白河は中宮腹とはいえ四男坊、
異母弟近衛天皇にも帝位を超えられ、
即位するまでは同母兄崇徳上皇の邸に居候していた。
一説には、崇徳上皇が弟を味方に取り込もうとして
同母弟後白河に邸の一角を提供していたとも。
この頃、この兄弟は特に仲が悪くもなかったのだろう。
崇徳が居候時代の後白河の姿をいつまでも忘れ得ず、
戦を吹っかけたら弟はすぐに降参するだろうと思っていたのが運のつき。

116 :日本@名無史さん:2008/11/30(日) 20:26:23
崇徳上皇は、今様や和歌にかまけている愚弟としか考えていなかったのだろう
もっと武士と朝廷に味方をつくっておけば、後白河が皇位を継いで鳥羽が死んだ時点で院政できたのに

117 :日本@名無史さん:2008/12/01(月) 19:40:55
>>116
天皇の直系尊属(父や祖父など)は院政をとれるが、
天皇の兄は天皇に対して何の影響も及ぼさず、院政を取った例はないはず。
崇徳上皇は異母弟近衛天皇に対して院政をとれず、
その昔には平城上皇の命令は同母弟嵯峨天皇に対して全く無益だった。
天皇<上皇という力関係は上皇が天皇の直系尊属であった場合のみ有効で、
上皇が天皇の直系尊属ではない場合、たとえば兄などの場合は天皇>上皇だ。
そのために保元の乱で崇徳上皇は弟白河天皇を前に敗北したし、
平城上皇もまた弟嵯峨天皇に敗北している。

118 :日本@名無史さん:2008/12/01(月) 20:47:48
>>117
嵯峨上皇と淳和天皇の場合、朱雀法皇と村上天皇の場合は無視ですか?

119 :日本@名無史さん:2008/12/01(月) 22:21:57
>>117
まあ、院政を開始したのは曽祖父の白河天皇だし、父の鳥羽天皇が
2人目だから先例の慣例も確立されていないだろうから、崇徳天皇が
兄をして院政したら兄でもOKと言う先例が誕生しただろう。
崇徳が保元の乱に負けたのが全て。

120 :日本@名無史さん:2008/12/01(月) 22:25:04
瀬をはやみ〜

121 :日本@名無史さん:2008/12/01(月) 23:59:56
崇徳が勝利すれば、重仁親王が即位していたはず。
重仁の乳母(池禅尼)の夫・平忠盛が存命だったなら、
勝敗は分からなかったと思う。まあ、歴史をifで語っても
しょうがないけど。

122 :日本@名無史さん:2008/12/02(火) 14:29:25
どなたかご存知だったら教えてください。

wikipediaで崇徳天皇引くと、

>室町幕府の管領であった細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を
>弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬
>されたと言われている。

とあるけれど、”細川頼之が崇徳天皇の菩提を弔った”というのの出典がわかり
ません。
「太平記」を読んでいると、怨霊たちの祟りで世が乱れます。で、怨霊のリーダー
が崇徳院です(院の怨霊は巻24、巻27、巻33で登場)。

で、「太平記」のラストでは

>ここに細川右馬頭頼之、・・・天下の管領職・・・武蔵守に補任して、
>執事職を司る。外相・内徳(げさう・ないとく)げにも人の言ふに違はざりしかば、
>氏族もこれを重んじ、外様もかの命をそむかずして、中夏無為(ちゆうかぶゐ)の
>代に成つて、めでたかりしことどもなり。

「細川頼之が管領になったぞ、太平の世がやってきた、めでたしめでたし」と、
締め括られます。
 太平をもたらした細川頼之が崇徳院の菩提を弔ったのだとすると、南北朝の争いが崇徳院の祟りだったことと辻褄が合います。
 出典を、読んですっきりしたいなぁ。ネットとか市販本じゃなくともオーケー。国会図書館でも白峯寺でもどこでも行きます。

123 :日本@名無史さん:2008/12/03(水) 19:47:26
>>118
嵯峨上皇は弟淳和天皇に対して院政をおこなってなどいないが?
淳和天皇時代の執政者はあくまでも淳和天皇だ。
嵯峨上皇が退位後も影響力を及ぼしたのは実子の仁明天皇に対してだけであったはず。
朱雀も弟も村上天皇に対して政治に関与をしていない。
いつ関与したんだ?

124 :日本@名無史さん:2008/12/04(木) 20:12:24
重仁親王に比べて覚恵とかいう第二皇子が冷遇されたのはなぜ?

125 :日本@名無史さん:2008/12/07(日) 11:00:40
>>124
重仁親王は、男子が近衛天皇一人しかなく、
心もとなかった美福門院の養子になっていたために
鳥羽上皇からも優遇された。

崇徳上皇は重仁親王に多大な期待をかけていたが、
重仁親王の母親兵衛佐は崇徳上皇寵愛の女官で
兵衛佐は崇徳の配流先にも同行していたはず。
一説にこの女性のせいで崇徳と中宮聖子は不仲となり
聖子の父忠通が崇徳を見限ったとも。

126 :日本@名無史さん:2008/12/15(月) 21:36:53
>>123
嵯峨は淳和の舅でもあり、皇太子に擁したのも嵯峨だぞ。
院政と言う言葉がないからと言って院政が無かったと言うのは只の屁理屈。
それこそ、関白の起源を「阿衡」問題以前の光孝朝に求める通説がおかしいということになるが。

127 :日本@名無史さん:2008/12/18(木) 22:22:10
兵衛佐しか讃岐に連れて行けなくて、おまけに軟禁状態だから地元の女にも手を出せず。
子供もたくさん作り豪華な御殿で配流生活を送った土御門院とは天と地の差だ

128 :日本@名無史さん:2008/12/19(金) 19:23:11
院政は「天皇が幼少で政務が執れないので、天皇の父(または祖父)が
後見する」というシステムですよね?成人天皇(淳和・村上)がいるのなら、
わざわざ嵯峨・朱雀が出てくる必要性はないと思うんですが。

129 :日本@名無史さん:2008/12/19(金) 20:31:00
>>127
土御門院が豪華な御殿に住んでいたなんて、出典は何?
佐渡の田舎で立派な御殿?
土御門院は配流地でも子供を作ったが都から連れていった女官との子供のみ。
土御門院が側室を現地調達できたとでも?
崇徳上皇にも複数の女官の同行が認められており、土御門上皇と大差はない。
土御門院は配流先でこれ以上の長生きは無用と自殺したんじゃなかたっけ。
崇徳天皇より悲惨な晩年だろう。

130 :日本@名無史さん:2008/12/19(金) 20:35:36
>>126
嵯峨天皇は兄平城上皇を破ったことにより、
皇太子だった兄平城上皇の皇子を廃太子にした。
その後釜に自分の皇子を据えたのでは
世間からそれが目的だったのかとうとまれると考えて
世間の批判をそらすために弟の淳和を擁立したんだよ。
次の天皇の任命権は天皇にあるのだから、
嵯峨が淳和を擁立することはなにもおかしくない。
嵯峨の皇女が淳和に入内したのは淳和の立太子後だろ。
嵯峨が弟を皇太子に指名したら院政、ってそんな馬鹿な話があるかい。
それは嵯峨自身が天皇だったときに行った行為で、
淳和の在世中にも自由に上皇が皇太子を決めていたわけではない。

131 :日本@名無史さん:2008/12/19(金) 20:37:43
>>129
院政は「天皇が成人であっても」行われているよ。
天皇が幼少で政治をとれないため置かれるのはむしろ摂政だろう。
天皇が成人しても関白が置かれたがな。
院政期、天皇が成人すると上皇は政治を引退したか?
そんなことないだろ。
成人天皇に対しても上皇は院政をおこなっていたよ。

132 :日本@名無史さん:2008/12/19(金) 20:39:22
>>129 それは順徳上皇。
土御門には幕府がわざわざ阿波に御所を造らせたんだぜ

133 :日本@名無史さん:2008/12/19(金) 21:02:41
>>132
土御門上皇は崇徳天皇や順徳天皇と違い「流罪」になっていない。
承久の乱で土御門上皇は全く罪に問われなかったのに、
父や弟が配流になったからと言って自分の自由で地方へ下った。
罪人ではないので院御所もあるし女官も伴っただろう。
だって、土御門上皇は都に住んだって良かったわけだから。

134 :日本@名無史さん:2008/12/19(金) 23:42:07
>>131
院政期は、成人天皇を退位させるのが慣例では?院と成人天皇が並存すると
院政派と親政派の衝突の危険性があるため、治天の君は常に幼帝を擁立した。

後白河院政における成人天皇の出現(二条天皇・高倉天皇)は稀なケース。
成人天皇に対抗して院政を継続しようとすれば、後白河のように院政停止に
追い込まれる。

135 :日本@名無史さん:2008/12/20(土) 19:40:36
>>134
院政期の成人天皇
堀河天皇(院政;父白河上皇)
崇徳天皇(院政;父鳥羽上皇)
後白河天皇(院政;父鳥羽上皇)
二条天皇(院政;父後白河上皇)
高倉天皇(院政;父後白河上皇)
土御門天皇(院政;父後鳥羽上皇)
順徳天皇(院政;父後鳥羽上皇)

院政は江戸時代末まで続いたが、とりあえず承久の乱まで。
院政期には祖父や父である院が故意に幼帝を擁立した事実はない。
院政をとる後白河上皇が平氏に幽閉されて即位した安徳天皇、
寵愛の妃の子を早く即位させるために若年で帝位についた近衛天皇、
ほかに皇位継承者がいなかった鳥羽天皇らが異例。
後白河天皇の院政停止は平清盛が二条天皇に味方したためで、
上皇の権限が成人天皇より弱かったからではない。
平清盛が妻の甥である高倉天皇擁立のため後白河寄りにになると、
成人天皇は二条天皇はあっさりと後ろ盾を失い、
後白河による院政が復活している。

136 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 11:49:17
即位時の年齢で見ると、堀河・8歳、鳥羽・5歳、崇徳・5歳、近衛・4歳、
後白河・29歳、二条・16歳、六条・2歳、高倉・8歳、安徳・3歳、後鳥羽・4歳、
土御門・4歳、順徳・14歳。

後白河・二条・順徳以外は幼帝。慈円は院政を「大上天皇ナガラ、主上ヲ子ニモチテ、
ミダリガハシクハヾカラズ世ヲシラントイフハカラヒ」(『愚管抄』巻第三)と説明
しています。

137 :日本@名無史さん:2008/12/21(日) 12:04:49
二条天皇が死去したのは、永万元年(1165年)7月。
憲仁親王(高倉天皇)の立太子は、仁安元年(1166年)10月。

二条天皇は死期が迫って順仁親王(六条天皇)に譲位しても、
院庁を設置して平重盛を執事別当に任じるなど、政治の実権を
最期まで掌握している。二条の生きている間は、後白河の院政は
復活しなかった。

138 :日本@名無史さん:2008/12/22(月) 22:37:13
まあ、白河上皇以前にも上皇が天皇に代わり政治を取っていたなら
菅原道真が左遷させられた時、宇多上皇が醍醐天皇に会えないと
言う事態は起こらなかっただろうな。

139 :日本@名無史さん:2008/12/23(火) 17:13:11
>>137
平重盛は父清盛と争ってこの頃平氏の中でも孤立していたからね。
二条天皇は異母弟高倉天皇の即位を恐れて、これを阻止するために、
あわてて六条天皇に譲位した。
生母の地位の低い六条天皇は貴族たちの同意を得られず、
二条上皇が生きていても平氏を姻戚とし、
後白河上皇が押す高倉天皇の即位は自明のことだった。
二条上皇が全権掌握していたのならばあんなに焦って
後ろ盾のない幼い庶子に譲位する必要もなかっただろう。

140 :日本@名無史さん:2008/12/24(水) 19:36:00
>>138
あの頃は藤原氏全盛期。
醍醐天皇の中宮穏子の父として権力を握った藤原時平が
宇多上皇の内裏入りを阻んだんだんろ。
若い醍醐天皇の発案ではないよ。

141 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 03:17:08
138もそれは知ってて言ってんじゃないの

142 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 07:19:46
>>140
あれは確か、定省が皇位についている時に、上皇だった貞明が頻繁に内裏に来て、
皇位を返せとかよこせとか言ってうざかったから、内裏にはたとえ上皇と言えども
入る事はならぬと決めたのが、そのまま、もろにってところもあるんだろうね。
だから、後の時代の貞仁や宗仁や雅仁は、そのてつを踏まないように気をつけた
んだろうね。

143 :日本@名無史さん:2008/12/25(木) 16:32:20
>>139
順仁親王(六条天皇)は、二条天皇の中宮・藤原育子の猶子だった。育子は
前関白・忠通の養女として入内・立后している。当然、摂関家の支援があったはず。
そして、関白・近衛基実は清盛の婿。時子は二条天皇の乳母であり、清盛にすれば
後白河よりも二条が政権を握っていた方が好都合。二条が生きているのに、後白河に
肩入れしたり、堂上平氏(滋子・時忠)に義理を立てる必要が果たしてあったのか?

後白河と二条の確執については、佐伯智広氏の「二条親政の成立」(『日本史研究』505)が
『山槐記』の記事から詳細に分析しています(当時、記主の中山忠親は蔵人頭)。

144 :日本@名無史さん:2008/12/27(土) 23:54:39
>>143
六条天皇の即位時、忠通はすでにこの世になく、
摂関家は年若い基実が継いでいた。
清盛は基実の没後彼の所領を娘の盛子を通じて奪っており、
基実とうまくいっていた様子はない。

時子は二条天皇の乳母である以前に、高倉天皇の叔母であり、
時子とその異母妹で高倉天皇の生母である滋子との仲は良好だった。
その証拠に、滋子は姉時子の娘である徳子のために
裳儀の腰紐を結ぶ役を務め、高倉天皇の中宮となることを後押ししている。
二条天皇が清盛の娘を中宮としてあがめるはずもなく、
清盛には当時妙齢な娘があったにもかかわらず、
二条天皇への入内の画策もなければ二条天皇からの催促もない。
清盛が娘の立后、天皇の外祖父への道を開けたのは高倉天皇だったからこそであり、
すでに清盛の心が高倉天皇にあったのは自明のことである。

ちなみに、忠通の子慈円著の「愚管書」には育子は忠通の実子だとあり、
実弟の著だけに信憑性は高い。
育子は兄基子の猶子として入内している。

145 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 04:13:58
白峯神宮行ってきますた。
球技のお願い事多過ぎやんけ。

146 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 06:49:24
>>144
基実と盛子が婚姻しているのに、基実と清盛の仲が悪かったという説の根拠が
よく分かりません。基実が死去した時、清盛は「コハイカニ(これはまあなんと
したことか)」(『愚管抄』)と嘆いています。基実没後の盛子による摂関家領
相続も、基実の遺児・基通が成人するまでの仮の措置であり、清盛は基通にも
別の娘(寛子)を嫁がせるなど、近衛家との関係は良好でした。

それと天皇への影響力でいったら、乳母>叔母でしょう。滋子が徳子の入内を
後押ししたのは事実ですが、後白河と清盛の対立抑止が狙いではないでしょうか?
滋子にとって最重要なのは高倉天皇であって、清盛・時子夫妻は二の次だったと
思います。

娘の立后、天皇の外祖父といっても、この時期は院政が確立して外戚の影響力は
格段に下がってます。清盛が外戚の地位に固執していたとは思えません。

147 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 09:18:06
時子は高倉天皇の叔母(父母の妹)ではなく、伯母(父母の姉)でしたね。
伊勢平氏と堂上平氏はお互いに、協力する義理はあっても義務はないドライな
関係だったと思います。

148 :日本@名無史さん:2008/12/28(日) 11:25:19
>>146
清盛が外戚の地位を欲していなかったのならば、
なぜ徳子に躍起になって男子を産ませようとしていたの?
後白河の院政を停止させ、安徳天皇の即位、
高倉上皇の院政を命じて清盛が全権を掌握したのも
清盛の身内に娘婿の高倉天皇と外孫の安徳天皇があったためで、
彼らの存在がなければ後白河の院政停止などありえなかったのだが。

そこまでいう君が、なぜ娘婿基通と清盛の仲が良好であったと思うのか。
それこそ、摂家嫡流の近衛家が格下の舅清盛のいうことを聞く必要などあるはずもなく、
基通は妻の父清盛とは別行動をとっていた。
清盛は東宮憲仁親王(高倉天皇)の別当となって高倉天皇の即位を支えている。
清盛が最後まで二条天皇派だったのならば、六条天皇に男子が誕生するのを気長に待ち、
六条天皇の子孫が天皇になることを支えただろう。
間違っても六条天皇を早々に退位させてそのおじである高倉天皇の即位を支え、
その高倉天皇に娘を入内させて貢献するなんていう発想になろうはずもない。

149 :日本@名無史さん:2009/01/03(土) 10:21:39
>>148
「高倉天皇がいなければ、後白河の院政停止はありえなかった」というのは
同意します。親政派が院政派を打倒したケースです。

基通と清盛の仲が悪かったという説の根拠がよく分かりません。基通は
治承の政変の際、清盛の後押しで関白・内大臣・氏長者になっています。
基通が平氏から離れたのは、寿永2年(1183年)7月25日、平氏の都落ちの日。
清盛の死後です。

清盛は二条天皇・基実の相次ぐ死という不測の事態により、やむを得ず
後白河院政派に鞍替えしました。憲仁親王の親王家勅別当・春宮大夫になったのは
いずれも二条の死後です。二条が死去した時、清盛は48歳、後白河は39歳。
六条天皇の成長を気長に待てなかったと思います。

宗盛は安徳天皇の伯父でしたが、内大臣止まり。外戚になったからといって
摂政・関白・左右大臣になれるわけではありません。

150 :日本@名無史さん:2009/01/07(水) 20:37:55
>>149
「摂関になれない」=外戚になる意味がない、ではないよ。
摂関は姻戚関係にかかわらず藤原道長の子孫が継承することになっていたから。
ただし、天皇との姻戚関係のない摂関の力が清盛のような天皇外祖父や
天皇祖父である上皇よりも劣っていたのはいうまでもないこと。
君は院政期の世襲摂関と、天皇外祖父という地位にあった摂関全盛期の摂関を同一に語っているのが信じられない。
藤原摂関家が院政期にも天皇外祖父の地位を保っていたのならば、院政など出る幕もない。
白河天皇以降、力を持ったのは摂関ではなく「天皇の外戚」だった。
摂関が世襲になったために彼らは必ずしも高位に上ることはできなかったが、
天皇の最側近として重用されることとなった。
そして、清盛はこの天皇外祖父の地位を欲した。
源頼朝、足利尊氏までが、娘を天皇の中宮に立てることを欲した(こちらは成功しなかったが)。

摂関が世襲である以上、摂関の血筋に生まれなかった清盛が
摂関家の中でもっとも近い関係にある基通を支持するのは当たり前だろう。
基通はまだ年若く、岳父清盛に意見することはできなかった。
基通は高倉天皇のもとでもやはり摂関を務めており、
特に二条天皇派でもなかったと思われる。



151 :日本@名無史さん:2009/01/07(水) 20:38:24
150の続き。

二条天皇の晩年には有力な武家、公家は二条政権を見放していた。
異母弟高倉天皇即位を阻むための大規模な粛清や、
卑母の幼児を帝位に据えるなど、二条天皇も晩年は無茶が多かった。
高倉天皇擁立に動いたとして二条天皇に配流に処された平時忠は平時子の同母弟だが、
それでもまだあなたはこの事件が時子と清盛夫妻に何の影響も与えなかったと言い張るのだろうか?
高倉天皇の生母滋子は時忠・時子とは異母だが、滋子には同母の兄弟は妹一人しかいなかったために
後ろ盾となってくれる男兄弟として時忠を求め、時忠も虎視眈々と異母妹滋子の男子の擁立を願っていた。
時忠とは幼いころから辛苦をともにしてきた同母姉である時子が
乳母という地位に甘んじて弟時忠を見捨てていたとも思えないが。
のちの時忠と清盛一族の蜜月時代を思い起こしてもね。
時忠は平家の都落ちにまで同行しており、あなたのいうように
平氏は姻戚関係にありながら堂上と地下で常に別行動で接点は一切無しなら
堂上公家の時忠が武家平氏に最後までついていく必要もない。

152 :日本@名無史さん:2009/01/07(水) 22:59:10
天皇の外祖父の地位に絶大な力があるのなら、高倉上皇が死去した時、後白河に
院政再開を要請する必要はないと思いますが。外戚でない摂関に力がない裏返しで、
摂関でない外戚にもさほどの力はありません。

基通が高倉天皇の関白だったのは、治承の政変から高倉譲位までの三ヶ月程度。
高倉天皇在位中、ほとんどの期間が松殿基房です。

有力武家・公家が二条天皇を見放していたというのも、よく分かりません。二条に
『大槐秘抄』を献じ、二条親政派の中心だった太政大臣・藤原伊通は無視でしょうか?
大規模な粛清といっても、平時忠・藤原成親・源資賢はこの当時、四位・五位の諸大夫。
まだ取るに足らない存在です。

時忠は意外と清盛の意向に反して動くことが多い。親宗に至っては、都落ちに同行せず
平氏追討を強硬に主張している様子が『玉葉』に見えます。

153 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 20:14:42
>>152
「院政」を要請したのではなく、「院庁再開を認めた」でしょう。
院庁は上皇の執務を行う機関で、これ自体は白河上皇のはるか以前から存在する。
一条天皇が年始に父円融上皇に年賀のあいさつに訪れた際、
円融上皇の院庁の役人を昇進させていたのも有名な話。
院政がとられるようになってから院庁はいつしか政務も行う機関となったが、
そもそも院政自体が明確な律令の規定の外で始まった制度であるために
外祖父清盛が政務を放棄し、後白河に政権返上を申し出たと摂るのは大きな誤解。

近衛基通は、高倉天皇擁立後の平氏台頭を快く思わなかった後白河法皇によって、
平氏の片棒を担ぐ者として摂関を止められた。
基通が高倉天皇の摂関を自ら辞したわけでも、高倉天皇が基通の関白をはく奪したわけでもない。
しかし、安徳天皇の摂政を務めているので平氏の姻戚として扱われていたのだろう。

藤原伊通は美福門院のいとこであったために、当初、美福門院に協力、
すでに外祖父、実母といった後ろ盾をなくし美福門院の養子となっていた
二条天皇擁立に協力した。
もっとも、藤原伊通は二条天皇より先に亡くなっている。
二条天皇の太政大臣になったときにはすでに70歳まじかで書類を献じるほかには政務にはほとんど介入していない。
そもそも二条天皇親政が可能だったのも二条天皇が周囲に自分に意見するものを置かなかったためなので
高齢の藤原伊通が積極的に二条天皇の親政に介入したという事実もない。

154 :日本@名無史さん:2009/01/08(木) 23:53:57

    λ   
   λ !.! /      皇位を返せ・・・
   >Y〃
  (ヘ <                 皇位を返せ・・・
   ヽヾ、、     
    ヾ ヽ     /_⌒ヽ⌒ヽ
     ヾ  ゙'-、,  /` ゚` :.; "゚`ヽ
      ゙'し  `/    ,_!.!、  ヽ
        ゙'-、( __ ⊂⊃  , , )
           ヽ__(r  `〜〜ュ_
              `ヽ  ノ    \
                Y /~    ト、
       __        ノ !   ,、--'" ヽ
      \_>>    ___ノン /,'" ヽ--'" ヽ
      -= \__,、-'"  _゙',_ノ-'"ヽ'--'" -'" ヽ
       ゙'、,__,ニ、,二,、-'"     ヽ'--'"゙'--'"ヽ
                     /    :::::::::::ゞ〜ヾ
                     !::::::::::::::::::〆⌒
                    ⌒⌒⌒⌒゙'〜〜


155 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 19:53:34
>>153
摂関の継承ですが、まず永万2年(1166年)7月、摂政・近衛基実が死去。
基通は7歳であり、基実の弟・松殿基房が摂政となりました。基房は以後、
一貫して摂関の地位にありましたが、治承3年(1179年)11月、治承の政変で
解任・配流され、基通が関白となりました。基通は平氏の支援を受けましたが
寿永2年(1183年)7月の平氏の都落ちに同道せず、後白河の庇護を求めました。

『玉葉』寿永2年8月2日条に「法皇摂政を艶し、その愛念に依り抽賞すべし」と
あり、後白河は基通を摂政に留任させます。同年11月、法住寺合戦が勃発。
基通は解任され、木曽義仲と組んだ基房の子・師家が摂政に就任します。
義仲が翌年正月に戦死すると、師家は解任。基通が「法皇の愛物」という理由で
摂政に返り咲きます(『玉葉』寿永3年1月21日条)。

「基通が後白河によって摂関を止められた」というのが全く分かりません。

156 :日本@名無史さん:2009/02/02(月) 13:27:46
「綾上町民俗誌」などによれば、綾歌郡南部、綾南町や綾上町などでは、毎年正月に「ミヤマフム(三山ふむ)」
とか「タカヤマフム(高山ふむ)」といって、正月には高い山三箇所を踏むとよいというそうです。
1月10日は金毘羅さんへ、1月16日は八栗さんへ、1月26日は白峰さんへ必ず詣りにいったといいます。
もちろん、それぞれの日は各寺院の縁日で、市がたつ日だったのですが偶然にもこの三山は、讃岐の三大天狗の棲む山であり、
何か天狗の信仰と関わりがあるのかもしれません。
ちなみに白峰さんに詣ったら必ずダルマイカ(凧)を買うものだったといいます。
また白峰には紫色のものを身につけて持っていったりしてはいけないそうです。
これは崇徳院が紫の衣をつけて難にあったからだと伝えています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%BE%E4%B8%8A%E7%94%BA

157 :日本@名無史さん:2009/02/03(火) 20:48:27
天狗信仰と山岳信仰は相当被る部分があるから。
全国の霊山の多くに天狗が住んでるし。

まあ天狗と一口に呼んでも色々なタイプがいるよね。
元々の来歴不明で山の神としての顔がメインの天狗・・・白峰の相模坊はこっちに近い
僧侶が神通力を得て天狗になったモノ・・・愛宕山の太郎坊とか
高貴な人が恨みで天狗になったモノ・・・崇徳上皇が典型だよね

国を呪うような大天狗というか天魔、魔王と、山の神としての天狗が一緒になって
天狗のイメージって定まらないな。

158 :日本@名無史さん:2009/02/05(木) 01:57:58
山の神を祭る山の民は朝廷に追われた者が多いし
その朝廷を恐れさせる崇徳院は山の民にとっては同胞のように
思えたのかも
相模坊とか上皇の死後すぐにはせさんじているし

159 :日本@名無史さん:2009/02/13(金) 02:27:52
瀬をはやみー

160 :日本@名無史さん:2009/04/07(火) 22:47:34
ところで太平記での陛下の姿が金色の鳶なのは
何故だろうか

161 :日本@名無史さん:2009/04/07(火) 22:56:44
岩にせかるる滝川の

162 :凶悪な知障麻生と鬼畜の身障天皇は死ね:2009/04/08(水) 16:04:03


・変態レイプ魔のクソ天皇が徘徊しています
・人殺し虐殺指導者のゴミ汚物キチガイ天皇が逃走中です
・顔面奇形障害者の天皇、皇后、皇太子が暴走中。目に毒です。
・淫売ブス売春婦(梅毒持ち)の不細工ビッチ皇后が不法営業中。保険局より。
・鬼畜クズ戦犯で凶悪犯罪者で殺人犯の天皇が逃亡しました。賞金10ドル。
・ニート精神障害者キチガイ馬鹿カルト不細工女の雅子皇太子妃が生活保護詐欺で逮捕。
・不逞バカ自意識過剰うんこ蛆虫カス野郎の秋篠宮が脱糞・失禁・食糞中。衛星上の難題。
・知的障害者で池沼でキチガイで精神障害者で変質者で変態で脳カタワの天皇が入院。
・ダメ人間クソガキ馬鹿キチガイ糞ゴキブリ廃棄物の悠仁が虐められています。
・知的障害者で発達障害者でアスペルガーで唯の馬鹿キチガイの愛子が発狂。
・戦犯鬼畜凶悪犯罪者で人殺し人でなし殺人鬼レイプ犯放火魔のクズゴミカス天皇は死ね。
・穢い臭いキモイ気色悪い病原菌の天皇・皇后・皇太子・秋篠宮・雅子・豚ビッチ紀子クソ淫売

・腐ったゴミ汚物の各種皇族  死ね

・鬼畜凶悪犯罪者で大量虐殺レイプ犯のクソ天皇は死ね!!!




163 :日本@名無史さん:2009/05/20(水) 20:40:08
もし保元の乱で上皇側が勝っていたら日本の歴史はどうなっただろうか
武家政治の到来が早まったのかな

164 :日本@名無史さん:2009/05/21(木) 04:04:11
われても末に

165 :日本@名無史さん:2009/05/24(日) 01:49:30
会わんとぞ思ふ

166 :日本@名無史さん:2009/05/24(日) 02:18:21
誰と 会いたかったのかな 女御? 乳母?

167 :日本@名無史さん:2009/05/24(日) 08:44:28
重仁親王

168 :日本@名無史さん:2009/08/01(土) 01:05:07
>>163
為朝が征夷大将軍に任命される?

169 :日本@名無史さん:2009/09/20(日) 16:36:34
為朝って結構武勇伝多いよね

170 :日本@名無史さん:2009/09/22(火) 22:31:36
大河ドラマの平家物語では古畑任三郎が崇徳院をやったんだよな

171 :日本@名無史さん:2009/09/23(水) 00:04:44
まじキチ…ユダヤが人工地震を起こすぞ

【緊急情報カクサンよろしく】

ついに来ました。

大きい動きです。250nT超えてきました。ほぼ間違いありません。もう一度言います。

友人、知人、親類縁者、あらゆるつながりを駆使して巨大地震がくることを教えて下さい。

四川地震より大きいのが来る可能性があります。
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警告!連休中の21、22、23日が危ない!かも2
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【大気イオン】e-PISCO Part11【また延長】
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172 :日本@名無史さん:2009/10/01(木) 10:56:15
質問

崇徳院と後醍醐天皇が顔が似ている可能性ってあるか?

173 :日本@名無史さん:2009/10/01(木) 20:22:56
>>172
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Emperor_Sutoku2.jpg
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Emperor_Godaigo.jpg

174 :日本@名無史さん:2009/10/02(金) 11:46:30
サンクス あんまり似てないね
後醍醐天皇って昭和天皇と三笠宮に似てる気がする

175 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 12:35:16
いつ作られたかわからない肖像を比較してもなぁ

176 :日本@名無史さん:2009/10/14(水) 21:51:21
わかってるよ

177 :日本@名無史さん:2009/10/15(木) 16:41:28
桓武天皇に取り憑いた崇道天皇こと早良皇子と崇徳院は魔界で手を組んでいるんだろうか

178 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 13:08:59
桓武天皇の陰謀に引っかかっただけの早良親王と
自分の意思で弟に宣戦布告した崇徳は全然違う気がするが

179 :日本@名無史さん:2009/10/20(火) 12:36:07
朝廷に祟ったっていうのは共通やな
鎮めの神社も建立されてるし
菅原道真ほど派手じゃないけどな

180 :日本@名無史さん:2009/10/22(木) 00:26:33
瀬をはやみ

181 :日本@名無史さん:2009/10/24(土) 12:18:44
>>179
早良親王の時には桓武天皇の皇后や夫人たちが次々亡くなり
皇太子にたった安殿親王も病に苦しむなどして
早良親王の祟りだということで神泉苑で祇園会がもよおされたり
洛中に御霊神社が建てられたりしてあちこちに祀られている。
だけど、崇徳上皇は流されただけで生きていたし
特に朝廷に祟ったとは言われなかったよね。
神社は建ってるんだけど、これは崇りがあった人じゃなくても
神社に祭られている人はいる。

182 :日本@名無史さん:2009/10/24(土) 12:32:35
なんか本気でかわいそうに思えた歴史上人物のうちの一人。
弟が極悪腹黒後白河なのでなお更。

183 :日本@名無史さん:2009/10/24(土) 18:18:29
>>181
崇徳の怨霊が騒がれ出したのは、安元3年(1177年)。前年に建春門院、
高松院、九条院、六条上皇が相次いで死去。洛中では延暦寺の強訴が
荒れ狂い、安元の大火(太郎焼亡)で大内裏や公卿の邸宅が炎上。
中宮庁に強盗が乱入するなど治安も悪化。とどめが、鹿ケ谷事件の勃発。
天下の物騒は保元の乱の怨霊によるものとされた。

184 :日本@名無史さん:2009/10/24(土) 18:23:15
そこで藤原教長が言い出したんだっけ。

185 :日本@名無史さん:2009/10/25(日) 12:20:13
後、崇徳上皇の第2子で仁和寺で僧侶をしていた人が
血染めの経典を持ち出したところから朝廷が恐怖し始めた

それまでは死んで当然という扱いで悪いの崇徳上皇と
勝利宣言の文まで出していた。
で墓もみずぼらしく新院とか讃岐院とかの適当な名前を与えられていた

ところが>>183と血染めの経典ですっかり恐れを抱いた
朝廷は勝利宣言文を破棄、
墓を建て直し廟を作り、崇徳院という称号を与える。


186 :日本@名無史さん:2009/11/27(金) 05:13:29
うちの御先祖様なのであんまり悪口言わないでください><

187 :日本@名無史さん:2009/11/30(月) 19:41:34
陛下の子孫いたのか・・・・。

188 :日本@名無史さん:2009/12/14(月) 00:20:12
あげ たたりおそろし

189 :日本@名無史さん:2010/02/12(金) 03:43:14
>>179
神社の格式をかんがえなさい
違いを見れば天皇家からの扱いの違いがわかるはず

190 :日本@名無史さん:2010/02/27(土) 02:50:35
ほほー

191 :日本@名無史さん:2010/02/27(土) 04:05:08
百人一首にある、崇徳天皇の御製

瀬を速み
岩にせかるる滝川の
割れても末に
会わむとぞ思う

皇室と別れても、いずれまた会おうという執念が込められているように思われる。

192 :日本@名無史さん:2010/03/22(月) 13:58:49
そういう歌なの?

193 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 15:45:17


【政治】 高校無償化の対象校告示、朝鮮学校は含まれず…文部科学省


1 :☆ばぐた☆ ◆JSGFLSFOXQ @☆ばぐ太☆φ ★:2010/04/30(金) 13:02:01 ID:???0


★高校無償化の対象校告示 朝鮮学校は含まれず

・文部科学省は30日、高校無償化法で、就学支援金(年額約12万〜24万円)の
 支給対象となる外国人学校など31校を官報に告示した。内訳は外交ルートなどで
 高校相当と確認できた外国人学校14校と、国際機関の認定を受けたインターナショナル
 スクールなど17校。

 このほか2校は文科省が確認作業中。朝鮮学校は今回の告示に含まれておらず、
 文科相は検討の場を設けて、5月中に第1回会合を開催、夏までに支給要件を
 定めることにしている。

 告示された学校の高校課程の生徒は、各校を通じて都道府県に申請書を提出。
 認定を受ければ、各校が4月分からの支援金を代理受領できる。

 http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20100430031.html





194 :日本@名無史さん:2010/04/30(金) 22:31:06
流れが速いので、岩に遮られて二手に分かれている川の流れがまた一つに合流するように、今別れ別れになっているあなたともまたいつか逢いたいと思っています

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