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浅野氏について語る

1 :日本@名無史さん:2008/07/17(木) 22:35:51
豊臣秀吉の正室ねねの実家であり、赤穂事件で有名な浅野氏について語りましょう。

2 :日本@名無史さん:2008/07/18(金) 01:59:14
桜田門外の変の際は、幕府は水戸浪士たちを細川と浅野に預けたが、この意味は日本人にだけ分かった。ヒュースケンには分からなかった。イギリス公使パークスはのちに薩摩の大久保からワケを聞いたが今一つわからなかった。
フランス公使ロッシュはのちに板倉からワケを聞いたが、やはり分からなかったが、親日家をアピールするため、わかったふりをした。

いずれにしても芸州は、薩長と倒幕の密約を交わし、小御所会議では浅野安芸守長勲ならびに辻将曹が、出演した。

3 :日本@名無史さん:2008/07/18(金) 23:39:14
>1
ねねの実家は杉原家。
こちらはねねの縁にあやかって豊臣を名乗ることを許され、
秀吉没後は木下を名乗っていた。
浅野家はねねが養女に行った家。
ねねの姉が嫁いでいる。

4 :日本@名無史さん:2008/07/18(金) 23:48:08
徳川家康−振姫(浅野長晟室)−浅野光晟
徳川秀忠−珠姫(前田利常室)−満姫(浅野光晟室)−浅野綱晟
徳川秀忠−珠姫(前田利常室)−前田光高−綱紀−節姫(浅野吉長室)−浅野宗恒
徳川義直−光友−貴姫(浅野綱長室)−浅野吉長
徳川頼房−大姫(前田光高室)−前田綱紀−節姫(浅野吉長室)−浅野宗恒

浅野家は徳川の血が濃く混じっている

5 :日本@名無史さん:2008/07/18(金) 23:52:30
家康が豊臣家を滅ぼすために
未亡人高台院(ねね)を厚遇することで
豊臣恩顧の大名を配下におさめようとした
それがねねと親密な浅野家厚遇につながった
ねねの生前、執拗なまでに浅野家との姻戚関係を結んだ
一度縁ができるとそれが先例となり
何度も同じ大名家と婚姻関係を結ぶ例は多い

6 :日本@名無史さん:2008/07/19(土) 00:11:44
熊本では細川より加藤の方が人気あるように、広島でも福島の方が人気なの?

7 :日本@名無史さん:2008/07/19(土) 00:18:00
広島では毛利が人気
安芸は毛利元就の生誕地

8 :日本@名無史さん:2008/07/19(土) 00:21:29
福島左衛門大夫正則公も人気高いぞ!


9 :日本@名無史さん:2008/07/19(土) 00:32:17
広島では頼山陽の人気が絶大

10 :日本@名無史さん:2008/07/19(土) 00:42:04
三次や三原の浅野氏も忘れないでね(^ε^)-☆Chu!!

11 :日本@名無史さん:2008/07/19(土) 00:53:09
清洲織田家の足軽組頭
決して士分ではないだろう。
そして中世末期に浅野家と婚姻を結べた木下家(藤吉郎の生家)は
通俗言われるような百姓身分ではない。

12 :日本@名無史さん:2008/07/19(土) 00:55:35
徳川幕藩体制により否定された階層が中世には存在したということだ。

13 :日本@名無史さん:2008/07/19(土) 01:12:14
後藤又兵衛とか真田信繁を討ち取ったのは紀州の浅野家中だったかな

14 :日本@名無史さん:2008/07/19(土) 02:52:36
真田は越前家中の西尾くん。

15 :日本@名無史さん:2008/07/19(土) 13:09:43
後藤又兵衛は、片倉小十郎重長の隊に腰を撃たれて、
動けなくなったので部下に介錯させて自刃。



浅野どこいったw

16 :日本@名無史さん:2008/07/21(月) 19:43:27
伊達政宗は浅野家と絶交した。
その関係はつい最近まで続いていた。

17 :日本@名無史さん:2008/07/21(月) 20:10:53
浅野長勲は分部光謙、林忠崇に次いで三番目に最後の大名。

18 :日本@名無史さん:2008/07/21(月) 21:53:45
浅野侯はなぜ仙台侯と仲がわるかったのだ?

19 :日本@名無史さん:2008/07/21(月) 23:17:44
そう言えば、愛知県一宮市(尾張地区)には
浅野長吉(長政)公に縁のある「浅野公園」が所在していますよ。
徳川時代に広島藩を治めていた芸州・浅野家は長政公の次男の系統です。
また忠臣蔵の赤穂藩を治めていた播州・浅野家は長政公の三男の系統だそうです。そう言えば
浅野長吉(長政)公の系統は土岐源氏の流れを汲むと聞いたことがございます。
明治維新後、広島藩の浅野家は侯爵に列せられましたそうですが、
浅野長吉(長政)公の屋敷があったとされる(新名岐国道R22沿い)
現在の愛知県一宮市浅野周辺までお越しになることがあったそうです。

20 :日本@名無史さん:2008/07/25(金) 20:50:17
政宗が絶交したのは1596年。
伊達家家臣の殺害事件が契機になっているが、
積年の恨みが重なっている。
たとえば、
秀吉との交渉を頼んでいたのに、小田原の戦い以降所領没を収されたこと。
高麗で長政の息子と申し合わせて敵の城を攻めたところ、
石垣を崩すばかりのところで、
長政が怒って退却を命じてしまい恥をかいたこと。
高麗で補給物資は長政が配ったが、伊達藩には配給されなかったこと。
奥州仕置での長政の態度が蒲生氏郷よりで、政宗に対しては同情的でなかった。
等、10前後の理由を挙げている。
この絶交状態はなんと平成6年まで続いた。


21 :日本@名無史さん:2008/07/27(日) 14:42:50
400年近くも絶交状態か。松平忠輝も1984年まで赦免されなかったな。

22 :日本@名無史さん:2008/07/27(日) 18:44:11
浅野内匠頭が田村藩邸で切腹するが、
切腹の場所が座敷ではなく庭先だったのは、
この絶交のためというのは単なる噂にすぎない。
田村藩は急いで座敷内に場所を作るのだが、
幕府から派遣された役人の命令で庭先に決められてしまう。
このため田村藩は忠臣蔵では吉良、上杉に次ぐ悪役となってしまう。


23 :日本@名無史さん:2008/07/31(木) 01:40:57
豊臣時代の派閥が違ったからかなあ。
浅野はどっちかっつーと「浮田、前田、蒲生」のライン。
、、、あれ、でも、前田って政宗にカネ貸してたような、、、

24 :日本@名無史さん:2008/08/06(水) 23:49:21
浅井長政と浅野長政が紛らわしい。

25 :日本@名無史さん:2008/08/08(金) 22:38:29
浅野安子と浅野庸子について語れ

26 :日本@名無史さん:2008/08/08(金) 23:16:05
>23
浅井長政=秀吉の側室淀殿の実父
 VS
浅野長政=秀吉の正室ねねのいとこ、一説にねねの姉妹の婿

名前は似てるけど立場は全く逆

27 :日本@名無史さん:2008/08/09(土) 00:21:58
>>2
水戸浪士たちを細川と浅野に預けた意味を誰か教えて!

28 :日本@名無史さん:2008/09/01(月) 21:24:05
浅野氏と豊臣の繋がりって
北政所の実妹で北政所と共に杉原家から浅野家へ養女に行った
「やや」?が長政を婿にとって浅野の家督を継いでいた、ってところだよね?

29 :日本@名無史さん:2008/09/01(月) 22:25:08
織田家家臣浅野長勝には後継ぎがなかった
そこで実姉の子である安井長吉(実父は安井重継)を養子にとって
家督を継がせることにした
長吉は浅野家を継ぎ、のちに長政と改名する
一方、浅野長勝の妻の兄杉原定利の娘も引き取って養女にした
これがねね
浅野長政とねねは共に浅野長勝を養父とする義姉弟
なお、浅野長政夫人に関しては浅野長勝女であることは一致しているが
養女か実娘かということに関しては諸説ある
ねねを養女にしていた家、浅野長政はねねの義弟ということで重んじられた



30 :日本@名無史さん:2008/09/02(火) 01:08:12
安井や杉原より優遇されてるよね

31 :日本@名無史さん:2008/09/02(火) 08:24:50
浅野長政は小作人だよねもとは?

32 :日本@名無史さん:2008/09/15(月) 05:07:29
上田宗箇って、そんなに優遇するほどの人物?

33 :非公開@個人情報保護のため :2008/09/15(月) 08:48:16
>>20
基地外による事実無根の逆恨み被害で長政カワイソス。

34 :日本@名無史さん:2008/10/10(金) 12:03:12
【密かな】浅 野 家【勝ち組】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1201266891/

35 :日本@名無史さん:2008/10/13(月) 17:37:00
>>7
伊達政宗は生誕地の米沢
では人気がない

浅野長政だけが政宗を嫌っていただけではない

前田も二股と罵ったらしいし

36 :日本@名無史さん:2008/10/23(木) 00:27:57
地味大名ナンバーワン

37 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 09:56:19
確かに地味だわな。有名なのはせいぜい幸長くらいか?

38 :日本@名無史さん:2009/01/13(火) 21:53:03
幸長も地味だわな。まだ親父の方が有名。

39 :日本@名無史さん:2009/01/25(日) 16:51:50
浅野内匠頭処刑を記念して
作った「切腹最中」

縁起悪いとの評判もなんのその
堂々の銘菓日本一に

作ったのは伊達一門
ゆかりの和菓子屋
(日本一工業新聞)

40 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 23:59:13
浅野家って正室腹の藩主が多いな

41 :広島県人:2009/01/29(木) 20:28:40
なんか、もっとえー事書いてくれーよ。
浅野の殿さんが残した功績とか、なんかの功労者じゃったとか、
家柄や家格がええとか、なんか自慢できるよーな事はないんか?
まあ、わしの家は先祖代々ただの百姓じゃけどの。

42 :日本@名無史さん:2009/02/07(土) 17:52:44
広島浅野の功績は
大石家を取り潰したことやな

大石良恭は昼行灯ゆずりの女狂い
女房三度とも逃げられ
梅毒で鼻欠けになった

その養子も輪をかけた遊び人で
知行を三分の一に削られたが
まったく悪所通いに懲りず
とうとう次の代で絶家となった

43 :日本@名無史さん:2009/02/08(日) 07:13:54
大石外三郎はヘタレ
仇敵の子孫である鷹山に
ペコペコはいつくばって
取り立ててもらった天ぷら野郎

義士たちは草葉の陰で泣いておるぞ

44 :日本@名無史さん:2009/03/17(火) 00:55:53
浅野ゆう子燃え

45 :日本@名無史さん:2009/03/27(金) 00:13:04
浅野藩は百姓一揆の宝庫だった

46 :日本@名無史さん:2009/03/28(土) 00:00:53
同じような立場の池田とは仲良かったのかな?

47 :日本@名無史さん:2009/03/28(土) 00:26:43
幸長が長生きしたら浅野家は警戒されてただろうな

48 :日本@名無史さん:2009/03/28(土) 07:52:30
>>43
鷹山時代の名臣の大石はもともと上杉家に仕えてた大石だろ。
蔵之助の子孫が上杉に仕えたなんて聞かないぞ。
ただ、鷹山の二代あとの当主は浅野から正室を迎えてるし、
上杉から養子にいった人の子孫は蔵之助の大叔父の子孫を嫁にしてる。
現実に上野介と蔵之助の大叔父の血を引く末裔はいる。

49 :日本@名無史さん:2009/04/03(金) 20:53:29
童門冬○先生の鷹山本を
鵜呑みにしちゃ駄目だな
「鷹山は先祖を殺した大石を家老に抜擢した」

50 :日本@名無史さん:2009/05/26(火) 23:45:17
蛮囚阿呆の大石ぼんくらド助平

51 :日本@名無史さん:2009/05/27(水) 07:03:58
大石頼母

52 :日本@名無史さん:2009/06/13(土) 19:50:07
広島に原爆落ちたとき
浅野家は被爆しなかったんかいや

53 :日本@名無史さん:2009/06/15(月) 21:53:19
ぬっと顔出すスペル星人

54 :ひこ根じゝ:2009/06/18(木) 15:41:24
図書館で何気なく子供向けの太閤記を読んだら、浅野家にいた姉妹の名はおねねとおややって
書いてあったんだけど、北政所や長生院の諱の出典は太閤記なんだろうか?

55 :日本@名無史さん:2009/06/18(木) 19:53:19
>>47
幸長が親豊臣で二条城の会見で日でよりを守ったというのは事実ではない。
二条城の会見自体、家康が推し進めていたもので、
豊臣領隣に領地を持つ浅野幸長が家康の命で説得に当たっただけ。
浅野幸長自身は骨の髄まで徳川派だよ。

56 :日本@名無史さん:2009/06/18(木) 20:18:22
そこで秀頼が大男の偉丈夫だったので
びびったんだろ

57 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 12:23:28
畠山義真からもらった
「上杉家之差配免許」の相伝
が浅野本家に残っているが
内匠頭も浅野長治から
極意の虎の巻を見せてもらえばよかったのに

畳変えや精進料理で
上野介に突っ込まれずに済んだ

「あれえ、吉良様の義従兄さまの作法では
これが正式なんですがね」
と皮肉れた

58 :日本@名無史さん:2009/07/04(土) 23:51:44
池田輝政4500、浅野幸長6500、山内一豊2000、有馬豊氏900は、南宮山監視
のために関ヶ原の東へまわされ、本戦には参加しなかった

59 :日本@名無史さん:2009/07/09(木) 17:37:58
現代の浅野匠守
麻生スーツ太郎
http://ca.c.yimg.jp/news/20090709091647/img.news.yahoo.co.jp/images/20090709/jijp/20090709-00000000-jijp-int-view-000.jpg

60 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 14:10:57
浅野の家臣団の子孫は原爆で全滅したんだろうな。

61 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 15:26:01
なんか福島とかが裏切り扱いされてるけど浅野が一番の裏切り者だろうに

62 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 18:39:53
無理だと思うけど
豊臣家に殉じて欲しかった

63 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 18:57:47
>>60
大内義長の鉄槌が広島に下ったわけだ

64 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 19:07:55
畠山義寧も浅野本家や三次浅野に
自分の父親が行儀作法免許皆伝の御墨付きを与えてる以上
赤穂浅野が全くの作法知らずとは
夢にも思わなかったのだろう

刃傷を目の当たりにした
松の廊下でもただ茫然自失だったらしい

65 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 20:55:40
畠山はのちに
前田が織田を殺した場面にも遭遇している

66 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 21:00:05
前田は浅野内匠頭がなぜ失敗したかを
家臣と十分検討し周到な計画をたてて
織田秀親を厠で仕留めている

67 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 21:49:20
旧城下が原爆で壊滅したってことは、
藩政時代からの古文書とか史料もあらから湮滅したんだろうね。

もちろん、旧藩士の末裔もあらかた滅亡したものと思われる。

68 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 22:36:33
広島藩士といえば加藤友三郎元帥

69 :日本@名無史さん:2009/07/11(土) 22:53:59
>>67
そう考えると、広島藩の藩政史の研究って、相当制約がありそうだな。
郡部の農村史料くらいしか残ってないんじゃ・・・

70 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 00:40:48
>>67
そうすると今の広島市民は
浅野とは縁もゆかりもない余所者か又は
在郷の田舎もんの百姓あがりなのか

71 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 00:49:54
戦地帰りの復員兵もいるから、いちがいにそうともいえんだろう。

72 :日本@名無史さん:2009/07/12(日) 23:24:02
うちの田舎(人口15万ほどの地方都市)も城下町だが、藩主を始め、旧藩士の子孫
なんてほとんど住んでない。藩士の子孫は維新で没落して散り散りバラバラ。
戊辰戦争では官軍側だったんだが、戦費は藩士持ちだから、それも没落の原因に
なったらしい。藩主の子孫は東京に住んでいるらしいが、祭りとかでも来た事はない。
江戸時代からの商家はいっぱい残ってて、今でも一大勢力だけどね。

今でも旧藩主や藩士が一大勢力で、市政に影響与えているのは仙台市だけ、と
聞いた事あるけど、どうなんだろう。戦後間もなく、旧藩主で市長を務めたのは
彦根や松山とかいるけど、今は聞かないな。

73 :日本@名無史さん:2009/07/13(月) 14:50:19
>>70
朝鮮人が多い街です。
焼け跡に殺到するのが朝鮮人。


74 :日本@名無史さん:2009/07/16(木) 17:29:38
朝鮮人が多いのは横浜

75 :日本@名無史さん:2009/07/17(金) 07:43:12
旧藩主で盛り上がる地域と戦国大名で盛り上がる地域があるけど
広島は浅野か毛利かっていったらどっちのタイプ?

76 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 15:24:23
浅野は問題外
毛利はいまいち
毛利マンセーは山口

77 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 15:41:33
独断と偏見で書くと

旧藩主→秋田、仙台、米沢、高知、彦根、和歌山、松江

戦国大名→山形、上越、小田原、甲府、大分、名古屋

両方→水戸、静岡、鹿児島(同一)

どちらも不人気またはイマイチ→福岡、広島

芦名から伊達、上杉、保科、松平に至る
歴代領主を祭り上げの会津若松は
ちやっかりと言うか
善いとこ取りというか

78 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 15:43:38
静岡の徳川は旧藩主とは言えないか

79 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 15:46:44
>>75
百姓一揆に大人気なのは浅野

80 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 15:48:52
>>74
横浜に多いのは中国人ちゃうか

81 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 20:00:20
>>75
福島ですが?

82 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 21:12:14
ああ城作った人ってのはあるか
熊本の清正とか

83 :日本@名無史さん:2009/07/19(日) 22:03:04
>>77
富山は神保も前田もイマイチ

84 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 01:59:08
福島市
板倉は苛政で不人気
米沢藩上杉の城代、本庄繁長はそこそこの人気

85 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 08:00:39
旧藩主にアイデンティティ感じる地域と戦国大名に感じる地域がある県
http://dubai.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1248010770/

86 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 13:36:31
熊本は完全に清正公人気が細川を圧倒してる
広島もそうなの?

87 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 14:08:22
赤穂浪士討入は1702年じゃなくて
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1247980783/

88 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 14:50:29
>>85
わいの書き込み使って
誰やねん
狼板にスレ建ててけつかる

89 :日本@名無史さん:2009/07/20(月) 15:08:46
>>81
福島正則は内政の人だからな

90 :日本@名無史さん:2009/07/21(火) 14:59:49
原爆の犠牲地の人?

91 :織豊徳@はてな:2009/07/24(金) 18:34:10
はじめまして\(^_^)
浅野家がらみで、ちょっとした疑問
三次・浅野藩の初代は浅野長治(1614年3月26日山城国、社家の羽倉家で生まれ)で、
『 生母は、日下秀柴(窪田五助)の次女(長女は志水清安の妻)で、
浅野家家臣である服部正之の妻、』と言うのが一応の定説なっている様に思います。
これが間違いでないとするならばは、時系列的には、長晟(長治の父)は、自分の家臣の妻との間に子を設け、
その後、服部正之を「窪田秀柴の次女」から離縁させて、1616年に家康の三女(振姫)と
再婚し、1617年2月13日、和歌山城にて次男、光晟が生まれた、という事になります。
[ 振姫は当時では高齢出産か産後の日経ち悪く1617年8月29日に逝去 ]
ところが「窪田秀柴の次女」は、側室として扱われ、長治は長晟の長男であったにも拘わらず
庶長子だったとして本家・広島藩は継げず、三次の初代となったとの事です。
側室というのは、正室・正妻が先にあって、同時進行で別の女性も侍らせると言うイメージ
があるのですが、振姫との再婚より先に、「窪田秀柴の次女」と結婚し長男・長治が生まれている
のですから、「窪田秀柴の次女」は側室ではなく、先妻と呼ぶべきではないかと思えるのですが、
如何なものでしょうか……?


92 :日本@名無史さん:2009/07/28(火) 20:04:38
原爆でなにもかもが粉々に破壊される前の、広島市がみたかったな広島城も
せっかく築き上げた歴史の数々を、ぶち壊しやがってよおー
ユルサン

93 :日本@名無史さん:2009/07/29(水) 20:32:07
ユルせん

94 :織豊徳@はてな:2009/07/30(木) 14:01:00
服部正之のお墓は、
広島でなく
山城国(京都府南部 →京都市内 )
にあると思われるので
原子爆弾によって
粉々に破壊されずに
残っていると思われますが、
後妻の立場になる振姫の父親である家康
が揉み消して、歴史の闇にほうむった
のでしょうか……


95 :日本@名無史さん:2009/07/30(木) 21:06:10
原爆の犠牲になった都市むごい

96 :織豊徳@はてな:2009/08/03(月) 00:11:42
「服部 正之」と「今中 勘右衛門(=今中 光安)」
の関係は如何なものでしょう……?
いずれも浅野長晟の家臣の様に思われますが……

97 :日本@名無史さん:2009/08/04(火) 00:45:27
あの原子爆弾の投下さえなければ・・・今の広島市はまったく米

98 :浅野氏知っている:2009/08/19(水) 15:04:55
広島の原子爆弾での浅野長政末裔や資料が壊滅したのではと心配して
いらっしゃる皆様、それは心配無用です。
歴代浅野家の本家のお墓は、愛媛県の旧広島領地に
現存しています。末裔の方々もご健在です。お家は絶えておりません。
私の住む和歌山県にも一人いらっしゃいます。和歌山城は浅野幸長が藩主を
務めた時代もあります。その浅野家の末裔の一人で和歌山にいらっしゃる
方は、お若いにもかかわらず、数奇な運命なのかご苦労をされておりますが、
まじめで、とても温厚な方です。私と主人は大変信頼を寄せております。


99 :日本@名無史さん:2009/08/19(水) 21:51:37
前田利政「(織田秀親は)便所に隠れていても見つけ出して肥だめにぶちこんでやる」

100 :日本@名無史さん:2009/08/24(月) 08:12:54
浅野長政には側室はいなかったのですか?
女性関係は正室・長生院(北政所の妹)しか知らないのですが・・・

101 :日本@名無史さん:2009/08/28(金) 02:46:36
>>98
なんで愛媛に本家墓地があったり、
和歌山に子孫が住んでたりするんだよ。
なりすましだろ、それ。

102 :織豊徳@はてな:2009/09/04(金) 15:42:31
浅野長晟の家臣である2人の人物
◇ 今中 光安(通称・今中 勘右衛門)

◇ 服部 正之(通称・無し)
とが
改名等々で同一人物か別人か……
というのは
原子爆弾で焼逸した現在では
歴史的資料に当たるのは
ちょっと、難しいですか……

103 :日本@名無史さん:2009/09/08(火) 17:57:44
>>61
ねね派だったし裏切りではないだろう

104 :日本@名無史さん:2009/09/12(土) 22:22:34
浅野氏は徳川政権に上手く鞍替えして超勝ち組になったね。
北政所の実家のくせに。
その北政所本人が豊臣家を見捨てたんだから、当然とも言えるかな。

105 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 00:12:04
なんで浅野ってこんなに徳川に優遇されたの?
藤堂や黒田以上だろ
池田並の優遇

106 :日本@名無史さん:2009/09/13(日) 04:59:16
直上に書いてるとおりキタマン人脈のキーマンだったんでしょ

107 :日本@名無史さん:2009/09/18(金) 21:45:30
北政所の養父の浅野長勝の甥が長政で、長政の正室ややは北政所の妹。
浅野家と北政所は二重の親戚関係なんだね。


108 :日本@名無史さん:2009/10/04(日) 01:00:41
>>100表にでていないだけでいますよ。


109 :日本@名無史さん:2009/10/05(月) 22:09:11
誰?

110 :日本@名無史さん:2009/10/06(火) 03:43:02
俺?

111 :繁体字 ◆PXsK1HtVZQ :2009/10/07(水) 01:29:17
あなたが浅野長政の側室ですか?

112 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 23:21:09
>>101
広島城の学芸員に聞いてきたが、直系は
広島藩の末裔は東京に健在、赤穂藩は途絶えた、との事。

藩主時代の墓は広島国泰寺にあるが、廃藩後の墓は>>98の愛媛にあるのかも?

浅野は、1619年和歌山から広島に赴任したのだから親戚筋は和歌山に居ても不思議はない。

113 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 01:05:55
広島藩主の墓所は広島市内の新庄山と神田山にあるよ
確か国泰寺の墓所は改葬されたはずでは?

廃藩後の墓は当初東京の青山霊園につくられたけど
こちらも新庄山へ改葬されたはずだよ

114 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 08:38:37
>>113

なるほど
1948年に英心山日通寺(牛田新町)裏の新山(浅野家墓地・私有地)に改葬
浅野二代藩主光晟の正室 満姫(自昌院:前田利家の孫・前田利常女)
の晩年の願いで1692〜1695年に建立(日蓮宗)

これが「新山」と云うのが新発見。ここだったのかとw
 > 広島城を築城するさい、毛利輝元は先ず新山に登り、厳島の頂上に一線を置き、次に二葉山
 > と己斐村松山(旭山神社)に登って一線を引いて、その交差する点を、天守閣と定めた。

115 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 11:03:03
と、思って調べていたら城郭決定の「新山」は、「見立山」とも云われ
ここから南東の牛田総合公園の東側にある山でした。

116 :日本@名無史さん:2009/10/12(月) 16:34:46
日通寺の裏山が神田山の方だね
新庄山の方は太田川を挟んだ西区山手町にある
残念ながらいずれも非公開
神田山も見立山も牛田山から派生する尾根だから
「新山」ってのは牛田山のことじゃないかなぁ

117 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 09:21:37
>>116
こんな感じ。
ttp://nullpo.vip2ch.com/ga30527.jpg
四神相応的には良いらしいが、町割りの傾きが15度ある理由が不明。
鬼門の関係で、丑寅−妙寿寺(現:明星院)と 申−洞春寺(現:広瀬神社)
を基準に方位を調整したのかも?

毛利が10国120万石で築城したから、浅野42万石にしては大きい城郭。
戦いとしては長州征伐の待機所くらいしか無かったのがもったいない。
大本営と軍施設の用地にはなったけど。

色々ネット検索したが、浅野関係の墓は愛媛県には無いみたい。
ウエブページでは、古い文献からなのか、まだ国泰寺にあると書いてあるのもあった。

118 :日本@名無史さん:2009/10/18(日) 09:43:35
国泰寺にあった歴代藩主の墓石やその下の遺骸や副葬品は、
放射能でバッチリ汚染されてるわけだ。

119 :日本@名無史さん:2009/11/18(水) 04:31:51
>>102 今更でしょうが、

浅野家臣団:追遠会会員名簿(明治〜昭和初年)
 DLkey:asano ttp://kissho.xii.jp/1/src/1jyou96959.tif.html

>  浅野家中には文化初年(1804?)、旧功の家臣を記録するために、太祖長政から三代長晟までの浅野家創業期に
> 家臣となった家筋を調べた『旧臣録』という史料が存在する。この『旧臣録』に記録された家筋の
> 子孫を中心に明治30年に創立された旧家臣団の組織が「追遠会」である。その会員名簿は昭和8年発行の
> 林保登編『芸藩輯要 : 附・藩士家系名鑑』に掲載されている。
> これを整理したものが、表15「追遠会会員名簿(明治〜昭和初年)」である。

ここに、『No19 祖先名/服部権右衛門正之 昭和8年当主名/服部トメ』とあります。
昭和まで続いていたようですから、別人でしょうね。

『藝藩輯要』(原著は昭和8年刊。浅野家入城顛末、藩主畧傳、藩士名鑑、藩士家系録等を記載)
(「今中」氏は出てきません)
服部権右衛門…
 弘化3(1846)勘定所吟味役『藝藩輯要』第三編101A16
 安政6(1859)用達所詰『藝藩輯要』第三編97A26
 文久2(1862)勘定奉行『藝藩輯要』第三編56A16
 元治元(1864)郡奉行『藝藩輯要』第三編54B5
 「官禄帖」郡奉行『広島県史』近世資料編U234B2
 元治元(1864)町奉行『藝藩輯要』第三編55A2
 慶応3(1867)大目付次席『藝藩輯要』第三編49A3
 「役人帖」「役人帖拾遺」大目付次席(講武所掛)『藝藩輯要』第三編111A1,『藝藩志』第20巻56(天保8父右衛門家督)
 明治元(1868)並寄合次席『藝藩輯要』第三編50A6
 「藩士家系録」『藝藩輯要』第四編12A1(正之),12B7(円次)

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