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♪邪馬台国 ドンと来い♪ 29

1 :日本@名無史さん:2008/06/03(火) 17:38:44
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スレタイ:♪邪馬台国 ドンと来い♪ 29
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       i      i      i
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。

前スレ ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 28
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1206538053/l50

2 :九州王:2008/06/03(火) 18:17:08
辰韓、弁辰の總四五萬戸は2000戸×24国=48000戸(大國四五千家 小國六七百家の平均を2000家として計算)
投馬國の五萬餘戸は辰韓、弁辰の48000戸≒50000戸
なので図は下記のように修正です
海┏┛∵∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
┏┛∵∵帯方郡∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
┗━┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┗━┓▲帯方郡庁∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┏┓┣━━━━┓∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┃┗┛∵∵∵∵┗┳━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┃∵∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵┃〜〜〜韓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海


3 :九州王:2008/06/03(火) 18:17:35
海〜┃∵馬韓55国∵┏┛∵∵∵┃〜方可四千里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┗┓10万余戸∵┃辰韓12国┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┃∵∵∵∵┏┛弁辰12国┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┃∵∵┏━┛∵4〜5万戸┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┓海
海〜┏┛∵∵┃(投馬國) ┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┗━
海〜┃∵∵∵狗邪韓國○┛〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵
海〜┃∵∵┏┻━┛〜〜〜〜┃┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵
海〜┗━━┛〜〜〜〜〜〜┏┓┛〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┏┓∵┏━
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜┃∵∵倭種∵┃┗━┛海
海〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜┏━━┓━━━━━┛〜┏━┓
海〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵∵┗━┓〜〜〜〜┏┛∵┗
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜伊都國○◎奴國(女王国)〜〜┏┛侏儒國
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┏┓∵邪馬壹國┗┓〜〜┗┓∵∵┏
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┃┗┓∵26国∵∵┃〜〜〜┗┓┏┛
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┏┛7万余戸┏┛〜〜〜〜┗┛海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓┣━━━━┳┛〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┏┛狗奴國∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┏┓∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┃┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海


4 :九州王:2008/06/03(火) 18:26:17
邪馬壹國は七万余戸ほど。
 国邑(都市国家)は對馬國〜不彌國、斯馬國〜奴國など計26國。
 戸数は、千戸〜4千戸(奴國は二万余戸)。
  魏使は、奴國以外の國は、1國平均2千戸と想定し、邪馬壹國の戸数を算出したと考えられます。
    2,000戸×25國+20,000戸(奴國)=70,000戸

伊都國と狗邪韓國だけが「到」の字が使われており、他の国は「至」の字が使われ、目的地が邪馬壹國の伊都國と投馬國の狗邪韓國だったことが明確に記されています。



5 :日本@名無史さん:2008/06/03(火) 19:19:49
前スレは珍しく真摯な書き込みでおわったな。

6 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/03(火) 20:58:53
伊都国が伊勢で有るには、
伊勢は九州で 暦を担当、 
ヤエガキ=累代記
マサカキ=天皇1代記

観天の場所 日向峠の少し南 此処より朝日を見る 真東に豊満山


7 :日本@名無史さん:2008/06/03(火) 21:02:06
糸島半島に伊勢という地名がありますよ。

8 :日本@名無史さん:2008/06/03(火) 21:37:05
>>1スレ立て乙。なんか鬱陶しげな表紙じゃねww

しかしまあ梅雨の長雨嫌いなんて言うと、農家のみなさんに叱られるわなww
米づくりには雨は欠かせんよな

卑弥呼サマや台与タンも田植えを手伝ったりしたことあったかな?

9 :日本@名無史さん:2008/06/03(火) 22:00:35
邪馬台国関東説。
伊都国が伊東、つまり伊豆半島だとすれば、邪馬台国は諏訪ということもあり得る。
伊豆半島は旧石器時代から、黒曜石の産地である神津島へ渡る基地として栄えて
いました。

10 :日本@名無史さん:2008/06/03(火) 23:00:45

トヨタン・・・・・・・・・・・・・


11 :日本@名無史さん:2008/06/04(水) 10:54:36
>>1
スレ立て乙

12 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/04(水) 13:07:04
九州王さんの説に70%がてら同意かな。
細かいとこは違うけど。

13 :日本@名無史さん:2008/06/04(水) 18:00:14
>>1
梅雨入りですね。

14 :日本@名無史さん:2008/06/04(水) 22:09:07
到と至・・この刈部が気にしているようですが、
到は到着地、至るは経由地といった使い分けは
現在でもされています。

15 :日本@名無史さん:2008/06/04(水) 22:41:51
品詞の違いもあるよ。
中国では「到」は動詞的な用法が多い、「至」は「指示」詞的な使いかたかな。
意味的には違いが無いことの方が多い。

16 :日本@名無史さん:2008/06/05(木) 00:38:43
中国語も英語も共にインドヨーロッパ言語族で
文法的には「SVO」だっけ?

そう言えば・・・
今の日本人より明治の日本人が英語力が上なんて話があって
その理由は先ず必要性に迫られたと言うのと
もう一つは漢文に慣れているので英語の文法に直ぐに慣れた
・・・なんて話もあったり無かったりw

まあ魏志倭人伝の文献解釈で位地の比定が完全にできるなら
明治時代に決着ついてるって事だなwww



17 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/05(木) 01:00:29
倭人伝の文献解釈というのも変な話で、三国志の内容自体、
現代に至るまでこれ程、詩情豊かに語り継がれているのに
倭人の条だけが意味不明なんて有り得ないと思う。
倭人伝が意味不明なのではなく、自説を確定する上でわざと意味不明にとって
混乱のもといを作り出している学者連中が居るとしか思えない。
倭人伝が曖昧な記述なら三国志も解釈が諸説あって正確には解らない筈。
しかしそうではなくほぼ解釈は確定している。それに習い則って
倭人伝も解釈すればいいのではなかろうか。

18 :日本@名無史さん:2008/06/05(木) 01:08:22
>>17
いやいやいや
例えば三国志のクライマックスの一つ「赤壁の戦い」も
その場所が何処だったかに付いては諸説あったはずw
(まあ三国志ヲタなら死ぬほど詳しいんだろうがwww)


それに恣意的解釈と言うのなら
九州説の「放射説」なんかその最たるモンだろうw
もっともアレ、榎一雄がその嚆矢ではないんだが・・・




19 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/05(木) 01:13:18
勿論、魏使にとり倭は未知の世界という事もあり、そういう意味で
魏使の見聞を含め不正確な部分もあったかもしれないが
中国周辺の諸国に対する記述を参考にすれば当時の慣習としての同一性が
見えてくるだろう。悲しいことに僕は三国志が嫌いで一編さえ読破したことが無く
人の情報に委ねるしかないが・・。

20 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/05(木) 01:34:19
>>18
中国紀行の番組で「ここがかの有名な赤壁である」と
中国人のナビゲータが観光案内していたが。

>「九州説の「放射説」なんかその最たるモンだろうw 」

その様な記述こそ膨大な三国志という資料によって解き明かされないわけが無いと思う。
それに投馬国の位置だがそれまでの陸行から急に水行二十日というのは変で
その後どこに上陸したのかさえ記述が無い。
魏王より女王への贈り物はマツラ国ないし伊都国上陸の再に点検するが
再び船積みしてどこの港に付いたかというような記述が無く不自然。
中国では当時軍事的な地形などは秘密にするという事もあり「投馬国水行二十日」は
倭人の謂いであって魏使の行程には無く、そこから別方向に水行二十日の位置にあり
さらにフミ国以降は軍事的な理由から、あえて女王の都の位置は正確さを避けて
あやふやにしているのではないか、と考える。


21 :日本@名無史さん:2008/06/05(木) 01:38:48
>>20
>中国紀行の番組で「ここがかの有名な赤壁である」と
>中国人のナビゲータが観光案内していたが。

んで崖に大きく「 赤 壁 」って書いてあったんだろう?w
そう言うのが他にもあるんだよwww



22 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/05(木) 01:48:17
>>21
三国志に赤壁とはどこを基点としてどっち方向に何里とかいう記述があるわけ?
その具体的な距離が出てるのも拘わらず諸説あるのならともかく
どこで戦ったかの詳しい記述が無い限り諸説あるのはむしろ当然。
倭人伝のように距離や方向の記述があるにも拘らず諸説ある場合に
三国志を参照すればどうかと言ってるわけ。

23 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/05(木) 01:58:14
>>21「んで崖に大きく「 赤 壁 」って書いてあったんだろう?w
そう言うのが他にもあるんだよwww 」

中国人は金儲け主義で「ココこそ赤壁アルヨ」「観光客来るアルヨ」をうたい文句に
商売繁盛のため捏造する人だっていたかもしれない。三国志の文献をもとにして考えないと
伝承にだけとらわれると義経の墓があちこちにあったりするような事と同じ事になる。



24 :前レス573 :2008/06/05(木) 02:39:59
ごぶさたです。あと>>1
なんか荒れてたようだったのでしばらく離れてました。忙しかったし。

九州さん、詩情というのならば例の「千餘里」は兵站の件を置いておいても
理解できるのではありませんかね。
千里船という表現もあることだし、海を渡るに幾千里というのは自然な表現ではないかと思います。
そしてここを変に曲げて解釈さえしなければ、伊都國→丹波というのは自然に導かれることです。

あと、遅まきながら考古学的に当時は糸島が半島と言うよりも島であったということを知りました。
私の考える一大國の理想的な場所ではないかと思います。
ここが一大率の検閲地であるというのは実に自然ですし、軍事的にも帯方郡の防御、敵対する狗奴國
の橋頭堡、大和地方方面への兵站中継、など理想的です。
わたしはここが一大國だと思います。

25 :日本@名無史さん:2008/06/05(木) 07:45:41
>>20
塚の記述があるのに都の位置をあやふやとか、頭にウジわいてるだろ?w

26 ::2008/06/05(木) 07:52:55
>>16
言語学的には中国語はシナ・チベット語族で
インド・ヨーロッパ語族ではないぞ。

27 :日本@名無史さん:2008/06/05(木) 08:01:14
>>17

倭人伝を読んで「意味不明」のところなんて、そんなに無いぞ。
ただ、書いてある通りだとたどり着けないと言う事実と
書かれていないことは訳しようがないと言う事実があるだけ。
日本人だろうが中国人だろうが、漢籍古典の研究者の訳文には大差がない。
自説に都合の善い訳文が、見当たらないと言うことは、
倭人伝の記述自体が「都合が悪い」ことに他ならない。

28 :日本@名無史さん:2008/06/05(木) 10:53:29
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
通説の江戸期伝来よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html

29 :日本@名無史さん:2008/06/05(木) 11:32:37
三足土器→稲の遺伝子→プラントオパール

コピペの貼り方からみて同一犯だな。

30 :九州王:2008/06/05(木) 17:48:15
>>27
>書いてある通りだとたどり着けないと言う事実と

書いてある通りで邪馬臺国(女王國)にだとたどり着いている、解釈の仕方に問題がある。
『伊都國・・・世有王皆統屬女王國』とあり
「伊都國には卑弥呼の治世には王都がり、女王國は倭の国々を統屬する」と明記されている。
わざと、この文の解釈を誤り邪馬臺国(女王國)を不明としているだけだ。

31 :日本@名無史さん:2008/06/05(木) 18:26:38
漢籍読めない、みたいなこと言ってる割りには強気な発言だなw

32 :日本@名無史さん:2008/06/05(木) 19:50:08
このページ参照汁


◆「邪馬台国」あれこれ
http://blog.goo.ne.jp/sakura707_2006/e/889aa51197bb8adfe960791050aecf7c

33 :日本@名無史さん:2008/06/05(木) 20:38:46
>>30
現代風にいえば、皆統屬女王國の女王國は目的語なので
「女王國は倭の国々を統屬する」は誤訳だなあ。
「倭の国々は女王國 (に) 統屬する」か「倭の国々は女王國 (を) 統屬する」のどちらか。

34 :九州王:2008/06/05(木) 20:50:37
>>33
直訳は「倭の国々は女王國に統屬していた」です。



35 :サガミハラハラ:2008/06/05(木) 21:27:54
>>32をのぞいてみたが、一番肝心の「後藤幸彦 佐賀県小城甘木説」がぬけているではないか。

36 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/05(木) 21:52:55
>>24「 そしてここを変に曲げて解釈さえしなければ、伊都國→丹波というのは自然に導かれることです」

変に曲げて解釈したから、おたくのような結論が出たんでしょう。魏使は南に航海してるんであって
東になど行ってはいない。「乍南乍東」との記述があるように東なら東とはっきり断っている箇所もある。
「一千里余りで対馬国に着く」とあり、そちらの言うように一千里とは仮の数字ではなく
朝鮮半島南部から対馬までの距離を指している。つまり距離も方向も丹波に合わないのである。
言いがかり、こじつけに過ぎない。

37 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/05(木) 22:11:14
>>27倭人伝を読んで「意味不明」のところなんて、そんなに無いぞ」

僕がわざわざ「自説を確定する上でわざと意味不明にとって 」と断ってるように
文の前後から意味不明なのは倭人伝そのものではなく
意味不明な解釈で倭人伝に本来の意味を取り違え
混乱の元を造っている説者のことを指している。

38 :日本@名無史さん:2008/06/05(木) 22:13:54
というより、接続詞や助詞のない漢文自体が意味不明の原因。


39 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/05(木) 22:22:58
中国語は文にすれば同じだが発音の強さやイントネーションで伝わる意味がごろっと違ってくるらしい。


40 :サガミハラハラ:2008/06/05(木) 22:41:10
>>32以前から思っていたことであるが、邪馬台国比定地論争のなかで、邪馬台国の都の位置をピンポイント(せいぜい何々市の名に地域)でさしたり、一番肝心でわかりやすいであろう卑弥呼の墓はどこと
指差する候補地が少ないのはおかしいとおもっている。
卑弥呼はだれだと結構熱心にろんずるのであるが。
各比定地における都や卑弥呼の墓をあげてみてはいかがでしょうか。
小城甘木説=桜ヶ岡
纏向説=箸墓
以下お願いします。


41 :ローガン:2008/06/06(金) 00:10:48
>>40
はい。纏向=箸墓 支持します。
次の方、どうぞ。

42 :ローガン:2008/06/06(金) 00:22:58
>>36
ですがさん、駄目!
貴方は以前、糸島を「伊都国」と考えているっていいましたよ。
そして上陸地として、呼子、唐津を挙げた…
もうその時点で方角云々を人に言う資格無し。


43 :日本@名無史さん:2008/06/06(金) 01:00:24
墓も一緒に提示しているとなると、全土邪馬台国だらけの九州もかなり絞られるのかな?w

(1)九州説の保守本流?w
  筑紫山門=権現塚・・・直径45mの段付き円墳

(2)高良山神籠石が邪馬台国関連と言われた時代もありましたw
  筑紫御井=祇園山古墳・・・画文帯神獣鏡出土

(3)安本美典センセイ御推薦w
  甘木朝倉=神蔵古墳・・・三角縁神獣鏡出土

(4)推理作家、高木彬光氏御推薦w
  右左折=宇佐神宮の地下・・・確認できるわけねーだろ!www

(5)古墳密集地、密集氏杉w
  西都原=女狭穂塚・・・九州最大の前方後円墳


九州で主だった物はこんなもんでせうか?
まあ俺個人は畿内説なんだけどwwwww

44 :日本@名無史さん:2008/06/06(金) 01:54:02
>>43
>全土邪馬台国だらけの九州

九州の邪馬台国はチェーン店展開していますが何か?

45 :日本@名無史さん:2008/06/06(金) 01:59:54
>>42
老眼先生がんがれ!

46 :前レス573 :2008/06/06(金) 04:12:53
>>36
>魏使は南に航海してるんであって
東になど行ってはいない。

一大から末盧へのどこに南に行ったと断っている文があるのですか?


まあ、あなたが詩情と言うからそれならば伝統的に使われている
千里を駆ける、千里を渡る、などの表現を無理して変な読み方を
するのはへそまがりじゃないですか?と指摘しただけですよ。

47 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/06(金) 05:24:51
>>42
僕が会話してる人は対馬の次に京都の丹後に着いたといってるわけよ。
呼子から糸島までの方向を間違える事はたとえあったとしても
いくらなんでも対馬から京都の丹波地方に行くのとはわけが違うでしょう。
当時は獣道にちょっと毛の生えたような整備されていない道があっただけで
くねくね曲がっていただろうから調べる地点によって東西南北が多少違ってくるのは
やむをえない。方位磁石で計ったのだろうがこの頃は既にクニは範囲が広いから
伊都国といっても糸島半島やまして前原市の一地点だけを指してるのではない。
おたくに当時の伊都国のクニの範囲が正確に解りますか?解るわけが無い。
それで倭人伝に記された方向が違うと言い切れるわけがない。
アジアはヨーロッパの東にある。正解。然し測る地点によってはそうではない。
東、とか東南とかいう倭人伝の記述が何処と何処を結んで言ってるのかさえ
解らないのに判断のしようが無いと考えた事ない?
文献によっては一大国、又は一支国、と書いてあったりするから壱岐であることに間違いは無い。
さらに伊都国は九州にある。対馬から京都の丹後に着き、又九州の伊都国に来たとしたら
そんな馬鹿な航海をする者は居ない。


48 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/06(金) 05:26:22
>>46一大から末盧へのどこに南に行ったと断っている文があるのですか?

断ってなくとも自明の理。

49 :前レス573 :2008/06/06(金) 05:31:08
>>47
>僕が会話してる人は対馬の次に京都の丹後に着いたといってるわけよ。

言ってませんよ。前レス読んでる人は誰でも理解してるはずです。
あなたの不明を皆に宣伝してどうするのですか。


>断ってなくとも自明の理。
なんでこういう話にならないことを繰り返すんですかね。
自明であるというのは、あなたがへそまがりであると言ってるのと同じですよ。
くだらない、無意味な文は返レスしないでいいです。

50 :前レス573 :2008/06/06(金) 05:59:36
>>47
追記:

前スレでも当時の中国の地図作成について紹介してくれた人がいたでしょう。
陸上であれば、地図作成の要諦は出来上がっていたわけですよ。
歩測、三角測量、それからあなたが繰り返し書いている方位磁石で
かなり正確な地図が作れたはずです。
具体的には1里ごとに測量していけばいいわけですから。
山間ならいくつかに分けてやればいいだけです。のろしなどをつかって大雑把を取る方法もある。
500里程度なら方位を間違えることなどないでしょう。

わたしは九州さんの説をやみくもに否定しているつもりはないですよ。
認めるところは認めた方が説得力が増すと思うだけです。
それから前レスで書いた通り、東南、南、などは国の岸、境、を書いているということも考えられます。
つまり海行であれば港、陸行であれば街道、です。
これはヒントですよ。あなたの比定地の周囲の地形を考えてみたらどうですか。

51 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/06(金) 06:02:25
>>49「伊都國→丹波というのは自然に導かれることです」

ああ、京都の丹後かと思ったら丹波ね、丹波って何処だっけ。
似たり寄ったりの愚答でしょうけど。
一大から末盧に行くには南方に航海したに決まってるだろうに。

52 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/06(金) 06:14:00
>>50
要するに海上であれば方向や距離をどうやって出すのか、
不可能だと言いたいんだろうが、当時の航海士だってど素人じゃないんだから。
例えば古代インドでも軍隊が一日に進む距離を単位にしていたりするが
一昼夜船が進む距離が何里進むかくらい把握していた筈だ。
古代中国での方角と距離は北極星を観測して角度で出していたと言われている。
古代とはいえ、あんたが考えるほど原始的じゃないの。

53 :前レス573 :2008/06/06(金) 06:23:23
>>51
京都あたりであってますよ。
現在の亀岡から京都あたりです。
松江(末盧)の東南およそ220kmつまり500里ですね。

>>52
>一昼夜船が進む距離が何里進むかくらい把握していた筈だ。

もちろんです。帯方が軍都であるという性格を考えても
保有艦船の一部は軍艦すなわち大型櫂船だと思います。
一日の走行距離どころか、状況による戦闘速度もルール化されていたはずですよ。
具体的には、櫂のテンポ、使用する櫂の数で決められていたはずです。
そしてそれを漕ぐ奴隷やひょっとしたら牛馬の保守管理もしていたはずです。
だから兵站といっているんですよ。

進軍にはそれを準備する物資が必要なんです。兵站のネットワークがね。
だからその単位を千餘里と表現してるのではと書いているわけです。

54 :前レス573 :2008/06/06(金) 06:33:09
>>52
>古代中国での方角と距離は北極星を観測して角度で出していたと言われている。

これは繰り返し説明したように、方角と緯度しかわからないんですよ。

それに海上では天候潮流、岩礁などによって航路は変わるから
地図で定規を引くような方位距離を表すのはナンセンスだと説明したはずです。

上で書いたように、必要な情報はどの程度の物資が必要なのかということです。

55 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/06(金) 06:44:43
>>54
だから誰かもアホじゃないのと言ってたように
目で見える島に着くのに緯度も経度もあるかっつーの!
古代から粗末な船でも行き来してるのに。クヤ韓国、対馬、壱岐はお互いに
見えてるから間違いようが無いわけ。わかる?
海図みたいなのを頼りに航海したわけではなくてあくまで方角を出す事は
補助的な役割しかしてなかったわけよ。

56 :前レス573 :2008/06/06(金) 07:00:59
>>55
距離なんて言い出すから指摘したまでですよ。
ちょっと自分で考えればわかることでしょう。

目で見えるなんて書くのはどうかしてますね。
魏志倭人伝のどこにそんなことが書いてあるんですか?

それに表現にしてもおかしいでしょう。
千里分の物資を用意して大海を渡るですよね。
そこに見えている島を相手にするのにその表現はおかしいでしょう。
これも自分でちょっと考えてみればわかります。
変な煽りを入れてるであろう誰かのレスを鵜呑みにしてもしょうがないですよ。

57 :前レス573 :2008/06/06(金) 07:02:00
そろそろ仕事なんでこれくらいで

58 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/06(金) 07:53:32
「書における千里」


・三百歩を千回繰り返す。
・太鼓が十万回鳴る

59 :日本@名無史さん:2008/06/06(金) 07:59:55
丹波が何処だかもわからない奴がいるなw
そして、無教養なくせに強弁家。

60 :日本@名無史さん:2008/06/06(金) 11:24:02
京都とか亀岡、松江なんて魏志倭人伝に何の関係もない。話にならんWW

61 :日本@名無史さん:2008/06/06(金) 11:56:33
丹波って今で言う丹波+丹後のことじゃないの?

62 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/06(金) 18:30:02
丹波だろうと丹後だろうと見当はずれに差は無い。

>>56「目で見えるなんて書くのはどうかしてますね」

帯方郡からクヤ韓国まで7千里、ここから対馬国まで1千里、対馬国から壱岐国まで1千里、
マツラ国までが1千里、とほぼ同間隔。ここから{500里で佐賀の伊都国に至る}
そしてそれらはお互いに陸地が見える距離にある。
マツラ国まで既に9千里を遣い、帯方郡からの全行程1万2千里まで僅かに3千里を残すのみ。
壱岐国は「四方三百里」とあり、小島。これらの何処に「丹波」とやらの入る余地があろうか。
この部分に異議を唱える人って何処の誰?ソースでもあれば。根拠を知りたい。

63 :日本@名無史さん:2008/06/06(金) 18:41:23
確かに丹波と言う地名を知らなくても生きてはいける。
ただ、それが五十近いオヤジだとかなり恥ずかしいだけ。
まあ、人生ひとそれぞれと言うことだ。

64 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/06(金) 18:56:04
>>63
そんな枝葉はどうだっていいだろう。
京都あたりの人間も又、九州の地名をどれだけ知っているかも疑問だ。
年齢が若くなればいっそう酷くなるだろうが年を取っているからといって
知っているとは限らない。宮崎県の位置だって良く知らなかっただろう。
それに>>62の内容について答えろちゅうのに。

65 :日本@名無史さん:2008/06/06(金) 19:08:29
>京都あたりの人間も又、九州の地名をどれだけ知っているかも疑問だ。

丹波は令制国名だよ。

>宮崎県の位置だって良く知らなかっただろう。

誰のこと?
そんなもん小学生だって知ってるだろが。

>>62の内容について答えろちゅうのに。

そんなん知るか!

66 :日本@名無史さん:2008/06/06(金) 23:39:26
>>62
倭人伝の距離がいい加減なのは、狗邪韓国から対馬、対馬から壱岐、壱岐から
末盧国までの距離が全部、千里余となっていることからもわかるはず。
これらの距離は明らかに違うはずだから。

他の距離を見ても、五百里、百里などあまりにも切りが良過ぎる。
こんなにいい加減なのに、帯方郡から女王国までの距離、万二千里余に信頼が
置けるとも思えない。

その信頼の置けない万二千里から逆算すると言う方法を取るのは間違っていると
思うな。

また、漢書・地理誌によると、長安から烏戈山離国(アレキサンドリア)
までの距離も万二千里余となっている。
エジプトまでの距離と、日本の女王国までの距離が同じとは到底思えないので
これも、万二千里余が相当にいい加減な数字という根拠になると思う。

67 :ローガン:2008/06/07(土) 00:24:02
>>66
概ね同意です。
三國志において、極端に大きく記述されているのは、韓伝と倭人伝ですね。
全般を通じてなら話は別なのですが、ごく一部の倭人伝をとらえ、現在我々が知り得る地図上の距離と比較する事により、
得られた独自の距離に対する基準に何程の蓋然性を見い出せますか?
三國志全般が一致する尺度なら当然、謝罪の上撤回したいと思いますが…
邪馬台国が何処にあったか?なんて事を議論する場なら、
まず「短里」なんて言う循環論法から生まれたであろうものを排除してからって思うのですが。
如何ですか?



68 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/07(土) 00:34:31
>>67

魏書の尺度はみな魏晋朝の度量衡が根本です。
倭人伝も当然例外ではありません。

69 :ローガン:2008/06/07(土) 00:44:26
>>68
河童虫さんからお墨付きを賜りました。

70 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/07(土) 00:44:36
・魏志倭人伝
・魏志韓伝
・魏志東夷伝

確かに倭人伝だけ抜き出して邪馬壹國だのなんだの言うのはおかしいね
弥烏邪馬國とか邪馬國とか、狗奴国や楽奴国の記述は東夷伝や韓伝の中にも書いてあるんだしね
東夷伝には倭が韓半島のどの辺りまでを倭国の領土として統治してたのかって事とかも書いてあるしさ


71 :日本@名無史さん:2008/06/07(土) 00:51:25
>>66
それわ、アレだ、中華思想の成せる技で、蛮夷朝貢国は帝都から一万里以上離れているのがタテマエっちゅうw

大体 『当に会稽の東治の東にあるべし』 なんて書いてある時点でバカ地図決定ww

もっとも魏がそう言う地理をマジモンで信じていたから
 
  呉に対する牽制になる=軍事戦略的価値がある

と言う事であのような厚遇にいたったと言う事鴨氏煉瓦wwwww




72 :サガミハラハラ:2008/06/07(土) 00:52:06
倭人伝の尺度は周里で1里67.5mですよ。
それでピタリだということは既に証明してみせたでしょ。  

73 :日本@名無史さん:2008/06/07(土) 00:55:45
>>66
>アレキサンドリア

ちなみに・・・ 

 邪馬台国=エジプト説
 by木村鷹太郎(哲学者) 

なる物もあるらしいwww
 



74 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/07(土) 00:59:21
>>68
魏志倭人伝って晋王朝の民族が書いたんです?
ちなみに漢朝廷が漢民族として、晋王朝って何民族なのか解りますか?
中国大陸は多民族の土地だから、例えば北京人と満州人では言葉も民族も文化も違うんすよ

75 :ローガン:2008/06/07(土) 01:06:24
サガミ先生、その周里なるものが魏代に中国で用いられていた尺度だと言うのですね?
証明したと云われましたね? 申し訳ありませんが再度、「猿でも解る」証明をお聞かせいただけませんか?
凄く興味が有ります。よろしく。

76 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/07(土) 01:37:14
漢字と儒教を確立した漢民族ってのは、長江の支流の漢江にいた民族らしいすね
漢は韓と同じ意味で「乾いた川」って意味らしいよ
あとは漢と唐には「井戸などの周りの囲い」って意味もあるらしいよ
今の朝鮮半島は昔は「韓半島、乾国」って呼ばれてて漢王朝の漢城があった場所すよ
地理的にも漢字の意味的にも唐も漢民族の国なんじゃ無いかな?
けど例えば「秦」はこれローマ帝国の事すよ
あと元はモンゴル民族だし、明や清は北京語を話す支那人の王朝
日本も大和王朝、琉球王朝、アイヌ王朝って言うそれぞれ民族も言葉も違う朝廷があったけど
大陸では更に沢山の民族がいて、それぞれが違う語源、違う文化だよ
ちなみに今の中国は北京語を共用語としてるけど、北京語を常用語としてるのは支那人だけだよ
例えば上海人は上海語が常用語
で、学校で共用語の北京語を習うって形
「昔の中国では」って言い方は本来はおかしいよ
大陸のどの民族の事かをはっきりさせないとさ

過去に中国大陸を統治してたローマ帝国やペルシャ帝国やモンゴル帝国まで「中国人」って言ってるようなもんだよ

77 :サガミハラハラ:2008/06/07(土) 02:05:46
周尺が使用されていたのは朝鮮半島です。
倭人伝の行路記事は、魏使が記述したのではなく、箕子朝鮮の時代に朝鮮のひとたちによって計測され、
それを陳寿が引用したものなのです。

78 :サガミハラハラ:2008/06/07(土) 02:08:11
この板の邪馬台国はどこだ小城甘木説をごらんください。

79 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/07(土) 03:42:43
>>77
三國志の時代に韓半島にいた民族は魏志東夷伝に確か書いてあったけど

扶余民族と鮮卑民族
漢江から来て漢城を都とした漢民族
秦(ローマ)に統治されたメソポタミア地方から移民して来た秦民族
倭国から来て韓半島南部を統治し倭国の領地としてた倭人
だよ
朝鮮民族はこの時代に半島には居ないよ


80 :美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/07(土) 09:42:52
魏志倭人伝以外にも、魏志韓伝や魏志東夷伝や日本の記紀とかも参考にした方が良いよ
韓半島南部にあった百済や任那は倭人が治めてた国で倭の領地だったって解るよ


大陸や半島にいた民族が後に大和を統治したんじゃなく、大和朝廷が氏族を送り韓半島南部を統治してたんだよ


81 :九州王:2008/06/07(土) 11:17:38
『三国志魏書』倭人伝や馬韓伝などには短里が使われている。
短里は1里70m〜80m。
周代などの古い時代にに使われてた里が、
中国の中央から遠く離れた倭や韓では魏〜隋代まで使われていたと考えられる。

82 :日本@名無史さん:2008/06/07(土) 11:29:22
中国の1里は約500m。
万里の長城の全長は5,000q。
計算が合うじゃないか。

83 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/07(土) 11:59:27
>>81

それは九州王さんや、サガミさんの頭の中の物語です。

84 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/07(土) 15:01:34
>>66「万二千里余が相当にいい加減な数字という根拠になると思う」

魏使は何度となく帯方郡と倭を往復している事からも距離の把握はあったはずだ。
当時の倭はどう見ても蛮族と見られていたので全行程を蛮族住域1万2千里とした上で
「クヤ韓国まで7千里、対馬国まで1千里〜」と距離を消費していく。
上陸してからも500里〜などと具体的な記述になっている。
例えアレクサンドリアを1万2千里としても差し支えない。
帳尻を合わせて女王国までの位置を合わせようとしているだけであり
それが当時の中国の習慣であったのだろう。

85 :日本@名無史さん:2008/06/07(土) 15:04:08
まあ距離単位は時代によって違ってくるだろうが
日数は変わらないからなあ・・・w

水行20日かけて投馬国
さらに水行10日プラス陸行1月かけて邪馬台国

九州の何処ですか?
本当に九州の中に納まるのかよ?
・・・って話で

そこが九州説論者の腕の見せ所でかつ延々100年もループしている話ww






86 :日本@名無史さん:2008/06/07(土) 15:26:24
>>84 九州ですが ◆UEukKMcVo2

要するにだ・・・

記載された距離の「絶対値」ではなくて「相対値」つうか
比率で計算せよって事を言いたいんだろう?

帯方郡から邪馬台国まで12000里
不弥国までで10700里消費、残り1300里

で例えば
対馬〜一支国 間 1000里の1.3倍
伊都国〜奴国 間 100里の13倍
基準を何処に設けるかで色々違って来る話・・・

てかこんなモンに辻褄合わせする事に意味あるのかとw

ネタにマジレス状態っすか?wwww

87 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/07(土) 15:31:32
>>85
それは軽く収まる。大陸から半島、対馬等を経由し北九州まで上陸の個所は、
毎回行ったり来たりしてる道筋だから容易に地理が取れてるわけで、あたかも
糸をいささか引き伸ばした感じでの一本線路で行けるが、そこから中九州以南は
大陸の連中も地理をよく知悉してない準秘境的地域であったから、糸の伸ばし
での一本線的には安穏と行けない道の分からずして右往左往せねばならんし、
あっち行きこっち行きさらにはバックもしたであろうから、そういう薮蛇の危険
を冒しての古代のインディ・ジョーンズを余儀なくされる準密林地帯への冒険
であった。だから女王国へ行くことは相当強い意志と覚悟が必要なわけであった
もので探して手間とる時間を考えれば陸行一月は相当の数字であり、おかしくは
ない。そこで滞在しようとすれば2ヶ月3ヶ月もいてもいいわけである。

88 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/07(土) 15:42:58
>>85
「倭人は距離を日数で表す」と記されているように「水行20日投馬国 」は
里で書かれていない事からも倭人の自己申告で、それまで500里ずつ進んでいて
急に水行20日は変。なのでそこから船に乗って20日行った所にあるクニ、と言う意味で
「水行十日、陸行一月」は帯方郡から女王国までの全行程。
もしかすれば「投馬国水行二十日」も帯方郡からかもしれない。
いずれにしろ軍事的に隠さねばならない女王国部分の記述は行程の上では詳しく書かれていない。

89 :日本@名無史さん:2008/06/07(土) 15:43:58
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html

90 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/07(土) 15:54:14
>>86「伊都国〜奴国間100里の13倍 基準を何処に設けるかで色々違って来る話 」

確かに。伊都国、奴国を何処に置くかで「100里の13倍」の数値は全く違ったものになる。
のでこの謂いは無効に近い。

91 :日本@名無史さん:2008/06/07(土) 15:55:40
>>87
魏使に邪馬台国からのガイド無しかよw・・・って突っ込みも太国には意味が無いので割愛www

まあ台湾の「謝銘仁」も同じような事を言っていたと聞くが
それは ”道草をしても良い”と言う事であって
”しなくてはいけない”と言う事でもない。

結局道草しまくって九州か、さほど道草せずに畿内、それとももっと先か・・・
結局、薬局、放送局よくわかりません(><)って話で100年ループ突入www


92 :日本@名無史さん:2008/06/07(土) 15:59:20
>>88 九州ですが ◆UEukKMcVo2
>「水行十日、陸行一月」は帯方郡から女王国までの全行程。

じゃあ対馬海流にのって日本海側の何処かにつき
そこから陸行一月でも良いわけだw

益々広がる邪馬台国の候補地www


93 :日本@名無史さん:2008/06/07(土) 16:06:13
邪馬台国は海に沈んだ幻の文明。神話の世界と見たほうがよさそうですね。


94 :ローガン:2008/06/07(土) 16:11:52
三國志に先行する漢書の注に「在帯方東南萬里」とあり、ここでいう倭人とは北部九州人でしょう。
郡から狗邪韓国迄七千里、3渡海三千里で北部九州です。
邪馬台国へは、そこから約2000里の行程という事でしょう。


95 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/07(土) 16:32:01
>>92
対馬国から壱岐国まで南に航行してる事から壱岐から長崎県の松浦(マツラ国)に着いたことは
疑う余地無し。陸行も合計して一月かかって着いた。

96 :日本@名無史さん:2008/06/07(土) 16:48:09
>>95
先ず九州ありきだなw
説得力無しの論法。

じゃあ順次、末盧國に続けて書けばええやんw

なんで不彌國で一端里による記述を止めて帯方郡に戻って全行程を記載するのか?
ワケワカラン話だなwww




97 :日本@名無史さん:2008/06/07(土) 16:53:16
>>93
実はそれもあるw

周防灘に沈んだ島がありそれを邪馬台国に比定した説。

『邪馬台国は沈んだ』 1975大羽弘道

もう九州はなんでもありっすか?wwwwww

98 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/07(土) 17:01:06
>>96
不彌國から女王国までの記述が抜け落ちているのである。
その証に女王国の詳しい様子が続けて書かれていない。「邪馬台国に至る」だけである。
今回大地震があった四川地域の地形は三国志時代に軍事上極秘中の極秘だった。
同じく女王の都の場所は多くの中国人や、それ以外の異民族の多くの目にふれる
正史につづる事を憚って詳細なし、ということになったのだろうと考える。

99 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/07(土) 17:07:33
>>91
だからインディ・ジョーンズのようなもんだよ。遣使を兼ねて、行ったことの
ない奥九州を探検して1ヶ月も彷徨して疲労困憊、右往左往して準密林をどんな
ところか探ったわけさ。国があれば遣使役でそこの人民、えらいのと面会して
始めて女王国の実態を得たわけ。それが大陸に帰って一部のみんなに話をして、
女王国が存在することが公認的になったということだ。だから1ヶ月でも3ヶ月
でも歓待されて滞在すればそれだけ年月が増えるのさ。おかしくはないね。

100 :前レス573 :2008/06/07(土) 18:46:51

昨日は仕事で死んでました。w

>>58
>・太鼓が十万回鳴る
これは素晴らしい解釈ですね。ありがとう。

>壱岐国は「四方三百里」とあり、小島。これらの何処に「丹波」とやらの入る余地があろうか。

壱岐国なんて魏志倭人伝には出てきてないですよ。ソースがどうのと言う以前に捏造はやめましょう。

>全行程1万2千里
これは「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王自郡至女王國萬二千餘里」
と、狗奴國について書かれている箇所のことですよね。

爆弾発言かもしれませんが、これは狗古智卑狗の属する郡(たぶん男子爲王の王都)のことだと考えるのが
はるかに自然だと思いますよ。

101 : ◆.L.MXSPOgc :2008/06/07(土) 20:03:11
結局、私の説が正解なのですw
http://yamat-2007.blogspot.com/

102 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/07(土) 20:18:08
>>100
壱岐嶋は古事記では伊伎、日本書紀では壱岐、国造本紀では伊吉などと表記され、
魏志倭人伝では一大国と紹介されている。これは他の文献から見て一支国の誤写と思われる。
それくらい常識の範疇なので一大を使っているだけで 一支と書いて壱岐を表す事は疑いないことだ。


103 :前レス573 :2008/06/07(土) 22:48:36
>>102
自分の御説を説明したいのかもしれないですが
思い込みを常識と強弁するのは語るに落ちたと言うものですよ。
いちおう専門板なんだからそこは認識しておいた方がいい。それが常識と言うものです。
前にも言ったように無意味な返レスはしなくていいです。

104 :日本@名無史さん:2008/06/07(土) 22:59:45
大陸から日本に行くということは、当時は宇宙旅行くらいのインパクトがあった
と考えればわかりやすい。危険度はシルクロードを経由してアレキサンドリアに
行くより高い。分身国は人食いの習慣があると聞くし、何よりも日本海を渡るの
は大きな危険があった。
だから、記録上は、1万2千里としてアレキサンドリアに匹敵するくらい遠方に
あったと強調して書いたわけです。
嘘を書いても、だれも検証することはできませんからね。

105 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 00:06:25
>>103無意味な返レスはしなくていいです。

意味があるから言い返します。思い込みとかではなく
考古学からいっても一大が壱岐という事はもはや常識。あくまで
非常識なことを言っているのはそちらだという事を忘れてはなりません。


106 :前レス573 :2008/06/08(日) 00:14:26
>>105
意味などまったくないですね。考古学などとミスリードするのは馬鹿馬鹿しいのでやめたほうがいい。
魏志倭人伝にあるのは一大國です。

では一大率も壱岐率の誤記なんですかね?非論理も甚だしいですよ。

107 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 00:31:26
>>105

考古学は「一大國」について何も語らないよ。
ただ、弥生〜古墳時代に渡って繁栄した遺跡が在ったことを証明するだけ。
一大→一支の読み替えは文献学の論証。貴方は、考古学の使い方がなっていない。

>>106

三国史の先行資料と言われる魏略では「一大」は「一支」と標記される。
後世の梁書でも「一支」、こういった異伝を勘案して「一支」を真としたのが文献学の成果。
貴方は、文献学の成果を認めないわけですね。

108 :前レス573 :2008/06/08(日) 00:37:38
>>107
魏志倭人伝に一大國と表記があることと
壱岐島があることは排他しないよ。
文献などから一大を壱岐だという人はそういう論理性がない。
というか思い込みを正当化したい人なんじゃないかと思う。

魏志倭人伝には一大率の記述があり
それの主任務は中国倭國間の検閲にある。
当然、魏志倭人伝の一大國にも監察官は派遣されていた。
文献を主張するなら、その背景をまず考えなければならないね。
文意を無視した主張は文献学などと言えないでしょう。

109 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 00:59:59
>>106では一大率も壱岐率の誤記なんですかね

ここまで言うとまともとは思えない。
前後の状況から判断する事さえ出来ないとは・・。
こっちの説に水を差すことばかり言ってないで
自分の説も言ってみたら?馬鹿らしくとも聞いてやるから。

>107考古学は「一大國」について何も語らないよ。

当たり前でしょうが。考古学者で異論を挟むものを知らない、と言ってるだけで。
考古学など所詮文献を基にしなければ何も解らない学問なのだ。
文献がこの世に無かったら、ただ土器が出る意味さえ解らない。

110 :前レス573 :2008/06/08(日) 01:09:53
>>109
すぐ上に書いてあるでしょう。
一大率の記述は魏志倭人伝の中では重要な要素なんですよ。
それを踏まえて、それでも誤記だと言募るのは倭人伝自体に信憑性がないと言ってるのと
同じだという事。
都合が悪くなれば、距離を変えてみたり誤記だといったりでは研究とはいえませんよ。

自分が検察官を派遣するならどうするか考えてみたことがありますか。

糸島(現在の糸島半島)を一大國である可能性を書いたのは
一大國が一大率の業務中心という意味だとすれば、それが行政的にも軍事的にも妥当だからです。

壱岐なんて小島にそんなものがあってもしょうがないでしょう。

111 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 01:22:30
>>108

> 魏志倭人伝に一大國と表記があることと
> 壱岐島があることは排他しないよ。

で、魏略では「一支國」と標記されていることは排斥するわけ?

> 文献などから一大を壱岐だという人はそういう論理性がない。
> というか思い込みを正当化したい人なんじゃないかと思う。

異本、異説がいくつかあって、その中の一つだけを勘考なしに
珍重するのは「論理性」が無いことだ。

> 魏志倭人伝には一大率の記述があり
> それの主任務は中国倭國間の検閲にある。
> 当然、魏志倭人伝の一大國にも監察官は派遣されていた。
> 文献を主張するなら、その背景をまず考えなければならないね。
> 文意を無視した主張は文献学などと言えないでしょう。

魏志では、一大率は「女王國以北」に置かれていたと記されている。
一大國のみとの特別な関係は記述されていない。
文献上では「一大」と言う文字列が一致すること以外に
貴方の主張の根拠は、何も見出せないのだが、
それでも「その背景」を貴方自身は「考え」ていると言いたいわけ?




112 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 01:24:29
>>110
は〜いはい、その自説を押し付ける為、倭人伝の距離関係や、方向をわざと否定して
我田引水の無理矢理押し付けたようなこじつけに走ってるわけね。

113 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 01:24:54
>>109

> >107考古学は「一大國」について何も語らないよ。
> 当たり前でしょうが。考古学者で異論を挟むものを知らない、と言ってるだけで。

>考古学からいっても一大が壱岐という事はもはや常識。という文章は

「考古学者で異論を挟むものを知らない」とは、全く意味が違いますよ。


114 :前レス573 :2008/06/08(日) 01:26:45
>>111
>で、魏略では「一支國」と標記されていることは排斥するわけ?

「排他しない」というのは2つの存在を認めるという事ですよ。

あとの記述はすべてその誤解の上で書いてるようですね。

115 :前レス573 :2008/06/08(日) 01:27:59
>>112
また無意味な煽りを。w
思考停止をこっちに押し付けないでね。

116 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 01:29:33
>>111
こじつけに言ってるだけだから言ったって無駄。
一大率が一箇所じゃないと言う事も知らないらしいし。
一大国と一大率を同一視する人間は今までに一回出会ったことがある。

117 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 01:31:38
一大国と一大率を同一視する人間は今までに一回出会ったことがある。
それも極々微量の僅かな異端中の異端児って感じだった。
ソースを見てもオカルト系だし。

118 :前レス573 :2008/06/08(日) 01:32:21
>>116
>一大率が一箇所じゃないと言う事も知らないらしいし。

誰もそんな事は書いてないでしょ。
ていうか業務中心と書けば、一箇所ではない、ってことに解するのが普通だよ。
配送センターってあるよね。それをみたらあなたは配送所が一箇所だと思うの?
ちょっと冷静に読んだ方がいいよ。カッカしないで。

119 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 01:40:42
>>118
根本的におかしいともう気付けっての。
対馬国から南に行って着くところで壱岐、
それからマツラ国、そこで上陸して伊都国の順だろう。

120 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/08(日) 01:41:56
一大國と一大率は、それぞれ一支國と一支率の写し間違い。
支と丈と大は混同しやすい。

一大國は海上交通の特に鉄交易の要。
6〜7世紀の沖ノ島の様に、一大國は特異な重要性が考えられる。

121 :前レス573 :2008/06/08(日) 01:44:50
>>119
おかしいのは、あなたでしょ。
おれはさっきから論理的に説明してるでしょう。
あなたは罵ったり、2ちゃん的な煽りを入れたりしてるだけ。

自分が論理的でないことを認めてる、格下だと認めてるから
そういうレスをつけてるんでしょ。
それは充分にわかったから、もうすこし専門板らしい返答をしてよ。
「おれはこう思ってる他の考えは認めん」なんて言うのなら
せめて人を誹謗するのは止めたら?

122 :前レス573 :2008/06/08(日) 01:47:07
>>120
>一大國は海上交通の特に鉄交易の要。

ここはそのとおりであろうと思いますよ。
付け加えるなら軍の駐屯に適してるということかな。

123 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 01:51:39
あんたがそう思うのは勝手だから一人でそう思ってたらどう?
恐らくこの世で一人だろうけど。

124 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 01:52:32
>>114

で、魏略では「一支國」と標記されていることは、貴説的には如何処理してるんですか?


125 :前レス573 :2008/06/08(日) 01:57:51
>>124
魏略に一大率の記述があるんでしょうか?

126 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 02:06:04
>>125

> 魏略に一大率の記述があるんでしょうか?

無いですよ。

で、魏略の次の文章を貴方はどのように考察して、一大松浦説にたどり着いたにですか?

そろそろ、真面目にお答え下さい。


>従帯方至倭循海岸水行歴韓國至拘邪韓國 七十里
>始度一海千余里 至対馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴 無良田南北市糴
>南度海 至一支國 置官与対同 地方三百里


127 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 02:10:56
>>125
眠くなったので落ちます。
いずれまた。

128 :前レス573 :2008/06/08(日) 02:11:52
>>126
>一大松浦説にたどり着いたにですか?

松浦?違います。
糸島(現在の糸島半島)が一大國である可能性を書いたのです。

基本的には魏略には一大率の記述がない、逸文である、などの理由で
魏志倭人伝との関連を無理に求めるのは難しいと思います。
あなたが言いたいのは、あなたが引用している部分が魏志倭人伝の記述と
酷似してるということですか?

129 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 02:23:44
>>128

糸島説でしたか、それは失礼しました。

魏略によれば対馬の次に「一支國」と言う国があるわけです。
貴方はこの事実をどう考えているのですか、と問うているのです。
つまりは、「逸文である、などの理由」で「考慮」しないと言うのが回答ですね。
私などには「都合が悪いから」に見えてしまいますが、

>文献などから一大を壱岐だという人はそういう論理性がない。
>というか思い込みを正当化したい人なんじゃないかと思う。

と言う高尚なるご発言をされた方ですから、何がしかの論理的な対論をお持ちなのかと思って訊きました。
悪しからず。


130 :前レス573 :2008/06/08(日) 02:27:00
>>129
いや基本的に難しいと書いたのです。
都合が悪いとかではないです。

あなたが現在壱岐島と呼ばれている島が、魏略にある一支國だと
断定している根拠はなんですか。
わたしは当時、現在の壱岐島がなんと呼ばれていたか知らないのです。

131 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 02:43:03
>>130あなたが現在壱岐島と呼ばれている島が、魏略にある一支國だと
断定している根拠はなんですか」

だから壱岐からマツラ国に来て始めて上陸すると書いてあるだろう。
そこから500里で伊都国にやっと着くのだ。
順序を考えればすぐに解ることだ。

132 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 03:10:21
壱岐と言えば「原の辻遺跡」だな。

内濠・中濠・外濠の三重の濠を巡らして中々な大きさを持つ環濠集落で
中濠・外濠の間には田畑があり、集落の近くには東アジア最古とも言われる船着場跡がある。
そこからは大陸の貨幣・鏡・銅剣・銅鏃が数多く出土・・・

確かに

 「方三百里ばかり。竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、亦南北に市てきす。」

の記述に一致するわなw

で、興味深いのは遺跡の総面積が100ヘクタールにも及ぶ環濠集落を擁する
この島の人口が「三千家」と記載されているところか。

「〜万戸」なんて言う単位は大型の中心集落と、その周りの集落を合わせたもんじゃあ
とてもじゃないが追いつきそうに無いw

九州説によると倭人伝の「クニグニ」とは中心集落とその周りの集落の
地図上で見れば言わば「点」なんだろうが、それはチョット無理だろうとwww

133 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 10:02:03
大体文字も無かった弥生時代は数の概念もなかったんじゃないの?
インカ帝国のように数を数えた遺物痕跡も無いんでしょ。
だったら何万なんて数、数えられるわけ無いでしょう。
戸籍も筆記用具さえ無いのに数万もの人口をどうやって記すわけ。
魏使だって倭に来て数えたわけでもなし。
魏使が倭人に人口はどれだけかと聞くと
ボディラングリッジで「たくさんたくさん」みたいに
「一万?」「もっと」「2万?」「もっと」とふえていき
とうとう7万になった。というのが真相だろう。
それか当時の万は今の百に当たるのかもしれない。
文字が無かった以上、兎に角倭人伝の数値を鵜呑みには出来ない。
倭人が文字を書いた土器破片でも見つかれば別だが。

134 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 10:35:51
>>133
>大体文字も無かった弥生時代は数の概念もなかったんじゃないの?

まさか。ww



135 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 11:08:38
弥生人を北京原人などの旧人類と同じだと思っているのには笑えた。
人間が2000年やそこらでそんなに進化すると思っているのか?
個人個人の知的レベルは縄文人も現代人もほとんど差がない。
あるとすれば、知識の集積とそれを学ぶための手段があったかどうか
の違いだ。

136 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 12:17:05
>>133 九州ですが ◆UEukKMcVo2
>インカ帝国のように数を数えた遺物痕跡も無いんでしょ。

多分「キープ」の事を言っているんだと思うが・・・
一つの縄に幾つかの縄を暖簾状に付けて
そこの結び目で数を表したと言う奴だな。

主にあれは穀物の収穫量等を中央に報告する為の手段だったらしい。

南北に広大に伸びるインカ帝国で数を正確に”伝達する手段”であって
数を数える為の手段ではないwww

まあ、投馬5万戸、邪馬台国7万戸、なんて数字を実数とするのは
畿内説九州説問わずあまりいないだろうけど、流石に大小関係は信じて良いんじゃないか?
そうすると奴国を福岡平野に比定して投馬と邪馬台国は筑紫平野の南北にとるしかないのでは?

ただ、そうすると両国が
 「どんだけー近いんだよ!」
 「そんな距離に水行10日陸行1月もかけるのかよ!」
って事になると思うがwww

137 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 13:12:44
>>130
> いや基本的に難しいと書いたのです。
魏略の記述について、貴方が考察を試みることは、「基本的に難しい」と言うわけですね。だから、考察しないのだ、と。
「一支國」は梁書にも登場する表記なんですが、それも「基本的に難しい」んでしょうかね?
まあ、これも何らかの理由があって、だから考察しないのだ、と言うことなのでしょうね。

> あなたが現在壱岐島と呼ばれている島が、魏略にある一支國だと 断定している根拠はなんですか。

断定したと言われるようなことを書いたつもりはありませんが、魏志で「對馬」「一大」「末盧」の各国がどう表現されているか見てみましょう。

1 渡海について
 「對馬」 始度一海千餘里至對馬國        
 「一大」 又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國
 「末盧」 又渡一海千餘里至末盧國
 この三国については、そこへの移動が全て渡海ですので、海路を隔てた関係であることが判ります。

2 地理について
 「對馬」 所居絶島方可四百餘里。土地山險多深林道路如禽鹿徑。有千餘戸無良田食海物自活乘船南北市糴。
 「一大」 方可三百里、多竹木叢林有三千許家。差有田地耕田猶不足食、亦南北市糴。
 「末盧」 又渡一海、千餘里至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。
 まず、 「所居絶島」により「對馬」が孤島であることは判ります。しかし、残念ながら「一大」には、その表記が無い。
 しかし、「方可」と言う同一の領域表現、「南北市糴」と言う交易関係から、私は「一大」も孤島であると考えます。

3 候補地について
 「壱岐」 日韓海峡に対馬とともに存在し、海路の重要な中継点であること。原の辻と言う同時代の港湾設備も発見されていること。
 魏志とほぼ同様な文章内容である「魏略」「梁書」では、「一支」と記載されていること。
 以上から、魏志、魏略、梁書に共通する基本資料の表記は「一支」であり、魏志の「一大」は写本時の誤写である可能性が高い。
 この可能性は、例えば、当時の倭人や帯方官吏が糸島半島を孤島と認識する可能性よりは、遥かに大きいと思います。

> わたしは当時、現在の壱岐島がなんと呼ばれていたか知らないのです。
 そんなもの判る人はいないでしょうw

138 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 13:53:05
>>134
だってワレワレって言うでしょ。あれ元々5人いればワレワレワレワレワレ。
アフリカじゃ今もカバの頭数を3頭だったら「カバカバカバ」と数えるところがあるんだとよ。
その上「ハ行」を「ぱぴぷぺぽ」と発音していたみたいだし
恐らく「ポペカッパピキピキ?」「ヘポヘポ」みたいな会話だったろうし。
最近初めて写真に撮られたアマゾン奥地の裸族と大して変わらん。

139 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 14:01:09
>>136「そんな距離に水行10日陸行1月もかけるのかよ!」

その答えは僕がいつも申しておるとおり帯方郡からの距離でしょう。
投馬国もそうでしょう。

140 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 14:32:44
洛陽からの距離ではないのか?

141 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 14:55:24
>>132
>方三百里

これって何里×何里くいらいですか?
これと実際の遺跡の広さから、当時の1里の長さがわかりますよね。

142 :前レス573 :2008/06/08(日) 15:40:51
>>137
>魏略の記述について、貴方が考察を試みることは、「基本的に難しい」と言うわけですね。だから、考察しないのだ、と。
基本的には魏略には一大率の記述がない(見当たらない)、逸文である、などの理由で
魏志倭人伝との関連を無理に求めるのは難しい、ということです。上で書きました。
つまり、魏志倭人伝にある一大率と一大國の文意の関連について
翰苑の引用と比べて論じることはできないのではないかと考えているわけです。

> > わたしは当時、現在の壱岐島がなんと呼ばれていたか知らないのです。
>  そんなもの判る人はいないでしょうw
そうですよね。
つまり魏志倭人伝上の一大國と魏略の一支國が同じ地域か違う地域か
はたまた、翰苑が書かれた唐代ではどうなのか
それとも、「どちらか」が誤記なのか
推測する根拠が少なすぎます。

おれはその意味で「基本的に難しい」と思います。
大事なのは文章としてひとつの意味を持っている魏志倭人伝を
当時の行政・軍事面から妥当に解釈することではないでしょうか。

いくつかおれも考えている考察を書いてくれたので持論を書きます。
>方について
孤島だから「方」という考え方もわかりますが
軍事的にみて「方」は方城、バリケードなどを考えてみてはどうでしょうか。
防御の地、兵站の地、として期待できる場所ということです。

糸島半島については、当時半島ではなく島だったということです。「糸島水道」で調べてください。
一大國が糸島という可能性を書いたのはここからです。

魏志倭人伝の文意としては、北九州沿岸の検閲、防御を行なう地があるというのは理にかなっている
と考えています。壱岐島はその観点では検閲上から不適格かと思います。
原の辻については時間があれば調べてみます。ありがとう。

143 :唐松山:2008/06/08(日) 16:32:27
小さめの石を ひとおつ ヒと置く
その周りに  ふたあつ フからア(輪))に置く
みいつ よおつ いつつ イで 1段目は終わり
2段目 むっつ ななつ やっつ ここのつ
とお トでお終い 最上段。
弔いの 石積み でした。



144 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 17:24:28
>>143
誰か亡くなられたんですか?

145 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 18:08:15
>>142「魏略には一大率の記述がない(見当たらない)、逸文である、などの理由で
魏志倭人伝との関連を無理に求めるのは難しい」

倭人伝は魏略を参考にしてるだけであり,そっくり書き写したものじゃないから違いがあって当然。
伊都国に一大率が置かれており、女王への贈物など点検するのも一大率の役目なので
魏使は来倭する度に一大率に会っていたに違いないし「諸国は大変恐れ煙たがる」様子など
倭人伝の記述は極めて具体性があり信憑性が高いと言わざるを得ない。
対馬国から一支国、マツラ国、伊都国という道程の流れはごく自然な道のりであり
長崎県から佐賀県へと歩みを進めている先に伊都国がある「常治一大率」
となるのであり対馬から長崎県の松浦を飛び越して糸島半島(当時は島?)
へと進むとは考え難い。第一そう考えると、その次のマツラ国で陸に上がる
そして一大国からマツラ国まで一千里という水行が無くなる。
対馬国と長崎県松浦(マツラ国)の間にあるクニは壱岐しかなく
古くから一つのクニとして認められていた島である。
そちらの説では壱岐は飛び抜かされていてまずこんな事は有り得ない事である。

146 :136:2008/06/08(日) 18:21:12
インカ帝国でふと思ったんだが・・・

>>136で言ったキープを実際には飛脚が持って走っていたらしい。
そうやってあのアンデスの南北に伸びる長大な領土を維持していたってんだから
古代の日本で瀬戸内の東西を結ぶ「首長連合」のような物ができても何ら不思議ではないような気がするw

アンデスの高山を人間が走る事に比べれば、瀬戸内の海を船で往来するなんか
もう楽勝杉るよねえwwwwww



147 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 18:48:46
>>146
インカ帝国って何時頃の国なのかわかってるのかな・・

148 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 18:57:50
>>147
コンキスタドールに滅ぼされたのが16世紀だったかな?

それが何か問題でも?w

リャマやアルパカ(ラクダの親戚みたいな奴w)はいても馬がいたわけじゃない。
文字も持っていなかったのが定説。
険しいアンデスの山々を考えればその領土の維持は3世紀の日本に首長連合を想定する以上に難しかろうw

・・・しかし中南米の古代文明出すのは某太国みたいでなんか嫌だなwwwwwww

149 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 20:14:16
兎に角、郡使がコンキスタドーレスの様でなくてよかったではありませぬか。

150 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 20:46:23
>>146「古代の日本で瀬戸内の東西を結ぶ「首長連合」のような物が
できても何ら不思議ではないような気がする」

それはありませぬ。文献にも邪馬台国連合のクニグニは団子状だったとある。


151 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 21:39:38
>>150
>文献にも邪馬台国連合のクニグニは団子状だったとある。

はて???

「団子状」とは何と言う文献に記載があるのですか?
そんな記載する文献は、じつは無いのではありませんか?

152 :前レス573 :2008/06/08(日) 21:40:55
>>145
なんか「おれはこう思ってる他の考えは認めん」と書けば一行で済むような内容に見えるけど
まあそれなりに面白い意見だ、というのをあなたなりに書いてるのだと善意に解釈しときます。

153 :前レス573 :2008/06/08(日) 21:42:07
>>146
>古代の日本で瀬戸内の東西を結ぶ「首長連合」のような物ができても何ら不思議ではないような気がするw

おれはそれが狗奴國(連合)だったと思ってますよ。

154 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/08(日) 21:47:48
日本にもキープがあるそうな・・・。
沖縄八重山諸島の竹富島。近年まで結縄文字が行われていたという。
ワラ算というんだそうだ。

155 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 22:13:28
だれぞ「なぜ邪馬台国を大和と認めないの?」の継ぎスレ立ててくれ…
スレタイは
「なぜ邪馬台国を大和と認めないの?PART2」
「なぜ邪馬台国を畿内と認めないの?」
「なぜ邪馬台国を近畿と認めないの?」
の中から選んで欲しい(俺的に3番目希望)。
俺は今スレが立てられん…
(なお、「継ぎスレ」と言うのは故意の変換である)

156 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 22:18:40
>>142
> >  そんなもの判る人はいないでしょうw
> そうですよね。

そう、判る人など絶対にいない。
つまり、絶対に考察しないと言うわけですか。

> それとも、「どちらか」が誤記なのか
> 推測する根拠が少なすぎます。

検証材料が少ないことと考察の対象にするしないは次元の違う話ですよ。

> おれはその意味で「基本的に難しい」と思います。

要は考察を試みないということです。
貴方の一大國と一大率についての考察は、魏志の「一大國」と言う標記が正しくなければ成立しません。
つまりは、貴方の主張の前提となる条件です。
較べるものは魏志の「一大國」と魏略、梁書の「一支國」であって、「一大率」とではありません。

> >方について
> 軍事的にみて「方」は方城、バリケードなどを考えてみてはどうでしょうか。

三百里、四百里の方城ですか?もの凄い要塞ですね。

> 糸島半島については、当時半島ではなく島だったということです。「糸島水道」で調べてください。

「糸島水道」の想定域である前原市の低地部には、志登遺跡や潤地頭給遺跡等の弥生前期から中期の遺跡群が散在しています。
これらの遺跡に存在により、当時の「糸島水道」は陸地であったことがわかります。
弥生後期になって糸島に急激な海進現象(逆に海退期ですね)が起きた痕跡もありません。
他人にWEB検索を奨めるからには、貴方も検索されたことは御有りだと思いますが、
こういった遺跡群の存在を認知していながら、ここでもまた何の考察もせずに当時も糸島が島だったと考えるわけですね。

157 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 22:20:28
なぜ邪馬台国を日本にあったと認めないのか?

しかし、邪馬台国は海に沈んだ幻の大陸にあった
としたほうが辻褄が合う。

158 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 22:24:39
>>151
晋書四夷伝 「舊有百餘小國相接」 旧、百余小国あり、相接す。

ここには『相接す』とあり、国々が離れてばらばらに存在していたのではなく、
ある程度狭い地域にかたまっていた事を示している。
つまりお互いにくっついている団子状。

159 :前レス573 :2008/06/08(日) 22:50:47
>>156

あなたは137さんですか?

>そう、判る人など絶対にいない。
つまり、絶対に考察しないと言うわけですか。

もうこの時点で論理的な会話が無理だと思わせる書き出しですね。とりあえず返答しますが。
何と戦ってるつもりなんですか?別に2ちゃんだからといって殺伐になる必要はないですよ。
他にも楽しく会話をしている専門板はいくつもあります。

では

>貴方の一大國と一大率についての考察は、魏志の「一大國」と言う標記が正しくなければ成立しません。
つまりは、貴方の主張の前提となる条件です。
較べるものは魏志の「一大國」と魏略、梁書の「一支國」であって、「一大率」とではありません。

前提というよりも、魏志倭人伝の中で完結した論考が必要だという事です。
比べるのではありません。
この違いがわからなければ、文献の研究などと言わない方がいいと思いますよ。

160 :前レス573 :2008/06/08(日) 22:56:25
追記:

>三百里、四百里の方城ですか?もの凄い要塞ですね。

何が物凄いんでしょうか?
何なら妥当だと言うのですか?


>糸島について
あなたが当時も半島だと断定したいならそれは自由ですよ。
わたしが糸「島」と書いているのに、137で
>この可能性は、例えば、当時の倭人や帯方官吏が糸島半島を孤島と認識する可能性よりは、遥かに大きいと思います。

このように糸島半島とはわたしの書き込みを無視しているようだから、知らないのかと思いお知らせしただけですよ。
また、わたしは文意としては半島であっても北九州北部に一大國があったほうが理にかなうと主張していました。
飯塚あたりかと考えていましたが、糸島のほうがふさわしいと思ったので>>24で書いたのです。

161 :日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:03:43
>>158
>晋書四夷伝 「舊有百餘小國相接」 旧、百余小国あり、相接す。

>ここには『相接す』とあり、国々が離れてばらばらに存在していたのではなく、
>ある程度狭い地域にかたまっていた事を示している。

↑「ある程度狭い地域に」

最後の行の「ある程度狭い地域に」は、九州ですが氏による恣意的解釈だろう
引用の晋書のどこにも「ある程度狭い地域に」に相当する字句がないのは明白

162 :ドツボ撲滅委員会:2008/06/08(日) 23:13:31
>>155
ノシ
なぜ邪馬台国を大和と認めないの?2
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1212934340/

163 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 23:34:15
>>161「最後の行の「ある程度狭い地域に」は、九州ですが氏による恣意的解釈」

いんや。そのくだりは丸々コピペだけど。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/bunken.html

それに「小國相接」っていうと対馬国、壱岐国、マツラ国、伊都国、フミ国、奴国
ここまで既に6カ国。それに今の郡くらいの大きさの小国家がごちゃごちゃくっついて
いた様は畿内説の言う広範囲に広がった緩やかな通商連合などと呼べるものとは
根本的に様相が異なっている。
邪馬(ヤマ)国 耶馬溪・山国町
躬臣(クシ)国 玖珠(クス)町
巴利(ハリ)国 杷木(ハキ)町
支惟(キイ)国 基肄(キイ)城下
烏奴(ウナ)国  鳥栖(トス)市 など、邪馬台国連合は長崎県、佐賀県、福岡県、大分県
にまたがり、団子状にお互いにくっ付いたクニグニだったのである。











164 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 23:43:38
>>163続き
それに「ある程度狭い地域に」の文言をいぶかしがってるようだが
「小國相接」ならおのずと範囲は狭くなるのが当たり前。
九州から畿内までの広範囲にクニが点在していたと言う畿内説を
真っ向から否定する明文といえる。

165 :三重県民:2008/06/08(日) 23:53:02
こんにちわー

166 :サガミハラハラ:2008/06/09(月) 00:34:20
九州ですがさん。
身弓国 玖珠町
巴利国 杷木町
ピッタリあっています。
邪馬国は山国川流域(中津市も)です。
さすがですね。

167 :日本@名無史さん:2008/06/09(月) 00:40:11
>>163 九州ですが ◆UEukKMcVo2

ではそれらのクニグニが連合していたと言う事は何を根拠にするかね?

畿内説の場合、各地の埋葬文化のキメラとも言える前方後円墳
纏向における搬入土器の多さ等で容易に説明できると思うが・・・

それに狭い地域で団子状態であった方が連合体を形成するに有利と言いたいのかもしれんが
逆に言えば互いに国境を接して利害関係が衝突しやすく、余程のリーダーシップを発揮せねば
纏め上げる事はできないだろう。

まあそうなると卑弥呼にそれだけのカリスマ性を求めざるを得ないって事になるんだろうが・・・

畿内説の場合卑弥呼なんて単なる象徴でも良い訳で
魏志倭人伝のようなヒキコモリ気味のおばちゃんでも問題無いwww



168 :日本@名無史さん:2008/06/09(月) 00:42:12
>>165
帰れ、帰ってくれ

169 :日本@名無史さん:2008/06/09(月) 05:35:55
>>167
畿内説の場合も、どうして広域連合が大和中心にできたか説明する必要があるよ。

「広域連合ができていた」という証拠は得られたが、
「なぜ大和に土器が搬入された(人が集まった)のか?」という動機の解明は不十分。

昔は鉄器を求めてという説が主流だったが、それは否定されてる。
>魏志倭人伝のようなヒキコモリ気味のおばちゃんでも問題無いwww
宗教的権威の存在を否定するなら、それにかわる理由が必要。

なぜ、諸国は大和を中心に連合したの?


170 :日本@名無史さん:2008/06/09(月) 05:48:06
なぜ、諸国は大和を中心に連合したのか?
いまさら理由を説明するまでもない、
太陽信仰による太陽祭祀をつかさどる巫女が、大和にいたからだよ。
その祭祀に関係の深い氏族が「忌部」で、この忌部の拠点は徳島にある。
前方後円墳の原型が徳島にあると言われるように、
大和朝廷の太陽信仰の祭祀の原型は徳島にあったということが証明されている。
邪馬台国四国説は、そうした背景があって唱えられている。

あとは、卑弥呼の時代に前方後円墳が大和に出来たと証明されれば、畿内説は完成する。
今は、そういう流れだよ。

九州説の場合は、残念ながら、太陽祭祀がどこで始まったのかも説明できていない。
卑弥呼=天照大神だと空想しながらも、九州に忌部のような祭祀氏族がいないのだから、
卑弥呼を祭りようもなければ、連合しようも無い。




171 :日本@名無史さん:2008/06/09(月) 05:57:02
日本神話の国生み神話を見ても、
日本が生まれた順番は、まず、淡路島。次に四国が先で九州が後。

まず、この時点で、東遷説は成り立たない。
日本神話は、淡路島を中心とした海人のものだったということ。
天照大神の太陽祭祀の中心=高天原も、淡路島周辺の伝説だよ。
天孫降臨神話は、四国から九州に降ったと考えたほうがわかりやすい。
一方で四国から大和に移動した集団がニギハヤヒに繋がるのだろう。

九州ですが氏は、邪馬台国がどこか本当に知りたいなら、
そろそろ、日本神話や古代氏族や四国や忌部についても調べてみたらどうなんだ?

172 :日本@名無史さん:2008/06/09(月) 07:51:27
記紀神話では、本州が国産みの最後に来るのが多いよね。
順番はどうとでも解釈出来るさ。

173 :日本@名無史さん:2008/06/09(月) 09:13:35
>>169
>畿内説の場合も、どうして広域連合が大和中心にできたか説明する必要があるよ。

必要無い。

少なくとも九州か畿内かの位置論において連合体があったかどうかの考察が先。

もし九州に連合体があったとなれば、同時代に九州と畿内に連合体があって
「じゃあ、どちらがより邪馬台国連合に近いのか?」
と中身の検証に入る。

単純に30ヶ国並べても意味が無い。





174 :日本@名無史さん:2008/06/09(月) 10:58:43
>>173

>「じゃあ、どちらがより邪馬台国連合に近いのか?」

もし九州に連合体があり、同時代に九州と畿内に連合体があって
どちらがより邪馬台国連合に近いかと考察する段階で、
魏志倭人伝の卑弥呼の宗教的要素が決め手になるだろ。

もし、畿内連合体が宗教的要素が無くても成立するなら、
邪馬台国は九州でも良いことになるよ。




175 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/09(月) 15:14:37
>>167「ではそれらのクニグニが連合していたと言う事は何を根拠にするかね?」

ここで登場するのが一大率です。
「自女王國以北特置一大率儉察諸國諸國畏憚之」とあるように
女王国自ら設置した一大率を諸国は恐れ憚っていたといいます。
これは軍事的な検察機関として存在しておりました。

>「互いに国境を接して利害関係が衝突しやすく、余程のリーダーシップを発揮せねば
纏め上げる事はできないだろう。」

政治的には卑弥呼の霊力と言うかシャーマニズムと鬼道「これは黄巾(初期道教)」の
混じったようなものに卜占を組み合わせたような呪術を行い
人々の宗教心を煽って人心を掴んでいたと考えられます。
呪術と軍事的な監視体制を強化つつ成り立っていたと考えられ
それは不安定なものでした。

176 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/09(月) 15:31:53
>>170太陽信仰による太陽祭祀をつかさどる巫女が、大和にいたからだよ」

邪馬台国に太陽信仰の足跡を見ることは出来ません。
アマテラスは大和朝廷の神で太陽信仰の代表。
邪馬台国は卑弥呼の呪術、鬼道がクニの中心になってました。
政治的重要な物事を決める際には骨を焼いて占い、その結果に従った、
といわれており太陽信仰など微塵も倭人伝にも出てきません。

177 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/09(月) 15:44:25
>>171「日本神話や古代氏族や四国や忌部」

は、後に日本の覇者となった大和朝廷の勝者の歴史であり日本の歴史から
忽然と消え去った邪馬台国の歴史は永遠に失われていったのです。
ただ古代中国の文献だけが九州にあって古代中国と交渉を持った奴国や邪馬台国の名を
僅かにとどめていたのです。その後、魏も邪馬台国も滅び全くの謎の王国となってしまった。
というわけです。

178 :日本@名無史さん:2008/06/09(月) 16:01:23

おや?

ですが氏は東遷説は捨てたのか。
結構結構。1年で成長したじゃないか。



179 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/09(月) 18:43:59
>>178
別に東遷説を否定はしていない。可能性がゼロというわけじゃない。
しかし可能性は甚だ低いかなと。その理由は南の狗奴国の存在。
軍事的に邪馬台国を空にしてまで東征出来るかどうか。

記紀に「東征」の文字がある以上、何らかの史実に基づいている可能性がある。
しかし東征したのは邪馬台国である必要は無い。
神武の故郷とされる宮崎には西都原古墳群があるが
畿内と同型の初期型の古墳が造られていて両者の関連性が言われている。
西都原と畿内とは関わりがあったかどうかは解らないが
何故共通点があるのかは興味深いところだ。


180 :日本@名無史さん:2008/06/09(月) 19:07:55
畿内は伽耶から逃亡してきた任那人が作ったの。

九州の倭国とは無関係な存在と言うより九州に属した属国だ。
任那人は騎馬民族だね。
申敬テツ氏がそう言っている。
始めは九州に来たが九州の倭国が東へ行けと命令した。
九州の許可を得て列島に住むようになった亡命者だ。
騎馬民族といっても亡命者では倭国を攻め滅ぼす事は出来なかった。
任那人は九州倭国の許可を得て畿内に入って纏向を滅ぼして日本を名乗った。
そこで鉄の製造を始め、やがて国力で九州を凌駕するようになって九州倭国を乗っ取った。
旧唐書にそう書いてある。


181 :日本@名無史さん:2008/06/09(月) 20:28:59
ですが・・・人気だな!

182 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/09(月) 20:57:36
伽耶人って元々中国系だっけ?

183 :日本@名無史さん:2008/06/09(月) 21:06:44
伽耶人は鮮卑

184 :日本@名無史さん:2008/06/09(月) 22:37:14
淡路島の伊勢の森―三輪山―伊勢の斎宮を結ぶいわゆる太陽の道は
どこに繋がるかというと、西は、山口県萩市須佐で日本海に抜けます。
太陽の道を東にたどると渥美半島先端・伊良湖の海に辿り着きます。
そこはなんと田原市。磯城県との関係は明白です。
更に東へたどると、伊豆半島の南端、賀茂郡に辿り着きます。

戻って、萩市の須佐からさらに西にたどると、秦の都西安に辿り着くこと
で、太陽の道は、秦の始皇帝との関係が伺えます。
つまり、東遷都とは、留まるものではなく進むもの。たぶん、太平洋を渡って
アメリカ大陸サンチエゴ付近がら東海岸ジョージア州まで達したのではない
かと考えられます。

そしてその起源は、アフリカ アレキサンドリア付近にあるのではないでしょうか?

185 :日本@名無史さん:2008/06/09(月) 23:14:58
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html

186 :日本@名無史さん:2008/06/10(火) 00:13:17
>>184
デムパー

187 :日本@名無史さん:2008/06/10(火) 00:22:11
>>186いや、>>184の説は太陽の道を調べて人なら
誰もが持つ共通認識。この太陽の道の上の遺跡を調
べれば調べるほど、何か得体のしれない力の存在を
予感させ、鳥肌が立ちますよ。

188 :日本@名無史さん:2008/06/10(火) 00:23:38
http://onitarou0002.blog26.fc2.com/

189 :日本@名無史さん:2008/06/10(火) 00:24:24
こんな考えの人もいるんですね http://onitarou0002.blog26.fc2.com/

190 :日本@名無史さん:2008/06/10(火) 00:30:03
>>175 九州ですが ◆UEukKMcVo2

おいおい、仮に「一大率」がその様な物であったとしても
それが畿内か北部九州か何処から派遣されたか判らないだろうに・・・

全然答えになっていないぞw


191 :190:2008/06/10(火) 01:15:10
ぶっちゃけ、最初から九州に30ヶ国のクニグニの連合を思わせる考古学的資料なんて無いとは思って聞いてみたんだがw

単にクニグニの名を今に伝わる地名と照合させるだけなら畿内、九州に限らず何処でも可能だろうw

ついでにもう一つ九州説の弱点(?)をあげつらっておくとw

邪馬台国自体が九州の何処にあるかは置いといても
(遺跡自体確実に残っている保証も無いのだし・・・)
邪馬台国が九州にあった場合、それが九州(の連合したクニグニ)にもたらした影響恩恵が見えてこない。

具体的に言えば例えば漢鏡出土数の変遷で魏に冊封された成果が見られない。

まあ例の「邪馬台国の怪」wでは岡村秀典の7期編年を編年自体は、おおよそ信がおけるものの
絶対年代を100年ほど古く見積もっていると言う反論をしているみたいだが
それを鵜呑みにした所で九州の弥生末期に向かっての長期衰退傾向は変わらないと思うのだが?w

(楽浪で飛躍的に伸びた時期にはそれに合わせて九州のそれも伸びているが
 九州以東の伸びに比べれば特筆すべきような内容ではない)

3世紀頃、九州の邪馬台国が冊封された事によってもたらされたと思える現象等、何かあったっけ?

192 :日本@名無史さん:2008/06/10(火) 02:07:48
>>191
書くなら1個ずつにした方がいいよ。
このレベルのトンデモに全部反論する気になれない。

岡村はトンデモの典型だろ。いまだに△舶載。
しかも、1点集中製造、長期配布。もうオカルトだな。

環濠集落の時期は九州以外での鏡の出土は皆無という事実は
畿内説ではタブーなんだよね。


193 :日本@名無史さん:2008/06/10(火) 02:32:27
>>192
反論する気が無いならそれでも構わないが・・・
「トンデモ」やら「オカルト」やら「タブー」やら
グダグダと煽り文句連ねているだけだなw

大体なんで・・・

>九州以外での鏡の出土は皆無という事実は畿内説ではタブー

・・・なんだ?
多分例の7期編年で言うと2期3期あたりBC100前後か?

なんか
「九州の絶対的優位を誇っていた時代を畿内説は無視している!」
と勝手にヒステリー起こしているようにも聞こえるがwww


まあ別に「冊封によりもたらされた恩恵・影響」は鏡でなくても良いんだが・・・
何かあるのかなあ・・・





194 :日本@名無史さん:2008/06/10(火) 03:56:45
九州説は、「九州の絶対的優位」が、何に対しての絶対的優位なのか説明が不足してる。

昔は、鉄器がうんぬんという説があったが、結局否定されてそれまで。


195 :日本@名無史さん:2008/06/10(火) 08:26:27
畿内地方は九州より遺跡の発掘は数十倍されている。
にも係らず畿内地方の出土した遺跡は九州に劣る。

196 :日本@名無史さん:2008/06/10(火) 09:12:31
何が劣るの?



197 :日本@名無史さん:2008/06/10(火) 09:15:14
というか、発掘物だけみて、九州のほうが優位なら、九州が機内を支配していてもおかしくないわけだが、
自己矛盾に気が付かないのかね?


198 :日本@名無史さん:2008/06/10(火) 14:26:26
具体的な遺物名や遺跡名を出さないと、議論にはならないよ

199 :日本@名無史さん:2008/06/10(火) 17:59:03
邪馬台国は東北。
鯨統一郎「邪馬台国はどこですか?」創元推理文庫。より。
誰か論破できる?


200 :日本@名無史さん:2008/06/10(火) 18:24:32
>>193
岡村編年の信者か?
じゃあ聞くが、魏と晋の時代に流行した鏡は何だ?

岡村は全部後漢までとするため、その先がない。
中国で魏や晋の時代の墳墓から出土した鏡を全部無視。


201 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/10(火) 19:28:52
>>190「それが畿内か北部九州か何処から派遣されたか判らないだろうに」

倭人伝に「自女王國以北特置一大率」とあり「女王国自ら設置した一大率」と。
さらに一大率は何処にいるかというと伊都国にいる。
又「女王国以北には一大率を置いて」という倭人伝の文から
自ずと地理的に伊都国の南の女王国から派遣されたという事になる。

202 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/10(火) 21:31:40
>>191「九州の邪馬台国が冊封」?

魏に対して冊封は無い。
鏡に関しては後漢末は黄巾の乱の影響で洛陽が荒れ果て
呉や蜀の領域で鏡を作らせていたようだから画文帯も240年前後でしょう。
鏡の数の増減も中国国内の事情というだけの事。

203 :日本@名無史さん:2008/06/10(火) 22:11:49
>>202
> >>191「九州の邪馬台国が冊封」?
> 魏に対して冊封は無い。

ハア〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜?
何が言いたいの

『冊封(さくほう)とは、中国王朝の皇帝がその周辺諸国の君主と「名目的」な君臣関係を結ぶこと。』
                              出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。
汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉爲孝順。』
                              出典:『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳



204 :日本@名無史さん:2008/06/10(火) 22:18:41
邪馬台は大和
伊都は委奴、怡土
投馬は出雲
狗奴は毛野
だと思っている。

「漢委奴国王」については
「漢の委(倭)の奴国王」「漢が奴国を委(まか)せた王」「漢の委奴(伊都)国の王」
と流れる。



205 :日本@名無史さん:2008/06/10(火) 22:50:03
吉野ヶ里と津ヶ里(津軽)は兄弟国であったことは明白。
津軽はツングースの国という意味。邪馬台国は、日本
の本土最北端どころか、日本海を渡ってアムール川流
域まで支配するツングースの大帝国だった!
これですべての謎は解けた。

206 :日本@名無史さん:2008/06/10(火) 23:54:14
>>200
あん?
別に信者じゃないので答える必要無しw



・・・つうか話の流れ読んでレスしてくんない?
脊髄反射しかできないのかもしれんが・・・

俺が問題にしているのは、あの編念で仮に絶対年代を動かしても
九州の長期衰退傾向は変わらないと言っている。
ニホンゴワカリマスカ?




207 :日本@名無史さん:2008/06/11(水) 00:05:00
ここまでの俺的まとめ

(1)九州に魏志倭人伝に出てくるクニグニを求める事は可能でも
  それらのクニグニが連合したと言う痕跡が無い。

(2)3世紀の九州で九州邪馬台国が冊封された事による恩恵・影響の痕跡が見られない。

まあ俺みたいな素人にはこのように見えるんだけど
認識が間違ってる?





208 :日本@名無史さん:2008/06/11(水) 00:48:04
>>204
>投馬は出雲

『太平御覧』に投馬国を「於投馬」と作ってあり
それだとイズモの音韻に近くなるとかならないとかw

ちなみに「於投馬」を「えとも」と読むのなら
島根半島に恵曇(えとも)と言う港がある。



209 :日本@名無史さん:2008/06/11(水) 01:23:26
忘れるところだった・・・

>>195
>畿内地方は九州より遺跡の発掘は数十倍されている。

↑これってマジなん?

例えば環濠集落で、そのほぼ全面が発掘されたのって吉野ヶ里ぐらいじゃなかったっけ?




210 :日本@名無史さん:2008/06/11(水) 01:37:28
>>195
>>209
195がどういう典拠に基づいて「数十倍」と書いたか、だな
しかしおそらく典拠・ソースは示さないだろうよ

211 :日本@名無史さん:2008/06/11(水) 01:43:26
てか畿内だと宮内庁の指定で立ち入れないと言うハンディがあるんじゃねえの?

もっとも九州でも西都原の古墳なんか宮内庁の管理下らしいが・・・




212 :日本@名無史さん:2008/06/11(水) 05:09:47
>>201
>又「女王国以北には一大率を置いて」という倭人伝の文から
>自ずと地理的に伊都国の南の女王国から派遣されたという事になる。

伊都国に一大率を置いたとは書いて無いし、
伊都国の南に女王国があるとも書いてない。

伊都国に一大率があると思うのは、多くの人が思い込む勝手な解釈だよ。
大宰府をイメージしてるんだろうな。


213 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/11(水) 06:20:14
>>203
邪馬台国が柵封で無い根拠は
@宗主国の皇帝から王として認められる「王」は一民族一人であること。
 邪馬台国は卑弥呼だけでなく伊都国にも王が居たり、他の文献では「それぞれのクニに王が居る」
記されている。一民族に一人しか王を授爵しないのですから複数の“王”がある
倭人伝の王=中華柵封体制下の“王位は成り立ちません。
A倭王は中華皇帝の臣下になる為、王墓はただ単に厚葬墓と言うだけでなく、
中華皇帝が下賜する副葬品である必要がある。
B卑弥呼は王となってからは誰も見たものが居ない。と倭人伝にある事。
魏使は中華皇帝の名代である為、卑弥呼は臣下の礼を尽くさねばならない。
従って魏使に会わずに返すわけには行かない。ところが卑弥呼に誰も会って居ないのである。
卑弥呼が中華柵封体制の王なら甚だ非礼なことであり魏使は伊都国で「到」という文字を使い
旅の終点を匂わせる。つまり魏使は女王の都にさえ行っていない可能性が大きい。

>>212
その次下に「常治伊都國於國中有如刺史」とあるでしょう。
「伊都国に常駐し、国中にあっては刺史の如し」と。
「刺史」とは古代中国にあった官職で「監察官」の事である。
一大率は監察官、検察機関、軍隊、の混じったようなものだった
と考えられる。

214 :日本@名無史さん:2008/06/11(水) 06:27:39
>>213
>その次下に「常治伊都國於國中有如刺史」とあるでしょう。

一大率と伊都國は、別段落の話でしょ。




215 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/11(水) 06:35:36
>>214 
だからつながってると言ってるじゃない。
「「常治伊都國於國中有如刺史」とあるでしょう。
「伊都国に常駐し、国中にあっては刺史の如し」は少し解釈が間違ってるかな。
「伊都国に常駐し、それはまるで中国国内でいう刺史のようなものである」
が正解でしょう。別段落ってそれってどんな文章になんのよ。
「如刺史」が一大率の説明としてまだ続いていることからも、伊都国の一大率の事である事は明白。


216 :日本@名無史さん:2008/06/11(水) 07:54:58
>>215

「常治伊都國於國中有如刺史」は、「伊都国に刺史がいる」という話であって、
伊都国の件と繋がってるとはいえないよ。

「国々には市があって交易してる」
「女王国の北には一大率がある」
「伊都国に刺史がいる」

これらは、全部別の話だよ。


217 :日本@名無史さん:2008/06/11(水) 11:28:22
>>216
>「常治伊都國於國中有如刺史」は、「伊都国に刺史がいる」という話であって、

ではありません。「國中に於いては刺史の如き有り」であって、
「如」があるので、「刺史そのもの」ではなく「刺史のような性格をもっている」です。
では、何が「刺史のような性格をもっている」のか。
一大率とは別の文章だと解釈してしまうと、主語がなくなり、
何についての記述か解らなくなってしまいます。

218 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/11(水) 12:45:58
>>217
正確な解釈をして頂いて有難う御座います。

219 :日本@名無史さん:2008/06/11(水) 18:43:46
>>217
「大率は任務上、よく伊都国にとどまっているが、
大率が出巡することは、その国その国にとって、
あたかも刺史の督察を仰ぐような心情である。」
国立台湾海洋学院大学
謝銘仁教授 訳

220 :日本@名無史さん:2008/06/11(水) 20:39:37
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html

221 :日本@名無史さん:2008/06/11(水) 22:53:01
「常治伊都國於國中有如刺史」の「常治」は本当に、「常に治む」と
いう意味なのか?という疑問を持った。
朝廷に背いた蝦夷、伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ、これ
はるのきみあざまろ)は宮城県栗原(くりはら)市として今も地名を
とどめている。
また、愛媛県今治市は伊予国。伊都国との関係が推測できるなど、
「常治」は地名ではないか?といった疑問が沸々とわいてきました。
残念ながら、いまだ、どの地域を指すのか特定できていないけれど、
必ずや、自説を証明してみたいと思います。乞う、ご期待!

222 :三重県民:2008/06/11(水) 23:01:53
こんにちわー

223 :改めですが:2008/06/11(水) 23:22:34
>>222
こんばんわ。お元気でしたか。

224 :橿原一派:2008/06/11(水) 23:24:21
>>222
>>223
こんばんは

225 :日本@名無史さん:2008/06/12(木) 01:36:01
>>221
地名ではないかという疑問を持つ。→調べてみる。→地名であった証拠を発見。→地名であったと確信する。

地名ではないかという疑問を持つ。→まだ調べていない。→そうに違いないと確信する。→証拠はまだない。

順序が違いますぜ。
それに、「これはるのきみ」は「伊治公」を訓読みしてる。
倭人伝は、倭語を音写してるから、「常治」が地名だとしたら「つねはる」とは読めない。
なにより、「常治伊都国於国中有如刺史」で、「常治」が地名なら、
「常治の伊都国は国中において刺史のような性格を有していた」になり、
「国が国の中で刺史のようだ」という変な文章になってしまう。
ということで、地名の可能性はないでしょう。

疑問や発想は大切だけど、結局使えないことがほとんど。
宝石の採掘と同じで、たくさん思いついた中で、幾つか残ればラッキーと思わないと。

226 :日本@名無史さん:2008/06/12(木) 22:06:59
>>225
福井県福井市に常治から転じたのではないかと推測される
角原(つのはら)という地名を見つけました。
最寄駅は大土呂で、すぐ隣は丹生郡です。丹が取れたとい
うことで、邪馬台国の可能性はかなり高いんじゃないかと思
うのでうが・・・

227 :日本@名無史さん:2008/06/12(木) 22:07:56
うのですが・・・

228 :日本@名無史さん:2008/06/12(木) 22:28:02
個人的主観による邪馬台国候補地
・宮崎県
・熊本県
・徳島県
・奈良県

229 :サガミハラハラ:2008/06/12(木) 22:56:31
佐賀県もいれてね

230 :日本@名無史さん:2008/06/12(木) 23:05:05
改訂
・宮崎県
・熊本県
・福岡県
・徳島県
・愛媛県
・奈良県

>>229
佐賀、別にお前が嫌いなんじゃない。
お前のその吉野ヶ里はとても素晴らしいと思う。
ただ、ただ、北過ぎるんだ。

宮崎は原田常治の異様な情熱に敬意を払って。
熊本は九州説中興の祖白鳥庫吉に。
福岡は九州説の開祖新井白石に。
徳島は初めて邪馬台国を四国に比定した古代阿波研究会の面々に。
愛媛は個人的なパトリオティズム。
奈良は個人的には確定。

231 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/12(木) 23:49:29
>>226「丹が取れたとい うことで、邪馬台国の可能性はかなり高いんじゃないか」

佐賀県あたりは丹鉱が広範囲に広がっている。

232 :サガミハラハラ:2008/06/12(木) 23:49:37
けど皆さん、わたしの邪馬台国佐賀説の本お読みになっておられますか?
「神功皇后は実在した 明窓出版社」の付録(メジャーで辿る邪馬台国)に詳細がかいてありますが、
買って読む気がしないという方が多いでしょうが、図書館のリクエスト制度を利用すれば、
図書館が購入して貸し出してけるますので是非ご利用してください。
目から鱗のしろものです。

233 :日本@名無史さん:2008/06/13(金) 02:05:47
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ウィキなんて信頼性0なものを平気引っ張ってくるアホは何なの?

234 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/13(金) 12:35:23
「蠶桑績績出細紵緜」
蚕桑(養蚕)績(紡績)し、細紵(細いからむしの布)(絹織物と綿織物)を出だす。

と倭人伝にあるから、絹が出土している九州が邪馬台国に決まっている。

235 :日本@名無史さん:2008/06/13(金) 14:11:55
>>234

九州の絹が出たところが邪馬台国かい?
で、その場所はどこよ?


236 :日本@名無史さん:2008/06/13(金) 16:51:07
>>235
九州。

237 :サガミハラハラ:2008/06/13(金) 16:56:12
>>235吉野ヶ里で〜す。
かつて、西暦230年代まで、卑弥呼様はかの吉野ヶ里の北内郭にお住まいになっておられたのです。
そのご小城甘木に遷都いたしました。

238 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/13(金) 20:04:46
身分の高くない人の甕棺墓から絹が見つかった事で
衣服としての絹の使用が一般的だった事が解る。
邪馬台国では養蚕は門外不出の先端技術だったと思われる。

239 :日本@名無史さん:2008/06/13(金) 20:14:50
たとえば、鉄文化の発祥の地には八幡製鉄があったわけだし、
絹織物発祥の地、群馬には富岡製糸工場が栄えた。
産業というものは、廃り流行りこそあるものの、
継承されてゆくものなのです。
つまり、邪馬台国は群馬ではないでしょうか?

240 :日本@名無史さん:2008/06/13(金) 20:35:43
奈良県纏向遺跡から絹製の巾着袋が出土してる
邪馬台国の都は纏向だ!

241 :日本@名無史さん:2008/06/13(金) 20:39:06
ものは消費地に輸送されます。
本当の生産地は別のところにあるのではないでしょうか?
三角縁神獣鏡についても同様のことが言えます。

242 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/13(金) 21:09:30
>>240絹製の巾着袋

それっていつの時代のヤツ?
卑弥呼と同時代のを持ってきなさいっての。

243 :唐松山:2008/06/13(金) 21:22:31
巾着袋?中に入れる物が大事だ。
貨泉は入らない 鉄板は入らない

まさか 入れ歯 出もあるまい ましてや 印鑑?


244 :ローガン:2008/06/13(金) 21:22:52
>>242
黒塚の鏡が包まれていた倭錦の事を言っているのではないでしょうか?

245 :日本@名無史さん:2008/06/13(金) 21:45:20
吉野ヶ里の甕棺の人骨は絹の着物を着ていた。
それもさほど身分の高い人ではなさそうな人骨もだ。
絹織物はふんだんに使われていた事を示している。

纏向は4世紀以降の遺跡。比較にならない。

246 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/13(金) 22:11:45
纒向遺跡は特異な遺跡であり大集落といわれながらも人の住む集落跡が発見されていない。
倭人伝には「クニには数万戸の戸数がある」と記されている。
纒向のようにただ古墳の集合した祭祀施設のような場所はそもそも邪馬台国には無い。
日本中の広範囲の地方の土器が出土する事からも初期の大和政権の姿であり
倭人伝の邪馬台国の様子と違っている。

247 :日本@名無史さん:2008/06/13(金) 22:34:13
>>246
纒向は建物の密度は低く、家族で生活する住居の痕跡はないですね。
簡素な掘っ立て建物と陳腐な祭祀施設と水路だけの遺跡。
記紀にある「大市」という市場の跡と考えるのが一番素直でしょう。

市場と考えれば、各地から土器が来るのも納得できます。
あそこは古墳築造労働者の食料を供給する市場でしょう。
古墳を作る労働に際して身を清める儀式も行われたのでしょう。

248 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/13(金) 22:38:35
>246 名前:九州ですが さんの記事

書記で読むと 崇神11年 異俗多帰 しかない。


249 :日本@名無史さん:2008/06/13(金) 23:45:56
>>245
>纏向は4世紀以降の遺跡。

違うのではないか。
桜井市や奈良県のホームページ等では纏向遺跡はもっと古くに位置づけられている。

貴殿は一体なにをもって纏向遺跡を4世紀以降とするのか?


250 :たまには九州説の立場になって考えてみたりみなかったりw:2008/06/14(土) 00:40:05
>纏向は4世紀以降の遺跡。

わはは。
この板の九州説論者とうとう妄想に逃避したかwww

てか、まあ釣りだろうが・・・

実際、畿内説と言うより 纏向=邪馬台国説 の問題点を挙げるなら、先ず・・・

 『 宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。』

これに相当する建物跡が今のところ出ていないことかな?
特に柱に付いては太さは15センチほどの物しかなく
それでは精々平屋程度で、今日、吉野ヶ里や唐古・鍵に再現されているような高い建築物は到底無理。

・・・と、とりあえず一つ挙げておくwwwwww

251 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 01:05:06
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html

252 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 01:33:58
私も纒向は4世紀以降の遺跡であると思います。
畿内説の方々もみっともない年代遡上を早くやめるべきですね。

253 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 01:37:23
>>247
>あそこは古墳築造労働者の食料を供給する市場でしょう。

意味不明w
労働者の食料を確保するのなら
食料の生産地から持って来させりゃ良いだけの話。
わざわざ市を形成する必要もなし。


>古墳を作る労働に際して身を清める儀式も行われたのでしょう。

これまた意味不明ww
記紀かなんかにでもそれらしい記事でもあるのか?

254 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 02:05:44
>>252
>私も纒向は4世紀以降の遺跡であると思います。

249だが貴殿に対しても>>245氏へ問うたことと同じ疑問を問いたい。
向学のためなのである。お逃げにならずぜひとも回答されたい。

貴殿は一体なにをもって纏向遺跡を4世紀以降とするのか?

255 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 02:08:15
>>254
多分釣りだと思うから聞くだけ無駄だと思うなw

256 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 05:50:49
>>254

九州の邪馬台国が東遷したからだろ。


257 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/14(土) 08:24:20
>>249
卑弥呼と同時代でなければ邪馬台国ではない、のどちらか。
倭人伝などにも巻向のようなでかい墓だらけ、といった記述が無い。
邪馬台国の墓制についても棺あって郭無し。棺をそのまま埋めた、とある。
でかい墳墓を造っても棺は土中にそのまま埋めたのであり
木郭で囲んだり墓室が造られているのは倭人伝の記述に合わない。

258 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 08:36:58
本当に邪馬台国の女王が卑弥呼なのだろうか?
邪馬台国は八幡にあって、
卑弥呼は水銀の産地、伊勢にいたとしても何の問題はない。


259 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 09:42:15
>>257
>卑弥呼と同時代でなければ邪馬台国ではない、のどちらか。

まるで意味不明、日本語としておかしいよ。再説タノミマス。
それと卑弥呼が死んだあと女王台与になるけど台与の時代には邪馬台国は消滅したの?

>倭人伝などにも巻向のようなでかい墓だらけ、といった記述が無い。

えーッ、倭人伝には何もかも記述されなければならないの〜?ww
「倭人伝で邪馬台国には腕飾りの記述がない、よって腕飾りが出るところは邪馬台国ではない」
「邪馬台国にネズミの記述なし、よってネズミは生息してなかった」
な〜んておかしいでしょww
それと卑弥呼が死んだときに大がかりに墓を作ったことは書いてあるんだよ

>邪馬台国の墓制についても棺あって郭無し。

「棺あって郭無し」は邪馬台国の墓制? ホント?
これ倭人一般の庶民のお墓のことを記録してるんだと思うよ

でさ、>>249の「貴殿は一体なにをもって纏向遺跡を4世紀以降とするのか?」に対する答えは?ww

260 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/14(土) 09:58:25
>>259
>>246を受けて、纏向は倭人伝の記述と違っており4世紀以降の遺跡と結論付け、
纏向自体、邪馬台国とは無関係、という意味。

261 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/14(土) 10:13:34
倭人伝に邪馬台国7万戸と書いてあるのに纏向には人の住んだような形跡が無く
卑弥呼の他に権力者が居ないのに卑弥呼の墓とされる箸墓と同じ規模の古墳が
数多くあって誰が権力者だか解らない。
「棺あって郭無し」 というのが邪馬台国の墓制で、それが証拠に
韓伝などでは葬制についてはっきり「郭がある」と述べている事からも解る。

262 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 10:22:33
要するに纏向の年代を古くし過ぎていると言う事よ。
最近、歴博のインチキ集団が箸墓築造開始を235年なんて言い出したが、
卑弥呼の死亡時期に箸墓が出来ていないと都合が悪いからだろう。
死んでから墓を作り出したら10年後くらいに本葬儀をしなければならない。
遺体は腐っちゃうからね。遺体は液化しているんじゃないか?
遺体を墓の上に運び上げる時、棺の中では骨がコロコロ、棺から臭い液体がにじみ出てくる。
生前に完成していなきゃならん。
あれほどの巨大古墳でなくても古墳はみな生前に作られていたはずだ。

となると、魏使が大和を訪れた頃、石を貼り付けた古墳がごろごろしていた事になる。
倭人伝には「封土作冢」とあり、石が張ってあったとは書いてない。
ホケノ山見ても「封石作冢」になるだろう。

つまり、魏使が邪馬台国を訪れた頃、古墳なんか作られていなかったのだ。
だから、邪馬台国が九州にあったとしても、畿内にあったとしても、古墳など無かった。

箸墓周濠から出た鐙だって中国で三世紀末に発明されたものだ。
その鐙が埋まったのは箸墓築造後30年以内だと思われている。
中国で三世紀末に発明されたものが日本で三世紀後半に使われていたと言うのはおかしいだろ?
中国や韓半島である程度普及してから日本に来たと考えるのが当たり前。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/hasihaka.htm

と言うわけで、纏向が4世紀だと言うのは至極妥当な話なんだ。


263 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 10:53:28
日本人は新しいもの好き。
中国で流行ったものは翌年には日本にも持ち込まれた。
この当時から日中間には海部氏などの海族を通し交流
があった。

264 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/14(土) 10:57:02
吉野ヶ里遺跡がまさに卑弥呼の時代を生き抜いた環濠集落であることに疑いは無い。
ここの墓はどうであるかというと環濠の中に方墳がある。これが卑弥呼の時代の墳墓であり
前方後円墳などというものではない。その様な変わったものなら
葬制に興味を持っていた筆者は自国との違いを一言書き添えている筈である。


265 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 10:59:39
九州に邪馬台国があるわけないでしょ!
熊襲しか住んでなかったんよ。

266 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 11:25:39
吉野ヶ里には倭人伝に書かれた全てがある。
たった一つ金印を除いて。

纏向には倭人伝に書かれたものはひとつとしてない。
ただ、馬鹿でかい墓を除いて。

267 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 11:27:53
>>263

馬もいないのに鐙だけ持ってきたの?

268 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 11:30:11
丸木舟に馬を乗せて日本海を渡れたのか?

269 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 11:36:16
まあ箸墓に付いては卑弥呼の墓とするかどうかで
数十年のスパンで色々説はあるみたいだが・・・

纏向自体を4世紀からなんて言っている学者いるのかよ?w

所謂、纏向型前方後円墳を4世紀に入ってから作りだし
定型化された大型の前方後円墳の箸墓が作られたのは早くて4世紀半ば?

さあ大変だ!
柳本・大和・佐紀やそれ以降の古墳の年代もずらさなきゃならないwww

邪馬台国しか考えない「木を見て森を見ず」だからそんな馬鹿を言うんだろうなあ・・・。

実際には畿内説にも卑弥呼の墓をホケノや勝山と考える人間もいる訳で・・・




270 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 11:42:07

>>264 >吉野ヶ里遺跡がまさに卑弥呼の時代を生き抜いた環濠集落であることに疑いは無い。
 >ここの墓はどうであるかというと環濠の中に方墳がある。これが卑弥呼の時代の墳墓であり


環濠の中に方墳、というのは、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓のことを指しておられるのであろうか?


271 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 11:47:22
>>266
吉野ケ里遺跡は熊襲という人食い人種が
つくった遺跡です。知らなかった?

272 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 12:09:29
吉野ケ里遺跡ねえ、、、
まあ弥生末期には衰退していたと言うのが定説だからなあ、、、

30弱のクニグニを纏め上げるどころの話じゃないでしょって感じ?www

273 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 12:10:45
>>271
人食人種と、そうでない人種の違いはなんなんだ?

274 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 12:15:56
>>262

どの道、その安本美典のトコの説にしても鐙を4世紀半ばに廃棄されたとするのなら
日本にも乗馬の風習が入ってきたとされる5世紀と半世紀の差が生じてしまう。

問題の鐙には磨り減った跡があり実際に使われていた物だとされているから
だったら4世紀半ばから5世紀の間の年代で乗馬に関する遺物が出ていなければおかしい。

まあ棄てられた所が破損した馬具のポイ捨てなんか頻繁にあったであろう上つ道で
しかも一個のみでどうこう言うのは流石にどうかと思うなw



275 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 12:16:35
>>273
九州人=人食い人種
関西人=文明人

276 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 12:26:03
ツングースか首狩り族。
頭の皮をはいで、飾りにしたんじゃなかったかな?

277 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 12:26:52
>>274
布留1式の層から馬具が出土しているが、布留1式は400年頃まで
下るという昔の定説からは何の問題もない。

須恵器が使われるようになってからも土師器は長期間これと並行して
使用されていて、その末期は500年頃になる。
須恵器を400年頃からとする説もあるが、その説でも布留式の末期は
5世紀の終わりごろになる。

つまり、布留0は、350〜390頃
     布留1は、380〜430頃
     布留2は、430〜490頃

これに対して、年代遡上説は、布留2の末期を400年頃にする。
即ち、須恵器と布留式が長期間並行していた事実を無視する。
これは学問的良心の放棄としか言いようがない。

278 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 12:38:25
>>277

仮にその年代を採用しても
箸墓を卑弥呼の墓の候補から外せても
纏向自体を4世紀からなんてする事は不可能だなw



279 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 13:21:34
まあ>250は俺なんだけど・・・

> 『 宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。』

これだけを考えると
「邪馬台国は弥生中期からの「宮室・楼観・城柵」を備えた環濠集落である蓋然性は高い」
と言うのは言えると思うが

じゃあ2・3世紀に魏からの冊封受けて益々栄えた環濠集落が実際あるのか?って話で
少なくとも遺跡として出ている中では無いと思う。

それと流石に九州説論者もスルーしがちな
 
 『婢千人を以て自ら侍せしむ。』・・・と言う記述w

まあ千人と言う数字を実数と見るかどうかは別にしても
卑弥呼の周りに相当数の祭祀の専従者が居た事の表れとするのなら
纏向には相当有利な話になるw

九州に纏向ほど祭礼に特化した物があったっけ?






280 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 13:31:25
>>261 九州ですが ◆UEukKMcVo2

そもそも集落一つに7万戸なんて規模求めるのは無理だっちゅうのw

拠点集落とその周りの集落、それが複数のある程度の領土を持ったクニと見るしかないだろう。

「数もろくに読めない倭人がサバ読みまくってかかる数字になってしまった」

・・・なんて言うお前さんの説は、その距離をきちんと里数で表字している奴国で既に「二万戸」とあり成り立たないw





281 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 13:34:22
>>280

そうだそれでいい
おまえは終止符くるな

ここでスレ主ゴッコしてなさい

282 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 13:54:41
>280 重複誘導


なぜ邪馬台国を大和と認めないの?2
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1212934340/


283 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 13:57:03
>>278  そうかな?
布留0が350年以降になると、庄内の開始は300以降になる。
庄内を2式に分ける考えで見ると
   庄内1式310〜340頃
   庄内2式330〜360頃

纒向石塚は盛土は庄内の直前期で祭祀は布留0の頃である。
つまり、古墳築造から被葬者の祭祀までの間の期間が庄内式の期間。

昔は庄内式は短い期間とされ、2式に分けるべきではないとされてきた。
実際にも庄内の分布地域は布留に比べて格段に狭い。
庄内はだいたい320〜350頃の土器と考えるべきだよ。

そうなると庄内直前にはじまる纒向は4世紀以降の遺跡となる。

284 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 14:49:41
「鐙」ひとつで年代が左右されると考えるほうがおかしい。

より多く発掘される遺物によって年代が推定されるもの。
土器によって、箸墓は3世紀中期で間違いない。

いっこだけ「鐙」が出ただけというなら、
むしろ3世紀に馬が輸入されていたと考えるべきだろ。
献上品なら、「鐙付き」で、なんらおかしくない。
あるいは渡来人が自分用の馬を持ちこんだかもしれないしな。


285 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 18:21:34
>むしろ3世紀に馬が輸入されていたと考えるべきだろ。
>献上品なら、「鐙付き」で、なんらおかしくない。

魏や晋が倭王に献上てか?ww
妄想もここまで来ると気の毒。

兎に角、鐙は中国南部で3世紀末に馬に乗るのが苦手の南方漢人が発明したのだ。
馬に乗るのが苦手な中国人がわざわざ日本に馬を持ってやってくるか?


286 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/14(土) 19:47:10
>>280 「そもそも集落一つに7万戸なんて規模求めるのは無理だっちゅうのw 」

というより纒向には人が住んでいた形跡が無いという事実は「無理」どころか
邪馬台国比定は「ご無体」なのでは。



287 :唐松山:2008/06/14(土) 19:56:00
やっぱり 折衷案

邪馬台国=畿内
卑弥呼=九州



288 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/14(土) 20:19:54
西暦240年頃
日本国内に於いて7万戸を 有する 遺跡 ??
7千戸 ?
700戸 見方によっては かなり 候補が有ると思います。

この見方は、魏国の使いが 邪馬台国まで 足を伸ばさなかった 場合には 許される?
魏書による 倭国見聞=良くて 松浦まで、
伊都国間では、来たが 風俗には 触れていない。
卑弥呼埋葬 塚を見たような記録では 有るが その時立ち会えば、
卑弥呼の 没年が 記録される?。


289 :唐松山:2008/06/14(土) 20:33:51
伊都国
700戸
1大率=100人

戦争の時の 数字は、信用できない。

3国史の 人数を信じていたら 大変だ、
これらを書いた史書に 人数は、戦用 各国 倍増? されている と書かれている。

「倭国乱の時代だけ 本物の数字である」 信用する方が おかしい。


290 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 22:03:44
個人的邪馬台国候補地
・宮崎県西都市(原田常治に敬意を表して)
・熊本県菊池郡(白鳥庫吉に敬意を表して)
・福岡県山門郡(新井白石に敬意を表して)
・愛媛県松山市(パトリオットとして)
・徳島県北東部(萩原墳墓群に注目したのと四国に初めて邪馬台国を持ってきた古代阿波研究会に敬意を表して)
・奈良県桜井市(個人的に支持してるのと纏向遺跡の存在)

291 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 22:22:58
>>274
安本の年代観のうち、△が350年頃から日本で製造が開始したこと、
布留0式もその頃に開始したという部分は同意できるが、庄内式の
開始時期には同意できない。

最近出した『「邪馬台国畿内説」徹底批判』では、九州の庄内式の開始を
200年頃にしているが、これがダメ。
位至三公鏡が300年頃に中国で流行していたとして、小型倣製鏡U型は
その直前の中国の鏡が手本であるとしているが、それなら九州の庄内式も
300年頃に開始したとしなければ、整合しない。

平原を3世紀初頭とする柳田の説に影響されて、九州の庄内式を200年頃と
繰り上げるが、柳田は△が舶載であるという前提で平原を繰り上げているので、
安本がこの年代に追従する必要はない。
△を国産(350年頃に開始)とする見解からは平原は300年前後となる。

292 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 22:24:34
>『「邪馬台国畿内説」徹底批判』

プゲラ

293 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 22:31:45
ttp://yamatai.cside.com/yasumoto/tyosyo97.htm

ここ読んだけど、なんかいろんな意味で痛々しい。
九州説信者に本を売りつけたいがためのペテン師ならまだ救いがあるが、
本気でいまだに九州説を信じてるんだろうか?

NHKの番組を引き合いに出すなら、
ぜひ、最近の四国説にも言及してもらいたい。本人が出てたわけだし。


294 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 22:47:32
いちばんダメなのは、罵詈雑言と批判だけで、
安本自身が考古学的アプローチで出土物を編年しないことだな。
したら、ボロが出るから、文献に逃げてるんだろうが。

文献は楽だよ。
自説に都合の良い文言だけ集めて、「こんなに証拠がある」とやればいいんだからな。
都合の悪い箇所は無視すれば、読者は気がつかない。

とくに最近TVでも話題になった九州説の根拠である忌部については、
なんにも論評してないよ。
四国に本拠を置く忌部を論じたら、邪馬台国東遷説を唱える安本は破綻するわけだから。
安本が、いつどうやって四国説に反論するか楽しみだよ。

295 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 22:51:14
>>294訂正

×とくに最近TVでも話題になった九州説の根拠である忌部については、 なんにも論評してないよ。
○とくに最近TVでも話題になった四国説の根拠である忌部については、 なんにも論評してないよ。

296 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 23:02:10
>>270
>環濠の中に方墳、というのは、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓のことを指しておられるのであろうか?

こりゃ九州ですがへの強烈イジメだわなwww

297 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 23:18:03
>>293
たしかに、樋口のスプリング8とか白石説とかのヘタレカルト説に対する
批判で気勢を挙げている部分はページの無駄と感じた。

しかし、位至三公鏡が300年頃に中国で流通していたという部分は、
出土状況が明確であるだけ、そのような中国文献が存在することは、
年代遡上説に対する決定打に近いものがある。

298 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/14(土) 23:53:09
>>296
どうせ墳丘墓は環濠内になんか無い、とか方墳じゃ無いとかケチを付けたいんだろうが
正確に言うと環濠集落の人々が住んでる居住区内に隣接していて
死者の区域と生者の区域が共にある、という事が大事な事だと言いたいのだ。
方や巻向を見よ、死者の場所である巻向は古墳だらけ。
人々が生活した居住区が無い。これが神話でいう黄泉の始まりなのだ。
死を忌み嫌って生活の場と分けるのが畿内の文化であり
死者と共に寝起きして死者の居る空間と共に居る、というのが
邪馬台国の伝統だったのだ。

299 :日本@名無史さん:2008/06/14(土) 23:59:54
>>291

三角を舶載と考えれば、平原を3世紀初頭に繰り上げられるが、
三角を国産と考えると、平原は4世紀初頭前後になるということ?
安本は、三角を国産としてるから、平原を3世紀初頭とする根拠が無いということか。

安本は、九州の庄内式の開始を200年頃にしたいという自分の都合を棚に上げて、
畿内説の年代遡上を批判してるわけか。

安本が畿内説の年代遡上を批判するのと同じく、
九州の庄内式の開始が200年頃だという安本説の根拠を問えばいいわけだな。


300 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 00:14:42
確か、ミスター吉野ヶ里こと高島忠平氏は>>283のような庄内期の始まりを300年頃とする年代観とか。

結局人によって年代観も様々で発掘に当たった学者の年代観で遺跡の年代が発表されるんだね。

でも今のところ年輪年代もC14も年代遡上派wを後押ししている形なんだよねえ。

301 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 00:29:55
>>299
安本説は良くも悪くも他者の説によるつぎはぎが多いんだよね。
全部オリジナルなんて不可能だから。

んで、平原の部分は柳田に乗っかっているが、その柳田は△舶載説の
岡村編年を前提としている。
岡村によれば、画文帯が200年前後から、△は240年には日本に来ていて、
キ鳳鏡、双頭竜文鏡、獣帯鏡、位至三公なども200年前後からの鏡となるから
これらを出土しない平原は新しく見ても3世紀初頭にしかならない。

一方、安本は、画文帯を280以降、位至三公を300以降、△を350頃からとする
から、その編年では平原は300年前後とならないと整合しない。
平原を300年前後とすると、九州の庄内開始もその頃になるのが整合的。
安本も昔は庄内式を300年頃からとしていたのに、いつのまにやら批判の矛先の
年代遡上説に騙されている。

302 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 00:37:40
>298
なるほど
神道の晴れと穢ですね

303 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 01:15:20
邪馬台国の会じゃあ

>鏡の出土分布から見ると、魏の後の晋の時代まで、倭国の中心は北九州にあったと見られる。

・・・って言ってるけど、実際にそれを示す編年データとか出しているの?

岡村編年の実年代をどう弄ろうが、位至三公をどの時代に組み込もうが
それぐらいじゃあ九州の長期衰退傾向は変わらないと思うんだが・・・

304 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 01:18:45

『朝鮮』という国号の意味は何か。

朝には「あさ」の意味もあるが、「一日」という意味もある。
また、鮮には「あざやか」とか「美しい」という意味もあるが、悪い意味もあり、
悪い意味だと「少ない」とか「若死に」という意味になる。
若くして死んだ人間を古い言葉で『鮮者』というのだ。

『朝鮮』という国号は「一日で滅びた国」とも解釈できるのである。
これは漢朝が、『衛氏の国』を滅ぼした後、蔑みを込めて名付けた可能性も考えられるのだ。
つまり、『衛氏朝鮮』自身は、実際は『朝鮮』を名乗っていなかった可能性がある。




305 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 01:32:48
>>303
安本の鏡編年の全体像はよく分からない。
>>292の本では小型倣製鏡U型を位至三公鏡の少し前に中国で流行った鏡を
模倣したとする。この部分は私も同じ考え。
これと>>301の編年をあわせても編年に加わる鏡は一部に過ぎない。

しかも、画文帯は280年「以降」としているだけで300年以降とする含みも
残している。ほかの部分との関係では、画文帯は300年以降になるはずである。

小型倣製鏡U型を3世紀後半以降とすると、九州の庄内式を200年頃からと
する見解に整合しない。U型の出土は庄内式以前に始まっているから。

あの人は論点ごとに一番正しいと考えた説をつぎはぎしていて、整合しない部分が
結構あるね。

306 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 04:16:38
今のところ、纏向から宮のような物が出土するのを畿内説・九州説ともにワクテカしつつ待つしかねえなw

出てくる可能性は高いと思うんだよね・・・

(1)三輪の南に記紀に伝承される雄略の宮と目される脇本遺跡が出土している。
  ならば纏向も「纏向珠城宮」や「纏向日代宮」の跡が出てくる?

(2)最初は上水用の浄水施設と考えられていた遺構が下水用の浄化施設とされている。
  ならばその上流=遺跡の東側に人が多く住んでいたと言う事。


まあ宮のような物が出てきても、それが「宮室・楼観・城柵」も無いとなれば
九州説にとって朗報となるだろうがwww

307 :306:2008/06/15(日) 04:30:04
で、>>306で言った宮に関る素朴な疑問なんだが・・・

「纏向珠城宮」は垂仁
「纏向日代宮」は景行

祟神の宮の伝承地は遺跡のもっと南側、纏向川挟んで三輪の西側じゃない?

祟神の宮伝承地に纏向よりもっと古い遺跡が眠っている?
それとも単に記紀の記述が間違っている?

加えて倭人伝の
『 官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い・・・』
だと官が伊支馬=”活目”、次官が彌馬升=”御間”城 で順序的に逆になっている感じだし
(無論その官や次官が祟神や垂仁かどうかは判らないが・・・)

ひょっとして祟神・垂仁の順序逆って可能性はある?


308 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 06:44:42
>>306
>(1)三輪の南に記紀に伝承される雄略の宮と目される脇本遺跡が出土している。
>  ならば纏向も「纏向珠城宮」や「纏向日代宮」の跡が出てくる?

記紀には邪馬台国も卑弥呼も書いてないんだから、出てこないだろ。
記紀が正しければの話だが

309 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 07:09:01
隋国の役人が、「即ち・・」と随書のなかで、ヤマトに関しての
混乱を断定形で正して見解している。

遣隋使の使者や返礼者としてヤマトを訪れた裴(世)清ら一行の報告
をもって、その混乱も解消した。

「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」
(原文=邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)

この裴(世)清の来日の件は日本書紀では、推古天皇16年の条で大唐
とされている。

日本書記の編者らは隋から唐への革命による政権移行が正しく確認で
きていなかったことは事実である。

しかし、ヤマト側の中国の認識よりも、隋国の使者が正しくヤマト側
のことを伝えていれば、それでよいのである。


310 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 08:27:58
>>301

ようするに平原はすごい遺跡だから、海外とも交流し、舶載の遺物も多いはず。
そこから古い舶載の遺物が出てくれば平原が古い時代に繁栄していた証拠になる。

しかし↓ということだね?(柳田も同じ考え。)

>岡村によれば、画文帯が200年前後から、△は240年には日本に来ていて、
>キ鳳鏡、双頭竜文鏡、獣帯鏡、位至三公なども200年前後からの鏡となるから
>これらを出土しない平原は新しく見ても3世紀初頭にしかならない。

安本は、邪馬台国東遷説を立証したいから、平原を古くし、△を国産にしたい。

△を国産として、350頃からとすると、
画文帯が280以降、位至三公が300以降になり、
今度は平原が古い時代の遺構という論拠が無くなってしまう。

編年の、ひとつの決め手として、
小型倣製鏡U型を位至三公鏡の少し前に中国で流行った鏡を模倣したとする。
しかし、小型倣製鏡U型を3世紀後半以降とすると、U型の出土は庄内式以前に始まっているので、
九州の庄内式を200年頃からとする安本の見解と整合しない。

安本は、畿内説の年代遡上説を否定し、邪馬台国東遷説を立証したいから、
九州の庄内式を200年頃にしたいが、
そのためには、畿内説の年代遡上説を承認しないといけない。
ここに矛盾があるわけだね。


311 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 08:38:41
安本の本では、
「U型の出土は庄内式以前に始まっている」という出土状況について言及せずに、
鏡の編年、土器の編年を、九州説の都合の良いように組み合わせてるんだろうな。
同時に、他の学者の説を引用することは、自説の信憑性を高めることにもなる。

A説の見解と、B説の見解を、部分的に見るとC説が成り立つ、ように見えても、
A説とB説が同時に成立しないような場合は、C説は成り立たない。

自説の論証に利用した他の学者の説が「対立・矛盾」してることは、読者には知らせずにおき、
「自説に都合の悪い記述は無視する」というのが、文献屋の手法だから、気をつけないと。



312 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 09:27:19
>>311

> 「自説に都合の悪い記述は無視する」というのが、文献屋の手法だから、気をつけないと。

まあ、それが邪馬台国論争の本質なんだけどね。
安教授の場合、文献だろうが、考古だろうが、化学だろうが、
全てにお構いなしなところが笑えるよな。



313 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 12:06:58
>>307
ミマキとイクメの部分は面白い考えですね。
魏志にある官名の「ミミ」も後世の名前に多いですね。

おそらくは、官名としての「ミマキ」、「イクメ」、「ミミ」が後世に
名前の一部に取り入れられたのではないかと思います。

314 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 12:41:25
>>313

>ミマキとイクメの部分は面白い考えですね。

陵墓の順番も入れ替わったくらいだからね、

>魏志にある官名の「ミミ」も後世の名前に多いですね。

「後世」って言うか記紀にでしょう。

>おそらくは、官名としての「ミマキ」、「イクメ」、「ミミ」が後世に
>名前の一部に取り入れられたのではないかと思います。

魏志の「官名」ってどう見ても称号。
天皇の「和風諡号」だって称号の一種と言えるものだから「後世」じゃなくても有り得ること。

315 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 13:55:53
ここだけの話だけどw

そもそも安本センセイの「数理文献学」ってのは手法として
或いはジャンルとして学者さん達の間でも認知されているの?

俺の素人目には、言っちゃあ悪いが「エセ科学」っぽく映って仕方ないんですがw

兎に角なんでもかんでも表計算やデータベースにぶち込んでグラフや統計結果とやらを出し
如何にも科学的分析やりましたって・・・エセ科学に良くあるパターンのような(ry

316 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 14:23:05
安本はエセ科学だよ。

安本は他の学者の資料をいっぱい引用してるけど、
安本の説を引用してる学者はいない。
九州説の学者ですら、安本は無視されてる。
安本のおかげで九州説全体がトンデモ扱いされるわけだからいい迷惑だろう。




317 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 14:50:02
九州説がトンデモ扱いされるのは、別に安本一人の責任じゃないだろうに。

318 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 15:58:04
>>315 >>316 連投乙
学界の連中は参入組の都合の悪い学説は無視するんだよ。
昔なら医学博士の中山、その弟子の原田、和辻など畿内の後進性を唱えた説は
100年近く無視され続けてきた。後進性の事実は明白なんだけどね。
出土状況で10〜100対1なんて図表を作る安本も当然無視。

三角縁を国産とする松本清長、奥野、藤田友治や新井も無視されている。
この分野ではいまだに舶載とする人たちの方が重宝されているよね。
日本でしか出土しなくても精神論の方が凌駕する。

このように大本営の方針に従わない説は無視され続けているのが現状。
んで、安本、奥野、新井などは統計で事実を示してこの現状を打破しようとしてきた。
これに反論できないから無視してきたのが学界の暗黒史。

学界の連中は統計なんて嫌いだよ。ごまかしが難しくなるから。

319 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 16:44:44
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html

320 :315:2008/06/15(日) 17:11:23
>>318
>316は俺じゃない、冤罪だあ(棒読み

つうか安本センセイはチョット毛色が違う木が駿河湾w

じゃあ他の九州説の学者が安本センセイの統計を信がおける物として引用したりするの?


321 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 17:15:08
>>318

畿内の後進性と、邪馬台国とどう関係あるの?

具体的にどうぞ。



322 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 17:21:25
>>320
>>316は俺じゃない、冤罪だあ(棒読み

>>316は俺だよ。また連投だって言われちゃうな。すごい偶然だw

安本の統計学に当てはめれば、他人どうしの連投が行われる確立が低いとして、
俺達を同一人物とし、自作自演だとみなすんだろうな。

>>318は、
証拠を探す前から、思い込みで断定するという文献屋の特徴がよく出てる。



323 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 18:00:16
>>318

君の考え方の間違いについてくわしく言及すると、
「畿内の後進性」を統計で導こうとしてるが、
「畿内の後進性」と「王権」との因果関係がまず立証されていない。
先進的な地域に王権が生まれるとする仮定は君の第一の思い込み。
古代において何が先進的で何が後進的で、それが権力とどう結びつくかなんてことは、
間単に断定はできないことだよ。

昔は、鉄器の優位性という話があり、弥生人は農地開墾のために鉄器を求めたとされたが、
弥生時代の鉄器後進国の東海のほうが、
実際は人口も多いし、労働力や物資を畿内に送るほどの余裕もあった。
古墳時代になって畿内に鉄器が増えてきた頃、東海の鉄器が逆に減少したという「統計」もある。
これをどう説明するつもりなのかな?

第二の思い込みは、学会が統計を無視してると考えていること。
統計は、学問をする上で参考にはなるが証拠にはならない。
統計でどんな結果が出ようとも、証拠がなければ事実とみなされないんだよ。
三角が国産かどうかという話は、国内で三角の鋳型が見つかってはじめて国産だという証拠になる。
鋳型が見つからないのに、国産と主張するのはただの思い込み。願望。仮説。
いくら中国で三角が一枚も発見されなくても、それは統計上の話にしかすぎない。
「三角は国産」という論拠として不十分なのさ。

証拠第一主義が、間違いを犯さないための学問的手法なんだよ。



324 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 18:50:13
                                        
また、朝鮮人工作員がYOUTUBEを荒らしているよ。
ヴァニラムードの動画のコメント欄に、
「THEY LOOK LIKE ROBOTS」(彼女たちはロボットに似ている)
と、同じようなコメントを何度も繰り返し書き込んでいる。
ヴァニラムードの動画がYOUTUBEで紹介されて、
海外でもヴァニラムードの人気が高まっているものだから、
嫌がらせで書き込んでいるのだ。                   
                                                                         
★YOUTUBE−Vanilla Mood
 http://jp.youtube.com/watch?v=fuMzlgLrIQ0&feature=related
                                                                          
 ルパン三世のテーマ                         
 http://jp.youtube.com/watch?v=0Ax0VbRnIoE&NR=1            
                                                                           
■VANILLA MOOD                     
 http://blog.vanillamood.jp/                        
                                        


325 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 18:52:08

YOUTUBEのコメント欄に、日本人や日本のことについて書く際に
やたらとJAP、JAPと書いている奴は、朝鮮人工作員だよ。
                                        
「JAPはすばらしい」「JAPは天才だ」「JAPガールはキュートだな」などと、
褒めるようなコメントを書きながら、JAP、JAPと繰り返すのが
朝鮮人の書き込みの特徴だよ。
JAPという表現を、YOUTUBE内で広めようとしているのだ。
中国人や韓国人について書くときには、CHINESE,KOREANと書くくせに、
日本人について書くときにはJAPと表現するのが、朝鮮人の手口だよ。


326 :唐松山:2008/06/15(日) 20:25:27
お〜い 喰えそうにない物を もってこ〜い。 喰ってみせる。

下痢を起こすのは、私だから 遠慮無く持ってきて
ただし 箸を付ける、付けない、は 私の勝手、
甘い物=食べられるけど キライ。


327 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 20:41:51
>>323
鉄も鏡も朱もガラスもヒスイも絹も弥生時代は北部九州での出土は畿内を
圧倒するという事実がある。
それを「権力」とか「王権」とかの実体のない空疎な概念に還元することにより
ごまかすようなやり方は無理でしょう。
いまどき抽象概念を駆使して畿内の後進性を正面から否定する人って、
  ・・・・・もしかしてアナタは某大学の生協にお勤めでしょうか。

統計の話は論点がずれていますね、「古墳時代より以前では畿内の遺物の
出土量が少ない」ことを学界の主流派が100年程無視し続けてきた事実
を打破するために統計によりはっきりと数値化したという意味があります。
まあそれでも無視している人が多いようですが。

三角縁の話はネタでしょうから、答えません。

328 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 21:23:38
>>327

>鉄も鏡も朱もガラスもヒスイも絹も弥生時代は北部九州での出土は畿内を
>圧倒するという事実がある。

この文言から、王権発生には、出土物の先進性が必要だと妄信してることがわかる。

こっちは、畿内の後進性を認めたうえで、後進性と王権発生は無関係と指摘してるのにな。
いったい、どういう論拠があって、九州の出土物の先進性と、畿内の王権発生が結びつくのかね?

畿内は後進国なのに、畿内で王権が発生したという事実すら認めないってどういうこと?




329 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 21:28:18
どうせ、>>327の頭の中には、
先進性のある北九州で王権が発生して(邪馬台国)
それが畿内に遷都したという安本と同じ空想をしてるんだろう。
それならそうとハッキリ言えば?


330 :日本@名無史さん:2008/06/15(日) 22:11:13
王権とは人の動員力だと思う
富豪なだけでは王とは言わない

331 :日本@名無史さん:2008/06/16(月) 00:40:08
>>327
>・・・・・もしかしてアナタは某大学の生協にお勤めでしょうか。

ヨコからだけど、某邪馬台国の怪にも年代遡上の筆頭として槍玉に挙げられている
某タイチロー氏にかけているんだよね?w

つうかね、毎度毎度なんだけど邪馬台国論争において
弥生時代を通しての九州における文物の豊富さを語って
何の意味があるの?って話で。

傍から見たら「ハイハイ九州は凄いですねー」と誉めてもらいたくて駄々捏ねている子供だよw

後漢の滅亡と共に九州以東に対するアドバンテージが著しく低下し
勢力が東にシフトしたのはもう覆し様が無いんじゃねえの?

まあ九州説論者にもスタンスとして
 
 ・ある程度は考古学が示す弥生末期の様相を受け入れて九州説を述べる。
   (当時の倭国最大勢力が冊封されたと言う保証は無いのだから・・・)
 
 ・考古学が示す弥生末期の九州の衰退傾向自体を認めない。

と二通りの方向性があるように見えるw

個人的には前者については説としては認めざるを得ないと思うけど
(地理的優位さはあるわけだし、事実半島からは畿内の土器出ていないとか・・・)
後者については些か電p(以下略

332 :日本@名無史さん:2008/06/16(月) 13:23:33
3世紀初頭の時点で北九州が衰退して、機内が繁栄し、
庄内式土器は畿内から北九州に拡散したと認めた上で、
九州説を唱えれば叩かれないってことでしょ?

考古学をそのまま受け入れても、九州説は成立すると思うんだけど、
どうして九州説の人は考古学を否定したがるんだろう?
コンプレックスでもあるの?

333 :サガミハラハラ:2008/06/16(月) 13:33:16
否定したがるのは、考古学者の主張する年代なのです。
畿内説(考古学者のほとんど100%邪馬台国畿内説だそうです)のかたがた
は年代を古く古く遡らせようとしていることに不満なのです。

334 :日本@名無史さん:2008/06/16(月) 15:28:47
>>332
その「考古学」って何?
三角縁が、日本で500枚以上出土で中国、朝鮮で0枚だけど
中国製という結論にすること?

あの人たちって東日流信者よりキモいよね。

335 :日本@名無史さん:2008/06/16(月) 15:57:04
>>334
>その「考古学」って何?

考古学の研究者には森浩一氏もいるよ、キモいかい?

336 :日本@名無史さん:2008/06/16(月) 16:04:07
>>333
畿内の年代が古くなれば、同時に九州の年代も古くなるから関係ないのでは?

どうして年代を古くさせると、九州説の不利になるのか教えてくれ。


337 :日本@名無史さん:2008/06/16(月) 16:27:58
>>264 九州ですがへ
>吉野ヶ里遺跡がまさに卑弥呼の時代を生き抜いた環濠集落であることに疑いは無い。
>ここの墓はどうであるかというと環濠の中に方墳がある。これが卑弥呼の時代の墳墓であり

吉野ヶ里の北墳丘墓は弥生中期のものだぜwww

http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=12
>このお墓は、弥生時代の中頃、紀元前1世紀のものですが、その後はお墓としては使われなくなり、
>その代わり祖先の霊が眠る場所として、人々から大切にされていたようです。

卑弥呼の時代より二百年以上も昔に出来たのが吉野ヶ里の北墳丘墓だよwww
九州ですがは吉野ヶ里遺跡は見に行ったんだろう?
甕棺も型式編年がわかるようにたくさん解説付きで展示してあっただろ
いったい吉野ヶ里で何を勉強してきたんだ?www

338 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/16(月) 17:42:53
>>337
だからその問題はこのレスで解決済みなんですけど。

298 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/14(土) 23:53:09
>>296
どうせ墳丘墓は環濠内になんか無い、とか方墳じゃ無いとかケチを付けたいんだろうが
正確に言うと環濠集落の人々が住んでる居住区内に隣接していて
死者の区域と生者の区域が共にある、という事が大事な事だと言いたいのだ。
方や巻向を見よ、死者の場所である巻向は古墳だらけ。
人々が生活した居住区が無い。これが神話でいう黄泉の始まりなのだ。
死を忌み嫌って生活の場と分けるのが畿内の文化であり
死者と共に寝起きして死者の居る空間と共に居る、というのが
邪馬台国の伝統だったのだ。


339 :日本@名無史さん:2008/06/16(月) 17:52:03
>>338
>死を忌み嫌って生活の場と分けるのが畿内の文化であり
>死者と共に寝起きして死者の居る空間と共に居る、というのが
>邪馬台国の伝統だったのだ。

ソースは?



340 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/16(月) 18:02:14
>>339
ソースは無い。自説だから。というか考えるまでも無く書いたとおりだろう。
少なくとも巻向はそうだ。祭祀施設のみの王家の谷のようなもんだ。


341 :日本@名無史さん:2008/06/16(月) 18:17:09
別に王家の谷つーイメージじゃないな。
古墳はどうしても目立っちまうし、祭祀遺杭みたいなのもあるが、
半分ゴミ捨て場みたいなところも多い。
かなり、雑然とした「聖域」だったんだろうねw

342 :日本@名無史さん:2008/06/16(月) 19:26:50
>>340
根拠も無い自説は、ただの妄想と言うんだよ。
ここは学問板だぞ。

343 :日本@名無史さん:2008/06/16(月) 19:38:05
>>264
私も吉野ヶ里の北墳丘墓が卑弥呼の時代かと考えたことがありますが、
どうも難しそうですね。

年代遡上説に拠らず弥生時代(環濠集落期)を300年頃までとしても、
北墳丘墓の甕棺は甕棺墓の分類では中期となるので、新しく見ても
150〜200年頃がせいぜいでしょう。

しかし、庄内式が出土していることから環濠集落自体は300年頃まで
続いていたと考えられる。
とすると、200〜300年の間の墳墓が存在しないことになってしまう。
しかし、甕棺墓の分類(とくに順序)には誤りはなさそう。

そこで、九州の環濠集落の解体が畿内より遅れていたと考えてみる。
つまり、東征により畿内の環濠は埋められたが、九州では少し遅れて
320〜330頃に環濠が終焉を迎えたのではないか。
こう考えると北墳丘墓は卑弥呼の時代に近くなります。

ただ、この考えは甕棺編年とのずれが大きくなるのが難点。

344 :サガミハラハラ:2008/06/16(月) 20:27:59
吉野ヶ里が西暦50年代から230年代まで邪馬台国の都であったことは間違いありません。
ただし230年代に小城市甘木に遷都しております。
ですから、吉野ヶ里の発展は3世紀中ごろまでなのです。
北墳丘墓の埋葬は2世紀終盤までですが、これは甕棺葬が180年ごろをもって終了しているからです。(吉野ヶ里以外でも)
おそらく卑弥呼が即位した際に、甕棺葬を廃止したためであると考えられます。

345 :日本@名無史さん:2008/06/16(月) 20:29:47
箸墓築造が四世紀末なら吉野ヶ里三世紀中庸でも無理ではない。

安本は箸墓を四世紀後半としている。

346 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/16(月) 21:13:36
>>342
墳丘墓は環濠集落の人々が住んでる居住区内に隣接していて
死者の区域と生者の区域が共にある、という事が大事な事だと言いたいのだ。
方や巻向を見よ、死者の場所である巻向は古墳だらけ。
人々が生活した居住区が無い。

というのがこちらの言い分なのに、一体そのどこが「根拠も無い妄想」なんだか。

347 :日本@名無史さん:2008/06/16(月) 21:32:11
>>345
第26代の継体天皇についてだが、没年は527年、531年、534年の3説あるが、
まあ6世紀前半に亡くなったのは間違いないだろう。

その継体の墓だが、これはなぜか宮内庁指定(茨木市の古墳)がおかしいので
真の継体陵は高槻市の今城塚古墳というのが定説。

以上は>>345は同意か?

同意であれば、「箸墓築造が4世紀末」なんてのは大トンデモであることは解りそうなものだが。

348 :日本@名無史さん:2008/06/16(月) 21:40:41
>>346
吉野ヶ里の北墳丘墓が築かれたのは卑弥呼の時代ではない、もっともっと古い
と、この点は認めるんだね?

349 :日本@名無史さん:2008/06/16(月) 21:42:20
>>345は安本の本しか読んで無いんだから、そういじめるなよ。

350 :日本@名無史さん:2008/06/16(月) 21:42:23
>>347 3C半ばとか3C末よりはずっとまともだよ。

実際に周濠の布留1の層から馬具が出ている。
これが稀なる偶然で最古であるという考えによらず、馬具が広まった後の
ありふれたものであるとすれば、箸墓が4C末というのはむしろ自然。

今城塚古墳を6世紀初めとするところから遡るのは、根拠として
遠すぎる。

351 :日本@名無史さん:2008/06/16(月) 21:46:09
>>350
3世紀に馬具があってもおかしくないだろ。

倭国に運ばれる馬は、駄馬じゃなくて貴人様の馬なんだから、
とうぜん馬具付き。

魏志倭人伝にも、倭国には馬がいないから、馬を自前で運べと言外に書いてある。


352 :日本@名無史さん:2008/06/16(月) 21:46:27
>>344
甕棺は地域によっては古墳時代まで続いていますよ。

353 :日本@名無史さん:2008/06/16(月) 21:52:37
>>343

東征さん、

大和朝廷の宗教祭祀を司る「忌部」が四国を拠点にしてることは、どう説明するわけ?


354 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/16(月) 22:04:50
>>348
誰もそんな事否定して無いでしょ。

355 :前レス573 :2008/06/16(月) 22:44:37
ごぶさたです。
足跡的に書いておきます。

ですがさんが書いてる死者の話は
魏志倭人伝の「持衰」かtら来てるのかな?
いわゆる依り代ですよね。興味深い。
中国では珍しかったんでしょう。
これは東北文化圏を主張してるわたしには興味深いです。
亀ヶ岡とか。

356 :日本@名無史さん:2008/06/16(月) 22:55:21
ですがさん、

大和朝廷の宗教祭祀を司る「忌部」が四国を拠点にしてることは、どう説明するわけ?


357 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/16(月) 23:04:45
>>356
畿内の祭祀は四国に起源があるかもよ。
ただそれだけの事。

358 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 01:15:50
>>335
>森浩一氏

この間読んだ本に
「ぼくの古代史についてのまとまった発言はこの本が最後になるだろう」
みたいなこと書いてたなあ・・・。
(まあ年齢が年齢だし・・・)

詳細は知らないど(読んだ本にも詳細は載ってなかった)伊都国東遷説を唱えた人だっけ?



359 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 01:39:02
しかし>>334みたいなレス読むと九州説論者が考古学を毛嫌いしているのが如実に判る(ゲラ

でも邪馬台国論争を俯瞰するならば、明治に久米邦武が
「邪馬台の考証時代は既に通過したり、今は其地を探検すべき時期に移れり」
と言って女山の神籠石を邪馬台国関連の遺構として以来

(それに対し「文献考証をもう一度きちんとやろう」と言ったのが内藤湖南で)

江田古墳とか近くは吉野ヶ里と考古学に期待を寄せたのはむしろ九州説の方なんだよなw
ぶっちゃけ考古学が畿内説に寄って来たのはつい最近の事なんじゃないのか?

で、九州説論者の一部は”先祖返り”を起こして魏志倭人伝の文字の中にのみ邪馬台国を見出そうとしているとwww

確かに魏志倭人伝が全ての始まりでありαであるんだが、それだけでΩに到達できないのは100年もかけて判っている事なんじゃないかと・・・・



360 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/17(火) 05:14:44
>>359
最近の考古学の年代遡上は北部九州邪馬台国説の支障とはなり得ない。
まず方向でいえば古代の中国人が南と東を取り違える事など無い。
14世紀かの日本逆転地図?とやらを持ち出して畿内説曰く
「水行十日陸行一月もの長い間、魏使が南と思って進んだ方向は実は南だったのである」と。
文献など当てにならないと豪語しながら、おかしな地図を持ち出し根拠にする考古学畿内説。
「魏使が方向を間違っただけだろ?」考古学は学問だと言いながら、
たったこれだけの根拠の無い勝手な想像から始まってあれやこれやと追求しても
そもそも畿内自体邪馬台国とは無関係な場所である事は倭人伝が随所で指し示すところである。
考古学の成果をとやかく言うわけではないが、それが邪馬台国ではない。
というのが倭人伝という文献から見た答えである。

361 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 07:33:40
と、漢文読めない「文献派」九州教徒が宣っております。

362 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 10:49:22
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html

363 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 12:01:59
吉野ヶ里を200年古くしてしまう事で
「卑弥呼の時代には九州は廃れ始めていた。」
と主張しているのが畿内説。

箸墓周濠から出土した木製輪鐙は
大陸で普及したのが5世紀と言うのは考古学では常識なんだが。
http://bp3.blogger.com/_71OM9lkGuVg/Ra8ZvdIRDhI/AAAAAAAABNI/G5Pf8ibpFNM/s1600/a100-IMG_0004.jpg
これには鐙は見えない。
http://bp3.blogger.com/_71OM9lkGuVg/RbCoUNIRDmI/AAAAAAAABOg/jp8QrQLKu84/s1600-h/477nw.jpg
これも四世紀末だが鐙は見えない。
鐙がはっきりと見えるのは後4世紀西晋時代の湖南長沙金盆嶺21号墓に副葬された騎馬俑が
最古の鐙として確認される。
中国南部の馬に乗るのが苦手な連中が発明したのだろう。
http://bp3.blogger.com/_71OM9lkGuVg/RbQgoNIRD8I/AAAAAAAABSc/iri82-bE2C8/s400/a569nz.jpg
では鐙があったかどうか判らないが、高い鞍が付いているところを見ると鐙が有った可能性がある。
鐙と硬式鞍はセットだから。
北方民族の間に鐙が普及したことがわかるのは北燕の馬コウ墓5世紀前半だ。
こういう事実を考えれば箸墓は5世紀のものだと考えなめればならない。

考古学を全く無視して成り立つ吉野ヶ里200年繰り上げ。

364 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 12:32:39
>>363
>箸墓は5世紀のもの

それは絶対にありえないと思うんだが
ちょっと参考までに君に聞くけど
それじゃ4世紀の古墳としてはどこの何ていう古墳が挙げられる?
前方後円墳で一つか二つ挙げてみてくれないか

365 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 13:10:06
箸墓で輪鐙が発見されてから3Kは寺澤年代に転換したようだね。
箸墓は卑弥呼の墓でも台与の墓でもなく次の男王の墓と新聞に発表した。

366 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/17(火) 13:18:07
所詮考古学とは時代を自分本位に勝手に自説に合わせて自由自在に動かし
自分の学説の裏づけとして取っ付け貼り付けする面白モザイク工房に等しい。

367 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 13:19:29
吉野ヶ里を卑弥呼の時代にすると、もっと九州説に都合が悪くなることに気が付かないのかな?

箸墓が4世紀だとしても、だから何?
3世紀に繁栄した九州の邪馬台国は、4世紀に自滅したの?

368 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 13:31:57
>>367
>3世紀に繁栄した九州の邪馬台国は、4世紀に自滅したの?

狗奴国が邪馬壹国を滅ぼして「大(だい)国」と名乗った。
だから、4世紀以後の史書には「邪馬臺国」と書かれる様になった。
6世紀後半くらい前までは九州王朝は続いていたのだろう。
倭の五王はどう考えても畿内じゃないし。


369 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/17(火) 13:59:40
倭人伝に「當在曾稽東冶之東」とあるよう倭国は上海の東にある。
畿内説曰く「倭人伝の記述は東を南と間違えていて邪馬台国は畿内である」
という魏使は方向音痴だったとの言い分が全くトンチンカンなことがわかる。
上海の東は北部九州ではないではないかと言うかも知れないが
「山島にあって国邑をなす」=九州、なので西南諸島を含め倭国と考えられていたので
不自然ではない。それに比べれば「東という方向さえ南と間違ってしまった」などという
畿内説の言い分こそ、まるで古代中国人を蒙昧扱いした不当な主張だろう。
方向の逆転した14世紀くらいの地図を持ち出すには及ばない。
よけいに矛盾だらけになる。


370 :ローガン:2008/06/17(火) 14:06:49
>>366
貴方の考えにそぐわないので駄々をこねてるだけとしか思えない。
そんなに「考古学」が嫌いなら、文献資料の少ない古代史などに興味を持たない方がいいでしょう。

371 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 14:14:36
>>369  同意。
南を東と読み替える考えは、松浦、伊都国、奴国まで
方向はだいたい正しいということを無視していますね。

途中から方向を間違えたというのは、まあ無理でしょう。

372 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 14:25:50
>>368は九州王朝説か。
>>369のですがも、九州王朝に発展したと思ってるのかな?



373 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 15:28:02
>>366
前略
 斯くの如く考古学を全否定されるのであれば、今後は「縄文時代」
「弥生時代」「古墳時代」「環濠集落」「周溝墓」「墳丘墓」「箱式石棺」
「庄内式土器」「布留式土器」「内行花文鏡」「三角縁神獣鏡」「特殊
器台」「形象埴輪」等々の、一切の考古学用語をお使ひにならずご投
稿くださるやうお願ひ申し上げる。草々
  2008年6月17日
                         クリスチャン・トムセン
                         オスカ−・モンテリウス
                         ハインリッヒ・シュリーマン
                         ウィリアム・ガウランド
                         ウイリアム・フリンダース・ペトリ
                         エドワード・モース
                         ゴードン・チャイルド
                         ハワード・カーター
                         アルフレッド・キダー
                         濱田耕作
                         森本六爾
                         アルベルト・ルス

九州ですが 殿

374 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/17(火) 15:30:48
>>371
そうです。南を東と読み替える事は小学生でも解る破綻をしている事は明白で
それならそもそも帯方郡出発時点で東方向に向かわなければおかしいわけです。
方向を間違わずに九州に到着してるのですし、それからも、どの地点で計ったか解らないのに
松浦国、伊都国、奴国に至る方向が違っているなどと言い出すに至っては言い掛かりの類といえます。
この頃のクニは既に点ではなく面の時代に移行しているので通る道すがら計れば
直線道で無い限り誤差が出るのは当然のことでしょう。
こんな可能性だって有り得る。例えば魏使が「伊都国の方角は?」と倭人に聞き、
倭人が大体の方向を指し示し、それを魏使がコンパスで測量した、というもの。
いくら魏使でも大勢の倭人の前で器具を用いて測量したという事には懐疑的で
怪しまれないように時たま方位磁石を見る程度だったのではないかと思う。
実際四川地方は三国志時代地形は極秘中の極秘であったし
魏使も倭人に配慮して寸分もの正確には測量してはいないと思う。
女王の都の場所がぼかされているのも、同じ理由からだと思う。


375 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/17(火) 15:37:40
>>373「斯くの如く考古学を全否定されるのであれば」

日本の考古学だけでしょ。いい加減なのは。
世界の考古学は真実を追究するが日本の考古学は自説を守る為には
文献をも捻じ曲げる。


376 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/17(火) 15:48:57
中国の正史は正式と認められた次代王朝によってつづられる。
魏の次の正式な王朝は晋だが、後世倭国にとって敵対する王朝が出現する可能性もある。
倭国を正確に測量したものが中国で長く後世に残るとしたら
倭国にとって脅威となるのは間違いない。
たとえ倭人が原始的ではあっても、そこまで愚かであったとは思いたくない。

377 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 16:49:35
>>376
思いたくない、思いたいは、布団の中で叫んでくれ。属国になれば、宗主国の尻の穴も笑顔で舐めなければならないし、しゃぶれと言われれば、顎が外れるまでしゃぶり続けるのが属国だ。

378 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/17(火) 17:38:57
>>377
だから倭は魏の属国ではないと言ってるだろうに。

>>213
「邪馬台国が柵封で無い根拠」参照。

379 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 17:45:32
詔勅の存在は無視か。
まさに何だって有りの珍読だな。

380 :アホ♯うんこ:2008/06/17(火) 18:16:02
うんこ

381 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 18:53:06
いろんな本や、いろんな方の意見を聞いて、
やっと邪馬台国が大和だと確信できました。
水行十日、陸行一月という旅程は、九州では狭すぎますから。
朝鮮半島から唐津まで、古代船でも1、2日で着くわけですから、
そこから水行十日を計算すれば、本州の内陸までいってしまいます。
九州の中だったら水行十日とは書かないでしょう。




382 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/17(火) 19:41:27
邪馬台国が大和に 異論は無いが、
大和に 卑弥呼が いないのも 事実。

そして 神功元年 日食、 是を無視するのが 現在の史学。
考古学を批判する前に 自分の態度を改める、所から。


383 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 20:07:20
>>382
意味が不明です。
邪馬台国の女王が卑弥呼です。
よって
>邪馬台国が大和に 異論は無いが、
の文と
>大和に 卑弥呼が いないのも 事実。
の文章は矛盾しています。

説明して下さい。それと(句点代わりの?)無駄なスペースを空けないで下さい。
読みづらいから。

384 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/17(火) 20:16:54
>>381
九州内部を探検して右往左往、疲労困憊して準密林を山賊とか薮蛇の
恐怖をかかえて遣使が兼観光すれば、そのくらいはかかる。女王国で
歓待されて滞在も考えて陸行一月は不合理ではない。もっと滞在を
伸ばせば二月、三月でもおかしくはないぜ。

385 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/17(火) 20:26:12
伊都国から、水陸併せて1月位の旅で、大和に付けます。 邪馬台国=大和
後は、大和に女王を捜す。 卑弥呼に相当する女性も、年代も在りません。
卑弥呼の正しい年代は、景行天皇時代です。


386 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/17(火) 20:31:04
卑弥呼が邪馬台国を離れて遠隔地に住むなどとは、唐松山さん、
考えすぎの暴論でな。

387 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/17(火) 20:47:01
伊都国を出発 隣の国(村)で歓待1泊…くりかえし…30日後邪馬台国に着く。
さて チンジュは何処へ着いたでしょう。

これが太国さんの 本音?

388 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 20:51:04
>>385 唐松山君
つまり君は、邪馬台国は大和だが、卑弥呼に相当する人物に見当がつかない、と言いたいだけなのか?

389 :警告:2008/06/17(火) 20:52:58
>>387
無駄な空白を入れるな、ちゅうに

390 :前レス573 :2008/06/17(火) 21:07:47
>>374
>そうです。南を東と読み替える事は小学生でも解る破綻をしている事は明白で

それは正しいと思いますが
どうしても末盧國を松浦に否定したいのなら
伊都を阿蘇付近、奴国を都城あたりに考えたほうがいいと思いますよ。
陸行の距離を勝手に解釈しちゃいけないでしょう。

わたしは再三、末盧國=松江、伊都國=丹波という説ですが。

391 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/17(火) 21:20:41
伊都国から1ヶ月程旅をすれば、大和に着く。本当
景行は、畿内から豊まで20日間で到着

「弥呼に相当する人物に見当がつかない」でなく大和に、弥呼に相当する人物
は、居ません。


392 :前レス573 :2008/06/17(火) 21:27:53
ちょっと酔っ払ってるので
なんで丹波が重要だったか
自分の妄想を書いとこうかな。

丹波はもちろん、日本海側(表倭国)への砦だけど
それ以外に重要な鉱物産地だった。
剣=マンガン
鏡=水銀
玉=菫青石(桜石)

水銀と菫青石は航海に使われてたんじゃないかなーって

393 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 21:29:17
>>384

水行十日の説明にはなってないよ。


394 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/17(火) 21:33:55
どうよ?終止符スレでの解析は?
巫女の33才はどうでつか?

まだ女性としてまだまだいけるでしょ?

ちなみにわたしは、どうもすみませんm(__)m もっと若い子がいい...。

395 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/17(火) 21:35:31
>>381「朝鮮半島から唐津まで、古代船でも1、2日で着く」

解って言ってるのでしょ。帯方郡から水行して十日。だと。
陸行は朝鮮半島でも陸行があったと思うが、魏使が九州に上陸した後も
一直線に南下したのではない。

396 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 21:36:49
>>390
末盧国・伊都国日本海側説に賛成。
出雲から但馬、丹後で上陸して丹波経由で畿内に向かう。
このコースが安全だったのではないかと思われます。
そこを支配していたのが出雲。
瀬戸内海には海賊がうじゃうじゃいて危険でした。

397 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/17(火) 21:38:33
アルコール入の 唐松が太国さんに変わって、
水行十日=酔行10日 
最後の10日なんか 覚えているかー。

丹波重要ですよ 神武 でさえ3年を増した土地です。


398 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/17(火) 21:45:39
女30才 大奥なら 下げられる年齢
出産適齢期が過ぎたので…お暇を…

半島から唐津、天気待ちが季節に依って違うだろうが 何日見るか?
中国天子の代理が渡海となれば、それ相応の用意も必要。


399 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 21:50:01
>>389空白というものは決して何から何迄が無駄では
ないのであって適度に挿入された空白はその視覚的
効果により文章読解を大いに手助けする機能を持つ
これはしかし日本古来からの文章記述の仕方という訳
ではなくてわが国が鎖国を解き欧米の文物がどっと流
入しだした明治以降の流儀と考えられるのであり英文
仏文露文等の西欧語はいずれも単語間を空白で区切る
ことにヒントを得た新しい書き表し方であったろうと思う
翻って考えれば句読点すなわちテンやマルさえ近世以
前はこれを文章に必ず打つべしなどという決まりは無
かったのであり古史料がただダラダラと文章を連ねて
いるのは中国伝来の漢文書法に基づいておりこれは
平安期に仮名が発明されても基本的に変化しなかった
いま我々が魏志倭人伝を影印本で読もうとすると空白
が無いために読みにくく感じるし某虫の如くトンデモな区
切りをする輩がいっぱしの能書きを垂れるのも以下略

400 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/17(火) 21:53:34
5,7,5 で文章を書きたい。

ハジなら 山ほど掻いてるが…ボリボリ


401 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 21:54:10
>>399
津田先生のような文章ですな。


402 :前レス573 :2008/06/17(火) 22:02:06
>>396
でしょでしょ。
対馬-糸島-松江-丹波(伊都國)に到る。
美濃、名古屋(奴國)で南岸の伊勢湾から
南北二つの沿岸ルート。
今の日本とほぼおなじ地形を見事に描いてるんだよ、陳寿さんは。

403 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 22:05:09
>>395
>解って言ってるのでしょ。帯方郡から水行して十日。だと。

じゃあ投馬国のところの水行二十日は何処から何処までの行程なの?


404 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/17(火) 22:07:58
>>387 唐松山さんよ
畿内のほうが邪馬台国で九州に卑弥呼がいたなどとは、客観的に考えて、それは
あんたの説が無理に合わせたことからの結果だということが一目瞭然であり、
破綻の極みなわけだよ。そんな説は女王国がエジプトだとかいう主張の類に
入れざるを得ないとしちゃう。w

>>393
水行だっておかしくはないよ。1日ゆっくり船に乗りどこかの岸で異国の民が
いるから下船してそこで1泊2泊、さらに乗船してそこを去り海岸沿いに他の
地の民を同様に歓待等を受けて日程を過ごせば十日など軽く消化する。下船して
地に体がついたってそんなの別々に記載するほど細かくする必要などないから
一括して水行と書いても当然だよ。

405 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/17(火) 22:17:02
>>402
>今の日本とほぼおなじ地形を見事に描いてるんだよ、陳寿さんは。

陳寿ではナイ どこに「陳寿」とか書いてるねん?「陳壽」だよ。
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-toui.html



406 :唐松山:2008/06/17(火) 22:28:26
半島は、帯方郡の内
対馬から 南?は倭国であり、半島と同じ対応とは行かない、倭国を有利に取り込む
為には、倭国の言うことも聞かないと、有利に話を進められないから、
例え安酒でも、其れを飲めばそれで、取り込めれば安いもんでしょ。

酒飲みの論は、酒のためには、美女を売る位 たいした問題ではない。 
求む買手 物件 「卑弥呼」。
?少し方向が狂った?



407 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 22:29:49
>>405
じゃあ、謎の女王卑弥呼、ってのもダメってことになるね、原文は卑彌呼だから。
誰があのスレ立てたんだい?WW


408 :唐松山:2008/06/17(火) 22:38:58
>405改めさん ごめん

今日は、もう文字が踊ってる。


409 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/17(火) 22:40:05
>>403
倭人は距離を日数で表す、という事からも「水行二十日」や「水行十日、陸行一月」は
倭人が言ったものを書き写したものである事。
女王国までは帯方郡からの1万2千里という距離がわかっているが
投馬国までは距離の記述が全く無いため、どこから水行二十日であるか不明であるが
恐らく帯方郡からだと思える。投馬は邪馬台国連合に属すかどうかも不明で
奴国が女王国の境界であると定めているので{その南が狗奴国}
何か別の島であるのかもしれない。

410 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 22:44:15
>>402
そうでしょう?
珍壽の記述は、日本海ルートと太平洋ルートを併記しているということです。
そして、いずれのルートを辿っても畿内に到る。

411 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 22:45:41
>>407

gj

412 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 22:49:26
>>401
>津田先生のような文章ですな。

私 には 津田先生 と いうよりも 文芸評論家 の 吉田健一氏 の 文章 が
思い起こされる。 吉田健一氏 は 吉田茂元首相 の ご子息で あった。

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/yoshidakenichi.html

413 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 23:13:56
>>409

> どこから水行二十日であるか不明である

己の漢文力の無さを武器にして、都合よく返答をぼかしてるねw


414 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 23:32:49
>水行二十日

直前に言及されてる不彌国から投馬国までの日数、とするのが最も自然な解釈。

415 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/17(火) 23:51:18
>>414
今まで陸行で来てるのに突然水行なんて変だと思わないのか?
不彌国の船着場から倭船に乗って投馬の港に着く、わけだろうが、
海岸沿いにあるんだったらなぜ狗邪韓国で海を渡り最初から投馬国に行かないのだ?
ややこしい不彌国までの道程に何の意味があるのだ?
それに不彌国は内陸部となり近くに海岸は無い。あるとすれば筑後川だ。
この川を下って鹿児島か宮崎県のどこかに着いた、とでも言うのならまだ解る。

416 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 00:39:56
外国の船乗りが流れの早い瀬戸内海を行くのは無理

417 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 05:36:44
そういえば山陰地方あたりが投馬国と書いた畿内説か何かの比定図を見たことがあるが
根拠は無い。まして投馬国が伊都国というのは聞いた事が無い。ただのこじつけであり
思考するにも及ばない。出雲、吉備、など古代から有力な権勢を持っていた地域の名が
倭人伝にそれらしいものさえ出て来ないのが一番の理由で、記された距離も方向も全て違う。
「自女三國以北其戸敷道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳 」とあるが
魏使は一貫して南、東南方向へと進んでいるのであり
「女王国より北のクニグニの戸数と距離は詳しく解る」とは今まで通過したクニのことで
南には狗奴国があり「遠絶して詳しくその様子が解らないクニ」とは東にあるクニグニ
つまり畿内方面の事を指している。倭人伝に「山島にあって国邑をなす」と。
当時本州は島という認識が無かった事からもこれは九州などの島の事を言い
さらに晋書四夷伝に「小国相接す」とあるように狭い地域に小さいクニが
団子状にくっついていたのであり、北部九州から飛んで山陰にあったり
畿内にあったりと付かずくっつかずでクニグニが離れていた様子は
倭人伝には全く窺い知る事が出来ない。小国同士が相接していたからこそ
互いに争って倭国大いに乱れる状態となったのであり海を挟んで離れていれば
間違いなく海戦となっただろうがその様な痕跡は無い。
又遠く離れているクニ同士が戦うとすれば騎馬民族宜しく馬が無いと無理である。


418 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 08:24:23
>>417九州ですが氏へ
>魏使は一貫して南、東南方向へと進んでいるのであり

倭人伝記載の方位・行程を、全て魏使が実際に辿った旅程そのものとする前提があるようだが、
それこそ根拠はどこにもないのであって、貴君の思い込みではないのかね。

半島と倭の間は民間人(船乗りや商人)も動いていたと見られ、そうした人々の知識や、
あるいは女王側の遣使から、また魏に移住した生口たちからも、倭の地理的情報は得られただろう。

ところが一方で、貴君は>>213
>つまり魏使は女王の都にさえ行っていない可能性が大きい。
とも言っておるね、
自己矛盾ではないのかね。

そのときそのときで思い付き発言をするようだと矛盾が露呈すると思う。

私は伊都国は、通説のように前原市(それと今宿五郎江遺跡のある福岡市西区)と思う。
それで、多くの民間人も行き来していたであろう半島〜伊都国近辺間の地理的記述は
そうした人々の知識が基になっていると考えている。
しかし行程を日数で表した投馬国・邪馬台国は、魏使の直接体験が反映された可能性を考えたい。
魏帝の詔勅あっての遣使なのであるから、倭に赴いて必ず女王に会ったであろう。

末盧国(唐津市)は、魏使一行は立ち寄っていない可能性を考えていることも、付け加えておこう。

419 :418:2008/06/18(水) 08:50:17
418だが、以下補足説明しておく。

よく伊都国を境に、道程の記述の仕方が変化していることを取り上げて

「伊都国は『郡使往來常所駐』、だから伊都国までが魏使側の実施の体験に基づき、
それ以遠、『水行二十日』や『水行十日陸行一月』などは倭人からの伝聞であり
魏使は邪馬台国へは行っていない」

とする論考も見かけるのだが、私の考えは、それとはまさに逆なのだ。
『水行二十日』、『水行十日陸行一月』は、まぎれもなく魏使の直接体験だったのではなかろうか。

賛否あると思うが、どなたでもよいから真摯なご意見を聞かせていただければ幸甚に思う。

420 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/18(水) 08:54:53
>>419

>魏使の直接体験


そうですよ。直接体験
漢人が係わり合うからこそ、記事になります。
だから史記として成立します。

421 :418:2008/06/18(水) 09:20:23
>>420河童虫氏へ
ご意見、ありがとうございます。

出かけますが、ひとことさらに補足。

「郡使」と「魏使」の言葉の意味だが、「郡使」と記載されていても魏都洛陽からの命を帯びた使いは
私は「魏使」と考え、そのように表記した。
梯シュンも張政も、そうした意味でまさに魏使。

しかし帯方郡は、ある程度の裁量を任された魏の出先機関なのであるから、
いちいち国家の(洛陽の)意向を伺う必要の無い軽微な(郡独自の)使者派遣も、しばしばなされていたであろう。

伊都国に記載されている『郡使往來常所駐』は、まさにそうしたレベルの使いであろうし
それならばほぼ毎年のように使者(=郡使)の派遣がなされ、
彼らの滞在施設としておそらく今宿五郎江遺跡、あるいはその近くに、立派な建物があったものと見ている。

422 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 09:34:59
帯方郡が、魏の出先機関だってことは、韓国の学者は認めてるの?

423 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/18(水) 09:42:09
>>421

魏使にしろ郡使にしろ、それが公務であるならば
それすなわち、皇帝の代理ですから、意味は同じです。

424 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 10:07:29
>>417 九州ですが ◆UEukKMcVo2

>出雲、吉備、など古代から有力な権勢を持っていた地域の名が
>倭人伝にそれらしいものさえ出て来ないのが一番の理由で

筑紫とかの地名も出ていないなw
だから九州説と一口に言ってもマイナーなものまで言えば何十と比定地があるわけだ。


>北部九州から飛んで山陰にあったり
>畿内にあったりと付かずくっつかずでクニグニが離れていた様子は
>倭人伝には全く窺い知る事が出来ない

水行二十日で投馬国、水行十日陸行一月で邪馬台国。
普通に考えれば相当隔たっているであろう事は明らか。
それを狭い地域に押し込めたいが為に編み出されたのが「放射説」w

それに
「じゃあその狭い地域で女王を共立して連合体を形成していた形跡あるのか?」
と聞かれて答えられないのが九州説の弱み。

畿内説の場合各地の埋葬文化のキメラとも言える前方後円墳、纏向における搬入土器の多さ等
そう考えざるを得ない状況があるわけでw

425 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 10:12:05
九州より、畿内のほうが遥かに勢力が巨大なのに、
邪馬台国は九州の小連合国だったってことでいいんだろ。

それならそれでいいんじゃないの?

426 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 10:26:51
>>417  九州ですが ◆UEukKMcVo2

>又遠く離れているクニ同士が戦うとすれば騎馬民族宜しく馬が無いと無理である。

まあ戦国時代ですら数の上からは歩兵が主力だったわけでw

でも確かに例えば九州と九州以東が争った形跡とか
何処かの地域が遠征して争った証拠は今のところ無い見たいだが
そこらへんが畿内説の弱みの一つだなw

ただ瀬戸内に多く築かれた高地性集落とかは
海上からの襲撃に備えたものである言うのは見て取れる。




427 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/18(水) 10:56:36
>>425

時間を魏時と限定して説明すれば、畿内というより本州は九州より勢力範囲が大きいから『大倭』
『大倭』の“大”は形容詞で(大きい/比較語句)“倭”は名詞または代名詞で、(日本列島)
だから大倭と呼ばれる地域は、何時も一定ではなく、時の勢力範囲により変化します。

後漢書に書かれる大倭の中心は九州を中心とする地域で、魏時には勢力移動に伴い本州が大倭と呼ばれた事が、文献から読み取れます。

428 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 11:48:22
>>426
>そこらへんが畿内説の弱みの一つだなw

どうして弱みになるのかわからんね。

>>427

>後漢書に書かれる大倭の中心は九州を中心とする地域で、魏時には勢力移動に伴い本州が大倭と呼ばれた事が、文献から読み取れます。

どの箇所から読み取れるのか、引用してごらん。

429 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/18(水) 11:50:59
>>428

>引用してごらん


後漢書倭伝、読んでごらん

430 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/18(水) 11:57:31
>>428

あっ、ごめん

倭人伝の地理記事がまだ未完の人には、後漢書倭伝を理解することは困難かも?だから、倭伝読む前に
倭人伝だけでも完了させてね。 話しはそれから(^O^)/

431 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 11:58:26
>>425
それでいいです。
畿内の方が国家としては上だったと思う。だから邪馬台国にこだわらなくても
いいと思う

432 ::2008/06/18(水) 12:00:08


妄想と
憶測と
推測と
観測と
消息と
想像と
創造と
創作と



これらの粋から脱しないこの時代を題材にした幼稚なスレで賑わうのはやめてくれないか

情けないよ歴史マニアとして。

はずかしくないのか?



433 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 12:03:08
>>430

俺のことはいいから、後漢書倭伝の該当箇所を引用してみろよ。

漢字入力が面倒なのか?
どっかのサイトのコピペでもいいぜ?







434 ::2008/06/18(水) 12:07:16
さらには

虚構と
考察と
推察と
願望と
予測と
予感と
予想と

こんな範疇から脱しない幼稚で稚拙なこの領域の歴史を語るのも
やめてくれないか


恥ずかしい




435 :神奈川県民:2008/06/18(水) 12:17:00
こんにちわー

436 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 12:19:57
     ┏━┓    ┏━━━━━┓                 ┏━┳━┓
 ┏━┛  ┗━┓┃  ┏━┓  ┃                 ┃  ┃  ┃
 ┃          ┃┃  ┗━┛  ┃┏━━━━━━━━━┓ ┃  ┃  ┃
 ┣━      ━┫┃  ┏━┓  ┃┃                  ┃ ┃  ┃  ┃
 ┃          ┃┗━┛  ┃  ┃┗━━━━━━━━━┛ ┗━┻━┛
 ┗━┓  ┏━┛        ┃  ┃                 ┏━┳━┓
     ┗━┛            ┗━┛                 ┗━┻━┛



437 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/18(水) 12:21:31
>>433

引用文提示したところで、倭人伝を把握していないない限り理解出来ないだろう。
仮に、引用の一部として
『其大倭王所居邪馬臺國』を、提示しても
その内容を理解出来ないだろう。

だから、倭人伝の地理記事ぐらい完了してからの話しなの

438 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/18(水) 12:32:05
漢時、『大倭』と帝国側で表現されていた地域が、魏時も『大倭』と、表現される保証は何処にもない。
それは、
『大』が比較語句であるから

439 :改め:2008/06/18(水) 12:40:58
こんにちわー

440 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 13:16:10
帰れ

441 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 13:57:29
>>433
河童虫さんは、議論するために来てるんじゃないとおもう。
師匠のところではいつまでも下っ端だから、ここに自慢しに来てるんだろう。
「お前ら知らないだろう。俺は知ってるんだぞ。」と言いたいだけ。
格闘技を習いたての子が、道場では大人しいのに、
学校でやたらと友達に技をかけたがるようなもの。
じゃあというので、本気で相手をしようとすると、
師匠に無断で他流試合はできないとかいって逃げる。
相手をしても徒労におわるよ。
それを承知で暇つぶしというのなら、枯れ木も山のにぎわいで良いけど。

442 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 14:33:22
『隋書』倭国伝

倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。
魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。
其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。
其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。


443 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 14:37:16

隋書では、邪靡堆(大和国)が邪馬臺国だと明記してますが何か?



444 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/18(水) 14:55:41
>>441

議論なんて無駄な事はしない。
私は新しい視点を広めるための活動です。


だからHNも、プラムから河童虫になってるでしょう。

底辺の認識の異なる者が、議論なんて出来る訳ないでしょう。

445 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 15:00:59
おまえ、プラムだったのかー!

446 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 15:07:47
>>418 自己矛盾ではないのかね]

勿論それも念頭に置いて言ってるつもりです。
ここでは解りやすいように「魏使が進んでいる」と表現していますが、それは言葉の綾。
倭人伝という言い換えれば我々の頭の中の地図で進んでる方向を指しているのであって
魏使が伊都国で泊まり女王国には行っていない可能性が大きいという主張に変わりはありません。

>しかし行程を日数で表した投馬国・邪馬台国は、魏使の直接体験が反映された可能性を考えたい。
魏帝の詔勅あっての遣使なのであるから、倭に赴いて必ず女王に会ったであろう」

魏使なら日数で言うなど稚拙な事はせずに、里で記した事でしょう。
倭人伝に「卑弥呼が女王になった後、女王を見たものは居ない」という事が書かれており
もし魏使がまみえていれば卑弥呼に対して様々な感想を持った事でしょう。
マツラ国からのクニ別、行程の記述の中でも投馬国と女王の都についての記述が殆ど無く
里で表されていないことに何らかの作為を感じます。

447 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 15:12:06
>>419「伊都国は『郡使往來常所駐』、だから伊都国まで」

と主張しているのではなく、伊都国だけは「至」ではなく「到」という文字を使っている事から
旅の終点ではないか、と考えているのです。

448 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 15:19:46
>>424
北部九州では狭い範囲に、対馬、壱岐、マツラ、伊都、奴、フミ、さらに
耶馬、山国、くじ{九重、久住、玖珠}、キイ、などの名が出てるだけで十分。
全て比定地がある。これら「小国が相接す」とあり小さなクニが団子状に
固まっていたのだ。

449 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 16:16:09
自己矛盾はお互い様だろうな。

なんと言っても韓半島を全行程水行してきたような船の好きな魏使が、
日本に来ると今度は末盧国から不弥国まで北九州の北岸を陸行するってか?
伊都国は倭にとって重要地点だから立ち寄る必用があったとしても、末盧国は?
普通には立ち寄るところじゃない。
伊都国まで船で行って、そこから不弥国はパスして、船で目的地畿内に向かうはずだ。
船が得意ならなぜ纏向に一番近いところまで行かずに途中下船して一月も歩いたんだ?

末盧国で上陸したのは伊都国へ行くのにそれ以外の道はなかったからだ。
伊都国は有明海側にあったのだろうよ。


450 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 16:55:35
>>446
>倭人伝に「卑弥呼が女王になった後、女王を見たものは居ない」という事が書かれており

おいこら
それじゃまるで史料の改ざん捏造だぞ
原文を引いてみな

451 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 16:56:25
>>449 「船の好きな魏使]

別に好き嫌いで乗ったわけじゃなく何か意味があった。

>「末盧国は? 普通には立ち寄るところじゃない」

ここで末盧国の様子が詳細に描かれている事は注目に値する。
何故葦の生い茂る末盧国に上陸したのか。一番の理由は
壱岐国から一番近く目視できる距離にある末盧国は古くからの船着場があり
座礁などが少ない安全かつ良好な湊だったと考えられる。
それと可能性としては伊都国が海岸から上陸しても陸行に不便な場所にあったとも考えられる。

>船で目的地畿内に向かうはずだ」
南に行ってるのにどうして畿内なのだ。
それにそんなに離れたところに邪馬台国連合は点在していない。

>船が得意ならなぜ纏向に一番近いところまで行かずに途中下船して一月も歩いたんだ?

?どういう行程を辿ったと考えているのか皆目ワカラン。
方向滅茶苦茶、距離滅茶苦茶で。


452 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 17:03:34
>>451

>ここで末盧国の様子が詳細に描かれている事は注目に値する。
何故葦の生い茂る末盧国に上陸したのか。一番の理由は
壱岐国から一番近く目視できる距離にある末盧国は古くからの船着場があり
座礁などが少ない安全かつ良好な湊だったと考えられる。
それと可能性としては伊都国が海岸から上陸しても陸行に不便な場所にあったとも考えられる。



全て想像から脱しえない、エンドレスな回答だな

453 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 17:24:04
>>452
そりゃそうだろう。
当時の潮流や、地形なども今と大きく違っているなども考え合わせて
何故マツラ国に上陸したのかという回答を導き出さねばならないが
それは今となっては想像するしかない。
@古代より座礁などが少ない安全かつ良好な湊だった
A伊都国が海岸から上陸しても陸行に不便な場所だった

当時のマツラ国と伊都国の境界さえ何処だったか良く解っていないのに
「伊都国に上陸したのだ。否、マツラ国」と言ってみたところでこだわるのは無駄だろう。
マツラ国に上陸したと書いてあるんだから額面通り受け入れる他は無い。

454 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 17:26:11
>>450
文章の前後をよく読んで見なさいな。
別にこの訳で間違ってないから。

455 :三重県民:2008/06/18(水) 17:28:52
こんにちわー

456 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 17:29:45
何しに来た?

457 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 17:31:00
『隋書』倭国伝

倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。
魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。
其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。
其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。




隋書では、邪靡堆(大和国)が邪馬臺国だと明記してますが何か?


458 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 17:40:25
『隋書』倭国伝の内容が読めない人に解説。

まず、隋書は、魏志倭人伝よりずっと後の、
畿内大和王権が確実に存在した時代に大和の様子を描いたもの。

>倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。
>古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。

この距離の書き方は、魏志倭人伝と同じもの。
隋の時代の中国人は、魏志倭人伝が伝えるヤマタイコクが、
畿内の大和国だとして、何の疑問も抱かなかったということだよ。

九州のヤマタイコクと畿内の大和国が別物だったら、
距離も旅程も違いすぎるのだから、わざわざ同じ国だとは書かないだろ。

>都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。



459 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/18(水) 17:41:53
倭国乱の時代、全ての港を使用できる状態であったか?

対馬<−>壱岐<−>松浦 此処までは船便は運行出来たが この先まで船便による
通行に、何らかの不都合があったとか。


460 :橿原一派:2008/06/18(水) 17:52:49
こんばんわー

461 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 17:55:28
>>453

>そりゃそうだろう。
当時の潮流や、地形なども今と大きく違っているなども考え合わせて
何故マツラ国に上陸したのかという回答を導き出さねばならないが
それは今となっては想像するしかない。

想像は歴史じゃない、現代人の妄想だ

462 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/18(水) 18:07:28
 景行十八年春三月、天皇將向京、以巡狩筑紫國。始到夷守…諸縣君泉媛、

景行18年 天皇軍は筑紫國を発ち 初めてヒナモリの地迄軍を進める。
ヒナモリとは何処か? 対馬、壱岐、松浦が是に当たる、
そして 諸縣君泉媛=東松浦半島諸津。

景行18年以前、陳寿が倭国に来たときには、船便による 伊都国訪問は不可能であった。



463 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 18:08:38
こんばんわー

464 :サガミハラハラ:2008/06/18(水) 18:09:06
こんばんわー

465 :改めですが:2008/06/18(水) 18:10:06
こんにちわー

466 :九州王朝大介:2008/06/18(水) 18:11:06
こんにちわー

467 :河童無視:2008/06/18(水) 18:11:47
こにゃにゃちわー

468 :犬国:2008/06/18(水) 18:13:35
わんばんこ

469 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 18:30:23

おはよう、は、和語である (・・・早し)

しかし、今晩、今日、は、ともに漢語である (・・・コンバン、コンニチ)


邪馬台国の時代、人々は、朝に、昼に、夜に、それぞれどんな挨拶を交わしていたのであろうか?


>>463-468
くだらぬ挨拶だけのレスではつまらんだろう。上記の課題を考えてみよ

470 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 18:38:39
>>469

この課題を考察するために役立つサイト

★「ふるさとの方言」ページ
http://nlp.nagaokaut.ac.jp/hougen/index.php/%E3%81%B5%E3%82%8B%E3%81%95%E3%81%A8%E3%81%AE%E6%96%B9%E8%A8%80

471 :警告:2008/06/18(水) 19:10:05
スレ違い

472 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/18(水) 20:18:55
>>417

 以前から気になっていたんだが、誰も指摘しないようだからこの辺で

>さらに晋書四夷伝に「小国相接す」とあるように狭い地域に小さいクニが
団子状にくっついていたのであり

【倭人在帶方東南大海中依山島爲國地多山林無良田食海物舊有百餘小國相接・・】

 ここでの「相接」を文脈から解釈すると、「団子状にくっつく」という地理的な位置関係を表した解釈ではなく、
お互い無良田食海物と言う環境下の小国故、「相接」という関係だと記載している。
つまり、「相接す」(互いに助ける→協力しあう)関係と、訳したほうが文脈にそっていると考えます。


「小國相接」は、 小国は互いに協力しあう横社会





473 :神奈川県民:2008/06/18(水) 20:35:22
こんにちはー

474 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 21:05:22
>>458
距離と方向は殆ど倭人伝をそのまま写しただけ。
古来より中国でもヤマタイの名は中国の正史に認められて広く通っており
倭人は倭と呼ばれるよりも自らをヤマトと呼ぶことにしたに違いない。
それが元で日本の古名をヤマトと呼ぶようになった。
しかし実は邪馬台国なのではなく「倭」の小国が合併し大きくなったものなので
「大いなる倭」=「大倭」=「大和」をヤマトと当て字して呼ばせたのである。
その証拠が隋書の「死者斂以棺槨」の文である。「死者を納めるに棺槨を以ってす」である。
邪馬台国は「棺あって槨無し」「有棺無槨」と記されており相反する。
畿内の墓は「有棺無槨」の時期は無く邪馬台国が畿内では無い証拠の一である。


475 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 21:12:09
>>461
当時の潮流や、地形、当時のマツラ国と伊都国の境界が何処かを正確に
示せる者など考古学者にさえ居ない。もし言えるものなら言ってごらん。
まあ潮流、地形なら言えるかもしれないが。

476 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 21:13:53
>>474
>畿内の墓は「有棺無槨」の時期は無く

どういうこと?
意味がわからない
もうすこし詳しく説明たのむ

477 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 21:27:54
>>476
畿内は棺をそのまま土中に埋める風習が無いということ。
棺の周りを竹などで囲んだり、墓室があったりすれば「有棺無槨」には当たらない。
これは北部九州を中心とした甕棺墓とも考えられるが
魏使が畿内の巻向を見た場合「有棺無槨」などと記するだろうか。
少なくとも巻向の前方後円墳は「有棺無槨」とは言えないだろうから
巻向は女王国の都では無い=邪馬台国ではない、という事になる。

478 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 21:33:33
>>475
潮流なんて、そう簡単に変わるものではありません。
日本海流や対馬海流が2000年前と違っていたという
証拠はなにもありません。

479 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 21:36:31
>>477続き
書き忘れた。隋書では倭国の葬制を「死者を納めるに棺槨を以ってす」と記す。
これは隋使が実際に畿内の墓を見て記したものでありここだけは
実際に見たので倭人伝の書き写しとは異なっているのである。

480 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 21:43:06
>>477
>魏使が畿内の巻向を見た場合「有棺無槨」などと記するだろうか。
>少なくとも巻向の前方後円墳は「有棺無槨」とは言えないだろうから
>巻向は女王国の都では無い=邪馬台国ではない、という事になる。

だいたいわかったが、そうすると巻向の前方後円墳は
魏使が九州に派遣されたとき、もうすでに
畿内大和の巻向に造られていたと見ているわけだね、きみは。

でも魏使は巻向なんかには行ってないから
そんなものを見る機会もなかったんだと。

こう理解したけどそれでいい?

481 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 21:51:13
邪馬台国は大和なのに、どうして九州が出てくるの?

482 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 21:53:04
>>480
巻向の古墳の年代を遡上させ3世紀中葉に設定すれば
少なくともそうなる。

483 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 21:57:06
>>482
>巻向の古墳の年代を遡上させ3世紀中葉に設定すれば
>少なくともそうなる。

巻向の古墳は西暦250年にはもうつくられていたと。
これでいいんだね

484 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:11:23
天皇陵は、江戸時代に水戸藩や宇都宮藩が中心になって
改修したという事実は無視できません。

485 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:12:50
あほども

486 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:17:41
3世紀の近畿は、吉備や丹波や東海、阿讃、越、関東も抱きこんで、
盛んに人的交流が行われていて、その中心地がマキムクだということは確定してるのに、
邪馬台国が九州島だけの話と考える人たちって何なの?

笑われるだけだと思うよ。


487 :ローガン:2008/06/18(水) 22:22:05
>>476
>>480
>>483さん。
逃げ道は残してあげてくださいね。

488 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:29:33
>>477

>魏使が畿内の巻向を見た場合「有棺無槨」などと記するだろうか。


ついに九州ですがも、古墳時代早期の年代溯上説を認めたようだな。

まあ一歩前進だ。www

489 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:32:14
>>487
>逃げ道は残してあげてくださいね。

逃げ道って?

490 :改めですが:2008/06/18(水) 22:32:18
>>482
こんばんわー

491 :三重県民:2008/06/18(水) 22:33:12
>>490
ですがさん。こんばんわー

492 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 22:38:24
>>488
古墳時代早期の年代溯上だろうが何だろうが巻向は邪馬台国では無いのだから
何の関係も無い。どっちにしろ画文帯鏡が作製された時期はほぼ想定できるのだし、
畿内説内部に矛盾が吹き出してくるだけの事だ。

493 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:40:57
>>487

論理破綻してるんだよ、九州ですがは。

しっかし逃げ道もなにも、当人に論理破綻の自覚があるかどうか・・・・。

いくら矛盾を指摘されてもその場その場で繕って言い逃れするだけだからな。

老眼さんの心配はきっと杞憂だろうよ。

494 :河童無視:2008/06/18(水) 22:41:38
>>490
ですがさん、挨拶についての見解を!

495 :ローガン:2008/06/18(水) 22:43:35
>>489
> 逃げ道って?


いやあ、言質をとりにいって居るように見えたので。つい。失礼しました。

496 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 22:43:42
>>493
論理破綻って何が?
いい加減な事言って誤魔化そうたって駄目だ。
別におかしなことは言ってないけど?

497 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:44:02
>>492九州ですがへ

纏向古墳群はいつの築造か。


498 :犬国:2008/06/18(水) 22:44:47
お前ら、紛らわしいコテつけて遊ぶな
それがしは綿菓子ではない
それがしが丁寧語で、みどもは謙譲語だ
余は尊敬語だ〜

499 :警告:2008/06/18(水) 22:46:17
誰が荒らそうとしてるか、みなお見通しだ。
巣に帰れ。二度と来るな。

500 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:48:03
きょうはずいぶん賑やかだねWW


501 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:50:44
>>494
河童無視=改め
という構図を考えてみたが、少し無謀すぎるか?

502 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:52:09
窮鼠猫をかむ。
逃げ道だらけでよかったですね。

503 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:52:41
改め て荒らしはスルーすることを確認しましょう

504 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:54:34
纏向を200年頃からとして、古墳時代を250年前後からとする人は三角縁の
舶載を認める考えなのかな?
国産と考えて、紀年鏡は後世に作られたとすると、その年代は無理だよね。

鏡全体の出土傾向を見てみると、新しくなるにつれて九州以外からの出土
の割合が増える。とくに、環濠集落の時期は九州以外での鏡の出土は皆無。

んで、どの鏡の時期から九州以外からの出土が始まるかと言うと、盤龍鏡、
キ鳳鏡、位至三公鏡などの魏晋鏡がそれ以前の方格規矩鏡や内向花文鏡と
同時期に瀬戸内〜畿内に流通を始めている。

上記の魏晋鏡のうち、位至三公鏡は300年頃に中国で流行した鏡である。

よって、九州以外の土地に鏡が持ち込まれるようになったのは、300年頃以降。

考古学的な相対年代でいうと、古墳時代はその後に始まっていますよね。
この状況でどうして古墳時代を300年以前という人がいるのか不思議です。

505 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:56:03
陰険な行為はやめましょうよ

506 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 22:56:42
何だ、真面目に問うてるのかと思ったら。

「473 :神奈川県民:2008/06/18(水) 20:35:22 こんにちはー 」

のおまえが一人で遊んでたのね。
どうりで畿内説にしてはバカだと思った。
久々の畿内説者と思って話を聞きたかったのに。


507 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:00:41
改めドツボ!
お前、日本人じゃないやろう

508 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:01:08
アスペリやだよねwww

509 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:03:04
>>504

あなたに問うが、250年頃に、畿内に「有槨」の墳墓は、すでにつくられているのか。

510 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:05:09
>>504につづけて
魏晋鏡といわれる鏡の出土状況から言えば、古墳時代は330年以降でしょう。
纏向で最も古いとされる石塚が330〜340頃、箸墓が350〜365頃。
こんなところではないでしょうか。

学者達はいろいろ縛りがあるかもしれないけど、自由に考えられる人が
あの年代遡上に追従するというのは、ちょっと信じられないですね。

少なくとも三角縁が舶載という考えが出土事実の上で徹底的に否定されている
状況は直視するべきでしょう。

511 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:05:25
>>506

>どうりで畿内説にしてはバカだと思った。
バカは九州説が多いとでもいうのか?
あやまれ。三重県民さんや改めさんのようなまともな九州説にあやまれ

512 :497:2008/06/18(水) 23:07:45
九州ですがへ

再度尋ねる。

纏向古墳群はいつの築造か。

513 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:09:24
九州ですがへ

再度尋ねる。

九州説の誰がバカか。

514 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 23:11:02
>>510
大阪府高槻市の安満宮山古墳からは三角縁神獣鏡もでていて、
それがII期以前のものばかり。三角縁神獣鏡のうち、II期までの分しか含んでいない。
この古墳の時代は、かなり遡る。実際、鏡など以外に埋葬形式も
非常に古い時代を思わせ、この古墳の年代を250年前後とする意見が多い。

515 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/18(水) 23:14:15
九州ですがさん

畿内説論者には冷静に対処願います。畿内に女王国があるのは推古
の時代から・・・。

516 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:23:28
>>514
紀年鏡を出土したほかの鏡は、4世紀後半以降とされる古墳から
出ていますが、年代決定の決め手のないのが安満宮山古墳。

それゆえ、この古墳の年代を遡上する説が最近は強いのですが、
ほかの紀年鏡との関係で年代を考えれば、この古墳も4世紀後半以降
と考えたほうが良いと思います。

紀年鏡の同位体比は2つのグループに分けられることからは近接した
2時期の製造と考えたほうが良いと思います。

517 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 23:23:54
>>510
後漢の末期は黄巾の乱の影響で洛陽が荒廃し
鏡を作るどころではなくなっていた。
この頃、代って鏡を作っていたのは呉や蜀の領域である。
呉人の鏡職人が何らかの理由で倭国に来て作製した。

518 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 23:29:17
>>515太国さん
僕は今日、どこか変な事言ってますか?
確かに眠いのは眠いんですけども。

519 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 23:31:39
>>515太国さん
コレだったら気にしなくていいんですよ。
畿内説じゃなくてお邪魔虫ですから。

512 :497:2008/06/18(水) 23:07:45
九州ですがへ

再度尋ねる。

纏向古墳群はいつの築造か。


513 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:09:24
九州ですがへ

再度尋ねる。

九州説の誰がバカか。


520 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/18(水) 23:32:26
九州ですがさん
なんだかいじめられているようで、ついつい・・・。こういうとき
ボロが出て攻められますから。おやすみ。zzz

521 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:35:21
自演してもいいかな?

522 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:36:07
>>521
いいとも!

523 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:36:35
九州ですがへ

再度尋ねる。

纏向古墳群はいつの築造か。


524 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:36:57
>>520
おまえ優しいな。見直したよ。

525 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:41:50
年代遡上批判については、バカな東遷説の人たちがしてればいいんであって、
東遷説をとらない「ですが」が東遷説の人たちに追随することないんだよ。

九州に邪馬台国があって、同時にマキムクが存在しても何も矛盾はしない。
むしろ、文献とも整合が取れる。
九州ですがはイイ線いってるんじゃないかな?

ただし、へたに年代遡上批判をするとボロが出るだけってことを言いたいんだよ。



526 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:42:43
しかし、西暦250年ていつだよ?
どうも論じている時代のことがわかんないんだよな。
魏志倭人伝は同時代のことを書いたのいだろうか?
もしかしたら、何百年も前の言い伝え書いたのではないだろうか?
つまり、邪馬台国があったのは、紀元前4500年くらい。

527 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 23:45:58
>>516「ほかの紀年鏡との関係で年代を考えれば、この古墳も4世紀後半以降
と考えたほうが良い」

って言うけどねえ、3世紀を表す紀年鏡も多く出てる事はどう考えるわけ?


528 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 23:49:40
>>526
何が言いたいんだかさっぱりワカラン。

529 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 00:11:02
>>517
>呉人の鏡職人が何らかの理由で倭国に来て作製した。

それは3世紀のことかい?

530 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 00:38:08

そもそも理化学的年代測定で
畿内説の年代遡上派に不利なデータってあるのかな?


531 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 01:13:17
>>527
七支刀が日本に来た頃(370頃)に伝わった文献に書いてあった年号を
その後に書いたというのが自然でしょう。

三角縁の製造開始を350年頃と見ると紀年鏡は370〜380の頃に
位置づけられます。つまり、中期以降の三角縁に年号が書かれています。

ほかの紀年鏡も大体同じ頃に作られたと考えた方が良いと思います。

532 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 01:26:17
>>531
「景初」や「正始」まあそれでも良いかもしれんが

じゃあ「青竜」や「赤烏」は?


533 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 02:01:48
>>504
>位至三公鏡は300年頃に中国で流行した鏡である。

そもそも中国でその効能は男子向け(位至三公)にだけついて述べられていて
日本で出土するような女子向けの効能(母人 言名 之保子宜孫)を述べている物は珍しいとか・・・

で呉の永安四年(261)鏡の銘文にそれがあると言う。
(ただしこの鏡の出土地は不明との事・・・)

少なくとも中国で流行したものが日本に入ってきたと言うのは疑問。


534 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 02:10:25
>>532
鳥居原狐塚古墳の平縁神獣鏡(赤烏元年、238年銘)

この古墳は須恵器を出土した5世紀代のものです。
紀年が正しいとすると、この鏡は200年位伝世したことになりますが、
その伝世は考えにくいので、その頃に伝わった文献の年号が書かれた
と考えた方が良いと思います。

安倉高塚古墳の平縁神獣鏡(赤烏七年、244年銘)

この古墳は年代の決め手が乏しいですがだいたい400年前後のものです。
やはり、相当の伝世を考えないと年号の頃に作られたことになりません。
これも後世に作られたと考えた方が良さそうです。

535 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 02:14:06
神社の鏡は数百年伝世するけど?

536 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 02:14:08
>>533
>少なくとも中国で流行したものが日本に入ってきたと言うのは疑問。

とすると国産ということでしょうか?
たしかに、魏晋鏡とされるものは日本で同型鏡が多く出土するので
国内で複製が多く行われたことは間違いなさそうですね。

しかし、オリジナルがないと複製も出来ないので、オリジナルもある程度
日本に来ていたと思います。

537 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 03:18:30
>>534
>その頃に伝わった文献の年号

そんな文献は今のところ影も形も無いw

つか赤烏元年(238)・赤烏七年(244)・青龍三年(235)に日本にとって景初三年に匹敵するようなイベントがあったのか?

まあ、赤烏元年(238)は魏が公孫氏を滅ぼした年で
魏にすりゃあ記念すべき年かもしれんが赤烏は呉(孫権)の元号だしなあ・・

538 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/19(木) 07:02:54
>>537
倍歴計上から、実年代

 景初3年=崇神即位3年=239年

前年の238年は、鏡を同床共殿とした崇神天皇の策の行われた年である。
この年は 崇神即位2年=238年 となる。

539 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/19(木) 08:04:03
>>529
3世紀である事は間違いないでしょう。ただそれが中期か後期であるかは微妙で
魏と親交を深めた邪馬台国に対抗してかどうかは知らないが呉と親交を持ったクニが
倭に存在したことを示す証拠が中国から発見されたそうな。
何かでチラッと読んだだけであり「今後の研究が待たれる」事に期待するしかない。
そうすれば呉人が比較的早くから倭に渡っていた事を示す手掛かりとなる。
後漢末期、黄巾の乱で荒れ果てた洛陽を避けて呉や蜀で作られていた鏡が
再び洛陽で作製されるようになる以前に呉人によって直で倭にもたらされた可能性が
あるのである。

540 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 08:13:45
九州ですが氏へ
纏向古墳群はいつの築造と考えていますか。

541 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 10:42:25
>>539
>呉と親交を持ったクニが倭に存在したことを示す証拠が中国から発見されたそうな。

つまり、呉の人たちが南九州にやってきたのが、天孫降臨神話となり、
畿内に移住したのが神武東征神話になったってことだろ。

その頃、邪馬台国は北九州にあって、魏と通行し、呉とは無関係。

魏と通行していた北九州の邪馬台国は九州王朝となり、
呉と通行していた南九州〜畿内は、マキムクを興して大和王権となった。

これでシナリオ通りだろ。



542 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 10:43:33
2ちゃんねるは統一協会が運営(3:20から)
2ちゃんねるは朝鮮カルト、ユダヤ権力にとって不都合な発言をする人間のIPアドレスを集めたり、個人情報を集めるための道具
http://jp.youtube.com/watch?v=D9_KTEk2ukE

【社会】「言いたいことは言えたので、スッキリ」 ベンジャミン・フルフォードさん、山口組総本部前で拡声器で抗議活動★2
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1213784588/
山口組の本部に行ってきました・・ベンジャミンさんのブログ
http://benjaminfulford.typepad.com/benjaminfulford/2008/06/
レポ・・ベンジャミンの山口組本部「道場破り」見に行ってきますた。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/20
92/1213458949/50-51   ←↑接続

公明党支持者の金さん殺される

在日なのに同和幹部(?)で元ヤクザで創
価の金さん 妻に射殺される http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/news/1213694629/ 

830 : カー・コローグ・ヨメ(コネチカット州):2008/06/18(水) 09:10:12.30 ID:LfOctBI0O
ニュースで流れた金さんの自宅の表札が日本名だった件

ヤクザの9割は「在日と同和」、彼らは恐喝のために右翼団体を名乗る
http://www.youtube.com/watch?v=2uTFIS1RDJg

偉人渡辺昇一が何十年も考え続けて得た結論。
「反日思想の源泉」 渡部昇一
http://www.youtube.com/watch?v=BzfpilmxgBU

勝谷誠彦 【在日特権】三重県伊賀市 住民税減免問題
http://jp.youtube.com/watch?v=ChfpqdwyBTA

543 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 12:31:53
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html

544 :ローガン:2008/06/19(木) 14:59:18
>>534
古墳の副葬品の伝世を認めないとすれば、中平刀も同様に考えなければなりませんが。
いかがでしょう?

545 :サガミハラハラ:2008/06/19(木) 16:00:24
そうです。中平年刀は葬儀のときに古墳に副葬する諸明器の一つとして政策されたものです。中国からの舶来品ではありません。


546 :ローガン:2008/06/19(木) 16:18:18
>>545
何故その年号が刻まれたとお考えになりますか?

547 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 16:18:39
>>544
中平刀は>>534以上に国産の可能性が高いと思います。
東大寺山古墳は4世紀後半〜末頃の古墳で、鉄剣9本、鉄刀20本を出土。
この全部が伝世というのは無理です。大事に伝世したものを大量に副葬した
というよりも、被葬者の所持品等を一括して埋めたと考えるのが自然です。

とすると、被葬者が生前に入手したものが埋められたと考えられます。
とくに、佐味田宝塚の家屋文鏡と類似した環頭の刀は確実に国産ですね。

環頭に細工を施した5本の鉄刀は、ほぼ同時期に作られた一連のものと
見るほうが自然です。中平刀もその一つに過ぎません。
中平(185頃)と埋葬の時期との時間差もこのことを補強します。

548 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/19(木) 16:26:16
>545
恒久的にその理由が書かれない。ならば無用の文。

549 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/19(木) 16:28:45
国産なら、倍暦計算で中平年間は欠支八代相当年代だから、八代のころに漢字が
畿内に流入していたことになり、重要な意味を持つ。


550 :サガミハラハラ:2008/06/19(木) 16:34:39
三角縁神獣鏡の年号をみてもわかりように、当時は中国の資料で倭国に関する記事の年代を
明記につけることが流行ったようです。(景初三年鏡等)
中平年刀もそのたぐいであると考えます。
中平年は184から189年間です。
この時期の日本が倭の出来事というと、倭国大乱が卑弥呼の共立をもって終了しております。
卑弥呼は即位とともに就任のあいさつとして中国(後漢)に貢献した。
しかし、その時身分をあらわす「漢の委奴国王」印を紛失していたために、中国が倭から」正式の貢献とはみとめられなかった。
しかし、貢献のことはなにかの記録にあったのを、東大寺山古墳を造築するときに工人がしり、刀に鏨で刻んだものである。

551 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/19(木) 16:54:35
>>550

>印を紛失

最寄の署か交番に届けたの? それとも卑弥呼のブログにでも書いてありましたか?

552 :サガミハラハラ:2008/06/19(木) 16:57:52
紛失したのでなければ、なぜ志賀島の海岸縁で発見されたのですか。

553 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/19(木) 17:06:47
>>552

志賀島で発見された事と、紛失を結び付けるモノはなにもないし、因果関係がまるでない。
紛失と判断出来るには
最寄の交番で、紛失届けを提出してはじめて公式に認められる。
私的には、ブログに本人が書き込まない限り、紛失は分からない。

554 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/19(木) 17:13:23
>>541
飛躍しすぎだけどその可能性も無いとは言えないかな。
あくまでも可能性の話だが。

555 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 17:33:58
九州ですが氏へ
纏向古墳群はいつの築造と考えていますか。

556 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 17:40:33
中平年刀は公孫氏に与えられた物で、公孫氏滅亡のあと、日本に逃れてきた証拠じゃないかな。
公孫氏の敗残兵が畿内にいたということじゃないか。

そしてその敗残兵が三角縁神獣鏡をデザインした。

557 :サガミハラハラ:2008/06/19(木) 17:45:16
中平年刀についての詳しいことは拙書「卑弥呼の登場」のp234から記述しております。
「卑弥呼の登場」については、以下のブックオフにあります。
  高田馬場店 東中野店 日野南平店 大久保明治通り店 国立駅南口店 浅草稲荷町店 西新宿小滝橋通り店
  八王子堀之内店 大塚駅前店 荻窪駅北口店 町田中央通り店 八王子駅北口店 目白駅前店 秋葉原駅前店  
  相模原駅前店 橋本駅南口店 大和中央通り店

558 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 18:05:25
>>554

何をごまかしてるんだ?
おまえの思ってる通りのことを書いただけだ。
違うなら、どこが違うか、具体的に書いてみ。


559 :ローガン:2008/06/19(木) 18:06:33
>>547
そうすると、「中平」という年号がある事について、いろいろ想像する必要が生まれますね。

私は詳しくないので、中平刀は山東省の「永初六年刀」と同質であるという事、(当然ですが)中平という年号がある事から、後漢刀が伝世したと素直に考えています。

好みの環頭に付け替えて代々、大切に保管した… なんてダメでしょうか?




560 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/19(木) 18:22:45
>>558
なんのなんの。利口でもないのに良く出来た。頑張った。上出来だ。
これらは示唆のある書き込みだ。

@呉の人たちが南九州にやってきた
A邪馬台国は北九州にあって、魏と通行し、呉とは無関係。
B呉と通行していた南九州〜畿内は・・

後は脳から膿。
狗奴国が呉と通じていた可能性は否めない。おっとこれは独り言。
精神病相手に話しかけたとあっては名折れだ。

561 :ローガン:2008/06/19(木) 18:33:46
>>550

> 三角縁神獣鏡の年号をみてもわかりように、当時は中国の資料で倭国に関する記事の年代を
> 明記につけることが流行ったようです。(景初三年鏡等)

当時(がいつか、よくわからんのですが)日本にいた鏡職人達は「中国史書の倭関連の記事」を閲覧していたと仰るのですね?

楽しいお話ですね。

562 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/19(木) 19:05:39
中国では黄巾の乱の戦乱を逃れ、倭に渡った人々も数多く居たに違いない。
それらの人々が倭人に持参した鏡を譲った事も多々あったろう。
鏡は中国人にとっては単なる日用品だが、倭人にとっては自分の権威を示す重要なアイテム。
倭人の鏡に対する執着は異様であり「譲って欲しい」という嘆願は度を越していたに違いない。
その譲ってもらった鏡を埋納することも多くあったに違いない。
それと呉と南部九州や畿内のいずれかの地域は親交があり呉人の鏡職人を抱えて
倭人にも指導していた。出来の悪い、稚拙な鏡も発見されるのはその為で、
それらの事情が入り混じっている事も勘案すべきである。
紀年鏡の年号だけに捉われるのは間違いである。
しかし中国国内の事情が深く関わっている事も事実。
巻向などの古墳に埋納された鏡は呉人によって持ち込まれたものも多いだろう。


563 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/19(木) 19:18:51
スレ内容と関係ないけど、たった今、向かいの爺さんが血だらけで倒れていたのが発見され救急車で運ばれた。
我家に言い掛かりをつけては凶器を持って怒鳴り込んできた事もあったが天罰だ。
予言、>>558も同じ目に遭うであろう。

564 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 19:35:00
>>559
前提として、年号銘のある遺物が4C後半〜5C始めの頃の古墳から
集中して出土するというのが、私の状況認識です。

伝世とするならば、初期の纒向型古墳やばち形古墳からも出土したり、
5C後半以降の古墳(横穴式石室など)からも出土して、古墳の年代が
もっとばらばらになっているはずです。

そうならないのは年号銘の遺物が一時期に集中して作られ、副葬された
と考える方がつじつまが合うと思います。

565 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 19:43:36
倭王武の上表文は晋書の文章のパクリだったと言うし、倭で中国文献を参考にしていたのは間違いない。


566 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 20:04:43
森浩一先生の特別講演があるよ! 8時間の大シンポジウム!
http://www.city.izumi.osaka.jp/entry.aspx?id=2061

■「和泉黄金塚古墳国史跡指定記念シンポジウム」

日時:2008年7月6日(日)10:00〜16:45(9:00開場)
場所:和泉市立市民文化ホール(人権文化センター)
定員:1200人(全席自由)
参加費:無料
申込方法:往復はがきに郵便番号、住所、氏名(返信はがきにも)、電話番号を記入し、〒549-8501、和泉市教育委員会文化財振興課へ

 上代町に所在する和泉黄金塚古墳は、戦後すぐに発掘調査が行なわれました。
 多くの副葬品が発見され、特に卑弥呼が魏に使者を送った年「景初三年」の銘が刻まれた銅鏡は日本中に大きな影響を与えました。この調査は類まれなその成果から、戦後考古学の出発点といわれています。
 和泉市では、和泉黄金塚古墳が国史跡に指定されたのを記念して、シンポジウムを開催します。戦後の調査を担当された森浩一先生による特別講演をはじめ、斯界の先生方によるパネルディスカッションを行ないます。

特別講演:森浩一氏(同志社大学名誉教授)「敗戦前後の考古学−和泉黄金塚の発見−」
基調講演:和田晴吾氏(立命館大学教授)「和泉の古墳」
調査報告:白石耕治(和泉市教育委員会)「平成の発掘調査」

パネルディスカッション
コーディネーター:広瀬和雄氏(国立歴史民俗博物館教授)
パネラー:菅谷文則氏(日本考古学協会理事)、和田晴吾氏(立命館大学教授)、宗田好史氏(京都府立大学准教授)、禰%c佳男氏(文化庁文化財調査官)、岸本直文氏(大阪市立大学准教授)

567 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 20:13:41
>>560

九州ですがは、
マキムクの時代がいつか、絶対言おうとしないんだな。
面白い。

マキムクは、(九州の)邪馬台国の卑弥呼と同時代に大和に出来たと明言すると、
何か都合が悪いことでもあるのか?


568 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 20:17:31
>>560

マキムクが、(九州の)邪馬台国より後だとすると、
あとは九州ですがの過去の発言を総合するに、
クナ国東遷説になるが、そういうことなのかな?



569 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 20:33:11
応酬中にごめんね〜。ww
でも面白くてためになる催しイパ〜イあるから、もちょっと貼らせてね〜。ww


■特別講演会 「邪馬台国は畿内か九州か」 対決第2弾!

 (邪馬台国の会主催 第270回講演会)
〜ホケノ山古墳の年代 纏向古墳群はいつ作られたか 〜

日時: 6月22日(日)13:30-16:30
会場: 文化シヤッター(株)BXビル 多目的ホール (東京都文京区西片1-17-3)
参加費: 一般 1500円  学生 1000円

講師:
 徳島文理大学教授 石野博信氏
 邪馬台国の会主宰 安本美典氏

※参加ご希望のかたは直接会場へおいで下さい。

http://yamatai.cside.com/katudou/teiki.htm

570 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 20:39:41
【日朝協議での総理の嘘と思惑を青山氏がズバッと暴く】
拉致被害者の意に反して北朝鮮に譲歩し制裁を解除しようとしている日本政府。
実は日本側から制裁解除を持ちかけた事実があるという青山氏、その裏側には福田総理、小泉純一郎、山崎拓、菅直人が関わっているとも。
http://jp.youtube.com/watch?v=t-H-uhhzCOU
http://jp.youtube.com/watch?v=Z_kRg8PxOjQ
http://jp.youtube.com/watch?v=0JhNHR8O0VY

571 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 20:53:43

■いのちのたび博物館 歴史講演会 「倭人伝の世界 〜末廬国・桜馬場遺跡〜」

講師: 九州歴史資料館館長 西谷正氏

開催日: 6月21日(土)
時間: 13:30〜15:30
場所: いのちのたび博物館(北九州市立自然史・歴史博物館) 1階 ガイド館
(福岡県北九州市八幡東区東田2-4-1)
鹿児島本線『スペースワールド駅』下車、徒歩約5分

料金等: 資料代700円

※申込方法: 当日、会場で受付いたします。
http://www.kmnh.jp/event/detail.php?seri=206

572 :ローガン:2008/06/19(木) 21:12:23
>>564

>>559
> 前提として、年号銘のある遺物が4C後半〜5C始めの頃の古墳から
> 集中して出土するというのが、私の状況認識です。


なるほどね。ただ 銅鏡12面が古墳時代最盛期の6〜70年間で見つかった事が果たして集中と言い切れるかどうか?は若干疑問です。

東大寺山の家屋模様の頭は仰る通り、其の時代の国産でしょうが、刀身もそうだとは言い切れないと思います。
同様の事が中平刀でも考えられるのではないでしょうか。

話は変わりますが貴方は以前、新井さんの本の件でいろいろご教示下さった方ではありませんか?

違ってたらごめんなさい。

573 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/19(木) 21:21:44
>>567「九州ですがは、 マキムクの時代がいつか、絶対言おうとしないんだな」

めんどいので答えるつもりも無かったが。

「480 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 21:43:06
>>477
>魏使が畿内の巻向を見た場合「有棺無槨」などと記するだろうか。
>少なくとも巻向の前方後円墳は「有棺無槨」とは言えないだろうから
>巻向は女王国の都では無い=邪馬台国ではない、という事になる。

だいたいわかったが、そうすると巻向の前方後円墳は
魏使が九州に派遣されたとき、もうすでに
畿内大和の巻向に造られていたと見ているわけだね、きみは。

でも魏使は巻向なんかには行ってないから
そんなものを見る機会もなかったんだと。
こう理解したけどそれでいい?

482 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/18(水) 21:53:04
>>480
巻向の古墳の年代を遡上させ3世紀中葉に設定すれば
少なくともそうなる」

と、このように答えているはず。よくレスを読みもせず、答えていないの一点張りに
返答する気がなかっただけ。レスを読んで質問するのは最低のマナーだ。
それくらい守れ!


574 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/19(木) 21:26:24
倍歴計算から、卑弥活動の時代は崇神世。マキムクは垂仁、景行の
時代だからマキムクのが新しい。

575 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/19(木) 21:27:29
ありゃっ!「呼」がぬけちゃった。

576 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 21:28:32
>>573

巻向の古墳は西暦250年にはもうつくられていたと。
これでいいんだね

九州ですがは、まだ↑の質問に回答してないよ。

577 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 21:37:23
>>572
>>564

>> >>559
>> 前提として、年号銘のある遺物が4C後半〜5C始めの頃の古墳から
>> 集中して出土するというのが、私の状況認識です。


>なるほどね。

あのさあ、ちょっと割り込んでいい?
「年号銘のある遺物が4C後半〜5C始めの頃の古墳から集中して出土する」
これは違うと思うんだよ。ww

青龍三年鏡の安満宮山古墳とか太田南5号墳て、もっともっと古い古墳のはずだよ。

たしか高槻市の教育委員会も、それからえ〜と、京丹後市だったっけ?ww
3世紀後半の古墳だって説明してたと思うよ、公的にだよ。

25年ぐらいだったらまだ見解の相違、研究者の間でもあると思うけど、
100年以上も違うってのは、ちょっとな〜。ww



578 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 21:39:24
>>574

太国は、きちんと発言してるから立派だよな。

九州ですがも、長文を書く前に、きちんと白黒つけた発言をすべきだよ。


579 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/19(木) 21:42:37
>>568「九州ですがの過去の発言を総合するにクナ国東遷説になるが」

ハァ?なんだこの言い掛かりは。

自己レスにも
「177 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/09(月) 15:44:25

後に日本の覇者となった大和朝廷の勝者の歴史であり日本の歴史から
忽然と消え去った邪馬台国の歴史は永遠に失われていったのです。
ただ古代中国の文献だけが九州にあって古代中国と交渉を持った奴国や邪馬台国の名を
僅かにとどめていたのです。その後、魏も邪馬台国も滅び全くの謎の王国となってしまった。
というわけです」

とはっきり邪馬台国東征を否定しているはず。
よく他人の意見も確かめず横レス迷惑千万。
これより>>567>>568{偽神奈川県民、改め}とのコンタクトを
永遠拒否とします。

580 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 21:59:11
めっけたから、リンクしとくね〜。ww

■安満宮山古墳 高槻市ホムペ
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi/kohun_amamiyayama.html
>3世紀後半、邪馬台国の時代に築造されたと考えられ、・・・・

■大田南古墳群(おおたみなみこふんぐん)5号墳 京丹後市ホムペ
http://www.city.kyotango.kyoto.jp/cms/kanko/spot/shiseki/index.html#a05
>平成6年の春、5号墳(3世紀後半)から・・・・

ほらね〜。ww

581 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/19(木) 22:05:51
>>574
ホケノ山古墳からは画文帯同向式が出土。この鏡は後漢末に製作され
当古墳は箸墓よりも古く250年頃には築造されたと考えられます。


582 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 22:35:45
>>581

>>492
>畿内説内部に矛盾が吹き出してくるだけの事だ。

3世紀中期にホケノ山古墳が出来たと認めておいて、
畿内説のどこに矛盾が出てくると考えているわけ?

単純に文献との齟齬というだけかい?
それとも、他に考古学上の理由があるなら、一番大きな疑問点を一つ指摘してくれ。




583 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 22:37:04
>>580
安満宮山古墳は、>>516でも書いたとおり、年代の決め手に乏しいですね。
遺物に年代特定できるものがないから遡上が可能ではあります。
太田南5号も同じで、かつては4C後半とされた両者も、その後に年代遡上
がなされています。

しかし、実は年代の推測は可能です。
紀年鏡は同位体比の近似度が高い2つのグループに大別できますが、
近似度が高いというのは、同時またはほぼ同時期の製造との推測が
成り立ちます。

この観点から見ると、森尾古墳出土の正始元年銘三角縁神獣鏡と
同位体比の近似する>>580の2枚は、三角縁の製造開始以後の
時期との推測が成り立ちます。 

584 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 22:47:28
>>581
日本で出土する画文帯同向式の大半は同型の鏡です。
従って、日本で複製されたものが多く含まれていると考えられます。
これと同型のものは楽浪で1枚くらい出ているのみで、出土状況からは
日本から持ち込まれた可能性のほうが高いと思います。

これらは中国の同向式神獣鏡の内区の文様のみを流用した日本独自の
デザインなので、中国の同向式神獣鏡とは区別するべきでしょう。

585 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 22:56:56
>>583-584

東遷説さん、コテハンに戻りなよ。

586 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 22:58:37
手の込んだ自演

587 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/19(木) 23:00:26
>>582
ホケノ山古墳は箸墓よりも古く250年頃には築造されたとすれば
魏使が女王国に来た時代の葬制は有棺無槨でなければならない。
ところがホケノ山古墳は木槨木棺墓であり相反する。
時代下って隋書では倭国の葬制を「死者を納めるに棺槨を以ってす」とあり
これは隋使が実際に畿内の墓を見て記したものと思われる。
ホケノ山古墳は 隋書に記す葬制と符合しており共に畿内の様子である。
方や、邪馬台国は「棺あって槨無し」と記されており木槨などは無いとされている。
これが畿内を邪馬台国に比定した場合の矛盾である。

588 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 23:03:08
>>585 暇なときしか書かないからコテだと面倒なんですよ。
     トリップの付け方も忘れましたし。

>>583 の補足
  安満宮山古墳からは三角縁も出ていましたww
  故に、三角縁を4C後半以降とすればそれまでの議論ですね。
 
  5号鏡(同向式神獣鏡)が和泉黄金塚の景初3年同向式三角縁と
 類似性が高いので、この点からも紀年鏡相互の同時代性は言えそうです。


589 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 23:13:07
>>587

つまり、文献との齟齬だけが畿内説の矛盾であって、
考古学への年代遡上という批判は無いわけだね?

それなら、それでいいんだよ。



590 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 23:22:23
>>587
隋書が描く時代においては、九州でも「死者を納めるに棺槨を以ってす」になっていたのでは?

591 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 23:33:21
>>587

>邪馬台国は「棺あって槨無し」と記されており木槨などは無いとされている。

漢籍に書かれている槨の意味が、現代認識されている槨とギャップをともなっていることを知っているのか?

592 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/19(木) 23:33:29
>>584
ホケノ山の出土品のうち銅鏡は直径十九センチで、鋳上がりがよく文様もはっきりしているため、
後漢末〜三国時代(三世紀)の中国で作られたとみられる。いわゆるコピー鏡ではないです。

593 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/19(木) 23:43:15
>>591  
このようなものを木槨と言うのだ
 抜粋・・・後円部中央から棺を収める木製施設である木槨(もっかく)の周囲に人頭大の石を積み上げたものが出土。
   注釈)初期古墳は竪穴式石室で、石で積み上げ天井部へ行くほど狭くなる合掌式構造が多いが、
今回の発掘の特徴は「石囲いの木槨」にある。木槨は、古墳が登場する前の2〜3世紀頃の弥生墳丘墓の一部に見られる。
もともと木槨は、発祥の地は中国で、その後朝鮮半島の楽浪郡でも流行したが紀元前2世紀に終わる。
その後南部の三韓で発達し、朝鮮半島との交流によって日本に入ってきたものと考えられる。
「木槨」から川原石を使った「石囲い木槨」へ、更に川原石から板石を使った「竪穴式石槨」への構図が読み取れる。
http://www2.begin.or.jp/sakura/maho1.htm
http://www.h5.dion.ne.jp/~ytakata/kinki/hokeno/hokeno1.htm



594 :日本@名無史さん:2008/06/19(木) 23:58:43
>>593

お前アホ丸出しだな。

595 :ローガン:2008/06/19(木) 23:59:47
>>591

> 漢籍に書かれている槨の意味が、現代認識されている槨とギャップをともなっていることを知っているのか?

あ、それ言ってもあの人には通じませんよ。
前に2度も、指摘しました。




596 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/20(金) 00:04:48
>>594>>595
ではどのようなものが木槨なのか言ってみなさい。
まさか人が入って祭祀をするものとか言い出すんじゃないだろうな。

597 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/20(金) 00:08:36
>>595ローガンさん

こんなんでどうでしょうか?

漢籍文で言う『槨』とは、棺を囲う木枠であり、墓の埋葬施設とは関係がなく

考古学用語として使用する『槨』とは、墓の埋葬施設の部位名。
つまり、墓の一部

598 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/20(金) 00:32:14
ああ、ちょうどいい教材があった。解らないならこれをみて勉強なさい。

三世紀中ころの大和地方の王の墓は異なるのである。槨とは棺を納める部屋である。
従って棺が直かに土に触れることはない。ホケノ山古墳などは石積み木槨があり、
初期の前方後円墳の墳頂部に埋葬する縦穴式の場合、文字どおり穴と言うべき槨を作り、
そこに棺を納めるから「棺有るも槨無く」とは言えない。槨には鏡などの副葬品が置かれる。
また、大和の古墳の多くは盛り土の上にこぶし大の河原石の葺き石で覆う。
土止め雑草よけのためもあろうが、遠くからでも白色に輝き目立つというビジュアル性が特徴である。
だが、「土を封じて冢を作る」はどうみても土饅頭である。
倭人伝の記述と大和地方の墓制は明らかに異なる。風俗であるからどちらが優位とかの話ではない。
だから、倭人伝は大和地方を舞台とした史書(地理誌)ではないことは明らか。
だが邪馬台国近畿説では、王の墓は風俗としての墓制と異なると言う。
だから大和地方の古墳が「棺有るも槨無く、土を封じて冢を作る」と異なっても矛盾しないと言う。
卑彌呼の墓も特筆しているのだから強弁としか言いようがない。
畿内説がどのような論法の上に立つ仮説であるかを如実に示している。
魏朝では薄墓令が出されており、新魏倭王(臣下)の卑彌呼の墓が150mほどもある前方後円墳など
ありうべからざることである。これを以ってしても近畿説は成り立たない。
http://www.mctv.ne.jp/~kawai/vtec/arc/note/note2004.html
しかし「畿内説がどのような論法の上に立つ仮説であるかを如実に示している。」とは手厳しい。
嘘とペテンと、詐欺と詭弁で塗り固めたような・・・というところか。納得。


599 :ローガン:2008/06/20(金) 00:48:02
>>597
河童虫さん。こんばんは。

ローガンさん
> こんなんでどうでしょうか?

> 漢籍文で言う『槨』とは、棺を囲う木枠であり、墓の埋葬施設とは関係がなく

漢籍に「古者棺椁無度」とあるので、外側の棺という感じです。

> 考古学用語として使用する『槨』とは、墓の埋葬施設の部位名。

はい、現代の考古学用語として、棺の外側がどういう工事(材質)により形成されているか。
粘土槨、木槨等に分類されるあくまでも現代の「考古学用語」です。

600 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 00:51:56
>>584
まあホケノは年代で言えば木棺のC14測定で3世紀前半て数字が出てるからねえ・・・

横穴式なら追葬時に・・・って事も考えられるが縦穴式木カクじゃあそれも無い。
現に出土の同向画文は崩落により割れていた訳で・・・

でも話は変わるが、現在の楽浪の考古学調査ってか
北朝鮮の考古学事情ってどうなってんの?









601 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 00:57:07
>>5985 九州ですが ◆UEukKMcVo2

ちなみに石塚・矢塚・勝山・東田大塚には葺石の痕跡は無いそうだよw

大体、魏朝の薄墓令に従えってのが無茶な話と思うがwww


602 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/20(金) 01:01:48
>>599[漢籍に「古者棺椁無度」とあるので、外側の棺という感じ]

アホじゃないの?棺の外は普通部屋でしょうに。
その大小に関わらず槨に決まってるじゃない。
さすがの畿内説の学者も殆どホケノ山を木槨と言ってるし。
誰がそんなバカな妄説を唱えてるか知らんがそんな学者がいたら名を教えなさい。
HP調べてみるから。



603 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 01:02:49

ヒミコたん・・・・・・・・・・・・・・・・

604 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/20(金) 01:07:24
>>601大体、魏朝の薄墓令に従えってのが無茶な話」

従わずとも遠慮するのが筋ってもんだろう。
それも卑弥呼は王族でなく諸国から選ばれたただの女。
王族に引けを取らぬ巨大な墓を造るわけが無い。

605 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/20(金) 01:10:49
あら?ヒミコたんまでこんなに遅く登場して・・。

606 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 01:21:51
>>602
たしかに、普通の理解では「棺」は死体を入れる棺桶つまり「ひつぎ」で、
「槨」はその「棺」を入れる部屋ということになりますね。

畿内説からは、「棺」の理解は同じで、「槨」を「大きな部屋」と限定解釈する
ことによって対応する考えもあるようですが、そうなると「小さな部屋」は何と
呼ぶのだろうかという問題が出てきますね。

607 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 01:22:44
>>598

>邪馬壹国肥後南部説・委奴国(倭奴国)亡命説=大和王朝委奴国説

げらげらwwww



608 :ローガン:2008/06/20(金) 01:32:15
>>602

> アホじゃないの?棺の外は普通部屋でしょうに。


トホホ、用例迄書いたのに興味すら示さない。


> その大小に関わらず槨に決まってるじゃない。
> さすがの畿内説の学者も殆どホケノ山を木槨と言ってるし。

だからそれは現代の考古学用語として使って居るんですよ。


> 誰がそんなバカな妄説を唱えてるか知らんがそんな学者がいたら名を教えなさい。
> HP調べてみるから。


批判を受けないHPよりもっと本を読みなさい。
無用とは思いますが、とりあえず用例の出典を書いておきます。
孟子公孫丑下。

609 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 01:38:46
「棺」と「槨」を今流行り(?)の認知何たらで考えてみると・・・

プロトタイプとしては、「棺」は持ち運びの出来る点で「槨」とは異なり、
死体を入れて運搬できる棺桶のようなものが、これに当たります。

一方、「槨」は地面に定着している点で「棺」とは異なり、地面に定着した
部屋で中に死体を入れるものがプロトタイプとなります。

ホケノ山については、「槨」のカテゴリー化に入れられるから、「槨」という
概念のなかに認知されるとするのが自然ですね。

610 :ローガン:2008/06/20(金) 02:00:22
>>609

> プロトタイプとしては、「棺」は持ち運びの出来る点で「槨」とは異なり、
> 死体を入れて運搬できる棺桶のようなものが、これに当たります。

> 一方、「槨」は地面に定着している点で「棺」とは異なり、地面に定着した
> 部屋で中に死体を入れるものがプロトタイプとなります。


同様の考察を「箱式石棺」でされてはいかがでしょう?
これも考古学用語です。
そしてホケノ山の木槨と箱式石棺のいずれが中国墓の槨と似ているか…
では、ZZZZ…

611 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 02:02:00
そもそも、「棺有れども槨無」なんてのは、どの程度の身分の人物の墓なのか、
誰も考察してないよね。
卑弥呼の墓とも王の墓とも言ってない。

魏志倭人伝の該当箇所の前後を読めば、とても「王の墓」の様式とはいえない。
前後の記事は一般庶民の風俗の記事にしか読めない。
「棺有れども槨無」は、一般庶民よりちょっと位が高いくらいの人物の墓のことだろう。

ホケノ山のような一般庶民とは違う王の墓は、槨があって当然。

612 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 02:29:33
>>588の補足  眠いけど
A、三角縁と画文帯の紀年鏡は全部、同向式。
B、画文帯同向式は大半が同型で日本でほぼ全部が出土。
  (中国の同向式は外区がことなる)
C、三角縁の同向式は500枚以上出土しているうちの10枚ほどで
  そのうち3枚が紀年鏡で同位対比が近似する。
D、三角縁の同向式は画文帯の同向式のデザインと類似する。

以上から、推測すると
P、画文帯の同向式は(ほぼ)全部が国産である。
Q、三角縁の同向式は三角縁全体のなかでは短い一時期にのみ作られた。
R、三角縁の同向式は、画文帯同向式のデザインを流用して作られた。
S、三角縁と画文帯の紀年鏡はほぼ同時期に作られた。

613 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/20(金) 06:34:26
>>606
そうです。彼らのは全くの詭弁をこねくり回しているだけです。
隋書には倭国の葬制をはっきりと「死者を納めるに棺槨を以ってす」と記してある。
彼らの言に従えば倭国には「槨」にあたるものが存在しなくなってしまう。
隋代に倭国の葬制を見て「死者を納めるに棺槨を以ってす」と言ってるのだから
@「漢籍文で言う『槨』は倭のそれとは別物、という考えは成り立たない。
Aだからそれは現代の考古学用語として使って居る」 という言葉も成り立たない。
B倭国に『槨』というものが存在する、と記されている以上、どの古墳が『槨』」に当たるのか
又、そうでないものはどれなのか実証されなければならず、それは棺の周りを
木などで囲んだ小さな部屋を指している事は明白。そうでないというなら
どれをもって『槨』というのかを示すべきである。

>そもそも、「棺有れども槨無」なんてのは、どの程度の身分の人物の墓なのか、
誰も考察してない」
250年頃ホケノ山はあったと思われる。従ってこの巨大な、代表的墓の葬制を考慮せずに
一般民それも甕棺墓などの事だけ取り上げるとは考えられない。
朝鮮半島の葬制でも24メートルの大槨がある、というのがあるが
一般民が易々と造れる墓ではない。王族などの有力者の墓である。
従って「槨が無い」という倭人伝の記述は北部九州の棺をそのまま土中に埋めた土葬の事である。

614 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/20(金) 06:46:27
ダメだこりゃ

615 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/20(金) 06:59:05
って言うかおたくら狂ってるとしか言いようが無いんじゃない?
畿内説の学者でさえ「槨」と認めてるものをそうではないという。
それとも何?日本考古学協会あたりで「槨」の定義が変わったとでも?
それがどういうものかこっちが教えて欲しい。
ホケノ山を槨でないというのは聞いた事が無いから是非そのごく少数異端の意見の出元を
教えてもらおう。又学校ではあれは何と教えているのか、現代用語などとは言わせない。
もし違うというならその証拠を出しなさい。

616 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 07:06:56
>>592
銅鏡の研究者によると、模様がはっきりしている鏡は、必ずしも銅の
精錬技術が進んだからではないらしいです。むしろ、不純物を含んだ
銅のほうが鋳型に流したときに細部まで文様が出やすいとか。
従って、コピーした粗悪品のほうが文様くっきりしている場合もあるし、
また、時代が古く、銅に不純物が多く含んでいる場合のほうが文様が
はっきり出る場合もあるなど、見かけだけの判断してはいけないよう
です。


617 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/20(金) 07:18:17
>>616
それは籾殻などを混ぜて強度を保つ事もありますからあえて不純物を混ぜ込んだりもします。
道教の旁がいかにも稚拙で出来の悪いものは倭人がコピーしたものかも知れませんが
ホケノ山当時の倭の技術は高度ではなかったと思います。徐々に上がってはいきますが。


618 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/20(金) 07:45:43
魏志倭人伝記述の
『其死有棺無槨封土作冢』
有棺無槨、これを現代の考古学にて探ろうとしても絶対に不可能。
これは墓に埋葬する以前の状態の表現で、遺体を棺におさめ、倭地では帝国と違い棺は有るが、棺を囲む槨と言う外枠は無く遺体を棺に納めただけに過ぎないと、表現した。
これが『其死有棺無槨』

『其死封土作冢』

これは遺体の入った外枠の無い棺を、埋葬する状況を表現しており
棺を土にて封じ(ですが氏が言われた土葬)、目印を作ると、表現されている。つまり
棺を土にて封じたが、そこの位置を印すため
周りと異なる状況を土にて表現した。(結果盛り土状態)


だから
ここは、考古学云々で判断する余地はないの!

619 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 09:14:14
>>616

>銅鏡の研究者によると、(略)
>むしろ、不純物を含んだ銅のほうが鋳型に流したときに細部まで文様が出やすいとか。
>従って、コピーした粗悪品のほうが文様くっきりしている場合もあるし、


馬鹿なことを言いなさんな!
いったいその研究者とは誰だ!名前を挙げなさい!

同じ鏡から何枚もの複数の鋳型を起こし、それぞれにいろんな種類(=微量成分が相異なる)の熔銅を流して
製品を作った場合は、たしかに出来・不出来がでてこよう。それは認める、

しかし君が言ってるのは、
「文様のぼけたオリジナル鏡がある、
それを元に一枚の鋳型を起こし
熔銅(不純物を適度に含んだ)を流してコピー鏡を作った、
すると元のオリジナル鏡より文様がはっきりと出たコピー鏡ができた」

ということだが、そんなことは絶対に有り得ん!子供でも分かる話だ。
なんならその研究者とやらを、町工場のおやじさんと対決させてみろ!

620 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 10:04:10
よく読むと、おかしな発言がある

>>516
>>583
>>612

これは同一人の発言かね?
鉛同位体比の数値そのものは、鏡の鋳造年代とは直接には何の関係もない。
よく頭に叩き込んでおくことだ。

どうも君には
・鉛同位体比が同じならば年代は同じ、
・鉛同位体比が近いなら年代も近い
・鉛同位体比が大きく異なれば年代は離れている

との先入観があるようだが、そんな法則じみたことは絶対に言えるわけがない。
上の三つ、どれもこれも成り立たない。

早い話が、奈良の大仏さんの指を一本切り取って
それを大阪の造幣局へ持ち込んで
「これを溶かして10円玉作ってくれ」
と頼んでみたらいい。

いや、造幣局が引き受けてくれるはずもないんだが仮想の話だ。
そうやって出来た平成20年制作の十円硬貨は、
鉛同位体比を測定すりゃ大仏さんと全く同一の値だろうが。


621 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 10:22:32
>>618『其死有棺無槨封土作冢』
随分、難しい考え方をするんですね。
私は、中国では陵墓に槨をつくっておいて、棺をそこに納めていた、しかし、倭国では棺の上に直接土を盛り上げ、陵を造っているということだと思いますが。
ですから、倭人伝は、普通の前方後円墳(槨がありますね)よりも前の墓制を伝えているのだと思います。



622 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 10:30:45
>>620
タイーホ!
器物損壊罪、文化財保護法違反、通貨偽造罪・・・

623 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 10:32:48
>>620

彼の同位体の発言が奇妙なことはみんなわかってるよ。
だからスルーしてる。

すでに、銅鐸を鋳潰して銅製品に再利用してたこともわかってるからね。
同位体でわかることは、どこそこで発掘された銅鐸と、どこそこで発掘された銅鏡の関係くらいだ。


624 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 10:35:00
>>620  
>鉛同位体比が同じならば年代は同じ

これは原則として成り立ちます。同じ溶鉱炉でとかした原料の場合、同位体比は
極めて近似します。偶然に一致する可能性はまずないと言えます。
同一原料から連続して製造した場合も同位体比が近似します。

再利用の場合は、1面の鏡を作るのに何面もの鏡が必要であるため、同一の
同位体比の鏡を集める必要がありますが、偶然同一のものが集まる可能性は
さらに低いですね。

わざわざ同時製造の鏡だけを集めて再利用したという事態は想定不能といえます。
仮にこの点をクリアしても、再利用の過程で鉛を添加すれば、同位体比が異なります。
再利用した高炉に直前製造の銅くずが入っていても同位体比が異なってしまいます。

このように考えると、同位体比の近似性は製造時期の近似性につながりますね。

625 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 10:41:36
>>624

そこまで言うならソースを提示してもらおうか。
ネット上になければ、図書館で調べるから君が参考にした書籍名を教えてくれ。

もしくは、そのような説を唱えてる学者、研究所、博物館を教えてくれ。
直接問い合わせるから。

まさか、君独自の考えじゃないだろうね?

626 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 10:41:48
>>619
たしかに、抽象的ではっきりしない文様の鏡がのちの時代になって
はっきりした文様になって「オリジナル」に近付くというのはあり得ないですね。

ただ、これを認めると紀年銘の三角縁の文様は抽象化が進んだものなので
「原初鏡」とはいえなくなりますね。紀年鏡は抽象化の進行度からは三角縁の
変遷の後半期の鏡ですね。

まあ10枚位しかない三角縁の同向式を原初鏡という時点で論理破綻とは思いますが。

627 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 10:46:26
>>625
どの部分のソースですか?
1面の鏡を再利用して同じ1面の鏡ができるわけがないのは
現在の技術でも不可能だから理解可能ですよね。

同じ溶鉱炉からの鏡の同位体比が近似するのは当たり前なので
ソースは要らないですよね。

628 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 10:50:31
>>624
文章、文体はえらい丁寧やけど・・・

>1面の鏡を作るのに何面もの鏡が必要であるため、

なんちゅう発想や・・・www
呆れて物が言えん

629 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 11:20:04
>>627

ソースなしで高説をたれてたのか。



630 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/20(金) 12:32:07
>>621

>普通の前方後円墳(槨がありますよね)


『ないよ。』
有るのは、考古学者が名付けた考古学用語の『槨』
倭人伝に記載されている槨とは別物。
仮に考古学者が『ウンコ』と名付けていたら、その埋葬施設は考古学用語で『ウンコ』です。

それに、冢の文字にも槨文字にも
墓と言う意味がないから
また混乱する要因なんだけどね。

631 :ローガン:2008/06/20(金) 14:54:05
>>615
早朝から元気ですね。
「有棺無槨」が間違いなく畿内の墓制を述べたものである。とは言いません。
ただ「畿内の墓には礫槨、粘土槨、石囲い木槨等があるから『有棺無槨』という内容と一致しない」という考え方が間違いだと言っているのです。

既に河童虫さんがお書きですから、繰り返しになるのでこれ以上は言いませんが…

当時の中国人がイメージした槨ですが。
魏志薫卓伝「大風暴雨震卓墓水流入藏漂其棺槨」


礫槨、粘土槨、石囲い木槨がプカプカと水に浮くかあ?

632 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/20(金) 14:58:59
熊野古道の石仏の頭部が取られているときに、こういう仮想話はうまくないな。

倍暦計算から畿内の鏡は

 崇神即位2年=238年=景初2年

に、崇神天皇の同床共殿の策からの畿内人民への右へ〜ならえ式での埋没して
いた出土鏡だよ。卑弥呼の鏡ではない。

633 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 17:00:13
>>631
それは詭弁ですね。
ホケノ山が『有棺無槨』かどうかの議論でやってきたのに・・・

結局、ローガンさんの説では棺と槨の定義はどうなるの?

634 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 17:01:25
>>628  >>629 んで、どの部分のソースですか。


635 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 18:19:46
魏志の「槨」の定義は難しいですよ。
普通、中国で槨と言えば棺を覆う箱状のもので、棺槨はセット。
ホケノや萩原のような構築物ではありません。
ただ、「有槨無棺」などの表現があるところを見ると
墓室のような構築物も含めているようです。

ちなみに、私は畿内説の立場です。

636 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 18:24:04
>>634

せめて、鏡の同位体の含有量一覧表でも見せてもらわないと。

同位体が同じとか違うとか言葉で言われても、君の主観でしかないわけだし。


637 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/20(金) 18:33:51
おっと〜こっちか?!

ホケノ山?

それと邪馬台国がなんで関係あるのでしょーか?

638 :ローガン:2008/06/20(金) 18:36:30
>>633
> 結局、ローガンさんの説では棺と槨の定義はどうなるの?


説も何も…
槨は外棺、うわひつぎです。


又後程。

639 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/20(金) 19:05:00
>>630 倭人伝に記載されている槨とは別物]

目に見えず精神的な心の中だけの槨なんてあるわけ無いじゃないですか。
槨は倭人伝に登場する言葉で物体。
この槨と考古学者が名付けた考古学用語の『槨』 の違いを
物体と精神とに分けてるように聞こえますけど?



640 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/20(金) 19:27:06
『有棺無槨』

「棺」と「槨」の違い? 君達、辞書は持ってナイの?

<信頼の旺文社漢字典>
「棺」・・・音は、カン
   ・・・意味は、「ひつぎ」(内棺、かんおけ、死体を治める箱。 
   ・・・解字は、木と音を表す官とで、死体の周りを囲む木箱の意を表す。

「槨」・・・音は、カク
   ・・・意味は、「うわひつぎ」、外棺、棺の外側をさらに囲む外箱。
   ・・・解字は、木と郭(外を囲む意)の省略形亨とで、棺の外にかぶせる外棺の意を表す。

641 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/20(金) 20:20:20
上のほうで書き込んでる日本@名無史さんへ

『「棺」と「槨」の違いについて』
コテハン勢のわたしとか、河童さんに聞けば『一発』で解決する問題を
日本@名無史さん達は永遠にレスを繰り返すよね・・・。
解析する以前にどうやって解析するのか知らないでしょ?

>>640のわたしや河童さんが言ってることが正解だよ。

何が信用出来、出来ないのかそこら辺がまるで素人。

いかに自分等が「アホ」かって分かるでしょ?

まずは、倭人伝に望む姿勢がなってナイ。
河童さんに『倭人伝に挑む前の心構え』つーものを教えてもらったほうがいい。

642 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/20(金) 20:30:03
>>641
能書きはもういいから具体的に
隋代に中国人が倭国の葬制を見て「死者を納めるに棺槨を以ってす」と言わしめた
古墳は倭国のどれよ?

643 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/20(金) 20:38:58
>同じ溶鉱炉からの鏡の同位体比が近似するのは当たり前なので
ソースは要らないですよね。

溶鉱炉をるつぼに置き換えてみろ、
仮に、江戸時代のるつぼが此処にある 本当は時代などどうでも良いのだが、
この るつぼで作成した 青銅製品は、材料比がほぼ同じなら、 どんな鉛であろうとも
ほぼ同じ 鉛であると言っている事になる。
江戸時代に作られた、青銅製品でも今このるつぼで鋳た製品の物でも
鉛は、ほぼ同じに成る訳がない、

ボタンの掛け違いがあります。



644 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/20(金) 20:45:33
>>642
>能書きはもういいから具体的に
>隋代に中国人が倭国の葬制を見て「死者を納めるに棺槨を以ってす」と言わしめた
>古墳は倭国のどれよ?

わたしが何故、「河童さん河童さん」言ってるか、君には分からないだろう?
君も『倭人伝に挑む前の心構え』つーものを教えてもらったほうがいい。

>「死者を納めるに棺槨を以ってす」

まずは、貴方の質問自体おかしいわけで、新入社員の5W2H(いつ、どこで、誰と、なぜ、何を)
じゃないが、そこらへんがまるで分かってない。

まず、貴方は「どこ」を「どれをみて」、「どのように感じ」、「どのような結果」
になったのか?そこらへんからやるべき。

わたしから言わせれば、「話にならない」とだけ言っておこう。

645 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/20(金) 21:33:08
改めさん 判っていないのは、日本書紀の5W2H ですよ〜。


646 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 21:37:35
改めさん

あなたが終止符スレ留守にして、こっちへ来てレスすると、
どんどん差が広がるばかりだよwwwww

647 :どくだみ:2008/06/20(金) 22:19:05
こういうページがありました。
http://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/199612.html
葬儀会社のページなんで、自分でちゃんと文献を読みこまなければなんとも言えませんが。
とりあえず参考程度にどうぞ。

まだ調べ中ですが、「棺槨衣衾」という言い方をするとき、「槨」は墳墓の構造物とは考えにくいです。
「棺」「衣」「衾」という持ち運べる物が並んでいるのに、槨だけ構造物では熟語としておかしいです。
一方で、漢書の注なんかには、始皇帝が沢山の石を積み上げて槨を作ったとあります。
ですので、普通に「棺槨」というときは、墳墓の構造物ではなく、外棺。
石槨というときは、始皇帝風の墳墓の構造物を指すのではないかと、漠然とした憶測を抱いています。
ですので、倭人伝で「有棺無槨」という場合、やはり構造物ではないだろうと思います。
考古学の術語としての槨は、始皇帝風の槨の伝承から生まれたのでしょうかね。

648 :日本@名無史さん:2008/06/20(金) 22:21:39
>>640
その理解だと、『有槨無棺』つまり、 槨だけの墓の記載が
あることに矛盾するよ。



649 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/20(金) 22:42:40
『有槨無棺』=屈葬
縄文時代の屈葬に棺は無いが槨の有る墓もある。


650 :日本@名無史さん:2008/06/21(土) 00:44:34
>槨

・・・つうかだな、問題の部分の前後読めば倭国のパンピーについて書かれていたに決まってんじゃねえのって話でw
じゃあ卑弥呼も含め当時の倭国の人間は首長クラスも皆裸足だったのかよw

まあ畿内に卑弥呼の墓が無いと言いたいのなら
奴婢百余人の徇葬跡が無いで良いんじゃね?w

もっとも九州や他の地域にそんな物があるのかどうかは知らんがw

 ♪ああ、日本の何処かに 徇葬百人の墓がある
 ♪いい日旅立ち 不彌國から船を出す
 ♪投馬国の影を 南に追い続け〜www



651 :ローガン:2008/06/21(土) 00:47:41
>>635
> 普通、中国で槨と言えば棺を覆う箱状のもので、棺槨はセット。
仰る通り。

> ホケノや萩原のような構築物ではありません。

同感です。

> ただ、「有槨無棺」などの表現があるところを見ると
> 墓室のような構築物も含めているようです。

夫餘ですね?
東沃沮の大木槨しかりなんですが、そこに書かれた槨に土止めのイメージは無いですね。
しかし倭人伝では「封土作冢」ですから、棺外構築物の存在理由は土止めだと思います。この辺りに「無槨」と書かれた理由があるように思います。


> ちなみに、私は畿内説の立場です。

結構かと思います。

652 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/21(土) 02:40:57
>>
>その理解だと、『有槨無棺』つまり、 槨だけの墓の記載が
>あることに矛盾するよ。

小学校からやり直しなさい。

貴方は、わたしと議論するレベルに達してない。
まあ、永遠と同じようなレスを繰り返すのがオチ。
もし、勉強したければコテハンさんのレスをノートに写して覚えるぐらいしなきゃね。

653 :日本@名無史さん:2008/06/21(土) 02:57:50
>>652  ええっ??

>>640では、「槨」は、外棺、棺の外側をさらに囲む外箱としている。

とすると、棺がないのに槨があるというのは矛盾するよ。


654 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/21(土) 03:35:55
>>651>>652 各々答えてみよ。
「死者を納めるに棺槨を以ってす」とは具体的にどの古墳だ?
今まで頭で想像してるだけで具体的に全く示せていない。

@「死者を納めるに棺槨を以ってす」が具体的にどの古墳の事なのか
A「棺あって槨無し」はどの古墳の事を言ってるのか、
B両者の違いはどこにあるのか、
この3点を具体的に今すぐ指し示せ。
又、
九州の福岡県前原市の平原遺跡の割竹形木棺

甕棺墓や箱式石棺墓

これらは@かAか。

655 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/21(土) 04:03:28
>>653
奴等はただ有もしない事を負けん気起こして言ってるだけだから。
中国やエジプトの幾重もの棺に埋葬する方法が頭から抜けないらしい。
ローガンは確か自分でも言ってたよな。
「石の「槨」が大雨で流されてプカプカ浮くか!」って。
当然だ。「槨」とは元々棺の周りを枕木のようなもので囲ったものを言ったのだ。
だから大雨で増水すればバラバラに浮き上がって流されるのも道理だ。
それが時代と共に増水等で流されない石囲いに変わっていったのだ。
埋葬に石を使う場合文献に「石」という文字を入れ記録している。
奴等のいう「粘土槨」は墓穴だけの土壙にすぎず槨ではない。
「槨」の文字が木へんで出来ている事からも槨とは木造のものをいい
しかも大雨で流されるような、か細い丸太を並べただけのものだったのだ。




656 :日本@名無史さん:2008/06/21(土) 05:47:07
初心者ですが、このスレでは古田武彦はクソですか?

657 :日本@名無史さん:2008/06/21(土) 10:12:09
このスレでも古田派は過去のものです。
最近は、九州王朝だの二中歴だのと言っている人は見かけませんね。
古代史研究はどんどん進化していますから。

658 :日本@名無史さん:2008/06/21(土) 10:21:25
安本派も過去のものなのであしからず。

659 :日本@名無史さん:2008/06/21(土) 10:28:56
魏志倭人伝など文献解釈は堂々巡りの無限ループに陥ってしまったため、
最近は議論も下火ですし、それに代わって、箸墓古墳や三角縁神獣鏡な
ど考古学的な解釈が主流みたいです。

660 :ローガン:2008/06/21(土) 15:37:56
>>654
> @「死者を納めるに棺槨を以ってす」が具体的にどの古墳の事なのか

教えてあげない。君に理解は不可能。もっと勉強しなさい。

> A「棺あって槨無し」はどの古墳の事を言ってるのか、

おや、3世紀中頃の墓が「古墳」という理解だと承知しました。

> B両者の違いはどこにあるのか、

時代

> この3点を具体的に今すぐ指し示せ。

夜中の3時頃に今すぐっていわれてもなあ〜就寝中


君は>>587さん、河童虫さんや私の漢籍の「槨」、考古学用語としての「槨」の区別についての、
君の誤認識に対しての指摘があったにもかかわらず、聞こうともせず、挙げ句のはてには人をキチガイ扱いした。
まず、そういう態度をあらためなさい。
そして、反論のつもりなんだろうが >>593では調査発表報道を貼り付けているが、>>366>>375では、考古学そのものを全否定している。
自己矛盾ですよ。
気がついて下さい。

661 :日本@名無史さん:2008/06/21(土) 16:02:10

温厚老顔氏が、ついに切れちゃったぞ・・・・・・ ww


662 :どくだみ:2008/06/21(土) 16:19:42
>>655
九州ですがさん
魏志と隋書では、倭人の風俗が随分変わっています。
衣服や髪の結い方、冠を被るようになったなど。
魏と隋では300年ほど時間がたっているので、
当然、風俗は変わりますし、葬制だって変わるでしょう。
隋書では、倭人伝と類似した卑彌呼の記述の後、
隋の時になると云々という風に記述が続きます。
魏志が「有棺無槨」であるのに隋書が「死者斂以棺槨」である原因は、
時間経過による風俗の変遷であって、これを
九州と畿内の地域差に求めるのは不自然だと思います。

それから、孔子の弟子の顔回が死んだとき、顔回の父親が孔子に、
先生の馬車の木材を使って槨を作りたいので、馬車をくださいと頼んで
断られています。論語のエピソードです。
>>593のリンク先のイラストにある木槨は、馬車の木材で作るには大掛かり過ぎます。

663 :日本@名無史さん:2008/06/21(土) 17:08:15

                          
★古代日本人の世界イメージ(3世紀以前)
                                
          <アヤ>(漢)
            ↑ 
          <コマ>(楽浪郡)
            ↑
         (クタラ=西部<カラ>東部=シラキ)
                    ↑
 呉国(暮れ国)←〔東シナ海〕←大八島(日本)→海(太平洋)
       
クタラ(任那)の北方にコマ(楽浪郡)があり、コマのさらに北にはアヤ(漢)がある。
こういうイメージ。




664 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/21(土) 17:10:35
西にある国は、常世国。


665 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/21(土) 17:30:55
>>660ローガンさん

理解できない人に、重ねて説明しても、よけいいこじになるだけ
一億二千万分の一人に対し、無駄な努力は疲れるだけですよ。
一度説明したんだから、それだけで十分じゃないですか

666 :日本@名無史さん:2008/06/21(土) 18:49:33
>>663
>呉国(暮れ国)←〔東シナ海〕←大八島(日本)→海(太平洋)

それはむしろ当時の中国人の脳内地図だったかもなw

 『その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。』


667 :ローガン:2008/06/21(土) 18:58:43
>>665
そうですね。
お恥ずかしい…失礼しました。

668 :日本@名無史さん:2008/06/21(土) 19:57:54
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html

669 :日本@名無史さん:2008/06/21(土) 19:58:33
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html

670 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/21(土) 20:16:31
>>660 >>662

あ〜あ、ただのごまかしに終始しちゃってる。
隋の人間が倭に来て槨と名づけたのはどれなんですか、と
それだけを聞いてるんですよ。
だから槨ってどれのことなんですかね?

671 :日本@名無史さん:2008/06/21(土) 20:40:40
デスガキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!

672 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/21(土) 20:46:26
>>671
キター!って・・なにが失礼にも!

673 :日本@名無史さん:2008/06/21(土) 20:50:56
コラレタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!

674 :日本@名無史さん:2008/06/21(土) 20:54:29

デスガサマオコシニナラレマシタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!


675 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/21(土) 21:13:50
>>670

隋書にいたっても、漢籍の棺であり、槨
埋葬以前の話しです。

676 :日本@名無史さん:2008/06/21(土) 21:39:13
墓制についてふと思ったんだが・・・
当時の中国の女性に対する墓制と言うものはどうだったんだろう?
婦人なら嫁ぎ先の家の墓に入ったのか?
卑弥呼のように独身であったら?

・・・と言うのも今まで中国の史書に外国の王の墓について言及する事自体異例で
そこから卑弥呼の墓は特記に値するほど相当大きい物・・・と言う前提のようなものがあったと思うが

もし女性に対し一つの墓を作る事自体が当時の中国から見たら異例だとしたら
その前提も多少違って来るのではないかと・・・

ぶっちゃけどうなん?教えてエロイ人www




677 :ローガン:2008/06/21(土) 21:58:15
>>662
どくだみさん しばらくです。
お元気そうで何よりです。又色々教えてください。

678 :日本@名無史さん:2008/06/21(土) 22:10:18
明日これ↓行く人、速報たのむ。大まかでいいから

>>569
>■特別講演会 「邪馬台国は畿内か九州か」 対決第2弾!

> (邪馬台国の会主催 第270回講演会)
>〜ホケノ山古墳の年代 纏向古墳群はいつ作られたか 〜

>日時: 6月22日(日)13:30-16:30
>会場: 文化シヤッター(株)BXビル 多目的ホール (東京都文京区西片1-17-3)
>参加費: 一般 1500円  学生 1000円

>講師:
> 徳島文理大学教授 石野博信氏
> 邪馬台国の会主宰 安本美典氏

>※参加ご希望のかたは直接会場へおいで下さい。

http://yamatai.cside.com/katudou/teiki.htm

679 :日本@名無史さん:2008/06/21(土) 22:56:56
>>660
ある意味、畿内説論者の典型的反応ですね。

都合の悪いことは、無視してごまかす。


680 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/21(土) 23:01:17
>>679

>ある意味、畿内説論者の典型的反応ですね。

都合の悪いことは、無視してごまかす。


畿内説も九州説なんて関係ない箇所だろう

681 :どくだみ:2008/06/21(土) 23:10:45
>>677
ローガンさん。どうも、お久しぶりです。
最近は、なかなかゆっくり調べたり、書いたりできないもので、
つい見るだけになっております。
それに、遺跡の話になると、完全に見てるだけです。

>>676
前漢の皇后の場合、皇帝の陵に合葬する場合と、
単独で陵を起こした場合の両方があります。
後漢・魏については確認してません。
私はエロイ人ではないですよwww

682 :日本@名無史さん:2008/06/21(土) 23:19:26
ギルガメッシュ叙情詩に匹敵する日本の文化遺産=ホツマ

683 :日本@名無史さん:2008/06/21(土) 23:32:19
>>676 ドツボ撲滅委員会へ

おまえ早くここを片付けんか!


なぜ邪馬台国を大和と認めないの?2
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1212934340/

684 :日本史板住民一同:2008/06/21(土) 23:36:32
>>683
監視中

685 :日本@名無史さん:2008/06/21(土) 23:43:10
♪邪馬台国 ド□□来い♪ wwwwwww

686 :改め論説正否調査室:2008/06/21(土) 23:48:46
監視中

687 :676:2008/06/22(日) 00:01:07
>>681 どくだみ
なんだエロイ人じゃないのかw

そっか前漢で単独の陵の事例があるのか…
じゃあ女王故にその墳墓が特記事項にされたと言う線は無いな。
御教示多謝。




688 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 00:44:45
>>675
漢籍の棺はいいけど具体的にそれはどれなんですか?

689 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 01:13:55
>>688

>漢籍の棺はいいけど具体的にそれはどれなんですか?

質問自体がトンチンカン
漢籍でいう「槨」とは、死者を入れた棺を守る(隠す、封印する)外箱を「槨」というの
既に「もがり」状態の時からこの「槨」を使用していたか、使用していなかったかが
倭人伝に記載されている「有棺無槨」

一方隋書の頃になると
倭人伝時代の(棺)だけの使用とは異なり、(槨)も使用するようになったと説明されている

考古学云々から頭を切り離して考えなければいけません。

墓は後世考古学発掘によって解明できるが、本葬や通夜の状況を、考古学的発掘で解明するのは不可能だろう




690 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 01:20:29
>>689死者を入れた棺を守る(隠す、封印する)外箱を「槨」

は倭国のどこの遺跡から見つかっているんですか、と聞いてるんですよ。

691 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 01:20:47
>>688

考古学で分かるのは、埋葬施設

漢籍に書かれてあるのは、埋葬施設の事ではない

692 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 01:23:18
>>690

>は倭国のどこの遺跡から見つかっているんですか、と聞いてるんですよ。


・・・・・・・・・?は〜?   少し休養したほうがいいと思う。

693 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 01:26:57
はい

これにて「有棺無槨」「死者斂以棺槨」は、一件落着(めでたし、めでたし)


お・し・ま・い

694 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 01:35:03
>>690で「外箱を「槨」 」

といいつつ、埋葬施設の事ではない とは具体的にどのような状態を指すのでしょうか?
>>631で面白い事言ってますよね。
「当時の中国人がイメージした槨ですが。
魏志薫卓伝「大風暴雨震卓墓水流入藏漂其棺槨」
棺槨が大雨で浮き漂うと。物体だからでしょう。




695 :河童 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 01:48:24
>>694


この話題は『おしまい』だよ



オマケ

埋葬施設をじゃなく、(もがり)または(アラキ)

696 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 01:48:51
>>691漢籍に書かれてあるのは、埋葬施設の事ではない 」

のに、どうして「棺無く槨有り」という現象が起きるのでしょうか?
これが棺は無いが「槨」={死者を悼む気持ち}だけは十分にある、という解釈をとった場合、
槨は殆どに存在する事になる。逆に「槨無し」というのは
死を悼む気持ちが無い埋葬だったとでも?

697 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 01:56:19
>>695
もがり=槨という考え方は何処にもありません。
改めが>>640で言ってるでしょう。
「槨」・・・音は、カク
   ・・・意味は、「うわひつぎ」、外棺、棺の外側をさらに囲む外箱。
   ・・・解字は、木と郭(外を囲む意)の省略形亨とで、棺の外にかぶせる外棺の意を表す。
漢字の成り立ちからどう見ても「もがり」を指すとは思えませんが?

698 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 03:24:36
ねえ宇美町について語ろうよ。フミは宇美? 実は違うんだなこれが。

宇美は神功が応神を産んだ場所だから産み「ウミ」という地名と
なったとある。だから宇美町がウミという地名になったのは神功の時代の時代。


699 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 03:58:18
投馬国は、宮崎県西都市の妻(つま)じゃないかという説がある。
記紀では瓊瓊杵尊が高千穂峰に降臨の後住んだ所とされる由緒ある場所。
古墳なんかからいっても規模に文句なし。

つまりだね、南にいけば熊襲のクナ国になるな。位置としても文句なし。



700 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 08:24:54
>>697

『モガリやアラキ』は『槨』文字で判断するのではなく、槨文字を取り巻く文章から判断する。

701 :サガミハラハラ:2008/06/22(日) 08:43:10
>>698 そうですね。不弥国は宇美町ではありませんね。
不弥国は佐賀県小城市小城不二町です。当時不であらわされた倭語の音は現在オと発音されています。
ミはキに置き換えられ、オキそしてオギと変化しました。
宇美は神宮皇后の時代以降からです。それまでは、神武の東征に出てくる宇佐であったようです。
宇美には神武天皇の子を出産した女の伝承があります。神武の経路である筑紫宇佐岡田とみてくると、各地で女に手をだしたとすると、
宇美においてその証拠があるところをみると、この宇美が宇佐であり、のちに宇美にかわったとみることができます。

702 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 09:28:34
>>701

長らくコテを付け、しかも著書を三冊も刊行されている御仁が、そんないい加減な電波飛ばしてどうするんです。
>『当時、“不”文字にて表された地は、後に倭語音“オ”で発音される』
なんて
不彌以外、不文字を当用された同時代の地名は他に何処なの?
>『ミをキに置き換え』

どのような理由から、置き換えが可能になるの

703 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 09:52:30
>>700
本文中の
「その死するや棺有れども槨無く、土を封じてツカを作る」

ここまでが墓の形状でもがりは次下の

「始めて死するや、停喪すること十余日なり。
時に当たりて肉を食わず。喪主コツ泣し、他人就いて歌舞し飲酒す。
已に葬るや、家をあげて水中にいたりてソウ浴し、以て練沐の如く〜」

これがもがりの部分でしょう。槨=もがりというなら「槨無く」の記述と合いませんよね。
隋書に拠れば倭ではもがりは3年続いたとされます。
3年続いたもがりの後、「死者を葬るに棺槨を以ってする」のが普通であって
葬るのはもがりが終わってからの事。死者を納めるのに棺と槨を以ってするのです。
もがりはその時点では完了していて、だからこそ埋葬が出来る。
その埋葬法が「棺槨を以ってする」なのです。
ごっちゃにしてはいけません。

704 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 10:03:18
>>702
河童虫はきらいだが>>702には全面的に禿しく同意


705 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 10:11:28
>>700
本文中の
「その死するや棺有れども槨無く、土を封じてツカを作る」

棺とは棺桶、槨とは石室、塚とは塚(土盛り)としたほうが
自然ですね。この場合、石室はなくそのまま埋め、土盛り
をしたという意味。

706 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 10:27:05
横穴式石室墓は北部九州では4世紀後半からじゃないの?

707 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 10:37:45
>>703

『其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。』

古代漢文を日本語の羅列読みにて解釈してどうするの?

(其死、有棺無槨)
(其死、封土作冢)
(其死、始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飮酒已葬舉家詣水中澡浴以如練沐)

有棺無槨と封土作冢は直接結びつくものではない、文頭にくる『其死』が各々にかかります。
紀伝体で言うところの紀年にあたります


もう少し古代漢文の読みを学習したらいかがですか?

708 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 10:43:21
>>707
封土作冢とはいわゆる土饅頭のことですよ。それと有棺無槨が別物なら
「封土作冢」の内部は倭人伝のどの箇所に説明してあるんですか?


709 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 11:38:59
石室のない土饅頭は風化して痕跡すら残ってないでしょうね。
死して卑弥呼の屍拾うものなし!

710 :ローガン:2008/06/22(日) 11:39:11
>>703
> 「その死するや棺有れども槨無く、土を封じてツカを作る」

> ここまでが墓の形状でもがりは次下の

> 「始めて死するや、停喪すること十余日なり。
> 時に当たりて肉を食わず。喪主コツ泣し、他人就いて歌舞し飲酒す。
> 已に葬るや、家をあげて水中にいたりてソウ浴し、以て練沐の如く〜」

> これがもがりの部分でしょう。槨=もがりというなら「槨無く」の記述と合いませんよね。


その解釈で良いと思います。

711 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 11:48:26
>>708

>封土作冢とはいわゆる土饅頭のことですよ

違いますよ


>「封土作冢」の内部は倭人伝のどの箇所に説明してあるんですか?

何処にもそんな説明はありません。


712 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/22(日) 11:53:18
九州ですが ◆UEukKMcVo2

ほらほらいわれてるよ〜がんばれ、がんばれ!


713 :ローガン:2008/06/22(日) 11:55:02
魏志倭人伝の習俗記事は当時見られた一般的なもの。
ホケノ山など、誕生したばかりの大型墓(古墳)の、それも作冢中を目撃したなどという、僅かしかない偶然を考える必要は無いと思います。
当時一般的に見られた墓が記述されたのです。

714 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 12:17:54
>>712

>ほらほらいわれてるよ〜がんばれ、がんばれ!

君が代理で答えてみたらどうですか?

715 :ローガン:2008/06/22(日) 12:55:22
>>713
つづき。
仮にホケノ山の作冢を見たとしても、「槨は外棺」。故にホケノ山のような構築物を槨とは認識しなかったでしょう。


棺槨を内棺外棺とすれば、追葬可能な石室を持つ墓は該当しない。
隋書が書かれた当時、棺槨と認識された墓…
つまり、外棺内棺状態と認識可能な墓を考えれば良い。しかも一般人の墓を除外出来るとすれば、理解しやすいでしょう。


716 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 13:06:30
>>715ローガンさん

>棺槨を内棺外棺とすれば、追葬可能な石室を持つ墓は該当しない。
隋書が書かれた当時、棺槨と認識された墓…
つまり、外棺内棺状態と認識可能な墓を考えれば良い。しかも一般人の墓を除外出来るとすれば、理解しやすいでしょう。


と、いうより
隋書の何処にも、墓についての記載説明がありませんが

717 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 13:33:09
>>707 「文頭にくる『其死』が各々にかかってるから有棺無槨と封土作冢は
無関係」

など何の論理性も無い事です。それに封土作冢は古代の中国で土を盛り上げたものをいう。
その内部が有棺無槨である事は明白。外観の封土作冢とだけ書いて
埋葬内部の様子が書かれていない葬制の説明などあるわけが無い。
漢字の意味を好き勝手に解釈して現実では説明の付かないものにして混乱を招いているだけ。
封土作冢と有棺無槨が別物で内部の様子が書かれていないなら有棺無槨は
どこの事を言っているのか解らなくなってしまう。

718 :ローガン:2008/06/22(日) 13:41:07
>>716
> 隋書の何処にも、墓についての記載説明がありませんが

あ、そうでしたか。
では、現在考えられる当時の棺槨が置かれた所と言い換えましょう。


719 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 13:42:35
>>715
おたくの言い訳もとっくに破綻してしまっている。槨を外箱とすれば
「棺無し」は実質外箱の槨だけとなる。いわゆるそれが棺のことである。
又二重の棺を持つ墓がどこにあるのか?説明さえ付かない。


720 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/22(日) 13:43:21
>>716 河童さん
>漢字の意味を好き勝手に解釈して現実では説明の付かないものにして混乱を招いているだけ。

九州ですが ◆UEukKMcVo2氏から好き放題いわれてますね。
少しは言い返したらどうですか?
言われたままなんですか?〜河童さん

721 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/22(日) 13:45:53
>>>719 横レスだ。
>おたくの言い訳もとっくに破綻してしまっている。槨を外箱とすれば
>「棺無し」は実質外箱の槨だけとなる。いわゆるそれが棺のことである。
>又二重の棺を持つ墓がどこにあるのか?説明さえ付かない。

あほかお前は。
小学生の勉強をもう一度してこい。




722 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 13:52:11
>>706
否。
古墳時代も後半の6世紀頃から。

まあ、それにより出入りも追葬も可能で恒久的な空間が確保でき
九州で装飾古墳が生まれると。。

あ、九州王朝説はいらないからwwwww

723 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 13:55:05
ここは改めの逃走場所かい?

724 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/22(日) 14:03:46
「又二重の棺を持つ墓がどこにあるのか?説明さえ付かない。」

低レベル(頭良くない)、九州ですが ◆UEukKMcVo2氏に教えてやろう。

君は、自分で高い腕時計を購入したり、彼女&奥さんへ宝石を買ってやった
コトないのか?そうゆう「お高いもの」には二重・三重に保管されてるだろう。

ようは、「外箱」つーのはだな、『内箱(棺)を保護する目的』であるわけで、
意味があるんでつよ。

従って、「有棺無槨」は身分の低い人つーか、さすが古代日本人てかんじ(笑)
まあ、簡単な説明だったが、一つ勉強になったね。

725 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 14:07:32
帝レベル?? 喪前のことだ。ww

726 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 14:10:21
>>724 改めドツボ

流石にお前よりは「九州ですが」の方が一億万倍マシ。

727 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 14:13:04
>>720

>など何の論理性も無い事です

ただ、貴方にそうした認識がないだけのこと

>それに封土作冢は古代の中国で土を盛り上げたものをいう。

違います。
これは封じたものの位置に左右されます
封じたものが地表より上に位置する場合、必然的に盛り土となりその盛り土自体が
周辺と異なる目印となり「封土作冢」が成立します。
一方、封じたものが地表より下に位置すれば、必ずしも盛り土となるとは言えません。
土にて封じ封じた所に、棒か木、或いは石など置くことにより「封土作冢」は成立します。


以上、簡単に抜粋してみただけでも、貴方の見識には誤りが見られます。



728 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 14:13:47
>>726
馬鹿は馬鹿をよぶちゅーこと。

貴方と九州ですがとで一生ジャレ合っときなされwww

729 :改め研究家:2008/06/22(日) 14:14:46
奴は
喪帝級→喪低級ww

730 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 14:18:49
>>728
まあドツボのキチガイよりは九州ですがのレス方が読むべきところはあるw



731 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 14:24:09
>>723
>ここは改めの逃走場所かい?

つうか河童虫の後を付いて来たって感じだなw

 「○○さん××さんに言われちゃってますよ(笑)」

と横から便乗して野次を飛ばすだけw




732 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 14:24:16
>>728
厄改者だな

733 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 14:26:54
>>717

>漢字の意味を好き勝手に解釈して現実では説明の付かないものにして混乱を招いているだけ。


はい、ここでも根本的な間違った認識があります。
漢字は表意と言われますが、実際文字の意味などありません。
文字自体に意味を生じるときは、その文字が名詞(代名詞)として使用されるときであり、それ以外の場合は
文章に投じたときに、文脈にそって義が生じます。
一見文字ごとに意味を生じているかのように見えるのは単なる思い込み、或いは認識不足で、
文字に意味が生じる時、文字は文章の一部として機能するのであって、文字が個別に意味を生じている訳ではありません。

734 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 14:47:28
>>724

>従って、「有棺無槨」は身分の低い人つーか、さすが古代日本人てかんじ(笑)
まあ、簡単な説明だったが、一つ勉強になったね。


全然勉強になっていません。
その解釈から「有槨無棺」を説明してみたら

そこに身分は加味されないことに気づくから

735 :ローガン:2008/06/22(日) 15:09:57
>>719
> 又二重の棺を持つ墓がどこにあるのか?説明さえ付かない。


まだわからんか。
そこじゃないやろ、噛むところは。議論のスタートすら立てないよ。

まあ、しかたないですね。

736 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 15:20:43
…槨がどーたら棺がどーたらってどうせ卑弥呼の墓に関係無い話なんだから
どうでも良いだろ
            ('A`)


737 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 15:23:56
>>727
いい加減なことは言わないように。
中国では「ただ土を盛っただけのものを冢という」と漢和辞典にはあります。
>[封じたものが地表より下に位置]
するものなど最初から冢などという文字では表しません。
最初から盛り土になったものを中国では冢と呼んでいるのです。
口先だけで実際にどの遺構の事か指し示す事が出来ないなら
いい加減に答えているとしか言いようが無い。

738 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 15:29:40
>>733「文字が個別に意味を生じている訳ではありません」

ではこれは?「死」この文字に意味が無いなどと考える人がどこにいますか?


739 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 15:40:09
>>735

>>638で自ら
「説も何も… 槨は外棺、うわひつぎです。」

と断言したことを忘れたか。
中国でも棺の外に棺が有るもの、つまり二重の棺のものもあるが
全て棺と呼ばれ「槨」ではない。


740 :ローガン:2008/06/22(日) 16:34:14
>>739
ダメ、却下!
>>638>>633さんの質問に答えたもの。つまり、「槨」の字の意味だ。よく読みなさい。
>>715は中国人が日本の墓を見てなにをもって、槨と判断したのかについてだ。


改善はされたが、以前交通信号の色は緑だ。
赤黄緑の中で、「青信号」と言われて君はどれを選ぶ?
全く同じものが無い場合、近似のものを採用するだろ。
文意を汲みなさい。些末なレス無用。

741 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 18:39:13
平成の時代の、つまり現代の日本人の葬制を、外国人が描写するとどうなるだろうか。

描写1
 日本では死者は、死後二、三日して行われる葬儀のあとすぐ火葬場で棺ごと焼かれ、骨が、(全部でなく一部だが)焼き物の壺に入れられる。
その骨入りの壺はしばらくは遺族の家の中にあるものの、後日に「オハカ」へ、もしくは「ノウコツドウ」と呼ばれる物の中へと収納される。

描写2
 日本では死者は、棺に入れられる。寝棺ではなく座棺である。棺は火葬されることなく、墓地に運ばれ、上円下方形をした構造物の中の石室(但しコンクリート製)に安置され、扉は永久に閉塞される。


もし欧米やアフリカなどから初めて日本にやってきた留学生などがレポートするなら、きっと描写1になるであろう。(まあ現代でも若干例外はあるが)

描写2はどうか。
これは、平成の時代における日本人の葬制を描写した外国人留学生レポートとしては、まさに失格であろう。


しかしながら、描写2のごとき葬制は、決して皆無ではなかったのである。

・武蔵陵墓地 昭和天皇陵「武蔵野陵」 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E9%99%B5%E5%A2%93%E5%9C%B0#.E6.98.AD.E5.92.8C.E5.A4.A9.E7.9A.87.E9.99.B5.E3.80.8C.E6.AD.A6.E8.94.B5.E9.87.8E.E9.99.B5.E3.80.8D

槨をめぐって議論が膠着しているようだが、小生はローガン氏の>>713の意見に賛意を表する。

742 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 19:11:37
>>740
>>638 >>715 も同じく槨を「外棺」と言ってる。つまりは同じ事だろう。

>中国人が日本の墓を見てなにをもって、槨と判断したのかについてだ」

いまさらなにを。
最初からそのことだけが焦点だろうが!


743 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 19:57:59
デスガがごねて、それを皆が矯正するスレはここでツか?
人が必死になってごねてる姿もおもろいです。

744 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 20:16:02
>>738

「死」は、名詞で使用する時以外は意味がないの
それ以外は、文章とセットになり初めて義が発生する。

だから
必ず漢和辞典には、意味と用例がセットで掲載されている。

745 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 20:22:09
>>737

『冢』に 土を盛ると言う意味はありません。
結果、土を盛ったモノが冢に相当しているにすぎない。
冢を「土」と限定するこては出来ない。

746 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 20:52:29
>>737

>いい加減なことは言ただ土を盛ったわないように。
中国では「ただ土を盛っただけのものを冢という」と漢和辞典にはあります。

いい加減としか判断出来ない能力なんですね。
それに、そんな漢和辞典は処分したほうがいいかも
「ただ土を盛っただけのもの」を冢とするなら、わざわざ「封土作冢」なんて表現はしない。
冢に「土を盛る」という意味があるなら、封(土)などとは記載しないからだ

冢に「土を盛る」と言う意味が存在しないからこそ封(土)作冢と記載したんだろ?


>口先だけで実際にどの遺構の事か指し示す事が出来ないなら
いい加減に答えているとしか言いようが無い。

相当病んでいるから休養したほうがいい。


747 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 20:55:21
>>746の訂正

コピペの不具合

>いい加減なことは言ただ土を盛ったわないように。
中国では「ただ土を盛っただけのものを冢という」と漢和辞典にはあります。


を、


>いい加減なことは言わないように。
中国では「ただ土を盛っただけのものを冢という」と漢和辞典にはあります。


に、訂正します。

748 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/22(日) 21:39:36
>>744-747

なんだ河童さん〜!

九州ですがにボコボコに言われまくってるやんww ローガンさんも?w

わたしを見なされ 一度もやられてナイではないか...。

749 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 21:48:01
>>745「冢を「土」と限定するこては出来ない」

その根拠はなに?土を盛り上げたもの意外に何を盛り上げてる事が考えられるのか?

750 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 21:50:41
>>748 ドツボ
>わたしを見なされ 一度もやられてナイではないか...。

相手にされていない事を自覚しような・・・('A`)



751 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 21:59:22
>>744「必ず漢和辞典には、意味と用例がセット」?

漢字は最初意味を持つ単体の文字が出来たんであって用例はその後に出来た応用でしょ?
どこがセットなんですか。そんなもの後で派生した過ぎない事ぐらい当たり前の事でしょ。
そんなものただ辞書だからまとめてあるに過ぎないだけじゃないですか。


752 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 22:12:51
>>749

>その根拠はなに?土を盛り上げたもの意外に何を盛り上げてる事が考えられるのか?

盛るという意味も無い

作為的な印


>>751

>そんなものただ辞書だからまとめてあるに過ぎないだけじゃないですか。

意味の派生は沢山の用例から

753 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 22:32:58
「冢」を盛り土と表現されたのは、結果そうなったにすぎないの

地表に対し人工的に変化(単なる目印)がついた形が盛り土風
だから墓の場合、埋葬施設が地表よりも上に配置し封土すれば、必然的に盛り土状になる。

754 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 22:35:22
>>746
「封土作冢」のどこがおかしいわけ?
「土を封じて冢を造っている」どこもおかしくない。
石で出来ている場合は「石を積みて封となす」となり冢とはいえない。
倭人伝は「有棺無槨」で埋葬後、土饅頭で塚を形成している、甕棺墓の事なのだ。

>「冢に「土を盛る」という意味があるなら、封(土)などとは記載しないからだ 」
というおかしなことは成り立たない。

755 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 22:36:08
当時「土壺」というのはあったんかい?

756 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 22:48:53
>>755
つ土師器

ただし改め土壷の場合は恥器

757 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/22(日) 22:49:13
>>754

違いないと、個人的な主観を述べられても
それは単なる我が儘としか捉えられない。

封土の「土」は、封じる為に使う材料。



もう少し漢字の勉強し直しなよ。

758 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 22:55:31
>>752盛るという意味も無い 作為的な印 」

それは最初から塚とは呼ばない。
倭人伝の時代の遺跡のどこに「作為的な印 」の墓などありますかね?
だから屁理屈をどんなにこねくり回しても無いものは無いんですよ。
第一その様な墳墓など聞いた事が無い。




759 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 23:06:58
英語で壺を ポット と言うのは逆さ読みでの トツボ からなのか?w

760 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 23:11:30
言葉の意味というものは時を経て変化するものです。
現在は土盛りをしてあるものは全て「塚」であっても、
古墳時代には、明確に使い分けがあったかもしれません。


761 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 23:16:00
>>757
我が儘はどっちですか。どう捉えようとと勝手ですけどね、
中国では土を盛っただけのものを「冢」と呼んだ事は間違いないんですよ。
漢字はおたくが作ったんじゃないんだから漢字の決まり事くらい守ったらどうですか?

>封土の「土」は、封じる為に使う材料。
もう少し漢字の勉強し直しなよ」

言いたい意味がさっぱりわからん

762 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/22(日) 23:19:36
河童虫氏&ローガン氏 VS 九州ですが氏

双方、もう少し学問的なレスをしたら?
どっちも有効なレスはないよ
双方の主張がいまいちわかりません。

763 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 23:23:02
>>760
現在の日本の事を言ってるわけではない。
古来の中国限定での「冢」の意味を言っているのだ。
誰かさんのように思いつきで言っているわけではない。

764 :改め調教師団:2008/06/22(日) 23:27:07
改め君。オマエのは学問的無用な書き込みばかり。ww

765 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/22(日) 23:29:30
>>754
>「封土作冢」のどこがおかしいわけ?
>「土を封じて冢を造っている」どこもおかしくない。

う〜ん やはり馬鹿としか言えない 十分君の頭の中はおかしいよ

766 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 23:30:44
監視中

767 :改め調教師団:2008/06/22(日) 23:31:53
>>766
同意

768 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/22(日) 23:31:58
ほらほら >>757でも言われてるじゃん

>違いないと、個人的な主観を述べられても
>それは単なる我が儘としか捉えられない。
>封土の「土」は、封じる為に使う材料。
>もう少し漢字の勉強し直しなよ

「勉強し直し」決定だなw

769 :三重県民:2008/06/22(日) 23:32:07
九州ですがさんも改めさんもがんばれー

770 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/22(日) 23:38:10
>>761 九州ですが氏
>言いたい意味がさっぱりわからん

その人は、勉強し直しなよ 未熟だ!と言いたいんだよ。
君が分からないというので教えてやる。


771 :改め研究家:2008/06/22(日) 23:40:56
応援監視

772 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 23:42:44
<土壺>ってな〜に?

773 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 23:44:14
おい! 改め!
人が立てたスレを荒らしに来るな! 帰れ!

774 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/22(日) 23:48:59
結論
と言うわけで倭人伝に記された「有棺無槨封土作冢」とは
北部九州の甕棺墓のことを指しており、まさに棺あって槨というものが無く
その上に盛り土をしてある埋葬の仕方を魏使が実際に見て倭の葬制として
記録したものである。

775 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 23:52:30
改め監視協力

776 :改めですが:2008/06/22(日) 23:57:05
改めさんがんばれー

777 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 00:00:35
「有棺無槨封土作冢」とは、
朝鮮半島の伽耶や筑紫でよく見かける土饅頭=円墳のこと。
大和地方にも数多く存在したけれど、巨大な前方後円墳がで
きると土饅頭は無視され、その多くは、土を削って田畑に転用
されてしまったようです。
その後作られた塚といえば旅の道しるべ一里塚ですから。


778 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 00:02:07
>>774  九州ですが ◆UEukKMcVo2

うーん残念!
棺の材質に関しての記述ありませんから!

木棺墓、石棺墓でもおkと言う理屈www

779 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 00:16:02
>>778
倭人伝に棺の材質までは言及されていなくても別に問題ではない。
甕棺墓は広くアジアに分布するとりわけ珍しいといったものでもない。
問題になるのは副葬品を入れた棺を、そのまま槨を設けずに土中に埋めてしまうのか、
それとも槨を設けて棺との間に鏡などの副葬品を埋納するかの違いである。
魏使が邪馬台国で見たものは前者である。という事だ。




780 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 00:23:22
>>774九州ですがの結論に補筆

>と言うわけで倭人伝に記された「有棺無槨封土作冢」とは
>北部九州の甕棺墓のことを指しており、まさに棺あって槨というものが無く
>その上に盛り土をしてある埋葬の仕方を魏使が実際に見て倭の葬制として
>記録したものである。
(以下補筆)
一方、その当時の畿内に目を向けてみると、長さ100メートル級に及ぼうとする古墳が数基、
大和盆地東南部の地に、相次いで造られ始めていた。纏向古墳群である。
この中には木槨をもつホケノ山古墳があった。

そして10年ほど経ったころ、すぐそばには、長さ280メートルにも及ぶ大前方後円墳・箸墓が、
何千人もの人々の労力を結集して築造されていき、日に日にその巨大な姿をあらわに
していったのであった。(完)


とまあ、そういうことだね? ですがクン。www

781 :前レス573 :2008/06/23(月) 00:32:09
なんかお棺で盛り上がってるみたいだけど
副葬品がどうとか円墳だとか、みんな大袈裟なんでは?
魏志倭人伝の「其死有棺無槨封土作冢」は倭人の風俗風習の紹介でしょう。
せいぜい、すぐ土に埋めたくらいの意味でいいんじゃないかな。
むしろ、当時の中国では「すぐに土に埋めない」葬式があったてことでしょ。
墓所とかに飾るとか。

782 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 00:36:05
>>781
>倭人の風俗風習の紹介でしょう。

なんだけどねえ。。。

当事者(ですが・老眼・河童)がヒートアップしちゃってwww

783 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 00:44:10
木を見て森を見ない文献派の性ですよ。

784 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 01:04:35
>>783
森というか、キーワードは「階級」だな。

いや倭人伝でも階級差のことは記載があるんだけどね。

ともかく弥生後期〜古墳前期〜中期・・・・・は、階級差が明瞭に葬制に現れる時期。
老眼がそこをもっと言えばよかったのに・・・・・。
ですがには階級への配慮まるで無し。歴史を論じる者とは、とてもじゃないが思えない。

785 :どくだみ:2008/06/23(月) 01:39:57
誰がどういう主張をしているのか、整理するのが面倒になったので、
調べたことだけを書いておきます。
通典所載の「大唐制,諸葬不得以石為棺槨及石室.」という文を見れば、
石槨と石室は別物であることがわかります。

この石槨については、始皇帝が作った石槨の話や、
三年たっても完成しない石槨を孔子が批判したという話が残っています。
こうゆうものは、墓の構造物の一部といえなくもないかもしれません。
しかし、禮の規定では槨は木製であり、石槨は批判的に取り上げられる場合もあり、
一般的な槨ではないだろうと思います。

さて、一般的な木製の槨は、儀禮・士喪禮や禮記・壇弓の殯(ヒン・もがり)の説明に出てきます。
「もがり」というのは、墓に埋葬する前に、別の場所で行われる儀礼です。
そこに槨が登場するということは、槨は陵墓のような不動の埋葬施設ではなく、
持ち運び可能な、葬儀に使用する用具ということになります。
だからこそ、墓に水が流入すると、棺だけでなく槨も浮かんで漂うことになります。
これが一般的な槨であろうと思います。
ただ、墓穴の中に部屋を作る勢いの天子の槨のようなものから、
孔子の馬車の木材程度で作れる貧乏人のものまで、
大きさには随分幅があったと考えるべきでしょう。

786 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 01:58:14
>>774
>倭人伝に記された「有棺無槨封土作冢」とは
>北部九州の甕棺墓のこと

そう結論した九州ですが氏にお尋ね。

そうすると女王卑弥呼も甕棺に入ったのか?
その甕棺に土をかぶせて円形の盛り土にしたと?
その大きさが直径にして100余歩であったと?

787 :ローガン:2008/06/23(月) 04:49:47
>>781

> 魏志倭人伝の「其有棺無槨封土作冢」は倭人の風俗風習の紹介でしょう。


同感です。>>713‐715でそのように書きました。

788 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 04:56:44
>>784 [階級への配慮まるで無し]

言わなくても解るだろうそれくらい。
当時の巻向には倭人伝でいう「有棺無槨封土作冢」と記されるに該当する墓が無く
北部九州には甕棺墓という該当するものが数多くあった、ただそれだけのこった。
当時の倭国の様子は「小国相接す」。倭国大乱以前はムラ単位で国境を接していたが
次第に100から30カ国へ征服、吸収などされてクニとしての範囲を広げていったとはいえ
一国の範囲は今で言う郡くらいの大きさのものが互いに団子状にくっついていた。
弥生時代の甕棺墓は九州北部を中心に南限を熊本県中部、北部は山口県には無い事から
ここに30カ国を比定した場合、邪馬台国勢力範囲とほぼ重なる。
なお倭人伝の内容は階級に関係なく様々な角度から倭人全体の風俗までに言及していることからも
特別かつ特定の王族などの墓を限定で倭人の葬制として書き記したとは考え難い。
北部九州の甕棺墓や箱式石棺墓がそのまま土中に埋められる葬制を指して
「有棺無槨封土作冢」と表現したものである事は明白である。




789 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 05:49:38
>>785「槨は陵墓のような不動の埋葬施設ではなく、
持ち運び可能な、葬儀に使用する用具」だからこそ、
墓に水が流入すると、棺だけでなく槨も浮かんで漂うことになります」

「持ち運び可能な、葬儀に使用する用具」ってそりゃ棺桶だわな。
もがりは弥生時代は10日前後、隋使が訪れた時は3年続くこともあったほど
ヒートアップしていく。この頃には「もがりや」も造られただろうが
弥生期にも別の時代にも「持ち運び自在な槨など永遠に存在しない。
脳内組み立て式。


790 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 06:10:58
>>786そうすると女王卑弥呼も甕棺に入ったのか?

箱式石棺でしょう。それに円墳か方墳だろうと思われる。
日本独自の形態である前方後円墳なら倭人伝に特筆されるだろうし、
まして川原石で被ったり埴輪を並べたりすればなおさらである。
畿内には卑弥呼の墓と伝えられる前方後円墳は無いので
まったく別のものだと思われる。

791 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/23(月) 07:20:45
「冢」と「ツチヘン冢」「塚」の使用変化を考慮してから(土饅頭)云々を語ってもらいたいものだ
全て一緒に語られても……

792 :ローガン:2008/06/23(月) 09:24:47
>>790
> 畿内には卑弥呼の墓と伝えられる前方後円墳は無いので
> まったく別のものだと思われる。


ほう、ではどの地方のどの墓にヒミコ伝承があるんだい?

それに、埴輪? なんの事?

793 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/23(月) 10:33:40
>>792ローガンさん

彼の根本的な誤りは、文献史料を考古発掘発見で処理しようとした所
最初の検証段階で誤りをおかしているから、以後は
誤りの下地で築かれたピラミッド理論となり、途中どんなに修正しようが、元には戻りません。
一度、さら地にする勇気が彼に有るかどうか?

794 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 12:36:32
>>791「全て一緒に語られても」

「「冢」と「ツチヘン冢」「塚」の使用変化」って
おたく中国で生まれた「冢」の字義さえ否定しておいて
使用変化もクソもあるかいな。

それに読み返してみればなにこれ?
冢は盛土と言うこちらの主張に対して

>745「冢を「土」と限定するこては出来ない」

盛るという意味も無い
作為的な印

地表に対し人工的に変化(単なる目印)がついた形が盛り土風
だから墓の場合、埋葬施設が地表よりも上に配置し封土すれば、
必然的に盛り土状になる。

これは何処の何という遺跡に見られる怪奇現象かな?


795 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 13:18:25
>>792{ローガン作文集}

漢籍に「古者棺椁無度」とあるので、外側の棺という感じです。

{槨とは}だからそれは現代の考古学用語として使って居るんですよ。

魏志薫卓伝「大風暴雨震卓墓水流入藏漂其棺槨」
礫槨、粘土槨、石囲い木槨がプカプカと水に浮くかあ?

説も何も… 槨は外棺、うわひつぎです。

つまり、外棺内棺状態と認識可能な墓を考えれば良い。
しかも一般人の墓を除外出来るとすれば、理解しやすいでしょう。
東沃沮の大木槨しかりなんですが、そこに書かれた槨に
土止めのイメージは無いですね。

倭人伝では「封土作冢」ですから、
棺外構築物の存在理由は土止めだと思います。
この辺りに「無槨」と書かれた理由があるように思います

じゃそれは二重の棺ではないか?とこちらの鋭い質問に、しどろもどろになり
ごまかしの答えがこれ

「まだわからんか。
そこじゃないやろ、噛むところは。議論のスタートすら立てないよ。
まあ、しかたないですね」

だと。 しかし「槨」がどんなものやら遺構さえ示せないくせに
よくも人を無知呼ばわりしてはごまかしに終始出来るもんだわ。


796 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/23(月) 13:20:25
>>794

>字義


貴方の場合中国で発生した字義ではなく、辞書を誤読した字欺では?
字義を否定するには文章そのものを否定せねばなりません。
文字は文章に組み込まれ、初めて文意にそくした義が発生しますから

文字は、名詞以外
単独で字義を発生させませんから。

797 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 13:21:41
はじめのほうからずっとスレを読んでましたが、
ローガンさんの説が正しいと思います。

九州ですがさんは、もうすこし人の意見の理解力を高めたほうがいいでしょう。


798 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/23(月) 13:30:22
>>765

貴方は「冢」以前に「封土」を理解していないからこそ生じる、誤読と判明しました。

「冢」以前の問題でした。

799 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/23(月) 13:51:02
>>798はアンカーミスです。

正しくは、>>795です。



m(__)m

800 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 13:55:25
邪馬台国=大和。
投馬国=出雲。
狗奴国=毛野。
卑弥呼=倭迹迹「日百襲」姫命。
台与=倭「迹迹」姫命。

…でいいんじゃね?

801 :ローガン:2008/06/23(月) 14:33:30
>>793

> 一度、さら地にする勇気が彼に有るかどうか?

期待したいですね。

802 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 14:38:23
>>796「文字は、名詞以外 単独で字義を発生させませんから」

つか【塚/冢】
1 土の小高く盛り上がっている所。
また、目印などのために土を高く盛り上げたもの。{国語辞典}

「冢」と言う一文字だけで意味を発生させてるじゃないですか。
これでも違うと言うんですか?

803 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 14:41:13
>>797
じゃあローガンが言ってる「槨」と言うのは具体的にどこの遺跡の
どの墳墓にあるんだ?

804 :ローガン:2008/06/23(月) 14:51:26
>>795
>>792{ローガン作文集}

ご丁寧にありがとう。読んではくれているようだ。しかしただ字面をおっているだけでは駄目だ。
理解出来ないとすれば、自身の不勉強を恥じる事だ。

> じゃそれは二重の棺ではないか?とこちらの鋭い質問に、しどろもどろになり
> ごまかしの答えがこれ

鋭い質問? あ、そうかも知れないね。
当然起きるであろう、質問を想定していたから、 肩透かしをくった。

>>792に答えてごらん。

805 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/23(月) 14:51:51
>>803

>どの遺跡のどの墳墓


正気か?
過去の墳墓の全てが現存している保証もないし、全て発掘されているわけでもない。

仮に、彼が適当に名前をあげても
君にその是非を判断できる能力があるとはとても思えない。
現に、字義すらまともに解釈出来ないのに。

806 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 15:01:44
>>798
だから中国語には近世まで「封土」などという熟語の概念は無いちゅうに。
そういうことさえ知らないでしょ。意味のある単体の漢字を並べて意思を疎通させてるだけだから。
後は発音の微妙な違いで同じ漢字でも全く別の意味を作り出していくから
漢字だけにこだわっても意味無いって!
「土を封じて冢をつくる」と書き下して「土を盛り上げて塚を造る」の意。
「封じ覆い隠されるもの」は棺桶を指している。


807 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 15:17:37
>>805、字義すらまともに解釈出来ないのに」

我見で言ってる部分なんか無い。
こちらの資料の出所は漢和、国語辞典などからの引用ばかりだ。
それをいちいち「字義すらまともに解釈出来ない」だの
「名詞以外に意味は無い」だのとわけの解らぬケチをつけているだけの事。
おたくは動詞や形容詞を表す漢字が読めないわけ?
倭人伝という文献があり、弥生時代の多くの墳墓が存在するが
そちらの言ってるものなど現実に存在する事すら不可能なものだ。
屁理屈に屁理屈を重ね、嘘に嘘を重ねるから
現実に存在し得ない架空のものが出来上がったというだけである。
ローガンのも含めて、もうそんなもの日本のどこにも無い。
だから「これだ」という遺構を示せるわけが無い、というのが
偽らざる事実なのだ。

808 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 15:26:55
>>792
これはあんた達と違ってまともな質問>>786に対しての答えだ。
「ほう、ではどの地方のどの墓にヒミコ伝承があるんだい?
それに、埴輪? なんの事? 」こんな事あんたにゃ関係ないこった。
知りたきゃ>>790をよく読めば解る。



809 :名無しさん:2008/06/23(月) 15:55:31
巻向遺跡が4世紀以降の墳墓なのに、紀元前から
脈々と継続している、北九州の甕棺墳墓を同列に
論じるから、九州ですがさんが窮地に立っている
ような、気もする。



810 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/23(月) 16:08:45
>>806

>熟語の概念

誰が熟語の話ししているんですか?
『封土』と言ったら、其死有棺無槨封土作冢… 文章の一部を担う封土でしょう。
何度レスされれば理解出来るの?(無理か?)
文字は文章内で字義を生じる。

811 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 16:15:05
>>809巻向遺跡が4世紀以降の墳墓なのに]

は間違いでホケノ山古墳は250年頃とされている。
そして話の焦点は何かよく読まないと。

812 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 16:17:28
まあ纏向に「埴輪」はありませんから〜w

>>809
纏向が4世紀以降?
するってえと箸墓なんか下手すりゃ5世紀って事っすか?www


813 :ローガン:2008/06/23(月) 16:21:19
>>809
そうですか。ではこの辺りでお開きにしましょう。


きりがないし…

814 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 16:28:09
まあ棺を土中にダイレクトに入れたと言う事であれば何も甕棺で無くとも木棺でも良い訳でw

つうか九州にしても甕棺と木棺が併用された遺構もある訳でw

よしんばその該当部分が九州の甕棺墓の事を書いていたとしても
その地域から水行計30日陸行1ヵ月かけて、相当に遠隔の地に行くと言う事で
畿内説には何の影響もございませんwww



815 :名無しさん:2008/06/23(月) 16:28:51
ホケノ古墳が250年頃の根拠はなんですか?


816 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 16:29:51
>>810『封土』

だからこのように熟語にしてしまうと駄目だと言ってるんですよ。
『封土』じゃないんだから。そのようにしてしまうとほかにいくらでも出来ますよ。
棺、槨を封じるんだからそれぞれ封槨、封棺。封作、{封じつくる}。封死{死を封じる}。
これらは関連し合って存在しているから熟語を作るとそれぞれに意味が出来る。
意味のある文字を一々並べて全体の意味を醸し出せるようになってるんだから。

817 :名無しさん:2008/06/23(月) 16:34:03
畿内説の人は、銅鐸が無残に放置され捨てられていた
事実に目をそむけないで、研究されたらいかがですか?

畿内にいた一部族が征服された歴史を

818 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 16:42:24
>>812まあ纏向に「埴輪」はありませんから」

 何度もしつこく言われるから検証してみましょうか。
790 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 06:10:58
>>786そうすると女王卑弥呼も甕棺に入ったのか?

箱式石棺でしょう。それに円墳か方墳だろうと思われる。
日本独自の形態である前方後円墳なら倭人伝に特筆されるだろうし、
まして川原石で被ったり埴輪を並べたりすればなおさらである。
畿内には卑弥呼の墓と伝えられる前方後円墳は無いので
まったく別のものだと思われる。

なんでここで埴輪が登場するかというと以前、埴輪の並べられていた
どこかの前方後円墳を卑弥呼の墓と主張するのがいたのを思い出し
埴輪などの変わったものが置いてあれば魏使の記憶にも残り
倭人伝に記されるでしょう、と言う意味。





819 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 17:00:22
>>818続き
「畿内には卑弥呼の墓と伝えられる前方後円墳は無いので全く別のものだと思われる」
の真意は
畿内説でいくと卑弥呼は現天皇の直接の先祖に当たる。
数多い巻向の古墳群にも、どれか一つくらいヒミコと名の付く墳墓が
あって神社となり祀られていても何ら不思議ではないのにそうで無いばかりか
邪馬台国も卑弥呼も天皇家とのつながりを否定されてきた歴史がある。
記紀の編纂に当たっても倭人伝などの資料は恐らく参考にされただろうに
邪馬台国卑弥呼の名を出す事を憚ってきたのはなぜか・・・。
これは巻向にある古墳が卑弥呼と無関係と言う証左である。という意味。


820 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 17:07:59
>>815 まあコピペだけど解りやすいからどうぞ。

1)茸石を備えた前方後円墳としては箸基古墳よりもさらに古く、
   現時点では最古に位置づけられる。
2)長大なコウヤマキ製の刳抜式木棺をすでに採用している。
 3世紀中葉以前の木棺としては、現在までに知られている最も長い木棺である。
3)銅鏡、銅鏃、鉄製刀剣類、鉄鏃、鉄製農工具類からなる豊富な副葬品を有する。
 中国鏡や素環頭大刀は大陸との交渉をうかがわせる遺物である。
4)埋葬施設上に二重口縁壺を方形に配列することは、前期古墳の墳頂部における方形壇、
 方形区画や壺・埴輪の方形配列につながる可能性がある。
5)木槨は弥生時代の大型墳墓では類例が知られているが、前方後円墳で確認されたのは初めてである。
  また、石囲をともなう点は特徴的であり、
  規模的にも現在知られるわが国の木槨としては最大である。
6)ホケノ山古墳は多埋葬である。
 以上の諸点のうち、(1)〜(4)は定型的な前期前方後円墳の様相とまったく共通する要素であり、
いっぽう、(5)、(6)は弥生時代の墳墓に類例が求められる要素である。
すなわち、ホケノ山古墳は、弥生時代の墳墓と、古墳時代前期の前方後円墳との
中間的な様相をもつものといえる。

821 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 17:25:56
>>819
>どれか一つくらいヒミコと名の付く墳墓があって神社となり祀られていても何ら不思議ではない

九州のヒミコと名の付く墳墓ってどれ?

822 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 18:21:02
>>819 九州ですが ◆UEukKMcVo2
>邪馬台国も卑弥呼も天皇家とのつながりを否定されてきた歴史がある。

アホな事言わないようにw

それは本居以後国粋主義者の話。

南北朝時代の北畠親房ぐらいは知っているだろう?www

823 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 19:06:52
>>815
>ホケノ古墳が250年頃の根拠

まあ一番手っ取り早いのはコウヤマキ製の木棺からのサンプルによる
放射性炭素(C14)年代測定で三世紀前半って言う結果が出てるってトコかな?

ちなみに勝山古墳のヒノキの板材の年輪年代で203〜211
(ただし同古墳からは3世紀後半の土器も出土)

石塚古墳の周濠から出てきた板材の年輪年代で175〜177

…なんて数字も出ているwww




824 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/23(月) 19:12:26
>>810

>だからこのように熟語にしてしまうと駄目だと言ってるんですよ。
『封土』じゃないんだから。そのようにしてしまうとほかにいくらでも出来ますよ。
棺、槨を封じるんだからそれぞれ封槨、封棺。封作、{封じつくる}。封死{死を封じる}。
これらは関連し合って存在しているから熟語を作るとそれぞれに意味が出来る。
意味のある文字を一々並べて全体の意味を醸し出せるようになってるんだから。


完全なご認識としか言いようがない。
『其死有棺無槨封土作冢・・・』

(〜を封じる)ではなく、【(名詞)にて封じる。/封+名詞】
其死、有棺無槨
其死、封土作冢




825 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 19:19:47
>>823
そう。
つまり西暦200年時点でもう盛んに樹木を伐採していた。需要があったんだな。

弥生の全期を通じてほとんど無住の地であった纏向の地に、
忽然と人の営みが始まったのだ。

826 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/23(月) 19:22:10
>>807

>我見で言ってる部分なんか無い。
こちらの資料の出所は漢和、国語辞典などからの引用ばかりだ。

じゃあ、辞書の引用の仕方が出来ないだけですね

>おたくは動詞や形容詞を表す漢字が読めないわけ?

そんな漢字、いっぺん見てみたい
品詞は文中で発生するもの、単体漢字では発生しませんが

>倭人伝という文献があり、弥生時代の多くの墳墓が存在するが
そちらの言ってるものなど現実に存在する事すら不可能なものだ。
屁理屈に屁理屈を重ね、嘘に嘘を重ねるから
現実に存在し得ない架空のものが出来上がったというだけである。
ローガンのも含めて、もうそんなもの日本のどこにも無い。
だから「これだ」という遺構を示せるわけが無い、というのが
偽らざる事実なのだ。


と、頭の中で描いたんだ。  もう一度勉強しなおしたら?




827 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 19:22:48
>>821
大和朝廷側は勝者の歴史だから何憚ることなく自分達のルーツを記せる。
九州邪馬台国は敗者なので、女王の墓などあっても保護できなかったに違いない。
卑弥呼の墓が畿内なら卑弥呼の墓と言うものが存在していても少しもおかしくないと思う。

828 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/23(月) 19:48:12
『其死、封土作冢』

死者を土にて封じ、印しを作る。  土にて封じると結果盛り土になるので
『封土』を (土を高く盛る)という意味になった
祭壇なども同じ
土を盛り祭壇を作る為、この状態を(封土)というが
祭壇の盛り土は奉る為ではなく、土にて封じたものに対し祭を営むもの
祭壇を盛り土状にするのは、土にて魂を封じるという行為

829 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:09:31
>>820 コピベへの反論として、4世紀半ば〜後半とする説から

1)土器は箸墓と同じ布留0である。
  箸墓は4世紀後半とする説もあり、周濠の布留1の層から馬具も出ている。
  馬具は一般的に400年以降に普及したとするのが定説である。
2)年代の根拠にはならない。
3)出土した画文帯同向式は日本でほぼ全部が出土するため国産の可能性が高い。
  鉄剣等は国産品とされる4C末以降の古墳の出土品と区別できない。
  画文帯は6世紀の古墳からも出土するため年代の根拠にならない。
4)年代の根拠にならない。
5)ホケノより新しいことが確定している古墳でも、より古い形式を維持している
  ものが多数存在するため、年代の根拠としては弱い。
6)追葬が1回のみで、しかも6世紀以降であるため、この主張は論外。


830 :どくだみ:2008/06/23(月) 20:32:16
甕棺墓が倭人伝にいう「有棺無槨」であるという
九州ですがさんの主張は、もしかすると正しいかもしれない。
しかし、そこに至る論証がいい加減すぎる。

魏と隋の三百年の時代差を無視して、
倭人伝の「有棺無槨」と隋書倭国伝の「死者斂以棺槨」を並べて
倭に二つの葬制が並行して存在したというのは粗雑に過ぎる。

倭人伝は中国人が書いた史書であり、倭人伝中の「槨」は古代中国語であるから、
古代中国人の言う「槨」とは何かは、中国の文献あるいは遺構から考えなければならない。
日本の古墳を見て、「どれが槨なんだ」と考えるのは本末転倒。
漢籍に言う「槨」は墓室とは違う。考古学でいう「槨」は墓室のことを言っているように思える。
考古学者がホケノの構造物を木槨だといっているからといって、
漢籍にある槨までも、そういうものと思い込むのは早計。

倭人伝の「有棺無槨」は庶人一般の風俗を説明した部分であるが、
現在残っている古墳の方が、支配者の墓として特殊な葬制であった可能性もある。
だからホケノが250年頃としても、その周辺の庶人の葬制も「有棺有槨」であったとは言い切れない。

以上の疑わしき三点に立脚して、畿内の葬制は「有棺有槨」九州の葬制は「有棺無槨」。
よって、邪馬台国は九州と結論をだすのは暴論だと思います。

831 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 20:34:40
>>824
「土を封じてツカをつくる」は「封土作冢」の正しい書き下し文。
現代文に直すと、土を封として、とか土で封じて、とかと同じ意味なわけよ。
「冢」が盛り上げた土」を表すから棺の上に土をかぶせて土饅頭にした、
と言うイメージが浮かんでくる。
この際「其死」は関係ない。

832 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 20:41:30
>>826「そんな漢字、いっぺん見てみたい
品詞は文中で発生するもの、単体漢字では発生しませんが 」

これ小学生用だけど良かったらどーぞー。
http://www.harakin.net/education/kanji/kanji.htm

833 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/23(月) 20:45:56
>>831

>この際「其死」は関係ない。

『其死』という語句があるからこそ(封土作冢)が死者の為の墓である事が分かる。
『其死』という語句がなっければ(有棺無槨)も(封土作冢)もなんの事だか分からない。


834 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/23(月) 20:58:24
>>830

>甕棺墓が倭人伝にいう「有棺無槨」であるという
九州ですがさんの主張は、もしかすると正しいかもしれない。

それが例え歴史的事実であっても、倭人伝に記載されている『有棺無槨』と、考古学的遺物である『甕棺墓』を結びつけるモノは今のところ何もないでしょ
その前に、「有棺無槨」が墓に封じられた時の様子であることの証明も必要ですよね
当時墓に埋葬する時、棺も同時に埋葬されていることも重要な観点になるし、





835 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/23(月) 21:01:51
>>832

もう一度小学生からやり直したら

836 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 21:08:50
>>833『其死』という語句があるからこそ(封土作冢)が死者の為の墓である事が分かる」

なわけないでしょう。 「封土作冢」これだけで死者が葬られていることくらい
解るわな。


837 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/23(月) 21:33:53
>>835
これ読んで解ったでしょう。
漢字は日本の文法に組み込まれ意味自体変わってしまったものも多い中で
「右=「口+右手の象形」で、ものをかばうように持つ手の意」のように
古代中国ではまだ漢字本来の持つ多角的な意味合いが
色濃く残っているものもあるはずである。

838 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/23(月) 21:36:03
>>836

>なわけないでしょう。 「封土作冢」これだけで死者が葬られていることくらい
解るわな。

 と、貴方が思ったところで、基準が貴方にないかぎり判断はできません。
そのくらいは理解できますよね
貴方の理解度が基準として構成されているなら
貴方が今言われた「解るわな」とする判断が採用され「封土作冢」が墓とし認定されるでしょう。

839 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/23(月) 21:45:32
>>837

そこに触れますか?
私は同じ土俵で相撲をとりたいという意思で、この件の関し口を挟みましたが
貴方が象形を土俵に乗せる以上、もう同じ土俵で相撲をとることは出来ません。
なので、ここでこの件に関し失礼します。 長らくお付き合いありがとうございました。

840 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:54:33
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html

841 :ローガン:2008/06/23(月) 22:30:47
河童虫さん。お疲れ様でした。

842 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/23(月) 22:44:36
>>814ローガンさん

後はおまかせします。
私としてはもう少し楽しみたかったのですが、相手が象形を出せば
こちらも「字意」を前面に押し出し挑まねばなりません

そうなると、もう本筋からは離れた所で新たな火種を誘発する可能性大ですので
ここは退散すべきと判断しました

後はよろしくお願いいたします。
また別の話題が生まれましたら、頃合を見、参加したいと思います。

843 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:47:21
横レス。

魏志倭人伝にもし
「有棺無槨であって、棺は大きな素焼きの容器のような物をつかい」

と書いてあったら甕棺説は万全だったのに…と思うんだが。

甕棺は韓国では出るところがあると何かで読んだと思うが、
シナではそうとう珍しい部類の葬具ではないのか。

どうして倭人伝には棺が焼き物であることを書いてないのか


844 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:55:47
九州説だと甕棺と箱式石棺の両方が「有棺無槨」の対象ではなかろうか。
と今頃言ってみる。

845 :ローガン:2008/06/23(月) 23:07:36
>>830
どくだみさん。私はどうも言葉足らずなのかも知れませんね。
丁寧なレス乙です。彼が貴方のレス、スルーした所を見ると理解してくれたのでしょう。

あ、ですがさんもお疲れ様でした。

846 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:08:31
>>843
面白い観点です。うーむ・・・・・

>>844
箱式石棺は近代の考古学用語ですが、あれは中国では「棺」と呼ばないでしょう。
いや現代の日本でも、箱式石棺を「棺」と実感できないのでは?
箱式石棺は「死体を入れて運ぶ」・・・・なんてことができないです。


847 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:12:53
>>843
>どうして倭人伝には棺が焼き物であることを書いてないのか

答: 焼き物ではなかった

848 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:18:08
棺は木ヘンに官だから第一義的には木棺を意味する

849 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:53:17
>>846
たしかに、箱式石棺は動かせそうにないですね。
しかし、「棺」か「槨」かといわれれば「棺」と分類すると思われ。

「棺」は、死者を直接容れる容れ物、棺桶のように持ち運べる容器、
一人が入るだけの大きさ・・・という概念の公約数かな。

850 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 00:00:55
>>848
>棺は木ヘンに官だから第一義的には木棺を意味する

そうだね。古代中国では棺は木棺だったろう。

すると九州ですがが
>>837
>漢字は日本の文法に組み込まれ意味自体変わってしまったものも多い中で
>「右=「口+右手の象形」で、ものをかばうように持つ手の意」のように
>古代中国ではまだ漢字本来の持つ多角的な意味合いが
>色濃く残っているものもあるはずである。

と主張するにもかかわらず、
「有棺無槨の棺とは北部九州の甕棺のことだ!」とわめき散らすのは
またしても自己矛盾だな。wwww

851 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 00:03:11
槨戦争が一段落したと思ったら、今度は棺戦争? ww

852 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 03:58:09
九州ですがってヤシは、じつによく突っ込まれるヤシじゃね。(^w^

853 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/24(火) 08:00:58
今度は棺戦争?
揉める問題でもないでしょう。
またですが氏の横ヤリが入らないように、沈めてエンディングにしておきます。

『棺』…遺体を納める箱(器)
この場合、箱の中に遺体の有無は関係なく、遺体を納める目的の箱を “棺”

そして、墳墓から出土したり、墓に埋葬する遺体の納められた箱(器)は“棺”では無く『柩』


遺体を納める為に作られ、その箱に遺体を納める一連の流れから、遺体の納められた箱も、一般的に通しで“棺”と言っている。
遺体の納まった箱だけに限れば、それは“柩”



はい、オシマイ。(^O^)/

854 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/24(火) 10:17:28
『棺の余談』

棺=遺体を納める。

柩=遺体が納まった。

この違いです。

855 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 10:31:52
>>796
>文字は、名詞以外
>単独で字義を発生させませんから。


「呆」

856 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 10:34:37
>>810
>文字は文章内で字義を生じる。


「疑」

857 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 12:45:02
「棺」か「槨」かの議論は、魏志が朝鮮〜日本の埋葬の仕方を
この二つの概念のみで説明しているから、どっちかに振り分ける
ための概念の整理の問題。

河童さんもローガンさんもこの点を無視するから、実際の出土物とは
無関係な形而上学的議論でごまかしているように見える。

朝鮮〜日本の実際の出土物を、「棺」はあるか「槨」はあるかという
視点で検討しないと意味がないよ。

「槨」を外箱に限定したり、逆に、巨大居室に限定するやり方では
「棺」にも「槨」にもならないものが出てくるので、魏志の「解釈」には
ならないですよ。

858 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/24(火) 12:53:01
>>844「甕棺と箱式石棺の両方が「有棺無槨」の対象」

そうですよ。当然でしょう。甕棺墓は黄河文明からだったと思うが
アジアに広く分布し最初は子供の埋葬用だった。日本では縄文時代において知られる。
何故「棺」がキヘンかというとは官は公用人が隊をなしている家のことだが、
官が役人を指すようになったため、官に木を付けて公用人が入る棺桶の事を指すようになったようで
別に木製だからという理由だけではなく後に棺桶全てを指して
棺と言う文字が使われるようになっていく。

859 :名無しさん:2008/06/24(火) 13:02:49
>河童さんもローガンさんもこの点を無視するから、実際の出土物とは
>無関係な形而上学的議論でごまかしているように見える。

単に棺や槨に興味がないだけじゃなかろか
邪馬台国論争から、ずいぶん遠い議論のような気がするのは俺だけ?

860 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 13:11:42
>>859
>邪馬台国論争から、ずいぶん遠い議論のような気がするのは俺だけ?

俺もそう思う。
ただの暇つぶしなんじゃないか?


861 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/24(火) 13:23:49
>>857
恐らくローガンが言ってるのは、周公が定めたといわゆる葬送儀礼のことで

「椁(柩の外側をかこむ木組)ができ上がり、
死者の柩のある建物の門(寝門)の外に井げたに組む」

のことだと思われる。これだと死者を廟に安置する前の仮安置のもがりの場所に
「槨」という物が置かれているという感じだがやはり柩の外側をかこむ木組
には違いが無く、中国で木槨を持つ墓が出来るのは殷代になってからである。
隋代の倭国の葬制は「槨棺墓」。これは伝統で、250年頃のホケノ山に槨棺がある事と
隋書に「槨棺あり」とされている事は、畿内は一貫して「槨棺あり」ということになる。


862 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 13:30:24
魏志倭人伝なんて単なる使節からの伝聞だろ?
そもそもそれが事実だという証拠がないもんな。
卑弥呼が自分らの部族を偉く見せるために、
使節に嘘を言わせてた可能性もある。かなり史料的な信憑性は低いだろう。
「ヤマト」朝廷なのに、古事記等に卑弥呼が出てこないのを見ると、
邪馬台国は卑弥呼の国じゃなかったのかも。


863 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 13:52:10
太国って、最近ご無沙汰なの?

864 :ローガン:2008/06/24(火) 14:24:42
>>857
現代の我々が考古学用語として使う「槨」と漢籍の「槨」が全く同じものでは無い事を再三書きました。
まずそれが議論をする上での共通認識でないと。
まあ、ご理解戴けたと思いますので、その件はさておき…

>>713で 「有棺無槨」は一般的な習俗記事と書きました。
3世紀中頃の日本国内で、「無槨」と使者が判断した一般的な墓制を持つ地域がどこか?
畿内か九州かの二者択一は可能ですか?無理ですね。
「有棺無槨」は九州説にしても畿内説にしても、その根拠にはならないと言う事です。

また、仮に九州の墓制であるとしても、広域倭国と考えれば畿内説にとって、さほど不利な材料ではないですね。
しかし、九州以東の墓制であるとすれば、九州説は即死ですね。

まあそんな証明出来ないのでこれは余談ですが。

865 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 15:01:18
>>864
>「有棺無槨」は九州説にしても畿内説にしても、その根拠にはならないと言う事です。

そうそう。まったく同意、同感。


866 :老頑ファン:2008/06/24(火) 15:05:52

老頑さん、がんがれ!


867 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 18:02:50
>>864
>>713

同意同意。

868 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/24(火) 18:44:28
>>864[畿内か九州かの二者択一は可能ですか?無理ですね]

その決め付けが、おたくのおかしいところなんですよ。
日中の考古学者はそれほど無能ですか?そう言ってるとしか聞こえないが。
私にゃ古代でいう槨が今でいう槨と別もんだとは思わない。
古代の貴人を廟に埋葬した時、槨の使い方が今と異なってるだけで。
時代が下れば結局簡素化して槨の中に棺を納めてそのまま埋めちゃったというだけでしょう。

「邪馬台国は畿内か九州か」がスレの本論だから、その為に棺ありだの
槨無しだのとやってるわけでしょう。第一、槨論議は邪馬台国論議に無意味とする
おたくの主張の根拠が弱すぎ。
棺槨に関する考古学の成果を差し置いてまで、はてさて
おたくの言を用いる人がこの日本に何人居ますや否や。



869 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/24(火) 18:47:26
>>865>>867 自演ぽい

870 :どくだみ:2008/06/24(火) 19:58:58
>>845
ローガンさん
残念ながら、まだ理解してくれていないようですね。
また、もうちょっと説明を考えてみます。

871 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/24(火) 20:09:50
『棺』と記載されてる時点で、考古学レベルで話せる内容ではないのですが

872 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 20:16:47
プレベルでどうぞw

873 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/24(火) 20:20:36
おやおや 九州ですが氏VSどくだみ氏&ローガン氏?!

おもしろそうですね・・・。
双方の主張を分かりやすくお願いします。4

874 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 20:51:27
>>873
ここは真面目なスレなのでお引き取りを。

875 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 20:58:19
>>872

これ?
http://www16.ocn.ne.jp/~k-hirai/newpage1.htm

876 :ローガン:2008/06/24(火) 21:08:01
>>868
またダメ、却下!

>日中の考古学者はそれほど無能ですか?

>棺槨に関する考古学の成果をさしおいてまで、

よくそんな事が云えるなあ。以下君のレスだ。

>>366

> 所詮考古学とは時代を自分本位に勝手に自説に合わせて自由自在に動かし
> 自分の学説の裏づけとして取っ付け貼り付けする面白モザイク工房に等しい。

恥を知ることだ。

877 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 21:09:45
>>869
>>865>>867 自演ぽい

でたでた。
俺は>>867だが、
この「自演ぽい」という根拠の無い思い込みがすべての元凶だな。

所詮、文献屋は、「〜ぽい」としか言えないのに断定口調だからダメだんだよ。
事実は、俺と>>865しか知らないが、事実は確実に存在し、
九州ですがの思い込みとは反するんだよ。

ば〜か。

878 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 21:11:37
甕棺や石棺は二千年後でも形を保って出土してくることが多い。

しかし木棺はそうはいかない。多くが腐敗して、消えてしまう。

木棺を直接土中に埋めたなら木質が今日まで残るのは僥倖と言うべきで、

それでも調査者はなんとか痕跡を見つけ出そうとするが、駄目なことも多い。

甕棺、石棺に比較して、木棺はなにか影の薄い存在ではあるが、

報告されているよりもはるかに多く、数倍、数十倍の木棺埋葬があったと

考えておくべきだろう。

879 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 21:17:01
ローガンいいぞいいぞ!がんがれ!
おれもローガンファン

880 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 21:23:36
>>877
九州ですがさんは、文献屋ではないでしょう。
なら何屋かというとわかりませんが。

881 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 21:28:12
石室は、湖や上流に石切り場のある大きな河川のほとり
など、限られた場所でしか造営できません。
外堀があるのは、河川からそこまで水を引いて水路で石
を運んだからです。旧大和湖と古墳の分布を調べれば、
一目瞭然です。

882 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/24(火) 22:31:01
>>876
これは畿内説の考古学者の詭弁に対して言った言葉であって
考古学は信用するに値しない、と思ってるわけではない。

883 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/24(火) 22:32:49
>>871『棺』と記載されてる時点で、考古学レベルで話せる内容ではないのですが 」

こんな何を意味するかワカラン書き込みは混乱の元。
思わせぶりなだけで、中身ゼロ。

884 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/24(火) 22:56:23
>>883

>こんな何を意味するかワカラン書き込みは混乱の元。
思わせぶりなだけで、中身ゼロ。


 混乱し意味不明なのは貴方のオツムだけ、一億二千万分の一に理解してもらはなくとも
既に、>>853-854にて『柩と棺』の違いを朝方説明していますから
事細かに説明することもないでしょう。

885 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 22:59:13
>>883
>思わせぶりなだけで、中身ゼロ。

九州ですがは大キライだが、これには同意。www


886 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/24(火) 23:11:57
>>885

一生のうち一度ぐらいは、頭を使っては如何ですか?
現在墳墓から出土するのは『棺』ではなく『柩』と、今朝方説明しているでしょ
『棺』としているのは、考古学用語の範囲内での話しなのです。
文献では『柩』といいます。

887 :ローガン:2008/06/24(火) 23:20:07
>>882
畿内説の考古学者詭弁?
又ダメだ!ペケ!却下。
いいか。>>375は君が>>373さんの質問に答えたものだ。覚えがあるだろ!

>>373「斯くの如く考古学を全否定されるのであれば」

> 日本の考古学だけでしょ。いい加減なのは。
> 世界の考古学は真実を追究するが日本の考古学は自説を守る為には
> 文献をも捻じ曲げる。

「日本の考古学」と二度も書いたのは君自身だ。いい加減にしろ。


888 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/24(火) 23:22:29
>>876「またダメ、却下! 」

証拠が無いのは説とは言えない。詭弁である。
おたくはただの妄想。例を示さないから話をよく聞いてはみたが
周公の葬送儀礼を否定した時点でおたくの書き込みは妄説だとわかった。
学問とはとても言えない。


889 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 23:27:20
>>882 九州ですがさんへ。
>これは畿内説の考古学者の詭弁に対して言った言葉であって
>考古学は信用するに値しない、と思ってるわけではない。

ここでは「畿内説の考古学者の詭弁」なるものが具体的に示されておらず
何をもって「詭弁」とされるかがよく分かりません

ご面倒かとは思いますが、「畿内説の考古学者の詭弁」の
主なる事例を、二、三、列挙していただlきたく存じます。
よろしくお願いします

(私はローガンさんとは別人です)

890 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 23:29:19
足利氏の由来なのですが、
葦原中国(あしはらのなかつくに)が語源ではないかと考えます。
つまり、東国を支配していた徐福の子孫が打ち立てた政権。
邪馬台国は関東にあったのではないでしょうか?

891 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 23:31:49
畿内説の学者は詭弁だらけだろ
そんなのいくつもあるぞ
早く出してやれ
そして追い詰めろ
畿内説をコテンパンにしてやれ

892 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/24(火) 23:33:51
>>884>>853-854にて『柩と棺』の違いを朝方説明していますから 」

題材にするのにあまりにも馬鹿馬鹿しくてくだらないのでスルーしていたのに。
漢字って一人で作ったわけじゃないから似たような意味のものも沢山ある。
おたくのように漢字の成り立ち{象形}っを持ち出したらコソコソ逃げ出したでしょ。
漢字形成の謂われには目をそむけて現代の日本の漢字の意味で漢字本来の意味を云々など
出来ようわけがない。

893 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 23:37:06
>>373

これ架空の手紙だろうけど、連名の差出人はみんな考古学者か?
シュリーマン、カーターなんかは知ってるが。

894 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 23:38:05
そもそも、石棺という言葉自体矛盾します。
棺は木でできているものです。

895 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 23:43:26
>>894
ヒント 石橋

896 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/24(火) 23:46:50
>>892

却下

897 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 23:47:17
鉄橋ww

898 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/24(火) 23:53:34
>>892

>おたくのように漢字の成り立ち{象形}っを持ち出したらコソコソ逃げ出したでしょ。

刃物を振り回すポン中に、近付く馬鹿はいませんから
一般的な行動をとっただけですが

899 :ローガン:2008/06/24(火) 23:53:42
>>888
ですが君。話を変えようとしても駄目だ。
人ゆえ間違い、思い違いは多々ある事。それをとやかく言っているのではない。
私もしょっちゅうだ。

君の前言との矛盾を指摘したが、私に言われるのが気に入らないようなのでもうこれ以上は言わない。
私が周りの方々に迷惑をかけるだけだから。


自説と合わない意見、世の中に沢山ある。それを頭から否定するのではなく、何故自分以外の人間が支持しているか?
考えてみるのも楽しいですよ。



900 :日本@名無史さん:2008/06/24(火) 23:59:29
>>890
関東地方というのは崩壊した高句麗から移民が大量に流入して
できた大都市なんだよ。旧名で「高句麗」とつく場所が
東京や千葉をはじめ腐るほどある。


901 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/25(水) 00:01:15
もうここまでくると宗教。きちがいやな。
象形文字から勉強し直しなさい!
もう一人は精神科にでも看て貰え。

902 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/25(水) 00:12:36
>>901

暴言はやめましょう。

ここは、学問板です。
学問板に相応しい言葉は見つかると思いますが。

903 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 00:13:21
↑両方とも君に送る言葉

904 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 00:14:16
ここは町の歴史好きが自由に書くスレですよ。
学問とかソースとか言われても困るんですよ。

905 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 00:15:21
>>901
ここは学問板ですよ。頭に血が登ったのなら、ゆっくり休みなさい。
冷静にレスできるようになったら、明日からまた議論すればよい。

それが出来ないか、あるいは今が冷静だというのなら、永遠に去りなさい。


906 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/25(水) 00:15:44
>>903-904

いえいえ >>9001に注意をしにきただけです。

では、終止符スレに戻ります。

907 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/25(水) 00:26:35
>>902

>ここは、学問板です。
学問板に相応しい言葉は見つかると思いますが。


そんな無理難題を言われても・・・・・・。
見つからないからこそ>>901だと思いますよ

それに掲示板では、よく見かける光景ではありませんか
つい、興奮のあまり「地」が出ちゃう事って

発作的な症状かと思いますので、心配ないでしょう。

908 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/25(水) 00:30:08
やはり、九州ですが氏には、河童氏、ローガン氏、そのほかの名無し氏を
相手するのは、荷が重すぎたか.....。

場数踏んでから柳井とだな。
まだまだ甘いつーことょ。

909 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/25(水) 00:31:09
『訂正』
場数踏んでから柳井とだな。

場数踏んでからやな。

910 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 00:35:55
>>908-909 土壷

やれやれ、ジャイアンの後ろから石を投げるスネオの図だなw

改めドツボは太国とバーリトゥードでもやっとけって話だなwww


911 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/25(水) 00:36:08
とりあえず、「つい、興奮のあまり「地」が出て発作的な症状」として
>>902で『注意』が出ましたので〜!
判定ポイント的には減点1かな。


912 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/25(水) 00:36:53
>>901
荒らしでないなら証拠の一つくらい挙げてから
まともな口を叩け!と言っておるのだ。
どんな説をぶちまけようが構わないのがこのスレのいいところだが嘘はいかん。
棺と柩が違うだの、考古学で謂う槨は別物だのと、思いつきのたわごと三昧。
寝言は寝て言え。>>905>>906はゴミ虫だから会話出来んし。


913 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/25(水) 00:38:26
>>910
太国はおたく等より「骨」がアルよ。

あなた達は私から相手されてないこと気付いて欲しいですねw

914 :ローガンファン:2008/06/25(水) 00:41:33
>>899
さすがローガン氏。仰る言葉の一つひとつにズッシリとした重みが・・・・・。

それに較べ、九・・・・・

915 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/25(水) 00:47:45
>>912は{>>901の続き}と言う意味だ。

大体どんな畿内説のような反対派でも何らかの収穫はあるものだが、この二日間は
無駄もいいところ。この二人ほど無知で間違って覚えた者、いわゆる「習いぞこない」は
めずらしい。そこまで人を信用しないことは自分自身さえも信用できないかわいそうな連中ということか。
これたちに比べれば狂った畿内説の患者の方が幾万倍上だ。

916 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/25(水) 00:48:24
>>912

>考古学で謂う槨は別物だのと、思いつきのたわごと三昧。

そう考えてるのは、貴方だけではないでしょうか?
既に裸の王様状態であることに、早く気づいてください。

>寝言は寝て言え

当然そうします。起きた状態で寝言の言える人をいっぺん見てみたいですね
「寝言は寝て言え」などと言ってる段階で、既に冷静さを書いていますので、>>905
さんが言われるように、いっぺん休養されてはいかがでしょうか?


917 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/25(水) 00:48:54
>棺と柩が違うだの、考古学で謂う槨は別物だのと、思いつきのたわごと三昧。

まったくうるさい子だね(笑)
みんな貴方より上いってるつーことだよ。

棺と柩はまず「字」が違います。
棺は、死体を入れる木箱の意 意味はひつぎ
柩は、その「ひつぎ」の意。 

>>905>>906はゴミ虫

判定は、もう、あんたの負けとるよ?

918 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 00:51:23
>>913 土壷
>あなた達は私から相手されてないこと気付いて欲しいですねw

それは嬉しいw
ついでにこのスレいやこの板から消えてくれれば尚良しwww


919 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/25(水) 00:52:14
はい!
くやしかったら今まで自分達が言ってきた事の裏づけとなる証拠を出しなさい。
コテンコテンに打ち破ってくれるわ!

920 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 00:56:23
>>878
九州といえば甕棺墓と言うイメージが強いがw
木棺と甕棺の併用もされていたと聞く (福岡県吉武高木遺跡とか・・・)

木棺と甕棺が併用されている場合、両者の意味合いはどう違うのだろう?
(身分とか?)

921 :改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/25(水) 00:58:31
>>918-919

ハイハイ 力みすぎて身がでんよーにw

では失礼します〜zzzzzzzzzzzz

922 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/25(水) 01:00:40
壊れちゃった?

ごめんなさいね

923 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 01:05:00
しかしなんだな、こう言う” 文字遊び ”になると河童が食い付いて来て

河童が来ると土壷がくっ付いて来ると言う展開だなw




924 :どくだみ:2008/06/25(水) 01:13:40
盛り上がりに乗り遅れちゃった。

九州ですがさん
>周公の葬送儀礼を否定した時点でおたくの書き込みは妄説だとわかった。

これの意味がよくわかりません。
ローガンさんは、現代の考古学用語の「槨」が
儀禮や禮記で出てくる「槨」と、概念が違うと仰っています。
つまり、周公の葬送儀礼をちゃんと理解しようということじゃないですか。
どこで否定したのか、よくわかりません。
むしろ、あなたの槨の概念の方が儀禮や禮記の槨の概念を否定しているのですが。

私は、河童さんの説はほとんど全面的に否定する立場ですが、
棺と柩の違いは、河童さんが正しい。
「空の棺を(木+親)といい、死体の入った棺を柩という。」(「空棺謂之(木+親)、有屍謂之柩」 小爾雅)
あるいは、
「牀に寝かした遺体は尸といい、棺に入った遺体を柩という」(「在?曰尸在棺曰柩」 禮記)
という記述があります。
厳密にいえば、両者にはそういう違いがあるけれど、多分現代考古学で柩と棺を区別することはないでしょう。
そのように、文献上の用語と、現代の学術用語にはずれがあると思いますよ。

925 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 01:20:43
ちなみに・・・

「奴国王墓かも?」と推定されている、須玖岡本遺跡(福岡県)で
前漢鏡30面他、豪華な副葬品を出土した墓は 支石墓甕棺 との事。

邪馬台国も弥生時代中期なら卑弥呼も甕棺に入ってたかも。
うーん残念!wwwwwwwww
 

926 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 01:30:36
>>925
甕棺の一部は古墳時代まで続いているから、九州なら甕棺もありだよ。

それはさておき、須玖岡本遺跡の年代はよく分からん。
鏡だけで中国と並行で見れば、前漢のころ(前100〜0頃)になりそうだが、
前漢鏡を中国本土から直接仕入れずに朝鮮経由だとタイムラグが生じるので
57年に朝貢した奴国の王墓の可能性もある。

927 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 01:38:11
しかし奴婢百人も甕棺に入れられていたら発掘現場、さぞ壮観だろうなw


928 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 01:48:28
そろそろ次のスレを立ててくだちい
だれでもいいです

929 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 01:55:50
>>928
このスレも立てようとしたがダメだったので今回もダメっぽいがトライしてみる。

適当なAA貼っっちくり。。

930 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 02:06:17
 ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 30

 ひ /     ∩___∩     \_WW/
 ・  ≪     | ノ      ヽ    ≫ ひ ≪
 み ≪    /  ●   ● |   ≫ ・ ≪
 ・  ≪    |  ///( _●_)//ミ   ≫ み ≪
 こ ≪   彡、   |∪|  、`\  ≫ ・ ≪
 ! ≪ / \   ヽノ /_> /  ≫ こ ≪
   ≪ \|-─●─●-/ /   ≫ ! ≪
MMM\  |       / ̄     /MMM\
       |  /\ \
       | /    )  )
       ∪    (  \
            \_)
 
 これでよろしければ立てましょうか・・・


931 :929:2008/06/25(水) 02:06:21
どうせまだ梅雨だからと>>1と同じAAで立てようとしたが

ヤッパリダメだったスマソ…orz


932 :929:2008/06/25(水) 02:08:08
>>930
スゲーなw

まあこの際、贅沢も言ってられない頼むwww

933 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 02:14:48
>>932さんの責任で立てましたwww

♪邪馬台国 ドンと来い♪ 30
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1214327522/l50


934 :wajin128:2008/06/25(水) 02:27:59
【 水行 】とは、河川を船で移動する事です。
従って【 南至投馬國水行二十日 】【 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 】で九州から本州へ移動する事はできません。
つまり邪馬台国は九州に存在します。
魏志倭人伝の全訳を下記のホームページに置きました。
http://koala.ddo.jp.wajin/

935 :932:2008/06/25(水) 02:38:34
>>933
え?
責任て?
チョット待て・・・

936 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 02:40:24
>>934
「槨」祭りの次は「水行」祭りですか?

937 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 02:56:18
>>928-933
こういうふうに、誰が次スレを立ててもいいんだ。

論敵どうこうとか、とりあえず関係ない。ドン来いスレのいいところだ。
まあ日本史板のみならず、2ちゃんではそれが当たり前だけどな。

それにひきかえ、謎の女王スレはまったく異様の一語につきる。
スレ主はワシやと言い張り、見苦しいスレ乱立を屁とも思わぬドツボ・・・

なんとかならんのかね。

938 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 03:00:01
>>934
>【 水行 】とは、河川を船で移動する事です。

海を船で移動することはなんと?

939 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 03:11:46
>>934
>【 水行 】とは、河川を船で移動する事です。

てか、じゃあ

 從帶方至倭 循海岸水行 ( 郡より倭に至るには、海岸に循って水行し)

・・・はどうなるの?

940 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 03:49:59
>>934
>【 水行 】とは、河川を船で移動する事です。
>従って【 南至投馬國水行二十日 】【 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 】で九州から本州へ移動する事はできません。

しかし、そもそも九州に、船で二十日も水行?し続けられる川があるか?
玄界灘にそそぐ川なんだろ?

河口から4〜5日も遡行を続けたら、もう最上流部だろ?
船が使えるか?
一人載り小型カヌーみたいなのに乗り換えて漕ぐのか?ww
小川の流れより、もっと水量が減って、崖を伝うチョロチョロ水になるぞ。wwww
しまいにゃ分水嶺だぞ。

そんな所に五万戸の大国,、投馬国があるとでも?wwwww



941 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 04:03:11
倭人伝注引く魏略
澤散王屬大秦,其治在海中央,北至驢分,水行半?,風疾時一月到

澤散王の治所は海の中央にあって、そこから北に半年「水行」すると驢分がある。
海の中に川はない。「水行」祭りにはならんな

942 :水行祭り終了・・・:2008/06/25(水) 04:14:53
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  |   /  / |_|/|/|/|/|
  |  /  /  |文|/ // /     ∧∧
  |/  /.  _.| ̄|/|/|/      /⌒ヽ)
/|\/  / /  |/ /       [ 祭 _]    ∧∧
/|    / /  /ヽ         三____|∪   /⌒ヽ)
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  |   |  |/| |__|/       三三      三___|∪
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  |   |/                    三三
  |  /                    三三
  |/                    三三




943 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/25(水) 07:39:04
>>924
それなら倭人伝などの文献に当の中国人は葬制の記述で「棺」という文字しか使っていないのか
大きな矛盾だ。この謂いが正しい。

「858 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/24(火) 12:53:01
そうですよ。当然でしょう。甕棺墓は黄河文明からだったと思うが
アジアに広く分布し最初は子供の埋葬用だった。日本では縄文時代において知られる。
何故「棺」がキヘンかというとは官は公用人が隊をなしている家のことだが、
官が役人を指すようになったため、官に木を付けて公用人が入る棺桶の事を指すようになったようで
別に木製だからという理由だけではなく後に棺桶全てを指して
棺と言う文字が使われるようになっていく。

944 :どくだみ:2008/06/25(水) 21:10:08
>>943
倭人伝は、倭国の人々が一般的に葬儀・埋葬に何を使うかを説明しています。
用具を一言で説明しているだけで、
具体的に遺体が入っている状態を説明しているのではないので、
棺しか使っていないのは矛盾ではありません。

棺は、説文解字によれば、「木に从う、官の聲」ですから、官は声符でしょう。
庶人も棺桶に入ります。

945 :573 ◆Q7jMocDY4c :2008/06/25(水) 23:15:45
このレス終わりそうなのでトリップつけちゃいます。
字義にうるさい人もいるので573でよろしく。

ついでに
>水行
伝聞だからでしょ

946 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/25(水) 23:23:15
>>944 [具体的に遺体が入っている状態を説明しているのではないので]

古代人が柩の文字を使って「木柩」「石柩」なんて言ってる部分ある?
{もくきゅう}なんて言葉見たことも聞いた事も無い。
「死体の入ってないものだけ棺と呼んだ」と主張してるようだけど
死人が入ってるのも昔からちゃんと「棺」と呼んでるじゃない!
別に棺は現代用語でも考古学専門用語でもどっちでもないけど。


947 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/25(水) 23:52:40
>>944「遺体が入っている状態が柩」

というのは現代の葬儀屋さんで言ってるみたいだけど。
こういうのもある「仮安置のときは柩が必要で埋葬の時には納棺するので棺がいる」
と記されているものもあるから死体のあるなしには関係無いみたい。

948 :日本@名無史さん:2008/06/25(水) 23:55:48
「水行」は倭人伝のなかでは河川の交通と見るのが穏当では?

海を渡るときは、「渡海」とちゃんと書いてある。
九州までの道筋は全て海を渡るとあります。
その後は、「水行」とあり、河川交通を区別して書き分けています。

しかも、その後に、「女王国東渡海千余里復有国」という書き方で
それまでの「水行」とは明確に書き分けています。

倭国の地理を知らない読み手は、「渡海」と「水行」を区別して理解する
ことは言うまでもないことでしょう。

949 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/25(水) 23:59:31
>>948

ゴンちゃん  乙

950 :日本@名無史さん:2008/06/26(木) 00:03:55
私の誓い
12時すぎたらネットをやめます。

951 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/26(木) 00:07:56
>私の誓い
12時すぎたらネットをやめます。


私に誓い

朝までタバコやめます。

952 :日本@名無史さん:2008/06/26(木) 00:08:28
>>948
「水行」とは瀬戸内海を航行することですね。
瀬戸内海は狭いから河川に見える。

953 :日本@名無史さん:2008/06/26(木) 00:12:07
三分すぎとるやんけw

954 :日本@名無史さん:2008/06/26(木) 00:14:41
>>952まさか。水がしょっぱいでしょ。

955 :日本@名無史さん:2008/06/26(木) 00:17:36
>>948
>「水行」は倭人伝のなかでは河川の交通と見るのが穏当では?


>>939>>940がすでに疑問を呈しているじゃないか。

まずそれらにちゃんと納得できる反論を示せよ。


956 :日本@名無史さん:2008/06/26(木) 01:00:43
>>955
>>939の引用する部分は例外とみれば良いのでは?
1か所例外があるだけで全部と否定する必要もないですね。

>>940は、残念ながら論外です。
古代〜近代までは河川での交通路があり、何日もかけて河川を
遡上する交通が行われていました。
神功皇后と仲哀天皇が九州に行くくだりも内陸部の河川コースと
海路との両方が書かれていますよ。

957 :どくだみ:2008/06/26(木) 01:03:37
>>946
九州ですがさんに指摘されて、少し調べてみました。
十三經で検索すると「木棺」「石棺」「木柩」「石柩」どれも、用例無しでした。
二十五史では、「木棺」一例、「石棺」一例「「木柩」「石柩」は無しでした。
「木棺」の例は、王莽が、母親の遺体を珠玉の衣で覆ってあるのを、
畏れ多いので木の棺に代えてくださいと願う場面です。
「石棺」は、秦本紀で、石の棺が出土したというような場面のようです。
どちらも、材質が木ではないことが問題の場面で特に「木棺」「石棺」と使っています。
しかも一例のみ。
そもそも、「木棺」「石棺」という言い方は、現代の用語なのでしょう。
ただ「棺」「柩」というだけで、材質が問題の二例だけ「木」「石」という語がつくということは、
材質は木が常識だったのでしょう。
「木棺」は「頭痛が痛い」みたいな表現で、「石棺」というのは矛盾した表現なのでしょう。

958 :日本@名無史さん:2008/06/26(木) 01:05:11
>>948
水行というのは、沿岸航行でしょう。
渡一海というのは、沿岸航行できませんということでしょう。

959 :日本@名無史さん:2008/06/26(木) 05:04:12
馬鹿馬鹿しい…。

『循海岸水行』は例外?
例外的な表現にすべき理由があるのか?

実際に20日…いや邪馬台国への行程の分も含めて
合計30日もかけて遡上した川って何処なんだ?
具体的に言えって話でw

960 :日本@名無史さん:2008/06/26(木) 06:59:41
そもそも、古墳とは本当に墓なのだろうか?
死体も骨も埋葬していないモニュメントも多いのではないのか?
本当の目的は何だろう?

961 :日本@名無史さん:2008/06/26(木) 09:55:04
邪馬台国九州説の人が
今晩、金縛りになりますように。

962 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/26(木) 12:29:26
>>961
畿内説の人は今晩、女装SM縛りですか。

963 :日本@名無史さん:2008/06/26(木) 14:33:37
>>962
やらしいわ〜〜〜っ。

964 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/26(木) 14:51:57
下品でスマソ

965 :日本@名無史さん:2008/06/26(木) 16:30:56
昔の九州説論者には革新な人物が多かったが(松本清張、古田武彦、津田左右吉、水野祐等」
最近では主に作る会賛同者(安本美典、井沢元彦等)に人気があるようだ。
>>962
楽しいか?

966 :日本@名無史さん:2008/06/26(木) 17:53:04
>>965さん

お詳しそうだからお尋ねします。
あ、ご存知であればべつにどなたでもよいのですが。

歴史小説家の司馬遼太郎は、畿内説、九州説、どちらだったんでしょう?

小説作品は戦国や幕末明治が多いから、司馬さんは古代史にはあまり関心なかったのでしょうけど
エッセイや紀行などで邪馬台国問題に触れて見解を書いているものはありませんか?
読んでみたいと思います。

967 :日本@名無史さん:2008/06/26(木) 20:30:21
邪馬台国が畿内にあったことが確定してしまうと、
一番困るのは誰か?それを考えれば、九州王朝
説を陰で操っているのは誰かすぐにわかる。

968 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/26(木) 20:48:03
畿内に確定してもそれは大間違いの所業だということになり、滑稽
で笑ってやるよ。w 畿内に女王国があれば記紀に倭人伝以上に詳細
に卑弥呼の記載がなされ、天皇と卑弥呼の会見があるとか両者の戦争
になってるとか、中国人の書いたのより以上に日本人記載の記紀の文
でハッキリ分かる。それがないのは畿内に女王国が無かったからだ。
女王国が畿内に出現するのは推古帝からだぜ。w

969 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/26(木) 22:02:39
>>967
だから邪馬台国が畿内にあったことを確定してしまわなきゃいいんじゃないの?
所詮妄想だし。佐賀県の伊都国から畿内まではいくらなんでも遠すぎる。
山口県から畿内までのどこかに一大率がまだあっていいはず。
第一、畿内説では水行十日陸行一月はどこから歩みはじめるの?

970 :日本@名無史さん:2008/06/26(木) 22:08:23
>>967
オレにはわかんね。

971 :日本@名無史さん:2008/06/26(木) 22:09:22
>>969
第一、九州説で水行十日陸行一月をどうおさめる?

972 :日本@名無史さん:2008/06/26(木) 22:13:13
一大率が住むところが一宮だったとすればすべてが解決する。
淡路島の一宮

973 :日本@名無史さん:2008/06/26(木) 22:30:53
>>969
>佐賀県の伊都国から畿内まではいくらなんでも遠すぎる。

佐賀県の伊都国という箇所、ひっかかる
ですがは伊都国は通説どおり前原に比定してた筈
単なる書き違い?それとも考え変えたのか?

974 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/26(木) 22:42:31
>>973「ですがは伊都国は通説どおり前原に比定してた筈 」

言った覚えない。昔から「前原比定」でなく「前原否定」派。

975 :九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/26(木) 22:46:16
>>971
水行十日陸行一月は帯方郡から女王国までの行程を足した合計。

976 :日本@名無史さん:2008/06/26(木) 23:56:48
佐賀県の伊都国のなんだよ?
ばヵなの?

977 :日本@名無史さん:2008/06/27(金) 00:29:25
>>969 九州ですが ◆UEukKMcVo2
>第一、畿内説では水行十日陸行一月はどこから歩みはじめるの?

日本海コースで全て無問題。

水行二十日で出雲あたりそこから水行十日で若狭あたり
んでそこから一路南下、一月で大和。
あー、すっきり、はっきりwww

で「なんで瀬戸内コースとらへんの?」と言う突っ込みがあるだろうが
考えられるのは・・・

(1)出雲とかが魏使を自国に招きたかったのでゴネてコースを日本海にとったw

(2)瀬戸内西部の制海権に問題があった。
  確かに瀬戸内は波が穏やかと言う印象があろうが
  無数の島々が点在しその影に船を隠す事もできる。
  安全第一w





978 :日本@名無史さん:2008/06/27(金) 00:53:26
>>977
>水行二十日で出雲あたりそこから水行十日で若狭あたり
>んでそこから一路南下、一月で大和。

これは笠井新也説だな

まあ正否はともかく、この説は戦前に唱えられたんだろう?
ずいぶんしぶとく生き残ってる説だな、今も支持者がいるわけだww

979 :日本@名無史さん:2008/06/27(金) 00:59:57
>>978
戦前の説だと何か問題でも?w

むしろ戦後、山陰に驚くべき発見が相次ぎ
リアリティが増したと思うが?w

ついでに言うと笠井新也は箸墓を卑弥呼の墓に推定していたが
これも今は一番人気だろうwww





980 :日本@名無史さん:2008/06/27(金) 01:35:37
>>971
伊都国を有明海沿岸に比定する。あとは放射説。そこから水行二十日で投馬国(薩摩川内)。伊都国から水行十日、陸行一月で邪馬台国(日向)。


981 :日本@名無史さん:2008/06/27(金) 02:04:01
まず、邪馬台国を伊都国や奴国と同列の国と見るか、から始めるべき。

のちの時代はヤマト国=日本国だったわけだから、邪馬台国が
のちのヤマト国とするならば、多くの小国を従える一つのまとまりを
邪馬台国と見たほうが良いのでは。
倭人伝でもそのように読める書き方をしている。

九州説では、「邪馬台国」を小国を従える全体とみるか、小国のなかの
リーダー的国と見るかに分かれて、前者であれば、九州の広い地域
が邪馬台国で卑弥呼の居所(王宮)がどこかという問い方になるはず。

「邪馬台国女王卑弥呼の居所」を「ヤマト国の女王である卑弥呼の居所」
と読めば、「邪馬台」は対外的にはのちの「ヤマト」と同じ日本をさす言葉
であったといえる。

982 :979:2008/06/27(金) 02:10:31
>>979
>むしろ戦後、山陰に驚くべき発見が相次ぎ

上記の 「山陰」 を 「日本海側」 と訂正しておく。

例えば京都北部丹後の弥栄町奈具岡遺跡で弥生中期後葉の鉄器として
北部九州も含め列島屈指の量の鉄器・鉄素材が出土とか・・・

弥生後期・末期に大和に入ってきたナケナシwの鉄器とかは日本海ルートではなかったのかと・・・

でルートとして十分人や物資の行き来があり
魏使をそのルートで畿内に招来すると言うのは普通の発想だったんじゃね?w





983 :573 ◆Q7jMocDY4c :2008/06/27(金) 02:31:04
普通に発想というより
魏志倭人伝を素直に読めば
末盧國=松江 伊都國=丹波 は誰でもたどり着けると思いますよ。

984 :日本@名無史さん:2008/06/27(金) 06:12:55
邪馬台国九州説に染まった脳に
それ以外の説を受け入れる余地などありますまい。
朱に交われば赤くなる。
かれらが、朱は丹(水銀)ではなくベンガラだという主張を変えるとは思いません。

985 :日本@名無史さん:2008/06/27(金) 07:02:22
>>977
方角がまったく合いませんね。それに、北九州に上陸した時点で、一大率が対応しているはず、瀬戸内海航路を教えないはずはない。
瀬戸内海の制海権がなくて大和から北九州まで支配できますか?危険度からすれば、日本海のほうがずっと危険。

986 :日本@名無史さん:2008/06/27(金) 08:01:45
2世紀末から3世紀前半のころに畿内が北九州を支配していた、
というようなイメージを持つ人は、かなり古い時代に流布された
畿内説しか知らないんだろうね。
だいたい70年代以前の出版物か、それ以降のものであれば、
九州説に立つ著者が批判的に引用する「畿内説の考え」として
紹介される場合が多い。

倭人伝の珍読だけでは、邪馬台国の所在地は判らない、は畿内説の常識。
とくに地名の充てっこなどは、言いっぱなし、聞きっぱなしに
しかならないので、議論のしようがないこと。
素人レベルで文献いじるなら、暫らく出ていない「238年」問題
とかの方が議論白熱だと思うがな、と自説を開陳せずに
ネタだけ振ってみる。

987 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/27(金) 09:56:47
>>986

影印にも景初二年と記載されているんだから、238年で問題にならないだろう。

988 :日本@名無史さん:2008/06/27(金) 10:19:59
>>985
結局は
「畿内説は方向に難あり、九州説は日数に難あり」
と言う百年ループに突入するわけでw

>>982で述べた丹後の隆盛や出雲の加茂岩倉や荒神谷etc・・・を見れば
日本海側の交易による繁栄を認めざるをえない訳で
少なくとも瀬戸内ルートに固執する必要は全く無いw

それに>>986の指摘の内容もそう言う意味だろうと思うのだが
畿内ヤマトによる強権的軍事支配はもっともっと後の世のお話。

畿内ヤマトの時代時代の変質を認めず
まるで右肩上がりの一本調子の領土拡大モデルなんて
今はもう流行ってないんじゃね?www

989 :日本@名無史さん:2008/06/27(金) 10:23:48
>>987
何故に問題になって景初3年239年が通説になっているかと言えば
238年だと半島で公孫氏の掃討戦の真っ最中だったからだな。


990 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/27(金) 10:43:45
>>989

しかし、それはあくまで想像からくる疑問であって、公孫淵討伐が往来の妨げになったとする記録は何処にもありません。

想像を話題に語っても何も得るものはないし、答えもありません。

991 :日本@名無史さん:2008/06/27(金) 11:06:03
>>990
下らない。
掃討戦があったと言う事は想像ではなく史実。


実際、景初二年と三年と両方の記述の資料がある以上
状況の判断をするしかないわけだが・・・


992 :日本@名無史さん:2008/06/27(金) 11:16:27
まあ景初三年の方は本来、魏は喪中であってそれはそれでまた問題w

そこらへんに九州説の付け入るニッチが存在するような気がしたりしなかったりするが
もうこのスレも尾張なので次スレだな・・・

993 :天照:2008/06/27(金) 11:16:31
あなたは、おばあちゃんといっしょじゃないといけないんですよ。

994 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/27(金) 11:26:43
>>991

状況判断に歴史判断を任せたら、千人いたら千通りの歴史が出来上がります。

995 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/27(金) 11:30:09
それに、二年には二年の内容視点があるし、三年には三年の内容視点があります。
全て、横一線で別史料を比較してはいけないのでは

996 :日本@名無史さん:2008/06/27(金) 11:39:32
>>994-995
「状況判断をするな!
書いてある事を丸呑みして信じなさい」
と言いたげだが


どの道、景初二年と三年の二者択一しなきゃならんよw




997 :日本@名無史さん:2008/06/27(金) 11:42:02
奴婢百人生き埋め

998 :日本@名無史さん:2008/06/27(金) 11:42:45
河童虫も生き埋め

999 :日本@名無史さん:2008/06/27(金) 11:43:29
土壷埋め

1000 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/27(金) 11:43:52
>>996

二年、三年
どちらも正しいですよ

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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